瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 讃岐キリスト教史

伴天連追放令
1587(天正15)7月24日(旧暦6月19日) 九州平定後に秀吉は、伴天連追放令を出します。
 秀吉から棄教を迫られた高山右近は、それに従わず追放されます。そして、九州の教会はことごとく閉鎖され破壊され、イエズス会が所領としていた長崎、茂木、浦上も没収されます。九州の宣教師達は、平戸に逃れて緊急会議を開き、当面の対応策を協議し、可能な限り日本滞在を引きのばすことを決定します。
 秀吉の命令は、畿内にも及びます。京都の南蛮寺をはじめ、畿内の教会は次々と破壊されます。右近の淡路の領土も没収され、多くの吉利支丹が路頭に迷います。

1室津 俯瞰図
    播磨室津 当時は小西行長の支配する軍港でもあった

このようななかで近畿の宣教師達は、室津に避難して今後の対応策を有力信者たちと協議します。
ここにやってきた宣教師達は、前日本副管区長のオルガンテイーノ、大坂のセスペデス神父、プレネスティーノ神父、コスメ神父、堺のパシオ神父たちでした。
 右近が追放された今となっては、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、若き「海の青年司令官」の小西行長でした。行長の保護がなんとしても欲しかったのでしょう。しかし、頼りとする行長は九州から帰った後、宣教師からの呼びかけに応じようとしません。堺から動かないのです。それは、なぜだったのでしょうか。

室津で何が話し合われ、どんなことが決定されたのかの手がかりは、オルガンチーノの報告書にあります。
 オルガンチーノはイタリア人で1570年来日。1603年まで30年余の間ミヤコ地区の伝道に係わり、1577年からはルイス・フロイス神父に替って長らく同地の布教長を勤めています。1580年に信長の許可を得て安土に創立されたミヤコのセミナリヨの院長も兼務しています。彼は「ウルガン伴天連」の名で上方の日本人によく知られていたようです。1603年晩年を長崎で過ごし、1609年76歳で他界しています。
 オルガンチーノが潜伏地から1587年11月25日付で、平戸のイエズス会宛てに送った経過報告書をみましょう。
 秀吉の伴天連追放令でイエズス会の宣教師やイルマン達は平戸に集合させられた。しかし、私は決死の覚悟でミヤコ地区(近畿以東)で、唯一人留まる決心を固め、室津(むろつ)に残った。
しかし、追放令のことを知った室津の人達の私への対応は非常に冷たく、私がこの地に留まることを拒んだ。アゴスチニヨAgostinho小西行長の兄弟が、私の室津退去を促す行長からの通知を伝えてきた。港の重立った人達も、私の室津残留を不可とし追放するよう主張した。
   私は、日比屋了珪の息子ビセンテを堺へ赴かせ、行長を連れてくるように命じた。しかし、行長は、神父に好意を寄せると秀吉ににらまれて自身やキリシタン宗団に不幸が降りかかるかも知れないと恐れ、室津へ来ようとしなかった。私は、再度ビセンテを堺に遣わし、
「もし室に来ないのなら、こちらから大坂か堺の貴殿または父君(小西隆佐)の所へ行って告白を聴かなければならない。」
と伝えさせた。恐れた行長はやっと室に来たが、罪の告白のためではなく、私を室津から去らせようとして来たのであった。行長の心中は、室津到着早々に受けた室の人達や都にいる兄弟からの影響もあって、絶望的な状態に陥っていた。それを察した私は行長に述べた。
「私が室に残留することにしたのは、貴殿やミヤコのキリシタン達の信仰を守り抜く為である。しかるに、貴殿が告白もせず、私をどこかにかくまって助けることをしないのなら、私は都または大坂に行き、泊めてくれる人がいない時は街路に立つつもりである。平戸は遠過ぎてミヤコ地区の信徒の援助に来られないから、私は平戸へ行くべきではない。」と。
これを聞いた行長は泣き出した。こうして私の覚悟を知った行長は、信仰のために命を賭して私を隠す決心をしたのである。
ここからは次のような事が分かります
①オルガンチーノが平戸に退避せずに、この地に残ることを主張したこと。
②それに対して小西行長や室津の有力者達は、室津からの退去・追放をもとめたこと
③オルガンチーノの「脅迫」で、行長は室津にやって来るがそれは室津からの退去を求めるためであった。
ここからは行長が怯えていたことがうかがえます。行長だけではありません。室津の信徒たちまでが行長の意向を受けて、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫っていたようです。そして、堺から行長の弟がやってきて、「これ以上の助力は自分に不可能だから、すぐにも立ち去るように」と行長の命令を伝えるのです。
 九州平定を終えた秀吉が、まもなく大坂に凱旋するような時期に、室津に宣教師を匿っていることを秀吉が知ればどうなるでしょうか。秀吉の怒りをかうのが怖かったのです。信仰よりも、高山右近の二の舞になるのはゴメンだという気持ちの方が、この時点では強かったのでしょう。行長の胸の内を、もう少し覗いてみましょう。
 怯えた行長は、了珪が持参した手紙さえも受けとりません。了珪はふたたび室津に戻り、その旨を神父に報告します。オルガンティーノは再度、了珪を堺に送り、行長が室津に来ないのなら自分が堺に赴き、隆佐(行長の父)とお前とに会おう。そして切支丹として告白の秘蹟を受けぬ限りは堺を立ち去らぬつもりだと言伝ます。
 この言伝てを聞いた行長は、迷い悩みます。オルガンティーノが堺にくれば事態は一層、悪化し、自分や一族に累が及ぶだろう。それは避けなければならない。そこで、ジョルジ弥平次(河内岡山の領主・結城ジョアンの伯父)を伴って、重い心で自ら室津にやってきます。それは。オルガンティーノに九州に去るよう説得するためでした。

1室津 絵図
室津
 神父と行長との間には激論がかわされたようです。
オルガンティーノは秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長に、信仰の決意を促したのでしょう。にもかかわらず行長の動揺は消えません。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言し、自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと宣言します。オルガンティーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのかもしれません。   
1 イエズス会年次報告
                     
   オルガンチーノ神父書簡の和訳は、2つ出版されています。
「新異国叢書」村上直次郎氏訳も「十六・七世紀イエズス会日本報告集」松田毅一氏監訳も、「泣き」「泣き出し」と訳されています。
 しかし、ルイス・フロイス著「日本史」中央公論社版1の松田毅一・川崎桃太両氏共訳では、「ほとんど泣き出さんばかりになりました」とあり、和訳の表現に微妙な違いがあようです。どちらにしても行長は、信仰と現実の間で苦しみ悩んでいたようです。 オルガンチーノは、自分の決意と説得が思い悩む行長の気持ちを変えたと報告しています。
 しかし、自らもキリスト教徒であった作家の遠藤周作は、小説「鉄のくびき 小西行長伝」の中で、それよりも大きな人物の存在があったと云います。行長の迷える心を支えたのは、高山右近の登場だったと云うのです。

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オルガンチーノの報告書の続きを読んでみましょう
この日、うれしいことにジュストlusto高山右近と三箇マンショManclo及び小豆島を管理している作右衛門(?)が私に会いにきた。また、都からは数人のキリシタンが、私の潜伏に適した家を近江に準備してあるからと、駕籠と馬を伴い迎えに来たのである。一同は、室津付近に行長からジョルジorge結城弥平次(河内出身のキリシタン武将)に隠れ家兼臨時宿泊所として与えられた家に集まって聖体拝領した。
   次の日、互いに決意を述べ合い、私と高山右近が当地方に隠れることについて協議した。
私は、行長領たる室津に隠れて発見された時は行長一家に迷惑を掛けるから、都のキリシタンの設けた隠れ家へ行くのが何かにつけ最良だ、と言ったところ、行長がきっぱりした言葉で私の都行きに反対し、自分が他の誰よりも巧妙に神父・右近やその父ダリヨと妻子を隠すことができる、と決死の思いを述べた。皆賛成して非常に喜んだ。
バテレン追放令後に、大名の地位を捨て姿を消していた高山右近は、行長の手引きで淡路島に帰っていたようです。
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右近は、明石船揚城の城下町に宣教師を招き、最盛期には2000名を超える信者がいたという。明石の町は堺などへ海上ルートの中継港町として大いに栄えた。

室津の状況を聞いて、父ダリオ・弟太郎右衛門や行長の家臣の三箇マンショと室津にやってきます。
右近は、行長たちに向って我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語ります。それは「地上の軍人から神の軍人」に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えないことを誓います。
 また父ダリオ・弟太郎右衛門も宣教師たちを励まし、慰め、生涯、信仰を棄てぬことを誓います。このような右近一族と、行長の態度は対照的です。フロイスも「行長は宣教師たちに冷たかった」と書いています。右近一族の登場が、その後の展開に大きな影響をもたらすことになったと遠藤周作氏は考えているようです。

フィリピン マニラ 高山右近 禁令 キリシタン大名 パコ Manila Takayama
マニラの高山右近像

 この後の対応策は、いかに秀吉をだますかということです。秀吉への裏切工作が話し合われます。
秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、切支丹信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを、日本人信徒達は夜を徹して話し合い、その結果を、翌朝に宣教師達に伝えたようです。
 こうして行長と右近たちは協議の結果、次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を、小豆島に隠すこと。(史料には小豆島の地名は出てきません)
②二人の住居は秘密して、誰も近づかぬようにすること。
③神父と右近とは離れて別々に住む。万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の知行地に逃げること。
小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンショが代官でした。前年には、セレペデスによって布教活動も行われ「1400人」の信者もいます。二人を隠すには最適です。

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小西行長

 国外退去命令の出た宣教師をかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする反逆です。
これは自らを危険にさらすことです。バテレン追放令が出された時には、自分や一族のことを守ることだけを考え、卑怯で、怯えた行長が、このような危険に身を曝すようになったのです。そこには、試練と向き合い成長し、強くなっていく姿が見えてきます。
 あるいは、秀吉の野心実現のための駒には、なりたくないという気持がうまれていたのかもしれません。権力者の人形として、動くことへの反発心かもしれません。
 あるいはまた「堺商人の処世術」かもしれません。
表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという生き方です。その商人の生き方を、関白にたいして行おうとする決意ができたのかもしれません。
 切支丹禁制に屈服したように装いながら、宣教師をかくまうことは秀吉を「だます」ことです。それはある意味で裏切りであり、反逆でした。その「生き方」が、朝鮮侵略においても秀吉を「だまし」和平工作を行うようになるのかもしれません。

 資料には出てきませんが、室津では今後の「秀吉対策」も協議されたたのでないかと研究者は考えているようです。
行長と宣教師の間では南蛮貿易が、宣教師の介入なくしては成り立たないことが分かっています。南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは、日本通の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きを行っていました。そして、イエズス会は南蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなってきました。バテレン追放令の目的の中には、宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして秀吉が南蛮貿易の利益を独占しようとする意図もあったようです。
 これに対してイエズス会からすれば、それを許してはならず

「宣教師がおればこそ、ポルトガル商人との貿易も円滑に成立するのだ」

ということを秀吉に知らしめる必要があるという共通認識に立ったはずです。そうすれば、やがて関白は嫌々ながらも、一時は追放しかかった宣教師の滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノが、このような方策を協議したことは考えられます。

 「イエズス会の対秀吉戦略」の成果は? 
バテレン追放令の翌年天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行おうとします。秀吉は二十万クルザードという大金をだして生糸のすべてを買いとろうとします。この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐でした。彼はこの交渉を成立させています。しかし、後にこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を得たからであることを、秀吉はしらされます。
 更に、天正十九年(1591)には、鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船から直接に金の買占めをしようとします。しかし、ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲介を主張してこれを拒否し買い占めは成立しません。秀吉は、ここでも宣教師達の力を見せつけられてのです。

ヨーロッパから伝来した「南蛮文化」とは? | 戦国ヒストリー

 これらの経験から南蛮貿易で儲けるためには、宣教師の力が必要だということを、秀吉は学ばされたのかもしれません。
これ以後、秀吉は少しずつ折れはじめます。当初は教会の破壊やイエズス会所領の没収を命じていた関白は、宣教師の哀願を入れ、その強制退去を引き延ばし、最後には有耶無耶になってしまいます。
 秀吉はマニラやマカオとの貿易では、宣教師の協力がなくては儲けにならないことが分かってきたのでしょう。秀吉は、現実主義者です。宣教師たちの残留を公然とは認めませんが、黙認という形をとりはじめます。実質的には、行長たちは勝ったと云えるようです。
 
一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび五島、豊後に秘密裡に散っていきます。
彼等はこの潜伏期間を日本語の習得にあて次の飛躍に備えたようです。小豆島にかくれたオルガンティーノも変装して扉をとじた駕寵にのり、信徒たちを励ましに歩きまわるようになります。

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秀吉のバテレン追放令後の天正十五年(1587)の陰暦六月下旬から七月上旬に、室津で開かれた吉利支丹会議は、イエズス会の日本布教にとっては大きな試金石であったように思えてきます。
 小西行長にとっては、彼の生涯の転機となった場所だったと研究者は考えているようです。彼の受洗は幼少の時のことで、動機も父親の商売上の都合という功利的なものだったかもしれません。しかし、彼はこの時、室津から真剣に神のことを考えはじめるようになります。そのためには、追放令という試練と高山右近という存在と、その犠牲とが必要だったのかもしれません。
  今日、グーグルで検索しても室津には、行長や右近をしのぶものはないようです。ここが行長の魂の転機となった場所だとは、知るひとはいないようです。
参考文献 遠藤周作 鉄のくびき 小西行長伝



5 小西行長像5
小西行長
 
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
5 堺南蛮貿易

 秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握
②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える
③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
                    
 パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。
 86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
 行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。

韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像

彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」

と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。

グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役 

同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について
上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。

「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
 1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに行き、1603年にみやこ、1606年に金沢、1607年2月にまた、みやこ下京のレジデンシャに居たが、同年10月の名簿には記入されていないので、そのうちに脱会したらしい。」

 豊後でイルマンとしての何年かの基本的学習を終えた後、出身地の摂津大坂に帰任して間もなく、定評ある日本語の知識表現力を買われて小豆島にセスペデスと共に派遣されたようです。

 コエリョー行は行長の用意した二隻の船に分乗して、堺を出て牛窓に到着します。
岡山牛窓オリーブ園 :: 岡山県牛窓の観光 牛窓オリーブ園/日本オリーブ株式会社
牛窓からの瀬戸内海と小豆島 海の向こうの山並みが小豆島

ここでセスペデス神父と日本人修道士ジアンを降ろしています。牛窓も行長の領地でした。牛窓は瀬戸内海航路のネットワーク拠点として重要な港でした。秀吉の四国平定の際には、多くの人馬や兵船が集結した軍港の役割も果たしていました。牛島の前の前島の丘に立つと、南に小豆島がすぐ近くに見えます。目を凝らせると小豆島の大観音も見えるほどです。その観音さまの足下辺りが屋形崎と呼ばれ、中世に居館があったと伝えられます。牛窓と屋形崎ならば直線で14㎞ほです。かつて道路が整備される以前は、小豆島の北岸の人たちにとって、草壁などの南岸との交流よりも牛窓などの吉備・播磨との交流の方か多かったと云います。近代以前の瀬戸内海は、人々を隔てるものではなく、結びつける役割を果たしていました。船さえあれば、海があればどこにでもいけたのです。小豆島北岸と牛窓は、経済的には一体化していたと考えられます。
 
11 小豆島 牛窓地図

セスペデス神父と日本人修道士ジアンは、その日のうちに牛窓から小豆島に向かう船に乗り込みます。二人を待っていたのは、行長が「小豆島の司令官(代官)に任命したキリシタン貴人」でした。これは河内出身のキリシタン武将で、行長の配下にあったジヨルジ結城弥平次かとする説もありますが、よくは分からないようです。
フロイスの年次報告書には、小豆島に派遣されたセレベデスからの次のような報告書簡が載せられています。
 予(セスペデス)は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。
この島にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆があった。彼等の半数以上は、よく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとおりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモの説教を網けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々に斎座の火を燃やし給ひ、①1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(6㎞)の間に接績していた村々において、②千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって③長さ七ブラサ(15m)を超ゆる立派な十字架をここに建て、④神仏は一つも残さず破壊した。また⑤聖堂を建てるため四十ブラサ(約90m)四方の地所を選んだ。その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この島の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ(4㎞)余りの道を急いで、私が滞在していた村にやって来て、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
ここには、牛窓を出発した船がどこに着いたのか、そして、彼らが布教活動を始めたのはどこなのかについては何も記していません。
まずセスペデスが宣教をおこなった場所についての手がかりを集めてみましょう。
①約六㎞周囲に連続した村々がある。
②1か月で1400人以上がキリシタンとなった。 
  → 島の人口集中地
③キリシタン達が建てた15m以上の十字架がある。
④キリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
⑤聖堂を建てるための約88m平方の土地があり、そこには梨、無果花、蜜柑の樹が多数あって、周囲には樹木が繁茂している。
⑥小西行長の支配の中心地に当り、「城」が築かれていた。
この条件がに当てはまるのは、内海湾に抱かれた苗羽、安田、草壁、西村の村が連続したエリアと研究者は考えているようです。映画「二十四の瞳」で、大石先生が岬の分校までが自転車を走らせた通勤ルートの沿線になります。

5 小西行長 小豆島5
 
延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、小豆島の「転び切支丹類族」の出た地域と数が次のように記されています。
草加部 54人
肥土山村 12人
土庄村  3人
渕崎村  2人
また、草加部の項目には次のようなことも記されています。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。

ここからは小豆島の草壁には18世紀の半ばまで、隠れキリシタンが50人以上もいたこと、さらに、草加部の他に、池田、小海、福田にもキリシタン関係者がいたことが分かります。このような「状況証拠」からすると、草加部村を中心とした地域が小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。

 ④のキリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
については、「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」

と記録され、小豆島の小西行長時代に神社仏閣の破壊が徹底して行われたと伝えています。
 小豆島における神社仏閣破壊は小規模なものだったという説もありますが、私は、次の2点から同意はできません。
A高山右近の淡路の領地では、大規模な破壊運動が組織的に展開されていた。
B偶像破壊運動が、新たな宗教活動を展開する側に大きな宗教的なエネルギーをもたらし、急速な 信徒増大をもたらす。それはムハンマドのメッカでの活動や、中国の太平天国の指導者達の活動からも垣間見える。
 偶像破壊という手法を、大坂で布教活動を行っていたセスペデスやジアンは熟知していた。もっと云えばすでに偶像破壊活動を伴う布教活動をすでに行っていた気配があります。「偶像破壊運動」から沸き上がるエネルギーが「1ヶ月で洗礼者1400人」という「成果」となったと私は考えています。

また、天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
「室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけ(安宅)の大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿」

とあります。これは、薩摩島津藩の藩士が見た報告ですが、ここからは小西行長の支配する室津には、大きな安宅船が係留されていたこと、室津でも「南蛮宗が保護され 大明神は廃」される組織的な神社仏閣破壊が行われていたことがうかがえます。

5 小西行長2

⑤の約15mの十字架の設置場所と聖堂建設用地については

片城に近く、海上からよく見える高台にあったことが考えられます。しかし、詳しい場所については分かりません。そして、1年後の九州平定の論功行賞として、行長は肥後南部の24万石の大名に「栄転」
しますので、教会が建設されることはなかったようです。あくまで「建設予定地」でした。
⑥の小西行長が築いたとされる片城については、草聖地区に片城という地名が残っているようです。

  最初私は、小豆島での布教と聞いて何年も苦労しながら信者を増やして行ったのかと思いました。ところが、宣教師の布教活動はわずか1ヶ月のことです。期間が決められていたのかもしれませんが、洗礼を済ませるとすぐに引き上げているのです。残された信者達は、その後どうなったのでしょうか。1ヶ月では、信の信者に成長できていたとは云えません。
5 小西行長 バテレン追放令2

 ところが1年後に秀吉のバテレン追放令が出ると小豆島は、多くの吉利支丹を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。右近は秀吉に屈する道を選ばずに、領地を捨て大名であることを止めます。この一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」

と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」

だったといいます。
5 高山右近
小豆島土庄の右近像と教会

右近の一族や重臣の中には、小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、バテレン追放令の後の小豆島には
①セスベデスによる1400人の地元改宗者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことになります。②③は筋金入りのキシリタンに成長しています。これらの人々が核となって、小豆島では信仰が守られていくことになったのではないかと私は考えています。

幕末の小豆島の廻船大神丸 何を積んでどこに航海していたか? : 瀬戸の島から
 
以上をまとめておくと
①四国平定前に秀吉は小豆島・室津を小西行長に与えて、東瀬戸内海の制海権確保の拠点とした
②行長は高山右近を見習って、「地上の神の国」を小豆島につくる理想を持っていた
③そのために二人の宣教師がイエズス会から派遣され、内海湾周辺で布教活動を行った
④それは偶像破壊運動を伴う宗教活動で、1ヶ月で1400人の洗礼者を産み出した。
⑤派遣された宣教師は、わずか1ヶ月で小豆島を去った。
⑥しかし、1年後に伴天連追放令が出されると各地から「亡命者」がやってきて信者集団は拡充した。
⑦そのような中で、小西行長は高山右近を小豆島の地に匿うことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 近藤春平 讃岐吉利支丹諸考  1996年

              
ザヴィエルが日本にやてきたころの讃岐の情勢は?
 ①守護細川氏が衰えた結果、武士間の対立抗争が激化
 ②分裂状態に乗じて阿波の三好氏の讃岐進出が始まる。
 ③三好氏の西讃侵入と、天霧城主の香川之景の従属。
 ④信長が三好氏を破ると、讃岐武士団も相続いで信長の支配下に
 ⑥天正六年(1578)に土佐の長宗我部元親が讃岐侵攻。
このように十六世紀後半の讃岐は、中世来から近世への大きな歴史の転換期にさしかかっていたようです。うち続く戦乱の中で、民衆たちは心の平安を求め、新しい時代の生き方を模索していたのかもしれません。それに応じるように。新しい宗教運動が展開されていました。讃岐にも阿波郡里の安楽寺から讃岐山脈の峠を越えて、浄土真宗興正寺派の教線が急速に伸びてきたのもこの時代です。
 一方、目を海に転じると行き交う船には、今まで目にしたことのない「南蛮人」が乗り込みキリスト教の布教のために、瀬戸内海を往来し始めていました。イエズス会の宣教師達は、その際の拠点として本島に立ち寄っています。
今回は本島に立ち寄った宣教師達を視ていくことにします。
彼らは個人で布教に日本にやって来ているわけではありません。イエズス会という巨大な宗教団体の一員として、神との契約に基づいてやっていていました。その組織は軍隊的でさえありました。自分の活動については上司に定期的に報告する義務がありました。エリアの総括本部では、それを本国やバチカンに年次報告として定期的に送っていました。その記録が残っているのです。もちろんラテン語で書かれています。
『1598年の日本におけるキリスト教界報告:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』(ほか3書簡収録)

パシオ、ゴメス『1598年の日本におけるキリスト教界報告
:日本の王、太閤様(豊臣秀吉)の死について』


6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスLuis FIols
フロイス
    
 イエズス会ルイス・フロイスLuis FIols神父,
同宿少年3,4名,キリシタン3,4名 (インド人1名,シナ人1名を含む)
アルメイダ1565年10月25日付書簡フロイス「日本史」
永禄七年(1565)に、フロイスがアルメイダなど四人の宣教師と一緒に、寒い12月に伊予の堀江から6日かかって、塩飽に上陸しています。これが記録上、宣教師が塩飽島に寄港した最初の記録のようです。
6 塩飽と宣教師 瀬戸内海地図

 彼らの塩飽に至る経路を見てみると、平戸を1564年11月10日出発。キリシタン大名として有名な豊後の大友宗麟に会うために臼杵に上陸し、その後に府内(今の大分市)に移動し、宗麟と会見します。大分港から出航しようとしますが、晩秋の北西風が続いたために府内に1カ月の滞在をを余儀なくされています。好天になった1565年1月1日になってやっと出航します。
 この時期の瀬戸内海廻船は、冬には船を動かさないことがセオリーだったので、無理な航海だったようです。伊予の堀江で8日滞在後に、1月中旬に塩飽に到着しています。当時の塩飽は、海のハイウエー瀬戸内海のサービスエリアのような役割を果たしていました。塩飽にやって来て、船を乗り換えて目的地をめざす人たちが多かったようです。
「塩飽まで行けば、なんとかなる」「まずは塩飽を目指せ」

というのが旅人の常識であったようです。それだけ塩飽が瀬戸内海ネットワークの重要な拠点であったことが分かります。
 しかし、時期が悪かったようです。冬の瀬戸内海を航海する船は少なかったようです。正月の塩飽には堺行きの便船なく、海賊を心配しながら小舟で坂越(サコシ、現在赤穂市東部にある小港)に移ります。そこで10日程便船を待ち1月27日に堺に上陸し、31日に京都に着いています。この時の平戸から京都の旅は、風向きや船便が悪く80日近くを要しています。
  宣教師が塩飽に立ち寄ったことが分かる最初の史料なのですが、残念ながら塩飽のことは何も触れられていません
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

1574年(天正2年2月~)  日本布教長フランシスコ・カブラル
  カブラルは、イエズス会の日本布教区の責任者でした。日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的だったために、後に巡察師ヴァリニャーノに批判され、解任されます。

 カブラルは、第2回の五畿内巡察行のために、当時の伝道センターである「シモ」(西九州)の口之津を1573年9月7日出発し、島原・府内(大分市)・博多・下関などを経て山口に到着します。ここで3ヶ月滞在・伝道した後に、翌年2月岩国から堺へ向かう船に乗り込みます。春が来るのを待っていたのかもしれません。しかし、患っていた熱病が悪化します。それを助けたのが異教徒の「海賊船頭」です。
7安芸川尻

この船頭は安芸川尻の九郎右衛で自宅にカブラルを連れて行き20日程療養させています。このあと一行は、九郎右衛の船で塩飽(本島の泊港?)に送られてきます。この時期は、村上水軍が塩飽までも支配下に置き、瀬戸内海に「海の平和」がもたらされていた時代です。川尻の船頭は村上水軍の配下にあったのかもしれません。船の通行に問題はなかったようです。しかし、カブラルの病気は良くなりません。塩飽でも8日間の療養を余儀なくされます。

6塩飽地図

この間、同行のトルレス修道士は、塩飽の人々に説教を行ないます。その結果、世話になっていた宿の主婦が受洗します。この女性が讃岐で最初のキリシタンのようです。宿の主人は、その勇気がなかったようで、この時には洗礼をうけていません。しかし、8年後の1581年4月14日付フロイス書簡には
「塩飽の我等の宿の主人であるキリシタンその他が・・・」
「塩飽での良き協力者」
と書かれているので、のちにキリシタンになったようです。が、彼の受洗入信の記録はないようです。
   カブラルが世話になった「宿の主人」については、どういう人物か分かりません。
彼は、カブラルを自宅で療養させ塩飽まで送り届けた安芸川尻の船頭「九郎右衛門」の友人だったようです。また、塩飽の有力者で立派な家を持ち、この時から
「我々(イエズス会士たち)が通過する時には、いつも宿を提供してくれる地元の顔役」(「日本史」1581年記事)

だったとも記します。そして、1585年フランシスコ・パシオ神父一行が豊後から塩飽にやってきた時は、塩飽の領主である小西行長から島の代官と共に、この「宿の主人」にも事前に歓待依頼の手紙が来た程の存在でした。
 ここからは瀬戸内海を行き来する宣教師がふえ、塩飽へ寄港することが多くなるにつれて、キリスト教に改宗し布教活動を助ける人たちが現れていたことが分かります。

 カブラルが回復すると出港しますが、塩飽から堺への途上では多数の海賊船に襲われることもあったと記します。海の関所の通行料「関銭」徴収が、このエリアではまだ行われていたことがうかがえます。 3月末には堺に到着し、4月中旬には入洛し、京都にやってきていたた織田信長に再度謁見しています。

1577年 (天正4年12月)8日間  ルイス・フロイス神父 

ルイス・フロイスは、その後10年余り「ミヤコ地区」の布教長として京都周辺の布教活動に関わっていました。カブラルの命で、オルガンチーノ神父に交替して京都を離れることになります。それが1576年の大晦日で、年を越えた1月3日に兵庫から豊後へ向う船に乗船します。途中海賊船数隻の追跡を受けたと記しますが、無事「塩飽の港」(泊港)に着きます。これが彼にとっては塩飽、二度目の滞在になります。ここで、塩飽以西の航路の案内人が来るまで8日間滞在しています。
 当時は、先ほども述べましたが塩飽は、村上水軍の支配下にありました。
 芸予諸島から村上水軍の「上乗り案内人」がやって来て「関銭」を支払って、その代償に航海の安全が保証されるシステムでした。
 それに対して塩飽以東の航路については、先ほども見たように、海賊船の出没が記録されています。しかし、攻撃を受けているわけではないので「関銭」を船上で納めていたのかもしれません。同時に、このエリアは村上水軍や塩飽衆の勢力範囲でなかったことがうかがえます。
 塩飽での滞在中にフロイスは、宿(3年前に主婦がこの地域で初めてのキリシタンになった家)の主人や家族を含め人々に数回説教し、質疑に答えています。そのうちの数名はキリシタンになりたいと希望しますが、長く滞在できなかったので、後日の機会に延期しています。
 たまたま宿の隣人が重病を煩っていて、宿の主人からせがまれたフロイスが手持ちの薬剤を与えたところ、快方に向かいます。そのため「名医」の評判が立ち、宿の家は怪我人病人を連れてきて薬を懇願する人々で一杯になつた、という余談も記しています。フロイスらしい筆まめさが出ています。「現世利益・病気退散」が行える宗教家を、庶民は求めていたのです。
 フロイスは、このようにして8日間を塩飽で過ごします。そして、天正4年12月30日(西暦に変換すると1577年1月18日)に、次なる任務地である豊後に到着しています。
5 堺南蛮貿易

  1581 (天正9年2月) イエズス会巡察師ヴァリニャーノ
(同伴者 ルイス。フロイス神父, 他に神父3名,修道±3名)
「1581年度イエズス会日本年報」(G.コエリコ執筆),
6 塩飽と宣教師 ヴァリニャーノ
ヴァリニャーノ
 イエズス会巡察師ヴァリニャーノは、フロイス等を伴い、1581年3月8日豊後府内(大分市)を出発して畿内に向かいます。出発に先だって、山口の国主毛利(輝元)が、自領の港や塩飽港(当時毛利領)に寄港するバテレンをすべて捕らえるよう命令しているとの情報を得ます。加えて『我々(イエズス会士たち)が通過する時にはいつも宿を提供してくれる地元の一人の顔役』からも、塩飽の港に入らないように伝える手紙が送られてきます。しかも乗船予定の船頭は、織田信長やイエズス会に敵対する大坂の浄土真宗の信者だったので、一層不安になります。しかし、彼の船以外に便船はありません。乗る外なかったようです。
 大友宗麟は船頭に塩飽など、毛利勢力下の港に立ち寄らないように約束させますが、船頭は約束に反して塩飽の泊(Tamari←Tomario paragemとも)港に入港します。一行は恐怖でパニック状態になりますが、泊港で過ごした一昼夜の間は、毛利の代官が不在だったので拘束されることはなかったようです。しかし「常宿の主人」は、できるだけ早く塩飽を離れるようにと助言します。
 それに従って翌日には出港し、寄港予定だった室津や兵庫の港には寄らず、淡路の岩屋港に寄港します。ここでも一晩過ごしただけで、青年漕ぎ手30人の快速船を用立てて、折しも吹く西風を受けて堺へと向かいます。ところが兵庫沖で待ち構えていた大きな海賊船(通行税取り?)が追いかけてきます。結局、堺の港の直前でで追い付かれ、求める金銭を支払ったと記します。
 ここからは「関銭」の徴収方法が、村上水軍のように「上乗り」制度というスマートな方法でなく、現地徴収方法だったことがうかがえます。このエリアの海賊たちが組織化されていなかったようです。
 堺に上陸したのは、豊後を出て10日目の3月17日のことです。寄港地に長逗留せずに、最短で目的地を目指すと瀬戸内海は、この程度で航海可能だったことが分かります。

 このあとヴァリニャーノは、約5ヶ月間、畿内のミヤコ地区を巡察し、織田信長にも何度か謁見する機会を得て厚遇されています。
 ちなみに9月初めに近畿視察を終えて、豊後に戻る時は土佐沖航路で約1ケ月を費やして豊後に戻っています。それだけ往路で経験した「海賊と毛利氏からの危険」を避けたかったのでしょう。

1585年7月12日(天正13年6月15日)フランシスコ・パシオ
[史料]パシオ1585年7月13日付牛窓発信書簡

7月6日(陽暦)パシオ神父は、堺へ向かって豊後佐賀関を出発し、6日後の12日に塩飽に到着します。当時の瀬戸内海は、秀吉が四国平定のための軍勢集結準備の真っ最中でした。牛窓と小豆島を秀吉から与えられた小西行長は、東瀬戸内海の制海権を握って活動中でした。「海の司令官」として、行長は四国遠征の最後の連絡のために各拠点を忙しく巡回していた時期になります。
 行長は父と共に入信していて、当時は高山右近を見習い、小豆島にキリスト教の「地上の楽園」建設を目指している最中でした。そのためイエズス会宣教師から見ると頼りになる「青年海軍指令官」でした。
 その行長から塩飽の殿Tono(ここでは代官)に対して、室津までの船の用意と歓待が依頼されていたようです。「我等が同地を通過する時に泊る宿の主人」にも、行長から同様の手紙がだされていました。
 塩飽に派遣されてきた行長家臣の案内で、パシオは日比(現在岡山県玉野市)に渡ります。翌早朝、四国派遣軍の輸送船団を指揮する行長の姿を見ています。行長は「十字架の旗を多数立てた大船」でパシオを大いに歓待し、堺への軽快な船と護衛兵士を用意し、送りだしています。それが、翌々年の九州遠征後の秀吉のバテレン追放令で、小豆島が右近の亡命先になるとは、この時点では思ってもみなかったことでしょう。

1586年4月  イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ
ルイス・フロイス神父, 外に神父3名,修道±3名
ガスパル・コエリョ
1586年3月6日準管区長コエリョは、フロイス等を伴い、大坂に向かって長崎を出発します。秀吉は翌年の九州平定に向けて、キリスト教勢力の協力を取り付けようとします。その代償として、秀吉から布教の特許状が出ることになったようです。そのためのキリスト教側の使節が大坂に派遣されることになります。
 航路は、西彼杵半島の西岸沿いの海路で平戸を回り、博多・下関・上関等を経て塩飽にやってきます。塩飽到着は4月10日(天正14年2月22日)前後です。この時の塩飽滞在については、フロイス「報告書」にも「日本史」にもはっきりした記事は残されていません。
「報告書」に
「アゴスチニヨ弥九郎殿(小西行長)は、船をもって我等を迎えるため(塩飽に)家臣数人を遣わした。」

とあります。小西行長は、四国平定が終わった後も「海の青年司令官」として、秀吉の命令で瀬戸内海の各地に命令を伝え、現地司令官と協議を重ねてる忙しい日々を送っていたようです。先を急ぐ使節団に早舟の手配を行ったかもしれません。そうだとすれば塩飽への寄港・滞在はなかったでしょう。大阪城に向けての急ぎ旅だったので、潮待ちで滞在したとしても短期間だったでしょう。
 塩飽からは室津・明石・兵庫を経て、4月24日(邦暦3月6日)に堺に上陸します。長崎から50日かかった、と記されています。10日後の5月4日コエリョは、神父・修道士達を伴って大坂城に入り、秀吉に謁見し、1ヶ月半後に待望の布教特許状が下されます。
   大任を果たし意気上がるコエリョー行は、7月23日に豊後へ向かって堺を出発します。
この時に小西行長からひとつの要望がありました。
それは行長が「地上の楽園」の建設を行っていた小豆島に、布教のために適任者を派遣して欲しいという願いでした。「海の司令官=行長」の要望を断るわけにはいきません。そこで、一行に加えられた大坂のセミナリヨのグレゴリオ・デ・セスペデス神父が小豆島に派遣されることになります。彼は牛窓で一行と分かれ、日本人修道士ジアンと共に小豆島に入り布教活動を始めます。そして短期間に1400人余に授洗したと報告しています。
 コエリョー行は、室津牛窓を経て能島の海賊頭とイエズス会員達の安全通行を交渉した後、伊予に赴きます。復路では塩飽には立ち寄っていないようです。
 伊予に立ち寄った目的は、四国平定後に伊予領主となった小早川隆景に会うためです。
毛利・小早川氏は、それまでキリスト教布教には好意的でなかったようです。それを秀吉の布教特許状を頼りに、山口と伊予に教会のための土地を要望します。これに対して、隆景の反応は以外にも好意的で2ヶ所とも許可されます。伊予で数日過ごした後、豊後の臼杵に到着しています。ここからは彼らの布教拠点が、豊後臼杵であったことが分かります。

その後、伊予道後の隆景から与えられた地所には、教会堂や司祭館が建てられたと云います。この時期が宣教師にとっては、日本布教に大きな展望が開け期待が膨らんでいた時期でした。翌年の7月、九州遠征終了後に秀吉は、伴天連追放令を出すのです。松山の教会も破壊されたようです。
  
 初めて塩飽に宣教師が寄港してから、秀吉のバテレン追放令までの宣教師の通ったルートを見てきました。そこからは、次のような瀬戸内海交通路とキリスト教の布教ルートが見えてきます。
①1556年を境として、キリスト教布教の中心地は山口から豊後に移ると、宣教師の出発地点も、豊後に移動している。
②大内氏にかわって毛利氏が実権を握り、キリスト教を禁止するようになると、宣教師の航行路は瀬戸内海北岸ルートを避けて、南岸ルートに変化し伊予ルートが多くなる
③瀬戸内海航行の各船頭間には、密接な連絡網があり相互に航行範囲の分担があった
④瀬戸内海航路の終着地点としての堺が、交易物資の独占的な集積地となり、その富を背景に新しい文化の享受地となっていた。
⑤宣教師は、イルマン(修道士)や日本人改宗者を伴い、行く先々で民衆と交わり、医療・教育・社会活動などを通じて信者を獲得している。
⑥永禄3年(1560)には、将軍足利義輝から教会保護の約束をとり、
⑦永禄12年(1569)には、織田信長から布教許可を得て、
「上からの布教」方法も取り入れた積極的な布教活動を行った。
 その結果、信者数は宣教師の報告によれば次のように増加しています。
 元亀元年(1570) 2~3万人
 天正9年(1582)  15万人、
 天正18年(1590) 25万人
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 
5 小西行長像5

 小西行長は、関が原の戦いで西軍に味方し戦って破れ、打ち首となります。切腹は自らの命を自らの手で奪う行為なのでキリスト教徒として拒否したようです。
 また、行長は肥後北部を領有した加藤清正とライバル関係に描かれます。忠君愛国が尊ばれた戦前には、キリシタンで忠臣清正に対する敵役と描かれたために、非常に人気のない武将だったようです。1980年、宇土城跡に建てられたこの行長の銅像に対しても、「銅像を打ち壊す」「公費の無駄遣い。許せない」といった怒りの声が寄せられたようです。そのため除幕式の翌日から2年近くトタン板で覆われていたといいます。彼がどのように、見られてきたかがうかがえます。

 前回は小西行長の「海の司令官」として颯爽と備讃瀬戸をゆく姿や小豆島での「神の王国」作りの様子を見てみました。今回は行長とキリスト教をめぐる情勢を高山右近との関係で見てみようと思います。まずは行長の出自を押さえておきましょう。
堺の小西家とは、どんな家だったのでしょうか

5
 小西家については、家の系譜も分かりませんし、いつ頃から、どのようにして堺に住みついたかも分からないようです。ただ堺の開口神社には、小西家一族が出てくる文書がいくつか残っています。ひとつは天文六年(1537)、石山本願寺が細川勢によって破壊された堺の坊を再建する計画をたてた時に、小西宗左衛門という人物が酒、竹木を整えて、力を貸したため本願寺に招かれたことを記します。

5 堺会合衆
 もうひとつはその翌年、この宗左衛門が堺と明との貿易再興に石山本願寺が尽力したことに木屋宗観と、一緒にお礼に訪れています。本願寺は堺から経済的資力を受けていました。小西宗左衛門は、本願寺と堺の関係に重要な役割を果たす会合衆の一人であったようです。
 しかし、小西宗左衛門が小西行長と、どういう関係にあるかまでは分かりません。堺には小西と名乗る一門が沢山いたのです。その一族の一人ということにしておきます。
小西一党の中には、ザビエルに接近する者もいたようです。

5 堺会合衆2

そのひとりが行長の父小西隆佐です。
ザビエルは鹿児島から瀬戸内海を経て都にのぼり、日本での布教許可を得ようとします。その時に、ザビエルは堺の豪商、日比屋了珪に宛てた紹介状を持っていました。そのため、日比屋の案内で京で布教活動の許可嘆願を行う一方で、日本最大の仏教大学のある比叡山に興味を持ち訪問を熱願します。その際に日比屋了珪は、京にいた小西隆佐に紹介状を書いています。その紹介状を持ってきたザビエルを、隆佐は従僕をつけて坂本に案内させています。小西一族が宣教師と接触したのは、これがはじめてになるようです。日本に最初にやって来た宣教師であるザビエルです。そういう意味では、小西家は早い時期に宣教師と接触したことになります。
 ザビエルが天文20(1551)に日本を去った後の永禄2年(1559)には、ヴ″レラが豊後から堺にやって来て、京や堺で布教活動を行います。この時には、日比屋了珪の家族と40人の市民たちとが洗礼を受けています。

5 堺南蛮貿易

 行長の父隆佐が洗礼を受けたのは、いつ?
シュタイシェソ神父の『キリシタン大名』によると、隆佐は

「行長と共に大坂城で高山右近の感化を受けて改宗した」

と書かれています。そして、フロイスの1569年6月1日付の書簡は、次のように記します。
「隆佐は当地方における最も善良な基督教徒だ」

 フロイスは、この4年前の永禄八年(1565)に、松永久秀が将軍足利義輝を殺し、京の宣教師を追放した時に、隆佐によって保護されながら逃れた経験があります。それから3年後には、織田信長に謁見を求めてやってきたフロイスを安土まで送り、知人の家に泊らせ、自分の息子に世話をさせたのもこの隆佐です。
 ここからは1565年から69年までの間に、隆佐とその家族たちが受洗したことがうかがえます。行長は1558年頃に生まれたようですから洗礼の時には7~9歳くらいであったことになります。
小西隆佐の受洗の動機は何だったのでしょうか。
遠藤周作は「小西行長伝」で、次のように記します。

我々は日比屋了珪や隆佐一家を必ずしも宗教心に溢れた堺商人だとただちに断言はできぬ。逆に当時の堺商人は現世的で快楽主義者の多かったことは石山本願寺の蓮如上人ものべている

 確かにフロイスも、次のように堺商人の快楽主義と不信心ぶりを嘆いています。

「堺に建てられた教会では1ヵ月の間、日夜話をきく者が絶えなかったが、これは他国者で市民ではなかった。市民は傲岸で罪ぶかく神の貴い話を聞く資格はない」

 日比屋了珪や隆佐の受洗の動機も最初は、「商人としての金儲け」だったようです。堺商人たちは、南蛮貿易の利益のための改宗を厭わなかったようです。ザビエルを世話した日比屋了珪にしてみれば、次のように考えていたのかも知れません。

「南蛮と堺との貿易をなめらかにするためには、まずおのれたちが受洗することだ」

じれは大友宗麟のように、南蛮船による利をえるため宣教師たちを保護し、自分も洗礼を受けたのと同じ手法です。そして貿易商人は、異人の扱いにも馴れています。
 いずれにせよ、この時期に小西隆佐は、妻子と洗礼を受けたようです。しかし、父が功利的な改宗者ならば、子もその父や母に従って受洗したにすぎなかったと考えるのが自然です。その信仰が「本物」になるまでには、幾たびかの「試練」を通過する必要がありました。そのひとつが高山右近との出会いだったのかもしれません。

   10年近く経った時の小西行長は、秀吉から備讃瀬戸航路海域の支配を任された「海の司令官」に成長していました。
5 小西行長 小豆島2

行長の快速船団には十字架旗が掲げられ、領地小豆島に「神の国」の建設を進めていたのは前回見た通りです。ある意味、秀吉の野望と行長の出世と信仰が相反することなく、人生のベクトルが一つの方向を向いていた幸せな時代だったのかもしれません。九州への遠征も島津に苦しめられるキリシタン大名を救う「聖戦」と信じることができた頃です。
   天正15(1587)年に、秀吉は大軍を九州に送り込みます。
島津に突きつけた九州和平案の条件に応じなかったためと云いますが、そんなことは口実です。

「太刀も刀もいらず、手つかまえたるべく候」

と秀吉は豪語しています。四国制圧の時と同じく、秀吉軍と九州の領主達の間には、大きな軍事力の格差が生まれていました。秀吉の心の中には、島津攻略は二の次だったかもしれません。この作戦の裏の狙いは、やがて行う大陸侵攻の兵糧の調達や整備演習で、朝鮮侵攻基地としての博多の再興にあると秀吉は考えていた節があります。

5 秀吉の九州討伐

九州討伐作戦は小西父子にとって、その能力を秀吉から問われた戦いでした。
彼ら親子は、秀吉が自分たちを引きたててきたのは一族の持つ水上輸送力と財務能力と、そして堺という貿易都市を背景にした財力によるものであることをよく分かっていました。水上輸送力があるゆえに行長は、瀬戸内海諸島の管理権を与えられ、四国、九州作戦に兵站責任者に登用されているのです。財務能力と堺をバックに持つゆえに隆佐は大坂城のブレインに昇進し、堺奉行に抜擢されたのです。まさに九州遠征は、小西家の力を見せるチャンスです。その成功の向こうに、さらなる飛躍があると信じていたでしょう。
 そして、大量の兵糧や馬糧など戦略物資の畿内からの後方輸送の任務に就きます。前年に、軍勢30万人分の兵糧米と2万頭分の兵車とが集められます。島津征伐だけには多すぎる量です。これは次の朝鮮出兵の準備であり、その調達には畿内の豪商が動員されます。
 堺奉行の小西隆佐も石田三成、大谷吉継たちとともに、前代未聞の大作戦に必要な軍需品や兵糧の補給に当たります。隆佐たちが集めたこのおびただしい兵糧や軍需品は兵庫、尼崎から瀬戸内海をへて赤間関(下関)まで船で輸送されました。その指揮を行ったのが行長です。文字通り父子一体となって大輸送作戦の立役者として働きます。本能寺の変以後の秀吉陣中において、華々しい功をたてるチャンスのなかった若き輜重隊長に活躍の場が与えられたのです。 行長領となっていた小豆島や塩飽にも船や水夫の動員令が出たはずです。
  塩飽諸島に宮本、吉田、妹尾、
  小豆島には寒川氏、
  直島には 高原氏
  などの水軍衆がいたはずです。彼らがどのような動きをしたのか史料には伝わっていません。

秀吉は行長が使い物になると見るや、兵站輸送以外にも次々と新しい仕事を与えます。
 まず朝鮮出兵のための玄海灘渡航計画の立案と、対馬の宗氏に朝鮮国王の朝貢を交渉させる任務です。行長がこうした特殊任務を秀吉から命ぜられたのは、秀吉家臣団の中で最も朝鮮通と見なされていたからだと研究者は考えているようです。
 もともと小西家は堺の薬種問屋と言われています。朝鮮人参をはじめとする高価な薬草の多くは朝鮮から仕入れたものでした。そのため小西家の持船が朝鮮に渡航し、言葉にも通じていた可能性もあります。そういう意味では隆佐や行長が当時の日本人のなかでは朝鮮について一番、知識を持っていたのかもしれません。また、切支丹である彼は秀吉の命をうけ、大村、有馬の領主と接触しています。そして同じ信仰を持つ領主たちの説得に当っています。こうして九州作戦は、わずか二ヵ月で終ります。秀吉は6月7日には、博多に凱旋します。
 そして6月19日、秀吉はバテレン追放令を突然に出します。
    
5 小西行長 バテレン追放令

     『吉利支丹伴天連追放令』原文
 定
1 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
2 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
3 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
4 黑船(貿易船)之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
5 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日     朱印
(意訳)
1 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
2 (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
3 キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
4 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
5 いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
第2条で、大名がキリスト教を強制すること、寺社を破壊することが禁止されています。「権力者が禁止令をだすのは、現実にその行為が行われていた」というセオリーが適応されます。キリシタン大名の支配地ではキリスト教強制が行われていたようです。
3条で宣教師に対しては20日以内の国外退去を求めています。しかし、次の条では宣教師は追放するが黒船(貿易船)はウエルカムよ、貿易は今まで通り続けましょうと云います。宣教師には腕を振り上げて威嚇した後、商人に対しては笑顔で迎えているような印象です。商売と宗教は別ですから、今後も宜しくという内容に読み取れます。
 この文書の補足として口頭で以下のことが周知されたようです。
①この禁止令に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰する
②大名によるキリスト教への強制改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由
大名が信徒となるのも秀吉の許可があれば可能
この①②の補足を見れば、事実上の信仰の自由を保障する内容のようにも思えてきます。 この内容からキリスト教徒追放令ではなく、バテレン追放令なのです。 バテレンとは、ポルトガル語で「神父」padreです。国外追放されるのはキリスト教徒でなく、宣教師たちなのです。江戸時代のキリスト教禁止令とは大きく違う内容です。
  バテレン追放令で秀吉がねらったキリシタン大名は誰?
 フロイスによれば秀吉は全切支丹に棄教するよう強制し、拒否する場合は宣教師と共に国外に追放すると威嚇したといいます。しかし、実際には黒田官兵衛や小西行長には教えを棄てるようにしむけることはありませんでした。宣教師の国外追放と同時に、この追放令には秀吉のもう一つの狙いがあったと研究者は考えているようです。
 秀吉は、利益になることと不利益になることの区別は、冷徹に計算した上で手を打っています。この中には、キリシタン大名を分断し、ある大名を孤立化させる内容が忍び込ませてありました。それは高山右近です。
右近への厳しい対応の背景は?

5 高山右近
 キリスト教禁止を行えば宣教師たちが九州のキリシタン領主たちが手を組んで建ち上がり、反抗的姿勢を示すかもしれぬという恐れを秀吉は考えていたはずです。実際に、追放令後に今後の対応を考えるために平戸に集まった宣教師の一部から「日本占領計画」が提案されています。その際には、高山右近が最も頼りとなる人物であり、反乱の中心に担ぎ上げられる存在になる可能性が高い人物でした。なぜなら秀吉から見れば、右近だけが利害得失を離れて宣教師の味方となる人間であったからです。右近は「危険なる存在」だったのです。権力者にとって、危険をはらむ存在(仮想敵)は早く取り除かなければなりません。逆に云えば蒲生や黒田や行長は右近にくらべ「危険なる人物」と秀吉は考えていなかったことになります。

5 小西行長 バテレン追放令2

  追放令に小西行長は、どのように対応したのでしょうか?
 行長は黒田孝高や蒲生氏郷だちと同じように翌日には、秀吉に妥協しています。その理由は、布告のなかの次の2項目の解釈です
①百姓たちの切支丹信仰は自由だが、それ以上の者は許しを求めねばならぬ
②領主たるものは切支丹信仰を領民に強制してはならぬ
という項目があったからです。つまり、この二項目を守る限り、自分たちの信仰は認められる解釈できるのです。その後の動きを見ると
①蒲生氏郷はその後、棄教
②行長は、フスタ船で眠っている宣教師を秀吉に引き渡し
という行為が見られます。秀吉の威嚇の前には屈服しているのです。
それに対して、高山右近は、どんな対応をとったのでしょうか
 関白の使者の詰問を受けた右近は、ためらうことなく
「信仰は棄てぬ。領地は秀吉に還す」
という回答をします。秀吉は、この返答を予想していなかったようで、翻心して自分に仕えるよう再度の説得の使いを送ります。妥協案として明石領は没収するが、肥後に国替えを命ぜられた佐々成政に帰属するよう提案します。しかし、右近は考えを曲げなかったようです。
  彼は、9年前の荒木村重事件を経験しています。
荒木村重に従っていた右近は、村重の信長への反乱という事件にあいます。キリスト教を保護する信長と、主人の村重への義理との間に苦しんだ結果、領主としての地位を棄て、僧侶のように信仰のみに生きようとして家臣団に別れを告げた経験があります。その苦しい思いを味わった右近は、二度と権力者の道具、一つの歯車になることはならないと心に誓っていたのだと思います。彼の信仰は「本物」になっていたのです。
 翌朝、右近は家臣たちに自らの決意を述べて去って行きます。
「余の一身に関しては、いささかも遺憾に思うことはない。汝等にたいする愛ゆえにのみ、悲哀と心痛をおぼえるばかりである。余は汝等が余のために戦いにおいて共々、うち勝ってきた大きな危険に生命を賭したことを忘れず、その功に報いたいと望んでいる。にもかかわらず現状では汝等は余の手から現世の報いはできぬから、限りなく慈悲ぶかいデウスが、その栄光の御国において永遠、完全なる報いを汝等に厚く与えることを信じている。(中略)
 家臣たちはこの言葉に号泣し髪を切って共に追放の苦しみを味わいたいと誓った。右近はただ三、四人の者だけを連れていくことを明らかにした。」(プレネステーノ「ローマーイェズス会文書」)。
 右近は明石の領地を信仰のためすべて棄てたのです。
小西行長との違いは明らかです。秀吉のバテレン追放令は、キリシタン大名の信仰をためされる「踏絵」でもあったようです。そして、秀吉が差し出した踏絵を前にして敢然と首をふったのは右近だけだったのです。秀吉の読み通りでした。
  兄のように尊敬してきた高山右近のとった行動を見て、小西行長はどう感じたのでしょうか?
誰もが一度は自分のとった行為を正当化します。しかし、右近の烈しい信仰を見て、それができぬ自分にうしろめたさと恥ずかしさとを同時に感じたのではないでしょうか。その良心の補償のためにも右近を保護せねばならぬと思うようになったのではないかと遠藤周作は小説の中で、語ります。
 右近が博多湾上の孤島に移り、それから瀬戸内海の淡路島に逃れることができたのは、おそらく小西行長のひそかな援助があったからでしょう。前回にも述べた通り、行長は「海の司令官」として、瀬戸内海航路の管理者でしたから管理下にある船に高山右近を潜ませることは簡単であったはずです。堺に帰還する行長の船に、同船させたかもしれません。
高山右近が追放された今、宣教師たちの頼みの綱は行長です。
 京にいた前日本副管区長のオルガンテーノは、大坂や堺などの畿内の宣教師に行長の所領である播州の室津に集まるよう呼びかけます。行長の保護がほしかったのでしょう。しかし、行長は動きません。フロイスは
「行長は宣教師たちに冷たかった」
と書いています。
当時の行長の心境を遠藤周作は次のように描きます。
「行長は怯えていた。彼の信仰は今までたびたびくりかえしたように真実、心の底に根をおろしたものではなかった。六月十九日の夜、蒲生氏郷などと共に関白の威嚇に屈服した彼は今、自分も右近と同じ運命をたどることがこわかったのである。そのくせ彼は毅然たる右近の勇気ある信仰者に転び者が殉教者に感じたようなうしろめたさと恥ずかしさを感じていた。そのくせ自分の領地である室津に宣教師が集結することを怖れ、これ以上、宣教師たちの悲劇に巻きこまれたくなかったのだ。」

 室津に追放宣言を受けた宣教師たちが集結しているのが、秀吉の耳に入ればどうなるのでしょうか?
5 室津1

 集結した近畿の宣教師たちの退去を求めて室津にやってきた行長に対して、オルガンティーノは日本に留まることを主張します。行長とオルガンティーノの間で烈しいやりとりがなされたようです。そして、
「行長は連れてきた結城弥平次ジョルジと三時間、一室にとじこもった」
と宣教師の報告書は記します。
 三時間の間に、この二人が語りあったことは何だったのでしょうか
後の行長の行動を追うと分かってきます。それは秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを彼等は話し合ったと遠藤周作は考えているようです。
 このような時に、淡路島に隠れていた高山右近は、行長の家臣・三箇マンショと室津にやってきます。右近の登場でそれまでの雰囲気は激変します。右近は行長たちに向って、
「我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語った。それは地上の軍人から神の軍人に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えない」
と誓ったといいます。
 こうして行長と右近たちは協議して次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を小豆島にかくすこと
②神父と右近とは二里はなれて別々に住むが、万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の新知行地に逃げること
これは行長にとっては危険な行為です。国外退去命令の出た宣教師を自領の小豆島にかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする裏切です。しかし考えて見ればこれは、堺商人が権力者にとってきた処世術かもしれません。表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方です。関白に屈従しているとみせかけて、巧みにだますこと。これがこれからの行長の生きる姿勢になります。
 室津でこような「会議」が開かれたのは天正十五年(1587)の陰暦6月下旬から7月上旬であったようです。行長の成長には、バテレン追放令と高山右近の犠牲とが必要だったようです。

   室津は瀬戸内海の湊として、多くの人たちが利用してきました。法然上図には女郎とのやりとりが描かれています。しかし、行長をしのぶものは何もありません。室津は、行長にとって「魂の転機」となった場所だと遠藤周作は云います。

  小豆島に潜伏した、右近やオルガンティーノの動向は?
5 小西行長 小豆島1

 オルガンチーノ神父が、長崎などの司祭・修道士に宛てた書簡には次のように記されます
「我ら(他にコスメ修道士、同宿のレアン)が今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ませんでした。
 この島の住民はきわめて素朴で、アゴスチーノ(小西行長)が当地に置いております隊長に、万事において従っています。この隊長は、非常に善良なキリシタンで、我らが発見されないように、最大の注意を払っております。三名のキリシタンが、我らの居所を知っているだけで、彼らが必需品を届けてくれるのです。」
 また、髙山右近一家(妻子)の住まいについては、
①オルガンチーノ神父たちの住まいからは「2レグア」 (8km) の距離にあって、
②右近は時々単身で 訪ねて来て、2,3日泊まって、語り合いの時を持ったと
記します。続けて
右近は剃髪して迫害と窮乏の中に妻子と共に、 つつましく暮らしており、そして 歓喜に満ちて、何事もなかった如く見える。右近は、日本では戦争で領地を失い・殺され、あるいは死に至る者が少なくないのに、彼らに比し、自分はイエズス・キリストを愛するために 領地を失ったのであって、大いに喜ぶべきことであると語り、日々信仰心を増し、一切をデウスに任せ奉り、デウスのため 生命を失う準備を進めている。こうして、関白の権威に屈せず、何ものをも怖れず、暴君 および 悪魔に対し、光栄ある勝利をおさめた。」( 1587年 ・ 年報 )
と、右近の近況と信仰心の成長を伝えています。
 髙山右近が 潜伏した場所は、どこなのでしょうか?
小豆島の郷土史家は
①右近潜伏地を中山
②オルガンチノ潜伏地を肥土山
と推定しています。

5 小西行長 小豆島5

  前回、行長が宣教師を連れてきて半ば「強制改宗」を行い、1ヶ月で1400人の洗礼を行った場所が内海湾一帯の草壁地区と推測しました。さらに隠れ場を
「今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ません」
とあるので、海が見えない山の中の孤立した所のようです。そうだとすれば、中山や肥土山はぴったりのロケーションです。ここには、千枚田や農村歌舞伎小屋があり今は観光客も訪れるようになりましたが、隠れ家を置くには最適です。
5 小西行長 小豆島81

  ところで、小豆島は彼ら以外にも多くの亡命者を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。彼らに、右近追放の一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」
と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」
だったといいます。右近の一族や重臣の中には、右近と共に行長の支配する小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、当時の小豆島には
①行長による強制改宗による地元信者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことをここでは押さえておきます。
行長の宇土への転封

5 小西行長 宇土城jpg
 右近等が小豆島に潜伏したのもつかの間、翌年の天正16年(1588)、小西行長は秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。秀吉が肥後の北半国、二十六万石の領主としたのが加藤清正です。清正が陸戦将校ならば、行長はは軸重、輸送の輸送隊長で後方支援部隊の責任者です。
5 小西行長 領地1

秀吉の頭にあったのは、朝鮮出兵でしょう。
おびただしい兵力、兵糧を海をこえて朝鮮に運ぶ必要がある。そのためにも行長を肥後の南半国におくのは悪くない。しかも、天草の切支丹国衆たちを抑えるには、同じ信仰者の者がいい。そしてライバル意識を持つ清正と競い合わせる。一挙三得じゃ」
という感じでしょうか。こうして、同年輩の水と油のようにあい合わぬ二人の若者が肥後という国を背中合わせに支配することになります。
 小豆島1万石から宇土24万石への破格の抜擢の意味を行長は分かっていたはずです。
喜びと云うよりも、当惑の方が大きかったのではないでしょうか。秀吉の野心の道具として、朝鮮出兵を仕切る立場に立たされたのです。かつての行長なら嬉々としてうけたでしょう。しかし、バテレン追放令の高山右近の生き様を間近に見た今は違います。そして、今は秀吉を裏切り、右近を小豆島に匿っているのですから・・・。

 この頃は讃岐では、毛利・島津に備えての瀬戸内海防備ライン整備の一貫として、秀吉に命じられた生駒親正が高松城の築城に着手した頃です。行長の転封に従って、高山右近も九州・宇土に向かいます。しかし、右近は間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将と1万5千石の扶持で迎えられます。行長の心の重荷の一つが下ろされたのかもしれません。
 この後に展開される朝鮮出兵で、交渉を任された行長が秀吉に偽って明と和平講和を結ぼうとするのは、秀吉に対するある意味での裏切りです。しかし、それは心理的には右近を小豆島に隠したときから始まっていたのかもしれません。
 秀吉亡き後の関ヶ原の合戦では、行長は豊臣側につき捕らえられます。
この時、行長はキリシタンであることを理由に切腹を拒否します。そして戦犯として恵瓊とともに京の六条河原で斬首されます。享年42歳とされます。この死に様に、キリスト教徒としての成長を私は感じます。
5 小西行長 バテレン追放令6

 最後に小西行長の後の小豆島を見ておきましょう。
行長の宇土転封後に、代わって小豆島の支配者となったのはの、片桐且元(かたぎりかつも)です。  彼は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた人物です。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津で三千石を与えられるようになります。
 以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっています。天正15年(1587年)の九州遠征では、小西行長とともに後方支援を担当し、主に軍船調達に関わっていたようです。武闘派のように思われがちですが、実務的な仕事もできるタイプの武将だったようです。そのためこの頃から実施されるようになった検地の責任者として各地の検地帳に名前を残しているようです。彼の下では、バテレン追放令は、有名無実化していましたからキリスト教信者への組織的な弾圧があったとは思われません。
 その後江戸幕府の天領となると宗門改が厳しくなります。
①元和元年(1615)長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、
②元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)
③正保4年(1647)から幕府の直轄地
彼らの下で、次第に宗門改が厳しく行われるようになります。
 特に寛永7年(1630)の小掘遠州の時には、かなりの信者が捕らえられ、転宗させられたようです。小掘遠州は、茶人、造園家としてよく知られていますが、実務的な官僚でもあり宗門改にも真面目にとりくんだようです。そのため小西行長の時代から根を下ろしていたキリスト教信者が踏絵を踏まされ、あぶり出され改宗を迫られたようです。
 それでも、小豆島では以後もかなりの人数の隠れキリシタンがいたのではないかと云われます。それを裏付けるように、隠れキリシタンのものではないかと云われる墓が多く残っています。見る場所によっては十字架に見えるというのです。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。有力者が信者であったことを示すもので、高山右近時代の「亡命信者」の子孫たちだったのかもしれません・彼らは、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようです。今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などが、各所にあります。
5 堺会合衆haka

 また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きます。
この乱と小豆島とはいろいろな形で結ばれていたようです。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長が小豆島から転封された領地です。そのため、行長の家臣だった多くのキリシタン浪人が乱には参加していたとされます。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の家臣の一人だったと云うのです。
 この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されます。その時に篭城の3万7千人が全滅しました。この中の多くは農民で、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しす。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図ることにします。天領である小豆島にも移住者を出すことが求められます。そのため、小豆島から島原半島南部一帯に多くの人たちが移住しています。移住者の決定に当たっては
①坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者
②生活困窮のため自ら進んで移住した者
などがいたようですが「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったようです。
 その後も移住元と移住先という小豆島と天草地方の関係はその後も長く続きます。
例えば以前にも紹介しましたが、マルキン醤油の持ち舟の弁財船は、瀬戸内海を抜けて天草まで下り交易活動を行っています。その際に船が出て行くときには、島の塩や素麺・醤油を積んで、帰路航路には小麦や鰯かすなどの肥料が積まれています。丸金醤油は小豆島からの移住者たちを相手に、塩や素麺・醤油を売り、その帰路には原料の小麦を買って帰っていたようです。
   長くなりましたがおつきあいいただき、ありがとうございました。

5 小西行長1

若き日の小西行長は小豆島や塩飽の領主であったようです。領主として島に「神の王国」を作ろうとし、後には追放された高山右近をこの島に匿ったとイエズス会の宣教師は報告しています。
小西行長と小豆島・直島の関係を探ってみます。
小西行長が秀吉に仕えるまでのことは,よくわかっていません。
一説には,備前・美作(岡山県)を治めていた宇喜多直家に仕えており,直家が羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田信長に降伏した際の連絡役を務めていたといわれています。
その後の行長の出世ぶりを年表で見ておきましょう
天正8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)で所領を得て
天正10年(1582) 小豆島(香川県)の領主となり
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正十五年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。
 彼の所領を一万石ほどの「小さな島」と考えるのは大間違いです。
5 瀬戸内海

小豆島や塩飽は海のハイウエーである瀬戸内海のSAサービスエリアであり、ジャンクションでもあったのです。1万石の領土を任されたと云うよりも東瀬戸内海航路の管理・運営を任されたと考えた方がいいと私は思うようになっています。小西行長が秀吉に仕えるようになって4年、何か大きな戦功があったのかといえば「NO」です。本能寺の変の後、明智光秀や柴田勝家との戦いの中に彼の名前は出てきません。同世代の加藤清正や福島正則が「賤ヶ岳の七本槍」と勇名を馳せるのとは対照的です。長宗我部元親への四国遠征の際にも、後方支援で戦略物資を運んでいた輸送船団の若き司令官にしかすぎません。戦績もない青年将校が、戦略的要地の司令官に抜擢されているようです。先ほど触れた加藤清正は、当時は三千石です。戦場に出ず血を流すことのない主計将校、輜重武官として蔑んでいた行長が自分より秀吉の評価が高いことは、清正には愉快ではなかったはずです。
 秀吉はなぜ若い行長を抜擢したのでしょうか
  謎をとく一つの手がかりは、行長の父小西隆佐の存在だと研究者は考えているようです。
 同じ時期に行われた堺のトップ人事について宣教師フロイスは、次のような書簡をインド管区長に送っています。
「堺市においては切支丹にとって大いに悦ぶべきことが起った。同市の領主(奉行)が関白殿の怒りにふれて職を奪われ、奉行が二人おかれるようになった。代った一人は異教徒で、他の一人は隆佐と称し、切支丹の名をジョウチソという人である」(イエズス会『日本年報』)
 このフロイスの書簡のうち「同市の領主が関白殿の怒りにふれ」という部分が、信長以来の堺の代官が秀吉の怒りに触れて罷免され、隆佐が堺の代表者に任命されたと報告しています。この隆佐は行長の父なのです。改めて確認しておくと次のようになります。
  ①父・隆佐が堺の堺奉行
  ②子・行長が、小豆島・塩飽諸島と室津の領主
これには、人使いのうまい秀吉の思惑があったはずです。朝鮮出兵に向けた野望のために、父子二人を一体として使おうとしたのだと研究者は考えているようです。そのために堺と瀬戸内海交易路の戦略拠点である島と港を父子に与えたというのです。今風に云えば、
 父親は通産省の高官に、
 子は瀬戸内海の運輸省と海上保安庁の地元長官に
同時抜擢した人事処遇ということになるのでしょうか。秀吉はやがて行う九州制圧やその後の朝鮮出兵に向けて、軍兵、兵器、兵糧の海上輸送を行う船団の管理運営できるが人物の育成を行っていました。四国遠征では仙石秀久にその役割をやらせてみたのですが、秀吉の目にはかないませんでした。やはり武士や百姓出身の人間には、船や港や交易のことは分からないようです。そこで、抜擢されたのが堺商人の次男・小西行長だったようです。つまり商人出身の侍なのです。
  この時代の行長は、宣教師たちからは「海の司令官」と呼ばれていたようです。
その颯爽とした登場ぶりを史料から見てみましょう
天正13(1585)年の『イエズス会日本年報』
パードレ・フランシスコ・パショが豊後より都に赴く途中にて認めたる書翰
 七月六日「我等は佐賀関Sanganoxequiを出発し、12日に塩飽(Xluaquu)に着いた。途中海賊に會はず、風がなかったため常に櫓で進んだ。塩飽に着いて海の司令長官アゴスチニョ(小西行長)が異教徒である当地の殿に書翰を送り、予が到着した時、室までの船をあたえ、大いに飲待せんことを依頼した由を聞いた。アゴスチニョは、また我等が同地を通過する時に泊る宿の主人に、同じ趣旨の書翰を送った。
 同地には、またアゴスチニョ(行長)の家臣である青年キリシタンが一人居り羽柴筑前殿 (FaxibaChicugendono)(秀吉)の土佐、讃岐、阿波及び伊予の四国に派遣する軍隊を輸送するため、船の準備に塩飽に来た由を語り、アゴスチニョは同地より十レグワの所にて艦隊を待受けてゐる故、もし彼のもとに行かんと欲すれば、その船にて同行すべしと言った。
 予はこの招待に応じ、日比と称する地に着いたとき、未明に到着するはずである故そこにて彼を待つやう伝えられたた。アゴスチニョは果して、翌早朝多数の船を率ゐて到着し、十字架の旗を多数立てた大船に乗り、同所にゐた貴族達に面会することなく、直にわが船に来り、予をその船に移して大いに歓待した。ついで小舟に乗り、手に杖を待って、兵士を乗船せしめ、船を出航せしめたが、甚だ短き時間に沈着に一切を行った。然る後その船に還り、我等か暫く語った後、予に一艘の軽快な船をあたへ、直に堺に向ふため書翰ならびに兵士をあたえた。
ここからは次のようなことが分かります。
①小西行長が「海の司令長官」と宣教師から呼ばれ、室津を拠点としていた
②塩飽は当時は「異教徒の当地の殿」が治めていたこと
③行長の家臣が四国遠征準備のために塩飽にやってきていた
④十字架旗を立てた船団で日比にやってきた小西行長と歓談した
⑤小西行長の準備した快速船で堺に向かった
 行長は室津と小豆島の領国を持つ領主であると同時に,秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として動き,秀吉の命令を伝達するだけでなく,現地の情勢に応じて武将と相談し,秀吉の命令意図を実行できる立場にあった研究者は考えているようです。
 四国遠征直前に、部下を塩飽に派遣し船の動員についての打合せを「塩飽代官」と行わしたり、自ら快速船団を率いてあっちこっちを巡回打合せを行う若き「海の司令官」姿がうかがえます。

  小豆島でのキリスト教布教は、どのように行われていたか?
翌年の1586(天正十四年)に小豆島での布教の様子が次のように報告されています
 パードレが堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前に在って、小豆嶋と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のため2カ所の城を築造することを命じた。彼の最も望むところは、この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。彼は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは右の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人をさいた。
 八六年七月二十三日 堺を発し右のパードレを同行して、かの小豆島(堺より四十レグワ=160㎞)の前に到る。
牛窓と称し同じくアゴスチニョ(行長)に属する町に彼を残した。右のパードレは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。ビセプロビンシヤルのパードレが今居る長門の下関の港に着いた後一ヵ月半を越えざるうちに、大坂より来た書翰の中に、小豆嶋に留ったパードレの書翰があった。その中につぎに這べることが記してあった。
 予は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。同所にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆が集まり、彼等の半数以上はよく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとほりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモ(教理問答)の説教を受けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々にに斎座の火を燃やし給ひ、1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(約6㎞)の間に接績してゐた村々において、千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架をここに建て、神仏は一つも残さず破壊した。また聖堂を建てるため四十ブラサ(約八八㍍)四方の場所を選んだが、その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この嶋の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ余りの道を急いで予が滞在してゐた村に来り、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
当時の行長の国作りのお手本は、先輩キリシタン大名である高山右近でした。
5 高山右近

右近は秀吉からも天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ「神の国の地上での実現」をめざしていました。小西行長は、それを見習って国作りを小豆島で行おうとしていたようです。その一端が、イエズス会の立場から描かれています。
  行長の望むところは「この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんこと」として、どのような布教活動が行われていたかを上記の報告から確認しておきます。
宣教師が派遣されて、布教活動が行われます。
①小豆島の北側対岸の牛窓も行長の所領であったこと
②宣教師に「嶋の司令官であるキリシタンの貴族(=代官)」と同行したのは三箇マソショは結城弥平治ジョルジの両説有り
③場所は分からないが宣教師による布教活動が行われた
③1日目から百人を超ゆる聴衆が集まり、1ケ月で1400人を超える人達が洗礼を受けた
④信者は長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架を建て、神仏は一つも残さず破壊した。
⑤聖堂建設場所が選ばれ、(行長)は瓦葺きの聖堂を建設する予定であった
模範とする高山右近の領地では、2つの相反する宗教政策が行われたことが記録されています。
①右近の領内の寺社記録は「右近が領民にキリスト教への入信強制を行い、さらに 領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。」と入信強制と神仏破壊が行われたと記録します。
②キリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかった。しかし、右近の影響力が大きかったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたとします。
どちらにせよ、急速な入信者の増大は、自然発生的なものではないようです。そして、神仏破壊も行われているようです。こうして、小西行長の領地ではキリスト教の布教が領主の支援を受けて行われ、急速な信者獲得が行われ、その成果を誇示するように大きな十字架も建てられたようです。
さて、このときに宣教師たちがやって来て布教を行い十字架が立てられて場所はどこなのでしょうか

5 小西行長2

まずセスペデスの上陸地の条件は、牛窓との航路があったことです。
牛窓と小豆島との海上航路については、いくつかのルートが考えられます。上陸地の候補地をを、『海潮舟行日記』(文政六年)で探してみましょう。

5 小西行長5
 福田 家百軒    湊廣シ西風ノ外懸り無之、
 草加部 家数八十軒  何風ニモ吉大船何程モ懸ル、
 池田 家百八十四軒 湊内廣シ何肢モ懸ル、
 土庄  家百八十一軒 舟懸り無之浅シ、
 渕崎 家九十五軒  入口西ヨり、湊上々何赦モ懸ル、
 伊木洲江  家百軒  湊悪シ、
 屋形崎 家三十四軒 舟懸り無之、
 小海  家三十六軒 是ヨリ備前ノ牛窓へ三リ、
 大部  家百二十八軒 西風南風懸リ
牛窓に一番近いのは小海です。ここは中世以来の廻船業者が活動する湊で、牛窓との便数も多かったようです。しかし、周辺の人家数や人口が少なすぎます。小豆島の北側にある集落では1400人の人々を集めるのは無理があるようです。
 この布教から約160年後の延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、宗門改の結果、「転び切支丹類族」が新たに見つかった集落を挙げています
草加部村 54人
肥土山村  5人
上庄村に  3人
渕崎村に  2人
そして、草加部の項目には次のような記事があります。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。
 つまり、草加部の他に、池田、小海、福田にも、かつてはキリシタン信者がいた「死失仕り」っていないだけだと記します。単純に考えると、セスペデスの布教活動地はこの四つの村の一つに絞られるのかもしれません。しかし、後にも触れますが秀吉のバテレン禁止令以後、右近の信者たちが小豆島へ「亡命」してきています。その時の神社が隠れ住んだ可能性もありますので確かなことは分かりません
 
セスペデスが布教を行った場所について考えてみましょう。
 ①旧約六キロメートル連続した村々がある。
 ②約一か月間に1400人以上がキリシタンとなった。
 ③十五メートル以上の十字架が建てられた。
 ④キリシタソ達によって神仏が一つ残らず破壊された。
 ⑤聖堂を建てるための約88㍍平方の土地がある
 ⑥行長の支配の中心地に当り、館が築かれていた。
人口面からすれば内海湾に面して苗羽、安田、草壁、西村というような連続した村が続く島で一番の人口密集地帯である草加部村(内海町草壁地区)が有力でしょう。先ほど見た、「転びキリシタン類族」も54人と多く、ここに小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。
天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけの大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿
と書かれ、小西行長による神社仏閣破壊が室津でも行われていたことが分かります。
そして地元の「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」
とあり、この地区で小西行長による神社仏閣の破壊が行われたことを記します。しかし、これらも「状況証拠」で決定打ではありません。あえて想像するなら内海湾を見下ろす草壁の丘の上に大きな白い十字架が建てられた時代があったかもしれないくらいに留めておきます。
以上を整理すると
①秀吉が長宗我部と戦うために四国遠征軍の準備をしている時に、東瀬戸内海の「海の司令官」は小西行長だった
②彼は室津を拠点に、小豆島、塩飽の1万石の若き領主であり、同時に秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として瀬戸内海を動いていた。
③行長は高山右近をお手本に、小豆島を「地上の神の国」とすべく宣教師に布教を依頼
④領主の半ば強制で人々は大量入信し、短期間で1400人の洗礼者を獲得した
⑤そのモニュメントとして大きな十字架を建てた。その場所は内海湾周辺が有力である

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
5 小西行長3

参考文献 遠藤周作 小西行長伝 鉄の首軛(くびき)
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