瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:瀬戸の島と船 > 芸予諸島と村上水軍

 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
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伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
P1200648
           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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  丸亀平野は浄土真宗王国とも云われ、多くの人たちが真宗信者です。持ち回りで開かれる隣組の「寄り合い(月の常会)」でも、最近まで会の最後には正信偈があげられて、お開きとなっていました。親戚の葬儀や法要も真宗僧侶によって進められていきます。そんな地域に住んでいるので、四国全体も浄土真宗が支配的なエリアと思っていました。でも、そうではないようです。浄土真宗の信者が圧倒的に多いのは、讃岐だけのようです。どうして、讃岐に浄土真宗のお寺が多いのでしょうか。下表は、現在の四国の宗派別の寺院数を示したものです。
四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国の宗派別寺院数一覧

ここから分かることを挙げておきます
①弘法大師信仰の強い四国では、真言宗寺院が全体の約1/3を占めていること。
②真言宗は四国四県でまんべんなく寺院数が多く、讃岐以外の三県ではトップを占めること
③特に阿波では、真言寺院の比率は、70%近くに達する「真言王国」であること
④真言宗に次いで多いのは真宗で、讃岐の真宗率は50%に近い。
⑤伊予で臨済・曹洞宗などの禅宗が約4割に達する。これは河野氏などのの保護があったため
⑥土佐の寺院数が少ないのは、明治維新の廃仏毀釈影響によるもの

④で指摘したとおり、讃岐の浄土宗率は46,6%にもなります。どうして讃岐だけ真宗の比率が高いのでしょうか。逆の見方をすると③の阿波や⑤の伊予では、先行する禅宗や真言勢力が強かったために、後からやって来た真宗は入り込めなかったことが予測できます。果たしてどうなのでしょうか。讃岐への真宗布教が成功した背景と、阿波や伊予で真宗が拡大できなかった理由に視点を置いて、真宗の四国への教線拡大が、どのように行われたのかを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。
まずは、伊予の真宗寺院について見ていくことにします。
伊予には真宗伝播に関する史料がほとんどないようです。その中でも
古い創建由来を持つ真宗寺院は、芸予諸島に多いようです。四国真宗伝播 川尻の光明寺
光明寺(呉市川尻) もともとは伊予の中島にあった禅寺

安芸国川尻の光明寺は明応五年(1496)に禅宗から真宗に転宗した寺です。その前身は伊予国中島にあった西光寺と伝えられます。芸予諸島の島々を転々とし、天正元年(1573)年に安芸川尻に移ってきます。伊予中島で禅宗から真宗に転じた際に、檀家も真宗に改宗したと云います。中島では光明寺(西光寺)が移転したあとは、お寺がなくなりますが、信徒たちは教団を組織して信仰を守ったようです。
 この時期の安芸国では、仏護寺を中心として教線を拡大していきます。仏護寺が天台宗から真宗へ改宗した時期は、光明寺の改宗した時期とほぼ同じ頃になります。ここから15世紀末頃が、真宗が瀬戸内海を通じて芸予諸島一帯へと、その教線を伸ばしてきた時期だと研究者は考えています。
安芸竹原の長善寺について

四国真宗伝播 安芸長善寺と
竹原の長善寺と大三島

 芸予諸島で一番大きな大三島は、安芸から真宗が伝わってきたようです。「藤原氏旧記」によると、祖先の忠左衛門は竹原の長善寺の門徒でした。それが大永7(1527)年に大三島へ移住し、島に真宗を広めたと伝えられます。
四国真宗伝播 長善寺進者往生極楽 退者尤問地獄
長善寺の黄旗組
長善寺には石山戦争の時に、使用されたと言われる「進者往生極楽 退者尤問地獄」と記された黄旗組の旗が残されています。忠左衛門は同志を募り、兵糧を大坂へ運び込んでいます。彼は、石山にとどまって戦いますが、同志18名とともに戦死します。長善寺に、その戦死者の法名軸か残されています。その中に「三島五郎太夫、三島左近」といった名前があります。彼の「三島」という名から大三島出身者と考えられます。他の者も大三島かその周辺の出身者だったのでしょう。ここからは、石山戦争時代には、竹原の長善寺の末寺や坊が芸予諸島にいくつできて、そこから動員された真宗門徒がいたことが分かります。しかし、村上海賊衆に真宗は門徒を広げては行けなかったようです。村上武吉も、周防大島の真言宗の寺院に葬られています。
大三島の真宗寺院で、寺号を下付されたのが古いのは次のふたつです。
①宮浦の教善寺 寛文11(1673)年
②井口の真行寺  延宝6(1678)年
 寺院としての創建は、江戸時代前半まで下るようですが、それまでに道場として存在していたようです。道場などの整備や組織化が行われたのは、石山戦争が契機となったと研究者は考えています。石山戦争を戦う中で、本願寺からのオルグ団がやってきて、芸予諸島での門徒の組織化が行われ、道場や庵が集落に設けられたと云うのです。大三島の各地に、現在も道場・寺中・説教所の痕跡が見られることは、このことを裏づけます。伊予では安芸から芸予諸島の島々を伝って、真宗伝播の第一波が波が、15世紀末にやってきます。そして、16世紀後半の石山戦争中に、第2派が押し寄せてきたようです。

次に伊予本土の方を見ていくことにします。
伊予本土で創建が古いとされる真宗寺院は、次の通りです。
①東予市の長敬寺 弘安6(1283)年創建、再興後三世西念の代に本願寺覚如から寺号を賜ってて真宗に転宗。
②明勝寺は 天文15(1546)年に、真言宗でから転宗し、円龍寺と改称
③新居浜の明教寺は元亀年間に、佐々木光清によって開創
④松山の浄蓮寺は、享禄4年(1531)河野通直が道後に創建
⑤定秀寺 永禄元(1558)に、風早郡中西村に鹿島城主河野通定が開き、開山はその子通秀。
⑤の定秀寺については、通定は蓮如に帰衣し直筆名号を賜わり、子通秀は石山戦争に参加して籠城し、その功績により顕如から父子の名を一字ずつとり定秀寺という名を賜ったと伝えられます。しかし、鹿島城主河野通定なる人物は存在しない人物で、寺伝は信憑性にやや欠けるようです。
①は別にして、その他は16世紀半ばの創建を伝える寺院が多いようです。しかし、浄土真宗の場合は、道場として創建された時と、それが本願寺から正式に認められた時期には、時間的なズレがあるのが普通です。正式に寺として認められるには本願寺からの「木仏下付」を受ける必要がありました。
 慶長年間に入ると、道後の浄蓮寺・長福寺、越智郡今治の常高寺、松山の正明寺に木仏下付されています。これらの寺も、早い時期に下付になるので、それまでに道場として門徒を抱え、活動していたことが推測できます。しかし、それ以後の真宗の教線拡大は見られません。
伊予では瀬戸内海交易を通じて、禅宗が早い時期に伝わり、禅宗寺院が次のように交易港を中心に展開していたことは以前にお話ししました。
①臨済宗 東伊予から中伊予地区にかけては越智・河野氏の保護
②曹洞宗 中・南伊予地区には魚成氏の保護
東伊予と海上交易活動においては一体化していた讃岐の観音寺港でも、禅宗のお寺が町衆によっていくつも建立されていたことは以前にお話ししました。禅宗勢力の強い伊予では、新興の真宗のすき入る余地はなかったようです。

瀬戸内海を越えて第一波の真宗伝播を芸予諸島や安芸にもたらしたのは、どんな勢力だったのでしょうか
 中世の瀬戸内海をめぐる熊野海賊衆(水軍)と、熊野行者の活動について、以前に次のようにお話ししました。
①紀伊熊野海賊(水軍)が瀬戸内海に進出し、海上交易活動を展開していていたこと
②その交易活動と一体化して「備中児島の五流修験=新熊野」の布教活動があったこと
③熊野行者の芸予諸島での拠点が大三島神社で、別当職を熊野系の修験僧侶が握っていたこと。
④大三島と堺や紀伊との間には、熊野海賊衆や村上海賊衆による「定期船」が就航し、活発な人とモノのやりとりが行われていたこと。
以上からは中世以来、芸予諸島と堺や紀伊は、熊野水軍によって深く結びつけられていたことがうかがえます。その交易相手の堺や紀伊に、真宗勢力が広まり、貿易相手として真宗門徒が登場してくるようになります。こうして、瀬戸内海に真宗寺院の僧侶たちが進出し、て布教活動を行うようになります。芸予の海上運輸従事者を中心に真宗門徒は広がって行きます。それを、史料的に研究者は追いかけていきます。
瀬戸内海への真宗布教のひとつの拠点を、阿波東部の港町に求めます。
四国真宗伝播 阿波信行寺

 阿波那賀郡の信行寺は、那賀川河口の北側に位置し、紀伊水道を挟んで紀伊の有田や御坊と向き合います。この海を越えて、中世には紀伊との交流が活発に行われ、紀伊武将が阿波にやってきて、定住し竹林寺などに寄進物を納めています。

四国真宗伝播 阿波信行寺2
阿波国那賀郡今津浦信行寺 

 信行寺の寺伝には、開基は浅野蔵人信時で、寛成年間に京都で蓮如に帰衣して西願と称し、文明13(1481)年に那賀郡今津浦に一字を創建、北の坊と称したと伝えられます。永正年間に二代目の西善が実如より寺号を賜り、慈船寺と改めたとします。また亨禄年間には、今津浦には、もうひとつ照円寺も建立されてます。この寺は信行寺が北の坊と呼ばれたのに対して、南の坊と呼ばれるようになります。こうして、今津浦には、北の坊と南の坊の二つの寺院が現れます。これは、本願寺の教線が紀伊に伸びて、さらに紀伊水道を渡って阿波の那賀川河口付近に伸びてきたことを示します。「紀伊→阿波ルート」としておきます。

四国真宗伝播 阿波信行寺3

この両寺院が建立された今津浦は、那賀川の河口に位置し、中世には平島と呼ばれた阿波の代表的な港の一つでした。

阿波の木材などの積み出し港として重要な地位を占めていました。熊野行者たちや修験者たちのネットワークが張り巡らされて、真言宗の強いエリアでした。そこに、本願寺によって真宗布教センターのくさびが打ち込まれたことになります。
 北の坊と南の坊の二つの寺院の門徒は、今津浦の特性から考えても海上輸送に関わる人々が多かったことが考えられます。彼らは「渡り」と呼ばれました。「渡り」によって、阿波東部から鳴門海峡を経て瀬戸内海沿岸地域へと本願寺の教線は拡大したと研究者は考えています。これらの紀伊や阿波の「渡り」の中に、真宗門徒が拡がり、讃岐の宇多津や伊予の芸予諸島にやってきて、それを追いかけるように布教のための僧侶も派遣されます。おなじように堺に本願寺の末寺が建立されることで、堺の海上ネットワークを通じた布教活動も行われるようになります。それが15世紀末頃ということになるようです。

 興味深いのは、東瀬戸内海エリアの小豆島や塩飽諸島には、浄土真宗のお寺はほとんどありません。
私の知る限り、近世になって赤穂から小豆島にやってきた製塩集団が呼び寄せた真宗寺院がひとつあるだけです。本願寺は、このエリアには拠点寺院を設けることができなかったようです。この背景には、旧勢力である真言寺院(山伏寺)の活発な活動があったためだと私は考えています。具体的には、児島五流修験者に連なる勢力だと推測しています。
真宗門徒が確保できた拠点港は、讃岐では宇多津でした。
ここに西光寺を創建します。この寺のことは以前にお話ししましたので省略します。西光寺を経て芸予諸島や安芸方面に布教先を伸ばしていきます。そして、その結果は先ほど見たとおりでした。芸予諸島や伊予本土の港町周辺には勢力拠点を開くことが出来ましたが、それは、あくまで点の存在です。点から面への拡大には至りませんでした。その背景を考えておきます。
①芸予諸島や今治周辺では、大三島神社の別当職をにぎる真言宗勢力が強かったこと
②松山周辺では、河野氏など領主僧が禅宗を信仰しており、真宗を保護することはなかったこと
③南予は、旧来から土佐と一体化した修験道集団が根強く、真宗進出の余地はなかったこと
こうしてみると、真宗の伊予布教活動は進出が「遅かった」と云えそうです。旧来の修験道と結びついた真言勢力の根強さと、先行する禅宗の板挟みにあって、芸予諸島やその周辺部の海岸線沿いにしか信者を獲得することができなかったようです。

以上をまとめておくと
①浄土真宗が堺や紀伊にまで広がって行くと、海上交易ルート沿いに真宗信者が増えていった。
②そのひとつの拠点が阿波今津港で、真宗門徒化した「渡り(海上交易従事者)」が瀬戸内海や土佐方面の交易活動に従事するようになる。
③「渡り」の交易相手の中にも、布教活動を受けて真宗門徒化するものが出てくる。
④讃岐で本願寺の拠点となったのが宇多津の西光寺である。
⑤15世紀末には、安芸や芸予諸島にも真宗門徒によって、各港に道場が開設される。
⑥16世紀後半の石山戦争では、石山本願寺防衛のために各道場の強化・組織化が図られた。
⑦それが石山戦争での安芸門徒の支援・活躍につながっていく。
⑧しかし、伊予での真宗勢力の拡大は、地域に根付いた修験道系真言寺院や、領主たちの保護した禅宗の壁を越えることができなかった。
  それが最初の表で見たように、伊予の真宗寺院の比率9,2%に現れているようです

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。

村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。

DSC03568厳島神社の舫い船
一遍上人絵伝に出てくる宮島湊の舫い船

村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。
ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
近世の瀬戸内海No1 海賊禁止令に村上水軍が迫られた選択とは? : 瀬戸の島から

 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち

 小早川氏は、鎌倉初期に相模の土肥実平の子・遠平が安芸沼田荘の地頭職を得たことに始まるようです。遠平は平家討伐の恩賞として平家家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を得ます。これを養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)に譲ります。安芸国にやてきたのは景平になるようです。

小早川氏系図
建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えます。長男茂平は承久の乱で戦功を挙げ、安芸国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう)の地頭職を得て支配エリアを瀬戸内海沿岸に伸ばします。茂平の三男・雅平が沼田本荘などを与えられ、高山城を本拠としたのが始まりで、これが沼田小早川氏で、本家筋になります。
高山城 沼田小早川氏 350年間の本拠となった中世山城 | 小太郎の野望 ::

高山城 沼田小早川氏の居城 三原市本郷町

 茂平の子・朝平は、元弘の乱で鎌倉方として六波羅探題に味方し付き従ったため、建武政権によって沼田本荘を没収されます。しかし、竹原小早川家の取り成しなどにより、旧領を安堵されています。
その後の「宣平、貞平、春平」の3代の間に芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築くことになるようです。
 今回は小早川氏の瀬戸内海への進出過程を見ていくことにします。
テキストは 山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年です。

系図を見ると分かるように沼田小早川氏の宣平の子である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」というふうに兄弟が、海に向かって一斉に進出する態勢をとりはじめます。自分たちの活動の部隊は、海にありと意識したような動きです。
 中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』には、次のように記されています。
 南北朝期、小早川氏の主な領域は沼田本荘、沼田新荘、都宇・竹原荘だった。本荘の惣領家は足利氏方、新荘の一部庶家が南朝方として戦い、一時は惣領家の城を占拠し、面目を失わせた。
 だがこの時期、惣領家は本荘沼田川流域の塩入荒野を干拓
造成した新田を庶子に与えた。庶子は新田地を本拠とし地名を姓とした。小泉、小坂、浦、生口、猪熊ら新庶家が生まれ、惣領家を支えた。小泉氏は氏平が始祖。干拓地のうち西部山寄りが領地である。  

杜山悠『歴史の旅 瀬戸内』P222~225P)には、次のように記されています。
惟平が拠った生口島瀬戸田は、航海業者たちの一つの拠点で商船の往来が激しく島内生活もその刺激を受けて活発になり、自由の気風に充ちた明るい世界が開けていた。生口船とか瀬戸田舟とかいわれたこの島の商船は、小早川生口因幡守道貫(惟平)支配のもので、商船とはいいながら、半面には海賊的性格も持っていて、兵庫関など平気で無視して通ったといわれる。また本荘小早川(本家沼田)でも能美島に進出し、大崎上島(近衛家荘園)にも南北朝の動乱期に入り込んでその支配権を持った。
 竹原小早川の海島進出もやはり始まっていて、景宗(二代)のとき安芸の高根島を含めた地頭職として島嶼に一つの足がかりをつかんだ。このようにして小早川一族が所領とした島々はおびただしい数にのぼり、その主なものでも、因島、佐木島、高根島、生口島、越智大島、大崎上島、生野島、大崎下島、豊 島、三角島、波多見島、能美島、向島、江田島、倉橋島、上下蒲刈島などがあげられる。」
   小早川氏の庶家である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」の拠点を押さえておくと、次のようになります。
①沼田荘内小泉に土地を与えられて小泉氏を名乗る氏平
②沼田荘内田野浦に拠って浦氏を名乗る氏実
③沼田荘に近い生口島の地頭職を与えられ、生口氏を名乗る惟平
④茂平の子経平は、これらよりも早く分立して船木氏を名乗る
 南北朝期の弓削島荘で「悪党」として活動するのは、これら小早川庶家衆です。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
手前左が因島 その右が生名島 その向こうが弓削島

彼らにとって、最大のチャンスは南北朝の内乱期であったことです。
これが国境を越えての伊予の島々への進出の機会となります。
  芸予諸島では伊予海賊衆が北上していましたが、小早川氏は三庶家を先頭に伊予衆を押し返す形で南下することになります。きっかけは伊予出兵でした。 興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。
   こららの動きがあった康永二年(1343)には、庶家衆に関する史料がいくつか東寺に残されています。その四月、東寺雑掌光信の訴えをうけて室町幕府引付頭人奉書が、当時伊予守護であった細川頼春に次のように訴えています。

「小早川備後前司(貞平)、同庶子等当所住人民部房・四郎次以の、なほもって退散せず、いよいよ乱妨狼藉を致」
                (東寺百合文書・六八四)

「国中劇の隙を伺ひ、当島に打入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉を致すの条、濫吹の至り、言語道断の次第なり」
「事を世上の動乱によせ、使節遵行の地に立ち還り、若干寺物を押取り、下地を押領せしむるの条、造意の企て、常篇を絶つ」(同・八〇〇)

 ここからは動乱のすきをねらって、乱暴狼藉をはたらく小早川氏の巧妙な荘園進出のやり方がうかがえます。また、東寺側の激しい非難のなかには、小早川勢力の弓削荘侵略に直面した荘園領主の危機感がよくあらわれています。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
伊予国弓削島荘地頭領家相分差図(「東寺百合文書」)

 幕府(北朝)は小早川氏に退去を命じますが、四氏は無視して居座ります。幕府は使者を派遣して強制退去させます。東寺は小早川氏を警戒し、伊予海賊衆(村上氏)雇って警固します。にも関わらず、小早川氏はすぐに乱入。その後、島を占拠しますが、その先頭に立ったのは四氏の庶家小泉氏でした。小泉氏は因島でも居座り、年貢を横取りしていたようです。南北朝の争乱を、自己の権益拡大に最大限利用している姿がうかがえます。
 足利尊氏と弟直義が争う観応の擾乱が始まると、一時期、反尊氏派が島を占拠したので、幕府は小早川惣領家に地頭職を与えて守らせます。だが惣領家家も『乱妨』を働くと領主東寺から訴えられて、地頭職を取り上げられています。しかし、居座りを続け、島を勢力下に取り込んでいきます。領家である東寺にしてみれば手の付けられない「悪党」です。
弓削島荘遺跡ポスター

小泉氏二代の宗平が、応安四年(1371)7月に、伊予国越智郡大島の地頭職に任命されます。
 それまで非法ぶりを非難され続けてきた一族が、今度は全く立場をかえて、東寺から荘園を守り管理する地位に任ぜられたのです。これはアメリカ西部の悪党を保安官にするようなやり方です。当時の弓削島荘の周辺は、西部の無法地帯とよく似ていたようです。なぜなら、南北朝の動乱で海上秩序が失なわれて、無法地帯になっていたのです。東寺にしてみれば、年貢を無事に京都にもたらしてくれる者であれば、誰でもいい、その素性を問うてはいられなかったのでしょう。そのような視点からすれば海上機動力にすぐれ、軍事力も持つ小泉氏は、地頭として候補者にあげられても不思議ではありません。東寺は、かつての非法、悪党ぶりに目をつぶり、年貢請負額京定30貫文という破格の安値で請負契約を泣く泣く結びます。
しかし、東寺の小泉氏への期待と信頼は、みごとに裏切られます。

弓削島遺跡2

小泉宗平は、地頭職についても非法をやめません。

それを東寺雑掌は、次のように記します。
「令同意山地以下悪党、致押妨」(17) (18)

   弓削島押領人事 
公方奉公 小早川小泉方 
海賊 能嶋方 (能島)
海賊  山路方(讃岐)
此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之 
小泉氏を中心にして、伊予の海賊能島氏、讃岐の海賊山路(地)氏等が弓削島を押領しているというのです。讃岐の山地氏については、以前にお話ししましたので、今は触れません。
  ここからは、年貢の輸送路をはじめとして周辺の海賊を悪党・海賊に固められて、弓削島荘の経営にもはや身動きのとれなくなっている東寺の窮状を知ることができます。まさに弓削島周辺は海賊衆の世界となっていたのです。
弓削神社

弓削神社(ゆげじんじゃ) 「浜途明神」「浜戸宮」の後身


 東寺は、現実をまのあたりに学んだようです。荘からの年貢収取を維持していくためには、今までのように荘官を派遣して荘園の管理をやらせる方法ではダメだということです。そこで、新たな方法として採用したのが「所務請負い方式」です。そして、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や同治部進と年貢請負の契約を結びます。村上氏も芸予諸島周辺の海賊衆の一人であったこと間違いありません。東寺にしてみれば、海賊衆小泉氏を制するのにに別の海賊衆を以てしたということになります。このような動乱期の中で、伊予海賊村上氏と安芸の小早川氏は芸予諸島をめぐって勢力範囲を拡大していくことになります。
第11番札所・向上寺 緑に映える朱塗りの国宝三重塔
向上寺の三重の(生口島 瀬戸田)

   最後に生口島を拠点とした小早川氏の庶子家生口氏を見ておきましょう。
生口島には国宝の三重塔が海を背景に建っています。これは1432年に、初代生口惟平とその子守平によって建立された向上寺の塔です。小早川氏の庶子である生口氏は、この島が生口島と呼ばれていたことから、その名を名乗ることになったようです。生口島はもともとは皇室領でしたが、源平合戦や承久の乱を通じて、武家方に没収され没官領地となりました。南北朝の騒乱期に、この島を拠点としていた南朝方を落とした功績により、小早川惟平にこの島が与えられ、生口氏が移り住み拠点とします。
向上寺三重塔 - ひろしまたてものがたり

 小早川氏は、安芸国の沼田荘に土着した頃は、内陸部への進出や沼田川河口部の干拓などで勢力を拡張していました。それが、生口氏の生口島獲得によって、小早川氏は陸の武士団という性格から、小早川水軍と称されるような海の武士団へと性格を変えていくことになります。
 小早川氏は、小泉氏が弓削島、生口氏が生口島へと瀬戸内海へ進出することによって、海上輸送に関わるようになります。それは瀬戸内海交易を越えて、朝鮮や明との貿易にも従事していたようです。 そこからあがる利益は莫大なものでした。
小早川氏の本拠沼田の外港として、位置づけられたのが生口氏の瀬戸田港だったようです。
小早川氏が他の安芸の国人領主レベルから一段と上のレベルに位置付けられていたのは、海の武士としての海上交易活動がありました。
 生口船は、兵庫北関に入港する際の免税の特権を持っていました。生口氏の海の経済活動は、目を引くモノがあります。主な輸送品は、弓削島や因島の塩です。「兵庫北関入船納帳」(1445年)によれば1月から2月半ばまでに61艘の入船があり、うち30艘が塩を積んだ船であり、そのうち1/3が小早川氏の支配する地域からの塩です。しかも生口氏配下の船は免税です。
 弓削島を押さえた小泉家の塩を、生口島の免税特権を持った舟が運ぶという「分業」体制があったことになります。そこからあがる莫大な利益を蓄積しながら次第に大名化していくのが小早川家ということになります。毛利元就の三男隆景が継いだ小早川家とは、そういう家系だったのです。
 生口・小泉氏などの庶家を配下に置く小早川家は、海の経済的・人的ネットワークを背景として、強力な軍事力と水軍を持ち、他の安芸国の国人領主を圧倒していきます。因島や能島の村上氏も最終的には、この軍門に降ることになります。
 その生口島の繁栄の象徴が向上寺の三重塔ということになるようです。小早川氏の外港として繁栄する瀬戸田港からの財をバックにして作り上げ塔です。
 向上寺(広島県安芸幸崎駅)の投稿(1回目)。#国宝 #向上寺三重塔 ・生口島へは尾道から…[ホトカミ]
  以上をまとめておきます
①鎌倉時代初期に西遷御家人として沼田庄に小早川氏が入ってきた。
②沼田庄を拠点に、竹原などの沿岸部に勢力を伸ばし、開発を行った。
③南北朝の争乱期に宣平の4人の子ども達は、芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築いた。
④「塩の荘園」として東寺の最重要荘園であった弓削荘に対して、小早川氏は侵入し「悪党」ぶりを発揮する。
⑤東寺はこれを幕府に訴えでるが有効なただ手は見つからず、小早川の庶家小泉氏に官吏を任せることもおこなったがうまく行かなかった。弓削荘は次第に小泉氏に侵食されていく。
⑥一方、生口島の瀬戸田港を拠点とした生口氏は、周辺の海民を組織し「海の武士団」へと成長して行く。
⑦生口氏は、明や朝鮮との交易活動などにも参入し、莫大な富を小早川氏にもたらした。
⑧瀬戸田港の山の上に建つ向上寺の国宝・三重塔は、そのシンボルである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上水軍の解体過程
能島村上水軍の解体過程

村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。

村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。

村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。

村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。

村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
島吉利の子孫

  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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   18世紀半ばすぎから19世紀初頭の半世紀で御手洗の人口は4倍に激増しています。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
明治5年(1872) 戸数369
そして、明治10年(1877)には400戸を越えています。このあたりが御手洗の繁栄のピークだったようです。そして明治20年代に入ると、戸数はしだいに減少に転じていきます。それは塩飽や小豆島など島嶼部の港が共通にたどる道です。
どうして、明治二〇年代に瀬戸内海の港町の勢いが失われていくのでしょうか。いくつかの要因がありますが
まず第1に考えられるのが鉄道の到来です。
 日清戦争の際に広島に大本営が置かれるのは、広島まで鉄道が延びていたからです。明治27年の日清戦争の開戦時には、鉄道が広島までやってきていたのです。これは輸送革命をもたらします。輸送手段の主役は、船から鉄道へと代わっていくことになります。人とモノの流れが変わります。芸予の人たちは、船で大阪に向かっていましたが山陽沿いに鉄道が走るようになると、尾道や三原に出て鉄道に乗るようになります。御手洗をはじめとする瀬戸の港町は「瀬戸内海という海のハイウエーのSA(サービスエリア)」の地位を、次第に追われるようになったようです。
 2つめは、ライバル港の登場です。
明治になると、御手洗の北側にある大崎上島の東をぬける航路が整備されます。この航路に沿って燈台建設などが進められ、そのルート沿いの木之江や鮒崎が御手洗のライバル港として現れます。それまで御手洗を中心に形成されていた商業圏が崩れ始めます。
3つめは、船の変化です。
7 機帆船

 明治後半になると、江戸時代以来の帆船に変わり機帆船の数が増えはじめます。この時代になると人もモノも鉄道に流れ、北前船の姿は消えます。瀬戸内海物流の主役は、石炭になります。北九州の石炭を大阪に運ぶ機帆船が多くなります。この船は御手洗に入港しますが、その積み荷の石炭を御手洗商人が買い入れて、地域で売るということはできません。御手洗商人の活躍の場が無くなったのです。
 また、機帆船は焼玉エンジンを積んだ動力船なので、それまでの帆船のように風待ち、潮待ちを重ねながら航海をするということはなくなります。目的地の大坂を目指して、御手洗を素通りしてしまう船が多くなります。それに加えて、先ほど行ったように大崎上島の木之江、鮒崎が寄港地として台頭します。減った船を、ライバル港と奪い合うよう状況になっていったようです。
 それまで、芸予諸島西部の商業圏を、江戸時代に広島藩の海駅だった下蒲刈島の三之瀬と御手洗が二分してきました。ところが大正時代にはいると、大崎上島の木之江がめざましい成長をとげ、御手洗の北部の商圏は木之江のものとなっていきます。 御手洗を中心とする経済圏が、次第に狭められていきます。

 4つめは、焼玉エンジンが海のストロー現象を引き起こします。
7 御手洗 焼玉g
動力船の一般化によって島の人々の線の行動範囲は、ぐーんと広がりました。尾道、竹原、今治などの大きなまちに、一日で往復できる時代がやってきたのです。島の人たちは、動力船に乗り合わせて「都会」に買物にでかけるようになります。動力船が普及する前は、手こぎ船で往復できる御手洗、三之瀬、木之江というまちが商圏でした。御手洗商圏を動力船が突き崩してしまったのです。近年の高速道路や新幹線が、お洒落な人たちを三宮や梅田まで買い物に出かけさせるようになったのと似ています。百年前のストロー現象が瀬戸内海で起きていたのです。
  「繁栄」を続けていたのは、御手洗のどの地区なのでしょうか?
当時の地籍図からそれが読みとれるようです。明治28年の地籍図には、地租徴税のために御手洗の10の町毎にの宅地評価ランクが1~5等で示されています。ここからは屋敷地の評価価値を読みとれます。評価が高い町は、活発な活動が行われていると考えられます。
 
7 御手洗 M28

 一等の黒い宅地部分はは、住吉町の海岸通りと相生町です。
住吉町は、江戸時代後期に新しい波止場築かれ、船宿、置屋のある歓楽街として賑わいをみせてきました。それが、帆船がまだ多かった明治二〇年代には、寄港する船乗り相手に賑わいを維持していたことがうかがえます。また、相生町は、御手洗の商業の中心地です。中継的商業が衰退しても、賑わいの「残照」が残っていたようです。

 二等の斜線部分は、蛭子町と、住吉町、榎町、天神町のI部です。
蛭子町は、住吉神社の前の波止場が出来る前までは、北前船の荷揚げ場の中心でした。そのため蛭子町は、相生町にも増して賑わいをみせたところと思われますが、この頃には多くの宅地が二等となっています。
   三等の格子状部分、常盤町に多く分布します。
常盤町は、今でも古い町並みを残す一角で、江戸時代のある時期までは、御手洗の商業の中心であったところでした。しかし、明治二〇年代には、相生町、蛭子町より等級は落ちています。かつての賑わいがなくなっていたことがうかがえます。
それでは、これが16年後の明治44年には、どう変化しているでしょうか?
明治44年版は、25ランクに細分化されています。しかし、一等の黒い部分が一番高く評価されている宅地であることに変化はないようです。
7 御手洗 M44
 前回の明治28年に一等だった住吉町は、一~三等の三ランクに区分されています。大東寺付近が一等で、南に行くと三等となるようです。しかし、住吉町がトップランクなの変わりないようです。石炭をはこぶ機帆船が主流になっても、船員たちは大坂からの帰路には、馴染みの女がいる住吉町に立ち寄る者は少なくなかったようです。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」
という船宿の主人の言葉が思い出されます。
 16年前は二等であった相生町は九等まで下がっています。蛭子町は、大部分が10等です。やはり、住吉町の色町の輝きは船乗りを引きつける魅力があったようです。
戦前の御手洗の「主力商品」は、なんだったのでしょうか?
7 御手洗 交易表

  一番下の昭和13年の輸入金額でみると、最も多いのは「弁甲」とあります。私は、最初は「鼈甲」と勘違いしていて、不思議に思っていたことがあります。弁甲とは、九州日向産の杉のことです。これが木造船には最もいい用材とされたようです。それが御手洗港の輸入取扱額の半分以上を占めます。丸太材も10%ありますので、6割は木材ということになります。輸出に至ると、「弁甲」は8割近くになります。
 明治には米の取扱が半分だったのが、主役は「弁甲」に代わっているのが分かります。この背景には何があったのでしょうか?
弁甲は宮崎から御手洗に送られてきて、ここから阪神地方へと送られていたようです。丸太材は宮崎、高知、徳島から御手洗にはいり、やはり阪神地方に運ばれています。
 瀬戸内海は、古くから「海民」の活躍の場であり、その機動力として多くの船が作られてきた土地柄です。御手洗の近くにも広島県倉橋島や岡山県牛窓などの船大工が集まり、船造りが盛んな所がありました。
 明治末期から大正時代にかけ、その船大工の伝統をもとに、大規模な造船地が生まれてきます。大正時代にはいると巨大な造船地帯を形成するようになり、第一次世界大戦の戦争景気ではおびただしい数の船が作られて、造船景気を生み出します。
 御手洗の港で弁甲が大量に取引されるようになったのも、芸予諸島の造船地帯の勃興が背景にあったようです。御手洗は、弁甲産地の宮崎と、主な需要地の阪神地方のほぼ中間に位置し、また、瀬戸内各地に造船地帯を背後に持ちます。そのことが御手洗を船材の中継地としての役割を持たせることになったと研究者は考えているようです。
 もちろんそこには、中継的商業の伝統のノウハウが御手洗に根づいていたこともあります。御手洗は大正時代に「北前船の米」から、「造船所で使う弁甲」の中継地へと転進したようです。
 しかし、これも木造船から鋼鉄船へと変わる時代がやって来ます。それに対応する術は、なかったようです。

 現在の御手洗で、約百年前の昭和初年からの商売を引き続いて行っている家は、10軒もないと言います。大きな変動の中で多くの人が、ここから出て行ったのです。
 御手洗のまちを歩くと、塗寵造りの商家の二階の格子窓をぶちぬき、物干し場をとりつけたり、表通りの倉庫が蜜柑納屋に変わっている光景がかつてはありました。商家の多くが仕舞屋に変わったばかりでなく、いつの頃からか町中にみかん農民が住みはじめたのです
 戦後、御手洗の商業がまったくふるわなくなると、人びとは家を空けて、他の土地に稼ぎに出かけ、そのまま出先に住みつく人が増えました。あるいは旅稼ぎに出かけず、店をしまったまま老後を御手洗ですごした人もいました。その家もいつしか代替わりをし、次の世代を受けつぐ者が、よその土地で暮らしをたてはじめます。そこで、その空家を買い取り、新たな人びとが御手洗の地に住みついていったのです。
 戦後、住民が交替した家を研究者が調べてみると、現在の212戸の中で、53戸までが大長出身者であったようです。大長集落は、「大長みかん」で有名なところです。かつては、「農船」(農耕船)で、周辺の無人島に出作りに出かけていました。その範囲は、芸予諸島のほか、呉市から竹原市にかけての山陽沿岸、菊間町から今治市にかけての四国地方までも及んでいたことがあります。
 大長みかんはブランド化され、みかん農家は豊かになりました。このため末子相続制のこの集落では、自立した長男たちが分家の際に御手洗の空家を手に入れるようになったのです。そのためかつては商家だった家屋に、みかん農家が入り、みかんの納屋が建てられているという姿が普通に見られたこともありました。
 何もなかった御手洗の浜に、潮待ち風待ちに入り込んだ船を相手に商売を始めたのも大長の人たちでした。社会変動の中で、人びとがまちをあとにした後に、かつての親村である大長から人々が入って行って住み始めるのを、先祖たちはどんな風に見ているのでしょうか。
 いろいろなよそ者がやってきたが、最後は地元の大長の者の手に帰ってきたと、苦笑いしているのかもしれません。
参考文献  廻船寄港地御手洗町の繁栄とそのなごり
                

広島県呉市「御手洗」は懐かしい故郷のような町並み | 広島県 | LINE ...
 江戸時代の街並みは、大火災に見舞われた経験をどこも持っています。御手洗のまちも、元文、宝暦、文政、天保と、四度の火災にみまわれているようです。なかでも宝暦九年(1759)宝暦の大火は、延焼が127世帯におよんでいます。全世帯が300軒余りでしたから半数近くの家が失われたことになります。この大火の後、まちでは年寄紋右衛門(柴屋)以下四名が、豊田郡代官所にあて、救助を願い出で次のような家屋再建の用材を求めています。
壹軒分諸入用左之通
柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
合掌、向差、角木、拾本 壹丈壹尺位
家なか、垂木、ゑつり、ぬいほこ 共大から竹三乗 貳尺五寸手抱
藁 三拾乗 五尺手抱
縄 貳乗半 三拾尋操
   ここからは火災後に、どのような構造の家が建てられたかが推察できると研究者は云います。
「壹軒分諸入用左之通」とありますので、一軒の家再建のために次の材料を用いるということなのでしょう。この材料を使って再建されたのは、二間四方の藁葺き家だったようです。
①柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
 梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
 柱を一間間隔に四方にたて、柱の上に四本の桁と二本の梁をのせて木組みをした構造
②合掌とは、草屋根をささえる材、
③向差とは、妻側で草屋根をささえる材、
④角木は、家屋の四隅にわたして草笛根をささえる材
で、それぞれ、四本、二本、四本の計10本が必要です。
⑤家なか(屋中竹)は、合掌材の上にくくる竹。
⑥ゑつりは、藁の下地をなす桟竹
⑦ぬいほこは、藁をおさえる矛竹
⑧藁の量や縄の長さ 
ここからは、宝暦九年の大火で、更地になった跡地にあまり時をおかずに、御手洗商人たちは同規格の新たな家屋を一斉に新築していったことがうかがえます。一八世紀中期という時代は「戦後の高度経済瀬長期」と同じように、そんな再築方法が進められるだけの経済力と機運があった時代だったようです。

 今、常盤町に残る「妻入り本瓦葺き、塗寵造り」の家屋は、デザインだけでなく防火建築としても優れたものだと研究者たちは評価しています。それは「モデル住宅」を基準に、工法やデザインを共通にして建てられた建物群だからできたのではないかと研究者は考えているようです。常盤町では、古い土蔵をとりこわした際に、安永期(1772~80)の棟札が出てきたそうです。その頃には、すでに主屋の再建が一段落し、土蔵を建てる時代に移っていたのかもしれません。
 瀬戸内海の港町を歩くと「妻入り本瓦葺き塗寵造り」の町屋建築物がその「街並みの顔」となっている姿をよく見かけます。この建築様式は、18世期中期に確立されたと云われます。御手洗に今日に残る町並みも、
①宝暦の大火の後に、二間四方の藁葺き建物群が再建された
②その後、安永期にかけて現在のタイプに再建された
と研究者は考えているようです。それは
「御手洗の商人が、中継的商業を興しながら財力を築き、その力をもって生み出した町並み」
であるようです。

19世紀はじめの御手洗の人たちの職業は?
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」には、次のように記します。
当村町形勢気候民戸産業之事(前略)
御手洗町之儀者
問屋中買店商  三歩(3割)
船宿客屋風呂等焚キ渡世仕候もの三歩(3割)
農業並びに船抄日雇中背相混シ渡世仕候もの四歩(4割)
つまり、①問屋仲買人が3割  ②船宿・風呂屋が3割 ③農業と日雇い4割  という職業構成だったようです。当時、大長村と御手洗町をあわせた家数は、736軒。うち百姓481軒、社人2軒、医者4軒、町人118軒、職人13軒、浮過(日雇い)118軒とあります。百姓は大長に住んでいたので、
736軒 - 百姓481軒= 255軒
が御手洗の戸数と考えられます。そして、その3割が商人であり、日雇い無産階級の人々と同数であったということになります。
 三割を占める問屋、仲買、店商いは、どのような品物をあつかっていたのでしょうか?
  穀物 あいもの 荒物 小間物 酒 塩 薪 茶 味噌 醤油 酢 油 粕 蝋燭 呉服類 木綿 綿 紙 章汗子 銘酒 瀬戸物 琉球芋 桃 柿 諸茸類、金物細工もの類 野菜類 かう類
 以上の29品目です。主力商品は穀物(米)でした。3月から8月までは北国登りの廻船をを扱い、日本海の荒れはじめる9月から翌年の2月には、伊予、中国、九州の米穀を扱っていたようです。
  この頃には、御手洗は周辺の島々の商圏の中心地になっていました。そのため周囲の米需要を御手洗の米穀問屋が引きうけていたようです。芸予諸島の耕地は、水田耕作をするところが少なく、江戸時代は、麦や甘藷の栽培が主流でした。この畑は明治期を迎えると桃や蜜柑等の果樹園に変わり、以後も水田となることはありませんでした。そのため、島じまでは裕福な人たちは、御手洗商人から米を買っていたようです。寄港する船が購入する米も、少なくはなかったのでしょう。御手洗には、米の小売業を営む者が戦前まで多かったようです。
 小間物屋が多いのも、この町の特徴ですが遊女屋の女性たちの需要があったようです。船宿、客屋、風呂屋等については、次のように記します。
   茶屋については、
(前略)右遊女平常勤方之儀者、昼者かりと唱宿屋或者船杯ヘモ遊二参り申候、夜分者暮合頃より夜店ヲ出し時節流行之唱歌ヲ唱ひ三味線小弓杯ひき 四つ時限り夜店相仕舞申候
とあり、夜昼となく賑わいをみせていた様子がうかがえます。室町時代に、外交使節団長としてやってきた李氏朝鮮の儒学者が
「日本の港では、昼間から遊女が客を町中でひいている」
と、おどろいていましたが、時は経っても変わらない光景が日本にはあったようです。
   風呂屋については
 風呂屋之儀者貸座敷と中懸ヶ行燈ヲ出し 遊女芸子等すすめ候儀二御座候
とあり、風呂屋が貸座敷となり、客に遊女をすすめていたようです。
前回もお話ししましたが船乗りたちは船宿に到着すると茶湯の接待を受けた後,風呂に入り酒宴に興じます。この時に馴染みの女性が湯女として世話し、宴会にも侍ります。船宿に泊まるのは原則は船頭だけでしたが、船員の中には「ベッピン」と呼ばれる芸娼妓を伴い,船宿や旅館で一夜を共にすることも少なくなかったようです。置屋は,こうした芸娼妓たちの居住の場でした。芸娼妓たちは,置屋から船宿や料理屋へ出張したり,おちょろ船に乗って沖に出たりするだけでなく,置屋へ客を引き入れる場合もあったと云います。これらの業種は, 千砂子波止に近い築地通り沿いの住吉町にあったのです。住吉神社が姿を現して以後は、ここが御手洗の歓楽街だったようです。
   舟稼ぎ、旦雇、中背(沖仲仕)等については記載がありません
 船の荷物の積み卸しなどの作業には港湾労働者が必要です。彼ら「無産階級」が戸数の4割を占めていたことにも注意しておく必要があります。御手洗に来れば稼ぎ口があり、よそからの参入者を受けいれる土地柄であったのです。当然、人口流動性も高くなります。
7 御手洗 8北
  千砂子波止と住吉神社の出現が御手洗に何をもたらしたのか・
 19世紀になると御手洗には、北前船や各藩の廻船と共に、仲買商人や文人墨客など、沢山の船や人が集まる様になりました。そんな中でこの港の課題として浮かび上がってきたのが、港入口の岩礁の存在です。ここが難所となり、船を傷つけることがあったようです。そこで、幕府は広島藩に指示し、千砂子波止の着工を命じます。難工事の末、文政12年(1829)に完成した石造りの波止場は、当時「日本一無双の大波止」として、全国の船乗りに知られるようになります。
7 御手洗 波止場98北

 これの波止場の完成を契機に御手洗港は、ますます北前船が立ち寄るようになり、多くの物資が集まる巨大な経済圏の中心になっていきます。 この波止場の完成を記念して、広島藩はこの波止場に住吉神社の勧進建立計画を作成します。そして、有力者に神社建設の寄進の話を持ちかけるのです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

住吉神社の建立資金を出したのは、だれなのでしょうか?
広島藩の勘定奉行が話を持ち込んだのは、藩の蔵本で大坂商人の鴻池善右衛門でした。善右衛門は、即座に社殿の寄付を申し出ます。彼の頭の中の算盤には、御手洗の巨大な商圏を手中に収めておこうという算段があったのかもしれません。御手洗の経済規模は、それだけの投資をしても惜しくないものに成長していたのです。
  こうして造営は、鴻池家の寄進によって進められることになります。社殿寄付の話がまとまると、天保元年(1830)年5月から境内の埋め立てが始まります。 工事の材料入手や夫役が「波止鎮守社住吉大神宮寄進帳」に詳しく残されています。
 埋め立てに先だって海辺に長さ30間の石垣が築かれます。石垣のために1446石の石が付近の村から寄進されています。寄進したのは予州北浦、御調郡鰯島、安芸郡坂村、安芸郡呉村、瀬戸田村、大長村、大河原田村などの有力者30名です。船で、御手洗に運ばれてきたのでしょう。
 次に、埋立作業の人夫のことが記されます。
付近の東野村、沖浦村、中野村、明石方村、原田村、大串村、大長村、豊島村、久比村、大浜村、斎島の島じまの庄屋が世話方になり千人を超える人夫が集められ工事が始まります。さらには、芸予諸島以外の山陽側の田万里村、小阪村、七宝村、竹仁村、小泉村の庄屋も世話方となり、工事に力をかし、人夫を送り込んできます。御手洗の商圏エリアの有力庄屋たちが協力していることがうかがえます。   
 そして、地固めの際には茶屋の遊女が総出で繰り出し、華やかな踊りを披露して、港は祭り気分に湧きたったようです。その姿をひと目見ようと、近在近郷より見物入が舟を仕立てて群をなしてやってきたと記されています。新しい港の完成と、その守り神となる住吉神社の勧進事業は、一大イヴェントに仕立てられていきます。人を呼び込むことが、港町や門前町の必須課題なのです。
  海が埋め立てられ造成されると、上棟式が行なわれます。
鴻池氏の寄進になる社殿の材は、大阪から積み出されて船で御手洗に運ばれました。同時に、大工棟梁、金具屋、屋根屋も大阪からやって来ます。波止ができ、その鎮守の住吉神社が姿を現すようになると、住吉町は御手洗の新しい表玄関となります。次々に家が建ちはじめ、紅燈あでやかな町並みが出来ていきます。この海沿いの街に建ち並んだのは、船宿と置屋だったといいます。この街並みには住吉神社の由来から住吉町と呼ばれるようになります。
  現在の住吉神社を訪ねて、その歴史を感じてみましょう
 住吉神社は御手洗の斎灘を眼前にひかえた街の南端に鎮座しています。
呉市豊町御手洗住吉町 船宿cafe若長 - 大之木ダイモ|広島、呉の ...

この境内には創建時の奉納物が数多く残されています。大坂の鴻池家により建立されたという歴史から大坂と関係したものが多いようです。まず、迎えてくれるのは境内入口に高くそびえる石造高燈寵です。これには「太平夜景」と刻まれ、天保三年(1832)、金子忠左衛門、男十郎右衛門と寄進者の名が記されています。この金子氏は、三笠屋を屋号とする御手洗の庄屋です。
 境内入口にかかる太鼓橋は、もとは木造でした。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

それを明治43年に、鞆田幸七、今田愛兵衛の寄進により、伊予の今治から石工を呼び寄せて石造りに改修しています。
 鳥居は、文政13年(1830)、大阪の和島屋作兵衛が寄進したものを、大正2年、「住吉燥浜組合」が世話人となり改修しています。
7 御手洗住吉神社3
 拝殿の前に建つ一対の狛犬には、天保4年(1833)若胡屋亀女と刻まれています。御手洗で最大の勢力を誇った遊女屋からの奉納物です。手水鉢には、文政一三年大坂岩井屋仁兵衛と寄進者の名が刻まれています。
 参道両側に建ち並ぶ30基余りの常夜燈もみごとです。
その中で、鳥居前のひときわ目立つ位置におかれた常夜燈は、文政13年多田勘右衛門が尾道の石工に刻ませたものです。多田家は、竹原屋を屋号とする御手洗の年寄を勤めた家です。ほかの常夜燈にも寄進者の名が刻まれています。その中には大阪からの海部屋、和島屋、岩片、竹雌唯、町波屋、河内屋、住吉屋、姫路屋などからの奉納があります。九州延岡の石見屋からも寄進も混じっているようです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

 境内をとり囲む玉垣も住吉神社造営の時につくられたものです。
そこには多くの御手洗商人の名と共に、若胡屋、堺屋、扇屋内何某と遊女の源氏名もあります。住吉神社造営にあたり、彼女たちが競い合うように寄付をしているのが分かります。売られて来た身の行く末を案じて、神仏にすがることが唯一よりどころだったのかもしれません。
7 御手洗住吉神社5

しかし、この港の色町は「遊郭」とは、云えないと考える研究者もいるようです。
特に19世紀になって現れた住吉街は,千砂子波止の目の前に現れた歓楽街ですが、ここには「廓」がありません。女たちの生活と地域住民の間に垣根がないのです。地域住民と芸娼妓,船乗りが同じ、商店や施設を利用していました。大崎下島の若い男性が芸娼妓と懇意にしたり,芸娼妓が「地域住民の一員」として祭礼や運動会へ参加したりして、人的交流もあったといいます。これは「廓」に囲まれた遊郭とは、性格を異にします。女たちが地域に溶け込んでいたのが御手洗のひとつの特徴と云えるのかもしれません。

 19世紀初めに姿を現した新しい波止場と、その守護神である住吉神社の勧進は新しい御手洗の玄関口となりました。そして、その海沿いには歓楽街が姿を現したのです。そして、この歓楽街は機帆船の時代になっても生き残り、戦後の買収禁止法が出来るまで生きながらえていくことになります。
以上をまとめておくと
①17世紀末に埋立地に新しく常葉町が作られた。
②しかし、宝暦の大火で焼け野原になってしまった
③復興計画により同一規格の家屋が常葉町には並んで建った
④そして、この町が新しい御手洗の中心商店街となっていく
⑤18世紀初頭に新しい波止場と住吉神社が建立された
⑥そこは新しい玄関口として機能し、周辺は歓楽街となった
⑦そして、御手洗で最も最後まで活気がある場所として戦後まで存続した。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 港町御手洗の歴史一昭和33年(1958) 以前
年次
寛文 6年(1666)  御手洗への移住開始
延宝 (1673~8 1) 大長村から 18軒の商人が移住
貞享 2年(1685) 島外から商人が移住する
     4年(1707) 小倉から勧請した恵比寿神社を建て替える。
正徳 3年(1713) 町年寄役が設置される。
事保 2年(1717) 弁天~蛭子海岸線の埋め立て開始する。
事保 9年(1724) 若胡屋が広島藩から営業免許を受ける。
延享 2年(1745) 船燥場(ふなたでば)を設遣
:      年(1759)   大火が発生。
文政11年(1828) 広島藩が新たに市街地の開発を計画
文政13年(1830) 大波止ができる。大坂商人・鴻池善右衛門(広島藩蔵元)らが住吉神社を寄進
明治20年 (1887) 飛地交換分合により,大長村から独立
明治22年 (1889) 市制・町村寄せの施行で御手洗町となる。
大正 2年 (1913) 御手洗~尾道間の定期旅客線が就航
昭和33年 (1958)   売春紡止法の施行により,置屋業が廃業

旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

  御手洗が発展期を迎えたのは、18世紀半ばすぎの寛延から19世紀初頭の享和期にかけてのようです。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   御手洗の戸数は、この半世紀で四倍近くに激増しています。
  シルクロード沿線のオアシス都市では、やってくるキャラバン隊商隊の数と、その都市の経済力は比例関係にあるといわれます。そのためオアシス都市は宿泊場所やサライ(市場)などの設備投資を怠りませんでした。一方、キャラバン隊へのサービスも充実させていきます。その中にお風呂や娼婦を提供する宿も含まれました。キャラバン隊に嫌われた中継都市は滅びるのです。
 この時代の瀬戸内海の港町にも同じような圧力がかかっていたように私には思えます。港町は廻船を引きつけるためにあの手この手の戦略を練ります。廻船への「客引きサービス合戦」が激化していたのです。その中で、御手洗は新しい港町でネームバリューもありません。沖往く船を引きつけ、船員たちをこの港に上陸させるための秘策が練られます。その対策のひとつが「茶屋・遊女屋」設置だったようです。この申請に対して、広島藩は許可します。
日本の町並み遺産
 そして若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋の4軒に許可が下り、遊女屋が開かれることになります。
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」によると、
①若胡屋              40人
②堺屋(酒井屋)、藤屋(富土屋)  20人
③海老屋(のち千歳屋)       15人
の遊女を抱えていたと記されています。4軒あわせると百名ちかいの遊女がいたようです。
どんな人たちが遊女屋を開いたのでしょうか?
文化12年(1815)ころの町の記録「町用覚」に次のように記されています。
 若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広嶋中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや知か上ノ関二住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるものの世話となり小家をかり見せ(仮店)なと出し、いつしか此所の帳に入り住人とハなりぬ(後略)
  ここからは、次のようなことが分かります。
①若胡屋はもともとは広島城下で魚屋を営業していた海に関係ある一族のようです
②いつの頃からか上関(周防)に住み、めんるい屋の株を持って営業するようになった
③それが享保の頃に、御手洗にやって来て「船後家(?)」を営むようになった
④その後、土地の船宿の世話で陸に上がり、小家を仮店舗としてこの土地の者として登録されてるようになった。
分からないのは「茶屋子供をつれ船後家の商売」です。今は触れず後に廻します。「此の所の帳に入る」とは、正式にこの町の住人になったということのようです。
御手洗町並み保存地区 呉市豊町御手洗 | ツーリング神社巡り 狛犬 ...
もうひとつの桜屋を見てみましょう
 堺屋が御手洗に来たのは、若胡屋に少し遅れたころのようです。
 堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延享寛延の頃より若胡屋に等しく此湊へ船にて後家商ひしか、陸にあかり蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主増蔵栄介ふたりとも打つりきて不仕合して難渋にせまり一跡かまかり、引取しかいよく極難に降して公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり寛政の頃至り此所へ入帳して本住居となりぬ
 意訳整理すると
① 堺屋は蒲刈(三の瀬?)の茶屋であったが延享寛延の頃に若胡屋と同じように、この港で船の「後家商い」を行うようになった。
②御手洗に出店しても40年ほどの間は、御手洗へ「住人登録」せず、正月と盆には郷里の蒲刈に帰って行事を済ませ、再び御手洗に稼ぎに来るといった形をとっていた。
③その後、御手洗に移住したが、不都合な事件に出会い難渋し、ついには蒲刈の商売を手放し、正式に御手洗の住人となった。
お知らせ: HPA・Photo・ワークス
御手洗の沖に停泊する廻船 
 若胡屋、堺屋が商売としていた「船後家」とは?
 沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話や、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は「一夜妻」として伽をつとめるものです。どうも藩の公認以前から「後家商い」船を使ってやっていたことになります。桜屋の場合は、蒲刈から出張してきていたものが御手洗を拠点にするようになります。そしていつの間にか「陸上がり」して、人別帳に登録される正規の住人になっていたようです。面白いのは、船に女たちを載せて、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけて、やがては住みつくという方法は、どこか「家船(えしま)漁民」に似ている感じがします。この「漂泊」は「海の民の」の子孫の姿かもしれません。彼らは、御手洗を拠点としてからも、鞆、尾道、宮島、大三島などさかんに出向いている記録が残っています。
花街ぞめき Kagaizomeki
  何のために女たちを船に積んで、港に移動していたのでしょうか
鞆、尾道、宮島、大三島に共通するのは、どこも大きな社寺があります。その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったようです。船さえあればどこにでも行くことができ、商売もできたのです。

 四国伊予の大洲藩の船宿の建物が今も住吉町に残っています。
子孫の木村氏は、今から半世紀前に船宿のことについて、次のように語っています。
船宿の暮らしは、海を眺めているのが商売でした。沖になじみの船が見えると、まずは風呂を沸かします。風呂といっても、浴槽に狭い五衛門風呂です。船宿の主人が伝馬船に乗り、沖の船を出迎えに行きます。その時の挨拶は「風呂が沸いたけえ、おいでてつかあさい」というのが決まり文句でした。
 沖に碇泊する船の乗組員には、豆腐を手土産にするならわしでした。豆腐は、味噌汁の具とするものでしたが、船乗りは、豆腐が時化よけにきくと信じていました。
 船乗りが宿に着くと、茶湯の接待が行なわれます。宿の主人は、まずは船乗りに航海の労をねぎらいます。一休みすると、船乗りたちが風呂に入り、潮風にさらされた身体を流します。このとき置屋から遊女がかけつけてきます。遊女は、湯女として船乗りの背中を流します。
 港が夕闇につつまれると、酒宴がはじまります。船乗りのもとには、なじみの遊女がはべり、三味や太鼓もにぎやかに夜がふけるまで、宴がつづきました。戦前までの住吉町は、今日の姿からは想像のできないほどの賑わいがあり、夜ふけでも灯の消えた家は一軒もなく、船宿では大戸をおろすこともありませんでした。
 宴が終わると、船乗りたちはそれぞれ船に帰っていきます。
船頭のみが船宿で寝泊りします。次の朝、船頭は船宿に祝儀をおいて船に戻っていきます。祝儀の額については、定まった額はありません。船頭の心付けといった程度でした。船宿の収入のほとんどは、夜の飲食の代金でまかなわれていました。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」船宿を営んだ木村さんはそう話しています。
おちょろ船 御手洗 大崎上島

 先ほど話したように、港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつける必要があったことを改めて知ります。
この話から分かることは
①船宿は、お風呂と宴会の場を提供するだけで、船員は泊まらない。泊まるのは船頭だけ
②船宿の収入の夜の飲食の代金でまかなわれていた。
③置屋から遊女が呼ばれいろいろな世話をした
④遊女たちが船を引きつける大きな役割を果たしていた
  おちょろ船 御手洗 大崎上島
 同じ頃の讃岐を見ると、次のようなことがおこなわれていた頃です。
①上方からの金比羅詣で客を迎えるためのに丸亀新港建設
②九州方面からの金比羅詣客の受入のための多度津新港建設
③金毘羅大権現の金丸座の建設と富くじ、歌舞伎上演
備讃瀬戸と芸予諸島の間には共通する「事件」が起きていたことが分かります。そして、瀬戸内海の物流は明治に向けて、さらに発展していくのです。

7 御手洗 ti北

 御手洗は、江戸時代になって新たに開かれた港町です。
近くには下蒲刈島に三の瀬という中世以来の有力な港町があります。それなのにどうして一軒の家もなかった所に、新しい港が短期間に姿を現したのでしょうか。
   それは、航海技術の進歩と船の大型化、そして御手洗の置かれたロケーションにあるようです。瀬戸内海航路は、中世まではほとんどが陸地に沿って航行する「地乗り」でした。現在のように出発港から目的港まで、どこにも寄港せずに一気に航海するようなことはありません。潮待ち、風待ちをしながらいくつもの港町に立ち寄りながらの航海でした。
   例えばそれまでの地乗り航路は
7 御手洗 航路ti北
①伊予津和地島から安芸の海域に入り、
②倉橋島南端の鹿老渡(かろうど)を経て
③下蒲刈島三之瀬に寄港し、
④豊田灘にはいって山陽沿岸を、竹原、三原、尾道と通って鞆へ
と進むルートが一般的でした。
 ところが、以前お話ししたように朝鮮出兵の際に軍船として用いられてた「関船」の「水押」などの造船技術が民間の廻船にも使われるようになります。今風にいうと「軍事先端技術の民間への導入」ということになるのでしょうか。また、船頭の航海技術も一気に上がります。それが北前船の登場につながるのです。腕の良い船頭の中には、それまでの潮待ち、風待ちの「ちまちま」した航海から、大崎下島の沖の斎灘を一気に走り抜けていく航路を選ぶようになったのです。これを「沖乗り」というようになります。
風待ちの港、御手洗
赤が地乗り、黄色が沖乗り航路
 沖乗りルートは
①倉橋島から斎灘を一気に渡り
②伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸をぬけ
③岩城島、弓削島を経て鞆へ
向かいます。倉橋島から大三島にかけての斎灘には、多くの島が浮かんでいます。西から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島(以上広島県)、岡村島、小大下島、大下島(愛媛県)ですが、これらの島じまの南岸をみると、直接南風をうけるため天然の良港はなく、集落もほとんどありませんでした。それまでの多くの集落は、小島にはさまれた瀬戸にのぞんで風当たりの少ないところを選んでつくられていました。しかし、小島にはさまれた瀬戸の多くは、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮のときは、繋船ができないほどの沿岸流が流れます。斎灘から豊田灘にかけては、北東方向に潮の流れがあり、ほとんどの瀬戸は、斎灘から北東方向を向いてぬけています。そのため大型船が湊に入ったり、係留するには不向きでした。

御手洗 (呉市) - Wikiwand
 ところが、大崎下島と岡村島にはさまれた御手洗水道は、斎灘から北西方向にぬけているのです。それに加えて御手洗水道の北には、現在は橋で結ばれている中島、平羅島、初島が並んで浮かび、潮流や風をふせぐ防波堤の役割を果たしてくれます。そのため、この瀬戸は潮の流れがゆるやかでした。大崎下島の東岸の岬の内側にある御手洗が船着場として注目されるようになったのは、そうした自然条件があったからのようです。
 沖乗りの大型船が、この海峡に入り込むようになったのは、江戸時代になってからです。
 大崎下島では、寛永一五年(1638)、安芸藩による「地詰」が行なわれています。地詰とは非公式な検地のことで、地詰帳によると御手洗地区には、
田が二町二反五畝一八歩
畠が六町四反二畝九歩、
あわせて八町六反七畝二七歩の耕地
が記録されています。しかし、屋敷は一軒も記録されていません。近くの大長や沖友の農民が、出作りの耕地として所有していたようです。 
 御手洗に屋敷割り記録が残るのは寛文六年(1666)からです。
 幕命をうけた河村瑞賢が西回り航路を開く少し前になります。しだいに北前舟の沖往く船の数が増え、なかには潮待ち、風待ちのために寄港する船も出てくるようになります。それを目あてに、大長や沖友など周辺の人びとが移り住み、にわかにまちが形づくられたようです。御手洗の屋敷割りは、制度的には寛文六年(1666)ということになっていますが、それよりも早く人々が集まり住むようになっていたようです。それは、港町といっても小さなものだったでしょう。
広島藩の藩の保護育成政策を受けた御手洗
当時は、農地をつぶして屋敷地にすることは禁止されていましたが、御手洗は特別に許されていたようです。また、海を埋め立てて屋敷をつくることも行なわれています。しかも、地子免除であったようです。ここからは広島藩が、新興港町・御手洗に人びとが移り住むことを奨励していたことがうかがえます。
御手洗の戸数が記録にあらわれるのは、それから80年後で
寛延元年(1748) 戸数83
明和五年(1768) 人家106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   と18世紀後半の半世紀で御手洗の戸数、人口は四倍近くに増加します。そこで藩は、文化五(1808)年に、御手洗の大長村からの分離独立を行い、新たに町庄屋が任命します。
 斎灘に浮かぶ芸予賭島でそれまで広島藩の重視してきた港は、下蒲刈島にある三之瀬でした。

三之瀬は、広島城下の南東30㎞に位置し、ここに番所を設け用船を常備し、船頭、水夫をおいて公用に備えていました。御手洗は、城下から約45キロ離れ、伊予境に近くにあるために不便と考えられたのか、最後まで番所が設けられることはありませんでした。それが御手洗に「自由」な発展をもたらしたのかも知れません。
 御手洗のまちを歩いてみましょう。
 御手洗は、斎灘につきだした小さな岬の周囲をぐるりととりまく形で町並みがひろがっています。船が桟橋に近づくと、岬の先端に、海に向かって建てられた石鳥居が目に入ってきます。
  蛭子神社の鳥居です。
港町 | ShimaPro BLOG
明治22年の再建で、沖からのランドマークの役割を果たしていました。まずは、やってきた報告と新しい出会いを祈念して蛭子神社に向かいます。境内は、樹木もなく瀬戸の潮風が吹きぬける海辺の社といった印象です。入母屋造り瓦葺きの社殿が迎えてくれます。
境内には、一対の常夜燈を除いて古い奉納物はありません。この常夜燈は、寛政元年(1789)、御手洗で遊女屋を営む若胡屋権左衛門と、商人新屋定蔵・吉左衛門が尾道の石工につくらせて寄進したことが銘文に刻まれています。
御手洗(蛭子神社)「チョロは出て行く」の案内板 | 古今東西散歩
 蛭子神社は、御手洗の商人が篤い信仰を寄せた社であったようです。この神社がいつ創建されたかは分かりませんが「九州の小倉から勧請されたもの」と伝えられるようです。創建当初は、梁行二尺五寸、桁行三尺五寸の柿葺きの小さな祠であったと云います。
 まちの発展に歩調を合わすように社殿は改修がくりかえされ、境内が整えられていきます。記録にあらわれる最初は、宝永四年(1707)で、御手洗に町年寄がおかれたのを祝うかのように姿を現します。以後、次のように定期的な改修が行われます。
元文四年(1739)本殿の前に拝殿がつくられた。
明和四年(1764)その拝殿が新たに建て替えられる。
安永八年(1779)社殿屋根が瓦葺きに葺き替えられる。
このように改修が行なわれたのは、御手洗の港が発展し、商人たちの「資本蓄積」が行われたことが背景にあるのでしょう。
 蛭子神社の西には弁天様を祀った尾根筋が海に向かってのびています。この二つの山の鼻にはさまれたところに、天満宮が鎮座しています。ここは背後の山が谷をつくるところで地下水脈に恵まれたところです。境内には、古い井戸が掘られています。瀬戸内海を行く交易船が昔から港に求めたものは、まずはきれいな水です。絶えることのない泉があることが必須条件です。ここから南にある荒神様も窪地となり、いくつかの井戸があります。このふたつのエリアが、御手洗が港として開発される際のチェックポイントだったのでしょう。
御手洗の10の町筋について  
7 御手洗地図1
御手洗には、複雑に入りくんだ細い路地がいく本もめぐらされ、まちが形づくられています。町名を挙げると大浦、弁天町、上町、天神町、常盤町、相生町、蛭子町、榎町、住吉町、富永町の10町になるようです。
 それらのまちの表情は、それぞれ少しずつ違っています。
西方の大浦から見て行きましょう
大浦は明治中期までは、町外れで人家が三軒しかないさびし所い所だったようです。後に海岸を埋め立て家々が建ち、今日では隣の弁天町と町並みつづきになっています。かつてはここには「貯木場」があったようで、造船材をたくさん浮かべてあったと云いますが、今はその面影もありません。
  大浦の隣の弁天町は、弁財天が祀られている山の鼻付近にひろがるまちです
弁天社本殿は、間口四尺、奥行三尺程のトタン屋根の小さなな祠です。境内には材木問屋大島良造奉納の鳥居が建ち、須賀造船所奉納の手水鉢がおかれています。寄進者から海にゆかりの人びとに信仰された社なんだなと勝手に想像します。この弁天社がいつ創建されたかは分かりません。しかし、現在地に移されたのは、文化年間(1804~18年の約2百年前のことで、庄屋柴屋種次が境内地と材料を寄進して建てたものと伝えられています。
漁師が住んでいた弁天町の長屋
 今の状態からは想像しにくいのですが弁天社の地先は、もともとは海に突き出した埋め立て地でした。そして海際から奥に続く道幅二間程の細い街路には、軒が低くたれこめた長屋が並んでいたようです。長屋一戸分の間口は三間半で、なかにはそれをさらに半分に仕切った家もありました。屋敷の奥行は、六間半余りです。長屋の建物は、四間半の奥行で、いずれも裏に一間ほどの庭があり、さらにその後に奥行一間余りの納屋があります。ここには、どんな人が住んでいたのでしょうか?
 この弁天様の先の突き出した埋立地には、漁民が住んでいたと云います。御手洗は、港でありながら漁民の数は少なかったようです。それは、この港の成立背景を思い出せば分かります。何もないところに、入港する大型船へのサービス提供のために開かれた港です。漁師はもともとはいないのです。港の人口が増えるにつれて、魚を供給するために漁民が後からやって来たのです。まちのはずれの土地を埋め立て、そこに漁民が住みついたのです。漁師が活動していた港が発展した町ではないのです。ここでは後からやって来た漁師は長屋暮らしです。
7 御手洗 北川家2
   弁天様から天満宮へつながる道筋沿いの町が上町です。
 ここには、平入り本瓦葺き塗寵造りの昔ながらの町家が何軒か残っています。しかし、壁はくずれおちています。大半は「仕舞屋(しもたや)」です。辞書で引くと「1 商店でない、普通の家。2 もと商店をしていたが、今はやめた裕福な家」と出てきます。この町筋に商家はありませんが町並みや街路の様子から早い時期につくられたまちだと研究者は考えているようです。御手洗はこのあたりから次第に開けていったようです。いわば御手洗の「元町」でしょうか。

 天満宮がこの地に移されたのは、神仏分離後の明治四年のことのようです。

それまでは、満舟寺境内に三社堂があり、そこに菅原道真像が祀られていたようです。神仏分離で
明治初年に、この地に天満宮の小祠が建てられ菅原道真像が移され
大正六年に、今の社殿が建てられたようです。

 先述したようにここが「御手洗(みたらい)の地名発祥の地といわれるのは、きれいな湧き水があったからでしょう。そのため、ここに港町がつくられる際に、まず人家が建てられたのもこの周辺だったと研究者は考えているようです。
天神町には、瓦葺きの白壁のあざやかな御手洗会館が建っています。
日本の町並み遺産

今は公民館としてつかわれているようですが、この建物は「若胡屋」という御手洗で最も大きな遊女屋の建物を改造したものです。御手洗会館の前には、やはり白壁造りの長屋門を構えた邸宅があります。
豊町御手洗の旧金子家住宅の公開 - 呉市ホームページ
これが、御手洗の庄屋を勤めた金子家の屋敷です。このようなモニュメント的な建物が並んでいることからも、天神町が、かつての御手洗の中心であったと研究者は考えているようです。
 天神町から御手洗郵便局の角を左に折れると常盤町です。
ここは、古い町並みが一番残っている町です。妻入り本瓦葺き塗寵造りの家が軒を連ねています
①もと酒・米穀問屋を営んだ北川哲夫家
②金物屋の菊本クマヨ家
③醤油醸造を行なう北川馨家
などは御手洗商人の家構えをよく残しています。
御手洗街並みレポート

 上町と天神町が、自然の地形を利用して山麓に街並みが作られているのに対して、常盤町はどちらかというと人工的なまち並みのイメージがします。ある時代、海を埋め立てて作られた街並みではないかと研究者は考えているようです。そのため、屋敷は街路に沿って整然と区画されています。町家も、同じ時期に一斉につくられたようで、よく似た規模とデザインです。御手洗が港町として繁栄の頂点にあった時に、今までの街並みでは手狭になって埋め立てが行われ、そこに競い合うように大きな屋敷が建てられたというストーリーが描けます。そして、それまでの古い町筋の上町や、天神町に代わって、常盤町が御手洗のセンターストリートになっていったようです。
   常盤町から海に向かって三本の小路がのびています。
①旧大島薬局横の小路はやや道幅が広く、小路に沿って人家が並んでいます。ここには古い木造洋館を利用した旅館などもあり、昭和初期の港町の雰囲気が残ります。
②北川哲夫家の左右にある小路は、杉の焼板を腰壁とした土壁の建物がつづいています。港とともに繁栄をきわめた商家の屋敷構えが、小路の景観にあらわれています。
 御手洗郵便局から蛭子神社に向かう道筋が相生町です。
ここは本通りと呼ばれ、明治、大正、昭和初期にかけて、御手洗の商業の中心として賑わいをみせた通りです。この町の町家の多くは、繁盛した大正から昭和初期にかけて建て替えられたようで、、総二階建て、棟の高い家屋が多いようです。
 目印になる昌文堂は、もとは、酒・醤油の小売りをしていた家でした。それが明治42年に、本屋と新聞店として開業し、この港町に新しい時代の息吹きを伝えました。この店は、大崎下島唯一の書店で、戦前までは下島から大崎上島まで、教科書の販売独占権を持っていました。そのため店先には「国定教科書取次販売所」とケヤキ板に墨書きした古めかしい看板が、掲げられていました。
 昌文堂の三軒隣の新光堂は、時計を形どった看版が目印です。

明治
17年に神戸で時計修理の技術を修得した松浦氏が、船員が数多く立ち寄るこのまちで店をひらき、珍しかった時計を売りはじめます。時代の最先端の時計を売ることが出来る豊かさがこの港はあったのです。このように相生町は、常盤町と同時代に新しく御手洗の商業の中心地となった街並みのようです。
 ところで相生町には、伝統的な町家は二軒しか残っていません。どうしてでしょうか? 
それは、このまちが御手洗の商業地として賑わい、資本蓄積が行われ、それにともない建替えがくりかえされてきたためだと研究者は考えているようです。都会でも資本力のある店は、早め早めに店を建て替えて、お客を引きつけようとします。そのため有力な商店街に、古い建物は残りません。逆説的に云うと
「建て替えるお金がないところに古い建物が残る」
といいうことになるのかもしれません。神様はこういうプレゼントの仕方をするのかもしれません。
 蛭子神社付近が、蛭子町です。
岬を中心にコ字型の町並みがあります。御手洗商人の篤い信仰を得た蛭子神社のおひざもとのまちです。ここは相生町の町並みとつづきとなっていて、明治から昭和初期まで賑わいが残りました。
 蛭子町には、江戸時代からつづく旧家が何軒か残っています。神社裏側の七卿館は、幕末に三条実美をはじめとする七卿が宿とした家で、江戸時代に庄屋を勤めた竹原屋多田氏の屋敷跡です。
ひろしま文化大百科 - 御手洗七卿落遺跡
竹原屋多田氏の屋敷跡
 竹原屋が御手洗に移住したのは、貞享二年(1685)ですので、御手洗のパイオニア的な存在になります。また、脇屋友三家は、九州薩摩藩の船宿を勤めた家です。さらに蛭子町の町はずれにある鞆田稔家は、海鼠壁の意匠が目を引く構えで、明治期に力を蓄えた商家です。この家については前回に紹介しました。
瀬戸内海の道・大崎下島|街道歩きの旅
鞆田家
蛭子町には、昭和初期に建てられた洋館が多く残っています。鞆田家の前には、別荘として建てた洋館が海に向かって今も建っています。この洋館は、もともとは芸妓の検番としてつくられたもののようです。芸子たちがお呼びがかかるまでここで、海を見ながら過ごしていたのかもしれません。
 蛭子神社の近くで医院を開業する越智家も昭和初期の洋風建築です。
とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地:5日目(5)』大崎下島・豊島 ...
昭和になるとハイカラな建物が好まれ、競い合うように洋風建築物が現れたことが分かります。蛭子町は昭和初期には御手洗で一番モダンな雰囲気の町だったようです。
 蛭子町の南が榎町です。
Solitary Journey [1792] 江戸時代から昭和の初期までに建てられた ...

大東寺の大楠が高くそびえ、ここには仕舞屋が並んでいます。満舟寺の石垣もみごとで、苔むした石が、野面積みで高く積みあげられています。
満舟寺石垣/豊地区 - 呉市ホームページ
 大東寺から海岸に沿って南にのびる町並みが住吉町です
まちの南端には住吉神社が祀られています。ここは斎灘に面したところて南風をまともにうける所で、台風などの時には被害が出ました。そのため御手洗がひらかれた時には、人家もないところでした。
 ところが文政11年(1828)に、ここに波止が築造されると、ここは御手洗の新しい玄関口なり人家が建ちこむようになります。船もこの波止場に着いたり、沖に停泊してここから渡船で行き来するようになります。波止のたもとに大坂から勧進された住吉神社が祀られたのは、その時期のことのようです。
 住吉町の山側が、富永町です。
このまちの裏手は小さな谷となっていて地下水脈に恵まれた土地のようです。この町の由来は、よく分からないようです。あまり商業が盛んでもなく、仕舞屋が並んでいます。
    隣の住吉町は船宿や置屋が建ち並びぶようになり、歓楽街として発展するようになります。この港には、オチョロ船という小舟が夜になると現れました。
おちょろ船 御手洗 大崎上島
船に遊女を乗せて沖に碇泊する船に漕ぎ寄せるのです。遊女は、船乗りの一夜妻をつとめました。彼女たちを船乗りは「オチョロ」と呼んだようです。この富永町は、このオチョロを乗せた伝馬船を漕ぐことを生業とした「チョロ押し」が多く住むまちだったと云われます。

         
大崎下島は、 大長みかんの島として知られています
今はとびしま街道のいくつかの橋で結ばれ呉市の一部となっています。芸予諸島のこの島も半農半漁の村で、明治の初め頃までは桃の木が山に多かったそうです。明治の終り頃に、温州ミカンの栽培が始まってから大きく変貌していきます。
大崎下島 - Wikipedia

 みかんのブランド化に成功するきっかけが選果機の導入だったといいます。
みかんは箱につめて出荷しますが、昭和の初め頃は、下の方には小さいのをつめ、上の方に大きなのを並べるのがあたりまえで、これをアンコとよんでいたそうです。買う方も不平を言いながらも、それを商習慣の一つとして受け取っていた時代です。このような「小さな不正」は、みな当前えに思っていたのです。
 そんな中で大正の終り頃、アメリカ農務省の嘱託として渡米した田中長三郎博士は、アメリカで機械選果機を見て感心します。これを輸人して選果して品質をそろえたら、きっと市場の信用を得て商品の価値を高めるだろうと考えました。そこで、3台の選果機を買って日本に送ります。その機械を導入して機械選果をはじめたのが、静岡・和歌山と大長だったようです。中には
「高い機械を買って選果して粒をそろえて売るのは、粒の小さいものが売れなくなり割に合わないし、もうからない」
という声も強かったようです。しかし、実際に選果機でより分けて大きさをきめ、それにあわせた定価をつけてみると、買う方は安心して買えるのでかえって信用が高まり「大長ミカン」のブランド力がいちじるしく上がったのです。
大長みかん Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
 プライドを持った農民たちは美味しいミカン作りに熱中するようになります。
売り上げも上がるので生産意欲もあがり、それまでサツマイモが植えられていた畑に次々とみかんの苗木を植えられるようになります。畑が足らなくなると、今度は誰も住まない沖の島々も買いとって、そこをミカン畑にしていったのです。そして
「大長のミカン畠は三〇〇ヘクタールであるが、島外にはそれ以上のミカン畑がある」
とまで言われるようになります。
島の末子相続がもたらしたものは?
 この島の人たちが、島外にミカン園をひろげるようになったのは、もう一つ原因があるといわれます。それはこの島の末子相続の風習です。長男が嫁をもらうと、少々の土地をもらって分家します。長男たちは、みかんを植えれば収益はあがるので、無人島に土地を買い足たし開墾して、みかん畑にしていきました。
 末子相続の風習は、芸予の漁民の間に昔からあったようで、そうした漁民たちが陸上りすると、その風習が農村社会にも引き継がれたようです。そのため、島では兄弟の関係がフラットで家長制度が緩かったと民俗学者は云います。
 大長のみかん農家は船を利用して、他の島々へ耕作に出かけていきました。
大崎下島・大長』を写真と紀行文で紹介 | 島プロジェクト

そのため大長の港は、かつては農耕船がいっぱい舫われていました。


寅さんも「難波の恋の物語」のロケシーンでムームーを行商したことがあります。この時はバックに多くの農耕船が映り込んでいました。しかし、今はその港に耕作船の姿はほとんど見られなくなりました。港の近くの公園に、一艘の耕作船が引き上げて展示されていました。
 ちなみに分家したみかん農家の長男たちが屋敷を求めたのが御手洗です。
ここにはかつての港町として栄え、大旦那の屋敷や店が軒を並べていました。しかし、昭和になるとその繁栄にも陰りが見え始め、歯が抜けるように商人たちは屋敷を残し御手洗から出て行きました。その後に移り住んだのが大長のみかん農家の長男たちだったようです。御手洗の街歩きをしていると、大きな商家風の建物に出会います。しかし、今そこに住んでいるのは商家の子孫たちばかりではないようです。

7 御手洗 北川家2
その中の一軒「北川家」をのぞいてみましょう。
瀬戸内海航路で「沖乗り」が行われるようになり、御手洗が潮待ち港として発展し始めるのは、江戸時代の後半になってからです。それまでここは、何もない海岸だったようです。港町の繁栄に引かれて周辺の大長から移り住む有力者が出てきます。北川家もそんな一軒だったようです。

 北川家の祖は吉郎右衛門で、もともとは大長の農家です。
末子相続によって、大長の家をついだのは次男兵次で、長男恵三郎が御手洗に出て商いを営むようになります。その後を継いだ喜兵衛は問屋商人として財をなし屋号を「北喜」とします。過去帳から喜兵衛は文化期に生またことが分かりますから、その活躍は天保期からあとの19世紀前半から半ばになるようです。喜兵衛の
①三男 定助が「北喜」をつぎ、
②五男 豊助が分家して「北豊」を興します。
「北豊」は廻漕店を営み、豊助の子利吉の代には、大正丸、北川丸をもち、御手洗と尾道のあいだを往き来して、廻船問屋として活躍します。
 その後、分家の成功を見て大長の本家をつぎ農業にいそしんだ兵次の孫仁太郎も御手洗に出て商いを営みだします。その家が「北仁」です。仁太郎は弘化期の生まれですから、その活躍は幕末の慶応から明治にかけてのことと考えられます。「北仁」は、蓄えた財力をもとでに金融業も営み、次第に大崎下島の土地を買い集めます。
 昭和になって廻船業が衰退すると「北仁」の当主は、商売をやめますが島は出て行きませんでした。先祖が手に入れた土地でみかん作りに乗り出すのです。みかん農家として島に生きる道を選んだ「北仁」の屋敷が残っています。この家は、常磐町の中ほどの海側に奥深くのびた作りになっています。
7 御手洗 北川家
②間口は約四間余りで、主屋の北に庭園があり、土蔵・離れ座敷が奥に建つ。別棟は渡り廊下で結ばれている。
③離れ座敷は、大正時代の建築で、入畳二室と茶室から成る数寄屋普請で、北川家が商家として全盛を誇った時代の建物。
④主尾は、妻入り塗籠造り本瓦葦きの伝統的な様式

この主屋は、北川家が御手洗進出以前に建てられていたものと研究者は考えているようです。つまり、以前に住んでいた人から買ったということでしょう。台所はのちに増築したもので、店の横の板敷きも改造した部分であるので、この増築部分を除くと、庭に沿って建屋が一列に並ぶという町家の間取りになります。
 廻船業から金融業、そしてみかん農家へと明治以後の北川家の活動の舞台となった家屋がここには、そのまま残っています。
  親子2代で御手洗の町長を務めた鞆田家を見てみましょう
7 御手洗 鞆田家
この家も幕末頃に佐藤家が立てたものを、後に鞆田家が購入したようです。佐藤家は屋号「里惣」で、幕末に船持ちとして活躍し、一代で財を築き、急成長をとげた家といわれます。その後、日清戦争を前にして軍港呉防備のために能美島に砲台が建設されることになり、「里惣」はこの仕事を請負います。ところが、工事に失敗し家運を傾けます。その際にこの「里惣」の屋敷は、そのころ金融業で羽振りの良かった鞆田家の手にわたったようです。
御手洗のクチコミ -重厚ななまこ壁の家 | 地球の歩き方[旅スケ]
 鞆田家は、それまでは住吉町に住んでいたようで屋号は「鞆幸」でした。
幕末から明治20年にかけて海産物・穀物問屋を営み、あわせて金融業にも手をひろげていた資産家です。「鞆幸」(ともこう)を名のったのは、幕末に活躍した祖父幸七に由来しているといいます。この辛七の子が市太郎で商売は行わず、医者として開業します。頼りになる
人物だったようで、明治後半には御手洗町長を勤めています。その間も、大崎上島や愛媛県岡村島、中島方面の土地を集積しています。
 市太郎の跡をついだ子は、教員となり、戦前は父と同じく町長を勤めています。先ほども云いましたが鞆田家が「里惣」(さとそう)と呼ばれる佐藤家の屋敷を買い取って、住吉町に移ったきたのは、明治三〇年ころです。
  この鞆田家の家屋を、研究者は次のように紹介しています

7 御手洗 鞆田家2
①主屋は「里惣」が全盛を誇った幕末のころのもの
②主屋は、間口四間半の妻入り塗籠造りで、脇に間口二間の平入り家屋を別棟でとりつけた造り。
③一階の開口部には当時の蔀が残されている。二階外壁の一部は、海鼠壁の凝った意匠がある。
④主屋の屋根は、寄棟桟桟瓦葺きで、御手洗の伝統的な町家の形式とは異なる。
⑤屋敷取りは、主尾の真に広い庭園を配し、土蔵、湯殿、二棟の離れ座敷を構え、それぞれが渡り廊下で結ばれている。
⑥道路をへだてた海辺には昭和10年ころに建てられた木造洋館があり、別宅としてつかわれている。
⑦主屋の間取りは通庭に沿って店、中の間、座敷の三重が一列に並ぶ
⑧台所は以前は土間につきでた板敷き、後に改造を加えて部屋とした
⑨土間の入口右手にある部屋は、市太郎が医業を営む際に用いた
御手洗の町家は、有力者の家でも通り庭に沿って部屋が二列に並ぶ造りは、ほとんどないようです。そこに中継的商業をなりわいとした問屋商人の住まいの特色があると研究者は考えているようです。

御手洗に残された有力者の家屋の遍歴を見ていると、その家を舞台に活躍した「栄枯盛衰」が見えてくるような気がします。都会では残されることのない幕末や明治の木造建築物が何軒も残っていることに驚かされると共に、そこには一軒一軒の歴史があることを改めて気づかせてくれます。
御手洗地区ガイドマップ | 田中佐知男のスケッチによる御手洗案内地図
参考文献 谷沢明 瀬戸の街並み 港町形成の研究

  

    海賊禁止令以後に行き場をなくした海賊たちが、家船(えふね)漁民の祖先ではないかというストーリーを以前にお話ししました。それに対して、小早川氏の中世以来の海賊対策に、家船漁民たちの問題はあると考える研究者もいます。この家が12世紀の終り以来、芸予地方にいたことが、大きな爪跡を残しているというのです。今回は「家船漁民=小早川氏原因説」を追いかけて見ようと思います。

まず、小早川氏について押さえておきます。
 小早川氏は毛利元親の息子隆景が養子に入って、大きな活躍をするようになりますが、元々は関東からやって来た「東遷御家人」です。その先祖を土肥実平と云い伊豆の土肥を出身地とした武士です。そのまえは平良文から出ているようです。その子孫の実平は、はじめ土肥郷にいましたが、源平戦の功によって、その北の相模の早川荘を与えられます。そして、その子の遠平(とおひら)の時に、安芸国沼田荘の地頭となって関東から下って来たようです。安芸では小早川を名乗るようになります。ここまでの「経歴」を見ても分かるように、もともとは海に縁のない家です。
 この家が芸予諸島の島々に進出するようになったのは、
沼田新荘の住人が海賊をはたらいたのを討伐したのがきっかけのようです。建保年間(1221年)の頃のことなので、安芸にやってきて土地勘や武士相互の人間関係にも不慣れな時に、海に出て行き「海賊討伐」を行うのは大変です。まず、一族には船を操船する者がいなかったでしょう。漁民か商船の船人をやとわなければなりません。そこから小早川氏のとった対応は、船を提供する漁民や商人には特権を与えて保護するけれども、海賊系の漁民に対しては冷くあたったと研究者は考えているようです。さらに、広島県下の漁民で周囲からいちだん低く見られたものの多くは、小早川氏に抵抗した系統の家ではないかとも云います。このような「差別」は、伊予側の漁村には見られないようです。
 なぜそのようになったのかを史料的に「証明」することはできないようですが、状況証拠として小早川氏の漁民分断政策が大きく影響しているのではないかという「仮説」を出します。

 小早川氏は、五代目の朝平も14世紀前半に海賊討伐で幕府から報償されています。芸予の「海賊」たちにとっては「嫌な家」という感じだったようです。といっても、中世の海賊と武士とは表裏一体です。小早川氏の領内にも、海賊は多かったようです。
 何度も取り上げますが応永二七(1420)年に、室町幕府の将軍に会うためにやってきた李朝儒家・老松堂の『日本行録』にも、渡子島・蒲刈・高崎など、小早川の領内で海賊に逢っています。どうも鎮圧しきれい状況だったようです。しかし、権威に従わない漁村に対しては、たえず圧迫は加えていたようで、他の浦に与えたような特権は与えずに冷遇していたようです。
   のちの広島藩には、玖波・江波・仁保島、向洋・長浜などに、特権を持った漁民がでてきます。特権を持ち保護された漁村は本浦として水夫浦として藩の勤めを果たし、それ以外の浦は藩との結びつきが弱かったようです。後者には、二つのグループがあって、
一つは近世に入ってから漁業をはじめたもので釣浦に多い。
一つは近世以前からの家船漁民で「海上漂泊」者です
このような状況証拠から、海賊鎮圧の役をおびた小早川氏からにらまれているような浦が差別視されたのではないかという「仮説」が出てくるようです。
もう一度整理して、さらに時間を進めます
①小早川氏は武力をもっているけれども船の操作には弱い。
②そこで漁民を軍船の水夫として使用し、協力的な浦には特権を与え水夫浦とする。
③小早川氏の正和三(1224)年と元応元(1319)年の海賊討伐は伊予の海賊であった
④この頃から伊予の海賊との間に敵対関係を生じた
⑤承久の変の功績で、竹原荘の地頭として海岸に進出する
⑥その結果、康永元(1342)年頃から「海への進出」が始まる
 「小早川家文書」からその進出過程を見てみましょう。
①生口島への進出、おなじ年にさらに因島へ
②翌年には伊予・弓削島を押領。
③さらに越智大島から大崎上島・佐木島・高根島・大崎下島にまで勢力をのばす
瀬戸内しまなみ海道|瀬戸内の島々|特集|広島県公式観光サイト ...

こうして芸予諸島を支配下に置くようになると、小早川氏自体が水軍的性格(海賊的?)を持つようになってきます。そして生口島を領有した小早川惟平は朝鮮貿易に参入し、その名は高麗にまで知られるようになります。
小早川氏と漂泊漁民について 
小早川氏から圧迫を受ける立場になった漁民は、はじめは芸予諸島の島々にいたようです。水軍力がなかった頃の小早川氏にとっては、攻めて行くにもいけなかったでしょう。海賊行為を働いた村上・多賀谷・桑原氏などの拠点は、どの勢力も島にありました。
村上水軍と海賊停止令 | けいきちゃんのブログ
 ところが豊臣秀吉の海賊鎮圧政策によって、これらの海賊は芸予諸島の島々から姿を消してしまいます。
それは討伐によって、全滅したためではないようです。そこで行われたのは、島にいた漁民たちの本土への強制移住だったと研究者は考えているようです。以前紹介した家船漁民の拠点である三原市能地なども、その「強制移住先」だというのです。能地だけでなく竹原市二窓・豊田郡吉名村・同郡川尻町・呉市長浜などは、近世以前は小さな漁村でしたが、近世に入って急に大きくなったようです。それは島の「海賊」たちの「指定移住先」であったという仮説です
 そうしたなかでも、三原市能地はテグリ網漁を主とした浦です。船を家にして瀬戸内海の各地を回る者が多く、よい漁場を見つけるとその付近に仮小屋をして、そこへ住み着いてしまうこともあったことは以前お話ししました。
 テグリ網で操業する家船漁民の生活は?
手繰網使用図 | 漁具画像
小さな網で、二人乗りか三人乗りの小さな船に網を積み、魚のいそうな網代へゆくと、浮樽に錨をつけて海に入れ、樽に綱の一端をつけておいて、一定の長さの綱を海中にはえ、そのさきに網をつけてあって、その網を半円形に海へ入れる。その先はまた綱をはって樽のあるところまで戻り、船を横にしてオモテとトモにいて二人で網をひきあげるのである。
 後には船を横にして帆を張り、網を海中に入れたものをそのままひいてゆき、適当なところまでゆくとひきあげる方法もとった。網にのるものは雑魚が多く、雑魚は主として釣漁の餌として売り、のこりは村々を女が売ってまわったものである。
 ハンボウという浅いたらいを頭にのせて売り歩くのが能地の女たちの一つの姿であった。売るといっても金をもらうことは少なく、たいていはイモ・ムギなどのような食物と交換した。
 この漁は夜おこなうことが多かったので、夜も沖にいることが多く、しぜん、女も船に乗り、子供ができれば子供も船の中で暮して大きくなっていった。
人口圧の高まりと、その打開策は? 
   時が経つにつれて人口増の圧力や「強制移住」策の緩和が行われ、「指定移住先」からの「脱出」が可能になったのではないでしょうか。そして、2つの道が開けてくるようになります。
 ①新天地の浦への移住
 ②強制移住以前の祖先のいた漁村への回帰
下蒲刈島の人々の選択は?
安芸灘とびしま海道|瀬戸内の島々|しまなみ|広島県公式観光サイト ...
今は呉市となってとびしま街道で本土とつながるようになった下蒲刈島の宝永二(1705)の村明細帳には、船が18艘しかなかったことになっています。家も34戸です。かつて、この島に三之瀬と呼ばれ朝鮮からの使節団が寄港するような港がありました。それが戸数34戸まで激減していたことが分かります。
 それが、宝永から100年ほどたった1805年ごろには310艘に増えています。かつての賑わいを取り戻しているのです。ここからも、島々にいた海賊は禁圧令によって島を追いはらわれ、一時、本土の指定された浦に強制移住された。それが18世紀になって追々と島へ帰ってくる者もいたかえっていったというストーリーが描けるのではないかと研究者は考えているようです。
18世紀の瀬戸内海をかえたのはサツマイモです。
甘藷 – 有限会社 新居バイオ花き研究所
このイモが栽培されるようになって、急速に人口が増えます。増える人口を養うために山がひらかれてイモ畑になります。増える人口に対応するために、天に向かって島の狭い土地が耕されます。そして「耕して天に至る」という光景が見られるようになります。幕末に瀬戸内海を黒船でクルージングした外国人が、瀬戸内海の美しさを賞賛しますが、そのビューポイントが山の上まで耕された段々畑でした。
耕して天に至る棚田・段畑 ―大地への刻印
 水平方向にも耕地開発の手は進められます
蒲刈島の周辺の島々では、山船(耕作船)が姿を現します。ずんぐりとして幅の広い船で、人々はこれに乗って小さな島の畑へ耕作にいくようになります。何よりもまず食料を確保することが島民にとっては大切でした。海賊行為は、島の食料不足が原因でもあったのです。
こうして強制移住地に閉じ込められていた家船漁民は、新天地を目指すか、故郷に帰って農民となるかの道を選ぶようになったのではないのでしょうか。
農船|岩城島
山船(耕作船)

 最後に、家船漁民を先祖とする豊島の漁民を見ておきましょう。
豊島 (広島県) - Wikipedia
この島も今はとびしま街道で陸と結ばれ、呉市に編入されています。この島をグーグルで見ると分かりますが、ゆるやかな傾斜面に家がびっしりと立て込んでいます。明治から現在までに、最も人口が増え発展した漁村ではないかとある研究者は云います。明治初年の記録には、漁家の数は14戸とあります。それが多いときには700戸を越えていました。
 漁船にはどの船の側面にも漁船番号が記されています。その頭に府県の記号が書かれます。広島県は「H」です。このHの頭文字が書かれた漁船が、長崎や対馬・平戸まで行って操業していました。そのほとんどがこの島からの「出稼船」(かつての家船漁民)です。そして、平戸や天草などに枝村を作ってきました。
 その操業スタイルは次のようなものだったといいます
目的の漁場へ着くと近くの漁港へ行っていって、漁業組合に挨拶し、民家に宿を借りる。民家の一間を借りて持ってきた行李をあずけておき、漁からかえってきたときや雨の日はそこで休み、風呂や食事の世話も依頼する。いわゆるる船宿である。行李の中には晴着も入れてあって、その地の祭などのときには村人同様に盛装してお宮へもまいる。その村の人たちからお宮や寺への寄付をたのまれれば義理を欠かすようなことはない。山口県平郡島の寺で寄付者の名をかいたものを見ていると、豊島のものが多いのでおどろいてきいてみると、漁にきた人たちの寄付であった。
 また村の寺に報恩講などがあれば、漁を休んでまいる。広島に近い海田市の寺の報恩講に見知らぬ参拝者がたくさんあるので、土地の人がきいてみると豊島の者が漁に来ていてまいったのだと言った。
 けんか早いのも豊島の特色だ。血の気が多いのであろう。が、とにかく世間のつきあいをよく心得た人たちであり、そのことによって、広い海を自由自在に活動しているのである。

 ひとつの漁村が活気を持って活動していくためには好漁場をいくつももっていることがひとつの条件のようです。
しかし、漁場を持たなかった家船漁民の子孫たちは、瀬戸内海を越えて東シナ海を舞台に活動していたようです。それれは先祖が倭寇と呼ばれた活動した舞台でもあったようです。
以上をまとめておくと
①東遷御家人として安芸にやってきた小早川氏は、当初は海は苦手であった。
②そのために地元の「海民」の協力を得て、水軍を編成し「海賊退治」を行った。
③小早川氏に協力するのが「水軍」で、敵対するのが「海賊」と識別(差別)された。
④芸予諸島に進出するようになり因島・能島の「村上水軍」を従えるようになる。
⑤海賊禁止令後に、海賊たちは強制移住され指定移住地での居住を強制されるようになる
⑥18世紀にサツマイモが人口増大をもたらし「人口圧」が急激に膨らむ。
⑦あるものは、家船漁船で新天地を求めて「開拓民」となった
⑧あるものは、故郷に帰り帰農し「耕して天に至る」道を選んだ。
⑨家船漁民の伝統を持つ浦では、豊島漁民のように東シナ海で操業するものもいた
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 宮本常一 「瀬戸内海 芸予の海」 

  

3 家船3

村上海賊衆の水夫達の行方については、史料がないのではっきりしたことは研究者にも分からないようです。しかし、想像を巡らせるなら「海賊の末裔」「水軍の敗残兵」としてひどい目にあわされたのではないかと思います。周辺の島々で住み着いて暮らしていくとしても、農耕する土地もなければ、船に乗る以外にこれといった技術もありません。そこで、小さな舟に乗り漁民として生計を立てる者が多かったようです。しかし、好漁場には古くから漁場権があります。新たに漁を始めた新参者が入って行くことはできません。そこで船に寝泊まりしながら漁場を求めて遠くの海まででかけます。船に乗って生活しているので、家船(えぶね)漁民とよばれるようになります。

3 家船6
 広島県因島の家船(昭和25年頃)
村上水軍の水夫達の末裔とも云われる家船の漁師動きを 物語風に再現してみましょう。
 漁業権がないため目の前の海で操業できない新参漁師達は、新たな漁場を探して、一家で船に乗って出かけて行きます。漁場に出会うと水や薪を補給し、網を干したりするキャンプ地を開きます。それは、先住者との対立を招かないために、目の届きにくい岬の磯などに小屋掛けされました。時と共にそのキャンプ地を拠点に陸上がりして、仲間達を呼び寄せ、次第に小さな集落をあちこちの浦浜に作るようになります。新参者の零細漁民としてさげすみの目で見られることが多かったので、陸上がりしてもあまり「本村」の村人とは交わらずにひっそりと住んでいました。また農民は、漁民と混在することを嫌がって土地を提供しません。そのために。海沿いの条件の悪い狭い所に密集して住むことになります。当初は、このように本浦と「棲み分け」て、関係もほとんど持たなかったようです。
  浦にも幕藩体制が力が及ぶようになると・・・
鎖国体制が進むと幕府は造船・海上運送・廻船難破などについて統制を強化します。各地の浦浜には、浦方取締りを箇条書きにした「浦高札」が立てられるようになります。そして、毎年のように「船改め」を行い、漁業権についても法的規制を強めていきます。農村支配だけでなく「浦方」と呼ばれた海村にも浦庄屋が置かれるようになり、加子(水夫)役や、海高と呼ばれる漁業租税が漁民に担わせるようになります。
 課税できるのは定住し、戸籍が作られてからです。しかし、家船漁民は定住しないので、どこの海にいるか分かりません。そのため水夫役米は納めていませんでした。藩としては、いつも海上にいる彼らの所在を掴むことが出来ないし、全体から見ると少数・少額なので放置していたというのが実情かも知れません。家船漁民の姿が讃岐の史料にも出てくるようになります。
200年ほど前の『金毘羅山名所図絵』には、次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる。
意訳すると
①塩飽の漁師は、丸亀沖の船を住み家としていること
②夫は漁師、妻は夫の獲った魚を頭上の籠に載せて丸亀城下を行商して売り歩くこと
③その代金で、米酒や薪などから絹まで買って船に帰る
とあります。
 補足すると、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民はいませんでした。人名達は漁民を格下として見下していたようです。この文章の中で「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船漁民のことをさしています。

3 家船4
 「船をすみかとし」て漁を行い、妻は丸亀城下で頭上の籠に魚を入れて行商を行っていたようです。最大の現金収入は、一本釣りのタイ漁で、釣った鯛は海上で仲買船に売って大坂に運ばれました。彼らの中には塩飽周辺で操業し、次第に近くの港の民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。更に進んで、讃岐の港町に密かに家を持つ者も出てきます。丸亀駅の北側の福島町には、家船漁民の家がたくさんあったと云われています。
3 家船5

家船漁民の讃岐への定住 
家船漁民の中には、讃岐への移住を正式に願い出る者も出てきます。
宝暦九年(1759)に、宇多津村庄屋豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎あてに出された「願い上げ奉る口上書」の内容は、次のような「移住申請」です
 宇多津ニて住宅仕り猟業仕り良く願い上げ奉り候、猟場の儀は右塩飽四ヵ所、島は申すに及ばず、御領分ノウ崎俵石より大槌鳥を見通し、西は丸亀詫間村馬の足目まで猟業仕り来たり候二付き、外漁師衆の障りは相成し申さざる様仕り来たり申し候、尤も生国へも一ヵ年の内一度づつは託り戻り申し候得共、大方年中船住居ニて暮し居り申し候ゆえ、寺用の事典御座候原は御当地南隆寺様へ御願い申し上げ来たり候、右住宅の義は御影ニて租叶ひ下され候はば、御当浦の御作法仰せ付けられ候通り少しも違背仕る間敷候、並びに御用等御座奴原は、何ニても相勤め申し度く存じ奉り候、生国の義胡乱が間敷思召し候弓ば、目.部厚―びニ付
 守旧九年卯二月計四日 芸州広島手繰り九右衛門
                    長作
                     徳兵衛
   意訳すると
①私は宇多津に住宅を持ち、漁業を行うことを許可していただけるよう願い出ました。
②猟場は塩飽諸島をはじめ、東は大槌島から西は庄内半島で、讃岐の漁師の邪魔にならないように行っています。
生国に1年に一度は戻りますが、ほとんどは船の中を住居にして暮らしていますので、葬儀などで寺に用事が出来たときには、南隆寺様でお世話になっています。
④宇多津に住宅を持つことがかないましたら、ご当地の作法を守り、破ることはしませんし、御用はきちんと勤めさせていただきます。なにゆえ許可願えますようお願い申し上げます。
    以上のように広島領の手繰り漁師九右衛門ら三名が宇多津浦への定住を願ったものです。
    この願いに対して、次のような許可認定が行われています。
   一筆申し達し御座候、其の浦辺ニて船住居致し罷り在り候芸州二窓浦の漁父九右衛門・長作・侭兵衛、右三人の者其の浦へ住居致し良く侯二付き、先達てより度々願い出候処、此の度国元の送り状持参致し、願い出侯趣余義無く相聞き申し候、願書の通り承り届け申し候二付き、其の浦蛸崎へ住宅指し免し申し候、其の段右漁夫共へ申し渡さるべく候、尚又、御帰城御参勤の御用は申すに及ばず、小間立て水夫御用等の節は差し支え無く罷り出、相勤め申すべく候、尚又、其の浦方作法の義違背無く相守らせ申すべく、此の段申し達し候、以上
日付けは  宝暦九年三月十五日、
差出し人は 御船蔵会所
宛先は   宇多津浦豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎です。
 この文書のやりとりからは次のような事が分かります。
①家船漁民が宇多津を拠点に「手繰り」漁を行なっていた
②彼らは一年に一度は生国に帰るが、ほとんどを船で生活していた
③生国は広島領の二窓浦であること
④定住願いは前々から度々出されていてやっと認められたこと
⑤宇多津の漁民が参勤交替の御用船の水夫として、使われていたこと
こうして、正式の手続きを経て市民権を得て、殿様の参勤交替の水夫の役目も担うようになったようです。海賊禁止令で村上衆が離散してから約200年の歳月を経て、新たな新天地の正式のメンバーになる者もでてきたようです。
 しかし、このような例は少なかったようです。『検地帳』や『差出帳』には、家船漁師が定住した後でも一般漁民より格下に位置づけられいます。百姓株を持った村仲間としては扱われることはなく、村の氏神の祭礼にも参加できませんでした。
 結婚相手も家船漁民同士に限られました。
本浦の娘と家船漁民の若者のロマンスが生まれることはなかったようです。そのために金毘羅大権現の大祭の夜が、家船漁民の大婚活行事になっていました。こんぴらさんで出会った男女が、契りを交わし夫婦になるのです。これは面白い話ですが、以前にお話ししましたのでここでは省略します。
  家船漁民の浦は、「かわた」として特定の地域に囲い込まれ、それがあちこちの島々に点在している被差別部落の起源となったと考える研究者もいます。
   以上をまとめてみると、次のようになります
①村上海賊衆の水夫達は、家船漁師として海に生きようとする者もいた。
②漁業権のない彼らは、船に寝泊まりしながら遠くの新しい漁場を開拓した
③初期につっくられて遠征先の小屋掛け集落は、先住者の「本浦」とは没交渉であった。
④しかし、高い技術力を活かし出稼ぎ先にいろいろな形で定住するものが現れた。
しかし17世紀半ばまで移住は、細々としていたようです。それが大きく変化し、大勢の人間が移住をはじめるようになります。次回は、その動きを追ってみます。
以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。

  

3村上武吉水軍43
前回は村上水軍の領主達の末裔を追いかけました。
今回は、その下の武将や下級水夫層の行く末を探ってみようと思います。
 天下を取った秀吉が、海賊禁止令を破った能島村上に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞんだことを前回はお話しました。能島水軍の水城は焼き払われ、首領の武吉は瀬戸内海から引き離されるように九州小倉に連れて行かれます。海賊達は「失業」し、ばらばらになります。警固衆として雇い入れていた多くの大名たちも秀吉の威光を恐れて、海賊衆をリストラし見捨てます。ここに能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に「企業解体」させらたのです。そして村上衆の離散が始まるのです。
そんな中で村上水軍に属していた一族が、讃岐に、「亡命」してきます。
江戸時代の葛原村の庄屋に成長する木谷家です。その子孫である名古屋大学の歴史教授が、その後の木谷家の歩みを本にまとめています。
3村上水軍木谷家3

以前にも紹介しましたが、ここでは木谷家の「讃岐移住」に絞って見ていこうと思います。
 木谷家の「讃岐移住」は天正15(1588)年の「刀狩り・海賊禁止令」前後と伝わっているようです。当時は、秀吉の天下統一が着々と進むなかで、海賊への取締りが強まる時期でした。その時代の流れをひしひしと感じ、将来への不安が高まったのかもしれません。特に能島を拠点にする村上武吉の配下の有力武将は、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く、金倉川の氾濫で荒野となっている多度津葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然ではありません。
それでは、なぜ移住先に多度津を選んだのでしょうか?
 木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないかと私は考えています。
  第1の仮説は、戦争による木谷家武士団の讃岐遠征の経験です。
毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(1577)、讃岐の香川氏(天霧山城主)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあった。
 同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた

 この戦いを「元吉合戦」と呼んでいますが、背景には石山合戦があります。
当時の毛利方の戦略課題は石山本願寺支援のために、瀬戸内海支援ルートを確保することでした。そのために、織田と結ぶ三好勢力を讃岐から排除する必要があったと研究者は考えているようです。
 
3櫛梨城
ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは調査の結果、大規模な中世城郭跡が発見され、これが本吉合戦の舞台となった城であることが分かってきました。この時期に、毛利の大規模な讃岐侵攻作戦が行われていたのです。

3 櫛梨より
櫛梨山から善通寺方面をのぞむ 本吉合戦の舞台 
 注目したいのは次の二点です
①毛利方が小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくった
②毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた
 遠征軍の中に村上水軍の部隊があります。そして、戦後に一部兵力を残して引き上げています。この中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・
どちらにしても、木谷家には、多度津周辺についての情報があったと思います。金倉川流域の荒れた土地を眺めながら、ここを水田にすれば素晴らしい耕地になると思った先祖がいたと想像します。同時に、讃岐側の有力者との人間関係ができたのかもしれません。

3 葛原八幡神社3
葛原八幡の大楠
  第2の仮説の手がかりは、移住を行った1588年という年です。
その前年に、秀吉が讃岐領主に任じたのが生駒親正です。親正は讃岐にやって来る前は、播州赤穂の領主で対毛利攻略の要員として備前・備中を転戦していました。その過程で、生駒家の家臣団の誰かと親密になったという筋書きは考えられます。知行制の行われていた生駒藩で、金倉川流域に知行地を持つ有力武将をたよって讃岐にやってきたというのが第二の仮説です。いつもの通り、裏付け史料はありません。

3 葛原八幡神社4
 
木谷一族が庄屋に成長していった背景は何か?
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれいた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪族あるいは豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。特に目覚ましかったのが北條木谷家です、
年表で追うと
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 西嶋八兵衛が廃池になっていた満濃池の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、棟札に施主・木屋(木谷)弥三兵衛の名あり
以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、庄屋をつとめることになります。

3 葛原 金倉川
生駒藩の「旧金倉川総合開発プロジェクト」
『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の前に、事前の用水整備工事の一貫として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったことが記されています。その結果、流路の変わった金倉川の旧流路跡が水田開発エリアになります。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が築造されます。これらの開発・灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍したのが木谷家の先祖ではなかったのでしょうか。
ちなみに、当時は生駒藩の時代で大干ばつに襲われた後の復興が、藤堂高虎の指示の下に急ピッチで行われていました。その責任者が藤堂家から生駒家監督のために派遣されていた西嶋八兵衛です。かれが短期間の内に、満濃池をはじめ60あまりの大池を築造していた時期です。
3 葛原 千代池pg
木谷家が改修を行った千代池
生駒藩は「新田は開発者のもの」と新田開発を後押しします。
この時期に新田開発を行った家が庄屋となっている場合が、土器川や金倉川流域では多いように思います。木谷家もそのような生駒藩の「金倉川総合開発プロジェクト」を推進する旗頭として、多くの新田を手にしたのでしょう。1670年には、葛原村に八幡本宮が建立されますが、これは「金倉川総合開発」の成就モニュメントだったと私は考えています。

3 葛原八幡神社
葛原八幡神社
以上をまとめておきましょう。
①海賊禁止令が秀吉によって出された辱後に、村上水軍の木谷家の2軒が讃岐に移住してきた。
②彼らは「元安合戦」か「生駒氏」を通じて、金倉川流域について事前知識をもっていた。
③生駒藩の新田開発・ため池築造事業に乗じて、金倉川流域の葛原地区の新田開発を行った。
④その結果、短期間に有力者になり村の庄屋を務めるまでになった。

 芸予諸島で村上武吉のもとで海賊稼業を務めていた一族が、中世からの近世への激動の中で、讃岐に新天地を求め帰農し、新田開発を行い庄屋へと成長していくストーリーでした。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」

 塩飽衆は、中世から近世への激怒期の中を本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切りました。「人名」して特権を持つだけでなく、「幕府専属の船方役」として交易活動を有利に展開する立場を得ました。それが、多くの富を塩飽にもたらしたのです。ある意味、海賊衆の中では「世渡り上手」だったのかもしれません。
 それでは村上水軍の領主たちは、どんな選択を選んだのでしょうか
3村上水軍
まずは能島の村上武吉の動きを見てみましょう。
 村上水軍の運命を大きく左右したのは、秀吉が出した海賊禁止令です。前回も触れましたがこの禁止令は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に出されています。全国統一をすすめてきた秀吉にとって「海の平和」の実現で、全国的な交易活動の自由を保証するものでした。ある意味、信長が進めた「楽市楽座」構想の仕上げとも云えます。そして「海の刀狩り」とも云われるようです。
 しかし、海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止です。水軍力を駆使した警固活動や、関役・上乗りなどの経済的特権も海賊行為として取り締まりの対象となりました。

3村上武吉水軍3
 
村上武吉は、これに従いません。秀吉の命に背いて密かに関銭を取り続けます。秀吉は激昂し、武吉の首を要求しますが、この時も小早川隆景の必死の取り成しで、どうにか首はつなぎとめることができたようです。
3 村上水軍 海賊禁止令
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町)で起きたのは曲事である。
一 海で生きてきた者を、その土地土地の地頭や代官が調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊が生じた場合は、地域の領主の責任として、土地などを取り上げる
 天下を取った秀吉は、能島村上を名乗る海賊衆に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞみます。能島の水軍城は焼き払われます。
3村上水軍nosima 2
武吉の拠点 能島
海賊達は「失業」しますが、多くの大名たちは秀吉の威光を恐れて、警固衆として雇い入れていた能島海賊衆を見捨てます。そんな中で陰に陽に武吉を庇ったのは小早川隆景だったようです。そのために隆景までもが秀吉に睨まれて、彼の政治的立場も一時危うくなりかけたことがあったようです。しかし、隆景は最後まで義理を通して武吉を守ります。そのためか村上水軍の記録には、
隆景評として「まことに智略に富み人情厚き武将だった」
と記されています。小早川隆景が筑前に転封されると、武吉も筑前に移ります。 
3村上武吉水軍43

 能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に解体させらたことになります。多くの「海賊関係者」が「離職」するだけでなく、住んでいた土地も住居も奪われます。こうして村上衆の離散が始まるのです。それは、後に見ることにして武吉のその後をもう少し追いかけます。
 筑前に移った武吉ですが、秀吉が朝鮮攻めで名護屋城に行くために筑前に立ち寄る際には「目障りになる」と、わざわざ長門の寒村に移住させられています。そこまで秀吉に嫌われていたようです。秀吉の死で、ようやく気兼ねすることがなくなります。
武吉の晩年は周防大島
 晩年は、毛利氏の転建先である長州の周防大島の和田に千石余の領地をあたえられます。ここが武吉の最後の住み家となったようです。海賊大将の武吉は、関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰れることはありませんでした。
3村上武吉墓2
菩提寺と墓は次男景親が和田に建立しています。武吉の墓と並んで妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻の墓で、大島出身の女であったようです。
 以後の能島村上氏は、毛利家に使える御船手組頭役して生きていくことになります。つまり、毛利の家臣となったのです。天下泰平になると、この家の当主達は伝来する水軍戦術を兵法書にしたためます。これが今に伝わることになるようです。
3村上水軍3
 一方、いち早く秀吉側についたのが来島村上氏です。
時代は、石山合戦の「木津川(きづかわ)口海戦」までもどります。この時に村上武吉の率いる毛利水軍にコテンパンにやられた信長は、秀吉に命じて、村上水軍の分断工作を行わせます。秀吉が目がつけたのは、来島村上でした。巧みな工作が成功し、天正十年(1582年)三月、来島の村上通総は、本能寺の変の直前に信長方に寝返ります。これに対して能島、因島、毛利の連合軍は、来島村上氏の居城や各地の所領を一挙に攻撃します。村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出する羽目になります。
 天正十二年(1584年)、信長死後の跡目争いに勝ち残った秀吉は、その傘下に入ってきた毛利氏に対し、来島と改姓した通総を伊予国に帰国させることを命じています。通総は、秀吉に気に入られて「来島(正しくは来嶋)」の名を与えられ、歓喜した通総は翌年の秀吉の四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒をつとめ活躍します。伊予の名族・河野氏を滅ぼし、新たな領主となった通総は、鹿島(現北条市)を居城に風早郡、旧領野間郡とあわせ一万四千石の所領を与えられることになったのです。これは来島村上「水軍=海賊」が、秀吉によって大名に取り立てられたということになるのでしょう。
 元「村上海賊」の来島通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、各地で戦功をたてています。朝鮮出兵にも水軍として出陣し、李氏朝鮮の李舜臣(イ・スンシ)率いる水軍との間で何度も戦っています。しかし、朝鮮火砲の威力と砲艦「亀甲船」の登場による火力の差で、日本水軍は連敗を続けます。来島村上一族の多くが、異国の海で命を失っています。
 来島氏は、関ヶ原合戦で一時西軍につきました。
3村上kurusima水軍3

そのため翌年に、豊後国森藩(大分県玖珠郡玖珠町)一万四千石へと転封となります。取りつぶしにならなかっただけでも幸いだったかもしれませんが、瀬戸内の「海賊」の旗を掲げ続けた最後の村上氏は、周りに海をもたない山間の地に移ることになったのです。そして名前も来島氏から「久留嶋(くるしま)」氏と改称することを余儀なくされます。こうして来島通総の子孫は、海と「海賊」の名を捨てることで、山の中で近世大名へと脱皮していきます。

3 村上来島陣屋kurushima-jinya_01_2146
来島氏の陣屋跡

●最後に因島の村上氏を見ておきましょう
海賊大将の能島村上武吉は、秀吉の横槍を受けて、瀬戸内海から追放されてしまいましたが、因島村上氏は小早川隆景に属して「海の武士」として因島・向島を領有していました。そのため、その後も勢力を維持することができました。
 しかし、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」で、毛利輝元は豊臣方の総大将を務めました。その結果、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分されます。多くの家臣団が、毛利氏に従って長門に移住していきました。因島村上氏も芸予諸島から立ち去ることを余儀なくされます。その後、子孫は能島村上氏系船手衆の支配下に入り、代々世襲して明治維新に至ったようです。

以上を、総括すると
「海賊禁止令」後の村上水軍の末裔は、次のような路を歩んだことになります。
①来島村上    秀吉に従って大名となる
②能島・因島村上  毛利の家臣となる
しかし、これは豊臣権力と妥協して生きのびた武将クラスの藩士です。村上水軍の実戦部隊だった下級水夫たちの末路は、どうなったのでしょうか。次回は、それを探って行くことにします。

参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか?

前に書いた「丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川」
で、丸亀市史を参考にしながら次のようなことを書きました。
1 金倉川は満濃池再築以前に、水路網整備のために新たに作られた「人工河川」であること。つまり17世紀半ばの近世に河道が付け替えられ金倉川が生まれたこと
2 それ以前には「四条川」が琴平・多度津間は流れており、この旧河道上に明治になって土讃線、四国新道(現R396号)が建設されたこと。
3 旧四条川の金蔵寺付近よりも下流は、旧河道域を利用して、千代池などのため池群が築造され、水田化も進められたこと
4 旧四条川の地下水脈はいまも、豊富な湧き水をもたらしていること。その典型が、金陵の多度津工場で豊富な伏流水を利用して酒造りが行われていること
これらを書きながら思い出したのが「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」という本です。
イメージ 1

この本は、戦国末期に安芸・芸予の武士集団・木谷一族が仕えていた毛利・小早川・村上などの諸大名が衰退していく時代の流れのなかで、海を越えた讃岐の多度津・葛原村に新天地を求め、ここで帰農し、庄屋化していくプロセスを追った労作です。小さな本ですが読みごたえがありました。
 それもそのはず、作者は名古屋大学教授の木谷勤氏です。ちなみに彼の専攻は、ドイツ近代史です。そして彼は木谷家の末裔です。讃岐の一豪農の歴史を専門外の大学教授が書いているのです。これだけでも異色です。

今回見ていきたいのは、次の三点です

1どうして、安芸の木谷一族が讃岐の多度津を「移住」先として選んだのか
2帰農定住した多度津・葛原村ですぐに庄屋に成長していった背景は何なのか
3旧四条川の河道変更と、その後の千代池の築造・水田開発のリーダーとして、「移住」してきた木谷家が活躍したのではないか

この本に導かれながら見ていきましょう

1どうして木谷一族が多度津を「移住」先として選んだのか?

 まず、移住以前の木谷家について見ておきましょう。
戦国時代には、安芸や芸予の島にはいくつもの木谷家があり、グループを形成していたようです。それを作者は3つに分類します。
(1)竹原・小早川家の重臣を出した木谷氏主流
(2)村上水軍に属した木谷氏の支流ないし傍流
(3)十三世紀の後藤実基からでた最も旧い木谷氏
多度津にやってきた2つの木谷家のルーツは(1)の主流ではなく、(2)の村上水軍に属した芸予諸島の木谷氏である可能性が一番高いとします。その理由は、当時の政治情勢です。
 木谷家の「讃岐移住」は天正十五年の「刀狩り・海賊禁止令」前後とされます。この時期、小早川家はまだ安泰で、安芸の主流木谷一門に郷土を捨てる動機はなく(1)の可能性は低いのです。これに対し、毛利についた村上武吉のように能島・因島村上側の人々は、秀吉の天下統一が着々と進むなか、その圧力をひしひしと感じ、海賊禁止令のような取締りが強まるのを恐れ、将来への不安が高まったでしょう。特に能島を拠点にする村上武吉の配下では、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く野も広い西讃岐・葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然でないと作者は考えているようです。

それでは、なぜ多度津を選んだのでしょうか?

木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないでしょうか?毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(一五七七)、讃岐の香川氏(天霧山城主?)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあったとされ、同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三 好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた。
 ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは山城調査の結果、大規模な中世城郭跡が現れ、これが事実であることが分かってきました。『香川県史・2』はじめ大方の歴史書もこの時期の毛利の讃岐侵攻を「元吉合戦」とするようになりました。

この記述だけでは分かりにくいので当時の情勢を補足します

信長の石山本願寺攻略が佳境に入った頃のことです。この合戦で毛利側が目指したのは、前年に石山本願寺へ兵糧搬人で手にいれたかに見えた瀬戸内東部の制海権が、翌年には信長方の「鉄の船」の出現と反撃で危うくなったのです。これを挽回するため、毛利は海上交通の要である讃岐や塩飽に勢力をのばし、一向門徒の信長への抵抗を「後方支援」しようとしたようです。  
 注目したいのは、『萩藩閥閲録』の最後の部分に
「毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた」
とあります。一部残された残存兵力の中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・・。

 船乗りにとって海は隔てる者ではなく、結びつけるもの

 秀吉進出以前の小早川・村上水軍は、芸予諸島と塩飽に囲まれた瀬戸内海域を支配し、各所に「海関」を設け、内海を通る船から通行料や警固料を徴収するだけでなく、自らも輸送・通商にたずさわっていました。
 海上の交通は比較的便利で安芸東部と西讃は
「海上一〇里にすぎず、ことあるときは一日の内に通ず
(南海通記)という意識があったようです。いまでも、晴れた日には庄内半島の紫雲出山の向こうに福山方面が見えます。
 その一例として、15世紀半ば京都の東寺は伊予の守護に、弓削島の製塩荘園が押領されたことを訴えています。訴えられているのが安芸小泉氏、能島村上、そして讃岐白方・山地氏の三海賊衆です。(「東寺百合文書」『愛媛県史』資料編古代・中世)。
 白方は弘田川の河口で、古代以来の多度郡の湊があったと目されるところです。山地氏はこの白方を拠点に、天霧山に城を築き、多度津本台山(現、桃陵公園)に館をおく守護代香川氏の水軍として、戦国末期まで活躍します。同時に、能島の村上武吉などとも連携していたことが分かります。このように当時の瀬戸内海では能島・来島・因島の三村上からなる村上水軍を中心に、さまざまな地域土豪の海賊衆が競い合っていたようす。彼らの間には対立と同時につながりや往来が生まれていたのです。
戦国末期に両岸の往来は、江戸時代よりも活発で、西讃沿岸は対岸の安芸の海賊衆にすでになじみの土地だったのかもしれません。それが江戸時代になり、幕藩体制が強化されていくと海を越え藩を超えた自由な往来も難しくなっていたようです。
 ちなみに、信長・秀吉・家康についた塩飽は「人名」として「特権」を与えられ、北前船の拠点として繁栄の道を進むことになります。敗者となった毛利側についた村上水軍の武将達は、散りじりになりました。その後に待ち受ける運命は過酷であったようです。その中に、木谷家のようにふるさとを捨て、新天地を目指す者も現れたのです。
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 木谷一族が葛原村で庄屋に成長していった背景は何か?

 生口島や因島など芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに連携していた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住したのでしょう。そして、北條木谷家が村の中心部に住みつき、別の木谷氏は村のはずれの小字下所前に居を構えます。 一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で、多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する混乱の中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら、豪族あるいは豪農として一般農民の上に立つ地位を急速に築いきます。

特に目覚ましかったのは中心部に住み着いた北條木谷家です、

年表にすると
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 廃池になっていた満濃池(まんのう町)の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、その棟札に施主・木屋弥三兵衛(木谷八十兵衛、二十四代)の名が記されています。
そして以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、明和五年(1768)まで百数十年にわたり、世襲の庄屋役をつとめることになります。

その原動力の一つが「旧四条川河道総合開発計画」ではなかったのかというのが私の「仮説」です
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『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の寛永三年(1628)から同五年の間に、事前工事として治水工事として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったとします。その後に行われた一連の開発を「旧四条川河道総合開発」と呼ぶことにします。まず、旧流路跡は水田開発が行われます。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が旧河道沿い築造されます。ちなみに買田池は寛文二年(一六六二)築造で、その他の池も、河道変更後の築造です。これらの治水灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍した人たちの中に、木谷家の先祖もいたのではないでしょうか。

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 そして、1670年の八幡本宮建立は「旧四条川総合開発計画」の成就モニュメントとして計画されたのではないでしょうか。残念ながら、この仮説(妄想?)を裏付けるような資料は、私の手元にはありません。今回は、ここまでです。おつきあいありがとうございました。

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阿賀港を歩いていると、魚市場に続く倉庫の中にこんな船があるのを見つけました。地元の神社の祭りの時に使う祭礼用の御船だろうと思って聞いてみると、宮島の厳島神社の管弦祭に使われる漕船だといいます。
最初はにわかに信じられず「こんな遠くからなんで宮島まで?」という疑問が強く残りました。
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少し調べてみると、管弦祭の漕船は近世からは広島市江波と呉市阿賀が奉仕し、御船は倉橋島から奉納しているということが分かりました。
これは、やはり管弦祭用の漕船のようです。
調べて行く内に次のような事が分かってきました。
   
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管弦祭に参加するのは男性45人と賄い女性5人です。

男性45人は漕船二艘(六丁櫓)を漕ぐ加子が24人と交代要員2、3人、太鼓が2人、サイフリ4人、サイフリの付き添い4人、あとは役員です。
1958(昭和33)年ごろまでは阿賀の奉仕は、東・西・中・延崎町の地区が毎年交代でおこなっていました。漕船も地区ごとに漁船をだし、漕船をつとめた船は「マンがいい」と漁師から喜ばれました。
それが、漁業者の減少や経費負担が大きく、地区では負担しきれなくなります。
そこで漁業組合が奉仕者の募集などをおこない、経費の一部は厳島神社が補助するような形になりました。漕船も旧来の木造船の網船がなくなり、一時は機械船を改造して使った事もあります。そこで、1960年からは専用の漕船をつくりました。現在の者は、1998年に新造した二代目の船です。
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 阿賀では二日前の朝から漕船を飾りつけ、夕方オシナラシ(練習)をしたあと、下潮に乗って宮島の荒胡子に着きます。仮眠したあと漁民がもっとも信仰する長浜神社に参り、満潮になって大鳥居がくぐれるようになってから社殿に入ります。長浜神社は現在の宮島中学校の近くにある神社で、ここにも海に朱色の鳥居が建っています。

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もう一艘の江波の漕船は当日の午前中に到着します。
御試しで御船を曳き、御分霊を運ぶ鳳簾を担いだり道具を持つのも阿賀の人びとです。漕ぎ船に係わる阿賀の人たちは、前々日から家族連れで来て、社殿を宿泊・詰所・調理場として利用します。

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 昔は各漁港から漁民が自分たちの漁船に大漁旗を掲げて管弦祭の時には参拝に訪れました。多いときには千艘を越える漁船が大鳥居の建つ遠浅の御笠浜を中心に船をつけ、参拝船が多いため幾重にも連なって船を係留しました。潮がひくとアサリを掘り、汁の実や寿司に入れて食べるのが楽しみだったそうです。
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 親からは、たとえ下駄の砂でも宮島から持ち帰ってはならないと教えられ、下駄を海水で洗って砂を落としました。アサリも持ち帰らなかったといいます。
厳島神社に古い御札を返し、御祈祷をうけて新しい御札をうけ、そのあとで渋団扇や杓文字、糠飴などを土産に買います。不幸事で管弦祭に参れなかった漁民は、四十九日が済むと、日を改めて参拝しました。
 しかし、現在では管弦祭に漁船の姿は見えません。はるか遠い昔の光景となったようです。
ちなみに阿賀港は漁港とだけでなく鰯網やそのほかの網道具の製造地としても知られていました。ここで作られた網や漁具が瀬戸内海の西部の漁民達に使われたいたようです。



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