瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:四国遍路の寺 > 四国遍路形成史

四国遍路形成史の問題として「大辺路、中辺路・小辺路」があります。熊野参拝道と同じように四国辺路にも、大・中・小の辺路ルートがあったことが指摘され、これが四国遍路につながって行くのではないかと研究者は考えているようです。今回は、この3つの辺路ルートについての研究史を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」です。

江戸時代の四国遍路を読む | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon

 大辺路・中辺路・小辺路の存在を最初に指摘したのは、近藤喜博です。
伊予の浄土寺の本堂厨子には、
室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線撮影)
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国中辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることが分かります。このような「四国中辺路」と書かれた落書きが、讃岐の国分寺や土佐一之宮からも見つかっています。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。

四国遍路(近藤喜博 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
古きはしらず、上に示した室町時代の四国遍路資料に、四国中遍路なるものが見えてていたことである。即ち
四国辺路(大永年間) 讃岐・国分寺楽書
四国辺路(永世年間)  同上
四国遍路(慶安年間)  伊予円明寺納札
とあるのがそれである。時期の多少の不同はあるにしても、この中遍路とは、霊場八十八ケ所のほぼ半分の札所を巡拝することを指すのであるのか。それとも四国の中央部を横断するミチの存在を指したものなのか、熊野路には、大辺路に対して中辺路が存在していたことに考慮してくると、海辺迂回の道に対して中辺路といった、ある短距離コースの存在が思われぬでもない。四国海辺を廻る大廻りの道は困難を伴う関係から、比較的近い道として中辺路が通じたのではなかったろうか。

ここでは土佐から伊予松山に貫ける道を示し、このルートが中辺路としてふさわしいとします。近藤氏は熊野に大辺路、中辺路があるように、四国にも、次のふたつの大・中辺路があったとします。
①足摺岬を大きく廻るコースを大辺路
②土佐の中央部から伊予・松山に至るコースを中辺路
①が足摺大回りルートで、②はショートカット・コースになるとしておきます。

Amazon.co.jp: 四国遍路: 歴史とこころ : 宮崎 忍勝: 本
宮崎忍勝『四国遍路』(朱鷺書房1985年)

宮崎忍勝氏は『四国遍路』(25P)で、49番札所の伊予・浄土寺の本堂厨子の墨書落書に書かれた「中辺路」について、次のように記します。

この「四国中邊路」とあるのは、ほかの落書にも「四国中」とあるので、四国の「中邊路(なかへじ)」ということではなく、四国中にある全体の邊路(へじ)を意味する。四国遍路の起源はこのように、四国の山岳、海辺に点在する辺地すなわち霊験所にとどまって、文字通り言語に絶す厳しい修行をしながら、また次の辺路(修行地)に移ってゆく、この辺路修行の辺路がいつのまにか「へんろ」と読まれるようになり、近世に入ると「遍路」と文字まで変わってしまったのである。

ここでは「四国中 邊路」と解釈し、邊路(へじ)とは、ルートでなく四国の修行地や霊地の場所のこととします。熊野路の「大辺路」、「中辺路」のような道ではなく、四国全体の辺路(修行地)が中辺路だというのです。
土佐民俗 第36号(1981) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
土佐民俗36号(土佐民俗学会)

高木啓夫は『土佐民俗』46号 1987年)に「南無弘法大師縁起―弘法人師とその呪術・その1」を発表し、その中で大遍路・中遍路・小遍路について、次のように解釈します。
①南無弘法大師縁起に、高野山参詣を33回することが四国遍路一度に相当するとの記載があること
②ここから小遍路とは高野山三十三度のこと
③「逆打ち七度が大遍路」
つまり遍路の回数によって大遍路・小遍路を分類したのです。しかし、中遍路については何も触れられていません。その後「土佐民俗」49号 1987年)の「大遍路・中遍路・小遍路考」で、次のように記されています。

「遍路一度仕タル輩ハ、タトエ十悪五ジャクの罪アルトモ、高野ノ山工三十三度参リタルニ当タルモノナリ」
の記述によって、高野山へ三十三度参詣した者を、四国遍路一度に相当するとして「小遍路」と称する。次に順打ちの道順での四国遍路二十一回するまでを「中遍路」と称する。次に、この中遍路三十一回を成就した上で、逆打ち七度の四国遍路をなした者、或はなそうとして巡礼している者を「大遍路」と称する。

ここでの解釈を要約しておくと、次のようになります。
①小遍路とは高野山へ33度の参詣
②中遍路は順打ち21度の四国遍路
③大遍路は中遍路21度と逆打ち7度
つまり高野山の参詣と逆打ちを関連づけて、遍路する場所と回数に重点をおいた説で、単に四国の札所だけを巡るものでなく、高野山も含めて考えるべきだとしました。

遊行と巡礼 (角川選書 192) | 五来 重 |本 | 通販 | Amazon

 五来重氏は『遊行と巡礼』(角川書店、1989年、119P)で、室戸岬の周辺を例に挙げて次のように記します。

辺路修行というのは、海岸にこのような巌があれば、これに抱きつくようにして旋遍行道したもので、これが小行道である。これに対して(室戸岬の)東寺と西寺の間を廻ることは中行道になろう。そしてこのような海岸の巌や、海の見える山上の巌を行道しながら、四国全体を廻ることが大行道で、これが四国辺路修行の四国遍路であったと、私は考えている。

つまり辺路修行の規模(距離)の長短が基準で、小辺路はひとつの行場、中辺路がいくつかの行場をめぐるもの、そして四国全体を廻る大行道の辺地修行が四国遍路とします。

四国遍路とはなにか」頼富本宏 [角川選書] - KADOKAWA

頼富本宏『四国遍路とはなにか」(角川学芸出版、1990)は、「四国中辺路」について次のように記します

遍路者を規定する言葉として、多くは「四国中辺路」や「四州中辺路」などという表現が用いられる。この場合の「中辺路」とは熊野参詣にみられる「大辺路」「中辺路」「小辺路」とは異なり、むしろ「四国の中(の道場)を辺路する」という意味であろう。なわち複数霊場を順に打つシステムとして、先に完成した四国観音順礼が四国の遍路の複数化に貢献したと考えられる。なおこの場合の「辺路」は「辺地」を修行する当初の辺路修行とは相違して「順礼」と同義とみなしてよい。

ここでは四国中辺路とは「四国中の霊場を辺路する」の意味で、四国全体を巡る「四国中、辺路」ということになります。
 

   
     四国遍路と世界の巡礼 最新研究にふれる八十八話 上 / 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター/編 : 9784860373207 : 京都  大垣書店オンライン - 通販 - Yahoo!ショッピング                     

21世紀になって四国霊場のユネスコ登録を見据えて、霊場の調査研究が急速に進められ、各県から報告書が何冊も出され、研究成果が飛躍的に向上しました。その成果を背景に、あらたな説が出されるようになります。その代表的な報告書が「四国八十八ケ所霊場成立試論―大辺路・中辺路・小辺路の考察を中心として」 愛媛大学 四国辺路と世界の巡礼」研究会編」です。その論旨を見ていくことにします。
①霊場に残された墨書落書について、従来から論争のあった「四国、中辺路」か「四国中、辺路」について、「四国、中辺路」と結論づけます。
②中辺路は八十八ケ寺巡り、大辺路は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものとします。
③小辺路についてはよく分からないが、阿波一国参り、十ケ所参り、五ケ所参りなどの地域限定版の遍路があったことの可能性を指摘します。
ここでは小辺路とは、小地域を巡る規模の小さな辺路という考えが示されます。そして16世紀前半期の墨書落書きの「中辺路」の関係について、次のように指摘します。
①室町時代の落書きに見る「中辺路」は八十八ケ所成立前夜のこと
②大師信仰を背景に、霊場を巡る「辺路」が誕生したこと
③それはアマチュアの在家信者も行える「辺路(中辺路)」であったこと
④それに対してプロ修行者の「辺地修行」は「大辺路」であったこと
これは「室町時代後期=八十八ケ所成立説」になります。
 四国遍路の八十八 の札所の成立時期については、従来は次の3つがありました。
①室町時代前期説
②近世初期説
③正徳年間(1711-1716)以降説、
①については高知県土佐郡本川村越裏門地蔵堂の鰐口の裏側には「大旦那村所八十八ヶ所文明三(1471年)天右志願者時三月一日」とあります。

鰐口の図解
裏門地蔵堂の鰐口
ここから室町時代の 1471 年(文明 3)以前に、八十八カ所が成立していたとされてきました。しかし、この鰐口については、近年の詳細な調査によって「八十八カ所」と読めないことが明らかにされています。①説は成立しないようです。
③は、1689 年(元禄 2)刊行の『四国遍礼霊場記』には 94 の霊場が載せられていることです。その一方で、正徳年間以降の各種霊場案内記には、霊場の数は88 になっています。そのため札所の数が88 になるのは正徳年間以降であろうとする説です。しかし、この説も近年の研究によって『四国遍礼霊場記』には名所や霊験地も載せられ、それらを除外すると霊場数は88 となることが明らかにされていて、③説も成り立ち難いと研究者は考えているようです。そうなると、最も有力な説は②の「近世初期説」になります。
 そのような中で先ほど見た「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史は「室町時代後期=八十八ケ所成立説」をとります。この点は、一度置いておいて研究史をもう少し見ておくことにします。

寺内浩は「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』第五号、四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和2年、17P)で、 次のような批判を行っています。
「中辺路」は八十八ケ所巡り、「大辺路」は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものであって、むしろ奥深い山へ踏み込むことが多かった」として、「小辺路」はのちに各地で何ケ所参りと呼ばれるようになる地域的な巡礼としている。このうち、大辺路・中辺路については基本的に支持できるが、小辺路については賛成できない。同じ辺路なのに大辺路・中辺路は四国を巡り歩くが、小辺路だけ特定の地域しか巡らないとするのは疑問である。
 (中略)大辺路と中辺路の違いが、訪れる聖地・霊験地の数にあるならば、小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべきであろう。
ここでは「小辺路が特定の地域しか巡らないとするのは疑問」「小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべき」と指摘します。
 その上で小島博巳氏は、六十六部の本納経所の阿波・太竜寺、土佐・竹林寺、伊予・大宝寺、讃岐・善通寺を結ぶ行程のようなものが小辺路ではないかとの説を提示します。

これらの先行研究史の検討の上に、武田和昭は次のような見解を述べます。
①「大辺路・中辺路・小辺路」がみられるのは、1688(元禄元)年刊行の『御伝記』が初出であること。そして『御伝記』は『根本縁起』(慶長頃制作)を元にして制作されたもの。
②『根本縁起』には「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあり、大・中・小辺路は見られない。「大辺路・中辺路・小辺路」の文言は『御伝記』の作者やその周辺の人達の造語と考えられる。
③胡光氏の「中辺路は八十八ケ所、大辺路はそれを上回る規模の大きなもの、小辺路は小地域の辺路」の解釈は、澄禅、真念、『御伝記』などの史料から裏付けれる
④小辺路については1730(享保十五)年写本の『弘法大師御停記』に「大遍路七度、中遍路二十一度、小辺路と申して七ケ所の納る」とあり、小辺路について「七ケ所辺路」と記していることからも、胡氏の説が裏付けられる。
⑤しかし、室町後期の墨書は「四国辺路」と「四国中辺路」に分けられ、大辺路、小辺路はみられない。
⑥「四国中辺路」は、『根本縁起』に「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあるので、辺路よりも中辺路の方が距離や規模が大きい
⑦『御伝記』の「大辺路・中辺路・小辺路」の「中辺路」と室町後期の墨書「中辺路」とは成立過程が異質。
以上から八十八ケ所の成立を室町時代後期に遡らせることは、現段階での辺路資料からは難しいと武田和昭は考えているようです。
以上、「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史を通じて、四国遍路の成立時期を探ってみました。その結果、現在では四国遍路の成立については2つの説があることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
関連記事


 前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。

岩屋寺
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。
『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。 
  岩屋寺 四国遍礼名所図会右
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年右上
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)

 さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
 本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
 一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。

岩屋寺 仙人堂と不動堂
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂

中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、
大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。
仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作
大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
 虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。
 仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左
         岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左下
        岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
 2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年左上

左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
岩屋寺 白山権現行場入口
 看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)

本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
岩屋寺 3
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる

 ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
岩屋寺 二の王子跡推定地
 二の王子社と大那智社跡推定地
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
関連記事

四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
関連記事

  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

2023年最新】ヤフオク! -梁塵秘抄(本、雑誌)の中古品・新品・古本一覧

後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
HPTIMAGE

観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

DSC04521
金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
DSC04524
楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
支度寺(しどじ) | 今を大事に! - 楽天ブログ
志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
関連記事

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
YP2○『三教指帰』一冊 上中下巻 空海 森江佐七○宗教/仏教/仏書/真言宗/弘法大師/江戸/明治/和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索  オークフリー

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

DSC02575
出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
弘法大師と衛門三郎(徳島県杖杉庵)

弘法大師伝説の中で、有名なものが遍路の元祖とされる衛門三郎伝説です。
これは四国八十八筒所霊場51番石手寺の「石手寺刻板」(予州安養寺霊宝山来)に、天長8年(831)のこととして記載されています。真念の『四国遍礼功徳記』に、次のように記されています。(意訳)

予州浮穴郡の右衛門三郎は貪欲無道で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に旅立つ。21回の遍路で、ついに阿波国の焼山寺(四国霊場第12番)の麓で、臨終に大師と出あい、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせた。その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、神社を多く立て、その石を納めて石手寺と寺名を改めた。

「四国辺路日記」の「石手寺」項には、次のように記されています。

「扱、右ノ八坂寺繁昌ノ御、河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル.毎日本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ怪貪放逸ノ者也」

意訳変換しておくと
「八坂寺の繁昌に対しては、太守河野殿からも保護援助があり、衛門三郎という云者を掃除のために八坂寺に付置き、毎日本社の長床の塵を払わせた。この男は天下無双の悪人で怪貪放逸の者であった」

ここには、衛門三郎のことを大守河野殿の下人で「本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ」=「石手寺の熊野十二社権現の掃除番」=「長床衆(修験者)」と記します。また、石手寺に伝わる衛門三郎伝説は熊野信仰隆盛の中で作られたもので、衛門三郎伝説に八坂寺、焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられる寺院があらわれるのは当然のことです。もともとは衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰の由来でした。それが江戸時代に「大師一尊化」が進むと、四国遍路の由来を説明する説話に作りかえられたと研究者は考えています。
衛門三郎伝説は、現在の八坂寺の縁起には詳しくふれられていません。
しかし、八坂寺には2種類の「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が残されています。これはかつては八坂寺が、弘法人師と衛門三郎の伝説を重要視して積極的に流布していた証拠とも云えます。今回は、八坂寺の2種類の刷り物「弘法大師と衛門三郎」を見ていくことにします。テキストは、今村 賢司   「弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺 衛門三郎A
「弘法大師と衛門三郎」の刷り物A
 八坂寺版「弘法大師と衛門三郎」の刷り物Aを見ておきましょう。
この大きさは縦82,5㎝ 横33㎝ 軸鼻含37㎝で、
右側に「大師修行御影 八坂寺」と記された修行姿の弘法大師像が立姿で左側に衛門三郎像が座って描かれています。朱印が押されているのが、右上側に札所番号印「四十七番」と宝印(菊桐重ね紋)、下部に寺印・山号印「熊野山妙見院」です。銘文は次のように記します。
【銘文l
四国拝祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
大師二十一遍目 御たいめん(対面)
なされ候時姿
弘仁六乙未より
安永五申迄
千八十六星至ル
何が描かれているかを、研究者は次のように説明します。
①右側の弘法大師は「修行大師像」は立像で、大師の視線の先には「衛門三郎」がいて、寄り添うような構図である。
②大師は法衣姿で墨の等身、垂領、有襴、袈裟を巻いてかける。頭巾(立帽子)を被り、右手に杖、
左手に念珠、脚絆を巻き、草韓をはく.穏やかな表情
③衛門三郎像は磐座に腰かけ、巡礼姿で正面を向く。長髪、額に彼、眉毛や目がさがり、虚ろなまなざし、頬がこけ、髭を生やし、口をへの字に曲げる。胸前には首から紐を掛けた「札はさみ」とと、左手で負俵を抱えているて、右手に杖(自然木)、足に脚絆を巻き、草軽(足半)をはく。
④衛門三郎は札挟み、負俵、杖、足半などの巡礼用具を身に着けているが、菅笠は描かれていない。
⑤彩色されていなので、白装束かどうかは分からない。巡礼者が衣服の上に着る袖無しの笈摺も描かれていない。
この刷り物の舞台は、いつ頃のものなのでしょうか
銘文に、次のようにあります。
「四国舞祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
「大師廿一遍日御たいめん(対面)なされ候時姿
ここからは、伊予国松山の八塚衛門三郎が四国巡拝21遍目に弘法人師に対面した時の姿が描かれていることが分かります。そのためか、弘法大師と再会を果たした衛門三郎は疲弊して後悔に満ちた表情で、懺悔の念を全身で表しています。
 衛門三郎が弘法大師と対面した場所は、徳島の焼山寺の麓にある番外霊場の杉杖庵(徳島県名西郡神山町)とされます。阿波でも「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が発行され、そこには同じように衛門三郎と大師が再会する場面が描かれています。同じ刷り物が八坂寺でも摺られていたことを押さえておきます。
銘文にある「弘仁六乙未る安永五申迄千八十六星至ル」について、見ておきましょう。。
 安永元年(1772)に鋳造された八坂寺の梵鐘銘には「四州四十七番札所予州松府城南 高祖弘法大師霊刹」とあります。しかし、それ以前の八坂寺史料には弘法大師は出てきません。出てくるのは熊野信仰なのです。ここから八坂寺が自らを四国霊場の札所として称するようになったのは近世半ばになってからと研究者は指摘します。
 八坂寺の木札や梵鐘銘などからは、この頃に八坂寺の伽藍整備や寺史整理が行われていたことが分かります。熊野信仰の影響を受けた修験寺院であった八坂寺は、この時期に四国八十八箇所霊場の札所へと、立ち位置を移していったようです。そのような中で、弘法大師と衛門三郎ゆかりの霊場であることを強く主張するようになります。この刷り物Aは、そうした背景のもとで製作されたものと研究者は考えています。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
この点について手がかりを与えてくれるのが、今回の調査で発見された下の版木です。
八坂寺版木 弘法大師
弘法大師修行御影の版木
 先ほど見た「弘法大師と衛門三郎」の刷り物の右側の弘法大師立姿と、瓜二つです。大きさも一致するようです。とすると、この版木から先ほどの刷り物Aは摺られていたことになります。つまり、刷り物Aは、一体型の版木ではなく、2つの版木を組み合わせて刷られたのです。ちなみに、左側の衛門三郎像の版木は見つかっていないようです。
表面は「大師修行御影 八坂寺」と刻まれ、
裏面は「文政七申年九月吉祥日 四国第四拾七番熊野山八坂寺什物判」と墨書
ここからは、文政7年(1824)に彫られた版木であることが分かります。以上から「刷り物A」は、八坂寺所蔵の「大師修行御影」版木で、文政7年(1824)以降に摺られたと云えそうです。
こうして八坂寺で摺られた「弘法大師と衛門三郎」の版画は、参拝土産と売られたり、修験者によって配布されたことが考えられます。どちらにしても、八坂寺にとっては、非常に重要な版木であったはずです。それが、幕末には姿を見せていたことを押さえておきます。

八坂寺 衛門三郎B
「弘法大師と衛門三郎」刷り物B

もう一枚の「弘法大師と衛門三郎」刷り物Bを見ておきましょう。
大きさは縦36㎝横26,3㎝です。構図は先ほど見た「刷り物A」とほぼ同じです。銘文及び絵像の内容を見ておきましょう。
伊豫国下浮穴郡恵原郷ノ産ニテ八ッ束右エ門三郎ハ当山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ為菩提請願ノ四國八十八ヶ所順逆舞礼遍路ヲ始ム姿ナリ 満願シテ同國旧領主河野伊豫ノ守ニ二度生レ替ル人餘此二略ス
弘仁六乙未年
意訳変換しておくと
伊豫国下浮穴郡恵原郷生まれの八ッ束衛門三郎は、当山八坂寺で、弘法大師の御教喩を受けて、善道に立直り改心して四國八十八ヶ所巡礼遍路を始めた。その姿を描いている。満願適い伊予の旧領主河野守に生まれ変わることがでした。その他のことは省略する。
弘仁六乙未年
構図を見ておきます
刷り物Aと構図や装束は、ほとんど同じです。異なるの次の2点です
①衛門三郎の表情が、衛門三郎像が発心して四国遍路を始めようとする姿なので、険しい決意の表情で描かれている
②首から掛ける札挟みは「札バセ」と書かれている。

刷り物Bは刷り物Aに比べると、衛門三郎伝説が次のようにより詳しく記されています。
①「八ツ束右工門三郎」は伊予国下浮穴郡恵原の出身である
②当山(八坂寺)で、弘法大師が衛門三郎に対して教え諭した。
③衛門三郎は善道に立ち直り発心した
④菩提請願のために四国八十八箇所を順打ち・逆打ちして拝礼した
⑤刷り物Aは、衛門三郎が遍路を始める姿である
⑥衛門三郎は願いが満たされ、伊予国領主河野伊予守に生まれ変わった

文末に「その他は略した」と記されています。省略された点を補足すると次の通りです。
①貪欲無道の衛門三郎の性格
②大師の托鉢を拒んだこと
③大師の鉢が割れた後に衛門三郎の人人の子が亡くなること
④弘法大師への悪事の報いであると悟ること
⑤四国遍路を21回行ったこと
⑥焼山寺の麓で大師と再会したこと
⑦臨終の衛門三郎は、大師か為石を手に握らされたこと
⑧安養寺から石手寺と改称したこと。
八坂寺に関係しない細部のストーリーが省略されています。八坂寺が舞台となる部分だけを切り取っているのです。八坂寺にとって、焼山寺の麓(杖杉庵)や石手寺の話は必要ないのです。中でも、研究者は注目するのは「当山山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ」とあることです。衛門三郎は、当山(八坂寺)で弘法大師の教えと導きによって四国遍路を始めたと主張されています。つまり八坂寺自身が「衛門三郎の発心の旧跡」であると云っているのです。この認識の上で八坂寺は、刷り物を発行していたのです。刷り物Bは、衛門三郎が発心して遍路を始める姿であることを押さえておきます。
 刷り物Bの制作時期についての手がかりは、銘文に「下浮穴郡」とあることです。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
 同じような資料として、研究者が挙げるのが調査で確認された版木の「大師堂再造勧進状」(明治期)です。その冒頭に次のように記されています。
「夫当山ハ四国八拾八箇所霊場順拝開祖八束右衛門三郎初発心奮跡ナリ」

大師堂再建にあたって、八坂寺が衛門三郎発心の旧跡であることが主張されています。また、納経印にも次のように刻されています。

「奉納経   弘法大師宝前 四国八十八(ヶ)所順舞遍路開基 八(ッ)津(ヶ)右ヱ門二(ママ)破心旧跡 事務所」

この勧進状にも、八坂寺は衛門三郎発心の旧跡と記されています。その一方で、熊野権現については何も触れていません。明治になって、八坂寺の縁起の中心が熊野権現から衛門三郎に変更されていくプロセスが見えてくるようです。
 以前に八坂寺の縁起はよく分からないことをお話ししました。
江戸時代初期には、八坂寺は、衛門三郎発心の旧跡とは書かれていません。ところが明治12年(1885)の「寺院明細帳」には「四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右工門三郎初発心ノ旧跡所也」と記さています。そして、明治・大正時代の案内記には、これが定番になっていきます。こうした背景には、明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験宗廃止令が出されて修験道が禁止されたことがあるようです。近代の八坂寺は、熊野信仰よりも四国八十八箇所霊場の札所寺院として立ちゆくことを戦略とします。そして、その中心に「衛門三郎発心の旧跡」という縁起を据えたのです。そうすることで、衛門三郎伝説の始まりの聖地として、より多くの遍路や参詣者を誘い、大師堂再建などの勧進などにも役立てようとしたのでしょう。江戸時代末の刷り物Aから明治のBへの変化は、そのような八坂寺の戦略変化を反映したものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①八坂寺はもともとは、熊野信仰の影響が強い修験寺院であった。
②八坂寺は、ふたつの「弘法大師と衛門三郎」の刷り物を発行している
③刷り物Aは、八坂寺に残る文政7年銘「大師修行御影」版本から刷られたもので、江戸時代後期の製作と考えられる。
④刷り物Aは、遍路の参拝土産や、修験者が配布することで広められた
⑤明治になると、八坂寺は神仏分離政策で熊野神社を奪われた。そのため寺の存在意義を四国霊場に移した経営戦略をとるようになった。
⑥その一環が、「衛門三郎発心の旧跡」という主張で
⑦これに合わせて、刷り物Bは戒心した衛門三郎が八坂寺から遍路に出立するものへと解釈変更が行われた。
⑧それが昭和以降は「衛門三郎から役行者」へと移り変わる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
今村 賢司(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
「 弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年
関連記事

納経帳の歴史について、以前に次のようにまとめました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこないこと。
②納経帳を早くから残しているのは六十六部であること。
③四国遍路は、六十六部の影響を受けて、18世紀の後半から納経帳を持ち始めたこと。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったことと、納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
六十六部 納経帳最御崎寺
明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が残した納経帳
土佐室戸の最御崎寺の本尊や正式名称・山号などが記される

 世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部が現れます。彼らは大量の納経帳を残していますが、そこからは次のような活動状況が分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
④四国霊場は、ほとんどすべてを廻っている
金泉寺・大麻比古神社の納経
                明和6年(1769)に六十六部廻国聖が残した納経帳
書かれている内容は次の通りです。
右が金泉寺
「奉納大乘妙典/本尊釈迦如来/阿州龜光山/金泉寺/行者丈」、日付は「九月八日」
左が大麻比古神社
「奉納/阿波一国一宮/大麻彦神別當/霊山寺/行者丈」、
日付は「丑ノ九月八日」
中央の宝印は「弌乘院」 左下は「竺和山」
六十六たちは、どんな経典を納めていたのでしょうか?
納経帳には、奉納した経名、本尊名、寺院名などが墨書や印判で記されています。納経帳に記された奉納経名を見てみると、18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。さらに1760年代以降になると、奉納経名も記載されなくなります。
長崎街道49~大乗妙典六十六部塔とお地蔵様と | 長崎ディープ ブログ

この変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経する寺社数が100以下だった時期ならともかく、巡礼する寺社数が700近くに増えると、それも難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなります。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯をたどるようです。
   六十六部の残した納経帳から白峯寺に関する部分を研究者が一覧表にしたのが下図です
白峯寺 六十六部の納経帳
白峯寺に関する六十六部納経帳の記述内容一覧
期間は、正徳元年(1711)から明治15年までの納経帳です。。
最初の正徳元年の納経帳には、洞林院が出てきます。洞林院は、近世始めに生駒家の支持を受けて、白峰寺一山の支配権を握った院房です。院主別名のもとで、勧進方式で伽藍の整備を進めて、白峰寺を復興します。「洞林院者本尊千手観音也」とあるので、洞林院の本尊は千手観音であったであったことが分かります。

白峯寺 十一面観音
白峯寺の十一面観音菩薩

次に宝暦3年(1753)の納経帳には、「崇徳院陵廟所 綾松山白峰寺役人」と記されています。
崇徳院陵とのつながりが強調されています。ちなみに、もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししました。白峰寺が、そのお株を横取りしているように見えます。
約30年後の天明2年(1782)には「千手院宝前」として「千手院」という寺名が登場します。
これは一山の本尊である千手観音をさすようです。以後は版木押しの「本堂千手院」という名称が数多く見られます。そして、江戸時代を通して、「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」を強調して、それをセールスポイントにしていたような印象を受けます。
明治を向かえると、版木で押された内容は次のように目まぐるしく変化していきます。
明治7年までは 「奉納経 本堂千手院宝前 崇徳天皇御廟所 讃州白峯寺 政所」
明治9年 「崇徳帝御陵所」
明治10年 「奉納経 四国第八十一番霊場 本尊千手観音大悲殿 讃州白峯寺執事」
明治15年 「奉納経 本尊千手大悲閣 讃岐国白峯寺」
このように頻繁に納経印の内容が変化します。これは以前にお話しした明治維新の神仏分離・廃仏毀釈に伴う、白峯寺の混乱を反映しているようです。
明治元年には、崇徳上皇の御霊が京都に新設された新御陵に移されます。その結果、「崇徳天皇御廟所 政所」とは名のれなくなり、「御陵所」にせざるえなくなります。
明治6年には、白峯寺住職が還俗して崇徳帝山陵陵掌となり、寺が無住となります。そのため急遽洲崎寺から橘渓道を招いて住職につきます。明治11年には、頓證寺が事比羅宮(金刀比羅官)によって摂社化されて、建物や所属の物品が事比羅宮に移管されてしまいます。この時に多くの宝物品が事比羅宮に移されたます。この時期の出来事については『神仏分離資料』に詳しく記されていて、以前にも紹介しました。
以上、六十六部が残した納経帳で白峰神社について書かれた部分を歴史順に見てきました。ここからは、江戸時代の白峯寺が 「崇徳天皇御廟所 政所」を寺のセールスポイントしていたことが分かります。それだけに、明治の神仏分離で「御廟所→御陵」となり、寺から完全に分離されたことは大きな打撃であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
関連記事

現在の四国遍路は、次のような三段階を経て形成されたと研究者は考えるようになっています。
①古代 
熊野行者や聖などの行者による山岳修行の行場開発  (空海の参加)
②中世 
行場に行者堂などの小規模な宗教施設が現れ、それをむすぶ「四国辺路」の形成
③近世 
真念などにより札所が定められ、遍路道が整備され、札所をめぐる「四国遍路」への転進

①の古代の「行場」について、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
阿国大滝嶽に踏り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
(中略)
或るときは金巌に登って雪に遇うて次凛たり。或るときは石峯(石鎚)に跨がって根を絶って轄軒たり。
ここからは阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山で弘法大師が修行したことが分かります。これらの場所には、現在は21番太龍寺、24番最御崎寺、60番横峰寺(石鎚山遥拝所)があり、弘法大師と直接関わる行場であったこと云えます。

DSC04629
土佐室戸崎での空海の修行

 四国霊場の札所の縁起は、ほとんどが空海によって開かれたと伝えます。しかし、空海以前に阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山などでは、すでに行者たちが山岳修行を行っていました。若き空海は、彼らに習ってその中に身を投じたに過ぎません。中世になってやってきた高野聖などが弘法大師伝説を「接ぎ木」していったようです。
   平安時代末期頃になると『今昔物語集』や『梁塵秘抄』には、「四国の辺地」修行を題材にした話が出てきます。
そこに描かれた海辺を巡る修行の道は、現在の四国辺路の原形になるようです。ここには、各行場が海沿いに結ばれてネットワーク化していく姿がイメージできます。それでは、山岳寺院のネットワーク化はどのように進められたのでしょうか。今回は、中世の山岳寺院が「四国辺路」としてつながっていく道筋を見ていくことにします。テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年 141P」です
和歌山・本宮/熊野古道】山伏と歩く熊野古道(大峰奥駈道)・貸切ツアー・小学生よりOK・初心者歓迎 | アクティビティジャパン
熊野街道と行者
鎌倉~室町時代中期には、全国的に熊野信仰が隆盛した時代です。
札所寺院の中には、熊野神社を鎮守とすることが多いようです。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
愛媛県の熊野神社 修験者が勧進したと伝える神社多い

そのため四国辺路の成立・展開には熊野行者が深く関わっていたという「四国辺路=熊野信仰起源説」が早くから出されていました。 しかし、熊野行者がどのように四国辺路に関わっていたのか、それを具体的に示す史料が見つかっていませんでした。つまり弘法大師信仰と熊野行者との関係について、両者をどう繋ぐ具体的史料がなかったということです。

増吽

 そのような中で、両者をつなぐ存在として注目されるようになったのが「増吽僧正」です。
増吽は「熊野信仰 + 真言僧 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経センター所長」など、いくつもの顔を持つ修験系真言僧者であったことは、以前にお話ししました。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽とつながる修験者の活動エリア

 増吽は讃岐大内郡の与田寺や水主神社を本拠とする熊野行者でもありました。例えば、熊野参詣に際しては讃岐から阿讃山脈を越え、吉野川を渡り、南下して牟岐や海部などの阿波南部の港から海路で紀州の田辺や白浜に着き、そこから熊野へ向かっています。四国内に本拠を置く熊野先達は、俗人の信者を引き連れ、熊野に向かいます。この参詣ルートが、後の四国辺路の道につながると研究者は考えています。また、これらのエリアの真言系僧侶(修験者)とは、大般若経の書写活動を通じてつながっていました。

弘法大師 善通寺御影
「善通寺式の弘法大師御影」 
我拝師山での捨身修行伝説に基づいて雲に乗った釈迦が背後に描かれている

 増吽の信仰は多様で、大師信仰も強かったようです。
彼は絵もうまく、彼の作とされる「善通寺式御影」形式の弘法大師の御影が各地に残されています。この御影を通じて弥勒信仰や入定信仰などを弘め、「弘法大師は生きて私たちと供にある」という信仰につながったと研究者は考えています。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)

 四国には、増吽のような信仰の姿を持つ真言宗寺院に属した熊野先達が数多くいたことが次第に分かってきました。彼等によって四国に入定信仰・弥勒信仰を基盤とする弘法大師仰が広げられたようです。そして、真言系熊野先達の寺院間は、大般若経の書写や勧進活動を通じてネットワーク化されていきます。この時期の山岳寺院は孤立していたわけでなく、寺院間の繋がりが形成されていたようです。こうした熊野信仰と弘法大師信仰とのつながりは、室町時代中期までには出来上がっていたようです。しかし、そこに四国辺路の痕跡はまだ見ることはできません。それが見えてくるのは16世紀の室町時代後期になってからです。

医王寺本堂内厨子 文化遺産オンライン
浄土寺本堂の本尊厨子
愛媛県の49番浄土寺本堂の本尊厨子に、次のような落書が残されています。
四国辺路美?
四国中辺路同行五人
えち     のうち
せんの  阿州名東住人
くに   大永七年七月六日
一せう
のちう  書写山泉□□□□□
人ひさ  大永七年七月 吉日
の小四郎
南無大師遍照金剛(守護)
意訳変換しておくと
四国辺路の中辺路ルートを、次の同行五人で巡礼中である
えち     のうち せんの  阿州名東住人 くに 
 大永七年(1527)七月六日

(巡礼メンバー)は「のちう  書写山(姫路の修験寺)の泉□□□□□ 人ひさ」である。
大永七年(1527)七月 吉日   の小四郎
南無大師遍照金剛(弘法大師)の守護が得られますように
ここからは、次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)前後には、浄土寺の本尊厨子が完成していたこと
②そこに「四国辺路」巡礼者の一団が「参拝記念」に、相次いで落書きを残したこと。
③巡礼者の一団のメンバーには、越前や阿波名東の住人、姫路書写山の僧侶などいたこと。彼らが「四国辺路」の中辺路ルートを巡礼していたこと
南無大師遍照金剛とあるので、弘法大師信仰を持っていたこと

閑古鳥旅行社 - 浄土寺本堂、浄土寺多宝塔
浄土寺本堂
さらに翌年には次のような落書きが書き込まれています。
金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四日
金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年五月九日
左恵 同行二人大永八年八月八日
意訳変換しておくと
高野山金剛峯寺の谷上惣職の善空 大永八年五月四日
高野山金剛□□満□□□□□□同行六人  大永八年五月九日
左恵  同行二人         大永八年八月八日
ここからは次のようなことが分かります。
①高野山の僧侶が四国辺路を行っていること
②また2番目の僧侶は「同行六人」とあるので、先達として参加している可能性があること。
 また讃岐国分寺の本尊にも同じ様な落書があって、そこには「南無大師遍照金剛」とともに「南無阿弥陀仏」とも書かれています。
以上からは、次のようなことが分かります。
①室町時代後期(16世紀前期)には「四国辺路」が行われていたこと
②四国辺路には、高野山の僧侶(高野聖)が先達として参加していたこと
②四国辺路を行っていた人たちは、弘法大師信仰と阿弥陀念仏信仰の持ち主だったこと
現在の私たちの感覚からすると「四国遍路」「阿弥陀信仰」は違和感を持つかも知れません。が、当時は高野山の聖集団自体が時宗化して阿弥陀信仰一色に染まっていた時代です。弥谷寺も阿弥陀信仰流布の拠点となっていたことは以前にお話ししました。四国の山岳寺院も、多くが阿弥陀信仰を受入ていたようです。

この頃に四国辺路を行っていた人たちとは、どんな人たちだったのでしょうか?ここで研究者が注目するのが、当時活発な宗教活動をしていた六十六部です。
経筒とは - コトバンク
経筒

16世紀頃に、六十六部が奉納した経筒を見ていくことにします。
この時期の経筒は、全国各地で見つかっています。まんのう町の金剛院(種)からも多くの経筒が発掘されているのは、以前にお話ししました。全国を廻国し、国分寺や一宮に逗留し、お経を書写し、それを経筒に入れて経塚に埋めます。それが終わると次の目的地へ去って行きます。書写するお経によっては、何ヶ月も近く逗留することもあったようです。

陶製経筒外容器(まんのう町金剛寺裏山の経塚出土)

それでは、六十六部は、どんなお経を書写したのでしょうか?
 六十六部の奉納したお経は、釈迦信仰に基づいて『法華経』を奉納すると考えられますが、どうもそうとは限らないようです。残された経筒の銘文には、意外にも弘法大師信仰に基づくものや、念仏信仰に基づものがみられるようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
廻国六十六部
島根県大田市大田南八幡宮出土の経筒には、次のように記されています。
四所明神土州之住侶
(バク)奉納理趣経六十六部本願同意
辺照大師
天文二(1533)年今月日  
ここからは、土佐の四所明神の僧侶が六十六部廻りに訪れた島根県太田市で、『法華経』ではなく、真言宗で重要視される『理趣経』を書写奉納しています。さらに「辺照(遍照)大師」とありますが、これは「南無大師遍照金剛」のことで、弘法大師になります。ここからは六十六部巡礼を行っている「土佐の四所明神の住僧」は、真言僧侶で弘法大師信仰を持っていたことが分かります。
島根県:コレクション しまねの宝もの(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 170号)
大田南八幡宮(島根県太田市)の銅製経筒

さらに別の経筒には、次のように記されています。
□□□□□幸禅定尼逆修為
十羅刹女 高野山住弘賢
奉納大乗一国六十六部
三十番神 天文十五年正月吉日
ここからは、天文15年(1546)に高野山に住している弘賢が廻国六十六部のために奉納したものです。高野山の僧とは記していないので聖かもしれません。当時の高野聖は、ほとんどが阿弥陀信仰と弘法大師信仰を併せ持っていました。
次に念仏信仰について書かれた経筒を見てみましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄土三部経六十六部
子□
祈諸会維天文十八年今月吉
越前の在家入道は天文18年(1549)に「無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経を奉納しています。これは浄土阿弥陀信仰の根本経です。このように六十六部は『法華経』だけでなく密教や浄土教の経典も奉納していることが分かります。

次に宮城県牡鹿郡牡鹿町長渡浜出土の経筒を、見ておきましょう。
十羅刹女 紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部沙門良源行人
三十番神 大永八年人月吉日 白
施主藤原氏貞義
大野宮房
この納経者は、高野山谷上で行人方に属した良源で、彼が六十六部となって日本廻国していたことが分かります。行人とあるので高野聖だったようです。高野山を本拠とする聖たちも六十六部として、廻国していたことが分かります。
2.コラム:経塚と経筒

経筒の奉納方法
 先に見た愛媛県の浄土寺本尊厨子の落書にも「高野山谷上の善空」とありました。彼も六十六部だった可能性があります。つまり高野山の行人が六十六部となり、四国を巡っていたか、あるいは四国辺路の先達となっていたことになります。ここに「四国辺路」と「六十六部」をつなぐ糸が見えてきます。

2公式山3
善通寺の裏山香色山山頂の経塚

今までのところをまとめておきます。
①16世紀前半の高野山は時衆化した高野聖が席巻し、高野山の多くの寺院が南無阿弥陀仏をとなえ念仏化していた。
②浄土寺や国分寺の落書からみて、高野山の行人や高野山を本拠とする六十六部、さらに高野聖が数多く四国に流人していた
③以上から弘法大師信仰と念仏信仰を持った高野聖や廻国の六十六部などによって、四国辺路の原形は形成された。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献      武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P


四国霊場弥谷寺における中世の念仏聖たちの活動を以前に見ましたが、その中で高野聖たちの果たした役割がよく分からないとの指摘を受けました。そこで、五来重「高野聖」の読書メモ的な要約を載せておきたいと思います。テキストは、五来重『増補 高野聖』と「愛媛県史 四国遍路の普及」です。
初回50%OFFクーポン】高野聖 電子書籍版 / 著者:五来重 :B00160677530:ebookjapan - 通販 - Yahoo!ショッピング

弘法大師信仰を地方に広げていくのに活躍したのが高野聖(こうやひじり)たちです。彼らの果たした役割を、明らかにしたのが五来重の「高野聖」です。この本の中で聖の起源を次のように記します。

「原始宗教者の『日知り』から名づけられたもの」で、『ひじり』は原始的な宗教者一般の名称であった

 聖の中は、呪力を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行を行います。これが聖の山林への隠遁性と苦修練行の苦行性につながります。
 原始宗教では、死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えられていたようです。これを生前に果たしておこうという考え、彼らは巡礼を行います。そのために、聖の特性として回遊(廻国)性が加わります。
 こうして隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるようになります。これは民衆からすれば、聖は呪術性のある特別な存在をおもわれるようになります。
その他に、聖には次のような特性があると指摘します。
①妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性
②集団をなして作善をする集団性
③寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性
④勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性
 こうして、聖たちは、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくるようになります。高野聖もこのなかのひとつの集団になるようです。
 聖は、古代から存在していたことを、谷口廣之氏は次のように述べています
「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。」

 「現在では四国霊場は空海弘法大師によって開かれた」というのが当たり前に云われています。しかし、歴史家たちはそうは考えていないようです。空海以前から聖(修験者・行者)たちは霊山で修行を行っていて、その集団の中に若き日の空海も身を投じたという見方をします。また、空海以後も四国の地を遊行した聖たちは、蔵王信仰・熊野信仰・観音信仰・阿弥陀信仰・時衆信仰などそれぞれの信仰に基づいた修行をしていたようで、弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけでありませんでした。
阿波の板碑
高野

聖たちの中で、高野聖が登場するのは、平安中期以降のことだとされます。

もともと高野山では、信仰心のある隠遁者が集まり、出家せずに聖として半僧半俗の生活をしていた者がいたようです。そのような中で、正暦5年(994年)に高野山は大火に見舞われます。その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が、聖を勧進集団に組織したのが高野聖の始まりとされるようです。
 その後は、次のような集団が、高野聖として活発な活動を展開します。
①教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)などの真言念仏集団による小田原聖・往生院谷聖
②中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)
③禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖
④時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団
 高野聖の主な活動は、勧進でした。
 古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園をもち、これが経済基盤となっていました。しかし、平安中期になって律令体制が崩壊すると、荘園からの収入が思うように得られなくなります。寺院経営には、伽藍や法会の維持、僧供料など多くの資金が必要です。それが得れなくなった多くの古代寺院は退転していきました。生き残っていくためには、新たな収入源を確保する必要に迫られます。その一つの方法が、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の確保です。こうして全国に散らばった聖は、布教とともに勧進にかかわりるようになります。
 例えば讃岐の霊場弥谷寺に先ず根付いたのが阿弥陀信仰であり、その後の伽藍配置には時衆念仏信仰の影響が見られることは、以前にお話ししました。これも高野聖の一流派である②の五室聖や④の千手谷聖の活動が背景にあったことがうかがえます。彼らは里の郷村への阿弥陀念仏信仰を流布しながら、先祖供養のために「イヤダニ詣り」を勧めたのです。それが現在の弥谷寺に、磨崖五輪塔や地蔵形墓標として残ります。同時に、信者を高野山の勧進活動へと導いていきます。高野山には、高野聖が全国から勧進して集まった資金が流れ込むことになります。
西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
関東・平泉に勧進のために下る西行 西行も高野聖であった
 高野聖は、「高野山が日本の先祖供養の中心地」であることを、説話説教によって信者に広げます。
そして高野山への納骨参詣を誘引します。各地を回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運ぶようになります。さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供するようになります。このように高野聖は、高野山での役割は、宗教よりも生活を担うことで、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等にを担当します。こうして、高野聖は、高野山の台所を支える階級となっていきます。別の見方をすると、高野山という仏教教団の上部構造は学問僧たちでした。しかし、それを支えた下部構造は、学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を果たした高野聖たちであったと云えそうです。
勧進とは - コトバンク
勧進集団

 高野山奥の院への杉木立の参道に建ち並ぶ戦国武将や大名達の墓は、ある意味では高野聖の活動の証と云えるのかも知れません。高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などは、高野聖の勧進によって支えられていたのです。
君は勧進上人を知っているか?|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
勧進や高野山詣りを担当する高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものでした。そのために彼らは、足まめに担当諸国を廻国し、人集めのために唱導や芸能も行いました。次第に庶民に迎合して、世俗化する傾向が生まれるのも自然の成り行きです。高野聖の世俗化した姿は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」と後ろ指を指されていたことが分かります。高野聖は、人々から俗悪な下僧と卑しられるようになっていったのです。
高野聖とは - コトバンク
高野聖
 やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密まではたらくようになり、本来の姿を大きく逸脱していくようになります。高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながり、中世末期には世間の指弾を受けるようになり、堕落した高野聖は消滅していきます。

やまだくんのせかい: 江戸門付
聖たちのその後

高野山内部での「真言原理主義運動」が高野聖を追い出した
真言密教として出発した高野山でしたが、中世には浄土往生と念仏信仰のメッカとなっていました。鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、念仏信仰の中心拠点となっていて、それを高野聖たちが担って全国に拡散したのです。ところが室町時代になると、「真言復帰の原理主義」運動が起き、その巻き返しが着々と進んでいきます。室町時代半ばの15世紀末ごろからは、自発的に高野聖の中には「真言帰人」を行う者も現れるようになります。そして江戸時代になると慶長11年(1606年)年に将軍の命として、全ての高野聖は時宗を改めて真言宗に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命じられます。これが高野聖の歴史に終止符をうつことになります。
画像をクリックすると、拡大する。 第一巻 52 【前へ : 目次 : 次へ】 願人 - 【願人坊主  がんにんぼうず】は、江戸時代に存在した大道芸人の一種。穢多・非人に連なる賎民であるが、形式上は寺社奉行の管轄下にあったので、町奉行は扱いにくかった  ...
願人

高野聖の弘法大師信仰流布に果たした役割を研究はどのように捉えているのかを見ておきましょう。
 五来重氏は、高野聖の役割について次のように述べています。

 高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。これらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者であった。実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法 大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という疑問を解くことはできない。
   
ここには高野聖が「宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者」で、その性格は「庶民の精神構造」に起因するとします。だから「弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて信仰」され、弘法大師一尊化への道が開かれると考えているようです。
日本遊行宗教論(真野俊和 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 また真野俊和氏は、次のように述べます。
さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではなばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっきりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。

ここでは研究者は、次の2点を指摘します。
①高野聖の活動を通して四国霊場の弘法大師一尊化という風潮が形成されたこと、
②中世高野聖によって大師信仰が普及し、それを通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及したこと
伝承の碑―遍路という宗教 (URL選書) | 谷口 広之 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

 谷口廣之氏は、次のように述べています。
現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。

ここでは、次のことが指摘されています。
①高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたこと
②弘法大師信仰と遍照一尊化一色へ四国霊場を染め上げていったのは、高野聖の活動なしには考えられないこと
 以上を整理すると、次のようになります。
①高野聖の宗教宗派にこだわらない布教活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたこと
③高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の弘法大師一尊化の風潮が強められていったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献
       五来重『増補 高野聖』
「愛媛県史 四国遍路の普及」

女体山
大窪寺から女体山への四国の道をたどると奥の院
「四国遍礼霊場記」(寂本 1689年)には、大窪寺の奥の院のことが次のように記されています。
(前略) 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。

D『四国遍礼名所図会』(1800)には、次のように記されています。
奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀後半には、本堂から18町(約2㎞)登った岩屋に奥の院があり、阿弥陀と観音が安置されていたこと
②弘法大師虚空蔵求聞持法修行地とされ、井戸があったこと。
③それから約110年後の18世紀末には、訪れる人もなく荒れ果てていたこと。

大窪寺 奥の院
大窪寺奥の院
 大窪寺境内から四国の道に導かれて約2 kmほど登ると奥の院に着きます。お堂とは思えないような建物が岩壁を背負って建っています。現在の奥の院の建物は、屋根はトタン葺き、内部は十畳ほどの畳敷の奥に岩窟があり、堂は岩窟に取り付くように建てられています。両側の壁はコンクリートブロックで岩窟と連結されています。

大窪寺奥の院 内側
大窪寺奥の院の内側
畳敷の奥の岩窟は、三段になっていて、上段に1体、中段に3体、下段に2体、全部で6体に石仏たちが安置されています。前面には祭壇が設けられ、かつては行が行われていたことがうかがえます。この6体の石仏について、研究者が調査報告しています。今回は、この報告を見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」です。

奥の院の堂内に安置された石仏たちを見ていきましょう。
大窪寺奥の院 石仏配置
大窪寺奥の院の石仏
(1)阿弥陀如来坐像 砂岩製  高さ38.5cm、幅29cm、奥行25.5cm
一番上に上に安置されているのが阿弥陀如来坐像のようです。研究者は次のように指摘します。

大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座と一石で製作されており、背面は蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。
脚部前面の一部が欠失しており、蓮華座の一部も欠損しているが、欠損部は石仏横に置かれている。印は定印を結び、肉醤が小さく、髪際中央部のラインが上方に切れ込んでいる。また、白眉、三道を表現している。
 (2)十―面観世音菩薩坐像 砂岩製  高さ37cm、幅29cm、奥行25.5cm

大窪寺奥の院 十一面観世音
中段左側の十一面観世音菩薩坐像
研究者の指摘は次の通りです。
阿弥陀如来と同じく、丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座も阿弥陀如来坐像と同じく、一石で製作されており、背面には蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。左手は、水瓶を持たず、直接蓮華を持っており、右手は掌を正面に向けた思惟印を結んでいる。蓮華の花部は三弁の簡易な形態を示してる。頭部は、上下三段に突起があり、上段に3つ、中段に2つ、下段に5つの合計10個認められ、正面の顔面を含めて十一面を表現している。体の特徴としては、首から肘にかけて傾斜して広がり、両肘部が胴部の最大幅となる。三道、条吊、腎釧、腕釧、右足を表現している。

(3)弘法大師坐像 砂岩製  高さ37.5cm、幅29.5cm、奥行き25.5cm
大窪寺奥の院 弘法大師
ふたつの弘法大師像

中段右側に安置されている小さい弘法大師坐像(3)です。阿弥陀如来と同じように、丸彫仏で背面の表現は見られませんが、背面には刺突状の工具痕が見えるようです。左手には数珠、右手には金剛杵を持っていて、弘法大師坐像のお決まりのポーズです。よく見ると、金剛杵を斜めに持っています。
(4)弘法大師坐像 砂岩製 高さ57.5cm、幅40cm、奥行き30.5cm
中段の真ん中に置かれた大きい弘法大師坐像(4)です。丸彫仏で、背面には法衣を表現しています。左手には数珠、右手には金剛杵を持つ、弘法大師坐像の一般型です。3の小さな弘法大師坐像とちがうのは、金剛杵を水平気味に持っていることだと研究者は指摘します。
(5)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ37cm、幅20.5cm、奥行10.5cm

大窪寺奥の院 地蔵菩薩
下段の左側に安置されている地蔵菩薩立像(5)で、舟形光背型を背負っています。
これについては研究者は次のように指摘します。
簡略化された蓮華座が特徴的で、地蔵菩薩を半肉彫で表現している。目と口は線刻で簡易的に表現されている。両手は突線で簡易的に表現されており、腹前で合掌している。衣文の装は斜め方向の線刻で表現されている。像の周囲には刺突状の工具痕が残るが、光背形の縁辺部は幅1.5cm~2 cmで工具痕は認められない。

「突線で表現された両手、簡易で特徴的な蓮華座、正面の像の周囲に残る刺突状の工具痕」という特徴から、研究者は16世紀末~17世紀前半の特徴が見えるといいます。線刻による小さな目、口の表現などは、高知県に多く、讃岐では見つかっていないタイプだと云います。
 この石仏が作られた16世紀末~17世紀前半は、讃岐では生駒氏によって戦国の争乱に終止符が打たれて、生駒氏の保護を受けた弥谷寺などでは復興が始まる時期になります。以前お話しした弥谷寺では、採掘された天霧石で、大きな五輪塔が造られ、生駒氏の墓標として髙松の菩提寺などに運び出されています。ここからは大窪寺が、生駒氏の保護を受けられずに、独自の信仰集団を背後に持っていたことをうかがえます。大窪寺には独特の舟形光背型石仏が持ち込まれていることになります。


(6)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ49cm、幅28cm、奥行き16cm
大窪寺奥の院 地蔵菩薩6


下段右側に安置されている地蔵菩薩立像(6)になります。形は左側と同じで舟形光背型ですが、直線的な立ち上がりで、角部の屈曲のが五角形です。半肉彫の地蔵菩薩を掘りだしたスペースは光背幅の1/3程度です。このタイプのものは19世紀ごろの特徴だと研究者は指摘します。下の蓮華座は、近世の丸彫石仏や近世五輪塔の蓮華座に共通する精級なものです。蓮華座下の突出部のスペースが広く、稜線によって3面に仕上げている点も特徴的なようです。

この地蔵菩薩には、次のような文字が掘られています。
右側「嘉永庚戊戊夏日 為先祖代々諸霊菩提」
左側「岩屋再営 施主 柿谷 澤女」
突出部正面に「幻主 慈心代」
ここからは、この石仏を寄進したのは、柿谷に住む澤女で、岩屋再営とあることから奥の院の堂宇の再建を行い、先祖供養のために嘉永3年(1850)に造立したことが分かります。「幻主」が何かしら気になる表現です。「奥の院の仮庵主である慈心代」という意味と研究者は考えているようです。慈心は、「大窪寺記録」には、第27代住持として記載がある人物ですが、位牌はなく、いつ亡くなったかなどは分かりません。位牌がない場合に考えられるのは、転院や退院した住持かもしれないということです。また、柿谷は地名のようですが、周辺にはない地名です。四国内で探すと、阿波国に柿谷という地名があるようですが、よく分かりません。
 どちらにしても、幕末に奥の院の堂宇が大窪寺の住職の手で行われ、その成就モニュメントしてこの地蔵菩薩が寄進されたようです。

大窪寺奥の院の石仏2
大窪寺奥の院の石仏

以上から奥の院堂内の石仏について、研究者は次のように考えているようです。
①阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は法量がほぼ同じであること
②阿弥陀如来坐像(1)と十一面観世音書薩坐像(2)の蓮華座が類似すること
③3基ともに背面を省略することなどのの共通点がみられること
以上から、この3体の石仏は、同時期に作られたものと考えます。そして製作時期については、近世のものであるとします。中世のものではないというのです。
 私は元禄2年(1689)『四国偏礼霊場記』に、「奥院あり岩窟なり、・…本尊阿弥陀・観音也」と記されているので、これが奥の院にある現在の阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)を指しているものと思っていました。そして中世に製作されたものと思っていたのですが、研究者は、「(現)石仏を指している可能性はあるが、時期の特定が難しいため、現時点で断定はできない。」と慎重な判断をします。
④ふたつある大小の弘法大師坐像(3)(4)は、法量・形態・特徴が異なるので製作時期がちがう。製作時期の先後関係も現時点では判然としないと、これも慎重です。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像(5)は、16世紀後半~17世紀前半の特徴があり、似たような様式の者が高知県には多くあるようですが、香川県内では見られない珍しいタイプになるようです。これは、大窪寺の信者や属した寺社ネットワークを考える際に興味深い材料となります。
以上の材料をどのように判断すればいいのでしょうか?

  奥の院には、現在は6つの石仏が安置されていることになります。
大窪寺奥の院 石仏配置

 その配置をもう一度確認しておきます。私が注目したいのは、一番上段に安置されているのが①阿弥陀如来だと云うことです。そして、その下に十一面観音と弘法大師像2体、一番下に地蔵菩薩という配置になります。これと同じような石仏のレイアウトが、以前紹介した弥谷寺の獅子の岩屋にあったことを思い出します。
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が彫りだされています。
P1150148
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏レイアウト

壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 その手前に、弘法大師・母玉依御前・父佐伯田公、その前に大型の弘法大師像があります。ここにも弘法大師像は大小2つありました。
P1150157
        弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏
側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。しかし、ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、研究者は大日如来ではなく地蔵菩薩と考えるようになっています。つまり、弥谷寺の獅子の岩屋の仏たちは「阿弥陀如来+弘法大師2体+弘法大師の父母、+地蔵菩薩」という構成メンバーになります。これは大窪寺奥の院の仏たちとメンバーも配置よく似ています。
 ここからは、大窪寺においても次のような宗教的な変遷があったことが推測できます。
①念仏聖や高野聖たちによる浄土=阿弥陀信仰
②志度寺・長尾寺など同じ観音信仰
③近世になっての弘法大師信仰
江戸時代になって、本山=末寺関係が強化されることによって、大窪寺も高野山の影響を強く受け、その管理下に入っていくようになります。同時に、四国霊場の札所としての地位が確立するにつれて、次第に①阿弥陀信仰は払拭されていきます。しかし、伽藍から遠く離れた奥の院では、阿弥陀仏が一番上に祀られ、礼拝されていたと私は考えています。幕末になって、大窪寺の住職が奥の院を修復し、地蔵菩薩を新たに安置する時にも、最上段の阿弥陀仏の位置を動かすことはなかったのでしょう。
冒頭でD『四国遍礼名所図会』(1800)には、「奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。」と記されていること紹介しました。しかし、大窪寺の住職が奥の院を改修し、新たに地蔵菩薩を寄進しているとすれば、奥の院は大窪寺のルーツとして忘れられていたわけではなかったことになります。

以上をまとめておくと
①大窪寺奥の院には、弘法大師が虚空蔵求聞持法の修行を行ったという伝説がある。
②奥の院には、現在6体の石仏が安置されている。
③この6体の中で、阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は、同時代のもので中世に遡ることはない。
④ふたつある大小の弘法大師坐像も先後をつけることは出来ないが近世のものである。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像2体のうちの(5)は、16世紀後半~17世紀前半のもので、土佐タイプに似ていて、讃岐では珍しいものである。
以上から奥の院には、時代順に 阿弥陀・地蔵信仰 → 観音信仰 → 弘法大師信仰のモニュメントとして、これらの石仏が安置されたと私は考えています。
88番 大窪寺 奥の院 胎蔵峯寺 全景 御影 御朱印 案内八丁とある) 案内 登り 案内 休憩所から下を見る 内部 脇の地蔵尊 脇の地蔵尊  四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ1 四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ2 タイトルに戻る 遍路の目次に戻る 四国八 ...
大窪寺奥の院胎蔵峰寺の本尊は、阿弥陀如来

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」

  大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷図
前回は、大窪寺の江戸時代の伽藍変遷を残された絵図から見てきました。その結果、本堂の位置は動いていないけれども、阿弥陀堂や大師堂などその他の建造物は江戸時代前半と、後半では移動していることが分かりました。今回は、現存する大窪寺の堂宇を見ていくことにします。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置図
テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」です。
大窪寺 本堂上空図
大窪寺の本堂と多宝塔(奥殿)

まずは 本堂・中堂・奥殿です
大窪寺の本堂は、正面に立って見ると分からないのですが上から見ると変わったレイアウトをしていることが分かります。本堂の後に奥殿(多宝塔形式)があり、中殿が二つの建物を繋いでいます。つまり三段構えになっている念入りな本堂です。この配置は前回に見た江戸時代の絵図には出てきませんので古いものではなく、明治33年(1900)の火災後に姿を見せた建物のようです。飛鳥様式が残るとされる本尊の薬師如来が座っているのは、奥の多宝塔です。

4大窪寺薬師正面
飛鳥様式の残る薬師如来坐像(大窪寺)

このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
   多宝塔の薬師如来坐像を礼拝するのは、中堂からになります。本堂と中堂が礼堂的な役目をし、後方の奥殿(多宝塔)が内陣的な役目を果たしていることになります。
大窪寺 本堂平面図
大窪寺本堂・中堂・奥殿(多宝塔)の平面図
本堂をもう少し詳しく見ておきましょう
本堂は、奥殿の礼堂としての機能を持ち、正面二間を土足で礼拝部、奥三間を法要時の着座作法の外陣として使用されていたようです。そのため内部には本尊がないようです。本堂と奥殿とを繋ぐ中殿は、本堂背面の中央間に合わせて桁行三間を接続、中央に法要具足を配置して、奥堂本尊を礼拝することになります。
本堂・中堂・奥殿は、明治33年(1900)に本堂が焼失した後に新築されたものです。
前回見たように江戸時代に書かれた『四国偏礼霊場記』(承応2年,1689)、『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年1854)には、本堂しか描かれてなかったのは見てきた通りです。ただ、次のように記されていました。
「四国遍路日記」(承応2年,1653)に
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。
『四国偏礼霊場記』に
多宝塔去寛文の初めまでありしかど倒れたり。
これらの記事から明治の再建新築の際に、多宝塔の再建が計画され、参拝や法要時の利便を考えて本堂と一体の拡張新築となったと研究者は考えているようです。
 本堂の構造について、研究者は次のように指摘します。
本堂は向拝から正面二間分の外礼堂までは、軸部・組物に伝統的な様式を採用しているが、後方三間では中堂も含めて、柱が直接桁を受けて組物を省略、奥堂平面では正面は三間とする。側面は四間、内部四天柱内須弥壇を置かず後方にずらし、周囲に畳敷きを採用、当初から軒下張り出し部を作り位牌壇を設けるなど、内部の構成は本堂としての機能が優先している。また上層組物は三手先組みにするなど、本来の様式から少し違うものに変更されている箇所が見られる。近代化を図るなかでの伝統建築の保全。活用の一形態を示しており、今後の一指針となり得るものである。

大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ   
大窪寺 旧太子堂(現納経所)

旧大師堂は、昭和になって境内西側に新たに現在の大師堂が建設されたので、納経所に改められたようです。
『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年,1854)に描かれている大師堂と同じ位置にあります。
明治33年の大火で、大窪寺は本堂以外にもほとんどの堂宇を失ったようです。旧太子堂も、その後に再建されたものです。
研究者は大師堂について次のように指摘します。
背面軒下に仏壇、来迎柱が半丸柱、内部頭貫の省略と、近世から近代への変化が見られる。納経所に改装された際には各部補修や改変があったようである。内部後方の間仕切りや、外部サッシヘの変更、床組みの改修等が行われているが、その他軸部。組物・天丼や背面仏壇廻りは明治再建のものであろう。


大窪寺阿弥陀堂

阿弥陀堂も本堂・旧大師堂と同じように明治33年(1900)に焼失し、再建されたもののようです。
『四国遍礼名所図会』では建物は描かれていますが、本文中では「護摩堂、本堂に並ぶ」とあって、阿弥陀堂が出てきません。のちの『讃岐国名勝図会』では、再び「アミダ堂」となっています。高野山での念仏聖の追放と阿弥陀信仰弾圧が地方にも影響をもたらしていたのでしょうか。何かしらの「勢力争い」の気配はしますが、よく分かりません。
大窪寺 阿弥陀堂
大窪寺阿弥陀堂(調査報告書より)
研究者は次のように指摘します。
建物は、向拝に組物を組み、母屋正面中央間内法に虹梁を入れて諸折桟唐戸で装飾性を高めてはいるが、母屋柱上は側桁を直接受け、内部天丼も悼縁天丼など、比較的簡素な建物である。柱の大面取や建具、向拝廻り垂木の扱いなど、大師堂より近世の様式が窺われる建物である。
大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ
大窪寺二天門

二天門は明治の大火から唯一免れた建物のようです。
大窪寺  讃岐国名勝図解
『讃岐国名勝図会』(1854年)
『四国遍礼名所図会』(1800年)に描かれている楼門と同じように見えます。『讃岐国名勝図会』には二王門の表記があります。絵図資料からは、この建物が『四国遍礼名所図会』(1800年)が書かれる以前に建てられたいたことを示します。
研究者は、次のような時代的特徴を指摘し、建立年代を示します。
①上部側廻りが吹き放し
②中央柱間貫に吊り環状の金具があり
③正面中央間柱内側に撞木吊り金具状のものが残る。
④正面腰貫が入れられてない
以上から、寺伝にいう明和4年(1767)には二天門が建立され、梵鐘が吊られた可能性もあるとします。しかし、細部の様式からは18世紀の中期建立は想定しにくく、どちらかというと19世紀になって建てられたといってもでもおかしくない建物だと考えているようです。
現在の二天門の上層には外部柱間装置の痕跡が見られません。それは、当初から梵鐘を吊ることを想定して建立されているからです。すでにそれまであった門に仮に鐘を釣り込んで、後に新たに建造された可能性もあると指摘します。
大窪寺 二天門
大窪寺二天門
二天門の組物については、次のように述べています。
下層組物は側廻り柱上に大斗を置いて、四周縁葛を受ける絵様肘木を乗せている。正背面中央間頭貫下正面には「龍」、背面には「獅子」の持ち送りが入る。その他中央仕切り上の虹梁中央に暮股を入れ、正背面中央間の頭貫上に天丼桁を受ける斗を置くのみである。上層柱上は平三斗組み、実肘木で、側桁を受けている。両妻は化粧母屋桁下、前包み水切り上に三斗組み、実肘木を組み、化粧母屋と同高に虹梁、中央は大瓶束のみとして棟木を受ける。

第88番大窪寺(おおくぼじ)

かつて女体山には年に2回はテントとシュラフをザックに担いで、長尾側から登っていました。山頂の東屋で「野宿」したことも何度かあります。この山が修験者たちの行場であったことは、山を歩いているとうすうすは感じるようになってきました。しかし、私の中では、それと麓の大窪寺がなかなかつながらなかったのです。
 整備された四国の道を通って南側の大窪寺に下りていくと、見事なもみじの紅葉が迎えてくれたことを思い出します。しかし、その伽藍は威風堂々として、若い頃の私は違和感を覚えたものです。その原因がこの寺の堂宇が二天門を除いて、ほとんどが近代になって作られたものであることに気づいたのは最近のことです。明治の大火で大窪寺は、ほとんどを失っているのです。その後の再建計画と復興への動きを知りたくなりました。しかし、手元にはその史料はありません。・・・

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」

  医王山大窪寺絵図
大窪寺絵図

 大窪寺の創建とその歴史については、よく分からないようです
『大窪寺縁起』には奈良時代の養老元年(717年)に行基の開創であり、平安時代になり、弘仁六年(815)に弘法大師が現在の地に再興したとされます。「行基創建=空海中興というのは、由来が分からないと云うことや」と私の師匠は教えてくれました。根本史料となる古代・中世の史料はないようです。
 弘法大師の弟子である真済が跡を継ぐと、寺域は百町四方、寺坊は百宇を数え、外門は寒川郡奥山村・石田村、阿波国阿波郡大影村、美馬郡五所野村にあったと、広大な寺域を保有していたと近世の史料は記しますが、これも信じるに足りません。現在の寺域や旧寺域とされる場所からは、中世の古瓦が出土していますが、古代にさかのぼるものはないようです。冒頭に示した「大窪寺絵図」も、これが実際の大窪寺を描いたものとは研究者は考えていません。
 しかし、以前に紹介したように香川県歴史博物館が行った総合調査では、次のことが分かっています。
①本尊の薬師如来坐像が飛鳥・天平様式で、平安時代前期のものであること
②弘法大師伝来とされる鉄錫杖が平安時代初期のものであること
ここからは大窪寺の創建が平安時代初期にまで遡れるの可能性は出てきたようです。しかし、本尊や聖遺物などは後世の「伝来品」である可能性もあるので、確定ではありません。弥谷寺・白峰寺などに比べると中世の史料が決定的に少ないのです。
4大窪寺薬師正面
薬師如来坐像(大窪寺本尊)

今回は、江戸時代に大窪寺を訪れた巡礼者が記録した4つの史料に大窪寺が、どんな風に記されているのかを見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会」です。
近世になると、四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、大窪寺に関する記述が出てきます。その代表的なものが以下の4つです。
A『四国辺路日記』 (澄禅 承応二年:1653)
B『四国辺路道指南』 (真念 貞享四年:1687)
C『四国偏礼霊場記」 (寂本 元禄二年:1689)
D『四国遍礼名所図会』 (寛政十二年  :1800)  
Aから順番に見ていくことにします。   
四国辺路日記 : 瀬戸の島から
  
A『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来 堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同大師五筆ノ旧訳ノ仁王経在り、紺紙金泥也。扱、此寺ニー宿ス。中ノ刻ヨリ雨降ル。十三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリくテー里斗往テ長野卜云所二至ル、愛迄讃岐ノ分也。次ニ尾隠云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリー里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切畑(ママ)迄五里也。以上讃州一国十三ヶ所ノ札成就事。

  意訳変換しておくと
大窪寺の本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが半ば破損している。この寺も昔は七堂伽藍が備わり、十二の坊があったが、今は午縁所で本坊だけで住職はいない。また、弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経があり、紺紙に金泥で書かれている。
 この寺に一泊した。申ノ刻(三時頃)から雨になった。十三日に、寺を出発して谷河沿いに下って行ったが山中は細道で谷底なので、闇夜で道に迷ってしまった。ようやく一里ほど下って長野という所についた。ここまでが讃岐分で、次の尾隠からは阿波分になる。ここからー里程行くと関所がある、また一里行くと山中を抜けて開た所に出た。切畑(ママ)迄五里である。以上讃州一国十三ヶ所ノ札所詣りを成就した。
ここからは境内については、次のようなことが分かります。
①本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが破損状態
②昔は七堂伽藍、12坊があったが、今は本坊だけで住職はいない。
③弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経
①②の境内についての記述は、昔は七堂伽藍を誇っていたが今は本堂だけで、境内の西側に塔があるが、損壊していることが記されているだけです。 近世初頭の大窪寺は、まだ荒れていたことが分かります。生駒氏の援助を受けた讃岐の霊場が、復興の道を歩み出していた中で、大窪寺は遅れをとっていたのかもしれません。ただ、寺に宿泊したとありますので、阿波・土佐ののように「退転」という状態ではなかったようです。
四国お遍路|結願後のお礼参りとは?

澄禅の『四国辺路日記』の大窪寺の記述は、私たちの感覚からすると違和感があります。
それは、大窪寺が結願ではなく、阿波の切幡寺に向けて遍路を続ける姿が記されているからです。澄禅は、十七番の井戸寺から始めて、吉野川右岸の札所をめぐり、阿波から土佐、伊予、讃岐と現在とほぼ同じ順でめぐっています。そして、大窪寺から山を越えて阿波の吉野川左岸の十番から一番に通打ちして、一番霊山寺を結願としています。『四国辺路日記』では、霊山寺が結願寺となっています。
 また、現在のように阿波一番霊山寺を打ち始めとする者も、大窪寺で結願しても、そこがゴールとは考えられていなかったようです。阿波と讃岐の国境の山を越えて、十番の切幡寺から一番の霊山寺まで戻って帰るべきものとされていたようです。一番から十番まではすでに参拝しているのですが、もういっぺん大窪寺から逆打ちをして帰っています。つまり一番切幡寺から始めて、切幡寺で終わるべきものだとされていたようです。このように大窪寺が結願寺であるという認識は、この当時にはなかったことが分かります。それでは、いつごろから大窪寺が結願寺とされるようになったのでしょうか。それについては、また別の機会に・・・
四國遍禮道指南 全訳注 (講談社学術文庫) | 眞念, 稲田 道彦 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

B『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
八十八番大窪寺 山地、堂南むき。寒川郡。本尊薬師 坐三尺、大師御作。
なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
これより阿州きりはた寺まで五里。
○ながの村、これまで壱里さぬき分。
○大かけ村、これより阿州分。
○犬のはか村○ひかひだに村、番所、切手あらたむ。大くぼじ(より)これまで山路、谷川あまたあり。是よりきりはたじまで壱里。
意訳変換しておくと
八十八番大窪寺は山中にあり、本堂は南むき。寒川郡。本尊は薬師坐像で三尺、大師御作と伝えられる。
ご詠歌は なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
この寺から阿州切幡寺まで5里。○長野村ま2里で、そこまでが讃岐分。○大かけ村からは阿州分。○犬のはか村○ひかひだに村に番所があって、切手(手形)が点検される。大窪寺からここまでは山路で、谷川越が数多くある。ここから切幡寺までは壱里。
ここにも本堂だけしか出てきません。その他の建造物には、何も触れていません。澄禅の「辺路日記」から約30年ほど経っていますが、大窪寺の復興は、まだ進んでいなかったようにうかがえます。しかし、2年後の寂本の記録を見ると、そうとも云えないのです。

四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳) | 護, 村上, 寂本 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

C「四国遍礼霊場記」(寂本 元禄二年:1689)
    医王山大窪寺遍照光院
此寺は行基菩薩ひらき玉ふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給ヘリ。本尊は薬師如来座像長参尺に大師作り玉ふ、阿弥陀堂はもと如法堂也、是は寒川の郡幹藤原元正の立る所也。鎮守権現丼弁才天祠あり。大師堂、国のかみ吉家公建立し、民戸をわけて付られしとなりっ鐘楼鐘長四尺五寸、是も吉家の寄進なり。多宝塔去寛文の初までありしかど朴れたり。むかしは寺中四十二宇門拾を接へたりと、皆旧墟有。奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のぼる、本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独古をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。又大師いき木を率都婆にあそばされ、文字もあざやかにありしを、五十年以前、野火こゝに入て、いまは本かれぬるとなり。本堂より五町東に弁才天有。此寺むかし隆なりし時、四方の門遠く相隔れり、東西南北数十町とかや、今に其しるしありと也。
 
意訳変換しておくと
  この寺は行基菩薩の開山とされる。その後、弘法大師が中興して密教布教の道場となった。
本尊は薬師如来座像で、参尺あり、弘法大師作と云う。阿弥陀堂は、もともとは如法堂だったもので、これは寒川郡の郡幹藤原元正の建立した建物である。鎮守権現弁才天祠がある。大師堂は、国守吉家公が建立し、民戸を併せて寄進した。鐘楼の鐘は長四尺五寸、これも吉家の寄進である。多宝塔は寛文初め頃まではあったが、今は倒壊して失われた。むかしは寺中に四十二の堂舎があったというが、皆旧墟となっている。
 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。大師は、生木を率都婆にして、文字を残した。これもあざやかに残っていたが、50年前に山火事で、この木も枯れてしまった。本堂から五町ほど東に弁才天がある。この寺が、かつて隆盛を誇った時には、四方の門は、遠く離れたところにあって、伽藍は東西南北数十町もあったという。今もその痕跡が残っている。
ここからは次のようなことが分かります。
①阿弥陀堂はもと如法堂だった。
②境内の東に鎮守権現と弁才天が祀られている
③国守吉家公寄進の大師堂と鐘楼がある。
④寛文期までは多宝塔があったが今は壊れている
⑤境内から十八町上ったところに奥院があり、弘法大師が虚空蔵求聞持法行った跡である

ここには、国守吉家の寄進を受けて大師堂や鐘楼などが整備されたと記されています。しかし、国司古家や寒川郡の郡司藤座元正については、どういう人物なのか、よくわからないようです。東西南北に数十町を隔てて山門跡があるとか、多宝塔も寛文年間(1661~73年)まではあった、寺中四十二坊があったとも云いますがそれを裏付ける史料はないようです。冒頭の絵図をもとに、かつての隆盛ぶりがかたられていた気配がします。
大窪寺奥の院までは四国の道が整備されている

ここで始めて奥の院のことが出てきます。
 弘法大師が虚空蔵求聞持法を修行したと記します。弘法大師が阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行したことは史料的にも裏付けられます。大学をドロップアウト(或いは卒業)した空海が善通寺に帰省し、そこから阿波の大滝嶽や室戸岬に行くには、大窪寺を通ったことは考えられます。その時には熊野行者たちによって、修行ゲレンデとなっていた女体山周辺で、若き空海も修行した可能性はあるかもしれません。大窪寺の発祥は、行者が奥の院を聞いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本尊を下ろしてきて本堂を建てたということでしょうか。

大窪寺奥の院胎蔵峰寺 | kagawa1000seeのブログ
大窪寺奥の院 

奥の院については、岩壁を背にして、一間と二間の内陣に三間四方の外陣が張り出しています。中には、多くの石仏があります。内陣には、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。

大窪寺 奥の院の石仏
大窪寺奥の院の石仏

 奥の院は発祥地になりますので、奥の院の本尊阿弥陀が下におりだとすれは、阿弥陀堂がこの寺の根本になります。弥谷寺でもお話ししましたが、中世の高野山は全山が時衆の念仏僧侶に席巻されたような時代がありました。そのため高野聖たちは、浄土=阿弥陀信仰を各地で広めていきます。弥谷寺でも初期に造られた磨崖仏は阿弥陀三尊像でした。ここでも高野山系の念仏聖の痕跡が見えてきます。
 歴史のある寺院は、時代や社会変化や宗教的な流行に応じて本尊を換えていきます。行場を開いたのは熊野行者、その後にやって来た高野聖たちが念仏と阿弥陀信仰と弘法大師信仰を持ち込みます。弥谷寺の本坊は遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。その後、いろいろな坊の修験者たちやお堂が分離併合されて、現在の伽藍配置になったと研究者は考えています。 ここで押さえておきたいことは、奥の院の本尊は阿弥陀如来であったこと。それが下ろされて阿弥陀堂が建立されていることです。
 たどり着いた結願寺|お遍路オンライン:四国八十八ヶ所のガイド&体験記
本堂背後に見える岩場に奥の院はあります。

 奥の院には「逼割禅定」の行場と洞窟があります。
寺の後ろに聳える女体山と矢筈山は、洞窟が多いところです。大きな岩窟がお寺の背後の峰に見えていて、行場としては絶好の山です。女体山の東部には虎丸山を中心に三山行道の行場があります。虎丸山は標高373mで高くはありませんが瀬戸内海が見渡せる景色のいいところです。その麓に、水主神社の奥の院があります。ここも熊野行者たちによって開かれた霊山で、別当寺としての与田寺の修験者たちの拠点でした。増吽は、ここを拠点にして写経センターを運営し、広域的な勧進活動や熊野詣でを行っていたことは以前にお話ししました。増吽を中心とする、修験ネットワークは備中や阿波にも伸びていて、讃岐では白峰寺や仁尾での勧進活動を行っています。中世の大窪寺は、そのような与田寺のネットワークの中にあったのではないかと私は考えています。
 増吽には「①熊野詣での先達 + ②書経センターの所長 + ③勧進僧 + ④ 弘法大師信仰」などの多面的な面がありました。増吽や廻国の高野聖などによって、弘法大師信仰がもたらされ、奥の院に空海修行の伝承が生まれるのは自然な流れです。

「四国偏礼霊場記」には、奥の院について「大師(空海)いき木(生木)を卒都婆にあそばされ」とあります。
卒塔婆は、もともとは生木を立てたようです。現在でも、生木塔婆あるいは二股塔婆といって、枝の出たものや皮のついた生木をもって塔婆にする場合もあります。これは、神道からすると、神の依代として神簸を立てたのが変形したものです。そういうまつり方をしていたことがここからは分かります。また、生木に仏を彫り込むのも修験者たちのやり方です。それを空海が行ったと記します。
大窪寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の大窪寺挿絵

寂本による「四国偏礼霊場記」の本文中には、本堂とともに、阿弥陀堂(元は如法堂)、鎮守・弁才天、大師堂、鐘楼、多宝塔などが出てきます。挿図からは次のようなことが分かります。
①本堂(薬師)は現在の位置にあるが、大師堂や弁才天は本堂の東側に、阿弥陀堂は本堂の西側に描かれていること。
②現在の本坊の位置に遍照光院と記されていること
③阿弥陀堂の西側に「塔跡」と記されていること。これが寛文の初めごろまであったと本文中に書かれている多宝塔跡のことか?
④現在は本堂の東側にある阿弥陀堂が、西側にあったこと
⑤この絵図では鎮守・弁才天は、境内には描かれていないこと。

D『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)        
八十八番医王山遍照院大窪寺 切幡寺へ五里霊山寺へ
当山は行基菩薩の開山とされ、その後に弘法大師が復興してと言われる。
詠歌、南無薬師しょびやうなかれと願ひつゝまいれる人ハあふくぼのてら
本堂の本尊は薬師如来座像で二尺、大師のお手製である。護摩堂は本堂に並んであり、大師堂は本堂の前にある。奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
谷川が数多くある。五名村に一宿。
十六日 雨天の中を出立。長野村の分岐を右に行くと切幡寺、左が讃岐の白鳥道になる、山坂、仁井の山村の分岐は左が本道であるが、大雨の時は右を選んで、川沿いに行くこと、谷川、新川村の分岐から白鳥へ十六丁。馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、塩屋川、と歩いて引田町で一宿。
閏四月十七日 日和がよい中を出発。引田町の浜辺を通って行くと、一里沖にふたつ並ぶ通念島が見える。小川を渡り、馬宿村の浜辺を通過する。坂本村から大坂峠への坂に懸る、途中の不動尊坂中に滝がある。讃岐・阿波の国境に峠がある。阿波板野郡、大師堂にも峠がある。峠より徳島城・麻植郡など南方一円の展望が開ける。大坂村に番所がある。切手(通行手形)が改められる。大寺村に荷物を置いて霊山寺え行って、再びここまで帰って来る。

ここからは次のようなことが分かります。
①本堂に並んで、今まで阿弥陀堂があったところが護摩堂になっていること。これは一時的なことで、幕末には現在と同じ阿弥陀堂にもどっています。
②本堂の前に大師堂があること。
②奥院は、ほとんど人が通らず荒れていること。
江戸時代の後半になると、修験者の活動も衰えて奥の院は、訪れる行者もいなくなっていたのがうかがえます。
大窪寺 四国遍礼名所図会
大窪寺 四国遍礼名所図会(1800年)

「四国遍礼名所図会」には、遍路道から階段を上った二天門を抜け、さらに階段を上がったところの奥側に本堂とその東側に並ぶ護摩堂、前面に位置する大師堂が描かれています。また、本堂の西側には、一段上がった石垣の上にあるのが鐘楼のようです。大師堂と護摩堂は屋根の形から見て茅葺か藁葺に見えます。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後に讃岐国名勝図会(1854年)の大窪寺を見ておきましょう


大窪寺  讃岐国名勝図解

護摩堂が再び阿弥陀堂に還っています。それ以外には四国遍礼名所図会と変化はないようです。

大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷表

大窪寺の伽藍配置の変遷についてまとめておきます。
①本堂は、移動はしていない
②しかし「四国偏礼霊場記」に描かれた17世紀中葉ごろの伽藍と「四国遍礼名所図会」に描かれた18世紀末ごろの伽藍配置は、相当異なっていて、境内で堂字の移動があったことががうかがる。
③大師堂は、本堂の東側にあったものが西側へ移動している
④阿弥陀堂も本堂の西側にあったものが、護摩堂と名前を変えて本堂東側に移動している
⑤ただし、建物自体が移動しているものか、名称・機能のみが移動したのかは分からない。
 以上のように江戸時代前期と後期にの間に、伽藍配置に変動があるようですが、寺域については大きく変化はないようです。現在の大師堂が寺域の西側に新設されたこと以外は、近世後期の境内のレイアウトが現在まで受け継がれていると研究者は考えています。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会
関連記事


P1120528
鳥坂峠の上池(右)と大池(左) 背後は我拝師山
鳥坂峠は古来から丸亀平野と三野平野を結ぶ重要な峠です。鳥坂峠の手前で、伊予街道と分かれて弥谷寺に伸びる遍路道が分岐して、歓喜池(上池)の堤防を北に伸びていきます。

善通寺市デジタルミュージアム讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 善通寺市ホームページ

上池の堤防を渡りきった所に、かつての遍路宿があり、その庭に大きな地蔵さんが立っています。

P1120541
上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)
初めてこの地蔵に出会った時には、びっくりしました。大きいのです。讃岐の中では一番大きな地蔵さまのように思います。なんで、こんなところにこんな大きな地蔵さんが立っているの?という最初の出会いで思った疑問でした。
なかなかこの答え見つけられずにいたのですが、弥谷寺調査報告書2015年を読んでいると、この謎がやっと解けてきました。そこには、弥谷寺の経営戦略があったようです。今回は、どうして碑殿町の歓喜池(上池)のほとりに大きな地蔵が建てられたのかを見ていくことにします。
P1120550
 上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)

碑殿の上池に大地蔵は、いつ、だれによって建てられたのでしょうか?
寛政2年(1790)2月に、碑殿村の片山半左衛門は、次のような寄進状を残しています。
「上池之北山下畑の分畝有、残らず右地蔵尊御敷地、永代差し上ケ申し候」(「片山半左衛門寄進状」、文書1-15-55)、

意訳変換しておくと
「上池の北山下の畑地は、残らず地蔵尊御敷地として、永代寄進いたします。」

ここからは大地蔵の敷地を1790年に、片山半左衛門が寄進したことが分かります。このころから地蔵尊建立のための準備が進められていたようです。3年後の寛政5年に弥谷寺へ、常住寺から「上池尻石樋の西東」にある田1畝27歩(高3斗1升3合)が「永代譲り渡す田地」として、次のような文書が提出されています。

「此の度地蔵田二成され度思し召し二て、御所望の由仰せ聞かされ、至極御尤もの御儀二付き、早速御譲り申す」

ここからは弥谷寺の要望によって「地蔵田」が寄附されていることが分かります。この地蔵田に課せられる藩からの「諸役掛り物」は、弥谷寺が納めることになっています。以上から寛政5(1793)年には石地蔵菩薩は、現在地に姿を見せていたと研究者は考えています。

P1120546
大地蔵の台座側面

地蔵菩薩立像は花崗岩製で、高さが約3m、台座・台石と合わせると約4,9mになります。台石には次のように記されています。
(正面) 歓喜墜
(左面) 五名の戒名 泊浦宮本清二郎
(右面) 六名の戒名 与島岡崎
ここからは塩飽本島の泊浦の宮本氏と坂出市与島の岡崎氏が、この大地蔵を奉納したことが分かります。彼らは塩飽の有力人名衆になるようです。
 この地蔵菩薩立像は、『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))に、次のように記されています。
「穴薬師堂門を出て左手にあり、是より左へ山路を行。石地蔵尊 長二丈斗の石仏麓にあり」

弥谷寺 初地菩薩
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には、地蔵菩薩立像が描かれていて、右横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」と記されています。
この「初地」とは、菩薩の修行段階である十地(じゅうじ)の第一位のことで、十地とは「歓喜地・離啓地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地。法雲地」で、「初地」とは、「歓喜地(かんぎじ)」のことになるようです。
また「弥谷寺全図」に描かれた「初地菩薩」の横に3間×4間の入り母屋造りの建物が見えます。よく見ると、正面には2間の扉が描かれているように見えます。お堂や庵のようにも見えますが、これが弥谷寺が建てた接待所だったようです。

P1120544
 
なお現在、地蔵菩薩立像(大地蔵)の横にある建物は、地元での聞き取りからは、旧雨峯小学校であったことが分かっているようです。私は遍路宿とばかり思っていましたが先入観でした。

この地蔵菩薩立像の前には、灯籠が1基建てられています。
灯籠竿部に刻銘文があり、寛政12年(1800)に亡くなった真蓮栄範信士の供養灯籠で、享和元年(1801)に造立されています。刻銘文には、「弥谷寺現住無縛代」とあり、無縛は弥谷寺中興第八世(1807寂)です。ここからは18世紀後半には、弥谷寺の影響範囲がここまで及んでいたことがうかがえます。

P1120547

この大地蔵は、単独で作られたものではなく、新たな接待所のシンボルモニュメントとして建立されたようです。
寛政4(1792)年3月に、碑殿村の上池尻に接待所を設置することが弥谷寺から多度津藩に願いでられています。
「往来の四国辺路え茶施し申し願い出」(「続故事謂」、「諸願書控。文書2-104-4)

とあるので、弥谷寺が参拝者へのサービス提供のために、遍路道の整備や接待所などの設置などに務めていたことがうかがえます。その接待所の前に設置されたのが大地蔵になるようです。接待所の敷地に課せられる年貢は、弥谷寺から納めることになっています。接待所と大地蔵の建立は弥谷寺の手で進められたことが分かります。
 接待所と大地蔵が建てられてから60年近く経った安政4年(1857)になると、その管理と世話が問題となります。そこで弥谷寺住職の維那は、碑殿村役所と茶堂庵講中へ次のような依頼をしています。「地蔵守之書付入」、文書1-17-40)。
上池の「大仏地蔵尊」は先の住職菩提林が造立し、碑殿村の勘蔵に田地を譲って「香華」の世話させていた。ところが田地を売り払って年を経るに随って世話が疎かになっている。そこで、このたび弥谷寺が管理することにする。就いては、その世話を「同所茶堂庵講中」に世話を頼みたいたい」

ここからは、安政4(1851)年頃には、接待所は茶堂庵と呼ばれて、それを維持するために「茶堂庵講中」が組織されていたことが分かります。
この背景には18世紀末ころから金毘羅大権現の伽藍整備が進み、東国からの金毘羅詣で急増することがあります。金毘羅船で丸亀港にやってきた参拝客は金比羅を往復するだけでなく、善通寺や弥谷寺・海岸寺など「七ケ寺めぐり」をするのが一般的になります。これには巧みな参拝者誘引のための手法があったことは、以前にお話ししました。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
丸亀港にやってきた参拝客に配布された案内図

 18世紀末から金比羅船で丸亀や多度津港にやってくる金比羅詣客は急増していきます。その参拝客を金比羅だけでなく自分の所へも導いてこようと周辺の寺社は、あの手この手の広報戦略を駆使します。例えば、丸亀港に降り立った参拝客に配布された案内図は「金比羅参拝図」とは記されていません。「丸亀・金比羅・善通寺・弥谷寺参拝」と表題が書かれ、この4つの社寺をめぐるルートが描かれています。
丸亀街道 E27 ことひら5pg

 この案内地図を手にして金比羅詣でにやって来た弥次喜多コンビも弥谷寺に参拝しています。そして、天霧山を下って海岸寺・道隆寺を経て丸亀港から帰路に就いています。 また、東北からやって来た人の中には「伊勢神宮 + 高野山 + 金比羅 + 宮島厳島神社 + 西国三十三ヶ寺巡礼」という参拝の旅を行っている人も多かったようです。今のように目的地だけを目指すというものではなく、「金比羅詣でも四国巡礼も宮島もこの際ついでに、まとめて参拝」という感じなのです。そのような庶民の参拝気質を見込んで、「呼び物」と「参拝道」を整備すれば、人はやってくるというのが当時の寺社の広告戦略です。それを弥谷寺の住職たちは見抜いていたといえるかもしれません。

善通寺・弥谷寺
五重塔があるのが善通寺 そこから弥谷寺への遍路道が見える

 金比羅までやってきた参拝客をいかにして、自分の所まで誘引するのか。それがあらたな名所作りであり、シンボルモニュメントを登場させることであったようです。その一環として弥谷寺の住職が取り組んだのが、伊予街道から分岐する遍路道の整備であり、その分岐点近くに弥谷寺直営の接待所を設置し、そこに大きな地蔵をモニュメントとして建立するというプランだったようです。このプランはこれだけでは留まりません。さらに大きな仕掛けを考えていたようです。

P1120554
弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ曼荼羅寺道

天保11(1840)年の「続故事諄」には、次のように記されています。
「東、碑殿坂を以て十地の位に当たる、今此の盤石上の石仏を安置する所なり、則ち初地歓喜の像なり」
意訳変換しておくと
「東の碑殿坂が十地の位に当たる。今、この盤石上には石仏が安置されている、それが初地歓喜の地蔵菩薩である」

ここには碑殿の上池は弥谷寺まで「十地の位」に当たる場所なので、ここにスタート地点として「石像地蔵菩薩(初地歓喜像)」が造立されていると記されています。

また「剣五山弥谷寺記」には、次のように記されています。
「前住菩堤林及び法嗣霊苗、嘗つて行基の意を原ね、碑殿歓喜池の上の石像地蔵より、法雲橋頭に至るまど、離垢発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す、(中略)、
僅かに第十地に金剛拳菩薩を建て、以て其の梗概を示すのみ、二天門内丈六の鋳像、即ち此れなり」
意訳変換しておくと
「弥谷寺の前住職・菩堤林とその法嗣霊苗は、かつての行基の意を汲んで、碑殿歓喜池(上池)の石像地蔵より、弥谷寺境内の法雲橋頭に至るまで、離垢発光等の諸位の仏像を遍路道の路傍に安置して、十地の道しるべにしようと考えた。(中略)、しかし、第十地に金剛拳菩薩を建てただけに終わった。二天門内の丈六の鋳像がそれである。」
ここからは弥谷寺の住職によって、碑殿の石像菩薩から弥谷寺境内の法雲橋までの間の遍路道に、十の仏像を安置するプランがあったことが分かります。しかし「剣五山弥谷寺記」の書かれた弘化3年(1846)には、弥谷寺の境内の第十地に金剛拳菩薩(丈六の鋳像)が残されているだけだと記します。丈六の鋳像が、現在の金剛拳菩薩のようです。

P1120783
潅頂川にかかる法雲橋(弥谷寺)

つまり上池の大地蔵は、弥谷寺境内にある金剛挙菩薩とセットで建立されたものだというのです。
それをまとめてみると
①上池の巨大地蔵(石地蔵菩薩)から弥谷寺までの遍路道に、十の仏像を安置する計画があった
②そのスタート(初地)が歓喜池(上池)で、第十地(ゴール)が弥谷寺境内の金剛拳菩薩である。

これは鳥坂峠で伊予街道と分かれた遍路道の整備計画でもありました。今に残る金剛挙菩薩と石地蔵菩薩とは、その計画のスタート地点とゴール地点に立っていることになります。しかし、なぜこんなの大きな仏像を建立したのでしょうか?                      
P1120788
金剛挙菩薩
次に弥谷寺境内の金剛挙菩薩を見てみることにしましょう。
この菩薩は「大日如来」として建立されたものが、いつの間にか金剛挙菩薩とされてしまったようです。その理由はよく分かりません。とにかく建立に向けた動きを追ってみます。

「銘曰く、寛政三辛亥起首願主先師菩堤林文化八辛来年成就幻住法印零苗代、鋳物師紀州住人蜂屋薩摩塚源政勝、右年号並びに時代、仏像の脇これそ記すなり」

とあって、住職菩堤林が寛政3年(1791)に建立のための募金活動に取りかかり、20年ほど後の、文化8年(1811)に完成したことが分かります。

P1120790
金剛拳菩薩(最初は大日如来として建立された)

弥谷寺には、寛政元年(1789)の 「灌頂仏募縁疏」の版木が残っています。
これは住持の菩提林によって書かれた大日如来造立のための募金趣意書に当たります。そこには次のように記されています。

弥谷寺の灌頂川の法雲橋の西の大岩の上には、かつては一丈六尺の金銅の大日如来があった。それを「第十地ノ菩薩」として再建を行いたい

 この再建のために、菩堤林と講中が勧進を行おうとした趣意書の版木です。この版木には寛政元年正月と記されているので、大日如来の造立の動きは寛政元年に始まっていたことが分かります。

P1120886
              金剛拳菩薩
また「五山弥谷寺記』には、次のように記されています


「碑殿歓喜地の上より法雲橋の頭に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す。」
意訳変換しておくと
「碑殿の歓喜池が初地にあたり、弥谷寺の法雲橋に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を遍路道沿いに安置し、十地の階級を示したい。」

「讚岐剣御山弥谷寺全図」には「東入口初地菩薩石像一丈六尺」とあります。
弥谷寺 初地菩薩
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた初地菩薩

初地は別名「歓喜地」で、そこから第十地「法雲地」に至るまでに、十地各地に仏像を安置する計画があったことになります。しかし、今あるのは先ほど見た「初地」として碑殿の上池に「初地菩薩」、第十地「法雲地」とされる「法雲橋」の金剛拳菩薩だけです。

弥谷寺 金剛拳菩薩jpg
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた丈六金仏(金剛拳菩薩)
 「金剛拳菩薩」は寛政3年(1791)に募金活動が始まり、完成したのは、文化8年(1811)ですから22年かかっています。
ふたつの間には仏像が造立された気配はないので、十仏像を設置するという計画は頓挫したようです。また、「法雲橋_|と「金剛拳菩薩」の間にあった「二天門」は、昭和6年(1931)の「諸堂建立年鑑」によれば文政12年(1829)に再建されています。この計画の一環として建立された可能性を研究者は指摘します。
弥谷寺 参道変遷
金剛拳菩薩の出現で変更された参道 

 「金剛拳菩薩」は、もともとは大日菩薩として建立されたことが資料で確認できます。
完成前年の8年の「灌頂仏再建三百人講」や、文政2年(1819)の「四国巡拝日記」では、大日如来と記しています。ところがそれから約30年後の弘化3年(1840)の記録には「金剛拳菩薩」と記されています。つまり大日如来として作られたが、その後に金剛拳菩薩へと変更されたことになります。その理由については、私にはよく分かりません。
IMG_0011

弥谷寺に残された史料の中に、「灌頂仏再建三百人講」があります。これは文化7年8月に弥谷寺の維綱がまとめたもので、大日如来(金剛拳菩薩)建立の経緯が次のように記されています。
「丈六の金仏を再建せんと思へとも、衣鉢乏しく少なくして自力に及びかたし、故に善男善女を勧進して、三百人講をいとなみ、此の浄財を以て大日尊を再建し奉らんと希ふ」(中略)
「此の尊に帰依して浄財を郷ち、早く再建の願いを遂げ、万代不朽の巨益を成就せしめん輩ハ、現世にハ子孫繁昌し福徳豊穣にして、快楽自在ならん、当来にハ摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率任意往生せん、猶又施主家の姓名先祖の法名等大日尊の蓮座に彫り付け、永代毎歳の灌頂に廻向するなり」
意訳変換しておくと
「丈六の金仏(大日如来)を再建したいと願っても、資金に乏しく自力ではできない。そこで善男善女を勧進して三百人講を組織し、その寄付で大日尊を再建しようと計画した」(中略)
「この大日尊に帰依して浄財を寄進し、再建の願いが実現したあかつきには、万代不朽の巨益を手にした者達は、子孫繁昌し福徳豊穣で、快楽自在となろう。そして来世では摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率で必ず往生する。さらに施主家の姓名先祖の法名などを大日尊の蓮座に彫り付け、永代に渡って毎年、灌頂廻向を行うことを約束する」
ここからは、三百人の寄附によって「丈六の金仏」を再建すること、寄附者の現世の御利益を説くとともに、その名を大日如来の「蓮座」に記すとしています。この大日如来の再建には銀25貫600目が必要であったようです。この序文に続けて大見村から始まって、多度津藩・丸亀藩の村々からの寄進者の名が記されています。施主一人前で金1両です。一番多いのは大見村庄屋の大井助左衛門の7人前で、次いで4人前の大見村の三谷恒右衛門。同三谷甚之丞。同三谷源六。同辻市郎右衛門となっています。その他はほとんどが一人前であり、二人で一人前の場合もあります。これらを郡ごと、村ごとに施主人前に整理したのが下表です。

弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。「三百人講」だったので、目標金額は300両です。それには達しなかったようですが、目標の9割を越える金額を集めています。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。
 完成した大日如来の像や蓮弁等には、先ほど見たように寄進者の名前等が刻まれています。
P1120551

以上をまとめておきます。
①18世紀末に、弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ遍路道の整備が行われ、伊予街道との分岐点近くに接待所と大地蔵が姿を現した。
②ここには仏像造立という宗教意味だけでなく、弥谷寺の経営戦略があった。
③それは金比羅参りの参詣者を、善通寺を経て弥谷寺へ誘導するという広報戦略の一環だった。
④その広報戦略の目玉として考えられたのが、上池をスタートとしてゴールの弥谷寺までに十の仏像を安置するプランであった。
⑤そのスタートに初地地蔵、ゴールに金剛拳菩薩が建立された。
⑦金銅制の金剛拳菩薩は、三野郡を中心とする富裕層の寄付金によって建立された。
⑧しかし、残りの仏像は資金難で建立されることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 弥谷寺調査報告書2015年 香川県教育委員会
関連記事

七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献


 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
熊野信仰の諸相 中世から近世における熊野本願所と修験道 | 小内 潤治 |本 | 通販 | Amazon

熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
 豊楽寺薬師堂 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
楽天市場】しめ縄 茅の輪 【蘇民将来子孫家門】 直径17cm:神棚・神祭具 宮忠 楽天市場支店
しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

Facebook
地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 

 日の平山…立岩山…市間山…立岩ダム 2015/12/20
六十六部の札所寺院への勧進活動を以前に追いかけました。今回はエリアを、66番大興寺周辺に特定して、見ていくことにします。テキストは 武田和昭 「四国辺路」納経帳の起源 四国辺路の形成過程所収」です。
四国八十八カ所巡り 第67番札所大興寺 第66番札所雲辺寺 そしてやっぱり讃岐うどん | あるがまま

まずは66番大興寺の仁王門から始めましょう。
この仁王門は、以前にお話ししたように関東からやってきた唯円という廻国行者によって建立されたようです。善通寺の「善通寺大搭再興雑記」には、唯円のことが次のように記されています。(意訳のみ))
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12(1727)年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
 ここからは唯円が、小松尾寺の仁王門建立の勧進業績を買われて、善通寺五重塔の勧進活動に携わるようになったことが分かります。唯円は廻国行者で、六十六部であった可能性が高いと研究者は考えているようです。
 唯円の再築から60年後に、この仁王門は改修されています。
その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国
    金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。
2 大興寺 仁王像

仁王像は鎌倉時代初期に造られた物で像高2mを超す大きな像で、現在は香川県指定文化財です。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者であったことを、この仁王たちは見ていたのでしょう。 大興寺には廻国行者(六十六部)たちが、仏像や建物について勧進活動をして、その経営を支えていた歴史があるようです。
2 大興寺全景近代

大興寺の境内南側には、次のような六十六部に関する石塔が2基建立されているようです。
廻国供養塔
     宝暦七丁丑四月日
奉一字一石大乗妙典日本廻国供養
     中□□口巴
        □□古兵衛武啓
(六十六部廻国塔)
     安永十辛丑
奉納大乗妙典六十六部日本廻国
     三月良辰日
  修行者行本 俗名河内村□□朋有兵衛門

宝暦七年(1757)と安永十年(1781)の廻国供養搭です。前者の古兵衛武啓は大興寺に近い地元の人物で、後者も地元の河内村の人物です。この他にも本堂横には、石造地蔵書薩台座に亨保六年、長州萩の六十六部廻者行者の名前が見あります。これらの供養塔からは廻国行者と合わせ、大興寺を中心にして、六十六部廻国行者の活動が活発だったことがうかがえます。
六部殺し(ろくぶごろし)【ゆっくり朗読】 - 怖い話ネット【厳選まとめ】

六十七番大興寺の周辺には、六十六の活動が遍路沿いにもみることができるようです。
大興寺から辺路道を66番雲辺寺に向かっていくと、柞田川の支流をせき止めた岩鍋池の大きな堰堤と、その向こうに式内社の粟井神社が見えてきます。岩鍋池堰堤手前の道路沿いに、小さな庵が建っています。これが土仏観音という庵です。
1土仏観音

この庵には「土仏緑起」(享保15年)という縁起が残されています。そこには、次のように記されています。
 合田利兵衛正照という栗井村の住人が父母孝養、二世安楽を願い、享保六年(1721)正月に日本廻国の旅に出た。五躯の仏像を入れた笈を背負い、錫杖を持ち、諸国を押鉦を鳴らしながら、「国々島々残らず回り」、納経霊地730余ケ所、 二千日を掛けて廻り帰村した。廻国の途中、上野国で観音菩薩の頭部を掘り出し、その後江戸で勧進して資金を得て体部を造り、当地に持ち帰り、庵を建立したという。

ここからは、次のようなことが分かります。
①享保年間(18世紀前半)の合田利兵衛が5年間の六十六部廻国修行を行った。
②途中、上野国で掘り出した観音像の頭部修理するために、江戸中を念仏の鉦を叩き二銭ずつの勧進を2年間行った。
③35両を集め、江戸の大仏師性雲に修理してもらい観音寺まで背負って持ち帰った
④その観音像を安置し、四国遍路のために土仏庵を建立した
 ここに祀られている観音様は上野国生まれで、江戸修理され、ここに持ち帰られたものが安置されていることになります。同時に、この庵は、四国遍路の接待のための場として造られたことが分かります。
2土仏観音


ちなみに 合田利兵衛正照が廻国行に旅立った享保六年(1721)正月です。先ほど見た唯円が67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を始める前後と重なり合います。小説的に想像力を膨らませると、唯円が大興寺に小庵を構え勧進活動を起こしていく様を、合田利兵衛正照は見ていたのかも知れません。もっと云えば、唯円のもとに通い教えを受けていた可能性もあります。それが彼を、六十六部として全国廻国に向かわせたというストーリーは考えられます。栗井村の住人が六十六部廻国行者となり、廻国修行を行っていたことを押さえておきます。
土仏観音院

この土仏庵の周辺には、いくつかの石碑や地蔵が建ち並んでいます。その中に享保六(1721)年に「濃州土器群妻木村求清房」という廻国行者が建てた地蔵菩薩があります。さらに彼が関わった享保五年~六年に建立された丁石も残されているようです。
ここからも亨保の初め頃、栗井の地に他国からやってきた廻国行者が住み着き、その人物と土地の合田利兵衛正照との間に何らかの関係が生まれ育ち、正照が廻国行者となったと考えることもできそうです。
1白藤大師堂

さらに遍路道を粟井に向かって進んでいくと、集落の入口に白藤大師堂があります。
ここにも3基の六十六部廻国供養塔が建っています。
  六十六部廻国塔
明和四(1767)丁亥天十一月吉良日
天下泰平
(種子)奉納大乗妙典六十六部日本廻国塔
国土安全
出羽国最上村山郡
   常接待建立十方施主 寒河江村願主覚心
  (地蔵菩薩台座名)
奉納大乗妙典六十六部日本廻国十方施主
万人講供養羽州村山郡寒河江村願主覚心法師
明和九(1772)辰天七月二十四日
  (六十六部廻国供養塔)
天下泰平 安政六己未 摂州武庫郡鳴尾村 清順
奉納大乗妙典日本廻国供養塔
日月清明 三月古日 世話人 奥谷講中
ここには「円誉覚心禅定門霊  安永五(1776)内申五月二十六日 行年六十一歳」の墓碑もあります。ここに出てくる覚心とは何者なのでしょうか?
白藤大師堂 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com

『粟井村誌』(昭和25年刊)には、覚心のことが次のように記されています。
覚心は出羽国村山郡寒河江村の生まれで、四国八十八ケ所を数十回も辺路した廻国行者である。覚心は雲辺寺から麓の粟井まで随分と距離があり、さらに人家もなく辺路の人々が苦労していることから、粟井村の庄屋に願い出て村から寄進された土地に宝磨五(1755)年に庵を、同7年に大師堂を建立した。その後は、そこで辺路の人々に接待が行われるようになった
ここからは現在の山形県寒河江村市からやってきた六十六部廻国行者の覚心が四国遍路を何十回も行う中で、何らかの縁を得て、粟井村に留まるようになったことがうかがえます。そして、彼は地元の有力者に働きかけ庵や大師堂を建立し、遍路のために提供したようです。後には、ここが接待の拠点となっていったのでしょう。私は、雨露をしのぐ庵などは、地元の人たちの発案で行われたものと、思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。ここにも外部からやって来た「有能」の人たちの発案と働きかけがあって実現したものであったことが分かります。

覚心という廻国行者は、戒名「誉」の係字がありますから、浄土系念仏行者のようです。覚心のような人物によって、周囲の村々に念仏講などが広がっていくのかもしれません。なお覚心は粟井村に来る前に、屋島壇ノ浦の大楽寺にも廻国塔(宝暦13年)を建立しているようです。

 さらにこの地域に、その他にも六十六部廻国行者の存在のがうかがえる者が残されています。白藤大師堂から少し下った所に立つ地蔵菩薩台石には、次のように掘り込まれています。
  享保九年  (梵字)遍路 六部 札供養 十一月二十一日

ここからは享保9(1724)年に遍路と六十六部廻国行者の札供養が行なわれたことが分かります。札供養とは、どんなことか私には分かりません。研究者は辺路や六十六部が納めた札を、この石塔の下に納めて供養を行ったと考えているようです。ここからも、四国遍路とともに数多くの六十六部廻国行者が、粟井の地を通過していたことがうかがえます。
十返舎一九_00006 六十六部

十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

紹介してきた太興寺周辺の六十六部の活動を、時系列に年表化してみましょう
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 地元粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の辺路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っていることが分かってきます。土仏庵から白藤大師堂の間には、宝永7年(1710)の六十六部の廻国供養塔が残されているので、かなり早い時期から粟井の谷には六十六部廻国行者が、入り込んできていたことがうかがえます。
 大興寺という札所で仁王門の勧進活動を行い、札所寺院に利益を与え、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵など進出していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の笈(焼津市六十六部関係資料)

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

近在の町誌などには江戸時代の四国遍路の往来手形がよく載せられています。それを見ると、村の庄屋か寺院が発給したもので、その内容は、巡礼者氏名、目的、所属宗旨(禁教対応のため)、非常時の事、発行者、宛先が順番に記され定型化したものになっています。これに見慣れていたために、四国遍路の往来手形は当初から地元の庄屋や寺院が発行してきたものと思っていましたが、どうもそうではないようです。今回は、往来手形の変遷を追いかけてみようとおもいます。
テキストは 「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」です
 私が最初に四国遍路の往来手形の発行について、疑問に思ったのは、澄禅『四国辺路日記』にでてくる徳島城下の持明院の次の記述です。
持明院 願成寺トテ真言ノ本寺也。予ハ高野山宝亀院ノ状ヲ持テ持明院二着ク、依是持明院ヨリ四国辺路ノ廻リ手形ヲ請取テ、廿五日ニ発足ス。
意訳変換しておくと
持明院は願成寺も云い真言宗の大寺である。私は事前に高野山の宝亀院に行って紹介状をもらって、それをもって持明院に行った。持明院で四国辺路の廻手形を受け取って、7月25日に出発した。

ここからは澄禅が四国辺路のために、まず高野山に行き、宝亀院の許可書もらって、それを持明院に提出して廻り手形をもらていることが分かります。ここで疑問に思ったのが、四国遍路のためには、持明院の発行手形(往来手形)が必要なのかということです。そんな疑問は、ほったらかしにしてていたのですが、持明院の発行した「廻り手形」(往来手形)の実物がでてきたようです。この手形には、明暦四年(1658)と記され「大滝山持明院」という寺名も書かれています。現在のところ、四国辺路の往来手形として最古のもののようです。大きさは縦17㎝×横35、5㎝)だといいます。
    1 持明院 四国遍路往来手形
明暦4年の四国辺路往来手形 徳島持明院発行

坊主壱人俗二人已上合三人
四国辺路二罷越し関々御番所
無相連御通し可被成候一宿猶以
可被加御慈悲候乃為後日如件
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
四国中関々御番所
御本行中
意訳しておくと
坊主一人と俗二人、合計三人
四国辺路に巡礼したいので関所・番所を通していただくこと、これまで通りの一宿の便宜と慈悲をいただけるようお願いしたします。
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
この書状が澄神『四国辺路日記』に出てくる「四国辺路の廻り手形」のようです。当時は「往来手形」ではなく「廻り手形」と呼ばれたようです。一番最初の行には、次のように記されています。
坊主一人と俗人二の合計三人が四国辺路するので関所・呑所を問題なく通し、また宿も慈悲をもってお願いしたい」

坊主とは、おそらく先達的役割の僧、2人はそれに従う俗人でしょう。かつての熊野詣の参拝と同じように先達に連れられての四国遍路のようです。宛所は「四国中関々御番所」とあるのが四国各藩の関所・番所です。これに著名しているのが阿波の大滝山持明院の快義になります。
 この書状の筆跡を詳しく検証した研究者は、中央下部のAゾーンのみ別筆だと指摘します。Bゾーンは、それぞれの国の代表寺に署名だけをすればいいように、前もって寺院名と法印が書かれていたようです。ここからは澄禅『四国辺路日記』に記されたとおり、持明院で廻り手形が発行されていたことが確認できます。
 そして、他の3国の発行寺院は次の通りです。
土佐の五台山竹林寺
伊予の石手寺
讃岐の綾松山(坂出)白峯寺
この3寺が代表して、保証していたようです。
 江戸時代初期の四国遍路廻りの手形発行は、地元の庄屋やお寺では発行できず、各国の代表寺院が発行していたようです。手形の発行・運営システムの謎がひとつ解けたようです。
 ここで私が疑問に思うのはには、土佐の竹林寺や伊予の石手寺は、それぞれの国を代表するような霊場寺院ですが、讃岐がどうして白峰寺なのでしょうか。普通に考えると、讃岐の場合は善通寺になるとおもうのですが白峰寺が選ばれています。同時の社格なのでしょうか、それとも善通寺が当時はまだ戦乱の荒廃状態から立ち直っていなかったからでしょうか。当時の善通寺のお膝もとでは「空海=多度津白方生誕説」が流布されていましたが、これに反撃もしていません。善通寺の寺勢が弱まっていたのかもしれません。
 もうひとつの疑問は、廻り手形の発行が持明院という札所寺院ではないことです。どうして霊山寺のような札所寺院が選ばれなかったのでしょうか。さらに、どうして阿波の寺院が四国の総代表寺院になるのでしょうか? これらの疑問を抱えながら先に進んで行くことにします。
この書状を作成した持明院について『阿波名所図会』で見てみましょう。
1 持明院 阿波名所図会
持明院
 持明院は徳島城下の眉山山麓の寺町にあった真言宗の大寺だったようです。大滝山建治寺と号し、創建は不詳、三好氏城下勝瑞に建立され、蜂須賀氏入部に伴い、眉山中腹に移転されます。江戸期にはおおむね100石の寺領を有しています。阿波名所図會では山腹には滝、観音堂、祇園社、行者堂、三十三所観音堂、八祖堂、坊舎、十宜亭、大塔などがあり、山下には仁王門、本堂(本尊薬師如来)、方丈、庫裏、天神社、絵馬堂、八幡宮などがあったようです。徳島の寺町を代表する大寺であったことがうかがえます。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
持明寺
次いで『阿波誌』をみてみましょう。
持明院 亦寺街隷山城大覚寺、旧在勝瑞村、釈宥秀置、三好氏捨十八貫文地七段、管寺十五、蔵金錫及馨、天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈、 一自名西郡建治寺彩作堂安之、山名大滝(中略)封禄百石又賜四石五斗、慶長三年命改造以宿行人、十三年膀禁楽採樵及取土石、至今用旧瓦故瓦頭有建治三字。

  意訳変換しておくと
持明院は隷山城大覚寺ともいい、旧在勝瑞村にあった。かつては、三好氏が捨十八貫と土地七段を寄進し、十五の末寺を持ち栄えた。天正年間に勝瑞にあった持明院と、名西郡の建治寺を現在地に移して新たな堂舎を建立し、山名を大滝山持明院建治寺とした。(中略)
封禄は百石と四石五斗を賜った。慶長三年に藩の命によって寺の改造が行われ行人宿となった。慶長十三年には周辺の神域や山林から木を切ることや土石を採取することが禁止された。今でも旧瓦には瓦頭に有建治の三字が使われている
ここからは、天正年間に勝瑞にあった持明院と名西郡の建治寺を現在地に移して、大滝山持明院建治寺としたこと。慶長三年(1598)には、命によって寺の改造が行われ、行人の宿にしたことなどが分かります。この中で、慶長三年に寺を改造して行人の宿としたことは、重要だと研究者は指摘します。ここに出てくる「行人」とは、四国辺路に関わる行人と研究者は考えているようです。
 これに関連して阿波藩の蜂須賀家政は、同じ年の6月12日に駅路寺の制を、次のように定めています。
 当寺之儀、往還旅人為一宿、令建立候之条、専慈悲可為肝要、或辺路之輩、或不寄出家侍百姓、行暮一宿於相望者、可有似相之馳走事(以下略)
  意訳変換しておくと
駅路寺については、往還の旅行者が一宿できるように建立したものなので慈悲の心で運用することが肝要である。辺路、僧侶、侍、百姓などが行き暮れて、一宿を望む者がいれば慈悲をもって一宿の世話をすること

 こうして阿波藩内に長谷寺・長楽寺、瑞連寺・安楽寺など八ケ寺を駅路寺として定めています。そして持明院が、その管理センターに指定されたようです。つまり、持明院は徳島城下町にやって来る県外からの旅行者の相談窓口であり、臨時宿泊所であり、四国遍路のパスポート発行所にも指定されたようです。同時に、こんな措置が藩によってとられるということは徳島城下にも、数多くの辺路がやってきて宿泊所などの問題が起きていたことがうかがえます。
徳島の歴史スポット大滝山

ついでに持明院のその後も見ておきましょう。
 江戸期には藩の保護を受け、寺領もあり、寺院経営は安定していたようです。この寺の三重塔は城下のシンボルタワーとしても親しまれていました。しかし、幕末には寺院の世俗化とともに多くの伽藍を維持する経費が膨れ、困窮するようになります。それにとどめを刺したのが、明治の神仏分離です。藩主の蜂須賀家が公式祭祀を神式に改め、藩の保護がなくなります。さらには寺領も廃止され、明治4年には廃寺となります。藩主の菩提樹だったので檀家を持ちませんでした。そのため、藩主がいなくなると経営破綻するのは当然の成り行きでした。ただ神仏分離で祇園社は、八坂神社と改称され現在に残ったようです。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
残された三重塔は空襲で焼け落ちるまでシンボルタワーだった

次に徳島県の第5番地蔵寺の往来手形(写し)を見てみましょう
一、此辺路生国薩摩鹿児島之住居にて、佐竹源左衛門上下之五人之内壱人ハ山伏、真言宗四国中海陸道筋御番所宿等無疑通為被申、各御判形破遊可被ド候、以上
延宝四年(1676)辰ノ卯十七日
与州石手寺(印影)   雲龍(花押影)
讃州善通寺 宥謙(花押影)
讃州白峯寺 圭典(花押影)
阿州地蔵寺
同州太龍寺
土州東寺(最御崎寺)
同州五台山
同州足摺山
意訳変換しておくと
この辺路(遍路)は薩摩鹿児島の住人で、佐竹源左衛門以下五名で、その内の一人は山伏(先達)である。真言宗の四国中海陸道筋(四国遍路)の番所や宿でお疑いのないように申し上げる。
以上

研究者によると、この書状は石手寺が発行したものの写しのようです。延宝四年(1676)に鹿児島から来た佐竹源左衛門ら五人(内一人の山伏が先達?)は「四国中海陸道筋御番所宿等」を許可した通行書を持っています。詳しく見ると四国の内、つぎの八ヶ寺の名前が記されています。
讃岐は普通寺と白峯寺
阿波は地蔵寺と太龍寺
土佐は東寺(最御崎寺)・五台山一竹林寺)・足摺山(金剛福寺)
これが通行と宿の安全を保証するものなのでしょう。
ここからは推理ですが、薩摩からやってきた五人は、山伏姿の先達に誘引されて舟で九州から伊予に上陸したのでしょう。それが宇和島あたりなのか松山あたりなのかは分かりません。そして、まずは松山の石手寺で、この書状(パスポート)を受けて讃岐へ入り、善通寺と白峰寺で花押をもらいます。その後、大窪寺を経て阿波に入り地蔵寺で花押をもらったのでしょう。その際に、地蔵寺の担当僧侶が写しとったものが残ったと考えられます。それから彼らは土佐廻り、土佐の三ケ寺でも署判を請けたのでしょう。
 ここで疑問なのは、さきほどの明暦四年(1658)から18年しか経っていないのですが、持明院がパスポート発行業務から姿を消しています。どうしてなのでしょうか。
 この間に、札所寺院に含まれない持明院が除外されるようになったようです。また、讃岐では新たに善通寺が登場しています。讃岐に最初に上陸して、四国遍路を始める場合に、最初に廻り手形を発給するのはどこなのかなど、新たな疑問もわいてきます。これらの疑問が解かれるためには、江戸時代初期の往来手形が新たに発見される必要がありそうです。

往来手形の定型化が、どのようにすすんだのかを見ておきましょう。
元禄7年(1694)の讃岐一国詣りの往来手形です
上嶋山越智心三郎、讃岐辺路仕申候、宗旨之代者代々真言宗二而、王至森寺旦那紛無御座候、留り宿所々御番処、無相違御通被成可被下候、為其一札如件
元禄七年 与州新居郡上嶋山村庄ヤ
                 戌正月24日 彦太郎
所々御番所
村々御庄岸中
意訳変換しておくと
上嶋山の越智心三郎が讃岐辺路(讃岐一国のみの巡礼)を行います。この者の宗旨代々真言宗で、王至森寺の旦那(檀家)であることに間違いはありません。つきましては、宿所使用や番所通過について、これまでのように配慮いただけるようお願い申し上げます
元禄七年 与州(伊予)新居郡上嶋山村庄屋
これは、新居郡上嶋山村の庄屋発行の往来手形で、「讃岐辺路仕申中候」とありますので讃岐一国のみの遍路です。「遍路」ではなく「辺路」という言葉が使われています。この時代まで「辺路」という言葉は生きていたようです。新居郡上嶋山村は、小藩小松藩の4つの村のうちのひとつです。

その約20年後の正徳2(1712)年の往来千形です
往来手形之事
一、予州松山領野間郡波止町、治有衛門喜兵衛九郎右衛門と申者以上三人、今度四国辺路二罷出候、宗旨之儀三人共二代々禅宗、寺者同町瑞光寺檀那紛無御座候、所々御番所無相違通可被下候、尤行暮中候節者宿之儀被仰付可被下候、若同行之内病死仕候ハゝ、早速御取置被仰付可下候、為其往来証文如件
正徳二年辰年六月十七日 予州野間郡波止浜
古川七二郎 同村庄屋 長野半蔵
御国々御番所
意訳変換しておくと
伊予松山領野間郡波止町の治有衛門・喜兵衛・九郎右衛門の三人が、今度四国辺路に出ることになりました。宗旨は三人共に代々禅宗で、同町の瑞光寺の檀家であることに間違いありません。各御番所で無事に通過許可していただけるよう、また、行き暮れた際には宿についても便宜を図ってくださるようお願い致します。もし同行者の中から病死する者が出た場合には、往来証文にあるようにお取り扱い下さい。

これも村の庄屋が発給したものですが、はじめて「往来手形」という言葉が登場します。そして当事者、目的、宗旨の事、発行者、非常時の事、発行者、宛先が順番に明示されるようになります。これで定型化のバージョンの完成手前ということでしょうか。
さらに40年後の宝暦二年(1753)年のものをみてみましょう
往来切手寺請之事
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
右之者儀、代々真言宗二而当院旦那紛無之候、此度四国辺路二罷出申候間、所御番所船川渡無相違御通シ可被下候、行暮候節、一宿等被仰附可被下、若シ此者共儀何方二而病死等致候共、其所ニテ任御国法、御慈悲之に、御収置被卜候国元へ御附届二不及申候、乃而往来寺請一札如件
讃州香川郡西原村
       真光寺 印
宝暦ニ申正月十五日
国々御番所中様
所々御庄屋中様
右之通相違無御座候二付奥書如件
同国同所庄屋    松田慶右衛門 印
正月十五日
意訳変換しておくと
往来切手(往来手形)の寺発行証明書について
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
これらの者は、代々真言宗で、当院の檀家であることを証明します。この度、四国辺路に出ることになりましたので、各所の番所や船川渡などの通過を許可していただけるようお願い致します。また行き暮れた際には、一宿の配慮をいただければと思います。もしこの者たちの中から病死者などが出た場合には、その地の御国法で御慈悲にもとづいて処置して下さい。国元へ届ける必要はございません。往来寺請一札(往来手形)についてはかくの如し
讃州香川郡西原村   真光寺 印
40年前のバージョンに比べると 病死などの時には「其所の国法」によって任され、国許には届ける必要は無いとのことが加わりました。以後の往来手形は、これで定型化します。ここからは、発給する側の庄屋の書面箱なかに、四国遍路の往来手形が定形様式として保存されていたことがうかがえます。当時の庄屋たちの対応力や書類管理能力の高さを感じる一コマです。
以上から往来手形発行の変遷をみると、次のようになるようです。
①初めは徳島城下の持明院が発給していた
②やがて八十八ケ所の特定の8寺院となり
③元禄ころからは庄屋や檀那寺がとなる
内容的にも最初は関所・番所の無事通過と宿の便宜でした。それが宗旨や檀那寺の明示、病死した際の処置などが加わり、17世紀半ばには定型化したことが分かります。
 江戸時代は、各国ごとに定法があり、人々の移動はなかなかに難しかったとされます。しかし伊勢参りや金昆羅参りなどを口実にすると案外簡単に許可が下りたようです。四国辺路も「信仰上の理由」で申請すると、往来手形があれば四国を巡ることが許されたようです。元禄時代頃から檀那寺や庄屋が往来手形の発給を行うようになります。それは、檀家制度の充実が背景にあるのでしょう。そのような中で、徳島の持明寺の四国遍路の廻り手形発給の役割は、無用になっていったとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」

1澄禅 種子集
澄禅の種字集

 澄禅については梵字研究者で、「湯島の浄厳和尚、高城の慈雲尊者飲光と並び称される智山の学匠」とも云われてきました。私もその説にもとづいて、彼を高野山のエリート学僧と位置づけ紹介してきました。しかし、これには異論もあるようです。今回は、澄禅の本当の姿に迫ってみようと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
 澄禅の履歴については『続日本高僧伝』や『智積院誌』などにも記されています。しかし、面白いのは澄禅の師である運廠が寛文九年(1669)に記した『端林集』巻九「十如是臨本跋」のようです。
法師澄禅。世姓菱苅氏。肥後国求麻郡人。幼薙染受戒、習喩珈宗。年及進共。負笈人洛。寓綱積之僧房。而篭講論之席。磨義学之鋒者十有余年。業成帰本国。大守接待優渥。郷里以栄之。然禅以為累潜逃出国境。白号悔。一鉢一錫。行李粛然。名山霊区、無不遍歴。禅自少小精思悉之学。尤梵書
(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  意訳変換しておくと
法師澄禅は、菱苅氏の姓で肥後の球磨郡に生まれた。幼なくして出家受戒して、喩珈宗(密教)を学んだ。成長して笈を背負って入洛し、僧坊に入り、義学を十数年学んだ。業成り肥後に帰り、大守から庇護を受け優遇され、郷里でも評判であった。然し、思うところあって、国を出て国境を越えて、悔と号すようになる。そして一鉢一錫と行李の旅姿で、名山霊区を遍く遍歴した。澄禅は若くして悉雲に詳しく、その中でも特に梵書を得意とした(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  当時、師の運廠は澄禅よりもひとつ年下ですが、すでに僧としての位は高く、承応2年5月には、42歳で智山の第一座となっています。偶然かどうか澄禅が四国辺路に出たのは、その翌年7月のことになるようです。

 この文書自体は、澄禅が57歳の時の記事です。ここで研究者が注目するのは、澄禅のことを「法師澄禅」と記していることです。「法師」という位については、「大法師真念」と呼ばれた四国辺路中興とされる真念がいます。これについて浅井證善師は、次のように指摘します。
「地蔵尊と一基碑は、ともに大法師真念とあって、阿閣梨真念ではないから、真念は真言僧として加行および伝法潅頂は受けていなかったとものと思われる。まさに聖として一生を過ごしたのである」

 法師澄禅も同様だったのではないかと研究者は考えているようです。それには、澄禅が笈を背負って智積院を訪れ寓居し、修学後に帰国するも落ち着くことなく、「一鉢一錫の旅を名山霊区を遍歴した」という記述があります。ここからは澄禅は、遊行を好む聖のような存在で、一つの鉢と一つの錫杖を持ち、各地の修行地や霊場を巡る廻国修行僧としての一面があったことが分かります。
  これまでのエリート学僧というイメージを取り払って、廻国修行僧と澄禅を位置づけて、研究者は『四国辺路日記』を改めて見直していきます。
 承応2年(1653)という江戸前期は、四国辺路はまだまだ厳しい苦行の辺路行でした。澄禅をエリート学僧と捉えていたときには、その彼がどうして四国辺路にでかけるの?という疑問がありました。しかし、澄禅を廻国修行・聖的な遊行僧としてみるならば、四国辺路は当然の行為として理解できます。

 『四国辺路日記』の冒頭には
「和歌山から船に乗って四国に向かう時、高野の小田原行人衆とともに行動を共にし、さらに足摺近辺で高野・吉野の辺路衆と出会い涙を流して再会を喜びあつた」

と記します。その四国辺路の行人衆とも以前からの人間関係があったことが分かります。また
「往テ宿ヲ借リタレバ、坊主憚貪第一ニテ ワヤクヲ云テ追出ス」
「其夜ヲ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間、枕モ敷兼タリ」
などの記述からは、辺路の厳しさを体験しながらも、その苦難や苦みを味わいつつ辺路している様子が伝わってきます。その姿に澄禅の僧としての生き方がうかがえます。伽藍の奥の閉じこもる学僧とは、ひと味違う印象を受けます。
 また澄禅は、いくつかの札所寺院で「読経念仏した」と記しています。ここからは、澄禅は念仏を信仰する念仏行者であったともうかがえます。確かに悉曇や梵書に優れていたのでしょうが、ある一面では念仏信仰や遊行聖的要素をも合わせ持っていたと研究者は考えているようです。これが当時の真言僧の重層性なのかもしれません。

1澄禅の悉曇連声集
澄禅の『悉曇連声集』

 澄禅の著書には『悉曇連声集』『四十九院種子集』などがあります。どれも梵字の書法に関する著書で、学僧とも云えそうです。比較のために当時の梵語の代表的な学僧と比較してみましょう。
 当時、悉曇学者として著名だったのは河内延命寺の浄厳だったようです。彼は、新安祥寺流を開き、各地で貞一ご教学の講義を行い、著作も『三教指帰私考』『光明真言観誦要門』など密教に係わる教義を著し、数多くの弟子がいます。
 また慈雲尊者は『十善法語』など真言教学の数多くの著作があり、弟子も数百人に及ぶとされます。澄禅を浄厳・慈雲と比較することには、やや無理があるようです。澄禅は学匠というよりも、梵字の能書家だったと研究者は考えているようです。
 彼は、法師澄禅として、各地の名山の修行場や霊場を巡り歩く遊行僧としても活躍し、江戸時代初期ころの四国辺路を訪れ、「四国辺路日記」を書き残し、その様子を明らかにしてくれているということでしょうか。
「澄禅」の画像検索結果
 
澄禅が四国辺路で出会った友人達は元落武者?
 澄禅は四国辺路の中で数多くの人たちに出合ています。その中で高野山の友人たちの再会の場面が何度か出てきます。ここでは、元落武者だった人たちに焦点を当てて見てみましょう。 
土佐・大日寺近辺の菩提寺ので出会いです。
爰に水石老卜云遁世者在り、コノ人元来石田治部少輔三成近習ノ侍雨森四郎兵衛卜云人ナリ。三成切腹ノ時共ニ切腹被申ケルヲ、家康公御感被成、切腹ヲ御免在テ、三成ノ首ヲ雨森二被下。其後落髪シテ高野山二上り、文殊院ニテ仏事ナド執行、ソノ儘奥院十石卜人二属テ一心不乱二君ノ後生菩提ヲ吊。三年シテ其時由緒在テ土州ニ下り。
  意訳変換すると
ここには水石老という遁世者がいた。この人はもともとは、石田三成の近習侍で雨森四郎兵衛と云う人である。関ヶ原の戦い後に三成が切腹した時に、共に切腹を申しつかっていたが、家康公の免謝で、切腹を免れ、三成の首は雨森に下された。その後、剃髪して高野山に上がり、文殊院で仏事に従い、そのまま奥院の十石上人(十穀聖)となって木食修行を行い、一心不乱に三成公の菩提をともらっていたが、3年後に縁があって土佐に下った。

もう一人は土佐国分寺の手前の円島寺という所に宿泊し時に出会った旧知です。
   住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝ノ侍也。幼少ヨリ出家シテ高野ニモ住山シタルト夜モスガラ昔物語ドモセラレタリ。天性大上戸ニテ自酌ニテ数盃汲ルル也。大笑。其夜ハ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間枕ヲ敷兼タリ。
意訳変換しておくと
   この住持は八十歳を越える老僧である。この僧は以前は、長曽我部殿の普代家臣であった人である。幼少の時に出家して高野で修行を行っていた人なので、夜がふけるまで昔物語をした。天性の酒好きで自酌で数盃を飲み干すして、大笑する。その夜は大雨で古寺の軒からは雨もろが止まらず枕を敷きかねる有様だった。

 長宗我部氏の旧家臣の多くは大坂夏の陣や冬の陣にも参加しています。そのため戦後には「戦犯」として追求され各地に落武者として逃げ込んでいます。ある者は修験者に姿を変え、金毘羅大権現に逃げ込み、時の別当宥盛に拾われたものもいます。ある者は四国の山深い奥に入って行ったものもいるようです。
  一つのストトーリーが湧いてきます。
土佐の円島寺で再開した老住持も、長宗我部の取りつぶし後に出家して高野山に上がり、真言宗を学び故郷土佐の小さな寺に住まいを得たのではないでしょうか。澄禅と酒を酌み交わしながら高野山の思い出話などに話が弾んだようです。しかし、その生活はまことに厳しいものだったのでしょう。大坂夏の陣や冬の陣からは、40年近い歳月が経っていますが、こうした落武者系の高野聖を受けいれた寺院が各地にあったことが分かります。武士の出家と高野山とは、深いつながりがあったようです。高野山に出家後しばらくの間、修行に励み、やがてそれぞれ縁を得て地方に落ち着いていく姿が見えてきます。これが地方仏教の一面を表しているのかも知れません。そして彼らが高野聖として「弘法大師伝説や阿弥陀念仏信仰」を運んできたのかもしれません。
伊予・今治では
神供寺二一宿ス。此院主ハ空泉坊トテ高野山二久ク住山シテ古義ノ学者、金剛三味結衆ナリキ。予ガ旧友ナレバ終夜物語シ休息ス

今治の一ノ宮の近くでは、
新屋敷卜云所二右ノ社僧天養山保寿寺卜云寺在り。寺主ハ高野山ニテ数年学セラレタル僧也。予ガ旧友ナレバ申ノ刻ヨリ此寺二一宿ス。

とあり、澄禅と旧知の間柄の人物もいます。澄禅は四国辺路を行う中で、かつての旧知の友を頼って訪れたのでしょう。札所以外の四国内の寺院にも、高野山と関わりを持った僧侶が数多くいたようです。
 前回に見たように澄禅は、善通寺では泊まっていませんが、金毘羅大権現の真光院には7月12日から三泊しています。当時は、金毘羅大権現の別当寺は金光院で、これに5つの子院が仕えるという組織形態でした。運営を行っていたのは社僧たちで、有力な社僧は高野山で学んだ真言密教僧侶です。ここにも澄禅と同じ釜の飯を食べた高野山の「同窓生」がいたようです。その同窓生の計らいで、澄禅は本堂奥の秘仏も拝観しています。これについてはまた別の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①澄禅は真念と同じように、真言僧として加行および伝法潅頂は受けておらず、聖であった。
②澄禅を廻国修行僧と位置づけて、『四国辺路日記』を改めて見直す必要がある
③澄禅は四国内の寺院や小庵などに、高野山と係わりを持つ僧と再開している 彼らは念仏僧、い わゆる高野聖であった可能性がある。
④澄禅も聖として、高野山を何度も往復し訪れていた可能性がある。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。

1澄禅 種子集
             澄禅の種子字

澄禅は、サンスクリット語の研究で知られた学僧で、僧侶としても高い地位にあった人物です。今で云うと大学の副学長か学部長クラスの人物であったと私は考えています。そのため彼の残した四国辺路日記には、要点がピシリと短い言葉で記されていて小気味いいほどです。彼は、訪れた各札所で本堂や諸堂の位置や様式、本尊のことや、対応した住持のことまで記しています。今回は各社寺の景観に焦点を絞って見ていくことにします。
   テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。以前に阿波の札所については、見ましたので今回は土佐から始めます


東寺(最御崎寺)
 本堂ハ九間四面二南向也。本尊虚空蔵菩薩、左右二二点ノ像在。
 堂ノ左二宝搭有。何モ近年太守ノ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ、
津寺  本堂西向、本尊地蔵杵薩。是モ太守ヨリ再興ニテ結構ナリ。
西寺 (金剛頂寺)堂塔伽藍・寺領以下東寺二同ジ。
神峰寺 本堂三間四面、本尊十一面観音也
大日寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。是モ太守ヨリ近キ比修造
国分寺 寺領三百石、寺家六坊有り 近年堂塔破損シタルヲ太守ヨ
リ修理
シ給フ。
一宮
  宮殿・楼門・鳥居マデ高大広博ナル入社也。前太守長曽我部殿修
造セラレ
シタル儘也。当守護侍従殿時々修理ヲ加ラルルト云。
五台山 
本堂ハ太守ヨリ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ 塔ハ当主宥厳上
人ノ造立ナリ。鐘楼・御影堂・仁王堂・山王権現ノ社、何モ太
守ノ願ナリ。
禅師峰寺 本堂南向、本尊十 面観音。二王門在り。
高福寺 玄関・方丈ノカカリ禅宗ノ寺立テ也
種間寺  本堂東向、本尊葉師。是も再興在テ新キ堂也
清滝寺  是再興有テ結構也。寺は真言宗。寺中六坊在
青龍寺
頂上二不動堂在リシガ先年野火ノ余焔二焼失シタリ。然ヲ本堂
再興ノ時、大守ヨリ小倉庄助方二被仰付新Hノ五社 南向横二双
ビテ四社サエフ 一社ハ少高キ所二山ノ上二立、何モ去年太守ヨ
リ造営
セラレテ結構也。

足摺山 内陣二横額二当寺諸伽帝ハ従四位上行徒従来上佐守源朝臣忠
義為武連長久祈願成就弁再興也卜五筆横二書タリ
寺 山  二王門・鏡楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ此大守ヨリ再興在テ
 結構ナリ
観自在寺  本堂南向、本尊薬師如来。寺号はハ相違セリ。
稲荷ノ社  田中二在り小キ社ナリ。
仏木寺   本堂東向。本尊金剛界大H如来座像五尺斗
明石寺
本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂二移テ在り。源光山延寿院卜云。
寺主ハ無ク上ノ坊卜云山伏住セリ
菅生山
本堂間四面、二王門・鐘楼・経蔵・御形堂・護摩堂・鎖守ノ社
双、堅同広博ナル大伽藍也
岩屋寺 本堂三間四面、本尊不動明王
浄瑠璃寺 昔ハ大伽藍ナレドモ今ハ衰微シテ小キ寺一軒在り。
八坂寺 昔ハ三山権現立ナラビ玉フ故二十五間ノ長床ニテ在ケルト
  也。是モ今ハ小社也。
西林寺 本堂三間四面、本尊十一面観音、
浄土寺 此本堂零落シタリシヲ、(中略)十方旦那を勧テ再興シタル也。
繁多寺 本堂・二王門モ雨タマラズ、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極
ノ躰ナリ。
石手寺
本社ハ熊野二所権現、十余間ノ長床在り。ツヅイテ本堂在
り。本尊文殊菩薩。三重塔・御影堂・二王門、与州無双ノ
大伽藍
也。
大山寺  本堂九間四面、本尊十一面観音也。少下テ五仏堂在り悉朽
  傾テ在。
円明寺 本堂南向、本尊阿弥陀。
延命寺 本尊不動明王、堂ハ小キ草堂、寺モ小庵也。
三島ノ宮 本地大日卜在ドモ大通智勝仏ナリ
泰山寺 寺ハ南向、寺主ハ無シ、番衆二俗人モ居ル也。
人幡宮 本地弥陀。
佐礼山 本堂東向、本尊千手観音也。
国分寺 本堂南向、本尊薬師。寺楼、庭上前栽誠ニ国分寺卜可云様
ナリ。
一ノ宮 本地十一面観音也。
香園寺 本堂南向。本尊金界大日如来。寺ハ在ドモ住持無シ。
横峰寺 本堂南向、本尊大国如来。又権現ノ社在り。
古祥寺 本尊毘沙門天。寺は退転シタリ
前神寺 是は石槌山ノ坊也
三角寺 本堂東向、本尊十一面観青。前庭ノ紅葉無類ノ名木也。
雲辺寺 本堂ヲ近年阿波守殿ヨリ再興在テ結構ナリ。
小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。
観音寺 本堂南向、本尊正観音。
琴弾八幡宮 南向、本地阿弥陀如来。
持宝院 本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。
弥谷寺 寺ハ南向、持仏堂ハ、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サ
三間半奥ヘハ九尺。
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。
出釈迦山 是昔ノ堂ノ跡ナリ。
甲山寺 本堂東向、本尊薬師如来。
善通寺 本堂ハ御影堂、又五間四面ノ護摩堂在り。昔繁昌ノ時分ハ
之二続タルト成。
金蔵寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)古ハ七堂伽藍ノ所也、四方築
地ノ跡今二有。
道降寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)昔ハ七堂伽藍ノ所ナリ。(中略)本
堂・護摩堂由々敷様也。
道場寺 本尊阿弥陀、寺ハ時宗也。
崇徳天皇 今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。
国分寺 白牛山千手院、本堂九間四面、本尊千手観音也、丈六ノ像
也。傍二薬師在り、鐘楼在。寺領百石ニテ美々舗躰也。
白峯寺    当山ハ智証・弘法大師ノ開基、五岳山中随一也             
根来寺    青峰、本尊千手観音、五舟ノ一ツナリ。                      
一ノ宮    社壇モ鳥居モ南向.                                        
屋島寺    千手観青ヲ造本堂一安置シ給う                           
八栗寺    本堂ハ南向、本尊千手観音                               
志度寺    本尊十一面観音、本堂南向                                
長尾寺    本堂南向、本尊正観音也`                                  
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。
是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二 坊在シガ、今ハ午縁所ニテ
本坊斗在

以上を国別に整理すると、次のようになります。
澄禅による四国88所の近世寺院状況

国別に見ると次のような事が云えます。
①阿波と伊予の札所寺院の荒廃が著しいこと
 阿波については以前にもお話ししたように23ケ寺の内の12ケ寺、伊予では26ケ寺中9ケ寺が、退転もしくは小庵の如き有様でした。特に阿波の十楽寺か井戸寺までの周辺の寺院が厳しい状況にあったようです。荒廃した寺院は、無住であったり、山伏などが仮住まいをしている状況だったようです。

②土佐と讃岐の寺院については「結構也」と表現しています。
つまり本堂・護摩堂などの諸堂字が整備されていたようです。澄禅から見ても真言寺院としての機能が果たされていると思えたのでしょう。特に土佐の場合、「太守ヨリ再興ニテ結構ナリ」という表現がいくつも見られます。戦国時代には長宗我部の領地として、他国からの侵入を受けなかったこともあります。また、江戸時代に入って山内一豊が高知城を築いて初代の土佐藩主となり、続く忠義の時代には、元和の改革など藩政の引き締めを行うとともに、野中兼山を起用して新川開発や土木事業・殖産興業の推進しました。その中で他国に先駆けて社寺の修築・造営を積極的に推進したことが、澄禅の記録にも反映しているようです。土佐の札所にとって、山内忠義の存在は大きいようです。
又太守ハ無二無三ノ信心者ニテ、殊二真言家ヲ帰依シ玉フト云。

ここからは、忠義がとりわけ真言宗を信仰していたことが分かります。

讃岐の場合は、なぜか各寺院の景観についてはあまり詳しく記していません。
そのため寺社についてよく分かりませんが、次のような評価が見えます。
サスガ大師以下名匠降誕在シ国ナル故二密徒ノ形儀厳重也。(中略)
其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ、例時勤行丁重ナリ。
真言宗寺院としての構えと寺の勤めも申し分ない、結構な寺院であるとしています。ここからはその他の寺院の多くも伽藍が整備されていたと研究者は考えているようです。
『讃岐国名勝図会』などには、讃岐の有力寺院は生駒侯の再興を伝えるものが数多く見られます。
例えば金毘羅宮・善通寺・国分寺・屋鳥寺・長尾寺などに対して、
生駒氏は生駒記には、次のように記されています。
「殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも寄付し、長宗我部焼失の場を造営して、いよいよ太平の基願う」

民心の心を落ち着けるためにも、生駒氏は地域の有名寺院の保護・復興に取り組んだとされます。
さらに生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重について、
寛文九年の『御領分中宮出来同寺々出来』は、次のような宗教政策を記しています。
金蔵寺
然るに右同年、御影堂・本堂・山王之社並寺院、松平讃岐守頼重再興、加之寺領高式拾石被付与事。
国分寺
慶長年中、生駒讃岐守一正被再興伽監棟数合十六宇、只今在之事。
白峯寺
寺領高百拾斗、内六拾石は天正年中生駒雅楽頭近規寄進。至干今寺納仕候折紙有之。内拾石ハ万治年中松平讃岐守頼重寄進折紙有之。内四拾石は寛文年中同源頼重寄付折紙有之事。
やってきた藩主の宗教政策によって、領内の四国辺路の札所も戦乱からの復興にスピードの差が出たようです。

最後に研究者は、御影堂(大師堂)に焦点を当てます。
御影堂が記されているのは焼山寺・恩山寺・鶴林寺・太龍寺・五台寺山・菅生山・石手寺・善通寺の九ケ所のみです。札所以外では三角寺奥院・海岸寺・仏母院・金毘羅金光院の四ヶ所だけです。これをどう考えればいいのでしょうか。弘法大師信仰と弘法大師像を祀る御影堂
(大師堂)はリンクしていると考えられます。弘法大師信仰があるから大師王は建立されます。この時代に大師堂が普及していなかった葉池を考えると
①弘法大師信仰がまだ、四国霊場には波及していなかった
②弘法大師信仰は広がっていたが、御影堂という形では表現されていなかった
③御影堂がなくても弘法大師像が本堂に安置され、大師信仰が行われていた
これは、各札所の弘法大師像の造立年代が、重要な決め手になってくるのでしょう。どちらにしても「大師信仰」は、熊野信仰や阿弥陀信仰、念仏信仰に比べると、後からやってきて接ぎ木されたような印象を持たされる札所が多いように私は考えています。

以上をまとめると、次のことが言えよう。
①四国のうち、阿波と伊予国は「堂舎悉退転シテ草堂ノミ」とか「寺ハ退転シテ小庵」のように、寺が荒廃している様子が数多く記されている。そこに念仏聖や山伏などが住み着いて、辺路に応対していた。 
②一方、土佐は藩主山内氏、讃岐は藩主生駒氏、藩主松平氏などが積極的に復興に尽力したため、「結構」な寺として密教の行儀がなされている。
③弘法大師を安置する御影堂は、わずか九ケ寺しかみられない。その後、真念『四国辺路道指南』では飛躍的に増加している。この間に弘法大師に対する信仰がより一層盛んになったことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献
     「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

 
DSC09216
現在の金山神社(旧金山権現)
79番天皇寺の寺伝は、空海との関係を次のように記します
 空海が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井(八十場の清水)を汲んで大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した。

DSC09226
 金山神社内に残された瓦

 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。
DSC09221
金山神社

ここからは次のようなことが分かります。
①これは金山権現(摩尼珠院妙成就寺)の由緒で、天皇寺のものではないこと
②金山権現は、もともとは金山の上の現在地にあり、金山権現が札所であったこと
③権現を祀るのは修験者たちで、ここが修験者たちの行場であり、聖地であったこと
 ここからは現在の天皇寺と金山権現とは、まったく別の寺院であったことがうかがえます。どこかで「株取り」されたか「接ぎ木」されたようです。それを史料で見ていきたいと思います。
   テキストは 「五来重 天皇寺 四国遍路の寺」です
DSC09224
金山神社の敷地内の瑠璃光寺

まず、金山の麓の79番天皇寺高照院を見ておきましょう。
本尊は十一面観音、御詠歌は
「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

崇徳上皇が白峰で亡くなられて、死骸をしばらく八十場の清水に漬けて腐敗を防いだという伝承から作られているようです。

「浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえも こういうところをさすらったのだ」

という風に解すようです。ここには、天皇の御遺勅を八十場の水に浸したという伝えが歌われています。そうしておいて、京都に通知し、指示を仰ぎます。その結果、勅許によってこの地で荼毘に付すということになったようです。遺骸を安置したところに白峰宮という神社が建てられ、後に別当寺として摩尼珠院妙成就寺ができたようです。神仏混淆の時代ですから神社を管理したのは、社僧達で修験者たちでした。
西庄 天皇社と金山権現2
①天皇社と④金山権現(讃岐国名勝図会)

さて、現在の天皇寺です。
 グーグル地図で見ると、このお寺の西にあるのが崇徳上皇の遺骸を清水に浸けて保存したという③八十場の清水です。金山からわき出る清水が途切れることなく流れだし、夏場はここで名物のところてんが食べれます。その光景は、何十年も変わらないままです。

八十八ところてん清水屋(香川県坂出市の創業200余年

 現在は広場に金山権現がまつられていて、金山がもともとの信仰対象であったことがうかがえます。そして八十場の水源に当たる金山(181m)に、当時の本社があったようです。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、④金華山摩尼珠院と呼ばれていたようです。これが、札所としてはもともとのもとの山号です。そして「金華山摩尼珠院」は、奥の院であると同時に、札所であり、寺地であったようです。
Yasoba Gushing Spring 8 - 坂出市、八十場の湧泉の写真 - トリップアドバイザー
八十場の湧き水

17世紀半ばの澄禅の『四国辺路日記』には、次のように記されています。
まず、讃留霊王(神櫛王)伝説がでてきます。
悪魚退治伝説 八十場
悪魚退治伝説の八十場霊水を飲んでの蘇りシーン(讃岐国名勝図会)

神櫛王が八十余人の兵とともに悪魚を退治した時に、魚の毒気に当てられたのを、八十場の霊水で蘇生させたシーンです。その後、弘法大師がこの八十場の泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王を祀ったが高照院の起源と紹介します。ここからは、金山が霊山で、そこからわき出る八十場の霊水が古くから信仰対象であったことが分かります。

八十八水 第四巻所収画像000022
八十場
ここで金山の霊山への道を、「仮説」も含めて簡単に辿っておくことにします。
①新石器時代の金山は、かんかん石(サヌカイト)の産地で、「石器工房」があった。サヌカイトは瀬戸大橋の橋脚となった塩飽の島沿いに岡山方面にも運ばれている。サヌカイト分配センターであった。
②稲作が始まると、金山からわき出る豊富な用水は、下流域の稲作の水源とされ、集落から信仰の山とされるようになる
③周辺には、綾氏に連なる古代豪族のものとされる醍醐山古墳群など大きな横穴式石室を持つ古墳群が集中する。
④金山の西側(現坂出市街)は、古代の鵜足郡の津があり、綾氏の鵜足郡進出の拠点ともなった。
⑤同時に、古代瀬戸内海の交易湊でもあり、金山は航海の目印として、「海の民」の信仰対象でもあった。

 このように農耕民や海の民から信仰対象とされていた金山に、熊野行者がやってきて霊山として開山します。それが金山権現です。権現とは、修験者が開山した霊山であることを表す言葉です。その宗教施設は、もともとは現在の金山権現が安置されている場所でした。そして、麓の八十場の清水も霊地化していきます。金山の上と麓にふたつの宗教施設が現れたとしておきましょう。
 これを後の弘法大師伝説では、次のように伝えます。

「八十場の泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井(水場)とした」

後に崇徳上皇がここで崩御したので、この寺の別名が天皇寺となります。
以上を整理すると、金山権現と八十場の清水には次のような信仰が積み重ねられていることがうかがえます。
①稲作の水源信仰
②海の民の航海安全信仰
③神櫛王伝説
④弘法大師伝説
⑤崇徳上皇伝説
 このようないろいろな信仰や伝説が、行場で修行する修験者や高野聖たちによって、時代と共に付け加えられていったと私は考えています。
  天皇寺が高照院と呼ばれるのも、かつてこの寺が金山の中腹にあったころに、その常夜灯が海から見え燈台の役割を果たしたからだとある研究者は指摘します。確かに、ここから東北に白峰山と五色台も見え、備讃瀬戸を行き交う舟も木陰から見えます。

1天皇寺
白峰宮と天皇寺は隣接している。
澄禅の『四国辺路日記』には、天皇寺と金山権現の関係が次のように記されています。

世間流布ノ日記ニハ如此ナレドモ、大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也。実ハ天皇ハ人皇七十五代ニテ渡セ玉ヘバ、大師ニハ三百余年後也。天皇崩御ノ後、子細在テ玉体ヲ此八十蘇ノ水二三十七日ヒタシ奉ケル也。其跡ナレバ此所二宮殿ヲ立テ神卜本崇、門客人ニハ源為義・同為朝力影像ヲ造シテ守護神トス。御本堂ニハ十一面観音ヲ安置ス。其他七堂伽藍ノ数ケ寺立、 三千貰ノ領地ヲ寄。此寺繁昌シテ金山薬師ハ在テ無ガ如二成シ時、子細由緒ヲモ不知 辺路修行ノ者ドモガ此寺ヲ札所卜思ヒ巡礼シタルガ初卜成、今アヤマリテ来卜也。当寺ハ金花山悉地成就寺摩尼珠院卜云。今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。

意訳変換しておきましょう。
世間では71番札所は天皇寺とされている。しかし、弘法大師が定めた札所は金山薬師(権現)である。崇徳上皇は弘法大師よりは、300年も後の人である。崇徳上皇が亡くなったときに、子細あって玉体(遺体)をこの八十場の水に37日、浸して保管した。その跡なので、ここに神社が建てられ、神として祀るようになった。その別当寺が成就寺摩尼珠院であった。参拝者の中には源為義・為朝の像を造って守護神として寄進するものも現れた。その別当寺の本堂には、十一面観音が安置され、七堂伽藍が揃い、三千貫の寺領を持つ大寺となった。
 この寺が繁昌すると、山の上の金山薬師は在て無きが如しとなり、子細も由緒も忘れられてしまった。辺路修行の修験者や聖も、この寺を札所と思いこんで、巡礼するようになる始末となった。しかし、この寺もいつしか退転(衰退)して今は、民家の屋敷となっている。
ここで澄禅が記していることを、要約すると次の通りです。
①四国辺路の元々の札所は、薬師如来を祀る金山権現であった。
②それが里の八十場の近くに崇徳上皇を祀る成就寺摩尼珠院が現れ、いつしかそこが札所となった。
③成就寺摩尼珠院(金山権現)が衰退すると、 巡礼者たちは隣接する天皇寺に参詣するようになり、金山権現は忘れ去られた。
つまり次の両者は、まったく別の宗教組織であったことが分かります。
金山権現  金華山摩尼珠院 
崇徳天皇社 別当成就寺摩尼珠院  → 別当天皇寺 
どちらも摩尼珠院であったために混同がおこったようです。悪意に捉えると、現在でも後進企業が先行企業を追いかける場合に使う方法です。先行者の名前と混同させることによって「利益」をあげようとする手法ともいえます。この結果、山の上の金山権現を参拝するものはいなくなり、「成就寺摩尼珠院」を札所として納札する巡礼者が増えたというのです。そして摩尼珠院が「退転」すると、隣接していた天皇寺が札所を兼ねるようになったと云うのです。

崇徳天皇社・天皇寺
成就寺摩尼珠院と天皇社(讃岐国名勝図会)
金山権現 → 別当摩尼珠院 → 天皇寺 の関係を、今はどのように説明されているのでしょうか。ウィキペディアには、次のように記されています。

  寛元2年(1244年)後嵯峨天皇の宣旨により崇徳天皇社は再建され、摩尼珠院はその別当職に任じられ崇徳院永代供養の寺という役割を担わされた。そして、いつの頃か札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院を「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。

 金山薬師は「議岐国名勝図会」では、現在地に金山権現と記されています。 以上からは戦国期から近世初頭にかけては、まだ四国霊場の札所は、流動的であったことが分かります。同時に中世における金山権現の宗教的な意味合いは、はるかに大きかったことがうかがえます。坂出地区の中世の宗教的な拠点は、金山権現だったと私は考えています。それが、白峰寺が別院・子院の「行人(山伏・僧兵)」などを擁して巨大化すると、その勢力を失っていったのではないかと推察できます。
高照院天皇寺(四国第七十九番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
天皇寺 背後は金山

ここからは私の「仮説」です。
この周辺には、修験道復興の祖でもあり、醍醐寺の祖ともされる聖宝(理源大師)の痕跡が残ります。それを挙げると
①聖通寺山の聖通寺。この寺は聖宝の学問寺とされ、「聖通寺」も「聖宝」に由来すると云います。
②聖宝誕生の地としての本島と沙弥島。この二つは明治初期に生誕地を廻って裁判で争っています。その時の和解案は「聖通寺は、母の漂着地、本島は出生地」です。
③さらに聖通寺や金山、城山にかけては修験者の行場とみられる巨石や岩屋が点在します。
④ここからは本島 → 沙弥島 → 金山権現 → 三谷寺にかけての行場ゾーンが存在したことが考えられます。それが、聖宝に関係する醍醐寺系の当山派の修験者であり、高野聖達であった。
以上が私の「仮説(妄想?)」です。
 それは、以前にお話しした観音寺と善通寺を結ぶ七宝山の行場のようなものだったのではないかと考えます。その拠点の役割を果たしたのが
①宇多津の聖通寺
②坂出の金山権現
③城山の南側の三谷寺(丸亀市飯山町三谷)
であったのではなかろうか思っています。
 そのような中で疑問に思えてくるのが、聖通寺がどうして四国霊場の札所にならなかったのかということです。
この寺は、立地条件や修験者の拠点であったこと、歴史性などからしてもその条件に適う寺だと思うのですが、選ばれることはありませんでした。このエリアから選ばれてのは郷照寺です。この寺は、時宗念仏聖など、聖集団の拠点でした。この辺りの経緯が今の私には見えてきません。
   以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五重等 四国遍路の寺 天皇寺
関連記事

弥谷寺 高野聖2
 
高野聖
 
江戸時代になると幕府や各藩は、遊行者、勧化僧の取締りをきびしくしていきます。これも幕藩体制強化政策の一環のようです。また民衆側も信長の高野聖成敗以来、高野聖の宿借りを歓迎しなくなります。宿借聖や夜道怪などといわれ、「人妻取る高野聖」などといわれては、それも当然です。高野聖が全国を遊行できる条件は、狭められていきます。
画像 色木版画2

 また、高野聖の中には、もともと高野山に寺庵をもたず、諸国を徘徊する自称高野聖もすくなくなかったようです。また弟子の立場であれば高野山へかえっても宿坊の客代官や客引きをつとめるくらいで、庵坊の主にはなれません。このような立場の高野聖は、村落の廃寺庵にはいって定着し、遊行をやめるようになります。地域に定着した高野聖は、高野十穀雫ともよばれて、真言宗に所属したものが多かったようです。
 近世初頭の四国霊場の置かれた状態を見ておきましょう。
  17世紀後半に書かれた『四国辺路日記』の中で、札所の困難さを次のように記しています。
「堂舎悉ク退転(荒廃)シテ 昔の礎石ノミ残れり」
「小キ草堂是モ梁棟朽落チテ」
「寺ハ在レドモ住持無シ
ここには、かなりの数の寺が退転・荒廃したことが記されています。阿波の状態は以前にお話ししましたが、23ケ寺中の12ケ寺が悲惨な状況で、そこには山伏や念仏僧が仮住まいをしていたと記されます。天下泰平の元禄以後でこの状態ですから、戦乱の中では、もっとひどかったのでしょう。
 例えば永正十(1513)年から元亀二(1571)年には、
①讃岐国分寺の本尊像
②伊予の49番浄土寺の本尊厨子
③土佐の30番一の宮
には落書が残っています。土塀などなら分かりますが、本尊や厨子に落書ができる状況は今では想像も出来ません。そのくらいの荒廃が進んでいたとしておきましょう。そんな落書きの中に
「為二親南無阿弥陀仏
「為六親眷属也 南無阿弥陀仏
「南無大師遍照金剛」
という文字が確認されています。
さらに52番太山寺には、阿弥陀如来像版木(永正11(1512)年があるので、四国辺路に阿弥陀・念仏信仰が入ってきていることがうかがえます。

四国辺路道指南 (2)
四国辺路指南の挿絵
四国辺路への高野聖の流入・定着
そうした時代背景の中で、天正九年(1581)年に 織田信長が高野聖や高野出の僧1382人を殺害したり、慶長11(1606)年に徳川幕府による高野聖の真言宗帰入が強制されます。これがきっかけとなって、高野山の僧が四国に流人してきたのではなかろうかと研究者は考えているようです。
 例えば、土佐の水石老なる遁世者は、高野山から故あって土佐に移り住んだとされます。時は、まさに高野聖にとって受難の慶長11年頃のことです。また、伊予・一之宮の社僧保寿寺の僧侶は、高野山に学んだ後に、四国にやってきたと云います。このように、四国の退転・荒廃した寺院へ、山伏や念仏信仰を持った高野空などが寓居するようになったのではないかと研究者は考えているようです。
四国辺路道指南の準備物

 そして高野山の寺院から四国に派遣された使僧(高野聖を含む?)も、そのまま四国の荒廃した寺院に住みつくようになったというのです。この時期の高野聖は、時宗系念仏信仰を広めていた頃です。高野山を追い出された聖達もやはり念仏聖であったでしょう。彼らにとって、荒廃・退転していた寺院であっても、参詣者が幾らかでもいる四国辺路に関わる寺院は、恵まれていて生活がしやすかったのかもしれません。
四国遍礼絵図 讃岐
四国辺路指南の挿絵地図 讃岐

高野聖による四国辺路広報活動
 彼らは念仏信仰を基にして、西国三十三所縁起などを参考に、今は異端とされる「弘法大師空海根本縁起」などを創作します。それを念仏信仰を持つ者が各地に広め、やがて四国八十八ケ所辺路ネットワークが形成されていくというのが研究者の仮説のようです。
 同時に高野聖は、高野山に住む身として弘法大師伝説も持っていました。弘法大師と南無阿弥陀仏(念仏信仰)は、彼らの中では矛盾なく同居できたのです。こうして勧進僧として民衆への勧進活動を進めた高野聖は、四国辺路を民衆に勧める勧進僧として霊場札所に定住していったとしておきましょう。

四国辺路道指南 (4)
四国辺路指南 弘法大師

ここからは弘法大師伝説や四国辺路形成が身分の高い高僧や学僧達によって形作られてものではないこと、庶民と一体化した高野聖達の手で進められたことが明らかにされます。その際の有力なアイテムが弘法大師伝説だったのでしょう。同行二人信仰や右衛門三郎伝説も、四国遍路広報活動の一環として高野聖たちによって作り出されたものと研究者は考えているようです。
 しかし、高野山の体制整備が進むと末寺である四国辺路の札所寺院でも、阿弥陀・念仏信仰は排除され、弘法大師伝説一色で覆われていくようになります。そして高野聖の痕跡も消されていくことになります。それが四国辺路から四国霊場への脱皮だったのかもしれません。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
ひとでなしの猫 五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
参考文献
五来重 高野聖
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰
参考記事

       水間寺 千日隔夜宝篋印塔(享保十二年 1727年)

隔夜信仰
(かくやそう)という言葉は、私は初めて聞きました。
もともとは、空也上人の念仏行から来ているようです。
隔夜信仰は。『元亨釈書』には、空也上人が長谷に千日参拝の願立てして春日一夜、夜を隔てて泊まり、3年3月の間、念仏の流布を祈ったことに始まるとされます。当初は、奈良の春日大社と長谷寺への千日参詣で、春日に一夜、長谷に一夜、と夜を隔てて泊り交互に参拝を行うものだったようです。つまり、奈良と長谷寺を毎晩、提灯を灯し、念仏を唱えながら千日歩くという修行です。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜宝篋印塔

前かがみ提灯を差し出し、念仏をとなえながら歩いたという隔夜僧
 
『多聞院日記」の永禄九(1566)年五月二十二日の条には、次のように記します
ナラ、ハセ隔夜スル法師、南円堂より六道迄つれて雑談之処、彼者ハ当国片岡ノ生レ信貴山先達ノ所二九才ヨリ奉公了、奥州柳津虚空蔵二一年二百日参籠了、峯へ入事四十一度、京ニテ四十八度ノ百万返供養、高野大師卜当社トヘ片道三日ツツニテ、以上十一ケ年ノ間五百度参詣成就、ナラ、ハセ隔夜今年既二三年ニナル間、明年三月ニテ三年三月可有供養ム々、当年四十六才ナルニ申、扱モ/ヽノ事也
意訳変換しておきます
奈良と長谷を隔夜修行している法師と興福寺の南円堂より六道まで連れ添って歩いて雑談した。その時に聞いた話では、彼は大和国片岡の生まれで、信貴山先達の所で29才に奉公を終えて、奥州柳津の虚空蔵で1年2百日の参籠を行った。峯(吉野大峰?)へ入る事41度、その後、京都で48度の百万返供養を行い、高野大師(高野山)と当社(春日)とへ片道三日ずつ、以上11ケ年ノ間かけて五百度参詣を成就させた。
 奈良、長谷の隔夜修行も、今年で既に3年になるという。来年3月で供養も終わるようだ。当年46才になると云う。
ここからは隔夜修行を行っている僧侶について次のようなことが分かります。
①大和生まれで信貴山先達の所で29歳まで修行を行った。
    → 当山派修験者的性格
②高野大師(高野山)と当社(春日)への11年かけて五百度参詣 → 真言僧侶で弘法大師信仰
③そして隔夜修行者
 この法師は、山伏であり、念仏僧であり、真言密教僧侶であり、弘法大師信仰も持ち、あるゆる修行を各地で積んでいる人物のようです。これが、室町時代末期の遊行僧の典型のようです。つまり現在のように「分業」ではなく、行者とはこうした多様性を持ち供えていたことがうかがえます。これも神仏混淆のひとつの形であったのでしょう。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜
「鳥取八幡宮、一千日隔夜供養、當寺観世音」とあり、鳥取八幡宮と水間寺の間で隔夜千日参詣が行われたことが分かります

 ここで研究者が注意するのは、いろいろな修行の最後に目指したものが隔夜僧であることです。彼らは、夜に南無阿弥陀仏を唱えながら歩いたのです。強い阿弥陀信仰をもっていたようです。


隔夜僧の成就碑が四国霊場のお寺には、残っているようです。今回は、それを追いかけてみることにします。
四国百名山 雲辺寺山

最初に66番雲辺寺の隔夜念仏の石碑を見てみましょう。
天和三(1683)年五月二十八日の建立で、
正面 「南無大明 慈悲阿弥陀如来 高照山濾峯寺 
    正観世菩薩七宝山観音寺 
    千手観世音菩薩巨鼈山雲辺寺
左側面「百日隔夜行脚信心 願主敬心 天和三癸亥綺五月二十八日」
右側 「為現在当二世大安楽也 敬白」
これは、濾峯寺と七宝山観音寺と雲辺寺の三ヶ寺への百日隔夜念仏行の成就記念碑のようです。
 観音寺と雲辺寺は札所です。まず雲辺寺から見ていきましょう。
この寺は、讃岐山脈の西端の標高950mの三豊平野を見下ろす山上にあり、山岳仏教の拠点だったようです。しかし、熊野信仰の形跡は、史料からは見えてきません。ただ『阿波国摩尼珠山高越寺私記』の中に、次のように記されています。
①熊野・金峰・山王・白山・石鎚(五所権現)が勧請された
②山上には阿波坊を持法院、讃州坊を王蔵坊、伊予坊を善蔵坊、土佐坊を年行寺の四国坊が建てた
ここからは熊野権現が勧進されていることと、修験者たちがそれぞれ坊や子院を構えていたことが分かります。熊野信仰をもつ修験の寺であつたことはうかがえます。

観音寺市の寺・神社 クチコミ人気ランキングTOP4【フォートラベル】|香川県

 次に、観音寺を見ておきましょう。
この寺は、鎮守は雲辺寺と同じ五所権現です。以前にお話したとうに、中世には七宝山のいくつかの行場を統括し、善通寺の我拝師山と結ぶ辺路ルートがあったようで、修験の寺でもあったようです。同寺所蔵の『弘化録』(弘化三年(1845)刊)には、貞享九年(1684)のこととして、次のように記されます
「仁王像彩色、願主木食恵浄、仮名本念」

ここからは、仁王像を彩色するに当たり、木食が恵浄が勧進活動を行ったことが分かります。これは、敬心が百日隔夜を行った翌年のことになります。その頃の観音寺周辺には、こうした遊行僧が活動していたことがうかがえます。中世の修験の寺は、外部からやって来た念仏聖などが生活しやすい環境にあったのでしょう。観音寺には、惣持院など六ケ寺の搭頭寺院がみられますが、これらの寺院に念仏聖などは寓居していたと研究者は考えているようです。

最後に濾峯寺という耳慣れないお寺です。
この寺は、観音寺から南に財田川(染川)を越えた約五〇〇メートルの所に、今は庵としてあるようです。江戸中期の火災で焼失し、その後に再建されたようで『西讃府志』には「廬峰寺、高照山号ク、禅宗興昌寺末寺、本尊阿弥陀仏、開山梅谷、四十六石八斗四升八合」とあります。現在は規模の小さな無住の庵となり、本尊は地蔵菩薩となっているようです。江戸時代前期に隔夜信仰と、どのように結びつくのかはわからないようです。
   百日の隔夜行を行った敬心は、この3つのお寺に泊まりながら毎夜の参拝を続けたのでしょう。
しかし、私が不思議に思うのは、そうして雲辺寺と観音寺の間の札所である太興寺が選ばれなかったのかということです。
その理由として考えられる要因を挙げてみましょう。
①太興寺は江戸初期には荒廃していた
②太興寺が念仏僧を嫌悪し排除する体制にあった。
今の私に想像できるのは、この程度です。今後の課題と云うことにしておきましょう。ただ、長期に渡る隔夜行が続けられるためには、支援体制が必要だったでしょう。雲辺寺や観音寺は、それに対して協力的だったのでしょう。だから、境内への記念碑の建立もできたのでしょう。
 また、夜に歩くのですからある程度、道も整備されていなければなりません。参拝の道は、遍路の道が使われたことが考えられます。この隔夜行が行われていたのは真念が四国遍路を何回も回っていた時期と重なります。ある程度、遍路道も整備されていたのでしょう。

次に土佐室戸の行当岬の隔夜信仰を見てみましょう  
 太平洋に突き出た室戸には、2つの霊場が東西にあります。
東の室戸岬 最御崎寺(東寺=奥の院)   胎蔵界
西の行当岬 金剛頂寺(西寺=本寺)     金剛界
平安時代は、東西のお寺を合わせて金剛定寺でした。その奥の院が室戸岬で、そこでは海に向かって火が焚かれる行場でもあったようです。後に分院されるのが現在の最御崎寺(東寺)です。

このふたつのお寺は10㎞ほど離れていますが、西寺と東寺を往復する行道が見つかっています。これが「中行道=中辺路」です。そして、金剛頂寺の下の海岸が「行当頭=行道岬」です。ここには、不動岩があり「小行道」と呼ばれる行者道がありました。

隔夜信仰 行当岬
室戸の行当岬

つまり、修験者たちの行場であったようです。地元では「空海が悟りを開いたのは、室戸岬ではない、こっちの行当岬だ これぞ まっこと空海」と云っています。
 確かにここには、波が寄せているところに二つの洞窟があって、不動さんを祀っていて、今は波切不動に「変身」しています。

金剛頂寺のある山が金剛界、室戸岬の最御崎寺の方が胎蔵界とされていたようす。密教では金胎両部一体ですので、行者たちは両方を毎日、行道します。例えば、円空は伊吹山の平等岩で行道したと記しています。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行ったのです。窟籠り、木食、高野聖など、中世の室戸周辺には行道修行する坊さんが数多くいたようです。まさに修行のメッカだったのです。
そのような行当岬に、つぎのような隔夜修行の祈念碑が残されています
元禄三(1690)庚午歳八月八日 願主
(サク) 佐州
(キリーク)三界万霊有縁無縁
  隔夜五百日廻向 頼円法師
これは元禄三年の真夏に、五百日の隔夜修行が成就したことが記されています。多分、金剛頂寺と最御崎寺の間の隔夜修行だったのでしょう。この二つの寺を交互に念仏を唱えながら参拝したようです。これを行った頼円は、夜な夜な二つのお寺を南無阿弥陀仏を唱えながら通ったようです。強い念仏・阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。実は、彼はここにやって来る前にも隔夜修行を行っているようです。それは58番佐礼山仙遊寺にも、彼の記念碑が残されていることから分かります。そこには「隔夜」の字句はありませんが、阿弥陀三尊の種子や「三界万霊有縁無縁」などの文字は行当岬のものと共通します。
        キリーク:阿弥陀(金剛界四仏の種子)

そして元禄二(1689)年二月一十八日という年月が刻まれています。ここからは、伊予の仙遊寺での修行を終えたあとに、続いて室戸岬にやって来て500日の隔夜修行を行ったことが分かります。
 この碑のそばには、もうひとつ隔夜の石碑があります。
そこには「南無阿弥陀仏」の名号とともに「天和三年九月二十六日・天和四年正月六日、府中七ケ所」と刻まれています。行者名は上野国利根都沼円郷の浄雲とあります。研究者が注目するのは「府中七ケ所」です。それは国分寺・佐礼山・円明寺・三島(南光坊)・泰山寺・一之宮・八幡宮なのです。これらの寺院は、どれも四国霊場の札所寺院です。かれは、この7ヶ寺で隔夜行を行い、室戸にやってきているのです。ここに出てくる札所は、念仏の糸で結ばれていたことになります。念仏信仰の強い行者達が、どうして四国霊場の札所にやって来たのでしょうか。
 

伊予松山の56番太山寺にも、2基の隔夜碑があります。
 (向右) 五百日隔夜念仏廻向  谷上山
                  願主河内国錦郡 徳誉清心
正面 南無阿弥陀仏      
左  三界無縁法界萬霊      石手寺
裏面 延宝四丙辰年八月二十五日太山寺
ここからは、延宝四年に太山寺 → 石手寺 →谷上山(伊予市宝珠寺)の3ケ所を結ぶ寺院で、河内出身の徳誉清心が五百日の隔夜念仏を行っていたことが分かります。太山寺と石手寺は、ともに八十八ケ所の札所になります。八十八ケ所寺院と熊野信仰・隔夜念仏がが重なりあうようです。
 隔夜念仏の石碑が残る寺は、中世に真言念仏(密教系阿弥陀信仰=高野山系時宗念仏僧)が活動していた所が多いことを研究者は指摘します。江戸時代に活躍する隔夜僧も、中世に遡る念仏信仰の下地があるお寺を修行場として選んでやって来たようです。
10番 切幡寺

阿波の十番切幡寺にも、次のような隔夜碑があります.
  天和三□年   宗体
  奉修行従当山霊仙寺迄
(ア)百日隔夜所願成就所  敬白
  六月二十一 日   常心
天和三(1683)年の建立で、雲辺寺や・仙遊寺・太山寺のものと同じ年になります。この頃に四国で、隔夜信仰が盛んになっていたようです。この碑で研究者が注目するのは「本修行、当山従り霊仙寺まで」とあることです。十番の切幡寺から一番霊山寺の間を修行していたことがうかがえます。これを「十里十ケ所」詣りと呼ばれるもので、これを一夜の間に念仏隔夜修行していたようです。
 讃岐の善通寺を中心とする「七ケ所(寺)詣」や高松を中心とする「観音七ヶ寺詣」のように、中世の「中辺路」ルートをリニューアルした道が遍路道として使われるようになっていたのかもしれません。

隔夜僧は どうして修行場に四国霊場を選んだのでしょうか.
そこには念仏僧を引きつけるものあったからなのでしょう。隔夜僧の僧侶からすると「念仏信仰の寺」と見え、好ましいと写ったのでしょう。それが中世以来の念仏化した高野聖の「伝統」が残っている所だったのかもしれません。
 四国内で隔夜念仏が行われたのは、江戸時代前期の延宝頃で、この時期は真念が四国辺路した時代と重なりあいます。真念は伊予や土佐の札所で、鉦を叩きながら念仏を唱える隔夜僧に出会ったはずです。
 どちらにしても、真念が廻った17世紀後半の四国霊場は、南無阿弥陀仏を唱え参拝する念仏僧や、隔夜行で念仏を唱えながら夜の遍路道を参拝する人たちいたのです。まだまだ、念仏・阿弥陀信仰は霊場に根付いていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

    現在の常識からすると霊場札所で「南無阿弥陀仏」を唱えるのは非常識とされるでしょう。霊場では般若心経が「常識」です。ところが、江戸時代初期の遍路さんたちは、札所で南無阿弥陀仏を唱えていたようです。それを前回は追いかけて見ました。 それでは四国霊場を廻りながら南無阿弥陀仏を唱えるという人たちの心の中は、どうなっていたのでしょうか。「数式」にすると
弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」=初期の四国霊場巡礼者

になるのかもしれません。これを「真言系阿弥陀信仰(真言念仏)」と研究者は呼んでいるようです。

この真言系阿弥陀信仰を広げたのが高野聖たちだったようです。
 五来重氏は「高野聖」の中で、次のような事を明らかにしました
①高野山の千手院聖をはじめとして、後期高野聖が時衆化したこと、
②室町時代以降には、高野聖の多くが念仏化したこと
③高野聖は廻国性があり、諸国をめぐり弘法大師伝説や念仏信仰を流布したこと
④その拠点となったのが全国の有力寺院であること
こうして、南無阿弥陀仏を唱える高野系念仏聖が大きな寺院の周辺に住み着き、坊や院を構え勧進活動を行うようになります。修験者たちが修行のために訪れていた四国辺路の霊場寺院にも、このような動きはやってきます。こうして弘法大師伝説と南無阿弥陀仏は、霊場周辺でも「混淆」していきます。
 それでは、その「混淆」はどのような形で現在に残っているのでしょうか。
今回は「真言系阿弥陀信仰の遺物」めぐりを行って見たいと思います。テキストは前回に続いて「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」です
高野山 名号(みょうごう)板碑

最初に訪れるのは高野山奥の院です
奥の院参道の芭蕉句碑から御廟側へ約30m行った左側にある板のように薄い石碑に大きく南無阿弥陀仏(名号)と刻まれています。これを名号版碑(いたび)と呼ぶようです。石材は、徳島県北部の吉野川沿の緑泥片岩製が使われています。阿波には、庚申信仰などの板碑が数多くある所で、阿波式板碑(あわしきいたび)として知られていることは以前にお話ししました。
 この板碑も、徳島県で作られたものが奥の院まで運ばれてきたようです。康永3年(1344)3月中旬に建てられたもので、碑面には、次のように刻されています。
中央 南無阿弥陀佛
右側 為自身順次往生? 亡妻亡息追善也、奉謝二親三十三廻
左側 恩徳阿州国府住人、康永参?甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白

阿波国府の住人が、亡妻追悼と33ケ所詣の成就のために建てたもののようです。これを最初に見たときには「なんで、高野山に南無阿弥陀仏を???」という感じでした。しかし、14世紀頃の高野山の状況を考えると納得します。先ほど見たように、念仏聖化した聖達によって、高野山は阿弥陀信仰の中心地のひとつとなっていたのです。だから時宗念仏の一遍もやってきたのです。
 こうした背景の中で、「南無阿弥陀仏」の六文字を記す板碑が、高野山の最も聖域である奥の院に建立されたようです。今ならば決して許されることではないでしょう。しかし、当時の高野山は弘法大師信仰と阿弥陀信仰が混淆した時代です。その後、「真言原理主義」運動が高揚し、高野聖たちは高野山から追放されます。それと同時に、高野山から阿弥陀信仰も消し去られていくことになります。その中でわずかに残った念仏信仰の遺物といえそうです。
 
次に研究者が向かうのは高知県の名号念仏です。

大日如来 種字2
大日如来の種字(サンスクリット文字)

須崎市神旧飛田の名号碑を見てみましょう。
(ア一) 南無阿弥陀仏  
    明応五天五月十六日
この名号石の梵字のアは大日如来の種子で、その下に南無阿弥陀仏とあります。真言密教の核心仏・大日如来 + 南無阿弥陀仏」ですからまさに「密教的阿弥陀信仰」です。真言念仏と研究者は呼んでいるようです。
大日如来 種字1

つぎは高岡都中土佐町上ノ加江のものです。
(サ一)             天正―九年 敬
(キリーク一)(キャカラバア) 為周陽侍者禅師也
(サク一)            三月二十七日 白
最上部に阿弥陀三尊、その上に五輪のキャ・カ・ラ・バ・アがあります。
五輪塔 種字


これも阿弥陀三尊と密教の五輪(水・火・風・空)が融合したもので真言念仏のひとつの形でしょう。同じものが
①香北町猪野々の猪野家住職逆修碑(天正三年(1575)十月二十一日銘
②土佐山田町須江の須江念仏供養塔(慶長十九年(1614)三月―五日銘
などがあるようです。時代は、中世末~近世初期のもののようです。これらの供養塔からは、この時期・この地域に真言的念仏信仰が拡がり、念仏講が形成されていたことがうかがえます。
そしてこれは土佐ばかりではなく、四国全体に広がっていた痕跡があります。この真言系の阿弥陀・念仏信仰を伝え、さらに近世初期に駒形の墓石の形式を持ち込んだのは、誰なのでしょうか。
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の岩壁に刻まれた南無阿弥陀仏

真言系阿弥陀信仰の遺物は、四国霊場の弥谷寺にもあるようです
 弥谷寺は死者が集まる祖霊の寺と言われてきました。本堂のすぐ近くの石壁面には、浮き彫りの阿弥陀一尊や南無阿弥陀仏の六字名号が彫られています。弥谷寺が古くからの阿弥陀信仰の霊地であることを示しています。
弥谷寺 舟石名号

 この寺は、近世初期には、弘法大師の父をとうしん太夫、母をあこや御前とする「空海=多度津海岸寺誕生説」の像が安置されていました。つまりこの寺は「阿弥陀信仰(念仏信仰)と異端の弘法大師伝説」を流布していた寺なのです。中世には念仏聖が拠点として活動していた所だと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
 本堂のすぐ下の墓地の中に、次の念仏講の碑を研究者は見つけています
    延宝四内辰天八月口□日
大見村□□念仏講中二胆安楽也
建てられたのは延宝四(1677)年です。澄禅や真念のやってきた時期に当たります。大見村は、弥谷寺の南麓の村です。その時代に念仏講があったことが分かります。大見地区は三野平野に袋状に入り込んでいた三野湾の東部に位置し、瀬戸内海交易に活躍した勢力の存在がうかがえる地域です。
少し想像力を膨らませて、この地に念仏講が組織されるまでの経緯を描いてみましょう。
 高野山の念仏聖が瀬戸内海の熊野水軍の交易ルートに沿いながら紀州の湊を出て、次のような聖地を廻国します。
①引田湊背後の大内郡・水主神社周辺
②児島五流修験のテリトリーである小豆島・直島・本島
③そして塩飽を経て、多度津・道隆寺
④道隆寺の末寺である白方・海岸寺へ 
⑤そして海岸寺の奥の院(?)である弥谷寺へ 
こうして弥谷寺には高野系の念仏聖が何人も住み着き、坊を開き子院を形成していくようになります。彼らは生活のためにも周辺住民への布教活を行います。病気治療や祈祷などで、住民の心を捉えながら、念仏講へと導いていく。さらに瀬戸内海交易に乗り出す地元有力者を熊野水軍のネットワークに紹介し、彼らも信者に加えていく。こうして大見村の階層を越えた人々の間に念仏講を作り、その指導者に収まっていく。これを念仏聖の周辺部への浸透と呼ぶのかもしれません。こうして近世初頭には弥谷寺周辺には念仏講があり、念仏信者が数多く存在していたという仮説に至ります。

念仏講1
昭和50年頃の念仏講
 この石碑の周辺には、念仏講に関係したと思われる次のような墓もあります。
「(ア) □□妙昌呂仲定尼  明暦二年□月□□日」
「自性妙蓮禅定尼霊位 延宝五年丁巳一月二十七日」
(ア)は大日如来の種字です。
大日如来 種字4

これらの墓は当時としては上質の石(御影石)が使われていて、念仏講には経済的に恵まれた人たちも参加していたことがうかがえます。

DSC03896父母院
仏母院(多度津白方 熊手八幡神社の旧別当寺)

古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

DSC03860

 当時のこの寺は「空海=白方誕生説」が流布されていました。
 それは空海は、多度津白方で生まれで、父は藤新太夫と母はあこや御前とされていました。父母寺は、その名の通り空海の父母が住んでいた館跡と自称します。ここを訪れた澄禅は『四国辺路日記』に、父母寺・御影堂の弘法大師像を開帳し、その霊験を住持が説くのを聞いたと記します。先ほど見た念仏講逆修碑からすると、この寺の住持も、高野山系の念仏聖であったのかもしれません。どちらにしても仏母院にも、弥谷寺と同じように念仏講があったようです。そして、その講を組織する念仏聖が異端の弘法大師伝説を流布していたとしておきます。
仏母院の墓地には、この他にも次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。
享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。さらに文化年間(1804~18)には山伏寺であったことも分かります。仏母院は熊手八幡神社の別当を勤めていた関係もありそうです。
 以上のように、仏母院は近世初期の住持は念仏聖で、「空海誕生地」説を流布していたようです。「空海=白方誕生説」を流布した仏母院や弥谷寺は、善通寺とは別の系譜の僧侶や聖がいたことがうかがえます。その後、弥谷寺は善通寺からの指導者を受入れるようになり、「空海=白方誕生説」の流布を止めますが、白方では父母寺に代わって海岸寺がこれを流布し、奥の院を建立します。それを本寺の道隆寺も保護します。これが善通寺と海岸寺の争論へと発展していくことは以前にお話ししましたので省略します。
DSC03829
海岸寺奥の院

続いて75番善通寺の真言系阿弥陀信仰の痕跡を探してみましょう
この寺には、御影堂の西にある墓地に多くの歴代院主の墓石が建立されています。その中に次の墓石があります
(サ)    明暦四□年
(キリーク) 為□□□□禅定問
(サク)   □月二十日 施主 近藤喜三
明暦四年(1658)の建立で、上部に阿弥陀三尊の種子、両側面には五輪塔が浮き彫りされておいるようです。このような例はほとんどない珍しい形式だと研究者は指摘します。これも「真言系阿弥陀信仰の遺物」と言えるようです。

72番出釈迦寺奥院(いわゆる「禅定」)にも自然石に刻まれた名号石があるようです。
禅定は捨身ケ岳ともいわれ、弘法人師が幼いときに捨身修行した時に、釈迦如来が現れ救った所として、中世の修験者の中では聖地として有名だったようです。
DSC02600

西行もここへ来て何年も修行しています。この山は弘法大師修行の地と修験者たちには聖地で、我拝師山と呼ばれてきました。

DSC02575

現在の我拝師山は、塔跡といわれるところに大師堂と鐘楼があます。そこから東に捨身ケ岳を仰ぎ見ることができます。名号石は本堂・鐘楼堂のすぐ下に、北面して建てられています。これが当初からあった場所なのかどうかは分かりません。「南無阿弥陀仏」あるだけで、建立年代などはありません。研究者は、江戸時代中期頃以前と見ているようです。
 この名号石の少し上の場所に釈迦如来の石像があります。こちらは天保七年(1836)と刻まれています。江戸時代末のものです。この周辺に十王石像が十体並べられています。我拝師山には地蔵菩薩の世界と通じる信仰の痕跡がうかがえるようです。
 この我拝師山について、五来重氏は西行『山家集』などの記事から「我拝師山(がはいし)」は、もともとは「わかいち」のことで、熊野の若王子が祀られていたと指摘します。若一王子は、熊野修験者が信仰したものです。熊野信仰の痕跡もあることになりますが、ただ現在は、その遺物は何も確認されていないようです。ここにも熊野信仰に、後から弘法大師信仰が接木された跡はあるようです。
屋島寺縁起絵
屋島寺縁起絵
84番屋島寺にも六字名号があります。
自然石に刻まれていて、我拝師山の禅定にあるものに比べると風化が進んでいるようです。建立年代は江戸時代中期以前と研究者は見ています。場所は、旧遍路道治いの屋島山上に近い場所で、坂道を登ってきた遍路達を迎えたのでしょう。当時の遍路達は、ここで手を併せて南無阿弥陀仏を唱え、拝したのかもしれません。
屋島寺は、鎮守が熊野神社です。寛文十年頃の『御領分中寺々由来』には、次のように記されます。
当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法人師之勧進之也

熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。まさに熊野信仰と弘法大師信仰の合体の典型例を見るようです。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりません。しかし、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあることは以前にお話ししました。
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 
という熊野修験者のテリトリー拡大の時期のこととしておきましょう。
 大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永十四(1407)年の行政坊有慶吐那売券には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 屋島寺には「熊野本地絵巻」があります。熊野絵巻は熊野比丘尼が絵説きしたといわれますので、熊野比丘尼がいたこともうかがえます。
屋島寺 金毘羅参拝名所2

さらに本堂の東方には「皿の池」が残ります。これは源平合戦で、戦の後に刀を洗ったと伝えられます。しかし、熊野比丘尼がいたとすると『血盆経』と関係がありそうです。「血盆経」は血の穢(けが)れのために地獄へ堕ちた女人を救済するための経典とされます。

霊場に残る念仏・阿弥陀信仰の痕跡を追いかけ見ました。
これらをもたらしたのは、時宗念仏化した高野聖だったと研究者は考えているようです。彼らは弘法大師信仰も同時に持っていました。こうして修験者や聖などの廻国性の宗教者が集まる寺院では、「弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」が広がっていきます。
 しかし、高野山本山での「原理主義運動」の高揚の結果、高野聖達が排斥され、念仏信仰も粛正されていきます。その影響は、四国霊場寺院にも及びます。高野山と同じように、念仏信仰の痕跡は消えていくことになるのです。
そして、札所で南無阿弥陀仏が唱えられることはなくなります。代わって光明真言が最初に唱えられることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」
関連記事

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

  

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。

二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

DSC03479

これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

貴族の専有物であった古代寺院が、どのように民衆化していくのかを修験者や聖の視点から見ていこうと思います。空海・最澄の登場によって、平安時代になるとそれまでの都市仏教から、山深い山岳に巨大な寺院を建立されるようになります。
この時期の山岳寺院には、次のような特徴があると云われます。
①規模が比較的大きいこと
②山岳を修行の場とする密教寺院であること
③国家を鎮護し貴族の安穏を祈る国家的または貴族的仏教
役小角 - Wikiwand

11世紀を過ぎるころから、それまでの寺院の枠組みを越えて修行する山岳修行者=修験者・山伏が現れます。彼らは修行集団を形成し、諸国の霊山をめぐるようになります。諸国の名山とはたとえば12世紀に著された『梁塵秘抄』に見える七高山です。

他方、寺院の枠組みを越えて活動するもう一つの僧侶集団が形成されてきます。
高野聖とは - コトバンク

僧侶の中では最下層に属し、半僧半俗的な性格を持つ聖集団です。
彼等は庶民を日常生活の苦難から救済し、仏教を広めるとともに、民衆から生活の糧を得て社会活動を行い、堂塔を建立するための勧進活動を行うようになります。
 つまり、寺院の枠組みを越えた集団である「修験者・山伏と勧進聖」が姿を現すようになったのです。ともすれば寺院のなかに閉じこもり、国家や有力貴族のためだけに活動していた仏教寺院を、民衆救済へ変化させていったのが「修験者・山伏と勧進聖」になるようです。
修験者と勧進聖の役割
修験者は信仰を深めるために厳しい修行を行うとともに、人々を組織して先達となって霊山・寺院へ誘引するようになります。それの一つが四国八十八所や西国三十三所巡礼へとつながっていきます。
 また彼らは民衆救済のひとつの形として、農業技術、土木事業、医療活動などの社会活動も行います。
勧進活動 行基
行基菩薩勧進帳 鶴林寺 文明八年(1486)
鶴林寺の開基は寺伝では聖徳太子ですが「六禅衆供田寄進状」(『鎌倉遺文』)には「当寺本願行基菩薩」とあり、行基菩薩が開いたとされます。中世では行基開創伝承もあったようです。この本勧進帳は行基坐像の胎内から発見されたもので、勧進により行基像が造像されたことがわかります。これによると、文明18年から勧進から始り、多数の人々の勧進により造像されたようです。

彼らがどれだけ大きな勢力を持っていたかは、鎌倉時代初期の重源の狭山池の改修や東大寺再建事業からもうかがえます。
勧進 狭山池勧進碑
狭山池重源改修碑 大阪府立狭山池博物館 建仁二年(1202)
古墳時代に築造された狭山池は、古くは行基も、池の修復を行っています。鎌倉時代初期に東大寺大勧進職であった重源も、彼の業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に狭山池を修復したとの記載があります。平成五年(1993)の改修工事中に、重源の改修工事記念碑が発見されました。重源が勧進活動により修復を行ったことが記されています。

勧進僧の活動の一つは、念仏聖を中心とした民衆の「死後」の恐怖からの救済でした。古代仏教は葬儀とは無縁の存在でした。その意味で民衆信仰としての「葬送」は、新時代の仏教民衆化の要になりました。死者への葬送儀礼に関わった宗派の僧侶が民衆からの信頼と支持を得ることになります。平安時代初期には、死者への葬送儀礼の作法は、道教の影響が大きかったようです。それが次第に仏教儀礼へと代わっていくのは念仏聖たちによる社会活動の結果です。

納骨塔元興寺 鎌含時代
納骨塔 元興寺 鎌含時代・室町時代
納骨は、死者供養の一種で、法華堂や三味堂などに奉納されました。元興寺寺も納骨寺院の一つであり、納骨容器である五輪塔以外に、宝珠医印塔や層塔などのもありますがすべて小型の木製です。中に骨を入れ、堂内の柱などに打ちつけられました。
戦場の陣僧
戦場の陣僧

その例を時宗僧侶の活動から見てみましょう。
時宗僧侶達は、「陣僧」と呼ばれ、戦場にでて人々の救済に尽くすようになります。鎌倉幕府減亡の元弘三年(1333)五月二八日付けの時宗道場・藤沢清浄光寺の他阿の手紙は、時宗僧侶の働きを、次のように記しています。
鎌倉は大騒ぎですが、道場は閑散としています。合戦前、寺に足繁く通ってきた武士たちは戦場にいます。城の中も攻める側も念仏で満ちていて、捕縛されて頸を討たれる武士に念仏を唱えさせ成仏させました。

ここからは、時宗僧が「陣僧」として戦場に残らず出かけたため、寺は閑散としていたことが分かります。合戦前には敵味方なく時宗寺院に通ってきた武士達が、戦場では殺し合いながら念仏を唱えています。首を討たれる武士にも念仏を唱えさせ、浄土に送っています。彼らが敵味方分かつことなく死の際で活動していたことが分かります。
時宗一遍

一遍を開祖とする時衆僧は「南無阿弥陀仏」の名号を唱え遊行したました。
日常を臨終と心得て念仏信仰をつらぬくスタイルは、合戦で死と隣り合わせになる武士と共感を持って受けいれられたようです。聖らは、戦場で傷を負ったものに、息絶える前に念仏を10回唱えさせて極楽浄土にいけると安心させ、往生の姿を看取ります。
時宗陣僧の活動をもう少し見ておきましょう
 河内金剛山の楠木正成討伐軍に加わり捕縛された佐介貞俊は、頸を打たれる前に、十念を勧める聖に腰刀を鎌倉の妻子のもとへ届けるように頼みます。そして十念を高唱して頸を刻ねられます。聖が届けた形見の刀で、妻は自刃します。それが『太平記』で語られています。
 応永七年(1400)の信州川中島での小笠原長秀と村上満信らの合戦を記した『大塔物語』を見てみましょう。
大塔物語

ここには、善光寺などの時衆僧らが切腹などで死の間際にあるものに十念をさずけています。合戦がおわると戦場に散らばる屍をあつめて葬り、卒塔婆をたてて供養し、戦場の様子を一族に報告したと記します。戦いを見届け、絶命するものに念仏を勧め、打たれた頸をもらいうけ、遺言とともに形見の品を遺族に届け、敵味方なく遺体をかたづけて供養し、塔婆をたててこれを悼む。
 ここには、戦場の一部始終を見届ける役回りを果たす陣僧の姿があります。彼らの語りが文字に姿をかえ、『太平記』『大塔物語』をはじめとする軍記物語に詳細に描き込まれることとなったと研究者は考えているようです。
  同時に、このような活動を行い死者を供養する姿に、武士達は共感と支持を持つようになります死者の魂と、どのように関わっていくのかが鎌倉新宗教のひとつの課題でもあったようです。

中世寺院の民衆化
中世になり律令体制が解体すると、国家や貴族に寄生していた中世寺院は、経営困難に陥ります。つまり国衛領や荘国による維持が困難になったのです。そのような中で、武士・土豪さらには一般民衆へと支持母体をシフトしていく道が探られます。それは結果として、中世寺院自体の武士化や民衆化を招くことになります。

DSC03402
一遍絵図

 寺院の周辺に民衆が居住し様々な奉仕を行っていたことは、一遍絵図を見ているとよく分かります。
時代が下がるにつれて寺院内へ僧侶または俗人として民衆自身が入り込むようになります。それまで寺院の上層僧侶が行っていた法会も、一部民衆が担うようになります。例えば、兵庫県東播地方の天台宗寺院に見られる追灘会(鬼追い式)が、戦国期には付近の民衆が経済的に負担し、行事にも参加するようになっていきます。これは「中世寺院の民衆化」現象なのでしょう。
追儺会(鬼追い式)|興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント

「民衆化」現象は、最初は寺院と民衆をつなぐ修験者山伏や念仏僧などの勧進聖から始まり、次第に中世寺院自体が民衆化していくという形をとります。
それが最も象徴的に現れたのが戦国時代末の戦乱期でした。
 戦国時代末になると、中世寺院では修行者山伏・聖集団が寺内で大きな地位を占めるようになります。そして、彼らは寺院周辺に生活する武士や民衆と寺院との間にも密接な関係を作り上げていきます。戦乱で寺領を失い、兵火で伽藍が焼かれた場合も、立ち直って行く原動力は、寺院内部では下層とされた修験者や勧進聖たちでした。彼らによる勧進活動が行われない寺院は、再建されることなく姿を消して行ったのです。まさに修験者や勧進僧が活躍しなければ、寺が再建されることはなかったのです。彼らの存在意義は否応なく高まります。
そういう意味では戦国時代末期は、中世寺院が最も民衆化した時期でもあったようです。
ところがこのように民衆化した寺院を一変させたのが、信長・秀吉・家康によつて進められた寺社政策です。
信長に寺領を奪われた中世寺院は、秀吉からそれまでの寺領のうち数分一の朱印地を返されたのに過ぎません。また中世寺院は、寺院周辺の民衆との関係を断ち切られます。さらに寺院内での修験者山伏や勧進聖の地位が低められたり排除されたり、また彼等の社会的な活動も大きく制限されます。これは中世前期の「本来」の寺院の姿に戻させるという意図があったかもしれませんが、修験者たちは経済的には困難な状態が続き、近世の間ずっと長期衰退状態が続きます。
他方、民衆と寺院との関係では巡礼・参詣などという信仰上の関係はそのまま続き、寺院経済の重要な支えとなっていきます。このように近世の中世寺院は戦国時代末期の姿で近世化したのではなく、かなり大きく変化させた形で近世化したとものであると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
関連記事


    中世寺院 一遍絵図湯屋
  一遍絵図を見ていると上のような建物が描かれていました。
右からはね釣瓶で井戸から水を汲み上げているようです。その左に五右衛門風呂のような窯が据えられて童が薪をくべています。屋根の上からは、煙が立っています。校倉造りの白い壁の建物が湯殿なのでしょうか。中世の大寺院には湯屋があったようです。それでは、湯屋は寺院にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
中世湯屋 上醍醐西谷湯屋

まず、湯屋と風呂のちがいについて確認しておきます。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
が本来の語義です。今とは違って、風呂が蒸気をあびるサウナだったようです。しかし、このふたつは早くから混じりあって、温室・浴堂などの言葉も使われるようになります。

中世湯屋 上醍醐西谷湯屋差図
  風俗史家の下川耿史さんは、湯屋について次のように述べます。
  「仏教では汚れを洗い流すことは御仏に仕える者の務めとする、沐浴の功徳が説かれていました。そのため寺院にとって不可欠な七つの伽藍には、浴堂も数えられています。それが揃うことで、初めて七堂伽藍といわれるほど、重要な意味を持っていたのです。実際に、東大寺には大湯屋と称される浴室が設けられていて、修行としての入浴と衆生救済の一環としての入浴が行われていました。これが、日本人が自然に湧き出している温泉以外の場所で入浴した、最初の事例なのです」

中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋2
東大寺の『大湯屋』

 大寺院には、戒律の中に月に二回湯を沸かして入浴することが定められていた所もありました。衛生面とともに、穢れを祓う潔斎の意味が大きかったようです。そのため湯屋は聖なる場でもあり、僧団の集団決定を行う集会の場にもなります。
中世湯屋 東大寺「重源上人」大湯屋
東大寺の湯船
  
 大寺院は、構成員がフラットな平等関係ではなく、階層化された身分社会でした。そこでは入浴についても、身分秩序を守って湯を使うことになっていたようです。金剛寺・大山寺・鰐淵寺などには、湯屋を使う際のルールが残されています。また東福寺や東大寺二月堂などの湯屋内部には、そのルールを明記した札が掲げられていました。その中で、最も重要なものは「入浴順番」だったようです。それために建仁三年(1203)には、入浴の順序をめぐって比叡山の学生と堂衆が「闘争」を引き起こしています。(『天台座主記』)。

湯屋の様子を、本願寺の基礎を築いた覚如の一代記を描いた『慕帰絵詞』で見てみましょう。

中世寺院 慕帰絵詞

舞台は、美貌の少年覚如を興福寺に奪われまいと衆徒が鎧・弓矢で武装して守る三井寺南瀧院です。保護をうけた摂津国の坊舎では、部屋の奥に幕を垂らした湯屋があり、外では僧が薪を切り、童が火の番をしています。風呂焚きは童の仕事だったようです。
中世寺院 慕帰絵詞部分

浴室は湯を施す場として重視され、世俗の人々との接点の場として重視されていました。
中世湯屋 3

 中世の寺院では寺僧が湯浴みするだけでなく、寺辺の住民や有縁の俗人などに利用させるようになります。
これを「施浴・功徳風呂」とよびます。そうなると湯を沸かす回数も増えます。風呂を沸かすのには、大量の薪がいります。そのためには経費がかかります。経費に充てるために、有力者が湯料として所領を寄進し、その収入で湯を沸かす例も出てきます。建久四年(1193)の「礼阿弥陀仏田地寄進状」(東大寺成巻文書第九一巻)は、東大寺大湯屋のために湯田が寄進されたことを示す史料です。
 庶民に開放された湯屋を見ていきましょう
下野国足利荘の足利氏菩提寺堀内御堂(鑁阿ばんな寺)があります。
仁治二年(1241)二月、足利義氏は氏寺の堀内御堂での一族の忌日供養や大師講の時に「六齋日の湯」の興行をきめています。これは荘園や御厨の寄合で行い、郷ごとに薪三駄を引木として徴収することを公文所に命じています。郷から供出された薪でわかした湯が、郷住人の入浴に使われたわけで、堀内御堂は住人の保養センター的役割を果たします。粋な計らいです。周辺住民には歓迎されたことでしょう。
宮津市聟恩寺には、現在では手水鉢となっている鎌倉時代の湯船が残っています。

中世湯屋 宮津市聟恩寺湯船

今は手水鉢になっていますが、これが湯船だったようです。かつては、下から薪がくべられていたのでしょう。銘文には「十方檀那之合力」によって湯船が興法寺という寺院に設置されたと刻まれています。これも周辺住人を対象にした湯の例です。
 
村の湯屋は、病を治し、心をいやす場になっていたようです。
『今昔物語集』の三河守大江定基(寂照)の出家話には、次のような話があります。
五台山に参詣して湯施行を人々に行っていたところ、きたならしい女性が子どもを抱き、犬を連れて寂照のもとにやってきた。人々はいやがって追い払おうしたので、寂照は食べ物を与えて帰そうとしたところ、女性は「私には瘡があってつらいので、湯浴みしようとやってきたのです。お湯の功徳を私にいただけませぬか。」という。追われたのちにこつそりと子供。犬と湯浴みさせたものの追いかけてみると、スーッと姿を消していた。実は女性は文殊菩薩であったという。

ここからは聖者は、呼ばずともかたわらにそっと現れるものと考えられていたことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、カサブタで皮膚を犯された女性も湯屋に入ることができ、湯浴みは病を治すと考えられていたことです。また、尼寺法華寺では光明皇后がらい病者の垢を擦る話が伝えられ、中世には広く知られた話になっていたようです。
 らい病救済を積極的に行った奈良西大寺の律宗僧侶たちです。
その長老覚乗は信徒に「葬式に関わった後は穢れていないか」と問われて、清浄な戒律を守っている者は汚れないと答えます。このとき、白衣の童子があらわれて、それを認めて去ったと伝えられます。童子を神の使いとすると、律僧の行動はケガレに敏感な神祇からも認められた行為だったようです。
 こうして湯屋は身が清められて、聖なるものが出現する清浄な場と考えられるようになります。
そのため湯屋は僧侶たちの集会の場として使われるようになります。湯屋で決められたことは、清浄な場で話し合いの末に出した結論とされます。その決定は、僧集団の行動を一つにするにために、重要な役割を果たすようになります。裸のつきあいは、この時代から大切だったようです。
やがて南北朝期になると、時宗の京都六条道場では入浴者に料理が出されるようなります。
こうなると入浴とご馳走がセットになって、寺院の風呂は「休息・娯楽の場」の役割を濃くしていきます。戦国期の時宗寺院では歌・音楽を禁ずる禁制が出されています。禁止されると云うことは、逆読みすると、そのようなことが行われていたということになります。この時期の時宗寺院は、限りなく遊芸を提供する施設で旅宿化していたことがうかがえます。
中世湯屋 諏訪遊楽図

 こんなことが背景に有るのでしょう。美作国塩湯郷の永禄11年(1568)の地頭の掟には、湯屋造営は地下人の役で毎年春秋に興行すべきこととし、湯屋の管理をするものは湯旅人の役銭を徴収すべしと定めています。ここには、湯施行の姿とはちがった、現在に通じる湯治・娯楽としての湯が姿を見せていたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①寺院の湯屋は、沐浴として穢れをはらう場ととして七堂伽藍の一つで重要な建築物であった。
②そのため湯屋は特別な施設として、集会などにも使用された
③中世になると周辺住民にも開放され、寺院の庶民化の一翼をになう施設になっていく。
④湯屋施設の維持のために、有力者が寄進を行ったりするようになる。
⑤時宗寺院では、入浴と料理がセットになり娯楽的な施設も登場してくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館


同行二人 蓑笠

  私が持っている笠にも同行二人(どうぎょうににん)と書かれています。「同行二人」とは、お遍路さんがお大師さんと二人づれという意味と教えられました。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。そのため杖は大切に扱うように教えられます。
 それでは「同行二人」という考え方は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  「同行二人」のことを説明するときに語られるのが、右衛門三郎のお話です。この話を最初に見ておきましょう。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

   翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれました。その子は左手を固く握って開こうとしません。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたといいます。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。


同行二人 右衛門三郎伝説

右衛門三郎伝説の「石」は現在も石手寺(松山市)に奉られているようです。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)」が今も点在しています。右衛門三郎伝説は、近世になって石手寺の高野の念仏聖たちによって作られたと研究者は考えているようです。
この話が四国遍路の始まりと先達は語ります。
ここには、亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話です。これが大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰になります。つまり弘法大師は、今も四国霊場を巡礼すると同時に、巡礼者達を見守っているという「同行二人」信仰につながっていくのでしょう。
 そのためには、弘法大師は今もなお生き続けているという信仰が前提となります。
それは「弥勒入定信仰」から生み出されたもののようです。同行二人の基になる弥勒入定信仰を探ってみようと思います。テキストは武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程  です。

 右衛門三郎伝説以前の「同行二人」信仰について見てみましょう。
元禄三年(1690)の真念「四国遍礼功徳記」賛録は、次のように記されています
 遍礼(遍路)の事、或人のいへるに、大師の御記文(御遺告)
とて伝ふるに、身を高野の樹下にとどめ、魂を都率の雲上にあそばしめ、所々の遺跡を検知して、日々の影向をかずかずとあり。
 此文世の人信じあへる事にて、人々の口耳にとどまる事となんぬ。御遺跡へは大師、日々御影向あるにより、八十八ケ所の内いづれにてぞは大師にあひ奉といひなせるは、此よりなりと予江戸にありし時、ある人のいふをきけば、四国遍礼すれば大師にかならずあひ奉ると聞しにより、
 われ遍礼せし時、日々心をかけて、けふはけふは待しに、二十一日にてありしに、あんのごとく大師にあひ奉りこそ有がたけれと、手をあわせてかたりける。予いか様のすがたにてましましけるやといひければ、くろきぬの衣をめしけると覚え、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へ征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、ただ目を閉じ拝み奉る計にてすぎぬとなり、此たぐひ又おほし。
意訳変換しておきましょう
遍礼(遍路)のことについて、ある人から聞いた話によると、大師の残した文書には、身は高野の地に留めるが、魂は都率の雲上に遊び、四国の遺跡(霊場)を、日々巡り訪ねると書かれている。
この文章を信じる人たちによって、世に広められめられたようだ。大師が今も四国辺路を廻っているのなら、四国辺路すれば必ず弘法大師にあえるというのはここから来ているのだと思うようになった。真念が江戸にいた時に、弘法大師に会うために四国辺路した人から次のような話を聞いた。
 今日こそ、今日こそ出会えるかと心待ちに願っていたが、ついに21日目に弘法大師に出合うことができたという。まことに有難いことで、手を合わせて語りかけたという。真念が「どんな姿をなさっていましたか」と聞くと、「黒い衣を着て、征鼓を首にかけ、念仏を唱えられていました。征鼓は見えましたが、御顔は見えませんでした。ただ目を閉じ、拝んでいただき過ぎていかれました。」と言う。これはたぐいなく貴いことである。

 ここからは『御遺告』にあるように
「身は高野山の樹下に留めているが、魂は都率の雲上におられ、御遺跡(四国霊場)には日々御影向(巡礼)する」

ので「四国辺路すれば八十八ケ所の内のいずれかで弘法大師に出合える」と主張しています。これが弥勒下生信仰・人定信仰のようです。四国辺路には、古代・中世の弥勒信仰や弘法大師人定信仰が大きく影響していると、研究者は考えているようです。
次に進む前に、弥勒信仰の予習メモを見ておきます。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

兜率天(とそつてん)は、仏教の宇宙観にある天上界の一つで、欲界の第四番目の世界です。ここに住むのが弥勒菩薩です。上の図では一番上のゾーンになるようです。弥勒菩薩の登場は、お釈迦様の滅後56億7000万年後とされています。長くて待てない、との思いから弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)が生まれます。輪廻転生を繰り返して成仏を待つより、兜率天へ往生し弥勒菩薩から直接教えを聞く方が早道である、との考え方から兜率天往生の信仰がさかんになったようです。兜率天は弥勒菩薩の浄土として描かれることもありますが、天界は輪廻する世界のひとつですから、阿弥陀様の極楽浄土とはちがいます。浄土は、そこで成仏することができる究極の世界で、寿命は永遠です。兜率天は成仏できる世界ではなく、寿命に限りがあります。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

 古代新羅では、弥勒信仰が盛んだったようです。そのため新羅系の渡来人の中には信者が多く、大きな影響力を持っていたようです。また花浪集団の組織化や「聖徳太子伝説」などとも関わりがあったとされます。空海が生まれた時代にも、弥勒信仰が受けいれられていたようです。それが平安時代の後半から”兜率天へ行こう”の弥勒信仰から”極楽へ行こう”の阿弥陀信仰へと仏教界の流れは変わっていくようです。
仏像の種類:弥勒菩薩・弥勒如来とは】56億7千万年後に降臨する未来の救世主! | 仏像リンク

次に、弘法大師に弥勒信仰がどのように関わっているのかを見ていきましょう。
弘法大師と弥勒信仰との関係は『三教指帰』の中に、すでに見られます。それが高野山の弥勒浄上説や弘法大師入定説などへ展開し、弘法大師伝説へと成長して行きます。

① 弘法大師は『三教指帰』巻下「仮名乞児論」のなかで次のように記しています。
 所以に慈悲の聖帝(弥勒菩薩)、終を小したまう日、丁寧に補処の儲君、旧徳の受殊等に顧命して、印璽を慈尊(弥勒)に授け、撫民を摂臣に教ゆ、(中略)
余、忽に微旨を承って、馬に林ひ、車に脂して装束して道を取り、陰陽(道教)を論ぜず、都史(兜率天)の京に向かう。
とあり、若き日の空海が陰陽の道を進まず、弥勒菩薩がいる兜率天に向かったと、儒教・道教・仏教の中から仏教を選んだ理由を述べています。ここからは空海が弥勒菩薩の上生信仰(じょうしょうしんこう)を持っていたことが分かります。

②「性霊集』巻八「藤左近将監、先枇のために。七の斎を設くる願文」には、
所謂大師、異人ならむや 阿糾哩也 摩訶味鉾紺冒地薩錘(弥勒菩薩)即ち是也。法界宮に住して人日の徳を輔け、都史殿(兜率天)に居して能寂の風を扇ぐ。尊位は昔満じたれども権に辰宮に冊す。元元を子として塗炭を抜済す。無為の主宰、誰か敢えて名け言はむ。伏して推みれば、従四位下藤氏、担には四徳を蛍きて、晩、三宝を崇む。朝に閻浮を厭ひ、夕に都率(兜率)を願う。身は花と共に落ちつれども、心は香と将に飛ぶ。
とあり、「朝に閻浮(この世)を厭い、タベには都率天を願う」と、弥勒信仰を述べ、兜率上生を願っていたことが分かります。
同行二人 遺告

③『御遺告二十五箇条』「後生の末世の弟子、祖師の恩を報進すべき縁起第十七条に
吾れ、閉眼の後には必ず、まさに兜率天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、祗候して吾が先跡を問うべし。

とあります。これは弘法大師自身が、兜率天に往生し五十六億七千万年後に弥勒とともに下生して、自から修行した地を訪れるという意味ととれます。ここでは、弘法大師自身が兜率天に上生し、弥勒の下生とともに弘法大師も下生すると云っています。『御遺告』は、現在では後世に書かれたものというのが定説になっていますが、かつては承和三年(835)3月15日付けで、弘法大師入定の一週間前に弟子に与えた遺戒とされ、権威と効力をもってきました。

  やがて人定後170年後ころになると弘法大師は、生きたまま高野山に入定しているという信仰が登場してきます。
④『栄華物語』に道長が高野に参議した時のことが、次のように記されています。
 高野に参らせ給ひては、大師の御人定の様を覗き見奉らせ給へば、御髪青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、鮮かに見えたり、御色のあはひなどぞ、珍かなるや。ただ眠り給へると見ゆり。あはれに弥勒の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ
意訳変換しておくと
 高野山に参拝し、弘法大師の入定の様子を覗き見させていただいた。髪は青々(黒々)として、着ている衣は塵もついておらず、煤けてもおらず鮮やかに見え、そのお顔の色など、生きているかのようで、眠られているように見えた。弥勒の出世(下生)の時には、目覚めるであろうと思われるほどである。

 ここでは実際に、大師入定の堂を開いてその姿を見たという設定で、その様子が記述されています。ドキメンタリーではなく「物語」なので、許される記述としておきましょう。その姿は「まるで生きているように眠っていて、弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現すであろうことが記されています。
⑤ 康和五年(1103)   十一月の高野山大塔供養願文には
「紀州高野山者、弘法大師延暦年中、入唐求法之後、帰朝解純之時、遙隔万岨遠投三鈷、為値慈尊(弥勒菩薩)之出世、久結禅座而人定之地也」

というように、弥勒下生を願うために大師は、入定したというように変化していきます。
⑥康和六年(1104)に没した経範の『大師御行状集記』では、
「吾入定後、必住兜率他天、可待弥勒慈尊出世、五十六億余之後、必慈尊下生之時、出定祗候、可問吾先跡」

と記されます。ここではいろいろな経過を経て、弥勒信仰から弘法大師の入定説が成立したことが記されています。
⑦これに関連して、町旧市立国際版画美術館本の弘法大師図の賛文を研究者は比較検討します。
我昔遇薩錘 親悉伝印明 発無比誓願 陪辺地異域 昼夜万民 住普賢悲願 肉身証三味 待慈氏下生

読み下し変換すると
「我れ(弘法大師)は昔、薩睡(師)に遇い、親(まのあ)たりに、悉く印明を受け、無比の願いを発して、辺地やあらゆる場所において、昼夜の別なく万民を救済し、普賢菩薩の慈悲に住し、肉身のまま一味に入って、弥勒苦薩の下生を待つ

ここでも弘法大師が五十六億七千万年後の弥勒菩薩の下生を待つとされています。
 
⑧これに関連して、鎌倉時代作の三重・大生院本弘法大師図には、次のように記されています。
卜后於高野之樹下 遊神於都率之雲上  不?日々之影向 検知処々之遺跡

書き下し変換すると
「高野山奥院に住居し、兜率天に遊神し、日々影向し、各地の遺跡を検知す」
意訳すると
「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知(巡礼)する」

となるのでしょうか。これが室町・江戸時代を通して弘法大師御形に、常套句として見られるようになります。この文は「日々影向文」と言われるものです。この起源については、
⑨ 賢宝(1333~98)の『弘法大師行状要集』第五に、
興然閣梨自筆記云、或御筆丈云、卜居於高野樹下。心神雖遊兜率天上 不?間日々之影向。検知処々遺跡、云々東寺定額勝実 善通寺別当下向讃州。件下有此御筆文ム。勝実閑梨岨醐頼昭アサリ弟子也。

とあり、寛治年中(1078~94)に、東寺の定額僧勝実が善通寺の別当として讃岐に勤務したときに、善通寺で大師御筆の「日々影向文」をみたと記します。
⑩ さらに『阿波国太龍寺縁起』には、
卜居於之□□高野樹下 遊神於都率之雲上。庶貨坐会之雲。不閉日々之影向。移大滝之月。検知処々之遺跡。

とあり、兜率天の雲上にありながら、大瀧山に移る月を見るように、四国霊場を今も見守っていると記します。この縁起は承和3年の真然選とされますが、それをそのまま信じることはできないようです。

以上から「日々影向文」は、『御遺告』などに基づき成立したことがが分かります。
これが盛んに使われ出すのは鎌倉時代中期になってからのようです。そして興然(1121~1203)や勝実などのことを考慮すれば、平安時代後期には、「日々影向文」は知られていたようです。「日々影向文」を記した『阿波国大龍寺縁起』が、21番札所の縁起となっていることは「処々の遺跡を検知」という信仰、つまり弘法大師が聖跡を巡るという信仰と同じ地平に建っていることを示します。
 以上から「弥勒下生の時、人定を出て、私の旧跡(四国霊場)をたずねよう」とすることは、『御遺吉』から展開してきたものであることが分かります。
 弥勒下生説は、弥勒が下生する時に弘法大師も高野山奥院の人定から出て、自らが修行した旧跡をたずねるというのです。しかし、これでは、弘法大師に逢うためには、五十六億七千万年後の弥勒下生の時まで待たなくてはなりません。
Discover 4 弥勒菩薩 | 仏像フィギュアのイスムウェブショップ

 そこで、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えるという説が登場してきます。
 熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者にとって、弘法大師の聖跡を廻る目的の一つは「日々影向文」にあるように弘法大師に出会うことでした。これが大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることに発展したのではないでしょうか。近世になって庶民が辺路巡りをするようになると、その傾向が益々強いものになります。その要望に応えて「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出しいったと研究者は考えているようです。

真念『四国偏礼功徳記』贅録の内容を再確認してみましょう              
 八十八ケ所霊場を巡る目的の一つに、弘法大師の遺跡(八十八ケ所霊場)を巡ることにより、大師に逢い奉ることが記されています。真念は、辺路の意義をしっかりと認識していたことは間違いありません。その背景や起源にある、弥勒下生信仰や人定信仰を継承していたとも言えます。
 このような弘法大師と弥勒との関係は、弘法大師の本地は弥勒菩薩だという考えを生み出します。
つまり弘法大師=弥勒菩薩説の始まりです。
ここから新たな弘法大師像が作り出されます。通常の弘法大師図は右手に金剛杵、左手に数珠を持ちます。しかし、弘法大師=弥勒菩薩説では左手に弥勒菩薩の持物である五輪塔が載せられます。こうしたスタイルの弘法大師像が江戸時代中期頃に作られるようになります。これが弘法大師の弥勒信仰の最終的な展開と研究者は考えているようです。
同行二人 密教の弥勒菩薩

四国霊場の中に、弥勒信仰はどのように残されているのでしょうか。
14番常楽寺は八十八ヶ所の中で唯一、本尊が弥勒菩薩です。その像高は八寸と云いますから30㎝足らずで、本尊としては本当に小さい仏様です。詳しい緑起などもなく、その来歴は不明のようです。
51番石手寺には、大師堂に隣接して弥勒堂があります。そこに安置される弥勒菩蔭坐像は、鎌倉末~南北朝ころの作とされ、この時期の弥勒信仰の四国への広がりを知ることができます。
65番三角寺は慈尊院と呼ばれ、境内に御堂があり、等身に近い弥勒如来が安置されています。ここでも、弥勒に対する信仰が一時期は大きなものがあったことがうかがえます。
讃岐に入って69番観音寺には、やはり弥勒菩薩が安置された弥勒堂があります。寂本『四国偏礼霊場記』の境内図にも描かれていて、現在もほぼ変わらぬ位置に建っています。
77番道隆寺には寂本『四国偏礼霊場記』の中に弥勒堂が描かれていますが、現在は弥勒像はありません。
 以上のように霊場寺院には、弥勒菩薩信仰の痕跡が残るのはわずかです。これ以外にも本堂や大師堂などの諸堂内に、弥勒菩薩の像があるはずです。例えば、竹林寺の大日如来坐像とされる宝冠を戴く像は、専門家は弥勒菩薩(如来)と考えています。八十八ケ所寺院でも弥勒信仰が広がっていた時期があるようですが、それは大きな流れにはならなかったようです。
弥勒信仰に基づく、弘法大師入定信仰を広めたのは誰なのでしょうか。
多くの研究者は、それは高野聖(こうやのひじり)達であったと考えているようです。高野聖にとって、四国の地に弘法大師人定説を広めることは、さほど難しいことではなかったかもしれません。
その例として、研究者は平安時代の歌人として著名な西行を挙げます。
彼を高野聖として位置づけたのは、五来重氏です。それは西行の「回国性・勧進・世俗性」などの特性を根拠としますが、重要なことは彼が長く高野山に滞住していたことです。仁安3 年(1168)十月、西行が讃岐を訪れた目的は、以前にお話ししたように崇徳上皇の墓前に詣でることと、弘法大師師誕生地や所縁地を訪ねることでした。
 実際に、西行は我拝師山で捨身行を行い、近くに庵を構えて何年も修行生活を送っています。そこには、弘法大師が幼いときに修行したところで自分も修行しているという思いが記されています。すでにこの頃には、高野山では弘法大師人定説が広がっていて、「日々影向文」のことも西行は知っていたはずです。弘法大師信仰者の西行にとって、弘法大師の聖跡地に詣でることは、重要な修行のひとつであったのでしょう。

  高野聖ではありませんが高野山と根求寺との紛争から責任をとり、仁治3年(1242 )に讃岐に流された高僧の道範も善通寺の傍らの庵に住みつきます。そして、弘法大師の聖跡や各地の真言宗寺院を訪ねています。
 このように高野山との直接的な交流の中で、弘法大師人定信仰は讃岐をはじめ四国内の諸国に、高野聖を通じて浸透したと研究者は考えているようです。

以上をまとめておきます
①弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)を空海は受けいれていた
②空海死後に高野山は「56億年の弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現す」という弥勒下生説を流布するようになる。
③そして弘法大師は亡くなったのではない。弥勒下生を願うために大師は、入定したとする
④「日々影向文」=「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知する」
 という「弘法大師=四国辺路巡礼現在進行形説」が生み出される
⑤そこでは、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えると云われるようになる。
⑥熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者が弘法大師に出会うために、大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることになる。
⑦「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出す。
⑧弘法大師伝説として新たな展開を示すようになった

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献   武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程 

 山の神仏-吉野・熊野・高野 │ 大阪市立美術館

四国霊場の形成前史に熊野行者が関わっていたとされます。
平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」に、
 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は
伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

とあり、仏教の修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたうです。
同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、
また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
とあります。修行者は笈を背負い、そして衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたことを示しています。これらの史料からは、修行の地が海辺に沿っていたことが分かります。このように平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場を、五来重氏は次のように指摘します。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が、四国辺路の前身であったとして、「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」
という発展経緯を研究者は考えているようです。 
熊野古道~大峯奥駆道を歩く(順峰)~【3日目】 | からあげ隊長の冒険

行者(修験者)が修行を行う行場は、四国だけだったのでしょうか
そうではないようです。『梁塵秘抄』巻二の二百九十八には次のように記されています。
聖の住所はどこどこぞ、大峰 葛城 石の槌(石鎚)、
箕輪よ勝尾よ、播磨の書写、南は熊野の那智新宮

とあり、大峰山・葛城山・石鎚山・箕面山、書写山・熊野などの霊山で「山岳修行」を行っていたようです。行場を求めて遍歴する一環として、四国の石鎚山などにもやって来ていたようです。同時に、四国の海辺を廻る辺地修行も行います。若き空海もその群れの中に身を投じ、阿波の大瀧山や土佐の室戸で辺地修行を行ったのでしょう。空海が始めたわけではなく、空海もその中の一人であったと考える方が現実には近いようです。

 平安時代後期ころから熊野信仰が隆盛を迎えます。
それまでも熊野行者の中には、四国の辺地修行を行う者はいました。彼らは足摺岬の金剛福寺や室戸の最御崎寺など、太平洋につきだした岬を、観音信仰に伴う補陀落信仰の絶好の聖地とするようになります。そこには、多くの修行者が集まってくるようになります。補陀落信仰は、インド南端の観音菩薩が住む浄上に起源があるようです。わが国では平安時代に、熊野那智が補陀落とされ、熊野信仰の中で重要な位置を占めるようになります。このような熊野信仰の影響が、四国八十八ヶ所霊場の中に見いだせると研究者は指摘します。
本地垂迹資料便覧

もともと、熊野信仰は天台系が主流であつたようです。
それは寛治四年(1090)に、白河上皇の熊野御幸の先達を勤めたのが園城寺の増誉で、初代の熊野三山の検校に任じられたからです。これ以降、熊野一山の検校は園城寺系の聖護院の高僧が補任されることとになり、上皇の熊野御幸の先達を務めるのが慣習化します。ところが中世の記録『熊野那智人社文書』には熊野先達のなかに、真言宗寺院や札所寺院に属する者も以下のように見られます。
①阿波 平等寺の治部、太龍寺の秀信、順成寺
②讃岐 一の宮の持宝坊、向峯寺の先達
③伊予 繁多寺の先達、香園寺の先達、大山寺の先達、
三角寺(めんどり先達)、実報寺
  これらの寺院は真言密教系寺院で、先達を勤めたのは、それらの寺院に所属していた熊野先達でしょう。すると彼らは、熊野信仰を持つ熊野先達であり、同時に弘法大師信仰も持ち合わせていたと考えられます。このような信仰形態が南北朝時代から室町時代には、珍しいことではなかったようです。

四国八十八ケ所霊場の成立に、熊野信仰はどんな役割を果たしたのでしょうか。
 熊野信仰と88ヶ所霊場の関係について、最初に指摘したのは近藤喜博氏です。彼は、霊場寺院のなかに熊野神社を鎮守とする例が多くみられることことを取り上げます。そこから四国辺路の形成には、中世の熊野信仰が強く関わっていることを明らかにしました。
現存の四国八十八ケ所霊場に熊野信仰の痕跡を探ってみましょう。
 熊野行者が行場にやって来て修行を続け、そこが聖地となり、庵や寺が出来るときに本尊とともに客神として熊野神社を祀ったことが考えられます。熊野神社が鎮守として祀られている霊場を挙げてみましょう。
徳島県では
1番霊山寺、5番地蔵寺(熊野神社が鎮守)
7番十楽寺(近在に熊野神社)
8番熊谷寺(縁起に熊野権現権現が登場)
12番焼山寺(境内に熊野神社)
20番鶴林寺(熊野神社が鎮守)
の6ヶ寺があります。
このうち焼山寺は、平安時代後期の虚空蔵菩薩を本尊とします。

この像はいかにも地方作という印象を抱かせるもので、修験者が修行の一環として制作したことを想像させます。また熊野神社が境内に在ります。さらに室町時代の懸仏も数面ありますが、それらは熊野十二所権現を表したものとされています。以上からもこの寺は、熊野信仰のきわめて濃厚な寺といえるようです。
 また、以前にお話ししたように竹林寺は、紀伊からやってきた豪族の寄進した灯籠が残るなど、紀伊熊野との関連を伝えます。
高知県では
24番最御崎寺(補陀落渡海の道場)
26番金剛頂寺、35五番清滝寺、37番岩本寺、
38番金剛福寺(補陀落渡海の道場)、
39番延光寺
このうち、最御崎寺と金剛福寺は、熊野信仰にみられる補陀落渡海が考えられています。補陀落渡海とは補陀落信仰に基づくものです。補陀落とは『華厳経』に、インドの南海岸にあるという補陀落山という観音菩薩の住む浄土と考えられていました。やがて観音信仰の広がりとともに、中国の普陀山が擬せられて観音浄土としての補陀落霊場が作られ、補陀落信仰が隆盛になります。
 それがわが国伝わると、浄土信仰の隆盛とともに熊野那智山が「補陀落山の東門」と言われるように補陀落信仰のメッカとなります。
513 補陀落渡海 – KAGAWA GALLERY-歴史館

こうして仏教伝来以前の海上他界と観音信仰が那智で重なり合い補陀落信仰が成立します。つまり海の彼方に常世と、袖陀落観音が習合したのです。こうして、その「実践行」として熊野那智から船に乗り、観音浄土である補陀洛山へ往生し、生まれ変わりそこで永遠に生きるというのが補陀落渡海のようです。

浜の宮王子 補陀落渡海の境地 | 落人の夜話

 この熊野那智の補陀落信仰の影響を受けたのが、土佐室戸の金剛頂寺と足摺岬の38番金剛福寺です。
中世には、足招岬から補陀落渡海したという記録がいくつもみられます。さらに金剛福寺の本尊(暦応五年(1342)は、熊野の補陀洛山寺の本尊千手観音と同じ三面千手観音です。明らかに熊野信仰の影響があるようです。
愛媛県では
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
このうち八坂寺に近い文殊院は右衛門三郎伝説の地で、石手寺も右衛門三郎に深く係わる寺です。この石手寺には右衛門三郎伝説を記した石手寺刻板が所蔵されるなど、伊予における熊野信仰が強く見られる寺院です。
香川県では
66番雲辺寺
67番太興寺 (熊野神社が鎮守)
70番本山寺、71番弥谷寺、78番郷照寺(境内に熊野神社)、
84番屋島寺 (境内に熊野神社)
86番志度寺(補陀落渡海の行場)
このうち屋島寺は熊野神社を鎮守社としていて、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺です。
さらに近世初期の「熊野本地絵巻」が所蔵されています。この種の熊野本地絵巻は、熊野比丘尼が絵解きしたといわれますので、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に「血の池」という池も残りますので、熊野比丘尼の存在を暗示しているようです。
 志度寺は土佐の金剛福寺や最御崎寺のように、大海原を望むというわけではありませんが、北側には瀬戸内の海を間近に控え、補陀落渡海の行場とされてきました。やはり熊野信仰が基になっていたようです。
以上、四国八十八ケ所霊場寺院にみられる熊野信仰について、みてきました。これらを背景に、研究者が推測するのは「熊野修験者の修行ルート」や「熊野先達の熊野への参詣ルート」です。熊野信仰の痕跡の残る霊場は、四国の各地から熊野への参詣ルート上にある拠点で、それが四国辺路の原形になったのではないかという仮説を提示します。
熊野修験者といえば、厳しい修行者というイメージを持ちます。
しかし『熊野那智大社文書』(応永14(1407)の行政房有慶日那売券に「高松の一族」とあり、また仁尾の覚城院文書の増吽書状には
「経衆は二十人(中略)伶人両三人」

とあるように、中世の熊野修験者は、先達として多くの信者などを引き連れて熊野参拝を生業としていました。自らの修行とは別に、檀那(信者)とともに行動し、時には熊野まで直行することなく檀那の求めに応じて、様々の寺院や神社に参拝していたのです。
 四国の熊野先達のなかには、弘法大師信仰を持った者もかなりいたようです。そうだとすれば熊野への道すがら、弘法大師の聖跡あるいは真言宗寺院に参拝しながら熊野を目指したと思われます。これが弘法大師信仰を広めることにもつながります。民衆への弘法大師信仰の流布は、こんな形で進められたのではないでしょうか。

四国霊場の成立に熊野信仰が関係していたとするなら、弘法大師と熊野信仰の接点が前提になります。
熊野垂迹神曼荼羅図(乙本) 文化遺産オンライン

その具体的な例として、研究者は愛媛・明石寺の熊野垂迹曼荼羅を挙げます。この図は図の中央に、八葉蓮弁形に熊野の神々の垂迹神が配置されます。その中央には新宮と那智あり、その周囲に本宮と五所王子と、四所明神のうちの勧請十五所と一万・十万宮が巡らされています。上部には那智の滝や摂社などが山の中に描かれ、下部には熊野諸王子とともに北野天神や八幡大菩薩などが描かれています。複雑な信仰の実態がうかがえます。
 ここで研究者が注目するのは、図上部の「役の行者」に相対するように、弘法大師が描かれていることです。
このような例は、香川・六万寺の熊野曼荼羅図(南北朝時代)にもみられます。六万寺は真言宗としての歴史を持ち、八十五番八栗寺を奥院とする四国辺路とは深い寺院です。この図に描かれる弘法大師は、明石寺本や西明寺本に比べるとずいぶん大きくなっています。椅子の形状や水瓶・沓などはいわゆる「真如親王様」の姿です。ここに描かれた弘法大師は、数多くの尊の中の一尊とは違って、弘法大師そのものの存在を主張していると研究者は指摘します。
熊野曼荼羅図

.
このように熊野曼荼羅の図中に弘法大師が描かれることが、南北朝時代から現れます。
この頃から熊野信仰と弘法大師信仰との接点が、熊野曼荼羅のなかにも見られるようになります。鎌倉時代の熊野曼荼羅には、弘法人師は描かれていません。しかし、室町時代ころからの弘法人師が現れます。ここからは熊野信仰の中に、弘法大師信仰が何らかの形で影響を与えていると考えられます。


札所寺院の中に、熊野信仰と弘法大師伝説の展開が具体的な形で残る例は、少ないようです。しかし八番熊谷寺の弘法大師像も永享3年(1431)の造立で、しかも鎮守が熊野権現なので、焼山寺と同じ過程を歩んだと考えられます。
以上から札所寺院の中に、弘法大師信仰をもった熊野先達がかなりいたことがうかがえます。

以上をまとめておきます
①「四国辺路の成立や展開には、熊野信仰が大きく影響した」は、研究者の間では定説となっている。
②それは霊場札所の鎮守に熊野神社が多いことからもうかがえる。
③そこからは霊場札所が熊野行者によって、開かれたことをうかがわさせる
④熊野行者は、熊野先達も勤めており熊野参拝の際には、ルート上の熊野先達の拠点を利用した。
⑤これが四国辺路の原型となったのではないか。
⑥また、熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を果たしていた。
⑦こうして四国辺路を中心に熊野信仰に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成される。

熊野行者の拠点であった寺院が、熊野への参詣ルート上の宿泊地などとして重要な役割を果たしていたという仮説は私にとっては興味深いものでした。

  参考文献 武田和昭   四国の辺地修行から熊野信仰ヘ 四国辺路の形成過程所収

   讃州七宝山縁起 観音寺

 前回に続いて、観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』を見ていくことにします。前半を読んで分かったことは、
①「是釈迦伝法の跡、慈尊説法之砌なり」と、弥勒信仰が濃厚に感じられること
②八幡大菩薩がやって来て、さらに弘法大師が修行した所であることから、八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身とすること
③八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊し弘法大師が誕生したので、弘法大師は八幡大菩薩の再誕であるとすること。
ここからは、先にやって来た八幡信仰に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしていることがうかがえます。そして、その筆を執った人物として、弘法大師信仰の影響を受けた高野山系の密教修験者の影が見えてきます。
 今回は『讃州七宝山縁起』の後半部を読んでいくことにします。
その中に七宝山の行道(修行場)のことも記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには「大師為七宝山修行之初宿」と記され、七宝山が行場であったことが分かります。それでは「初宿」とは何なのでしょうか。先に進んでいきましょう。

七宝山縁起 行道ルート
意訳すると
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3

ここからは次のようなことが分かります。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=小辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には7つの行場と拠点があった
   当時の辺路修行とは、どんなものだったのでしょうか。
五来重氏は、次のように指摘します。
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道とは、神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる木の周りを一日中、何十回も廻ること。
3 それぞれの行場で、窟籠もり、木食、行道をする修験者(僧侶)がいた。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。
5 海に入って死んでいく補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。
6 お寺が建つ以前のことだから、建物はないので窟に籠もった。
7 弘法大師が修行したと伝わると、その跡を慕って修行者がやってくる。
8 鎌倉時代の終わりのころまでは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 修行者が多くなると小屋のようなものが建つ。そして寺やお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
10 やがて留守居が住職化するとお寺になり、行道ネットワークの拠点となり、積極的な「広報活動」を行うようになる。
 ここからは観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる修行ルートは「小辺路」が形成されつつあったことがうかがえます。プロの修行者がやってきて「七宝山七ヶ寺巡礼」が盛んになりつつあったとしておきましょう。周囲を見ると、中讃には善通寺や弥谷寺・海岸寺・道隆寺などを結ぶ「七ケ寺巡り」がありました。高松から東讃には根来寺から志度寺・長尾寺等を結ぶ「七観音巡り」が近世初頭にはあったようです。これらの地域にあった「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。中世の修験者は、それらを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったのかもしれません。近世になると素人が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。その際に、危険な行場や奥の院は次第に除外され、麓や里にある本寺が札所になって現在の四国霊場めぐりが形作られていったようです。そして、それは行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくという形に変わって行きます。
七宝山の山の中にあったという行場とお寺(お堂?)を探ってみましょう。観音寺が初宿で、第二の宿は稲積とあります。
 
1高屋神社

七宝山の一番北側に、山頂に方墳が載ったように見える山が稲積山です。ここはには、「天空の鳥居」で有名になった式内社・高屋神社の奥社があります。稲積とは、この神社周辺でしょう。ここからの燧灘と川之江に続く海岸線は絶景です。周辺には「嶽」と呼ばれる断崖があちらこちらにあります。西方に広がる燧灘は、西方浄土へ続く海です。念仏行者達にとっては最高の行場ゲレンデだったでしょう。全国から修験者たちがやってきそうな所です。
 
 稲積の行場は山だけではありません。室本の江甫草山(つくも)の海岸には海に向かって開く窟があるようです。
七宝山 江甫草山行場洞窟

「金毘羅参詣名所図会」(弘化4年(1847)には、江甫草山について絵図を載せ、次のように記しています
 江甫草山椋本村にあり、有明の浜より磯づたひ、行程僅かにして至る。麓に椋本の魚家多し。
行人之窟 行者ここに来って修行する事時々ありといふ。実に世塵をはらひて、ただ波濤の音、松のかぜ、千鳥・鴎のこえの他、耳に聴くことのなき幽地なり。
行道場 右に同じ。地蔵・不動・役行者などの石像を置けり。
そこには2つの洞窟が描かれています。拡大してみましょう。

七宝山 江甫草山行場洞窟拡大

 右側が「行人ノ窟」、左側が「鳩ノ窟」と描かれています。
「行人」は「行道する人」で修験者が籠もる窟でしょう。「鳩ノ窟」の周辺には、鳩らしき鳥が飛んでいます。これが「鳩の窟」いわれなのでしょうか。洞窟前を漕いでいく舟と比較しても、かなり大きな窟であることが分かります。
 ここは燧灘に直面する窟です。窟の上の磐に座り、沈みゆく夕陽を眺めながら阿弥陀経を唱えれば、西方浄土が見えてきたのかもしれません。高野の念仏聖達の行場としては、ふさわしい所であったでしょう。
 この洞窟と稲積山の行場を、一日に何度も廻行する行道が行われていたと私は考えています。
 第三宿は「経の滝」とあります。

七宝山 不動の瀧

これは豊中町岡本の不動の滝でしょう。雨が降った後は落差50mほどの滝になりますが、雨が少ない讃岐では水のない「瀧」であるときの方が多いようです。そのために揚水用のモーターが常備されています。スイッチを入れると瀧は落ちてきます。
 ここには不動明王が祀られ、古くからの修行の地であったようです。
 第四の宿は興隆寺です。
ここは以前にお話したように、四国札所・本山寺の奥の院とされています。
七宝山興隆寺

鎌倉時代後期から室町時代の五輪塔や宝灰印塔が、数多く残されています。
七宝山興隆寺不動明王
不動明王の磨崖仏

その中には上のような不動明王もあり、密教寺院で修験者たちの拠点であったことが分かります。出士した瓦は鎌倉時代のものなので、遅くとも鎌倉時代には、かなりの規模の寺院であったことがうかがえます。国宝の本山寺本堂が14世紀初頭のものですから、そのころに本山寺は、七宝山の麓から現在地に移ったと推察できます。しかし、七宝山の山号だけは変わっていません。
 ここに多く残されている五輪塔や宝灰印塔は、七宝山で修験を行った人たちが残したものと考えることも出来そうです。
 第五の宿は、岩屋寺です。

七宝山岩屋寺

七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。ここにも岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。
七宝山岩屋寺2
岩屋寺の岩屋(窟)

  こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
 さて、第六宿の神宮寺です。この寺については、確定が難しいようです。
 寺伝から三豊市詫間町の神正院に比定されるようです。
七宝山 三崎神社

神正院は、荘内半島先端にある三崎神社の別当寺であったことは間違いなく、そのため神宮寺と呼ばれていました。問題は、観音寺から岩屋寺までは七宝山沿いにあったルートから大きく外れるという点にあります。
紫陽花が見ごろの荘内半島(紫雲出山・三崎半島)へ / すぎちゃん(^-^)vさんの粟島(香川県)・荘内半島(三崎半島)の活動日記 | YAMAP /  ヤマップ
庄内半島の先にある三崎神社
 しかし、海の辺路である庄内半島の先端に行場が置かれていたと考えるなら「遠くても近い道」だったはずです。33日間で廻行するとすれば、ひとつの行場で4~5日は留まって行を行っていたと考えられます。讃岐西端の海に突き出た庄内半島の先端は行場で、その中宮寺が神正院だったとしておきましょう。ちなみに神宮寺神正院も古くから、七宝山の起源に関わる寺院とされてきたようです。

6つの拠点寺院の紹介の後、縁起は、七宝山の由来が述べられます。
七宝山 七宝山命名の由来
意訳すると
七宝山には九つの秘密の穴があり、弘法大師が大同年間(806~)に七種の秘宝をここに納めた。弥勒が出世する時、弘法大師が高野山奥院の出て、ここに秘蔵した宝を開き、弥勒の御前に持参することになっている。それゆえに七宝山と呼ぶ。
 琴弾八幡大菩薩は垂迹のはじめに、日証上人と問答した。日証上人の本地は釈迦如来で、大菩薩の本地は阿弥陀如来で、これは報身・応身の二身の上地である。
 ここには七宝山には弘法大師が7つの宝をおさめたので「七宝山」と呼ばれるようになったこと。そして、その宝は弥勒の御前に持参することになっていることが記されています。ここにも弥勒信仰がうかがえます。弘法大師の入定信仰が、この地にも伝わり、広められていたことが分かります。その背後には、やはり高野聖的な修験者の影が見えます。

そして、ゴールである我拝師山については、次のように記します。
七宝山縁起5 我拝師山

意訳すると
弘法大師高野大師行状図画 捨身
 我拝師山とは、弘法大師が捨身行で身を投げたときに、釈迦如来が現れ、これを救ったことに由来する。善通寺の鎮守は八幡で、本地は阿弥陀如来であることから結宿とされ、また釈迦・阿弥陀の二尊の土地である。
また当山(観音寺)は西の初宿で金剛界を表す。東の我拝師山は結宿で胎蔵界を表しす。その間は観音の峰で、これは南方の袖陀落山を示す。 つまり、観音寺ある琴弾山周辺は、金胎不二(金剛界と胎蔵界)の観音浄土なのである
(後略)
徳治二年丙午九月三日書写丁
  但他年朧之
  安置之蓮祐
   最後に徳治二年九月三日に書写が終了したと記します。

ここには「当山為鉢、西初宿、為金剛界峯。東は結宿、胎蔵界の義を表す。中は不二惣鉢観音の峰也。是即南方補陀落山を表す」とあります。これを整理すると、次のような構図が見えてきます
①琴弾山(観音寺)は、西の初宿で金剛界
②我拝師山(曼荼羅寺)、東は結宿で胎蔵界
③その間に横たわるのが七宝山(観音の峰)で、これが補陀落山を表している
となるようです。これは、どういうことなのでしょう。
 もう一度、空海が修行したと伝えられる室戸岬周辺を見てみましょう
七宝山 行当岬と室戸岬

①室戸岬に東寺(最御崎寺)
②行当岬に西寺(金剛頂寺)
の東西の札所寺院があります。平安時代はその両方を合わせ金剛窓寺と呼んでいたようです。岬で火を焚いた場所につくられたのが最御崎寺(東寺)で、西の行当岬は「行道」岬です。行当岬の不動岩の下に二つの洞窟があります。今は、不動さんを祀って「波切不動」になっています。ここには次の二つの行道があったようです。
①10㎞隔たった西寺と東寺を往復する行道を「中行道」
②不動岩の行道めぐる「小行道」
③四国全体の海岸を回るのが「大行道」
です。
室戸の東西の二つの行場のあり方を、七宝山に移して考えるとどうでしょうか?
 観音寺の行場が江甫草山の「行人ノ窟」や「鳩ノ窟」だったのかもしれません。そうだとすると稲積山の「断崖=瀧」を結ぶルートが「小行道」になります。そして、観音寺と我拝師山を結ぶルートが「中行道」だったことが考えられます。
 二つの寺の間あるいは二つの山の間をめぐる行道があります。足摺岬の場合は、西の金剛福寺のある山は金剛界です。東の足摺岬の灯台の下には、胎蔵窟と呼ばれる洞窟があります。金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているようです。その両方を行道する必要があります。密教では、全ては金胎両部一体だと説かれますが、辺路修行の場合は、頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで廻道して一体になることを目指したようです。
  「金胎不二」と難解な言葉で記されていますが、当時の密教修験者たちにとっては「目指すべき目標」とされた最重要キーワードだったのです。ある意味では、修験者たちを勧誘するための「常套句」であり「殺し文句」であったとしておきましょう。
 このように七宝山や庄内半島は、辺地修行ルートだったようです。

結宿として登場する我拝師山は、すでに有名な行場でした。
それは先ほど見たように、弘法大師が幼年の頃に捨身行を行い、釈迦如来がそれを助けたという話が広がっていたからです。高野聖でもあった西行は、我拝師山にやってきて3年間も庵に籠もり、修行を行っています。
西行の『山家集』の「曼荼羅寺の行道どころ」には、次のように記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経書き手うづませおはしましたる山の嶺なり。ほうの卒塔婆一丈ばかりなる壇つきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重につかまばされたり。のぼるはどのあやうさ、ことに大事なり。かまへてはひまはりつかで廻りあはむ、ことの契ぞ、たのもしか。きびしき山の、ちかひ見るにも。
                                         
 このことは以前にお話ししましたので省略します。
さらに、高野山の内紛騒動で讃岐に流刑となった道範も「南海流浪記」の中で、我拝師山の行場について触れています。弘法大師信仰が広がる中で、我拝師山は全国の修験者たちから注目される行場となり霊山となっていたようです。それを背景として、曼荼羅寺の台頭があったのかもしれません。
 『讃州七宝山縁起』が書かれた頃の観音寺の戦略は、
①観音寺を我拝師山のような全国的な行場として売り出す。
②そのために「八幡信仰 + 空海伝説」を広げる。
③同時に新たな「中辺路」ルートを売り出す。
④そのために観音寺を起点として「七宝山+庄内半島」の行場を整備⑤そして、ゴールを人気有名修行場の我拝師山につなげる

 我拝師山の頂上からは、真っ直ぐに伸びていく庄内半島と、その最高峰紫雲出山が一望できます。さらに西には、「観音の峰」で、補陀落山と記された七宝山が横たわります。全国から我拝師山にやってきた修験者たちは、それは眺めながらここでの修行が終われば、弘法大師が七宝を納めたという山にも行ってみようかと思うようになったのかもしれません。
 ここで疑問に思うのは、弥谷寺の存在です。
七宝山中辺路ルートには、弥谷寺が含まれていません。何故でしょうか?
 これは弥谷寺は、別の修験者達のグループであったと私は考えています。以前にもお話しした通り、弥谷寺とその麓の白方の海岸寺は、善通寺とは別の「空海白方生誕説」を説いていた時期があります。ここからは、善通寺と弥谷寺は系統の違う別の修験者グループだったことがうかがえます。そのために、善通寺と観音寺を七宝山を介して結ぶ「小辺路」ルートには入っていなかったのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、七宝山を経て我拝師山にいたる行道(修行場)のことが記されている
②それによると7つの拠点を33日間で「行峰=行道=小辺路」する修行ルートであった
③このルートは出発の観音寺が金剛界で、ゴールの善通寺五岳の我拝師山が胎蔵界とされた④中世には、このルートは「中辺路」とされ、全国の修行者の行場ルートになっていた。
⑤その結果、各行場の近くには、拠点寺院や庵が姿を見えるようになった。
⑥それらのお寺は、今でも山号は「七宝山」として残っている。例えば、七宝山観音寺、七宝山本山寺、七宝山延命寺など・・・・
⑦これらの行場を結ぶ中辺路ルートは、近世には廃れた。
⑧代わって、素人達の「四国巡礼」の札所巡りのお寺に姿を変えていくことになる。
ここからは、中世の行者達による「中辺路」ルートが、現在の四国遍路道へと姿を変えていく変遷が見えてくるような気がします。

  参考文献
武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所  4                                     四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年

IMG_9764

六十八番神恵院、六十九番観音寺は琴弾山の麓の境内に、ふたつの札所が同居しています。そして山上には、神仏分離以前の琴弾宮が鎮座する神と仏の霊地です。以前に見たように、二つのお寺の仏像からは、平安時代前期にはかなりの規模の寺院があったことがうかがえます。『讃州七宝山縁起』は、観音寺や琴弾宮の縁起で、八幡大菩薩や弘法大師のことなどが記されています。また、行道(修行場)のことも記されています。
まずは、弘法大師伝説と行場に焦点を当てながら『讃州七宝山縁起』を読んでみることにします。
 『讃州七宝山縁起』の奥書には「徳治二年九月二日書写了」とあり、鎌倉時代末期の徳治二年(1306)に書写されたことを伝えます。
七宝山縁起1
意訳して見ましょう
 ①讃州七宝山縁起
            鎮守 八幡大菩薩
            修行 弘法大師
 当山は、十方如来の常住し、三世諸仏が遊戯し、善神が番々に守る霊山である。星宿は夜々この地に加護する。是は釈迦伝法の跡であり、慈尊説法の聖地である。一度、この地を踏めば、三悪道に帰ることはなく、一度この山に詣でれば、必ずや三会の暁に遭うことができる。八幡大菩薩が影向し、弘法大師が修行を行ったことにより、大師と大菩薩は、同体分身の身であり、それは世々の契約なのである。
 
それゆえ大祖権現(八幡大菩薩)は、詫宣文に次のように云う。我は真言興起し、往生極楽薩垂する本地真言の祖師である。権現大神の通り、一切衆生を為し、四無量心を起こし、三毒を興さず。これは一子慈悲にして、成三宝興隆の念を成ずる。邪見の念を生ぜず。かくの如く無量劫は五智金剛杵と独鈷法身の形に付属するは普賢薩錘中の天竺善悪畏者が我なりと云々。
 同じ日本国の御詫宣にも云う。汝は知るか。
 我は唐国の大毘廬遮那の化身である。日本国の大日普賢妙の吉祥でもある。宇佐宮は我の第一弟子の釈迦如来である。第二弟子は、大分宮に入定している多宝如来である。第三弟子は八幡大菩薩戒(普賢)・定(大日)・恵(文殊)に付属する故に筥崎といい。本地は阿弥陀如来観音勢至であると云々。
観音寺が聖地であることを述べた後に続くのは、「八幡大菩薩と弘法大師」です。八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身であることが説かれます。八幡神と弘法大師の関係は、京都神護寺の僧形八幡神像が弘法大師と八幡神がお互いの姿を描いたという「互いの御影」として伝わっているようです。それを踏まえた上で、この縁起では八幡神と弘法大師が「同伴分身」と、さらに強い関係になっています。
 先にあった八幡信仰に、後からやって来た弘法大師伝説が接ぎ木されているようです。それは14世紀初頭には、行われていたことが分かります。それでは、弘法大師伝説を附会したのは、どんなひとたちなのでしょうか。それは後に見るとして、先を読んでいきましょう。

七宝山縁起3

②宇佐宮 人皇三十代欽明天皇 治三十二年 
最初は、豊前国宇佐郡菱潟嶺小倉山に、三歳の小児に権化して現れ八幡の宝号を示させた。当初の宝号は、日本人皇第十六代誉田天皇(応神)広幡八幡之大神であった。宇佐神宮禰宜の辛嶋勝波豆米之時詫宣の日記には 吾の名護国霊験威力神通大自在王菩薩と記される。ここから八幡大菩薩と呼ばれるようになった。

ここには八幡神の由来が書かれています。注意したいのは、出自が豊前の宇佐の小倉山(宇佐八幡)に始まりることを、強く主張していることです。その他に勧進された分社との本末争いが背景には、あったようです。
観音寺琴弾神社絵図

③次四十二代文武天皇御宇大宝三年(703) 大菩薩手自出 
次四十二代文武天皇御宇大宝三年 大大菩薩手自出 鎮西宇佐社壇、留光蔚当山八葉之宝嶺。是併感応利生之姿、斎度無双之神也 従九州之空白雲如虹之聳 懸当山。彼白雲之下巨海之上 当宮山麓梅脇之海辺、有一艘之船。
 船之中有琴音。其音高仁志天、 楡通嶺松。彼時当山峯本目有止住上人。諱日証 奇問之。御詫宣云。汝釈迦再誕、我是八幡大菩薩也 為近帝都 従宇佐来。而此国可仏法流布之霊地。於茲守護朝家、可蔚異国云々。
意訳しておくと
 大宝三年(703)に八幡大菩薩は鎮西の宇佐八幡宮を出て、当山(観音寺)の八葉の宝峯に留まった。その時には、九州の空から白雲が虹のようにたなびき、琴弾山にかかった。白雲の下の海を一艘の舟が現れ、宮の峯の麓の梅脇浜に着いた。その船からは琴の音が聞こえ、天にも届くほどで、音色は松林と嶺を通り抜けた。
 この時に当山に住上していた日証上人は、怪しみ問うた。当山に古くから止住する日証上人がその船に向かい問うと「汝は釈迦の再誕 我は八幡大菩薩である。帝都に行こうとしたが、ここは仏法流布の地であるので、ここに留まり、国家を守護し、異国を闘閥したい」と云う。
ここでは八幡神が、観音寺にやってきた理由が詳しく述べられます。
この由来に基づいて、以前に紹介した「琴弾宮絵縁起」は書かれているようです。 面白いのは、この八幡信仰に弘法大師伝説を「接木」するために書かれた次の部分です。

④次四十九代光仁天皇御宇 宝亀四年(773)七月、大師父母夢見。
 宝亀四年に弘法大師の父母が、善通寺の館の西に八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊した。そして、同五年6月15日に弘法大師が誕生した。弘法大師は、八幡大菩薩の再誕である。

弘法大師が八幡神の再誕という説は、初めて聞く話です。
その後は、弘法大師が延暦23年(804)、31歳の時に肥前国松浦郡田浦から唐に向けて船出することから始まり、長安で恵果和尚から両部の混頂を受け、金・胎の両界曼荼羅や法具・経典などを持ち帰るいきさつが、ほぼ史実に基づいて記されています。このあたりからは、高野山での教育を受けた真言密教系の僧侶(修験者)によって書かれたことがうかがえます。
弘法大師が唐から帰朝後に讃岐に帰って、何を行ったと記されるのか?
 大同元年(804)に弘法大師は唐から帰朝し、太宰府にしばらく留り、その後上洛し、朝廷に上表した後、讃岐に帰った。その際に琴弾八幡宮に参詣した。八幡大菩薩の御詫宣によって神宮寺を建立し、観音寺と号した。金堂の本尊・薬師如来と四天王像を造立し、本堂には同身の大日・薬師・観音像を安置した。

ここには、弘法大師が唐から帰朝後に、観音寺の再建を行い、諸仏を自らの手で彫り上げたと記されます。弘法大師により再建されたことが強調されます。ちなみに、ここに記されている諸仏の多くは、今も観音寺にいらっしゃいます。
観音寺 薬師如来坐像

今はお参りする人が少なくなった薬師堂の薬師如来は確かに丈六の薬師如来坐像です。膝前は後から補修されたものですが、頭・体部は平安時代の11世紀初頭のものとされます。大日如来坐像は12世紀とされます。
観音寺 四天王

四天王は一木造りで、邪鬼と共木とした古風な造りで、やはり十世紀末期とみられています。この縁起の制作者は、観音寺の事情に詳しい人物であることがうかがえます。漂泊の時宗の連歌師が、頼まれて即興で作った縁起ではありません。

そして、次に出てくるのが七宝山が修行場であることです。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
元々、観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿でのために精舎を建立し、石塔49基を起立した事に始まるという。しからば、その仏塔は何のために作られたのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が作った。すなわち異国降伏の請願のために作られたものである。

 この中に出てくる「石塔49基」とは、都卒天の内院にある四十九院のことだと研究者は考えているようです。つまり、ここにも弥勒信仰がみられます。そして、弘法大師手作りという四天王像は、平安時代中期のものとされます。この頃が、観音寺の創建にあたるようです。
以上をまとめたおきます。
①七宝山観音寺と琴弾八幡宮との縁起には、弥勒信仰が濃厚に感じられる。
②先に定着した八幡信仰の上に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしている
七宝山にあった行場については、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
       武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所
                              四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年
























一宮寺 現況境内図

 調査報告書によると、一宮寺には本堂・仁王門・大師堂・菩薩堂に合わせて48の仏さんたちがいらっしゃるようです。制作年代で分けると、平安時代1、鎌倉時代1、江戸時代46(台座のみ2点含む)となるようです。安政3年(1856)の「大宝院記録」でチェックしながらお堂ごとにみていきましょう。
一宮寺 見どころ - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 本堂
本尊の聖観音さまは、秘仏のため未開扉ですのでお目にかかることはできません。高松周辺の四国霊場には観音さまを本尊としている所が多いようです。戦乱の世が終わり、世の中が落ち着いてきた承応2年(1653)に、四国辺路を訪れたのが澄禅の『四国辺路日記』承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
「社壇モ鳥居モ南向」と、札所は神社であったようです。お寺の姿は記されていません。
「四国遍路日記」には、「長尾寺」について次のように記します。
長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここからは「国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺・長尾寺」が「讃岐七観音」のネットワークを形成していたことが分かります。中讃の善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような観音霊場ネットワークがあったようです。しかし、そこに一宮寺は入っていません。どうしてでしょうか。疑問としておいて先に進みましょう。
 生まれたばかりの金毘羅大権現も、この時期には観音信仰の拠点を目指していた形跡があります。江戸時代初期の讃岐における観音信仰ブームがうかがえるようです。

 本尊脇侍には不動明王像と毘沙門天像がいらっしゃいます。
このふたつの天部の仏様は「大宝院記録」には「京都仏師赤尾右京」の作と記されるので、京都の仏師に依頼して作成されたもののようです。その依頼主は、高松藩初代藩主の松平頼重だったようです。延宝7(1679)年前後に、松平頼重は一宮寺の再興を行っています。本堂再興に伴いふたつの天部の仏様も発注されたようです。
 松平頼重の寺社保護については、政策的なねらいが隠されていることは、以前にも長尾寺や根来寺についてお話ししたときに触れました。この寺については、一宮神社(田村大明神)から、この時に分離させているようです。いわば「神仏分離」を行ったことがうかがえます。一宮寺は寺領などの寄進を受けますが、一宮神社の別当職は失ったのです。そして、四国霊場札所に専念することになったようです。こうして、現在地に本堂が松平頼重の手により再興(新築?)されることになったとしておきましょう。
 
 
香川県高松市「一宮寺」観光途中に立ち寄った巡礼第八十三
2 仁王門
「大宝院記録」には、仁王門の阿吽仁王像は「京都仏師赤尾右京作」と記されています。先ほど見た本堂の天部の仏達も「赤尾右京」でした。一宮寺再興の仏達を一手に引き受けて、一門で作ったことがうかがえます。同時に、この時期に一宮寺は新たに「新築=創建」されたとも考えられます。
一宮寺 仁王像
一宮寺 大師堂 - 高松市、一宮寺の写真 - トリップアドバイザー
3 大師堂
明治になって書かれた「大宝院記録」には大師堂は「祖師堂」と記されています。そして、そこには本尊の弘法大師空海像・金剛界大日如来像のふたつの仏像があったことを記すのみです。それが今では、いろいろな仏が安置されています。明治になってからやって来た仏のようです。「仏は寺勢の強い寺に移動する」の言葉通りです。
一宮寺 弘法大師座像

本尊の弘法大師空海像は、江戸時代中ごろの作のようです。
この時代に庶民の間にも弘法大師伝説が広がり、弘法大師信仰が高まっていきます。そのため各霊場でも大師堂が作られ弘法大師像が安置されるようになります。その時流の中で作られたようです。

「大宝院記録」には厨子入りの薬師如来像があったことが記されます。しかし、これは今ある薬師さんとは違っていると研究者は次のように指摘します。

一宮寺 薬師如来像

 現存の薬師如来坐像(写真20)を見てみましょう。蓮華座に座り、輝く火炎に照らされた若々しい薬師さんです。
像底には次のような朱漆銘があります。
一宮寺 薬師如来像墨書

弘法大師の御作を讃州(讃岐)香東郡石清尾浄光院中興開基の阿閣梨増快が再興した像であると記し、延宝3年(1675)秋の年号があります。

香東郡石清尾浄光院とは、石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院のことです。そこからやってきた仏で「後世の移入像」のようです。この他、歓喜天像を納めている丸厨子底面にも石清尾浄光院の名前が記されています。これも「浄光院旧像」のようです。そして、この仏達には制作者の「赤尾右京法橋」のほかに「栄朝」「栄秀」「右衛門」などの仏師達の名前が記されているのです。
 
これをどう考えればいいのでしょうか。京都の「赤尾右京法橋」一門は、次のものを手がけていたことになります。
①一宮寺の本尊脇侍の不動明王像と毘沙門天像
②一宮寺の仁王門の阿吽両像
③石清尾八幡社の神宮寺であった浄光院の歓喜天像丸厨子
さらに志度寺などの讃岐の有力寺院の造像にその名が見られるようです。名代の仏師として高松藩との関係が長く続いたことがうかがえます。「赤尾右京」は、松平頼重から信頼された「御用達仏師」であったようです。
どうして石清尾社神宮寺の仏達が一宮寺にやってきたのでしょうか。
明治の神仏分離政策は石清尾八幡神社の姿を大きく変えました。それまであった多宝塔や仏像も撤去されます。その際に、多くの仏像は関係寺院に分散して安置されたと研究者は考えているようです。
 愛染明王像も石清尾社神宮寺からやってきたと考えられているようです。明治の「大宝院記録」に記されていないので、神仏分離・廃仏毀釈運動が落ち着いた頃に、一宮寺に移されて来たようです。
岩清尾八幡にあった愛染明王像を見てみましょう。
一宮寺 愛染明王像

 台座軸木を受ける材に「大仏師内匠」の墨書があり、作者仏師は佐々木内匠と分かります。
一宮寺 愛染明王像墨書

 松平頼重は、白峯寺像・志度寺にも愛染明王像を寄進していますが、それも「大仏師内匠」に発注したものであることが分かっています。
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像

これらと一宮寺の愛染明王像を比較して、研究者は次のように指摘します。
①一宮の像は獅子冠上の五鈷杵ではなく、反花座上の宝珠あるいは舎利容器であること
②腹前の右足首から垂れる裳端の表現が大きな撓みをあらわすことなく、通例的な表現に留まっていること
③獅子冠の獅子頭部には丈があり、前二像のやや扁平な感の強いものとは異なる造形感覚であるこ
④光背ホゾ部にみえる「一」が、もし造像の順番を示し、かつ石清尾八幡社神宮寺から移入された他像が存することを考慮すれば、本像も石清尾社に関わるものであることが考えられる。
そして、全体的な印象として
「白峰寺・志度寺の二像を圧するような迫力ある造形の印象は、原初像として風格に起源する」
と研究者は考えているようです。
  つまり、ここから分かることは
①松平頼重は京都の仏師「大仏師内匠」に愛染明王像を3体発注した
②それは石清尾八幡社神宮寺浄光院と白峰寺と志度寺に寄進された
③一宮寺の愛染明王像は、石清尾八幡社神宮寺浄光院のものが神仏分離の際に移動してきたものと考えられる
④しれは、3体の愛染明王像の中で最初に作られたもので、最も迫力を感じる作品である。
ということになるようです。京都で制作された愛染明王像は、どのようにして運ばれ、各寺院に納入されたのでしょうか。
高松藩の専用船が使われたのでしょうか
一度高松城に運びこまれ、松平頼重が検分して、それぞれの寄進先を決めたのでしょうか。
一番できあがりの良いとされるものが岩清尾八幡に寄進されたのは、どうしてなのでしょうか
いろいろな疑問が湧いてきて楽しくなります。

この他にも大師堂には2つの不動明王がいらっしゃいます。
一宮寺 不動明王 平安期

ひとつは、平安時代後期のものと考えられる不動さまです(写真121、122、123)です。体部は「前後二材矧ぎで、頭部は後補」で、底面は塞がれていないので、足ホゾが前面材から両足とも刻み出していることが見えます。この不動さまも「移入された客仏」のようです。

もうひとつは鎌倉時代12世紀の不動さまです。
一宮寺 不動明王 鎌倉期

前代風をよく伝えるもので、頭体幹部を一材から彫りだしたもので、両足首から先を後補です。表情や穏やかな作風で、「優品の不動明王像の一躯」と評価されています。


4 菩薩堂
この堂は「大宝院記録」には「阿弥陀堂」と記されています。
由緒には「先住霊算」が「復旧之志」により勧進して、阿弥陀如来二十五菩薩像を再興したとします。ここも長尾寺と同じく中世には高野山系の念仏聖によって阿弥陀信仰が広まっていたことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来g

  この阿弥陀如来(写真126)の台座には「彫刻人 京仏工 赤尾右京亮 橘栄□」とあり、台座内には
「寛政四(1792)子年 九月 光孝天皇後胤 定朝法印三十一世也 赤尾右京亮作」

と記されいます。またしても「赤尾右京」に発注しています。世代を超えて、同じ工房に発注しているのは、それだけの信頼関係があったと同時に、「赤尾右京」が名代の仏師として評判もよかったことがうかがえます。

一宮寺 阿弥陀如来2g

この阿弥陀さまは、着衣のひだが流れるように深く刻まれています。顔立ちは鎌倉時代風で、イケメンです。「近世の佳作のひとつ」と評価も高いようです。
 菩薩堂には、この他にも五大明王像(不動明王像と軍茶利明王像を欠く)の三像がありますが、文化2年(1805)の制作年と仏師「京大仏師 赤尾右京」の台座内墨書が見つかっています。さらに仏師「赤尾右京」工房との関係が増えました。近世京仏師が、地方からの造像注文にどのように応えていたのか興味のあるところです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
  四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

 一宮寺周辺の「都市圏活断層図」
上の地図は一宮寺周辺の「都市圏活断層図」です。
地図上の東部(右側)に網掛けがされていますが、この部分が安定した扇状地上にあることを示します。一方、西側(左)は香東川の沖積低地になります。一宮神社(田村神社)や一宮寺は、この扇状地の端に立地していることが分かります。
一宮寺 香東川流路

一宮寺の西側約1 kmには香東川が北流しています。
香東川は近世初めまで一宮寺の南側の香川町付近で東西に分岐し、高松市北西部の紫雲山の東西で北流し現在の高松港付近から瀬戸内海に流れ出していました。近世初頭に高松藩主生駒家の客臣(藤堂高虎が派遣)の西島八兵衛により、東側の流路を堰き止め、西側に一本化したとされます。それ以後は香東川はほぼ現在の流路となったようです。
野原・高松・屋島復元地形図

 そのため流路が替わってもかつての川床にあたる一宮町、鹿角町、田村町などには多くの伏流水が地下を流れています。一宮寺の北東部にも「花ノ井」という出水があります。これらの出水を利用して、近世以降には、稲作を中心とする水田農耕が盛んな地域であったようです。
⛩田村神社|香川県高松市 - 八百万の神

  一宮寺のすぐ西には、扇状地と沖積低地との境があることを押さえておきましょう。
一宮寺 周辺遺跡図
地図はクリックで拡大します
 一宮寺周辺の歴史的環境を見ておきましょう
約1,7km南東の⑦百相(もまい)坂遺跡からは、弥生時代後期前葉の遺物が少量出土した溝状遺構が確認されていますが集落は確認されていません。約3km北方の③上天神遺跡や太田下・須川遺跡では自然河川や灌漑用の水路などが確認されています。特に上天神遺跡では朱を保管したと考えられる土器が、大田下・須川遺跡では壺形土器の頸部に鹿の線刻が施されたものが出土しているので、このあたりに大規模な集落があったことがうかがえます。
 古墳時代には、一宮寺よりも東側や南東側に、古墳や集落があったようです。れは西側が先ほど見たように香東川の氾濫原であったためでしょう。
 ⑨百相坂遺跡の南側の独立丘陵の山頂部には、全長51mの前方後円墳である⑩船岡山古墳があります。この古墳から出土したとされる到抜式石棺が地元の浅野小学校にあり、埴輪片も採集されています。また、船岡山古墳の丘陵から旧国道193号線を挟んで南東には、⑪船岡古墳があり、横穴式石室の一部とされる石組みが残っています。このように、古墳時代には地域の有力者の存在がうかがえます。
 古墳時代の集落としては、一宮寺の北東約1,5kmの⑤大田原高須遺跡で古墳時代後期の竪穴式住居や自然河川、灌漑用の水路と考えられる溝状遺構などが見つかっていて、大規模な集落があったことがうかがえます。これら古墳の主達の基盤とした集落と考えられます。また、④大田下・須川遺跡からも5世紀の須恵器を伴う竪穴住居跡などが見つかっていて、古墳時代に継続して集落があったことがうかがえます。
これらから一宮寺の東側の大規模な扇状地は、古くから開発の進んだ地帯だったと研究者は考えているようです。一宮寺が東側が扇状地、西側が沖積低地にあたり、いわば地質の変換点にあたる所に立地していることが改めて納得できます。
この地域を開いた首長墓と見なされる古墳群を築いたのは讃岐秦氏だと研究者は考えているようです。
秦氏の本拠地は「原里」で百相郷も含みます。中間郷も秦氏の重要な拠点で、『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の支配エリアであったようです。
 その秦氏の歴代の盟主墳墓が双方中円墳の船岡山古墳で、石枕付石棺が出土しています。また直径20mほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳(6~7世紀)

へと推移したと考えられます。
田村神社 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 
原郷には、秦氏によってまつられた田村神社(一宮)が鎮座します。
祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神です。その女神が「花の井」の出水で、祀られ豊穣の祈りが捧げられてきたのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力の高まりによって律令体制下では讃岐一宮に「格上げ」されていったと研究者は考えているようです。
ちなみに一宮寺は最初から田村神社の別当寺ではなかったようです。
 秦氏の氏寺として作られた古代の氏寺でもないようです。秦氏の氏寺は、別の所に建立されていたからです。百相坂遺跡の北側には舟山神社があります。この社殿南西部には、礎石と云われる大きな石が残っています。これが ⑧百相廃寺跡と云われ、奈良時代の複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦なども出土しています。この寺が秦氏の氏寺のようです。
船山神社 - 香川県高松市 - 八百万のかみのやしろ巡り
舟山神社境内にある百相廃寺の鐘楼跡碑と説明版

この百相廃寺が中世の神仏混淆の結果、一宮である田村神社と結び付いて神宮寺となります。先ほども云った通り、ここは今は船山神社ですが、地元では神宮寺の名で親しまれており、バス停の名前はいまも神宮寺のままです。田村神社の神宮寺(別当寺)は、もともとは百相廃寺であったことを確認しておきます。
船山神社 (香川県高松市仏生山町甲 神社 / 神社・寺) - グルコミ
舟山神社

 一宮寺縁起について
一宮寺は、真言宗御室派に属し、山号は神皇山、院号は大宝院。聖観世音菩薩を本尊とします。創建については、安政三年(1857)の『大宝院記録』(古文書・古記録 番外)や『四国霊場一宮寺大宝院興隆会設立趣意書』『順礼大師縁起』などがありますが、すべて近代以降のものです。その内容を概観しておきます。
①創建は奈良時代初期の大宝年間で、院号も年号を取って「大宝院」としたこと
②和銅年間に諸国一宮の整備に伴い、伽藍の修築などが行われたこと、
③弘法大師が滞在中にみずから聖観音を彫ったことから法相宗から真言宗へ改宗したこと
④戦国時代の天正年間に兵火により堂塔ことごとく焼失したこと
⑤その後中興の祖である宥勢大徳により、伽藍等が再建された
と伝えます。しかし、①②については古代瓦の出土もありませんし、一次資料も、遺物もありません。近世以前のことは分かりません。

 近世史料に見える一宮寺
 近世になり四国辺路から四国遍路へとリニューアルするに従って、中世のプロの修験者による辺路修行から、素人による札所巡礼に姿を変えるにつれて参拝者増え始めます。そして四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、一宮寺に関する記述が見られるようになります。
それらの大衆向けの巡礼パンフレットに一宮寺がどのように紹介されているのかを見ながら、伽藍レイアウトも見ていきましょう。
まず『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
夫ヨリ北エ二里斗往テ高松二至。ここハ松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石ノ城下也。此京兆(松平頼重)ハ水戸中納言頼房卿ノ長子也、家康公の為ニハ孫也。黄門舎兄ノ亜相ヨリ早誕生在リシ故、此京兆ヲ幼少ヨリ洛西ノ天龍寺ニ預ケ置テ世二披露シ玉ハズ、?ルヲ家光公聞及玉テ召出テ当国ヲ拝領也。
 京兆ハ成ノ年ニテ当年ハ三十一歳成ガ、中々利根発明ニテ政道二無レ私、万民ヲ撫育シテ下賤ノ苦楽ヲ能知り玉フト也。当国白峯寺以下ノ札所二旧記二倍シテ皆新地ヲ寄附セラル。当時ハ在府也。家老ハ彦坂織部ノ正、其外谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人老中評定衆也
 祈願所ハ天台宗喜楽院卜云、水戸ヨリ国道ニテ入国也。城下二寺ヲ立テ置ル也
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。
  意訳しておくと
一宮寺は社壇も鳥居も南向きで、本地は正観音である。
ここから北へ2里行くと高松に至る。ここは松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石の城下である。この殿様は水戸中納言頼房卿の長男で、家康公の孫にあたり、水戸黄門の兄である。黄門さまよりも早く誕生されたので、幼少の時に京都の天龍寺に預けて世間には披露しなかった。これを家光公が伝え聞いて讃岐高松領を与えた。京兆(松平頼重)は当年31歳になるが、中々利発で政道にも私心なく、万民を慰撫し、下賤の苦楽をよく知っているという。
 当国の白峯寺などの札所に、旧来の倍に当たるような寺領を寄進している。当時は江戸に参勤交替中で不在であった。家老は彦坂織部ノ正、その他、谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人が老中評定衆である。祈願所は天台宗喜楽院という。水戸から入国して、城下に寺を建立した。
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
澄禅の「四国辺路日記」の時代には、一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺になっていました。綾氏の衰退と共に氏寺の百相寺も廃絶したのに、代わったのでしょう。
 境内の記述は「社壇も鳥居も南向き」と田村神社に関する記述があり、神仏混淆の姿を自然に受け止めています。そして「本地正観音也」と一宮寺の本尊に触れるだけです。ここからは、本堂の姿は見えてきません。社殿に安置されていたのかとも思えてもきます。
 この時期は以前にもお話ししたように、阿波の霊場は本堂もなく仮堂に仏様の破片が積まれ、修験者や虚無僧が堂守として居住していた札所がいくつもあったことを澄禅は見てきています。彼は当事のエリート学識層で観察視点や表記はぶれません。一貫した記述です。そこからすると、この時代に本堂はなかったのではないかという「仮説」も出てくるように思います。
 同時に、当事の高松藩の情勢分析なども的確にされています。高松から屋島への潮の満ち引きによって変わる街道紹介も的確です。澄禅の知識人としての洞察力や表現力がうかがえます。

澄禅から約30年後にやってきた真念の『四国遍路道指南』(貞享四年:1687)には次のように記されます
七十三番一之宮 平地、堂はひがしむき。かゞハ郡一宮村。
本尊正観音立三尺五寸、大師御作。
詠歌 さぬき一の宮の御まへにあふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
是より屋島寺迄三里。但仏生山へかくるときハ、一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下へ行バ、一宮より屋島寺まで四里有也。
○かのつの村○大田村、八幡、標石有。○ふせいしむら、八まん宮.○まつなわ村、行て大池有、堤を行。○北村、三十番神宮有、過て小川有。○ゑびす村○春日村○かた本村。これより屋島寺十八町、坂、地蔵堂有。
意訳すると
七十三番一之宮寺は平地に、堂は東向きに建つ。香川郡一宮村にあり、本尊は正観音立で三尺五寸の弘法大師御作である。
詠歌 さぬき一の宮の御まへに あふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
ここから屋島寺までは三里。仏生山へ立ち寄るときには一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下を経由すれば、一宮より屋島寺まで四里になる。
○かのつ(鹿角)の村○大田村、八幡、の標石がある。○ふせいしむら(伏石村)、八まん(八幡)宮.○まつなわ(松縄)村、を行くと大池があり、その堤を通って行く。○北村には三十番神宮があり、そこを過ぎると小川がある。○ゑびす村○春日村○かた本(潟元)村に至ると、これより屋島寺は18町で、坂に地蔵堂がある。
 ここには「堂はひがしむき」とのみあり、東向きの本堂があったことが記されています。澄禅巡礼後に、このお堂が造られたのではないでしょうか。
 「大宝院記録」(安政三年:1857)には、延宝7年(1679)に高松松平家により、田村神社の第一別当寺を解職され、寺領を新たに寄進されたことが記されています。これは松平氏による「神仏分離」がおこなわれたことを意味します。他国の一ノ宮が、明治の神仏分離で別当寺が切り離されたのに対して、近世初頭に「神仏分離」が行われていたとも云えます。その際に、高松藩初代藩主の松平頼重は寺領を与えると同時に、一宮神社の隣接した現在地にお堂を建立したとも考えられます。
松平頼重の宗教政策をいくつか挙げると
①金毘羅大権現の保護育成と朱印領地化、そして全国展開支援
②菩提樹としての仏生山法然堂の建立と保護
③高松城下町の鎮守岩瀬尾八幡の保護
④真宗興正寺派との姻戚関係と連携保護
⑤根来寺・長尾寺などの天台宗改修と保護
これらには政策的・戦略的な狙いをもった宗教手段が執られていたことがうかがえます。一宮と一宮寺の分離にも、何かしらの思惑や政策的なねらいがあったはずだと穿った見方をしたくなります。
寂本の「四国遍礼霊場記」(元禄二年:1689)を見てみましょう
蓮華山一宮寺大宝院
当寺の啓迪年祀久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号す、即猿田彦の命なり。
或は人王第七孝霊天皇の御子とも云、貞観九年御位をすゝめらる。宮は寺の前別に屋敷を構へたり。松樹しげく、木立物ふりにたり。左に花の井といふ名水あり。寺の本尊聖観音立像長三尺五寸.。寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。
意訳しておくと
当寺の歴史は久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号し、猿田彦命を祀っている。
あるいは人王第七孝霊天皇の御子とも云い、貞観九年御位している。宮は寺の前に別に屋敷を構へている。松の樹が繁り、木立が覆って鎮守の森となっている。左に花の井といふ名水(出水)がある。寺の本尊は聖観音立像長三尺五寸。境内には別に稲荷社があり、前に鐘楼もある。
一宮寺 寂本の挿絵見取図
  寂本の挿絵見取図を見てみましょう。
「寺の前別に屋敷を構えたり。」とあるとおり、田村神社(田村大明神)の境内とは別に一宮寺の境内が整えられてきています。また、「寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。」とあるとおり、境内には本堂(大宝院)の他に稲荷社があり、鐘楼が描かれています。
もう少し詳しく見てみましょう
①一宮寺には田村大明神(田村神社)との間に道があり、門は2ヶ所に設置され、南側の門の方がやや広いようです。これが現在の仁王門のようです。
②大宝院と書かれた建造物が東向きなので、これが本堂のようです。
③その北側と南側にも建造物がありますが、これについては、なにも記述はありません。
④境内南東部に稲荷と注記のある祠があるので、これが稲荷社と分かります。
⑤その前面灯籠に挟まれた建物がありますので、これが鐘楼のようです。
⑥境内の塀は竹垣のようで、土塀のようなものはありません。それに比べて、田村神社の周りの塀は立派なように見えます。高松藩の田村神社と一宮寺への「格差政策」のようにも思えてきます。
⑦田村大明神北西隅の外側の一官寺との間の道沿いに小堂があり、花ノ井と書かれています。これが花ノ井出水のようです。
 ここからは田村神社と一宮寺の全体的なレイアウトは、現在と変わらないことが分かります。しかし、一宮寺境内に今ある御陵などの石造物や地蔵堂や菩薩堂は、描かれていません。この時期には、まだなかったとしておきましょう。
3『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)
八拾参番一之宮 蓮花山大宝院
香川郡一宮村 屋島へ三リ、仏生山へまわりて五リ
詠歌 さぬき一の宮のみまへにあふぎて神の心をたれかしらゆふ
本社田村大明神、祭神猿田彦命、宝蔵、本堂本尊聖観音立像 御長三尺五寸、大師の御作、大師堂 方丈の脇にあり。
一の宮町、此所にて一宿.
二十三日 雨天出立 仏生山町、一ノ宮より是迄十八丁。惣門、十二堂、蓮池、仏生山
法然寺、釈迦堂 本尊の涅槃 大師像仏也 常念仏也 上にあり 諸堂多し。是より八島迄三里余、片本村、此所二て一宿。
二十四日 雨天出立 潟本村、此所より八島迄十八町。庵麓にあり 平杖泉  坂半ばにあり、大雨に濁ず 水に不増不減なし くわずの梨子 泉の次にあり 深き古事あり、畳石 薄き石たたみの如し、故号す、念仏石 大師御彫刻の六文字梵語あり 仁王門南面山と額有り、南谷の筆なり。

「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)の挿図を見ていきましょう。一宮寺 四国遍礼名所図会1800

一之宮(田村神社)との間の道に建屋に連続するように門が描かれ、道沿いは土塀で、その他は柵でうなもので囲まれています。
①仁王門から入ると、正面奥に東向きの本堂と思われる堂があります。
②その南側(左)には鳥居と小さな祠があり、稲荷社のようです。
③境内の北側には比較的大きな建物が3並んであります。最も本堂に近い位置にある小堂は、本文に「大師堂方丈の脇にあり」とある大師堂のようです。その他の建物は、本文に記載がありません。④は鐘が吊されているようなので、位置的にも鐘楼のようです
その他は、書院や庫裏など一宮寺の経営を所管する施設としておきましょう。

田村神社については、松並木の参道が南へ伸び、鳥居も南側の街道沿いにあります。鳥居の近くには狛犬も立派な灯籠も見えます。このころには現在と同じように、南側を通る街道からの参道が整備されていたことが分かります。


一宮寺には安政三年(1857)に高松藩へ提出した「真言宗香川郡一ノ宮村大宝院記録」という文献が伝わっています。
 当時の境内にあった建造物や所蔵什物の一覧で、二部以上作成し、一部は役所へ提出し、残りは控えとして保管されていたようです。今は原本は行方不明で、昭和時代にコピーされたものが一部残っているようです。そこには安政三年段階の建造物として、次のようなものが挙げられています。
本門(仁王門)、本堂、阿弥陀堂、祖師堂(大師堂)、稲荷明神
稲荷社、地蔵堂、薬師堂、鐘楼堂、茶堂、書院、庫裏、大蔵、納屋、路次門、建家
 このうち地蔵堂と薬師堂はなくなり、その本尊であった地蔵菩薩と薬師如来は、本堂におさめられています。茶堂、大蔵、納屋、路次門、建家は今はありません。石造物として孝霊天皇石塔と宝医印塔という記載がありますから四国遍礼名所図会が描かれた寛政12年から安政3年までの間に、これらの石造物が移設されたようです。

 棟札等から見える一宮寺の空間構成
一宮寺には本堂の修繕と客殿の建立の棟札2点が残されています。す。これによると、本堂は明治34年(1901)7月に修繕されているので、それ以前の建立だったことが分かります。修繕にあたっては、檀家衆が講を組織して援助しています。また、客殿は文久三年(1863)2月16日の幕末に建立されたことが棟札に記載されています。しかし、安政三年(1857)の大宝院記録には客殿についての記載がないので、この時に新規に建立されたもののようです。建立にあたっては、寒川郡鶴羽村(現在のさぬき市津田町鶴羽)の大工が施工していることが分かります。

ここまでをまとめて研究者は、次のように指摘しています
①一宮寺の縁起では、法相宗の寺院として大宝年間に創建され、田村神社の別当寺として伽藍が整備されたのを、弘法大師がやってきて本尊が安置された際に真言宗に改宗されたとします。これは、他の札所と同じように、江戸時代の大師伝説や大師信仰の高まりが背景にある
②一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺として機能していた。近世初頭までは他の一ノ宮と同じく、一ノ宮が札所であった
③しかし、一宮寺所蔵の「大宝院記録」では、延宝七年(1679)に高松松平家により別当寺を解職された。田村大明神(一宮神社)の管理からは切り離され、札所寺院として機能するようになった。
④このことは、他の一ノ宮の状況とは異なるもので、四国遍路の中では特異な例です。結果的に、明治の神仏分離の影響を最小限に抑えることができた「一宮寺」と言える。
⑤明治維新後は、他の札所と同様に経営状態が厳しい時代もあり、 曼茶羅寺や善通寺の影響を多く受けた。
一宮寺 建造物変遷表
 現代の一宮寺
現在、一宮寺は、上の表の通り境内には仁王門、手水、鐘楼、本堂、大師堂、納経所などの施設のほかに、平成18年(2006)に新たに建立された護摩堂が本堂の北側にあります。本堂の南側には稲荷堂という小さな祠がありますが、これは近世の絵図に描かれていた稲荷社です。境内の南側には小規模の庭園があり、中島を巡るように池が設置されている。中島には凝灰岩製の中世の石塔がありますが、いつごろからこの場所にあったのかについては分からないようです。
一宮寺 現況境内図

現在の一宮寺の諸堂の建立年を見ておきましょう。
仁王門は明治9年ごろ
大師堂は大正年間
大師堂の裏側の相の間及び礼堂は昭和30年
境内南西にある菩薩堂は昭和3年
多くは、近代以降に整備されたものです。境内に南端のコンクリート製の建造物は三密会館と呼ばれ、各種会合や講座等を行う会場として利用されていますが、元々は宿坊として建てられたものののようです。
一宮寺と遍路
記録によれば、境内の建造物の一つとして
「藁葺一建家壱軒(桁行五間/梁行弐間壱尺)
但し四国順拝之遍路共江近村ろ接待仕候節、貸渡候、尚又遍路共寺内等二而、俄二相煩申候節、先不取敢相休せ、急難ヲ相救申候場所二引除申候」

とあり、遍路のための接待施設があったようです。
ほかにも、鐘楼そばの墓地には「一心法印」という墓石があります。裏側には「石州遍路」と刻まれているので、石州から遍路に来た僧侶の墓であることがわかります。
 今まで、私はこの寺を明治の神仏分離で、一宮神社から分離されたものと思い込んでいました、そうではないことが分かりました。感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

                                                                
2014(平成26)年は、空海が四国霊場を開創して1200年目になる年とされ、各札所では御本尊の御開帳や宝物の公開、特別法要など様々な記念行事が行われました。
どうして、2014年が四国霊場開設記念の年になるのでしょうか?
 霊場会は
「空海が815年(弘仁6)、42歳の厄年に四国霊場を開創し、2014年(平成26)が1200年とされる」

といいますがその根拠は何なのでしょうか?よくわからないまま私も各イヴェントに参加していたのですが改めてその理由が分かる文章に出会いましたので紹介します。テキストは 「大本敬久 弘法大師空海と四国遍路開創伝承 ちくま新書四国遍路の世界所収」です。
1四国霊場1200年記念

 815年(弘仁六)、空海が42歳の厄年のときに四国霊場を開創したという伝承が2014年(平成二十六)の千二百年祭の根拠になっているようです。確かに四国八十八ヶ寺のうち、815年を創建年とするのは13ヶ寺あります。それ以前に創建されたとされる寺院でも、弘仁六年に修行等で空海が訪れたという伝承を持つ札所は十ヶ寺あります。つまり、815(弘仁六)年の空海伝承が伝わる寺院は23ヶ寺で全体の約四分の一がこの年に、空海が訪れたことを伝承に持つことになります。ただし、これはあくまで寺伝、縁起で語られる年代で、歴史的事実かどうかはすぐには判断できません。
お遍路を悩む前に必読!霊場住職に聞く『へんろの魅力と心構え』 | LINEトラベルjp 旅行ガイド

815年(弘仁六)に空海が数え年で42歳だったのは、どうして分かるのでしょうか
空海がいつ生まれたかを明確に示す一次史料はないようです。しかし、空海の没年については  朝廷の公的記録である『続日本後紀』には
①空海の没年が835年(承和三)年3月21日であること、
②その時の年齢が63歳であったこと(数え年で)
は詳しく書かれています。そこに記された没年齢により、誕生年を逆算すると774年(宝亀5)となり、774年が生誕年となります。しかし、空海の弟子真済(しんぜい)が著したとされる「空海僧都伝」には、没年が62歳とされています。両者には1年の差異があることになります。
 空海生誕の宝亀四年説、宝亀五年説の二つの説については、もうひとつの有力資料が決め手となるようです。
それは空海の漢詩文集「性霊集(しょうりょうしゅう)」の中におさめられた空海自作の詩「中寿感興詩」に
「嵯余五八歳」(ああ、私は四十歳〔五×八=四十〕になった)

とあります。ここに具体的な年や日付は記されていませんが、最澄が813年11月25日付で書いた泰範宛書簡の中に、空海がこの詩(「五八の詩」)を送ってきたことが記されいてます。ここからは813年に40(数え年なので実年齢は39歳)の寿を迎えたことが分かります。813年-39歳=774(宝亀5)年となります。これが宝亀五年誕生説の主な根拠のようです。現在では、この説が定着しています。つまり、815年(弘仁六)に空海は数え年で42歳であったことが史料的には類推できるようです。 その1200年後は2014年になります。
室戸青年大師像。弘法大師・空海が修行したと言われる室戸岬に建つ
室戸岬の青年空海像

 ただし、平安時代初期の根本史料である『日本後紀』・『日本紀略』を見ても815年に空海が四国霊場を開創したという記述はもちろんありません。
815(弘仁6)年の空海の活動記録として確定できるものは、
一月に陸奥守として赴任する小野琴守に餞別歌を送り、渤海使の王孝廉からの書状の返事を書いたこと、
四月に弟子の康守を東国に派遣し密教経典の流布を依頼したこと、
十月に式部丞仲守のために先父の周忌の願文を作ったこと
が『性霊集』や空海の書簡を集成した『高野雑筆集』に見えるだけです。空海が四国を巡拝した史料はないのです。
1四国遍路 空海と性霊集

ただこの年のこととして『性霊集』巻九に、次のような文章があります。
「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉暉る応き文」
ここからは密教経典の写経を勧め、密教を広く広げようとしていたことがうかがえます。4月5日に東国で活躍していた僧侶の徳一(とくいつ)に協力を要請した手紙も『高野雑筆集』に収められています。
1四国遍路 空海と徳一

徳一は若い頃は奈良東大寺で学び、会津地方に拠点を移して活躍し、茨城県筑波山の中禅寺、福島県磐梯町の慧日寺等の東回約七十ヶ寺の開基とされます。徳一は「三一権実争論」での最澄との論争で有名な僧侶です。彼は南都仏教、特に法相宗の立場で天台教学を批判し、返す刀で空海に対してもその教学への疑間をまとめた『真言宗未決文』を著しているように活発な活動を展開しています。この頃は天台宗や真言宗など諸宗間の論争が高まり、それに刺激されて各宗派の布教活動も盛んになった時期のようです。
空海が四国霊場を開創したとされる弘仁六年は、東国をはじめ全国に真言密教を広めようと活動していた時期でもあるようです。
 見てきたように、当時の史料からは空海が四国に渡って寺院や霊場を開創した記述は確認できません。「空海42歳厄年 四国霊場開創説」を史実として実証することは難しいようです。しかし、空海が真言宗を広める活動を本格的に開始した年とは、いえるかもしれません。
四国八十八ヶ所霊場のはじまりと歴史

四国霊場=空海四十二歳厄年開創伝承は、どのように生まれたか?

これまでの四国霊場開創記念式典の様子を見てみましょう。
開創千年は江戸時代後期の1814年(文化11)になります。しかし、この時に何らかの記念事業が行われた史料はないようです。なにも行われなかったと云っていいようです。ここからは、200年前には、815年(弘仁六)に空海が四国八十八ヶ所を開いたという話は、広く知られた伝承ではなかったことがうかがえます。幕末から明治時代以降に定着した伝承のようです。
「空海42歳厄年 四国霊場開創説」は、どのように定着して行ったのでしょうか?
四国八十八ヶ所の札所寺院を巡ってみると、1964年(昭和39)の開創千百五十年記念や1914年(大正3)の千百年記念で建立、寄進された石造物や奉納物が多いことに気づかされます。
  出版物にも開創を記念して刊行されたものがいくつもあります。
たとえば1914年に三好廣太が著した案内記『四国遍路 同行二人』には、翌年の「四国霊場御開基一千百年」を記念して、この本で得た利益で遍路道に道標を建立しようとしていたことが記されています。この案内記は版を重ね 1925年(昭和10)には21版となっています。広く長く利用されて普及したようです。ここからは弘仁六年開創の伝承が大正時代には定着し、昭和初期にかけて広まっていたことがわかります。
টুইটারে (一社)四国八十八ヶ所霊場会(公式): "「お大師さまと歩む四国遍路」3日目 須磨寺〜淡路島  須磨寺さまで小池猊下をはじめ皆様にお世話になりました。また朝に改めて信者さんと一緒に参拝させていただきました。 今、出発しました。淡路島を目指して  ...
真言宗豊山派の管長を務めた小林正盛の『四国順礼』(1932年刊)によると、
愛媛県松山市にある第五十番札所繁多寺住職の丹生屋隆道らが1907年(明治40)に巡拝した時には、札所寺院の連合組織はなかったと記します。これを結成することが丹生屋たちの願いであり、この年の巡拝の際に住職たちと会う中で多くの賛同を得たようです。この動きが連合組織「四国霊場会(連合会)」の結成につながります。
 真言宗の専門誌『六大新報』五百五十号によると、
「開創事業は四国の各霊場同士の融和をはかり、内外に千年以上にわたる弘法大師の事績や霊徳を広めようと意図」

したようで、1911年7月に香川県の善通寺で「第一回四国霊場連合大会」が開催されています。この時に3年後の1914年(大正3)に「開創一千百年記念大法会修行」の実施が決議されます。翌年の五月には愛媛県の石手寺で第2国連合大会が開かれ、記念法会の具体的な実施案を全会一致で決議します。このように開創千百年の記念事業は、設立されたばかりの四国霊場会によって企画実行されたイヴェントだったようです。
 1914年の第一回の開創事業行事を見てみましょう
2月1日の総供養により開幕し、5月21日までの2ヶ月にわたり多くの霊場で御開帳や宝物展覧会などさまざまな企画が実施されています。例えば
室戸市の最御崎寺では記念事業として護摩堂を総工費二千円で建築
愛媛県浄土寺では境内を修繕して仁王門を再建
石手寺では記念法会や寺宝の展覧会を行うなどして境内には立錐の余地がない程ほど参拝者が多く大きな盛り上がりを見せます。
 それまで霊場間の横のつながりは、ほとんどなかったようです。しかし、このようなイヴェントに協同で連携してとりくむことで、各霊場寺院間に連帯が産まれていきます。同時に境内の修繕や新たなモニュメントが作られていきました。
満濃池を見つめる弘法大師像 - まんのう町、神野寺の写真 - トリップアドバイザー
満濃池神野寺の空海像

香川県の満濃池のほとりの四国霊場別格寺院の神野寺に、本山寺の住職が音頭を取って空海の大きな石像が建てられるのも、この時のことのようです。このように開創千百年を契機として、四国霊場が近代的再編を遂げることができたと研究者は考えているようです。 この四国霊場会が、戦後に「四国八十八ヶ所霊場会」へ発展していきます。
 四国霊場会が開設当初に取り組んだ「開創千百年記念行事」が、その結果として弘仁六年の「空海四十二歳厄年 開創伝承」が定着することにつながったようです。

ただし、弘仁六年開創伝承はそれよりも前の1877(明治10)年代には四国霊場の案内記や由来書に出てきています。明治10年代は、廃仏毀釈による各札所の荒廃が一段落し、は再興に向けた動きが活発になった頃です。新しい時代の四国遍路の出発点となるべき時期で、その機運を現すように多くの案内記や縁起が出版されています。
 周防大島出身で280回も四国を巡拝した中務茂兵衛は『四国霊場略縁起道中記大成』(1882年刊)の序文に
「夫四国人十八箇所拝礼の権興(はじまりの意)ハ往昔嵯峨天皇の御宇弘仁年 中真言開祖弘法大師四拾二歳の御時末世衆生済度の験力を興し(中略)梵字を建立」

と、空海が42歳の時に八十八ヶ所を建立したことをが記しています。このような42歳開創説は明治時代以降には称えられ始め、1914年の千百年記念で定着したといえるようです。

八十八番札所大窪寺の幕末の縁起には、行基菩薩が開基、弘仁年間に四十二歳の弘法人師が再興し、八十八番札所にしたとあります。
ここからは四国霊場を42歳の大師が開創したという伝承は、幕末までは産まれていたことがうかがえます。しかし、それがどの時期まで遡ることができるかは分かりません。
秘境徳島、四国88カ所寺巡り(薬王寺・太龍寺)』阿南・日和佐・海陽・那賀(徳島県)の旅行記・ブログ by Yumingさん【フォートラベル】
 厄払いの寺として有名な徳島日和佐の薬王寺

四十二歳の厄年の習俗、慣習は江戸時代以降に定着した新しい風習です。
一般的には厄年は男性二十五歳、四十二歳とか、女性十九歳、三十三歳とされます。徳川将軍家でも、厄払いのため寺院に参詣することが始まるのが1700年代の半ばのことになるようです。11代将軍の徳川家斉が25歳や42歳の厄年の厄除けのために関東の川崎大師平間寺(へいけんじ)に参詣するようになります。それに影響された庶民が四二(「死に」)や三三(「散々」)の厄年の時に厄を落とそうと社寺参詣が広まっていきます。このように厄払いが庶民の間に定着していくのは江戸時代の中期から後期です。つまり、空海が42歳の厄年の時に四国霊場を開創したというのは、「厄年習俗」の歴史から考えても江戸時代後期以降に成立した伝承だといえるようです。
1四国遍路 薬王寺厄坂

四国霊場の中には徳島・日和佐の薬王寺のように厄払いの寺として売り出している寺が数多くあります。薬王寺では、厄年に準じた階段を作り、厄払いのシンボルにしている所もあります。厄払いの風俗が四国にも定着してきた時期に、「四十二歳の厄年に空海が四国霊場を開いた」というのは、新たなセールスポイントになったでしょう。ある意味42歳でないと、その「商品価値」は下がってしまします。そこへ42歳の男達が厄除けにお参りするというのは、何かしら説得力があるように思えてきます。
四国八十八ヶ所霊場会公認のバッジ - お遍路コンシェルジュ~ひょいと遍路へ 晴れきってゐる

 これも弘法大師伝説が生み出したもののひとつかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     大本敬久 弘法大師空海と四国遍路開創伝承 ちくま新書四国遍路の世界所収

  
現代の四国遍路では、札所の本堂・大師堂の前で読経を行うのが霊場会の作法となっているようです。そして、
開経、懺悔文、三帰、三境、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、本尊真言、光明真言、大師宝号、回向(えこう)文

の順で唱えていきます。この中で般若心経は外すことができないものとされます。私も巡礼の際には、にわか信者になって般若心経をお勤めしてきました。しかし、般若心経は江戸時代初めには、唱えられていなかったようです。
おきらく道場 続・お遍路本

1687年(貞享四)の真念『四国辺路道指南」には、仏前勤行について
「本尊・大師・太神官・鎮守、惣じて日本大小神祗・天子・将軍・国主・主君。父母・師長・六親眷属」などに礼拝し、「男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

とあります。ここには光明真言や大師宝号を唱え、御詠歌を詠むとはありますが、般若心経には全く触れられていません。
これに変化が現れるのは19世紀になってからです。1814年(文化11)に刊行された『四国編路御詠歌道中記全』は、札所の本尊図と御詠歌を中心とした簡単な案内書です。そこには、遍路の効能を書いた序文の次に、「紙札打やうの事」とあり、その後に十三仏真言、般若心経、十句観音経、懺悔文が載せられています。今のところこれが般若心経を載せる最も古い案内書のようです。しかし、一般には広がっていなかったようです。般若心経を唱える人はわずかだったのです。 
明治時代の仏前勤行
明治になると1868(明治元)に神仏分離令が発布され、 各国の一宮などの神社が札所から排除されて、八十八の札所はすべて寺院となります。 一方で、廃仏毀釈運動の高まりの中で住職が還元していなくなり廃寺になった札所も少なくなかったようです。さらに3年後には、寺社領上知令が出されて、今まで持っていた寺領が新政府に没収されます。明治初年は、四国遍路だけでなく日本の仏教界にとって経済的な打撃も与えました。
 このような中で仏教側からの建直しと「反攻」機運も出てきます。
札所の多くが属する真言宗では檀信徒への布教・教化を積極的に進めていくために、在家勤行法則を制定します。これまで真言宗では布教や教化はあまり重要視されていませんでした。しかし、神仏分離・廃仏毀釈という今までにない危機のなかで、檀信徒に対して真言宗の教えをわかりやすく説く必要が認識されたようです。こうして1880年に真言宗各派が東京に集まって第一回布教会議が開かれます。、そこで作成されたのが「在家勤行法則」(著述人・三条両乗禅)のようです。
東寺 真言宗 在家勤行法則』京都みやげ経本 - 川辺秀美の「流行らない読書」

この「在家勤行法則」は、次のようなもので構成されています。
懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、光明真言、大師宝号・真言安心和讃・光明真言和讃・回向文」
からなっています。見れば分かるように、これから2つの和讃を除くと、現在の四国遍路の仏前勤行になります。どうやら明治の「在家勤行法則」が原型になっているようです。しかし、ここにはまだ般若心経はありません。
明治になると、江戸時代までのものとはちがった新しい四国遍路案内書が次々に登場してくるようになります。
1四国遍路案内一覧

この表は一番左が出版された年で、明治以降に刊行された案内書の仏前近郊主なものを並べたものです。右のページの二番目が般若心経の列ですが、その数はそれほど多くありません。昭和の戦後になってからのものには、般若心経が入っているようです。

1四国遍路 勤行法則pg

明治の遍路者は実際には、どのような仏前勤行を行っていたのでしょうか。
1902年(明治35)に遍路に出た菅菊太郎の巡拝記を紹介した「佐藤久光『四国猿と蟹蜘蛛の明治大正四国霊場巡拝記』岩田書院、2018」には、
「遍路者は、祈念文、懺悔文、三竟、三党、十善戒、光明真言、大師宝号、十三仏真言によって「一通りお勤が済む」が、丁寧な者は般若心経、観音経、真言安心和讃、光明真言和讃、弘法大師和讃などを唱える」

と書かれているようです。ここからは祈念文から十三仏真言までが「標準」で、般若心経を唱えるのは丁寧な遍路者に限られていたことが分かります。
お経をよむ|遍路道(歩き遍路ブログ)

十大正時代以降の仏前勤行は?
明治の仏前勤行は、般若心経が唱えられることはあっても一般的ではなかったようです。大正時代になっても状況は変わりませんが、研究者が注目するのが1910(大正9)に出された丹生屋隆道編『四国八十八ヶ所』です。この本の著作兼発行人は50番札所繁多寺の住職さんです。そして発行所は、四国霊場連合会となっています。ここにも「勤行法則」の中に、般若心経はありません。序文には、1918年の第6回四国霊場連合大会の決議によって、この案内書を作成したとあります。四国霊場連合会は、明治末年の1911年(明治44)に第一回大会を善通寺で開催して、活動を開始していたようです。そして、第一次世界大戦後の大正時代には、まだ般若心経は入っていないことが分かります。

昭和になると、安田寛明『四国遍路のすゝめ』のように仏前勤行に般若心経を含める案もありますが少数派です。そう言えば、山頭火などの巡礼記録を見ても般若心経は出てこない気がします。
それでは、いつから今のように般若心経が唱えられるようになったのでしょうか。それは、どうやら戦後になってからのようです。

白衣姿の遍路が登場するのはいつ頃から?
般若心経とならんで遍路の必需品とさえるようになった白衣は、いつ頃からのものなのでしょうか。真念の『四国辺路道指南』には、やはり白衣は登場しません。
1四国遍路 江戸時代の遍路姿

江戸時代後期の『四国遍礼名所図会』や『中国四国名所旧跡図』(上図)に描かれた遍路者も紺、縞、格子の着物を着ているようです。
88箇所遍路

幕末に書かれた喜多川守貞の『近世風俗志』(『守貞漫稿』)には、四国遍路について、次のように記されています。
「阿州以下四国八十八ヶ所の弘法人師に詣すを云ふ。京坂往々これあり。江戸にこれなし。もつとも病人等多し。扮定まりなし。また僧者これなし」

 「扮定まりなし」とあるおで、決まった装束はなかったことが分かります。それは、明治に入っても変わりません。
愛媛県松山市野忽那(のぐつな)島の宇佐八幡神社に1884年(明治17)に奉納された絵馬には四国遍路の道中の様子が描かれています。男性が5名、女性が12名(うち子供2名)みえます。着物は、全員が縞模様や格子など柄物です。
1四国遍路 meizino 遍路姿

上の写真は、愛媛県西予市宇和町の山田大師堂に奉納された明治時代の四国遍路の記念写真です。これも全員が着物姿で白衣ではありません。このように、明治になっても遍路者は白衣を身につけていません。
白衣がみられるようになるのは昭和になってからのようです。
旧制松山高等学校教授の三並良は、
「青々した畑の間を巡礼が白衣でゆく姿がチラ/ヽと見え、鈴の音が聞える」
(三並良「巡拝を読む」『遍路』1932一九三二)
旅行作家の島浪男も
「お遍路さんに二組三組出会ふ。白い脚絆に白い手甲、着物はもとより白く、荷物を負ふた肩緒も白い」
(島浪男『四国遍路』宝文館、1930)と書いています。1936年(昭和11)に遍路に出た女性は、
「当時は先達以外に、白衣を着る人はいなかった」
(印南敏秀「戦前の女四国遍路」『技と形と心の伝承文化』慶友社、2003)と述べています。
「四国巡拝の手引」(1932年)に
「服装は平常着の儘にて、特に白衣などを新調する必要なし、但し白衣の清浄で巡る御希望ならばそれも結構です」

とあります。ここからは戦前は先達は別として、普通の遍路が白衣を着るのは珍しいものだったようです。




 戦後に社会が落ち着いてくる昭和20年代後半になると遍路に出る者が再び、増えてきます。
1953年(昭和28)に出された案内書『四国順礼 南無大師』(四国霊場参拝奉賛会)の「巡拝用品」にはまだ白衣はみえません。
岩波写真文庫の平均価格は511円|ヤフオク!等の岩波写真文庫のオークション売買情報は63件が掲載されています

1956年の岩波写真文庫『四国遍路』(岩波書店)には札所や遍路者の写真が数多く収められていますが、遍路者の約半分が白衣姿のようです。
1四国遍路姿 岩波

そして高度経済成長が始まる1960年代始めに出された案内書『巡拝案内 遍路の杖』(浅野総本店)には、
「四国は今に白衣姿が一番多く、次いでハイキング姿です」

と紹介されます。いよいよ白衣の流行の時代がやって来たようです。こうしてみると、白衣が普及するのは思っていたよりも新しいようです。昭和の高度経済成長時代に、貸切バスで先達さんに連れられた遍路の団体から流行が始まったのかもしれません。先達さんだけが着ていた白衣が、かっこよかったのかもしれません。あるいは、先達さんの勧めがあったのかもしれません。どちらにしても白衣も般若心経も案外新しく戦後になって定着したもののようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界 ちくま新書



四国遍路を正式に行おうとすると、納経帳、般若心経、白衣は必需品のようです。白衣を身につけ、本堂と大師堂で般若心経を唱え、納経帳に納経印をもらうというのがお決まりの作法のようになっています。これは、いつからそうなったのでしょうか。
今回は遍路スタイルの変遷について見ていきたいと思います。
テキストは「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界」所収 ちくま新書」です
四国遍路の世界(筑摩書房) [電子書籍]
最初の四国遍路のガイドブックといわれる真念『四国辺路道指南(みちしるべ)』1687年刊の冒頭には、遍路者へのさまざまな注意書があり、納め札、笠、杖、脚絆などについては詳しく書かれています。しかし「納経帳、般若心経、白衣」のことは、どこにも触れられていません。当たり前なので触れなかったのではなかったようです。真念の時代の遍路者は、白衣を着ず、納経帳を持たず、般若心経も唱えていなかったようです。では、いつころからこれらは普及したのでしょうか。
天保11年(1840)四国八十八ヶ所の納経帳 | 古今御朱印研究室
天保8年の納経帳

今回は納経帳について見ていきたいと思います
寺社に経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状を納経状といい、それらを集めて帳面にしたものが納経帳と呼ばれます。ここで注意したいのは「経典を奉納した者に、寺社側から手渡される請取状」が納経状であるということです。つまり、経典を納めない者には、出されることは元来はなかったのです。

御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室
 
この「納経帳」を最初に採用したのは「六十六部」のようです。
六十六部とは、日本全国六十六ヶ国を巡り、各国の有力寺社(決まってなくて随意の寺社)に法華経を本納するという巡礼者のことのようです。六十六部の納経状の最も古いものは12世紀のものが知られていますが、中世の六十六部の納経状は数も少ないようです。つまり中世に六十六部巡礼者の数も多くなかったのです。 それが世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部の活動が行われていたことが大量に残された納経帳からうかがえます。彼らの活動状況はからは次のようなことが分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
と、長期間をかけて各国を回るようになり、その数も急増したことが分かります。
一之輔独演会 花見の仇討ち - garadanikki

どんな経典が納められていたのでしょうか?納経帳に記された奉納経典についてみてみると
18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。そして1760年代以降になると、奉納経典は記載されなくなったようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の残した納経帳

納経帳の書かれた奉納経典の変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経寺社数が100以下の限られていた時期ならともかく、巡礼する寺社数が増えるにつれ、難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなったようです。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯を研究者は考えているようです。
四国69番 観音寺〈文政8年〉
文政8年の納経帳 讃岐観音寺

四国の札所の納経帳は、六十六部の納経帳のスタイルを真似たものとして登場するようです。
六十六部が四国を巡った際に、札所にもあわせて納経します。すると六十六部の巡礼者は四国札所の納経帳が出来上がることになります。そこには四国の札所の多くに納経したことが記されています。これはあくまで六十六部の納経帳であり、四国遍路の納経帳ではありませんでした。しかし、これを見た遍路の中に「あれええな、わしも作ろう、朱印を集めよう」と思う者が出てきたのでしょう。 

四国八十八ヶ所の納経帳は、いつごろから登場するのでしょうか
四国遍路者の納経帳で、今のところ最も古いとされているのが1753(宝暦3年)のものです。18世紀後半になると四国遍路の巡礼者も納経帳を持って四国をを巡るようになったようです。
中古】満願達成 重ね印 四国霊場八十八ヶ所 明治16年 弘法大師誕生1200年 淡路島七福神 納経帳 御朱印帳 御影帳 まとめて /お遍路巡礼札所  の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

どうしてこの時期に納経帳が普及するのでしょうか?
第1の理由は、納経帳の持つ魅力だと研究者は考えているようです。
納経帳には各寺社の本尊や祭神が大書されてあり、単なる書類綴りとは異なって諸国の神仏を集めた「神名帳」としての意味を持っていました。納経帳は、各札所を廻った証であるとともに、神聖なもの、ご利益をもたらすものと人々は考えていたようです。

19世紀初期に大坂で、四国遍路の普及につとめた菱垣元道は、四国遍路の入門書と納経帳がセットになった『四国道中手引案内納経帳』を作り、五万冊以上を無料配布します。そこには、次のような事が記されています
①納経帳を持って遍路をすると、持たない場合に比べて功徳が七倍になる
②納経帳を一枚ずつ水に人れて飲むと流行病にかからない
③納経帳を死後棺桶に人れると極楽往生できる
などの効用が説かれています。ここまで言われると納経帳はありがいものに思えてきます。納経帳は、神聖でありがたく、効能があるものとされるようになったのです。

納経帳普及の理由の第2は、 18世紀後半になると経典を奉納しなくても納経印がもらえるようになったことです。
真念の時代の四国遍路では、八十八の寺社にお札は納めてはいたが、経典を納める慣習はなかったようです。先ほどの六十六部の所でも触れましたが、当時は、経典を奉納しないと納経印がもらえなかったのです。納経印をもらうために、大量の経典を写経したり、買ったり出来る人は限られています。そこまでして納経帳をつくる遍路者はいなかったでしょう。しかし、18世紀後半になると、納経料さえ払えば納経印がもらえるようになります。この変化が巡礼者の多くが納経帳を持つようになった背景ではないかと研究者は考えているようです。

まとめておくと、
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこない。
②実際に納経を行っていた六十六部は「納経帳」を残している。
③四国遍路の四国遍路の納経帳は、六十六部の納経帳から生まれ、18世紀の後半から四国遍路者の間に普及した。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったこと
⑤納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 「寺内浩 納経帳・般若心経・白衣  四国遍路の世界所収 ちくま新書」です

 「大覚寺差止め八か条」で、海岸寺は次のようなキャッチフレーズは差止(使用禁止)となります。
「御誕生之霊跡」「御降誕之霊地」「御初誕之地」「御産生所」

また「弘法大師生誕地」と称していた次のものついても使用停止処分となります。
海岸寺の縁起  奥の院産盥堂の勧進帳  建石之事(丁石) 
案内切出之書付(道案内図)
 
そして「藩の申し渡し」によって、
①産盥の参拝者への公開禁止(没収は免れた)
②産盥堂は「再建」としては認められないが新築することは許された
⑤屏風浦の称号使用禁止(頭書や肩書きとしては許された)
  この2つの決定により「弘法大師=多度津白方生誕」説は、息の根を止められたかというと、そうでもないようです。以後も生き続け、庶民の間には流布され続けたようなのです。その実態を追いかけて見ようと思います。
まず、裁定が出された後の海岸寺の動きを見てみましょう。
  上のような決定が海岸寺に通達されるのが文化十四年(1817)の春3月23日のことです。しかし、海岸寺は申渡し事項を前向きに守ろうとする態度ではなかったようです。翌月の4月4日には「弘法大師生誕地」と書かれた「切出し」(案内図)を配布していたことで、多度津藩からの取調べを受け、始末書を差し出しています。その始末書には
「切出しを旅人たちへ配布したのは、信徒世話人の中の勝手の分らない者が、以前に刷っていたものを配布したものである」

と弁明しています。藩では、その世話人の名前を調べて差出すようにと命じます。それに対しては
「切出しを配布した世話人は、会式の時などは大勢入り込んで世話してくれるので、今になっては名前は分らない」

と弁明を重ねるばかりです。
これに対して藩は、実力行使に出ます。4月8日に縁起と絵図の板木、また大師初誕の像に屏風浦と書いた「切出し」の板木を没収します。同時に、産水の井や浴巾掛の松の建札を取払うように命じています。海岸寺はここでも「畏み奉る旨」の始末書を差し出します。
 ここからは、裁定後の海岸寺の姿勢がうかがえます。同時に海岸寺の信者の中には、裁定について反発する動きがあったのかもしれないと思えます。
 6月13日、海岸寺に対し差止を命じた「條々完了の旨」の通達が多度津藩から丸亀藩を経由して、善通寺に次のように通知されています。
     覚
大師御誕生所一件落着後追々片付候条々                      
一、納経帳ニ産盥堂と認候之儀被差止候事  
一、産盥堂と認有之候 建石書直之義被申渡候事  
一、産盥堂と書付有之雪洞六帳並びに同断認メ之幕二張為取払候之事  
一、産盥堂絵図と板木並びに大師初誕御影板木被取上候事
一、湯手掛松建札並びに二産水ノ並びに建札為取払候之事  
一、海岸寺縁起可取上旨被申渡候処 大覚寺御門跡御用二付差出置候処 今二御差下無之旨海岸寺より申出候事 
 右の通それぞれ取片付相除申候。以上
       (丸亀藩寺社方) 土岐権之襄。
                菅四郎兵衛
誕生院                                                                      

どんなものが海岸寺から没収・撤去されたのかを見ておきましょう
①納経帳に産盥堂と書かれているのを差し止めた
②産盥堂と彫られた建石(標石)を書直すように申し渡した
③産盥堂と書かれた雪洞(ぼんぼり)六帳と幕二張を取り払った
④産盥堂絵図・板木・「大師初誕」と彫られた板木を没収
⑤湯手掛松と産水の建札を取り払った  
⑥海岸寺縁起については、大覚寺に差し出したのでないことが海岸寺から申出があった。
 以上の通り、裁定に従って、没収・撤去した。以上
3月に丸亀藩と多度津藩で協議された内容に従って、「実力行使」が多度津藩の寺社方の立ち会いのもとで行われたようです。一応これで、一歳に方がついたと思われました。このような争論の結果が讃岐の人々には、どのように受け止められたのかを見てみましょう

海岸寺敗訴の裁定が下されてから約10年後の文政11(1828)年に出版された「全讃史」には、次のように記されています。

文化年間に、海岸寺は白方が屏風浦であること、又大師産盥石があり、熊手八幡宮が大師の氏神であることを朝廷に訴え善通寺誕生院と争った。数年にして誕生院は傾きかけた。そこで誕生院は多くの関係者に助力を求めた。そして、一条関白殿下から善通寺が誕生所で、修学所であるとの額を頂いた

  ここには。事実にまったく反することが書かれています。
事実経過をもう一度整理しておくと
①海岸寺が、誕生院を朝廷に訴えたのではなく、誕生院が海岸寺を、丸亀藩へ訴へたのです
②善通寺が藩の援助を受けたのではなく、反対に海岸寺全面敗訴が、多度津藩主の「政治的な圧力」で名目を保つことができたのです
③一条関白が、誕生所の額字を誕生院に寄贈したのは、訴訟後のことです。『全讃史」善通寺の條の中にも次のように記されています。
一条関白従一位左大臣忠良公、賜額字弘法大師誕生之場(八大字)共落款云、文政元年五月二日、開白忠良題

 争論の裁定は文化14年(1817)に終わっています。額が送られたのは文政元(1818)年五月二日のことです。 遠い昔のことではありません。裁定が下されてからわずか10年しか経っていないのに、このような誤りがれっきとした歴史書に載せられたのはなぜでしょうか。
二つのことが考えられます
①報道の自由が保障されていない当時は、真相を知る術がなく流言が飛び交った。積極的に海岸寺に有利な流言をながした集団がいた。それを信じた編者中山城山が『全讃史』に、そのまま記した。もっと云えば「弘法大師生誕地=善通寺」を受けいれられない信者集団がいたということかもしれません。
②編者中山城山が善通寺に悪意を持っていた。

まず①の 「多度津白方=空海誕生地説」を流布した信者集団の母体と広がりを考えます
 確かに善通寺が誕生所であることは、綸旨や院宣に書かれています。しかし、民衆からすれば「綸旨、院宣」が何であるか分らず、その内容も知らない者も多くいたようです。そして、大師は白方で生まれ、白方が屏風浦だと信ずる信者集団がいたということです。このことについては、以前にもお話ししましたので、要点だけを紹介します。
白方を屏風浦と言い、大師は白方で生まれたと言い出した最初のものは「空海混本縁起」のようです。
  ここには次のように空海の出自のことが記されています
 .讃岐多度郡屏風浦に、藤新太夫と申して猟師一人有、其内に阿古屋と申て女一人有ますが(中略)
無程懐人仕給ふ 夫人間は9月半ばの胎内とは申せども、私ならぬ人なれば十三月の御産の紐をとき給う。その時の年号は宝亀5年寅年六月十五日、寅の一天御産の紐をとき給ふ、御子取上げ見給ふに、かけも形も世にすぐれ、うつくしき男子也。然るに此子程なく、夜鳴を仕給ふ事限なし、其時地頭政所村七軒、地頭七人の身の上を聞き、急き子捨よと仰ける、御母其由聞召、我は是四拾のいんに餘りて、子を一人も持たず、人はとも言へかくもあれ捨る事は成るまじきと仰ける、藤新太夫申けるようは、王公に住身のならいなれば捨ずば如何可有やと急き此子を捨よと仰ける、御母此由聞召、金の魚を御夢想たるに依て、御名を金魚丸殿と付て綿(私注、錦か)に包、彼の千暮[ケ原に捨給ふ云々
その後、善通寺の徳道上人に拾われ、善通寺で産湯を使ったので、善通寺を誕生院と呼ぶことになったというのです。しかも父は「藤新太夫」、母は「阿古屋」とします。善通寺の「父・佐伯善通寺、母・阿刀の娘」に真っ向から反する記述です

 一方、母の阿古屋の夢想の中に老僧があらわれます。そして次のように告げるのです。「小兒の夜鳴の声は、母の胎内でいる時からお経を読んでいる声である」と。
 母はよろこんで、白方屏風浦へ迎えて程なく七歳になります。そこで、福寿丸と名を付けかえ、善通寺へ送ったいう風に物語は展開していきます。
この「混本縁起」のあとに「弘法大師四国八拾八箇所山開」(略・山開)が出てきます
勿体なくも讃州多度の郡白方屏風浦佐伯善道様御むつましう御くらし、其時あこや御前の御腹をかり、十三付きの間御もちなされ、賓亀五年六月十五日、寅年寅の月、寅の刻に御たんじょうなされ、あこや御前はしかとだき、せんだん山にすて子なされし。其時せんだん山の師生通りかかり、これふしぎなる御山にあか子なきこへとおもへと法華経よむようにきこゑ、御そばに立より、がんしょくはいし奉れば、日月の如し、御身は佛の如く相見え云々

 この「山開」は読んでみて分かるとおり、分かりやすく卑俗な文句で仮名付きで書かれていて、誰にでも読める物語風になっています。もともとは、先達(山伏)たちが信者に語り聞かせたものと研究者は考えているようです。この「山開」の終りのところには「光明真言の訓読」が付け加えてあります。そして、
ありがたい経文と心得、大師を祀ったお堂の前などで節づけで唱えよ

と先達から教えられたようです。今でも八十八か所の札所では、五人、十人と巡拝者が声をそろえて合掌する姿を見ることがあります。 さらには、神社寺院の縁日などで、この「山開」の
  「百丁くだればすかわさん、くわずのかいにくいわずのいも、年に三度の栗もなる」

のフレーズを称えながら「くわずのいも」を売るものも現れます。まさに「売り言葉」としても使われるようになるのです。
 また四国遍路の順拝者が物乞いをするときには、この「山開」を一流の節で詠じ、鈴を振り戸毎に立ちました。これは「弘法大師生誕=白方屏風浦」の流布宣伝の大きな武器になったようです。こうして、「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、四国遍路によって四国全体にも広げられて行ったようです。
海岸寺が産盥堂を建て「白方海岸寺誕生」広報プロジェクトを進めれば、人が集まってくる素地は十分あったようです。「藩主裁断」という一片の通達で、庶民の信仰を葬り去ることはできなかったようです。

 「弘法大師生誕地」や「屏風浦」が、歴史書にどのように記されているのかもう少し見てみましょう      
讃州府志(延享2(1685)の屏風浦の項目には、次のように記されています
行状記に曰く、屏風浦は弘法大師の生誕地である。五岳山があり、その形は屏風に似ていることから来ている。大師が云う王藻に帰る島のことで、巨樟の影落とす浦である。ここには堂舎があり、三角堂と呼ばれ、大師像が安置されている。その西の山側には、石臼のような石造物があり、これを大師の産盥と称している。また、清水涌く井戸が有る。弘法大師の氏寺と伝えられる(熊手)八幡宮があり、その北側は海である。

ここに記されている建物の位置関係を見てみましょう
①屏風浦は弘法大師生誕地で、五岳山の麓に善通寺がある
②屏風浦の三角寺に大師像が安置されている。(白方の三角寺佛母院のこと)
③弘法大師の産盥があるのが海岸寺奥の院
④弘法大師の氏寺が熊手八幡である。
ここからは『讃州府志』の大師誕生の屏風浦は、善通寺と佛母院と、海岸寺と熊手神社が隣接したエリアにあり、これらの全てが「屏風浦」に位置すると理解していたようです。作者が現地を訪れていないことがうかがえます。現地調査を行い史料を収集した後に、著述するという姿勢はありません。

これらの書物を参考にして、後世に歴史書を書こうとする人たちは迷ったはずです。空海の生誕地、屏風浦の範囲やエリアなどがきちんと書かれている史料がないのです。
  例えば、綾氏一族の香西氏顕彰のために軍記物語を残した香西成次は
①南海治乱記では、善通寺は弘法大師生誕地と記し
②南海通記では、屏風浦は白方だと記します。
このような曖昧さが当時の知識人の間にもあったのです。

話を全讃史の編者・中山城山に戻して、彼が「善通寺に悪意を持っていた」という仮説を検討してみます。
このことについては、弘法大師生誕地をめぐって争論した善通寺と海岸寺の「応援団」に目を向けてみたいと思います。海岸寺の本寺は大覚寺で、法親王が住職される宮門跡の大寺院です。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が目白押しです。
 それに比べて善通寺の本寺である随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡で、讃岐には善通寺以外に末寺はありません。善通寺と海岸寺だけで比べると、善通寺が圧倒するように思えます。しかし、その背景に控える寺社ネットワークを見ると、善通寺は讃岐国内で孤立していることが見えてきます。
 つまり、讃岐において真言系寺社は同門の海岸寺を密かに応援していたことが考えられます。僧侶達は知識人集団で,言論出版に大きな影響力を持っています。大覚寺系の末寺は、海岸寺に有利な世論工作を行っていた節があります。その動きの一翼に「全讃史」の編者もいたと私は考えています。裁定に破れても、海岸寺の「弘法大師生誕地=多度津白方」説を、信じて支援するエネルギーが各所にあったということでしょう。

裁定から80年近く経った明治29年(1896)の3月11日のことです。善通寺の住職が、高野山宗長に次のような要請を書状で依頼しています。
議岐国多度郡白方村  海岸寺
右寺近年切二庶人二封シ弘法大師御誕生所卜称シ居候。既二客歳春該院二於テ開帳セラレシ際 縁起ヲ聞クニ専ラ御誕生所ト唱へ候テ 庶人ヲ惑致居候往昔ヨリ善通寺ハ御誕生所十ル事歴史上ニ於テモ皆人ノ知ル所ナり。
 然ルニ海岸寺二於テ御誕生所ト称シテ 庶人ヲ証惑スル段重々不都合二候 去ル文政十四年度ニモ海岸寺は御誕生所を偽称致候二付嵯峨御所並びに藩政ノ裁決ア仰キ候 未だ海岸寺ハ十数ケ條ヲ以テ差止メラレ候(今其のケ条のいくつかを挙げると)
一 綸旨院宣ニ差障り候条誕生所二紛敷義無之様急度可為無用事
一 産盥卜相唱候石器 庶人へ見セ候義ハ急度可為無用(きっと無用たるべし)
一 湯手掛/松ノ建札並びに産水ノ井建札取払ノ事
明治29年3月11日
            讃岐国多度郡善通寺
            別格本山善通寺住職 佐伯法遵

本宗長者
権太贈正 鼎龍暁段
意訳すると
海岸寺について藩政の頃から禁止されているのにも関わらず、今また産盥と称し信者に参観させるばかりでなく、湯手掛の松や産水並びに木札を建てるようになりました。それだけでなく近年は弘法大師誕生地を公称するようになりました。誕生地が2つもあることは信者を戸惑わせるだけでなく宗祖系譜の乱れにも通じます。
 文政年間の裁判の通り、断固たる処置をとることはもちろん、誕生地を称する事について厳しく禁止させるように指導して頂きたい。なお海岸寺が禁止されている行為を参考のためにいくつか以下に挙げます。
一 善通寺が弘法大師誕生地であるという綸旨院宣に差障りのあることを流布することの禁止
一 産盥称する石造器を信者に拝観させることは禁止
一 湯手掛松や産水ノ井などの建札は禁止

 明治になって新時代が到来したことを背景に、海岸寺が再び「弘法大師=白方生誕説」を流布して、参拝者を招き入れていることが分かります。それだけこの説を支持する信者が多くいたということなのでしょう。
 今では地元では「空海生誕地=善通寺誕生院と多度津白方」が同居しているような感じもします。空海の生誕地がふたつあることを、余り違和感を持たずに受けいれられているような雰囲気がします。信仰というものは、藩主の一片の書状では変えることはできないようです。根強く残る多度津白方生誕説の背景を見ながら、そんなことを感じました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、18世紀末頃から白方の海岸寺が奥の院の整備を進めます。その集客のために流布されたのが「多度津白方=空海誕生地説」で、目玉とされたのが空海が生まれた時に使われたと称される「産盥」でした。
 これに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴します。海岸寺は、自らの主張を譲らずに調停は行き詰まり、京都に舞台を移しての海岸寺と善通寺の本寺間の協議が1年近くにわたって続けられます。
 その結果、下された裁定では、「弘法大師生誕地」などの差し止め請求は認められますが、海岸寺が頑なに主張した「産盥」「屏風浦」「別院(奥の院)」の3つについては、地元のことなので丸亀藩の裁断を改めて仰げという内容でした。海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が全面的に認められることはありませんでした。
 善通寺としては、今度こそ丸亀藩にきちんとした判断と対応を取ってもらわなければならないと考え、対丸亀藩工作を強化します。今回は、京都での調停工作の後を受けて丸亀藩がどのように動いたかに焦点を絞って、善通寺と海岸寺の争論の行方を追ってみたいと思います。
 
  丸亀藩は、善通寺・海岸寺の双方から報告書や史料・弁明書を提出させた上で、審理を行います。そして、使節団が京都から帰ってきて約1ヶ月半後の文化13年(1816)10月15日には、家老・岡織部、岡頼母、佐々九郎兵衛の名前で、多度津藩家老・畑六郎宛につぎのような見解を書面で送っています。意訳のみ紹介します。

此度の一件についての九亀藩の見解を手紙で通達する。
多度津藩白方海岸寺については近年、大師誕生所との縁起を流布しているとの申し立てがあった。善通寺の寺社経営にとって見過ごす事の出来ない状態になっていると丸亀藩寺社役に提訴があった。善通寺誕生所は、綸旨・院宣などから弘法大師の生誕地であることは明白であるとして、海岸寺の流布中止などを求めたが協議は進まなかった。そこで、誕生院は京都随心院御門跡へ提訴し、大覚寺御円跡のもとで妥協点を探った結果、次のような裁定が下りた。
縁起   勧進帳  建石之事   船問屋共ち差出候路案内切出之書付 御誕生之霊跡  御降誕之霊地 御初誕之地 一御産生所

以上の8項目については、海岸寺が使用することを差留にするという決定である。このことについては多度津藩から海岸寺へ仰せつけ頂きたい。随心院からの申渡しは、善通寺誕生院に対しても行われている。先頃誕生院住職が帰国し、その報告書が寺社方に提出されたので、直接面談して内容を確認した。確かに3事項については、地元に関することなので領主による裁断を仰ぐことになっている。何分にも綸旨院宣に触れることなので、今後に紛らわしきことがないように、審理を尽くし裁断したいと思う。
 以上に続けて、丸亀藩主は次のような感想を述べたと書き送っています。   

(丸亀の殿様)へ達御聴候所、
右者事之相決候儀、海岸寺ニ年古くク申触候共畢竟寺説之儀 
誕生院者大師誕生之土地者、綸旨之之中二事明白二相分居候儀二付種々之誕跡も現在二候得、右迄を以不及論。
 既ニ海岸寺答書ニも、誕生院義者大師誕生之霊場二而綸旨院宣等顧然之事者兼而承知候趣書載有之、傍以疾クニも役人共中為差押可申処、左も無之長々及差縫ニ、剰京都迄願出候之様為成行、前段之通為元之御裁断ニ被任候様之及旨儀ニ、於御領法難相済甚以御不快ニ被為思召候。且又明王院海岸寺義茂一宗之儀二而、右様之訳合能ク乍存重キ綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有問敷次第言語道断沙汰之限二付、於御領法巌敷御否被仰付候而も可然筋二候得共、於本山ニも事穏二為 済被下候儀二付、其段御用捨候而可然、
 右二付而前段御領法被任候三ケ条、何れ其侭差置候而者後代至り又候差縫之基二茂可相成、依之産盥者後人之作二相違無之儀一付一旦御取上之L本寺明二院江御預可被置、別館之儀者於海岸寺答書二も其所二而大師降誕有之との儀、尤降誕之所者於京都被差止候得共是以紛敷事二付、右色日も御取上不被置而者相成間敷、屏風浦之儀者往占五山之浦を相唱、大師者右浦之産二而善通寺二紛無之、既・一   公邊汀差出候書面二も屏風浦善通寺与
書載来候儀、右地名者彼ノ邊ノ白方浦迄も惣名二而、海岸寺答書も書載有之候通右浦迄も屏風浦之分内与相見へ、然ルを其銘切付建石等有之候而者右色目者白方二相限可申、右者何れから建置候事哉是以難相済候条早々御取沸可被仰付、猶其節者為見分此方役方も為立會可申候間日限相極候ハ御申越越可有之候。右之趣夫々急便を以   壱岐守様江御申上被越早々御取斗候様   長門守様被仰付候条如斯御座候。以上。   十月十五日。

   超意訳で変換すると
殿様の言われるには
そんなことは決まりきったことではないか。たとえ海岸寺が古くからの言い伝えや文書があると言い触らしていても、それは寺説というだけのことだ。善通寺が誕生所だということは綸旨の中に書かれていることだ。 いろいろな誕生の旧跡というのもあるけれども、そんなことを持ち出すまでもない。海岸寺自身が返答書に「善通寺が大師御誕生の霊跡であることは綸旨、院宣に照して明らかであることは兼々承知しています」と言っているではないか。
 京都まで出向き長々と審理を引き延ばし、このような裁断を仰ぐ結果となったことについては、甚だ不快である。明王院と海岸寺の僧侶については、このような争論を長々と続けること自体、善通寺誕生院が弘法大師誕生の地であるという綸旨に敵対する行為で、僧侶にあるまじき次第で言語道断の限りである。よって厳しく処罰すべきと考えるが、本山からはできる限り穏便に済ませるようにとの口添えもあるので、それを無視することもできまい。
 以上から、丸亀藩に判断をゆだねられた三項目について、次のような案を原則に、正式な裁定を考えていきたい。
 産盥は後世に作られた物で空海の時代のものではないので没収し、本寺である明王院で預かることにする。
別館(奥の院)については、海岸寺の返答書にも「其所二而大師降誕有之」としているので、降誕地を称することは、京都での決定で差止されていることから、破棄処分とする。
屏風浦の呼称については、昔から五岳山の浦のことである。大師はこの浦に産まれたのであり、屏風浦は善通寺であることに疑いはない。すでに提出された書面にも善通寺屏風浦と書かれている。海岸寺の返答書には、この地名は白方浦までもを含むと書かれている。
 ところが屏風浦の名前を彫り込んだ丁石は、白方だけを指している。この丁石を誰が建てたのかは分からないが、早々に取り払い撤去すべきことを申しつける。なおその際には、検分のための役人も立ち会わせ日限を限って行うこと。。
以上のことを急ぎ多度津藩主の壱岐守様へ申し上げるようとり計らうようにと長門守様(丸亀藩主)は仰せつけられになりました。以上

これを読むと、丸亀藩主は海岸寺の活動に対して
「綸旨二敵封候段、僧侶之身分ニ有間敷次第言語道断沙汰」

と述べたとあります。「綸旨を無視した僧侶身分にあるまじき次第で、言語道断」と当初から海岸寺に厳しい目を向けていたことが分かります。
 しかし、前々回にお話しした通り、善通寺が海岸寺を丸亀藩に訴え出たときの丸亀藩の動きは、鈍い物でした。それは、善通寺から見れば生ぬるいものと思えたほどです。多度津藩を通じて、海岸寺に訊問をおこなっただけで、あとは寺社関係については両者で話し合え、それでもダメなら本寺に頼めというものでした。つまり、善通寺が期待したように丸亀藩は動かなかったのです。

 それは丸亀藩の立場からすると、この事件がどういう性質のものかについて理解し、確かな見通しを持っていたからとも云えます。
海岸寺を訴えることを、善通寺に勧めた京都の九条家が言うように「丸亀藩が多度津藩に命じれば解決する」というような簡単なものではないのです。善通寺の言うことを聞いて、丸亀藩が一方的な裁定を子藩の多度津藩に押しつければ、多度津藩との関係を悪化させます。この時期、多度津藩は陣屋建設など丸亀藩からの自立化指向を強めていた時です。それは避けたいところです。さらに、海岸寺に一方的な処断を下せば、本寺の嵯峨大覚寺からの反発・反撃も考えられます。京都の大寺を敵に回すということは、小藩の丸亀藩にとっては避けたいところです。
 そこで直接介人することを避け、一旦は善通寺、海岸寺の京都のそれぞれの本寺に委ねます。
 成果が得られず、事件が再び国元の手に返されてきてから、九亀藩は動き出します。この段階を踏んでおけば、どのような裁断を出そうと嵯峨大覚寺は口出しすることはできません。それだけの見通しを丸亀藩の藩主や家老は持っていたようです。そのため京都での調停が中途半端な物になって、丸亀藩で裁断を下して欲しいという正式文書が届くと動きは迅速でした。
 
  調停に参加していた善通寺の僧侶達が帰ってくると、わずか1ヶ月あまりの間に、善通寺と海岸寺から関係文書を提出させ、聞き取り調査を行った上で、丸亀藩主は上のような原案を作成し、多度津藩に示したのです。藩主自らが判断し、原案を示しています。これは家臣達の動きを促すには最高の推進力になります。
示された三項目の処置案の内容を、改めてみてみると
① 産盥は没収し、本寺の明王院で預かる
② 別館(奥の院)は破棄処分。
③ 屏風浦の呼称は、使用禁止。
④「屏風浦」を彫り込んだ丁石は、役人立ち会いの上で日限を決めて撤去。
と、藩主の主導の下に作られた裁定案は、善通寺の全面勝訴、海岸寺の全面敗訴の内容でした。

通知翌日の10月16日、多度津藩の担当者から連絡があり、多度津藩主が江戸在府中のことなので、いますぐには判断できないとの書添が送られてきます。そして、時を置いて多度津藩主京極壱岐守から九亀藩家老岡織部宛に、裁決案について
「今少し寛大にしてやって欲しい」
との自筆の書状が送られてきます。それを藩主長門守へ見せて、相談したところ
「壱岐守殿がそれほどまでにいわれるのを、聞き入れないのもどうか」

との意向を示します。善通寺のことも大切ですか子藩の多度津藩との関係維持はもっと大切なのです。

 そこで家老は、多度津藩に対して改案を示すように求めます。
その多度津藩の改案が送られてきたのが翌年の文化十四年(1817)の春3月23日のことです。それを見てみましょう。
  
本家丸亀藩領内の善通寺村誕生院と大師誕生所の件について、
誕生院から京都本山表へ提訴されたことについて本山嵯峨御所から裁断書を頂きました。綸旨院宣に差障さわる事項について恐れ入ると共に、今後は誕生所と紛らわしいようなことのなきように、次のように申し渡したいと思います。

一 産盥については、御本家の長門守様(丸亀藩主)のから思召しをうけて、新堂を新たに建立したり、関連祭事を行うことはさせません。又生盥と称する石器は、年久しく伝来するというのは後世の作り事なので、参詣者を迷わせないように今後は、人に見せないように保管管理します。(没収回避)



一 建石(丁石)については、根元は道しるべの事で、御本家様から指摘された通りにいたします。すでにあるものについては「屏風ケ浦」の文字を削り、「白方海岸寺道又者白方道」と彫替ます。あらたに建立する場合は、「屏風浦」は決して使いません。

一 別館については、御本家の長門守様(丸亀藩主)の思召をもて「誕生地」と称することは決して行いません。(その代わりに撤去回避)
 これらのことについては、海岸寺はもちろん、本寺の明王院にも心得違いのないように言い聞かせます。
以上。                月  日
これに続いて、明王院と海岸寺から謝罪と恭順の意が次のように記された書状が入っています。
以手紙中達候、然者                     北鴨村 明王院
右末寺海岸寺と誕生院差縫一件二付 此度嵯峨御所から被仰渡御利解書通二而者、綸旨院宣二差障候趣、是迄不心付候段不念之至二候。依之御呵被仰付候。
                                                      白方村海岸寺隠居 快道
右者産盥堂再建、世上へ令流布候勧進帳等之義ニ付、誕生院から被申立 綸旨院宣二差障候趣、此度嵯峨御所ニおゐて御利解書を以被仰渡、彼是両 御上江奉掛御苦労候段不届之至候。依之急度被仰付方茂有之候得共、両本山から事穏之御沙汰茂御座候、格別之御慈悲を以慎被仰付置候。
以上の誓約書を受け取った上で、裁断が次のように下されます。
①明王院と海岸寺はお叱り、海岸寺隠居快道は、謹慎
②産盥は参拝させることは禁止されたが、没収は免れた
③産盥堂は「再建」としては認められないが、新築としては許された
④屏風浦の称号も、単に屏風浦と称することは禁じられた。しかし、頭書きや肩書きは許された
内容的に見ると、先ほどの丸亀藩主が示した素案と比べると、非常に寛大な処置に変更されたという印象を持ちます。善通寺としては、藩主裁定案では「全面勝利」の内容でしたが、最終的には押し返された無念の結果と云うべき内容かも知れません。それでも「大師母公別館菖跡」の称号は禁じられ、
「綸旨院官.差障候條奉相憚、向後誕生所と馴紛敷儀無之様急度相守可申事」

と、根本のところは、押えられています。
  結論から言うと、最終段階での多度津藩領主からの政治的な圧力が効果的であったということになるのでしょうか。以前にもお話ししたように、小藩の多度津藩にとって、経済的な発展のためには多度津港への人とモノの誘致が政策目標のひとつでした。そのために海岸寺が掲げる「弘法大師生誕地=多度津白方」説は、金比羅詣客を多度津に呼ぶ込むための有力な集客アイテムと考えられていた節があります。つまり、藩は密かに海岸寺の動きを承知し、支援していたことがうかがえます。
 そのような中で、海岸寺を見捨てるわけには行かないという事情もあったようです。海岸寺の集客戦略は、大きなダメージを受けますが息の根を止められた訳ではありません。根強く残る「弘法大師生誕地=多度津白方」説に惹かれて、その後も多くの参拝客が海岸寺の奥の院を訪れたのです。
 今、奥の院を訪ねると、その規模の大きさにびっくりします。
今は奥の院は、四国霊場の番外札所となっていますが、参拝者は決して多くはありません。最初にここを訪ねたときに不思議に思ったのは、なぜこれだけの規模の寺院がここにあるのかということでした。同時に、産盥や産盥堂、産井などの旧蹟らしきものはあるのですが、それを説明する看板はありません。今の四国霊場には、由縁や由来を説明する説明版がいっぱい立っているのに、それが全くないのが謎でした。
しかし、善通寺市史を読んでいて段々と分かってきました。
先達達が口頭で、流布できても文字に書いては「弘法大師生誕地=多度津白方」を主張することは、この争論以後は禁止されていたのです。
 それなら海岸寺奥の院は衰退したかと云えば、ある時期までは相当な信者を集め続けていたようです。次回は、争論が決着した後に「弘法大師生誕地」というキャッチフレーズを封印された海岸寺がどのように生き残りをかけた神社経営を展開していったのかを見てみることにします。
以上をまとめた置くと
①「弘法大師誕生地」を称した海岸寺は、善通寺誕生院に訴えられた
②海岸寺は、善通寺に謝らず反論したが京都での裁定の場に引き出された
③海岸寺の本寺である嵯峨大覚寺の政治力によって「全面敗訴」は避けられた
④「屏風浦の呼称」「産盥」「別館(奥の院)」については、地元の藩主が裁定を下すことになった
⑤丸亀藩主は当初から海岸寺に厳しい目を向けており、海岸寺全面敗訴案を多度津藩に提示した
⑥多度津藩藩主は、それに対して「もう少しお手柔らかに」と親書を送った
⑦その結果最終案は、海岸寺に対して寛大な措置となった。
⑧これは「多度津藩」+「本寺の大覚寺」という政治力を背景にした海岸寺の底力を示したものでもあった。
          以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

 前回は金毘羅詣での参拝客を多度津に取り込むために、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」流布・信仰センターとして白方奥の院の整備を進めたこと。それに対して、本家本元の善通寺誕生院が海岸寺に対して「弘法大師生誕地」「屏風浦」の使用禁止、産盥堂の建設差し止めなどを丸亀藩に提訴したこと。これに対して海岸寺は、自らの主張を譲らずに、調停は行き詰まったことをお話ししました。
 丸亀藩の指導を海岸寺が受けいれることはなかったのです。海岸寺は多度津藩に属していて丸亀藩の主権が及ぶところではありませんでした。
こうなると、善通寺に残された道は、海岸寺の本寺に訴え出て適切な指導をお願いする以外になくなります。
海岸寺の本寺とは、京都嵯峨の大覚寺で超大物寺院です。善通寺が直接交渉できる相手ではありません。善通寺も自分の本寺を通じて、交渉を行うことになります。善通寺の本寺は同じく京都の随心院でした。しかし、本格寺と随心院では格が違います。政治力がまるでちがうのです。例えば、大覚寺と随心院は同じく門跡寺とは言っても
①大覚寺は法親王が住職される宮門跡
②随心院は摂関家の子弟が住持する摂関門跡
です。その教団規模も、大覚寺には井関、野路井(二軒)衣笠、三上など十数軒の坊官がいますが、随心院には本間、芝、岡本、長尾の四軒があるだけです。讃岐国内を見ても、大覚寺の末寺には大窪寺、宝蔵院、八栗寺、弘憲寺、国分寺、三谷寺、竜灯院(滝宮)、地蔵院など大きなお寺が多いのに比べて、随心院末寺は善通寺以外にはありません。讃岐国内での影響力も大きな格差があったのです。善通寺には、
「本寺の随心院に頼んでも、嵯峨(大覚寺)と対等の話い合いができるわけでない」

という諦めというか歎きもあったようです。大覚寺の政治力の前に、善通寺の主張が通じるだろうかという疑念でもあります。逆に、海岸寺からすれば本寺同士の交渉ならば、大覚寺が悪いようにはしないという目算もあったようです。ある意味、大船に乗っていられるということでしょうか、それが分かっていたので、海岸寺は国元での善通寺の要求を強く拒むことが出来たのかもしれません。ここまでは、海岸寺の「読み勝」になるようです。
さらに、随心院と大覚寺の間には、善通寺をめぐって古くから反目する気持があったようです。
 それは大覚寺の後宇多法皇が、それまで荒廃していた善通寺の堂塔修理のために、多くの供養田を寄進しました。そのため大覚寺門跡が代々善通寺別当を兼任していたのが、暦応四年(1311)の勅裁により、善通寺が大覚寺を離れて随心院の所属となります。大覚寺には、善通寺を随心院に奪われたという気持ちがあったようです。古いことですが僧侶達は、このような経緯をきちんと学習しています。このため交渉に出てきた大覚寺の僧侶達の中には、随心院や善通寺に対して反感を持つ者もいたようです。

海岸寺との交渉経過は、当事者の詳しい記録が善通寺に残っています。それが善通寺市史に載せられています。
それに従って京都での交渉経過を見ていくことにします。
 文化12年(1815)の末に、京都で本寺同士の随心院と大覚寺の交渉となり、智積院が仲介に入ることになります。善通寺からは、子院の観智院、玉泉院、行願院などが上洛して智積院に滞在します。ここを拠点に、情報収集や関係有力寺院への支援要請を行っていきます。どんな情報が入っていたのかを一部紹介します。
  交渉経過   1816年
1月21日、嵯峨の坊官三上民部が善通寺の交渉団が滞在する智積院に来て、次のように言い残していったと記します。
「誕生所という名目は差止めます。しかし、産盥のことは、御住職のお頼みだから、せいいっぱいやってみるけれども、止めさせられるかどうか分らない。そのうち、明王院、海岸寺が上京して、光照院まで掛合に来ることでしよう」

27日、観智院、三泉院が九条家へ参殿。芝氏とゆるゆる相談。また二条家の人江五郎右衛門方へもまいる。
28日、行願院、玉泉院、所用に付、大坂へ下る。高野へも登山のつもり。
2月朔日、行願院、玉泉院が高野登山。智蔵院に相談して、京都で片付かない場合は、高野山に御厄介をかけることにになると思うので、前もってお聞さおき下さいという意味の「口上書」を、年預坊に差し出す。
2月12日、伊賀国の諦仁師、四国巡拝の途次、善通寺を訪ね、香山と会談、一件について次のような意見を述べる。
江戸の公裁になれば海岸寺は流罪、軽くても追放だろう。このことを海岸寺側の者によく言い聞かせたなら、早く折れて来るのではないか。建石も海岸寺が勝手にたてたものだから、領主に断るまでもなく、本山から言い聞かせて取払うことができるのでないか。嵯峨に、正気があるなら江戸へ出る気遣いはない。

五月朔日 秀明師が次のように伝えます。
「明王院と海岸寺は、産盥のことでは、善通寺の言うことを聞く考えは全くない、『江戸へ出てでも争う』と言っている」

以上から分かることは、大覚寺の支援を受けた海岸寺が石器(産盥)に関しては、決して譲れないと踏ん張っていることです。
今風に云えば「弘法大師生誕地」という「商標」が認められなくなれば、その商標が使われていた商品も販売できなくなるのが当然の法解釈ですが、仏教界ではそれが通らない社会だったようです。

 例えば次のような京都仏教界の空気を示す記録が残されています。
 文化12年(1815)の末、善通寺交渉団の滞在先である智積院に、東寺のすぐ側の隣の実法院が見舞いに来て、次のように話します。
此度之一件、京都二而御落着被成候時ハ、兎角京ハ物件キレイニ不被成候而ハ不宜候。先ツ御勘孝可被成候。江戸工事卜申物ハ誕生院之御格式二而江戸詰メト申時ハ、物入一ケ年百五十金位ハ費べ可申候。其上随分早ク御裁許御座候所、二年ハ掛り可申候。然ル時ハ三百金ハ手軽ク入可申候。其金子之半分位営院エ入候得ハ、手際キレイニ出来可申与奉存候。拙老杯茂毎度江戸掛り合二者参候事故、馬御心得御噂中候

意訳すると
 京都では何でも金を使わないと、物事はきれいに治まらない。江戸での裁定になれば、滞在費だけでも大変で、善通寺の格式からすれば一年に一五〇両の出費になる。早くすむ時でも二年はかかるだろうから三〇〇両、その半分を私方へ納めてくれたら手際よく片附けてあげます

と持ちかけられたようです。それを玉泉院は、日記に何でもないことのように書き留めています。これが当時の「仏教界の相場」であったようです。

 また、争論に決着が付いた後の文政元年(1818)4月16日 に、お世話になった京都の関係者のお礼に、玉泉院が出向いています。たそして、宿舎となった智山へ銀子10枚と進物品を届けています。
また、一条家佐々木大監を訪ねると、大監は、次のように云ったようです。
御礼銀は、上様へは銀二〇枚、外に諸大夫五人、用人二人、六位一人、これらは重役だから相当のお礼が必要だし、下役、奥向の女中などへも心付けをするのでないと、私はようお世話しない。善通寺ではどう考えているのか」

と言う対応ぶりです。そのくらいは持ってこいという言い方のです。玉泉院は「この頃、寺では色々物入り多く、そうそうはお礼銀も差し上げられない」と断っています。京都では金と政治力が幅をきかすことを改めて学んだ善通寺の僧侶達だったようです。 
 幕藩体制のなかで、寺院は土地人民を治めてゆく支配機構の末端組織でした。それは為政者の側に立ち、大小さまざまの世俗的な権力と冨を持っていました。そのために本来の使命である仏法の護持ということを忘れて、実際的な利益に走る気風が京都ではより強く働いていたことがうかがえます。
 事件を金で片附けるという考えは、善通寺の側にもあったようです。
当時、善通寺に香山という老僧がいました。善通寺所蔵の古い書付類から先例を探し出して、書式など考えるのも香山の役目でした。京都滞在の観智院や玉泉院に手紙でいろいろと先例や意見を書き送っていて、それは事件の進展に大きな影響力を与えたようです。世間的な経験も豊かで、末寺の住職達からも信頼されていました。その香山が京都滞在中の観智院と華蔵院に宛てた手紙が残っています。
 嵯峨御所御寄附物と云事、世上の人々如何可有哉と万茶羅、天真沙弥等毎度申出事二候。是も尤なる事に候。しかし、うまうまと行く事ならば、夫れも不苦、七十五日也。
 尤合戦中二ヲ持込候事者、先達而桃陽(出釈迦寺)被中候通、温屯之跡の蕎公切にて、馳走ニハ不相成候。且又此方之腰ヨハク相見へ可申候

意訳すると
「うまくゆくなら、嵯峨へ金を送って事件を善通寺の考え通りに運ばせるのもよいと思う。人がどうこう言うのも、諺どおり七五日だけだと思うが、今は交渉の最中だから、こんなときに○(金)を持込んでも効果はなく、そのうえこちら側の腰が弱いと見抜かれてしまうだろう」

と、饂飩(うどん)と蕎麦に掛けて「金」での解決の方法も示しています。善通寺の側からは、大覚寺がこの交渉を通じて「和解・調停金」を求めているために交渉が長引いていると察していたことがうかがえます。
 交渉に進展がなく、滞在は長引きます。しかし、打切ることも出来ません。
仲介に入っている智積院は、善通寺が破談を主張しても、それをそのまま大覚寺へ通告することはしてくれなかったようです。交渉が長引くにつれて、こちらに向いては善通寺の立場を理解している態度を示し、同じように嵯峨へ向かっては嵯峨の言い分をもっともだと言っているのかもしれないと、善通寺の使節団僧侶たちは疑うようになります。
8月29日、三宮寺と玉泉院(善通寺子院)が智山へ出向き次のように申し入れます。
「きっぱり破談にしたい。嵯峨からの書付は、みながみな海岸寺の申出ばかりを書取り、善通寺から差し出した書類の趣は全く取入れられていない。このようなものには到底請書できない」

「もはや破綻にする外ない」との立場を貫くと、9月5日に妙徳院がやってきて、
「今になって破談というのでは、智山僧正をはじめ、我々も面日を失うことで困ってしまう」

と泣きついてきます。しかし、善通寺としても嵯峨(大覚寺)の提示案では、同意できないことを改めて強く伝えます。そこで調停者の立場も考えて、嵯峨から来た案については、善通寺では知らぬ体にして、なんとか破談だけは取り止め、調停者の面目が立つようにすることになります。こうして、調停書(口達之覺 )を受け取ります。
その内容は次の通りです。
口達之覺    (意訳)                           
昨年12月に、弘法大師御誕生所について差障の件について、小野御殿への書付をお届けした所、当山の僧正承之は気の毒に思い、穏便に取りはからうように小野御殿へ伝えられ、相手方の本山である嵯峨御殿へ取り次ぎました。この度、嵯峨御殿から海岸寺並びに本寺明王院をお呼びになり、次のような決定を伝えました。
一 縁起  一 勧進帳  ― 建石之事   
一 船問屋から差出候案内切出之事
に関しては、國元の丸亀藩に願出ること
一、御誕生之霊跡  一、御降誕生之霊地  一、御初誕之地 
一、御産生所
以上の八ケ條については、海岸寺の使用を差し止めるように申しつけました。
一別館之事  一、産盥之事  一、屏風浦之事
以上の三ケ條については、国元に関わることでなので藩主の裁断を仰ぐように指示しました。決定は以上の通りです。このことについて、ご承知ください。
以上。
文化十三年間八月           智山鑑事 妙徳院 印
讃州 善通寺 御役者中

上の8項目については、使用差し止め処分となりましたが別館之事 、産盥之事 、屏風浦之事」については、国元のことなので藩主の裁断を改めて仰げということです。海岸寺としては、ある意味納得できる内容であったと思われます。しかし、善通寺にとっては何のために京都までやって来たのかという思いの方が強かったかもしれません。
 しかし、後は丸亀藩に任せるほかないのです。
お世話になった関係者への挨拶とお礼を済ませて、高瀬舟で京を去ります。
こうして、、厳蔵一行を乗せた下津丼船が九亀西川口へ着船したの9月22日、夜九ッ時のことでした。その夜は、一行は福島北渚亭に泊まり、翌日に、丸亀家老や寺社奉行など関係者に帰国・経過報告をしています。 
ここから丸亀藩に任された「別館・産盥・屏風浦呼称」の3項目についての裁断に向けた準備が始まります。丸亀藩は、どんな判断を下すのでしょうか。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 



IMG_2915
多度津白方

以前に、善通寺以外に「弘法大師誕生所」と名乗る寺院が多度津白方に現れ「多度津白方=空海誕生地説」を流布するようになったことをお話ししました。そこには中世から近世初頭に弥谷寺を中心に活動した高野山系の阿弥陀信仰・念仏行者たちの影が見えました。彼らが白方のお堂を「仏母院」と改称して流布していたようです。その後、弥谷寺が善通寺の末寺になってからは、弥谷寺や仏母院による流布は一時的に停まります。広報拠点がなくなったからでしょう。しかし、庶民信仰として「多度津白方=空海誕生地説」は根強く広がっていたようです。
3白方Map

 その信仰を参拝者獲得に積極的に活用しようとするお寺が出てきます。それが海岸寺です。18世紀末頃から海岸寺は「多度津白方=空海誕生地説」を再び流布し、奥の院を空海生誕地として売り出そうとするプロジェクトを開始するのです。
 これは善通寺誕生院にとっては、放置することの出来ない事件です。海岸寺の「第2の空海誕生地」設置計画を止めさせようとします。ここに善通寺と海岸寺が「空海生誕地」をめぐる争論がおきます。それを追って見たいと思います。
テキストは次の二冊です
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻       昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年
IMG_2918
海岸寺奥の院

18世紀後半頃から海岸寺は、次のような由来を主張するようになります。
海岸寺奥院は弘法大師母公の実家があった所で、白方の三角寺仏母院が母公別館である。大師は海岸寺奥院産盥堂で生まれ、その時の産湯に用いたのが石の産盥(うぶたらい)である。

この由来に基づいて、「多度津白方=空海誕生地説」を流布するための信仰・広報センターとして奥の院を新たに建立し、その目玉に空海が生まれた時に使った「産盥」をセールスポイントにした広報作戦を展開し始めます。

IMG_2897
 海岸寺奥の院 産盥堂の産湯井戸
産盥堂再建(実際には新築)の勧進帳の表紙には
讃州白方屏風浦産盥堂再建勧化帳。経納山海岸寺
 
その勘化文には、次のように記します
  夫れ吾海岸寺なる奥院の御影堂は、弘法大師降誕ましませし霊場なり・・・其の洗盥(うぶたらい)なるは、三業諸垢を清めて、現富の益日々新なり・・、
          文化乙歳季夏    現住職  快道誌
 奥院には、産盥堂と染め抜いた幕や雪洞をかかげ、正面に大きな地蔵を建立して、台座石に産盥堂再建と刻します。また産水井(ウブミズノイ)。浴巾掛松(ユテカケノマツ)という立て札を建てます。納組帳には「弘法大師御産生之所也」と書きます。

IMG_2901
海岸寺奥の院の産水井(ウブミズノイ)

 さらに寺への参拝道の要所要所の岐路には「屏風浦道」や「奥院、産盥堂へ何丁」という道しるべを建て、寺の前には「屏風浦」といふ建石を立てます。

このような海岸寺の動きを放置できなくなった善通寺は、次のように丸亀藩に訴えます。
①寛政10(1798)頃、奥州の回国行者金作という者を召抱え、大師御夢想の灸治というのを始めた。しかし、これは不人気で一年ばかりで止んだ。                                  
②「大師御伝記」という書物を、版元は土州一宮(高知一宮神社)ということにして、海岸寺で印刷して売り広めた。この本は空海を「大師ハ讃岐国白方屏風浦猟師とうしん丈夫の子也」として、空海の父を「漁師のとうしん」とする偽書である。しかし、土地の人はよろこんで読み、文句を空で覚えているほどである。
③海岸寺の地名を屏風浦と称し、所々に「屏風浦道」「奥院、産盥堂へ何丁」という建石を立てた。
④白方屏風浦絵図を印刷して「大師降誕之霊地」と書いて売り広めた
⑤二間四方の辻堂のような堂を産盥堂と名付け、箱に入れた石器をかざり、十二銭で旅人に拝ませている。
⑥二間四面の堂を三間四面に立て直し、さらにその前に、二間と六間の礼堂を唐破風付に建てようと計画している。
⑦池を掘って産井と名付け、やはり「勧進帳序」にその功徳を書き立てた。
⑧松を植て浴巾掛(ゆやかけ)之松と称した。
⑨新しく掘った池の近くに子安観音といって菩薩の形にして幼兒を懐いた石像を作り、大師の母君が大師を懐く尊像だと言いふらした。
⑩寛政10(1798)頃に彫刻した大師の童形、御両親の尊像を、礼堂に安置した。
⑪諸国から参拝客が乗り降りする多度津の浜へ建石を立て、大師誕生像に白方屏風浦と記した産盥堂道案内を乗船客に配布するようになった。
  ここからは、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」を流布し、その信仰拠点センターである奥の院の整備を急速に進めていく様子がうかがえます。
どうして18世紀の後半になって、このような動きを展開するようになったのでしょうか。当時の金比羅さんとの関係で見てみましょう。
①18世紀半ばに大坂からの金比羅船が就航し、金比羅詣客が急激に増加します
②18世紀後半には、それに応えるように金毘羅さんのお堂や施設、石段や玉垣、そして街道も整備されます。
③金毘羅さんの周辺の宗教施設は、金比羅参拝客をどのようにして自分の所へ立ち寄らせるかの算段を考えるようになるのがこの時期です。善通寺や弥谷寺の境内整備計画は、その一環として捉えることができることを以前にお話ししました。そして次のような集遊コースが形成されるようになります。 
丸亀港 → 金毘羅さん → 善通寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 丸亀港

金毘羅さんにやってきた、参拝客の多くがこのルートで動き始めます。19世紀に始めに十返舎一九の弥次喜多コンビもこのルートを巡っています。
 海岸寺としては、弥谷寺から白方へ参拝者を導入するためには強力な「集客力のあるアイテム」が必要だったのでしょう。そこで目を付けたのが1世紀前に、弥谷寺や仏母院が流布し、その後に取りやめられた「多度津白方=空海誕生地説」だったようです。これをリニュアルして流布するようになったのです。その拠点として新たに整備されたのが、海岸寺奥の院のようです。

IMG_2896

1815年5月24日 善通寺は海岸寺のやり方を九亀藩へ訴え出ます。それに対して、6月22日 海岸寺から多度津藩へ返答書が差し出されます。どんな返答書なのか見てみましょう。
  海岸寺返答書
一 誕生院は大師御誕生の霊場であることは綸旨院宣から明らかなことは、承知しております。
二 富寺(海岸寺)は往古からの寺説に次のように記します
 「大師の母公が海岸之景色を、常に愛し、この浦に別館を構え、時々遊覧することがあった。あたかも六月十五日の炎天の日に、この別館で大師を降誕されたので、その聖地に一宇を構え、御母公が愛する所ゆえに海岸寺と名付けた。その後、これを信じる者達が、その徳を慕って石を割て産盥を作り、池を掘って産井と名付け、松を植て浴巾掛松と称して、大師初誕の地と呼んできた」 これが古くからの伝来です。

三 産盥堂の再建については、先達の勧進僧の願いを受けて取りかかり、ほぼ完成しています。この勧進方法などについては先達達が自主的に運営していることで、海岸寺は指図していないのでよく分かりません。
 誕生院が産盥堂と申すこの度の建物については「再建」であって、見分して頂ければ分かる通り古来よりあったものです。新しく建立したものではありません。
四 勧進帳に「御誕生之霊場」と記載されていたのも、大師旧跡再建の方便で古くから用いていました。寺説にも往古から「初誕之地」と称してきました。
五 弥谷寺の境内の建石(丁石)のことは、当寺のまったく関与していないことなので分かりません。
六 屏風浦の称号については、古来よりそのように称してきました。旧記にも屏風浦と記しています。それのみならず白方村でも屏風浦と呼んでいます。古い地理では、筆山の麓までも入海であったと伝えられます。また、天霧山の麓の辺りも屏風浦と呼ばれていたと云います。当寺辺りも屏風浦の分内になるのではないかと愚案します。
七 産盥についての善通寺の批判には納得がいきません。これについては、先述した通り古来より寺説にあることです。
亥六月                                     海岸寺

最初に確認しておきたいのは(一)で分かるとおり、海岸寺も「誕生院は大師御誕生の霊場」であることは認めていて、これについて争うつもりはないということです。そのうえで、海岸寺が主張する「寺説」を、どこまで承認するかということが争われることになります。
そして、目にかかるのは善通寺の提訴について強気の反論を行っていることです。最後の方は、「確信犯」とも見える開き直りぶりです。これだけ強気になれるのは、どうしてか私には疑問に思えてきます。それは、追々見えてくることなので、先を急ぎます。
この海岸寺の返答書は、8月19日には、次のようなルートで善通寺に写しが届けられています。
海岸寺 → 多度津藩 → 丸亀藩 → 善通寺 

写しが届いた日に、万福寺、曼茶羅寺、出釈迦寺が善通寺へ集り、海岸寺への反論(再質問状)を作成しています。この問題に対応したのがこの3つの住職たちであったことが分かります。それでは、彼らが作成した反論書を見てみましょう
海岸寺の答書を受けて
1 綸旨院宣等が善通寺にあるにも関わらず、(海岸寺)が「弘法大師生誕地」や「屏風浦」を古来の寺説にあるからと主張することについて
 これは世間の俗説であります。もし仮に古書にそのように書いてあっても綸旨や宣旨に反することは認められません。誕生地がふたつあるはずがありません。また海岸寺が反論書で挙げた根拠史料も妄説で信用なりません。大師降誕之霊場と主張することは、宣旨を軽視した行為で、とうてい認められるものではありません。強く彼地を御誕生所と主張することは 綸旨院宣並びに数百年前からの古い撰述を無視することで、そんなことをすれば海岸寺は信用できないことになります。海岸寺の考えを、今一度お聞き頂きたいと思います。

2 産盥堂は再建であり、新たに建てるものではないと海岸寺は主張しています。しかし、我々は新設・再建のことを言っているのではありません。この建立についての勧進帳序文の不都合を申し立てているのです。

3 屏風浦の称号については、海岸寺は古くから称してきたし、旧記も書かれていると言います。誕生所の証拠もあるという。それならば、確認のためにその旧記の年代を教えいただきたい。追って詳細は伝えます。
4 海岸寺の返答書の中で、屏風浦の地名は旧記に書かれていると主張します。その寺説と由来について申し上げたい。善通寺には綸旨や院宣の中に屏風浦と明記されています。それに対して、海岸寺は我々善通寺に寺説にあるからと反論しています。これには、天地ほどの隔たりがあります。
海岸寺の寺説というのは、信用がならない史料で、偽造・誤り数多く見られます。そのため近郷を始め他國からもこれを疑う人々が数多くあります。そのため海岸寺は「菖跡之実 否不分明候様成行可申哉」と言い出す始末です。このような様を察して、呉々も賢明な判断を出して頂けるようにお願い申し上げます。以上。

これに対して、11月に海岸寺から、屏風浦の名称は、世俗一統住古より称し来たことで、生駒家寄附状にも屏風ヶ浦と書かれているなどの返答書が出されます。また、海岸寺の本寺明王院(道隆寺)が上京し、本山である大覚寺との対応協議と、支援の取り付けを行ったようです。海岸寺に「悪うございました」と謝る姿勢は見えません。臨戦態勢を整えていくようです。

IMG_2895

  こうした中で12月8日 多度津藩家老畑六郎・林勝五郎から、九亀藩岡織部宛に、書状が届きます。そこには
「藩としてはこの度の件について掛合(調停)を離れ、善通寺と海岸寺の本寺明王院(道隆寺)とで話合をさせるのがよいと思う」

という内容が書かれていました。
多度津藩には海岸寺の行為を強く罰するという姿勢は見えません。
海岸寺の「「多度津白方=空海誕生地説」流布プロジェクトを、見て見ぬ振りをしながら影では支援していた節もあります。
 多度津藩は丸亀藩から分離独立した1万石足らずの小藩で、お城や陣屋を持たずに本家の丸亀城内に「寄宿」してきました。ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。若い林求馬時重を家老に登用し、藩政の改善・丸亀藩からの自立化を進めようとします。その手始めが藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って一時的に中断します。善通寺と海岸寺の争論が起きているのは、ちょうどこの時期になります。
 多度津藩は小藩のため家臣団と地主・有力商人、僧侶が密接に交流し、その身分の垣根が低いのも多度津藩の特徴であることは以前にお話ししました。ここからは小説風になります。海岸寺の進めるプロジェクトを、家臣団や重臣達が知らないはずがありません。特に家老の林家は白方の奥に別邸をもっています。その行き帰りに、海岸寺の前を通ったはずです。海岸寺の住職と懇意であったことも考えられます。海岸寺のプロジェクトに対して、了解し密かな支援を送っていたかもしれません。このような状況証拠からすると、多度津藩に海岸寺の行為を罰したり、停止させたりすることはさせたくないという意向があったような気がします。もっと云えば金比羅詣での参拝客が「弘法大師生誕地=多度津白方海岸寺」にも立ち寄ることは、多度津港の発展につながり、ひいては藩の経済力向上にもなる。そのためには海岸寺を守ってやらねばならぬという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

IMG_2933
海岸寺奥の院
 善通寺は九亀藩内にあり、海岸寺とその本寺明王院道隆寺は多度津藩に属していました。
もし、海岸寺が九亀藩内にあれば
「僧侶之身分二有間敷次第、言語道断沙汰之限」
と判断した藩主の考えで、すぐも罰せられたかもしれません。しかし多度津藩の寺であるために、九亀藩の意向もそのままには通用しません。どちらにしても多度津藩は、これ以上は調停・解決へ介入するのは避けたいと丸亀藩に伝えてきたのでのです。
12月12日、このような多度津藩の意向を丸亀藩寺社方から伝えられた善通寺は、関係者会議を開きます。
 招集されたのは末寺の甲山寺満願、観智院兼万福寺光顕、曼茶羅寺光海、出釈迦寺百光、宝城院戒珠、歓喜院光馬、九品院仁全、吉祥寺兼持宝院快心、法楽寺寅了、万恒寺大智等です。善通寺の重要な決定については、末寺院に諮問されていたようです。
 その会で明王院と海岸寺が何の返事もしないことに対して、今後の対策が話し合われます。そしてこれ以上、丸亀藩に厄介をかけるのは申し訳ないので、本山随心院へお願いして、早く決着をつけるように善通寺へ進言します。
 一方、多度津藩の意向を受けた九亀藩からは、この問題解決のために海岸寺の本山明王院と直接掛け合うようにと通達されます。これを受けて善通寺は、使僧を明王院へやりますが
「住職は、播州竜野法帷院へ出かけており、いつ帰院するかは分らない」

という返事でした。明王院道隆寺は、善通寺との直接の協議を避けていたようです。

IMG_2923
海岸寺奥の院
 もう一度事件の経過を振り返って起きましょう
海岸寺を訴えることになった契機は、九条家の家人の次のような申し出でした。
  海岸寺の行為をこのままにしておいてよいのか。このような行為を聞けば京都の本寺嵯峨大覚寺でも、これをそのままに捨ておくことはあるまい。九条家へ申し上げ、九条家から丸亀藩へ頼んでやめさせたらどうか。

 ここに九条家が登場します。九条家は金毘羅の金光院の山下家と名義上の姻戚関係を持つようになり、なにかと金毘羅さんの運営にも口出し、経済的な見返りを要求するようになっていました。金毘羅さんの富くじ開催などはその典型です。問題が発生すると、調停を買って出て礼金をいただくという家人たちがいたようです。
 その助言に従って、丸亀藩に訴え出て、丸亀藩から多度津藩に依頼して、海岸寺の行為を止めさせようとしたのでした。ところが海岸寺は素直に謝罪せず、反論してきます。多度津藩もそれを罰せようとはしません。丸亀藩も、多度津藩は子藩ですが、他藩のことなのでそれ以上の介入は控えたいので、この時点では強権発動には至らず、善通寺と海岸寺の直接の話し合いで解決せよと投げ出した形になります。しかし、善通寺が海岸寺に話し合いのテーブルに着くように求めても、海岸寺は応じないのです。
  当初は九条家の云うように、九亀藩の命令ですぐ解決するものと善通寺は考えていた節があります。しかし、予想しなかった方向に事態は進み、地元では解決できず、舞台を京都へ移し、交渉は2年の歳月がかかることになります。しかもその解決は、善通寺にとっては納得のゆくものではなかったようです。

IMG_2877
海岸寺の不動明王

 これだけ海岸寺が徹底抗戦できたのは、当時の金毘羅参拝客の誘致という多度津藩の政策目標の一環として、海岸寺の進める「多度津白方=空海誕生地説」が位置づけられていたからという気がします。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

 P1120875
阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

P1120845

イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
関連記事

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
③仁王門 ⑩九品浄土
承応2年(1653)、澄禅は弥谷寺を訪れ、境内の様子を「四国遍路日記」に次のように書きとどめています。
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ (後略)

意訳しておきましょう
剣五山千手院(弥谷寺)は、坂の登口に仁王門があり、ここから少し上がった石面に仏像や五輪塔が数知れず彫りつけられている。自然石を掘った階段を上って寺の庭に上がっていく。寺は南向きで持仏堂は西向きで、岩穴に差し掛かって建っている。奥の穴は九尺、高さは人の頭が当たらないくらいで、非常に強固に作られている。仏壇の一間奥に四尺ほど彫り込んで、五つの如来を掘り出している。中尊大師の木造の左右には、藤新太夫夫婦(空海の父母)を石像で切り出している。

ここからは持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていたことが分かります。この寺では、「空海=多度津白方生誕説」を流布していたようです。
DSC03894
多度津白方屏風ヶ浦 鎮守の森は熊手八幡神社

弥谷寺の参拝を終えた、澄禅は天霧山を越えて多度津の屏風ヶ浦に下って行きます。白方は、弥谷寺の奥社で海の修行場(補陀洛渡海)であったと伝えられます。そこで、次のように記します。

DSC03829
此浦ハ白砂汗々タルニー群ノ松原在り、其中二御影堂在り、寺ハ海岸寺卜云。門ノ外に産ノ宮トテ石ノ社在、洲崎に産湯ヲ引セ申タル盥トテ外は方二内ハ丸切タル石ノ盥在。波打ギワニ御年少テオサナ遊ビシ玉シ所在。(中略)
夫ヨリ五町斗往テ藤新大夫ノ住シ三角屋敷在、是大師御誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲ八幡山三角寺仏母院卜云。(後略)
意訳すると
この白方の浦は、白砂敷き詰められたような上に松林が続き、その中に御影堂が建つ。この寺を海岸寺と云う。門の外には、産ノ宮として石の社がある。(空海出生の際に)の産湯を使ったという盥(たらい)は、外側は方形で、内側は遠景の石の盥であった。白方の波打際は、空海が年少の時によく遊んだと伝えられている。(中略)
それより五町(500m)いくと藤新大夫が住んでいた三角屋敷がある。ここが弘法大師誕生地であり、御影堂がある。童形像は、十歳の時の姿だと云う。この寺を八幡山三角寺仏母院という。(後略)
DSC03814

と記しています。ここには、白方屏風ヶ浦には弘法大師が産湯をつかった盥や幼少期の大師が遊んだという海岸寺があり、さらに近くの三角寺仏母院が藤新大夫の屋敷で、そこが大師の誕生地であるというのです。
DSC03827

澄禅が弥谷寺や海岸寺を訪れた17世紀半ばには
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説

が、この地域で流布されていたことが分かります。

 一方、善通寺は誕生院が空海の生誕地で、父は佐伯氏、母は阿刀氏の女としてきました。
善通寺の存在証明のひとつが「空海=善通寺誕生院」生誕説です。それに真っ向から挑戦するかのような異説が、目の前の白方や弥谷寺で流布されていたことになります。そして、日記の内容からみて、澄禅自身も真面目に、そのことを信じていたように思えます。

DSC03860
仏母院

 「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説は、いつころから誰によって、ひろめられていたのでしょうか。
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を説く弘法大師伝は、次の3つです。
1、『弘法大師空海根本縁起』(個人蔵)
2、説経『苅萱』「高野巻」
3、版本『奉弘法大師御伝記』(善通寺蔵)
この内、もっともよく知られているのが『説経苅萱』「高野巻」で、内容は次の通りです。
弘法大師の母御と申は、此の国の人にてましまさず、国を申さば大唐本地の帝の御娘なるが、余なる帝に御祝言あるが、三国一の悪女とあつて、父御の方へお送りある。本地の帝きこしめし、空船に作り籠め、西の海にぞお流しある。日本を指いて流れ寄り、爰に四国讃岐の国、白方屏風が浦、とうしん太夫と申す釣人が、唐と日本の潮境、ちくらが沖と申すにて、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女なり。とうしん太夫が養子におなりあつたと申、又は下の下女にお使ひあつたと申、御名をばあこう御前と申すなり。
奇想天外な話で、修験者の山伏が語りそうな内容ですが意訳すると
弘法大師の母上は、実はこの国人ではありません。唐の皇帝の娘に当たる人なのです。一度は結婚しますが「三国一の悪女」と評されて、父の皇帝の下へ送り返されます。父はこれを知り、空船を作って娘を載せて、西の海(東?)に流しました。船は日本を指して流れ寄り、四国讃岐の国、白方屏風が浦に漂着します。それを、釣人のとうしん太夫がみつけ、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女が乗っていたのです。二人は夫婦になり、妻の名前はあこう御前と呼ばれるようになります。

この後は、男の子をもうけ金魚丸(空海のこと)と名付けられます。しかし、夜泣きが激しく七浦七里に迷惑がかかるので、あこう御前とともに四国辺路に出ます。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ、さてこそ四国辺土(辺路)とは、八十八か所とは申すなり」

ここには霊場の数が88と明記されています。これが「四国辺路八十八ケ所」の文言の最古礼では四国辺路の研究では、注目されるところです。それ以前に「88ヶ所」は出てこないということは、88ヶ所霊場の成立は、この書の書かれた寛永8年(1631)からそんなに遡らないと研究者は考えているようです。
DSC03820

 この説経『苅萱』には、次のような伝本があるようです
1、絵入写本「せつきやうかるかや」(サントリー美術館蔵)
2、寛永8年(1631)刊。しやうるりや喜衛門版「せつきやうかるかや」
3、寛文初年頃刊。江戸版木屋彦右衛門版「かるかや道心」
そして、この3つを比較検証すると「空海=多度津白方生誕説」を説く『苅萱』「高野巻」の成立以前に、四国には弘法大師伝記がすでにあったようです。それが『弘法大師空海根本縁起』(以下、『根本縁起』)です。この縁起は元禄12年(1699)、高野山千手院谷西方院の真教が写したものが伝わっていて、次のような文章から始まります。
四国讃岐の多度郡白方屏風が浦に藤新太夫と申す猟師有り、其の内に阿こやと申す女人座り、未四十歳のいんに入迄、子なき事を悲しみ、俄かに善根を為さばやと思い、我心をすくわし、すぐ成る針に餌をさし、縁に任て魚を釣る、万のものに代をかえ、貧なるを供養し、或は堂社仏閣を建立し、則此願成就し、津の国中山寺に参り三七日籠り、男子二而も女子二而も、子種を壱人授てたひ給ヘと深く祈誓を申したる、(後略)

ここでは「あこや御前=唐の皇帝娘」には触れられずに、
藤新太夫が夫婦で、讃岐国白方屏風ケ浦で空海が誕生した。その後、夜泣きが激しくせんゆうが原に捨てられるが、善通寺の徳道上人に拾われ、修行し、そして唐に渡り恵果和尚に出会う。やがて天竺にも行くが、 ここで文殊菩薩との長い問答が繰返されます。修行の後、唐の国から讃岐国屏風ケ浦に帰り着く。

ここまでは「高野巻」とよく似た所が多く、両者の間に深い関係が見て取れます。続いて弘法大師帰朝後のことについて、「高野巻」は弘法大師の母のことに話が移りますが、これは『慈専院縁起』の踏襲です。
DSC03843

 一方、『根本縁起』は
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
 この最後に次のように記します
「此縁起を一度聴聞すれば高野山ヘー度の参詣にあたる也。これを聴聞する輩は毎日南無大師遍豪金剛と唱れば、現世あんおん後生善三世の師、七世の父母迄も成仏する事無疑。」

研究者はここに出てくる「聴聞」という文言に注目し、この縁起が「語りもの」の台本であると指摘します。この「根本縁起』は、弘法大師の一代記と四国辺路の功徳を説いた「語りもの」で、四国辺路の開創縁起ともいえるようです。

それでは、この『根本縁起』の制作に関わったのはどんな人たちなのでしょうか。
①中山寺や徳道上人のことなどがみられ、西国三十三所縁起との関係も密接である
②善通寺や讃岐の大名香川氏、伊予の右衛門三郎など四国のことが詳しくしるされている
③高野山との関係がうかがえる。
④阿弥陀如来・極楽・念仏に関することも記述が多い。
以上のような「状況証拠」から、まず第一候補は、四国在地(弥谷寺や白方周辺)の高野山系の念仏聖が挙げられます。

DSC03862
熊手八幡神社
第2候補は、高野山系の修験者たちです。
中世多度津の堀江湊の港湾管理センターの役割を果たしていたとされる道隆寺の『道隆寺温故記』(47)には、白方の熊手八幡官(文禄5年(1596)に関する次のような記事があります。
大師入定之後、熊手自慕大師之徳、途跨海波逆流川、留慈尊院。今南山巡院々、朝日護摩薫煙無絶。遠期三会、衛護密教云々。

ここには、熊手神社の熊手が大師の徳を慕って瀬戸内海を渡り、紀川を遡り、慈尊院へ留まり、さらに高野山の寺々を巡っているというのです。
DSC03869
白方の熊手八幡神社
『高野春秋』元禄5年(1692)8月7日には、次のようにあります。
行人順寺八幡在此寺。少々奉仰御立寄。紀公云、八幡者何乎。答日。熊手二而候。」

ここからは熊手は行人方(修験者・山伏)の管掌するところであったことが分かります。なお熊手八幡は今も白方に鎮座しています。そして、この神社の別当寺が仏母院であったようです。
DSC03896
仏母院

 仏母院は寺伝では、永禄頃に大善坊という山伏(修験者)によって再興されたと伝えられ、山伏寺で修験者との関係が濃い寺です。ここからは、白方屏風ヶ浦と高野山との交流は念仏聖(時衆系高野聖)にだけでなく行人(山伏)グループによっても行われていたことがうかがえます。 
DSC03857
仏母院
では、この『根本縁起』は、いつ作られたのでしょうか。
戦国時代頃の弥谷寺周辺をみると、永禄元年(1558)に善通寺の伽藍が焼失し、善通寺の東院は灰塵に帰します。この火災により、善通寺の勢力は一時的にせよ寺勢を失ったようです。この間隙をぬって、白方屏風ケ浦や仏母院、熊手八幡、さらに弥谷寺周辺の念仏聖や山伏などが弘法大師誕生地を白方屏風浦とし、とうしん太夫とあこや御前を両親とする異端の弘法大師伝(『根本縁起』)を作り上げたと研究者は考えているようです。
 その状況証拠資料として、『道隆寺温故記』には、次のような動きが記されています。
①天正20年(1592)には「白方海岸寺大師堂入仏供養」
②文禄5年(1596)には弘法大師が創建したと伝えられる白方(熊手)八幡を再興
ここからは、生駒藩支配下のこの頃に白方屏風ケ浦周辺で新たな弘法大師信仰が興ったことがうかがえます。その中心的な寺院が弥谷寺であったと研究者は考えているようです。弥谷寺には、中世から続く時衆系高野聖や高野山と関わりを行人(山伏)などが各院坊にいたことは、前回に見た通りです。

 そして、弥谷寺を中心に作られていた『根本縁起』の一部(弘法大師伝)が説経『苅萱』に取り込まれ、「高野巻」が成立すると研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①永禄~天正年間頃、弥谷寺や白方屏風ケ浦周辺の念仏聖や行人(山伏)など高野関わりを持つ人物によって異端の弘法大師伝(『根本縁起』)が作られた。
②高野山系の念仏行者や山伏は、それを各地で語り、弘法大師の偉大さと四国辺路の功徳を広めた
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
④当時の弥谷寺は、時衆系高野聖が活発な活動を展開していた
 
それでは 澄禅が訪れた17世紀半ばに持仏堂に安置されていた藤新太夫夫婦の石像は、その後どうなったのでしょうか。
その後の真念などの案内記には、この石造について触れたものはありません。17世紀末までには、取り除かれたようです。どうやら弥谷寺は異端である「空海多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を破棄し、正統派の「空海善通寺誕生院生誕説」をとるようになったことがうかがえます。その「路線変更」には、どんな背景があったのでしょうか?
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 弥谷寺調査報告書」所収

 
弥谷寺2
弥谷寺仁王門
四国霊場第71番札所・弥谷寺は八十八ケ所霊場の中でも、霊山らしい雰囲気がするお寺です。ここには大師が修行したと伝えられる窟があり、岩壁には阿弥陀三尊像をはじめとして南無阿弥陀仏の六字名号、五輪塔、梵字などが数多く刻まれています。
P1120852
阿弥陀三尊(弥谷寺本堂下の磨崖仏)
さらに近世初頭には異端の弘法大師伝を流布するなど、善通寺とは別系統の僧侶集団がいたことがうかがえます。その僧侶集団は、以前お話しした宇多津の郷照寺と同じ、高野山の時衆念仏系の高野聖たちであったようです。
弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の磨崖仏の下には「南無阿弥陀仏」の六文名号
彼らの弥谷寺での活動ぶりを追ってみることにしましょう。
テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 ―室町時代後期から江戸時代初期の展開―弥谷寺調査報告書」所収です。

弥谷寺の古代の仏たちが語るものは
弥谷寺の寺名が史料で確認されるのは鎌倉時代に入ってからですが、仏像の中には、それよりも古いものがいくつかあります。
まず木造吉祥天立像
弥谷寺 吉祥天立像
(像高59.1センチメートル)はヒノキ材による一本造りで、10世紀末期ころとされ最古のものです。
 『大見村史』掲載の地蔵菩薩立像(2)(像高不明)も10世紀後半頃まで遡る古像ですが、造立当初から弥谷寺にあったかどうかは分かりません。仏像は移動するものなのです。寺勢の強い寺には、自然に仏像の方から集まってくることは以前お話ししました。
次に古いのが鎮守とされている11世紀前半頃の深沙大将椅像です。

弥谷寺 深沙大将椅像
深沙大将椅像
像高138.5㎝のほぼ等身の像で、全国的にも珍しい像容の深沙大将像として注目されます。しかし、この像は、どうした訳か近代になるまで蔵王権現として伝えられてきたようです。蔵王権現は、弥谷寺の縁起に登場し深く関わる権現さんです。山岳信仰の拠点として、蔵王権現を祀るのは当然のことだったのでしょう。吉野山や石鎚山に関わりのある後世の山岳修験者の関与があったとしておきましょう。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

 なお深沙大将像の信仰は、水と関わり祀られることが多いようです。おそらく弥谷寺鎮守とともに三野平野を潤す水源を守る意味をも兼ねそなえていたのかもしれません。弥谷寺の下流の大見地区は、西遷御家人として甲斐からやってきた秋山氏の所領として、中世に開発が進んだ所です。秋山氏はこの弥谷寺を見上げながらも、自らは法華信仰に基づいて本門寺を開いて行ったことになります。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

これらの古代の仏像たちから、弥谷寺の創建は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられ、その後、古代寺院として整備されるのが11世紀に入ってからのようです。ただ当初の本尊千手観音が現存しないことや建物の遺構などが明確でないことから、これ以上のことは分かりません。しかし、本尊が千手観音であったことや讃岐という地域性を考慮すれば、真言系の密教寺院として創建されたことは間違いないようです。注意したいのは、創建に善通寺勢力の関わりは見られないという点です。

P1120839
磨崖に彫られたキリク文字(弥谷寺本堂下)

次に文献史料から弥谷寺を見てみましょう。
南海流浪記- Google Books
南海流浪記
鎌倉時代前期、仁治4年(1243)高野山のエリート僧であった道範が、内部抗争で罪を問われ讃岐に流されてきます。彼は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。例えば善通寺に近い三豊市高瀬町麻地区の法蓮寺の本尊阿弥陀三尊立像は、宝治2年(1248)に造立されています。状況から見て、道範の影響があったと考えられているようです。

IMG_0012
弥谷寺磨崖に彫られた石仏や五輪塔(レーザー撮影)
 弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄』に「弥谷上人」とあるものの詳しいことは分かりません。本堂下の磨崖阿弥陀三尊像が鎌倉時代の制作とするなら、これも道範の影響かもしれません。どちらにしても弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。

P1120835
弥谷寺本堂下の磨崖

 時衆と阿弥陀信仰、南無阿弥陀仏は関連性が強いこと、それを担ったのが高野山の時衆系高野聖たちであったことを以前にお話ししました。
時衆思想の痕跡が弥谷寺に、どのような形で残されているのでしょうか。
まず(1)六字名号(南無阿弥陀仏)です。

弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体

弥谷寺本堂の周辺は凝灰岩がむき出して、大きな壁面がいたるところにあります。ここに阿弥陀三尊仏像が半肉彫りされ、その周辺に「南無阿弥陀仏」の六字の名号が彫られていたようです。しかし、柔らかい凝灰岩のため風蝕が激しく、その多くが読み取れなくなっています。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑩が九品浄土で釈迦三尊の下に南無阿弥陀仏が9つ彫られていた

研究者は、ここに刻まれた六字名号を、さらに深く見ていきます。
まず、その書体ですが弥谷寺の六字名号と同じような書体が、徳島県の名号板碑にも見られるようです。板野郡辻見堂の名号板碑(正和4年 1315)は、蓮台の上に南無阿弥陀仏の名号が楷書体で力強く刻まれています。名号板碑には名号、阿弥陀仏号、一仏房号を刻んだものが多いようですが、この種のものは時衆に関わるもので時衆系板碑と呼ばれるようです。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏

 また絵画では滋賀・高宮寺の他阿上人真教像の傍らには同様の書体の名号が書かれています。ここからこれらの書体は「時衆二祖真教様」と称され、時衆の二祖真教上人が始めたものとされています。弥谷寺のものも、時衆の六字名号の書体と研究者は考えているようです。
 以上から弥谷寺の六字名号は、時衆に関わる人物の手になるとみて間違いないようです。香川県内にはこの種の遺品は、わずかに出釈迦山捨身ケ嶽と屋島寺参道に自然石の「時宗二祖真教様」の六字名号がだけが残されているようです。

続いて、時衆の二河白道思想と弥谷寺の関係です。                         
明和6年(1769)の『多度津公御領分寺社縁起』の「讃州三野郡。剣五山弥谷寺故事譚」には、次のような記事があります。
一-、御願堂之事
東ノ御堂 亦云東院  本尊撥遣釈迦  行基作
多宝塔  名中尊院  本尊盧舎那仏  同作
西ノ御堂 又云西院  本尊引阿弥陀  同作
(中略)
此地に就て弥陀・釈迦二仏の尊像を造して、撥遣引接の教主として東西の峯におゐて、各七間の梵宇構へて二仏を安置し、蓮華山八国寺と号して、一夏の間、菩薩愛に安居し玉ふ、(以下略)
山内現在之堂社仏像等の事
一、大悲心院 一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
ここからは、かつての弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていたことが分かります。そして、その仏像が戦国時代の争乱から逃れて本堂に安置されていたと読み取れます。
P1120862
弥谷寺本堂からの東の峰
残念ながら、この釈迦と阿弥陀の二尊は今はありませんが、江戸時代中期頃まではあったことが分かります。この「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」については、中国・吾時代の善導大師の『観経四帖疏』「散善義」(『大正蔵』37巻。272頁)に次のように説かれているようです。

弥谷寺 時衆二河白道図
 旅人(往生者)が西に向かって百千里の旅をすると、まもなく水火の二河に至る。水の河は衆生の憎しみに、火の河は衆生貪愛に喩えられます。やがて幅四、五寸の細い白道があるが、道には水火が押し寄せ、そして後ろからは群賊悪獣が追いかけてくる。旅人はためらうが、東岸に釈迦、西岸に阿弥陀がおり、白道を渡るようにとの励ます声がある。旅人はその声を信じ白道をわたり往生できた。」

これを法然上人が『選択本願念仏集』(『大正蔵』83巻・11頁)で引用したことから、浄土宗では特に重視されるようになります。これを絵画化したものが、いわゆる「二河白道図」です。
 これが、やがて一遍上人の目に留まります。文永8年(1271)春、信濃の善光寺に参詣した際に二河白道図に出会い、以後はこれを本尊として、日々を送ったと伝えられます。
 『遍上人語録』は次のように説きます。

「水と火の二河は我々の心である。二つの河に犯されることがないのは名号である。白道は南無阿弥陀仏のことである。」

一遍上人は、伊予窪寺で二河白道図を掲げ、三年間の念仏を行い「十一不二掲」を感得します。ここからも分かる通り、この教えは時衆の根幹をなすもので、その後の時衆に大きな影響をあたえるようになります。そして
「現世における撥遣釈迦、来世における来迎阿弥陀」

の思想は、時衆の中で重要な教えになります。
弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、まさに二河白道図を現実化したものといえます。その上に、先ほど見た六字名号と重ねると、弥谷寺は時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。

P1120783
潅頂川にかかる橋

 現在の境内で、灌頂川と称されている細い川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたと研究者は考えているようです。
 この思想がいつ頃、弥谷寺に伝わったのかは、『多度津公御領分寺社縁起』の記事から、戦国時代以前であることは間違いないようです。もう少し絞り込むと、六字名号などから推察して室町時代前期以降と研究者は考えているようです。室町時代の弥谷寺は、時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたようです。

時衆の影響を伝える船石名号 
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
④が南無阿弥陀仏が彫られた舟形名号                       
弥谷寺境内には鎌倉時代から現在に至るまで塔や墓石などが数多く造られて、境内全体が仏の世界を表しています。その中で、仁王門の近くに建立されている高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物に研究者は注目します。
P1120892
仁王門の上の「船墓(舟石名号)」
P1120895
舟形名号
私が見ると表面は剥落して、原型も分からない石に見えます。レーザー撮影された写真が次のものです。
IMG_0015
             舟形名号
確かに五輪塔が浮かび上がっています。形式からみて、室町時代頃と研究者は考えています。 この石造物については寛成12(1800)年の『四国遍礼名所図会』には、次のように記されています。
船石名号 長一丈斗の石にあり。六字名号ほり(彫)給う」

さらに江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されていることが確認できます。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。つまり「船ハカ」(墓)の表面には五輪塔の右側に「南無阿弥陀仏」の六名名号が彫られていたようです。
 「船石名号」という呼び方は耳慣れない言葉ですが、これについては説経『苅萱』「高野巻」につぎのような記事があります。空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のことです。

社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内よりも六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、舟の船杜に彫り付け給ふによって、船板の名号と申なり。

とあり、留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。県下の天福寺には版本船板名号が残されています。

弥谷寺 板本船板名号

大きな蓮台の上に、やはり「時衆二祖真教様」の六字名号が船形光背とともにみられ、「空海」と御手判があり、その上下にキリークとアの梵字と掲があります。これらの遺品は、空海筆銘六字名号として、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。
以上から、弥谷寺の船石名号の石造物は、「高野巻」に記される船板名号を石造に代えて建立した物のようです。
今は、六字名号は見えなくなっていますが、書体は本堂横の壁面と同様に「時衆二祖真教様」であったのでしょう。そしてかすかに見える五輪塔は真言(密教)と念仏の混淆を表し、そこには弘法大師信仰がうかがえます。これも時衆思想がこの寺に大きな影響を与えていた痕跡のひとつのようです。
P1120866
弥谷寺本堂横の磨崖に彫られた五輪塔
 弘法大師信仰と阿弥陀信仰の念仏を一体化させたのは、どんな僧侶たちだったのでしょうか? 

弥谷寺 高野聖

『説経苅萱』「高野巻」については、時衆系の高野聖が関わったことが分かってきているようです。弥谷寺の船石名号も時衆系高野聖の活動の痕跡と考えられるようです。
  次の3つは、出現時期が室町時代末期に重なり合います。
①弥谷寺の船石名号
②愛媛県・観自在寺の船板名号の版木
③「高野巻」
ここからは、研究者は次のように考えています。

この頃に弘法大師空海作の船板名号が時衆系高野聖の手によって創作されたこと、さらに、それが弥谷寺の石造船石名号に「発展」した。

ここにも時衆の影響が濃厚に見られます。そして、弘法大師信仰と念仏信仰の両方を持った存在として、時衆系高野聖が浮かび上がってきます。室町時代の弥谷寺には、時衆系高野聖がいて、高野山との直接的な関係があったことが推察されます。
弥谷寺 高野聖2
一遍と弟子たち
それではいつ頃、弥谷寺に時衆思想が伝わってきたのでしょうか
 阿波の板碑が正和4年(1315)頃に作られているので、14世紀前半には阿波には時衆思想が及んでいるようです。また高野山奥院の康永3年(1344)の名号板碑は阿波から運ばれたと考えられています。それを行ったのは高野聖だとされていて、四国と高野山との間には時衆思想の交流があったことが分かります。

また、弥谷寺のある天霧山周辺から採掘された石材(天霧石)を用いて鎌倉時代末期の石造層塔(35)が高野山に建立されています。これは、讃岐(弥谷寺)と高野山との人とモノの直接的交流があったことを示します。
紀伊天野社多宝塔
高野四社明神図
 逆に、弥谷寺には室町時代初期の絹本著色高野四社明神図が伝来されています。高野四社明神とは高野山の鎮守四神(高野・丹生・気比・厳島)で、高野山独自のものであり弥谷寺には関係のないものです。この図が何時、誰によって持ち寄られたのかは分かりません。しかし、状況証拠はこの明神図をもたらしたのも高野聖であることを示しているようです。物の動きからは、高野山と弥谷寺が深く結ばれていたことがうかがえます。
 古くから高野聖は、高野山に納骨を信者に勧めました。

P1120839
弥谷寺水場近くのキリク文字
 澄禅の『四国辺路日記』には弥谷寺について次のように記されています。
「其下二岩穴在、爰に死骨ヲ納ル也。水向ノ舟ハ中ニキリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」

 ここからは近世以前から納骨の風習があったことが分かります。ここには「キリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」と阿弥陀如来と空海が結びつけられています。つまり念仏信仰と弘法大師信仰が結合されているのです。これも、時衆系高野聖の「流儀」です。


P1120867
本堂横磨崖の五輪塔 穴は納骨場所でもあった
 弥谷寺の磨崖五輪塔については、三輪塔の地輪や水輪部に方形の穴を穿つて、死骨を納めたことが澄禅の記事に出てきます。
これがいつの時代に始まるのかは、高野の聖たちが弥谷寺を拠点に活動を始めたのがいつなのか、とリンクすることのようです。
以上から弥谷寺における納骨の風習も、高野山の時衆系高野聖がもたらしたのではないかと研究者は考えているようです。以上をまとめておきます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道
①平安時代中期に真言密教の寺院として弥谷寺が創建された。
②その後、南北朝時代頃に高野山との直接的な交流が行われるようになった
③当時の高野山は時衆念仏聖に占領され、弥谷寺も善通寺の「別所」として念仏聖の拠点となった
④室町時代になり時衆系高野聖によって、弘法大師信仰と念仏信仰が持ち込まれ、浄土教的寺院(念仏信仰)へと変貌した。
⑤時衆の二河白道思想などから「弥谷=死霊が集まる霊地」としての信仰が形成されていく
⑥念仏聖(行人達)は「寄人」として村々の堂や庵を拠点に、宗教的活動を展開し「弥谷=阿弥陀浄土」観を拡げた。
⑤このような念仏聖の活動が、周辺住民を「弥谷参り」へと向かわせる原動力となった。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。    2024年11月20日改訂版
 参考文献 
武田和昭  弥谷寺と四国辺路  弥谷寺調査報告書

 四国遍路の形成過程については、次の2段階に分けて考えるのが一般的になっているようです。
①近世前の修験者等による行場巡りとしての四国辺路形成
②近世後の庶民による四国霊場88ヶ寺巡礼巡り
  ①の近世以前を、さらに細分化すると次のようになるようです。
③平安時代後期から鎌倉時代には『今昔物語集」や『梁塵秘抄』などに四国の海辺を巡る辺地修行や山岳修行が出てくる
④室町時代前期には熊野信仰に伴う参詣、修行のルートが確認される。
⑤室町時代後期になると、四十九番浄土寺の本尊厨子や八十番國分寺本尊像に「南無大師遍照金剛」や「南無阿弥陀仏」の落書がみられ、弘法大師信仰とともに念仏信仰も盛んであったことが分かります。
⑥江戸時代初期、承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記」には、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」とあり、各札所で念仏が唱えられていたらしい。

ここからは戦国期から江戸時代初期の「四国辺路」では、熊野信仰や六十六部、時宗に加えても念仏信仰が盛んに行われていたことが分かります。今から考えると、真言宗のお寺で「南無阿弥陀仏」の念仏が称えられていたことに、何かしら違和感を感じてしまいます。どんな風に阿弥陀信仰の念仏と霊場が混淆していたのでしょうか。

1 郷照寺3

七十八番札所郷照寺(宇多津町)で見てみることにしましょう。
 郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。このあたりに秘事法門が多いといわれるのは、念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものと研究者は考えているようです。そのため庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は、それらもなくなり大師信仰だけになっています。

1 郷照寺1

 縁起は、後世のものらしく霊亀年間(715ー17)に行基菩薩が開いたと伝えます。そして、弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいます。が、現在は時宗です。
そして、一遍上人の関係を伝えています。
一遍は四国の松山の人で、16年に及ぶ最後の遊行の際には、善通寺に参拝して郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡っていますので、ここを通ったことは確かです。また最後の遊行を前にして、自分の郷里に帰ったこともはっきりしています。正応二年(1289)8月末に亡くなっています。

1 郷照寺踊り念仏
一遍絵図の中の踊り念仏

郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。
それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は
「おどりはね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

です。これはまさに、一遍上人の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には時宗の影響下にあったことがうかがえます。
1 郷照寺踊り念仏2
          一遍絵図の中の踊り念仏

 郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。
南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺

これは、江戸時代初期頃の縦六七・ニ㎝、横一九・七㎝、厚さ三・七㎝のもので、表面に「時衆二祖真教様」の書体で大きく「南無阿弥陀仏」と書かれています。その下に「承和元(834)年三月十五日書之空海」とあります。そのまま受け取ると、弘法大師が高野山奥院に入定する前年に書いたことになります。空海真筆を強調しているようです。
 裏面上部には、椅子に坐わす弘法大師像、その背後に山岳中から影現する釈迦如来が刻まれます。その下に「讃岐国屏風浦誕生院」とあるので善通寺御影堂本尊を表していることになるようです。
 つまり表面の空海筆銘の六字名号と裏面の弘法大師像とを合わせれば、まさに弘法大師信仰と念仏信仰が合体した版本となるようです。その意味では貴重な物かもしれません。
 研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。

空海と六字名号の関係について、もう少し見ていくことにしましょう。
鎌倉時代末期の『一遍聖絵』巻二に
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字名号の印板をとどめ、五濁常没の本尊としたまへり。
 
とあり、弘法大師が六字の名号を版木に刻んだとしています。一遍上人は時衆の開祖です。そして『一遍聖絵』は、一遍上人の弟、聖戒などが関わっていますので、時衆の影響が大きいとされます。
 また「四国辺土(遍路)八十八ケ所」の文言が記される説経『苅萱』「高野巻」には、弘法大師が入唐する際、宇佐八幡宮に参詣すると火炎の中から六字の名号が現れ、これを船板名号と称し、御神体として舟に彫りつけ無事に唐に渡ったと記します。「高野巻」は高野聖たちが深く関与したことは、すでに明らかにされているようです(真野俊和一「日本遊行宗教論』)
このふたつのことから弘法大師と念仏信仰(六字名号)の混淆の仕掛け人は
①時衆が深く関わっている
②時衆系高野聖の存在も大きい
ことが分かります。
 空海が開いた高野山は真言密教の聖地です。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
  覚鑁については、新義真言宗 総本山根来寺のHPでは「真言の教えの中興者として、次のように評価しています。
銅像 覚鑁
 
 興教大師(覚鑁)の時代は、真言宗は事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として崇あがめられています。
  興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。  興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。

  室町時代になると、高野聖の多くが時宗化します。
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
1 郷照寺4

 もう一度、版本に話を戻します。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
 この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろなプロの宗教者が巡っていたことが明らかになっています。この中で近世の四国遍路への展開・発展に大きく関わったのは高野山の行人や時宗経系念仏聖のようです。彼らには弘法大師信仰を持ちながら、念仏行や念仏踊りを踊るという二面性(?)があったようです。
 江戸時代前期、貞享四年(1687)頃に真念によって『四国辺路道指南』が刊行されます。そこには
「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

と記されています。ここにはもう念仏信仰はみられません。真言宗本来の光明真言を唱えています。南無阿弥陀仏の念仏は「追放」され、弘法大師の一尊化が確立している様子がうかがえます。江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。
 郷照寺の版木からは、弘法大師信仰の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。同時に、この版木は中世の四国辺路から近世の四国遍路への橋渡し的な意味を、持つものかもしれないと思えるようになりました。

武田和昭 四国遍路における弘法大師信仰と阿弥陀信仰   空海の足音四国へんろ展 所収

1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 「四国遍路を世界遺産に!」というスローガンの下に、遺蹟や遍路道の調査が進められ、その調査報告書もたくさん出されるようになりました。同時に四国の各大学でも四国霊場に関する文献研究が進められ、その成果が論文となって出されています。
それでは、研究者たちは、四国遍路の成立をどのように考えているのでしょうか。  その到達点をのぞいてみましょう。
テキストは、胡光「山岳信仰と四国遍路」「四国遍路と山岳信仰」所収 岩田書院です。

 四国遍路と言えば、お大師さんの遺蹟を訪ね、本堂と大師堂にお参りする巡礼方法です。お遍路さんが「同行二人」や「南無大師遍照金剛」の文字を身にまとう姿が直ぐに思い浮かびます。しかし、このような装束も戦後のものであること研究者によって明らかになってきました。
 そして、いろいろな山岳信仰が先にあって、江戸中期から明治時代にかけて大師堂が建てられるようになります。つまり、大師信仰は霊場には後からやってきたと研究者は考えているようです。例えば、現在の四国霊場を見ても、真言宗以外のいろいろな宗派が含まれています。
  【資料1】現在の四国霊場八十八ヶ所
真言宗79 真言律宗 1  天台宗 4  時宗 1
臨済宗 2 曹洞宗 1
大師信仰に関係のない宗派がなぜ霊場になっているのでしょうか。
①真言密教系修験者によって開かれてお寺さんが、後に改宗した
②修験者が行場とする山岳宗教の拠点寺院に、弘法大師信仰が後から持ち込まれた
の二つが考えられます
明治の神仏分離以前には、次の神社も札所に含まれていました。
 近代(明治維新)の札所変更(数字は札所番号)
③一宮 → 大日寺  ? 一宮 → 善楽寺 
?五社大明神 → 岩本寺 ?稲荷宮 → 龍光寺 
55 三島宮→南光坊 57 八幡宮→栄福寺 62一宮→宝寿寺 
68 琴弾八幡宮→神恵院  83 一宮→一宮寺
   ここからも札所を「弘法大師伝説」や「旧蹟」だけで、とらえることはできないことが分かります。最近は四国霊場の成立を、次のような2段階説で説明するのが定説のようです。
①修行僧による辺路修行としての辺路が成立した後に
②88ヶ所札所をめぐる庶民の遍路が成立したする

それでは、四国霊場を成立させたのは誰なのでしょうか
それは、山岳信仰に関わる修験者たちだったようです。
  四国遍路に関わる古い文献は、平安時代木の『今古物語集』と「梁庫秘抄』です。
『今昔物語集』(平安時代12世紀初)には、
四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬にうちなされたる。」
「今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也。其の僧共、其を廻けるに思ひ不懸ず山に踏入にけり。深き山に迷にければ、浜の辺に出む事を願ひけり。」
意訳すると
今は昔、仏の道を行う三人の僧が一緒に、四国の辺地と云われる伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺を廻っていました。その僧たちは辺路を廻っているときに。思いもかけずに深い山に踏み入り、道に迷ってしまいました。浜の方に出たいと願い・・・」
 ここからは、仏の道を修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と呼んでいたことが分かります。
四国辺路1

 辺地(路)の様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』です。
「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ。」
とあります。
「忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負」うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたことが分かります。

四国辺路3 

 鎌倉時代初期の戦記物語である『保元物語』にも「仁安三年(1168)の秋のころ、

「西行法師諸国修行しけるが、四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡(り)」とか、「此西行は四国辺路を巡見せし」とあります

 このように平安・鎌倉時代の「四国辺地(路)」に、プロの宗教者である修行僧が修行ゲレンデを求めてやってきていたのです。このような中に、若き日の空海の姿もあったのかもしれません。
IMG_0924

「四国辺路(遍路)」(ヘンロ、もしくはヘジ)の文字が最初に登場するのは、「醍醐寺文書」です。
  【資料5】「仏名院所司目安案」(醍醐寺文書、鎌倉時代、弘安年間(1278~88))
一 不住院主坊事者、修験之習 両山斗敷、滝山千日、坐巌窟冬籠、四国辺路 三十三所、諸国巡巡礼遂共芸、
「(前文略)四国辺路、三十三所諸国巡礼(下略)」
この中では、修験の習いとして挙げられているのが次の3つです。
①山岳修行
②西国33ヶ所巡礼
③四国辺路
 ここからは修験者たちが修行のために、全国各地の霊山で修行を重ねると同時に、西国33ケ寺観音霊場や四国辺路にもやって来くるなど「諸国巡礼」を行っていたことがうかがえます。これらの「巡礼」は、写経などと同じ修行の一貫でした。四国辺路は修験者にとっては、自分の修行や霊力アップのためには是非行ってみたい聖地でもあったのでしょう。

神奈川県の碑伝【資料6】にも、熊野本宮長床衆の修行のひとつとして「四国辺路」が次のように記されています。
  神奈川県「八青神社碑伝」(鎌倉時代正応四年(1291)
秋峯者松田僧先連、小野余流、両山四国辺路斗敷、余伽三密行人、金剛仏子阿閣梨長喜八度 □庵、正応四年辛卯九月七日、小野、滝山千日籠、熊野本宮長床[衆]竹重寺別当生年八十一法印権人僧部顕秀初度以上三人
  ここからは13世紀末に、熊野の修験者(長床衆)が、修行のために四国辺路にやってきていることが分かります。
 南北朝時代になると、四国側の史料にも、熊野修験者の修行のひとつに「海岸大辺路」が見られるようになります。
  徳島県「勧善寺人般若経奥書」(南北朝時代、嘉慶2年1388)
嘉慶弐年初月十六日、般若菩薩、十六善神、三宝院末流、滝山千日、大峰葛木両峰斗敷、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼、水木石、人壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者為法界四恩令加善云々…熊野山長床末衆

  ここでも大峰山や葛城山や観音三十三霊場と併せて「海岸大辺路」が修行場として選ばれています。「海岸大辺路」というのは、熊野の辺路も考えられますが、「四国辺路」の可能性の方が強いと研究者は考えているようです。
 ここでも「熊野山長床床衆」が登場します。熊野信仰の修験者が四国で、辺路修行を行っていたことは確かなようです。
 そして、南北朝時代までは、四国辺路の史料に空海の名前は出てきません。では、熊野信仰の修行場に大師信仰を加えていったのは、誰なのでしょうか

研究者の間で注目されているのが、増吽僧正です。
増吽は、現在の香川県東かがわ市与田寺を本拠として、讃岐・備前・備中などの荒れ果てた寺院を次々に復興再興し、弘法大師の再来と言われた名僧です。中央にも名が知れ、熊野へも度々の参詣していますし、地元をはじめ四国各地へ熊野三社の勧請を行っている記録が残ります。
 熊野とかかわりの深い増吽は、大師信仰に何らかの関わりがあったのではないでしょうか

四国辺路3 弘法大師
研究者が注目するのが「善通寺御影」と呼ばれる大師像です。鎌倉時代の善通寺にあつたと紹介されたことから名づけられたもので、大師が釈迦如来に出会って悟りを開く様子が描かれていいます。この絵図が、増吽が活動した讃岐と吉備の寺には、よく残つているのです。
 これらの「善通寺御影」の裏書には、増吽の名が記されているものがあります。ここからはの図像を使って、わかりやすく民衆にも大師信仰を語ったのではないかという推察ができます。そうだとすれば、修験者の辺路修行から民衆の八十八ヶ所遍路への転換ポイントを果たしたひとりが増吽ということになります。
   
大師信仰が「四国辺路」に見え出すのは、中世末期の戦国時代になってからのようです。
現在の札所には、約500年前の室町時代の落書きが残っている所があります
讃岐国分寺(80番札所)本尊の下身の落書に
「弘治三丁巳(1558)六月二八日、四国中遍路 同行二人」
「大永八年(1528)五月二十日安芸宮嶋宮之浦同行四人 南無大師遍照金剛」(永正十年(1513)四国中辺路
とあります。落書きを残した四国中辺路を巡る修験者の姿が見えてきます。そして、注目したいのは「同行二人」「南無大師遍照金剛」と弘法大師伝説とつながる言葉が見えます。彼らには自分たちが弘法大師と共に、その旧跡を歩いているという実感があったことがうかがえます。つまり、ここにきて初めて弘法大師の姿が見えてくるのです。
16世紀に残された落書きで、研究者が注目するのは「四国中辺路(遍路)」という言葉です。
「中辺路」とは、一体何なのでしょうか?
  時代は下って、江戸・元禄期の案内記「弘法大師御伝記」元禄元年(1688)に
四国八十八ヶ所の札所を立て、坂の数四百八十八坂、川数四百八十八瀬、惣て四百八十八里、大辺路七度、中辺路二十一度、小辺路三十三度成る、

と四国八十八寺霊場が登場し「大辺路」「中辺路」「小辺路」と三種類の辺路が記されています。ここからは、四国遍路が八十八ヶ所となるには、大辺路・中辺路・小辺路という熊野信仰からの影響があったことがうかがえます。
  また同じ年に出版された『奉納四国中辺路之日記』(元禄元年(1688)には
合八十八ケ所 道四百八十八里、川四百八十八川、坂四百八十八坂、空[海](印)
元禄元年土州一宮 長吉飛騨守藤原
  とあります。表題が「四国中辺路之日記』ですから「八十八ヶ所巡礼=中辺路」とされていたことが分かります。
それでは、「大辺路」とは何なのでしょうか。
澄禅『四国辺路日記』を読むNO1 江戸時代初めの阿波の四国霊場は ...

四国遍路を確立したとされる真念より早い承応三年(1653)の澄禅『四国辺路日記」(仙台塩竃神社蔵)には、八十八ヶ所は登場しますが番付はありません。そして、八十八ヶ所に大三島の大山祗神社や石鎚山が含まれています。さらに奥の院や金毘羅大権現など八十八ケ所以外の寺社も入っています。そして、真念の遍路道よりはるかに道程が長いのです。これが「大辺路」で、中世の辺路修行の名残をとどめるものではないのかと研究者は考えているようです。.
 そして、澄禅が記すように、修行のプロが修行した危険な場所は、時と共に避けられるようになります。そして、素人の巡礼者は「八十八ヶ所=中辺路」のみを巡るようになっていったのではないかというのです。
四國遍禮道指南 全訳注』(眞念,稲田 道彦):講談社学術文庫|講談社 ...

 道標や遍路宿を創設して、最初の四国遍路ガイドブックを版行した真念は、大坂寺嶋の高野聖と云われます。その著作中には、空海生誕地を多度津の海岸寺周辺とする不適切な「世間流布ノ日記」に対して怒りを表現していることは以前お話ししました。
 「空海=多度津海岸寺生誕説」は、真念の案内記『四国辺路道指南』とほぼ同時期に土佐一宮で出版されています。善通寺文書の中には、これらの土佐一宮で出された「日記」(ガイドブック)が、実質的には讃岐海岸寺(香川県多度津町)が刊行し、石手寺周辺(愛媛県松山市)で販売したものだと記す包紙が残っています。海岸寺は、江戸時代に大師誕生地の名称をめぐって善通寺と争う古利です。
  ここからは、八十八ヶ所の形成記には、真念たち高野聖とは別のグループが海岸寺や土佐一宮にあって、ともに異なる主張で八十八ヶ所を広めていったと研究者は考えているようです。つまり、八十八ヶ寺のメンバーは、まだ確定はしていなかったのです。
 この背後には、真念のような高野聖や真言系修験者の動きが見えます。弘法大師大師伝説が、しっかりと霊場に根を下ろし始めたことも分かります。
 以上をまとめておきます。

四国霊場の形成過程
                    四国霊場の形成過程

ここからは「四国辺路」の時代には、あくまでプロの修験者たちの行場であり、すべての霊場が弘法大師伝説を持っていたのではないことが分かります。それが16世紀頃から弘法大師伝説が四国辺路に加えられていき、17世紀になって「四国遍路」が形作られていくことになるようです。
最後に「四国八十八ヶ所」の「八十八」という数字は何に由来すると研究者は考えているのでしょうか。
「八十八所」の初見は、室町時代後期の高知県本川村鰐口の記録とされてきましたが、内田九州男氏によって疑問視されて以後は定説ではなくなっています。江戸時代の真念は、八十八の由来について「煩悩説、厄年説、仏数説」などを出しています。
四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳 ...
弟子の寂本はその著書の 【資料15】寂本『四国偏礼霊場記』(江戸時代、元禄2年(1689)で
  八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず、今は其番次によらず、誕生院ハ大師出生の霊霊跡にして、偏礼の事も是より起れるかし、故に今は此院を始めとす、

 と「八十八の次第はさだかならず」とします。いまから300年前には、すでに分からなかったのです。
  それでは、今の研究者たちはどう推理するのでしょうか。
注目するのは、熊野九十九王子との関連です。
  これまで見てきたように、四国霊場と熊野は深い関係にあります。そこで、八十八ヶ所の成立にも、熊野の影響が強いのではないかと研究者は考えます。そして「八十八」と「熊野」を結びつける物を挙げていくと、姿を現すのが熊野本宮の「牛王宝印」だというのです。これは中世や近世の起請文にも使用されたもので、当時はよく知られたシンボルマークでした。

四国辺路4 師
 
「熊野山宝印」と書かれたカラス文字のカラスの数は八十八羽です。熊野先達によって神札としても広められたので、民衆にも広く受け入れられていました。同時に「八十八」は、信仰的な数字としてのイメージもあったようです。これを証明する文献史料は、今のところありません。あくまで仮説のようです。しかし、私にとては魅力的に感じる仮説です。

四国辺路4 熊野牛王

 おつきあいいただき、ありがとうございました。

このページのトップヘ