現在のところ弘法大師が四国遍路に関わったことを記す最古の史料は、第51番札所・ 石手寺(松山市)の由緒を記した「通宣刻板」のようです。
これは厚さ1、6㎝の板で、戦国時代の「永禄10 (1567年)の年号が刻まれています。内容は
これは厚さ1、6㎝の板で、戦国時代の「永禄10 (1567年)の年号が刻まれています。内容は
表面には、和銅 5 年(712)から文明13年(14811)までの安養寺(石手寺の旧名)の由緒と河野伊予守通宣の名前・花押裏面には建物・文書・寺社領田・宝物の一覧
ここからは、この寺に、白山信仰・薬師信仰・真言密教・熊野信仰・弘法大師信仰・三島信仰など、さまざまな信仰が流れ込み、新たな要素が付け加えられきたことがうかがえます。

衛門三郎と弘法大師
この中に天長 8 年(831)のこととして、次のような浮穴郡江原郷の「衛門三郎」の話が載せられいます。A
天長八辛亥載、浮穴郡江原郷右衛門三郎、求利欲而冨貴破悪逆而仏神故、八人男子頓死、自尓剃髪捨家順四国邊路、於阿州焼山寺麓及病死、一念言望伊豫国司、爰空海和尚一寸八分石切、八塚右衛門三郎銘封左手、経年月生国司息利男子、継家号息方件石令置当寺本堂畢
意訳変換しておくと
A
831(天長8) 年、江原郷に住む衛門三郎という富豪が、私腹を肥やして神仏も信じなかった。そのためか8人の男子が次々と死んだ。そこで心を入れ替えて剃髪し、四国遍路に出た。衛門三郎は阿波焼山寺(徳島県神山町)のふもとで病死する前、伊予国司になることを望み、現れた弘法大師は「八塚右衛門三郎」と書いた石を左手に握らせた。月を経て国司の河野家でこの石を握った男子が誕生した。この石は今は、安養寺(石手寺)の本堂奉納されている。
澄禅の『四国辺路日記』(承応2年(1653)にも、衛門三郎のことが次のように記されています。
B
河野氏の下人である衛門三郎は悪人で、八坂の宮(八坂寺)を訪れた①弘法大師の鉢を八つに割ってしまう。その後、衛門三郎の子八人が次々に亡くなり、それが②大師への悪事の報いであることをさとった衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に出る。衛門三郎は死ぬ間際に阿波国焼山寺の麓でようやく大師に出会い、河野の家に生まれ変わることを願う。大師は衛門三郎の左手に、③南無大師遍照金剛衛門三郎と書いた石を握らせる。三年後河野の家にその石を握った子が生まれ、衛門三郎の生まれ変わりであることがわかる。
A・Bを比べて見ると次のような違いがあることがことが分かります。
①Aには、衛門三郎が四国遍路に出るまでの部分に弘法大師は出てこないこと。
つまり、衛門三郎が大師の鉢を割ったことや大師を慕って四国遍路に出たことは書かれていません。書かれているのは、子が死んだのは、衛門三郎が貪欲で仏神に背いたためとされています。
つまり、衛門三郎が大師の鉢を割ったことや大師を慕って四国遍路に出たことは書かれていません。書かれているのは、子が死んだのは、衛門三郎が貪欲で仏神に背いたためとされています。
②後半部に出てくる衛門三郎が握った一寸八分の石の銘も、Bは「南無大師遍照金剛衛門三郎」と記されていたとしますが、Aには「衛門三郎」としかありません。こうしてみるとBは、衛門三郎と大師の関係で話が進みます。それに対して、Aでは大師は死ぬ間際の衛門三郎に石を渡す役割だけです。

「記述量の少ない史料の方が古い。後世に付け加えられて伝説は長くなる。」というセオリーからするとAが原形で、Bが後世の付加物版と推測できます。研究者は、Aの「石手寺刻版」が「本来の衛門三郎伝説」であったと判断します。そして「本来の衛門三郎伝説は、現在伝えられるよりもはるかにシンプルなものであった」と指摘します。そうだとすると、衛門三郎は、弘法大師の鉢を割ってもいないし、弘法大師に会うために四国遍路に出たのでもないことになります。伝説の中の弘法大師は、もともとは影が薄いものだったのです。ここでは本来の衛門三郎伝説(A)が、弘法大師信仰の「肥大化」により四国遍路縁起にみられる(B)に付加変容していくこと、これが衛門三郎伝説の初見であることを押さえておきます。

八坂寺版の「弘法大師と衛門三郎」
このように衛門三郎伝説にはAとBの二つが伝わっています。「記述量の少ない史料の方が古い。後世に付け加えられて伝説は長くなる。」というセオリーからするとAが原形で、Bが後世の付加物版と推測できます。研究者は、Aの「石手寺刻版」が「本来の衛門三郎伝説」であったと判断します。そして「本来の衛門三郎伝説は、現在伝えられるよりもはるかにシンプルなものであった」と指摘します。そうだとすると、衛門三郎は、弘法大師の鉢を割ってもいないし、弘法大師に会うために四国遍路に出たのでもないことになります。伝説の中の弘法大師は、もともとは影が薄いものだったのです。ここでは本来の衛門三郎伝説(A)が、弘法大師信仰の「肥大化」により四国遍路縁起にみられる(B)に付加変容していくこと、これが衛門三郎伝説の初見であることを押さえておきます。
実は「石手寺刻版」には、先の引用部分に続いて次のように記されています。
寛平三年辛亥、創権現宮拝殿新堂、同四壬子三月三日奉請熊野十二社権現、改安養寺号熊野山石手寺、令寄附穴郡江原?、順主伊予息方
意訳変換しておくと
寛平3年(891)に熊野権現宮拝殿・新堂を創建し、翌年に熊野十二社権現を勧請して、安養寺を熊野山石手寺と改める。これは河野氏の息子の手にあった石から「熊野山石手寺」とした。
衛門三郎の生まれ変わり記事に続いて、熊野権現が勧進されて拝殿や新堂が創建された経緯が記されています。また『予陽郡郷俚諺集』では、石を握りしめて生まれた子を「熊野権現の申し子」としています。そして「衛門三郎の再生=河野家の子の生誕」を熊野権現の示現と考え、「石手寺十二所(熊野)権現始めは是なり」と締めくくります。以上から衛門三郎伝説は、もともとは石手寺の熊野信仰の由来譚だったと研究者は判断します。
安養寺から石手寺への改名が、この地への熊野信仰の時期にあたることになります。それはいつごろなのでしょうか?
①正安 3 年(1301)の六波羅御教書(三島家文書)に「石手民部房」の名②建武 3年(1336)の河野通盛手負注文写(譜録)に「石手寺円教房増賢」の名
ここからは安養寺に代わって、石手寺の名前が出てくるのは14世紀初頭であることが分かります。この時期までには、安養寺から石手寺に改名されたいことが分かります。同時に、衛門三郎伝説もその頃までに成立していたことになります。
ここでは、14世紀には石手寺は熊野信仰の拠点として、熊野行者の管理下にあったこと、そのために安養寺から石手寺に寺名が替えられたこと。その背景には、熊野行者たちによる信仰圏の拡大があったことがうかがえます。それは以前にお話しした同時代の大三島の三島神社と同じです。その背後には、備中児島の新熊野勢力(五流修験)の瀬戸内海全域での信仰圏の拡大運動があったと私は考えています。
もう一度、衛門三郎伝説を見ておきましょう。研究者が注目するのは、この中に四国巡礼に出た衛門三郎が権力者に生まれかわりたいと望むことです。
ここでは、14世紀には石手寺は熊野信仰の拠点として、熊野行者の管理下にあったこと、そのために安養寺から石手寺に寺名が替えられたこと。その背景には、熊野行者たちによる信仰圏の拡大があったことがうかがえます。それは以前にお話しした同時代の大三島の三島神社と同じです。その背後には、備中児島の新熊野勢力(五流修験)の瀬戸内海全域での信仰圏の拡大運動があったと私は考えています。
もう一度、衛門三郎伝説を見ておきましょう。研究者が注目するのは、この中に四国巡礼に出た衛門三郎が権力者に生まれかわりたいと望むことです。
出家して四国遍路に出た衛門三郎が伊予国司に生まれ変わりたいという世俗的な望みを持つことは、私から見れば仏道を歩んできた者の最後の望みとしては不自然のように思えます。しかし、これには当時の宗教的な背景があるようです。12世紀末の仏教説話集『宝物集』には次のように記します。
「公経聖人が一堂建立を発願したが果たせず、死後国司に転生することを望んだ」
衛門三郎が伊予の国司へ生まれ変わりたいと望んだのも、自分の望む身分に生まれ代わって目的を達したいという遊行聖の性格が反映されていると研究者は考えています。また、よく知られた話として頼朝坊という六十六部聖が源頼朝に生まれ変わったとする六十六部縁起の話があります。これが「頼朝坊廻国伝説=頼朝転生譚」で、衛門三郎伝説とつながりがあるように思えます。
このように伊予国主という権力者に生まれ変わるという衛門三郎伝説のモチーフは、それより以前の説話や縁起にすでにみえています。ここで注意しておきたいのは、転生しているのは「遊行聖」や「六十六部」たちであることです。
自分が生まれ変わりであることを知った権力者は、次のような「積善」を行っています。
A 『宝物集』 国司となった藤原公経が聖人の宿願である仏堂の供養B 六十六部縁起 前世が六十六部聖であったことを知った源頼朝が法華堂(法華経信仰による仏堂建立
以前にお話ししたように、六十六部は全国に法華経を奉納する巡礼を行う廻国僧(修験者)でした。つまり、生まれ変わった権力者の行為は、前世の聖と密接に関連しています。衛門三郎の生まれ代わりである河野氏の息子も、熊野権現宮などを創建し、熊野十二社権現を勧請しています。これは衛門三郎やその転生者が熊野信仰と深く関わっていたことを示すと研究者は考えています。

廻国の聖たち
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。③一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。」
川岡勉氏は、石手寺の堂舎の配置や規模などから、中世において熊野行者たちが大きな勢力を有していたこと、そして近世になると熊野信仰が本来の薬師信を圧倒するようになったと指摘します。石手寺の衛門三郎伝説は、こうした熊野信仰隆盛の中で作り上げられたものと考えられます。そうだとすれば、衛門三郎伝説に八坂寺や阿波の焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられ寺院が、各地にあらわれるのは当然のことです。当時は、熊野行者たちは強いネットワークで結ばれ、活発な活動を展開していたことは、三角寺と新宮村の熊野神社の神仏混淆関係のなかでもお話ししました。
参考文献
寺内浩 四国巡礼縁起と西国巡礼遍礼縁起 霊場記衛門三郎伝説 四国遍路研究センター公開研究会
以上を整理しておきます。
①もともと衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰由来譚で、弘法大師信仰にもとづくものではなかった。
②中世の四国辺路には熊野信仰や阿弥陀念仏・山岳信仰などさまざまな信仰が流れ込んでいた。
②中世の四国辺路には熊野信仰や阿弥陀念仏・山岳信仰などさまざまな信仰が流れ込んでいた。
③それが近世の四国遍路は弘法大師信仰一色になる
④その結果、当初は少なかった大師堂が各札所に建立されるなど「大師一幕化」が進む。
⑤弘法大師信仰が高まる中で四国遍路の由緒譚が求められるようになる。
⑥そこで石手寺の熊野信仰受容の由来譚であった衛門三郎伝説が、四国遍路の由来説話に接ぎ木・転用された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑥そこで石手寺の熊野信仰受容の由来譚であった衛門三郎伝説が、四国遍路の由来説話に接ぎ木・転用された。
参考文献
寺内浩 四国巡礼縁起と西国巡礼遍礼縁起 霊場記衛門三郎伝説 四国遍路研究センター公開研究会
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