瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐中世史 > 中世の瀬戸内海

 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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綾氏系図 : 瀬戸の島から
南海通記 
   『南海通記』巻之五157~158には、「讃州浦嶋下知記」「海辺の地下人」についての記述があります。内容は次に続く「応仁合戦記」のプロローグで、応仁の乱のために上洛する大内・河野軍を乗せた輸送船団への対応が次のように記されています。
①前段 応仁元年(1467)5月、細川勝元が御教書を発して讃岐のすべての浦々島々に対し、次のように下知した。

「今度防州凶徒有渡海之聞。富国浦島之諸人。堅守定法。不可為海路之禍。殊至海島之漁人者。召集千本浦。可令安居之也。海邊之頭人等営承知。應仁元年五月日.」
意訳変換しておくと
「今度、防州の凶徒(山名氏)が渡海してくると聞く。当国(讃岐)の浦や島の諸人は従来の定法(廻船定法の規定)を堅く守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよ。特に浦々の漁師達は本浦に集合し、身の安全を守れ。以上を海邊の頭人に連絡指示しておくこと。應仁元年五月日.」
 
 私は何度もこの文書を読み返しました。なぜなら細川氏にとって敵対する防州凶徒(山名氏)が船団で上洛しようとしているのです。ところが「戦闘態勢を整え、一隻も通すな」と命じているのではありません。定法(廻船定法の規定)を守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよというのです。これはどういうことなのでしょうか?
②後段は、伊豫の能島兵部大夫(能島村上氏)からの飛船が讃岐の浦長に、制札を廻し「通船」したと、次のように記されています。

「今度大内家、河野家ノ軍兵、君命二依テ上洛セシムル所也,軍兵甲乙人乱妨ヲ禁止ス、船中雑用ハ債ヲ出テ之ヲ償フ、押買ヲ禁止ス、船頭人役者ノ外、船中ノ人衆上陸ヲ禁止ス、海島諸浦ノ人等宜シク之ヲ知ルヘキ也」
意訳変換しておくと
「今度は大内家と河野家の軍兵が、将軍の命に応じて上洛することになった。そこで軍兵による人乱妨を禁止する。船中雑用なのど費用は、きちんと支払う。押買は禁止する。船頭や役人の以外の乗組員の上陸を禁止する。諸浦の者どもに、以上のことを伝えること。

 その結果、讃岐の「海邊モ騒動セス、通船ノ憂モナ」かった。
「海邊ノ地下人ハ但二財貨ヲ通用シテ何ノ煩労モナシ」と記します。大内氏らの制札を浦々島々に掲げ、瀬戸内海航路を無事に通過出来たようです。これが陸上なら「凶徒」が進軍してきて讃岐を通過して、上洛するなら陣地を固め臨戦態勢に入るように命ずるはずです。ところが、「凶徒を無事通過させよ」と命じています。さらには漁業者を各本浦一所に集めて安全を図れともいっています。これは一体どういうことなのであろうか。
 これに対して著者の香西成資は、軍隊の海上移動は細川方も大内方もどちらも「公儀ノ役」であって、これが「仁政」であると評します。つまり公法を守ることが武士道だと云うのです。南海通記が「道徳書」とされる由縁です。

戦国その1 中国地方の雄。覇者:大内義興、大内義隆の家臣団|鳥見勝成

大内・河野氏の輸送船団が讃岐沖を「無事通過」した当時の情勢を見ておきましょう。
 応仁元年(1467)6月24日には讃岐から細川成之に率いられた香川五郎次郎・安富左京亮が入京しています。(『史料綜覧』)。細川成之は阿波守護で、香川・安富は讃岐両守護代です。阿波の守護が、讃岐の両守護代を率いるという変則的な軍編成です。そのような中で、東軍の細川勝元は次のような指示を出しています。
6月26日 小早川熙平の上京を止め大内政弘に備えさせ、
7月27日 大内軍が和泉堺に至ると聞いて斉藤衛門尉を派遣。
これらの指示を見ると、東軍の細川勝元は、幕府の実権を掌握しながら、西軍の援兵に対しても軍配備を怠りなく行っていることがうかがえます。このときすでに大内軍は、7月27日に摂津兵庫に到着し、その軍勢は、河野軍2千余を加え2~3万とも伝えます(『愛媛県史』)。西軍の大軍をみすみす備讃瀬戸を無傷で通過させたのはどうしてでしょうか。
讃岐塩飽の廻船 廻船式目とタデ場 : 瀬戸の島から

その背景には「定法(廻船之定法)」があったからです。
定法は、廻船式目と呼ばれ海路に交通する廻船の作法で、海上法令を条書きしたものです。これは塩飽にも多く残されていることは以前に紹介しました。定法の成立については諸説があり、写本も数系統あって定義の定まらない日本古来の海上法規集のようです。多くの「定法」類の奥書・巻頭に次のように記されています。

「此外にも船の沙汰於有之者、此三十ヶ條に引合、理を以可有之沙汰者也」

ここからは、海上における訴訟を解決するために長い年月をかけてルール化された条文であることが分かります。廻船式目の条文では、船の貸借関係の条項や借船頭の役割などの規定が多くあります。古来船主と雇いや雇われ船頭とのトラブルが多くあった証拠とも云えます。
回船大法考 住田正一博士・「廻船式目の研究」拾遺( 窪田 宏 ) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
例えば「廻船大法」では、次のような条文があります。

一 船を貸、船頭行先にて公事有之、船を留たる時者、船頭可弁事

船は、航海中は船籍地を離れています。そのため寄港先で公事(臨戦状態で平時の廻船を軍用船にしつらえて軍事的調達・徴用・契約)によって、その土地の武将の船団に組み込まれ時には、借船頭が弁済することで裁量を認めたと、研究者は判断します。
 これを、大内・河野軍の輸送船団編成に当てはめると、2万を超す軍勢を乗せた船団は、配下の船舶だけでは足りず、備讃瀬戸海域の船を徴用や契約による動員(借船)したことが考えられます。そうしないと輸送しきれません。その結果、編成された輸送船団は、塩飽・小豆島など備讃瀬戸などのいろいろな船籍が混在していたことになります。そのために讃岐沖を通過する輸送船団には、地元の船も含まれています。そのため輸送船への攻撃は控えることが慣習法化したと研究者は考えています。そして、島々浦々における用船保護のための相互不可侵が「定法」となります。
この相互不可侵は、②の制札にも関係しています。
前半の、軍船に乗船した軍兵甲乙人らの乱妨狼藉を禁止することや、戦略物資準備のための押し買いを規制することも無用の混乱を起こさないための常套策です。要点は後半の「船頭人役者(船頭以外の「船中人衆」=水主)の上陸を禁上していることです。これは、船のクルーたちの中立性を維持するための制限措置と研究者は考えています。これによって、乗組員たちから船の針路などの情報が漏れるのを防ぎ、浦人らとの連絡を防ぐこともできます。

駿河屋 -<中古><<日本史>> 老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本 (日本史)

応仁元年(1467)から約40前の応永27年(1420)に、李氏朝鮮の日本回礼使を務めた宗希環が京都を往復しています。その
著『老松堂日本行録』(岩波文庫本)に、以下のような文章があります。

可忘家利に泊す(162)此の地は軍賊のいる所にて王令及ばず、統属なき故に護送船もまたなし。・・其の地に東西の海賊あり。東より来る船は、東賊一人を載せ来れば、即ち西賊害せず。西より来る船は、西賊一人を載せ来れば、即ち東賊害せず。・・・」
(可忘家利は、現広島県安芸郡蒲刈町)

また、銭七貫を代価に東賊を一人雇ったことで、希環ら回礼使たちは無事に瀬戸内海を通過でき帰国しています。ここでも海上勢力(海賊)の海上における相互不可侵の慣行があったことがうかがえます。戦国時代も下っていくうちに、例えば海賊とも呼ばれた海上勢力も、信長・秀吉などの海軍として組み込まれ従属化していくことは、以前にお話ししました。それ以前の塩飽衆や村上氏などの海上勢力(平時の廻船業又は交易集団)は、戦時には周囲の戦国大名である毛利・小早川・大友らの武将と、その時々の条件で随意に与力して活動しています。こうした一見日和見的な海上勢力の動向も船籍船舶の現在位置や配船の状況又は借船の都合・調達の結果などからも左右されていたものと研究者は考えています。
  以前をまとめておきます
①船舶が移動先で「公事(徴用・契約)」された場合が、船頭の責任で運用管理された。
②大軍の海上輸送には多数の船舶が「公事」され輸送船団として組織された。
③そのため輸送船団を襲撃すると云うことは、仲間の船を襲う可能性があった。
④そこで、戦時下においては輸送船襲撃はしないという慣習法ができ、それが「定法」となった。
⑤そのため応仁の乱で、大内・河野軍を載せた輸送船団が備讃瀬戸を通過する際にも、守護細川氏は、襲撃命令を出さなかった。
⑥17世紀後半に成立した南海通記では、これを「武士道」の手本として賞賛している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
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西行5
西行        

前回は西行が23歳で出家し、高野聖としての勧進活動を行いながら、32歳の時には、高野山の先達に連れられて大峯山で百日にわたる本格的な修験道の修行を経ていることを見ました。今回は、50歳になった西行が讃岐にやってきた時の旅程を、山家集の歌で見ていきたいと思います。テキストは「佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ」です

   讃岐への出発に先立って、西行は京都賀茂社に参拝奉幣しています。 
そのかみまいりつかうまつりけるならひに,世をのがれてのちも,かもにまいりけり,としたかくなりて,四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬこともやとて,仁安二(1167)年十月十日の夜まいり,幣まいらせけり, 
うちへもいらぬ事なれば,たなうのやしろにとりつぎて,まいらせ給へとて,心ざしけるに,このまの月ほのぼのに,つねよりも神さび,あはれにおばえてよみける。 
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095) 

意訳変換しておくと
世を捨て出家してからも鴨神社への神参りをおこなっていた。四国への修行に出向くに際して,還って来れないこともあるかもしれないと考えて,1167(仁安二)年十月十日の夜に参り,幣を奉納した。 
 社殿へも入らずに、社務所に取り次いで参らせてもらおうと思っていると、その間に月がほのぼのと登り、いつもより神さび,あはれに思えたので一句詠んだ。 
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095) 

西行の讃岐出発については,1167(仁安2)年説と翌年3年説の両説があるようです。その期間は、次のようないろいろな異説があるようです。
A 短いのは一冬を過しただけでの3ヶ月の旅
B 讃岐を拠点にして生活し、宮島に詣でていると考えると、短くとも2、3年の「旅」
C 九州筑紫まで讃岐から出向いたとすると10年
これについては又別の機会に触れるとして、ここでは先を急ぎます。

西行6
西行東下りの図
①の歌が詠まれた10月10日に賀茂神社を参拝しています。
その際に「四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬことも・・」とあります。定説では「崇徳上皇の墓参と慰霊」のためとされますが、「四国で修行」することが出発前から予定されていたことがうかがえます。崇徳上皇の慰霊に讃岐にやって来て、そのまま居着いてしまったとする説もあるようですが、私はそうではないと思います。同僚の高野聖達から讃岐の善通寺や弥谷寺のことについて、情報を仕入れた上で紹介状なども書いて貰っていたかもしれません。もうひとつ踏み込んで推測するなら、善通寺の伽藍事業のための勧進活動のために、西行が呼ばれたということも推測できます。西行は高野聖で、生活費は勧進活動から得ていたことを想起すれば、そんなことも考えられます。「修行と勧進を兼ねた長期滞在」が出発当初から予定されていたと、ここではしておきます。


   
 鴨神社への参拝した旧暦10月10日(新暦では11月中頃)直後に、西行は京を出発したようです。
山家集には、道筋や航路については何も触れられていません。残された歌から詠まれた場所をたどるしかありません。

.鳥羽の川船jpg
  法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)

参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
 西行は、山城国美豆野から明石を経て,播磨路に入り,野中の清水に立ち寄って,飾磨か室津あたりの港に入ったようです。それは、以下の歌から推察できます。

西の国の方へ修行してまかり待けるに,みづの(美豆野)と申所にく小しならひたる同行の侍けるが,したしきものゝ例ならぬ事侍とて,く小せぎりければ 

  意訳変換しておくと
西国へ修行しにいくのに,摂津の美津濃という所で、同行予定の僧待ち合わせをしていた。しかし、近親者の病気で遅れることになり、その時に作った歌が

②やましろのみづのみくさにつながれて こまものう捌こみゆる旅哉(1103) 

②の歌詞書の「くしならひたる同行」というのは同僚の西住のことのようです。みずの(美豆野)で落ち合って、同行する予定になっていました。ところが近親者の病気というアクシデントで、それができなくなったようです。ここからも旅の目的は「西国修行」であったことが裏付けられます。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
高野聖の姿

  西行の廻国は、歌人西行の名声が高まるにつれて美化されていきます。
そのために西行は、旅から旅へ「一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけです。しかも、それは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 高野聖には大師像の入った笈が必需品だったのです。笈を負う形に似ているというので、高野聖は「田龜(たがめ)」とも呼ばれたようです。西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせると研究者は指摘します。

津の国にやまもとゝ申所にて,人をまちて日かずへければ 
③なにとなくみやこのかたときくそらは むつましくてぞながめられける(1135) 
意訳変換しておくと
摂津の山本で人を待って日数がたっていくさまを一句

ここの出てくる「津(摂津)の国の山本」が,板木では「あかし(明石)に」とあるようです。地名をがちがうのです。これについては、西住から再度同行する旨の連絡を受けた西行が,迫ってくる西住を明石で待っていた時の詠作であると研究者は考えています。

今日の書写山… | 姫路の種
書写山

明石からは陸路をたどって、姫路の書写山へ二人で参拝しています。
はりまの書写へまいるとて,野中のし水をみける事,ひとむかしになりにけり,としへてのち,修行すとてとをりけるに,おなじさまにてかはらざりければ 

④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096) 
意訳変換しておくと
播磨の書写山へ参拝した。野中の清水を最初に見てから,年月が経ち遠い昔になった。しかし、年月を経て,修行地に向かうために立ち寄ったのだが,同じ様で風景は替わらないのにことを見て
④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096) 
都を出発したのは旧暦10月10日で、新暦では11月中頃のことになります。法然の場合は順調に船で進んで室津まで10日ほどかかっています。西行は、待ち人がいてなお多くの日数を費やしています。そうすると12月になっていた可能性があります。12月になると強い北西の偏西風が瀬戸内海を吹き抜けるようになり、中世瀬戸内海航路を行き交う船は「冬期運航停止」状態になります。そのため西行達も明石からは陸路山陽道をたどったようです。
  書写山は、修験者や廻国行者たちの拠点寺院でもありました。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
四国の方へく、してまかりたりける同行,みやこへかへりけるに 
⑤かへりゆく人のこゝろを思ふにも はなれがたきは都なりけり(1097) 
ひとりみをきて,かへりまかりなんずるこそあほれに,いつかみやこへはかへるべきなど申ければ
⑥柴のいほのしばしみやこへかへらじと おもはんだにもあはれなるべし (1098) 
⑤と⑥の歌については,ここまで同行してきた西住との別れを詠っているようです。西行と西住は,摂津の山本か播磨の明石で落ち合い,播磨路を同行しただけのようです。その後は、飾磨か室津から西行だけが乗船します。初冬の荒れる海の波が収まるのを待って船は出されたのでしょう。西住と別れ,船上の人となった西行は,瀬戸内海の本州岸に沿って西下し,備前牛窓の瀬戸を通り,小島(児島)までやってきます。 
吉備の穴海
吉備児島は島だった

  近世以後、「児島湾干拓」で児島湾は埋め立てられて児島は陸続きになりました。
しかし、古代吉備の時代からここには、「吉備の穴海」と呼ばれる多島海が拡がっていていました。児島は、当時は「小島」と書かれていますが、東西10キロ、南北10キロもある大きな島で、山陽側とはつながっておらず、島でした。波が高かったためか児島湾に入り、児島の北側に上陸しています。
児島のことを山家集は、次のように記します。
西国へ修行してまかりけるをり,こじま(児島)と申所に八幡のいはゝれたまひたりけるに,こもりたりけり,としへて又そのやしろを見けるに,松どものふるきになりたりけるをみて 
⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371) 
意訳変換しておくと
西国修行に行くのに,かつて修行のために籠もった児島の八幡宮に参拝した。その社の松が古く味わいがあったのを見て一句、 
⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371) 
ここからは、西行はかつて児島にやって来て、この八幡神社周辺で籠もり修行を行っていたことが分かります。児島は熊野行者の拠点で「新熊野」と呼ばれた五流修験の拠点でもありました。五流修験の行者は、ここを拠点に熊野水軍の船に乗り込み、その水先案内人を務めて行場のネットワーク化を進めていきます。そして、塩飽や芸予諸島の大三島などを勢力下に置くことは以前にお話ししました。書写山から五流修験と、高野聖である西行らしい足取りです。

五流尊瀧院
児島の五流修験(新熊野)

次にやって来るのが児島の南側の渋川海岸です。

備前国に小嶋と中嶋にわたりたりけるに,あみ申物とる所は,をのをのわれわれしめて,ながきさは(棹)にふくろをつけてたてわたすなり,そのさはのたてはじめをば,一のさはとぞなづけたる,なかにとしたかきあま人のたてそむるなり,たつるとて申なることばきゝ侍しこそ,なみだこばれて,申ばかりなくおぼえてよみける 
⑧たてそむるあみとるうらのはつさほは つみのなかにもすく“れたるこひ (1372) 
  意訳変換しておくと
備前国の小嶋(児島)に渡ってきた。「あみ」というものをとる所は,それぞれの猟場が決まっていて,海中に長い棹に袋をつけて長く立てる。その棹の立て始めを,「一の棹」と呼ぶ。年とった海民が立て始めたという。「たつる」という言葉を聞いて涙がこぼれてきて一句詠んだ
⑧立て初むるあみとる浦の初竿は つみのなかにもすくれたるかな (1372) 

「あみ」は、「海糖、醤蝦」と書く小さなエビのようです。コマセとも呼ばれるようで、それを採って生業としている漁師たちを「海人(あま)」と表現しています。海中に竿を立てて採る漁法を見て、「涙がこぼれた」というのはどうしてなのでしょうか? それが「つみ」という言葉と関係があると研究者は考えています。「つみ」とは何なのでしょうか?
  次の渋川海岸でも「つみ」が登場します。

ひゞ(日比),しぶかほ(渋川)と申す方へまはりて,四国のかたへわたらんとしけるに,風あしくてほどへけり,しぶかはのうらと申所に,おさなきものどものあまたものをひろひけるを,とひければ,つみと申物ひろふなりと申けるをきゝて 
  ⑨をりたちてうらたにひろふあまのこは つみよりつみをならふなりけり(1373) 
意訳変換しておくと
日比,渋川というところまでやってきて,四国へ渡ろうとしたが,強風で船が出ず渡れない。渋川の浦で風待ちしていると,幼い子ども達が何かを海岸で拾っている。それは何かと聞いてみると,「つみ」というものを拾っているという。それを聞いて一句。
  ⑨を(降)りたちてうら(浦)にひろふあま(海民)のこ(子)は つみよりつみ(罪?)をなら(習)ふなりけり 
ここにも「つみ」が登場します。浜辺で拾うと書いているので、貝のようです。当時すでに「罪」という言葉は使われているようですが、ひらがななので「積み」か、「摘み」かもしれません。先ほど句には「つみの中にもすぐれたるかな」とあったので、「採って積まれた海の幸」かとも研究者は推測します。
 「玉野市史」に次のように記します。

「扁平な九い蓋のような貝で、浅い海底の砂泥のなかにいる。最近は姿を見ない。」

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謎の生物 つみ
と絵入りで推定していますが、今も特定できないようです。

地元では、「つみ」とは「ツブ」と伝わっているようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。

西行は、地元の発音を「つみ」と、ひらがなで表記しているので、その正体は分かりません。しかし、「つみからつみを習う」とすれば、「貝から罪を習う」という流れになります。漁師の子供たちは、貝を拾っているうちに、「殺生」という罪を習い覚えることを、西行は憂えたのでしょうか?。あるいは、貝や魚を採ることも「殺生」だと気づかずに生きていることを歌にしたでしょうか。  よく分かりません。
海開き前の渋川海岸 in 岡山・玉野市 - 続・旅するデジカメ 我が人生
渋川海岸からの備讃瀬戸 大槌・子槌とその向こうに五色台

「つみ」という言葉を入れた歌には、もうひとつ次の歌があります。

真鍋と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうの「つみ」のものなどをあきなひて、また塩飽の島に渡りて、商はんする由、申しけるを聞きて、
真鍋より塩飽へ通ふ商人はつみを買ひにて渡るなりけり

意訳変換しておくと
讃岐と安芸の間の真鍋島という島には、京よりやってきた商人たちが船から下りて、様々な「つみ」などを商う。そして、それを仕入れて塩飽島に渡って、商売することを聞いてて、
真鍋から塩飽へ通う商人は「つみ」を、買って渡るという
 ここの出てくる「つみ」とは、なんなのでしょうか
「やうやう」とは「様々」で、「色々な」という意味でしょう。とすれば沢山の種類の貝「摘み」か「積み」か、大量に採れる海産物のようです。塩飽附近で、たくさんとれる「つみ」を買いに船で真鍋島から商人が船で塩飽に通っているということになります。私は、最初はそう思って、「塩飽が周辺の流通センターの機能を果たしていた裏付け資料」と納得していました。しかし、西行は「言葉遊び」をしているのかも知れないと、思うようにもなりました。先ほど見たように「つみ」を「罪」と重ねているようにも思えるのです。どちらにしても、「つみ」については私はよく分かりません。今回は、讃岐を目の前にした児島の渋川海岸で終わりたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤恒雄  西行四国行脚の旅程について  香川大学学術情報リポジトリ
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前回は現在の呉市の原型となる中世の「呉別符」の成立について、次のようにまとめました。
①国衙領安満郷呉浦の公文預クラスの開発領主呉氏は、岩清尾八幡神人の上分米出挙(=高利貸し)の融資を受けて「呉別符」の開発に着手した。
②その開発事業の中で、自分も石清水八幡宮の在地神人となった。
③そして、産土神として信仰を集めて来た亀山神社に石清水八幡官の祭神を勧請して、別宮とした。
 言い換えると、呉氏は神人の諸特権を得ることで、国衙権力の介入を排除するとともに、石清水八幡からの金融的支援を受け、呉浦の荒野の開発を進めたことになります。開発領主呉氏による開発は、同時に呉氏の八幡神人化と、呉別符の石清水八幡宮寺領化でもあったことを前回は見ました。今回は、その開発の進め方と景観変化を見ていくことにします。テキストは、前回に続いて「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です
呉保 岩清水八幡荘園
中世の呉別符(保)
「呉別符(保)」の中心は、どこだったのでしょうか?
 呉別符(保)は石清水八幡宮寺領として建立されます。勧進された分社は、その荘園の中心近くの小高い岡の上に建てられることが多いようです。呉保の場合は、かつて亀山神社(旧八幡社)があった入船山です。入船山を中心に呉保は広がっていたと推測します。
 次にその境界を特定します。亀山神社の氏子組織は、宮原村・和庄村の人々を中心として構成されています。また、呉市市街地の中央をながれ、呉湾に注ぐ「堺川」は、その名の通り、和庄村と庄山田村を隔てる「境界の川」でした。この呼称がもっと古くまで遡れるなら、呉浦を別符方と浦方に分ける境界の川が境川になります。ここから旧宮原村・和庄村を呉別符の境域とします。

呉 居館
呉市の居館候補 竹土居
 それでは呉氏の居館は、どこにあったのでしょうか?

長迫小学校の西方に「竹土居」の小字があります。土居は中世武士の居館跡とされます。  土居を「清水」「岡田」「横田」「河原田」「榎田」「雑魚田」の小字が囲んでいます。ここから呉越えにかけては「鹿田」「免田」「(東・西・南)免田」の小字があります。ここから竹土居を、呉氏の屋敷地とそれを囲む門田、 そして給免田に由来する地名と研究者は推測します。「清水」は飲料水用・門田の灌漑用の取水地とすれば、この清水周辺に屋敷地があり、そこを拠点に呉氏は、この地域の荒野開発に乗り出したことになります。
かつての亀山神社(八幡宮)は、入船山にありました。
明治になって旧海軍呉鎮守府が呉に開設されることとなり、入船山にあった神社は現在地へ移転されます。その跡に軍政会議所兼水交社が建てられ、これが後に鎮守府司令長官官舎として利用されるようになります。入船山記念館の周囲には、「鳥居東」「鳥居西」「富畝」「宮下」「宮上楠」など、神社を中心に位置関係を示す小字がいまでもよく残っています。この元亀山神社が呉氏が、石清水八幡宮の祭神を勧請した呉別符の鎮守神だと研究者は考えています。

呉 亀山神社
入船山から塔の岡周辺が中世呉の「聖域」
 ①元亀山神社のすぐ南方(国立呉病院付近)には「善正地」「赤御堂」「堂場」「法名」「法名道下」など、寺院・堂舎に関係ある小字が集中します。これが八幡別宮の神宮寺②「善正寺」があったところです。
呉 亀山神社2

その南方には海に突き出すもう一つの尾根があり、その先端部分の南麓を「洗足(千束)」、その後方丘陵(現在の呉地方総監部=旧鎮守府、近世は宮原村庄屋青盛氏の居宅「月波楼」)は「塔ノ岡」と呼ばれていました。「塔ノ岡」はもともとは墓碑群のある丘で、「洗足」は、千僧供養に由来する地名で葬送供養を行う墓地だったと研究者は推測します。
 この地は、戦国期には「千束要害」と呼ばれる城郭が構えられていたので、墓地であったのは中世前期までのことになります。こうして見ると入船山から「塔ノ岡」の間は、神社・寺院・墓地を含む、「呉の聖域」エリアであったようです。しかし、この中世の聖域は、 今は跡形はありません。近代の「海軍」建設の際に、根こそぎ破壊されました。
 入船山の北側のかつての湾入部には「小走津」の小字が残ります。
「入船山」など地名からは、津泊の機能がこのあたりにあったことがうかがえます。また「塔ノ岡」寄りの道を「室瀬」と呼んでいたことが、戦国期の史料にはでてきます。「室」は、船の停泊地=港を指すので、「塔ノ岡」の北側湾入部も港だった可能性があります。中世には、2つの浜が湊の役割を果たしていたようです。
呉 近世地図
幕末の呉湊 1862(文久元)年
 江戸時代の呉港は、室瀬から尾根ごしの洗足南側に築港されたものです。室瀬の地先は新開が開け、町場が形成されていました。しかし、中世前期までは「亀山」と「塔ノ岡」のそれぞれの尾根先を自然の防波堤とする「入舟」=「小走津」や「室瀬」の地が、呉の港=「呉津」だったと研究者は考えています。


和庄村・宮原村の休山山麓には、次のような「――垣内」「――河内」の小字が点在します。
和庄村には「鹿田河内」「半兵衛垣内」「岡垣内」
宮原村には「(上・下)原河内」「空河内」「殿垣内」「富垣内」「下垣内」「庄地垣内」
呉 亀山神社
呉市宮原町土居内周辺の「垣内」

宮原村の場合は、すべて塔ノ岡尾根よりも南になります。今見てきたように、神社・寺院・津などが集まる港湾集落が呉浦の原型でした。これを元呉浦と呼んでおきましょう。呉氏が率いる住人たちは、その元呉浦の南方に開発の鍬を打ち込み、柴や卯の花の垣を巡らして周囲の荒野から区画し、出地を造成します。その爪痕が「垣内」地名として今日に残ったと、研究者は考えています。
元呉浦の南に「土居内」の小字があります。これが呉氏の宮原方面の開発拠点と研究者は推測します。
呉氏はここに建設した倉庫に八幡神人から借りた種子・農料を蓄積し、各「垣内」の小農民に開発料・農料として下行し、隷属関係を取り結び、領主支配を実現していったのでしょう。宮原高校の北側には「権ノ守」の小字があります。これは開発領主の通称に使われます。例えば、次のように「権ノ守」を名乗る人物がいました。
平安末期の能美荘に、荘方下司藤三権守宗能
鎌倉時代の仁治三年に殺害された安摩荘江田島小松文紀為宗は、「中権守」(中郷の小字がある)
呉別符の開発領主呉氏の一族にも「権守」を代々称していたものがいたのかもしれません。
以上から呉氏による呉浦の開発は次のように進められたことが推測できます。
①開発領主としての呉氏は、長迫町の「竹土居」に居館を構えていた。
②長迫町を拠点に鹿田・東畑・西畑などの呉越えに向けての土地を開発した。
③一方で、現在の千束要害跡や入船山の北側は浦・湊として機能していた。
④この湊を見下ろす入船山に鎮座していた龜山神社に、岩清水八幡の分霊を勧進した。
⑤当時は神仏混淆だったので、亀山神社を管理するのは社僧で、その寺が善正寺であった。
⑥こうして入船山周辺には、神社・寺院・津などが集まる集落形成されるようになった。これがが呉浦の原型となる中世の「元呉浦」である
⑦呉氏の一族は、石清水社神人の支援を受けながら「元呉浦」の南方の開発に着手する。
⑧その拠点となったのが宮原高校の北側の「権の守」の主人である。
⑨その開発地の痕跡として残るのが「○○垣内」という字名である。

しかし、研究者は次のようにも述べています。
 地名の魅力にとらわれ空想の世界に深入りし過ぎてしまったが、近世の小字から具体的に呉別符の景観を復元する一つの試みと理解していただきたい。荘園文書に現れる地名と照合してはじめて、地籍図の小字名は中世の特定の時期に存在したことを証明することができる。呉にはそのような文書は今のところない。したがって、地名を手がかりに推察した呉別符の景観は、検証する手だてのない、文字どおり想像にすぎない。ただ、呉においても、開発領主と農民による開発が12世紀前期までに行われたことはまちがいない。「呉別符」の名称がそのことを何よりも雄弁に語つている。

 石清水八幡宮は、瀬戸内海に港湾機能を持つ荘園を確保していました。
石清水八幡の荘園一覧

これが九州の笛崎八幡・宇佐八幡から石清水八幡宮までを結ぶ独自の海上交通体系と結びついています。呉別符は、石清水八幡宮の独自の海上交通体系の中で不可欠の中継港であったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」

石清水八幡の荘園一覧
岩清水八幡宮寺領一覧表 安芸に呉保が見える

鎌倉時代になって、賀茂神社や石清水神社が瀬戸内海に多くの荘園をを設置して行くことを見てきました。それは神に供える神饌貢納地という以外に、神人たちを廻船人や問屋、金融業者に組織し、瀬戸内海の交易ルートの拠点とする戦略があったことが見えて来ます。それでは、各地の海民たちは、どのようにして神人に組織されていったのでしょうか。それを安芸国呉別符で見ていくことにします。テキストは「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です。
呉保 岩清水八幡荘園2
安芸国の安芸郡安摩郷
 安摩荘は、和名抄郷の「安芸郡安満郷」をその前身とします。
 安芸国が貢納すべき調品目に塩、作物に「比志古鰯」があり、佐伯郡海部郷・安芸郡安満郷に住む海民集団は、調塩・海産加工品を貢納していたことが分かります。また、遣唐使船・遣新羅使船や官船・官米運京船の水手役も割り当てられたようです。
 安満郷は広島市安芸区矢野町から呉市におよぶ海岸から、対岸の江田島町・音戸町を含む広い地域とされます。安満郷はこのように、広島湾・呉湾・安芸灘の海面、沿海・島嶼部の浦・浜・江などを舞台に製塩・漁業を生業としていた海民集団が編戸によって郷として編成されます。
 安満郷の海民たちの活動を、研究者は次のように考えています。
①海民集団は各浦・島に住み着いて、原生林を製塩用燃料のために伐採した跡にできた荒野を焼畑に変え、しだいに分散・定住するようにる。
②海民集団は技術者集団でもあったので、製塩・漁業・海運など、さまざまな活動を展開するようになる。
③その中から成長してきた開発領主たちが、各浦・島の刀祢となり、公文預などに補任されていく。
④国衙領安満郷が立荘化されると各浦・島では、中央権門寺社の要求する塩・海産加工品=供御を貢納する荘園になっていく。
そして平安末期から旧安摩郷は、次のように荘園化していきます。
A江田島・波多見島・呉浦・矢野浦→「皇室領安摩荘」
B蒲刈島→「興福寺領日高荘」
C倉橋島→「摂関家勧学院領倉橋荘」
D呉浦の一部 → 石清水八幡宮領「呉別府(呉保)」
  Dの呉別符は、その名称から国衙領時代の呉浦の中にあったことがうかがえます。「別符」とは、開発領主が荒野開発を条件に、一定領域の領有を国衙に申請し、国衛の裁許を得て成立する特殊な徴税領域の一つです。「別符」はもともとは、開発の成功報酬として雑公事免除の特典を与えられ、所当官物を国衛に進納する国衙領のひとつでした。呉別符も、そのような存在だったはずです。それが国衙領呉浦の一部を割いて設定されたと研究者は考えています。その時期は、天永年間、呉浦をも含め、鳥羽法皇の動定によって安摩荘が建立される以前の11世紀末頃のことと研究者は考えています。
呉浦における別符申請=荒野開発を行ったのは、どんな人物だったのでしょうか?
それは呉浦の公文預クラスの開発領主で、「呉」を名字とする一族であったことが史料から分かるようです。鎌倉時代の嘉禎四年(1238)9月26日の「能美荘宛て藤原(吉田)資経家政所下文」に、次のように記されています。
江田島とつながる能美荘公文職の中村吉平が天福元年(1233)2月に亡くなります。そこで領家は「実賢」の妻になっていた吉平女を公文に補任します。この補任をめぐって争論となるのですが、ここに登場する公文職を帯する女性の夫「実賢」は、「能美氏略系」(『譜録』(能美太郎右衛門宣久)所収)に出てくる「左近左衛門尉実賢」だと研究者は指摘します。
 ここからは呉保の保司か公文だった呉実賢は、妻を通して能美荘公文職を、押領するための画策をめぐらしていたことが分かります。そして、「この呉実賢こそが呉別符を開発し、石清水八幡宮に寄進した開発領主の後裔」と研究者は判断します。つまり「呉浦」というのは開発領主の「呉」氏に由来するというのです。
ここでは、呉浦の原野に開発の鍬を打ち込んだ開発領主が呉氏であったことを押さえておきます。
 しかし、呉浦の開発を呉氏が、独自に企画し、自らの資本で周辺住民や浪人を募り、自力で推進したとは研究者は考えません。その背後には、それを支援する石清水八幡宮神人がいたと推察します。呉氏による別符設立は、石清水八幡宮神人の上分米(年貢=神物)出挙活動(開発資金融資)と密接な関係があったというのです。

江戸初期 『 石清水八幡宮 公文所(御網引神人) 』

江戸初期 『 石清水八幡宮 公文所(御網引神人) 』(複製)


1072(延久4)年9月5日の太政官牒によれば、延久荘園整理令の時点で、石清水八幡宮寺領は畿内近国6ケ国34ケ所にありました。ところが約90年後の保元三年には、104ケ所に急増して
います。もともと、石清水八幡官は伊勢神宮につぐ皇室第二の祖廟として崇敬をあつめてきました。それが白河・鳥羽院政期に急激に勢力を拡張していったことが分かります。白河・鳥羽両院はともに、頻繁に石清水八幡宮に行幸・奉幣・供養を行っています。また11世紀末からは、恩赦にあたって伊勢・八幡両社の訴えに触れた者は赦から除く、という赦文を出すようになります。特別な思い入れがあったことがうかがえます。
 大幅に荘園が増えた時期の石清水八幡宮寺の統括者は別当光清です。
彼は1103(康和5)年に別当に就任し、1125(天治二)年に退いた後も、長期にわたって実権を握っていた人物です。彼の女子美濃局は鳥羽法皇に寵愛され、光清は美濃局を通じて鳥羽法皇の支援を得ていたようです。石清水八幡宮の歴史において、別当光清という男は特筆すべき人物だと研究者は指摘します。鳥羽法皇と関係を深めた別当光清の社領拡張政策によって、石清水八幡宮寺領は12世紀前半に爆発的に増加します。
八幡神人の活動が活発化するのも、この時期と重なります。
神人は、「じにん」か「じんにん」と読み、辞書を引くと「神社の下級神職や寄人をさす」と書かれています。ここでいう神社の下級神職というのは、神社に常住することなく、仏事神事に奉仕する役職をさしています。 
 神人の所役は多岐にわたっています。古文書には、その所役として、次のようなものが記されています。

大山崎神人・公文・巡検使・大夫職・惣大工職・勾当・五師・例時衆達所・少綱・御綱・駕輿丁・小目代・神宝所・御馬副・宮寺・獅子・御鉾・童子・相撲・鏡澄・火長・火燈・御前払・袖幡・軾・神楽座・仕丁・香花・餝松・壁工・畳差・織手・漆工・紺掻・染殿・絵所・桧物師・塗師・黄染・・・

これは勝手に誰もが神人になれるというものではなく、八幡宮が補任するものでした。これが各荘園に勧進分社された神社でも神人が補任されます。それは代々世襲され今日に至っているようです。
 神人には、神饌供御・神役勤仕のための交通特権、拷訊免除の特権がありました。この特権を活用して、八幡神人は別当光清の指揮のもとで、瀬戸内海沿海地域で荘園拡大政策を展開していったことを押さえておきます。
 この時期から神人たちは、上分米(神物)を預かって諸国を往復して高利貸し活動を行うようになります。
上分(じょうぶん)とは、利益の一部を神仏に貢進した物で、転じて年貢所当一般を指します。地方の開発領主たちは、神人からのお金を借りて、「新規事業」を展開するようになります。そして石清水八幡宮の祭神を産土神に勧請し、分社を建立し、みずからも在地神人化していきます。次第に開発地の上分米を「神物」とみなして、国衙による課税を拒むようになります。 
 呉別符の成立と、別当光清の八幡神人による「上分米出挙活動=寺領拡大政策」は深い関係があると研究者は考えています。
そこには、次のような展開が予測できます。
①国衙領安満郷呉浦の公文預クラスの開発領主呉氏は、神人の上分米出挙(=高利貸し)の融資を受けて開発を進めた
②その中で、自分も石清水八幡宮の在地神人となった。
③そして、産土神として信仰を集めて来た亀山神社に石清水八幡官の祭神を勧請して、別宮とした。
 言い換えると、呉氏は神人の諸特権を得ることで、国衙権力の介入を排除すると同時に、石清水八幡からの金融的支援を受け、呉浦の荒野の開発を進めたことになります。開発領主呉氏による呉別符の開発は、同時に呉氏の八幡神人化と、呉別符の石清水八幡宮寺領化でもあったとしておきます。
 上賀茂神社や岩清水八幡神社の海民の神人化には、このような背景があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          「下向井龍彦  石清水八幡宮寺領呉別符の成立と海民」です

平氏全盛時代を経て、鎌倉期になってからの瀬戸内海航路の支配権については、次の二つが注目されます。
①政治的には、西園寺家と北条氏一門の進出
②宗教的には、西大寺流律宗の進出
今回は①の西園寺家の瀬戸内海航路の掌握をめぐる動きを追っていることにします。
西園寺公経
西園寺公経(きんつね)
まず、伊予にたいする西園寺家の執着がきわめて強烈だった例を見ておきましょう。西園寺公経は、源頼朝の女婿一条能保との縁で、早くから鎌倉幕府に接近していた親幕派のひとりでした。実朝の横死後、その後継者を都から招くことがきまると、九条道家の男子(公経にとっては外孫)を頼朝の血筋をひくという理由で強く推し、第四代の将軍の位につけることに成功します。それが摂家将軍、のちの源頼経になります。この結果、鎌倉将軍の外祖父として京都の政界で重きをなし、その権勢は並ぶ者がないといわれるほどにのし上がっていきます。
西園寺公経が、はじめて伊予国の知行国主となったのは、1203(建仁3)年のことです。
続いて、3年後には周防国の知行国主にもなっています。こうして西園寺公経は、瀬戸内海の西の入口にあたる両国をおさえます。以後、伊予は鎌倉時代を通じて、西園寺家に継承されて、家領同然になっていきます。西園寺家のこの海域にたいする強い関心が、早くから動いていたことがうかがえます。
宇和郡
伊予国宇和郡
 吾妻鏡には1236(嘉禎二)年2月22日、西園寺公経が幕府に強要して、宇和郡を所領としてきた橘(小鹿島)公業の知行をやめさせ、これを自らものとしたことが記されています。このとき、所領を奪われた橘(小鹿島)公業は、次のように抗弁しています。

先祖が藤原純友を討ち取って以来この地に居住し、代々相伝してきた所領を、咎なくして奪われるのは不当である。

これに対して西園寺公経は、この所望が達成されなければ、「老後の眉目を失ふに似たり」として、自ら鎌倉に下向する意志を示し、ついに幕府も、これを受け入れたと記されています。こうして西園寺公経は、宇和郡を一円的所領として確保することになります。前太政大臣の地位にありながら、このような「下職」にどうして、これほどこだわる理由があるのでしょうか?
宇和島に対する公経の執念を、どう考えればいいのでしょうか?
これに対して研究者は、その意図を次のように指摘します。
「純友が日振島を根拠にしたという歴史からみても、海上交通の要地の掌握という点をおいはかんがえられない」

これを補足するのが1230(寛喜二)年に、豊後水道をはさんで宇和島対岸にあたる豊後の阿南郷(荘)を、公経が由原八幡宮に寄進し、自らの所領としていることです。「伊予宇和郡 + 豊後の阿南荘」を手中にすることで豊後水道の制海権を握ることになります。こうして西園寺家は、後の世に宇和郡にその一族を土着させ、足場を固め、ここを基盤に伊予の戦国大名にまでなっていくための足がかりを築いたことになります。
 それだけでなく、西園寺家は宇摩荘を手中にしています。伊予国知行国主として支配下においている国衛領をはじめ、船所などの諸機関の掌握を通じて、瀬戸内海の海上交通に大きな力をおよぼすようになったはずです。
 西園寺家の鎌倉時代の所領は、瀬戸内海沿海諸国に次のように分布していました。
周防国玖珂荘
安芸国沼田荘
備中国生石荘
備前国鳥取荘
播磨国五箇荘
摂津国富松荘
この中でも沼田荘は、公経のときに手に入れた所領で、その内部に、海民の拠点として知られる能地、忠海、渡瀬を含む浦郷を含む海上交通の要地です。西園寺家は家司橘氏を預所として、現地の経営に力を入れています。これらの事実からみて、西園寺家は瀬戸内海の海上交通に強い関わりをもっていたことがうかがえます。
3 家船4
沼田荘周辺
西園寺家の戦略は、北条氏の交通路支配を補完するものだったと研究者は考えています。
その中で研究者が注目するのは、北条氏一門の金沢氏の動向です。
武蔵の六浦・金沢(横浜市)を本拠し、金沢文庫を残したことで有名な金沢氏は、房総半島と海を通じて海運に密接に結びついてきました。それがモンゴル襲来の前後、伊勢・志摩をはじめ周防・長門・豊前の守護となり、さらに鎮西探題となって、肥前・肥後の守護を掌握します。そして東海道から瀬戸内海を通って九州にいたる海上交通のルートに強い影響力をおよぼすようになります。
金沢北条氏と鎌倉時代の繁栄 横浜市金沢区
北条氏と金沢氏の関係
金沢氏一門と西園寺家には、次のような強い結びつきがあったことを研究者は指摘します。
①金沢顕時(あきとき)の子顕実が伊予守に就任。これは知行国主西園寺家の下での国守であること。
②1307(徳治二)年、伊予国久米郡も、金沢の称名寺の寺用にあてられる金沢氏の所領となった。
③顕時のもう一人の子息貞顕が、西園寺実氏の女東二条院公子の蔵人になったこと
④貞顕の子で東寺長者にもなった顕助が、公経の女にとっては外孫にあたる実重の子で洞院実雄の外孫であった内大臣三条公茂の猶子となっていること
こうした金沢氏の西園寺家とのつながりは、決して偶然のことではなく、金沢氏の瀬戸内海交通にたいする支配と西園寺家のそれとが重なっていたことから生まれたものと研究者は考えています。このような結びつきによって瀬戸内海での影響力や支配力を、両者はたがいに相補い、より安定・強固なものにしていきます。

「伊予国をおさえ、院御厩別当として左馬寮を知行することで瀬戸内海交通を支配する」

というのが西園寺家の戦略だったようです。
実はこれには先例があったと研究者は次のように指摘します。
①兄頼朝と対立した源義経は、伊予守に任ぜられ、院御厩別当にもなっていること。
②頼朝と敵対関係にあった源義仲も、左馬頭になり、伊予守に補任され、院御厩別当になっていること。
③その際に義仲は、次のように強く要求し、いったん補任された越後守を嫌って、あえてその6日後に伊予守になっていること

「院ノ御厩別当二成テ、思フサマニ馬取ノランモ所得也トテ、押テ別当二成テケリ」(『源平盛衰記』34)

④ここからは、義仲に伊予守について強い執着がうかがること

 義経、義仲の立場に立って考えると、東国をおさえた頼朝に対抗し、西国にその勢力を固める必要に迫られていたはずです。そういう目で西国を見ると、その最重要戦略ラインは、淀川から瀬戸内海への交通路支配です。その根拠となる伊予守、御厩別当(左馬頭)の兼帯は、二人にとって、どうしても欲しいものだったはずです。

 さらに遡って、平氏の時期を見ておきましょう。
①忠盛以来、重衡、知盛が院御厩別当(左馬頭)になっていること
②重盛が1159(平治元)年に伊予守となり、清盛も伊予の知行国主になっていること。
③源義朝も伊予守、左馬頭になっていること。
④伊予守と御厩別当との兼帯は、1129(大治四)年の藤原基隆、翌年の藤原家保まで遡って確認できること。
  これをどう考えればいいのでしょうか。ここまでくれば両職の兼帯は偶然とはいい難いようです。伊予守、御厩別当(左馬頭)の兼帯は、淀川・瀬戸内海交通の支配、ひいては西国支配実現のための大きな足がかりだと、当時の支配者は認識していたようです。
日振島
日振島(豊後水道の戦略的要地?)

 伊予の宇和郡は近畿からは遠いところにあるように思えます。しかし、日振島を根拠として、瀬戸内海を席捲した藤原純友の軍勢は淀川にたちまち姿をみせています。伊予と淀川は、瀬戸内海という海のハイウエイーでつながっていたのです。
鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

 藤原基隆から源義経、さらには西園寺家にいたるまでの、伊予国と院御厩領・左馬寮領支配の背後に、院の存在があったことを研究者は指摘します。   
鳥羽院の御厩別当となった平忠盛は、会賀・福地牧を支配するとともに、後院領肥前国神崎荘の預所として、日宋貿易を行っています。

日宋貿易
日宋貿易

白河上皇以後、後鳥羽上皇にいたるまでの院が、淀川、瀬戸内海、北部九州、さらには中国大陸にいたる河海の交通に、なみなみならぬ関心をもっていたことがうかがえます。平氏もそれを背景にして、独自な西国支配を固めていきました。西園寺家も、ある意味ではこれを踏襲していたことになります。こうした海への関心は、淀川沿いに楠葉牧を確保し、近江に大津御厩をもつ摂関家も、同じだったようです。1185(文治元)年以降、九条兼実が伊予の知行国主になっています。これもそのような流れの中で捉える必要があると研究者は考えています。
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以上をまとめておくと
瀬戸内海航路の掌握2

①白河上皇以後、後鳥羽上皇にいたるまでの院は、日宋貿易や瀬戸内海交易に関心をもっていた。
②それを受けて平氏は瀬戸内海の海賊討伐や航路整備を行い、瀬戸内海を「我が海」としようとした。
③その際に必要な部署が淀川水運支配のための「院御厩領・左馬寮領」であり、瀬戸内海支配のシンボルである伊予国であった。
④それは、後の義仲・義経にも受け継がれる。
⑤西園寺家にとって「伊予国」は瀬戸内海航路支配のために是非とも手に入れたいポストであった。
⑥宇和郡は豊後水道の制海権を得るために、是非とも手にしておきたいエリアであった。
⑦そのためにも西園寺公経(きんつね)は、大貴族でありながら横暴を通して宇和郡を手に入れた。
⑥それは瀬戸内海交通路支配のためのは、手にしておきたい場所だったからであり、その向こうに日宋貿易の富があったからである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」

  前回は京都の上賀茂神社の御厨(みくり、みくりや)と、その神人・供祭人の活動について見ました。そこからは上賀茂神社が御厨を拠点湊として、自前の瀬戸内海交易ルートを確保しようとする戦略が見えてきました。

忘れへんうちに Avant d'oublier: 一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻9-12
石清水八幡神社(一遍聖絵)
今回は、上賀茂神社のライバルであった石清水八幡宮を見ていくことにします。
石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮(宇佐市)が9世紀半ばに勧請された神社です。そのため、瀬戸内海を通じて宇佐八幡のある北部九州と深く結びついていました。宇佐八幡と石清水八幡の影響力は、瀬戸内海諸国から山陰、九州にまで分布する荘園と別宮によってたどることができます。それでは、八幡宮神人が拠点とした浦(荘園)を見ていくことにします。

まず山陽道沿いの荘園・別宮の分布を一覧表で確認します
石清水八幡の荘園一覧

淡路国には鳥飼別宮(鳥養荘)、矩口荘、枚石荘がありました。
①鳥飼荘には「船所」があって、瀬戸内海の西からの船が目指す海上交通の中心的な位置にあります。石清水八幡宮が創建された貞観元年(859年)の数年後には、淡州鳥飼別宮として鳥飼八幡宮は建立されたと社殿は伝えます。

②播磨国の継荘、松原荘、船曳荘、赤穂荘、魚次(うおすき)別宮のうち、赤穂は製塩地としても有名で、ここも海民的な神人の根拠地だったようです。
③備前国には牛窓別宮、雄島別宮、片岡別宮、肥土荘(小豆島)などの別宮・荘園が分布しています。
牛窓は、兵庫北関には年間121艘が入関していて、室町期には廻船の最重要拠点でした。 小豆島の肥土荘は、延喜四年(904)、大菩薩の託宣によって「八幡宮御白塩地」として寄進された荘と伝えられ、大製塩地だったことは以前にお話ししました。

舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
肥土山八幡神社と農村歌舞伎小屋
  小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡宮は、石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。
 肥土八幡宮の縁起によれば、「依以肥上庄可為八幡宮御白塩地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。肥土荘の別宮の神人たちは、地頭や百姓による神人の殺害、刃傷などに抗議して、しばしば「蜂起」し、神宝を動かすなど神威に訴えていたことが『小豆島八幡宮縁起』には記されています。その肥土山の神人が廻船人であった直接の史料はありません。しかし、次のような状況証拠から廻船活動を行っていたことが推測できます。
①肥土荘の下司・公文であった紀氏一族が海民の流れをくんでいること
②1455(文安二)年の兵庫北関へ、塩を積んだ小豆島からの入船が23艘もあること。
ここからは「製塩 + 廻船」活動が小豆島の神人達によって活発に展開されていたことがうかがえます。さらに、片岡別宮も、江戸時代には、漁携・製塩が盛んであり、肥土荘と同じようなことを考えられます。
④備中国には水内北荘、吉河保、⑤備後国には御調別宮、椙原別宮、藁江荘などがありました。
備後の椙原別宮は、尾道の対岸の向島の西八幡社とされます。位置的にも、その神人が海上交通と関係していたことは十分に考えられます。

松永湾の荘園
松永湾の東岸の藁江荘(紫の枠が荘園エリア)

松永湾の東岸の藁江荘も塩浜が多く、大量の塩を社家に貢納していたことが知られます。
松永湾の東岸は、柳津や藤江の港があり、備後の表玄関に当たる場所でした。「兵庫北関入船納帳」には藁江船籍の船が何隻か見られ、当時この地が鞆・尾道と並ぶ瀬戸内の要港として栄えていたことが分かります。藁江庄の範囲は上図の通りで、北は柳津町、南は尾道市の浦崎町一帯にまで及んでいて、柳津町の西瑞には庄園の境界を意味する遍坊地(傍示(ぼうじ))という地名が残っています。庄内のほぼ中央に建つ金江の八幡神社は藁江庄の鎮守八幡と推定されます。庄園を見下ろす小高い丘の上に立てられ、かつてこの神社が京都の石清水八幡社の末社として荘園支配の一翼を担っていたことをよく示しています
⑥安芸には呉別符(呉保)、三入(みいり)保、松崎別宮がありました。
呉保 岩清水八幡荘園
呉保は現在の呉海上自衛隊周辺
その内の呉保は、現在の呉市の海上自衛隊の基地が並ぶ宮原周辺になり、岩清水八幡の分社が亀山神社とされます。呉保の形成については、次回に詳しく見たいと思いますので、今回は素通りします。
⑦周防国には石田保、遠石別宮、末武保、得善保、室積荘がありました。
遠石八幡宮・見どころまとめ・御由緒や交通アクセス、駐車場を解説 | 山口いいとこ発見!
           遠石(といし)八幡宮
周防の末武・得善両保に関係する遠石八幡宮(といし)は、周南市遠石にあり笠戸泊も含んでいました。 徳山は海上交通の要地でもあり、江戸時代の徳山藩の歴代藩主は、ここを氏神としています。
室積荘は山口県光市の陸繋島の室積半島がつくる良湾に沿って発達した港町。平安末期の『本朝無題詩』に「室積泊」として登場し、石清水八幡宮の室積庄となります。近世の室積浦は毛利藩室積会所が置かれ、防長米の積出し港として栄えました。

⑧長門国には位佐別宮、大美爾荘、埴生荘等がありました。
埴生荘は、山陽小野田市西部の海岸平野(埴生低地)に位置し、周辺を石山山地、津布田丘陵などの丘陵地に囲まれている良港でした。今川了俊の「道ゆきぶり」、宗祗の「筑紫道記」にも姿をみせます。
 
 瀬戸内海の山陽沿岸の岩清水八幡神社の荘園分布を見て気がつくことは、等間隔的にまんべんなく下関まで続いていることです。海の神饌や塩の奉納だけを目的とするなら、近畿周辺で事足りるように思えます。それが等間隔に並ぶのは、沿岸沿い荘園を配置し、そこに廻船人を置き、自前の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしていたことがうかがえます。

次に、四国側に置かれた荘園を阿波から西へ見ていくことにします。
岩清水八幡一覧荘園一覧・四国

①阿波国の萱嶋(かやしま)荘、生夷(いくな)荘、櫛淵(くしぶち)別宮(櫛淵荘)、
このうちで兵庫北関に出てくる「阿波の別宮」は、萱嶋荘と研究者は推測します。『板野郡誌』には、岩清水八幡宮領となった萱島荘の別宮浦には、万寿2年(1025)別宮(べっく)八幡宮(現徳島市応神町吉成別宮八幡神社)が勧請されたとあります。

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別宮(べっく)八幡宮の鳥居
 「離宮八幡宮文書」には、鎌倉時代末期の吉野川に「新関」が設置されて、水運の妨げになっていたことを、岩清水神社に属する大山崎油座神人が訴えた訴状があります。ここからは、京都大山崎の油座神人が原料の荏胡麻を運ぶために、吉野川を水運路として利用して、活発な活動を行っていたこと。それに対して通行税を徴収しようとする勢力がいたことが分かります。萱嶋荘は、吉野川河口に作られた荘園ですから、その流域の物資の集約と、廻船への積み替え拠点の役割を果たしていたことが考えられます。
    
②讃岐国には草木荘(仁尾)、牟礼荘、鴨部荘、山本荘、新宮、
7仁尾3
仁尾浦の南側にあった草木荘
 
 草木荘は、前回お話しした京都賀茂神社の神人達の拠点となった仁尾浦にの南側に隣接します。 
1158(保元三)年12月3日の宣旨に石清水八幡の荘園として「山城国祖穀庄・讃岐国草木庄・同牟礼」とあるので、この時点では石清水八幡の荘園として立荘されていたことが分かります。賀茂神社の御倉と接して、石清水八幡の庄屋があったことになります。
 草木荘の位置は、今ではカメラスポットとして有名になった父母が浜の奥の江尻川河口付近が考えられています。江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、いまでは干潟が広がり港の機能は果たせません。この堆積作用は早くから進んでいたようで、中世には港湾としての機能を果たせなくなったようです。そのため港湾機能を低下させた石清水の神人たちの草木荘は、上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったと研究者は考えています。

7仁尾
仁尾の南側の江尻川周辺に立荘された草木荘
③伊予国には、玉生(たもう)荘、神崎出作、得丸保、石城島、生名島、佐島、味酒(みさけ)郷などが分布しています。

このうち玉生荘、神崎出作、得丸保は、玉生八幡社の鎮座する松前の地にあります。
松前浜は江戸時代、千人もの「猟師」が集住する古くからの漁業第一の浦で、領分内ではいずれの浦で網を引いてもよいという漁撈特権を保証されていました。そのため松前浜は、1688(元禄元)年には、家数192軒、人数1230人におよび、漁船82艘、16端帆1艘を保有する港に成長します。松前浜の漁師は、こうした特権を背景に、1558(万治元)年、他領となった小湊村と網代(漁場)の出入りから殺害事件を起こし、元禄一三年から享保三年(1718)には、二神村と網場をめぐって相論を起こすなど、活発な活動を展開します。幕末の、天保九年(1838)には、家数507軒、住民2042人、舟数129艘という大きな港町に成長しています。
 この浜村の女性たち自分たちの先祖を、漂着した公卿の娘滝姫とその侍女を祖とすると言い伝えるようになります。
そして頭の上に魚をいれた盥をかついで「松前のおたた」といわれた魚売女として活動するようになります。この他にも松前には、十六端帆の大船が何艘もあって、「からつ船」「五十集」と呼ばれる遠隔地の交易にも従事していました。 このような廻船交易、漁撈特権、その女性の魚売りなど、この地区の港町の活動のルーツは、玉生荘に根拠をおいた海民的な八幡宮神人の特権にあったと研究者は考えています。

石清水八幡宮の荘園や別宮のすべてに、海民的な神人が活動していたわけではないでしょう。しかし、今見てきたように、石清水八幡神の権威を背景とした八幡宮神人の廻船、漁携、製塩等の活動が、加茂・鴨両社供祭人とともに、活発に展開されていたことはうかがえます。
 さらに注目すべきは、八幡宮の荘園・別宮が石見、出雲、伯畜、因幡、但馬、丹後等の山陰道諸国にも、濃密に分布していることです。石清水八幡宮の神人たちは、日本海西部の海上交通に深く関わっていたことがうかがえます。

以上見てきたことに加えて、石清水八幡宮は淀川の交通路も押さえることで瀬戸内海、九州・山陰にいたる海上交通に大きな力を行使していたのです。このルートを逆に通り、宋人を神人としていた宮崎八幡宮をはじめ、中国大陸、朝鮮半島からの影響が、八幡宮を通じて日本列島の内部に流入した研究者は考えています。そして、これらの荘園(浦)は、人とモノとお金と文化を運び伝えていく湊でもあったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」

中世の瀬戸内海の港町と船と船乗りを見ていきます。平安末期になると、神人・供御人(くごにん)制が形成されてくるようになります。海上交通の担い手である廻船人も、神人(じにん)、供祭人、供御人などの称号をもち、神・天皇の直属民として海上の自由な交通を保証され、瀬戸内海全体をエリアとして海・河での活動に従事するようになります。それは、人の力をこえる広大な大海原で、船を自由に操る廻船人の職能や交易活動そのものが、神の世界とかかわりある業とされていたからなのでしょう。今回は、平安末期から中世前期に登場する廻船(大船)についての史料を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
中世の廻船は、どのくらいの値段で取引されていたのでしょうか?
1164(長寛2)年、周防の清原清宗は、厳島社所司西光房の私領田畠・栗林六町を得た代価として、自分の持ち船である「長撃丈伍尺、腹七尺」を渡しています。つまり「6町(㌶)田畑・栗林」と「廻船」が交換されています。ここからは、廻船が非常に高価であったことが分かります。
 周防・安芸の海を舞台に活動していた清原清宗は、一方では「京・田舎を往反(往復)」する廻船人で、この船を手に入れた厳島の西光房も同業者だったようです。廻船は、大きな利益を生むために、高く取引されていたことを押さえておきます。

室津の遊女
法然が讃岐流刑の際に利用した廻船(法然上人絵伝 室津)

法然が讃岐流刑の際に乗船した大船は、田畑7㌶の価値があったことになります。この船を手配したのは、誰なのでしょうか。また、どこの港を船籍とする船なのでしょうか? そんな疑問も湧いてきます。それはさておいて、先に進みます。
 
 廻船の事例として、1187(文治3)年2月11日の「物部氏女譲状」を見ておきましょう。
この譲状には、紀伊の久見和太(くみわた)の賀茂社供祭人の持舟「坂東丸」と呼ばれる船が出てきます。(「仁和寺聖教紙背文書」)。「久見和太」の御厨は東松江村の辺りにあった可能性が強く,現在の和歌山市松江付近にとされています。「坂東丸」は1192(建久3)年4月には、播磨貞国をはじめとする播磨氏五名、額田・美野・膳氏各一名からなる久見和太供祭人の持ち舟となっていて「東国と号す」とされています。この船はもともとは「私領船」でしたが、持主の源末利の死後、後家の美野氏、山崎寺主、摂津国草苅住人加賀介等の間で、所有権をめぐって争いとなります。大船(廻船)は貴重なために、所有権を巡る争いも多かったようです。同時に、その所有権が移り替わっていく「動産」でもあったようです。また、ここに登場する賀茂社供祭人たちも、漁携民であるとともに廻船人です。彼らは坂東・東国にまで航海し、遠方交易にたずさわっていたことが史料から分かります。

当時の廻船人の社会的な地位がうかがえる史料があります。
廣田神社のおすすめ参拝コースと見所をチェック!|旅するいちもくサン
弘田神社(西宮市)
1250(建長2)年の、摂津国広田社の廻船人について、次のように記されています。
この廻船人は、社司・供僧以下、百姓等とともに、「近年、博変を好む」として禁制の対象になっています。そして、1263(弘長3)年4月20日の神祗官下文からは、廻船人について次のようなことが分かります。
①廻船人のなかに令制の官職をもつ「有官の輩」がいたこと
②有官の廻船人の罪については、供僧・八女(神社に奉仕し神楽などを奏する少女)と同じように特権が与えられていたこと
③廻船人が遠国で犯した罪科については、訴人がなければ問題にしないこと、
ここからは神人が官位をもち、世俗の侍身分に準ずる地位にあったことが分かります。廻船人は神人や、あるいはそれ以上の特権を与えられて、広く遠国にまで船で出かけて活動していたようです。廻船人をただの船乗りと考えると、いけないようです。船乗り達は身分もあり、経済力もある階層だったのです。

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 平安時代の武庫郡
1292(正応5)年閏6月10日、摂津の武庫郡今津の廻船人である秦永久の記録を見ておきましょう。
秦永久は東船江屋敷などの田地四段、所従七人とともに、小船二艘を含む船三艘を嫡子有若丸に譲っています。秦永久も武庫川河口近辺の津・船江に根拠をもつ廻船人であったようです。秦姓を名乗っているので、もともとは渡来系の海民のようです。武庫郡は祗園社の今宮神人や広田社神人を兼ねた津江御厨供御人とともに、諸国往来自由の特権を保証された武庫郡供御人の根拠地でした。秦氏がこれらの海民的な神人・供御人集団の一員であったことが分かります。
 秦永久が嫡子有若丸に譲った小船二艘は漁携用で、残りの一般が廻船に用いられた「大船」だったようです。ここからは、廻船人は天皇家・神社などによって特権を与えられ、廻船で広く交易活動を行う一方で、平安末・鎌倉期には、漁機にも従事していたことがうかがえます。

以上からは、古代以来の海民たちが、賀茂・鴨社の保護を受けながら漁撈を営みながら大船(廻船)をもち、瀬戸内海を舞台に交易活動に進出していく姿が見えてきます。ここで思い出すのが、「法然上人絵図」の讃岐流刑の際に立ち寄った播磨・高砂の光景です。

高砂
法然上人絵図 高砂

①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせます。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろします。法然が説法を行う建物の前は、すぐに浜です。当時は、港湾施設はなく、浜に船が乗り上げていたことは以前にお話ししました。そして、⑤⑥は漁船でしょう。一方、右側の⑦は幅が広く大船(廻船)のように見えます。そうだとすれば、法然に相談している老いた漁師も、「漁携民であるとともに廻船人」で、若い頃には交易活動にも参加していたのかもしれません。

兵庫湊
法然上人絵伝 神戸廻船廻船

 そういう目で「法然上人絵伝」に登場してくる神戸湊を見てみると、ここにも漁船だけでなく廻船らしき船が描かれています。海民たちは、漁撈者であると同時に、廻船で交易活動も行っていたことがうかがえます。
 古代の海民たちは、「製塩 + 漁撈 + 交易」を行っていました。
製塩活動が盛んだったエリアには、牛窓や赤穂、室津などのように中世になると交易港が姿を現すようになります。それは、古代の海民たちの末裔達の姿ではないかと私は考えています。そして、海民の中で大きな役割を果たしたのが、渡来系の秦氏ではないかと思うのです。
①秦氏による豊前への秦王国の形成
②瀬戸内海沿岸での製塩活動や漁撈、交易活動
③山城秦氏の氏神としての賀茂・鴨神社による秦氏系海民を神人として保護・使役
④豊前秦氏の氏神・宇佐神宮の八幡社としての展開と、八幡社神人としての海民保護と使役
 賀茂神社や八幡社は、もともとは秦氏系の氏神です。そこに、秦氏の海民たちが神人として特権を与えられ使役されたという説です。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐の港

中世前半期ごろまでは荘園の年貢の海上輸送は、「梶取(かじとり)」と呼ばれる人々によって行われていました。

彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」する立場でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者(船頭)へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。

梶取りからプロの船頭へ


 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。 
讃岐の梶取について触れた史料はありませんが、当然いたはずです。
弘安二年(1279)の記録に「讃岐国林田郷並梶取名内潮人新開田」とあります。
阿野北平野の林田郷と梶取名内の潮人新開田は八坂神社領でした。ここからは、潮入新開に塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことが分かります。「梶収名」の名から梶取が林田郷にいたことがうかがえます。林田地区には現在でも「梶取」の地名が残っているのは以前にお話ししました。
 ここでは梶取は、荘園内で給田が与えられ、梶取名と称し名田経営をするとともに、名田作人を使って塩の生産も行っていたと研究者は考えています。船長から名田主、そして塩浜経営と多角経営に乗り出す姿が見えてきます。
兵庫北関入船納帳 積載品目別積載量
兵庫北関入船納帳 入港した船の積載品

 兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載品目が60品目を数えます。その品目を見ると、この時期の輸送船が年貢物輸送から商品輸送に移行していたことが分かります。それにつれて「梶取」は荘園に従属した「専属契約者」の立場から、船頭と呼ばれる立場に地位を向上させます。プロの水運業者の登場です。兵庫北関入船納帳には、讃岐船籍の船頭が100余人ほど登場します。今回は塩飽船の船頭について見ていくことにします。テキストは「橋詰茂   瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収 」です。  

表11が船頭別の入関一覧表で、塩飽に22名の船頭がいたことが分かります。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
兵庫北関入船納帳 塩飽船籍の船頭一覧表
まず一番上の太郎兵衛船について見ていくことにします。
太郎兵衛船は1445年に兵庫北関に6回やって来ている以外に、次のようなことが分かります
①積載品は塩が主体であること
②塩だけの時には積載量は400石なので、400石以上の大型船の船頭であったこと
③2月~12月の間に6回、ほぼ定期的に兵庫北関に入関していること
④2・9月は、塩の単独輸送だが、その他は穀類を少量合わせ載せていること
次に、水沢船を見てみます
⑤積荷は塩が主であるが、穀物類・魚類・紙も混載していること
⑥3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていること
⑦5月19日の塩300石が最大積荷なので、350石程度の船であったこと
⑧太郎兵衛船の問丸は道裕で、水沢船は衛門九郎で両船の発注者が異なる。
①⑤からは太郎兵衛船と水沢船ともに、「讃岐船の積荷の8割は塩」と云われるように塩飽も塩輸送が中心の船団であったことが分かります。塩飽の塩生産については後で見ることにして、船の大きさを見ておきましょう。
讃岐船の規模を船籍毎に分類したのが下表です。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表

塩飽の欄を見ると、年間37隻が入港しています。その中で最も大きい船は400石以上で3回の入港です。②と併せて考えると、これが太郎兵衛船になるようです。350石が5回の入港で、⑦からこれが水沢船なのでしょう。ここからは一番多く入港している太郎兵衛船と水沢船が、塩飽船の中では一番大型船だったことが分かります。塩は最も利益があがる輸送品で、そこに島一番の腕利きの船頭と、新鋭大型船が担当していたようです。

兵庫北関入船納帳 港地図
兵庫北関入船納帳に出てくる港
③の太郎兵衛船の入港間隔を見ると、約2ヶ月毎に兵庫関に姿を見せています。
塩飽と兵庫北関(神戸)は、潮待ち・風待ちを入れても普通は、1週間以内には着きます。片道1ヶ月はかかりません。そうすると、2ヶ月の間隔が空くというのは、塩浜での生産に関係がありそうです。2ヶ月待たないと次に出荷するだけの塩が生産できなかった、別の言い方をすると、太郎兵衛船を一杯にするだけの塩を確保するためには約2ヶ月かかった。季節によって塩の生産量は上下するので、太郎兵衛船の塩積載量もその都度変化したという仮説は出せそうです。そう考えると、真夏後の9月8日の積載量が400石が一番多いのも頷けます。2月9日便も400石の塩が積まれているのは、12月以後3ヶ月分だから・・・としておきましょう。

兵庫北関入船納帳 月別入港回数
兵庫北関入船納帳 讃岐船月別入港数
表2は、讃岐17港の船籍地ごとの月別の入港回数の一覧表です。
この表からは、次のようなことがうかがえます。
A冬期(12~2月)は北西偏西風が強く、瀬戸内海航路は休止状態にあったこと。運航しているのは嶋(小豆島)船にほぼ限定される
B8・9月も台風シーズンで運航が少ないこと
C11月が45回と最も多いのは、年末年始の物資輸送のため。
D7月29回、3・5月26回と、比較的に海上の穏やかなで順風時期に輸送が集中していること

近世後期の金比羅船の運行状況を見ても冬場には欠航や風待ちのための遅延で、なかなか船が大坂を出港せずに、船頭と喧嘩になった記録がいくつか出てきます。また、引田船など東讃の船は、夏場は淡路島の西側航路を使っていますが、冬が近づくと北西風を避けて東側航路に変更して、航行していたことが史料からも分かります。中世の瀬戸内海では冬期に長距離を航行する船はいなかったようです。
  そのような中で塩飽船の中に2月に航行した記録があります。これを先ほど見た表11で確認すると、太郎兵衛船と次郎五郎船で、2隻が同日の2月9日に入港しています。季節風の強い時期に、他の船頭が出港を控える中で船を出しています。ここからも船頭・太郎兵衛の腕がしっかりとしていたことがうかがえます。
 同日に2隻が入港している例を、他で見ておきましょう。
表11をもう一度見てみましょう。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
水沢船が3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていました。水沢が2艘の船を同時に操船してやってきたのではないようです。これは水沢が船頭ではなく、船主としてもう一艘を引き連れて入港してきたと研究者は考えています。船頭として自ら操船する場合と、雇船頭としての輸送があったことが分かります。水沢は2隻の船を持って、塩飽と畿内を定期的に行き来していたようです。水沢以外にも太郎左衛門も2月26日に、山崎ゴマと塩を積んで小型船で2回入関しています。彼の名前は、兵庫北関入船納帳には「泊 太郎左衛円」「かうの 太郎左衛門」と記されています。泊とかうの(甲生)は、現在も本島にある港名です。ここからは、太郎左衛門が本島の泊港の船主で、泊・かうの両港の雇船頭を雇っていたことがうかがえます。
 7月16日の便船には「太郎左衛門枝船 浄空かうの」と記されています。
これも「浄空」が本島甲生(かのう)の港の太郎左衛門の雇われ船頭だったと研究者は考えています。水沢・太郎左衛門は、年間を通じて定期的に塩や穀類を運んできています。
 それに対して、年1回しかやって来ない船頭も多くあります。
その積載品は大部分が塩ですが、山崎胡麻だけを積載している次郎五郎の船があります。これが山崎胡麻船と呼ばれた塩飽船だと研究者は考えています。山崎胡麻だけを専門に輸送する船でした。1回しかやって来ない船は、ほとんどが積載量が少ない小型船です。
以上から塩飽船の船頭を、研究者は次のように階層分けします。
①太郎兵衛のような有力船頭
②水沢のような船主と船頭を兼ねた者
③太郎左衛門に雇われた雇船頭
④年に一回しかやって来ない小型船の船頭
荘園に従属していた「梶取り」身分から階層分化が進んでうたことがうかがえます。
兵庫北関入船納帳 問丸

次に塩飽船の問丸について見ておきましょう。
  荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。それが室町時代になると梶取と同じように問丸も荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者や輸送業者へと脱皮していきます。問丸は年貢輸送・管理・運送人夫の宿所提供までの役をはたすようになります。その一方で、倉庫業者を営み、輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。そして港湾や主要都市では、物資の管理や中継取引を行う業者が現れてくるようになります。

問丸から問屋へ 

『兵庫北関入船納帳』には、53人の問丸が出てきます。

問丸は階層区分すると4グループに区分されるようですが、塩飽船の問丸はどうだったのでしょうか? 讃岐船の問丸を船籍毎に一覧表化したのが表12です。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
兵庫北関入船納帳 讃岐船の問丸一覧

讃岐の船籍地と問丸との関係について、表12からは次のようなことが分かります。
①讃岐船の問丸は、「ひとつの港に一人の問丸」体制が多く、一人の問丸によって独占されていることが多い。。
②複数の問丸が関係している場合も、折半という関係は見られず、独占的な問丸を核として、残りの問丸が少量の物資を取扱っている。
③宇多津は、法徳の独占
④嶋(小豆島)船は道念の独占
⑤引田・三本松船は衛門太郎   衛門太郎は東讃岐の船を中心に取扱いを行っていた問丸?
⑥平山は、二郎三郎
⑦豊後屋は観音寺・丹穂(仁尾)船を独占的に収扱っていて、西讃岐を拠点とした問丸
⑩道裕は塩飽諸島のすべての物資を取扱っており、問丸の間において集荷地域を再編成したものと研究者は考えています。

改めて塩飽船の問丸を見てみましょう。
塩飽船は、道裕が24回、衛門九郎が8回、三郎二郎が5回で、道裕が中核の問丸で、それに衛門九郎と三郎二郎が食い込んでいます。②のパターンになるようです。
このうち道裕は、兵庫北関に入る船のすべての物資を扱う大型の問丸で、瀬戸内海ほぼ全域を商圏としていた超大物の問丸のようです。讃岐では、多度津・さなき・手嶋船も取扱を独占しています。多度津は守護代の香川氏の「専用港」的な性格を持っていました。香川氏は守護代特権である「国料船・過書船」の関税フリー特権を活かして、問丸の道裕と結んで海上交易の利益を上げていたと考えられる事は以前にお話ししました。
 塩飽での道裕は先ほど見た太郎兵衛船だけでなく、大蔵船などその他の船を使っても塩飽産の塩を畿内に輸送しています。また11月7日には、船頭の太郎衛門を詫間に派遣して「タクマ塩100石」とマメやゴマを積み込ませて畿内に輸送させています。多くの塩飽船が道裕の問丸ネットワークの中で動いていたことがうかがえます。
 塩飽船では、問丸の衛門九郎の占める割合も大きく、船頭水沢の船の6/7を扱っています。
  道裕が太郎衛門専用の問丸であったように、衛門九郎は水沢専用の問丸だったようです。ここからは、塩飽産の塩も、エリア毎に所有者が異なり、それに伴い集荷される港も異なること。当然、そこに馴染みの問丸も異なり、輸送に使用される船も違っていたことが推測できます。これは、小豆島北部の塩浜で生産された塩を牛窓船がとりあつかい、南部の内海・池田の塩浜の塩を地元の小豆島船が輸送していたことを裏付けるものと私は考えています。
 最後の問丸・三郎二郎は、5件だけの取扱で、しかもで塩飽船だけに登場します。塩飽船だけを取扱う小規模な問丸だったことが分かります。
本島集落

最後に塩飽での塩作りについて見ておきましょう。
本島では早い時期から塩作りが行われていました。7月14日の御盆供事に、「三石 塩飽荘年貢内」とあって、藤原摂関家領であった塩飽荘から塩が年貢として上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事にも使われています。
 中世には塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。

以上をまとめておきます
①塩飽では古代以来、塩作りが盛んで中世にも小豆島と並んで大量の塩が生産されていた。
②塩飽産の塩を運んだのは、塩飽船籍の船頭たちであった。
③五郎兵衛船は、塩飽塩300~400石を積んで、2ヶ月毎に畿内を往復している。
④それ以外の船も何隻もが塩飽塩の輸送に関わっている。
⑤塩飽塩の多くは、大問丸の道裕にチャーターされた塩飽船で運ばれ、道裕の管理下に置かれた
以上からは、この時代の塩飽側の船頭や船主は、問丸の道裕に従属的であったことがうかがえます。
 この商取引に宗教が入り込んでくると、問丸が信仰していた宗教が、その配下にあった瀬戸の港町にも浸透してくることになります。その典型的な例が以前にお話ししました牛窓の本蓮寺や宇多津の本妙寺の建立になります。日蓮宗門徒となった兵庫・尼崎港の問丸と牛窓や宇多津の海運業者を結ぶネットワークを使って、布教活動が展開されていったのです。同様の動きは、禅宗や浄土真宗などにもみられるようになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂    瀬戸内水運と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田政権所収
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兵庫北関入船納帳に出てくる船籍地は、全部で106ヶ所で、その内で讃岐の港は17港です。それを入船の多い順に並べたのが次の表です。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表
17の船籍地は、現在のどの港になるのでしょうか。
すぐには分からないのが、入港数ベスト3に入る「嶋」です。この嶋船籍の船が大量の塩を運んでいるので、研究者は「嶋」は小豆島と判断していることは、以前にお話ししました。
 「嶋」のように兵庫北関入船納帳は、島の港はすべて島名で記されています。例えば塩飽(本島)には泊や笠島などいくつかの港があったはずですが、それらが一括して島船と表記されています。瀬戸内海の海民たちは、昔から港名よりも島名で呼ぶ方が多かったようです。「嶋・塩飽・手嶋・さなき」は島であって、港ではありません。「塩飽・手嶋・さなき」の三島は塩飽諸島の島で、塩飽は本島のことで、さなきは佐柳島のことでしょう。
上から6番目に「平山」が出てきます。
研究者の中には、平山を備中真鍋島とする人もいるようです。しかし、宇多津の平山という説が強いようです。今回は、その理由を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂  瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権」です。
平山船の入港回数は年間19回です。それでは平山船は何を運んでいたのでしょうか。
兵庫北関入船納帳 船籍別の積載品目一覧
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積載品一覧表

表4の平山の欄を見ると(塩)2290石とあります。これは生産地が記された産地特定の塩のことです。「讃岐船の積荷の8割は塩」で、讃岐船は塩専用船化していたと云われます。平山船にもその傾向が見えます。
 一番右側の欄の全体合計数を見ると「塩13413石」「(塩・地域指名)12055石」とあります。両方併せると25468石の塩を讃岐船は畿内に向けて運び出していたことになります。しかし、これは讃岐船の塩輸送量であって、讃岐の塩の生産量ではありません。なぜなら他国の船が讃岐にやって来て大量の船を積み込んでいたからです。前回見たように、小豆島で生産された塩の半分以上は牛窓船が輸送していました。讃岐船の塩輸送総数25468石の内の1/10程度の2290石を平山船が運んでいることを押さえておきます。
ます。
それでは、平山船はどこの塩を運び出していたのでしょうか
 私はすぐに、坂出や宇多津、丸亀の塩田を思い浮かべて、ここからの塩を運んでいたと思ってしまいました。しかし、これらの塩田は近世になって開発された塩田で、中世には姿を見せていませんでした。平山船が運んできた塩には「タクマ塩」と記されています。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
兵庫北関入船納帳 讃岐産塩を運んでいた船の船籍地一覧
表8は地名指定商品(塩)が、どこの船で何回、兵庫北関を通過したが示されています。
詫間(塩)を運んできた船は36回で、その積載量の合計が6190石となります。詫間周辺では中世に大量の塩が生産されていたことが分かります。詫間塩を積み込みにやって来た船は、宇多津17、平山12、多度津3、香西2、牛窓1、塩飽1です。詫間の塩は、宇多津・平山・多度津の船で畿内に輸送されていたのです。ここで私が疑問に思うのは、詫間港の船が出てこないことです。製塩地には、それを運ぶ輸送船がいたはずなのですが、それが詫間には現れません。他所の港からの輸送船に頼っています。もうひとつは、仁尾の船もやってきていません。このあたりが今の疑問です。
 先ほど見たように、平山船の塩の総輸送量は2290石でした。平山船の一回当たりの輸送量は200石前後になり、小型船が使われていたようです。平山船は兵庫北関に19回やってきていますが、その内15件が積荷は塩です。そして12件が詫間塩を積んでいます。詫間塩は、平山船にとっては大きな商売相手だったことになります。
 視点を塩の生産地・詫間に変えてみます。詫間や三野湾に塩田があったことは史料から分かります。

三野湾中世復元図
          三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
「秋山家文書」には、次のような塩浜が相続の際の譲渡対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここからは本門寺から西側の東浜や西浜には塩田が並んでいたこと、その塩田の薪の確保のために「汐木山」が指定されていたことなどが分かります。詫間や三野湾では大量の塩が生産されていたのです。
 詫間塩を運んでいるのは、いずれも讃岐船です。ここからは、平山船も讃岐船であると研究者は考えています。
それでは平山とは、どこにあった港なのでしょうか.
兵庫北関入船納帳 平山
宇多津湾の中世復元図 太実線が想定海岸線
地図を見ると備讃瀬戸に突き出た聖通寺山の西北部に平山が見えます。現在は埋め立てられて宇多津と一体化していますが、中世の地形復元図では、海岸線が内陸部まで入り込んでいたことは以前にお話ししました。平山のある聖通寺山と宇多津のある青ノ山の間は海が入り込み隔てられていました。
湾を隔てて向かい合う宇多津と平山は、「連携」関係にあったと研究者は考えています。
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのが裏付けられます。
①平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
『兵庫北関入船納帳』からは、平山に本拠地を置く船主いて、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。
6宇多津2
中世宇多津復元図

「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は城を捨て、勝瑞城の十河存保のもとへ敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の麓の港で交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。


 一方、宇多津は、後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。

宇多津周辺図
宇多津と大束川周辺
大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業集団がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。宇多津は、川津荘の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように宇多津は後背地の広いエリアからの集荷活動を行う一方
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

以上から、宇多津と平山の関係を研究者は次のように指摘します。
①両港は相互補完的関係にあり、「棲み分け」共存ができていた。
②平山は坂出の福江・林田・松山・詫間などを商圏とし、宇多津は西讃から備讃瀬戸全域を商圏としていた。

常大坊旦那分書立写に「一、さぬきのくにうたづ ひら山一円」とあります。
常大坊輩下の先達によって導かれる檀徒集団が、宇多津と平山にいたことが分かります。檀徒集団がいたということは、多くの人々がいて、町並みを形成していたのでしょう。平山は聖通寺城の麓という位置から考えても、軍港的役割を果たす港であったと研究者は推測します。
 宇多津の目と鼻の先に平山湊がありました。しかし、宇多津と平山は商圏エリアが異なっていたこと、平山は、御供所と同じく、阿野郡(坂出市周辺)の福江・林田などの港物資を集積する港であると同時に、三野郡詫間の塩を輸送していたいうのです。そう考えれば、隣接して二つの港があったことも説明がつきます。こうして、平山は備中真鍋島ではなく、讃岐平山とします。

もうひとつ平山を特定する根拠があります。海産物の鯛です
もう一度表4を見ると、鯛(干鯛・塩鯛)は、宇多津・平山・塩飽船だけが運んでいます。それも4・5月に限定されています。今は番の州工業地帯で陸続きとなっている瀬居島付近は鯛の良魚場で、ここで獲れる鯛は「金山魚」と呼ばれて評価が高かったようです。加工された金山魚を、瀬居島に近い宇多津・平山・塩飽船の船が淀魚市場へ輸送して商品魚となったと研究者は推測します。ここにも平山と宇多津の連動性が見えます。平山は真鍋島ではないとする根拠のひとつです。

 近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。

①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫編成
②瀬戸内海交易集団の拠点作り
③商業資本集団の集中化
 丸亀城の北の砂浜には、平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアは、下図の通りです。
丸亀三浦3
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線

江戸時代半ばまでの丸亀港は土器川河口にありました。そのため平山住人の移住先は港に続く一等地として、繁栄するようになります。金毘羅船で大坂からやってきた参拝客は土器川河口に上陸して、御供所・平山の宿に泊まっています。彼らが丸亀の「商業資本」に成長して行きます。
以上をまとめておきます
①兵庫北関入船納帳に、寄港した船の船籍地として「平山」が出てくる。
②「平山」は、次のような根拠から宇多津の「平山」であると研究者は考えている。
③「平山」には、中世に交易活動を行う「海民集団」が定住していたこと
④宇多津と商圏の棲み分けを行って、宇多津港の補完的な役割を果たしていたこと
⑤詫間・三野湾では、塩浜があり大量の塩を生産されていたこと
⑥詫間産塩を主に運んでいるのが「宇多津・平山・多度津」船であったこと
⑦平山船のほとんどが詫間産塩の輸送のために、兵庫北関に入港していること
⑧瀬居島の鯛は加工されて、宇多津船と平山船が運んでいること
以上から兵庫北関入船納帳に出てくる平山船は、宇多津の平山の船であったと研究者は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献


讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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   室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。
その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。この時代の「海賊」には、次の二つの顔があったようです。
①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園押領(侵略)を行う海賊
このような「海賊=海の武士団」は、讃岐にもいたことを以前にお話ししました。多度津白方や詫間を拠点とした山地(路)氏です。

3弓削荘1
芸予諸島の塩の島・弓削島

山地氏は燧灘を越えて、芸予諸島まで出掛けて、塩の島と云われた弓削島を押領していることが史料から分かります。そこには押領(海賊)側として、「さぬきの国しらかたといふ所二あり。山路(山地)方」と記されています。「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいて、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘
弓削は東寺の「塩の荘園」であった 

 今回は、山地氏がどのようにして香川氏の家臣団に組織化されていったのかという視点から見ていきたいと思います。テキストは 「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」
です。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

山路氏は、『南海通記』に「西方関亭(立)中」として出てくることは、以前にお話ししました。
  香西成資の『南海通記巻七』(享保三年(1718)の「細川晴元継管領職記」の部分です。ここでは管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について、当時の情勢を香西成資が次のように説明しています。その内容は、3段に分けることが出来ます。
1段目は、永正17年(1520)6月10日に細川澄元が亡くなり、その跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 2段目は「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用しています。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」

日付は7月4日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭(立)中」です。3段目が引用した晴元書状についての説明で、「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。
この文章で謎だったのが2段目の宛先「西方関亭(立)中」と山地氏との関係でした。これについては、以前に次のようにお話ししました。
①関亭は関立の誤記で「関を守るもの」が転じて海の通行税を徴収する「海賊衆」のこと
②山地氏は、能島村上氏とともに芸予諸島の弓削島を押領する「海賊衆」であったこと。
③山地氏は、多度津白方や詫間を拠点とする海賊衆で、後には香川氏に従うようになっていたこと
細川晴元が讃岐の海賊衆山地氏に対して、次のような意味で送った文書になるようです。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、そちらに送る。船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」

 この書状は細川晴元書状氏から山地氏への配船依頼状で、それが「讃州西方山地右京進、其子左衛門督」の家に伝わっていたようです。逆に山路(地)氏が「関亭中への命令」を保存していたと云うことは、山地氏が関亭中(海賊衆)の首であったことを示しています。
 ①守護細川氏→②守護代香川氏 → ③海賊衆(水軍)山地氏
という命令系統の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。

関亭は関立で海賊のことだとすると、「西方関立中」とは何のことなのでしょうか?
西方とは、讃岐を二つに分けたときに使われる言葉で、讃岐の西半分エリアをさします。守護代も「讃岐西方守護代」と呼ばれていました。つまり讃岐西方の海賊衆ということになります。文中に「此書は讃州西方山地有京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と記されています。最初に見たように寛正3年(1463)の弓削島を押領していた白方海賊衆山路氏が出てきました。その末裔がここに登場してくる山地氏だと研究者は考えています。「西方関立=海賊衆山路(地)氏」になるようです。そして、海賊衆山路氏は細川晴元の支配下にあったことが分かります。
 文書中に「香川可申候」とあります。この香川氏は讃岐西方守護代の香川氏です。
当時、西讃岐地方は多度津の香川氏によって管轄されていました。「香川氏も連絡済みで、承知している。」とあるので、細川氏は守護代の香川氏を通じて山路氏を支配していたことがうかがえます。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津船の活動
 文安2年(1445)の『兵庫北関入松納帳』には、守護細川氏の国料船の船籍地が、もともとは宇多津であったのが多度津に移動したことが記されています。また過書船は多度津を拠点とし、香川氏によって運行支配されていました。 つまり多度津港は、香川氏が直接に管理していた港だったようです。香川氏は多度津本台山に居館を構え、詰城として天霧城を築きます。香川氏が多度津に居館を築いたのは、港である多度津を掌握する目的があったと研究者は考えています。そうして香川氏は経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃岐一帯へ支配力を強化していきます。山路氏のいる白方と多度津は隣接した地です。香川氏の多度津移動は山路氏の掌握を図ったものかもしれません。つまり海賊衆である山路を支配下におくことで、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を図ろうとしたと研究者は考えています。
3 天霧山4
香川氏の天霧城

香川氏は、永正16年(1519)、細川澄元・三好之長に従って畿内へ出陣しています。
しかし、五月の京都等持寺の戦いで細川高国に敗れて降伏し、その後は高国に属するようになります。その後の享禄元年(1528)からの高国と晴元の戦いでは、阿波の三好政長に与して晴元に属し高国軍と戦っています。その年の天王寺の戦いでは、香川元景は細川晴几の武将として木津川口に陣を敷いています。めまぐるしく仕える主君を変えていますが、「勝ち馬」に乗ることが生き残る術です。情報を集め、計算尽くで己の路を決めた結果がこのような処世術なのでしょう。
 これらの畿内への出陣には、輸送船と護衛船が必要になります。
その役割を担ったのが海賊衆の山路氏だったと研究者は考えています。文安年間(1444)以降は、山路氏は細川氏から香川氏の支配下に移り、香川氏の畿内出陣の際に活動しています。

多度津陣屋10
       多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

晴元が政権を掌握した後、西讃岐の支配は香川氏によって行われています。
香川氏と細川晴元の関係を示すものとして次のような史料があります。
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠与相談、無落度様二調略肝要候、猶右津修理進可申候、謹言、
卯月十二日                            (細川)晴元(花押)
奈良千法師丸殿
発給年は記されていませんが、天文14、15年のものと研究者は推測します。宛て名の奈良千法師丸は誰かは分かりませんが、宇多津聖通寺城主の奈良氏が第1候補のようです。奈良氏は細川四天王の一人といわれていますが、讃岐での動向はよく分からないようです。この史料はわずかに残る奈良氏宛のものです。文中に「香川弾正忠与相談」とあります。守護の細川晴元は、守護代の香川弾正忠に相談してすすめろと指示しています。ここからは、次のような事が推測できます。
①それだけ西讃エリアでの香川氏の存在が大きかったこと。
②奈良氏の当主が幼少であったために、香川氏を後見役的立場としていたこと
奈良氏の支配領域は、鵜足郡が中心で聖通寺山に拠点をおいていました。香川氏にわざわざ相談すせよと指示しているのです。最初に見た山路氏の文章にも、香川氏には連絡済みであると記されていました。ここからは、細川晴元にとって香川忠与は頼りになる存在であったことがうかがえます。逆に言うと、香川氏を抜きにして西讃の支配は考えられなかったのかもしれません。それほど香川氏の支配力が西讃には浸透していことがうかがえます。内紛で細川氏の勢力が弱体化していることを示すものかもしれません。この時期には香川氏の勢力は、西讃岐だけでなく、中讃岐へも及んでいた気配がします。どちらにしても、細川氏の弱体化に反比例する形で、香川氏は戦国大名化の道を歩み始めることになります。
  以上をまとめておきます
①多度津白方や詫間を拠点として、芸予諸島の弓削島を押領していたのが山路(地)氏である
②山地氏は、海賊衆(海の武士団)として、管領細川氏に仕えていたことが史料から分かる。
③多度津からの讃岐武士団の畿内動員の際には、その海上輸送を山地氏が担当していた。
④多度津港は、香川氏の直轄港であり守護細川氏への物資を輸送する国領・過書船の母港でもあった。
⑤多度津港は、瀬戸内海交易の拠点港として大きな富をもたらすようになり、それが香川氏の成長の源になる。
⑥このような海上輸送のための人員やノウハウを提供したのが山地氏であった。
⑦細川家の衰退とともに、香川氏は戦国大名化の道を歩むようになり、山地氏も細川氏から香川氏へと仕える先を換えていく。
⑧その後の山地氏の一族の中には、海から陸に上がり香川氏の家臣団の一員として活躍する者も現れる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「橋詰茂  海賊衆の存在と転換 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
関連記事

 詫間 波打八幡
   波打八幡神社(詫間町)
詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
仁尾 覚城院
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
 仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。

 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

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熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

坂出古代海岸線
 
讃岐の海岸線は、埋め立てや干拓によって北へ北へと移動していきました。現在の海岸線とは、大きく違っていたようです。今回は、坂出の海岸線の変遷を見ていこうと思います。テキストは 「森下友子    坂出市における海岸線の変遷  香川県埋蔵文化財センター 考古学講座 56 令和 2 年 11 月 8 日」です。

福江 西庄
ます旧市街周辺の海岸線から見ていきましょう。
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』(嘉永3年(1850)には、戦国時代の坂出市西部の海岸の様子が次のように記されています。
「元亀二辛未歳奈良氏宇多津聖通寺山に城を築き累代居城とす城東は入海にして角山の麓まで海潮恒に満干いたせり。角山の麓より三四丁計り沖に出て東西の寄洲三十七八丁ありて、其の東に南北の洲在つて横たわれり、海潮の満たる時、津郷、福江の大道を往来せり、潮の干たる時は海中の洲を諸人共往来せしとなり、遠近の違いあること弓と弦との如し」
 
意訳変換しておくと
元亀2年(1571)に奈良氏が城を築いた聖通寺山の東には海が入り込んでいて、満潮時は角山の麓まで潮が入っていた。角山の麓から3,4丁(300~400m)沖に出ると東西の寄洲が37、8丁(3,7㎞)ほどあって、その東に南北の砂州が横たわっていた。満潮の時は、津の郷(宇多津町津の郷)から福江(坂出市福江町)の大道を往来し、潮が引いた時は、海中の中州を往来していた。干満の差が大きく、まるで弓と弦のようである

  ここからは、次のようなことが分かります。
①戦国時代には聖通寺山の東には干満差の大きな干潟が広がっていたこと
②角山の麓から沖に出たところに東西の寄州があったこと
③満潮の時には、津之郷から福江の大道を利用し、干潮の時には中洲を通行利用したこと
寄州とは波や風によって移動した土砂が海岸線に平行して帯状に小高く堆積した浜堤(砂州)のこと。

坂出市街地には、下図のように東西方向の2列の浜堤(砂堆)があったようです。

坂出 海岸線復元

①北浜堤(砂堆B) 八幡町・白金町・寿町・本町・元町付近
②南浜堤(砂堆A) その南約600mの富士見町・文京町付近
『民賊物語』に出てくる「東西の寄洲」は「角山山麓より沖に出たところ」とあるので、①の北浜堤のことを指しているようです。この浜堤の間は「潟湖」で、海が大きく湾入していたことが分かってきました。
坂出 福江海岸線

 ここからは北の砂堆Bと砂堆Aの間にあたる本町・京町・室町付近には潟湖があったと推測できます。上のは文京町二丁目西遺跡調査報告書に示された図や成果を基に作成した図です。砂碓Aは縄文時代に形成された砂碓で、この北面が古代の海岸線となります。この砂碓Aの北側にもう1つの砂堆列B・Cがあったことが分かっています。砂堆Bは「玉藻集」に「中道」と出てくるもので、16世紀後半にはようやく渡れる状態だったことが分かります。一方、砂碓Aと砂碓Bとの間は足も立たない「深江(ふかえ)」であったと記されています。
坂出の復元海岸線2

これを満潮時の様子とすると砂碓A(①北浜堤)と砂碓B(②南浜堤)との間に潟湖が存在し、奥の部分では干潮時には製塩に利用されたと考えられます。福江からは荘園主に塩5石が納められていました。その塩が作られたのも、この潟湖の干潟を利用したのかも知れません。それが堆積作用で、室町時代後半には砂堆B(北浜堤)まで海岸線が後退します。その結果、福江の港湾機能は低下し、御供所に移ったと研究者は考えているようです。

旧地形は小字名にも残されています。下の図は坂出市の小字名です。

坂出 旧小字名
①富士見町線とJR予讃線が交差する付近に「浜」、
②JR坂出駅周辺には「浜田」という小字
「浜」・「浜田」の南端は、南浜堤付近になります。南浜堤の北側には中世以降になると浜が広がっていたことがうかがえます。

今から200年前の19世紀前半になると、高松藩普請奉行久米通賢によって北側の浜堤の沖の干拓が行われることになります。
塩田開発以前の、坂出の海岸線はどうなっていたのでしょうか
塩田が作られる前の坂出の様子を描いた絵図には、いろいろありますが、最も詳細な絵図は「坂出古図」のようです。これに描かれた海岸付近の様子を見てみよう。
坂出古図

この上地図に、坂出市都市計画図に重ねたのが下の地図になります。

坂出古図2

 東浜の海岸線が現在の旧国道11号線のラインになるようです。東浜の北に円弧状に突出するところが鳥洲(潮止)神社(久米町一丁目)のあたりになります。東浜から西は、内陸まで海が入り込んできて、弓状の海岸線には石垣が積まれていたことが分かります。海岸線を西から見ていくと、「御供所新田」から南に向かい、ほぼ直角に曲がって北東に向かい、東に延びていきます。
 地図上に「石垣」と書かれた所は、現在の白金町・寿町・元町の一部です。
坂出古図 干拓以前の石垣

これが北浜堤の北端に当たる場所で、通賢干拓以前の護岸と伝えられる東西方向の石垣になります。石垣の北と南では 0.5~1.0 メートルほどの高低差があります。古図に描かれた波線は、護岸の石垣のようです。この石垣が、いつ積まれたかについては、史料がなくてよく分からないようです。ただ、石垣の西端にある西須賀八軒屋港に享保 17 年(1732)に、船番所が移されています。この時に付近一帯の護岸が整備されたと研究者は考えているようです。とすると18世紀前半に、この石垣が築かれたことになります。その場所は、先ほど見た北側の砂堆の海際ということになります。

福江 中世
 それから約百年後の文政 9 年(1826)に、高松藩の普請奉行である久米通賢が干拓に着手します。
坂出風景1

 石垣の北側には広大な面積の塩田と畑が姿を現します。この様子は以前に紹介した「坂出墾田図」で、以前にお話ししました。
坂出 海岸線正保国絵図
日本文国図 讃岐国絵図 享保頃 坂出の海岸線
江尻から福江にかけて海が大きく湾入して潟湖を形成している


次に見ていくのは江尻町付近の海岸線の変遷です。
坂出 阿野郡北絵図
高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図
絵図資料としては、19世紀初頭に描かれた「高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図」だけのようです。そこで、研究者は、小字と灌漑用水路の状況などから推測していきます。
坂出 江尻灌漑用水網
上図は江尻町付近の小字と灌漑水路を示す図です。江尻町の北部に「浜田」という小字が見えます。この付近は江尻町域の田畑を灌漑する江尻用水の末端にあたります。そのため「浜田」が江尻町の中でも最も遅く開発されたエリアであることがうかがえます。現在この付近の田畑の標高は 1~2mですから、開発前は浜が広がっていたと推定できます。
「浜田」の南西には「北新開」・「南新開」があります。
現在の坂出警察書付近にあたります。新開という地名から、新たに開発した土地であることがわかります。この付近も標高 1~2mと低く、何本かの排水路で西側の横津川に排水しています。また、坂出警察新築工事では、表土の下には厚い砂層が堆積していることが確認されています。以上から、坂出警察署付近は、かつて海岸部の低湿地であったのを、横津川や排水路を整備して、「北新開」・「南新開」を開発したと研究者は考えているようです。
文化元年(1804)には、江尻町の北東端で、綾川の河口沿いにある小字「末包(末兼」が開発されます。
坂出 江尻末兼石仏

末兼集落の石仏(図 9・10)には鵜足郡東分村(香川県綾歌郡宇多津町東分)の末包元左衛門と和享によって、同年に開発されたと刻まれています。この石仏からは、末兼は宇多津の有力者が19世紀初頭に開発したエリアであることが分かります。

林田町付近の旧海岸線を見ておきましょう。

坂出 大藪・林田

林田町には文化年間(1804~1818)に作成され、明治時代初期に加筆された検地帳と、地券発行のために明治時代初期に作成された地引絵図が保管されています。これらの資料から江戸時代末の田畑の呼び名が特定した研究を以前に紹介しました。
坂出 林田町 旧地名

これをみると、林田町の海岸沿いには「元禄六酉新興」・「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」など年号の入った地名が集中しています。「新興」は「新たに興す」ことで、田畑が開発された年号をを示しています。
①綾川沿いの北西部には、「安政二卯新興」・「明治四辛新興」や「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」・「宝永六巳新興」
②中央部から北東部には「元禄六酉新興」が広く広がります。
ここからは、林田町の北部は17 世紀末から18世紀前半に開発されたことがうかがえます。
今は、これらの「新開」の南に雌山の裾を取り巻くように神谷川が流れています。雌山西方には河川の痕跡とみられる地割が残るので、もともとは北に流れていた神谷川を雌山の裾に固定して、その西側に広大な田畑を開発したと研究者は考えているようです。ここでも河川のルート変更と治水工事と新田開発と灌漑用水の整備は、セットで行われています。
林田の開発以前の様子を示す資料としては、幕府の海辺巡検使高林又兵衛の視察記「海上湊記」があります。この記録は寛文7年(1667)のもので、この中に次のように記されています。
「林田 拾軒 遠干潟也 舟掛り無是ヨリ白峯へ上ル一り程有 此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜ト云」

意訳変換しておくと
「林田は十軒の集落で、遠干潟である。 舟掛り(湊)はないが、ここから白峯へ一里ほどである。この辺りの浜を綾ノ浜と云う」

ここからは、17世紀後半には「林田 拾軒 遠干潟也」で、林田は10軒しか家のない集落で、湊も無く綾ノ浜呼ばれる遠浅の海岸が続いていたことが分かります。そこが江戸時代中期以降、新たに開発されていったのです。
坂出エリアの一番東の高藪の松ヶ浦と網の浦が、讃岐国名勝図会に載せられています
坂出 高藪 松ケ浦

前山(五色台山系)から西方、瀬居島を正面に見た構図で、左下部分に①大藪湊が描かれています。そこから北へ延びる浜が②松ヶ浦のようです。しかし、大藪は「青海村内にあり、林田郷の項に惣社大明神があり、松ヶ浦に鎮座」とあります。そうすると、松ヶ浦は青海川の河口付近と神谷川河口近辺の2カ所を指す地名ということになります。あるいは、雄山・雌山の周縁部を総称して松ヶ浦と言つていた時代があったのかもしれません。どちらにしても青海川と神谷川の河口先端の青松が生え伸びる部分を松ヶ浦と称していたようです。

 坂出の海岸線沿いには、中世には次のような湊があったことがうかがえます。
①青海川の河口であり青海湾の江尻に当たる松山津
②神谷川の河口になる松ケ浦
③綾川の河口になる川尻(林田湊)
④国津の遺称が残る福江の江尻湊
⑤聖通寺山の麓の御供所
この5つの湊が、阿野北平野の海岸沿いに、東西に並んでいたことになります。当然、これらの港を相互に結ぶ海浜ルートが「寄洲(よりす)の道」だったことは先に述べた通りです。これらの湊を結ぶルートとして、次のような街道が考えられます
①各湊と国府を結ぶ陸上ルート
②与島・櫃石島、乃生や木沢など陸上運搬の困難な浦々の湊と、これら阿野郡北の諸湊とを小舟で結ぶルート
③集荷された荷物や人を、基幹港である宇多津や塩飽に運ぶ海上ルート
各港からの産物を小舟で集荷する役割を果たしていたのが、聖通寺山の平山湊の海民たちです。集められてきた産物は、宇多津や塩飽の大船に積み替えられて畿内に運ばれていきました。中世には、各港で次のような機能分担が行われていたと研究者は考えているようです。
①大拠点港 宇多津・塩飽
②中継港  平山
③松山津・松ケ浦・林田湊・江尻湊(福江)・御供所
ここからは古代の国津港であった林田湊の衰退が見られます。国府機能の衰退と守護所の宇多津設置という政治状況の変化で、讃岐の主要湊の地位を宇多津に奪われたことがうかがえます。

   以上をまとめておくと
①近世以前の阿野北の海岸線は、いまよりも南にあり東西に伸びる砂堆が街道の役割を果たしていた
②砂堆の北側には広大な遠浅の海が広がっていた。
③江戸時代後半になって、坂出西部は塩田のために、綾川河口域の東部は荒地開発のために大規模な干拓開発が行われ、海岸線は北へと移動した。
④昭和の高度経済成長の時代に、沖合の遠浅の海が埋め立てられ臨海工業地帯が形成され、海岸線はさらに北へと移動し、沙弥島や瀬居島と陸続きになった。
⑤その結果、自然海岸はほとんどなくなり、波消しブロックに囲まれた堤防で、坂出は「陸封」され、市街からは海は遠くなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)

塩飽水軍といったことばをよく聞きますが、その実態はどうだったのでしょうか?
村上水軍と海賊

芸予の「村上水軍」と同じような海賊衆が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上衆は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を「塩飽水軍」と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽衆は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。

1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。

南朝勢力に包囲された塩飽
南朝の熊野水軍陣に包囲された塩飽
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址

この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
塩飽本島の笠島と山城の関係
塩飽本島の笠島と城郭の関係

室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。これは毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」でした。それが永禄年間(1558~70)後半になると、毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。

村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。

「村上水軍」という用語は、いつ誰がつくりだしたのか
「村上水軍」という用語は、近世に作りされた。

 塩飽衆には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

村上衆と塩飽衆の相違点
村上衆と塩飽衆の相違点
16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy&#39;s fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。

大内氏の瀬戸内海覇権

 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。

大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

大内氏の塩飽抱え込みのねらいは

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。
香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、芸予と塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。
西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。

一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽までの航海について、水先案内人をつけて航路の安全通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。

  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。
安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
塩飽海賊は水軍ではなく輸送船団だった
塩飽水軍と呼べない理由
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

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朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
3 塩飽 軍船建造.2jpg

 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

                         
  現在の塩飽諸島の範囲は本島・牛島・広島・手島・与島・岩黒島・情石島・瀬居島・沙弥島・佐柳島・高見島の11島で、これは江戸時代もほぼ同じです。江戸時代は、塩飽諸島全体を「塩飽島」と呼んでいたようです。それでは、それ以前の中世は、どうなのでしょうか。中世の史料には「塩飽嶋」は、出てきますが「本島」は、登場しません。そこから研究者は「塩飽島=本島」だったのではないかという説をだしています。今回は、この説を見ていくことにします。テキストは、「加藤優   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です。

 1 塩飽本島
本島は「塩飽嶋」と表記されている

 「塩飽」が史料に最初に現れるのはいつなのでしょうか。まずは塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の年中行事の支度料物に塩飽荘からの塩二石の年貢納入
保元死年(1156)七月の藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
元暦二年(1185)三月十六日に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退したこと。
建長五年(1253)十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
建永二年(1207)三月二十六日に法然が土佐にながされる途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
康永三年(1344)十一月十一日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
この時には、すでに現地支配をともなう所領ではなかったようです。また「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっていることに研究者は着目して、すでに荘園としての内実が失なわれていたと考えているようです。以後は「塩飽荘」は荘園としては消滅したようです。

それでは中世の「塩飽嶋」とは、どこを指していたのでしょうか?
 仁安二年(1167)、西行は修行のために四国にやって来る道筋で備中国真鍋島に立ち寄ったことを「山家集」に次のように記しています。
1 塩飽諸島

「真鍋と申島に、京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申けるをききて 真鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかひにて渡る成けり」
   意訳変換しておくと
「真鍋という島で、京からの商人達は下船し、運んできた商品の商いを行いった。その後は塩飽の島に渡って、商いを行うと云う。真鍋島から塩飽へ通う商人は、積荷を積み替えて渡って行く」

 西行の乗った船は、真鍋島に着いたようです。商人の中には、そこで舟を乗り換えて「しわくの嶋」に向かう者がいたようです。塩飽は真鍋島への途上にあるので、どうして寄港して下ろさなかったのかが私には分かりません。しかし、ここで問題にするのは、西行が「真鍋と申島」に対して「しわくの島」と表記していることです。「しわくの島々」ではありません。「しわくの島」とは個別の島名と認識していることがうかがえます。「塩飽嶋」をひとつの島の名称とした場合、塩飽諸島中に塩飽島という名の島はありません。ここからは、後世に地名化した「塩飽荘」は、本島を指していたことがうかがえます。つまり、塩飽島とは本島であったと研究者は考えているようです。

 その他の中世史料には、どのように表記されているのかを研究者は見ていきます
①正平三年(1348)四月二日の「大蔵大輔某感状」に、伊予国南朝方の忽那義範が「今月一日於讃岐国塩飽之嶋追落城瑯」とあります。これは「塩飽之嶋」の城を攻め落とした記録ですが、これは、古城跡の残る本島のことです。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
『兵庫北関入船納帳』
②『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)2月~12月に兵庫北関を通過した船の船籍地が記されています。それによると塩飽諸島地域では「塩飽」「手嶋」「さなき」(佐柳島)の三船籍地があります。そのうち「塩飽」が圧倒的に多く37船で、その他は「手嶋」が1船、「さなき(佐柳島)」が3船です。塩飽船の多くは塩輸送船に特化していて、塩飽が製塩の島であることは古代以来変わりないようです。「塩飽」船籍の船頭に関して「泊」「かう」という注記が見られます。「泊」は本島の泊港、「かう」は甲生で同じく本島の湊です。ここからも「塩飽」は、本島であることが裏付けられます。
 塩飽諸島に含まれる「塩飽」「手嶋」「さなき」の3地域が異なる船籍として表記されていることは、互いの廻船運用の独立性を示すものでしょう。
 比較のために小豆島を見てみましょう。
塩飽諸島の島々よりはるかに大きく、港も複数あった小豆島の船籍は「嶋(小豆島)」の一船籍のみです。これは島内の水運業務が一元的に管理されていたことを示すようです。このことから推せば、「塩飽」の船籍に手島・佐柳島は含まれないのだから、江戸時代の「塩飽島=塩飽諸島」のような領域観は中世にはなかったことになります。
 それでは広島・牛島・高見島等の島が『入船納帳』に見られないのはどうしてなのでしょうか。
①水運活動をしていなかったか、
②「塩飽」水運に包摂されていたか
のどちらかでしょうが、②の可能性の方が高いでしょう。そうだとすれば当時の「塩飽=本島」の統制範囲が見えてきます。

家久君上京日記」のブログ記事一覧-徒然草独歩の写日記
島津家久の上京日記のルート

天正三年(1575)四月の島津家久の上京日記には、次のように記されます。
「しはく二着、東次郎左衛門といへる者の所へ一宿」し、翌日は「しはく見めくり候」と見て歩き、翌々日は「しはくの内、かう(甲生)といへる浦を一見」し、福田又次郎の館で蹴鞠をしています。
「しはく二着」というのは、島津家久が「塩飽=本島」に着いたことを示しているようです。その島に「かう(甲生)」という浦があることになります。これも「本島=塩飽」説を補強します。
1 塩飽諸島

近世以前に塩飽諸島のそれぞれの島が、どこに所属していたかを史料で見ておきましょう。    
①備前国児島に一番近い櫃石島は「園太暦』康永三年(1244)間二月一日の記事(『新編丸亀市史4史料編』60頁)によれば備前国に属しています。13世紀には櫃石島は、塩飽地域ではなかったことになります。
②応永十九年(一四一二)二月、四月頃、塩飽荘観音寺僧覚秀が京都北野社経王堂で、 一切経書写供養のため大投若経巻第五百四を書写しています。その奥書の筆者名には「讃州宇足津郡塩飽御庄観音寺住侶 金剛仏子覚秀」と記しています(〔大報恩寺蔵・北野天満宮一切経奥書〕『人日本史料 第七編之十六)。この観音寺は本島泊の中核的寺院であった正覚院のこととされています。ここからは、本島は宇足津郡(鵜足郡)であったことが分かります。
③弘治二年(1556)九月二十日の「讃州宇足郡塩飽庄尊師堂供養願文」(『新編九亀市史4史料編』九)は、本島生誕説のある醍醐寺開基聖宝(理源大師)のための堂建立に関する願文です。その中に
「抑当伽藍者、当所無双之旧跡、観音大士之勝地、根本尊師霊舎也」

とあり、これも正覚院に建立されたものであることが分かります。ここでも本島の所属は「宇足郡」です
④正覚院所蔵大般若経巻第四(天正十二年(1585)六月中旬の修理奥書には、次のように記されています。
「讃州宇足郡塩飽泊浦衆分流通修幅之秀憲西山宝性寺住寺」

泊浦は本島の主要湊のひとつです。
②③④からの史料からは、中世後期の本島は鵜足郡に属していたことが分かります。
次に、塩飽諸島西南部の高見島について見ておきましょう。
⑤享禄三年(1530)八月ニー五日の「高見嶋善福寺堂供養願文」(香川叢書)の文頭には「讃州多度郡高見嶋善福寺堂供養願文首」と記されます。ここからは高見島は多度郡に属していたことが分かります。佐柳島は高見島のさらに西北に連なります。佐柳島も多度郡に属していたと見るのが自然です。
尾上邸と神光寺 | くめ ブログ
広島の立石浦神光寺
④延宝四年(1676)一月銘の広島の立石浦神光寺の梵鐘には「讃州那珂郡塩飽広島立石浦宝珠山神光寺」とあります。広島は那珂郡に属していたようです。

以上を整理すると、各島の所属は次のようになります。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡
ここからは今は、中世には櫃石島と本島、高見島や広島の間には、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があったことが分かります。近世には塩飽諸島と一括してくくられている島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったようです。つまり「塩飽」という名前で一括してくくられる地域は、なかったということです。
 以上から、「塩飽嶋」は近世以前には本島一島のみの名であり、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったと研究者は指摘します。それが本島がこの地域の中核の島であるところから、中世以後に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったのではないかという「塩飽嶋=本島」説を提示します。
3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所)
「塩飽島=塩飽諸島」と認識されるようになったのはいつからなのでしょう。
それは、豊臣秀吉の登場以後になるようです。秀吉が、塩飽の人々を御用船方衆として把握するようになったことがその契機とします。この結果、天正十八年に地域全体の検地が行われます。これによって「塩飽島」の範囲が確定されます。検地に基づき朱印状を給付して1250石の田・屋敷・山畑を船方650人で領知させます。この朱印状が「人名」制の起源になります。「塩飽島」と称するようになったのは、それ以後なのです。
 しかし、それでは本島を区別するのに困ります。そこで「塩飽島」を本島と呼ぶようになったと研究者は考えているようです。そうだとすれば、戦国時代に吉利支丹宣教師が立ち寄り、記録に残した「シワク(塩飽)」は、本島のことになります。
3塩飽 秀吉朱印状

以上をまとめておくと
①中世は現在の本島を「塩飽嶋」と呼んだ。「塩飽島=本島」であった
②本島周辺の備讃の島々は、国境や郡境で分断されていて「塩飽諸島」という一体性はなかった。
③秀吉の朱印状で水主(人名)に領知されて以後、「塩飽嶋」が周辺島々にも拡大されて使用されるようになった。
④そのため中世以来「塩飽嶋」と呼ばれてきた島は「本島」とよばれるようになった。
⑤キリスト教宣教師の記録に記される「しわく島」は本島のことである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優
   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

 「南海通記」の画像検索結果

讃岐の戦国史は、史料的な制約もあり『南海通記』など後世の戦記物の記述に頼らざるえない状況にありました。こうした状況に風穴を開けようとする動きが、昭和の終わり頃から始まります。まず国島浩正氏は、毛利側の一次資料を利用した元吉合戦解明を提唱し、その概要を次のように明らかにします(1993年)
①元吉城の所在地を琴平町の櫛梨山(櫛梨山城)に比定
②合戦の性格を、毛利・足利義昭・石山本願寺連合と織田信長の瀬戸内海制海権をめぐる一連の抗争の中での戦闘
そしてこの戦いが、小さな戦闘ではなく瀬戸内海の制海権をめぐる戦略的な戦闘であったことを明らかにします。続いて多川真弓氏は、毛利氏の対織田戦争における瀬戸内海の海上支配の観点から次のような検討を加えました
①合戦に参加した毛利勢、讃岐惣国衆の具体的な陣容
②毛利氏の備前児島~塩飽~宇多津の備讃海峡支配との様相と関連
 そしてこの合戦の性格が備讃瀬戸海峡の支配権をめぐるものという視点から、元吉城は海に近い綾歌郡宇多津町の聖通寺城に比定します。
 橋詰・多田氏両氏の成果は、元吉合戦が讃岐だけでなく阿波三好氏や毛利氏・長宗我部元親氏の動きとも関連してくることを明らかにすることで、各方面の研究者の注目と関心を引くようになります。
そこで改めて問題になるのが元吉城が、どこにあったかです
①橋詰氏は、琴平町の櫛梨山城
②多川氏は、宇多津の聖通寺城
と見解が分かれました。
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櫛梨山城のある櫛梨山 ふもとには式内社の櫛梨神社が鎮座

 川島好弘氏は橋詰氏・多田氏の成果をふまえながら、元吉合戦に至る経緯、戦いの具体的な状況を再度検証し、元吉城の所在地を明らかにしていきます。そのうえで、讃岐に侵攻した毛利氏の合戦の意図についても検討をすすめていきます。その足取りを追ってみましょう。
テキストは「川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット」です。

まず元吉合戦までの動きを見てみましょう。

元吉合戦の経過

1577(天正五)年7月、冷泉元満は小早川隆景から次のように命じられています。

「二十日至讃州乗渡、其儘岩屋可有上着候」

舟で讃岐に渡り、そのまま淡路岩屋に向かえという指示内容です。讃岐のどこに渡ったのかは、分かりません。ただ、ここからは讃岐国内で合戦になるような緊張した動きはうかがえません。七月以前の毛利側の史料に元吉城は、まだ現れてきません。ここからは毛利氏は、当初においては元吉城の確保を戦略的な目的としてはいなかったと研究者は考えているようです。
元吉合戦は、どのように戦われたのか?
その後、閏7月12日頃に冷泉元満が再び讃岐に渡たります。この頃から元吉城が史料に現れるようになります。18日付けの冷泉元満宛小早川隆景書状には、次のように記されています。
「其表数日御在陣、殊普請等之儀」
20日付の毛利輝元書状にも
「至元吉城城番衆 御馳走候而頓被差籠之由」

とあることから、閏7月20日以前の段階で冷泉元満は元吉城の普請をおこない、軍勢を送り込んていたことがうかがえます。そして、閏7月20日、讃岐惣国衆が元吉城を攻撃し、毛利勢との間で合戦が繰り広げられます。この戦いが元吉合戦です。
川島好弘氏は、合戦の詳細を史料で検討していきます
史料1天正五年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、

天正五年閏七月二十二日   
乃美兵部      宗勝
児玉内蔵太夫  就英
井上又右衛門肘 春忠
        香川左衛門尉  広景
桂民部大輔      広繁
杉次郎芹衛門尉 元相
粟屋有近助      元之
古志四郎五郎  元清
杉民部大輔      武重
村上弾正忠      景広  (笠岡)
村上形部人輔  武満 (上関)
包久宮内少輔  景勝
杉七郎        重良
冷泉民部大輔  元豊(満)   (元吉城普請)
岡和泉守殿
この史料は、小早川家臣の岡就栄に元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状です。意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この史料から合戦の推移や参加者の顔ぶれがうかがえます。
毛利勢は、元吉城の普請に関わった冷泉元満のほか、乃美宗勝や井上本忠など毛利・小早川配下の水軍を中心とした部隊のようです。笠岡の村上景広や上関の村上武満のほか、この史料には名前がありませんが、海賊大将とよばれた能島村上氏の村上元吉も動員されていることが他の史料から分かるようです。機動力のある毛利・小早川水軍が燧灘を越えて、備讃瀬戸になだれ込んできたようです。

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櫛梨城から眺める丸亀平野 備讃瀬戸も見渡せる

これに対する讃岐勢のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守については、同時期に阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことから、阿讃国境付近に所領をもつ勢力のようです。
織田信長と結んでいた三好氏は、信長の意向を受けて毛利氏の備讃瀬戸制海権確保を防ぐために元吉城への派兵に応じたとも考えられます。そうだとすれば、派遣部隊の指揮を執ったのは、⑥の阿波の三好安芸守ではないでしょうか。「元吉城奪還」の命に応じた讃岐勢のメンバーの思惑は、丸亀平野北部の分割です。

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櫛梨城からの南方方面 琴平を経て阿讃山脈を望む

合戦は、閏7月20早朝、長尾氏・羽床氏ら讃岐勢が元吉城に攻めかかることから戦いの火ぶたが切って降ろされました。しかし、事前に補強普請が行われた山城は墜ちません。
 これに対し、毛利の援軍である警固衆は、元吉城の向かいの摺臼山に陣を敷いていたようです。
頃合いを見て讃岐勢に攻め掛かり、数百人を討ち取って勝利を収めました。讃岐連合の大敗北に終わったようです。しかし、合戦後も讃岐勢は、依然として不穏な動きをみせます。そこで毛利氏は、8月に湯浅宗将を派遣し、元吉城のさらなる補強普請を行っています。
 9月になると、信長に追放された後に鞆に亡命していた元将軍足利義昭が「儂の出番だ」とばかりに、阿波三好氏と和議交渉に乗り出してきます。毛利氏は11月に長尾・羽床両氏から人質を受け取り、一部の軍を撤収します。

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櫛梨から望む西方 大麻山に続く摺臼山が張り出す 

ここからは1577年秋の時点で、丸亀平野の中央部の櫛梨城には毛利軍が駐屯し、丸亀平野の北部までを守備エリアとしていたことが分かります。毛利水軍は、このような中で安全に備讃瀬戸を航行することが出来たわけです。
 以上のように元吉合戦に至る経緯をみると、閏七月に入り冷泉元満が元吉城に軍勢を入れて、城の普請をおこなったあたりから、状況が急変し合戦に至った様子がうかがえます。
改めて1577年前後の毛利氏や周辺勢力の動向を見ておきましょう
天正4年12月、阿波の三好長治は細川真之に敗北自刃。
この結果、三好家は当主不在の状況となり、阿波周辺は混乱状態へ
天正4年以降 毛利氏の瀬戸内海地域における制海権確保のためのはたらきかけが活発化
天正5年正月 小早川隆景が淡路の海上勢力に対織田氏への軍事行動に協力するよう協力依頼
  同年3月 信長が塩飽船の堺への航行を保証し、塩飽勢力の取込みに成功
毛利氏が、織田氏との抗争において重視したのは、畿内最大の勢力である石山本願寺でした。本願寺への支援をおこなうためには、第一次木津川合戦のように、淡路岩屋を経由して大坂湾に至る海上輸送ルートの確保が重要戦略となります。そのような中で、瀬戸内海中央部に位置する塩飽に織川氏の調略の手が伸びてきたのです。これは毛利氏に、少なからず動揺を与えたようです。その対応策を考えなければならなくなります。そこで毛利氏は、七月に大坂・淡路(岩屋)・阿波・讃岐への警固衆の派遣を画策します。
 閏7月には、毛利側の史料に
「阿讃両国任存分候」「抑阿州両国之儀、如御存分伎仰何候」

などの記述が見えるようになります。ここからは元吉合戦以前に、すでに阿波・讃岐に毛利氏の軍隊が駐屯していたことがうかがえます。織田信長の塩飽取り込み策への対抗として、阿波・讃岐の陸地寄りの別航路を確保しようとしていたと研究者は考えているようです。
 元吉合戦の際に、「堀江口」でも毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したと記されています。

道隆寺 堀越津地図

堀江津は、現在の四国霊場道隆寺の北側に開けていた潟湖の入口にあった中世の港町です。この湊は活発な交易活動を行っていたようで、毛利水軍の兵站輸送湊としても機能していたようです。後には村上元古が警固船を、残し置いています。それも堀江湊であったと思われます。
 こうしてみてくると橋詰・多田両氏が指摘しているように、元吉合戦は「毛利 対 織田」の備讃瀬戸の海上覇権抗争の一環だったようです。

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一方で、元古合戦直後に小早川降景は乃美宗勝に、次のように書送っています。
他国渡海之儀候条、無心元候処、存之外之太利、祝着此事候」
             〔「浦家文書」「戦瀬」五三二号〕

合戦がおこなわれた讃岐を「他国」と認識していることが分かります。ここから毛利による讃岐への直接的な領域支配は行われていなかったと研究者は考えているようです。阿波についても同じで、毛利氏の侵攻は確認できません。同時期に毛利氏は、阿波の大西氏と結び、足利義昭の上洛戦に協力する申し合わせをしています。毛利方の「阿讃両国任存分候」という認識は、毛利よる直接支配ではなく、三好家当主不在という混乱のなか、毛利氏と提携する道を選んだ阿波や讃岐の諸勢力との結びつきを指すようです。

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櫛梨山から望む丸亀平野と瀬戸内海
元吉合戦の直接の直接のきっかけは、何だったのでしょうか?
元吉合戦後に小早川隆景が冷泉元満に送つた書状に、次のように記されています。
史料2 天正五年閏七月二十九日付 小早川隆景書状〔「冷泉家文書」「県史」中世二、二〓号〕
今度元吉現形之刻、御方御人数被差籠、初中後御気造令察候、殊彼城へ敵取詰及難儀候 別而被致御辛労此由、淵底承候、至三原此由可申達候、尚自是申候、恐々謹言、
天正五年七月二十九日  小早川隆景(花押)
冷泉民部少輔殿 御陣所
ここに「今度元吉現形之刻」とあります。現形とは寝返りを意味することのようです。つまり、元吉城の「現形(=寝返り)」をきっかけに毛利氏は、兵士を配備させたこと。それが讚岐勢と合戦となったことがうかがえます。
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櫛梨城跡の展望台
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか
元古合戦に参加した乃美宗勝の家に伝わる記録には次のように記されています。
「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、

毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴占館蔵)には
「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

ここには元吉城の主は、阿波の三好遠江守であった、それが寝返ったと記されています。
 三好遠江守は冷泉元満が、再度讃岐にやって来た閏七月中旬には、毛利方についていたことがうかがえます。毛利方が「阿讃両国任存分候」と配下の武将達に触れていたことと合わせて考えると、三好遠江守に対しても毛利氏から何らかの領土的報償をえさに寝返り工作が行われたこと、それが功を奏したとしておきましょう。三好遠江守の寝返りが、長尾氏・羽床氏ら讃岐惣国衆を刺激することになり、元吉合戦の直接の契機となったと研究者は考えているようです。

   1 櫛梨城
 
元吉城はどこにあったのか?
先に見たとおり元吉城の候補地は、櫛梨山城と聖通寺城のふたつの説があります。研究者は「史料1」を検証して、城の具体的な構造や周囲の状況を明らかにして、所在地を特定していきます。

尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条

ここには元吉城を攻撃した讃岐勢が最初に攻めかかった所が記されています。それが「尾頚・水手」です。「尾頚」は、山の尾根筋の一番狭くなった場所で「馬の背」とも呼ばれるところです。「尾頚」があるということは、平城ではなく山城であったことが分かります。
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「尾頚」とおもわれる所
 「水手」とは、井戸などの水場がある所で、ここが奪われたら長くは籠城できません。城の防衛上、最重要なポイントです。しかし、この史料からは、これ以上の情報を得ることはできません。

②「警固三里罷上 元吉向摺臼山与申二陣取」

ここには「警固衆(毛利氏の援軍)は、(堀江港から)三里ほど上がり、元吉城の向かいの「摺臼山」に陣取った」とあります。
毛利側の別史料には、次のようにも記されています。
「今度於元吉城山下敵罷出候刻、従船本被罷出、以堅同之党語相副候」(「萩藩閥閲録」山内源右衛門〕)

ここからは毛利側の援軍は「船本」から元吉城の救援に向かっています。「三里」とは、沿岸部からの距離であったことがうかがえます。「御答書』には「元吉ノ城より坤二 摺臼と申ス山候へ」とあり、摺臼山は元古城の「坤(ひつじさる=南西」に位置すると記されています。
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大麻山から張り出した尾根の先端が摺臼山

③「従摺臼山悉打下仕懸候、河縁二立合候、河口思切渡懸候間、 一息二追崩数百人討取之候」

 元吉城に攻め寄せた讃岐勢が攻めあぐねているのを見て、摺臼山に陣取っていた毛利の援軍は、山を下って敵に仕掛ます。その際に、y敵前渡河を行っています。川を一気に渡り、敵数百人を討ち取る戦果をあげというのです。ここからは摺臼山と元吉城の間には河川があったことが分かります。

DSC05457櫛梨城

史料を並べて、比べて検討して元吉城を比定してみると
以上の情報を、櫛梨山城・聖通寺城に対照させながら研究者は検討していきます。まず櫛梨山城の位置を確認します。
①この城は、堀江津の海岸より南に約8㎞の位置にあること
②西側を金倉川が南北に流れ、対岸に摺臼山があること
③古墳時代に築かれた前方後円墳の摺臼山古墳がある丘で、ここに中世には山城もあったこと
ここからは、金倉河口付近の堀江津を連絡湊として、上陸した毛利軍の援軍が道隆寺から金倉寺を経て金倉川沿いに進軍し、摺臼山に陣を構えるというあらすじが描けそうな立地条件です。
DSC04682
すぐ西に位置する大麻山

 それでは、聖通寺城はどうでしょうか
 聖通寺城は、現在の聖通寺の上に築かれた山城で、津の山から北に伸びた半島の上に位置します。川は飯野山と城山の間を大束川が流れ、宇多津で海に流れ込みます。宇多津は中世の守護所があったとされ、聖通寺城と対峙する関係にあります。しかし、地図を見れば分かるとおり海のすぐそばに位置する城で、「三里罷上(海より三里)」という条件を満たしません。
 『毛利輝元卿伝」は、坂出市の西庄城を元吉城とします。
ここも海からは三里も離れていません。そこで堀江津から東方に三里移動したと解釈しているようです。なにかしら「邪馬台国比定」を思い浮かべてしまいます。
 この時の状況をもう一度確認すると、讃岐に確保した元吉城が包囲されたために毛利の警固衆(増援部隊)が急遽、舟で安芸から送り込まれたという場面です。求められるのはスピードです。私が海の司令官であれば、海上輸送部隊を元吉城に一番近い湊に着けて、陸戦隊を上陸させます。毛利・小早川水軍は、機動力に富みます。この時には、能島村上武吉も参陣しているのです。堀江口に上陸して、わざわざ坂出の西ノ庄まで陸上を進軍するは下策です。西ノ庄を目指すのなら宇多津や林田湊などに着岸下船を考えます。
  これらの検討から、元吉城は橋詰氏や『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』が指摘する仲多度郡琴平の櫛梨山城と研究者は比定します。そして、毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したとされる堀江口は、多度津町の堀江とします。毛利氏の丸亀平野方面への進出拠点湊は、多度津港か堀江港としておきましょう。

  次に研究者は櫛梨山城(=元吉城)の立地や遺構の状況について検討します
元吉城は、九亀平野西端に連なるる山々(天霧山~五岳山~象頭山)から突出した独立丘陵の櫛梨山にあり、那珂郡と多度郡の境目にあたります。この山の麓には、式内神社の櫛梨神社があり、古代以来一つの宗教ゾーンを形成していたと琴平町史「ことひら」は指摘します。
櫛梨神社の裏から続く遊歩道を登ると10分程で、城跡の丘陵頂上部に立てます。
1櫛梨神社32

櫛梨山の頂上からの眺望を見ておきましょう

1 櫛梨城2

北側は条里制の残る丸亀平野が広がります。山の直ぐ下を古代南海道が東西に善通寺に伸びていました。その向こうには瀬戸内海が見え、多度津の桃陵公園や丸亀城も見渡すことができます。当時は、堀江港に入港する毛利の輸送船団も見えたでしょう。
1櫛梨神社322
櫛梨山から西を望む 眼下に金倉川 その向こうが摺臼山
はるかに五岳の我拝師山

 西側には、眼下に金倉川、対岸には毛利の増援部隊が陣を敷いた摺臼山が見え、その背後に大麻山が迫っています。さらに善通寺の背後の五岳の連山や、天霧山も見えます。ここには香川氏の天霧城がありました。
 南側には、金倉川を辿ると琴平です。さらに金倉川を遡ると、阿波へと続く峠越えの道につながります。
 東側からは宇多津・飯野山方面が一望でき、反毛利勢力の長尾氏の西長尾城や羽床氏などの動きを制することができます。
こうしてみると元吉城は丸亀平野の中央部を押さえる戦略的重要ポイントであったことが頷けます。毛利氏はこの元吉城を掌握することで、周辺勢力の動きを抑えることができるようになったとも考えられます。逆に言えば、丸亀平野のど真ん中に毛利氏に、このような拠点を構えられたのでは近接する長尾氏や羽床氏はたまりません。毛利氏の打ち込んだ拠点を排除するという「共通目的」のために激しく抵抗するのは当然です。
櫛梨城について「香川県中世城館跡詳細分布調査報告』所収の縄張図には
1 櫛梨城1

頂上部の主格を中心に、周囲を帯曲輪を巡らせ、南西の尾根先端部に出曲輪を配した比較的堅固な構造となっています。毛利側の史料からは、元吉合戦の前後に改修普請を行ったことが記されています。どこを補強強化したのかは、この縄張図の説明では触れていません。ちなみに城の南東の二重堀切は、その後に讃岐に侵攻した長宗我部氏による改修とされます。長宗我部元親もこの城を軍事的な拠点として重視していたことがうかがえます。
DSC04695
櫛梨城堀切
なぜ毛利氏が丸亀平野に拠点を作ることができたのか?
丸亀平野を取り巻く当時の有力武士団としては、次の3つが挙げられます。
①天霧城   香川氏
②聖通寺山城  奈良氏
③西長尾城  長尾氏
この中で②③は反毛利陣営で三好方に与していたようです。ところが①の香川氏の動向が見えてこないのです。
亡命中の香川氏は毛利氏の援助で讃岐に帰国した?
元吉城から西北を見ると、五岳の向こうに天霧山が見えます。ここには西讃守護代を務めてきた香川氏の居城天霧城がありました。ところが香川氏は、永禄年間(1558~70)初頭から讃岐を支配下に置こうとする三好氏の攻撃を受け守勢にまわされます
1558年には、東讃の讃岐国衆を従えた三好軍が善通寺を拠点にして天霧城と対峙しています。その前後から、周辺での小規模の軍事的衝突が繰り返されていたことは以前に見た秋山文書からも分かります。こうして永禄6(1563)年8月の発給文書には、香川之景が天霧城を退出する際の家臣の奮戦に対しての感状が何通か残されています。ここからは香川氏の天霧城退去が実際あったことが分かります。
 『南海通記』には、引き続き香川氏讃岐で活動している様子が描かれますが、永禄8(1565)年を最後に、香川氏の発給文書が確認できなくなります。このような状況から香川氏は、讃岐を追われ毛利氏のもとに身を寄せていたが、元吉合戦に前後して讃岐帰国を果たしたと考える研究者が多いようです。

1 櫛梨城 縦堀
櫛梨城竪堀
改めて、元吉合戦を中心に据えて、香川氏の讃岐帰国問題について考えてみましょう。
永禄11(1568)年9月 篠原長房ら三好勢は備前児島に攻め込み毛利氏と交戦しています。(第一次本太合戦)。この合戦後、毛利方の細川通童と足利義昭家臣細川藤賢とのやりとりのなかで、香川氏の存在が確認できるようです〔「下関文書館蔵文書´細川家文書)」「県史」中世四、 一三号〕。
 それ以後、将軍義昭の御内書やその副状に香川氏の讃岐帰国を促す記述が出てくるようになります。しかし、実行されることはなかったようです。
その後、天正五年(1577)になり、再び香川氏の発給文書が確認できるようになります
〔史料3〕(天正五(1577年)八月一日付足利義昭御内書〔『大日本古文圭[ 家わけ第九 吉川家文書之一」七五号〕
至讃州、香川入国之儀、最可然候、弥彼表之儀可令馳走事肝要候、自然阿州之者共和談旨申候共、不可許容候、於此方、和平之儀申聞半候間、以其上可申遣候、委細申含元政候、猶藤長可申候也、
天正五年八月朔日   (義昭花押)
古川駿河守とのヘ
小早川左衛門佐とのヘ
毛利右馬頭とのヘ
この史料は、毛利輝元・古川元春・小早川隆景に宛てた足利義昭の御内書になるようです。毛利輝元への「右馬頭」の官途授与は、元亀四年二月のことになります。元吉合戦直後に小早川隆景が讃岐を「他国」と認識していたことから、それ以前の段階とは考えがたく、香川氏の発給文書再開と同じ天正五年のことと研究者は考えているようです。
ここには「至讃州、香川人国之儀、最可然候」とありますから、香川氏が讃岐帰国を果たしたことが確認できます。
香川氏はこの年(1557)の二月以降に、家臣たちに三野郡の所領安堵をおこなっています「帰来秋山家文書」『高瀬町史」史料編、号・四号、「秋山家文書」『高瀬町史』史料編、〕
 これは、帰国後の合戦に備えて家臣団を再編成したのでしょう。元吉合戦の前後に毛利氏が使用していた湊は、多度津や堀江だったのは、先ほど見てきたとおりです。多度津は、西讃守護代として香川氏が代々掌握してきた港で、現在の桜川河口一帯だったと考えられます。毛利氏が容易に安芸から多度津へ海を渡って帰国できているのも、毛利氏の支援があったと考えると納得がいきます。元吉合戦と香川氏の讃岐帰国は、深く結びついているようです。
 香川氏の居城天霧城と、元吉城の立地と合わせて考えると
①天霧城は多度津を抑える要害
②天霧城からみて元吉城は、東方からの勢力の侵入を防ぐ、出城のような機能を果たした
③両城は丸亀平野を東西に走る古代の旧南海道や中世の「大道」を挟む位置関係にもある。
以上から、帰国した香川氏にとっても元吉城を押さえることは、丸亀平野に侵入してくることが予想される敵対勢力に備える最重要戦略課題であったのではないでしょうか。

1 櫛梨城
   以上をまとめておくと
①1577年の元吉合戦の舞台となった元吉城は、櫛梨山城である
②元吉合戦は、備讃瀬戸の制海権確保の観点から注目されてきた
③しかし、元吉城は丸亀平野のど真ん中にあり、軍事的拠点の掌握をめぐる合戦でもあった。
④毛利氏は、西讃岐の影響力を握るために亡命中の香川氏の後ろ盾となり、讃岐帰国運動を進めた。

このような動きの背景には、「①石山本願寺救援のための瀬戸内海交易ルートの確保 、制海権確保」があることが従来から言われてきました。しかし、もうひとつの要因もあるようです。
 それは、吉備方面で三好氏と対立してきた毛利氏は、讃岐から渡海してくる三好勢にたびたび悩まされてきた苦い経験があります。元吉合戦の頃は、三好氏は当主不在の混乱状態にありました。毛利氏はこうした混乱期に三好支配下の讃岐の諸勢力を押さえ込み、あわせて香川氏を帰国させることによって、沿岸部を含めた西讃岐一帯を安定的に影響下に置こうとしたと研究者は指摘します。
 帰国してきた香川氏を通じて、親毛利勢力を西讃岐に培養しようとしたというのです。しかし、それは叶わぬ夢と消えます。土佐を統一し、阿波池田に進出してきた長宗我部元親が讃岐に進行して来たのです。元親は、分散する三豊の諸勢力を次々と破り、配下に加えていきます。
天霧城主の香川氏も毛利氏から離れ、長宗我部元親に降伏し、元親の息子を養子に迎えることで生き残りを図ります。こうして西讃には土佐軍による占領時代が始まるのです。元親は占領者として、様々な新政策を実施していきます。そのひとつができあがったばかりの金毘羅寺を修験道化することでした。そのために呼ばれたのが足摺で修行を積んだ延光寺の南光院でした。彼が第2代金光院として、「四国鎮護の寺」作りを始めるのです。これが金毘羅大権現へと変身していきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット
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  平安時代の末に浄土信仰が盛んになると、四天王寺には法皇や貴族たちの参詣が盛んとなります。鎌倉時代以降には、浄土信仰と太子信仰が庶民にまで広がって、ますます賑わうようになったようです。
  駅から歩いていくと最初に大きな石の鳥居に出会います。
DSC05284c.jpg

正面上の額には
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」

とあります。「釈迦如来が説法された聖地であり、西門は極楽の東門にあたる」という意味になるそうです。
一遍 四天王寺鳥居

鳥居をくぐると正面に西門が見えてきます。この門と鳥居の間が浄土信仰の聖地でした。
昔は鳥居の直ぐ近くまで海が入り込んでいたようです。そのため彼岸の夕陽は鳥居の中心から海に沈みました。その時の鳥居の向こうは、まさに極楽につながる道が現れると信じられるようになります。そのため、彼岸の中日には「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきました。日想観とは、四天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から来たものです。このため人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。これには作法があるようで、まず夕日をじっと眺め、目を閉じてもその像が消えないようにしてから、夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされてきました。まさに、ここは極楽浄土への入口が見える聖地だったようです。

『聖絵』の天王寺の詞書には、次のように記されています。
一遍 四天王寺詞書

これでは私には読めませんので、変換ボタンを押します

一遍 四天王寺詞書書き下し
  さらに意訳しておきましょう
文永十一年(1274)桜の季節に伊予桜井(今治)を出た一遍一行は、やがて四天王寺にやってきて参籠した。この伽藍は釈迦如来転法論の古跡で、□□? 東門中心の景勝地でもある。歴代の皇室の崇拝を集め、600を越える道場があり、星霜の歳月を経てもお堂や堂の甍が朽ちることはなく、露盤は光り輝いている。亀井の井戸の水が涸れることはなく、宝水が絶えることもない。
  (中略)
この地において信心を深め、発願を堅くし誓い、十種のの制文をおさめて、如来の禁戒を受け、 一遍は念仏を唱え衆生の救済を開始した。
この詞書がどのように絵画化されているのか見ていきましょう。
一遍 四天王寺伽藍東端導入部

巻物を開いていくと詞書に続いて、まず最初に見えてくるのは築地塀をめぐらした天王寺の伽藍の一部です。霧の海の中に、いくつもの建物の屋根だけが浮かんでいます。広大な広さを持ていることがうかがえる光景です。左下には参拝者達の姿が見えます。被衣(かずき)姿や市女笠をかぶった女人達が門から入っていく姿が見えます。一部だけ見えているのが南大門のようです。

一遍 四天王寺伽藍1

全体構図を見ておきましょう。四天王寺の伽藍が描かれています。
先ほど見たのは①の南大門から東の部分になります。

一遍 四天王寺伽藍配置図

画面上部が北で、画面の右側に講堂・金堂・五重塔・中門が延長線上に真っ直ぐにならぶ「四天王寺式」の伽藍が描かれています。
伽藍中心部を拡大して見ましょう
一遍 四天王寺伽藍


伽藍中央に五重塔があり、その北に金堂の屋根が見えます。よく見ると金堂の扉は開かれて、釈迦入来座像が安置されているのも見えます。その向こうに屋根だけをのぞかせているのが講堂になるようです。境内にはいろいろな参拝者の姿があります。
被衣姿の女
黒染め衣の尼
従者を連れた連れた絵帽子姿の男

画面手前の築地に沿った道は熊野街道です。
傘を差して馬に乗っているのは、熊野詣でに出掛ける武士の姿のようです。従者は行器(ほかい)を背負い、弓矢、毛鞘(けざや)の太刀を担いで、主人に従っています。
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⑤西門に目を移すと、そこには時ならぬ人だかりがしています。
その中心にいるのが 一遍のようです。その背後にが超一、超二の二人でしょうか。

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いろいろな姿をした参拝客が一遍の周囲に集まっています。一遍はここで初めて念仏札をくばった(賦算、賦はくばる、算はふだ)とされます。その姿が描かれているようです。これが一遍布教のスタートの姿です。
札を配る一遍を取り巻く人たちの姿も見ていると細かく描き分けられています。
集まってきた人たちの背後には一基との灯籠があり、その左右に檜皮葺のお堂があります。念仏堂や絵殿だと研究者は指摘します。このあたりの参拝者も遠巻きに一遍を見守っているようです。
蓑笠をかぶり弓を持った狩場帰りの武士
折絵帽子狩衣姿の屈強な若者が水干姿の垂髪を従えて、うさんくさそうに眺めています。
お堂に腰掛けて見守る僧侶ふたり
その向こうでは両手を広げて踊っているような姿も見えます。一遍の念仏は、踊り出すような節回しとリズムがあったのかもしれません。

一遍達が札を配る伽藍の外では、築地塀沿いにいくつもの小屋が並んでいます。
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小屋には車が付いているものあります。これらは「乞食小屋」のようです。熊野街道沿いの築地塀前はスラム街であったようです。都市近郊の四天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。四天王寺は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でもあったようです。
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このような人たちを描かせた聖戒の意図とは、なんだったのでしょうか。
それは西門での一遍のはじめて賦算(お札配り)と関係があると研究者は考えているようです。ここでは一遍は、「境外の乞食には札を与えていない」ことをまず指摘します。そして
「賦算が見返りとしての喜捨を期待していたこと」
「不信・不浄の乞食には賦算札を与えない。与えようとしても受け入れられないことをこの絵ははっきり示している」
と云うのです。なぜならば、乞食・非人には「明日の命はわからない。神仏などいくら信仰しても《腹のたしに》ならぬのだ」
からだと、中世の乞食や非人には「近代人の善意」による解釈や「普通人の想像」がまったく通用しないことを語ります。
 つまり、一遍は四天王寺で乞食・非人に救済の手が届かない無力感を味わったというのです。
賦算という行為の外で、届かない人たちの存在。別の見方をすれば、その人たちと、どのような関係を取り結んでいくのかという課題を四天王寺で背負ったことになります。その課題を持って一遍は、高野山から熊野へ入って行きます。そして、熊野でその解答を見つけるのです。
 一遍は四天王寺で味わった無力感を抱えたまま熊野に向かいます。
そこで今度は「信・浄」の律宗僧侶にすら拒絶されます。思い悩んだ末に、権現の神託を受けるのです。四天王寺と熊野での体験は、一遍の信仰にとって「連続したひとつのイヴェント」だったともいえます。その後一遍は、新宮から聖戒にあてた便りの中で「同行を放ち捨て」たことを伝えています。超一、超二の二人を「放ち捨て」たのです。
  従来、超一、超二の二人は 一遍の妻子とされてきました。
しかし、それに異を唱える研究者も出てきているようです。それによると、超一、超二の尼形は一遍の妻子ではなく、人を集め銭を稼ぐための女芸人母子だったというのです。旅先で生きていくためには、彼らの「芸」が必要だった、「自力」で生きるのに必要な存在だったという説です。そうだとすれば、熊野で「他力本願」という信仰の核心をつかんだ後は、必要としなくなったと研究者は考えているようです。
 二人が芸人だったかどうかは私には分かりませんが、一遍が生活の基礎を彼らに負っていたことは充分に考えられます。一遍も最初は、貨幣経済を無視して旅先で生きていくことは出来なかったようです。

西門からさらに西に行くと、朱色の木造の鳥居が建っています。

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この鳥居は永仁2年(1294)に忍性によって石造にかえられたといいます。これが、最初に見た彼岸に夕陽がその真ん中を沈んでいく鳥居です。その額には「釈迦如来転法輪所 当極楽土東門中心」と記されています。この鳥居と正門の間から人々は沈みゆく夕陽を眺め祈ったことになります。ここは極楽浄土の東門であったのですから。
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 鳥居の両側には玉垣が連なります。その前で、人々が施しを受けています。後の車小屋の中には碗が1つ。もうひとつの車小屋には老乞食がうごめいています。

鳥居の前の参道の両脇には、築地塀で囲まれた邸宅が並びます。手前は板屋で簡素です。それに比べて参道の向こう側は、門も四足門で、檜皮葺の入母屋造の豪壮な邸宅です。天王寺の別当の住居と研究者は考えているようです。この参道の向こうはどうなっているのでしょうか?
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そこはもう砂浜と海です。海には鴨類が浮かび、その上を鵜(?)の群れが飛びます。この海に夕陽が沈み、西方浄土世界への道が現れると信じられていた聖なる空間です。この海を背後にしながら 一遍一行は高野山を目指すことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
日本の絵巻20  一遍上人絵伝 中央公論社

岩屋寺の行を終えた後の一遍を、聖戒は「詞書」に次のように記しています。
一遍聖絵 詞書伊予出発

「舎宅田園を投げ捨て、恩愛眷属を離れて・」とあるので、父より受け継いだ別府の所領を捨て、一族と縁を切り、すべてを捨て「修行随身」の準備をしたようです。
そして、文永11年(1274)2月8日、「恩愛眷属を離れて」故郷伊予松山を旅立っていきます。
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それが、このシーンになるようです。
絵の構図を見ておきましょう。季節は冬2月です。茅葺き屋根の庇の縁から二人の老女が柱にとりすがっています。じっと悲しみに耐えているようにも見えます。庭先には、婦人と子どもが別離の涙で見送っています。
その視線の先には、黒染めの衣に袈裟をかけた一行が歩み去って行きます。それぞれの人物に注記が付いています。前から、 一遍、超一(妻と推測)・超二(娘と推測)、念仏房(子弟と推測)と振り返る聖戒(一遍の弟?)の5人です。その向こうには、伊予の海が潟湖となって入り組んできています。湿原(水田?)には、白鷺の群れが舞い降りています。
この絵を見ていると、疑問が湧いてきます。その疑問を挙げてみると・・
①見送る側に妻子がいて、見送られる側にも妻子がいる
②出発する家は、誰の家でどこにあったのか
③縁の上で見送る2人の老女と 一遍の関係は?
①については、一遍には二人の妻がいたようです。
その愛憎関係から逃れるために再度の出家をしたとも云われるので、そう理解しておきましょう。一緒に旅立っているのが後から妻になった方なのでしょうか。これも私にとっては謎です。

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 旅に妻子を同行することになったのは、「たっての希望をいれて」と云われます。妻超一房、10歳になった娘超二房、です。時衆では、尼には一房号または房号をつけるのがならわしだったようです。弟聖戒は越智郡桜井まで見送り、その後に内子の願成寺に入ります。

②については、これで一遍の旅立ちを描くシーンは、3度目です。
よく見ると、それぞれ旅立ちの起点となる家が違うように見えます。どういうことなのでしょうか。この家も海辺にあったようですが、周囲の状況がかつて登場した家とは違います。これが実家なのでしょうか。
③については、母なのでしょうか。
 一遍の母については、『一遍上人年譜略』に「母は大江氏」と伝えるだけです。大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系です。一遍の母と伝える女性は、大江季光の娘とも云われます。祖父通信が御家人として鎌倉幕府で重きを成していたときの婚姻関係なのかもしれません。しかし、その母は 一遍が10歳の時に亡くなっています。 一遍には、この時には父も母もいません。

  もうひとつ気になるのは、以前の「太宰府への旅立ち」「再出家」のシーンに比べて、去っているはずの 一遍一行に動きが感じられないのです。立ち止まって何かを待っているように、私には見えます。
  これから 一遍一行が向かうのは、桜井(今治)だったようです。そこへ向かうのなら舟が便利です。一遍は水軍として活躍した河野氏の一族の御曹司です。迎えの舟を待っているのかなとも想像しますが、それでは絵になりません。やはり、ここは去っていく姿なのでしょう。しかし、実際に松山から桜井への行程は、どんなルートをとったのでしょうか。海沿いルートか、舟便なのでしょうが、後者を私は考えています。

伊予桜井里での聖戒との別れを、詞書は次のように記します。

一遍聖絵 詞書聖戒別れ

聖戒が書いた詞書からは次のようなことが分かります
①松山から桜井里まで聖戒も5,6日同行した
②そこで 聖戒は「暇を申し侍りき」と、別れを告げた
③ 一遍は「臨終の時は、必ず巡り会うべし」と誓って、名号を書いて十念を授けた
つまり、このシーンは聖戒との別離シーンになります。

それでは絵師が、この場面をどう描いたのか見ていきましょう
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『聖絵』巻二第、桜井里での聖戒と別れのシーンです。
この場面を、絵師はふたつのシーンに分けて描いています。例の「忍法 同時異場面 分身の術」です。構図は、今までの別離シーンとよく似ています。右側に建物を描き、左側に出発する複数の人物が描かれます。二つの場面が対照的に感じるのは、先ほどの松山が冬で、白鷺の群れの彩りしかありませんでした。しかし、この聖戒との別離シーンは再び、満開の桜が描かれています。
  先ほどの詞書には、「聖戒5,6ケ日送り奉じる」と、ありましたので、桜井にやって来たのは2月中旬だったようです。しかし、別離と旅立ちは桜の季節になったようです。これも不可解です。どうして、2ヶ月近くも桜井里で待つ必要があったのでしょうか?
 考えられるのは、大坂までの船便を待っていたということでしょうか。
この頃の瀬戸内海航路は頻繁にいろいろな舟が行き来していました。熊野水軍は大三島神社との間に、准定期船的な航路も持っていて熊野詣の参拝者を運んでいたようです。讃岐塩飽の客船も博多方面との活発な動きを見せています。塩飽はターミナルのような役割を果たしていて、ここ行けば目的地への船便が見つけられたといいます。
 2月は北西風が強いために瀬戸内海航路は「運休シーズン」でもあったようです。そのため船便待ちのために、ここに留まったたのかもしれません。

もうひとつは、「聖絵」に描かれる一遍の遊行先は、その多くが律宗の活動拠点と重なるという指摘です。
桜井から一遍が向かおうとする四天王寺は、叡尊や忍性が別当に任ぜられた律宗の重要拠点でもありました。また、大隅正八幡宮、大三島神社、美作国一宮など各国一宮への参詣しています。これらは 弘安 7 年に出された諸国国分寺一宮興行令を承けて、叡尊ら西大寺系律宗が再興事業が進めていた寺社でもありました。
 そういう目で見ると、一遍と聖戒の舞台となった伊予国桜井(今治市)も、西大寺系律宗の拠点であった伊予国分寺があります。伊予国分寺と聖戒には、何らかのつながりがありそうです。聖戒はやがて、瀬戸内にお ける律宗の拠点や伊予念仏道場での活動を通して、同族の越智氏出身の凝然をよく知るようになります。そして、それが石清水八幡宮を経て、京都進出への道を開くことになります。そのスタート地点として桜井が舞台として選ばれたのかもしれません。聖戒による「聖絵」の成立は、
①蒙古襲来という社会状況下における「越智河野氏」の出自
②律宗を通した土御門家(宮廷)とのつながり
③一遍と聖戒の律僧的側面
に支えられていたと研究者は考えているようです。

 敢えて「桜」を聖戒が描かせたということも考えられます。
この絵図を書かせたのは聖戒です。何のために抱えたのかを考えるときに今まで見てきた場面から浮かび上がるのは、「聖戒=一遍第1の弟子、そして弟」を正当づける意味合いがあったことがうかがえます。聖なる場面は、「桜」で彩られていました。少女漫画の「花に囲まれたヒロイン」と、同じ記号のように私には思えてきます。聖戒が絵師に、敢えて桜を描かせた説も考えれます。
画面を改めて見ていきましょう
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右側のシーンは、茅葺屋根の古びた建物の中で、聖戒が一遍に別れを告げています。縁では白衣姿の僧が合掌します。これが詞書に描かれた二人のやりとりのシーンなのでしょう。
画面左は時間をおいて、翌朝のことかもしれません。満開の桜の下で一遍一行が左方向に歩きだしています。一方、聖戒は右方向に進みながら、名残を惜しむように振り返り、振り返り、遠ざかっていく一遍一行を見送っています。心と体が、引き離されるような状態かもしれません
「振り向くことで左方向が強調され一遍一行に視点が集中する。一遍と聖戒の間に描かれた小川は別れを表し、過去と未来、物語の展開の分岐点」

と研究者は指摘します。
一遍 伊予桜井 聖戒別離

満開の桜の根元に花びらが散っています。上空には花びらが舞っています。この場面も、桜が別れを象徴し、桜が大きく描かれています。桜井の別れの場面は、一遍と聖戒の物語の終結をあらわすようです。
  そして、 一遍一行は大坂の四天王寺に向かいます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐々木弘美 一遍聖絵』に描かれた桜

一遍 画像
一遍
  弘長三年(1263)、父通広が亡くなり、その知らせが太宰府にいる一遍のもとへ届きます。ときに一遍は25歳でした。これを機に一遍は、師の聖達のもとを辞し、故郷の伊予へ戻ります。家を継いで家族を扶養しなければならなかったためだと云われます。この頃の一遍の生活を『一遍聖絵』は、次のように記します。

「或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ」

父がそうであったように、一遍もいわゆる半僧半俗、つまり姿は出家でありながら、妻帯して日常は家族とともに生活していたようです。この時に、子どもも生まれていたようです。
 一遍のもっとも正確な伝記でもある『一遍聖絵』の著者聖戒は、一遍が還俗していたころに伊予で生まれた実子だと考える研究者も多いようです。そうだとすると、一遍と聖戒は師弟にして親子になります。江戸時代初めに評判となった歌舞伎「苅萱道心と石童丸」は、 一遍と聖戒をモデルにしたものと評されていたと云います。しかし、教祖を偶像化しようとする教団の時宗史は、妻帯や聖戒実子説を認めません。
 一遍は、どうして再び出家したのか?
「一遍上人絵詞伝」の詞書には、次のように記されています。

親類の中に遺恨をさしはさむ事ありて殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、かたきの太刀をうばひとりて命はたすかりにけり。発心の始、此の事なりけるとや。

意訳変換しておくと
 親類の中に遺恨を持つ者が現れ、殺されそうになった。傷は受けながらも、その刀を奪い取り命は助かった。再発心はこの事件がきっかけとなったという。

遊行上人縁起絵1
    一遍上人絵詞伝
 「一遍上人絵詞伝」には、剃髪で法衣姿の一遍が、刀を抜いた人に追いかけられている絵が描かれます。

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       一遍上人絵詞伝(追われて逃げる僧服の一遍)
その絵の部分には、武装し抜刀した四人の武士に追われる一遍が、奪い取った刀を持って逃げているところが描かれています。一遍は僧形で袈裟衣を着ています。刀をとられた武士は一通のすぐうしろにあおむけにひっくり返っています。

親族から遺恨を受けるどんな「何かスキャンダルめいたものを感じます。
『一遍上人年評略』には建治元年(1275)のこととして、次のように記します。
師兄通真死。故師弟通政領家督  親類之中、有謀計而欲押領 其家督者、先欲害於師。師乍被疵、奪取敵刀遁死。敵謀計顕故自殺。於之師感貪欲可長、覚世幻化。故辞古郷´。
意訳変換しておくと
 一遍の兄の通真が亡くなり、弟の通政が家督を継ぐことになった。これに対して親類の中には謀議をはかって、その領地を押領しようとするものが現れた。そのためまず 一遍を亡き者にしようとして襲ってきた。一遍は手傷を負いながらも敵の刀を奪って逃げ切った。このことが知れると当事者は自決した。このことを体感した 一遍は、五欲の一つである貪欲の恐るべきことを感じ、人間の世の中が真実の世界でないことを悟って故郷を出る決意をした。
 
つまり家督争いの結果だと云うのです。これが教団側の「公式見解」となっているようです。しかし、これとは別の「世間の見方」は別にあるようです。
『一遍上人年譜略』の文永10年(1273)の条に、次のように記します。
「親類中有愛二妾者、或時昼寝、二妾髪毛作二小蛇・喰合。師見之、感二恩愛嫉妬可畏

  意訳変換しておくと
一遍には親類に愛する妾が二人いた。ある時に昼寝をしているふたりの妾の髪毛が小蛇となって喰いあっているのを見て、嫉妬の深さに恐れ入った。

これについて、教団や多くの研究者は「妄説」として取り合いません。しかし、さきほど紹介した芝居の「苅萱道心石童九」では、 一遍をめぐって二人の女性の髪の毛が蛇と化して喰い合う、すさまじい嫉妬が演じられるシーンで描かれます。実際には、一遍が親類縁者の妻との「不倫」への刃傷沙汰だったと諸伝記からは推測できます。
 一遍は、この事件に人間の業と宿命の深淵をのぞき見ておののき、そこから逃げるために再出家の道を選んだというのが後者の研究者の立場のようです。
 こうして一遍は文永8年(1271)32歳のころに、聖戒と共に伊予を逃げるようにでます。
「たゞしいま一度師匠に対面のこゝろざしあり」とありますから、た一遍がまず目指したのは、大宰府の師・聖逹のもとです。一遍が聖達を訪ねたのは、再び弟子として仕えるためではなく、聖達に再出家の決心を告げ、できれば今後の求道生活のヒントを与えてもらうためだったようです。そして、ここで聖達は定住する別所聖であり、一遍は遊行聖の生活を目指しすことになります。
そして「 一遍聖絵」には、次のように記されています。

「文永八年の春、ひじり( 一遍)善光寺に参請し給ふ」

 一遍が救いを求めたのは、信州の善光寺如来でした。当時の彼の中では、最も頼りになると思われた仏なのでしょう。
「恩愛を捨てゝ無為に入らむ」(『一遍聖絵』第一)と、善光寺に向けて旅立つことになります。この時に『一遍聖絵』の製作者である聖戒も出家しています。「聖戒」という名前は、聖達から与えられたようです。
『聖絵』巻一第二段、聖戒出家場面です。

一遍再出家

最初に全体の構成を見ておきましょう
①一番右手に入母屋のお堂があり、その背後に3つの白く塗られた石造物が目につきます。
②高台で見晴らしの良い場所に建つ板葺き白壁の建物がこのシーンの主舞台です
③高台からは広がる海が見え、雁が群れをなして飛び去っていきます
④ 一遍一行が海沿いに旅立って行きます。

②の高台の建物から見ていきましょう
DSC03137聖戒出家
 一遍聖絵 伊予国(聖戒の剃髪) 
建物の手前と奥では松林の中の山桜が咲いています。ここでも桜が登場し、季節が春であることを告げます。目の前には春の瀬戸内海が広がります。庵の中で出家する聖戒が剃髪を受けているようです。

DSC03139聖戒出家
        一遍聖絵 伊予国(拡大部分 聖戒の剃髪)
聖戒の後ろの僧は聖戒の頭髪を剃り、前にいる僧は朱色の水瓶を持っています。部屋の奥には掛軸が掛けられています。聖戒の顔は、真っ直ぐに前を向いて海を見つめています。出家の決意が見られます。この庵の中には、一遍の姿はないようです。もしかしたら剃髪しているのがそうなのでしょうか。
   『聖絵』は、聖戒が制作したとされます。
そうだとすれば『聖絵』に、自分の出家場面を描かせたとしても不思議ではありません。「聖戒出家」は、一遍の次に出家したのが自分(聖戒)であり、最初の弟子が自分自身であることの主張とも受け止められます。一遍出家の大宰府の場面と同じように、山桜が満開です。しかし、その樹の大きさは控えめのようです。聖戒が一遍の弟子であり息子であることを象徴していると研究者は考えているようです。
画面左では、出家した聖戒とともに一遍一行が歩み去って行きます。
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一遍聖絵 伊予国(一遍出立) 
先頭の傘を差す一遍は海を見つめています。
  その上を雁の群れが左から右へと飛び去って行きます。
この絵で疑問に思うのは、聖戒以外に人物が描かれていることです。
しかもこれは尼僧だと云うのです。この後、善光寺から帰った後に、一遍は岩屋寺で禅定修行し、三年後の文永十年(1274)に熊野に参拝します。その時にも、尼僧と子供と従者念仏房の三人を連れています。
 詞書の著者の聖戒は、
「超一 (尼)、超二(女児)、念仏房、此の三人発心の奇特有りと雖も、繁を恐れて之を略す

と書くにとどめています。3人の女性の出家の因縁を書いておきたいと思ったようですが「繁を恐れて略す」です。善光寺参拝に同行した尼も、熊野の尼も同一人で、超一と研究者は考えているようです。

「親類の中に(  一遍に)遺恨を挿事有て、殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、敵の太刀を奪取て命は助(り)にけり」

とあった恋敵の「親類」の妻女が超一だというのです。しかも彼女は尼になっても一遍について、善光寺から熊野ヘまで同行しています。つまり、 一遍は妻と別れ、不倫相手の妻を出家させ同行させていたことになります。このころ 一遍は親鸞とおなじように「聖は半僧半俗で妻をもってよい」と考えていたことが分かります。さて絵図にもどりましょう。
 先ほど見た右側の剃髪場面から時間経過があります。
同一画面に異時間場面が同時に描かれるのが巻物の世界です。今のマンガのコマ割りに慣れているものにとっては、最初は違和感を感じます。しかし、巻物はページをめくるものではありません。巻物を開いていくものなので、そこに新しい場面が登場してくるのです。時間経過は右から左で、右に描かれていることは、常に「過去」のことになります。
DSC03141聖戒出家
        一遍聖絵 伊予国(一遍出立
一遍一行の向こうには春の瀬戸内海が茫洋と広がっています。
その砂浜に舟が舫われています。中世の湊とは、「港湾施設」というものは殆どなかったようです。このような遠浅の海岸や砂州背後の潟の浜辺が湊として利用されていたようです。満潮時に舟を砂浜に乗り上げ、干潮時にはそのまま「係留」されるという使用方法でした。

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 一遍聖絵 須磨臨終図(須磨沖を行く交易船)
  一遍も太宰府を目指すなら、どこかの湊から舟に乗ったはずです。かつての勢いはないとは云っても、河野家は伯父の下で松山に存続しています。海民たちに顔に聞く河野家の手はずで、便船は確保されていたのかもしれません。当事は、瀬戸内海の湊は交易船のネットワークで結ばれていました。
 一遍背後に描かれた一席の舟には、象徴的な意味もあると研究者は考えているようです。

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一遍聖絵 一遍臨終場面の三隻の船(須磨)
『聖絵』巻十二第三段の一遍臨終場面の三隻の船は、一遍が西方浄土に向かう三途の川の渡り船を示します。それは「遊行の終着点」を意味しています。この場面に描かれる一隻の船は、 一遍の遊行の出発点であることをシンボライズしたものでもあると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長島尚道  一遍 読み解き事典 柏書房



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一遍の伊予出立図
延応元年(1239)に、一遍は伊予国で生まれます。
彼は10歳で母を亡くし、13歳の春に九州大宰府へ仏道修行のために旅立って行きます。『一遍聖絵』には、このあたりのことについて、次のように記されています。
建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具して鎮西に修行し、太宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ。上人学問のためならば浄上の章疏文字よみをしてきたるべきょし示し給によりて、ひとり出て肥前日清水の華台上人の御もとにまうで給き。上人あひ見ていづれの処の人なにのゆへにきたねる。
(中略)
さて彼の門下につかへて一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして幼敏ともがらにすぎたり。上人器骨をかゞみ意気を察して、法機のものに侍り、はやく浄教の秘噴をさづけらるべしとて、十六歳の春又聖達上人の御もとにをくりつかはされ給けり。
意訳変換しておくと
建長三年(1251)の春、十三歳になった一遍は、僧・善入に連れられて修行のための鎮西(太宰府)の聖達上人のもとを訪ねた。上人が云うには「学問を学びたいのであるなら浄上の章疏文字に詳しい肥前清水の華台上人の方がよかろう」と華台上人のもとで学ぶように計らってくれた。
(中略)
 一遍は、華台上人の門下で2年間研精修学した。天性聡明にして学ぶ意欲も強いので、上人もそれに応えて、はやく浄教の秘蹟を授けられるようにと、16歳の春には聖達上人の元に送り返した。
ここからは、父の通広(出家して如仏)が一遍に求めていたのは、求道者としての悟りよりも、学僧としての栄達であったことがうかがえます。
一遍が師とした聖達とは、どんな僧だったのでしょうか?
聖達は『浄土法門源流章』に「洛陽西山証空大徳議長門人甚多、並随学ン法」と、証空の弟子名が11名挙げています。その中の四番目に「聖達大徳酌」とあります。ここからは聖達が、証空の有力弟子であって、京都で教えを受けたことが分かります。

出家を考えて下さっている方へ・・・・あなたが惹かれるお祖師様はどなたですか?part 2 - 慈雲寺新米庵主のおろおろ日記
証空
まず、
聖達の師の証空から見ておきます。
証空は治承元年(1177)に加賀権守親季の子として生まれます。そして、有力貴族久我通親(道元の父)に、その才能を見込まれて猶子となります。14歳で法然の弟子となり、専修念仏を学び『選択本願念仏集』撰述の際には重要な役割を果たしています。 後に天台座主を四度も勤めた慈円の傘下に入り、専修念仏を天台宗的な考え方で理論付けようと努力します。さらに慈円の譲りを得て、京都西山の善峰寺住持となったので西山上人と呼ばれ、その流れは西山義(西山派)と云います。
 証空の弟子の聖達や華台が、どうして九州にいたのでしょうか?
それは嘉禄三年(1227)の法難が原因と研究者は推測します。
この嘉禄の法難は、承元の法難に続く大弾圧でした。法然はすでに亡く、その弟子たち40名あまりが指名逮捕され、京都の専修念仏者の庵は破壊されます。証空はすでに専修念仏の徒とは縁を切り、天台宗の世界に生きていたのですが、この法難の余波が降りかかってきます。貴族層の弁護もあって、なんとか逮捕を免れることができます。けれども、京都における伝道活動は、制限されるようになります。そのためでしょうか、翌々年には、弟子の浄音・浄勝を伴って関東・奥州への伝道にでかけています。
 以上のような背景からは、次のようなことが推測できます。
証空は自己の教学を大成した直後に嘉禄の法難に遭過した。そこで、有力な弟子を法難の余波から守り、かつ教線を広げるため各地へ送った。聖達や華台もその中にあり、特に聖達は九州伝道の核として、大宰府へ遣わされた。こうして聖達と華台は、嘉禄三年(1227)から仁治四年(1243)の間には、九州に「布教亡命」していたと。

聖達と華台は「昔の同朋」で、浄土宗西山義の祖・証空の相弟子でした。
そして仏教全体や浄土教の知識は、華台の方が広かったようです。それに対して証空によって体系付けられた西山義をより奥深いところで会得していたのは聖達だったのかもしれません。少なくとも華台はそう理解していたからこそ、 一遍を2年で聖達のもとへ送り帰したのでしょう。どちらにしても、一遍は浄土教や浄土宗西山義を、有力な人物から学んだことになるようです。
西山證空上人とその思想 菅田祐凖(著/文) - 思文閣出版 | 版元ドットコム

父広通(如仏)は、後鳥羽上皇に仕えて都にいたころに、西山派証空に教えを受けていたようです。
そこで、その弟子の聖達や華台を知っていました。その縁を頼って、一遍を預けたようです。引き受けた聖達は、浄土宗の章疏文字を華台のもとで学ぶことを勧めます。そして、華台のもとで2年間の修学を終えます。その際に、法名も随縁から智真と改めています。
 こうして、華台の所から2年ぶりに太宰府の聖達のもとに帰ってきた場面が、『聖絵』巻一第一段のシーンとなります。
最初に全体のレイアウトを見ておきましょう

一遍絵図 太宰府帰参
①周りを高い塀に囲まれた境内と、その中に建つ入母屋造の御堂の空間
②境内前(右側)のあばら屋が建つが建つ空間
③境内の前を行く騎馬集団
④境内背後の桜の下の熊野行者の集団
①の境内の中の一遍から見ていくことにしましょう。
一遍絵図 太宰府帰参1
 一遍聖絵太宰府帰参 写真クリックで拡大します
御堂を囲むように左右の桜が満開です。遠景にも桜が描かれています。季節は春のようです。奥のお堂に向かって歩く二人の人物が見えます。前を行く黒染衣を着た少年僧が一遍のようです。従う白い衣の人物は、手に文を持っています。華台から聖達への文なのでしょう。華台上人の許で二年を過ごし、学問を修めた一遍が再び聖達の許に戻ってきたシーンです。  
  お堂の周囲には、高く頑丈そうな築地塀があります。

聖達の保護下で俗世から離れて修行を続ける一遍を象徴するもの

と研究者は考えているようです。
その外には、弓矢や薙刀を持った狩人姿の騎馬集団が通り過ぎていきます。近隣の有力な武将なのでしょうか、主人は立派な白馬に乗っています。従者は主人を気遣うように左を振り向いています。塀の外は動きがあり賑やかです。獲物は持っていないので、これから狩りにでかけるのでしょうか? 彼らが鎧甲を身につければ、そのまま1セットの戦闘騎馬集団に早変わりしそうです。世が世であるなら名門河野家に生まれた一遍も、このような騎馬兵団の一員として伊予の地で、生活を送っていたでしょう。

一遍絵図 太宰府帰参2
    一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 桜の下の民家)
③の画面右側に板家の下層民の集落を見てみましょう。
 白い花を付けた山桜の大きな木があります。その下の集落の前には、3人の人物がいます。先頭の傘を持つ尼僧らしき人物が左を振り返り、荷物を担ぐ人物と子供を気遣うようにも見えます。

人物が左方向に振り向くのは、物語の左方向性を強調する手法

だと研究者は指摘します。三人は板家の集落の入口に向かっているので、板家の住人かもしれません。

一遍聖絵  門守
     一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 民家と的)
 桜の右側の板家には、両端の門木にかけた縄の中央に板のお守りを付けた門守が見えます。屋根の破風にが半分見えています。的は正月の神事で、弓を射って豊作の吉凶を占う行事です。讃岐でも「ももて」として、三豊地方や島嶼部を中心に盛んに行われていました。破風の的は、正月神事の象徴でもあったようです。
 弓矢をもつ狩人一行は、破風の的に向かい稲作の吉凶を占う神事の弓矢を象徴していると研究者は考えているようです。また、桜の咲き方で稲の豊作の吉凶を占う神事もあるようです。ここに描かれた的と狩人の間の桜も稲作を象徴し、前の場面の田園風景と結びつくようです。どうやらこの騎馬集団は、狩りに出て殺生を行ってきたのではないようです。
 このシーンに狩人一行の描かれた意図については、次のような見解があるようです。
①狩人一行は武家社会を象徴し、一遍がそれと絶縁した決意を表す
②狩猟は殺生に向かうことを意味し、修行者の一遍と対照的・対比的な効果を表す
③仏道に生きる一遍の「聖なる世界」と「俗の世界」を対照的・対比的にみたうえで、この一行が狩人であることを否定している
どれが正しいとは、云えません。狩人一行のみに注目するのではなく、周囲に描かれた事物の関連性をみて分析していく必要あると研究者は指摘します。その言葉に従って、周囲に配されている人物も見ておきましょう。

一遍絵図 太宰府帰参3
    一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
④の市女笠に白壺装束の人物集団を見てみましょう
全体場面に、右と左に大きな桜が描かれます。こちらの桜は画面左側の桜です。その下を3人連れが通りかかるところです。市女笠の白壺装束姿ですので、熊野詣での旅姿のようです。

一遍絵図 太宰府帰参4
    一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
前を行く従者は大きな荷物を背負っています。しかし、先達もなく女一人の熊野詣でには少し違和感も感じます。しかし、ここに熊野詣姿の旅人が、なぜ描かれたのかを考えると謎も解けてきます。それはこれから一遍の訪れる「熊野権現の神勅の予兆」として描かれていると研究者は考えているようです。
一遍絵図 太宰府帰参5
女性の熊野装束姿
この大宰府帰参場面は、手前二本の桜を境に、
①画面右から賤民の空間
②殺生の空間
③熊野聖地の空間
の3部構成になっているようです。
さらに描かれているアイテムについても研究者は次のように指摘します。
①遠景の桜は、これから一遍の遊行を導く未来
②狩人・桜・的・田園風景などは、春の訪れ
③三人の人物、狩人一行、熊野道者の三組は、同じ右方向を歩いていながら、異なる意味を持つ
画面右の桜の隣に一本の大きな杉が描かれています。
この杉を起点にして、華台上人をたずねる場面から大宰府帰参場面へ展開する場面転換が行われていると研究者は考えているようです。
どちらにしても私には、山桜が印象に残るシーンでした。
なかなか一遍絵図を読み解くのは手強いようです。「記号論」としてみると面白みはありますが・・・。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 佐々木弘美 一遍聖絵に描かれた桜

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一遍 河野通信の鎧刀
河野通信と伝えられる鎧と刀 大三島神社
一遍は伊予の名門河野家の出身です。一遍が生まれる前後の河野家を巡る情勢を見ておきます。
源頼義は義家とともに奥州の安倍貞任一族を討って、いわゆる前九年の役を鎮めた功により、伊予国司に任命されて伊予にやってきます。その子・親清が河野親経の女と結婚して河野家を継ぎます。河野氏は貴種であり、かつ武勇の名の揚がった源氏と結び付くことの有利さをねらったのでしょう。
大通智勝仏
三島大明神の本地仏であった大通智勝仏

 河野氏の氏神が伊予国大三島の三島大明神(大山積大明神)だったことは以前にお話ししました。
三嶋大明神の本地は大通智勝仏で、『法華経』によると「 過去三千座点劫以前に現れて法華経を説いた仏」ということになるようです。河野氏の氏神である三島神社(大山祗神社)に、航海安全と武運長久のために数多くのものを寄進しています。

特20565/三島水軍旗 奉納河野通信 伊勢大神宮/八幡大菩薩… | 古書ふみくら
河野通信の奉納したとされる三島水軍の軍旗

 河野氏の中で有名なのは、 一遍の祖父通信の活躍です。
治承四年(1180)8月、伊豆国に流されていた源頼朝は、平氏を倒すべく兵を挙げます。石橋山の戦いでいったんは敗れますが、同年10月には富士川の戦いで平氏を敗走させ、東国を支配下に収めることができました。この時に、頼朝の働きかけで通信と父の通清は頼朝側に立って、伊予国の平氏勢と戦端をひらくのです。通清はまもなく戦死しますが、通信は奮戦してよく河野水軍の力を保ち、寿永四年(1185)には平氏を追いつめてきた源義経に助勢します。 義経は河野水軍の支援を受けて平氏を減ぼします。通信はこの功で、鎌倉幕府内で大きな位置を占めることになります。かれは北条時政の娘の谷(やつ)を妻とし、頼朝と相婿となります。そして道後七郡の守護職に任命され、また伊予の御家人を統率する地位を与えられます。
その後、承久三年(1221)の承久の乱までが通信と河野一族との全盛期でした。
 承久の乱で、通信の子通俊は西面の武士として院に仕えて後鳥羽上皇の皇孫を妻としていました。
その関係で幕府軍と戦うはめになり、敗れて本国に逃げ帰ります。通信とその一族は、高組山城に立てこもって幕府方の軍と戦いますが、7月に城は落ちます。通信は捕えられて鎌倉に送られ、奥州江刺に流されて、寛喜二年(1230)に同地で没しました。享年六十八歳でした。
一遍 祖父河野通信墓碑
河野通信の墓(流刑地の岩手県北上市稲瀬町水越)
聖塚(ひじりづか)〔河野通信(こうのみちのぶ)の墓所〕 | 岩手経済研究所
 孫の一遍(河野通秀)は、後に祖父通信の墳墓を訪れ供養を行いました。その様子が「一遍上人絵伝」に伝えられています

P1200416
通信供養の一遍の短歌(法厳寺)
通信には通俊・通政・通久・通広・通宗・通末の六人の男子がありました。
このうち、通広と通久を除く四人はすべて死刑か流刑になっています。 一遍の父通広は、通信とともに捕えられますが、後に放免されています。
一遍 河野家系図
河野氏略図(一遍関係)
①祖父通信は奥州江刺(岩手県北上市)に流され、
②長男通俊は戦死
③次男通政は信濃国葉広(長野県伊那市)で斬首
④4男通末は信濃国伴野(長野県佐久市)に流刑
 6人の息子たちの中で、五男の通久のみが無事でした。
母が北条時政の娘の谷であり、乱勃発時に通久は母とともに鎌倉に住んでいました。そのため幕府方として合戦に加わって、宇治川の戦いでは功をたてています。この功により父通信の死罪は免れ、通久には阿波国富田荘を与えられます。しかし、父祖の地を忘れがたく、伊予復帰を願い出て許されて、貞応二年(1223)、久米郡石井郷(松山市)を与えられ「帰国」します。他にも高繩山城の攻防戦で戦死した長男得能通俊の子孫は、桑村郡得能の地を領することを認められていますし、池内公通は、乱後も所領をもっていたようです。乱後の処分で、河野一族の所領がことごとく没収されたということはないようです。 
 しかし、河野一族は、所領53ヵ所、一族49人の領地が没収されてしまいます。その後、弘安四年(1281)の蒙古襲来において河野通有が戦功を挙げるまで、約50年間の没落期を送ることになります。
承久の乱で、一遍の父道広が罰せられなかったのはどうしてでしょうか?
通広は、兄通政らとともに西面の武士として朝廷に仕えていたようですが、病弱のためか承久の乱のころは郷里に帰っていました。これが難を免れる結果となります。彼は「別府七郎左衛門」と俗称されているので、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)に別府荘を所領としていたとされていますが、たしかな史料があるわけではないようです。

一遍は、河野氏の没落期の悲運の中で生まれます。
父の通広は、規模は小さいながらも所領を持つことは許されていて、一応の生活は保証されていたようです。しかし、本来ならば広い領地を持ち、固い同族結合で結ばれた惣領制の中で誇り高く生きるはずであった一遍の幼い日に映ったものは、一族の苦しい生活と過去を懐かしむ老人の姿でした。

P1200403
     法厳寺 この前にはいくつもの坊が建ち並んでいた
一遍の誕生地は、松山市道後湯月町の宝厳寺(時宗)とされています。
この寺は河野氏が大檀那で、父通広はこの寺の別院に住んで、 一遍ほか数人の子を育てたと云います。
P1200405
法厳寺山門
この寺には15世紀後半ころの一遍の木像(重文)が保存されています。一遍の肖像彫刻は、現存するものは数少ないために、貴重な資料です。宝厳寺の門前にはかつては、中央の道をはさんで右に六坊、左に六坊のあわせて12の塔頭が並んでいたと云います。最後まで残っていた林迎庵(来迎庵・林光庵とも)に祀られていたのがこの一遍木像だったと伝えられます。

一遍 木像
一遍木像
 この庵が通広隠棲の場所だったのかもしれません。一遍は宝厳寺の地で生まれたとされますが、父通広がここに住んだことも確かではありませんし、記録もないようです。

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一遍上人御誕生旧蹟碑(法厳寺の山門前)

ただ一族の得能通綱が建武元年(1334)に建てたと伝えられる「一遍上人御誕生旧蹟」碑があるだけです。もし、通広に承久の乱後も引き続いて、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)の別府荘が所領として認められていたのなら、そこに領主として居館を構えていたことも考えられます。後には還俗しているので、所領を持っていたと考える方が説得力があります。

P1200407
法厳寺(時宗)

母については『一遍上人年譜略』に「母は大江氏」と伝えるだけです。
大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系であり、一遍の母と伝える女性は大江季光の娘とも云われます。祖父通信が御家人として鎌倉幕府で重きを成していたときの婚姻関係なのかもしれません。一遍は、鎌倉幕府要人の大江氏の一族であったことは頭に入れて置いた方がよさそうです。承久の乱の際の通広の助命も、大江氏の働きがあったことは考えられます。
 一遍の幼名は松寿丸で、七歳にして継教寺の縁教律師に学びます。随縁と名づけられて学問に励んだと『年譜略』には記されます。継教寺は、宝厳寺近辺の天台寺院なのでしょうが詳しくは分かりません。10歳で母を失って、父の命によって仏門に入ったようです。
一遍を仏門に入れた父の思いを探っておきましょう。
直接の背景は、母の死だったと研究者は考えています。中世では所領を失った豪族が社会的な位置を保つには、出家するしかったようです。法然がそうでした。一遍の父通広には、わずかばかりの所領は残ったようですが、それも寺の別院に住んでいるようではたいしたものではありません。子供が数人いるうえにわずかばかりの所領では、行く末の没落は目にみえています。河野の一族としての誇りを保つため、子供たちを出家させねばならないと考えるのは、当たり前だったのかもしれません。こうして一遍は父の命令で出家し、法名を随縁と付けられます。そして13歳まで故郷の寺に住んでいました。
 一族の将来を思い、自分の行く末を思って、やがて建長3(1251)年、九州大宰府にいた僧・聖達のもとに送られることになります。
 これ以後の伝記は『一遍聖絵』に詳しく述べられています。

「建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ」

と13歳で僧善入と出会い、鎮西(太宰府)に修行にでることになります。これは、父通広のすすめと紹介があったようです。父は若い頃に後鳥羽上皇に仕えて都にいたころから、仏道への志厚く、西山派証空に教えを乞い、その弟子聖達や華台を知っていたようです。そのことが太宰府行きの決め手となったようです。

 一遍絵図 旅立ち
一遍聖絵 太宰府への出発
一遍が修学のため、太宰府へ出立する場面を描いたものです。

全体図から見ておきましょう。
①右側に大きな茅葺屋根の館が見えます
②その縁側に男女が座って、旅立つ 一遍を見送ります。
③その縁台の前に童を囲むように武士姿の男達が立ちます。
④縁側の奥には2人の女と女童が見送ります。
⑤彼方の道を3人が去って行きます。
 ①②③④の見送る側の人たちから見てみましょう。
一遍聖絵 旅立ち2
     一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 見送る人々)
一見すると「縁側から見送る父と母」という構図ですが、そうではないようです。一遍の母は、すでに亡くなっています。また父は、出家していますの僧姿のはずです。そうだとすれば、広縁の武将が叔父の通久なのでしょう。とすれば、その隣の朱の衣を纏うのが伯母になります。

一遍聖絵 旅立ち5
    一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 見送る人々その2)
しかし、よく見ると伯父は、甥の一遍には、目をやってはいないように見えます。視線は庭の童に向けられ、会話をしているようにも見えます。その前に立つ男達も、やはり一遍に視線を向けていません。これも庭の童の方を向いています。一遍よりも童に関心が向いているように私には見えます。別れを悲しんでいるようには思えないのです。
 なぜこうした構図にしたのでしょうか。不思議な構図です。
 その奥の広縁の角には頭巾姿の女が描かれています。
乳母ともいわれます。確かにこちらは、別れ悲しむ姿に見て取れます。二人の女達の間に女児らしき人物がいます。この人物については、制作途中で描き足されたものだと研究者は考えているようです。そうだとすると当然、それは絵師円伊の独断ではなく、制作責任者であり、発注者でもある聖戒の意向を受けたものとなります。
それにしても、なぜ加筆されたのでしょうか。この小童が一遍の妹であると考える研究者もいるようですがよくは分かわないようです。これも『聖絵』の謎の一つのようです。

  この館は誰の館なのでしょうか? 生家と云うけれども、叔父の通久の館なのではないでしょうか?
  承久の乱で軍功のあった五男通久は、久米郡石井郷(松山市)を与えられ「帰国」したことは、先ほど述べたとおりです。その居館からの出立姿を描いたものだとすれば、館の見送る人たちのそぶりのすげなさも腑に落ちてきます。また、父通信は法厳寺の別院に「間借り」状態だったことは先に見たとおりです。
一遍聖絵 旅立ち3
    一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 去りゆく一遍)
見送る人々の視線の先には、当時は「随縁」と名乗っていた一遍、
そして同行の僧善入の姿が見えます。この時、一遍は十三歳。
十歳で母を亡くし、父の命により出家のために生家を出立する姿です。詞書の割注には、父通広は出家して如仏と号したとあります。

一遍聖絵 旅立ち6

さて、黒い僧体の善入は振り向いて一遍(15歳)に何か話しかけているようです。どんな言葉をかけているのでしょうか。
①「さあ、さあ、後ろなど振り向かずに、さっさとお歩きなされよ」と、せきたてている
②「見納めになるかもしれません。しっかりと故郷の風景を目に焼き付けておかれよ」
③「さらなる修行のための旅立ちです。元気に参りましょう」
しかし、振り返る一遍は描かれていません。

絵図の中では館から見える位置ですが、ストーリー的には、一遍らは伊予灘を沿うように歩いているようです。つまり、館から遠く離れた場所まできているのです。このシーンは、宗教者一遍の門出を語る大切な場面になります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



 昔の港というと鞆や御手洗、室津などの北前船が出入りした港を私はイメージします。そこには石積みの突堤があり、灯台がわりの大きな灯籠が建ち、雁木に横付けされた船着場には何艘もの小舟が横付けされ、忙しげに人夫達が荷物の積み卸しを行う・・こんな姿が私の港イメージでした。しかし、このような港が姿を現すのは19世紀になってからのことのようです。
それでは中世の港とは、どんな姿だったのでしょうか。
それに応えてくれるのが、新高松駅やサンポート開発の際に発掘された野原(現高松)の調査報告書です。そこからは16世紀末期に高松城が生駒氏によって築城される前の中世の港の姿が現れました。それをイラスト化したのが下の景観図です。ここには次のような事が描き込まれています。
野原の港 イラスト
中世の高松港復元図(野原)
①元香東川河口の東西からのびる砂堆が発達して、自然の防波堤の役割を果たしていた。
②その背後には奥深く潟湖が入り込んできており、そこが積荷の積み下ろしが行われる港湾施設でであった

中世の高松港
中世高松港拡大図

③荷揚げの時の安定した足場を確保するために波打ち際には赤い板石が敷き詰められている。
④イラスト左側(西側)の船着場は杭と横木を組み合わせてある。
⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない
⑥潟湖の内側の水深は浅く、大型船は入ってこれないため沖合に停泊し、小型船に積荷を載せ替えて入港していた。沖合の女木島には大型船が停泊している。

①については、旧香東川は近世までは栗林公園を経て現在のホテル・クレメント辺りが河口であったようです。
野原の港 俯瞰図イラスト

②の船着場があったのは、新高松駅と中央通りの間のエリアになります。
野原・高松・屋島復元地形図jpg

そして、③④⑤を見ると、雁木も突堤も灯台もありません。近世の鞆港とはイメージが大きくちがいます。ある意味港湾施設が何もなく貧弱におもえてきます。中世の港とは、どこもこんな感じなのでしょうか?
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。
ここも砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。
「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。海岸線の白磁一括廃棄が出土した第十四次調査においても、港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは、博多港も砂堆の背後に広がる潟湖の波打際に立地して、砂堆が波除けの役割を果たし、静かな水域の浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。
「⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない」についても、
12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったようです。河口のぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないのです。ある歴史家は
「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」
と云っています。
 ここに建物(浜之町遺跡)の形成が始まるのは13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所であったようです。

野原 陸揚げ作業イラスト
中世高松港 陶器の荷揚げシーン
このイラストは近畿圏から運ばれきた陶器を荷揚げしているシーンです。
野原の港からは多量の和泉型瓦器椀のかけらが出てきましたが、そこには摩滅の痕跡なく使用された跡がないといいます。新品を廃棄していたのでしょうか? どうもこれは近畿から運び込まれた器を荷揚げして選別し、不良品をその場で廃棄していたようです。チェックに合格したものだけが後背地に向けて出荷されていたのでしょう。
 この絵には海岸線に赤い石が敷き詰められています。これが③の「礫敷き遺構」です。
野原 礫敷発掘現場
平成8年(1996)の高松城下層遺跡(高松城跡西の丸町B・C地区)からは、波打際から礫敷き遺構が出てきました。潟湖の緩斜面に拳大の安山岩角礫を貼り付けるように構築し、平坦部は敷き詰められていました。上の図11の右側が海で、海から緩やかに陸に上がっていく緩斜面に石が敷かれているのが分かります。礫敷きは、時代を経て同じ所に何回も敷き詰め直されたようです。継続的な維持・管理が行われていたことがうかがえます。
  この敷石は、どこから運ばれてきたのでしょうか?
礫敷きに使われているのは安山岩角礫です。一番近い採取場所として考えられるのが、南約2kmの石清尾山塊です。石清尾山北麓の亀尾山には、山城の石清水八幡宮を勧請したと伝えられる石清尾八幡宮旧境内があり、その付近で節理の進んだ安山岩の露頭があります。ここから運ばれたと考えるのが自然のようです。それは、この港の管理運営に石清尾八幡宮が関わっていたことがうかがう材料になるようです。
 同じ角礫を用いた礫敷き遺構は、直島・積浦遺跡(12世紀)からもでてきています。
この遺跡は、直島南東部に湾人する小規模な潟の出入口にあり、自然の海岸線に安山岩角礫を貼り付けています。直島では花崗岩はありますが安山岩はありません。高松(中世は野原)から舟で運ばれてきた可能性もあると研究者は考えているようです。もしそうであえば、直島群島を経て児島あるいは牛窓に至る備讃海峡横断ルートが、野原を起点にこの時期に整備されたということになります。
 正応二年〈1289)に、播磨・魚住泊の修築料を室津・尼崎・渡辺などが負担している例があるようです。魚住泊を航路上の中継地として必要とした主要港町が、修築費を出しているのです。ある意味、受益者負担での原則で港湾整備が行われていたことを示す事例です。これが慣例的に行われていたのなら直島に、野原港(高松城下層遺跡)と同じ礫敷きが作られたのは、野原勢力による寄港地確保のための造営とも考えられるようです。
野原の港 木碇
礫敷きにの近くからは、木碇も出土しています。これに石などをくくりつけて碇にしていたようです。
野原の港 係留施設

この出土品は④の船着場に使われていた杭と横木です。この杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。


石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)
 これが当時の河口港の現実の姿だったのである。ただし船の出入りの多い瀬戸内の多数の港では、大きな河川も少ないため港湾の地形に応じた石組の波止を設けるという、大がかりな築港工事を行っている。これは日本の土木史上特筆すべき事業だと思うのだが、全く評価されてないのは残念である」(石井謙治「ものと人間の文化史」
それでは、雁木や灯台・灯籠などが港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀
雁木が現れるのは、江戸時代の後半になってからのようです。
灯台・灯標は、いつ現れるのでしょうか?
香川県仁尾宿人の木造金毘羅灯籠(寛政12年(1800)
鞆の石造金昆羅灯籠(安政六年(1859)
丸亀新堀湛市の太助灯籠(天保九年(1838)
などは、灯籠としては大き過ぎます。港内に置かれた位置からも灯台の役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 一方、普通の石灯籠の形を取るもののは、ほとんどが金毘羅灯籠です。
波止の先端(多度津湛甫)
砂堆の先端(坂出浦)
湛市の港口(宇多津)
岬の先端(香川県与島浦城)
などには19世紀前半~中葉の年紀が刻まれています。やや先行する事例として和田浜湛甫では、寛政四年の石灯籠があります。
また高松城下では、 17~18世紀の絵画史料には東浜・西浜舟入などに灯標が描かれていませんが、19世紀前半~中葉には描かれるようになります。そして明治15年(1883)の古写真では北浜の本造灯籠と東浜舟入波止の石灯籠が写されています。
 以上から灯台・灯標の普及は、19世紀前半のようです。これは「19世紀前半の長大な波上による船溜まりの出現」と期を同じくするようです。
高松城122スキャナー版sim

ドック(船蔵)が姿を見せるのは16世紀末葉~17世紀前半の城下町建設からのようです。
「高松城下図屏風」には、藩専用の西浜舟入に多数の船蔵が描かれ、その背後の建物に材木が多数積まれています。商人たちが使用していた東浜舟入の背後でも船が作られている様子が描かれています。ドックの機能は、それ以前からもあったはずですが、特定の場所が船蔵あるいは焚場として「施設化」するのは、海に面した城下町が姿を荒らさすのと同じ時期のようです。
DSC02527
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤竜馬 前近代の港湾施設 中世港町論の射程 岩田書店
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11因島箱崎 地図

家船(えふね)漁船の拠点地の一つが因島の箱崎です。家船集団の拠点は、漁師達の家が狭い地域に密集していることがひとつの特徴ですが、箱崎にも「漁民密集住居区」があるようです。しかも、その地区は中世の揚浜塩田跡に形成されたものといいます。

11因島箱崎 地図2

 家船漁民とは、小さな船に家族が乗って長い間、海で操業・生活する漁民達です。彼らの先祖については次のような説があることを以前にお話ししました。
①小早川氏の中世以来の海賊対策で弾圧を受けた海民達が、家船漁民たちの祖先
②秀吉の海賊禁止令以後に行き場をなくした村上水軍の末裔が、家船(えふね)漁民の祖先
これだけを押さえて今回は、箱崎の揚浜塩田の歴史を追いかけて見ようと思います。
揚浜式塩田(石川県珠洲市) - おさかな'sぶろぐ
能登の揚浜

『因島市史料』には、寛永15年(1638)の土生村箱崎の塩浜が「地詰帳」が次のように載せられています。
①塩浜弐畝拾八歩 (ぬい弐ツ)六斗 五郎兵衛
②塩浜三畝    (ぬい弐ツ)六斗 久右衛門
③塩浜三畝廿壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 清 吉
④塩浜弐畝九歩 (ぬい壱ツ)三斗 同 人
⑤塩浜弐畝一壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 正左衛門
⑥塩浜四畝    (ぬい弐ツ)六斗 半二郎
⑦塩浜二畝    (ぬい弐ツ)六斗 与兵衛
⑧塩浜三畝三歩 (ぬい弐ツ)六十 孫有衛門
⑨塩浜弐畝甘四歩 (ぬい式ツ)六斗 清吉
ここからは次のようなことが分かります。
A 箱崎に9枚の塩浜があったこと
B 清吉が③④⑨の三枚の塩浜とぬい(沼井)6つを所有していて、塩浜所有者としては最大の家であること。
C 塩浜は平均3畝前後(約教室3つ分)で、瀬戸内海の揚浜塩田の平均であること
 なおBの清吉は別の資料からは、箱崎に屋敷を持っていないこと、畑は2ヶ所持っていますが、その面積は二七歩と七畝一五歩で、あまり広いとは云えない上に、かなり離れたところにあります。そして、二七歩の畑は新開(新規開墾)で、古くから持っていたのは七畝一五歩だけのようです。以上から、清吉は、塩造りを専業として、塩焚小屋にでも住んでいたのではないかと研究者は考えているようです。
  箱崎は、この資料に現れた塩浜のエリアが現在に残っているのです。それは地図5上の太実線のエリアになります。
11因島箱崎 地図旧塩浜

詳しく見ると9つに区画されていたことが分かります。これがもともとは9枚の揚浜塩田だったようです。ここに前の海から海水を汲み上げ、天日で干していたのです。地図で塩田の背後を見ると、すぐそばまで山が迫っていて背後地がほとんどありません。
揚げ浜の塩 歴史・文化

 漁民たちが古い塩浜の区画の上にそのまま家を建てたようです。
かつて塩浜の境だった所が道になっています。港町はどこでも、近代になって車道を付ける際には、海を埋め立てて道路を通しました。つまり海の直ぐそばを車道が走ることになります。
11因島箱崎 syasinn

箱崎もご多分に漏れません。箱崎はも、地図5を見ると分かるとおり海岸には車道が走っています。そして、古い道は塩田と山裾と平地の境にあって今もそのまま残っています。今は、その旧道から上の家は農家が大半で、道から下が漁家です。その漁家の中を五本の道が、海と山裾の道との間をつないでいます。
かつて9枚の塩田だった所に、漁民たちが家を建て集住を始めます。
図5の太線のエリア(塩浜跡)を拡大し、地籍図にしたものが下の図6です。
11因島箱崎 旧塩浜地籍図

NO57の屋敷地が最も広く、海に近い重要ポイントを占めています。ここを中心に屋敷が建ち並び始めたようです。各区画で一番大きい面積を占める屋敷が、塩浜の所有者だったことが考えられます。
 そして、明治になって地籍調査が行われ、一軒一軒に番号が打たれます。全部で161に分けられているは、その時に屋敷が161軒あったことを示します。一戸当りの屋敷面積は20坪程度でだったようです。同規模の家がびっしり立ち並んでいたことが分かります。

11因島箱崎 旧塩浜ido

 かつての塩田跡の住宅区には井戸がなかったようです。
それは当然かもしれません。塩田の中に井戸は必要ありませんから・・・。井戸は、山裾と旧塩田の間の大師堂沿いの道に沿っていくつかの共同井戸が点在します。この井戸は、古くから行き交う交易船に水を提供してきた井戸かもしれません。塩田跡の新住居者たちは、水道が整備される以前は、そこへ水を汲みに行っていたようです。

どうして塩田が廃れて、そこに家屋が建設され始めたのでしょうか
宝暦五年(1755)の「土生村実録帖」によると土生村は、102軒の家があり、そのうち漁家が17軒に増えています。
因島の「中庄村差出帳」享保11年(1726)には
「塩浜只今は田畠に相成候(あいなりそうろう)」

「田熊村村立実録帳」宝暦一四年(1764)には
「塩浜

とあります。ここからは享保前後のころから因島の揚浜塩浜は、田畑になったり、荒地として放置されていたことが分かります。その背景には、入浜式塩田の登場があるようです。
入浜式塩田の製塩方法 | 西尾市塩田体験館 吉良饗庭塩の里
入浜式塩田

大量に安価に良質の塩が生産できる入浜式塩田が瀬戸の入り浜に作られるようになり、揚浜塩田は駆逐され始めたようです。箱崎の塩浜でも、塩を造らなくなり放置されるようになります。その頃から漁民が増えはじめたようです。
  箱崎の塩浜に家を建てて住むようになった者を、対潮院の過去帳には「浜ノ者」と記しています。そして「浜ノ者」が過去帳に登場するのは江戸中期ごろからです。ここからも、浜床への漁民定住が始まったのが江戸時代中期になってからだったことがうかがえます。
 塩浜床跡に、家を建てはじめた漁民はどこからきたのか?
 その漁民たちがよそから来たものか、もともと塩田に働いていた者の子孫であるかは史料的には分かりません。しかし、研究者は
「塩浜で働いていた人たちの子孫が、塩浜跡に家を建てるようになった」

と考えているようです。そう考える理由を見ていきましょう。
 「地押帳」に記録せられた塩浜の総面積は二反六畝六歩で、畑地を加えても三反にすぎません。箱崎の面積はわずか一町歩もない狭いエリアです。ところが箱崎には、漁港として適当な船着がありました。
塩浜関係に従事していた子孫が漁業に転じたのは、この良港があったことがひとつの要因でしょう。
しかし、それだけでは丘上がりした者が再び海へに進出する理由にはなりません。海に出れば利益が出るという採算性がなければ動かなかったはずです。それがイワシ漁だったようです。

11因島箱崎 小豆島イワシ漁do
   「漁業旧慣調」〔愛媛県立図書館蔵〕)右上に高台から合図を送る人がいる

箱崎とその対岸の生名島の間には深い入江があって、そこがイワシ地曳網の良い漁場でした。ここには鰯屋と呼ばれる網元が早くからいたようで、この家が箱崎でも一番古い家とされています。イワシ漁は季節的なもので、イワシのやって来る間だけ操業します。その他の時期は船を浜にひき揚げて船囲いしておきます。その間、網子たちは別の仕事をしていますが、たいていは小漁を行なっています。イワシ網のような経営を大職、小網や釣漁などを小職と呼んでいたようです。この二つがうまく組み合わされて、漁業は発展します。
 イワシ網は「根拠地漁業」に対して、小職漁業は、たいてい放浪性を持った漁業だったようです。これが箱崎を考える上でつ大事な手がかりになると研究者は指摘します。
 箱崎は「浜」で、「浦」ではありませんでした。
瀬戸内海では漁民のいる所をと呼び、塩浜のあった所がです。ここからは箱崎は、もともとは塩浜で「浜」と呼ばれていたこと、それが江戸中期からイワシ網を梃子にして漁村へ転向していったと研究者は考えます。それは塩浜を営んでいた製塩業者が鰯漁をバネにして、再び海に進出していったということです。同時に、尾道からの漁民達も受けいれたようです。こうして塩浜跡に、漁民達の家が建ち並ぶようになったと研究者は考えているようです。
 しかし、漁民としての道を歩みだした箱崎の人たちにとって厳しい試練が待ち受けます。

11因島箱崎 地図3

グーグル地図で見ると箱崎の沖は水道で、その対岸は愛媛県の漁区でした。そこに入漁するにはエビス金(入漁料)が必要でした。江戸時代の瀬戸内海は各エリアに漁業権が設定されて、自由に稼げる漁場はなかったのです。したがって、より有利な漁場を求めて新しいエリアに出かけて行く以外に、発展の道はなかったことになります。それに果敢にチャレンジしたのが家船漁民達だったのかもしれません。より有利な漁場を求め漂泊性を、高めることにもなります。また自分たちの漁業権を持たない流れ者の漁民として、出先では蔑視間を持って見られる事もあったようです。
 
明治14(1881)には、箱崎の漁業専業者が226戸であったことが記録されています。屋敷は161軒ですから60戸余りは、どこに住んでいたのか疑問になります。
 戸籍の上では、戸主の家族として記録せられます。そのため、 一戸当りの家族数は平均12~13人くらいになります。その生活実態は、「家船」で妻も子供も船に乗せて、海上漂泊生活(長期漁業)を送っていました。戸籍上は一世帯でも、一世帯が二隻か三隻の船に分住して、「核家族」で操業を行います。長い家船生活を終えて帰って来ると、次男・三男は本家の長男の家の一間に起居していたと云います。それが後に入江を埋め立てて土地ができると、そこへ分家分住する者が増え、したがって戸数も爆発的に増えます。家船の数は戦前の調査でも170隻程度で、明治から比べても増減はないようです。
 これだけ見ると数が増えていないように思えます。しかし、それは箱崎の「停滞」を意味するものではありません。彼らは「漂泊」し、条件が良いところを見つけては「移住」していったのです。その移住先をみると
広島県豊田郡吉名村[竹原市]
同郡大崎中野村[大崎上島]
同郡生口島[尾道市]
同県御調郡向島[尾道市]
山口県都濃郡太華村[周南市]
岡山県下津丼[倉敷市]
愛媛県岩城島[越智那上島町]
伯方島[今治市]
松山市三津浜
香川県岩黒島[坂出市]
本島[塩飽本島、丸亀市]
福岡県若松市
大分県鶴崎[大分市]
長崎県対馬
などが挙げられます。どこも釣漁を行なう仲間のようです。
 ここからは、狭い塩浜跡地に人口があふれると、船住居(家船)分家という方式を採用し、移住によって瀬戸内海から東シナ海へ膨張したことが分かります。これは、その他の家島漁民も同じような戦略を採用しています。
 瀬戸内海の港には、狭い土地に人が密集し、人口増大のエネルギーを抱えた場合に、周辺に開拓地がなければ、家船分家がが行われ、移住という方法が取られたことがわかります。これが近代には、ハワイや南米移住につながっていくのかもしれません。
瀬戸内海の中世の揚浜塩田を何回かに分けて見てきました。その中で私が学んだことは、中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることです。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 この条件がそろえば、中世に塩浜があったことが考えられるようです。

最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田全体について、研究者は次のようにまとめています。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④入浜塩田のように大きい資本を持つ者の開発の行なわれる所では、浜旦那と呼ばれる塩田経営者がみられる
⑤しかし、小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、それが大きな経営に発展していったような例は姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑥製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。因島箱崎は家船漁民に転進しているが、これは特例である。
⑦畑作農家への転進を助けたのは甘藷の流入である。江戸中期から甘藷の栽培が瀬戸内海の島々に急速に広がってくる。するとそれで食料の確保ができ、さらに段畑をひらいて人口を増やしていく。そして、時間の経過と共に完全に、海から離れて「岡上がり」している。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところと考えてみてよい
⑨しかし、揚浜製塩に従った人々のすべてが、製塩のやんだあと陸上がりしてしまったわけではない。因島箱崎の場合は、もう一度海へ帰っていった例である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

  


10 大崎上島広域

大崎上島(広島県)は竹原市の南にある島ですが、しまなみ海道もとびしま街道も通っていないので、船でないといけない芸予の島です。逆に見ると各方面から船便が出ていて、瀬戸の船旅が好きな私にとっては大好きな島のひとつです。山田洋次の監督の東京物語が撮られたのもこの島です。島東部の木江は、かつては御手洗をしのぐほど繁盛した色街があり、多くの船を惹きつけた所です。しかし、島の南部まで足を伸ばす人は少ないようです。

10 大崎上島tyuuiki

南部の沖浦は、古くから揚浜塩田があった所のようです。
 小早川義春から徳平への譲状に大崎上島猟浜とあるのはが沖浦のことのようです。いまも狩浜の名が残っていて、猟浜は猟浜浦と呼ばれているようです。
「浦」は漁民の村ですから、漁民が古くからいたのでしょう。いまもここは、純漁民の集落で、周囲の農民とは一線を画しているようです。農家は山麓に散在しています。この農家の先祖はいつどこからやってきたのでしょうか。もし、海から陸上がりした人たちの子孫だとすれば、現在の「浦」の漁民達がやって来る前になります。そうだとすれば、中世には農民化していたことになります。
 山が海にせまり、海岸に近い所にやや緩傾斜があり、そこが畑にひらかれています。今は、そこがみかん畑になっています。ここは「大長みかん」の産地です。
  寛永一五年(1638)の「地詰帳」には沖浦は
「田五町一反二畝一八歩、畑二〇町三反四畝二一歩」

とありますから、畑が水田の5倍になります。畑が断然多いようです。そして、塩浜が七反六畝一二歩です。沖浦の塩浜は一畝半から三畝が塩田一枚の単位です。
  「地詰帳」を整理した表2です。
ここには沖浦の構成員の田・畑・屋敷・塩浜の所有面積が示されてい
ます。例えば一番上の庄屋を務める助作は、田65畝、畑216畝、屋敷3畝、塩浜1,2畝を持っていたことになります。
10 大崎上島土地所有pg

塩浜に焦点をあてて見ると次のような事が分かります。
①43軒のうち、塩浜をもつのが24軒、
②塩浜所有面積の最大のものは七畝九歩、
③最小一畝一五歩であり、
④所有しない者が19軒
⑤屋敷を持たないもの10軒
 このような状況は、この時代までに売買による土地移動がかなり激しく行なわれていた結果と研究者は考えているようです。
もう少し表2を見てみましょう
 庄屋の助作は二町八反四畝二四歩という広い畑を持ちますが、屋敷は三畝二一歩しかありません。ここからは、彼は中世的な土豪の流れをくむ者ではないようです。土豪なら居館跡はもう少し広いはずです。もともと沖浦には、戦国時代には小早川氏の代官がいたはずです。ところが、秀吉による小早川氏転封とともに他に移り、古くからの生産者層のみが残ったと研究者は考えているようです。
 さらに研究者は細部まで検討して、次のような点を指摘します。
①標準農家は屋敷二畝を持ち、耕地は田畑合して一町一反余から一町五反ぐらいを所有する
②そういう農家が15戸ほどあったのが、分家によって屋敷と耕地を、均等に二つに分けたものが5つか6つ見られる
③屋敷を持たないで分家したものが10戸ある。
④売買によって移動した土地が若干ある。
以上から、最初は均等に分割されてい所有されていた土地が、時代と共に所有階層分化されてきていること。そして屋敷も持たず、少ない畑を所有する人たちは、漁民であったのではないかと考えるのです。
10 大崎上島グーグル

 揚浜塩田は、先ほども云ったように、狩浜といわれる所にあったと伝えられます。その塩田跡は、現在は集落になています。沖浦には、漁民が住み、アゲといわれる山麓集落には農民が住んでいますが、アゲの農民が漁業に進出することはなかったようです。
それでは、塩田経営を行っていたのは、どの集団なのでしょうか
 塩を造ったのは主としてアゲの農民達だったというのです。
彼らが、狩浜へ毎日塩を造りにアゲから下りてきていたようです。浦に住む漁民の中にも、塩浜を持つ人たちがいましたが、それは少数だったようです。塩浜を所有していた農民たちが、当初から農民だったのか、あるいは漁民が陸上がりして塩を焼いて定住して次第に農民化していったかは分かりません。沖浦では、塩を造った場所と、造る人たちの住んでいる場所は離れていて、塩浜跡ヘ住みついた人たちは塩浜の古くからの住人ではなかったということになるようです。
 以上を整理して、想像も加えて沖浦の歴史を物語化してみましょう。
①中世の早い時期に海民達が沖浦にやって来て揚浜塩田を開いた
②彼らは塩田後方の塩木山の裾野を切り開き開墾し畑とした
③こうして「製塩業+畑作農業」で生計を立て、農地に近いアゲに屋敷を構えた
④そこへ秀吉の海賊禁止令後に、村上水軍の一部がやってきて沿岸部に定着し「沖浦」を形成した
⑤かれらは沖浦の住民は漁民として生きる道を選び、先住民とは「棲み分け」をおこなった。
⑥揚浜塩田の経営が行き詰まると、塩田跡地は沖浦の漁民に売られ、そこに住宅地が密集するようになった。
⑦先住民は畑作専業化し、現在はみかん農家になっている。
揚浜塩田を拠点に海民によって開かれた「浜」に、解体された村上水軍の一部がやってきて「浦」をひらいたのが沖浦のようです。沖浦の二面性や重層性は、ここからきているのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一 塩の生活と民俗


   以前紹介した、朝鮮の日本回礼使として来日した宋希環が記した『老松堂日本行録』には、瀬戸内海を航行した時の様子が詳しく書かれていました。応永二七(1420)年のことで、足利将軍への拝謁を終えて、帰国する瀬戸内海で海賊に何回も出会ったことが記されています。その中に備前沖で、船に乗り込んできて酒を飲んでいった護送船団の司令官のことが書かれています。名前は「謄資職」と名乗っています。
「謄資職」という人物は何者なのでしょうか?
 謄は、藤原の「藤」姓を中国風に表記したもので、「資職」は香西氏が代々使う「資」の字があります。ここから資職は、香西氏の一族と推定できると研究者は考えているようです。この記事では、酒を飲ませたと記されていますが、実態は警固料を支払ったことを示すようです。備讃瀬戸を通過する船から香西氏が警固料をとっていたことがうかがえます。
 これから200年前のことです。鎌倉幕府成立直後は、西国に基盤を持たない源氏政権を見透かすかのように平家の残党と思われる海賊が活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、海賊を召し捕るように命じています。寛元四年(1246)3月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺の「海賊討伐」の最初の史料のようです。海賊討伐に名前を残している「藤左衛門尉」も姓は「藤」氏です。想像力を膨らませると、警護船のリーダーの「謄資職」は、「藤左衛門尉」の子孫かもしれないと思えてきたりします。そうだとすると香西氏は、鎌倉期から備讃瀬戸で海上軍事力をもった海の武士であったことになります。
  香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家です。そして備讃海峡の塩飽諸島から直島にも勢力を伸ばした領主です。対外的に名乗るときには「藤」氏を用いていたようです。南北朝期以降は守護細川氏に仕え、近畿圏で活躍し、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移したことは以前に、お話しした通りです。
 細川氏の瀬戸内海制海権実現のために、海上防衛体制を任務にしていた気配があります。

香西氏が備讃瀬戸の東域を管理していたとするなら西域を担当していたのが仁尾浦の仁尾浦の神人たちだったようです。
香西氏と考えられる「謄資職」が朝鮮からの使節団の警備を行った同じ年に、守護細川満元が次のような文書を仁尾の神人に出しています。
 兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、
甲乙人帯当浦神人等、於致狼籍輩者、可處罪科之状如件
 応永廿七(1420)年十月十七日 
                  (花押)
 仁尾浦供祭人中
意訳すると
 求めに応じて兵船を提供するなど平素からの忠節は、非常に神妙である。仁尾浦の神人が狼藉の輩を取り締まり罰する権利があるのはこれまで通りである

文書の出された年月を見ると、先ほどの文書と同じ応永27年になっています。ここからは仁尾浦の神人たちも朝鮮の日本回礼使の際に、守護細川氏の兵船として御用を努めていたことがうかがえます。
 神人たちは仁尾浦の賀茂神社に奉仕する集団でした。
賀茂社は原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を仁尾大津多島(蔦島)に勧進したのが始まりとされます。その後、堀河上皇が諸国に御厨を置きますが、そのひとつが蔦島周辺だったようです。こうして仁尾浦の住人は、賀茂社の神人として特権的な立場を利用して海上交易活動にも進出していきます。明徳二年に、細川頼元が別当神宮寺を建立して以後は、祭礼に毎年のように細川氏から使者が遣わされるようになります。守護細川満元は、仁尾浦御祭人中に対する京都の賀茂社の課役を停止し、代わって細川氏に対する海上諸役を勤めるように命じます。こうして仁尾浦は京都賀茂社の支配から、細川氏の支配下へ組み込まれていったようです。
 このように仁尾浦は、
①賀茂社神人らの海上交易・通商活動の拠点であり、
②守護細川氏の守護御料所として瀬戸内海海上防備の軍事上の要衝でもあり
③直接支配のために香西氏が浦代官として派遣された。
仁尾浦が背後に七宝山が迫る耕地の狭い地形でありながら「地下家数五六百軒」を擁する町屋を形成していたのは、海上交易による経済力の大きさがあったからのようです。

 仁尾浦の警固衆は海賊衆から発展したのではなく、賀茂神社の御厨(みくり)として設置された社領の神人たちから形成されました。そのために守護直属の海軍力として、すんなりと変更できたのかもしれません。ここからは
①管領細川氏(備中・讃岐守護)による備讃瀬戸の海上交易権の掌握
②その実働部隊としての讃岐・香西氏
③香西氏配下の海上警備部隊としての仁尾・塩飽・直島
という海上警備・輸送部隊が見えてきます。このような警備網が整っていないと、安心安全に瀬戸内海の交易活動は行えません。また、京都の富の多くは瀬戸内海を通じて西国からもたらされていたのです。そして、非常時には細川氏は瀬戸内海海上輸送ルートで讃岐の武士団を招集していました。そのためにも、瀬戸内海交易ルートの防衛は、重要な意味を持っていたと研究者は考えているようです。
 小豆島の海賊衆 
小豆島の史料の中にも海賊(海の武士団)の姿が見えるようです。
 永享六年(1434)に、小豆島周辺に海賊が横行しているために、幕府は備後国守護山名氏に遣明船警固を命じています。この海賊衆は小豆島を拠点とした一団であったと考えられます。
 これより以前の南北朝期に、備前国児島郡の佐々木信胤は、小豆島へ渡り、島の海賊衆を支配下におき、南朝勢力として活動します。信胤は南朝方の紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、備讃瀬戸の制海権を握ろうとしたようです。その拠点が小豆島だったと考えられます。

しかし、直接的に小豆島の海賊衆の存在を示す史料はないようです。
 室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下にあり東讃守護代の安富氏によって管轄されていました。『小豆島御用加子旧記』には、細川氏のもとで小豆島は加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
  室町後期の小豆島池田町の明王寺釈迦堂の文字瓦に、次のようなことが記されています。
 大永八年(1528)戊子卯月二思立候節、細川殿様御家 大永六年より合戦始テ戊子四月に廿三日まて不調候、
児島中関立中堺に在津候て御留守此事にて無人夫、
本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀仏も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年廿七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ

意訳すると
 この文書は「大永七年(1527)に、細川晴元が軍勢を率いて堺へと渡り細川高国と戦った。その際に晴元は、児島と小豆島の海賊(海の武士集団)から兵船を徴発した。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余堺に出陣し、島を留守にしたために人夫も手当てできなかった。
  ここには「児島中関立中 堺に在津候て」と「関立」がでてきます。「関立」とは、当時の海賊の呼称であったことは以前お話ししました。小豆島にも大永年間には、海賊衆(水軍)が存在していたようです。また、その海賊衆は細川晴元の命令で動いているようです。
  天文18年には晴元と三好長慶が摂津で戦いますが、東讃守護代の安富氏は晴元に従わずに戦いには参加していません。そのためか晴元は敗れています。この時には小豆島は安富氏に領有されていたようです。小豆島の海賊(海の武士団)の命令系統は、次のように考えられます
  ①管領・細川氏→ ②東讃守護代安富氏→ ③小豆島の海賊衆

 その後の島の海賊衆の動きが見える史料はありません。
ただ『南海通記』は、島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記します。細川氏の御用下で、塩飽と同じように能島村上氏の支配下に当たっています。しかし、その状況を示す史料はなく、詳しいことは分からないようです。

以上見てきたことをまとめると
①管領細川氏は西国支配のために瀬戸内海海上ルートの防衛体制に心を砕いている
②備中と讃岐を自分持ちの国として、その間の備讃瀬戸の制海権確保に努めた。
③その際に、香西氏や仁尾浦・小豆島の海上力を利用している
④讃岐と近畿との海上輸送が確保できていたために、讃岐武士団の近畿への動員もスムーズに進み、細川家の政治運営に大きく寄与した。
⑤細川家衰退後には備讃瀬戸には、能島村上氏の力が及ぶようになり、塩飽や小豆島はその支配下に置かれることになる。
⑥また弱小の海上軍事勢力(海賊衆)は、存在意味をなくし衰退し、丘上がりをするものも現れた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂   讃岐海賊衆の存在  瀬戸内海地域史研究8号2000年



 応仁の乱が始まった翌年の9月に前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、中村と上方の間を堺港を利用して何度も往復しています。そのため堺を支配する細川氏との関わりも深かったようで、『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。

「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

 一条氏の急速な台頭の背景には、日明貿易に参入し、巨大な利益を上げていたという説があるようです。一条氏の日明貿易の実態について探ってみることにします。

一条氏を祀る一條神社 本社拝殿と天神社(四万十市)

まず一条氏対明貿易参加説です。
この説は戦前の昭和十年(1935)に野村晋域氏が「戦国時代に於ける土佐中村の発達」で、発表されました。この論文では、次の2点が指摘されました。
①土佐一条氏が対明貿易に参加していたこと
②土佐中村の外港下田が遣明船の寄港地であったこと
  その根拠として示されたのが一条氏が巨大な貿易船を作っているということでした。
その貿易船について、少し詳しく見ておきます。
 天文五年(1536)四月に貿易船建造のために一条氏が土佐国幡多郡から木材を切り出している史料が見つかったようです。しかし、一条氏に貿易船建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラーであった板原次郎左衛門は、この依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如上人は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。この結果。天文6年(1537)年三月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったことが見え隠れします。
日明貿易1

中世の交易船

 中村で船の組み立てが終了すると、板原次郎左衛門は艤装のために船を紀州に廻航しています。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如上人は堺まで出向き密かに見物しています。この船は上人にとっても意味のある船だったようです。こうして、一条氏は堺の技術力で貿易船を建造しているのです。

日明貿易3

この時期から日明貿易で手に入れたと考えられる品々を毎年朝廷に貢納するようになります。
さらに、一条氏は平均子疋を朝廷に献金し、一万疋を出して官位を得ようともしています。つまり一条氏の経済力の向上が見られるというのです。このような史料や状況証拠をもとに
「貿易船建造の史料での確認 + 経済力の向上」= 一条氏の対明貿易参加説

が出されることになったようです。
 戦後に出された「高知県史 古代中世編』でも
「一条氏は大坂の石山本願寺や堺と緊密な連絡を保ちながら、日明貿易に関与していたのであろう」

と、石山本願寺と堺商人などと共に対明貿易に参加したと推論します。これが定説でした。
09-05-15 土佐一條公家行列「藤祭り」

これに対して一条氏対明貿易不参加説が戦後になって出されます。
小松氏は
「下田港で唐船は造ったらしいが、貿易は中途挫折してゐる」

として、一条氏の対明貿易不参加説を示します。。
 小松氏に続いて下村敷氏も『戦国・織豊期の社会と文化』で
「対明貿易で手に入れたとされる珍しい外国商品は堺の商人によって、土佐国に販売されたものである」

と小松氏の説を補強します。つまり、天文期には、土佐中村はすでに堺の商圏に入っており、外国商品は一条氏が対明貿易で得たものではないという考え方です。
 これに対して『中村市史』は
「土佐一条氏は対明貿易船の実際経営に当る堺商人と関係を結んでいたことを思えば、堺商人を介して対明貿易に関与したことは十分考えられる」

とします。裏付けとして、天文九年正月一条氏から石山本願寺の当主に贈った唐犬や、朝廷への献上品を挙げて参加説を支持しました。
どちらかというと、地元の高知は関与説のようです。
 しかし、下村氏はその後の論文で、堺商人を大内派と細川派に分けて考察し、天文八年四月に渡海した遣明船のうち、1・2号船の二隻は博多商人が担当し、3号船は
「堺衆でも大内氏と結んでいた片山与三衛門・池永宗巴・同新兵衛・盛田新左衛門などが乗船、細川方の堺衆木屋宗観・小西宗左衛門などが計画していた土佐中村建造の渡唐船は、この時ついに渡海しなかった

ことを明らかにします。『中村市史』が裏付けとする天文8年7の朝廷への献上品、さらに天文9年正月、一条氏が鐙如上人に贈ったとされる唐犬などは、天文8年4月に遣明船によってもたらされたものではなかったのです。これで、一条氏が対明貿易に関与したとする論拠が崩れました。
現在では、一条氏対明貿易不参加説をとる研究者の方が多いようです。その根拠を見ておきましょう。
第一に一条氏が堺商人と共に参加していれば、もっと多くの外国商品が中村市場に出廻り、朝廷へも多種類の品物が献納されたはずであると研究者は考えているようです。貿易船を運用していたにしては、もたらされている貿易品が少なすぎるということです。
 勘合による遣明船の輸出入品は、輸出品は刀剣・鎧・硫黄・銅を主とし、扇・蒔絵・屏風・硯・漆器などがあり、輸入品は銅銭を主とし、生糸・高級織物・錦・書籍などでした。これらの流通が中村周辺では見られないようです。

日明貿易2
第二は、貿易船の乗組員です。
天文8年4月に五島奈留浦より渡海した遣明船の乗組員は
①1号船 官員15人・商人112人・水主58人・合計185人
②2号船 官員 5人・商人 95人・水主40人・合計140人
③3号船 官員 6人・商人 90人・水主38人・合計134人
となっています。相当数の商人・水主を確保しなければならないことが分かります。さらに明国への進物の経費・勘合請料の支払もあります。これらの費用の一部は乗船料・荷駄料から支払われるとしても、一隻の請料は巨額の費用が必要でした。そのため貿易船は、多くの商人が資金を出し合って運営されたいました。また帰国後の輸入品販売のための市場確保も課題です。このような山積みされた課題に一条氏が対応できたのでしょうか? 
 先ほど見た貿易船の建造や水夫(かこ)にしても、堺や紀伊に頼らなければなりませんでした。博多や堺に割って入る形で一条氏が参入できたと考える研究者は少ないようです。
一条教房|中村めぐり

 一条氏が貿易に関与していないとすれば、朝廷や貴族たちに進物した外国商品は、どこから得たのでしょうか
この時期になるとは堺の商人が土佐にやって来るようになります。
琉球との交易の際に、立ち寄ることが多くなったようです。つまり、土佐は堺の交易圏だったのです。その際に、対明貿易で仕入れた商品がもたらされたと研究者は考えているようです。
 それ以外にも一条氏と大内氏の姻戚関係が成立し、大内義興の女が一条房冬に嫁いで、大永四年若君を出産しています。後にはその若君が、大内氏に迎えられ義隆の養嗣子となり晴持として元服します。彼は天文12年5月月に20歳で亡くなりますが、大内晴持の実家は一条氏です。大内家と一条家は強い姻戚関係で結ばれていました。そのため大内義興・義隆父子は、博多商人が遣明貿易でもたらした珍しい高価な品物を、一条氏に進呈したことは十分考えられます。
 つまり一条氏が手に入れた中国からの舶来品は、堺商人や大内氏を通じて手に入れたものだとします。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...

また一条氏が南蛮物を手に入れる手段としては、琉球船の来港がありました。琉球船は土佐清水に入港し、そこに南蛮の品々を下ろしていたようです。この交易活動の背後にも、大内氏の支援があったようです。
 このように、一条氏が朝廷や三条西実隆・鐙如上人らに進物とした外国商品は、堺の商人によって土佐へもたらされたものや、当時婚姻関係で結ばれていた大内氏から送られた物が多かったのではないかと研究者は考えているようです。
参考文献
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年

 海民から海賊へ、そして海の武士へ
  室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。このような「海賊=海の武士団」のような性格の勢力は讃岐にもいました。それが多度津白方や詫間を拠点とした山地氏のようです。 今回は讃岐の海賊・山地氏を探ってみましょう。テキストは「田中健二 中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要」です 

塩の荘園弓削(ゆげ)庄を押領した海賊たち
 海賊行為は南北朝の動乱の中で活発化します。
芸予諸島の弓削島は、塩の荘園として京都の東寺の荘園でした。しかし、南北朝以後になると小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に派遣し、荘園下地を獲得することに成功しています。それに要した費用を計算した算用状の中に、能島村上氏が次のように登場します。

野島(能島)酒肴料、三貫文」

これは、野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。 このように能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力の姿で記録に残っています。

3弓削荘1
 ところが約百年後の康正二(1456)年には、村上氏は押領側として、次のように記されています。
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一〔康正三年(1456)村上治部進書状〕
弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに、(あきの国)小早河少泉方、(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路方、(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉、山路ハ細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、御さいそく二よつて公物等をもさた申候ハヽ、少分にても候へ、とりつき可申候
 ここには、応仁の乱の直前にの1456(寛正3)年に、島の経営を任されていた東寺の僧が弓削島から塩が納入されない背景を報告しています。その理由として挙げているのが、周辺勢力のからの押領です。押領者として挙げているのが次の3者です
①(あきの国)小早河少泉(小泉)氏
②(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)氏、
③(いよの国)能島両村(村上氏)
  5年後にも、次のような記録があります
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七

①の小早川少泉(小泉)氏は、後の毛利元就の息子隆景が養子として入ってきて、大大名に成長していく小早川氏の一族です。小早川氏が三原を拠点に、東寺の荘園を横領しながら芸予諸島に勢力を伸ばしていく様子がうかがえます。
③は能島ですから能島村上氏のことです。後の海賊大将といわれる村上武吉が登場してくる所です。
京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘

 安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、能島村上氏と共に、讃岐国の山地氏は弓削荘を「押領」している「悪党=海賊」と東寺に訴えられています。村上氏は百年前には警固役だったのが、応仁の乱の前には押領(海賊)側になっています。ここからはこの時代の「海賊」には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
   ①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
 ②荘園押領(侵略)を行う海賊
 香川県の研究者が注目するのが「(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)方」です。
この「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいたこと、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

3 天霧山4
  香川氏の天霧城

 気になるのが白方の山地氏と多度津の香川氏の関係です。
香川氏は、讃岐守護細川氏の下で西讃の守護代を務めていました。居館を現在の多度津桃陵公園に置き、堅固な山城を天霧山に築いて丸亀平野や三野平野に睨みをきかせていました。山地氏の拠点白方は、そのお膝元になります。

3白方Map

 白方は、弘田川河口にあった古代多度郡の港です。
古代善通寺勢力の外港は白方港でした。盛土山古墳を初めとする古墳群が港周辺の小高い丘に並びます。弘田川の堆積作用を受けて、港としての機能が低下し、ラグーンの入江奥の堀江港にその地位を譲ります。堀江港の管理センターの役割を果たしたのが四国霊場道隆寺だったことは以前にもお話ししました。

3 堀江

 戦国時代の末期に、信長との石山合戦の戦局打開のために毛利軍が讃岐に押し寄せてきます。信長方の阿波三好勢力と元吉(櫛梨)城をめぐって戦った元吉合戦ですが、その際に毛利軍が上陸してきたのは堀江港でした。桃陵公園下の多度津の港が本格的に活動を始めるのは近世以後のようです。多度郡の港は 
①古代 白方港 → ② 中世 堀江港 → ③近世 多度津
と変遷していることは以前にお話ししました。

3 天霧山5

   話を山地氏と香川氏の関係に戻しましょう
 瀬戸内海の海の関所の通行記録である『兵庫北関入船納帳』には、多度津港を母港とする船も記録されています。多度津の船は、香川氏管理下にあって、京都在住の守護細川氏にいろいろなものを送り届けたので免税扱いとなっています。ここで注意したいのは、守護代香川氏の便船を動かしていた船乗りたちは、どんな海民たちだったかということです。第1候補は、白方を拠点とする山地氏ではなかったのかと研究者は考えているようです。
 以上から推察できることをまとめておきます。
①山地氏は詫間城を本拠にしながら、香川氏の配下として天霧城の外港である白方を守っていた
②山地氏は香川氏の水軍の指揮官で、近世の船手に当たる存在だった。
3 天霧山2

研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、同池戸村(三本松)中城跡 安富端城也、後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、詫間ノ城ノ城主ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。
三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。
『翁嘔夜話』讃州府志の三野郡の項目
山地右京進城
在詫間、至山地九郎左衛門、徒千三木郡池戸城、天正十三年没、其臣冒姓、子孫於今為庶、秋山、山地泣原甲州人、従細川氏而来
意訳すると
 山地右京進の城は詫間にあり、山地九郎左衛門の時に、三木郡池戸城に移った。天正十三年の戦役で没落し、一族は下野した。秋山・山地氏は、もともとは甲州出身で、守護の細川氏とともに讃岐にやって来た

以上のように近世になって書かれた上の二つの資料からは、次のようなことが読み取れます。
①山地氏は甲斐国出身の武士で、右京進の時に三野郡詫間城が本拠
②山地右京進の時に、西讃守護代の香川氏の配下へ
③その子の九郎左衛門の時に、三木郡池辺城へ移動
④山地氏は、秀吉の四国制圧で没落
⑤生駒氏に重臣として登用された三野四郎左衛門は山地氏の子孫
疑問になるのは、どうして山地氏が詫間から三本松へ移されたかです。それはひとまず置いておいて先に進みます。
山地氏が香川氏の臣下となったとありますが、別の資料で確認します。
「壼簡集竹頭」所収文書 東京大学史 高知県立図書館原蔵
〔香川信景感状写〕
去十一日於入野庄合戦、首一ツ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也、
天正十一年五月二日           信景
山地九郎左衛門殿
(注記)
高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利奄侍之、此九郎左衛門香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子手、
  この文書は、注記に見えるように、香川氏と共に高知に亡命した山地家に残されていたものです。内容は天正11年(1583)4月21日に行なわれた大内郡入野庄での合戦で、山地九郎左衛門が挙げた軍功を香川信景が「首一ツ討捕、無比類働神妙候」と賞したものです。ここからは山地氏が香川氏の配下にあったことが分かります。
 この中に見える九郎左衛門は『讃陽古城記』と『翁嘔夜話』から山地右京進の息子で、三木郡池戸城へ移り天正十三年に没したと記されていた九郎左衛門と同一人物のようです。山地家は右京進のあとは、九郎左衛門と左衛門督の二家があり、九郎左衛門の子孫は香川信景の養子に従い土佐へ亡命し、左衛門督の子孫は讃岐に残ったようです。
 讃岐に残った一族が、先ほど資料で見た「生駒家で重臣に登用された三野四郎左衛門」の祖先になります。 
 山地氏も香川氏の家臣団に編入されていたことが分かります。

 山地氏は海賊であると同時に、香川氏の「水軍」部隊として活躍していたことが分かります。
九郎左衛門が詫間から三木郡へ移住したのも、香川氏の命令だったのでしょう。当時の香川氏の課題は、東讃の十川氏や阿波の三好氏と対立をどう有利に運ぶかでした。そのために海軍力を持ち機動性の高い山地氏を東讃に送り込んだと研究者は考えているようです。この文書では九郎左衛門が大内郡で戦い、その論功行賞を香川氏が行っています。戦った相手は、十川氏や三好氏だったのではないでしょうか。

3 天霧山からの庄内半島
天霧城より望む備後福山方面

山地氏が香川氏直属の海軍として、あるいは輸送部隊として活躍したと推察できる資料として、研究者は次の資料を挙げます。
18世紀初頭の『南海通記』の「細川晴元継管領職記」で、今からちょうど500年前のことが次のようにあります。
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守之長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク

出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元
西方関亭中

  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について当時の情勢を説明した内容で3段に分けることが出来ます。
 まず一段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 第2段に「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用します。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」
 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
発給元は細川晴元 宛先は「西方関亭中」とあります。これも謎です。最後に晴元書状については、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

 宛先の「西方関亭中」とは誰のことでしょうか。
研究者や次のように解読していきます。
中世の讃岐国で「西方」と呼ばれるのは、室町時代以降は、両守護代安富・香川両氏の管轄地をそれぞれ東方、西方と呼んでいるようです。つまり、西讃地方の「関亭中」となります。
それでは「関亭中」とは何のことでしょうか。
宛先の「○○中」の表記は、たとえば、名主中、年寄中のようにある集団を指すようです。現在の「○○御中」と同じ使い方です。最後に残ったのは「関亭」です。これは、「関立」の誤読だと研究者は指摘します。それでは「関立」とは何でしょうか.
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書一九九七)の第六章「海賊と関所」に次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
「関立」(海賊)を「山立」(山賊)と比較すると、「山立」は縄張りとしている山を通行する人々から「山手」という通行料を徴収します。それに対して「関立」は「海手」を徴収します。つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。
 「関立」とは海賊のことのようです。
ちなみに、小豆島の明王寺釈迦堂の瓦銘には「児島中、関立中」と刻まれています。これは、今風に訳すると、児島中は備前児島の海賊、そして関立中は小豆島の海賊ということになります。小豆島にも海賊=海の武士集団がいたようです。

 宛先の「西方関亭中」は「西方関立中」で「西讃の海賊へ」ということになります。
そして、書状が山地家に保管されていました。これは「西方関亭中=山地氏」ということでしょう先ほどの細川晴元の書状を「超意訳」すると
「軍勢の準備が出来たので、明日そちらに向かわせる。輸送船を準備し早急に瀬戸内海を渡り畿内に輸送するように命じる。このことは香川氏の了解も得ている。
ということになります。
 ここからは 
①守護細川氏 → ②守護代香川氏 → ③水軍 山地氏
という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。
 讃岐には塩飽の島々以外にも、海賊はいたようです。

以上をまとめておくと
①山地氏は、塩の荘園弓削庄を押領する海賊であった
②一方で詫間城主として、西讃守護代香川氏に仕える「海の武士団」でもあった
③山地氏は香川氏の海軍・輸送船団として、管領細川氏の軍事行動を支えた。
④山地氏の拠点港としては、天霧城の麓の白方港が考えられる。
⑤山地氏は香川氏の対三好・十川戦略のために三本松に拠点を構え戦った
⑥長宗我部の讃岐侵攻の際には、香川氏と共にその先兵を務めた
⑦秀吉の四国制圧で、山地氏の本家は香川氏について高知に亡命した
⑦山地氏の分家は、讃岐に留まり生駒藩では重臣として登用されるものもいた。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
橋詰茂 「室町後期讃岐国における港津支配」    四国中世史研究1992年
田中健二「中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要
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6塩飽地図

西行が備中真鍋島で詠んだ中に
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわくの島に渡り、商はんずる由中けるをききて、真鍋よりしわくへ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

とあります。ここからはしわく(塩飽)が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことが分かります。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになったようです。
 時代は下って『イエズス会年報』やフロイスの『日本史』に、塩飽は常に「日本著名なる」としてされ、度々寄港している様子が報告されています。このように、塩飽は古代から瀬戸内海における船の中継地として栄えてきました。その塩飽の水軍について見ていきます。
       塩飽荘の立荘と塩生産 
海上交通の要地には、早くから荘園が立荘されます。塩飽もそうです。初見は保元元年(1156)の藤原忠通書状案言に添えられた荘園目録に「塩飽讃岐国」と見えます。塩飽荘は藤原頼通の嫡子師実のころには摂関家領となっていて、その後、次のように所有権が移ります
 摂関家藤原忠実 → 愛人播磨局 → 平信範女 

そして、源平合戦の時には、平氏の拠点となっています。平氏が摂関家領の塩飽荘を押領していたのかもしれません。
 鎌倉時代末期には、北条氏の所領となりますが、建武の新政で没収され、南北朝の動乱を経て、幕府より甲斐国人小笠原氏に与えられたようです。当時の塩飽荘の実態は分かりませんが、『執政所抄』の七月十四日御盆恨事の項に
塩二石 塩飽御荘年貢内」

とあるので、年貢として塩が納められていたことが分かります。
 また『兵庫北関入船納帳』からは、塩飽の塩がいろいろな船によって大量に運ばれていることが分かります。塩飽も芸予諸島の弓削荘と同じように、「塩の荘園」だったようです。
 塩の荘園であった塩飽の海民は、塩輸送のため海上輸送にたずさわるようになります。「瀬戸内海=海のハイウエー」のSA(サービスエリア)として、多数の船舶が寄港するようになります。塩飽の港まで来て、目的地に向かう船を待つという資料がいくつもあります。塩飽はジャンクションの役割も果たしていました。
 また、通行に慣れない船のためには、水先案内もいたでしょう。こうして、塩飽の海民は海上に果り出す機会が多くなり、やがては自らの船を用いて航行するようになります。船は武装するのが当たり前でした。自然に「海賊衆」の顔も持つようになります。これはどこの海の「海民」も同じです。この時代の海民は専業化していません、分業状態なのです。

3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

海賊討伐をきっかけに備讃瀬戸に進出した香西氏
 
藤原純友の乱以前から瀬戸内海には「海賊」はいました。平清盛が名を挙げたのも「海賊討伐」です。鎌倉時代中ごろになると、再び瀬戸内海に海賊が横行するようになります。そこで寛元四年(1246)讃岐国御家人・藤左衛門尉(香西余資)は、幕府に命じられて海賊追捕を行っています。この時のことが「南海通記』に次のように記されています。
 讃岐国寄附郡司、藤ノ左衛門家資兵船ヲ促シ、香西ノ浦宮下ノ宅二勢揃シテ、手島比々瀬戸二ロヨリ押出シ 京ノ上茄ニテ船軍シ、柊二降参セシメ百余人ヲ虜ニシテ京六波羅二献シ、鎌倉殿二連ス、北条執事感賞シ玉ヒテ、讃州諸島ノ警衛ヲ命ジ玉フ、家資即諸島二兵ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽二我ガ子男ヲ居置テ諸島ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、是宮本氏高原氏ノ祖也―又宮本トハ家資居宅、宮ノ下ナル欣二宮本ト称号スル也。

 『南海通記』は、享保四年(1719)に香西成員が古老たちの聞き書きを資料に著した書で、同時代の記録ではありません。また滅び去った香西一族の「顕彰」のために書かれているために、どうしても香西氏びいきで、史料的価値に問題があると研究者は考えているようです。しかし、讃岐にとっては戦国時代の資料では、これに代わるものがないのです。「史料批判」を充分に行いながら活用する以外にありません。

3 香西氏 南海通
南海通記

 ここでも香西氏の祖にあたる香西家員が登場してきます。内容に誇張もあるようですが『吾妻鏡』の記事と同じような所もあります。確認しておきましょう。
①讃岐の郡司である藤ノ(藤原)左衛門家資が海賊討伐のための兵船出すことを命じた。
②香西ノ浦宮下に集結し、海に押し出した。
③京ノ上茄(地名?)で戦い、百人余りを捕虜にして京都六波羅に送った
④鎌倉殿に連なる北条執事は感謝し、讃州の島々の警護役を命じた
⑤香西家資は諸島に兵を駐屯させ、直島塩飽には息子達を派遣して支配させた。
⑥これが塩飽の宮本氏や直島の高原氏の祖先である。
⑨香西氏の子孫は、宮ノ下(神社下)に館があったので宮本と呼ばれるようになった
  以上からは
①香西氏は海賊討伐を契機に備讃瀬戸に進出した。
②海賊を討伐し、備讃瀬戸エリアの警備をまかされた
③警備拠点として直島・塩飽に館を構えた
④海賊退治を行った香西家資の子が塩飽海軍の宮本氏の祖
⑤宮本氏により塩飽の海賊衆は統轄されるようになる。
これが塩飽海賊草創物語になるようです。

3  塩飽  山城人名墓

こうして、香西氏の子孫である宮本家が塩飽海賊=海軍のリーダーとして備讃瀬戸周辺に勢力を伸ばしていくようです。しかし、塩飽海賊衆が史料上に名を表わすようになるのは南北朝期に入ってからです。

3 香西氏
 
朝鮮の使節団長と船の上で酒を飲んだ香西員載
 以前にも紹介しましたが、室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。その団長である宋希璟(老松堂はその号)が紀行詩文集「老松堂日本行録」を残しています。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。
 足利将軍との会見を終えての帰路、播磨(室津)から備前下津井付近を通過します。目の前には、本島をはじめとする塩飽諸島が散らばります。海賊を恐れながらびくびくしてた宋希璟の船に、護送船団の統領らしき男が乗り込んできて、一緒に酒を飲もうと誘ったというのです。男は「騰貴識」は名乗りますが、これは香西員載のことのようです。彼は、将軍から備讃瀬戸の警備を任された香西氏の子孫に当たるようです。「老松堂日本行録」からは「騰貴識=香西員載」が警国衆を率いる立場にあったことが分かります。この時期の塩飽や直島は香西氏の支配下にあり、水軍=海賊稼業を行っていたことが分かります。
 15世紀の香西氏に関する資料をいくつか見ておきましょう。
①1431年7月24日
 香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。 香西氏は、この時まで丹波の守護代を務めていたことが分かります。
②嘉吉元年(1441)十月 「仁尾賀茂神社文書」
 讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。
                  
③同年七月~同二年十月(「仁尾賀茂神社文書」県史11 4頁~)
 仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護 細川氏に訴える。
②からは香西氏が三豊の仁尾の浦代官を務めていたことが分かります。先ほどの朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は用船を命じられています。これは、浦代官である香西氏から命じられていたようです。
③は父(元資)が亡くなり、子の香西豊前になって、仁尾ともめていることが分かります。香西氏が直島・塩飽などの備讃瀬戸エリアだけでなく、燧灘方面の仁尾も浦代官として押さえていたようです。仁尾は軍船も出せますので、燧灘エリアの警備も担当してたのでしょう。
④長享三(1489)年八月十二日(「蔭涼軒日録」三巻) 
 細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
同年八月十三日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻四七一丁三頁、
 
④からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。当主の香西元資は、香川元明、安富盛長、奈良元安と共に「細川四天王」と呼ばれるようになります。その頃に開かれた「犬追物」には香西一族が300人も集まってきて、細川政元と交遊しています。
  いつものように兵庫関入船納帳で、塩飽船の入港数と規模を見ておきましょう。
兵庫北関2
上から2番目が塩飽です    
①入港数は、宇多津について讃岐NO2で37回です
   ②船の規模は300石を越える大型船が8隻もいます。船の大型化という時代の流れに、最も早く適応しているようです。
  積み荷についても見ておきましょう。
3 兵庫 
③ 塩が飛び抜けて多く「塩輸送船団」とも呼べるようです。
④その他には米・麦・豆などの穀類に加えて、山崎胡麻や干し魚もあります。
能島村上氏による塩飽支配
 細川政元の死後、周防の大内氏が勢力を伸張させるようになります。永正五年(1508)に大内義興は足利義枝を将軍職につけ、細川高国が管領、義興が管領代となります。義興は上洛に際し、東瀬戸内海の制海権の掌握のために次のような動きを見せます。
①三島村上氏を警囚衆として味方に組み込みます。
②さらに、大友義興は能島の村上槍之劫を塩飽へ遣わして、寝返り工作をおこないます。
これに対して、香西氏は細川氏から大内氏に乗り換えます。
そして、塩飽衆も大内氏に従うようになったようです。大内義興の上洛に際し、警固衆として協力した能島村上氏に、後に恩賞として塩飽代官職が与えられています。こうして、塩飽は能島村上氏の配下に入れられます。この時期あたりから能島村上氏の海上支配エリアが塩飽にまでのびていたことが分かります。塩飽は香西氏に属しているといいながらも、実質は能鳥村上氏の支配下におかれるようになったようです。
大友氏は、積極的な対外交易活動を展開します
 大内義興は、明へ貿易船を派遣して、その経済的独占をはかろうとするなど交易の利益を求め、活発な海上活動を展開します。その中に村上水軍の姿もあります。当然、塩飽も動員されていたことが考えられます。
永正十七年(1520)朝鮮へ兵船を出した時、塩飽から宮本佐渡守・子肋左衛門・吉田彦右折門・渡辺氏が兵船三艘で動員されています。この時期には、備讃瀬戸に限らず朝鮮海峡を越えて朝鮮・明へも塩飽衆の活動エリアは拡大していたようです。これが倭寇の姿と私にはダブって見てきます。
村上武吉の塩飽の支配 
永正年間(1504~)には能島村上氏が塩飽島の代官職を握り、塩飽はそれに従うようになります。それから約50年後の永禄年間に村上武吉宛の毛利元就・隆元連署状がだされています。そこには
「一筆啓せしめ候、樹梢備後守罷り越し候、塩飽迄上乗りに雇候、案内申し候」
とあり 能島の村上武吉に塩飽までの乗船を依頼しています。
また、永禄末期ごろに、豊後の大友宗麟の村上武吉宛書状には、大友宗麟が堺津への使節派遣にあたり、村上武吉に対して礼をつくして堺津への無事通行の保証と塩飽津公事の免除とを求めています。
  これらから能島村上武吉が塩飽の海上公事を握っていたことが分かります。
村上武吉は、塩飽衆へ次のような「異乱禁止命令」を出しています
「本田鸚大輔方罷り上においては、便舟の儀、異乱有るべからず候、其ため折帯(紙)を以て申し候、恐々謹言、 永禄十三年
塩飽衆が備譜瀬戸を航行する大友氏の船に異乱を働いていたことを知り、これを止めさせる内容です。備讃瀬戸の制海権を握り、廻船を掌握していたのは村上武吉だったのです。堺へ航行する大友船にとって、塩飽海賊のいる備譜瀬戸は脅威エリアでしたが、これで塩飽衆は大友船には手が出せなくなります。
天正九年(1581)の宣教師ルイス・フロイスの報告書によれば、塩飽の泊港に入港したときのこととして、能島村上の代官と、毛利の警吏がいたと記しています。
 村上武吉の時代には、能島村上氏の制海権は、西は豊後水道から周防灘、東は塩飽・備前児島海域にまでおよんでいたことになります。備譜瀬戸の塩飽を掌握下におくことは、東西の瀬戸内海の海上交通を掌握することになります。そのためにも戦略的重要拠点でした。このように戦国時代の塩飽は、能島村上氏の支配下にあり、毛利氏の対信長・秀吉への防衛拠点として機能していたようです
 児島合戦に見る塩飽衆の性格は? 
 戦国末期になると、安芸の毛利氏は備中・美作を攻略し、備前にも侵入しようとします。当時備前は浦上宗景・浮田直家の支配下にありました。元亀二年(1571)勢力回復をはかる三好氏は、阿波・讃岐衆を篠原長房が率いて児島へ出陣します。この戦いを児島合戦と呼び、阿讃衆騎馬450、兵3000が出陣したと伝えられます。
 香西元歌(宗心)は、児島日比浦の四宮隠岐守からの要請で参陣します。この時に、香西軍の渡海作戦に塩飽衆が活躍したと云います。香西氏が古くから塩飽を支配しており、香西軍の海上勢力の一翼を担ったのが塩飽衆であっことは触れました。
 塩飽の吉田・宮本・瀬戸・渡辺氏は、直島の高原氏とともに船に兵や馬を乗せて瀬戸内海を渡ったのです。当時の児島は「吉備の穴海」と呼ばれる海によって陸と離れた島でした。そのため水軍の力なしで、戦うことはできなかったようです。塩飽を味方につけることは最重要戦略でした。この時には、塩飽に対し事前工作が毛利方からも行われていたようです。毛列氏は村上水軍を主力に水軍を編成しますが、塩飽衆もその配下に組み込まれたようです。
小早川陸景が配下の忠海の城主である乃美(浦)宗勝へ送った書状に
 「塩飽において約束の入、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすベしは、申すに及ばず」
とあります。毛利氏の塩飽衆を陣営に抱え込み、敵側の兵船とならないよう監視するとともに、塩飽衆と宇多津のかかわりを恐れていたことがうかがえます。水軍なしでは戦えない瀬戸内海の状況を示すと同時に、備讃瀬戸における塩飽衆の存在の大きさが分かります。
  塩飽衆は「水軍」ではなく「廻船」?
 児島合戦を見ていて分かるのは、塩飽は参陣していますが、それは兵船の派遣であり、海上軍事力としてはカウントされていないことです。操船技術・航行術にたけた海民集団ですが、軍事カというより加子(水夫)としての存在が大きかったように見えます。言い方を変えると、船は所有していますが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員はいなかったと研究者は考えているようです。
村上氏が塩飽支配を行ったのは、一つに塩飽衆の操船・航行術の必要性と、加子・兵船の徴発にあったと思えます。瀬戸内海制海権を握りたい能島村上氏にとって、備讃瀬戸から播磨灘にかけて航行することの多い塩飽船を支配下に組み込めば、下目から上目すべての航行を操ることができることになります。
 また別の視点から見れば、瀬戸内海東部航路を熟知していない能島村上氏には、熟知している塩飽衆が必要だったとも云えます。先ほど見たように『兵庫北関入船納帳』に出てくる塩飽船の数は、讃岐NO2でした。商船活動が活発な東瀬戸内海流通路を握るには塩飽衆が必要だったのです。それは、次に瀬戸内海に現れる信長・秀吉・家康も代わりません。彼らは「朱印状」で保護する代償に、御用船や軍船提供を塩飽に課したのです。しかし、水軍力を期待したものではなかったようです。近世になって「水軍」という言葉が一人歩きし始めると、中世の「塩飽水軍」がいかにもすぐれたものであるかのように誇張されるようになります。
 村上水軍と塩飽水軍は、同じものではありません。前者は強大な海上軍事カをもつ集団なのに対して、後者は 海上軍事力よりも操船技術集団と研究者は考えているようです。

 






    
 船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。