前回は「高松七観音巡礼」をしながら次のような事を見てきました。
①近世初頭の高松周辺には、国分寺・白峰寺・根来寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺が観音信仰の拠点となり、人々が「高松七観音巡礼」を行っていたこと。
②これらの寺院が、後の四国霊場札所と重なること
③ここからは中世の山林修行者や念仏たちが行っていた中辺路修行ルートが、近世に四国遍路道になっていったことがうかがえること。
④高松西部の五色台周辺の国分寺・白峰寺・根来寺については、本尊が同じ巨木から作られた千手観音という伝えがのこり、山林修行者の拠点として相互に結ばれていたこと。
今回は、高松七観音巡りの後半部の寺院をめぐっていくことにします。
まずは、屋島寺の千手観音です。
千手観音が、中世に普及するのは補陀落渡海信仰の影響があるとされています。その背景には、那智の補陀落渡海山寺の千手観音が、熊野行者達によって補陀落信仰と共に勧進されたことにあると研究者は考えているようです。
千手観音が、中世に普及するのは補陀落渡海信仰の影響があるとされています。その背景には、那智の補陀落渡海山寺の千手観音が、熊野行者達によって補陀落信仰と共に勧進されたことにあると研究者は考えているようです。
屋島寺 十一面千手観世音菩薩
仏教において、衆生を救うため、観世音菩薩はあらゆる姿に変化します。十一面千手観世音菩薩もそのひとつで、頭上には表情を変化させた11の顔、11面をおき、42本の手で千本の手を表現しています。本像は、頭と身体の主要な部分をひとかたまりのカヤ材から彫刻し、像の内部は刳(く)り抜いていません。太い首にハリのある胸、バランス良く構成された脇手、安定感のある脚部と、その造形は見応えがあります。顔立ちは、ふくよかな頬と鼻、厚い唇などが特徴的で、個性的な造形は讃岐における造仏を思わせます。着衣のうち、膝下の部分などには、大小の波を交互にくりかえすようなひだ(翻波式衣文:ほんぱしきえもん)があらわされています。
屋島寺 十一面千手観世音菩薩
制作時期は平安時代前期の10世紀の初め頃とみられ、香川県内でもとくに優れた平安彫刻といえます。頭上面およびすべての手は制作当初のものであり、さらに観音像の光を表現した光背がともにのこされていることも大変めずらしく貴重です。屋島寺の本尊として本堂に安置されていましたが、現在は同寺宝物館で公開されています。
この千手観音の造作時期が平安時代前期で、「県内屈指の古像」とされていることを押さえておきます。
屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
意訳変換しておくと
屋島寺の開基は鑑真和上である。鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)その後退転していたのを、弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。
ここに書かれていることを要約しておくと
①開基は鑑眞で、屋島北峯に建立した寺は、日本で最初の律宗寺院であること②退転して寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を安置したこと③大門の額には、遍照金剛三密行所当都率天内院管門と書いた
①からは、屋島寺の歴史の中で、奈良西大寺の律宗集団が何らかの貢献をしていたことがうかがえます。②からは、その上に弘法大師伝説が接木されます。空海は門の額に、「遍照金剛は三密を行ずるところに当たり、しかも都率天(とそつてん)の内院の入口である」と記したとあります。遍照金剛は大日如来の別名です。大日如来の浄土は都率天よりもはるかに格の高いところです。当時の屋島寺には弥勒菩薩信仰もあったようで、都卒天の内院に入る関門だと書いています。ちなみに縁起で空海作とされる千手観音の造立は、空海入定後の数十年後のものになります。空海作とはできません。
信貴山絵巻の飛鉢
縁起には、屋島の飛鉢伝説が次のように記されています。
其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。
意訳変換しておくと
鑑真は、(瀬戸内海を航行し)奈良に入る時に、屋島寺を建立し、鑑真和尚の衣や鉄鉢を残した。この鉢は空を飛んで、沖ゆく船に下りたって、斎料(海関料・寄進)を集めた。
鉢が空を飛ぶことを飛鉢といって、その伝承がいろいろなお寺に残っています。例えば、越後には米山の沖を通る船に米を請うて、船頭が断わると鉄鉢が船のお米が全部山に運んできた。それで米山という地名になったという話があります。また修験者が修行をしていたときに、鉄鉢を飛ばして船から米を全部奪ってしまった話も伝えられています。沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは、以前に庄内半島の三崎神社で話ししました。納めなければ災いが襲うのです。屋島寺も沖ゆく船から多く奉納品を受けていたことがうかがえます。
鉢を飛ばして奉納品を集めるというのは神仙術です。
山岳宗教は、もとをただせば仙人(道教)の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。それが「原始修験道」です。役行者以前は、そういうことができるのが修験者の理想だったことを押さえておきます。
以上から屋島寺には「山林修行者 + 弘法大師伝説 + 西大寺律宗(鑑眞)」などの痕跡があることを押さえておきます。
山岳宗教は、もとをただせば仙人(道教)の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。それが「原始修験道」です。役行者以前は、そういうことができるのが修験者の理想だったことを押さえておきます。
以上から屋島寺には「山林修行者 + 弘法大師伝説 + 西大寺律宗(鑑眞)」などの痕跡があることを押さえておきます。
屋島寺
屋島寺の地理環境を見ておきましょう。
①屋島山上に位置し、西には大きく広がる瀬戸内海があり、沖ゆく船の監視などにも最適②海に突き出した地形で、補堕落渡海の行場としても適している③周囲には多くの岩場があり、山岳修行の場として修験者が好みそうな要素あり。
屋島が戦略的な要衝で、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺であったことが分かります。そこに開かれた寺院の本尊が、平安時代前期(9世紀末期~)の「県内屈指の古像」である千手観音なのです。そういえば前回見た高松七観音の国分寺・白峰寺・根来寺もみな千手観音でした。
また屋島寺は熊野神社を鎮守社としています。
ここには熊野権現を弘法大師が勧進したと書かれています。ここにも「熊野信仰 + 弘法大師信仰」の合体が見られます。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりませんが、周囲の状況から推察すると
また屋島寺は熊野神社を鎮守社としています。
寛文十年頃に高松藩が作成したとされる『御領分中寺々由来』の屋島寺の項には、次のように記されています。
当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法大師之勧進之也
ここには熊野権現を弘法大師が勧進したと書かれています。ここにも「熊野信仰 + 弘法大師信仰」の合体が見られます。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりませんが、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあると研究者は考えています。大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
さらに屋島寺は近世初期の「熊野本地絵巻」を所蔵しています。この種の絵巻は、熊野比丘尼が絵解きした時に使用されたといわれます。ここからは、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。また境内に残る「血の池」も、熊野比丘尼が屋島寺にいたことを裏付けます。
屋島から東を望むと見えるのが五剣山です。ここには八栗寺があります。
天を指すような岩稜は海から見ても目立つ山です。次に五剣山山中の八栗寺を巡っていきます。五剣山はその姿から備讃瀬戸を行く海人たちの目印となったことでしょう。そこへ熊野水軍とともに熊野行者がやってきます。彼らがまず探したのは、行場です。行場として五剣山は最適の条件を備えています。彼らが五剣山の行場を見逃すはずはありません。しかし、五剣山には屋島のように古い記録や仏像は残っていません。
もともと八栗寺は、六万寺の奥院だったようです。
六万寺は源平合戦以前には、屋島を水軍拠点とした平家の保護を受けて、大いに栄えていたようです。その行場が五剣山で、そこに建立された奥の院が八栗寺という関係になります。中世には両寺は深い関係にありました。平家というパトロンを失った六万寺は衰退しますが、修験者や山林修行者の行場としての八栗寺は、その後も生き残っていきます。
天を指すような岩稜は海から見ても目立つ山です。次に五剣山山中の八栗寺を巡っていきます。五剣山はその姿から備讃瀬戸を行く海人たちの目印となったことでしょう。そこへ熊野水軍とともに熊野行者がやってきます。彼らがまず探したのは、行場です。行場として五剣山は最適の条件を備えています。彼らが五剣山の行場を見逃すはずはありません。しかし、五剣山には屋島のように古い記録や仏像は残っていません。
もともと八栗寺は、六万寺の奥院だったようです。
六万寺は源平合戦以前には、屋島を水軍拠点とした平家の保護を受けて、大いに栄えていたようです。その行場が五剣山で、そこに建立された奥の院が八栗寺という関係になります。中世には両寺は深い関係にありました。平家というパトロンを失った六万寺は衰退しますが、修験者や山林修行者の行場としての八栗寺は、その後も生き残っていきます。
五剣山と八栗寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。21日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
この地も空海が虚空蔵聞持法を修した聖地として、伝わっていたようです。そして空海は千手観音を残したとされています。空海修行の地とされた五剣山には多くの行者達がやってきて、行をおこなったようです。そこに現れたのが八栗寺ということになるようです。八栗寺は蔵王権現を祀り、山岳修行の行場に建立された山伏寺です。
五剣山と壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。八栗寺と五剣山(四国遍礼霊場記)
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系密教修験者の影響下の行場だったようです。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。いまでも五剣山は、修行の山として機能している霊地です。デフォルメされた五剣山
澄禅の『四国遍路日記』に、八栗寺の住職から聞いた話として、次のように記します。
昔、義経が阿波の国へ上陸して屋島を目ざす途中、2月18日牟礼高松に来て、八栗寺へ押しかけてきた。その時にこの寺では僧侶が集まって観音講をしていた。ときの声が聞えたので、観音講に集っていた者はみんな後の山へ逃げたが、源氏の雑兵たちは寺へおし入って、観音講のためにつくっておいた釜二つに入っていた飯をよい兵糧があるといって配分して食べてしまった。そうして弁慶は鎧を着たままたわむれにお経を上げたので、皆の者がお互いに笑いあった
この話は、八栗寺独自のものでなく阿波の国の3番金泉寺や大山寺の話のコピー版です。もともとは『平家物語』に出ているもので、説経師や聖たちの「説話運搬者」によって、八栗寺にもたらされたものでしょう。ここで私が注目したいのは「僧侶が集まって観音講」を開いていたという所です。中世には、八栗寺でも観音信仰が強く、観音講が組織されていたことがうかがえます。これらの講に集まる人々が、聖や山伏を先達として、高松周辺の七観音霊場を「ミニ巡礼」していた姿が想像できます。ここでは中世には、千手観音を信仰する観音講が開かれていたことを押さえておきます。
志度寺の扁額「補陀落山」
志度寺の扁額には「補陀落山」と書かれています。志度寺本尊の十一面観音立像は像高146cmで桧材の一木造りである。十一面観音は頭上に十一面の仏面をいただき、衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる。広大な功徳を形に表した尊像であり、頭上の仏面の正面3面は慈悲の相、左方3面は慎怒相(しんぬそう)、右方3面は白牙上出(はくげじょうしゅつ)の相、後方1面は大笑(だいしょう)の相で、頭頂1面は阿弥陀仏面を表している。
今まで見てきた高松七観音の本尊は、すべて千手観音でしたが、志度寺は十一面観音です。
この本尊の由来について、「志度道場縁起文」7巻の1編目の『御衣本縁起』は、次のように記します。
この本尊の由来について、「志度道場縁起文」7巻の1編目の『御衣本縁起』は、次のように記します。
近江の国に白蓮華という非常に大きな木があった。雷が落ちて琵琶湖に流れ出したが、その木の行さきざきで災いが起こるので、瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流された。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄って、それで十一面観音を刻んだ。
これはどこかで聞いたことがあると思ったら、「長谷寺縁起」のSTORYとおなじです。長谷寺で観音さまになったはずの木が、禍を引き起こすので流され、流され、讃岐の志度までやってきて流れ着いた話になっています。そういえば白峯寺縁起も、補陀落から流れ着いた巨木で、国分寺・白峰寺・根来寺の千手観音は作られたと書かれていました。文保二年(1218)という年号があるので、鎌倉時代末にはできあがっていことが分かります。今まで見てきた寺の観音さまに比べると、少し遅れて現れたことになります。薗の尼という比丘尼が発願し「一幅二図シテ」絵図化したのが「御衣木之縁起」になります。
「御衣木之縁起」(霊木が志度に流れ着いた部分)
この話の下敷きは、長谷寺縁起です。それを「流用」「改変」したのも説経師や高野聖などの「説話運搬者」だったのでしょう。志度寺の7つの縁起からは、寄進・勧進を進めた下級の聖たちが垣間見えてきます。
志度寺の縁起は、どんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えてます。囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促します。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善を果たせと説きます。作善とは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などでした。
高野聖は、志度寺をどのように運営・プロデユースしたのか?
聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進のために知識(信仰集団)を組織することです。講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。唱導の第1歩は、次の通りです
①縁起や諸仏誓願や功徳を説き
②釈尊の本生(前世)や生涯を語り、③高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、信仰と作善の大切さを説きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
志度寺(讃岐国名勝図会)
盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。こうして盆には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて15日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。
志度寺 十一面観音図
これを演出・プロデュースしたのが高野聖です。彼らは先達と鳴ってなって富裕層を、高野山へと誘引する役割も果たしました。そして、志度寺の周りには、聖たちの坊や庵・子院が並ぶことになります。 最後に長尾寺を見ていくことにします。
長尾寺は、もともとは志度寺の末寺だったと研究者は考えているようです。調査書に載せられている長尾寺の仏達を見ていくことにします。伽藍の建物の建立順番について調査報告書は、次のように推察しています。
A 観音堂(本堂)→ B 阿弥陀堂 →C 護摩堂 → D 大師堂
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたものB「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立。
ここからは長尾寺を開いたのが熊野行者たちだったことがうかがえます。
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。
残念ながら長尾寺の観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。しかし、過去に調査されたことがあるようで、『文化財地区別総合調査報告 第1集 香川県教育委員会、1972年)には、次のように記されています。
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。
残念ながら長尾寺の観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。しかし、過去に調査されたことがあるようで、『文化財地区別総合調査報告 第1集 香川県教育委員会、1972年)には、次のように記されています。
右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像である。檜材寄木造、平安時代の作
秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です。
長尾寺 本尊の前立仏の聖観音
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風の聖観音です。志度寺も聖観音でした。長尾寺は、志度寺の末寺からスタートしたとすると、それは当然のことかもしれません。この観音さまは、初代高松藩主・松平頼重が寄進したもので、台座裏に元禄6年(1693)正月の墨書銘があるので、17世紀後半の観音さまでです。しかし、本尊を模して作られた可能性はあります。
前立ちの聖観音台座の墨書 源英(松平頼重)の名が見える
以上、「高松七観音巡礼」をおこなってきました。その中で、千手観音が本尊として安置されている所が多かったようです。それはどうしてなのでしょうか? これを解く鍵は、熊野信仰との関わりです。
補陀洛山寺の三面千手観音
補陀落信仰の中心となった熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)の本尊は、三面千手観音です。ここからは、熊野行者によって四国に補陀落信仰が持ち込まれ、その本尊として千手観音が作られたことがうかがえます。
補陀落信仰を受けた「高松七観音」の寺院も、その開基に熊野行者が大きな役割を果たしたことが考えられます。そこに遅れて来るのが高野聖です。彼らは阿弥陀信仰と弘法大師信仰をもたらします。こうして、近世になると観音信仰から弘法大師信仰へと、信仰主体を交代させ四国霊場札所が姿を見せるようになるとしておきましょう。
以上を整理しておきます。
①古墳時代以来、大和勢力の朝鮮との交易活動をになったのが紀伊勢力(後の紀伊水軍)であった。
②彼らは熊野信仰を持ち、熊野業者を航海の安全祈祷の祈祷師として乗船させて、瀬戸内海を行き来した。
②彼らは熊野信仰を持ち、熊野業者を航海の安全祈祷の祈祷師として乗船させて、瀬戸内海を行き来した。
③こうして熊野行者は熊野水軍の先達として、各地に拠点を構え、その地で行場を開くようになった。
④その代表例が、吉備の新熊野(五流修験)や、大三島神社の社僧集団であった。
⑤こうして、讃岐でも高松周辺の五色台や屋島・五剣山などには、早くから熊野行者が入り込み、行場を開き、そこに寺院を建立した。
⑥その際に本尊として安置したのが、熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)と同じ、千手観音であった。
つまり、高松七観音は熊野信仰で結ばれていたと私は考えています。そのため対岸の吉備の五流修験とも密接な関係があったように思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 讃岐の七観音 四国へんろの歴史15P」
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「武田和昭 讃岐の七観音 四国へんろの歴史15P」
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