瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:四国遍路の寺 > 熊野信仰と四国霊場

四国遍礼霊場記

寂本の『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)には、大興寺が次のように記されています。
「小松尾山大興寺、此寺(弘法)大師弘仁十三年に開聞し玉ふとなり。そのかみは七堂伽藍の所、いまに堂塔の礎石あり。其隆なりし時は、台密二教講学の練衆蝗のごとく群をなせりとなん。豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。
 本尊薬師如来、脇士不動毘沙門立像長四尺、皆大大師の御作。十二神各長三尺二寸、湛慶作なり。
本堂の右に鎮守熊野権現の祠、
左に大師の御影堂、大師の像堪慶作なり。
天台大師の御影あり、醍醐勝覚の裏書あり。大興寺とある額あり、従三位藤原朝臣経朝文永四丁卯歳七月廿二日丁未書之、如此うら書あり。是経朝は世尊寺家也、行成八世の孫ときこゆ。むかしのさかえし事をおもひやる。ちかき比まで宝塔・鐘楼ありとなり。」
意訳変換しておくと
小松尾山大興寺は、弘法大師によって開かれとされる。古くは七堂伽藍がそろっていたが、現在は礎石のみが残っている。かつては天台・真言密教の兼宗で、隆盛を極め学僧が蝗のように群をなして集まったという。豊田郡小松尾村に寺があるので、小松尾寺とも呼び、山号としている。
 本尊は薬師如来、脇士は不動と毘沙門立像で長四尺、これらは皆、弘法大師の御作である。
熊野十二神の本地仏はそれぞれ長三尺二寸で、湛慶作。
本堂の右に鎮守である熊野権現の祠、
左に弘法大師の御影堂、大師像は堪慶作。
ここに天台大師の御影もあり、醍醐勝覚の裏書がある。
大興寺と書かれた扁額は、従三位藤原朝臣経朝が文永四丁卯歳七月廿二日丁未に書いたもので、裏書もある。経朝は世尊寺家でm行成八世の孫と伝えられる。ここからは、かつてのこの寺の繁栄ぶりを垣間見ることができる。近頃までは、宝塔・鐘楼もあったという。

  内容を要約しておきます。
大興寺 四国遍礼霊場記

A 弘法大師開祖で、かつては七堂伽藍の大寺でいまに礎石が残る
B 隆盛を極めた時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の学問寺であった。
C 本堂の右(本堂に向って左側)に鎮守である②熊野権現の祠、
D 本堂の左(本堂に向って右側)に③御影堂(大師堂)
E 大師堂には弘法大師と天台大師の両像が安置。
F 別当寺の④本興寺は、本堂(薬師堂)の下の段にあった

熊野権現とその本地仏・薬師如来を安置する①本堂(薬師堂)が上の段にあって、別当寺(大興寺)は、一団低い所にあります。ここからは、太興寺の社僧たちが、熊野権現に奉仕する宗教施設であったことがうかがえます。ここでは、神仏混淆下の中世の大興寺が熊野権現を中心とする宗教施設であったことを押さえておきます。

 さて、今日は③の大師堂(御影堂)に安置されている弘法大師と天台大師のふたつの像について見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭  熊野信仰と弘法大師像」  四国へんろの歴史33P」です。

まずは天台大師坐像(像高73、9㎝)から見ていくことにします。
大興寺 天台大師
天台大師坐像(大興寺)
天台大師とは?
天台大師智顗(ちぎ)は、中国のお釈迦さまと云われ、隋の煬帝から深く尊敬され、「智者」の名を贈られた僧侶です。浙江省の天台山で修行し、そこで亡くなったので、天台大師とも呼ばれます。天台とは、天帝が住んでいる天の紫微宮(しびきゅう)〈北極星を中心とした星座〉を守る上台、中台、下台の三つの星を意味し、天台山は聖地として信仰されていました。
 天台大師は、インドから伝えられた膨大な経典を、ひとつひとつ調べて整理し、その中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であるとします。法華三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、最澄の目にとまります。最澄は、桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後に日本天台宗を開きます。天台宗では、天台大師を高祖、最澄(伝教大師)を宗祖と呼んで、仏壇に二人の画像をかかげます。
この天台大師坐像の胎内には、次のような墨書が記されています。

建治弐年□子八月 
大願主勝覚 
金剛仏子 
大檀那大夫公 
    房長 
大仏師法橋
    仏慶
次に、弘法大師座像(像高72、5㎝)を見ていくことにします。
6大興寺5弘法大師
弘法大師座像(大興寺)
弘法大師像にも、次のような墨書があります。
体部背面の内側部
建治弐年丙子八月日
大願主勝覚生年□
大檀那広田成願□
大仏師法橋仏慶
 東大寺末流

讃州大興寺
別の箇所
建治式年歳次丙子八月二日大願主勝覚
生年四拾五  山林斗藪修行者 金剛仏子
大檀那讃岐国多度郡住人 広田成願房
(体部前面材の内側部)
丹慶法印弟子
大仏師仏慶
東大寺流
 讚岐国豊田郡大興寺
ここからは次のようなことが分かります。
①造立は鎌倉時代後期の建治二年(1276)で、両像は一緒に作られたセット像であること、そのため像高も同じ大きさ。
②大願主は勝覚
③仏師は東大寺流を名乗る大仏師仏慶、
④大檀那は天台大師像は房長、弘法大師像は広円の成願
 両像の発注者(大願主)の勝覚とは、何者なのでしょうか?
彼の「肩書き」は、「山林斗藪修行者金剛仏子」とあります。山林斗藪修行者とは、山伏(修験者)のことです。つまり、ふたつの像の発注者の金剛仏子勝覚は、「金剛仏子」という言葉から熊野系の山伏だったことがうかがえます。そうだとすると、勝覚は「弘法大師信仰 + 熊野信仰」の持ち主で、彼の中でこの二つの信仰が融合されていたことになります。
 ここで確認しておきたいのは、「弘法大師信仰」と「熊野信仰」が、この寺にやって来たのは、どちらが先なのかと云うことです。それは、今まで見てきたように、大興寺は中世に、熊野神社の別当として、熊野行者達によって再興された別当寺です。信仰の中心にあったのは熊野信仰で、熊野行者達がそれを担っていました。
ここでは、大興寺に最初に入ってきたのは熊野信仰だった押さえておきます。熊野行者は、もともとは天台系の修験者でした。その後の出現順は、次の通りです

①熊野行者(天台系修験者)
②天台・真言の両宗兼備の修験者(聖)
③真言系の熊野行者(修験者)

 天台系の熊野行者から真言系の熊野行者への移行が大興寺でも行われたことがうかがえます。
 寂本の『四国徊礼霊場記』の中には、次のようにありました。

「大興寺が隆盛を誇った時代には、数多くの学僧が学んだ台密二教(天台・真言)の=学問寺であった。」

願主の勝覚は「台密二教(天台・真言)の=学問寺(大興寺)」で学んだと考えるのが自然です。しかし、「金剛仏子勝覚」とあります。「金剛」は真言系僧侶の象徴です。彼は、真言系修験者であったことは、先ほど見たとおりです。しかし、同時に、天台大師の坐像も奉納しています。彼が天台宗についてもリスペクトしていたことが分かります。勝覚の信仰世界は「弘法大師信仰 + 熊野信仰 + 天台信仰」が融合された世界だったとしておきます。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊の薬師如来 那智本宮の本地仏

 ちなみに、讃岐の雲辺寺や道隆寺・金倉寺なども学問寺でした。修験者や聖・学問僧が全国から頻繁にやってきては修行としての写経を行っています。そして、どこもが台密二教(天台・真言)の=学問寺だったと、寺歴や縁起で伝えます。これをどう考えればいいのでしょうか? ここまでを整理してみます。
①古代・中世の熊野信仰は天台系が主流であった。
②そこへ室町時代になると真言系の熊野勧進聖や先達が出てくる。その象徴が醍醐寺開祖の聖宝。
③大興寺に所属した勝覚は、天台大師と弘法大師の両像の大願主となっている。
④ここからは、勝覚が天台、真言の両宗兼備の僧であったことが分かる。
研究者は「両宗兼備の熊野山伏から真言系の熊野山伏が成立」すると考えているようです。
「①熊野行者 → ②天台系修験者 → ③天台・真言の両宗兼備の僧 → ④真言系の熊野山伏」

という出現プロセスがあったというのです。つまり、「熊野信仰と弘法大師信仰」が融合し、結びつくのは、③のような修験者たちによって行われたことになります。太興寺は、それまで熊野信仰を中心に宗教活動を行っていました。それが建治二年(1276)に、弘法大師像が造られたころには、「熊野信仰 + 弘法大師」信仰の二つの中心をもつ宗教施設へと移行していたことがうかがえます。その後に戦乱などで熊野信仰が衰退しすると、熊野信仰から弘法大師信仰へと重心を移していきます。そして、近世半ばになると四国霊場札所へと「脱皮・変身」していくと研究者は考えています。
大興寺の弘法大師と天台大師の二つの坐像は、そのようなことを垣間見せてくれる像のようです。

大興寺 天台大師.2JPG
天台大師坐像(大興寺)
以上をまとめておくと
①大興寺は、古代寺院として開かれたが中世には退転した。
②それを再興したのは、熊野行者達で熊野権現信仰を中心に、別当寺として大興寺を再建した。
③そこでは熊野権現へ社僧の社僧達が奉仕するという神仏混淆の管理運営が行われた。
④社僧達は、熊野行者で修験者でもあり、山岳修行を活発に行う一方、熊野先達なども務めた。
⑤同時に、「天台・真言の両宗兼備」の学問寺として、山岳寺院ネットワークの拠点として、活発な交流をおこなった。
⑥そうした中で14世紀初めの勝覚は天台、真言の両宗兼備の山伏として、弘法大師と天台大師の二つの坐像を奉納した。
⑦これは大興寺が「熊野信仰と弘法大師信仰」の両足で立っていくその後の方向性を示すものでもあった。
⑧近世になって熊野信仰が衰退すると、大興寺は四国霊場札所として生きる道を選択した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

四国へんろの歴史 四国辺路から四国編路へ
参考文献

 2 大興寺全景近代
1902年の大興寺伽藍図 小松尾山不動光院大興寺とある
大興寺は、地元では小松尾寺と呼ばれていました。それが今は、大興寺となっています。どうして、小松尾寺から大興寺に名前が変わったのでしょうか。今回は、寺名が近年になって「変更」された背景を探って行きたいと思います。
もともとこの寺は大興寺と呼ばれていたようです。それは、字名として「大興寺」という地名が残っていることから分かります。ところが、大興寺という字名は、現在地ではありません。下の大興寺周辺の字切図を見てください。

6大興寺周辺の字切地図 
大興寺周辺の古地名(字切図)

国道377号沿いに④「大興寺」や⑥「鐘鋳原」の小字名が見えます。ここからは次の事が推察できます
A もともとの大興寺は、国道377号沿いの「大興寺」にあったこと
B 「鐘鋳原」で出張してきた鋳物師集団によって、大興寺の鐘が作られたこと
これを裏付けるように旧大興寺跡推定地からは、白鳳期の十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土しています。旧大興寺は、白鳳時代の古代寺院で、国道377号沿いにあったことを押さえておきます。

DSC02082
旧大興寺跡から望む三豊平野と七宝山

  古代氏寺はパトロンの氏族が衰退していくと、寺も退転していきます。
旧大興寺も、同じような道を歩んだようです。それを再興していくのが中世の勧進聖たちです。大興寺に関する中世の資料は、ほとんどありません。中世の遺品としては、次のようなものがあります
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれています。京の高官藤原経朝が奉納したものとされます。そうだとすると、鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたことになります。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるので、誇張とばかりは云えません。
 これ以外の中世史料はないのですが、次のような「状況証拠」は得られます。
寺の由来に次のようにあります。

熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここにはこの寺が、熊野三所(本宮・那智・新宮)権現の鎮護のための別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は、熊野権現の本地仏です。

大興寺 四国遍礼霊場記
太興寺(四国遍礼霊場記)
上の四国遍礼霊場記の挿絵では、石段正面に①の薬師堂があって、その両脇に②大師堂と③熊野権現が並んで祀られています。そして、それに奉仕するかのように④大興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が大興寺だったことが裏付けられます。太興寺の社僧たちによって、熊野権現が神仏混淆状態で信仰されていたことがうかがえます。

6大興寺薬師本尊2g
大興寺の本尊・薬師如来 薬師如来は熊野本宮の本地仏

以上から、中世の大興寺は、熊野権現社とその本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたとしておきます。そして、周辺にはいくつもの坊や子院があったのです。
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
慶長2年(1597)の棟札には、次のように記されています。
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」
「諸堂大破而瑕(仮)堂建立」
ここからは「諸堂大破した後に仮堂を建立」されたこと。願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」だったことが分かります。

6大興寺周辺の字切地図 

先ほどの字切図に残る字名で⑦「泉上坊」を探すと、それは現在の大興寺周辺にあります。つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、彼らは退転した旧大興寺を、自分たちの坊の近くに移動させて仮堂を再建したと研究者は考えています。古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭の生駒藩時代ということになります。
 「移転再興」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とは、どんな性格の宗教者だったのでしょうか?
それを考える材料は、次の2点です。
①「近世の大興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
ここからは、真言系密教修験者の姿が想像できます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺(山伏寺)だったようです。ここからは、大興寺を支える宗教者が、中世の熊野行者から真言系密教修験者へと移り替わったことがうかがえます。ちなみにこの時期の金毘羅大権現では、修験者宥盛によって金光院が勢力を拡大している頃で、高野山系の真言密教修験者たちが活発に動いていた時代です。
移転し、仮堂を建てた所の地名が小松尾でした。
中世や近世では、お寺を呼ぶ際に地名で呼ぶことがよくありました。移転した大興寺も地元では「小松尾寺」と呼ばれるようになります。近世はじめの史料を見てみましょう。
①澄禅『四国辺路日記』に「小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。(以下略)」。
②真念「四国辺路道指南』に「小松尾山、東むき、豊田郡辻村、本尊薬師、坐長二尺五寸、大師御作」
③寂本「四国遍礼霊場記』には、「小松尾山大興寺」
④詠歌には「植置し小松尾寺をながむれば法のおしへの風ぞふきぬる」
など、17世紀後半の案内記はすべて、小松尾寺として登場します。
  しかし、大興寺所蔵の公的文書に「小松尾寺」が使われている例はないようです。確かに江戸時代前期の真念などの案内記「小松尾寺」と表記されていました。しかし、寂本は「豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。」と記しています。小松尾村にある寺だから「小松尾寺」と呼ばれていると云うのです。
 以上から、小松尾寺は通称地名で、古来からの「大興寺」が正式な名称であったと研究者は考えています。近世・近代を通じて「小松尾寺」と「大興寺」という2つの寺名が並立して使用されてきたのです。ここからは私の想像です。

 万博も終わった頃に、国道377号のバイパス工事化が行われ、新たに「小松尾寺」への道標が掲げられた。これに対して大興寺側からクレームが出された。当寺の正式名称は「大興寺」である。勝手に、「小松尾寺」という看板を出すのは如何なものか。今回は甘受するが、次回の改修時には「大興寺」とするように善処していただきたい。これを受けて公官庁の文書では「小松尾寺」に替わって正式名称「大興寺」が用いられるようになった。

これは、あくまで私の創作話です。悪しからず。

以上をまとめておきます。
①この地には白鳳時代の古代寺院として大興寺が建立された。
②中世になると退転した大興寺に、熊野行者達が熊野神社を勧進し、その別当寺として再建した。
③中世の大興寺は神仏混淆下で、熊野行者達が管理・運営を行った。
④大興寺の熊野行者は、熊野詣での先達を務める一方で、山林修行者として雲辺寺や萩原寺(大野原町)・道隆寺(多度津)などの山岳寺院とのネットワークを結び活発な活動を展開した。
⑤しかし、戦乱の中で熊野先達業務が行えなくなり、熊野行者の活動が衰退し、大興寺も衰退する。
⑥退転していた道隆寺を現在地に移転させ、仮堂を建立したのは勧進修験者である。
⑦移転地が「小松尾」と呼ばれる地名だったので、近世には小松尾寺と呼ばれるようになった。
⑧戦後になって、正式名称「大興寺」に「統一」させた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年

八坂寺境内図1
八坂寺伽藍

現在の八坂寺の伽藍は、次のように5つのエリアに区分できます。
①遍路道から山内までを含む導入空間(A区)
②本堂や大師堂、熊野十三社権現堂等の建ち並ぶ参拝空間(B区)
③庫裡・納経所が建ち並ぶ経営空間(C区)
④歴代住職墓を含む墓域(D区)
⑤本堂等の背後の広範囲にひろがる霊園区域(E区)
A区の遍路道は、緩やかな登り坂となっていて、山門前で遍路道を横切るように流れる小河川の上にはコンクリート製の橋がかかります。

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八坂寺山門

この橋を基礎として東西に長い単層式の山門が建ちます。山門左右には道標が1基ずつ並び、左は明治23年建立、右は紀年銘はありませんが、碑文から「徳有衛門道標」であり、江戸時代後期の建立とされます。
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八坂寺 石段下からB区を見上げた景観

B区は山門から続く石畳の参道を約20m進み、2つの石段を登った先に広がる本堂などが建ち並ぶ平坦部です。ここは地形状況から、さらに3つに小区分できます
①本堂や大師堂の建つ平坦部B1
②平坦部B1の東側の低い位置にある鐘楼が建つ狭小な平坦部B2
③平坦部B1・2の南側の「いやさか不動尊」の鎮座する平坦部B4
①のBlは南北に長い長方形の敷地で、北から熊野十三社権現本殿・拝殿、本堂、閻魔堂、大師堂が並びます。また、多くの石造物が配されており、中でも大師堂眼前の層塔は鎌倉時代のもので、松山市有形文化財にも指定されてます。

 平坦部内の最も奥まった西端付近に造られた基壇の上にいやさか不動尊が鎮座してます。これは修験の寺として栄えた八坂寺特有のエリアで、毎年4月には全国から修験者が集まり、「柴燈大護摩供火生三昧火渡修行」が行われる場所です。

第47番霊場八坂寺炎の大祭2019 : 門前の小僧の遍路と坂本屋日記
八坂寺 いやさか不動尊
C区は、納経所や便益施設などが建ち並ぶ経営空間です。
ここは2つに区分できます
①参道の北側に広がる納経所等の建つ平坦部C1
②大部分が駐車場となっている平坦部B3
平坦部C1は、南北に長い長方形で、南北約26m、東西約20m、そのほとんど全体を納経所が占めています。
D区は参道を挟んで南側に位置する歴代住職墓等が安置される墓域です。
平坦部全体に歴代住職墓が建ち並んでいますが、中世の宝医印塔も鎮座し、市の指定文化財となっています。
E区は本堂等の背後に広がる広大な霊園区域です。背後の丘陵を大きく切り開き、いくつもの平坦部を造り出して霊園としていています。霊園からは松山平野南部を一望することができ、天気が良ければ浄土寺方面まで見渡すことができるようです。現在の八坂寺の伽藍を見てきました。
次に八坂寺の古景観を復元してみましょう。
八坂寺の古景観を描いた絵図は、次の2つです。
①元禄2年(1689)の『四國偏礼霊場記』    江戸時代前期、
②寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』  江戸時代後期
①の『四國偏礼霊場記』から見ていくことにします。

八坂寺 四国遍路日記1
これを見ると現在の八坂寺のとは、大きく異なっています。ここに描かれているのは、本堂と鎮守、鐘楼堂だけです。それ以外の建物はありません。大師堂もありません。もう少し詳しく見ていきましょう。遍路道から橋を渡って続く参道の正面にあるのは「鎮守」です。本堂はそこから離れた左方に描かれています。鎮守と本堂を比べて見ると、大きさからしても、建っている位置からしても、八坂寺の中心的な施設は、鎮守であったことがうかがえます。この鎮守は八坂寺の性格からしても「熊野十二社権現」でしょう。ここには二十五間の長床があったとされます。しかし、「大師の遺烈きこゆることなし」とあるので、八坂寺の退転時期の姿が描かれているようです。先ほど見たように、境内の入口には橋を土台に山門が建っています。この絵にも、同じく小河川が流れて、板橋がありますが山門はありません。板橋の右下には「□(本?)坊」があります。

次に江戸時代後半の『四国遍礼名所図会』を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍礼名所図会1800年

境内には上下に2つの平坦部があます。上段に②熊野権現と③大師堂と④石造物4基が描かれています。このうちの層塔は、今も大師堂横に鎮座する市指定有形文化財の層塔とされます。『四國偏礼霊場記』で、本堂のあった所に大師堂が建っています。一方で、今は本堂がある平坦部の中心には、鎮守(熊野権現社)が鎮座しています。本堂周辺の建物配置は、現代とは大きく違っていたことを押さえておきます。
 下段の平坦部の中心付近には鐘楼堂があります。その他の建物はなにも見えません。ただ右端に建物屋根の一部が見えます。これが⑥庫裡などの施設かもしれません。平坦部から続くやや長い石段を降ると、参道を横切る小河川に⑤石橋が架かっていますが、山門はありません。どちらにしても、この小川にかかる橋が、遍路道と境内域の境界であったのは間違いないようです。板橋の先には⑦藤棚が描かれ、その先には門を構え、土塀によって区画された敷地の内部に建物が描かれています。江戸次第初期の『四國偏礼霊場記」で「□坊」とされた付近です。本文詞書に「南光院」と記されているので、八坂寺に関係する子院のようです。伽藍背後には2つの山の連なりが描かれ、谷には「鉢クボ」と記されています。これは衛門三郎の御鉢を砕いたとされる「鉢クボ」が記されています。この時期には、八坂寺が「衛門三郎発心の聖地」を主張するようになっていたことがうかがえます。

 現在の境内と異なる点を、研究者は次のように挙げます。
①江戸後期までの絵図では「熊野十二社権現」が境内の中心に描かれること
②現在は本堂が中心へと変わり、熊野十二社権現は向かって右手に移動していること
③大師堂と熊野十二社権現の間にあった石造物群も現在は大師堂前に移設されていること
④古絵図では鐘楼堂と庫裡が同一平坦部の上にあるが、現在は、鐘楼堂は本堂等のすぐ下の狭い平坦部に、庫裡等はさらに一段下の平坦部にある。

 このような変化がいつ頃に現れたのかを、古写真から見ていくことにします。
『四国霊場名勝記』は明治42年(1909)に刊行された遍路記集です。

八坂寺 明治

これには八坂寺の石段下から撮影された写真が掲載されてます。写真中央の石段を登りきった所に左右一対の灯籠が建ち、その奥に熊野十二社権現が写っています。その右には、建物がわずかに写ってます。また、十二社権現の左には大師堂と思われる瓦茸の建物が見えます。

大正十年(1921)刊行の写真集『四国八十八ヶ所写真帖 完』を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年

一番手前が大師堂が位置し、次に熊野十二社権現、一番奥に小規模なお堂と、三棟の建物が並んでいます。大師堂前には一対の円柱状の寄付石が見えます。大師堂は現在よりもかなり東側にあるようです。その向拝の形は、今の大師堂とよく似ていることを押さえておきます。

昭和11年(1936)刊行の『四国霊場大観』には、2枚の写真が掲載されています。
八坂寺一二社権現

1枚目は熊野十二社権現を正面から撮影したものです。この写真からは次のことが分かります。
①熊野十二社権現は茅茸建物
②写真下部に、参道の石段が写っていること
③写真左端に、大師堂前に建つ寄付石が写っていること
②からは1936年時点でも、十二社権現が、石段を登りきった正面に鎮座していたこと
③からは大師堂は写っていないがこれまでと同じ位置にあったこと。

2枚目は「本堂」の写真です。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂 1936年
十二社権現や大師堂に比べると、やや小ぶりな瓦葺のお堂です。向拝部の下に、石製の線香立てがあるのが確認できます。写真左端には茅葺の熊野十二社権現の茅葺きの屋根が写り込んでいます。ここからは、『四国霊場名勝記』や『四国八十八ヶ所写真帖 完』で熊野十三社権現右側に写っていた建物が本堂であったことが分かります。
 この本堂で研究者が注目するのは、現在の熊野十二社権現堂拝殿とよく似ていることです。現在の拝殿は、この本堂を転用したものと研究者は推測します。そうだとすると本堂から拝殿へと、その性格は変わりましたが、近世に建てられた八坂寺の建築物を今に伝える唯一のものになります。
 以上から、明治・大正・昭和の古写真に写された伽藍レイアウトと、近世後期の『『四国遍礼名所図会』を比べると、大師堂の位置や本堂出現などの変化はありますが、建物配置にに大きな変化ないとようです。そういう意味では、昭和初期までは八坂寺は江戸時代後期の景観をよく残していたことが分かります。そうすると、現在の境内地に至る伽藍整備やそれに伴う造成工事はそれ以後に行われたこととなります。
その過程を、国土地理院等撮影の空中写真で見ていくことにします。
八坂寺1947年空中写真

写真1は昭和22年(1947)に米軍によって撮影された空中写真です。これを見ると境内の周囲は樹木によって囲われ、周辺は田んぼや畑が広がっています。境内の中心には3つの建造物が見えます。これが北から本堂、熊野十二社権現、大師堂なのでしょう。建物の規模感や配置は、1936年の『四国八十八ヶ所写真帖 完』のものと、あまり変化していないようです。本堂の北東側には本坊と思われる建物が写ってます。  ここからは戦前から戦後にかけては、八坂寺境内に大きな変化はなかったことがうかがえます。

写真2は1962年に国土地理院によって撮影された空中写真です。
八坂寺1962年

境内が樹木に囲われ、周辺には田畑が広がるという点に変わりはありません。建物ははっきりとは分かりませんが本堂や本坊は見えます。高度経済成長期の前までは、八坂寺境内に変化はあまりみられません。
写真3は1975年2月24日の国土地理院撮影の空中写真です。
八坂寺1975年
ここにきて境内が次のように大きく様変わりしていることが見えてきます。
①本堂と大師堂に大きな違いが見える
②中心にあった熊野十二社権現が姿を消し、新たな大きな建物が出現している。
③これが現在の本堂で、昭和47(1972)年起工、昭和59年竣工である。
ここからは、白く大きな建物は、建設途中の本堂であることが分かります。そして、それまでの本堂が熊野十二社権現拝殿になったようです。
④樹木に包まれていた本堂西側や大師堂の西や南側が大きく切り開かれたこと
⑤これと並行して霊園区域の造成が開始されたこと

写真4は1975年10月6日の国土地理院の空中写真です。
八坂寺1975年12月

ここでは大師堂に変化があります。もともとは大師堂は、本堂と接し、平坦部の東側に建っていました。それが本堂との間に隙間が設けられ、2月の空中写真で確認された西側に拡張された空間に建物が移動後退してます。このほか、霊園区域はさらに広範囲にわたって造成工事が進められています。
そして現在の八坂寺の伽藍です。

八坂寺 現在

境内地の中心に、大きな本堂があり、その北側に熊野十二社権現拝殿、南に大師堂が並びます。もともとは東寄りにあった本堂と大師堂は、西側に後退し、両堂の前面に広い空間が現れています。

以上、現在の八坂寺伽藍変遷についてまとめると、次の通りです。
八坂寺は、もともとは熊野十二社権現に仕える修験者たちの別当寺でした。そのため信仰の中心は熊野信仰にありました。それを物語るのが伽藍の中心に鎮座していた「鎮守(熊野十二社権現)です。これに比べると本堂は、その横に置かれた小規模なものに過ぎませんでした。しかし、近世後半になると熊野信仰が衰退し、代わって寺院経営の上で四国巡礼の占める割合が高くなってきます。そのために、四国札所としてしての伽藍整備へと修正が行われ、大師堂が建立されたりします。しかし、それでも熊野十二社権現の位置は変わりませんでした。
 明治の神仏分離で、寺院経営は大きな打撃を受けますが、熊野十二社権現は名前を変えただけでそのまま存続します。そして、明治・大正・昭和と受け継がれ、敗戦後までは境内景観は江戸時代尾張の姿が維持されてきました。それが大きく変化するのは、高度経済成長後の1972年に本堂整備が始まってからです。これを契機に本堂を中心とした伽藍整備が進められます。同時に背後の岡には、墓地の大規模造成工事が行われ、姿を大きく変えていくことになります。現在の八坂寺の伽藍配置が出来上がったのは、1970年代になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献。
   八坂寺の古景観     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺32P 愛媛県教育委員会2023年
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前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと
②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
 今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景」です。

熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。

16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。

 それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと
②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
 つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?
北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置
○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」
一、伊勢熊野社参仏詣
一、巡礼破衣綴
一、注連祓・辻勧請
一、家(堅カ守)
一、釜注連
一、地祭
一  葬式跡祓
一、棚勧請
一、宮勧請
一、月待・日待・虫送・神送
一、札・守・年中巻数
右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、
永禄十三(1570)年八月十九日長純
「○時之寺社奉行与申伝ニ候」
玉瀧坊
 近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。

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このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為
③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、
④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
 しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
 「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
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「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。

これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。

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越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。
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例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。

 天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。

ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
 近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。

こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事
一、大峯少護摩之事
一、宇佐八幡代官之事
一、八幡八幡代官之事
一、伊勢へ代官之事
一、愛宕代官之事
一、出雲代官之事
一、熊野ヘ代官之事
一、多賀へ代官之事
一、熱田へ代官之事
右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上
   戊子六月廿一日 助縄(花押)
大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼ていることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた
②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景
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八坂寺 大正10年
八坂寺 大正10年
澄禅『四国遍路日記」(1653)では、八坂寺については次のようなことが記されています。
①熊野信仰の篤かった妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てたという由緒
②これが衰微して二十五間長床であった熊野権現の社殿は、今は小社となっていること
③妻帯の山伏が寺に住していること。

 ここで押さえておきたいのは、①の八坂寺境内の熊野十二社権現は「妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てた」と記されていることです。そして、社伝は「二十五間の長床」であったと記します。ここからは、その社伝の別当として熊野権現を管理し、八坂寺が作られたということがうかがえます。

それでは、現在は八坂寺の創建や縁起については、どのように語られているのでしょうか?

先達教典 四国八十八ヶ所霊場会編集発行□「先達必携」改題(文化、民俗)|売買されたオークション情報、ヤフオク! の商品情報をアーカイブ公開 -  オークファン(aucfan.com)
「先達経典」
「先達経典」(四国八十八ケ所霊場会2006)の記述を要約すると次のようになります。
①真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は修験道の開祖役行者小角。大宝元年(701)
②御詠歌「花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ」
③遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。
④飛鳥時代の大宝元年、勅願で伊予国司、越智玉興公が堂塔を建立
⑤このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とした。
⑥弘法大師がこの寺で修法し、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。
⑦本尊の阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信(942~1017)の作
⑧その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。
⑨このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えた。
⑩天正年間の兵火で焼失し、末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。
⑪現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡
①からは、開基は「修験道の開祖役行者小角」で、
④からは「伊予国司、越智玉興公が堂塔建立」
⑥からは、弘法大師再興
とされていることが分かります。ここには、熊野権現を還元した「長者妙見尼」は登場しません。

現在伝えられ寺史は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
手がかりを与えてくれるのが八坂寺に残る次の縁起木札3枚です。この内の2枚は安永5年(1776)に八坂寺住持宥瑞によって作成されたことが銘文から分かります。1枚目は八坂寺の創建に関わる木札です。

八坂寺 創建木札
八坂寺 創建木札
創建・中興の2枚は、縦約80㎝と縦長で、そこに書かれた文字も大きいものです。また、よく見ると、上部に釘穴があります。ここからは、この木札が堂内などに掛けられて参拝者への説明版となっていたことが推測できます。内容を見ておきましょう。
     【八坂寺 縁起木札(創建)244P
(表)
抑当伽藍者仁皇四十二代文武天皇大宝元辛丑年、
紀州熊野権現依証誠大菩薩教勅、太古当国前大守小千伊予守
三位玉興創建也、今到安永五丙申及千八十六年、
(裏)
法印有瑞記
意訳変換しておくと
八坂寺の伽藍は文武天皇の大宝元(701)年に、紀州熊野権現の証誠大菩薩の教勅を受けて、国司の伊予守越知玉興が創建したものである。これは今から1086年前のことになる。
ここには、熊野権現の勧進が奈良時代まで遡り、しかも勧進したのは国司の越智玉興とされています。

2枚目は、弘法大師中興のことが記されています。

八坂寺 中興木札
八坂寺 弘法大師中興木札
(表)
仁皇五十一代嵯峨天皇弘仁六乙来年、弘法大師以当伽藍
四国八十八所第四十七香之道場中興車創給、到テ当安永五二及九百七十二年
(裏)
宥瑞新革
弘仁6年(815)に弘法大師が、この伽藍を四国八十八所第四十七番道場として中興草創したことが記されます。この時期は、弘法大師大師信仰が民衆にも広がり、四国遍路が増えていく時期です。

3枚目の縁起木札を見ておきましょう。
この木札は長辺38,5㎝の小ぶりな板で、釘穴もありません。しかし、分かりやすい書体で書かれているので、やはり参詣者らに掲示されたものと研究者は考えています。

八坂寺縁起木札
(表)
抑当伽藍者、仁皇四十二代文武天
皇大宝元年辛丑、紀州熊野権
①現証誠大菩薩依教勅、大古
当日前大守小千伊予守正三位
玉興公創建也、
②天正の頃兵火の禍に懸りて伽藍
諸堂末社僧坊拾弐ヶ院塔頭
一時のけむりとなり、其時権現の
神体焼そんじさせたまふ、③分散の
之神体取集此内へ奉納り置
ものなり、深秘して奉拝之事
なかれ、可恐可恐、前書之旨天正之頃
焼失といゑ共碇したる旧記無之、
只伝来而己、しかれ共神体拝
見之処焼失止しき事なり、
3枚目の「縁起木札」は、作成年次、作成者ともに分かりません。
内容的には
①大宝元年(701)熊野権現証誠大菩薩の教勅によって小千伊予守三位工興が創建したこと
②こに加えてに、天正年間に兵火にかかり伽藍諸堂や僧坊十二ケ院塔頭が焼失したこと
③焼損で分散していた神体を取り集め納置したところ、実際に焼失したことが確かめられたこと
3枚の木札と、近世はじめの四国遍路記などを比べて見ると、
近世初頭は、創建者は「熊野信仰の篤かった妙見尼という長者」で、「越智玉興」は創建者として出てきませんでした。それが、近世中頃になると創建者が「越智玉興」とされるようになります。「越智(河野)玉興」は、飛鳥時代の伝説上の人物で、物部姓越智氏一門河野氏の祖とされます。八坂寺は江戸時代半ばに創建者を、地域の長者・妙見尼から、河野氏祖先に変更したようです。以後は、八坂寺の草創は越智氏と伝えられていきます。
明治の神仏分離と、続く修験者禁止令によって八坂寺は、境内の熊野権現の管理権を失うなど大きな打撃を受けたようです。 

八坂寺 明治五年明細帳
八坂寺 明治5年明細帳

明治5年(1872)に住職の宥意(八坂文瀧)によって石鉄県に明細帳が提出されています。
この明細帳には、八坂寺の沿革、宥意や寺族の履歴、境内地などが記されています。また末寺の東林山林光院光明寺、見滝山長泉寺金剛院のことも記されているので、八坂寺や末寺に関する基本史料となります。内容を見ておきましょう。
古儀真言宗修験当山派
石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺邑
御直末別納中本寺
一大本寺西京醍醐三宝院官   熊野山八阪寺
開宗祖師理源大師
当山開基大宝元幸十歳也、当辛申歳迄千百七十四年相成日、為信仰当国旧太守小千伊予守従三位玉興公創建也、後弘仁乙来年弘法大師四国八十八ヶ所第四十七番霊場草創給、後四州乱軍之側懸兵火寺誌世代不詳、乍併五輪石碑等数々雖有之文字一切無之故年暦相分不申候也、良而天正五丁丑歳宥覚法印当寺中古、住職夫十四世相続申候、当住右同寺産而天保五乙未得度、同九戊戊四度加行、併護摩秘法執行、弘化二丙午歳大峯入峯、執行灌頂、次本寺継目、次人先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣昇進仕候、同三丁未載右県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印江随身修験現法降魔壱千座満行、次一宗秘法相伝、其後一派宗学執行寺格者本寺直末別納別触紫衣之寺格也、
第十五世当住 宥意 千申五十載(歳)
第十六世二代 有同寺産而元治元甲子得度、明治三曖午
修験最勝忠印七壇加行丼護摩秘法執行也、
第十六世二代 宥教 壬申二十載
右同県管轄旧松府音羽町天台宗修験旧上蔵院良山妹
養母アイ 壬申六十載
宇和島県管轄浮穴郡大南邑同宗西願寺学応妹
〈別触紫衣之寺格也〉       妻 ハシメ 壬中三十九載
右八坂寺宥意妹    妹 エイ  二十四載
以上五人内(修験二人 女三人)
境内 壱町八反七畝四歩
  意訳変換しておくと
古儀真言宗修験当山派に属し、御直末(醍醐三宝院)の中本寺であり、石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺村にある。大本寺西京醍醐三宝院で   熊野山八阪寺
醍醐寺の開宗祖師理源大師で、当山の開基は大宝元(701)年十歳のことである。これは、1174千前のことになる。創建は伊予国司越知玉興公であり、後の弘仁年間に弘法大師が四国八十八ヶ所第四十七番霊場として中興草創した。その後、四国騒乱時に兵火に係り記録文書が焼失して寺史についてはよく分からない。五輪石など石碑は数々あるが文字が一切なく、これからも年代が分からない。天正年間に宥覚法印が当寺を中興し、十四世住職を相続した。そして天保五年に得度、その後四度の加行、護摩秘法を執行。、弘化二年には吉野大峯にも入峯し灌頂を受けてた。引き続き修行に精進し、大先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣に昇進した。また県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印で修験現法降魔壱千座を満行し、一宗秘法を相伝。その後、宗学執行寺格は本寺直末別納となり紫衣之寺格となった。(以後略)
ここからは、八坂寺の歴代住職が吉野大峯入山を重ねて行い、当山派醍醐寺三宝院の中本寺として、伊予でも寺格の高い山伏寺であったことが記されています。
八坂寺 妙見権現
飯綱権現(八坂寺)
ここに記されたことを寺史沿革に絞って要約すると次の通りです。
①大宝元年(701)越知玉興による開基
②弘仁6年(815)弘法大師による四国八十八箇所第四十七番霊場としての草創
③戦国期における兵火による焼失
 研究者が指摘するのは、ここに書かれているの内容や文体は、先ほど見た創建木札によく似ていることです。明治5年明細帳の作成の際には、この木札を参考に、当時の住職宥意(八坂文瀧)が書いた可能性が高いようです。つまり、近世半ばに木札として八坂寺に掲げられていた創建・中興などの記事が、明治になってそのまま県への報告書の中に取り込まれ、その後の寺史となっていたことがうかがえます。
 なお越智氏を開基や再興時の檀那とする例は、浄瑠璃寺でも見られるようです。聞いたこともない「妙見尼という長者」よりも「古代の伊予国司」とされる越知玉興の名前の方が相応しいとされたのでしょう。地域的に受容されていた歴史観が、寺院の縁起に取り込まれたと云えそうです。ちなみに、木札に記された縁起内容は、八坂寺に残された近世古文書からは確認できないようです。

八坂寺 獅子像
獅子像(八坂寺)
   以上をまとめておくと
①八坂寺は中世には、熊野権現信仰が中心で、その別当寺として八坂寺があり、社僧(山伏)が管理していた
②その創建については、「妙見尼という長者」の熊野権現勧進に始まると近世はじめにはされていた。
③しかし、近世半ばになると八坂寺が真言系修験の醍醐三宝院の中本寺となることで、醍醐寺に関係する空海・役行者・理源大師(聖宝)が開基や中興者として登場するようになる。
④そのような中で、河野氏の祖とされる越知玉興の開基ともされるようになる。
⑤明治になって寺史沿革提出を求められた八坂寺住職は、境内に掲げられていたこれらの開基・中興者たちの木札を参考に、沿革を記して提出した。
⑥それが、その後の八坂寺の寺史の原型となった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


八坂寺一二社権現
八坂寺の鎮守だった熊野十二社権現
前回は八坂寺の歴史を大まかに見ました。その中で私が興味を持ったのは、八坂寺が熊野行者や石鎚先達として指導的な役割を務める修験者(山伏)たちの寺であったということです。今回は、「八坂寺=修験者の寺」という視点から見ていくことにします。テキストは「四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。
熊野神社が鎮守として祀られている伊予の霊場を挙げてみましょう。
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
多くの霊場札所に、熊野信仰の痕跡が残ることが分かります。ここから「四国辺路」の成立には、熊野信仰が大きく影響したと研究者は考えています。霊場札所が熊野行者によって、開かれたという説です。
熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を地域で果たしたのではないかとも考えます。こうして熊野信仰の拠点寺院に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成されるという考えです。その典型として注目されるの八坂寺ということになります。
 近世始めに書かれた澄禅の『四国遍路日記』(承応2年(1653)には、八坂寺本堂に安置されていたという阿弥陀如来像に関わる由緒や、寺院自体の創建伝承・沿革などについては何も触れていません。記述の中心は、境内にあったの鎮守の熊野十二所権現で、次のように記されていました。
①八坂村の長者てあった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、熊野三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の中心は鎮守(熊野三山)で、右手に小ぶりな本堂が並んでいたこと
ここからは地元の長者によって熊野神社がこの地に勧進されたこと、そして、神社の別当として熊野先達を行う修験者がいたこと。さらに長床があったとすれば、熊野行者達の信仰センターの役割も果たし、この地域の熊野信仰の中心地であったこと、などがうかがえます。つまり中世の八坂寺の信仰の中心は熊野権現社で、多くの熊野行者が活動し、その周りには廻国の高野聖や念仏聖なども「寄宿」していたことが推測できます。
 これを裏付けるのが熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券です。
ここには近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。さらに、『四国遍路日記』には、八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったとも記されています。

  熊野先達の活動が衰退するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。「戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような中で熊野先達たちは、活路をどこに求めたのでしょうか。
「熊野先達=熊野行者=修験者=山伏」たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を武士層から、村の有力者へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供する道を探ります。その内容は有名な霊山への「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。そして地元に受け入れられて、定着し里寺を起こす者も現れます。
 同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。具体的には四国巡礼や石鎚参拝の先達業務です。つまり、中世に熊野先達を勤めていた八坂寺の修験者たちは、近世には四国辺路修行や石鎚参拝の先達を務めるようになったのです。
 石鎚参拝の先達を勤める八坂寺の住持たちの姿を史料で見ておきましょう。
「石鉄(石鎚)山先達所惣名帳」(延宝4年(1676)前神寺文書)には、浄瑠璃寺村の「大坊」の「快常法印」が石鉄山先達の一人として挙げられます。浄瑠璃寺の中興に、元禄年間に活躍した快賢がいます。「快」の字が共通するので「大坊」も浄瑠璃寺のことを指すと研究者は考えています。江戸後期までに石鉄山の先達としての地位は、浄瑠璃寺から八坂寺へと移行します。それが八坂寺所蔵の古文書・古記録で次のように確かめられます。

「石鉄山先達名寄井檀那村帳」(文化6年(1809)は、を見ておきましょう。
これは道後地域の石鉄山先達や檀那村の記録です。そこに八坂寺が先達として記されています。

八坂寺 「石鉄山先達名寄井檀那村帳」
八坂寺の石鉄(石鎚)山先達の檀那村一覧
そして八坂寺の檀那村として、次の村々が挙げられます。

窪野村、久谷村、浄瑠璃寺村、恵原町村、西野村、上野村、小村、南高井村、北高井村、東方村、河原分、
大洲領麻生分西高尾田

 ここに出てくる檀那村は、文化5年(1808)に八坂寺に奉納された『大般若経』(聖教1~10)の施主の居住地と重なります。

八坂寺 大般若経
八坂寺 大般若経
石鎚参拝を通じて養われた先達としての師檀関係は強く、『大般若経』の勧進などでも大きな働きをしています。また、石鉄山先達の同僚である不動院(伊予郡松前村)、円通寺(久米郡樋口村)、和気寺(温泉郡衣山村)などは、文化5年の鐘楼堂再建供養にも出仕ていることが木札から分かります。八坂寺は、石鉄山先達のネットワークに支えられていた「山伏寺」だったのです。

八坂寺 天明8年(1788)明細帳 山伏
        天明8年(1788)明細帳 山伏八坂寺とある
 近世の八坂寺は醍醐寺三宝院末の当山方真言修験宗に属していたことが史料からも確認できます。

八坂寺 醍醐寺末寺
「醍醐三宝院御門主末院真言修験宗 八坂寺」とある

醍醐寺三宝院は、空海の弟真雅の弟子理源大師(聖宝)の開祖とされ、真言系修験者の拠点寺院でした。そのため近世の八坂寺縁起の中には、理源大師を開祖とするものもあります。八坂寺住持は、修験者として吉野への峰入りも行い、石鎚先達としても活動していたことになります。

以上をまとめておくと
①中世の八坂寺は熊野神社を勧進し、伊予松山地域における熊野信仰センターとして機能した
②八坂寺の住持は修験者で、熊野先達として檀那達を熊野詣でに誘引した。
③戦国時代に戦乱で熊野信仰が衰えると、里寺として地域に根付く運営方法を模索した
④その一環として、四国辺路や石鎚参拝の先達として活動を始め、信者ネットワークを形成した。
⑤そのため信者は、地元に留まらず土佐や大洲まで傘下に入れるようになった。
⑥こうして近世の八坂寺は「熊野信仰 + 石鎚参拝 + 四国霊場」の信仰センターとして機能した。

三角寺も八坂寺とおなじような動きをしていたことは、以前にお話ししました。三角寺ももともとは熊野先達で、それが四国辺路への先達活動を行うようになります。そして、周辺に多くの修験者や廻国行者を抱え込んでいきます。そして彼らがお札を持って、信者ネットワークの村々を巡るようになります。そのためこれらの寺には、いろいろな札の版木が残っています。同時に、讃岐の与田寺で見たように工房的なものもあり、僧侶の職人がいろいろな信仰工芸品を作成していました。それが八坂寺にも残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 図書館を覗いて見ると、今年の5月に出されたばかりの八坂寺の調査報告書が入っていました。八坂寺は熊野信仰との関わりが深い寺で、私にとっては興味のある四国霊場のひとつです。早速に借りだして、読んでみました。まずは八坂寺の歴史の概略を読書メモとして載せておきます。テキストは、四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺/愛媛県松山市【四国八十八ヶ所霊場】第47番札所 – Bilde av Yasaka Temple i Matsuyama -  Tripadvisor

熊野山妙見院八坂寺は、松山市浄瑠璃町にある真言宗醍醐派の四国霊場第47番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
この寺の歴史について、地名辞典(平凡社1980)には、次のように記します。
「寺伝では、河野玉興の創建で、右衛門三郎の発心した所、古くは八王子と称したという。残存の堂字は安政四年(1857)の再建で、本尊は坐像で高さ80㎝、面相の引き締まった張り、納衣の深い衣紋に特色をもち、鎌倉時代の作と推定される。なお、境内には、高さ2mの宝医印塔がある。ともに市の文化財」
 
「熊野山」や「八王子」などからは、古くからの熊野行者の活動がうかがえます。
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
本尊阿弥陀如来坐像について「文化財保護委員会1964」は次のように記します。
「鎌倉末乃至南北朝期も早いころの特色の顕者なもので、このころの等身如来像の作例として県下でも出色の作品とおもわれる。今日髪部に群青を塗り、また肉身の漆箔をあらためて、若千像容を損じているが、その大容は造像時のままで、両手先、裳先までよく当初のものを残している。像容も整つて、この頃の作風を代表する作例といい得る」

これを受けて、木造阿弥陀如来坐像は、翌年に愛媛県指定有形文化財に指定、1968年には鎌倉時代の層塔と宝筐印塔が松山市指定有形文化財に指定されています。

中世の史料に記された八坂寺を見ていくことにします。
寺伝では、創建は河野氏と伝えられますが、中世にこの地域を勢力下に置いていたのは河野氏の家臣平岡氏です。平岡氏は、浮穴郡荏原の郷を拠点として、荏原城を築いたとされます。跡荏原城は。中心部の方形郭(南北70m、東西60m)とそれをとりまく土塁、堀からなる中世居館跡です。また、第46番札所の浄瑠璃寺境内には、最後の城主平岡通侍の墓と伝えられる五輪塔があることも、平岡氏が浄瑠璃寺を菩提寺としていたことを裏付けます。一方、八坂寺について中世の記録類は何もないようです。ただ、八坂寺境内には鎌倉時代の宝医印塔や層塔があるので、この時代から寺院があったことは確かのようです。

八坂寺層塔
八坂寺層塔

江戸時代の四国遍路の出版物や地誌には、八坂寺はどのように書かれているのかを見ておきましょう。
最古の遍路記される登禅「四国辺路日記」(1653)には、次のように記されています。
八坂寺 熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラビ王フ故二廿五間ノ長床ニテ在ケルト也っ是モ今ハ小社也。本寺堂ハ本尊阿弥陀ナリ。昔此国二長者在、熊野権現ノ霊験新ナル事ヲ承及ンデ三年ン続テ参詣シタリ。其上トテモノ事二我本国工勧請シ奉度ヨシ祈申ケレバ、尤御移り可参由御咤宣在ケレバ、悦デ則八坂村二宮殿ヲ立テ勧請シ奉シ也。是故二熊野山八坂寺妙見院卜号。院号ハ長者ノ尼公ノ号トカヤ。今ハ是モ衰微シテ寺ニハ妻帯ノ山伏住持セリ。是ヨリ十町斗往テ円満寺卜云真言宗ニー宿ス。十四日、寺ヲ立テ十五町往テ西林寺二至ル。
 
    意訳変換しておくと
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

16世紀半ばの八坂寺の注目ポイントを挙げておくと・・。
①熊野権現を勧請され、昔は熊野三山権現が立ち並んで、25間の長床があったこと
②熊野山八坂寺妙見院と号し、住持は妻帯の山伏であったこと

新宮熊野神社【長床】の大イチョウ: billの悠々Life
新宮熊野神社の長床

真念の『四国邊路道指南』(貞享4年1687)には、八坂寺が次のように記されています。
四十七番八坂寺 平地、ひがしむき。うきあな郡やさか村。正面ハ此寺のちんじゆ也、札所は南。本尊阿弥陀 座長三尺、恵心作。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺迄一里。
意訳変換しておくと
四十七番八坂寺は、平地に東向きに建っている。浮孔郡八坂村。正面は、この寺の鎮守社であり、札所は南にある。本尊は阿弥陀で、座長三尺、恵心作である。。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺まで一里。

正面にある鎮守社は、熊野三社を祀ったものでしょう。しかし、熊野信仰については、何も触れられません。代わって、本尊阿弥陀は恵心作の秘仏とされ、御詠歌が初めて紹介されています。
高野山・高僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)には、境内図とともに次のように記します。
熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村
当寺本尊阿弥陀如来恵心の作也といふ。是を以てこれをおもふに、此寺廃毀する事そのかみにあり。今大師の遺烈きこゆることなし。恵心の僧都は大師の後およそ三百年に及べり。むかしの本尊は鳥有となれるにや。今尚法義おとろへたりときこゆ。古堂清風冷しく僻御蔓草緑なり。
 意訳変換しておくと
山号は熊谷山で妙見院八坂寺 浮穴部八坂村にある。当寺の本尊阿弥陀如来は恵心の作と云う。ここから考えるに、この寺は一度退転したようだ。弘法大師のことが何も伝わっていない。恵心は、弘法大師のおよそ三百年後の人物である。昔の本尊は、どうしたのか? この寺が昔に比べて衰えたと云う。古堂に清風冷しく吹き込み、御蔓草緑なり。

気になるのが山号が「熊谷山」となっていることです。熊野山という山号ではありません。また熊野権現の勧進の話も出てきません。絵図を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍路日記1
高僧寂本の『四国偏礼霊場記』
浄瑠璃寺からやってくると右手の垣根の向こうに本坊があります。橋を渡って、まっすぐに参道を登っていくと迎えてくれるのが高床社殿の①「鎮守」です。ここには熊野三社が祀られていて、その前に25間の長床が建っていたと「四国辺路日記」にはありました。そして、左手に本堂があります。よく見ると、縁側があって三間×三間の入母屋造です。大師堂は、まだ姿を見せていません。

近世初期の2つ記録には、次のようなことが記されていました。
①八坂村の長者であった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の正面に大きな熊野十二社があって、右手に小ぶりな本堂があったこと、
④つまり信仰の中心は熊野権現社であったこと
⑤八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったこと。
また、熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券に近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。
寛政12年(1800)に阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)が遍路記残しています。翌年にこれを書写したとされる『四国遍礼名所図会』には、写実的に描いた鳥厳図が載せれ次のように記します。
四拾七番熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村 西林寺迄―里
本尊ハ阿弥陀仏、恵心の作と云。恵心ハ大師の後凡三百年程也、此義不詳。
花を見て歌よむ人ハ八さかでらさん仏ぜうのゑんとこそ聞
本社熊野権現、御本地仏阿弥陀仏 恵心僧都作、御長三尺坐像 大師堂本社後の山二有、右衛門三郎大師の御鉢を砕きし所ゆえに鉢久保谷といふ,
八坂寺 四国遍礼名所図会1800年
八坂寺 四国遍礼名所図会
挿絵を見ておきましょう。
石段を上った先に山門はなく、垣根で囲ったた平場があって、その中央奥に、入母屋造の鐘楼堂があります。さらに石段を上った石垣上の平場ある瓦葺で宝形の建物が大師堂、その横のひときわ大きな茅葺入母屋造建物が熊野権現社。その間に層塔などの石造物が並びます。熊野権現社を本社とし、本地仏を恵心作の阿弥陀仏とする神仏習合の様子が見えて来ます。
 ここで注意しておきたいのは、本堂がなくなって大師堂となっていることです。これをどう考えればいいのでしょうか。増加する遍路に対応して大師堂が建立されたが、財政的問題で本堂は作られなかったのでしょうか。そうだとすれば、当寺の住持にとっては本堂よりも大師堂の方が優先したことになります。
 またはじめて、右衛間三郎伝説の鉢久保が紹介され、挿絵にも描き込まれています。この伝説が一般に知られるようになるのは、この時期からのようです。新たな観光名所が「創造」されて、参拝客を呼び込む名所となっていくプロセスが見えてきます。

単行本(実用) <<地理・地誌・紀行>> 四国遍路道中雑誌 carnegiecycling.com.au

松浦武四郎の四国遍路紀行文である『四国遍路道中雑誌』(
天保7年(1836)には、次のように記されています。
田道しばし行而八坂村 門前三茶店有。門内茶堂有。丼二しゆろう堂等有。四十七番熊谷山妙見院八坂寺 従四十六番八丁。同郡八坂村。当山開基は弘法大師なれども、一度廃寺となりしを恵心僧都再建し給ひしとかや。本尊恵心の作の阿弥陀如来座像也。御長三尺、恵心僧都は大師入定後三百年なるよし。其こと寺の縁記〔起〕二委敷出たり。境内二 大師堂 并二 鎮守十二社権現との宮等有。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺 さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
しばらく行而門前二茶店有 止宿する二よろし。
       意訳変換しておくと
田んぼ道をしばらくいくと八坂村で、 門前に三軒茶店がある。門内にも茶堂があり、鐘楼堂がある。四十七番熊谷山妙見院八坂寺は、四十六番からは八丁の距離で、同郡八坂村にある。この寺の開基は弘法大師であるが、廃寺となていたのを恵心僧都が再建したと云う。本尊は恵心作の阿弥陀如来座像で、御長三尺。恵心僧都は、大師入定後三百年後の人である。それについては寺の縁記に詳しく述べられている。境内には、大師堂 并に 鎮守十二社権現などの宮がある。。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
門前茶店があり、止宿もできる。

松浦武四郎は、開基を弘法大師、恵心僧都の再建としています。境内の建物については、大師堂、鎮守十二社権現には触れますが、本堂があったとは書いていません。他の史料からも、八坂寺の大師堂は19世紀初頭にはあったことが確認できます。これに対して熊野十二社権現や鎮守は必ず明記されています。神仏習合下の八坂寺の様子がうかがえます。
2013.7.7 石鎚神社先達会符 拝受 | 旅する石鎚信仰者

江戸時代後半の八坂寺の住持は、熊野先達としてよりも 石鎚山参拝の先達として重要な役割を果たすようになっていたようです。この時期の八坂神社の繁栄は、石鎚参拝ネットワークの先達としての立場からもたらされたことが分かってきました。これについては、また別の機会にお話しします。

明治以後の史料に書かれた八坂寺を見ていくことにします。
修験と関係の深く神仏混淆下にあった八坂寺では、明治の神仏分離や修験禁止令によって、大きな打撃を受けたことが推測できます。
「明治12年 寺院明細帳」(『松山市史料集』1985)には、八坂寺について、次のような建物が記されています。
愛媛県管下伊予国下浮穴郡浄瑠璃寺村寺字北浦
高野山金剛峯寺末 真言宗古義宗  八阪(坂)寺
一、本尊 妙見大菩薩
一、由緒 当山現見ハ樹木生茂り有ル所二、北辰妙見大菩薩降臨シマシゝテ、霊験新ナリ旧大(大)守小千伊予守従三位王興公ノ創建也、子時文武天皇勅願所卜勅アリ、四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右エ門三郎初発心ノ旧跡所也、亦大友旧城南ノ傍二阿弥陀ゲナルト字有之所二安置給フ、弥陀仏大師当山ヲ四国第四十七番霊場ニナシ本地仏二移伝ス、筆記有之也、
一、堂宇 長四間九合、横三間五合
一、前拝 長三間三合、横壱間弐合
一、サヤ橋 長壱間三合、横壱間
一、境内 弐百六拾壱坪        官有地
一、境内仏堂 弐宇
本地堂
本尊 阿弥陀如来
由来 不詳
建物 長四間九合、横四間六合
 大師堂
本尊 弘法大師
由来 不詳
建物 弐間四間
前拝 長壱間三合、横壱間
一、信徒 七百人
一、管轄庁迄 三里拾丁
以上

ここからは明治時代前期の八坂寺には本地堂、前拝のある大師堂の2棟があり、山門はなく、サヤ橋が架かっていたことが分かります。熊野鎮守社は神仏分離策で、本地堂となったようです。本尊は妙見大菩薩、本地堂の本尊は阿弥陀如来、大師堂には弘法大師像を安置されます。八坂寺は小千玉興の創建で、八ッ束右エ門三郎発心の旧跡としています。
伊予温故録(宮脇通赫 編著) / みなみ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治27年(1894)に官脇通赫の『伊予温故録』(松山向陽社発行)には、次のように記されています。
浄瑠璃寺村字北浦に在り熊谷山妙見院と云ふ。由緒に云ふ。越智玉興の創建にして八束右衛門三郎発心の旧跡なり。四国巡拝四十七番の札所たり。旧跡俗談に云ふ。古へは八王寺と号せし由。鎮守熊野十二社伽藍にて荏原郷は寺領なりしか、其の後焼失して断絶す。後ち又た再興し、修験相続して一世を経るいつの頃よりか八坂寺と改めたりと云ふ。越智王興創建、八束右衛門三郎発心旧跡地、俗談として修験寺院となり、
意訳変換しておくと
(八坂寺は)浄瑠璃寺村の北浦にあってあって、熊谷山妙見院と云う。由緒では、越智玉興の創建で八束右衛門三郎発心の旧跡と伝える。四国巡拝四十七番の札所である。。旧跡俗談には次のように伝える。古くは八王寺と号し、鎮守熊野十二社の伽藍で荏原郷は寺領であったが、その後に焼失して断絶した。再興された後は、修験者が相続して行く内に、いつの頃からか八坂寺と改められたと云う。

ここでは、もともとは熊野十二社が中心で、その別当寺が八王寺と呼ばれた。それが退転して、修験者による再建された後に、八坂寺と名前が変わったと記されていることを押さえておきます。
明治28年(1895)の得能通義による『古蹟遊覧 四國名所誌』には次のように記されています。
  ◎第四十七礼拝場八坂寺
同(浮穴)郡八坂にあり平地堂東向 ○詠歌
花を見て歌よむ人は八坂寺 さんぶつ浄の縁とこそきけ
熊野谷山妙見院と号す。役小角の創建にして散位乎致宿祢玉興、文武元丁酉年建立の伽藍なり。役行者八坂を切開き、道橋を造る道場なりと本尊阿弥陀仏は熊野権現の本地なるが故、弘法大師の安置し給ふに依て大師を中興とす。長元七年八月暴風起り、為に伽藍炎上灰儘す。今の本尊は恵心僧都の作なり。一遍上人自筆の三部経を収め給。奥の院は▲是より百丁高嶽あり。俗に御嶽と唱へ、霊験多き所なり。
  ◎熊野峯
浮穴郡久谷村にあり険祖なる高山にして其頂に三祠あり熊野権現降臨の垂跡なり。右に金剛蔵王権
現左に神饒速日命大小市命を祭れり麓の谷間に窪野あり。一遍上人修行の霊嶽なり。熊山の名称姦に始りぬと伊予旧跡砂に見る此寺昔時は八王寺とも言、此寺より西林寺迄一里其道筋に荏原町村中程ヘ七丁此村に右衛門三郎古跡八塚鉢窪等の遺跡あり。
ここには本尊の弥陀仏は熊野権現の本地仏としています。そしてあらたに、一遍自筆の三部経、奥の院の記事が書き加えられます。近世や近代に、始めて登場する内容は信用性に欠けることは、以前にお話ししました。
明治42(1909年9の『四国霊場名勝記』は、明治期に四国霊場を撮影した一番古い写真集になるようです。

八坂寺 明治
八坂寺 四国霊場名勝記(1909年)

左手前に手水舎、その向こうの石階段を登った正面に茅葺の建物、その左に瓦茸の建物が写っています。それぞれ熊野十二社権現社、大師堂のようです。明治後期の八坂寺境内の様子がわかる貴重な写真です。
大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』の写真を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年
八坂寺の大師堂 大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』
ここには切妻造向軒唐破風瓦葺の大師堂、茅葺十二社権現、瓦葺本堂の並びの写真が載せられています。

昭和11年(1936)の『四国霊場大観』には、八坂寺について次の3枚の捨身を掲載しています。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂(入母屋造瓦葺)
八坂寺文殊院本堂
衛門三郎旧跡文殊院本堂
八坂寺一二社権現
茅葺の十二社権現
最後に「先達経典』(四国八十八ケ所霊場会2006)の八坂寺についての記述を紹介して終わります。
現在、真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は役行者小角。大宝元年(701)御詠歌は、
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
浄瑠璃寺から北へ約1㎞近い八坂寺との間は田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、千三百年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697~707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁六年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942~1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えたが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが立ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約八千躯祀られている。

私が興味を抱いたポイントは
①熊野先達が早くから活動し、熊野十二社を勧進したこと
②その別当寺が八坂寺で、寺の中心は熊野十二社であったこと。
③そのため熊野十二社にくらべると本堂や大師堂は小さかったこと
④17世紀中頃の住持は、妻子持ちの山伏であったこと
⑤18世紀以降は、浄瑠璃寺に代わってこの地域の石鎚山信仰の中心的な役割を担い、先達として活躍する山伏でもあったこと。
⑥それが明治以後の山伏禁止令で、山伏色を消さざる得なくなったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
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 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
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前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのもにも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修験者としての修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。
那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。
実方院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院跡 - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
実方院跡(現在は那智大社の宿泊所)

実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでも那智山の経営維持は皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切っります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順にまとめたのが表1です。
熊野大社文書1
熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)
この一覧表からは次のようなことが分かります。
①最初の檀那売券発行は弘安3年(1280)で、鎌倉時代の終わりの13世紀末以前から、讃岐でも熊野詣でが行われていたこと。
②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀には、継続して発行が行われていること。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ないこと。特に三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた武士集団です。有力な武士団を東讃では旦那に持っていたことが分かります。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、熊野信仰の流布の拠点となっていました。東讃から次第に西に拡がったということがうかがえます。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったとされます。その中には熊野先達を務めるものもいたようです。
⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が毎年のように出されています。さきほど見た文書です。
  最初の霞(エリア)は、「中郡スエ王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)には、「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」を抵当に入れて借金したようです。            
 以上からは、勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持っていたことは以前にお話ししました。この時代に姿を見せる真言宗の寺院の多くは、彼らによって建立されたと研究者は考えているようです。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが
次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは、髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと地区ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。そういう意味では、善通寺市内の熊野神社は熊野行者の活動モニュメントでもあり、善通寺が全国の行場の聖地として認知されていたことの証拠のようにも思えてきます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
佐伯氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして、11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、王子権現・熊野神社として記されるものが、数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。その中で早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)とされます。次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)には、熊野から勧請され長徳寺の鎮守となっています。その後、鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、およそ69社もの熊野関係の神社があったようです。
伊予では、古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社です。
ここの神輿鏡銘には、貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘があります。鎌倉時代初期には勧請されていたことが分かります。この神社から銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ラインを伸ばしていったことが考えられます。新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、立ち寄られた聖地であったようです。

阿波の場合は南部の那賀郡と古野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐はどうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。
 先ほど挙げた讃岐の熊野系神社43社のうち確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いように見えます。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。こうして見ると熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)による場合があることになります。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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西行 (1118-1190) は、平安時代末期の人で、歌人として知られています。
 もともと武家の生まれで、佐藤義清という本名を持つ西行は、朝廷警護の役人として鳥羽院に仕えていました。武芸はもちろん、和歌にも秀でていた若者だったようです。それが23 歳のときに突然出家・隠者します。出家後は京都周辺や高野山などでの修行生活を送ります。また、東北・四国など全国各地を放浪する旅に出て、行く先々で西行伝説が伝え残されるようになります。彼の和歌は、勅撰和歌集にもたくさん入集し、自撰歌集(『山家集』)も有名で、歌人として後世の人達からも支持されてきました。そのために、風雅の人として、和歌の才能を備えた人物という評が一般化し、宗教人としての西行の存在が取り上げられることはあまりありません。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
西行

 西行は、高野山で修行し、勧進僧として生計を立てていたことを以前にお話ししました。
西行の旅も、後の芭蕉のように作品作りのためではなく、勧進のため、仕事のための旅であった研究者は考えるようになっています。今回は、西行が吉野山で修験者としての活動も行っていたことを見ていくことにします。

西行が高野山に住むようになったのは1149年(32歳)の時からのようです。
当時の高野山は、祈祷の密教的な法力を得るためにも修験的修行は不可欠とされていました。そのため高野山の僧侶の中にも修験を行うものもたくさんいました。西行は、遅ればせながら、自分も修行してみたいと思ったようです。空海の修行などを絵図で見ると、ひとりで修行を行っています。しかし、修験者集団を見ると分かるように、先達という山伏が集団を率いて指導するのが一般的です。何の作法も知らずして山に入っても修行にはなりません。守るべきことや作法は、先達から手移し、口移して伝えられていきます。
 天台宗には今も「千日回峰」というのがあります。修験道は、山に登ること自体が修行であり、滝に打たれ、川の中に入って、心身共に解脱させるのだから、きびしい修行になります。

新解・山家

『西行一生涯草紙』には「大峯入山」と題した一章があります。

そこには、西行の修行に至る経過が次のように記されています。

  大峯に入らんと思う程に、宗南坊、「入らせ給え」、大峯の秘処どもを拝ませ申すべき由、申されければ、悦びて、入りたりける。

意訳変換しておくと

大峰山で修行を行いたいと思っていると、宗南坊という修験道の先達が「それでは、一緒に行くか、大峰山の秘かな霊地や行場を拝ませてあげよう」と、快くすすめてくれたので、「悦んで」入山した。

ここからは高野山の僧侶を先達に、何人もの人達が集団で大峯山での修行に、柿渋を塗った紙の衣に着替えて向かった経過が分かります。
 修験道は邪念を排除して、精進潔斎に徹するのが修行です。そのためにはなによりも体力が必要でした。しかし、西行には体力に自信はありません。そこで人山に際して、先達の宗南坊に次のような注文をつけます。
「とてもすべてをやり通せないかもしれないので、何事も免じて下さるなら、お供したい」

と嘆願しています。それにで宗南坊が何と応えたかは記されていません。
入山後のことを『古今著聞集』に、西行は次のように記します。
宗南坊に頼んだのに、行法は容赦なく、きびしかった。一緒に行った人たちよりも痛めつけられた。そこで涙を流して云った。
「我はもとより苦行を求めたわけでも、利得を願おうとするものでもない。ただ、結縁のためとだけ思って参加した。それに対して、この仕打ちはひどい。先達とはこうも船慢な職だとは知らず、身を粉にして、心をくだくのは悔しい」
それに対して、宗南坊は次のように云った。

「修行する上人は、みな難行苦行してきた。木を伐り、水を汲み、地獄の苦しみを味わうこともある。食べるものも少なくして、飢えも忍ぶこと、餓鬼のかなしなも味わうこともある」

「結縁」とは「ケチエン」と読むようです。仏道に入る機縁をつくることです。西行が参加したこのときの修行は「百日同心合力」で、同行の修行者と行動を共に、百日間を生き延び、修行を重ねるものでした。西行は、説教されて、
「まことに愚痴にして、この心知らざりけり」と悟ります。
「この苦行に懲りて西行は、二度と修行に参加しませんでした」と思いきや、そうではなかったようです。西行はその後も何度も、吉野山や熊野の山路を歩いています。修験道の荒行の中に、何かを見いだしたようです。

大峯山修験者行場
大峯山 行場配置図

 大峯山での修行は、行場が決められていました。  
 山上ヶ岳の頂上での「覗き」の修行は、絶壁の上から綱で身体を支えて祈祷する命がけのもので、今でもおこなわれています。修験道は、この大峯山の南北の山稜を修行の場として、谷底の川では、「水垢離」と称して、裸体のまま身体をひたし、滝があれば「みそぎ」と称して、裸体を落下する水に打たせ、心身解脱の境地に徹します。
西行は、この修行のことを、次のような歌に残しています。
御岳よりさう(生)の岩屋へ参りたるに、

露もらぬ岩屋も袖はぬれけると
聞かずばいかにあやしからまし
大峯山 笙の窟
大峯山 笙の窟
  「笙ノ窟」は大峰七十五靡(なびき)の62番目の行場で、「役の行者」の修行したところと伝えられています。そのため平安時代から名僧・知識人が数多く参籠修行しています。この窟は、修験者にとっては最も名高い聖地であったようです。そこに、西行も身を置いて修行しようです。

西行絵巻物物語
西行物語絵巻 笙の窟で修行する西行

大峯山での「百日同心合力」を記した『西行一生涯草紙』には、行場の地名は書かれていますが、歩いた順路で書かれてはいません。「山案内記ではなく、歌集」なのです。歌心が主で、山行案内のために書かれた文章ではないのです。「深山の宿」「千草の岳」「屏風ヶ岳」「二重ノ滝」「仙の洞」「笙の岩屋」という順にでてきます。これは、線では結べません。
八経ケ岳
八経ケ岳
「千車の岳(八経ケ岳)」では、紅葉を歌にしています。
分けてゆく色のみならず木末さへ
千草の岳は心そみけり
修行も半ばを過ぎ、きびしさにも馴れてきたのでしょうか。木々が色付いていく姿を眺める心境がうかがえます。
大峯山の修行のハイライトは「行者還り」だったようです。
「行者還り」は、山上ヶ岳から南へ約1日の行程で、1546のピークですが、その手前の稜線が起伏のはげしい試練の山路です。
『山家集』については、次のように記されています。
行者還り、稚児の泊りにつづきたる宿なり。春の山伏は、屏風立てと申す所を平らかに過ぎんことを固く思ひて、行者稚兒の泊りにても思ひわづらふなるべし。

屏風にや心を立てて思ひけむ
行者は還り稚児は泊りぬ

南の熊野の方から登ってきた行者たちのなかには、ここから戻った(還った)者もあったようです。
『古今著聞集』には「西行法師難行苦行事」と書かれているのは、このあたりのようです。この前文に「春の山伏は」とあります。ここからは、修行は春から「百日」の修行だったことがうかがえます。

千手滝(北山川)~奈良 吉野 大峰 前鬼三重滝【場所 アクセス・行き方 詳細】 | 〜水の秘境〜
三重ノ滝
 『山家集』の歌には、「三重ノ滝を拝みける」とあるので、もっと南の上北山村の方まで行っているようです。三重ノ滝は「前鬼の裏行場」とよばれる大峯山脈の東側の谷間にあります。滝は「垢離取場」の奥で、ここへゆくには、釈迦ヶ岳から5時間ほど下らなければなりません。
『西行一生涯草紙』は、このときの心境を次のように記します。、
三重ノ滝を拝みけるこそ、御行の効ありて、罪障は消滅して、早く菩薩の岸に近づく心地して、人聖明上の降伏の御まなじりを拝み、
身に積もる言葉の罪も洗はれて
心澄みける三かさねの滝

「みかさね」は、上中下―3つの滝の形容で、滝はそれを浴びて瞑想する「みそぎ」の場です。「垢離」とは心身の垢を落として浄めることです。このあと、「笙の岩屋」へ行っています。その途中にあるのが「百二十の宿々」です。西行は大峯山脈の稜線の方から東へ下って、この滝で修行しています。
大峰山の聖地深仙で修験のまねごとを | 隠居の『飛騨の山とある日』
大峯山 深仙の宿
その証拠に、釈迦ヶ岳の南にある「深仙の宿」で、夜の感慨を詠っています。
大峯のしんせん(深仙)と申すところにて、月を見て詠める。
深き山に澄みける月を見ざりせば
思ひ出もなき我が身ならまし

嶺の上も同じ月こそ照らすらめ
所がらなるあはれなるべし
月という存在を、改めてありがたく思っています。西行が「月」に格別な思いを抱きはじめたのは、この大峯修行のときからと研究者は指摘します。それまでは、それほど月は心に食い入らなかったというのです。
「笹の宿」では、次のように詠っています。
庵さす草の枕にともなひて
笹の露にも宿る月かな
ここでは秋の月を讃えています。
修行で野宿をすれば、月が唯一のなぐさめとなります。「西行の月への開眼は大峯修行の中で生まれた」と研究者は指摘します。百日つづいた修行は、季節も春から初夏へと移っていきます。旅も終わりに近づいたようです。
小笹の泊りと申す所に、露の繁かりけれぎ、
分けきつる小笹の露にそぼちつつ
ほしぞわづらふ墨染の袖
ここまでやってきた、墨染の袖の汚れに、改めて気づいたようです。
露もらぬ岩屋も袖は濡れけると
聞かずばいかにあやしからまし
この岩屋とは、思い出に残る笙の岩屋のことでしょう。山腹に深くえぐられた巨大な穴、風雨はしのげる自然の洞穴はひろく深い窟。西行も、ここで生命を終えてもいい、と思ったようです。後世に書かれたものを読むと、西行はこの修行でひどく疲れたようです。しかし、先達はそれも許してはくれません。

「心ならず出て、つらなりて、行く程に、大和の国も近くなりて…」里へ出てしまった。それまで

心ならずも同行の人々と一緒に山を下ります。大和国の里が近くなり別れが近づいたとき、皆泣き出した。そのとき作ったのが、次の歌です。
去りともとなほ逢ふことをたのむかな
死出の山路を越えぬわかれは
「百日修行」の同行者は、何人いたのでしょうか。「きびしい修行はさせないでほしい」と最初は嘆願していた西行でした。それが結果として、修験道の真髄を知ったようです。『西行物語』では、大峯修行の話は載せていません。しかし、それより古い『西行一生涯草紙』では、最後に修験道の功徳について、次のように記します。

先達の御足を洗ひて、金剛秘密、座禅人定の秘事を伝え、恭敬礼拝の故に、安養浄上の望みを遂げなんと覚え、おのおの柿の衣の袖が返るばかりに涙を流して、故り散りになる暁、「ぬえ」の鳴きける声を心細く聞きて、
さらぬだに世のはかなきを思ふ身に
ぬえ鳴きわたるあけぼのの空
「ぬえ」とは夜になると、不気味な声で鳴く鳥で正体不明の生き物とされていました。人間の口笛のようでもあり、夜の森の中で聞くと、さびしさが極まる声です。百日の修行をした最後に、この鳥の声を聞いて、ふたたび浮き世に戻ってきた気持を表現していると研究者は評します。ちなみに、鵺(ぬえ)は、トラツグミで今は正体も分かっています。
「山家集」には、大峯での修行の際に作られた歌がかなり載せられています。
しかし、それが何歳頃のことかは分かりません。大峯山は吉野山の南につづく山稜です。先に大峯で修行します。その結果、北側の吉野山を再認識したようです。西行にとって大峯山は修行の場でしたが、吉野山は後に庵をつくって住む安住の地となります。

以上をまとめておくと
①1149年 西行は32歳で高野山に住んで、高野聖として勧進活動に従事した。
②高野山の密教修験者を先達とする、大峯山で修行に参加することになった。
③これは大峯山の行場を南から北へと抜けて行くもので「百日同心合力」とよばれる行であった。
④初めは厳しくで弱音を吐いていた西行は、次第に克服して修験のもつ魅力を感じるようになった

以上のように、西行は「高野聖 + 勧進僧 + 修験者 + 弘法大師信仰」を持った僧侶であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  岡田喜秋 西行の旅路 秀作社出版 2005年



以前に備中新見荘から高梁川を下って、舟で京都に帰る荘園管理人(僧侶)の帰路ルートを追いかけました。今回は中世の山陽道を旅した僧侶の記録を見てみましょう。 テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
山陽道斑鳩宿

播磨国斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)は、法隆寺のもっとも重要な荘園でした。
延徳二年(1490)、法隆寺の僧快訓(かいくん)がこの斑鳩荘に向かう旅をはじめます。快訓は政所として赴任することになったのです。その旅路を「当時在荘日記」には次のように記されています。
僧快は、大和の斑鳩を発って、大和川沿いに河内に入り、山本(八尾市)で、持参した昼の弁当を食べています。その日の夜は、天王寺宿(に宿泊。宿泊料は700文、庭敷銭(にわしきせん)は100文とあります。庭敷銭とは、庭の占有料という意味で、荷の保管料のようです。翌朝、宿で朝食が用意され、快訓には30文、雑用のために従っている下僕たちには25文の食事が出されています。

斑鳩寺 クチコミ・アクセス・営業時間|たつの・揖保川・御津【フォートラベル】
太子町の斑鳩寺
二日目は、天王寺から舟で大阪湾を横切り、西宮宿で昼休み。休憩料は500文、庭敷銭は50文です。宿泊料に比べると休息料が高いような気もします。宿で昼飯をとっていますが、やはり身分に応じて30文と25文のランク分けされた食事が出されています。その日は、兵庫宿(神戸市兵庫区)まで行き、宿をとります。ここの宿泊料は、前回利用したときには700文だったが、値上がりして800文になっていた、ただし庭敷銭、翌朝の朝食代などは値上がりしていなかったことまで記します。
以下の旅程を見てみると次のように記します。
3日目は、大蔵谷宿(明石市)で昼休みし、加古川宿で宿泊、
4日目は国府(姫路市)で昼休みし、その日の夕方に竜野に到着しています。細かな経費は下表のとおりです。
山陽道 宿賃一覧表

これを見ると、宿泊料、食事代などは、全行程ほぼ同額なことが分かります。快訓の旅行記録から、この時代の山陽道では、どこの宿に泊まっても、同じような経費で同じようなサービスが受けられる、というシステムができていたことが分かります。
 中世後期の陸上交通をささえるインフラやシステムについては、まだ分からないことの方が多いようです。「関所が乱立してスムーズな交通が妨げられていた」ように思いがちですが、この記録を見る限りは、案外に快適な旅ができたようです。

   中世山陽道の宿は、どんな人が経営していたのでしょうか?。
朝日新聞デジタル:世界記憶遺産が描く荘園の騒動 矢野荘 - 兵庫 - 地域

播磨西部の現在の相生市に矢野荘がありました。
ここは東寺の荘園で、その史料が「東寺百合文書」の中に残されているので、研究が進んでいるようです。この荘園を山陽道が通っていて、隣の荘園に二木宿がありました。この宿を拠点とした小川氏という一族を追いかけて見ようと思います。小川氏は、南禅寺領矢野別名の荘官を務める武士で、同時に金融活動も行っていたようです。
小川氏の活動とは、どんなものだったのでしょうか? 
 守護赤松氏がとなりの東寺領矢野荘に、いろいろな目的で人夫役を賦課してきたときには、同荘の荘官に代わって守護の使者と減免の折衝をしています。ときには命じられた数の人夫を雇って差し出したりもしています。矢野荘自身が必要とする人夫を集めることもしています。(「東寺百合文書」)。いわゆる人足のとりまとめ的な役割を果たしていたことが分かります。
 そんなことができたのは、小川氏か宿を拠点に持ち、「宿周辺の非農民の流動性のたかい労働力を掌握」していたからできることだと研究者は考えているようです。つまり、一声かけると何十人もの人夫を集めることの出来る顔役であったということなのでしょう。即座に多くの人夫を集めることができる力は、交通・運輸業者としての武器になります。それが小川氏の蓄財の源だったとしておきましょう。
小川氏と交通のかかわりは、それだけではないようです。
 二木宿には時宗の道場がありました。時宗の道場は、安濃津や、東海道の萱津(愛知県海部郡甚目寺町)、下津(同稲沢市)などの例が示すように、旅行者の宿泊所として使われていました。ただの宿泊所ではなく将軍の宿所として利用されることも多く、宿泊所としてはランクの高いものだったようです。二木宿の道場も、格の高い宿泊所だったと推測できます。
 あるとき二木宿の遊行上人(時宗の僧)が勧進活動をはじめます。道場を維持するための勧進だったのかもしれません。このとき小川氏は、周辺の荘園をまわって勧進への協力を求めています。ここからは、二木宿の道場(宿泊所)は、小川氏の保護を受けて維持されていたと研究者は考えいます。小川氏が時宗の保護者であると同時に、宿泊所のオーナーであった可能性も出てきます。
 周辺の人夫を掌握し、宿泊所を維持する、そして金融業を営むほどの財力。これが室町時代の「宿の長者」だったようです。
小川氏と同じような存在は斑鳩荘もいました。斑鳩荘六ヵ村の一つ宿村も山陽道の宿です。

山陽道斑鳩荘マップ1

斑鳩宿と呼ばれていたこの宿の長者は、円山氏でした。
円山氏は、宿の守護神である戎社の裏手に屋敷を構え、宿村を中心に土地を集積する有力者でもあったようです。円山真久は、永正十三年(1516)に行われた斑鳩寺の築地修理のときには、守護や守護代の五倍もの奉加銭を出しています。もともと円山氏は、荘内の人間ではなく、十六世紀になるまでは斑鳩荘の名主職ももってはいなかったようです。それが円山真久は斑鳩寺や、聖霊権現社や斑鳩荘の鎮守稗田神社の修理にも多額の寄進を行い、その功績によって太子講という斑鳩荘の侍衆たちによって構成される講への参加資格を認められます。鎮守の祭礼や造営にお金を出すことは、地域での身分序列を形成・確認するための格好の機会でした。円山氏は、このセオリー通りを利用して「上昇」していきます。円山氏の財力も二木宿の小川氏と同じように山陽道の交通・運輸にかかわることによって獲得されたものと研究者は考えいます。
 円山氏の姻戚関係を知る史料が残されています。
永禄十年(1567)に作成された円山真久(河内守・二徳)の譲状(「安田文書」)によれば、彼には、「妙林・揖保殿・香山殿・神吉殿・平位殿・小入」の六人の娘がいました。揖保と平位は斑鳩の西方、神吉はずっと東方の加古川あたりの、いずれも山陽道に沿った土地の地名です。円山真久は山陽道の交易によって交流を深めたそれぞれの土地の土豪たちに、娘たちを嫁がせていたことがうかがえます。神古郷の近くには加古川宿があるので、神古氏も宿支配関係者だった可能性があると研究者は考えています。
龍野醤油の祖・円尾家の新資料を発見 龍野歴史文化資料館で公開 兵庫 - 産経ニュース
竜野醤油の祖 安政2(1855)年制作の「円尾家当主肖像画」

 研究者が注目するのは、近世脇坂藩の城下町龍野(兵庫県龍野市)の竜野醤油の祖で豪商円尾氏の先祖についてです。
円尾家文書には、円尾氏の初代孫右衛門は、林田川をはさんで斑鳩宿と向かいあう弘山宿の出身であり、二代目孫右衛門(弘治二年〈1556〉生)の母は、「円山河内守」の娘だったと記します。記載された年代からすれば、この円山河内守は、斑鳩宿の円山真久のことのようです。二代目の母が真久の6人のうちのどの娘であるかは分かりませんが、斑鳩宿と弘山宿の有力者同士が縁戚関係にあったことが分かります。さらに真久は東寺領矢野荘の又代官職も手に入れ、矢野荘に土地も所有するようになります。
  
   法隆寺の快訓の播磨への赴任旅程では、どこの宿でもほぼ同額で同じようなサービスを受けられたことを見ました。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。

小川氏や円山氏のような宿の長者たちが旅館も経営していたことを見てきました。旅館の経営もただ寐る場所を提供するだけでなく、多角的サービスを提供していたようです。
興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺事記』の延徳二年(1490)十一月四日条には次のように記されています。
  先年、興福寺の衆徒超昇寺の被官で奈良西御門の住人宇治次郎は、運搬中の高荷を京都・奈良間の宇治で奪われた。近日になってこの高荷を引いていた馬が宇治の旅館扇屋の所有する馬であったことを知った超昇寺は、次郎と扇屋が結託して荷をかすめ取ったのではないかと疑ったのであろう、扇屋を捕らえ、次郎とともに拘禁してしまったという。

以上を整理しておくと次のようになります。
①宇治次郎は、京都と奈良の間の運輸に従事していた馬借である。
②宇治次郎の馬は個人持ちでなく、宇治の旅館扇屋所有の馬で、それを借りて営業していた。
③宇治次郎と宇治の旅館扇屋は結託して、荷主の荷物を奪われたと称してくすねた。
④これを疑った超昇寺被官の奈良西御門が扇屋と次郎を拘禁した
  ここからは、宇治の旅館扇屋が旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけはなく、馬を持ち馬借を雇い運輸システムの中に組み込まれた存在であったことが分かります。
奈良の転害大路1
平城京の転害大路は東大寺から西に伸びていた

 奈良の転害大路は京都方面から奈良に入ってきたときの入口にあたり、鎌倉時代の終わりにはすでに多くの旅館が営業していました。
室町時代の中ごろには鯛屋、烏帽子屋、泉屋などの旅館が営業していました。戦国時代になると、旅館業以外の商売にも手を広げていたようです。たとえば、天文十一年(1542)十一月、伊勢貞孝が将軍足利義晴の名代として春日社に代参したときには、転害大路の旅館腹巻屋に、300~400人もの随行者を連れて宿泊しています。この腹巻屋は金融業や酒造業を営む富商でもあったようです(『多聞院日記』天文11年11月15日条ほか)。

奈良の転害大路
転害門

旅館の活動は商売だけではありません。
京都と奈良のちょうど中間に位置する奈島宿(京都府城陽市)には魚屋という屋号の旅館がありました。この魚屋の亭主孫三郎はについて、
「康富記」は次のように記します。
「奈島や木津あたりにある大炊寮惣持院領の年貢米を請け取って、大膳職に渡している人物」
探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

京都の近郊には、一つの所領といっても一ヵ所にまとまって存在しているのではなく、耕地があちこちに点在している型の所領が多く、年貢を集めるのも容易ではなかったようです。南山城各地に散らばっている大炊寮領の年貢のとりまとめを、魚屋が請け負っていたというのです。これも多数の馬や人夫、近隣の同業者との連絡網などがあって、はじめて可能なことです。
旅館のこうした機能に、地域的の権力者が目をつけないはずがありません。
播磨の二木宿の長者小川氏は、室町時代にすでに守護赤松氏の被官となっています。そして、みずから赤松氏の人夫催促使を勤めてもいます。人夫の元締めのような存在である小川氏を催促使とし取り込んでおいたほうが領国経営には有益だったのでしょう。

 十六世紀のはじめごろ、摂津の西宮宿には橘屋という旅館がありました。
    天文十二年(1543)、西官の近傍の久代村(兵庫県川西市)に池田氏から段銭が課されます。池田氏とは池田城に拠って北摂津を支配していた国人です。段銭賦課の名目は分かりませんが、おそらく毎年賦課されていた定例の段銭だと研究者は考えいます。暮れになって、段銭奉行の使者田舟五郎兵衛が徴収にまわり、久代村は段銭のほか奉行や奏者への礼銭など合わせて12貫余を納入しています。納入の場所は「西宮橘屋」です。翌年の記録にも、屋号は記されていませんが「西官へ納めた」と記されています(「久代村旧記」)。
ここからは、池田氏の使節は段銭徴収のために領内の村々を巡っていったのではないことが分かります。旅館にやってきて、近くの村々から段銭を持参させていたのです。領内に自前の在地支配の拠点をもたない池田氏は、保護する旅館を利用して、そこで納税業務を処理していたのです。旅館が「納税臨時出張サービス」的な役割を果たしています。旅館にはこのような準公的な顔もあったようです。

以上をまとめておきます
①中世後半のの山陽道には「宿の長者」が経営する旅館が姿を見せるようになった
②「宿の長者」は旅館経営以外にも、人夫の募集や馬借など多角経営を行い金融業者に成長して行く者もいた。
③彼らは街道沿いの同業者と婚姻関係などを通じて人的ネットワークを形成し、広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していった。
④「宿の長者」の持つ力に着目した戦国大名達は彼らを取り込み、支配拠点として利用するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。


 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
熊野信仰の諸相 中世から近世における熊野本願所と修験道 | 小内 潤治 |本 | 通販 | Amazon

熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
 豊楽寺薬師堂 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



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  東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。

大仏造営 資材一覧
 この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
金を塗装するためには「アマルガム」を使った技法が用いられてきました。これは、水銀とほかの金属とを混ぜ合わせた合金のことです。水銀は常温では液体の金属なので、個体と混ざって粘性のあるペースト状になります。水銀に金を触れさせると、金は溶けるように水銀と一体化して、 ドロドロとした半液状の 「金アマルガム」となります。

大仏造営 金アマルガム2

  これを大仏本体に塗り付けて火であぶると、沸点の違いにより金アマルガムから水銀だけが蒸発して、最後に金だけが薄く残ります。この技法は、金が水銀に溶けて消えていくように見えるので古来日本では「滅金(めっきん)」と呼ばれ、これが「メッキ」という言葉の語源となったようです。奈良の大仏も、この金アマルガム法によって金の塗装がなされています。

大仏造営 金アマルガム1

先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
  
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
  用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」

 これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
 金メッキが行なわれはじめてから,塗金の仕事をする人々に原因不明の病気がはやりだします。

大仏造営 金アマルガム3

2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
 気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
  当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。

加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」

「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。

大仏造営 辰砂
辰砂
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」

と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
    池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)
穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
           畳の上を穿れ  (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。 
辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

  辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
        硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄

 魏志倭人伝の邪馬台国には「其山 丹有」と記されています。
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。

大仏造営 辰砂分布図jpg

伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。

伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。

渡来集団秦氏の特徴


 伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。
また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
 伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。

技能集団としての秦氏

松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

  以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。

 先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。

 愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。

列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)  日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。 | 日本列島, 日本, 国
 肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。

土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
 ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
秦神社 - Shrine

土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
秦泉寺廃寺出土の軒瓦(高知県教育委員会) / 天地人堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」

『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」

この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
 入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
2 讃岐秦氏2
   以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
 ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
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勧善寺 遠景
勧善寺(神山町)
 
徳島県神山町に、勧善寺という寺院があります。
ここには、南北朝時代末期に書写された大般若経が伝えられていて、今でも転読儀礼に用いられているようです。
「大般若経」の画像検索結果
大般若経が保管されている箱(勧善寺のものではありません)

大般若経は全部揃うと600巻にもなる大巻のお経です。
これが疫病封じなどにも効き目があるとされ、これを読経することで様々な禍を封じ込めることができるとされました。そこで、地方の社寺でもこれを備えるようとする所が出てきます。その際の方法としてとられたのが、多くの僧侶が参加する勧進書写方式です。元締めとなる僧侶が、周辺地域の寺院に協力を求めます。さらに各国修験の折りに、各地の修行場知り合った僧侶にも協力依頼を行います。こうして、何十人という僧侶の参加協力を得て、大般若経は完成していったようです。
「大般若経 転読」の画像検索結果

 600巻を全部読経すると大変なので「転読」というスタイルがとられます。お経を上から下に扇子のように開いて、閉じることを繰り返し、読経したことにします。この時に、お経から起きる風が「般若の風」と云われて霊験あらたかなものとされたようです。こうして、般若心経を揃えて「般若の風」を地域に吹かせることが、その寺社のステイタスシンボルになりますし、書経に参加したり、主催することで僧侶の名声にもつながります。この時代に讃岐で活躍した善通寺復興の祖宥範や、東讃の増吽も勧進僧であり、書写ネットワークの中心にいた人物でもあったようです。
勧善寺 地図

  神山町の「勧善寺大般若経」の成立背景を見ておきましょう。
この経典はもともとは、柚宮八幡宮(現在の二之宮八幡神社)に奉納されたものです。写経所は大粟山を中心としたいくつかの寺社で、写経期間は至徳四(1387~89)の足かけ三年でおこなわれたようです。上の地図が写経に参加した周辺寺社を示したもので、「大栗山」(神山町)の外にも吉野川下流や鮎喰川下流の寺社も参加していつのが分かります。さらには讃岐やその他の地域にも広がっています。書写ネットワークの中心にいた人物の人徳でしょうか。
 大粟山の鎮守とされる上一宮と神宮寺のような地域の有力な寺社もありますが、「坊」と記された小規模寺院(村堂?)も含まれています。ここからはいろいろな寺社等が、写経事業と通じて結びつけられていたことが分かります。また具体的な個人名としては宴隆のように、全国の行場を修行して四国辺路修行を行ったような修験者(山伏)も参加しています。そして、これらの地域をを結びつけ「地域間交流の接着剤」の役割を果たしていたのが辺路修行者や山伏であったようです。このお寺もかつては、そんな拠点のひとつとして機能していたのでしょう

勧善寺大般若経」208巻
勧善寺大般若経 巻208の奥書

その中で注目されるのが巻208の奥書で、次のようなに記されています
(尾題前)
宴氏房宴隆(書写名)
(尾題後)
嘉慶二年初月十六日般若並十六善神
末流、瀧山千日、大峰・葛木両峯斗藪、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼水木石、天壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者、為法界四恩令加善云々、
後日将続之人々(梵字ア)(梵字ビ)(梵字ラ)(梵字ウン)(梵字ケン)」金剛資某云々、熊野山長床末衆

これは嘉慶二年(1388)の年紀がある奥書で、筆者は宴氏房宴隆と記されます。彼は「三宝院末流」の「熊野山長床末衆」(山伏)で、今までの自分の修行遍歴を、次のように記しています。
①瀧山千日
②大峯(大峰山)・葛木(葛城山)両峯斗藪
③西国観音三十三所
④海岸大辺路(四国大辺路?)
⑤所々巡礼水木石(?)
 宴隆は以上のような修行遍歴を積んだ上で、この地にやって来て大般若経の書写に参加したと云うのです。この中で注目しておきたいのは④「海岸大辺路」です。これは「海岸=四国」で、後の四国遍路の原型となる「四国大辺路」を指しているようです。熊野行者の修行場リストには、「両山・四国辺路十斗藪」「滝山千日籠」や「両山斗藪、瀧山千日、笙巌屈冬籠、四国辺路、三十三ケ所諸国巡礼」と記されることが多いようです。大峰・葛城山系での山林修行と「四国辺路」はセットとなっていたこと、さらに、「観音三十三ケ所諸国巡礼」も、彼らの必須修行ノルマであったことが、ここからはうかがえます。
勧善寺 巻210
        勧善寺大般若経 巻210の奥書

 同じ大般若経の巻201に「宴氏房宴隆金剛資」とあり、巻206・210にも「金剛資宴氏房」とあります。末尾部分にある「金剛資某」は、宴氏房宴隆のことで同一人物のようです。
 彼の所属寺院として「三宝院末流」の「熊野山長床衆」と表記されています。三宝院とは醍醐寺三宝院のことで近世には、修験道当山派の拠点となる寺院です。熊野山長床衆の「長床」とは、護摩壇の別称で、いつしか山伏達の拠点とする堂舎を指すようになります。ここからは宴隆が醍醐寺三宝院の末寺である熊野山長床衆の一員であると名乗ってことになります。彼は熊野行者で、醍醐寺の僧侶でもあったことが分かります。
宴隆がかかわった巻について見ていきましょう。
宴隆の名前が記されているのは巻201~206、208、210の8巻のようです。その中で巻201・204の2巻は、経文と奥書が同筆なので、宴隆自身が写経したようです。しかし他の6巻は、経文と奥書の筆跡が異なるようです。そこで研究者が注目するのが、巻202・210の奥書です。そこには次のように記されています。
(巻202)
宴氏房宴降
宇嘉慶元年霜月一日  後見仁(人)光明真言 澄弘三十八
(巻210)
金剛資宴氏房
於阿州板西郡吉祥寺書写畢 右筆侍従房禅齊
ここでは前者には「後見仁(人)」として澄弘が、後者には「右筆」として侍従房禅斉がそれぞれ名を連ねています。ここからは宴降の呼びかけ(勧進)に澄弘や禅斉が賛同(結縁)し、経巻を書写・本納したことがうかがえます。しかも、巻210は「板西郡吉祥寺(現在の板野町西部」で、大粟山(神山町)の外で書写されています。ここからは宴隆が大栗山に留まっているのでなく、阿波国内を移動して活動していたことが分かります。巻208以外にも、経文と宴隆による奥書の筆跡が違う巻があります。これらは二巻と同じような写経形態がとられたようです。
 以上からは、宴隆は自分で写経を行うとともに、書写勧進も行うなど、大般若経書写事業に深くかかわっていたことがうかがえます。
「焼山寺」の画像検索結果
焼山寺

  大粟山と焼山寺
 宴隆が大栗山(神山町)の住人だったかどうかは分かりません。しかし、熊野長床衆であることから、熊野行者として熊野と阿波の間を往来していたことは確かです。先達活動を行っていたかも知れません。そのため彼の活動範囲は広く、地域間を結ぶ「接着剤」としての役割を呆たしていたと研究者は考えているようです。
  
 もうひとつの謎は宴隆の出自です。
彼はこの地出身ではなく、外から入り込んだ可能性があるようです。そうだとすると、どうして大栗山にやってきたのでしょうかそこで周辺を見回すと、四国霊場十二番札所の焼山寺があります。この寺は大栗山の山ひとつ東にあります。
 「阿波国大龍寺縁起」(13世紀後半以降の成立)には、「悉地成就之霊所」を求めた空海が、「遂阿波国到焼山麓」で修行を行ったとされる聖地で、そのため弘法大師伝説の聖地として、修験者には憧れの地になっていたようです。
「焼山寺虚空蔵菩薩」の画像検索結果
焼山寺の大師像

 また、『義経記」(14世紀成立)の「弁慶山門(を)出る事」に、弁慶が阿波の「焼山、つるが峰」を拝んだとあります。ここからもこの山が阿波国でも有数の霊山としても知られていたことがうかがえます。
焼山寺の性格を考える上で参考になるのが、同寺所蔵「某袖判下文」正中二年(1325)です。
(袖判)
下 焼山寺免事
 合 田式段内 一段 一段 権現新免 虚空蔵免
 蔵王権現上山内寄来山畠内古房□東、任先例、
蔵王権現為敷地指堺打渡之畢、但於四至堺者使者等先度補任状有之、右、令停止万雑公事、可致御祈蒔之忠勤之状如件、
正中二年二月 日                                     宗秀
ここには焼山寺に対し、田一反に賦課される万雑公事の免除と祈祷の命令が行われています。田の内訳は「権現新免」「虚空蔵新免」の各一反です。この文書に蔵王権現堂のことが記されていることから、新たに免田が設定された「権現」は蔵王権現だと分かります。このように14世紀の焼山寺では、 信仰の核は蔵王権現と虚空蔵菩薩であったことがうかがえます。現在もこの寺の本尊は虚空蔵菩薩で、焼山寺山にある奥の院に祀られているのは蔵王権現です。
「焼山寺奥の院」の画像検索結果
焼山寺奥の院 蔵王権現を祀る
 蔵王権現が、役小角とセットで修験者の信仰を集めるようになるのは、古代のことではなく中世になってからのことです。それは役行者が中世以降に修験道の開祖に仮託された後のことです。同時に蔵王権現の信仰は、山岳修行僧と深くかかわっています。
2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
         焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩

 また、虚空蔵菩薩については、空海がその著『三教指帰』において、若い頃に虚空蔵求聞持法を修したと記しています。そこから焼山寺の信仰対象として定着してきたのでしょう。真言宗では弘法大師にならって虚空蔵求聞持法を行う山岳修行者が多かったようです。こうして虚空蔵菩薩信仰と修験道の関係も深くなっていったようです。

以上から鎌倉時代後期頃の焼山寺には
「弘法大師 + 蔵上権現 + 虚空蔵菩薩」

といった信仰対象が並立する霊山としても有名であったようです。このような聖地は醍醐寺三宝院流の山伏である宴隆を惹きつける聖地であったのかもしれません。

勧善寺 と焼山寺地図
  さらに、ここには熊野信仰の痕跡も残ります
焼山寺には鎌倉末期から室町時代にかけての熊野系懸仏が伝来します。ここからは熊野行者の活動がうかがえます。また近世初頭の澄禅の「四国辺路日記」には、焼山寺は「鎮守は熊野権現」と記されます。
 以上のような、焼山寺に残る熊野信仰の痕跡は、宴隆のような熊野行者の活動の反映かも知れません。そうだとすれば巻208奥書は、熊野行者の活動の一例と云えます。
宴隆がたどった道、すなわち大栗山と熊野を結ぶルートはどのようなものであったのでしょうか。
 中世阿波の熊野信仰のは、吉野川水運と深く関係していると研究者は指摘します。大栗山は、吉野川の支流である鮎喰川の上流域になります。この川が大栗山と外部の世界をつなぐ道であったようです。勧善寺所蔵大般若経の巻321奥吉には「倉本下市」とありますが、これは鮎喰川下流、現在の徳島市蔵本町周辺に立地した市と研究者は考えているようです。国産・大陸産の陶磁器をはじめ、豊富な出土遺物により、鎌倉時代後期から南北朝時代における阿波の流通の様相が知られる中島田遺跡は、この市と関連する集落のようです。こうしたことから、鮎喰川は人や物資の往来の道としても機能していたと考えられます。

 大般若経の成立時期から約半世紀を経た天文21年(1552)の「阿波国念行者修験道法度」を見てみましょう
この史料は、阿波国北部の一九か寺(坊)に所属した「念行者」といわれる有力山伏の結合組織があったことを示すものです。これらの山伏は熊野先達でもあり、それぞれの所属する寺院(坊)は熊野信仰にかかわったものが少なくないとされます。従来は、寺院(坊)の分布が古野川下流域を中心にあることが強調されてきました。

勧善寺 地図
 しかし、視点を変えて大栗山との関連という視点でみていくと、鮎喰川流域の密度が高いことに気付きます。下流から挙げると、田宮妙福寺、蔵本川谷寺、矢野千秋房、 一之宮岡之房、大栗阿弥陀寺の五か寺(坊)があります。これは、鮎喰川やその沿岸が熊野信仰の道でもあったことを反映しているようです。当然、そこは熊野系山伏らの活動でもあったのでしょう。
以上からも、大栗山への熊野信仰の浸透に、鮎喰川の果たした役割は大きいといえます。そして、
大栗山―鮎喰川―吉野川―紀伊水道―紀伊半島

というコースが、宴隆のたどった道であったことになります。

神山町に残る勧善寺所蔵大般若経巻208奥書は、当時の熊野行者の活動と熊野信仰の浸透、それが四国霊場焼山寺に与えた影響を考える上での根本資料であることが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義
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西行1

西行といえば有名な歌人として私の中にはインプットされていました。彼の作品は、のちの連歌師宗祗や俳講師芭蕉の手本となったように、旅を生命とした吟遊詩人でもあったというのが私の西行観でした。
 ところが「西行の本業は高野聖」であったということが書かれた本に出会いました。「五来重 高野聖 13章 高野聖・西行」です。ここには「隠遁性・廻国性・勧進性・世俗性」などの視点からすると、西行は高野聖だと云うのです。その本を見ています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
坂出市青海町

西行は、讃岐にもやって来ています。

白峰寺で崇徳上皇の怨霊を鎮めたり、弘法大師が捨身修行したと伝えられる善通寺の我拝師山で庵を結んで、三年近くの山岳修行も行っています。その合間に、記録や歌を残しています。讃岐での生活も、修行よりも、歌の方に関心が向けられることが多いようです。しかし、讃岐への旅も、芭蕉のような風雅の旅ではなく、慰霊の旅であり、四国辺路の聖地での修行であったのです。その余暇に歌は作られていました。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

西行が、いつ、どこで、どのくらい修行したのかを、年表化して確認しておきましょう。
保延六年(1140)23歳 出家
久安五年(1149)32歳 高野山入山
治承四年(1180)63歳 高野山退山 
ここからは32歳から63歳まで約30年間を高野聖として、隠遁と廻国と勧進にすごし、その副産物として多くの歌をのこしたことが分かります。
高野山に入るまでの西行の姿を追ってみましょう
西行は出家して2年後の康治元年(1142)二月十五日、内大臣頼長の邸に一品経の勧進にあらわれたことが次のように記されています。
西行法師来りて云ふ。 一品経を行ふに依り、両院以下の貴所皆下し給ふ也。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふ可しと。余軽々しくは承諾せず。又余年を問ふ。答へて曰く、二十五、抑も西行は、右兵衛尉義清(のりきよ)也 重代の勇士を以て法皇に仕へ、俗時より心を仏道に入れ、家富み年若くして心無愁なり。遂に以て遁陛す。人之を歎美する也
意訳変換
西行法師がやってきて次のようなことを言った。「一品経の書写を、両院以下の貴所が全て行うことになった。紙の善し悪しにかかわらず、自筆で行うのがよい」と。私は、軽々しく承諾しなかった。そして、西行の年齢を聞いた。二十五歳と答えた。そもそも西行は、佐藤義清(のりきよ)である。彼は、勇士として法皇に仕へながら、俗事より仏道に心を奪われた者である。家は富み、年は若くしながら心は無愁で、隠遁生活を選んだのだ。これを賛美するものが多い。

ここからは次のようなことが分かります。
①西行が勧進僧として活動していること
②当時の年齢が25歳であったこと
③西行の隠遁が、世の中の人々の話題になり、賛美されていたこと
この勧進活動は、大治元年(1126)11月19日に焼亡した鞍馬寺再興のためのものだったようです。その活動の中に、西行の姿はありました。彼は宮中に顔がきいていたので、鳥羽・崇徳両上皇以下の貴族を勧進しています。
 自筆一品経というのは28人の結縁者に法華経二十八品を写してもらい、その供養料をあつめて如法経埋経供養と、別所聖の生活資縁にあてるものです。西行は、この後も東山や嵯峨を転々とします。双林寺・長楽寺・清凍寺・往生院のまわりに群れ集まる念仏聖や、勧進聖たちのあいだに混じって生活していたことがうかがえます。
 『西行物語絵巻』に描かれた彼の寓居は、聖の庵が建ちならんで商人が往き交い、子どもがが遊ぶなど、雑踏の巷です。このとき詠んだとされる歌が以下の歌です。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて、人々よみけるを
うなゐ子が すさみにならす 麦笛の
こゑにおどろく  夏のひる臥
  絵巻には、この歌のように西行が昼寝している姿が描かれています。これは西行を隠者とするイメージではありません。聖は「仙人」ではないようです。それでは食べていけません。俗塵にまじわらなければ生活できなかったようです。出家後に西行は勧進僧になっていました。
西行4
西行 東下りの図

なぜ西行は高野山にやってきたのか
久安五年(1149)に高野山の大搭・金堂・灌頂院が雷火で焼け墜ちます。そして、勧進活動が開始されることになります。そのために、経験のある有能な勧進聖が招かれて、復興勧進にあたることになったようです。このとき西行を高野山にまねいたのは、この大火を目のあたりに見て日記に記した覚法親王(白河上皇第四皇子、堀河天皇の御弟)と、大塔再興奉行だった平忠盛だったと研究者は考えているようです。西行は、高野山と京都とのあいだを往復して、文学の才をもって貴族のあいだにまじわり、高野山の復興助力をすすめたようです。復興の総元締めである平忠盛の西八条の邸に出人りしていたことが記録されています。
 高野山復興のパトロンである平忠盛が亡くなると、その子の清盛のサロンにも出入りするようになります。こうしたサロン活動を通じて、期待された勧進目標を確実に果たしていたようです。そういう意味では彼は優秀な勧進僧であったと云えそうです。
 そして勧進活動の合間には、大峯修行や熊野那智で滝行など、聖らしい苦行も行っています。同時に、大原や東山・嵯峨の聖との往来も重ねます。とくに大原三寂といわれる寂念(藤原為業)・寂然(壱岐守頼業)・寂超(頼業の弟)および西住とは、しばしば歌論や法談をかわしていることが『山家集』にも記されています。生業の勧進、サロン活動、ロマンス、創作活動、修験など、彼の人生は充実したものだったようです。
西行2
天竜川を渡ろうとした西行が武士に鞭打ちされた話 ここでも笈を背負っています

最初にも述べたように、西行の廻国は美化されています。

そのため、一生を旅から旅へ「 一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけのようです。しかもそれは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 たとえば東大寺勧進聖には勧進帳が、高野聖には大師像のはいった笈が必需品だったのです。田亀(たがめ)は、笈を負う形に似ているというので、高野聖は「たがめ」とも呼ばれたようです。讃岐にやって来た西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせます。      
西行3

応永20年(1413)の「高野山五番衆一味契状」には、次のように記されています。
   高野聖とりし、空口(=おい)を負ひ、諸国に頭陀せしむ
  笈が高野聖のシンボルになっていたのは、宗教的権威の象徴だったからのようです。
歴史めぐり源頼朝~西行に出会う~

西行の東大寺再興勧進
勧進聖は、一つの寺の専属ではありませんでした。依頼されれば、他寺の勧進におもむいたようです。西行は関わった最も大きい勧進は、東大寺勧進でした。治承四年(1180)12月に平重衡の南都焼打ちによって東大寺は炎上しました。その再建のために重源が大勧進空人に任命され、多数の勧進聖をあつめます。西行は重源に頼まれて、鎌倉と東北の平泉を勧進のために訪れています。これも西行の名声を利用した大口勧進(募金)であったようです。
知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ | 神奈川県 - 観光・地域 - Japaaan - ページ 2
西行と頼朝

『吾妻鏡』(文治二年(1186)八月十五日)は、次のように記されています。
二品(頼朝)鶴岡宮に御参詣、而るに老僧一人烏居の辺に徘徊す。之を怖しみ、景季を以て名字を間はじめ給ふの処、佐藤兵衛肘憲清法師なり。今の西行と号すと云々(中略)
則ち営中に招引して御芳談に及ぶ。此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り。(中略)
恩問等閑(おんもんなほざる)の間、弓馬の事に於ては具(つぶさ)に以て之を申す。即ち俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。絆終夜を専にせらると云々
意訳変換しておくと
将軍頼朝が鶴岡宮に参詣した時のことである。老僧が一人烏居の辺を徘徊している。これを怖しんだ景季が、その名を問わせると、佐藤憲清法師で、今は西行と名乗っていると云う。(中略)
すぐに営中に招き入れて、歓談に及んだぶ。この間、歌道や弓馬の事について、将軍はいろいろと尋ねられた。(中略)それに対して西行は、弓馬の道はみな忘れました。和歌についてもその奥義については私にも分かりませんと答えた。頼朝は西行が気に入って、夜通し話しをした。

 これが有名な頼朝と西行の出会いシーンです。頼朝は西行に鎌倉に滞在するようしきりにひきとめますが、西行は先を急ぐといって平泉に出かけてしまいます。
重源上人の約諾を請け、東大寺析として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く

とありますので、奥州平泉旅行が勧進行であったことが分かります。

これには、頼朝が西行に錢別に銀作りの猫をあたえたが、門前の子供にあたえて去ったというエピソードが加わります。西行の無欲さを協調する人もいますが、旅行の荷物になるからと研究者は考えているようです。しかし『吾妻鏡』によると、この銀猫は、義経滅亡のとき平泉で発見されたと記されます。いずれが真か偽か謎が残ります。
 頼朝は、これより先にすでに(米)一万石、沙金 千両、上絹千疋を重源に贈っていましたので、このときには勧進に応じなかったようです。また、奥州平泉でも秀衡は寿永三年(1184)6月に沙金五千両を東大寺に奉加していました。西行の重ねての勧進に応じたかどうかは分かりません。関東・平泉への旅も勧進目的であったことは押さえておきたいと思います。
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西行の世俗性                           
西行の世俗性とは、具体的に妻子がいたのかどうかです。これには、次のようなふたつの見方があるようです。
①歌聖にふさわしく、まったくの清僧であるから、妻子などもってのほかで、歌のなかにあらわれる女性もたんなる文学上の交友にすぎないという立場で、『山家集』に妻子をよんだ歌が一首もないのも、妻子がいなかったことを示すものだ
②妻帯だけはみとめようとする立場
②の立場としては、次のような見解も出されています
「妻子を振り棄てたからには、一向家の事、家族の事を顧みず、直ちに山林に入って関係を絶つのかというとそうでもない。俗縁の者と居を共にせず、僧堂山林に起居して念修するだけのことで、俗縁の家族はやはり家族に相違ないから、時々会見もすれば消息も明らかにしておく」
 また、次のような説もあります。
「僧として、人前に通るまでは、分相応に多少修行をしなければならない。その期間だけは、毎日家庭から弁当をもつて通ふわけにはゆかぬから、妻子の傍を離れるとということはある。西行にもそいう期間が若干はあったろう。しかし、修行が終われば俗縁への出人は自由である」

 これだと「修行中のみの別居で、その後は妻帯可」ということになります。このような俗聖(ぞくひじり)の妻帯は、行基や空也や親鸞がそうであつたように、特殊な階級として許されていたようです。しかし、俗聖では僧位・僧官は、のぞむことができず、本寺からの衣食住の支給もありません。そのため、聖は勧進によって身をたてるほかはなかったようです。当時は「僧」にもいくつかの階級があり、清僧と俗聖の間には、明快な一線があったとしておきましょう。西行は俗聖だったのです。
和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 五来重 高野聖 13章 高野聖・西行

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。
二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

DSC03479

これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

増吽 水主神社jpg

  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
この神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。水主神社はその名前からも分かる通り、もともとは水源の神を祀った神社だったようです。三豊の二宮川上流の大水上神社と性格がよく似ています。そこへ中世になって、熊野三所権現が勧進しされて、併せて祀られ同体とされるようになります。つまり、地神が水主神、客神が熊野権現ということになります。
水主三山 虎丸山

 水主神社の「大水主大明神和讃」は、中世の水主神社知る上では貴重な資料です。熊野信仰との関係がどのように記されているのかを見てみましょう。。
従孝霊天皇元年、至応永十七庚賞一千六百三十四年。
親依明神之御託宣直以和讃二結玉フ。又熊野与明神一外之事ハ、依熊野ノ若殿ノ御託宙、除今宮五郎殿ノ段、熊野本宮結御前与明神同一之由直承之。我御山ニテモ、水主二テモ、雖有因呆之不同一口也 神言銘肝、結和讃給。
 北御前ハ 如本宮証誠 天神六代 此ハニ親大御前ハ 結御前 南御前ハ 早玉 熊野両所三所権現卜中モ 一所大明神卜中モ 一然卜云々
明応第五天卯月五日書之。是偏二大明神之神慮卜存也。其故ハ、愚僧此和讃ヲ先年所持之処、行方不知失畢。乃此年来五六ケ年之間、彼方此方雖尋申更不得遇事然処二、此本ハ地蔵院宥改、大水主山麓之砌、自社中申出、所持之乃今熊野任神慮苦写之畢。此和讃之趣興大水主差図縁起寸分相違之儀無之。但従安居院神道出ル処ノ水主ノ本縁起ニハ、相違之処多之。但神秘之儀式、能々思エハ、只秘事ヲ尽シタル迄ニテ、更々無相違云々。
  意訳変換しておきましょう。
孝霊天皇元年から応永十七(1410)年に、明神の御託宣によって、この和讃が完成した。
熊野と明神は一体であり、熊野の若殿の御託宙、今宮五郎殿ノ段を除き、熊野本宮の御前で明神と同一であることの由緒を承った。我山、水主においても、この二つを同一とすることは肝に銘じるべしと和讃は結んでいる。
 北御前は、熊野本宮であり 天神六代は 親大御前は 結御前 南御前は 早玉熊野両所三所権現とも、三所大明神とも申す。明応五(1496)年に卯月五日にこの書は書かれた。これは大明神の神慮である。それ故に、愚僧(宥旭)は、この和讃を先年より所持してきたが、行方不明となっていた。近年の五・六ケ年の間、見つからなかった。ところが偶然に、宥改が、大水主山麓の地蔵院のにあることお申出でてきた。さっそく手元に置いて、書写して和讃の趣と大水主差図縁起を比較してみたところ寸分の相違もなかった。ただし安居院神道の水主本縁起と比べると、相違する所が多い。神秘の儀式については、よくよく考えるに、ただ秘事を尽したるに過ぎず、更々相違はない。
ここからは次のような事が分かります。
①応永十七年(1410)に、明神の託宣によって、増吽がこの和讃を作成したこと
②大水主大明神と熊野三所権現とが一体であること
③明応五年(1496)に僧宥旭が、これを書き終わるとしている。
④安居院神道の水主の縁起とは相違するところが多い
⑤この和讃以外にも縁起が存在した
ことが述べられています。
この和讃については『大水寺山緒』では、増吽の作としています。
つぎに、水主神社所蔵の「水主神社社坊図」をみていきますが、残念ながら絵図はアップできません。悪しからず。
 この図は文政四年(1821)に石門露珍によって描かれたもののようです。水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアに多くの宗教施設がひしめきあっている姿が描かれています。水主神社を中心にして本宮山・新宮山・那智山が描かれ、その山麓に数多くの寺院・庵・神社などが極彩色で細かく描かれています。それぞれに短冊形の銘記欄を設けて、寺院名や坊の名が墨書されていますが、墨書の部分が剥落していて分かりにくい状態です。後世の貼紙に墨で寺院名や坊名が記されているので、個々の名称を知ることができます。有難いことです。
 しかし、江戸末期にこれほどの建物がこの地にあったとは、考えられません。
「讃岐国名勝図会」の挿図と比較してみます。
水主神社 讃岐国名勝図会

ここには大水寺以外は、何も描かれていません。また次のように本文には記されています。
「往古は大内一郡の惣鎖守なれば、社家も七十五員、僧坊四十二宇ありて繁栄なりしが、(中略)さるにより社殿・境内は古のままなりといへども、社家・僧坊もあまた退転し、寺跡当村に所々に存せり」
「仲善寺跡、釈迦寺跡、孝徳寺跡、葉王寺跡、蔵坊跡、観通坊跡、念仏坊跡、多聞坊跡、新蔵坊跡、善福寺跡、その他三十四坊一々挙ぐるにいとまあらず」

 ここからは江戸時代末期には、寺跡を残すだけになっていたことが分かります。そのため文政四年の社坊図は、中世末の室町時代ころの全盛期の様子を描いた古図を模したものと研究者は考えているようです。作者の石門露珍も「臨写」したと記しています。「臨写」とは「手本を見ながら写す」という意味になるようです。
 そのような視点で「社坊図」をみると、「大水主大明神旧記」にある嘉古二年(1442)九月八日の「大水主社供僧座配之事」の記述と、一致していると研究者は指摘します。そこには、供僧名が次のように記されています。
宰相坊・薬王坊・党音坊・釈迦寺・円光寺・満蔵坊・宝幢坊・定光寺・持宝坊・玉泉坊・仲善寺・善福寺・孝徳寺・城琳寺・宝積坊・岡之坊・財林坊・北之坊・継養坊・聖無動坊・十輪寺・妙光坊・浄土寺・多聞坊・十乗寺・遍照寺・忠日寺。光善坊・本蔵坊・善勝坊・智海坊・宝住坊・高原寺・I蔵坊・念仏寺・慈尊坊・報恩坊・願成坊・国護坊・観通坊
これだけの院坊が水主神社の周囲にはあり、僧侶や修験者・聖が住持していたことになります。以上のことを頭に入れた上で、研究者は絵図を読み込んで、次のように指摘します。
①大水主神社を図の中央に大きく描き、参道には桜並木があり、赤い大きな鳥居が一基描かれる。
②その奥まったところに本殿や摂社などが並び、三重塔が傍らにみえる。いかにも神仏混淆の中世の伽藍らしい
③水主神社に隣接して大水寺がみられるが、その規模はかなり大きい。
水主神社 看板

ここからは水主神社の別当寺として、大水寺があったことが分かります。
私は、水主神社の別当寺は与田寺だったと思い込んでいたのですが、そうではないようです。水主神社の別当寺は大水寺であったようです。水主神社と与田寺がかなり離れているので、神仏分離後に与田寺が移動したのかなと思っていました。それなら大水寺と与田寺の関係はどうなるのでしょうか? 今後の宿題としておきます。

大水寺について『御領分中寺々山来』には、次のように記されています。
「大水主人明神之別当にて在之候、開基は知不申候、中古応永年中、増吽僧正再興、則自筆之棟札有之事」

とあり、増吽の棟札が残り、彼が再興したと伝えます。また『御領分中寺々由来』には大水寺の項に
「当寺開基詳ならず、初め社坊といいしを寛文の頃、今の寺号に改む」

とあり、大水寺というのは江戸初期ころからの寺号とします。
たしかに『大水寺大明神社旧記」には、
永享四年(1432)卯月十五日の御法楽には「水徳山神宮寺宝珠院」とあり、古くはこの寺が神宮寺と呼ばれていたようです。また水主神社の鳥居の下部に位置するところの数棟には、浄土寺と刻まれているようです。
  この浄土寺は「御領分中寺々山来」には
「水主山石風呂在之事  、弘法大師堂、代々堂守之寺にて有之候、文禄年中再興、共後元和年中再興棟札有之事」
とあり、次のような事が分かります
①水主の石風呂があったところにあった
②弘法大師堂があり、弘法大師伝説が伝わっていた
③その大師堂の堂守を代々勤めていた寺である
④元禄期に再興された

①については「社坊図」を見てみると、堂宇に隣接して小さな建物があります。これが石風呂になるのでしょうか。よく分かりません。

その後は『讃岐国名勝図会』の「弘海寺」の項目に「はじめ浄土寺といえり」とあるので、浄土寺から江戸時代の末期には弘海寺と改名していたようです。
大水寺の変遷を整理しておきます
①中世は水徳山神宮寺宝珠院
②鳥居には浄土寺
③江戸時代の末期には弘海寺
④その後、大水寺?
 この変遷を見ていると、ひとつの寺院系譜ではないような気がします。中世には水主神社に仕えた社僧の寺がいくつかあって、並立していたのではないでしょうか。彼らが寺の寺勢とともに別当職を交替して担当していたようにも見えます。

社坊図には、背後に大きな山が描かれます。
水主三山のようです。  水主三山とは水主神社を取り囲む虎丸山・那智山・本宮山の三山です。今でも「ミニ熊野三山巡り」のハイキングルートとして親しまれています。社坊図には、それらの山の頂きには、那智・新宮・本宮と注記され、鳥居と社殿がみえます。特に那智には、滝が流れ落ちています。熊野の那智の滝にちなんだデフォルメのようです。
水主三山 虎丸山

この他に銘記欄には、依守太夫・定吉・貞遠太夫・守重太夫・楠谷太夫などと記されます。これらの人物は『大水主人明神旧記』の文安元年(1444)の「大水主神人座配之事」の座配に出てくる人物名と同じです。
 社坊図には、数多くの寺院や坊が書き込まれていますが、□□坊と記される建物は、小さく簡素なものです。
ここに居住したのが水主神社を根拠地とする熊野修験者であったのではないかと研究者は考えているようです。中世には、与田山の若一王子権現社や水主神社を中心とする熊野信仰を背景に、東讃の地には熊野系の勧進聖や先達が数多くいたようです。増吽はそうした熊野先達の中心的な存在であったことは前回に見たとおりです。

増吽 那智山

 水主神社を囲むように配置された水主三山の熊野権現は、熊野三山を勧進したものです。
それを増吽を中心とする熊野勧進集団は信仰し、勧進活動を進め、この地に数多くの神仏施設を作りあげていったのでしょう。それは、建物や施設だけでなく教学センターや書経センターも含め、一大宗教センターとなり、「東讃の新熊野」として機能していたようです。そのような姿は、海を越えた備中児島の五流修験の活動と重なり合ってきます。増吽が児島の数多くの真言寺院を創建したと語り伝えられていることとつながります。

水主三山 那智山
水主三山の那智山からの瀬戸内海方面

以上のことから、与田山や水主の地は、五流修験の児島と共に熊野信仰の極めて盛んな霊地で、熊野信仰の四国の拠点として機能していたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰

増吽 与田寺

  讃岐大川郡の与田寺の増吽は、天皇から「大師(弘法大師)ノ再誕」とまで称えられ、戦前は弘法大師に次いで讃岐を代表する高僧と高い評価を受けていたようです。戦後は、忘れ去られてような存在になっていますが、再評価の動きがあるようです。どうして、彼が再評価されるようになったのかも含めて、見ていきたいと思います。
増吽
 増吽上人(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)
まずは、 香川県史の増吽(ぞううん)に関する記述を挙げてみましょう
①増吽は、貞治丑年(1366)、大内部与出郷西村(現大内町)に生まれた。
②父は、不詳。母は、蘇我氏の末、安芸左衛門九郎盛正の女と伝える。
③幼くして、当時、水主(みずし)神社の別当寺であった薬師院神宮寺(与田寺)に入寺した。
④薬師院の住僧増慧法印に師事して竜徳坊と称した。
⑤高野山・東寺に真言密教を学び、教学に秀でると共に画像彫刻もよくしたという。
⑥水主寺の寺伝によると、増吽は、師である増慧が河野郡北条の天皇別院であった摩尼珠院に移ったので後住となり、薬師院を改めて虚空蔵菩院神宮寺(与田寺)とした。
増吽も高野山で真言密教を学んでいるようです。そして、仏像彫刻や仏画にも秀でていたようです。そのため彼の描いた弘法大師像が数多く残されています。しかし、彼の若い頃のことは、よく分からないようです。
増吽 与田寺2


増吽は、明徳二年(1391)に虚空蔵院(現与田寺)の住職となります。このお寺の「由緒」には、末寺として次のような寺院を記します
 下野小股(小俣)の会同院・同国小山の会削袖寺
 武蔵国高橋虚空蔵院
 尾張国冥福寺・
 播磨国無最寄院・
 備中国清氷山惣持院・同日女生山性椋院・
 備前国安寄院・阿波国虚空蔵院・
 同国談義所黒田寺・
 同順良骨寺・
 小豆島北山宝生院など国外21か寺、
 そして、大内・寒川郡に100か寺というのです。
 また「御領分中宮由来、同寺々由来」には、これらとは別に、宝生院末寺21、安寿院末寺等20、惣持院末寺50、性徳院末寺20、無量寿院末寺15、阿波の虚空蔵院末寺3とあって、末寺を全部合わせると104か寺と記します。
 この「由来」の成立は、寛永年間といわれ、寺社の本末関係がまだ明確になっていない時期です。この内容は誇大であり、自称が大部分であったと研究者は考えているようです。しかし、これら名が挙げられた寺は、増吽が関係した寺々であることに間違いはないと言います。それらは、増吽が修業や再興修造するなど、何らかの関係があった寺だと云うのです。そうだとすると、まさに偉大な勧進僧だったことになります。
 
水主神社の近くに若王子(東かがわ市与田山)という寺院があります。
ここには応永六年(1399)から応永九年にかけて書写された「大般若経』があり、そこには次のように記されています。
「若王寺大般若経』
外題実、歳空蔵院住持 金資増吽生年三十七、升亮勝一局増範、応永九年三月三十日、敬以三諮日夜功労乎、常一日写也、右筆真海六十九 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二
  応永九年三月三十日の年紀を持つ巻に、増吽と噌範の名前があります。増吽は「天王寺大般若経」の書写にも、増範らとともに重要な役割を果たしています。
 この「大般若経』は若王子権現の常什の為に赤松前出羽守顕則が願主となって筆写されたもののようです。写経には、与田山・水主近在の僧侶を中心に、讃岐国三木郡や遠く若狭・薩摩国の僧侶たちが参加しています。
白鳥町誌に記された関わった写経者名一覧を見てみましょう
  一 国外からの写経者と認められるもの
   阿波国板西郡 宥真房(小野流)
   若狭国遠敷郡神宮寺   円玄房
    同  上      伊勢公
   阿 波 国 河 嶋   良吽房
   播磨国一乗寺  竜泉房増真
   薩摩国日置惣持院   円海
   越後・国上寺  円海
   阿波国名西郡  尊恵
   阿波国葛(萱力)嶋荘   覚舜(禅密系の僧か)
   阿波国萱嶋荘吉成   勢舜(禅密系の僧か)
   阿波国秋月荘  禅意
   阿波国板西郡建長寺   天海(禅密系の僧か)
    同  上      玉巷(禅密系の僧か)
   阿波国板西下荘  口口(不詳)
   摂津国多田荘清澄寺   良祐(三宝院流)
   (播  磨  国)   赤松顕則(範力) (願主)
  二 讃岐国内のうち大内郡外からのものと認められるもの
   三木郡氷上村長楽寺   教義
   三木郡田中郷     観照
   三木郡毎平(堂平力)   豊後公
  三 水主神社関係者と認められるもの
   虚 空 蔵 院   増吽
     同  上      増範
     同  上      増楡
   薬師堂般若坊  (不明)
   薬   師   堂   覚舜
   与田郷東大谷 増祐
   大   水   主   良闇
     同  上      小輔
   大水主無動寺  賢真
   大水主円光寺  定全
   大水主中(仲) 善寺  良啓
   金 剛 寺 坊 主   (不明)
  四 尼僧と認められるもの
              知栄尼
              法智禅尼
  五 与田山若王子関係者と認められるもの
   当山住人当寺住職   増光
   王 住 呂   増円
   下山長福寺   詠海
    同 上      真海
   長福寺東琳社   (不詳)
六 その他(若王寺・水主神社の住僧が大部分と思われる)
   相三郎丸  戒乗  教賢  教忍  玉泉坊
   賢実  源禅  孝斉  慈範  慈明  信照
   実仙  重賢  成鏝  成範  増任  増継
   増快  増信  増元  増意  増珍  増明
   増門  増(?) 朝等  了舜坊呈賢  等畦
   入野中山(某) 念尊 本乗 法林寺(表
   明通  祐光  宥慧  良恵  良成
   良仁  良尊  亮全  了海

 まず感じるのは、写経に関わっている僧侶の数が多いことです。これだけの数の書経スタッフがいたことに、びっくりします。そして参加者のエリアが広いことです。この写経には、当時37歳で虚空蔵院院主だった増吽も参加しています。それは巻一に、弟子二人とともに名前があることからも分かります。しかし、分担筆写から見ると、増吽は、この写経勧進にあまり主体的に関わっていないと研究者は考えているようです。この書写は幡磨の一乗寺増真が中心となって行われたようです。
次に、目が行くのは、阿波国の僧侶の多さです。
大内郡と地理的にも近いこともあるでしょう。当時の人々は、南海道の大坂峠を頻繁に行き来していたようで、阿讃山脈の険しい峠越えは、気軽な旅程だったかもしれません。参加者の拠点名を見ると吉野川沿いの寺院です。中でも宥真は40巻を書写しています。国外者では最も多い巻数になるようです。

なぜ、この大般若経は播磨の赤松氏が願主となっているのでしょうか?
「若王子大権現縁起」によると、鎌倉末期の元弘年中(1331~34)、大塔宮護良親王が赤松則祐・岡本武蔵坊の両人を連れて大内郡にやってきて、在地武士の佐伯季国の協力を得て虎丸山に一城を構えたと記されています。そして滞在の間に、親王が大般若経五〇巻を筆写して若王子権現に奉祀したとされます。赤松氏に縁のある者が鎌倉幕府討滅の軍勢を催すため大内郡にやってきて、同時に、若王子に戦勝祈願を行ったと解しておきましょう。
 それから約70年後のことになります。
奥書の年紀を見ると、応永八(1401)年三月五日、播磨国一乗寺の住僧増真は、巻四百二十五を書写し終えています。ついで、翌六日、巻四百十六を摂津国河南辺北条多田荘清澄寺の良祐が、そして、七日には巻四百四十九を赤松顕則がそれぞれ写経して筆を置いています。この三人は日を合わせるように、若王子権現にやってきて、同時期に経巻を筆写し終えているのです。一乗寺の増真と清澄寺の良祐は、播磨国守護赤松氏の所領にあるお寺です。赤松氏とその勢力基盤であった土地の住僧が、3人そろってやって来て大般若経を寄進したのは、どうも「戦勝祈願」だったようです。それを70年前の先祖の例にならって、行ったようです。
 増吽から話が逸れたようですが、ここで確認しておきたいのは、水主神社や与田寺周辺には、大勢の書写スタッフが存在し、それを取り巻くように広い範囲の支援ネットワークが形成されていたことです。
これがどのようにして、形作られていったのかが次の課題です。
 増吽の名を高めた最大の功労者は、彼の直弟子(詳しく見ると増慧の相弟子に当たるので弟弟子?)である増範であったようです。
少し回り道になりますが、増範について見ていきます。
 増範は、応永六(1399)年の若王子権現の大般若経書写のときは、34歳の働き盛りです。当時は、虚空蔵院にいて高墜房と称していました。この時に増吽は、37歳で同院住職を勤めています。増範は、その後まもない時期に上洛したようです。増吽の名声を高めたとされる応永十九(1412)年の北野社一切経の奥書によれば、覚蔵増範と署名しています。
  増範が北野社覚蔵坊主となって、この一切経書写供養会を主催したと研究者は考えているようです。
覚蔵坊は、写経会が行われる北野経王堂の管理と運営を執り仕切っていたようです。したがって、増範が、写経会に際して願主となって主催したことになります。その時も、虚空蔵院の増吽とその一門が参加しています。多度津の道隆寺第22世・23世の良秀・賢秀らの門下を始め、讃岐から35人が加勢しています。摂津からは20人の僧侶が参加し、そのエリアは山城・和泉など畿内から北は越後、南は九州諸国にいたる25国にもおよびます。それだけの人脈を増範は持っていたようです。しかし、これは増吽によって培われた人脈だったのかもしれません。そうだとすると増範の出世は、増吽によりもたらされたものと言えるかもしれません。
増範の業績で特筆すべきは『北野社一切経』の書写事業と勧進です。
mizmiz a Twitter: "経王堂  足利義満が三十三間堂の倍の長さで建て、江戸時代まで存在してたらしい!この立面が衝撃的で調べてたら石山修武も日記で同じこと言ってたw  https://t.co/Zc0CN9AzXe… "

 北野社経王堂は、応永八(1422)年に足利義満が建立したものです。ここでは明徳二(1391)年に起こった明徳の乱における戦死者を弔うために、将軍が主催して万部経読誦会が行われるのが恒例になっていました。「北野社一切経」は、この行事のために新たに書写されることになったようです。増範は北野社万部経会の経奉行として、実際の経営にもあたっていました。当然のことながら増範は「北野社一切経」の大願主で、多くの経巻に大願主や大勧進として名前が記されています。
 この事業は、応水19(1412)年12月17日から8月15日までの五カ月間にわたって書写し、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波・讃岐・河波・肥前和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美作・日向の国々の僧侶などの百数十名が参加する大事業でした。このために大内郡の水主神社の書写社僧スタッフや全国ネットワークがこの時にも活躍したはずです。
 北野社の一切経五千五百帖が調ったのは、応永十九年のことです。この功績によって彼は、この後北野経王堂(願成就寺)住持となり、年々盛んになっていく万部経読誦会の経営に当ることになります。このような増範の異例とも云うべき出世には、讃岐東分郡守護代の安富氏の後援と管領細川氏の支援があったと研究者は考えているようです。
増範の出世を踏まえて、増吽のことに立ち返えりましょう。
 北野社一切経奥書の増吽の肩書には、
「讃州崇徳院住 僧都 増吽」

と記されています。ここからは増吽が白峯崇徳院(頓証寺)に「栄転」していたことが分かります。時は応永十九年三月十七日のことです。翌年の崇徳院250年遠忌法要の導師に、増吽が選ばれたためのようです。この時には、讃岐に流刑となっていた高野山の学僧宥範は、赦されて讃岐にはいません。増吽をおいて適任者はいなかったようです。
これが、増吽の讃岐一国に知名度を飛躍的に高めるイヴェントになります。増吽は、崇徳院の法要を無事済ませ、虚空蔵院へ帰ってきます。それを追うように、後小松院から任僧正位の吉報があったと研究者は考えているようです。このような増吽の出世には、弟弟子の増範と同じように讃岐東分郡守護代の安富氏の後援があったようです。

 15世紀初頭の応永年間の大内郡は、水主神社を中心として仏神事が盛んに行われて宗教的にも隆盛であったようで、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。これらの環境は形成には、安富氏の力があったとしておきましょう。

「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範のほかにも、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。
良仁は「讃州大内部与出虚空蔵院筆良仁」や
   「讃州大内郡大水主社良仁」
賢真は「讃州大内虚空蔵院賢真」
   「讃州大内大水主社住僧賢真」
と名乗っていて、虚空蔵院とも大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で虚空蔵院が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していたのです。
旅 809 水主神社 (東かがわ市): ハッシー27のブログ

社僧の名前だけでなく、大水主社が書写場所であったことが分かる記録もあります。

ここからは、当時の大水主社は、多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことがうかがえます。それを形作っていったのが増吽ではないかと研究者は考えているようです。
増吽と写経集団
水主神社の「外陣大般若経』巻第二百七十は「水主、千光寺如法道場」で書写されたと記されます。この奥書からは、大水主社にも如法道場が設けられていたことが分かります。さらに想像力を働かせると、水主・千光寺如法道場は書写スクールの機能を果たしていたのではないかという仮説になります。讃岐だけでなく、隣国の阿波からやってきた僧侶達が水主神社で修行し、経衆(書経スタッフ)として帰国していく。そして、別当寺の増吽や増範の依頼があれば、割り当てられた巻を書経して水主神社に届ける。そんな書経ネットワークの存在が見えてくる気がします。この写経集団は増吽を先達として、水主神社を拠点としていたのでしょう。
水主神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
水主神社

もう一度、増範のいる北野社に自を向けましょう。
 北野社万部経会は1万部を千人の僧が読経する経会のようです。北野社一切経会とともに幕府にとって重要な年中行事でした。この万部経会に使用する経本は、毎年新写して僧侶達に頒布したとされます。この毎年新写される法華教を、増吽率いる経衆が書写していたのかもしれません。これも仮説です。
次に注目したいのは、増件が率いる経衆の誕生過程です。
大水主社のある水主地区は本宮・虎丸山(新宮山)・那智山に囲まれています。ここに増件が熊野三山を勧請したと伝えられます。ここからは増件が熊野系勧進僧であったこと、つまり熊野信仰を強く持っていた修験者という姿が垣間見えてきます。高野山で学んだのですから当然のことかもしれません。このことについては、また別の機会にします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
水主三山 虎丸山

 参考文献   
唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       
香川史学1989年

  増吽
倉敷市の蓮台寺旧本殿(現奥の院)に祀られている増吽上人

戦前には「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽には、熊野信仰と弘法大師信仰が重なり、いくつかの別の顔が見えてきます。
①熊野信仰にも傾倒する熊野系の勧進聖 廻国性
②弘法大師を深く信仰する真言宗の僧侶
③写経・工房集団を束ねる先達
前回は③の姿を追いかけましたので、今回は①の熊野信仰との関係を見ていこうと思います。
関西の力】祈りの場(1)熊野詣で 上皇も歩んだ「霊性」宿る参道 - 産経ニュース

 院政期から鎌倉時代にかけて、熊野詣が大流行するようになります。この流行をもたらす役割を担ったのが、熊野先達や熊野系の山伏・聖たちの勧進・布教活動でした。讃岐大内郡の与田山への熊野三山勧請を、増吽の時代のこととする説もあるようですが、香川県史はこれを否定します。増吽以前の、南北朝から鎌倉末期に遡るものという立場です。まず、熊野権現の与田山への勧進時期について確認しておきましょう。
増吽 水主三山

与田山の熊野権現勧進由来は、次のように伝えます

元弘年中(1331)、後醍醐天皇が捕らわれの身となり皇子大塔言(激趾親王)は、熊野へ落ち延び難を逃れようとした。その時、主従別行動することになり、その離別の瞬間に一羽の烏が西に飛び立った という。その烏は、神の導きとして与田山に飛来した。

烏の飛来は、熊野権現の使いを意味するものでしょう。ここからは、南北朝初期にはすでに与田山に、熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。

水主三山の那智山上空からの瀬戸内海
 水主三山の那智山上空からの瀬戸内海

 背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)の活発な交易活動と布教活動が展開」されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。
水主神社 地図
水主神社やその神宮寺であった与田寺が熊野信仰関わっていたことを示す史料を挙げてみましょう
①与田寺縁起には、観応二年(1351)の預所沙弥重玄の寄進状があり、祝師阿闇梨苦海に免田畠が寄せられている
②貞和2(1346)年の銘文のある棟木がある 
③応永十七年(1410)に増件が作ったとされる「熊野水主大明神秘讃』には、熊野三所権現と大水主大明神は同一体であると記されている。
④水主神社の「外陣大般若経」巻第八十八には「敬白泰法山川市大水主社 五所大明神御賢治等」とあり、「為熊野権現」とある。大明神とは『大水、五所大明神和讃』から、熊野三所権現を指すようです。

そして、水主神社が熊野信仰の拠点であったことを示すのが「若王子大般若経」巻第二百二十八です。ここには次のように記されます。
真敬白 組斗書写率、讃州大内郡与田山王子常住御経由、右執筆宥南無熊野権現当世成就、子時志永七年三月二十一日
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会)
ここには大般若経の書写成就を熊野権現に祈願しているのが分かります。増吽が言うように、当時の水主神社では、熊野三所権現と大水主大明神は、同一体であったことが裏付けられます。

 このほかにも若王寺の鎮守社与田神社には、平安後期から室町時代の熊野権現の本地を表した懸仏が伝わります。その後、文正年間や長亨年間に、大内郡の白鳥や引田の先達たちが檀那を導いて熊野詣でを行っている文書も残っています。以上からは、大水主社周辺では熊野信仰が人々の間に浸透していたことが分かります。
 大内郡に熊野信仰を持ち込んだのが熊野修験者たちでした。
その結果、水主神社周辺には修験道も浸透していたようです。それは以前にお話したように「内陣大般若経」が石鎚山から修験者によって運ばれたという「牛負い般若伝承」からもうかがえます。修験道の霊山・石鎚山から逮ばれたという伝承から、修験道との関係を読み取れます。
増吽(与田寺)
増吽(与田寺蔵)

 ここで増吽に再び目を向けましょう。
増吽は、このような熊野信仰や修験者が活躍する大内郡で生まれ、高野山で真言密教を学んでいます。当時の真言密教は山岳信仰と深く結びついていますから空海が行ったような山岳修行を僧侶達も行っていました。増吽もこの流れの中に身を投じたことが考えられます。その修行の中で、彼は多くの霊山や行場を巡り、人的なネットワークを形作って行ったのではないでしょうか。それは、増吽が勧進修験者への道を歩むことでもありました。
 
 「旧記』には、増吽が大水主・五社南宮を勧進活動により建立したと記されています。また熊野三山を水主に勧請したとも記されます。事実は別にして、当時周囲からは増吽が熊野系勧進僧として見られていたことがうかがえます。
茂木町の文化財「大般若経600巻他」
大般若経
 増件のもう一つの顔は、写経集団のリーダーであったことです。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、写経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの写経依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業の痕跡とも考えているようです。これが前回お話しした「北野社一切経」という大事業につながります。
 「北野社一切経」は、増吽の弟弟子の覚蔵院増範が大願主となっていますが、今見たように増吽を先達とする写経集団が背後にあったからこそできた事業でした。増吽だけでなく讃岐や阿波の僧侶たちがこの写経集団に加わっています。
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面

それでは、彼らと増吽を結びつけたものは何だったのでしょうか。
その精神的紐帯は熊野信仰にあったようです。増吽は、幾度となく熊野参詣を行い、厚く信仰したと伝えられます。彼が先達として行った熊野参拝の様子を伝える文書が、仁尾の覚城院文書の中に残っています。
先度、付使宣、進状候しに、預御返事候、乃熊野参詣之銭送給候、令祝着候、道中散銭候て、可致祈疇候者哉、事繁候、篤志誠以喜存候、今日十九日舟出し候ハんと申居候へは、五月雨水々しく候て、末天陰に天気待居候、経衆ハ廿人、於阿讃両州調之候、伶人両三人同じく参候、彼是如法経百日ハ管弦と申候て、伶人参詣事被申下候、毎事計会、可被察候、露命之習、秋までも存命候者、下向候て、可入見参候、何事御助成大切候、恐々
五月十九日                                                     増吽(花押)
覚城院御返報
意訳変換しておきます
先日の進状にお返事をいただきました。熊野参拝の費用について送銭いただき喜んでいます。道中は費用がかかり、祈祷なども頻繁に行っていますがいただいた篤志は、誠に喜びに絶えません。本日19日に、出港予定でしたが五月雨で天気が悪く、天候待ちとなっています。
 経衆20人、伶人(楽人)2~3人は、阿波と讃岐で調え同行予定です。如法経百日管弦のために、伶人(楽人)を伴って参詣するようにと云われているので、それを適えて参拝することができます。秋まで熊野に留まる予定ですが、帰国後は、また出向きます。その時にお会いできることを楽しみにしております。最後になりましたが、御助成いただきありがとうございます。

最後に「覚城院御返報」とあります。熊野参詣に際しての仁尾の覚城院からの餞別への返礼のようです。内容は、熊野参詣のため船出しようとした増件は、五月の長雨により足留めされているようです。
足止めされているのは、どこなのでしょうか? 
与田寺の外港の引田湊が第1候補です。先ほども述べましたが、当時の引田湊は熊野水軍の拠点湊でもあり、多くの舟が紀伊や熊野との間を行き交っていたようです。芸予諸島の大三島と熊野の間には「定期船」も運行されていたと考える研究者もいます。そのため引田湊は、伊予や讃岐からの熊野詣信者が舟に乗るために集まってくる集結地点であったと私は思っています。引田港の後にあったのが水主神社とその神宮寺の与田寺でした。増吽が先達として、経衆(書写スタッフ)20人、伶人(楽人)2人を引き連れて、熊野詣でに出発する湊にはふさわしい場所のように思えます。
 第2候補は、阿波の那賀川河口です。

水主神社 那賀川流域jpg
この周辺には、増吽の率いる経衆(写経スタッフ)が多数いたところでもあり、紀州との関係が深いところでもありました。増吽は逢坂峠を越えて、ここまでやって来て、紀州への船便を待っていたのかもしれません。その間に熊野詣でに参加するメンバーを整えていたことも考えられます。
 さらに、如法経百日管弦のため伶人も伴い熊野参拝するとあります。「如法経」とは、法華教を写すことです。この行事に参加するために、20名もの書写スタッフを引率しているようです。このような「集団写経遠征」は、熊野だけでなく備中や阿波などに向けても行われていたのではないかと私は考えています。各地で行われる大写経事業に、大勢のスタッフを引き連れて応援に駆けつける増吽の姿が私には見えてきます。そして、そこで何ヶ月か泊まり込んで、写経を行い完成式典に参加して帰国する。そんな活動を増吽は重ねていたという仮説を出しておきましょう。これも勧進聖のひとつの活動パターンだったのかもしれません。このような活動を通じて、増吽の人的なネットワークは広く、遠くまで張り巡らされ、それに連れて名声も高まったのかもしれません。
水主神社2(讃岐国名勝図会)
江戸時代の水主神社周辺(讃岐国名勝図会)
後世の江戸時代前期になると、増吽と熊野を結びつけた文書が増えます。
『御領分中寺々山来』には、つぎのように記されています。
熊野三所大権現を以て同鎮守と為す。増吽僧正恒に熊野三所を信す。始め毎歳熊野に参詣。応永年中熊野新宮再興。増吽幸に参詣あり、祝等増吽に遷宮の導師憑。増吽曰汝等来る午日寅の一天に。新殿に於て神体を遷す可し。予は亦讃州誉田に於て開眼供養す可しと。契証有つて、当院に帰る。件の日寅の一人に当院に供養有り。其の時増吽檀上にて振鈴の声虚空に響いて熊野山に聞くと。村翁の伝説也。将、当所水主山にして三双の高嶺有り。
増吽後に、この山に熊野三社を勧請し。当寺中に於て塩水湧出の泉を掘る。毎朝塩水にて垢離あって医王山の嶺に踏。勧請の三社を伏拝。則伏拝の松並塩水涌出の泉今に之れ在る也。
意訳変換しておくと
 熊野三所大権現を勧進して、鎮守とした。増吽僧正は、熊野三所を信仰し、毎歳のように熊野に参詣し。応永年中の熊野新宮を再興の際に、増吽は参詣した。その際に新宮の祝が増吽に遷宮の導師を依頼した。そこで増吽は次のように応えた。「午日寅の一天、新殿に神体を遷すべし、私はそれを讃州誉田(与田寺)で開眼供養します」と。参拝が終わり、讃岐へ帰って来ると、約束した日に、与田寺で供養を行った。その時、増吽が檀上で鈴を振ると、その音が虚空に響いて熊野山に届いたという。これが村翁の伝説である。当所には水主山という三双の高嶺がある。増吽は後に、この山に熊野三社を勧請した。そして、当寺の境内中に塩水が湧き出る泉を掘った。毎朝塩水にて、垢離をとり、医王山の嶺に登り勧請の三社を伏拝する。伏拝の松と塩水涌出の泉は、今に伝わっている。

また『虚空蔵院・大水寺由緒』の「増吽僧正は常に熊野権現を信ず」には、つぎのように記されています。
応永年中熊野新宮再興あり。其節増吽熊野に参詣ある。社務・巫祝など増吽を以遷宮の導師と頼み奉る。増吽の曰く 我れ国に有り遷官の法執行す。来る午の日寅の一人に神を新殿に移し奉る可しと。契諾有って帰国せり。去れば契約の日に増吽遷宮の供養の法を之れ執行す。共の時供養法の鈴の声熊野由に於て虚空に聞こえるム々。増吽自筆の棟札など新宮に之有リム々。また水主村において一所の高山有り。増吽老年の後、熊野一所権現を勧請して当寺の鎮守と為す。塩水を以垢離を取り、当山自り毎日これを伏拝す。当山に於て其塩水涌出の泉あり、又伏拝の所の松とて古本今に之有り。

 さらに「讃岐国大日記』は、増吽が熊野に「毎月参詣」したと記し、『御領分中寺々山来』には「毎年参詣」とあります。参詣の回数については誇張があるとしても、熊野に度々参話していたことは事実のようです。ここからは増吽が強い熊野信仰を持ち、先達を勤めるなど熊野修験者であったことが分かります。
次に増吽が熊野三所権現を、水主三山に勧請したということについて見ておきましょう
『讃岐府志』には、
  水主三山権現。大内郡に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。以、三山権現と為す。
『讃岐国人睡譜』には、
  増吽、常に熊野三社を信じて、月詣す、故に彼の三社を水主山に移し、毎日参詣而怠らず云々。

とあります。しかし、増吽以前から熊野信仰の痕跡が見えることは、前述したとおりです。つまり、増吽以前から水主神社には、熊野権現が勧進されていたと香川県史は記します。
これに対しては、次の2つの考え方が研究者の中にもあるようです。
①江戸時代初期に「増吽の伝説化」と共に、増吽勧進説が流布されるようになった。
②水主山には若一王子権現が古くからあったが、正式に熊野三所を勧請・再興したのは増吽である。
さてどうなのでしょうか。それを証明する史料はありません。
虎丸城 - お城散歩

増吽との関係で資料に記されているものに「石風呂」があります。
『水主石風呂記』(寛保三年( 1743)には、石風呂が次のように記されます
  また一説に熊野権現の風呂とも云う。水主村三高山ありて、南最高嶽の嶺に新宮大権(本地薬師)石の社建つ。西高嶽本宮(本地阿弥陀)、北の高根那智(本地観音)なり、この一の麓に三の石風呂ありしに、ただ新宮山下の風呂のみを償し、自他の人あつまり人治養す風呂の谷と名つせく、二所の風呂はいつとなく破壊す、ゆえに今の世の人、是を知らず。

ここからは次のような事が分かります
①水主村三高山には、
南の嶺に新宮大権 (本地薬師)石の社、
西高嶽に本宮 (本地阿弥陀)
北の高根に那智 (本地観音)の三者が山上に鎮座している
②三高山の麓に熊野権現の風呂と呼ぶ石風呂がある。
③新宮山下の風呂は、多くの人が集まり、人々を治養するので風呂の谷と呼ばれている
④その他の風呂は、いつとなく途絶えていまい、今は誰も知らない
虎丸城 - お城散歩

『讃岐府志」にも、同じような内容が次のように記されます
水主三山権現大内部に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。三山を以、権現と為す。旧一石室有り。温泉に擬し、痢疾の徒を療す。其法生柴を以、石室の内に焼き、然れば灰炭を払い、洒たに塩水を用い後、瘤者を延べ、而して石室の内に坐じめ。炎気酷烈する寸は則ち出る。この如くすること一日二三次、或るは七日を期す。沈病の者十に六七を全。皆謂う増吽か行感至りこの如く。死者起きせしむ。俗に岩風呂と曰く。(中略)
按ずるに往苦より影行有りと雖も、中絶に依り、増吽再興す。諸人歩を運び石室を見ること、三嶺の麓に各之在り、今風呂は新宮風呂なり。
  意訳変換すると
水主三山権現は大内郡に鎮座する。明徳年中に、僧増吽が新宮本宮那智の三所神を勧進し、三山を権現とした。そこに古い石室がある。温泉のようで、様々な疾病の人々を癒やす。その使用法は、生柴を石室の内で焼いて、その後で灰炭を取り除いて、塩水をまく。そこへ瘤者を入れて、石室の内に座らせる。炎気酷烈なので長くは居られない。これを一日に二・三回、七日程続ける。そうすると沈病の者でも、十人の内の六・七人はよくなる。増吽さまのお陰で、死者も生き返ると皆が云う。俗に岩風呂という。(中略)
 この歴史を考える古くから岩風呂はあったが、いつしか途絶えていたのを、増吽が興したのであろう。かつては、、三嶺の麓に三つの石風呂があったが、今は新宮風呂だけになった。
ここでも三山の麓に風呂があったが、今は新宮のみであることが記され、増吽が再興したとされます。

では、この石風呂はどのような意味をもっていたと研究者は考えているのでしょうか。
  以前に湯屋と風呂のちがいについて次のように分類しました。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
讃岐で古来から見られるのは②の温室(風呂)です。瀬戸内海の海岸部の岩屋では、海藻をつかって蒸風呂として利用したところがいくつか知られています。水主の石風呂は、熊野権現の風呂と言う別称があるように、このエリアの中世以来の熊野信仰と関係があります。神仏への参詣の前には、精進・みそぎがおこなわれましたが、水垢離(コリトリ)・塩垢離による熊野精進を熊野修験者は行いました。

水垢離 (みずごり) - なごみの散策
水垢離(コリトリ)

熊野本宮参詣では昌之峰温泉でコリトリを行いました。
これと同じような関係が、水主の熊野三山と石風呂にもあったようです。水主の風呂は、中世の大内郡の人々や熊野への参詣がかなわない人々が、水主の本宮那智新宮の山麓に設けられた石風呂に入浴して三山詣を行ったのでしょう。
 山岳宗教では女人を不浄としましたが熊野神社は、女人を嫌いませんでした。水主の三つの風呂でも江戸中期まで、新宮風呂に入る女性に、弘海寺(浄土寺)で水除けの符を配て入浴させていたといいます。これを見ても水主の石風呂の起源は、中世まで遡るようです。近世になると、これら石風呂の宗教的な起原は忘れ去られ、湯治目的の温室としてのみ引き継がれていくようになります。
 中世の石風呂は、現在のように衛生・娯楽よりも宗教施設であったことは以前にお話しした通りです。熊野三所と熊野権現風呂を再興したのが増吽という可能性も、大いにあるようです。
以上、増吽を熊野修験者として捉え、熊野詣での先達、熊野権現の勧進、石風呂の設置などについてみてきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
   唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       香川史学1989年
 香川県史 

 増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。
幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。
與田寺 (香川県)の初詣・初日の出情報 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です

まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。
 制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。
 同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

なお、研究者は風天図の構図を見て
「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

と指摘します。ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。

これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。
  1弘法大師1

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。
弘法大師御影 善通寺様式

御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
醍醐三宝院のこの様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。そこで、「善通寺形御影」と呼ばれているようです。
その中で京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同多度津之御影供一衆流通物
(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
咋閣梨七十九而書之
文安元年四月仏誕生日 大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓

「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
 また「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。

岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。
本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。
仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】 - 讃州菴

中でも仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。

増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたのではないか、と研究者は考えているようです。

弘法大師御影 県立ミュージアム版

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。

以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

 修験道は、里人のお山信仰と深くつながっていたようです。今回は、修験と里人のお山信仰を比較しながら関連づけて行くことにします。テキストは   宮家準 修験道とお山信仰 修験道と日本宗教所収です 
◇ 蔵出し品 明治期頃 山岳信仰 「大峯山 曼荼羅」 彩色印佛 軸装品 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版
大峰曼荼羅

 修験道には、お山を曼荼羅ととらえる世界観があります。
平安時代初期に成立した『大峰縁起』の中には、次のような仏教聖界が説かれます。
①吉野から熊野に到る大峰山系の吉野側が金剛界曼荼羅、
②熊野側が胎蔵界曼荼羅
③大峰山の峰々に金剛界、胎蔵界の各部の諸尊が配置
 胎蔵界という言葉から分かるように、お山を「母なる山」とし、そこで修行することによって再生するという宗教思想がすでに生まれていたことが分かります。
絹本著色熊野曼荼羅図(西明寺)/甲良町ホームページ
熊野曼荼羅

密教の教義では、曼荼羅は宇宙そのものを神格化した大日如来、すなわち宇宙の全体像をさすものとするようです。
この視点からお山を金剛界、胎蔵界の曼荼羅ととらえる「宇宙山」の思想が生まれます。宇宙山は世界の中心軸をなす黄金の山で、吉野の金峰山が国軸山、金の御岳と呼ばれるようになります。
しかし、これはすでに行者達によって存在していた山中他界観を密教の立場から説明したものに過ぎないように私には思えます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「立山曼荼羅に表徴された 常願寺川水系の 水神信仰(その1) 【寄稿文】 福江 充」 | ZIPANG-2  TOKIO 2020

 日常の世界とは違う「他界」としてのお山を捉え、そこを仏の世界とするとらえ方からは、密教的色彩の強いお山曼荼羅観が成立しました。もっとも早いものは、奈良時代末までさかのぼるもので、お山や海岸近くの岬などを観世音菩薩の補陀洛の浄土とする信仰です。
熊野の那智山
東北の月山
関東の日光
四国の足摺岬
大和の松尾山
などが修験道の行場としてさかえます。
瀬戸内海に着き出した岬や海岸などが補陀洛浄土の出発地点とされ十一面観音などの観音がまつられている所は、讃岐にもいくつかあります。東から志度寺、屋島寺、根来寺、郷照寺、道隆寺、海岸寺、観音寺などは補陀洛信仰の痕跡がうかがえます。
兜率天とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな
弥勒菩薩の治める兜率天
 次いで平安時代になり、末法思想が盛行し弥勒菩薩の信仰が人々の心をとらえるようになちます。
そうするとお山を弥勒菩薩が説法している兜率天の四十九院とする信仰が生まれてきます。
平安時代末期の『諸山縁起』は、大峰山の内に四十九院があるとしたり、『彦山流記』に彦山四十九窟があると説くのは、こうした弥勒信仰からきているようです。
やがて浄土思想が流行するようになると、お山に阿弥陀の浄土が描かれるようになります。熊野本宮や白山など阿弥陀如来を本地物や本尊とする霊山は、多いようです。
古代の人々は、お山を死霊・祖霊の居所と信じていたと民俗学者は云います。
 観音の浄土補陀洛を信じる人々は、遠く中国の舟山諸島にあるとされた補陀洛に往生することを願って、那智や足摺の浜から船出する行者たちを生み出します。また吉野の金峰山などは弥勒の浄土とされていましたので、そこへの参詣も、死後は兜率天に往生して弥勒の説法を聞くことを願ってのことでした。もちろん熊野への参拝は、阿弥陀の浄土での極楽往生を求めてのことでした。
つまり次のような分業体制があったことになります。
①観音菩薩=補陀洛信仰=熊野那智 
②弥勒菩薩=兜率天信仰=吉野金峯山
③阿弥陀菩薩=浄土信仰=熊野本山
こうして各地の霊山には、お山の景勝地に「弥陀が原」など浄土を指す名称が付けられていきます。 これを「山中他界観」と云うようですが、そこにはお山に骨をおさめたり、墓地を作ったり、供養塔を建てるというようなことも行われるようになります。東北の山寺(立石寺)、高野山などでは、これに修験者が関わることがもあったようです。ここから山岳寺院の中には、納骨の風習が残っているところがあります。それが「死者の帰っていく山」と呼ばれた霊山で、讃岐では三豊の弥谷寺が有名でした。近年では、修験関係の社寺では祖霊殿を設け、遺骨などをあずかっている所が増えているようです。
 修験者自身も、死後は死霊となってお山に帰ることであるとして、死亡を「帰峰」と呼ぶ人も多いようです。霊山にある供養塔や木曽御岳の霊神碑などは、死霊となってお山に帰った修験者の霊を弔うためのものなのです。
 お山には浄土や極楽だけでなく、地獄もありました。
立山山岳信仰 (吉村外喜雄のなんだかんだ)
立山曼荼羅地獄谷部分

 立山や白山・大山のように火山だったお山では煙や熱湯が噴き出している所を地獄谷と呼んでいます。そこには極楽往生できぬ死霊が徘徊していると云われます。そして、供養のための「作善」として、小石が積まれたりするようになります。後世には、修験者がお山の極楽と地獄を描いた曼荼羅を持ち歩いて、極楽往生のための参詣を勧めるようになります。
泉光院の足跡 175 立山の地獄 - ヨリックの迷い道

 極楽には阿弥陀如来が、地獄には奈落に苦しむ死霊を導く仏として地蔵菩薩が配置されます。次第に地獄のおそろしさが強調されるようになると、死霊を極楽に導く地蔵菩薩への崇拝度が高まります。それに従って地蔵菩薩の対偶仏として天界を支配する虚空蔵菩薩が極楽の仏として崇められるようになります。
虚空蔵菩薩 - Wikipedia
虚空蔵菩薩
もともと虚空蔵菩薩は、吉野山で行者が守護仏として重視した仏だったようです。それが空海が虚空蔵求聞持法のために修行した仏として有名になります。こういう背景があるためでしょうか、伊勢の朝熊山をはじめ当山派・修験者の霊山では本尊を虚空蔵菩薩としていることが多いようです。

霊山にある奇岩、巨石、滝、泉などは、神霊が宿るものとして、崇められていました。
すぐれた霊地の神霊、山の神、水分神などは、とりわけ大きな霊力を持つとされます。蛇・狼・狐・熊などの動物は、こうした神のあらわれとしておそれられ、信仰されたりもします。なかでも竜や蛇は各地のお山で水分神の体現とされていました。

理源大師の大蛇退治

 当山派修験には、開祖とされる聖宝(理源大師)が大峰山で大蛇を退治したという伝承があります。お山に入った修験者が竜を退治したという伝説は、修験者がお山の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているようです。つまり、降雨をコントロールできる霊力をもつ存在とされ、雨乞い祈祷を行うようになります。讃岐でも、村々で行われた雨乞い祈祷は、念仏踊りも、綾子踊りも山伏たちが主導していたと私は考えています。
 お山を曼荼羅とした場合には、いろいろな神霊は曼荼羅内の諸尊に当てはめられました。
大峰山などでは、その主要な八ヵ所の霊地に峰中修行の宿を設け、そこに役小角が体得した金剛蔵王権現の巻属である大峰八大金剛童子が一つずつ祀られています。大峰山中には、この八つの宿を含めて百二十(実際は七十余)の宿が設けられていたといいますが、その多くは修験者がお山に入る以前から神霊をまつる霊地であったようです。。
 葛城山系では、拝所に法華経二十八品を一つずつおさめて経塚が作られています。
葛城二十八宿経塚巡行 滝畑金剛童子から境谷、梶路峠、郷ノ峠 - 葛城二十八宿経塚巡行

その主な所には葛城八大金剛童子が配置されています。修験者がお山に入る以前には、ばらばらにあったお山の霊地が、修験道の影響のもとに一定の世界観にもとづいて体系化されていったようです。このように山中に、童子をまつったり、宿や経塚を作ることは、大峰や葛城などの以外の全国各地のお山の修験道場でも行われるようになります。
お山は邪神邪霊、邪鬼や神霊の使いである動物のすむ魔所として、里人は畏れていました。
 魔所に入り込んで修行する修験者を、邪鬼や動物霊と闘い、それを降伏させ命ずるままに使役する存在と畏れ敬うようになります。
役行者のこと
役小角と前鬼、後鬼
役小角が大峰山中で前鬼、後鬼を使役したとの伝承、修験者が飯綱を使ったとの民間伝承は、こうした力を体得した修験者の活動を示すのでしょう。同時に、修験者が信仰対象になっていく姿がうかがえます。
 さらに修験者は獅子にも変身したようです。
岩手県早池峰山麓の山伏神楽の権現舞では、魔界の王者である獅子(権現様)に変身した山伏が村人の安全を祈って舞います。
篠木神楽 | 滝沢わくわくNavi | 滝沢市観光協会【公式観光ポータルサイト】

羽黒山の修験者が峰中で用いる鈴懸の模様は獅子です。これは修験者が獅子への変身していることを表しているようです。秋祭りの獅子舞の起源もこの辺りにあるのかもしれません。
小田代神楽 権現舞 @祀りの賑い - 祭りの追っかけ

 天上や地下の境界であるお山で修行する修験者は、超人的な性格を持つ宗教者としてとらえられていたようです。ここから山伏を天狗としておそれる信仰も生まれます。修験者は、人間であり、鳥の姿をした天狗とされたようです。天狗信仰は、山伏の活躍する霊山に根付いています。金毘羅大権現の象頭山も天狗が住む山とされていました。修験者が根付く霊山だったのです。
天狗さま | 天宮の歳事記ブログ
 
また、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいたようです。
修験者が峰入に際して頭髪を一寸八分の摘髪にしたのも、僧でもなく俗人でもないことを示すためのものだったされます。修験者を半僧坊と呼ぶのもこうした性格を示していようです。このように修験者は、天上や地下の他界と此の世の人間を結ぶ「境界人」とされていたのです。
 修験者の峰入は、春夏秋冬のそれぞれに行なわれていました。
これも次のように人々のお山登拝が起源にあるようです
①「春の峰」は卯月八日の山あそびが基にあるようです。
大峰山寺の戸開式は、戦前は旧暦四月八日に行われ、修験者は山上の石楠花を手折って下山したといいます。これは、山上で山遊びをした乙女が花を手折って下山する卯月八日の行事に通じます。
②当山派の「花供の峰」は、六月に大峰山中の拝所に花を供えてまわるという行事です。これも、お山を旅する人々が霊地に花を手向けて旅の安全を祈った習慣に似ています。
③七・八月頃に、信者が大峰山に登拝する「夏の峰」は、大和地方で盆山と呼ばれています。これも、山中に眠る祖霊に会いに行くための峰入だったようです。羽黒山でも夏の峰は、月山から祖霊を迎えるためのものとされています。
④山伏が一定期間山中に寵る「秋の峰」
 羽黒山の「秋の峰」は子供たちの通過儀礼(成人式)の役割を果たしてきました。これももともとは修験者が、冬にお山に留まり春先に里に下って農神を守る山の神の力を体得するために、山の神が山中に留まっている間は、修験者も山中で修行したことと関係がありそうです。冬の峰の出峰の日が、山の神が里に下るとされる卯月八日にあたることも、これを裏付けます。
 冬の峰の修行者は、山中で年を越したことから晦日山伏と呼ばれ、特に験力に秀でた者として崇められたようです。
晦日山伏は出峰後、修行によって獲得した験力を競うために験競べを行なっています。十二月晦日から元旦にかけて行なわれる羽黒山の松例祭の鳥飛び・兎の神事・大松明まるき・火の打ちかえなどの競技は、冬の峰終了後の験競べの面影を今に伝える行事だと研究者は考えているようです。
PayPayフリマ|絶版 週刊日本の祭り 松例祭 大日堂舞楽 なまはげ芝灯まつり 出羽三神社山松例祭 山形県羽黒町羽黒山 秋田県鹿角市 秋田県男鹿市
羽黒山の松例祭の鳥飛び
 お山修行を終えた修験者は、山の神を招いて祭をし、託宣させる宗教者として活躍します。
①福島県の葉山まつりは、修験者は葉山の神を招いて憑依させ託宣を下す。
②木曽の御岳の神を中座につけて託宣させる御岳講の前座
③山中の護法を憑りましにつける美作の護法祭の修験者
などは、いずれも山の神霊が修験者に憑依し、神霊を操作する宗教者とし振る舞います。他にも
①権現と化した修験者が舞う早池峰の山伏神楽、延年の舞、
②修験的色彩の花太夫が榊鬼に神つけをする奥三河の花祭
③美作の荒神神楽
④石見の大元神楽の託舞
は、お山修行によって験力をえた修験者が山霊となり、分霊を使役する芸能です。以上をまとめておきます
①山岳信仰は、霊山を神々の鎮まる霊地として山麓から拝む神道となって展開するようになる。
②一方でお山に入って修行することによって山の神の力を身につけ、それをもとに呪術宗教的な活動をするという修験道を生み出した。
③修験道は、修行や呪験力を権威づけるために、仏教思想と混淆する。
④里人の山入り慣習にあわせて峰人修行行事を組み込み、仏教の成仏観をとり入れて、成仏や験力の根拠を説明するようになる
⑤こうした世界観を広げることによって、里人の現世利益的な願いや求めに応えて、呪術的活動を行うようになる。
⑥そして、近世には里人だけでなく都市庶民の間に深く浸透していき、流行神を登場させたりすることになる。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収

  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
DSC08033
丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
DSC07605
大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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水主神社 古代郡名

 旧大内郡は讃岐の東端にある郡で、引田郷・白鳥郷・入野郷・与泰(田)郷の四郷からなります。その構成は、西に「中の山」(中山)が境界となり寒川郡と分かたれ、南は、讃岐と阿波の「中の山(大坂峠)」があって、両国を隔てます。さらに、郡内にも「中山」(伊座)があって引田郷と白鳥郷を分けます。そして、北と東は瀬戸内海に面し畿内と接します。 
中世の旧大内郡には、ひとつの宗教文化圏が形成されていたと研究者は考えているようです。
 南北朝期から室町期にかけて三方を山に囲まれ、北は瀬戸内海に広く開いた大内郡に花開いた宗教文化が形作られていたというのです。その中心が水主神社やその神宮寺の与田寺であったといいます。そして、その頂点の時代を象徴するのが増吽という真言密教系の僧侶であったと指摘します。

水主神社 地図
大川郡に形成された中世文化圏がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
旧大内郡には、中世以前の大般若経600巻を保有する寺社が二ヵ所あります。それだけの歴史と勢力を持っていた宗教施設と考えることが出来ます。
肉筆 古写経 大般若波羅蜜多経 全600巻揃 室町 江戸初期 中国経典経本唐本 真言宗天台宗 仏教密教 大般若経  古筆仏書和本古文書写本仏画(掛軸)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)
オークションに出されていた写経大般若経六百巻

まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
写経は、経典の一字一句を書き写すことですが、功徳の最も大きい行為だとされてきました。
①朝廷や諸経寺の写経所では、専門の写経生らが書き写しました。一般の僧俗らも盛んに写経を行いました。修験者たちも山野での修行と同じように、写経は修行ともされ、功徳ともされていたようです。
②写経は大般若経が主流でした。これは600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し、納めたのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます
③大般若経を真読する法会を大般若会といいますが、その目的は、現世安穏(あんのん)・菩提追修の祈願と国家安寧のための祈願のふたつがあったようです。これが、しだいに各階各層を越えて各地で流行するようになります。室町時代になると真読するのではなく転読することが盛行するようになります。
①真読は600巻すべてを読誦するために多くの僧侶と時間が必要です。
②そこで考えられた短縮方法が「転読」です。転読は、巻頭の経題と数行を読んで次に移る方法です。
③巻子本では、巻き取りに手間と時間がかかるため折本が使われるようになります。
④さらに、折り本を片手に巻末を扇状に広げると経文を読み通すような様になります。華麗な動作は、転読に主る祈願法会の「華」でした。
大般若経600巻を一気読み!日龍峯寺で大般若祈祷会が行われました! - 伝説ロマン溢れる津保谷(TSUBODANI)のブログ

旧大川郡で大般若経があるのは大内町の水主神社と白鳥町の若王寺です。
香川県内には古代・中世の大般若経六〇〇巻揃えて保存している所はほとんどありません。この2ヶ所以外では
①丸亀市の正覚院
②庵治町の願成寺
③観音寺市の宝寿寺
④高松市の随願寺(戦災で焼失)
だけです。その中でも、水主神社の大般若経は、国の重要文化財に指定されています。この経は、もともと巻子本であったものを転読しやすいように折本に仕立て直しています。600巻の中の7巻に奥書があります。さらに、その7巻の内巻388には、保延元(1135)年の年紀があります。ここから平安時代後期のものを中心に、鎌倉から室町時代にかけて補写したものが混しっていることが分かります。
秋の大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ) | 成田山 東京別院 深川不動堂
経函に保管された大般若経

 この経は、「牛負大般若経」と呼ばれてきました。
それが何故なのかは、経函の底に書かれた墨書から分かります。そこには「水主神社大般若経函底書」書かれ至徳三(1286)年に水主神社の末寺であった仲善寺の亮賢が勧進して作らせたものであることが記されています。
そして、伝来については次のように記します。
破損した箱を新たな物に交換する際に、書き直したと注記して次のように水主神社大般若経の由緒を記しています。
 本云伝聞、此大般若経、元伊予国石鎚社所奉安置御経也、而自彼国奉送当社之時、負牛運送之間、於泥中奉落、失般若二巻、雖然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形上、件子細具感夢想之間、参詣当社 此経内二巻書写之、奉加之、此子細聞及之間、為後代記之、洛陽比叡山末流阿闇梨幸厳

  意訳変換すると
 次のように伝え聞いている。この大般若経は、元は伊予国の石鎚社に奉安されていたものである。それが牛の背中に乗せられて運ばれてきた際に、泥の中落ち、般若二巻を失ってしまった。しかし、牛負大般若経の功徳を伝え聞いた沙門が阿現れ、当社で失われた二巻を写経し、奉納した。この子細については、後代の記録でよく知られている。比叡山末流阿闇梨幸厳

  ここからは次のような事が分かります
①この大般若経、元は伊予国石鎚社にあったものを移管したこと
②その際に牛によって運ばれてきたので牛負大般若経と呼ばれるようになった
③輸送中に亡くなった2巻については、写経し完成させた。
 このような牛負(荷)伝承は、仏教説話として各地に残るのもので、ありふれた内容です。しかし、面白いのは、伊予の石鎚社にあった経巻を水主神社に納めていることです。石鎚社は、長寛元(1163)年以前に、すでに熊野権現が勧請されて『梁塵秘抄』にも有名な修験行場の一つに数えられているように四国における熊野信仰の一大拠点でした。当然、伝来した時には水主神社でも熊野信仰が盛んで、熊野行者が相互に頻繁に往来していたことがうかがえます。
   それでは、だれが、いつ大般若経を石鎚社から水主神社にもたらしたのでしょうか。
 経巻奥書と函書に出てくる3人の人物で研究者が注目するのは、阿闇梨伝燈大法師幸厳です。彼は、牛負伝承の伝聞者であると同時に、仁治元(1240)年八月十七・十八の両日それぞれ巻186と316を書写した人物です。そして幸厳は、境内にある御幸殿に祭られています。これは大般若経六百巻をもたらした功によるものではないかと研究者は考えているようです。
   幸厳は、天台系の修験者を自ら示唆しています。
伊予石鎚社の横峰寺の最澄の弟子が仁寿四(854)年、延暦寺別当になっています。これらの関係を併せて考えると大般若経が水主神社に移されたのも唐突ではないようです。

至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①経函製作のための桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものでしょう。水主の地理的環境からして前者と研究者は考えているようです。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。
水主神社 那賀川流域jpg

それでは、「皆阿州吉井ノ木」とある吉井とはどこなのでしょうか。
阿波の吉井は、阿波国那珂郡の南北朝期、東福寺普門院領であった大野本荘にあたるようです。大野本荘の本所は、一条家です。この荘園は、鎌倉時代から熊野信仰の盛んなところで、正安二(1300)年三月三日付けの先達栄賢引旦那注文案(米良文書)によると、大野本荘にあった岩嶺寺の先達に導かれる旦那33家が目録に記されています。熊野先達にとっては、有力な旦那衆がそろっていたところだったようです。
 また、地図で分かるとおり吉井の地は、那珂川の下流に位置します。この川の上流は、鶴林寺や太龍寺があり、真言系僧侶(修験者)たちが山林管理も担当していたようです。また、紀州からやって来た集団の寄進を受けていたことは、以前にお話ししました。那賀川流域の流通・交流に熊野修験者のネットワークは大きな影響力を持っていたようです。ある意味、那賀川流域の木材の流通圏を握っていたのかもしれません。木材等は、那賀川で河口に運ばれ、そこから遡上して水主神社まで運ばれた可能性もあります。後世には、阿波木材は堺に運ばれ三好衆の大きな財源となっていたようです。そのようなルートが中世からあったと考えられます。

  大内郡における神仏習合
 旧大内郡は、13世紀後半以降、南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせます。そのため南北朝以降も新仏教勢力が浸透・定着が進まなかったと研究者は考えているようです。そのことを、当時の大川郡における神祇信仰から見ていきましょう。

水主神社 地図
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
先ほど見た大般若経の函書にあるように、大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですがは、「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会 幕末)
坊舎をふくめると100を越える数になったとでしょうし、与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。
 水主神社の残る神祇信仰関係の文化財を見てみてみましょう。ここには次のような国指定重要文化財があります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像 女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対
P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)

P1120167水主神社 女神3
女神像2(水主神社)

P1120169水主神社 女神4
女神像4(水主神社)
大水主神社獅子頭  松岡調
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会 松岡調筆)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。狛犬や獅子頭は、中世の村々に神社が姿を現し、本殿が造営され、その中に神像が納められていく時期にあたります。与田寺周辺にあった工房で作られて、周囲の寺社に提供されていたことが考えられます。
  どちらにしても香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはないと研究者は評します。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も大内地区は隆盛を迎えていたのです。これが後の浄土真宗の大内地区への教線拡大が進まなかった要因のひとつだと私は考えています。
大内郡全体を見てみると、誉田神社が2社あります。
引田の亀山と旧誉水村横内です。この二社は、県下の誉田神(応神天皇)を祭っている神社の多くとは異なり、中世以前の勧請で古社です。郷八幡社は、『宝蔵院古暦記』によれば、承平一(936)年秋八月に一郷一八幡勧請によって創始されたと伝わります。
 引田の誉田神社は社伝に、承和八(841)年に河内国誉田八幡宮を勧請して、当初中山伊座に祭祀していたものを延久元(1069)年、現在地へ遷宮したと記します。
 横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
 八幡神は、神仏習合の強い神で、源氏の氏神とされて以来、鎌倉時代からは盛んに武神としても祭られるようになります。河内の誉田八幡宮の創始は、平安時代末期のこととされます。したがって、大内郡の誉田神社両社の勧請は、それ以降のことになります。そうだとすれば、与田郷に地頭職を得て東国から遷住した小早川氏の勧請が考えられます。
 引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
  しかし、神祇信仰では、大内郡では圧倒的に水主神社の勢力が強かったようです。
このことは、江戸時代になっても松平頼重が水主神社の強勢に対抗させるため白鳥宮への保護政策をとったことからもうかがえます。このように、大内郡の宗教文化は、仏教と神祇信仰との習合と競合によって隆盛を見ることができました。その中心にあったのが水主神社と、その別当の与田寺であったようです。それは、熊野系修験者(真言密教僧侶)に担われていたようです。そのため、熊野行者のネットワークを通じて、水主神社は阿波や伊予の石鎚、或いは備中児島の五流修験、紀伊熊野と結びつけられ、活発な人とモノの交流が行われていたようです。
 その例が伊予石鎚社からの大般若経の奉納であり、阿波那賀川流域からの木材の寄進にみられました。また、熊野参拝の四国側の集結地点にも当たります。熊野参拝を目指す先達に連れられて、この地にやってくるきて信者への宿泊や行場を提供したはずです。その外港である引田港は、熊野水軍の拠点として寄港する舟も多かったことは以前にお話ししました。 
  四国巡礼(八十八ヵ所)の始発(打ち出し)上陸地は、金毘羅参詣の隆盛に押されるまでは、引田・白鳥・三本松が圧倒的優位を占めていました。
 大内郡における宗教文化を中世讃岐の文化史上に、正しく位置付けようとする試みが研究者によって続けられているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 山の神仏-吉野・熊野・高野 │ 大阪市立美術館

四国霊場の形成前史に熊野行者が関わっていたとされます。
平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」に、
 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は
伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

とあり、仏教の修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたうです。
同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、
また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
とあります。修行者は笈を背負い、そして衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたことを示しています。これらの史料からは、修行の地が海辺に沿っていたことが分かります。このように平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場を、五来重氏は次のように指摘します。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が、四国辺路の前身であったとして、「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」
という発展経緯を研究者は考えているようです。 
熊野古道~大峯奥駆道を歩く(順峰)~【3日目】 | からあげ隊長の冒険

行者(修験者)が修行を行う行場は、四国だけだったのでしょうか
そうではないようです。『梁塵秘抄』巻二の二百九十八には次のように記されています。
聖の住所はどこどこぞ、大峰 葛城 石の槌(石鎚)、
箕輪よ勝尾よ、播磨の書写、南は熊野の那智新宮

とあり、大峰山・葛城山・石鎚山・箕面山、書写山・熊野などの霊山で「山岳修行」を行っていたようです。行場を求めて遍歴する一環として、四国の石鎚山などにもやって来ていたようです。同時に、四国の海辺を廻る辺地修行も行います。若き空海もその群れの中に身を投じ、阿波の大瀧山や土佐の室戸で辺地修行を行ったのでしょう。空海が始めたわけではなく、空海もその中の一人であったと考える方が現実には近いようです。

 平安時代後期ころから熊野信仰が隆盛を迎えます。
それまでも熊野行者の中には、四国の辺地修行を行う者はいました。彼らは足摺岬の金剛福寺や室戸の最御崎寺など、太平洋につきだした岬を、観音信仰に伴う補陀落信仰の絶好の聖地とするようになります。そこには、多くの修行者が集まってくるようになります。補陀落信仰は、インド南端の観音菩薩が住む浄上に起源があるようです。わが国では平安時代に、熊野那智が補陀落とされ、熊野信仰の中で重要な位置を占めるようになります。このような熊野信仰の影響が、四国八十八ヶ所霊場の中に見いだせると研究者は指摘します。
本地垂迹資料便覧

もともと、熊野信仰は天台系が主流であつたようです。
それは寛治四年(1090)に、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたのが園城寺の増誉で、初代の熊野三山の検校に任じられたからです。これ以降、熊野一山の検校は園城寺系の聖護院の高僧が補任されることとになり、上皇の熊野御幸の先達を務めるのが慣習化します。ところが中世の記録『熊野那智人社文書』には熊野先達のなかに、真言宗寺院や札所寺院に属する者も以下のように見られます。
①阿波 平等寺の治部、太龍寺の秀信、順成寺
②讃岐 一の宮の持宝坊、向峯寺の先達
③伊予 繁多寺の先達、香園寺の先達、大山寺の先達、
三角寺(めんどり先達)、実報寺
  これらの寺院は真言密教系寺院で、先達を勤めたのは、それらの寺院に所属していた熊野先達でしょう。すると彼らは、熊野信仰を持つ熊野先達であり、同時に弘法大師信仰も持ち合わせていたと考えられます。このような信仰形態が南北朝時代から室町時代には、珍しいことではなかったようです。

四国八十八ケ所霊場の成立に、熊野信仰はどんな役割を果たしたのでしょうか。
 熊野信仰と88ヶ所霊場の関係について、最初に指摘したのは近藤喜博氏です。彼は、霊場寺院のなかに熊野神社を鎮守とする例が多くみられることことを取り上げます。そこから四国辺路の形成には、中世の熊野信仰が強く関わっていることを明らかにしました。
現存の四国八十八ケ所霊場に熊野信仰の痕跡を探ってみましょう。
 熊野行者が行場にやって来て修行を続け、そこが聖地となり、庵や寺が出来るときに本尊とともに客神として熊野神社を祀ったことが考えられます。熊野神社が鎮守として祀られている霊場を挙げてみましょう。
徳島県では
1番霊山寺、5番地蔵寺(熊野神社が鎮守)
7番十楽寺(近在に熊野神社)
8番熊谷寺(縁起に熊野権現権現が登場)
12番焼山寺(境内に熊野神社)
20番鶴林寺(熊野神社が鎮守)
の6ヶ寺があります。
このうち焼山寺は、平安時代後期の虚空蔵菩薩を本尊とします。

この像はいかにも地方作という印象を抱かせるもので、修験者が修行の一環として制作したことを想像させます。また熊野神社が境内に在ります。さらに室町時代の懸仏も数面ありますが、それらは熊野十二所権現を表したものとされています。以上からもこの寺は、熊野信仰のきわめて濃厚な寺といえるようです。
 また、以前にお話ししたように竹林寺は、紀伊からやってきた豪族の寄進した灯籠が残るなど、紀伊熊野との関連を伝えます。
高知県では
24番最御崎寺(補陀落渡海の道場)
26番金剛頂寺、35五番清滝寺、37番岩本寺、
38番金剛福寺(補陀落渡海の道場)、
39番延光寺
このうち、最御崎寺と金剛福寺は、熊野信仰にみられる補陀落渡海が考えられています。補陀落渡海とは補陀落信仰に基づくものです。補陀落とは『華厳経』に、インドの南海岸にあるという補陀落山という観音菩薩の住む浄土と考えられていました。やがて観音信仰の広がりとともに、中国の普陀山が擬せられて観音浄土としての補陀落霊場が作られ、補陀落信仰が隆盛になります。
 それがわが国伝わると、浄土信仰の隆盛とともに熊野那智山が「補陀落山の東門」と言われるように補陀落信仰のメッカとなります。
513 補陀落渡海 – KAGAWA GALLERY-歴史館

こうして仏教伝来以前の海上他界と観音信仰が那智で重なり合い補陀落信仰が成立します。つまり海の彼方に常世と、袖陀落観音が習合したのです。こうして、その「実践行」として熊野那智から船に乗り、観音浄土である補陀洛山へ往生し、生まれ変わりそこで永遠に生きるというのが補陀落渡海のようです。

浜の宮王子 補陀落渡海の境地 | 落人の夜話

 この熊野那智の補陀落信仰の影響を受けたのが、土佐室戸の金剛頂寺と足摺岬の38番金剛福寺です。
中世には、足招岬から補陀落渡海したという記録がいくつもみられます。さらに金剛福寺の本尊(暦応五年(1342)は、熊野の補陀洛山寺の本尊千手観音と同じ三面千手観音です。明らかに熊野信仰の影響があるようです。
愛媛県では
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
このうち八坂寺に近い文殊院は右衛門三郎伝説の地で、石手寺も右衛門三郎に深く係わる寺です。この石手寺には右衛門三郎伝説を記した石手寺刻板が所蔵されるなど、伊予における熊野信仰が強く見られる寺院です。
香川県では
66番雲辺寺
67番太興寺 (熊野神社が鎮守)
70番本山寺、71番弥谷寺、78番郷照寺(境内に熊野神社)、
84番屋島寺 (境内に熊野神社)
86番志度寺(補陀落渡海の行場)
このうち屋島寺は熊野神社を鎮守社としていて、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺です。
さらに近世初期の「熊野本地絵巻」が所蔵されています。この種の熊野本地絵巻は、熊野比丘尼が絵解きしたといわれますので、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に「血の池」という池も残りますので、熊野比丘尼の存在を暗示しているようです。
 志度寺は土佐の金剛福寺や最御崎寺のように、大海原を望むというわけではありませんが、北側には瀬戸内の海を間近に控え、補陀落渡海の行場とされてきました。やはり熊野信仰が基になっていたようです。
以上、四国八十八ケ所霊場寺院にみられる熊野信仰について、みてきました。これらを背景に、研究者が推測するのは「熊野修験者の修行ルート」や「熊野先達の熊野への参詣ルート」です。熊野信仰の痕跡の残る霊場は、四国の各地から熊野への参詣ルート上にある拠点で、それが四国辺路の原形になったのではないかという仮説を提示します。
熊野修験者といえば、厳しい修行者というイメージを持ちます。
しかし『熊野那智大社文書』(応永14(1407)の行政房有慶日那売券に「高松の一族」とあり、また仁尾の覚城院文書の増吽書状には
「経衆は二十人(中略)伶人両三人」

とあるように、中世の熊野修験者は、先達として多くの信者などを引き連れて熊野参拝を生業としていました。自らの修行とは別に、檀那(信者)とともに行動し、時には熊野まで直行することなく檀那の求めに応じて、様々の寺院や神社に参拝していたのです。
 四国の熊野先達のなかには、弘法大師信仰を持った者もかなりいたようです。そうだとすれば熊野への道すがら、弘法大師の聖跡あるいは真言宗寺院に参拝しながら熊野を目指したと思われます。これが弘法大師信仰を広めることにもつながります。民衆への弘法大師信仰の流布は、こんな形で進められたのではないでしょうか。

四国霊場の成立に熊野信仰が関係していたとするなら、弘法大師と熊野信仰の接点が前提になります。
熊野垂迹神曼荼羅図(乙本) 文化遺産オンライン

その具体的な例として、研究者は愛媛・明石寺の熊野垂迹曼荼羅を挙げます。この図は図の中央に、八葉蓮弁形に熊野の神々の垂迹神が配置されます。その中央には新宮と那智あり、その周囲に本宮と五所王子と、四所明神のうちの勧請十五所と一万・十万宮が巡らされています。上部には那智の滝や摂社などが山の中に描かれ、下部には熊野諸王子とともに北野天神や八幡大菩薩などが描かれています。複雑な信仰の実態がうかがえます。
 ここで研究者が注目するのは、図上部の「役の行者」に相対するように、弘法大師が描かれていることです。
このような例は、香川・六万寺の熊野曼荼羅図(南北朝時代)にもみられます。六万寺は真言宗としての歴史を持ち、八十五番八栗寺を奥院とする四国辺路とは深い寺院です。この図に描かれる弘法大師は、明石寺本や西明寺本に比べるとずいぶん大きくなっています。椅子の形状や水瓶・沓などはいわゆる「真如親王様」の姿です。ここに描かれた弘法大師は、数多くの尊の中の一尊とは違って、弘法大師そのものの存在を主張していると研究者は指摘します。
熊野曼荼羅図

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このように熊野曼荼羅の図中に弘法大師が描かれることが、南北朝時代から現れます。
この頃から熊野信仰と弘法大師信仰との接点が、熊野曼荼羅のなかにも見られるようになります。鎌倉時代の熊野曼荼羅には、弘法人師は描かれていません。しかし、室町時代ころからの弘法人師が現れます。ここからは熊野信仰の中に、弘法大師信仰が何らかの形で影響を与えていると考えられます。


札所寺院の中に、熊野信仰と弘法大師伝説の展開が具体的な形で残る例は、少ないようです。しかし八番熊谷寺の弘法大師像も永享3年(1431)の造立で、しかも鎮守が熊野権現なので、焼山寺と同じ過程を歩んだと考えられます。
以上から札所寺院の中に、弘法大師信仰をもった熊野先達がかなりいたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①「四国辺路の成立や展開には、熊野信仰が大きく影響した」は、研究者の間では定説となっている。
②それは霊場札所の鎮守に熊野神社が多いことからもうかがえる。
③そこからは霊場札所が熊野行者によって、開かれたことをうかがわさせる
④熊野行者は、熊野先達も勤めており熊野参拝の際には、ルート上の熊野先達の拠点を利用した。
⑤これが四国辺路の原型となったのではないか。
⑥また、熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を果たしていた。
⑦こうして四国辺路を中心に熊野信仰に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成される。

熊野行者の拠点であった寺院が、熊野への参詣ルート上の宿泊地などとして重要な役割を果たしていたという仮説は私にとっては興味深いものでした。

  参考文献 武田和昭   四国の辺地修行から熊野信仰ヘ 四国辺路の形成過程所収

五流 明治初頭の新熊野十二所権現

 江戸時代の五流一山は、本山派修験として聖護院に所属していましたが、実質的には岡山藩の宗教政策に支配されるようになります。今回は岡山藩と五流修験の関係を見ていきます。
岡山藩は、寺院を淘汰し、神社を整理するという独自の宗教政策を展開します。
この結果、五流一山でも、諸興寺、是如院、神宮寺、密蔵坊、多宝坊、惣堂大明神などが廃絶させられます。その後に吉備津彦神社の神主藤原朝臣光隆の義弟、大守隠岐橡が熊野権現の祠官として任用され、熊野権現境内の清楽寺跡に居宅を与えられます。そしてそれまでは社官・三昧僧・供僧が勤めていた御社の鍵の管理、年間六度の開扉ならびに遷宮、御社の掃除などの社役を勤めることになります。そのために神宮寺と是如院が還俗し、下禰宜となり下役として仕えます。
 岡山藩によって、五流を中心とする修験者、修理寺院である大願寺、祠官及び下禰宜の三者が奉仕する体制が作り出されたことになります。
そして寛文九年(1669)には、池田光政から次の折紙が出されています。
備前国児島郡林村之内高百六拾石、同郡宗津村之内高三拾石都合高百九拾石令寄附詑、全可社納也        
  寛文九年三月廿五日、光政公御在判
  惣山伏中 大守隠岐橡 大願寺 
ここからは五流が岡山藩の宗教政策の管理下に置かれたことが分かります。吉備津彦神社の神官を受けいれることで、五流の相対的な地位の低下につながりました。しかし、岡山藩の宗教政策は「飴と鞭」を巧みに使い分けています。ムチばかりではなく、保護も与えます。
五流 東山東照宮
玉井東照宮
 岡山藩の五流修験への保護を示す行事を見てみましょう。
正保元年(1644)池田光政が東山に勧請した玉井東照宮の祭礼・権現祭です。この祭礼で五流修験の建徳院が重要な役割を演じます。祭礼は東照宮勧請の翌年の正保二年(1645)九月十七日から初まっていますが、その中心は東山(岡山市)の東照宮から御旅所迄の御神幸です。この行列に寛文八年(1668)から五流修験を代表して建徳院が、岡山の多数の山伏を伴って参加するようになります。しかも五流の代表者が「権現同道」と叫ばないと行列が動かなかったくらい、重要な役割を演じていたようです。これは円満院が池田光政の島取藩時代の祈祷寺院で、移封と共に岡山に移されています。そのため円満院やその支配寺院である建徳院が重視されたことからきているようです。
 この他にも岡山藩では、五流修験の春秋の葛城・大峯修行や聖護院門跡の峰入への参加の際には、その都度銀子を与えています。また、後には春秋の峰入修行の護摩供に際して、池田家の家運長久の祈念も依頼するようになります。岡山藩は、硬軟織り交えた巧みな寺社政策を展開し、管理下に置いていったことが分かります。

五流 本山
五流本山

近世中期から後期にかけての五流一山の状況を見ておきましょう。
五流 絵図

 岡山藩の寺社抑止政策もあり江戸時代中頃の五流山では、諸院の多くが廃絶し、由伽山・有南院・清田八幡宮など関連社寺も離脱していきました。この結果、五流山は熊野権現を中心として林村内のみでこじんまりとまとまるという運営方法をとらざるを得なくなります。
五流 熊野十二所神社本社3

 その伽藍を見ると、本社は正保四年(1647)十一月池田光政の寄進になる第一殿・第二殿・第四殿・第五殿及び満山護法社。
五流 三殿

明応元年(1492)天誉再建の第三殿から成り、その近くに長床・観音堂・鐘楼などがあり、本社左脇には祠官屋敷、その左隣には大願寺が並びます。
五流 長床
焼失前の長床

 本社の裏につらなる蟻峰山の登山口には、宝永二年(1705)建立の地主神福岡明神の祠がありました。福岡明神には宝永六年に廃止された惣堂大明神の御正体も安置されます。この福岡明神は公卿覚養院が管理し、九月七日には合祀された惣堂大明神の祭典を行なっていたようです。
五流 山伏寺判明図

 山内には塩飽本島の吉祥院をのぞく五流五院、公卿・譜代と称する修験者の家来などの屋敷がありました。その数は、寛文年間には山伏十七戸、譜代二十八戸を数えました。中世の繁栄ぶりから比べると、その縮小ぶりがうかがえます。
 木見の諸興寺跡にはわずかに薬師・毘沙門の小堂を残すのみとなり、有南院と共に分派し、山内には譜代の葬式寺の真浄院のみが存続していたようです。ここを拠点とした修験者達はいずれも妻子と自分達で葬儀を行なっていました。
  
近世期の五流一山の年間行事を見ておきましょう
正月朔日、三月三日、五月五日、六月十五日、七月七日、九月九日の六回の御戸開の祭礼がありました。これらは早朝寅の刻に熊野権現の社殿を開扉し、供物をそなえ祈願などしたうえで中の刻に閉めるものです。八月七日・八日の一山の祭礼の際の八日、及び八月十五日にも開扉されます。この他では、夏九旬の間は熊野権現に夏供花が行なわれます。月毎の行事には、
毎月朔日 権現出仕御宝前誦経
七日 役行者講・権現御本地縁日・権現騰
十七日 御託寥・連歌講
十八日 権現出仕読経
二十八日 荒神講
の行事がありました。この時には、まず福岡明神に登り、そこから蟻峰山の峰伝いに弁財天・熊山・タコラ山(最高峰)・石鎚山をへて山を下り、毘沙門屏・七福神・諸興寺跡・頼仁親王御陵・稲荷社(森池上)から由伽山に到り、根引・行者の井戸・木見・薬師庵をへて福南山にのぼり妙見宮を拝します。それから、熊坂地蔵・熊野道・清田八幡宮をまわって長床に帰るという行程です。さすがは峰歩きで鍛えた山伏たちです。健脚だったようです。
 このうちの蟻峰山からタコラ山にかけては、金剛蔵王権現と大峯八大金剛童子がまつられていました。しかし、この時代には、まだ蟻峰山と福南山を金剛界・胎蔵界になぞらえたり、山内に宿や鼻をもうけることはなかったようです。ただ蟻峰山麓の毘沙門堂上には胎内くぐり、毘沙門堂そばには弘法大師の磨崖仏や不動の種子を刻んだ岩などが、描かれているようです。 
   五流修験では、次第に霞内の檀那からの布施が重要な財源になっていたことは、以前にも見ました。もう一度近世の各院の霞の範囲については、確認しておきましょう。
尊滝院  備前国松山。伊賀国(天正年間肥前・肥後の霞を失ったので、享保十六年聖護院門跡から新たに与えられた。
太法院  美作 備前、伯者(宝永二年の霞状)
建徳院  備前岡山並びに四十八ヶ寺、美作の一部
報恩院  伊予国一円。安芸国豊田郡、
     豊後国大野郡(文化六年の霞状)
伝法院  讃岐国、伊予国
吉祥院  塩飽七島、備中国松山除(宝永元年の霞状)
  このうち吉祥院は塩飽人名領の塩飽本島にあったので、宝永六年(1709)以来、池田藩の特別の許可を得て、扶持米(当時は三石、文化年間は十石)を送られるようになったようです。
 室町時代の霞(テリトリー)と比べるとは、変化があります。
伝法院が讃岐と伊予をテリトリーとしてしていたようです。旧山本町市には、地神(荒神さん)は
「備中児島からやってくる山伏たちが祀るようになったもので、ここに庵などが建てられお札などが配布された」
と記されています。三豊には、五流修験の伝法院の修験者たちがやってきてきた痕跡が残っています。
霞の授与に際しては、本山の京都聖護院門跡からその院に霞状が与えられます。
加えて岡山藩の寺社奉行と霞所在の郡奉行にも通達が行われます。これに基づいて、霞内に頭襟頭を置き、その下に組頭を配して平修験を統轄する組織が作り上げていました。これらの役職の任命は、霞を所持する五流各院が行ないますが、その手順は郡奉行にとどけると共に、そこから藩の寺社奉行に報告するという形が必要でした。また、霞内の修験者の先達号や僧官は五流から出しています。ただし権大僧都以上の僧官については、五流から輩出する権限はなかったようで、聖護院に仲介しする形をとっています。
 近世中末期になると、いくつかの院では霞の他に講を組織して、信者の獲得・掌握を行うようになります。
たとえば「寛政三年(1791)九月吉日報恩院現住宣誉」との奥書のある講員名簿「摂州浪華、当院帰依山上惣講中」には48の講とその先達名が記されています。
 また近世中期以降に、吉野の大峯山寺を支配した八島役講の一つに、堺の五流があります。これも近世期には五流一山と密接な関係を持っていたようです。この他にも現在岡山から広島にかけての村々で見られる山上講も近世中期頃に五流修験が組織化されたものと研究者は考えているようです。
 五流一山は早くから大山を修行の道場として重視し、霞内の修験者にも大山先達の免許・補任を出しています。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、中世の修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして伯耆大山(大仙)を、修行ゲレンデとしました。
 江戸時代に修験者の移動が規制されるようになると、五流修験は大山を公認行場として認められるようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。大山は五流修験とっては、修行の「ホームグラウンド」だったのです。そして、かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く姿が見られるようになります。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになります。この先達を勤めた山伏たちを先祖とする寺社が備中や備後には、かつては数多くありました。
 
 ここで五流修験の特徴を押さえておきましょう
 修験者の拠点は、行場の近くに形成されるのが普通です。しかし、五流修験は、熊野神社の社領に分祠されたのが始まりです。そのために行場が近くにありません。そのため五流修験は、熊野や大峯さらに大山・石鎚・小豆島などで修行せざるを得なかったようです。
 さらには瀬戸内海沿岸に新たな行場を求めて進出していきます。そして、そこに熊野権現を分社し、活動の拠点を確保していきます。それが、以前にお話しした塩飽本島の吉祥院や芸予諸島大三島の大山祇神社であったのでしょう。五流流修験が瀬戸内海沿岸の紀州・中国・四国・九州にかけて広範なテリトリーを持つようになったのは、このように外に向わざるを得ないベクトルがあったと研究者は考えているようです。
 もうひとつは、背後に熊野水軍の瀬戸内海進出があったことです。熊野水軍は備讃瀬戸の戦略的要衝である児島を押さえた上で、瀬戸内海全域の展開を行います。その水軍の偵察・情報収集部隊の役割を果たしたのが五流修験であったようです。そして、交易拠点に庵を開き、伝道活動の拠点とすると共に、熊野水軍の「支店」としても機能するようになります。修験者たちは、熊野詣でへの導引とともに、営業マンであったのかもしれません。これは、当時の有力寺社の瀬戸内海交易のパターンでもありました。五流修験の後に、熊野水軍ありということにしておきましょう。
  このこととが中世期の五流修験に大きな影響をおよぼしているとこ研究者は考えているようです。

近世期にも五流一山は、本山派修験内で特別の位置を与えられていたようです。
たとえば天保年間筆写の「本山近代先達次第」には、熊野三山検校宮三井長吏・聖護院御門跡の一品法親王を筆頭にして、熊野三山奉行若王子僧正、院室の住心院・積善院・伽耶院、豊前の求菩提山・筑前の竃門山の両座主があげられています。
 このあとに備前児島五流の報恩院・尊滝院・太法院・伝法院・建徳院・智蓮光院・塩飽の吉祥院がいずれも山号は新熊野山、長床宿老として記されています。
 さらにこれに続いて諸国の大先達・年行事・准年行事、御直院が記され、最後に別段をもうけて、児島公卿として一老附宝良院・覚城院・正寿院・宝乗院・大泉院・太法院付常住院・南滝院・観了院・千寿院・報恩院付本城院・尊滝院付青雲院・常楽院・備前矢掛一流公卿智教院、讃岐丸亀内伝法院下威徳院、同塩飽島吉祥院下真滝院があげられているのです。本山派修験内でこれだけの院が一括して所属し、しかも院室・座主につぐ位置を占めている例はないようです。ここからも五流一山が本山派内で別格視されていたと研究者は考えているようです。
 五流修験は本山派内で重要視された背景は、何なのでしょうか。
それは、聖護院門跡の御一代の御大峰・役行者千年忌・千百年忌、本山派修験の春の葛城・秋の大峯の峰入にあたって、五流修験が重要な役割をはたしていたことによるようです。例えば、聖護院門跡の一世一度の峰入では、五流修験のものが峰中修行の秘儀である小木、関伽の作法を門跡に伝授する指南役を勤めています。こうした門跡の峰入の供奉に際しては、岡山藩からの援助を受け、衣裳も権現祭の際に着用する藩のものを借りています。またそれに先立って、必ずホームゲレンデの伯者大山で修行をしたようです。
以上をまとめておきましょう
①近世には岡山藩の宗教政策により「規制と保護」を受けるようになった。
②林村の熊野権現ついては神職の介入を受けるようになり、五流修験、大願寺、祠官の三者が共同して奉仕するようになった。
③由加山の管理権を失い、多くの寺院が退転した
④五流修験は規模を縮小したものの、依然として中国・四国に霞を持ち比較的安定した宗教活動を展開していた。
参考文献


   備中児島を中心に大きな勢力を持っていた五流修験の起源について、前回はみてきました。
その結果、五流修験は熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団であること。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからということが分かってきました。彼らは由来に「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであると考え、熊野本山との「幻想共同体」を作りだしていたようです。
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。今回は、そこから見ていきましょう。

五流 後鳥羽上皇系図

 後鳥羽上皇の第四王子 冷泉宮頼仁親王が承久の乱に連座して、承久二年(1220)に児島に配流されます。これが五流修験の発展の原動力になっていきます。
『吾妻鏡』承久三年(1222)七月廿五日の条には、次のように記されます
「冷泉宮令遷二于 備前国豊岡庄児島の佐々木太郎信実 法師受一武州命丿令互子息等奉守護上之云云」

 児島の豊岡庄に配流された冷泉宮頼仁親王は、備前の国の守護佐々木信実にあずけられます。この頼仁親王の兄が桜井宮覚仁法親王でした。覚仁法親王は、建保五年(1217)十二月大阿闇梨青龍院覚朝について得度し、翌6年には、三井寺円満院住職として三井の長吏になっています。
 「五流伝記略」などによると、頼仁法親王は、承久二年(1220)に京都の戦乱をさけて、児島にやって来て尊滝院に庵室を設けて避難生活を送っていたようです。
 一方、翌承久三年に豊岡庄に流された頼仁親王も、林の尊滝院に移って共に生活するようになったようです。このために尊滝院を御庵室先達と呼ぶようになります。

 やがて延応元年(1239)、後鳥羽上皇は隠岐で亡くなります。
翌年の仁治元年(1240)の一周忌に両親王は、その遺徳をしのんで石塔、廟堂、経蔵などを建て供養します。この石塔が、後鳥羽上皇御影塔と呼れ、重要文化財の石造宝塔になるようです。

五流 後鳥羽上皇御影塔

この塔は昭和45年に解体修理が行なわれましたが、その時に塔身首部から火葬した骨片95、歯12、香木8片、鉄製細片などが発見されたようです。五流一山には、後鳥羽上皇が亡くなった後に死体を荼毘に付し、遺骨を三分して一つを隠岐、今一つを山城国、最後の一つをこの宝塔におさめたとの伝承があります。その伝承通りの遺物です。
頼仁親王は、守護の佐々木信実の娘を妻とし、二人の子供を残します。
宝治元年(1247)四月二十日、48歳で、尊滝院で亡くなります。亡骸は木見の諸興寺に葬り、墓地を若宮御霊殿と呼びます。
五流 若宮御霊殿

  一方、後鳥羽上皇の第6皇子が覚仁法親王です。
この地に流された兄頼仁親王(後鳥羽上皇の第4皇子)と共に、当時衰退しかけていた尊瀧院の再興に力を尽くしたとされます。
岡山の風 | 熊野神社(倉敷市林)|昭和48年 (1973年) 8月
 
岡山県倉敷市林の熊野神社参道の途中に池があり、その中に桜井塚という島があります。そこに、五流尊瀧院の大僧正となった桜井宮覚仁法親王の墳墓があります。桜井塚の十三重層塔と灯籠は、覚仁親王の墓と並んでありますが、親王のために建立されたものです。
倉敷市林・伝桜井宮覚仁法親王御墳墓 - 寮管理人の呟き

塔は約5m高さで、親王没の弘長3年頃の建立で、初重の軸だけが当初からのもので、その他は明治末年になって皇国史観の高まりの中で修復・再建されたものです。造灯籠は高さ約170㎝の豊島石製で、室町時代(14世紀初め頃)の作とみられています。これも後のになって、建立されたもののようです。
 ふたりの親王の墓を比べると、五流一山がふたりをどう評価していたがうかがえます。覚仁法親王の方が五流一山に残したものは大きかったと考えられていたようです。なぜかと云えば、覚仁法親王は宝治二年(1248)に、熊野三山ならびに新熊野三山検校となり、建長七年(1255)の後嵯峨上皇の熊野御幸に際しては、先達をつとめます。これが親王先達のはじめとなるからです。彼は文永三年(1266)四月十二日、59歳で亡くなります。
 覚仁法親王は、頼仁親王の長男道乗を、尊滝院の後継者とします。あわせて自分が所有していた肥後詫間郡之内大庄の八ヶ所、同郡の川尻庄の大部分を与えています。
後継者となった道乗の行った経営スタイルを見ておきましょう
①上沢氏から妻をめとり、宮家六党のうしろだてのもとに児島五流の再建(創建?)を進める。
②自らは五流一山の庄務となり、清田八幡宮・福南山・滝宮・通生神社に社領を与え、諸興寺・由伽寺・藤戸寺領などを定めた。
③尊滝院を長子澄意(次は二子頼宴)、伝法院を三子親兼、太法院を四子隆禅、報恩院を五子澄有、建徳院を六子昌範につがせて、自分の子供たちにより五流一山の再興を行った。
ここからは道乗によって、親王の子孫が五流一山の統率者になるというスタイルが出来上がったことが分かります。こうして一山の組織は整えられると共に、求心力も高まったようです。

 由伽山蓮台寺には、正安元年(1299)在銘の打懸札二枚が伝えられています。そのうちの一枚の裏に、親兼・隆遍・隆禅・隆有・宋助の名前が記されています。このうち親兼、隆禅は道乗の子になります。ここからは、道乗の子供や法資が熊野三山の一つである那智に比定された由伽山の経営に関係していたことが分かります。「岡山熊野三山」の連携が見えてくるのも、この時期からのようです。
こうして、五流一山は道乗によって組織化され、そのうしろだてとなった宮家六党らによって支配されるようになります。その神領は小島庄を中心として、波佐川庄、豊岡庄を含めて児島一円に及んでいたようです。

 この時期の五流一山の状況を見てみましょう。
弘長二年(1262)二月の奥書がある「長床六十三箇条式目」には、次のような事が記されます。
 まず児島の庄全体は、長床衆一同の領で、権現結縁の者が生活する所とされています。そして次のように記されます
一山の運営は長床衆の下知に従って庄官及び両政所が行なう。その際両政所は行事を支配し、庄官は百姓を支配する。政所や庄官になるのは長床の座衆のみである。しかしいくら長床の座衆でも熊野常住の者や京都に留まっているものがなることは出来ない。なお政所は百文、庄官は百五十文の支給を受ける。
社寺に関しては、まず修理をおこたらず、祭礼に専念せよ。
もっとも神社、寺院、供僧の加増は禁止する。また社寺の奉仕者の職を在俗者にゆずることも禁じる。
 長床の地は一般の人々は入れない殺生禁断の地で、百姓が茸をとったり、漁人が貝などをとることも禁じす。
なお、修行の道場は質素であったようで、社殿にはたたみやござをしいてはいけない。修行道場である福南山の供米は、庄官の得分でまかなえ。
 その他に、一山の行事としては六月会、峰入、霜月大師講、後鳥羽上皇追善の大乗会などがあげられています。この「六十三箇条式目」には、二十一名に及ぶ署名が並びます。おそらくこの人々が当時の長床衆の主要な者と考えられます。

 前回に、お話ししたように児島は「吉備の中海」に面し備讃瀬戸の戦略的要衝でした。
戦略的な要衝は、争奪戦の対象になり戦乱に巻き込まれるのが世の常です。中世期には、五流一山は、度々戦乱にまきこまれます。その際に、熊野は南朝の拠点でしたから五流一山も南朝方に荷担します。結果としては、負け戦の連続になり神領を減らしていくことになります。その過程を見ておきましょう。
 南北朝の戦乱に活躍した児島高徳は、児島五流の出身といわれています。
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彼は後醍醐天皇の隠岐脱出を知ると一族のものと馳参じ、その功によって児島を得ています。そして尊氏の反乱後は、熊山城、福山城などで反幕の兵をあげます。南北朝の争を記した「太平記」には、児島高徳をはじめ修験者の活躍について、くわしく記されています。
 また「洞院公定日次記」の応永七年(1400)十月の条に「太平記」の作者として、小島法師が挙げれています。こうしたことから、「太平記」の作者を児島の五流山伏と考える研究者もいるようです。

南北朝時代の暦応三年(1340)には、児島の佐々木(飽浦)信胤が反幕の兵をあげ、小豆島にせめ入ります。
五流 佐々木

 そして、吉野朝廷に大将軍の下向を要請します。吉野では、これに応えて脇屋義助を派遣します。義助は吉野から高野山をへて田辺にでて、ここで新宮別当湛誉から熊野の水夫、武具、兵糧などを与えられ、三百余般の船にのって船出します。そして淡路の武嶋に行き、さらにここから備前の児島につき信胤と同船して、伊予今治におもむいています。ところが義助は、伊予の国府で病死し、信胤も敗れてしまいます。
 佐々木信胤は五流と親族関係で、熊野水軍も佐々木方に荷担しました。両者に関係をもつ五流一山も当然、南朝方につきます。幕府の高師直は、これに対する処罰として児島の常山より東側を五流一山から没収します。この結果、五流一山は児島の西半分のみを社領として活動を続けることになります。
 その上に、応仁の戦乱にまきこまれます。
 五流一山の覚王院は、細川勝元と所縁がありました。その権威をかりて山内でおもいのままに振舞い反感をかっていたようです。応仁の乱は、細川勝元と山名持豊が争ったわけですが、覚王院に反感を持っていた五流一山の者は、山名方に味方し、覚王院を亡ぼそうと画策します。
 これを知った覚王院円海は備中国西阿知に退きます。そして応仁二年(1468)三月二十日夜、細川方の兵をかりて五流一山に乱入し伽藍僧堂を一宇も残らず焼きはらってしまいます。こうして以後、覚王院と五流一山の確執は長く尾をひくことになります。
 応仁の乱後、幕府はこの五流一山の衆徒の争を罰して、神領をさらに減らします。その結果、近隣十七村、約8000石になってしまいます。
このような窮状の中で、再建計画を打ち出したのが大願寺の天誉です。
 彼は応仁の乱で廃墟になった一山の再建を志し、文明元年(1469)から長享元年(1487)にかけて四国を中心として諸国を勧進し、資財や資金を集めます。そして明応元年(1492)に一山の再建に成功します。
 しかしこの再建直後の明応年間に、残っていた児島十七村の熊野権現神領が、常山城主の謙野土佐守及び同肥前守に押領されてしまうのです。伽藍は再建されましたが、神領を失ってしまったのです。そこで管領細川政元にかけあいますが、一向に要領をえません。
 そのような中で永正四年(1507)、管領となった大内義弘のはからいで児島のうち林庄、曾原庄、火打庄(今の福江)の三ヶ村が五流一山に返されることになります。
 しかし、天文十六年(1547)には、一山を追われた覚王院円海の子孫との因縁から再び戦乱に巻き込まれます。
五流一山へ帰山を許されないことに恨みを抱いていた覚王院円海の子孫は、阿波の三好長慶の兵を借りて、一山に乱入して火をかます。この時には一山の者が結束して、これを防いだために、楼門や長床を焼失したのにとどまったようです。この時に焼かれた長床は、元亀二年(1571)大納言増印が資財をあつめて、天正の始めに再建しています。

 このような五流一山の神領への押領や侵入にたいして、本山である京都の聖護院門跡道応が動きます。
彼は、西国廻国の際に毛利元就に接見し、五流一山の保護を求めます。吉備への進出のプラス材料になると考えた元就は、五流近隣の城主へ五流の保護を命じます。加えて永禄十一年(1868)十月二十六日に、三ヶ村の界に輝元と元就の名で神領である事を明示した制札を建てています。こうして、大内氏から与えられた神領三ヶ村は、毛利氏の庇護のもとに安堵されることになります。
 修験者(山伏)が武力集団化するのは、古代以来のことです。
五流一山も武力集団化していたようで、一山の修験者が従軍僧として戦陣に加わることは日常化していたようです。彼らは、「知識人」でもあったので右筆・外交官・葬儀・戦闘記録・祈祷師など、いろいろな業務を担当していたようです。
 たとえば元亀二年(1571)春、讃岐国の香西駿河入道宗心が、児島の本太城の能勢修理を攻めた時のことです。五流の建徳院が能勢修理の陣に加わり、雨乞をして大雨を降らせ、能勢修理はそれに乗じて打って出て宗心を打ちとったという記録が残っています。五流修験が戦争で、重要な役割をはたしたことが分かります。
 こうした五流一山の武力や情報収集力、その背後にある熊野水軍などに注目する勢力も出てきます。
それが秀吉です。秀吉は、山陽・四国制圧のためには瀬戸内海の制海権を握ることが不可欠であることに早くから気付いていたようです。当時は備讃瀬戸の制海権は、毛利氏に属する村上水軍が握っていました。それに対抗しようとしたのか、天正十年(1882)秀吉は、長床衆の加勢を求めて使者として蜂須賀小六を五流に送っています。しかし、五流一山は毛利氏への帰属が強く、この時には応じなかったようです。そのため秀吉から、林、火打、曾原の三ヶ村も没収されてしまいます。全ての神領を失った一山では、天正十一年(1883)、使者を京都に派遣し、照高院道澄を通して秀吉に歎願します。この結果、天正十七年(1589)になって、秀吉の配下となった小早川隆景から、堪忍料として百石を与えられています。この百石の社領は後には、宇喜多秀家にもひきつがれます。

戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。
特に戦国時代になって、神領のほとんどを失ってからは、この動きが強まります。五流修験では原則として「霞(かすみ=テリトリー)」は、五流のみが所持していました。公卿は五流のいずれかに属して、直接に配札などの活動をおこなっていたようです。五流それぞれの霞は次のようになります。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後
太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島  
    作州(本山、桃山除)、日向
建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡 
報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、
    備前西大寺
伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡 
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。
統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。また各院の霞は、前回に見た縁起で主張される「熊野権現」分祠地と重なるようです。
 
室町時代の五流一山の衆会、講、饗などの年中行事を見ておきます。
これらの行事は長床衆を中心として行なわれていました。行事の名称を見ると、初雪、月見などの饗、連歌会、管絃講、公達集会や公達庚申などが見られます。地方の山伏にしては、洗練された諸行事が数多く行なわれていると研究者は指摘します。これは五流修験が、常に京都や熊野におもむいたり、早くから院や公卿の先達をしてきたことから、身につけた教養や作法なのかもしれません。
「後法興院記」の明応二年(1493)四月十九日の条には、児島の山伏二人が聖護院門跡の京都入りのお供をしていたことが記されています。こうしたこともあって五流修験は、京都でもよく知られた山伏であったようです。児島の五流修験は、都でも聖護院末の異色の修験者として受けとめられていたとしておきましょう。

戦国期の五流の伽藍や関連宗教施設を最後に見ておきます
①伽藍整備については、明応年間に大願寺の天誉によって再建され整備されて。本社・若殿・西宮・中西社から成る社殿を中心として、長床・観音堂・三重塔・神楽殿・御供殿・鐘楼・仁王門が立ち並んでいます。さらに元亀天正の頃までには、行者堂、楼門、唐門、回廊、一切経蔵、千体仏堂、後鳥羽院の御廟堂、覚仁法親王の御廟堂が再建されています。この他に修験の院坊、大願寺、神宮寺などの社僧の本堂、庫裡が山内各所に姿を見せていました。戦国期の地方寺院としては、瀬戸内では有数の規模を誇っていたようです。
 当時の児島には、五流のどんな関連社寺があったのでしょうか。
五流 岡山熊野三山

まず新宮にあたる木見の諸興寺があります。ここには新宮権現の本地薬師(恵心作)をまつった薬師堂、阿弥陀堂、若宮殿、御廟堂が立ち並んでいました。その他にも、紀州の神倉に比定された背後の山には毘沙門堂もあります。
那智にあたる由伽山には、権現堂と本地堂があり、本地堂には那智権現の本地十一面観音がまつられていました。その南には、紀州の那智同様に滝があり、滝宮があります。この他五流の山伏が那智権現に参詣する際に垢離をとった井戸があり、五流の井戸と呼ばれていました。
その他の関連宗教施設を列挙しておきましょう
①応永三十一年(1424)五流一山総録の智蓮光院宜深が一山の菩提寺として作った有南院
②有南院の近くには、熊野権現の御旅所の清田八幡宮
 熊野権現の祭礼の際には神輿や神馬は、本宮(林)を出て、新宮(木見)をへたうえで、清田八幡宮へ渡御し、神事の法楽ののちに本宮に帰ったと伝えられます。現在この神社には、
 至徳四年 (1387)三月
 嘉慶元年 (1387)十一月
 応永十九年 (1412)十一月
 応永二十九年(1422)二月
 永禄八年 (1565)九月
の五枚の棟札が伝えられています。そこには五流一山の関係者の名前が記されています。ここからは、清田八幡宮が五流一山において重視されていたことが分かります。

 室町時代の五流一山は、五流と公卿を中心とした修験者から成る座衆と大願寺を中心とした非座衆から成りたっていました。しかし、実際の運営は座衆が行なっていたと研究者は考えているようです。「新熊野権現御伝記」には、元亀・天正頃の長床結衆寺院(座衆)として、次のような院が記されます
建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院、智蓮光院、覚城院、南滝坊、常住院、本城院、青雲院、宝蔵院、大弐(出家当住)、俊雀(千手院当住)、正寿院、少納言(大善院当住)
 ここには塩飽本島の吉祥院が新たに加わって「五流」が六ヶ院に
なっています。建徳院、尊滝院、吉祥院、伝法院、報恩院、太法院が五流で、その他は公卿になります。
 塩飽本島の吉祥院が「五流」に加えられた経緯を示す史料はないようです。推測するなら、塩飽本島は塩飽水軍の拠点で早くから五流が関係していた備讃瀬戸の戦略的拠点です。そのために、本島に新たに五流の一院をもうけ、一山の運営に参加させるようになったとしておきましょう。どちらにせよ、塩飽本島に、五流の拠点が置かれていたことは押さえておく必要があります。

以上をまとめておきましょう。
①中世に後鳥羽上皇の子孫とされる道乗によって児島の地に五流修験は確立される。
②この時期に五流修験は備前国の守護の佐々木一族など宮家六党の後だてのもとに熊野神領の児島庄を支配し、熊野権現に奉仕する形ができた。
③しかし、この時期も児島に本拠をおくとともに、熊野にも拠点を持って先達として積極的に活動していた。
④南北朝時代以来のたびたびの戦乱で神領による財政的な支えが不可能とななったことに加えて、熊野信仰そのものも衰退した
⑤このため児島の修験者は熊野から独立して、自分達自身の手で一山を守り信者を獲得して行くようになった。
⑥五流修験者は瀬戸内沿岸で活動し、中国・四国から九州をテリトリーとする霞が成立するのはこの時期である。
⑦五流修験は、霞の檀那への配札や加持祈祷などの収入に活路を見出すようになる。
このように考えれば「長床縁由」に記される「熊野権現勧請譚」や、「聖武天皇や孝謙天皇の御代の伝承」は、信者をひきつけるためにこの頃に考え出された物語と思えてきます。
 どちらにしても五流は、戦争や内乱に屈することなく、縁起をととえ積極的に宗教活動を行なうことによって新たな信者を獲得し、その後の五流修験の活動基盤を作っていったと言えます。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

五流修験、発祥の地 「熊野権現の春」 | 岡山の風

 修験者たちの四国辺路の行場巡りの修行が、近世の四国霊場札所めぐりの原型であったといわれるようになっています。そのために、四国における修験者たちの活動に、焦点が当てられて研究成果がいくつも出されるようになりました。それらを読んでいて、気になるのが五流修験です。五流修験は倉敷市の児島半島に本拠を置いた修験集団でした。彼らの教団の形成と讃岐や四国との関係に焦点を当てて見ていこうと思います。
 五流修験の拠点である児島半島の「地理的な復元」をいつものように、最初に行っておきましょう。
五流修験 児島地図

 児島半島は、かつては島で北側には「吉備の中海」が拡がっていました。この海域は、近世に至るまで近畿と九州を結ぶ最重要のルートでした。古代吉備王国は、この備讃瀬戸の要衝を押さえて近畿勢力の有力な同盟者に成長して行きます。
最初に簡単に児島修験の概略を確認します。 
平安時代中期頃に、熊野本宮長床の一族と名乗る修験者たちが児島にやってきてます
 彼らは、熊野本宮の神領の中で最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成します。この集団は、自分たちの開祖を役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元として、尊滝院、太法院、建徳院、伝法院、報恩院の五ヶ寺を開きます。この5つの寺院から彼らは「五流」と呼ばれるようになります。

その後、平安時代末頃には児島の五流は、一時衰退したと云います。
しかし、承久の乱が起こり、後醍醐天皇の息子達が児島に流刑となっり、その子孫が院主となり五流の五ヶ寺は再興されます。
以後中世期を通して、五流修験は醍醐天皇の流れをくむ公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄します。五流山伏は、児島だけでなく熊野にも拠点をもつようになります。また、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍することになります。
五流修験は熊野権現を勧進していますから本山派に所属していました。
しかし、その組織の中に中国・四国から九州の一部に霞を持ち、霞内の先達に哺任を出すなど、本山派内でも別格的な位置を与えられていたようです。
  備讃瀬戸の制海権掌握のための拠点としての児島
五流 吉備の穴海
 
先ほど見たように児島の地は、現在では半島になっていますが、中世初期までは、その名の示すように島でした。熊野権現が勧請された林村は、水鳥灘の人江で、瀬戸内海の東の要所である備讃瀬戸の制海権を掌握するための拠点として重要戦略拠点でもあったようです。
 古代には吉備王国がこの水路を押さえて、瀬戸内海航路の管理権を握っていたことは先述したとおりです。源平の戦いでも争奪戦が展開されます。室町時代には、細川家が吉備と讃岐の守護職を得て備讃瀬戸の管理権を握っていました。戦略地点は戦いの時には、攻防戦の対象となります。このために児島五流も源平、南北朝、戦国時代などの戦乱にまきこまれていきます。
 近世期の五流修験
京都の聖護院内では、九州の宝満・求菩提などの座主と共に、院室につぐ位置を与えられ、公卿も各国の大先達につぐ位置を与えられていたようです。そして歴代の聖護院門跡の峰入の時には開伽、小木の指南役をつとめています。それだけでなく、本山派の春の葛城入峰、秋の大峯入峰でも重要な役割をはたしていました。
 中央でも重要な役割を担っていた五流修験に対して、地元の岡山藩は保護と管理の両面の宗教政策を巧みに使い分けて、管理下に置いていこうとします。まず、五流一山にそれまでの修験と、修理寺院大願寺のほかに新たに祠官を加えて、これらに百九十石の社領をあたえて保護します。特に山伏にはこのうち百石を与えると共に、門跡の峰入や葛城・大峯の峰入にあたっては、その都度銀子を与えています。
五流修験は、中四国の霊山である大山・石鎚の修験者を掌握していました
 五流の山内には、大仙智明権現がまつられ、石鎚山に擬せられた行場もあります。
赤い鐘楼門がとても目立っている - 大仙院の口コミ - じゃらんnet

大山や石鎚へは五流修験者たちの修行ゲレンデでした。同時に、彼らは先達として、多くの信者をこれらの霊山に参拝に連れて行きます。以前にお話ししたように、大山への岡山からの参拝を組織したのは、五流修験者たちでした。彼らは信者の里に庵を結び、それが発展して寺になった所も数多くあるようです。

 明治の神仏分離により、熊野権現は郷社熊野神社となり、大願寺は退転します。

五流 尊瀧院

 修験者は、五流筆頭の尊滝院を中心として結束し、聖護院末の修験集団を形成します。そして第二次大戦後は、尊滝院を総本山とする宗教法人「修験道」を結成し、中国・四国を中心に全国各地に教師・信者をもつ修験集団として活動するようになります。

  これが五流修験の概略です。これでは、よく分からないのでもう少し詳しく各時代毎に見ていくことにします。

五流修験の縁起では、児島への熊野権現の勧進をどのように記しているのでしょうか。「長床縁由」などの諸縁起を見てみましょう。
は次のような伝承をのせています。
 修験道の開祖役小角は韓国連広足の彿言によってとらえられようとした時、朝廷の追捕の手をさけて熊野本宮にかくれていた。しかし自分のために母親が捕えられたと聞いて自ら縛につき伊豆の大島に配流された。
 その時義学らの五大弟子を中心とする門弟三百余人は、王難が及ぶことをおそれて熊野本宮の御神体を奉持して、権現を無事に安置しうる霊地を求めて船出した。
 そして淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)、九州各地などを三年間にわたってさまよい、これらの場所にそれぞれ権現を分祀した。ただし御神体そのものを安置しうる霊地はまだ発見しえなかった。
ここで伝えようとしていることは
①自分たちは、修験道の開祖役小角の五大弟子につながる法脈であること
②法難に際して、聖地熊野本宮の神体をもって瀬戸内海方面に亡命したこと
③瀬戸内海沿岸の淡路・阿波・讃岐・伊予、九州をさまよい権現を分祠したこと。
など、自分たちの集団のよるべき法脈と、瀬戸内海のテリトリーが主張されます。
 ここで私が注目しておきたいのは権現分祠先として「讃岐の多度」があることです。

五流 備讃瀬戸

多度郡は、空海を産んだ佐伯氏の本貫で善通寺がある郡になります。その郡港として古代に機能していたのが弘田川の河口にある白方(多度津町)です。ここには近世になって「空海=白方誕生説」を流布した父母院・熊手八幡・海岸寺・弥谷寺があります。
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多度津町白方の熊手八幡 その向こうに広がる備讃瀬戸

これらの寺院に残された寄進物を見ると信者達には、備讃瀬戸を挟んだ備後や備中の人たちが名前が見えます。さらに絞り込んでいくと、彼らは五流修験の下に組織された人たちではなかったのかと思えてくる状況証拠があります。
 つまり、大山や石鎚への蔵王権現信仰と同じく、白方にも熊野権現が分祠され、それを五流の修験者たちが祀り、彼らが先達として備後・備中の信者達を連れてきたのではという仮説です。実は、これは小豆島の島遍路巡りをして思った事でした。吉備から見て南に開ける海の向こうにある補陀落や観音信仰の霊地としての小豆島や白方は見られていたのではないかという筋書きです。
 後に、その霊地に弘法大師大師伝説が接ぎ木されていくパターンです。これは、観音寺が八幡信仰と観音信仰の上に、弘法大師伝説が接木されるのと同じような手法です。

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白方=空海誕生地説の拠点だった海岸寺奥の院からの備讃瀬戸

 この動きを進めたのが五流修験であったとすれば、「空海=善通寺生誕説」にこだわる必要はありません。彼らは善通寺とは別の系譜の修験者たちです。新たに「空海=白方生誕説」を流布し、白方の宗教施設のさらなる「集客力アップ」を目指したのではないかというのが私の仮説です。
 中世に多度郡白方に置かれた宗教施設は、児島五流の影響をうけていたとしておきます。

 また、多度津以外の「淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)」にも、熊野権現を分祠したと云います。これは、古代のことではなく、後世における五流修験の活動範囲と私は考えています。さらに縁起をみていくことにします。
 瀬戸内海をさまよううちに、義学は船を東に向けるよう神託を受けた。これに従って東に舵を向け備中と備前の境まできた時、山上から呼声が聞えてきた。この場所が現在の倉敷市呼松である。この声にひかれて更に梶を南にとり柘榴の浜(現在の児島下の町)に到着した。
 すると海浜の石の上に白髪の老人が左手に経巻、右手に賊斧を持って立っていた。老人は、ここから北に進むと如意宝満の峰という霊地がある、そこに権現を鎮座すると良い。自分は地主神の福岡明神であるが、今後は熊野権現を護持しようと語った。義学らは喜んで上陸し柘榴の浜に寺を作った。これがのちの惣願寺である。
 一行は教えられた通りに北に道をとり、福南山の山麓をへて峠(のちに熊坂峠と呼ばれた)を越えて福岡邑に到着した。なおこの途中、福南山の麓で休憩して堂を作り地蔵をまつった。これが現在の熊野地蔵である。
 さて福岡の地に着いた一行は、熊野十二社権現の御神体を安置してまつりを行なった。大宝元年(701)三月三日のことであったという。
またあわせて境内に地主神の福岡明神を勧請した。その御神体は柘榴の浜で老人が立っていた石である。熊野権現の到来を喜び迎えた村人は同年の三月十五日に仮の御社にまつり、什物をはこび込んだ。やがて六月十五日には十二社権現すべての御社が完成した。爾来熊野権現が福岡の邑に鎮座された三月三日は同社の大祭とされている。また仮宮を造られ什物がととのえられた三月十五日には負事の賀、十二社権現の御社が完成した六月十五日には祭典が行なわれるようになったという。
 以上が「長床縁由」などに見られる児島への熊野権現の勧請物語です。近世の写本「五流伝記略」には、天平宝字五年に木見に宮殿を建てて新宮諸興寺とし、同じく児島の山村に那智山を移して新熊野山由伽寺を開いたと記します。これらがはたして史実かどうかは分かりません。
五流 岡山熊野三山

つまり、自分たちは熊野長床の子孫であり、新たに児島の地に熊野権現を開いたという「新熊野」伝説を主張しています。これをそのまま信じることはできませんが、この縁起類が書かれた時代の背景をうかがえることはできそうです。
 さらに、聖武天皇が神領を寄進し、孝謙天皇の御代に堂宇が整ったこと、そして児島の地に新宮及び那智の権現も勧請されたという縁起が、後世に作られたと研究者は考えているようです。

 「尊滝院世系譜」では尊滝院の開基を義学とします。
以下二世義玄、三世義真、四世寿元、五世芳元と役小角の五大弟子を並べ、六世神鏡、七世義天、八世雲照、九世元具を記します。9世の元具が死亡した永観(983)年間以降、承久2年(1220)の覚仁法親王による再興までの間、同院は中絶して寺院は荒廃したとします。
 寺院の縁起は「①古代の建立 → ②中世の荒廃 → ③近世の復興」というパターンで書かれたものが多いようです。③の場合は「復興=創建」と、読み直した方がいい場合もあります。六世から九世迄の四人のうち神鏡以外の三人については、具体的な活動が伝承されているようです。しかし、史料を検討した研究者は
「実在の人物であるとはいいがたく、後世に付会して作られた伝承」
という疑いの目で見てます。   

縁起の中で主張する「五流修験=熊野本宮長床衆亡命集団」説も検討しておきましょう
和歌山県・熊野にゲストハウスikkyuをつくった森雄翼さんの目標は「地球一個ぶんの暮らし」を体感できる宿にすること | ココロココ  地方と都市をつなぐ・つたえる

本家の熊野本宮長床衆は、大治三年(1128)の記録に
長床三十人是天下山伏之司也、自古定寺三十ケ寺 此外山伏中は余多委口伝」

とあり、百五拾町歩の社領が与えられています。
熊野長床衆の行事には延久元年(一〇六九)の「社役儀式之事」によると、
元旦の衆会への出仕
一月七日から七日間の祈念
夏百日間の寵山修行
院や貴族たちの峰入の先達
などの重要な役割を果たしています。この長床衆の中心をなしていたのが五流といわれる五つの院坊です。そしてその代表が執行でした。
 室町時代に成立した「両峰問答秘紗」によると、平安時代末から鎌倉時代初期の熊野長床五流は、「尊・行宗・僧南房、報・定慶・千宝房、太・玄印・龍院房、建・覚南・覚如房、覚・定仁・真龍房」で、いずれも晦日山伏です。
 この「尊」は尊滝院、報は報恩院、太は太法院、建は建徳院、覚は覚城院の略号のようです。例えば、尊滝院の行宗は、嘉応二年(1170)44歳で長床(直任)執行となり、文治三年(1187)四月、後白河法皇の病気を治した功により少僧都になっています。また西行が大峯入りをした際の先達としても知られています。
 このように本家の熊野五流山伏達は、平安時代末期から鎌倉時代初期に熊野を拠点とした先達として活動していることが史料から分かります。また、熊野において特に院や貴族などの峰入に際して重要な役割をはたします。
後鳥羽天皇、皇子ゆかり 「熊野権現」 | 岡山の風

それでは、児島の五流長床衆は、どうなのでしょうか。
 児島の長床五流の活動は、史料からは見いだせません。つまり、児島の五流修験が由来で主張する「熊野長床五流の亡命者」は、史料的には説明できないようです。
しかし、中世初期の「熊野本宮御神領諧国有之覚事」には
『八千貫、従内裏御寄進 大祀殿修理領、備前児島

とあります。ここからは、熊野本宮の大祀殿修理八千貫を児島五流が寄進していることが分かります。この寄進額は、熊野の神領中では最大の貫数になります。児島の地が熊野本宮の重要な神領であったことは分かります。
経済的だけでなく、この児島の地は瀬戸内海における水軍の重要な拠点であったことは先述しました。
そのため純友の乱、源平の争いなどの時にも児島の地は、争奪戦が展開されます。

五流 源平の戦い

とくに佐々木盛綱の渡海が謡曲にもうたわれた元暦元年(1184)の源範頼と平行盛の藤戸の戦は、児島が舞台です。
五流 藤土の戦い

この児島を掌握することが、源氏にとっても平氏にとっても重要なことであったことがうかがえます。

 藤戸の戦を勝利に導く敵前渡海をした佐々木盛綱は、その功により源頼朝から、児島の波佐川の庄を与えられます。
これに対して、五流修験は、次のように幕府に対して激しく抗議します
児島の地は天平二十年、聖武天皇から神領として賜ったもの故、その一部の波佐川の庄を盛綱に割譲することは出来ぬ

一山の代表真滝坊は鎌倉におもむき、そこで27年間にわたって訴願を続けています。これに対して承元四年(1210)になって、五流の訴えが認められ、波佐川の庄が五流一山に返されています。五流一山ではこの決定をてこに、熊野長床衆や熊野水軍をうしろだてにして、児島一円を拠点とする強力な修験集団を作りあげていったようです。
こうして、13世紀になって熊野五流は、熊野水軍の舟に児島五流の僧侶(修験者)たちが乗り込み、瀬戸内海交易を活発に展開するようになります。熊野詣での信者を、五流の先達が導引して、熊野水軍の定期船が運ぶという姿が見られるようになります。この時期には、芸予諸島の大三島や塩飽の本島などには、熊野水軍の「定期船」が就航していたと考える研究者もいるようです。瀬戸内沿岸における熊野信仰は、児島五流の修験者が強く関わっていたことがうかがえます。
 また、縁起に記さた瀬戸内海沿いの多度郡などに熊野権現が分祠されたのも、この時期のことだったのではないかと私は考えています。

 こうしてみると五流修験の起源を、古代にまで遡って考えるのは難しいようです。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団が児島五流と言えそうです。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからのようです。その際に彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想共同体」を生み出したとしておきましょう。

以上をまとめておくと、
①児島は熊野神社の社領となり、熊野権現が勧進された
②備讃瀬戸の要所である児島は、熊野水軍の瀬戸内海における重要拠点となり、熊野権現信仰の布教拠点にも成長して行った。
③義天が福南山で虚空蔵求聞を行い妙見をまつったり、雲照が清田八幡宮を熊野権現の御旅所にするなどして、吉備の熊野三山が整えられて行った。
④しかし、この時期の五流修験の本拠は熊野であり、児島は熊野長床五流の拠点にすぎなかった
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど、多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したようです。熊野参詣を隆盛に導いた原動力の一つが、地方(在地)の先達(修験者=山伏=熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力があったからだと云われます。その中でも中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域とされます。
 今回は、先達と檀那の間に結ばれた師檀契約の願文から熊野信仰について迫った研究を見てみることにします。
テキストは「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」です。
まず、最初に中世における熊野信仰の広がりを確認することから始まります。
 熊野信仰は、熊野三所権現の成立した11世紀末以降に盛んになりました。熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが「三位一体化」します。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていますが、同時にそれらの神が神仏習合化(神仏混淆性)していきます。

1熊野信仰 熊野三尊
 本宮は阿弥陀仏、
 新宮は薬師如来
 那智社は千手観音
を本地とします。そして
①本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。
②新宮は東方瑠璃浄土、
③那智は補陀落浄土
とも説明されるようになり、庶民にも受けいれやすく「加工」されていきます。
1熊野信仰 那智神

さらに、仏教でも不浄視されていた女性へも寛容的で、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすい性格だったようです。ただこの点は、後には南北朝末期に高野山側が
「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」

と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられたようです。この点が戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていった理由の一つと研究者は考えているようです。
 
熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、
紀伊路は大辺路・中辺路・小辺路の3ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなります。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしながら、旅の苦労や愁いを一時なりとも忘れたと云われます。
 熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを越えて、大行列で度重なる参詣を行うようになります。四国霊場を歩き通すことが人々に達成感や成就感あたえ、明日に生きていく力を養うことにつながると同時に、そこでの非日常体験や宗教的な霊感が信仰心を高めていきます。同時に、長い参拝はある意味で修行生活で学習の場でもありました。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも「世間を学ぶ」ために貴族たちと同じように、参詣をする者が現れます。そして、熊野詣でを、自分の子どもたちに「通過儀礼」として体験させる者も現れます。こうして 
①平安時代の貴族→ ② 鎌倉時代の武士 ③室町時代の商人 

へと熊野信仰は、広がりと安定した基盤をもつようになります。

幕府が鎌倉に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せます。中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方は少ないようです。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰の拠点となっていきます。そのため「熊野神社の末社数=熊野詣で参詣数隆盛」という図式がすぐに考えられますが、どうもそうではないようです。それは熊野詣でが近世の金毘羅詣でと違って、個人参拝ではなかったからです。熊野参拝のシステムは
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
この三者の結びつきで出来上がっていました。
 先達に引率されて熊野にやって来た檀那は、神宮と参拝取次を御師に依頼します。その際に御師との間に師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出しました。これは神との契約関係で、1回だけでなく一生の通じての契約でした。そのため檀那の名やその在所は、御師の家に大切に文書として保管されていました。
1 熊野信仰 檀那願文

 中世後期になると、檀那を金銭で売買することが一般化します。売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるようになります。檀那を売買するという行為は、私たちから見ると違和感を覚えます利権として当たり前とされたいたようです。
 伊予国の熊野社と先達寺院を見てみましょう
 先ほども触れましたが中世の伊予国には、ほとんど熊野社領荘園はありません。にもかかわらず伊予は熊野神社が全域に分布しています。それはどうしてなのでしょうか。
  その理由を、先達である修験者(山伏)の活動の多さと活発な活動にあった研究者は考えているようです
 熊野神社の分社は、徳島県82社(寛保神社帳)や高知県69社(長宗我部地検帳)に比べると、少ないようですが全県下に分布していることが表からは分かります。分布特徴としては、山間部に多く、宇和町に集中している点を挙げることができそうです。

1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
 伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。
そのため愛媛の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。
その意味で新宮の熊野神社は、熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。また、吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。土佐方面への次の拠点は、
①新宮村熊野神社→ ②土佐豊永の熊野神社(定福寺)→ ③大豊町豊楽寺(若一王子神社)→④本山町金剛寺(若一王子神社)

という伝播ルートが考えられ、このルートは土佐の人々の熊野詣でルートであったともされます。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧2

 一方、伊予方面への伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
伊予国の先達拠点の特徴を、研究者は次のように指摘します
①真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、
②伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、
③石鎚・出石山の二大修験霊場、一宮(三島社)という大社
④主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社)
などを拠点にして、熊野先達たちは活動していたようです。
 この中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)は史料が残っていて、詳細な点まで分かるようです。この神社は熊野谷と書いて(ゆやだに)と読むようです。ここの社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、その中には次のような条文があります。
「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。 
 
とあって「熊野参詣の前には、湯屋谷権現(熊野谷権現)へ、まずお参りし絵から出かけること」と記されています。

三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
 売買の対象になった檀那(武士)は、
(一)檀那の一族、一門
(二)地域
(三)先達
の3つに分類されています。
(一)と(二)について、研究者は具体例をあげて検討しています。 
 中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。
年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に次のように河野氏は登場します。
 同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分
意訳すると
 伊予の河野一族は、18ケ村の他に、道後・道前一円や川野にいる。講の一門18ヶ村の檀那帳の代金は26貫文である。

ここでは、河野氏一族を「十八ケ村」と一括りにして、檀那を26貫文で売買されています。中世には、「一石一貫(米1石=銭1貫文)」という換算方法があったようです。これで計算すると1貫文は、10万円前後となるようです。26貫文は、260万円で、熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているようです。「十八ケ村」で括れない河野氏勢力圏全体という意味で、そんな値段になったと研究者は考えているようです。
 しかし、河野氏一族を「十八ケ村」というのは、あいまいな概念です。これをもとに檀那を売買した檀那権をめぐる先達同士の紛争が起きたことが予想できます。このため一族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではなかったようです。

河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として名前が見えるものもいます。
伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、
久米郡岩加羅城主の志津川氏、
浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏
などです。
この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)です。
医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に
「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」
が見えます。


有力な氏族単位を檀那とする形とは別に、地域の小規模な武士集団を檀那とする方式も見られます。
応永元年(1394)正月16日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)には、
①岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)
②長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、
随明寺僧橋本坊を先達としていたようです。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那もあったことが分かります。
 次に喜多郡の事例をあげてみましょう。
1 熊野信仰 伊予国喜多郡

この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたようです。それが熊野の檀那分布状況にも反映されています。喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、
①津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、
②笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、
③下須戒氏(矢野氏流)、
④出海の兵藤氏、
⑤富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏
など、五つの系列に分かれています。これらは、地縁的、氏族的にまとまりがあります。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っているようです。
 グループ毎に先達に引き連れられて、ながい熊野詣でに出かけます。先達は現在のツアーコンダクターに、修験道の師匠を加味したような性格を持ち畏敬の念で見られていたようです。ある意味、旅は「鍛錬」や「学習」の場でもありました。日常生活では見たり聞いたり出来ないことも体験します。それが人間的な成長の糧にもなります。武士団の頭領のような人たちにとっては「社会勉強」の役割も果たします。同時に、長い苦楽を共にした参加者との連帯感を養うことにもなります。各武士団が団結を深めるためにも熊野詣では役だったようです。
 熊野への参拝ルートは2つ考えられるようです。
 ①芸予諸島から熊野水軍の「定期船」で熊野へ
 ②新宮村熊野神社を拠点に、阿波吉野川沿いの熊野神社分社を経由し、撫養から紀州へ
この2つのルートが熊野参拝ルートとして中世以来の利用されていたようです。
喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が盛んな地域でした。
 喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(1340)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)があります。しかし、この文書は文書様式からみても、譲状ではありません。内容的にも、清谷寺が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主を数多く檀那していた記録です。そこには誇大な記載があり、年代的にも疑わしと研究者は考えているようです。江戸時代になると、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることが多々あったようです。

このような熊野先達の活動が停滞するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。
 「戦乱の拡大とと交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」

と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような状況下で、熊野先達たちは活路をどこに求めたのでしょうか。
熊野先達=熊野行者=修験者=山伏たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を、新たに村落住人へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供するようになります。その内容は「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。地元の定着し里寺を起こす者も現れます。同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。それが中世の古四国遍路の完成につながっていき、その上に近世になって素人による四国巡礼が始まると研究者は考えているようです。
  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」
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中世は宗教が科学の役割を果たしていました。武力や技術、医療なども宗教と深く結びついていました。そのため人々にとって神仏は、身近な存在でした。すべては神仏で説明されたのです。
そんな中で、上皇や貴族たちから始まった熊野信仰は、鎌倉時代になると、皇族や貴族をまねて地方の武士たちも熊野に参詣するようになります。そして、後には富裕層も参加するようになり、次第にさまざまな階層の人々に受け入れられ、全国に広がったようです。
熊野信仰は、どのようにして各地に広がったのでしょうかに

 「瀬戸内海交通路を通じた霊場の系列化により浸透した」

と研究者は考えているようです。
熊野水軍に代表されるように古代からの熊野の海上交易ルート沿いに熊野領荘園の設置や熊野権現の勧進が行われます。しかし、それだけでは熊野詣を行う原動力にはなりません。身近で熊野に行こうと働きかけてくれる人物が必要です。それが熊野先達でした。
熊野先達の果たした役割を見ておきましょう。
先達の指示した精進潔斎を行って、参拝者(檀那)は熊野に出発します。先達は道中の道案内、関所、渡船、宿泊などの世話を行ないます。船で紀伊について熊野詣道に入ってからは、熊野王子などの霊地で拝礼や垢離などの導師を勤め、帰路や帰還後の作法を取り仕切ります。これだけ見ると現在の団来旅行のインストラクターのようですが、これは先達の職務の一部でしかありません。さらに先達は参詣をできない人の喜捨を熊野にとどける「代参」も行います。つまり、参拝しない信徒も抱えているのです。そして、熊野に参詣したり、寄進する人(信者)を「檀那」と呼んでいました。
 熊野にやってきた檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案内などに従事したのが御師です。
先達は檀那を熊野に導くと、御師あてに檀那の在所、氏名、自己の在所、名前、提出年月日などを記した願文を提出しました。その形式は、次のようなものです。
     上野国高山修理亮重行(花押)
一    応安五年三月四日
一   道先達金峯山別当民部律師
一   那智山御師六角堂弁法眼
 この願文は応安五年に、上野国高山の檀那の修理亮重行が、大和の先達・金峰山別当民部律師を仲介として、那智山御師六角堂弁法眼に提出したものです。このように願文は、本来は熊野に到着した際、檀那が先達・御師を介して熊野権現に祈願をとりついでもらうために提出する祈祷依頼状でした。ところがこの願文には、今後は必ずこの御師のもとに来ることを契約した内容も含まれています。それだけでなく、この先達が導いた檀那、その檀那の一族のものにも同様のことが義務づけられるようになります。そのため後には、願文とあわせて系図が提出させられ、御師は檀那の系図を作って保管するようになります。
つまり「願文提出」は、先達と檀那との契約関係ともいえるのです。今と違うのは神仏を介して成立していることです。熊野本宮の神前で御師・先達・檀那により交わされたもので、熊野権現への誓約という形で行われています。つまり神をバックにする御師・先達と、ただの人間の契約で対等なものではありません。契約を破れば、神仏から罰せられることになります。しかも契約は一代かぎりでないのです。子孫まで拘束するものであったことが文書から分かります。
  こうして以後は、子孫に至るまで「檀那・先達と御師」との結びつきが続くことになります。こうした御師と先達・檀那の関係を「師檀関係」と呼んでいるようです。願文は先達・檀那が署判して御師に提出する師檀関係の締結を示す契約状の性格をもつようになります。

 熊野の御師は、どんな風に全国の檀那を「登録管理」していたのでしょうか?
 熊野では、鎌倉時代から室町時代初期までは、檀那を一族単位で掌握していたようです。それが後には、在所単位に移っていきます。「那智山社法格式書」に、諸大名・諸氏は名字・氏・系図にもとづき、町人・百姓は生縁の在所によるとあるように、古くは、在地領主は一族単位で掌握されていたことが分かります。東北、関東など、在地領主の支配力が強い地域では、一族引きの形がとられたようです。ここからは、同じ地域に住む一族が一緒に、熊野詣をしていたことがうかがえます。
 御師にとっては師檀関係を結んだ檀那や先達は、他の御師へ鞍替えは出来ないシステムだったので、まさに永遠の「常客」です。このリストを持っている限り、参拝客が熊野にやって来てた場合には、宿泊料や取次料が入ってきます。そのため檀那リストは貴重な財産とされるようになります。
 御師は、檀那・先達の願文を保存し、さらに名簿や檀那の系図なども作って大切に保管するようになります。そしてやがてこれらの檀那・先達リストは譲渡や売買の対象としたり、借金の抵当となるのです。これは、そこに名前の記されている檀那や先達の意志と関係なく、御師の間で行なわれ、変更後にこのことを檀那や先達には知らせていたようです。現在の旅館がこんなことをやれば、怒りをかうでしょう。
 その際、御師の間ではのちの紛争を防ぐために檀那や先達の譲渡状、売買や借金に関する文書が取りかわされています。その上で、相手方に願文や檀那・先達リストが渡されています。
現在熊野の那智大社と本宮大社には、御師文書と呼ばれるこれらの文書が一括して保存されているようです。このうち那智大社所蔵のものは、『熊野那智大社文書』全六巻にまとめられています。
 この中にある「願文・願文帳・檀那譲状・檀那売券・借銭状・先達や檀那の名簿」をもとにして研究者は、各地の能野先達や檀那の活動を明らかにしているようです
その中の先達が「檀那権」を譲渡・売買した譲状を見てみましょう
これは、先達が親子・師弟などの間で檀那を無償で譲渡するものです。
    永譲渡檀那事
  合 上野国 玉村保住人讃岐公
  右件檀那者、京尊之相伝也 然聞所譲渡于玄善房実也、但後日証文之状如件、
   永仁七年卯月十七日                  京尊花押
 これは先達の京尊が上野国見桃保(群馬県玉村町)の檀那讃岐公を玄善房に譲渡したものです。
最初に「譲渡檀那事」とあります。「永」が文頭に記されているのは、「期間限定のレンタル譲渡」もあったからです。その場合には、レンタル期間が記されています。
 ここからは 参拝者(檀那) ー 熊野先達 ー 熊野の御師という関係(師檀関係)を、先達たちも互いに譲渡・売買していたことが分かります。 
 熊野先達を勤めた人たちは、どんな人だったのか
  先達は山伏だったと研究者は云います。石鎚山や中国地方の大山などの山岳霊場で修行する一方で、自分の拠点周辺の住民などを熊野へ引導しました。その途上、彼らは道筋にある神社や社寺などに泊まることもあったようで、その手続きや宗教儀礼なども執り行います。また。檀那の代理として参詣したり、礼を配ったりするなど、日常的に檀那と深くつなかっていました。今私たちが考える団体旅行のインストラクターとは、まったく違ったものです。ある意味、先達は檀那の信仰を菅理する立場で、師匠でもあり、怖れられる存在でもあったようです。13世紀の説話集「沙石集」からは、檀那が先達に畏怖の念を抱いていたことがうかがえます。
先達は檀那の信仰に深く関わり、その代償として利益を得ています。
だから、檀那との関係が動産化し譲渡や売買の対象となったと研究者は考えているようです。
徳島県吉野川市鴨島町の仙光寺所蔵の古文書は、地方の熊野先達に関する貴重な文書が残っています。そこには「十川先達」という熊野先達の名前が出てきます。彼は「柿原別当」という師匠について修験活動を行う山伏でした。彼の活動歴を残された文書から見てみると、周辺の先達から檀那株を買ったり、いろいろな手段で檀那を増やし、活動・経済基盤を固めている様子が次のように見えてきます。
① 14世紀には吉野川市鴨島・川島町が、檀那の分布域であった。
② 15世紀には柿原別当から石井町、吉野川市鴨島町の檀那を買い取った。
③ 16世紀初頭には、鴨島町西部に新たな檀那をもつようになる
④ さらに、鳴門市や徳島市、美波町、三好市などの檀那が散在するようになる。
このように、鴨島を中心に霞(かすみ)と呼ばれるテリトリーを拡大し、広域的に活動するようになります。ところで、檀那株を買った先の「柿原別当」は、もともは十川先達の師匠であったようです。ここからは十川先達が師匠から自立し、川島町を拠点に檀那を増やした。そして師匠の「柿原別当」が引退すると、その檀那株を譲り受けたという筋書きが描けそうです。
  熊野詣には、どれほどの費用が必要だったのでしょうか?
 吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達の残した史料から、参詣の費用について見てみましょう。
 白地城(三好市)の城主として名高い武将である大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げたものが残っています。ここからは
大西覚用 ー 十川先達 - 御師という師檀関係

が見えてきます。覚用がこのときに、自分自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって参詣したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。
史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは3745万8750円で、大変な高額です。これは、御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。こちらについての記録は内容ですが、地域の有力武士団の棟梁クラスは、このくらいの「参拝料」を収めていたようです。商人たちは参詣講を組織し、グループで参詣していたようなので、こんな高額にはならなかったのかもしれません。しかし、一般庶民の手の出る者ではありません。近世の伊勢詣でや、金毘羅詣でとは違って庶民性は薄いようです。ところが、こんな方法ではなく、信心の強い人は物乞いをしながら熊野へ向かった人もいたようです。参詣に要する経費はさまざまであったということになるのでしょうか。
 どちらにしても紀伊からやってきた熊野修験者たちが四国各地に定着し、多くの檀那を確保して熊野詣でに参道していたようです。