瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 金毘羅庶民信仰資料

金光院護摩札 粟島安田屋4
廻船問屋安田屋の金光院護摩札

金光院護摩札 粟島安田屋3
廻船問屋安田屋の一番古い金光院護摩札(寛政7年)
前回は、粟島の廻船問屋安田屋に残された護摩札について、つぎのようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

安田家の護摩札を「尊崇対象」で分類すると次のようになります。
不動明王 61点
普賢菩薩   1点、
地蔵大権現    1点、
日天尊   1点
般若経転読   1点、
大乃御柱・地乃御柱1点
大物主命・崇徳帝 1点
大々神楽   1点
祈祷内容で分類すると次の通りです。
海上安全 50点
船中安全  9点
渡海安全  1点
家内安全  3点
願望成就  1点
諸願成就  2点
所願成就  2点
当病平癒  3点
疱鷹如意  1点
金毘羅新造1点
海の平穏についての祈願が60点で全体の約9割を占めます。「当病平癒」や「疱蒼如意」といった変則的な析願がなけれは、この割合はもっと高いものになります。一番最後の「金毘羅新造」というのは、新造船「金比羅丸」の海上安全・船中息災延命の祈願のようです。新造船の名前も「金比羅丸」です。このあたりが廻船問屋らしいところとしておきます。

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
粟島の廻船問屋の旧家の神棚
 直島のタイ・サワラ網漁の網元であった織田家の110点の祈祷札と比較して見ましょう。
①明治7年から明治末年(1874~1912年)までのものが42件、大正期のものが17件、昭和3年のものが一件。6割以上の祈祷札については祈願年が記載なし。
②祈願内容については、豊漁に関する「漁猟潤澤」「漁業繁榮」「漁業守護」等が117点で全体の6割
③「意願固満」「如意回満」「所願園満」等の諸願成就系統が17点
④「家内安全」「家運長久」等が17点
⑤「海上安全」「船中安全」等が5点、
⑥「武運長久」等が4点
ここからは「海上安全」よりも「大漁満足」に重点を置いた祈願が行われていたことが読み取れます。
安田家が廻船問屋、織田家は網元で立場が異なります。そのため信仰対象は同じでも、祈願内容はちがっています。安田家は海上安穏、漁民は「豊漁」です。同じ海に働く者でも、商いと漁では祈りの内容が違うのが面白い所です。網元の織田家の方が自然条件や運に大きく左右されるので、祈願内容を並列したものが多いと研究者は指摘します。織田家では祈願銘が二つ並立した札もあります。また、織田家の祈祷の時期は正月ではなく、3~4月だけです。これは鯛網開始にあわせて参拝祈願が行われたためのようです。

護摩供養の作法は

それでは安田家や織田池の護摩札は、金毘羅大権現のどこで供養されていたのでしょうか?

元禄期の金毘羅伽藍図


上の元禄期の金毘羅伽藍図を見ると、本社や観音堂(本堂)附近に護摩堂は見えません。よく見ると金光院の境内の中に護摩堂はあります。幕末に書かれた讃岐国名勝図会を見てみましょう。

金光院の護摩堂・阿弥陀堂
金光院の護摩堂と阿弥陀堂
 金光院の黒門から入った所に護摩堂が描かれています。これが護摩札の供養が行われていた所になるようです。金光院の金堂(現旭社)には、金毘羅大権現の権化である丈六の薬師如来坐像が安置されていました。これは現在の善通寺の東塔の薬師像と同規模なものです。薬師如来は菩薩の時に十一の大願を発し、それが現世利益信仰の根本とされます。その権化が不動明王です。
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、次のように記されています。
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)

意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは護摩堂では、連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この不動明王は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、お堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦元年(1655)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。それが現在の宝物館の不動像になります。

不動明王3


金光院護摩堂の不動明王 (金刀比羅宮宝物館蔵)
護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されます。つまり、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。それは、初代高松藩主松平頼重による伽藍整備の一環だったと私は考えています。増える参拝客・護摩木札を求める参拝客の増大に対応して、相応しい不動明王が迎えられたとしておきます。安田家や織田家の金光院護摩札は、この不動明王に祈祷した後に授けられたものになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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護摩とは
金光院護摩札 粟島安田屋3
金毘羅大権現の金光院護摩札(三豊市詫間町粟島の廻船問屋安田屋)

粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札です。海上安全・船中安全・渡海安全の願が掛けられたものです。高さ101.8 cm、上幅196 cm、下幅162 cm、厚さ2.O cm、重量1420gです。内容を見ておきましょう。
右に 「寛政第七(1795)年 象頭山」
中央に 「不動明王を表す梵字(カーン)
その下に 「奉修不動明王護摩供二夜三日船中安全 風波泰静祈依」、
左に 「正月吉良日 金光院」
ここからは次のようなことが分かります。
①1795年の正月吉日に、象頭山金光院の護摩木札であること
②不動明王前で二夜三日の護摩祈祷の後に、授けられたこと
③「船中安全 風波泰静」が祈願されていること
トレスされたものを見ておきましょう。

金光院護摩札 粟島安田屋2

左のものは次のように墨書されています。
右側 「寛政第九年 象頭」
中央 「不動明王を表す梵字奉修不動明王護摩供二夜三日海上安全祈(欠)」
左側 「二月吉良日 金光院」
先ほどのものの2年後のものになります。内容的にはほとんど変わりありません。実はこれだけではありません。同じような木札・神札66枚が安田家には保存されていたようです。

金光院護摩札 粟島安田屋4
粟島廻船問屋安田屋の金毘羅金光院の護摩札

この木札に何が書かれているのか研究者が一覧化したのが下図です。

金光院護摩札 粟島安田屋1
粟島の安田屋の護摩札一覧(一部)

これを見ると祈祷内容はほとんど同じで「船中安全 風波泰静」です。同じものがどうして何枚もあるのでしょうか。また、安田家にどうして、金毘羅大権現の木札が残されているのでしょうか? そんな疑問に答えてくれる論文に出会いましたので紹介しておきます。テキストは「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」です。
不動明王と護摩

 安田家の護摩札等について        

研究者が当主の安田憲司氏から聞き取ったことをまとめると次のようになります。
①護摩札や祈祷札などを、新しく拝受するのは正月と出帆前の6~8月の吉日で年2回
②一年間、船に安置した護摩札は、蔵の天井の梁に挟むようにしていた
④処分に困るが捨ててしまうことはためらわれたので、今に伝えられることになった
ここからは、毎年正月と、廻船が活動を始める6月以後の年2回に、金比羅に参拝し、金光院の護摩札を授かっていたことが分かります。そして、持ち船に安置します。その際に、前年までの古い木札は、倉の天井に保管したこと。そのため毎年、持ち船の数と同じ枚数の護摩札が倉の天井には増えていったようです。

HPTIMAGE

安田家に残っていた76点の護摩札のうち、象頭山金光院のものは次の通りです。
A 縦約百㎝の大木札が47点、
B 約20~70㎝の木札が20点
C 紙製の札や掛け軸等が9点
金光院護摩札 粟島安田屋5


その他に神棚の中には天照大神宮御札、出雲大社御玉串、馬城八幡宮御守等などがありました。これらの配札場所は次の通りです。
金光院 47点
金光院・金毘羅大権現  1点
金毘羅大権現  1点
満嶋山系寺院 13点
地蔵院  1点
住吉大神宮  1点
水天宮  1点
鹿鳥大神宮  1点
石鉄寺(石鎚山)     3点
防州室積寺       1点
こうして見ると、金毘羅大権現の別当金光院関係のものが大部分を占めていたことになります。それ以外にも、瀬戸内海各地の神社のお札があります。これらの札が納められていた神棚を見ておきましょう。
粟島廻船間屋安田屋の神棚jpg

栗島の廻船問屋の神棚は、非常に大きなものです。一例を挙げてみると、
徳重家の神棚は、十一社様式 幅368cm
伊勢屋のものは、九社(神段数) 幅260㎝
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
粟島 旧廻船問屋旧家の神棚(2019年 瀬戸芸会場)

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
上の拡大

ここからは、栗島の海商たちが神棚の大きさや、そこに収める札の種類や数を競ったことがうかがえます。神棚に各地の「海上安全」などのお札を並べて供えることがステイタスシンボルでもあったのかもしれません。

護摩供養の作法は

金比羅金光院以外のお札を見ておきましょう。
まず粟島古利の梵音寺について。

粟島古利の梵音寺

満嶋山梵音寺は、海岸に面した大通りから数百m内陸部に位置する島内有数の寺院です。その歴史は倭寇の時代にまでさかのぼり、平安中期、粟島島民は藤原純友の配下に属し、海賊活動を行っていたと伝えられます。その範囲は、関門海峡を超えて朝鮮、中国、さらに南進し、東南アジアにまで拡がっていたようです。栗島から倭寇が出ていた証拠とされるのが、梵音寺境内の樹齢四百年以上の「竜眼の木」でとおばれる亜熱帯性の「たぶの木」で南方から持ち帰られたされ、香川の保存木となっています。どちらにしても、粟島は古くから「海民」の活躍する拠点だったことがうかがえます。

粟島梵音寺no
粟島の梵音寺のタブノキ

 梵音寺が鎮座するのが下新田地区です。ここは城山に近い所ですが、城山を満嶋山と呼ぶかどうかは分かりません。安田家に残された護摩札からは、満嶋山には梵音寺の他に松寿院、聖寿院があったことが分かります。その他にも史料的には、阿州極楽寺、観音堂などの堂らしきものが三ヶ所ほど確認できるようです。安田家が護摩札を受けた峯堂地蔵院がこの中にあるのかどうかは、よく分かりません。どちらにしても、修験者たちが構える堂や坊などが粟島にはいくつもあったようです。それを支える経済力もあったということになります。

粟島古利の梵音寺no護摩札
粟島の梵音寺・松壽院の護摩札

 安田家のお札の中で研究者が注目するのは、伊予石鉄山前神寺の石鎚講の札です。
粟島廻船間屋安田屋の石鎚山前山寺の護摩札
石鎚信仰といえば、石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)、瓶ヶ森、笹ヶ峰の東側の峰も信仰対象でした。前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降だとされます。前神寺が「先達所」を決定し、村落の指導者層を俗先達に任命し、広域布教のネットワークを形成していきます。それが道後平野や道前平野に定着し、石鎚山参拝登山は村々の若者の通過儀礼的要素も持つようになります。前山寺のお札粟島にあるということは、西讃地域は宇摩郡や越智都、さらには土佐郡などと一つの信仰圏を形成していたことが裏付けられます。このスタイルは、伊勢御師南倉の廻檀地域とよく似ていると研究者は指摘します。
 また木札には防州室積普賢禅寺のものがあります。
 室積は江戸時代に長州藩による港の再開発で室積会所が置かれ、北前船の寄港地として、多くの廻船問屋が軒を並べていた港町です。海商通りについて長州藩は、防長両国を18の行政区両に分け、これを宰判といい、要衝の地に代官所が設置され、それを勘場と呼びました。

普賢寺・普賢堂(山口県光市室積8丁目)- 日本すきま漫遊記
防州室積普賢禅寺
このような海勝通りに海の守護仏の普賢菩薩の縁起が生まれます。普賢縁起には、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ、室積で漁人が海中から網で引きLげた普賢菩薩に対面したという逸話が残されています。
 海難守護は寄神信仰に基づくものが多いようですが「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた普賢菩薩を祀った普賢禅寺もその1つです。粟島の安田屋の持ち船も防州に寄港した時に、その護摩札を得たのでしょう。海の神様は、金毘羅大権現以外にも各地に祀られていたことが分かります。
粟島の神社の祈祷札を見ておきましょう。

粟島馬越神社のお札

馬城八幡は中新田の砂州沿いの道から少し奥まったところにあります。馬城という地名は粟島が古代に牧場であった名残です。700年、諸国に牧地を定めた際、「託磨牧」とあり、栗島が指定されたようです。「詫間(託馬)」も同じ関連と研究者は考えています。865年の続日本紀(865年条)には「停廃讃岐国三野郡託磨牧」とあるので、この時期まで詫間には官営の牧場があり、粟島はその一部だったことが分かります。また「西讃海陸予答」に次のように記します。

「担馬(詫間)木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

そして寛保3年(1742)に大坂の船宿から寄進された常夜燈が建っています。また、享保16(1731)年の銘のある島居からは島中が氏子であったことが分かります。さらに安田家の約20㎝の「八幡宮御祓船中安全海上無難順風□□」とある神札の内部には祓串が一本入っています。これが馬木八幡のものか、どうかは分かりませんが、海難除けの大麻であったことは確かだと研究者は判断します。
 この他にも栗島には次のように多くの神仕があります。一之宮神社、瀧之宮神社、稲荷大明神三社、妙見宮、栗島神社、弾上神社、荒神、蛭子神社、勝佐備神社、その他にも四社あります。これは、「西讃府志」より多い数になります。それは明治の廃物希釈で神社へと転化した寺院があったためのようです。その他、廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神、粟島伊勢仲宮(通称:お伊勢さん)が有名です。
ここには文化期からの船絵馬が15面本納されています。奉納年代は文化3年(1806年)~慶応3年(1867年)のもので、天保年間(1830~1844年)のものが多いようです。奉納者は地元の伊勢屋庄八をはじめ、大坂や堺、さらには「奥州福山城下」・「奥州函館」と記載されたものもあり、北海道まで見られます。その中には堺の糸荷廻船の舟絵馬もあります。糸荷廻船はオランダから長崎に輸入された中国の生糸・絹織物を江戸に運送するため海路で堺へ運ぶ船です。その船が粟島に寄港していたことを示す史料になります。                         

 安田家は、屋号を安田屋として栗島で廻船業を営んでいました。
安永4年(1775)に亡くなった久大夫が最初の船持ちだったと伝えられます。しかし、史料的に、その活動が辿れるのは享和2年(1802)から天保 12年(1841)になってからのようです。この約40年間に、「金毘羅新造(同名船三艘 初代~三代久太郎、兵助)、稲荷丸(重吉)」の名が確認できるようになります。最初の金毘羅新造は、享和3年(1803)のことで、長崎で店船首の程赤城に依頼して、洋中安全祈願の船名入り神号額を揮毫してもらって、八幡神社に奉納しています。三艘目の金毘羅新造は三代目久太郎が27歳で死去した後、泉州堺の鍋屋船万歳丸で沖船頭をしていた兵助(沖船頭名兵右衛門)が家へ帰り、天保十年に購入したものです。五百石積で兵助が船頭のときは久太郎(四代目)、弟が船頭のときは久治郎とそれぞれ先代の船頭名を襲名しています。
 また、稲荷丸(重吉)は分家のもの、重吉が大坂山城屋惣右衛門の伸占丸(十五人乗)に沖船頭として息子の豊占とともに乗り込み、難風で帆柱が吹き折れ、酒田飛鳥へ漂着した記録も残っています(「鈴木家文書」)。安田屋は箱館(函館)を中心に、青森や長崎へも航行しています。函館の長崎屋(佐藤半兵衛)、大津屋(田中茂占)、青森湊の滝屋(伊東善五郎)の客船ともなっていました。
 表出しは先祖久太夫の一字を取つた「列」(カネキュウ印)、重吉は「列」か「コ」(カネジュウ印)を使用しいます。名前は久太夫以後、久太郎、久兵衛、久平次、久次良、久四良と「久」の字が通字だったようです。これらの情報を「隠岐島島前 津之郷 大山明元間屋船帳」にあてはめると久太夫は、安国家の関係者だと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。
以前に「近世初頭に流行神として登場したときの金比羅神は、海事関係者の信仰を集めていたわけではなく、海の神様とは言えなかった」というお話しをしました。しかし、18世紀後半になると、安田家のような廻船問屋は金毘羅神を深く信仰するようになったことが、残された木札から分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

1979(昭和54)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。指定を記念して金刀比羅宮から調査報告書三巻と「年表編」が刊行されました。この年表を手にしたときに驚いたのは、近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。

 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。

「金毘羅庶民信仰資料集」の「年表篇」を作るように言われてお引受けしたのは「第一巻」が出版された昭和57頃であった。それ以後,暇ごとに手近な資料から「年表」の材料になると思われる事柄をカードに書取って,それがかなりの分量になり,時間的にもこれ以上遅らせなくなったところで,年月順に並べて書き写したのがこの年表である。 
それでは松原秀明氏による年表の18世紀半ばまでの部分をアップしておきます。

1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か)、矢一手を額仕立として奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親、松尾寺(のちの金毘羅)仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久、松尾寺に制札を下す。
10.19仙石秀久、金毘羅へ当物成十石を寄進。仙石秀久、源信国作太刀一振を献納。
1586 天正14 2.13仙石秀久、金毘羅へ三十石寄進。
8.24仙石秀久、榎井村六条の内を以て、三十石寄進。
1587 天正15 1.24生駒親正、松尾村にて高二十石を献ず。
1588 天正16 7.18生駒一正、榎井村にて二十五石寄進。
1589 天正17 2.21生駒一正、小松村にて五石寄進。
1594 文禄3   8.10宥盛、松尾寺再興のため勧進帖を撰す。
1596 慶長1   3.5別当大僧都宥厳、観音堂に鰐口奉納。 7.上旬宥盛「破禅抄」書写。         
1597 慶長2   4.14宥盛「色葉経」書写。 5.下旬宥盛「南台門僧正空海記」書写。
1598 慶長3   8.1榎井村久右ヱ門より田地寄進。 
9.8大井八幡宮遷宮、導師善通寺誕生院尊翁、金光院宥厳・宥盛奉仕。
1600 慶長5   12.13生駒一正、院内にて三十一石寄進。
下川家初代帥坊、紀州下川村より移る。宥厳没、宥盛入院。
1601 慶長6   3.5生駒一正、諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめる。
28生駒一正、金毘羅へ四十二石五斗寄進。
4.11生駒一正、三十番神社を改築。摩利支天堂・毘沙門天堂創祀。
1603 慶長8   「金毘羅山神事頭人名簿」書き始められる。
1604 慶長9   1.宥盛、禁戒文を撰す。護摩堂創祀、本尊不動明王造像(雪津入道作)。
1605 慶長10 1.土佐出身の片岡民部、宥盛の弟子となり、多聞天の像をもらって多聞院を名乗る。
宥盛、先師宥厳菩提のため、自ら如意輪観音を彫む。
1606 慶長11   3.宥盛高野山浄菩提院を兼任。 
  10.宥盛、自らの木像を彫み台座に「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛」と彫込む。
1607 慶長12   4.2生駒一正、生駒将監名にて、那珂郡高篠村にて三十石寄進。
生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて十石寄進。 
5.先の松尾寺住職宥雅、宥盛を生駒家へ訴える
6.宥盛、宥雅の訴えに答えて目安を撰す。 
9.6生駒一正、寺高諸役免許のことなど安堵する。 
9.21生駒一正、浅井喜八郎名にて、買田村にて十石寄進。
10.20生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて五石寄進。
1609 慶長14   9.6生駒一正、先規により、城山称名寺山を献じ、寺領諸役免除を安堵。
1610 慶長15   8.7生駒一正、浅井右京名にて、金毘羅へ出入する米の道切手を遣わす。
1611 慶長16   薩摩国島津義弘より紺紙金泥金剛不空三摩耶経二軸を献納。
1613 慶長18   1.6宥盛没。宥睨入院、実家山下家が、この頃豊田郡河内村から金毘羅へ移住。
14生駒正俊、城山称名寺山を従来の如く献じ、寺領諸役を免除する。
16生駒家より作事用木を寄進する。また寺領並びに称名寺分高八十石の諸役を免除
1614 慶長19   8.生駒家家老香川与三兵ヱより五条村にて初穂米寄進。
多聞院宥哩、土佐へ退去。金剛坊創祀。
   ※慶長年間 観音堂改築。
1615 元和1   長修理頭、金光明最勝王経十巻を献ず。
1616 元和2  木村家、寒川郡鶴羽村から移住。荒川家、鵜足郡栗熊村から移住。
1617 元和3   2.21生駒正俊寄付の鐘できる。
1618 元和4   3.10生駒正俊、先規により院内廻り七十三石五斗、苗田村五十石、木徳村二十三石五斗ばかりにて、百四十七石寄進。
閏3.10生駒正俊、金地着色三十六歌仙扁額三十六面寄進。
1620 元和6   9.生駒正俊、鐘楼堂建立寄進。
10.6生駒正俊、会式につき、八日より十一日まで米出入の儀に異議なき旨を申達す。
1621 元和7  5.18宥睨、法印となる。
11.28生駒高俊、五条村にて百石寄進。都合神領二百四十七石となる。
また、寺高諸役免除のことなど保証する。
1622 元和8   8.15生駒家よりの寄進、三百三十石となる。
1623 元和9   金毘羅本社でき、古堂は行者堂に引直す。
東元和年間、宥盛の弟子寛快、普門院を再興。
1624 寛永1   観音堂改築、宥睨、装飾のため擬宝珠を作らせる。
金倉川に鞘橋が架かる(元和七年とも)。
1626 寛永3   宥睨、多聞院宥哩に帰山の書状を遣わす。
1627 寛永4   9.10生駒円智院より頭屋米十石寄進。
1628 寛永5   菅納家、備前金川村より移住。竹川家、三野郡財田中ノ村より移住。
1629 寛永6   6.宥睨の付弟宥儀、高野山にて「金剛界念誦次第」(遍智院本)書写。
1631 寛永8   多聞院片岡家、土佐国より再度移住。A宥睨の付弟宥儀没。
1633 寛永10   12.荒川家より一ノ鳥居建立寄進。
小国小兵ヱ移住。付添って、備前岡山生れの塩屋惣四郎も移住。
1634 寛永11   1.岩手宗也、独吟和漢連句を奉納。
1635 寛永12   6.宥典、高野山にて「智袋」を求む。
1637 寛永14   11.2宥睨、京都嵯峨大覚寺宮御令旨により上人位となる。
1638 寛永15   11.里村玄陳、自筆「詠歌体」一冊奉納。A大覚寺宮尊性法親王参詣。
1639 寛永16   生駒高俊、頭屋米四十石寄進。
1640 寛永17   生駒高俊、讃岐国大絵図一舗を奉納。生駒家改易。
受城使として尼崎城主青山大蔵小輔参詣。
1642 寛永19   1.10別当宥睨、里村玄陳等を招き連歌を興行。
5.松平頼重、高松に入城 天領池領(五条村・榎井村・苗田村)設置。
1643 寛永20   丸井小助(虎屋惣右ヱ門:虎丸旅館)、豊田郡丸井村より移る。
   高松藩船奉行渡辺大和、玄海灘にて霊験を蒙る。
   ※寛永年中、荒川九郎兵ヱ、初めて町年寄役申付けらる。中村家、京都より移住。
1644 正保1   大井八幡宮改築。                                  
1645 正保2   1.6宥睨参府、将軍家光に御目見。
5.幕府寺社奉行宛、社領三百三十石に御朱印頂きたき旨願い出る。 
11.3宥睨没、五十一歳。 12.宥典入院。
] 寺中役人等より先代同様疎意なき旨の連判状をとる。
高松城主松平頼重、三十番神社を改築。大行司堂改築。
1646 正保3   1.21宥典、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 2.宥典、将軍に謁す。 
11.25普門院・菅孫左ヱ門・木村猪右ヱ門等、三十番神社社人松太夫・権太夫の儀につき神文を差出す。
12.伊福院追放。宥典、再度参府。
1647 正保4 10.松平頼重より、寺社奉行安藤右京進・松平出雲守に金毘羅へ朱印状下されたき旨願出
 ※正保年間 尾崎家初代八兵ヱ召出される。
1648 慶安1   1.6宥典、将軍家光に謁す。 
2.24将軍家光、金毘羅権現社領、那珂郡五条村内百三十四石八斗余、榎井村内四十八石一斗余、苗田村内五十石、本徳村内二十三石五斗、社中七十三石五斗、都合三百三十石を先規に任せ寄付し、山林竹木諸役等免除の旨の朱印状を授く。
3.17初めて朱印状を頂戴す。 8.26松平頼重、参詣一宿。
松平頼重、三十六歌仙扁額奉納。従来の参詣道を変更して大略今日の如く改める。
1648 慶安2   1.松平頼重から用材の寄進を得て大門上棟。 
6.21三十番神社社人松太夫・権太夫のことで出入あり、この日、山下・菅納・木村などの諸家の取扱にて落着。
1650 慶安3  12.松平頼重、登山参龍して和歌を詠ず。
松平頼重、阿弥陀仏千体を寄進、これを阿弥陀堂に合祀し、以後この堂を千体仏堂という。
松平頼重神馬並びに飼葉料として毎年米三十石寄進。
1651 慶安4   8.松平頼重寄進の木馬舎上棟。仁王門を廃して中門とする。大門改築竣工。
新たに仁王像を作り、これを大門に安置。のち大門を仁王門と呼ぶ。
松平頼重、神馬舎に木馬を寄進、飼葉料は従来のままとする。
  ※慶安年間 京都仏師田中家二十五代弘教宗範、御内陣の獅子高麗彫刻。
1653 承応2   10.12京都智積院の学僧澄禅、四国順拝の途次参詣し、真光院に宿る。
12.17社領に宿かしのこと、博突停止のことなど触達す。
1654 承応3   10.里村玄陳等、石燈箭一対奉納、榎井長兵ヱ長好取持。
松平頼重より、二品良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の額奉納、「象頭山」を仁王門に掲げる。
1655 明暦1   1.松平頼重、明本一切経奉納。 10.丸亀福島橋西畔に金毘羅屋敷普請成就。
12.20高松の金毘羅屋敷の地所を買取る。
従来の雪津入道作護摩堂本尊を廃し、伝智誼大師作不動尊像にかえる。
1656 明暦2   5.10松平頼重、自筆の「讃州路象頭山縁起」を奉納。
  池領の者、丸亀領佐文村へ入込み、入割になったのを調停に入る。
1657 明暦3   3.町方へ吉利支丹宗門のこと、旅人宿のことを申渡し請書を取る。
1659 万治2   4.10御本社下遷宮。 6.13京都大徳寺の天祐紹呆参詣。 8.28御本社上遷宮。
9.13善通寺内十善坊・常林坊、境内に潜入のところを見咎められ詫状を書く。
観音堂を御本社脇より下向坂方面に移転改築。
金剛坊を御本社前脇より観音堂脇に奉遷し、間もなく観音堂後堂に移転。
小松庄内の寄進にて、鐘楼のもとに鳥居建立。御祈祷参箭所移築。
1660 万治3   10.10松平頼重、一切経蔵を建立寄進。
本地堂創祀。中門に京都仏師田中家二十五代弘教宗範彫刻の持国・多聞の二天を安置、以後中門を二天門と称す。
丸亀城主京極高和、江戸三田の藩邸に金毘羅権現勧請。大阪の金毘羅屋敷造営。
 ※万治年間 日比常真「象頭山十二景図」を描く。
この頃、塗師五兵ヱ(のち役人河野家)備前岡山より移る。
1661 寛文1   3.15松平頼重、千体仏堂を改築。
1662 寛文2   3.高松大本寺日誓、経蔵一覧の碑文を撰す。
1665 寛文5   4.吉利支丹宗門の儀に付、念書を取る。 
7.11将軍家綱、社領の朱印状を授く。 9.28松平頼重参詣、願文を奉る。
1666 寛文6   7.1社領内へ博突停止などの触を出す。宥典隠居。宥栄入院。
1667 寛文7   1.15宥栄、将軍家綱に謁す。 
2.宥栄、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 
9.28宥栄、神野大明神本尊鎮座法楽理趣三昧導師を勤める。
1668 寛文8   1.10松平頼重、石燈箭両基献納。
10.10僧一死、慶安元年四月房州平群天神山で拾得した不動尊を奉納。
多度郡生野村出生の大工棟梁平八(西屋、川添姓)、当所高藪町に移住。
1669 寛文9   1.10松平頼重、石燈龍両基献納。 11.15古田古畑たばこ作りのことで触達す。
1673 延宝元  11.10松平頼重、金毘羅大権現神供領、千体仏堂領並びに神馬領高五十石、
また金光院内王祠供料十石を寄進。
安房勝山城主酒井忠朝より古語二幅が献ぜらる。 
  2.19松平頼重隠居、嗣子頼常が継ぐ。
  5.3松平頼重、石燈販献納。12.松平頼重、多宝塔を建立寄進。
1674 延宝2  18.10池領の者たち、社領内で理不尽に池を掘る、高松藩より竹井西庵、郡代・大庄屋召連れ検使に来て調査の結果、社領に間違いないことを確認、松平頼重の命として、以後このようなことのなきよう申付らる。
1675  延宝3  11.吉野屋長治郎外八名、土佐光信筆「源氏物語図」額奉納。
閏4.瓦師久兵ヱ、備前岡山より移住。6.16社領と池領と地替え済み。
11.19右の件、公辺より裏書下さる。。25宥典没、五十九歳。
1676   延宝4  伊予国宇摩郡川之江より伊予屋市兵ヱ移住。
  多度郡中村出生の張物師大津屋権六郎移住。
1677   延宝5  9.10有馬玄蕃頭頼利室清涼院(松平頼重娘)、六歌仙扁額奉納。
護摩堂改築、旧護摩堂を移転改築して釈迦堂創祀。
1678  延宝6   5.14宥栄、先師宥典菩提のため阿弥陀堂廊下造築、奉行松寿院典醒。
のちの江戸湯島霊雲寺開山の浄厳参詣。
1679  延宝7  孔雀明王像を造る。また護摩堂の諸仏四大明王・十二天・八大童子像を造る。
丸亀藩主京極高豊、江戸三田の金毘羅祠を、虎の門の新邸へ遷座。
1680 延宝8  宥栄、将軍綱吉に謁す。
 ※延宝年間 狩野安信・時信筆「象頭山十二景図」なる。
1682 天和2   9.25俳人岡西惟中参詣、木村寸木邸に宿る。翌日、金光院に遊ぶ。
1683 天和3   宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ(三代)。
 ※天和年間 三井道安金毘羅小坂に住居。
1684 貞亨1   9.26宥栄、満濃池池宮大明神の本尊鎮座法楽導師を勤める、願主矢原政勝。
1685 貞享2   6.11将軍綱吉、社領の朱印状を授く、
俳人大淀三千風、金光院にて「不二の詞」を撰すo
         12.18古酒八分、新酒六分、豆腐十二文と値を決める。座頭への施物は軽く、日用賃一日一人七分と触達す。
この頃、谷川も町並みになる。
1686 貞享3   7.26大雨洪水、鞘橋流失。 10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4   9.9大風にて神林の松損木多し。材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
 ※貞享年間の頃 役人牧野家・高木家・東條家・医師安藤家、召し出さる。
1688 元禄1   3.28社領内、鉄砲所持の分書出す。金毘羅十日講銀にて頭屋米百石買上げる。
宥弁真念の「四国辺路道指南」刊す。
1689 元禄2   4.博突・遊女停止のこと申渡し、請書を取る。
9.11松寿院典醒を以て社領内鉄砲を高松矢倉へ納める。 9.社領内総鉄砲数七十挺。
11.高松より、境内にて殺生禁止、また山林竹本伐るべからざる旨の制札を二枚下さる。
小書院普請。寂本撰の「四国遍礼霊場記」刊。
1690 元禄3   「日本行脚文集」刊、大淀三千風撰。
1691 元禄4   7.11宥栄隠居、宥山入院。 11.宥山参府。 12.宥山、江戸にて霊雲寺浄厳と往来あり。
1692 元禄5   1.15宥山、将軍綱吉に謁す。
1693 元禄6   1.15宥栄没、六十四歳。
1694 元禄7   3.石槌山前神寺金毘羅堂に燈龍建立。 6.上旬御本社葦替。
7.9日向国細島の六兵ヱ・伜三之丞、佐田の沖にて霊験を蒙り難船を免れる。宥山その事を書誌す。
10.宿貨し・遊女・博突停止のことなど触達す。
予州宇摩郡天満村寺尾氏春、苗田村にて石燈龍奉納。
唐国雷音博「讃州象頭山十二境詩」撰す。
1695 元禄8   4.松平頼重没。 8.15六角越前守広治、願文を捧ぐ。
9.宥山の求により、高野山義剛、「覚禅抄」に朱点を付ける(元禄十一年まで)。
九月吉日、本地堂棟札、奉行坂上庄兵ヱ、大工吉田久右ヱ門。
町方升屋三平と三野郡上高野村百姓助九郎との田地に関わる訴訟、升屋三平非分となる。
1696 元禄9  2.5宥山、権律師になる。 3.予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥、銅燈龍献納。
坂上羨鳥撰「簾」刊。
1697 元禄10   1.10浄厳、「金毘羅神勘文」を撰す。熊谷立閑「讃州象頭山十二境詩」撰す。
家内並に家来を召連れた浪人小河弥三郎、江戸へ出向き、以後社領住居の浪人はなく、浪人帳も廃す。
         町方にて喧嘩をし、相手を突殺した鍛冶伝右ヱ門、高松へ頼み斬罪申付らる。
1698 元禄11   大井八幡宮神門再興。宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ。「あしろ笠評リ、僧露泉編。
1699 元禄12   1.14松平頼豊参詣し、剣一振・黄金十両など奉納。4.10宥山、権少僧都となる。
観音堂開帳。観音の御影新刻さる。この頃、雲外車竺外「象頭山十二景詩」を撰す。
1700 元禄13   「金毘羅会計」、木村寸木編。
1701 元禄14   3.高野山通玄の法華経講鐘あり、町方へ聴聞衆への応待心得を触達す。 
5.松平頼豊、神供領・千体仏堂領並に神馬領高五十石安堵。
1702 元禄15   6.10本社屋根葺替。 7.20宥山、権大僧都となる。
8.29高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包本鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
1703 元禄16   3.3子供芝居寺へ上る。座本権左ヱ門・太夫本嵐勘四郎、お目見。 
3.池領榎井村の遊女を残らず追払った旨、札之前町組頭より届出あり。
4.11下屋敷にて宗門改。
  ※元禄年中 余島屋茂右ヱ門(のち吉右ヱ門)当地へ移住。
元禄末年 岩佐清信に「象頭山祭礼図屏風」を描かせる。
1704 宝永1  真光院引直し造作。
6.8姫路城主本多忠国より鶴奉納、豊島松翁立合にて、神前にて放す。
10.5大芝居・竹田代り浄瑠璃芝居の桟敷のこと申付る。
1705 宝永2   春。松平頼重二男靭負、東海道赤坂駅にて怪猫の難を免る。
5.2宥山、京都仁和寺宮御令旨により法印となる。
5.坂上羨鳥、手水鉢献納。 11.8宥山、多聞院に赴く。
1706 宝永3 3.9新町にて、阿州白地の長右ヱ門、白狸を見せ物にする。
3.20宥山、菅納三郎兵ヱ方へ出向く。
12.山奉行はじめてでき、河野助左ヱ門に申付ける。
町人布屋源四郎、金倉寺領三十石のうち十七石七斗買取る。
長崎浦上の無凡山神宮寺に金毘羅権現勧請。
1707 宝永4   2.19広谷庵上棟。 3
.26酒奉行呼あげ、上酒一匁八分・中酒一匁五分・下酒一匁二分を、高松なみに上酒一匁六分・中酒一匁三分・下酒一匁に値下申付る。
4.10役人小川又兵ヱ方にて不動講あり。
1708 宝永5   7.宥山後嗣宥曼、江戸湯島霊雲寺において「真言事」書写。
8.宥山、仁和寺院家自性院兼帯。
9.10高松城主松平頼豊より太刀一振献納。
9.24宥山の実父山下道移寄進の広谷庵地蔵菩薩供養。
10.7寺にて芝居。西山の片岡家、召出される。
1709 宝永6   1.23将軍家宣、庖癒につき、高松より平癒祈祷の依頼あり。
3.26酒運上御免。 4.17宥山出府に付、高松にて五十挺立船拝借のこと整う。 5.10宥山、権僧正となる。 6.1宥山、拝天顔。。14宥山の後嗣宥曼没。
7.1宥山、将軍家宣に謁す。
8.豊後の俳人来拙、木村寸本を訪う。
9.1当役所内、当番の者袴着用申渡す。
10.1芝居の者お目見。別宗祖縁外「和象頭山十二景詩」を撰す。
1710 宝永7   6.1太鼓堂上棟、宥山、普門院にて見物。参詣人多し。
7.11巡見使、宮崎七郎右ヱ門外社領通過。
10.15菅納源左ヱ門・近藤九郎左ヱ門・片岡松蔵三人に日帳を記すよう申付る。
        11.18町方木村平十郎外寒気見舞に登山。
城州伏見鍛冶職忠右ヱ門を当処へ呼下しお目見。
  ※宝永年間 銅華表建立。宝永初年、金川屋小次郎、備中成羽より移住。
宝永末年、三野郡財田中ノ村より渡辺家召出され移住。
1711 正徳1   1.12丸亀妙法寺看坊参詣、札守を受ける。
3.土州山御用木元締大橋屋源助外、太鼓堂造立料として小判百十両寄進。 4.29木村新右ヱ門、上方より帰り挨拶に登山。
6.6木村平十郎外、御留主見廻に登山。 10.3多聞院へ不動尊を下さる。 11.16高松より為替米代金の請求あり、町方へその段申渡す。
25予州松山の浄熊と中す座頭、中之庄坂上半兵ヱより大野原村平田源次へ頼み、源次より山下弥右ヱ門へ頼み、宥山、中之間にて三味線を弾かせる。
1712 正徳2   3.1多度津藩主京極壱岐守高澄より石燈龍寄進。。
2智貞(宥山実母)死去に付、近国の座頭集り取り遣りあり。
4.3多聞院尚範死去、四代目慶範家督。
12金川屋小次郎に菓子の御用申付る。 6.5引田屋(荒川)安太夫に閉門申付 
7.10智貞様追善のため町方べ接待。23豆腐値段申付る。念仏踊、御成門の外にて躍る。
8.14大井宮造営に付、白銀五十枚寄進。17大井宮へ材木二本寄進。
9.28大井宮普請に付、行器五荷、酒二斗遣わす。10.1神輿出来る。
12.7小川又兵ヱ・矢部惣右ヱ門へ社領境目調べるよう申付る。
1713 正徳3   2.3高松城より能の案内あり。5宥山、高松へ出向く。
25池領と社領との境を決めようと那珂郡高篠村庄屋千葉弥三郎より申出あり。 
4.22堺目見分のため高松役人・池領代官所役人到着。 
5.2大坂泉屋(住友)吉右ヱ門より、小守を遣わした御礼物が届く。
13引田屋安太夫の件で、多聞院高松へ出向く。28宥山、将軍家継に謁す。
6.29池領御巡見役人登山。7.2那珂郡大庄屋より雨乞願出る。
10智貞様追善のため、坂下にて接待、広谷坊主に世話申付る。
9.17五三昧庵主死去、それに付、後役真言道心の隨な者をおくよう申付る。
広谷坊主・五三昧庵主とも普門院弟子の振合。
23伊予屋半左ヱ門、片原町の家屋敷売払う。 10.8神馬屋に盗人入る。
12、7日より十二日まで夥しい人出、前代未聞。
12.18五条村五郎左ヱ門登山、大井宮遷宮成し下されたく願出る。
1714 正徳4   1.11堺目見分に付、高松領庄屋たちと当山役人が出会う。
15菅納三郎兵ヱ婿米屋文三郎、御目見、宥山より下され物あり。
20鍛冶忠右ヱ門、大工同様扶持下さる。
2.23高松買津屋作左ヱ門、初めてお目見え差上げ物あり。
3.4内町引田屋安太夫家屋敷、同族大黒屋助次郎に売渡す。
3.18宥山実父山下盛貞没、七十八歳。
4.22松平頼豊より、盛貞死去の悔状まいる。
5.7境目のこと埓明き、塚を築く。 6.20庚申待無用に申付る。
28前屋敷にて宗門判。
7.10満濃村庄屋登山、那珂郡中より五穀成就の祈祷願入る。
8.10高松金毘羅屋敷普請、宥山お忍びにて見分に出向く。
8.26池領代官高谷太兵ヱ、榎井村へ到着、それより登山参詣。
9.10寒川郡長尾村の西善寺初めて参り、宥山に挨拶、以後お出入りを願う。
13予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥より唐金塔寄進。
25池領と社領の境目絵図でき、見分。
         11.1伊勢御師来田監物大夫直参に付、旅宿へ音物を遣わす。
22馬屋より出火、長屋奉行吉田庄右ヱ門に閉門申付る。
12.26草履取平二郎に庭木作りを命ずる。延宝三年度の「社領境目絵図」を改訂。
1715 正徳5   1.21京都政所様より絵馬奉納。 3.25金山寺町火事、類焼家数釜処二十六軒。
4.28木村寸木没、六十九歳。
6.21菅納市右ヱ門柳陰第七男宥英、江戸深川永代寺に入院。
塩飽牛島丸尾家の船頭たち、釣燈龍一対奉納。
7.23七ケ村念仏踊、当山にて例年三庭のところ、今年は五庭踊る。
8.21池領代官高谷太兵ヱ、榎井村到着。24予州代官平岡彦兵ヱ、参詣止宿。
坂上羨鳥、鋳塔献納。 9.20四条村・五条村より大井宮遷宮のこと願出る。 10.27大井遷宮の場所見分。 11.2宥山、大井宮遷宮に出向く。
高野山より職人町人御金蔵にて金請取のことにつき公儀触の廻状来り、差戻す。
1716 享保1   1.10多度津藩主京極高澄、大般若経六百巻を寄付、表題箱書は大通寺南谷。
12高野山より金銀通用のことで廻状あり、差戻す。
2.町の座頭豊都、官位につき白銀五枚遣わす。広谷の禅門、墓守御免。
3.池領巡見衆到着。 9.京極壱岐守より大般若寄進。太田備中守
今回は、このあたりまでとしておきます。
以上から松原秀明氏は次のように指摘します。
①創世記の金毘羅信仰において、大きな役割を果たしているのは金光院の修験者たちであること
②霊山象頭山にあった宗教勢力の権力闘争を勝ち抜いたのが金光院で、宥盛の力が大きい。
③「庶民信仰の金毘羅さん」と言われるが、その初期においては、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの保護寄進で、経済基盤や伽藍整備が行われた。
④特に生駒藩による330石の寺領寄進と、髙松藩の松平頼重による朱印地化や伽藍整備が行われたことが大きい。
⑤これが西国大名からの代参や寄進を呼び、それが庶民参拝につながっていくという過程が見える。
⑥つまり「最初に庶民信仰ありき:でなく、藩主の保護 → 各大名の代参の活発化 → 庶民信仰という道筋であること
次に「海の神様・金毘羅さん」についてです。
18世紀初頭までの年表には、海や船に関することはほとんど出てきませんとよく言われます。このことについて松原秀明氏は、次のように記します。
これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
   金毘羅大権現は海の神であるという信仰は、多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅大権現の年表 松原秀明


松原秀明は年表後記に次のように記します。

「資料集」三巻三冊は,奉納者の心がこもり,物としても立派な献納品を取扱うことで,自然と内容にも重みが伝わってきているが,この「年表篇」はそれに相応しいもとは言えそうにない。大事なことで見落したものも多く,資料の読み違いからくる誤も多いことと思われる。
しかし「年表篇」の仕事をさせて貰ったことで「勉強になって有難かった」という気持も強い。
 ここで,「やや明瞭になった」と思われる事を箇条書にしてみる。それが「資料集」とともに,このF年表篇」を読まれる方々の参考として少しでも役立てば幸いである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原秀明 金毘羅庶民信仰資料集 年表篇 
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丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 福島湛甫と新堀湛甫が並んで見える
 
19世紀になると金比羅船で上方からやって来る参拝客が激増して、受入港の丸亀は大賑わいとなります。そのため新たに、丸亀藩では福島湛甫や新堀湛甫を建設して、参拝客の受入対応が整備されていきます。その結果、船宿や旅籠や茶屋やお土産店などが数多く立ち並ぶようになり、観光産業が港周辺には形成されていきます。
 彼らの中には、参拝客獲得の客引きのために金毘羅案内図を無料で配布する者も現れます。これは、大坂の船宿が金毘羅船の航路図を配布していたのと同じやり方です。案内図を渡しながら次のような声かけを行ったと私は想像しています。
「金毘羅大権現だけでなく、弘法大師さんお生まれの善通寺もどうぞ、さらにはお四国めぐりの七ケ所めぐりもいかがですか」
「丸亀から帰りの船も出ますので、荷物はお預かりします、お土産は途中でお買いなると荷物になりますので、船に乗る前に当店で、是非どうぞ」
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
福島湛甫と新堀湛甫

 こうして多くの金毘羅参拝者たちは、「金毘羅大権現 + 七ケ寺巡礼」(金毘羅大権現→善通寺→甲山寺→曼荼羅寺→出釈迦寺→弥谷寺→海岸寺→道隆寺→金倉寺)を周遊巡礼して、丸亀に帰ってきました。そこで、帰路の船に乗船する前に荷物を預けたお土産店で、土産を買い込みます。
こうした動きを先取りしたのが、前回紹介した丸亀の横闘平八郎です。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
金毘羅土産所の図 当時の金毘羅土産がわかる
 彼は板木を買い取り、自分で案内図などの出版を手がけるようになります。彼の金毘羅詣でなどの案内記には、丸亀・金毘羅の名物紹介したページが載せられるようになります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。観光業から出版業への進出と云えそうです。
「金毘羅御土産所」で扱っていた当時の金毘羅名物を見てみましょう
①玉藻のつと
②五しゆ漬
③小不二みそ
④あけぼの
⑤無事郎
⑥しだやうじ
⑦にとせし
⑧ちん其扇
⑨国油煙墨       油を燃やして煤を採煙し、膠、水、香料などと混ぜ合わせて造られた墨。
⑩寿上松葉酒     松葉は「ここに天の神薬を頂き、この身は天の無限の力
⑪はら薬舎
⑫五用心
⑬直に任せて
⑭あかひむ
⑮わすれ貝
 上に挙げられているお土産が一体何であるのか残念ながら私にはよく分かりません。③がみそ、⑨が墨、⑩が滋養酒のようです。それ以外にも飴、湯婆・みそ・松茸・索麺・生姜が含まれているようですが見当も付きません。ご存じの方があったら教えて下さい。
案内図の板元と土産店を経営する丸亀の横開平八郎が出版したふたつの絵図を見てみましょう。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」 (町史ことひら5)より

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」には、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、それ以後に出されたものであることが分かります。これは、前回見たように、買い求めた版木に自分の名前と一部を入れ替えただけのものです。今まで丸亀から各地への里程が記されいた左下隅の枠内には、金毘羅案内の書物9部の広告が載せられています。広告の最後には、次のように記されています。
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横関平八郎)

  ここからは横開平八郎は、房号を碧松房といったことが分かります。また先ほどの「金毘羅土産所の図」と併せると「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。丸亀の金物屋平八郎(碧松房・横関平八郎)は、金物屋から土産店、そして出版版元へと多角経営に乗り出していたことが見えてきます。

丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5
E⑬ 象頭山喩伽山両社参詣道名所旧跡絵図

E⑬も横開平八郎の刊です。
今まで絵図に比べると上下が広い印象を受けます。そして見たことのない構図です。それもそのはずです。E⑪の下に、瀬戸内海と対岸の備中が付け加えられているのです。追加された下の部分で目立つのは、丸亀対岸の児島半島の喩迦山蓮台寺です。蓮台寺では、五流修験者たちが金比羅詣で客を喩伽山に引き込むためにいろいろな営業活動が行われるようになります。そのひとつが、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないという巧みな宣伝です。このため19世紀半ばになると参拝客も増えます。そのために出されたのが「両参り」用のこの案内書E⑬のようです。喩伽山とタイアップして、観光開発をすすめる平八郎の経営姿勢がうかがえます。
 丸亀街道 E⑭ 町史ことひら5
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」標題下の板元名の欄が空白です。また、左下欄も半分が真っ白です。それ以外は、横関平八郎が版木を買って発行したE⑪と全く同じもののようです。板木が摩滅して見にくくなっています。ここからは、横関平八郎の手元にあった版木が、嶺松庵に売り渡されて出されたものがこのE⑭になるようです。版木は、売買の対象でした。横関平八郎は、「金毘羅バブル」に乗って、は派手な仕事をしていたようで、経営は長続きせずに板木を手放したようです。
丸亀街道 E⑮ 町史ことひら5
E⑮「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」

 E⑮はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」にもどりました。板元は丸亀富屋町原田屋です。左下の枠の中に、丸亀より、こんひら・ぜんつうじ・いやたに・たかまつへの里程を示し、金毘羅の3度の会式、善通寺の御影供と誕生仝の期日を示したあとに、「別二御土産物品々御座候」とあります。ここからは、原田屋も金物屋平八郎と同じように、土産物経営と絵図出版をセットで行っていたことが分かります。
E⑮では、福島湛甫は見えますが、東側に新堀湛甫がまだ姿を見せていません。新掘湛甫竣工は天保4年(1833)年なので、それ以前のものになります。この図で面白いのは、左上の伊予街道の牛屋口の上に高い山と道が書かれていることです。私は最初は伊予の石鎚山かと思いました。よく見ると阿波の箸蔵寺なのです。箸蔵寺周辺は、阿波修験者の拠点で、寺院建立後に活発な布教活動を展開します。そして喩伽山と同じように、金毘羅山の参拝客を呼び込むための広報活動も展開されます。その動きを受けて、丸亀の原田屋は、ここに箸蔵寺を書き加えたことが考えられます。金物屋平八郎は備前喩伽山、原田屋は箸蔵寺の修験者たちの影響下にあったことがうかがえます。

以上を整理しておくと
①金毘羅船就航以後、金比羅参拝者は激増し、丸亀港は上方からの人々で溢れるようになった。
②それを出迎える丸亀では、金毘羅船の船頭が船宿を営み、旅籠やお土産店などが数多く現れ観光産業を形成するようになる。
③その中のお土産店の中には、金比羅詣案内パンフレットを自分の手で発行する者も現れる。
④そこには、兼業するお土産店やタイアップする旅籠などの広告が載せられ客引き用に用いられた。⑤案内図が示す参拝ルートは、丸亀から金毘羅を往復ピストンするものではなく、善通寺 + 四国霊場七ケ寺」の巡礼を奨める者であった。
⑥当時の金毘羅参拝客の多くが「金毘羅 → 善通寺 → 甲山寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 白方の海岸寺 → 道隆寺 → 金倉寺 → 丸亀」の周遊ルートを巡っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀うちわ(まるがめうちわ)の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったことが縁になりました。隣同士と云うことで、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習います。それを江戸屋敷の家中の副業として奨励したのが丸亀団扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が重すぎて、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。

金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からで、次のようなものに見えるようになります。
宝物館の絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬
②万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬
③安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中
④明治11年(1878)再建の本宮の「丸金紋」
⑤神輿の紋も、江戸末期は巴紋だったのが、明治以後に丸金紋に変更。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は丸亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。

金刀比羅宮 丸金紋の起源
金刀比羅宮の丸金紋の起源
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。
天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされました。そのため社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉(しゅろのは)団扇の紋が使われていたようです。ところが金昆羅参詣みやげの「丸金紋」の方が全国的に有名になります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅の紋として使うようになります。
棕櫚(すろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
棕櫚葉団扇

 一方、天狗信仰では、天狗の紋と棕櫚葉団扇が広く普及しています。そこで天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇もそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われたことを押さえておきます。
棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
丸金紋・巴紋・棕櫚葉団扇
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴 - Wikipedia
巴(ともえ)紋

巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは
弓を引く時に使う鞆(とも)
昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。

金毘羅の丸金紋
金刀比羅宮の3つの紋の由来
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮
東京虎の門の金刀比羅宮の納経帳
しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」



 金毘羅の遊女の変遷を前回は次のようにたどりました。

金毘羅遊女の変遷

①町の一角に参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
今回は④高級芸者の活躍する弘化~慶応期を見て行きます。
テキストは林 恵 近世金毘羅の遊女」です。元禄以来、取り締まってきた酌取女に対して緩和策がだされます。慶応四年(明治元、1868)には、町方の茶汲女(酌取女)の徘徊について、次のような通達が出されています。
近村の神仏詣や遊楽は日帰り、
船場までの客見送り一夜泊り
大雨のときは一日限りの日延べが許す。
ここからは遊女が参拝客を多度津や丸亀の港まで見送って、そこで何泊も逗留している実態があったことがうかがえます。その背景には、参詣客からのさまざまな要望や、遊客獲得のためにそうせざるをえなかった事情があったのでしょう。こうして、当局側の妥協策が積み重ねられます。
御開帳に芸子150人のパレード
 万延元年(1860)に行われた金毘羅大権現御開帳の「御開帳記録」には、遊女屋花屋房蔵が次のような記録を残しています。 
内町はねりものなく、大キなる鳥居と玉垣を拵へ、山桜の拵ものをそこくへ結付、其内へ町内の芸子舞子不残、三味線飯太飯笛小きうなどを携へ囃子立て、町中を歩行 町内の若い衆は、こんじやう二桜の花盛りの揃え着もの着る、
是もぽっちは札之前二同じ、此時芸子百五十人斗り居候
茶屋の並ぶ内町衆は、町内の芸子が残らず参加し、三味線や太鼓・笛などで囃し立てパレードしたとあります。ここには酌取女・飯盛女ではなく、新しく「芸子」「舞子」の登場がします。その数芸子百五十人という多くの人数が記されているのです。

この「芸子」を、酌取女とどう区別すれば良いのでしょうか?

「芸者」は、広く酒席や宴席で遊芸を売る女性とされています。事実、幕末江戸には芸で身を立て自分で稼いで生きる自立自存の「町芸者」(芸子)が多くいました。金毘羅の「芸子」の中にも、昨日紹介した廓番付などから、江戸のように高い芸を身につけた女性と酌取女同格の者、両種の「芸子」が共存していたのではないでしょうか。
幕末の金毘羅は名妓が多く、それが文人の手によって描かれています。
 文久二年(1864)、西讃観音寺の入江、上杉、桃の舎ぬしの三人が、金比羅参詣ののち芳橘楼に宿り遊んだ「象の山ふ心」という作品があります。ここには歌舞音曲に秀でた小楽、小さへ、雛松、小かやなどの芸妓が登場します。また、榎井村の詩人で勤王の志としても知られる日柳燕石や高杉晋作などと共に酒席に侍り、尊王攘夷に一役かった勤王芸者と呼ばれる女性の存在も確認できます。

 明治二年(一八六九)十一月六日、もと幕府の騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を歴任し、のち朝野新聞社長となった成島柳北は「航薇日記」の中で、金毘羅の芸子を次のように記します。
「此地の女校書は東京の人に多く接したれば衣服も粗ならず。歌もやゝ東京に近き所あり」
 「遊廓」については「悪所」としての文化的な立場から論じる研究が進んできました。この説は「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」としています。
 悪所=遊所を文化創造の発信源説です。

金比羅門前町も、このような芸者が多数いて座敷遊びの土壌があったことが、金比羅舟船などの唄が生み出された背景なのでしょう。
   金比羅舟船は元々は金刀比羅宮の参詣客相手に座敷で歌われた騒ぎ唄の一種でした。
騒ぎ唄とは江戸時代に、遊里で三味線や太鼓ではやしたてて、うたったにぎやかな歌のことです。転じて、広く宴席でうたう歌になります。琴平のお座敷芸子衆の金毘羅船舟の小気味よいテンポ、情景豊かに詠まれた歌詞、 お座敷遊びとしての面白さが、この唄の魅力です。金比羅参拝を終えて、精進落としで茶屋で芸子と遊んだ富豪達が地元に帰り、大坂や京都のお座敷で演じて見せて、それが全国に繋がったのではないでしょうか?

琴平の稲荷神社 
遊郭といえば、稲荷神社。性病(梅毒)の予防に稲荷が効果があると信じられていました。

参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
       

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金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?

金毘羅遊女の変遷
金毘羅遊女の変遷

近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。
金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう
 遊女に関する記録が初めて見えるのは元禄年間です。
元禄二年(1689)四月七日の法度請書に、次のような遊女の禁止令が出されています。

遊女之宿堅停止 若相背かは可為重罪事」

「遊女を宿に置くことは堅く禁止する。もし背くようなことがあれば重罪に処す。」とあります。禁止令が出されると言うことは、金毘羅に遊女がいたと言うことです。元禄期になって、遊女取締りが見えはじめるのは、金毘羅門前町が発展してきたことが背景にあります。そして、遊女が取締対象となり始めたことがうかがえます。

イメージ 3
金比羅奉納絵馬 大願成就

  享保期、多聞院日記の書写者であった山下盛好は、覚書に次のように記します。
「三月・六月・十月の会式には参詣客殊に多く、市中賑わいとして遊女が入込み、それが済むと追払ったが、丸亀街道に当たる苗田村には風呂屋といって置屋もあり、遊女は忍び忍び横町を駕でやって来た
苗田の置屋から遊女が駕篭で横町を抜け金毘羅領に入り込んできたようです。町方に出没する遊女に当局側も手を焼いていたようです。享保13年(1728)6月6日、金光院当局は町年寄を呼び上げ、再度遊女取締強化を命じています。しかし、同15年3月6日の条には次のように記します。
「御当地近在遊女 野郎常に徘徊仕り」
「其外町方茶屋共留女これ有り、参詣者を引留め候」
意訳変換しておくと
「金毘羅の近在に遊女 がいて客引きが徘徊している」
「その外にも町方の茶屋にも遊女がいて、参詣者を引留める」
これを見ると、遊女は近在だけでなく、門前町の茶屋にも入り込んでいたことが分かります。追放することはできなかったようです。
 
DSC01167

寛政元年10月9日の「日記」には、次のように記します。

「町方遊女杯厳申付、折々町廻り相廻候」

門前町の遊女達を取り締まるために、役人を巡視させ監視させます。しかし、同年11月25日の条には、次のように記します。
中村屋宇七、岡野屋新吉、幟屋たく、右三人之内江 遊女隠置相知レ戸申付候
と、宿屋の中に遊女を隠し置くところがでてきています。

享和2年(1802)春、金毘羅参詣を記した旅日記『筑紫紀行』の中で、旅人菱谷平七が金毘羅の町の様子について、次のように記します。
「此所には遊女、芸子なんと大坂より来りゐるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものもあそぶなり」
意訳変換しておくと
「金毘羅の遊女、芸子の中には大坂より、宿屋や茶屋がよびよせて、旅人も地元の者もあそんでいる」

上方から遊女や芸子をよびよせて提供する宿屋や茶屋も現れていたようです。19世紀になると金毘羅は、金毘羅信仰の高まりとともに一大遊興地の側面を見せはじめています。以上から、金光院当局は、何度も禁止令を出し遊女取締を打ち出しますが、効果はなかったようです。 

  「遊女」から「酌取女」「飯盛女」とへの呼称変更

92見立女三宮図 勝川春章

 見立女三宮図 勝川春章 金刀比羅宮奉納絵馬
こうして文政期になると、遊女を一切認めない方針で治安維持に努めてきた当局側も、もはや「金毘羅には遊女がいます」という黙認の形をとらざるをえない状況になってきます。まず、呼称の変更です。それまでの「遊女」という表現から、「酌取女」「飯盛女」といった呼称に変えます。「遊女」という露骨な表現を避け、「酌取女」「飯盛女」といった一見売春とはかけ離れた下働に従事する女性を想像させる呼称を使用します。

文政6年(1823)2月2日夜、遊女の殺害事件が起きます。

場所は内町糸屋金蔵方で、同町の金屋庄太郎召遣の酌取女ゑんが高松藩の一ノ宮村の百姓与四郎の弟鉄蔵(当時無宿)に殺されたのです。犯人は六日後に自首。遺体は、ゑんの故郷京都より実父と親類が貰い受け、2月20日には一件落着となりました。しかし、この事件は大きなスキャンダルとなり、金光院当局側に相当なダメージを与えたようです。というのもこの後、金光院側から町方へ酌取女のことで厳しい達が出されていることから分かります。


それが「文政七申三月酌取女雇人茶屋同宿一同へ申渡 並請書且同年十月追願請書通」として残っています。そこには、今までの触達にない次のような条項が盛り込まれています。 
「此度願出之内(中略)酌取女雇入候 茶屋井酌取女差置候宿 此度連印之人名。相限り申度段願之通御聞届有之候」「酌取女雇入候宿屋。向後茶屋と呼、酌取女不入雇宿屋 旅篭屋と名付候様申渡候」
意訳変換しておくと
「この度の願出の中で(中略)酌取女の雇い入れについて、茶屋や酌取女を置く宿は、連名で申し込めば、お聞き届けになることになった」
「酌取女を雇入れる宿屋は、今後は茶屋と呼び、酌取女を置かない宿屋は旅篭屋と名付けるよう申しつける」
ここからは酌取女を置く宿を「茶屋」として、当局側か遊女宿の存在を認めたことが分かります。そして、その管理役を任命しているのが次の史料です。

久太郎義最早致成人候二付旅人引受。同人壱天。被仰付候間、右様相心得可申候、尤此度茶屋惣代之者両三人申付候間、別。・茶屋之者とも三人宛月行司相定、月二順番相勤、右惣代井久太郎へ万事加談之上不埓無之様取計可申候」、

「右旅人引請世話方之者たりとも諸入目銀不及用捨取立可申候、尤引請久太郎町廻り茶屋惣代等。種々雑費等。可有之候間、夫々割合を以雑費手当銀相渡可申候事辻

意訳変換しておくと
久太郎については成人に達したので旅人引受人を命じる。そして、旅人引受人を筆頭に、茶屋惣代・月行司の三役で、月番で勤め、惣代の久太郎へ万事について僧団の上で不埓なことがないように取り計らうこと」、

「旅人引請世話方の者といえども、諸入目銀などを捨取ることは認めない。しかし、久太郎の町廻りや、茶屋惣代の様々な経費についてはこれを認める。それぞれ割合をきめて雑費手当銀を渡すことにする。

ここからは、公的に認めた遊女や茶屋の管理のために新たに旅人引受人として久太郎という人物が登場してきます。この旅人引受人を頭に茶屋惣と代月行司という三役でもって茶屋中の管理がなされるようになります。そして、彼らは「雑費手当銀」という手当を金光院側からもらっていたということも分かります。
こうして公的に酌取女を置く「茶屋」が急速に増えます。

金毘羅の町別の茶屋と遊女数
金毘羅の町別の茶屋数

文政7年(1824)に、金比羅には茶屋は95軒ありました。
①金山寺町に、37軒(約40%)
②内町は約に 33軒(約35%) 、
金山寺町火災図 天保9年3
金山寺町の略図 ●が茶屋 37軒ある
金山寺町と内町両町だけで全体の 約75%の茶屋がありました。仮に一軒に3人の酌取女がいたとすれば、両町だけで200人を超える酌取女が働いていたということになります。文政年間には、他の職業から遊女宿に転業するものも増え、金山寺町と内町は遊女宿が軒を並べて繁盛するようになります。。
  文政7年の「申渡」は、それまでの「遊女禁止策」に代わって、制限を加えながらも当局側か遊女宿の存在を認めたもので、金毘羅の遊女史におけるターニングポイントとなりました。

 
天保年間の全国遊郭番付には、金毘羅門前が入っています。

金毘羅遊女 諸国遊郭番付

天保年間の全国遊郭番付 左欄下から2段目に「サヌキ 金ひら」
「諸国遊所見立角力並に直段附」によると讃岐金毘羅では、上妓・下妓の二種類のランク付けがあったようで、上妓は25五匁、下妓は4匁の値段が記されています。これを米に換算すると、だいたい上は4斗7合弱、下は6升7合弱に当たるようです。相当なランク差があったことが分かります。
それでは「上妓」とは、どんな存在だったのでしょうか?
 天保3年(1832)9月、当時金毘羅の名奴ともてはやされた小占という遊女がいました。彼女が、高松藩儒久家暢斎の宴席へ招かれるという「事件」が起きます。これは大きな話題となりました。この頃すでに、売春を必ずしも商売とせず、芸でもって身をたてる芸妓がいたようです。先の廓番付にみられる値段の格差など考えれば、遊女の中でも参詣客の層にあわせた細分化されたランク付けがあったのでしょう。そして、ここにはひとつの文化的な空間が生まれます。


金毘羅大権現 愛宕山

内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
金山寺町の芝居小屋
天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。この定小屋は、当時市立ての際に行われていた富くじの開札場も兼ね備えていました。茶屋・富くじ・芝居といった三大遊所の確立は、ますます金毘羅の賑わいに拍車をかけました。
 天保4年(1833)2月、高松藩の取締役人は酌取女に対し、芝居小屋での舞の稽古を許可しています。さらに、次のように記します。
「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」

ここからは、酌取女の行動や服装に対しても寛大な態度を示しています。

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花下遊女図 江戸新吉原講中よりの金比羅さんへの寄進絵馬

遊女をめぐる事件
 いくらかの自由を与えられた酌取女の行動は、前にも増して周囲の若者へ刺激となります。
1842年の天領三ヶ所を中心とした騒動は、倉敷代官所まであやうく巻き込みそうになるほどの大きな問題に発展します。事の起こりは、周辺天領からの次のような動きでした。
「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので、倉敷代官所へ訴え出る」
慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に行きます。結局、長谷川の機転のよさで、もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得ることになりました。その時の長谷川の金毘羅町方手代にむかって、こう云っています。

「繁栄すると自分たち御料も自然と賑わうのだから、なんとか訴える連中をなだめましょう」

当時の近隣村々の上層部の本音がかいまみえます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換する形で一応騒動は決着をみています。長谷川喜平次は、後に満濃池の大改修の際に底樋の石造化を行った人物です。

93桜花下遊女図 落合芳幾
         桜花下遊女図 落合芳幾 (金刀比羅宮奉納絵馬)
 行動の自由を少しずつ許された金毘羅の遊女が引き起こす問題は、周囲に様々な波紋を広げました。しかし、それに対する当局側の姿勢は、「門前町繁栄のための保護」という形に近っかたようです。上層部の保護のもと、天保期、金毘羅の遊女は門前町とともに繁栄のピークを迎えます。
この続きは次回へ
参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
 
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家船漁民の金比羅信仰       家船と一本釣り漁民の参拝

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金毘羅山の秋の大祭は毎年10月10日に開かれるので「おとうかさん」と、呼ばれて親しまれてきました。今から200年ほど前に表された『金毘羅山名所図絵』には春と秋(大祭)への漁民の参拝が次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 
意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

塩飽は金毘羅沖合いの塩飽諸島をさし、近世には西廻り航路、東廻り航路などで船主や船乗りとして活躍し、金比羅信仰を広める原動力となりました。しかし、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民は家船の人びとが定住する江戸時代末までいませんでした。ここで作者が「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは当時、塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船の人びとをさします。
 彼らが「船をすみかとし」て漁を行い、丸亀城下で行商を行っていたのです。

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江戸時代の瀬戸内漁民にとって、商品価値の高い魚はタイ

扨毎年三月、金山の桜鯛を初漁すれは、船ことにこれを金毘羅山へ初穂とて献す。其日は漁師も大勢打つとひて御山にのぼり、神前に參りて後、いつこにもあれ卸神領の内の上を掘りつつみて帰る。これを御贅の鯛といふ。
意訳すると
毎年3月になりあ、初物の桜鯛があがると船毎に金毘羅さんへの初穂として献上した。その日は漁師達が大勢揃ってお山に参拝し、神前にお参りした後に、神域の山で掘った土を包んで持ち帰った。これを御贅の鯛と呼んだ
備後の沼名前神社の祇園祭りが、鞆沖での鯛網漁の終了直後にあたっていたのも偶然ではありません。塩飽諸島周辺にも桜が咲くころ、タイが紀伊水道を通って産卵に集まりました。第二次世界大戦前までタイの一本釣り漁師は、ウオジマイキといって瀬戸内各地から塩飽諸島周辺に集まってきました。彼らが金毘羅さんに奉納したの桜鯛は「御贅の鯛」と呼ばれました。
 芸予からやってきた漁民は船住まいしながらタイを釣り、海上で仲買船にタイを売ります。そして次第に、近くの民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。

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10月10日の大祭は、男女の出会いの場

又十月十日には、此多くの漁船の男女ことぐく陸にのほり、金毘羅大権現へ参詣をし、さて夜に入ってかえるとて、つねに相おもふ男女たかひに相ひきて、丸亀の城下福嶋と云る所の小路軒の下なとに新枕し、夫婦と成て後おのれおのれか船につれてかえる。
意訳すると
 10月10日の大祭の日には、多くの漁船の男女が金毘羅大権現にお参りした。夜になって帰る時には、それぞれ惹かれあった男女が一緒になって、丸亀城下の福島町の旅籠で一夜を過ごし、夫婦となって、自分たちの船に帰っていく。

金毘羅大権現の秋の大祭は「漁船の男女がことごとく陸に上がり」金毘羅山へおまいりしたとあります。金毘羅さんは、彼らの「婚活パーティー」の場でもあったようです。夜になって帰るときには、それぞれパートナーを見つけて丸亀城下の福島の小宿屋で「新枕し、夫婦」となり、翌朝にはそれぞれの船に帰りました。そして鯛の漁期が終わると、故郷に連れて帰り新婦として紹介したのです。

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 金毘羅山は基盤をもたない家船に乗る若い男女の出会いの場でもありました。
瀬戸内地域では農民と漁民の婚姻は難しく、家船漁民は社会的基盤が弱かったのです。その中で金毘羅さんの大祭は家船漁民の社会生活を支え、交流をはかる機会だったのです。金比羅信仰にはこんな側面もあったようです。
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