瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 近代の金刀比羅宮

まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、重要文化財となっている金刀比羅宮の別宮・本宮・旭社を巡ってきました。今回は本宮についてお話しします。テキストは、帰りに手に入れた次の報告書です。
金刀比羅宮本社上空写真1
        金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
左奧が別宮・手前が本宮です。明治の再営時には、観音堂と旧本宮(金大権現本社)は、それぞれ旭社への下り道と、御前四段坂の参道の前に線を揃え東面して並び建っていました。この配置を踏襲して、同位置に別宮、新本宮が造営されます。別宮が完成し、明治9年に仮遷宮が行われると旧本宮は取り壊され、その跡地に新本宮の造営工事が開始されます。そして、1年間の短期間で明治11年に正遷宮が行われます。
 本宮・別宮ともに本・中・拝殿が連結された複合社モデルです。それぞれ左右に神殿と直所が渡殿や渡廊下で繋がるよく似た形式でが、本宮は建築面積にして別宮の二倍を超える大規模なものです。それにもかかわらず仮遷宮後、2年で正遷宮を迎えています。短期間で工事を終えることが出来た要因については、旧本宮の基本的な構成と配置を大きく違えることなく、地盤面の石材などを再利用し、大規模な基礎工事を避けたためと研究者は考えています。

金刀比羅宮本社周辺図

本宮は四段坂の階段を登ってくると、その正面に姿を現します。

金刀比羅宮 石段777段目
785段の石段のゴール・四段坂の正面にたつ金刀比羅宮本宮

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金刀比羅宮本宮 拝殿正面
お参りしたのは11月末でしたが、正月の参拝客に備えて高い拝殿への階段には木の板が張られ、注連縄も新しくなっていました。正面から見るとシンプルに見えます。

金刀比羅宮 拝殿正面
                金刀比羅宮本社 拝殿正面図
拝殿前から振り返ると四段坂の最後の急勾配の石段が見えます。本宮は参道ゴールに鎮座していることを押さえておきます。お参り後に、移動してから拝殿の北側を見てみます。

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                金刀比羅宮 本宮拝殿北側
正面から見る印象と、横から見る印象が違います。屋根には千鳥破風と軒唐破風が乗っていて複雑です。この屋根を造ったの檜皮師たちは、下表のように摂津国兵庫の職人と、讃岐・備前連合の2つのグループだったことは、前回お話しました。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

報告書40Pには、本宮拝殿について次のように記します。
①高2,3mの高床建築で桁行三間、三関の横長の平面。
②円柱を礎石建てとし、切日長押、内法長押、頭、台輪を回し
③組物は各間の中央にも配した三手先詰組で基本は角形、組物間には通射本を多用する。
④軒は二軒角繁垂木とし小天井を備える。
⑤屋根は入母屋造で、正背面には大棟と棟を揃えた大きな千鳥破風を備え、両側中央に軒唐破風を備える。
⑥妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狭間格子とする。正面向拝を設け、軒とする。
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                 金刀比羅宮 本宮拝殿北側

金刀比羅宮本宮拝殿 組み物

③④の拝殿組物

金刀比羅宮本社拝殿 向拝
⑥の拝殿の正面向拝

金刀比羅宮本宮拝殿内部
金刀比羅宮 本宮拝殿内部
讃岐風俗舞を奏進、田耕行事を行い、続いて田舞3
本宮拝殿内部
金刀比羅宮 新嘗祭 本宮拝殿
本宮拝殿内部 新嘗祭

拝殿にお参りすると、これが本宮だと思ってしまします。しかし、本宮は「拝殿 + 中殿 + 本殿」の3つの建物が連なった複合施設です。それを次の絵図で見ておきましょう。

金刀比羅宮 拝殿
金刀比羅宮本宮  左から「本殿 + 中殿 + 拝殿」
これを断面図で見ると次のようになります。

金刀比羅宮本宮断面図
金刀比羅宮本宮の断面図

3つの建物がつながっていることが分かります。また、先ほど見たように拝殿は高床式で、縁の下に通路が2本あるのも確認できます。この縁の下の通路は何のために設けられたのでしょうか?

HPTIMAGE
本宮拝殿正面の縁下通路
幕末の金毘羅参詣名所図会には、拝殿について次のように記します。
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   
その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。 
ここからは、拝殿下の通路を使って、拝殿の周りを何回も「行道(堂)」する祈願スタイルが行われていたことが分かります。そのために、明治の再営でも廊下通路は造られたようです、しかし、再営後には拝殿周囲には柵を巡らしているので、従来の祈願スタイルは禁止となっていたようです。ちなみに、このスタイルは、倉敷市の由加神社本宮(旧瑜伽権現本社)や高松市の石清尾八幡宮下拝殿(明治14年(1881)などにも受け継がれています。

金刀比羅宮本宮平面図
金刀比羅宮 本宮平面図
 次に中殿を見ていくことにします。中殿は幣殿とも呼ばれ、拝殿と本殿を繋ぐ縦長の建物です。調査報告書には次のように記します。

金刀比羅宮 中殿内部1
金刀比羅宮本宮 中殿内部
①桁行三間、梁間一間の縦長平面。
②礎石建ての拝殿とは異なり土台建てだが、軒桁の高さは拝殿に揃える。
③両側面は桁行に切目長押、内法長押、頭貫、台輪で固める。
④第一間は拝殿脇間との境を開放し、第二間は双折戸を両外開に構え外に切目縁を備える。
⑤第三間は腰板壁と格子窓とする。
⑥組物は組の平三斗の上にさらに通肘木3段及び通実肘木を連斗を介して重ねた
金刀比羅宮 中殿組物1
金刀比羅宮本宮 中殿組物
中殿については、外からは見えにくい所にあるので、あまり馴染みのない建物になります。
本殿について報告書は次のように記します。

金刀比羅宮 本殿
金刀比羅宮 本宮本殿
①三間社入母屋造で、向拝は設けずに正側面の三方に緑を回す
②正面中央間の軒下部分は両側面のみを閉ざして中殿から一連の内部空間とする。
③身舎円柱に切目長押、内法長押、木鼻付き頭台輪を回す。
④頭賞木鼻は形のない簡素な角形ながら入八双金物で飾る。
⑤身組物は角形の財木を用いた三手先の話組で、丸に金の神紋を中備とする。
⑥軒は二軒角繁垂木とし、正面中央間では組物は前面の天井桁を受け、軒を現さない。
⑦屋根は入母屋造とし、大棟に千木・堅魚木を置き、正面には大棟と高さを揃えた大きな千鳥破風を飾る。
⑧妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狹間格子とし大きな鰆付きの猪目懸魚を飾る。
金刀比羅宮本宮本殿3
金刀比羅宮 本宮本殿
金刀比羅宮本社本殿組物
金刀比羅宮 本宮本殿の組物

金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)
金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)

金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
                金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
本殿・中殿・拝殿の格天井については、次のように記します。

素木のままの天井板と桜樹木地蒔絵を描いた天井板とを交互に市松文様状に配っている。絵柄は拝殿では円形にデザインされた桜樹、中殿と本殿では1本から数本の桜の折枝とし、一枚ごとに変化を持たせている。

そして桜の木は、本殿の外側の壁にもデザインされています。

金刀比羅宮 本宮本殿の側面壁の桜の蒔絵
本宮本殿の側面壁 ガラス面に金色に輝く蒔絵

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金色の蒔絵の桜の木
これらの蒔絵を担当した職人たちの名前が、棟札には次のように記されています。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
本宮棟札に書かれた蒔絵師たちの名前
ここからは蒔絵を担当したのは、東京の山形次郎兵衛を頭取とする東京グループと、西京2名と大阪1名の職人だったことが分かります。

P1290080

 現在の本宮がいつ再営されたのかを棟札で見ておきましょう。

金刀比羅宮本殿棟札明治10年
           金刀比羅宮(事刀比羅宮)本宮(本殿・中殿・拝殿)の棟札 
明治 8年1月22日 開始
明治 9年4月15日 仮遷宮
明治10年4月15日 本宮上棟祭
明治11年4月15年 本遷宮 

 以上見てきたように本宮の形式や意匠からは、神社建築の新しい形式や表現を求めたことがうかがえます。その原動力は何だったのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
         金毘羅大権現に描かれた旧本社 讃岐国名勝図会(1853年)

本宮再営の「御本宮再管竣功之記」には、次のように記します。

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
         神仏分離以前の金毘羅大権現の旧本宮 (彩色美に彩られていた)

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

ここからは施主である金刀比羅宮の指導者たちが、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、「大神に釣り合う」復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。例えば、旧本宮は屋根は檜皮葺でしたが、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」からは分かります。これらを仏教風なものとして排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。

金刀比羅宮本社
           金刀比羅宮 本宮
屋根には新たに千木・堅魚木を置くなどして、神社建築の伝統的な要素が加えられます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい感性がみられます。
金刀比羅宮本社2

以前に見たように先行する別宮新宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性が見えました。しかし、肘木下端には曲面を残し、向拝や木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が残されて華やかな細工になっています。これに対して、本宮工事では肘木も角形になっています。そして、彫刻的細部は向拝中備など最小限にとどめ装飾的細部を、さらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も、大工棟梁は琴平高藪町の綾坦三であったことは前々回にお話ししました。
同じ棟梁が担当しながらも、2年しか経っていないのに、別宮と本宮で様式的な変化を造りだしています。これは別宮の完成後に脱神仏混淆様式の追求を、本宮ではさらに推し進めるようにとの要望が施主側の金刀比羅宮からあったからかもしれません。どちらにしても本宮には、前例のない新しい様式が取り入れられています。これは金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっては挑戦にもなりました。このような宮大工の研究心が19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群工事や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。
 また、装飾的要素を全面的に否定したわけではありません。
絵様形と彫物に代わって、銅金物がその役割を担うようになります。本宮では錫金物が各所に多用されて華やかさを増し、さらに桜樹木地蒔絵が施されています。装飾のモチーフとして選ばれたのは、丸に金の神紋と葛紋・花狭間・桜樹です。そこには動物の姿は見えません。旧本宮や旭社(旧金堂)にみられた三つ巴紋も姿を消します。これに代わって金毘羅灯籠などに広く用いられてきた丸に金の神紋が各所に多数現れるようになります。

金刀比羅宮 明治12年
金刀比羅宮 新しく登場した本宮と別宮(明治11年)

金刀比羅宮境内図 明治45 縦
                  金刀比羅宮 明治45年
こうして象頭山には、明治の新しい神社建築様式をもつ本宮と別宮が並んで登場します。
これは物見高い民衆の評判にもなり、参拝客はますます増えるという「集客力向上」にもつながります。また、金刀比羅宮の新しい本宮・別宮モデルは、人々には新鮮なものとして好印象で受け止められます。すると、香川県西部や徳島県西部では、角形射木など金刀比羅宮の影響を受けた様式が、この時期の神社建築に見られるようになります。

岩清尾八幡 髙松市
      髙松の石清尾八幡宮の下拝殿(明治14(1881年)は金刀比羅宮本宮に酷似
例えば、旧高松城下町の氏神とされた石清尾八幡宮の下拝殿は、金刀比羅宮の本宮完成後の3年後(明治14年/1881)に出来上がっています。その姿を見ると角形の肘木・木昴、多角形手挟が使用され、花狹間格子の特徴的な妻飾も取り入れられていて、金刀比羅宮拝殿に酷似していると研究者は指摘します。

 熊手八幡宮
多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)
 岩清尾八幡社絵馬堂(明治26年/1893)や多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)、拝殿(明治21年/1888)では、角形肘木を用いる一方で木鼻は彫物とするなど金刀比羅宮の様式を選択的に取り入れています。この様式は、多度津では戦前まで地域の神社建築様式として長く影響を与え続けたと研究者は報告しています。(1.「多度津伝統的建造物群保存対策調査報告書」令和2年3月多度町教育委員会)
 さらに阿波街道で結ばれていた阿波の美馬・三好郡には明治期神社の本殿に肘木のみ角形とするものが数多くあり、肘木・木鼻とも角形とする例も次のように報告されています。
①三好市井川の馬岡新田神社(明治16年)
②つるぎ町半田の石堂神社本殿(明治24年)
③美馬市美馬弁財天神社本殿(明治28年)
④杉尾神社本殿(明治35年)
「郷土研究発表会紀要』第38号1992.3、第44号1998.3.「阿波学会紀第49号2003.3、第53号2007.7.55号2009.7.第57号2011.7)。
ここからは、かつては「四国の道は金毘羅に通じる」と言われたようですが、金毘羅は神社建築などでも文化情報の発信地であったことが見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

「金刀比羅宮 本宮地域建造物 調査報告書」
参考文献は、巫女がお持ちの「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年」です。
関連記事

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮 本宮 

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札

本宮建設に関わった職人240名のリスト
明治の本宮造営の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには本宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。テキストは金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。前回に上段の大工たちは見ましたので、今回は中段からになります。
その筆頭に来るのが「御宮材木調進方」です。    

「御本宮再營諸職人」という板札
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 御宮材調進方
 「御宮材調進方」の主事は、別宮・本宮ともに小原林右衛門です。出身地を見ると手附3名を含めて全員が土佐国高智(高知)です。別宮・本宮は、両方とも総檜造でした。そのため檜の調達が最優先となるので、檜の産地である土佐出身者が臨時職員として採用されたと研究者は考えています。「御本宮再警竣功之記」には、次のように記します。
①宮材となる檜の良材は土佐国船戸山の峡谷(高岡郡津野町船戸)のものが使用された
②檜の無節にこだわり、渡殿や廊下などでは僅かに節が混じるものは丹念に取り除いて木を撰んだ。
小節ひとつといえども許さない心意気だったことが伝わってきます。

2段目の次に記されるのが蒔絵師です。
江戸時代、蒔絵を施す蒔絵師。細かい作業をする職人に眼鏡は欠かせない(『和国諸職絵尽』より) - 江戸ガイド|江戸ガイド
蒔絵師
本宮の本殿画面板壁と脇障子、本殿・中殿・拝殿の各格天井には、檜の柾目板の木地に高蒔絵の桜の木が描かれています。
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金刀比羅宮本宮の 本殿画面板壁 桜が描かれている。
白木の上に金色に輝く桜の木の蒔絵を作成した職人たちを見ておきましょう。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
           金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 蒔絵師 
 
蒔絵師頭取は東京の山形治郎兵衛で、配下の手附も東京です。山形治郎兵衛率いる東京の絵師集団が作成したことが分かります。さらに拝殿の格天井には、西京2名と大阪1名の蒔絵師が加わっています。蒔絵技術を持つ職人は、琴平にはいなかったようです。

続いて金物師を見ておきましょう。
本宮では、素木造の社殿に対して銅金物が各所に多用されています。そこには丸に金の神紋や紋を打ち出しや、地金に葛紋を線刻した意匠で統一されています。板札には、それぞれのグループが担当した部位も詳細に記しています。
金刀比羅宮本社2
           金刀比羅宮本宮の金具

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 金物師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 金物師

別宮棟札には、金具師は琴平の藤本茂吉だけしかみえませんでしたが、本宮では藤本茂助に加えて大阪の大西仙助が頭取として加わっています。そして、次のように2グループ合計32名の名前があります。
頭取 琴平の藤本茂助 その手附に、西京8、近江国2名、大阪4名、高松1名、当村2名の計17名
頭取 大坂の大西仙助 その手附に、大阪から11名、西京から4名の計15名
さらに鉄金物については琴平村の金物師田村榮吉1名、鋳物師は備中国阿曽の林友三郎1名で拝殿擬宝珠を製作しています。こうしてみると金具も京都や大阪の職人が中心となっていたことが分かります。 

2段目の一番最後に出てくるのが檜皮師です。

檜皮師
檜皮師の作業

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

別宮では、水野宗三郎の頭取1名の1班体制でした。それが本宮では次のように編成されています。
A 檜皮師頭取 摂津国兵庫 小泉 為七 手附は摂津国兵庫から1名、西京から6名の計7名
B 檜皮師頭取 琴平村   岡内小四郎 手附は伊豫国西条から1名、当国丸亀から4名、備前国岡山から2名の計7名
Aの京都職人とBの讃岐・備前・伊予連合の2班体制になっています。檜皮も他国職人に発注しなけらばならなかったようです。

最後の下段には、石工が並びます。
最初、本宮のどこに石が使われているのかと私は疑問に思いました。しかし、報告書には本宮の特色を次のように記します。
本宮本殿・中殿・拝殿は、四段坂の参道に軸線を揃えて旧本宮とほぼ同位置に再営されている。大規模な高床の拝殿の脇間背面通りから後方は、地盤を1、4m高くして、中殿と本殿が建つ神城とする。正面や両側面の壁には延石、地覆石、羽目石、葛石からなる化粧石が施され、擁壁の縁に沿って葛石を布基礎とする透塀を回し、透塀の場内に拳大の玉石を敷き詰める。拝殿・中殿・本殿が接続して後方に高まりながら複雑な屋根の構成をみせる総檜の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式になる

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建物の下には大量の石材が使用されているようです。これを扱った石工集団を見ていくことにします。

「御本宮再營諸職人」 石工
2つの石工グループ
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 石工 琴平在住
           手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
①最初に来るのが丸亀の石工集団で、頭取の小野利助と小野藤吉が率いる総勢9名
②次に、地元琴平の佐々木儀三郎が頭取を務める備前・長門の12名
③その後に地元の手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
 別宮や本宮で使用された石材はほぼ全てが花崗岩です。花崗岩は讃岐でも産出しますが、職人の出身地は大きな広がりを見せます。地元讃岐だけでは間に合わなかったのかもしれません。丸亀や備前・長門から運び込まれた石材を修正して設置したのが③の「琴平村の手伝頭・香原政吉が率いる「引受」石工56名」ということになるようです。
ここで疑問に思うのは、琴平にどうして石工が56名もいたかということです。
それは大工が沢山いたことと同じ要因が考えられます。次の表は境内に、いつごろ玉垣が整備されたを示すものです。
4 玉垣旭社前122
ここからは次のような情報が読み取れます。
①18世紀以前には石造の玉垣はほとんどなく、朱色の木造玉垣が主であった。
②石造物の玉垣が造られ始めるのは、1840年頃からである。
③1845年の金堂完成に併せて周辺整備が進められ玉垣・石段・敷石が急速に普及した。
④幕末から明治にかけて、玉垣など石造物で埋められ白く輝く境内に変身した
⑤同時に、石造物需要が高まり、石工が琴平に数多く定住するようになった。
このように明治初頭の琴平には、大工や石工などが数多くいたのです。彼らに仕事を与えるためにも新しい神道様式の本宮・別宮は求められていたのかもしれません。ある意味で、住民に仕事を確保する公共事業的な役割もあったのでしょう。
以上を整理しておきます。
①別宮・本宮造営については大工については、琴平在住の大工で対応ができた。
②しかし、金物師、檜皮師(ひわだし)、石工のなどの各職種については、地元の職人だけでは対応できずに、他国の職人に発注しているものもある。
③一方、琴平出身者がリーダーとなりながら他国者を入れた混合の班編制をして運用している職種もある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
関連記事

P1290062
金刀比羅宮 別宮
金刀比羅宮の重要文化財に指定された建築物の中の別宮について、いろいろとみています。今回は別宮建設に関わった技術者集団について見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮別宮
まず明治時代の別宮造営時の棟札を見ていくことにします。

金刀比羅宮 別宮棟札2
別宮 棟札(明治8年)

まず工期と宮司と権宮司を確認します。
明治8年1月22日 新始式
    10月12日 上棟
明治9年(1876)4月10日 落成・仮遷宮
宮司  深見逸雄(鹿児島県出身 明治政府の派遣) 
権宮司   琴綾宥常(旧金毘羅大権現の金光院主)
禰宜 松岡調(讃岐国名勝図会の絵図製作者・多和文庫創設者)
拡大して、一番下の職人集団のリーダーたちの名前を見ておきましょう。

別宮棟札13の拡大

一番下段には小さな文字で、次のような職人集団の指導者の名前が記されています。
大工棟梁 1名 綾 担三
大工副棟梁 2名 川添清八郎 白川駒造
大工世話方 4名 箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎  
檜皮師、金具師、石工、宮材主事 各1名
棟梁は綾担三、副棟梁は川添清八郎と白川駒造で、琴平村在住の大工たちです。明治8年の別宮上棟に綾担三自身が書いた板札には次のように記されています。

「父ハ綾九良右衛門豊章 金堂今旭社教殿之棟梁也」
意訳変換しておくと
「私の父は綾九良右衛門豊章で、 金堂(現旭社)教殿の棟梁を務めた」

綾担三の父、豊章は旭社を建てた棟梁だと記します。綾担三は、若い頃には豊矩と名のっていて高燈寵を建てています。明治になると名を豊矩から坦三と改めて、金刀比羅宮本宮や別宮の棟梁を務めたことになります。
副棟梁の川添清八郎(明治25年1月没)は、先代の長兵衛の代からの宮大工で、屋号は「西屋」でした。川添家は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に土佐から移り、寛文8年(1688)に琴平町に定住したと伝えられます。
 大工棟梁を務めた綾氏は、もともとは山下姓だったようです。 
 
4 塩飽大工
高倉哲雄・三宅邦夫「塩飽大工」成29年(2017)年3月 塩飽大工彰会
以前紹介した「塩飽大工」には、本島泊浦の大工山下家の流れについて次のように記します。

「塩本島泊浦の大工山下家から江戸初期に西讃地方に移った三兄弟がそれぞれ仁尾町、高瀬町、三野町を拠点に宮大工として活躍しするようになる。その高瀬山下家の流れを汲むのが琴平で活躍するようになる綾氏」

そして綾氏(改姓前は山下)が残した建築物を、次のように挙げています。


名前 住所   建設年     建設所在地
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10  善通寺五重塔  
山下理右衛門豊春      1823 文政6  石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824  文政7  石井八幡宮    琴平町
 山下から綾へ改名
越後   豊章 高藪町  1837 天保8  金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2  金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12  金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7  金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4  金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三(豊矩が改名)高藪町 1875 明治8  金刀比羅宮別宮・神饌所 
綾坦三      高藪町  1877 明治10  金刀比羅宮本宮  琴平町

ここからは次のような情報が読み取れます。
①1760年頃に、高瀬から琴平の苗田にやって来て善通寺五重塔に関わったのが最初
②19世紀初頭に、豊春が苗田村の石井神社拝殿・本殿を担当
③これを契機に、豊章は旭社・表書院などの棟梁を務めるようになり、住所を高藪に移した。
④天保2(1831)年2月に金光院棟梁役を仰せつかった際に、金光院院主を輩出する山下家との混同を避けて綾氏に改名
⑤19世紀中頃から豊章の後を豊矩(後の担三)が継いで、高灯籠などを担当
天保2(1831)年の金毘羅大権現の旭社(旧金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前があります。綾と名のっていますが、これは山下理右衛門豊章が金光院院主を輩出する山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになるのが上表からも分かります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。豊章という名前からは、豊春の子ではないかと推測できますが、確証できる資料はないようです。豊章の子が豊矩で幕末に高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、別宮や本宮の棟梁を務めることになります。 次の綾坦三の棟梁任命書が、それを裏付けます。
 「綾坦三 御別宮棟梁申付候事 明治七年七月十七日 (讃岐国金刀比羅宮印) 
  「綾坦三 御本宮御造営棟梁申付候事 明治十年四月 (讃岐国金刀比羅宮印)」

高灯籠版画
高灯籠 綾担三(豊矩)は、高灯籠の棟梁も務めた

19世紀は金毘羅信仰の高まりと共に、参拝客が激増して財政的に金光院は潤ったことは以前にお話ししました。その経済力を背景に境内整備が進められ、大工たちにとってはいい仕事が続いてあったことを押さえておきます。
別宮の棟札にもどります。大工たちの出身地を見ておきましょう。
「大工世話方係」は班長格の大工で、4名すべてが地元琴平村出身、その配下となる大工80名中69名も琴平出身者です。琴平以外は大阪1名、塩館10名です。別宮や本宮は、地元琴平の大工の手によって建てられたと云ってもいいようです。私は、神仏混淆様式を排した近代的な神道建築のためには、京都から宮大工を招いたのかと思っていましたが大外れです。それに対応できる大工集団が琴平にはいたようです。思い返してみれば、19世紀前半の金毘羅大権現は金堂工事が期間30年間・経費2万両の大工事を行っていました。その後には、7500両の経費がかかった高灯籠も綾担三(豊矩)が務めたことは先ほど見たとおりです。さらに、善通寺の五重塔も同時進行で建設中だったことは以前にお話ししました。そのため腕のいい大工集団が集まっていたようです。

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮本宮
 次に本宮の建設に関わった大工たちを見ていくことにします。
本宮工事の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには今宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札
          御本宮再營諸職人 本宮建設に関わった職人240名のリスト

本宮工事に「御本宮再營諸職人」という板札
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人(一部拡大)

三段になっていますが上段に並ぶのが大工たちの名前です。筆頭部分を拡大してみます。
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 大工
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人の大工筆頭部 大工棟梁は綾担三


大工棟梁   綾担三
大工副棟梁  川添清八郎 白川駒造
大工世話方  箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎 綾弥三蔵 綾喜三郎
先の別宮スタッフに加えて新たに大工世話係に、「綾弥三蔵 綾喜三郎」の2名が加えられています。綾家の三人は名前からして、担三の子息か親近者のようです。以下、出身地を「同村(琴平村)」と表記された大工たちが70名並びます。その中には、綾姓が8名、箸方姓が7名います。琴平以外では、塩飽大工が10名、大阪府が1名のみです。こうしてみると、別宮と同じように、本宮も琴平在住の大工集団で建てられたことが分かります。それだけの技術力や経験を金刀比羅宮の宮大工たちは持っていたことになります。
 大工棟梁の綾坦三に金刀比羅宮が求めたものは何なのでしょうか?
「御本宮再管竣功之記」には、金毘羅大権現の旧本宮について次のように記します。

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
金毘羅大権現本社(旧本宮) 天保三年御本社圖
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者層が、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、大神に相応しい復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。旧本宮は、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」などからは分かります。脱神仏混淆色のために、動物デザインなど仏教風なものを排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。屋根には新たに千木・堅魚木を置いて、神社建築の伝統的な要素を加えます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい工夫を見せます。
 先に工事を行った別宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性を取りました。しかし、肘木下端に曲面を残し、向拝やの木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が描かれて華やかな細工になっています。これに対して、続いて行われた本宮工事では、肘木も角形になっています。彫刻的細部は、向拝中備などにしかありません。装飾的細部をさらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も大工棟梁は綾坦三でした。2年しか経っていないのに、次のような様式的な変化が見られます。
A 別宮では伝統的な様式を残し、神仏混淆様式からの脱却が徹底していない
B 本宮では脱神仏混淆色を、より進めて徹底した。
 そのような要望が施主側の金刀比羅宮からあったのかもしれません。それを実現するだけの技術と創意が大工たちにあったようです。どちらにしても、本宮の細部様式は、前例のない新しい様式でした。これは、金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっても新しい挑戦にもなりました。 このような宮大工の研究心が、19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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観音堂と十一面観音
松尾寺の本堂観音寺
神仏分離以前の松尾寺の本堂観音寺堂と、その本尊十一面観音立像です。前回は、この観音堂がもともとは、現在の本宮の位置にあったこと、それが金毘羅神が流行神として信仰を集めるに従って、その場所を金毘羅大権現に明け渡し、この地に移ってきたことを見ました。観音堂の南側には、籠堂や通夜堂などもあり、観音信仰の拠点として活動していたことがうかがえます。それが明治の神仏分離で大きく姿を変えて、観音堂は撤去され、現在の別宮(三穂津姫社)が現れることになります。今回は、その経緯を見ていきます。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。
明治政府の神仏分離・廃仏毀釈によって、金毘羅大権現の仏教施設は廃止され、急しのぎで次のような神道施設に改変されます。

境内変遷図2 幕末・明治
金刀比羅宮 建物変遷図
①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
④金堂    廃止し、その建物を旭社へ
⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。
⑨経蔵    廃止し、その建物を文庫へ
⑩大門    左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ
⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
⑯鐘楼    明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ
⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
別宮の周辺の建物だけを取り出して見ておくと

神仏分離による仏堂改変

松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡がうかがえます。       
その翌年(明治2(1869)年4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。(意訳)
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、②その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、③鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もいたが、私はその心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む明治2年の金刀比羅宮の様子が見えて来ます。仏像仏具に関しては、次のように「廃仏毀釈」されています。
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
③からは観音堂も仏像が撤去されて、御簾がかけられていたことが分かります。そして、寺院時代には備えられたことのない生身の鯛が御供えされています。寺院から神社への転換が象徴的に記されています。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任し、「近代化」を進めていく立場に立つことになります。そのために行ったことが神仏混淆色を拝した神道施設の建立です。具体的には、今までの金毘羅大権現の本殿を撤去して、新しい本宮を建てると云うことになります。その前に本宮の神々の一時的な遷宮先を確保する必要がありました。そこで着手されたのが別宮建立です。以上をもう一度整理すると以下のようになります。
 
別宮登場の背景は?

本宮の仮遷先となる別宮の造営先として撰ばれたのが旧観音堂(大年社社殿)です。
こうして明治8(1875)年1月12日に旧観音堂の取り壊しが始まります。
多聞院の「片岡信範明治八年仮日記」(「金刀比羅宮史料」第十九巻(大正8年7月)所収)には、次のように記されています。
一月十二日の条
 -旧観音堂 今日ヨリ取壊シ相成候事
二月二十一日の条
 -当月九日 御別宮地所 地築相初リ市中ヨリ寄進指出シ日々々敷恐悦為候事 
ここからは1月12日から旧観音堂の取り壊しが初まり、2月9日は地鎮祭が行われたことが分かります。その様子を示したのが次の絵図です。

事比羅宮境内建物之図 観音堂跡が更地
「事比羅宮境内建物之圖」
「事比羅宮境内建物之圖」には、旧観音堂(大年社)がきれいさっぱりと更地になって、その跡地に工事用の仮囲いが描かれています。右の本宮は金毘羅大権現時代の社殿で、この後に新築されることになります。
 松岡調の「年々日記」(明治八年一月条:「黎明期の金刀比羅宮と宥常」所収)には、次のように記されています。
 ***三日・(前略)・・・三時も過る頃にいたりて、遙に太鼓の音聞ゆるなへ、人のハやセる声も聞ゆ、さらハ御宮材を引来るならんと、此方よりも太鼓打合せやかて黒門より男も女も若もたるも、めてたしと手を拍つ□おとり来る、其さまのいさきよき事、云んかたなし、・・(中略)・・三時にいたれハ、やうにひきとりつ、今日の材木を引ものともは、坂町、内町新町の者ともの、八百人ハかりも引なるか、昨夜より丸亀へものして、車四つにて引来れる今は御柱のれうの一本を、金の大鳥居より引来れるなりとそ、・・・・(後略)

意訳変換しておくと

 1月3日 ・(前略)・・・三時すぎになって、太鼓の音が遙かから聞こえる。人の掛け声や囃す声も聞える。さらには御宮材を引っ張るのを手伝いとして、どこかしこから太鼓を打合せて、黒門から男女や若者も集まってくる。めでたしと手を拍ち、踊りながらやって来る、その光景は言葉に表せないほど貴い。・・(中略)
三時になると賑わいも鎮まった。今日の材木を山上へ引き上げるのは、坂町、内町新町の者たちで、八百人ばかりの人達が参加した。この材木は昨夜から丸亀へ出かけて、車四台で引き帰ったものである。今日はその内の御柱の一本を、金の大鳥居より引き上げるという。・・・(後略)

ここからは次のような情報が読み取れます。
①木材は船で丸亀湊に輸送してきたものを、荷車で琴平に運んできたこと。
②門前町の人々が祭りの山車のように木材を山上にボランテアで引き上げていること

 こうして旧観音堂跡地には「本殿 + 中殿 + 拝殿」の複合社殿「別宮」が姿を現します。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮 別宮

最後に別宮の役割と特徴について、整理しておきます。
①別宮は本宮よりも小規模で、簡素な造りとされているが、正遷宮後は末社社殿として位置づけられ、仮宮としての機能を担っている。
②木鼻を角形とする試みもいち早く取り入れるなど、続く本宮工事への試行的要素も見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮


佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

DSC00556
 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

      山下谷次(まんのう町)    
山下谷次像 仲南小学校(まんのう町)

まんのう町出身の国会議員・山下谷次(1872年3月30日 - 1936年6月5日)のことを調べていると、彼が金刀比羅宮が設立した明道学校の出身者であることを知りました。山下谷次は仲多度郡十郷村帆山(現在のまんのう町)の中農の四男として生まれています。決して豊かな家ではなく、父も早く亡くなったために、上の三人の兄たちは小学校卒業後は、家の農作業を手伝っていました。谷次の前にあった道は、兄たちと同じように家の仕事を手伝うことでした。ところがその道を変更するものが現れます。それが金刀比羅宮が開校させた明道学校でした。明道学校は開校当初は、特待生は授業料が無料だったのです。谷次の希望を受け止めた母親が、兄たちに説得し明道学校へ通うことになります。谷次が後に国会議員に成長して行く岐路に現れたのが明道学校だと私は考えています。そんなわけで、今回はこの明道学校について見ていくことにします。テキストは西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」です。

ペリー来航の頃には、金毘羅大権現には正風館という塾がありました。それが明治維新期には、旭昇塾と名を換えて引き継がれていったとされます。しかし、旭昇塾についての文献は殆どありません、後の『明治43年 金刀比羅宮沿革取調草稿』の中に、次のように記されているだけです。
旭昇塾
当塾ハ、宝物館西方ノ岡ノ上二当ル場所二存セシモノニシテ、瓦葺二階建ナリキ、後名称ヲ明道学校卜改メタルガ、明治二十九年廃校卜同時二取払ヒタリ、
(『金刀比羅宮史料』第七巻)
意訳変換しておくと
当塾は、宝物館西方の岡の上にあったもので、瓦葺二階の建物であった。後に名称を明道学校と改めたが、明治29年に廃校となり、同時に取払われた。 
ここから分かるのは、旭昇塾が「宝物館西方の岡の上」にあったことだけです。その教育内容なども不明です。旭昇塾は、金刀比羅宮の神職や職員などの子弟の教育機関となっていたと研究者は考えています。
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明道学校跡付近の大楠

金刀比羅宮は1878(明治11)年4月に、明治維新以来の課題であった御本宮正遷座を終えます。これで神仏分離の混乱も一段落して社内も落ち着きを見せるようになります。そのような中で、地域社会の子弟を対象とした教育機関開設の動きが出てきます。
 当時中央では、 明治10年(1877)頃から神道の大教宣布の不振や、これに続く祭神論争に対して、政府内では神道の研究・教育センターとしての学校設立を求める動きが出されていました。これを受けて明治15年(1882)には、明治天皇が有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、飯田町に皇典講究所を開学させます。これが後の國學院です。
  このような中央の動きを受けて、香川県の神道の中心センターであった金刀比羅宮でも、神道の教育機関を立ち上げる構想が出てきます。当時、旭社で行われていた定期的な神道講習会も、思うような成果は挙げられていなかったようです。神道の国民生活へ浸透の担い手となる若き指導者たちの育成が急務とされたのです。そのような中で、金刀比羅宮附属の教育機関の設立構想が膨らんでいきます。その中心となったのがすでに設立されていた「皇典学会」です。「皇典学会」の事業としては三種類(教育、談論、編修)が掲げられていました。その中で学校は「教育部の現場機関」という位置づけでした。
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明道学校跡
「皇典学会教育部規則」と、細則「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ておきましょう。
皇典学会教育部規則
第一条 本部ハ本会規約ノ趣旨二拠り、 私立学校ヲ設立シテ、専ラ国典ヲ講明シ、兼テ支那、欧米ノ学二渉り、子弟ヲ教育スル者トス
第二条 学校ハ、先ツ其本校ヲ讃岐国琴平山二設ケ、漸次会員、生徒増員二従ヒ各地方二設置スヘシ
第三条 琴平山二置クモノヲ単二明道学校卜称シ、其各地方二置クモノヲ明道学校某地方分校卜称ス
第四条 学校諸規則ハ別冊ヲ編シ、之ヲ詳記セリ、就テ見ルヘシ
第五条 図書館、博物館、幼稚園ヲ漸次二開設ス
第六条 図書館ハ古今内外ノ書籍ヲ蒐集シテ庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第七条 博物館ハ古今ノ器物、書画、物理、農エノ器械、動植、金石ノ見本等ヲ蒐集シ、庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第八条 幼稚園ハ、幼子女ノ薫陶スル所トス
第九条 図書館、博物館、幼稚園ノ細則ハ、開設二随テ之ヲ編製ス、
(『金刀比羅宮史料』第十九巻、
ここには、琴平に本校を置いて、その後は各地に地方分校を開設していく計画が示されています。また学校だけでなく、附属の、図書館・博物館・幼稚園などの開設計画もあったことが分かります。学校教育と社会教育を総合した教育機関という構想がうかがえます。

「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ると、明道学校の教授内容(教科目)などが分かります。
皇典学会教育部明道学校諸規則
第一編 教  則
第一章 教旨
第一条 本校ハ国典ヲ基礎トシテ普通中学科ヲ授ケ、国体ヲ講明シ事理ヲ研究シ、以テ智識ヲ発育シ道徳ヲ涵養セシムル所トス
第二条 学科ヲ分ツテ本科、予科ノニトス
第二条 本科ハ古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、記簿、書法、図画、体操トス
第四条 予科ハ就学時期ヲ失シテ、本科二入ルヘキ学カヲ有セサルモノヲ養成スルモノトシ、学科ハ之ヲ予定セス
第五条 本科、予科ノ外、別二須知科ヲ設ケ、余カヲ以テ講読セシムルコトアルベシ
第三章修行年限
第六条 終業年限ハ四ヶ年トス
第四章 学     期
第七条 学期ハ一ヶ年ヲニ期二別ケ、二月二十一日ヨリ七月廿日マテヲ前学期トシ、八月二十一日ヨリニ月二十ロマテヲ後学期トス
第八条 学級ヲ八級二別チ、毎級六ヶ月間ノ修業トス
第五章 授業 日
第九条 本校ハ左ノロヲ除クノ外、総テ授業スルモノトス
日曜日      大祭祝日
金刀比羅宮大祭日
夏期休業 七月二十一日より八月二十日まで凡川口‐11‐「「
冬期休業 十二月二十五日より一月五日まで
臨時休業ハ時二掲示スベシ
第十条 授業時数ハ一日六時トス
第二編 校  則
第一章 入  退  学
第一条 生徒ハ品行端正ニシテ、左ノニ項二適合スルモノヲ以テ、入学ヲ許ス
  第一項 小学中等科以上卒業ノ者、及十四年以上ニシテ第十五条ノ試業二合格ノモノ
  第二項 種痘又ハ天然痘ヲ為シタル者
第二条 入学期ハ毎年両度、定期二月七月試業ノ後トス、尤モ校ノ都合ニヨリ、臨時入学ヲ許スコトアルヘシ
第三条 入学期日ハ、之ヲ三十日以内二広告スヘシ
第四条 入学志願ノ者ニハ、第一号書式ノ入学願書及ヒ履歴書ヲ差出サシム
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻、)

本科には古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、簿記、圭[法、図画、体操の二十科目が設けられています。

 明道学校が開校準備を行なっていた頃、明治14年(1881)七月の文部省達『中学校教則大綱』によると、当時中学校は初等中学科四年・高等中学科二年の修業年限で、それぞれ次のような教科目を履修する規定になっていました。
初等中学科(初等科) 修身・和漢文・英語・算術・代数・幾何。地理・歴史・生物・動物・植物・物理・化学・経済・簿記・習字・図画及び唱歌・体操
高等中学科(高等科) 修身・和漢文・英語・簿記・図画及び唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学
つまり、これらの科目を開設しないと中学校とは見なされなかったのです。金刀比羅宮の経営戦略としては、神道専門学校の設立を目指すものではなく、地域に開かれた中学校を目指していましたから、文部省のカリキュラムに準じたものではなりません。そのため英語も当然入ります。
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明道学校跡からの光景
当時は香川県には公立中学校がない時代でした。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
明治十九年四月、中学校令が公布されて、一県一中学校の制に基づき、高松に置かれていた愛媛県第二中学校が廃止された。爾来、明治二十六年、香川県尋常中学校が設置されるまでの数年間、香川県に公立の中学校は全く途絶した。
この間隙を埋め、尋常中学の教育過程にのっとり、中等教育の役割を果たしたのが、私立坂出済々学館である。のち、その閉校に際し、功績を称えて香川県参事官は言う。明治十九年
「公立ノ中学校ヲ廃セシヨリ、我ガ讃ノ一国僅二琴平ノ明道学校卜微々タル一二ノ私塾」がみられる程度で、「仮令資産裕カニシテ有為ノ志ヲ懐クモノト雖モ、遠ク山海数千里ノ地ヲ践ムニアラザレバ、完全ナル小学以上ノ教科ヲ修ムル能ハズ、為メニ俊秀ノ子弟ヲシテ進修ノ念ヲ絶ツニ至ラシメタルモノ砂カラズ」、そこで坂出町の有志十数名が出資して、十九年夏、私立済々学館を設立した。(○中略)
 その後二十六年四月二十一日、
「今ヤ、時来り機熟シ、髪二県立中学校ノ設立ヲ観ル、因テ本日フトシ閉館ノ式ヲ挙ゲ、学生ヲシテ県立中学二入ラシム」
と、二年級以下の生徒六〇余名が香川県尋常中学校に編入を認められた。まさに公立中学校の代役を終えて、私立坂出済々学館は閉館した。教育熱心な有志に支えられて、中等教育の命脈は保たれていたのである。
(『香川県史』第五巻〔通史編 近代I〕、ルビ筆者)
  ここでは、私立坂出済々学館のことが主に書かれていますが、金刀比羅宮の明道学校も同じでした。香川県が愛媛県に合併され、「一県一中学校の制」で讃岐から県立中学校が姿を消した時代でもあったのです。 明道学校のカリキュラムが、当時の中学校の教育内容を意識した科目編成であることには、そんな背景もあったようです。

金刀比羅宮をめぐる動きを年表で見ておきましょう
明治14年 1881 水野秋彦、明道学校教授に任ぜられる。
明治15年 1882 古川躬行着任。
明治17年 1884 明道学校開校。
明治19年 1886 四国新道起工式。
明治20年 1887 電灯点灯。
明治22年 1889 大日本帝国水難救済会設立。琴平、丸亀間に鉄道布設。猪鼻峠新道工事完工。
明治23年 1890 久世光熙、琴陵家の養子となる。
明治25年 1892 宥常没53歳。南光利宮司となる。
明治29年 1896 明道学校廃校。善通寺に第11師団設置。
開講2年前に準備に向けて、水野秋彦を招いています。
彼の履歴書が『明道学校関係書類』の中に残っています。それを見てみましょう
(水野秋彦履歴)
                                       常陸国茨城郡笠間桂町三百五十四番地
茨城県士族
水野秋彦
嘉永二己西年十二月十三日生
当明治十六年八月二十三年九月
一 文久元年ヨリ同三年迄、新発田(しばた)藩浪士小川容斎二従テ漢学ヲ受ケ、慶応二年ヨリ明治三年迄、笠間藩賓礼教師鬼沢大海二従ヒテ皇学ヲ受ク
一 明治三年庚午十一月十五日、笠間藩史生二任シ、同四年辛木九月二日、旧藩主家従二雇ハレ、同五年壬申正月八日、笠間県学助教試補命セラル
一 明治七年二月十日、岩城国国弊中社都々古別神社権宮司に任じ、集中講義ニ補し、同年3月31日、大教院ヨリ、磐前県神道教導取締命セラレ、同八年二月二十日、依願免本官並職
一 明治十四年二月廿七日、琴平山明道教校教授二雇ハル
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻)

ここからは、嘉永二年(1849)に常陸国笠間藩医士の家に生まれで、国漢の学を修め和歌にも秀でた人物であること。維新後は笠間県学助教試補や都々古別神社権宮、警視庁四等巡査などを経て、明道学校の前身旭昇塾教授として金刀比羅宮の招きでやってきたことが分かります。明治22年(1889)11月に41歳にて病没するまで、明道学校教長(校長)として神道や国典などを担当しています。
  この他にも明道学校で教鞭を執った人物を見ておきましょう。
金刀比羅宮の禰宜であった松岡調や地元では名の知られていた黒木茂矩(しげのり)らの名前も講師陣として挙げられています。しかし、これらは国学や神学の学者です。数学や理科などの理系科目や、英語など当時求められていた文明開化をリードする科目ではありません。そのような実学の教授たちを招致するのは、大変だったようです。

 英語の教師として埼玉から原猪作という人を招くことに成功しています。
その給料は、当時の校長の俸給の倍額にあたっていたようです。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。

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明道学校跡からの眺め
伊佐庭如矢は、文政11年(1828)に松山城下の医師の三男として生まれています。
幼少の頃より学問を好み、28歳の時に私財を投じて松山城下に「老楳下塾」を開いて子弟教育にあたります。明治になると愛媛県庁吏員として、「城郭廃止令」によって取り壊そうとされていた松山城の保存を訴え、松山公園として開園させた手腕は高く評価されています。
 その後、明治16年(1883)には県立高松中学校長となりますが、さきほど見たように「一県一中学校の制」で高松中学が廃校になりリストラされたようです。それを、金刀比羅宮がスカウトします。明治19年(1886)4月に金刀比羅宮爾宜に就任し、明道学校校長も兼務しています。しかし、わずか半年余の在職の後に退職し、翌年には愛媛県道後町初代町長となっています。
こうしてみると講師陣はあまり長続きしていないようです。地方の私立中学校において、優秀な講師陣を揃えることは至難の業であったようです。

このような事業を行うための経済的な基盤は、どうだったのでしょうか?
 明治になって移動(旅行・参拝)の自由が保証されて、金毘羅参拝客は、明治になって増加したようです。参拝客たちがもたらす寄進物や奉納品はも増加します。そして、何よりの経済基盤となったのが以前にお話しした崇敬講社の全国展開です。このネットワークが張り巡らされいくにつれて、講員が増えると巨大集金マシーンとして働き始めます。
1崇敬講社加入者数 昭和16年
金刀比羅宮 崇敬講社新規加入数(明治16年)
この資金を使って、金刀比羅宮は本殿の遷宮や、明道学校などの新規事業、芸術家たちへの支援育成事業などにも積極的に取り組むことができたようです。お金の心配はしなくていい時代だったようです。鉄道や道路を新たに建設しようとする新規授業者は、資金援助をもとめて金刀比羅宮通いを行ったことが記録に残っています。
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明道学校跡付近の大楠
明治17年(1884)1月6日、旭昇塾は組織替えして、新たに地域の中等教育を担当する学校「明道学校」として開校します。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
松岡調は『年々日記』に次のように記します。
六日 ことにてる、うらヽかにて春のことし、本日ハ学舎の開業の日なれハ、とくより明道館へものセハ、康斐、俊次、生徒をつとひて、教場なる学神を斎き奉るしたくセんとて、帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置、中央に新しき檜のひもろきを置奉る、又昇降口にハ忌竹をさし、注連縄をハリ、日章のふらふを打ちがへてなびかセたるハ、開業式のさま見へたり、やう/\会幹、教師の人々出仕ありしか、 一時すきたりて副会長琴陵宥常ぬしもものセられたり、ほとなく会員もつとひたれハ、御祭式にかヽらんとす、会長深見速雄主の出仕あらねハ、宥常ぬし祭主つかうまつれけり、勝海ハ奉設長たり、まっ宥常ぬし、勝海、準吉等神雛の御前に進ミて一段拝ありて、宥常ぬしハ微音にて学神を招き本る、勝海和琴、準吉警躍つかうまつる、しハしの間に招神式ハてヽ両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒奉れり、此間奏楽あり、次に祭主祝詞を奏セリ、此祝詞ハ水野秋彦かつくりまつれると、

意訳変換しておくと
六日のことについて、うららかな春のような本日は学舎開業の日なので、明道館へ出向いてみると、康斐、俊次など生徒が集って、教場に学神を招く準備を行っていた。帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置き、中央に新しき檜のひもろきを奉る、又昇降口に忌竹をさし、注連縄を張り、日章旗を挙げてなびかせている。開業式の準備が整うと、会幹、教師などの人々が集合してきた。一間空いて副会長の琴陵宥常も現れ、会員が集合した。御祭式が始まった。会長深見速雄主は不参加であるが、宥常が祭主を務め、勝海が奉設長である。宥常、勝海、準吉などが神雛の御前に進んで一段拝して、宥常が微音で学神を招き入れる、勝海和琴、準吉警躍で仕える。しばしの間に招神式は終わり、両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒が奉れた。その間も奏楽が奏でられる。次に祭主祝詞が読み上げられる。この祝詞は水野秋彦か作成したものであり、次のようなものであった。

明道学校開業国祭学神祝詞
琴平山之山上乃。朝日之日向処。夕日之之隠処。聳立在流学校乃高楼ホ。神離起大斎奉。皇神等乃広前。畏々毛白左久。世間乃人道。天地乃物 理。種々乃技芸等波。学ホ依ヽ覚明弁久。学ホ依人修成弁支物奈利斗。皇典学会員乃議計良久波。此会な教育、編韓、談論乃二部有流其中小毛。最重美之先須弁支波。世人ホ真道乎覚良之米。真理乎明米之米。万芸乎修之牟生。教育ホ古曽有祁礼。急速ホ。其学校乎開先物叙斗。議定之事乃隋(小。今姦明治十七年云茂乃歳初乃。今日乃生日之足ロホ。明道云美名負在此学校ホ。皇典 学会 々員。教員。学生。相集大。白三神等乃厳之御前″小。礼代乃物等十。横山―置在流古典。修身通之教訓L経古人申良小。言霊之幸御国乃言語斗。横ホ書成西洋語乎。惟年左太加ホ。歌詩乃詠法1。文洪文乃作則美外。法ホ実乎測量流算術。天地之万物乃理乎。博久知得流術々乎。阿夜ホ苛久。文字書支図画画久手乃芸乎。阿夜ホ愛久。落事無久令教給比。漏事無久令学給比人。此学校乃教育乃光乎。四方ホ偏久令輝。皇典学会乃功乎。大八洲国内体広久令施給開斗。天之八平手拍上人。恐々毛白須。
以下意訳のみ
この学会の主義を見事に言い表しているものである。
祝詞が終わると、最初のように両段拝があり、祭官が北方の座に着くと、御前に進みて一拝して、西北の方に向いた座について、古事記の天地初発の段を解いてた。それが終わると堀翁が進み出て語学の大意を述べる。次に秋彦が万葉集、敏足が中庸、荘三大が日本史、俊次がリードルの始め、沢蔵が算術の主意を述べた。この時に、俊次の英語を聞いて、心なき生徒の中には、初めて聞く英語に何を言っているのか分からず、くすくすと笑ふ者もいた。このように講義も無事に終った。
 私も会長に代って、御前に進み祝文をよんだ。荘三も進み出て、答辞をよむ。これも終わると、伶人発声し、その間に直会の御酒を、祭官を始め、生徒にいたる全員に振る舞われた。(以下略)(『年々日記』明治17年 83

ここで私が気になるのは、開校式典に、会長深見速雄が出席していないことです。これをどう考えればいいのでしょうか。当時の会長深見速雄と琴綾宥常の関係が以前から気になるのです。大事な式典に欠席するのは、ある意味で異常です。名目的存在に留まり、式典などにも参加していなかったのでしょうか。それは置いておいて、式典を見ていきましょう。
①学神を神簾(ひもろぎ)に招神して神崎勝海以下の奉仕で献餃
②斎主は水野秋彦の起草になる「明道学校開業日祭学神祝詞」を奏上
③祭典の後に、明道学校教授代表による講義
 講義は、先ず松岡調が『古事記』天地初発の段を講じ、
 次に堀秀成がわが国の言語学の大意を述べ、
 次に水野秋彦が『万葉集』を講じ
  敏足が『中庸』を講じ
 伊藤荘三が『大日本史』を講じ
 中村俊次がリードル(英文講読)を行ない
 大西沢蔵が算術の主意を講ずる
などです。殊に参列者の中には中村俊次によるリードル(英文講読)の際に、「心なき者ともハ、何吏を云ならんと思へるかくづくづ笑ふあり、」との松岡調は指摘します。初めて聞く外国語の不可思議さは、ある意味ではおかしさでもあったのかもしれません。

どうして明道学校と名付けられたのでしょうか?
明治14年(1881)6月20日に校長の水野秋彦が説教講究会でで、次のように述べています。
「今日し初むる講説の会はしも、皇大御国の本教の神道を明らめ究むる会にして」「わが国の本教たる神道を明らめ究める会」

つまり、「明道」とは「神の道を明らかにする」意であったようです。

 明道学校の廃校について
明道学校の存在意味のひとつは、讃岐から中学校がなくなったことを埋めることでした。明治19年(1886)四月に施行された『中学校令』(明治19年勅令第一五号)の第六条には、次のように規定されています。
尋常中学校ハ各府県二於テ一校ヲ設置スヘキモノトス、但土地ノ状況二依り文部大臣ノ許可ヲ得テ数校ヲ設置シ、又ハ本文ノ一校ヲ設置セサルコトヲ得、(『中学校令』)

 愛媛県と併合された香川県では、県庁所在地の松山にあった「愛媛県第一中学校」のみが残され、高松にあった「愛媛県第二中学校」は、一府県一中学校の原則規定にしたがって廃止されました。そのため讃岐には公立(県立)の中学校がなくなっていたことは、先ほど見たとおりです。
明道学校は、明治19年(1886)から26年(1892)まで讃岐に公立(県立)中学校がなかったために、私立中学校として坂出の済々学館とともに存在意義があったともいえます。しかし、1896年に丸亀に丸亀中学校(分校)が建学されると、ある意味で存在意義をなくしたようです。
 しかし、金刀比羅宮の附属学校、図書館・学芸館(宝物館)は、地方での学芸奨励という面からのアプローチは当時としては注目される試みだったと云えます。最初に紹介したように、まんのう町帆山出身の山下谷次にとっては、この明道学校がなければ世に出ることもなく、国家議員になることもなかったのです。彼にとってはまさに人生のスタートを切るチャンスを与えてくれた学校だったと私は考えています。

以上をまとめておくと
①金刀比羅宮は明治10年代になって、神仏分離への対応が一段落し、崇敬講社が軌道に乗り始めると、教育事業への投資を考えるようになった。
②それは皇典学会の「教育部門の附属機関」という形で、具体的には明道学校の建学という形になった。
③そのため将来の神道指導者の要請と同時に、「一府県一中学校」の原則で讃岐に中学校がなくなったことを受けての受け皿としても機能する学校作りを目指した。
④経済的なゆとりがあったので全国から有能な教師を招こうとしたが、なかなか長く定着してくれる講師陣は少なく、英語や理系科目の教師陣の招聘には苦労したことがうかがえる。
⑤結果、金刀比羅宮の附属学校として、国学や神学には強いが上級学校に進学するための「進学指導」には手薄になり、丸亀中学が出来ると存在意味を失い廃校となった。
⑥しかし、金刀比羅宮の附属機関としての教育機関という発想は、その後にも活かされ、附属図書館や附属学芸館(宝物館)の開設につながることになり、地域文化の拠点として機能していくことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑦

参考文献
         西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」

       
3根室金刀比羅宮 地図

コロナ流行の前に北海道・道東の木道廻りと称して、岬の先端や砂州の背後の湿地に設けられた木道をいくつか歩いて廻りました。その時に、気づいたのが金比羅神社が道東の各漁村に鎮座していることです。特に根室半島周辺には、濃厚な分布度合いを感じました。どうして、道東にはこんなに金毘羅さんが鎮座しているのだろうかという疑問が沸いてきました。
そのような中で出会ったのが「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」です。これをテキストに、根室周辺の金毘羅さんを見ていくことします。
3根室金刀比羅宮
根室の金刀比羅神社

根室に一泊し、早朝に根室港の高台に立つ金刀比羅神社を訪ねます。
広い神域を持ち、近代的な社伝を持つ立派な神社です。展望台からは、港が眼下に広がり、海が見えます。そして、そこには大きなる展望台高田屋嘉兵衛の銅像がオホーツク海を見つめて立っています。高田屋嘉兵衛とこの神社は深いつながりがあるようです。

3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛PG

この神社の由緒については「金刀比羅神社御創祀百八十年記念誌」や「参拝の栞」に次のような年表が載せられています。
宝暦四年(1754)納沙布航路開かれ、根室に運上屋を置く
安永三年(1774)飛騨屋久兵衛、根室場所請負う
天明六年(1786)最上徳内・千島を探検
寛政四年(1792)露使節ラックスマン根室に来航し、通商を求む
寛政十年(1798)近藤守重が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
寛政十一年(1799)高田屋嘉兵衛が択捉航路を開く。幕府東蝦夷地を直轄す。
 文化三年(1806)高田屋嘉兵衛、根室に金刀比羅神社を創祀
文化八年(1811) 露艦長ゴロウニンを国後で捕える。高田屋嘉兵衛送還され、ゴロウニンの 釈放に尽力、九月解決す。
天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。
天保九年(1838) 社殿改築。
天保十年(1839) 山田文右衛門漁場請負。
弘化元年(1844) 浜田屋兵四郎、白鳥宇兵衛漁場請負う。
嘉永二年(1849) 藤野嘉兵衛再び漁場を請負い社殿修築す。松浦武四郎択捉島を探険 石燈龍奉納(納者柏屋船中藤野屋支配人)
安政元年(1854) 日露和親条約締結
明治二年(1869) 蝦夷を北海道と改称。開択使役所設置する。
明治五年(1872) 根室病院創設。温根沼に渡船場開設。
明治六年(1874) 根室本町へ遷宮
明治九年     咲花小学校開校。
明治十年     西南戦争勃発。根室一円の氏神として崇敬。
明治十一年    根室、函館聞の定期航路開設。
 明治十四年  琴平丘新社殿に遷宮。社格が御社。
明治十五年  開拓使を廃して、根室、函館、札幌県をおく。
明治十九年  本殿新築。拝殿修管。
大正七年   県社に昇格
大正十年   鉄道開通、国鉄根室駅開業。
 
 この年表には、根室金刀比羅神社の創建は文化3年(1806)のこととされています。この年に高田屋嘉兵衛が漁場請負権を得た際に、海上安全・漁業、産業の振興などを祈願して、祠宇を今の松ヶ枝町に建立し、金刀比羅大神を奉斉したとあります。
しかし、当時は神仏混交で金比羅さんは「金毘羅大権現」で権現さんです。金刀比羅というのは、明治以後の神仏分離後に使われるようになった用語です。ここでは金毘羅大権現としておきます。明治十四年に「琴平丘新社殿に遷宮」とあるので、それ以前は別の所に鎮座していたようです。高田屋嘉兵衛が創建したときの祠はどこにあったのでしょうか?

 高田屋嘉兵衛が根室にやって来た当時は、根室や国後、択捉島海域は北方漁業の宝庫として着目され始めた時でした。同時に、ロシア国との間に北辺緊急を告げていた時でもあったことは司馬遼太郎の「菜の花の丘」に詳しく描かれています。
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幕府は根室を直轄して、その開発と警備に当ったることにします。そして幕命により漁場を請負った高田屋嘉兵衛は、北方海域における航路の開拓と、漁業振興に心血を注ぎ、その安泰と繁栄を祈り、祠宇を建て金毘羅大権現を勧進したようです。そして、又弁天島(旧大黒島)には市杵島神社を建立したと記されます。もともと弁天島はアイヌの聖地であり、信仰を集める島でもあったようです。
3根室金刀比羅宮6
港の沖の弁天島(旧大黒島)に鎮座する市杵島神社
 
安政元年(1854)村垣範正が残した東蝦夷の巡視日記には、次のように記されます。
「弁天社及び金毘羅大権現は、文化三年高田屋嘉兵衛、当場所請負を命ぜられ、漁業満足祈願のため、社殿を箱館に於て切組み、当地に着するや、直ちに建立せしものなり」

とあります。建立当時の社殿は函館で材木が整えられて、船で根室まで運ばれて、組み立てられたようです。
 高田屋嘉兵衛によって建てられた金毘羅大権現の祠は、どのように引き継がれていったのでしょうか。
年表には「天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。」とあります。高田屋嘉兵衛の後を受けて、漁場請負権を得たのが藤野嘉兵衛です。彼が高田屋嘉兵衛が約30年前に創建した社殿改築を行ったようです。極寒の地なので、30年毎位で改築する必要があったことがうかがえます。改築の翌年・天保10年には、藤野嘉兵衛は肴場請負を山田文右衛門に譲り、根室を去っています。
3根室金刀比羅宮syuinn 3

年表にはありませんが、明治3年の文書には、次のように記されています。
「明治三年四月に、藤野家の根室人である蛯子源之助及び妻ハツの両氏は、信仰篤く、数年の立願を以て、黄金三十八両を献じて、讃岐に於て、御神像を奉製し、金刀比羅宮にて入魂式典を執行し、藤野家の手船「宗古丸」に奉乗して、同年五月本殿に奉鎮する」

 ここからは廻船業を営む藤野家の一族で根室に住む蛯子源之助とその妻ハツが讃岐の金刀比羅宮に参拝し、そこで「神像」を作り、自社の手船に載せて持ち帰えり、社殿に祀ったことが分かります。幕末から明治初期には廻船業者などの富裕な信者によって、社殿が維持されていたようです。
3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛2PG
高田屋嘉兵衛(根室金刀比羅神社蔵)

  高田屋嘉兵衛については「百八十周年記念祭記念誌」に、次のように記されます。
「高田屋嘉兵衛(1769~1827) 
明和六年淡路国都志本村に生まれる。兵庫に出て水主となり、苦労の末、寛政八年辰悦丸を新造し。船持船頭となる。その後北方漁場の重要さに着目し、函館に進出し、遂に幕府の信用を得て、蝦夷地御用船頭となり、文化二年(1805)には根室漁場を請負い、その卓越した識見と、商魂を以て、当地方の漁業振興に力を尽した。
 文化九年(1812)択捉島よりの帰途、国後島泊沖で露艦ディアナ号に捕えられ、カムチャツカへ連行され、幽囚の身となるも、常に日本の外交に心を尽し、露国の信用を得て、当時日露間の大きな問題となっていた、ゴローニン釈放等に奔走し、協定成立に努力す。
 文政元年家業を弟に譲り、淡路に隠退。文政十年病歿、享年五十九才。彼は当神社を創始した信仰深い人であったばかりでなく、北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者でもあった。」
高田屋嘉兵衛は、地元では「北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者」としてリスペクトされているようです。この神社に彼の銅像があるのが納得できます。
高田屋嘉兵衛の銅像建立趣意書も見ておきましょう
 この地方の開拓には、まことに多くの人々の尽力があった。然し高田屋嘉兵衛が活躍した当時は、鎖国と封建制の厳しい体制下であり、露国の南下、原住民とのあつれきが続いた厳しい時でもある。
遠隔寒冷の未知の北海に帆船を進めての開拓は、嘉兵衛の高邁な勇気と才覚、練達せる航海技術に加えるに徳実で誠実溢れる人柄、開拓にかける大きな使命感と責任感がこれをなさしめたものといえる。
 択捉島航路の開拓と産業開発に就て見ると、宝暦二年(1754)から寛政年間にかけて、北海道周辺は、外国船の出没が続き、また原住民の和人襲撃騒動などがあり、幕府としてその対策に努力している。そして寛政十年、幕府は180名からなる巡察隊を二手に分けて派遣したのもその一策といえる。
 根室、国後、択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を建て、更めて旧来の領土である事を宣言した。露国勢力は度々択捉島に迫り、我が国としては、同島を「日本領土」として明示する事は急を要していた。然しそこには一つの大きな障害があった。それは国後島と択捉島との間に流れる海峡であった。この海は「魔の水道」と呼ばれ、濃霧に覆われる事多く、潮流は荒れ狂い、原住
民の小舟は度々遭難し、その為に開拓に必要な人員や物資の大量輸送は不可能になった。
 寛政十一年函館に進出した嘉兵衛は「蝦夷地御用船頭」を命ぜられ、根室、国後島、厚岸で交易を始めていた。前年択捉島を調査した近藤重蔵は、嘉兵衛の優れた航海術に着目し、厚岸に於て嘉兵衛に会い、状勢の緊迫と、択捉島開拓の緊急を説き、大型船による択捉島航路の開拓を要請した。嘉兵衛は快くこれを承諾し、重蔵と共に、根室から国後島に渡り、同島のアトイヤ岬から、潮の流れを観察し、苦心の結果、三筋の海流が、狭い海峡で一筋となり、択捉島ベルタルベの突端に激突する事をつきとめ、安全な航路を見究め、自ら約十屯の宜温丸を操船し渡海に成功したのであった。
同島に上陸した彼は、詳に調査し、国後島に待つ近藤重蔵に報告した。この安全な航路の開拓は、幕府のその後の同島警備と開発に大きな進展を見せたぱかりでなく、高田屋の事業発展にも大きく連なっていった。
 択捉島航路開拓に成功した嘉兵衛は、幕府直轄制下にも拘らず、択捉島場所請負を命ぜられた。
翌寛政十二年三月、手船「辰悦丸」他五隻の船に、米、塩、衣類等をはじめ、漁場開設に必要な漁具、漁網、建築資材、大工労働者、更に医者、医療具を乗せ、幕吏近藤重蔵外数十人と共に、択捉島に渡り、上陸した彼は、海岸各地を調べて、十七ヶ所に漁場を設け、原住民達に漁具を与えて、日本式漁法を教え、その漁獲量に応じて生活に必要な物資を与えたので、彼等の生活水準は上り、渡島当初八百余人だった原住民の人口は、時と共に増え、。噂を聞いて渡島してきた者を合せると千二百人にもなった。
 嘉兵衛の下に、喜んで稼動し、それまでは日露両国の勢力の狭間に置かれていた原住民の不安と苦悩は消え、日本国民としての自覚を持つ様になった。原住民達も、日本式漁法に慣れるに従い漁狭量も飛躍的に上昇した。主なる商いは海産物であり、海獣皮、熊皮、狐皮、鳥羽などがあげられた。享和三年(1803)のサケ、マスの漁獲量は一万八千石に上り、内七千五百石は塩蔵、他は魚粕、魚油として内地に運送した。殊に魚粕は肥料として増産に寄与した。
 択捉島開拓は当初露国勢力の千島列島南下に対抗する最前線基地として、警備と原住民の撫育に重点がおかれたが、嘉兵衛の活躍によりその目的は達せられ、更に同島の豊富な資源の開発は、高田屋の事業を進展させ、幕府の財政に大きく寄与する事となり、根室や函館のその後の発展にも連なった。

  これを小説化したのが「菜の花の沖」なのでしょう。
そして根室の金刀比羅宮は、県社として周辺漁港に分社・勧進されていきます。根室周辺に金毘羅社が多いのは、この神社の「布教活動」の成果でもあるようです。
3 納沙布金毘羅大権現 4
納沙布岬の金刀比羅神社
そして、敗戦までは根室は「最果ての港」と云うよりも、千島列島の島々への拠点港として機能します。そのため北方領土の島々にも、金比羅神社を始め多くの神社が分社・勧進されることになります。敗戦時には次のような神社が鎮座していたようです。
 国後島 近布内神社
  り  老登山神社
 志発島 東前金刀比羅神社
  り  稲荷神社
 水晶島 金刀比羅神社
 多楽島 金刀比羅神社
     市杵島神社
     大海龍王神社
 色丹島 色丹神社
 これらの神社の御神体は敗戦後は、根室の金刀比羅神社に祀られているようです。
3根室金刀比羅宮2

以上をまとめておくと
①高田屋嘉兵衛によって根室に金毘羅大権現が勧進された
②その後、金毘羅大権現は根室の氏神様として信仰を集めるようになった。
③そして明治以後には、金刀比羅宮が周辺漁村へも勧進されるようになった。
④千島列島の島々にもかつては金刀比羅宮が勧進され祀られていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献

    「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

 金毘羅さんの博覧会は明治12年の方が有名ですが、それより6年前に明治6年(1873)3月1日に金刀比羅宮(当時は「事比羅宮」)社務所書院を会場として、第1回博覧会が開かれています。今回は、この時の博覧会について見ていきたいと思います

 禰宜(ねぎ)職であった松岡調は、「展覧会の引札(広告案内パンフレット)」が刷り上がってきたときことについて、次のように記しています。
  九日 とくより社務所にものせり、
(○中略)過日にゆるされたる展覧会のひき札(広告)を、今日より御守処にて詣つる人々に分布させつ、此彫したは、己かものして彫セたるなり、
 方今宇内ノ各国博覧会卜云ヲ開テ、天産ノ品ニョリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニョリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ、就中古器旧物二至リテハ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観センカ為、互二徴集ヲ鼓舞スル克卜ハ成レリ、サレバ其意二体シ、皇国中二於テモマヽ其設アリ、此ニョリテ今度官許ヲ乞テ、来酉年三月朔ヨリ四月望マテ、金刀比羅宮社務所二於テ展覧会ヲ設テ、神庫ノ諸品ヲ始、其他各地ノ物品、新古廳密二不拘、コトコトク之ヲ群集シテ、互二図ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス、故二四方ノ君子、秘蔵ノ奇品、古器等ヲ資シ来テ、此席二加列セン事ヲ翼フニナン、物品差出ノ規、売却交易ノ則等ハ、厳重二定タリ、当町内町虎屋、備前屋、桜屋三軒ノ内ヲ会談所卜設ケ置レハ、物品等持参ノ諸君子、先彼所へ到着有テ、巨細ノ規則ヲ尋問為給ヘカシ、
      明治五年壬申八月十日
                琴平山社務所
          (『年々日記』明治五年 三十五、)
 意訳すると、
先日認可された展覧会のひき札(広告)を、今日から御守販売所での配布を始めた。今回作成したものは、各国博覧会が天産品によってその国の気風を知り、国民が作ったもので、その国のエ芸のすぐれた所を表す、また、古器旧物からは、時勢の推遷、制度の沿革などを知ることができる。それは互の出展品を集め鼓舞ことにもつながる。このような目的のために、皇国の展覧会が各地で開かれるようになった。
 この度、博覧会の開催を、来酉年三月から四月まで、金刀比羅宮社務所で展覧会を開き、神庫の諸品を始め、その他各地元物産、新古廳密関わらず、ことごとくこれを集めて、互いの栄誉、精妙、古今の変遷を世に知らしめたいと思う。そのためにも、全国の人々が秘蔵する奇品、古器等を展覧会に出品することをお願いしたい。物品輸送屋・納入、売却交易などについては規則を定め厳重に取り扱う。内町の虎屋、備前屋、桜屋の3軒を会談所にするので、物品等を持参じた諸君は、ここで詳細の規則を確認していただきたい。
      明治五年壬申八月十日
ここには、開催目的が
①「天産ノ品ニヨリテ其国ノ風気ノ善ヲ知リ、人造ノ物ニヨリテ其民ノエ芸ノ妙ナルヲ徴シ」と、出品された品々を通じて全国各地の風気(風俗)や工芸のすばらしさを知ること
②「就中古器旧物二至りテ時勢ノ推遷、制度ノ沿革ヲ追観セシカ為」と、古器旧物(わが国古来の文化遺産)を見聞することで、時勢の推遷(移り変わり)、制度の沿革(変遷)などを知り
③「互二国ノ栄誉、エノ精妙、古今ノ変遷ヲシラシメント欲ス」と、国家の栄誉、産業の素晴らしさ、古今の変遷などを広く知らしめることを目的に掲げています。そして、当初の開会期間は「酉年三月朔ヨリ四月望マテ」だったようです。 こうして讃岐一円に出品を呼びかけ、展示品の提供を依頼しています。
どんな展示品が集まったのでしょうか。目録が残っているので、その一部を見てみましょう。集まった出品物と( )内が出品者です。
雅楽器類・舞楽装束類・舞楽面類
和琴(社蔵)・大倭舞装束(同)・琵琶(石清尾八幡宮蔵)
納蘇利面(白峯寺蔵)・翁面(社蔵)、蹴鞠装束(琴陵宥常出品)
・鞠(同)などの蹴鞠用具類、
弘法大師作観音木像・二王石像(垂水村大師堂蔵)
法隆寺百万塔(寺井寛吾出品)
長曽我部元親所持数珠(七ヶ村吉田某蔵)
以下仏像仏具類、
数珠百種(当村合葉文岳蔵)
土佐国産貝類(片岡正雄出品)
鯨歯(当村多田嘉平出品)以下鳥獣類
霞砂糖(黒羽村永峯某出品)諸国米穀井菓類以下農海産物、
高松望陀織縞・阿筋藍玉(阿州堀北民次出品)
越後雪踏(寺井寛吾出品)以下衣料その他日用品類など。
後水尾天皇御寄附天正長大判(社蔵)
慶長小判・丁銀・豆板銀・和漢古銭(松岡調出品)
諸国紙幣銭貨類、尾張瀬戸急須・古備前大水瓶(当村山下某出品)・南蛮水指以下茶道具類・青質富士石(琴陵宥常出品)・
水晶玉(片岡正雄出品)・金剛砂(当村菅善次郎出品)・馮瑠石(神恵院出品)以下玉石類など。
崇徳天皇御軍築(西庄村白峯宮蔵)
楠公朝敵御免綸旨(楠正信出品)
柿本人丸像(松岡調出品)
明人書画扇面帖(高松石田廬出品)
擲躊大木(当村守屋某出品)
虎皮・熊皮(鴨部村佐藤某出品)
奥筋金砿(琴陵宥常出品)・石炭油・洋犬・七面鳥

ここから分かることは、骨董的なお宝類が主で「産業革命の申し子」的な蒸気機関や機械類はないようです。どちらかというと、江戸時代の寺院の「開帳」の変化バージョンとも思えます。結果はどうだったのでしょうか?
開会式に供えて琴平警察に対して、場内整理のために「邏卒(巡査)両名其手先3名毎日当社博覧会入口へ出張の事」と、計5名の派遣要請をしています。
 そして幕を開けてみると、拝観者は思ったよりも多かったようです。そのため期間半ばの3月24日には、次のような会期延長を求める文書が名東県知事宛に出されています。
     博覧会日延長願
 当宮博覧会四月中旬迄願済の所、来ル五月三十一日まて日延仕度、此段奉願候也、
酉三月廿四日
           事比羅宮 権禰宜 宮崎冨成
                 同  松崎 保
                禰 宜 松岡 調
                 同  大久保 来
                権宮司 琴陵宥常
 名東県 権 令 林 茂平殿
 名東県 参 事 久保断三殿
 名東県 権参事 西野友保殿
   「第三十九号  右御聞届二相成候事」
         (『町史ことひら』2 現代 史料編)
予定では4月半ばまでの会期であったようですが、それを5月31日までさらに一ヶ月半の会期延長申請が名東県(権令)林茂平宛に出されています。これは、そのまま認められたようです。
  この時の入場者数などを記した記録がないので、どのような収支決算になっていたのかは分かりません。
なぜ、明治5年という段階で金毘羅さんは、こんな大きなイヴェントをやろうとしたのでしょうか。
 前年の明治4年(1871)10月10日から11月11日までの間、京都の西本願寺大書院を開場に「京都博覧会」が開催されています。これが、国内で最初に本格的に「博覧会」と称して開催されたものになるようです。
 この「京都博覧会」は、東京遷都で首都としての地位を失って、京都の商工業界は落ち込んで沈滞気味だったようです。そこで京都を活気付け、景気回復と新生明治の啓蒙を目的として、三井八郎右衛門(越後屋呉服店・三井両替店)・小野善助(井筒屋小野組・本両替商)・熊谷久右衛門(直孝・鳩居堂第七代当主)などの京都市内の有力商人が主催したものでした。
 10月10日に開場し、通り券(入場券)は、一朱・特別展観は二朱で、33日の期間中に1万人以上が観覧します。
本博覧会の広告文中に、
 西洋諸国二博覧会トテ、新発明ノ機械古代ノ器物等ヲ善ク諸人二見セ、知識ヲ開カセ新機器ヲ造リ、専売ノ利ヲ得サシムル良法二倣ヒ、一会ヲ張ランド御庁二願ヒ奉リ、和漢古器ヲ書院二陳列シ、広ク貴覧二供センコトヲ思フ、夫レ宇宙ノ広キ古今ノ遠キ、器械珍品其数幾何ナルヲ知ラズ、幸二諸君一覧アラバ、智識ヲ開キ、必目悦ゲソメ、其益頗ル広大ナリ、故二大人幼童共二幾度モ来観ヲ希フ而己。
 但物品ヲ出サンド望ム人ハ、会場二持来り玉へ、落手券ヲ渡シ謹テ守護シ、会終ラハ速二返却シ、薄謝ヲ呈セントス、但御庁ヨリ警固人数ヲ下シ賜フ故二御懸念シ玉ハス、数品ヲ出シテ此会ヲ助ケ玉へ 
 通り券ハ当地町々ニテ、一枚価金一朱宛二求メ玉へ他所並臨時来客ハ、会場門衛ニテ求玉フベシ
  未十月        博覧会社中 謹白    
                        
当時西欧諸国で開催されていた博覧会を真似たものですが、意義について「新発明の機器類を展示」し「おもしろさとともに智識を広める」ものであることが述べられています。
 この成功をバネに京都では以後、毎年のように博覧会が開かれ、しかも規模を拡大していくのです。この京都の動きに触発されたことが金刀比羅宮の広告などを見ても分かります。でも、京都と金毘羅では都市規模が違います。京都でやっていることを、そのまま四国の地方都市(?)が真似るという大胆さに、私は驚かされます。
 
 明治という新しい時代の扉は開かれましたが、鉄道や蒸気汽船はまだまだ四国には姿を見せません。目に見える形で、四国の村々に明治維新はまだやって来ていない時期です。そんな時期に、讃岐一円だけからでも、これだけの品々を集めて、展示公開するという企画力と実行力には目を見張らされます。これをやり遂げた後の金刀比羅宮の当事者の自信と感慨は、大きかったと思われます。

 明治6年の金刀比羅宮博覧会の意義は?
明治5(1872)年という年は、年表で見れば分かるように、まだ明治維新後の神仏分離の余波覚めやらぬ時期です。そのような中で、四国琴平の地でこのような博覧会が開催されたことは、大きな意味があったと研究者は考えているようです。
 明治維新を経て文明開化へと歩み始めた時代に、全国に先駆けて琴平の地においてこのような「博覧会」を開こうとした人々の先見性と実行力と勇気が当時の金刀比羅宮のスタッフの中にあったということでしょう。
  それでは、この企画の中心にいたのは誰なのでしょうか。
先ほど見た名東県への申請書類の中に出てくるのは  次の5名です。
 権禰宜 宮 崎 冨 成
     松 崎   保
 禰 宜 松 岡   調
 同   大久保   来
 権宮司 琴 陵 宥 常
この中で金刀比羅宮の年表に登場してくる人物を見てみましょう
明治5年 1872 松岡調、事比羅宮禰宜に任ぜられる。
 琴陵宥常、事比羅宮宮司に任ぜられる。
 仏像、雑物什器等売却後に、残った仏像焼却。
明治6年 1873 博覧会開催。
 深見速雄、事比羅宮宮司に補せられる。
明治7年 1874 事比羅宮崇敬講社設立。
明治8年 1875 元観音堂取崩し、本宮再営。
 三穂津姫社創建。
 別当宥盛に厳魂彦命と諡し、威徳殿を厳魂神社と改称。
明治9年 1876 宥常、事比羅宮宮司解任、禰宜となる。
明治10年1877 本宮上棟。
 琴平山大博覧会。コレラ流行で途中で中止。
明治13年1880 第2回琴平山大博覧会。火雷社改築。
明治15年1882 古川躬行着任。
明治16年1883 明道学校開校。
明治19年1886 宮司・深見速雄死亡、代わって宥常が就任

この年表からうかがえるのはM5に禰宜に就任した松岡調の存在の大きさです。
この時期の金刀比羅宮にとって大きな新規事業を並べてみると
①M5年 仏像仏具の売却・償却
②M6年 第1回博覧会の開催
③M7年 金刀比羅宮崇敬講社設立
④M8年 本宮再営・三穂津姫社創建 
⑤13年 第2回琴平山大博覧会。
とイヴェントが目白押しだったことが分かります。③や⑤の準備書面や申請書類はほとんどが松岡調が書いています。また⑤の最高責任者として開催を取り仕切っているのも松岡調です。そして、日清戦争まで、松岡調によって金刀比羅宮は取り仕切られていた気配がします。

 政府は琴綾宥常を社務職に任命し、願出のあった宮司職には最後まで就けませんでした。そして、鹿児島出身の深見速雄を宮司に任命します。彼が金刀比羅宮に着任するのが明治6年(1873)3月20日です。まさに、博覧会の開催中のことになります。
ここで①宮司  深見速雄  ②社務職 琴綾宥常 ③禰宜 松岡調 という体制が出来上がります。
 金刀比羅宮博覧会の成功をステップとして、崇敬講社設立や御本宮社殿の再営工事へと進んでゆきます。
 金刀比羅宮(当時は事比羅宮)では、明治7年(1874)2月21日に教部省宛に宮殿再営の願書を提出しています。それが認められると御本宮社殿の改築諸工事に取りかかり、明治10年(1877)4月15日に上棟祭を行い、翌年の11年(1878)4月15日に新営なった社殿への本殿遷座祭(正遷座祭)が斎行されています。
 このような経緯を見ると明治6年(1873)の「金刀比羅宮博覧会」は、本宮再営正遷座祭のプレイベントの役割を果たしたのではないかとも思えてきます。これらの企画・立案・実行などでも大きな力を発揮したのが松岡調で、彼はビッグイベントを取り仕切ることで、山内における地盤を固めていったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常 | 西牟田 崇生 |本 | 通販 | Amazon

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭

 明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
 報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである
②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。
③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

 「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住
明治七年十一月一日入構
               琴 陵 宥 常 印
                  当戌三拾六歳
  同         妻   千 萬 二拾一歳
  同    死去   長男  千 盾   壱歳 
            長女  瑞 枝 十年十ヶ月
            次女  八千代 九年一ヶ月
            三女  勝 也 六年十ヶ月
            四女  賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留
         松岡 調 印 当戌四拾五歳
   死亡 母  脇屋里喜      五拾七歳
   死亡 妻  松岡須磨      二拾九歳
   死亡 長男同 徳三郎       十八歳
      長女同 喜 志        八歳
      次女同 安 佐        五歳
      次男同 多 平        一歳
      
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
 ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
 象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
 金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
 この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。 

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2

 調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折  版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、
第4位中部502冊、
第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊
第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
 旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊
2 伊予814
3 阿波524
4 備中484
5 出雲466
6 備前297
7 伯耆308
8 丹波276
9 美作266
四国・中国地方の冊数が多いようです。しかし、地元の讃岐が見えません。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭3

年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。

奉納品 崇敬講社看板 
 講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
 彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
 江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月9日 朝祭

 「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。

講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
 こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
1崇敬講社加入者数 昭和16年

図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと
②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い
③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。
④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている

実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
 丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
  竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。

 茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。
   お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
 それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。
 籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。
全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
   ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった
②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。
④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。
⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。
⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。
⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。
⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
奉納品 崇敬講社看板 定休
 
 江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
 講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観
⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
 隣近所の人たちと連れだって、新緑の5月の象頭山に登るのは、ある意味レクレーションでもあったし、古代以来の霊山への参拝の系譜につながるものであったかもしれません。

DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
戦時下の戦勝祈願のための金刀比羅宮日参

 このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕

    各地に金毘羅への参詣講、寄進講ができて人々の金毘羅信仰は幕末にかけて急速な高まりを見せます。しかし、江戸時代には、これらの講を全国的に組織化しようとする動きはありませんでした。各藩の分立主権状態では、それは無理な話だったのかもしれません。
 しかし、明治になって維新政府は神道国教化政策の一環として、信徒集団の組織化を各神社に求めるようになります。そこで明治7年、金刀比羅本宮崇敬講社が結成されます。これは時流に乗り、入講手続きをして会員となる信者が増え、7年後の明治14年には、講員が200万人を超えます。これを契機に神道事務局の直属して、金刀比羅崇敬教会と公称することになります。さらに、明治22年には、講員300万人にまで膨らみます。この積立金基金が大日本帝国水難救済会の創立資金となったことは、以前にお話しした通りです。

 会員の特典のひとつが「安心して、安価で信頼の出来る指定業者」が利用できることでした。
「讃岐金刀比羅教会」の崇敬講社に指定されたのは「定宿」「乗船定問屋」「定休」です。
奉納品 崇敬講社看板 定休

「定休」は参拝の講員が休憩するところ、「定宿」は宿泊するところで、講社が指定した定宿に看板を渡して掲げさせます。
 講員は定宿に泊まれば割引になり、一方宿屋の方は「金比羅指定のお宿」ということで一般の参拝者もこの看板を見て安心して泊まるわけで、客の増加につながり、また、名誉なことでもあったようです。そのため、この看板は「金看板」とも云われたようで、この看板があるのとないのでは、宿のランクも利益も大きく違ってきたようです。この看板さえ掛かっていれば、全国からの金毘羅を目指す参拝客が利用してくれたのです。しかも、団体で・・。
それでは「定問屋」とは、何でしょうか?
奉納品 崇敬講社看板 

私は、金毘羅さん御用達の問屋だと最初は思っていましたが、大面違いでした。「乗船」を読み飛ばしていました。
 四国以外からの参拝者は、必ず瀬戸内海をわたらなければなりません。瀬戸内海の船旅は、十返舎一九が弥次喜多コンビに金毘羅詣でをさせたときに描かれているように、東国の人にとって魅力なクルージングでもありました。丸亀・多度津の港も整備され、江戸時代の18世紀中頃からは大坂から金毘羅船と称する定期船も出るようになっていたことは、以前にお話ししました。[定船定問屋]は、こうした参拝客をはこぶ出船所に掲げられたものでした。看板はケヤキの一枚板です。

1虎屋玄関表
内町の虎屋
交通の不便な時代、遠く離れた霊場へ参拝するのは庶民にとっては、金銭的にも難しいことでした。
そこで、信仰を同じくする人々が参拝講をつくり、少しずつ積みたてた金で代参者を月ごとや、年に一度代参させるシステムが出来上がります。こうして、都市部を中心に金比羅講が組織され、地元で毎月の参拝や会食を行い。その時に会費積み立てていくようになります。そして、積立金で代表者を四国の金毘羅さんに「代参者」として送り出します。
 こうして、講員になっていれば一生に一度は金比羅詣りが出来るようになります。これが江戸や大坂での金比羅ブームの起爆剤のひとつになったようです。このような日常的な宗教活動が、金比羅への灯籠寄進などにもつながっていくようです。

大坂平野町の「まつ屋卵兵衛」の崇敬講社定宿の「ちらし」です。
1崇敬講社 御宿広告

 金毘羅崇敬講社では、それまで交渉のあった各地の旅宿を定宿に指定し、目印になる旗と看板を配布しました。その看板を右側に、旗を左側に入れて、ちらしを作って配布したようです。赤と黄色のコントラストが鮮やかで、今までにないもので評判になったことでしょう。
 冒頭に「讃州金毘羅蒸気出港所」「各国蒸気船取扱問屋」とありますから、いち早く金比羅航路に蒸気船を投入していたことがうかがえます。ちなみに「まつ屋」は、崇敬講社の定宿の中で、「大坂ヨリ中仙道筋」の一等取締に就任しています。

DSC01188

こちらは、短冊形で先ほどの「松屋」に比べると小形です。
船問屋や定宿では、これらをお土産がわりに無料で宿泊客に配布したようです。各船問屋が使用していた自慢の「金比羅船」も描き込まれていて、意気込みのようなものを感じます。
  このような定宿や船問屋のセールス活動が、ますます金毘羅さんへの参拝客の増加につながることになったようです。

 しかし、戦後になって車での参拝が多くなるにしたがって参拝講をわざわざつくらなくても気軽に参拝出来るようになると、このシステムは次第に衰退していくことになります。そして、昭和の終わり頃には、琴平の旅館にこの講社看板を掲げているところはなくなったようです。
 木札は旅館の玄関に掲げられたので、1m後の大きなものです。
古くなった木札は「御霊返し」といって、参拝時に返納され、新しいもの交換されたようです。そのために、金刀比羅宮に200点近い数の木札が保管されていたようです。中には広島県尾道市の富永家と香川県詫間町の森家のように、長い間自分の家に祀っていたものを、一括してお宮に納めたものもあります。定宿や定問屋は、琴平だけでなく金比羅参拝路のネットワークの各港の宿に配布されていたことが分かります。
 木札は形によって、いつ頃のものかが分かるようです。
神仏分離以前はの江戸時代のものは、形が剣先型で、上部が剣のように尖っています。これは先日お話ししたように、金比羅の御守札は、護摩堂で、二夜三日の護摩祈祷した後に、別当の金光院(一部に多聞院)が出していました。
 しかし明治以降には、神仏分離で護摩堂は壊され、本尊の不動明王もも片付けられて、蔵の中にしまい込まれてしまいました。それと共に、剣先型の形式のものはなくなります。ただ大木札中に明治以降金刀比羅宮から独立し、正当性を巡って明治後半に裁判でも争うことになった松尾寺配布のものも一部混じっているようです。松尾寺も独自の講制度を運用していたことがうかがえます。
 この看板を掲げた宿や船問屋は、金比羅客誘致や広報活動を先頭に立って行います。
そして金毘羅街道の整備や、丁石や灯籠などの建立にも取り組むようになります。また、金比羅さんへの寄進活動などにも積極的に参加します。明治になっても、金毘羅詣で熱は冷めることはなかったようです。その集客システムとして機能したのが崇禎講社だったようで

参考文献 印南 敏秀  信仰遺物 金毘羅庶民信仰資料集
                                                                              

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
明治6年3月,鹿児島県士族・深見速雄が宮司として赴任して来ます。
宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。

DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。

金刀比羅宮 琴陵宥常大人命銅像祭3
           金刀比羅宮本宮拝殿で行われる琴陵宥常大人命銅像祭
現在は、宥常の銅像が造られ例年祭礼が行われているようです。
金刀比羅宮 琴陵宥常大人命銅像祭
琴岡宥常の祭礼用銅像
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

 香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?

景山甚右衛門.jポスターpg

 
多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
 
 明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。

景山甚右衛門1
多度津資料館
全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなか、明治20(1887)年5月24日に次のような「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。
  『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
 ・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地 
        讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
 ・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地   
        同国同郡同処寄留
 ・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地  
        同国同郡同処寄留
 ・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
 ・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
 ・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
 ・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
 ・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
 ・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
 ・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
 ・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
 ・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
 ・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
 ・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
  二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
 ・大久保諶之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也 
合計金 15万円也
   (「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
松井政行氏は、この出資者たちを次の3グループに分類します。
①大坂の資産家グループ
②多度津の「多度津七福人」グループ
③先年に大久保諶之丞よって組織された「四国新道グループ」
そして、設立申請までの動きを、次のように指摘します。
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
③そこで四国新道建設を実現させた地元の資産家を引き入れた
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。

この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車の車夫たちでした。
鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか

  明治28年8月10日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)には、次のような背景が書かれています
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保諶之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。
 その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
  参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。  
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした
 この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。 
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
 急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで
「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」

とあります。香川県全体では何千台もの人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
イメージ 8
旧琴平駅前風景 日露戦争の戦勝報告の金比羅参りの将軍を待つ車夫達

 地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」というような歌も流行ったようです。

景山甚右衛門4
 後世に書かれた評伝の中には、工事現場の陣頭指揮にあたった景山甚右衛門が、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝えるもののあります。しかし、これも俗説のようです。当時の甚右衛門の足取りを記録で見ると、彼は名東県の県議として松山に長期滞在しています。当時の地元での不穏な空気を察して、工事中には多度津に帰っていないことが分かります。どちらにしても景山甚右衛門は、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。このあたりも実務的な手腕がうかがえます。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
 認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
 それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
 さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産機関車はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
 ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
 それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。 
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
イメージ 2
1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった

動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
 讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が

「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」

と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
 ところが・・??  
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。 もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。

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 導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車
 開通式典での大久保諶之丞の祝辞は? 
 明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保諶之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。
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当時は愛媛県の県会議員だった大久保諶之丞 この後、四国新道開通に尽力

開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・ 

 開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。

イメージ 10
白銀の讃岐路の鉄路を客車を押して進む豆機関車 遠くに讃岐富士

  ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。

汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。 
イメージ 5
多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車

  開業当時の讃岐鉄道は、

社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車3両、客車31両、貨車11両でスタートします。客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員20人の小さなもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
 停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
イメージ 6
明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

明治の多度津地図

本社は桜川の横、現在の多度津町民会館(サクラート多度津)の場所にありました。かつての陣屋跡になります。
イメージ 1
開業当時の多度津駅
桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。

花びし2
料亭「花びし」の背後に描かれた多度津駅
花びしの絵図には、桜川を隔てて初代の多度津駅が描かれています。
これを見ると初代の多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設されていたことが分かります。

旧土讃線跡
旧土讃線
 ホームは、行き止まり構造の頭端式で、丸亀行きと琴平行きの二つの線路が並走して東に伸びて、旧水産高校のあたりで二つに分かれていました。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流します。一方、琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていきます。 初代の多度津駅は、予讃線が西に伸ばす際に、現在地に移転します。
一方、初代の琴平駅も現在地ではありませんでした。神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。当時の運行時刻表によると

時刻表(明治22年7月14日朝日新聞付録
琴平-善通寺は10分、
善通寺-多度津は15分、
多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。

イメージ 4
高松延長後の駅長達
 
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
上等のお客さまはそのままご乗車を。
中等のお客様は降りてお歩きを。
下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。

約130年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
イメージ 3
明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?

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