瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐古代史 > 讃岐の古墳

四条・吉野の開発
まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
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    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

善通寺大墓山古墳の馬具2
大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
HPTIMAGE

丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
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 を紹介しました。これらの動きは倭と百済の連携強化の中で進められた「新たな政治的変化」の一環と研究者は捉えます。このような動きは、6世紀前葉の日本列島各地の「首長系譜の変動」という政治変動につながります。同時に集落や手工業集団にも、5世紀後半と異なる動きが見られるようになります。その変化を見ておきましょう。テキストは前回と同じく「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。
 かつては、この時期の須恵器の変化要因を、田辺昭三は次のように記しました。
「群集墳の被葬者層という新しい須恵器の需要者が広範に出現したことに支えられて、須恵器生産は最初の画期を迎えた」[田辺1981:p.48]

しかし、現在の研究成果からは、須恵器の仮器化と群集墳の出現は時期的に一致しないことが分かってきました。そこで研究者が注目するのが韓式系軟質土器との次の関連性です。
①提瓶や短頸壺などの増加する器種が、栄山江流域でも同時期に増加
②杯身・杯蓋の大型化、𤭯の長頸化といった型式変化も両地域で連動
③装飾付器台の増加や角杯の部分的受容といった新羅からの影響が見られる
このような須恵器の器種構成の変化は、手工業生産遺跡の分布変化をもたらします。また、陶邑窯跡群の窯数が減少する一方で、窯詰状態での生産が行われるようになるのも、その変化の一環でしょう。窯分布の変化が示すことは、それまでの須恵器窯が衰退する一方で、兵庫県・金ヶ崎窯など新たな生産地が出現することです。これについて花田勝広氏は、次のように記します。

「5世紀後葉に河内において集中するピークがあり、河内平野を中心に広く工房が散見される。一方、6世紀前半に引き続き、操業を行うものが少なくなり、特定工房(大県遺跡、森遺跡)への再編を予想せしめる」という[花田2002:p.29]。

   つまり、5 世紀後葉の窯業などの手工業生産遺跡は、6世紀に続かずに断絶するというのです。これは窯業だけでなく、鍛冶生産遺跡でも云えるようです。いわば「旧工業地帯」から「新興工業地帯」への再編整備が中央権力によっておこなわれたと研究者は考えています。それは、どのようにして行われたのでしょうか?
集落内部における変化を、大阪府交野市上私部遺跡で見ておきましょう。

上私部遺跡変遷図
この変遷図からは、次のようなことが分かります。
①5世紀前半から6世紀初頭に竪穴式住居で構成されていた集落が(上段)
②6世紀初頭から6世紀中葉には、居住域拡大とともに方形区画にかこまれた大型の掘立柱建物群が出現し(中段)、
③短期間のうちにより計画的な建物配置へと変貌する過程が示されている(下段)。
ここで研究者が指摘するのは重要な変化点は、5世紀後半ではなく、6世紀以降にあるということです。その変化をもたらしたのは継体大王を擁立した政治勢力ということになります。
 初期群集墳の展開過程が見られる猪名川流域も、継体期に古墳築造と集落発展がリンクしているエリアです。
継体天皇と猪名川流域古墳
猪名川流域古墳2
猪名川流域の有力古墳
この表からは次のような事が読み取れます。
①猪名川流域は、古代寺院の分布から5つの小地域が分立していたこと。
②前期古墳分布からは、各小地域がほぼ対等な力関係にあった
③中期になるとその中から豊中台地と猪名野の勢力が他を圧倒するほどに強大になった。
④2つの地域の隆盛が百年ほど続いた後、中期末(五世紀末頃)に勢いは急速に衰えた。
⑤後期になりと、有力な前方後円墳を築くことのできなかった長尾山丘陵や池田エリアに前方後円墳が現れる
ここからは前期終盤と後期終盤に、地域内の力関係が大きく変わっていることが見えてきます。
その中で研究者が注目するのが、次の2つの古墳です。
A ③の中期に桜塚古墳群台頭のきっかけとなった大塚古墳
B 後期に長尾山丘陵エリアで150年ぶりに復活した前方後円墳の勝福寺古墳
Aの大塚古墳は墳形こそ円墳ですが、直径56mの大形のもので、第2主体部の東棺からは、最新式の短甲三領をはじめ多くの武器武具が出土しています。とくに三角板革綴襟付短甲という珍しいタイプの短甲は、藤井寺市野中古墳で出土したものと類似しています。大塚古墳に続く御獅子塚、狐塚、北天平塚、南天平塚などでも甲冑類が副葬されています。これら中期古墳の甲冑は、河内平野に古市古墳群を残した政治勢力によって各地の系列首長に与えられたものとされています。
 そうすると桜塚古墳群は、中期の河内平野の勢力との深い結びつきによって地域内で圧倒的な勢力を持ったことになります。その発展の基盤を築いたのが大塚古墳の被葬者と研究者は考えています。ところが桜塚古墳群の中期末の南天平塚古墳は、墳丘長20m台に縮小します。ここからは、あきらかに勢力が縮小していることが見えて来ます。そして次の代には、猪名川流域の最有力古墳は長尾山丘陵の川西市・勝福寺古墳へと移っていきます。
 勝福寺古墳については、調査報告書『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)に、次のように報告されています。
①六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたもの
②勢いを失っていく豊中台地の桜塚古墳群に対して、6世紀前葉に新たに台頭する猪名川本流沿いの勢力であること。
③それはたんなる地域内の勢力争いというより、倭の中央政権内で展開する激しい主導権争いが波及した結果に他ならないこと。
こうして見ると、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めの2回に渡って大きく動いていることが分かります。重要なことは、地域の政治的主導権の変転が、同じ時期に他の地域でも見られることです。
試しに、讃岐の津田古墳群の変遷図を見ておきましょう。
津田湾 古墳変遷図
ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること 
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
津田古墳群でも②の三期と⑤の富田茶臼山古墳の出現期の2回に渡って大きな「地域変動」があったことが分かります。これは都出比呂志氏が指摘したように、「地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。」ということの讃岐版の現象と捉えることがえきそうです。
 もう一度、猪名川エリアに立ち返って見ると、次のように盟主古墳の変動時期が一致します
①中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期
②後期初頭は継体大王陵とされる今城塚古墳が淀川流域に登場する時期
畿内の河内などの巨大前方後円墳の移動現象については、次の2つの見解があります。
①中央政権の中で政治的主導権を握る勢力の交代を反映したものという説
②政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという説
どちらにしても、巨大前方後円墳の移動に伴って、埋葬施設の構造、副葬品の種類、埴輪のスタイルなども大きく変化します。つまり、中央政権の主導権を握った勢力が、新しいスタイルの墳墓モデルを作りだして、それを各地の連携勢力にいち早く与えることで、中央と地域の政治系列を一新するような動きがあったのではないかと研究者は考えています。
そして古墳だけでなく、集落遺跡からみても、6世紀は千里窯跡群の操業が活性化し、その職人たちの住居とされる掘立柱建物が立ち並ぶようになる時期です。そして、新たに大阪府豊中市新免遺跡や須恵器の生産流通に関与していた本町遺跡などが姿を見せます。その一方で、それまでの5世紀代の集落の多くは衰退します。
 猪名川地域で最後に姿を見せる勝福寺古墳が築造された地域を見ておきましょう。
ここでは同時期に栄根遺跡、加茂遺跡、下加茂遺跡の住居数が増加します。園田大塚山古墳が築造された地域では、若王子遺跡、平田遺跡からは鍛冶関連遺物とともに多量の土器が出土するようになります。以上からは、「渡来系集落遺跡 + 猪名川下流域の鍛冶生産工房 + 勝福寺古墳 = 渡来系技術者集団を傘下に収めて急成長する新興集団の存在」という図式が見えて来ます。その躍進の原動力のひとつが半島からの渡来人集団だということになります。そして、この6世紀の変化は、大阪北部に拠点をおいた継体政権によってもたらされたものとします。さらに広く見ていくと、この背景には倭と百済の関係強化を含めた韓半島各地との関係再編が反映していると研究者は考えています。確かに、この時期は阪南部の古市・百舌鳥古墳群が衰退する時期です。列島中枢における政治変動と対外情勢の変化が、地域社会の遺跡動態とリンクしていたようです。
以上をまとめておきます
①栄山江流域と近畿地域との相互交流を示すものとして、集落遺跡と土器資料がある
②日本列島と韓半島南西部で共有された儀礼用土器が、両地域の交流関係を示す
③儀礼用土器以外にも、韓半島出土須恵器によって双方向的な交流実態が見えてくる
④韓式系軟質土器の系譜は百済・馬韓・加耶西部に求めることができ、畿内では河内湖周辺に最も分布が集中する
⑤韓半島系渡来人集落と手工業生産拠点は密接に関係する
⑥さらにそれらに近接して初期群集墳が築造されている。
⑦近畿地域にみる集落構造の変化は、同時期の栄山江流域においても見られる
⑧5世紀代における百済・栄山江流域との相互交流が、倭人社会にとっては社会資本投資といった戦略へとつながっていった
⑥それが、その後の時代を形作る原動力となった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月
『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)
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津田古墳群周辺図1
津田古墳群
今回見ていくのは岩崎山4号墳です。この古墳は、前方部を東側の平野側に向けます。北に龍王山古墳、南東にうのべ山古墳、けぼ山古墳、一つ山古墳のある鵜部半島、南西には今は消滅した奥3号墳に囲まれた位置にあります。周辺古墳との関係を押さえておきます。
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群変遷表
岩崎4号墳は羽山エリア勢力が最後に造った前方後円墳で、富田茶臼山以前には最も大きいものになるようです。また築造時期は、鶴羽エリアのけぼ古墳と同時代か、少し先行する時期の古墳になるようです。そして、次の時代には富田茶臼山へと一気にジャンプアップしていきます。

津田古墳群変遷3

先行する前方後円墳と、富田茶臼山古墳への橋渡し的な役割が見られるのが岩崎山4号墳や前回見たけぼ山古墳になるようです。今回は岩崎山4号墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

岩崎山古墳群 津田古墳群

岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。

岩崎山4号墳4

まず、岩崎山4号墳の先行研究を見ておきましょう。
岩崎山4号墳は文化6年(1809)に発見され、刳抜型石棺と人骨、鏡、壺、勾玉が確認されています。当時の状況は文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』に記されています。それによると、出土した遺物は村人が恐れて再び埋められたこと、その中で鏡は埋めもどされずに髙松藩の役人が持ち帰ったことを記します。
 明治30年(1897)頃に、松岡調が著した『新撰讃岐国風土記』には、次のように記します。
①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること
②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと
③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること
④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
明治6年の発掘について、大正5年(1916)に長町彰氏は発掘に携わった古老に聞き取りを実施しています。その中に、49個体の方形埴輪列は底のない甕形であったと述べています。
昭和2年(1927)に岩崎山1号墳が発見された時に、4号墳も発掘されます。
出土した人骨、管玉22、小工30、車輪石1、石釧2、貝釧3、埴輪片、朱は昭和5年(1930)『史蹟名勝天然記念物報告書 第5冊』に記載され、現在遺物は東京国立博物館に移管。
昭和26年調査報告書には、この時他に鍬形石1、石釧3、硬玉製丁字頭勾玉1、管玉7~8があったが海中に捨てたと記す。
昭和4年(1929)は、墳丘南側で円筒埴輪列を確認。発掘された埴輪は坂出市鎌田共済会郷土博物館に保管。
昭和26年(1951)、京都大学梅原末治氏による学術調査が実施。
ここで初めて墳丘規模、埋葬施設、刳抜型石棺石棺の様子が明らかになります。遺物は棺内に残っていませんでした。しかし、石室の上からもともとは棺内にあったと思われる勾玉2、管王、小玉、石釧2が見つかります。また、棺外から鏡や鉄製品が出てきます。この時の遺物は、さぬき市歴史民俗資料館に保存されています。
平成12年(2000)2月、後円部南西部に携帯無線基地局の建設が予定され、試掘確認調査実施。しかし、古墳関連の遺構は出てこなかったようです。現在、このときの試掘箇所には畑が造成されています。ここからは墳丘傾斜面と葺石が確認され、墳丘の一部が畑によって破壊されていたことが分かっています。
岩崎山4号墳 円筒埴輪 津田古墳群
         岩崎山4号墳の円筒埴輪

トレンチ調査では崩落した葺石に混じって多量の埴輪片が出てきました。
その多くが円筒埴輪片です。円筒埴輪が墳丘を囲続していたと研究者は考えています。形象埴輪はこれまでの採集遺物や今回の調査において小片が確認されています。墳頂部には形象埴輪が並んでいたことが考えられます。葺石に混ざって、古代末期の土師器皿が数点見つかっています。これは古墳が後世に宗教儀式の場として再利用・改変させられていたことを推測させます。

津田古墳群円筒埴輪の変遷
津田古墳群の円筒埴輪変遷

岩崎山4号分の墳形の特徴は

岩崎山4号墳7
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形
②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ
③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる
④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲
⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。
⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。

埋葬施設
①後円頂部は埋葬施設の凝灰岩製天丼石2枚を縦に重ね、その上に祠を安置
②赤山古墳、けぼ山古墳に見られるような小礫の墳頂部への散布はない。
③4枚の天丼石のほぼ中間に位置し、埋葬施設は墳丘の中心に位置する

津田湾岩崎山4号墳石棺
         岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
副葬品で保管されているものは、次の通りです。
昭和2年 (1927)の出土品は東京国立博物館保管、
管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

津田湾岩崎山4号墳石棺3
     昭和26年(1951)の出土品(さぬき市歴史民俗資料館)
以上を整理要約しておきます。
岩崎山4号墳は全長61、8mで、津田古墳群の中では最も規模の大きい古墳になります。また、以下の点が畿内的な特徴だと研究者は指摘します。
①埋葬施設が南北方向を向いていること
②多量の副葬品が見られること
さらに次のような特徴を指摘します。
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。
④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。
⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。
⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。
⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。
⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと
⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと

以上から築造年代については⑧の大量に出てきた円筒埴輪の情報から次のように推察します。
①口縁部の突帯から外反して55㎝ほどで突端に至る埴輪は、快天山古墳円筒埴輪がある。
②快天山古墳円筒埴輪と比較すると、岩崎山4号墳の方が若干古い。
③津田古墳群内では龍王古墳・けぼ山古墳の円筒埴輪よりは古い。
④赤山古墳埴輪とは類似点が多く、同時代。
以上から次のような築造順を研究者は考えています。
岩崎山4号墳 ⇒龍王山古墳・けぼ山古墳
葺石、埴輪の形態からは讃岐色の強い在地性よりも、畿内色が強くなっていることが分かります。
  岩崎山4号墳は先行研究では、「畿内から派遣された瀬戸内海南航路の拠点防衛の首長墓」とされてきました。その説と矛盾はせず、それを裏付けられ結果となっているようです。

   津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」

    
津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
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津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

以前に「岩崎山第4号古墳発掘調査報告書2002年 津田町教育委員会」にもとづく津田古墳群の性格について読書メモをアップしておきました。それから約10年後に「津田古墳群調査報告書」が出されています。これは周辺の古墳群をほぼ網羅的に調査したもので、その中で見つかった新たな発見がいくつも紹介されています。津田古墳群の見方がどのように変化したのかに焦点を当てながら見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
東讃地区の古墳編年表
讃岐東部の古墳変遷表
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群の変遷表
前回に示されていた古墳編年表です。ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
なお鶴羽エリアの築造順は、次の通りです 

うのべ山(鵜部)古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳(円墳) → けぼ山古墳


一つ山古墳が円墳ですが首長墓として認められるようになっていることを押さえておきます。それでは今回の調査で新たに明らかになったことを見ていくことにします。まず第1は、1期に先立つ初期モデルがうのべ(鵜部)山古墳とされたことです。
津田古墳群首長墓一覧
津田古墳群の首長墓一覧

最初に津田古墳群の総体的な変遷を見ておきましょう。

津田古墳群周辺図1
津田古墳群
①臨海域では、初期モデルとして「うのべ山古墳」が出現
②少し時期をおいて「赤山古墳 → 岩崎山4号墳 → けぼ山古墳」と築造が続く。
③円墳の「一つ山古墳、龍王山古墳」も前方後円墳の後円部直径に匹敵することから首長墓の一つ
④「野牛古墳、泉聖天古墳、岩崎山2・5・6号墳、吉見弁天山古墳、中峠古墳」は小規模古墳で、階層的に首長墓の1ランク下の位置付け。
⑤臨海エリアでは、中期初頭(4期)の岩崎山1号墳を最後に古墳が築造されなくなる。
⑥それ以降は古墳時代後期の宮奥古墳だけで、臨海域の古墳は築造時期が古墳前期に集中する。
内陸エリアの前期古墳を見ておきましょう。、
①川東古墳、古枝古墳、奥3・13・14号墳が前期の前方後円墳。
②その中には、奥2号墳のように円墳が含まれる。
③川東古墳は相地峠と津田川の支流土井川に比較的近い場所に、古枝古墳は津田川沿い、奥3・13・14号墳は津田川から雨滝山を山越えする連絡路沿いに立地し、臨海域と内陸域を結ぶ要衝に立地する。
④内陸エリアでも、前期後半になると前方後円墳が造られなくなる。
⑤そして登場するのが中期初頭の四国最大規模の前方後円墳・富田茶臼山古墳。
⑥富田茶臼山古墳の後には、前方後円墳そのものが姿を消し、大井七つ塚古墳群や石田神社古墳群のような群集円墳が造られるようになる。

この背景を研究者は次のように解釈します。
①弥生時代後期から古墳を造り続けた雨滝山西部から南部にかけての地域は、前期中頃には前方後円墳が築造できなくなったこと。
②中期になると北西の寺尾山(寺尾古墳群)や南束の大井地区(大井七つ塚古墳群、落合古墳群)へと指導権が移行したこと
③後期になると横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳が出現するが、この時期に再び雨滝山に古墳が確認されるようになる(奥15号墳)
④この段階の古墳の分布として、平砕古墳群、一の瀬古墳群、八剣古墳群、柴谷古墳群と各地に群集墳が展開
津田古墳群 うのべ山・けぼ
鵜部半島の古墳群

うなべ山古墳 津田古墳群
うのべ山古墳
それでは、津田古墳群で最初に登場するうのべ山古墳を見ておきましょう。
うのべ山古墳のは、今は鵜部半島の付け根辺りに位置しますが、地形復元すると古代にはこの半島は島であったようです。その島に初期の古墳が3つ連続して造られています。うのべ山古墳からは、広口壺が出てきます。これが弥生時代からのものなので、うのべ山古墳は出現期古墳に位置付けられることになります。また、類似した広口壺はさぬき市丸井古墳、稲荷山古墳等に見られ、香川県の独特の広口壼でもあるようです。
うのべ古墳 津田湾古墳群の初期モデル

報告書は、うのべ古墳の特徴を次のように指摘します。
①広口壺の出土から築造年代は、古墳時前期初頭の出現期古墳であること
②香川県内でも最古級の古墳であり、津田古墳群の中で最初に築造された古墳
③墳丘が積石塚であり、讃岐の在地性が強い
④前方後円墳の墳形が四国北東部の古墳に多い讃岐型前方後円墳であること
⑤後円部から前方部中央を取り巻く外周段丘を有すること、
⑥全長37mは四国北東部の多く前方後円墳と、ほぼ同規模であること、
⑦弥生時代以来の伝統を受け継いだ広口壺を供献していること
これらの特徴から、この古墳が四国北東部の在地型古墳として造られていると研究者は判断します。ここでは、後の津田古墳群が畿内色が強まる中で、最初に造られたうのべ山古墳は讃岐色の強い古墳であったことを押さえておきます。

一方、うのべ山古墳の特殊性を研究者は次のように指摘します。
⑧標高9mという島の海辺に築造されていること
⑨積石塚としてのうのべ山古墳は海辺に立地し、安山岩の入手が困難だったために、海浜部を中心として様々な石材を使用している。
⑩海に隣接する低地への築造に海と密接に関わる津田古墳群の特徴が見て取れる。
赤山古墳1号石棺 津田碗古墳群

次に登場する赤山古墳を見ておきましょう。
赤山古墳は臨海エリアの津田町鶴羽から、富田の内陸エリアに抜ける相地峠の登口の道沿にあります。ここの道は近世には「馬道」と呼ばれており、物資輸送等に使用された古道でもあようです。現在この道は赤山古墳を取り囲むようにして津田湾へと下っていきます。この道が古墳時代にまで遡るかどうかは分かりませんが、赤山古墳は津田湾から富田方面への入口に当たる地点に築造された可能性が高いと研究者は考えています。
 赤山古墳は火山の北東の谷地に突出した標高23mの尾根上です。墳丘からは北に津田湾を一望でき、北東にはけぼ山古墳、うのべ山古墳、一つ山古墳のある鵜部山を望むことができます。墳形は前方部を南側(山側)に向けた前方後円墳です。過去の記録には全長50mとありますが、現在は後円部の一部を残すのみとなっているようです。ここには2基の刳抜式石棺が露出しています。
 赤山古墳が発見されたのは安政2年(1855)頃で開墾中の出来事です。
明治時代中期頃の松岡調氏の「新撰讃岐国風土記」は、次のように記します。

赤山古墳石棺 津田碗古墳群
赤山古墳の2つの石棺

石棺が発見され、そばから勾玉、壺、高杯等の土器が多数出土したとされます。石棺は3基が発見された。1基は凝灰岩の蓋石をもつ石槽の中から、2基は石棺単独で埋められていた、石棺発見後は祟りを恐れて元のように埋め、桜と火山にあった白羽明神を遷し祀った。

 大内空谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』(大正11年(1922)は、次のように記します。
1922年当時すでに畑などの開墾が行われ墳形が変形して、円墳と判断。
古墳の周囲の田畑からは採集された土器片については、「弥生式に祝部を混じ偶に刷毛目のあるものもあり祝部には内部に渦文の付せられたる土器把手も落ちて居る」
大内氏が紹介した3年後の10月10日に盗掘に遭います。
赤山古墳石棺2 津田碗古墳群
赤山古墳の石棺(津田古墳群)
盗掘翌年の大正15年(1926)の『大川郡誌」は次のように記します。
「前方後円墳で、開墾によって形状が大きく変化しているが瓢箪形をしている」
「前年の盗掘については、石棺(1号石棺)は孔を穿って盗掘され、石棺の中に遺物は残されていなかったが付近から管玉、ガラス玉12個を採集した。盗掘孔に緑青の破片が落ちていたことから銅製品があった可能性がある。小型の石棺(2号石棺)は蓋を開けて盗掘され、残された遺物として頭骸骨の破片、歯「(門歯4本、大歯1本、自歯2枚)、管玉11個、ガラス玉93個」があった」
報告書(2013年)の赤山古墳のまとめを要約しておきます。
①赤山古墳は全長45~51mの前方後円墳であること
②円筒埴輪は岩崎山4号墳円筒埴輪に極めて似ていて、同じ埴輪製作集団が作った可能性が高い
③岩崎山4号墳円筒埴輪のやや新しい特徴を備えた橙色弄統の円筒埴輪が赤山古墳円筒埴輪には見られない
④突帯がわずかに高いこと、形象埴輪を伴わないことから、やや赤山古墳円筒埴輪が時期的に先行する
⑤到抜式石棺からは1号石棺⇒2号石棺の時期的遺構が想定できる
⑥2号石棺は、一つ山古墳出土の刳抜式石棺に類似する。
⑦以上から、赤山古墳⇒一つ山古墳の築造順になる
⑧岩崎山4号墳の刳抜式石棺とは、形態差が大きく同じ系譜上にはない
⑨平面形が角の明瞭な長方形を呈する岩崎山4号刳抜型石棺に対して、一の山古墳刳抜式石棺は隅丸方形で、赤山古墳⇒岩崎山4号墳の順になる。
このように考えると津田湾の臨海域でうのべ山古墳の次が赤山古墳となり、その間に若干の時期差があるようです。

津田古墳群の刳抜型石棺の比較について

赤山古墳1号石棺2 津田碗古墳群
 赤山古墳1号石棺
津田湾古墳群の石棺編年表1
          火山石石棺の比較
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳石棺
津田湾の刳抜型石棺については、渡部明夫氏によって編年表が示されています。それを要約整理しておきます。
①火山石石棺群の特徴は棺蓋は横断面が半円形を基本とし、両端部上面を直線的に斜めに切っていること
②棺身は小口面が垂直であること
③形態変化としては、棺蓋両端部上面を斜めに切った部分の傾斜角度が大きくなり、前後幅が狭くなっていくこと
④その点に忠告すると注目すると、赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒鶴山丸山石棺 → けぼ山石棺
⑤棺蓋長側面の下部が平坦而を持たないものから内傾する平坦面、垂直な平坦面へと変化して、平坦面が強調され、幅広の凸帯になっていくこと
⑥その点に注目すると赤山1号石棺 ⇒ 赤山2号石棺 ⇒ 一つ山石棺 ⇒ 鶴山丸山石棺
⑦刳り込みの隅が曲線に仕上げられ稜をもたないものから鈍い稜線が目立つようになり、明確な稜線を持つようになること
⑧その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒一つ山石桔⇒ 岩崎山石棺・けぼ山石棺。大代石棺
⑨刳り込みの中央部を両端よりも深くするものから平坦な底面への展開
⑩その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒ 一つ山石棺⇒ 岩崎山石棺・鶴山丸山石棺・けぼ山石棺
以上、各属性の変遷から刳抜型石棺の出現順を研究者は次のように判断します。

赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒岩崎山石棺

津田碗古墳群 埴輪編年表2

さらに土器・埴輸・割抜式石棺編年を加味した編年的位置づけを次のように述べています。  160P
墳丘形態・墳丘構造、埋葬施設、副葬品の編年的位置づけから、土器・埴輪・刳抜型石棺だけではよく分からなかった奥3号墳、古枝古墳、岩崎山1号墳の位置付けが見えて来ます。
①奥3号墳と古枝古墳は墳丘スタイルから古墳時代前期前半の川東古墳と同時期、
②岩崎山1号墳は副葬品から津田古墳群では最も新しい古墳時代中期初頭に位置付けられる
③奥13号墳は十分な資料がなく、時期的な位置づけが困難であるが、低い前方部、墳丘主軸に斜交する竪穴式石室からは奥14号墳に近い時期の可能性が強い。

津田碗古墳群編年表1
津田古墳群の編年表
 以上より、報告書は 津田古墳群の前期前半の編年を次のように記します。
①前期前半のものとしては、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、奥3号墳、奥14号墳。
②これを二つに分類すると、前半にうのべ山古墳、奥14号墳、後半に川東古墳、古枝古墳、奥3号墳
③奥14号墳は壷形土器からはうのべ山古墳より後に見えるが、墳形からはうのべ山古墳に近い時期を想定
④後半の3古墳の前後関係としては、副葬品から奥3号墳 ⇒ 古枝古墳
⑤この時期は墳形、葺石構造、壷形土器、東西の埋葬方位等に讃岐的特徴が認められる。
⑥墳丘全長はうのべ山古墳(37m)、川東古墳(37m)、古枝古墳(34m)、奥3号墳(37m)、奥14号墳(30m)で格差はない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 21013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集
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 讃岐国府跡を流れる綾川上流の、羽床盆地は古墳の密集地で、大規模な古墳群を形成しています。
しかし、時期・内容がよく分からないものが多く、私には空白地帯となっていました。その中で手がかりとなる資料に出会えましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
まずは編年表にしたがって出現順に古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳分布図JPG

最初に羽床盆地の古墳を5つにグループ化します。
A 北部        快天塚古墳 浦山12号墳
B 北西部 
C 中央北部
D 中央南部
E 東部
その編年表が以下になります。
羽床盆地の古墳編年2
羽床盆地の古墳編年表
羽床盆地の古墳編年

羽床盆地の古墳編年表(拡大版)
古墳編年表2

Ⅰ期 羽床盆地で最も古いのは、盆地北部の快天山古墳です。

快天塚古墳6
快天塚古墳5


                     快天塚古墳
この古墳については何度も取り上げたので副葬品などは省略します。研究者は注目するのは3基の刳抜式石棺です。
快天塚古墳石棺
快天塚古墳の3つの石棺

これらは国分寺町鷲ノ山の石材で造られたもので、1号・2号石棺は割竹形木棺を忠実に模した初期モデルで、全国で最も古い刳抜式石棺とされます。古墳の立地場所は、羽床盆地から丸亀平野へ出口にあたる丘陵上で、鵜足郡との境になります。阿野郡と鵜足郡に跨いで勢力をもっていた首長墓のようです。快天塚の被葬者達は、刳抜式石棺を最も早く使用しているので、その生産地の国分寺町鷲ノ山の石工集団を支配下に置いていたようです。また、刳抜式石棺が製作されるようになると国分寺町では有力古墳が造られなくなります。ここからは、快天山古墳の被葬者は国分寺町域までも勢力に置いていたと研究者は推測します。
 しかし、快天塚古墳の被葬者に続く首長達は、その勢力をその後は維持できません。ヤマト政権は鷲の山の石棺製造集団を引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じています。つまり、ヤマト勢力によって快天塚の後継者達は押し込められたようです。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったと研究者は考えています。
快天塚古墳に続く盟主的な古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳4
羽床盆地の古墳
よっちゃんの文明論 | SSブログ

北流してきた綾川が大きく東方向に流れを変えるポイントが「白髪(しらが)渕」です。この左岸(北側)の丘陵を浦山(うらやま)、対岸の突き出す地形を津頭(つがしら)と呼びます。
Ⅱ期 浦山12号墳は、快天塚と同時期の古墳で、綾川の北の「A 北部」に位置します。
直径10m前後の円墳で、割竹形木棺を粘土で覆い、墳丘構築のため丘陵部を切断した溝状部には、墳丘側、丘陵側双方に貼石しています。さらに平野側には墳丘を挟むようにハ字形の列石を配し、配石のない中央を通路として使用しています。古墳時代前期を特色づける割竹形木棺をもつ一方で、弥生時代の墳丘墓の特徴を色濃く残した古墳で、Ⅱ期のものと研究者は判断します。その隣の浦山11号古墳は組合式木棺を粘土被覆していることと、刀子・斧・鎌が出土しているのでⅡ期~Ⅲ期に比定されます。

善通寺・丸亀の古墳編年表

Ⅲ期 快天山古墳に続く大型古墳(盟主墳)は「A 北部」に位置する津頭東古墳です。
①径35mの円墳、葺石・埴輪あり。
②多葬墓で、竪穴式石槨4基と粘土槨2基があり、
③1号石槨は、板状安山岩を小口積みした竪穴式石槨
④内行花文鏡、鉄剣2、太刀1、鉄斧2、(ヤリガンナ)1、鉄鏃を出土

 津頭東古墳から400mほど下流にあるのが「A 北部」の津頭西古墳(蛇塚)です。
①径7mの円墳
②竪穴式石槨から、画紋帯環状乳四神四獣鏡(径14.8cm)、三環鈴、銀製垂飾り付き耳飾りの残穴、衝角付き冑、眉庇付き冑、横矧板鋲留式短甲3、頸甲1、小札括り、金銅製鏡残片、鉄矛2、直刀、直弧文付き鹿角製刀装具、槍身2、石突きの残穴、鉄鏃残片、鉄斧、須恵器(高杯3、蓋杯2)などと、副葬品が豊富
③5世紀後半の築造。
羽床津頭西古墳 津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」
             津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」

副葬品の多さと優秀さからみて、Ⅲ期の津頭東古墳に続く首長の古墳と研究者は考えています。

羽床盆地の古墳分布図JPG
羽床盆地の古墳群
綾川をさかのぼって上流へ向かうと「C 中央北部」に、8~10基の円墳で構成される「末則古墳群」あります。その盟主墳が「末則(すえのり)1号墳」です。ここも末則湧水の下に、弥生時代から拓かれた谷田があります。谷田と背後の山林を経済的基盤とした勢力の築いた古墳群のようです。

末則古墳 羽床古墳群
①径約25mの円墳で、葺石と埴輪が2重にめぐり、
②円筒・朝顔形埴輪、石製獣形品(猪か馬)、須恵器片が採集。
③埋葬部は、隅丸長方形の土壙のなかに竪穴式石槨があり、石材は川原石で、最上段には板石
④鉄刀(90.5cm)、鉄剣(62.5cm)、鉄鏃10を出土

末則古墳の出現は、これまで羽床盆地の「A 北部」に築造されていた有力古墳(盟主墳)が、はじめて盆地中央部でも築造されたことに意義があると研究者は考えています。しかし、この古墳は墳丘規模だけ見ると「A 北部」の有力古墳と同規模ですが、副葬品を見ると「鉄刀1・鉄剣1・鉄鏃10」だけで、短甲や馬具などが出てきません。副葬品の「貧弱」さは、「A 北部地区」との経済的・政治的格差を示すものと研究者は評します。5世紀後半の時点では、中央部は「発展途上地域」だったとしておきます。
末則古墳の被葬者が拠点としたしたのが末則遺跡です。
この遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主だったのでしょう。
末則古墳 羽床古墳群.2jpg

現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。そこには水神も祭られていて、聖なる場所でもあったことがうかがえます。神水鼻の対岸(羽床上字田中浦)には「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設でした。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。
Ⅳ期 浦山11号・12号墳の北側の丘陵上に立地する白梅古墳
①直径10m前後の円墳で、2基の箱式石棺の双方から鉄刀を出土
②時期を半田する遺物が出土していないが、須恵器や馬具が出ていないのでⅣ期までに編年
V期(5世紀後半)の羽床盆地の特徴は
①大型古墳が姿を消し、直径20m前後の中規模古墳が小地域ごとに成立
②そこに古式群集墳が多く築造され、古墳築造が急激に拡大する。

その他の有力古墳としては、滝宮小学校に隣接する岡の御堂1号・2号墳があります

岡の御堂古墳 羽床盆地
岡の御堂1号・2号墳の説明版

羽床盆地のⅤ期(中期古墳)の代表的な例として「岡の御堂古墳群」を見ておきましょう。
滝宮小学校の移転新築のために1976年に発掘調査され、2、3号墳はなくなりました。埋葬施設が移築保存された1号墳を見ておきましょう。
①径13mの円墳で、幅2,5mの周濠で葺石、円筒・朝顔形埴輪出土
②埋葬部は川原石と板石による箱式石棺が東頭位にあった
③盗掘を受けていたが、鉄刀(長さ107.5cm)、鉄剣3、鉄矛1、鉄鏃25以上、横矧板鋲留式短甲1、轡1、鮫具1、帯金具9以上、鉄鎌1、鋤先2、鉄斧2、刀子2、須恵器・土師器多数を出土。
④5世紀後半の築造。
中期古墳には、武具と鉄製武具が多いことに気がつきます。「武具・馬具」は、鉄を得るために朝鮮半島南部にヤマト連合政権が足がかりを確保しようとして苦労していた時代の特徴とされます。

横矧板鋲留式短甲2

横矧板鋲留式短甲

この時期の短甲は、ヤマト政権が一括大量生産して地方に分与していたものもあります。ここからは以前は次のような説が一般的でした。

高句麗の南下政策に対応するために、国内の豪族が動員され、その功績として威信財としての短甲や馬具が支給された。

しかし、近年の研究からは短甲は「倭系甲冑」として日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもおよんでいたことが分かっています。

韓半島出土の倭系甲冑
朝鮮半島出土の倭系甲冑分布図
倭と伽耶の鎧比較
伽耶と京都宇治二子山の甲冑比較


倭と伽耶のかぶと
左が倭の甲冑、右が伽耶の甲冑
倭と伽耶の武器比較2
左が倭 右が伽耶
ここからは、半島の渡来有力者を列島に招き入れて、各地に「入植」させたということも考えられます。そうだとすれば、羽床盆地の開発者は渡来人であったということになります。

 私が気になるのは、津頭西(蛇塚)古墳から出てきている「銀製垂飾り付き耳飾りの残穴」です。
この時代に、百済の「特産品」である耳飾りが「海の民(倭人)」によって列島にもたらされています。


女木島丸山古墳5

伽耶のイヤリング
朝鮮半島の百済のネックレス

そのひとつが女木島の丸山古墳から出土していることを以前にお話ししました。
女木島丸山古墳4
5世紀の東アジアの海洋交易

内陸部の羽床盆地から百済やヤマト政権で造られた威信財が出てくること、被葬者がそれをどのようにして手に入れたのか考えると、いろいろな想像が浮かんできます。
倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルもあったようです。そして、女木島の丸山古墳の被葬者と羽床盆地のリーダー達は、ネットワークで結ばれていたことになります。ヤマト政権以外にもいろいろな交流チャンネルがあったことを押さえておきます。

5世紀後半の羽床盆地で古墳築造が爆発的に増加するのは、どうしてなのでしょうか?
その背景は、このエリアが馬の飼育に適していたからだと研究者は考えています。羽床盆地東部の綾川町陶には洪積台地が広がっていて、水の便が悪く、大規模な灌漑施設がなかった時代には水田耕作が難しかったようです。そのため古墳時代には森林や森林破壊後の草地が広がる地域だったと研究者は考えています。そのため、5世紀後半頃の羽床盆地では、馬の飼育が盛んに行われるようになります。このエリアから馬具や甲冑をもった有力古墳や古式群集墳を盛んに築造したのも渡来系集団の存在が考えられます。そうした中で、蛇塚古墳は羽床盆地で最も力をもった首長の墓で、岡の御堂1号・2号墳は地域的首長を支える有力構成員であったと研究者は考えています。

 この時期の羽床盆地で形成された群集墳を挙げて見ます。
A 盆地北部に浦山古墳群(3号・4号墳の2基)・滝宮万4古墳群(4基)
B 盆地北西部の羽床に中尾古墳群(5基)
A 盆地北部の三石古墳群(3基)・白石北古墳群(3基)
B 盆地北西部(羽床)の浄覚寺山古墳群(4基)
C 盆地中央部の北側では末則古墳群(7基)
E 盆地奥部の川北1号墳は竪穴式石室をもつことから、この時期に築造された可能性が高い
Ⅵ期 横穴式石室の導入期
綾川流域では河口の雄山に最初の横穴石室を持った古墳が築かれます。それは韓半島の九州の竪穴系横口式石室の影響を受けて羨道をもたない小規模な横穴式石室です。それに対して、羽床盆地の横穴式石室導入期の本法寺西古墳浦山5号墳は横長の玄室に狭い羨道です。これは両者が異なった地域から影響を受けて横穴式石室を導入したと研究者は考えています。つまり、この時期までは阿野北平野と羽床盆地の勢力は別系統に属していたということになります。

  研究者が注目するのは、羽床盆地のⅥ期の古墳が小規模で、有力古墳が見当たらないことです。
 羽床盆地のⅦ期の特徴を見ておきましょう。
①横穴式石室の築造は羽床盆地全体に広がるが、大型横穴式石室は出現しない
②これまで古墳築造の中心であった盆地北部では古墳築造が減少する。
③それに代わって、古墳築造活発地が盆地北西部の羽床地域に移動する。
 羽床勢力は、平芝2号墳、奥谷1号墳、膳貸1号・2号墳などの横穴式石室をもつ小型古墳を造り続けます。これらの群集墳はいずれも後期群集墳で、羽床地区全体ではこの時期に20基をこす古墳が築造されたと研究者は考えています。
 これに対して、盆地北部では浦山10号墳、小野内聞1号~3号古墳・岡田井古墳群などが築造されていますが十数基程度です。盆地中央部の南側(綾上町牛川・西分)では、梶羽1号・2号墳・小川古墳の3基で横穴式石室が確認されています。また、盆地中央部北側の末則古墳群の近くにある菊楽古墳も横穴式石室をもち、Ⅶ期に属するものとされます。そして、羽床盆地では7世紀前半以後には羽床盆地では古墳は造営されなくなっていきます。そして、終末期の巨石墳や、それに続く古代寺院も建立されません。羽床盆地の勢力は群集墳は造られ続けるが、それをまとめ上げる盟主がいなかったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
善通寺・丸亀の古墳編年表

快天塚古墳をスタートとする羽床盆地の勢力推移を整理しておきます

羽床盆地の古墳と綾氏

①盆地北部に快天山古墳(Ⅱ期)→津頭東古墳(Ⅲ・Ⅳ期)→蛇塚古墳(V期)と続く盟主墳の系譜がある。
②中心は盆地北部で、4世紀から5世紀後半には、このエリアの集団が主導的地位を握っていた
③北部集団は、快天塚の被葬者の頃(4世紀中頃)には羽床盆地ばかりでなく、国分寺町域も支配領域に含めていた。
④Ⅴ期(5世紀後半頃)になると、盆地北西部の羽床に浄覚寺山古墳群・中尾古墳群が、盆地中央部の北側に末則古墳群が築造され、古墳築造が拡大し、盆地奥部にも古墳が築造され周辺開発が進んだ。kこの背景には馬の飼育が関係することが考えられる。
⑤Ⅶ期には盆地の各所で横穴式石室の群集墳が築造されるようになった
⑥北部勢力は、その後に大型横穴式石室を築造できずに、6世紀末頃に弱体化した。
⑦代わってⅦ期に主導権を握るようになるのが、北西部の羽床地区の集団である。
⑧羽床の群集墳は密集したものではなく、比較的広い範囲に5基前後のグループが散在したものである
⑨羽床盆地全体に大型横穴式石室の築造がないことと併せて考えると6世紀末頃の羽床盆地では地域権力の集約が行われなかった
⑩その結果、綾川下流の阿野北平野を拠点とする勢力(綾氏)の勢力下に入れられた。

⑩の「地域首長の墳墓とみられる大型横穴式石室の不在」 + ⑨の「坂出地域と比べると、後期群集墳の分布がやや散漫」=阿野北平野南部(坂出市府中周辺)に比べて権力集中が進まず、劣勢の立場で、阿野北平野の勢力(綾氏?)に飲み込まれて行ったと研究者は考えています。

 6世紀末になると、羽床盆地では地域権力が衰退します。そこに進出してくるのが綾氏です。
綾氏は、農業、漁業、製塩に加え、羽床盆地の馬も掌握し、舟だけでなく、馬を用いた交通、軍事を背景に勢力を築いていきます。さらに、陶に豊かな粘土層があるのに気がつくと、そこに中央政権の支持を取り付けて最先端の窯業技術を持つ渡来集団を入植させて須恵器の工業地帯を作り上げます。こうして奈良時代になると綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。つまり、十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。そのプランナーは綾氏だったことになります。陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群であったことを押さえておきます。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
奈良時代以前の讃岐の須恵器の市場分布図(十瓶山窯独占化以前)
 
陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。
これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不便なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆われた原野で、燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。
 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得します。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。
 こうして綾氏によって整備された「坂出府中=陶・滝宮」という綾川水運ルートに乗って、後には国司となった菅原道真が滝宮に現れると私は考えています。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
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坂出 条里制と古墳
坂出市阿野北平野の古墳群と古代寺院
研究者は古墳群について、つぎのような見方を持っています
①古墳群は、血縁や擬制的血縁関係で結ばれていた集団によってまとまって作られた
②そのため古墳群の規模、内容、変遷等は、その氏族集団の性格や盛衰を映し出している
③そうだとすれば、古墳群のあり方から氏族を復元することができる
この考えに従って、阿野北平野周辺の古墳群と阿野郡の古代氏族を探って行くことにします。テキストは「「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」」です。

讃岐綾氏の活動

阿野北平野南部の大型横穴式石室と綾氏との関係について、最初に指摘したのは羽床正明氏で次のように記します。
山田郡司牒に「大領外正八位上綾公人足」の名があることに注目し、次のように推論します。
①8世紀後半に綾氏が山田郡の郡司になっているのは、大宝3(703)年3月の「有才堪郡司。若雷徊有三等已上親者。聴任比郡」に基づくものである。
②綾氏が比郡(隣郡)の郡司に任じられた背景として、新宮古墳・穴薬師(綾織塚)古墳・醍醐古墳群などの大型横穴式石室の存在から6世紀後半から7世にかけて綾氏が阿野郡で活発に活動していたことが想定できる
③そうしたことを踏まえて、綾氏が孝徳朝立郡(評)以来の譜代を獲得したこと。
続いて松原弘宣氏には、山田郡司牒、『日本霊異記』などの文献や古墳から次のように記します。
①綾公氏は阿野・香河・山田3郡にわたる有力地方豪族である。
②阿野郡で6世紀末に大型横穴式石室が突然築造されるようになるのは、6世紀後半以降にこの地域の有力氏族・綾氏が台頭してきたため
③新宮古墳→開法寺、綾織塚(穴薬師)古墳→鴨部廃寺、醍醐古墳一醍醐廃寺と大型横穴式石室と古代寺院が連続的関係をもって分布していること
④巨石古墳と古代寺院の連続性は、綾氏が阿野北平野を引き続いて勢力圏に置いていたから生まれた
⑤山田郡高松・宮所郷地域にある大型横穴式石室は山田郡大領綾公氏の祖先の墓ではないか
 両氏は、山田郡の綾氏については見解が異なるりますが、次の点では一致します。
A 律令時代の阿野郡が綾氏の根拠地であったこと
B 6世紀末頃~7世紀前半頃の大型横穴式石室が綾氏によって築造された
 
坂出阿野北平野の古墳分布図1

坂出
市阿野北平野の古墳分布図
古代綾氏と阿野北平野の古墳・古代寺院


上表のA・B・Cの三つの集団は、7世紀中頃以降になると古墳築造を停止して、氏寺を建立するようになります。
A 平野南西端部集団 7世紀中頃に開法寺
B 南西部部集団   7世紀末頃に醍醐廃寺
C 南東端部集団   7世紀後半に鴨廃寺

阿野郡では坂出平野南部に立地するこれら三つの寺院以外に、古代寺院は見つかっていません。この3つの勢力以外に、寺院を建立することのできる有力集団はいなかったことを示しています。ところが文献には、7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しか確認できません。これについては、次の2つのことが考えられます。
①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが、その中の一つの氏族の名が偶然に文献に残った
 ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 これについては、以前にお話ししたように、②の説が従来は支持されてきました。その理由は、
A 三つの集団がそれぞれが建立した開法寺、醍開醐廃寺、鴨廃寺の瓦は、綾南町陶窯跡群で一括生産されたものが運び込まれていること
B 三つの集団は、約3km四方の狭い地域に近接して墓域を営んでいること
以上から三集団は、近接して居住し、日常的に交流が密接に行われ、婚姻関係を通じて、綾氏として一つの氏族「擬似的血縁集団」にまとまったとされます。そして6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地、国分寺地域へも勢力を拡大し、その領域が律令時代に阿野郡になったとします。
  これらを、研究者は次のようにまとめます。
   以上のように考えれば、綾氏は坂出平野南西端部に古墳を築造した集団を中心として、平野南端 に三つの古墳群を築造した集団からなり、古墳時代初期まで系譜をたどることができる。さらに、平野東南端部の方形周溝墓は、弥生時代後期まで系譜が遡る可能性も示唆している。従って、綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく、この地域で成長した氏族であることがわかる。
これを「古代綾氏=弥生時代以来の在地的集団」説としておきます。これに対して、異論が近年出されるようになりました。瀬戸内海の対岸の播磨や備後での終末古墳と古代寺院の連続性について、最近の説を見ておきましょう。
  まず備後国府が姿を見せる過程を見ておきましょう。
史跡備後国府跡保存活用計画
備後国府と国分寺の所在地
 福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。このエリアには6世紀までは有力な首長はいませんでした。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、いくつもの終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が密集して建立されます。そして国衙や国分寺が「誘致」されます。それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然のように現れるのが終末古墳の二子塚古墳です。

備後南部の大型古墳
備後国府跡周辺の終末期古墳

   このような変動を桑原隆博氏は、次のような政治的変動が背景にあったとします。

「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。

「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」

 6世紀までは自立していた「吉備」が、畿内勢力に分割・解体されたこと。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として、有力者が何人も備後に派遣され、そこに終末古墳を競うように造営したことになります。「芦田川による南北の水運 + 東西の山陽道 = 戦略的要衝」に何人もの有力者が派遣され、最終的には備後国府が設置されたとしておきます。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

播磨の揖保郡の場合を見ておきましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
播磨揖保郡・揖保川中流 終末古墳と古代寺院の密集地
揖保郡エリアでは、揖保川が南北に流れ下って、古代から船による人とモノの動きが活発に行われていた地域です。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から古代官道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことになります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。吉備王国の解体後、播磨と備後で「包囲」するという戦略もうかがえます。
 律令下の揖保郡には、古代寺院が11カ寺も建立されます。
古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が「集住」していたことを物語ります。その背景としては、揖保川の伝統的な水運と「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力を挟み込んで抑制する体制強化策がとられたとします。

以上、見てきたように吉備王国の解体とヤマト政権の直接支配への対応として、東の播磨と西の備後に、畿内の有力者が何人も送り込まれ、狭い地域に「集住」することになります。彼らは、狭いエリアで生活するので、日常的な交流が密になっていきます。そのため巨石墳造営などについては、同じ技術者集団によっておこなれることにもなるし、古代寺院の瓦も共通の瓦窯を建設して共同提供するようになります。
終末古墳集中の背景

中浜久喜氏は次のように記します。

「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」
 
    この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道に沿って造られています。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、同じような性格を持つ古墳と考えられます。
この説が実際に阿野北平野の巨石墳に適応できるのかを見ておきましょう。

古墳編年 西讃

坂出 条里制と古墳


坂出市の古墳編年表1
坂出市の古墳編年表
古墳編年表2

A 平野南西部では、次のような系譜が見られます  
 小規模な積石塚(城山東麓古墳)→ 夫婦塚(Ⅲ期~Ⅳ期)→ 龍王宮1号・2号石棺(Ⅳ期) → 西福寺石棺群(Ⅳ期?)と箱式石棺の小規模古墳を造り続けます。それがV期になると王塚古墳という大型古墳を突然のように築造します。そして、中断期を挟んで、Ⅶ期の醍醐3号墳から皿期の醍醐7号墳まで大型横穴式石室が集中的に築造されるようになります。

B 平野東南端部では、
弥生時代後期の方形周溝墓 → 蓮光寺山古墳(Ⅱ期~Ⅲ期)→ 杉尾神社南古墳・杉尾神社南尾根石棺・杉尾古墳・サギノクチ石棺・松尾神社東石棺(Ⅲ期~Ⅳ期)、中断を挟んで、Ⅶ期になるとはじめて大型古墳を築造し、大型横穴式石室の穴薬師古墳が姿を現し、以後は多くの横穴式石室墳が築造されます。以上の三つの地域では、中断期を挟んで6世紀末頃に共通して大型横穴式石室を築造するようになります。

 平野南西部端部では、ここは後に讃岐国府が誘致されるエリアです。 このエリアの古墳変遷を見ておきましょう。

坂出市阿野北平野 新宮古墳周辺
Ⅰ期 前方後円墳の白砂古墳 → Ⅲ期 タイバイ山古墳 → Ⅳ期 弘法寺古墳 
→ Ⅴ期 鼓ヶ岡古墳 → Ⅶ期 新宮古墳・新宮東古墳

このエリアには大型古墳が継続して造り続けられています。3世紀末頃から6世紀末頃にかけて、ここに強力な地域権力をもつ集団が存在したことがうかがえます。しかし、V期とⅦ期の間には中断期があるようです。大型巨石墳の造営が再開されるのが6世紀末から7世紀初めです。これは蘇我氏が物部氏とのヤマト政権内部の権力闘争に勝利した時期にあたります。そして、先ほど見た吉備王国の分割・直営化のために、播磨や備後に有力者が派遣され「集住」状況が作られた時期と重なります。対吉備分割策の包囲網の一環として、備讃瀬戸の対岸である阿野北平野に有力者が集められたという説になります。そして、彼らが白村江の敗北後の軍事緊張の中で、城山に朝鮮式山城を築き、戦略交通路として南海道整備を行い、そこに国府を誘致したというストーリーです。
 ちなみに綾氏は、もともとは「東漢(あや)」だと研究者は考えています。
東漢(あや)氏は渡来系で、播磨風土記にはよく登場します。そこには、讃岐との関係のある話よく出てきます。それは、讃岐の綾(阿野)氏と播磨の東漢氏の結びつきを示すものかも知れません。こうしてみると、綾氏が弥生時代以来の在地性集団という説は怪しくなります。
  もうひとつ別の視点からの阿野北平野への有力氏族の集住説を見ておきましょう。
大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
 大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 
  要点をまとめておくと
①伊予東部と結びついた大野原古墳群の勢力拡大
②それに対抗するために、旧来の讃岐各勢力が「豪族連合」を結成して、阿野北平野に集住
③それが阿野北平野への城山城造営や国府誘致の動きにつながる

ここでは、讃岐内の有力氏族の連合と集住という説ですが、阿野北平野の巨石墳が外部から「移住」してきた勢力によって短期間に造営されたとされています。やって来たものが何者かは別にしても「集住」があったという点では共通する認識です。

 かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたことが明らかにされています。
DNA 日本人=古墳人説
     「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになる
この説によると、大量の渡来人がやってきたのは弥生時代よりも、古墳時代の方がはるかに多いようです。その数は、それまで列島に住んでいた弥生人の数を超えるものであったとされます。だとすると、 従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着したことが考えられます。善通寺の場合にも、弥生時代の「善通寺王国」は一旦は中絶しています。その後に、古墳時代になって「復興」します。この復興の担い手は、渡来集団であった可能性があります。それが、優れた技術力や公開能力、言語力を活かして、東アジアを舞台に活動を展開し成長して行く。それが佐伯氏ではないのかというイメージにたどり着きます。そのような環境の中で生まれたから真魚は空海へと成長できたのではないかと思うのです。
最後は別の地点に離着陸していましました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」


 
碗貸塚古墳石室2 大野原古墳群

碗貸塚古墳 石室実測図

大野原古墳群の石室タイプは、九州中北部から西部瀬戸内に拡がっている複室構造石室に由来するというのが定説です。
それでは「複室構造の横穴式石室」とは、なんなのでしょうか、それを最初に押さえておきます。

副室化石室

                複室構造の横穴式石室
①5世紀代に北・中九州で採用された横穴式石室は、腰石の使用や石室が大型化する。
②6世紀前半になると、肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。
③初期の複室構造ものは、はっきりした区画は見られず、閉塞(へいそく)石や天井石を一段高くするなどして区分化している。
④その後、側壁に柱石を立てるようになると、前室としての区画がはっきりと見えてくる
⑤筑前・豊前・豊後などの北東九州では少し遅れてれ、6世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
 6世紀中頃の横穴式石室の単室から複室化への変化の背景を、研究者は次のように記します。

514年の百済への四県割譲や、562年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、ヤマト政権が半島政策の放棄した結果、動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』1979年)。

このような複式構造の石室を大野原古墳群は採用してます。そして複式石室導入以後、次のような改変を進めます。
①使用石材の大型化志向
②羨道の相対的な長大化
③羨道と玄室一体化
石室形態の変化から大野原古墳群諸古墳と母神山錐子塚古墳の築造順を、研究者は次のように考えています。
  ①母神山錐子塚古墳 → ②椀貸塚古墳 → ③岩倉塚古墳 → ④平塚古墳 →⑤角塚古墳

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
大野原古墳の比較表


最後に登場するのが讃岐最大の方墳で、最後に造られた巨石墳である角塚になります。角塚は、その石室様式が「角塚型石室」と呼ばれ、瀬戸内海や土佐・紀伊などへも広がりを見せていることは前回お話ししました。
角塚式石室をもつ古墳分布図
                  角塚型石棺をもつ古墳分布

今回は「角塚型石室」について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」です。        
大野原古墳群と母神山錐子塚古墳は、断絶したものではなく継続したものと研究者は考えています。
ここでは4つの古墳の連続性と変化点を、挙げておきます。
①母神山錐子塚古墳と椀貸塚は、玄室の前方に羨道とは区別される明確な一区画を設ける。これが複室構造石室における前室に相当する。
②平塚古墳、角塚古墳ではこれがなくなり、前室区画と羨道の一体化する。
③平塚古墳では羨道前面の天井石架構にその痕跡がうかがわれ、前室区画の解消=羨道との一体化の過程を指し示すものがある。
①については、母神山錐子塚古墳の段階で後室相当区画(玄室)や前方区画(玄室)は長大化しています。
1大野原古墳 比較図
母神山錐子塚古墳と大野原古墳群の石室変遷図
その後は前室区画は、羨道と一体化してなくなってしまいます。複室構造石室では前後室の仕切り構造は、前後壁面より突き出すように左右に立柱石を据え、その上部に前後から一段低く石を横架します。これが母神山・鑵子塚古墳、椀貸塚古墳では、はっきりと見えます。そして前方区画(前室)と羨道の間にも同じような構造になっているようです。さらに平塚古墳・角塚古墳では、この部分の上部構造の変容がはっきりと現れています。
 こうして見ると、大野原に3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
角塚型石室のモデルである角塚古墳を見ておきましょう。
角塚古墳 石室実測図
角塚古墳 石室実測図
①玄室(後室)長約4,5m、玄室幅約2、6m、床面積は12㎡弱、三室長幅比は1,8
②玄室(奥室)平面形は、長幅比がやや減じるが4つの古墳の間で、大きな開きはない。
③もともとの複室構造の後室形態と比較すると、玄室長が同幅の約2倍の長大な平面形。
平塚古墳 石室
平塚古墳 石室実測図
平塚古墳と角塚古墳を比較すると、前室区画と羨道が一体化し長大化が進んでいることが分かります。
①平塚は長約5,9mで玄室長と同程度で、角塚は約7mと玄室長よりも長い。
②羨道幅は、平塚が玄室幅の77%、角塚が92%
③玄室に匹敵するほどに前室と一体化した羨道が発達する。
④平塚古墳では羨道最前方の天井石を一段低く架構し、この形は羨道と一体化した前室部区画の痕跡
 平塚古墳は、玄門上の横架石材が両側立柱のサイズにそぐわないまでに巨大化します。

平塚古墳 石室.玄門部の支え石
平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」右側

平塚古墳 石室.玄門部の支え石 左
              平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」左側

その荷重を支えるために、玄室の両側壁第二段を内方に突き出すように組んでいます。これと立柱石で巨大な横架石材を支える構造です。また横架石材は一枚の巨石で玄門上部に架橋し、これに直接玄室天井石が載っています。こうして見ると、椀貸塚古墳までの典型的な楯石構造は、平塚では採用されていません。
 さらに角塚古墳になると、両側立柱上部の石材は、前後の天井石とほとんど同じ大きさで整えられています。平塚古墳石室に見えた羨道天井石との段差はなくなり、玄室天井石との間もわずか10 cm程度の痕跡的な段差がかろうじて見られるだけです。
 次に研究者は、各古墳の玄室(後室)壁面の石積状態と使用石材サイズについて次のように整理します。 角塚は石室規模は小型化しますが、そこに組まれている石は大形化します。その特徴を見ておきましょう。
角塚古墳 立面図
角塚古墳 石室立面図
①玄室奥壁と左側壁は一枚の巨石で構成
②右側壁も大形材一段で構成し、不足分に別材を足す。
③奥壁材は最大幅2,5m以上、高さ2、3m以上の一枚巨石
④右側壁には幅3,4m高さ2,4mの石材。左奥壁に据えた玄室長に達する幅4,5m高さ2m以上の石材が最も大きい。
⑤玄室架構材は2,3m×2,88m以上、1,7m×2,7m以上。
⑥羨道部壁面は左右とも二段構成で右側壁下段に長2,5m、左側壁下段に3,5m以上の大形材を使用
 角塚石室の使用石材サイズと石積みを押さえた上で、それまでの石室変遷を見ておきます。
まず母神山錐子塚古墳と椀貸塚古墳には近似点が多いと研究者は次のように指摘します。

碗貸塚古墳石室 大野原古墳群
碗貸塚古墳の石室立面図

平塚古墳 石室立面図
平塚古墳の石室立面図 

①石室規模の飛躍的に大きくなっているのに、椀貸塚古墳では用材サイズには変化がみられない
②用材大形化は、椀貸塚古墳と平塚古墳の間にで起こっている。
研究者が注目するのは、平塚古墳の巨大な玄室天井石と左側壁第二段の巨大な石材です。大形材の使用という点では、巨石だけで玄室を組んでいる角塚古墳がぬきんでます。しかし、平塚古墳にも角塚に負けないだけの巨石が一部には使用されています。角塚古墳の石室は、母神山錐子塚以来の系統変化の終点に位置づけられます。ここでは、その角塚古墳石室と平塚古墳石室とでは形態・構造面ではよく似ているのですが、大形石材の利用能力には格差があったことを押さえておきます。
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。
これは盟主古墳の移動で、三豊地方の母神山(柞田川北エリア)から大野原(南エリア)へ「政権移動」があったことがうかがえます。

1碗貸塚古墳2
大野原椀貸塚は、柞田川の両側を勢力下に置く三豊平野はじめての「統一政権の誕生」を記念するモニュメントとして築かれたとも言えます。それは百年前の5世紀後半に、各地の豪族統合のシンボルとして各平野最大の前方後円墳が築かれたのと同じ意味を持つものだったのかもしれません。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示するには充分なモニュメントで政治的意味が読み取れます。
以上を整理してまとめておきます
①柞田川の北エリアでは、6世紀前半に母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が築造される。
②6世紀後半になると円墳で横穴式の錐子塚古墳が、それに続く
③7世紀前半に中位・下位クラス墳群である千尋神社支群、黒島林支群、上母神支群が形成される。
④北エリアの豪族連合長の豪族のほとんどが、母神山を墓域としていることから、この山が霊山だったことがうかがえる。
⑤6世紀末に、大野原に椀貸塚、7世紀はじめには平塚、7世紀半ばに角塚が築造される。
⑥大野原3墳を中心にして、7世紀前半には古墳小群が柞田川の流れに沿うように作られるようになる⑦これらの中小勢力によって、柞田川周辺の開発が進められた
⑧大野原では大野原3墳と、対になるように観音堂古墳、町役場古墳、若宮(石砂)古墳がかつてはあったが、江戸初期の新田開発によって失われてた。
⑨大野原3墳は、これらの墳墓群と墓域を共用していた
以上から、6世紀末に観音寺エリアの墓域が、母神山から大野原に移ったことを押さえておきます。つまり、大野原墳墓群の組織化は始祖の統一、同族関係の確立と捉えることができると研究者は指摘します。言い換えれば、6世紀末に三豊平野の豪族の族的統合が行われたこと、その政治的なモニュメントの役割を果たしたの大野原3墳ということになります。これは三豊平野の内部の動きです。それ以外に、外部の力もこの動きを推進したと研究者は考えています。
それは次のようなヤマト政権内部での抗争との関連です。
①朝鮮半島経営に大きな力を持つ葛城氏
②葛城氏の下で、瀬戸内海南ルートの交通路を押さえた紀伊氏
③瀬戸内海南ルートを押さえるために紀伊氏が勢力下に置いた拠点
④そのひとつが母神山古墳群勢力 
⑥葛城氏・物部氏の没落後に台頭する蘇我氏
⑦蘇我氏の支持を取り付けて、台頭する大野原勢力
⑧大野原への盟主古墳の移動と3世代に渡る碗貸塚古墳→平塚→角塚の造営
⑨角塚は、讃岐最大の方墳であり、讃岐最後の巨石墳であること
以上からヤマト政権内部の蘇我氏の政権獲得と、大野原古墳群の出現はリンクしているという説になります。そういえば蘇我氏は、巨石墳の方墳が好きでした。いわばヤマト政権の「勝ち馬」に載った勢力が、地域の盟主にのぼりつめることができたことになります。
 前回お話ししたように角塚の石室モデル(角塚型石室)が瀬戸内海各地や土佐・紀伊にも拡大していること、讃岐の巨石墳のモデルになったのが大野原古墳群であったことなどが、それを裏付けることになります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大野原古墳の比較一覧表
                 大野原古墳群の比較一覧表
参考文献
「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」
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大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。
古墳編年 西讃

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  前回は備後南部の芦田川流域について、以下のような点を見てきました。
備後南部に終末古墳が集中した理由3

 備後南部の芦田川流域と同じような動きが見られるのが播磨西部の揖保川中流域(兵庫県たつの市)です。この地域にも終末期古墳と古代寺院が密集しています。今回は播磨西部を見ていくことにします。テキストは前回に続いて、「広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月」です。
まず、揖保川流域の遺跡を見ておきます。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

このエリアでは、揖保川が南北に貫通していて、古代から上流域との船による人とモノの動きが活発に行われていた地域のようです。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から広域道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことが分かります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。
 「揖保郡」には古代寺院が11カ寺も建立されています。
地図に番号を入れた古代寺院を見ておきましょう。
①中井廃寺には柄穴式の心礎と石製露盤が残され、素弁蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦が出土。付近には、ロストル式瓦窯あり。
②小神廃寺からは素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式軒丸瓦と、それにともなう重弧文軒平瓦や出柄式の礎石などが出土。
③中垣内廃寺では柄穴式の塔心礎。
④小大丸中谷廃寺では南北75mの寺域が確認され、単弁十弁蓮華文軒丸瓦が出土
奥村廃寺 揖保川流域
奥村廃寺

⑤奥村廃寺は双塔式の伽藍配置をとった約150m四方の寺域をもち、柄穴式の塔心礎のほか有稜線弁文八弁軒丸瓦、川原寺式軒丸瓦、重弧文軒平瓦・偏行唐草文軒平瓦などが出土
⑤越部廃寺では珠文帯をもった複弁蓮華文六弁軒九瓦や重弧文軒平瓦を確認。
⑥栗栖廃寺でも珠文帯複弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土。
⑦香山廃寺では重弧文軒平瓦が出土

Photos at 下太田廃寺跡 - 2 visitors
下太田廃寺
⑧下太田廃寺では南北130mの寺域に、四天王寺式伽藍配置が推定。素弁蓮華文軒丸瓦、複弁八弁蓮華文軒丸瓦、忍冬文軒平瓦、重弧文軒平瓦などが出土
⑨金剛山廃寺では柄穴式の塔心礎がみつかっていて、川原寺式軒丸瓦と重弧文軒平瓦が出土
⑩以上に加えて、布勢駅家が確認。

播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
 11ヶ寺の立地を、見ておきましょう。(地図上の番号と一致)
A「山陽道」に沿って東方から①中井廃寺、②小神廃寺、③垣内廃寺、④小犬丸廃寺
B「美作道」に沿って南方から⑤奥村廃寺、⑥越部廃寺、⑦栗栖廃寺
C 東方に⑧香山廃寺、瀬戸内海に近い地区に⑨下太田廃寺や⑩金剛山廃寺
寺と官道の関係を考えると、寺が造られた後に山陽道や美作道が出来たわけではありません。沿線沿いに古代寺院が造られたと考えるのが自然です。AやBからは、古代寺院建立期の7世紀半ばには「山陽道」や「美作道」が完成していたことがうかがえます。ここでも律令体制以前に官道の原型はできていたことが裏付けられます。
 沿線沿いの寺院や五重塔は、銀黒色に輝く軒瓦や白壁や朱塗りのほどこされた柱などカラフルな七堂伽藍として、行き交う人々の目を引いたはずです。それは、かつての前方後円墳に替わるランドマークタワーの役割も果たしたのでしょう。
律令制下の揖保郡には、12里が設置されますが、そこに古代寺院が11カ寺も建立されていたことになります。
 終末期巨石墳を造営した一族が、7世紀後半には氏寺を建立するようになります。そういう視点で見ると、古代揖保郡では寺院を建立した檀越氏族のほうが、終末期古墳を築造した首長よりも多いと研究者は指摘します。つまり7世紀後半になって、この地域では首長が新たに増えているのです。
 古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が、律令期の播磨国揖保郡に「集住」していたことを物語ります。その背景としては、最初に述べたように揖保郡は、揖保川の伝統的な水運と、「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

前後しますが揖保川流域の終末期古墳についても見ておきましょう。 
岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力の抑制を目的として体制強化策がとられていたようです。

中浜久喜氏は次のように記します。
「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」

そして7世紀になると、終末期古墳と古代寺院が集中します。
揖保川流域の古墳編年

前方後円墳が造られなくなった後に、終末古墳としてこのエリアに最初に登場するのが1期の那波野古墳です。

那波野古墳 揖保川流域
①巨大な畿内型横穴式石室をもつ直径20mの円墳
②玄室側壁の腰石ふうの基底石、奥壁2段、玄室側壁3段、玄門部1段、羨道側壁2段に巨石を積む
那波野古墳 揖保川流域.2JPG
那波野古墳の石室

墳形はわかりませんが、前回見た備後南部地域に最初に登場する二子塚古墳とよく似た形のようです。やはり、畿内勢力から派遣された首長墓と研究者は推測します。

那波野古墳と同時期に築造されているのが方墳のはっちょう塚7号墳です。
工人のこだわりが伝わるようやくたどり着いた石室!一辺25mの方墳。はっちょう塚7号墳■(たつの市)(兵庫県)(後期)Hacchouuzka No.7  Tumulus,Hyogo Pref.

①一辺26mの方墳で、横穴式石室は両袖式で低いが前壁もあって畿内型タイプ
②玄室側壁は巨石を3段積む[松本・加藤・中村・中浜・義則1992]
以上の2つの古墳が1期に属し、突然のように現れる終末古墳群のスタートとなります。
この2つに続く終末期古墳を石室編年で見ておきましょう。

揖保川流域の古墳編年.3JPG
揖保川中流域の横穴石室の編年

備後南部地域とは違って、揖保川中流域では畿内型横穴式石室が続かないようです。
①2期の上伊勢古墳は羨道がないのでよく分かりませんが、玄室側壁、奥壁はおそらく2段積
②浄安寺古墳の横穴式石室は左片袖式で、奥壁と玄室側壁は巨石一石で構成され、玄門立柱石を立てる。前壁はなく、天井は平坦。
③山田3号墳も左片袖式で小型で、浄安寺古墳とほぼおなじ構造
④宇原2号墳長は羽子板状プランの無袖式で、奥壁は1石、側壁は1~2段積み、天井は平坦で前壁をつくらない
⑤長尾薬師塚古墳は東辺約20mの方墳で、前面の東南側はかなり下方まで地形が直線的に整形。部分的に加工された壁材の間には粘土が詰められ、奥壁は2石2段、側壁は3~5段積みで、長さ304mの石室のほぼ中央には仕切り石が据えられる。閉塞のための板石もある
⑥塩野六角古墳は六角墳で、小さな自然石を積む。  型式平行とみられる須恵器が検出。

播磨地域の横穴式石室について、中浜久喜氏は次のように記します。
①6世紀後半ごろには右片袖式、左片袖式、両袖式の畿内型横穴式石室が併存し、巨石を用いた横穴式石室はあまりない。
②そうしたなかで登場する那波野古墳は、畿内型の巨石墳である。
③7世紀中ごろには個性的な左片袖式、無袖式の横穴式石室、さらには変形版の「横口式石榔」など、多彩な横穴式石室がつくられる。
④そこには、横穴式石室の形式を統一しようという意志は見受けられず、横穴式石室をとおしての「われわれ意識」を表現しようとする意図は弱い。
⑤白毛9号墳・白毛13号墳、若狭野古墳などは、畿内方の横口式石槨をモデルにしたような変形的横穴式石室である。
横口式石槨


この中で⑤については、播磨地域の横口式石槨20基を挙げて次のように記します。
「赤穂・揖保の両郡域のみに分布している。」
「最も後出の若狭野古墳は7世紀の第3四半期ごろ」
ここからは、赤穂・揖保の両郡の首長達が畿内中枢部と交渉があり、それが横口式石槨の採用と形で現れていると研究者は考えています。

もう一度揖保川流域の終末期古墳群を見てみましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

揖保川中流域には、群集墳が多いこと分かります。
その中で研究者が注目するのが西脇古墳群です。

姫路市所在 西脇古墳群 -山陽自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告15-(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所編) /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この古墳群は、揖保川の東側で山陽道と美作道の分岐点付近に位置します。その数も百を超えるようです。この古墳が造られ始める頃には、畿内では群集墳は終わっていました。その特長を研究者は次のように記します。
①6世紀後半ごろから7世紀初めごろにかけての群集墳とくらべると、墳丘も横穴式石室も小さいし、副葬品もきわめて少ない。
②京都府の音戸山古墳群、旭山古墳群、醍醐古墳群、あるいは大阪府田辺古墳群など、ほぼ同時期のものと比較しても基数が多い。
③3~4世代におよぶので、単純計算でも30~40ほどの造墓主体が共同墓域を利用していたことになる。
④古墳造営が7世紀なので、この地域の中間層だけが自発的に共同墓域をかまえ、そこで造墓活動をしたとは考えにくい。
終末期古墳や古代寺院の密集度からしても、この地域に「特定の役割」を担わされた集団がいたと研究者は考えています。特定の役割とは何なのでしょうか? 郡家の交通機能に関わる役割を担っていたことが考えられますが、よく分かりません。南北に流れる川の水上輸送と、東西の官道が交わる地点は「戦略要衝」として、有力者が派遣された。同時に、戦略要所地の管理運営のために、渡来系などの中小氏族も移住させられた。彼らは、周辺に群集墳を築いたとしておきます。  
 なお讃岐から播磨に移された氏族の記録がいろいろな史料に出てきます。それも戦略的要衝建設のための讃岐からの移動という点で見ることができるのかもしれません。それはまた別の機会に。

終末古墳集中の背景

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月


6世紀末頃になると前方後円墳や群集墳も造られなくなります。

終末古墳とは

しかし、ごく一部の限られた支配者たちは、方形や円形、まれに八角形の墳丘をもつ古墳を築いています。7世紀になっても造られた古墳を終末期古墳と呼んでいます。 私は終末古墳は、高松塚古墳やキトラ古墳のように飛鳥周辺に造られた皇族や権力中枢部のものと思っていました。しかし、そうではないようです。地方にも終末古墳はあるのです。しかし、分布に偏りがあって、どこにでもあるというものではないようです。讃岐の大野原の3つの巨石墳や坂出市府中の新宮古墳も終末古墳になります。
 その中で旧山陽道沿いには、終末古墳が密集する地域がいくつかあるようです。今回はその中の備後南部の芦田川中流域(福山市)の終末古墳を見ていくことにします。テキストは広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月です。
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

福山市の芦田川河口には草戸千軒遺跡があり、中世の港町として繁栄していました。
芦田川は、中国地方の上流部を結ぶ交通路として古代から人とモノが行き交っていたようです。その芦田川が大きく西に流れを変える辺りに、備後の国府や国分寺が造られます。このあたりが古代の備後の中心地となるようです。

史跡備後国府跡保存活用計画

しかし、このエリアには6世紀までは有力な首長はいなかったようです。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が造られ、そして国衙や国分寺が現れます。そのプロセスを見ておきましょう。

備後南部の大型古墳
備後の終末古墳
広島県福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。
それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然現れる終末古墳が二子塚古墳(上地図4)です。

備後二子塚古墳2
二子塚古墳
①墳丘の長さ68mの前方後円墳で、後円部と前方部に横穴式石室が各1基

備後二子山塚古墳石室

②後円部の石室は両袖式で、玄室と羨道は入り口側に向かって広がり、天井部は高くなる。
③羨門から前方にかけて9、8mほどの長さのハ字形の墓道がつく。
④奥壁は縦長巨石の1段積み、玄室側壁は左4段、右3段、羨道側壁は3段積み、羨門付近は4段積みで、玄門部には立柱石を据え、前壁は2段積み
⑤玄室前半部に竜山石製の組合わせ式石棺、その北側に鉄釘接合木棺が置かれていた。

備後二子塚古墳副葬品
二子塚古墳副葬品
⑥金銅製双龍環頭大刀柄頭、鉄製大刀、金銅製鍔、鉄矛、石突、鉄鏃、刀子、馬具(鐙、杏葉、磯金具)、陶邑TK209型式の須恵器、土師器、鉄釘

この古墳は7世紀初めの前方後円墳で、竜山石製家形石棺を安置した巨大な横穴式石室をもちます。また、金鋼製双龍環頭大刀など豊富な副葬品が埋葬されていました。
二子塚古墳の双龍柄頭の分布図
 二子塚古墳を造営した首長とは何者なのでしょうか。
これについては、次のふたつ説が考えられるようです。
①在地首長が畿内勢力と密接な関係をもつことで強力になった
②畿内から送り込まれた勢力が、この地域に意図的に配置された

大型の家形石棺は、近隣のも浪形石ではなく、わざわざ播磨から竜山石を運んできています。また双龍環頭大刀が副葬されています。ここからは「大和政権の強力なバックアップを受けた国造クラスの首長が最も可能性が高い」との②説が有力のようです。

二塚古墳は南東に開口する花崗岩積みの巨石墳ですが、玄室の一部しか残っていません。

備後 二塚古墳
二塚古墳の石室と出土品
①奥壁は巨大な鏡石の上部に横長の石材を1段積む。
②側壁は2段積みで、天井部は平坦
③銅鏡、耳環、ガラス小玉、鈴釧、鉄矛、鉄製石突、鉄鏃、馬具(杏葉、雲珠、餃具、鞍橋覆輪金具類、、刀子、須恵器、本片、鉄釘などが出土

二塚古墳 出土品2
二塚古墳出土の馬具類
④杏葉は「双龍あるいは双鳳を文様の基調とし、朝鮮文化の影響を受けたもの」

備後南部の終末古墳編年

備後南部の終末古墳の石室編年
3期に分類される大迫古墳は両袖式横穴式石室で
①奥壁は1石1段積み、玄室側壁は基底部に巨石を3石据え、その上部に横長の石材を積む。
②羨道側壁も同様の構造ですが、1石のところもある。
③玄室天井部はやや玄門部に向かって下がり、前壁は低い。
④出土品は分かりません。
4期のヤブロ古墳は袖も前壁もない無袖式横穴式石室です。奥壁、側壁ともに1段積みで、各4石の巨石で築かれています。

大佐山白塚古墳は標高188mの大佐山の頂上に築かれた一辺12mの方墳です。
備後 大麻山白塚古墳 八角形石室
ただ列石をめぐらせる多角形墳の可能性もあるようです。
①花崗岩の切石を積んだ横穴式石室は、奥壁は1石の鏡石、玄室側壁は基底部の巨石に横長の石材を積む。
②玄門部は立柱石が内側に突出し、その上部に相石がのる。
③玄室の天井石は1石で、その南方に伸びた丘陵尾根に、ほぼ同時期とみられる6基の小型横穴式石室が付属
狼塚2号墳は直径約12mの円墳です。
備後 狼塚第2号古墳石室
①横穴式石室の奥壁は1石
②側壁は玄室も羨道も基底部の巨石に横長の石材を1段積み。
③玄門部の立柱石は内側に突出し、その上部に一段下がった相石が載せられる。
④滑石製管玉、須恵器などが出土していて、「古墳時代終末期(7世紀前半)頃」
大坊古墳は一辺13mほどの方墳で
備後 大坊古墳
大坊古墳の石室
①巨石を積んだ横穴式石室は、玄室の奥壁、領1壁、玄門立柱石は1石
②玄室のほぼ中央には仕切り石が置かれ、その位置は側壁の2石に対応
③羨道側壁は玄門部側は1段だが、羨門側は2段積み。
すべてを挙げることはできないので、このあたりにしてもう一度終末古墳群の石室編年表を見ておきましょう。

備後南部の終末古墳編年

上の石室編年表から読み取れることを挙げておきます。
①7世紀初めに前方後円墳で、両袖式の巨石墳の二子塚古墳の出現する。
②その後は7世紀後半まで、有力古墳がいくつも造られている。
③3期には、タイプの違う大型石室を持つ古墳が、同時進行でいくつも造営されている。
備後南部の終末古墳編年2
備後南部の終末古墳の築造時期
 同時進行で築造されているこれを研究者は、次のように分析します。
3~4期に石槨は2基づつ造られていることから、新たなタイプの石室を採用した首長墓がやってきたこと。それが7世紀前半ごろには2系譜、7世紀中ごろには3系譜と、時期がたつにつれ首長系譜が増えていることです。
 また、研究者が注目するのは、A型、B型、横口式石槨の3タイプの横穴式石室は、互いに排他的ではなく、同時代に共存・並立していることです。しかも古墳築造のための構造・技法などが共通し、畿内的色彩がつよいようです。これはひとつの石工集団が、あっちこっちのスタイルの違う首長墓を同時並行で造っていた可能性が高いということです。
備後南部に終末古墳が集中した理由2


備後南部の後期古墳と古代寺院
備後南部の終末古墳と古代寺院 (A~G)が古代寺院
そして7世紀後半になると、古代寺院が6カ寺も創建され、さらに8世紀には国分寺も現れます。古代寺院は氏寺なので、建立した6人の壇越氏族がいたことになります。言い換えると、6人の有力首長がこの狭い地域に共存していたことになります。 このエリアに終末古墳が集中している背景を、研究者達は次のように考えています。
西川宏氏は、次のように記します。
「在地首長の権力を温存しただけでなく、吉備勢力の分断を狙って、これを積極的にバックアップした」
「備後南部の首長層は、備後北部を従属させるにいたった」
「南部の塩と北部の鉄」の「商品交換」が「南部の首長のリーダーシップのもとに行われ」
「両地域はここにいたってはじめて緊密に結びついた。そして「備後」という一つの自己完結的な政治的地域が成立した。この時期に近畿政権が吉備分断のため、あえて「備後」の地域をまず切り離しにかかった背景もここにあった。」[西川1985]。
桑原隆博氏は「北部の小型・分散化と南部の一極集中化の背景」について、次のように記します。
「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。
「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」[脇坂2005]。
これらの説に共通するのは、6世紀までは自立していた「吉備」が、7世紀になって畿内勢力に分割・解体されるという道筋です。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として終末古墳を読みとっています。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

 以上を研究者は考古資料で、次のように裏付けようとします。
まず、横穴式石室B型は、近隣では安芸東部などにもみられるタイプです。ここからは安芸東部から移動してきた首長もいたことが考えられます。同時に、横口式石槨は畿内的な墓制とされるので、畿内からやってきた有力首長もいた可能性があります。

横口式石槨
横口式石槨

内田実氏は、次のように記します。
「畿内政権から直接派遣された高級官人・軍人(渡来系を含む)もしくは地域首長一族から大和朝廷に出仕し、高い評価を得て出自の故地に埋葬された人物の可能性が高い」[内田2009]。

 白石太一郎氏は、次のように記します。
「地方の横口式石槨は畿内でも官僚として活躍した地方首長層の墳墓に採用されていた可能性が大きい」「白石2009」

 7世紀前半にした4人もの首長は、もともといた在地の首長に加えて、畿内や山陽西部からやってきた首長や中間層っがやってきたて「集住」したと研究者は考えているようです。

では、なぜ首長達がこのエリアに「集住」したのでしょうか。

山陽道と終末古墳の重なり
終末古墳群と古代山陽道
その要因として研究者は、次のように山陽道との関連をあげます。
  「山陽道」の整備が7世紀初めごろから開始されたというのです。それに加えて、芦田川の水上交通と山陽道がクロスする場所に戦略的な要衝が置かれ、そこが「もの_|と人の集積・分散のセンターとしての役割を負わされた」とします。いいかえれば、山陽道と芦田川との結節点を、ヤマト政権が政治拠点化するため、在地首長を政治的にテコ入れしたり、中央から有力首長を派遣したりしたというのです。
 おなじような地域が、北部九州に3カ所あると研究者は指摘します。それが壱岐島、宗像地域、豊前地域の京都平野です。この3ヶ所でも、6世紀紀の有数の前方後円墳とともに、巨石墳をはじめとした終末期古墳や、多数の群集墳や横穴墓が造られています。それは次のような役割を担っていたと研究者は考えています。
壱岐島は外交と防衛の前線
宗像は出発港
京都平野はその兵姑基地
中央政権が関与した時期や仕方はちがいますが、複数首長が派遣され集住によって政治センターが形成されたのは共通しています。
以上をまとめておきます。

終末古墳集中の背景

以上からは、律令体制以前の7世紀初めには、山陽道の原型は出来上がっていたことになります。この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道(原型)に沿って造られたということになります。そうだとすれば納得できることがいろいろと出てきます。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、ヤマト政権によって派遣された首長達が築いたものということになります。
これについて大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 これは備後南部で起きていたヤマト王権の動きとリンクすることも考えられます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2
讃岐国府(坂出市府中)と終末期古墳群

長くなりましたので、それはまたの機会にすることにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
広瀬和雄  終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月
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女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。
そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
DSC03632
青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

DSC03652
吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      青龍古墳 地図
                                                                                        
善通寺の吉原地区は、南側に五岳の急峻な山脈がそびえ立ちます。その中の盟主である我拝師山は弥生時代の人々からも信仰の山と崇められていたようで、銅剣や銅鐸が何カ所からも出土しています。古墳時代になると、独自の系譜を持つ首長墓も作り続けていますし、平安時代には曼荼羅寺が姿を現します。ここからは善通寺の練兵場遺跡を中心とする勢力とは、別の勢力がいたことがうかがえます。その吉原地区にあるのが青龍古墳です。この古墳はかつては、前方後円墳だとされていましたが、発掘調査によって円墳であることが分かりました。今回は、この古墳の発掘調査報告書を見ていくことにします。

青龍古墳俯瞰図
 善通寺市の吉原小学校の南東に鷺井神社の社叢がこんもりとした緑を見せています。この神社の本殿の後に、青龍古墳はあります。青龍古墳の東側に、本殿や拝殿が建っています。方墳部丘を削ったところに神社が建っています。
 青龍古墳地図拡大図

善通寺の古墳群で有名なのは有岡古墳群です。
「善通寺の王家の谷」ともされる有岡地区には、国の史跡に指定され整備の進んだ王墓山古墳を筆頭に、菊塚古墳や線刻画の岡古墳群がならびます。これらの首長が空海の祖先で、後の国造佐伯直氏に成長して行くと考えられているので注目度も高いようです。しかし、今回目を向けたいのは、五岳を挟んで有岡の反対側の吉原地区です。
 吉原地区は香色山・筆ノ山・我拝山及び中山・火上山(五岳山)北麓と五岳と呼ばれる連山が並びます。この山裾からは、銅剣や銅鐸が出ているので、麓には弥生時代からの集落があったことがうかがえます。古墳時代になると、大窪前方後円墳(積石塚)→ 中期の青龍古墳 → 後期吉原椀貸塚(巨石墳)など各時代の首長墓が継続して造られていくので、独自のエリアを形成していたことが分かります。吉原区域の古墳は、その多くが山裾部から高所に散在しています。平地にあった古墳は耕地開墾によって、ほとんどが消滅したようです。
その中で平野部の中央部には、鷺井神社の境内地には青龍古墳が残されています。墳墓が信仰対象となったおかげでしょう。

DSC03616
目に効能のある鷺の井 その向こうの社叢が鷺井神社

鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
「仁寿元年(851)年、現在の境内から東100m程のところに一羽の青鷺が飛来し、ここに清水が吹き出していた。この清水は眼病に効果があるとの神託があり、住民は神水と崇めた。」

眼薬になる泉を鷺の井と呼んだようです。そのため戦国末期には、次のような話が生まれます。
「霧城主香川信景の子(または一族の子)桧之助頼景が眼を患った際、この神水により治癒したため、香川氏及び住民の厚仰するところとなった」

とも伝わります。この頃に青龍古墳を境内として、神社の原型が誕生したと調査書は記します。
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鷺井神社
 当初は青龍明神(青龍大権現)と呼ばれて、少彦名命を祀っていましたが、明治時代以降はこの地の小字「鷺ノ井(目に効能のある井戸)」から鷺井神社とされ、境内地全域に広がる古墳も信仰対象とされてきたようです。
青龍古墳1

発掘前の青龍古墳の地形を、調査書は次のように要約しています。
①墳丘の一部は削平され、神社の境内地となっている。周辺は水田地帯であり、南側の我拝師山から派生した尾根の先端部に構築されている。付近の標高は約20mである。
②墳丘の直径は約25mで、東側半分に社殿等が建設されている。
③そのため円墳か前方後円墳か分からない。恐らく円墳か帆立貝式古墳であろう。
④南北側と西側は旧状が保たれていて、特に南側から西側にかけては周庭帯や二重に巡らされた濠の形状が明確である。
⑤墳頂部は古い本殿があったため削平され、墳丘断面に石室と思われる石材の一部が露出している。
⑥鉄刀片の出土も伝わる。墳丘外面は表土の流出が著しく、埴輪片は確認されていない
⑦裾部において礫が多数みられるので、茸石の存在が予想される。
⑦墳丘周囲には幅18mの内濠・周庭が見られる。後世の開発・改変によるものか、構築時の地形に影響されたものであるのかは不明である。
 平面図だけ見ると、確かに周壕がめぐらされた前方後円墳のような気もしてきます。このような古墳の姿が農地開墾だけが原因で変形したとも、築造期の姿がそのまま残るとも考えにくく、「まことに奇異な形態」だと発掘前に担当者は記しています。
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青龍古墳が円墳か前方後円墳かは、どんな意味を持つのでしょうか
青龍古墳 編年表

 前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化は、なにを背景にしているのでしょうか。研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
つまり、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減った」ということでしょうか。それにヤマト政権が関わっていると云うことです。

 青龍古墳 東讃編年表

①左側の高松平野では、前方後円墳祀りに参加しなかった岩清尾山勢力が次第に姿を消し、周辺部に前方後円墳が築かれ、最終的には今岡古墳に統合されていきます。
②津田湾周辺では、最初は津田湾周辺に造られた前方後円墳が、後背地に築かれるようになり
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
丸亀平野の代表的な古墳を河川流域毎に歴史順に並べた編年図です。
青龍古墳 編年表
ここからは次のような点が読み取れます。
①ヤマトに卑弥呼の墓とも云われる前方後円墳の箸墓が造られた時期(第1期)に、丸亀平野でも首長墓とされる前方後円墳が各河川毎に登場している。
②第2期には、それが大型化し、領域が拡大する。しかし、三豊に前方後円墳は現れない。
③第3期には、地域統合が進み丸亀平野東部の前方後円墳は快天塚古墳だけになった。
ここでも初期には、河川流域毎にあった小さな前方後円墳が、だんだん減って最後に快天塚古墳が登場しています。
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化について、研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
 前方後円墳はただの墓ではなかったと研究者はかんがえています。前方後円墳に祀られる被葬者と、その後継者はヤマト連合のメンバーで、地域の首長であったというのです。その手始めに造営されたのが卑弥呼の墓ともされる箸墓で、このタイプの墓の造営は首長だけに許されます。前方後円墳は、ステイタスシンボルであり、自分が地域の支配者であることを主張するモニュメントでもあったことになります。そのためにヤマト連合政権に参加した首長たちは、自分の力に見合った大きさの前方後円墳の造営を一斉に始めたようです。讃岐は初期の前方後円墳が多いエリアになるようです。早くからヤマト連合政権の樹立に関わった結果かもしれません。
 その後、各流域では政治的統合が進みます。その結果、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減少」していきます。同時に周囲の首長を従属下においた快天塚の主の権勢は大きくなり、巨大な古墳が登場することになります。
三豊の特殊性   
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
 観音寺の一の谷池の西側に全長44mの青塚古墳(観音寺市)が築かれるのは五世紀後半になってからです。しかも、これも墳形は前方部が短い帆立貝式古墳です。帆立貝式古墳については、大和政権が各地の首長墓の縮小を図るため、規制をしたために出現した墳形と研究者は考えているようです。古代三豊の政治状況は、讃岐全体からみると異質です。ここは別の時間が流れているような気配がします。古代の三豊は「三豊王国」を形成していたとしておきましょう。

そのような中で弘田川流域の善通寺エリアでは、前方後円墳が「野田院 → 摺臼山 → 北向八幡」と継続されます。
ここからは快天塚の首長のテリトリーが土器川を越えては及ばなかったこと、善通寺王国は独立を守り抜いていることがうかがえます。
白方 古墳分布
白方の古墳群

さらに弘田川下流の目を転じてみると、白方湾の西の丘陵地帯には、いくつもの初期前方後円墳が並びます。しかし、善通寺勢力が「摺臼山古墳 → 北向八幡古墳」を築く頃になると白方湾から前方後円墳は姿を消します。ここでも大束川流域で信仰したことと同じ事が起こっていたようです。つまり、弘田川中流の善通寺勢力がその河口まで勢力を伸ばし、白方の首長たちを配下に組み入れたということでしょう。その結果、白方の首長たちは前方後円墳が築けなくなったと研究者は考えているようです。

青龍古墳拡大図3

そういう中で、登場するのが青龍古墳です。
   もし、青龍古墳が前方後円墳だとすると、首長が吉原地区にいたことになります。善通寺エリアには、北向八幡古墳が造られて以後の5・6期には前方後円墳が築かれていません。空白期です。つまり、善通寺地区から吉原地区に首長の交代があったことが考えられることになります。そういう意味でも青龍古墳が前方後円墳なのか円墳なのかは、私にとっては興味深いことでした。

青龍古墳と中世城郭
  発掘結果は「大型の円墳」でした。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
 前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
 さらに時代が下り、善通寺勢力が有岡の谷に「王墓山 → 菊塚」と連続して横穴式の前方後円墳を築いた頃になると、白方や吉原地区ではさらに小型の横穴式円墳しか築けなくなっています。ここにはヤマト政権の全国支配と同じように、善通寺王権が周辺地域への直接支配の手を伸ばしていく姿がうかがえます。

 そういう意味で、吉原の青龍古墳や白方の盛土山古墳は、善通寺王国の従属下に組み込まれながらも、まだ旧首長としての力があったころの被葬者が眠っているのかもしれません。

 
古代讃岐には、4世紀後半から5世紀前半に、古墳の石棺をつくる技術者集団がいて、各地の豪族たちの需要に応じていたようです。石棺製作集団は次の2グループがありました。
①綾歌郡国分寺町鷲の山産の石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
②大川郡相地(火山)産の白色をした石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
①の鷲の山産の石棺は、海をわたって近畿にまで「輸出」されています。この石棺を作った技術舎集団を管理支配していたのが快天山古墳の被葬者、
②の相地産の石を使った集団を支配したのが、讃岐凡氏につながる人物と羽床正明氏は考えているようです。
快天塚古墳

快天塚古墳
快天塚古墳は4世紀後半につくられた全長約100mの讃岐有数の前方後円墳です。この古墳からは三基の石棺が出土し、
一号石棺からは舶載方格規矩文鏡と碧玉製石釧が、
二号石棺からは竹製内行花文鏡が、
三号石棺からは同じく傍製内行花文鏡

快天塚古墳第2号石棺

快天塚古墳第3号石棺
快天塚古墳の石棺

『播磨国風土記』印南郡の条には、羽床石が次のよう記されています。
帯中日子命(仲哀天皇)を神に坐せて、息長帯日女命(神功皇后)、石作連大来を率て、讃伎の国の羽若(羽床)の石を求ぎたまひき。

ここからは神功皇后が仲哀天皇のために、讃岐の国の羽若の石を求めて、古墳をつくろうとした物語が記されています。事実、大阪府柏原市からは、次の2つの讃岐の鷲の山産の石棺が見つかっています。
①柏原市安福寺の勝負山古墳出土と伝えられる鷲の山産の石棺のふた
②柏原市の松岳山古墳から長持形石棺
1柏原市安福寺の勝負山古墳出土
安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋

 柏原市玉手町の安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋は、勝負山古墳から出てきたという伝承があるようですが、棺身は見つかっていません。この石棺は、香川県の鷲ノ山産の凝灰岩をくり抜いて造られています。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。両小口面の縄掛突起は削りとられ、周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線を複雑につないだ線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。
1柏原市kohunngunn

柏原市玉手山古墳群(3号墳が勝負山古墳)

②の松岳山古墳は後円部墳頂に組合式の石棺が露出していて、竪穴式石室が確認されています。
1柏原市河内松岳山古墳2

 この組合式石棺は、底石と4枚の側石、そして蓋石の計6枚の板状の石材が組み合わされています。古墳時代中期の大王墓などで使用される長持形(ながもちがた)石棺と同じタイプで、そのの初期タイプのものと研究者は考えているようです。 石棺の底石と蓋石は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を使用されていますが、まわりを囲む側石4枚は香川県の鷲の山産の凝灰岩が使われています。快天塚古墳が築かれた時代に、鷲の山の石材が摂津柏原まで海を越えて運ばれていたようです。
1柏原市河内松岳山古墳
松岳山古墳の長持形石棺と石室周辺


 大阪府から、鷲の山石棺が出土したということは、「播鷹国風土記が」が事実をもとにして書かれたことがうかがえます。風土記にあるように讃岐で作られた石棺が各地に「輸出」されていたと云えそうです。同時に、快天塚の主と柏原の首長は、密接な関係にあったことがうかがえます。
 しかし、羽若(羽床)は快天塚古墳がある所で、石材を産するわけではありません。
石材は鷲の山産なのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  ①羽若は地名の羽床のことではなく、羽床を拠点とする勢力が管理支配していた羽床石とする説
快天山古墳の出現期には、国分寺エリアでは前方後円墳が作られなくなっています。そのため快天塚古墳の主は、国分寺方面まで支配エリアを広げていたと考えています。そうすると石材の産地である鷲の山は、その支配エリアに含まれます。快天塚古墳のある羽床地区は、この豪族の勢力基盤の拠点であったからこそ、この勢力基盤にちなんで羽床の石が羽若の石と誤伝されたと羽床氏は考えているようです。
快人山古墳のある綾歌町栗熊住吉と羽床は、わずかの距離です。快天塚古墳の主にとって羽床は、その勢力の中心となる重要な地区であり、そこから『播磨国風土記』のような誤伝が生まれたとしておきましょう。
蔵職の設置と鷲住王
「日本書紀」の履中天皇6年2月癸丑朔条には、讃岐国造の祖の鷲住王について次のように記されています。
二月の癸丑の朔に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫を喚して、後の宮に納れて、並に妃としたまふ。是に、二の濱、恒に歎きて日はく、「悲しきかな、吾が王、何処にか去りましけむ」といふ。天皇、其の歎ぐことを聞じめして、問ひて曰く、「汝、何ぞ歎息く」とのたまふ。
 対へて曰さく、「妾が兄鷲住王、為人力強くして軽く捷し、是に由りて、独八尋屋を馳せ越えて遊行にき。既に多くの日を経て、面言ふこと得ず。故、歎かくのみ」とまうす。
 天皇、其の強力あることを悦びて喚す。参来ず。亦使を重ねて召す。猶し参来ず。恒に住吉邑に居り。是より以後、廃めて求めたまはず。是、讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡て二族の始祖なり。
意訳変換しておくと
履中天皇6年2月に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫のふたりを、後宮に入れて妃とした。二人の妃は「悲しいことよ、吾が王が、何処にか去ってしまいました。」と嘆くのを天皇が、聞いて、「どうして、悲しみ嘆くのか」と問うた。
 「私の兄鷲住王は、力強くて身も軽く捷く。独八尋屋を馳せ越えて遊行に行ってしまいました。長い月日が経ちますが帰ってきません。故に、悲しんでいます」と答えた。
 天皇は、妃の兄が秘めた力を持っていることに興味を持ち召喚した。しかし、やって来ない。再度召喚したが、やはりやって来ない。住吉邑から離れようとしない。そのため以後は、召喚しなかった。この鷲住王が、讃岐国造・阿波国の脚咋別の二族の始祖である。

ここには住吉邑に強力な能力を持つ鷲住王がいて、これを履中天皇は召喚しようとしたが応じなかったこと。鷲住王が讃岐国造・阿波国の脚咋別の始祖であることが書かれています。
それでは、鷲住王が住んでいた住吉邑というのはどこなのでしょうか。当然思い浮かぶのは摂津の住吉(大阪市住之江区)です。それなら摂津に住む鷲住王が、どうして讃岐国造になるのでしょうか。
ここで羽床氏は「異説」を出してきます。
鷲住王がすんだ住吉邑とは、大阪府の住吉ではなく、讃岐の国の栗熊村の住吉だ。そうでないと鷲住王が、讃岐の国造と阿波の脚咋別の二族の始祖となった説明がつかない。

というのです。これはすぐには私には受けいれられませんが先を急ぎます。
履中紀の物語は、『日本書紀』にあって、『古事記』にはありません。そこで、鷲住王の物語は、713年に撰進の命令が出された風土記のうちの『讃岐国風土記』にあったもので、『日本書紀』の編者が『讃岐国風土記』を見てとりいれたとの推定します。とにかく風土記がつくられた八世紀になっても、快天山古墳をもとにした鷲住王の物語は、讃岐で流布していたと推測します。
快天塚古墳周辺地図

たしかに快天塚古墳は、栗熊の住吉の丘陵に、あたりを威圧するかのごとく築かれています。そして近くには住吉神社もあります。快天山古墳がもとになって、讃岐国造の祖の鷲住王の物語がつくられたと云える材料はあります。
 快天山古墳の主の先祖は、前方後円墳祀りを共有する「ヤマト政権」に初期から参加していたメンバーだったのでしょう。初期の前方後円墳が周辺からはいくつも見つかっています。連合政権のメンバーとして、先端技術や鉄器を手に入れ、大束川や綾川流域の開発を進め、栗熊から羽床の辺りに、あらたな拠点を構え周辺領域を支配するようになったのが快天塚古墳の主だったと私は考えています。
快天塚古墳第3号石棺2
快天塚古墳の第3号石棺

地方の首長にとって、ヤマト政権との関係は微妙なものがあったのではないでしょうか。同盟者であると同時に、次第に抑圧者の姿も見えるようになります。羽床エリアを拠点とする首長は、鷲の山の石棺製造集団を管理して、石棺を他の豪族に供給することでネットワークを広げようとしていたのかもしれません。それはヤマト政権の介入を許さないためであったかもしれません。しかし、快天塚古墳の主の後に起こったことを推察すると、ヤマト政権はこの地から石棺製造集団の引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じたようです。そして、快天塚古墳の後継者達は衰退していきます。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったようです。
古墳時代の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
快天塚古墳編年表

羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。
上の古墳編年表を見ると国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力(綾氏)に併合されたと研究者は考えているようです。これは継続して前方後円墳を作り続け、古代寺院建立にいたる善通寺勢力とは対照的です。

以上をまとめておくと
①『播磨国風土記』にでてくる羽若(羽床)とは地名で、石棺を製作した集団が快天山古墳の主によって支配されていたところから、その支配者の中心勢力だった地名をとって誤伝された。
②快天山古墳は讃岐で2番目の規模をもつ古墳で、当時は善通寺勢力と拮抗する勢力を持っていた
③快天塚の主は、生前の権力と古墳の規模の大きさから、履中紀に鷲住王の物語がつくられ、風土記を経て『日本書紀』の中にとりいれられた
④石棺をつくった石工たちは通常は羽床に住み、鷲の山山麓に石棺をつくる仮設小屋を設け、仕事をした。
⑤飯山町西坂元には鷲住王の墓と伝えられる古墳があって、銅金具・刀剣・勾玉・管玉・土器が出土している。しかし、古墳は鷲住王のものではない。鷲住王の伝説を生み出したのは、住吉趾にある快天山古墳であった。
⑥快天山古墳の上に、快天和尚の墓がつくられ、快天和尚の墓として有名になると、鷲住王の墓が別のところに求められ、それが飯山町西坂元の鷲住王墓とされるようになった。
⑦しかし、古代(奈良時代)の人たちは、快天山古墳を鷲住王の墓としていた。

ちなみに、鷲住王は阿波国造の祖ともされています。


そのため讃岐以上に、阿波では鷲住王の拠点探しが昔から活発に展開されています。いまでも「鷲住王」で検索すると、数多くの説が飛び交っているのが分かります。一方、香川では「鷲住王」の知名度は低いようです。それは「神櫛王」が讃岐国造の祖という伝説が中世以後に拡大し、競合関係にあたる「鷲住王」は、故意に忘却されたからのようにも思えます。
 讃岐では日本書紀の履中紀の物語よりも、中世に作られた綾氏の出自を飾る神櫛王伝説の方が優先されるようになり「鷲住王」にスポットが当たることがなかったと云えるのかも知れません。
  快天山古墳を、讃岐国造の始祖となった鷲住王の墓と考える説があることを改めて心に刻みたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献


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弘田川とその上流の善通寺五岳山

善通寺と多度津は、古代から密接な関係がありました。内陸の善通寺に対して、その外港の機能を果たしていたのが多度津のようです。多度津は、その港の位置を時代と共に次のように変えてきたようです。
古代 弘田川河口の白方
中世 金倉川河口の潟湖の堀江
近世 桜川河口の多度津
それぞれの時代の港の様子を見ていくことにします。テキストは「 庄八尺遺跡調査報告書 遺跡の立地と環境」香川県教育委員会です
白方 弘田川
丸亀平野の弥生時代遺跡分布
古墳時代の弘田川と白方
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弘田川と五岳

善通寺の誕生院の裏を流れる弘田川は、金倉川や土器川までが弘田川に流れ込んでいた痕跡が残っています。そのため、弘田川は古代には善通寺と白方を結ぶ「運河」の役割も果たしていました。それを示すかのように誕生院の西側の水路からは、古代の舟の櫂も出土しています。ここからは、善通寺王国と白方は、弘田川で結ばれていたことがうかがえます。そして、弘田川河口の白方には、瀬戸内海交易ルートに加わっていた海上勢力の首長達の古墳が点在しています。
白方 古墳分布
多度津町奧白方の古墳分布図
その古墳群を見ていくことにします。
①舶載三角縁四神四獣鏡が出土 した西山古墳 (消滅)
②全長 30mの 前方後円墳である黒藤山 4号墳、
③同 48mの御産盟山古墳
④多度津山西麓の鳥打古墳、葺石が散在し、埴輪が出土
など、前期を通じて首長墓墳が継続して築造されます。

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現在の弘田川河口 沖には高見島

これだけの初期前方後円墳が、白方に集中する背景をどう考えればいいのでしょうか。
まずいつものように地形復元を行いましょう。
弘田川河口部は、古代においては南に大きく入り込んで、現在の白方小学校の丘あたりまで入江であったようです。そして、入江の西北にある経尾山 (標高 138m)や 黒藤山 (同 122m)が 「やまじ」や「わいた」と呼ばれた季節風を遮る役割を果たし、天然の良港になっていました。そのため入江の奥に港が作られ、流通拠点の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。現在の標高5mあたりまでは海の下だったとしると、安定した微高地は周囲の山の縁辺や山階地区の南の内陸部に求めなければなりません。
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バイパスが延びる現在の白方

 耕地が少ない白方に、前期古墳が集中している要因は津田古墳群と同じように、瀬戸内海の海上交通との関係が考えられます。

海岸寺の奥の院の上の稜線に作られた御産盟山古墳等は、備讃瀬戸を航行する船のランドマークとなったでしょう。白方エリアは、海上交易活動の拠点でもあり、早くから近畿勢力と協調関係に入ったことがうかがえます。同時に、弘田川背後の旧練兵場遺跡を拠点とする善通寺勢力とも協調関係にあったようです。白方は善通寺勢力の外港としても機能していきます。

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白方方面から望む五岳

 一方で、桜川・金倉川下流域には、前期古墳は見当たりません。古代の多度津の港は白方だったと研究者は考えているようです。

弘田川下流域の優位性は、古墳時代中期にも継続します。

盛土山古墳
盛土山古墳(多度津町白方) 背後は天霧山

 前期の首長墓の系列と一旦は断絶するようですが、中期になると約42mで二段築成の円墳、盛土山古墳が港の近くに姿をみせます。埋葬施設は組合せ式石棺とされ、大正4 (1915)年に、舶載画文帯環状乳神獣鏡 1、 鉄刀1、 璃瑠勾玉1、硬玉勾玉2、銅鈴1などが出土しています。最近の調査では、二重周溝が確認され、円筒・蓋等の埴輪も出てきているようです。 出土した埴輪等から 5世紀中頃の築造とされるようになりました。
 この盛土山古墳から西へ約60mの所に、一辺約10mの方墳、中東1号墳が発掘されました。周溝から円筒・朝顔形埴輪が出てきたので、盛土山古墳とほぼ同時期に築造と分かり、その陪家的な古墳とされているようです。
 この他にも北浦山古墳からは、箱式石棺から傍製捩文鏡や勾玉が出土し、西白方瓦谷遺跡では、数基の小規模な円墳に伴う周溝が検出され、須恵器等が出土しています。

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弘田川と天霧山

後期古墳も、弘田川流域を中心に展開します。
天霧山北東麓に向井原古墳、
黒藤山南麓に北ノ前古墳、
多度津山南西麓に宿地古墳
同北西麓に向山古墳
などが作られ続けます。これらは6世紀後半期~7世紀前半期の横穴式石室を埋葬施設とします。この中で葡萄畑の中にある向井原古墳は、一墳丘に二石室を有する古墳です。

白方 向原古墳
向井原古墳
善通寺の北原2号墳も二つの石室を持ちます。これは紀伊半島の紀伊氏に特有な墓制だと指摘する研究者もいます。そうだとすれば、白方、善通寺は紀伊氏の下で瀬戸内海航路の管理にあたり、対外的には鉄を求めて朝鮮半島への交易や経営に加わっていたのかもしれません。当時の紀伊氏のバックには台頭する葛城氏がいたようです。
 後期の古墳は、玄室長約3,88mの宿地古墳が最大で、それほど大きな石室ではありません。
多度津町
宿地古墳
同時代の善通寺の有岡エリアには、王墓山古墳、菊塚古墳、宮が尾古墳、大塚池古墳などの首長墓が築かれていますので、その組織下にあったようです。想像を働かせるのなら善通寺勢力の水軍部隊が白方勢力と言えるのかもしれません。

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宿地古墳からのぞむ大麻山と五岳

 善通寺勢力の王家の谷「有岡」に築かれた王墓山古墳は、横穴式石室を持つ前方後円墳で、九州系の石屋形が採用されています。紀伊氏と共に連合関係にあった九州勢力の姿が見え隠れします。

 多度郡の郡衛は善通寺にあったと考えられています。
そして、古墳時代以来、この地を支配する佐伯氏が郡司を勤め、氏寺の仲村廃寺や善通寺を建立したようです。同時に、東から伸びてきた南海道を整備し、それを基準に条里制を整えていきます。いわゆる奈良時代の律令体制下の多度郡の時代を迎えます。白方も多度郡に属し、8郷のうちの三井郷に含まれていました。
 多度郡の郡司には、先ほど述べたように
①国造級豪族 として佐伯直氏が
②中・下級豪族 として伴良田連氏
が、『類衆国史』等の史料に見えます。郡司層ではありませんが『 日本三代実録』にみえる因支首氏も、多度郡の中小豪族です。彼らは多度郡南部を基盤とする豪族されます。
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白方から見た津島と庄内半島

 奥白方中落遺跡からは、8世紀代の掘立柱建物跡6棟が検出され、周辺から皇朝十二銭のひとつ「隆平永費」 10枚 が重ねられて出土しています。何らかの祭祀儀礼に使用されたと研究者は考えているようです。また、近くの奥白方南原遺跡では、高価な緑釉陶器碗が出土しているので、周辺に下級官人か富農層の館があったのかもしれません。港湾施設の管理者としておきましょう。
白方周辺には、南北方向の約 30° 西に偏 した一町方格の条里型地割が見られます。

白方 丸亀平野条里制
丸亀平野の条里制 
こうした地割は、古代の土地表示システムに基づくものです。しかし、以前にお話ししたように、条里制が同時期に施工されたものでもないことも、最近の発掘調査から分かってきています。実際の施行は、中世になってからというエリアも多々あるようです。
例えば
①白方の東の庄八釈遺跡では、施工は9世紀代
②段丘上にある奥白方南原遺跡では、多度郡七条13里内部の坪界溝が検出され、溝より出土した最も古い遺物の一群は12世紀
③その約500m西に位置する奥白方中落遺跡の8世紀中頃の掘立柱建物跡は 、地割の方向と合致するので、8世紀施行
ここから②の南原遺跡の坪界溝は、中世になって改修されたものと研究者は考えているようです。このように近接したエリアでも条里制の施工時期には時間差があるようです。

古代南海道の位置について

金倉川 善通寺条里制
古代条里制と南海道
那珂郡の推定ラインを西へ直線的に伸ばして、多度郡の6里 と7里の里界線を南海道とする仮説が出されていました。那珂郡における南海道の推定には、余剰帯の存在が大きな根拠とされています。また、善通寺文書の宝治3(1249)年の讃岐国司庁宣には
「北限善通寺領 五嶽山南麓 大道」
とあり「五嶽山」を香色山・筆の山、我拝師山とすると、推定南海道のライン上に「大道」が通過することになり、その有力な仮説とされてきました。
 考古学の立場からは、善通寺市の四国学院大学図書館建設の際の発掘で出てきた7世紀代の直線溝を、南海道の側溝とする報告書が出ています。さらに、多度郡の6里と7里の延長上の飯山町岸の上遺跡からも側溝が見つかりました。この結果、この余剰帯が南海道であると考える研究者が増えているようです。どちらにしても南海道は、かつて云われていたように鳥坂峠を通過する伊予街道ではなかったようです。

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「白方湾」から見上げる天霧山

 空海が平城京に上っていった時に、白方からの舟で難波に向かったのでしょうか、それとも南海道を陸路辿り、紀州から北上したのでしょうか。興味ある所です。また、以前お話ししたように、空海の父は、瀬戸内海交易を手がけ大きな富を手にしていたのではないかという説が出ています。
そのため自船で、難波の住之江と頻繁に行き来していたのではないか。それが難波と平城京を結ぶ運河の管理権に関わる阿刀氏との交流を深め、その娘を娶ることになったのではないかという「新設」も出ていることも以前にお話しした通りです。そうだとすれば、まさに白方港は佐伯氏にとっては「金を産む港」だったことになります。多くの舟が出入りしていたことが考えられます。
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弘田川と天霧山 このあたりまでは入江だった

 多度津の港津としての機能は、中世にも維持されます。しかし、白方ではありません。
 道隆寺や多度津 (本台山)城跡が海に面した位置に立地するのは、古代以来の備讃瀬戸の海上拠点の掌握を狙ったものだったのでしょう。細川家文書にある正安3(1301)年の沙弥孝忍奉書に「堀江庄」が出てきます。鎌倉幕府地頭の補任地だったようです。その荘域には「堀江津」を含み、幕府の強い影響下に置かれていたようです。中世には、この「堀江津」が多度郡の中心的な港津として機能していたと研究者は考えているようです。

古代までは、弘田川下流域の白方でしたが、中世にはその役割が金倉川下流域に移動したようです。
白方が史料に登場しなくなります。その理由は、古代末以降の完新世段丘の形成で、弘田川河口部の埋積が進行し、港としての機能が維持できなくなったようです。
  一方、金倉川下流域では、堆積された土砂で砂州・潟の形成が進み、内陸部に港津が形成されます。

道隆寺 堀越津地図
「堀江」復元図と道隆寺
「堀江津」が具体的にどこにあったのかは分かりません。しかし、金倉川の河口付近の西岸に、「堀江」の地名があり、ここが「堀江津」だとされます。旧地形の復元図では、多度津山より砂州が北東方向に長く延び、一部途切れているもののその東端は、金倉川西岸にまで達します。この砂州の南側は、海水が流入して潟となっています。そして、桜川が緩やかに流入します。この内陸部側に港湾施設が設けられ「堀江津」と呼ばれていたと研究者は考えているようです。そして、内陸北端に道隆寺は建立されます。
 港には、それを管理する拠点と人材が必要です。中世にそれを担うのは僧侶達です。道隆寺は、備讃瀬戸を行き来する舟からのランドマークとしての機能と、港津の管理施設としての機能を兼ね備えた施設だったのでしょう。
 以前にも見たように、道隆寺は塩飽諸島から、庄内半島にかけての有力寺社を末寺として配下に納め、活発な宗教活動を展開すると同時に、交易活動の拠点でもあったようです。そして、そこを拠点とした僧侶たちは真言密教系の修験者の影がうかがえます。 道隆寺から南に伸びる町道は、鴨神社 ・金倉寺・善通寺を経て、中世南海道にアクセスしていたのです。

道隆寺山門

道隆寺には、開創から貞享 3年 までの寺歴を記 した「道隆寺温故記」があります。
これは天正16年頃に、古記録をもとに、住持良田が記されたものとされます。これによると、創建は平安時代初期に遡るとします。しかし、史料的にたどれるのは寺に伝わる鎌倉時代作とされる絹本着色星曼荼羅図からで、中世前期の建立と研究者は考えているようです。「堀江津」の成立と道隆寺の創建(再興?)は密接な関係があるようです。これについても以前にお話ししましたので省略します。

貞治 4(1365)年讃岐守護細川頼之に宛てた足利義詮御教書に次のように記されます
「讃岐国葛原庄、堀江津 両所公文職 云々」
ここからは、葛原庄と堀江津の公文職が兼務されていたことが分かります。葛原庄は賀茂神社領 となっていました。両所の公文職が兼務されていたことは、鎌倉幕府滅亡後は、堀江津が賀茂社の管理下に置かれていたことを意味します。
鴨脚文書「賀茂社社領 目録」の寛治4(1090)年 7月 13日 官符には、讃岐國葛原庄田地 60町が御供田として寄進されたことが見えます。以後弘安9(1286)年の鴨御祖大神宮政所下文の頃までには、現在の北鴨・南鴨の一帯は、賀茂社領葛原庄 として立庄されていたと研究者は考えているようです。
香川県多度津町 : 四国観光スポットblog
南鴨の鴨神社

南鴨にある鴨神社からは、鎌倉時代の亀山焼巴文軒丸瓦が出土しているほか、室町期以前の紙本大般若波羅蜜多経も所蔵されています。さらに、昭和22(1947)年には、本殿北側の老松の根元から 5,898枚 の銅銭が出てきました。この中には、漢の五鉄銭を最古銭とし、開元通宝や北宋~元銭が含まれていました。鎌倉時代終末期~室町時代前期の中世埋蔵銭の一例です。これだけの銭を「貯金(秘蔵)」勢力が、付近にはいたことを示します。
 南鴨の三宝荒神境内には、文安2 (1445)年の銘のある砂岩製の宝筐印塔があります。これは鴨神社の神宮寺とされる法泉寺のものだった伝えられます。
 以上のような「状況証拠」から鴨神社の創祀が鎌倉時代に遡ることは間違いと研究者は考えているようです。
 さらに鴨神社の勧進が、賀茂社領荘園の成立と無縁ではないこともうかがえます。その後、長亨2(1488)年賀茂社祝鴨秀顕当知行分所々注文案に至るまで、賀茂社による当庄の支配が続いていたようです。
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東白方の熊手八幡宮

 安楽寿院は、鳥羽法皇が離宮の東殿を寺 として、荘園 14箇 所を寄進して成立しました。その荘園のなかに「多度庄」があります。
多度庄の位置は、康治2(1143)年 の太政官牒をもとに
「三井郷の内の、大字三井の大部分を除いた地域全体」

とされます。この荘域は、東白方の熊手八幡宮の氏子の範囲と一致すると多度津町史は記します。
 現在、西白方の仏母院の境内には、熊手八幡宮境内から移転してきたと伝えられる嘉暦元(1326)年銘の凝灰岩製五重石塔があります。これから熊手八幡宮の創祀が、鎌倉時代以前に遡ることがうかがえます。12世紀後半には荘園の鎮守社が史料上に見られるようになります。荘民の精神的支柱 として熊手八幡宮が多度庄の鎮守社に取り込まれたのかもしれません。
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熊手八幡宮とその向こうに広がる備讃瀬戸 

その後「多度庄」は、高野山文書の天福2(1234)年の多度荘所当米請文などにみえ、鎌倉時代後期までは存続したようです。しかし、室町時代には「伝領不詳」となり、15世紀前半には、史料上から姿を消します。どこへ行ったのでしょうか

その犯人は、天霧城の主である香川氏が最も有力なようです。
 15世紀末からの内部抗争で讃岐守護細川京兆家が衰退していくのを契機に、守護料所の押領・所領化を勧めます。そして三野の秋山氏などの国人領主層の被官化等を進め、戦国大名化への道を歩み出します。多度庄や葛原庄が史料上から姿を消していく時期と、香川氏の伸張時期は重なります。天霧城周辺の荘園は、香川氏によって「押領」されたとする証拠は充分のようです。
現在の天霧城跡のアウトラインも、この頃に成立したようです。
天霧城 - お城散歩

本城跡の各曲輪には、堀や土塁、石塁、井戸、枡形虎口等の多数の防御施設が確認されています。これらの施設は、永禄6(1563)年頃の阿波守護三好氏や天正元 (1573)年 の金倉氏、天正 6(1578)年頃の土佐守護長宗我部元親らとの合戦への備えとして、増設されたものなのでしょう。

 一方、香川氏の居館は多度津城跡とされます。
多度津陣屋 多度津城 天霧城 余湖

 ここは桃陵公園として発掘されないままに開発されたので遺構が残っていません。香川氏が海浜部に居館を築いた理由として、港津である多度津を掌握し、過書船による利益の獲得が大きな目的だったとされます。香西氏や安富氏と同じく海上交易からの利益が香川氏の勢力伸張の元になっていたのでしょう。多度津の築城時期はわかりませんが、守護代として西讃を領有した14世紀終末期には築城されていたのではないでしょうか。
 この頃には、また賀茂社による葛原庄の支配は継続していました。そして堀江津が多度郡内の港津機能の大きな部分を担っていたようです。それが香川氏の勢力が伸びてくる15世紀末以降に、多度津城の下の桜川河口に港津機能は移動したと研究者は考えているようです。それは『兵庫北関入船納帳』に「堀江津」ではなく、「多々津」 と記載されるようになったことからもうかがえます。

以上、古代から中世にかけての多度津の港湾の移動と、その背景勢力について見てきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


津田古墳群周辺図3
津田古墳群
津田湾に、なぜ多くの古墳が並ぶのかについては、多くの議論がされてきました。その中で、同じように古墳が並ぶ瀬戸内海の港町との比較でいろいろなことが分かってきたようです。まずは、その「研究史」を見ていくことにします。テキストは「古瀬清秀 岩崎山古墳群について    岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年」津田町教育委員会です。
昭和31年に、近藤義郎氏が牛窓湾岸の古墳についてその性格を研究ノートという形で次のように提示します。
津田湾 牛窓古墳群

 港町として栄えた牛窓には、天神山古墳を始めとする50mを越える前方後円墳5基が年代を追って順番に、平野の少ない牛窓湾岸に築造されます。それを「畿内勢力」が瀬戸内海ルートにおいた港湾拠点と関連づけます。「畿内勢力」の要請・後盾を得た吉備国邑久の豪族が、拠点港や交易ルートの管理権を握り活躍し、死後にこの古墳に埋葬されたという仮説を提示します。
 これが瀬戸内沿岸に造られた初期の前方後円墳について、最初に歴史的な位置づけを与えたものとなり、その後の研究の指標となります。

これを受けて昭和41年に、津田湾の岩崎山古墳群の発掘調査に参加した地元の六車恵一氏は、次のように発展させます。

津田湾古墳 奥崎4号墳

 津田湾岸の前半期古墳群は、牛窓と同じ環境にあること。そして岩崎山第4号古墳など5基の古墳に埋葬者は、海運、港湾泊地、水産等、水路防衛などの海を背景とした首長層であったこと。さらに瀬戸内海には古くより2つの航路があり、津田湾をその四国側ルートの拠点港に位置づけます。

さらに六車氏は、昭和45年に刊行された河出書房新社の「日本の考古学」シリーズの中で、自説をさらに補強します。

 六車氏は担当した「瀬戸内」の中で、瀬戸内海の沿岸部や島嶼部の前期前方後円墳を「畿内勢力の拠点の形成」という視点で捉えます。その背景には「畿内勢力の朝鮮半島侵略の事業」として、そのルートになる瀬戸内海の海上権確保のための拠点設置という戦略があったことを指摘します。そして、津田湾岸の古墳もその拠点の一つで、難波津から西行し、芸予諸島で北岸航路に合流する瀬戸内海航路に合流するルートの一環だったとします。
津田湾 瀬戸内海の拠点港

 次いで角川書店の『古代の日本』シリーズで、間壁忠彦氏は次の点を指摘します。
 牛窓湾や津田湾、山口県平生湾などに並ぶ前方後円墳の築造年代が前期後半から中期前半に限定されること。それは「畿内勢力」の朝鮮半島進出時期と重なります。同時に、朝鮮半島進出に瀬戸内海沿岸勢力も深く関わったこと、それが彼らの性格を物語っていることを指摘します。津田湾岸の古墳群も4世紀後葉から5世紀にかけて作られたものです。
 こうして津田湾の前方後円墳は、讃岐東部の海上ルート確保と、朝鮮半島南部の拠点確保に強い意欲をもった首長墓として注目されるようになります。

 昭和57年に玉木一枝氏は、讃岐の前方後円墳の特徴について次のように指摘します。
①狭いエリアに限定されながらも、100基を越える前方後円墳が築造されていること
②それも墳長40m前後の小型前方後円墳が大半で
③前期に限れば、前方部の形態がバチ形を呈する
さらに昭和60年には、香川県における前期古墳の特質として
①墳長30~40mの小形の前方後円墳の多いこと
②それらには盛土古墳と積石古墳の2種類があり
③埋葬施設の主軸方向が東西指向が強い
ことをあげます。その上で、津田湾岸の岩崎山第4号古墳、龍王山古墳などは、この傾向に反して
④竪穴式石室は南北方向を向くこと
⑤刳抜式石棺が導入されていること
をあげ、津田湾岸の古墳が香川県内においては極めて特異な存在であることを指摘します。

津田湾岩崎山4号墳石棺
岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。
それでは「畿内勢力の地域拠点」とは、具体的にどんな意味を持っていたのでしょうか。
検討材料として、研究者は次の2点を挙げます。
①墳長50m以上の前期前方後円墳が3基も集中すること
②その埋葬施設に地元の火山産凝灰岩製の割抜き式石棺などが使用されていること
これらについて具体的な古墳のありようが次のように検討されます。
①について岩崎山第4号古墳、赤山古墳を具体的に見ていきます
この2つの古墳は、墳長60m規模です。
津田湾岩崎山4号墳石棺3
岩崎山第4号古墳の副葬品
前者からは「中国鏡2面、碧玉製腕飾り類5個以上、硬玉勾玉を含む多数の玉類、豊富な鉄器類」
後者からは「大型倭鏡2面、多量の玉類、多数の碧玉製腕飾り類」
といった副葬品目は、他の前方後円墳を圧倒します。
 この地域で前期・前方後円墳は古枝古墳、奥第3号、13号、14号古墳、中代古墳などがありますが、どれも墳長30m前後の小型です。また副葬品目は中国鏡1面、玉類、少量の鉄器類といった組合せが大半です。

  津田湾 奥古墳群

昭和48(1973)年に、津田湾岸から山一つ内陸側で奥古墳群の発掘調査が実施されました。
 寒川平野から津田湾に抜ける峠道を挟んで、たくさんの古墳(前方後円墳3基含む奥古墳群16基)がありました。昭和47(1972)年にゴルフ場が建設されることになり、発掘調査が行われます。この調査で、奥第10~12号などの弥生時代後期の墳丘墓や前方後円墳の奥第3、13、14号古墳が発掘されました。奥3号墳からは卑弥呼に関係するといわれている三角縁三神五獣鏡(魏鏡)も出土しています。これは京都椿井大塚山古墳出土のものと同范鏡です。
 また、奥14号墳は全長30mの前方後円墳で2基の竪穴式石室からは、銅鏡2枚の他に鉄製武器、鉄製工具、勾玉・管玉・ガラス玉などの装身具が発見されています。しかし、残念ながら今は消滅したようです。
  これらの古墳群の立地と変遷から次のようなことが分かってきました。
①奥古墳群は、津田湾西にある雨滝山山麓に、長尾平野と津田湾の両方を見下ろすように立地する。
②また、津田湾と長尾平野を結ぶ谷道ルートを見下ろす尾根に立地する。
 つまり、奥古墳群は内陸の平野部だけでなく、津田湾をも意識した立地になります。さらに重要なことは、この奥古墳群は津田湾の前期古墳より早い時期に造られていることです。そこに葬られた首長たちは、頭部を西に向けて東西方向に埋葬されます。墳丘の前方部はいずれもバチ形に近い形態で、埴輪類はありません。これらの特徴は、さきほど紹介したように玉本氏の指摘する「讃岐の前期古墳」の典型です。これを研究者達は「在地性(讃岐的特徴)の強い前方後円墳」と呼んでいます。
 それに比べて、津田湾岸の古墳をもう一度見てみましょう
  岩崎山第4号古墳は、柄鏡形の細長く延びる前方部をもち、南北方向に埋葬されています。これはすぐ北側の直径約30mの円墳、龍王山古墳でも同じです。このエリアでは南北に造られた狭くて長い6,1m竪穴式石室に埋設されています。また円筒埴輪のほかにも、多彩な形象埴輪類が出てきます。ここから「在地色」はうかがえません。それよりも畿内の首長墓のスタイルに似ています。
 
 ここまでだけで、内陸の奥古墳群と津田湾の前方後円墳を比べると、「畿内勢力が津田湾に進出・定着」し、瀬戸内海ルートの拠点港湾としたと早合点しそうになります。しかし、そうは言えないようです。
津田湾 古墳変遷図
まず古墳の築造変遷を上図で、見てみましょう。
①2期の積石塚の川東古墳、奥第3号古墳の築造に始まり、
②奥第14号古墳、古枝古墳、奥第13号古墳、赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山古墳
と、両地域で継起的に築造され続けています。
ここからは津田湾と寒川平野の双方の首長たちは、対立関係にあったのではなく、むしろ並立依存関係にあったのではないかと研究者は考えているようです。そして、古墳のスタイルの違いを、ヤマト王権との関わり方の強弱に求めます。つまりヤマト王権へのベクトルが大きいほど古墳のスタイルから在地性(讃岐型特性)が消えて、畿内スタイルになっていくと考えます。

 雨滝山とその東隣にある火山の南側は長尾平野になります。
ここは高松平野の最東端に当たり、「袋小路」でもあります。この地点に、四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳が周囲を威圧するように姿を見せます。それは、上図から分かるように、津田湾に大型の古墳が築造されなくなる時期と重なります。これをどう考えればいいのでしょうか。
かつては、これをヤマト政権による「東讃征服の武将の勝利モニュメント」と考える説もありました。ヤマトから派遣された武将によって、東讃がヤマトに併合され、その主がここに眠っているという説です。
冨田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳

 しかし、現在では津田湾の親畿内勢力によって東讃の覇権が確立された結果、統合モニュメントとして富田茶臼山古墳が出現することになったと研究者は考えているようです。
 そうだとすると津田湾は、ヤマト政権の「瀬戸内海航路の拠点港湾」としての役割だけを担っていたのではなくなります。津田湾勢力は、寒川平野などの内陸部と一体化しつつあったと考えられます。その津田湾勢力の内陸進出を通じて、畿内勢力は津田湾勢力の後ろ盾として四国経営上、重要な地域であった讃岐東部を影響下に納めたということになります。その結果、東讃の古墳はこれ以後小型化し、同時に地域色を急速に失っていきます。

古墳終末期の讃岐の古墳造営状態を示す地図を見てみましょう。
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
大きな石室を持つ古墳が赤や紫の点で示されています。
東讃には大型石室をもつ古墳はありません。つまり、古墳を造れる地方豪族が不在であったことを物語ります。富田茶臼山古墳の後は、ヤマト王権の「直属化」が進んだとも考えられます。
津田湾岩崎山4号墳石棺2
火山産石材で造られた岩崎山4号墳石棺の石枕 

火山産石材を用いた割抜式石棺は、何を語るのでしょうか
研究者は、津田周辺で造られた石棺がどこに運ばれたのかを検討します。火山産の凝灰岩は津田湾のすぐ背後にそびえる火山がで産出します。地元では白粉(しらこ)石と呼ばれ、白っぽい色調で肉眼でも見分けができます。津田湾岸ではこの火山石が、岩崎山第4号古墳の石棺、赤山古墳の2基・3基の石棺、けぼ山古墳の石室蓋石などに使われています。
 最近の調査研究で、この火山産石棺が讃岐だけでなく他県にも「輸出」されていたことが分かっています。例えば
①岡山県吉井川流域の代表的な前期古墳、備前市鶴山丸山古墳の特徴的な形態の大型石棺
②徳島県鳴門市大代古墳の舟形石棺
③大阪府岸和田市久米田貝吹山古墳の突帯をもつ石棺
などです。これらはいずれもそのエリアを代表する前方後円墳か、は大型円墳です。
①の鶴山丸山古墳は、牛窓湾から吉井川を十数km北に遡った地域にある直径約55mの大型円墳です。
丸山古墳 - 古墳マップ

 竪穴式石室には大型の家形石棺が納められています。石棺の周囲から大、中型倭鏡30面以上、書玉製品などが出てきます。石棺の形からは、岩崎山第4号古墳より少し新しい時期の築造でとされます。
 この地域には先行する花光寺山古墳、新庄天神山古墳といった大型前方後円墳や大型円墳があり、組合せ式石棺や刳抜式石棺が使われています。花光寺山古墳は墳長100mと大型ですが、柄鏡形の前方部で、岩崎山第4号古墳と相似形の前方後円墳です。石棺は南北方向で、埴輪が並べられているのも津田湾岸の古墳とよく似ています。
 牛窓湾岸の古墳と吉井川東岸流域は、古代吉備世界の中において、特殊器台形埴輪を共有するエリアです。それは前方後方墳系列から始まる備中地域とは、古墳文化の異質とされます。吉井川流域の東岸域は、畿内地方の古墳文化に近いと研究者は考えているようです。
   この古墳の首長が眠っていた石棺は、瀬戸内海を越えて讃岐の津田湾の火山石で作られたものが運ばれてきています。刳抜式石棺や石室石材は非常に重いため、運搬には多大の労力と技術が必要とされます。にもかかわらず、讃岐から運ばれているのです。香川の津田湾の奥4号墳の首長と、この古墳の主とは「同盟関係」にあったのかもしれません。
津田湾 鳴門大代古墳jpg
鳴門市大代古墳
②の大代古墳は鳴門海峡を遠望する丘陵上にある墳長54mの前方後円墳です。
柄鏡形の前方部をもち岩崎山第4号古墳に、大きさや形が非常によく似ています。同じ設計図から造られたのかもしれません。岩崎山第4号古墳と比べてみると、副葬品の組合せなどからこちらの方が少し新しいようです。この古墳は後円部に南北方向に竪穴式石室が造られています。
津田湾 鳴門大代古墳の火山産石棺

そこに、津田湾の火山石製の舟形石棺が置かれています。津田から舟で運ばれてきたのでしょう。

③の久米田貝吹山古墳は大阪南部の、大阪湾を遠望できる標高35mの低い丘の上にあります。

津田湾 久留米田貝塚山古墳

 約130mの大型前方後円墳で、竪穴式石室の中に讃岐の火山石製割抜式石棺がありました。しかし、盗掘のため砕片だけになってしまいました。石棺片には突帯状の彫刻があるので、時期的には津田湾古墳群の岩崎山第4号古墳と同時代に作られたものとされます。石室石材には、徳島県吉野川流域産の紅簾石片岩が使われています。石室用材を鳴門から、そして石棺は讃岐の津田から舟で運んできた首長が葬られたようです。
  以下の3つの古墳の首長達は、紀伊水道を挟んで海のルートで結ばれていたことが分かります。
岸和田久米田貝吹山古墳 → 紀伊水道の四国側の鳴門市の大代古墳 → 東讃岐・津田湾岸の奥4号墳

ここで、もう一度津田湾岸の古墳に戻ることにしましょう。
香川県の前期前方後円墳は、次のような特徴がありました。
①墳形では前方部がバチ形に開く形態
②埋葬施設の主軸が東西方向を指向
③埴輪をもたない場合が多いといった特徴を示す。
これに対して、津田湾岸の古墳は、岩崎山第4号古墳・龍王山古墳のように前方部が細長く延び、埋葬施設の石棺は南北方向を向きます。ここから津田湾岸の前期古墳は、讃岐型の在地的なスタイルではなく、畿内的スタイルが強いことをもう一度確認しておきます。 
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岩崎4号墳測量図

この有り様は、津田湾だけでなく火山石製石棺等が運ばれた上のエリアの古墳にも共通するというのです。例えば、吉井川流域東岸の備前を代表する前期古墳は、畿内地方と強い連関性があることを見てきました。
その両者をつなぐ橋頭保として牛窓湾が近畿勢力によって打ち込まれます。同じように寒川平野の讃岐内陸部と畿内地方を結ぶ橋頭保として津田湾があったと研究者は考えているようです。
牛窓は、吉備中枢・備中勢力への牽制
津田は、高松の峰山勢力への牽制
が重要な役割だったのでしょう。どちらも畿内勢力の地方への進出と勢力拡大政策の窓口だったというのです。そして、畿内勢力が東吉備や東讃岐で覇権を確立した時には、その地域は地政学的意味を失います。それは「讃岐型前方後円墳」の築造が終わるときでもあったと研究者は考えているようです。
 津田湾岸の首長は単に水産、航海術、港湾泊地等の実権を掌握したから優勢を示したのでなく、畿内勢力の後ろ盾にしていたから地域で最優勢を維持できたのかもしれません。それが富田茶臼山の出現につながるのでしょう。
津田湾 古墳変遷図2

以上をまとめておきましょう。
①津田湾の古墳は、畿内勢力進出の橋頭保であった。そのため寒川などの内陸部の古墳も連携した動きを見せた。
②バチ形の前方部をもつ在地の前方後円墳の築造の流れの中に、極めて外来的な様相を示す前方後円墳の築造が赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山など、4世紀中葉から5世紀初頭まで連続して築造され続ける。
③それは在地の首長の前方後円墳が墳長40m前後なのに対し、津田湾のものが一回り大きい60m規模であったことからもうかがえる。
津田湾岸の首長たちの努力が報われ、その役割を終えたとき、在地色をぬぐい去った冨田茶臼山古墳が悠然と姿を現します。そして以後は、単なる港湾泊地となった津田湾に、大型古墳が築造されることはなかったのです。
最後に津田湾の前方後円墳に葬られたのは、どんな人たちだったのでしょうか?
親畿内勢力の在地首長だったのか、あるいは畿内から派遣された首長であったかについては、研究者は「現状では不明」と答えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1古瀬清秀 岩崎山古墳群について   
 岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年  津田町教育委員会

さぬき市歴史民俗資料館HP 考古室ガイドさぬきの古墳時代編

2近藤義郎「牛窓湾をめぐる古墳と古墳群」『私たちの考古学』10 1956(昭和31)年
3六車恵一「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」『文化財協会報特別号』香川県文化財保護協会
4六車恵一 潮見浩「瀬戸内」『日本の考古学』IV 河出書房新社1966年
5真壁忠彦「沿岸古墳と海上の道」『古代の日本』4 角川書店 1970年
6玉木一枝「讃岐地方における前方後円墳の墳形と築造時期についての一考察」『考古学と古代史』同志社大学考古学シリーズ1982年
7古瀬清秀「原始・古代の寒川町」『寒川町史』香川県寒川町 1985年
8渡部明夫「四国の割抜式石棺」『古代文化』46  1994年


 
  讃岐地には2000を超える横穴式石室墳が築かれたようです。しかし、多くは失われてしまいました。現在、石室の規模や形が分かっているのは、その約1/10の235になるようです。その玄室規模 (面積) をグラフで示すと次のようになります。
綾北 香川の横穴式古墳規模

ここからは次のようなことが分かります。
①玄室床面積5㎡前後の石室が最も多く、8㎡未満の横穴式石室 が 全体の約8割
②10㎡ 級の石室は26基で、全体の一割強
③13㎡を超える大型クラスはわずかに8基
ちなみに
床面積5㎡では、玄室長3,5m 幅1,2m 、
床面積8 ㎡では、   4m   幅2m ほどの広さになります。 
大形の横穴式石室墳(玄室床面積8㎡以上)がどこに多いか見てみましょう
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布

A 石室が13㎡を越える大型古墳(赤)は、①大野原②綾北③善通寺にしかない
B また大型横穴式古墳は、大野原と綾北に集中する
C 東讃に大型巨石墓は少ない
D 中小河川沿いに大形石室墳が少なくともひとつはある。
A・Bからは、古墳時代末期において①大野原や②綾北平野を拠点にする有力者がいたことがうかがえます。
Cからは、東讃がすでにヤマト政権下の直接統治を受け始め、大型横穴式古墳を造れる首長達が少なくなったことを示すのかもしれません。
Dからは、律令制国家になると讃岐では河川水系ごとに「郡」を設置されます。河川毎に、大型横穴式古墳があるというのは、後の郡領相当の有力者をこのクラスの大形石室墳の造営者層と考えることも出来ます。しかし、巨石墳の分布上の偏りがはっきりと見えます。
ここでは、綾川河口の綾北平野に注目してみましょう。
綾北平野の8㎡を越える大形石室墳を紫色で示したのが下のグラフになるようです。
綾北 香川の横穴式古墳規模2

綾北平野に讃岐では超大型の横穴式古墳が多いことが改めて分かります。 研究者は次のようなグラフも用意しています

綾北 香川の横穴式古墳規模3

一番右のグラフで見方を説明すると、讃岐の13㎡ 超クラスの8基の地域別数を示したグラフです。真ん中に8基とあるのが讃岐にある古墳数です。綾北平野が赤、三豊が黄色で示されています。阿野郡北部にあたる綾北平野と椀貸塚古墳・平塚古墳などの3つの巨石墳が並ぶ大野原古墳群が突出しています。6世紀末期の蘇我氏全盛時代には、この2つのエリアに、讃岐の最強勢力はいたと言えそうです。
大型石室墳が集中する綾北平野の後期古墳 ( 横穴式石室墳 ) の分布を見てみましょう
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
全体で45の大型古墳(横穴式)があったようです。これらを分布からグルーピングする3つに分かれれるようです。

綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2

ひとつは、城山温泉周辺の醍醐古墳群です。
ここには、綾北平野最大の巨石墳があります。醍醐 2 号墳 (15.8 ㎡) と同 3 号墳 (15.6 ㎡)です。 三豊 南 部 の 平塚古墳(大 野 原 古 墳 群 18.3 ㎡) に次ぐ規模で、このサイズの巨石墳は他に縁塚 4 号墳 ( 三豊南部 ) と大塚池古墳 ( 善通寺 ) が知られるだけす。 醍醐4号墳 (11㎡ ) と同7号墳 (10.9 ㎡ ) も他地域ではトップクラス巨石墳のクラスです。
 綾川を挟んだ蓮光寺山南麓の鴻ノ池周辺にも、ひとつのグループがあります。
山ノ神 2 号墳 ( 推定 10.6 ㎡ )、鴻ノ池 4 号墳 (10.4 ㎡ )を筆頭に巨石墳が集中します。巨大な石組みだけが鴻ノ池に残る鴻ノ池 1 号墳もこれらに匹敵する規模のようです。北側の烏帽子山中腹には、これらを見下ろすように、単独で綾織塚古墳 (13.8 ㎡)があります。
 平野南端の丘陵には新宮古墳(12.8 ㎡)が単独で立地します。

綾北平野に巨石墳が次々と造られたのは、いつなのでしょうか?
綾北平野に巨石墳が集中することの意味を知るためにも避けては通れない課題です。今のところ綾北平野では 6 世紀後半より以前の横穴式墳は見つかっていないようです。

坂出古墳編年

雄山山麓には6世紀前半代初期の横穴式石室を持つ雄山古墳群がありますが、古墳時代中期の後半段階以降、綾北平野は目立った古墳が確認できない空白エリアであったようです。
 大型石室墳の築造は新宮古墳から始まるようです。
そして、これと同時に中小形の横穴式石室墳も登場します。新宮古墳の石室は、大野原の椀貸塚古墳の特異な形態(複室構造)を引き継ぎ、その一部を省略したものと研究者は考えているようです。型式的には、椀貸塚古墳と平塚古墳の中間にあたるようです。つまり 
①椀貸塚古墳→ ②新宮古墳 →③平塚 

という系譜に位置づけられます。
年代は、羨道前面から出土した須恵器の特徴から6世紀末から7世紀初頭とされます。さらに、綾織塚古墳と醍醐3号墳の石室は、新宮古墳の特徴を簡略化させながら引き継ぐので、新宮古墳に続く時期と研究者は考えているようです。
 醍醐2号墳は、さらにもう一段階新しいもので、醍醐4号墳、鴻ノ池1号墳,同4号墳、山ノ神2号墳は醍醐3号墳や醍醐2号墳と並行して、同時期に造られたようです。
 玄室と羨道がほとんど一体化するなどニュースタイルの醍醐7号墳、同 8号墳、鴨庄1 号墳、お宮山古墳は、さらに新しい時期の古墳となるようです。
 そして醍醐7号墳で綾北平野の巨石墳築造は終わります。
この終焉期は横穴式石室は7世紀半ばの角塚古墳(大野原)や大石北谷古墳(旧寒川郡)に共通するので7世紀半ば頃と研究者は考えているようです。つまり、先述したように大野原や綾北平野で横穴式石室を持った大型墳が築かれるのは7世紀半ばまでなのです。それは中央での蘇我氏の全盛期と符合します。
ここで研究者は、次のような疑問を出します。
①新宮古墳が造られてから半世紀の間に綾北平野には、いくつの大型古墳が造られたのか。
②8㎡以上だと24の大型古墳が造られたことになるが、ひとつの氏族だけで半世紀で築けるのか
③半世紀だとせいぜい2世代か3世代の代替わりが行われたとすると
24÷2世代=12グループ 
24÷3世代=8グループ 
のこのクラスの墳墓を築きうるような有力グループの存在を考えなければならなくなる。
そんなに多くの有力者が綾北平野に並び立っていたのか?

研究者が投げかけているのは、飛鳥のヤマト政権が豪族連合政権であったように、綾北平野にも讃岐の有力豪族グループがここに結集していたのではないかという仮説です。
綾川流域の平地を見下ろす山腹の各所に、巨石墳が分かれて築かれている事実はこの推測に合います。それでも醍醐古墳群や山ノ神・鴻ノ池の古墳群に属する巨石墳は多過ぎるかもしれません。これら自体が複数グループの有力者の共同墓所的な性格を持つのなら説明ができます。
 
綾北平野の隣接地域では、逆の展開が読み取れるようです。
綾川を遡った羽床盆地では、古墳時代中期から後期の初めまで津頭東古墳、津頭西古墳、般若ヶ丘古墳などの有力墳が連続して築かれていました。ところが後期半ば以降は、大形の横穴式石室墳が築かれることはありませんでした。額坂峠を越えた城山西南麓一帯には、中期末から後期後半までには国持古墳、久保王塚古墳など有力墳がありますが、新宮古墳以降には大型石室墳はでてきません。
 国分寺盆地でもや大形の横穴式石室を持つ石ヶ鼻古墳がありますが、石室形態から新宮古墳に先行するものです。新宮古墳以後は、横穴式石室墳はありません。
 こうした状況を踏まえて、研究者は次のような仮説を提出します。
  古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)

 この立場に立つと、次のような事が描けるようになります
①6世紀末に蘇我氏は、物部氏を破り、物部氏の持っていた瀬戸内海の拠点を自己の支配下におさめた
②物部氏の支配下にあった大野原・三野津・綾北平野は蘇我氏の影響下に入った。
③綾北平野の勢力は、大野原勢力と同盟し新たな技術や文化を取り入れた
④そして、綾北平野の入口に大野原勢力から学んだ大型横穴式古墳を造営した
⑤新宮古墳は、綾川流域や周辺地域の統合のモニュメントでもあった
⑥以後、連合関係を形成した有力者達は綾北平野の開発を進め、それぞれの拠点に「墓域」を開き大型墳墓を次々と造営していく。
⑦蘇我氏の失脚後も、白村江以後の臨戦態勢の中で勢力を維持し朝鮮式山城を城山に築く。
⑨このような危機感の中で指揮権を握り、他地域の豪族よりも一歩ぬきんでた力を持つようになる。
⑧さらに律令体制下においては、府中への国衙誘致を行い、南海道整備なども進めた

ここからおぼろげながら見えてくることは、7世紀前半は綾北平野が讃岐の「飛鳥」だったといいうことでしょう。ここに周辺の有力豪族が集中して拠点を置いていたことがうかがえます。そのために、ヤマト政権から白村江以後の臨戦態勢下で朝鮮式山城の築城を命じられて時にも、この地を守るために城山を選んだのでしょう。さらに、律令体制が整えられる7世紀末に、国府をこの地に造営し、南海道を整備したのもこの地を拠点とする勢力だったのでしょう。それを、綾氏とする考えもあります。
  しかし、綾氏単独の支配エリアではなかった。複数の有力豪族が拠点を置く政治空間だったというのは面白いと思います。

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
         大久保徹也(徳島文理大学)  坂出市綾北平野の巨石墳

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
DSC00012
合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
DSC00016
「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
DSC00055
本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

DSC00076
 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

 
Ⅰ大野原八幡神社
明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』です。ここには約120年前の大野原の八幡神社が描かれています。神社の建物、玉垣、石垣等の配置がよく分かりますが現在とあまり変わらないようです。本殿の後ろに碗貸塚古墳があるのですが、それを書き手は意識しているようには見えません。古墳の開口部のあたりを見ると、土塀巡らされて、石垣の中央部には縦長の巨石があるように見えるのが、今とちがうところでしょう。
この図中には「椀貸塚ノ縁由」として、次のように記します。

「相傅ノ昔 塚穴二地主神在リテ 太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」

 ここからは「椀貸伝説」とともに、横穴(古墳石室)が「奥の院」として神社の聖域とされ、人々の信仰を集めてきたことが分かります。椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られてきたために、近世の大野原開発の際にも破壊を免れたと言えます。しかし、無傷で残っているのではないようです。古墳と現在の建築物等の関係はどうなっているのか、測量図をみながら再度確認しておきましょう。
1碗貸塚古墳1
碗貸塚古墳の地形測量図

碗貸塚古墳の測量図を見て分かることを挙げておきます
①大型円墳で、直径37.2m、墳丘高は9.5mの盛土築造である。
②墳丘周囲には二重の周濠と周堤がある。内濠と周堤の幅はほぼ同じで約8m。
③周濠を含めた墓域の直径は70mあり、その占有面積は約3,850㎡。
④石室は両袖式の大型横穴式石室。羨道十前室十玄室(後室)複室構造。
⑤石室規模は全長14.8m、玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m 玄室高3.9m、玄室床面積24.6㎡。玄室空間容積は72.7㎡で、全国規模の容量をもつ。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
⑧東側には、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑨墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、

測量図を見ると、東側も応神社と小学校の校庭として後世に削られていること。また北側の周壕は。慈雲寺墓地となっていることが分かります。
大野原古墳群調査報告書Ⅰ」は、新たな発見として周堤・周壕をもつ古噴であったことを挙げています
中期古墳の前方後円墳では、伝応神陵や伝仁徳陵のように外堤がめぐり、水をたたえている姿をすぐに思い出します。大型の前方後円墳と周壕は、セットとして私たちにインプットされています。しかし、古墳後期になると外堤は姿を消していきます。逆に、古墳後期の大型円墳に周堤があるのは珍しくなるようです。数少ない周堤を持つ大型円墳に共通するのは、国造クラスの各地域の最有力者の墓に用いられているのです。椀貸塚古墳は、巨大な石室と周堤を持ちます。さて、どんな人物が葬られたのでしょうか?
  碗貸塚古墳の復元イメージは、こんな姿になるようです
1碗貸塚古墳2
 椀貸塚古墳は、複室構造の横穴式石室で、これは九州に系譜がたどれるようです。また周堤をもつ大型円墳は豊前や日向に多いようです。ここでも三豊の古墳は、九州との関係を濃密に漂わします。
復元イメージ図から私がすぐに思い出したのは、下の日向の西都原古墳群の鬼の舌古墳です。

1鬼の窟古墳
西都原古墳群の鬼の舌古墳

 こんな古墳が30年おきに3つ大野原の扇状地台地に並んで作られたのです。これは近くの南海道を通る人たちや瀬戸内海をゆく船からも見えたようです。まさに、三豊の新しいモニュメントだったのです。
1周堤古墳

この時期の後期首長墓で周堤をもつ古墳は、九州の西都原古墳群の大型横穴式石室を持つ206号墳のように国造クラスの抜きんでた首長の古墳に限定されます。そこから大野原の首長は「四国地域の大物」よ想定できるようです。

1大野原古墳 比較図

  碗貸塚古墳の次に作られたのは、平塚・角塚のどちらなのでしょうか? 報告書は次のように記します。
「玄室側壁の石積みの段数の変化では、椀貸塚古墳5段→平塚古墳4段→角塚古墳1段となり、段数の減少傾向が認められ、同時に使用石材の巨石化と壁面の平滑化が進行している。」

築造順を「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」としています。

さらに、大野原古墳群のモデルになったのは母神山錐子塚古墳で、それを継承していると研究者は考えているようです。
それでは平塚から見ていきましょう。
 平塚は、八幡神社の御旅所で祭りの舞台にもなります。そのために神輿台や参拝道が作られ封土が削られて薄くなり、石室へ水が浸入しているようです。

1大野原古墳 平塚
①直径50.2mの大型円墳
②墳丘高は現状値で約7m。
③墳丘周囲には幅8.4mの周濠が廻り、それを含めた直径66.7m、その占有面積は約3,490㎡。
④墳丘の大部分は盛土で築造れ、段築・葺石・埴輪は見られない。
⑤両袖式の大型横穴式石室で、玄室の下半1/3程度は流土で埋没。石室規模は、全長は13.2m、玄室長6.5m、玄室最大幅3m玄室高2.6m、玄室床面積18.3㎡、玄室空間容積41.3㎡
次に角塚です。この古墳はその名の通り方墳であることが分かりました。
昭和30年頃に撮影された航空写真では円墳に見え、現在の噴丘表面の大部分は昭和の造成で作られたものであるため方墳か円墳か分かりませんでした。報告書はトレンチ調査から次のように方墳と判断しています。
①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長ヱ4mの規模であり、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳であること
大野原の3つの古墳群の特徴は、何なのでしょうか?
報告書は次のように指摘します。
「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

さらに、次のような点を挙げます。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
どちらにしても、6世紀後半から7世紀前半にかけて椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と順番に首長墳が築造した大野原勢力の力の大きさがうかがえます。中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に、大野原を拠点とする勢力は讃岐という範囲に留まらず、四国地域内においても突出した存在であったようです。

それでは、大野原の地に巨石墳が築造された理由は、なんなのでしょうか?
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。その中で椀貸塚は、三豊平野史上はじめての「統一政権の誕生」を記念する記念碑です。広い意味では、5世紀後半の各地の豪族統合のシンボルとして出現する各平野最大の前方後円墳と同じ意味を持つと考えることも出来ます。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示する政治的意味があったのかもしれません。
 大野原3墳には、畿内文化の介入や畿内政権のコントロールがあったと研究者は考えています。その痕跡は、椀貸塚の後に造られた平塚に現れます。ここからは、統合は三豊平野北エリアの豪族連合が進めたものですが、平塚築造に先立ってヤマト政権によってコントロールされていたというのです。それは、有力墓と中位クラス墳、下位クラス墳の区分表示からも分かるようです。ここからは三豊平野の豪族達は、ヤマト政権の身分制度下に組み入れられていたことがうかがえます。それを研究者は「三豊平野の豪族の統合による統一政権は、畿内政権を中枢にした中央政府の三豊支部に位置づけられる」と表現します。

四国最大規模の巨石墳群としての大野原古墳の他地域へ与えた影響は?
 讃岐で最初に横穴式石室を導入したのは観音寺市の有明浜の丸山古墳です。しかし、それに続く盟主墳は横穴式石室を採用していません。それが築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期に、重なるように横穴式石室墳が再び姿を見せます。この時期の石室は、それぞれが特徴的で個性的な様式でモデルがなかったようです。石室用材は小形で、玄室床面積も10㎡を超えるものはありません。

1大野原古墳 比較図

 それが母神山の瓢箪塚古墳に続く盟主墳の錐子塚古墳になると大型横穴式石室が採用されます。
複室両袖型石室で、玄室床面積は12㎡を越え、玄門部と羨道部に立柱石を内側に突出させて配置するタイプです。このタイプの石室が大野原古墳群に引き継がれていきます。そして、使用石材の大型化、前室と羨道の一体化と連動した羨道規模の長大化などの流れができあがります。こうして、「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」の変化の中で作られた様式が讃岐各地の石室に導入されていったと研究者は考えているようです。
 例えば、国府が築かれる綾川下流域の以下の古墳には、大野原古墳群からの影響がうかがえます。
痕跡化した複室構造の新宮古墳
前室と羨道は一体化するが羨道天井部を一段下げて高架した綾織塚古墳
新宮古墳や綾織塚古墳を経て、醍醐2号墳で「完成形」に至るのですが、それは大野原古墳群がたどったルートと同じです。このように讃岐各地の大型石室墳は、大野原の石室がモデルになっていると研究者は考えているようです
 また築造された当時は、椀貸塚、平塚は讃岐最大規模石室をもつ古墳でした。角塚古墳の築造段階も、この大きさの石室は他にはなかったようです。このように「讃岐における横穴式石室の構築、なかでも大型石室墳の構築は大野原古墳群が主導」したと評価することができるようです。
 ところが7世紀後半になると大野原勢力の活動が低調化します。
 確かに南海道が通過し、柞田駅や柞田郷の設置され、古代寺院である青岡大寺(安井廃寺)が建立されます。しかし、それまでのように讃岐の他地域に比べて突出した存在ではなくなります。
対照的に三豊北部の三野郡には、活発な活動を示す勢力が現れ、輝きを増していきます。四国最初の古代寺院・妙音寺を建立する勢力です。この勢力は妙音寺の岡の下を流れる二宮川流域を勢力としてした集団で、畿内型横穴式石室を持つ延命古墳を築いた後は、いち早く古代寺院建立に着手します。その際に必要な瓦生産を開始した宗吉瓦窯跡は、その後藤原宮瓦の生産を始め、官営工房としての役割を担うとともに、今は丸亀平野の池の中に塔石だけが残る宝憧寺にも提供するようになります。

1三豊の古墳地図
 つまり、大野原の勢力が角塚という末期古墳の築造を行っていたときに、三豊北部の勢力は古代寺院の建立を始めていたのです。
それだけではなく中央政府の技術支援を受けて、最新鋭「宗吉瓦」工場を三野に誘致し操業を開始し、藤原京に送り出すという国家事業にも参加していたことになります。こうして見ると7世紀後半の「大化の改新」から「壬申の乱」に架けての時期に、三豊の中心は大野原から笠田・三野に移ったようです。蘇我氏へのクーデター、壬申の乱における天武派と天智派の対立などが地方政治にも影響を及ぼしたことが考えられますが、これ以上の深読みは控えておきましょう。

参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15



         
1高屋神社
            
 観音寺市は讃岐の西の端で、西に燧灘が開けています。古代は、その海から稲作も伝えられたようです。室本遺跡出土の「鋸歯重弧文壷」等からは、弥生時代の籾後がついた壺も出土しています。
 有明浜に上陸した弥生人は、財田川やその支流の二宮川などの流域に遡り、稲作農耕を初め集落を形成し、青銅器祭儀を行うようになります。
観音寺地区の青銅祭器分布を、見てみると次のようになります。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
ここからは、銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」がそろっているのが分かります。こんな地域は全国でも、善通寺と観音寺くらいで、非常に珍しい地域のようです。北エリアには3種の祭器を用いる3種の祭儀集団がいたことがうかがえます。
もうひとつは、青銅器が出ているのは柞田川の北側のエリアで、南側の大野原エリアからは見つかっていないことです。
さて、これらの集団の関係は「対抗的」か、「三位一体的連合体」の、どちらであったのでしょうか?
これを考えるために善通寺市の様子を見てみましょう。
善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土し、出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。
我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。
 同じように三豊平野中央部北エリアにも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルが異なる3集団があり、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成して行ったと推測できます。
 一方、柞田川の南側の大野原エリアは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。ここでは、祭器を持たず北エリアに従属する集団があったようです。つまり、三豊平野では進んだ北側、遅れた南側(大野原)という構図が描けるようです。
   
 観音寺で最初の古墳は、鹿隈錐子塚古墳(高屋町)のようです。
  近年の考古学は、卑弥呼後の倭国では「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた、その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められたと考えるようになっています。国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けてヤマトや吉備を中心とする各勢力は手が結び、同盟下に入ります。讃岐に作られた初期の前方後円墳群は、その同盟に参加した首長達のモニュメントとも言えます。それは津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せます。中期になると平野を基盤にした豪族諸連合の統合が成立したことを象徴するように、各平野最大の前方後円墳が築造され、その後は善通寺市域を除いて前方後円墳の築造は終わります。前方後円墳は豪族の長の墓として始まり、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わると研究者は考えているようです。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、初期や前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
   三豊では前方後円墳は古墳中期になって登場するのです。遅い登場です。
1青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が築造されるのは、青塚古墳です。
一ノ谷池の西側のこんもりとした鎮守の森が青塚古墳の後円部です。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、現在でも地域における「祭祀センター」の役割を果たしているようです。墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m/長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、前方部は失われました。後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡ていました。幅1.2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在しています。

青塚古墳測量図
青塚古墳
 この青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。発掘調査がおこなわれていないため、埋葬施設は不明です。しかし、縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者が大和志向でなく、九州の勢力との密接な関係があったことをうかがわせます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと思われます。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺の有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
この古墳は初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在が見えてくるようです。 

古墳後期に入ると北エリアの母神山に前方後円墳・瓢古(ひさご)塚古墳が現れます。

母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳
前方後円墳の瓢箪(ひさご)塚古墳と、円墳の鑵子塚古墳
この古墳も青塚古墳と同じように周濠(幅3~4m)を巡らし、墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lmの規模で、同時期の首長墓とされます。母神山で唯一の前方後円墳です。埋葬施設は不明ですが、同時期の善通寺市の王墓山古墳のような横穴式石室を持っているのではないかと研究者は考えているようです。周濠からは一般的な円筒埴輪のほが須恵質の円筒埴輪や須恵器片などが出土しています。位置的にも青塚古墳に近接するので、青塚古墳の首長権を継承するリーダーのものと研究者は考えているようです。
つまり、三豊平野においては、古墳中期になって青塚 → 瓢箪塚と続く前方後円墳群が形作られていたと考えられます
  母神山は、その名の通り母なる神の山で、祖霊の帰る山として信仰を集めていたようで、6世紀前半になると、50基を超える古墳群が作られ、県内屈指の後期古墳群になっていきます。
   そのような古墳群の中に、6世紀後半には円墳の錐子(かんす)塚古墳が築造されます。
  この古墳は「総合運動公園」のスポーツ・グラウンドに隣接する公園の中に整備・保存されています。梅の時期には、良い匂いが漂います。前方後円墳のひさご塚から200mほどしか離れていませんので、ひさご塚と同一の首長系列に属する盟主墳と見られ、6世紀後半の築造と考えられています。
 径48m/高さ6.5mの円墳で、全長9.82mの両袖型横穴式石室が南に開口していますが、入口は鍵がかかって入ることは出来ません。羨道・前室・玄室を備えた複式構造ですが前室は形骸化し、羨道[長さ1.2m×幅1.45]、玄室[長さ5.6m×幅2.55m×高さ3.2m]です。何回かの盗掘を受けていますが、出土遺物は豊富です。金銅製単鳳環頭太刀柄頭1、鞘口金具1、三葉環頭柄頭1、鍔1、鉄刀2、銅鈴6、飾り金具4、刀子1、鋤先1、鉄鏃・玉類・須恵器などです。
 石室については前室に短い羨道がつけられる構造であり、その祖形は山口県防府市の黒山三号墳に求められるようです。石室全体は「端整に構築され美しささえ感じられる」と研究者は云います。この石室こそが讃岐の後の横穴式石室のモデルになったと研究者は考えているようです。以上をまとめておくと
①三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
②三豊平野では前方後円墳の築造は、他地域よりもワンテンポ遅れて中期に始まる
③善通寺と同じテンポで後期に入っても前方後円墳を築造し続ける。
④6世紀中葉になって、前方後円墳は終了し、それを継いで横穴式石室を持つ円墳の築造が始まる。
⑤それが母神山・鑵子塚古墳
鑵子塚古墳は、後期の母神山古墳群へと継承されていくことになります。
前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、三豊平野の北エリアの豪族長の墓域は、母神山から動くことはなかったようです。しかし、この古墳に続く首長墓は、母神山からは姿を消します。そして、墓域は柞田川の南エリアである大野原に移ります。これは三豊の盟主拠点が母神山周辺から大野原に移動したと考えられます。「三豊における政権交替」としておきます。
錐子塚の次の盟主墓は、南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。
三豊の大型石室をもつ後期古墳は、次の順で築造されたとされます。
母神山錐子塚 → (大野原へ移動) → 椀貸塚 → 平塚 → 角塚」

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
 最初に作られた椀貸塚は、玄室の規模が、玄室長6.8m、最大幅3.6m、最大高約3.9mもあり、床面積は22.3㎡、容積では約80㎡になります。これを四国内の古墳と比べると、母神山錐子塚クラスが床面積10~12㎡程度で、碗貸塚は、倍の規模になっています。畿内中枢部の横穴式石室と比べて見ても床面積では、奈良見瀬丸山古墳(約30㎡)、石舞台古墳(27㎡)、吉備地域では例外的に巨大な横穴式万石室であるコウモリ塚占墳(28㎡)など、遜色がないことが分かります。

1大野原神社
 江戸時代初期の開墾が始まって間もない正保2年(1645)の『大野原開墾古図』です。古図の中心部には大野原八幡神社とその背後に描かれているのが椀貸塚古墳です。こんもりとした墳丘とそれを取り巻くような周濠らしきものが見えます。これが、紙資料で確認できる椀貸塚の初見のようです
 40年後の貞享2年(1685)の『御宮相績二付万事覚帳』に神社の修理を行った時の記録が残されています。その中の「地形之覚」には神社を拡張したことが次のように記されています。
「‥拾三間四尺 但塚穴の口きわより玉垣のきわまで 今までは塚穴石垣きわより玉垣まで拾弐間弐尺」、
「一 塚穴二戸仕ル筈・・」
「一 塚穴之左者廣ケ石垣も仕筈」
「一 右両方之堀り俎上者塚之両脇又者馬場の両脇小塚ノ上取申筈」
とあり神社にある塚穴=椀貸塚古墳の当時の状態がうかがえます。
「古今 讃岐名勝圖綸』にも次のような記載があります。

八幡幡社 大野原八幡宮の社後椀貸穴の上にあり 一説に或内なる於社なりと云いかか走手侍。」
「塚穴十一と其塚説 相傅此地開拓の時百七十蛉ある中今中の残るは柘貸平塚角塚豆塚。傅口椀塚は地主神を太子殿と称し穴へ入者なし 村人椀を得んことを乞へは倍せり 一時中姫人此塚上に在す感神祠に用あり食叛吾悉皆借て事足せり後に村人借て一箸を失せり 夫より止と云営時開墾の時此穴に入る人あり 神人告て八幡を祭れと依て 此穴を奥の院と云。」

意訳変換しておくと
 大野原八幡宮の社は、椀貸穴塚古墳の上にある於社は、どんな由緒があるのか?」
「塚穴十一と其塚説について、伝え聞くところによると、大野原開拓の時には百七十もの古墳があった。それが(開拓で消滅し)、今残っているのは碗貸塚・平塚・角塚・豆塚だけである。椀貸塚は、その地主神を太子殿と呼んでいて、その穴へ入る者はいない。村人はお椀などが必要な時には、地主神にお願いしてお借りする。ある時に、中姫の住人がこの塚上にある感神祠で食事の際に、碗など一式を借りたことがある。村人が碗などを借て一箸を亡くしてしまって以後は、この風習もなくなったと云う。開墾時代に、この穴に入った人が「八幡を祭れ」という神の声を聞いた。そこで、八幡神を古墳の前に祀ったので、この穴を奥の院と云う。」

  ここには「椀貸伝説」とともに、大野原開墾の際に古墳の横穴石室に入った人に「神人告て八幡を祭れ」「此穴を奥の院と云。」と記されています。横穴が「奥の院」として神社の聖域とされ人々の信仰を集めてきたことが分かります。それが後世になって、八幡神が勧進されて、奥に追いやられたようです。今も椀貸塚古墳は、大野原八幡神社の本殿の後に神域として祀られています。

 明治時代の資料には、明治35年(1902)の『香川県讃岐國三豊郡大野原村 鎮座郷社八幡神社之景』があり
神社の建物、玉垣、石垣等の配置が詳細に描かれています。椀貸塚古墳の開口部の付近は、土塀が設けられ、石垣のほぼ中央部には縦長の巨石が存在しているが現在と異なる点です。この図中には、次のように記されています。

「椀貸塚ノ縁由」として「相傅ノ昔塚穴二地主神在リテ太子殿卜云フ 神霊著シキヲ以テ庶テ穴二入ルモノナシ・・」

意訳変換しておくと

「椀貸塚の縁由」として「伝え聞くところに由ると、塚穴には地主神が居て、太子殿と云う。神霊が強く、そのため人々は横穴に入ることはない


1碗貸塚古墳1

調査報告書の碗貸塚古墳の測量図は、いろいろなことを教えてくれます。分かることを挙げておきます
①碗貸塚古墳の横穴石室自体が「奥の院」とされ、信仰対象となっている。
②墳丘南側には大野原八幡神社の本殿、東側には応神社が設けられ、墳丘は開削されている。
③東側も応神社と小学校の校庭として削られている。
④墳形・規模直径37.2mの円墳で、外周施設として二重周濠と周堤があった。それを含めると範囲は径70mになり、占有面積は約3,850㎡の大きな古墳だった。
⑤碗貸塚古墳の東に、後から作られた岩倉塚古墳がある。
⑥表面観察では葺石や段築は確認できない。
1碗貸塚古墳2
  復元するとこんな姿になるようです。どこかでみたような姿です・・・
 
1鬼の窟古墳
宮崎県西都原古墳群 鬼の窟古墳
西都原でみたこの古墳が思い出されます。どちらにしても、ここに3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
それでは最後に、母神山から大野原に連綿と首長墓を築き続けて来た古代豪族は?・
大野原古墳群の被葬者像については、紀氏が想定されてきました。
周辺に「紀伊」「木の郷」の地名が残り、また『和名抄』に刈田郡紀伊郷や坂本郷(紀氏と同族の坂本臣との関係)が記されているからでです。そして、紀氏は、紀伊や和泉から西方、阿波や讃岐にひろく分布を広げていて、瀬戸内海の南岸ルートを押さえた豪族ともされます。
 大野原古墳群の最後の巨石墳墓である角塚古墳の被葬者が埋葬されたのち、孝徳朝の立評により刈田評が成立したというのが定説で、その子孫が評督、さらに郡領になったと研究者は考えているようです。その段階の紀伊氏の拠点は大野原古墳群から1km東北にあたる青岡廃寺の周辺にあったと推測されています。
次回は大野原の3つの巨石墳を見ていくことにします。
  
参考文献 大野原古墳群Ⅰ 観音寺遺跡発掘調査報告書15
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   前回は3世紀後半に前期の前方後円墳を積石塚で造営した坂出周辺の次の3つの勢力を見てきました。そのうちの
①金山勢力(爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳)
②林田勢力(坂出平野北東)
の集団は,5世紀になると前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,小規模古墳しか造れなくなっていることが古墳編年表からも分かります。その背景には、ヤマト政権の介入があったのではないかと考えらることを紹介しました。
 かつては「前方後円墳」祭儀を通じて同盟者であった綾川周辺の首長達の子孫は、ヤマト政権からは遠ざけられ勢力をそぎ取られていったのです。これは西日本においては、よく見られる事のようです。
 さて、かつての首長達に替わって勢力を伸ばす集団が現れます。新興勢力の新たな首長は6世紀後半頃には、前方後円墳の築造をやめて、大型横穴式石室の築造を始めます。これを古墳編年表で確認すると大型横穴式石室を築造した地域は,5世紀後半に有力古墳を築造した地域とは重ならないことが分かります。改めて「勢力交替」が行われたことがうかがえます。新たなリーダーとなった3つの勢力を見ておきましょう
坂出古墳3

  平野南西端部の勢力は、
白砂古墳から新宮古墳まで有力古墳を,4世紀から6世紀にかけて一貫して造り続けています。この集団が最も強い勢力をもち,坂出平野における指導的地位を持っていたと考えて良さそうです。
 平野南西部の勢力は、
4世紀には勢力が弱かったのが、王塚古墳の時期(5世紀後半頃か)以降になって勢力を伸ばし,大型横穴式石室をもつ醍醐古墳群を作り上げます。巨石墳を集中的に築造した6世紀末頃から7世紀前半にかけて大きな力を持っていたようです。
 平野南東端部の勢力は,
弥生時代後期から墳墓を築造していたようですが、4世紀から6世紀中頃までは勢力は強くありませんでした。それが6世紀末になって穴薬師(綾織塚)古墳を築造し,勢力を強化したようです。
坂出古墳編年
 これに対して,平野北東部(雌山周辺)に古墳を築造した集団は、4世紀には積石塚の前方後円墳を築造し勢力を保持していたようですが、5世紀以降になると徐々に勢力を失い、6世紀末以降には弱体化しています。

羽床盆地の古墳
坂出周辺部の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。このため国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
羽床古墳編年
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力に併合されたと研究者は考えているようです。

国分寺の古墳
 国分寺町域は、4世紀前半頃に小さな前方後円墳が築かれますが,先ほど述べたように快天山古墳を代表とする羽床盆地の勢力に併合され,古墳の築造がなくなります。
 以上をまとめると,阿野郡では6世紀末頃には坂出平野南部に大型横穴式石室を築造した三つの集団が勢力をもち、全域を支配領域としていたと研究者は考えているようです。注目しておきたいのは、これはヤマト政権における蘇我氏の台頭と権力掌握という時期と重なり合うことです。
綾川周辺の三つの集団は,7世紀中頃以降になると古墳を造ることをやめて,氏寺の建立を始めます。
平野南西端部に古墳を築造した集団は7世紀中頃に開法寺
南西部に古墳を築造した集団は7世紀末頃に醍醐廃寺
南東端部に古墳を築造した集団は7世紀後半に鴨廃寺
この三つの寺院は奈良時代にも存続していますから奈良時代にも勢力をもっていたことが分かります。
れでは綾川周辺に巨石墳を造り、氏寺を建立する古代豪族とは何者でしょうか?
  文献史料見る限りに,7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しかいません。
  これについては
  ①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが,その中の一つの氏族だけが残ったとする解釈
  ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 の2つが考えられます。
 三つの集団のそれぞれが建立した開法寺,醍開醐廃寺,鴨廃寺については綾南町陶窯跡群で瓦が一括生産され,各寺院に配布されています。このことは,綾南町陶窯跡群の経営管理権を,これら3寺院を建立した集団が持っていたことがうかがえます。
 また、この三つの集団は綾川周辺の約3km四方ほどの狭い地域に近接して古墳群(墓域)を営んでいました。坂出平野の中で近接して居住していたため,日常的に密接な交流があったことがうかがえます。そうした関係を背景にしておそらくは婚姻関係を通じて,綾氏として一つの擬似的な氏族関係を作り上げていたと考えられます。6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地,国分寺地域へも勢力を拡大し,その領域が律令時代に阿野郡と呼ばれるようになったというストーリーが描けそうです。
   以上のように、綾氏は坂出平野南西端部(新宮古墳)に古墳を築造した集団を中心として,平野南部に三つの古墳群を築造した集団からなり,古墳時代初期まで系譜をたどることができることになります。さらに,平野東南端部の方形周溝墓は,弥生時代後期まで系譜が遡る可能性もあります。そうだとすれば,綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく,この地域で成長した氏族だといえます。
 綾川河口の綾氏の成長を古墳から見てきました。
ここまでやって来て気づくことは善通寺の佐伯氏との共通する点が多いことです。佐伯氏も中村廃寺と善通寺のふたつの氏寺を建築しています。接近して建立されたふたつの古代寺院は謎とされますが、佐伯氏という氏族の中の「本家と分家」と考えることも出来そうです。同じく時期的に隣接する王墓山古墳と菊塚古墳の関係も、佐伯氏の中の構成問題とも考えることもできます。

こうして、綾川流域を支配下に治めた綾氏は大束川河口から鵜足郡方面への進出を行い、飯野山周辺へも勢力を伸ばしていくことになります。同時に、讃岐への国府設置問題においても地理的な優位性を背景に、自分の勢力圏内に誘致をおこない、讃岐の地方政治の指導権を握ったのかもしれません。さらに、白村江敗北後の軍事的緊張の中で造営された城山城建設にも中心として関わっていたかもしれません。そのような功績を通じて綾川上流に最新のテクノロジーをもつ須恵器・瓦の大工場を誘致し、その管理・運営を通じてテクノラートへの道も切り開き、在郷官人としても活躍することになります。
 そして、平安末期からは武士化するものも現れ、讃岐最大の武士団へと成長していきます。それが香西・福家・羽床など一門は、出自は綾氏と信じられていたのです。そこに「綾氏系譜」が作られ、神櫛王伝説が創作され、一門の団結を図っていこうとしたのでしょう。どちらにしても綾氏は古代から中世まで、阿野郡や鵜足郡で長い期間にわたって活躍し一族のようです。
参考文献
渡部 明夫      考古学からみた古代の綾氏(1)    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



 考古学の発掘調査報告書は、私のような素人には読んでも面白みがないことが多いのですが、積み重ねられた発掘から明らかになった材料を組立って、今までになかった世界をひらく論文が出てくることがあります。戦後の考古学は、文献史料ではなしえなかった日本の古代史の書き換えをせまる「証拠」を突きつけてきました。古墳などの編年調査が進むにつれて、古墳をして讃岐の古代史を語らせる研究が発表されるようになっています。今回は、古代の阿野郡の古墳から古代豪族綾氏にせまる研究を紹介します。
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上の地図を見ると、綾川下流域の平野部周辺に約100の古墳が分布します。
坂出古墳3

その中でも特に密集度が高いのは,
①城山東麓の西庄町醍醐~府中町西福寺(平野南西部)
②蓮光寺山西麓の加茂町山ノ神(平野東南端部)
③雄山の東・南麓を中心とした高屋町から大屋富町・青海町にかけて(平野東北部)
のエリアで規模の大きな古墳群があるのが分かります。
  古墳の密集地に有力な古代豪族がいたことは推察できますが、この分布図だけでは歴史的な流れは分かりません。これらの古墳相互のいつ頃作られたのか、そして築造順番はどうなのか歴史的な「縦」のつながりを見ていく必要があります。それがこの坂出市周辺の編年表です。
坂出古墳編年
  この表は横軸がエリア、縦軸が築城年代順に区分けされたものです。例えば坂出エリアでⅠに属する最も古い古墳は、北東部(林田周辺)の雌山2号墳・南西部の白砂古墳、そして鵜足郡との境(金山トンネル東)にある爺ケ松古墳となります。坂出エリアに最初に古墳を作り上げた勢力は、この3つのエリアを拠点にしていたことがうかがえます。
これらの古墳の築造年代はいつ頃になるのでしょうか。
(1)香川県の古墳編年の基準は?
I期
出現期の古墳で、前方後円墳は前方部がバチ状に広がり,持送りの顕著な長大な竪穴式石室,舶載鏡のみをもつことをなどが特徴。3世紀末前後の古墳。
Ⅱ期
彷製鏡,碧玉製腕飾類,刳抜式石棺の出現期の古墳。時期は4世紀前半頃。
Ⅲ期
円筒埴輪回,彷製鏡,碧玉製腕飾類,刳抜式石棺などを特徴とする古墳。時期は4世紀中頃
Ⅳ期
Ⅲ式の円筒埴輪,滑石製模造品,長方板皮綴式短甲などをもつ古墳。時期は5世紀前半頃。
Ⅴ期
須恵器,眉庇付冑,三角板鋲留式短甲,三環鈴などをもつ古墳。時期は5世紀後半頃。
Ⅵ期
K10型式の須恵器をもつ古墳。香川県では横穴式石室の出現期にあたる。時期は6世紀前半Ⅶ期: 横穴式石室を内部主体とする群集墳,時期は6世紀後半~7世紀初頭頃。
Ⅷ期
TK217 ・ TK46型式の須恵器をもつ古墳。時期は7世紀前半~中頃。
以上のように埋葬品の土器や装飾品、武器、埋葬施設などによって8期に分類されています。
坂出古墳1
それでは、この「古墳編年表」で一番最初に姿を現した前方後円墳はどれになるのでしょうか。
Ⅰ期の前方後円墳は3つあります。


先ずやって来たのは国道11号バイパスの金山トンネル東側の奥池です。この上に坂出地区で最も古い前方後円墳・爺ゲ松古墳があります。この古墳は、古代の阿野郡と鵜足郡の境界であった城山と金山の間の低い鞍部に位置します。そのため拠点が阿野郡にあったのか、鵜足郡にあったのかよく分かりません。しかし、現地に立ってみると視界が広がるのは東方面の阿野郡です。そして瀬戸内海も見通せます。瀬戸内海の交易・防衛に関わった勢力が最初に作り上げた前方後円墳なのかもしれません。
爺が松古墳.2jpg
爺が松古墳の縦穴式石室
 この古墳は積石塚で、全長は49.2mで、盛り土で築造した前方部はバチ状に広がるとともに,大きな持送りが顕著な竪穴式石室で、古式の形態を示していて前期古墳の特徴を表しています。
 この古墳と同時進行で作られていたのが、善通寺の大麻山の頂上近くの野田院古墳です。
nodaonoinn 00019019
善通寺勢力は爺ゲ松古墳と同じように前方部は盛土、後円部は積石塚というスタイルで前方後円墳を登場させています。ここからは、坂出や善通寺の勢力が大和や吉備を中心に作られた「前方後円墳」同盟に参加していたと同時に、讃岐の独自性を主張していると研究者は捉えているようです。
meyama unnamed
 平野北東部林田町の雌山山頂部にある雌山2号墳も
後円部を積石で,前方部を盛土で造した積石塚の前方後円墳です。これも前方部がバチ状に広がることから爺ケ松古墳とほぽ同時代のものとされます。
 平野南西端部の城山東麓に立地する白砂古墳は,
大きな後円部に短くバチ状にひらく前方部をもつ前方後円墳で、奈良県の石塚古墳に似ていることからI期のものとされています。
  坂出地区の1期に属するこれらの3つの前方後円墳は、重要な意味を持ちます。考古学者達が考えている背景を簡略化して示すと次のようになります。
①卑弥呼死後の3世紀後半以後、初期前方後円墳が西日本で一斉に姿を現す
②これは「前方後円墳」祭儀を通じて、各地の首長等が同盟関係に入ったことを意味する
③その本部はヤマト(纏向遺跡?)に置かれた。
④ヤマトは吉備等の瀬戸内海の諸勢力と連合し、瀬戸内海通航を支配下に置く
⑤ヤマトは朝鮮半島に進出し、鉄の交易権をにぎり勢力をる
⑥ヤマトは同盟国であった吉備を弱体化させ、自己の勢力をさらに伸ばしていく。
つまりⅠ期の前方後円墳に眠る首長達は、①②③④に関わった可能性があると言うことになります。「前方後円墳」という舞台の上で、首長霊の交替儀礼が行われたのでしょう。爺ケ松古墳の首長も吉備勢力やヤマト勢力と結び、人と物の交流を行うと同時に、目の前の備讃瀬戸の「安全保障」を担当していたのかもしれません。
 そういう中で、この同盟関係にはどちらかというと積極的には関わらない勢力がいました。
石船積石塚石清尾山古墳群 前方後円墳
それが高松の峰山の勢力です。ここには周囲が「前方後円墳祭り」を取り入れた同盟に参加するのに、頑なに独自の墳墓スタイルを守ろうとします。これに対して、ヤマト勢力は周辺部に自己勢力を「培養・育成」して包囲網を形成して、追い落としにかかっていきます。また津田湾には配下の船団・軍団を送り込み「ヤマト直属海軍」勢力の拠点を築きます。それらの子孫は、後には内陸部に入り開発を進め富田茶臼山古墳を築くことになります。
 話がそれてしまったようです。もう一度、坂出の古墳編年表を見てみましょう。
坂出古墳編年
1期に前方後円墳が出現したエリアはⅡ期(4世紀前半)にも、引き続いて前方後円墳を築造しているのが分かります。

 爺ケ松古墳の上のみかん畑の丘の上には、積石塚のハカリゴーロ古墳が築かれます。
竪穴式石室から邦製内行花文鏡,定角式鉄鏃を出土しています。この古墳は国道11号バイパスの奥池から集落の間を抜けて北へ登った鞍部から右のみかん畑の中の道に入り、そのまま稜線を辿っていくと山頂部にあります。いまはほとんど人が近づかず、全面をイバラやツタがおおって、説明を受けなければ古墳と分かる人はいないでしょう。
ハカリゴーロ(積石塚)古墳saginokuchi
 この古墳は前方部、後円部ともに積石で構築された全長約42㍍の前方後円墳で、標高約125㍍の尾根上あり、前方部は西を向いているようです。築造時は海の方も見えたのかもしれませんが、今は視界は開けません。

ハカリゴーロ(積石塚)古墳100224-053
後円部に東西主軸の竪穴式石室があります。石室は半壊の状態ですが安山岩の板石、割石を積みあげて築かれていて、床面には粘土が敷かれていました。墳丘は採石の被害によって後円部の一部が変形しています。石室西側の小口付近から一内行花文鏡と鉄鏃が出土しており、坂出市郷土資料館に保管されています。

 また,平野北東部の雌山山頂部では方墳(雌山1号墳),円墳(雌山3号墳)の2基の積石塚が築造されます。しかし、前方後円墳はここにはなく、雌山の東北にあたるスベリ山に経の田尾1号墳が築造されています。

坂出古墳2
             
 一方,城山の南に連なり,鵜足郡との境をなす横山の尾根上には積石塚の前方後円墳である横山経塚1号・2号墳が築造されるようになります。
前方後円墳は先ほども言いましたが首長交代の最高儀式の舞台でしたので、首長だけに築造が許可された地位シンボルの役割も果たしました。4世紀前後の坂出には3つの勢力があり、それぞれが前方後円墳を築き始めたことになります。
ところが編年表を見るとⅢ期(4世紀中頃)には爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳の後に続く古墳がありません。
古墳の築造は北に移動し常山の西丘陵上に、盛土の前方後円墳である川津茶臼山(蓮尺茶臼山)古墳に移ります。この古墳は墳丘は、積石塚からヤマト風の盛土様式に変化し、彷製三角縁三神三獣鏡などの出土したと伝えられますが今は破壊されてしまいました。また,聖通寺山の北端の積石塚の円墳(聖通寺山古墳)は,5世紀に下る積石塚がみられないことからⅢ期のものとされます。
 初期の前方後円墳である爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳には、後続の古墳がないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? 以上をまとめると次のようなります
①坂出の前期前方後円墳は、積石塚で4世紀を中心に築造され,遅くとも5世紀前半には姿を消している
②積石塚のもつ地域色は、被葬者の地域的主体性の反映と考えられる
③坂出北西部では積石塚の聖通寺山古墳・土盛の前方後円墳である川津茶臼山(蓮尺茶臼山)古墳・田尾茶臼山古墳からなる有力な古墳群が5世紀初頭頃に終了している
以上から「その頃に首長層の地域的主体性が大きく制限されるような政治的変化」があったと研究者は考えているようです。もう少し分かりやすく説明すると「積石塚」という様式は「ヤマト」の盛土様式に対して「独自的・在地性」を主張するものであり、政治的にはヤマトに対しての「一定の独自性をもった同盟者」を自認していた讃岐の首長達のこだわりを表すものだと考えているようです。ヤマト政権にとっての課題は、これらの同盟者を「臣下」にしていくことでした。
 先述したように高松の峰山勢力を駆逐した後は、坂出の新興勢力を支援し、独立性を保とうととする金山勢力や雌山勢力に圧迫を加える外交政策をおこなったのかもしれません。これを「首長層の地域的主体性が大きく制限されるような政治的変化」と研究者は考えているようです。
 これはかつての同盟者である吉備への政策とおなじです。そのようなヤマト政権の外交政策の転換を見抜き、柔軟(従順)に対応したのが善通寺勢力だったのではないかと私は考えています。善通寺勢力は、最初の野田院古墳は積石塚で造りますが、その後の平地部に作られた磨臼山古墳以後の首長墓は盛土山で造営します。この辺りに、善通寺勢力のヤマト政権へ「従順性」が見えるようにも思えます。
 坂出平野西部に積石塚の爺ケ松古墳・ハカリゴーロ古墳を築造した集団や,横山の尾根上に積石塚を築造した集団は,こうした変化の中で衰退し,古墳築造はできなくなります。また,綾川平野北東部の集団は,前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,これ以後は小規模古墳が見られるだけになります。つまり、初期に積石塚の前方後円墳を築造した集団は、衰退に追い込まれているのです。
 それでは、綾川周辺に横穴式の巨石墳を築き、国府を府中に「勧誘」したのはどのような勢力なのでしょうか。
旧首長に変わり、ヤマト政権の臣下として保護と支援を受けて成長していったの勢力とは?
それが綾氏だと研究者は考えているようです。そのことについては、また次回に・・
参考文献
渡部 明夫
      考古学からみた古代の綾氏(1)
    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

  2有岡古墳群2jpg

古代人には、次のような死生観があったと民俗学者たちは云います。

祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、
死後はその霊山に帰り御霊となる

御霊となって霊山に帰る前の死霊は、霊山の麓の谷に漂うとかんがえたようです。また、稲作に必用な水は霊山から流れ出してきます。その源は祖先神が御霊となった水主神が守ってくれると信じていました。
1
五岳の南側麓の有岡地区
 練兵場遺跡群から南西に伸びる香色山・筆ノ山・我拝師山の五岳と、その南の大麻山にはさまれた弘田川流域を「有岡」と呼んでいます。このエリアからは住居跡など生活の痕跡があまり出てきません。それに比べて、多くの古墳や祭祀遺跡が残されています。ここからは霊山に囲まれた有岡エリアは、古くから聖域視されていたことがうかがえます。古代善通寺王国の首長達にとって、自分が帰るべき霊山は大麻山と五岳だったようです。そして、ふたつの霊山に囲まれた有岡の谷は「善通寺王国の王家の谷」で聖域だったと、私は解釈しています。
1善通寺有岡古墳群地図
 善通寺王国の王家の谷に築かれた前方後円墳群
 有岡地区には弥生時代の船形石棺に続き、7世紀まで数多くの古墳が築かれ続けます。大麻山の頂上付近に天から降り立ったかのように現れた野田院古墳の後継者たちの前方後円墳は、以後は有岡の谷に下りてきます。そして、東から西に向かってほぼ直線上に造営されていきます。それを順番に並べると次のようになります。
①生野錐子塚古墳(消滅)
②磨臼山古墳
③鶴が峰二号墳(消滅)
④鶴が峰四号墳
⑤丸山古墳
⑥王墓山古墳
⑦菊塚古墳
地図で確認すると先行する古墳をリスペクトするように、ほぼ直線上に並んでいるので、「同一系譜上の首長墓群」と研究者は考えているようです。この中でも有岡の真ん中の丘の上に築かれた王墓山古墳は、整備も進んで一際目を引くスター的な存在です。

2王墓山古墳1
王墓山古墳
 王墓山古墳は、古くから古代の豪族の墓と地元では伝えられてきました。
そのため山全体が王(大)墓山と呼ばれていたようです。大きさは全長が46m、後円部の直径約28mと小型の前方後円墳です。大正時代には国によって現地調査が行われ、昭和8年に刊行された「史蹟名勝天然記念物調査報告」に国内を代表する古墳として紹介されています。
DSC01136
王墓山古墳の横穴部 

この古墳の最初の発掘調査は、1972年度に実施されました。当時は、墳墓全体がミカン畑で、所有者が宅地造成を計画したために記録保存を目的として調査が実施されたようです。ところが開けてみてびっくり! その内容をまとめておくと
①構築は古墳時代後期(六世紀後半)
②全国的に前方後円墳が造られなくなる時期、つまり県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→九州色濃厚
2王墓山古墳2

「石屋形」というのは、当時の私は初めて耳にする用語でした。
これは石室内部を板石で仕切り、被葬者を安置するための構造物だそうです。熊本を中心に多く分布するようですが、四国では初めての発見でした。石室構造は九州から影響を受けたものです。ここに葬られた人物は、ヤマトと同じように九州熊本との関係が深かったことがうかがえます。埋葬された首長を考える上で、重要な資料となると研究者は考えているようです。
 王墓山古墳は盗掘を受けていたにもかかわらず、石室内部には数多くの副葬品が残されていました。その副葬品は、赤門筋の郷土博物館に展示されています。 
1王墓山古墳1

ここの展示品で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴ででした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだったようです。しかし、出土時には、その縁を揃えて平らに潰して再使用ができないような状態で副葬されていました。権力の象徴である冠は、その持ち主が亡くなると、伝世することなく使用できないようにして埋葬するというのが当時の流儀だったようです。
DSC03536
善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少なく、これを手に入れる立場にこの被葬者はいたことがわかります。
 6世紀後半、中央では蘇我氏が台頭してくる時代に有岡の谷にニューモデルの横穴式前方後円墳を造り、中央の豪族に匹敵する豪華な副葬品を石室に納めることのできる人物とは、どんな人だったのでしょうか。
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 「この人物は、後に空海を世に送り出す佐伯氏の先祖だ」

と研究者の多くは考えているようです。
 大墓山古墳と奈良斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性を研究者は次のように指摘します。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
ロマンの広がる話ではありますが、大墓山はこのくらいにして・・・

王墓山ほどに注目はされていませんが、発掘で重要性ポイントがぐーんとあがった古墳があります。

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 それが菊塚古墳です-もうひとつの佐伯氏の墓?
この古墳は、有岡大池の下側にあり、後円部に小さな神社が鎮座しますが、原型はほとんどとどめていません。これが古墳であるとは、誰もが思わないでしょう。しかし、築造当時は、弘田川をはさんで王墓山古墳と対峙する関係にあったようです。全長約55mの前方後円墳で、後円部の直径は約35m、更に周囲に平らな周庭帯を持つため、これを含めると全長約90m、幅は最大で約70mという大きさで、大墓山より一回り大きく「丸亀平野で一番大きな古墳」だということが分かりました。
 発掘前は、その形状から古墳時代中期の構築ではないかと考えられていたようです。しかし、後円部に露出した巨大な石材の存在や埴輪を持たない点などから、王墓山古墳よりやや後に作られた古墳であることが分かりました。そして平成10年の発掘調査によって、王墓山古墳と同じ横穴式石室で、その中に「石屋形」も見つかりました。
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一番右側が「石屋形」
 石室上部は盗掘の際に壊されて、石室内部も多くの副葬品が持ち去られていました。しかし、副葬品の内容や石室の規模・構造などから、王墓山古墳と同様に首長クラスの人物の墓とされています。さらに石室や副葬品の内容を検討したところ、ふたつの古墳が築かれた時期は非常に近いことが分かりました。ここから大墓山と菊塚に葬られた人物は、6世紀後半の蘇我氏が台頭してくる時代に活躍した佐伯一族の家族の首長ではないかと研究者は考えているようです。

1菊塚古墳

 有岡の小さな谷を挟んで対峙するこの二基の古墳を比較すると、墳丘や石室の規模は菊塚が一回り大きいようです。それが両者の一族内での関係、つまり「父と子」の関係か、兄弟の関係なのか興味深いところです。
 有岡の谷に前方後円墳が造営されるのは、菊塚が最後となります。そして、その子孫達は百年後には仏教寺院を建立し始めます。その主体が、佐伯氏になります。大墓山や菊塚に眠る首長が国造となり、律令時代には地方や区人である多度郡の郡司となり、善通寺を建立したと研究者は考えているようです。つまり、ここに眠る被葬者は、弘法大師空海の祖先である可能性が高いようです。

参考文献 国島浩正 原始古代の善通寺 善通寺史所収


   
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  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
1旧練兵場遺跡89
まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
1旧練兵場遺跡8
 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
1旧練兵場遺跡7

『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

DSC03507
           
この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

.1善通寺地図 古代pg
 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

1旧練兵場遺跡3

 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
DSC01108
有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

1hakosiki
大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

2野田院古墳3
    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

2野田院古墳2
野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
2野田院古墳1
野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
DSC01130
 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


 
 善通寺の五岳山と大麻山の間の有岡は、古代の「王家の谷」です。神が天から下ったおむすび型の甘南備山がいくつもぽかりぽかりと並び牧歌的にも感じられます。天孫降臨の主は大麻山の頂上近くの野田野院古墳に葬られ、以下磨臼山古墳から大墓山古墳に至るまでいくつかの首長墓の前方後円墳が東から西へと一直線に続きます。この首長墓の子孫と目される佐伯氏が、古墳に変わって建立したのが善通寺であるというのが定説となっているようです。
  さて、今日のお題はその首長墓たちではなく宮が尾古墳です。
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この古墳は装飾古墳に分類され線刻画が石室に刻まれている古墳として有名です。装飾古墳が残っているのは四国では香川県だけのようで、七基、坂出市に四基で西讃の丸亀平野縁辺に集中しています。
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 その中で宮が尾古墳には、玄室奥壁の大きな一枚岩に、上から人物群・騎馬人物・多くの人が乗船した船・船団などが、玄室と羨道の西側側壁には三体の武人像が線刻されています。どれを見ても幼稚園児が書いたような絵で、発見当時は「後世の落書き」とも思われたこともあったようです。
 確かに、同時期の大陸の古墳の壁画には比べようもありません。
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 しかし、よく見ると武人は髭を結い、腰にベルトを付けて柄頭に大きな装飾の付いた太刀を帯び、下半身はズボンのような着衣で靴を履いている様子まで、硬い岩に描き上げています。騎馬人物も馬には面繋・手綱・鞍(前輪・後輪)・鐙・障泥などが細かく描かれていて、船も何艘もあり船団を形成しているようです。今では、宮が尾古墳の線刻図は、このように数多くの情報が含まれた貴重な絵画資料と見なされ、歴史的評価も高いようです。
さて、この絵は何を物語っているのでしょうか?
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いろいろな仮説が出されてきました。その一部を紹介しましょう。
時間的な推移と共に上のシーンから①→②→③→④と進みます。
仮説A 大陸からの渡来、騎馬民族征服説
①戦いで敗れた部族が部族長の死を悼んでいる
②祖国を追われて船で海を越えて新天地へやって来た
③新兵器の馬を連れてきて「騎馬戦術」で征服者となった
④九州から瀬戸内海を経て大和に上陸し政権を樹立した=騎馬民族征服説
仮説② 高句麗・好太王との交戦説(戦前は「朝鮮討伐」として)
①高句麗・好太王との戦いの戦死者
②ヤマト政権は朝鮮半島の権益拠点の加耶地方を防備のために海を越えて出兵
③その際に騎馬技術を習得
④多くの「戦利品」とともに凱旋」
この2つのSTORYが代表的なものでしょう。
共通するのは、朝鮮半島に深い関わりがあることを示しているのではないかということです。
 近年、この絵の一番上の場面に関する興味深い説が出されています。古代の葬儀場面ではないかというのです。
最上部に描かれた人物群をよく観察してみてください。
ここには5人の人物と1つの構造物が描かれています。
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①この場面の中心は人物群の中央に描かれた小さな家のような構造物です、
②その前では二人の人物が直立し両手を大きく広げて向かい合っています。何かの儀式を行っているようです。あるいは右の人物は横たわる死体と考える研究者もいます。
③その右上方には三人の人物が描かれていますが、両手は下ろしていて、そこで行われている儀礼を見守っているように見えます。
人物たちの行動の違いが描き分けられています。
 この古墳の線刻画の発見後に、同じ大麻山東麓の南光古墳群や夫婦岩1号墳でも線刻画が確認されました。そこに描かれていたのは宮が尾古墳の奥壁に描かれた小さな家のような構造物でした。
 善通寺の線刻画の「構造物」と同じようなものが描かれている群集墳があります。
大阪府柏原市の高井田横穴群です。
ここには横穴墓の数は162基、線刻壁画が描かれた古墳が27基もあります。壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまで、何を描いたのか理解できない線刻もたくさんあります。
27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳です。
玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、船から下りてくる人物が描かれています。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれています。この人物は左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っています。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようです。
その左には「正装の人物」が描かれています。
船に乗っている男と同じ服装をしていますが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしているのが分かります。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいています。「船に乗る男」を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っています。 
  瀬戸内海を航海し難波の港に到着姿か、西に向けて出航していく姿か、どちらにしてもここにも船と航海が描かれています。
さて、ここの線刻画にも善通寺と同じように小さな家のような構造物が描かれている古墳がいくつかあります。調査報告書では、それを「殯屋(もがりや)」と想定しています。
 それは古事記にも登場する喪屋とそれに伴う葬送儀礼が思い起こされます。貴人が亡くなった時その場に喪屋を立て、遺体を安置し、その場で様々な葬送儀礼が行われました。民俗事例でも墓上施設として殯屋の残存形態として様々な形状のものが報告されています。

ポピュラーな物としては、円錐形に竹や木を立てて周りを木の葉などで覆うようなものが知られています。善通寺市や高井田で見られる小さな家のような構造物の線刻画は、それに似ています。善通寺の南光古墳群の線刻では、小さな家のような構造物だけで、人物は描かれていません。
殯屋は死者を外敵から守る魔除けと、被葬者を封じる両方の性格を持っていたとされます。その効果を古墳の内部に持ち込むために、このような絵が描かれたと研究者は考えます。つまり、宮が尾古墳の壁画は殯屋とその周辺で行われた葬送儀式が描かれたものであり、善通寺市内の他の装飾古墳は、殯屋だけを描いたのではないかというのです。殯屋は細い本や竹を立てて、その周囲を縄や木の葉で覆う構造です。その竹や木にも霊力が宿ると考え、それらを壁画に描くことによって殯屋の霊的な力を石室にも持ち込もうとしたというのが「葬儀・殯屋説」です。
 坂出市の樹葉文のグループの場合は、
殯屋をおおって聖なる木の葉を壁面に描くことで、石室に殯屋と同じような性格を持たせようとしたのではまいでしょうか。善通寺の南光古墳群では殯屋が中心に描かれ一部に樹葉文も見えます。坂出市の鷺ノロー号墳には樹葉文が中心に描かれ、その間に横倒しになった小さな家のような構造物の線刻も見えます。
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坂出市の鷺ノロー号墳の樹葉文は殯屋?
さて、この線刻画を描いたのはだれでしょうか?
その人物もこの絵の中に描かれています。どの人物だと思いますか。
ひとり離れている一番左の人物が、この葬送儀式を執り行うシャーマンです。彼(彼女)が葬送儀礼を主導し、線刻画も描いたのです。そこには、地域毎のシャーマンの個性が表れます。同じ死生観を持ち、葬送儀礼を司るシャーマンでも、どこに重点をおいて描くのか、絵の上手下手などの「個性」があらわれ表現の違いが生まれてきます。しかし、共通の死生観や葬儀儀礼をもつ「同族」と思っていたはずです。
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最後に大阪府柏原市の古墳群の中で、最も古いとされる高井田山古墳について見ておきましょう。
この古墳は横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかったもので、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳です。石室は薄い板石を積み上げた初期横穴式石室で「近畿地方では最も古い横穴式石室」とされます。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)が出てきました。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品です。
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 ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんは、次のように言います
「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けています。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。そして韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」
 つまりこの古墳は、6世紀頃に百済から直接畿内に渡来した首長の墓と考えられるようです。そのような氏族と同じ死生観や葬儀儀礼をもつ一族が善通寺周辺にいて、そのシャーマンが古墳の石室に線刻画を刻んだというSTORYが考えられるようです
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参考文献 笹田 龍一 香川県下の装飾古墳に見られる葬送思想 香川歴史紀行所収


  どうして讃岐に阿蘇石の石棺が運ばれてきたのか。 

「銭形砂絵」の画像検索結果

観音寺の琴弾八幡神社の裏の山からは有明海をバックに寛永通宝の砂絵が松林の中に描かれているのが見えます。広がる海は、燧灘。古代にはこの海を越えて九州から、重い石棺がはこばれてきたようです。三豊と九州との関係を色濃く示す古墳を訪ねて見ましょう。 

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 丸山古墳(観音寺市室本)

丸山古墳は燧灘を見下ろす丸山(標高50m)の頂上にあります。
西側は燧灘が広がり、遠浅の有明浜が南北に長く続きます。この丘に立つと自然と西に開けた燧灘を意識します。
この丘の上に、明治になって丸山神社(当時は「山祇殿社」)の社殿が建設されることになり、墳丘の南半分が削平され、石室が破壊され、石棺が現われたようです。
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 調査が行われたのは戦後になってからで、一時は前方後円墳とも言われました。しかし、何回かの調査の結果、径35m、高さ3.5mの中期円墳で、讃岐で最初に横穴式石室を採用した古墳とされるようになりました。出土品は葺石があり、円筒・衣蓋埴輪のほか馬形・鳥形・偶蹄目の動物埴輪が出ています。
丸山古墳横穴式石室
丸山古墳の横穴式石室
 副葬品には、鉄剣1、鉄刀1、鉄製品片(短甲片か?)があり、円筒埴輪片から5世紀中葉~後半の築造が考えられています。構造的には、扁平な板石や割石を小口積みで持ち送りした石室は、南北方位で「現存長4m×推定幅3.7m×高さ2.5m以上」と讃岐のこの時期のものとしてはかなり大きいものです。

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳石室実測図
この古墳の特徴的なのは、九州の影響が色々なところに見られることです。
例えば石室構造は肥後形に近く、複数人を埋葬する初期型の横穴式石室のようですが、その特徴である石障はありません。
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丸山古墳の石棺と石室
石棺は刳抜式舟形石棺(長さ192cm×幅105m)で、棺蓋は寄棟屋根型で短辺部の傾斜面にやや上向きの縄掛け突起が付いています。九州には舟形石棺と肥後系の横穴式石室が共存する古墳はないようです。そういう意味では「変な古墳」なのです

この古墳の変わっている点は?

 「阿蘇溶結凝灰岩 石棺」の画像検索結果
         刳り抜き式家型石棺(藤井寺市長持山古墳5C)・阿蘇溶結凝灰岩

この石棺は、讃岐の国分寺町の鷲の山石や津田火山石ではなく九州の阿蘇溶結凝灰岩が使われています。ちなみに当時の讃岐は、国分寺町の鷲の山石や津田火山石を用いた「石棺生産国」で、それを畿内や播磨・吉備にも「輸出」していました。ところがこの古墳の主は、讃岐産の石材ではなく阿蘇石製の石棺をわざわざ九州から運び込んで来ています。さらに、この古墳が作られた古墳時代中期半ばには、讃岐における石棺の製作は、ほぼ終わりかけています。いわば「流行遅れ」の石棺と最先端の横穴式石室という組み合わせになります。ヤマト政権よりも九州の同盟者を優先しているかのようにも思えます。この丸山古墳の被葬者と九州の勢力との関係とは、どんなものであったのか興味が湧きます。
青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南の丘陵にある青塚古墳

次に三豊平野の青塚古墳を見に行きましょう。
「観音寺市 青塚古墳」の画像検索結果
                     青塚
三豊の古代条里制の起点になった菩提山(標高312m)から舌状に北に伸びてくる丘陵台地の末端に青塚はあります。近くには一ノ谷をせき止めて作られた一の谷池があります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられていて、地域における祭祀センターの役割を果たしてきたことが分かります。

青塚古墳測量図
青塚古墳測量図

 青塚古墳は香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。
その気配が現在の地形からも見て取れます。前方部は上半が削平されていていますが、水田となっている周濠から考えれば、短いもので帆立貝型だったとされます。現状からは、墳丘の全長44m、後円部径30m、周濠の幅9mの前方後円墳がが考えられます。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、盗掘にあっているようです。
問題は石棺で、丸山古墳と同じ阿蘇溶結凝灰岩が使われていることです。
この古墳は立地、墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造された古墳だとされます。とすると丸山古墳とは同時期になります。あちらは横穴式石室で円墳、こちらは前方後円墳の帆立型形式ですが、九州から同じ石材が同時期に運ばれてきていることになります。 
 屋島の先端の長崎鼻古墳(高松市屋島)も同じ阿蘇石が石棺に使われています。  
この古墳は屋島の先端、長崎ノ鼻の標高50メートルにある全長45メートルの前方後円墳です。墳丘は3段に築成され、各段には墳丘が崩れないための葺石が葺かれています。目の前は瀬戸内海で、女木島や男木島がすごそばに見えます。立地から海上交通に関係の深い豪族の墓であろうと考えられていました。発掘するとまさに、その通りに後円部にある主体部から、阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が確認されました。これは観音寺市丸山古墳・青塚古墳に続く3例目となります。   
 この長崎鼻古墳は墳丘出土の遺物や舟形石棺の形状から、それよりも50年ほど古い5世紀初頭頃の古墳であるようです。ちなみに、この長崎鼻には幕末には高松藩によって砲台が築かれた場所でもあります。今もその砲台跡が古墳と共に残ります。 

このように讃岐の古墳に、九州の石棺が運び込まれています。

恐らく熊本県で作られて、それが讃岐に運ばれてきたということなのでしょう。どのような方法で、どんな人たちが、何のために九州からわざわざ石棺を運んできたのでしょうか。これらの古墳に眠る被葬者と、九州の勢力とはどんな関係にあったのでしょうか。いろいろな疑問が沸いてきます。

最初に見た丸山古墳と青塚古墳は、燧灘の西の端にあたります。両古墳のあたりは、『和名抄』の讃岐国刈田郡坂本郷や同郡紀伊郷の週称他の近くです。この「紀伊郷」との関係について岸俊男氏は次のように考えているようです。


 紀伊郷は紀氏との関係がある地名であること。紀氏とその同族が瀬戸内海の交通路を掌握して大和勢力の水軍として活躍した四国北岸の拠点の一つが紀伊郷である。

瀬戸内海の紀伊氏拠点

瀬戸内海における紀伊氏関係図
三豊の坂本郷や紀伊郷は、紀伊氏の瀬戸内海ルートの支配と関係があると研究者は考えています。         紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、特に吉備氏牽制のために、瀬戸内海南ルートの讃岐や伊予に勢力を培養し、朝鮮半島からの交易ルートを握っていたこと、空海の生家である善通寺の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、紀伊氏の下で海上交易を行っていたという説は以前にお話ししました。 こうして見ると「紀伊の紀直氏=善通寺の佐伯直氏=三豊の紀伊氏=肥後のX氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。このルートに乗って、先ほど見た阿蘇の石棺は運ばれてきたと私は考えています。

和歌山・大谷古墳
大谷古墳(和歌山市)の九州阿蘇産の石棺

そして、室本丸山や青塚と同じ時期に、紀伊国の和歌山市大谷古墳でも九州阿蘇の石による石棺がはるばると運ばれて使用されています。大谷古墳は、和歌山県では有数の古墳で、副葬遺物に朝鮮半島との関係が深いとされる品物を数多くもっていたことで知られています。

大谷古墳 クチコミ・アクセス・営業時間|和歌山市【フォートラベル】

これらのことは、青塚と室本丸山古墳の被葬者が、海上の交通と深くかかわっていたことを物語っています。
 これと同じ石棺は、愛媛県の松山市谷町の蓮華寺にもあります。出土した古墳は分かりませんが、近所から出たのでしょう。松山市といえば、のちに『日本書紀』や万葉の歌で熟田津とよばれる港がでてきます。そうした海上交通の拠点地を経て、船で肥後から讃岐にもたらされたとしておきます。五世紀後半の阿蘇山の石棺は、そんな瀬戸内海交易を伺わせてくれます。

もう少し大きい視点からこの古墳が作られた5世紀を見てみましょう
  5世紀後半と言えば文献的には「倭の五王」、考古学的には「巨大古墳の世紀」と言われます。大王墓は大和盆地から河内平野の古市と百舌鳥の地へと移動し、大山古墳(現仁徳陵)、土師ミサンザイ古墳など、超巨大前方後円墳が出現する時代です。それはヤマトの王権が確立する時代とも言えます。 

 大和王権の「支配の正当性」は、何だったのでしょうか?

 そのひとつは、鉄をはじめとする必需物資や先進技術・威信財を独占し、それを「地方に再分配とする公共機能」です。この政策を進める中で、ヤマト政権は、各地の首長に対する支配力を強めていきます。

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 4世紀からの多数の倭人の渡航は、半島南部の支配のためではなく、半島側の要請にもとづく軍事援助や、その見返りとして供給されるヒトとモノを独占的に手に入れることでした。そのためには、優れた海上輸送能力や軍事力をもつ勢力と手を組むのが一番手っ取り早い手段です。ヤマト政権は吉備王国を初めとする勢力と手を組み「朝鮮戦略」を進めます。
 その際に、重要となるのが朝鮮半島への交通ルートの確保です。
朝鮮半島からの人と物の輸送ルートである瀬戸内海の重要性は5世紀になると一層高まり、それを担った吉備の力はますます大きいものとなります。吉備の王達は古市・百舌鳥の大王墓に劣らぬ造山古墳や
作山古墳が姿を見せます。
   しかし、一方でヤマト政権は吉備勢力に頼らない次のような新たな瀬戸内海ルート開発も進めます。

大和(葛城氏) → 紀ノ川 → 和歌山(紀伊氏) → 瀬戸内海南岸(讃岐沖) → 松山(伊予) → 日向

 この新ルート開発をになったのが葛城氏配下の紀伊氏で、それに協力したのが日向の隼人たちではないかと考えられています。 

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 日向灘に面した西都原古墳群の示すものは?    

 5世紀には日向にも大形前方後円墳が次々と出現し、女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳が築造されます。女狭穂塚古墳は古市の仲ッ山古墳の3/5スケールの相似形の規格で、文献的にも応神の妃の一人に日向泉長姫が、仁徳の妃の一人に日向諸県君牛諸の娘髪長姫がいることを伝えています。

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 こうしたヤマト王権の日向重視の背景には、日向灘に開いた潟港を中継点として関門から豊後水道を南下し、南海道で畿内に至る新たな海上ルートの開拓があったようです。また、この地域独特の墳墓である地下式横穴からは、大量の鉄製武器類が出土します。ここからも彼らが朝鮮半島への軍事力の主力部隊であったことがうかがえます。控えめに見ても、ヤマト王権の半島侵攻に重要な役割を担っていたといえます。日向地域がもつ重要性とその勢力の王権への同盟・参画が、のちに天孫降臨や神武東征神話を生む背景となったのではないかと考えられます。

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こうして、五世紀のヤマト王権(河内大王家)は「朝鮮への道」を独占的にることで王権を強化していきます。
それまでのヤマト政権の
都はヤマトとその周辺に置かれていました。ところが古市・百舌鳥に造墓した仲哀は、はるか関門海峡の長門穴門豊浦に都を造営します。応神は大和軽嶋明宮のほか吉備や難波大隅宮にも都したと記紀は伝えます。仁徳の難波高津宮、反正の丹比柴耐宮と難波津周辺への宮の造営が伝えられるのも、瀬戸内ルートの整備や河内平野の開発と無関係ではないようです。 
 瀬戸内海ルートで河内潟に入る外交使節や交易の船舶は、難波津や住吉津に近づくと右手に百舌の巨大な大王墓を目の当たりにします。難波宮京極殿の北西で発見された法円坂遺跡の立ち並ぶ巨大倉庫群は、まさに倭の五王時代の王権直轄のウォーターフロントの倉庫群といえます。川船で河内潟から大和川をさかのぼり、ヤマトを目指すと、今度は古市の大王墓群を通り抜けます。倭王の威容を海外に示すのに、これ以上の演出は当時はありません。

同時期に、三豊に九州からの石棺は運ばれてきます。

熊本で作られた石棺が讃岐に運ばれたのは瀬戸内海南岸ルートでしょう。そして、運ばれた豪族同士には「特別なつながり」があったことが考えられるます。その特別なつながりが何かと言えば、大和政権の「水軍の道」ではないでしょうか? それが「紀伊氏」の疑似血縁集団だったのかもしれません。どちらにしても、これらを結ぶ拠点には「大和政権の水軍を構成する集団」がいたことが考えられます。そして、三豊の被葬者の埋葬葬儀の際に九州の同盟勢力から古墳造営の技術者が派遣され、石棺も提供されたという推察が出来ます。また、同盟関係と言うよりも古代地中海における母都市と植民都市のような関係かもしれません。どちらにしろ「人や物」が瀬戸内海航路を用いて、活発に交流していたことを示す証です。
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以上をまとめておくと
①5世紀にヤマト政権は、紀伊氏による瀬戸内海南ルートの開発を進めた。
②これによって紀伊氏一族の水軍拠点が四国側に開かれた。
③三豊の紀伊郷もその名残りであることが考えられる。
④瀬戸内海南ルートは、日向の西都原の勢力を加えることによって大きな水軍力となった。
⑤この水軍力が対外的には、朝鮮半島との交易を有利に展開することにつながった。
⑥国内的には、同盟国であった吉備勢力の弱体化へつながった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三豊の勢力は近畿よりも九州、そして朝鮮を向いていたのかもしれません。それが、その後の三豊の独自性につながる原点かもしれません。 九州から運ばれてきた石棺を見ながら、そんなことを考えました。




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