瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:三豊の歴史 > 三豊市三野町

                  
三豊の古代郷
讃岐国三野郡詫間郷(庄内半島とその付根部分)
三野郡には詫間郷がありました。それが1250(建長2)年頃には、九条家領として立荘され詫間荘となります。その荘域は、荘鎮守の浪打八幡宮の祭祀圏から推測して、近世の吉津村、中村、比地村、仁尾村と詫間村の五ヶ村だったとされます。
詫間郷3
詫間郷の各地域
 詫間荘の惣荘鎮守社は、詫間村八幡山の浪打八幡宮です。この神社は、「名主座」と呼ばれる宮座で祭礼がおこわなれていたようです。今回は浪打八幡宮の宮座について見ていくことにします。テキストは「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。
浪打八幡神社/三豊市

まず、浪打八幡宮の放生会も御頭所(頭屋)を見ていくことにします。
  【史料A】  浪打御放生会御頭所
  ①比地村
一番 安行   二番 黒正   三番 守弘  四番 清追   五番 小三郎  六番 助房
七番 吉光   八番 糸丸   九番 貞門  十番 包松
  中村分
一番 宗国   二番 真守   三番 友成  四番 重光   五番 吉真   六番 安弘
七番 成松   八番 末守   九番 国正      (中略)
(中略)
  吉津詫間仁尾分十二年廻
一番 則永   助宗   守永
二番 経正   西光   則方
三番 真光   宗久   金武
四番 則久   時延   宗吉
五番 為弘   吉松   武経
六番 依国   行真   宗藤
七番 則包   近光   土用
八番 是時   国光   定宗
九番 光永   正光   友行
十番 秋弘   真光   久則
十一番 正光   為時   吉久
十二番 延正   末次   宗成
浪打御放生会御頭所Ξ
史料Aは、浪打八幡宮の放生会の頭人の年周りの割当表です。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
①比地村10名で10番まであるので10年ごとに巡ってくること。
②中村は9名で9番までなので9年ごと
③吉津村・詫間村・仁尾村分は三名1組で12番まであり、12年ごとにめぐってくる。
そして比地1名 + 中村1名 + 吉津・詫間・仁尾3名=5名で担当したようです。このように、各村の名によって「御頭(頭屋)」が決められているので、浪打八幡宮の宮座は名主座だと研究者は判断します。
史料Aは写で、中略部分に「正元ハ永正六(1509)マテ五十一年二成也」とあります。ここからは原文書の年紀は1509(永正6)年のものと分かります。16世紀初頭の浪打八幡宮では名主座という宮座によって祭礼が行われていたようです。 辞書で「名主座」を調べると次のように記されています。

「名主座は宮座の一形態で、 14世紀初頭ごろに成立した名主頭役身分の者たちが結集した村落内身分集団」

よく分からないので、あまり深入りしないで、先に進みます。
それでは、浪打八幡宮の名主座は、いつごろ成立したのでしょうか。
【 
浪打八幡 駕輿丁次第之事

史料B(端裏書)「八幡宮 御放生会驚輿丁并義量等神判 写」
史料Bは、浪打八幡宮放生会の駕輿丁と太鼓夫の勤仕を定めたものです。ここからは次のようなことが分かります。
①  駕輿丁は、4人の名で担当し  左右の場所まで指定される。
② 仁尾は太鼓夫を担当している
この勤仕も「名」によって行われています。
①「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件
②明徳二(1291)年 八月九日定之」
史料Bの②からは、1291(明徳二)年の年期があるので、元寇後の13世紀末には、浪打八幡宮の名主座は成立していたことが分かります。①については、次の史料と一緒に見ることにします。浪打八幡宮が詫間荘惣荘鎮守社であることが確認できる史料をみておきましょう。
史料Cは、1367(貞治六)年2月の浪打八幡宮年中行事番帳の写です。
浪打八幡 八幡宮年中行事番帳之次第
【史料C】定 八幡宮年中行事番帳之次第

ここに記されているのは、詫間荘内の詫間・吉津・比地にあった寺院や坊舎などです。それが4つの寺を一組として、ローテションで浪打八幡宮の年中行事に奉仕していたことが分かります。ここに出てくる寺院や坊が、史料Bの
「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件」
の「供僧中」だと研究者は考えています。この供僧中は本来12口でした。それが史料Cの14世紀になると新加入の供僧が増えて、その数はその倍以上にふくれあがっています。浪打八幡宮供僧中は、詫間荘全域ではありませんが、詫間・吉津・比地と荘内の各地域に分散しています。ここからは、浪打八幡官が惣荘鎮守社であるとともに、詫間荘全荘の宗教的センターの役割も担っていたことが分かります。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
正保国絵図に見る詫間郷周辺

史料Bでは、「社務供僧中検校雇頭神人有会合定之」とあります。
そして検校と惣官が署判しています。社務は神職で、署判している惣官がこれにあたるようです。検校は供僧の代表的存在、雇頭神人は名頭役を勤仕する名主のことでしょう。ここからは、浪打八幡宮名主座の運営は、社務・検校・供僧・名主の合議で行われていたことがうかがえます。そのなかでも史料Bに署判している社務(惣官)と検校が指導的な役割を担っていたようです。僧侶が神を祀る祭礼に奉仕するのは、今の私たちには違和感があるかもしれません。しかし、神仏混淆のすすんだ中世は、神も僧侶によって祀られていたのです。同時に、三野平野西部の詫間荘には、これだけのお寺や坊があって、多くの僧侶がいたことを押さえておきます。そして、その数は中世の間に、次のように大幅に増えています。
1391(明徳二)年の史料Bには、詫間・吉津・比地・仁尾の19の名。
1509(永正六)年の史料Cの頭文には、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の36名が見えます。
  別の見方をすると、浪越八幡社は36のお寺や坊が関わる地域の宗教センターであったことになります。そして、大般若経を整備したりする場合には、これだけの僧侶が写経や寄進に関わることになったはずです。
 それではこれだけの寺院に支えられた浪打八幡社は、どこの寺院の傘下にあったのでしょうか?
 それは多度津の道隆寺だったようです。中世の道隆寺明王院の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

道隆寺温故記
 
これを見ると西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。それは、その下で奉仕する僧侶達も影響下にいれていたことになります。
その中に
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

 庄内半島や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。詫間荘の浪打八幡宮の祭礼に参加する僧侶達は、道隆寺の下に組織化されていたことになります。道隆寺は讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。道隆寺の果たしていた役割については、以前にお話ししました。それを要約しておくと
①地域の学問寺として僧侶育成の場でもあり、写経センター的な役割を果たしていた。
②堀江港の管理センターの役割を持ち、塩飽など海に開かれた布教活動を行っていた
③讃岐西守護代香川氏の菩提寺として、香川氏を経済的・文化的に支援した
 このように香川氏の下で活発な活動を行う道隆寺の傘下にあったのが浪打八幡宮と、それに奉仕する詫間荘の36の寺院・坊の僧侶達と云うことになります。道隆寺は、海を越えた児島の五流修験(新熊野)との関係があった痕跡がします。熊野修験 → 児島五流 → 道隆寺 → 浪越八幡という流れが見えてくるのですが、これを史料で裏付けることはできません。しかし、このような関係の中で、道隆寺傘下の寺社は活発な瀬戸内海交易活動を展開していたと私は考えています。そして、それを保護したのが天霧城の主である香川氏と云うことになります。

以上を整理しておくと
①三野郡詫間郷は、13世紀半ばに立荘され九条家の荘園となった
②その郷社として建立されたのが浪打八幡社である。
③浪打八幡社の祭礼には、詫間荘の 詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名や寺院がローテンションを組んで奉仕していた。
④浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていた。
⑤浪越八幡宮は、その上部組織としては多度津の道隆寺の傘下にあった。
⑥道隆寺は海に開かれた寺院として、堀江港を管理する港湾管理センターの役割を果たしていた。
⑦道隆寺傘下の寺社は、道隆寺のネットワークに参加することでそれぞれの地域で瀬戸内海交易を展開した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」
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弥谷寺 四国遍礼名所図会1800年jpg
弥谷寺 四国遍礼名所図会(1800年)

 弥谷寺は、四国八十八ヶ所霊場71番札所です。伽藍の一番高いところに、磨崖に囲まれるように①本堂があり、諸堂も岩山に囲まれるように配されています。境内の磨崖や岩肌には数え切れないほどの五輪塔や梵字、名号などが刻まれています。中には納骨された穴もあって「死霊の集まる山」として民俗学では、よく知られた寺院です。
弥谷寺は江戸時代の「弥谷寺略縁起』には、次のように記されています。
行基が弥陀・釈迦の尊像を造立し、建立した堂宇にそれらを安置して蓮花山八国寺と号した」
「その後、弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を修したこころ、五鈷の剣が天から降り、自ら千手観音を造立して新たに精舎を建立し、剣五山千手院と号した」
「行基=空海」の開基・中興というのは、後世の縁起がよく語るところで、開創の実態については史料がなく、よく分かりません。ただ岩山を穿って獅子之岩屋や磨崖阿弥陀三尊が作られる以前の平安時代に、修行者や聖といった人々が修行の場を求めて弥谷山に籠ったことが、この寺の成立の基礎となったことはうかがえます。
 平安時代末期には、四国の海辺の道を修行のためにめぐり歩く聖や修験者らがいました。彼らの修行の道や場として「四国辺地」が形成され、それがベースとなって四国遍路の祖型が出来上がっていきます。弥谷山の修行者や聖たちも、そうした四国遍路の動きと連動していたようです。
仁治4年(1243)に、高野山の党派抗争の責任をとらされて讃岐に流された高野山僧の道範は、宝治2年(1248)に善通寺の「大師御誕生所之草庵」で『行法肝葉抄』を書いています。その下巻奥書には、この書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたと記されています。これが「弥谷」という言葉の史料上の初見のようです。弥谷寺ではなく「弥谷上人」であることに、研究者は注目します。
「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修行者や聖のような宗教者の一人と考えられます。
 ここからも鎌倉時代の弥谷山は、聖たちの修行地だったことがうかがえます。それを裏付けるもうひとつの「証拠」が鎌倉時代末期に作られた本堂の東にある阿弥陀三尊の磨崖仏です。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏
この阿弥陀三尊像は、弥谷山を極楽浄土に見立てる聖たちが造立したものです。また仁王門付近にある船石名号の成立や磨崖五輪塔にみられる納骨風習の成立には、時衆系高野聖の関与があったと研究者は考えています。
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船石名号(弥谷寺 仁王門上部)

当時の高野山は、一山が時衆系の念仏聖に占領されたような状態で、彼らは各地の聖山・霊山で修行を行いながら熊野行者のように高野山への信者の誘引活動を行っていました。弥谷山も「死霊の集まる山」として祖先慰霊の場とされ、多くの五輪磨崖物が彫られ続けます。これが今でも境内のあちらこちらに残っている五輪五輪塔です。ここでは中世の弥谷寺は、浄土阿弥陀信仰の聖地で、弘法大師の姿は見られないことを押さえておきます。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏
磨崖五輪塔(弥谷寺)

 細川氏の守護代であった香川氏は天霧城に城を構えます。そうすると、天霧城と山続きの弥谷寺には香川氏の五輪塔が墓標として造立され続け墓域を形成していきます。守護代の香川氏の菩提寺となることで、その保護を受けて伽藍整備が進んだようです。同時に、この時期は弥谷寺境内から切り出された天霧石で作られた石造物が三野湾から瀬戸内海各地に向けて運び出された時期でもありました。
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香川氏のものとされる五輪塔(弥谷寺西院跡から移動)

   弥谷寺に弘法大師信仰が姿を見せるようになるのは、近世になってからのようです。今まで語られたことのなかった弘法大師伝説が、弥谷寺には伝えられます。
承応2年(1653)に澄禅が記した『四国遍路日記』には、次のように記されています。
   弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂(現大師堂 旧奥の院)がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。(後略)

ここには現在の大師堂には、木像の弘法大師と石像の藤新大夫(とうしんだゆう)夫婦が安置されていたことが記されています。高野山関係の史料には、空海の父母は古くから弘法大師の父は佐伯氏、母は阿刀氏の女とされてきました。ところがここでは、空海の父母は、藤新大夫夫婦で父は「とうしん太夫」、母は「あこや御前」とされていたことが分かります。ここからは、江戸時代初期の弥谷寺では、高野山や善通寺とはちがうチャンネルの弘法大師伝が作り出されて、流布されていたようです。「空海の父母=藤新大夫夫婦」説は、近世初頭には四国遍路の開創縁起として、かなり広く流布されていて、多くの人たちに影響を与えていたようです。これに対して「正統的な弘法大師信仰者」の真念は、「愚俗のわざ」として痛烈に批判しています。

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現在の獅子の岩屋の配列 弘法大師の横には佐伯田公と記されている

 こうした異端的な弘法大師伝が生まれた背景には、弥谷寺やその近辺で活動する高野聖の存在が考えられます。それをたどると、多度津の海岸寺・父母院から道隆寺、そして児島五流修験や高野聖が関わっていたことが浮かび上がってきます。そういう意味でも、四国遍路の成立過程はひとつの流れだけではなく、何本もの流れがあったことがうかがえます。それが弥谷寺からは見えてきます。

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獅子の岩屋 空海の横には母玉依御前

戦国時代に兵火で焼失した弥谷寺は、近世の生駒家の下で復興が始まります。
本堂焼失後に仮堂を建立し、残された本尊千手観音や鎮守の神像等をおさめて伽藍の再興がはかられます。そして、17世紀後半には境内整備が進展して伽藍が復興されます。また近世の弥谷寺は、生駒家に続いて丸亀藩・多度津藩の祈躊寺として位置づけら、五穀成就や雨乞いの祈躊を執行するなど、丸亀・多度津両藩の保護を受ける特別な寺となります。
弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺一山之図(1760年)
 同時に民衆にとっても中世以来の「死霊の集まる山」で先祖供養にとして重要な存在でした。承応2年(1653)の『四国遍路日記』には、弥谷寺の境内には岩穴があり、ここに死骨を納めたとあります。江戸時代前期の弥谷寺は、中世に引き続いて死者供養の霊場として展開していたことが分かります。
 弥谷寺の年中法会の中で重要なものとされる光明会が、 日牌・月牌による先祖供養の法会として整備されていきます。近世の弥谷寺は檀家を持っていませんでしたが、この光明会によって死者供養、先祖回向の寺として、広範囲にわたって多くの人々の信仰を集め続けます。また、修行者や聖などの宗教者の修行地とされていた弥谷寺には、彼らが拠点とした院房が旧大門(八丁目大師堂)から仁王門にかけて、十を越えて散財していました。それが姿を消します。これは、白峰山の変貌とも重なり合う現象です。
弥谷寺 八丁目大師堂
院坊跡が潅頂川沿いにいくつも記されている

 修験者や聖たちに替わって、弥谷寺を訪れるようになったのは遍路たちです。そして、弥谷寺も遍路ら巡礼者に対応した札所寺院に脱皮・変貌していくことになります。それが例えば遍路接待のための施設設置です。
正徳4年(1714)までは、寺内の院坊の一つである納涼坊が遍路ら参詣者の接待所を兼ねていました。しかし、享保10年(1725)に財田上の大庄屋・宇野浄智惟春が接待所(茶堂)を、現在の大師堂の下に寄進設置しています。
弥谷寺 茶堂
金毘羅参詣名所図会に描かれた茶堂
この接待所は弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』などにも描かれていて、ここで接待が行われていたことが分かります。

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「永代常接待碑」
現在は、この接待所の跡地に、永代にわたって接待することを宇野浄智が記した「永代常接待碑」(享保10年2月銘)が建っています。またその2年後には宇野浄智から「永代常接待料田畑」が寄進されています。この他、弥谷寺の門前には、ある程度の店も立ち並んでいたようで、遍路ら参詣者を迎え入れる札所寺院として整備されていったことが窺えます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
             「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 しかし、江戸中期以降の弥谷寺への参拝者の増加は、四国遍路よりも金毘羅詣りの参拝者の増加とリンクしたものでした。金毘羅さんにお参りした客を、弥谷寺に誘引しようとする動きが強まります。そのため丸亀に上陸した参拝客に「七ヶ所詣り」の地図が手渡され、善通寺方面から弥谷寺への誘引をはかります。そのために寺へ通じる沿道の整備が進められます。
 弥谷寺は、鳥坂越手前で伊予街道から分岐する遍路道を整備します。そして寛政4年(1792)に分岐点近くの碑殿村の上の池の堤防横に接待所を設置し、往来の参拝客に茶を施したいと願い出て、多度津藩から許可されています。この接待所は「茶堂庵」と称され、講中によって維持されていきます。同時に、この接待所には弥谷寺に向けたスタート・モニュメントとして大地蔵を建立されます。
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善通寺市碑殿町の大地蔵

ここから弥谷寺境内の法雲橋へ至る道に、10の仏像を安置する計画が立てられ、ゴールの境内では寛政3年(1791)、金剛挙菩薩像(当初は大日如来)の造立に取りかかっています。このように弥谷寺は周辺地から境内へ至る道の整備を進め、増加しつつある参詣者を誘致に務めています。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
 近代の弥谷寺は、明治5年(1872)に山林が上地処分によって官有地として没収されます。これによって経済的な打撃を受けますが、明治39年に「上地林」は境内に再び編入されます。諸堂の整備も引き続き行われ、明治11年には大師堂が再建されます。また江戸時代以来の接待所(茶堂)は、通夜堂ともよばれ、近代でもにおいて遍路の宿泊施設としても機能します。しかし、これも昭和50年代に廃絶したようです。

弥谷寺 西院跡
 弥谷寺の現存建造物としては、次のようなものがあります。
明治11年 大師堂
弘化5年(1848)再建の本堂
天保2年(1831)再建の多宝塔
大正6年(1917)再建の観音堂
大正8年再建の十王堂
残された絵図を見ても本堂や大師堂など中心的な伽藍の配置は、江戸時代から大きな変更はありません。境内とそれを取り囲む岩山は、遍路や参拝者が行き交った近世の札所霊場の景観を伝えるものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世まで修行者や聖などの修行地であった。
②彼らは弥谷寺を浄土阿弥陀信仰の聖地として信者たちを誘引し、その結果磨崖五輪塔が造立された。
③中世から近世への移行期に高野山との交流によって、弘法大師信仰が定着した。
④近世前期には、中世同様に死者供養の霊場として参詣者の間に浸透していった。
⑤近世中期以降、さらに多くの民衆が金比羅詣りや遍路として訪れるようになり、接待所が設置されるなど、弥谷寺は遍路ら参詣者を迎え入れる開放的な空間として整備されていった。
⑥境内へ至る沿道についても整備が進められ、不特定多数の人々にも開かれた場へと展開していった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
        参考文献 弥谷寺調査報告書 2015年 香川県教育委員会

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弥谷寺本堂
弥谷寺本堂については、私は次のような「仮説」を考えていました。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていた。
②それが、いつの時代かに磨崖仏は信仰の対象ではなくなった。
③その結果、磨崖と本堂の間に壁が作られるようになった。
その根拠となるのが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)の弥谷寺本堂について次の記録です。(意訳)
(前略)
さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、弥谷寺本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。

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弥谷寺本堂の正面壁と磨崖

 現在の本堂は背面が壁で閉じられているので、岩壁に彫られた仏像や五輪塔は見えません。礼拝の対象外になっています。つまり岩壁に彫られた仏像とは全く無関係に、現在の本堂は建てらたことになります。

弥谷寺 本堂平面図
弥谷寺本堂平面図

岩壁を覆うように仏堂を建てるのは、岩壁に彫られた仏像に対する儀式を行う場を設けるためと考えられています。その例として、研究者は次のような仏堂を挙げます。
弥谷寺 龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂は岩窟に祀られた木彫の薬師・阿弥陀・不動明王の三尊の前に儀式空間の礼堂が設けられています。
弥谷寺 不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)
不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)

不動寺本堂は、岩盤の竃に厨子を置いて、本尊を安置しその前に岩壁に接した仏堂が設けられています。
これらの例のように弥谷寺本堂も18世紀中頃までは、磨崖の本尊を覆うような形で建てられていたと考えるのが自然のように思えます。
今のように壁によって隔てられる前の本堂の姿は、どんなものであったのでしょうか。しかし、それ以上は絵図資料からは分かりません。そこで研究者は屋根形式の変遷をさぐるために、磨崖のレーザー実測図を手がかりにしながら、岩壁の穴や窪みを見ていきます。

弥谷寺 本堂と磨崖
弥谷寺本堂背面岩壁の痕跡
上図を見ると本堂裏の磨崖には、数多くの五輪塔と四角い穴が彫られていたことが分かります。これが今は本堂によって隠されていることになります。東側(右)に五輪塔が密集しています。「四国遍路日記」の「阿弥陀三尊本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。」という記述通りの光景が広がります。西側に四角い穴が3つ見えます。

研究者は、この写真を詳しく検討して本堂は、複数回の建て替えが行われていること、それに伴なって屋根形式も変更されていることを次のように指摘します。
①第42図左下部のAの部分には、地面から3mの高さまで角柄穴が一列に並んでいる。
②地面近くでその1m西に柄穴2個がある。
③これらはこの前に立っていた建物の柱と繋ぐためのもので、前者は間渡しの柄穴、後者は縁葛の柄である。
④この位置は現在の本堂の柱筋とほぼ一致する。
⑤現在の本堂には岩壁へ向かって壁が設けられていた痕跡がないので、岩壁の痕跡はこれ以前の建物のものである。
⑥前身建物の西側の側柱は、現在の建物と同じ位置になる。
以上から次のような事を研究者は推測します。
⑦古くは岩壁に彫られた籠E・F・G・Hを利用して本尊が祀られていた。
⑧その前に儀式の場である本堂が設けられていた
⑨その場合、本堂は現状よりやや西に寄っており、C1~C3がその屋根跡で、今より2mほど低くなる。
⑩屋根葺材もCOや C1は、Bの現在の屋根の傾きから比べると勾配が緩いので、檜皮葺きか板葺と推定できる。
⑪以上から絵図「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年のに本堂は瓦葺ではなく、檜皮葺か柿葺と考えられる。

以上をまとめておくと、この磨崖には四角穴に尊像が彫り抜かれていて、そこにC1~C4までの4回の屋根が改修再建がされたことになります。確かにEは、C期の本堂の中心軸に位置します。そして、その周囲をFが取り囲む配置になります。この棚状の所に、何体かの尊像が安置されていたのでしょう。C期には、磨崖右側の五輪塔は本堂の外にあったことになります。
 Cにあった屋根がBになって大型化するのが18世紀中頃になります。それが「讃岐剣御山弥谷寺全図」天保十五(1844)年に描かれた天守閣のような本堂なのでしょう。ここでは、本堂が1720年の焼失で建て替えられ、それ以後は現状に近い「入母屋造妻入」のスタイルになったこと、その時に本堂は磨崖から切り離されたことを押さえておきます。
弥谷寺 本堂と磨崖

現本堂の棟より下にみえる溝状の痕跡Cを、もう少し詳しく見ていきます。
これも屋根が取り付いていた痕跡のようです。現在の屋根や痕跡Bより低い位置にあり、少なくともCl・C2。C3の三時期分の屋根の痕跡と研究者は考えています。またそれにつながると見られる水平の痕跡COoやC4もあります。これを研究者は次のように推察します。
①COとCl、 C4とC3がそれぞれ一連の屋根の痕跡である。
②COとCl、 C4とC3に向かつて正面側と右側に流れがあるから、寄棟造、平入の屋根が設けられていた可能性が高い。
③これが澄禅が「四国遍路日記」(承応二年=1653)の中で、「片ハエ作」と呼んだ屋根かもしれない。
④C2は、これに連なる痕跡がないので、切妻造か寄棟造かは分からない。

以上の屋根の痕跡から見て、C群の屋根の時期の本堂の中軸は、今より西にあった。
COとC1は2m以上
C4・C3は約1m以上、
C2は0,5m
  本堂は次第に東に移動していったようです。

もういちど第42図にもどり。今度はBの屋根跡を見ていきます。
Bには現在の本堂の屋根よりほんの少し高い所に残った、漆喰の埋められた山形の溝の用です。漆喰の大部分の表面は、黒く塗られています。これは切妻造の屋根が岩盤に突き当たっていた証拠だと研究者は指摘します。屋根と岩盤の取り合い部分を塞ぐために、漆喰を塗ったと云うのです。
 Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
それに対して、東側(右)で見られる反りのある彫り込みは、檜皮葺か瓦葺でも中世的な技法の屋根と推察します。以上から同じ位置で2期分の痕跡があることになります。それは、いずれも現本堂とほぼ同じ幅の屋根です。ここからは、現本堂の再建前に、同規模の屋根を持つ本堂が檜皮葺と瓦葺でそれぞれ1回ずつ建てられていたことになります。

弥谷寺 建築物推移表
上表は明和6年(1769)の「弥答寺故事謂」と、昭和6年(1931)の史料(年鑑)に載っている弥谷寺の建築物を、研究者が年代順に並べて整理したものです。
これを見ると、寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立されています。(「年鑑」)
この建物は、大見村庄屋の大井善兵衛をはじめ上高瀬・下高瀬・麻・三井・今津村などの三野郡3か村、多度郡2か村、那珂郡1か村の庄屋クラスの村役人たちの尽力によって建てられたもので、弥谷寺で最も古い建築物になるようです。
その約40年後の宝永6(1709)年にも、本堂(千手観音堂)が建てられています。これはどうも改修再建のようです。この時の千手観音堂(本堂)は、11年後の享保5年(1720)の春に焼失します。
 この時に弥谷寺は、大庄屋上ノ村の字野与三兵衛へ次のように願いでています。
「貧寺殊二無縁地二御座候得は、再興仕るべき方便御座無く迷惑仕り候、これに依り御領内、御表万う御領分共二村々廻り、相対二て少々の勧化仕り度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「我が寺は貧寺で、檀家も持たない無縁地ですの、再興の術がなくほとほと困っています。つきましては多度津御領内、だけでなく丸亀藩の御領分の村々をも廻り、少々の勧進寄付を行いたいと思いますので、許可していただけるように、多度津藩に取り次いでいただけないでしょうか。

 弥谷寺は、多度津藩だけでなく本藩丸亀藩にも、村々を回つて寄附を募ることを、願い出ています。(「奉願正三之覚」、文書2-116-2)。これは藩には認められなかったようです。勧進寄付活動は認められなかったようですが「本尊観音堂」の建立は認められたようです。それは本尊が千手観音の大悲心院が再建されていることから分かります。ここでは、本尊観音堂の建立を「本堂建立」と記しています。つまり、千手観音堂とは本堂のことだと研究者は指摘します。私は、千手観音堂は現在の観音堂のことだと思っていましたがそうではないようです。
本堂(千手観音堂)は近世後期にも焼失し、弘化5(1848)年に再建されています。(「年鑑」)。これが現在の本堂になるようです。
 これを先ほどの本堂裏の磨崖面の屋根跡とつきあわせると、次のようになります。
①寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立(「年鑑」)  →C群のどれか 
②宝永6(1709)年、本堂(千手観音堂)の改修再建。(「年鑑」)、→Bの茅葺き
③18世紀半ばに本尊千手観音の大悲心院(本堂)が再建  →近世後期に焼失 →Bの瓦葺き
④弘化5(1848)年に再建(現本堂)
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弥谷寺本堂東側磨崖の五輪塔
この本堂裏の磨崖には、どんな仏たちが安置されていたのでしょうか。
現在の本堂には、木造彫刻の千手観音・不動・毘沙門が安置されています。本尊千手観音は、弘化四年(1847)の作であることが分かっています。弘化の本堂の再建に併せて、本尊も造られたようです。「元禄霊場記」「寛政名所図会」などにも、本尊は、同じ仏像であった事が記されています。
「元禄霊場記」には弘法大師の事績として、次のように記されています。
三柔の峰東北西に峙てり、その中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ、本堂岩屋より造りつゝ゛けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

意訳変換しておくと
三柔の峰は東北西に伸びていて、その中軸に大師が岩屋を掘り、仏像を彫刻した。本堂岩屋より造り続けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

ここには大師が岩屋を掘って仏像を彫刻し、本堂はその岩屋に続いていたと伝えらていたことがうかがえます。この記事は延宝5年(1677)の「玉藻集」(『香川叢書』第二 所収)の記事を引用したようのなので、延宝五年以前には岩壁の磨崖仏が弘法大師作で貴重なものであるという認識があったようです。それが次第に忘れられ、手作りでつたなく見える石仏造物よりも、プロ職人の作った木像仏が本尊として迎えられ、同時に磨崖と本尊は壁で隔てられたというストーリーが描けそうです。
磨崖の尊像たちは、どのように安置され礼拝されていたのでしょうか。
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「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」(弥谷寺大師堂)

その疑問に答える鍵を、研究者は現在の大師堂の獅子の岩屋内の「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」に求めます。この2枚の扉は、岩屋の向かって右側に立てかけられた形で安置されています。

この扉には慶長9(1609)年に作られた高さ120~130㎝の扉の残欠です。
「讃州三野郡剣五山弥谷寺故事謂」『新編香川叢書 史料編一』所載 「明和故事諄」と略記)には、次のように記されています。
一、大悲心院 一宇 享保十二年未年、幹事宥雄法印
本尊 千手観音  弘法大師御作
脇士鉄扉 右 不動明王
銘云、鋳師河内国(略)
同 鉄扉 左 毘沙門天王
銘云、奉寄進(略)

ここからは次のようなことが分かります。
①大悲心院(本堂)の本尊が千手観音で弘法大師作であったこと。
②右の鉄扉に不動明王
③左の鉄扉に毘沙門天王
つまり、「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」は、もともとは大悲心院(本堂)にあったのです。それでは、鉄扉はどのように使用されていたのでしょうか。研究者が注目するのは42図の四角穴Eです。Eは、屋根がC群にあった時期には、本堂のちょうど中央にあった穴になります。Eには、扉の軸摺穴が残っていることを研究者は指摘します。鉄扉がここに填まっていたとすれば、Eに本尊千手観音が安置されていたことになります。この位置は屋根の痕跡COの位置とほぼ揃います。慶長の頃には、Eに本尊を祀り、その前に本堂の建物が取り付いて、不動明王・毘沙門天王が浮彫にされた鉄扉を開けると本尊の千手菩薩を拝むことができたことになります。
正徳四年(1714)の「弥谷寺由来書上」(寺蔵文書1-17-8)には、次のように記されています。
一、当山本尊千手観音堂、炎焼以後者壱丈二五間之片廂仮屋二鎮守権現・千手観音、不動・毘沙門 ハ左右之鉄扉脇士ノ尊像也、弥陀・釈迦・地蔵菩薩一所二安置セリ、然に延宝年中二仮堂大破に及たり、建立之願を発し、遠近の門戸を控、微少の施財を集、三間四面之観音堂建立功畢、参拾餘に及て大地震二、大石堂二落懸り、堂已二大破せり、依之再建造営ノ願、止事なしといへとも、前之堂所ハ、不安穏の地なれは、後代無愁之所を択定、往昔中尊院屋敷江引越、奥行四間、表五間に造営建立、其功令成就畢、
意訳変換しておくと
弥谷寺の本尊千手観音堂は、(天正年中の)戦禍で焼失以後は壱丈二五間之片廂仮屋で、そこに鎮守権現・千手観音を安置し、不動・毘沙門天は左右の鉄扉の脇士尊像であった。つまり、弥陀・釈迦・地蔵菩薩を仮堂の一ケ所に安置していた。ところが延宝年中(1673年~81年)に仮堂も大破してしまった。そこで、再建願いを藩に出たが、大規模な寄進活動は行わず、限られた募金活動で、わずかばかりの施財を集め、三間四面の規模で観音堂(本堂)を再建することにとどめた。 ところがこれも30年ばかり後に大地震に見舞われ、磨崖の上から大石が本堂に落ちてきて、本堂は大破してしまった。再建造営願を藩に提出し、再建に向けて動き出した。その際に、今までの本堂が建っていた所は、再び落石の危険があるので、後代に愁いの無いところへ移して再建されることになった。奥行四間、表五間の規模で造営建立された。其功令成就畢、

ここからは次のようなことが分かります。
①戦国末期の天正年中の兵火で本堂も焼失
②その後は片庇の仮堂を建てて、本尊やその他の尊像を安置していた
③ところがこの仮堂も、延宝年中に大破した。
④そこで、限られた寄進活動で三間四面の小規模な規模で観音堂(本堂)を再建した
⑤ところが約30年後に地震で大石が落ちてきて、これも大破
⑥そこで安全なところに場所を移して奥行四間、表五間の規模で再建された。

これ以外にも「剣五山弥谷日記」(弘化三年 寺蔵文書2-20-1)には、享保五年の本堂火災等の記事もあることは先ほど見たとおりです。
岩壁崩壊後に場所を移動して建てられた本堂が屋根跡C→Bを示すのかも知れません。しかし、どの程度移動したのかはよく分かりません

以上をまとめておくと
①弥谷寺本堂裏の磨崖には、尊像を安置した四角穴が4つほど穿たれている。
②ここには弘法大師作とされる尊像が安置されていた。
③そのためこの尊像が安置された四角穴を覆うように、屋根が被せられそれが本堂とされてきた。
④その本堂は現在のものよりも小型で、現在の位置よりも西へ2mほどよった所に建てられていた。
⑤それが江戸時代中期になると本堂は焼失や落石などで大破し、再建されることが続いた。
⑥その結果、江戸時代後半には参拝客の増加とともに本堂も大型化し、瓦葺きとなっていった。
⑦本尊も弘法大師作という石仏からプロ職人の木像仏へと代わり、磨崖仏との間に壁がつくられるようになった。
⑧磨崖物の本尊千手観音を守っていた脇士の不動明王と毘沙門天の鉄扉像は役割を終えて、現在は太子堂内の獅子の岩屋に収められている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会

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弥谷寺本堂

四国霊場のお寺は、もともとは山林寺院だった所が多く、本堂の奧に奥の院や大師堂があるのが普通です。ところが弥谷寺は、本堂が一番上にあります。獅子の岩屋があるのが「大師堂」です。ちなみに大師堂と呼ばれるようになったのは、この寺が江戸時代に善通寺の末寺となってからのことです。この寺に弘法大師信仰がはいってくるのは近世以後だったことがうかがえます。これについては、また別の機会にふれるとして、先を急ぎます。
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阿弥陀三尊磨崖物

 本堂が一番上にあるのは、ここが一番大切な所であったからでしょう。それは何かと云えば、本堂下の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像だと私は思っています。鎌倉時代に弥谷山を拠点とした高野聖や念仏聖たちが信仰したのは阿弥陀さまです。それが彼らの修行場であり、聖なる磨崖に彫られて本尊として信仰されるようになります。後に本尊は観音さまに交代しますが、弥谷寺のスタートは阿弥陀信仰です。そして、この上に本堂は建立されることになります。

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弥谷寺本堂軒下の磨崖に置かれた石仏

 弥谷寺本堂は伽藍の最上段に岩盤を削って建てられています。
その西側面と背面には岩盤が垂直に迫ってきて、背面には人が彫った窪みや磨崖五輪塔がいくつも穿たれています。本堂はこの岩盤に接するように建てられ、背面切り妻屋根はそのまま岩盤に繋がれています。
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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔
 この本堂を最初に見たときに思ったのは、断崖に囲まれた岩窟寺院という印象でした。まわりの断崖の中に、すっぽりと本堂が入り込んでいるような感じです。その後、中国の敦煌や竜門などの石窟寺院を見て、改めてこの本堂を見ると腑に落ちないことがいくつかでてきました。それは、弥谷寺でも磨崖に仏像が彫られ、それが本尊として信仰対象となっていたはずです。それなのに、今の本堂は断崖との間に壁があるのです。
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仏が彫られた磨崖側の本堂の壁(弥谷寺)
これでは、本尊を拝むことは出来ません。私の仮説は、次のようなものです。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていたい
②それが、いつの時代かに磨崖物は信仰の対象ではなくなり、磨崖との間に壁のある本堂が建てらた。
しかし、素人の悲しさで、これ以上のことは分かりませんでした。どうして壁が作られたのか、また、それがいつ頃のことなのか疑問のままでした。それに答えてくれたのが、「山岸 常人 弥谷寺の建築の特質  弥谷寺調査報告書263P」です。今回は、これをテキストに弥谷寺本堂の謎に迫っていきたいとおもいます。

まず、研究者が押さえるのが弥谷寺が描かれた次の絵画史料です。
①「四国編礼霊場記」 (元禄2(1689)年
②「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年
③「四国遍礼名所図会」 (寛政十二(1800)年
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年、
⑤「金毘羅参詣名所図会」 (弘化4(1847年 )

これらの絵図で弥谷寺本堂を見ていきましょう。
弥谷寺 四国編礼霊場記
 ①「四国編礼霊場記」では、「観音堂」とあるのが本堂です。
先ほど述べたように伽藍の中で一番高い所にあり、その周辺には、多くの磨崖物や五輪塔が描かれています。本堂(観音堂)は平入の仏堂のように描かれていて、岩壁に接しているようには見えません。現在の本堂は、正面入母屋造、妻入の建物ですが、背面は切妻造になっていて、背面側は土壁で開じられています。背面と向かって左側面に岩壁があり、それらに接するように本堂が立っています。
「四国編礼霊場記」は写実性に乏しいとされるので、すぐに17世紀の本堂の建築形式が今とは違っていたと判断することはできないと研究者は考えています。本堂の右側に描かれているの阿弥陀三尊の磨崖物です。
弥谷寺 一山之図(1760年)
②「剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10(1760)年です。
  本堂は、「正面入母屋造、妻入の建物」ですが、背面は切妻造ではないようです。ここからも本堂が磨崖に接しているようには見えません。本堂周辺部を見ると、山崎家の3つの五輪塔が描かれています。しかし、現在は本堂のすぐ西側にあるので位置が違うような気もします。山崎家五輪塔は、後世に現在地に移動された可能性があります。また、天霧城主の香川氏の五輪塔が100基以上もかつては西院跡にはあったとされますが、それも描かれています。香川氏と山崎氏の墓域であったことを強調しているようにも思えます。現在の大師堂は「奥の院」と標記されています。大師堂と呼ばれるようになるのは弘法大師信仰が強まる江戸後半以後のようです。
弥谷寺 四国遍礼名所図会

③「四国遍礼名所図会」(寛政十二(1800)年の本堂です。
 「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。

弥谷寺 「讃岐剣御山弥谷寺全図」
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年です。
この時期は、金毘羅に歌舞伎小屋や旭社が姿を見せ始め金比羅詣客がピークに達した時期になります。それに連れて、弥谷寺参拝客が最盛期を迎える頃になります。そのためか伽藍整備も進んで本堂も天守閣のような立派な建物になっています。旧奥の院も大師堂と名前を変えて、堂々とした姿を見せています。
 本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。

弥谷寺 金毘羅参拝名所図会
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
この本堂や大師堂を見ると「????」です。先ほど見た④と比べて見ると3年しか建っていないのに、描かれている建物がまったくちがいます。それに「大師堂」が「奥の院」の表記に還っています。これはいったいどうしたのでしょうか。火事で全山焼失し、新たな建物となったということもなさそうです。
研究者は⑤の描く本堂や奥の院が②「剣五山弥谷寺一山之図」と、非常によく似ていることを指摘します。つまり⑤は出版に際して、現地を見ずに②を写した可能性があると研究者は考えているようです。今では考えられないようなことですが、当時は現地を訪れずに絵図が書かれることもあったようです。とすると⑤「金毘羅参詣名所図会」は、資料としては想定外となると研究者は判断します。
四国遍路関連古書

絵図はこれだけですが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、次のように記されています。
 剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師(弘法大師)の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切王フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、
 拉、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段ヒリテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、
内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノロニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
意訳変換しておくと
弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。
 寺の広い庭から一段上ると鐘楼在、また一段上がると護摩堂がある。これも広さ九尺斗二間に岩を切り開いて戸をつけてある。その中には、本尊の不動の他に、何体もの仏像があるが、全て石仏である。ここから少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今風の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。
その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
 さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、17世紀中頃の弥谷寺の様子が詳しく書かれていて貴重な一級資料です。本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。どちらにしても澄禅は、弥谷寺本堂は、片流れの屋根であったと記しています。この記事は十七世紀中期には本堂の屋根が、いまのような入母屋造妻入でなかったことを教えてくれます。片流れ屋根なら磨崖仏を本尊とする本堂には相応しいものになります。

それでは本堂が「片流れの屋根」から「入母屋造妻入」姿を変えたのはいつのことなのでしょうか?
本堂が焼失した記録は、享保5(1720)にあります。また18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。ここからは1720年に焼失した本堂が18世紀半ばまでには、新たに再建されたことが分かります。先ほど見てきた絵図が書かれた時代をもう一度見てみると、次のようになります。
澄禅の「四国遍路日記」承応二(1653)年   片流れ屋根
①「四国編礼霊場記」 元禄2(1689)年 平入の仏堂
②「剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10(1760)年   入母屋造妻入の本堂
ここからは17世紀には、片流れの屋根であったのが、1720年の焼失後に再建されたときに、入母屋造妻入の本堂になったと考えることが出来そうです。元禄年間前後に屋根形式の変更があった可能性を押さえておきます。

しかし、これだけでは本堂が本尊とされる磨崖仏の上に被せるように屋根があったことは証明できません。それを研究者はレーザー透視で撮られた写真をもとに解明していきます。それはまた次回に・・・
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弥谷寺本堂背後の磨崖仏や五輪塔

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会
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         P1120863
弥谷寺本堂西側の山崎家の墓域
17世紀中頃の丸亀藩藩主・山崎家治の代に、弥谷寺の麓での田地開発が許可されたことが、郡奉行から大見村庄屋又大夫に伝えられた史料に残されています。この史料からは弥谷寺が畑6反3畝の土地を開発し、伽藍修理料としての「御免許」(年貢免除)を得たことが分かります。これが「御免許地」、つまり田畑の税を免除された最初の寺領になるようです。(「御免許山林田畑之事」、文書2-106-19)
 さらに山崎家断絶の後に入封してきた京極藩の高和の代に、郡奉行へ新開地1町5反を、大庄屋上の村の新八、下高瀬村宇左衛門、大見村庄屋七左衛門を通して「御免許地」として願い出ています。そこには、「開地漸く七反余開発仕り、用水池を構えた」とあります。ため池築造とセットで、新田開発が引き続いて行われていたことがうかがえます。
 元禄7年(1694)に、丸亀藩の支藩として多度津京極藩が成立します。
2多度津藩石高
多度津藩の石高
前回お話ししたように弥谷寺のある大見村は、多度津藩に属します。そのため多度津藩の領地決定まで土地開発は一時中断したようです。多度津藩の領地が決定すると、改めて1町5反の開発を、大見村庄屋善兵衛が大庄屋三井村の須藤猪兵衛、上ノ村宇野与三兵衛へ申し出て、大庄屋の二人から代官に願い出ています。そして正徳4年(1714)3月に、次のような証文を得ています。

弥谷寺格別の儀二思し召され、後代堂塔修理料として、開田畑壱町五反御免許

こうして5月には、この田畑1町5反(田2反9畝、畑1町2反1畝)が御免許地とされます。これを山崎家時代に認められていた6反3畝と併せると御免許地は2町1反3畝になります。

P1150031
大見から見た弥谷山(真ん中 右が天霧山)
これらの弥谷寺の寺領は、どこにあったのでしょうか?
  弥谷寺の下に広がる大見の地は、中世に秋山氏によって開かれたとされます。秋山氏の一族である帰来秋山氏は、竹田に舘を構えていました。近世になると三野湾が大規模に干拓されていきます。そのような中で弥谷寺に続く斜面も開墾され、その上部の谷頭にため池を築造することで棚田状の新田を開発したことが推測できます。

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現在の八丁目太子堂付近 左が旧遍路道

 現在の八丁目太子堂辺りに、かつては大門があったことは以前にお話ししました。この太子堂の裏には谷頭に作られたため池があります。
弥谷寺 遍路道
八丁目大師堂(大門跡)の南に残る「寺地」

太子堂から本山寺に続く遍路道を下りていくと旧県道と交わる辺りに「寺地」という地名が残ります。江戸時代に、弥谷寺が開発し、「御免許地」となったは2町1反3畝の水田は、この辺りにあったと私は考えています。この土地は、弥谷寺にとっては伽藍維持や日常的な寺院経営にとっての経済基盤となったはずです。
弥谷寺 八丁目大師堂 大門跡
弥谷寺の寺地周辺
 また、4月には大見村の鳥坂原で、新開畑5反5畝が弥谷寺分として認められています。この地については「当夏成より定めの通り上納仕るべき者なり」とあるので、「夏成」(夏年貢)を納める必要があったようです。(以上、「御免許山林田畑之事」、文書2-11「19、「弥谷寺由来書上」、文書1-17-8)。

弥谷寺は、自らの手による新田開発以外にも、有力者からの田畑の寄進を受けています。
弥谷寺に残された田畑等の寄進証文を、研究者が年代順に整理したのが次の表です。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田畑等の寄進証文一覧表

これを見ると一番古いのは「1の元禄12年の三野郡上高瀬村の田中清兵衛」によるもので、精進供料とし田畑5畝(高2斗5升が寄進されています。この時期は、弥谷寺境内に多くの墓標が造立され始めたころで、18世紀中頃にかけて急速にその数が増えていきます。墓標を弥谷寺境内に建てると同時に、追悼供養として寄進が始まったようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
弥谷寺の墓標造立数の推移表
2は、先ほど見た大見村寺地組の有力者で深谷家の当主です。新田として開発された周辺の土地が寄進されたのかも知れません。3~5は、大見村の属する「上の村組」の大庄屋である宇野家によるものです。宇野家は大庄屋として、多度津藩が命じて弥谷寺で行われる大般若経の転読や雨乞祈願などの行事には、上の村組の庄屋たちのトップとして臨席する立場にありました。ある意味、宇野家にとっては弥谷寺は慰霊の地であるとともに「ハレの場」でもあったのです。そこに、「観音堂修理料」の名目で、土地が3ケ所寄進されています。その後の田畑寄進者の名前を見ると、宇野家を見習うように大見村土井家、大見村庄屋大井家や、大見村内の有力者の名前が続きます。
 生駒氏や松平氏が新興の金毘羅神を保護し、金光院に多くの土地を寄進しました。それを真似るように、この時代になると庄屋や有力者が田畑を寺社に寄進するようになります。弥谷寺への土地寄進の先頭を切ったのは、大庄屋の宇野家で、これを見習うように庄屋たちが続いていきます。その背後には、彼らが弥谷寺を死霊の集まる山として霊山信仰をもち、そこに墓標を建てるようになったことがあります。

P1150281
弥谷寺の墓標
その中で6の正徳3年の5月と翌年3月に、美作の久米南条郡金間村平尾次郎兵衛が、岩谷奥院灯明料を寄進しています。
その理由は研究者にも分からないようです。ただ、近世以前の弥谷寺は、善通寺の影響下に入らずに、白方の海岸寺や父母院と同じ山伏(修験者・聖)たちとともに「空海=白方誕生説」を流布してたことは以前にお話ししました。そして、その源は多度津の道隆寺を経て、海を渡って備中児島の五流修験者たちとのつながりが見て取れます。五流の修験者の中には、海岸寺や弥谷寺を空海生誕の聖地として、先達なって信者たちを誘引していた時期があります。その名残がこの背景にはあるのではと、私は推測しています。

弥谷寺に寄進地された土地は、あまり広い田畑はないようです。
一番広いのが田畑5反3畝25歩の享保12年9月の上ノ村の大庄屋三野(宇野)浄智(与三兵衛)です。その次が寛延3年6月の田畑3反2畝27歩の宇野清蔵(宇野浄智の一族と思われる)になります。寄進目的としては精進供料、本尊仏倉向備、観音堂修理料、岩屋奥院三尊前言明料、石然地蔵尊仏倉向備、観音堂供灯明料、常灯明料・護摩供支具料・地蔵尊敷地・寺地普請などが記されています。
 宇野浄智の場合は常接待料・接待堂・常接待石碑となっており、遍路のための参詣者や接待堂建設のための寄進もあることに研究者は注目します。
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺の地蔵刻印の墓標


これらの寄進地は、その土地からの収入がすべて弥谷寺の収入となったわけではありません。
作徳米(藩へ年貢)を納めた後の収納米が弥谷寺の収入になります。たとえば一番古い元禄12年の田中兵衛の寄進状には、次のように記されています。
大見村小原にて田畑五畝、此の高弐斗五升の田畑買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料二事二仕る処なり、尤も御年貢諸役等其の方二て御勤め、其の余慶を以て御精進供御備え願い奉る者なり、右の意趣は両親のため、現世安穏後生善くする所なり
意訳変換しておくと
大見村小原で田畑五畝、石高弐斗五升の田畑を買い求め、弥谷寺弘法大師の御精進供料として寄進する。もちろん御年貢諸役などを納めたあとの余慶を、御精進供御備するものである。この意趣は両親のため、現世安穏・後生を善くするためである。

ここからは次のようなことが分かります。
①寄進地は、従来から持っていた田畑ではなく、新たに弥谷寺周辺の田畑を買い求めたものであること。
「弘法大師の御精進供料」と弘法大師信仰がみられること
③「御年貢諸役等其の方二て御勤め」とあるように、年貢やその他の藩への負担である諸役は弥谷寺から納め、残った分を「其の余慶を以て御精進供御備え」に充てるとあること
この「余慶」が作徳米になります。つまり田畑の寄進を受けたとはいっても、それが「御免許地」のように藩への年貢貢等税が免除された寺領という性格ではなかったことを押さえておきます。
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弥谷寺本堂下の磨崖に彫られた五輪塔とその前に並ぶ墓標

弥谷寺への土地の売り渡し・質入れ証文が残っているのは、どうして?
享保11年(1726)から、幕末の嘉永元年(1848)までに20通を数える売り渡し・質入れ証文があります。どうして個人の証文が弥谷寺に残っているのでしょうか。研究者は次のように考えています。享保11年と同12年の大庄屋宇野浄智の売り渡し証文は、計田5反3畝25歩です。これは寄進地の第22表8番目の三野郡財田上ノ村宇野浄智と一致します。また宝暦6年2月の「利助取次」が宛名になっています。畑4畝12歩は、さらに大見村庄屋の大井平左衛門宛となっています。これは寄進地の13番目の宝暦6年12月大井平左衛門の田畑6畝5歩と同一の田畑だと研究者は指摘します。ここから大庄屋の宇野家や大見村庄屋の大井平左衛門は、質流れで手に入れた土地を、自分のものとするのではなく弥谷寺へ寄進したとことが分かります。この頃の庄屋は自分の利益だけを追い求めていたのでは、村役人としてやっていけなかった時代です。質流れの抵当として手に入れた土地は、寺社に奉納するという姿勢を見せておく必要があったのかもしれません。
以上をまとめておくと
①17世紀の弥谷寺は、八丁目大師堂の下あたりの斜面を開墾し、谷頭にため池を築造し新たな田畑を開いた。
②これは藩から「御免許地2町1反3畝」として無税の寺領として認められた。
③一方、18世紀になると大庄屋の宇野家など、境内に墓標を建てた有力者たちから先祖供養代などとして土地寄進が行われるようになった。
④その土地には「質流れ担保」で、庄屋たちの多くは自分のものとせずに弥谷寺に寄進する道を選んだ。
前回は大般若経の転読や雨乞い祈祷などの宗教行事を通じて、地域の有力者が弥谷寺と深く関わっていたことを見てきました。今回は、大庄屋などの有力者が経済的に弥谷寺をどのように支えてきたのかを見たことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
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   多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)年4月19日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
こうして多度津藩は丸亀藩の支藩として成立します。その石高は以下の通りです。
2多度津藩石高
多度津藩の石高(多度郡+三野郡)

多度津藩の石高1万石は、多度郡が7130石余(15か村)、三野郡が2869石余(5か村)でした。その内で三野郡5か村は大見村・松崎村・原村・神田村・財田上ノ村で、その石高は次の表の通りです。

2多度津藩石高変化
多度津藩各村毎の石高推移

三野郡では宝暦年間は、大見村の石高一番多く、少ないのが原村だったことが分かります。それが明治4年には、神田や財田上(上の村)の石高が倍増しています。山間部での水田開発が継続して行われていたことがうかがえます。
弥谷寺 大見村と上の村組
多度津藩の三野郡5ケ村の位置

上の地図のように前者の3ケ村は三野郡の北部で、後者の神田村(山本町)・財田上ノ村(財田町)は、三野郡の南部になります。ふたつは離れた飛び地でした。環境の違うふたつのグループをまとめていくことは、なかなか大変だったことが予想されます。どちらにしても、弥谷寺のある大見村は、三野郡5か村で構成される上ノ村組に属していました。
上ノ村組の大庄屋は、財田上の宇野家が務めていたようです。
正徳1(1711)年に、神田村に隣接する羽方村(高瀬町)が多度津領に追加されます。その2年後の正徳3(1713)年4月に、上の村組大庄屋の宇野与惣兵衛が観音堂修理料として弥谷寺に田5畝を寄進しています。
弥谷寺 田地寄進状
弥谷寺への田地寄進一覧表
 宇野家は大庄屋を代々務め、多度津藩の湛甫建設が本格化する天保7(1836)年3月まで、宇野弥三左衛門の名前は大庄屋として確認できます。一方、大見村の庄屋は、近世初期の元和6年(1620)以降、明治まで、大井家がずーっと継承しています。(『新大見村史』)
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弥谷寺の本坊
字野家や大井家と、弥谷寺はどんな関係だったのでしょうか?
その関係を垣間見える資料を研究者は2つ挙げています。ひとつは、享保19年(1734)に、弥谷寺住職智等が隠居願いを本寺の善通寺誕生院へ提出しています。それと同時に,大見村庄屋大井平左衛門と連名で大庄屋の宇野与三兵衛へも提出しています。しかし、これは認められなかったようです。
 2つ目は、隠居願いが認められなかった住職智等は、3年後の元文2(1737)年に、有馬温泉への入湯願いが出されています。このほかにも住職の高野山への登山や、本山善通寺の造塔のための大坂行についても承認伺いが庄屋や大庄屋に出されています。ここからは弥谷寺の願書は、直接に多度津藩の寺社奉行に提出され、その結果が直接に弥谷寺へ伝えられるという形式ではなく、庄屋・大庄屋の承認を受けて後に、藩に取り次がれるという仕組みになっていたことが分かります。それだけ弥谷寺の維持、運営に大庄屋・庄屋が深く関わっていたようです。
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弥谷寺本坊
次に弥谷寺の住職の後継者決定手続きを見てみましょう。
寛政11(1799)年暮れに住職蜜範が病死し、後継者を決めることになります。その際の記録に「法春並びに村役人共打ち寄り評議仕り候」とあります。法春とは同一宗門を修行する仲間のことで、弥谷寺の住職の決定には「法春」とともに村役人が「評議」して、その承認が必要であったことが分かります。蜜範の後継者には、松崎村の長寿院が転住して住職となっています。この時は大見村宝城院と大見村庄屋玉三弥源太連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願い出ています。(「諸願書控」、文書2-104-3)。

 その次の後継者選びは、文政9年(1826)に住職霊熙が病気隠居し、後任者に大見村の宝城院が兼帯することを願い出ています。この時も弥谷寺と大見村後見大井勇蔵の連名で大庄屋字野四郎右衛門へ願書を提出しています。このことは善通寺誕生院へも伝えられ、多度津藩では「願書二誕生院よりの添翰を以て願い出」ているので、これを認めています。(「奉願口上之覚」、文書2-116-11)
 幕末の嘉永5年(1852)に弥谷寺では住職智量が隠居したため、後継者を決めることになります。この時も寛政11年の時の「法春井びに村役人共評議仕り」との同じような文言があります。ここからは弥谷寺の後継者決定にも、大見村の村役人が深く関わっていたことが分かります。村役人と弥谷寺の関係の強さがうかがえます。
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弥谷寺十王堂

弥谷寺の住職は多度津藩の陣屋が出来るまでは、藩主が在国している時には、年頭に丸亀城で丸亀藩主・多度津藩主にお目見えをしていたようです。また、正・五・九月には丸亀城内で、般若経の転読や祈祷を行っています。ここからは、弥谷寺は丸亀藩・多度津藩の祈祷寺だったことが分かります。(「弥谷寺故事謂」)

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弥谷寺十王堂からのながめ

 明和7(1770)年はこの年は不作で、丸亀藩では農民に対し、「夫喰」(食料米)の貸与を行っています。これに対して5月に、多度津藩・寺社奉行は弥谷寺と道隆寺を呼んで、次のように命じていることが「五穀成就民安全祈祷控」に記されています。(要約)

藩主・京極高文様が近年の旱魃という領内不幸に、「百姓貧殺イタセシ事」を深く悲しんでおられる。そのために正月に「五穀豊熟民安全」を祈って、藩主自らが大般若経の「御札」を書き、その版木を道隆寺へ奉納することになった。そこで、多度津藩内の道隆寺と弥谷寺に大般若経の転読を命じ、祈祷料として銀5枚、領内へ配る御札用の料紙として杉原一束が渡された。祈祷料と御札紙のことは、弥谷寺から地元の「上の村組中」へも伝えらた。

 大般若経とは、正式な名前を「大般若波羅蜜多経」といいます。
 唐の時代に三蔵法師玄奘侶が16年のインド(天竺)留学から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)します。小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若などさまざまな般若部経典の大全集で、その数は600巻にもなるようです。内容は、「般若波羅密」と訳される”悟りに至る智恵”を説く諸経典を集成したもので、「色即是空 空即是色」、一切の存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
2020年8月 – 三方石観世音
大般若経600巻

   しかし、中世の村々の寺社では、災異や疫病の流行を鎮め豊作を祈るための祈願行事となります。村々では日々の安寧を祈るため、大般若経を手に入れて祈願するようになります。導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読し、藩内の安全、五穀豊穣、また地区住民の厄災消除、家内安全を祈願するものです。

大般若経転読法要: 薬師寺日記
大般若経の転読(薬師寺)
しかし、600巻もあるお経を読むのも、長い巻物を巻くのも大変です。そのため、お経の形は5センチくらいの幅で蛇腹折りにした「折本」の形に変えられ、これを片手から片手へパラパラと落とし受けられるようにし、これでお経を読んだことにする「転読」が広く行われるようになりました。村のお経は、共同体の拠りどころである神社の宮座に置かれたので、仏教の経典が神社に伝わるという保管状況になっていたところが多いようです。それが、神仏分離で神社からお寺に移され、保管されてきたようです。
大般若シリーズ【3】 転読 その1新米和尚の仏教とお寺紹介

 経本を1巻1巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな”般若の風”が起き、疫病や災害が吹き飛ばされるとされます。それぞれの僧侶が、1巻1巻「大般若波羅蜜多経 巻第○○(巻数) 唐三蔵法師玄奘奉詔訳ー!!」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「調伏一切大魔最勝成就!」と唱え締めくくります。
このような転読会が多度津藩主から弥谷寺と道隆寺には命じられていたようです。
この時の弥谷寺の大般若経の転読には、代拝使として寺社奉行と寺社取次・代官奈良井藤右衛門らがやってきています。そして三野郡大庄屋字野十蔵を初めとする、大見村など4ヶ村の庄屋や村々の長百姓、組頭らも弥谷寺へやってきます。これは、多度津藩上ノ村組の大庄屋・庄屋・村役人のフルメンバーになります。そこに大勢の見物人もやってきます。その前で、弥谷寺住職によって大般若経の転読が行われています。一大イヴェントです。ここからは、弥谷寺が「上の村組」の重要な宗教的センターの役割を担っていたことが分かります。弥谷寺は、藩の保護を受けた特別なお寺と地元では認識されるようになります。ちなみに、この転読には弥谷寺のほかに、宝城院・長寿院・牛額寺・萬福寺・吉祥寺ら11人の僧が参加しています。その頂点に立つのが弥谷寺住職ということを目に見える形で、地元の人たちに知らしめる機会にもなります。
それから半世紀近く経った文化12年(1815)に、弥谷寺と道隆寺へ御紋幕が下賜されています。
その下賜理由は、次のように記されています。(要約)
「昨年秋の旱魃では、多度津領内は「一統困窮」した。そこで今年の夏は「五穀成就 民安全の御祈祷」を命じた。その結果、秋には領内全体に「作り方宜しく 村々より冥加米等献上」されている。これを祝して紋幕一対を下賜するので今後も、「五穀成就 民安全の祈念」をするように」とのことであった。
文化12年10月「御紋幕御寄附之控」、文書2-106-3=裏竃.

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本山寺の善如龍王(男神像)
幕末の頃には「雨乞執行(祈祷)」が弥谷寺で行われています。
丸亀藩が日照りの時に、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。また、三野郡の威徳院(高瀬町)や本山寺(豊中町)では、善女龍王信仰による雨乞祈願が早くから行われていたことは、以前にお話ししました。それを見て多度津藩でも幕末になると「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。この時の雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。
 また年は分かりませんが18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にありますので、この頃のことのようです。
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生駒一正のものとされる五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておくと次のようになります
①弥谷寺は中世は、高野聖などの念仏僧によって阿弥陀浄土信仰の拠点となっていた。
②そのために周辺の有力な信者たちが磨崖五輪塔を建立し、納骨するなど慰霊の聖地となった。
③守護代の香川氏は天霧城を拠点とすると、弥谷寺を菩提寺として、西院周辺に墓域を設け五輪塔を造立し続けた
④戦国時代末に藩主としてやってきた生駒氏も、ここに五輪塔を造立するとともに、弥谷寺で作った五輪塔を墓碑として各地の寺院に造立した
⑤丸亀藩主の山崎氏も本堂の西側に、藩主のものを含めて五輪塔3基を造立した。
⑥18世紀になると香川氏・生駒氏・山崎氏の墓標がならぶ弥谷寺境内に、それに習うかのように周辺の有力者が墓標を造立するようになる。
⑦境内に墓標を建てた有力者は、弥谷寺の保護者となり寺院経営に協力していくことになった。

それが本堂改築の資金調達であったり、以前にお話した金剛拳菩薩建立のための資金調達であったようです。
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金剛拳菩薩(弥谷寺)
このように弥谷寺は多度津藩の有力寺院として公的な行事を行う中で寺格を上げていきます。同時に後継者決定には、大庄屋や庄屋たちを関わらせることで、地域の有力者の寺院経営への参加意識を高め、伽藍整備に関わる資金調達をスムーズに行うシステムを作り上げていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  木原博幸  近世の弥谷寺と地域社会  弥谷寺調査報告書
                                                      


P1120835
弥谷寺の磨崖五輪塔 岩壁の中程に並ぶ
弥谷寺は境内の岩壁に数多くの磨崖五輪塔や磨崖仏が刻まれて独特の雰囲気を生み出しています。また、石仏、五輪塔、墓標などが境内のあちらこちらに数多く見られます。一方で弥谷寺は境内に、石切場が中世にはあったと研究者は考えています。つまり、石造物の設置場所と生産地の2つの顔を弥谷寺は持つようです。これまで中世に瀬戸内海で流通していた石造物は豊島石製と考えられてきました。それが近年になって天霧石製であることが明らかにされました。天霧石の採石場があったのが弥谷寺と研究者は考えているようです。
 弥谷寺の石造物については、いつ、何のために、だれによって造られたのかについて、系統的に説明した文章になかなか出会えませんでした。そんな中で弥谷寺石造物の時代区分について書かれた「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」に出会えました。これをテキストに弥谷寺の石造物を見ていくことにします。
 研究者は弥谷寺の石造物を次のような6期に時期区分します。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地に天霧石の五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所に石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半)外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が設置
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
今回はⅠ期の「平安時代末期~南北朝時代(12世紀後半~14世紀)」の弥谷寺の石造物を見ていきます。
この時期は磨崖仏、磨崖五輪塔が中心で、石造物はほとんど造られていません。
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本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

磨崖仏として最初に登場するのは、本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏です。この仏は凝灰岩の壁面に陽刻され、舟形光背を背後に持ちます。今は下半身は分からないほど表面は、はがれ落ちています。

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         本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏

中央と左像は像下に蓮華坐が見られます。中央像はよく見ると肉系と二定印が見えるので、阿弥陀如来像とされます。左脇侍は観世音菩薩像、右脇侍は勢至菩薩像で、鎌倉時代末のものと研究者は考えています。
南無阿弥陀仏の六字名号
弥谷寺では阿弥陀三尊像に向って右に二枠、 左に一枠を削り、南無阿弥陀仏が陰刻されています。それは枠の上下約2.7m、横約3mの正方形に近い縁どりをし、その中に「南無阿弥陀仏」六号の名号を明確に三句づつ ならべたもので、3×3で9つあります。これが「九品の阿弥陀仏」を現すようです。

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南無阿弥陀仏の六字名号が彫られていたスペース
 今は表面の磨滅が進み今ではほとんど読み取れず、空白のスペースのように見えます。
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀如来三尊磨崖仏(弥谷寺)左右のスペースに南無阿弥陀仏がかすかに見える

約110年ほどの1910年に撮られた写真を見ると、九品の「南無阿弥陀」が阿弥陀如来の左右の空間にはあったことが分かります。仏前この空間が極楽往生を祈る神聖な場所で、この周辺に磨崖五輪塔が彫られ、その穴に骨が埋葬されていました。

弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の下に書かれた南無阿弥陀仏(金毘羅名所図会)


弥谷寺 磨崖仏分布図
弥谷寺の磨崖仏分布図
 次に古い磨崖仏があるのは、現在の大師堂にある獅子窟です。
弥谷寺 大師堂入り口
大師堂入口から見える獅子の岩屋の丸窓

獅子窟は大師堂の奥にあります。凝灰角礫岩を刳り抜いて石室が造られています。もともとは屋根はなかったのでしょう。獅子が口を開いて吠えているように見えるので、獅子窟と呼ばれていたようです。
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大師堂の中をぐるりと廻って獅子の岩屋へ
弥谷寺 獅子の岩屋2
獅子の岩屋(弥谷寺大師堂)
獅子窟の奥には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が東壁と北壁の2ヶ所の小区画内に陽刻されています。
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壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。
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一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 一番手前は弘法大師

側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。
弥谷寺 獅子の岩屋 大日如来磨崖仏
従来は大日如来とされた磨崖仏(弥谷寺)

ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、地蔵菩薩の可能性が高いと研究者は指摘します。そうだとすると阿弥陀如来と地蔵菩薩という仏像の組合せと配置は特異で、独自色があります。「九品の浄土」と同じく「阿弥陀=念仏信仰」の聖地であったことになります。
 どちらにしても獅子窟の磨崖仏は、表面の風化と 護摩焚きが行われて続けたために石室の内部は黒く煤けて、素人にはよく分かりません。風化が進んでいるので年代の判断は難しいようですが、これらの磨崖仏は、平安時代末期~鎌倉時代のものと研究者は考えているようです。ここで押さえておきたいのは、最初に弥谷寺で彫りだされた仏は、阿弥陀如来と地蔵菩薩であるということです。
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護摩堂内部 一番左に安置されているのが道範像
どうして、弥谷寺に最初に造られたのが阿弥陀如来なのでしょうか?
任治4年(1243)に讃岐国に流された高野山のエリート僧侶で念仏僧でもある道範は、宝治2年(1248)2月に「善通寺大師御誕所之草庵」で『行法肝葉抄』を著しています。その下巻奥書には「是依弥谷上人之勧進、以諸国決之‐楚忽注之」とあります。

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道範像(弥谷寺護摩堂)
ここからこの書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたものであることが分かります。これが「弥谷」が史料に出てくる最初のようです。「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修者や聖のような宗教者の一人と研究者は考えます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)
 阿弥陀三尊の磨崖仏が弥谷寺に姿を現すのは鎌倉時代のことです。
元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印による「剣御山爾谷寺略縁起」には、阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が、「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。
弥谷寺 九品来迎図jpg

「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという死生観です。そのため、印相を変えた9つの阿弥陀仏が必要になります。本堂東の水場のエリアも、「九品の浄土」して阿弥陀如来が彫られ、「南無阿弥陀仏」の六文字名号が9つ彫られます。ここから感じられるのは、強烈な阿弥陀=浄土信仰です。中世の弥谷寺は阿弥陀信仰の聖地だったことがうかがえます。
それを支えたのは高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引します。さらにその中の富者を、高野山へと誘うのです。

 中世の弥谷寺には、いくつもの子院があったことは、前回お話ししました。

弥谷寺 八丁目大師堂
子院アト(跡)が参道沿いにいくつも記されている
天保15年(1844)の「讃岐剣御山弥谷寺全図」には跡地として、遍明院・安養院・和光院・青木院・巧徳院・龍花院が書き込まれています。それら子院のいくつかは、中世後期には修験者や念仏僧の活動拠点となっていたはずです。それが近世初頭には淘汰され、姿を消して行きます。それが、どうしてなのか今の私にはよく分かりません。
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磨崖五輪塔(弥谷寺)

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は、次のように記します。
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

山中の磨崖一面には、どこにも仏像が彫られていたことが分かります。
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磨崖に彫られたキリク文字
その30年後に、訪れた元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)は、次のように記します。
「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」
意訳しておくと
 水場の当たりの磨崖には、キリク文字や南無阿弥陀仏の六字名号が彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が彫られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、弥谷寺はおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた阿弥陀=浄土信仰の「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った宗教者の活動の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
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苔むした磨崖五輪塔(弥谷寺)
次に弥谷寺の磨崖五輪塔を見てみましょう。  磨崖五輪塔は何のために作られたのでしょうか。
五輪塔は死者の慰霊のために建立されますが、磨崖五輪塔も同じ目的だったようです。 弥谷寺の五輪塔は、空、風、火、水、地がくっきりと陽刻されています。そして地輪の正面に横20 cm前後、上下約25 cm 、深さ15 cm 程の 矩形の穴が掘られています。水輪にもこのような穴があけらたものもあります。この穴は死者の爪や遺髪を紙に包んで六文銭と一緒に納めて葬られたと伝えられます。このため納骨五輪塔とも呼ばれたようです。

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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔 奉納孔が開けられている

弥谷寺の磨崖五輪塔は、次の3ケ所の岩や磨崖に集中しています。
①仁王門から法雲橋付近の「賽の河原」
②大師堂付近
③水場から本堂付近
③については、今まで説明してきたように、「九品の浄土」とされる聖なる空間で、阿弥陀三尊が見守ってくれます。ここが五輪塔を作るには「一等地」だったと推測できます。
②については、先述したように大師堂は獅子窟があるところです。ここも弥谷寺の2番目の「聖地」(?)と私は考えています。そこに、多くの磨崖五輪塔が作られたのも納得いきます。
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レーザー撮影で浮かび上がる磨崖五輪塔(弥谷寺)
①の法雲橋付近に多いのは、どうしてなのでしょうか? 
 弥谷寺では、灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきたようです。
弥谷寺の『西院河原地蔵和讃』には、次のように謡われています。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き
このエリアには、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると 説きます。そのために、このエリアにも早くからに五輪塔が掘り込まれたようです。

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潅頂川にかかる伝雲橋近くに彫られた磨崖五輪塔

 弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが、伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
 大山と弥谷寺では、同じように阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役です。「さいの河原」に石を積むように、磨崖五輪塔を造立することも積善行為で、先祖供養だったと私は考えています。
 この教えを広げたのは修験者や高野聖たちだったようです。弥谷寺は時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたともいえそうです。当寺の高野山は、一山が時宗化した状態にあったことは以前にお話ししました。慰霊のために磨崖五輪塔が作られてのは、弥谷寺の聖地ベスト3のエリアであったとしておきます。

弥谷寺 磨崖五輪塔
弥谷寺の磨崖五輪塔の変遷
 弥谷寺磨崖五輪塔の初期のものは、空輪の形からは平安時代末~鎌倉時代中期のものと想定されます。しかし、軒厚で強く反る火輪を加味すれば平安時代末まで遡らせることは難しいと研究者は考えているようです。結論として、弥谷寺の磨崖五輪塔は鎌倉時代中期のもので、三豊地域ではもっとも古いものとされます。

弥谷寺 五輪塔の変化
火輪は軒の下端部が反るものから直線的なものに変遷していく。(赤線が軒反り)

 磨崖五輪塔は、多くが作られたのは鎌倉時代中期から南北朝時代です。室町時代になるとぷっつりと作られなくなります。磨崖五輪塔の終焉がⅠ期とⅡ期を分けることになると研究者は考えています。そして、 磨崖五輪塔が作られなくなったのと入れ替わるように石造物製作が始まります。 それがⅡ期(15世紀~16世紀後半)の始まりにもなるようです。ここまで見てきて私が感じることは、「弘法大師伝説」はこの時期の弥谷寺には感じられないことです。「弥谷寺は弘法大師の学問の地」と言われますが、弘法大師伝説はここでも近世になって「阿弥陀=念仏信仰」の上に接ぎ木されたようです。
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潅頂川の賽の河原に彫られた磨崖五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておきます。
①鎌倉時代に、弥谷寺の磨崖に仏像や五輪塔が彫られるようになった。
②磨崖仏は阿弥陀仏と地蔵菩薩がほとんどで、磨崖五輪塔は納骨穴があり慰霊のためのものであった。
③その背景には、「念仏=阿弥陀=浄土」信仰を広めた高野聖たちの布教活動があった。
④高野聖は弥谷寺を拠点に、周辺郷村に念仏信仰を広め念仏講を組織し、弥谷寺に誘引した。
⑤富裕な信者たちは弥谷寺の「聖地」周辺に、争うように磨崖五輪塔を造るようになった。
⑥弥谷寺は慰霊の聖地であり、高野聖たちは富裕層を高野山へと誘引した。
⑦こうして弥谷寺と高野山との間には、いろいろなルートでの交流が行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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弥谷寺下の八丁目大師堂
本山寺から弥谷寺への遍路道の最後の上り坂に八丁目大師堂があります。この大師堂には、台座裏面には寛政10年(1798)の墨書銘がある弘法大師坐像が安置されています。

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八丁目大師堂の弘法大師座像

坐像が造られた18世紀末と云えば前回お話ししたように、弥谷寺が参拝客誘致のために周辺の遍路道を整備し、接待所を設け、そこに大地蔵などのモニュメントを設置していた時期とかなさります。「弥谷寺周辺整備計画」の一環として大師堂が建立され坐像が安置されたようです。
弥谷寺 遍路道
大師堂付近は「大門」の地名が残る

 私が気になるのは、この大師堂一体に「大門(だいもん)」の小字名が残っていることです。かつての弥谷寺の大門がこのあたりにあったと伝えられています。そうだとすれば当時の弥谷寺境内は、このあたりから始まっていたことになります。さらに、この坂を県道まで下りていった辺りは「寺地」と呼ばれています。弥谷寺の寺領と考えられます。明治の神仏分離に続く寺領没収以前には、、かなり広い範囲を弥谷寺は有していたようです。
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八丁目大師堂からの遍路道
今回は、弥谷寺の八丁目大師堂付近にあったという大門について探ってみたいと思います。テキストは「弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会」です。P1150049
八丁目大師堂より上の道 かつては両側に子院が並んでいた
『多度津公御領分寺社縁起』(明和6年(1769)には、次のように記されています。
「上古は南之麓に大門御座候て、仁王之尊像を安鎮仕候故、深尾より祈祷地への通ひ道を仁王道と申し候、然る所寛永年中(1624~1643) 大門致大破候故、仁王之尊像をは納涼坊へ移置候、於干今大門之旧跡御座候て、其所をは大門と名つけ、礎石等相残居申候、先師達、大門之営興之念願御座候得共、時節到来不仕候、其内有澤法印延宝九年(1681)、先中門に再建仕候て二王像を借て本尊と仕候て、諸人誤て仁王門と申候得共、実は中門にて御座候、往古は中門に大師御作之多聞・持国を安鎮仕候、其二天は今奥院に有之候」

意訳変換しておくと
「昔は南の麓に大門があり、そこに仁王尊像を安置していたので、深尾より祈祷地への道を仁王道と呼んでいた。ところが寛永年中(1624~1643)に大門が大破し、仁王像は納涼坊へ移された。以後は大門跡なので、大門と呼んでいた。礎石などは残っていたので、先師達は、いつか大門再建を願っていたが、その機会は来なかった。そうしている内に、有澤法印が延宝九年(1681)、先に中門を再建し、二王像を向かえて本尊とした。そのため人々は、誤ってここを仁王門と呼ぶようになった。実はここは中門で、往古は大師御作とされる多聞・持国天が安置されていた。その二天は今は奥院におさめられている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①本来の大門には二王像が安置されていたので仁王門と呼ばれていたが寛永年間に大破したこと、
②大門はそれ以降再建しておらず、「大門」の地名だけが残ったこと
②中門が再建され「仁王像」が安置されたので、「中門」が仁王門と呼ばれるようになったこと。

それでは大門はどこにあったのでしょうか。
 「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には「大門跡」が描かれています。

弥谷寺全図(1844年)2
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)

この絵図が書かれた時期の金毘羅さんを見ると、丸亀や多度津に新港が整備され金比羅参拝客が激増します。その機運の中で3万両と資金を集め、巨大な金堂(現旭社)が完成間近になっていました。それに併せるように石段や玉垣なども整備され、芝居小屋も姿を見せるなど、参拝客はうなぎ登りの状態でした。そのような中で当寺の弥谷寺の住職も、金毘羅詣での客を自分の寺にどのように誘引するかを考えたようです。それが前回お話しした曼荼羅寺道の整備であり、伊予街道分岐点近くの碑殿上池への接待所設置であり、ここを初地(スタート)とするシンボルモニュメントである初地地蔵菩薩の建立でした。

弥谷寺 初地菩薩
初地菩薩(現在の碑殿上池の大地蔵)からの曼荼羅寺道
そしてゴールの弥谷寺境内には現在の金剛拳菩薩が姿を現し、その前には二天門が新たに建立されたことは前回お話ししました。

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ゴールの金剛拳菩薩(建立当初は大日菩薩)
 そして、この絵図を見るといくつもの堂宇が山の中に建ち並んでいる姿が見えます。18世紀末から整備されてきた弥谷寺のひとつの到達点を描いた絵図とも云えます。金毘羅詣でを終えて、善通寺から弥谷寺にやってきた参拝客もこの伽藍を見て驚き満足したようです。善通寺よりも伽藍に対する満足度は高かったと言われます。
 さて本題にもどります。大門跡付近を拡大してみましょう。

弥谷寺 八丁目大師堂
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)の大門跡付近拡大

絵図の右下隅に「南入口」とあり「是ヨリ/本堂へ八丁」とあります。その先に「大門跡」の立札があります。「是ヨリ/本堂へ八丁」とあるので、八丁目大師堂のあたりに大門があったことが裏付けられます。ちなみに大門跡前の坂道を参拝客が登る姿が描かれています。その下の参道左側にお堂が描かれています。これが現在の「八丁目大師堂」の前身だと研究者は推測します。その根拠は「八丁目大師堂」の弘法大師坐像の台座裏面に記された寛政10年(1798)の墨書銘です。この坐像が安置された大師堂も、同時期に建立されたはずです。それから約50年後の天保15(1844)年の「讃岐剣御山弥谷寺全図」に、「八丁目大師堂」が描かれていても不思議ではありません。現在の大師堂も参道の左側にあります。ここに描かれた建物が現在の八丁目大師堂だとすると、大門はその青木院跡前の参道の右側付近にあったことになります。

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八丁目大師堂から上の参道 子院が並んでいた周辺

この絵図を見ていて私が驚いたのは、参道両側に仁王門に至るまでいくつもの「院房アト(跡)」が記されていることです。ここからは、これだけの僧侶が弥谷寺を中心に活動していたことが分かります。その中には修験者や高野聖・念仏僧などもいたはずです。彼らが周辺の郷村に、念仏講を組織し、念仏阿弥陀信仰を広めていたことが推測できます。彼らは村の鎮守祭礼のプロデュースも果たすようになります。そして、都で流行していた風流踊りや念仏踊りを死者を迎える盆踊りとして伝え広めていきます。
 その成果として弥谷寺に建てられているのが、仁王門の上に建っている「船墓(ハカ)」です。
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仁王門上に建つ船ハカ
この船形の石造物は、今は摩耗してかすかに五輪塔が見えるだけです。
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しかし、この絵図には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたことが分かります。これは念仏阿弥陀信仰の記念碑であることは以前にお話ししました。
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船ハカ(レーザー撮影版)左に五輪塔が浮かび上がる
これを建てる念仏阿弥陀信仰者の講があり、それを組織した念仏僧が弥谷寺にいたことが分かります。今は弥谷寺は四国霊場の札所で空海の学問所とされています。しかし、中世には郷村へ念仏阿弥陀信仰を広める拠点で、人々は磨崖に五輪塔を彫り、そこに舎利をおさめ念仏往生を願ったのです。この寺の各所に残る磨崖五輪塔は、その慰霊のモニュメントだったようです。そこに近世になって弘法大師伝説が「接ぎ木」されたことになります。

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本堂横の磨崖に彫られた五輪塔 穴にはお骨がおさめられた
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    弥谷寺・曼荼羅寺道調査報告書2013年 香川県教育委員会
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香川氏発給文書一覧
香川氏発給文書一覧 帰来秋山氏文書は4通

高瀬町史の編纂過程で、新たな中世文書が見つかっています。それが「帰来秋山家文書」と云われる香川氏が発給した4通の文書です。その内の2通は、永禄6(1563)年のものです。この年は、以前にお話したように、実際に天霧城攻防戦があり、香川氏が退城に至った年と考えられるようになっています。この時の三好軍との「財田合戦」の感状のようです。
 残りの2通は、12年後の天正5年に香川信景が発給した物です。これは、それまでの帰来秋山氏へ従来認められていた土地の安堵と新恩を認めたものです。今回は、この4通の帰来秋山家文書を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 帰来秋山家文書は、四国中央市の秋山実氏が保管していたものです。
 帰来秋山家に伝わる由緒書によると、先祖は甲斐から阿願人道秋山左兵衛が讃岐国三野郡高瀬郷に来住したと伝えていています。これは、秋山惣領家と同じ内容です。どこかで、惣領家から分かれた分家のようです。
 天正5(1577)年2月に香川信景に仕え、信景から知行を与えられたこと、その感状二通を所持していたことが記されています。文書Cの文書中に「数年之牢々」とあり、由緒書と伝来文書の内容が一致します。
 秀吉の四国平定で、長宗我部元親と共に香川氏も土佐に去ると、帰来秋山家は、讃岐から伊予宇摩郡へ移り、後に安芸の福島正則に仕えます。しかし、福島家が取り潰しになると、宇摩郡豊円村へ帰住し、享保14年(1729)に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至ったようです。由緒書に4通の書状を香川氏から賜ったとありますが、それが残された文書のようです。帰来秋山一族が、天正年間に伊予へ移り住んだことは確かなようです。伝来がはっきりした文書で、信頼性も高いこと研究者は判断します。
 それでは、帰来秋山家文書(ABCD)について見ていきましょう。
まずは、財田合戦の感状2通です。
A 香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
 一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
 一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来(秋山)善五郎とのヘ
ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること
永禄6年に天霧城をめぐって大きな合戦があって、香川氏が城を脱出していることが三野文書史料から分かるようになっています。この文書は、一連の天霧城攻防戦の中での戦いを伝える史料になるようです。
B 香川之景・同五郎次郎連書状    (香川氏発給文書一覧NO11)
去十七日於才田(財田)合戦、被疵無比類働忠節之至神妙候、弥共心懸肝要候、謹言、
三月二十日                            五郎次郎(花押)
     之  景 (花押)
帰来善五郎とのヘ
文書Aとほとんど同内容ですが、日付3月20日になっています。3月17日に、またも財田で戦闘があったことが分かります。冬から春にかけて財田方面で戦闘が続き、そこに帰来善五郎が従軍し、軍功を挙げています。

文書Bと同日に、次の文書が三野氏にも出されています。 (香川氏発給文書一覧NO12)
去十七日才田(財田)合戦二無比類□神妙存候、弥其心懸肝要候、恐々謹言、
三月二十日                    五郎次郎(花押)
    之  景 (花押)
三野□□衛門尉殿
進之候
発給が文書Bと同日付けで、「去十七日才(財)田合戦」とあるので、3月17日の財田合戦での三野氏宛の感状のようです。二つの文書を比べて見ると、内容はほとんど同じですが、文書Aの帰来(秋山)善五郎宛は、書止文言が「謹言」、宛名が「とのへ」です。それに対して、文書Bの三野勘左衛門尉宛は「恐々謹吾」「進之」です。これは文書Aの方が、「はるかに見下した形式」だと研究者は指摘します。三野勘左衛門尉は香川氏の重臣です。それに対して、帰来善五郎は家臣的なあつかいだと研究者は指摘します。帰来氏は、秋山氏の分家の立場です。単なる軍団の一員の地位なのです。香川氏の当主から見れば、重臣の三野氏と比べると「格差」が出るのは当然のようです。
 この冬から春の合戦の中で、香川氏は大敗し天霧城からの脱出を余儀なくされます。そして香川信景が当主となり、毛利氏の支援を受けて香川氏は再興されます。

文書C  (香川氏発給文書一覧NO16)は、その香川信景の初見文書にもなるようです。讃岐帰国後の早い時点で出されたと考えられます。
C 香川信景知行宛行状
秋山源太夫事、数年之牢々相屈無緩、別而令辛労候、誠神妙之や無比類候、乃三野郡高瀬之郷之内帰来分同所出羽守知行分、令扶持之候 田畑之目録等有別紙 弥無油断奉公肝要候、此旨可申渡候也、謹言、
天正五 二月十三日                       信 景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
秋山源太夫について、この数年は牢々相屈無緩で、辛労であったが、誠に神妙無比な勤めであった。そこで三野郡高瀬之郷之内の帰来分の出羽守知行分を扶持として与える。具体的な田畑之目録については別紙の通りである。油断なく奉公することが肝要であることを、申し伝えるように、謹言、
天正五 二月十三日                       (香川)信景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
この史料からは次のようなことが分かります。
①天正5年2月付けの12年ぶりに出てくる香川氏発給文書で、香川信景が初めて登場する文書であること
②秋山源太夫の数年来の「牢々相屈無緩、別而令辛労」に報いて、高瀬郷帰来の土地を扶持としてあたえたこと
③直接に秋山源太夫に宛てたものではなく三野菊右衛文尉に、(秋山)源太夫に対して知行を宛行うことを伝えたものであること
④「田畠之目録等有別紙」とあるので、「別紙目録」が添付されていたこと
 香川氏が12年間の亡命を終えて帰還し、その間の「香川氏帰国運動」の功績として、秋山源太夫へ扶持給付が行われたようです。「牢々相屈無緩、別而令辛労」からは、秋山源太夫も、天霧城落城以後は流亡生活を送っていたことがうかがえます。
これを裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2
 6月12日,足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
 8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
 9・17 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川氏の帰国支援に動いていたことがうかがえます。
 
文書Cで給付された土地の「別紙目録」が文書D(香川氏発給文書一覧NO10)になります。
D 香川信景知行日録
一 信景(花押) 御扶持所々目録之事
一所 帰来分同五郎分
   帰来分之内散在之事 後与次郎かヽへ八反田畠
   近藤七郎左衛門尉当知行分四反反田畠
   高瀬常高買徳三反大田畑  出羽方買徳弐反
   真鍋一郎大夫買徳一町半田畑
以上 十拾八貫之内山野ちり地沽脚之知共ニ
一所  ①竹田八反真鍋一郎太夫買徳 是ハ出羽方之内也、最前帰来分江御そへ候て御扶持也
一所 出羽方七拾五貫文之内五拾貫文分七反三崎分
右之内ぬけ申分、水田分江四分一分水山河共ニ三野方へ壱町三反 なかのへの盛国はいとく分
此外②武田八反俊弘名七反半、此分ぬけ申候て、残而五拾貫文分也、又俊弘名七反半真鍋一郎太夫買徳、
但これハ五拾貫文之外也
以上
天正五(1577)年二月十三日         
             秋山帰来源太夫 親安(花押)

 研究者が注目するのは、この文書の末尾に「秋山帰来源太夫」とあるところです。
秋山家文書の中にも「帰来善五郎」は出てきますが、それが何者かは分かりませんでした。この帰来秋山文書の発見によって、帰来善五郎は秋山一族であることが明らかになりました。善五郎が源太夫の先代と推測できます。伊予秋山氏は帰来秋山家の末裔といえるようです。
三野町大見地名1
三野湾海岸線(実線)の中世復元 竹田は現在の大見地区
帰来秋山氏は、どこに館を構えていたのでしょうか。
①②の「竹田」「武田」は、現在の三野町大見の竹田と研究者は考えています。 秋山家文書の泰忠の置文(遺産相続状)には、大見にあった秋山氏惣領家の名田が次のように出てきます。
あるいハ ミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハ なか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハ とくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは 一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハ のふとしミやう (あるいは延利名)
又ハ   もりとしミやう (又は守利名)
又は   たけかねミやう (又は竹包名)、
又ハ   ならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」

多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。このような名田を泰忠から相続した分家のひとつが帰来秋山家なのかもしれません。
秋山氏 大見竹田
帰来秋山氏の拠点があった竹田集落

③の「帰来分」は帰来という地名(竹田の近くの小字名)です。
ここからは帰来秋山氏の居館が、本門寺の東にあたる竹田の帰来周辺にあったことが分かります。そのために帰来秋山氏と呼ばれるようになったのでしょう。ここで、疑問になるのはそれなら秋山惣領家の領地はどこにいってしまったのかということです。それは後に考えるとして先に進みます。

もう一度、史料を見返すと帰来分内の土地は、真鍋一郎へ売却されていたことが分かります。それが全て善五郎へ、宛行われています。もともとは、帰来秋山氏のものを真鍋氏が買徳(買収)していたようです。真鍋氏は、これ以外に秋山家惣領家の源太郎からも多くの土地を買っています。
 どうして秋山氏は所領を手放したのでしょうか?
 以前にお話したように、秋山氏は一族が分裂し、勢力が衰退していったことが残された文書からは分かります。それに対して、多度津を拠点とする守護代香川氏は、瀬戸内海交易の富を背景に戦国大名化の道を着々と歩みます。香川氏の台頭により、三野郡での秋山氏の勢力衰退が見られ、 一族が分裂するなどして所領が押領されていった可能性があると研究者は考えているようです。
 戦国期末期には、秋山一族は経済的には困窮していて、追い詰められていたようです。それだけに合戦で一働きして、失った土地を取り返したいという気持ちが強かったのかもしれません。同時に、秋山氏から「買徳」で土地を集積している真鍋氏の存在が気になります。「秋山氏にかわる国人」と研究者は考えているようです。


讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図 大見はかつては下高瀬郷の一部であった
 帰来秋山文書の発見で分かったことをまとめておきます。
讃岐秋山氏の実質的な祖となる3代目秋山泰忠は、父から下高瀬の守護職を継ぎました。ここからはもともとの秋山氏のテリトリーは、本門寺から大見にいたるエリアであったことがうかがえます。それが次第に熊岡・上高野といった三野湾西方へ所領を拡大していきます。新たに所領とした熊岡・上高野を秋山総領家は所領としていたようです。今までは、下高瀬郷が秋山家の基盤、そこを惣領家が所有し、新たに獲得した地域を一族の分家が管理したと考えられていました。しかし、大見の竹田周辺には帰来秋山氏がいました。庶家の帰来秋山氏は下高瀬郷に居住し、在地の名を取って帰来氏と称していました。もともとは、下高瀬郷域は惣領家の所領でした。分割相続と、その後の惣領家の交代の結果かもしれません。
 
 永禄年間の三好氏の西讃岐侵攻で、秋山氏の立場は大きく変わっていきます。そこには秋山氏が香川氏の家臣団に組み込まれていく姿が見えてきます。その過程を推測すると次のようなストーリーになります。
①永禄6(1563)年の天霧城籠城戦を境にして、秋山氏は没落の一途をたどり 一族も離散し、帰来秋山源太夫も流亡生活へ
②香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命し、之景から信景に家督移動
③香川信景のもとで家臣団が再編成され、その支配下に秋山氏は組み入れられていく。
④毛利氏の備讃瀬戸制海権制圧のための讃岐遠征として戦われた元吉合戦を契機に、毛利氏の支援を受けて、香川氏の帰国が実現
⑤三好勢力の衰退と長宗我部元親の阿波侵入により、香川氏の勢力は急速に整備拡大。
 この時期に先ほど見た帰来秋山家文書CDは、香川信景によって発給され、秋山源太夫に以前の所領が安堵されたようです。香川氏による家臣統制が進む中で、那珂郡や三野・豊田郡の国人勢力は、香川氏に付くか、今まで通り阿波三好氏に付くかの選択を迫られることになります。三好方に付いたと考えられる武将達を挙げて見ます
①長尾氏 西長尾 (まんのう町)
②本目・新目氏  (まんのう町(旧仲南町)
③麻近藤氏 (三豊市 高瀬町麻)
④二宮近藤氏   (三豊市山本町神田) 
これらの国人武将は、三好方に付いていたために土佐勢に攻撃をうけることになります。一方、香川信景は土佐勢の讃岐侵入以前に長宗我部元親と「不戦条約」を結んでいたと私は考えています。そのため香川氏の配下の武将達は、土佐軍の攻撃を受けていません。本山寺や観音寺の本堂が焼かれずに残っているのは、そこが香川方の武将の支配エリアであったためと私は考えています。

  帰来秋山家文書から分かったことをまとめておきます。
①帰来秋山家は、三豊市三野町大見の竹田の小字名「帰来」を拠点としていた秋山氏の一族である。
②香川氏が長宗我部元親とともに土佐に撤退して後に、福島正則に仕えたりした。
③その後18世紀初頭に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至った
④帰来秋山家には、香川氏発給の4つの文書が残っている。
⑤その内の2通は、1563年前後に三好軍と戦われた財田合戦での軍功が記されている。
⑥ここからは、帰来秋山氏が香川氏に従軍し、その家臣団に組織化されていたことがうかがえる。
⑦残りの2通は、12年後の天正年間のもので、亡命先の安芸から帰国した香川信景によって、香川家が再興され、帰来秋山氏に従来の扶持を安堵する内容である。
こうして、帰来秋山家は従来の大見竹田の領地を安堵され、それまでの流亡生活に終止符を打つことになります。そして、香川氏が長宗我部元親と同盟し、讃岐平定戦を行うことになると、その先兵として活躍しています。新たな「新恩」を得たのかどうかは分かりません。
 しかし、それもつかの間のことで秀吉の四国平定で、香川氏は長宗我部元親とともに土佐に退きます。残された秋山家は、どうなったのでしょうか。帰来秋山家については、先ほど述べた通りです。安芸の福島正則に仕官できたのもつかぬ間のことで、後には伊予で帰農して庄屋を務めていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
       「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城でした。

また初めて宮城の建物屋瓦を葺いたことで も知られています。宮城の建物を瓦葺するためには、古代寺院の数十倍の屋瓦が必要になります。しかも、寺院のように着工から落慶法要までに何十年というわけにはいきません。短期間に生産する必要があります。
 その問題を解決するために取られてのが、地方に新たに最新鋭の瓦工場を作って、そこから舟で貢納させるという手法です。この手法は、どのようにすすめられたのか。またこの手法に従って、どのように宗吉瓦窯は新設されたのかを見ていきたいと思います
宗吉瓦窯 藤原京

藤原宮から出土した瓦は、製作技法・使用粘土・瓦デザインの違いか ら次の15グループに分けられています。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地2
それを具体的に見ると
①大和盆地内では、日高山瓦窯、高 台 ・峰寺瓦窯、内 山 ・西 田中瓦窯、安養寺瓦窯、
②大和盆地外では、近江、讃岐三豊の宗吉瓦窯、讃岐東部、淡路の土生寺窯、和泉地域
 で生産して供給されたことが分かります。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地

この内の②の大和以外のグループの立地については次のような共通点があると研究者は考えているようです。
①国家的所領に立地する
②藤原宮へ舟で瓦を運べる条件がある
③中央で編成された造瓦技術者集団が派遣されている
この3つの条件が宗吉瓦窯に、当てはまるのかどうかを検討していきましょう。  
この絵は三野湾に隣接した7世紀末の宗吉瓦窯を描いた想像図です。
宗吉瓦窯 想像イラスト

十瓶山北麓の斜面にいくつもの登窯が作られ煙を上げています。ここでは当時建設中の藤原京の宮殿に使用する瓦を焼くために、フル稼働状態でした。この想像図に書き込まれている情報を読み取っていきましょう。斜面にはいくつもの登窯が見えますがよく見ると3グループに分かれています。
①北側裾部(右)に左から順番に1号から9号までの9基
②その南(中央)に、左から10号から16号までの6基
③南側(左) 17号から23号窯の6基
 が平行に整然ならんでいます。南に少し離れて11号窯があります。発掘の結果、このように23の大型瓦窯があったことが確認されました。まるで瓦工場のようです。
  その横を流れるのが高瀬川になります。
高瀬川は、すぐ北で海に流れ込んでいます。当時の三野湾は南に大きく湾曲していて、宗吉瓦窯の近くまで海が迫っていたようです。海に伸びる道の終点は何艘もの小型船が停泊しています。そこに積み上げられているのが瓦です。瓦は小型船で、沖に停泊する大型船に積み込まれます。そして、瀬戸内海を難波の港まで渡り、大和川を経て大和に入り、藤原京まで舟で搬入されたようです。藤原京には、工事用のための搬入運河が作られていたことが分かっています。

宗吉瓦窯 藤原京運河
藤原京と運河

 藤原京建設の進展具合を見てみましょう
天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 6 692 藤原の宮地の地鎮祭を行う
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
       天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける

藤原京の建設が進む7世紀末には、この宗吉瓦窯はフル稼働状態で、作られた瓦が舟で藤原京に貢納されていたようです。
宗吉瓦窯 窯内部写真

 発掘が行われた17号窯を見てみましょう。
一番南側の窯になります。山麓を掘り抜い た全長約13m、幅 約2m、高さ1,2~1,4mの大型で最新鋭の有段式瓦窯です。この瓦窯からは、平瓦、丸瓦とともに、軒丸瓦、軒平瓦、熨斗瓦などが出土しています。その工法は、粘土板技法によるもののようです。
 また、軒丸瓦は単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので、これは三豊市豊中町の妙音寺から出てきた瓦と同じ型から作られた「同笵瓦」です。

3妙音寺の瓦

また、一番北側の8号瓦窯からは重弧文軒平瓦、凸面布目平瓦などが出土しています。その中の軒瓦は、以前にもお話しした通り丸亀市郡家の宝幢寺池から出てきたものと同笵です。ここからは、この宗吉瓦窯で作られた瓦が三野郡の妙音寺や多度郡の仲村廃寺や善通寺、那珂郡の宝憧寺に提供されていたことがわかります。

さらに、17号や8号で周辺寺院への瓦が提供された後に、藤原京用の瓦を焼くために多くの窯が作られ、フル稼働状態になったことも分かってきました。今までの所を整理しておきます

宗吉瓦窯は
①讃岐在地の有力氏族の氏寺である妙音寺や宝幢寺の屋瓦を生産するための瓦窯として最初は登場
②その後、藤原宮所用瓦の生産を担うに多数の瓦窯を増設された。
 この想像図に書かれたような当時のハイテク最先端の瓦工場が、どのようにして三豊のこの地に作られるようになったのでしょうか?

讃岐三野湾周辺の歴史的背景をみておきましょう。
 宗吉瓦窯が設けられた三野津湾は、古代には大きく南に湾入していたようです。
1三豊の古墳地図

周辺の古墳時代後期の古墳としては、宗吉瓦窯の約西北1,5kmに汐木原古墳、大原古墳、金蔵古墳などがありますが、首長墓とされる前方後円墳は見当たりません。ここからは古墳時代の三豊湾には有力首長がいなかったことがうかがえます。
 ところが蘇我氏が台頭してくる6世紀後半代には、三豊湾の東岸に三野古窯群が操業を始め、窯業生産地を形成していきます。

三野平野2

三野古窯群の「殖産興業」を行った勢力は、何者なのでしょうか?
『 先代旧事本紀』の「天神本紀」に、三野物部のことが記され、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。これは、中央の物部氏が九州から瀬戸内海、河内の要所の港津を掌握していたことと深く関連すると研究者は考えているようです。
 つまり朝鮮半島や九州と最重要ルートである瀬戸内海の拠点として、物部氏の拠点が置かれていたと云うのです。それは、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって先ほど見た三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。しかし、物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
それでは、三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか?
敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)によって、蘇我蝦夷・入鹿が中大兄 皇子・中臣鎌足らに倒され、滅亡します。
 後に成立した養老律では、謀反などによる者の財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。
つまり三野湾一帯の所領は、次のように変遷したと考えます
①瀬戸内海交易の拠点として物部三野が支配
②物部氏が蘇我氏に倒された後は、蘇我氏の支配
③乙巳の変(645)以後は、天皇家の家産財産化(国家的な所領)
 このように7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が所在し、その周辺 に国家的な所領があったと想定できます。
この状況を先ほど見た瓦窯設置条件から見るとどうなのでしょうか。
①周辺に先行する須恵器生産地がある。
  ここからは瓦製造に必要な粘土があること、また須恵器生産を通じて養われたノウハウや技術者が蓄積されていたと考えられます。
②国家的所領があること
 これは、労働力を徴発したり動員できること、燃料の薪も入手できることを意味します。7世紀末の時点で、すでに三野湾東部では燃料となる木材は伐採が進み、山は次々と禿げ山になっていたようです。そのため伐採がすすんだエリアの窯を放棄して、須恵器窯は山の奥へ奥へと移動していきます。しかし、国家的な事業であれば周辺の山々の木材を伐採することができます。少々遠くても、三野郡の住人を動員すればいいと担当者は考えるでしょう。どちらにしても、薪は今までのエリアを越えて集めることが出来ます。燃料供給に問題はありません。
③物部氏が運用してきた港津がある
 これは舟で近畿と結びついていることを意味します。郷里は遠くとも大量の製品を舟で藤原京まで運べます。藤原京造営のため京城内部まで運河が掘られていたことが発掘からは分かっているようです。
 以上のような好条件があったことになります。
中央の政策立案者達は、中央の進んだ造瓦技術者集団を派遣し、地元の須恵器工人たちに技術指導を行うことで、新たな造瓦組織が編成できると考えたのでしょう。あとは、製造技術や管理集団です。
 それでは、藤原京造営計画の中心にいた人物とは誰なのでしょうか。
  研究者は、平城遷都が右大臣藤原不比等の計画によって進めたとしますが、それに先立つ藤原宮の造営でも不比等が第1候補に挙げられるようです。地方に技術者を送り込み、新設工場を設置して、運営は地元の有力豪族に委託するというやり方は不比等周辺で考えられたとしておきましょう。
1 讃岐古代瓦

この時期に窯業などの先端技術を持つ人たちは、渡来人でした。
 彼らの中には、新羅・唐の連合軍の侵攻の前に国を追われ、倭国にやってきた百済の技術者が数多くいたはずです。百済滅亡時には、先端技術を持った多くの渡来人達がやってきてます。真っ先に国を逃げ出し、政治的亡命を行うのは高位高官者に多いのは今でも同じなのかもしれません。
 どちらにしても、地方における古代寺院の建立を可能にしたものは、彼らの存在を抜きにしては考えられないでしょう。ハイテク技術を持った技術者は、最初は中央の有力者の氏寺の建立に関わります。

宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原時の古代瓦
それが川原寺であり、本薬師寺であったのでしょう。藤原不比等も氏寺の造営を行っているようです。中央で活躍していた技術者達に、地方への転勤命令が下されたのです。それは藤原京の瓦造りのためにでした。
  宗吉瓦窯にやってきたのは、大和の牧代瓦窯からやってきた瓦技術者だったと研究者は考えているようです。
なぜ、そんなことが分かるのでしょうか。それは、瓦のデザインの分析から分かるようです。
宗吉瓦窯 牧代瓦窯地図
研究者は次のように考えているようです。
①大和の2荒坂瓦窯は川原寺の屋瓦を生産した有段瓦窯で、当時の最新鋭の設備と技術者によって運営されていた
②2荒坂瓦窯は川原寺の瓦生産が終了すると、瓦技術者たちは近くの1牧代瓦窯に移って本薬師寺用の瓦生産に取りかかった。
③本薬師寺へ屋瓦を供給することが終了した段階で、牧代瓦窯の造瓦組織は解体されいくつかの小規模なグループに再編成された
④それは、藤原宮用の瓦生産を行うためで、各グループが地方に技術指導集団として派遣された。
⑤藤原宮用瓦の生産を行った讃岐、和泉、淡路の瓦工場は、互いに密接な関連もっていた。
①から②の移動は、燃料となる薪の木材を伐採しつくしたので、新たな場所に瓦窯を移したようです。それも含めると、瓦技術者集団は、つぎのように移動した研究者は考えているようです。

2荒坂瓦窯 → 1牧代瓦窯 → 小グループに再編され讃岐、和泉、淡路の瓦工場への派遣

この際に①や②で使われていた軒平瓦の版木デザインを、宗吉瓦窯の新工場にも持ってきて、それに基づいて忍冬唐草文の文様を書いたとします。こうして、大和から讃岐への瓦技術者の移動が明らかにされているようです。そのデザインの変化を見ておきましょう。

宗吉瓦窯 軒平瓦デザイン
牧代瓦窯6647Gに類似する文様には、讃岐東部産(長尾町)の6647Eと讃岐三豊の宗吉瓦窯6647Dがあります。3つの瓦は
①8回反転の変形忍冬唐草文で、
②半パルメット文様が特殊な形状をなし、
③右第1単位の右斜め上に三日月形の文様
 があります。
④半パルメット、渦巻形萼、蕾の表現からみて、
牧代瓦窯6647G→讃岐東部産6647E→半パ ルメットが全て上向きに表現する宗吉瓦窯6647Dの順にくずれていることを研究者は指摘します。(図5)。 
  ここからは讃岐で生産された藤原京用の平瓦のデザインは、大和の牧代瓦窯で働いていた技術者集団がもたらし、その指導の下に作られたことがうかがえます。

宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦窯の瓦 

再度確認しておきます。牧代瓦窯―本薬師寺系列の軒瓦は、
①本薬師寺の造瓦組織(最先端技術保有集団)を解体し
②和泉、淡路、讃岐東部、讃岐三豊産の宗吉瓦窯などへ派遣された造瓦技術者が
③粘土板技法によって藤原宮所用瓦の生産にかかわった
ということになります。
こうして新たな京城の宮殿瓦を焼く工場新設という使命を受けて、中央から技術者集団が三豊にもやってきたようです。
三野 宗吉遺2

彼らは、どのような基準で瓦工場の立地を決めたのでしょうか。
 古代も現在も瓦工場には、瓦に適した粘土・薪(燃料)・水・交通・労働力などが必要です。その中でも粘土と薪と水は、瓦つくりには必須です。まず粘土のある場所と、地下水などの水が豊富なこと、港に近く積み出しに便利なことなどが選定条件になります。それらを満たしていたことは、先ほどの復元図から読み取れます。
宗吉瓦窯 瓦運搬ルート

 薪は今までは伐採が許されなかったエリアから伐採が可能になったようです。庄内半島方面から切り出してきた形跡が見えます。薪の運搬ルートも考えて選ばれたのが十瓶山北麓の丘陵斜面である宗吉だったのでしょう。これは今まで、須恵器窯群があった三野湾東部ではなく、湾の南側になります。

1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
 労働力は
①薪の伐採・運搬
②粘土の掘り出し
③焼きあがりの瓦の運搬
④製造工程の職人
が考えられます。これらの管理・運営は担うことになったのが、地元の有力者である丸部氏(わにべのおみ)ではないのかというのは以前にお話ししました。
 讃岐国三野郡(評)丸部氏は、7世紀後半に都との深いつながりをもつ人物を輩出します。
天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手です。君手は、壬申の乱(672年)の際に美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーでした。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
出来事を並列的にとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(2)- : 発想法 - 情報処理と問題解決 -

 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、讃岐最初の古代寺院・妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と考えることができそうです。豊中町の妙音寺周辺に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 
ちなみに丸部氏が讃岐最初の氏寺である妙音寺を建立するのは、宗吉瓦窯工場新設の少し前になります。その経験を活かして隣の多度郡の佐伯氏の氏寺善通寺や那珂郡の宝憧寺(丸亀市郡家)造営に際しても、瓦を提供していることは先述したとおりです。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったようです。

 このような実績があったから藤原不比等から役人を通じて、次のような声がかかってきたのかもしれません。
新たに造営予定である藤原京の宮殿は、なんとしても瓦葺きにしたいとお上は思っている。板葺宮では、国際的な威信にもかかわる。そこで、新たな瓦工場の設置場所を選定している所じゃ。おぬしの所領の近くの三野湾周辺では、いい粘土が出るようじゃ。それを使って、須恵器も焼かれていると聞く。
 そこでじゃが先の壬申の乱の功績として、おぬしの実家の丸部氏に氏寺の建立を許す。完成すれば、讃岐で最初の寺院になろう。名誉な事じゃ。もちろん建立に必要な技術者達は、藤原不比等さまが派遣くださる。氏寺建設に必要な瓦窯を作って、そこで瓦を焼いてみよ。うまくいけば周辺の氏寺建設を希望する氏族にノウハウや瓦を提供することも許す。
 そうして出来上がった瓦の品質がよければ、藤原京用の瓦に採用しようというのじゃ。その時にはいくつもの窯が並んだ、今まで見たこともない規模の瓦屋(瓦窯)が三野湾に姿を現すことになろう。たのしみじゃのう。
 ちなみに大和国までは舟で運ぶことなる。その予行演習もやっておけば不比等さまは、ご安心なさるじゃろう。詳しいことは、瓦の専門家グループを派遣するので、彼らと協議しながら進めればよい。どうしゃ、悪い話ではないじゃろう。 
 という小説のような話があったかどうかは知りません。
現在の工場誘致のように丸部氏側が、不比等に請願を重ねて実現したというストーリーも考えられます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  
宗吉瓦窯 ポスター

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小笠原好彦    藤原宮の造営 と屋瓦生産地
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讃岐秋山氏の隆盛をもたらしたのは、三代目③秋山孫次郎泰忠(晩年は沙弥日高)でした。その後は、泰忠の直系が棟梁を相続していきます。秋山(惣領家)嫡流である鶴法師は、通称孫次郎で後に⑧二代目泰久(⑤初代孫四郎泰久は水田)を名乗っています。
 秋山家文書「文明六(1474)年6月日付秋山鶴法師言上状」からは二代目泰久が、寒川貞光の理不尽な横領を受け、山田郡東本山郷水田名(高松市)の2/3を奪われ、そのうえに本領である高瀬郷内1/3も失なったことが分かります。さらに管領細川家の内紛に巻き込まれ、近畿への出兵が度重なり経済的にも疲弊します。そして何より「勝ち馬」に乗れず新しい恩賞を得ることができません。これが秋山惣領家の衰退につながることは以前にお話ししました。

1秋山氏の系図4

惣領家嫡流孫二郎泰久に代わって、台頭してくるのがA秋山源太郎元泰です。
源太郎の家筋は、泰忠の子等の時代に分かれた庶家筋と研究者は考えているようです。永正三(1506)年8月29日付秋山泰久下地売券では、惣領家の居館周辺「土井」の土地二反を、源太郎が買い取った記録です。居館周辺の土地までも、手放さざるえなくなった惣領家の窮状を見えてきます。
 その後の秋山家文書は、この源太郎宛てものが殆どになっていきます。源太郎が秋山一族の惣領に収まった事がうかがえます。
秋山源太郎が、勢力を増大した契機は、永正八(1511)年7月21日の櫛梨山合戦の功績です。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この合戦は、永正四(1507)年の細川政元死後の混乱による細川高国派と同澄元派の抗争の一環として、讃岐で起きたものと研究者は考えているようです。この時期、源太郎は 一貫して澄元派に属して活動していたようです。櫛梨山合戦の功名によって澄元から由緒深い秋山水田(初代泰久の号)分を新恩として宛行われています。この土地は高瀬郷内の主要部分のようで、秋山氏嫡流の⑤備前守(二代目)泰久の跡職に就いたことになります。そして、この水田分は源太郎の死後も嫡子幸久(丸)、後の兵庫助良泰に細川高国によって安堵されています。

この時期に秋山源太郎は、細川澄元に軸足を置いて、阿波守護家や淡路守護家細川尚春にも接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたのでしょう。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に属して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)から推察できます。
この書状は高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのです。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます
 どんな贈答品のやりとりがされていたのかを見ていくことにします。
   細川氏奉行人薬師寺長盛書状     (すべて読下文に変換)
尚々、委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候
御懇の御状畏入り存じ候、依って新六殿御油断無く御奉公候間、千秋万歳目出存じ候、
柳か如在無きの儀申し談じ候、御心安ずべく候、其方に於いて何事も頼み奉り存じ候、ふとまかり越し候也、御在所へ参るべく候、次いであみ給い候、一段畏れ入り存じ候、暮の仰せ承りの儀、最戸(斉藤)方談合申し候て、
披露致すべく候、恐々謹言
(永正十二)                     (薬師寺)
閏二月十九日                長盛(花押)
秋山源太郎殿
御返報
意訳すると
書状受け取りました。詳しいことは新六殿に口頭で伝えておきますのでお聞きください。申出のあった件について確かに承りました。新六殿は油断なく奉公に励んでおり、周囲の評判も良いようです。人柄も良く機転も利くのでご安心ください。諸事について頼りになる存在です。
  あみを頂きましたこと、誠に恐れ入ります。暮れにお話のあった斉藤方との談合について、報告しておきたいと思います。
冒頭の「委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候」の「新六殿」とあるは、源太郎の子息と研究者は考えているようです。源太郎は息子を、細川淡路守護家に奉公させていたようです。人質の意味もあります。源太郎は息子新六を通じて、淡路や上方の情勢を手に入れていたことがうかがえます。源太郎からの書状には、どんなことが書いてあったのかは分かりません。推察すると「水田」の所領返還についてのお願いだったのかもしれません
  この書状がいつのものかは、「閏二月十九日」から閏年の永正12(1515)年のことだと研究者は考えているようです。
「あミ」は、食用の「醤蝦」で、現代風に訳すると「えびの塩辛」になるようです。発給者の長盛については、よく分かりません。しかし、淡路守護家に出仕する細川尚春の近習と考えられます
 これらの書状は、どのようにして淡路の守護館から高瀬郷の源太郎のもとに届けられたのでしょうか。
江戸時代のように飛脚はありません。書状の中には、「詳しくは使者が口頭で申す」と記され、
石原新左衛門尉、柳沢将監、田村弥九郎、小早川某、吉川大蔵丞

などの名前が記されています。彼らは、淡路守護細川尚春(以久)の家人や馬廻り衆と研究者は考えているようです。彼らが、以久の直状や以久の内意を受けての書状を、讃岐や出陣先へ運び口上を伝えたようです。淡路から南海道を経て陸路やってきたのでしょうか。熊野と西国を結ぶ熊野水軍の「定期船」で塩飽本島までやってきたのかもしれません。

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2

まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。
一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。
 この表だけでは、当時の武士の棟梁たちの鷹に対する執着ぶりは伝わらないと思います。どんな鷹が秋山家から淡路の細川家に贈られたのでしょうか。実際に文書を読んでみましょう。

細川氏奉行人春房書状                 

猶々御同名細々(再再)越され候、本望の由候仰せの如く、先度御態と御状預かり候、殊に御樽代三百疋、題目に謂わず候、次山かえり祝着の至り候、委細田村弥九郎、小早川申さるべく候、恐々
謹言          春房(花押)
十一月十日
秋山源太郎殿  御返報

意訳しておくと
秋山家からの使者が再再に渡ってお越し頂けるので大変、助かっています。おっしゃる通り、贈答品と書状を受け取りました。また別に樽代として300疋は題目を付けずに書状を添えて献上した旨承知しました。
山かえりのハイタカを頂きましたが祝着の至りです。
詳しいことは使者の田村弥九郎、小早川が、口頭でお伝えします。

後半に使者として名前の出てくる田村弥九朗および小早川については分かりません。小早川は淡路守家にもいたようで、秋山氏との連絡を担当していた奉行人のようです。秋山氏の者が細々(再再)・頻繁に連絡を保っていると最初に記されています。人質として預けられていた源太郎の息子・新六のことだ研究者は考えているようです。
  「題目に謂わず」とは、外題を付けずに書状に添えて献上したということでしょうか。源太郎の経済力がうかがえます。二百疋も、為替によって運ばれたようです。当時は以前にお話ししたように為替制度が整備されていました。
要件を述べた後は、贈答品として送られてきた鷹に話題が移っていきます。

1 秋山源太郎 haitaka
尚春が鷹狩りに使っていたのはハイタカのようです。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられたようですが、源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
 贈答用のハイタカは三豊周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春に仕えていた新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

16 淡路守護細川尚春書状                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、
心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、
鷹廿居尋ねられ給うべく候、巨細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言 
         以久(細川尚春)花押
九月七日 
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か!非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる
子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は管領細川政元の3人の養子・澄之・澄元・高国による家督争いが展開中でした。
船岡山
澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に秋山源太郎に宛てて出された書状です。
 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことから怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後でハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
秋山源太郎が出陣しなかった理由としては、前回に見た細川澄元感状に
「櫛無山に於いて太刀打を致し、殊に疵を被る」

とありました。前年にあった櫛梨山合戦で、太刀傷を受け療養中だったことが考えられます。

淡路守護細川尚春書状
鵠同兄鷹給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
(細川尚春)
以久(花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ二十羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズの2羽を贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。

その半年後の翌年9月には、申し付けられた20羽のハイタカを源太郎が贈ったこととに対する尚春の礼状が残っています。そこには、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りが解けたことを伝えています。ハイタカ20羽が帳消しにしたのです。鷹の戦略的な価値は大きかったようです。このような鷹狩りへの入れ込みぶりが当時の武士団の棟梁たちにはあったのです。それが信長や家康の鷹狩り好きの下地になっていることが分かります。
 細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたようです。

  参考文献
高瀬文化史Ⅳ 中世の高瀬を読む 秋山家文書②

  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

   甲斐国から高瀬郷の地頭としてやってきた秋山氏を系図で追ってみます。
1秋山氏の系図4

13世紀末に西遷御家人として讃岐にやって来たのは、①秋山阿願光季でした。彼の元で高瀬郷の下高瀬を拠点として居館を構え、新田開発や塩田造成が行われていったようです。その後を継いだのが②源誓のようです。彼からの③孫次郎泰忠への領地の譲状が秋山文書が残っています。ところが、秋山家の正史は、②の源誓の存在を認めません。③泰忠の残した置文や譲り状に、①の祖父光季から譲られたと父を抹消しています。その理由はよく分かりませんが、父の源誓は法華教徒でなかったためかもしれません。
 ③泰忠は、長寿で10歳前後で高瀬郷にやって来て、その後80年以上を過ごしています。その後の活動を年表に示すと、次のようになります。
弘安年中(1178~88)泰忠が祖父や父とともに高瀬郷に来讃。
建武3(1336)年に足利尊氏からの下知状を受け取る
観応2(1352)年の管領細川氏よりの預ヶ状受給
文和2(1353)年 泰忠が最初の置文と譲状を書く
永和 (1376)年 泰忠が最終の置文(遺言)を書く
 泰忠は、最後の置文には「ゆずりはずし(譲外し」を行っています。これは勘当や病気による「廃嫡」で、一旦相続させたものを取り上げることです。相続人としていた嫡男④泰綱を廃嫡し、その次男の⑤孫四郎水田(泰久)を新しい嫡子として、惣領職を相続させることを置文に記しています。泰忠は、この相続のことを「あがん(阿願)のこれい(古例)にまかせて」と記します。祖父阿願から孫である自分に直接譲りを受けた先例を引いて正当化しています。その理由に、孫四郎泰久(水田)の「器量」の良さを挙げ、泰忠にとって「心安」きこと、すなわち、安心を得ることが出来るからであるといっています。
 孫次郎泰忠から孫四郎泰綱への単独相続という形がとられているように見えます。が、その他の息子たちにも土地は譲られ分限に応じて、知行を行っています。兄弟(姉妹)やそれぞれの家人らには各々耕作地があって自営ができるうな体制で、実質的には分割相続です。

 秋山氏は、鎌倉時代から南北朝期のころまでは、分割相続
 一族間で細分化された土地を所有し、それを惣領が統括し、法華信仰による結合力でまとめていこうとしていたようです。しかし、室町時代になると、分割相続をやめます。泰忠直系の惣領による一子相続に変更し、所領の分割を防ぎます。そして所領を集約一元化しながら、一族家人や百姓らをまとめ国人領主として在地領主制を形成していきます。
 この間に秋山氏は、塩浜開発や赤米、エビ等の塩干物、畳表などの地域産品の育成開発を行い、それらの販売を通じて、積極的な商業活動や交易活動を行ったようです。そうした経済力を背景に一族と郷中の発展があったのです。これが本門寺一山の隆盛を実現させ、文安年中(1444年~49)には、11か寺以上の末寺を擁した大寺に育って行きます。
 しかし、秋山氏の嫡流である泰忠の子孫たちにも、15世紀後半がくると危機がやってきます。
 泰忠の後を継いだ⑤水田泰久の傍系・庶流の源太郎の家筋が台頭し主流を譲ることになります。また、上の坊近くの帰来橋の周辺を拠点とする帰来秋山氏も、本家を圧倒していくようになります。

秋山家本家の衰退の背景は、何だったのでしょうか?
  永正三(1506)年 秋山家本家の⑧孫二郎(二代目)泰久は、高瀬郷中村の「土居下地」「二反」分を分家である秋山源太郎に売却しています。その文書を見てみましょう。  
1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村2

1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村3
読み下し文に変換してみましょう。
永代売り渡し申す高瀬郷中村土居下地の事
合弐反有坪者(道そい大しんつくり直米四石則時請取分)
右、件の下地は、私領たりといえ共、用々あるによつて、永代うり渡し申す所実正なり、
しかる上は、子々孫々において(違乱)いらん妨げ申す者あるまじく候、若しとかく(書)申す者候はば、御公方へ御申し、此のせう状の旨にまかせ、下地に於いてまんたく御知行あるべく候、依って後日の為、永代の状件の如し
(孫)
               秋山まこ二郎
永正三年ひのえとら八月二九日       泰久(花押)
秋山源太郎殿
「高瀬郷中村土居下地の事」の「下地」とは、土地そのもの、その土地に関わる権利全てという意味です。「坪」が条里制の場所を示します。「直米四石」とは、米四石を契約成立時に、受け取つたことを示しているようです。銭ではなく「直米」で支払われているのは、銭千枚で一貫文なので、大量の銭を揃えることができない地方では、現物で取引されることが多かったと研究者は指摘します。
 「私領たりといえ共、用々あるによつて」とは、「個人の領地であるのだけれども、必要があるので」

ということでしょう。経済的な困窮で、先祖代々の土地を手放さざるえない状態に追い込まれていたことがうかがえます。
差出者は、秋山孫二郎泰久(二代目)で、「秋山まこ二郎」は秋山惣領家系の家督継承者の幼名です。その泰久から庶流家系の源太郎に土地が売却されたことをしめす証文です。

源太郎に売られた「中村土井」は、本門寺の高瀬川対岸で甲斐源氏の祖先神新羅神社が祀られ、中の坊などのある秋山氏の屋敷地の中枢部であったようです。その「土居(居館)」の一部が源太郎の手に渡ったという意味は軽くはありません。これは秋山家本家の没落を人々に印象づけることになったでしょう。そして、源太郎が新たな秋山一族のリーダーとなったことを告げるものでした。

  この背景には何があったのでしょうか。
系図を見ると秋山泰忠の所領は、
⑤泰久(一代目)→⑥有泰→⑦泰弘→⑧孫二郎泰久(二代目)

へと譲り渡されてきます。
1秋山氏の系図4

しかし、応仁の乱以後の混乱の中で、秋山氏一族内で分裂が起きていたようです。応仁の乱から永正の錯乱時期に、畿内への度重なる出陣を細川家から求められます。その経済的な負担と消耗が重くのしかかります。さらに細川氏の内部抗争(両細川の乱)の際に、勝ち馬に乗れなかったことが挙げられます
 他方で、着々と財力を蓄え、同時期の混乱に乗して本家に代わって台頭してくるのが⑤水田泰久の傍系・A 庶流の源太郎元泰です。源太郎は細川氏と誼を通じることで、高瀬郷の大部分を領有し、確固たる地位を築いていきます。こうして、惣領家から源太郎に秋山氏の主流は移っていきます。
それを決定的にしたのが櫛梨山の合戦での源太郎の活躍です。
 細川澄元感状    櫛梨合戦                      52p
1 秋山源太郎 櫛梨山感状

去廿一日於櫛無山
太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日 澄元(細川澄元 花押)
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で、感状と呼ばれます。その場で墨で書かれたものを二つ折りにしたのでしょう。「去十一日」「七月十四日」などの墨が阪大側の空白部に写っています。
 折り目は、まず中央で折ったのではなく、左部分の宛て名のところを残して半分に折り、裏返して折り目の部分から順々に折っていくというスタイルがとられました。そうすると表部分に、一番最後の宛て名のところが上に出る形となります。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に、届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。こうした家臣団の活動をきちんと記録する専門の書記官もいたようです。
 感状は、後の恩賞を得るための証拠書類になります。
これがなければ論功行賞が得られませんので大切に保管されたようです。そして恩賞として新領地を得た後は、それを報償する絵図も描かれたりしたようです。
  この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃のようです。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する古代の霊山です。麓には式内社の櫛梨神社が鎮座し、ひとつの文化圏を形成していました。中世の善通寺の中興の祖とされる宥範を生んだ岩田氏の拠点とされる地域です。
 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八    (飯尾)
十月十三日 一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。
 讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

この文書の出された背景としては、
応仁の乱の後、幕府の実権を握った細川政元の三人の養子間の対立抗争があります。高国・澄之・澄元の三人の養子の相続争いは、讃岐武士団をも巻き込んで展開します。香川氏・香西氏・安富氏などの守護代クラスの国人らは、澄之方に従軍して討ち死にします。秋山一族の中でも、次のような対立がおきていたようです。
①庶流家の源太郎は細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は細川澄之方へ
1 秋山源太郎 細川氏の抗争

 この対立の讃岐での発火点が先ほど見た櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられたようです。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。
 管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 土地が飽和状態になった段階では、報償を得るためには誰から奪い取らなければなりません。こうして秋山泰忠が願った法華信仰の下に、一族の団結と繁栄を図るという構想は、崩れ去っていきます。 しかし、秋山氏の内部抗争にもかかわらず本門寺は発展していきます。それは、本門寺が秋山氏の氏寺という性格から、地域の信仰センターへと成長・発展していたからです。それは別の機会に見ることにします。
 この文書の発給人の飯尾元運となっています。彼は、室町幕府の奉行人であるか、細川氏の奉行人のどちらかでしょう。飯尾氏は幕府奉行人に数多くく登用されていますが、阿波の細川氏の奉行人となった飯尾氏もいますが、研究者は阿波の飯尾氏と考えているようです。
こうして永正年間には源太郎流が、秋山一族を代表するようになります。
 源太郎は、最初は細川澄元に接近し、忠勤・精励また贈答によって恩賞を受け、のし上がっていきます。その後は、細川高国方に付いて惣領家を完全に圧倒するようになります。秋山源太郎が、細川氏淡路守護家や阿波守護家に忠節・親交を深めていったことが、秋山文書の細川氏奉行人奉書等からうかがえます。
ここからは、従来の讃岐中世史を書き換える構図が見えてきます。
従来の中世の讃岐は
宇多津に守護所を置いた細川京兆家の守護支配下に置かれていた

とされてきました。しかし、細川勝元亡き後の讃岐については、細川氏阿波守護家(官途は代々讃岐守で細川讃州と呼ばれた)の支配が讃岐に浸透していく過程だと研究者は考えるようになっています。阿波守護家が、岡館(守護所=香南町岡)を拠点にして讃岐支配を強めていく姿が見えてくるようになりました。それが後の三好氏の讃岐侵攻につながっていくようです。
 秋山家文書には、源太郎宛の折紙が27点もあります。
発給者は、淡路守護細川(以久)尚春とその奉行人らや阿波守護の奉行人達からの書状群です。これらは、新しい秋山氏の当主である源太郎と在京の上級武士らとの交流の実際を伝えてくれます。源太郎は宇多津を向いていたのではなく、はるか淡路や阿波に顔を向けていたのです。源太郎への指示は岡館(守護所=香南町岡)から出されていたのかもしれません。

 一度一族間で血が流されると、怨念として残り、秋山一族の抗争は絶えなくなります。
源太郎が亡くなると求心力を失った秋山家は、内部抗争で急速に分裂していきます。
一族間の抗争は「喧嘩両成敗」の裁きを受け領地を没収され、細川氏の直轄領とされます。こうして秋山氏は、存亡の危機に立たされます。
 一方、細川氏も内部抗争で弱体化し、下克上の舞台となります。そんななかで戦国大名化の動きを見せ、三野郡に進出してくるのが西讃岐守護代で天霧城主の香川氏です。秋山氏は、香川氏に従属化し家臣団を構成する一員として、己の生き場所を見つける以外に道はなくなって行きます。
 こうして、香川氏の一員として従軍し活躍する秋山氏一族の姿が秋山文書にも見られるようになります。それはまた次の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①西遷御家人としてやってきた秋山泰忠は、高瀬郷の北半分を祖父から相続した。
②秋山泰忠は敬虔な法華信者で、下高瀬に法華王国の建設を目指し、本門寺を建立した
③秋山泰忠は孫に所領を相続させたが、その他の子ども達にも相続分は分け与えた
④秋山惣領家は、応仁の乱以後の混乱の中で衰退していく
⑤代わって分家の源太郎が細川氏の内部抗争の勝ち馬に乗ることで台頭してくる
⑥櫛梨山の合戦での源太郎の活躍以後は、源太郎が新たな統領となって仕切っていく
⑦しかし、源太郎以後は内部抗争のために一族は分裂し、領地を没収される危機を迎える
⑧秋山氏は、戦国大名化する香川氏への従属を強めていく。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 高瀬町史

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本門寺 西門

 本門寺は、中世に高瀬郷に西遷御家人としてやってきた秋山氏が氏寺として創建した西国で最も古い法華宗寺院です。地元では、高瀬大坊と呼ばれ親しまれています。秋の日蓮上人命日(旧暦十月十三日)に開かれる大坊市は、くいもん市とも呼ばれ、食物を商う露店が多く集まり、近隣各地から多くの参詣者を迎え賑わってきました。
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本門寺案内図
 境内には、元禄十(1697)年建立の開山堂を始め、本堂・古本堂・庫裡・客殿・鐘楼・宝蔵・山門・西門などの堂字が点在し、いくつもの末坊を擁する大寺院です。

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開山堂と客殿
 本門寺は、甲斐国から乳飲み子時代にやってきた秋山泰忠(日高)が、建立したと寺院です。彼は、日華の弟弟子を招き、最初は那珂郡杵原郷田村(現丸亀市田村町)に法華堂を建立します。そして、丸亀を拠点として法華宗の流布に努めます。が、兵火で焼け落ちてしまいます。そこで、武元(1334)年 高瀬郷に一堂(後の中之坊)を建立し、日仙を招き法華堂の上棟を目指し、翌年に完成させます。これが現在の本門寺です。このように本門寺は、秋山氏の氏寺として創建されます。
創建者の秋山泰忠は、弘安年間(1278~88)に、西遷御家人の祖父の光季(阿願)と来讃します。
その時の年齢は10歳未満だったと考えられています。
 泰忠の祖父阿願は、甲斐において法華信仰に深く、帰依していました。泰忠はその影響を受け、幼少より法華信仰に馴染んでいたようです。故郷を離れ、遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、年少の頃から南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経に信仰心を傾けていったようです。彼は、晩年に置文(遺言状)を12回も書いていますが、そこには子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。残された置文からは、年を経るに連れて法華宗への信心が深まっていったことがうかがえます。
 泰忠により本門寺は創建され、彼の庇護のもとに領民に法華宗が広められていき、後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立するということになります。甲斐からやってきた一人の男の信仰心と強い意志が現在の下高瀬の法華信仰を形作ったのです。本門寺に残された文書から秋山泰忠と本門寺の関係を見ていくことにします。参考文献は「三野町文化史3 三野町の中世文書」  です。

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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 本門寺に残された中世文書
 本門寺には桐箱の中の黒漆塗りの本箱に中世文書12が収納されています。その中で分類番号1・2号を読んでみましょう。その前に注意点として
①全文がひらがなで書いているため大変読みづらいので、( )内は漢字変換しています。
②文書の上の方が虫食いで欠けているので読めない部分(空白?)があります。
③当時は濁音表記がありません。想像力で補っていきます。
内容は、沙弥日高(泰忠)の置文で本門寺中に対して出された遺戒です。子孫や郷内の人々に本門寺以外の崇敬を禁ずることを戒めています。本門寺の一番古い文書である沙弥日高(秋山泰忠)置文を見てみましょう。
のためにさためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事
?月十五日は、こハゝにて(故母にて)わたらせ給候人の御めい日(御命日)
???給候、別に月こと(月毎)にそのひ(日)をかき申し???と
???ともその日か(書)き申候事のみ候あいた御???
???のために御はたき(畑)しんたてまつり候 はたけ(畑)あはせて三たん(三段)なり
このところは、あくわん(阿願)よりにんかう(日高)ゆつり(譲り)給ハるなり
しかるを、うは(乳母)にてわたらせ給候人と、はは(母)にてわたらせ給二人の御けふやう(供養)のために、そう(添)ゑ御やしき(屋敷)のためにきしん(寄進)候ところなり、しかるをまこ(孫)七わか(我)ゆつり(譲)うち(内)といらん(違乱)を申事あらは、なかくふけふ(不孝)の人なり ほんかう(本郷)?い 
 しんはま(新浜)とい(土井分)ふんと にんかう(日高)かあと(跡)においてはふん(分)もち(知行)きやうする事あるへからす、もしまこ(孫)七いらん(違乱)を申候はゝ、かの人のふん(分)をは、きやうたい(兄弟)のなか(中)にかみ(上)へ申てちきやう(知行)すへきなり、
 又はそう(僧)お そむ(背)き申候はんすることもまことも(孫共)又は、そうしう(僧衆)のなかにもはしまし候ハんする人とく いんきよ(隠居)し候ハ、ふけふ(不孝)の人としてにんかう(日高)かあとにおいてハ ちきやう(知行)すへからす
御そう(僧)(御僧は百貫坊日仙)より御のちハたいの御そう(僧)一ふんものこさす御あとハ御ちきやう(知行)あるへきあいた、こ(後)日のためにいまし(戒)めのお(置)きしやう(状)くたんのことし
ちやハくねん(貞和9年)十月三日

                      しゃミ(沙弥)にんかう(日高)(花押)
文頭に
「さためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事」

とあるので置文だということが分かります。置文とは、将来にわたって守るべき事柄を示したものです。ある意味、遺言のような性格もあります。
 文末署名は
「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」

と記されています。これを「につこう」と読むようです。日高は、前回にお話しした秋山泰忠のことで、彼の法名です。法華宗では法名に「日」の文字を用いることが多いようです。秋山家文書の置文は「秋山孫次郎泰忠」の署名で残されています。一方、宗教関係で本門寺に残された文書には 「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」が用いられて云います。俗と聖を使い分けているようです。それだけの分別ができる人だったようです。
 年紀には、ひらがなで「ちやハくねん」と記されています。当時は濁音がありませんので、これを「じょうわ」と読むようです。
 日高(秋山泰忠)は、60歳を越えたと思われる文和2年(1353)から翌年にかけて置文を多く発給しています。死期を察したのかもしれませんが、実はその後も40年近く生き続けます。そして、息子よりも長生きすることになり、置文を何度も書き直すことになります。結局12通も残しています。
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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 もう一度置き文に戻りましょう。
文中に「あくわん」と見えますが、これは秋山文書にも登場した「阿願」で、秋山泰忠の祖父・光季のことです。祖父の時代に乳飲み子の泰忠は、「阿願」に連れられて高瀬郷にやってきたことは前回にお話しした通りです。
「しんはまのといふん」とありますが、これは「新浜土井分」です。
新浜には塩浜(塩田)が開発されており、塩の生産が行われていました。秋山家文書にも、新浜の年貢貢進の記事があり、この年貢は塩年貢のことと推定できます。塩田からの収入が秋山氏の経済的な強みであったことは、前回にお話ししました。
 後半では、本門寺と秋山家とは必ず寺檀関係を保つべきことを特に戒めています。これは本門寺が根本檀越であるとの立場を強く打ち出しています。秋山家の身内に残した置文とは、性格が少し違うようです。
「御そう(僧)」は本門寺を開基した百貫坊日仙です。「たいに(第二)の御そう」は日寿で、どちらも本門寺の歴代住職になります。
P1130055
              正面には延文4年 日高大居士(泰忠)
本門寺文書 文書番号2の日高置文 その2を見てみましょう
申しまいらせをきゆつりしやう(置き識り状)にも、いましめの□やうにしのおち(字の落ち)候ところ候は、みな入し(字)をして候、これをうたか事あるへからす候、
ともにもゆつり(譲り)おき候しやううことに志(字)のおちて候ところには、みなみな入しをして候
 かうかしそんの中に大にの御そう(第二の御僧=日寿)のほかに し(師)をとり申候人もし候はゝ、日かう(日高)かあとにをき候ては、 一ふんちきやう(知行)する事ゆめゆめあるましく候、もしも候はゝ、そうりやうみつた(惣領水田)かはからいとして、かみ(上=幕府)へ申て御たう(塔)へきしん(寄進)申へく候

 十三日のかう(講)、又十五日かう(講)の人  ひやくしやう(百姓)も、御めい(命)をそむ(背)き候は、みなみな大はうほうとして、りやうない(領内)のかま(構)いあるましく候 
 ちうふん(註文)やふ(破)れ候ても候はゝ、もと(元)ことくきしん(寄進)申候ところおは、そうりやう(惣領)まこ(孫)四郎まんそく(満足)には(果)すしまいらせ候へいくらも中をきたき事とも、なをもをんて申し候へく候
おうあん五年二月二日    
しやミ日かう(花押)
内容は
 最初に、以前に書いた置文に、字の欠けたところがあったので、その部分を追記した。それをもって偽文書とうたがうことなかれと云っています。この時代にも譲り状に関して、偽物が出回っていたことをうかがえます。自分の書いた譲り状に対しての疑義は認めないという強い意志表明です。

次に、泰忠の子孫は「大弐(二代目)の僧日寿」を本門寺の住持として崇めるよう強く戒めています。
もし、日寿以外を師とする者が出てきたら、泰忠の遺領を知行することは認めない。そしてそのような者は惣領の孫四郎泰久(水田)から幕府へ申し出て、他に堂塔を寄進して新たに寺をおこすようにせよ、と本門寺に対して背くことはならないと戒めます。法華宗の本義としての不受布施の立場を表明したものと研究者は考えているようです。

1 本門寺 御会式

 十三日の講とは、日蓮の命日に行う報恩講のことであり、

秋山一族だけでなく、領内の百姓にまでも絶対に行うよう厳命しています。本門寺を中核とした、秋山一族の結合を図っていこうとするねらいがうかがえます。これについては、
秋山家の惣領家にも次のように置文をのこしています。
秋山家文書 文和二年の源泰忠置文、一ッ書き五条目十月の十三日の御事
十月の十三日の御事をハ、やすたたかあとをちきやうせんするなん志、ねう志、まこ、ひこにいたるまて、ちうをいたすへし、へちに御たうおもたて申、このうちてらをそむきも申ましき事、たといないないハきやうたいとい、又ハいとこ、おちのなか、又ハいとことものなかにも、うらむる事ありといふとも、十三日にハよりあいて、御ほとけ上人の御ため、そう志うおもくやう申、志らひやう志、さるかく、とのハらをも、ふんふんに志たかんて、ねんころにもてなし申ヘきなり、ない〆ハいかなるふ志んありとも、十三日、十五日まで、ひところにあるへきなり
漢字変換すると
(十月の十三日の御事をば)  (泰忠が跡を知行せんする男子)、(女子、孫)  (ひごに至るまで忠を致すべし)  (別に御堂をも建て中し)  (この氏寺を背きも申すまじき事)    (たとえ内々は) (兄弟と言)   (又はいとこ)(叔父の中) (又はいとこ共の中にも)  (恨むる事)(ありというとも)(十三日には寄り合いて) (御ほとけ上人=日蓮の御ため)(僧衆をも供養申し) (白拍子)(猿楽)(殿原をも)(分々に)(従って) (懇ろにもてなし申すべきなリ)  (内々はいかなる不信ありとも)(十三日、十五日まで)(一心にあるべきなり)

ここからは次のような事を指示していることが分かります。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 十月十三日の日蓮上人の命日法要は、法華信仰を培っていくための重要なイヴェントと考えていたことがうかがえます。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたのでしょう。
その祭事については
「白拍子・猿楽・殿原をも分々に従って懇ろにもてなし申すべきなリ」

とあり、地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸が催されるイヴェントであったことが分かります。殿原とは廻国の武芸者のようです。それを今後も続けよと具体的に指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたのでしょう。

1 本門寺 大坊市2

 ちなみにここには芸能集団を「懇ろにもてなし申す」と、宿泊させてもてなすように指示しています。ところが百年後の高松の田村神社文書には「興行が終了したら即座に退去させる」と、芸能集団に対する差別意識が生まれているのがうかがえます。さらには、十三日から十五日の間は「皆心にあるべし」との戒めます。これらの戒めは、本門寺の発展と共に郷内に広まり「皆法華」の宗教圏を形成することとになるようです。
 他に残された置文を見てみると、次のような戒めも記されています
① 泰忠が信仰するのと同様に勤行をしなさい
②「蚊虻浅謀」といって法華宗以外の宗義を信仰することは、蚊や虻のごとき浅はかさである。
 この「十月の十三日の御事」が現在の本門寺門前において市が立つ「大坊市」の起源となっているのです。ひとりの男の思いが引き継がれてきた祭事のようです。
1 本門寺 大坊市


 秋山泰忠は、日仙への帰依することを通じて、戦いで血糊のついた己の姿を清め、武士の安心を得ようとしたのかもしれません。同時に、この法華信仰を媒介として秋山一族、家人や下高瀬郷内の百姓住人すべてを支配することを望んだようにも思えます。

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日仙上人の隠居寺である上の坊の墓
晩年の応安五(1372)年の沙弥日高置文(本門寺)には、本門寺への信仰を次のように求められるようになります。
①開山日仙と共に二代日寿(大弐房、本門寺歴代では、日華の跡の三代目)にも忠孝を尽くし、
②氏寺本門寺の「師」以外に宗教上の「師」を認めず、
③子ども・若党から下々まで不信心者は「大法度」である
と記します。さらに十三日・十五日の講会に参加しない郷民らには「碩びいのか樋い」が許されないとされるようになり、法華信仰の実を見せなければ、実質的には高瀬郷内には生活できなかったようです。その信仰拠点が、大坊本門寺であり、数多く建立された寺内坊や支坊でした。

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日仙上人の墓(上の坊)

次の表からは、幕末の下高瀬住民の法華宗比率は90%を越えていることが分かります。
1 本門寺 皆法華

室町時代以降は、秋山氏が支配する高瀬郷内のすべての住人が皆法華の状況であったようです。
 以上のように、秋山泰忠は法華宗への熱烈な信仰心を持ち、個性的な独特の置文を残しています。そして、讃岐の新しい所領に「郷内皆法華」の法華王国の実現をめざして、強力な宗教政策を展開していきます。
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本門寺本堂
次に、本門寺や子院が果たした役割を、別の視点から見てみましょう。秋山氏は、水利管理についても、寺の力を利用していたことがうかがえます。例えば、高瀬郷領内の要所に本門寺末坊を配置していまが、その配置場所を見てみると
①音田川からの取水源である木寺井近くに上之坊があり、
②高瀬川と音無川の合流地点の荒井及び中ノ井近くに宝光坊、
③その下流の屈曲点の新名井及び額井近くに西山坊、
④そして、高瀬川の旧河口付近に中之坊
  これは井手の分岐点の近くに子院が配置されています。つまり、お寺という宗教組織を通じて、用水管理を行っていたのです。
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本門寺の子院 奥の院

これらの「井手五箇所」は、中世以来の井手(取水堰)です。
そこに配置された子院の住僧には、あらかじめ寺領免田への用水使用の優先権を持たせていたことが秋山文書からは読み取れます。これらの井手からの用水確保は「一日二枚宛」と決め、子院が管理していたのです。この権利を通して、各坊は信者である住人を監督・勧農させていたのです。この体制の下では、本門寺門徒でない非法華信者は、水利権においても差別的な待遇を与えられたことが考えられます。このような経済的な強制も「皆法華」体制を形作る力となったのでしょう。
1 本門寺 子院

  以上をまとめておきます
①鎌倉幕府は西国の防衛力強化のために甲斐から讃岐高瀬郷の地頭として秋山氏を西遷させた。
②少年としてやって来た秋山泰忠は、熱烈な法華信徒になり新天地に法華王国を築こうとした。
③そのために百貫坊日仙を本山から向かえ、氏寺として本門寺を創建した
④本門寺は、秋山泰忠の篤い保護の下に地域の宗教・文化・教育・水利管理センターとしても機能し、寺勢を拡大していった
⑤秋山泰忠は、具体的な信仰実践を子孫に書き残し、戒めとするように伝えている。
⑥秋山泰忠亡き後も、本門寺は教勢を拡大し「皆法華」体制を形作っていく。

          
 讃岐に鎌倉幕府が送り込んだ新補地頭(しんぽじとう)について以前にお話ししました。彼らは、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込んできた東国の御家人たちでした。御家人は武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」といったところでしょうか。その一覧表が次の表です。
 
1 秋山氏 讃岐の地頭一覧
東国から讃岐にやってきた地頭たち
 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、三度目の来襲に供えるために、東国の御家人を西国に転封させるという軍事力のスウイング戦略を行います。この時に、讃岐に地頭としてやってきた東国武士団が秋山氏です。
今回は、秋山氏について見ていこうと思います。
テキストは高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①です。
寛永五年(1628)に秋山一忠が作成した系図を見てみましょう。

1秋山氏の系図
秋山氏系図
秋山氏の祖は、新羅三郎義光に始まる「本国甲斐国青嶋之者」と記されています。
清和源氏流の「甲斐源氏」は、平安時代後期に源義光の息義清か常陸国から甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ入り、甲府盆地一帯に勢力を拡大します。秋山姓は、義清の孫光朝が甲斐国巨摩郡秋山(同県南アルプス市秋山)を拝領し、ここに拠点を構えたことから生まれたと研究者は考えているようです。
   源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した時に、惣領武田信義が率いる「甲斐源氏」一族は、その大半が勝者の源氏方について参戦します。秋山氏も源氏方に付きます。ところが光朝の妻が平重盛の娘であったことから、頼朝に冷遇され、秋山氏は一時的に没落したようです。
 しかし、光朝は承久三年(1221)武田信光に従い、鎌倉幕府方として後鳥羽上皇方と弓矢を交えます。いわゆる承久の乱です。この戦功によって、秋山氏は武家としての名誉を回復します。その後、光朝の嫡男光季(阿願入道)は、子息泰長(源誓)・孫泰忠(日高)と共に讃岐へやってきます。 蒙古襲来に備え、幕府の命で安芸国へ西遷した武田氏と同じような処遇と研究者は考えているようです。

  秋山氏のルーツとなる甲斐国巨摩(こま)郡秋山を地図で見ておきましょう。
1 秋山氏の本貫地

現在の南アルプス市に「秋山」の字名が残っていて一族の「秋山光朝館跡」も史跡とされています。地元では、ここが秋山氏発祥の地とされているようです。
「秋山家記」(秋山家文書)には「青島」を故地としていますが、それがどこなのかは分かりません。旧甲西町秋山の東南にあたる釜無川と笛吹川の合流地点付近に江戸時代に青島新田という地名が残っています。この新田の開拓者としてスタートしたのかもしれないと研究者は考えているようです。どちらにしても、この地で治水・灌漑工事などを行いながら所領の拡大を行っていたのしょう。それが幕府の「西国防衛力の向上」という政策の中で、讃岐高瀬郷に所領を得て一族の嫡男がやってきたようです。
□中世の高瀬を読む ―秋山家文書(1)~(3) 3冊 高瀬町教育委員会 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

 このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山氏系図 「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とある

先ほどの系図の下段の一番右側に「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とあります。拡大して見てみましょう。
系図的には讃岐秋山氏は、この阿願入道=光朝からはじまります。
入道と称するのは、彼が日蓮宗の熱心な信徒で入信していたためです。その註を見ると、次のように記されています。

号は 秋山又兵衛で、甲州青島の住人である。政和4年に讃岐に来住した。嫡子は病身のため嫡孫泰忠を養子として所領を相続させた。

これには、疑義がありますので後ほど述べます
元寇の頃、甲斐国から来た武士|ビジネス香川
本門寺(三豊市)

実質的な秋山氏の祖 
秋山孫次郎・泰忠は歴戦の勇士で長寿だった
祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠については

「号は秋山孫次郎。正中2年法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」

とあります。現在の下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。孫次郎泰忠は11通もの置文(遺言状)を残しています。その最終年紀は、永和2(1376)年です。仮に弘安最末年の11(1288)年に讃岐へやって来たとしても、通算88年も讃岐で過ごした事になります。
いったい泰忠は何歳で讃岐にやってきたのでしょうか。
乳呑み児で、故郷の甲斐の「青島」を離れ高瀬郷にやってきて、およそ90歳以上生きていたようです。当時としては、祖父の阿願と同じように異常なまでの長寿ということになります。
実質的な讃岐秋山氏の祖になる泰忠について見ておきましょう
 泰忠は、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱の時期を生き抜いた武将のようです。長い従軍生活の中で、波瀾万丈の人生を送ったようです。彼の実戦での記録は、その片鱗が秋山家文書の中の4通からうかがい知ることができるだけです。秋山氏は、南北朝の争乱期には、北朝方として活動しています。泰忠は病弱の父に代わって、秋山氏惣領として一族と高瀬郷域の武士団を率い、畿内はじめ西国各地を転戦する日々を送ったのでしょう。
秋山文書から泰忠に関する文書を年代順に見ていきましょう。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)

①鎌倉時代末期の元徳三(1331)年十二月五日の年号が入った秋山源誓の置文です。
   本文             漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、   讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし (孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候(良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの  (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、(兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、 (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために(知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (誠めの条)(此の如し) 
                  秋山)源誓(花押)
  元徳三年十二月五日                 

置文とは、現在及び将来にわたって守るべき事柄を認めたもので、現在の遺言状的な性格を持つようです。財産相続なども書かれています。 この置文は、源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。
讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る

とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎に、譲られたことが分かります。しかし、これは現在のような土地所有でなく「下高瀬の地頭職」の権利です。
 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていたようです。その北側の高瀬郷(下高瀬)を孫次郎泰忠が相続したことになります。これは高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことを意味します。大見地区は、この時点では下高瀬に属していました。
 同時にこの史料からは源誓が、孫次郎泰忠の父も分かります。秋山氏の家系が
「祖父 阿願 → 父 源誓 → 子 孫次郎泰忠」

とつながっていたようです。
ところが後の秋山氏系図は先ほど見たように「父 源誓」を「病弱者」として無視し、祖父阿願から直接孫の孫次郎泰忠に相続されたとします。そして「父 源誓」の名前は系図からも抹殺されています。
1秋山氏の系図3
秋山家系図

この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
①「父 源誓」は日蓮信徒でなかったために秋山家の系譜から排除された
②泰忠の相続が孫に相続させるという異例のものであったために「祖父から孫」への「相続先例」を「創出」した
  これくらいしか今の私には、出てきません。系図上での「父 源誓」抹殺の背景はよく分かりません。 最後に

「もし後日に、この地頭職を悔い返す事態が起こったときには、兄弟に適任者がいたならば、申し出て知行するように」

と指示しています。ここからは孫次郎泰忠には何人かの兄弟がいたことが分かります。彼は次男であったようです。次男にもかかわらず秋山家の統領に就いています。
P1130054
孫次郎泰忠の墓(本門寺)
 秋山氏の所領開発は、どのように行われたか
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここからは、最初に拠点とした丸亀平野の下金倉郷と比べて、高瀬郷が未開発の土地で、しかも狭かったことがうかがえます。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため古代から放置されたままになっていた地域です。それならどうして、丸亀から下高瀬に拠点を移したのでしょうか。それが次の疑問となっていきます。それは「塩田開発」にあったと研究者は考えています。

三野町大見地名1
太実線が中世の海岸線

 秋山文書の中に「すなんしみやう(収納使名)・くもん(公文)・「たんところみやう(田所名)」といった地名が出てきますが、これは今も三野町内に残る砂押・九免明・田所です。この地域を中心に高瀬郷の大見地区の段斜面を開発したことがうかがえます。
 泰忠が相続したのは「高瀬郷の伊予大道より下半分」の「下高瀬」の土地です。そこには現在の大見も含まれていましたし、三野津湾沿いの「新浜」などの塩浜も地頭職分として含まれています。これが泰忠の領地的なスタートラインだったようです。この最少の土地を、甲斐からやって来きて以後、一族はじめ名主・百姓ら手で懸命に開発したのでしょう。そこには開発に携わった名主たちの名前が地名として残っています。
P1130055
孫次郎泰忠の墓 墓碑には延文4年日高大居士と刻まれてい


 秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここから秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾や宇多津の平山の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。このような経済力が泰忠の軍事活動を支える基盤となっていたのでしょう。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
P1130052
本門寺本堂
      足利尊氏下知案
②建武三年(1336)足利尊氏より勲功の賞として高瀬郷領家職があたえられた文書です。
1秋山氏 足利尊氏no高瀬郷領家職
   足利尊氏下知案(秋山家文書)
書き起こすと以下のようになります。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、
勲功の賞として宛行う所なり、
先例を守り、沙汰致すべし、
将軍家の仰せに依って、下知件の如し
   建武三年二月十五日
        (細川顕氏) 兵部少輔在御半
        (細川和氏 )阿波守   
   秋山孫次郎殿(泰忠) 
 二行目一番下は「依」で終わっています。そして三行目の「将軍家」と続きます。ここには一字空白があります。これをは「閥字(けつじ)」と云い尊称する場合に、一字から三字の空白、あるいは改行する「平出」によって尊敬の意を表する方法のようです。閥字より平出の方がより尊敬の意を表すといいますが、ここでは両方の方法が採られています。
 「領家」とは、土地の収益に対する権利の意味で、この文書全体の解釈は、合戦の功労賞として土地の収益に対する権利を与えるので、これまでの作法や先例をまもり、権利を執行しなさい」という意味になります。それを将軍足利尊氏に代わって、兵部少輔と阿波守が伝えるという形式です。
「下知状」とは末尾に「下知」と記されていることからきています。
 差出人の二人は、この時期に将軍足利尊氏から四国方面の代官として任されていたために、下知状の差出人となったようです。この後、両名は讃岐国守護・阿波国守護に任命されています。宛所の秋山孫次郎は、泰忠です。
 この文書の背景としては、前年の建武2(1335)年に足利尊氏は畿内から瀬戸内を経て、九州方面に逃走しました。この文書は、尊氏が再び上京するまでの間に、瀬戸内海沿いの武士団の棟梁たちにを味方に付けるために檄を飛ばした文書のようです。つまり、参戦して軍功を挙げれば「高瀬の郷領家職」を宛がうので軍を率いてやってこいということになるのでしょうか。もちろん、泰忠は、尊氏方について参戦したようです。
P1130061
本門寺境内の泉

その翌年の建武4(1337)に細川顕氏から秋山孫次郎泰忠に出された細川顕氏書下です。
原本は虫食いで上半分しか残っていませんが、江戸時代に書写された下の文書が残されています。

1秋山氏 細川顕氏から秋山孫次郎泰忠書下

細川顕氏書下(秋山家文書)
讃岐の国財田(の凶徒蜂起の由)、其聞え(之有るの)間、
(月城太郎次郎周頼、助房)宇足津に差し下す所(なり)、
(早く当国に下向せしめ、諸)事の談(合)に加わり、
(在国の一族相催し、且つ)地頭御家人
(相共に誅数に廻らるべきの□)状、此の如く候
建武四(1337)年三月廿六日
          (細川顕氏)
          (兵部少輔)
秋山孫(二郎殿)                   
(  )部分が江戸時代の書写から補った部分です
意訳しておくと
讃岐国財田で南朝方の凶徒が蜂起したと報告が入っている。
阿波の月城太郎次郎周頼、助房らに鎮圧を命じるように宇足津に指示している所である。
早く帰讃して、討伐軍に合流し、作戦計画に加わり、在国の一族を率いて地頭御家人が協力し鎮圧するように命じる。
建武四(1337)年三月廿六日
当時の足利尊氏の動きを年表で確認しておきましょう
1335年8月足利尊氏が征東将軍として鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。
1336年1月尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
2月足利尊氏が豊島河原などで敗北し、九州へ敗走。
  3月足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。
   4月足利方は仁木義長などを九州へ残して再び上京する。
   5月、足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。
     後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
   8月 光明天皇が即位して北朝が開かれる。
12月 後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開く。

この文書で使われている「建武四年」とは、北朝方の使用した年号で、南朝方はこの前年に「延元」という年号に改元しています。後醍醐天皇の檄により熊野行者たちが支援する南朝方に、阿波や財田の山岳武士団が呼応し、活動が活発化していた時期です。
「月城」は、現在は「つきしろ」ですが、阿波国の月成(つきなり)氏のことのようです。「宇足津」は讃岐国守護が居た場所で、守護所は円通寺付近にあったとされます。差出人の「兵部少輔」は、讃岐守護の細川顕氏です。
「財田凶徒」とは、徳島県の西野氏所蔵文書にも「財田凶徒」の記事が見えることから、南朝方の大規模な勢力であったようです。この時期の讃岐国では、南朝方の勢力が山岳地帯に拠点を持って活動していたことがうかがえます。
 秋山泰忠は、この書状を受け取った時点では讃岐国以外に転戦中だったことがうかがえます。足下の財田方面で南朝が蜂起したので、急いで帰国するように命じられていると解釈できます。それでは「財田の凶徒」の本拠はどこだったのでしょうか。また、その勢力は? このあたりもよく分かっていないようです。
  ここからは室町幕府の成立時に泰忠は足利尊氏軍に従い、国外に遠征していたこと。南朝勢力の蜂起に対して讃岐守護細川氏の命で動いていることは分かります。  

P1130059
本門寺境内

③観応二年(1351)には、細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職が兵糧料所として預け置かれた書状です。
1秋山氏 細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職g
細川頼春書状(秋山家文書)
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間、
兵糧所として、預け置く所なり、先例任せ、
沙汰致すべきの状、件の如し
観応二年八月十三日  (細川頼春)在御判
                   散位
秋山孫次郎(泰忠)殿
この文書は案文のようですが、直状形式で発給者が直接に秋山孫次郎(泰忠)に対して所領を預けています。文書が出された観応(1351)年は、讃岐武士団が細川頼春・頼有方(主に西讃地方)と同顕氏方に分立している時期で、中央では観応の擾乱が起こっていた頃にあたります。同じ年の9月5日付細川頼春預ケ状(紀伊国安宅文書)と同じ筆跡・スタイル・同じ署名なので、「散位」とは細川頼春で、観応の擾乱の働きに対する恩賞と研究者は考えているようです。
 秋山氏が総領・泰忠の下に、讃岐守護細川氏に従って武功を上げていった結果としての恩賞のようです。足利尊氏から細川頼春・頼有と、「勝ち馬」に乗り続けることによって、秋山氏は三野郡での権益を着実の拡大していたようです。
 ここまで泰忠は、現役であったようです。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
このように歴戦の強武者として活躍した泰忠も、ようやく引退の時を迎えます。
しかし、必ずしも平穏の毎日ではなかったことが、残された11通の置文・譲状から見えてきます。その最初のものは、文和二(1353)年の置文と譲状です。以後足掛け23年以上の間、合戦による傷に痛みながら時に病床にあっで老骨に鞭打ちつつ置文を書き続けています。老後の泰忠が、子や孫たちに何を言い遺したかは、また別の機会に見ることにします。
P1130058
泰忠墓碑の裏面 平成になって改修されたことが分かる

 以上をまとめておきます
①西遷御家人として元寇後に讃岐にやってきた秋山氏は最初は那珂郡金倉郷に拠点をおいた。
②3代目秋山泰忠の時に高瀬郷に拠点を移し、氏寺として日蓮宗本門寺を建立した。
③秋山氏は下高瀬を中核として、塩田開発になど周辺地域に勢力を伸ばした。
④塩生産が秋山氏の財政基盤と成り、南北朝の軍事行動や、本門寺創建などの資金となった。
⑤そして、室町期には細川氏の被官として、国人へと成長を遂げてきた。
⑥しかし、分割相続に伴い一族間の抗争が繰り返されるようになり、所領の細分化が進み、その勢力は衰退していく。
⑦それに引き替え、香川氏は西讃守護代として守護細川氏に代わって勢力を伸ばし、細川氏の御料所を押領するなど戦国大名化への道を歩み始める
⑧戦国期になると、秋山氏は細川氏の被官から香川氏の家臣へと転化する。

最後まで おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①

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三野町大見地名1
太実線が中世三野津湾の海岸線

古代中世の三野湾は大きく湾入していて、
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
などは、以前にお話しました。海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。
 今回は旧三野湾周辺のお寺やお堂に残る中世の仏像を訪ねてみることにします。テキストは「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」です。訪ねるのは次の5つです
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
 まず三野湾を眺め下ろす天霧山の中腹に位置する弥谷寺です。
この寺は西讃岐守護代で天霧城主であった香川氏の保護を受けて中世は栄えていたようですが、香川氏の滅亡と共に伽藍を焼失したとと伝えられます。そのためか古い仏像はほとんど残っていませんが、平安前期十世紀に遡る一木造の吉祥天立像と、鎮守堂に寺の守護神として祭られてきた異仏が中世に遡るようです。
異仏とは、蔵王権現と伝えられてきましたが、どうもそうではないことが分かってきたようです。

弥谷寺 深沙大将椅像

吠えるように大きく口を開け、両目を見開き、髪を逆立て、そこから七匹の赤い蛇が頭をもたげ、左手を前に、右手は、やや後ろに引いて岩の上に坐しています。そして手首・足首には蛇が巻きつき、首には欄骸が飾られた、極めて異形の像です。この像こそ、はるか昔、唐の玄実三蔵(三蔵法師)が仏典を求めてインドヘ行く途中、砂漠の中で難渋していた時、出現し三蔵法師を救ったという深沙大将なのです。ヒノキ材、寄木造り、彫眼の像で彩色が施されています。

弥谷寺 蛇王権現の足

頭部と体部を同じ木から造り出すことや力強い表現など、この像が平安時代中期(十一世紀初期)に作られたことが考えられます。
 旧三野町の報告書はこれを深沙大将像とします
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

そして全国でも数体しか残っていないもので、さらにそれらの像はすべて立像で、岩座に坐るのは本像だけという極めて珍しい像とします。しかし、その後の県の調査報告書は「蛇王権現」とされています。それについては、以前お話ししましたので省略します。
この仏像については専門家は次のように評価しています。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

忿怒の異形相にもかかわらず、全体に優美に彫り整えられた作風は中央仏師のそれをうかがわせる。十一世紀初の作品で当時、中央の造仏界を取り仕切った仏師康尚、もしくはその周辺の手になると思われる。康尚は、日本の彫刻崚上もっとも著名な仏師の一人である定朝の父もしくは師匠と伝えられ、平安時代後期における同寺の中央との直接的つながりを物語る。

 中央の仏師によって造られたものが弥谷寺に安置され、今に伝わったもののようです。

釈迦如来坐像  定朝様式の釈迦如来 西福寺
弥谷寺から流れ出す小川を下って行くと、大見に大屋敷という集落があります。このあたりは、中世に西遷御家人・秋山氏によって開発されたと考えられる地域であることは以前にお話ししました。ここに小さな御堂があります。かつては西福寺という寺があって、それを引き継いだようです。この御堂の本尊として祀られるのが、釈迦如来坐像です。
三豊市西福寺 阿弥陀如来像
定朝様式の釈迦如来 西福寺
両手の指は繊細でしなやかさが感じられます。指先まで当初のものとみられるようです。右手を施無畏印(せむいいん)、左手は与願(よがた)を示した釈迦如来坐像です。
 頭髪部には螺髪が細やかに刻まれ、お顔は優しい目とふっくらとした頬など静やかに表されています。肩部はなだらかな曲線を帯び、膝の高さは低くし、そこに浅く流れるような衣文が劾まれています。このように優美な仏像は、平安時代後期に大仏師・定朝一によって確立されたものです。
定朝が造った著名な仏像に、平等院続鳳凰堂の丈六(一丈六尺)の阿弥陀如来坐像があります。この仏像は「仏の本様」といわれ、平安時代後には同じような姿の仏像が全国的に数多く造られました。
 西福寺の釈迦如来像も、この定朝様を踏襲したものです。制作時期は、平安時代末期(十二世紀)で、像高53㎝、ヒノキ材の寄木造り、彫眼の像で、それほど大きくはありませんが均斉のとれた見事な像です。
  この仏像も中央の工房で造られたものが三野津湾を拠点に活動する交易船によてもたらされたと考えることができそうです。なお台座裏の墨書により‐江戸時代前期、貞享五(1688)年に修理されたことが判明します。それ以前から、ここに安置されていたことになります。
三豊市西福寺 誕生仏
釈迦誕生仏(西福寺蔵)
もうひとつ西福寺像として、伝えられているのがこのブロンズ像です。
右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたという、釈迦誕生を表しています。誕生釈迦仏立像は9、1㎝の小さな仏像でスリムですが、胸から上に厚みがあります。柔和な表情に白鳳仏の趣があると専門家は評します。白鳳か天平時代のもので、非常に珍しいもののようです。
こんな小さな仏がお寺に安置されて信仰の対象となっていたのでしょうか?
どうもそうではないようです。個人の持仏だったようです。
 古くから、四月八日のお釈迦様の誕生日に、小さな釈迦誕生仏を季節の椛で飾り、甘茶を潅いで釈迦の誕生を祝う「花まつり」が行われた来ました。その時の主役が、誕生仏だったようです。
もう一度、像を見てみると、右手の親指、人差指、中指を伸ばし、左手の指を全て真っ直ぐ伸ばすこと、蓮肉と本体を共鋳すること、細身の体型であることなど、古代の誕生仏の特徴を示しているようです。疑問になってくるのは、その頃に、このあたりにで古代寺院が建てられていたのでしょうか。前方後円墳も大型石室を持つ古墳もない旧三野湾エリアでは考えられません。後世になって伝来した可能性が高いようですが、詳しいことはよく分からないようです。

    毘沙門天立像(宝城院蔵) 
次にやってきたのは貴峰(とみね)山の麓の宝城院です。
この寺はすぐそばの日吉神社を、はじめ周辺神社のいくつかの別当寺を務めていたようです。そのため明治維新の神仏分離の廃仏毀釈を逃れて避難してきた仏像がいくつか集まってきています。
 宝城院(本尊・毘沙門天)の寺号は、多聞寺です。多聞とは仏教世界の北方を守護する多聞天のことで、別名を毘沙門天とも呼ばれます。多聞寺の寺名は、本尊が毘沙門天に由来するようです。
 毘沙門天は古代インドでは暗黒界の悪霊の長とされましたが、ヒンズー教に取り入られ財宝・福利を司る善神となり、さらに仏教にも加わりました。悪神が後に、善神に転じて信仰の対象になることはよくあることです。菅原道真や崇徳上皇の怨霊が後には、天神や天狗として祭られるようになるのと同じなのでしょう。毘沙門天は仏教に取り入れられてからは、四天王のひとつとして、北方の守護神となり、やがて七福神のメンバーにもなります。そして、独り立ちしてもやっていける「集客力」を持った天部の仏に成長していきます・

それでは、宝城寺の本尊である毘沙門天を見てみましょう。
三豊市  毘沙門天立像(宝城院蔵)

なにかしらずんぐりむっくりした印象を受けます。鎌倉期の写実的で動的な天部の様相を見なれているので、最初は違和感を感じます。専門家の言葉をもう一度読み直しながら見てみます。

高78、8㎝でカヤと思われる一木造りカヤ材の一本からほりだされている。直立した姿形や宝冠を共木で彫出するなど古様な造りで、やや寸詰まりであるが、その比較的太造りの体型に十一世紀後半から十二世紀初頃の傾向がうかがえる。直立し右手に戟(欠失)、左手に宝塔(後補)を持つ毘沙門天、平安時代後期に遡る古像。両手や右一肩などに後補がみられ、また各所一に虫・損がみられる。

この動きのないむっくり感が鎌倉以前の天部の「古用」の特徴のようです。

汐木観音堂の観音菩薩像
高瀬川河口の西側には汐木山があります。古代・中世を通じて、この山の周辺では製塩が行われていたようで、その薪確保の権利が保障されていた山だとされています。また、近世以後に三野津湾が干拓された後には、この地に汐木湊が造られ、年貢米の集積・積出港として繁栄したエリアです。その面影が大きな灯籠(灯台)や背後の荒魂神社に残っています。
 ここには汐木観音堂というお堂が残っていて、そこに鎌倉期十三世紀中頃の観音菩薩像が安置されています。
三豊市 汐木観音堂の観音菩薩像

この仏像も観音様にしては、私が見なれた観音とは何かしら印象が異なります。しかし、専門家は次のように評します。
 宝冠の文様や頭髪の毛筋など細部をゆるがせにしない製作態度、およびその甘さをふくむ端正な顔立ちに秀逸さをみせ、中世金銅仏のなかでも特に優れた作例のひとつといえる。腹前で右手を下にし、その上に左手を乗せた姿も珍しい。
頭部に戴いた宝冠の正面に如来形は、信濃・善光寺の本尊である阿弥陀三尊の観音菩薩に見いだすことができる。
と云います。どうやらこの観音様は信濃・善光寺の阿弥陀三尊の様式の脇仏のようです。善光寺の阿弥陀三尊は、鎌倉時代になり全国的な流行になったようで、それを模した像が数多く造られます。その多くは鋼製で阿弥陀如来が像高を約一尺六寸、両脇侍は約一尺弱のタイプが多かったとされます。この観音菩薩も、その広がりの中で鎌倉時代後期に造られた善光寺式の阿弥陀三尊のひとつのようです。元来は鍍金され金色に輝く姿で、勢至菩薩とともに阿弥陀如来をお守りする三尊だったのでしょう。
長野市の善光寺で御開帳始まる/前立本尊に参拝者ら感嘆 | 御開帳で姿を現した本尊の分身仏「前立本尊」=5日午前、長野市の善光寺 | 四国新聞社
善光寺の前立 阿弥陀三尊
 しかし、なぜこの観音菩薩だけが、ここに残されているのでしょうか。詳しいことは分かりません。分かっているのは「仏像」たちも旅をし、移動することです。戦国の戦乱の中で焼け出された仏たちは、旅の修行僧に背負われ安息地を求めて移動します。遠くの港に出向いた梶取り(船長)は、実入りのいい航海の時には立ち寄った港にある衰退したお寺から仏像を買い求め、生国にお土産として持ち帰り、信仰するお寺に寄進することもありました。どちらにしても寺勢のあるお寺には仏さんたちが集まってくるようです。

最後は正本観音堂の十一面観音像です
  現在の正本観音堂は、かつて宝宮寺という寺院であったといいますが、詳しい寺歴は分かりません。  まずは専門家の評価を見てみましょう
三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

像塙107、3㎝でヒノキ材による寄木造り、かつ素木仕上げからなる檀像仕立ての像である。下半身にまとう腰布、腰帯などを複雑に折りたたむ形式、および頂上仏面の、清涼寺式釈迦のそれと同じ髪形はいわゆる「宋風」の影響を想わせる。現在は左上瞼が欠けるためその印象をやや損ねるが、総じて彫技は鋭く、また流麗である。年代も十三世紀前半を下らず、同期造像中の逸品とみて異論はないだろう。


先ほどの汐木観音と同時代の作品ですが、見なれた感じで親近感の持てる観音様です。頭部に10面の面があるので11面観音と分かります。左手に水瓶を持ち、右手はすっと下に下ろし、スラリとした姿が印象的です。
三豊市 正本観音堂の十一面観音像2
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)
卵形のお顔に、キリリとした目の表現やキュツと結んだ目元など引き締まった感じで、「美形やな」と呟いてしまいます。

以上、旧三野津湾沿岸に残る白鳳から鎌倉期におよぶ仏像を見てみました。伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているような気が改めてしてきました。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「三野町文化史1 三野町の文化財」 三野町教育委員会 平成17年」


前回は三野湾の大見・下高瀬・吉津の3つの地区の特徴について見てきました。今回は、中世の秋山家文書に見える地名を通じて、三野湾の復元に取り組んだ研究を見ていくことにします。テキストは「山本祐三  三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名 三野町の中世文書」です
西遷御家人・秋山氏の讃岐への移住について
 鎌倉幕府は元の再来に供えて、西国防衛力のアップという名目で西遷御家人を西国の要衝に送り込みます。三野湾の入口に位置する高瀬郷に、甲斐国からやってきたのが秋山氏です。西遷御家人は、東国での新田開発を通じて、高い治水・灌漑技術を持っていた技術者集団でもあったようです。地頭として入ってきた地域の未開発地域を積極的に開発していったことは以前に、土器川周辺の法勲寺地区で見た通りです。
 秋山氏が取り組んだのは、下高瀬郷の大見地区の谷田の開発です。中世を通じてこの地区は、谷田が開かれていきます。そのため開発名主の名前が今でも地名として残っているところが数多くあります。大見地区の農業生産力は、この時期に急速に高まります。その発展を背景に、大見は下高瀬より分離・独立していったようです。ちなみに大見の一番大きな水源が天霧山になります。そして、ここには死霊の赴く山として弥谷寺があります。この山が古くから霊山であったことがうかがえます。
 大見という地名が文書の中に表れるのは、南北朝期以後のことで、秋山家文書中の応安五(1372)年、沙弥日高(秋山泰忠)置文(遺言状)に、譲る所領の境を次のように記しています。
「 さかいの事ハ(境の事は)
ひかし(東)ハ 大ミ(大見)のさかい(境)を あさつ(朝津)の山をくたり 
にし(西)ハ たくま(詫間)のさかう(境)まつさき(松崎)まて  しうき(塩木)のミね(峰)をさかう(境)なり 
又みなミ(南)たけか(竹包)の志ちたん(七反)あまりゆつ(譲)るなり

これが大ミ(大見)が記録に出てくる最初のようです。相続させるエリアを次のように示しています。 
①東は朝津山を大見との境 
②西は詫間の境である松崎ー塩木山(汐木山ではない)まで
③南は竹包の七反地
このエリアを大見から分割して相続させたのでしょう。

三野町大見地名1
 
その約200年後の永禄三(1560)年、香川之景知行宛行状に
「替わりとして大見の内 久光・道重両名(久光・道重の名田)を扶持せしめ候」

と出てきます。ここでは大見という漢字になっています。南北朝期や戦国期に大見という地名が使われていたことが分かります。
下高瀬については、前回も触れましたので省略します。

吉津については、寛治三(1089)年の浪打八幡官(詫間の浪打八幡神社)放生会頭人番帳写(片岡家所蔵文書)に、
吉津・詫間・仁尾分 十二年廻」

として36名の頭人があげられています。その中に吉津が見えます。
 また貞治六(1367)年の宮年中行事番帳写(同前)にも
「吉津日天寺・吉津大光寺・吉津多門坊」
とあります。さらに明徳二(1391)年の宮放生会駕輿丁次第写には、吉津正元以下五名の名が挙がっています。ここからは平安時代末期には、吉津の地名が文書に残っていることが確認できます。吉津は、古代の行政区分からすると詫間郷に属していました。そのために、詫間郷の郷社的な存在であった波打八幡神社の氏子となっていたようです。吉津と下高瀬は行政区分が異なっていたという点は抑えておいた方がよさそうです。
 吉津の地名由来は、この地の海岸沿いに葦(よし)が生えていた津(港)であったことによると云われています。あるいは「良津(港)」が転じて吉津となったとも伝えられます。

三野湾に残る中世関連地名をもう一度見てみましょう
1 三野町中世地名

研究者が秋山家文書から抽出した中世地名が、地図上に赤字で示されています。番号中に見ていくことにします
①大道(おおみち)
 秋山家文書(1331)年の文書の中に、父の秋山源誓が子の秋山孫次郎泰忠に地頭職を譲る置文(遺言状)の中に「大道」が次のように出てきます。
 「さぬきのくにたかせのかうの事 (讃岐の国高瀬の郷の事)、
いよたいたうより志もはんふんおは(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし(孫次郎泰忠譲るべし)」
 
高瀬郷の下半分、つまり今の下高瀬地域を子(泰忠)に譲るというものです。伊予大道は、善通寺から鳥坂峠を越えて、現在の国道11号沿いに高瀬を抜けていきます。近世の伊予街道と重なる部分の多いルートです。かつては、この道が南海道とされていた事もありました。しかし、現在では南海道は飯野山の南を真っ直ぐに西進し、善通寺の四国学院のキャンパスを通過し、大日峠を越えて高瀬を横切って六つ松に至っていることが分かっています。伊予大道は、古代末から中世以後に整備されたと研究者は考えているようです。
 この文書にあるように高瀬郷は、14世紀前半に伊予大道を境に南北に上下に分けられたことが分かります。同時に、この伊予大道(いよだいどう)が、現在の大見にある大道の地名に残されているのではないかと研究者は考えているようです。
②砂押(すなおし) 
「かさねてゆつりおく  (重ねて譲りおく)、
そうりやうまこ四郎に  (惣領孫四郎に)
たかせのかうのすなんしき(高瀬の郷の収納使職)」

これは秋山家文書中の永和一(1376)年の文書です。秋山泰忠が、孫でありながら嫡子として惣領にした孫四郎に所領を譲った置文です。泰忠は、置文(遺言状)を12通も残しています。いろいろと気がかりで心配なことが次々と出てきたのでしょう。その度に、新しい置文を書いたようです。ここには、高瀬郷の地頭職(収納使職=すなんしき)を惣領孫四郎に譲るとあります。「収納使職」が訛って「砂押」になったようです。
 「あさつの山(浅津の山)をくたり(下り)」の東側とあるので、現在の砂押の位置関係と合います。現在の大見小学校の南側にあたる地域です。惣領家に継承されたのですから重要なエリアであったことがうかがえます。ここを拠点に大見開発が進められたのかもしれません。また周辺には
「大見浜・浜堂・塩焼田・浜・蟹田地」

という地名が残ります。三野湾が入江となって直ぐそばにあったようです。塩焼田という地名からは、塩業が行われていたこともうかがえます。
 秋山氏の居館がどこにあったかは分かりませんが、有力候補地と考えられる地区です。

③九免明(くめんみょう) 
秋山家文書中に九免明(くめんみょう) は出てきません。この地名は公文名に由来し、高松市新田町に公文名、まんのう町にも公文の地名が残ります。公文は、荘園の記録・文書など公文書を取り扱っていた役所があった所です。その役所が名田と呼ばれる私有地を持っていて、その土地からあがる収入を役所の費用に充てていました。つまり公文名とは公文の名田という意味で、後には名主そのものを指すようにもなるようです。高瀬郷の公文の名田がここにはあったとしておきます。そして、公文名が九免明に転訛したと研究者は考えているようです。
④道免(どうめん) 
似たような地名に道免があります。位置的には大道の近くになります。大道の管理維持のための経費を当たられた免田(年貢を免除された田)が設けられました。その代償に、官道である大道の改良工事などに労働力や資材の提供を求められたのでしょう。同じような地名に道免と南原の間に坂免(釈迦免=しゃかめん)がありますが、詳細は不明です。

⑤田所(たどころ)
大化改新以前の豪族の私有地として田荘がありましたが、大化改新により廃止されたと云われます。田所は、これに関連するものではないかとも思われますが、よく分かりません。
⑥法華堂(ほっけどう) 
秋山家文書中の秋山一忠自筆之系図に
「下高瀬法花(華)堂 久遠院 ゐんかう(院号)高永山 さんかう(山号)本門寺 じかう(寺号)」

と出てきます。中世には本門寺は法花堂と呼ばれていたようです。法花堂が中核施設であったことがうかがえます。 本門寺は、高瀬郷を領した秋山氏が創建された西国で最も古い日連宗寺院です。地元では高瀬大坊のと親しみを込めて呼ばれています。

 建武元(1334)年 祖父と共に讃岐にやって来た秋山泰忠は、晩年になって、日仙を招き法華堂を建立します。これが現在の本門寺です。
4 塩飽大工 本門寺

本門寺を中心にして、法華宗は周辺に広がっていきます。これは、全国的にも早い時期の日蓮宗の布教形態です。秋山氏の氏寺として本門寺は創建され、発展をしていきます。
 泰忠の祖父阿願は法華信仰に深く、帰依していたようです。泰忠はその影響を受け、小さいときから法華信仰に馴染んでいたのでしょう。故郷の甲斐国を離れ、幼くして遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経への信仰心を深めていったのでしょう。彼は晩年に置文(遺言状)を12も書いていますが、その中にも子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。このように秋山泰忠により本門寺は創建され、秋山一族の保護の元に領民に法華宗が広められていきます。これが後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立する背景のようです。その出発点となるのが、この法華堂のようです。
4 塩飽大工 本門寺2

⑦原(はら)・樋之口(ひのくち) 
秋山家文書中の香川之景(天霧城主)知行宛行状に
「三野郡高瀬郷水田分内 原・樋口、三野掃部助知行分並びに同分守利名内、真鍋三郎五郎買徳の田地」

とあります。永禄四(1561)年の文書で、原・樋口・守利の地域にある土地を合戦の恩賞として天霧城主の香川氏が秋山兵庫助に与えたものです。ここに出てくる原は、現在の大見の原で、樋口は下高瀬の樋口と研究者は考えているようです。
原は現在は原・小原・原上・下原・原南等に分割されています。また大見原と下高瀬原に分けて呼ばれたりもしているようです。
 また樋口については下高瀬に中樋・樋之前・樋之口がある。樋口は現在の下高瀬小学校や百十四銀行の周辺で、旧三野町の中心地になります。三野町役場そばの橋は三野橋といい、その一つ上流の橋は樋前橋と呼ばれています。守利(もりとし)については、これがどこに比定されるか分かりません。
 この文書からは戦国時代には、秋山氏は守護代の香川氏から恩賞をもらう立場にあったあったことが分かります。つまり香川氏の家臣団として、軍事行動に参加していたようです。
⑧東浜(ひがしはま)・西浜(にしはま) 
中世三野湾 下高瀬復元地図


秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に
「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事
右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、
一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

とあります。親の泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。泰忠は、本門寺を建立した人物です。泰忠の息子たちの世代に移り変わっています。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここからも秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
 この文書からは泰忠の所領が、三人の息子に分割相続されていたことが分かります。この分割相続が秋山氏の力を弱めていくことになるようです。経済的に立ちゆかなくなった惣領家は、大事な土地を切り売りしていることが残された文書からは分かります。

⑨打上(うちあがり)・竹田(たけだ)
 
中世三野湾 復元地図

秋山家文書中の香川之景判物に
一 三野野郡打上の内 国ケ分 是は五郎分なり・・・
一 同郡高瀬の郷の内 武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳、有坪かくれなく候」
とあります。天霧城主で守護代の香川之景が帰来善五郎に打上と武田の土地を所領として安堵した文書です。打上は葛山(前山)の麓の地区で、高瀬町新名と三野町吉津にまたがります。現在の高瀬ー詫間線が通っている地区です。葛山の南麓の打上から新名村西下にかけての地区は、江戸時代初期に新名新田として干拓されるまでは浅海でした。満潮時には打上のあたりに海水が打ち寄せていたと云われます。そのため湿地帯で、耕作には不適な土地でした。
 武田は現在の大見の竹田のことのようです。
 秋山家文書中の泰忠の置文には、次のような多くの名前が付いた名田が出てきます。
あるいハミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハなか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハとくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハのふとしミやう (あるいは延利名)
又ハもりとしミやう   (又は守利名)
又はたけかねミやう   (又は竹包名)、
又ハならのヘミやう   (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」
とあります。多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。しかし、その多くは近世の検地実施と共に消えていったようです。
久光(ひさみつ)・道重(みちしげ) 
秋山家文書中の香川之景知行宛行状(永禄三(1569)年に、次のようにあります。
「替わりとして大見の内久光・道重両名扶持せしめ候」
と見えます。
これも久光とか道重という名前の名主がいて、ここは私(久光)の土地ですよ、とか、ここは私(道重)の土地ですよ、と標示した名残なのでしょう。それが地名となって中世に使用されていた名残です。
 豊中町の比地大にある友信や石成も、友信という名前の名主が持っていた名田、また石成という名前の名主が持っていた名田であったと伝わる集落です。これらの村を名田百姓村と呼びます。
1名田百姓村

大見あった久光・道重は、今はそれに当たる地名が見当たりません。小地名や小字名あるいは屋号等に残っているかもしれませんが、それは今後の課題となります。
重光(しげみつ) 秋山家文書中のちやうほうらうとう売券に
「さぬきのくにたかせのかうのうち 志けみつのまへらうとう」

あります。ちやうほうは秋山長房とも考えられ、長房が「志けミつ」の地を誰かに譲り渡した、というものです。「志けミつ」を漢字変換すると「重光」が考えられます。前後関係から重光は旧高瀬町と旧三野町との境あたりにあった地名と考えられるようです。

以上、秋山文書に現れる中世地名を追いかけてみました。復元地図と併せながら見ていくと、面白い発見がいくつもあります。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三  三野町の地名を考える ―中世関連地名と海岸関連地名
         
三野町の中世文書所収

 
古代三野湾1
                
三豊市の古三野湾をとりまく古代史については、以前にお話ししました。改めて確認しておくと
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。
今回は中世の三野湾について見ていこうと思います。
三野という地名の由来は、古代律令制下の郡名からきているようです。古代の讃岐国には11の郡がありましたが、その内の一つが三野郡です。三野郡は
勝間・高瀬・熊岡・大野・高野・本山・詫間の七郷

からなっていました。現在の三豊市のエリアとほぼ重なることになります。三野湾をとりまく旧三野町は、昭和三十(1955)年に大見・下高瀬・吉津の三つの旧村が合併してできた町でした。大見・下高瀬地区は、高瀬郷、吉津地区は詫間郷に属していたようです。つまり、古代の三野郡と戦後にできた三野町とはまったくエリアが異なることを初めに確認しておきましょう。その上で、旧三野町の大見・下高瀬・吉津の地域を見ていきましょう。
下高瀬は、高瀬郷が二つに分けられた片方です。
鎌倉時代末期の元徳三(1331)年の史料(秋山家文書)に、
「さぬきのくにたかせのかうの事、いよたいとうよりしもはんぶんおは、まこ次郎泰忠ゆつるへし」
漢字に置き換えると
讃岐国高瀬郷の事、伊予大道より   下半分をば   孫次郎泰忠に譲るべし

となります。高瀬郷を支配していた秋山家の当主・源誓が、息子の孫次郎泰忠へ地頭職を譲る際に作成した文書です。ここからは、次のような事が分かります。
①伊予大道が高瀬郷を貫いていた
②「伊予大道より下半分」の所領が孫次郎に譲られた
これで伊予大道を境にして、高瀬郷が上下に区分されたことになります。つまり上高瀬・下高瀬が生まれたようです。上下のつく地名は、各地にありますが、街道や河川を境に分けられた地名のようです。上高瀬は高瀬町、下高瀬は三野町に属していますが、高瀬と名がつけばどちらも高瀬町だと思ってしまいます。

 次に大見地区です。
この地区は、中世には高瀬郷に含まれていました。そのため中世の下高瀬というのは大見地区も含んでいたようです。
 秋山家の源誓が、息子の孫である泰忠に譲った所領は、大半が三野町域にあったようです。例えば、
「すなんしみやう(収納使名)」
「くもん(公文)」
「たんところみやう(田所名)」
は、大見地区に見る砂押・九免明・田所が比定できます。
 最後に吉津地区です。
詫間町の浪打八幡宮の年中行事番を示した南北朝期の史料(宝寿院文書)に、「吉津」の地名が見えます。吉津は、詫間とや比地と同じグループで、詫間郷に属していたようです。
以上から中世と現在の行政地域とは、まったく異なることが分かります。行政区域は、人為的に後世に引き直されることが多々あります。丸亀藩と高松藩の「国境」などもその例かもしれません。人間が勝手に行政区域を設定しても人や物の移動は、地域を越えて行われます。行政単位で見ていると、見落とす事の方が多くなります。

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。
さぬきの国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつと申す津」に上陸したこと分かると同時に、三野に港があったことも分かります。

中世三野湾 復元地図
太実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 
三野町の中世文書より

吉津には「津の前」という地名が残ります。これは港湾施設に関係する地名と研究者は考えているようです。また「東浜・西浜」もあります。これは、この地域が砂浜であったことがうかがえます。津ノ前から東浜・西浜を結ぶラインが、海岸線であったようです。中世の三野津湾の海岸線を示したのが上図ですが、大きく南の方へ湾が入り組んでいたことが分かります。その奥まったところに港が建設されたようです。ここから宗吉瓦窯で焼かれた瓦も藤原京に向けて積み出されていたと研究者は考えているようです。

古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し

私は、津嶋神社のある津嶋に古代の港があったのではないかと思っていたのですが、「津の島」は津(港)に入るための目印の島と研究者は考えているようです。
  
讃岐では古くから塩が作られてきました。讃岐の生産地を見てみると。
①九条家領であった庄内半島の三崎荘
②阿野郡林田郷の潮入新田が開発され塩浜造成
③石清水八幡宮の神事に用いる塩が小豆島肥土荘で生産
④塩飽でも盆供に用いる塩が生産され、年貢として貢納
三野湾でも中世には塩田があったことが史料に見えます。
 秋山泰忠の置文(秋山家文書)の中に、次のように塩田が登場します。
「ははの一こはしんはまのねんく又しをのち志をはしんたいたるへし」
漢字に変換すると
「母の一期は新浜の年貢、又塩の地子をば進退たるへし)」

と、母の供養には、新浜の年貢や、塩の売上金を充てなさいと、指示しています。ここからは秋山氏が「新浜」に塩田を持っていたことがうかがえます。塩の売買という農業収入以外のサイドビジネスを持っていたことは、秋山氏の経済基盤強化には大いに役立ったことでしょう。また、塩の輸送を通じて、瀬戸内海交易への参入も考えられます。
しかし「しんはま」が、どこにあったのかは分かりません。新しい塩浜という意味で、それ以外の海浜ではもっと早くから製塩が行われていたのかもしれません。それが先ほど見た「東浜・西浜」なのかもしれません。
 塩浜があったとすれば、塩作りには燃料となる材木が必要になります。この材木を供給する山を塩木山と呼び、塩浜の近くに確保されていました。東浜・西浜の付近で材本を提供できる山を探してみると、吉津の北に「汐(塩)木山」があります。この山が製塩に使用する材木を供給した塩木山であったと研究者は考えているようです。
 三野湾周辺は、古代後半には開発が急速に進み、宗吉窯や製塩の操業のために燃料となる木材が周辺の山々から切り出されます。禿げ山化した山からは大量の土砂が三野湾に流れ込むようになります。それが急速に三野湾に堆積していったことは以前にお話ししました。古代に環境破壊問題が三野湾には起きていたのです。
もう一度、中世地形を復元しながら三野湾周辺の地名を見てみましょう。
大見地区は砂押・九免明・田所といった地名がありました。これらはいずれも農村から税を徴収する機構や年貢請負人の役職名に由来する地名です。弥谷山系と貴峰山とに挟まれた谷筋を水源として早くから田畑が開かれていたようです。中世では、農地を切り開くにはまず水の確保が必要でした。山間部で、不便と思われる谷筋ですが、湧き水などを確保しやすいので、大きな労働力が組織できない中世では「開発適地」だったようです。谷筋を水源とし、そこから引いた水で山裾の田畑を潤すという灌漑方法です。秋山氏が所領として、開発していったのは大見地区と研究者は考えているようです。大見地区が先進地域でです。
ところで、この水田では、どんな米が作られていたのでしょうか? 
 永和二(1376)年の日高譲状(秋山家文書)の中に、次のように生産米が記されています。
「たうしほふつかつくり候た、にんかうかちきやうせしかとも、ちふんやふれてもたす」
漢字変換すると
「唐師穂仏禾作り候田、日高か知行せしかとも、地文破れて持たす」
とあります。
「唐師穂を作っていたが、日高(秋山泰忠)が所有していたが、土地が崩壊して栽培出来なくなった」
というのです。
唐師穂とはインディカ種赤米のことで「大唐米・とうほし(唐法師)・たいまい」などと呼ばれていたようです。この赤米は旱魃に強く、地味が悪くても育つので、条件の悪い水田で古代から栽培されていました。
赤米

十五世紀中頃の『兵庫北関入船納帳』にも、讃岐船が大量の赤米を輸送していた事が記録されています。赤米は、干害に苦しむ讃岐の「特産物」となっていたようです。この赤米が日高(秋山泰忠)の所有する土地で作られていたことが分かります。耕作地は、「すなんじき(収納使職)」で、すなわち砂押地域のことです。この赤米耕作地が「ちぶんやぶれ」(土地の状態が変化し)たため耕作できなくなったというのです。その理由は分かりませんが、自然災害かもしれません。

今までの情報をまとめて、もう一度、下高瀬地区を見てみましょう。
中世三野湾 下高瀬復元地図

下高瀬は、現在はその真ん中を高瀬川が流れています。しかし、古代・中世は西浜・東浜まで三野湾が入り込んできていたことを先ほど見てきました。現在の本門寺の裏あたりまでは海でした。三野中学校は、海の中だったのです。高瀬川周辺は、塩田・瓦窯の操業に伴う木材伐採で、洪水による氾濫が多発化し、田畑は度々流失したようです。葛の山より北の河口部分は、デルタ地帯で、荒地が多かったと研究者は考えているようです。下高瀬地区が現在のように水田化されるのは、江戸時代になって千拓と灌漑設備が整備された後のことになります。
 高瀬川の河口には塩浜が形成され、製塩業者がいました。また本門寺の創建以降は、その門前には寺に関わる職人や商人が門前町を形成します。大見という地名は、史料上では南北朝期から見えます。ここは、先ほど見たように下高瀬地区に含まれていました。大見村が形成されていくのは近世になってからです。

吉津地区にも「津の前」という地名が示す通り海岸線が入りこんできて、当時は水田はほとんどありません。
中世三野湾 吉津復元地図

七宝山の麓に畑地が形成されただけで、水田は未形成だったと考えられます。ただ、港があったことから海に関わる仕事に従事する人たちがいたようです。「兵庫北関入船納帳』では、仁尾から多量の赤米が輸送されています。三野地域で生産された赤米が七宝山を越えて仁尾まで運搬して積み出したと考えるより、吉津の港へ仁尾輸送船がやってきて、そこで赤米を積み込んで輸送したと考える方が合理的です。仁尾湊の輸送船は、三野地区を後背地にしていたと考えられます。

 大見・下高瀬・吉津の三地区の中で、農業生産力が最も高かったのは大見地区でしょう。しかし、ここでも赤米栽培が行われています。大見以上に劣悪な土地であった高瀬川河田部分や吉津の畑地では、当然赤米が作られていたと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①古代・中世の三野湾は南に大きく入り込んで本門寺の裏が海であった。
②大見地区は秋山氏が西遷御家人としてやってきて開発が行われた
③大見地区の新浜では、秋山氏が塩田を経営していた
④伊予大道を境に、高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分けられた
⑤下高瀬には秋山氏の氏寺である本門寺が建立され、門前町も形成され地域の中核となった
⑥吉津は目の前まで海で、中世には水田はほとんどなく畑作地帯であった。
  おつきあいいただき、ありがとうございました。

橋詰茂     中世三野町域の歴史的景観と変遷   三野町の中世文書所収

      
三野平野2
前回に続いて、三野郡を見ていきます。まず復元図からの古代三野郡の「復習・確認」です
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。それが7世紀後半になると、時代の最先端に並び立つようになります。
三野郡発展の原動力になったのが窯業です。
このエリアには、火上山西麓を中心とした地域(三豊市三野町)と東部山南西麓(同市高瀬町)に窯跡が見つかっています。これらは7つ支群
瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻
の各支群)に分かれていますが、全体を一つの生産地と捉えて「三野・高瀬窯跡群」と研究者は呼んでいるようです。
発掘から分かった各窯跡の操業時期を確認しておきましょう。
第1段階(6世紀末葉へ一7世紀初頭)
 十瓶山北麓の瓦谷支群(1)で生産が始まる。
第2段階(7世紀前葉)
 瓦谷支群での生産停止と野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
 野田池支群での生産拡大と、道免(3)・高瀬末(5)群の生産開始、
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)
 道免・野田池の2支群での生産継続。宗吉瓦窯継続
第5段階(8世紀前葉~中葉)
 道免・野田池の2支群での生産継続。青井谷支群(4)での生産開始
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
 青井谷支群での生産拡大。五歩田支群(6)での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
 青井谷支群での生産継続。上麻支群(7)での生産開始
  6世紀末から始まって10世紀まで400年近く三野郡では、土器や瓦が作り続けられていたことが分かります。そして、窯跡は

瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)
と移動していったことが分かります
どうして窯跡(生産現場)は移動していくのでしょうか。
移動の方向は海岸線から離れて、次第に山の奥へと入っていくようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は次のように云います
 窯相互の間隔から半径500mが指標。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えると三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされた
  須恵器窯は、燃料として大量の薪を必用とします。そのため周辺の山林の木材を伐り倒して運ばれてきました。そのために木がなくなると木がある山の麓に移動して新たな窯場を作る方が、生産効率がよかったのです。そのために木を求めて、奥へ奥へと入っていったようです。そして、その跡には丸裸になった里山が残りました。当時の須恵器や瓦生産の背景には、里山の伐採と丸裸化があったようです。そして、これが大量の土砂を三野津湾にもたらし堆積し、陸地化を急速にもたらすことになったのは、前回にお話ししました。
東大寺に運ばれた三野郡の檜
 これに加え、7世紀半ばの東大寺大仏殿の建設には、高瀬郷から木材(ヒノキ)が供給されています。使える木材が三野郡で残されていたのは、毘沙古山塊(標高231m)と、その東側で多度郡に接している弥谷山塊(標高381.5m)だけにしかなかったようです。このふたつの山は、弥谷寺周辺の死霊のおもむく聖地や甘南備山(なんなび)とされていた霊山で、伐採が禁じられていたのかもしれません。そして、北側が瀬戸内海に面し、南西側は「浅津」という地名があるように三野津湾に近く搬出にも便利です。おそらく須恵器生産用の「陶山」と、東大寺材木用の「楠山」とは分けられて管理されてたはずです。保護されてきた檜も、東大寺建立という国家モニュメントのために切り出され、海に浮かべて運ばれていったのでしょう。
 このように8世紀には、周辺の里山の木材も資源としての重要性が高まり、管理強化が行われるようになった気配があります。
  窯跡の移動に関して、研究者は次のように指摘します。
①窯場の移動は、製品搬出に便利な河川や谷道沿いに行われている。
②7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、
③8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にあった。
③窯場をできるだけ高瀬郷内に設定するような傾向がある。
  このように先行する須恵器窯業を受けて、宗吉瓦窯跡が登場します。
三野 宗吉遺2

この瓦工場は、当時造営中の藤原京に瓦を大量供給するために作られた大規模最新鋭の瓦工場で、それまでの須恵器窯とは、スケールも技術も経営ノウハウも格段の違いがあります。地元の氏族が単独で設置運営できる代物ではありません。氏族が中央権力に働きかけて最新の瓦工場を誘致してきたということが考えられます。設置に当たっては、中央からの技術者集団がやってきて取り仕切り、完成後の運営も行ったと考えられます。
三野 宗吉遺跡1
 立地は、藤原京に送り出すために船舶輸送を考えて、三野津湾の奥の海岸線近くに設置されます。しかし、気になるのが燃料である薪の確保です。今までは、薪を求めて窯は奥地に入っていました。それが海岸線に工場を作って確保できるのでしょうか?

 宗吉瓦工場は、郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が行われたようです。それまでの須恵器窯は、移動をしながらも高瀬郷内に置かれています。つまり高瀬郷内を基盤とする氏族によって担われていたことがうかがえます。しかし、藤原京への瓦供給という国家プロジェクトに関わることによって、この勢力は高瀬郷以外への権益拡大を図っていったようです。
そして、須恵器生産でも次のように競合するライバル達を8世紀初頭までは凌駕していたようです。
①競合する三豊平野南縁の辻窯跡群(三豊市山本町、刈田郡)を7世紀中葉には操業規模で圧倒
②讃岐最大の須恵器牛産地・十瓶山窯跡群(綾川町陶)よりも、8世紀初頭までは規模で勝る
③8世紀以降は十瓶山窯が優位になり、10世紀前葉には格差がさらに大きくなる
④10世紀中葉以後、三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小
10世紀近くまで高瀬郷では土器生産が行われ、周辺の山の木が伐採が続いたことになります。
製塩用の薪を提供する山が汐(塩)木山
平城宮木簡には阿麻郷(託間郷?)で塩生産が行われたことが記されます。「藻塩焼く・・」と詠まれたように製塩にも、大量の薪が必要でした。三野津湾西側の山名「汐木(しおぎ)山」は、そのための山として古代から管理されきた山であることがうかがえます。
森林管理センターとしての密教山岳寺院の登場
 このように窯業や製塩業の操業のためには、大量の薪が必要で、そのためには山を管理しなければならないという発想が生まれてきます。条里制施行で田畑の管理は、机上では行えるようになりましたが山野は無放置だったのです。それに気付いた勢力が行ったことが山野の管理センターとして寺院を山の中に建立することだったようです。いわゆる山岳密教寺院の登場です。若い頃に讃岐山脈を縦走していて気付いたのは、山頂にお寺がぽつんぽつんとあったことです。
 西から稜線上に次のような山岳寺院が並びます。
 雲辺寺 → 中蓮寺(廃寺)→ 尾野瀬寺(廃寺)→中村廃寺 → 大川寺(廃寺)→ 大滝寺
これらの寺は、その山域の「森林管理センター」の役割も果たしていたのではないかと思うようになりました。管理人は真言密教の修験者たちということになるのでしょう。同時にこれらのお寺は、孤立化していたのではなく修験者のネットワークで結ばれ、ある程度一体化していたと思われます。
中世の熊野詣での行者たちは、里に下りることなく阿波の鳴門から伊予の八幡浜まで、山の上をつなぐ修験者ルートで行くことができたと云います。そのルートを唐に渡る前の若き空海が歩いたのかもしれません。最後は妄想気味になりました。
最後にまとめておくと
①古代三野郡には須恵器窯跡が数多く見つかっている。
②これは同時に操業していたものではなく、スクラップ&ビルドを繰り返した結果である
③その背景には、燃料の薪確保のために海際から次第に山の奥に入っていった経緯がある
④そのような中で藤原京への瓦提供のために宗吉瓦工場が誘致される
⑤これは当時のハイテク産業で、超大型の工場であった。
⑥この工場誘致を進めた勢力は、三野郡の有力者に成長し、讃岐で最初の古代寺院妙音寺を建立することになる。

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤 竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

汐木山の麓の汐木湊の今昔

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詫間湾の南に、かつては甘南備山として美しいおむすび型の姿を見せていた汐木山。
今は採石のために、その「美貌」も昔のことになってしまいました。
そのふもとをあてもなく原チャリツーリングしていると・・・
河辺に大きな燈籠が見えてきました。

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燈籠大好き人間としては、燈籠に吸い付けられる俄のようなもの・・・
自然と近づいていきます。

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汐木荒魂神社の東方の馬場先に、建っているのですが場違いに大きい。約六メートル近くはありそうです。

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燈籠正面には[太平社]と刻まれています。
側面には「慶応元年乙丑六月立」、
「発願 三木久太郎光萬 福丘津右衛門秀文 世話人竹屋文吉 土佐屋武八郎 
 藤屋百太郎 汐木浜中」とあります。
刻まれた「汐木浜中」という文字が気になります。
少し「周辺調査」をすると

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こんな記念碑を見つけました。
説明板にはこう書かれてありました。
旧跡汐木港
昔この辺り、汐木山のふもと三野津湾は百石船が出入りした大干潟であった。
寛文年間(1660)頃、丸亀藩京極藩によって潮止堤が築かれ、汐木水門の外に新しく港を造った。これが汐木港である。当時藩は、御番所、運上所、浜藏(藩の米藏)を建て船の出入り多く、三野郡の物資の集積地となり北前船も寄港した。
明治からは肥料・飼料・石材を揚げ、米麦・砂糖等を積みだし、銀行商店が軒を並べたが1937年の「的場回転橋」が固定で港の歴史は終わった。ちなみに、荒魂神社の常夜灯大平社は、かつての港の灯台であった。
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先ほどの大きな燈籠は、やはりただものではなかったのです。
汐木港の灯台の役割ももっていたのです。なお、この高灯寵の位置は、現在よりも北方にあったそうです。いま燈籠があるところから北が、かつての汐木湊だったのです。今では、想像できないのですが、その頃の汐木は湊としての機能を備えていました。
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詫間の的場からさらに南まで船が遡り、現在の汐永水門のあたりに湊が築かれ、その岸壁には高灯龍、御番所(汐木番)、浜蔵(藩御用米の収納)などが建てられていました。汐木港には、吉津や比地・高瀬などから年貢米や砂糖などの物資が集まり、丸亀やその他に船で運ばれていきました。

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背後の汐木山に鎮座する汐木荒魂神社の狛犬には「天保丸亀大阪屋久蔵」などの屋号がついた十二名の丸亀の商人の名前が刻まれています。北前前などの廻船が、粟島や積浦の湊だけでなく、この汐木湊からも北海道までも産物を積み出していました。そして、北海道産の昆布や鯡などの北のの産物を積んで帰ったのです。

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汐木荒魂神社
港の背後には旧村社が鎮座しています。
戦前に旧吉津村は、青年団を中心とした運動によって汐木(塩木)荒魂神社を「讃岐十景」に当選させています。その記念碑が誇らしく建っています。「讃岐十景」を見に登ってみましょう。

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汐木荒魂神社
長い階段が待っていました。
見上げて一呼吸いきます。

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安政2年のお百度石と、陶器製の狛犬が迎えてくれました。
ここから汐木港を見守ってきたのでしょう。

昭和初期の新聞には、この港が次のように紹介されています。

  汐木の繁栄を高らかに伝える新聞記事 (香川新報)
西讃詫間の奥深く入りし高瀬川の清流注ぐ河口に古来より著名の一良港あり汐木港と云ふ。
吉津村にありて往時は三野郡一圃の玄関口として殿賑なる商港であったが海陸の設備に遠ざかりしか一時衰退せしも近時は米穀,飼料及び夙等の集散港として讃岐汐木港の名声は阪神方面に高く観音寺港を凌駕せんす勢いを示して居る。
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時の流れに、港は取り残されていきます。

 「近代」という時代の流れがこの港を呑み込んでいきます。
河口港である汐木港は水深も浅く、大きな船の入港はできません。
そして、1903年には、港の前面に塩田が築造され、幅30メートルほどの運河によって三野津湾とつながった状態になります。さらに日露戦争直前には,善通寺の陸軍第11師団により善通寺と乗船地の 1つである須田港を結ぶ道路が建設・整備され,その運河に「回転橋」が架けられました。その上に 1913年には予讃線の多度津・観音寺間が開業します。運河に架けられた橋を、料金を払って通過する必要のある汐木港は不利です。そのため省営バス路線開通に伴う的場回転橋の固定化にも目立った反対はなかったようです。

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現在,汐木集落は塩田跡地のゴルフ場や住宅地によって三野津湾から遠く隔てられています。かつて荷揚場や倉庫があった付近には新しい住宅が立ち並び,港町であった当時を偲ばせるものはほとんどありません。

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中世三野湾 復元地図

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