瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐古代史 > 神櫛王伝説

前回は、文献の上で「牟礼の青墓」が「神櫛王墓」になっていく過程を見てきました。それを「復習」しておくと次の通りです。

神櫛王墓の変遷
牟礼の青墓が神櫛王墓に変身していく過程

①17世紀は、神櫛王は阿野郡に在住したという古代伝承が一般的でした。そして、王墓については何も触れていませんでした
②ところが18世紀初めにの南海通記で「神櫛王が山田郡を治めた」「その子孫が神内・三谷・十河の三家」と書かれました。これが次第にいろいろな本に取り上げられ世間に広がって行きます。しかし、この時点では、墳墓については何も書かれていませんでした。後に神櫛王墓となる丘陵は、青墓と呼ばれて共同墓地として利用されていました。
③3期18世紀末には『三代物語」が、「青墓が王墓で、牟礼にある」とします。その後はこれが一般化されます。
④19世紀になると、青墓の上に建つ大きな二つの立石が、その墓石であるとされます。こうして、時代が下るにつれて、神櫛王=牟礼在住説は強化されていきます。以上、神櫛王の王墓が書物で牟礼にあったとされるまでの過程を見てきました。
 それでは、共同墓地だった青墓が現在の姿になったのはいつなのでしょうか。またそれはなんのために、だれが行ったのでしょうか。
神櫛王墓看板
神櫛王墓の説明版(牟礼町)

神櫛王墓の説明版には、墓所は「草に埋もれていたのを新政府の許可を得て、高松藩主だった知事が明治2年に再営」したと書かれています。
神櫛王墓整備後
神櫛王墓の古図(牟礼町史より)

これは牟礼町史に載せられている「再営」後の王墓を描いた絵図です。王墓山と書かれていています。2つの立石以外の石造物は撤去されています。絵図の下の注記には、次のように記されています。

明治2年、御国主より沙汰ありて、牟礼村の松井谷と申す所に墓地を移した。

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          松井谷墓地の青墓地蔵尊
現在の松井谷墓地には、青墓から明治初年に移されたという青墓地蔵があることは前回に紹介した通りです。その背面には、次のように記されています。
P1240498
青墓の地蔵さま

どうして、明治になってそれまであった共同墓地が移されたのでしょうか?王墓として「再営」されたのは、どうしてなのでしょうか。
それは、幕末に畿内の天皇陵とされる陵墓が、幕府の手によって修復整備されたことと関わってくるようです。その背景を見ておきましょう。
文久山陵図 / 外池昇 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 文久年間に(1861年)描かれた文久山陵図です。この中には当時の天皇陵とされた陵墓修復の「ビフォアー&アフター」が描かれています。一例に崇神天皇陵をみてみます。
文久陵墓 
左:修復前 右:修復後
二つの絵図の変化点を見ると、どのような修復が行われたのかがうかがえます。よく見ると①周濠の拡張②土堤の嵩上げ、③拝所の整備 ④高木の伐採整理が行われています。この修復に幕府が垂仁天皇陵に投じた金額は749両2分。この時に、神武陵も増築されていますがそれは1万両を越える工事費がかけられいます。この時には120の伝天皇陵の修復が行われています。ここから分かることは、現在私たちが見慣れている天皇陵は、幕末の大修復(大改造・拡張工事?)を経た姿であるということです。現在の姿は幕末に調えられたモノなのです。それではどうして幕末に幕府の手で、整備が行われたのでしょうか?
天皇陵改修のねらい

 幕末に朝廷への恭順をしめすために、天領陵とされる陵墓が幕府の手によって行われたことを押さえておきます。実は同じような情勢が明治維新に高松藩を襲います。

高松藩の神櫛王墓整備目的

①それは鳥羽伏見の戦いに高松藩は幕府方として出兵し敗れます。
②薩長土肥は、江戸遠征のためにも西国の徳川幕府の親族の各松平藩の勢力を削いでおく必要がありました。そこで高松藩や松山藩など西国の五つの松平藩を朝敵とします。こうして高松藩や松山藩には朝廷から官軍に任じられた土佐藩が錦の御旗を掲げてやってきます。これに対して高松城は、鳥羽伏見の指揮官を切腹させ、恭順の意を示し降伏します。こうして高松城は土佐藩に占領下の置かれます。高松藩は、新政府に8万両の献金をするとともに、朝敵の汚名をそそぐために涙ぐましい努力を重ねています。そのような一環として行われたのが神櫛王墓修復だったようです。

神櫛王墓の宮内庁管理

①高松藩は、維新の翌年明治2年には、神櫛王墓の修復伺いを出しています。
②明治3年には、それまで青墓とよばれていた共同墓地から墓石や地蔵などの石造物が撤去され、王墓として整備が完了します。
③明治4年になって、皇子陵墓の全国調査が行われますが、その時には神櫛王墓に終了していたことになります。
こうして見ると皇子の墓としては最も早い時期に整備が行われた王墓とも云えそうです。この早さは、異様に見えます。この背景には、高松藩の政府への恭順の姿勢を示すというねらいがあったと研究者は考えています。
 先ほど見たように幕末には、天皇陵とされた陵墓の修復(改造)が幕府の手によって行われていたのは先ほど見たとおりです。それを明治維新で、高松藩は各藩に先駆けて行ったのです。これには姻戚関係にあった京都真宗興正寺派の院主のアドバイスもあったようです。

神櫛王墓のその後
その後の神櫛王墓の果たした役割は

①こうして戦前は、神櫛王は讃岐の国造りの創始者として、郷土の歴史のスタートにはかならず取り上げられる人物となります。神櫛王を知らない香川県民はいなかったはずです。そして、その王墓も牟礼にあると教えられました。②そのため戦前には戦勝祈願の場所として、信仰対象にもなっていたようです。③それが敗戦によって、皇国史観が廃止されると神櫛王が教科書に登場することはなくなり、教室で教えられることはなくなりました。こうして神櫛王と王墓は、讃岐の歴史教育から静かに退場したのです。
 一方、牟礼の王墓が神櫛王の陵墓とされることによって、阿野郡や鵜足郡の陵墓とされていた所はどうなったのでしょうか。
そのひとつである飯山町法勲寺の陵墓跡を最後に見ておきましょう。

神櫛王 法勲寺1
綾氏の氏寺とされる法勲寺跡 後方は讃岐富士
     丸亀市飯山町の讃留霊王神社から眺める讃岐富士と古代法勲寺跡です。この左手の岡の上に鎮座するのが・・
神櫛王 法勲寺の讃留霊王神社

神櫛王墓とその神社です。しかし、神櫛神社とは書かれていないことに注意して下さい。神櫛王の諡とされる讃留霊王神社とされています。どうしてでしょうか。これは明治になって、神櫛王の陵墓は庵治にあると国家が認定したためです。神櫛王のお墓がいくつもあっては困るのです。そのため他の王墓とされてきた所は、神櫛王の名を名のることが出来なくなります。そこで別名で祭られることになります。そのひとつが讃留霊王の墓です。
讃留霊王神社説明版

神社の説明版です。祭神は神櫛王でなく、弟の建貝児王(たけかいこう)になっています。そして父はヤマトタケルになっています。しかし、神櫛王とは名のっていません。
最後に、牟礼の神櫛王伝説の経緯をまとめておきます
神櫛王牟礼

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

  P1240478
                牟礼町の神櫛王墓
前回に続いて牟礼町文化財協会総会で、お話ししたことをアップします。牟礼の神櫛王墓です。私は宮内庁管理の王墓が、白峰寺の崇徳上皇陵以外にあるのを、10年前までは知りませんでした。どうして、牟礼に神櫛王の王墓があるのかが気になって調べてみると出会ったのが「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号」です。今からお話しすることは、この論文を参考にしています。
讃岐府史の神櫛王記述
17世紀後半の讃岐府史 神櫛王についての記述は赤色のみ
江戸時代の初め頃、元禄年間に神櫛王については、どんなことが書かれていたのか見ておきます。讃岐府史は17世紀後半、初代の高松藩主松平頼重の時代に刊行された所で、讃岐の人物や陵墓などが記されています。神櫛王については「讃岐国造の祖、景行天皇の孫」だけです。押さえおきたいのは、この時点では、古代の紀記の内容と変化はないことです。陵墓についても何も書かれていません。それでは神櫛王が、東讃に定住したと最初に書いたのは誰なのでしょうか?

1櫛梨神社3233
神櫛王伝説は綾氏系図から分かれて、15世紀初頭に成立した宥範縁起に取り込まれていることが近年に分かってきました。宥範は琴平の櫛梨出身で、高松の無量寿院で学び、全国各地で修行を重ね、中世善通寺中興の祖とされる高僧です。そこに神櫛王伝説がとりこまれていきます。そこでは、上表のように凱旋地などが坂出福江から高松の無量寿院周辺に書き換えられていきます。つまり、神櫛王が高松周辺に定住したという物語になります。これを受けて「神櫛王=高松周辺定住説」が拡がるようになります。

南海治乱記と南海通記

この普及に大きな役割を果たしたのが香西成資(しげすけ)です。
彼は滅亡した一族の香西氏の顕彰のために南海治乱記を記します。その増補版が南海通記になります。彼は後に軍学者として黒田藩に招かれ大きな邸宅を与えられます。この2冊が発刊され人々の目に留まるようになるのは18世紀になってからです。『南海治乱記』は、神櫛王ついて何も触れられていません。神櫛王は、南海治乱記の増補版である南海通記に次のように登場します。

 南海通記の神櫛王記述
 南海通記の神櫛王記述

何があたらしく加えのか押さえておきます。
南海通記の神櫛王記述追加分

ここには①神櫛王が屋島浦で政務を執った ②神内・三谷・十河の三家は神櫛王の子孫であることがあらたに加えられています。南海通記は、軍記ものとしても面白く、読み継がれていきます。そして讃岐の戦国時代を語る際の定番となります。戦後に作られた市町村史も中世戦国時代については、この南海通記に基づいてかかれているものが多いようです。南海通記に記されることで、神櫛王=東讃定住説の知名度はぐーんと上がります。この時点では、神櫛王=鵜足郡定住説と屋島説の2つの説が競合するようになります。しかし、その墓については何も触れていません。

それでは神櫛王が屋島に定住したという根拠はなんなのでしょうか。
南海通記の神櫛王東讃定住根拠

①最初に見たように、日本書紀に神櫛王が讃岐に定住し、最初の国造となったこと
②続日本記に讃岐氏が国造であったと主張していること、そうならば讃岐の国造の始祖は神櫛王であるので、讃岐公は神櫛王の子孫であること
③その子孫が武士団化しのが神内・三谷・十河の三氏であること。神櫛王は東讃に定住し、その子孫を拡げ、その子孫が実際にいるという運びです。
これは筋書きとしては、無理があるようです。しかし、考証学や史料検討方法が確立するまでは、それが事実かどうかチェックのしようがありませんでした。イッタモン・書いた者の勝ちというのが実態でした。南海通記でプラスされた2つの内容が事実として後世に伝えられることになります。南海通記はベストセラーだけに後世への影響力が大きかったのです。

そして18世紀後半になると神櫛王の王墓が牟礼にあるする本が現れます。
三代物語の神櫛王
三代物語の神櫛王記述
①この本は増田休竟によって、南海通記公刊から約半世紀後に書かれた地誌です。②内容は郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。③彼の家は祖母・祖父・自分・兄と三代が、見聞してきた記録を残していました。そのうち重要なものを数百件集めて三巻となしたと巻頭に書かれています。ただこの本は、それまでの書物に書かれていなかったことが既成事実のように突然に紛れ込んできます。例えば、「実は崇徳上皇は暗殺された」という崇徳上皇暗殺説」などが始めて登場するのもこの本です。そのため取扱に注意が必要な資料と研究者は考えています。その中で神櫛王墓に関する記載を見ておきましょう。三木郡の所で次のように記されています。

三代物語の神櫛墓記述

①王墓牟礼にあり 
②神櫛王が山田郡高松郷(古高松)に住んだ
③そこで亡くなったので王墓に葬ったので王墓がある
と記されています。そして小さな文字で注記があります。拡大して見ると「青墓・大墓」とも呼ばれるが、もともとは王墓で、それが青墓に転じたとわざわざ説明しています。つまり、牟礼の共同墓地である青墓が、王墓であるというのです。視点を変えて逆読みすると、当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。さらに追加して、この書では青墓が神櫛王の王墓とします。
 王墓が青墓だったことは、現在は松井谷墓地に移されたお地蔵さんからも裏付けられます。
 このお地蔵さんに会いに行ってきました。
P1240496
牟礼町松井谷墓地の六地蔵
石匠の里公園の近くにある松井谷墓地の上側の駐車場の手間に六地蔵が並んでいます。その奥に佇んでいるのが青墓(現神櫛王墓)にあった地蔵さまのようです。近づいてみます。P1240501
神櫛王墓にあった青墓地蔵
背面を見てみます。
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青墓地蔵背面
願主同村最勝寺堅周」は読み取れますが、後はよく分かりません。史料によると次のように刻まれているようです。
青墓の地蔵さま
青墓地蔵背面の文章
宝永2年とありますので今から約320年あまり前に、牟礼村の人々が「青墓地蔵尊」を奉納した。願主は最勝寺堅周だったと記されています。ここからは現在の王墓が、300年ほど前は村民の墓地だったことが裏付けられます。この青墓地蔵さん以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机も地蔵さんの手前にあります。以上から神櫛王王墓は、江戸時代には共同墓地で、青墓と呼ばれていたことを押さえておきます。

さらに60年ほど時代が進んだ19世紀始めに書かれた全讃史を見ておきましょう。
全讃史の神櫛王


①仲山城山(じょうざん)が書いた全讃史です。15冊にもなる大冊です②この中には神櫛王について、屋島に舘を構えた、これが牟礼だとします。③陵墓については牟礼の王墓とします。ここまでは出版された書物に学び、そこに書かれていることを継承しています。そして、さらに新しい説を加えていきます。彼が注目したのは青墓に並ぶ石造物の中の二つの立石でした。それを見てみましょう。

三代物語の神櫛王墓2
仲山城山の神櫛王墓の立石図

このころになると個人の墓石が死後に立てられるようになります。青墓にも19世紀になると立石の墓石が立てられるようになったようです。その中でも大きくて目立つ立石が2つありました。それに中山城山は注目します。そして二つの立石の図を載せています。よく見るとこの立石には星座が刻み込まれています。修験者の愛宕大明神信仰によくみられるものです。牟礼は五剣山のお膝元です。五剣山は修験者や山伏にとって聖地で、全国から多くの修験者たちがやっきて修行し、中には定住するものも出てきます。その中には、ここにとどまり八栗寺の子院を形成し、周辺の村々への布教活動を行うものもいたはずです。それは、志度寺や白峰寺、三豊の八栗寺と同じです。この立石も修験者の活動の痕跡と研究者は考えています。
 さて図を見ると「王墓 牟礼村にあり」とあります。そして①大王墓 高さ五尺7寸 北面 神櫛王墓」、②北極星が描かれた小さい方が「小王墓、その孫(すめほれのみこと)の墓」と記します。
全讃史の神櫛王記述を整理して起きます。
三代物語の神櫛王墓認識


最後に江戸時代における神櫛王墓記述の到達点を見ておきましょう。幕末になると絵図が入った「名勝図会」というのが、全国各地で作られるようになります。讃岐では嘉永六年(1853)に全一五巻の讃岐国名勝図会が出されます。巻三に三木郡牟礼村の項があります。絵図では五剣山と八栗寺がセットで描かれています。
讃岐国名勝図会の牟礼
五剣山と八栗寺(讃岐国名勝図会)
その中に神櫛王の王墓について次のように記されます。
讃岐国名勝図会の神櫛王墓

讃岐国名勝図会の記述内容は、今までに見てきた神櫛王の記述の総決算・完成形のような内容になっています。①前半部分は『三代物語」を下敷きに、山田郡に大墓があるとされます。②そして後半部は、神櫛王が景行天皇の皇子で、母はいかわひめで、讃岐国造と記されます。これは日本書紀の記述に立ち戻っています。そして、ふたつある墓うちのひとつは、武鼓王(たけかいこう)としている点がこの書の独自性のようです。讃岐国名勝図会の作者が、先行する地誌や歴史書を参考にしながらこれを書いたことがうかがえます。こうして、幕末には「神櫛王墓=牟礼説」が定着し、王墓は牟礼にあるというのが、世間では一般的になっていきます。そして、神櫛王墓=坂出説を凌駕するようになっていたことを押さえておきます。
 それでは、共同墓地だった青墓は、いつどのようにして陵墓へと改修整理されたのでしょうか。それは、明治維新を迎える中で起こった高松藩の危機が背景にあったようです。それはまた次回に・・

神櫛王墓整備後
青墓改修後の神櫛王墓の絵図(牟礼町史より)

 参考文献
  「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

          P1240478
牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

 
古代讃岐には、4世紀後半から5世紀前半に、古墳の石棺をつくる技術者集団がいて、各地の豪族たちの需要に応じていたようです。石棺製作集団は次の2グループがありました。
①綾歌郡国分寺町鷲の山産の石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
②大川郡相地(火山)産の白色をした石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
①の鷲の山産の石棺は、海をわたって近畿にまで「輸出」されています。この石棺を作った技術舎集団を管理支配していたのが快天山古墳の被葬者、
②の相地産の石を使った集団を支配したのが、讃岐凡氏につながる人物と羽床正明氏は考えているようです。
快天塚古墳

快天塚古墳
快天塚古墳は4世紀後半につくられた全長約100mの讃岐有数の前方後円墳です。この古墳からは三基の石棺が出土し、
一号石棺からは舶載方格規矩文鏡と碧玉製石釧が、
二号石棺からは竹製内行花文鏡が、
三号石棺からは同じく傍製内行花文鏡

快天塚古墳第2号石棺

快天塚古墳第3号石棺
快天塚古墳の石棺

『播磨国風土記』印南郡の条には、羽床石が次のよう記されています。
帯中日子命(仲哀天皇)を神に坐せて、息長帯日女命(神功皇后)、石作連大来を率て、讃伎の国の羽若(羽床)の石を求ぎたまひき。

ここからは神功皇后が仲哀天皇のために、讃岐の国の羽若の石を求めて、古墳をつくろうとした物語が記されています。事実、大阪府柏原市からは、次の2つの讃岐の鷲の山産の石棺が見つかっています。
①柏原市安福寺の勝負山古墳出土と伝えられる鷲の山産の石棺のふた
②柏原市の松岳山古墳から長持形石棺
1柏原市安福寺の勝負山古墳出土
安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋

 柏原市玉手町の安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋は、勝負山古墳から出てきたという伝承があるようですが、棺身は見つかっていません。この石棺は、香川県の鷲ノ山産の凝灰岩をくり抜いて造られています。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。両小口面の縄掛突起は削りとられ、周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線を複雑につないだ線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。
1柏原市kohunngunn

柏原市玉手山古墳群(3号墳が勝負山古墳)

②の松岳山古墳は後円部墳頂に組合式の石棺が露出していて、竪穴式石室が確認されています。
1柏原市河内松岳山古墳2

 この組合式石棺は、底石と4枚の側石、そして蓋石の計6枚の板状の石材が組み合わされています。古墳時代中期の大王墓などで使用される長持形(ながもちがた)石棺と同じタイプで、そのの初期タイプのものと研究者は考えているようです。 石棺の底石と蓋石は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を使用されていますが、まわりを囲む側石4枚は香川県の鷲の山産の凝灰岩が使われています。快天塚古墳が築かれた時代に、鷲の山の石材が摂津柏原まで海を越えて運ばれていたようです。
1柏原市河内松岳山古墳
松岳山古墳の長持形石棺と石室周辺


 大阪府から、鷲の山石棺が出土したということは、「播鷹国風土記が」が事実をもとにして書かれたことがうかがえます。風土記にあるように讃岐で作られた石棺が各地に「輸出」されていたと云えそうです。同時に、快天塚の主と柏原の首長は、密接な関係にあったことがうかがえます。
 しかし、羽若(羽床)は快天塚古墳がある所で、石材を産するわけではありません。
石材は鷲の山産なのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  ①羽若は地名の羽床のことではなく、羽床を拠点とする勢力が管理支配していた羽床石とする説
快天山古墳の出現期には、国分寺エリアでは前方後円墳が作られなくなっています。そのため快天塚古墳の主は、国分寺方面まで支配エリアを広げていたと考えています。そうすると石材の産地である鷲の山は、その支配エリアに含まれます。快天塚古墳のある羽床地区は、この豪族の勢力基盤の拠点であったからこそ、この勢力基盤にちなんで羽床の石が羽若の石と誤伝されたと羽床氏は考えているようです。
快人山古墳のある綾歌町栗熊住吉と羽床は、わずかの距離です。快天塚古墳の主にとって羽床は、その勢力の中心となる重要な地区であり、そこから『播磨国風土記』のような誤伝が生まれたとしておきましょう。
蔵職の設置と鷲住王
「日本書紀」の履中天皇6年2月癸丑朔条には、讃岐国造の祖の鷲住王について次のように記されています。
二月の癸丑の朔に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫を喚して、後の宮に納れて、並に妃としたまふ。是に、二の濱、恒に歎きて日はく、「悲しきかな、吾が王、何処にか去りましけむ」といふ。天皇、其の歎ぐことを聞じめして、問ひて曰く、「汝、何ぞ歎息く」とのたまふ。
 対へて曰さく、「妾が兄鷲住王、為人力強くして軽く捷し、是に由りて、独八尋屋を馳せ越えて遊行にき。既に多くの日を経て、面言ふこと得ず。故、歎かくのみ」とまうす。
 天皇、其の強力あることを悦びて喚す。参来ず。亦使を重ねて召す。猶し参来ず。恒に住吉邑に居り。是より以後、廃めて求めたまはず。是、讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡て二族の始祖なり。
意訳変換しておくと
履中天皇6年2月に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫のふたりを、後宮に入れて妃とした。二人の妃は「悲しいことよ、吾が王が、何処にか去ってしまいました。」と嘆くのを天皇が、聞いて、「どうして、悲しみ嘆くのか」と問うた。
 「私の兄鷲住王は、力強くて身も軽く捷く。独八尋屋を馳せ越えて遊行に行ってしまいました。長い月日が経ちますが帰ってきません。故に、悲しんでいます」と答えた。
 天皇は、妃の兄が秘めた力を持っていることに興味を持ち召喚した。しかし、やって来ない。再度召喚したが、やはりやって来ない。住吉邑から離れようとしない。そのため以後は、召喚しなかった。この鷲住王が、讃岐国造・阿波国の脚咋別の二族の始祖である。

ここには住吉邑に強力な能力を持つ鷲住王がいて、これを履中天皇は召喚しようとしたが応じなかったこと。鷲住王が讃岐国造・阿波国の脚咋別の始祖であることが書かれています。
それでは、鷲住王が住んでいた住吉邑というのはどこなのでしょうか。当然思い浮かぶのは摂津の住吉(大阪市住之江区)です。それなら摂津に住む鷲住王が、どうして讃岐国造になるのでしょうか。
ここで羽床氏は「異説」を出してきます。
鷲住王がすんだ住吉邑とは、大阪府の住吉ではなく、讃岐の国の栗熊村の住吉だ。そうでないと鷲住王が、讃岐の国造と阿波の脚咋別の二族の始祖となった説明がつかない。

というのです。これはすぐには私には受けいれられませんが先を急ぎます。
履中紀の物語は、『日本書紀』にあって、『古事記』にはありません。そこで、鷲住王の物語は、713年に撰進の命令が出された風土記のうちの『讃岐国風土記』にあったもので、『日本書紀』の編者が『讃岐国風土記』を見てとりいれたとの推定します。とにかく風土記がつくられた八世紀になっても、快天山古墳をもとにした鷲住王の物語は、讃岐で流布していたと推測します。
快天塚古墳周辺地図

たしかに快天塚古墳は、栗熊の住吉の丘陵に、あたりを威圧するかのごとく築かれています。そして近くには住吉神社もあります。快天山古墳がもとになって、讃岐国造の祖の鷲住王の物語がつくられたと云える材料はあります。
 快天山古墳の主の先祖は、前方後円墳祀りを共有する「ヤマト政権」に初期から参加していたメンバーだったのでしょう。初期の前方後円墳が周辺からはいくつも見つかっています。連合政権のメンバーとして、先端技術や鉄器を手に入れ、大束川や綾川流域の開発を進め、栗熊から羽床の辺りに、あらたな拠点を構え周辺領域を支配するようになったのが快天塚古墳の主だったと私は考えています。
快天塚古墳第3号石棺2
快天塚古墳の第3号石棺

地方の首長にとって、ヤマト政権との関係は微妙なものがあったのではないでしょうか。同盟者であると同時に、次第に抑圧者の姿も見えるようになります。羽床エリアを拠点とする首長は、鷲の山の石棺製造集団を管理して、石棺を他の豪族に供給することでネットワークを広げようとしていたのかもしれません。それはヤマト政権の介入を許さないためであったかもしれません。しかし、快天塚古墳の主の後に起こったことを推察すると、ヤマト政権はこの地から石棺製造集団の引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じたようです。そして、快天塚古墳の後継者達は衰退していきます。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったようです。
古墳時代の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
快天塚古墳編年表

羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。
上の古墳編年表を見ると国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力(綾氏)に併合されたと研究者は考えているようです。これは継続して前方後円墳を作り続け、古代寺院建立にいたる善通寺勢力とは対照的です。

以上をまとめておくと
①『播磨国風土記』にでてくる羽若(羽床)とは地名で、石棺を製作した集団が快天山古墳の主によって支配されていたところから、その支配者の中心勢力だった地名をとって誤伝された。
②快天山古墳は讃岐で2番目の規模をもつ古墳で、当時は善通寺勢力と拮抗する勢力を持っていた
③快天塚の主は、生前の権力と古墳の規模の大きさから、履中紀に鷲住王の物語がつくられ、風土記を経て『日本書紀』の中にとりいれられた
④石棺をつくった石工たちは通常は羽床に住み、鷲の山山麓に石棺をつくる仮設小屋を設け、仕事をした。
⑤飯山町西坂元には鷲住王の墓と伝えられる古墳があって、銅金具・刀剣・勾玉・管玉・土器が出土している。しかし、古墳は鷲住王のものではない。鷲住王の伝説を生み出したのは、住吉趾にある快天山古墳であった。
⑥快天山古墳の上に、快天和尚の墓がつくられ、快天和尚の墓として有名になると、鷲住王の墓が別のところに求められ、それが飯山町西坂元の鷲住王墓とされるようになった。
⑦しかし、古代(奈良時代)の人たちは、快天山古墳を鷲住王の墓としていた。

ちなみに、鷲住王は阿波国造の祖ともされています。


そのため讃岐以上に、阿波では鷲住王の拠点探しが昔から活発に展開されています。いまでも「鷲住王」で検索すると、数多くの説が飛び交っているのが分かります。一方、香川では「鷲住王」の知名度は低いようです。それは「神櫛王」が讃岐国造の祖という伝説が中世以後に拡大し、競合関係にあたる「鷲住王」は、故意に忘却されたからのようにも思えます。
 讃岐では日本書紀の履中紀の物語よりも、中世に作られた綾氏の出自を飾る神櫛王伝説の方が優先されるようになり「鷲住王」にスポットが当たることがなかったと云えるのかも知れません。
  快天山古墳を、讃岐国造の始祖となった鷲住王の墓と考える説があることを改めて心に刻みたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献


神櫛(かんぐし)王墓 : 四国観光スポットblog

 天皇・皇后や皇子などの墳墓である「陵墓」は全国で894基あるそうです。香川県にあるのは崇徳天皇の白峯陵だけとおもっていたのですが、もうひとつあるようです。それが神櫛王墓のようです。崇徳天皇は保元・平治の乱での讃岐流配や怨霊のトップスターとして有名で、その陵についても西行の『山家集』や上田秋成の『雨月物語』などに出てきますので知名度は高いようです。
 これに対して神櫛王は、どうでしょうか。ほとんどのひとが知らないのではないでしょうか。
神櫛王墓 | 眩暈の森
『日本書紀』には第21代の天皇の景行天皇の皇子の一人として「神櫛皇子」と記されています。また讃岐国造の始祖とされていますが、その事績などの記録が全くありません。そのため彼が讃岐の古代史を語るときに登場することはほとんどないようです。
 陵墓に指定されている神櫛王の墓とされるものは、高松市北東部の高松町と牟礼町の町境にあります。
全長約175㍍の小さな山全体が墓とされ、北・東部には濠状の窪みがめぐり、頂部に四角錐状に石が積まれています。ここはもともとは「大墓」と呼ばれていました。それが明治になって、手を入れられ「神櫛王墓」とされます。
どうして、ここが神櫛王の墓になったのでしょうか?
讃岐の食文化ゎ日本一ィィィィッ!:【古高松学】その7 ♢「神櫛王墓 ...

古代の史料において神櫛王がどのように記されているかを、見ておきましょう。
 神櫛王(神櫛皇子・神櫛別命・神櫛命、死後は讃留霊王)は、景行天皇の皇子とされ『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』などにその名が見えます。『古事記』と『日本書紀』とでは母も、始祖伝承も次のように異なります
①『日本書紀』は讃岐国造の始祖
②『古事記』では木国及び宇陀の酒部の祖
 讃岐国造に関しては、『先代旧事本紀』「国造本紀」には軽嶋豊明朝御世(=応神天皇(景行天皇の二代後)の時代に、神櫛王の三世孫である須売保礼命を定めたとあります。
 古代の天皇等の陵墓に関しては、『延喜式』「諸陵寮」に神武天皇から光孝天皇までの歴代天皇・皇后等の陵七十三基、皇子・皇女等の墓四十七基が記されていますが、この中に神櫛王の墓は出てきません
 紀記の神櫛王について確認しておくと次のようになります
①紀記の両者の記述内容に大きな違いがあること
②書かれているのは「系譜」で、治績は一切ない
③墓についての記述もなし
 神櫛王の父とされる景行天皇は『古事記』・『日本書紀』では十二代天皇となっています。十代は初めて国を治めた天皇として書かれている崇神天皇で、十六代は中国の史書に見える倭の五王の「讃」とされる仁徳天皇です。
讃岐国造から考察 ① | コラクのブログ

景行天皇は、この二人の間の四世紀中頃の人物ということになります。彼の崩御干支は『古事記』・『日本書紀』に書かれてはいません。さらに「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という和風謐号は、後世に作られた可能性が高いことから、現在の古代史研究では実在が疑問視されている人物のようです。父が実在しなかったとなると、皇子である神櫛王もいなかった可能性も出てきます。また、この時代の陵墓なら大型の前方後円墳が想定されますが、ここからは埴輪などの遺物は一切見つかっていません。この丘は古墳ではないようです。
 神櫛王について触れている古代の関係史料を、確認しておきましょう。
①『日本書紀』景行天皇四年二月甲子条
 次妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。其の兄神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖なり。
②『古事記』景行天皇条
 吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生ませる御子、櫛角別王、(中略)、次に神櫛王、(中略)其れより余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気、及稲置、県主に別け賜ひき。(中略)、次に神櫛王は・・・
③『先代旧事本紀』「国造本紀」
 讃岐国造 軽嶋豊明朝御世、景行帝見神櫛王の三世孫須売保礼命を国造に定め賜う。
④『先代旧事本紀』「天皇本紀」景行天皇条
次妃五十河媛神櫛皇子を生めり。次稲背入彦皇子。(中略)
  神櫛別命悶四。稲背人彦命。(中略)
  五十河彦命諸叶心。(中略)櫛見皇命詣。
⑤『新撰姓氏録』和泉国皇別
 酒部公 讃岐公と同じき祖。神櫛別命の後なり。
⑥『新撰姓氏録』右京皇別下 
 讃岐公 大兄彦忍代別天皇の皇子、五十香彦命船勁の後なり。続日本紀に合えり。
⑦『続日本後紀』承和三年(八三六)三月戊午条
 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直、右少史兼明法博士同姓永成等合わせて廿八姻、公を改めて朝臣を賜ふ。永直は是れ讃岐国寒川郡の人なり。今、山田郡の人、外従七位上同姓全雄等の二姻と、本居を改め、右京三条二坊に貫附す。永直等の遠祖は景行天皇第十の皇子、神櫛命なり。
⑧『日本三代実録』貞観六年(八六四)八月条
 右京の人、散位従五位上讃岐朝臣高作、右大史正六位上讃岐朝臣時雄、右衛門少志正六位上讃岐朝臣時人等に姓を和気朝臣と賜ふ。其の先は景行天皇の皇子神櫛命より出づるなり。

神櫛王について触れている平安時代までの史料は以上です。ここからは神櫛王について記されているのはその系譜だけで、具体的活動や墓については、なにも書かれていないことが分かります。
 ところが江戸時代になると、彼の住んでいたところやその墓の場所まで記した歴史書が出てきます。
今度は近世の資料を順番に見ていきましょう。

6 讃岐国大日記
『讃岐国大日記』
 慶安四年(1651)までのことを編年体形式で記した讃岐の歴史書で、石清尾八幡宮祠宮である友安盛員によって承応元年(1652)に書かれたものです。この書は、多くの写本が伝わっていて、『香川叢書』第二にも載せられています。
 また、これとは別に歴博に五冊の写本が保管・所蔵されているようです。これらについては資料番号を用いて「歴博914号本」、「歴博915号本」「歴博916号本」、「歴博617号本」、「歴博27号本」と便宜的に呼ばれているようです。
 これらの記された神櫛王に関する事項は次のようになります
①叢書本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。讃留霊公五代孫日向王阿野北条阿野南条郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡」
②歴博九一四号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
③歴博九一五号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
④歴博九二(号本 景行天皇条
 日本紀曰、神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
⑤歴博五一七号本 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。皇子、讃岐国造之始祖也。日本紀日、讃留霊公五代孫日向王阿野北條阿野南條郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡卜云云。

ここまでの5冊は、神櫛王に関する記述が景行天皇条のみで、シンプルで、記述内容に大きな変化はありません。内容が変わってくるのは次からです。
⑥歴博二十七号本
 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行帝、母五十媛。此皇子、讃岐造之始祖也。大系図景行帝妃五十媛、生神櫛皇子稲背人彦皇子。其兄神櫛皇子、是讃造始祖。弟稲背入彦皇子播磨国別始祖。
  讃岐公系図
 是ヨリ絶諸家ノ譜中、而不分明。後ノ人考侯ツ。山田、三木、寒川、改公賜朝臣家廿八畑其大後家尚多。植田、三谷、十河、一姻別同。
 仁明天皇条
 同帝承和三年三月十九日(中略)
永直等遠祖景行天王十七皇子神櫛命見続日本紀神櫛王被封讃岐造、止住山田郡。陵在牟礼高松間謂王墓(後略)
⑥の歴博27号本には仁明天皇条も加えられ、神櫛王の子孫や墓の位置まで加筆されています。時代が下るにつれて、記事が加えられるのは、何らかの意図があってのことです。この本は加筆が進んだ「異本」とも呼べるものです。しかし、神櫛王墓についての世間の見方がどう変化してきたかを見る上では、注目される資料です。

なんでも鑑定団では、「箱書きが大事だ」とよく言われます。古書もその伝来が問題になります。
これら諸本の「伝来」を、研究者は次のように確認します。
①の「歴博914号本」は高松藩松平家の伝来で、書写年代は分かりませんが「考信閣文庫」という押印があります。考信閣は第九代高松藩主松平頼恕が、天保六年(1835)に梶原藍渠の『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要紀』)の正確を期すために西の丸に建設した建物で、翌年正月には「考信閣文庫」という銅印が作られたようです。その印が押されているので、この書が高松藩で保管されていたことが分かります。伝来のはっきりした信頼がおける書物です。
②の「歴博915号本」も高松松平家の伝来で、表紙に「中山城山書入本」と記された付札があり巻末に城山の践文があります。中山城山は『全讃史』を著した人です。彼が持っていた本のようです。
④の「歴博916号本」は本奥書に、本文と同筆で「承応元年仲春日 石清尾神主 従五位下藤原盛員謹書 讃岐国大日記巻終」と記され、奥書は本文とは異筆で「享和二年中山氏隆助写之」とあります。中山氏隆助については分かりませんが、享和二年(1802)に書写された本のようです。
⑤の「歴博517号本」は奥書がなく、年代は分かりません。
そして、問題の⑥の「歴博27号本」です。この奥書には
「寛政六寅龍集 晩冬三日書畢 美作屋清兵衛」
とあります。この美作屋清兵衛については何も分かりません。伝来がはっきりしない怪しいと思われる本になります。

 次に、これらの書物の記述内容を見てみましょう。
 歴博27号本の奥書を史実とするならば、本書ができた承応元年(1652)以後、美作屋清兵衛によって寛政六年(1794)に書写されるまでの約140年間の間に、大幅な加筆がなされたと推定できます。この間には、いくつもの地誌・歴史書が作られています。
それらと比較すると
①景行天皇条の記載は『南海通記』からの引用
②仁明天皇条の内容は「三代物語」『翁堰夜話』の引用
して「美作屋清兵衛」が加筆したと研究者は考えているようです。南海通記の影響力やおそるべし!です

 歴博27号本のもつ意義は、その内容よりはむしろ、神櫛王に関する認識が18世紀末には、このような形として定着しつつあったことを示していることにあるのかもしれません。
讃岐府志 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
2 『讃陽箸筆録(讃岐府志)』
 この書は延宝・天和年間(1673)頃に、高松藩儒臣七條宗貞によって讃岐の歴史・人物・陵墓などについて書かれたものです、神櫛王については
「神櫛、為国造祖、或曰、景行之皇孫」
と記載されているのみで、陵墓の項には何も触れられていません。
Amazon.co.jp: 南海通記eBook: 香西成資, 竹田定直: Kindleストア

4 『南海治乱記』 ・ 『南海通記』
 両書とも香西成資によって著された四国を中心とした軍記物です。『南海治乱記』は、成資が幼少の頃から聞き知った話を歴史的に配列し、寛文三年(1663)に執筆したもので、刊行は半世紀後の正徳四年(1714)になります。
 一方『南海通記』は『南海治乱記』の巻初に、四国における歴史や系譜など三巻を加えるとともに、他巻も増補し、宝永二年(1704))に一応完成しますが、白峰寺に奉納されたのは15年後の享保四年(1719)になります。
 最初に書かれた『南海治乱記』には、神櫛王は出てきませんが、後になって加筆された『南海通記』には巻之二の旧姓考に「讃岐山田郡神櫛王記」という一項が入れられ、次のように神櫛王を登場させています。
日本書紀曰、景行天皇、妃五十河媛生神櫛皇子稲背入彦皇子。其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也。弟稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。
  6 神櫛王系図

  上のような系図を入れて、次のように解説します。
神櫛王は讃岐国山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まり、その後讃岐ノ君と称したと世に伝えられているが、成務天皇四年に国郡に長を立て、県邑に首を置くとあることから、この時に神櫛王は山田郡に封ぜられ、政務を執ったのである。
 『続日本後紀』承和三年の記事に見えるとおり讃岐公永直・永成ら二十八個が神櫛王の子孫である。そして山田郡植田郷は地勢堅固で土地は豊かであるから、一姻はここに居を定めて代々住み、その後裔が分かれて神内、三谷・十河の三家となったのである。 

この『南海通記』の記載から、戦国時代から江戸時代にかけて神内、三谷、十河の三氏がその始祖を神櫛王と称していたことがわかります。山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まったという伝承も、この三氏の祖先伝承として語られていたものを、成資が聞き取り『南海通記』に書き込んだようです。
 
しかし、ここでも神櫛王の墓については、何も出てきません。
『南海治乱記』巻十二「阿讃考」及び『南海通記』巻十五「阿讃考三」の「元親自阿州来讃州記」に次の記述があります。
 高松ノ東二大陵アリ 何ノ王ノ陵卜云コトヲ知ラズ
其傍二佐藤継信ヲ葬リタル塚アリ
 そばにあるという佐藤継信の墓は、現在では高松市屋島東町と高松市牟礼町(神櫛王墓の南東50㍍)の二ケ所にありますが、前者は寛永二十年(1643)に松平頼重が新たに造らせたもので、後者も現在地の西に接する平田池の位置にあったとされているようです。池と神櫛王墓は隣接していますから、ここに出てくる大陵が現在の神櫛王墓の丘陵を指すようです。
 この記述は、長曾我部元親が天正十一年(1583)讃岐を攻めた際に、法橋という僧侶が元親に屋島近辺の説明をしたものです。ここからは、戦国時代末期には、地元では王の墓という意識はあったものの、その被葬者が誰であるのかは分かっていなかったことがうかがえます。そして、この逸話がそのまま採録されています。成資が『南海治乱記』を書いた時にも、被葬者は未定であったのです。被葬者が神櫛王という伝承があれば、必ず書いたはずです。
6 神櫛王三代物語jpg

 『三代物語』『翁嘔夜話』
 この書は、神櫛王墓について最初に書かれたものです。『三代物語』は増田休竟によって明和五年(1768)にできた地誌で、郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。著述の経緯については、増田休意、増田正宅(休意の父)、菊池武信(休意の祖父)の三代が、見聞してきたもののうち重要なものを数百件集めて三巻となしたという断りがあります。
 一方、『翁嘔夜話』は、休意の弟である菊池武賢が延享二年(1745)に完成させたものです。内容は讃岐の地誌で『三代物語』と重なる所が多いようですが、古代から高松藩五代藩主までの歴史が加わっている点が大きな違いです。著述の経緯については、休意の父が書き記し、休意もまた父の意思を継ぎ記録を続けてきました。ある日休意は、弟の菊池武賢のところに今までの記録類を持ち込み校合するように依頼し、武賢は断れずに引き受け完成させ、これに休意が『翁躯夜話』と名付けたというものです。しかし、この本にはそれまで書かれていなかったことが、あたかも古くから云われてきたように紛れ込まされていることが多いのです。要注意の資料です。

6神櫛王4

 その中で神櫛王墓に関する記載は「歴代国司郡司村主田令」の条に次のような内容があります。
①神櫛王が郡司として山田郡を治めたこと、
②その墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と呼ばれていること
が簡潔に書かれています。
 神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。それが広まっていったようで、さらに「発展」してこの書では牟礼の王墓が神櫛王のものとされるようになります。
わざわざ「青墓・大墓」は王墓の転誂だとわざわざ説明しています。王の墓であることを改めて強調する効果をねらったようにも見えます。ここからは、この古墳が当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。
 
 現在の神櫛王墓は、かつて地元の人たちの墓地だったようです。
ここにあったという石仏が高松市牟礼町松井谷墓地に移されています。その石地蔵の背面には次のように刻まれています。
   宝永二(1705年)乙酉
   施主牟礼村信心男女
   奉造立青墓地蔵尊
         願主同村最勝寺堅周
  七月二四日
 この石仏は、神櫛王墓の丘陵から明治期の修復時にここに移転されたものです。これ以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机もあります。ここからは現在の神櫛王墓の丘陵が江戸時代には村民の墓地として利用されていたことを示しています。
 
6 讃岐廻遊記
 この本は讃岐の名所旧跡を紹介したもので、進藤政重によって寛政十一年(1799)に発行されていますが神櫛王墓についてはなにも触れていません。

7 讃岐志
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)を著した梶原藍渠が、その編集の傍ら文化・文政年間の十九世紀初め頃に著述した讃岐の地誌です。ここには三木郡の陵墓の項に次のように記されます。
  王墓 在牟礼村神櫛王墓也 有大楠樹

 すでに牟礼の王墓が神櫛王の墓ということが一般に広まっていたようです。「有大楠樹」と大きな樟があったことを報告していますので、作者自ら訪れたようです。信頼性があります。
全讃史 標註国訳(復刻讃岐叢書 1)(中山 城山 / 青井 常太郎 校訂国 ...
8『全讃史』
 中山城山によって天保二年(1832)に編まれ、天保十一年(1840)に改訂された讃岐の歴史書で、全一二巻の大著です。神櫛王については巻二の「人物志上」、墳墓については巻十の「古家志」に次のような記述があります。
 ①人物志上「讃岐国造世紀」
 景行帝更に神櫛王に命じて、其政を検せしめたり。国造本紀に云く、軽島の豊明の朝の御世に、景行帝の児神櫛王三世の孫、須責保疆命に国造を定め賜へり。蓋し讃岐の国造此より始るか。殖田氏の譜を閲するに、曰く人王十二代景行帝第十七の皇子神櫛命を山田郡に封じ、屋島の下に止ると。蓋し今の牟礼の墟を云ふ。(中略)神櫛王蔓じ給ひ此を牟礼に葬りまつる。今の王墓是なり。
 ②古家志
  王墓 津村の東に在り。二つの立石あり。一は則ち高五尺七寸、一は則ち高四尺三寸。皆北面して面に星辰の象を刻せり。或人云ふ。是れ蓋し神櫛王の墓なりと。伝えて言う。昔、此の墓、鳴動して己まざりき。安部清明之を符して止みき。其の言う所の符とは、蓋し星象を刻せるなり。而も何者か櫛王たるを知ざらん。城山逸民因って之を考えるに、書記に日く、景行天皇は八十余子ましまして、日本武尊、稚足彦天皇を除く外の七十余子は、皆国郡に封ぜられて、各々其の国に如くと。

 又云ふ。神櫛皇子は、其れ讃岐国造の始祖なりと。国造本紀に云う。軽島豊明の朝心昌の御世、景行帝の児神櫛王三世孫を讃岐国造に定め給ふと。公家大日記に云う。神櫛王及び稲背入彦は釆を山田郡に食み、屋島の下に止ると。然らば則ち大なる者は神櫛王の墓にして、小なる者は須売保礼命の墓なり。

この特徴は、今までの地誌・歴史書に較べると墓の内容が具体的になっている点です。星辰の象を刻んだ立石が二基あることに注目し、それぞれの被葬者の比定を試みています。そして、大きい立石を神櫛王の墓としています。

6 神櫛王墓石?jpg
 作者の城山はこの書とは別に「全讃聞見録」も書いていますが、そこには、神櫛王墓の二基の立石の上図を残しています。この立石を誰がいつ、どのように据えたのかは分かりません。墳墓に墓標を置くことが一般化するのは江戸時代になってからで、明治初期に丘陵全域が神櫛王墓として修造される直前までは、丘陵は墓地として利用され多くの墓石が林立していたことは先ほど述べた通りです。この二石は、それらの中でも大きく目立つものだったののかもしれません。
 ここからは中山城山に、古墳の概念がなかったことがうかがえます。「墓=墓石」なのです。
それが当時の讃岐人の「王墓」に対する認識だったようです。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販 ...

9 讃岐国名勝図会
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)や『讃岐志』を著した梶原藍渠とその子藍水によって編まれた地誌で、嘉永六年(1853)に完成します。全一五巻の巻三の三木郡牟礼村の項に神櫛王について次のように記されます。
王墓 同所、往来の傍ら岡にあり。相伝ふ、神櫛王山田郡を治めたまひ、この郡に崩じここに葬りしゆゑ王墓とはいえり。往古、牟礼・高松の村民、五月五日この地にて飛棟相撃、これを印人撃といふ、けだし戦場の遺事ならん、今は絶えたり。
 神櫛王は、景行天皇の皇子、母は五十河媛、讃岐国造なり。寒川・三木・山田諸郡に苗裔多し。植田・神内・十河氏はその裔なり。今王の墓といへる物二基あり。おもふに一基は武鼓王を祭りしならん。
 右の王墓の説明の前半部分は『翁嘔夜話』三木郡条、後半の神櫛王の系譜部分は同書の山田郡を参考にしたようです。王の墓が二基あると言うのは『全讃史』の解釈を踏襲しています。二基のうち一基の被葬者を、武鼓王としている点がこの書の独自性です。
 ちなみに、崇徳暗殺説を最初に出しているのもこの本です。

 神櫛王墓が作り出された過程と背景
 以上のように讃岐近世の地誌・歴史書を見てみると、『翁躯夜話』が神櫛王墓に触れた最初のもので、これ以後「牟礼の王墓」が神櫛王の墓とされ、地誌・歴史書に広がっていく過程を見てきました。それを研究者は次のように整理しています。
   「第一期」(17世紀まで)
神櫛王について地誌・歴史書に取り上げられているが、その内容は古代の史料の範囲内である。後
に神櫛王墓となる丘陵は地元では王の墓であるという見方はあるが、それが神櫛王とは結びついていない段階。
   【第二期】(18世紀初め)
 神櫛王が山田郡を治めたということが広まり始めた段階です。この時期には神内、三谷・十河の三族において、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られ、これを香西成資が『南海通記』に採録し、神櫛王が山田郡を治めたということが讃岐の歴史の一部となっていきます。しかし、墳墓についてはまだ特定されていない段階で、後に神櫛王墓となる丘陵は村民の墓地として利用されていました。
  「第三期」(18世紀半ばに墓が特定される段階)
『翁嘔夜話』が初めて「墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と俗称される」と記し、18世紀末には『讃岐国大日記』の写本にこのことが書き加えられ、それ以後も「讃岐志」などで取り上げられ広がっていく段階です。
   「第四期」(19世紀前半の時期)
 『全讃史』において墓地の中にある二つ墓石が注目され、大きい方が神櫛王の墓とされます。

 以上のような過程を経て、地元の人たちが立石を神櫛王の墓と語り伝えるようになったようです。しかし、そうなっても藩の記録や地誌・歴史書を見る限り神櫛王墓が特別な扱いを受けた様子は見られません。村民の墓地の中に、神櫛王の墓石はあり、村民の墓石と並び立っていたようです。

 ところで香川県のもう一つの陵墓である白峯陵は、高松藩においては初代藩主頼重が手を入れ修築します。五代藩主頼恭は、600年忌にあたり宝暦十三年(1763)にも修繕され、石灯寵一対が奉納されています。これを神櫛王墓と比べると、対照的に見えます。
 高松松平家は、水戸徳川家の分家であり水戸本家の学風、思想を継承しているとされます。水戸一族の家訓である「天朝に忠ならしむる」という尊王思想を受け継いたはずです。しかし当時の尊王思想は、天皇に対する崇拝の念であって、皇子・皇女にまでは及んでいなかったようです。それが高松藩の神櫛王墓の扱いからうかがえます。

 神櫛王墓は、皇子の墓としては最も早い時期に修造の決定が政府によって行われています。明治政府は、明治四年二月に太政官布告を出し、后妃・皇子・皇女の調査を始めます。それより前の明治2年に、神櫛王墓は新政府に修理伺いを出して、明治3年9月には工事が終わっているのです。この早さは、異様に見えます。どうして、こんなに早かったのでしょうか・

 江戸時代の陵墓の探索・修復は、天皇陵を主な対象として何度か行われていました。そして安政期には調査の精密度が増し、文久期には内容・規模が大幅に拡充され、一定の形式が整えられていきます。
 明治四年の布告は、江戸時代の「実績」を踏まえたものだったようです。その調査には「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などの6項目についての報告が求められています。これらに携わったのは、讃岐の神仏分離政策の大本締めとして活躍した多和神社の神主・松岡調であったことは以前お話ししました。彼は、東讃の神社全てを訪ねて、その祭神などをチェックし、仏教色の強い祭神を本殿から排除する作業を行っています。これらの作業は彼にとっては「讃岐宗教史」を学ぶフィルドワークの機会となり、彼の学問的な知見を飛躍的に向上させることになります。
 その後、松岡調は金毘羅宮の禰宜として、そこに琴平に神道の香川県惣社の指導者として、明治の宗教政策を指導していく立場に立ちます。当時の彼の手元にも、神櫛王墓の扱いについての公文書は回ってきたはずです。それへの対応をどうするかを決定する立場にあったのが彼だと私は考えています。あるいは、政府の調査を見越して神櫛王墓の修造を行わせたのも彼かもしれません。
 松岡調は、神櫛王墓のことをよく知っていたはずです。私たちが今までに見てきた資料も古文書を集めを趣味としていた彼の手元にはあったでしょう。新政府が求めた6つの調査項目である「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などは、彼ならすぐに書けたはずです。
 つまり江戸時代に積み上げられ集積された神櫛王墓の情報と松岡調の存在が神櫛王墓修造の決定を早めた要因のひとつだったのではないでしょうか。
 

  以上、高松方面での神櫛王伝説とその墓について見てきました。
全体をまとめたおきます
①紀記には、神櫛王は系譜だけが書かれ、悪魚退治やその墓などについては書かれていない。
②中世になって綾氏が神櫛王(讃留霊王)を、始祖とする「綾氏系譜」が作られる。
③ここに初めて「悪魚伝説」が登場し、綾氏に繋がる武士団の顕彰物語として広がる。
④高松方面では、神内、三谷・十河の三族が、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られる
⑤香西成資の『南海通記』にも採録されし、神櫛王伝説が広がる
⑦江戸時代後半になると牟礼の丘陵墓地が神櫛王墓とされるようになる。こうして出来上がった神櫛王墓は、明治になるといち早く王墓に指定され宮内庁の管理下に置かれることになる。
⑧並んでいた墓石や石仏は、王墓エリアから取り除かれる
⑨戦前には皇国史観の元で讃岐始祖「神櫛王」の墓として、歴史教育などでも必ず取り上げられるようになる
⑩戦後の皇国史観排除によって、神櫛王の比重は低下し、彼が歴史的に取り上げられることはなくなった。そのため神櫛王が何者であるのか、王墓がどこにあるのかも触れられることはなくなった。

参考文献 大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

  讃岐綾氏は、阿野郡一帯で活躍した古代讃岐の氏族です。
 讃岐綾氏は、7世紀半ばに阿野郡(評)の長官である評督に任じられて以後、郡司級豪族として発展の道を歩んだようすが『日本書紀』や六国史、その他の古代文献資料の中に、かなりの記録が残っています。そして、武士団へと「変身」していくのです。史料に現れる讃岐綾氏の記述を通して、その実態や性格について考えて見ましょう。
 
城山地図

綾氏が残した巨石墳と寺院建立は?
 讃岐国府があった坂出市の府中町には、新宮古墳・綾織塚・醍醐1~9号墳などの巨石墳があります。これらの古墳は、ほとんど出土遺物が伝わらないために、遺物の内容から被葬者の身分や性格について知ることはできませんが、築造年代は、六世紀末には新宮古墳、綾織塚や醍醐一~九号墳なども、六世紀後半から七世紀前半にかけての時期とされています。
L324384000527039醍醐古墳
 この府中町一帯の巨石墳は、綾氏の一族によって、築造されたと考えられているようです。
横穴式巨石墳に続いて、府中町一帯には、鴨廃寺・醍醐寺などの古代寺院が確認されています。
鴨廃寺・醍醐寺跡からは、外縁にX文のめぐらされた八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出土しています。また、これと同文の瓦が、綾南町陶田村神社東灰原付近でからも出土していますが、陶一帯には、古代寺院跡が見つかっていません。陶一帯が、六世紀後半から、平安時代末期までの須恵器の一大生産地として成長していくことを考えると、鴨廃寺や醍醐寺の建立に際して、陶に瓦窯が作られ綾川の水運で運ばれてきたことが考えられます。鴨廃寺や醍醐寺の瓦は、陶で焼かれた可能性があるようです。なお、鴨廃寺・醍醐寺の建立は、その瓦文様から、白鳳時代の後半には開始されていたようです。


10316_I3_sakatahaiji坂田廃寺
  坂田廃寺跡と綾氏 
 さて、高松市の石清尾山古墳群が造られた南麓は坂田郷と呼ばれていました。その西の浄願寺山の東麓には、坂田廃寺があり付近からは金銅誕生釈迦仏立像や、瓦を焼いた窯跡も発見されています。同時に、鴨廃寺・醍醐寺と同文の瓦も出ています。この坂田廃寺の近辺も、綾氏の拠点のひとつであったことが、十世紀末の文献資料や「日本霊異記」などによって分かります。この周辺に綾氏の一族が居住するようになるのは、坂田廃寺が建立された白鳳時代の後半か、それ以前のことのようです。
「高松市 坂田廃寺

  坂田廃寺周辺から出土した金銅誕生釈迦仏立像
 高松市鬼無町佐藤山にも、巨石墳が分布します。
この佐藤山巨石墳の被葬者が、綾氏の一族であったと考えられるなら、坂出市府中町一帯に居住した綾氏の一支族が、六世紀後半から七世紀前半には、このあたり一帯に進出していたことになります。
 そして、坂出市(令制の阿野郡)の綾氏と、高松市(令制の香川郡)の綾氏の間には、『日本霊異記』の説話にみられるような一族の間での婚姻関係が古墳時代の後期からあったのではないかとも考えられます。
 このように、綾氏は六世紀後牛の時期には、阿野郡と香川郡の一帯に住み、巨石墳文化を営み、古墳文化が衰退に向かう頃には、寺院建立を行なったと研究者は考えるようです。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 綾氏の地方役人への進出
 律令制の導入で評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられたようです。
  『日本書紀』天武天皇十三年(六八五)十一月一日の条によると、讃岐綾氏が、畿内の有力豪族である大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣などの五十一氏とともに、朝臣の姓を賜わったことがみえます。恐らく、綾氏が朝臣の姓を賜わった背景には、阿野郡の評造としての実績があったのでしょう。奈良時代の後半頃になると、綾氏は一族を阿野郡の隣郡の香川郡の大領として、出仕させる程の有力豪族に成長して行きます。
 『東寺文書』の中の、「山田郡弘福寺校出文書」によると、
  (端裏書)
 「讃岐国牒一巻」 (寺衡力)
 山田郡司牒 川原寺衛?
   寺
  合田中検出田一町四段??
 牒去天平宝字五年巡察??
 出之田混合如件、???
 伯姓今依国今月廿二日符?停止??、
 為寺田畢、掲注事牒 至准状、?牒
        天平?外少初位?秦
          主政従八位下佐伯
 大領外正八位上綾公人足??上秦公大成
 少領従八位上凡?   
        寺印也
 正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下
  とあって、綾氏の一族の綾公人足が、山田郡の大領の地位にあったことが分かります。
 この綾公人足は、阿野郡にいた綾氏の一族でしょうか、それとも香川郡にいた綾氏の一族だったのでしょうか?
 どうも阿野郡に居住した綾氏の一族であったようです。というのは、綾公人足が山田郡の大領になった背景には、次のような『続日本紀』大宝三年三月丁丑の日に出された、法令の影響があると考えられるからです
 下制日、依令、国博士於部内及傍国・
 取用、然温故知新、希有其人 若傍国無人採用 則申省、然後省選擬、更請處分、
 又有才堪郡司 若当郡有三等已上親者、聴任比郡、
とあって、三等以上の親族に限って、隣郡の郡司となることができたのです。この「三等已上親」というのは、現在の民法の「三親等以内の親族」と同じで、近親者という意味に使われているようです。
 香川郡に綾氏の一族がいたことは、『日本霊異記」中巻、第16の説話に、次のように記されています。
聖武天皇の時代の讃岐の国、香川郡坂田の里に、富裕な分限者がいて、夫婦とも綾姓として登場します。また、東寺の『東宝記』収載の天暦十一年元(957)二月二十六日の太政官符に、「香川郡笠居郷戸主綾公久法」とあります。
 このように、阿野郡から東の香川郡への綾氏の進出は、巨石墳が築造された六世紀後半にさかのぼって考えることができます。ここからは、かなり古い時期に移住が行なわれたことが分かります。

 奈良朝末期に綾氏は次のような訴えを中央政府に起こしています。
『続日本紀』延暦十年(七九一)九月二十日の条
讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。
己等祖、庚午年之後、至二于已亥年 始蒙賜朝臣姓 
是以、和銅七年以往、三比之籍、並記朝臣 
而養老五年、造籍之日、遠枝庚午年籍削除朝臣 
百姓之憂、無過此甚 請櫨三比籍及旧位記 蒙賜朝臣之姓 許之
意訳すると、朝臣の姓を名乗る許可を次のように訴えているのです。
①阿野郡の綾氏一族の当主綾公菅麻呂が次のように願い出ます。
②綾氏は文武帝三年の己亥の年に、初めて朝臣の姓を賜わった。
③ところが養老五年の造籍が庚午年籍を参考にしたために、朝臣の姓が削除されてしまった。
④これをもとにもどして欲しい
訴えたことがわかる。
 この綾氏の訴えは。中央政府に受け入れられて、綾氏は朝臣の姓に復することができます。

綾氏の中央官人化と在庁官人制
  『続日本後記』嘉祥二年(八四九)二月二十三日の条によると、
 讃岐国阿野郡人 内膳??、掌膳外従五位下綾公姑継 
主計少属従八位上綾公武主等。改本居 貫附左京六條三坊
とあり、綾氏の一族である綾公姑継が宮内省の内膳司の下級役人として、綾公武主が民部省の主計寮の下級役人になっていて、本貫を讃岐から左京六條三坊に移すことを許可されているのが分かります。これは、綾氏の一族の中に中央官人化するものが現れていることを示します。
 また、平安時代後期の永承年間には、綾氏の一族が「国雑掌」として、記録の中に顔を出すようになります。『平安遺文』によると、
〇讃岐国雑掌綾成安解 申進上東大寺御封事
  合准米貳伯拾陸鮮
   塩柑一石五斗、正物柑石、代六十斟
   嫁七百八十廷「未請」   代百五十六鮮
 右年々御封内、進上如件、以解、
  永承元年七月廿七日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六三三)
O讃岐国雑掌綾成安解 申進済東大寺御封米事
  合貳値斟
 右、富年御封米内、且進済如件、以解、
 永承貳年七月貳拾貳日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六四三)
永承年間には綾氏が国雑掌として、名をみせています。この国雑掌とは各地にあって運送業に従ったものだとされます。国雑掌という運送業専従者が登場する背景には、律令政治機構がくずれ、地方有力豪族が年貢や正税などの運送を請け負わないと、都までの物流が機能しなくなったことをを示しています。
 この傾向は在庁官人制の出現によって、いっそう加速されます。
在庁官人制は延喜年間の律令制再建政策の一環として設定されたもので、国司の任国支配における新しい現地官僚として設定されたものです。「平安遺文」によると、その位署の部分に、
 府老佐伯
 橡  凡
 府老綾宿
 目代散位惟宗宿々
   散位安宿
    (『平安遺文』四六三三。讃岐国
    留守所下文案)
 大国造在判
 大橡佐伯
 散位藤原宿禰
 府老綾朝臣
 目代越中橡小野在判
 平安遺文」一〇三五、讃岐国 曼荼羅寺僧善芳解案)
ここには、在庁官人として、佐伯氏や綾氏の名があります。佐伯氏は、空海を生んだ善通寺の佐伯氏でしょうか。
在庁官人制は、地方豪族の地位の向上をもたらします。
国司は任命されても京に留まり、自分の身代わりともいうべき「目代」を派遣します。逡任国司の制度の下で、在庁官人として国賓の留守所に出仕するようになった地方豪族の権限は、郡司時代よりも強化されます。
在庁官人の初見史料とされる延喜十年「初任国司庁宣」には
 新司官一 加賀国在庁官人雑任等
  仰下三箇条事
 一、可早進上神宝勘文事   (本文省略)
 一 可催行農業
   右国之興復、在勧農、農業之要務、在修池溝 宜下知諸郡 早令催勧矣、
 一 下向事
   右大略某月比也、於一定者、追可仰下之 以前条事、所宣如件、宜承知依件行之、以宣。
   延喜十年 月 日
    (『朝野群載』廿二諸国雑事上)
ここからは、神事と勧農に関する事柄が、在庁官人によって行なわれるようになったことが分かります。古代政治にとって最重要事項は神事であり、律令制下には国司の任務でした。その農業政策を綾氏などの地方役人が行うようになったのです。これは、地方役人の在庁官人の権力拡大をもたらすことにつながります。
 綾氏の地方豪族としてのさらなる成長
 鴨廃寺や醍醐寺・坂田廃寺の建立の際に、綾氏が瓦窯を綾南町陶に求めたことは、最初に記しました。この陶地区では、これら白鳳時代の瓦を焼いた窯より、古くから須恵器を焼いた打越窯跡がありました。時間的序列で見ると、打越窯跡の操業が六世紀後半で、綾織塚・新宮古墳・醍醐一~九号墳の築造が六世紀後半から七世紀前半にかけてということになります。ここからは六世紀後半には綾氏によって、陶ではすでに私的な須恵器生産が先行して行われていたことを意味します。
 しかし、地方豪族である綾氏が当時の最先端技術である須恵器生産の技術や運用を、独自に持っていたとは考えられません。これは、国府の管理下に、国司の指揮のもとに行なわれるようになったと研究者は指摘します。しかし、在庁官人制は綾氏にチャンスを与えます。
                 須恵器を焼いた窯復元図
綾氏が須恵器生産に関与する機会をもたらしたのです。
そこには讃岐国府が阿野郡におかれ、綾氏が阿野郡の郡司(在庁官人)だったという地理的条件があります。平安時代後期の頃になると、在庁官人である綾氏が、陶地区での須恵器生産を管理し、須恵器や瓦製品を都まで運んでいくようになるのです。
また、綾氏の一族が国雑掌として、平安時代後期の頃に中央と讃岐を結ぶ年貢や正税の運搬の仕事に従事していたことは述べました。これは綾氏に「役得」をもたらします。中央からの情報・技術・文化をいち早く入手し讃岐にもたらすポストにいたのです。このように、讃岐綾氏の一族は讃岐地方における須恵器生産に関与し、讃岐地方の経済活動に大きく係わっていたと考えられます。また、綾氏は製塩産業も経営していたようです。
綾氏の「殖産興業」策
『延喜式』によると、讃岐の阿野郡からは調として「煎塩(いりしお」を貢上することが、定められています。『万葉集』巻一の五には

 「讃岐の国かをの郡に幸せる時・軍王の山を見て作れる歌」の中に、「聡の浦のあま処女らが焼く塩の念ひぞもゆる」

と製塩が行なわれた様子を歌った歌があります。
『日本霊異記』中巻第十六の説話には香川郡坂田の里の「富人」として綾君がみえます。
この綾君は多くの「使人」を用いて「営農」しているばかりでなく、一部の家口の中には「有業釣人」と漁業をもってなりわいとしているものもみえます。ここからは海浜に近い地域に住む綾君が、海産に強い関心を示し、塩釜を用いた製塩が行なわれたのでないかと研究者は推論します。
 平城宮木簡第三三〇号に、
 讃岐阿野郡日下部犬万呂三口  四年調塩
とあることや、綾氏が居住した坂出一帯にいくつかの古墳時代の製塩遺跡が発見されていることによって、裏付けられます
 また、綾君の家口の中に、漁業をもってなりわいとしているものがいたことは、『延喜式』に中男作物として、乾鮒・鯛楚割・大鰯・鮨・鯖・海藻などの貢上が定められていたことからもうかがえます。
それは、船を操る「海民」の存在をしめし、それが海上交易への進出への道を開きます。また、「営農」の中には、墾田永代私有令以後に開発された多くの荘園の耕作活動が含まれていたことでしょう。
 以上から考えると、綾氏の経済基盤は農業を始めとして、製塩・漁業などの各方面にわたっていたようです。そして、平安後期になると国雑掌という運送業にも従い、在庁官人という立場をうまく利用し勢力を拡大します。さらに平安後期には陶地区における須恵器や瓦の生産活動を把握する立場にまで成長していきます。そこからは、多くの収益を得ていたでしょう。
 こうして綾氏は、一族の中で郡司職を世襲する特権や在庁官人となる権利に恵まれていたために、本家筋にあたる綾氏を中心に、繁栄を重ねていたと考えられます。
 綾氏のような氏族経営による「殖産興業」的な活動は、他の郡司級豪族にも共通したものだったようです。それは三豊の丸部氏が藤原京への瓦提供のために宗吉に中央権力の支援を受けながら当時では日本最大級の瓦生産工場を建てるのと、似た構造かも知れません。
 綾氏の武士化はどのように進んだのか?
 鎌倉時代になると、綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・豊田・柞田・柴野・新居・植松・三野・阿野・詫間などの諸氏に分かれて行きます。彼らは中讃を中心に在地武士として活躍することになります。
 綾氏は平安時代後期になると、中央の藤原氏と関係を深めていきます。そして、讃岐藤原氏と称すようになります。『綾氏系図』には、綾大領貞宣は娘を中納言家成の讃岐妻として婚姻関係を結び、その子の章隆を産んだとします。綾氏は自らを、その後裔と称すようになります。
 中納言家成は烏羽上皇の近臣で、その院政を支えた受領のうちの一人です。しかし、これも先ほど述べたように遥任国司で、上皇のそばから離れた記録はなく、実際には讃岐に赴任していないようです。家成が遥任国司であったことを考えると、綾氏の娘との出会いの機会はありません。
 恐らく、綾氏が藤原氏を称するようになったのは、中央の藤原氏の権勢という「虎の皮」を被ることで、自分の在地支配をスムーズにしようとしたねらいがあってのことと研究者は考えています。
 綾氏が武士化していく上で、阿野郡の郡司職を世襲してきたことは、大きな力になったようです。
平安後期になると地方の治安は乱れ、瀬戸内地方では海賊が横行するようになります。
『三代実録』貞観四年(八六二)五月二十日の条には
近ごろ海賊が往々にして群をなして往還の人々を殺害したり、公私の雑物を掠奪するようになり、備前国から都におくる官米八十鮮を載せた船が海賊におそわれ、官米は侵奪され、百姓十人が殺害されるような事件が起こったので、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐などの国から、人夫を徴発して海賊の討伐をさせた記事があります。
これ以後、中央政府は海賊迫捕の命令を何度も出しています。
 また、『三代実録』元慶七年(八八三)十月十七日の条には、
備前の国司公庫稲二万束を割いて出挙し、その利益を兵士124人の糧にあて、要害の地にこの兵士をおいて、船や兵器をととのえ海賊を防がせようとしたことがみえます。

このように当時の瀬戸内海は、海賊の横行が大きな社会問題となっていたのです。海賊の横行に対して讃岐の国には、検非違使がおかれていました。
純友の乱の鎮圧と綾氏の武士化
関東で平将門の乱に相応じるように、藤原純友の乱がおきます。侵入した純友軍によって讃岐国府は占領され、焼き払われます。この乱の後に、追捕使や押領使が常設されることになります。国検非違使や追捕使、押領使に任じられたのは「武勇之輩」です。彼らは、地方の治安維持者でした。これに任用されたのが、郡司などの一族でした。綾氏の一族も、この国検非違使や追捕使、押領使として任命されたと考えられます。これが綾氏などの郡司級豪族が武士化していく契機になります。
 すでに、古くは桓武天皇の時代から郡司の子弟が健児としておかれ、地方の治安維持にあたっていました。健児にとって、国検非違使や追捕使、押領使などの職は魅力のある地位だったはずです。特に、讃岐地方は承平の乱の影響を直接受け、讃岐国府は純友の賊によって焼かれました。国府のある阿野郡の郡司である綾氏の一族が、純友の乱に対処するための軍事力として組織されたことは十分考えられます。このように、純友の乱は綾氏が武士化するための、一つの契機となったと研究者は考えているようです。
 以上の流れをまとめると次のような「仮説」になります。
①讃岐綾氏は六世紀後半から七世紀前半にかけて、坂出市の城山山麓に巨石墳をたくさん営み、七世紀後半頃になると鴨廃寺や醍醐寺などの寺院建立を行なった。
②阿野郡の綾氏によって鴨廃寺や醍醐寺が営まれたと同じ頃に、香川郡の綾氏によって坂田廃寺がつくられた。
③律令時代になり、評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられた。そして譜第郡司として、綾郡の郡司職を世襲した。
④在庁官人制が施行されると、綾氏は在庁官人として国府留守所で活躍した。
⑤讃岐綾氏の一族は、荘園を拡大する一方で製塩や漁業にも手を伸ばし、「殖産興業」を活発に行う氏族として勢力を伸ばした。
⑥鎌倉時代になると讃岐武士団の中核の一つとなった。
⑦綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・西隆寺・豊田・祚田・新居などの在地武士として活曜するようになった。

このようにして綾氏は古代から中世へ、地方在住の郡司から武士へと姿を変えながら勢力を拡大していったのです。

参考文献 

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