瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:四国遍路の寺 > 熊野信仰と四国霊場

八坂寺境内図1
八坂寺伽藍

現在の八坂寺の伽藍は、次のように5つのエリアに区分できます。
①遍路道から山内までを含む導入空間(A区)
②本堂や大師堂、熊野十三社権現堂等の建ち並ぶ参拝空間(B区)
③庫裡・納経所が建ち並ぶ経営空間(C区)
④歴代住職墓を含む墓域(D区)
⑤本堂等の背後の広範囲にひろがる霊園区域(E区)
A区の遍路道は、緩やかな登り坂となっていて、山門前で遍路道を横切るように流れる小河川の上にはコンクリート製の橋がかかります。

八坂寺 クチコミ・アクセス・営業時間|松山【フォートラベル】
八坂寺山門

この橋を基礎として東西に長い単層式の山門が建ちます。山門左右には道標が1基ずつ並び、左は明治23年建立、右は紀年銘はありませんが、碑文から「徳有衛門道標」であり、江戸時代後期の建立とされます。
四国霊場第47番札所・八坂寺 | きっといつかは全国制覇!郵便貯金の旅
八坂寺 石段下からB区を見上げた景観

B区は山門から続く石畳の参道を約20m進み、2つの石段を登った先に広がる本堂などが建ち並ぶ平坦部です。ここは地形状況から、さらに3つに小区分できます
①本堂や大師堂の建つ平坦部B1
②平坦部B1の東側の低い位置にある鐘楼が建つ狭小な平坦部B2
③平坦部B1・2の南側の「いやさか不動尊」の鎮座する平坦部B4
①のBlは南北に長い長方形の敷地で、北から熊野十三社権現本殿・拝殿、本堂、閻魔堂、大師堂が並びます。また、多くの石造物が配されており、中でも大師堂眼前の層塔は鎌倉時代のもので、松山市有形文化財にも指定されてます。

 平坦部内の最も奥まった西端付近に造られた基壇の上にいやさか不動尊が鎮座してます。これは修験の寺として栄えた八坂寺特有のエリアで、毎年4月には全国から修験者が集まり、「柴燈大護摩供火生三昧火渡修行」が行われる場所です。

第47番霊場八坂寺炎の大祭2019 : 門前の小僧の遍路と坂本屋日記
八坂寺 いやさか不動尊
C区は、納経所や便益施設などが建ち並ぶ経営空間です。
ここは2つに区分できます
①参道の北側に広がる納経所等の建つ平坦部C1
②大部分が駐車場となっている平坦部B3
平坦部C1は、南北に長い長方形で、南北約26m、東西約20m、そのほとんど全体を納経所が占めています。
D区は参道を挟んで南側に位置する歴代住職墓等が安置される墓域です。
平坦部全体に歴代住職墓が建ち並んでいますが、中世の宝医印塔も鎮座し、市の指定文化財となっています。
E区は本堂等の背後に広がる広大な霊園区域です。背後の丘陵を大きく切り開き、いくつもの平坦部を造り出して霊園としていています。霊園からは松山平野南部を一望することができ、天気が良ければ浄土寺方面まで見渡すことができるようです。現在の八坂寺の伽藍を見てきました。
次に八坂寺の古景観を復元してみましょう。
八坂寺の古景観を描いた絵図は、次の2つです。
①元禄2年(1689)の『四國偏礼霊場記』    江戸時代前期、
②寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』  江戸時代後期
①の『四國偏礼霊場記』から見ていくことにします。

八坂寺 四国遍路日記1
これを見ると現在の八坂寺のとは、大きく異なっています。ここに描かれているのは、本堂と鎮守、鐘楼堂だけです。それ以外の建物はありません。大師堂もありません。もう少し詳しく見ていきましょう。遍路道から橋を渡って続く参道の正面にあるのは「鎮守」です。本堂はそこから離れた左方に描かれています。鎮守と本堂を比べて見ると、大きさからしても、建っている位置からしても、八坂寺の中心的な施設は、鎮守であったことがうかがえます。この鎮守は八坂寺の性格からしても「熊野十二社権現」でしょう。ここには二十五間の長床があったとされます。しかし、「大師の遺烈きこゆることなし」とあるので、八坂寺の退転時期の姿が描かれているようです。先ほど見たように、境内の入口には橋を土台に山門が建っています。この絵にも、同じく小河川が流れて、板橋がありますが山門はありません。板橋の右下には「□(本?)坊」があります。

次に江戸時代後半の『四国遍礼名所図会』を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍礼名所図会1800年

境内には上下に2つの平坦部があます。上段に②熊野権現と③大師堂と④石造物4基が描かれています。このうちの層塔は、今も大師堂横に鎮座する市指定有形文化財の層塔とされます。『四國偏礼霊場記』で、本堂のあった所に大師堂が建っています。一方で、今は本堂がある平坦部の中心には、鎮守(熊野権現社)が鎮座しています。本堂周辺の建物配置は、現代とは大きく違っていたことを押さえておきます。
 下段の平坦部の中心付近には鐘楼堂があります。その他の建物はなにも見えません。ただ右端に建物屋根の一部が見えます。これが⑥庫裡などの施設かもしれません。平坦部から続くやや長い石段を降ると、参道を横切る小河川に⑤石橋が架かっていますが、山門はありません。どちらにしても、この小川にかかる橋が、遍路道と境内域の境界であったのは間違いないようです。板橋の先には⑦藤棚が描かれ、その先には門を構え、土塀によって区画された敷地の内部に建物が描かれています。江戸次第初期の『四國偏礼霊場記」で「□坊」とされた付近です。本文詞書に「南光院」と記されているので、八坂寺に関係する子院のようです。伽藍背後には2つの山の連なりが描かれ、谷には「鉢クボ」と記されています。これは衛門三郎の御鉢を砕いたとされる「鉢クボ」が記されています。この時期には、八坂寺が「衛門三郎発心の聖地」を主張するようになっていたことがうかがえます。

 現在の境内と異なる点を、研究者は次のように挙げます。
①江戸後期までの絵図では「熊野十二社権現」が境内の中心に描かれること
②現在は本堂が中心へと変わり、熊野十二社権現は向かって右手に移動していること
③大師堂と熊野十二社権現の間にあった石造物群も現在は大師堂前に移設されていること
④古絵図では鐘楼堂と庫裡が同一平坦部の上にあるが、現在は、鐘楼堂は本堂等のすぐ下の狭い平坦部に、庫裡等はさらに一段下の平坦部にある。

 このような変化がいつ頃に現れたのかを、古写真から見ていくことにします。
『四国霊場名勝記』は明治42年(1909)に刊行された遍路記集です。

八坂寺 明治

これには八坂寺の石段下から撮影された写真が掲載されてます。写真中央の石段を登りきった所に左右一対の灯籠が建ち、その奥に熊野十二社権現が写っています。その右には、建物がわずかに写ってます。また、十二社権現の左には大師堂と思われる瓦茸の建物が見えます。

大正十年(1921)刊行の写真集『四国八十八ヶ所写真帖 完』を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年

一番手前が大師堂が位置し、次に熊野十二社権現、一番奥に小規模なお堂と、三棟の建物が並んでいます。大師堂前には一対の円柱状の寄付石が見えます。大師堂は現在よりもかなり東側にあるようです。その向拝の形は、今の大師堂とよく似ていることを押さえておきます。

昭和11年(1936)刊行の『四国霊場大観』には、2枚の写真が掲載されています。
八坂寺一二社権現

1枚目は熊野十二社権現を正面から撮影したものです。この写真からは次のことが分かります。
①熊野十二社権現は茅茸建物
②写真下部に、参道の石段が写っていること
③写真左端に、大師堂前に建つ寄付石が写っていること
②からは1936年時点でも、十二社権現が、石段を登りきった正面に鎮座していたこと
③からは大師堂は写っていないがこれまでと同じ位置にあったこと。

2枚目は「本堂」の写真です。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂 1936年
十二社権現や大師堂に比べると、やや小ぶりな瓦葺のお堂です。向拝部の下に、石製の線香立てがあるのが確認できます。写真左端には茅葺の熊野十二社権現の茅葺きの屋根が写り込んでいます。ここからは、『四国霊場名勝記』や『四国八十八ヶ所写真帖 完』で熊野十三社権現右側に写っていた建物が本堂であったことが分かります。
 この本堂で研究者が注目するのは、現在の熊野十二社権現堂拝殿とよく似ていることです。現在の拝殿は、この本堂を転用したものと研究者は推測します。そうだとすると本堂から拝殿へと、その性格は変わりましたが、近世に建てられた八坂寺の建築物を今に伝える唯一のものになります。
 以上から、明治・大正・昭和の古写真に写された伽藍レイアウトと、近世後期の『『四国遍礼名所図会』を比べると、大師堂の位置や本堂出現などの変化はありますが、建物配置にに大きな変化ないとようです。そういう意味では、昭和初期までは八坂寺は江戸時代後期の景観をよく残していたことが分かります。そうすると、現在の境内地に至る伽藍整備やそれに伴う造成工事はそれ以後に行われたこととなります。
その過程を、国土地理院等撮影の空中写真で見ていくことにします。
八坂寺1947年空中写真

写真1は昭和22年(1947)に米軍によって撮影された空中写真です。これを見ると境内の周囲は樹木によって囲われ、周辺は田んぼや畑が広がっています。境内の中心には3つの建造物が見えます。これが北から本堂、熊野十二社権現、大師堂なのでしょう。建物の規模感や配置は、1936年の『四国八十八ヶ所写真帖 完』のものと、あまり変化していないようです。本堂の北東側には本坊と思われる建物が写ってます。  ここからは戦前から戦後にかけては、八坂寺境内に大きな変化はなかったことがうかがえます。

写真2は1962年に国土地理院によって撮影された空中写真です。
八坂寺1962年

境内が樹木に囲われ、周辺には田畑が広がるという点に変わりはありません。建物ははっきりとは分かりませんが本堂や本坊は見えます。高度経済成長期の前までは、八坂寺境内に変化はあまりみられません。
写真3は1975年2月24日の国土地理院撮影の空中写真です。
八坂寺1975年
ここにきて境内が次のように大きく様変わりしていることが見えてきます。
①本堂と大師堂に大きな違いが見える
②中心にあった熊野十二社権現が姿を消し、新たな大きな建物が出現している。
③これが現在の本堂で、昭和47(1972)年起工、昭和59年竣工である。
ここからは、白く大きな建物は、建設途中の本堂であることが分かります。そして、それまでの本堂が熊野十二社権現拝殿になったようです。
④樹木に包まれていた本堂西側や大師堂の西や南側が大きく切り開かれたこと
⑤これと並行して霊園区域の造成が開始されたこと

写真4は1975年10月6日の国土地理院の空中写真です。
八坂寺1975年12月

ここでは大師堂に変化があります。もともとは大師堂は、本堂と接し、平坦部の東側に建っていました。それが本堂との間に隙間が設けられ、2月の空中写真で確認された西側に拡張された空間に建物が移動後退してます。このほか、霊園区域はさらに広範囲にわたって造成工事が進められています。
そして現在の八坂寺の伽藍です。

八坂寺 現在

境内地の中心に、大きな本堂があり、その北側に熊野十二社権現拝殿、南に大師堂が並びます。もともとは東寄りにあった本堂と大師堂は、西側に後退し、両堂の前面に広い空間が現れています。

以上、現在の八坂寺伽藍変遷についてまとめると、次の通りです。
八坂寺は、もともとは熊野十二社権現に仕える修験者たちの別当寺でした。そのため信仰の中心は熊野信仰にありました。それを物語るのが伽藍の中心に鎮座していた「鎮守(熊野十二社権現)です。これに比べると本堂は、その横に置かれた小規模なものに過ぎませんでした。しかし、近世後半になると熊野信仰が衰退し、代わって寺院経営の上で四国巡礼の占める割合が高くなってきます。そのために、四国札所としてしての伽藍整備へと修正が行われ、大師堂が建立されたりします。しかし、それでも熊野十二社権現の位置は変わりませんでした。
 明治の神仏分離で、寺院経営は大きな打撃を受けますが、熊野十二社権現は名前を変えただけでそのまま存続します。そして、明治・大正・昭和と受け継がれ、敗戦後までは境内景観は江戸時代尾張の姿が維持されてきました。それが大きく変化するのは、高度経済成長後の1972年に本堂整備が始まってからです。これを契機に本堂を中心とした伽藍整備が進められます。同時に背後の岡には、墓地の大規模造成工事が行われ、姿を大きく変えていくことになります。現在の八坂寺の伽藍配置が出来上がったのは、1970年代になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献。
   八坂寺の古景観     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺32P 愛媛県教育委員会2023年
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八坂寺 大正10年
八坂寺 大正10年
澄禅『四国遍路日記」(1653)では、八坂寺については次のようなことが記されています。
①熊野信仰の篤かった妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てたという由緒
②これが衰微して二十五間長床であった熊野権現の社殿は、今は小社となっていること
③妻帯の山伏が寺に住していること。

 ここで押さえておきたいのは、①の八坂寺境内の熊野十二社権現は「妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てた」と記されていることです。そして、社伝は「二十五間の長床」であったと記します。ここからは、その社伝の別当として熊野権現を管理し、八坂寺が作られたということがうかがえます。

それでは、現在は八坂寺の創建や縁起については、どのように語られているのでしょうか?

先達教典 四国八十八ヶ所霊場会編集発行□「先達必携」改題(文化、民俗)|売買されたオークション情報、ヤフオク! の商品情報をアーカイブ公開 -  オークファン(aucfan.com)
「先達経典」
「先達経典」(四国八十八ケ所霊場会2006)の記述を要約すると次のようになります。
①真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は修験道の開祖役行者小角。大宝元年(701)
②御詠歌「花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ」
③遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。
④飛鳥時代の大宝元年、勅願で伊予国司、越智玉興公が堂塔を建立
⑤このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とした。
⑥弘法大師がこの寺で修法し、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。
⑦本尊の阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信(942~1017)の作
⑧その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。
⑨このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えた。
⑩天正年間の兵火で焼失し、末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。
⑪現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡
①からは、開基は「修験道の開祖役行者小角」で、
④からは「伊予国司、越智玉興公が堂塔建立」
⑥からは、弘法大師再興
とされていることが分かります。ここには、熊野権現を還元した「長者妙見尼」は登場しません。

現在伝えられ寺史は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
手がかりを与えてくれるのが八坂寺に残る次の縁起木札3枚です。この内の2枚は安永5年(1776)に八坂寺住持宥瑞によって作成されたことが銘文から分かります。1枚目は八坂寺の創建に関わる木札です。

八坂寺 創建木札
八坂寺 創建木札
創建・中興の2枚は、縦約80㎝と縦長で、そこに書かれた文字も大きいものです。また、よく見ると、上部に釘穴があります。ここからは、この木札が堂内などに掛けられて参拝者への説明版となっていたことが推測できます。内容を見ておきましょう。
     【八坂寺 縁起木札(創建)244P
(表)
抑当伽藍者仁皇四十二代文武天皇大宝元辛丑年、
紀州熊野権現依証誠大菩薩教勅、太古当国前大守小千伊予守
三位玉興創建也、今到安永五丙申及千八十六年、
(裏)
法印有瑞記
意訳変換しておくと
八坂寺の伽藍は文武天皇の大宝元(701)年に、紀州熊野権現の証誠大菩薩の教勅を受けて、国司の伊予守越知玉興が創建したものである。これは今から1086年前のことになる。
ここには、熊野権現の勧進が奈良時代まで遡り、しかも勧進したのは国司の越智玉興とされています。

2枚目は、弘法大師中興のことが記されています。

八坂寺 中興木札
八坂寺 弘法大師中興木札
(表)
仁皇五十一代嵯峨天皇弘仁六乙来年、弘法大師以当伽藍
四国八十八所第四十七香之道場中興車創給、到テ当安永五二及九百七十二年
(裏)
宥瑞新革
弘仁6年(815)に弘法大師が、この伽藍を四国八十八所第四十七番道場として中興草創したことが記されます。この時期は、弘法大師大師信仰が民衆にも広がり、四国遍路が増えていく時期です。

3枚目の縁起木札を見ておきましょう。
この木札は長辺38,5㎝の小ぶりな板で、釘穴もありません。しかし、分かりやすい書体で書かれているので、やはり参詣者らに掲示されたものと研究者は考えています。

八坂寺縁起木札
(表)
抑当伽藍者、仁皇四十二代文武天
皇大宝元年辛丑、紀州熊野権
①現証誠大菩薩依教勅、大古
当日前大守小千伊予守正三位
玉興公創建也、
②天正の頃兵火の禍に懸りて伽藍
諸堂末社僧坊拾弐ヶ院塔頭
一時のけむりとなり、其時権現の
神体焼そんじさせたまふ、③分散の
之神体取集此内へ奉納り置
ものなり、深秘して奉拝之事
なかれ、可恐可恐、前書之旨天正之頃
焼失といゑ共碇したる旧記無之、
只伝来而己、しかれ共神体拝
見之処焼失止しき事なり、
3枚目の「縁起木札」は、作成年次、作成者ともに分かりません。
内容的には
①大宝元年(701)熊野権現証誠大菩薩の教勅によって小千伊予守三位工興が創建したこと
②こに加えてに、天正年間に兵火にかかり伽藍諸堂や僧坊十二ケ院塔頭が焼失したこと
③焼損で分散していた神体を取り集め納置したところ、実際に焼失したことが確かめられたこと
3枚の木札と、近世はじめの四国遍路記などを比べて見ると、
近世初頭は、創建者は「熊野信仰の篤かった妙見尼という長者」で、「越智玉興」は創建者として出てきませんでした。それが、近世中頃になると創建者が「越智玉興」とされるようになります。「越智(河野)玉興」は、飛鳥時代の伝説上の人物で、物部姓越智氏一門河野氏の祖とされます。八坂寺は江戸時代半ばに創建者を、地域の長者・妙見尼から、河野氏祖先に変更したようです。以後は、八坂寺の草創は越智氏と伝えられていきます。
明治の神仏分離と、続く修験者禁止令によって八坂寺は、境内の熊野権現の管理権を失うなど大きな打撃を受けたようです。 

八坂寺 明治五年明細帳
八坂寺 明治5年明細帳

明治5年(1872)に住職の宥意(八坂文瀧)によって石鉄県に明細帳が提出されています。
この明細帳には、八坂寺の沿革、宥意や寺族の履歴、境内地などが記されています。また末寺の東林山林光院光明寺、見滝山長泉寺金剛院のことも記されているので、八坂寺や末寺に関する基本史料となります。内容を見ておきましょう。
古儀真言宗修験当山派
石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺邑
御直末別納中本寺
一大本寺西京醍醐三宝院官   熊野山八阪寺
開宗祖師理源大師
当山開基大宝元幸十歳也、当辛申歳迄千百七十四年相成日、為信仰当国旧太守小千伊予守従三位玉興公創建也、後弘仁乙来年弘法大師四国八十八ヶ所第四十七番霊場草創給、後四州乱軍之側懸兵火寺誌世代不詳、乍併五輪石碑等数々雖有之文字一切無之故年暦相分不申候也、良而天正五丁丑歳宥覚法印当寺中古、住職夫十四世相続申候、当住右同寺産而天保五乙未得度、同九戊戊四度加行、併護摩秘法執行、弘化二丙午歳大峯入峯、執行灌頂、次本寺継目、次人先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣昇進仕候、同三丁未載右県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印江随身修験現法降魔壱千座満行、次一宗秘法相伝、其後一派宗学執行寺格者本寺直末別納別触紫衣之寺格也、
第十五世当住 宥意 千申五十載(歳)
第十六世二代 有同寺産而元治元甲子得度、明治三曖午
修験最勝忠印七壇加行丼護摩秘法執行也、
第十六世二代 宥教 壬申二十載
右同県管轄旧松府音羽町天台宗修験旧上蔵院良山妹
養母アイ 壬申六十載
宇和島県管轄浮穴郡大南邑同宗西願寺学応妹
〈別触紫衣之寺格也〉       妻 ハシメ 壬中三十九載
右八坂寺宥意妹    妹 エイ  二十四載
以上五人内(修験二人 女三人)
境内 壱町八反七畝四歩
  意訳変換しておくと
古儀真言宗修験当山派に属し、御直末(醍醐三宝院)の中本寺であり、石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺村にある。大本寺西京醍醐三宝院で   熊野山八阪寺
醍醐寺の開宗祖師理源大師で、当山の開基は大宝元(701)年十歳のことである。これは、1174千前のことになる。創建は伊予国司越知玉興公であり、後の弘仁年間に弘法大師が四国八十八ヶ所第四十七番霊場として中興草創した。その後、四国騒乱時に兵火に係り記録文書が焼失して寺史についてはよく分からない。五輪石など石碑は数々あるが文字が一切なく、これからも年代が分からない。天正年間に宥覚法印が当寺を中興し、十四世住職を相続した。そして天保五年に得度、その後四度の加行、護摩秘法を執行。、弘化二年には吉野大峯にも入峯し灌頂を受けてた。引き続き修行に精進し、大先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣に昇進した。また県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印で修験現法降魔壱千座を満行し、一宗秘法を相伝。その後、宗学執行寺格は本寺直末別納となり紫衣之寺格となった。(以後略)
ここからは、八坂寺の歴代住職が吉野大峯入山を重ねて行い、当山派醍醐寺三宝院の中本寺として、伊予でも寺格の高い山伏寺であったことが記されています。
八坂寺 妙見権現
飯綱権現(八坂寺)
ここに記されたことを寺史沿革に絞って要約すると次の通りです。
①大宝元年(701)越知玉興による開基
②弘仁6年(815)弘法大師による四国八十八箇所第四十七番霊場としての草創
③戦国期における兵火による焼失
 研究者が指摘するのは、ここに書かれているの内容や文体は、先ほど見た創建木札によく似ていることです。明治5年明細帳の作成の際には、この木札を参考に、当時の住職宥意(八坂文瀧)が書いた可能性が高いようです。つまり、近世半ばに木札として八坂寺に掲げられていた創建・中興などの記事が、明治になってそのまま県への報告書の中に取り込まれ、その後の寺史となっていたことがうかがえます。
 なお越智氏を開基や再興時の檀那とする例は、浄瑠璃寺でも見られるようです。聞いたこともない「妙見尼という長者」よりも「古代の伊予国司」とされる越知玉興の名前の方が相応しいとされたのでしょう。地域的に受容されていた歴史観が、寺院の縁起に取り込まれたと云えそうです。ちなみに、木札に記された縁起内容は、八坂寺に残された近世古文書からは確認できないようです。

八坂寺 獅子像
獅子像(八坂寺)
   以上をまとめておくと
①八坂寺は中世には、熊野権現信仰が中心で、その別当寺として八坂寺があり、社僧(山伏)が管理していた
②その創建については、「妙見尼という長者」の熊野権現勧進に始まると近世はじめにはされていた。
③しかし、近世半ばになると八坂寺が真言系修験の醍醐三宝院の中本寺となることで、醍醐寺に関係する空海・役行者・理源大師(聖宝)が開基や中興者として登場するようになる。
④そのような中で、河野氏の祖とされる越知玉興の開基ともされるようになる。
⑤明治になって寺史沿革提出を求められた八坂寺住職は、境内に掲げられていたこれらの開基・中興者たちの木札を参考に、沿革を記して提出した。
⑥それが、その後の八坂寺の寺史の原型となった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 図書館を覗いて見ると、今年の5月に出されたばかりの八坂寺の調査報告書が入っていました。八坂寺は熊野信仰との関わりが深い寺で、私にとっては興味のある四国霊場のひとつです。早速に借りだして、読んでみました。まずは八坂寺の歴史の概略を読書メモとして載せておきます。テキストは、四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺/愛媛県松山市【四国八十八ヶ所霊場】第47番札所 – Bilde av Yasaka Temple i Matsuyama -  Tripadvisor

熊野山妙見院八坂寺は、松山市浄瑠璃町にある真言宗醍醐派の四国霊場第47番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
この寺の歴史について、地名辞典(平凡社1980)には、次のように記します。
「寺伝では、河野玉興の創建で、右衛門三郎の発心した所、古くは八王子と称したという。残存の堂字は安政四年(1857)の再建で、本尊は坐像で高さ80㎝、面相の引き締まった張り、納衣の深い衣紋に特色をもち、鎌倉時代の作と推定される。なお、境内には、高さ2mの宝医印塔がある。ともに市の文化財」
 
「熊野山」や「八王子」などからは、古くからの熊野行者の活動がうかがえます。
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
本尊阿弥陀如来坐像について「文化財保護委員会1964」は次のように記します。
「鎌倉末乃至南北朝期も早いころの特色の顕者なもので、このころの等身如来像の作例として県下でも出色の作品とおもわれる。今日髪部に群青を塗り、また肉身の漆箔をあらためて、若千像容を損じているが、その大容は造像時のままで、両手先、裳先までよく当初のものを残している。像容も整つて、この頃の作風を代表する作例といい得る」

これを受けて、木造阿弥陀如来坐像は、翌年に愛媛県指定有形文化財に指定、1968年には鎌倉時代の層塔と宝筐印塔が松山市指定有形文化財に指定されています。

中世の史料に記された八坂寺を見ていくことにします。
寺伝では、創建は河野氏と伝えられますが、中世にこの地域を勢力下に置いていたのは河野氏の家臣平岡氏です。平岡氏は、浮穴郡荏原の郷を拠点として、荏原城を築いたとされます。跡荏原城は。中心部の方形郭(南北70m、東西60m)とそれをとりまく土塁、堀からなる中世居館跡です。また、第46番札所の浄瑠璃寺境内には、最後の城主平岡通侍の墓と伝えられる五輪塔があることも、平岡氏が浄瑠璃寺を菩提寺としていたことを裏付けます。一方、八坂寺について中世の記録類は何もないようです。ただ、八坂寺境内には鎌倉時代の宝医印塔や層塔があるので、この時代から寺院があったことは確かのようです。

八坂寺層塔
八坂寺層塔

江戸時代の四国遍路の出版物や地誌には、八坂寺はどのように書かれているのかを見ておきましょう。
最古の遍路記される登禅「四国辺路日記」(1653)には、次のように記されています。

八坂寺 熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラビ王フ故二廿五間ノ長床ニテ在ケルト也っ是モ今ハ小社也。本寺堂ハ本尊阿弥陀ナリ。昔此国二長者在、熊野権現ノ霊験新ナル事ヲ承及ンデ三年ン続テ参詣シタリ。其上トテモノ事二我本国工勧請シ奉度ヨシ祈申ケレバ、尤御移り可参由御咤宣在ケレバ、悦デ則八坂村二宮殿ヲ立テ勧請シ奉シ也。是故二熊野山八坂寺妙見院卜号。院号ハ長者ノ尼公ノ号トカヤ。今ハ是モ衰微シテ寺ニハ妻帯ノ山伏住持セリ。是ヨリ十町斗往テ円満寺卜云真言宗ニー宿ス。十四日、寺ヲ立テ十五町往テ西林寺二至ル。
 
    意訳変換しておくと
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

16世紀半ばの八坂寺の注目ポイントを挙げておくと・・。
①熊野権現を勧請され、昔は熊野三山権現が立ち並んで、25間の長床があったこと
②熊野山八坂寺妙見院と号し、住持は妻帯の山伏であったこと

新宮熊野神社【長床】の大イチョウ: billの悠々Life
新宮熊野神社の長床

真念の『四国邊路道指南』(貞享4年1687)には、八坂寺が次のように記されています。
四十七番八坂寺 平地、ひがしむき。うきあな郡やさか村。正面ハ此寺のちんじゆ也、札所は南。本尊阿弥陀 座長三尺、恵心作。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺迄一里。
意訳変換しておくと
四十七番八坂寺は、平地に東向きに建っている。浮孔郡八坂村。正面は、この寺の鎮守社であり、札所は南にある。本尊は阿弥陀で、座長三尺、恵心作である。。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺まで一里。

正面にある鎮守社は、熊野三社を祀ったものでしょう。しかし、熊野信仰については、何も触れられません。代わって、本尊阿弥陀は恵心作の秘仏とされ、御詠歌が初めて紹介されています。
高野山・高僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)には、境内図とともに次のように記します。
熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村
当寺本尊阿弥陀如来恵心の作也といふ。是を以てこれをおもふに、此寺廃毀する事そのかみにあり。今大師の遺烈きこゆることなし。恵心の僧都は大師の後およそ三百年に及べり。むかしの本尊は鳥有となれるにや。今尚法義おとろへたりときこゆ。古堂清風冷しく僻御蔓草緑なり。
 意訳変換しておくと
山号は熊谷山で妙見院八坂寺 浮穴部八坂村にある。当寺の本尊阿弥陀如来は恵心の作と云う。ここから考えるに、この寺は一度退転したようだ。弘法大師のことが何も伝わっていない。恵心は、弘法大師のおよそ三百年後の人物である。昔の本尊は、どうしたのか? この寺が昔に比べて衰えたと云う。古堂に清風冷しく吹き込み、御蔓草緑なり。

気になるのが山号が「熊谷山」となっていることです。熊野山という山号ではありません。また熊野権現の勧進の話も出てきません。絵図を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍路日記1
高僧寂本の『四国偏礼霊場記』
浄瑠璃寺からやってくると右手の垣根の向こうに本坊があります。橋を渡って、まっすぐに参道を登っていくと迎えてくれるのが高床社殿の①「鎮守」です。ここには熊野三社が祀られていて、その前に25間の長床が建っていたと「四国辺路日記」にはありました。そして、左手に本堂があります。よく見ると、縁側があって三間×三間の入母屋造です。大師堂は、まだ姿を見せていません。

近世初期の2つ記録には、次のようなことが記されていました。
①八坂村の長者であった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の正面に大きな熊野十二社があって、右手に小ぶりな本堂があったこと、
④つまり信仰の中心は熊野権現社であったこと
⑤八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったこと。
また、熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券に近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。
寛政12年(1800)に阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)が遍路記残しています。翌年にこれを書写したとされる『四国遍礼名所図会』には、写実的に描いた鳥厳図が載せれ次のように記します。
四拾七番熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村 西林寺迄―里
本尊ハ阿弥陀仏、恵心の作と云。恵心ハ大師の後凡三百年程也、此義不詳。
花を見て歌よむ人ハ八さかでらさん仏ぜうのゑんとこそ聞
本社熊野権現、御本地仏阿弥陀仏 恵心僧都作、御長三尺坐像 大師堂本社後の山二有、右衛門三郎大師の御鉢を砕きし所ゆえに鉢久保谷といふ,
八坂寺 四国遍礼名所図会1800年
八坂寺 四国遍礼名所図会
挿絵を見ておきましょう。
石段を上った先に山門はなく、垣根で囲ったた平場があって、その中央奥に、入母屋造の鐘楼堂があります。さらに石段を上った石垣上の平場ある瓦葺で宝形の建物が大師堂、その横のひときわ大きな茅葺入母屋造建物が熊野権現社。その間に層塔などの石造物が並びます。熊野権現社を本社とし、本地仏を恵心作の阿弥陀仏とする神仏習合の様子が見えて来ます。
 ここで注意しておきたいのは、本堂がなくなって大師堂となっていることです。これをどう考えればいいのでしょうか。増加する遍路に対応して大師堂が建立されたが、財政的問題で本堂は作られなかったのでしょうか。そうだとすれば、当寺の住持にとっては本堂よりも大師堂の方が優先したことになります。
 またはじめて、右衛間三郎伝説の鉢久保が紹介され、挿絵にも描き込まれています。この伝説が一般に知られるようになるのは、この時期からのようです。新たな観光名所が「創造」されて、参拝客を呼び込む名所となっていくプロセスが見えてきます。

単行本(実用) <<地理・地誌・紀行>> 四国遍路道中雑誌 carnegiecycling.com.au

松浦武四郎の四国遍路紀行文である『四国遍路道中雑誌』(
天保7年(1836)には、次のように記されています。
田道しばし行而八坂村 門前三茶店有。門内茶堂有。丼二しゆろう堂等有。四十七番熊谷山妙見院八坂寺 従四十六番八丁。同郡八坂村。当山開基は弘法大師なれども、一度廃寺となりしを恵心僧都再建し給ひしとかや。本尊恵心の作の阿弥陀如来座像也。御長三尺、恵心僧都は大師入定後三百年なるよし。其こと寺の縁記〔起〕二委敷出たり。境内二 大師堂 并二 鎮守十二社権現との宮等有。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺 さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
しばらく行而門前二茶店有 止宿する二よろし。
       意訳変換しておくと
田んぼ道をしばらくいくと八坂村で、 門前に三軒茶店がある。門内にも茶堂があり、鐘楼堂がある。四十七番熊谷山妙見院八坂寺は、四十六番からは八丁の距離で、同郡八坂村にある。この寺の開基は弘法大師であるが、廃寺となていたのを恵心僧都が再建したと云う。本尊は恵心作の阿弥陀如来座像で、御長三尺。恵心僧都は、大師入定後三百年後の人である。それについては寺の縁記に詳しく述べられている。境内には、大師堂 并に 鎮守十二社権現などの宮がある。。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
門前茶店があり、止宿もできる。

松浦武四郎は、開基を弘法大師、恵心僧都の再建としています。境内の建物については、大師堂、鎮守十二社権現には触れますが、本堂があったとは書いていません。他の史料からも、八坂寺の大師堂は19世紀初頭にはあったことが確認できます。これに対して熊野十二社権現や鎮守は必ず明記されています。神仏習合下の八坂寺の様子がうかがえます。
2013.7.7 石鎚神社先達会符 拝受 | 旅する石鎚信仰者

江戸時代後半の八坂寺の住持は、熊野先達としてよりも 石鎚山参拝の先達として重要な役割を果たすようになっていたようです。この時期の八坂神社の繁栄は、石鎚参拝ネットワークの先達としての立場からもたらされたことが分かってきました。これについては、また別の機会にお話しします。

明治以後の史料に書かれた八坂寺を見ていくことにします。
修験と関係の深く神仏混淆下にあった八坂寺では、明治の神仏分離や修験禁止令によって、大きな打撃を受けたことが推測できます。
「明治12年 寺院明細帳」(『松山市史料集』1985)には、八坂寺について、次のような建物が記されています。
愛媛県管下伊予国下浮穴郡浄瑠璃寺村寺字北浦
高野山金剛峯寺末 真言宗古義宗  八阪(坂)寺
一、本尊 妙見大菩薩
一、由緒 当山現見ハ樹木生茂り有ル所二、北辰妙見大菩薩降臨シマシゝテ、霊験新ナリ旧大(大)守小千伊予守従三位王興公ノ創建也、子時文武天皇勅願所卜勅アリ、四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右エ門三郎初発心ノ旧跡所也、亦大友旧城南ノ傍二阿弥陀ゲナルト字有之所二安置給フ、弥陀仏大師当山ヲ四国第四十七番霊場ニナシ本地仏二移伝ス、筆記有之也、
一、堂宇 長四間九合、横三間五合
一、前拝 長三間三合、横壱間弐合
一、サヤ橋 長壱間三合、横壱間
一、境内 弐百六拾壱坪        官有地
一、境内仏堂 弐宇
本地堂
本尊 阿弥陀如来
由来 不詳
建物 長四間九合、横四間六合
 大師堂
本尊 弘法大師
由来 不詳
建物 弐間四間
前拝 長壱間三合、横壱間
一、信徒 七百人
一、管轄庁迄 三里拾丁
以上

ここからは明治時代前期の八坂寺には本地堂、前拝のある大師堂の2棟があり、山門はなく、サヤ橋が架かっていたことが分かります。熊野鎮守社は神仏分離策で、本地堂となったようです。本尊は妙見大菩薩、本地堂の本尊は阿弥陀如来、大師堂には弘法大師像を安置されます。八坂寺は小千玉興の創建で、八ッ束右エ門三郎発心の旧跡としています。
伊予温故録(宮脇通赫 編著) / みなみ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治27年(1894)に官脇通赫の『伊予温故録』(松山向陽社発行)には、次のように記されています。
浄瑠璃寺村字北浦に在り熊谷山妙見院と云ふ。由緒に云ふ。越智玉興の創建にして八束右衛門三郎発心の旧跡なり。四国巡拝四十七番の札所たり。旧跡俗談に云ふ。古へは八王寺と号せし由。鎮守熊野十二社伽藍にて荏原郷は寺領なりしか、其の後焼失して断絶す。後ち又た再興し、修験相続して一世を経るいつの頃よりか八坂寺と改めたりと云ふ。越智王興創建、八束右衛門三郎発心旧跡地、俗談として修験寺院となり、
意訳変換しておくと
(八坂寺は)浄瑠璃寺村の北浦にあってあって、熊谷山妙見院と云う。由緒では、越智玉興の創建で八束右衛門三郎発心の旧跡と伝える。四国巡拝四十七番の札所である。旧跡俗談には次のように伝える。古くは八王寺と号し、鎮守熊野十二社の伽藍で荏原郷は寺領であったが、その後に焼失して断絶した。再興された後は、修験者が相続して行く内に、いつの頃からか八坂寺と改められたと云う。

ここでは、もともとは熊野十二社が中心で、その別当寺が八王寺と呼ばれた。それが退転して、修験者による再建された後に、八坂寺と名前が変わったと記されていることを押さえておきます。
明治28年(1895)の得能通義による『古蹟遊覧 四國名所誌』には次のように記されています。
  ◎第四十七礼拝場八坂寺
同(浮穴)郡八坂にあり平地堂東向 ○詠歌
花を見て歌よむ人は八坂寺 さんぶつ浄の縁とこそきけ
熊野谷山妙見院と号す。役小角の創建にして散位乎致宿祢玉興、文武元丁酉年建立の伽藍なり。役行者八坂を切開き、道橋を造る道場なりと本尊阿弥陀仏は熊野権現の本地なるが故、弘法大師の安置し給ふに依て大師を中興とす。長元七年八月暴風起り、為に伽藍炎上灰儘す。今の本尊は恵心僧都の作なり。一遍上人自筆の三部経を収め給。奥の院は▲是より百丁高嶽あり。俗に御嶽と唱へ、霊験多き所なり。
  ◎熊野峯
浮穴郡久谷村にあり険祖なる高山にして其頂に三祠あり熊野権現降臨の垂跡なり。右に金剛蔵王権
現左に神饒速日命大小市命を祭れり麓の谷間に窪野あり。一遍上人修行の霊嶽なり。熊山の名称姦に始りぬと伊予旧跡砂に見る此寺昔時は八王寺とも言、此寺より西林寺迄一里其道筋に荏原町村中程ヘ七丁此村に右衛門三郎古跡八塚鉢窪等の遺跡あり。
ここには本尊の弥陀仏は熊野権現の本地仏としています。そしてあらたに、一遍自筆の三部経、奥の院の記事が書き加えられます。近世や近代に、始めて登場する内容は信用性に欠けることは、以前にお話ししました。
明治42(1909年9の『四国霊場名勝記』は、明治期に四国霊場を撮影した一番古い写真集になるようです。

八坂寺 明治
八坂寺 四国霊場名勝記(1909年)

左手前に手水舎、その向こうの石階段を登った正面に茅葺の建物、その左に瓦茸の建物が写っています。それぞれ熊野十二社権現社、大師堂のようです。明治後期の八坂寺境内の様子がわかる貴重な写真です。
大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』の写真を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年
八坂寺の大師堂 大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』
ここには切妻造向軒唐破風瓦葺の大師堂、茅葺十二社権現、瓦葺本堂の並びの写真が載せられています。

昭和11年(1936)の『四国霊場大観』には、八坂寺について次の3枚の捨身を掲載しています。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂(入母屋造瓦葺)
八坂寺文殊院本堂
衛門三郎旧跡文殊院本堂
八坂寺一二社権現
茅葺の十二社権現
最後に「先達経典』(四国八十八ケ所霊場会2006)の八坂寺についての記述を紹介して終わります。
現在、真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は役行者小角。大宝元年(701)御詠歌は、
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
浄瑠璃寺から北へ約1㎞近い八坂寺との間は田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、千三百年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697~707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁六年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942~1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えたが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが立ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約八千躯祀られている。

私が興味を抱いたポイントは
①熊野先達が早くから活動し、熊野十二社を勧進したこと
②その別当寺が八坂寺で、寺の中心は熊野十二社であったこと。
③そのため熊野十二社にくらべると本堂や大師堂は小さかったこと
④17世紀中頃の住持は、妻子持ちの山伏であったこと
⑤18世紀以降は、浄瑠璃寺に代わってこの地域の石鎚山信仰の中心的な役割を担い、先達として活躍する山伏でもあったこと。
⑥それが明治以後の山伏禁止令で、山伏色を消さざる得なくなったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
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中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。

熊野参拝システム
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。

熊野信仰の全国展開と檀那権の売買
熊野信仰の全国展開と檀那売券

那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた那智の実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。

実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐担当
実方院跡 和歌山県指定史跡 讃岐の熊野詣での宿泊先
2018春、熊野の世界遺産(3/5):実方院跡、木斛の大樹、赤鳥居、那智山熊野権現扁額、狛犬』那智勝浦・太地(和歌山県)の旅行記・ブログ by  旅人のくまさんさん【フォートラベル】
実方院跡
実報院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでの那智山の経営維持は、皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切ります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順に並べたものを見ていくことにします。

②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀になると継続して発行が行われるようになります。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ない。三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、これらを拠点にして東から西へ信仰圏が拡がったことが推測できます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた最有力の武士集団です。有力武士団を旦那に持っていたことが分かります。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。ここでは、いろいろな修験者が熊野参拝の先達を行っていたことを押さえておきます。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったことは以前にお話ししました。その中には熊野先達を務めるものもいたことが分かります。こうしてみると、一人の修験者の中に「熊野信仰 + 天狗信仰 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀信仰」などが同居していたことになります。それが一遍の高野山詣でや熊野詣でにつながるのかもしれません。

熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券NO3
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)

⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が出されています。それを見ておきましょう。

「勝達房道秀檀那売権」から分かること
 
 最初は、「中郡スエ(陶)王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)の「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」は、「檀那売券」ではなく「借銭状」となっていますので、抵当に入れて借金したようです。        
 以上からは、もともとは勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持ちながら、この地域で活動を続けていたのでしょう。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと郷村ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。
 そんな中で私が注目したいのが、善通寺市の仲村城跡と木熊野神社の関係です。

仲村城と木熊野神社
善通寺市の仲村城跡と木熊野神社

仲村城は丸亀平野西部の有力な武士の居館です。そして、その南の湧水地帯の中に木熊野神社と若宮神社が鎮座します。この関係をどう考えればいいのでしょうか? 先ほども見たように、熊野詣で行った武士たちの中には、熊野神社を建立する者が現れます。ここでも天霧山の下で西讃守護代の香川氏に属する武士団棟梁が居館近くに熊野神社や若宮を勧進したことが考えられます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
これらの神社を拠点にしながら熊野行者たちは、空海が修行したとされる行場の聖地・我拝師山で活動します。そして退転していた善通寺の復興に関わっていくと私は考えています。
 佐伯直氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯直氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、讃岐各地に王子権現・熊野神社として記されるものが数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。
①早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)
②次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)に長徳寺の鎮守に勧進
③鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、約69社の熊野関係の神社があった。

伊予では
①一番古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社。
②その神輿鏡銘には貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘あり。
③ここから鎌倉時代初期には勧請され、銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ライン伸張
④さらに新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。
⑤四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、各地からの熊野参拝者が立寄った聖地。

阿波の場合は南部の那賀郡と吉野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐は、どうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。一方、先ほど見た讃岐の熊野系神社43社には確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。とりあえず社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士たちが、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣を行うようになります。彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。②の善通寺の木熊野神社の近くには、中世の武士居館もあります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。
そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いようです。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は、戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。ここでは熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)によるふたつの場合があることを押さえておきます。。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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西行 (1118-1190) は、平安時代末期の人で、歌人として知られています。
 もともと武家の生まれで、佐藤義清という本名を持つ西行は、朝廷警護の役人として鳥羽院に仕えていました。武芸はもちろん、和歌にも秀でていた若者だったようです。それが23 歳のときに突然出家・隠者します。出家後は京都周辺や高野山などでの修行生活を送ります。また、東北・四国など全国各地を放浪する旅に出て、行く先々で西行伝説が伝え残されるようになります。彼の和歌は、勅撰和歌集にもたくさん入集し、自撰歌集(『山家集』)も有名で、歌人として後世の人達からも支持されてきました。そのために、風雅の人として、和歌の才能を備えた人物という評が一般化し、宗教人としての西行の存在が取り上げられることはあまりありません。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
西行

 西行は、高野山で修行し、勧進僧として生計を立てていたことを以前にお話ししました。
西行の旅も、後の芭蕉のように作品作りのためではなく、勧進のため、仕事のための旅であった研究者は考えるようになっています。今回は、西行が吉野山で修験者としての活動も行っていたことを見ていくことにします。

西行が高野山に住むようになったのは1149年(32歳)の時からのようです。
当時の高野山は、祈祷の密教的な法力を得るためにも修験的修行は不可欠とされていました。そのため高野山の僧侶の中にも修験を行うものもたくさんいました。西行は、遅ればせながら、自分も修行してみたいと思ったようです。空海の修行などを絵図で見ると、ひとりで修行を行っています。しかし、修験者集団を見ると分かるように、先達という山伏が集団を率いて指導するのが一般的です。何の作法も知らずして山に入っても修行にはなりません。守るべきことや作法は、先達から手移し、口移して伝えられていきます。
 天台宗には今も「千日回峰」というのがあります。修験道は、山に登ること自体が修行であり、滝に打たれ、川の中に入って、心身共に解脱させるのだから、きびしい修行になります。

新解・山家

『西行一生涯草紙』には「大峯入山」と題した一章があります。

そこには、西行の修行に至る経過が次のように記されています。

  大峯に入らんと思う程に、宗南坊、「入らせ給え」、大峯の秘処どもを拝ませ申すべき由、申されければ、悦びて、入りたりける。

意訳変換しておくと

大峰山で修行を行いたいと思っていると、宗南坊という修験道の先達が「それでは、一緒に行くか、大峰山の秘かな霊地や行場を拝ませてあげよう」と、快くすすめてくれたので、「悦んで」入山した。

ここからは高野山の僧侶を先達に、何人もの人達が集団で大峯山での修行に、柿渋を塗った紙の衣に着替えて向かった経過が分かります。
 修験道は邪念を排除して、精進潔斎に徹するのが修行です。そのためにはなによりも体力が必要でした。しかし、西行には体力に自信はありません。そこで人山に際して、先達の宗南坊に次のような注文をつけます。
「とてもすべてをやり通せないかもしれないので、何事も免じて下さるなら、お供したい」

と嘆願しています。それにで宗南坊が何と応えたかは記されていません。
入山後のことを『古今著聞集』に、西行は次のように記します。
宗南坊に頼んだのに、行法は容赦なく、きびしかった。一緒に行った人たちよりも痛めつけられた。そこで涙を流して云った。
「我はもとより苦行を求めたわけでも、利得を願おうとするものでもない。ただ、結縁のためとだけ思って参加した。それに対して、この仕打ちはひどい。先達とはこうも船慢な職だとは知らず、身を粉にして、心をくだくのは悔しい」
それに対して、宗南坊は次のように云った。

「修行する上人は、みな難行苦行してきた。木を伐り、水を汲み、地獄の苦しみを味わうこともある。食べるものも少なくして、飢えも忍ぶこと、餓鬼のかなしなも味わうこともある」

「結縁」とは「ケチエン」と読むようです。仏道に入る機縁をつくることです。西行が参加したこのときの修行は「百日同心合力」で、同行の修行者と行動を共に、百日間を生き延び、修行を重ねるものでした。西行は、説教されて、
「まことに愚痴にして、この心知らざりけり」と悟ります。
「この苦行に懲りて西行は、二度と修行に参加しませんでした」と思いきや、そうではなかったようです。西行はその後も何度も、吉野山や熊野の山路を歩いています。修験道の荒行の中に、何かを見いだしたようです。

大峯山修験者行場
大峯山 行場配置図

 大峯山での修行は、行場が決められていました。  
 山上ヶ岳の頂上での「覗き」の修行は、絶壁の上から綱で身体を支えて祈祷する命がけのもので、今でもおこなわれています。修験道は、この大峯山の南北の山稜を修行の場として、谷底の川では、「水垢離」と称して、裸体のまま身体をひたし、滝があれば「みそぎ」と称して、裸体を落下する水に打たせ、心身解脱の境地に徹します。
西行は、この修行のことを、次のような歌に残しています。
御岳よりさう(生)の岩屋へ参りたるに、

露もらぬ岩屋も袖はぬれけると
聞かずばいかにあやしからまし
大峯山 笙の窟
大峯山 笙の窟
  「笙ノ窟」は大峰七十五靡(なびき)の62番目の行場で、「役の行者」の修行したところと伝えられています。そのため平安時代から名僧・知識人が数多く参籠修行しています。この窟は、修験者にとっては最も名高い聖地であったようです。そこに、西行も身を置いて修行しようです。

西行絵巻物物語
西行物語絵巻 笙の窟で修行する西行

大峯山での「百日同心合力」を記した『西行一生涯草紙』には、行場の地名は書かれていますが、歩いた順路で書かれてはいません。「山案内記ではなく、歌集」なのです。歌心が主で、山行案内のために書かれた文章ではないのです。「深山の宿」「千草の岳」「屏風ヶ岳」「二重ノ滝」「仙の洞」「笙の岩屋」という順にでてきます。これは、線では結べません。
八経ケ岳
八経ケ岳
「千車の岳(八経ケ岳)」では、紅葉を歌にしています。
分けてゆく色のみならず木末さへ
千草の岳は心そみけり
修行も半ばを過ぎ、きびしさにも馴れてきたのでしょうか。木々が色付いていく姿を眺める心境がうかがえます。
大峯山の修行のハイライトは「行者還り」だったようです。
「行者還り」は、山上ヶ岳から南へ約1日の行程で、1546のピークですが、その手前の稜線が起伏のはげしい試練の山路です。
『山家集』については、次のように記されています。
行者還り、稚児の泊りにつづきたる宿なり。春の山伏は、屏風立てと申す所を平らかに過ぎんことを固く思ひて、行者稚兒の泊りにても思ひわづらふなるべし。

屏風にや心を立てて思ひけむ
行者は還り稚児は泊りぬ

南の熊野の方から登ってきた行者たちのなかには、ここから戻った(還った)者もあったようです。
『古今著聞集』には「西行法師難行苦行事」と書かれているのは、このあたりのようです。この前文に「春の山伏は」とあります。ここからは、修行は春から「百日」の修行だったことがうかがえます。

千手滝(北山川)~奈良 吉野 大峰 前鬼三重滝【場所 アクセス・行き方 詳細】 | 〜水の秘境〜
三重ノ滝
 『山家集』の歌には、「三重ノ滝を拝みける」とあるので、もっと南の上北山村の方まで行っているようです。三重ノ滝は「前鬼の裏行場」とよばれる大峯山脈の東側の谷間にあります。滝は「垢離取場」の奥で、ここへゆくには、釈迦ヶ岳から5時間ほど下らなければなりません。
『西行一生涯草紙』は、このときの心境を次のように記します。、
三重ノ滝を拝みけるこそ、御行の効ありて、罪障は消滅して、早く菩薩の岸に近づく心地して、人聖明上の降伏の御まなじりを拝み、
身に積もる言葉の罪も洗はれて
心澄みける三かさねの滝

「みかさね」は、上中下―3つの滝の形容で、滝はそれを浴びて瞑想する「みそぎ」の場です。「垢離」とは心身の垢を落として浄めることです。このあと、「笙の岩屋」へ行っています。その途中にあるのが「百二十の宿々」です。西行は大峯山脈の稜線の方から東へ下って、この滝で修行しています。
大峰山の聖地深仙で修験のまねごとを | 隠居の『飛騨の山とある日』
大峯山 深仙の宿
その証拠に、釈迦ヶ岳の南にある「深仙の宿」で、夜の感慨を詠っています。
大峯のしんせん(深仙)と申すところにて、月を見て詠める。
深き山に澄みける月を見ざりせば
思ひ出もなき我が身ならまし

嶺の上も同じ月こそ照らすらめ
所がらなるあはれなるべし
月という存在を、改めてありがたく思っています。西行が「月」に格別な思いを抱きはじめたのは、この大峯修行のときからと研究者は指摘します。それまでは、それほど月は心に食い入らなかったというのです。
「笹の宿」では、次のように詠っています。
庵さす草の枕にともなひて
笹の露にも宿る月かな
ここでは秋の月を讃えています。
修行で野宿をすれば、月が唯一のなぐさめとなります。「西行の月への開眼は大峯修行の中で生まれた」と研究者は指摘します。百日つづいた修行は、季節も春から初夏へと移っていきます。旅も終わりに近づいたようです。
小笹の泊りと申す所に、露の繁かりけれぎ、
分けきつる小笹の露にそぼちつつ
ほしぞわづらふ墨染の袖
ここまでやってきた、墨染の袖の汚れに、改めて気づいたようです。
露もらぬ岩屋も袖は濡れけると
聞かずばいかにあやしからまし
この岩屋とは、思い出に残る笙の岩屋のことでしょう。山腹に深くえぐられた巨大な穴、風雨はしのげる自然の洞穴はひろく深い窟。西行も、ここで生命を終えてもいい、と思ったようです。後世に書かれたものを読むと、西行はこの修行でひどく疲れたようです。しかし、先達はそれも許してはくれません。

「心ならず出て、つらなりて、行く程に、大和の国も近くなりて…」里へ出てしまった。それまで

心ならずも同行の人々と一緒に山を下ります。大和国の里が近くなり別れが近づいたとき、皆泣き出した。そのとき作ったのが、次の歌です。
去りともとなほ逢ふことをたのむかな
死出の山路を越えぬわかれは
「百日修行」の同行者は、何人いたのでしょうか。「きびしい修行はさせないでほしい」と最初は嘆願していた西行でした。それが結果として、修験道の真髄を知ったようです。『西行物語』では、大峯修行の話は載せていません。しかし、それより古い『西行一生涯草紙』では、最後に修験道の功徳について、次のように記します。

先達の御足を洗ひて、金剛秘密、座禅人定の秘事を伝え、恭敬礼拝の故に、安養浄上の望みを遂げなんと覚え、おのおの柿の衣の袖が返るばかりに涙を流して、故り散りになる暁、「ぬえ」の鳴きける声を心細く聞きて、
さらぬだに世のはかなきを思ふ身に
ぬえ鳴きわたるあけぼのの空
「ぬえ」とは夜になると、不気味な声で鳴く鳥で正体不明の生き物とされていました。人間の口笛のようでもあり、夜の森の中で聞くと、さびしさが極まる声です。百日の修行をした最後に、この鳥の声を聞いて、ふたたび浮き世に戻ってきた気持を表現していると研究者は評します。ちなみに、鵺(ぬえ)は、トラツグミで今は正体も分かっています。
「山家集」には、大峯での修行の際に作られた歌がかなり載せられています。
しかし、それが何歳頃のことかは分かりません。大峯山は吉野山の南につづく山稜です。先に大峯で修行します。その結果、北側の吉野山を再認識したようです。西行にとって大峯山は修行の場でしたが、吉野山は後に庵をつくって住む安住の地となります。

以上をまとめておくと
①1149年 西行は32歳で高野山に住んで、高野聖として勧進活動に従事した。
②高野山の密教修験者を先達とする、大峯山で修行に参加することになった。
③これは大峯山の行場を南から北へと抜けて行くもので「百日同心合力」とよばれる行であった。
④初めは厳しくで弱音を吐いていた西行は、次第に克服して修験のもつ魅力を感じるようになった

以上のように、西行は「高野聖 + 勧進僧 + 修験者 + 弘法大師信仰」を持った僧侶であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  岡田喜秋 西行の旅路 秀作社出版 2005年



   大仏造営東京書籍
小学校社会科教科書 東京書籍

  東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。

大仏造営 資材一覧
 この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
金を塗装するためには「アマルガム」を使った技法が用いられてきました。これは、水銀とほかの金属とを混ぜ合わせた合金のことです。水銀は常温では液体の金属なので、個体と混ざって粘性のあるペースト状になります。水銀に金を触れさせると、金は溶けるように水銀と一体化して、 ドロドロとした半液状の 「金アマルガム」となります。

大仏造営 金アマルガム2

  これを大仏本体に塗り付けて火であぶると、沸点の違いにより金アマルガムから水銀だけが蒸発して、最後に金だけが薄く残ります。この技法は、金が水銀に溶けて消えていくように見えるので古来日本では「滅金(めっきん)」と呼ばれ、これが「メッキ」という言葉の語源となったようです。奈良の大仏も、この金アマルガム法によって金の塗装がなされています。

大仏造営 金アマルガム1

先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
  
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
  用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」

 これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
 金メッキが行なわれはじめてから,塗金の仕事をする人々に原因不明の病気がはやりだします。

大仏造営 金アマルガム3

2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
 気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
  当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。

加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」

「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。

大仏造営 辰砂
辰砂
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」

と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
    池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)
穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
           畳の上を穿れ  (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。 
辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

  辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
        硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄

 魏志倭人伝の邪馬台国には「其山 丹有」と記されています。
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。

大仏造営 辰砂分布図jpg

伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。

伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。

渡来集団秦氏の特徴


 伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。
また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
 伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。

技能集団としての秦氏

松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

  以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。

 先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。

 愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。

列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)  日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。 | 日本列島, 日本, 国
 肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。

土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
 ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
秦神社 - Shrine

土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
秦泉寺廃寺出土の軒瓦(高知県教育委員会) / 天地人堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」

『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」

この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
 入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
2 讃岐秦氏2
   以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
 ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
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西行1

西行といえば有名な歌人として私の中にはインプットされていました。彼の作品は、のちの連歌師宗祗や俳講師芭蕉の手本となったように、旅を生命とした吟遊詩人でもあったというのが私の西行観でした。
 ところが「西行の本業は高野聖」であったということが書かれた本に出会いました。「五来重 高野聖 13章 高野聖・西行」です。ここには「隠遁性・廻国性・勧進性・世俗性」などの視点からすると、西行は高野聖だと云うのです。その本を見ています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
坂出市青海町

西行は、讃岐にもやって来ています。

白峰寺で崇徳上皇の怨霊を鎮めたり、弘法大師が捨身修行したと伝えられる善通寺の我拝師山で庵を結んで、三年近くの山岳修行も行っています。その合間に、記録や歌を残しています。讃岐での生活も、修行よりも、歌の方に関心が向けられることが多いようです。しかし、讃岐への旅も、芭蕉のような風雅の旅ではなく、慰霊の旅であり、四国辺路の聖地での修行であったのです。その余暇に歌は作られていました。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

西行が、いつ、どこで、どのくらい修行したのかを、年表化して確認しておきましょう。
保延六年(1140)23歳 出家
久安五年(1149)32歳 高野山入山
治承四年(1180)63歳 高野山退山 
ここからは32歳から63歳まで約30年間を高野聖として、隠遁と廻国と勧進にすごし、その副産物として多くの歌をのこしたことが分かります。
高野山に入るまでの西行の姿を追ってみましょう
西行は出家して2年後の康治元年(1142)二月十五日、内大臣頼長の邸に一品経の勧進にあらわれたことが次のように記されています。
西行法師来りて云ふ。 一品経を行ふに依り、両院以下の貴所皆下し給ふ也。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふ可しと。余軽々しくは承諾せず。又余年を問ふ。答へて曰く、二十五、抑も西行は、右兵衛尉義清(のりきよ)也 重代の勇士を以て法皇に仕へ、俗時より心を仏道に入れ、家富み年若くして心無愁なり。遂に以て遁陛す。人之を歎美する也
意訳変換
西行法師がやってきて次のようなことを言った。「一品経の書写を、両院以下の貴所が全て行うことになった。紙の善し悪しにかかわらず、自筆で行うのがよい」と。私は、軽々しく承諾しなかった。そして、西行の年齢を聞いた。二十五歳と答えた。そもそも西行は、佐藤義清(のりきよ)である。彼は、勇士として法皇に仕へながら、俗事より仏道に心を奪われた者である。家は富み、年は若くしながら心は無愁で、隠遁生活を選んだのだ。これを賛美するものが多い。

ここからは次のようなことが分かります。
①西行が勧進僧として活動していること
②当時の年齢が25歳であったこと
③西行の隠遁が、世の中の人々の話題になり、賛美されていたこと
この勧進活動は、大治元年(1126)11月19日に焼亡した鞍馬寺再興のためのものだったようです。その活動の中に、西行の姿はありました。彼は宮中に顔がきいていたので、鳥羽・崇徳両上皇以下の貴族を勧進しています。
 自筆一品経というのは28人の結縁者に法華経二十八品を写してもらい、その供養料をあつめて如法経埋経供養と、別所聖の生活資縁にあてるものです。西行は、この後も東山や嵯峨を転々とします。双林寺・長楽寺・清凍寺・往生院のまわりに群れ集まる念仏聖や、勧進聖たちのあいだに混じって生活していたことがうかがえます。
 『西行物語絵巻』に描かれた彼の寓居は、聖の庵が建ちならんで商人が往き交い、子どもがが遊ぶなど、雑踏の巷です。このとき詠んだとされる歌が以下の歌です。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて、人々よみけるを
うなゐ子が すさみにならす 麦笛の
こゑにおどろく  夏のひる臥
  絵巻には、この歌のように西行が昼寝している姿が描かれています。これは西行を隠者とするイメージではありません。聖は「仙人」ではないようです。それでは食べていけません。俗塵にまじわらなければ生活できなかったようです。出家後に西行は勧進僧になっていました。
西行4
西行 東下りの図

なぜ西行は高野山にやってきたのか
久安五年(1149)に高野山の大搭・金堂・灌頂院が雷火で焼け墜ちます。そして、勧進活動が開始されることになります。そのために、経験のある有能な勧進聖が招かれて、復興勧進にあたることになったようです。このとき西行を高野山にまねいたのは、この大火を目のあたりに見て日記に記した覚法親王(白河上皇第四皇子、堀河天皇の御弟)と、大塔再興奉行だった平忠盛だったと研究者は考えているようです。西行は、高野山と京都とのあいだを往復して、文学の才をもって貴族のあいだにまじわり、高野山の復興助力をすすめたようです。復興の総元締めである平忠盛の西八条の邸に出人りしていたことが記録されています。
 高野山復興のパトロンである平忠盛が亡くなると、その子の清盛のサロンにも出入りするようになります。こうしたサロン活動を通じて、期待された勧進目標を確実に果たしていたようです。そういう意味では彼は優秀な勧進僧であったと云えそうです。
 そして勧進活動の合間には、大峯修行や熊野那智で滝行など、聖らしい苦行も行っています。同時に、大原や東山・嵯峨の聖との往来も重ねます。とくに大原三寂といわれる寂念(藤原為業)・寂然(壱岐守頼業)・寂超(頼業の弟)および西住とは、しばしば歌論や法談をかわしていることが『山家集』にも記されています。生業の勧進、サロン活動、ロマンス、創作活動、修験など、彼の人生は充実したものだったようです。
西行2
天竜川を渡ろうとした西行が武士に鞭打ちされた話 ここでも笈を背負っています

最初にも述べたように、西行の廻国は美化されています。

そのため、一生を旅から旅へ「 一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけのようです。しかもそれは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 たとえば東大寺勧進聖には勧進帳が、高野聖には大師像のはいった笈が必需品だったのです。田亀(たがめ)は、笈を負う形に似ているというので、高野聖は「たがめ」とも呼ばれたようです。讃岐にやって来た西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせます。      
西行3

応永20年(1413)の「高野山五番衆一味契状」には、次のように記されています。
   高野聖とりし、空口(=おい)を負ひ、諸国に頭陀せしむ
  笈が高野聖のシンボルになっていたのは、宗教的権威の象徴だったからのようです。
歴史めぐり源頼朝~西行に出会う~

西行の東大寺再興勧進
勧進聖は、一つの寺の専属ではありませんでした。依頼されれば、他寺の勧進におもむいたようです。西行は関わった最も大きい勧進は、東大寺勧進でした。治承四年(1180)12月に平重衡の南都焼打ちによって東大寺は炎上しました。その再建のために重源が大勧進空人に任命され、多数の勧進聖をあつめます。西行は重源に頼まれて、鎌倉と東北の平泉を勧進のために訪れています。これも西行の名声を利用した大口勧進(募金)であったようです。
知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ | 神奈川県 - 観光・地域 - Japaaan - ページ 2
西行と頼朝

『吾妻鏡』(文治二年(1186)八月十五日)は、次のように記されています。
二品(頼朝)鶴岡宮に御参詣、而るに老僧一人烏居の辺に徘徊す。之を怖しみ、景季を以て名字を間はじめ給ふの処、佐藤兵衛肘憲清法師なり。今の西行と号すと云々(中略)
則ち営中に招引して御芳談に及ぶ。此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り。(中略)
恩問等閑(おんもんなほざる)の間、弓馬の事に於ては具(つぶさ)に以て之を申す。即ち俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。絆終夜を専にせらると云々
意訳変換しておくと
将軍頼朝が鶴岡宮に参詣した時のことである。老僧が一人烏居の辺を徘徊している。これを怖しんだ景季が、その名を問わせると、佐藤憲清法師で、今は西行と名乗っていると云う。(中略)
すぐに営中に招き入れて、歓談に及んだぶ。この間、歌道や弓馬の事について、将軍はいろいろと尋ねられた。(中略)それに対して西行は、弓馬の道はみな忘れました。和歌についてもその奥義については私にも分かりませんと答えた。頼朝は西行が気に入って、夜通し話しをした。

 これが有名な頼朝と西行の出会いシーンです。頼朝は西行に鎌倉に滞在するようしきりにひきとめますが、西行は先を急ぐといって平泉に出かけてしまいます。
重源上人の約諾を請け、東大寺析として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く

とありますので、奥州平泉旅行が勧進行であったことが分かります。

これには、頼朝が西行に錢別に銀作りの猫をあたえたが、門前の子供にあたえて去ったというエピソードが加わります。西行の無欲さを協調する人もいますが、旅行の荷物になるからと研究者は考えているようです。しかし『吾妻鏡』によると、この銀猫は、義経滅亡のとき平泉で発見されたと記されます。いずれが真か偽か謎が残ります。
 頼朝は、これより先にすでに(米)一万石、沙金 千両、上絹千疋を重源に贈っていましたので、このときには勧進に応じなかったようです。また、奥州平泉でも秀衡は寿永三年(1184)6月に沙金五千両を東大寺に奉加していました。西行の重ねての勧進に応じたかどうかは分かりません。関東・平泉への旅も勧進目的であったことは押さえておきたいと思います。
西行上人歌集 山家集類題 ノ元袋(松本柳斎編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

西行の世俗性                           
西行の世俗性とは、具体的に妻子がいたのかどうかです。これには、次のようなふたつの見方があるようです。
①歌聖にふさわしく、まったくの清僧であるから、妻子などもってのほかで、歌のなかにあらわれる女性もたんなる文学上の交友にすぎないという立場で、『山家集』に妻子をよんだ歌が一首もないのも、妻子がいなかったことを示すものだ
②妻帯だけはみとめようとする立場
②の立場としては、次のような見解も出されています
「妻子を振り棄てたからには、一向家の事、家族の事を顧みず、直ちに山林に入って関係を絶つのかというとそうでもない。俗縁の者と居を共にせず、僧堂山林に起居して念修するだけのことで、俗縁の家族はやはり家族に相違ないから、時々会見もすれば消息も明らかにしておく」
 また、次のような説もあります。
「僧として、人前に通るまでは、分相応に多少修行をしなければならない。その期間だけは、毎日家庭から弁当をもつて通ふわけにはゆかぬから、妻子の傍を離れるとということはある。西行にもそいう期間が若干はあったろう。しかし、修行が終われば俗縁への出人は自由である」

 これだと「修行中のみの別居で、その後は妻帯可」ということになります。このような俗聖(ぞくひじり)の妻帯は、行基や空也や親鸞がそうであつたように、特殊な階級として許されていたようです。しかし、俗聖では僧位・僧官は、のぞむことができず、本寺からの衣食住の支給もありません。そのため、聖は勧進によって身をたてるほかはなかったようです。当時は「僧」にもいくつかの階級があり、清僧と俗聖の間には、明快な一線があったとしておきましょう。西行は俗聖だったのです。
和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 五来重 高野聖 13章 高野聖・西行

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。

二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

DSC03479

これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

増吽 与田寺

  讃岐大川郡の与田寺の増吽は、天皇から「大師(弘法大師)ノ再誕」とまで称えられ、戦前は弘法大師に次いで讃岐を代表する高僧と高い評価を受けていたようです。戦後は、忘れ去られてような存在になっていますが、再評価の動きがあるようです。どうして、彼が再評価されるようになったのかも含めて、見ていきたいと思います。
増吽
 増吽上人(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)
まずは、 香川県史の増吽(ぞううん)に関する記述を挙げてみましょう
①増吽は、貞治丑年(1366)、大内部与出郷西村(現大内町)に生まれた。
②父は、不詳。母は、蘇我氏の末、安芸左衛門九郎盛正の女と伝える。
③幼くして、当時、水主(みずし)神社の別当寺であった薬師院神宮寺(与田寺)に入寺した。
④薬師院の住僧増慧法印に師事して竜徳坊と称した。
⑤高野山・東寺に真言密教を学び、教学に秀でると共に画像彫刻もよくしたという。
⑥水主寺の寺伝によると、増吽は、師である増慧が河野郡北条の天皇別院であった摩尼珠院に移ったので後住となり、薬師院を改めて虚空蔵菩院神宮寺(与田寺)とした。
増吽も高野山で真言密教を学んでいるようです。そして、仏像彫刻や仏画にも秀でていたようです。そのため彼の描いた弘法大師像が数多く残されています。しかし、彼の若い頃のことは、よく分からないようです。
増吽 与田寺2


増吽は、明徳二年(1391)に虚空蔵院(現与田寺)の住職となります。このお寺の「由緒」には、末寺として次のような寺院を記します
 下野小股(小俣)の会同院・同国小山の会削袖寺
 武蔵国高橋虚空蔵院
 尾張国冥福寺・
 播磨国無最寄院・
 備中国清氷山惣持院・同日女生山性椋院・
 備前国安寄院・阿波国虚空蔵院・
 同国談義所黒田寺・
 同順良骨寺・
 小豆島北山宝生院など国外21か寺、
 そして、大内・寒川郡に100か寺というのです。
 また「御領分中宮由来、同寺々由来」には、これらとは別に、宝生院末寺21、安寿院末寺等20、惣持院末寺50、性徳院末寺20、無量寿院末寺15、阿波の虚空蔵院末寺3とあって、末寺を全部合わせると104か寺と記します。
 この「由来」の成立は、寛永年間といわれ、寺社の本末関係がまだ明確になっていない時期です。この内容は誇大であり、自称が大部分であったと研究者は考えているようです。しかし、これら名が挙げられた寺は、増吽が関係した寺々であることに間違いはないと言います。それらは、増吽が修業や再興修造するなど、何らかの関係があった寺だと云うのです。そうだとすると、まさに偉大な勧進僧だったことになります。
 
水主神社の近くに若王子(東かがわ市与田山)という寺院があります。
ここには応永六年(1399)から応永九年にかけて書写された「大般若経』があり、そこには次のように記されています。
「若王寺大般若経』
外題実、歳空蔵院住持 金資増吽生年三十七、升亮勝一局増範、応永九年三月三十日、敬以三諮日夜功労乎、常一日写也、右筆真海六十九 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二
  応永九年三月三十日の年紀を持つ巻に、増吽と噌範の名前があります。増吽は「天王寺大般若経」の書写にも、増範らとともに重要な役割を果たしています。
 この「大般若経』は若王子権現の常什の為に赤松前出羽守顕則が願主となって筆写されたもののようです。写経には、与田山・水主近在の僧侶を中心に、讃岐国三木郡や遠く若狭・薩摩国の僧侶たちが参加しています。
白鳥町誌に記された関わった写経者名一覧を見てみましょう
  一 国外からの写経者と認められるもの
   阿波国板西郡 宥真房(小野流)
   若狭国遠敷郡神宮寺   円玄房
    同  上      伊勢公
   阿 波 国 河 嶋   良吽房
   播磨国一乗寺  竜泉房増真
   薩摩国日置惣持院   円海
   越後・国上寺  円海
   阿波国名西郡  尊恵
   阿波国葛(萱力)嶋荘   覚舜(禅密系の僧か)
   阿波国萱嶋荘吉成   勢舜(禅密系の僧か)
   阿波国秋月荘  禅意
   阿波国板西郡建長寺   天海(禅密系の僧か)
    同  上      玉巷(禅密系の僧か)
   阿波国板西下荘  口口(不詳)
   摂津国多田荘清澄寺   良祐(三宝院流)
   (播  磨  国)   赤松顕則(範力) (願主)
  二 讃岐国内のうち大内郡外からのものと認められるもの
   三木郡氷上村長楽寺   教義
   三木郡田中郷     観照
   三木郡毎平(堂平力)   豊後公
  三 水主神社関係者と認められるもの
   虚 空 蔵 院   増吽
     同  上      増範
     同  上      増楡
   薬師堂般若坊  (不明)
   薬   師   堂   覚舜
   与田郷東大谷 増祐
   大   水   主   良闇
     同  上      小輔
   大水主無動寺  賢真
   大水主円光寺  定全
   大水主中(仲) 善寺  良啓
   金 剛 寺 坊 主   (不明)
  四 尼僧と認められるもの
              知栄尼
              法智禅尼
  五 与田山若王子関係者と認められるもの
   当山住人当寺住職   増光
   王 住 呂   増円
   下山長福寺   詠海
    同 上      真海
   長福寺東琳社   (不詳)
六 その他(若王寺・水主神社の住僧が大部分と思われる)
   相三郎丸  戒乗  教賢  教忍  玉泉坊
   賢実  源禅  孝斉  慈範  慈明  信照
   実仙  重賢  成鏝  成範  増任  増継
   増快  増信  増元  増意  増珍  増明
   増門  増(?) 朝等  了舜坊呈賢  等畦
   入野中山(某) 念尊 本乗 法林寺(表
   明通  祐光  宥慧  良恵  良成
   良仁  良尊  亮全  了海

 まず感じるのは、写経に関わっている僧侶の数が多いことです。これだけの数の書経スタッフがいたことに、びっくりします。そして参加者のエリアが広いことです。この写経には、当時37歳で虚空蔵院院主だった増吽も参加しています。それは巻一に、弟子二人とともに名前があることからも分かります。しかし、分担筆写から見ると、増吽は、この写経勧進にあまり主体的に関わっていないと研究者は考えているようです。この書写は幡磨の一乗寺増真が中心となって行われたようです。
次に、目が行くのは、阿波国の僧侶の多さです。
大内郡と地理的にも近いこともあるでしょう。当時の人々は、南海道の大坂峠を頻繁に行き来していたようで、阿讃山脈の険しい峠越えは、気軽な旅程だったかもしれません。参加者の拠点名を見ると吉野川沿いの寺院です。中でも宥真は40巻を書写しています。国外者では最も多い巻数になるようです。

なぜ、この大般若経は播磨の赤松氏が願主となっているのでしょうか?
「若王子大権現縁起」によると、鎌倉末期の元弘年中(1331~34)、大塔宮護良親王が赤松則祐・岡本武蔵坊の両人を連れて大内郡にやってきて、在地武士の佐伯季国の協力を得て虎丸山に一城を構えたと記されています。そして滞在の間に、親王が大般若経五〇巻を筆写して若王子権現に奉祀したとされます。赤松氏に縁のある者が鎌倉幕府討滅の軍勢を催すため大内郡にやってきて、同時に、若王子に戦勝祈願を行ったと解しておきましょう。
 それから約70年後のことになります。
奥書の年紀を見ると、応永八(1401)年三月五日、播磨国一乗寺の住僧増真は、巻四百二十五を書写し終えています。ついで、翌六日、巻四百十六を摂津国河南辺北条多田荘清澄寺の良祐が、そして、七日には巻四百四十九を赤松顕則がそれぞれ写経して筆を置いています。この三人は日を合わせるように、若王子権現にやってきて、同時期に経巻を筆写し終えているのです。一乗寺の増真と清澄寺の良祐は、播磨国守護赤松氏の所領にあるお寺です。赤松氏とその勢力基盤であった土地の住僧が、3人そろってやって来て大般若経を寄進したのは、どうも「戦勝祈願」だったようです。それを70年前の先祖の例にならって、行ったようです。
 増吽から話が逸れたようですが、ここで確認しておきたいのは、水主神社や与田寺周辺には、大勢の書写スタッフが存在し、それを取り巻くように広い範囲の支援ネットワークが形成されていたことです。
これがどのようにして、形作られていったのかが次の課題です。
 増吽の名を高めた最大の功労者は、彼の直弟子(詳しく見ると増慧の相弟子に当たるので弟弟子?)である増範であったようです。
少し回り道になりますが、増範について見ていきます。
 増範は、応永六(1399)年の若王子権現の大般若経書写のときは、34歳の働き盛りです。当時は、虚空蔵院にいて高墜房と称していました。この時に増吽は、37歳で同院住職を勤めています。増範は、その後まもない時期に上洛したようです。増吽の名声を高めたとされる応永十九(1412)年の北野社一切経の奥書によれば、覚蔵増範と署名しています。
  増範が北野社覚蔵坊主となって、この一切経書写供養会を主催したと研究者は考えているようです。
覚蔵坊は、写経会が行われる北野経王堂の管理と運営を執り仕切っていたようです。したがって、増範が、写経会に際して願主となって主催したことになります。その時も、虚空蔵院の増吽とその一門が参加しています。多度津の道隆寺第22世・23世の良秀・賢秀らの門下を始め、讃岐から35人が加勢しています。摂津からは20人の僧侶が参加し、そのエリアは山城・和泉など畿内から北は越後、南は九州諸国にいたる25国にもおよびます。それだけの人脈を増範は持っていたようです。しかし、これは増吽によって培われた人脈だったのかもしれません。そうだとすると増範の出世は、増吽によりもたらされたものと言えるかもしれません。
増範の業績で特筆すべきは『北野社一切経』の書写事業と勧進です。
mizmiz a Twitter: "経王堂  足利義満が三十三間堂の倍の長さで建て、江戸時代まで存在してたらしい!この立面が衝撃的で調べてたら石山修武も日記で同じこと言ってたw  https://t.co/Zc0CN9AzXe… "

 北野社経王堂は、応永八(1422)年に足利義満が建立したものです。ここでは明徳二(1391)年に起こった明徳の乱における戦死者を弔うために、将軍が主催して万部経読誦会が行われるのが恒例になっていました。「北野社一切経」は、この行事のために新たに書写されることになったようです。増範は北野社万部経会の経奉行として、実際の経営にもあたっていました。当然のことながら増範は「北野社一切経」の大願主で、多くの経巻に大願主や大勧進として名前が記されています。
 この事業は、応水19(1412)年12月17日から8月15日までの五カ月間にわたって書写し、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波・讃岐・河波・肥前和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美作・日向の国々の僧侶などの百数十名が参加する大事業でした。このために大内郡の水主神社の書写社僧スタッフや全国ネットワークがこの時にも活躍したはずです。
 北野社の一切経五千五百帖が調ったのは、応永十九年のことです。この功績によって彼は、この後北野経王堂(願成就寺)住持となり、年々盛んになっていく万部経読誦会の経営に当ることになります。このような増範の異例とも云うべき出世には、讃岐東分郡守護代の安富氏の後援と管領細川氏の支援があったと研究者は考えているようです。
増範の出世を踏まえて、増吽のことに立ち返えりましょう。
 北野社一切経奥書の増吽の肩書には、
「讃州崇徳院住 僧都 増吽」

と記されています。ここからは増吽が白峯崇徳院(頓証寺)に「栄転」していたことが分かります。時は応永十九年三月十七日のことです。翌年の崇徳院250年遠忌法要の導師に、増吽が選ばれたためのようです。この時には、讃岐に流刑となっていた高野山の学僧宥範は、赦されて讃岐にはいません。増吽をおいて適任者はいなかったようです。
これが、増吽の讃岐一国に知名度を飛躍的に高めるイヴェントになります。増吽は、崇徳院の法要を無事済ませ、虚空蔵院へ帰ってきます。それを追うように、後小松院から任僧正位の吉報があったと研究者は考えているようです。このような増吽の出世には、弟弟子の増範と同じように讃岐東分郡守護代の安富氏の後援があったようです。

 15世紀初頭の応永年間の大内郡は、水主神社を中心として仏神事が盛んに行われて宗教的にも隆盛であったようで、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。これらの環境は形成には、安富氏の力があったとしておきましょう。

「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範のほかにも、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。
良仁は「讃州大内部与出虚空蔵院筆良仁」や
   「讃州大内郡大水主社良仁」
賢真は「讃州大内虚空蔵院賢真」
   「讃州大内大水主社住僧賢真」
と名乗っていて、虚空蔵院とも大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で虚空蔵院が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していたのです。
旅 809 水主神社 (東かがわ市): ハッシー27のブログ

社僧の名前だけでなく、大水主社が書写場所であったことが分かる記録もあります。

ここからは、当時の大水主社は、多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことがうかがえます。それを形作っていったのが増吽ではないかと研究者は考えているようです。
増吽と写経集団
水主神社の「外陣大般若経』巻第二百七十は「水主、千光寺如法道場」で書写されたと記されます。この奥書からは、大水主社にも如法道場が設けられていたことが分かります。さらに想像力を働かせると、水主・千光寺如法道場は書写スクールの機能を果たしていたのではないかという仮説になります。讃岐だけでなく、隣国の阿波からやってきた僧侶達が水主神社で修行し、経衆(書経スタッフ)として帰国していく。そして、別当寺の増吽や増範の依頼があれば、割り当てられた巻を書経して水主神社に届ける。そんな書経ネットワークの存在が見えてくる気がします。この写経集団は増吽を先達として、水主神社を拠点としていたのでしょう。
水主神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
水主神社

もう一度、増範のいる北野社に自を向けましょう。
 北野社万部経会は1万部を千人の僧が読経する経会のようです。北野社一切経会とともに幕府にとって重要な年中行事でした。この万部経会に使用する経本は、毎年新写して僧侶達に頒布したとされます。この毎年新写される法華教を、増吽率いる経衆が書写していたのかもしれません。これも仮説です。
次に注目したいのは、増件が率いる経衆の誕生過程です。
大水主社のある水主地区は本宮・虎丸山(新宮山)・那智山に囲まれています。ここに増件が熊野三山を勧請したと伝えられます。ここからは増件が熊野系勧進僧であったこと、つまり熊野信仰を強く持っていた修験者という姿が垣間見えてきます。高野山で学んだのですから当然のことかもしれません。このことについては、また別の機会にします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
水主三山 虎丸山

 参考文献   
唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       
香川史学1989年

 増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。

幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です
まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。
神宮寺とは、水主神社に対しての神宮寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

 研究者は風天図の構図を見て次のように記します。

「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。

空海像 高野山と善通寺の2つの様式
弘法大師像の2つのタイプ

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。これについて南海流浪記には次のように記します。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。

空海の捨身行 我拝師山
善通寺様式御影 安元年(一四四四)頃京都・智積院
京都智績院の善通寺御影 右後ろに釈迦如来が現れている

空海の捨身行を受けて、御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
この様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。これが「善通寺形御影」と称されるようになります。その中で上の京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同④多度津之御影供一衆流通物(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
③阿闍梨七十九而書之
②文安元年四月仏誕生日 ①大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓
①大願主平野弾正が、母妙厳の兜率天住生を願い、
②文安元(1444)年の四月八日に寄進したこと。
③本文に添えて「阿闍梨(増吽)七十九面書之」とあること
④「多度津の御影供一衆」による奉納物であったこと。
「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
④の「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。
ここからは与田寺に拠点を持つ増吽が瀬戸内海や阿波方面にまで教線を伸ばしていたうかがえます。増吽の活動は、仁尾や白峯寺・備中・備前に伸びていたようですが、多度津にも及んでいたことを押さえておきます。
 描かれているお姿を見ておきましょう。
後頭部が盛り上がって顔は少し上を向いています。後頭部が大きいのは「異才」の証しとされていたようで、高僧像には後頭部が盛り上がって描かれることが多いようです。
研究者は次のように記します。

衣文線の起筆に特徴があり、描線に力強さが感じられる。肉身や衣文のぼかしは控えめで、彩色は誇張なく穏やかにまとめられている。色の肉身が肉感的で、口の上下にうっすらと髭の剃りあとを残す。裏に貼られた施入状には「讃岐国多度津之御影供一衆流通物」とある。

 絵絹の縁を白線と朱線で囲むのはあまり例がないようで、増吽の描いたとされる善通寺タイプの御影にもいくつかのタイプがあったことが分かります。増吽一人によるものではなく、与田寺工房の作品と考えた方がよさそうです。
岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。

本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。

善通寺御影 仁尾覚城寺
仁尾・覚城寺の善通寺様弘法大師像
仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。
この弘法大師像について三好賢子氏は次のように評します。
肉身は薄墨で描いて宍(しし)色に塗り、衣は輪郭を墨、衣文線を茶色で描き、朱でぼかす。五鈷杵、水瓶、椅子の金具は金泥を塗る。全体に描線が細く、五鈷杵の形状や数珠などの細部も丁寧に描かれており、善通寺御影のなかでは優品と言える。旧箱書に「出釈迦大師御影、増吽僧正筆」と墨書される。覚城院には増吽による応永三十三年(1426)の再興願文「覚城院縁起」と書状がのこされ、増吽との直接的関係がうかがえる。平成九年度の修理により、画は絹目が非常に粗く、裏面からの黄土とみられる顔料の塗り込みによって安定が図られていることが確認されている。
増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は

熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
それは善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたと研究者は考えているようです。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
香川県立ミュージアム本の善通寺様弘法大師像
弘法大師御影 県立ミュージアム版
上図の拡大版
この弘法大師像について、三好賢子氏は次のように評します。

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(一四四九~五二)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。
以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
三好賢子 香川県立ミュージアム 弘法大師空海生誕1250年記念特別展
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  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
DSC08033
丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
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大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
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善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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五流 明治初頭の新熊野十二所権現

 江戸時代の五流一山は、本山派修験として聖護院に所属していましたが、実質的には岡山藩の宗教政策に支配されるようになります。今回は岡山藩と五流修験の関係を見ていきます。
岡山藩は、寺院を淘汰し、神社を整理するという独自の宗教政策を展開します。
この結果、五流一山でも、諸興寺、是如院、神宮寺、密蔵坊、多宝坊、惣堂大明神などが廃絶させられます。その後に吉備津彦神社の神主藤原朝臣光隆の義弟、大守隠岐橡が熊野権現の祠官として任用され、熊野権現境内の清楽寺跡に居宅を与えられます。そしてそれまでは社官・三昧僧・供僧が勤めていた御社の鍵の管理、年間六度の開扉ならびに遷宮、御社の掃除などの社役を勤めることになります。そのために神宮寺と是如院が還俗し、下禰宜となり下役として仕えます。
 岡山藩によって、五流を中心とする修験者、修理寺院である大願寺、祠官及び下禰宜の三者が奉仕する体制が作り出されたことになります。
そして寛文九年(1669)には、池田光政から次の折紙が出されています。
備前国児島郡林村之内高百六拾石、同郡宗津村之内高三拾石都合高百九拾石令寄附詑、全可社納也        
  寛文九年三月廿五日、光政公御在判
  惣山伏中 大守隠岐橡 大願寺 
ここからは五流が岡山藩の宗教政策の管理下に置かれたことが分かります。吉備津彦神社の神官を受けいれることで、五流の相対的な地位の低下につながりました。しかし、岡山藩の宗教政策は「飴と鞭」を巧みに使い分けています。ムチばかりではなく、保護も与えます。
五流 東山東照宮
玉井東照宮
 岡山藩の五流修験への保護を示す行事を見てみましょう。
正保元年(1644)池田光政が東山に勧請した玉井東照宮の祭礼・権現祭です。この祭礼で五流修験の建徳院が重要な役割を演じます。祭礼は東照宮勧請の翌年の正保二年(1645)九月十七日から初まっていますが、その中心は東山(岡山市)の東照宮から御旅所迄の御神幸です。この行列に寛文八年(1668)から五流修験を代表して建徳院が、岡山の多数の山伏を伴って参加するようになります。しかも五流の代表者が「権現同道」と叫ばないと行列が動かなかったくらい、重要な役割を演じていたようです。これは円満院が池田光政の島取藩時代の祈祷寺院で、移封と共に岡山に移されています。そのため円満院やその支配寺院である建徳院が重視されたことからきているようです。
 この他にも岡山藩では、五流修験の春秋の葛城・大峯修行や聖護院門跡の峰入への参加の際には、その都度銀子を与えています。また、後には春秋の峰入修行の護摩供に際して、池田家の家運長久の祈念も依頼するようになります。岡山藩は、硬軟織り交えた巧みな寺社政策を展開し、管理下に置いていったことが分かります。

五流 本山
五流本山

近世中期から後期にかけての五流一山の状況を見ておきましょう。
五流 絵図

 岡山藩の寺社抑止政策もあり江戸時代中頃の五流山では、諸院の多くが廃絶し、由伽山・有南院・清田八幡宮など関連社寺も離脱していきました。この結果、五流山は熊野権現を中心として林村内のみでこじんまりとまとまるという運営方法をとらざるを得なくなります。
五流 熊野十二所神社本社3

 その伽藍を見ると、本社は正保四年(1647)十一月池田光政の寄進になる第一殿・第二殿・第四殿・第五殿及び満山護法社。
五流 三殿

明応元年(1492)天誉再建の第三殿から成り、その近くに長床・観音堂・鐘楼などがあり、本社左脇には祠官屋敷、その左隣には大願寺が並びます。
五流 長床
焼失前の長床

 本社の裏につらなる蟻峰山の登山口には、宝永二年(1705)建立の地主神福岡明神の祠がありました。福岡明神には宝永六年に廃止された惣堂大明神の御正体も安置されます。この福岡明神は公卿覚養院が管理し、九月七日には合祀された惣堂大明神の祭典を行なっていたようです。
五流 山伏寺判明図

 山内には塩飽本島の吉祥院をのぞく五流五院、公卿・譜代と称する修験者の家来などの屋敷がありました。その数は、寛文年間には山伏十七戸、譜代二十八戸を数えました。中世の繁栄ぶりから比べると、その縮小ぶりがうかがえます。
 木見の諸興寺跡にはわずかに薬師・毘沙門の小堂を残すのみとなり、有南院と共に分派し、山内には譜代の葬式寺の真浄院のみが存続していたようです。ここを拠点とした修験者達はいずれも妻子と自分達で葬儀を行なっていました。
  
近世期の五流一山の年間行事を見ておきましょう
正月朔日、三月三日、五月五日、六月十五日、七月七日、九月九日の六回の御戸開の祭礼がありました。これらは早朝寅の刻に熊野権現の社殿を開扉し、供物をそなえ祈願などしたうえで中の刻に閉めるものです。八月七日・八日の一山の祭礼の際の八日、及び八月十五日にも開扉されます。この他では、夏九旬の間は熊野権現に夏供花が行なわれます。月毎の行事には、
毎月朔日 権現出仕御宝前誦経
七日 役行者講・権現御本地縁日・権現騰
十七日 御託寥・連歌講
十八日 権現出仕読経
二十八日 荒神講
の行事がありました。この時には、まず福岡明神に登り、そこから蟻峰山の峰伝いに弁財天・熊山・タコラ山(最高峰)・石鎚山をへて山を下り、毘沙門屏・七福神・諸興寺跡・頼仁親王御陵・稲荷社(森池上)から由伽山に到り、根引・行者の井戸・木見・薬師庵をへて福南山にのぼり妙見宮を拝します。それから、熊坂地蔵・熊野道・清田八幡宮をまわって長床に帰るという行程です。さすがは峰歩きで鍛えた山伏たちです。健脚だったようです。
 このうちの蟻峰山からタコラ山にかけては、金剛蔵王権現と大峯八大金剛童子がまつられていました。しかし、この時代には、まだ蟻峰山と福南山を金剛界・胎蔵界になぞらえたり、山内に宿や鼻をもうけることはなかったようです。ただ蟻峰山麓の毘沙門堂上には胎内くぐり、毘沙門堂そばには弘法大師の磨崖仏や不動の種子を刻んだ岩などが、描かれているようです。 
   五流修験では、次第に霞内の檀那からの布施が重要な財源になっていたことは、以前にも見ました。もう一度近世の各院の霞の範囲については、確認しておきましょう。
尊滝院  備前国松山。伊賀国(天正年間肥前・肥後の霞を失ったので、享保十六年聖護院門跡から新たに与えられた。
太法院  美作 備前、伯者(宝永二年の霞状)
建徳院  備前岡山並びに四十八ヶ寺、美作の一部
報恩院  伊予国一円。安芸国豊田郡、
     豊後国大野郡(文化六年の霞状)
伝法院  讃岐国、伊予国
吉祥院  塩飽七島、備中国松山除(宝永元年の霞状)
  このうち吉祥院は塩飽人名領の塩飽本島にあったので、宝永六年(1709)以来、池田藩の特別の許可を得て、扶持米(当時は三石、文化年間は十石)を送られるようになったようです。
 室町時代の霞(テリトリー)と比べるとは、変化があります。
伝法院が讃岐と伊予をテリトリーとしてしていたようです。旧山本町市には、地神(荒神さん)は
「備中児島からやってくる山伏たちが祀るようになったもので、ここに庵などが建てられお札などが配布された」
と記されています。三豊には、五流修験の伝法院の修験者たちがやってきてきた痕跡が残っています。
霞の授与に際しては、本山の京都聖護院門跡からその院に霞状が与えられます。
加えて岡山藩の寺社奉行と霞所在の郡奉行にも通達が行われます。これに基づいて、霞内に頭襟頭を置き、その下に組頭を配して平修験を統轄する組織が作り上げていました。これらの役職の任命は、霞を所持する五流各院が行ないますが、その手順は郡奉行にとどけると共に、そこから藩の寺社奉行に報告するという形が必要でした。また、霞内の修験者の先達号や僧官は五流から出しています。ただし権大僧都以上の僧官については、五流から輩出する権限はなかったようで、聖護院に仲介しする形をとっています。
 近世中末期になると、いくつかの院では霞の他に講を組織して、信者の獲得・掌握を行うようになります。
たとえば「寛政三年(1791)九月吉日報恩院現住宣誉」との奥書のある講員名簿「摂州浪華、当院帰依山上惣講中」には48の講とその先達名が記されています。
 また近世中期以降に、吉野の大峯山寺を支配した八島役講の一つに、堺の五流があります。これも近世期には五流一山と密接な関係を持っていたようです。この他にも現在岡山から広島にかけての村々で見られる山上講も近世中期頃に五流修験が組織化されたものと研究者は考えているようです。
 五流一山は早くから大山を修行の道場として重視し、霞内の修験者にも大山先達の免許・補任を出しています。
修験者は祈祷など行いますが、そのためにはパワーポイントを貯めなければなりません。それは厳しい修行によってのみ貯める事が出来ると考えられていました。そこで、中世の修験者(山伏)たちは、行場をもとめて全国を旅する事になります。白山や立山、石鎚などの行場が近くにあればいいのですが、五流修験の拠点である児島には、名のある行場がありません。そこで、修行のために小豆島や石鎚、そして伯耆大山(大仙)を、修行ゲレンデとしました。
 江戸時代に修験者の移動が規制されるようになると、五流修験は大山を公認行場として認められるようになります。そのため現在も五流一山の祖霊堂は、大仙智明権現と呼ばれています。大山は五流修験とっては、修行の「ホームグラウンド」だったのです。そして、かつての熊野行者が先達として、熊野に「檀那」を連れて参拝したように、岡山南地域の信者達を大山へと導く姿が見られるようになります。こうして岡山からは五流修験の山伏に率いられた人々の「大山詣で」が盛んになります。この先達を勤めた山伏たちを先祖とする寺社が備中や備後には、かつては数多くありました。
 
 ここで五流修験の特徴を押さえておきましょう
五流修験のテリトリー拡大


 修験者の拠点は、行場の近くに形成されるのが普通です。しかし、五流修験は、熊野神社の社領に分祠されたのが始まりです。そのために行場が近くにありません。そのため五流修験は、熊野や大峯さらに大山・石鎚・小豆島などで修行せざるを得なかったようです。さらには瀬戸内海沿岸に新たな行場を求めて進出していきます。そして、そこに熊野権現を分社し、活動の拠点を確保していきます。それが、以前にお話しした塩飽本島の吉祥院や芸予諸島大三島の大山祇神社であったのでしょう。五流流修験が瀬戸内海沿岸の紀州・中国・四国・九州にかけて広範なテリトリーを持つようになったのは、このように外に向わざるを得ないベクトルがあったと研究者は考えているようです。
 もうひとつは、背後に熊野水軍の瀬戸内海進出があったことです。

五流修験の後に熊野水軍あり

熊野水軍は備讃瀬戸の戦略的要衝である児島を押さえた上で、瀬戸内海全域の展開を行います。その水軍の偵察・情報収集部隊の役割を果たしたのが五流修験であったようです。そして、交易拠点に庵を開き、伝道活動の拠点とすると共に、熊野水軍の「支店」としても機能するようになります。修験者たちは、熊野詣でへの導引とともに、営業マンであったのかもしれません。これは、当時の有力寺社の瀬戸内海交易のパターンでもありました。五流修験の後に、熊野水軍ありということにしておきましょう。
  このこととが中世期の五流修験に大きな影響をおよぼしているとこ研究者は考えているようです。

近世期にも五流一山は、本山派修験内で特別の位置を与えられていたようです。
たとえば天保年間筆写の「本山近代先達次第」には、熊野三山検校宮三井長吏・聖護院御門跡の一品法親王を筆頭にして、熊野三山奉行若王子僧正、院室の住心院・積善院・伽耶院、豊前の求菩提山・筑前の竃門山の両座主があげられています。
 このあとに備前児島五流の報恩院・尊滝院・太法院・伝法院・建徳院・智蓮光院・塩飽の吉祥院がいずれも山号は新熊野山、長床宿老として記されています。
 さらにこれに続いて諸国の大先達・年行事・准年行事、御直院が記され、最後に別段をもうけて、児島公卿として一老附宝良院・覚城院・正寿院・宝乗院・大泉院・太法院付常住院・南滝院・観了院・千寿院・報恩院付本城院・尊滝院付青雲院・常楽院・備前矢掛一流公卿智教院、讃岐丸亀内伝法院下威徳院、同塩飽島吉祥院下真滝院があげられているのです。本山派修験内でこれだけの院が一括して所属し、しかも院室・座主につぐ位置を占めている例はないようです。ここからも五流一山が本山派内で別格視されていたと研究者は考えているようです。
 五流修験は本山派内で重要視された背景は、何なのでしょうか。
それは、聖護院門跡の御一代の御大峰・役行者千年忌・千百年忌、本山派修験の春の葛城・秋の大峯の峰入にあたって、五流修験が重要な役割をはたしていたことによるようです。例えば、聖護院門跡の一世一度の峰入では、五流修験のものが峰中修行の秘儀である小木、関伽の作法を門跡に伝授する指南役を勤めています。こうした門跡の峰入の供奉に際しては、岡山藩からの援助を受け、衣裳も権現祭の際に着用する藩のものを借りています。またそれに先立って、必ずホームゲレンデの伯者大山で修行をしたようです。
以上をまとめておきましょう
①近世には岡山藩の宗教政策により「規制と保護」を受けるようになった。
②林村の熊野権現ついては神職の介入を受けるようになり、五流修験、大願寺、祠官の三者が共同して奉仕するようになった。
③由加山の管理権を失い、多くの寺院が退転した
④五流修験は規模を縮小したものの、依然として中国・四国に霞を持ち比較的安定した宗教活動を展開していた。
参考文献

中世は宗教が科学の役割を果たしていました。武力や技術、医療なども宗教と深く結びついていました。そのため人々にとって神仏は、身近な存在でした。すべては神仏で説明されたのです。
そんな中で、上皇や貴族たちから始まった熊野信仰は、鎌倉時代になると、皇族や貴族をまねて地方の武士たちも熊野に参詣するようになります。そして、後には富裕層も参加するようになり、次第にさまざまな階層の人々に受け入れられ、全国に広がったようです。
熊野信仰は、どのようにして各地に広がったのでしょうかに

 「瀬戸内海交通路を通じた霊場の系列化により浸透した」

と研究者は考えているようです。
熊野水軍に代表されるように古代からの熊野の海上交易ルート沿いに熊野領荘園の設置や熊野権現の勧進が行われます。しかし、それだけでは熊野詣を行う原動力にはなりません。身近で熊野に行こうと働きかけてくれる人物が必要です。それが熊野先達でした。
熊野先達の果たした役割を見ておきましょう。
先達の指示した精進潔斎を行って、参拝者(檀那)は熊野に出発します。先達は道中の道案内、関所、渡船、宿泊などの世話を行ないます。船で紀伊について熊野詣道に入ってからは、熊野王子などの霊地で拝礼や垢離などの導師を勤め、帰路や帰還後の作法を取り仕切ります。これだけ見ると現在の団来旅行のインストラクターのようですが、これは先達の職務の一部でしかありません。さらに先達は参詣をできない人の喜捨を熊野にとどける「代参」も行います。つまり、参拝しない信徒も抱えているのです。そして、熊野に参詣したり、寄進する人(信者)を「檀那」と呼んでいました。
 熊野にやってきた檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案内などに従事したのが御師です。
先達は檀那を熊野に導くと、御師あてに檀那の在所、氏名、自己の在所、名前、提出年月日などを記した願文を提出しました。その形式は、次のようなものです。
     上野国高山修理亮重行(花押)
一    応安五年三月四日
一   道先達金峯山別当民部律師
一   那智山御師六角堂弁法眼
 この願文は応安五年に、上野国高山の檀那の修理亮重行が、大和の先達・金峰山別当民部律師を仲介として、那智山御師六角堂弁法眼に提出したものです。このように願文は、本来は熊野に到着した際、檀那が先達・御師を介して熊野権現に祈願をとりついでもらうために提出する祈祷依頼状でした。ところがこの願文には、今後は必ずこの御師のもとに来ることを契約した内容も含まれています。それだけでなく、この先達が導いた檀那、その檀那の一族のものにも同様のことが義務づけられるようになります。そのため後には、願文とあわせて系図が提出させられ、御師は檀那の系図を作って保管するようになります。
つまり「願文提出」は、先達と檀那との契約関係ともいえるのです。今と違うのは神仏を介して成立していることです。熊野本宮の神前で御師・先達・檀那により交わされたもので、熊野権現への誓約という形で行われています。つまり神をバックにする御師・先達と、ただの人間の契約で対等なものではありません。契約を破れば、神仏から罰せられることになります。しかも契約は一代かぎりでないのです。子孫まで拘束するものであったことが文書から分かります。
  こうして以後は、子孫に至るまで「檀那・先達と御師」との結びつきが続くことになります。こうした御師と先達・檀那の関係を「師檀関係」と呼んでいるようです。願文は先達・檀那が署判して御師に提出する師檀関係の締結を示す契約状の性格をもつようになります。

 熊野の御師は、どんな風に全国の檀那を「登録管理」していたのでしょうか?
 熊野では、鎌倉時代から室町時代初期までは、檀那を一族単位で掌握していたようです。それが後には、在所単位に移っていきます。「那智山社法格式書」に、諸大名・諸氏は名字・氏・系図にもとづき、町人・百姓は生縁の在所によるとあるように、古くは、在地領主は一族単位で掌握されていたことが分かります。東北、関東など、在地領主の支配力が強い地域では、一族引きの形がとられたようです。ここからは、同じ地域に住む一族が一緒に、熊野詣をしていたことがうかがえます。
 御師にとっては師檀関係を結んだ檀那や先達は、他の御師へ鞍替えは出来ないシステムだったので、まさに永遠の「常客」です。このリストを持っている限り、参拝客が熊野にやって来てた場合には、宿泊料や取次料が入ってきます。そのため檀那リストは貴重な財産とされるようになります。
 御師は、檀那・先達の願文を保存し、さらに名簿や檀那の系図なども作って大切に保管するようになります。そしてやがてこれらの檀那・先達リストは譲渡や売買の対象としたり、借金の抵当となるのです。これは、そこに名前の記されている檀那や先達の意志と関係なく、御師の間で行なわれ、変更後にこのことを檀那や先達には知らせていたようです。現在の旅館がこんなことをやれば、怒りをかうでしょう。
 その際、御師の間ではのちの紛争を防ぐために檀那や先達の譲渡状、売買や借金に関する文書が取りかわされています。その上で、相手方に願文や檀那・先達リストが渡されています。
現在熊野の那智大社と本宮大社には、御師文書と呼ばれるこれらの文書が一括して保存されているようです。このうち那智大社所蔵のものは、『熊野那智大社文書』全六巻にまとめられています。
 この中にある「願文・願文帳・檀那譲状・檀那売券・借銭状・先達や檀那の名簿」をもとにして研究者は、各地の能野先達や檀那の活動を明らかにしているようです
その中の先達が「檀那権」を譲渡・売買した譲状を見てみましょう
これは、先達が親子・師弟などの間で檀那を無償で譲渡するものです。
    永譲渡檀那事
  合 上野国 玉村保住人讃岐公
  右件檀那者、京尊之相伝也 然聞所譲渡于玄善房実也、但後日証文之状如件、
   永仁七年卯月十七日                  京尊花押
 これは先達の京尊が上野国見桃保(群馬県玉村町)の檀那讃岐公を玄善房に譲渡したものです。
最初に「譲渡檀那事」とあります。「永」が文頭に記されているのは、「期間限定のレンタル譲渡」もあったからです。その場合には、レンタル期間が記されています。
 ここからは 参拝者(檀那) ー 熊野先達 ー 熊野の御師という関係(師檀関係)を、先達たちも互いに譲渡・売買していたことが分かります。 
 熊野先達を勤めた人たちは、どんな人だったのか
  先達は山伏だったと研究者は云います。石鎚山や中国地方の大山などの山岳霊場で修行する一方で、自分の拠点周辺の住民などを熊野へ引導しました。その途上、彼らは道筋にある神社や社寺などに泊まることもあったようで、その手続きや宗教儀礼なども執り行います。また。檀那の代理として参詣したり、礼を配ったりするなど、日常的に檀那と深くつなかっていました。今私たちが考える団体旅行のインストラクターとは、まったく違ったものです。ある意味、先達は檀那の信仰を菅理する立場で、師匠でもあり、怖れられる存在でもあったようです。13世紀の説話集「沙石集」からは、檀那が先達に畏怖の念を抱いていたことがうかがえます。
先達は檀那の信仰に深く関わり、その代償として利益を得ています。
だから、檀那との関係が動産化し譲渡や売買の対象となったと研究者は考えているようです。
徳島県吉野川市鴨島町の仙光寺所蔵の古文書は、地方の熊野先達に関する貴重な文書が残っています。そこには「十川先達」という熊野先達の名前が出てきます。彼は「柿原別当」という師匠について修験活動を行う山伏でした。彼の活動歴を残された文書から見てみると、周辺の先達から檀那株を買ったり、いろいろな手段で檀那を増やし、活動・経済基盤を固めている様子が次のように見えてきます。
① 14世紀には吉野川市鴨島・川島町が、檀那の分布域であった。
② 15世紀には柿原別当から石井町、吉野川市鴨島町の檀那を買い取った。
③ 16世紀初頭には、鴨島町西部に新たな檀那をもつようになる
④ さらに、鳴門市や徳島市、美波町、三好市などの檀那が散在するようになる。
このように、鴨島を中心に霞(かすみ)と呼ばれるテリトリーを拡大し、広域的に活動するようになります。ところで、檀那株を買った先の「柿原別当」は、もともは十川先達の師匠であったようです。ここからは十川先達が師匠から自立し、川島町を拠点に檀那を増やした。そして師匠の「柿原別当」が引退すると、その檀那株を譲り受けたという筋書きが描けそうです。
  熊野詣には、どれほどの費用が必要だったのでしょうか?
 吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達の残した史料から、参詣の費用について見てみましょう。
 白地城(三好市)の城主として名高い武将である大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げたものが残っています。
熊野三山御師え渡日記  大西覚用
 熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書のうち)


ここからは次のような先達と檀那の関係が見えてきます。

檀那 大西覚用 ー 十川先達 - 御師という師檀関係

覚用がこのときに、自分自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって参詣したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは3745万8750円で、大変な高額です。これは、御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。こちらについての記録は内容ですが、地域の有力武士団の棟梁クラスは、このくらいの「参拝料」を収めていたようです。商人たちは参詣講を組織し、グループで参詣していたようなので、こんな高額にはならなかったのかもしれません。しかし、一般庶民の手の出る者ではありません。近世の伊勢詣でや、金毘羅詣でとは違って庶民性は薄いようです。ところが、こんな方法ではなく、信心の強い人は物乞いをしながら熊野へ向かった人もいたようです。参詣に要する経費はさまざまであったということになるのでしょうか。
 どちらにしても紀伊からやってきた熊野修験者たちが四国各地に定着し、多くの檀那を確保して熊野詣でに参道していたようです。

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