瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 高松城

 1585(天正13年)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいました。そして四国の大名を一括して認識していたとも云われます。そのため四国衆は、秀吉の助言や指示を仰ぎながら国造りや、城下町形成を行ったことが考えられます。今回は、その中で阿波の蜂須賀家の徳島城下町形成を見ていくことにします。
Amazon.co.jp: 近世城下絵図の景観分析・GIS分析 : 平井 松午: 本
テキストは「徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較63P」です。
1585(天正13)年の秀吉による四国平定後に阿波に入ってきたのが蜂須賀家政です。
特別展 蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮 ―二五万石の礎【図録】(徳島市立徳島城博物館:編) / パノラマ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
蜂須賀の3代
彼は最初は鮎喰川中流の山城一宮城に入りますが、羽柴秀吉の指示で古野川河口南岸のデルタに新たな拠点に定めます。その背景としては、次のような事が考えられます。
①徳島が吉野川流域の「北ケ」と勝浦川・那賀川・海部川流域の「南方」の結節点であったこと
②畿内や瀬戸内経済圏に近く、海上交通に利便であったこと
そして吉野川デルタの城山(標高61.7m)に、徳島城を築き、翌年14年には、次の布令をだしています。

「去年から徳島御城下市中町割被仰付町屋敷望之者於有之ハ申出二任相応二地面可被下旨」
(「阿淡年表秘録」徳島県史編さん委員会編1964頁)

意訳変換しておくと
「去年から徳島の城下市中で町割を実施している。ついては屋敷を所望する者については、申し出れば相応な地面(土地)を下される。
 
ここからは城郭建設の一方で、積極的に町人の移住を奨励していることが分かります。こうして城下町建設は急速に進みます。蜂須賀家によって進められた徳島城下町は、全国的にみても早い時期に成立した近世城下町の一つのようです。
蜂須賀氏に少し遅れて讃岐に入ってきたのが生駒氏です。生駒氏も讃岐のどこに拠点を置くかについて、「引田 → 宇多津 → (丸亀) →高松」と変遷しています。高松への城下町設置についても秀吉からの助言と指示があったことが考えられます。

桃山時代に行われた徳島城下町プランの特徴を、研究者は次のように指摘します。
①古野川の分流である新町川・寺島川・助任(すけとう)川・福島川な下の網状河川を濠堀として利用した「島普講」
②従来の渭山城と寺島城のふたつの城を取り込んで築城し、「渭津」と呼ばれた地を「徳島」と改称。
③城郭のある徳島地区と大手筋(通町)にあたる内町・寺島地区を中心に、出来島・福島・常三島・藤五郎島の6島と前川・助任・寺町・新町の各地区を徐々に整備。(図4-1)c
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図
       御山下画図(徳島城下町の一番古い城下町図)
例えば、この時に整備された「寺島」地名の由来は、『阿波志 二巻』(国会図書館蔵)の次の記述からきているとされます。

「旧観多因名天正中移之街」

  ここに最初から寺社が建ち並んでいたのかと云えば、そうではないようです。もともと渭津には、中世には社寺はほとんどなかったようです。それでは、どこから移転させたのでしょうか。
中世徳島の政治的中心は、細川・三好氏の拠点があった勝瑞城館周辺でした。
そのためその周辺には、27ケ寺もの寺院がありました。その内の6ヵ寺を寺島に、8ヶ寺を徳島城下の寺町、2ケ寺を層山山麓に蜂須賀氏は移しています。寺院を城下町の一箇所に集め「寺町」を形成し、軍事的・政治的要地とするという手法は、当時の城下町形成のほとつの手法でした。

 御山下画図をもう一度みてみましょう。
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図

これを見ると、徳島地区の城郭東隣3区画 + 徳島城側の寺島地区3区画 + 「ちき連(地切)」と呼ばれた籠島地区2区画は、「侍町」と記されています。寺島地区にはこの他にも、「侍町」「町や」、「城山」や、城山西隣に隣接した瓢箪島(一部は明屋敷、のちの花畠)や、出来島・常三島・前川に「侍屋敷」、助任や、福島川治いにも「町家」が見えます。新町川対岸の新町地区にも道路割から町割があったことが分かります。
 ここでは秀吉時代に姿を見せた徳島城下町は、徳島・寺島・出来島を中心とした小規模な城下町で、次第に町割が拡充整備されていったことを押さえておきます。

 徳島と寺島に架かる徳島橋(寺島橋)については、『阿波志 二巻』に、次のように記されています。
「紙屋街 坊三有、旧名寺島街、国初徳島橋跨此後移橋迂通街、官命許嵩(販売)紙他街不得」
「徳島橋 在左詐樵(物見櫓):門外、跨寺島川、旧在鼓楼下、跨紙量街後移迂此」
御山下画図
御山下画図の徳島橋

ここからは城下町建設当時の徳島橋は、寺島街(町)と呼ばれた紙屋町に通していたこと、それが後に約100m南に移され、通町につなげたとことが分かります。通町は、徳島城下町の大手筋にあたりますが、仮に城下町建設当初は紙屋町が大手筋とすれば、徳鳥橋移設前の城下町構造は寛永前期(1630年頃)までとは多少異なっていたと研究者は考えているようです。
 徳島城下町は豊臣期プランでは、天守を仰ぐタテ町型の城下町建設が進んだと従来はされてきました。
しかし、紙屋町・通町のいずれからも城山山上の本丸や東ニノ丸の天守を見ることはできません。ただ北方道と紙屋町通りが合流する三叉路地点からは、徳鳥城南西隅に設けられた物見櫓が正面に見えただけになると研究者は指摘します。

徳島城下町がヴァージョンアップするのは、1615(元和元)年の大坂の陣以後のことです。
大阪の陣の功績で、蜂須賀家は淡路一国七万石が加増されます。これを契機に徳島城の大幅改造が行われます。その一環として徳島城の拡幅や、徳島橋の架け替えが行われたようです。しかし、徳鳥城下町の町割自体には大きな変化は見当たりません。
 一方、大坂夏の陣が終わると―国一城令が出されますが、当時の蜂須賀家の阿波国統治の基本スタイルにすぐには変化はなかったようです。蜂須賀藩では、人部以来、手を焼いた祖谷山一揆や丹生谷一揆の領内鎮撫への反省・対応から、9つの支城をそれぞれ城番家老が担当するという分権的支配体制(「阿波九城」体制)がとられていました。

阿波九城a.jpg
阿波九城体制

そこで新たに領地となった淡路国にも、山良成山城に城番として大西城(池田城)の城番を務めた牛田一長入道宗樹が宛てられています。阿波九城の一宮城や川島城などは、元和元年ころまでには廃城となっていたようですが、支城すべての破却が完了するのは、島原の乱後の1638(寛永15)年頃になります。
 しかし、徳島城下町の都市改造は、これよりも早く1630年代(寛永期以降)には着手していたようです。それが分かるのが「(忠英様御代)御山下画図」で、これには次のような懸紙が付されています。
徳島城の建物・石垣の修復願い
徳島城下(御山下)周辺の佐古村に「町屋二被成所」
福島東部の地先に「御船置所」
富田渡場に「橋二被成所」
ここからは、この絵図が徳鳥城修復や城下町再編のために幕府に提出した計画図の控えであることが分かります。ちなみに富田橋の建設申請は何度も幕府に提出されますが認められず、架橋されたのは明治になってからです。
「御山下画図」には「島普請」の様子が、次のように描かれています。
①徳鳥・寺島・出来島・編島・住吉島・福島・前川地区に侍屋敷が配置されていること
②内町・新町・助任町・福島町の町人地の家並みが描かれていること
③内町には尾張・竜野出身の蜂須賀家譜代の特権商人が集められていること
④新町川を挟んだ対岸に地元商人が集つまる新町が形成されたこと
⑤新町と眉山の間に寺町が設けられていること
⑥城下町縁辺に配置されることが多い足軽町が見当たらないこと

⑥については、当時はまだ有力家臣による城番制で、各支城ごとに約300人の家臣団が分散配置されていたためと研究者は考えています。しかし、村方の佐古村や富田浦には生け垣で囲われた中上級武士の家屋が多く描かれています。すでに廃城となった一宮城や川島城にいた中下級家臣が、城下周辺に住むようになったことがうかがえます。これらの家屋は伊予街道・土佐街道沿いに建ち並び、家並みも後世の町割につながる形状です。この図が作られた頃には、徳島城下町の改造計画が始まっていたのです。
 この図には、次のような施設も描かれています
①常三島の南東部(現・徳島大学理工学部付近)に移転することになる安宅船置所(古安宅)や住吉島の加子(水主)屋敷
②城下町の北側には蜂須賀家菩提寺の福衆寺(慶長6年に徳島城内より移転、寛永13年に興源寺に改称)や江西寺、
③城下東側に慈光寺(慶長11年に名束郡人万村より福島に移転)。蓮花寺(寛永8年に住吉島に移転ヵ)、
④城下南方の勢見(せいみ)には1616(元和2)年に勝浦郡大谷村より移転し徳島城下の守護仏とされた観音寺
また、この図には描かれていませんが城下西の佐古村には1602(慶長7)年に大安寺が創建されています。これらの四囲の寺院は、城下町防衛の軍事的観点から配置されたと研究者は考えています。関ヶ原の戦い以後も、蜂須賀家が引き続き城下町整備に務めていたことがうかがえます。

以上、初期の徳鳥城下町は吉野川デルタの島々の上に形成されたために、同時期に建設された近江八幡・岡山・広島・高松の城下町のように方格状の町割や足軽町の形成などは見られません。そういう意味では、町割ブランは明確ではなかったと云えます。町割りプランが明確化するのは、徳川政権下の慶長期以降だったことを押さえておきます。
 徳島城下町が大きく再編するのは、1630年代末になってからです。
その背景には、1638(寛永15)年までに阿波九城(支城)の破却が進んだことが挙げられます。そして1640年代になると川口番所や境目(国境)番所や阿波五街道などのインフラ整備が進みます。こうして阿波九城に居住していた家臣団が徳島城下へ集住することになります。その対応策としてとられたのが佐古村や富田浦を新たに城下に組み入れ、武士団の居住地として整備することです。そこには伊予街道や土佐街道のインフラ整備と連動して、新たな都市プランが採用され、足軽屋敷や中下級藩士の屋敷、町屋など長方形街区の町割が整備され姿を見せるようになります。こうして「御山下」と称する徳島城下町の縄張りがほぼ確立します。
 洲本城下町の建設や徳島城下町の再編を主導したのは非城番家老の長谷川越前でした。蜂須賀家では、幕府指導の下にこうしたインフラ整備を実行していく中で、各城番家老による分権的支配体制から藩主直仕置体制への政治改革が同時に進んだと研究者は考えています。

  あたらしく城下に編入され佐古・富田の町割プランを見ていくことにします。
阿州御城下絵図 1641年
阿州御城下絵図(1641年)

徳島城下町 西富山の屋敷割図
新たに城下に編入された西富田の「屋敷割之絵図」(1641(寛永18)年:国文学研究資料館蔵)です。土佐街道が中央を貫いています。これについて、研究者は次のように分析します。

徳島城下町 富山の屋敷割図
富田地区の屋敷割図

①東富田地区は中下級家臣の拝領屋敷や有力家臣の下屋敷が多くを占めている
②新町川南岸沿いに長方形街区が2列幣然と区画され、東西幅はおおむね75間を基準とした
③一方で長方形街区の南側に立地する下屋敷の規模は大きく、町割は不規則区画を示している|。
徳島城下町 東富田の屋敷割り(1641年)
東富田地区の屋敷割り(1641年)
徳島城下町 左古の屋敷割図
佐古の屋敷割図
佐古は東西に伊予街道が貫きます。
④佐古橋で新町に通じる佐古地区では、4間幅の伊予街道北側に東西55間(約100m)×南北15間(約27m)の町屋敷ブロックが9丁にわたって整然と配置されている。

徳島城下町 左古の屋敷割図拡大
佐古一丁目の拡大図
⑤伊予街道と平行して北側に東西方向に伸びる4間道の両側と3間道の南側に、東西55間×南北15間の街区ブロック3列が9丁連続し、
⑥それぞれの街区ブロックには間口を道路側に向けた11戸の鉄砲組屋敷が短冊状に配置
⑦鉄砲組屋敷ブロックの北側には、3間道を挟んで御台所衆・御長柄の組屋敷や中級高取屋敷が不規則に配置

寛永末期の徳島藩士は3374人を数え、その内訳は高取482人、無足444人に対し、無格奉公人が2448人で約736%を占めています。阿波九城が破棄されると、その中下級藩士を徳島城下に集住させることになります。このために徳島城下町の大改造が行われたことを押さえておきます。
(正保元)年12月に、幕府は国絵図・郷帳と合わせて城絵図(城下絵図)の提出を各本に求めます。

正保国絵図 徳島3
正保国絵図 徳島城下

「阿淡年表秘録」正保3年の項には、次のように記されています。
今年 御両国絵図 且御城下之図郷村帳御家中分限帳依台命仰御指出」

この時に幕府に提出された正保城絵図(上図)が国立公文書館に所蔵されていて、控図も残っています。そこには「阿波国徳島城之絵図 正保三丙戊11月朔  松平阿波守」と奥付に記されています。
この絵図で研究者が注目するのは、「(忠英様御代)御山下画図」では、村方表記になっていた佐古・西富田・東富田の侍屋敷地が「御山下」に編人されていることです。
正保国絵図 徳島.左古拡大JPG
坂本の侍屋敷と伊予街道

西富田の足軽町は、徳島城|下の守護を祈願した観音寺や金刀比羅神社がある勢見岩ノ鼻まで拡大されています。1616(元和2)年の観音寺や全刀比羅神社の移転は、こうした城下町再編計画の一環だった可能性があります。福島地先には計画通り安宅船置所が設置され、その西側に「船頭町」も描かれています。船置き場移転の結果、常三島の古安宅付近は、「侍屋敷」になっています。また、阿波五街道に指定された讃岐本道・伊予本道・土佐本道・淡路本道の4街道は、徳島城鷲の門を起点に朱筋で示されています。
 正保城絵図は城地・石垣に関する情報のほかにも、城下の町割と侍屋敷、足軽町、町家、寺町な下の土地利用を記載することが幕府によって求められていました。これに従って「阿波徳島城之絵図」では次のような施設が描かれています。
城地に屋敷や馬屋・蔵屋敷
安宅に船頭町
西富田に餌指町・鷹師町
寺町周辺や城下四隅に置かれた「寺」
ここでは寛永後期~正保期にかけての都市大改造によって、徳島城下町の縄張りが確立されたこと、正保城絵図である「阿波国徳島城之絵図」は、そうした徳島城下町の再編計画の完成を示す城下絵図であることを押さえておきます。
明治初期の徳島城下町

以上をまとめておくと
①秀吉から阿波国主に封じられた蜂須賀家は、その指示に基づいて吉野川デルタ地帯に城下町を築いた。
②初期の城下町はデルタ上の島々の上に築かれたもので、寺町・町人などの居住区は整備されたが侍屋敷の数は少なかった。
③これは当時の蜂須賀藩が「九支城体制」で、多くの家臣団が支城に居住していたことによる。
④それが変化していくのは、淡路加増や一国一城が貫徹し支城が廃棄されるようになってからのことである。
⑤多くの家臣を徳島城下町に居住させるために、計画的な家臣団住宅整備プランが実施され、侍屋敷が整備された。
⑥これらは五街道や藩船置場(港)などの社会的なインフラ整備と一括して実施された。
⑦こうして1640年代には、徳島城下町はヴァージョンアップした。

こうしてみると高松城の変遷と重なる点が見えて来ます。高松城は、16世紀末に生駒氏によって、海に開かれた城郭として整備されます。しかし、城下町に家臣団は住んでいなかったことは以前にお話ししました。それは生駒藩が棒給制をとらずに、領地制を維持したために家臣団が自分の所領に舘を構えて、生活していたからでした。それが変化するのは、高松藩成立後です。生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重は、再検地を行い棒給制へ移行させ、家臣団の高松城下町での居住を勧めます。こうして高松城下町でも家臣団受入のために、侍屋敷の整備が求められると同時に、急速な人口増が起きます。その結果、南の寺町を越えて市街地は拡大することになります。高松と徳島で、城下町が整備されていくのは1640年代のことのようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較
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都市―ローマ人はどのように都市をつくったか』|感想・レビュー - 読書メーター

善通寺市の旧練兵場遺跡群の報告書を読んでいて「古代の都市的景観が、ここには現れている」という表現に出会いました。私の愛読書のひとつが上の「絵本」なので、「都市」と言われるとローマやギリシャの古代都市国家を、イメージしていまいます。しかし、どうも編者の伝えたい内容とは違うようです。讃岐の「古代都市」とは、何なのでしょうか。それを今回は追いかけて見ます。テキストは「阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
 古代都市の条件として、研究者は次の3つの条件を挙げています。
①政治的中心機能
②経済的中心機能
③文化的中心機能
  たくさんの人が住んでいるだけでは都市とはいえないと云うのです。これには耳が痛い地方都市があるかもしれません。③の「文化的中心」が見当たらない地方都市は、たくさんあるように思えます。

中国の咸陽や長安に似せて作られた平城京や平安京は、日本を代表する古代都市ということになります。
これらは都城とも呼ばれ、天皇の居所、政治の場であった官と、官人らが住む京から成っていました。京には官人の住居のほか寺院や市もあったので、政治・経済・文化の中心機能を持っていました。
それでは、讃岐はどうでしょうか?

讃岐国府跡復元図2

讃岐にも現在の県庁に当たる国衙が置かれていました。国衙は国司が行う政治の場であり、その近くに国司館や国分寺・国分尼寺などがあり、市も置かれていました。国司の数は、国の規模によって違いますが、守・介・佐官・目を合わせ、小国でも20人、大国では70人くらいはいたようです。さらに、彼らの家族や国分寺・国分尼寺の僧侶たちもいたので、ただの村でなかったことは間違いありません。
讃岐の国衙は、発掘によって坂出市府中町にあったことが確実視されるようになっています。開法寺周辺を中心に官衛らしきエリアがポツンポツンと散在していたことが分かっています。これも「古代都市的景観」のようです。
讃岐国府跡 4
讃岐国府の位置と構成

 讃岐の中世都市の成立
律令制の崩壊とともに平安京は衰退し、右京は廃絶して田園化してしまいます。代わって院政期なると鴨川沿いの白河に政治の中心が移っていきます。そうすると左京から白河にかけて、「平城京から京都へ」と新たな都市として京都は再生します。同じ頃に、筑前(福岡県)の鴻櫓館(迎賓館)とともに日本の国際交流の拠点だった博多津が国際港湾都市に生まれ変わり、唐人たちが居留する唐坊と呼ばれるチャイナタウンも登場するようになります。
この時代の讃岐国衙は、どうだったのでしょうか?
国衙遺跡存続表1
国衙の存続期間

国衙は10世紀頃に廃絶するところも出てくることは以前にお話ししました。しかし、政務を請け負った現地の国司(受領)らが、それまでの国衛を留守所と呼ばれる役所に再編し、一国支配の拠点とします。留守所の多くは13世紀半ば頃には、鎌倉幕府が任命した守護に政務の主導権導権を奪われ、守護館を中心とした府中と呼ばれる都市域の中に消えていった所が多いようです。もちろん留守所と守護館が別の所にあったこともあり、そこでは留守所の廃絶後、守護館を中心に新たな政治都市が形成されることになります。
讃岐国府跡建築物との比較
           讃岐国府跡の遺跡消長表
 

上表の坂出国府跡遺跡でも、建物の数は減りますが11世紀中頃までは機能していたことが分かります。綾氏などの武士化していく在地勢力は留守所を拠点としていたようです。
 このほか、院政期に整備された諸国の一宮(各国の中で最も社格の高いとされる神社)を中心に宮中という都市が成立する所もあります。宮中は府中とともに鎌倉期の地方都市の代表でした。こうしてふたつの都市が地方に見られるようになります
①府中 守護館を核に守護の菩提寺・家臣屋敷を伴う
②宮中 一宮を核に神宮寺や神官たちら屋敷を伴う
府中や宮中は、国府津の港町を支配下に置き、さらに街道沿いに成立した宿も緩やかに掌握するようになります。
 讃岐の一宮は田村神社(高松市)、伊予は大山祇神社(今清市)、備前は吉備津彦神社(岡山市)、備中は吉備津神社(岡山市)です。田村神社周辺にも「宮中」的なものがあったのかもしれません。
しかし、府中・宮中はまだまだ隙間だらけの都市でした。
府中は守護館・菩提寺・家臣屋敷を中心に一定のまとまりを持っていました。しかし、経済集落である宿・町や港町とは、離れていて一体化はしていなかったことは前回にお話しした通りです。宮中も一宮・神宮寺・神官屋敷などが一定のまとまりを持っていましたが、宿や港町は少し離れて存在しました。門前町と呼ばれる段階ではなかったようです。

 中世都市の発展と宿・町と市
鎌倉幕府が成立し、鎌倉が東国の首都として発展すると、京都と鎌倉を結ぶ東海道の重要性が増します。2つの中心都市の間を輸送される物資が増大し、往来する武士や公家・僧侶・百姓なども増加するようになります。京都と鎌倉の間には、いくつかの府中や官中がありました。その間に宿と呼ばれる町場が次々と成立します。これは山陽道や南海道でもおなじです。鎌倉時代になると、京都と各地の府中・官中の間に宿・市が相次いで姿を現します。

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『一遍上人絵伝』に描かれた備前福岡の市の賑わい

福岡の市は山陽道が吉井川を渡る地点にありました。立ち並ぶ市小屋の中には米・布・魚や備前焼など様々な商品が並べられています。武士・僧侶・商人・旅人・子どもをはじめ多くの老若男女が描かれて、市の開催日の賑わいのさまが伝わってきます。

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          備前福岡の市(拡大)
この絵が描かれた13世紀末頃は、月に3度開かれる三斎市が中心でした。それが15世紀になると、六斎市になって開催日が倍増するようになります。市日でないときの市場は、乞食や犬・鳥が描かれていて、閑散とした様子が強調されています。もっとも市と宿・町とは別物でした。河原に立っている福岡の市とは別に、山陽道の道沿いに福岡の宿があった研究者は考えています。
 こうした市や宿・町が13世紀以降、各地に次々と立てられるようになります。讃岐でも、港周辺や街道の交流点などには、このような市が立っていたはずです。さらに時代が下ると市は、町に発展していきます。同時に、瀬戸内海沿岸部の港町も、その数を増していきます。
5 居館・城郭と宿・町・市
鎌倉幕府は東国武士が源頼朝を担ぎ上げて、東国に成立した武士政権です。承久の乱などを期に、東国武士の一族が西日本に守護や地頭としてやってくるようになります。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
武士の居館

彼らは征服者として東国にいたときと同じように、地域の要となるところに居館を構え、その周辺に一族・家臣を配置します。そして、周辺にある宿・町・市に寄生する形で経済的な優位性を確保しようとします。同時に土器川などの氾濫原などの未開の荒野の開発を進め、地域の支配者として定着していきます。
 そのような中でも守護としてやってきた有力な東国武士の中には、国府の近くに守護所を建て、周辺に一族や家臣を配置し、国府ゆかりの工人や商人を自己の支配下に編入していきます。さらに近隣の街道沿いの宿・町・市や港町を緩やかに統合し、菩提寺なども建立します。こうして武士の居館を中心に、府中と呼ばれる都市が姿を見せるようになります。
府中城 - お城散歩
国府のあった跡に築かれた中世の府中城(茨城県石岡市)
 守護の本拠である府中は15世紀前後に充実期を迎えます。
14世紀の山口市の大内氏館跡 再現CG 友森工業7 - YouTube
大内氏館
その代表が、周防・長門の守護大名の大内氏館(山口市)です。館内には立派な庭園を設け、隣には迎賓館として利用されたとされる築山館を伴い、街道沿いには町も発展していました。また、豊後守護大友氏の館は大分川河口近くの府内(大分市)にあり、庭園跡や遺物が出土しています。

6宇多津2
   中世宇多津の復元図 多くの寺院が青野山の麓に並ぶ

 讃岐守護の細川氏の館は、青野山の麓(香川県宇多津町)にあったようです。
将軍義満の信頼を得ていた細川頼之が失脚したときに、一時的に宇多津に留まります。しかし、その他は幕府管領として在京することが多く、宇多津にはほどんどいませんでした。国元の支配を守護代に委ねていたため、宇多津が「府中」として発展することはなかったようです。
6宇多津1
中世宇多津復元図
 戦国城下町の成立と発展
 16世紀になると戦国大名と呼ばれる地域権力が登場します。彼らは守護大名より進んだ支配方式を取り入れるようになります。それが、防御に強い山や台地などに城郭を築き、その城下に一族・家臣団を集めるという方式です。こうして、いままでの宿・町・市に加えて、新たに新宿・新町と呼ばれる町の建設を行い、城下町を地域経済圏の中心に置いた経済政策が進められるようになります。こが戦国城下町の登場です。大内・大友・河野氏らは守護から戦国大名化し、府中を戦国城下町に発展させます。しかし、讃岐では先ほど見たように管領細川氏の被官で京都に在勤することの多かった安富氏や香西氏などは、本国経営がおろそかになり戦国大名化が進まず、本格的な城下町も出現しませんでした。一部、讃岐守護代の香川氏にその動きが一部見られる程度のようです。
太閤検地 タイムスリップ
近世城下町の出現 検地や刀狩りの中で進みお城造り
 近世城下町から近代都市へ
16世紀末~17世紀初の戦国時代から天下統一・江戸幕府成立の時期になると、生き残った大名や新規に取り立てられた大名が、藩づくりのために城と城下町の建設・改変をセットで進めるようになります。この時期の城下町建設ラッシュによって、姫路・岡山・福山・広島・小倉・高松・丸亀・今治・松山など、瀬戸内海の主要都市の配置ができあがります。

野原の港 俯瞰図イラスト
中世の野原(現高松)復元図
 高松城とその城下町は、16世紀末に讃岐にやってきた生駒氏が中世の港町である野原の上に建設したものです。生駒氏の後、松平頼重が高松12万石の大名になり、城と城下町を改修して近世城下町高松を完成させていくことは、以前にお話ししました。

6 高松城 天守閣2
取り壊される前の高松城天守
城下町は、明治になると廃藩置県で城が廃止され、その主人である武士がいなくなると、衰退するところも出てきました。
しかし、多くの城下町の場合、城跡に県庁・市役所などの役所、学校、図書館、軍隊などの公共施設が建設されます。それらの施設が核となって新たな活力を都市に与え、城下町を近代都市に再生させていくエネルギー源のひとつとなります。瀬戸内の都市の多くは、こうして時代の変化に対応しながら生き残り、発展してきたのです。
丸亀連隊 明治38年
      明治以後の丸亀城大手町は、陸軍がいた。

以上をまとめておくと
①中世には、市、宿、哺、泊、津、境内、門前と呼ばれる場所が、流通や宗教などの機能と補完し合う形で存在していた。
②これらは1か所に密集していたのではなく、分散しながらも緩やかに連携しあって「都市的場所」を形成していた。
③近世になると、それがら城下町に取り込められて城下町などに再編成される。
④城下町は、それまでの都市的空間をいくつも取り込むことで、巨大化した。
⑤明治維新になり、城下町から武士はいなくなったが、それまで通りの政治的中心機能を維持することで、地域社会の中心で在り続けることができた。
⑥それが高度経済成長期やバブル崩壊を機に、地方都市はふたたび厳しい時代を迎えている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会

野原・高松・屋島復元地形図

中世の高松周辺の海岸線です。屋島は島で、現在の高松城のある野原の地との間には、「古・高松湾」があったと研究者は考えているようです。イラストで見ると、こんな風になるようです。
野原・高松・屋島復元図

以前に高松城の西側の宮脇町のことは見ました。今回は高松城の東浜(東側のエリア)の変化を見ていきたいとおもいます。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です
高松城 周辺地理図

この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」は、江戸初期の高松城の東の地形について、次のように記します。
東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟坂田中河原迄潮先来ル也。
意訳変換しておくと
東浜は④野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。

「野方口迄潮サシ込」は、上図④の「ノカタ(野方)ロ」の付近のことのようです。確かに絵図でも、野方口から東は海岸です。南海通記と絵図は一致します。「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の「高松ヨリハ嶋(屋島)ヘー里半、塩浜一里」の説明文とも合います。
「南海通記」の「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」と思われる道が、上図では④の「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。
高松野原 中世海岸線

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。
真言宗の念仏僧侶で梵語に造詣の深かった僧澄禅の四国巡礼記録です。ここには、一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が次のように記されています。
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
 ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。
高松天正年間復元図1

野方口とは、干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。
この遠干潟の部分が近世になると、新田干拓されていきます。

古高松湾は、どのようにして現在の姿になったのでしょうか。
高松城周辺 正保絵図

上図は国立公文書館版「正保国絵図」の古・高松湾の沿岸部です。
木太村の海側に①富岡村 ②夷村 ③春日村が新たに姿を現しています。この夷・富岡村については、生駒期の史料に次のように記されています。
寛永一六年(1629)二月讃州御国中村切高惣帳。
新田
一、高三六拾七石壱斗            富岡蔵入惣所
一、高三百五拾九石弐斗式升七合  夷村蔵入惣所
寛永一七年二月一五日生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳、
一、高三百六拾七石壱斗          富岡新田
一、高三百五拾九石弐斗弐升七合  夷村新田

生駒騒動の結果、生駒家から讃岐一国を没収されたのは、寛永17(1630)年7月のことです。この記事は、その直前のものになります。寛永16年以前に、夷・富岡の地で、新田開発が行われ、その後に造られた「正保国絵図」に、村として記載されたようです。この新田開発については、高松藩校講道館教授の菊池武賢が著した地誌『翁姐夜話』(延享二年(1745)に完成)に、西島八兵衛の評伝として次のように記しています。
寛永五年脩シ満濃池ヲ、築三谷池ヲ、十二年為陣内池ヲ。十四年築テ堤ヲ障サヘ海水ヲ、為田卜。福岡・木太ノ滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名、是レ也。今並二為ル熟田卜。民大二頼(カウムル)其利ヲ。到マテ干今二称ス之,

意訳変換しておくと
寛永5(1628)年に満濃池を再築し、三谷池を築造する。寛永12(1635)年には陣内池、14年には堤防を築いて海水をせき止め、水田干拓を行った。福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名がこれである。今は美田となっていて、民はその恩恵を受けており、今になるまで西嶋八兵衛を賞する。

同書の松浦正一所蔵本には、続けて次のように追加文章があります。
謂木太春日新開也。下往還大路、自此時始。
半以西属東浜、半以東属木太。其境有溝、架石小橋。
木太・春日新開は、この時に拓かれた。下往還大路も、この時につけられた。この西半分は東浜に属し、東半分は木太に属す。其境には溝があり、小さな石橋が架けられている。

ここからは、伊勢の藤堂藩から生駒家に家老級の扱いでレンタルされていた西鳩八兵衛が、寛永14年に、福岡村から木太村を経て春日村富岡にいたる間の新田開発を行ったことが分かります。これが後に木太・春日新開と呼ばれるようになります。
宝永地震における高松藩の被害状況

その範囲については、「英公外記」(明治15年完成)の寛文七年(1667))条に、次のように記されています。
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松鳩木太春日の潟新開成る。下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛か築し所なり。

ここには、西嶋八兵衛が拓いた木太・春日新開のさらに海側を、寛文七年に新田開発したと記します。
この「下往還」より南手の新開とは、どこにあたるのでしょうか?
「下往還」とは、下大道、東下道とも呼ばれた高松藩五街道の一つ志度街道のことだと研究者は指摘します。下大道については、慶応三年(1867)成立の石田忠恒著「政要録」に「讃岐大日記に慶安元子年山田郡下大道を作る」という記事が見えます。この道はもともと干拓に伴って築造された汐止堤防で、それを改修して慶安元年(1648)に街道として整備されたようです。それまでは、姿のなかった街道なので、絵図に登場することはありませんでした。

天保国図 高松東部
下往還について、上図の「天保国絵図 讃岐国」で見てみましょう。
先ほど見た【図6】のふたつの絵図では、福岡村・夷村・富岡村に海岸線がありました。それがこの天保絵図では、そのさらに海側に、高松城のそばの東濱村から古高松村向けてほぼ直線の道が赤く記されています。ここからは、西嶋八兵術が寛永一四年に新田を開発したのは、この赤く記された道よりも南側の地域であることが分かります。
また、【図6】の「正保国絵図」と天保国絵図を比べると、川の流れが大きく変化しています。

高松春日川付け替え工事 
絵図に描かれた河川は、西から順に、香東川の(後の御坊川)、詰田川、春日川、新川です。それが【図6】の「正保国絵図」では、春日川と新川が夷・富岡両村の間で合流し、河口部では一つになって描かれていました。ところが、天保国絵図では、二つの川は分離して、別の河川として描かれています。ここからは「正保国絵図」が造られた後に、大規模な河川改修が行われたことがうかがえます。

下の【図8】は、「高松平野地形分類図」に「正保国絵図」に見える村々を書き込んだものです。
   1
ここでは旧河道が黒く描かれています。それを見ると、新川・春日川は河口部の三角州帯では、のたうつ大蛇ののように幾筋にも分かれて、蛇行していたことが分かります。これらの旧河道の痕跡は、今でも残っているようです。
 これについて『讃岐のため池誌」は、次のように述べています。
新川は現在では高松市春日町の河日で、春日川から分岐しているが、新川のほぼ中流部で久米池の西側にあたる高松市東山崎町中免には、かつて新川がこの附近で真直ぐ、春日川に流れこんでいた痕跡跡が明瞭に残っている。おそらくこの地点で春日川と新川を合流させたのでは、そのあとの洪水量が大きくなりすぎて、その制御が難しいところから、新川を春日川から分離し真北へ新しく付け替えることによって洪水を三分し安全に海に導くことができると考え、新たに新川を開さくしたものと思われる。

ここには、次のようなことが指摘されています。
①新川と春日川が合流していたこと、
②洪水防止のために河道を三分離したこと
③そのために新たに付け加えられた放水路が「新川」であること
④その時期については、何も触れていない。

さらに「英公外記」には、寛文七年(1667)のこととして、次のように記されています。
「此年松嶋すべり之沖より 潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松嶋木太春日の潟新開成る」

ここからは松平頼重の治政下に、松嶋から滑(洲端)の沖を経て屋島の潟元までの潟の新開が行われたことが記されます。これは先ほど見た下往還より海側のエリアになります。この新田開発は木太・春日新開からさらに沖へ向かって突き出すかたちでなされました。
三十幸太郎著の「近讐要録」には、西嶋八兵衛の項に次の記事が記されています。
高松盛衰記二云フ英公ノ初年二矢野部平六卜謂フ入アリ是亦経済家ニテ開拓整溝ノ事ヲ掌ル 頻二海面ヲ埋メテ田畑ヲ増加セリ 西島氏津二在テ此事ヲ聞テ曰く 吾新田ノコトヲ気付カサルニ非サルモ海面ニ向ッテ広ク新地ヲ築出ストキハ河水ノ下流漸々洪塞シテ水患ヲ引起スコト多カラン 永遠ノ后ハ得失相償ハサルモノアラント味ヒアル言ナリ

意訳変換しておくと
高松盛衰記には、次のように伝える。英公(松平頼重)の初年の頃に、「経済家」の矢野部平六が開拓整備の実権を握り、海面を埋めたて田畑を増やした。これを津に引退していた西嶋八兵衛が聞いて次のように云ったという。
 私もこの新田開発のことは考えたこともあった。しかし、海面に向って広く新地を築いて突き出すと、河水は下流で滞留して、水害を引起すことが多くなる。長い目で見ると損得は、相半ばすると考えて実施しなかったと述べたという。

生駒騒動の前に、念願叶って伊勢国津の藤堂家へ帰っていた西嶋八兵衛の言葉です。頼重期に行われた矢野部(矢延)平六による新田開発の手法について危惧したことが記されています。それは、海面に向かって広く新地を築き出すと、川の下流は次第に「瀞塞」して、水害を引き起こすことが多いと指摘しています。
高松地質図

 この弊害を解消するために取られた手段が干拓地へ流入する河川の改修だったと研究者は考えているようです。【図8】から見てとれるように、新川・春日川・詰田川の河道は、三角州帯においてほとんど直線的です。この改修のねらいは、蛇行していた河道の直線化することで、川の流れを早め、河口付近における砂や泥の堆積を防ぐことを目的としたのでしょう。
 松平頼重の時代には、新田開発の画期でもありました。万治・寛文年間(1658―73)には、高松城下の西部で香東川と本津川の分離が行われ、二つの川は別の河口を持つことになります。高松の東西において、同じころ同じ手法で新田開発が行われていたと研究者は推測します。
高松地図明治14年
明治14年の高松城
 さらに、前回見たように丸亀平野でも、満濃池の築造と、その用水路整備のための金倉川の流路変更、さらに変更後の河口域での新田開発とがセットでおこなわれていました。治水のための流路変更や、灌漑のためのため池建設、用水路整備は、単独では成立しないものであったことが改めて分かります。
   以上をまとめておくと
①中世は海が屋島と野原の間に入り込んで、組んで「古高松湾」があった。
②そのため海岸線は、福岡村・夷村・富岡村にあり、街道もこの海岸線沿いを通っていた。
③寛永14(1637)年に、西嶋八兵衛が堤防を築いて、神田干拓を行った。
④それが福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村である
⑤松平頼重の時代に矢延平六が、海面に向かって広く新地を築き出す形で新田開発を行った。
⑥そのため河川の水害が危惧されることになり、対策として川を分離した上で、新たに新川を開削した。
⑦その際に流速を早くするために直線的な川筋が引かれた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)
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豊臣秀吉の四国支配体制は?
長宗我部元親侵攻図

長宗我部元親の四国平定

天正一三年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいたと言われます。ここからは、四国の大名を一括して認識していたフシが見えられます。どんな思惑で秀吉は、大名達を配置していったのでしょうか。讃岐に生駒氏が配される背景を巨視的に見ていきたいと思います。テキストは「川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置 中世西国社会と伊予所収」です。 
51585年頃の大名配置図
  
四国平定後の秀吉の大名配置を見ておきましょう。
長宗我部元親には土佐一国のみの領有が許され、
阿波・蜂須賀家政
讃岐・仙石秀久
伊予・小早川隆景
が配されます。このほか詳しく見ると各国の一部は、
阿波には 赤松則房・毛利兵橘
讃岐には 十河存保
伊予には 安国寺恵瑣・来島通総・得居通久にも与えられています。彼らは、いずれも長宗我部戦での活躍が認められたものです。長宗我部から奪った瀬戸内三国を見ると、阿波・讃岐には豊臣大名が、伊予には秀吉に近い毛利系大名の小早川氏が配されています。以前から河野氏と結び伊予に進出していた毛利氏は、平定前に秀吉から伊予拝領を約されていました。この大名配置のねらいは、阿波・讃岐・伊予の瀬戸内三国に政権下の有力大名を配置し、九州征討に備えることにあったようです。それを裏付けるように天正13年~15年にかけて、この三国では検地が行われています。これは新たな軍役賦課のためであったと研究者は考えているようです。そして実際に、九州攻撃の先陣を務めたのは「四国衆」でした。
 
仙石秀久、戦国を駆ける | 書籍 | PHP研究所

 讃岐の領主とまった仙石秀久は天正14年(1586)9月に島津征討に参陣しますが、豊後・戸次川の戦で大敗し、その責任を問われて領地没収となります。代わって翌年正月に、讃岐国領主になったのは尾藤知宣です。しかし、彼もまた日向での作戦失敗で領知を没収されます。その後を受けて、天正15年8月に讃岐領主に封じられたのが、生駒親正(近規)です。短命に終わった仙石・尾藤氏に代わって領主となった生駒氏によって讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世へと脱皮していくことになります。

高松城 周辺地理図

生駒親正の高松城築城の戦略的なねらいは?

 天正十五年の九州平定後は、讃岐・伊予の大名が入れ替えられて瀬戸内の固めが増強されます。秀吉の子飼いの豊臣大名によって、この地域が占められるようになります。その中でも生駒親正が築城した高松城は、城の中に港湾機能を取り込んだ今までにない構造であることは以前にお話ししました。その規模や岡山城などの移転状況などから判断して、瀬戸内海の制海権を握るための重要な役割を担うために作られた水城だと研究者は考えているようです。
 秀吉は生駒親正を信頼し、頼りとしていたようです。秀吉は親正に「讃岐国一円領知状」〔生駒家文書〕を出し、国内に秀吉直轄の蔵入地を観音寺に設定し、その代官にも任命しています。豊臣政権下での讃岐や生駒親正の重要性をうかがい知れます。さらに、親正は中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老(小年寄)として、五大老・五奉行間の調整を図る要職にも就いています。
 こういう中で親正は、自らの居城築城を開始します。
その選定にあたっては、まず引田浦・宇多津という港町に入りますが適地とせずに、最終的に野原庄(現在の高松)を選定したことは以前にお話ししました。「南海通記」によれば、戦国時代の野原庄には香西氏配下の武将達の小城が多数あったとされます。その記録通りにサンポート開発の発掘によつて、港湾施設や積荷が出土し、中世の港町があったことが分かっています。西浜や東浜や砂州の存在、船便の良さや背後の高松平野のヒンターランドとしての潜在力も、高松選定の大きな要因だったと研究者は考えているようです。
 高松城と生駒親正は、西国全体を支配下に置いた豊臣政権にとって、瀬戸内海の防衛・侵略拠点としての大きな布石の役割を果たすことになります。

次に伊予の情勢を見てみましょう
小早川隆景の肖像画の画像 | 戦国ガイド 
小早川隆景(毛利元就の三男)
伊予を支配することになったのは、安芸から海を越えてやってきた小早川隆景です。彼は秀吉の意向を受けて、城割・検地などを実施し、近世伊予の礎を築いたとされます。これらの政策は、先ほど見たように九州侵攻をにらんでのことでした。しかし、伊予国内には先ほど見たように旧領主の河野氏や西園寺氏の領地も混在し、小大名領が入り交じった状態でした。その結果、中世的遺制が残り、これが払拭されるのは九州平定後のことになるようです。
 しかも秀吉は、翌年の天正15年(1587)6月には、隆景(毛利元就二男)に筑前一国と筑後二郡・肥前二郡が与えて九州に転封させます。これに併せて毛利秀包(元就九男・隆景養子)に筑後三郡が与えられます。この転封は、朝鮮半島への侵攻準備のためだと研究者は考えているようです。九州平定のために四国にその侵攻の中核となるべき大名が配置されたのと同じ手法です。秀吉の信頼の厚かった小早川隆景に、朝鮮半島侵攻の基盤となる筑紫が任されたのです。こうして筑前名島城に入った隆景は、太閤検地など近世的政策が展開され、地元領主階級の結集がなされていきます。
5 四国の大名配置表

このような動きと連動する形で、秀吉は四国の大名配置を行なったことを改めて確認する必要がありそうです。
九州平定とそれに続く朝鮮出兵の布石として、秀吉は四国の大名配置を行ったという視点です。その動きを簡単に見ておくことにしましょう。

5 秀吉の四国大名配置図

 小早川隆景を筑紫に転封したの後、秀吉は東・中予に福島正則、南予に戸田勝隆を入れます。こうして瀬戸内三国全てに、秀吉子飼いの豊臣大名が配されます。福島正則や戸田勝隆は、伊予の近世化を進め、地付きの土豪族を弾圧し多くの悲劇が生まれますが、それも後に控える朝鮮半島侵攻のためには不可欠な準備の一つだったと考えていたのかも知れません。領内の不満分子弾圧を果たした後、戸田勝降は大津城から板島丸串城へ、福島正則は湯築城から国分山城へ短期間で移ります。
国分山城 - 城見る人も好きずき
国分山城に迫る小早川軍
 
文禄4年(1595)7月、関白秀次は高野山へ追放され、切腹を迫られます。その検使役を勤めた福島正則は、尾張清州34万石に転じ、代わって池田秀雄が国分山城へ入ります。秀雄の子秀氏は、南予の大津二万石に移された。同じく文禄4年7月には、加藤点明が文禄の役の功によって増封され、淡路から正木に入ってきます。そして同月、板島の戸田勝隆に換わり、藤堂高虎がやって来ることになります。豊臣秀長配下で、高野山に隠居していた高虎を秀吉に仕えさせたのは、讃岐藩主の生駒親正でした。

国分山城の写真:今治城天守にあった解説文 | 攻城団

朝鮮出兵にみる「四国衆」
豊臣秀吉は四国の大名を「四国衆」と呼んでいたことは最初に述べました。秀吉は小田原の役から朝鮮出兵にかけて、四国衆を水軍として軍団編成を行ったようです。当時の四国衆の大名にとって、朝鮮半島出兵のための水軍編成が大きな課題として秀吉から求められていたことになります。しかし、朝鮮での実戦では「四国衆」として統一的に動くことはありませんでした。それどころか大名間で反目し、ばらばらに動きに終始して、そこを朝鮮水軍に各個撃破されることが多かったようです。
阿波の古狸と呼ばれた『蜂須賀家政』したたかに乱世を生き抜く - YouTube

その中で、讃岐の生駒親正と阿波の蜂須賀家政だけは名実ともに同一ユニットで動いていたと研究者は指摘します。蜂須賀正勝は、秀吉の与力としてその統一過程に深く関わり、播磨国龍野5万石余の大名となります。四国平定においても、嫡子家政とともに讃岐・阿波に侵攻して活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後に、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされます。土佐の長宗我部は秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である生駒・蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。それを裏付けるように城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されています。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が上佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。このような「讃岐・阿波」の同盟関係が朝鮮半島侵攻の際にも発揮されたようです。

 朝鮮出兵した豊臣大名同士でも大きな軋蝶があったことはよく知られています。
それがその後の関ヶ原の戦いなどにどのような影響をもたらすのか、ひいては四国の大名配置にどう働いたのかという視点で見ておきます
 伊予の藤堂高虎と加藤嘉明は、同じ水軍に編成されていました。しかし、この両者は激しく対立し、軍事行動の分離・排斥がたびたびあったようです。そのため高虎は独断で、秀吉に注進しています。その際に蜂須賀家政は嘉明に同情的だったと伝えられます。
 朝鮮出兵では、関ヶ原合戦の要因ともなる事件も起きています。
石田三成の腹心・福原長尭が軍目付として派遣され、蜂須賀家政らの戦線縮小策を秀吉に報告し、家政らが罰せられます。後に家政は、福島正則・藤堂高虎・加藤清止・浅野幸長・細川忠興・黒田長政とともに石田三成襲撃を決行しています。朝鮮戦線に出兵した大名達の間には、大きな亀裂が生まれ豊臣政権は内部から分裂していたのです。その中で「四国衆」と呼ばれた大名たちの連携・対立が次代へと受け継がれていきます。

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における四国大名の動向を見ておきましょう。

5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

徳川家康の東軍についていたのは
①阿波の蜂須賀至鎮
②讃岐の生駒一正
③伊予の加藤嘉明・藤堂高虎
石田三成の西軍についたのは
④讃岐の生駒親正
⑤伊子の安国寺恵瑣・小川祐忠・池田高祐・来島康親、
⑥土佐の長宗我部盛親

東軍勝利の結果、合戦後の論功行賞では、
⑦伊予が加藤嘉明・藤堂高虎に三分
⑧土佐一国に山内一豊
⑨讃岐の生駒氏は親子が両軍に分かれて戦ったが、一正の活躍が認められ、旧領を安堵された。
⑩蜂須賀家政は、領国家臣を豊臣秀頼に返却して高野山に隠遁
関ヶ原合戦を四国衆の視点で見ると、次のようになるようです。
①徳川秀忠軍の遅参のために、家康は旧豊臣大名中心の陣立てで勝利を得た
②そのため戦後の論功行賞では、旧豊臣大名に報いる必要があった
③結果として徳川政権成立期には、阿波・讃岐・伊予には秀吉子飼いの「外様」大名領が残った

そのような中で、長宗我部氏の居城であった土佐浦戸城の受け取りには井伊直政が派遣されますが、長宗我部軍の激しい抵抗を受けます。阿波・讃岐・伊予軍の動員によって,ようやく城が明け渡され、翌年正月に山内一豊が入城し、高知築城に着手するという不穏な情勢もあったようです。徳川の天下に決まったとは思わない人たちも数多くいたようです。

徳川の時代到来と四国衆
慶長八年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任命され、江戸城・城ドの増改築を進めるなど二重公儀・東西分治体制を確立していきます。「四国衆」もこれに協力していく姿勢を取るようになります。山内一豊は、御前帳において9、8万石の拝領高を10、36万石に改正して提出します。応分の軍役を負担することをこのような形で申し出たのです。「四国の押さえ」としての自覚ともいえます。
 風見鶏と云われながらも外様大名として家康の信頼を得て、側近的地位を築いたのが藤常高虎です。
彼は伊予から伊勢・伊賀への転封後、家康の下で大坂を包囲する戦略を練り、それを具体化するための各地の城造りに携わります。高虎の旧領大津へ、洲本から高虎に近い脇坂安治が入ります。高虎は家康の意を汲んで、洲本城を大津に移し、板島城を改築して、大坂包囲網を完成させます。その後、伊達秀宗がこの地に入国し、宇和島と改称します。
大坂の陣へは、四国衆も出兵します。
戦後に、諸大名の中で最も高い評価を受けたのは、松平忠直・井伊直政・藤常高虎でした。四国衆では蜂須賀至鎮の評価が高かったようです。至鎮へは淡路一国7万石が加増さています。蜂須賀家では、この武功は後の世まで語り継がれることになります。
 大坂夏・冬の陣で豊臣家が減亡することによって、「二重公儀体制」は清算されました。しかし、秀吉時代に配置された旧豊臣大名が四国や西国を占るという問題は解消されませんでした。
            
 この状況が大きく変化するのは、三代将軍家光治世の寛永期になってからです。
この時期は、キリスト教禁止令・貿易制限令・ポルトガル船来航禁止令の発布、島原の乱平定など、幕府の「鎖国」(海禁)体制整備期でもあり、西日本は対外的・軍事的緊張が高まっている時でした。そのような西日本の軍事的緊張を背景に、瀬戸内海沿岸にも御家門が配置されていきます。それまで、瀬戸内の中国・四国筋に御家門はありませんでした。ただひとつだけ備後福山に「譜代」水野家があるだけです。そういう意味で、四国に御家門を置くということは徳川政権にとって家康以来の大きな課題でもあったようです。
寛永13年(1645)には、松山15万石、今治3三万石が久松松平家に与えらます。そして、この藩は正保4年(1647)のポルトガル船来航に際し、長崎警備を命じられています。
さらに生駒騒動の後、寛永19年には水戸徳川家の連枝として高松城に入った松平頼重もまた、徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されていました。将軍から「西国・中国の目附たらんことを欲す命」〔「英公実録」〕があったようです。幕府の意を汲んで、松平頼重は高松城の海側への拡張工事を行い、軍事機能を充実させています。頼重は、朝鮮出兵も経験した生駒家の船団をそのまま引継ぎ、さらに紀伊徳川家からは、軍船が武器を備えて贈呈されています。頼重はこの船に乗って、宮島参り称して安芸の宮島近くまで船団の「軍事訓練兼示威パレード」を何度も行っています。
高松城122スキャナー版sim

 つまり、生駒氏によって築城された高松城は秀吉の大阪城を守るためであり、瀬戸内海の制海権防衛の拠点、さらには豊臣家の外様である土佐長宗我部への備えという戦略的な意味がありました。しかし、松平高松藩の高松城は大坂防衛の水城であると同時に「西国・中国の目付」の役割を求められていたようです。それを体現したのが松平頼重による高松城の改修だったことになるようです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置
中世西国社会と伊予所収」    

高松城 周辺地理図
讃岐国髙松・丸亀両城図 讃州髙松
この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。簡単な線で描かれていて、景観はかなりデフォルメされていますが、高松城成立当初の周辺地形を知る上では貴重です。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」(以下「通記」)は、江戸初期の高松城周辺の地形について、次のように記します。
 寛永ノ比今八十年ノ古迄ハ其要害ノ体モ残テ我見之也。先(A)江東ノハナ穴薬師卜云々観音ノロ迄満潮サシ込、山ノ側二上リテ往来ス。干潮ノ時ハ潮地ヲ渡ル也。西浜楯ノ木ノ辺ヨリ潮渡于ンテ満潮ノ時ハ山ノ根一円二広海卜成也。四月三日右馬頭臨時祭ノ時、(B)石清尾塔ノ下橋迄潮指込タルヲ我之ヲ見ル也。(C)東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟い坂田中河原迄潮先来ル也。
 
意訳しておくと
 寛永の今に比べて、八十年前まではその要害の地形も残っていたのを私も見た。(A)「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた。西浜楯ノ木の辺りから潮は入り込み、満潮時には山の麓付近まで一円の海となった。四月三日の右馬頭観音の祭の時には、(B)石清尾塔の下橋まで潮が満ちてきたのを私は見たことがある。
(C)東浜は野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。
 享保期(「通記」の成立時期)よりも80年年ほど前の寛永時代には、海岸線が内陸に入り込んだ様子が記されています。(A)江東ノハナ穴薬師」は、「讃州高松図」の①「カウトノハナ(郷東ノ鼻)、城ヨリ一里」にあたるようです。
それでは(A)は、現在のどこにあたるのでしょうか?
   「穴薬師」については、『讃岐国名勝図会』の「松岩寺」の説明に次のような記述があります。
「岩窟に薬師を安置す、穴薬師といふ。往古は海岸なりしとぞ」

ここからは松岸寺に「穴薬師」があり、付近が海に面していたことが分かります。地形描写が「通記」の記述と一致するので、「穴薬師」は、松岩寺(高松氏西宝町)の位置にあったようです。
高松市松岩寺
 
松岩寺の位置を「グーグル」で確認すると、石清尾山麓の北端にあたります。かつては海に突き出す岬の先端だったことが分かります。

 「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた

 とありますから満潮時には、ここまで潮がやってきて、人々はここを往来するときには、山手の上の道を選んだようです。海への突出地形を示す「ハナ=鼻」の表現にふさわしい場所です。「穴薬師」があった「江東ノハナ」=「カウトノハナ」は、松岸寺付近の地点としておきましょう。
野原・高松・屋島復元地形図
中世の髙松湾と野原
 絵図には①「江東ノハナ」からさらに②「いわしお山=石清尾山」の麓まで海が入り込んでいる景観が描かれています。これも「通記」(B)の石清尾八幡宮付近まで潮が満ちたのをかつて目撃したこと云っていることと符合します。17世紀には、西宝町から昭和町を経て岩清尾神社付近までは入江が入り込み、干潟だったようです。そして、中世は現在のサンポート周辺が河口の一部でした。

「昭和町」の歴史を振り返って起きます。
①近世当初は昭和町は、河口に湿原だった
②松平氏の時代になり岩清尾八幡により開拓され寺領となる
③開拓地の水資源として姥ゲ池が築造される
④明治の上知令で岩清尾八幡の社領は国家に没収される
⑤以後、学校施設が配置され、住宅化がすすんだ。
高松市東部グーグル

 次にお城の東側を見てみましょう
  「通記」の(C)「野方口迄潮サシ込」と、図中右部分に見られる④「ノカタ(野方)ロ」の付近が海岸となっている様子が一致します。
「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の
「高松ヨリハ嶋ヘー里半、塩浜一里」の説明文と合います。
「南海通記」の
「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」

と思われる道が、図では「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように、「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。真言宗のエリート僧の四国巡礼記録です。一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が記されています。

 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。④の野方口とは
干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。

高松天正年間復元図1

  高松絵図で城の部分を拡大してみましょう
高松絵図 15の拡大

この絵図には外堀、中堀、内堀の三重構造、西ノ丸を含むL字形の曲輪、三ノ丸・ニノ丸・本丸と渦郭状に連続しする構造が描かれています。ここからこの絵図が描かれた慶長後期の時点までには、高松城の基本的な構造は出来上がっていたことが分かります。

 絵図の⑨と⑭には、東西それぞれ「舟入」の書き込みがあります。
高松城の特徴のひとつは、堀を港としていることです。それが絵図からも確認できます。
 しかし、西側の舟入の位置については、後の絵図の一致しますが、東側については「舟入」の書き込みが外堀ではなく、中堀の所にあります。また、この段階では舟人の入口部分には、施設の設置などが見られないようです。
 城の海側の北面部分には、矢倉(櫓)が二つ描かれ、三ノ丸北部には門が設けられています。門は海側にあり、海に直接出るような構造に描かれています。城の外郭に接続してもおらず、具体的な機能は不明です。
高松城北側の海岸利用図
 城下の様子を見てみましょう
高松城 周辺地理図

外堀と中堀間に⑩「侍町」があり、東側に⑧「町屋東浜」⑩「町屋西之丸浜」と記されています。その他に城から南東の位置に③「町屋」と記されている場所が見えます。これは、中世の野原段階で形成された町かもしれません。
「町屋京浜」は、生駒時代後期には「東かこ(加古)町」となる地域、「町屋西之丸浜」は武家地となる地域です。つまり、この絵図に示されたものと後の城下町プランには、かなり違いがあることが分かります。この絵図では城下は、外堀を境界線として、
外堀内=城郭内に「侍町」=武家地、
外堀外=城郭外に「町屋」=町人
という明確な区分けがあったことが分かります。そうすると、東側の中堀にある「舟人」は誤まって記されたのではなく、この位置に舟入があった可能性があるようです。

外堀の南側を見てみましょう。
ここには丸亀町を中心に町人地が続くエリアの筈ですが、何も描かれていません。南東のやや離れた場所に「町屋」があるだけです。
 丸亀町の名の由来については、「綾北問尋抄」に次のように記されています。
「同(慶長)十五年(生駒)一正卒し給ふ。時に五十六歳。令嗣左近太夫正俊世を継ぎ、高松の城に居住す。此時丸亀の市店を高松の郭に移し、丸亀町といふ。」

ここからは、慶長15年(1610)、生駒正俊(三代目)が丸亀城下の商人をここへ「強制移住」させて街並みを整備したことが分かります。この絵の外堀南側には「町屋」がないのは、その「強制移住前」の前の状態が描かれているのかもしれません。
 生駒時代の当初の町屋形成は、東西の舟入の外側のエリアで優先的に町場形成が行われていたようです。そのあとに丸亀城からの商人を、外堀南側の街道沿いに配して丸亀町が形成されたとしておきましょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 御厨 義道     高松城における海辺利用の変遷について

 1882年(M15)年12月30日の早朝に、大型ヨットが高松港にやって来ます。極東冒険旅行を行っていた英国の探検家ギルマールー行の船でした。彼が高松城で撮った4枚の写真を見てきました。今回は最後の1枚を見ていきます。
 
撮影場所の太鼓楼の位置と撮影方向を確認しておきましょう。

6 高松城 俯瞰図16

桜馬場の東南角に、当時あったのが太鼓櫓です。そこからカメラを南に向けて撮っているようです。そこには眼下の中堀は写っていません。中堀に面した侍屋敷が一番前面にあります。そして、侍屋敷の向こうに外堀があり外堀沿いに瓦町と常磐町が東西に伸びます。
写真は太鼓櫓から丸亀町方面(南側)を望んで撮影されています。
6 高松城 ケン写真2拡大4

研究者は、この写真を次のように分析しています。
①手前に写真には見えないが中堀に面した街路(御堀端)があり、その背後に武家屋敷が広がり、さらに外堀外側に町家と寺町が見える。
②背景中央には紫雲山がそびえ
③右手前に見える建物群は、江戸詰めの下級藩士の家族が住まう「江戸長屋」である。
④この屋敷地は旧大手門の前面にあたり、生駒家時代には重臣三野四郎左衛門や前野治太夫の屋敷があった。
⑤松平家に替わってからも藩主一族の松平大膳屋敷の東隣、重臣谷蔵人屋敷の西隣という重要な位置にあり、
⑥享保年間の「高松城下図」には「御用屋敷」と表記されている。
⑦絵図で「江戸長屋」と見えるのは、文化年間の「讃岐文化年間高松御城下絵図」が初見で、その後幕末を経て明治二十八年の市街地図を最終とする。
⑧おそらく元来は藩の重臣の屋敷であったものを、後に何らかの事情で藩が接収し、江戸長屋としたのであろう。
6 高松城 7

 つまり写真に写っているのは「江戸長屋」で、それはかつての重臣の広大な屋敷地であった敷地に街路を付けて分割して「長屋」化したものだというのです。
6 高松城 江戸長屋3拡大4

  研究者は、次に写真に写っている建物を平面図に起こします。
6 高松城 江戸長屋4

 写真の撮影内容と平面図を比較しながら次のように分析します。
①江戸長屋の北面(手前、図1-1・2)と南面(奥、図1-3)に長屋建物がある。北面の長屋建物は海鼠壁をもち、二棟が並んでいるが、西側建物(図1ー2)の妻壁に梁が露わになっており、柱に貫穴が見られる
②また東側建物(図1-1)の地形石が建物の外(西)側に飛び出すなどの不自然な点がある
 ここから前面の東西の長屋は、もともとは一棟の長屋建物であったと考えます。さらにこれらの建物は、かつてここが重臣の屋敷だった時に建てられたものを「転用」していると推察します。
 再度確認すると、生駒時代や松平時代初期のおおきな屋敷地が、後の時代に分割され、敷地内に街路通されます。この街路は幅三間程で、江戸長屋の中央部を屈折しながら南北に貫いています。また東西方向に細い路地が分岐します。その形状は明治28年の市街地図と一致するようです。
 平面図を見ると、街路の西側に土塀で区画された宅地が八単位(図1-a~h)あることが分かります。そこに主屋と付属屋が配されています。宅地の主屋には、草葺屋根が二棟(図1-4・5)見えます。そのうちの一棟(図1-4)は、瓦葺の庇を葺き下ろす「四方蓋造」です。草葺屋根は、南側の別の武家屋敷の主屋にも見えます。

6 高松城 江戸長屋2拡大4

 御堀端手前の街路には、五~六条ほどに盛り上げられた畝と作物が見え、畑として使用されているようです。畝の間には、石組みの井戸も見えます。
 おそらく敷地のまわりを囲む海鼠壁の長屋建物は、御用屋敷になった時に設置されたもので、その内側の建物のほとんどは江戸長屋の施設と研究者は考えているようです。確かに、建物の傷み具合から見ると、明治時代になって新築されたものではないようです。

武家屋敷の背後には、間口四間程度の町家が東西(左右)に続きます。
6 高松城 瓦町常磐町

外堀に面した町人地の片原町と兵庫町だ。写真には写っていないが、これらの町家の存在によって外堀の位置が想定できる。
と研究者は云います。規則的に東西に並ぶ町屋の存在から外堀の位置が確認できるようです。私には、もうひとつ分かりません。
また、次のようにも指摘します。
 これらに直交して、南北方向に連続する町家がある。周囲よりひときわ高く立派な町家が多いことから、城下の大手筋だった丸亀町と考えられる。第百十四国立銀行(現・百十四銀行高松支店の場所)はこの頃、既存建物を借りて営業しており、この写真のいずれかが該当するものと思われる。
 
同じように丸亀町通りの家並みも分かるといいます。 
丸亀町の北側(手前)のふたつ並ぶ二階建の洋館については、次のように云います

6 高松城 高松郵便局

 この2棟は丸亀町の北側延長上にあり、片原町・兵庫彫の町家よりもわずかに北側にあるため、外堀に架かる常盤橋よりも内側の旧武家地(内町)にあることが読み取れる。手前の建物は東(左)面に玄関庇があり、背後の建物も東(左)面にベランダがあることから、ともに東側をファサード(正面)としたことが分かる。つまり、常盤橋近くの街路西側に面して洋館が建っていたことになり、ほぼ現在の高松中央郵便局の場所に比定できる。(
 
 高松郵便局と考えられる洋館の細部については、次のように指摘します
①手前の洋館は漆喰塗りの外壁に寄棟屋根を乗せており、軒直下には分厚いコーニス(軒蛇腹)とデンティル(歯飾り)を巡らせている。
②外壁の四隅には付け柱か色漆喰による隅石がデザインされているようである。
③窓は床面から立ち上がる内開きのフランス窓で、その物外側に外開きの鎧戸(隙間が開いて通気性のある戸)が取り付けられている。
③背後の洋館は、正面側に深い軒を支える支柱が見え、ベランダを構成している。
目立つのが、その手前の白い大きな切妻屋根の建物です。
トタン葺きのようにも見えますが板葺だと研究者は云います。どちらにしても大きさの割には「簡易構造」のようにも見えます。よく見ると東(左)側の妻壁に四本の支柱に支えられた「櫓」が立ち上げられているようです。そうだとすると、この建物は芝居小屋と考えられます。内町には、明治14年に開業した芝居小屋・旭座があったといいます。その位置は
「常盤橋」「現在の高松郵便局のある場所」
とされていて、この建物の位置とほぼ一致するようです。自由民権思想家である中江兆民らがここで演説会を開き、明治を代表する俳優・川上音二郎が壮士芝居を演じたという旭座のようです。
 このように常盤橋周辺の内町や丸亀町には、郵便局や銀行、遊興施設(芝居小屋・料亭)などが姿を見せ、新たな市街地景観を作りだしていたことがうかがえます。
町家の遙か向こうに高い屋根の寺院建築が連なるエリアがあります。

6 高松城 法泉寺遠望


 城下町の南側の防衛ラインとして造られた寺町です。大きな本堂をもつ寺院に無量寿院・興正寺別院・法泉寺などがあります。写真にも寺らしい建物がいくつか見えます。寺町の一番西側の法泉寺の本堂が見えているようです。この寺は生駒家の菩提寺として作られ、広大な境内を持っていたことは以前お話ししました。
 また、旭座の遙か向こうに巨木が何本か立ち並んでいるのが分かります。これが現在の中央公園付近にあった浄願寺です。この写真が撮られた明治15年には、境内に香川郡役所と高松中学校が置かれていたようです。
「高松中学校の校舎本館は明治6年に建てられた二階建の擬洋風建築であるが、浄願寺の松林背後にかろうじて二階部分をのぞかせている」
と、研究者は教えてくれるのですが、私の写真ではそこまでは確認できません。しかし、逆に、そこまで映り込ませている写真家の技量は高かったということなのでしょう。

最後に、4枚の写真から見えてくる高松の街並みを見ておきましょう
6 高松城 ケン写真2拡大2

 町家は、本瓦葺・漆喰壁の塗屋造の中二階で、上の下横町に見られるような一階庇の高さを揃えた統一的な景観になっています。初代藩主松平頼重の時に高松城下町を描いた「高松城下図屏風」(慶安・承応頃)には板葺・土壁の平屋の町屋が続いていましたが、250年程の間に、瓦葺き、二階建てに変わってきたことが分かります。
6 高松城 江戸長屋5
「高松城下図屏風」の町屋は板葺き・平屋
この変化を後押ししたのは、享保三年(1718)の高松大火などの度重なる火災だったと考えられます。防火対策として塗屋造十瓦葺が当局から推奨ないし強制された可能性があるようです。
 城内の「東ノ丸」は、不思議な性格を持ちます。

6 高松城 ケン写真2
 東ノ丸は海側は、堅固に造られています。しかし、写真で見た通り町家と接する東面と南面は、低い石垣上に土塁があるだけです。多聞櫓は乗っていませんでした。これでは中堀を挟んだ北浜の町家からは、内部が丸見えだったはずです。北浜から東ノ丸北半部に入る枡形も形式的なもので、実戦性はありません。つまり、城下に対して「開放的な空間」のようにみえます。どうしてでしょうか?
 それは、ここにあった米蔵の運用上のためだったと研究者は考えているようです。
 年貢米の集積と上方への輸送のために港(内町港)が使われました。東の丸の作事舎は、資材や労働力の確保のため中堀を挟んだ町人地・北浜界隈との結び付きなくしては運用できなかったようです。そのために、隣接する港や町人地に対して開かれた構造を採らざるを得なかったのでしょう。そのために本来の軍事施設という性格が時代と共に薄れていったと研究者は考えているようです。

最後に4枚の写真から高松の「近代都市」への萌芽を探してみましょう
 明治期になって建てられた建造物が集中する地域は、次の3ヶ所でした。
①常盤橋周辺、
②内町港口から北浜恵美須神社にかけての地域
③東浜港口と八重垣新地、
それらの性格は
①は旧武家地の再開発であり、公共建築(高松郵便局)と商業施設の混在した街並みが形成されていました。武家地と町人地を繋ぐ常盤橋周辺が新たな市街地形成の求心力をもった地域であったことを窺わせてくれました。
②・③は港湾の開発で、
②では海運(汽船)・漁業(魚問屋・魚市場)の拠点、
③では新たな遊興地である遊郭が形成
されていました。汽船の寄航地である内町港は、江戸時代以来の港に「田中の波止」が加えられた程度で、ヒルー・ギルマールが乗ってきた大型ヨット(客船)は、沖合に停泊していました。
 ここからは、明治15年の段階では、汽船が安全に停泊できる泊地もなかったことがうかがえます。本格的な市街地と港湾の近代化は、第三次香川県が成立し、鉄道網と港湾がセットで整備されていく明治二十年代以降になるようです。

おわりに
 香川では、明治十年代の営業が確認できる写真師は1名しかいないようです。明治15年の高松では、写真自体が珍しいものだったのです。香川の写真師が野外で撮影した明治前半の写真は、ほとんど見つかっていないようです。これは、湿板で風景を撮影できる技術を持った写真師が香川にはいなかったためだと研究者は考えているようです。
6 高松城 天守閣1
 それに対して、幕末から明治前期にかけて、外国人向けに販売された写真は、数多く見つかっています。しかし、香川県内のものになると少なくなります。あってもほとんどは金刀比羅宮や寒霞渓など名所の写真です。
 今回発見された写真は、撮影年月日もはっきりしている上に、細かいところまではっきりと識別できます。これほど鮮明に高松城・城下をとらえたものは、今までにありませんでした。
 四枚の写真は、城郭を中心とする江戸時代の姿と、それを突き崩し始めた近代都市としての高松城下の姿が重なって写し込まれていました。

   参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

        ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真―マーケーザ号の日本旅行
 
 1882(M15)年の年の瀬も押し詰まった12月30日の早朝に、見なれぬ英国の大型ヨットが高松港にやって来ました。この船に乗っていたのがケンブリッジ大学医学部を卒業した後に、ヨットでの極東探検を行っていたギルマールー行です。船には、高松城の「撮影」許可のための外務省の係官や横浜で活躍する写真技師も乗せていました。
 ギルマールたちは高松城で写真を撮ると、その日の午後には出港していきます。まさに、高松城を撮るためにやってきたかのようです。それでは、いったい何枚の写真を撮ったでしょうか?

6 高松城 ケン写真2

 4枚です。
桜馬場からの天守閣
桜馬場の太鼓櫓から屋島方面
天守閣からの屋島方面
太鼓櫓から南方面
の4枚だけなのです。それほど湿板写真を撮るのは、手間と労力が必要とされたが分かります。今であれば、スマホで何百枚も撮影したかもしれません。前回は、この4枚の写真の内で①の天守閣を見ました。今回は、残りの3枚を見ていくことにします。

6 高松城 
②桜馬場の太鼓櫓から屋島方面(クリックで拡大します)
  桜の馬場南東の太鼓櫓(現在は同地に艮櫓が移築されている)から屋島の方向(東)を望んで撮影されています。目の前に東下馬、左側に東ノ丸(作事丸)が見え、その背後に下横町・北浜町などの内町、東浜界隈が見えます。
現在の地図で位置を確認しておきましょう。
6 高松城 6

①東下馬は、現在の高松城への東入口である桜門の外側になります。駐車場になっているあたりです。かつてここは登城の際に、その家臣の供が控える所で、「腰掛」がありました。写真にはありません。撤去された後のようです。

6 高松城 ケン写真2拡大1

 堀端に植えられた松の大木は、東下馬の目印として江戸時代の絵図にも描かれていますが、一部は伐採されて石垣石材とともに積み重ねられています。
 東下馬の左側(北)の②中堀には、土橋が架かっています。これが東の丸(作事丸)と繋がる橋ですが、よく見ると、真ん中どころが壊れているようです。作事丸の南東隅には巽櫓がありましたが、櫓台が残るだけです。
③東の丸の櫓台手前の低い石垣上には、土塁があります。もともとは土塁の上に土塀があったようですが、そこには松の大木が何本も茂っています。これは、明治になっての変化ではないように見えます。江戸時代のうちに土塀は、撤去されていたようです。
6 高松城 ケン写真2拡大2
中堀の向こうは下横町・北濱町
 目を転じて、中堀の向こう側の町屋を見てみましょう。
この中堀が現在のフェリー通りになります。中堀の向こう側に見える町屋は④下横町のようです。この町屋について、研究者は次のように、述べています。
①町家は中二階で、軒裏の垂木を塗り込める塗屋造である。
②間口・屋根高にはばらつきがあるが、通りに面した一階庇は高さが揃えられており、統一的な景観がある。
③町家の表構えは店名か屋号を書いた障子戸を伴う開放的な町家と出格子窓が連続する閉鎖的な仕舞屋風の町家がある。
④仕舞屋風町家には、同一棟が均等割りされた長屋形式のものと、間口六同程度の大型建物がある。
  私には詳しくは分かりませんが、写真からは瓦葺きの2階建ての町屋が奇麗に並んでいるのが分かります。
中堀の雁木のある風景
 町家の前の中堀には、緩やかな勾配の石積みが見えます。大型石材の平坦面を揃えて法面として並べて、階段状になっています。⑤「雁木」(荷揚げ場)のようです。ここまで船が入り、荷物の積み下ろしを行っていたようです。雁木の後ろには、⑥材木や薪などが積まれています。この辺りは材木町として発展してきたことを、思い出させてくれます。
 これらの町家の背後に、北浜恵美須神社が見えるといい
「入母屋屋根をもつ拝殿の前面には唐破風の車寄せが突き出し、拝殿背後には一段高く本殿が立ち上がる。拝殿・本殿は、昭和二十年七月の高松空襲で焼失した。」
と研究者は記すのですが私には分かりません。
 
 北浜恵美須神社門前の街路を京(右方向)に進んだところには、東西主軸の長大な建物が見えます。平屋ですが軒は高く、道向かいの町家の棟高ほどもあり、かなり大型の建物のようです。明治28年の市街地図では⑦北浜材木町の魚市場となっています。この辺りは、鮮魚店も多かった所です。
6 高松城6 天守閣の展望pg
写真③ 三ノ丸御殿・東ノ丸・港
 本丸天守から屋島を望んで撮影されています。
手前から三ノ丸、北ノ丸、京ノ丸(米蔵丸)、北浜港界隈、京浜湊界隈が見えます。太鼓楼からの写真②と重なる部分がありますが、海(北)側の高い位置から撮影されているので、城内と港の様子がよくわかります。
三の丸御殿
 天守閣からは、三ノ丸の①御殿(披雲閣)が直下に見えます。写真では、雁行する建物が入り組んで組み合わされているのがよく分かります。
 御殿の正面中央(右側手前)には、式台と広間からなる②「御玄関」と、その背後の「黒書院」があり、これらの儀礼空間が表御殿の中心舞台になります。いずれも屋根は檜皮葺ですが・・・よく見ると檜皮がなくなって垂木と野地板が露わになっていて痛々しい感じがしてきます。
 このほか正面東側には、やや簡素な檜皮葺で本瓦葺の庇がついた「表坊主部屋」「大納戸」や、本瓦葺の「奉行部屋」・「年寄部屋」「大老部屋」などの役所並びます。 まさに権力中枢を構成する建物群です。
 役所の横には、本瓦葺の入母屋屋根に煙出しが付いた建物が異彩を放っています。これが③「御台所」で、その後に檜皮葺の「御料理間」があります。これら表御殿の背後に、中・奥御殿の殿舎が並びます。いわゆる殿様のプライベート空間にを構成する建物群で、平屋建の数寄屋なども見えます。
 全体としては屋根の傷みが目立ちます。玄関や役所・台所の出入口付近には、草が繁茂しています。建物としては、陸軍管理下でも使われずに放置されたままであったような感じがします。
6 高松城 ケン写真2拡大3
北の丸・東の丸 
 三ノ丸御殿の左後方に④北ノ丸が見えます。城外方向の東面と北面には石垣上に漆喰塗りの多聞櫓が巡らされ、その北東隅に鹿櫓が建ちます。また東ノ丸に接したところには、櫓門があります。
 東ノ丸は、海に接した北面だけ漆喰塗りの多聞櫓があり、北東隅に建つ艮櫓と北ノ丸との間を繋ぐ役割を果たしています。幕末の絵図では、艮櫓から南(右)側には土塁上に土塀があり、これが写真②に写された巽櫓へと延びていたと云います。しかし写真③では、写真②と同じ様に、石垣上の土塁上には土塀はなく、松の大木が生い茂っています。
内町港周辺
 更に遠くの場外を見ていきます。艮櫓北(左)側の海域には、内町港から延びる二本の波止が見えます。手前側は江戸時代からある波止です。奥側の小船が繋がれた波止は、旧藩士の田中庄八が明治13年に作った「田中の波止」(一文字波止)だそうです。田中は、高松に汽船を寄航させるために、私費を投じて全長136mの波止を造ったようです。 
写真の一番右手奥が八重垣新地で、そこに長大な建物が見えます。いったい何なのでしょうか?
研究者は、この1枚の写真から、つぎのような情報を読み取ります。
①周囲の波止との間に、柵らしいものがあり、港との間を隔てている。
②二階の階高が高く、板戸ないし格子戸を伴う部屋が並んでいるように見える。
③入母屋屋根の軒が長く伸び、戸の前は廊下(濡れ縁)になっている
④廊下沿いに座敷が並ぶような間取りである。
以上から、八重垣新地に立地するということから考えて、明治7年以降に建てられた遊興施設の可能性を指摘します。さらに長大な建物の南(右)側には、二階の高い和風建築(間口五同程度)が東西に軒を連ねます。窓の配置から、同じ規模の部屋が並列しているように見えることを加えて、遊郭の可能性を指摘します。明治当初に、ここにはおおきな遊郭があったようです。
 港周辺の船は、櫓を漕ぐ小舟が圧倒的に多いようで、帆船は港の沖合に二隻見られるだけです。このうちの一隻が、ギルマールのヨットのようです。
以上、天守閣と太鼓楼から当方の屋島方面をみた写真を「読み」ました。年の瀬の12月30日に高松城内で4枚の写真は日本人の写真技師臼井によって撮られたようです。そこからは140年前の高松城周辺の様々な情報が読み取れるようです。
参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

   

 

 
6 高松城 天守閣2
今まで一番古いとされてきた天守閣の写真

2005(H17)年3月に、ケンブリッジ大学図書館が、高松城の写真を所蔵しているということが分かりました。それは、写真集の出版準備を進めていた平凡社より県立ミュージアムへの問い合わせがきっかけだったようです。問い合わせの内容は、同大学所蔵の写真のうち「名古屋城」というタイトルがつけられた写真があるが、高松城の間違いではないかというもので、合わせて「讃岐高松」というタイトルがついた写真3枚が送付され、現在の場所等が分かれば教えてほしいというものだったようです。
 「名古屋城」というタイトルが付けられた写真は高松城天守閣の写真であり、残り3枚は高松城内から城下を撮影したものと分かりました。明治初期の高松城天守閣の写真は、それまで一枚しか見つかっていませんでした。
6 高松城 4

1882年の高松城の天守閣から見ていくことにしましょう。
テキストは「野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年」です
 
6 高松城 天守閣1
 三ノ丸外側の曲輪・桜の馬場の桜門のあたりから本丸天守を撮ったものです。今まで知られていた写真と同じ方向・角度で撮られています。三層四階地下一階の天守です。外壁の白い漆喰のはげ落ちている所も同じです。ここからは、ふたつの写真は、ほぼ同じ時期に撮影されたことが分かります。
 研究者は次のように指摘します。
「最上階(四階)の東面南隅外壁と、二階東面北側の連子窓周辺の漆喰損傷状況を見ると、従来の写真の方がケンブリッジ大学の写真よりもわずかに剥落が進行していることが分かり、先に撮影されたようである。」
ということで、高松城天守閣を写した一番古い写真となるようです。
この写真からは、次のような特徴や状態が見て取れるようです
①初層が石垣から大きくせり出していること、
②三層の四階が三階よりもはみ出す「南蛮造」であること
③初層・二層の軒裏には軒と壁を斜めに架け渡す方杖で、
④四階の飛び出した床は二段に重ねられた片持梁で支えられている
⑤外壁は漆喰が剥落し、初層には小舞が露出している箇所もある
⑥大棟がへたっている以外は軒の歪みも少なく、構造自体はさほど老朽化していない
天守の西側に重なって見えるのが本丸です。
ここには、地久櫓などと天守を連結する多聞櫓が巡っていたと云われます。しかし、写真の左端に見える本丸南東隅には多聞櫓はありません。天守曲輪手も見えません。そこには、草が生い茂っています。明治になって、破却されたようです。
 また天守台右奥に見えるニノ丸東面には、石垣上に漆喰塗りの白い土塀が見えます。しかし、それも奥(北)側の黒櫓に近い箇所では倒壊したまま放置されているようです。 研究者は
「このほか、ニノ丸北西隅に建つ二層の廉櫓がおぼろげながら見える。」
と云うのですが私には分かりません。

6 高松城 天守閣3
現在の天守閣跡の石垣 

この写真を撮影した英人旅行家ギルマールは、『旅行日誌』の中で、高松城の荒廃ぶりに強い興味を示しています。この写真からも天守閣の壁や披雲閣の屋根など老朽化が見て取れます。桜馬場も草や芝木が伸び放題です。ギルマールは
「草木があまりにも生い茂っているので、我々は道に迷ったほどである」
と記しいます。大がかりな撮影道具を持って歩くのは難しく、機材を設置して撮影が出来る場所も限られたようです。
 明治を迎えた時にすでに老朽化していましたが、陸軍が使用しなくなって以降、さらに荒廃が進んだようです。
 この写真が撮影されたのは明治15年ですが、その2年後の明治17年には取り壊されます。三ノ丸御殿が取り壊された時期については分からないようですが、この写真には写っていますから明治15年まではあったことが確認できます。天守閣と同時期に取り壊されたと考えられます。

6 高松城 天守閣1
 
この写真の右側の石垣上に見えるのが三の丸の多聞櫓のようです。
写真には入っていませんが、多聞櫓はさらに右側に伸びて三ノ丸正門である桜御門に繋がっていました。
「節子下見板の外壁と垂木を波形に塗り込んだ軒裏は、桜御門と同じ」

と研究者は指摘します。多聞櫓は、三の丸南東角の龍櫓を起点に北と西に延びていたようです。
6 高松城6 天守閣3

 私が興味があるのは実は、お城よりもこれを撮した人たちです。
どんな人たちが、どんな目的で高松までやってきて、この写真を撮ったのでしょうか。今ではスマートフォンの普及で写真撮影は日常化していますが140年前には、写真撮影は高度な最先端技術でした。この時期、日本ではまだ乾板が普及していなくて、湿板がつかわれていたようです。これには、撮影器具が数多く必要でしかも大型です。そのため野外撮影は事実上はできなかったようです。そのためギルマールが高松城で撮った写真も4枚だけです。
 4枚の写真がどのようにして撮られたのか見ていくことにします。
高松城天守閣を撮した写真は、ヒルー・ギルマール(1852~1933)が、ケンブリッジ大学地理学部に寄贈したものです。
 彼はケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得しますが、医師にはならず、旅行家、博物学者、地理学者として世界各地を旅行し、後半生は地理学関係の出版・編集などに携わったようです。
 彼を旅行家として有名にしたのが、30歳の時に自前のヨット・マーケーザ号での冒険旅行でした。その旅行記『マーケーザ号のカムチャッカおよびニューギニアへの巡航‥台湾、琉球およびマレー群島の記述を含めて』が高く評価されます。彼は『旅行日誌』をつけ、家族などに宛てた手紙も保管するように依頼しています。ここからは最初から旅行記として出版するつもりで、詳細な記録をしていたようすがうかがえます。このため日本旅行中に撮影された写真の撮影場所や撮影日が特定できます、このことが、写真の持つ史料的価値を非常に高いものにしていると研究者は考えているようです。

ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 マーケーザ号の日本旅行の通販/臼井 ...

彼の記録からその足取りを追ってみると、次のようになります
1回目は、明治15年6月28日から琉球滞在を経て、7月4日から29日間マーケーザ号を横浜に碇泊させ関東近辺を旅行、その後函館を経てカムチャッカ半島に向かって出港するまでです。
その行程は横浜をスタートして、宮ノ下、箱根、吉田、河口湖、甲府、昇仙峡、甲府、鰍沢、身延山、富士川、蒲原、鎌倉、横浜と廻っています。
2回目は、カムチャッカから
9月27日 函館に戻り、
10月6日 横浜に至る。
そして東京から日光、下諏訪などを経て名古屋に至り、伊勢、和歌山を経て、神戸に碇泊し、その間京都・奈良・大阪を回り、瀬戸内海へと進みます。高松に立ち寄った後に宮島、松山を経由して九州に向かい、伊万里・長崎・熊本を回り、
翌明治16年1月31日に長崎から中国に向けて出発するという行程です。さすが英国の貴族の「冒険旅行」です。当時の日本人の残した、こんな旅行記や冒険記はありまでん。
2度目の日本滞在中に立ち寄った場所は次の通りです。
横浜、東京、宇都宮、日光、妙義山、碓氷峠、下諏訪、飯田、時又、天竜川、二俣、名古屋、瀬戸、横浜、伊勢、勝浦、那智、大島、神戸、京都、琵琶湖、奈良、神戸、高松、宮島、松山、伊万里、長崎、熊本、阿蘇山、栃木、長崎を訪れています。
   高松への寄港は2度目の滞在中に神戸から宮島へ向かう途上のことだったようです。
 全ての場所で撮影しているようではありません。写真として残っている被写体は、次の通りです。
第一国立銀行、増上寺、不忍池、浅草寺、吹上御苑、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、富士屋ホテル、東照宮、名古屋城、伊勢神宮、京都御所、西本願寺、三十三間堂、方広寺の梵鐘、清水寺、東大寺、興福寺、春日大社、大阪城、高松城、厳島神社、伊予松山城、熊本城
  これらは、ギルマールが撮影したものと私は思っていました。ところがそうではないようです。
日本人の写真技師を雇い入れて、同行させているのです。
 ギルマールの旅行に随行したのは、横浜の写真師臼井秀三郎です。
彼の正確な生没年は分かりませんが、伊豆下田の生まれで、同じ下田出身で、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖の弟子です。臼井は、師匠の下岡蓮杖より写真術を学び、遅くとも明治8年には横浜で開業していたことが分かっています。
 臼井がギルマールの旅行に随行することになったきっかけは、ギルマールが初めて横浜に上陸した際に、琉球で撮影した乾板の現像を写真館スティルフリート&アンダーセン(日本写真社)に依頼したことから始まります。この写真館の写真師ジョンー・ダグラスは、臼井に写真術を教授した人物です。臼井を雇用した経緯の詳しいことは分かりませんが、乾板の現像を依頼したことをきっかけに、ギルマールが日本人写真師を求めていることを知ったダグラスが臼井を紹介したというストーリーが考えられます。
 帰国後の出版を考えていたギルマールが、日本の写真を大量に持ち帰るためには、日本で写真師を雇う必要がありました。そうすればギルマールにとって、自分の仕事を軽減し、質の高い写真を手に入れることができます。一方、外国人向けに、日本の名所写真を販売していた臼井にとっては、販売できる写真の種類を増やすチャンスです。両者にとって悪い話ではありません。
 
ヨットで高松にやって来た

6 高松城6 天守閣の展望pg
高松城天守閣からの屋島方面の展望 ギルマールの大型ヨットが停泊中

こうして年の瀬も押し詰まった明治15年12月30日の早朝に、神戸からギルマールー行を載せたヨットが高松港に到着します。そして『旅行日誌』の中で、高松港出発時刻を2時30分と記していますので、高松滞在は数時間程度だったようです。その大部分は撮影にかけられたのでしょう。同行した写真技師の臼井は、湿板の技法で撮影したと研究者は考えているようです。
アウトプットの手段として写真を意識する - ミニ企画展「はい、チーズ ...
この撮影技法は、よく磨いた透明なガラス板にコロジオンを塗布し、それを硝酸銀に浸して感光性を持たせ原板とします。乾燥すると感光性がなくなるため、濡れているうちに撮影・現像を行わなければなりません。野外での撮影には、薬品や暗室を携帯する必要があり、かなりの労力と技術が求められます。そのため、野外の建物などを撮った写真は非常に少ないようです。
湿板 乾板 鶏卵紙 白金紙 ピーオーピー ブロマイド紙
 ギルマールたちのヨットには、神戸から外務省の野口と小林という人物が同行していたようです。イギリスから日本へ向かうギルマールー行が、シンガポールで、駐オランダ公使の勤務を終えて帰国途中の長岡護美と知り合い、日本旅行中に役立つ紹介状のようなものを書いてもらっていました。 高松城の写真撮影の際にも、仮に陸軍や県の管理が厳しくとも、外務省の役人が二人も同行してれば、城内への立ち入りや、天守閣や櫓からの撮影も現地の許可が下りたのでしょう。
 『旅行日誌』には、撮影が終わった後に、
「骨董品をいっぱい積み込んで高松を出発した」
「我々が出かけるところはどこでも群れをなした」
とあり、ギルマールたちが、城下を歩き、骨董品を買い集めた様子がうかがえる。しかし、城下で撮影された写真は残っていません。臼井らが同行しなかったのかもしれません。

6 高松城4 天守閣3

最後に、当時の高松城の置かれた状況を見ておくことにしましょう
 高松藩は、1870(M3)年9月に、早くも老朽化した城郭楼櫓の撤去を願い出ています。翌年の4月に再度願い出て許可を得て、壊す前に最後に城内を一般公開しています。
これで建物が壊され撤去されていれば、更地になっていたはずですが、そうはならなかったようです。城内の建物を取り壊す前に廃藩置県を迎え、1871年8月、高松城は兵部省に移管されます。そして、大阪鎮台第二分営が城内に設置されることになったのです。
 2年後の1873年には、鎮台配置が改められ、全国に六鎮台十四営所が設けられます。このときには、高松の大阪鎮台第二分営は廃止され、丸亀に営所が設置されることになります。営所指定されなかった高松城郭は廃城とされ、入札による払下げが行われることになります。
高松城は営所とされなかったのに、廃城にはならなかったようです。どうしてでしょうか?
 これは、丸亀への移転に時間がかかったためのようです。丸亀営所が完成し、高松から丸亀へ軍隊が移転したのは翌年の1874年12月になります。そして、1875年8月に、丸亀歩兵第十二連隊が編成されます。そのうち第三大隊は、1879年6月まで高松に分屯します。
 以上見てきたように、高松城の天守閣や櫓は、明治初頭に老朽化による取り壊しが決定していたのに実行されずに、その後1879(M11)年まで陸軍によって使用されていたようです。
 ギルマールが訪れたのは、その4年後のことになります。つまり、陸軍が去って無人の施設で管理もされずに放置されて4年経っていたのです。桜馬場に草木がぼうぼうと茂っているのも納得がいきます。

 日清戦争を前にした1889(M21)年5月、鎮台制度は師団制度に改編され、全国18ヶ所に連隊所在地を指定します。このとき、陸軍省の管轄とされた22の城郭以外は、払い下げられることになります。高松城は、旧藩主松平頼聡に払い下げられます。
 松平家へ払い下げ後も、しばらくは放置されたようです。
 1902(M35)五年に、初代藩主頼重を祭る玉藻廟が造営され、同年桜の馬場を中心に第八回関西府県連合共進会が開催されます。その翌年に松平家の家督を相続した頼寿は、高松城を整備し、積極的に活用することによって、旧領地における基盤を確立する方向を示します。こうして前時代の遺物となってしまった高松城は、旧藩主である松平家に払い下げられた後に、再び利用の道が開かれることになります。
 ギルマールたちが見た高松城は、陸軍による使用も終え、利用価値をすべて失い、打ち捨てられた、最も荒廃した時期の姿だったようです。
 参考文献
野村美紀・佐藤竜馬
明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について
香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年

高松城1212スキャナー版sim

 高松城下図屏風を眺めていると新しい発見が、どこかに見つかります。そんな楽しみ方を紹介してきましたが、今日は「数量的な視点」で見ていきたいと思います。
高松屏風図2
研究者によるとこの屏風に描かれた侍屋敷数は170軒程度、
人物は1033人だそうです。それを分類すると
①刀を差した人物が388名、
②裃を着けたものが60名程度
描かれた人物の4割近くが武士で、ほとんどが南から北の縦方向に動いています。向かっているのはお城です。つまり、登城風景が描かれているようです。
女性と分かるのは84名。
そのうち48名は、頭に荷物を載せたこんな姿で描かれています。
高松城下図屏風 いただきさん
大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行きます。外堀の常磐橋を越えて連れ立って歩いて行きます。
場所は現在の三越前付近です。
さて、ここで質問です。
頭に載せて運んでいたものは何でしょうか?
頭に荷物を載せて運ぶというのは、かつては瀬戸内海の島々では普通に見られた姿でした。
彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんまで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。
1水桶
松平頼重の業績のひとつが城下に上水道を敷いたということです。
 当時は江戸に習って、どこの城下町にも上水道がひかれるようになっていました。しかし、高松の特長は、地下水(井戸)を飲料水として城下に引いたことです。これは日本で最初だったようです。
井戸として利用されたのは次の3つです。
「大井戸」
瓦町の近くに大井戸で、規模を小さくして復元されて残っています。
「亀井戸」
亀井の井戸と呼ばれていました。これは五番丁の交差点を少し東へ行くと、小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっています。
「今井戸」
鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥にあります。「水神社」の小さな祠があります。ビルの谷間の小さな祠です。
この3つの井戸から城下に飲料水を引きました。これが正保元年(1644年)のことです。
 高松城下図屏風は謎の多い絵図で、作成年月は記入されていませんので、いつ書かれたのかも分かりません。しかし、水桶を頭に水を運ぶ姿が書かれていることから上水道が出来る前に描かれたと考えることはできそうです。つまり、高松城下図屏風が書かれたのは1644年より以前であったという仮説は出せそうです。
高松城下の人の動きは南北が主
水桶を頭に置いて女達が南から北へ移動しているように、牛や馬を連れて農村からやってくる農民たちも、ほとんどが縦方向(南から北)の街路に沿って描かれています。 高松城下町は南北縦方向の軸が重要であったようです。
これをどう考えればよいのでしょうか。
 城下町が作られる以前の、中世に野原と呼ばれた頃から続く、港町の性質を受け継いでいるのではないかと研究者は考えているようです。その他の瀬戸内海の海に開けた城下町も南北方向の動きが主軸のようです。港町と後背地の関係が基本になっているのでしょう。それは中世・古代と変わりない構図のようにも思えます。

    
高松城下図屏風 東部(地名入り)
               高松城下図屏風 東部(クリックすると拡大します)
『高松城下図屏風』を眺めていると、海に向かってお城がむきだしのように見えます。海だけではありません。外堀の水は、兵庫町や片原町の方まで入り込んでいます。外堀と東浜船入の境には橋が架かっていますが、両者はつながっています。東舟入(港)には多くの船が入港して、大混雑しています。港を拡大して見てみましょう。
高松城下図屏風 東浜船入
この部分からは東浜船入りの次のようなことが分かります。
①港の入口は、石積みで補強されている
②東側岸壁に船番所が設置され、背後は町屋が続く
③西側岸壁には松が植えられ緑地帯となっている。
④緑地帯の背後には町屋がある。
⑤港の一番奥は橋で、橋の向こうは外堀に続いている。
⑥外堀には船の姿は見えない。外堀進入禁止?
⑦港入口の西側(右)にも船揚場がある
気になるところを見ていきましょう。まず船番所をのぞいてみましょう。
高松城下図屏風 船番所
拡大するとここまで細かく描き込まれていることが分かります。
それだけに実物を見ているといろいろなことが見えてきたり、想像・妄想したりして楽しくなります。この船番所では、入港してきた船の管理が行われていたようです。格子越に番人の姿も見えます。気になるのは、ぞの向こうの軒下に立っている女性です。やって来る船を待ているのか、常連さんを誘いに来たのか、それとも遊女なのか、・・・妄想が広がってきます。船番所の背後には、材木屋、東かこ(水夫)町の町屋が広がります。
 この船番所の下の岸壁につながれている船①も怪しいのです。
高松城下図屏風 東浜船入の船

拡大するとこんな感じです。石積みされた岸壁です。そこに浮かぶ船には、苫がけされた屋根があります。弥次喜多が金毘羅参拝道中に、大阪から乗ってきた金比羅船とよく似ています。船の後尾には「白旗」。なんの目印なんでしょうか、私には分かりません。そして、男が中央から顔出して「どうもどうも・・」という感じ。さらに舳先には横たわる女性。「私はもう寝ますよ」という風情。この船をどう理解すれば良いのでしょうか?
どう見ても漁船ではありません。金比羅船のように近隣の港を結ぶ乗合船なのでしょうか。それとも遊女船なのか。これも妄想が広がります。
次に見ておきたいのが西岸壁背後の町屋です。
高松城下図屏風 船揚場
この岸壁には松が植えられグリーンベルトのように描かれています。注目しておきたいのは、背後に町屋があることです。ここは外堀の内側に当たります。そこに町屋があるのです。ここ以外に外堀の内側に商人居住エリアは、高松城にはありません。この場所は、東が船入港、北が船揚場で回船業や問屋にとっては、絶好の立地条件です。このエリアの商人達が特権的な保護を受けていた気配があります。
最後に屏風に描かれた船揚場が、現在はどんな場所なのか行って見ることにしましょう
この図屏風には地名や道名は記されていません。そのため現在のどこに当たるのかは、すぐには分かりません。特定方法には、いろいろな方法がありますが、その一つは、他の絵地図と比べてみることです。
高松城下図屏風 北浜への道1
『高松城下図屏風』と明治の地図を、次のポイントに絞って比べてみます
緑のAの外堀の北側(下の方)のトライアングル区画
オレンジBのトライアングル区画
高松城下図屏風 船揚場への道2
二つの地図を比べると
緑のトライアングルAは西本願寺別院出張所が、。
オレンジのトライアングルBは金刀比羅神社が 
それぞれ高松城下図屏風と明治地図の両方にあるので、双方の「三区画」は、同じ場所だということになります。
そうすると矢印→①②を辿って行けば、船揚場に到着できるということになります。高松城下図屏風で、辿ってみると
高松城下図屏風 船揚場への道3
①の南から通じる道は現在のフェリー通りになります。東側の町屋の店先にはいろいろな物が並べられています。コーナー①の店は魚屋さんのようです。このあたりは、明治には魚屋町と呼ばれていたようです。ちなみに道の西側は県立ミュージアムの手前になります。①で右に曲がって、次の突き当たりを左(北)に進むと②に出ます。
高松城下図屏風 船揚場への道4
矢印②の木戸らしきものを抜けると、そこは海で「物揚場(ものあげば)」で船が係留され、木材のようなものが積まれています。

ところが、これを明治の地図で見てみると、景色が変わっています。海が埋立てられて、ピンクの船揚場だった所には、建物が建っています。その東側の通りは「北浜材木町」と記され、海際には、魚市場と神社が見えます。江戸時代には「物揚場(ものあげば)」だったところは「本町二番地」となっています。現在の地図で見てみましょう。

高松城下図屏風 船揚場への道5
ピンク部分が江戸時代の物揚場で、それが後に埋立てられ「本町二番地」という地番がつけられたようです。そして、北側に建立されたのが「えびす神社」だったということになります。現在の「北浜町」という町名も、「本町2番地」が江戸時代まではウオーターフロントだったのが、本町の「北」の「浜」を埋め立てでできた「町」なので「北浜町」と呼ばれるようになったのでしょう。
 本町の住人によると
高潮の時には、潮は北浜町を越えて上がってきていたが、「本町二番地」の手前で止まっていた
と言い伝えられているようです。「本町二番地」は、物揚場でその前は海はだったのです。そして海から運ばれてきた材木がここに下ろされていた場所だったようです。
 それでは、ここが埋め立てられたのはいつ頃のことなのでしょうか
高松城下図屏風 船揚場への道6

 元文5(1720)の「高松城下図」の東浜舟入付近の拡大図です。ここからは
①本町の北側が埋め立てられ「北濱町」「下横町」
②東浜もあらたに「地築」ができている
 高松城下図屏風から80年近く経った時点では、北側の海は埋め立てられたようです。私は明治になって埋め立てられたと思っていたので、江戸時代にもウオーターフロント開発が行われていたことは驚きでした。江戸時代から高松城下町の海への膨張は続いていたようです。
参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松屏風図3
 高松城下図屏風には「鍛冶屋町」「紺屋町」「磨屋町」「大工町」と職種のついた町名がいくつもあります。これを見て、同じ職業の人たちを集められ住まわせる「定住政策」がとられたのだろうと思っていました。角川の地名辞典にも「それぞれの職種の「職人町」の名称に由来する」と説明されてます。
高松城下図屏風 鍛冶屋町・紺屋町
しかし、「町名=職人町起源説」に異論を唱える研究者もいます。
その理由として「高松城下図屏風」の紺屋町や鍛冶屋町を見ても、雰囲気が伝わってこないというのです。兵庫町から南へ3本目の筋に当たる「紺屋町町」を見てみましょう。ここは、以前見たように通りの南側が寺町になります。境内の周りが緑の垣根で囲まれているのが寺院群です。 一番西側(右)が法泉寺です。そして、その南に鍛冶屋町が東に伸びます。
 この二つの通りを眺めると、特徴の無い板葺屋根の家が続きます。どの家も奥に庭(家庭菜園)を持っているのが分かります。しかし、紺屋や鍛冶屋らしきの姿は見えません。家の中で作業しているので、描けなかっただけなのでしょうか。鍛冶屋なら煙突が見えてもいいはずですが・・
「紺屋町」にも、染物を干しているような姿はありません。他の町を見てみましょう。
 「古馬場」あたりには、染めた布を干している様子が見えます
高松城下図屏風 古馬場2
上の絵は高松城下図屏風の現在の古馬場あたりです。寺町の南に馬場があり、武士が「乗馬訓練」を行っています。その南には松平頼重時代になって作られた掘割が見えます。その堀の南側には、干し場があり、色々な色に染められた反物が干されているように見えます。
 ちなみにその向こうは侍町(現古馬場)ですが、家並みを見ると藩士が住んでいる家には見えません。この絵の侍町は、西側は白壁で瓦屋根の立派な屋敷が続きますが東側は、板葺きやかやぶき屋根の家並みです。東西に「格差」が見られます。
 ひとつの仮説として、もともと紺屋町にいた染め職人たちが幌割完成後に作業に必要な水路を求めてここに移動してきたという説は考えられそうです。後で検討してみましょう。今は次へ進みます。
外堀の東側の部分の瓦町の拡大図です。
高松城下図屏風 大工町2
外堀は埋め立てられ現在の瓦町商店街になっています。外堀の内側には松が植えられています。そして、外堀の外側には、ここにも反物が干されています。拡大してみると・・
高松屏風図2
私は最初は洗濯しているように思いました。しかし、今までの「状況証拠」からすると、これは反物を洗っていると考えるのが正しいようです。この付近には紺屋があったのでしょう。紺屋の「立地条件」に洗い場は必要不可欠です。洗い場として外堀や掘割が利用されていたようです。ただ、反物を洗うのは真水でなければならいないのではという疑問は残ります。だとすれば、外堀の塩分含有率は低かったのでしょうか?
さて、最初に返ります。先述したように、次のような仮説が考えられます。
仮説① 高松城ができた頃に、紺屋町・鍛冶屋町に住まわされた「紺屋」や「鍛冶屋」といった職人の集団は、松平頼重時代には「転居」した。そして、職種を示す町名だけが残った。

これに対して城下町が出来る以前の先住職業者の住居に由来するという説が出されています。この説を見ていきましょう。
高松城築城以前に「野原」という港町があったことは以前に紹介しました。少し復習しておきます。
野原・高松復元図カラー
15世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』には、「野原」から兵庫北関に入ったに交易船がについて、例えば文安二年(1455)3月6日の日付で次のような記録があります。
  野原
   方本(潟元産の塩のこと)二百八十石  八百廿文
   三月十四日  藤三郎  孫太郎
これは、野原からの船が方本(高松市の潟元)の塩二百八十石を運び込み、船頭の藤三郎が北関に八百二十文を納めた記録です。ここからは「野原」から、畿内に向かって交易船が出航していたことと、野原に交易港があったことがわかります。
   近年の発掘調査で高松駅前付近からは、古代末から中世の護岸施設を伴う遺跡が発見され、野原が港町であったことが裏付けられています。また高松城西の丸の発掘調査からも井戸・溝・柱穴・土坑(大型の穴)等多数の遺構が確認されており、中世にはここに集落があったことが分かってきました。
高松城下図屏風 野原濱村无量壽院瓦
「野原濱村无量壽院」と銘のある瓦
特にその中でも注目すべきは「野原濱村无量壽院」(「无」は「無」の異体文字)と刻まれた瓦が出てきたことです。ここから、中世の高松駅付近の地名が「濱村」で、西の丸は「無量壽院」跡に建てられたことが分かります。もっと過激に書くと「生駒氏の高松城築城は中世の港町「野原濱村」を壊して築城」されていたと云うことになるようです。従来云われてきたように、何もない郷東川の河口に城が築かれたのではないようです。
高松野原復元図
永禄八年(1565)『さぬきの道者一円日記』(冠綴神社宮司友安盛敬氏所蔵)を見てみましょう。
この史料は、お伊勢さんからやってきた先達が残した史料です。野原とその周辺の人だちから伊勢神宮の初穂料として集めた米・銭の数量が記録されています。ある意味では集金台帳です。その中に、野原のなかくろ(中黒)という地名が出てきます。
 正藤助五郎殿 やと おひあふき 米二斗
檀家の名前と伊勢からの土産、そして集金した初穂料が記録されています。
 先ほど見た野原濱町(高松城西の丸)の集金記録もあります
高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
一  野原 はまの分 一円
 こんや(紺屋)太郎三郎殿 おひあふき(帯扇) 米二斗
     同   宗太郎殿   同  米二斗
       (中略)
 かちや(鍛冶屋)与三左衛門殿 同  米二斗
     同    五郎兵衛殿 同  代百文
伊勢神宮の先達が「集金」して回るのは、地元の有力者たちです。ここからは、野原のはま(濱)には、「紺屋」や「鍛冶屋」という人たちがいたことが分かります。
 この「こんや(紺屋)太郎三郎」と紺屋町を結びつけることが出来るのではないかと研究者は考えます。つまり「紺屋町」の地名は、染物の「職人集団」がいたからつけられたのではなく、中世から野原にいた有力商人の「こんや(紺屋)太郎三郎」が住んでいたところが「紺屋町」と呼ばれるようになったと考えるのです。
 そんな例は、よくあるようです。例えば東京の皇居の西の方にある「麹町」という地名は、そこで商売をしていた「麹屋」という商人の屋号に由来しています。そのあたりに麹屋ばかりがひしめいていたのではありません。
 「こんや(紺屋)太郎三郎」のかつての本業は染物業だったのかもしれません。しかし、多角経営で成長していくのが中世の有力者達です。彼は「野原濱村」の代表的地元有力商人で、交易業も営み船持ちだったのかもしれません。必ずしも「染物屋」だけではなかったと思います。
 以上から次のような結論が導き出せます。
①「紺屋町」は「染物屋」ばかりが建ち並ぶ染物業「専科」の職人町でなかった。
②色々な商工業者の集まる普通の町だった。
③その中に「こんや(紺屋)太郎三郎」という有力者ががいたので紺屋町と呼ばれるようになった。
「鍛冶屋町」も同じように考えられます。町の名前は、必ずしも専門職人の町を意味しないことは、他の城下町の研究からも分かってきています。

DSC02531
 しかし、城下町の東の方には、「いおのたな町(魚の棚町)」があります。ここは『高松城下図屏風』の中でも、「魚の棚」の名称どおり、ズラリと魚屋が並んでいます。ここは町名と描かれている内容が一致するようです。

参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松城下図屏風3
県立ミュージアムにある「高松城下図屏風」の精密コピーを眺めながら、今日も高松城下を探ってみます。 
寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。この「高松城下図屏風」が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは入部から14年後の明暦2年(1656)前後と研究者は考えているようです。
『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』と比べると、どんな変化が城下町の南には見られるのでしょうか。
高松城侍屋敷図. 生駒藩jpg
「屋敷割図」は、讃岐のため池灌漑に尽力した西嶋八兵衛の屋敷も書き込まれているので、1638年頃のものだとされています。作成目的はその表題の通り「生駒藩藩士の住宅地図」で、これを見ると、だれの屋敷がどこにあって、どのくらいの広さかすぐに分かります。この「住宅地図」で城下町南端の寺町を見てみましょう。
生駒家時代讃岐高松城屋敷割図 寺町

   南部を拡大して「中央通り」を、縦軸の座標軸として書き入れてみます。そして寺町周辺を探すと、外堀南西コーナーから県庁方面へ南に伸びる道(現在は消滅)の一番南に「けいざん寺」と書かれた広い区画が見えます。これが前回紹介した法泉寺です。当時の二代住職が恵山であったことから「けいざん寺」と呼ばれていました。
 注目したいのは、その南の三番丁にの区画に記された文字です。「寺・寺・寺・寺・寺・寺」と寺が6つ記され、現在の中央通りを超えて、お寺が並んで配置されていたことが分かります。
個別の寺院名は記されません。まあ家臣団の「住宅地図」ですから作成依頼者にとって、寺は関係なかったのかもしれません。
 ここから分かることは、生駒時代は三番丁の南に配された寺院群が南の防備ラインであり、ここで城下町は終わっていたということです。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
  それから約20年近くを経て描かれた「高松城下図屏風」には、このあたりはどのように描かれているのでしょうか。
高松城下図屏風 寺町2
 高松の南部への発展は、どのように進んだのでしょうか?
高松城下図屏風を見ると、次のような事が分かります
①寺町の南に、新たに街並みが形成されている
②丸亀町の東側の「東寺町」の南には堀が出現している。
③その堀の南側にも白壁の屋敷群が立ち並んでいる。
ここから松平頼重がやった南方方面防衛構想は、
①防備ラインである寺町の南に新たに堀(水路)を通して
②堀の南に侍屋敷群を配置し
③西寺町の南に、広い境内を持つ大本寺(現四番丁小学校)や浄願寺(現市役所・中央公園)を配置。
④仏生山に法念寺造営
これらによって南方方面への防衛力を高めたと考えられます。
  高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、この時期のことについて次のように記します。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあります。ここからは、私は次のように推察しています。
①生駒藩時代は時代に逆行した知行制を温存したために、高松に屋敷を持つ者が少なかった。
②あるいは屋敷を持っていても、そこに住まずに知行地で生活する者が多く城下町の経済活動は停滞気味であった。
③結果として、城下町の拡張エネルギーは生まれなかった。
④また、知行制をめぐる政策対立が生駒騒動の要因のひとつと考えられる
⑤松平高松藩は検地を進め、家臣団のサラリー制を進めたので城下町に住む家臣は増え、町の膨張傾向が高まった。
そして南に向かって、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が整備されたようです。ちなみに三番「町」でなく、「丁」が使われているのは生駒氏のマチ割りの特色だそうです。生駒氏が関わった引田や丸亀も「丁」が使われているようです。ここから築城に独特の流儀を生駒氏は持っていたと考える研究者もいるようです。
 前回に触れた浄願寺が現在の市役所や中央公園を境内として整備されたのも、この時代のことになります。屏風図には寺町の南に大きな境内が見えます。

次に丸亀町の東の寺町(東寺町)を見てみましょう。
高松生駒氏屋敷割り 寺町2
この生駒時代の屋敷割図から見えてくることは
①瓦町から数えて南へ四本目の東西の通りの北側に寺が配置され寺町を形成。
②寺町の南側の通りは「馬場」と書かれています。
③その南の並びは「侍屋」とあります。
④しかし、馬場と侍町の間に堀割はありません。
この部分を『高松城下図屏風』と比較してみましょう。
高松城下図屏風 馬場
なんとここには本当に馬を走らせている武士の姿が描かれています。ここは「馬場」だったようです。勝法寺の南側にも数頭の馬が描かれています。その南側は堀割りで,堀割のさらに南は白壁の侍屋敷が東西に並んでいます。そして、馬場の南に堀が姿を見せています。この堀割は松平頼重時代になってから南方防衛ライン強化のために新たに作られたようです。
この馬場は、現在のどこにあったのでしょうか?
高松には「古馬場」という地名があります。古馬場といってすぐに連想するのは、私は「飲み屋街」の風景です。このあたりで武士達が乗馬訓練を行っていたのです。ならば馬場跡は、古馬場にどんな形で残っているのか探ってみましょう。
「北古馬場」と「南古馬場」の通りを見ていくことにします
高松古馬場 現在
 現在の「南古馬場」の通りは丸亀町をはさんで、その西側の道とは、まっすぐにはつながっていません。よく見ると、「丸亀町」のところで①のように「ズレ」ているのが地図から分かります。
高松古馬場 明治
明治四十二年の『高松市街全図』にもおなじようにな①の小さな「ズレ」は、見ることができます。そして①の町名は「古馬場町」と記されています。
高松城下図屏風 古馬場
丸亀町の「ズレ」に着目して『高松城下図屏風』を見ると、①の堀の南の東西の通りがやはり「ズレ」ています。ここから現在の南古馬場の通りが①の侍町南側の道であるようです。だとすれば、生駒時代は、ここが高松城下の最南端だったので、南古馬場は『高松城最南端通り」と呼ぶことも出来そうです。
同じような要領で北古馬場について探ってみましょう
②の堀に面した南側の道は、丸亀町のところで、突き当たりになっています。これは明治42年の『高松市街全図』の「北古馬場」と同じです。ここから②の道は、現在の「北古馬場」の通りだと分かります。
 現在の「北古馬場」の通りの北側の店の並びは「堀(水路)」、そして、水路を埋め立ててできたのが、今の「北古馬場」の飲食街の「北側」の店並びということでしょうか。
 馬を走らせていた馬場は、堀の北側でした。ということは現在の古馬場地区一帯というのは、「馬を走らせている場所」の南側の地帯で、「堀の南の侍町」になります。以上から「図屏風』の中の「馬を走らせている場所」は、現在のヨンデンプラザの東あたりと研究者は考えているようです。
さて、この馬場はいつ消えたのでしょうか?
享保年間の「高松城下図」には、勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。そして「高松城下図」では,馬場は浄願寺の西に移動しています。有力寺院の拡大によって、馬場は境内に取り込まれていったようです。
高松城絵図9
 元文5年の「高松地図」には、それまで掘割の南側にあった侍町がなくなっています。代わって古馬場町と名付けられ町人町となっています。これについて「小神野夜話』は、この理由を次のように記します。
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
ここからは以下のようなことが分かります。
①享保11(1726)年頃に,御家人が減ったので,勝法寺に南側にあった侍屋敷は番町へ移した。
②その跡は払い下げて町屋となり古馬場町と呼ばれるようになった。
ちまり古馬場は、もとは侍屋敷街だったのが、享保年間に払い下げられ町人町となったようです。かつて武士達が馬を走らせていた馬場は乗馬訓練していた空間は、四国有数の夜の繁華街になっています。

参考文献 井上正夫 「
古地図で歩く香川の歴史」所収



高松屏風図3
    
  今回は「高松城下図屏風」の中の寺町を見ていきたいと思います。
外堀南側から真っ直ぐに南に伸びる丸亀町通りからは東西に、いくつかの町筋が伸びています。西側には、兵庫町,古新町,磨屋(ときや)町,紺屋(こうや)町が見えます。一方東側には、かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。城下町は南に向かって伸びていたことが屏風図から分かります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』には、南の端に三番丁が描かれています。その頃の高松城下町は、法泉寺の南の筋あたりが城下町の南端でした。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
 高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
と記されています。三番丁あたりまでだった街並みが、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が開けたようです。
高松城下図屏風 寺町
 外堀の西南コーナーの「斜めの道」を南に進みます。この道は丸亀町通りと並行して南に伸びる「3本目」の道なので仮に「3本目」道と呼んでおきます。この道を南に行くと、その先に緑の垣根に囲まれた区画が見えてきます。ここが三番丁の寺町エリアのようです。拡大してみ見ましょう。
高松寺町3
寺町の一番西が法泉寺で、そこから東にお寺が東に向けて建ち並びます。その南が東福寺です。四番丁小学校は大本寺の跡に建っています。さらにその南の市役所は浄願寺跡だったところになるようです。
寺町の寺院群を江戸末期の絵図で見てみましょう。
1高松 寺町2
おきな本堂と伽藍、広い境内を持った寺院群が並んでいます。
高松城下図屏風では西から宝泉寺・行徳院、地蔵寺、正覚寺・
その南に東福寺・大本寺などが建ち並び南方の防備ラインを形成します。
1高松寺町1
さらに東には、徳成寺・善昌寺・本典寺・妙朝寺の4寺が並びます。この寺の並びの南側が寺町、その東側は加治屋町と記されています。この絵図では、方角や位置が分かりません。そんな時は明治の地図と比べてみると、見えてくるときがあります。
  「明治28年高松市街明細全圖」で寺町を見てみましょう
高松市街明細全圖明治28年
地図をクリックすると拡大します
日清戦争が終わった年に作られた市街図からは、次のようなことが分かります
①高松城の外堀は、まだ健在
②丸亀通り北の常盤橋を渡った突き当たりが県庁だった。隣は今と同じ裁判所。
紺屋町と三番丁の間に寺町は形成されていた。
④明治になっても街並みや道路に大きな変化はない。
⑤寺町の一番西の法泉寺の境内が飛び抜けて広い。ここに山田郡の郡役所が置かれ、マッチ製造所も見える。
大本寺の元境内に4番丁小学校ができている。
⑦地図上の南西角に高等女学校(現在の高松高校)
⑧現在の中央公園は浄願寺の境内であった
⑧丸亀町通りの東側にも寺町があった。その南が古馬場町である。
それから約30年後の大正12年の高松市街図です。
高松市街地図 大正
①法泉寺前を通る赤い実線は路面電車の線路。停留所「法泉寺前」が設置された
②寺町の各寺院境内の北側が一律に狭くなっている。(原因不明)
③四番丁小学校の南の浄願寺に市役所ができた
④市役所の南の浄願寺境内に高等小学校が出来た。現在の中央公園
⑤市役所の東の北亀井町の「尚武会」は意味不明
寺町のお寺の中でも最も広い境内を持つのが宝泉寺でした。
高松宝泉寺 お釈迦

このお寺は、弘憲寺と共に生駒家の菩提寺で、宇多津から高松城築城時にここに移されます。二代目一正と三代目正俊の墓所となり、寺名も三代目正俊の戒名である法泉に改められます。しかし当時は、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んでいたようです。
高松宝泉寺鐘
生駒氏の菩提寺であることを物語るもののひとつに鐘があります
文禄の役(西暦1592年)に朝鮮に出陣した時、陣鐘として持参し、帰国後、この寺に寄進したと伝えられるものです。
 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』には、この鐘について次のように紹介されています。
この銅鐘は、総高87センチ、口径53センチ、厚さ5.5センチ、乳(ちち)は4段4列の小振りの銅鐘である。もと備前国金岡庄(岡山県岡山市西大寺)窪八幡にあったもので、次の銘が刻まれている。
「鎌倉時代の元徳(げんとく)2年(西暦1330年)の青陽すなわち正月に、神主藤井弘清と沙弥尼道証の子孫が願主となり、吉岡庄(金岡庄の北方)の庄園の管理人である政所が合力し、諸方十方の庶民が檀那(だんな)となって銅類物をそえ、大工(鋳物師)宗連(むねつら)以下がこれを鋳た」

 生駒氏は讃岐にやって来る前は、播磨赤穂領主で備前での戦いにも参加していました。その時の「戦利品」を陣鐘として使っていたのかもしれません。「天下泰平」の時代がやって来て、菩提寺に寄進したのでしょう。どちらにしてもこの寺は、生駒氏からさまざまな保護を受けていたようです。それは、明治には山田郡の郡役所も設置されるほどの広大な境内を持っていたことが地図からも分かります。
4343291-05宝泉寺
宝泉寺(大きな松で有名だった)
日露戦争後には香川県出身将兵の忠魂碑として釈迦像が建立され「法泉寺のおしゃかさん」として市民にも親しまれていました。
当時の地図には境内に「釈迦尊像」と記されています。また、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)5月20日に開通した路面電車がこの寺の前を通り、停留所「法泉寺前」も設置されています。
 このお寺に大きな試練が訪れるのは第2次世界大戦末期です。1945年(昭和20年)7月4日未明の「高松空襲」で、ほとんどが焼失します。
高松宝泉寺釈迦像

南門は必死の消火活動で残ったようです。忠魂碑として建てられた大きな釈迦像も奇跡的に被弾せず無傷で残りました。海まで見える焼け野原となった高松市内で「法泉寺のおしゃかさん」は、どこからも見えて、その変わらぬ姿は市民の心のよりどころになったといいます。
高松宝泉寺 門
 戦後の都市整備計画の区画整理は、この寺に大きな犠牲が迫ります。広い境内は「県庁前通り」と「美術館通り」で四分割されました。そのため釈迦像や生駒廟と共に本堂は約70㍍東の現在地へ移転し、再建されました。現在の境内は、往時から比べると大幅に縮小しています。
 その他のお寺も従来の場所での再建を諦め、他所に移って行くもの、境内を縮小し再建費を工面するものなど、存続のためのための苦労があったようです。
 法泉寺の東側にあった道は、『高松城下図屏風』の中では、中央の丸亀町の通りから数えて西へ三本目の南北の通りです。そのまま北に進むとお城の外堀の西側の「斜め道」に出て、西浜船入(港)に通じていました。この通りは、今では宅地になって消えてしまいました。しかし、法泉寺より南側の部分、つまり東福寺と四番丁小学校の間だけは残りました。四番丁小学校の西側の道路は、四百年前のままの位置にあるようです。
 もうひとつ気になるお寺が 浄願寺(じょうがんじ)です。
高松浄願寺
中央公園の中にある浄願寺の記念碑
この寺も法泉寺と同じように生駒氏が宇多津から高松へ引き抜いてきたお寺です。高松を城下町にしていくためには、文化水準の高かった当時の宇多津からいくつかの寺院を移さなければ、城下町としての体裁が整わなかったようです。丸亀から町人を「連行」したのも「城下町育成」にとって必須の措置と当時の政策担当者は考えていたようです。
4343290-27浄願寺
浄願寺
 浄願寺はもともとは、室町時代中期に宇多津に創建された寺でしたが、生駒親正が高松城築城時に高松に移します。しかし、その後火災で全焼していまいます。それを救ったのが、高松藩初代藩主として水戸から入封した松平頼重です。頼重は、高松藩主の菩提寺として再興しますが、その際に五番丁に土地が与えられました。以後は隆盛を極め、広い境内に伽藍がひしめく状態だったようです。
 明治になると高等小学校が境内の南にできます。ここには菊池寛が通学していたようです。さらに日清戦争後の1899年(明治32年)には、高松市役所が北古馬場町(現・御坊町)の福善寺から境内の北側へ移ってきます。つまり、現在の高松市役所と中央公園が浄願寺の境内だったということになります。
 この寺にも高松空襲は襲いかかります。戦後は、番町二丁目に移動して再建されました。ちなみに、中央公園には、浄願寺跡地の石碑と浄願寺ゆかりの禿狸の像があります。
高松城下町イラスト

 寺町について見てきましたが「高松城下図屏風」には、寺町の南には堀が描かれています。これも寺町を城下町高松の南の防備ラインと考えていたことを補強するものです。いざというときには、藩士達には集合し、防備する寺院も割和えられていたのかもしれません。しかし、その堀も後には埋め立てられて「馬場」となったとも云われます。次回はその「古馬場」についてみていきます。
参考文献 井上正夫 むかしそのまま 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収




高松城122スキャナー版sim
『高松城下図屏風』
『高松城下図屏風』は高松藩初代藩主が作らせたと云われる屏風図です。江戸屋敷に置かれて、高松に馴染みのない江戸詰の藩士たちと政策協議する際の史料としても使われたと私は妄想しています。この屏風の精巧なコピーは県立ミュージアムにもありますが、まずその大きさに驚かされます。
高松屏風図2
次に、その精巧さです。道並み、街並みがしっかりと描きこまれ、屋敷の主である藩士名まで分かります。寺院の本堂の位置や塀の形まで描かれています。さらに目をこらすと道行く人たちや外堀で洗濯(?)している女(?)まで見えてきます。

この屏風図に描かれた高松の町が今はどうなっているのかを何回かに分けて探ってみたいと思います。その手始めに高松城下町の「座標軸」をつかんでおくためのトレーニング・クイズです。
設問1 屏風図上に、次のストリートを書き入れなさい。
①丸亀通り
②中央通り
③兵庫町通り
④瀬戸大橋通り
⑤フェリー通り
ちなみに、①以外の通りは江戸時代にはなく、後世に姿を見せた物ですから屏風図には書き込まれていません。そういう意味では難易度はかなり高いクイズです。
高松屏風図4

答えは屏風図を参考に、見ていきましょう。(クリックすると拡大します)
①の丸亀町通りは、外堀の架かっている常磐橋が起点になります。
1高松城 外堀と常盤橋

その橋を渡って真っ直ぐに南の方(屏風では上の方)に伸びているの赤く囲んだのが丸亀町です。この町は、その名の通り生駒氏が丸亀城を廃城にした際に、保護を与えて丸亀から連れてきて住まわせた商人が住んだ町と云われます。位置的には4百年前と変わっていないようです。
高松屏風図3
中央通りは、この位置になるようです。
  丸亀町通りから数えて南に延びる道の1本目と2本目の間を抜けていきます。兵庫町通りを真っ二つに分断して作られたことがよく分かります。中央通りは高松大空襲で焼け野原になった後、戦後の整備計画で、都市の基軸線として姿を現しました。
なぜ丸亀通りを中央通りにしなかったのでしょうか?
  それは高松城との関係があったからでしょう。もし丸亀通りを「中央通り」とすると、上の地図でも分かるとおり高松城の核心部を突き抜けていくルートになります。そうなれば高松城は大きなダメージを受けたでしょう。もう一つは、高松駅と港を起点した都市整備が考えられたためだと思います。中央通りは、内堀の西側を通って駅や港に通じるように設計されました。高松城にとって影響が一番少ない形でした。
1 高松城4pg
③の兵庫町通りには、以前お話ししたように外堀を埋めた後に作られたました。
外堀は現在の姿は次のようになっています。
南側は片原町商店街
北側が兵庫町商店街
1 高松城54pg
この地図の⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面に伸びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。

DSC03617
③の斜めに伸びる西側の外堀が気になります。
以前私は、外堀は「東西の船入(浜港)とつながっていた」と書きました。確かに、東側は直角に曲がって東浜船入を通じて海につながっています。西側は西北に向かって斜めに伸びています。しかし、よく見ると西側の外堀と西浜船入(港)とはつながっていないのが分かります。どうしてなのでしょうか。つながらせると潮の満ち引きの影響を受けて外堀に流れが生じ「運河」として、使いにくくなるからだと今は勝手に解釈しています。

高松城外堀西側
さて、外堀部分(斜め道)の「今」は、どうなっているのでしょうか
香川県警北署の西約百メートルにゼネラルのガソリンスタンドがあります。高松駅から県庁方面に向かう人たちは、この前の「県庁前通り」を南進していきます。グーグル地図で見ると、このガソリンスタンドを起点に、スタンドを挟むように両脇から「斜めの道」が2本南南東に伸びています。なんでこんなに隣接したところに2本の道が必要なの?と疑問に思う道です。
1 高松城 外堀と西浜

手前が西浜船入で向側は外堀跡の斜め道
 これが外堀跡の現在の姿なのです。
堀だった両側の一部が細い道となり、その中には住宅やビルが建ってしまったようです。ここが外堀の西の終点だったとすれば、ここから高松駅にかけては西浜船入りの港があり、多くの船が出入りしていた場所なのです。
DSC03618
そしてお城の西口でもあったのです。そこを今は瀬戸大橋通りが東西に走り抜けています。

1 高松城 外堀と西浜
西浜船入と外堀の最終地点

参考文献 井上正夫 高松の「ヘンな道」 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

   

 

高松城絵図11
幕末の天保年間の高松絵図です。「軍事機密」のためか高松城の中は空白です。東西南北の市街エリアを確認しておきましょう。
西に向かっては海沿いに扇町あたりまで街道が伸びています。
南は東西に走る石清水八幡神社の参道を越えて、家並みが続いているようです。石清水神社の北側には、この神社の社領が広がっていて市街地の形成を阻んでいるようにも見えます。
さて、江戸時代の高松が明治になってどう変わったのかを、次の3枚の絵図と比べながら見てみましょう。
Ⅰ 明治15(1882)年の『讃岐高松市街細見新図』
Ⅱ 明治28(1895)年の「高松市街明細全図」
Ⅲ 大正10(1921)年の『高松市街全図』
 

1高松市明治18年
江戸時代の地図が海川(北)が上に描かれているのに対して、明治のものは逆転して海側が下に描かれています。明治維新は、天地がひっくり返るほどの大変動だったのかもしれません。

天保の絵図18と比較すると、お城の東西の港もまだ健在でこの時点では埋め立てられてはいません。鉄道の線路も見えません。明治になっても、街並みに大きな変化はないようです。

明治のⅠ・Ⅱの絵図から読み取れることを挙げておくと
①中堀の西部は、現在の高松市西の丸町に続いていたこと
②外堀は西の丸町と錦町の境の道路から,片原町・兵庫町の北部を抜け,北浜港に続いていたこと。
③明治15年のⅠと藩政時代の絵図とあまり変化はない。
④明治28年のⅡ「高松市街明細全図』と現在を比較すると,城下町の東部,町屋があった片原町,百聞町,大工町,今新町,御坊町,古馬場町,通町,塩屋町,福田町,丸亀町、中新町、南新町、田町,兵庫町,古新町,磨屋町,紺屋町あたりは明治時代の大部分の道路が残っていて、江戸時代の地図を重ね合わせることができる
⑤侍屋敷があった番町2~5丁目付近は、変化が激しく現代と明治時代の道路は一致しない。

1高松市明治28年
 Ⅱの明治28(1895)年の『高松市街明細全図』は高松築港の工事が始まる直前の地図です。
①波止場が海に大きく伸びていますが、西浜舟入(堀川港),外堀,中堀の姿がまだ残っています。
②石清水八幡宮の奥(宮脇2丁目)には姥ゲ池という大きな池があったことが分かります。
③この池から流れ出す川は、石清水八幡宮の北に広がる社領を用水路としても機能していたことがうかがえます。この社領が現在の香川大学キャンパス等になったようです。
④大正の絵図Ⅲには、社領が宅地化した結果、この池が縮小されているのがうかがえます。そして、現在はこの池は姿を消しています。
1高松市大正
今から約百年前の大正10(1921)年のⅢの絵図になると大きく変化します。
①西側から丸亀からの鉄道と徳島線が南側を迂回して港周辺まで伸びています。
②路面電車が高松駅から栗林公園まで南北に延び、そこから長尾・志度方面に走っています。
③お城周辺を見ると西浜舟入(堀川港)は埋め立てられています。そこに高松駅が作られているようです。
④Ⅰには残っていた南側の外堀も埋め立てられたようです。
現在の街並みと比較すると、街路は曲がりくねっています。路面電車の線路も屈曲が何カ所もあります。この絵図に描かれた高松市街は、空襲によって焼け野原になり、その後に整備され生まれ変わったことが分かります。

1HPTIMAGE
Ⅱの明治28年の絵図と現在の地図を重ね合わせたものです。
①広角レンズで遠くからながめると、高松駅は西浜舟入を埋め立てた上に建てらたことがよく分かります。
②西部の石清水八幡宮社領が現在の香川大学のキャンバスになっていることがうかがえます。
1 高松城54pg
さて、今度はズームアップしてお城を見ていくことにします。
まず外堀はどこにあったのでしょうか?
外堀は南は片原町商店街・兵庫町商店街の北側の店舗が外堀の位置だったようです。⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。また、片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③の兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面へ延びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。ここからも外堀は東西の浜港とつながっていたことが分かります。 
1 高松城4pg

高松城絵図に現在の主要な道路を書き入れる上図になります。
①中央通りが西の丸の東側を南北に貫いています。この地図からは西の丸の北の海の中にホテルクレメントが建っていることになります。そして、先ほど見てきたように本丸西側の内堀が埋め立てられて、琴電の線路と駅舎があります。
②高松駅は外堀の東側の西浜舟入を埋め立てられた場所にあります。
③東西に走る瀬戸大橋通りは、中堀を埋め立てなかったために中堀の東側のフェリー通りの交差路で妙に屈曲することになりました。もし東からの道に併せれば南側の中堀も埋め立てられていたかもしれません。
④ 中堀の西側は埋め立てられ現在はパークホテルやエリヤワンホテルが建っています。内堀も西側は、琴電電車の建設の際に埋め立てられ、線路がひかれ駅舎が建てられています。この内側は内町と呼ばれ武家屋敷が並んでいたことになります。
1 高松城p51g

さて東の丸はどうなっているのでしょうか?
①東の丸の東側の中堀は、埋め立てられてフェリー通りになりました。
②東の丸の北側には、レグザムホールがあり、その南には県立ミュージアム、その南に城内中学校がかつてはありました

高松城の推定面積は約66万平方メートルで、現在の玉藻公園の約8倍、東京ドームに換算すると約14個分(グラウンド面積では約50個分)の広さになります。こうして見ると往時の高松城が、とても広かったことが分かります。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷  
香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ



 
HPTIMAGE
「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)

 寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。松平頼重は城や町の整備を行ったことが『小神野夜話』には記されています。「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)の製作年代は不明ですが,絵図内容より松平頼重入部直後に作られたものと考えられているようです。そのため『生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)と比較してみても高松城内部にはあまり変化はありません。中堀に架けられた橋の北側の門東側は対面所ですが、西側の屋敷には変化があります。門の西側から近習者屋敷・局屋敷と記されていた屋敷が『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)では鷹匠・厩となっています。
高松城江戸時代初期
「高松城下図屏風」(絵図5)
「高松城下図屏風」(絵図5)が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは明暦2年(1656)前後のものと推定されているようです。この絵図は『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)よりも新しい絵図で、この時点で松平頼重によって次のような改築が行われたことが分かります。
①南にあった橋がなくなり、高松城西側に門と橋ができています。
②内堀と中堀の間の南部には局,厩,鷹匠の屋敷がありました。それが『高松城下図屏風』(絵図5)では、内堀と中堀の間の西部は北側に侍屋敷があり,その南側に馬が描かれ,厩と思われる建物があります。厩が,西側に移動したようです。おそらく,西側に橋がかかったためにの移動でだったのでしょう。
③「高松城下図屏風』(絵図5)では、海手門の外側は新たに埋め立てられ,瀬戸内海に向かってコの字型に張り出しができ,石垣が巡らされています。
④この張り出しの東側の「いほのたな町」の北側に、新しく波止場が作られています。
高松城絵図6
「讃岐国高松城図」(絵図6)
絵図6にも中堀の西側に橋が描かれています。
その橋の東側には蔵が見えます。海手門の外側には北海に向かって張り出しがあり,中堀の東側に波止場があり、西浜舟入と中堀の間に米蔵と注が記載されています。のちに,東の丸が築造され,米蔵は東の丸に移されますが、それ以前は西浜舟入と中堀の間にも米蔵があったことが分かります。
「讃岐国高松城図」(絵図6)では、中堀の南側の両角に櫓が新たに姿を見せています。築造年代は不明ですが、この櫓は「高松城全図」(絵図21)から烏櫓,太鼓櫓であることが分かります。。
寛文11年(1671)になって高松城の新郭である東の丸が築造されます。
東の丸の築造直後に製作された絵図はありません。東の丸が描かれた最も古い絵図は、享保年間(1716~1736年)の「高松城図」(絵図7)です。この絵図と「高松城下図屏風」(絵図5)を比べてみての変化点をまとめると次のようになります
①中堀の東側の侍屋敷であったところに東の丸が築造され、その東に隣接する魚の棚町の西半分に堀が掘られた
②海手門の北東側か埋め立てられ,北の丸が築造された。
③東の丸・北の丸には次のような櫓が築造された。
 東の丸の南東角は巽櫓,北の丸の北東角は鹿櫓,北西角は月見櫓や続櫓
④それまでは中堀の南側には太鼓御門があり,橋が架かっていて,城の南側から出入りをしていたが,東側に架け替えられている。東側に架け変えられた橋が旭御門。
DSC02528
高松城の改築について『小神野夜話』では次のように記しています
「二の丸先代は中の門に橋有て,太鼓矢倉中門の東へ少寄て有之,東の角は折にて有之,角に先代之屋形有之,御玄関西向に成,桜御門は北面に成,桜の馬場西南の角に家老之小屋四軒有之候所,東御門新に明き中の御門橋を引,中の矢倉,東の矢倉,東の角今の太鼓の櫓に引き,家老の小屋は武具蔵になり,屋形の跡は今腰掛建申候。西御門は北の角櫓の下に有之候所,只今の所へ引申候。」
「ニノ丸へ御屋形引,海手へ出候門,只今の中御門に相成,北新曲輪 今之水御門,月見櫓,鹿之櫓,黒門,多門,作事魚棚の入川,北浜等,新規に被仰付候
御入部三年目に御普請初り,先二の丸より斧初め、次に御玄関落間一番に建ち申候」

ここからは
①中堀の橋が東に架け替わり櫓が移動したこと
②内堀と中堀の問は武具蔵になり,西御門は現在の場所,つまり西側の外堀の中央付近に移ったこ
③屋形が二の丸に移動し,北の丸,北の丸の水御門・月見櫓・鹿櫓や,東の丸の作事丸・米蔵丸・北浜などが新たにできたこと
松平頼重が入部して3年目に城内の改築を開始し、工事は継続して行われていたようです。
  
DSC02527
                    
 今度は城下町の様子を見てみましょう。
「高松城下図屏風」(絵図5)は松平頼重時代の始め頃,江戸にいることの多い頼重や家臣団の政策協議の資料として明暦2(1656)年以前に製作されたとも言われています。この絵図の頃は城下の
西端は蓮華寺・王子権現付近(現在の高松市錦町2丁目),
東端は通町付近
であることがわかります。
『小神野夜話』には城下町の拡大について
   街並みも東は今橋切にて,松島之家は一軒も無之由,
西はかしの屋の前石橋迄にて,王子権現は野中に御座候。
段々家立まし,今之通相成申候
 この記述から,街並みは東は今橋で切れて,西は吉祥寺の南の王子権現(錦町2丁目)あたりまで広がっていたようで、「高松城下図屏風」(絵図5)の描写と一致します。
東部の東の端には大きな川が描かれています。この川は仙場川のようです。
後世になって仙場川の北端には新橋が架かりますが,絵図5には新橋はまだ描かれていません。新橋の南に架かる今橋は見えます。仙場川の西岸には石垣による護岸整備が行われていて、通町の東側から北東方向に比較的大きな川が石垣のほうに向かって流れています。仙場川の東側は、松島町ですが今橋よりも北側は海が続きます。しかし,海岸に堤防は描かれていません。自然海浜のようです。ちなみに寛文7(1667)年には松島の沖合から西潟元まで堤防曜防が築かれ,新田が開発されたことが『英公外記』に記されています。

(絵図5)のと享保年間の下図『高松城下図』(絵図7)には約半世紀の隔たりがあり,城下町の様子もかなり変わっているようです。 
高松城 絵図7PTIMAGE

享保年間の「絵図7」をみると東端に仙場川が描かれています。
仙場川は南から北に向かって,瀬戸内海に注ぎ井口屋町の東側には新橋が描かれています。新橋が架かっていることからも松島の沖合が干拓されたことがうかがえます。
   仙波側の西側、現在の高松市築地町付近も大きく様変わりしています。通町の東側を流れていた川は町割りに沿って通町に平行に南から北に流れ,新塩屋町の南側を直角に曲がり,西から東に流れて仙場川に注いでいます。また,この流路と仙場川との間に流れていた小川はなくなっています。このあたりは(絵図5)では田畑が広がり,農家がぽつぽつとある程度でしたが『高松城下図』(絵図7)では,新通町・新塩屋町が新たにできて町屋になっています。南の方には深妙寺が姿を現しています。河川改修の結果,東方にも城下が広がったようです。
 ここでも新橋が架かっているということは、松福町は享保年間にはすでに干拓されていてことになります。また,新橋の北側の東浜も北西側と東側が埋め立てられ,新たに材木町が見えます。

 お城の東の丸の東側を見てみましょう。          
 東は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割」絵図2では、城下は蓮花寺あたりまででした。それが享保年間の「絵図7」では、ほのたな町と記されていた町人町の北側が埋立てられ新たに北浜ができてきます。そして、北浜の北西角には波止場が見えます。
  西は「高松城下図屏風』(絵図5)では、蓮華寺付近まででした。
それが享保年間の「高松城下図」(絵図7)では、摺鉢谷川の東側まで城下が拡大しています。「絵図5」では高松城の外堀,船蔵の西側は侍屋敷でしたが,享保年間の「絵図7」では、その一部が町人町に変わり,西通町が形成されています。さらに,鉄砲町・高嶋町・木蔵町・西浜と摺鉢谷川の東まで町屋が連続しています。
 また,蓮華寺の西側には愛宕神社があり、その西に材木蔵があり,材木蔵の西側には港と波止場があります。この港は現在の扇町1丁目で、盲学校の北側付近になります。
  南西部にも侍町が拡大されています。
享保年間の「高松城下図」絵図7には,船蔵の南側から天神社の西側,九番丁まで侍屋敷が描かれていて,現在の香川大学の東端と高松市街の南部を走る観光通りまで市街地が広がったことが分かります。なお,船蔵の南西が浜ノ丁,その南側が北一番丁になります。

 これらの城下町の拡大については,「小神野夜話」には     
「御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部巳後大勢之御家中故,新に六番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷に被仰付,・・・」

とあるので松平頼重の入部頃に,六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場・築地・浜の丁が新たに侍町になったようです。『高松城下図』(絵図7)の描写のように、侍屋敷が拡大していることが分かります。
『高松城下図屏風』(絵図5)では西浜舟入の北西にも侍屋敷が広がっていました。それが「高松城下図』(絵図7)では、北の1区画の侍屋敷と2軒の寺がなくなっていて,船蔵になっています。この船蔵の西側,蓮華寺の北側には新たに波止場ができています。そして蓮華寺と船蔵の間は侍屋敷に変わっています。なお,この2軒の寺は真行寺と無量寿院で、真行寺は御船蔵造営のため延宝2年(1676)に西の浜に、無量寿院は浄願寺の近くにそれぞれ移転したようです。ここから,船蔵が作られたのは延宝4(1676)年以後のことになります。 
西浜舟入と中堀の間は「高松城下図屏風」(絵図5)ではずらりと侍屋敷が並んでいました。
西浜舟人の東岸の北端には波止場があり,波止場の東側にはL字状に石垣が巡らされています。その内側には大きな侍屋敷がありました。ところが享保年間の「高松城下図」(絵図7)ではこのL字部分は埋め立てられて,大久保飛弾の屋敷地が西浜舟入の東隣に南北に長く伸び,その北東隣に西御屋敷があります。そして,中堀の西の橋の西側付近は空地となっています。
 このことも「小神野夜話』には、次のように書かれています
「船蔵大久保主計屋敷に有之候処,今之御船引申候、今之御船蔵之場所には真行寺・無量寿院有之候処,無量寿院は先代今之処へ引候跡開地と相成り居候,真行寺は御舟蔵西之角に有之候処,今之所へ引,跡御舟蔵に相成,只今之通りに御座候。船倉之跡屋敷に被仰付,八左衛門奉行にて大屋鋪と成,大久保主計に被下候,大概右之趣,役所之留ならびに林孫左衛門物語取合実説記置申候」
とあり,元の船蔵は大久保主計(飛弾)の屋敷となり、今の船蔵の場所には真行寺・無量寿院があったことが記されています。
 西浜の海岸縁には『高松城下図屏風』(絵図5)では真行寺と無量寿院が描かれています。2軒の寺のすぐ東側に南から北に流れる流路がありますが,享保年間の「高松城下図」(絵図7)では船蔵の西側,これらの寺があった場所に付け替えられています。流路の変更は新しい船倉建設に伴うものなのでしょう。
城下町の南東部にあった「馬場」について,         
①「高松城下図屏風」(絵図5)には勝法寺の南側には数頭の馬が描かれていますから,馬場があったようです。その南側は堀割りで,堀割りのさらに南は侍屋敷が東西に並んでいます。
②享保年間の「高松城下図」(絵図7)になると,勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。
③「高松城下図」(絵図7)では,馬場は浄願寺の西に移動しています。

城下町の南への拡大を見てみましょう。
①「高松城下図屏風」(絵図5)では、町人町は高松城の外堀の常盤橋から南に続いています。その南限は高松市古馬場町付近で途切れていて,町人町がどこまで続いているのか不明でした。
②それが『高松城下図』(絵図7)には、現在の高松市藤塚町付近まで町屋が描かれています。丸亀町・南新町・下町・伊賀屋町・亀井町・田町・新町・ハタゴ町が見えます。

高松城絵図9
  享保年間以後の絵図で,最も古い絵図は元文5(1740)年に描かれた『元文5申年6月讃岐高松地図」(絵図9)があります。
享保年間の「高松城下図」(絵図7)と絵図9とでは四半世紀の隔たりがあります。
(絵図9)の東端には,仙場川が描かれていて,享保年間の絵図と同じように新橋が描かれています。その北には、八丁土堤と呼ばれた堤防が描かれています。この土堤は現在の福岡町付近の干拓のため築かれた堤防ですが、築造年代は分かりません。しかし、この絵図に描かれていることから享保年間(1716~1736年)以降で、元久元(1740)年以前には築造されたことが分かります。
高松城絵図9の2
「高松城下図」(絵図7)には外堀と中堀の間で,中堀の西門の外側は,西御屋敷と大久保飛騨の屋敷ですが,「元文5申年6月讃岐国高松地図」(絵図9)以降の絵図には,大久保飛騨屋敷の東隣は御用地または原となっています。『小神野夜話』には
「西御門外に家老屋敷二軒有之。引候て,壱軒之跡は今の下馬北かこひに成申候,一軒の跡は,十本松有之候場所に相成申候、外堀之際にも内馬場之通り並松有之候処,不残御伐らせ被遊候」
とあり,家老の屋敷が二軒あったが移動して,1軒の跡は馬の牧場,もう1軒の跡は10本の松が植えられたと記します。
高松城絵図9の3
 享保年間「高松城下図」(絵図7)と(絵図9)を比べると侍町の規模が縮小しています。
城下町の南東の福田町と南新町に挟まれた東西に並ぶ侍屋敷がなくなり,代わって古馬場町となっています。これについて「小神野夜話』は
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け,跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
とあり,享保11(1726)年頃に,御家人が減ったことにより,勝法寺に南側にあった侍屋敷が町屋になったようです。これが現在の古馬場町のようです。古馬場は、もとは侍屋敷街だったのです。
侍屋敷から町人町になったのは古馬場だけではないようです。
「元文5申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)をみると,浜の丁の蓮華寺の西に1軒の侍屋敷,蓮華寺の東の6軒の侍屋敷,船蔵の南の11軒の侍屋敷、城下の西端の南北に並ぶ侍屋敷の1列がなくなっています。このことについて『小神野夜話』は
「北海手東西之はと崎よりならびに蓮華寺之東,侍屋敷北手之土手を築,土手並木を植え候事,元禄十丑年七月大須賀小兵衛列座にて,主馬柘植安左衛門被仰渡,右安左衛門下知にて出来申候,並松も大木に成居申候処,享保五年之頃より北汐当強く相成,家中住かたく(難く)北六間引,土手松も汐に押し倒し土手も崩れ,石垣にて漸留り申候,右屋敷,同十二年正月に被仰付,六月迄に引申候」,
「浜之町土手は,我等若盛り迄は,土手下へ沖より汐満申事は夢々無之,西の波戸中程迄汐つかり申事覚へ不申候,東の船蔵の波戸は,三十年巳前迄は五十間の波戸,中程迄汐来り候,其後段々汐まして北の土手を打崩し候故,侍屋敷住居成不申,弐十七年以前に裏がわ六軒は引く申候。
材木蔵も八間南へ引,旁致候へは,次第に北のあて強く相成申候,‥」
とあり,元禄10(1697)に蓮華寺の東の侍屋敷の北に土手を築いたが,享保5(1720)年頃より,北から吹く潮が強くなり,享保12(1699)年に海岸縁の6軒の侍屋敷は移転し,材木蔵は八間ほど南に移動したことが記されています。このあたりは昔から冬の北西風が吹き付ける風の強いところだったようです。
高松城絵図10
        
寛政元(1789)年に描かれた鎌田共済会郷土博物館『寛政元年高松之図』(絵図10)と「元文元年申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)を比較すると変化はあまりありません。
最後に、江戸時代末期の19世紀の絵図は3枚あります 。


(1804~1818年)に描かれた『文化年間讃州高松城下絵図』(絵図
高松城絵図11
これらの絵図には東浜の北に新湊町があります。新湊町は文化元(1804)年八代藩主松平頼儀の時代に,東浜の北に造成された町です。この町の北端に神社が記されています。これは東浜町から移された恵比寿神社のようです。
高松城絵図15
 このあたりを詳細に描いた絵図は鎌田共済会郷土博物館所蔵の「高松新井戸水元並水掛絵図」(絵図15)がります。これは文政4(1821)年に作られたもので,新井戸から配水する上水道を描いたものです。この絵図にも新湊町や恵比須神社が描かれています。江戸時代末期の『讃岐国名勝図会』にも新湊町の北側に蛙子社が詳しく描かれています。
高松城下町2

以上をまとめると、高松城及び高松城下町は以上のように移り変わってきたようです。
①高松城が築城後,最も変化するのは松平頼重の東の丸築造をはじめとした改築である。
②それまでの生駒藩時代には高松城の東西は浜が広がっていたが、浜を干拓したり,護岸工事を行なった。
③その結果,城下町が東西に拡大し、西は摺鉢谷川、,東は仙場川まで広がった。
④生駒藩時代の城下は高松城の外堀内にも侍屋敷があり、町屋を囲うようにコの字に侍屋敷が配置されいいった。
⑤城下の規模は東西8㎞、南北6㎞であった。
⑥松平高松藩になると城下も拡大し,松平頼重の時代には城下の南西部に侍屋敷が拡大して番丁まで広がった。
⑦しかし、享保年間には御家人が減少したため,城下の南東部の侍屋敷や馬場を縮小した
⑧代わって町屋となったため,外堀の南東は町屋ばかりになり,侍屋敷は南西部に配置された。
⑨南西部の侍屋敷の中でも西端の一部はなくなり,田畑となった,

絵図の紹介をしてきましたが急ぎ足になりすぎたのを少し反省しています。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷                              香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ

           
生駒氏による高松城築城の「通説」ストーリーは?
1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主に任じられます。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)が従来語られてきたストーリーのようです。
 それでは生駒氏の高松城は、いつ完成したのでしょうか?
南海通記は、着工2年後の1590年には完成したとしますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままのようです。
 また、生駒時代の高松城を描いた絵図は、1627年(寛永4)に幕府隠密が高松城を見分して記した「高松城図」(「讃岐伊予土佐阿波探索書」所収)以後のものしか知られていません。そのため完成当初の高松城・城下町がどのような景観だったかについても、よく分かっていないというのが実情のようです。
 文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。
例えば天守台の解体修理に伴う発掘調査からは大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と指摘しています。つまり、入国した1588年(天正16)から10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたようです。
 織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は関ヶ原の戦い以後の慶長期(1596 ~ 1615年)に行われた可能性が出てきたようです。
1) 上級家臣が屋敷を構える外曲輪では、
ここからは屋敷内や街路にゴミ穴(土坑)が掘られて土器・陶磁器・木器が廃棄されていました。ゴミ穴を年代毎に見てみると外曲輪での日常的なゴミ処理が、1588 ~ 1600年頃には極めて少なく、生活感の希薄な状況であると指摘されています。また屋敷地の区画施設(溝や塀)にも1588 ~ 1600年まで遡るものは、現在までの発掘ではありません。
しかも1630 ~ 40年代までは、それぞれの屋敷地に個別に区画溝が巡らされていて、中世的な屋敷の景観が読み取れるといいます。「高松城下図屏風」に描かれたような、塀(板塀・土塀)や長屋門をもつ区画施設は、1640 ~ 50年代になってようやく現れるようです。つまり、私たちが見なれた「高松城下図屏」と生駒時代のお城や街並みは大きく違うようです。特に家臣団屋敷の景観も相当大きく変化したことがうかがえます。
岡山城と高松城に瓦を供給した「瓦工場」
16世紀末葉~17世紀初頭における高松城跡出土瓦を、時代ごとに分類すると次のようになります。
Ⅰ期 1588 ~ 90年代前半(天正16 ~文禄期)頃。
在地系の瓦主体。まだ瓦の量自体が少なく、中世的で丁寧な製作技法が見られる。
Ⅱ-1期   1590年代後半(慶長1~5年)頃。
在地系の系譜(瓦工集団)で集中的な生産に伴う粗雑化が進む。姫路系の直接的な影響の可能性をもつ系譜も出現する。
Ⅱ-2期   1600年代前半(慶長5~ 10年)頃。
岡山城跡と同笵・同文関係にある軒平瓦の系譜(三葉文系)が普遍化し、瓦の量が急増する。胎土・焼成ともに、近世的な特徴をもつようになる。
Ⅲ期  1600年代後半~ 10年代(慶長11 ~元和6)頃。それ以降も含むか。岡山城跡との同笵・同文関係は継続。
ここでも城・城下の建設の進展を窺わせる瓦の大量供給は、Ⅱ-2期~Ⅲ期(慶長期)になってからのようです。そして大量に出てくるのは、岡山城との同笵・同文瓦の瓦なのです。
これをどう考えたらいいのでしょうか?
 同時進行で建設されていた高松城と岡山城に瓦を供給した「瓦工場」がどこかにあったようです。
「高松での大量供給段階でも岡山城の大規模な普請は継続していることから、現状では岡山からの搬入の可能性の方に妥当性がある。」
と研究者は考えているようです。
  岡山では1590年代(文禄・慶長初期)に瓦の大量生産・供給の最初のピークがあります。一方高松への大量供給はこれに遅れていますので、岡山城での普請が先行すると考えられます。
 岡山城主・宇喜多秀家は信長政権下での中国攻め以来、秀吉と深い関わりがあり、1585年(天正13)には秀吉の養子として元服しています。その後は豊臣政権の中で重用され、文禄の役では総大将を務め、五大老に名を連ねます。岡山城建設の最初のピークは、豊臣政権における秀家の台頭と軌を一にしているようです。
 阿波の蜂須賀氏に対して、どこに城を築くかについては秀吉からの指示があったといいます。天下を握ったばかりの秀吉は、西国の最前線は備讃瀬戸あたりで、この地域での政治的中心地の建設にあたり
「まず岡山城、次に高松城を造る」
という意向があったことは充分に考えられます。その岡山城建設に必要な瓦工場も宇喜多家の管理下に建設操業を始めます。そして、関ヶ原の戦い以後に遅れて高松城築城を開始した生駒家へも瓦を提供することになったという筋書きが描けそうです。
築城に当たっての寺院への対応は?
  西浜で真行寺に隣接して境内があった無量寿院は、戦国期には野原中黒(高松城中心部周辺)に存在したことが「さぬきの道者一円日記」(1565年、永禄8)から分かり、発掘調査により西ノ丸がその旧境内地と特定されました。出土瓦などから
「少なくとも17世紀以降に無量寿院が[西浜へ]移転したものと考えておきたい」
と報告書は記します。
   「高松城下図屏風」等には、外堀に面した片原町に愛行院の境内が描かれています。愛行院は、中世野原から継続する華下天満宮(中黒天満宮)の別当寺で、城下における山伏の統括を行う役割が与えられていました。中世の境内の位置は分かりませんが、絵図にある境内地の周辺にあったと考えられ、城下に組み込まれた形になったようです。
丸亀町の性格は?
大手筋の丸亀町は1610年(慶長15)に生駒藩3代当主正俊の時に、丸亀城下町の商人を移住させて成立したと伝えられます(『南海通記』巻廿下)。城下の中心市街地に立地する丸亀町は城内にあり「高松城下図屏風」での町家の描写からも最も格式の高い町人地であったことが分かります。つまり、丸亀町は城下の整備・拡大に伴い新たに新設された、いわば後発的な中心市街地という性格をもつようです。
城下町の発展
  「高松城下図屏風」は1640 ~ 50年代の景観を描いていると言われます。この屏風からは、南側の寺町を超えて城下が拡大している様子がうかがわれます。寺町の外側(南側)には水路が描かれていますが、その一部は馬場として埋め立てられています。本来は外堀に匹敵する幅をもっていたようです。この水路の内側(北側)に寺町が連続していて、町人地の南大手筋ではこの水路より内側が丸亀町、外側が南新町となっています。ここからも各町の成立年代が違うことが読み取れます。
  こうした水路の存在は何を示すのでしょうか?
  研究者は「城下全体を囲む堀=惣構が存在した」と考えているようようです。その完成は、丸亀町成立の1610年(慶長15)から「讃岐探索書」で「南ニ四筋アリ」(水路以北の範囲に相当)と記された1627年(寛永4)の間で、おそらくは元和の一国一城令(1615年)までに求められるようです。
生駒藩の知行地と自立した家臣団
 「生駒家廃乱記附録」には、4代高俊の治世(1630年代)のこととして
「壱岐守殿御家中大形[方]在郷、時々用事之有る節高松へ罷り出候に付、屋敷小分之由」
とあります。また「小神野夜話」には
「御家中も先代[生駒氏治世]は何も地方にて知行取居申候故屋敷は少ならでは無之」
ともあります。つまり、家臣に対して知行地を与える地方知行が行われていたため、家臣たちは知行地に留まり(在郷)、用事のある時だけ高松へ出仕していた、というのです。これは先ほどで述べた「家臣団屋敷で築城当初の生活の痕跡が希薄
と併せて考えると、いろいろなことが想像できます。知行地制は時代に逆行する制度でした。それが生駒氏では行われていたとようです。同時に、周辺の開発・開拓も知行主が主体となって行っていた様子が窺えます。それは新たに召し抱えられた在地制の強い家臣団であり、彼らが積極的な開発主体であった気配があります。彼らにすれば、知行制が行われる限り高松城下町に屋敷を置き生活する必要はないわけです。この辺りが旧来の家臣団との藩政上の対立を生みだし「生駒騒動」へとつながったのではないかと私は考えています。
 どちらにしても、生駒藩時代の城下町は家臣団が「常駐」していた痕跡はあまりないようです。
発掘調査からの高松城の建設過程を確認しておきましょう
①1588 ~ 1600年頃(第1段階)
小規模で散発的な建設が進められ、領主生駒氏の居館も「仮屋形」にとどまった
②1600年代頃(第2段階)
天守台の建設が始まり順次城郭中心部の建設・整備が進んだ
③1610年代前半(第3段階)、
③新たな中心市街地としての丸亀町の建設が惣構推定ライン外堀0 500m行われ、寺町の形成がほぼ完了し、城下全体を囲む惣構が建設された
④1620 ~ 30年代(第4段階)、
家臣団の屋敷地がほぼ完成形に近付く
 第1段階では、素掘りの区画溝を主体とした領主居館と家臣団・町人地の屋敷割が、部分的に行われていたと見られる。中世から続く寺社は、小さな位置変更程度で存続が認められたようです。(見性寺・愛行院等)。
 第2段階では、外堀より内側での城郭の建設や武家地の屋敷割が全面的に行われました。天守台を含む本丸や二ノ丸・三ノ丸・桜馬場・西ノ丸などが整備され、外堀とこれに沿った土塁も作られます。ただし家臣の屋敷割は、素掘り溝で作られています。この段階で、生駒氏居館は三ノ丸にあり、桜の馬場の対面所とともに領主権力の政庁としての役割を担っていたようです。
城下町の膨張が進んだ段階で高松城に入ったのが松平頼重でした(1642年:寛永19)。
頼重は入部直後から城下に多くの町触を出して都市法の整備にかかります。その背景には、初期高松城下町の成長に伴い、高松という都市を新たな形で把握するという政治的な意志が見られます。

 以上の状況を踏まえ、改めて『南海通記』の記事(2)に立ち戻ると、
『南海通記』が記す生駒氏入部後、直後の1588年から高松城の築城に取りかかったというのは否定的に考えざる得ません。それは、朝鮮出兵という大規模な軍事遠征下という背景や、考古学的な発掘調査の示すことでもあります。高松城の具体的な縄張りが実現するのは第2段階であり、生駒親正の最晩年(関ヶ原合戦時に出家し、3年後に死去)になります。高松築城に関与したのは2代目の一正であると見た方がいいようです。
 ところで生駒藩では、関ヶ原の戦い直前の時期に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。

 参考文献 佐藤 竜馬  高松城はいつ造られたか

古代、現在の高松市中心街の多くは海の中でした。
野原・高松・屋島復元図

そのためこのエリアの中心地域は、屋島周辺の古高松にあったようです。今の地形からは想像できませんがかつて屋烏は島であり、現木太町周辺も海だったようです。その景観は、近世の干拓や塩田造成で一変し現在のような形になりますす。
最初に屋島周辺の古高松・方本の歴史を考えて見ることにします。
高松・屋島地形図明治30年
その際に、私たちが持つ現在の高松の地形から離れるために、次のようなイメージトレーニング行いましょう。
①高松城跡がある地点と庵治岬の突端部と結ぶと、そこから大きく湾入した入江があります。これを「古・高松湾」と呼ぶことにします。
②高松湾の人口にあたる幅は約四㎞、奥行きは2㎞前後で、讃岐の湾では群を抜く規模になります
③「古・高松湾」の湾内に流れ込む新川・谷日川・御坊川などの河川は、舟運によって内陸部との物資の往来を可能にしていました。
④屋島はそこに浮かぶ島でした。
DSC03820

海のハイウエー瀬戸内海 直島から女木島へ そして屋島へ
 古代以来、九州から畿内への瀬戸内海航路が拓かれます。 古・高松湾の沖の女木島・男木島・直烏といった島々は、四国北岸の古・高松湾へのターミナル・アイランドの役割を果たしてきました。それを、裏付けるのが、女木島の女木丸山古墳から出てきた朝鮮半島製の耳飾です。
女木島丸山古墳 垂飾付イヤリング 朝鮮製
ここからは、この島を拠点にした人物が、国外にまで活動範囲を広げた姿がうかがえます。また、これらのモノの動きの背景には、それを運んだ人の動きがあったことを思い起こさせます。
004m女木島

白村江敗北という危機的状況下の国防政策として古代山城が屋島に築かれます。さらに、瀬戸内海を支配した平氏は、この周辺に水軍拠点を置いていたようです。それが源平の戦に際して、平氏がここで「壇ノ浦の戦い」を戦う背景になのでしょう。どちらにしても、古高松は、古代以来重要な地域であったようです。          
 次に、中世の古高松を復元してみましょう
 高松里は古代は山田郡高松郷と呼ばれ、山田郡の中心的な集落でした。源平の屋島合戦のときに、源義経がこの地の民家を焼き払ったのも、平氏の拠点への先制攻撃の意味があったのかも知れません。
DSC03838高松周辺の古代郡名

中世古高松 高松氏と喜岡城
 JR屋島駅の南東の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここには高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人で、建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、その時点ではここが讃岐の守護所で県庁所在地であったと言えます。
 これに対して、足利尊氏の勝利に呼応して、讃岐で蜂起するのが細川定禅です。彼は香西・詫間・三木・寒川氏らの讃岐武士を率いて香西郡鷺田(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵し、この城に攻め寄せます。高松頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしますが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。1336年(建武三年)のことです。ちなみに戦前の皇国史観の下では、高松氏は南軍に属したということで、忠臣の武将として郷土の英雄とされ、知らない人はいないほど有名だったいいます。
それから約250年後、この城は再び歴史の舞台に登場します。
豊臣秀吉は四国平定のために、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのがこの喜岡城でした。
 このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正、片山志摩以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員討死にします。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。その舞台が、この丘でした。
 つまり、中世・戦国時代を通じて古高松地区は喜岡城を拠点とする領主の支配するテリトリーだったと言えます。

HPTIMAGE高松

中世の港町・方本(かたもと)とは、どんな町だったのでしょうか。
文安二年(1445)の「兵庫入船納帳」に讃岐屈指の港町として「方本(潟元かたもと)」が登場ます。
兵庫北関2
「兵庫入船納帳」に出てくる讃岐の港と、通過船の大きさをその数を表にしたものです。通過船が多いのは宇多津・塩飽です。潟元は真ん中どころにあります。方本を母港とする舟で兵庫北関を通った11艘であったことが分かります。数としては多くないのですが船の大きさに注目すると、大型船が多いようです。
 なぜ小型船がなく大型船ばかりなのでしょうか?
それは、六艘の所属が五艘は十河氏、一艘が安富氏で「国料船」のようです。国料船とは、守護細川氏の御用船の名目で課税免除の特権をもっている船のことです。ここからは方本が、守護代安富氏や有力国人十河氏と、深い関係を持っていたことがうかがえます。
 次の表は、讃岐の船の積荷を港毎に表した表です。
方本の船が積んでいたのは何でしょうか。縦欄が積荷、横が港名で方本は真ん中付近にあります。

3 兵庫 
ここから分かるのは、方本船籍の大型船の積荷は90%以上が塩であったようです。古代以来の塩の荘園が、この周辺には有りそれが発展して塩田地帯を形成していたようです。その塩を都へ運ぶ専用の塩運搬船団がここにはいたようです。

DSC03859

もうひとつ「一円日記」という史料が近年、明らかになりました。
この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったとき、その代わりに「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには方本を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えば方本では「かた本ノ里」に八島(屋島)寺や「源介殿」以下九人の住人が記され、「にしかたもと」には「すかの太郎大夫殿」ら八人の住人の名が記載されています。面白いのは、初穂料代を何で納めたかが記録されています。この時代の多くが米などの現物なのですが、方本・西方本のほとんどの住人は初穂料を銀銭で納めているのです。ここからは方本・西方本の住人が製塩・漁労・海運・流通等の多角的経営によって銭貨を蓄積し、積極的に使用していたことがうかがえます。これは庵治や志度寺の門前町兼港町である志度も、ほとんどが銀納なので流通・交通などに関わりを持った集落に共通する傾向のようです。

 さらに、注目されるのは「兵庫入船納帳」で文安2年3月9日に安富氏の「国料船」の船頭として記録されている「成葉(なりわ)」が、120年後の「一円日記」の「かた本ノ里」住人の「なりわ殿」て登場してくるのです。同じ方本の住人で、発音上共通の名字または屋号を持っているので、「なりわ殿」が「成葉」の末裔と考えられます。
 この方本・西方本が近世でも大きな港町の一つであったことも併せて考えると、中世・戦国時代を通じて海運に関わる船頭・廻船問屋が多く存在したことは、当然かもしれません。また、伊勢御師の岡田大夫は「かた本ノ里」の源介宅を、高松・方本地域の活動拠点である「やと」にしていたようです。そこからも、この地の経済的・流通的・情報面における重要性がうかがえます。
 次に庵治(阿治)を見ておきましょう。
DSC03858庵治
 庵治岬の先端に位置する庵治は、古代山田郡の郷名には存在しません。
しかし至徳二年(1385)の満願寺大艘若経奥書(願流寺蔵)に登場することや、満願寺の存在からみて、一四世紀以前に成立していたことは間違いないようです。
 「兵庫入船納帳」には、兵庫北関を通関した10隻の庵治船籍の船が記録されています。そのうちの四隻が十河氏の「国料船」であり、この港湾も方本と同じく十河氏の影響下に置かれていたようです。
 「一円日記」には、「川渕三郎太郎殿」以下21人の住人が書き留められ、彼らのほとんどが銭貨で初穂料を納めています。そのなかには岡田大夫が「やと」とした川渕氏のほか、「ぬか殿」「こも渕久助殿」「こも渕又八郎殿」「あち左近殿」「浦殿」ら、普通の人とは違う者がいたようです。このうち「浦殿」の先祖と思える「浦」が、「入船納帳」の中に十河氏の「国料船」の船頭として記されています。ここからも浦氏などの多くが海運・流通などに関わる有力者であったことがうかがえます。
 また、「国料船」の船頭として記されている「兵庫」は、庵治浜の奥に残る「兵庫畑」という地名との関係から、船頭あるいは問丸として営業する傍ら、土地の買得や開発に関わっていたことが推測できます。

 以上、中世の古高松・方本・庵治についてまとめておくと、
①古高松は高松氏の城館を中心とした集落と内陸部の商業・流通的性格を持つ集落の複合体
②方本と庵治は船頭・問丸などを中心に海運・流通・製塩・漁労等に関わる人々が居住した海浜集落(港町)
③方本・庵治が東讃岐屈指の国人領主である十河氏の影響下に置かれていた
④兵庫北関に向かった船船のほぼ半数が十河氏の「国料船」となっていた
方本・庵治が、十河氏によって強く支配されていたのでしょうか?
これに対しての研究者の答えはNOです。
その理由は、残り半数の船は、船頭や問丸の裁量で塩や穀類の輸送を行っているからです。
例えば、安富氏の「国料船」の船頭を務めた成葉が、その一方で方本塩460石、大麦・小麦各10石を積載した船の船頭として活動しています。「国料船」は、十河氏が自分の郡内の港町の船をチャーターし、畿内で販売する塩や年貢類を積載・輸送させていた可能性が高く、そこに船頭や船主たちの私的商品が合わせて積み込まれていたとも考えられるからです。畿内における当時の領主と港町の関係などからも、領主の一方的な支配の強制が貫徹できていたとは考えにくいようです。
 しかし方本・庵治は、十河氏や安富氏と結んで発展する道を選んだようです。
そして進んで彼らの「国料船」の担い手となった可能性が高いと研究者はいいます。方本・庵治船のほぼ半数が「国料船」であった事実は、ふたつの港側に十河・安富氏の要請を受けいれる動きがあったことをしめしています。そうでなければ半分が「国料船に指定」される状態にはならないでしょう。方本・庵治は、それによって瀬戸内海海運において有利な条件を獲得しようとしたのではないでしょうか。
隣接するライバルの野原船(現高松周辺)と比較してみましょう
野原船が方本の塩を大量に積載しつつも、その一方で大麦・小麦・米・大豆など高松平野で生産された農産物や、近場の瀬戸内海産と見られる赤イワシを大量に輸送していました。一方の庵治や方本もの地場産の塩を大量に積載しする「塩専用運搬船」のような性格でした。つまり、現在でも同じですが積荷がモノカルチャー的で、多様化ができていないので「危機」には弱いとことになります。
DSC03842兵庫入船の港
 これは方本・庵治の立地の問題に加えて、この両港が背後に抱え持つ生産地の狭小さと集荷力の弱さでもありました。つまり、港湾としての存在基盤が不安定だったのです。そこで、有力領主と連携し、有利な条件を獲得しようとする対応策がとられたのでしょう。
野原・高松復元図カラー
 これに対して野原(現高松)は、郷東川沿いに広がる高松平野を後背地にして、河川水運により200石を越える大麦・小麦・米・豆の集荷・積載が可能となる港でした。また、積載品のなかで方本の塩に次いで多い赤イワシ510石があります。これは秋に高松沖から塩飽付近で捕獲・加工されたもので、漁場や加工場も後背地として持っていたようです。その意味で、野原(現高松)は、積載品が多様化しており、方本よりも港湾として安定した基盤を持っていたと言えます。
DSC03834
 さらに港湾をめぐる自然環境が野原湊と方本湊の明暗を分けることになります。
高松と屋島との間は、すでに屋島の合戦当時から
「潮の干て候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候はず」(「平家物語」)
という状態で、干潮時には馬は歩いて渡れたようです。その後も海岸線は、河川による堆積など埋まっていきます。その結果、高松の港湾機能はかなり早くから低下し、方本も比較的早い段階で西方本に中心を移していたようです。
こうして、15世紀後半~16世紀になる野原(現高松)エリアの方本・古高松エリアに対する優位性が明らかになり、次のような変化が現れます。
①無量寿院や勝法寺を始め多くの寺院が野原へ移転してくる
②野原中ノ村の香西氏の家臣の雑賀氏や佐藤氏一族が紀州雑賀から移住してくる
③文安二年に庵治の船頭として見える「安原」一族の子孫「やす原殿」が野原中ノ村に移住
④他所から永禄八年当時の野原に他国・転入したと見られる人々が散見される。
こうして、一五世紀後半以降、古・高松湾にあった方本・古高松と野原の二つの中心港がが、しだいに野原へむかって収斂していくのです。
16世紀末、豊臣配下の生駒親正は野原に築城し「高松」へ地名変更します。
其の結果、それまでの高松が古高松となります。これは中世を通じて古・高松湾の中で展開された二つの中心地の歴史の帰結だったと研修者はいいます。その意味で、近世高松城とその城下町が、古高松でなく野原に姿を現すのは、このような二つの地域での綱引きの結果だとも言えるのかも知れません。
高松城江戸時代初期

参考文献
市村高男  中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
 


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