瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:四国遍路の寺 > 四国遍路形成史

四国遍路形成史の問題として「大辺路、中辺路・小辺路」があります。熊野参拝道と同じように四国辺路にも、大・中・小の辺路ルートがあったことが指摘され、これが四国遍路につながって行くのではないかと研究者は考えているようです。今回は、この3つの辺路ルートについての研究史を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」です。

江戸時代の四国遍路を読む | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon

 大辺路・中辺路・小辺路の存在を最初に指摘したのは、近藤喜博です。
伊予の浄土寺の本堂厨子には、
室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線撮影)
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国中辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることが分かります。このような「四国中辺路」と書かれた落書きが、讃岐の国分寺や土佐一之宮からも見つかっています。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。

四国遍路(近藤喜博 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
古きはしらず、上に示した室町時代の四国遍路資料に、四国中遍路なるものが見えてていたことである。即ち
四国辺路(大永年間) 讃岐・国分寺楽書
四国辺路(永世年間)  同上
四国遍路(慶安年間)  伊予円明寺納札
とあるのがそれである。時期の多少の不同はあるにしても、この中遍路とは、霊場八十八ケ所のほぼ半分の札所を巡拝することを指すのであるのか。それとも四国の中央部を横断するミチの存在を指したものなのか、熊野路には、大辺路に対して中辺路が存在していたことに考慮してくると、海辺迂回の道に対して中辺路といった、ある短距離コースの存在が思われぬでもない。四国海辺を廻る大廻りの道は困難を伴う関係から、比較的近い道として中辺路が通じたのではなかったろうか。

ここでは土佐から伊予松山に貫ける道を示し、このルートが中辺路としてふさわしいとします。近藤氏は熊野に大辺路、中辺路があるように、四国にも、次のふたつの大・中辺路があったとします。
①足摺岬を大きく廻るコースを大辺路
②土佐の中央部から伊予・松山に至るコースを中辺路
①が足摺大回りルートで、②はショートカット・コースになるとしておきます。

Amazon.co.jp: 四国遍路: 歴史とこころ : 宮崎 忍勝: 本
宮崎忍勝『四国遍路』(朱鷺書房1985年)

宮崎忍勝氏は『四国遍路』(25P)で、49番札所の伊予・浄土寺の本堂厨子の墨書落書に書かれた「中辺路」について、次のように記します。

この「四国中邊路」とあるのは、ほかの落書にも「四国中」とあるので、四国の「中邊路(なかへじ)」ということではなく、四国中にある全体の邊路(へじ)を意味する。四国遍路の起源はこのように、四国の山岳、海辺に点在する辺地すなわち霊験所にとどまって、文字通り言語に絶す厳しい修行をしながら、また次の辺路(修行地)に移ってゆく、この辺路修行の辺路がいつのまにか「へんろ」と読まれるようになり、近世に入ると「遍路」と文字まで変わってしまったのである。

ここでは「四国中 邊路」と解釈し、邊路(へじ)とは、ルートでなく四国の修行地や霊地の場所のこととします。熊野路の「大辺路」、「中辺路」のような道ではなく、四国全体の辺路(修行地)が中辺路だというのです。
土佐民俗 第36号(1981) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
土佐民俗36号(土佐民俗学会)

高木啓夫は『土佐民俗』46号 1987年)に「南無弘法大師縁起―弘法人師とその呪術・その1」を発表し、その中で大遍路・中遍路・小遍路について、次のように解釈します。
①南無弘法大師縁起に、高野山参詣を33回することが四国遍路一度に相当するとの記載があること
②ここから小遍路とは高野山三十三度のこと
③「逆打ち七度が大遍路」
つまり遍路の回数によって大遍路・小遍路を分類したのです。しかし、中遍路については何も触れられていません。その後「土佐民俗」49号 1987年)の「大遍路・中遍路・小遍路考」で、次のように記されています。

「遍路一度仕タル輩ハ、タトエ十悪五ジャクの罪アルトモ、高野ノ山工三十三度参リタルニ当タルモノナリ」
の記述によって、高野山へ三十三度参詣した者を、四国遍路一度に相当するとして「小遍路」と称する。次に順打ちの道順での四国遍路二十一回するまでを「中遍路」と称する。次に、この中遍路三十一回を成就した上で、逆打ち七度の四国遍路をなした者、或はなそうとして巡礼している者を「大遍路」と称する。

ここでの解釈を要約しておくと、次のようになります。
①小遍路とは高野山へ33度の参詣
②中遍路は順打ち21度の四国遍路
③大遍路は中遍路21度と逆打ち7度
つまり高野山の参詣と逆打ちを関連づけて、遍路する場所と回数に重点をおいた説で、単に四国の札所だけを巡るものでなく、高野山も含めて考えるべきだとしました。

遊行と巡礼 (角川選書 192) | 五来 重 |本 | 通販 | Amazon

 五来重氏は『遊行と巡礼』(角川書店、1989年、119P)で、室戸岬の周辺を例に挙げて次のように記します。

辺路修行というのは、海岸にこのような巌があれば、これに抱きつくようにして旋遍行道したもので、これが小行道である。これに対して(室戸岬の)東寺と西寺の間を廻ることは中行道になろう。そしてこのような海岸の巌や、海の見える山上の巌を行道しながら、四国全体を廻ることが大行道で、これが四国辺路修行の四国遍路であったと、私は考えている。

つまり辺路修行の規模(距離)の長短が基準で、小辺路はひとつの行場、中辺路がいくつかの行場をめぐるもの、そして四国全体を廻る大行道の辺地修行が四国遍路とします。

四国遍路とはなにか」頼富本宏 [角川選書] - KADOKAWA

頼富本宏『四国遍路とはなにか」(角川学芸出版、1990)は、「四国中辺路」について次のように記します

遍路者を規定する言葉として、多くは「四国中辺路」や「四州中辺路」などという表現が用いられる。この場合の「中辺路」とは熊野参詣にみられる「大辺路」「中辺路」「小辺路」とは異なり、むしろ「四国の中(の道場)を辺路する」という意味であろう。なわち複数霊場を順に打つシステムとして、先に完成した四国観音順礼が四国の遍路の複数化に貢献したと考えられる。なおこの場合の「辺路」は「辺地」を修行する当初の辺路修行とは相違して「順礼」と同義とみなしてよい。

ここでは四国中辺路とは「四国中の霊場を辺路する」の意味で、四国全体を巡る「四国中、辺路」ということになります。
 

   
     四国遍路と世界の巡礼 最新研究にふれる八十八話 上 / 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター/編 : 9784860373207 : 京都  大垣書店オンライン - 通販 - Yahoo!ショッピング                     

21世紀になって四国霊場のユネスコ登録を見据えて、霊場の調査研究が急速に進められ、各県から報告書が何冊も出され、研究成果が飛躍的に向上しました。その成果を背景に、あらたな説が出されるようになります。その代表的な報告書が「四国八十八ケ所霊場成立試論―大辺路・中辺路・小辺路の考察を中心として」 愛媛大学 四国辺路と世界の巡礼」研究会編」です。その論旨を見ていくことにします。
①霊場に残された墨書落書について、従来から論争のあった「四国、中辺路」か「四国中、辺路」について、「四国、中辺路」と結論づけます。
②中辺路は八十八ケ寺巡り、大辺路は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものとします。
③小辺路についてはよく分からないが、阿波一国参り、十ケ所参り、五ケ所参りなどの地域限定版の遍路があったことの可能性を指摘します。
ここでは小辺路とは、小地域を巡る規模の小さな辺路という考えが示されます。そして16世紀前半期の墨書落書きの「中辺路」の関係について、次のように指摘します。
①室町時代の落書きに見る「中辺路」は八十八ケ所成立前夜のこと
②大師信仰を背景に、霊場を巡る「辺路」が誕生したこと
③それはアマチュアの在家信者も行える「辺路(中辺路)」であったこと
④それに対してプロ修行者の「辺地修行」は「大辺路」であったこと
これは「室町時代後期=八十八ケ所成立説」になります。
 四国遍路の八十八 の札所の成立時期については、従来は次の3つがありました。
①室町時代前期説
②近世初期説
③正徳年間(1711-1716)以降説、
①については高知県土佐郡本川村越裏門地蔵堂の鰐口の裏側には「大旦那村所八十八ヶ所文明三(1471年)天右志願者時三月一日」とあります。

鰐口の図解
裏門地蔵堂の鰐口
ここから室町時代の 1471 年(文明 3)以前に、八十八カ所が成立していたとされてきました。しかし、この鰐口については、近年の詳細な調査によって「八十八カ所」と読めないことが明らかにされています。①説は成立しないようです。
③は、1689 年(元禄 2)刊行の『四国遍礼霊場記』には 94 の霊場が載せられていることです。その一方で、正徳年間以降の各種霊場案内記には、霊場の数は88 になっています。そのため札所の数が88 になるのは正徳年間以降であろうとする説です。しかし、この説も近年の研究によって『四国遍礼霊場記』には名所や霊験地も載せられ、それらを除外すると霊場数は88 となることが明らかにされていて、③説も成り立ち難いと研究者は考えているようです。そうなると、最も有力な説は②の「近世初期説」になります。
 そのような中で先ほど見た「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史は「室町時代後期=八十八ケ所成立説」をとります。この点は、一度置いておいて研究史をもう少し見ておくことにします。

寺内浩は「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』第五号、四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和2年、17P)で、 次のような批判を行っています。
「中辺路」は八十八ケ所巡り、「大辺路」は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものであって、むしろ奥深い山へ踏み込むことが多かった」として、「小辺路」はのちに各地で何ケ所参りと呼ばれるようになる地域的な巡礼としている。このうち、大辺路・中辺路については基本的に支持できるが、小辺路については賛成できない。同じ辺路なのに大辺路・中辺路は四国を巡り歩くが、小辺路だけ特定の地域しか巡らないとするのは疑問である。
 (中略)大辺路と中辺路の違いが、訪れる聖地・霊験地の数にあるならば、小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべきであろう。
ここでは「小辺路が特定の地域しか巡らないとするのは疑問」「小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべき」と指摘します。
 その上で小島博巳氏は、六十六部の本納経所の阿波・太竜寺、土佐・竹林寺、伊予・大宝寺、讃岐・善通寺を結ぶ行程のようなものが小辺路ではないかとの説を提示します。

これらの先行研究史の検討の上に、武田和昭は次のような見解を述べます。
①「大辺路・中辺路・小辺路」がみられるのは、1688(元禄元)年刊行の『御伝記』が初出であること。そして『御伝記』は『根本縁起』(慶長頃制作)を元にして制作されたもの。
②『根本縁起』には「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあり、大・中・小辺路は見られない。「大辺路・中辺路・小辺路」の文言は『御伝記』の作者やその周辺の人達の造語と考えられる。
③胡光氏の「中辺路は八十八ケ所、大辺路はそれを上回る規模の大きなもの、小辺路は小地域の辺路」の解釈は、澄禅、真念、『御伝記』などの史料から裏付けれる
④小辺路については1730(享保十五)年写本の『弘法大師御停記』に「大遍路七度、中遍路二十一度、小辺路と申して七ケ所の納る」とあり、小辺路について「七ケ所辺路」と記していることからも、胡氏の説が裏付けられる。
⑤しかし、室町後期の墨書は「四国辺路」と「四国中辺路」に分けられ、大辺路、小辺路はみられない。
⑥「四国中辺路」は、『根本縁起』に「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあるので、辺路よりも中辺路の方が距離や規模が大きい
⑦『御伝記』の「大辺路・中辺路・小辺路」の「中辺路」と室町後期の墨書「中辺路」とは成立過程が異質。
以上から八十八ケ所の成立を室町時代後期に遡らせることは、現段階での辺路資料からは難しいと武田和昭は考えているようです。
以上、「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史を通じて、四国遍路の成立時期を探ってみました。その結果、現在では四国遍路の成立については2つの説があることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
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 前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。

岩屋寺
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。
『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。 
  岩屋寺 四国遍礼名所図会右
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年右上
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)

 さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
 本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
 一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。

岩屋寺 仙人堂と不動堂
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂

中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、
大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。
仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作
大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
 虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。
 仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左
         岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左下
        岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
 2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年左上

左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
岩屋寺 白山権現行場入口
 看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)

本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
岩屋寺 3
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる

 ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
岩屋寺 二の王子跡推定地
 二の王子社と大那智社跡推定地
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
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四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
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  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

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後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
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観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

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金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
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楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
支度寺(しどじ) | 今を大事に! - 楽天ブログ
志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
関連記事

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
YP2○『三教指帰』一冊 上中下巻 空海 森江佐七○宗教/仏教/仏書/真言宗/弘法大師/江戸/明治/和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索  オークフリー

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
弘法大師と衛門三郎(徳島県杖杉庵)

弘法大師伝説の中で、有名なものが遍路の元祖とされる衛門三郎伝説です。
これは四国八十八筒所霊場51番石手寺の「石手寺刻板」(予州安養寺霊宝山来)に、天長8年(831)のこととして記載されています。真念の『四国遍礼功徳記』に、次のように記されています。(意訳)

予州浮穴郡の右衛門三郎は貪欲無道で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に旅立つ。21回の遍路で、ついに阿波国の焼山寺(四国霊場第12番)の麓で、臨終に大師と出あい、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせた。その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、神社を多く立て、その石を納めて石手寺と寺名を改めた。

「四国辺路日記」の「石手寺」項には、次のように記されています。

「扱、右ノ八坂寺繁昌ノ御、河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル.毎日本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ怪貪放逸ノ者也」

意訳変換しておくと
「八坂寺の繁昌に対しては、太守河野殿からも保護援助があり、衛門三郎という云者を掃除のために八坂寺に付置き、毎日本社の長床の塵を払わせた。この男は天下無双の悪人で怪貪放逸の者であった」

ここには、衛門三郎のことを大守河野殿の下人で「本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ」=「石手寺の熊野十二社権現の掃除番」=「長床衆(修験者)」と記します。また、石手寺に伝わる衛門三郎伝説は熊野信仰隆盛の中で作られたもので、衛門三郎伝説に八坂寺、焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられる寺院があらわれるのは当然のことです。もともとは衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰の由来でした。それが江戸時代に「大師一尊化」が進むと、四国遍路の由来を説明する説話に作りかえられたと研究者は考えています。
衛門三郎伝説は、現在の八坂寺の縁起には詳しくふれられていません。
しかし、八坂寺には2種類の「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が残されています。これはかつては八坂寺が、弘法人師と衛門三郎の伝説を重要視して積極的に流布していた証拠とも云えます。今回は、八坂寺の2種類の刷り物「弘法大師と衛門三郎」を見ていくことにします。テキストは、今村 賢司   「弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺 衛門三郎A
「弘法大師と衛門三郎」の刷り物A
 八坂寺版「弘法大師と衛門三郎」の刷り物Aを見ておきましょう。
この大きさは縦82,5㎝ 横33㎝ 軸鼻含37㎝で、
右側に「大師修行御影 八坂寺」と記された修行姿の弘法大師像が立姿で左側に衛門三郎像が座って描かれています。朱印が押されているのが、右上側に札所番号印「四十七番」と宝印(菊桐重ね紋)、下部に寺印・山号印「熊野山妙見院」です。銘文は次のように記します。
【銘文l
四国拝祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
大師二十一遍目 御たいめん(対面)
なされ候時姿
弘仁六乙未より
安永五申迄
千八十六星至ル
何が描かれているかを、研究者は次のように説明します。
①右側の弘法大師は「修行大師像」は立像で、大師の視線の先には「衛門三郎」がいて、寄り添うような構図である。
②大師は法衣姿で墨の等身、垂領、有襴、袈裟を巻いてかける。頭巾(立帽子)を被り、右手に杖、
左手に念珠、脚絆を巻き、草韓をはく.穏やかな表情
③衛門三郎像は磐座に腰かけ、巡礼姿で正面を向く。長髪、額に彼、眉毛や目がさがり、虚ろなまなざし、頬がこけ、髭を生やし、口をへの字に曲げる。胸前には首から紐を掛けた「札はさみ」とと、左手で負俵を抱えているて、右手に杖(自然木)、足に脚絆を巻き、草軽(足半)をはく。
④衛門三郎は札挟み、負俵、杖、足半などの巡礼用具を身に着けているが、菅笠は描かれていない。
⑤彩色されていなので、白装束かどうかは分からない。巡礼者が衣服の上に着る袖無しの笈摺も描かれていない。
この刷り物の舞台は、いつ頃のものなのでしょうか
銘文に、次のようにあります。
「四国舞祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
「大師廿一遍日御たいめん(対面)なされ候時姿
ここからは、伊予国松山の八塚衛門三郎が四国巡拝21遍目に弘法人師に対面した時の姿が描かれていることが分かります。そのためか、弘法大師と再会を果たした衛門三郎は疲弊して後悔に満ちた表情で、懺悔の念を全身で表しています。
 衛門三郎が弘法大師と対面した場所は、徳島の焼山寺の麓にある番外霊場の杉杖庵(徳島県名西郡神山町)とされます。阿波でも「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が発行され、そこには同じように衛門三郎と大師が再会する場面が描かれています。同じ刷り物が八坂寺でも摺られていたことを押さえておきます。
銘文にある「弘仁六乙未る安永五申迄千八十六星至ル」について、見ておきましょう。。
 安永元年(1772)に鋳造された八坂寺の梵鐘銘には「四州四十七番札所予州松府城南 高祖弘法大師霊刹」とあります。しかし、それ以前の八坂寺史料には弘法大師は出てきません。出てくるのは熊野信仰なのです。ここから八坂寺が自らを四国霊場の札所として称するようになったのは近世半ばになってからと研究者は指摘します。
 八坂寺の木札や梵鐘銘などからは、この頃に八坂寺の伽藍整備や寺史整理が行われていたことが分かります。熊野信仰の影響を受けた修験寺院であった八坂寺は、この時期に四国八十八箇所霊場の札所へと、立ち位置を移していったようです。そのような中で、弘法大師と衛門三郎ゆかりの霊場であることを強く主張するようになります。この刷り物Aは、そうした背景のもとで製作されたものと研究者は考えています。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
この点について手がかりを与えてくれるのが、今回の調査で発見された下の版木です。
八坂寺版木 弘法大師
弘法大師修行御影の版木
 先ほど見た「弘法大師と衛門三郎」の刷り物の右側の弘法大師立姿と、瓜二つです。大きさも一致するようです。とすると、この版木から先ほどの刷り物Aは摺られていたことになります。つまり、刷り物Aは、一体型の版木ではなく、2つの版木を組み合わせて刷られたのです。ちなみに、左側の衛門三郎像の版木は見つかっていないようです。
表面は「大師修行御影 八坂寺」と刻まれ、
裏面は「文政七申年九月吉祥日 四国第四拾七番熊野山八坂寺什物判」と墨書
ここからは、文政7年(1824)に彫られた版木であることが分かります。以上から「刷り物A」は、八坂寺所蔵の「大師修行御影」版木で、文政7年(1824)以降に摺られたと云えそうです。
こうして八坂寺で摺られた「弘法大師と衛門三郎」の版画は、参拝土産と売られたり、修験者によって配布されたことが考えられます。どちらにしても、八坂寺にとっては、非常に重要な版木であったはずです。それが、幕末には姿を見せていたことを押さえておきます。

八坂寺 衛門三郎B
「弘法大師と衛門三郎」刷り物B

もう一枚の「弘法大師と衛門三郎」刷り物Bを見ておきましょう。
大きさは縦36㎝横26,3㎝です。構図は先ほど見た「刷り物A」とほぼ同じです。銘文及び絵像の内容を見ておきましょう。
伊豫国下浮穴郡恵原郷ノ産ニテ八ッ束右エ門三郎ハ当山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ為菩提請願ノ四國八十八ヶ所順逆舞礼遍路ヲ始ム姿ナリ 満願シテ同國旧領主河野伊豫ノ守ニ二度生レ替ル人餘此二略ス
弘仁六乙未年
意訳変換しておくと
伊豫国下浮穴郡恵原郷生まれの八ッ束衛門三郎は、当山八坂寺で、弘法大師の御教喩を受けて、善道に立直り改心して四國八十八ヶ所巡礼遍路を始めた。その姿を描いている。満願適い伊予の旧領主河野守に生まれ変わることがでした。その他のことは省略する。
弘仁六乙未年
構図を見ておきます
刷り物Aと構図や装束は、ほとんど同じです。異なるの次の2点です
①衛門三郎の表情が、衛門三郎像が発心して四国遍路を始めようとする姿なので、険しい決意の表情で描かれている
②首から掛ける札挟みは「札バセ」と書かれている。

刷り物Bは刷り物Aに比べると、衛門三郎伝説が次のようにより詳しく記されています。
①「八ツ束右工門三郎」は伊予国下浮穴郡恵原の出身である
②当山(八坂寺)で、弘法大師が衛門三郎に対して教え諭した。
③衛門三郎は善道に立ち直り発心した
④菩提請願のために四国八十八箇所を順打ち・逆打ちして拝礼した
⑤刷り物Aは、衛門三郎が遍路を始める姿である
⑥衛門三郎は願いが満たされ、伊予国領主河野伊予守に生まれ変わった

文末に「その他は略した」と記されています。省略された点を補足すると次の通りです。
①貪欲無道の衛門三郎の性格
②大師の托鉢を拒んだこと
③大師の鉢が割れた後に衛門三郎の人人の子が亡くなること
④弘法大師への悪事の報いであると悟ること
⑤四国遍路を21回行ったこと
⑥焼山寺の麓で大師と再会したこと
⑦臨終の衛門三郎は、大師か為石を手に握らされたこと
⑧安養寺から石手寺と改称したこと。
八坂寺に関係しない細部のストーリーが省略されています。八坂寺が舞台となる部分だけを切り取っているのです。八坂寺にとって、焼山寺の麓(杖杉庵)や石手寺の話は必要ないのです。中でも、研究者は注目するのは「当山山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ」とあることです。衛門三郎は、当山(八坂寺)で弘法大師の教えと導きによって四国遍路を始めたと主張されています。つまり八坂寺自身が「衛門三郎の発心の旧跡」であると云っているのです。この認識の上で八坂寺は、刷り物を発行していたのです。刷り物Bは、衛門三郎が発心して遍路を始める姿であることを押さえておきます。
 刷り物Bの制作時期についての手がかりは、銘文に「下浮穴郡」とあることです。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
 同じような資料として、研究者が挙げるのが調査で確認された版木の「大師堂再造勧進状」(明治期)です。その冒頭に次のように記されています。
「夫当山ハ四国八拾八箇所霊場順拝開祖八束右衛門三郎初発心奮跡ナリ」

大師堂再建にあたって、八坂寺が衛門三郎発心の旧跡であることが主張されています。また、納経印にも次のように刻されています。

「奉納経   弘法大師宝前 四国八十八(ヶ)所順舞遍路開基 八(ッ)津(ヶ)右ヱ門二(ママ)破心旧跡 事務所」

この勧進状にも、八坂寺は衛門三郎発心の旧跡と記されています。その一方で、熊野権現については何も触れていません。明治になって、八坂寺の縁起の中心が熊野権現から衛門三郎に変更されていくプロセスが見えてくるようです。
 以前に八坂寺の縁起はよく分からないことをお話ししました。
江戸時代初期には、八坂寺は、衛門三郎発心の旧跡とは書かれていません。ところが明治12年(1885)の「寺院明細帳」には「四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右工門三郎初発心ノ旧跡所也」と記さています。そして、明治・大正時代の案内記には、これが定番になっていきます。こうした背景には、明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験宗廃止令が出されて修験道が禁止されたことがあるようです。近代の八坂寺は、熊野信仰よりも四国八十八箇所霊場の札所寺院として立ちゆくことを戦略とします。そして、その中心に「衛門三郎発心の旧跡」という縁起を据えたのです。そうすることで、衛門三郎伝説の始まりの聖地として、より多くの遍路や参詣者を誘い、大師堂再建などの勧進などにも役立てようとしたのでしょう。江戸時代末の刷り物Aから明治のBへの変化は、そのような八坂寺の戦略変化を反映したものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①八坂寺はもともとは、熊野信仰の影響が強い修験寺院であった。
②八坂寺は、ふたつの「弘法大師と衛門三郎」の刷り物を発行している
③刷り物Aは、八坂寺に残る文政7年銘「大師修行御影」版本から刷られたもので、江戸時代後期の製作と考えられる。
④刷り物Aは、遍路の参拝土産や、修験者が配布することで広められた
⑤明治になると、八坂寺は神仏分離政策で熊野神社を奪われた。そのため寺の存在意義を四国霊場に移した経営戦略をとるようになった。
⑥その一環が、「衛門三郎発心の旧跡」という主張で
⑦これに合わせて、刷り物Bは戒心した衛門三郎が八坂寺から遍路に出立するものへと解釈変更が行われた。
⑧それが昭和以降は「衛門三郎から役行者」へと移り変わる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
今村 賢司(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
「 弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年
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納経帳の歴史について、以前に次のようにまとめました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこないこと。
②納経帳を早くから残しているのは六十六部であること。
③四国遍路は、六十六部の影響を受けて、18世紀の後半から納経帳を持ち始めたこと。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったことと、納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
六十六部 納経帳最御崎寺
明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が残した納経帳
土佐室戸の最御崎寺の本尊や正式名称・山号などが記される

 世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部が現れます。彼らは大量の納経帳を残していますが、そこからは次のような活動状況が分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
④四国霊場は、ほとんどすべてを廻っている
金泉寺・大麻比古神社の納経
                明和6年(1769)に六十六部廻国聖が残した納経帳
書かれている内容は次の通りです。
右が金泉寺
「奉納大乘妙典/本尊釈迦如来/阿州龜光山/金泉寺/行者丈」、日付は「九月八日」
左が大麻比古神社
「奉納/阿波一国一宮/大麻彦神別當/霊山寺/行者丈」、
日付は「丑ノ九月八日」
中央の宝印は「弌乘院」 左下は「竺和山」
六十六たちは、どんな経典を納めていたのでしょうか?
納経帳には、奉納した経名、本尊名、寺院名などが墨書や印判で記されています。納経帳に記された奉納経名を見てみると、18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。さらに1760年代以降になると、奉納経名も記載されなくなります。
長崎街道49~大乗妙典六十六部塔とお地蔵様と | 長崎ディープ ブログ

この変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経する寺社数が100以下だった時期ならともかく、巡礼する寺社数が700近くに増えると、それも難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなります。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯をたどるようです。
   六十六部の残した納経帳から白峯寺に関する部分を研究者が一覧表にしたのが下図です
白峯寺 六十六部の納経帳
白峯寺に関する六十六部納経帳の記述内容一覧
期間は、正徳元年(1711)から明治15年までの納経帳です。。
最初の正徳元年の納経帳には、洞林院が出てきます。洞林院は、近世始めに生駒家の支持を受けて、白峰寺一山の支配権を握った院房です。院主別名のもとで、勧進方式で伽藍の整備を進めて、白峰寺を復興します。「洞林院者本尊千手観音也」とあるので、洞林院の本尊は千手観音であったであったことが分かります。

白峯寺 十一面観音
白峯寺の十一面観音菩薩

次に宝暦3年(1753)の納経帳には、「崇徳院陵廟所 綾松山白峰寺役人」と記されています。
崇徳院陵とのつながりが強調されています。ちなみに、もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししました。白峰寺が、そのお株を横取りしているように見えます。
約30年後の天明2年(1782)には「千手院宝前」として「千手院」という寺名が登場します。
これは一山の本尊である千手観音をさすようです。以後は版木押しの「本堂千手院」という名称が数多く見られます。そして、江戸時代を通して、「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」を強調して、それをセールスポイントにしていたような印象を受けます。
明治を向かえると、版木で押された内容は次のように目まぐるしく変化していきます。
明治7年までは 「奉納経 本堂千手院宝前 崇徳天皇御廟所 讃州白峯寺 政所」
明治9年 「崇徳帝御陵所」
明治10年 「奉納経 四国第八十一番霊場 本尊千手観音大悲殿 讃州白峯寺執事」
明治15年 「奉納経 本尊千手大悲閣 讃岐国白峯寺」
このように頻繁に納経印の内容が変化します。これは以前にお話しした明治維新の神仏分離・廃仏毀釈に伴う、白峯寺の混乱を反映しているようです。
明治元年には、崇徳上皇の御霊が京都に新設された新御陵に移されます。その結果、「崇徳天皇御廟所 政所」とは名のれなくなり、「御陵所」にせざるえなくなります。
明治6年には、白峯寺住職が還俗して崇徳帝山陵陵掌となり、寺が無住となります。そのため急遽洲崎寺から橘渓道を招いて住職につきます。明治11年には、頓證寺が事比羅宮(金刀比羅官)によって摂社化されて、建物や所属の物品が事比羅宮に移管されてしまいます。この時に多くの宝物品が事比羅宮に移されたます。この時期の出来事については『神仏分離資料』に詳しく記されていて、以前にも紹介しました。
以上、六十六部が残した納経帳で白峰神社について書かれた部分を歴史順に見てきました。ここからは、江戸時代の白峯寺が 「崇徳天皇御廟所 政所」を寺のセールスポイントしていたことが分かります。それだけに、明治の神仏分離で「御廟所→御陵」となり、寺から完全に分離されたことは大きな打撃であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
経筒とは - コトバンク
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
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讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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現在の四国遍路は、次のような三段階を経て形成されたと研究者は考えるようになっています。
①古代 
熊野行者や聖などの行者による山岳修行の行場開発  (空海の参加)
②中世 
行場に行者堂などの小規模な宗教施設が現れ、それをむすぶ「四国辺路」の形成
③近世 
真念などにより札所が定められ、遍路道が整備され、札所をめぐる「四国遍路」への転進

①の古代の「行場」について、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
阿国大滝嶽に踏り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
(中略)
或るときは金巌に登って雪に遇うて次凛たり。或るときは石峯(石鎚)に跨がって根を絶って轄軒たり。
ここからは阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山で弘法大師が修行したことが分かります。これらの場所には、現在は21番太龍寺、24番最御崎寺、60番横峰寺(石鎚山遥拝所)があり、弘法大師と直接関わる行場であったこと云えます。

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土佐室戸崎での空海の修行

 四国霊場の札所の縁起は、ほとんどが空海によって開かれたと伝えます。しかし、空海以前に阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山などでは、すでに行者たちが山岳修行を行っていました。若き空海は、彼らに習ってその中に身を投じたに過ぎません。中世になってやってきた高野聖などが弘法大師伝説を「接ぎ木」していったようです。
   平安時代末期頃になると『今昔物語集』や『梁塵秘抄』には、「四国の辺地」修行を題材にした話が出てきます。
そこに描かれた海辺を巡る修行の道は、現在の四国辺路の原形になるようです。ここには、各行場が海沿いに結ばれてネットワーク化していく姿がイメージできます。それでは、山岳寺院のネットワーク化はどのように進められたのでしょうか。今回は、中世の山岳寺院が「四国辺路」としてつながっていく道筋を見ていくことにします。テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年 141P」です
和歌山・本宮/熊野古道】山伏と歩く熊野古道(大峰奥駈道)・貸切ツアー・小学生よりOK・初心者歓迎 | アクティビティジャパン
熊野街道と行者
鎌倉~室町時代中期には、全国的に熊野信仰が隆盛した時代です。
札所寺院の中には、熊野神社を鎮守とすることが多いようです。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
愛媛県の熊野神社 修験者が勧進したと伝える神社多い

そのため四国辺路の成立・展開には熊野行者が深く関わっていたという「四国辺路=熊野信仰起源説」が早くから出されていました。 しかし、熊野行者がどのように四国辺路に関わっていたのか、それを具体的に示す史料が見つかっていませんでした。つまり弘法大師信仰と熊野行者との関係について、両者をどう繋ぐ具体的史料がなかったということです。

増吽

 そのような中で、両者をつなぐ存在として注目されるようになったのが「増吽僧正」です。
増吽は「熊野信仰 + 真言僧 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経センター所長」など、いくつもの顔を持つ修験系真言僧者であったことは、以前にお話ししました。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽とつながる修験者の活動エリア

 増吽は讃岐大内郡の与田寺や水主神社を本拠とする熊野行者でもありました。例えば、熊野参詣に際しては讃岐から阿讃山脈を越え、吉野川を渡り、南下して牟岐や海部などの阿波南部の港から海路で紀州の田辺や白浜に着き、そこから熊野へ向かっています。四国内に本拠を置く熊野先達は、俗人の信者を引き連れ、熊野に向かいます。この参詣ルートが、後の四国辺路の道につながると研究者は考えています。また、これらのエリアの真言系僧侶(修験者)とは、大般若経の書写活動を通じてつながっていました。

弘法大師 善通寺御影
「善通寺式の弘法大師御影」 
我拝師山での捨身修行伝説に基づいて雲に乗った釈迦が背後に描かれている

 増吽の信仰は多様で、大師信仰も強かったようです。
彼は絵もうまく、彼の作とされる「善通寺式御影」形式の弘法大師の御影が各地に残されています。この御影を通じて弥勒信仰や入定信仰などを弘め、「弘法大師は生きて私たちと供にある」という信仰につながったと研究者は考えています。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)

 四国には、増吽のような信仰の姿を持つ真言宗寺院に属した熊野先達が数多くいたことが次第に分かってきました。彼等によって四国に入定信仰・弥勒信仰を基盤とする弘法大師仰が広げられたようです。そして、真言系熊野先達の寺院間は、大般若経の書写や勧進活動を通じてネットワーク化されていきます。この時期の山岳寺院は孤立していたわけでなく、寺院間の繋がりが形成されていたようです。こうした熊野信仰と弘法大師信仰とのつながりは、室町時代中期までには出来上がっていたようです。しかし、そこに四国辺路の痕跡はまだ見ることはできません。それが見えてくるのは16世紀の室町時代後期になってからです。

医王寺本堂内厨子 文化遺産オンライン
浄土寺本堂の本尊厨子
愛媛県の49番浄土寺本堂の本尊厨子に、次のような落書が残されています。
四国辺路美?
四国中辺路同行五人
えち     のうち
せんの  阿州名東住人
くに   大永七年七月六日
一せう
のちう  書写山泉□□□□□
人ひさ  大永七年七月 吉日
の小四郎
南無大師遍照金剛(守護)
意訳変換しておくと
四国辺路の中辺路ルートを、次の同行五人で巡礼中である
えち     のうち せんの  阿州名東住人 くに 
 大永七年(1527)七月六日

(巡礼メンバー)は「のちう  書写山(姫路の修験寺)の泉□□□□□ 人ひさ」である。
大永七年(1527)七月 吉日   の小四郎
南無大師遍照金剛(弘法大師)の守護が得られますように
ここからは、次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)前後には、浄土寺の本尊厨子が完成していたこと
②そこに「四国辺路」巡礼者の一団が「参拝記念」に、相次いで落書きを残したこと。
③巡礼者の一団のメンバーには、越前や阿波名東の住人、姫路書写山の僧侶などいたこと。彼らが「四国辺路」の中辺路ルートを巡礼していたこと
南無大師遍照金剛とあるので、弘法大師信仰を持っていたこと

閑古鳥旅行社 - 浄土寺本堂、浄土寺多宝塔
浄土寺本堂
さらに翌年には次のような落書きが書き込まれています。
金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四日
金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年五月九日
左恵 同行二人大永八年八月八日
意訳変換しておくと
高野山金剛峯寺の谷上惣職の善空 大永八年五月四日
高野山金剛□□満□□□□□□同行六人  大永八年五月九日
左恵  同行二人         大永八年八月八日
ここからは次のようなことが分かります。
①高野山の僧侶が四国辺路を行っていること
②また2番目の僧侶は「同行六人」とあるので、先達として参加している可能性があること。
 また讃岐国分寺の本尊にも同じ様な落書があって、そこには「南無大師遍照金剛」とともに「南無阿弥陀仏」とも書かれています。
以上からは、次のようなことが分かります。
①室町時代後期(16世紀前期)には「四国辺路」が行われていたこと
②四国辺路には、高野山の僧侶(高野聖)が先達として参加していたこと
②四国辺路を行っていた人たちは、弘法大師信仰と阿弥陀念仏信仰の持ち主だったこと
現在の私たちの感覚からすると「四国遍路」「阿弥陀信仰」は違和感を持つかも知れません。が、当時は高野山の聖集団自体が時宗化して阿弥陀信仰一色に染まっていた時代です。弥谷寺も阿弥陀信仰流布の拠点となっていたことは以前にお話ししました。四国の山岳寺院も、多くが阿弥陀信仰を受入ていたようです。

この頃に四国辺路を行っていた人たちとは、どんな人たちだったのでしょうか?ここで研究者が注目するのが、当時活発な宗教活動をしていた六十六部です。
経筒とは - コトバンク
経筒

16世紀頃に、六十六部が奉納した経筒を見ていくことにします。
この時期の経筒は、全国各地で見つかっています。まんのう町の金剛院(種)からも多くの経筒が発掘されているのは、以前にお話ししました。全国を廻国し、国分寺や一宮に逗留し、お経を書写し、それを経筒に入れて経塚に埋めます。それが終わると次の目的地へ去って行きます。書写するお経によっては、何ヶ月も近く逗留することもあったようです。

陶製経筒外容器(まんのう町金剛寺裏山の経塚出土)

それでは、六十六部は、どんなお経を書写したのでしょうか?
 六十六部の奉納したお経は、釈迦信仰に基づいて『法華経』を奉納すると考えられますが、どうもそうとは限らないようです。残された経筒の銘文には、意外にも弘法大師信仰に基づくものや、念仏信仰に基づものがみられるようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
廻国六十六部
島根県大田市大田南八幡宮出土の経筒には、次のように記されています。
四所明神土州之住侶
(バク)奉納理趣経六十六部本願同意
辺照大師
天文二(1533)年今月日  
ここからは、土佐の四所明神の僧侶が六十六部廻りに訪れた島根県太田市で、『法華経』ではなく、真言宗で重要視される『理趣経』を書写奉納しています。さらに「辺照(遍照)大師」とありますが、これは「南無大師遍照金剛」のことで、弘法大師になります。ここからは六十六部巡礼を行っている「土佐の四所明神の住僧」は、真言僧侶で弘法大師信仰を持っていたことが分かります。
島根県:コレクション しまねの宝もの(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 170号)
大田南八幡宮(島根県太田市)の銅製経筒

さらに別の経筒には、次のように記されています。
□□□□□幸禅定尼逆修為
十羅刹女 高野山住弘賢
奉納大乗一国六十六部
三十番神 天文十五年正月吉日
ここからは、天文15年(1546)に高野山に住している弘賢が廻国六十六部のために奉納したものです。高野山の僧とは記していないので聖かもしれません。当時の高野聖は、ほとんどが阿弥陀信仰と弘法大師信仰を併せ持っていました。
次に念仏信仰について書かれた経筒を見てみましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄土三部経六十六部
子□
祈諸会維天文十八年今月吉
越前の在家入道は天文18年(1549)に「無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経を奉納しています。これは浄土阿弥陀信仰の根本経です。このように六十六部は『法華経』だけでなく密教や浄土教の経典も奉納していることが分かります。

次に宮城県牡鹿郡牡鹿町長渡浜出土の経筒を、見ておきましょう。
十羅刹女 紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部沙門良源行人
三十番神 大永八年人月吉日 白
施主藤原氏貞義
大野宮房
この納経者は、高野山谷上で行人方に属した良源で、彼が六十六部となって日本廻国していたことが分かります。行人とあるので高野聖だったようです。高野山を本拠とする聖たちも六十六部として、廻国していたことが分かります。
2.コラム:経塚と経筒

経筒の奉納方法
 先に見た愛媛県の浄土寺本尊厨子の落書にも「高野山谷上の善空」とありました。彼も六十六部だった可能性があります。つまり高野山の行人が六十六部となり、四国を巡っていたか、あるいは四国辺路の先達となっていたことになります。ここに「四国辺路」と「六十六部」をつなぐ糸が見えてきます。

2公式山3
善通寺の裏山香色山山頂の経塚

今までのところをまとめておきます。
①16世紀前半の高野山は時衆化した高野聖が席巻し、高野山の多くの寺院が南無阿弥陀仏をとなえ念仏化していた。
②浄土寺や国分寺の落書からみて、高野山の行人や高野山を本拠とする六十六部、さらに高野聖が数多く四国に流人していた
③以上から弘法大師信仰と念仏信仰を持った高野聖や廻国の六十六部などによって、四国辺路の原形は形成された。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献      武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P


四国霊場弥谷寺における中世の念仏聖たちの活動を以前に見ましたが、その中で高野聖たちの果たした役割がよく分からないとの指摘を受けました。そこで、五来重「高野聖」の読書メモ的な要約を載せておきたいと思います。テキストは、五来重『増補 高野聖』と「愛媛県史 四国遍路の普及」です。
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弘法大師信仰を地方に広げていくのに活躍したのが高野聖(こうやひじり)たちです。彼らの果たした役割を、明らかにしたのが五来重の「高野聖」です。この本の中で聖の起源を次のように記します。

「原始宗教者の『日知り』から名づけられたもの」で、『ひじり』は原始的な宗教者一般の名称であった

 聖の中は、呪力を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行を行います。これが聖の山林への隠遁性と苦修練行の苦行性につながります。
 原始宗教では、死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えられていたようです。これを生前に果たしておこうという考え、彼らは巡礼を行います。そのために、聖の特性として回遊(廻国)性が加わります。
 こうして隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるようになります。これは民衆からすれば、聖は呪術性のある特別な存在をおもわれるようになります。
その他に、聖には次のような特性があると指摘します。
①妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性
②集団をなして作善をする集団性
③寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性
④勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性
 こうして、聖たちは、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくるようになります。高野聖もこのなかのひとつの集団になるようです。
 聖は、古代から存在していたことを、谷口廣之氏は次のように述べています
「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。」

 「現在では四国霊場は空海弘法大師によって開かれた」というのが当たり前に云われています。しかし、歴史家たちはそうは考えていないようです。空海以前から聖(修験者・行者)たちは霊山で修行を行っていて、その集団の中に若き日の空海も身を投じたという見方をします。また、空海以後も四国の地を遊行した聖たちは、蔵王信仰・熊野信仰・観音信仰・阿弥陀信仰・時衆信仰などそれぞれの信仰に基づいた修行をしていたようで、弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけでありませんでした。
阿波の板碑
高野

聖たちの中で、高野聖が登場するのは、平安中期以降のことだとされます。

もともと高野山では、信仰心のある隠遁者が集まり、出家せずに聖として半僧半俗の生活をしていた者がいたようです。そのような中で、正暦5年(994年)に高野山は大火に見舞われます。その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が、聖を勧進集団に組織したのが高野聖の始まりとされるようです。
 その後は、次のような集団が、高野聖として活発な活動を展開します。
①教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)などの真言念仏集団による小田原聖・往生院谷聖
②中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)
③禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖
④時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団
 高野聖の主な活動は、勧進でした。
 古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園をもち、これが経済基盤となっていました。しかし、平安中期になって律令体制が崩壊すると、荘園からの収入が思うように得られなくなります。寺院経営には、伽藍や法会の維持、僧供料など多くの資金が必要です。それが得れなくなった多くの古代寺院は退転していきました。生き残っていくためには、新たな収入源を確保する必要に迫られます。その一つの方法が、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の確保です。こうして全国に散らばった聖は、布教とともに勧進にかかわりるようになります。
 例えば讃岐の霊場弥谷寺に先ず根付いたのが阿弥陀信仰であり、その後の伽藍配置には時衆念仏信仰の影響が見られることは、以前にお話ししました。これも高野聖の一流派である②の五室聖や④の千手谷聖の活動が背景にあったことがうかがえます。彼らは里の郷村への阿弥陀念仏信仰を流布しながら、先祖供養のために「イヤダニ詣り」を勧めたのです。それが現在の弥谷寺に、磨崖五輪塔や地蔵形墓標として残ります。同時に、信者を高野山の勧進活動へと導いていきます。高野山には、高野聖が全国から勧進して集まった資金が流れ込むことになります。
西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
関東・平泉に勧進のために下る西行 西行も高野聖であった
 高野聖は、「高野山が日本の先祖供養の中心地」であることを、説話説教によって信者に広げます。
そして高野山への納骨参詣を誘引します。各地を回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運ぶようになります。さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供するようになります。このように高野聖は、高野山での役割は、宗教よりも生活を担うことで、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等にを担当します。こうして、高野聖は、高野山の台所を支える階級となっていきます。別の見方をすると、高野山という仏教教団の上部構造は学問僧たちでした。しかし、それを支えた下部構造は、学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を果たした高野聖たちであったと云えそうです。
勧進とは - コトバンク
勧進集団

 高野山奥の院への杉木立の参道に建ち並ぶ戦国武将や大名達の墓は、ある意味では高野聖の活動の証と云えるのかも知れません。高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などは、高野聖の勧進によって支えられていたのです。
君は勧進上人を知っているか?|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
勧進や高野山詣りを担当する高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものでした。そのために彼らは、足まめに担当諸国を廻国し、人集めのために唱導や芸能も行いました。次第に庶民に迎合して、世俗化する傾向が生まれるのも自然の成り行きです。高野聖の世俗化した姿は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」と後ろ指を指されていたことが分かります。高野聖は、人々から俗悪な下僧と卑しられるようになっていったのです。
高野聖とは - コトバンク
高野聖
 やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密まではたらくようになり、本来の姿を大きく逸脱していくようになります。高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながり、中世末期には世間の指弾を受けるようになり、堕落した高野聖は消滅していきます。

やまだくんのせかい: 江戸門付
聖たちのその後

高野山内部での「真言原理主義運動」が高野聖を追い出した
真言密教として出発した高野山でしたが、中世には浄土往生と念仏信仰のメッカとなっていました。鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、念仏信仰の中心拠点となっていて、それを高野聖たちが担って全国に拡散したのです。ところが室町時代になると、「真言復帰の原理主義」運動が起き、その巻き返しが着々と進んでいきます。室町時代半ばの15世紀末ごろからは、自発的に高野聖の中には「真言帰人」を行う者も現れるようになります。そして江戸時代になると慶長11年(1606年)年に将軍の命として、全ての高野聖は時宗を改めて真言宗に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命じられます。これが高野聖の歴史に終止符をうつことになります。
画像をクリックすると、拡大する。 第一巻 52 【前へ : 目次 : 次へ】 願人 - 【願人坊主  がんにんぼうず】は、江戸時代に存在した大道芸人の一種。穢多・非人に連なる賎民であるが、形式上は寺社奉行の管轄下にあったので、町奉行は扱いにくかった  ...
願人

高野聖の弘法大師信仰流布に果たした役割を研究はどのように捉えているのかを見ておきましょう。
 五来重氏は、高野聖の役割について次のように述べています。

 高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。これらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者であった。実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法 大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という疑問を解くことはできない。
   
ここには高野聖が「宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者」で、その性格は「庶民の精神構造」に起因するとします。だから「弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて信仰」され、弘法大師一尊化への道が開かれると考えているようです。
日本遊行宗教論(真野俊和 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 また真野俊和氏は、次のように述べます。
さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではなばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっきりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。

ここでは研究者は、次の2点を指摘します。
①高野聖の活動を通して四国霊場の弘法大師一尊化という風潮が形成されたこと、
②中世高野聖によって大師信仰が普及し、それを通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及したこと
伝承の碑―遍路という宗教 (URL選書) | 谷口 広之 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

 谷口廣之氏は、次のように述べています。
現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。

ここでは、次のことが指摘されています。
①高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたこと
②弘法大師信仰と遍照一尊化一色へ四国霊場を染め上げていったのは、高野聖の活動なしには考えられないこと
 以上を整理すると、次のようになります。
①高野聖の宗教宗派にこだわらない布教活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたこと
③高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の弘法大師一尊化の風潮が強められていったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献
       五来重『増補 高野聖』
「愛媛県史 四国遍路の普及」

女体山
大窪寺から女体山への四国の道をたどると奥の院
「四国遍礼霊場記」(寂本 1689年)には、大窪寺の奥の院のことが次のように記されています。
(前略) 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。

D『四国遍礼名所図会』(1800)には、次のように記されています。
奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀後半には、本堂から18町(約2㎞)登った岩屋に奥の院があり、阿弥陀と観音が安置されていたこと
②弘法大師虚空蔵求聞持法修行地とされ、井戸があったこと。
③それから約110年後の18世紀末には、訪れる人もなく荒れ果てていたこと。

大窪寺 奥の院
大窪寺奥の院
 大窪寺境内から四国の道に導かれて約2 kmほど登ると奥の院に着きます。お堂とは思えないような建物が岩壁を背負って建っています。現在の奥の院の建物は、屋根はトタン葺き、内部は十畳ほどの畳敷の奥に岩窟があり、堂は岩窟に取り付くように建てられています。両側の壁はコンクリートブロックで岩窟と連結されています。

大窪寺奥の院 内側
大窪寺奥の院の内側
畳敷の奥の岩窟は、三段になっていて、上段に1体、中段に3体、下段に2体、全部で6体に石仏たちが安置されています。前面には祭壇が設けられ、かつては行が行われていたことがうかがえます。この6体の石仏について、研究者が調査報告しています。今回は、この報告を見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」です。

奥の院の堂内に安置された石仏たちを見ていきましょう。
大窪寺奥の院 石仏配置
大窪寺奥の院の石仏
(1)阿弥陀如来坐像 砂岩製  高さ38.5cm、幅29cm、奥行25.5cm
一番上に上に安置されているのが阿弥陀如来坐像のようです。研究者は次のように指摘します。

大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
大窪寺奥の院 阿弥陀如来坐像
丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座と一石で製作されており、背面は蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。
脚部前面の一部が欠失しており、蓮華座の一部も欠損しているが、欠損部は石仏横に置かれている。印は定印を結び、肉醤が小さく、髪際中央部のラインが上方に切れ込んでいる。また、白眉、三道を表現している。
 (2)十―面観世音菩薩坐像 砂岩製  高さ37cm、幅29cm、奥行25.5cm

大窪寺奥の院 十一面観世音
中段左側の十一面観世音菩薩坐像
研究者の指摘は次の通りです。
阿弥陀如来と同じく、丸彫仏で背面の表現は見られないが、背面には刺突状の工具痕が顕著に認められる。蓮華座も阿弥陀如来坐像と同じく、一石で製作されており、背面には蓮華座との境界を表現していない。蓮華座の主弁は外縁に幅1.5cmの帯状の輪郭を巻いており、刺突状の工具痕が認められる。間弁は上部付近のみ表現をしている。左手は、水瓶を持たず、直接蓮華を持っており、右手は掌を正面に向けた思惟印を結んでいる。蓮華の花部は三弁の簡易な形態を示してる。頭部は、上下三段に突起があり、上段に3つ、中段に2つ、下段に5つの合計10個認められ、正面の顔面を含めて十一面を表現している。体の特徴としては、首から肘にかけて傾斜して広がり、両肘部が胴部の最大幅となる。三道、条吊、腎釧、腕釧、右足を表現している。

(3)弘法大師坐像 砂岩製  高さ37.5cm、幅29.5cm、奥行き25.5cm
大窪寺奥の院 弘法大師
ふたつの弘法大師像

中段右側に安置されている小さい弘法大師坐像(3)です。阿弥陀如来と同じように、丸彫仏で背面の表現は見られませんが、背面には刺突状の工具痕が見えるようです。左手には数珠、右手には金剛杵を持っていて、弘法大師坐像のお決まりのポーズです。よく見ると、金剛杵を斜めに持っています。
(4)弘法大師坐像 砂岩製 高さ57.5cm、幅40cm、奥行き30.5cm
中段の真ん中に置かれた大きい弘法大師坐像(4)です。丸彫仏で、背面には法衣を表現しています。左手には数珠、右手には金剛杵を持つ、弘法大師坐像の一般型です。3の小さな弘法大師坐像とちがうのは、金剛杵を水平気味に持っていることだと研究者は指摘します。
(5)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ37cm、幅20.5cm、奥行10.5cm

大窪寺奥の院 地蔵菩薩
下段の左側に安置されている地蔵菩薩立像(5)で、舟形光背型を背負っています。
これについては研究者は次のように指摘します。
簡略化された蓮華座が特徴的で、地蔵菩薩を半肉彫で表現している。目と口は線刻で簡易的に表現されている。両手は突線で簡易的に表現されており、腹前で合掌している。衣文の装は斜め方向の線刻で表現されている。像の周囲には刺突状の工具痕が残るが、光背形の縁辺部は幅1.5cm~2 cmで工具痕は認められない。

「突線で表現された両手、簡易で特徴的な蓮華座、正面の像の周囲に残る刺突状の工具痕」という特徴から、研究者は16世紀末~17世紀前半の特徴が見えるといいます。線刻による小さな目、口の表現などは、高知県に多く、讃岐では見つかっていないタイプだと云います。
 この石仏が作られた16世紀末~17世紀前半は、讃岐では生駒氏によって戦国の争乱に終止符が打たれて、生駒氏の保護を受けた弥谷寺などでは復興が始まる時期になります。以前お話しした弥谷寺では、採掘された天霧石で、大きな五輪塔が造られ、生駒氏の墓標として髙松の菩提寺などに運び出されています。ここからは大窪寺が、生駒氏の保護を受けられずに、独自の信仰集団を背後に持っていたことをうかがえます。大窪寺には独特の舟形光背型石仏が持ち込まれていることになります。


(6)舟形光背型石仏(地蔵菩薩立像) 砂岩製 高さ49cm、幅28cm、奥行き16cm
大窪寺奥の院 地蔵菩薩6


下段右側に安置されている地蔵菩薩立像(6)になります。形は左側と同じで舟形光背型ですが、直線的な立ち上がりで、角部の屈曲のが五角形です。半肉彫の地蔵菩薩を掘りだしたスペースは光背幅の1/3程度です。このタイプのものは19世紀ごろの特徴だと研究者は指摘します。下の蓮華座は、近世の丸彫石仏や近世五輪塔の蓮華座に共通する精級なものです。蓮華座下の突出部のスペースが広く、稜線によって3面に仕上げている点も特徴的なようです。

この地蔵菩薩には、次のような文字が掘られています。
右側「嘉永庚戊戊夏日 為先祖代々諸霊菩提」
左側「岩屋再営 施主 柿谷 澤女」
突出部正面に「幻主 慈心代」
ここからは、この石仏を寄進したのは、柿谷に住む澤女で、岩屋再営とあることから奥の院の堂宇の再建を行い、先祖供養のために嘉永3年(1850)に造立したことが分かります。「幻主」が何かしら気になる表現です。「奥の院の仮庵主である慈心代」という意味と研究者は考えているようです。慈心は、「大窪寺記録」には、第27代住持として記載がある人物ですが、位牌はなく、いつ亡くなったかなどは分かりません。位牌がない場合に考えられるのは、転院や退院した住持かもしれないということです。また、柿谷は地名のようですが、周辺にはない地名です。四国内で探すと、阿波国に柿谷という地名があるようですが、よく分かりません。
 どちらにしても、幕末に奥の院の堂宇が大窪寺の住職の手で行われ、その成就モニュメントしてこの地蔵菩薩が寄進されたようです。

大窪寺奥の院の石仏2
大窪寺奥の院の石仏

以上から奥の院堂内の石仏について、研究者は次のように考えているようです。
①阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は法量がほぼ同じであること
②阿弥陀如来坐像(1)と十一面観世音書薩坐像(2)の蓮華座が類似すること
③3基ともに背面を省略することなどのの共通点がみられること
以上から、この3体の石仏は、同時期に作られたものと考えます。そして製作時期については、近世のものであるとします。中世のものではないというのです。
 私は元禄2年(1689)『四国偏礼霊場記』に、「奥院あり岩窟なり、・…本尊阿弥陀・観音也」と記されているので、これが奥の院にある現在の阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)を指しているものと思っていました。そして中世に製作されたものと思っていたのですが、研究者は、「(現)石仏を指している可能性はあるが、時期の特定が難しいため、現時点で断定はできない。」と慎重な判断をします。
④ふたつある大小の弘法大師坐像(3)(4)は、法量・形態・特徴が異なるので製作時期がちがう。製作時期の先後関係も現時点では判然としないと、これも慎重です。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像(5)は、16世紀後半~17世紀前半の特徴があり、似たような様式の者が高知県には多くあるようですが、香川県内では見られない珍しいタイプになるようです。これは、大窪寺の信者や属した寺社ネットワークを考える際に興味深い材料となります。
以上の材料をどのように判断すればいいのでしょうか?

  奥の院には、現在は6つの石仏が安置されていることになります。
大窪寺奥の院 石仏配置

 その配置をもう一度確認しておきます。私が注目したいのは、一番上段に安置されているのが①阿弥陀如来だと云うことです。そして、その下に十一面観音と弘法大師像2体、一番下に地蔵菩薩という配置になります。これと同じような石仏のレイアウトが、以前紹介した弥谷寺の獅子の岩屋にあったことを思い出します。
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が彫りだされています。
P1150148
弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏レイアウト

壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 その手前に、弘法大師・母玉依御前・父佐伯田公、その前に大型の弘法大師像があります。ここにも弘法大師像は大小2つありました。
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        弥谷寺大師堂の獅子の岩屋の石仏
側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。しかし、ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、研究者は大日如来ではなく地蔵菩薩と考えるようになっています。つまり、弥谷寺の獅子の岩屋の仏たちは「阿弥陀如来+弘法大師2体+弘法大師の父母、+地蔵菩薩」という構成メンバーになります。これは大窪寺奥の院の仏たちとメンバーも配置よく似ています。
 ここからは、大窪寺においても次のような宗教的な変遷があったことが推測できます。
①念仏聖や高野聖たちによる浄土=阿弥陀信仰
②志度寺・長尾寺など同じ観音信仰
③近世になっての弘法大師信仰
江戸時代になって、本山=末寺関係が強化されることによって、大窪寺も高野山の影響を強く受け、その管理下に入っていくようになります。同時に、四国霊場の札所としての地位が確立するにつれて、次第に①阿弥陀信仰は払拭されていきます。しかし、伽藍から遠く離れた奥の院では、阿弥陀仏が一番上に祀られ、礼拝されていたと私は考えています。幕末になって、大窪寺の住職が奥の院を修復し、地蔵菩薩を新たに安置する時にも、最上段の阿弥陀仏の位置を動かすことはなかったのでしょう。
冒頭でD『四国遍礼名所図会』(1800)には、「奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。」と記されていること紹介しました。しかし、大窪寺の住職が奥の院を改修し、新たに地蔵菩薩を寄進しているとすれば、奥の院は大窪寺のルーツとして忘れられていたわけではなかったことになります。

以上をまとめておくと
①大窪寺奥の院には、弘法大師が虚空蔵求聞持法の修行を行ったという伝説がある。
②奥の院には、現在6体の石仏が安置されている。
③この6体の中で、阿弥陀如来坐像(1)、十一面観世音菩薩坐像(2)、弘法大師坐像(3)は、同時代のもので中世に遡ることはない。
④ふたつある大小の弘法大師坐像も先後をつけることは出来ないが近世のものである。
⑤舟形光背型地蔵菩薩立像2体のうちの(5)は、16世紀後半~17世紀前半のもので、土佐タイプに似ていて、讃岐では珍しいものである。
以上から奥の院には、時代順に 阿弥陀・地蔵信仰 → 観音信仰 → 弘法大師信仰のモニュメントとして、これらの石仏が安置されたと私は考えています。
88番 大窪寺 奥の院 胎蔵峯寺 全景 御影 御朱印 案内八丁とある) 案内 登り 案内 休憩所から下を見る 内部 脇の地蔵尊 脇の地蔵尊  四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ1 四国八十八ヶ所霊場奥の院ホームページ2 タイトルに戻る 遍路の目次に戻る 四国八 ...
大窪寺奥の院胎蔵峰寺の本尊は、阿弥陀如来

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺奥の院調査  香川県教育委員会」

  大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷図
前回は、大窪寺の江戸時代の伽藍変遷を残された絵図から見てきました。その結果、本堂の位置は動いていないけれども、阿弥陀堂や大師堂などその他の建造物は江戸時代前半と、後半では移動していることが分かりました。今回は、現存する大窪寺の堂宇を見ていくことにします。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置図
テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」です。
大窪寺 本堂上空図
大窪寺の本堂と多宝塔(奥殿)

まずは 本堂・中堂・奥殿です
大窪寺の本堂は、正面に立って見ると分からないのですが上から見ると変わったレイアウトをしていることが分かります。本堂の後に奥殿(多宝塔形式)があり、中殿が二つの建物を繋いでいます。つまり三段構えになっている念入りな本堂です。この配置は前回に見た江戸時代の絵図には出てきませんので古いものではなく、明治33年(1900)の火災後に姿を見せた建物のようです。飛鳥様式が残るとされる本尊の薬師如来が座っているのは、奥の多宝塔です。

4大窪寺薬師正面
飛鳥様式の残る薬師如来坐像(大窪寺)

このお薬師さんは、薬壷のかわりに法螺貝をもっています。これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものなのでしょう。『四国辺賂日記』には、「弘法大師所持の法螺と錫杖がある」と書いてあります。が弘法大師所持の法螺を、お薬師さんが持っているのかどうかは分かりません。
   多宝塔の薬師如来坐像を礼拝するのは、中堂からになります。本堂と中堂が礼堂的な役目をし、後方の奥殿(多宝塔)が内陣的な役目を果たしていることになります。
大窪寺 本堂平面図
大窪寺本堂・中堂・奥殿(多宝塔)の平面図
本堂をもう少し詳しく見ておきましょう
本堂は、奥殿の礼堂としての機能を持ち、正面二間を土足で礼拝部、奥三間を法要時の着座作法の外陣として使用されていたようです。そのため内部には本尊がないようです。本堂と奥殿とを繋ぐ中殿は、本堂背面の中央間に合わせて桁行三間を接続、中央に法要具足を配置して、奥堂本尊を礼拝することになります。
本堂・中堂・奥殿は、明治33年(1900)に本堂が焼失した後に新築されたものです。
前回見たように江戸時代に書かれた『四国偏礼霊場記』(承応2年,1689)、『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年1854)には、本堂しか描かれてなかったのは見てきた通りです。ただ、次のように記されていました。
「四国遍路日記」(承応2年,1653)に
本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。
『四国偏礼霊場記』に
多宝塔去寛文の初めまでありしかど倒れたり。
これらの記事から明治の再建新築の際に、多宝塔の再建が計画され、参拝や法要時の利便を考えて本堂と一体の拡張新築となったと研究者は考えているようです。
 本堂の構造について、研究者は次のように指摘します。
本堂は向拝から正面二間分の外礼堂までは、軸部・組物に伝統的な様式を採用しているが、後方三間では中堂も含めて、柱が直接桁を受けて組物を省略、奥堂平面では正面は三間とする。側面は四間、内部四天柱内須弥壇を置かず後方にずらし、周囲に畳敷きを採用、当初から軒下張り出し部を作り位牌壇を設けるなど、内部の構成は本堂としての機能が優先している。また上層組物は三手先組みにするなど、本来の様式から少し違うものに変更されている箇所が見られる。近代化を図るなかでの伝統建築の保全。活用の一形態を示しており、今後の一指針となり得るものである。

大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ   
大窪寺 旧太子堂(現納経所)

旧大師堂は、昭和になって境内西側に新たに現在の大師堂が建設されたので、納経所に改められたようです。
『四国遍礼名所図会』(寛政12年,1800)、『讃岐国名勝図会』(嘉永7年,1854)に描かれている大師堂と同じ位置にあります。
明治33年の大火で、大窪寺は本堂以外にもほとんどの堂宇を失ったようです。旧太子堂も、その後に再建されたものです。
研究者は大師堂について次のように指摘します。
背面軒下に仏壇、来迎柱が半丸柱、内部頭貫の省略と、近世から近代への変化が見られる。納経所に改装された際には各部補修や改変があったようである。内部後方の間仕切りや、外部サッシヘの変更、床組みの改修等が行われているが、その他軸部。組物・天丼や背面仏壇廻りは明治再建のものであろう。


大窪寺阿弥陀堂

阿弥陀堂も本堂・旧大師堂と同じように明治33年(1900)に焼失し、再建されたもののようです。
『四国遍礼名所図会』では建物は描かれていますが、本文中では「護摩堂、本堂に並ぶ」とあって、阿弥陀堂が出てきません。のちの『讃岐国名勝図会』では、再び「アミダ堂」となっています。高野山での念仏聖の追放と阿弥陀信仰弾圧が地方にも影響をもたらしていたのでしょうか。何かしらの「勢力争い」の気配はしますが、よく分かりません。
大窪寺 阿弥陀堂
大窪寺阿弥陀堂(調査報告書より)
研究者は次のように指摘します。
建物は、向拝に組物を組み、母屋正面中央間内法に虹梁を入れて諸折桟唐戸で装飾性を高めてはいるが、母屋柱上は側桁を直接受け、内部天丼も悼縁天丼など、比較的簡素な建物である。柱の大面取や建具、向拝廻り垂木の扱いなど、大師堂より近世の様式が窺われる建物である。
大窪寺 もみじやイチョウの紅葉 四国八十八ヶ所結願の寺と初詣 さぬき市 - あははライフ
大窪寺二天門

二天門は明治の大火から唯一免れた建物のようです。
大窪寺  讃岐国名勝図解
『讃岐国名勝図会』(1854年)
『四国遍礼名所図会』(1800年)に描かれている楼門と同じように見えます。『讃岐国名勝図会』には二王門の表記があります。絵図資料からは、この建物が『四国遍礼名所図会』(1800年)が書かれる以前に建てられたいたことを示します。
研究者は、次のような時代的特徴を指摘し、建立年代を示します。
①上部側廻りが吹き放し
②中央柱間貫に吊り環状の金具があり
③正面中央間柱内側に撞木吊り金具状のものが残る。
④正面腰貫が入れられてない
以上から、寺伝にいう明和4年(1767)には二天門が建立され、梵鐘が吊られた可能性もあるとします。しかし、細部の様式からは18世紀の中期建立は想定しにくく、どちらかというと19世紀になって建てられたといってもでもおかしくない建物だと考えているようです。
現在の二天門の上層には外部柱間装置の痕跡が見られません。それは、当初から梵鐘を吊ることを想定して建立されているからです。すでにそれまであった門に仮に鐘を釣り込んで、後に新たに建造された可能性もあると指摘します。
大窪寺 二天門
大窪寺二天門
二天門の組物については、次のように述べています。
下層組物は側廻り柱上に大斗を置いて、四周縁葛を受ける絵様肘木を乗せている。正背面中央間頭貫下正面には「龍」、背面には「獅子」の持ち送りが入る。その他中央仕切り上の虹梁中央に暮股を入れ、正背面中央間の頭貫上に天丼桁を受ける斗を置くのみである。上層柱上は平三斗組み、実肘木で、側桁を受けている。両妻は化粧母屋桁下、前包み水切り上に三斗組み、実肘木を組み、化粧母屋と同高に虹梁、中央は大瓶束のみとして棟木を受ける。

第88番大窪寺(おおくぼじ)

かつて女体山には年に2回はテントとシュラフをザックに担いで、長尾側から登っていました。山頂の東屋で「野宿」したことも何度かあります。この山が修験者たちの行場であったことは、山を歩いているとうすうすは感じるようになってきました。しかし、私の中では、それと麓の大窪寺がなかなかつながらなかったのです。
 整備された四国の道を通って南側の大窪寺に下りていくと、見事なもみじの紅葉が迎えてくれたことを思い出します。しかし、その伽藍は威風堂々として、若い頃の私は違和感を覚えたものです。その原因がこの寺の堂宇が二天門を除いて、ほとんどが近代になって作られたものであることに気づいたのは最近のことです。明治の大火で大窪寺は、ほとんどを失っているのです。その後の再建計画と復興への動きを知りたくなりました。しかし、手元にはその史料はありません。・・・

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の建造物  香川県教育委員会」

  医王山大窪寺絵図
大窪寺絵図

 大窪寺の創建とその歴史については、よく分からないようです
『大窪寺縁起』には奈良時代の養老元年(717年)に行基の開創であり、平安時代になり、弘仁六年(815)に弘法大師が現在の地に再興したとされます。「行基創建=空海中興というのは、由来が分からないと云うことや」と私の師匠は教えてくれました。根本史料となる古代・中世の史料はないようです。
 弘法大師の弟子である真済が跡を継ぐと、寺域は百町四方、寺坊は百宇を数え、外門は寒川郡奥山村・石田村、阿波国阿波郡大影村、美馬郡五所野村にあったと、広大な寺域を保有していたと近世の史料は記しますが、これも信じるに足りません。現在の寺域や旧寺域とされる場所からは、中世の古瓦が出土していますが、古代にさかのぼるものはないようです。冒頭に示した「大窪寺絵図」も、これが実際の大窪寺を描いたものとは研究者は考えていません。
 しかし、以前に紹介したように香川県歴史博物館が行った総合調査では、次のことが分かっています。
①本尊の薬師如来坐像が飛鳥・天平様式で、平安時代前期のものであること
②弘法大師伝来とされる鉄錫杖が平安時代初期のものであること
ここからは大窪寺の創建が平安時代初期にまで遡れるの可能性は出てきたようです。しかし、本尊や聖遺物などは後世の「伝来品」である可能性もあるので、確定ではありません。弥谷寺・白峰寺などに比べると中世の史料が決定的に少ないのです。
4大窪寺薬師正面
薬師如来坐像(大窪寺本尊)

今回は、江戸時代に大窪寺を訪れた巡礼者が記録した4つの史料に大窪寺が、どんな風に記されているのかを見ていくことにします。テキストは「大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会」です。
近世になると、四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、大窪寺に関する記述が出てきます。その代表的なものが以下の4つです。
A『四国辺路日記』 (澄禅 承応二年:1653)
B『四国辺路道指南』 (真念 貞享四年:1687)
C『四国偏礼霊場記」 (寂本 元禄二年:1689)
D『四国遍礼名所図会』 (寛政十二年  :1800)  
Aから順番に見ていくことにします。   
四国辺路日記 : 瀬戸の島から
  
A『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来 堂ノ西二在、半ハ破損シタリ。是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二坊在シガ、今ハ午縁所ニテ本坊斗在。大師御所持トテ六尺斗ノ鉄錫杖在り、同大師五筆ノ旧訳ノ仁王経在り、紺紙金泥也。扱、此寺ニー宿ス。中ノ刻ヨリ雨降ル。十三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリくテー里斗往テ長野卜云所二至ル、愛迄讃岐ノ分也。次ニ尾隠云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリー里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切畑(ママ)迄五里也。以上讃州一国十三ヶ所ノ札成就事。

  意訳変換しておくと
大窪寺の本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが半ば破損している。この寺も昔は七堂伽藍が備わり、十二の坊があったが、今は午縁所で本坊だけで住職はいない。また、弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経があり、紺紙に金泥で書かれている。
 この寺に一泊した。申ノ刻(三時頃)から雨になった。十三日に、寺を出発して谷河沿いに下って行ったが山中は細道で谷底なので、闇夜で道に迷ってしまった。ようやく一里ほど下って長野という所についた。ここまでが讃岐分で、次の尾隠からは阿波分になる。ここからー里程行くと関所がある、また一里行くと山中を抜けて開た所に出た。切畑(ママ)迄五里である。以上讃州一国十三ヶ所ノ札所詣りを成就した。
ここからは境内については、次のようなことが分かります。
①本堂は南向で、本尊は薬師如来、堂の西側に塔があるが破損状態
②昔は七堂伽藍、12坊があったが、今は本坊だけで住職はいない。
③弘法大師が使っていた六尺斗の鉄錫杖、大師自筆の旧訳仁王経
①②の境内についての記述は、昔は七堂伽藍を誇っていたが今は本堂だけで、境内の西側に塔があるが、損壊していることが記されているだけです。 近世初頭の大窪寺は、まだ荒れていたことが分かります。生駒氏の援助を受けた讃岐の霊場が、復興の道を歩み出していた中で、大窪寺は遅れをとっていたのかもしれません。ただ、寺に宿泊したとありますので、阿波・土佐ののように「退転」という状態ではなかったようです。
四国お遍路|結願後のお礼参りとは?

澄禅の『四国辺路日記』の大窪寺の記述は、私たちの感覚からすると違和感があります。
それは、大窪寺が結願ではなく、阿波の切幡寺に向けて遍路を続ける姿が記されているからです。澄禅は、十七番の井戸寺から始めて、吉野川右岸の札所をめぐり、阿波から土佐、伊予、讃岐と現在とほぼ同じ順でめぐっています。そして、大窪寺から山を越えて阿波の吉野川左岸の十番から一番に通打ちして、一番霊山寺を結願としています。『四国辺路日記』では、霊山寺が結願寺となっています。
 また、現在のように阿波一番霊山寺を打ち始めとする者も、大窪寺で結願しても、そこがゴールとは考えられていなかったようです。阿波と讃岐の国境の山を越えて、十番の切幡寺から一番の霊山寺まで戻って帰るべきものとされていたようです。一番から十番まではすでに参拝しているのですが、もういっぺん大窪寺から逆打ちをして帰っています。つまり一番切幡寺から始めて、切幡寺で終わるべきものだとされていたようです。このように大窪寺が結願寺であるという認識は、この当時にはなかったことが分かります。それでは、いつごろから大窪寺が結願寺とされるようになったのでしょうか。それについては、また別の機会に・・・
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B『四国辺路道指南』(真念 貞享四年:1687)
八十八番大窪寺 山地、堂南むき。寒川郡。本尊薬師 坐三尺、大師御作。
なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
これより阿州きりはた寺まで五里。
○ながの村、これまで壱里さぬき分。
○大かけ村、これより阿州分。
○犬のはか村○ひかひだに村、番所、切手あらたむ。大くぼじ(より)これまで山路、谷川あまたあり。是よりきりはたじまで壱里。
意訳変換しておくと
八十八番大窪寺は山中にあり、本堂は南むき。寒川郡。本尊は薬師坐像で三尺、大師御作と伝えられる。
ご詠歌は なむやくし諸病なかれとねがひつゝまいれる人は大くぼの寺
この寺から阿州切幡寺まで5里。○長野村ま2里で、そこまでが讃岐分。○大かけ村からは阿州分。○犬のはか村○ひかひだに村に番所があって、切手(手形)が点検される。大窪寺からここまでは山路で、谷川越が数多くある。ここから切幡寺までは壱里。
ここにも本堂だけしか出てきません。その他の建造物には、何も触れていません。澄禅の「辺路日記」から約30年ほど経っていますが、大窪寺の復興は、まだ進んでいなかったようにうかがえます。しかし、2年後の寂本の記録を見ると、そうとも云えないのです。

四国〓礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) (教育社新書―原本現代訳) | 護, 村上, 寂本 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

C「四国遍礼霊場記」(寂本 元禄二年:1689)
    医王山大窪寺遍照光院
此寺は行基菩薩ひらき玉ふと也。其後大師興起して密教弘通の道場となし給ヘリ。本尊は薬師如来座像長参尺に大師作り玉ふ、阿弥陀堂はもと如法堂也、是は寒川の郡幹藤原元正の立る所也。鎮守権現丼弁才天祠あり。大師堂、国のかみ吉家公建立し、民戸をわけて付られしとなりっ鐘楼鐘長四尺五寸、是も吉家の寄進なり。多宝塔去寛文の初までありしかど朴れたり。むかしは寺中四十二宇門拾を接へたりと、皆旧墟有。奥院あり岩窟なり、本堂より十八町のぼる、本尊阿弥陀・観音也。大師此所にして求聞持執行あそばされし時、阿伽とばしければ、独古をもて岩根を加持し給へば、清華ほとばしり出となり。炎早といへども涸渇する事なし。又大師いき木を率都婆にあそばされ、文字もあざやかにありしを、五十年以前、野火こゝに入て、いまは本かれぬるとなり。本堂より五町東に弁才天有。此寺むかし隆なりし時、四方の門遠く相隔れり、東西南北数十町とかや、今に其しるしありと也。
 
意訳変換しておくと
  この寺は行基菩薩の開山とされる。その後、弘法大師が中興して密教布教の道場となった。
本尊は薬師如来座像で、参尺あり、弘法大師作と云う。阿弥陀堂は、もともとは如法堂だったもので、これは寒川郡の郡幹藤原元正の建立した建物である。鎮守権現弁才天祠がある。大師堂は、国守吉家公が建立し、民戸を併せて寄進した。鐘楼の鐘は長四尺五寸、これも吉家の寄進である。多宝塔は寛文初め頃まではあったが、今は倒壊して失われた。むかしは寺中に四十二の堂舎があったというが、皆旧墟となっている。
 本堂から十八町登ると、岩窟の奥の院がある。本尊は阿弥陀と観音が安置されている。大師がここで虚空蔵求聞持法の行を行った時に、神仏に阿伽(聖水)を捧げて、独古で岩根を加持すると、清らかな水がほとばしり出た。以後、どんな旱魃であろうとも枯れることはない。大師は、生木を率都婆にして、文字を残した。これもあざやかに残っていたが、50年前に山火事で、この木も枯れてしまった。本堂から五町ほど東に弁才天がある。この寺が、かつて隆盛を誇った時には、四方の門は、遠く離れたところにあって、伽藍は東西南北数十町もあったという。今もその痕跡が残っている。
ここからは次のようなことが分かります。
①阿弥陀堂はもと如法堂だった。
②境内の東に鎮守権現と弁才天が祀られている
③国守吉家公寄進の大師堂と鐘楼がある。
④寛文期までは多宝塔があったが今は壊れている
⑤境内から十八町上ったところに奥院があり、弘法大師が虚空蔵求聞持法行った跡である

ここには、国守吉家の寄進を受けて大師堂や鐘楼などが整備されたと記されています。しかし、国司古家や寒川郡の郡司藤座元正については、どういう人物なのか、よくわからないようです。東西南北に数十町を隔てて山門跡があるとか、多宝塔も寛文年間(1661~73年)まではあった、寺中四十二坊があったとも云いますがそれを裏付ける史料はないようです。冒頭の絵図をもとに、かつての隆盛ぶりがかたられていた気配がします。
大窪寺奥の院までは四国の道が整備されている

ここで始めて奥の院のことが出てきます。
 弘法大師が虚空蔵求聞持法を修行したと記します。弘法大師が阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で虚空蔵求聞持法を修行したことは史料的にも裏付けられます。大学をドロップアウト(或いは卒業)した空海が善通寺に帰省し、そこから阿波の大滝嶽や室戸岬に行くには、大窪寺を通ったことは考えられます。その時には熊野行者たちによって、修行ゲレンデとなっていた女体山周辺で、若き空海も修行した可能性はあるかもしれません。大窪寺の発祥は、行者が奥の院を聞いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本尊を下ろしてきて本堂を建てたということでしょうか。

大窪寺奥の院胎蔵峰寺 | kagawa1000seeのブログ
大窪寺奥の院 

奥の院については、岩壁を背にして、一間と二間の内陣に三間四方の外陣が張り出しています。中には、多くの石仏があります。内陣には、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。

大窪寺 奥の院の石仏
大窪寺奥の院の石仏

 奥の院は発祥地になりますので、奥の院の本尊阿弥陀が下におりだとすれは、阿弥陀堂がこの寺の根本になります。弥谷寺でもお話ししましたが、中世の高野山は全山が時衆の念仏僧侶に席巻されたような時代がありました。そのため高野聖たちは、浄土=阿弥陀信仰を各地で広めていきます。弥谷寺でも初期に造られた磨崖仏は阿弥陀三尊像でした。ここでも高野山系の念仏聖の痕跡が見えてきます。
 歴史のある寺院は、時代や社会変化や宗教的な流行に応じて本尊を換えていきます。行場を開いたのは熊野行者、その後にやって来た高野聖たちが念仏と阿弥陀信仰と弘法大師信仰を持ち込みます。弥谷寺の本坊は遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。その後、いろいろな坊の修験者たちやお堂が分離併合されて、現在の伽藍配置になったと研究者は考えています。 ここで押さえておきたいことは、奥の院の本尊は阿弥陀如来であったこと。それが下ろされて阿弥陀堂が建立されていることです。
 たどり着いた結願寺|お遍路オンライン:四国八十八ヶ所のガイド&体験記
本堂背後に見える岩場に奥の院はあります。

 奥の院には「逼割禅定」の行場と洞窟があります。
寺の後ろに聳える女体山と矢筈山は、洞窟が多いところです。大きな岩窟がお寺の背後の峰に見えていて、行場としては絶好の山です。女体山の東部には虎丸山を中心に三山行道の行場があります。虎丸山は標高373mで高くはありませんが瀬戸内海が見渡せる景色のいいところです。その麓に、水主神社の奥の院があります。ここも熊野行者たちによって開かれた霊山で、別当寺としての与田寺の修験者たちの拠点でした。増吽は、ここを拠点にして写経センターを運営し、広域的な勧進活動や熊野詣でを行っていたことは以前にお話ししました。増吽を中心とする、修験ネットワークは備中や阿波にも伸びていて、讃岐では白峰寺や仁尾での勧進活動を行っています。中世の大窪寺は、そのような与田寺のネットワークの中にあったのではないかと私は考えています。
 増吽には「①熊野詣での先達 + ②書経センターの所長 + ③勧進僧 + ④ 弘法大師信仰」などの多面的な面がありました。増吽や廻国の高野聖などによって、弘法大師信仰がもたらされ、奥の院に空海修行の伝承が生まれるのは自然な流れです。

「四国偏礼霊場記」には、奥の院について「大師(空海)いき木(生木)を卒都婆にあそばされ」とあります。
卒塔婆は、もともとは生木を立てたようです。現在でも、生木塔婆あるいは二股塔婆といって、枝の出たものや皮のついた生木をもって塔婆にする場合もあります。これは、神道からすると、神の依代として神簸を立てたのが変形したものです。そういうまつり方をしていたことがここからは分かります。また、生木に仏を彫り込むのも修験者たちのやり方です。それを空海が行ったと記します。
大窪寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の大窪寺挿絵

寂本による「四国偏礼霊場記」の本文中には、本堂とともに、阿弥陀堂(元は如法堂)、鎮守・弁才天、大師堂、鐘楼、多宝塔などが出てきます。挿図からは次のようなことが分かります。
①本堂(薬師)は現在の位置にあるが、大師堂や弁才天は本堂の東側に、阿弥陀堂は本堂の西側に描かれていること。
②現在の本坊の位置に遍照光院と記されていること
③阿弥陀堂の西側に「塔跡」と記されていること。これが寛文の初めごろまであったと本文中に書かれている多宝塔跡のことか?
④現在は本堂の東側にある阿弥陀堂が、西側にあったこと
⑤この絵図では鎮守・弁才天は、境内には描かれていないこと。

D『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)        
八十八番医王山遍照院大窪寺 切幡寺へ五里霊山寺へ
当山は行基菩薩の開山とされ、その後に弘法大師が復興してと言われる。
詠歌、南無薬師しょびやうなかれと願ひつゝまいれる人ハあふくぼのてら
本堂の本尊は薬師如来座像で二尺、大師のお手製である。護摩堂は本堂に並んであり、大師堂は本堂の前にある。奥院は本堂から十八丁ほど上の山上にあり、今は人が通れないほど荒れている。
谷川が数多くある。五名村に一宿。
十六日 雨天の中を出立。長野村の分岐を右に行くと切幡寺、左が讃岐の白鳥道になる、山坂、仁井の山村の分岐は左が本道であるが、大雨の時は右を選んで、川沿いに行くこと、谷川、新川村の分岐から白鳥へ十六丁。馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、塩屋川、と歩いて引田町で一宿。
閏四月十七日 日和がよい中を出発。引田町の浜辺を通って行くと、一里沖にふたつ並ぶ通念島が見える。小川を渡り、馬宿村の浜辺を通過する。坂本村から大坂峠への坂に懸る、途中の不動尊坂中に滝がある。讃岐・阿波の国境に峠がある。阿波板野郡、大師堂にも峠がある。峠より徳島城・麻植郡など南方一円の展望が開ける。大坂村に番所がある。切手(通行手形)が改められる。大寺村に荷物を置いて霊山寺え行って、再びここまで帰って来る。

ここからは次のようなことが分かります。
①本堂に並んで、今まで阿弥陀堂があったところが護摩堂になっていること。これは一時的なことで、幕末には現在と同じ阿弥陀堂にもどっています。
②本堂の前に大師堂があること。
②奥院は、ほとんど人が通らず荒れていること。
江戸時代の後半になると、修験者の活動も衰えて奥の院は、訪れる行者もいなくなっていたのがうかがえます。
大窪寺 四国遍礼名所図会
大窪寺 四国遍礼名所図会(1800年)

「四国遍礼名所図会」には、遍路道から階段を上った二天門を抜け、さらに階段を上がったところの奥側に本堂とその東側に並ぶ護摩堂、前面に位置する大師堂が描かれています。また、本堂の西側には、一段上がった石垣の上にあるのが鐘楼のようです。大師堂と護摩堂は屋根の形から見て茅葺か藁葺に見えます。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後に讃岐国名勝図会(1854年)の大窪寺を見ておきましょう


大窪寺  讃岐国名勝図解

護摩堂が再び阿弥陀堂に還っています。それ以外には四国遍礼名所図会と変化はないようです。

大窪寺 伽藍変遷表
大窪寺伽藍変遷表

大窪寺の伽藍配置の変遷についてまとめておきます。
①本堂は、移動はしていない
②しかし「四国偏礼霊場記」に描かれた17世紀中葉ごろの伽藍と「四国遍礼名所図会」に描かれた18世紀末ごろの伽藍配置は、相当異なっていて、境内で堂字の移動があったことががうかがる。
③大師堂は、本堂の東側にあったものが西側へ移動している
④阿弥陀堂も本堂の西側にあったものが、護摩堂と名前を変えて本堂東側に移動している
⑤ただし、建物自体が移動しているものか、名称・機能のみが移動したのかは分からない。
 以上のように江戸時代前期と後期にの間に、伽藍配置に変動があるようですが、寺域については大きく変化はないようです。現在の大師堂が寺域の西側に新設されたこと以外は、近世後期の境内のレイアウトが現在まで受け継がれていると研究者は考えています。
大窪寺 伽藍配置図
現在の大窪寺伽藍配置
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大窪寺調査報告書2021年 大窪寺の歴史  香川県教育委員会
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鳥坂峠の上池(右)と大池(左) 背後は我拝師山
鳥坂峠は古来から丸亀平野と三野平野を結ぶ重要な峠です。鳥坂峠の手前で、伊予街道と分かれて弥谷寺に伸びる遍路道が分岐して、歓喜池(上池)の堤防を北に伸びていきます。

善通寺市デジタルミュージアム讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 善通寺市ホームページ

上池の堤防を渡りきった所に、かつての遍路宿があり、その庭に大きな地蔵さんが立っています。

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上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)
初めてこの地蔵に出会った時には、びっくりしました。大きいのです。讃岐の中では一番大きな地蔵さまのように思います。なんで、こんなところにこんな大きな地蔵さんが立っているの?という最初の出会いで思った疑問でした。
なかなかこの答え見つけられずにいたのですが、弥谷寺調査報告書2015年を読んでいると、この謎がやっと解けてきました。そこには、弥谷寺の経営戦略があったようです。今回は、どうして碑殿町の歓喜池(上池)のほとりに大きな地蔵が建てられたのかを見ていくことにします。
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 上池の大地蔵(初地地蔵菩薩)

碑殿の上池に大地蔵は、いつ、だれによって建てられたのでしょうか?
寛政2年(1790)2月に、碑殿村の片山半左衛門は、次のような寄進状を残しています。
「上池之北山下畑の分畝有、残らず右地蔵尊御敷地、永代差し上ケ申し候」(「片山半左衛門寄進状」、文書1-15-55)、

意訳変換しておくと
「上池の北山下の畑地は、残らず地蔵尊御敷地として、永代寄進いたします。」

ここからは大地蔵の敷地を1790年に、片山半左衛門が寄進したことが分かります。このころから地蔵尊建立のための準備が進められていたようです。3年後の寛政5年に弥谷寺へ、常住寺から「上池尻石樋の西東」にある田1畝27歩(高3斗1升3合)が「永代譲り渡す田地」として、次のような文書が提出されています。

「此の度地蔵田二成され度思し召し二て、御所望の由仰せ聞かされ、至極御尤もの御儀二付き、早速御譲り申す」

ここからは弥谷寺の要望によって「地蔵田」が寄附されていることが分かります。この地蔵田に課せられる藩からの「諸役掛り物」は、弥谷寺が納めることになっています。以上から寛政5(1793)年には石地蔵菩薩は、現在地に姿を見せていたと研究者は考えています。

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大地蔵の台座側面

地蔵菩薩立像は花崗岩製で、高さが約3m、台座・台石と合わせると約4,9mになります。台石には次のように記されています。
(正面) 歓喜墜
(左面) 五名の戒名 泊浦宮本清二郎
(右面) 六名の戒名 与島岡崎
ここからは塩飽本島の泊浦の宮本氏と坂出市与島の岡崎氏が、この大地蔵を奉納したことが分かります。彼らは塩飽の有力人名衆になるようです。
 この地蔵菩薩立像は、『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))に、次のように記されています。
「穴薬師堂門を出て左手にあり、是より左へ山路を行。石地蔵尊 長二丈斗の石仏麓にあり」

弥谷寺 初地菩薩
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)
「讃岐剣御山弥谷寺全図」(天保15年(1844)には、地蔵菩薩立像が描かれていて、右横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」と記されています。
この「初地」とは、菩薩の修行段階である十地(じゅうじ)の第一位のことで、十地とは「歓喜地・離啓地・発光地・焔慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地。法雲地」で、「初地」とは、「歓喜地(かんぎじ)」のことになるようです。
また「弥谷寺全図」に描かれた「初地菩薩」の横に3間×4間の入り母屋造りの建物が見えます。よく見ると、正面には2間の扉が描かれているように見えます。お堂や庵のようにも見えますが、これが弥谷寺が建てた接待所だったようです。

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なお現在、地蔵菩薩立像(大地蔵)の横にある建物は、地元での聞き取りからは、旧雨峯小学校であったことが分かっているようです。私は遍路宿とばかり思っていましたが先入観でした。

この地蔵菩薩立像の前には、灯籠が1基建てられています。
灯籠竿部に刻銘文があり、寛政12年(1800)に亡くなった真蓮栄範信士の供養灯籠で、享和元年(1801)に造立されています。刻銘文には、「弥谷寺現住無縛代」とあり、無縛は弥谷寺中興第八世(1807寂)です。ここからは18世紀後半には、弥谷寺の影響範囲がここまで及んでいたことがうかがえます。

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この大地蔵は、単独で作られたものではなく、新たな接待所のシンボルモニュメントとして建立されたようです。
寛政4(1792)年3月に、碑殿村の上池尻に接待所を設置することが弥谷寺から多度津藩に願いでられています。
「往来の四国辺路え茶施し申し願い出」(「続故事謂」、「諸願書控。文書2-104-4)

とあるので、弥谷寺が参拝者へのサービス提供のために、遍路道の整備や接待所などの設置などに務めていたことがうかがえます。その接待所の前に設置されたのが大地蔵になるようです。接待所の敷地に課せられる年貢は、弥谷寺から納めることになっています。接待所と大地蔵の建立は弥谷寺の手で進められたことが分かります。
 接待所と大地蔵が建てられてから60年近く経った安政4年(1857)になると、その管理と世話が問題となります。そこで弥谷寺住職の維那は、碑殿村役所と茶堂庵講中へ次のような依頼をしています。「地蔵守之書付入」、文書1-17-40)。
上池の「大仏地蔵尊」は先の住職菩提林が造立し、碑殿村の勘蔵に田地を譲って「香華」の世話させていた。ところが田地を売り払って年を経るに随って世話が疎かになっている。そこで、このたび弥谷寺が管理することにする。就いては、その世話を「同所茶堂庵講中」に世話を頼みたいたい」

ここからは、安政4(1851)年頃には、接待所は茶堂庵と呼ばれて、それを維持するために「茶堂庵講中」が組織されていたことが分かります。
この背景には18世紀末ころから金毘羅大権現の伽藍整備が進み、東国からの金毘羅詣で急増することがあります。金毘羅船で丸亀港にやってきた参拝客は金比羅を往復するだけでなく、善通寺や弥谷寺・海岸寺など「七ケ寺めぐり」をするのが一般的になります。これには巧みな参拝者誘引のための手法があったことは、以前にお話ししました。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
丸亀港にやってきた参拝客に配布された案内図

 18世紀末から金比羅船で丸亀や多度津港にやってくる金比羅詣客は急増していきます。その参拝客を金比羅だけでなく自分の所へも導いてこようと周辺の寺社は、あの手この手の広報戦略を駆使します。例えば、丸亀港に降り立った参拝客に配布された案内図は「金比羅参拝図」とは記されていません。「丸亀・金比羅・善通寺・弥谷寺参拝」と表題が書かれ、この4つの社寺をめぐるルートが描かれています。
丸亀街道 E27 ことひら5pg

 この案内地図を手にして金比羅詣でにやって来た弥次喜多コンビも弥谷寺に参拝しています。そして、天霧山を下って海岸寺・道隆寺を経て丸亀港から帰路に就いています。 また、東北からやって来た人の中には「伊勢神宮 + 高野山 + 金比羅 + 宮島厳島神社 + 西国三十三ヶ寺巡礼」という参拝の旅を行っている人も多かったようです。今のように目的地だけを目指すというものではなく、「金比羅詣でも四国巡礼も宮島もこの際ついでに、まとめて参拝」という感じなのです。そのような庶民の参拝気質を見込んで、「呼び物」と「参拝道」を整備すれば、人はやってくるというのが当時の寺社の広告戦略です。それを弥谷寺の住職たちは見抜いていたといえるかもしれません。

善通寺・弥谷寺
五重塔があるのが善通寺 そこから弥谷寺への遍路道が見える

 金比羅までやってきた参拝客をいかにして、自分の所まで誘引するのか。それがあらたな名所作りであり、シンボルモニュメントを登場させることであったようです。その一環として弥谷寺の住職が取り組んだのが、伊予街道から分岐する遍路道の整備であり、その分岐点近くに弥谷寺直営の接待所を設置し、そこに大きな地蔵をモニュメントとして建立するというプランだったようです。このプランはこれだけでは留まりません。さらに大きな仕掛けを考えていたようです。

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弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ曼荼羅寺道

天保11(1840)年の「続故事諄」には、次のように記されています。
「東、碑殿坂を以て十地の位に当たる、今此の盤石上の石仏を安置する所なり、則ち初地歓喜の像なり」
意訳変換しておくと
「東の碑殿坂が十地の位に当たる。今、この盤石上には石仏が安置されている、それが初地歓喜の地蔵菩薩である」

ここには碑殿の上池は弥谷寺まで「十地の位」に当たる場所なので、ここにスタート地点として「石像地蔵菩薩(初地歓喜像)」が造立されていると記されています。

また「剣五山弥谷寺記」には、次のように記されています。
「前住菩堤林及び法嗣霊苗、嘗つて行基の意を原ね、碑殿歓喜池の上の石像地蔵より、法雲橋頭に至るまど、離垢発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す、(中略)、
僅かに第十地に金剛拳菩薩を建て、以て其の梗概を示すのみ、二天門内丈六の鋳像、即ち此れなり」
意訳変換しておくと
「弥谷寺の前住職・菩堤林とその法嗣霊苗は、かつての行基の意を汲んで、碑殿歓喜池(上池)の石像地蔵より、弥谷寺境内の法雲橋頭に至るまで、離垢発光等の諸位の仏像を遍路道の路傍に安置して、十地の道しるべにしようと考えた。(中略)、しかし、第十地に金剛拳菩薩を建てただけに終わった。二天門内の丈六の鋳像がそれである。」
ここからは弥谷寺の住職によって、碑殿の石像菩薩から弥谷寺境内の法雲橋までの間の遍路道に、十の仏像を安置するプランがあったことが分かります。しかし「剣五山弥谷寺記」の書かれた弘化3年(1846)には、弥谷寺の境内の第十地に金剛拳菩薩(丈六の鋳像)が残されているだけだと記します。丈六の鋳像が、現在の金剛拳菩薩のようです。

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潅頂川にかかる法雲橋(弥谷寺)

つまり上池の大地蔵は、弥谷寺境内にある金剛挙菩薩とセットで建立されたものだというのです。
それをまとめてみると
①上池の巨大地蔵(石地蔵菩薩)から弥谷寺までの遍路道に、十の仏像を安置する計画があった
②そのスタート(初地)が歓喜池(上池)で、第十地(ゴール)が弥谷寺境内の金剛拳菩薩である。

これは鳥坂峠で伊予街道と分かれた遍路道の整備計画でもありました。今に残る金剛挙菩薩と石地蔵菩薩とは、その計画のスタート地点とゴール地点に立っていることになります。しかし、なぜこんなの大きな仏像を建立したのでしょうか?                      
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金剛挙菩薩
次に弥谷寺境内の金剛挙菩薩を見てみることにしましょう。
この菩薩は「大日如来」として建立されたものが、いつの間にか金剛挙菩薩とされてしまったようです。その理由はよく分かりません。とにかく建立に向けた動きを追ってみます。

「銘曰く、寛政三辛亥起首願主先師菩堤林文化八辛来年成就幻住法印零苗代、鋳物師紀州住人蜂屋薩摩塚源政勝、右年号並びに時代、仏像の脇これそ記すなり」

とあって、住職菩堤林が寛政3年(1791)に建立のための募金活動に取りかかり、20年ほど後の、文化8年(1811)に完成したことが分かります。

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金剛拳菩薩(最初は大日如来として建立された)

弥谷寺には、寛政元年(1789)の 「灌頂仏募縁疏」の版木が残っています。
これは住持の菩提林によって書かれた大日如来造立のための募金趣意書に当たります。そこには次のように記されています。

弥谷寺の灌頂川の法雲橋の西の大岩の上には、かつては一丈六尺の金銅の大日如来があった。それを「第十地ノ菩薩」として再建を行いたい

 この再建のために、菩堤林と講中が勧進を行おうとした趣意書の版木です。この版木には寛政元年正月と記されているので、大日如来の造立の動きは寛政元年に始まっていたことが分かります。

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              金剛拳菩薩
また「五山弥谷寺記』には、次のように記されています


「碑殿歓喜地の上より法雲橋の頭に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を路傍に安んじ、十地の階級に擬えんと欲す。」
意訳変換しておくと
「碑殿の歓喜池が初地にあたり、弥谷寺の法雲橋に至るまで、離垢・発光等の諸位の仏像を遍路道沿いに安置し、十地の階級を示したい。」

「讚岐剣御山弥谷寺全図」には「東入口初地菩薩石像一丈六尺」とあります。
弥谷寺 初地菩薩
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた初地菩薩

初地は別名「歓喜地」で、そこから第十地「法雲地」に至るまでに、十地各地に仏像を安置する計画があったことになります。しかし、今あるのは先ほど見た「初地」として碑殿の上池に「初地菩薩」、第十地「法雲地」とされる「法雲橋」の金剛拳菩薩だけです。

弥谷寺 金剛拳菩薩jpg
「讚岐剣御山弥谷寺全図」(1844年)に描かれた丈六金仏(金剛拳菩薩)
 「金剛拳菩薩」は寛政3年(1791)に募金活動が始まり、完成したのは、文化8年(1811)ですから22年かかっています。
ふたつの間には仏像が造立された気配はないので、十仏像を設置するという計画は頓挫したようです。また、「法雲橋_|と「金剛拳菩薩」の間にあった「二天門」は、昭和6年(1931)の「諸堂建立年鑑」によれば文政12年(1829)に再建されています。この計画の一環として建立された可能性を研究者は指摘します。
弥谷寺 参道変遷
金剛拳菩薩の出現で変更された参道 

 「金剛拳菩薩」は、もともとは大日菩薩として建立されたことが資料で確認できます。
完成前年の8年の「灌頂仏再建三百人講」や、文政2年(1819)の「四国巡拝日記」では、大日如来と記しています。ところがそれから約30年後の弘化3年(1840)の記録には「金剛拳菩薩」と記されています。つまり大日如来として作られたが、その後に金剛拳菩薩へと変更されたことになります。その理由については、私にはよく分かりません。
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弥谷寺に残された史料の中に、「灌頂仏再建三百人講」があります。これは文化7年8月に弥谷寺の維綱がまとめたもので、大日如来(金剛拳菩薩)建立の経緯が次のように記されています。
「丈六の金仏を再建せんと思へとも、衣鉢乏しく少なくして自力に及びかたし、故に善男善女を勧進して、三百人講をいとなみ、此の浄財を以て大日尊を再建し奉らんと希ふ」(中略)
「此の尊に帰依して浄財を郷ち、早く再建の願いを遂げ、万代不朽の巨益を成就せしめん輩ハ、現世にハ子孫繁昌し福徳豊穣にして、快楽自在ならん、当来にハ摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率任意往生せん、猶又施主家の姓名先祖の法名等大日尊の蓮座に彫り付け、永代毎歳の灌頂に廻向するなり」
意訳変換しておくと
「丈六の金仏(大日如来)を再建したいと願っても、資金に乏しく自力ではできない。そこで善男善女を勧進して三百人講を組織し、その寄付で大日尊を再建しようと計画した」(中略)
「この大日尊に帰依して浄財を寄進し、再建の願いが実現したあかつきには、万代不朽の巨益を手にした者達は、子孫繁昌し福徳豊穣で、快楽自在となろう。そして来世では摂取不捨の光明に照らされて、極楽都率で必ず往生する。さらに施主家の姓名先祖の法名などを大日尊の蓮座に彫り付け、永代に渡って毎年、灌頂廻向を行うことを約束する」
ここからは、三百人の寄附によって「丈六の金仏」を再建すること、寄附者の現世の御利益を説くとともに、その名を大日如来の「蓮座」に記すとしています。この大日如来の再建には銀25貫600目が必要であったようです。この序文に続けて大見村から始まって、多度津藩・丸亀藩の村々からの寄進者の名が記されています。施主一人前で金1両です。一番多いのは大見村庄屋の大井助左衛門の7人前で、次いで4人前の大見村の三谷恒右衛門。同三谷甚之丞。同三谷源六。同辻市郎右衛門となっています。その他はほとんどが一人前であり、二人で一人前の場合もあります。これらを郡ごと、村ごとに施主人前に整理したのが下表です。

弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。「三百人講」だったので、目標金額は300両です。それには達しなかったようですが、目標の9割を越える金額を集めています。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。
 完成した大日如来の像や蓮弁等には、先ほど見たように寄進者の名前等が刻まれています。
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以上をまとめておきます。
①18世紀末に、弥谷寺と曼荼羅寺を結ぶ遍路道の整備が行われ、伊予街道との分岐点近くに接待所と大地蔵が姿を現した。
②ここには仏像造立という宗教意味だけでなく、弥谷寺の経営戦略があった。
③それは金比羅参りの参詣者を、善通寺を経て弥谷寺へ誘導するという広報戦略の一環だった。
④その広報戦略の目玉として考えられたのが、上池をスタートとしてゴールの弥谷寺までに十の仏像を安置するプランであった。
⑤そのスタートに初地地蔵、ゴールに金剛拳菩薩が建立された。
⑦金銅制の金剛拳菩薩は、三野郡を中心とする富裕層の寄付金によって建立された。
⑧しかし、残りの仏像は資金難で建立されることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 弥谷寺調査報告書2015年 香川県教育委員会
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献


 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
熊野信仰の諸相 中世から近世における熊野本願所と修験道 | 小内 潤治 |本 | 通販 | Amazon

熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
 豊楽寺薬師堂 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 

 日の平山…立岩山…市間山…立岩ダム 2015/12/20
六十六部の札所寺院への勧進活動を以前に追いかけました。今回はエリアを、66番大興寺周辺に特定して、見ていくことにします。テキストは 武田和昭 「四国辺路」納経帳の起源 四国辺路の形成過程所収」です。
四国八十八カ所巡り 第67番札所大興寺 第66番札所雲辺寺 そしてやっぱり讃岐うどん | あるがまま

まずは66番大興寺の仁王門から始めましょう。
この仁王門は、以前にお話ししたように関東からやってきた唯円という廻国行者によって建立されたようです。善通寺の「善通寺大搭再興雑記」には、唯円のことが次のように記されています。(意訳のみ))
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12(1727)年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
 ここからは唯円が、小松尾寺の仁王門建立の勧進業績を買われて、善通寺五重塔の勧進活動に携わるようになったことが分かります。唯円は廻国行者で、六十六部であった可能性が高いと研究者は考えているようです。
 唯円の再築から60年後に、この仁王門は改修されています。
その改修について仁王門脇の自然石には、次のように刻まれています。
   播州池田回国
    金子志 小兵衛
寛政元(1789)年    十方施主
奉再興仁王尊像 並門修覆為廻国中供養
 己山―月     本願主 長崎廻国大助
ここからは、長崎の廻国行者大助が、仁王像と仁王門を勧進修理したことが分かります。大助も、助力した播磨池田の小兵衛もともに廻国行者で、六十六部だったようです。
2 大興寺 仁王像

仁王像は鎌倉時代初期に造られた物で像高2mを超す大きな像で、現在は香川県指定文化財です。仁王門の台石にも、数多くの人名が刻まれています。これらの人々の力によって改修のための費用は賄われたのでしょう。修理規模がどの程度腕、勧進金額がどのくらいだったかなどは分かりません。しかし、勧進を仕切ったのは、他国からやって来た廻国行者であったことを、この仁王たちは見ていたのでしょう。 大興寺には廻国行者(六十六部)たちが、仏像や建物について勧進活動をして、その経営を支えていた歴史があるようです。
2 大興寺全景近代

大興寺の境内南側には、次のような六十六部に関する石塔が2基建立されているようです。
廻国供養塔
     宝暦七丁丑四月日
奉一字一石大乗妙典日本廻国供養
     中□□口巴
        □□古兵衛武啓
(六十六部廻国塔)
     安永十辛丑
奉納大乗妙典六十六部日本廻国
     三月良辰日
  修行者行本 俗名河内村□□朋有兵衛門

宝暦七年(1757)と安永十年(1781)の廻国供養搭です。前者の古兵衛武啓は大興寺に近い地元の人物で、後者も地元の河内村の人物です。この他にも本堂横には、石造地蔵書薩台座に亨保六年、長州萩の六十六部廻者行者の名前が見あります。これらの供養塔からは廻国行者と合わせ、大興寺を中心にして、六十六部廻国行者の活動が活発だったことがうかがえます。
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六十七番大興寺の周辺には、六十六の活動が遍路沿いにもみることができるようです。
大興寺から辺路道を66番雲辺寺に向かっていくと、柞田川の支流をせき止めた岩鍋池の大きな堰堤と、その向こうに式内社の粟井神社が見えてきます。岩鍋池堰堤手前の道路沿いに、小さな庵が建っています。これが土仏観音という庵です。
1土仏観音

この庵には「土仏緑起」(享保15年)という縁起が残されています。そこには、次のように記されています。
 合田利兵衛正照という栗井村の住人が父母孝養、二世安楽を願い、享保六年(1721)正月に日本廻国の旅に出た。五躯の仏像を入れた笈を背負い、錫杖を持ち、諸国を押鉦を鳴らしながら、「国々島々残らず回り」、納経霊地730余ケ所、 二千日を掛けて廻り帰村した。廻国の途中、上野国で観音菩薩の頭部を掘り出し、その後江戸で勧進して資金を得て体部を造り、当地に持ち帰り、庵を建立したという。

ここからは、次のようなことが分かります。
①享保年間(18世紀前半)の合田利兵衛が5年間の六十六部廻国修行を行った。
②途中、上野国で掘り出した観音像の頭部修理するために、江戸中を念仏の鉦を叩き二銭ずつの勧進を2年間行った。
③35両を集め、江戸の大仏師性雲に修理してもらい観音寺まで背負って持ち帰った
④その観音像を安置し、四国遍路のために土仏庵を建立した
 ここに祀られている観音様は上野国生まれで、江戸修理され、ここに持ち帰られたものが安置されていることになります。同時に、この庵は、四国遍路の接待のための場として造られたことが分かります。
2土仏観音


ちなみに 合田利兵衛正照が廻国行に旅立った享保六年(1721)正月です。先ほど見た唯円が67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を始める前後と重なり合います。小説的に想像力を膨らませると、唯円が大興寺に小庵を構え勧進活動を起こしていく様を、合田利兵衛正照は見ていたのかも知れません。もっと云えば、唯円のもとに通い教えを受けていた可能性もあります。それが彼を、六十六部として全国廻国に向かわせたというストーリーは考えられます。栗井村の住人が六十六部廻国行者となり、廻国修行を行っていたことを押さえておきます。
土仏観音院

この土仏庵の周辺には、いくつかの石碑や地蔵が建ち並んでいます。その中に享保六(1721)年に「濃州土器群妻木村求清房」という廻国行者が建てた地蔵菩薩があります。さらに彼が関わった享保五年~六年に建立された丁石も残されているようです。
ここからも亨保の初め頃、栗井の地に他国からやってきた廻国行者が住み着き、その人物と土地の合田利兵衛正照との間に何らかの関係が生まれ育ち、正照が廻国行者となったと考えることもできそうです。
1白藤大師堂

さらに遍路道を粟井に向かって進んでいくと、集落の入口に白藤大師堂があります。
ここにも3基の六十六部廻国供養塔が建っています。
  六十六部廻国塔
明和四(1767)丁亥天十一月吉良日
天下泰平
(種子)奉納大乗妙典六十六部日本廻国塔
国土安全
出羽国最上村山郡
   常接待建立十方施主 寒河江村願主覚心
  (地蔵菩薩台座名)
奉納大乗妙典六十六部日本廻国十方施主
万人講供養羽州村山郡寒河江村願主覚心法師
明和九(1772)辰天七月二十四日
  (六十六部廻国供養塔)
天下泰平 安政六己未 摂州武庫郡鳴尾村 清順
奉納大乗妙典日本廻国供養塔
日月清明 三月古日 世話人 奥谷講中
ここには「円誉覚心禅定門霊  安永五(1776)内申五月二十六日 行年六十一歳」の墓碑もあります。ここに出てくる覚心とは何者なのでしょうか?
白藤大師堂 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com

『粟井村誌』(昭和25年刊)には、覚心のことが次のように記されています。
覚心は出羽国村山郡寒河江村の生まれで、四国八十八ケ所を数十回も辺路した廻国行者である。覚心は雲辺寺から麓の粟井まで随分と距離があり、さらに人家もなく辺路の人々が苦労していることから、粟井村の庄屋に願い出て村から寄進された土地に宝磨五(1755)年に庵を、同7年に大師堂を建立した。その後は、そこで辺路の人々に接待が行われるようになった
ここからは現在の山形県寒河江村市からやってきた六十六部廻国行者の覚心が四国遍路を何十回も行う中で、何らかの縁を得て、粟井村に留まるようになったことがうかがえます。そして、彼は地元の有力者に働きかけ庵や大師堂を建立し、遍路のために提供したようです。後には、ここが接待の拠点となっていったのでしょう。私は、雨露をしのぐ庵などは、地元の人たちの発案で行われたものと、思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。ここにも外部からやって来た「有能」の人たちの発案と働きかけがあって実現したものであったことが分かります。

覚心という廻国行者は、戒名「誉」の係字がありますから、浄土系念仏行者のようです。覚心のような人物によって、周囲の村々に念仏講などが広がっていくのかもしれません。なお覚心は粟井村に来る前に、屋島壇ノ浦の大楽寺にも廻国塔(宝暦13年)を建立しているようです。

 さらにこの地域に、その他にも六十六部廻国行者の存在のがうかがえる者が残されています。白藤大師堂から少し下った所に立つ地蔵菩薩台石には、次のように掘り込まれています。
  享保九年  (梵字)遍路 六部 札供養 十一月二十一日

ここからは享保9(1724)年に遍路と六十六部廻国行者の札供養が行なわれたことが分かります。札供養とは、どんなことか私には分かりません。研究者は辺路や六十六部が納めた札を、この石塔の下に納めて供養を行ったと考えているようです。ここからも、四国遍路とともに数多くの六十六部廻国行者が、粟井の地を通過していたことがうかがえます。
十返舎一九_00006 六十六部

十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

紹介してきた太興寺周辺の六十六部の活動を、時系列に年表化してみましょう
宝永7年(1710) 粟井に六十六部の廻国供養塔建立
享保6年(1721) 地元粟井村の合田利兵衛正照が全国廻国行に旅立つ。同年に「濃州土器郡妻木村の求清房」という廻国行者が地蔵菩薩や丁石を建立。
享保9年(1724) 粟井に遍路と六十六部廻国行者の札供養行われる
享保12年(1727)唯円により善通寺の五重塔の勧進活動をはじまる。唯円はそれ以前に、大興寺仁王門を勧進で建立した実績あり
宝磨5年(1755) 覚心により粟井に庵が建立   同7年に大師堂を建立
宝暦七年(1757) 地元の古兵衛武啓が大興寺境内に廻国供養塔建立
明和4年(1767) 覚心の六十六部日本廻国塔が粟井に建立
安永5年(1776) 覚心の墓碑が建てられる(行年61歳)
安永十年(1781) 河内村の有兵衛門の廻国供養搭が太興寺境内に建立
寛成元年(1789) 長崎の廻国行者大助が、大興寺の仁王像と仁王門を修理勧進

こうしてみると、雲辺寺の麓の粟井の辺路道筋には、六十六部廻国行者の痕跡が色濃く残っていることが分かってきます。土仏庵から白藤大師堂の間には、宝永7年(1710)の六十六部の廻国供養塔が残されているので、かなり早い時期から粟井の谷には六十六部廻国行者が、入り込んできていたことがうかがえます。
 大興寺という札所で仁王門の勧進活動を行い、札所寺院に利益を与え、実績や評判を高め、さらに辺路道沿いにある庵など進出していく六十六部廻国行者の姿が見えてきます。弘法大師伝説をひろめ功徳のためにお接待の心を説いたのも彼らかも知れません。六十六部廻国行者は四国辺路の中に、重要な役割を持って組み込まれていたようです。
焼津市/横山九郎右衛門の六十六部廻国関係資料
六十六部の笈(焼津市六十六部関係資料)

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

近在の町誌などには江戸時代の四国遍路の往来手形がよく載せられています。それを見ると、村の庄屋か寺院が発給したもので、その内容は、巡礼者氏名、目的、所属宗旨(禁教対応のため)、非常時の事、発行者、宛先が順番に記され定型化したものになっています。これに見慣れていたために、四国遍路の往来手形は当初から地元の庄屋や寺院が発行してきたものと思っていましたが、どうもそうではないようです。今回は、往来手形の変遷を追いかけてみようとおもいます。
テキストは 「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」です
 私が最初に四国遍路の往来手形の発行について、疑問に思ったのは、澄禅『四国辺路日記』にでてくる徳島城下の持明院の次の記述です。
持明院 願成寺トテ真言ノ本寺也。予ハ高野山宝亀院ノ状ヲ持テ持明院二着ク、依是持明院ヨリ四国辺路ノ廻リ手形ヲ請取テ、廿五日ニ発足ス。
意訳変換しておくと
持明院は願成寺も云い真言宗の大寺である。私は事前に高野山の宝亀院に行って紹介状をもらって、それをもって持明院に行った。持明院で四国辺路の廻手形を受け取って、7月25日に出発した。

ここからは澄禅が四国辺路のために、まず高野山に行き、宝亀院の許可書もらって、それを持明院に提出して廻り手形をもらていることが分かります。ここで疑問に思ったのが、四国遍路のためには、持明院の発行手形(往来手形)が必要なのかということです。そんな疑問は、ほったらかしにしてていたのですが、持明院の発行した「廻り手形」(往来手形)の実物がでてきたようです。この手形には、明暦四年(1658)と記され「大滝山持明院」という寺名も書かれています。現在のところ、四国辺路の往来手形として最古のもののようです。大きさは縦17㎝×横35、5㎝)だといいます。
    1 持明院 四国遍路往来手形
明暦4年の四国辺路往来手形 徳島持明院発行

坊主壱人俗二人已上合三人
四国辺路二罷越し関々御番所
無相連御通し可被成候一宿猶以
可被加御慈悲候乃為後日如件
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
四国中関々御番所
御本行中
意訳しておくと
坊主一人と俗二人、合計三人
四国辺路に巡礼したいので関所・番所を通していただくこと、これまで通りの一宿の便宜と慈悲をいただけるようお願いしたします。
阿州大滝山持明院
明暦四成年二月十七日  快義(花押)
この書状が澄神『四国辺路日記』に出てくる「四国辺路の廻り手形」のようです。当時は「往来手形」ではなく「廻り手形」と呼ばれたようです。一番最初の行には、次のように記されています。
坊主一人と俗人二の合計三人が四国辺路するので関所・呑所を問題なく通し、また宿も慈悲をもってお願いしたい」

坊主とは、おそらく先達的役割の僧、2人はそれに従う俗人でしょう。かつての熊野詣の参拝と同じように先達に連れられての四国遍路のようです。宛所は「四国中関々御番所」とあるのが四国各藩の関所・番所です。これに著名しているのが阿波の大滝山持明院の快義になります。
 この書状の筆跡を詳しく検証した研究者は、中央下部のAゾーンのみ別筆だと指摘します。Bゾーンは、それぞれの国の代表寺に署名だけをすればいいように、前もって寺院名と法印が書かれていたようです。ここからは澄禅『四国辺路日記』に記されたとおり、持明院で廻り手形が発行されていたことが確認できます。
 そして、他の3国の発行寺院は次の通りです。
土佐の五台山竹林寺
伊予の石手寺
讃岐の綾松山(坂出)白峯寺
この3寺が代表して、保証していたようです。
 江戸時代初期の四国遍路廻りの手形発行は、地元の庄屋やお寺では発行できず、各国の代表寺院が発行していたようです。手形の発行・運営システムの謎がひとつ解けたようです。
 ここで私が疑問に思うのはには、土佐の竹林寺や伊予の石手寺は、それぞれの国を代表するような霊場寺院ですが、讃岐がどうして白峰寺なのでしょうか。普通に考えると、讃岐の場合は善通寺になるとおもうのですが白峰寺が選ばれています。同時の社格なのでしょうか、それとも善通寺が当時はまだ戦乱の荒廃状態から立ち直っていなかったからでしょうか。当時の善通寺のお膝もとでは「空海=多度津白方生誕説」が流布されていましたが、これに反撃もしていません。善通寺の寺勢が弱まっていたのかもしれません。
 もうひとつの疑問は、廻り手形の発行が持明院という札所寺院ではないことです。どうして霊山寺のような札所寺院が選ばれなかったのでしょうか。さらに、どうして阿波の寺院が四国の総代表寺院になるのでしょうか? これらの疑問を抱えながら先に進んで行くことにします。
この書状を作成した持明院について『阿波名所図会』で見てみましょう。
1 持明院 阿波名所図会
持明院
 持明院は徳島城下の眉山山麓の寺町にあった真言宗の大寺だったようです。大滝山建治寺と号し、創建は不詳、三好氏城下勝瑞に建立され、蜂須賀氏入部に伴い、眉山中腹に移転されます。江戸期にはおおむね100石の寺領を有しています。阿波名所図會では山腹には滝、観音堂、祇園社、行者堂、三十三所観音堂、八祖堂、坊舎、十宜亭、大塔などがあり、山下には仁王門、本堂(本尊薬師如来)、方丈、庫裏、天神社、絵馬堂、八幡宮などがあったようです。徳島の寺町を代表する大寺であったことがうかがえます。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
持明寺
次いで『阿波誌』をみてみましょう。
持明院 亦寺街隷山城大覚寺、旧在勝瑞村、釈宥秀置、三好氏捨十八貫文地七段、管寺十五、蔵金錫及馨、天正中命移薬師像二、一自勝瑞移安方丈、 一自名西郡建治寺彩作堂安之、山名大滝(中略)封禄百石又賜四石五斗、慶長三年命改造以宿行人、十三年膀禁楽採樵及取土石、至今用旧瓦故瓦頭有建治三字。

  意訳変換しておくと
持明院は隷山城大覚寺ともいい、旧在勝瑞村にあった。かつては、三好氏が捨十八貫と土地七段を寄進し、十五の末寺を持ち栄えた。天正年間に勝瑞にあった持明院と、名西郡の建治寺を現在地に移して新たな堂舎を建立し、山名を大滝山持明院建治寺とした。(中略)
封禄は百石と四石五斗を賜った。慶長三年に藩の命によって寺の改造が行われ行人宿となった。慶長十三年には周辺の神域や山林から木を切ることや土石を採取することが禁止された。今でも旧瓦には瓦頭に有建治の三字が使われている
ここからは、天正年間に勝瑞にあった持明院と名西郡の建治寺を現在地に移して、大滝山持明院建治寺としたこと。慶長三年(1598)には、命によって寺の改造が行われ、行人の宿にしたことなどが分かります。この中で、慶長三年に寺を改造して行人の宿としたことは、重要だと研究者は指摘します。ここに出てくる「行人」とは、四国辺路に関わる行人と研究者は考えているようです。
 これに関連して阿波藩の蜂須賀家政は、同じ年の6月12日に駅路寺の制を、次のように定めています。
 当寺之儀、往還旅人為一宿、令建立候之条、専慈悲可為肝要、或辺路之輩、或不寄出家侍百姓、行暮一宿於相望者、可有似相之馳走事(以下略)
  意訳変換しておくと
駅路寺については、往還の旅行者が一宿できるように建立したものなので慈悲の心で運用することが肝要である。辺路、僧侶、侍、百姓などが行き暮れて、一宿を望む者がいれば慈悲をもって一宿の世話をすること

 こうして阿波藩内に長谷寺・長楽寺、瑞連寺・安楽寺など八ケ寺を駅路寺として定めています。そして持明院が、その管理センターに指定されたようです。つまり、持明院は徳島城下町にやって来る県外からの旅行者の相談窓口であり、臨時宿泊所であり、四国遍路のパスポート発行所にも指定されたようです。同時に、こんな措置が藩によってとられるということは徳島城下にも、数多くの辺路がやってきて宿泊所などの問題が起きていたことがうかがえます。
徳島の歴史スポット大滝山

ついでに持明院のその後も見ておきましょう。
 江戸期には藩の保護を受け、寺領もあり、寺院経営は安定していたようです。この寺の三重塔は城下のシンボルタワーとしても親しまれていました。しかし、幕末には寺院の世俗化とともに多くの伽藍を維持する経費が膨れ、困窮するようになります。それにとどめを刺したのが、明治の神仏分離です。藩主の蜂須賀家が公式祭祀を神式に改め、藩の保護がなくなります。さらには寺領も廃止され、明治4年には廃寺となります。藩主の菩提樹だったので檀家を持ちませんでした。そのため、藩主がいなくなると経営破綻するのは当然の成り行きでした。ただ神仏分離で祇園社は、八坂神社と改称され現在に残ったようです。
阿波大滝山三重塔・阿波持明院三重塔
残された三重塔は空襲で焼け落ちるまでシンボルタワーだった

次に徳島県の第5番地蔵寺の往来手形(写し)を見てみましょう
一、此辺路生国薩摩鹿児島之住居にて、佐竹源左衛門上下之五人之内壱人ハ山伏、真言宗四国中海陸道筋御番所宿等無疑通為被申、各御判形破遊可被ド候、以上
延宝四年(1676)辰ノ卯十七日
与州石手寺(印影)   雲龍(花押影)
讃州善通寺 宥謙(花押影)
讃州白峯寺 圭典(花押影)
阿州地蔵寺
同州太龍寺
土州東寺(最御崎寺)
同州五台山
同州足摺山
意訳変換しておくと
この辺路(遍路)は薩摩鹿児島の住人で、佐竹源左衛門以下五名で、その内の一人は山伏(先達)である。真言宗の四国中海陸道筋(四国遍路)の番所や宿でお疑いのないように申し上げる。
以上

研究者によると、この書状は石手寺が発行したものの写しのようです。延宝四年(1676)に鹿児島から来た佐竹源左衛門ら五人(内一人の山伏が先達?)は「四国中海陸道筋御番所宿等」を許可した通行書を持っています。詳しく見ると四国の内、つぎの八ヶ寺の名前が記されています。
讃岐は普通寺と白峯寺
阿波は地蔵寺と太龍寺
土佐は東寺(最御崎寺)・五台山一竹林寺)・足摺山(金剛福寺)
これが通行と宿の安全を保証するものなのでしょう。
ここからは推理ですが、薩摩からやってきた五人は、山伏姿の先達に誘引されて舟で九州から伊予に上陸したのでしょう。それが宇和島あたりなのか松山あたりなのかは分かりません。そして、まずは松山の石手寺で、この書状(パスポート)を受けて讃岐へ入り、善通寺と白峰寺で花押をもらいます。その後、大窪寺を経て阿波に入り地蔵寺で花押をもらったのでしょう。その際に、地蔵寺の担当僧侶が写しとったものが残ったと考えられます。それから彼らは土佐廻り、土佐の三ケ寺でも署判を請けたのでしょう。
 ここで疑問なのは、さきほどの明暦四年(1658)から18年しか経っていないのですが、持明院がパスポート発行業務から姿を消しています。どうしてなのでしょうか。
 この間に、札所寺院に含まれない持明院が除外されるようになったようです。また、讃岐では新たに善通寺が登場しています。讃岐に最初に上陸して、四国遍路を始める場合に、最初に廻り手形を発給するのはどこなのかなど、新たな疑問もわいてきます。これらの疑問が解かれるためには、江戸時代初期の往来手形が新たに発見される必要がありそうです。

往来手形の定型化が、どのようにすすんだのかを見ておきましょう。
元禄7年(1694)の讃岐一国詣りの往来手形です
上嶋山越智心三郎、讃岐辺路仕申候、宗旨之代者代々真言宗二而、王至森寺旦那紛無御座候、留り宿所々御番処、無相違御通被成可被下候、為其一札如件
元禄七年 与州新居郡上嶋山村庄ヤ
                 戌正月24日 彦太郎
所々御番所
村々御庄岸中
意訳変換しておくと
上嶋山の越智心三郎が讃岐辺路(讃岐一国のみの巡礼)を行います。この者の宗旨代々真言宗で、王至森寺の旦那(檀家)であることに間違いはありません。つきましては、宿所使用や番所通過について、これまでのように配慮いただけるようお願い申し上げます
元禄七年 与州(伊予)新居郡上嶋山村庄屋
これは、新居郡上嶋山村の庄屋発行の往来手形で、「讃岐辺路仕申中候」とありますので讃岐一国のみの遍路です。「遍路」ではなく「辺路」という言葉が使われています。この時代まで「辺路」という言葉は生きていたようです。新居郡上嶋山村は、小藩小松藩の4つの村のうちのひとつです。

その約20年後の正徳2(1712)年の往来千形です
往来手形之事
一、予州松山領野間郡波止町、治有衛門喜兵衛九郎右衛門と申者以上三人、今度四国辺路二罷出候、宗旨之儀三人共二代々禅宗、寺者同町瑞光寺檀那紛無御座候、所々御番所無相違通可被下候、尤行暮中候節者宿之儀被仰付可被下候、若同行之内病死仕候ハゝ、早速御取置被仰付可下候、為其往来証文如件
正徳二年辰年六月十七日 予州野間郡波止浜
古川七二郎 同村庄屋 長野半蔵
御国々御番所
意訳変換しておくと
伊予松山領野間郡波止町の治有衛門・喜兵衛・九郎右衛門の三人が、今度四国辺路に出ることになりました。宗旨は三人共に代々禅宗で、同町の瑞光寺の檀家であることに間違いありません。各御番所で無事に通過許可していただけるよう、また、行き暮れた際には宿についても便宜を図ってくださるようお願い致します。もし同行者の中から病死する者が出た場合には、往来証文にあるようにお取り扱い下さい。

これも村の庄屋が発給したものですが、はじめて「往来手形」という言葉が登場します。そして当事者、目的、宗旨の事、発行者、非常時の事、発行者、宛先が順番に明示されるようになります。これで定型化のバージョンの完成手前ということでしょうか。
さらに40年後の宝暦二年(1753)年のものをみてみましょう
往来切手寺請之事
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
右之者儀、代々真言宗二而当院旦那紛無之候、此度四国辺路二罷出申候間、所御番所船川渡無相違御通シ可被下候、行暮候節、一宿等被仰附可被下、若シ此者共儀何方二而病死等致候共、其所ニテ任御国法、御慈悲之に、御収置被卜候国元へ御附届二不及申候、乃而往来寺請一札如件
讃州香川郡西原村
       真光寺 印
宝暦ニ申正月十五日
国々御番所中様
所々御庄屋中様
右之通相違無御座候二付奥書如件
同国同所庄屋    松田慶右衛門 印
正月十五日
意訳変換しておくと
往来切手(往来手形)の寺発行証明書について
男弐人      善兵衛
女弐人      和内
これらの者は、代々真言宗で、当院の檀家であることを証明します。この度、四国辺路に出ることになりましたので、各所の番所や船川渡などの通過を許可していただけるようお願い致します。また行き暮れた際には、一宿の配慮をいただければと思います。もしこの者たちの中から病死者などが出た場合には、その地の御国法で御慈悲にもとづいて処置して下さい。国元へ届ける必要はございません。往来寺請一札(往来手形)についてはかくの如し
讃州香川郡西原村   真光寺 印
40年前のバージョンに比べると 病死などの時には「其所の国法」によって任され、国許には届ける必要は無いとのことが加わりました。以後の往来手形は、これで定型化します。ここからは、発給する側の庄屋の書面箱なかに、四国遍路の往来手形が定形様式として保存されていたことがうかがえます。当時の庄屋たちの対応力や書類管理能力の高さを感じる一コマです。
以上から往来手形発行の変遷をみると、次のようになるようです。
①初めは徳島城下の持明院が発給していた
②やがて八十八ケ所の特定の8寺院となり
③元禄ころからは庄屋や檀那寺がとなる
内容的にも最初は関所・番所の無事通過と宿の便宜でした。それが宗旨や檀那寺の明示、病死した際の処置などが加わり、17世紀半ばには定型化したことが分かります。
 江戸時代は、各国ごとに定法があり、人々の移動はなかなかに難しかったとされます。しかし伊勢参りや金昆羅参りなどを口実にすると案外簡単に許可が下りたようです。四国辺路も「信仰上の理由」で申請すると、往来手形があれば四国を巡ることが許されたようです。元禄時代頃から檀那寺や庄屋が往来手形の発給を行うようになります。それは、檀家制度の充実が背景にあるのでしょう。そのような中で、徳島の持明寺の四国遍路の廻り手形発給の役割は、無用になっていったとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   「武田和昭  明暦四年の四国辺路廻り手形 四国辺路の形成過程」

1澄禅 種子集
澄禅の種字集

 澄禅については梵字研究者で、「湯島の浄厳和尚、高城の慈雲尊者飲光と並び称される智山の学匠」とも云われてきました。私もその説にもとづいて、彼を高野山のエリート学僧と位置づけ紹介してきました。しかし、これには異論もあるようです。今回は、澄禅の本当の姿に迫ってみようと思います。テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。
 澄禅の履歴については『続日本高僧伝』や『智積院誌』などにも記されています。しかし、面白いのは澄禅の師である運廠が寛文九年(1669)に記した『端林集』巻九「十如是臨本跋」のようです。
法師澄禅。世姓菱苅氏。肥後国求麻郡人。幼薙染受戒、習喩珈宗。年及進共。負笈人洛。寓綱積之僧房。而篭講論之席。磨義学之鋒者十有余年。業成帰本国。大守接待優渥。郷里以栄之。然禅以為累潜逃出国境。白号悔。一鉢一錫。行李粛然。名山霊区、無不遍歴。禅自少小精思悉之学。尤梵書
(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  意訳変換しておくと
法師澄禅は、菱苅氏の姓で肥後の球磨郡に生まれた。幼なくして出家受戒して、喩珈宗(密教)を学んだ。成長して笈を背負って入洛し、僧坊に入り、義学を十数年学んだ。業成り肥後に帰り、大守から庇護を受け優遇され、郷里でも評判であった。然し、思うところあって、国を出て国境を越えて、悔と号すようになる。そして一鉢一錫と行李の旅姿で、名山霊区を遍く遍歴した。澄禅は若くして悉雲に詳しく、その中でも特に梵書を得意とした(中略)
時覚文第九年歳次己西孟冬日 
権僧正智積教院伝法沙門運廠謹書
  当時、師の運廠は澄禅よりもひとつ年下ですが、すでに僧としての位は高く、承応2年5月には、42歳で智山の第一座となっています。偶然かどうか澄禅が四国辺路に出たのは、その翌年7月のことになるようです。

 この文書自体は、澄禅が57歳の時の記事です。ここで研究者が注目するのは、澄禅のことを「法師澄禅」と記していることです。「法師」という位については、「大法師真念」と呼ばれた四国辺路中興とされる真念がいます。これについて浅井證善師は、次のように指摘します。
「地蔵尊と一基碑は、ともに大法師真念とあって、阿閣梨真念ではないから、真念は真言僧として加行および伝法潅頂は受けていなかったとものと思われる。まさに聖として一生を過ごしたのである」

 法師澄禅も同様だったのではないかと研究者は考えているようです。それには、澄禅が笈を背負って智積院を訪れ寓居し、修学後に帰国するも落ち着くことなく、「一鉢一錫の旅を名山霊区を遍歴した」という記述があります。ここからは澄禅は、遊行を好む聖のような存在で、一つの鉢と一つの錫杖を持ち、各地の修行地や霊場を巡る廻国修行僧としての一面があったことが分かります。
  これまでのエリート学僧というイメージを取り払って、廻国修行僧と澄禅を位置づけて、研究者は『四国辺路日記』を改めて見直していきます。
 承応2年(1653)という江戸前期は、四国辺路はまだまだ厳しい苦行の辺路行でした。澄禅をエリート学僧と捉えていたときには、その彼がどうして四国辺路にでかけるの?という疑問がありました。しかし、澄禅を廻国修行・聖的な遊行僧としてみるならば、四国辺路は当然の行為として理解できます。

 『四国辺路日記』の冒頭には
「和歌山から船に乗って四国に向かう時、高野の小田原行人衆とともに行動を共にし、さらに足摺近辺で高野・吉野の辺路衆と出会い涙を流して再会を喜びあつた」

と記します。その四国辺路の行人衆とも以前からの人間関係があったことが分かります。また
「往テ宿ヲ借リタレバ、坊主憚貪第一ニテ ワヤクヲ云テ追出ス」
「其夜ヲ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間、枕モ敷兼タリ」
などの記述からは、辺路の厳しさを体験しながらも、その苦難や苦みを味わいつつ辺路している様子が伝わってきます。その姿に澄禅の僧としての生き方がうかがえます。伽藍の奥の閉じこもる学僧とは、ひと味違う印象を受けます。
 また澄禅は、いくつかの札所寺院で「読経念仏した」と記しています。ここからは、澄禅は念仏を信仰する念仏行者であったともうかがえます。確かに悉曇や梵書に優れていたのでしょうが、ある一面では念仏信仰や遊行聖的要素をも合わせ持っていたと研究者は考えているようです。これが当時の真言僧の重層性なのかもしれません。

1澄禅の悉曇連声集
澄禅の『悉曇連声集』

 澄禅の著書には『悉曇連声集』『四十九院種子集』などがあります。どれも梵字の書法に関する著書で、学僧とも云えそうです。比較のために当時の梵語の代表的な学僧と比較してみましょう。
 当時、悉曇学者として著名だったのは河内延命寺の浄厳だったようです。彼は、新安祥寺流を開き、各地で貞一ご教学の講義を行い、著作も『三教指帰私考』『光明真言観誦要門』など密教に係わる教義を著し、数多くの弟子がいます。
 また慈雲尊者は『十善法語』など真言教学の数多くの著作があり、弟子も数百人に及ぶとされます。澄禅を浄厳・慈雲と比較することには、やや無理があるようです。澄禅は学匠というよりも、梵字の能書家だったと研究者は考えているようです。
 彼は、法師澄禅として、各地の名山の修行場や霊場を巡り歩く遊行僧としても活躍し、江戸時代初期ころの四国辺路を訪れ、「四国辺路日記」を書き残し、その様子を明らかにしてくれているということでしょうか。
「澄禅」の画像検索結果
 
澄禅が四国辺路で出会った友人達は元落武者?
 澄禅は四国辺路の中で数多くの人たちに出合ています。その中で高野山の友人たちの再会の場面が何度か出てきます。ここでは、元落武者だった人たちに焦点を当てて見てみましょう。 
土佐・大日寺近辺の菩提寺ので出会いです。
爰に水石老卜云遁世者在り、コノ人元来石田治部少輔三成近習ノ侍雨森四郎兵衛卜云人ナリ。三成切腹ノ時共ニ切腹被申ケルヲ、家康公御感被成、切腹ヲ御免在テ、三成ノ首ヲ雨森二被下。其後落髪シテ高野山二上り、文殊院ニテ仏事ナド執行、ソノ儘奥院十石卜人二属テ一心不乱二君ノ後生菩提ヲ吊。三年シテ其時由緒在テ土州ニ下り。
  意訳変換すると
ここには水石老という遁世者がいた。この人はもともとは、石田三成の近習侍で雨森四郎兵衛と云う人である。関ヶ原の戦い後に三成が切腹した時に、共に切腹を申しつかっていたが、家康公の免謝で、切腹を免れ、三成の首は雨森に下された。その後、剃髪して高野山に上がり、文殊院で仏事に従い、そのまま奥院の十石上人(十穀聖)となって木食修行を行い、一心不乱に三成公の菩提をともらっていたが、3年後に縁があって土佐に下った。

もう一人は土佐国分寺の手前の円島寺という所に宿泊し時に出会った旧知です。
   住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝ノ侍也。幼少ヨリ出家シテ高野ニモ住山シタルト夜モスガラ昔物語ドモセラレタリ。天性大上戸ニテ自酌ニテ数盃汲ルル也。大笑。其夜ハ大雨ニテ古寺ノ軒雨モタマラズモリケル間枕ヲ敷兼タリ。
意訳変換しておくと
   この住持は八十歳を越える老僧である。この僧は以前は、長曽我部殿の普代家臣であった人である。幼少の時に出家して高野で修行を行っていた人なので、夜がふけるまで昔物語をした。天性の酒好きで自酌で数盃を飲み干すして、大笑する。その夜は大雨で古寺の軒からは雨もろが止まらず枕を敷きかねる有様だった。

 長宗我部氏の旧家臣の多くは大坂夏の陣や冬の陣にも参加しています。そのため戦後には「戦犯」として追求され各地に落武者として逃げ込んでいます。ある者は修験者に姿を変え、金毘羅大権現に逃げ込み、時の別当宥盛に拾われたものもいます。ある者は四国の山深い奥に入って行ったものもいるようです。
  一つのストトーリーが湧いてきます。
土佐の円島寺で再開した老住持も、長宗我部の取りつぶし後に出家して高野山に上がり、真言宗を学び故郷土佐の小さな寺に住まいを得たのではないでしょうか。澄禅と酒を酌み交わしながら高野山の思い出話などに話が弾んだようです。しかし、その生活はまことに厳しいものだったのでしょう。大坂夏の陣や冬の陣からは、40年近い歳月が経っていますが、こうした落武者系の高野聖を受けいれた寺院が各地にあったことが分かります。武士の出家と高野山とは、深いつながりがあったようです。高野山に出家後しばらくの間、修行に励み、やがてそれぞれ縁を得て地方に落ち着いていく姿が見えてきます。これが地方仏教の一面を表しているのかも知れません。そして彼らが高野聖として「弘法大師伝説や阿弥陀念仏信仰」を運んできたのかもしれません。
伊予・今治では
神供寺二一宿ス。此院主ハ空泉坊トテ高野山二久ク住山シテ古義ノ学者、金剛三味結衆ナリキ。予ガ旧友ナレバ終夜物語シ休息ス

今治の一ノ宮の近くでは、
新屋敷卜云所二右ノ社僧天養山保寿寺卜云寺在り。寺主ハ高野山ニテ数年学セラレタル僧也。予ガ旧友ナレバ申ノ刻ヨリ此寺二一宿ス。

とあり、澄禅と旧知の間柄の人物もいます。澄禅は四国辺路を行う中で、かつての旧知の友を頼って訪れたのでしょう。札所以外の四国内の寺院にも、高野山と関わりを持った僧侶が数多くいたようです。
 前回に見たように澄禅は、善通寺では泊まっていませんが、金毘羅大権現の真光院には7月12日から三泊しています。当時は、金毘羅大権現の別当寺は金光院で、これに5つの子院が仕えるという組織形態でした。運営を行っていたのは社僧たちで、有力な社僧は高野山で学んだ真言密教僧侶です。ここにも澄禅と同じ釜の飯を食べた高野山の「同窓生」がいたようです。その同窓生の計らいで、澄禅は本堂奥の秘仏も拝観しています。これについてはまた別の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①澄禅は真念と同じように、真言僧として加行および伝法潅頂は受けておらず、聖であった。
②澄禅を廻国修行僧と位置づけて、『四国辺路日記』を改めて見直す必要がある
③澄禅は四国内の寺院や小庵などに、高野山と係わりを持つ僧と再開している 彼らは念仏僧、い わゆる高野聖であった可能性がある。
④澄禅も聖として、高野山を何度も往復し訪れていた可能性がある。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。

1澄禅 種子集
             澄禅の種子字

澄禅は、サンスクリット語の研究で知られた学僧で、僧侶としても高い地位にあった人物です。今で云うと大学の副学長か学部長クラスの人物であったと私は考えています。そのため彼の残した四国辺路日記には、要点がピシリと短い言葉で記されていて小気味いいほどです。彼は、訪れた各札所で本堂や諸堂の位置や様式、本尊のことや、対応した住持のことまで記しています。今回は各社寺の景観に焦点を絞って見ていくことにします。
   テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。以前に阿波の札所については、見ましたので今回は土佐から始めます


東寺(最御崎寺)
 本堂ハ九間四面二南向也。本尊虚空蔵菩薩、左右二二点ノ像在。
 堂ノ左二宝搭有。何モ近年太守ノ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ、
津寺  本堂西向、本尊地蔵杵薩。是モ太守ヨリ再興ニテ結構ナリ。
西寺 (金剛頂寺)堂塔伽藍・寺領以下東寺二同ジ。
神峰寺 本堂三間四面、本尊十一面観音也
大日寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。是モ太守ヨリ近キ比修造
国分寺 寺領三百石、寺家六坊有り 近年堂塔破損シタルヲ太守ヨ
リ修理
シ給フ。
一宮
  宮殿・楼門・鳥居マデ高大広博ナル入社也。前太守長曽我部殿修
造セラレ
シタル儘也。当守護侍従殿時々修理ヲ加ラルルト云。
五台山 
本堂ハ太守ヨリ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ 塔ハ当主宥厳上
人ノ造立ナリ。鐘楼・御影堂・仁王堂・山王権現ノ社、何モ太
守ノ願ナリ。
禅師峰寺 本堂南向、本尊十 面観音。二王門在り。
高福寺 玄関・方丈ノカカリ禅宗ノ寺立テ也
種間寺  本堂東向、本尊葉師。是も再興在テ新キ堂也
清滝寺  是再興有テ結構也。寺は真言宗。寺中六坊在
青龍寺
頂上二不動堂在リシガ先年野火ノ余焔二焼失シタリ。然ヲ本堂
再興ノ時、大守ヨリ小倉庄助方二被仰付新Hノ五社 南向横二双
ビテ四社サエフ 一社ハ少高キ所二山ノ上二立、何モ去年太守ヨ
リ造営
セラレテ結構也。

足摺山 内陣二横額二当寺諸伽帝ハ従四位上行徒従来上佐守源朝臣忠
義為武連長久祈願成就弁再興也卜五筆横二書タリ
寺 山  二王門・鏡楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ此大守ヨリ再興在テ
 結構ナリ
観自在寺  本堂南向、本尊薬師如来。寺号はハ相違セリ。
稲荷ノ社  田中二在り小キ社ナリ。
仏木寺   本堂東向。本尊金剛界大H如来座像五尺斗
明石寺
本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂二移テ在り。源光山延寿院卜云。
寺主ハ無ク上ノ坊卜云山伏住セリ
菅生山
本堂間四面、二王門・鐘楼・経蔵・御形堂・護摩堂・鎖守ノ社
双、堅同広博ナル大伽藍也
岩屋寺 本堂三間四面、本尊不動明王
浄瑠璃寺 昔ハ大伽藍ナレドモ今ハ衰微シテ小キ寺一軒在り。
八坂寺 昔ハ三山権現立ナラビ玉フ故二十五間ノ長床ニテ在ケルト
  也。是モ今ハ小社也。
西林寺 本堂三間四面、本尊十一面観音、
浄土寺 此本堂零落シタリシヲ、(中略)十方旦那を勧テ再興シタル也。
繁多寺 本堂・二王門モ雨タマラズ、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極
ノ躰ナリ。
石手寺
本社ハ熊野二所権現、十余間ノ長床在り。ツヅイテ本堂在
り。本尊文殊菩薩。三重塔・御影堂・二王門、与州無双ノ
大伽藍
也。
大山寺  本堂九間四面、本尊十一面観音也。少下テ五仏堂在り悉朽
  傾テ在。
円明寺 本堂南向、本尊阿弥陀。
延命寺 本尊不動明王、堂ハ小キ草堂、寺モ小庵也。
三島ノ宮 本地大日卜在ドモ大通智勝仏ナリ
泰山寺 寺ハ南向、寺主ハ無シ、番衆二俗人モ居ル也。
人幡宮 本地弥陀。
佐礼山 本堂東向、本尊千手観音也。
国分寺 本堂南向、本尊薬師。寺楼、庭上前栽誠ニ国分寺卜可云様
ナリ。
一ノ宮 本地十一面観音也。
香園寺 本堂南向。本尊金界大日如来。寺ハ在ドモ住持無シ。
横峰寺 本堂南向、本尊大国如来。又権現ノ社在り。
古祥寺 本尊毘沙門天。寺は退転シタリ
前神寺 是は石槌山ノ坊也
三角寺 本堂東向、本尊十一面観青。前庭ノ紅葉無類ノ名木也。
雲辺寺 本堂ヲ近年阿波守殿ヨリ再興在テ結構ナリ。
小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。
観音寺 本堂南向、本尊正観音。
琴弾八幡宮 南向、本地阿弥陀如来。
持宝院 本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。
弥谷寺 寺ハ南向、持仏堂ハ、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サ
三間半奥ヘハ九尺。
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。
出釈迦山 是昔ノ堂ノ跡ナリ。
甲山寺 本堂東向、本尊薬師如来。
善通寺 本堂ハ御影堂、又五間四面ノ護摩堂在り。昔繁昌ノ時分ハ
之二続タルト成。
金蔵寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)古ハ七堂伽藍ノ所也、四方築
地ノ跡今二有。
道降寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)昔ハ七堂伽藍ノ所ナリ。(中略)本
堂・護摩堂由々敷様也。
道場寺 本尊阿弥陀、寺ハ時宗也。
崇徳天皇 今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。
国分寺 白牛山千手院、本堂九間四面、本尊千手観音也、丈六ノ像
也。傍二薬師在り、鐘楼在。寺領百石ニテ美々舗躰也。
白峯寺    当山ハ智証・弘法大師ノ開基、五岳山中随一也             
根来寺    青峰、本尊千手観音、五舟ノ一ツナリ。                      
一ノ宮    社壇モ鳥居モ南向.                                        
屋島寺    千手観青ヲ造本堂一安置シ給う                           
八栗寺    本堂ハ南向、本尊千手観音                               
志度寺    本尊十一面観音、本堂南向                                
長尾寺    本堂南向、本尊正観音也`                                  
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。
是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二 坊在シガ、今ハ午縁所ニテ
本坊斗在

以上を国別に整理すると、次のようになります。
澄禅による四国88所の近世寺院状況

国別に見ると次のような事が云えます。
①阿波と伊予の札所寺院の荒廃が著しいこと
 阿波については以前にもお話ししたように23ケ寺の内の12ケ寺、伊予では26ケ寺中9ケ寺が、退転もしくは小庵の如き有様でした。特に阿波の十楽寺か井戸寺までの周辺の寺院が厳しい状況にあったようです。荒廃した寺院は、無住であったり、山伏などが仮住まいをしている状況だったようです。

②土佐と讃岐の寺院については「結構也」と表現しています。
つまり本堂・護摩堂などの諸堂字が整備されていたようです。澄禅から見ても真言寺院としての機能が果たされていると思えたのでしょう。特に土佐の場合、「太守ヨリ再興ニテ結構ナリ」という表現がいくつも見られます。戦国時代には長宗我部の領地として、他国からの侵入を受けなかったこともあります。また、江戸時代に入って山内一豊が高知城を築いて初代の土佐藩主となり、続く忠義の時代には、元和の改革など藩政の引き締めを行うとともに、野中兼山を起用して新川開発や土木事業・殖産興業の推進しました。その中で他国に先駆けて社寺の修築・造営を積極的に推進したことが、澄禅の記録にも反映しているようです。土佐の札所にとって、山内忠義の存在は大きいようです。
又太守ハ無二無三ノ信心者ニテ、殊二真言家ヲ帰依シ玉フト云。

ここからは、忠義がとりわけ真言宗を信仰していたことが分かります。

讃岐の場合は、なぜか各寺院の景観についてはあまり詳しく記していません。
そのため寺社についてよく分かりませんが、次のような評価が見えます。
サスガ大師以下名匠降誕在シ国ナル故二密徒ノ形儀厳重也。(中略)
其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ、例時勤行丁重ナリ。
真言宗寺院としての構えと寺の勤めも申し分ない、結構な寺院であるとしています。ここからはその他の寺院の多くも伽藍が整備されていたと研究者は考えているようです。
『讃岐国名勝図会』などには、讃岐の有力寺院は生駒侯の再興を伝えるものが数多く見られます。
例えば金毘羅宮・善通寺・国分寺・屋鳥寺・長尾寺などに対して、
生駒氏は生駒記には、次のように記されています。
「殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも寄付し、長宗我部焼失の場を造営して、いよいよ太平の基願う」

民心の心を落ち着けるためにも、生駒氏は地域の有名寺院の保護・復興に取り組んだとされます。
さらに生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重について、
寛文九年の『御領分中宮出来同寺々出来』は、次のような宗教政策を記しています。
金蔵寺
然るに右同年、御影堂・本堂・山王之社並寺院、松平讃岐守頼重再興、加之寺領高式拾石被付与事。
国分寺
慶長年中、生駒讃岐守一正被再興伽監棟数合十六宇、只今在之事。
白峯寺
寺領高百拾斗、内六拾石は天正年中生駒雅楽頭近規寄進。至干今寺納仕候折紙有之。内拾石ハ万治年中松平讃岐守頼重寄進折紙有之。内四拾石は寛文年中同源頼重寄付折紙有之事。
やってきた藩主の宗教政策によって、領内の四国辺路の札所も戦乱からの復興にスピードの差が出たようです。

最後に研究者は、御影堂(大師堂)に焦点を当てます。
御影堂が記されているのは焼山寺・恩山寺・鶴林寺・太龍寺・五台寺山・菅生山・石手寺・善通寺の九ケ所のみです。札所以外では三角寺奥院・海岸寺・仏母院・金毘羅金光院の四ヶ所だけです。これをどう考えればいいのでしょうか。弘法大師信仰と弘法大師像を祀る御影堂
(大師堂)はリンクしていると考えられます。弘法大師信仰があるから大師王は建立されます。この時代に大師堂が普及していなかった葉池を考えると
①弘法大師信仰がまだ、四国霊場には波及していなかった
②弘法大師信仰は広がっていたが、御影堂という形では表現されていなかった
③御影堂がなくても弘法大師像が本堂に安置され、大師信仰が行われていた
これは、各札所の弘法大師像の造立年代が、重要な決め手になってくるのでしょう。どちらにしても「大師信仰」は、熊野信仰や阿弥陀信仰、念仏信仰に比べると、後からやってきて接ぎ木されたような印象を持たされる札所が多いように私は考えています。

以上をまとめると、次のことが言えよう。
①四国のうち、阿波と伊予国は「堂舎悉退転シテ草堂ノミ」とか「寺ハ退転シテ小庵」のように、寺が荒廃している様子が数多く記されている。そこに念仏聖や山伏などが住み着いて、辺路に応対していた。 
②一方、土佐は藩主山内氏、讃岐は藩主生駒氏、藩主松平氏などが積極的に復興に尽力したため、「結構」な寺として密教の行儀がなされている。
③弘法大師を安置する御影堂は、わずか九ケ寺しかみられない。その後、真念『四国辺路道指南』では飛躍的に増加している。この間に弘法大師に対する信仰がより一層盛んになったことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献
     「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

 
DSC09216
現在の金山神社(旧金山権現)
79番天皇寺の寺伝は、空海との関係を次のように記します
 空海が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井(八十場の清水)を汲んで大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した。

DSC09226
 金山神社内に残された瓦

 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。
DSC09221
金山神社

ここからは次のようなことが分かります。
①これは金山権現(摩尼珠院妙成就寺)の由緒で、天皇寺のものではないこと
②金山権現は、もともとは金山の上の現在地にあり、金山権現が札所であったこと
③権現を祀るのは修験者たちで、ここが修験者たちの行場であり、聖地であったこと
 ここからは現在の天皇寺と金山権現とは、まったく別の寺院であったことがうかがえます。どこかで「株取り」されたか「接ぎ木」されたようです。それを史料で見ていきたいと思います。
   テキストは 「五来重 天皇寺 四国遍路の寺」です
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金山神社の敷地内の瑠璃光寺

まず、金山の麓の79番天皇寺高照院を見ておきましょう。
本尊は十一面観音、御詠歌は
「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

崇徳上皇が白峰で亡くなられて、死骸をしばらく八十場の清水に漬けて腐敗を防いだという伝承から作られているようです。

「浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえも こういうところをさすらったのだ」

という風に解すようです。ここには、天皇の御遺勅を八十場の水に浸したという伝えが歌われています。そうしておいて、京都に通知し、指示を仰ぎます。その結果、勅許によってこの地で荼毘に付すということになったようです。遺骸を安置したところに白峰宮という神社が建てられ、後に別当寺として摩尼珠院妙成就寺ができたようです。神仏混淆の時代ですから神社を管理したのは、社僧達で修験者たちでした。
西庄 天皇社と金山権現2
①天皇社と④金山権現(讃岐国名勝図会)

さて、現在の天皇寺です。
 グーグル地図で見ると、このお寺の西にあるのが崇徳上皇の遺骸を清水に浸けて保存したという③八十場の清水です。金山からわき出る清水が途切れることなく流れだし、夏場はここで名物のところてんが食べれます。その光景は、何十年も変わらないままです。

八十八ところてん清水屋(香川県坂出市の創業200余年

 現在は広場に金山権現がまつられていて、金山がもともとの信仰対象であったことがうかがえます。そして八十場の水源に当たる金山(181m)に、当時の本社があったようです。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、④金華山摩尼珠院と呼ばれていたようです。これが、札所としてはもともとのもとの山号です。そして「金華山摩尼珠院」は、奥の院であると同時に、札所であり、寺地であったようです。
Yasoba Gushing Spring 8 - 坂出市、八十場の湧泉の写真 - トリップアドバイザー
八十場の湧き水

17世紀半ばの澄禅の『四国辺路日記』には、次のように記されています。
まず、讃留霊王(神櫛王)伝説がでてきます。
悪魚退治伝説 八十場
悪魚退治伝説の八十場霊水を飲んでの蘇りシーン(讃岐国名勝図会)

神櫛王が八十余人の兵とともに悪魚を退治した時に、魚の毒気に当てられたのを、八十場の霊水で蘇生させたシーンです。その後、弘法大師がこの八十場の泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王を祀ったが高照院の起源と紹介します。ここからは、金山が霊山で、そこからわき出る八十場の霊水が古くから信仰対象であったことが分かります。

八十八水 第四巻所収画像000022
八十場
ここで金山の霊山への道を、「仮説」も含めて簡単に辿っておくことにします。
①新石器時代の金山は、かんかん石(サヌカイト)の産地で、「石器工房」があった。サヌカイトは瀬戸大橋の橋脚となった塩飽の島沿いに岡山方面にも運ばれている。サヌカイト分配センターであった。
②稲作が始まると、金山からわき出る豊富な用水は、下流域の稲作の水源とされ、集落から信仰の山とされるようになる
③周辺には、綾氏に連なる古代豪族のものとされる醍醐山古墳群など大きな横穴式石室を持つ古墳群が集中する。
④金山の西側(現坂出市街)は、古代の鵜足郡の津があり、綾氏の鵜足郡進出の拠点ともなった。
⑤同時に、古代瀬戸内海の交易湊でもあり、金山は航海の目印として、「海の民」の信仰対象でもあった。

 このように農耕民や海の民から信仰対象とされていた金山に、熊野行者がやってきて霊山として開山します。それが金山権現です。権現とは、修験者が開山した霊山であることを表す言葉です。その宗教施設は、もともとは現在の金山権現が安置されている場所でした。そして、麓の八十場の清水も霊地化していきます。金山の上と麓にふたつの宗教施設が現れたとしておきましょう。
 これを後の弘法大師伝説では、次のように伝えます。

「八十場の泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井(水場)とした」

後に崇徳上皇がここで崩御したので、この寺の別名が天皇寺となります。
以上を整理すると、金山権現と八十場の清水には次のような信仰が積み重ねられていることがうかがえます。
①稲作の水源信仰
②海の民の航海安全信仰
③神櫛王伝説
④弘法大師伝説
⑤崇徳上皇伝説
 このようないろいろな信仰や伝説が、行場で修行する修験者や高野聖たちによって、時代と共に付け加えられていったと私は考えています。
  天皇寺が高照院と呼ばれるのも、かつてこの寺が金山の中腹にあったころに、その常夜灯が海から見え燈台の役割を果たしたからだとある研究者は指摘します。確かに、ここから東北に白峰山と五色台も見え、備讃瀬戸を行き交う舟も木陰から見えます。

1天皇寺
白峰宮と天皇寺は隣接している。
澄禅の『四国辺路日記』には、天皇寺と金山権現の関係が次のように記されています。

世間流布ノ日記ニハ如此ナレドモ、大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也。実ハ天皇ハ人皇七十五代ニテ渡セ玉ヘバ、大師ニハ三百余年後也。天皇崩御ノ後、子細在テ玉体ヲ此八十蘇ノ水二三十七日ヒタシ奉ケル也。其跡ナレバ此所二宮殿ヲ立テ神卜本崇、門客人ニハ源為義・同為朝力影像ヲ造シテ守護神トス。御本堂ニハ十一面観音ヲ安置ス。其他七堂伽藍ノ数ケ寺立、 三千貰ノ領地ヲ寄。此寺繁昌シテ金山薬師ハ在テ無ガ如二成シ時、子細由緒ヲモ不知 辺路修行ノ者ドモガ此寺ヲ札所卜思ヒ巡礼シタルガ初卜成、今アヤマリテ来卜也。当寺ハ金花山悉地成就寺摩尼珠院卜云。今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。

意訳変換しておきましょう。
世間では71番札所は天皇寺とされている。しかし、弘法大師が定めた札所は金山薬師(権現)である。崇徳上皇は弘法大師よりは、300年も後の人である。崇徳上皇が亡くなったときに、子細あって玉体(遺体)をこの八十場の水に37日、浸して保管した。その跡なので、ここに神社が建てられ、神として祀るようになった。その別当寺が成就寺摩尼珠院であった。参拝者の中には源為義・為朝の像を造って守護神として寄進するものも現れた。その別当寺の本堂には、十一面観音が安置され、七堂伽藍が揃い、三千貫の寺領を持つ大寺となった。
 この寺が繁昌すると、山の上の金山薬師は在て無きが如しとなり、子細も由緒も忘れられてしまった。辺路修行の修験者や聖も、この寺を札所と思いこんで、巡礼するようになる始末となった。しかし、この寺もいつしか退転(衰退)して今は、民家の屋敷となっている。
ここで澄禅が記していることを、要約すると次の通りです。
①四国辺路の元々の札所は、薬師如来を祀る金山権現であった。
②それが里の八十場の近くに崇徳上皇を祀る成就寺摩尼珠院が現れ、いつしかそこが札所となった。
③成就寺摩尼珠院(金山権現)が衰退すると、 巡礼者たちは隣接する天皇寺に参詣するようになり、金山権現は忘れ去られた。
つまり次の両者は、まったく別の宗教組織であったことが分かります。
金山権現  金華山摩尼珠院 
崇徳天皇社 別当成就寺摩尼珠院  → 別当天皇寺 
どちらも摩尼珠院であったために混同がおこったようです。悪意に捉えると、現在でも後進企業が先行企業を追いかける場合に使う方法です。先行者の名前と混同させることによって「利益」をあげようとする手法ともいえます。この結果、山の上の金山権現を参拝するものはいなくなり、「成就寺摩尼珠院」を札所として納札する巡礼者が増えたというのです。そして摩尼珠院が「退転」すると、隣接していた天皇寺が札所を兼ねるようになったと云うのです。

崇徳天皇社・天皇寺
成就寺摩尼珠院と天皇社(讃岐国名勝図会)
金山権現 → 別当摩尼珠院 → 天皇寺 の関係を、今はどのように説明されているのでしょうか。ウィキペディアには、次のように記されています。

  寛元2年(1244年)後嵯峨天皇の宣旨により崇徳天皇社は再建され、摩尼珠院はその別当職に任じられ崇徳院永代供養の寺という役割を担わされた。そして、いつの頃か札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院を「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。

 金山薬師は「議岐国名勝図会」では、現在地に金山権現と記されています。 以上からは戦国期から近世初頭にかけては、まだ四国霊場の札所は、流動的であったことが分かります。同時に中世における金山権現の宗教的な意味合いは、はるかに大きかったことがうかがえます。坂出地区の中世の宗教的な拠点は、金山権現だったと私は考えています。それが、白峰寺が別院・子院の「行人(山伏・僧兵)」などを擁して巨大化すると、その勢力を失っていったのではないかと推察できます。
高照院天皇寺(四国第七十九番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
天皇寺 背後は金山

ここからは私の「仮説」です。
この周辺には、修験道復興の祖でもあり、醍醐寺の祖ともされる聖宝(理源大師)の痕跡が残ります。それを挙げると
①聖通寺山の聖通寺。この寺は聖宝の学問寺とされ、「聖通寺」も「聖宝」に由来すると云います。
②聖宝誕生の地としての本島と沙弥島。この二つは明治初期に生誕地を廻って裁判で争っています。その時の和解案は「聖通寺は、母の漂着地、本島は出生地」です。
③さらに聖通寺や金山、城山にかけては修験者の行場とみられる巨石や岩屋が点在します。
④ここからは本島 → 沙弥島 → 金山権現 → 三谷寺にかけての行場ゾーンが存在したことが考えられます。それが、聖宝に関係する醍醐寺系の当山派の修験者であり、高野聖達であった。
以上が私の「仮説(妄想?)」です。
 それは、以前にお話しした観音寺と善通寺を結ぶ七宝山の行場のようなものだったのではないかと考えます。その拠点の役割を果たしたのが
①宇多津の聖通寺
②坂出の金山権現
③城山の南側の三谷寺(丸亀市飯山町三谷)
であったのではなかろうか思っています。
 そのような中で疑問に思えてくるのが、聖通寺がどうして四国霊場の札所にならなかったのかということです。
この寺は、立地条件や修験者の拠点であったこと、歴史性などからしてもその条件に適う寺だと思うのですが、選ばれることはありませんでした。このエリアから選ばれてのは郷照寺です。この寺は、時宗念仏聖など、聖集団の拠点でした。この辺りの経緯が今の私には見えてきません。
   以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五重等 四国遍路の寺 天皇寺
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弥谷寺 高野聖2
 
高野聖
 
江戸時代になると幕府や各藩は、遊行者、勧化僧の取締りをきびしくしていきます。これも幕藩体制強化政策の一環のようです。また民衆側も信長の高野聖成敗以来、高野聖の宿借りを歓迎しなくなります。宿借聖や夜道怪などといわれ、「人妻取る高野聖」などといわれては、それも当然です。高野聖が全国を遊行できる条件は、狭められていきます。
画像 色木版画2

 また、高野聖の中には、もともと高野山に寺庵をもたず、諸国を徘徊する自称高野聖もすくなくなかったようです。また弟子の立場であれば高野山へかえっても宿坊の客代官や客引きをつとめるくらいで、庵坊の主にはなれません。このような立場の高野聖は、村落の廃寺庵にはいって定着し、遊行をやめるようになります。地域に定着した高野聖は、高野十穀雫ともよばれて、真言宗に所属したものが多かったようです。
 近世初頭の四国霊場の置かれた状態を見ておきましょう。
  17世紀後半に書かれた『四国辺路日記』の中で、札所の困難さを次のように記しています。
「堂舎悉ク退転(荒廃)シテ 昔の礎石ノミ残れり」
「小キ草堂是モ梁棟朽落チテ」
「寺ハ在レドモ住持無シ
ここには、かなりの数の寺が退転・荒廃したことが記されています。阿波の状態は以前にお話ししましたが、23ケ寺中の12ケ寺が悲惨な状況で、そこには山伏や念仏僧が仮住まいをしていたと記されます。天下泰平の元禄以後でこの状態ですから、戦乱の中では、もっとひどかったのでしょう。
 例えば永正十(1513)年から元亀二(1571)年には、
①讃岐国分寺の本尊像
②伊予の49番浄土寺の本尊厨子
③土佐の30番一の宮
には落書が残っています。土塀などなら分かりますが、本尊や厨子に落書ができる状況は今では想像も出来ません。そのくらいの荒廃が進んでいたとしておきましょう。そんな落書きの中に
「為二親南無阿弥陀仏
「為六親眷属也 南無阿弥陀仏
「南無大師遍照金剛」
という文字が確認されています。
さらに52番太山寺には、阿弥陀如来像版木(永正11(1512)年があるので、四国辺路に阿弥陀・念仏信仰が入ってきていることがうかがえます。

四国辺路道指南 (2)
四国辺路指南の挿絵
四国辺路への高野聖の流入・定着
そうした時代背景の中で、天正九年(1581)年に 織田信長が高野聖や高野出の僧1382人を殺害したり、慶長11(1606)年に徳川幕府による高野聖の真言宗帰入が強制されます。これがきっかけとなって、高野山の僧が四国に流人してきたのではなかろうかと研究者は考えているようです。
 例えば、土佐の水石老なる遁世者は、高野山から故あって土佐に移り住んだとされます。時は、まさに高野聖にとって受難の慶長11年頃のことです。また、伊予・一之宮の社僧保寿寺の僧侶は、高野山に学んだ後に、四国にやってきたと云います。このように、四国の退転・荒廃した寺院へ、山伏や念仏信仰を持った高野空などが寓居するようになったのではないかと研究者は考えているようです。
四国辺路道指南の準備物

 そして高野山の寺院から四国に派遣された使僧(高野聖を含む?)も、そのまま四国の荒廃した寺院に住みつくようになったというのです。この時期の高野聖は、時宗系念仏信仰を広めていた頃です。高野山を追い出された聖達もやはり念仏聖であったでしょう。彼らにとって、荒廃・退転していた寺院であっても、参詣者が幾らかでもいる四国辺路に関わる寺院は、恵まれていて生活がしやすかったのかもしれません。
四国遍礼絵図 讃岐
四国辺路指南の挿絵地図 讃岐

高野聖による四国辺路広報活動
 彼らは念仏信仰を基にして、西国三十三所縁起などを参考に、今は異端とされる「弘法大師空海根本縁起」などを創作します。それを念仏信仰を持つ者が各地に広め、やがて四国八十八ケ所辺路ネットワークが形成されていくというのが研究者の仮説のようです。
 同時に高野聖は、高野山に住む身として弘法大師伝説も持っていました。弘法大師と南無阿弥陀仏(念仏信仰)は、彼らの中では矛盾なく同居できたのです。こうして勧進僧として民衆への勧進活動を進めた高野聖は、四国辺路を民衆に勧める勧進僧として霊場札所に定住していったとしておきましょう。

四国辺路道指南 (4)
四国辺路指南 弘法大師

ここからは弘法大師伝説や四国辺路形成が身分の高い高僧や学僧達によって形作られてものではないこと、庶民と一体化した高野聖達の手で進められたことが明らかにされます。その際の有力なアイテムが弘法大師伝説だったのでしょう。同行二人信仰や右衛門三郎伝説も、四国遍路広報活動の一環として高野聖たちによって作り出されたものと研究者は考えているようです。
 しかし、高野山の体制整備が進むと末寺である四国辺路の札所寺院でも、阿弥陀・念仏信仰は排除され、弘法大師伝説一色で覆われていくようになります。そして高野聖の痕跡も消されていくことになります。それが四国辺路から四国霊場への脱皮だったのかもしれません。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
ひとでなしの猫 五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
参考文献
五来重 高野聖
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰
参考記事

       水間寺 千日隔夜宝篋印塔(享保十二年 1727年)

隔夜信仰
(かくやそう)という言葉は、私は初めて聞きました。
もともとは、空也上人の念仏行から来ているようです。
隔夜信仰は。『元亨釈書』には、空也上人が長谷に千日参拝の願立てして春日一夜、夜を隔てて泊まり、3年3月の間、念仏の流布を祈ったことに始まるとされます。当初は、奈良の春日大社と長谷寺への千日参詣で、春日に一夜、長谷に一夜、と夜を隔てて泊り交互に参拝を行うものだったようです。つまり、奈良と長谷寺を毎晩、提灯を灯し、念仏を唱えながら千日歩くという修行です。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜宝篋印塔

前かがみ提灯を差し出し、念仏をとなえながら歩いたという隔夜僧
 
『多聞院日記」の永禄九(1566)年五月二十二日の条には、次のように記します
ナラ、ハセ隔夜スル法師、南円堂より六道迄つれて雑談之処、彼者ハ当国片岡ノ生レ信貴山先達ノ所二九才ヨリ奉公了、奥州柳津虚空蔵二一年二百日参籠了、峯へ入事四十一度、京ニテ四十八度ノ百万返供養、高野大師卜当社トヘ片道三日ツツニテ、以上十一ケ年ノ間五百度参詣成就、ナラ、ハセ隔夜今年既二三年ニナル間、明年三月ニテ三年三月可有供養ム々、当年四十六才ナルニ申、扱モ/ヽノ事也
意訳変換しておきます
奈良と長谷を隔夜修行している法師と興福寺の南円堂より六道まで連れ添って歩いて雑談した。その時に聞いた話では、彼は大和国片岡の生まれで、信貴山先達の所で29才に奉公を終えて、奥州柳津の虚空蔵で1年2百日の参籠を行った。峯(吉野大峰?)へ入る事41度、その後、京都で48度の百万返供養を行い、高野大師(高野山)と当社(春日)とへ片道三日ずつ、以上11ケ年ノ間かけて五百度参詣を成就させた。
 奈良、長谷の隔夜修行も、今年で既に3年になるという。来年3月で供養も終わるようだ。当年46才になると云う。
ここからは隔夜修行を行っている僧侶について次のようなことが分かります。
①大和生まれで信貴山先達の所で29歳まで修行を行った。
    → 当山派修験者的性格
②高野大師(高野山)と当社(春日)への11年かけて五百度参詣 → 真言僧侶で弘法大師信仰
③そして隔夜修行者
 この法師は、山伏であり、念仏僧であり、真言密教僧侶であり、弘法大師信仰も持ち、あるゆる修行を各地で積んでいる人物のようです。これが、室町時代末期の遊行僧の典型のようです。つまり現在のように「分業」ではなく、行者とはこうした多様性を持ち供えていたことがうかがえます。これも神仏混淆のひとつの形であったのでしょう。
隔夜信仰 水間寺千日隔夜
「鳥取八幡宮、一千日隔夜供養、當寺観世音」とあり、鳥取八幡宮と水間寺の間で隔夜千日参詣が行われたことが分かります

 ここで研究者が注意するのは、いろいろな修行の最後に目指したものが隔夜僧であることです。彼らは、夜に南無阿弥陀仏を唱えながら歩いたのです。強い阿弥陀信仰をもっていたようです。


隔夜僧の成就碑が四国霊場のお寺には、残っているようです。今回は、それを追いかけてみることにします。
四国百名山 雲辺寺山

最初に66番雲辺寺の隔夜念仏の石碑を見てみましょう。
天和三(1683)年五月二十八日の建立で、
正面 「南無大明 慈悲阿弥陀如来 高照山濾峯寺 
    正観世菩薩七宝山観音寺 
    千手観世音菩薩巨鼈山雲辺寺
左側面「百日隔夜行脚信心 願主敬心 天和三癸亥綺五月二十八日」
右側 「為現在当二世大安楽也 敬白」
これは、濾峯寺と七宝山観音寺と雲辺寺の三ヶ寺への百日隔夜念仏行の成就記念碑のようです。
 観音寺と雲辺寺は札所です。まず雲辺寺から見ていきましょう。
雲辺寺山頂公園 | 香川県 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
雲辺寺公園からの三豊平野と観音寺

この寺は、讃岐山脈の西端の標高950mの三豊平野を見下ろす山上にあり、山岳仏教の拠点だったようです。しかし、熊野信仰の形跡は、史料からは見えてきません。ただ『阿波国摩尼珠山高越寺私記』の中に、次のように記されています。
①熊野・金峰・山王・白山・石鎚(五所権現)が勧請された
②山上には阿波坊を持法院、讃州坊を王蔵坊、伊予坊を善蔵坊、土佐坊を年行寺の四国坊が建てた
ここからは熊野権現が勧進されていることと、修験者たちがそれぞれ坊や子院を構えていたことが分かります。熊野信仰をもつ修験の寺であつたことはうかがえます。
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 次に、観音寺を見ておきましょう。
この寺は、鎮守は雲辺寺と同じ五所権現です。以前にお話したとうに、中世には七宝山のいくつかの行場を統括し、善通寺の我拝師山と結ぶ辺路ルートがあったようで、修験の寺でもあったようです。同寺所蔵の『弘化録』(弘化三年(1845)刊)には、貞享九年(1684)のこととして、次のように記されます
「仁王像彩色、願主木食恵浄、仮名本念」

ここからは、仁王像を彩色するに当たり、木食が恵浄が勧進活動を行ったことが分かります。これは、敬心が百日隔夜を行った翌年のことになります。その頃の観音寺周辺には、こうした遊行僧が活動していたことがうかがえます。中世の修験の寺は、外部からやって来た念仏聖などが生活しやすい環境にあったのでしょう。観音寺には、惣持院など六ケ寺の搭頭寺院がみられますが、これらの寺院に念仏聖などは寓居していたと研究者は考えているようです。

最後に濾峯寺という耳慣れないお寺です。
この寺は、観音寺から南に財田川(染川)を越えた約五〇〇メートルの所に、今は庵としてあるようです。江戸中期の火災で焼失し、その後に再建されたようで『西讃府志』には「廬峰寺、高照山号ク、禅宗興昌寺末寺、本尊阿弥陀仏、開山梅谷、四十六石八斗四升八合」とあります。現在は規模の小さな無住の庵となり、本尊は地蔵菩薩となっているようです。江戸時代前期に隔夜信仰と、どのように結びつくのかはわからないようです。
   百日の隔夜行を行った敬心は、この3つのお寺に泊まりながら毎夜の参拝を続けたのでしょう。
しかし、私が不思議に思うのは、そうして雲辺寺と観音寺の間の札所である太興寺が選ばれなかったのかということです。
その理由として考えられる要因を挙げてみましょう。
①太興寺は江戸初期には荒廃していた
②太興寺が念仏僧を嫌悪し排除する体制にあった。
今の私に想像できるのは、この程度です。今後の課題と云うことにしておきましょう。ただ、長期に渡る隔夜行が続けられるためには、支援体制が必要だったでしょう。雲辺寺や観音寺は、それに対して協力的だったのでしょう。だから、境内への記念碑の建立もできたのでしょう。
 また、夜に歩くのですからある程度、道も整備されていなければなりません。参拝の道は、遍路の道が使われたことが考えられます。この隔夜行が行われていたのは真念が四国遍路を何回も回っていた時期と重なります。ある程度、遍路道も整備されていたのでしょう。
高知県室戸市浮津200 - Yahoo!地図

次に土佐室戸の行当岬の隔夜信仰を見てみましょう  
 太平洋に突き出た室戸には、2つの霊場が東西にあります。
東の室戸岬 最御崎寺(東寺=奥の院)   胎蔵界
西の行当岬 金剛頂寺(西寺=本寺)     金剛界
平安時代は、東西のお寺を合わせて金剛定寺でした。その奥の院が室戸岬で、そこでは海に向かって火が焚かれる行場でもあったようです。後に分院されるのが現在の最御崎寺(東寺)です。

このふたつのお寺は10㎞ほど離れていますが、西寺と東寺を往復する行道が見つかっています。これが「中行道=中辺路」です。そして、金剛頂寺の下の海岸が「行当頭=行道岬」です。ここには、不動岩があり「小行道」と呼ばれる行者道がありました。

隔夜信仰 行当岬
室戸の行当岬

つまり、修験者たちの行場であったようです。地元では「空海が悟りを開いたのは、室戸岬ではない、こっちの行当岬だ これぞ まっこと空海」と云っています。
 確かにここには、波が寄せているところに二つの洞窟があって、不動さんを祀っていて、今は波切不動に「変身」しています。

金剛頂寺のある山が金剛界、室戸岬の最御崎寺の方が胎蔵界とされていたようす。密教では金胎両部一体ですので、行者たちは両方を毎日、行道します。例えば、円空は伊吹山の平等岩で行道したと記しています。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行ったのです。窟籠り、木食、高野聖など、中世の室戸周辺には行道修行する坊さんが数多くいたようです。まさに修行のメッカだったのです。
そのような行当岬に、つぎのような隔夜修行の祈念碑が残されています
元禄三(1690)庚午歳八月八日 願主
(サク) 佐州
(キリーク)三界万霊有縁無縁
  隔夜五百日廻向 頼円法師
これは元禄三年の真夏に、五百日の隔夜修行が成就したことが記されています。多分、金剛頂寺と最御崎寺の間の隔夜修行だったのでしょう。この二つの寺を交互に念仏を唱えながら参拝したようです。これを行った頼円は、夜な夜な二つのお寺を南無阿弥陀仏を唱えながら通ったようです。強い念仏・阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。実は、彼はここにやって来る前にも隔夜修行を行っているようです。それは58番佐礼山仙遊寺にも、彼の記念碑が残されていることから分かります。そこには「隔夜」の字句はありませんが、阿弥陀三尊の種子や「三界万霊有縁無縁」などの文字は行当岬のものと共通します。
        キリーク:阿弥陀(金剛界四仏の種子)

そして元禄二(1689)年二月一十八日という年月が刻まれています。ここからは、伊予の仙遊寺での修行を終えたあとに、続いて室戸岬にやって来て500日の隔夜修行を行ったことが分かります。
 この碑のそばには、もうひとつ隔夜の石碑があります。
そこには「南無阿弥陀仏」の名号とともに「天和三年九月二十六日・天和四年正月六日、府中七ケ所」と刻まれています。行者名は上野国利根都沼円郷の浄雲とあります。研究者が注目するのは「府中七ケ所」です。それは国分寺・佐礼山・円明寺・三島(南光坊)・泰山寺・一之宮・八幡宮なのです。これらの寺院は、どれも四国霊場の札所寺院です。かれは、この7ヶ寺で隔夜行を行い、室戸にやってきているのです。ここに出てくる札所は、念仏の糸で結ばれていたことになります。念仏信仰の強い行者達が、どうして四国霊場の札所にやって来たのでしょうか。
 

伊予松山の56番太山寺にも、2基の隔夜碑があります。
 (向右) 五百日隔夜念仏廻向  谷上山
                  願主河内国錦郡 徳誉清心
正面 南無阿弥陀仏      
左  三界無縁法界萬霊      石手寺
裏面 延宝四丙辰年八月二十五日太山寺
ここからは、延宝四年に太山寺 → 石手寺 →谷上山(伊予市宝珠寺)の3ケ所を結ぶ寺院で、河内出身の徳誉清心が五百日の隔夜念仏を行っていたことが分かります。太山寺と石手寺は、ともに八十八ケ所の札所になります。八十八ケ所寺院と熊野信仰・隔夜念仏がが重なりあうようです。
 隔夜念仏の石碑が残る寺は、中世に真言念仏(密教系阿弥陀信仰=高野山系時宗念仏僧)が活動していた所が多いことを研究者は指摘します。江戸時代に活躍する隔夜僧も、中世に遡る念仏信仰の下地があるお寺を修行場として選んでやって来たようです。
10番 切幡寺

阿波の十番切幡寺にも、次のような隔夜碑があります.
  天和三□年   宗体
  奉修行従当山霊仙寺迄
(ア)百日隔夜所願成就所  敬白
  六月二十一 日   常心
天和三(1683)年の建立で、雲辺寺や・仙遊寺・太山寺のものと同じ年になります。この頃に四国で、隔夜信仰が盛んになっていたようです。この碑で研究者が注目するのは「本修行、当山従り霊仙寺まで」とあることです。十番の切幡寺から一番霊山寺の間を修行していたことがうかがえます。これを「十里十ケ所」詣りと呼ばれるもので、これを一夜の間に念仏隔夜修行していたようです。
 讃岐の善通寺を中心とする「七ケ所(寺)詣」や高松を中心とする「観音七ヶ寺詣」のように、中世の「中辺路」ルートをリニューアルした道が遍路道として使われるようになっていたのかもしれません。

隔夜僧は どうして修行場に四国霊場を選んだのでしょうか.
そこには念仏僧を引きつけるものあったからなのでしょう。隔夜僧の僧侶からすると「念仏信仰の寺」と見え、好ましいと写ったのでしょう。それが中世以来の念仏化した高野聖の「伝統」が残っている所だったのかもしれません。
 四国内で隔夜念仏が行われたのは、江戸時代前期の延宝頃で、この時期は真念が四国辺路した時代と重なりあいます。真念は伊予や土佐の札所で、鉦を叩きながら念仏を唱える隔夜僧に出会ったはずです。
 どちらにしても、真念が廻った17世紀後半の四国霊場は、南無阿弥陀仏を唱え参拝する念仏僧や、隔夜行で念仏を唱えながら夜の遍路道を参拝する人たちいたのです。まだまだ、念仏・阿弥陀信仰は霊場に根付いていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

    現在の常識からすると霊場札所で「南無阿弥陀仏」を唱えるのは非常識とされるでしょう。霊場では般若心経が「常識」です。ところが、江戸時代初期の遍路さんたちは、札所で南無阿弥陀仏を唱えていたようです。それを前回は追いかけて見ました。 それでは四国霊場を廻りながら南無阿弥陀仏を唱えるという人たちの心の中は、どうなっていたのでしょうか。「数式」にすると
弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」=初期の四国霊場巡礼者

になるのかもしれません。これを「真言系阿弥陀信仰(真言念仏)」と研究者は呼んでいるようです。

この真言系阿弥陀信仰を広げたのが高野聖たちだったようです。
 五来重氏は「高野聖」の中で、次のような事を明らかにしました
①高野山の千手院聖をはじめとして、後期高野聖が時衆化したこと、
②室町時代以降には、高野聖の多くが念仏化したこと
③高野聖は廻国性があり、諸国をめぐり弘法大師伝説や念仏信仰を流布したこと
④その拠点となったのが全国の有力寺院であること
こうして、南無阿弥陀仏を唱える高野系念仏聖が大きな寺院の周辺に住み着き、坊や院を構え勧進活動を行うようになります。修験者たちが修行のために訪れていた四国辺路の霊場寺院にも、このような動きはやってきます。こうして弘法大師伝説と南無阿弥陀仏は、霊場周辺でも「混淆」していきます。
 それでは、その「混淆」はどのような形で現在に残っているのでしょうか。
今回は「真言系阿弥陀信仰の遺物」めぐりを行って見たいと思います。テキストは前回に続いて「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」です
高野山 名号(みょうごう)板碑

最初に訪れるのは高野山奥の院です
奥の院参道の芭蕉句碑から御廟側へ約30m行った左側にある板のように薄い石碑に大きく南無阿弥陀仏(名号)と刻まれています。これを名号版碑(いたび)と呼ぶようです。石材は、徳島県北部の吉野川沿の緑泥片岩製が使われています。阿波には、庚申信仰などの板碑が数多くある所で、阿波式板碑(あわしきいたび)として知られていることは以前にお話ししました。
 この板碑も、徳島県で作られたものが奥の院まで運ばれてきたようです。康永3年(1344)3月中旬に建てられたもので、碑面には、次のように刻されています。
中央 南無阿弥陀佛
右側 為自身順次往生? 亡妻亡息追善也、奉謝二親三十三廻
左側 恩徳阿州国府住人、康永参?甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白

阿波国府の住人が、亡妻追悼と33ケ所詣の成就のために建てたもののようです。これを最初に見たときには「なんで、高野山に南無阿弥陀仏を???」という感じでした。しかし、14世紀頃の高野山の状況を考えると納得します。先ほど見たように、念仏聖化した聖達によって、高野山は阿弥陀信仰の中心地のひとつとなっていたのです。だから時宗念仏の一遍もやってきたのです。
 こうした背景の中で、「南無阿弥陀仏」の六文字を記す板碑が、高野山の最も聖域である奥の院に建立されたようです。今ならば決して許されることではないでしょう。しかし、当時の高野山は弘法大師信仰と阿弥陀信仰が混淆した時代です。その後、「真言原理主義」運動が高揚し、高野聖たちは高野山から追放されます。それと同時に、高野山から阿弥陀信仰も消し去られていくことになります。その中でわずかに残った念仏信仰の遺物といえそうです。
 
次に研究者が向かうのは高知県の名号念仏です。

大日如来 種字2
大日如来の種字(サンスクリット文字)

須崎市神旧飛田の名号碑を見てみましょう。
(ア一) 南無阿弥陀仏  
    明応五天五月十六日
この名号石の梵字のアは大日如来の種子で、その下に南無阿弥陀仏とあります。真言密教の核心仏・大日如来 + 南無阿弥陀仏」ですからまさに「密教的阿弥陀信仰」です。真言念仏と研究者は呼んでいるようです。
大日如来 種字1

つぎは高岡都中土佐町上ノ加江のものです。
(サ一)             天正―九年 敬
(キリーク一)(キャカラバア) 為周陽侍者禅師也
(サク一)            三月二十七日 白
最上部に阿弥陀三尊、その上に五輪のキャ・カ・ラ・バ・アがあります。
五輪塔 種字


これも阿弥陀三尊と密教の五輪(水・火・風・空)が融合したもので真言念仏のひとつの形でしょう。同じものが
①香北町猪野々の猪野家住職逆修碑(天正三年(1575)十月二十一日銘
②土佐山田町須江の須江念仏供養塔(慶長十九年(1614)三月―五日銘
などがあるようです。時代は、中世末~近世初期のもののようです。これらの供養塔からは、この時期・この地域に真言的念仏信仰が拡がり、念仏講が形成されていたことがうかがえます。
そしてこれは土佐ばかりではなく、四国全体に広がっていた痕跡があります。この真言系の阿弥陀・念仏信仰を伝え、さらに近世初期に駒形の墓石の形式を持ち込んだのは、誰なのでしょうか。
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の岩壁に刻まれた南無阿弥陀仏

真言系阿弥陀信仰の遺物は、四国霊場の弥谷寺にもあるようです
 弥谷寺は死者が集まる祖霊の寺と言われてきました。本堂のすぐ近くの石壁面には、浮き彫りの阿弥陀一尊や南無阿弥陀仏の六字名号が彫られています。弥谷寺が古くからの阿弥陀信仰の霊地であることを示しています。
弥谷寺 舟石名号

 この寺は、近世初期には、弘法大師の父をとうしん太夫、母をあこや御前とする「空海=多度津海岸寺誕生説」の像が安置されていました。つまりこの寺は「阿弥陀信仰(念仏信仰)と異端の弘法大師伝説」を流布していた寺なのです。中世には念仏聖が拠点として活動していた所だと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
 本堂のすぐ下の墓地の中に、次の念仏講の碑を研究者は見つけています
    延宝四内辰天八月口□日
大見村□□念仏講中二胆安楽也
建てられたのは延宝四(1677)年です。澄禅や真念のやってきた時期に当たります。大見村は、弥谷寺の南麓の村です。その時代に念仏講があったことが分かります。大見地区は三野平野に袋状に入り込んでいた三野湾の東部に位置し、瀬戸内海交易に活躍した勢力の存在がうかがえる地域です。
少し想像力を膨らませて、この地に念仏講が組織されるまでの経緯を描いてみましょう。
 高野山の念仏聖が瀬戸内海の熊野水軍の交易ルートに沿いながら紀州の湊を出て、次のような聖地を廻国します。
①引田湊背後の大内郡・水主神社周辺
②児島五流修験のテリトリーである小豆島・直島・本島
③そして塩飽を経て、多度津・道隆寺
④道隆寺の末寺である白方・海岸寺へ 
⑤そして海岸寺の奥の院(?)である弥谷寺へ 
こうして弥谷寺には高野系の念仏聖が何人も住み着き、坊を開き子院を形成していくようになります。彼らは生活のためにも周辺住民への布教活を行います。病気治療や祈祷などで、住民の心を捉えながら、念仏講へと導いていく。さらに瀬戸内海交易に乗り出す地元有力者を熊野水軍のネットワークに紹介し、彼らも信者に加えていく。こうして大見村の階層を越えた人々の間に念仏講を作り、その指導者に収まっていく。これを念仏聖の周辺部への浸透と呼ぶのかもしれません。こうして近世初頭には弥谷寺周辺には念仏講があり、念仏信者が数多く存在していたという仮説に至ります。

念仏講1
昭和50年頃の念仏講
 この石碑の周辺には、念仏講に関係したと思われる次のような墓もあります。
「(ア) □□妙昌呂仲定尼  明暦二年□月□□日」
「自性妙蓮禅定尼霊位 延宝五年丁巳一月二十七日」
(ア)は大日如来の種字です。
大日如来 種字4

これらの墓は当時としては上質の石(御影石)が使われていて、念仏講には経済的に恵まれた人たちも参加していたことがうかがえます。

DSC03896父母院
仏母院(多度津白方 熊手八幡神社の旧別当寺)

古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

DSC03860

 当時のこの寺は「空海=白方誕生説」が流布されていました。
 それは空海は、多度津白方で生まれで、父は藤新太夫と母はあこや御前とされていました。父母寺は、その名の通り空海の父母が住んでいた館跡と自称します。ここを訪れた澄禅は『四国辺路日記』に、父母寺・御影堂の弘法大師像を開帳し、その霊験を住持が説くのを聞いたと記します。先ほど見た念仏講逆修碑からすると、この寺の住持も、高野山系の念仏聖であったのかもしれません。どちらにしても仏母院にも、弥谷寺と同じように念仏講があったようです。そして、その講を組織する念仏聖が異端の弘法大師伝説を流布していたとしておきます。
仏母院の墓地には、この他にも次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。
享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。さらに文化年間(1804~18)には山伏寺であったことも分かります。仏母院は熊手八幡神社の別当を勤めていた関係もありそうです。
 以上のように、仏母院は近世初期の住持は念仏聖で、「空海誕生地」説を流布していたようです。「空海=白方誕生説」を流布した仏母院や弥谷寺は、善通寺とは別の系譜の僧侶や聖がいたことがうかがえます。その後、弥谷寺は善通寺からの指導者を受入れるようになり、「空海=白方誕生説」の流布を止めますが、白方では父母寺に代わって海岸寺がこれを流布し、奥の院を建立します。それを本寺の道隆寺も保護します。これが善通寺と海岸寺の争論へと発展していくことは以前にお話ししましたので省略します。
DSC03829
海岸寺奥の院

続いて75番善通寺の真言系阿弥陀信仰の痕跡を探してみましょう
この寺には、御影堂の西にある墓地に多くの歴代院主の墓石が建立されています。その中に次の墓石があります
(サ)    明暦四□年
(キリーク) 為□□□□禅定問
(サク)   □月二十日 施主 近藤喜三
明暦四年(1658)の建立で、上部に阿弥陀三尊の種子、両側面には五輪塔が浮き彫りされておいるようです。このような例はほとんどない珍しい形式だと研究者は指摘します。これも「真言系阿弥陀信仰の遺物」と言えるようです。

72番出釈迦寺奥院(いわゆる「禅定」)にも自然石に刻まれた名号石があるようです。
禅定は捨身ケ岳ともいわれ、弘法人師が幼いときに捨身修行した時に、釈迦如来が現れ救った所として、中世の修験者の中では聖地として有名だったようです。
DSC02600

西行もここへ来て何年も修行しています。この山は弘法大師修行の地と修験者たちには聖地で、我拝師山と呼ばれてきました。

DSC02575

現在の我拝師山は、塔跡といわれるところに大師堂と鐘楼があます。そこから東に捨身ケ岳を仰ぎ見ることができます。名号石は本堂・鐘楼堂のすぐ下に、北面して建てられています。これが当初からあった場所なのかどうかは分かりません。「南無阿弥陀仏」あるだけで、建立年代などはありません。研究者は、江戸時代中期頃以前と見ているようです。
 この名号石の少し上の場所に釈迦如来の石像があります。こちらは天保七年(1836)と刻まれています。江戸時代末のものです。この周辺に十王石像が十体並べられています。我拝師山には地蔵菩薩の世界と通じる信仰の痕跡がうかがえるようです。
 この我拝師山について、五来重氏は西行『山家集』などの記事から「我拝師山(がはいし)」は、もともとは「わかいち」のことで、熊野の若王子が祀られていたと指摘します。若一王子は、熊野修験者が信仰したものです。熊野信仰の痕跡もあることになりますが、ただ現在は、その遺物は何も確認されていないようです。ここにも熊野信仰に、後から弘法大師信仰が接木された跡はあるようです。
屋島寺縁起絵
屋島寺縁起絵
84番屋島寺にも六字名号があります。
自然石に刻まれていて、我拝師山の禅定にあるものに比べると風化が進んでいるようです。建立年代は江戸時代中期以前と研究者は見ています。場所は、旧遍路道治いの屋島山上に近い場所で、坂道を登ってきた遍路達を迎えたのでしょう。当時の遍路達は、ここで手を併せて南無阿弥陀仏を唱え、拝したのかもしれません。
屋島寺は、鎮守が熊野神社です。寛文十年頃の『御領分中寺々由来』には、次のように記されます。
当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法人師之勧進之也

熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。まさに熊野信仰と弘法大師信仰の合体の典型例を見るようです。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりません。しかし、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあることは以前にお話ししました。
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 
という熊野修験者のテリトリー拡大の時期のこととしておきましょう。
 大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永十四(1407)年の行政坊有慶吐那売券には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 屋島寺には「熊野本地絵巻」があります。熊野絵巻は熊野比丘尼が絵説きしたといわれますので、熊野比丘尼がいたこともうかがえます。
屋島寺 金毘羅参拝名所2

さらに本堂の東方には「皿の池」が残ります。これは源平合戦で、戦の後に刀を洗ったと伝えられます。しかし、熊野比丘尼がいたとすると『血盆経』と関係がありそうです。「血盆経」は血の穢(けが)れのために地獄へ堕ちた女人を救済するための経典とされます。

霊場に残る念仏・阿弥陀信仰の痕跡を追いかけ見ました。
これらをもたらしたのは、時宗念仏化した高野聖だったと研究者は考えているようです。彼らは弘法大師信仰も同時に持っていました。こうして修験者や聖などの廻国性の宗教者が集まる寺院では、「弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」が広がっていきます。
 しかし、高野山本山での「原理主義運動」の高揚の結果、高野聖達が排斥され、念仏信仰も粛正されていきます。その影響は、四国霊場寺院にも及びます。高野山と同じように、念仏信仰の痕跡は消えていくことになるのです。
そして、札所で南無阿弥陀仏が唱えられることはなくなります。代わって光明真言が最初に唱えられることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」
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四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

  

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。
二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

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これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

貴族の専有物であった古代寺院が、どのように民衆化していくのかを修験者や聖の視点から見ていこうと思います。空海・最澄の登場によって、平安時代になるとそれまでの都市仏教から、山深い山岳に巨大な寺院を建立されるようになります。
この時期の山岳寺院には、次のような特徴があると云われます。
①規模が比較的大きいこと
②山岳を修行の場とする密教寺院であること
③国家を鎮護し貴族の安穏を祈る国家的または貴族的仏教
役小角 - Wikiwand

11世紀を過ぎるころから、それまでの寺院の枠組みを越えて修行する山岳修行者=修験者・山伏が現れます。彼らは修行集団を形成し、諸国の霊山をめぐるようになります。諸国の名山とはたとえば12世紀に著された『梁塵秘抄』に見える七高山です。

他方、寺院の枠組みを越えて活動するもう一つの僧侶集団が形成されてきます。
高野聖とは - コトバンク

僧侶の中では最下層に属し、半僧半俗的な性格を持つ聖集団です。
彼等は庶民を日常生活の苦難から救済し、仏教を広めるとともに、民衆から生活の糧を得て社会活動を行い、堂塔を建立するための勧進活動を行うようになります。
 つまり、寺院の枠組みを越えた集団である「修験者・山伏と勧進聖」が姿を現すようになったのです。ともすれば寺院のなかに閉じこもり、国家や有力貴族のためだけに活動していた仏教寺院を、民衆救済へ変化させていったのが「修験者・山伏と勧進聖」になるようです。
修験者と勧進聖の役割
修験者は信仰を深めるために厳しい修行を行うとともに、人々を組織して先達となって霊山・寺院へ誘引するようになります。それの一つが四国八十八所や西国三十三所巡礼へとつながっていきます。
 また彼らは民衆救済のひとつの形として、農業技術、土木事業、医療活動などの社会活動も行います。
勧進活動 行基
行基菩薩勧進帳 鶴林寺 文明八年(1486)
鶴林寺の開基は寺伝では聖徳太子ですが「六禅衆供田寄進状」(『鎌倉遺文』)には「当寺本願行基菩薩」とあり、行基菩薩が開いたとされます。中世では行基開創伝承もあったようです。この本勧進帳は行基坐像の胎内から発見されたもので、勧進により行基像が造像されたことがわかります。これによると、文明18年から勧進から始り、多数の人々の勧進により造像されたようです。

彼らがどれだけ大きな勢力を持っていたかは、鎌倉時代初期の重源の狭山池の改修や東大寺再建事業からもうかがえます。
勧進 狭山池勧進碑
狭山池重源改修碑 大阪府立狭山池博物館 建仁二年(1202)
古墳時代に築造された狭山池は、古くは行基も、池の修復を行っています。鎌倉時代初期に東大寺大勧進職であった重源も、彼の業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に狭山池を修復したとの記載があります。平成五年(1993)の改修工事中に、重源の改修工事記念碑が発見されました。重源が勧進活動により修復を行ったことが記されています。

勧進僧の活動の一つは、念仏聖を中心とした民衆の「死後」の恐怖からの救済でした。古代仏教は葬儀とは無縁の存在でした。その意味で民衆信仰としての「葬送」は、新時代の仏教民衆化の要になりました。死者への葬送儀礼に関わった宗派の僧侶が民衆からの信頼と支持を得ることになります。平安時代初期には、死者への葬送儀礼の作法は、道教の影響が大きかったようです。それが次第に仏教儀礼へと代わっていくのは念仏聖たちによる社会活動の結果です。

納骨塔元興寺 鎌含時代
納骨塔 元興寺 鎌含時代・室町時代
納骨は、死者供養の一種で、法華堂や三味堂などに奉納されました。元興寺寺も納骨寺院の一つであり、納骨容器である五輪塔以外に、宝珠医印塔や層塔などのもありますがすべて小型の木製です。中に骨を入れ、堂内の柱などに打ちつけられました。
戦場の陣僧
戦場の陣僧

その例を時宗僧侶の活動から見てみましょう。
時宗僧侶達は、「陣僧」と呼ばれ、戦場にでて人々の救済に尽くすようになります。鎌倉幕府減亡の元弘三年(1333)五月二八日付けの時宗道場・藤沢清浄光寺の他阿の手紙は、時宗僧侶の働きを、次のように記しています。
鎌倉は大騒ぎですが、道場は閑散としています。合戦前、寺に足繁く通ってきた武士たちは戦場にいます。城の中も攻める側も念仏で満ちていて、捕縛されて頸を討たれる武士に念仏を唱えさせ成仏させました。

ここからは、時宗僧が「陣僧」として戦場に残らず出かけたため、寺は閑散としていたことが分かります。合戦前には敵味方なく時宗寺院に通ってきた武士達が、戦場では殺し合いながら念仏を唱えています。首を討たれる武士にも念仏を唱えさせ、浄土に送っています。彼らが敵味方分かつことなく死の際で活動していたことが分かります。
時宗一遍

一遍を開祖とする時衆僧は「南無阿弥陀仏」の名号を唱え遊行したました。
日常を臨終と心得て念仏信仰をつらぬくスタイルは、合戦で死と隣り合わせになる武士と共感を持って受けいれられたようです。聖らは、戦場で傷を負ったものに、息絶える前に念仏を10回唱えさせて極楽浄土にいけると安心させ、往生の姿を看取ります。
時宗陣僧の活動をもう少し見ておきましょう
 河内金剛山の楠木正成討伐軍に加わり捕縛された佐介貞俊は、頸を打たれる前に、十念を勧める聖に腰刀を鎌倉の妻子のもとへ届けるように頼みます。そして十念を高唱して頸を刻ねられます。聖が届けた形見の刀で、妻は自刃します。それが『太平記』で語られています。
 応永七年(1400)の信州川中島での小笠原長秀と村上満信らの合戦を記した『大塔物語』を見てみましょう。
大塔物語

ここには、善光寺などの時衆僧らが切腹などで死の間際にあるものに十念をさずけています。合戦がおわると戦場に散らばる屍をあつめて葬り、卒塔婆をたてて供養し、戦場の様子を一族に報告したと記します。戦いを見届け、絶命するものに念仏を勧め、打たれた頸をもらいうけ、遺言とともに形見の品を遺族に届け、敵味方なく遺体をかたづけて供養し、塔婆をたててこれを悼む。
 ここには、戦場の一部始終を見届ける役回りを果たす陣僧の姿があります。彼らの語りが文字に姿をかえ、『太平記』『大塔物語』をはじめとする軍記物語に詳細に描き込まれることとなったと研究者は考えているようです。
  同時に、このような活動を行い死者を供養する姿に、武士達は共感と支持を持つようになります死者の魂と、どのように関わっていくのかが鎌倉新宗教のひとつの課題でもあったようです。

中世寺院の民衆化
中世になり律令体制が解体すると、国家や貴族に寄生していた中世寺院は、経営困難に陥ります。つまり国衛領や荘国による維持が困難になったのです。そのような中で、武士・土豪さらには一般民衆へと支持母体をシフトしていく道が探られます。それは結果として、中世寺院自体の武士化や民衆化を招くことになります。

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一遍絵図

 寺院の周辺に民衆が居住し様々な奉仕を行っていたことは、一遍絵図を見ているとよく分かります。
時代が下がるにつれて寺院内へ僧侶または俗人として民衆自身が入り込むようになります。それまで寺院の上層僧侶が行っていた法会も、一部民衆が担うようになります。例えば、兵庫県東播地方の天台宗寺院に見られる追灘会(鬼追い式)が、戦国期には付近の民衆が経済的に負担し、行事にも参加するようになっていきます。これは「中世寺院の民衆化」現象なのでしょう。
追儺会(鬼追い式)|興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント

「民衆化」現象は、最初は寺院と民衆をつなぐ修験者山伏や念仏僧などの勧進聖から始まり、次第に中世寺院自体が民衆化していくという形をとります。
それが最も象徴的に現れたのが戦国時代末の戦乱期でした。
 戦国時代末になると、中世寺院では修行者山伏・聖集団が寺内で大きな地位を占めるようになります。そして、彼らは寺院周辺に生活する武士や民衆と寺院との間にも密接な関係を作り上げていきます。戦乱で寺領を失い、兵火で伽藍が焼かれた場合も、立ち直って行く原動力は、寺院内部では下層とされた修験者や勧進聖たちでした。彼らによる勧進活動が行われない寺院は、再建されることなく姿を消して行ったのです。まさに修験者や勧進僧が活躍しなければ、寺が再建されることはなかったのです。彼らの存在意義は否応なく高まります。
そういう意味では戦国時代末期は、中世寺院が最も民衆化した時期でもあったようです。
ところがこのように民衆化した寺院を一変させたのが、信長・秀吉・家康によつて進められた寺社政策です。
信長に寺領を奪われた中世寺院は、秀吉からそれまでの寺領のうち数分一の朱印地を返されたのに過ぎません。また中世寺院は、寺院周辺の民衆との関係を断ち切られます。さらに寺院内での修験者山伏や勧進聖の地位が低められたり排除されたり、また彼等の社会的な活動も大きく制限されます。これは中世前期の「本来」の寺院の姿に戻させるという意図があったかもしれませんが、修験者たちは経済的には困難な状態が続き、近世の間ずっと長期衰退状態が続きます。
他方、民衆と寺院との関係では巡礼・参詣などという信仰上の関係はそのまま続き、寺院経済の重要な支えとなっていきます。このように近世の中世寺院は戦国時代末期の姿で近世化したのではなく、かなり大きく変化させた形で近世化したとものであると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
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    中世寺院 一遍絵図湯屋
  一遍絵図を見ていると上のような建物が描かれていました。
右からはね釣瓶で井戸から水を汲み上げているようです。その左に五右衛門風呂のような窯が据えられて童が薪をくべています。屋根の上からは、煙が立っています。校倉造りの白い壁の建物が湯殿なのでしょうか。中世の大寺院には湯屋があったようです。それでは、湯屋は寺院にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
中世湯屋 上醍醐西谷湯屋
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