三野郡には詫間郷がありました。それが1250(建長2)年頃には、九条家領として立荘され詫間荘となります。その荘域は、荘鎮守の浪打八幡宮の祭祀圏から推測して、近世の吉津村、中村、比地村、仁尾村と詫間村の五ヶ村だったとされます。
詫間郷の各地域
詫間荘の惣荘鎮守社は、詫間村八幡山の浪打八幡宮です。この神社は、「名主座」と呼ばれる宮座で祭礼がおこわなれていたようです。今回は浪打八幡宮の宮座について見ていくことにします。テキストは「薗部寿樹 村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘 山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。
まず、浪打八幡宮の放生会も御頭所(頭屋)を見ていくことにします。
【史料A】 浪打御放生会御頭所①比地村一番 安行 二番 黒正 三番 守弘 四番 清追 五番 小三郎 六番 助房七番 吉光 八番 糸丸 九番 貞門 十番 包松中村分一番 宗国 二番 真守 三番 友成 四番 重光 五番 吉真 六番 安弘七番 成松 八番 末守 九番 国正 (中略)(中略)吉津詫間仁尾分十二年廻一番 則永 助宗 守永二番 経正 西光 則方三番 真光 宗久 金武四番 則久 時延 宗吉五番 為弘 吉松 武経六番 依国 行真 宗藤七番 則包 近光 土用八番 是時 国光 定宗九番 光永 正光 友行十番 秋弘 真光 久則十一番 正光 為時 吉久十二番 延正 末次 宗成浪打御放生会御頭所Ξ
史料Aは、浪打八幡宮の放生会の頭人の年周りの割当表です。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
①比地村10名で10番まであるので10年ごとに巡ってくること。②中村は9名で9番までなので9年ごと③吉津村・詫間村・仁尾村分は三名1組で12番まであり、12年ごとにめぐってくる。
そして比地1名 + 中村1名 + 吉津・詫間・仁尾3名=5名で担当したようです。このように、各村の名によって「御頭(頭屋)」が決められているので、浪打八幡宮の宮座は名主座だと研究者は判断します。
史料Aは写で、中略部分に「正元ハ永正六(1509)マテ五十一年二成也」とあります。ここからは原文書の年紀は1509(永正6)年のものと分かります。16世紀初頭の浪打八幡宮では名主座という宮座によって祭礼が行われていたようです。 辞書で「名主座」を調べると次のように記されています。
「名主座は宮座の一形態で、 14世紀初頭ごろに成立した名主頭役身分の者たちが結集した村落内身分集団」
よく分からないので、あまり深入りしないで、先に進みます。
それでは、浪打八幡宮の名主座は、いつごろ成立したのでしょうか。
【
史料B(端裏書)「八幡宮 御放生会驚輿丁并義量等神判 写」
史料Bは、浪打八幡宮放生会の駕輿丁と太鼓夫の勤仕を定めたものです。ここからは次のようなことが分かります。
① 駕輿丁は、4人の名で担当し 左右の場所まで指定される。② 仁尾は太鼓夫を担当している
この勤仕も「名」によって行われています。
①「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件②明徳二(1291)年 八月九日定之」
史料Bの②からは、1291(明徳二)年の年期があるので、元寇後の13世紀末には、浪打八幡宮の名主座は成立していたことが分かります。①については、次の史料と一緒に見ることにします。浪打八幡宮が詫間荘惣荘鎮守社であることが確認できる史料をみておきましょう。
史料Cは、1367(貞治六)年2月の浪打八幡宮年中行事番帳の写です。
【史料C】定 八幡宮年中行事番帳之次第
ここに記されているのは、詫間荘内の詫間・吉津・比地にあった寺院や坊舎などです。それが4つの寺を一組として、ローテションで浪打八幡宮の年中行事に奉仕していたことが分かります。ここに出てくる寺院や坊が、史料Bの
「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件」
の「供僧中」だと研究者は考えています。この供僧中は本来12口でした。それが史料Cの14世紀になると新加入の供僧が増えて、その数はその倍以上にふくれあがっています。浪打八幡宮供僧中は、詫間荘全域ではありませんが、詫間・吉津・比地と荘内の各地域に分散しています。ここからは、浪打八幡官が惣荘鎮守社であるとともに、詫間荘全荘の宗教的センターの役割も担っていたことが分かります。
正保国絵図に見る詫間郷周辺
史料Bでは、「社務供僧中検校雇頭神人有会合定之」とあります。
そして検校と惣官が署判しています。社務は神職で、署判している惣官がこれにあたるようです。検校は供僧の代表的存在、雇頭神人は名頭役を勤仕する名主のことでしょう。ここからは、浪打八幡宮名主座の運営は、社務・検校・供僧・名主の合議で行われていたことがうかがえます。そのなかでも史料Bに署判している社務(惣官)と検校が指導的な役割を担っていたようです。僧侶が神を祀る祭礼に奉仕するのは、今の私たちには違和感があるかもしれません。しかし、神仏混淆のすすんだ中世は、神も僧侶によって祀られていたのです。同時に、三野平野西部の詫間荘には、これだけのお寺や坊があって、多くの僧侶がいたことを押さえておきます。そして、その数は中世の間に、次のように大幅に増えています。
1391(明徳二)年の史料Bには、詫間・吉津・比地・仁尾の19の名。1509(永正六)年の史料Cの頭文には、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の36名が見えます。
別の見方をすると、浪越八幡社は36のお寺や坊が関わる地域の宗教センターであったことになります。そして、大般若経を整備したりする場合には、これだけの僧侶が写経や寄進に関わることになったはずです。
それではこれだけの寺院に支えられた浪打八幡社は、どこの寺院の傘下にあったのでしょうか?
これを見ると西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。それは、その下で奉仕する僧侶達も影響下にいれていたことになります。
その中に
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」
庄内半島や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。詫間荘の浪打八幡宮の祭礼に参加する僧侶達は、道隆寺の下に組織化されていたことになります。道隆寺は讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。道隆寺の果たしていた役割については、以前にお話ししました。それを要約しておくと
①地域の学問寺として僧侶育成の場でもあり、写経センター的な役割を果たしていた。②堀江港の管理センターの役割を持ち、塩飽など海に開かれた布教活動を行っていた③讃岐西守護代香川氏の菩提寺として、香川氏を経済的・文化的に支援した
このように香川氏の下で活発な活動を行う道隆寺の傘下にあったのが浪打八幡宮と、それに奉仕する詫間荘の36の寺院・坊の僧侶達と云うことになります。道隆寺は、海を越えた児島の五流修験(新熊野)との関係があった痕跡がします。熊野修験 → 児島五流 → 道隆寺 → 浪越八幡という流れが見えてくるのですが、これを史料で裏付けることはできません。しかし、このような関係の中で、道隆寺傘下の寺社は活発な瀬戸内海交易活動を展開していたと私は考えています。そして、それを保護したのが天霧城の主である香川氏と云うことになります。
以上を整理しておくと
①三野郡詫間郷は、13世紀半ばに立荘され九条家の荘園となった
②その郷社として建立されたのが浪打八幡社である。
③浪打八幡社の祭礼には、詫間荘の 詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名や寺院がローテンションを組んで奉仕していた。
④浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていた。
⑤浪越八幡宮は、その上部組織としては多度津の道隆寺の傘下にあった。
⑥道隆寺は海に開かれた寺院として、堀江港を管理する港湾管理センターの役割を果たしていた。
⑦道隆寺傘下の寺社は、道隆寺のネットワークに参加することでそれぞれの地域で瀬戸内海交易を展開した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「薗部寿樹 村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘 山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」
関連記事