瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 絵図を読む


大師は高野山の奥の院に生身をとどめ、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世にあらわれでられるまでの間、すっとわれわれを見守り救済しつづけているという信仰があります。これを「弘法大師の入定留身」と呼ぶようです。この信仰が生まれる契機となったのは、大師への大師号下賜だったとされてきました。それは次のような話です。

  空海は、承和2年(835)年3月21日に入滅した。その86年後の延喜21年(921)年10月27日に、「弘法大師」の諡号が峨醐天皇から下賜されることになった。その報告のため、奥の院に参詣した観賢は、人定留身されている空海の姿を拝見し、その髪を剃り、醍醐天皇から賜わつた御衣を着せて差し上げた。

 26御衣替
奥の院に参詣した観賢が、人定留身の空海と出会う場面

今回はこの「入定留身」伝説を、高野空海行状図画で見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房192P」です。

今生での別れのときが近いことを悟った空海は、承和元年(834)5月、弟子たちを集めます。
そして「僧団のあるべき姿と日々の仏道修行のあり方を、また高野山を真然に付嘱すること」を遺言したとされます。その場面が「門徒雅訓」です。

第九巻‐第2場面 門徒雅訓 高野空海行状図画


門徒雅訓 江戸時代の天保5年(1834)に模写
           門徒雅訓 高野空海行状図画(トーハク模写版)

 この絵図版は、狩野〈晴川院〉養信ほかが、天保5年(1834)に模写したもで、トーハク所蔵でデジタルアーカイブからも見ることができます。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたもののようです。
 中央の椅子にすわりこちらにむかってっているのが空海です。そして弟子たちがその廻りに座っています。しかし、空海の顔が見えませんし、弟子たちは七人しか描かれていません。

門徒雅訓 高野空海行状図画 親王本
    門徒雅訓 高野空海行状図画(親王版) 十大弟子に遺言する空海
一方、こちらは十大弟子とされる「真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・智泉・忠延」が、空海ののまわりを取り囲んでいます。今の私にはこの絵の中に、誰がどこに描かれているのかは分かりません。悪しからず。
 空海が高野山を開いた当時は、奈良の「南都六宗」の力が巨大で、生まれたばかりの真言宗は弱小の新興勢力でしかありません。そのために空海はブレーンを集めるのに苦労したようです。そこで頼ったの「血縁と地縁」です。実恵は空海の佐伯直本家出身、真雅は空海の弟、智泉と真然は甥、とされます。空海と同じ讃岐の出身者の割合が高いのです。初期の真言集団が、讃岐出身者で固められていたことをここでは押さえておきます。
 祖師に仕える十人の弟子の絵は、何を表しているのでしょうか?
 
これを深読みすると、当時の真言宗の階層性社会が見えてくると研究者は考えています。別の視点から見ると、高野山の伽藍の堂宇は彼らによって造営されたものです。人物は高野山の伽藍を象徴しているとします。僧侶の肖像画は、教団と伽藍を示す暗喩でもあると云うのです。
 また地蔵院流道教方の歴代僧侶画像には「真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁海・成尊・義範・勝覚・定海・元海・実運・勝賢・成賢・道教」が描かれています。密教では師から弟子へと教えを引き継ぐ儀式を灌頂といい、頭の上(頂)から水を注(灌)ぐように、師の知識や経験、記憶は弟子へと受け継がれていきます。その際には、教えを受け継いできた歴代僧名を記した系譜「血脈(けちみゃく)」が与えられます。そういう意味では、この歴代僧侶画像は「血脈を絵画化」したものと研究者は考えています。
 歴代先師の肖像は、僧侶が受け継いだ教義の道程を示すものであり、僧侶自身が歴史の連続体の中にあることを実感させる道具の役割を果たします。
いわば肖像は、過去から現在へと連なる時間の流れを視覚化するものなのです。並んだ歴代肖像画を見上げる僧侶達は、自分がとどの祖から派生し、どの血脈に賊するかがすぐに分かります。十人の弟子たちが描かれていると云うことは、そんなことも意味するようです。とすれば、トーハク版の法が十人をしっかりと描いていません。原画は、それに無頓着な時代に描かれたことが考えられます。
 またこの十大弟子に、後に孫弟子で「高野山二世」となった真然(しんぜん)と、平安中・後期に高野山の再興に尽くした祈親上人(定誉)の2人が追加され、十二人になります。十二人ですが「釈迦の十大弟子」になぞらえ、人数が増えてもそのままの呼称で呼ばれているようです。

入定留身1 高野空海行状図画
             入定留身

空海は、承和2年(835)3月15日、改めて弟子たちに遺言します。
これが「遺告(ゆいごう)二十五条」とされてきて権威ある文書とされてきました。しかし、近年では空海がみずから書いたものではないとする説が有力のようです。それは別にして、このこの「遺告二十五条」には、この時に空海は次のように云ったと記されています。

私は来る三月二十一日の寅刻(午前4時)に入定し、その後は必ず兜卒天(とそつてん)の弥勒菩薩のもとに行き、お前たちの信仰を見守っていよう。一心に修行するがよい。五十六億年あまりのち、弥勒菩薩とともに、必ずこの世に下生するから、と,(『定本全集』七 356P)

ここからは空海が亡くなったのは、承和2年(835)年3月21日の寅の刻であることが分かります。空海は胎蔵・大日如来の法界定印をむすび最期を迎えます。御歳63歳、具足戒ををうけてから31年目のことになります。
 この時のことを、高野空海行状図画は三場面で描いています。
右は、諸弟子に見守らて最期を迎えられたところです。真ん中にすわる空海となみだをぬぐう十人の弟子たち、
入定留身 高野空海行状図画親王本
 入定留身(高野空海行状図画 親王院本)
中央は、大塔のよこを黒い棺に人れられて運ばれている場面です。目指すのは左の奥の院です。
一説には次のように記します。
「弟子たちは、埋葬後も生前と同じように仕え、49日目に、鬚をそり、衣服をととのえて、住まわれていた住房(現御影堂)から奥の院に移した。後に石室を造り、陀維尼と仏舎利をおさめ、五輪塔をたてた」

ここでは、空海は黒い布が架かられた御簾で運ばれています。
左の奥の院には、一番奥に宝形造りの御廟と灯籠堂が、御廟の右に丹生・高野明神社が描かれています。この奥の院の風景は、平安末から鎌倉時代にかけてのものであり、当時のものではないことを研究者は指摘します。

入定留身 高野空海行状図画 生身の空海
       入定留身(高野空海行状図画模写)
江戸時代末の模写を見てみると、空海はまさに生き身の姿で担がれています。「入定留身」をより印象づける姿です。
入定留身 奥の院 高野空海行状図画
入定留身 奥の院への道には卒塔婆が並ぶ
時衆の開祖一遍も高野山にやってきています。それが  「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれています。そこに描かれた奥の院を見ておきましょう。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院

             「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた奥の院
①参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。
②その途中に右から左に小川が流れ、そこにに橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。これが今の「中橋」になるようです。
③中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きます。
④その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。
⑤周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。
⑥廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。
この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。

空海への大師号下賜


    921年の観賢の2度目の上奏に対して、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜したことが次の史料で裏付けられます。(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

  このあたりのことを高野山のHPには次のように記します。
10月27日、勅使の平維助卿一行が高野山に登嶺し、厳かに宣命を読み上げられました。その後、東寺の住職、観賢僧正は下賜伝達のため、弟子の淳祐を伴い、高野山へ。入定後初めて御廟の扉を押し開けたところ、そこには深い霧が立ちこめ、お大師さまの御姿を拝することが叶いませんでした。僧正は自らの不徳を嘆き、一心に祈られました。すると霧が晴れ、そこには天皇から聞かされていたとおりのお大師さまの御姿がありました。しかし、淳祐にはどうしてもその姿を拝することが叶いません。そこで僧正は淳祐の手を取り、お大師さまのお膝にそっと導かれます。その膝は温かく、淳祐の手には御香の良い香りが残りました。
 二人は準備しておいた剃刀ていとうでお大師さまの髪や髭を整えると、新しい御衣にお召し替えいただき、大師号下賜の報告を申し上げました。そしていよいよ観賢僧正と淳祐が御廟を退座し、御廟橋の袂たもとで後を振り返ると、そこにはお大師さまのお姿がありました。僧正は御礼を申し上げると、お大師さまは「汝なんじ一人を送るにあらず、ここへ訪ね来たるものは、誰一人漏らさず」と仰せられました。淳祐の手の香りは生涯消えず、持つ経典に同じ香りが移ったといわれております。

贈大師号 高野空海行状図画
          贈大師号 右が空海との対面場面 左が剃髪場面
右の場面は、大師号が下賜されたことを伝えるために、高野山に登った東寺長官の観賢と弟子淳佑(しゅんにゅう)が、奥の院の廟竃を開き、禅定の姿をした空海と対面した所です。
26御衣替
 高野山HPの空海との対面場面 

大師号下賜 親王院本九- 院納院本
贈大師号 高野空海行状図画(親王院本)
親王院本を見ると空海の頭には、長く伸びた髪が描かれています。この時に、姿を見たのは観賢だけで弟子淳佑は見ることはできなかったと記します。そこで観賢は、その姿を分からせるために空海の膝に触れさせようと、手を取って導いています。

大師号下賜 高野空海行状図画親王院本 剃髪

左の場面は、のびるにまかせていた空海の髪を観賢が剃っているシーンです。御髪を剃った観賢は、次のように詠います
たかの山 むすぶ庵に袖くらて 苔の下にぞ有明の月

空海が登場する霊夢を見た醍醐天皇自らが贈られた檜皮色の御衣を着せて、もとのように石室を閉じた、とします。この故事にもとづき、今も高野山では衣服を取り替える儀式が行われているようです。この「お衣替」の儀式は、 甦り、再生の儀式でもあると研究者は指摘します。こうして「空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめておられる」という「人定留身信仰」が生まれます。そして11世紀はじめになると、高野山の性格は「修行の山から信仰の山へ」と大きく変わっていくのです。空海はいまも、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」との大誓願のもと、われわれを見守りつづけてくださっているというのが高野山の立場のようです。
 研究者が注目するのは、画面に五輪塔が描かれていることです。しかし五輪搭があらわれるのは平安中期以後で、このような大型のものは、奈良西大寺の律宗の布教戦略に絡んで出現します。10世紀前半には五輪塔は早すぎるというのです。
以上を整理・要約すると
①空海は入滅後は、高野山奥の院の霊廟に入定した。
②それから86年後に空海に大師号が下賜された。
③それを知らせに高野山に赴いた東寺の観賢は、霊廟をあけると空海が髪を伸ばして座っている姿に出会った
④そこで髪を剃り、天皇より下賜された服を着せ、霊廟を閉めた。
⑤こうして空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめているという「人定留身信仰」が生まれた。
⑥この信仰は高野聖などによって各地に伝えられ、弘法大師伝説と高野山を使者供養の信仰の山として
全国に流布することになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」
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飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
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弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
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東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

前回は高野空海行状図画には、高野山開山のことがどのように描かれているのかを見ました。ただ絵伝類について研究者はつぎのように指摘します。

絵伝はその性格上、大師の行状事蹟を史実にもとづいて忠実に描写してゆくことを主眼としているのではなく、大師の偉大なる宗教性を強調し、民衆を教化してめこうとするところに、その目的がある。そのためにこれらの本は、至る所に霊験奇瑞が取り入れられているのが常である。
          「弘法大師 空海全集」第8巻 167P


行状図画などの絵巻物は、中世になって作られたもので、弘法大師伝説や高野山信仰を広めるために高野聖が絵解きのために使用されました。そのため後世に附会されたり、創作された部分が数多くあります。今回は、絵巻の作成の際に参考にした空海が残した文書に高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
まず、「高野山開創」の時期を年表化しておきます。
806(大同元)年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位。
  10月、空海帰国し、大宰府・観世音寺に滞在。
10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
809(大同4)年 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に移動・滞在
 7月 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
 空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。
810(大同5)年 薬子の変で、嵯峨天皇のために鎮護国家のための大祈祷実施
811(弘仁2)年から翌年にかけて乙訓寺の別当を務めた。
812(弘仁3)年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者には最澄もいた。  
12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名
815(弘仁6)年春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼。西国筑紫へも勧進をおこなった。
816(弘仁7)年6月19日、修禅道場として高野山下賜の上表文提出
                             7月8日、嵯峨天皇より高野山下賜の旨勅許を賜る。
817(弘仁8)年 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手
818(弘仁9)年11月、空海自身が高野山に登り翌年まで滞在し伽藍建造プラン作成?
819(弘仁10)年春、七里四方に結界を結び、高野山の伽藍建立に着手。
821(弘仁12)年 満濃池改修を指揮(?)
822(弘仁13)年 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。平城上皇に潅頂を授けた。
823(弘仁14)年正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
824(天長元)年2月、勅により神泉苑で雨乞祈雨法を修した。
         3月 少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)
空海は唐から帰朝した十年後の弘仁7(816)6月19日付に、嵯峨天皇に高野山の下賜を申し出ます。ここから高野山の歴史は始まるとされます。この願いはただちに聞き届けられ、7月8日、天皇は紀伊国司に太政官符を下し、大師の願い通りにするよう命じています。

空海が高野山の下賜を、嵯峨天皇に申し出た理由として、次の3つの説があるようです。
①空海が少年のころ、好んで山林修行をされていたとき、訪れたことがある旧知の山であり、そのころからすでにこの地に着目していたとする説
②十大弟子のひとりである円明の父・良豊田丸(よしのとよたまる)が、空海が伽藍建設にふさわしい土地を探し求めていることを聞き、高野山を進言したとする説。
③弘仁7(816)年4月、伽藍建立の地を探し求めていたとき、大和国宇智郡でひとりの猟師(犬飼)に出逢い、この犬飼に導かれて高野山にいたり、この地を譲られたとする説。

この3つの説の従来の評価は、次の通りです。
①が史料的にもっとも信憑性の高い説
②は史料的には必ずしも信頼できない説
③は伝説の域をでない説
以上を押さえた上で、空海の残した文章で、高野山の開創を見ていくことにします。
まず、 弘仁7年(816)6月19日付の空海の上表文の全文を押さえておきます。

空海上表文 高野山下賜

高野山下賜を願う空海上表文
紀伊の国伊都の郡高野の峰において、人定の所を請け乞わるるの表
A 沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤し、水積るときは魚龍産化す。是の故に嗜闍(ぎじゃ)の峻嶺には能仁(のうにん)の跡休ず。孤岸の奇峰には観世の跡相続ぐ。共の所由を尋ぬるに、地勢自ら爾なり。また台嶺の五寺には禅客肩を比べ、天山の一院には定侶袖を連ること有り。是れ則ち、国の宝、民の梁(はし)なり,
B 伏して推れば、我が朝歴代の皇帝、心を佛法に留めたまへり。金刹銀台櫛のごとく朝野に比び、義を談ずるの龍象、寺ごとに林を成す。法の興隆是において足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客乏しく、幽藪窮巌(ゆうそうきゅうがん)に入定の賓希(まれ)なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せざるが致す所なり。今禅経(密教)の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
C 空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野従り南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地有り。名付けて高野と曰ふ。計るに紀伊の国伊都郡の南に当れり。四面高峯にして人跡路耐えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を刈り夷(たいら)げて、聊か修禅の一院を建立せん。経の中に戒有り。「山河地水は悉く是れ国主の有なり、若し此丘、他の許さざる物を受用すれば、即ち盗罪を犯す」者(てへり)。加以(しかのみなら)ず、法の興廃は悉く人心に繋れり。若しは大、若しは小、敢えて自由ならず。
D 望みみ請うらくは、彼の空地を賜わることを蒙って、早く小願を遂げん。然れば則ち、四時に勤念して以て雨露の施を答したてまつらん。若し天恩允許せば、請う、所司に宣付したまへ。軽しく震展を塵して伏して深く煉越す。沙門空海、誠惇誠恐、謹んで言す。
弘仁七年六月卜九日 沙門空海上表す       (『定本全集』第八 169~171P
意訳変換しておくと
 紀伊の伊都郡高野の峰の下賜を請願書

A 私・空海は次のように聞いている。山が高いと雲集ま り、雨多くして草木を潤す。水が深いと魚龍集まり住 み、繁殖も盛んである。このように峻嶺たる嗜闊堀山に は、釈迦牟尼が出てその教えが継承され、奇峯たる補陀洛山には、観世音菩薩が追従されている。それはつまり高山峻嶺の地勢が、仏道修行者に好適地であるためである。また台嶺の五寺には、禅客が肩を並べて修行し、天山の一院には、優れた僧侶が袖を連ねています。これは、国の宝であり、民の柱です。
B 還りみると、歴代の天皇は佛法を保護し、壮麗なる伽藍や僧坊は櫛のはのごとくに、至るところにたちならび、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(じゅ)をなしています。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾におもえることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定にはいるものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法がいまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものです。いま禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
C 空海、若年のころに好んで山水をわたり歩きました。吉野の山より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること二日ほどのところに、高野と呼ばれている平原の閑寂なる土地がございます。この地は、紀伊の国伊都の郡の南にあたります。四方の峰高く、人跡なく、小道とて絶えてございません。いま、上(かみ)は国家のおんために、下(しも)は多くの修行者のために、この生い茂る原生林を刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立いたしたく存じます。
 経典の中に次のような戒めがあります。「山河地水は、総て国主(天皇)のものである。もし、国守の許さない土地を無断で受用すれば、即ち盗罪である。法の興廃は、人心の盛衰に繋がります。貴賤に関わらず、法を遵守することが大切です。
D 高野の地を下賜され、一刻も早く小願が遂げられること望み願います。そうすれば、昼夜四時につとめて、聖帝の慈恩にむくいたてまつります。もし恩顧をたれてお許したまえば、所司にその旨を宣付したまわらんことを請いたてまつります。軽軽しく聖帝の玉眼をけがし、まことに恐れ多く存じます。沙門空海誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言上いたします。        弘仁7年(816)6月19日 沙門空海表をたてまつる
この文章は空海が嵯峨天皇に宛てた上表文で、根本史料になります。後世の高野空海行状図画などの詞書は、この上表文を読み込んだ上で、これをベースにして書かれています。そして、後世になるほど付加される物語が増えていきます。
上表文の中で、空海が高野山のことを書いているのは、次の点です。
①若い頃に山岳修行で、高野山も修行ゲレンデとしてよく知っていた。
②位置は、古野から南へ一日、そこから西に向って三日の行程でたどりつける
③地理的環境は、まわりを高い峰々にかこまれ、まれにしか人の訪れることのない幽玄閑寂な沢地であること
④紀伊国伊都郡の南に位置していること

高野山4


ここで疑問に思うのは、どうして都から逮くはなれた不便な山中に、伽藍を建立しようとしたのかという点です。高野山開創の目的を、空海はDに「一つの小願を成し遂げるため」として、次のように記します。

私のお願いしたいことは、彼の空地(高野の地)を賜りまして、上は国家鎮護を祈念するための道場としての、下は多くの仏道修行者が修行するための道場としての、小さな修禅の密教の寺を建立して、早く小願を成し遂げたいことであります。



空海小願を発す。

 それでは「高野山開創」の小願を、空海は、いつ・どこで立てたのでしょうか?
それが分かるのは、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙です。主殿寮とは、天皇の行幸の際の乗物・笠・雨笠など一切の設営管理を担当する役所であり、布勢海はそこの次官でした。その手紙の全文を見ておきましょう。

A 此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。

B 貧道、少年の日、修渉の次に、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原有り。名づけて高野と曰う、計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高山にして人亦遙に絶えたり。彼の地、修禅の院を置くに宜し。今思わく、本誓を遂げんが為に、聊か一の草堂を造って、禅法を学習する弟子等をして、法に依って修行せしめん。但恐るるは、山河土地は国主の有なり。もし天許を蒙らずんば、本戒に違犯せんことを。伏して乞う。斯の望みを以聞して、彼の空地を賜うことを蒙らん。若し天恩允許せば、一の官符を紀伊国司に賜わらんことを欲す。
委曲は表中に在り。謹んで状を奉る。不具。沙門空海状す。
布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P
意訳変換しておくと

A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。次第に温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

B 私・空海は、若いときに山林修行を行いました。その際に、吉野山から南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原があることを知りました。この地は高野と呼ばれています。行政的には紀伊国伊都郡の南で、四方が高山で人跡絶えた処です。この地が、修禅の院(寺院)を置くに相応しいと考えています。今考えていることは、本願を遂げるために、小さな草堂を造って、禅法(密教)を学習する弟子等を育て、法に依って修行させたいと思います。しかし、私が恐れるのは、我が国の山河土地は、すべて国主たる天皇のものです。もし、天皇の許しを得ずして無断で、寺院を建立したとなれば、それは国法に違犯することになります。そこで、私の望みを以聞(天皇に伝えて)、彼の空地(高野山)を賜うことを取り計らって欲しいのです。もし、それが許されるのなら、官符を紀伊国司に下していただきたい。詳しくは別添の上表文に書いています。謹んで状を奉る。不具。
沙門空海状す。布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P

この手紙には、日付がありません。しかし、後半部は、先ほど見た上表文と同じ内容の文章があります。ここからは、高野山の下賜を願い出るに当たって、天皇側近の布勢海に、側面からの助力を依頼した私信と研究者は考えています。空海には、天皇側近中にも多くの支援信者たちがいたようです。
 このなか、船上で立てられた「小願」とは、Aの次の箇所です。

もし無事に帰国できたなら、諸々の天神地祇の成光を増益し、鎮護国家と人々の幸福を祈らんがために密教寺院を建て、密教の教えにもとづいた修禅観法を行いたい。願はくは善神われを護りたまい、早く本国に達せしめよ。

その結果、神々の加護をうけて無事帰国することができたのです。帰国後、月日はまたたく間に過ぎ去り、12年が過ぎ去ろうとしています。このときの小願をそのまま放置しておけば、神々をだますことになるので、一日も早く、神々との約束を成し遂げたいと、布勢海に切なる願いを伝えたのでしょう。
こうして、7月8日付で紀伊国司にあてて出された太政官符が以下の内容です。

紀伊国国司への太政官符 高野山
紀伊国司に下された太政官符 空海への下賜が命じられている

それでは、どうして高野山が選ばれたのでしょうか? 
その理由を空海は、上表文の中に次のように記しています。

今、禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宣し。

この時点では、空海は自らの教説を「密教」とは呼んでいません。「密教」という用語が登場する以前の段階です。ここでは「禅経」としています。禅経とは、『大日経』『企剛頂経』をはじめとする密教経論のことのようです。そうすると、密教経論には、密教の修行にもつともふさわしい場所が具体的に記されていることになります。それを確認しておきましょう。
金剛知の口訳『金剛頂喩伽中略出念誦経』巻 には、次のように記します。

諸山は花果を具するもの、清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所、或は寺内に在し、或は阿蘭若、或は山泉の間に於て、或は寂静廻虎、浄洗浴庭、諸難を離るる処、諸の音声を離る処,或いは、意所楽の処、彼に於いて応に念涌すべし。     (『大正蔵経』十八 224P(中段)

最後に「彼に於いて応に念謡すべし」とあり、次のような場所が密教修行には相応しい場所とされています。
①「諸山は花果を具するもの」とは、花が咲き、実を付ける木々が数多くある山
②「清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所」とは、清らかな水が湧き流れていて、そこに足を運ぶと、おのずからこころが楽しくなるような池・沼・川
③「阿蘭若」は争いのないところで、具体的には寺のこと
④「諸難を離るる庭」とは、毒蛇とか毒虫などによって修行が妨げられない所、
⑤「諸の音声を離る処」とは、耳障りな音声・ざわざわした雑踏の音がしないないところ
以上からは、高野山が修禅の道場の建立地として選ばれた理由は、「修禅観法(密教の修行)の地としてもっともふさわしいのは、深山幽谷の平地である」と説く金剛知の『略出念誦経』などの密教経典の教説に従ったと研究者は考えています。

別の視点から見ると、当時のわが国の仏教界に対する批判の裏返しでもあったようです。
上表文の前半部には、次のような部分がありました。

インドの霊鷲山の峻嶺にはお釈迦さまが垂迹されるという奇瑞が次つぎにおこり、補陀洛山には観音善薩応現の霊跡が相ついであらわれている。その理由をたずねると、高山峻嶺の地勢の故であるという。また唐では、五台山・天台山といった山岳に寺院が建てられ、そこには禅観を修する者が多く、それらの修禅者は国の宝、民の梁(国人々の大きな文え)となっている、

これらの霊山に高野山が地に優るとも劣らない霊的にすぐれた聖地であることを主張します。

その一方で、わが国に目を転じてみると、歴代の天皇は仏教を崇拝し、壮麗な寺院が数多く建て、そこには高徳の僧がたくさんいる。仏法の興隆ということからすれば、これでに充分だが、残念なことは、高山峻嶺に人って禅観(密教)を修する人が極めて少ない。それは、修禅観法を説く経典が伝わつておらず、また修禅にふさわしい場所もないからである。

と、わが国の現状を批判します。この批判の背後には、天台・律・三論・法相の諸宗に対する密教の優位性と、正統な密教を請来してきたという空海の自負がうかがえます。
以上をまとめておきます。
①高野山は、帰朝の際に嵐にあって漂流する船上で、無事帰国を願って密教寺院建立の小願を立てた。
②その建立目的は、一つには鎮護国家と人々の幸福で平安な生活を祈念するための道場として
③もう一つの目的としては、諸々の修行者の修禅の道場とするためであった。
④小願達成のために帰国から十年経った時点で、天皇側近で空海シンパの高官を通じて、嵯峨天皇に上表文を提出した。
⑤密教寺院の立地条件としては、金剛知が説くように高山・霊山が第一条件とされ、その結果、空海が若い頃の修行ゲレンデでもあった高野山が選ばれた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


さんこしょを投げる3
第3巻‐第8場面 投椰三鈷(高野空海行状図画 トーハク模写版)
前回に見た明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。港の先に立った空海は懐から三鈷杵を取りだし、「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に三鈷杵を投げます。画面は、三鈷杵が空海の手を離れる瞬間です。
 このとき投げた三鈷杵を、空海は後に高野山上で発見します。それが高野山に伽藍が建てられることになるという話につながります。今回は、高野空海行状図画で、高野山開創がどのように描かれているのかを見ていくことにします。
高野上表1
高野山の巡見上表(高野空海行状図画詞書)

高野尋入2 高野空海行状図画
             第七巻‐第1場面 高野尋入(高野空海行状図画)

空海が唐から帰朝して約十年の年月が流れた弘仁7(817)年4月のことです。高野空海行状図画の詞書には次のように記されています。大和国字智郡を通りかかった空海は、ひとりの猟師に呼びとめられます。
「いずれの聖人か。どこに行かれる」
「密教を広めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じ、唐から投げた三鈷杵を探し求めている」と、空海は答えます。
「われは南山の犬飼です。その場所を知っている。お教えしよう」
といい、道案内のため、連れていた2匹の黒犬を走らせた。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2
高野空海行状図画(愛媛県博物館)

この話をのせる最古の史料は、康保5(968)年頃に成立した『金剛峯寺建立修行縁起』です。
そこには、次のように記されています。
①空海から「禅定に相応しい霊地を知らないか」と声をかけられた猟師は、「私は南山の犬飼です。私が所有する山地がびったりです。もし和尚が住んでくださるならば助成いたしましょう」と応えたこと
②猟師がつれていたのが白黒2匹の犬であること
①からは、南山の犬飼は、高野山の地主神であったことが分かります。それが高野空海行状図画では、ただの犬飼になっています。その重要度が、低下していることが分かります。

画面は、空海が猟師が出会ったところです。犬がいぶかって吠えたてますが、空海はやさしく犬を見ています。
高野山巡見上表1 高野空海行状図画親王院版
高野山巡見・上表 高野空海行状図画(親王院本)

詞書は、猟師の身なりを、次のように記します。

其の色深くして長八尺計也。袖ちいさき青き衣をきたり。骨たかく筋太くして勇壮の形なり。弓箭を身に帯して、大小二黒白の犬を随えたり。

意訳変換しておくと
身の丈は八尺あまり、肌は赤銅色で筋骨たくましく勇壮な姿で、青衣を着、弓と箭をたずさえて、黒と白の犬を連れていた。

やはり、もともとは白黒の2頭の犬だったことを押さえておきます。それが黒い犬に代わっていきます。
高野尋入4 高野空海行状図画
第七巻‐第2場面 巡見上表(高野空海行状図画:トーハク模写版)
紀ノ川のほとりで犬と再会した空海は、犬に導かれながら南山をめざして登ります。すると平原の広い沢、いまの高野山に至ります。まさに伽藍を建立するにふさわしい聖地と考えた空海は、弘仁7年(816)6月、この地を下賜されるよう嵯峨天皇に上表します。ただちに勅許が下り、伽藍の建設に着手します。画面は、犬に導かれながら南山に踏み入っっていく空海の姿です。


丹生明神
第七巻‐第3場面 丹生託宣(高野空海行状図画:トーハク模写版)
この場面は、天野に祀られる丹生大明神社の前で析念をこらし、高野の地を譲るとの託宣をきかれる空
海。
遺告二十五ヶ条には、このことについて、次のように記されています。(意訳)
高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
こうして大師は、高野山の地を山王から譲渡された。また、さきに出逢った猟師は高野明神であった、という。


高野山地主神 高野空海行状図画
高野山の地主神と丹生大明神社

空海は、高野山に伽藍を建てるのは、ひとつの「小願」を成しとげるためであると云います。

小願とは唐からの帰り、嵐の船上で立てられた次の祈願です。

「もし無事に帰国できたならば、日本の神々の威力をますために、ひとつの寺を建てて祈りたい。なにとぞご加護を」と

そして弘仁七年(816)7月、嵯峨天皇から高野の地を賜わつた大師は、ただちに弟子の実恵・泰範を派
遣し、伽藍建設にとりかかります。その際に、丹生明神を祀つていた天野の人たちに援助を請います。空海がやって来たのは整地が整った10月です。そして、結界の法を修し、伽藍配置をきめていきます。空海の構想した伽藍配置は、次の通りです。
①中央線上に、南から講堂(いまの金堂)と僧房をおき
②僧房をはさんで東に『大日経』の世界を象徴する大塔
③西に『金剛頂経』の世界を象徴する西搭
これは空海独自の密教理論にもとづくものでした。この基本計画に従って整地作業が始まります。

三鈷宝剣
「三鈷・宝剣」 高野空海行状図画詞書

さんこしょう発見2
              第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画)

工事を見守っていた空海が頭上を見上げると、一本の松にかかつている三鈷を発見します。それは唐の明州(寧波)から投げた三鈷杵が燦然と輝いていたのです。これをみた大師は、この地が密教相応の地であることを確信し、歓喜します。
 この場面に続いて、原生林が切り払われ、原野が整地されていく様子が描かれます。

高野山建設2
     第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画) 空海の前の石に置かれた宝剣

 伽藍の作業を行っていると、長さ一尺、広さ一寸人分の宝剣が出てきます。
左手の空海の前に、その剣が置かれています。(クリックすると拡大します)。ここからこの地はお釈迦さまが、かつて伽藍を建てたところであったことを確信したと記します。
    高野山の開創にまつわる「三鈷の松」の伝説では、三鈷杵がかかっていたのは松の木とされ、その松を 「三鈷の松」と称してきました。これはいまも御影堂の前にあるようです。しかし、三鈷杵を投げたことを記す最古の史料『金剛峯寺建立修行縁起』では、具体的にその木が何だったのかは記していません。ただ単に「三鈷杵は一本の樹にはさまっていた」と記します。それでは、いつ、どんな理由で、松の木になったのでしょうか? これについて、次回に述べるとして絵巻を開いていきます。

大塔建設
第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
朱の大塔の前には満開の桜が描かれています。一遍上人絵伝に描かれた伽藍は、桜が満開だったのを思い出します。

高野空海行状図画の詞書には、次のように記します。
①南天鉄搭を模した高さ十六丈(約48m)の大塔には、一丈四尺の四仏を安置
②三間四面の講堂(現金堂)には丈六の阿しゅく仏、八尺三寸の四菩薩を安置
③三鈷杵のかかっていた松のところに御影堂を建設

画面には、南北朝期以降のこの親王院本『行状図面』が作成された当時の壇上伽藍の建物がすべて画かれているようです。
高野山伽藍 高野空海行状図画親王寺蔵
               大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
これを拡大して右から見ていくと

高野山伽藍右 高野空海行状図画
大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
東搭 → 蓮華乗院(現大会堂)→  愛染堂→ 大搭 → 鐘楼 → 中央に金堂 → その奥に潅頂堂 → 三鈷の松と御影堂
手前に 六角経蔵 → 奥に准提堂 → 孔雀堂 → 西塔、

高野山大塔 高野空海行状図画

左端に 鳥居 → 山王院 → 御社
研究者がここで注目するのは、御影堂の前の三人の僧と、孔雀堂の前の三人の参拝者です。
高野山伽藍の整備された威容と、そこに参拝する人達というのは、何を狙って書かれたモチーフなのでしょうか。これを見た人達は、高野山参拝を願うようになったはずです。
 各地にやって来た高野聖達が、この高野空海行状図画を信者達に見せながら、空海の偉大な生涯と、ありがたい功徳を説き、高野山への参詣を勧めたことが考えれます。ここでは、高野空海行状図画が、弘法大師伝説流布と高野山参拝を勧誘するための絵解きに使われたことを押さえておきます。そうだとすれば高野聖たちは、ひとひとりがこのような絵伝を持っていたことになります。それが弘法大師伝説拡大と高野山参拝の大きな原動力になったことが推測できます。

伽藍建設1
         第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)

伽藍建設2
          第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
今回は高野空海行状図画に描かれた高野山開山をみてきました。次回は、空海の残した文書の中に、高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
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一遍上人絵伝の高野山大塔
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   武内孝善 弘法大師 伝承と史実

弘法大師行状絵詞や高野空海行状図画に描かれた空海の入唐求法を見ています。今回は、長期留学を中止して、タイミング良くやって来た遣唐使船に便乗して帰国することになった場面を見ていくことにします。絵図は「トーハク」の江戸時代の模写版の高野空海行状図画です。

さんこしょを投げる1
高野空海行状図画(トーハク蔵模写版) 大師投三鈷事 明州(寧波)から三鈷杵を投げる

さんこしょを投げる2
高野空海行状図画 第二巻‐第8場面  明州(寧波)の港

この場面は、明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。この場面を見ていると、どこかで見た構図であることに気がつきます。

入唐福州着3
往路の福州の港(高野空海行状図画)
往路に到着した福州の港や建物がコピーされ、その周りの人物だけが書き換えられています。こんな「使い回し」が、この版にはいくつかあります。近世の絵師らしい「省力化」が行われています。

さんこしょを投げる3
            大師投三鈷事 明州(寧波)から三鈷杵を投げる
港の先に立った空海は、おもむろに懐から、三鈷杵(さんこしょ)を取り出します。
そして「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に向かって投げます。描かれているのは、空海の手の先から三鈷杵が離れる瞬間です。左上には、雲に乗った三鈷杵が光を放ちながら東国に飛んでいきます。
 さて、寧波で投げた三鈷杵は、どこに飛来したのでしょうか。

さんこしょう発見2
            高野山の松の枝にある三鈷杵を発見する空海
高野空海行状図画には、高野山上の松の枝にある三鈷杵を空海が発見する場面があります。つまり、高野山こそが「密教を広めるにふさわしい所」と啓示され、そこに伽藍が建てられることになります。高野山は、神からの啓示が空海に示された「約束の地」であったことを語る伏線となります。この飛行鈷の話も、後世に創作された伝説と研究者は考えています。

    空海を唐から連れ帰ったのは判官・高階遠成の船でした。
遠成が乗っていった船と出港時期については、次の二つの説があります。
①第四船として出発し、漂流の後に遅れて入唐したとする説(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
この2つの説について、研究者は次のように指摘します。
高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であった。
①遠成を乗せた第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」ということになります。

空海を乗せた船の博多到着と、その後の経過を詞書は次のように記します。
①806(大同元)年10月に帰朝した空海は、持ち帰った経論・道具などを『御請来目録』にまとめ、高階遠成に託して朝廷に上程したこと
②上京の勅許が下るまで空海を観上音寺に住まわせること。
③翌年に、空海が京洛に入ることが許されたこと
しかし、トーハク版模写の高野空海行状図画には、この部分を描いた絵図場面はありません。そこで親王院版の絵図を見ていくことにします。

博多帰朝
高野空海行状図画 親王院版3-9 著岸上表

場面は、九州・博多津に帰り着いた判官高階速成と空海です。
 古代・中世には石垣の港湾施設はなく、津は砂浜でした。そのため本船は沖に停泊し、渡し船で上陸・乗船を行っていたことは以前にお話ししました。また、砂浜には、倉庫などの付帯施設もなく、ただ砂浜があるだけでした。石垣があり、本船が着岸できる中国の福州や寧波とは描き分けられています。しかし、この行状図の遣唐使船は、今までに出てきた遣唐使船に比べるとあまりに小さく貧弱に描かれています。船の屋根も茅葺きで粗末です。左の渡船と比べても、あまり大きさが変わりません。本当にこれが遣唐使船なのか疑問が湧きます。

博多帰朝.2JPG

②上陸した遣唐使たちが左方面に歩んでいきます。中央の2人の僧姿の先頭は空海でしょう。では、空海に従う黒染めの僧は誰なのでしょうか。 橘逸勢がいっしょに帰国しましたが、僧は空海一人でした。後世の史料に空海に同行して入唐したとされるようになる佐伯直家の甥の知泉だろうと、研究者は推測します。
③その左手の3つの小屋と、その後の塀で仕切られた一角は、何の建物なのでしょうか。よく分かりません。こうしてみると、「著岸上表」と題された博多上陸については、詞書と絵が一致していないことが改めて分かります。この不一致は、どこからきているのでしょうか?
そのヒントは、「御招来目録」にあります。この最後を、空海は次のように閉めています。
  空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。ここには「空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。」と、自らが記しています。国法を破って、1年半あまりで帰国したのです。そのため「敵前逃亡者」と罰せられる可能性も覚悟していたはずです。
そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて記され、その重要性や招来意図の説明まで記されています。それは、必死の作業だったはずです。
 提出した「招来目録」や密教招来の意味が、宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったはずです。最澄の「援護射撃」がなければ、博多での滞在は、もっと長くなっていたかもしれません。九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。以上をまとめておくと
①空海は20年の長期留学僧として、長安に滞在した
②しかし、2年足らずで帰国することを選んだ。
③これは国法を破るもので処罰対象となるものであった。
④そこで空海は、自分の留学生成果を朝廷に示すために「御招来目録」を提出した。
⑤このような事情があったために、高野空海行状図画などは「空海=無断帰国」部分について、恵果の指示や遺言に基づくものだったという話を創作挿入した。
⑥一方、査問審査中の九州滞在については、そのあたりの事情をぼかした記述とした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

遺道相伝1 高野空海行状図画
遺具相伝(高野空海行状図画)

高野空海行状図画や弘法大師行状絵詞で、空海の入唐求法がどのように描かれているのかを追いかけています。

遺道相伝2 高野空海行状図画
       高野空海行状図画    第二巻‐第5場面 道具相伝  

この場面は、正統な密教を受け継いだしるしとして、袈裟が恵果和尚から空海に渡されようとしている「遺具相伝」の場面です。

袈裟をもつのが恵果和尚、手を差出して受け取ろうとしているのが空海です。         
この袈裟が御請来目録に、恵果から相伝したとして記される健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)です。健陀とは袈裟の色調を、穀糸は綴織技法を示すとされます。仏教では、捨てられたぼろぎれを集め縫いつないだ生地で作られた袈裟を最上とし、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼びます。この袈裟も、さまざまな色や形の小さな裂を縫い留めた糞掃衣のように見えますが、実際には綴織に縫い糸を表現する絵緯糸(えぬきいと)を加え、糞掃衣を模した織物であると研究者は指摘します。この袈裟は、今も東寺に保管されているようです。それを見ておきましょう。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)
原形をとどめない健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)

傷みが激しくその原形を留めていないようです。というのも、空海が天皇の五体安穏と五穀豊穣を祈念する始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)には、導師を勤める阿闍梨がこの袈裟を着るしきたりだったからです。そういう意味では、この袈裟は真言宗においては、別格の位置を占める袈裟だったことになります。そのため長年の使用で、原型も留めないほどに痛んでいます。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)復刻
                  健陀穀子袈裟 復刻版

 2023年10月の真言宗立教開宗1200年慶讃大法会の開催に向けて、東寺ではこの袈裟を復刻したようです。それが上記の復刻版になります。紫色や赤などのもっと派手な色使いのモノと思っていたのですがシックです。

招来目録冒頭1
空海の御招来目録
空海の朝廷への帰国報告書である『御招来目録』については、恵果から正式に法を伝授したしるし(印信)として、以下のものを受け継いだと記します。
①仏舎利八十粒(金色の舎利一粒)
②白檀を刻す仏・菩薩・金剛などの像
③白緋大曼荼羅尊四百四十七巻
④白諜金剛界三昧耶曼荼羅尊 百二十巻
⑤五宝三昧味耶金剛       一口
⑥金鋼鉢子一具         二口
⑦牙床子         一口
白螺貝        一口
   これらは金剛智・不空・恵果と相伝されてきたもの8種です。①の仏含利と⑧の白螺貝は東寺に、②は金剛峯寺に、いまも伝存するようです。

白螺貝はシャンクガイ
 白螺貝はシャンクガイのことで、インドでは古くから聖貝として珍重され、メディテーションツールや楽器としても使用されてきました。その中でも左巻きのシャンクガイは特に貴重とされており、宝貝中の宝貝として尊ばれきたようです。
一方、恵果和尚自身が使用していたものは、次の5つです。
⑨健陀穀子袈裟          一領
⑩碧瑠璃供養碗   二口
⑪琥珀供養碗     一口
⑫白瑠璃供養碗   一口
⑬紺瑠璃箸     一具
このうちで、いまも伝存するのは先ほど見た⑨健陀穀子袈裟だけのようです。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。

恵果和尚入滅1
恵果御入滅

恵果和尚入滅2.jpg 高野空海行状図画
第3巻‐第6場面 恵果入滅 
恵果和尚の人寂場面です。永貞9(805)12月15日のことで、行年61歳でした。
空海の「恵果碑文」(『性霊集』巻3)には、次のように記します。

「金剛界大日如来の智拳印をむすび、右脇を下にして円寂なされた」

しかし、この絵では、智拳印ではなく、外縛(げばく)印となっていると研究者は指摘します。それはともあれ、まん中に恵果和尚、その周りを弟子が取り囲む構図は、お釈迦さまの混槃図にの構図と同じです。その後の鎌倉新宗教の祖師たちの入滅場面も、同じような構図が多いようです。その原形になったともいえるのかもしれません。

恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』には、恵果の遺言が次のように記されています。
 師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。(それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。
 それは和尚が亡くなる日の夜のことである。死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。
「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。
 このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
 孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。
長々と引用しましたが、この文章の中で伝えたいことは、恵果の次の遺命でしょう。

「あなたには、私の持っているものをすべて伝えた。だから、一日も早く日本に帰りなさい。そうして、この教えをもって天皇にお仕えし、日本国の鎮護を、また人々の幸せを折りなさい」

このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない

20年という長期留学僧の年期にこだわらず、早期帰国を恵果も進めた。師の言葉には従わざるえないということです。ここからは短期で帰国することに、強い葛藤があったことがうかがえます。

恵果の蘇り 高野空海行状図画
                第3巻‐第7場面 恵果影現(ようげん)   
恵果和尚が人寂した夜、空海は一人で道場で冥想していると、その場に恵果が現れたという場面です。このとき恵果は、次のように空海に語ったとされます。

あなたと私のえにしは極めて深く、師資(しし)(師と弟子)の関係も一度や二度だけのものではない。このたびは、あなたが西行して私から法を受けられた。つぎは、私が東国に生れ、あなたの弟子となろう」

この夜の出来事が空海をして、留学を打ち切り帰国する決意を固めさせたとされます。国家の定めた留学期間を、個人の判断で短縮することは、許されることではありません。敢えてそれを破ろうとするからには、それだけの動機と理由が必要になります。そのひとつとして「恵果影現」が織り込まれているようです。

 空海は、翌年正月十七日の埋葬の儀の時に、弟子を代表して「恵果碑文」(正式には,「大唐神都青龍寺故三朝の師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」)を書きます。そこには恵果和尚の人柄を次のように記します。
「…縦使(たとひ)財帛軫(しん)を接し,田園頃(けい)を比(なら)ぶるも,
受くる有りて貯ふること無く,資生を屑(いさぎよ)しとせず。
或いは大曼荼羅(まんだら)を建て,或いは僧伽藍処(そうがらんしょ)を修す。
貧を済(すく)ふには財を以てし,愚を導くには法を以てす。
財を積まざるを以て心と為し,法を恡(を)しまざるを以て性と為す。
故に,若しくは尊,若しくは卑,虚(むな)しく往きて実(み)ちて帰り,
近き自(よ)り遠き自り,光を尋ねて集会(しゅうえ)するを得たり。」
(「遍照発揮性霊集・巻第2」『弘法大師・空海全集・第6巻』筑摩書房所収)
意訳変換しておくと
「(恵果和尚は)…たとえ,数多(あまた)の財宝・田園などを寄進(寄附)されても,
受け取るだけで貯えようとせず,財産作りをいさぎよしとしなかった。
(寄進を受けた財産については)あるいは大曼荼羅の制作費にあて,あるいは,寺院の建設費にあてられた。貧しい方には,惜しみなく財貨を与え,愚民を導くには,仏法を説かれた。財貨を貯蓄しないことを方針とし,仏法の教授に力をおしまないことをモットーとした。それ故に,尊貴な者も卑賤の者も,空虚な身で(恵果和尚のもとへ)出かけて満ち足りて返り,遠近から多くの人々が,光を求めて集まる結果となった。」
恵果のポリシーや生き方がよくうかがえます。このような生き方からも空海は、多くのことを学んだはずです。こうして一連の仏事をおえます。
このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
今回は、ここまでにしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
武内孝善/弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く

参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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弘法大師行状絵詞の詞書 遣唐使帰国後の空海の動静
空海は、遣唐大使の一行が長安を離れた帰国の道に着いた後、805(永貞元)年2月11日、西市の東南の角にあった西明寺の永忠(ようちゅう)和尚の故院に移り住みます。そして、本格的な留学生活に入ります。空海が最初に学んだことは、密教の伝授・潅頂を受けるために欠かせない梵語の習得だったと研究者は考えています。その先生は礼泉寺の北インド出身の般若三蔵とインド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵でした。

DSC04587青竜寺での恵果と空海
長安・青龍寺での恵果和尚と空海の出会い(弘法大師行状絵詞)

空海が恵果和尚を訪ねたのは、同じ年の5月末のころのようです。
『御請来目録』には、西明寺の志明・談勝ら数人とともに、青龍寺東搭院に恵果和尚を訪ねたところ、初対面の空海に対して、次のように話したと記します。
我、先より汝が来らんことを知りて、相待つこと久し,今日相見ること大だ好し、人だ好し。報命尽きなんと欲するに、付法に人なし。必ず須く速かに香化を辯じて、潅頂に入るべし、と                       「定本空海全集』一  35P
意訳変換しておくと
①あなたが私のところを訪ねてくる日を、首を長くして待っていた。
②今日、会うことが出来て、とても嬉しく思う。
③私の寿命は、もはや尽きようとしているが、正式に法を授ける人がえられず、心配していた
④いま、あなたと出逢い、付法の人であることを知った。すみやかに潅頂に入りなさい。
こうして空海への潅頂受法が次のように進みます。
6月上旬に入悲胎蔵生
7月上句に金剛界
8月上旬に伝法阿閣梨位
こうしてインド直伝の正当な密教を空海は受法し、「遍照金剛」の湛頂名を授かります。この潅頂名は、6月・7月の2度の潅頂の時に敷曼荼羅の上に花を投げたところ(投花得仏)、二度とも中尊・大日如来の上に花がおらたことによるとされます。これを見て恵果は、「不可思議なり、不可思議なり」と、感嘆の声を発せられたと伝えられます。

潅頂1 高野空海行状図画
空海の潅頂 (高野空海行状図画)

空海の入唐の中で最も重要な成果とされる潅頂受法の場面です。

空海潅頂 青竜寺 高野空海行状図画
空海潅頂(高野空海行状図画) 天蓋の下に描かれるのは空海のみ



高野空海行状図画 潅頂2
青瀧寺での空海潅頂受法(高野空海行状図画)
天蓋をさしかけられ、粛々と湛頂道場にむかう恵果(けいか)和尚。その和尚に付きしたがう空海、
時代が下ると2人になる?

大師長安滞在2
空海の潅頂(弘法大師行状絵詞)
ほら貝・繞(にょう)・銅鑼(どら)などをもって先導する色衆の僧達。向かう先は、青龍寺東塔院の潅頂道場です。
潅頂頂道場について、恵果和尚の直弟子のひとり呉殷の撰『恵呆阿間梨行状』は、次のように記します。
湛頂殿の内、浮屠(ふと)の塔の下、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び一々の尊曼荼羅を図絵す。衆聖粛然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧き容(かたち)に還る。一たび視、一たび礼するもの、罪を消し福を積む。(『定本全集』第一。111P)

意訳変換しておくと
湛頂殿の内や、浮屠(ふと:卒塔婆)の塔の下、内外の壁面には、すきまなく曼荼羅・諸仏・諸尊が画かれていている。それはあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった。ひとたび、この世界を見たものは罪が消え、福を積む

しかし、潅頂道場は描かれてはいません。

密教ではお経とかテキスト、教科書のようなものだけで勉強しても本質は伝わらないということを重視します。
師から弟子へ教えを受け継ぐ際に行われる儀式が灌頂です。灌頂の「灌」というのは、水を注ぐという意味。頂というのは頭の頂です。師が水をたたえたコップだとします。そのなかに入っている水は密教という教え。それを弟子に受け継ぐときには師匠のコップから弟子のコップに注いで、こぼれないように移すというイメージです。ですから人から人に伝わらないと正式な教えは伝わらないということになります。まさに口伝なのです。

 密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視します。こうして師から弟子に教えが受けつがれると血脈(法脈)という系図のようなものが出来上がっていきます。その原型がここに描かれていることになります。真言密教の僧侶が潅頂を受けるときに、思い描いたイメージはここにあるようです。

潅頂式典の後は、青竜寺の食堂での宴が開かれます。詞書には、次のように記します。
「この日、五百の僧、齊をもうけ、遍く四衆を供養したまいし」

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青竜寺の食堂右側

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青竜寺の食堂左 五百人の僧が参加した空海潅頂の宴(弘法大師行状絵詞)

私が気になるのは、「この潅頂の宴の経費は。どこから捻出されたか?」ということです。空海の自腹なのでしょうか、恵果の好意なのでしょうか。普通は灌腸を受けた者が、お礼に設ける席なので空海だと思うのですが、空海にそれだけの経済力があったのでしょうか。この当たりは、また別の機会にお話しします。

一方で、空海への潅頂については、批判や異議を唱えるものもいたようです。

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珍賀怨念(弘法大師行状絵詞)

弘法大師行状絵詞には、恵果和尚の兄弟弟子に順暁(じゅんぎょう)阿閣梨がいて、その弟子に上堂寺の珍賀という僧侶がいました。珍賀は、恵果和尚がいとも簡単に空海に密教を授けようとすることを再三非難して、中止を求めたことが次のように記されています。

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恵果和尚に諫言する珍賀(弘法大師行状絵詞)

門徒でない空海に、どうして密教を伝授なさるのか、このことについては、私は納得ができません。ただちに中止していただきたい。


ところが詞書には、ある夜の夢の中に四天王が現れ、妨害をする珍賀を責め立てたと記します。それがこの場面になります。
弟子のそねみ
「珍賀怨念」 夢の中で四天王が珍賀を責め立てる(高野空海行状図画)
「何とぞおゆるしを」と叫ぶ珍賀の声が聞こえてきそうです。非をさとった珍賀は、翌朝に空海を訪ね、非礼を心から詫びます。それが次のシーンです。

珍賀・守敏
 空海に非を詫びる珍賀
密教僧が守るべき戒である「三味耶戒」では、法を惜しんではならないと厳しく戒めています。また、密教では夢が重要視されました。ちなみに、珍賀の師とされる順暁阿間梨は越州(紹興)で、最澄に「三部三味耶の灌頂」を授けた密教の阿閣梨でもあるようですが、その経歴はよく分かならないようです。 以上からは、空海に対して短期間で潅頂が進められたことについて、周囲からは不満や批判的な声も挙がっていたことがうかがえます。
次の場面は、興福寺の僧守敏の護法(仏法を守護する鬼神)が、恵果和尚からの受法を盗み聞きしているところです。
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            弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
空海が恵果和尚より胎蔵界の教えを授かっています。赤い経机の上に香炉と仏具を置いて、経典を開きながら教えを授けるのが恵果、その前の香色の僧衣を纏うのが空海。この絵には、壁の外側からのぞき込み鬼神が描かれています。これが興福寺の守敏が長安まで遣わした「護法」だと云うのです。空海は、これを知りながら胎蔵法潅頂のときは見逃してやります。しかし、金剛界法のときは結界を張って近づかせなかったと詞書には記します。

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空海によって張られた結界 弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
赤い炎が建物の周りをめぐり、結界となって鬼神を追い払っています。ちなみに興福寺の守敏は、八巻の第1段「神泉析雨」第2段の「守敏降伏」にも、雨乞祈祷に登場してきます。空海とたびたび呪術争いを演していて、真言僧侶達からは「敵役」と目されていたようですが、その経歴などについてはよく分からないようです。ここからも、空海の潅頂を巡っては、いろいろな波風が立っていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

虚空書字 「高野大師行状図画」 巻第二 
虚空書字(高野空海行状図画)
前回お話しした「五筆和尚」の次に出てくるのが「虚空書字」です。「五筆和尚」として名声を高めた空海に対して、文殊菩薩が腕試しを挑んでくるという設定です。今回は、このお話ししについて見ていくことにします。

虚空書字 「高野大師行状図画」3
「虚空書字」 赤い服を着た文殊菩薩の化身と空海が虚空に文字を書いている(高野空海行状図画)

書の腕前を丈殊善薩の化身である五弊童子と競い合う場面です。赤い服を着た童子が文殊菩薩の化身です。場所は長安城中の川のほとり。そこで童子から、「あなたが五筆和尚ですか。虚空に字を書いでいただけませんか」と声をかけられます。空海が気安く書くと、童子も書きます。すると二人の書いた文字が、いつまでも虚空に浮んでいたという話です。

虚空書字 「高野大師行状図画」4
「虚空書字」 流れる水に「龍」と書く
次に 童子は「流れる水の上にも書いてください」とも云います。空海が書い文字は、形が乱れることなく流れていきます。続いて童子は「龍」の字を書きます。その時に、わざと最後の点を打ちません。「なぜ」と問うと「あなたがどうぞ」と応じます。そこで、空海が点を打つと、「龍」の姿になって、たちまち昇天します。童子は、五台山の文殊杵薩の化身であった、というオチがつきます。
 文殊菩薩の化身である童子が龍を描き、最後に眼に点を入れると本物の龍なる、「画龍点晴」のお話です。これが描かれているのが「虚空書字」です。

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流水書字と龍
「虚空書字」に出てくる文殊菩薩は、学問の仏さまとして受験期には随分ともてはやされる仏さまです。これが書にも通じるとされたいたようです。しかし、どうして、文殊菩薩を登場させるのでしょうか。その疑問は一端おいておくことにして、空海は、長安の高級官僚などの文人や僧侶と、交流を持つようになります。それが垣間見える史料を見ておきます。
M1817●江戸和本●性霊集 遍照発揮性霊集 明治初年 3冊本★ゆうパック着払い
空海の漢詩文集『性霊集』の序文には、泉州(福建省)の別駕(次官)でもあった馬惚(ばそう)から空海に贈られた次のような漢詩が載せられています。
何乃出里来  何ぞ乃高里より来たれる、
可非衡其才  其のオを行うに非るべし
増学助玄機  増すます学んで玄機を助けよ、
土人如子稀  上人すら子が如きは稀なり`
  意訳変換しておくと
あなたは、いかなる理由があつて万里の波涛を越えて唐まで来られたのですか。
その文才を唐の人たちにひけらかすために来られたのではないでしょう
(おそらく、あなたは真の仏法を求めて来られたのでしょうから)
ますます学ばれて、真実の御忠を磨かれんこヒを折ります
唐においてすら、あなたのような天才は稀れであり、ほとんど見当らないのですから

真済の序文には、空海が恵果和尚の高弟の惟上(いじょう)に送った「離合詩」を馬惚(ばそう)が見て、空海のオ能に驚き怪しんで贈ってきた詩とあります。漢詩としては、相手を褒めそやす内容だけで広がりがなく凡庸なもののように私には思えます。しかし、ここには「秘密=遊び心」が隠されていると研究者は指摘します。それが「離合詩」という詩作方法です。
「離合詩」を辞書で調べると以下のようにあります。

詩の奇数句において、最初の字の「篇」と「旁」を切り離す。切り離したいずれかを複数句の一字目に用い、それぞれで残った「篇」と「旁」を組み合わせて文字(伏字)を作る、高度な言葉遊びの一種。

これだけでは、分からないので具体的に、空海に贈られた「離合詩」を例にして見ておきましょう。
①一行目の第一文字「何」を、「イ」と「可」にわけ、このうちの「可」を二行目の第一文字に使う。そこで「イ」が残る‐
②三行目の第一文字「増」を「土」と「曽」にわけ、このうちの「土」を四行目の第一文字に使う。
ここでは「曽」が残る‐
③残つた「イ」と「曽」をあわせると、「僧」の字ができる。これで「僧=空海」
これは高度な文人達の言葉遊びです。内容的なことよりも、この形式が重視されます。そのため臆面もなく相手を褒めそやすこともできたのです。空海は、ことばには鋭い感党を持っていたので、遊び心も手伝つて、長安で出会った離合詩を作って、こころやすかった性上に送ったようです。出来映えが良かったので、それが文人達の間を回り回って、泉州(福建省)次官の馬惚にまで伝わり、この「離合詩」が空海の元に贈られてきたようです。

ちなみに、空海が惟上に送った「離合詩」は、次のようなものでした。    
登危人難行  石坂危くして人行き難し、  (「登」の原文は「石+登」表記
石瞼獣無昇  石瞼にして獣昇ること無し¨
燭晴迷前後  燭暗うして前後するに迷う、
蜀人不得燈  蜀人燈を得ず
意訳変換しておくと
あなた(惟上)の故郷である剣南に行くには、危険な石段があって行くことは困難を極め、
険峻な岩山があって獣すら登れない
燈火も暗くて、進むことも退くこともできず迷ってしまう。
蜀の人すら登破するための燈を手に入れていない。

ここにも先ほど見たの「離合詩」の「お約束」は、守られています。この詩の内容を超意訳しておくと

あなたの故郷である剣南への道は、仏道修行のようなものです。私(空海)万里の波涛を越えてやってきて、余す所なく密教を学ぶことができ、これから生きていく上での燈火なるものも、すでに手に人れました。ところで、あなたは長く学んでおられますが、何か燎火となるものは得られましたか。仏法を故郷に伝えるにはきわめて困難がともないますが、法燈を伝えるために、ともに努力しましよう。

「日本から来た若造が、生意気なことを。本物の「離合詩」を見せてやる。」と、空海の「離合詩」への挑戦を、唐の文化人に対する挑発と捉える人達もいたはずです。そんな人の中には、「一度、試してみてやれ」「鼻をへし折ってくれるわ」と空海に近づいてきた人物も少なくなかったと研究者は推測します。そうだとすると、馬惚(ばそう)が空海に贈った「離合詩」には、相手を褒めそやしながら、「本物の出来映えを見せてやる」という意図もあったのかもしれません。このように、空海に対して、書や漢詩などで「お手並み拝見」という徴発は、いたることろで起きた可能性があります。

虚空書字32
虚空書字と画竜点睛
「空海は、どうして文殊菩薩と「虚空書字」を行ったのか争ったのか」という最初の疑問の答えもこの当たりにありそうです。
①長安で異芸・異才の人と評されるように空海に対して、文人達の中には挑発し、腕試しを迫るものも現れた。
②そのエピソードのひとつが「虚空書字」であった。
③しかし、ただの人と競い合うのでは話題性に乏しいために、伝記作者は「文殊菩薩との筆比べ」に変換・創作した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く85P 虚空書字の伝承をめぐって

空海の「五筆和尚」のエピソードを、ご存じでしょうか? 私は、高野空海行状図画を見るまでは知りませんでした。まずは、その詞から見ておきましょう。高野空海行状図画は、何種類もの版があります。ここでは読みやすいものを示します。

五筆和尚 文字

意訳変換しておくと
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。
 空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
要約しておくと
①長安宮中に、晋王朝の書聖王羲之が書を書いた壁があった。
②しかし、時代を経て壁が破損した際に、崩れ落ちてしまった。
③修理後の白壁には、お恐れ多いと、命じられても誰も筆をとろうとしなかった。
④そこで、空海に白羽の矢がたち、揮毫が命じられた
⑤空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた
⑥残りの余白に、盥に入れた墨をそそぎかけたところ、自然に「樹」の字となった

このエピソードが高野空海行状図画には、次のように描かれています。


五筆和尚 右
高野空海行状図画 第二巻‐第7場面 五筆勅号
A 空海が口と両手両足に5本の筆を持って、同時に五行の書を書こうとしているところ。
B その右側の白壁に盥で注いだ墨が「樹」になる
五筆和尚 弘法大師行状絵詞2
五筆和尚(弘法大師行状絵詞)

口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。

五筆和尚 左
皇帝から「菩提子の念珠」を送られる空海
上画面は、帰国の挨拶に空海が皇帝を訪れた時に、別れを惜しんで「菩提子の念珠」を送ったとされる場面です。その念珠が東寺には今も伝わっているようです。ここにも、後世の弘法大師伝説の語り部によって、いろいろな話が盛り込まれていく過程が垣間見えます。

唐皇帝から送られた菩提実念珠
            唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)

五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。

空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
 実は、「五筆和尚」という言葉が、50年後の福州の記録に現れます。

智弁大師(円珍) 根来寺
それは天台宗の円珍が残したものです。円珍は853(仁寿3)年8月21日に、福州の開元寺にやってきて「両宗を弘伝せんことを請う官案」(草庵本第一)に、次のようなエピソードを残しています。

(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。

意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。

空海ゆかりの開元寺を訪ねる』福州(中国)の旅行記・ブログ by Weiwojingさん【フォートラベル】
                      福州の開明寺
 どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?

それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆
8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着
10月3日  福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。
10月      福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。
11月3日  大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』(10世紀半ば成立)には、この間のできごととして、次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

この経過については、遣唐大使・藤原葛野麻呂は朝廷への帰国報告書には、何も記していないことは以前にお話ししました。しかし、空海が大使に替わって手紙を書いたという次の草案2通は、『性霊集』巻第5に、載せられています。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書
B 福州の観察使に請うて人京する幣
特にAは、空海の文章のなか、名文中の名文といわれるものです。文章だけでなく、書も見事なものだったのでしょう。それが当時、福州では文人達の間では評判になったと研究者は推測します。それが、さきの忠湛の話から、福州の開元寺の寺主憎恵潅(えかん)の「五筆和尚、在りや無しや」という円珍への問いにつながると云うのです。
 確かに先に漂着した赤岸鎮では、船に閉じ込められ外部との接触を禁じられていたようですが、福州では、遣唐使であることを認められてからは、外部との交流は自由であったようです。空海は、中国語を自由に話せたようなので、「何でも見てやろう」の精神で、暇を惜しんで、現地の僧たちとの交流の場を持たれていたという話に、発展させる研究者もいます。しかし、通訳や交渉人としての役割が高まればたかまるほど、空海の役割は高くなり、大使の側を離れることは許されなかったと私は考えています。ひとりで、使節団の一員が自由に、福州の街を歩き回るなどは、当地の役人の立場からすればあってはならない行為だった筈です。

福州市内観光 1 空海縁の地 開元寺』福州(中国)の旅行記・ブログ by 福の海さん【フォートラベル】
福州の開明寺の空海像 後ろに「空海入唐之地」

 円珍の因支首氏(後の和気氏)で、本籍地は讃岐で、その母は空海の姉ともされます。
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。

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福州の人々(弘法大師行状絵詞)

五筆和尚の話は、平安時代に成立した空海伝には、どのように記されているのでしょうか?

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
      ①968(康保5)年 雅真の『金剛峯寺建立修行縁起』(金剛峯寺縁起)
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。  (『伝全集』第一 51~52P)
② 1002(長保4)年 清寿の『弘法空海伝』63P
 大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)
又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
③1111(天永2年)に没した大江拒房の『本朝神仙伝』
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。                      
空海御行状集記
          ④ 1089(覚治2)年成立の経範投『空海御行状集記』
神筆の条第七十三
或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。   (『同73P頁)
⑤1113(永久年間(1113~18)成立の兼意撰『弘法空海御伝』
御筆精一正
唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
⑥1118(元永元)年の聖賢の『高野空海御広伝』
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。

これらの記録を比較すると、次のようなことが分かります。
A 最初に書かれた①の『金剛峯寺建立修行縁起』を参考にして、以下は書かれていること
B ②③は簡略で、文章自体が短い。
C 内容的には、ほぼ同じで付け加えられたものはない。
D ①⑤は、皇帝から「菩提実の念珠」を賜ったとある。
以上から「五筆和尚」の話は、10世紀半ばすぎに、東寺に伝来していた唐の皇帝から賜わつたという「菩提実の念珠」の伝来を伝説化するために、それ以後に創作されたモノと研究者は推測します。つまり、五筆和尚の荒唐無稽のお話しは、最後の「菩提実の念珠」の伝来を語ることにあったと云うのです。そう考えると、「念珠」に触れているのは、①と⑤のみです。東寺に関係のない人達にとっては、重要度は低いので省略されて、お話しとして面白い「五筆和尚」の方が話の主役になったようです。  
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
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赤岸鎮から福州・杭州へ
延暦の遣唐使団の経路 福建省赤岸鎮に漂着後の

 福州から長安までの延暦の遣唐使団がたどったルートが、絵図にどのように描かれているのかを見ていくことにします。根本史料となる『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を、まずは押さえておきます。

十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと

新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

空海の入唐求法の足取り

ここから分かる延暦の遣唐使船(第1船)の長安への行程を時系列に並べておきます。
804(延暦23)年
7月 6日  肥前国(長崎県)田浦を出港
8月 1日  福建省赤岸鎮に漂着
10月3日  省都福州に回送、福建監察使による長安への報告
11月3日  福州を遣唐使団(23人)出発 福州→杭州→開封→洛陽→長安
12月21日 長安郊外の万年県長楽駅への到着
福州に上陸したのが10月3日、福州出発までがちょうど1ヶ月です。福州と長安の公的連絡は往復1ヶ月足らずだったことがうかがえます。しかし、遣唐使一行は、長安まで49日かかっています。年末年始の宮中での皇帝と外国使節団との謁見には間に合わせたいと、急ぐ旅立ったようです。
まず、弘法大師行状絵詞には、福州出発の様子が描かれているので、それを見ていくことにします。

  長安からの使者がやってきて出迎えの挨拶を行っている場面です。

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長安からの出迎えの使者を待つ遣唐使団(弘法大師行状絵詞)
服装を整えて、大使と副詞以下の従者が座して待ちます。空海だけが、一番前に立っています。巻物を左に開いていくと見えてくるのが・・・

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長安からきた使節団

「われこそは皇帝の命を受けて、長安からまいった使者です。お急ぎ、御案内申す」
とでも云っているのでしょう。ここでも気になるのは空海の立ち位置です。空海だけが立ち姿で、その他は、日本側も唐側も坐位です。自然と、この場で一番偉いのは空海のように見えます。外交現場で通訳がこんな立ち位置にいることは、現在でもありません。出しゃばりすぎといわれます。この絵巻が「弘法大師=カリスマ化」、あるいは「弘法大師伝説の拡大」を、目的書かれていることがうかがえます。
                   
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                       長安からの迎えの従者達(弘法大師行状絵詞)
従者達は、異国の遣唐使たちを興味深そうに見守ります。その左側では、隊列が準備されています。
まず左側に見えてるのが牛車の引棒のようです。

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長安からの迎えの牛車(弘法大師行状絵詞)
  赤い唐庇の屋根の牛車は、迎えの勅使用です。牛使いが牛を牛車につなごうとしていますが、嫌がっているようです。これは、古代日本では見慣れた風景ですが、中国の唐代の時代考証では「アウト」で論外です。なぜなら、中国では貴人が牛車に乗るということはありません。乗るのは馬車です。これも「日本の常識」に基づいて描かれた誤りと研究者は指摘します。

 絵巻をさらに開いていくと・・・大使達が騎乗する馬が準備されています。
 
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大使・副使・空海などに準備された飾り付けられた駿馬たち(弘法大師行状絵詞) 

詞には次のように記されています。

七珍の鞍を帯て、大使並びに大師を迎える。次々の使者、共に皆、飾れる鞍を賜う

飾り立てられた馬が使者達にも用意されたようです。こうして隊列は整えられて行きます。いよいよ出発です。今度は、高野空海行状図画の福州出立図を見ておきましょう。

福州出発 高野空海行状図画
               高野空海行状図画 福州出立図

一番前を行くのが、長安からやって来た迎えの使者 真ん中の黒い武人姿が大使、その後に台笠を差し掛けられているのが空海のようです。川(海?)沿いの街道を進む姿を、多くの人々が見守っています。ここからは福州を騎馬で出発したことになります。しかし、これについては、研究者の中には次のような異論が出されています。

中国の交通路は「南船北馬」と言われるように、黄河から南の主要輸送路は運河である。そのため唐の時代に、福州から杭州へも陸路をとることはまずありえない。途中、山がけわしく、 大きく迂回しなければならず、遠廻りになる。杭州からは大運河を利用したはず。

「福州 → 南平 → 杭州 → 大運河 → 洛陽 → 長安」という運河ルートが選ばれたと研究者は考えています。しかし鎌倉時代の日本の絵師にとって、運河を船で行く遣唐使団の姿は、思いも浮かばず、絵にも描けなかったかもしれません。イメージできるのは、騎馬軍団の隊列行進姿だったのでしょう。

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                   延暦の遣唐使団の長安への道(福州から長安まで 空海ロード)
次に描かれるのは長安を間近にした遣唐使団の騎馬隊列です。
洛陽から再び陸路を取り、函谷関を越えると陝西盆地に入って行きます。その隊列姿を見ておきましょう。最初に高野空海行状図画を見ておきます。

空海の長安入場
長安入洛(高野空海行状図画)
①上右図が迎客使の到着を待つ空海と大使です。威儀を整えて、少し緊張しているようにも思えます。
②続く下図は左側の先導する迎客使の趙忠の後に、飾り付けた鞍の馬に乗って大使と空海が続きます。
③入京パレードの威儀を、絵伝は「その厳儀、ことばによしがたし,観るもの、路頭になちみちて市をなす」と記します。
④背筋をビンと仲ばした馬上の大使が印象的です。

次に、弘法大師行状絵詞の方の長安入洛を見ておきましょう。

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長安を目指す遣唐使一行 白馬の空海(弘法大師行状絵詞)
  長安を目指す遣唐使の一行が描かれています。最初に登場するのは美しく飾り立てられた白馬に跨がる空海です。その姿が珍しいのか、多くの住人達が見物に集まっています。しかし、この絵図にも「時代考証的」には、次のような問題点があるようです。
①空海に従う歩行の3人の僧侶の存在。長安への入京を許されたのは、限られた人間だけでした。空海さえも当初は、メンバーに入っていませんでした。それが、ここには3人の僧侶が従者のように描かれています。空海の存在を、高めようとする意図が見られます。

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          長安を目指す遣唐使一行 大使と副使(弘法大師行状絵詞)
空海の前を行くのが大使と副使です。ここが長い行列の真ん中当たりになります。その姿を見ると黒い武士の装束です。この絵図が描かれたのが鎌倉時代のことなので、当時の武士の騎馬隊列に似せられて描かれているようです。時代考証的には、平安貴族達が武士姿になることはありません。

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                     先頭の勅使(弘法大師行状絵詞)
  騎乗隊の先頭は勅使です。後から台笠が差し掛けられています。長安が近づいてきたようです。

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長安の宮廷門(弘法大師行状絵詞)
  勅使の帰還を知って、宮門が開かれます。ここは長安の宮廷門で、甲冑を身につけた武官達が鉾を押し立てて、勅使の到着を待ちます。
 以上、弘法大師行状絵詞に描かれた福州から長安までの行程を見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献






大師入唐渡海 遣唐使船

東シナ海を行く遣唐使船(高野空海行状図画)

大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
建建省赤岸鎮)に漂着します。

空海・最澄の入唐渡海ルート
空海と最澄の漂着先
空海入唐地 赤岸鎮
空海入唐之地 赤岸(1998年建立)

正史である『日本後紀』に載せられた大使藤原葛野麻呂の報告書を、まず見ておきましょう。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。


  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。
「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。

唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
 
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」

 
遣唐使 赤岸鎮から福州


一行は、長渓県赤岸鎮での上陸を許されず、観察使のいる福州に向かうことになります。
2ヶ月後の10月3日に、福建省の省都の福州にたどり着きます。福州は、河口から30㎞ほど遡った所にある大都市です。遣唐使船は、その沖にイカリを下ろしたはずです。当時の規則では、外国船は岸壁に着船し、直接に入国することは禁じられています。

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           小舟に乗り換えての福州上陸(弘法大師行状絵詞)

大使藤原葛野麻呂の報告書には、福州でのことが次のように記されています。

十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

ここからは次のようなことが分かります。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと

ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』には、この間のできごととして次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

  「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」

とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。

「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」

文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
この場面を描いた高野空海行状図画の福州上陸図を見ておきましょう。

福州漂着代筆 高野空海行状図画
福州での役人とのやりとりと、空海代筆(高野空海行状図画)
①は遣唐使船が岸壁に着岸しています。「沖合停泊」という「時代考証」が無視されています。その姿は大風や波浪で、船上施設が吹き飛ばされて、何ひとつ残っていないあばら舟姿です。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
③は、大使みずからが書簡をかいて提出しますが、役人は読み終えると放り出して取り合ってくれないところ。
④万策つきた大使からの依頼で、空海が長官に宛てて書をしたためているところ。
⑤空海がしたためる手もとを見ているのが、福州監察使の閻済美。
⑥中央は、空海の文章と書の力によって、やっと日本からの正式の遣唐使であることが認められ、仮岸の中に通されて、安堵している大使と空海

同じ場面を、弘法大師行状絵詞で見ておきましょう。

福州着岸 代筆. 弘法大師行状絵詞JPG
             福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)

港に船着き場はなく、沖合に投錨し小舟で浜にこぎ寄せるスタイルで描かれています。
大使が長官への書簡をしたためているところ
役人が福州長官に見せると、一瞥して「見難い」と書簡が捨てられたところ。これが3度繰り返されます。

福州上陸2
            福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
大使の依頼を受けて空海が「代筆」します。
⑤ その書簡を読んだ福州長官は、書の主を「文人」認め、態度を一変させます。

この時に空海が代筆したのが「大使のために福州の観察使に与うる書」です。
   「賀能(藤原葛野麻呂の別名)啓す」からはじまるこの文章を要約しておきます。

①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか

 論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
   空海は讃岐から平城京にのぼった時に、母の弟・阿刀大足に儒学知識や漢文については、教え込まれたとされます。親王の家庭教師を務めた阿刀大足によって磨かれた素養があったと研究者は考えています。この書を見た長官の閻済美は篤きます。科挙試験を経て、文章でもって出世するのが中国の高級官僚たちですが、これだけの文章をかけるだけの者はいないと思ったと従来の書は評します。この書によって、中国側の対応は一変します。「海賊船」との疑いを捨て、日本からの遣唐使船と再認識し、相応しい仮宿舎を提供します。同時に空海の評価が高まったとされるエピソードです。

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福州に建てられた仮宿舎(高野空海行状図画)

赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。

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大使達を迎える福州長官(弘法大師行状絵詞)
その向かいに福州長官(監察使)が座し、その前を着替えの衣装や食事が運ばれて行きます。正面に座るのが空海です。まるで、空海に謁見する臣下のような構図です。空海がカリスマ化される要素がふんだんに盛り込まれています。
       
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遣唐使仮屋周辺の福州の人々

日本からの遣唐使がやって来たというので、物見高い人々が集まってきます。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
ところが発表された長安入京組名簿の中に、空海の名前がありません。長安に行けないと、入唐求法の意味がなくなります。そこで空海は、長安行きの一行に、自分も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出します。

入京嘆願書1

「福州の観察使に請うて入京する啓」
福州の観察使に請うて入京する啓

 「日本留学の沙門空海、敬す」という文で始まるこの文章を、要約すると次のようになります。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯
②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い
③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
空海は、福州で次の2つの文章を作っています。
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」
B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
この2通は『性霊集』巻5に収録されています。前者を以下に全文載せておきます。

「大使のために福州の観察使に与うる書」
                        
「大使のために福州の観察使に与うる書」NO1

「大使のために福州の観察使に与うる書」2
「大使のために福州の観察使に与うる書」3

「大使のために福州の観察使に与うる書」5

「大使のために福州の観察使に与うる書」6

ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」

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親王院本『高野空海行状図画』と「弘法大師行状絵詞」を見ながら、空海の人唐求法の足跡を追って行きます。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」です。
入唐の旅は、「久米東塔」から始まります。
絵伝は、右から左へと巻物を開いてきますので、時間の経過も右から左と描かれています。また、同じ画面の中に、違う時間帯のことが並んで描かれたりもします。同じ人物が何人も、同じ場面に登場してきたら、そこには時が流れ、場面が転換しています。

久米東塔
          高野空海行状図画 第2巻第2場面  久米東塔 
この場面は、空海の入唐求法の動機・目的を語る重要場面だと研究者は指摘します。
①空海が建物のなかで、十方三世の諸仏に「我に不二の教えを示したまえ」と祈請しています。
②場所については、ある史料は20歳のとき得度をうけた和泉国の槇尾山寺(施福寺)とし、別の史料では、東大寺人仏殿と記します。
③夢で「あなたが求める大法は『大日経』なり。久米の東搭にあり」と告げられたところです。三筋の光が左上方の仏さまから空海に向かって一直線に差し込みます。

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弘法大師行状絵詞 久米寺

④空海は、久米寺を訪ね、東塔の場所を尋ねているところです。

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⑤東塔の心柱から「大日経」上巻を探し出し、無心に読んでいるところです。しかし、熟読したけれども、十分に理解できずに、多くの疑問が残ります。疑問に答えてくれる人もいません。そこで海を渡り、入唐することを決意したと記されています。

ここからは、空海は人唐前に、『大日経』を目にしていたことが分かります。
ところで『大日経』は久米寺にしかなかったのかというと、そうではなかったと研究者は指摘します。
なぜなら、奈良時代に平城京の書写所で、以下のように大日経が書写されているからです。

1大日経写経一覧 正倉院
大日経写本一覧表(正倉院文書)
正倉院文書によると、一切経の一部として14回書写された記録が残っています。つまり、当時の奈良の主要な寺院には大日経は所蔵されたというのです。特に東大寺には4部の一切経が書写叢書され、その内の一部七巻が今も所蔵されているようです。

 それでは空海の入唐動機はなんだったのでしょうか?
最初に見た『三教指帰』序文三教の中には、次のように記されていました

谷響きを情しまず、明星水影す。

これは若き日の空海が四国での求聞持法修行の時に体感した神秘体験です。それがどんな世界であるかを探求することが求法の道へとつながっていたと研究者は考えています。それが長安への道につながり、青竜寺で「密教なる世界」であることを知ります。その結果が、恵果和尚と出逢いであり、和尚の持っていた密教世界を余すところなく受法し、わが国に持ち帰えります。そういう意味では、空海と密教との出逢いは、四国での虚空蔵求聞持法の修練だったことになります。

求法入唐 宇佐八幡宮での渡海祈願
            高野空海行状図画 第2章 第3場面 渡海祈願 宇佐八幡にて
この場面は、豊後国(大分県)の宇佐八幡宮で、空海が『般若心経』百巻を書写し、渡海の無事を祈っている所です。左手の建物の簾から顔をのぞかせているのが八幡神とされます。
八幡神と空海の間には、次のような関係が指摘されます。
①八幡神は、高雄・神護寺に鎮守として勧請されている
②八幡神は、東寺にも勧請され、平安初期の神像が伝来している。
③空海と八幡神が互いに姿を写しあったとの話が、『行状図画』に収録されている(外五巻第1段‐八幡約諾)
④長岡京の乙訓寺の本尊「合体大師像」は、椅子にすわる姿形は空海で、顔は八幡神である。
お大師様ゆかりの乙訓寺 - 大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

乙訓寺の本尊「合体大師像」(日本無双八幡大菩薩弘法合体大師)
空海が入唐渡海に際して、渡海の無事を祈ったのは高野空海行状図画では、宇佐八幡だけです。宇佐八幡は、もともとは朝鮮の秦氏の氏神様です。空海と秦氏の関係が、ここからはうかがえます。ちなみに、絵伝で空海の宇佐八幡参拝のことが書かれると、後世には「うちも渡海前に空海が訪れた」という由緒をもつお寺さんが数多く出てくるようになります。高野空海行状図画などの絵図が、弘法大師伝説の形成に大きな影響力を持っていたことがうかがえます。

空海の入唐渡海の根本史料は、大使の藤原葛野麻呂の報告書です。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。生きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 高野空海行状図画の詞には、次のように記されています。


DSC04544入唐勅命

意訳変換しておくと
桓武天皇御代の延暦23(804)年5月12日(新暦7月6日)、大師御年31歳にて留学の勅命を受けて入唐することになった。このときの遣唐大使は藤原葛野麻呂で、肥前国松浦から出港した。


遣唐使船出港
  高野空海行状図画  第二巻‐第4場面 遣唐使船の出港(肥前国田浦)

遣唐使船が肥前国(長崎県)田浦を出港する所です。
中央の僧が空海、その右上が大使の藤原葛野麻呂です。当時の遣唐使船は帆柱2本で、約150屯ほどの平底の船として復元されています。1隻に150人ほど乗船しました、その内の約半数は水夫でした。帆は、竹で伽んだ網代帆が使用されていたとされてきましたが、近年になって最澄の記録から布製の帆が使われたことが分かっています。(東野治之説)
 無名の留学僧が大使の次席に描かれているのは、私には違和感があります。

 派遣された遣唐使の総数は600人前後で、4隻に分かれて乗船しました。
そのため別名「四(よつ)の船」とも呼ばれたようです。第1船には、大使と空海、第2船には副使と最澄が乗っていました。この時の遣唐使メンバーで、史料的に参加していたことが確認できるメンバーは、次の通りです。
延暦の遣唐使確定メンバー
              延暦の遣唐使確定メンバー
出港以後の経過を時系列化すると次のようになります。
 804年7/6 遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7   第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬   第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10   第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
  鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1   第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15   最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
出港して翌日の夜には、「火信を絶つ」とあるので、遣唐使船は離ればなれになったようです。そして、福建省の赤岸鎮に約1ヶ月後に「漂着」しています。その間のことを、空海は「大使 のための箔州の観察使に与うるの書」の中で、大使賀能(藤原葛野麻呂)に代わっての次のように記します。

入唐渡海 海難部分

「大使のために福州の観察使に与うる書」3
         遣唐使船の漂流について(大使のために福州の観察使に与うる書)

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龍の巻き起こす波浪に洗われる遣唐使船 舳先で悪霊退散を祈祷する空海(弘法大師行状絵詞)

かつてのシルクロードを行き交う隊商隊が、旅の安全のために祈祷僧侶を連れ立ったと云います。無事に、目的のオアシスに到着すれば多額の寄進が行われたととも伝えられます。シルクロード沿いの石窟には、交易で利益を上げた人々が寄進した仏像や請願図で埋め尽くされています。こうして、シルクロード沿いの西域諸国に仏教が伝わってきます。その先達となったのは、キャラバン隊の祈祷師でした。この絵を見ていると、空海に求められた役割の一端が見えてきます。


こうしてたどりついた福建省で遣唐使たちを待ち受けていたのは、過酷な仕打ちでした。それをどう乗り越えていったのでしょうか。それはまた次回に・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」
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 中世の絵巻に出てくる港を見ていると、護岸などの「港湾施設」が何も描かれておらず、砂地の浜に船を乗り上げていた様子がうかがえます。しかし、発掘調査からは石積護岸工事を行った上で、接岸施設を設けた川港も出てきているようです。今回は、宇治川太閤堤を見ていくことにします。テキストは「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
 その前に法然上人絵図に描かれた湊を見ておきましょう。
鳥羽の川港.離岸JPG
                  鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。私が気になるのが、①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。しかし、石垣などの構造物は何もありません。この絵伝が描かれたのは、法然が亡くなった後、約百年後の14世紀初頭のことです。当時の絵師の鳥羽の川湊とは、こんなイメージであったことがうかがえます。
次は兵庫浦(神戸)のお堂の前の湊です。

高砂
   
海に面したお堂で法然で経机を前に、往生への道を説いています。法然が説法を行うお堂の前は、すぐに浜です。その浜に⑤⑥の漁船が乗り上げていますが、ここにも港湾施設は見当たりません。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島
 
馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指している姿が見えます。ここにも何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。砂浜だけです。
兵庫湊2

つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊にも、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。後には、これらの社の別当寺として、寺院が湊近くに姿を見せ社僧達によって湊を管理するようになります。そこから得る利益は莫大なものになっていきます。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、ここにもそのような施設もなかったようです。
  当時日本で最も栄えていた港の一つ博多港を見てみましょう。
博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。ここでは港湾施設が港に現れる時期を、押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
ここからが今日の本題です。発掘調査から出てきている①②の遺構を見ていくことにします。
宇治川太閤堤築堤
宇治川太閤堤
 秀吉によって作られた宇治川太閤堤です。
 文禄元年(1592)に、豊臣秀吉は伏見城の築城に着手します。この城は、当初は隠居所と考えられていたので大規模なものではなかったようです。それが文禄3年(1594)に、淀城を廃して、一部の建物を伏見に移築して本格的城郭として体裁を整えていきます。城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されています。そして8月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っています。築堤工事は伏見築城と並行して行われていて、10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却しています。

宇治川太閤堤築堤2
宇治川太閤堤の石積護岸

 宇治川太閤堤築堤の目的は、次の2点です
①宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くこと
②大和街道を伏見城下に移し、大坂と伏見を結ぶ京街道が整備し、伏見を水陸交通の要衝として機能させること
発掘調査地点は、宇治橋下流側の宇治川右岸300mにわたって続いています。
宇治川堤防1
宇治川太閤堤
護岸遺構からは川側に向けて「石出し」が4ケ所、「杭出し」が2ケ所突き出ています。
宇治川太閤堤築堤4
宇治川太閤堤築堤 石積み護岸
石積み護岸は、馬踏(天端)幅2m、敷(護岸底辺)幅が約5m、高さは2、2m。石積み護岸は上半の石張りと下半の石積みの2段構造です。簡単な整地後、板状の割石を直接張り付けただけです。

宇治川太閤堤築堤3

杭止め護岸は、杭などの木材を用いて垂直に岸を造る工法です。
杭止め護岸は上図3-2のとおり、かせ木・横木(頭押え)支え柱で構成され、裏側に拳から頭くらいの石が詰め込まれています。

 宇治川太閤堤築堤5
宇治川太閤堤は、石出で水流を弱めて護岸の侵食を防ぐ目的がありました。その下流の杭出しは、杭が何本も建ち並び、船着き場として使われていたようです。つまり、この工事は護岸工事であると同時に、船着き場設置工事でもあったようです。

宇治川太閤堤築堤 杭だし(船着場)
杭出し(船着場)復元
  中世から近世にかけての石材を用いた河川護岸施設の多くは、船着き場や物資の集積流通拠点だったと研究者は考えています。そのために巨額の資金と労働力が投下されたようです。
  宇治川太閤堤築堤 石出し

 また宇治川太閤堤の石出しの石垣には、城郭の石垣技術が援用されていることを研究者は指摘します。
城郭と治水・利水施設は目的は違いますが、技術は相互に援用されたようです。例えば、徳川家康の家臣で深溝(愛知県幸田町)を本拠とした松平家忠は、数多くの城普請を手掛けたことが『家忠日記』から分かります。その技術は、領地である永良や中島での築堤工事によって培われたようです。
 満濃池再築を果たした西嶋八兵衛が、若い頃は藩主藤堂高虎の下で二条城や大阪城の天下普請で土木工事技術を身につけていたのも、このような文脈の中で理解すべきようです。それが讃岐での治水工事やため池築造に活かされます。ここからは、築城と築堤が密に関係していたことを押さえておきます。

 宇治川太閤堤跡は、秀吉の伏見築城の付帯工事として着工された河川改修工事です。
そのため秀吉の命により配下の大名達が分担する「天下普請」でした。この工事の重要性は
①文禄3年という時期が分かること
②大名クラスの治水についての思想や技術が込められていること
つまり、時期と築造階層が特定できる点で、非常に重要な遺跡だと研究者は考えています。例えば、甲斐の信玄堤や、加藤清正による肥後での河川工事などの実態についてはよく分かっていません。具体的にどのような工事が行われたのかは、はっきりせず「俗説」が一人歩きしている状態だと研究者は指摘します。そのなかでこの宇治川太閤堤は、用いられた資材や施行内容までもが具体的に分かります。そういう意味でも、中世以来の治水技術の到達点であると同時に、近世の治水技術の出発点の指標となる遺跡です。同時に、川湊という視点からは、石積護岸化と川湊の関係が見えてくる遺跡とも云えます。
 次回は、宇治川太閤堤に作られた川湊の原点とも云える徳島市の川西遺跡の石積護岸を見ていくことにします。
川西遺跡3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
関連記事

    吉野川 山川バンブーパーク
吉野川市バンブーパーク
 竹は根は浅いけれども、広く密に生えるので、洪水対策として土留め効果があるとされて、水害防備林として川筋に育てられてきました。阿波の吉野川の川筋には長く続く竹林が今でも数多く残ります。そのため河と竹林は古くから見られた光景のように私は思っていました。
 一方、竹材はその柔軟性を活かし、編みあげることが可能で、いろいろな工芸品として活用されてきました。そして、各種水防施設にも用いられてきたようです。今回は、水害対策に竹材がどのように利用されてきたのか、洪水対策として竹林がいつ頃から姿を見せるようになってきたのかを見ておきましょう。

治水技術の歴史 : 中世と近世の遺跡と文書(畑大介著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」です。

蛇籠1
蛇籠の制作
 竹材を編んで細長く筒状にし、その中に川原石を入れた蛇籠が使われてきました。
このルーツは中国にあり、世界遺産に登録されている都江堰(四川省)紀元前3世紀)が築造された時に、はじめて用いられたとされています。
四川省の旅2004/都江堰編
都江堰(四川省)の蛇籠

蛇籠が我国に伝来したのは、いつ頃なのでしょうか? 
 古事記に蛇籠に相当する「荒籠」がみえるので、早くから伝わっていたとされてきました。しかし、古代の遺跡から蛇籠が発見された例はないようです。ここからは、古墳時代頃に伝来して、古代には日本国内で広く用いられるようになったとは云えないと研究者は考えています。
蛇籠3

それでは、蛇籠が確認できる史料はなんなのでしょうか?

富士川 船橋
富士川の舟橋(一遍上人絵伝)
『一遍上人絵伝』の富士川に渡された船橋の綱の右方は、蛇籠に固定されているように見えます。しかし、中世でも発掘調査で蛇籠が確認された事例はないようです。蛇籠が確認されるのは、戦国時代になってからです。永禄5年(1562)の穴山信君判物写に「籠」とあるので、戦国時代に甲斐国では蛇籠が使用されていたことは確かです。近世になると農書、地方書、定法書、川除普請仕様帳などから蛇籠は、広く普及していたことが分かります。蛇籠は寛永4年(1627)の吉田光由『塵劫記』に登場します。ここからは、江戸時代の早い段階ですでに知られていたことが分かります。

蛇籠 霞堤
かすみ堤に使用されていた蛇籠
「かすみ堤」などの山梨県内の堤防発掘調査では、江戸時代の蛇籠が確認されています。以上から蛇籠の一般的な使用は戦国時代になってからであり、中世後半までは一般的ではなかったと研究者は考えています。
蛇籠2
堤に用いられた蛇籠

次に治水対策として竹林が育てられていた事例を見ておきましょう。
長者舘門前 粉河寺縁起
板壁の内側に竹が植えられている(粉河寺縁起 長者屋敷)

  粉河寺縁起の長者(武士統領)の舘の周りには、竹が植えられているのが見えます。堀に面した塀沿いに、敷地を護るためと、弓矢の矢の作成材料として、武士の舘に植えられていたことが、絵巻物は描かれています。
 竹材が実際に護岸施設に用いられていた事例としては、次のような所があります。
①奈良県大和郡山市の本庄・杉町遺跡の河川護岸(図10)
②東京の汐留遺跡の大名屋敷の土留め竹柵
杉町遺跡の河川護岸

しかし、これらの事例は近世になってからです。中世に、河川沿いに竹が植えられた事例はないようです。それは、竹の全国普及への時期と関連します。
沖浦和光氏は、竹の普及について次のように記します。
①古代から中世初頭にかけては、温暖な南九州を除いて竹林は全国的には広がっていなかった
②竹林の造成技術が各地に伝わり、竹がいろいろな分野で用いられるようになったのは南北朝時代以後
③室町時代後半になって、治水灌漑のための竹林の造成が盛んに行われるようになった
つまり竹林の全国的普及は、南北朝以後ということにまるようです。竹は、古代からどこにでもあった身近な植物ではないようです。いまは里山では、竹藪が放置され、周りの山々を浸食して大きな問題となっています。私の家の竹藪も、すべて切り払って櫻を植えて、竹藪から山桜の山へと転換中です。このような讃岐の竹藪も、近世からあったわけではなく、明治以後に作られた景観のようです。我が里の「佐文誌」を読むと、大正時代に他所から持込、移植した竹が竹藪として拡がったことが分かります。現在の竹藪に囲まれた景観も百年前にスタートして、高度経済成長の時代にタケノコ景気の時代に急速に面積を拡げていったようです。竹と讃岐の里が結びついたのは近代になってからでした。それ以前は、以前にお話したように里山は「刈敷山」として、肥料のための草木刈りのための重要資源供給地でした。そのためタケノコなどは植えられなかったようです。竹藪が讃岐の里山に広がり始めたのは百年前からだったことを押さえておきます。
じゃかご・ふとんかご・特殊ふとんかご|金網の株式会社伊勢安金網製作所
現在の蛇籠
以上、竹材活用の歴史をまとめておくと
①古代では『竹取物語』の竹取翁に象徴されるように個人の手工的生産が中心
②鎌倉時代になると生活に身近な井戸の材料として使用されるようになり
③戦国時代頃になると治水工事で蛇籠が用いられ
④近世になると多量の竹材が護岸施設にも使用されるようになる。
蛇籠の普及も、この流れに沿うもので、伝来と普及は時期を分けて考える必要があると研究者は考えています。竹は古代から身近にあったものではないこと、竹は外来植物で九州から次第に生育エリアを拡大したことを押さえておきます。

防災と環境を両立する「蛇籠技術」の普及に向けた機関横断型の取り組み | SCENARIO 社会課題の解決を目指して
蛇籠
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参考文献    畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P

前回の最後に、備前福岡の市が、山陽道と吉井川の水上交通の交わる地点に立地していたこと。しかし、そこに架かる橋は現在の視点から見れば「粗末な板橋」だったことを見ました。今回は、福岡の市にならぶ「店」をめぐって見ようと思います。テキストは「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」です。

福岡1
一遍上人聖絵「福岡の市」
 この場面では、追いかけてきた①吉備津彦神社の宮司の子息(武人姿)が黒い僧服を着た一遍に、②切りつけようとするシーンが真ん中に描かれています。その周囲を驚いた人達が取り囲み、成り行きを見守っています。その周囲に、5つの黒屋根が建っています。よく見ると茅葺屋根2棟・板葺屋根3棟です。一遍のことは、以前に見ましたので、今回は、この小屋でどんな商いが行われているのかを、時計回りに順番に見ていくことにします。

福岡 一遍受難と反物屋
      福岡の市 一遍に斬りかかろうとする武士
市の中央では「一遍受難劇」が起きようとしているのですが、その背後では、いつもどおりの商いが行われ、誰も事件には目を向けようともしていないように見えます。
上部の反物屋と履き物の小屋を見てみましょう。
福岡 反物屋
福岡の市 反物屋
①言葉巧みに往来まで出て、色目づかいまでして商品を押し付けている売り子
②売り子から反物を買って、銭を払おうとしている男
③座り込んで、反物を手にとって値踏みしている女
④紐で通したサシと呼ぶ銭を数えている女店主
ここで目に付くのは、女性達の多さと元気さです。この店では、ほぼ全員が女性です。生き生きとした表情で、声が聞こえて来そうな気がします。市全体が賑わいで満ちていたことがうかがえます。
 並べられている反物をよく見ると、丸く巻いたものと、やや平たく巻いた2種類があります。これが丸巻反物と平巻反物で、現在に続くものです。また、着物は売ってはいません。反物を買って、それを自分で縫って着物にしていたようです。時代が下ると、これが呉服屋へと展開していくのでしょう。
 この場面で歴史教科書が必ず触れるのが、銭が使われていることです。
お寿司の一貫は? Part.2 | 雑学のソムリエ
当時の日本では通貨は発行されていませんでした。古代の律令時代に国作りの一環として古代貨幣が造られたことはあります。しかし、それが一般化することはなく姿を消し、そのままになっていました。流通経済が未熟で、貨幣が必要とされなかったのです。銭が流通するようになるのは日宋貿易が始まって以後です。それも宋の銅銭を「輸入」し、そのまま国内で使用します。商品経済が始まったばかりの経済規模は、それで十分だったのでしょう。面白いのは、いろいろな金額を刻印した宋銭が入ってきますが、日本ではどれもが全て一文銭として扱われていたようです。この場面でも、女主人は銭を鹿の革の銭指しに通しているようです。
ここで研究者が注目するのが、②の反物を女性から買っている男です。
足半ばきの男
「足半(あしなが)」履きの船頭?
この男は紐を通した銭と引き換えに、反物を受け取ろうとしています。彼の履物を見てください。よく見ると足全体をカバーせずに、前半分だけしか底がついていない草履です。これを「足半(あしなが)」と呼ぶようです。これは滑りにくく、河船頭達が履いていたようです。つまり、男は、吉井川を上下する高瀬舟の船頭と推測できます。さらに想像を膨らませると、この船頭は、次のような役割を担っていたことが考えられます。
①田舎の者に頼まれ反物を仕入れて持って帰ったり、
②田舎から市場へ反物を持ち込み、委託販売を依頼したり
③田舎の人達から依頼されたものを、市で仕入れて持ち帰る便利屋の役割
彼が買い込んだ上物反物が、女房へのプレゼントである確立は低いと研究者は考えているようです。
建物の左端⑤の人物の前には高下駄が置かれています。反物屋とは、別の履き物屋のように見えます。
福岡 下駄や

 その左側に座り込んだ男は、手に草履を持って、店の女と何やら話しています。この男が履くには似つかわしくないような草履です。この草履は、男が委託販売用に売りに来たと研究者は考えています。当時は、職人が大量に生産するような体制ではなく、家で夜なべに作ったわずかなものを店に並べる程度だったようです。ちなみに、この絵には60人余りの人物が登場しますが、ワラジ、高下駄、つっかけ、草履、そして裸足と履き物はさまざまです。
次の草葺小屋には、俵を積んだ米屋と、魚屋が見えます。
福岡 米屋・魚屋

①青い着物を着た女が魚屋の店先に座り込んでいます。前には空の擂鉢風のものを持参しているので、魚を注文しているようです。よく見ると手元には風呂敷包みのようなものを持っているので、すでに1つの買い物を済ませて、次に魚を買いに来たのかもしれません。その女性客が魚を料理している男を見ています。③男は右手に細い包丁を持って切り込んでいますが、女が何やら話しかけているようにも見えます。「そこのところをもう少し大きく切って頂戴な」とか「もうちょっとまけとき」とでも言っているのでしょうか。
 ②使われているまな板は脚付きの立派なものです。大きさは1m以上はありそうです。まな板の魚は、尻尾がベロッとせず、ピッと細く上下に伸びているので、川魚ではなく海魚だそうです。
⑤女の向こうには上半身裸の男が、吊した魚の重さでしなった棹を担いで出かけています。魚の行商でしょうか。④魚屋の奥の天井には、山鳥と同時に干しダコが吊り下げられています。これは倉敷市下津井の名産・大干しダコとそっくりです。この時代に、その原型はできていて、売られていたことが分かります。
⑥手前の米屋では、米俵が積まれて上半身裸の男が枡を持って米を量り売りしているようです。

福岡 米屋
 福岡の市 米屋
当時の一升枡なのでしょうか。現代の一升枡と比べると、高さ寸法が低いように思えます。これが豊臣秀吉によって、枡制が変更される以前の一升枡の大きさだと研究者は指摘します。秀吉は天下統一後に「升制度量衡改定」で、1升枡の容積を大きくします。これは、入ってくる米の取り分を増やす「増税」になります。
 また、⑧米俵が積まれているので、当時は戦前までと同じで俵詰で流通していたことが分かります。客が持ってきた米袋に枡で量り売りしています。その左側では、口をゆがめた男が順番を待っているようです。
 福岡の市のシーンには、馬の背に俵を載せて運ぶ姿が、2ヶ所で描かれています。これも戦前までは、各地で見られた光景だったようです。今では、紙袋に変わってしまいました。
中段右の板葺小屋を見ておきましょう。

福岡 居酒屋
福岡の市 居酒屋?

 ①足が不自由で歩けないために地車に乗った男が物乞いをしています。②それに応対する店屋の主人らしき男がいます。物乞いする人間がやってきているので、食べ物屋でしょうか。店屋の主人は血色も良く満ち足りてふくよかに、しかも綿入れのような温かそうな着物を着けて手は袖の中に入れて描かれています。物乞いをする男は、素足で上半身裸のように見えます。この対比は、冷酷なほどリアルです。救われなければならない人たちを生んだ社会に、敢えて目を向けさせようとしているようにも思えてきます。
 ここには、③流しの琵琶奏者もいて、昭和の居酒屋と流しのギターの関係と同じです。小屋の中には、④女性が何人かたむろしています。客なのでしょうか、店の人なのでしょうか・・よくわかりません。小屋の右端には、⑤大甕が3個並べられています。ここにはお酒が入っているようです。客に提供する居酒屋としたら、つまみ的なものもあったはずです。そういう目で見ると、四角っぽいやや厚みのある短冊状のものがかすかに見えます。冬の食べ物で想像すると、吉備では切り餅や凍り餅が候補に挙がるようです。
 小屋の左手隅には、⑥面のようなものをぶら下げて売っている男が描かれています。街道をいく旅人のお土産なのでしょうか? よく分かりません。

  最後に広場の下側にある2つの小屋を見ておきましょう。
福岡 大壺・高瀬舟
大壺と高瀬舟

右側の板葺小屋には壁がありません。その下には、大きな壺がいくつも転がっています。先ほどの「居酒屋」も壺のように立てて並べてなくて、まさに転がっているという感じです。これを大壺が商品として売られていると、研究者は考えています。この辺りで、大壺と言えば備前焼です。この壺が登場することで、醤油や漬け物などの食文化が拡大していきます。生活にはなくてはならない必需品です。

小屋の下の「川港」には、高瀬舟が到着して、船頭が何かを抱えて下船しています。
そういえば、魚屋の魚は海の魚でした。河口から高瀬舟で運ばれてきたのかもしれません。また、反物屋で女から反物を買っていた船頭の船が、ここに舫われているのかも知れません。どちらにして、福岡の市が山陽道と吉井川水運の交叉点に開けた定期市であったことが、ここからは見えてきます。

その左手の茅葺小屋は壁があって、何を商っているのかよく分かりません。
しかし、左端に一部、商品らしきものが見えます。 福岡の市では、刀剣類は売られていないとされてきました。刀剣は店先に並べて売るようなものではなく、注文生産だと思われていたからです。しかし、研究者が注目するのは、下段左端の小屋左端の店先に置かれている棒状のものです。これだけでは刀剣だとは云えません。

P1250367
福岡の市 武士が一遍に帰依して剃髪する場面

 裏付け史料になるのが剃髪場面です。ここに描かれている短刀には折り紙のようなものが一緒に添えています。これと同じものが、先ほど見た店の台にも描かれていることを研究者は指摘します。確かに、鞘の色や描き方もまったく同じです。ここからは、刀も商品として市で売られていた可能性が出てきます。
 
 一遍が福岡の市を訪れた季節は、いつなのでしょうか。
落葉した梢、ススキと紅葉した秋草が残って、遠景に雪山を描いているので初冬のようです。しかし、登場人物を見ると上半身が裸の男達が何人もいました。当時の人達は薄着だったのでしょうか? よく分かりません。
 一遍受難事件の発生した時刻は、何時頃なのでしょうか?
 研究者が注目するのは、絵巻の左上の松などの樹木です。その上部の方がぼかされて表現されて、上部が薄く霞むように途切れていると指摘します。これは夕方黄昏時の「昏くらいとばり」が降るように迫ってきていることの表現のようです。一遍上人が危機迫るこの大事件に遭遇しながらも、逆に相手を折伏してし、剃髪が行われたのは夕方近い頃であるとしておきます。

最後に中世の市は、毎日開かれていたわけではありません。期日を決めての定期市だったと教科書には書かれています。それでは、市が立っていない時の様子はどんな様子だったのでしょうか?
それを最後に見ておきます。

備前福岡の市の後に、京を経てやってきた信濃国佐久郡の伴野の市の光景です
P1240533信濃佐久郡伴野の市
信濃国佐久郡の伴野の市
道をはさんだ両側に六棟の茅葺小屋が建っています。附近には家のありません。向こう側の小屋にはカラスが下りてきて餌をあさっています。犬たちの喧嘩に、乞食も目覚めたようです。
こちら側の小屋には一遍一行が座っています。ここで一夜を過ごしたようです。そして、背後には、癩病患者や乞食達の姿も見えます。
 「あら、西の空に五色の雲が・・・」という声で、時衆たちは両手を合わせて礼拝します。そして、瑞雲に歓喜したと詞書は記します。

P1240534

 この絵からは、市が建たない時は閑散としていたこと。そこは乞食たちの野宿するところでもあったこと。そんな場所を使いながら、一遍たちの廻国の旅は続けられていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」
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富士川の船橋2
富士川の船橋(一遍上人絵伝)
前回は富士川の船橋と渡船を見ました。それを次のように、まとめました
①東海道は鎌倉幕府の管理下で、川を渡るための設備が整えられていたこと
②川はこの世とあの世の境に横たわる境界(マージナル)とも意識されていたこと。
DSC03302三島社神池と朱橋
     三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
②については、当時の寺社の伽藍配置を見ると、本堂や拝殿の前に神池を配して、それを橋で渡るという趣向がとられていたところがあったことが分かります。それでは、中世の橋とは、どんなものだったのでしょうか。今回は、それを一遍上人絵伝で見ていくことにします。テキストは 藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)です。

犀川渡河風景
 信濃・犀川の渡河風景
ここには、信濃・善光寺参りの際の犀川の川越え場面が描かれています。
荷駄を担いで岸沿いにやって来た男が渡岸場所をもとめて立ち迷っているようです。その前には、乱杭が何本も打たれて、氾濫に備えているようです。こちら側に洪水から護るべき土地があるようです。手前側では、米俵を馬の背ではこぶ男がいます。迷った末に、ここから川の中に馬を飛び込ませています。米俵は濡れても大丈夫なのでしょうか?
 この絵からは、川には橋もないところがあったことが分かります。ある意味では、渡河は命懸けの行為だったともいえます。里人にとっては、このような危険を冒してまでして犀川を渡ることは少なかったはずです。命懸けで、渡河しなければならなかったのは旅人・商人・廻国修験者たちだったが多かったようです。しかし、一遍上人絵伝には、ほとんどの河には橋が描かれています。

  奥州の祖父墓参からの帰路に渡った常陸国の橋です。
DSC03286
常陸の橋
 雪景色が一遍の前途に拡がります。うねりながら流れる川の手前に、雪化粧された橋が架かっています。  この橋について『絵巻物による日本常民生活絵事』は、次のように記します。
 この絵図に見るような田舎道にもりっぱな欄干のついた橋が架かっているのは、街道筋のためであろうか。この橋は常陸(茨城県)にあった。(中略)
京都付近の橋のように堂々とした欄干も橋脚も持っていない。しかし、一応欄干はついており、橋板もしかれている。橋はわずかだが上部に反っている。これは他の大きな木橋にも共通している。橋そのものは、擬宝珠ももっておらず、また橋脚なども細く小さく街道沿いの橋としては貧弱といえるが、絵巻の中に出てくる地方の橋の中では、技術的に高いものといえる。
   ここでは京都付近の橋と比較して「街道沿いの橋としては貧弱」とします。それでは、京都付近の橋を見ておきましょう。一遍上人絵伝には、賀茂川にかかる四条大橋が描かれています。それを比較のために見ておきましょう。
 
四条大橋
四条大橋(一遍上人絵伝)
 橋の下には賀茂川が勢いよく流れています。橋の上は、霧が深く立ちこめ牛車を隠すほどです。車輪のとどろかせる音だけが聞こえてくるようです。その背後には、板屋や菜田が見えます。このあたりが上賀茂になるのでしょうか。
 橋の左(西)側に目を移すと霧が晴れて、京の街並みが見えています。見えて来たのが四条大通で、朱塗りの鳥居が祇園社の西大門になるようです。橋の下では、服を脱いで馬を洗っている男達がいます。賀茂川は、馬を洗うところでもあったようです。このような立派な橋は、京都にしかなかったようです。
 橋の構造を見ると確かに「堂々とした欄干と橋脚」「擬宝珠」を持ち「技術的に高く」、しかも美しい橋です。それでは、京都の橋のすべてが四条大橋のように立派だったのでしょうか。

堀川に架かっていた七条橋を見てみましょう。
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 京の堀川と橋
京の市屋道場(踊屋)の賑やかな踊り念仏の次に描かれるシーンです。 踊屋の周囲の賑わいの離れた所には、ここでも乞食達の小屋が建ち並んでいます。その向こうに流れるのが堀川です。上流から流されてきた木材筏が木場に着けられようとしています。

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 堀川に架かる七条橋
 ここで研究者が注目するのが堀川に架かる木橋です。この橋が七条橋になるようです。先ほど見た賀茂川の四条大橋に比べるとはるかに粗末です。京の橋すべてが四条大橋のようにきらびやかなものではなかったことを、ここでは押さえておきます。  
 同時に「粗末な橋」と低評価することも出来ないのではないかと研究者は、次のような点を指摘します。それは、大きな筏がこの下を通過していることです。そうすると、この筏が通過できる規模と大きさと橋脚の高さを持っていたことになります。ここには絵巻のマイナス・デフォルメがあると研究者は考えているようです。実際には堀川の川幅はもう少し広いので、橋も長かったはずだと言うのです。つまり、この橋は実際には、もう少し長く高い橋であったが絵図上では、短く低く書かれているということになります。一遍上人絵伝の橋を、そのままの姿として信じることはできないようです。書かれているよりも大型で長かった可能性があることを押さえておきます。
  四条大橋や宇治橋や瀬戸橋は、今で言えば瀬戸大橋やレインボーブリッジのようなものです。政治的な建築モニュメントの役割も果たしていました。これらの橋と常陸の橋を、同列に並べて比べるのは、視点が間違っていると研究者は指摘します。比較すべきは、当時の地方の主要街道や一般街道に、どんな橋が架かっていたかだとします。
  それでは、地方にかけられていた橋を見ていくことにします。
一遍が石清水八幡参拝後に逗留した淀の上野の里です。

P1240609上野の踊屋と卒塔婆238P
上野の街道と踊屋(一遍上人絵伝)

上野の里をうねうねと通る街道が描かれています。街道沿いの大きな柳の木の下に茶屋があり、その傍らには何本もの祖先供養のための高卒塔婆が立てられています。その向こうでは、踊屋が建てられ、時衆によって念仏踊りが踊られています。それを多くの人々が見守っています。上野の里での踊りも、祖先供養の一環として、里人に依頼されて踊られたという説は以前にお話ししました。
手前の街道を見ると、道行く人も多く、茶店や井戸などの施設も見えます。ここが主要な街道のであることがうかがえます。
 左手中央に、小さな川が流れています。そこに設けられているのが木橋です。
上野の板橋
上野の板橋
縦3枚×横2枚の板橋が、2つの橋脚の上に渡された「粗末」な橋に見えます。しかし、これを先ほど見た堀川の七条橋と比べて見るとどうでしょうか。構造的には同じです。そして、一遍上人絵伝の橋の絵には「マイナス・デフォルメ」がある、という指摘を加味してみると、この上野の橋は案外大きかったのではないかとも思えてきます。橋の上を、赤子を背負った菅笠の女房が橋を渡っています。人や馬は通過できたでしょうが、荷馬車は無理です。ここからは、地方の街道には、「投下資本」が少なくてすむので、こんな板橋が一般的だったことが推測できます。今度は奥州の主要道に架かる橋を見ていくことにします。
 
弘安3(1280)年、 一遍の祖父・河野通信(奥州江刺)の墓参りのシーンです。  
DSC03277江刺郡の祖父道信の墓参

墳墓の手前に白川関からの道が続いています。商人の往来が描かれ、詞書には次のように記されています。

魚人商客の路をともなふ、知音にあらざれども かたらひをまじえ・・」

ここからは、人々が数多く行き交う街道であったことがうかがえます。この街道は「奥大道」かその「脇往還」のようです。この街道の先に架かっている橋がこれです。

奥州江刺墓参の橋
奥州江刺の街道に架かる橋(一遍上人絵伝)
 これだけ見ると、寒村の小道の板橋のようにしか見えません。しかし、これが主要街道に架かる橋だったのです。市女笠の女が胸に赤ん坊抱いて渡ろうとしています。前を行く従者が檜唐櫃(ひかんびつ)を前後に振り分けて担いでいます。そして稲穂が見える田んぼの中に小川が流れ、そこに板橋が架かっています。ここでも川には何本もの杭が打ち込まれています。

「一遍上人絵伝』の中で有名な場面といえば、備前国福岡の市です。教科書の挿絵にも登場する場面です。最初にストーリーを確認しておきます。

備前国藤井の政所で、吉備津宮神主の子息の妻が一遍に帰依して出家します。それを知った子息は怒りに震えながら一遍を追いかけ、福岡の市で遭遇します。そして斬りかかろうとしますが、一遍の気迫に押され、彼自身も帰依して剃髪した

福岡の市の場面に出てくる橋を見ておきましょう。
福岡1
①騎馬で追いかけてくるのが吉備津宮神主の子息で、従者が歩行で従います。この道が山陽道。
②市の手前に一筋の川が流れています。これが吉井川で、木橋が架かっています。
ここからは福岡の市が東西に走る山陽道と、南北に流れる吉井川交わる地点に設けられた交通の要衝に立地していたことが分かります。絵には、吉井川に係留された2艘の川船が見えます。水上交通と市が深くつながっていたことを示す貴重な史料ともなっています。それでは山陽道にかけられた橋を改めて見ておきましょう。

P1250364

丸木の上に板橋が乗せられた構造で、橋脚もありません。山陽道の最重要商業拠点に架けられた橋にしてこれなのです。京都の四条大橋には比べようもありません。 こうしてみると、中世の地方の街道には「粗末」な橋しか架かっていなかったことが見えてきます。

P1250355
書写山(姫路)の参拝道の橋

その「粗末」な板橋こそが各地を結ぶ重要な役割を果たしていたことになります。
中世の人達にとって、四条大橋や瀬田橋は瀬戸大橋かベイブリッジのようなもので、滅多に見ることのない橋のモニュメントであり「観光名所」だったのかもしれません。そして、普通に橋と言えば板橋で、それが各地の主要街道に架かっていたことがうかがえます。そういう意味では、最初に見た常陸の橋は、地方では、堂々とした橋で特別な橋であったことになります。この事実を受け止めた上で、認識を次のように改める必要があるようです。
①絵巻の中の街道には、「粗末」で大した技術もなく、見栄えのしない橋しか出てこない。
②しかし、ほとんどの街道の川には橋が架けられていて、川をジャブジャブと渡る姿は少ない。
③技術や見栄え以上に、必要な所には粗末ながらも橋が架けられていたという事実に注目すべきである。
④「粗末な橋」が、一遍一行を始め人々の旅を支える重要な役割を果たしていた。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)
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一遍上人絵伝には、川を渡るシーンがいくつか出てきます。今回はその中の富士川の様子を見ていくことにします。テキストは「 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。

富士川と富士
場面 鯵坂(あじさか)入道の富士川の渡しで入水往生
場所:東海道の富士川河畔
時節:弘安五年(1282)の夏
巻六を開いていくと、姿を現すのが富士山です。このような形で広大や原野の中に富士山が描かれたものとしては、はじめてのものになるようです。そして蛇行しながら流れる富士川が出てきます。この部分を拡大すると。

富士川の渡し
富士川の渡し(一遍上人絵伝巻6) 

この場面は、詞書には次のように記されています。

  武蔵国に鯵坂(あじ)入道という武士がいた。遁世して時衆に入ることを望んだが、一遍は許さなかった。そこで往生の用心をよくよく問いただそうとして、一遍一行を待ち受けた。その途中で、富士川にさしかかった時に、入道は入水を決意し、馬にくくりつけてあった縄を自分の腰に縛りつけた。そして、一方を下人に持たせて私は今から入水自殺する。せめて引接(念仏する人の臨終に阿弥陀仏が来迎し、極楽に導くこと)を頼む。と言い残すやいなや川に飛び込んだ。下人たちはあっけにとられ、為す術もなかった。急いで、縄を引き上げようとしたが、急流でそれも適わず引き上げたときには、すでに事切れて、めでたく往上の本懐を遂げた。

富士川の入水
鯵坂入道の詞書

武蔵国にあじさか(鰺坂)の人道と申もの、遁世して、時衆にいるべきまし申けれども、ゆるされなかりけれは、住生の用によくよく、たつねうけ給て、浦原にてまちたてまつらんとていてけるが、富士川のはたにたちより、馬にさしたる縄をときて腰につけて「なんちらつゐに引接の讃をい‐‐□べし ソ」とひければ、下人「こはいかなる事ぞ・・・」

富士川 船橋
鰺坂入道の入水と船橋
ここまでやってきて鯵坂入道は、突然に入水往生します。 
①船橋の上流で、富士川に沈み、合掌して横顔を見せているのが墨染姿の鯵坂入道
②その上流で、河畔に坐り、綱を握っている二人が供人。
③沈んだ鯵坂入道の腰には、綱が付けられ、供人の一人がしっかりと握っています。
 しばらくして供人が綱を引き上げると、鯵坂入道の姿は「合掌少しも乱れず」と詞書には記されています。鯵坂入道の極楽往生が暗示されています。
 富士川は急流で、細かい波紋が段々に描かれて、流れの速さを表現しています。そのためすぐには引き上げられなかったのでしょう。また、死体回収のために腰綱をつけたのでしょう。

 ここで研究者が注目するのは、その下流に架かっている橋です。

P1250341
富士川の船橋

普通の橋とは、様子がちがいます。
①画面左側に、二本の杭
②画面右側に、円筒形に編まれた竹籠に石を詰めた蛇籠が二つ
その間が二本の太い綱で結ばれています。その綱で舟を繋ぎ舟橋にしています。舟は5艘描かれています。実際は水量によって川幅は変化するので、増水で川幅が拡がったときには何十艘もつながれていたこともあるようです。
舟は上流に舳先(へさき)を向け、舟の向きと直交させるように大きな板を敷いて固定しています。その上に舟と同じ向きに狭い板が敷き並べられているようです。
よく見ると、綱は右側の蛇籠まで長くなっています。これは水害対策だと研究者は指摘します。
水嵩が増して流れが速くなると、固定されたままでは引きちぎられてしまします。それを防ぐために、大水の際には蛇籠に巻いた綱がほどけ、舟橋は吹流しのように川に流される状態になります。杭で綱が固定されているので、流れ去ることはありません。水が引けば、長い綱を何人かで引っ張って元に戻します。こんな船橋が中世の東海道には出現していたことを押さえておきます。
 舟橋より下流には渡舟が描かれています。
富士川の渡し

船頭が二人で、船の前後で流れに棹をさしています。乗舟客は三人で、いずれも折烏帽子を被っているので、一遍一行ではないようです。小ぶりな舟で、舳先は左岸に向いていて、その方向の岸に坐る男がいます。この男も渡舟従事者と研究者は推測します。
渡し船の両岸には二段に渡って民家が描かれています。

P1250339

上段の民家は屋根だけしか見えませんが、その下側は、建物内部もわかります。研究者が注目するのは、民家に人影が見えないことです。これは、どうしてなのでしょうか?。

P1250344
富士川河原の民家(拡大)
それはこの民家が、大水で川止めになった時の宿泊用や避難用の施設だからだと研究者は推測します。鎌倉幕府によって、東海道は整備されていきます。この民家は、その一環として整備された宿泊施設や舟番屋だったというのです。そうだとすれば、渡舟可能なときには、人がいないのもうなづけます。

どうして入水往生の場面に、ここが選ばれたのでしょうか
橋や舟は、こちらの岸から彼岸に渡されます。こちら側はこの世、彼岸はあの世になります。橋や舟を描くことで、鯵坂入道のあの世への往生、極楽往生を暗示していると研究者は推測します。

DSC03302三島社神池と朱橋
三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
 上図の構図はまさに現世と彼岸の間を隔てる池や川です。そこにかけられた橋は浄土への道と言うことになるようです。

最後に、ここに書かれた富士山を見ておきましょう。

P1250338富士

裾野や富士川流域、周辺の山々が、霞の技法を使って描かれています。「古代中世の絵巻のなかで、もっとも雄大な富士山の風景」と研究者は評します。そして、こうした構図が採用されたことに、大きな意味があると指摘します。入水往生という視点に縛られずに、舟橋や渡舟に目を遣るとその時代の風俗がしっかりと描かれていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」
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       長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者

前回は、童行者(千手観音の化身)が、粉河の河内の長者の一人娘の難病を治して去っていった話を見ました。童行者は粉河にいると言い残していたので、春が来ると長者家族は、そのお礼に出かけることになります。旅装は整い、今まさに出立しようとするところです。その旅立ちの姿を見ておきましょう。

長者出立1
   河内国讃良郡(さららのこおり)の長者舘から旅立つところ
少し拡大して見ます。 
長者出立1.粉河寺縁起JPG

 縁の上に、立烏帽子、狩衣姿で立っているのが長者です。
靴は乗馬用の毛履で、右手に赤い扇子、左手に念珠がかけられています。妻のほうに向いて、何か話しているようです。「準備はできたか、輿は出立したぞ、早くしなさい」とでも言っているのでしょうか。
長者の馬は、左側に描かれています。
妻と同じ水干鞍が載せられ、美しく飾られています。馬の回りには4人の供人が付き添っています。これからの騎乗を助けるのでしょう。

長者出立 妻の馬周り

妻の方は、もうすでに騎乗しています。
黒駒に、真紅の総(ふさ)、金銅づくりの鐙が華やかさを演出します。妻は、居残る侍女から、上半身を覆う虫の垂れ衣を付けた市女笠をかぶせてもらっています。これは、カラムシ(苧麻)の繊維から作られた薄い布で、顔を隠すとともに、虫除けや日除けにもなったようで、女性の旅装の必需品でした。
妻の馬周りの従者を見ておきましょう。
①直垂姿の男が鞍の具合を確かめ、締め直している
②小袖姿の男は、馬の汗が下袴に付かないように垢取(赤鳥)の布を尻懸にかけている。
③肩脱ぎの馬の口取り役男は、しっかりと馬の差縄を掴んでいる。
従者は、膝までの四幅袴(よのばかま)に草鞋の軽装です。こちらも、もういつでも出発できます。もういちど全体を見てみると、左側には、輿が上げられ出立していきます。

P1250289

この中には、童行者から救ってもらった娘がいるのでしょう。
この輿について、見ておきましょう。
手輿の屋形は二本の轅(ながえ)で固定され、屋根は切妻で、前後に簾、左右は物見(窓)になっています。

輿の種類
輿の種類

これは板輿というタイプに分類される輿のようです。輿の乗降の際は、轅(ながえ)を簀子(すのこ)の上に置いて、室内に突き入れるようにします。こうすると、地面に降りることなく室内から輿への乗降ができます。
長者出立 板輿

 板輿は、脛(すね)に脛巾(脚絆)を巻いて草鞋を履いた小袖姿の七人が取り付いています。このうち、前後の中央にいるのが二人が輿舁になります。よく見ると後ろの輿舁は、首に襟のように見える布が巻かれています。これは担い布で、両端が轅に巻き付けられています。

板輿2
             板輿と輿舁

輿舁は、担い布の中央を首筋にかけ、両手で左右の轅を持つのです。こうすると、輿は安定したようです。残りの者が輿副たちで、輿舁の両側で轅を持っています。輿の側面で「さあ、出立じゃ」と指示をだしているのがリーダーになるのでしょうか。

板輿

次のシーンは、右から出立した板輿が進んできます。

長者出立 輿と武士団


蔵の前の網代塀の横に跪いているのが警固に従う武士団です。色とりどりの甲冑を着込んでの「盛装」姿です。ちなみに棒先に赤い布が垂れ下がっているのは弓袋だそうです。この中には、予備の弓が入っているようです。長旅には、こうした武装した武士の警固が必要だったようです。ここで私が気になるのは、この長者と武士団の関係です。考えられるのは、次の2つだと思います。
①長者が武士団の棟梁で、武士団を率いていた
②地域の有力者(長者)に武士団が従い、軍事力を提供していた(警護役)
もうひとつの疑問は、武士達がどうして騎馬姿でないのかです。今の私には、よく分かりません。
 輿の前には、侍女が乗った白馬が手綱をひかれて先導します。侍女のいでたちは、妻と同じように虫の垂れ絹に身を包んでいます。白馬に乗る侍女の姿は、街道を行く人達の目を惹いたことでしょう。

これが行者一行の先頭になります
長者出発 先頭

先頭を行くのは、髭面の老武者です。彼は弓を抱え、矢を背負い、腰に野太刀をさしています。これを見ても、当時の武士がもっとも頼りにしていたのは太刀ではなく、弓矢であったことがうかがえます。老武者は、長者の傍ら近く永年仕え、信頼をえていた人物なのでしょう。後を振り返りながら荷駄の者どもを励ましながら、一団を進めています。
 その後の唐櫃には、何が入っているのでしょうか。
上に高杯が結びつけられ、前後には酒の壺が振り分けていますので、食料が入っているようです。もうひとつの長唐櫃の上には、宿居袋(夜具を入れる袋)がくくりつけられているので、長者達の衣類や寝具が入っていると研究者は推測します。どちらにしても、従者の軽快ないでたちとくらべると、長者の荷物は引越かと思えるほどの仰々しさです。これが当時の貴族や地方の長者達の旅装であったことを押さえておきます。
 こうして、長者一行は紀州粉河へと向かって旅立っていきました。その道は、かつて貴族達が熊野詣でを行った熊野街道でもありました。

輿 
京都御所の輿
以上をまとめておくと
①粉河寺縁起には、中世の長者の旅の移動手段や旅装が描かれいること
②そこには騎馬や板輿に従事する人達の姿も描き込まれていて貴重であること。
③さらに供人や警護の武士も描かれていること。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」

今回は『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘を見ていくことにします。
この縁起は、次の2つの物語からなっています。
A 粉河寺(和歌山県紀の川市)の起源譚
B 本尊千手観音の霊験譚
前回は、Aの粉河寺の千手観音の登場を見ました。今回は、Bの千手観音の霊験譚です。物語の要旨は次の通りです。
①河内国讃良郡(寝屋川市)の長者の一人娘が難病に罹っていたのを、童行者が祈祷によって治癒
②お礼に両親から提鞘(小刀)と紅の袴だけを受け取り、粉河で会えることを伝えて去る
③翌春、お礼参りに粉河を訪れた長者一行が、庵の扉を開けると千手観音いて、娘の提鞘と袴を持っていた
④童行者は、千手観音の化身と知り、一行の人々はその場で出家して帰依したと
まずは、河内の長者の館前に、童行者が現れる所からスタートです。

P1250262長者への貢納品

右から左へと、貢納物を背負った里人が長者舘を目指しています。
館前の木の下には完全装備の馬と従者が待機し、いつでも出動できる体制です。
長者舘門前 粉河寺縁起
長者舘の棟門前(粉河寺縁起)
門の前は、深い堀になっているようで、そこに丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。
 内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。ちなみに、『粉河寺縁起』は櫓門が描かれた最も古い史料になるようです。そのためこの部分は、小中の歴史教科書の挿絵として、よく登場します。

P1250265
櫓門警護の下部たち(粉河寺縁起) 
櫓門には、警護の武士が三人が坐っています。奥の片膝立ちの武士は、胸当を下に着込んでいます。手前の矢を背負った武士は、弓を板塀に立て掛け、その手前の武士は刀を膝に置いています。いずれも武装しています。ここからは、長者の家の門前が武力によって護られていたことが分かります。そういう対処が必要とされた時代になっていたことが分かります。長者は、その後の武士団の棟梁へと成長していくのかもしれません。

長者舘門前の駒
門前前の駒と口取(粉河寺縁起)
丸木橋前の木の下に坐る男は、口取(馬の轡を取って引く者)でしょう。馬はいつでも乗れるように馬具一式を装備しています。轡に付けた手綱が木に結わえられ、鞭が差し込んであります。腹帯が締められ、鞍には敷物に置かれて、鐙が下がっています。水干鞍(すいかんぐら)と呼ぶ馬具になるようです。この馬も長者の武力の象徴で、ステイタス=シンボルでもあります。 

  庭先には長唐櫃(ながからびつ)が2つ据えられています。
長者屋敷の貢納物

縁先の1つは山の幸である柿・栗・梨・柘招などが、所狭しと盛り上げられています。もうひとつ後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなどが盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男。貧富さまざまながら、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。
  縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられています。
 これらの貢納品が長者の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され関係にあったことが見えて来ます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。貢納品は、倉に納められていきます。
 
 そんな中で長者の心配は、娘の不治の病でした。
長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者(粉河寺縁起)
  治療を任された童の行者は、娘の枕頭で千手陀羅尼を一心に祈り続けます。詞書は、次のように記します。


その効があったのか、しだいに膿もひき 悪血も流れ出て、痛みは止んだ。七日めの朝になると、不思議にもすっかりもとの身体にもどった。びっくりしたのは、長者夫婦。これは、これは、いかなる霊験でしょうか。仏さまがおいでになって、娘を祈り生かしてくださったのだ、うれしやな、うれしやな。さあ、さあ、なんでもお礼にさしあげますぞ。皆のもの、蔵の中を開いて、七珍万宝、なんでも出してこい。と、お礼の品を運び出そうとした。

娘の回復
お礼に蔵から出されてきた財物

ところが、童の行者はそれを押し止めた。いや、いや、わたしは財物欲しさに祈祷をしたのではない。ひとえに、現世を悲しむあまりに、不治の病いに困っている人を助けようとしたまでのこと、構えて心配ご無用に願います、 と、出て行こうとした。

   せめてもに、と差し出された提鞘と紅の袴とを受けると、童の行者は立ち上がった。どちらへお越しでしょうか。いや、わたしは、 どこと居所を定めているわけではない。しかしながら、わたしを恋しく思うことがあれば「我は、紀伊国那賀のこほりに粉河といふ所にはべるなり」と、言い残して出ていった。とたんに、その姿はかき消すように失せて、もはや、どこにもみることはできなかった。
詞書には「くらヽとうせぬ」と記します。
今回は、ここまで。この続きは次回に・・・

            日本の絵巻 (5) 粉河寺縁起 | 茂美, 小松 |本 | 通販 | Amazon

 私が好きな絵巻縁起の中に、粉河(こかわ)寺縁起があります。アマゾンで450円で売り出されていたので、買い求めて眺めています。素人が見ていても楽しくて、しかも中世史料としても役立ちます。今回は、この巻頭の猟師の家を見ていこうと思います。テキストは「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。

 この絵巻の前半は、紀伊国那賀郡の猟師大伴孔子古(くすこ)が観音の奇瑞により発心し、粉河寺の本尊千手観音が出現する由来です。『粉河寺縁起』の詞書には、次のように記されています。
〔第一段〕(詞書欠失)  兵火で巻頭焼失
〔第二段〕
さて、七日といふに、件の所に行きて見れば、少し分も違はず、開けたる所もなし。さて、開けて見れば、等人(↓身)におはします千手観音一体、きらきらとして立たせたまへり。仕置きたる童は見え給はず、身を寄せ、すきな口‐‐□物したためたる跡も、屑もなし。猟師あやしみ、深く悲しむ。
 この由を妻に語りて、うち具しつつ参り、近辺の者共にも、この由を言ひちらして、各々参り、帰依し奉りけり。
  第一段を補足して、意訳変換しておくと
  紀伊国那賀部の猟師(大伴孔子古)が、山の木の間に据木を設けて、その上に登り、夜ごとに猪や鹿をねらっていた。ある夜、光り輝く地を発見、そこに柴の庵を建て、仏像を安置したいと願っていた。すると、一人の童(わらわ)行者が家にやって来て、猟師の願いをかなえる、と約束して七日の間、庵にこもった。
…約束の七日日(正しくは八日目)の朝、猟師が庵に行くと、童行者の姿は見えない。扉を開けると、中に等身の千手観音像が立っていた。猟師は喜び、これを妻や近隣の人々に語ったところ、人々が、つぎつぎに参詣した。
山中での狩猟中に光を放つ地を発見した孔子古は、そこに庵を構え、仏像安置を発願します。すると一人の童子の行者が、家にやって来て宿を乞い、その礼に仏像の建立を申し出ます。行者は庵に入り、七日の内に仏像を作るのでその間は見てはならない、完成したら戸を叩いて報せると告げ、庵に籠ります。しかし、ここまでの内容は、巻頭部が兵火で焼けて焼失してありません。

P1250254千手観音出現
          現れた千手観音を拝む猟師

 8日目に庵に行って扉を開けてみると、庵内には等身の千手観音立像が安置され、行者の姿は見えなかった。

P1250259

猟師は近隣にこのことを語り、人々はみな参拝して観音に帰依した。
ここには、猟師の大伴孔子古が童行者の援助によって粉河寺を創建した話が記されています。
焼け残った断片を、つなぎ合わせた猟師の家を見ていくことにします。
冒頭 猟師の家2
猟師の家(粉河寺縁起冒頭) 
最初は、猟師の家にやってきた童行者との対面場面です。拡大して見ましょう。
P1250248

童行者は垂髪を元結で束ね、袈裟を掛け、数珠を持って片膝を上がり框に載せています。当時の上層階級を描く際のお約束である「引目鉤鼻」で上品に描かれています。それに対して猟師は、口髭を生やして萎烏帽子をかぶり、腰刀を差して武骨な感じです。片膝を立てて坐り、両手を擦り合わせてお礼をしているようです。
  この部分の会話は、詞書が焼失していますが、他の史料から研究者は次のように復元します。
猟師は、柴の庵を建てていましたが、まだ本尊がありませんでした。そこへ童行者がやってきて、自分が仏像を七日で造りましょうと提案しているシーンです。猟師は童行者の申し出をありがたがっているのでしょう。
巻物を開いていくと次のシーンは、猟師一家の食事場面です。

猟師の食事と肉2
猟師の食事風景(粉河寺縁起)
玄関の背後は台所で、猟師が家族と食事中です。緑の筵を敷いた上に坐るのが 猟師の妻です。折敷板に載せた椀を前にして、赤子に乳を含ませています。その向かい側に片肌を脱いで、あぐらをかいて坐っているのが猟師です。大きなまな板上に、あるのは鹿肉です。

  猟師の食事と肉
 台所で大伴孔子古の家族が鹿肉をたべています。まな板の上に肉をおき、それを箸でおさえ、小刀で切ります。まるで刺身か寿司のように見えます。孔子古や妻の碗の中には、切った肉が入っています。夫婦の椀に盛られているのは、御飯ではなさそうです。鹿肉どんぶりでもないようです。よく見ると、食卓には肉以外の野菜などの副食物はありません。当時の猟師達にとっては、肉そのものが主食だったと研究者は考えています。
 また、肉を焼いたり煮たりしてたべることも少なかったようです。生でたべるか、あまったものは②串ざしや③薦の上に乾かして乾肉にしています。それが庭先に描かれています。乾したものを鳥獣に食いちらされないように、おどしのための矢がたてられています。

当時の鹿肉の保存方法について、絵巻には次のような情景が見えます。
①庭のカマドで肉を煮る
②肉を串に刺して竈(カマド)の前で炙る
③筵(ムシロ)の上で乾燥する
④串に刺して軒下に吊るして乾燥する
⑤生肉を椀に入れ食べる(膾なます、現代風に言えば鹿刺し)
 「野菜類も含めて栄養のとれたバランスある食事」というのは、高度経済成長後の日本が豊かになった後の食事法です。かつては、能登地方では米がとれると米の飯ばかりたべ、鱈(たら)がとれると鱈ばかりたべたと云います。対馬などでも古風な村では烏賊のとれるときは烏賊だけ、麦のとれたときは麦だけ、芋のとれたときは芋だけ、そのほかに若干の塩分があれば庶民は事足りたのです。主食と副食物を別にし、さらに副食物の数をふやすようになったのは酒を飲むための献立が求められるようになってからのことです。また、塩蔵や発酵による貯蔵が発達しなけらばなりません。中世の猟師は、肉が主食であったことをここでは押さえておきます。
次の場面は、猟師の家の裏です。

P1250251
芝垣に干された鹿皮
 柴垣には、鹿皮を干すために、紐を編んで付けた木枠に張られて立て掛けられています。なめし革にしているようです。鹿革は、衣類にされるほか、靴や馬の鞍にされたりする重要素材で、猟師の収入源でした。そのそばでは、犬が何かを食べています。鹿皮から削ぎ落した肉片でも貰ったのでしょうか。

 獣皮をやわらかにする技術は朝鮮から伝えられたことが、「日本書紀」仁賢天皇の六年の条に次のように記されています。

日鷹吉士が高麗から工匠須流枳・奴流枳等をともない帰って献じた。朝廷はこれを大和国山辺郡額田邑においた。熟皮高麗(かわおしのこま)がこれである

「令義解」には大蔵省の条に、次のように記します。

典履典革という役目があり、靴履・鞍具をつくる者をつかさどっていた。靴履・鞍具をつくる者は高麗人・百済人・新羅人などであり、雑戸として調役を免ぜられていた。

これらの人びとの技術が、時代を下ると供に、民衆の間へも伝播浸透していったのでしょう。なめし方については、「延喜式」には、「雑染革・洗革」について、次のように記します。

洗革というのは鹿皮を洗って毛を除き、よくかわかして肉をとり去り、水につけてふやかし、皮をあら削りして草木の汁(成分不明)に和して後に乾す。牛皮の場合は、樫の木の皮が用いられている。樫皮を煮つめてそのタンニンをとり、タンニン液にひたして膠をとり去る

「粉河寺縁起」の場合も、このタンニンなめしであったと研究者は推測します。この絵巻からは、鹿皮の加工過程が見えて来ます。

猟師の家に続いて出てくるのが、この場面です。

P1250252
 
私には、森の木立とした見えませんでした。ここには、猟師の狩の工夫が描かれていると研究者は指摘します。股になった木の間に材木を渡したものがそれです。これが獣道(けものみち)の上に設けられた、据木(スワリギ)と呼ばれる足場で、ここから下を通る獣を弓で射りました。
据木
据木
 猟師が木上上から下を通る鹿をねらいうちしています。少人数で狩をしようとする場合には、動物が通る通路で待ち伏せるのが、最も効率がいいようです。特に、鹿は決まったルートを通ります。「高忠聞書」には「か(狩)りといふは鹿狩の事なり」とあります。こうした野獣の通る道をウジ、ウチ、ウトなどと呼んでいました。山城宇治なども野獣の通道の意であり、それが広域の地名となったと研究者は考えているようです。
 そういうところに待ち受けて狩ることを、ウチマチ、ウジマチなどと云いました。日本の狩猟はこうしたねらい射ちを主として発達します。そこで使われるのが長弓です。長弓は獲物に気付かれないように近くからねらい射ちすることが得手な武器です。
 猟師は、木の上で獲物をまつために、木の股を利用して丸太をわたしてその上に潜みます。詞書には据木(スワリギ)と記します。これをマタギと呼ぶ地域もあるようです。東北地方では、狩のことをマタギとよび、狩人もまたマタギと呼びます。これはウチマチをするための装置からきている言葉と研究者は推測します。

  以上から、平安時代にも肉食で生活していた人がいたことが分かります。ただ、肉は供給量が少なくて大衆に日常食品として出回ることはなかったようです。仏教により肉食が避けられたと従来は言われてきましたが、ほとんど根拠のない俗説と研究者は考えています。
確かに肉食禁止について「日本書紀 29巻 天武天皇四年夏四月」に、次のような詔が記されています。

庚寅の日(17日)、諸国に詔(みことのり)したまひしく、「今ゆ後、諸の漁(すなどり)り猟(かり)する者を制(いさ)めて、檻(おり)穽(おとしあな)を造り、また機槍等の類を施(お)くことなかれ。また四月の朝以後九月の三十日以前には比彌沙伎理(ひみさきり)の梁を置くことなかれ。また牛馬犬猿鶏の宍(にく)を食ふことなかれ。以外は禁例にあらず。もし犯す者あらば罪せむ」と宣りたまひき。

意訳変換しておくと
庚寅の日(17日)、諸国に次のように詔した。「今後、漁業や狩猟する者に対して、檻や穽(おとしあな)を造り、また狩猟のための槍などを置くことを禁止する。また四月の朝以後は、九月三十日以前には川に梁を設置することを禁止する。また牛馬犬猿鶏の肉を食ねることのないように。これ以外の動物については禁例としない。もし犯す者れば罪する。

 研究者が注目するのは、最後の部分の「これ以外の動物については禁例としない」です。つまり、肉食禁止令には、猪、鹿は含まれていません。そして、その後も延喜式には諸国から貢進される産物として、信濃、甲斐などからの調物には肉製品が入っています。肉食によって生きていた人達がいて、その文化があったことは押さえておきます。
 確かに、平安貴族は四つ足の獣は汚れとして忌まわれ、仏教の殺生を禁じる教えもあって鳥肉以外の肉食をほとんどしませんでした。しかし、庶民は別です。肉食をしていたのです。生き物を狩り、それを食するのが猟師です。これは、仏教の教えに背く生業です。粉河寺縁起には、猟師である者でも信心を持てば、救われる存在であることを語っています。本尊の千手観音は、千の手それぞれに眼があり、すべての人を救うとされます。このあたりに、粉河寺の人気の源がありそうです。
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粉河寺の千手観音(粉河寺縁起)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし
西岡常一『粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵』 日本絵巻物全集6、p.23~(角川書店)1977

全国の民俗芸能には、鳴り物に太鼓や鉦が使われます。
例えば「一遍上人絵詞伝」には、「ひさげ」を叩きながら、踊り念仏を行ったことが次のように記されています。

すずろに心すみて念仏の信心もおこり、踊躍歓喜の涙いともろおちければ、同行共に声をととのへて念仏し、ひさげをたたきてをどりたまひけるを、(略)

  意訳変換しておくと
次第に心も澄んで念仏への信心も高まり、踊躍歓喜して踊っていると涙がつたい落ちて、同行する者たちは声を調えて念仏して、ひさげを叩いて踊った、(略)

  ここには「ひさげを叩いて踊った」とあります。

提・提子(ひさげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ひさげ
ひさげとは、鉉(つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 です。湯や酒を入れて、持ち歩いたり温めたりする銅や真鍮製の容器でした。最初は、太鼓や鉦でなく「ひさげ」が打ち鳴らされていたようです。


信濃小田切 踊り念仏 
信濃小田切の踊り念仏
踊り念仏が踊られたころの絵図を見てみましょう。一遍が打ち鳴らしているのは、大きな鉢のように見えます。踊りの輪の中にいる時衆たちが持っているのも鉦ではありません。「ひさげ」を叩いていたことを押さえておきます。また、雰囲気も厳かな宗教的踊りとという感じはしません。踊り念仏が庶民の娯楽性を帯びたものだったことがうかがえます。

『一遍聖絵』には、次のように記します。
聖の体みむとて参たりけるが、おどりて念仏申さるゝ事けしからずと申ければ聖はねばはねよをどらばをどれはるこまののりのみちをばしる人ぞしる

  意訳変換しておくと
聖(一遍)がやってきたことを聞いて、多くの人々がやってきた。その中に踊りながら念仏を唱えることを、けしからないと非難する人もいた。それに対して聖は、跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれと、駒の道理を知る人は知る

「跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれ」とあるので、飛び跳ねる馬のように軽快に乱舞していたことが分かります。この時に、「ひさげ」は叩いて音を出す楽器として使われたようです。同時に、「ひさげ」は、壷のように霊魂の容器であるホトキ(缶)としても用いられています。つまり、宗教的な器具であり、楽器でもあったようです。
「ひさげ」のように空也手段が叩いていたのが瓢箪(ひょうたん)のようです。
『融通念仏縁起絵巻』の清涼寺融通大念仏の項には、瓢箪を叩きながら念仏を唱えて踊る姿が描かれています。ここからは、瓢箪も「宗教的意味合いをもつ楽器」と考えられていたことがうかがえます。
空也堂踊り念仏

京都の空也堂で11月に行われる歓喜躍踊念は、「鉢叩き念仏」とも呼ばれます。ここでは空也僧たちが導師の回りを太鼓と鉦鼓に合わせて、瓢箪を叩きながら歓喜躍踊念仏を踊ります。鉦鼓や焼香太鼓・金瓢などを叩いて、これに合わせて「ナームーアーミーダーブーツ(南無阿弥陀仏)」と念仏を詠唱しながら、前後後退を繰り返しながら左回りに行道します。次第に鉦や太鼓のリズムが激しくなり、空也僧も速いテンポの念仏に合わせながら体を大きく左右上下に振ります。この体形は、天明七年(1787)成立の『拾遺都名所図会』に描かれた挿絵とほぼ同じです。この絵には、
①空也堂の内陣須弥壇前方部で鉦を打ちながら読経を続ける一人の僧侶
②僧衣を着けた半僧半俗の九名の空也僧たち
が描かれ、僧侶を中心に取り巻くようにU字型の体形をなし、手に狐と撞本を持って、詠唱念仏に合わせて瓢箪を打ちつつ行道している様子が描かれています。

空也堂系の六斎念仏請中では、金狐銀釧を採物とするものが多く、瓢箪を叩くものは少数のようです。
採物(とりもの)とは、神事や神楽で巫女や神楽などが手に持つ道具で、「榊・葛・弓・杓(ひさご)・幣(みてぐら)・杖・弓・剣・鉾」の計9種類とされています。折口信夫は手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の意味があったという説を出しています。
 例えば以前に見た播磨の百国踊りの新発意役の採物(とりもの)は
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。
七夕|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典|ジャパナレッジ
ひょうたんが吊された七夕竹
ちなみに、踊り念仏の本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、その後の流れの中で新発意役の衣装も、派手な色合いに風流化し、僧形の姿で踊る所はあまりないようです。そういう意味では、被り物や採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えていると云えそうです。

2月14日|でれろん暮らし|その89「比左を打つとは?」 by 奥田亮 | 花形文化通信
 「七十一番職人歌合」の鉢叩の項には、次のように記します。
「むじょう声 人にきけとて瓢箪のしばしばめぐる 月の夜ねぶつ」
「うらめしや誰が鹿角杖ぞ昨日まで こうやこうや といひてとはぬは(略)はちたたきの祖師は空也といへり」

以上をまとめておくと
①踊り念仏では、手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の道具として採物(とりもの)が用いられた。
②空也系の流れを汲む時衆の踊り念仏で、用いられた採物が「瓢箪」であった。
③瓢箪は、「鉢叩き」として楽器であると同時に、霊魂の容器として宗教的な意味合いを持っていた。
④禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇を採物とした。
⑤踊り念仏から風流踊りへと変化する中で、鳴り物より採物の方が重視されるようになった。
⑦採物は風流化の中で、大型化したり、華やかになったりして独特の「進化」をとげた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

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時宗の開祖・一遍は民衆の間に念仏を勧めて、北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続けました。そのため「遊行上人」とも呼ばれます。しかし、あるときまでは一遍は自分の行動に確信が持てなかったようです。それが大きく変化するのが熊野本宮で、熊野権現から夢告をうけたことでした。

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熊野川を下る一遍

一遍死後、約50年後の正安元年(1299)に、弟子の聖戒が作成したと伝えられる「一遍聖絵」巻二には、次のように記されています。

DSC03190熊野本宮
熊野本宮(一遍上人絵伝)
  文永十一年のなつ、高野山過て熊野へ参詣し給ふ。(略)
本宮證誠殿の御前にして願意を祈請し目をとぢていまだまどろまざるに、御殿の御所をおしひらきて、白髪なる山臥の長頭巾かけて出給ふ。長床には山臥三百人ばかり首を地につけて礼敬したてまつる。この時権現にておはしましけるよと思給て、信仰しいりておはしけるに、かの山臥聖のまへにあゆみより給ての給はく、融通念仏すゝめらるゝぞ、御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏と心定するところ也。(略)大権(現)の神託をさづかりし後、いょ/ヽ他力本願の深意を領解せりとかたり給き。
  意訳変換しておくと
文永11年(1174)の夏、高野山から熊野へと参詣した。(略)
熊野本宮證誠殿の御前で、願意を祈願した後、目を閉じて眠ろうとした。すると御殿の御所を押し開いて、長頭巾かけた白髪の山伏(熊野権現の権化)が現れた。長床には、山伏が三百人ばかり首を地につけて礼敬している。これが権現だと気づいて、お参りしていると、その山伏が一遍の雨に歩み寄ってきて、次のように云った。「融通念仏を勧めることに、なんの迷いがあろうか。すべての衆生の往生は、阿弥陀仏のみを信じることにある。信じる信じない、穢れている清いに関わらずお札を配るべし。(略)目を開いた一遍の周りには、百人をこえる子ども達が、その念仏を受けたい、札をいただきたいと口々に云いながら集まってきた。一遍が名号を唱えながら札を渡すと子ども達は消えていった。(中略)熊野大権現の神託を授かった後、いよいろ他力本願の深意を理解したと一遍はおっしゃった。

  ここからは 一遍は文永11年(1174)に高野山と熊野に参詣したこと、熊野では熊野権現の夢告を受け、立教開宗をしたことが分かります。
熊野本宮 熊野権現との出会い

 證誠殿の前に白装束の山伏(熊野権現)の姿が現れています。その前にひざまずくのが一遍です。その右手には、熊野権現の教えに従って、子ども達にお札を配る一遍の姿が描かれています。左から右への時間経過があります。巻物には、時間経過が無視して一場面に描かれています。今の漫画の既成概念を外して見ていく必要があります。

高野山も熊野も、この時代には山岳霊場のメッカでした。
当時の本宮には「長床」という25間もの拝殿があり、そこに集まる「長床衆」と呼ばれる熊野行者たちによって管理運営されていたことは以前にお話ししました。
また、熊野三山の本地仏は次の通りでした。

−第41回−文化財 仏像のよこがお「藤白神社の熊野三所権現本地仏坐像 」 - LIVING和歌山
熊野三所権現本地仏坐像 藤白神社(海南市)権現堂
阿弥陀如来坐像(本宮・中央)・薬師如来坐像(那智・右)・千手観音坐像(新宮・左)
熊野本宮の本地仏は阿弥陀如来とされていました。熊野は山中他界と海上他界の二つの信仰が融合した霊地です。そのため死者の霊魂の行く国(場所)、「死者の国・熊野」とされてきました。そして、熊野本宮の本地仏は、阿弥陀如来とされます。 一遍が熊野に詣でたのは、宇佐八幡宮や石清水八幡宮の八幡神の夢告という神秘説もあります。しかし、熊野に群集する道者に賦算する目的、高野聖を媒介とする法灯国師覚心の引導があったことが要因と研究者は推測します。

DSC03194熊野本社 音無川合流地点
本宮の音無川合流点から新宮へ下る川船

そして翌年には、信濃の小田切で一遍が踊り念仏を始めて踊ったことが、次のように記されています。

DSC03257信濃小田切での踊り念仏
信濃小田切で、はじめての踊り念仏
其年信濃国佐久郡伴野の市庭の在家にして歳末の別時のとき、紫雲はじめてたち侍りけり。仰をどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給けり。(略)
同国小田切の里或は武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまたかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
  意訳変換しておくと
その年に、信濃国佐久郡伴野の市庭の在家で、歳末の別時のときに、紫雲が立ち上った。踊り念仏は空也上人が市屋や京の四条の辻で始めた。(略)
信濃国小田切の武士の屋形で、一遍が踊り始めると、道俗が数多くが集まってきて結縁が結ばれたので、以後は恒例の行事となった。
ここからは、小田切の武士の舘で別れの際に庭先で踊った所、人々の信心を集めるにの有効だとされるようになったこと、以後は、踊り念仏を民衆教化の手段として、機会あるごとに各地で踊るようになったことが記されています。
 五来重氏は、踊り念仏からいろいろな民俗去能が発生した過程を、詳しく述べています。
Amazon.co.jp: OD>念仏芸能と御霊信仰 : 大森恵子: 本
大森恵子氏も『念仏芸能と御霊信仰』で、御霊を鎮魂する目的で踊られた民俗芸能の原形は、空也に始まり、一遍に受け継がれた踊り念仏にあると指摘します。空也は「阿弥陀聖」とも呼ばれ、念仏を唱えながら三昧で死者供養を行ったと伝えられます。空也聖たちも、死者供養のために踊り念仏を行い、一遍も空也と同じように念仏(融運念仏)を詠唱し、踊り念仏を踊ったのです。そのことで崇りやすい御霊を供養し、災害や戦いの恐怖から民衆を救おうとします。当時の御霊は、あらゆる災いを引き起こして、その崇りを引き起こすとされていたのです。その「悪霊退散」「御霊供養」のために踊り念仏は踊れられた研究者は考えています。

当時の最大の社会的事件は元寇でした。
これにどう向き合うのかと云うことが、宗教者にも求められたはずです。多数の戦死者を出し、元軍の襲来に人々が恐怖を感じた年に、一遍は熊野で神託を受けて悟りを開いています。それは、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生ができるという教えです。その先に国家安康もあるとします。阿弥陀信仰は、仏や菩薩を信じれば死後(来世)に仏たちのいる浄土に生まれ代わることができると信じるものです。これは死者供養と、深く結びついています。
 熊野本宮の本地仏と同じように、八幡神の本地仏も阿弥陀如来でした。そのためか一遍は、頻繁に地方の有力八幡宮を訪れています。
弘安元年(1278) 大隅正八幡宮へ
弘安9年(1286) 山城国の石清水八幡宮
弘安10年(1287) 播磨国の松原八幡宮
DSC03222大隅八幡
大隅正八幡宮に参拝する一遍
  大隅八幡宮(現鹿児島神宮)で受けた神の啓示による歌とされるのが次の歌で、のちの宗門で尊ばれるようになります。

「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」(聖絵)


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『一遍聖絵』巻九
『一遍聖絵』巻九には、弘安9(1286)年に、一遍は石清水八幡宮に参詣して、八幡神の託宣を受けたこと次のように記します。
弘安九年冬の頃、八幡宮に参じ給う。大菩薩御託宣文に曰く「往昔出家して法蔵と名づく。名を報身に得て浄土に往す。今娑婆世界中に来たり、則ち念仏の人を護念するを為す」文。同御詠に云く、
極楽に参らむと思う心にて、南無阿弥陀仏といふぞ身心
因位の悲願、果後の方便、 悉く念仏の衆生の為ならずといふ事なし。然あれば、金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れを汲まむ類は、心を西上の教(へ)に懸けざらむや。

意訳変換しておくと
弘安九年(1286)冬の頃、山城の石清水八幡宮に参拝した。その時の大菩薩御託宣文には、次のように記されていた。「往昔に出家して法蔵と名なのる。報身を得て浄土に往していた。それが今、娑婆世界にやってきて、念仏を唱える人々を護念する」文。そこで一遍は、次のような歌を詠んだ。
極楽に行こうとする心で、南無阿弥陀仏を唱える
因位の悲願や果後の方便は、すべて念仏衆生のためである。金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れに身を任せる人は、心を浄土・阿弥陀如来の教へに傾けるであろう。
ここからは、一遍が阿弥陀如来を本地仏とする八幡神に対して、「一体感」とも云うべき心情をもっていたことが分かります。
DSC03464山城の石清水八幡
石清水八幡宮(一遍上人絵伝)
この後、一遍は播磨の松原八幡宮(姫路市白浜町)に詣でています。そこで「別願和讃」を作って、時宗の衆徒にあたえます。このことについて「一遍聖絵」には、次のように記されています。
播磨松原での和讃
一遍の和讃

「この山(書写山)をいでヽなを国中を巡礼し給。松原とて八幡大菩薩の御垂迹の地のありけるにて、念仏の和讃を作て時衆にあたえたまひけり。
身を観ずば水の泡 消えぬる後は人ぞなき
命を思へば月の影 出て入る息にぞ止まらぬ
人天善処の形は 惜しめども皆とどまらず
地獄鬼畜の苦しみは 厭へども又受けやすし
目の辺り言の葉は 聞く声ぞなき
香を嗅ぎ味舐めむる事 ただ暫くの程かし
息のの操り絶えぬれば この身に残る効能なし
過去遠々の昔より 今日今時に至る迄
思(ふ)と思ふ事は皆 叶はねはこそ悲しけれ
聖道・浄上の法門を 悟りと悟る人は皆
生死の妄念尽きずして 輪廻の業とぞ成(り)にける
善悪不二の道理には 叛き果てたる心にて
邪正一如と思ひなす 冥の知見ぞ恥づかしき
煩悩即ち菩提ぞと 言ひて罪をば作れども
生死即ち湿槃とは 聞けども命を惜しむかな
自性清浄法身は 如々常住の仏なり
迷ひて悟りも無き故に 知(る)も知らぬも益ぞなき
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり
境智二つもなき故に 心念口称に益そなき
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり
十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき
名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり
十方衆生の願なれば  人も漏るヽ科ぞなき
別願超世の名号は 他力不思議の力にて
口に任せて唱ふれは 声に生死の罪消えぬ
初めの一念より他に 最後の十念なけれども
思(ひ)を重ねて始(め)とし 田賞ひ)の尽くるを終はりとす
思(ひ)尺きなむその後に 始め・終はりはなけれども
仏も衆生も一つにて 南無阿弥陀仏とを申すべき
早く万事を投げ捨てヽ 一心に弥陀を頼みつつ
南無阿弥陀仏と息絶ゆる これぞ思ひの限りなる
此時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し
一時に御手を授けつヽ 来迎引接垂れ給ふ

(略)仏も衆生もひとつにて、南無阿弥陀仏とぞ申べき、はやく万事をなげすてヽ、一心に弥陀をたのみつヽ、南無阿弥陀仏といきたゆる、これぞ思のかざりなる」

ここからは、 一遍が時宗の教義として念仏を唱え、阿弥陀如来を信仰することを説いていたことが分かります。その和讃を考え出したのも八幡宮だったのです。
⛩松原八幡神社|兵庫県姫路市 - 八百万の神
松原八幡神社(姫路市)
どうして、一遍は八幡神との「混淆」を考えるようになったのでしょうか?
当時の人達の最大の関心事は、元寇でした。元寇が三度あるのではないかという危機感が世の中にはありました。その危機感の中でクローズアップされたのが、八幡信仰です。そのような時代背景の中で、一遍は、八幡信仰も混淆しようとしたと研究者は考えています。
  一遍は元軍襲来の恐怖から逃れる手段として、あるいは元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的から、各地の八幡神に参詣したことが推測できます。その際には一遍や時宗聖たちは、詠唱念仏や踊り念仏を八幡神に対して奉納したはずです。そのため一遍の弟子に当たる一向上人も大隅八幡宮から神託を受けたり、宇佐八幡宮で初めて踊り念仏を催したことが『一向上人絵伝』には記されています。
 八幡宮に奉納されていた民俗芸能を考察するうえで、 一遍と時宗聖がおよぼした影響を無視して論じることはできないと研究者は指摘します。同時にこの時期には、高野聖も本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏を勧めていったことを押さえておきます。
   以上をまとめておきます
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③また、一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。

一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。
テキストは、「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。

大津関寺1
琵琶湖から大津の浜へ(一遍上人絵伝)

DSC03339琵琶湖大津の浜

①最初に出てくるのが①琵琶湖で、小舟が大津の浜に着岸しようとしています。船には市女笠の二人連れに女が乗ってきました。

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②その手前には、長い嘴の鵜が描かれているので②鵜飼船のようです。
③その横には製材された材木が積んであります。これも船で運ばれてきて、京都に送られていくのかも知れません。

DSC03340大津

浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。

DSC03345琵琶湖大津 関寺門前179P

④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
大津関寺の卒塔婆
関寺の卒塔婆
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。

DSC03352関寺の卒塔婆
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。
 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
大津関寺の踊り屋
関寺境内の池の中島建てられた踊り屋(一遍上人絵伝)

門を入ると、四角い池(神池)があります。その真ん中に中島が設けられて、踊り屋が作られています。ここで一遍たちが踊り念仏を踊っています。それを周囲の岸から多くの人々が見ています。大津関寺の踊り屋2
関寺の踊り屋

    池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。

大津関寺の踊り屋3
大津の関寺全景

詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。

つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと
②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。
②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。
③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
大坂上野の踊り屋
淀・上野の踊り屋

今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
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上野の踊り屋(一遍上人絵伝)
   踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。

淀・上野の卒塔婆
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。

廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」

ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?

戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 法然上人逆修塔 - 善通寺市ホームページ
法然上人逆修塔(善通寺東院)
 千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。
 ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し
②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
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「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、
②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
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  以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

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      法然上人絵伝表紙
 
 以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。

鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。 
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
 そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。
②仏の教えを理解する度量・器のこと
③衆生の各人の性格。
④根性は、この機根に由来する言葉
  ④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」

というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。

次に 法然の略伝を見ておきましょう。  
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。

選択本願念仏集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
         選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。
②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと
③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」

法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
聖典セミナー 選択本願念仏集|本願寺出版社

『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。

それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

     意訳変換しておくと

速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。

ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
 法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
二河白道(にがびゃくどう)の図
二河白道図

『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
 口称念仏の先駆けとされる | thisismedia
それまでは口称念仏は、「劣機のための低劣な行」とみなされてきました。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
 法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅう)修・無間(むけん)修・無余(むよ)修です。この三修は、称名の際の内面的なあり方を問題にしています。それに対して、長時修は臨終にいたるまで称名をやめるなというだけです。この長時修重視の姿勢は、法然の教説の中では、評判の悪いとされているようです。近代人のものの見方からすれば、当然かも知れません。例えば、ルター流の信仰義認説の立場に立つなら、機械的に称名を続けるなどというのは、はなはだ非宗教的なことで、内面的な信仰こそが重視されるべきだということになります。近代の法然解釈の多くは、こういう立場を暗黙の前提にします。
 「何でもいいから称名を続ける」ということは、自分が劣っていると深く自覚したものが、阿弥陀仏の本願のみを頼んで、ひたすら称名し続けるということです。これが法然の基本姿勢で、逆にいえば、これ以外はどうでもよいということになります。そう考えると法然が戒律をたもったことや、授戒を行ったことを、専修念仏に反する矛盾・妥協と非難する必要もなくなります。
 称名を行うことが第一義で、戒律の持破もどちらが本人に合っているかということに過ぎないのです。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
 専修念仏というと、他宗や他の行法を否定した面だけが強調されます。しかし、それは一部の弟子たちの行動で、法然とは異なると研究者は考えています。
七箇条起請文』
七箇条制誡

法然教団への弾圧
法然は『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』(1204)の末尾で、「三十年間、平穏に暮らしてきたが、十年前から、無智不善の輩が時々出るようになった」と述べています。ここで三十年前というのは、法然が専修念仏に回心した時点を指しています。法然の言葉を信じる限り、彼の思想が問題視されるようになったのは、むしろ弟子たちの言動によってだと考えていたことが分かります。法然没後、活発な活動を展開する弟子たちの多くは、ここでいう「十年」の間の人間者です。
☆彡「法然上人 芳躅集 全」浄土宗 知恩院 大原問答の顛末 | imviyumbo.gov.co
大原談義
法然の教説をめぐって諸宗の碩学を交えての討論会(大原談義)が行われたとされます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
①専修念仏以外の行業や教学を非難してはいけない(第1~第3条)
②破戒を勧めてはいけない(第4条)
③自分勝手な邪義をとなえてはならない(第5~第7条)
これに対して、弟子たちの中には「法然の言葉には表裏がある」などと称し、制誠に従わない者もいたようです。そのため事態は鎮静化しません。翌元久二年には、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が提出され、興福寺が専修念仏停止を訴えます。本状では、専修念仏者の悪行として次のような九項目を挙げています。

法然
興福寺の専修念仏停止状
①新宗を立つる失(勅許によらず浄土宗を立てたこと)
②新像を図する失(専修念仏者以外の不往生を不す摂取不捨曼茶羅を描いたこと)
③釈尊を軽んずる失(阿弥陀仏以外の諸仏を礼しないこと)
④万善を妨ぐる失(称名以外の諸行を否定すること)
⑤霊神を背く失(神明を礼拝しないこと)
⑥浄土に暗き失(諸行往生を認めないこと)
⑦念仏を誤る失(観念よりも口称を重んじること)
⑧釈衆を損ずる失(破戒・無戒を正当化すること)
⑨国上を乱る失(専修念仏によって八宗が衰徴し王法も衰えること)

これを見ると。専修念仏が当時の社会に与えた影響を網羅的に挙げていることが分かります。 親鸞は、『興福寺奏状』が一つの契機となって、法然の流罪を含む専修念仏弾圧が引き起こされたと解釈しています(『教行信証』)。
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しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、建永2(1207)年10月25日に改元して承元元年になると、法然が流罪に、住蓮・安楽房が死罪に処されるという事態になります。これが「建永または承元の法難」と呼ばれます。
写本 愚管抄 七冊揃 慈円 慈鎮和尚 鎌倉時代 歴史書 史論書 和本 藤原忠寄 lram-fgr.ma

同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
 親鸞はこの事件について、次のように処罰の不当さを訴えています。(『教行信証』)。
「主上臣下、法に背き義に違し、恋を成し怨を結ぶ」
「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す」
ここからは多分に後鳥羽上皇の感情的な処置だったと親鸞は考えていたことがうかがえます。。
 なお、『歎異抄』の奥書では、安楽・住蓮の他、善綽房西意・性願房が死罪に処され、法然・親鸞以下八名が流罪、そのうち幸西と証空は慈円が身柄を預かり、刑を免れたとしています。しかし、これは他の史料にはみえない記述です。

小松郷生福寺2
流配中の法然(讃岐那珂郡小松郷:まんのう町)

法然は土佐国配流に決定します。

しかし、保護者である九条家の荘園だった讃岐の塩飽本島や、那賀郡小松庄(まんのう町)で逗留している内に、その年の秋には罪を許され、畿内へ戻っています。そして摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した後、建暦元(1211)年に京に戻り、翌年ここで臨終を迎えます。
   今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」
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前回は『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている次の8つの場面を紹介しました。
①「信州小田切の武士の舘」
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹波国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

初期は大地の上で踊っていることが多かったのが、次第に「踊り屋(ステージ)」を設置して踊られるようになったことを見ました。この中で⑥「丹後国久美の道場」での踊りは、他の踊りと趣が変わっています。まずは、その全体図から見ていきましょう。

  一遍聖絵の詞書は「丹後の久美浜と但馬の久美にて海中より龍現わる」場面を次のように記します。(意訳)

 弘安八(1285)年の二月中旬のころ、丹後の久美の浜で、  一遍が念仏を唱えていると、はるか海上のほうに、大きな龍が現われた。このとき、一遍のほかには阿弥陀仏と高畠人道という者が、一緒にこれを見た、という。それから他所へ移動するに時に沖のほうをみながら、 いまの龍の供養をしよう。供養には水が入用なのだが。と 一遍がいうと、やがて、雷鳴とともに雨が降り始めて、人々はすぶ濡れになってしまった。


丹波の久美

 注意しておかなければならないのは、ここに記されていることは「丹後の久美」と「丹波の久美」のふたつの場所での、日時が異なるできごとであることです。
それが絵図には、時空を越えて同時に描き込まれています。右が丹後の久美の浜で、最初の龍王の出現場面です。これに対して左場面が、丹波の久美浜で、道場と踊り屋(ステージ)が描かれています。別々の時間に、違う場所で見た龍王が同時に一枚の絵に描き込まれていることになります。 ちなみに左図中の注に「久美浜」と書かれています。これは画面に入れる注記を誤っていると研究者は指摘します。

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丹波の久美浜(一遍聖絵)
 右画面の丹後の久美浜を見ます。2つの洲浜が広がり、その間に入江があります。洲浜の上に、板葺き屋根の建物が描かれます。家の中は板敷きのようです。背を向けた人物に「 一遍」と注記があります。その前に3人の僧が向き合って座しています。詞書に「聖のはかは、時衆嘆阿弥陀仏・結縁衆たかはたの人道といふもの……」とある人達が描かれているようです。

一遍が海を背に、念仏を唱えていると、はるか沖合いの空に、怪しげな雲が現れます。みるみるうちに、海中からにょきにょきと涌き出した雲の中から、一匹の青龍が現われます。「あっ、龍だ、龍だ、上人さま、あれ、あれなる海に青龍が」

久美浜の龍王
                 久美に現れた竜王(神奈川県清浄寺蔵 一遍聖絵)

 今度は 左画面(但馬国の久美)を見ていくことにします。
久美浜の龍王2
  左部分のについて、詞書には次のように記されています。(意訳)

 同じ年に、但馬の久美という所で海から一町ばかり奥まったところに、一遍は道場を建てた。沖のほうで、稲妻が光り、雷鳴がとどろく。一遍は「これぞ、龍王が結縁に来たのだ」と、さっそくながら念仏を始めた。ところが、雷鳴風雨は、ますます激しく、波が荒れ狂い、潮が打ち寄せ、道場の中の僧たちは、たちまちのうちに腰のあたりまで浸かってしまった。人々は、あわてて仏具などを取り片づけようとした。が、一遍は、少しも騒がずに「おのおのがた、お構いなく、お構いなく、行道をお続けなされよ」と制した。行道が終わるやいなや、嘘のように潮は引いた。道場があった所はいままで、潮の寄せたことがないので、人々はこの不思議に首をかしげるばかりであった。

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高潮に襲われた道場(踊り屋)
研究者が注目するのは、この異変への 一遍の対応ぶりです。
雷鳴風雨となり、高潮が押し寄せて膝まで潮に浸かっても「おのおのがた、お構いなく、お構いなく、行道をお続けなされよ」と一遍は命じています。一遍がここで使っている「行道」とは、何なのでしょうか。海の中を歩いたようではないようです。この文と挿絵から推測すると、「行道」とは踊り屋の中を鉦鼓を叩きながら廻ることを繰り返すことなのでしょう。つまり、風雨雷電と高潮をもたらした龍王を鎮める呪法として、一遍は踊り念仏を踊らせたと研究者は判断します。 
ここからは一遍にとって「行道」とは、踊り念仏であったことが分かります。
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 龍神と結縁した一遍の念仏行道会(ぎょうどうえ)を拝む漁民達
 これは海辺で海の彼方の常世からこの世に来訪する祖先を迎えたり、あるいはこの世からあの世に祖霊を鎮送する盆行事、仏迎えや仏送りにつながります。ここからは、踊り念仏は悪霊・御霊・死霊・祖霊などを鎮め祀る呪的乱舞の意味を持っていたと云えそうです。そうだとすると一遍の活動は、熊野行者の宗教活動と重なる部分が数多くあったことになります。
 前回に一遍の宗教活動の目的を次のように紹介しました。
①熊野信仰と阿弥陀信仰を融合させようとした。
②元寇という危機的状況打開のために、阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰を融合し民衆を教化しようとした。
  丹後と丹波の久美での竜王への「行道(踊り念仏)」からは、悪霊・御霊・死霊・祖霊などを鎮め祀る呪的乱舞あること、そして①の「熊野信仰と阿弥陀信仰を融合」という指向がうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

念仏は呪術であり、芸能でもありました。そして念仏には「歌う念仏」と「踊る念仏」がありました。踊る念仏は死者供養で、鎮魂呪術としての機能があったようです。それを一遍の踊り念仏で見ていくことにします。テキストは「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
『一遍聖絵』は、始めて踊り念仏が踊られたときのことを次のように記します。
(信州)小田切の里或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。(略)心工の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。

ここには弘安二年(1179)に、信州小田切の里で、始めて踊り念仏が踊られたと記されています。そのシーンを見てみましょう。


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信州小田切の武士の舘(始めて踊り念仏が踊られたシーン)

①武士の屋形の縁先で、勧進を受けた一遍が鉢を叩いて囃子をとり、
②庭で法衣を着けた時衆(11人)と武士(2人)が、 真ん中の2人を中心にして輪になって、踊り念仏を行っている
③回りの人達が鉢や鉦を叩いたりして、囃をとる者
④囃子に合わせて手拍子を打つ者が、激しく足踏みをしながら円形に進んでいる。
⑤踊り念仏の輪を囲むように俗人の男女が 一心に手を合わせている
場面に描かれた人々は、みんな目をを大きく開けていて、念仏を詠唱しながら跳躍乱舞しているように見えます。

同じシーンを『一遍上人絵伝』で見ておきましょう。

小田切 一遍上人絵伝

踊りの輪の真ん中で合掌している一遍(顔が赤い)と、その周囲を両手を合わせて激しく跳躍する時衆の徒が対照的に描き分けられています。ここは武士の舘の庭先です。そこには、まだ「踊り屋(ステージ)」は登場していません。
 武士など権力者の家の庭で、時衆聖が勧進を目的として踊ったものは「庭念仏」「庭躍」「入庭」「庭ほめ」などと呼ばれていました。それが時代とともに風流化が進み、風流太鼓踊りの「入庭」とか「入羽」「いりは」、あるいは「出庭」「出羽」「でにわ」などの踊り曲に変化していくようです。確かに、私の里の綾子踊りにも「入廷」という言葉が今でも使われています。

一遍は、阿弥陀仏への信仰を説き、念仏の功徳を強調しました。
彼は念仏を広めるために北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続け、別名「遊行上人」とも呼ばれます。一遍の宗教的なねらいを研究者は次のように考えています。
①熊野信仰と阿弥陀信仰の融合
②元寇という危機的状況打開のために阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰をも融合し、民衆を教化
一遍や時衆聖たちが、各地の八幡社へ参詣し、詠唱念仏を唱えたり踊り念仏を修しているのは、元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的だったというのです。

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「京都四条京極釈迦堂」
『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている場面が描かれているのは次の通りです
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹後国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

②の「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」を見ておきましょう。
鎌倉片瀬の浜の地蔵堂

ここでは、土の上ではなく道場に設置された踊り屋(ステージ)のなかで踊られています。胸に鉦鼓を吊して足で強く板を蹴り、左回りに旋回する時衆聖たちの姿が描かれています。

踊り念仏は、何のために踊られたのでしょうか?
①時衆聖たちが修行目的から、 一心不乱に踊り念仏を修している
②他人に頼まれた種々の祈願のために、彼らが踊り念仏を行っている
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二条非田院( 一遍聖絵)

多くの見物人が周りに描かれています。踊り念仏は自身の悟りを得るために跳躍乱舞する宗教的行道から、人に見せるという目的が加わって、宗教的芸能の要素を強くおびていったと研究者は考えています。どちらにしても踊り念仏は、時宗聖の勧進活動の一手段だったことが分かります。時衆が急速に信者を獲得した理由のひとつは「踊る念仏僧」というダンスパフォーマンスにあったようです。

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淡路二宮
  「踊り屋」には宗教的な意味もあった
 最初に見た信州小田切で、踊り念仏が踊られ始めた時には、「踊り屋(ステージ)」は描かれていませんでした。ところが②の鎌倉片瀬の浜では、「踊り屋」が登場するようになります。その理由については『一遍聖絵』は、何も触れません。現在の野外コンサートでも同じですが、大勢の人々を集めて踊り念仏を催す場合は、全ての人の目に踊る姿を見せることが求められます。そこでステージ(踊り屋)を組んで高い位置で踊るようになったと研究者は推測します。
 ただ踊り屋はステージというだけの存在ではなかったようです。屋根と柱で仕切られた空間である踊り屋は、死者供養を行う聖地、あるいは祭場と信じられていた節があるというのです。
信州佐久郡の大井太郎の屋敷
大井太郎の屋敷から引き上げる一遍一向 (一遍聖絵巻5)

この場面を詞書は、次のように記します(意訳)
弘安二年(1278)冬、信濃国佐久部に大井太郎という武士がいた。偶然にも一遍に会って、発心して極楽往生を願っていた。この人の姉は、仏法にまったく関心がなかった。が、ある夜に夢をみた。家のまわりを小仏たちが行通している。中に背の高い僧の姿がある。そこまでで夢から覚めた。さっそく陰陽師を呼んで、吉か凶かと占わせた。むろん、吉と出た。そこで、一遍を招いて、三日三晩の踊り念仏の供養を行なった。集まった人々は五、六百人にも及んだという。
 踊りが終わった後、家の板敷きは抜け落ちてしまった。しかし、主人はこれは 一遍の形見だとして、修理もしないで、そのままにして大切に保存した、という。
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    集団の先頭で頭巾を被り、数珠をまさぐりながら帰って行くのが一遍です。その後には、激しい踊りパフォーマンスの興奮と満足感でで、さめやらない集団が続きます。ある意味では夢遊病者のようで、「新しい学校のリーダー」のコンサート会場から出てくるファンたちと同じかも知れません。

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  踊り念仏が奉納された家では、紺色の狩衣の主人の大井太郎が手をあげて見送っています。縁台を見ると、簀の子板が踏み外されています。それほど激しい踊りが行われたことがうかがえます。これも宗教的な意味があると研究者は次のように指摘します。P1240548
踏み外された簀の子板

床や大地を足で激しく強く踏み鳴らすことを「だだ(反閑)を踏む」というようです。
これによって、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送することが西大寺の裸祭などの原型だったことは以前にお話ししました。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのも悪魔祓いです。東大寺のお水取の場合は「ダッタソ」と発音するそうです。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。これが西大寺の裸踊りの起源です。一遍の念仏踊りとつながるところがありそうです。
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⑦「淀の上野」

 板張りの床の上で激しく跳躍すれば「ドンドンドンドン」と大太鼓を乱打するような音がします。この音が悪霊や死霊を鎮める呪力をもつと信じられたようです。

以上をまとめておきます
①踊り念仏が始まった頃は、踊り屋(ステージ)はなく、四股を踏むように大地を激しく踏み込んだ踊りが行われたいた
②それは、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送するパフォーマンスであった。
③それが屋内の板の間で激しくおどると大きく反響し、新たな陶酔感を与えるものとなった。
④踊り念仏に集まる人達が増えると共に、ステージとして踊り屋が設けられるようになる。
⑤踊りはステージでもあり、音響施設でもあり、宗教的な意味合いももつものでもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

中世の瀬戸内海の港町と船と船乗りを見ていきます。平安末期になると、神人・供御人(くごにん)制が形成されてくるようになります。海上交通の担い手である廻船人も、神人(じにん)、供祭人、供御人などの称号をもち、神・天皇の直属民として海上の自由な交通を保証され、瀬戸内海全体をエリアとして海・河での活動に従事するようになります。それは、人の力をこえる広大な大海原で、船を自由に操る廻船人の職能や交易活動そのものが、神の世界とかかわりある業とされていたからなのでしょう。今回は、平安末期から中世前期に登場する廻船(大船)についての史料を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
中世の廻船は、どのくらいの値段で取引されていたのでしょうか?
1164(長寛2)年、周防の清原清宗は、厳島社所司西光房の私領田畠・栗林六町を得た代価として、自分の持ち船である「長撃丈伍尺、腹七尺」を渡しています。つまり「6町(㌶)田畑・栗林」と「廻船」が交換されています。ここからは、廻船が非常に高価であったことが分かります。
 周防・安芸の海を舞台に活動していた清原清宗は、一方では「京・田舎を往反(往復)」する廻船人で、この船を手に入れた厳島の西光房も同業者だったようです。廻船は、大きな利益を生むために、高く取引されていたことを押さえておきます。

室津の遊女
法然が讃岐流刑の際に利用した廻船(法然上人絵伝 室津)

法然が讃岐流刑の際に乗船した大船は、田畑7㌶の価値があったことになります。この船を手配したのは、誰なのでしょうか。また、どこの港を船籍とする船なのでしょうか? そんな疑問も湧いてきます。それはさておいて、先に進みます。
 
 廻船の事例として、1187(文治3)年2月11日の「物部氏女譲状」を見ておきましょう。
この譲状には、紀伊の久見和太(くみわた)の賀茂社供祭人の持舟「坂東丸」と呼ばれる船が出てきます。(「仁和寺聖教紙背文書」)。「久見和太」の御厨は東松江村の辺りにあった可能性が強く,現在の和歌山市松江付近にとされています。「坂東丸」は1192(建久3)年4月には、播磨貞国をはじめとする播磨氏五名、額田・美野・膳氏各一名からなる久見和太供祭人の持ち舟となっていて「東国と号す」とされています。この船はもともとは「私領船」でしたが、持主の源末利の死後、後家の美野氏、山崎寺主、摂津国草苅住人加賀介等の間で、所有権をめぐって争いとなります。大船(廻船)は貴重なために、所有権を巡る争いも多かったようです。同時に、その所有権が移り替わっていく「動産」でもあったようです。また、ここに登場する賀茂社供祭人たちも、漁携民であるとともに廻船人です。彼らは坂東・東国にまで航海し、遠方交易にたずさわっていたことが史料から分かります。

当時の廻船人の社会的な地位がうかがえる史料があります。
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弘田神社(西宮市)
1250(建長2)年の、摂津国広田社の廻船人について、次のように記されています。
この廻船人は、社司・供僧以下、百姓等とともに、「近年、博変を好む」として禁制の対象になっています。そして、1263(弘長3)年4月20日の神祗官下文からは、廻船人について次のようなことが分かります。
①廻船人のなかに令制の官職をもつ「有官の輩」がいたこと
②有官の廻船人の罪については、供僧・八女(神社に奉仕し神楽などを奏する少女)と同じように特権が与えられていたこと
③廻船人が遠国で犯した罪科については、訴人がなければ問題にしないこと、
ここからは神人が官位をもち、世俗の侍身分に準ずる地位にあったことが分かります。廻船人は神人や、あるいはそれ以上の特権を与えられて、広く遠国にまで船で出かけて活動していたようです。廻船人をただの船乗りと考えると、いけないようです。船乗り達は身分もあり、経済力もある階層だったのです。

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 平安時代の武庫郡
1292(正応5)年閏6月10日、摂津の武庫郡今津の廻船人である秦永久の記録を見ておきましょう。
秦永久は東船江屋敷などの田地四段、所従七人とともに、小船二艘を含む船三艘を嫡子有若丸に譲っています。秦永久も武庫川河口近辺の津・船江に根拠をもつ廻船人であったようです。秦姓を名乗っているので、もともとは渡来系の海民のようです。武庫郡は祗園社の今宮神人や広田社神人を兼ねた津江御厨供御人とともに、諸国往来自由の特権を保証された武庫郡供御人の根拠地でした。秦氏がこれらの海民的な神人・供御人集団の一員であったことが分かります。
 秦永久が嫡子有若丸に譲った小船二艘は漁携用で、残りの一般が廻船に用いられた「大船」だったようです。ここからは、廻船人は天皇家・神社などによって特権を与えられ、廻船で広く交易活動を行う一方で、平安末・鎌倉期には、漁機にも従事していたことがうかがえます。

以上からは、古代以来の海民たちが、賀茂・鴨社の保護を受けながら漁撈を営みながら大船(廻船)をもち、瀬戸内海を舞台に交易活動に進出していく姿が見えてきます。ここで思い出すのが、「法然上人絵図」の讃岐流刑の際に立ち寄った播磨・高砂の光景です。

高砂
法然上人絵図 高砂

①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせます。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろします。法然が説法を行う建物の前は、すぐに浜です。当時は、港湾施設はなく、浜に船が乗り上げていたことは以前にお話ししました。そして、⑤⑥は漁船でしょう。一方、右側の⑦は幅が広く大船(廻船)のように見えます。そうだとすれば、法然に相談している老いた漁師も、「漁携民であるとともに廻船人」で、若い頃には交易活動にも参加していたのかもしれません。

兵庫湊
法然上人絵伝 神戸廻船廻船

 そういう目で「法然上人絵伝」に登場してくる神戸湊を見てみると、ここにも漁船だけでなく廻船らしき船が描かれています。海民たちは、漁撈者であると同時に、廻船で交易活動も行っていたことがうかがえます。
 古代の海民たちは、「製塩 + 漁撈 + 交易」を行っていました。
製塩活動が盛んだったエリアには、牛窓や赤穂、室津などのように中世になると交易港が姿を現すようになります。それは、古代の海民たちの末裔達の姿ではないかと私は考えています。そして、海民の中で大きな役割を果たしたのが、渡来系の秦氏ではないかと思うのです。
①秦氏による豊前への秦王国の形成
②瀬戸内海沿岸での製塩活動や漁撈、交易活動
③山城秦氏の氏神としての賀茂・鴨神社による秦氏系海民を神人として保護・使役
④豊前秦氏の氏神・宇佐神宮の八幡社としての展開と、八幡社神人としての海民保護と使役
 賀茂神社や八幡社は、もともとは秦氏系の氏神です。そこに、秦氏の海民たちが神人として特権を与えられ使役されたという説です。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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出立随員
                    法然讃岐流刑 京都出立場面(法然上人絵伝第34巻)
法然上人絵伝で讃岐流刑の場面を見ていて思うのは、法然に多く弟子たちが従っていることです。
    法然上人絵伝 巻34第1段には、次のように記されています。

三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立することになった。その際に信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、①「力者の棟梁」として最後のお供にと御輿を用意して、②僧六十余人と馳せ参じた。
 出立輿
法然の京都出立
ここからは次のようなことが読み取れます。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
まず、私に分からないのは「力者の棟梁」です。そして、法然の教団には60人を越える僧侶がいたことです。この教団を維持していくための経済的な基盤は、どこにあったのでしょうか。これに対して、法然は、勧進集団の棟梁であり、勧進で教団を維持していたとという説があります。今回は、その説を見ていきたいと思います。テキストは「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」です。
 
高野聖(五来重 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

五来重氏は、法然の勧進僧としての出自を次のように述べます。

「法然が比叡山の別所聖であったという観点に立ってみると、聖者法然が形成されてゆく履歴苦が見えてくる」

1180(治承四)年1月に、平家によって東大寺が焼きはらわれたとき、法然に東大寺再建の大勧進聖人という名誉ある白羽の矢がたてられたことを挙げます。そして法然は「勧進の才能と聖の組織をもつていた」と指摘します。結局、法然はこれを辞退して、重源という大親分にゆずってしまいます。しかし、法然が如法経の勧進聖であったことは、いろいろな史料から実証できると云います。
 例えば『法然上人絵伝』(『四十八巻伝』)の巻九からは、先達として如法経供養をしたことが分かります。また、九条兼実が法然の下で出家し、その庇護者となったことは、よく知られたことです。その他の史料から分かってきたことは、九条兼実の舘に出入りしていた宗教者は法然だけではない云うことです。その他にも仏厳や重源などの僧侶も、九条兼実の邸に出人りしているのです。それは勧進のためだというのです。
その中の高野山の仏厳の動きを見ておきましょう。
九条兼実の日記『玉葉』には、安元三年(1177)4月11日に、次のように記します。
朝の間、小雨、仏厳聖人来る。余、障を隔てて之に謁す。法文の事を談ず。又風病の療治を問ふ。此の聖人能く医術を得たるの人なり
意訳変換しておくと
朝の間は小雨、仏厳聖人がやってきた。障を隔てて仏厳と接する。法文の事について話す。そして、風病の治療について問うた。この聖人は、医術について知識が深い人だ。

「官僧でなく、民間の験者のようなもので、医術の心得のあった人であろう」としています。
 安元2年11月30日に仏厳房がきて、その著『十念極楽易往集』六巻を見せたが、書様に多くの誤りがあるのを兼実が指摘すると、聖人は、満足してかえって行った。  
 治承元年(安元三年)十月二日には、兼実は「仏厳聖人書く所の十念極楽易往集」を終日読んで、これは広才の書である、しかもこれは法皇の詔の旨によって撰集したということだと、仏厳の才能を認めています。
どうして高野山の別所聖である仏厳が、関白兼実の屋敷に出入りするのでしょうか?
12世紀半ばになると皇族や関白などが高野山に参拝するようになります。彼らを出迎えた僧侶を見ると、誰が政府要人を高野山に導いたのかがわかります。唱導師をつとめたのは、別所聖たちです。このころに高野山にやってきた有力貴族は、京に出て高野浄土と弘法大師伝説と大師霊験を説く高野聖たちのすすめでやって来ていたようです。
性霊集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

『性霊集』(巻八)には空海の「高野山万燈会願文」(天長九年〈811)を、次のように記します。

空海、諸の金剛子等と与に、金剛峯寺に於て、馴か万燈万華の会を設けて、両部の曼茶羅四種の智印に奉献す。期する所は毎年一度斯の事を設け奉り、四恩に答へ奉らん。虚空尽き衆生尽き湿槃尽きなば、我が願も尽きなん

ここには勧進の文字はありませんが、一燈一華の万燈奉納の勧進をすすめた願文と研究者は考えています。関白道長の法成寺御堂万燈会や平清盛の兵庫港経ヶ島の万燈会などは長者の万燈でした。一般の万燈会には、燈油皿に一杯分の油か米銭を献じました。いまも法隆寺や元興寺極楽坊には、鎌倉時代に行われた万杯供養勧進札が残っているようです。
参拝者によって彩られる10万本のろうそくの灯火「高野山 萬燈供養会 ろうそくまつり」|ろうそくまつり実行委員会のプレスリリース

 高野聖たちは、空海いらいの高野山万燈会を復活することによって、 一燈一杯の喜捨をすすめていたことが分かります。寛治二年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(西南院本)には、高野山奥之院で行われた行事を、次のように記されています。

其の北頭の石上に御明三万燈を並べ置く、土器三杯に之を備ふ

ここでは土器1杯を一万燈にかぞえています。これは横着な「長者の万燈」の例かもしれません。集めた喜捨は、丸残りで高野山復興資金に廻せます。
このように勧進活動は、次のようないろいろな勧進方法がとられています。
①配下の勧進聖を都に遊行させて、奥之院に一燈を献ずることをすすめたり、
②御影堂彼岸会に結縁をすすめ、
③仁海創意による五月十四日の花供結縁をすすめる。
大国の募財は京都で仁海が貴族のあいだ廻ってすすめ、荘園からの年貢や賦役は、慈尊院政所が督促するという風に手分けして勧められたようです。これらの勧進活動で、高野山の諸堂は復興していくのです。
この聖たちの中で際立った動きを見せているのが仏厳房聖心です。
 『玉葉』の安元元年(1176)8月9日に、仏厳房の住房の塔に、「金光明寺」という額を関白兼実が書いてやったこと、おなじ堂の額を故殿(関白忠通)が書いてやったことなどが記されています。
 内大臣中山忠親の『山枕記』にも、仏厳が出入りしていたようです。忠親が治承四年(1180)3月12日に、洛外洛中の百塔請をした残り二十八塔をめぐって、常光院(清盛の泉邸内)・法住寺・法性寺・今熊野観音などをへて東寺へ行き、仏厳房のところで天王寺塔を礼拝したとあります。これは四天王寺五重塔のミニチュアをつくって出開帳の形で礼拝させたか、あるいは四天王寺塔造営の勧進をしていたかの、いずれかだと研究者は推測します。高野聖と四天王寺の関係は密接で「高野 ―四天王寺 ― 善光寺」という勧進聖の交流ルートがあったと研究者は考えています。
 つまり高野聖である仏厳が関白や内大臣の家に出入りするのは、勧進の便を得るためで、趣味や酔狂でおべっかするわけではないのです。これは西行や重源の場合みれば、一層あきらかになります。勧進聖にとって、なんといっても京はみのり多い勧進エリアです。そのため仏厳は、高野山をくだって京に入れば、高野山の本寺である東寺に本拠の房をもっていて、そこを拠点に勧進活動を勧めていたはずです。

 このころ仏厳の本職は、高野山伝法院学頭でした。
高野聖の中では、支配的地位にいました。しかし、『玉葉』や『山枕記』にみられる仏厳は、やたらに人の病気を診察したり治療のアドヴァイスをしています。そのため彼の名は『皇国名医伝』にのせられています。医学と勧進は強い関係があったようです。勧進にとって医術ぐらい有力な武器はなかったと研究者は云います。勧進聖は本草や民間医学の知識ぐらいはもっていました。また高野聖はあやしげな科学知識をもっていて、やがて鉱山開発などもするようになります。
 仏厳もそれをひけらかしていたようです。
 例えば、重源が渡来人縛若空諦をつかって、室生寺経塚から弘法人師埋納という舎利をぬすみ出します。
その時に、その真偽鑑定を九条兼実から依頼されています。(『玉葉』建久 年八月一日)。この重源の悪事も、東大寺勧進のために後白河法皇と丹後局にとりいるためのものでした。仏厳は「お互いに勧進を勧めるのは大変なことで、手を汚さないとならないときもあるものよ」と相哀れんだかもしれません。勧進聖は呪験力とともに、学問や文学や芸能や科学の知識など、持てるものすべてを活用します。文学を勧進に役だてたのは、西行でした。仏厳は雨乞などの呪験力と科学的知識と、伝法院学頭としての密教と浄土教の学問を、勧進のために駆使したと研究者は指摘します。

以上のように、仏厳が法然や重源などとともに、兼実のもとに25年の間(1170~94)出入りして法文を談じたり、兼実や女房の病気を受戒で治し、恒例念仏の導師をつとめていることが分かります。これが法然の動きとよく似ていることを押さえておきます。

話を最初に戻します。法然が九条兼実宅を訪れていた頃に、高野山の仏厳は高野山復興のための勧進に、そして重源も東大寺復興のために勧進活動のために、頻繁に同じ舘を訪れていたのです。
  
こういう視点で、最初に見た法然讃岐流刑の出立場面を、もう一度見てみましょう。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
①の「力者の棟梁」や②の60人を越える僧侶集団は、法然も勧進集団の棟梁として活動していたように、私には思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」

1207年に、法然は讃岐に流刑になり、子松庄(琴平)の生福寺に入ったと「法然上人絵伝」は記します。そして、訪れているのが善通寺です。今回は法然の善通寺参拝の様子を見ていくことにします。

善通寺仁王門 法然上人絵伝
善通寺仁王門 法然上人絵伝 第35巻第6段
〔第六段〕上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。
 この寺の記文に、「一度も詣でなん人は、必ず一仏浄土の朋(とも)たるべし」とあり、「この度の思ひ出で、この事なり」とぞ喜び仰せられける。
意訳変換しておくと
法然上人の讃岐在国の間に、国中の霊験の地を巡礼した。その中で善通寺といふ寺は、弘法大師が、父のために建立した寺である。この寺の記文に、「一度参拝した人は、必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)の朋(とも)となり」とあった。これを見た法然は、「そのとおりである、このことは、深く私の思い出に記憶として残ろう」と喜ばれた。

  善通寺に関する文章は、わずかこれだけです。要約すると「善通寺に参拝した、一仏浄土(阿弥陀浄土)が記されてあった」になります。「善通寺参拝証明」とも云えそうです。法然上人絵伝の描かれた頃になると、都人の間に弘法大師伝説が広がり、信仰熱が高まったようです。
善通寺仁王 法然上人絵伝
善通寺仁王門

瓦屋根を載せた白壁の塀の向こうにある朱塗りの建物は仁王門のようです。よく見ると緑の柵の上から仁王さまの手の一部がのぞいています。これが善通寺の仁王門のようです。しかし、善通寺に仁王門があるのは、東院ではなく西院(誕生院)です。

善通寺 法然上人絵伝

門を入ると中庭を隔てて正面に金堂、左に常光堂があります。屋根は檜皮葺のように見えます。瓦ではないようです。また、五重塔は描かれていません。
 法然の突然の参拝に、僧侶たちはおどろきながらも金堂に集まってきます。一座の中央前方に法然を案内すると、自分たちは縁の上に列座しました。堂内に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を見つけて、歓ぶ場面です。

しかし、ここに描かれているのは善通寺(東院)の金堂ではないようです。
中世の東院は退転していた時代があるとされますが、残された絵図からは瓦葺きであったことが分かります。イメージとしては西院(誕生院)の御影堂のような印象を受けます。

 ここまで法然上人絵伝を見てきて分かることは、一遍絵図のように絵伝を描くために現地を再訪して、描かれたものではないということです。京の絵師たちが場面設定に応じた絵を京都で、現地取材なしで書いています。そのため「讃岐流刑」のどの場面を見ても、讃岐を思わせる風景や建物は出てきません。この「善通寺シーン」も、当時の善通寺の東院金堂の実態を映すものではないようです。

法然上人絵伝(1307年)には「善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。」とあります。
善通寺の建立を史料で見ておきましょう。
①1018(寛仁2)年 善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」ここには「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
②1072(延久4)年(1072) 善通寺所司らの解状「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」
③1113年 高野山遍照光院の兼意の撰述『弘法大師御伝』
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
ここまでは、「弘法大師の建立」と「弘法大師の先祖の建立」です。
そして、鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
④1209(承元3)の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)に、「佐伯善通建立の道場なり」
 以上からわかることは
平安時代の①の文書には大師建立説
その後は②③のように大師の先祖建立説
がとられています。そして、鎌倉時代になると④のように、先祖の名として「善通」が登場します。しかし、研究者が注目するのは、善通を大師の父とはみなしていないことです。
以上の二つの説を足して割ったのが、「先祖建立自院の頽廃、大師再建説」です。
⑤1243(仁治4)年、讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』は、次のように記します。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと
「そもそも善通寺は、大師の御先祖の俗名を寺号としたものとされる。古代に建立後に退転していたのを、大師が修造・建立したが、もとの寺号である善通寺を改めなかったのであろう」

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名とするのです。
 善通寺のHPは「善通寺の寺名は、空海の父の名前」としています。
これは、近世になって善通寺が広報活動上、拡げ始めた説であることは以前にお話ししました。
これに対しする五来重氏の反論を要約すると次のようになります
①善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者の名が付けられる。
②東院のある場所は、「方田」とも「弘田」とも呼ばれていたので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通である。
③ところが「善通」という個人の俗名が付けられている。
④これは、「善通が中世復興の勧進者」だったためである。
五来重氏の立論は、論を積み上げていく丁寧なものでなく、飛躍があって、私にはついて行きにくところが多々あります。しかし、云おうとしている内容はなんとなく分かります。補足してつないでいくとつぎのようになります。
①白鳳時代に多度郡郡司の佐伯氏が菩提寺「佐伯寺」を建立した。これは、白鳳時代の瓦から実証できる。
②つまり、空海が生まれた時には、佐伯家は菩提寺を持っていて一族のものが僧侶として仕えていた。空海創建という説は成立しない。また空海の父は、田公であり、善通ではない。
③佐伯直氏は空海の孫の時代に、中央貴族となり讃岐を離れた。また、残りの一族も高野山に移った。
④保護者を失った「佐伯寺」は、末法の時代の到来とともに退転した。
⑤それを中興したのが「中世復興の勧進者善通」であり、以後は彼の名前から「善通寺」で呼ばれることになる。
 ここでは11世紀後半からの末法の時代に入り、善通寺は本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた時代があること。それを中興した勧進僧侶が善通であるという説であることを押さえておきます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺西院(誕生院)19世紀

 法然上人絵伝の善通寺の場面で、私が気になるもうひとつは、寺僧の差し出す文書に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を法然が見つけて歓んだという記述です。現在の感覚からすると、真言宗の聖地である善通寺で、どうして阿弥陀浄土が説かれていたのか、最初は不思議に思いました。

4空海真影2

善通寺の西院(誕生院)の御影堂(大師堂)は、中世は阿弥陀堂で念仏信仰の拠点だったと研究者は考えています。
御影堂のある誕生院(西院)は、佐伯氏の旧宅であるといわれます。ここを拠点に、中世の善通寺は再興されます。西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂だったというのです。それを示すのが法然が参拝した時に掲げられていた「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」の言葉です。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。

DSC01186
善通寺 東院・西院・霊山我拝師山は東西に一直線に並ぶ

善通寺によく像た善光寺の本堂曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。本願寺も平等院鳳鳳堂も、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。善通寺西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったとすると東向きで、お参りする人は西向きになります。ここからは阿弥陀堂であると同時に、大師御影には浄土信仰がみられると研究者は指摘します。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図に描かれた東院と誕生院(西院)
もうひとつ善通寺西院の阿弥陀信仰痕跡を見ておきます。
 善通寺にお参りして特別の寄通などをすると、錫杖をいただく像式があります。その時に用いられる什宝の錫杖は、弘法大師が唐からもって帰ってきた錫杖だとされます。その表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんなのです。ここにも、中世善通寺の阿弥陀信仰の痕跡がみられると研究者は指摘します。

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。

法然上人逆修塔(善通寺伽藍) - 讃州菴
法然上人逆修塔
逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

南海流浪記2
南海流浪記
  善通寺誕生院が阿弥陀信仰の中心センターだったことを示す史料が、道範の「南海流浪記」です。
 道範は何度も取り上げましたが、彼は高野山金剛峰寺執行の座にいるときに、高野山における内紛の責任を問われて讃岐にながされ、善通寺に逗留するようになります。彼は真言僧侶としても多くの書物を残している研究者で、特に真言密教における阿弥陀信仰の研究者でもあり、念仏の実践者でもありました。彼が退転した善通寺にやってきて、西院に阿弥陀堂(後の誕生院)を開き真言阿弥陀信仰センターを樹立していったと研究者は考えているようです。その「証拠」を見ていくことにします。
『流浪記』では道範は、1243(寛元元)年9月15日に、宇足津から善通寺に移ってきます。
法然から約40年後の讃岐流刑となります。善通寺に落ち着いた6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。これは現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。西行もここで修行を行っています。我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の憧れの地でもあったようです。そこに道範も立っています。ここからは、道範は「真言密教 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀念仏信仰 + 高野聖」的な要素の持ち主であったことがうかがえます。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物です。その彼に教えを、請う僧侶は多かったようです。道範はひっぱりだこで、流刑の身ながら案外自由に各地を巡っています。その中で「弥谷ノ上人」が、行法の注釈書を依頼してきます。。
道範が著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、その経過が次のように記されています。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
     阿闍梨道範記之
意訳変換しておくと
1248(宝治2)年2月21日、善通寺の大師御誕生所の庵にて、これを記す。この書は弥谷の上人の勧進で完成することができた。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。流配先で参照すべき書籍類がないので、子細までは記せない。もっぱら記憶に頼って書き上げた。誤りがあるかも知れないので、機会があれば補足・訂正を行いたい。70歳を越えた老眼で、なんとかこの書を書き上げた。阿闍梨道範記之

ここには「弥谷の上人の勧進によって、この書が著された」と記されています。善通寺にやってきて5年目のことです。「弥谷の上人」が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。それを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄」の裏書き以外にはないようです。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
        弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏と六字名号

弥谷寺本堂下の磨崖阿弥陀三尊像や六字名号が掘られるようになるのは鎌倉時代のことです。弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。そして、「法然上人絵伝」が制作されるのは1207年なのです。ここからは次のような事が推測できます。
①真言宗阿弥陀信仰の持ち主である道範の善通寺逗留と、「弥谷の上人」との交流
②弥谷寺への阿弥陀信仰受入と、磨崖阿弥陀三尊や六字名号登場
③弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地へ

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
1248(宝治2)年11月17日に、道範は善通寺末寺の山林寺院「尾背寺」(まんのう町春日)を訪ねています。そして翌日18日、善通寺への帰途に、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
意訳すると
翌日18日、尾背寺からの帰路に称名院を訪ねる。こじんまりと松林の中に九品の庵寺があった。池とまばらな松林の景観といい、なかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」
このやりとりの中に出てくる「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」から、称名院の性格がうかがえると研究者は指摘します。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったと云うのです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

ここからは、称名院には阿弥陀如来が祀られていたことが分かります。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。そこの住む念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたことが考えられます。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな阿弥陀念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。
  こうしてみると善通寺西院(誕生院)は、阿弥陀信仰の布教センターとして機能していたことが考えられます。
中世に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちでした。彼らは善通寺だけでなく弥谷寺や称名院などの行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「七ヶ所詣り」として残っているのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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法然
法然 
浄土教の盛んだった京都黒谷別所の叡空の下で修学した源空(法然房)は、やがて、源信の『往生要集』に導かれて専修念仏にたどりつき、安元元年(1175)ごろまでに浄土宗を開立したと言われます。念仏以外のあらゆる行業・修法を切り捨て次のように宗旨を宣言しています。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞ、と思いとりて申外には別の子細候はず。」(一枚起請文)

 こうして浄土教は、一部の知恵者や遁世者、上層階級の者の宗教から解き放たれ、開かれた宗教としての道を歩み始めることになります。しかし、それは苦難の道でした。とくに、南都北嶺の旧仏教勢力からの弾圧を受け続けます。やがて、元久元年(1204)になると、延暦寺衆徒や興福寺などからの専従念仏禁止の運動が活発化するようになります。
 それを庇護したのが法然の下で出家した前摂政の九条兼実の力でした。そのバランスが崩れるのが建永元年(1206)3月のことで、事態は急変します。法然房は、土佐国配流と決まります。土佐国は、九条家が知行国主であったので縁故の土地でもありました。3月16日(旧暦)、京都を立ち、鳥羽から淀川を下り、摂津国の経ヶ島(兵庫)から「都鄙上下の貢船」と呼ばれた海船に乗り換えて、播磨国の高砂そして室津を経て讃岐国塩飽島に到着します。前回までにここまでを「法然上人絵伝」でたどってきました。
今回は、讃岐子松庄の生福寺での様子を見ていくことにします。

子(小)松庄に落ち着き給ひにけり
   35巻第2段 讚岐国子松庄に落ち着き給ひにけり。
当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、念仏の行を勧め給ひければ、当国・近国の男女貴賤、化導(けどう)に従ふ者、市の如し。或は邪見放逸の事業を改め、或は自力難行の執情を捨てゝ、念仏に帰し往生を遂ぐる者多かりけり。辺上の利益を思へば、朝恩なりと喜び給ひけるも、真に理にぞ覚え侍る。
 彼の寺の本尊、元は阿弥陀の一尊にておはしましけるを、在国の間、脇士を造り加へられける内、勢至(菩薩)をば上人自ら造り給ひて、「法然の本地身は大勢至菩薩なり。衆生を度せんが為の故に、此の道場に顕はし置く。我毎日影向し、帰依の衆を擁護して、必ず極楽に引導せん。若し我、此の願念をして成就せしめずんば、永く正覚を取らじ」
とぞ書き置かれける。勢至の化身として、自らその躰を顕はし名乗り申されける、真にいみじく貴き事にてぞ侍りける。

意訳変換しておくと
子松庄の生福寺といふ寺に住居を定めて日夜、無常の理を説き、念仏行を勧めた。すると讃岐の男女貴賤、化導(けどう)に従う者が、数多く現れた。こうして、邪見放逸の行いを改め、自力難行の執着を捨てて、唯一念仏に帰して、往生を遂げる者が増えた。辺境の地である讃岐のことを考えると、まさに法然の流刑は、「朝廷からの朝恩」と歓ぶ者もいたと云うが、まさに理に適った指摘である。
 生福寺の本尊は、もともとは阿弥陀一尊であった。法然上人は讃岐在国の間に、脇士を造ることを思い立ち、自ら勢至(菩薩)を彫った。そして次のような銘文を胎内に書き付けた。「法然の本地身は大勢至菩薩である。衆生を極楽往生に導くために、この道場に作り置く。我は毎日影向して、帰依した者を擁護して、必ず極楽に引導するであろう。もし、この願念を成就しなければ、正覚をとることはしない」
と書き置いた。こうして法然上人は、生福寺に勢至の化身として、自らその躰を現し名乗っている。真にいみじく貴い事である。

小松郷生福寺入口
35巻第2段 子松庄の生福寺の山門に押しかける人々
  生福寺に法然がやって来ると、多くの人が集まってくるようになります。それは日を追う毎に増えていきます。寺の門前は、市が立っているようなありさまです。

生福寺山門拡大
①馬を駆って武士と出家姿の老僧がやってきて賑やかになっています。
②白衣の老婆を背にして門をくぐる若者
③市女笠の赤い服の女房の手をひく男
④大きな黒い傘をもつ旅芸人風の男
門からは多くの人達が、雪崩打つように入ってきます。

小松郷生福寺2
生福寺本堂(法然上人絵伝)
  生福寺の本堂は人で溢れんばかりです。
①本堂の畳の上に経机置かれ、経典が積まれています。その前に法然が座っています
②向かって右側には武士の一団
③左側が僧侶の一団のようで、④尼や女性もいます。僧侶の中には縁台に座れずに立ったままの姿が何人もいます。
⑤の男は顔が青くて、気分が悪いのでしょうか、刀を枕に寝転んでいます。二日酔いかな?
⑥幕の内側からは若い僧侶が、和尚さんをこっちこっちと手招いています。
⑦では、どこかからの布施物者が運び込まれています。
人々は、法然が口を開くのを今か今かと待っています。

小松郷生福寺3
        生福寺本堂後側(法然上人絵伝)

その後からは法然に付き従った弟子たちが、見守ります。
法然の落ち着き先について『法然上人絵伝』は、次のように記します。
①「讃岐国子(小)松庄におちつき給にけり、当庄の内生福寺といふ寺に住」

『黒谷土人伝』には、次のように記されています。
②「同(建永二年)三月十六日二、法性寺ヲ立テ配所二趣玉フ、配所「讃岐国子松ノ庄ナリ」

どちらも配所は「讃岐国子松庄」です。
まんのう町の郷
法然が落ち着いた子(小)松庄(現在の琴平周辺)

法然が落ち着いた子松庄というのは、どこにあったのでしょうか?
 角川書店の日本地名辞典には、次のように記されています。
琴平町金倉川の流域、琴平山(象頭山)の山麓一帯をいう。古代 子松郷 平安期に見える郷名。那珂郡十一郷の1つ。「全讃史によれば、上櫛梨・下櫛梨を除く琴平町全域が子松郷の郷域とされており、金刀比羅官(金毘羅大権現)とその周辺地域が子松と通称されていたという。
中世の子松荘 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 
元久元年4月23日の九条兼実置文に、千実が娘の宜秋門院任子(後鳥羽上皇中官)に譲渡した所領35荘の1つとして「讃岐国子松庄」と見える。
 子松郷は現在の琴平周辺で、郷全体が立荘され、九条兼実の荘園となっていたようです。ここからは法然の庇護者である九条兼実が、自分の荘園のある子松郷に法然を匿ったという説が出されることになります。しかし、注意しておきたいのは子松荘のエリアです。小松庄は、現在の琴平町から櫛梨をのぞく領域であったことを押さえておきます。
   次に、拠点としたという生福寺について見ておきましょう。
法然上人絵伝には「当庄の内 生福寺」と、具体的な寺名まで記されています。しかし、生福寺については、どこにあったのかなどよく分かりません。後の九条家の資料の中にも出てこない寺です。
 九条家の資料に出てくる小松荘の寺院は、松尾寺だけです。子松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。ちなみに、松尾寺の守護神として生み出されるのが「金毘羅神」で、その神を祀るようになるのが後の金毘羅大権現です。
 どちらにしても生福寺という寺は、法然の讃岐での拠点寺院とされるのですが、その後は忘れ去られて、どこにあったのかも分からなくなります。

  それを探し当てるのが初代高松藩主松平頼重です。
その経緯を「仏生山法然寺条目」の中で、知恩院宮尊光法親王筆は次のように述べています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳変換しておくと
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年(1207)に讃岐に左遷され、しばらく生福寺に滞在した。
②その際に(生福寺)は念仏三昧の道場なり栄えた。
④しかし、その後の乱世で衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤それを寛永年中に高松藩主として入国した松平頼重は、法然上人の旧跡を復興して仏生山へ移し、法然寺を創建し田地を寺領にして寄進した。
⑥生福寺の移転跡には、新しく西念寺が建立された。
ここには、17世紀後半には生福寺は退転し草庵だけになっていたこと、本尊や法然真影だけが残っていたと記されています。注意したいのは、退転し草庵だけになっていた生福寺の場所については何も触れていないことです。「法然上人絵伝」には「当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、」とありました。生福寺は小松荘にあったはずです。旧正福寺跡とされる西念寺は、まんのう町狹間)なのです。ここからは「西念寺=旧正福寺跡」説を、そのままに受け止めることは、私にはできません。
 松平頼重が仏生山法然寺を創建するための宗教的な意図については、以前にお話ししましたので、要約して確認しておきます。
①藩主の菩提寺として恥じない伽藍を作りあげること。
②それを高松藩における寺院階層のトップに置くこと、つまりそれまでの寺院ランクの書き換えを行うこと。
③徳川宗家の菩提寺が増上寺なので、同じ宗派の浄土宗にすること
そこで考えられたのが法然上人絵図の「法然讃岐左遷」に出てくる生福寺なのでしょう。そして、草庵に退転してた寺を「再発見」したことにして、仏生山に移し、その名もズバリと法然寺に改称します。こうして法然寺は藩主があらたに創建した菩提寺という意味だけでなく、法然上人の讃岐流刑の受難聖地を引き継ぐ寺として、「聖地」になっていきます。江戸時代には法然信者達が数多くお参りする寺となります。このあたりにも、松平頼重の巧みな宗教政策が見えて来ます。

法然が讃岐小松庄に留まったのは、わずか10ケ月足らずです。
しかし、後の念仏聖たちが「法然伝説」を語ったことで、たくさんの伝承や旧蹟が産まれてきます。例えば讃岐の雨乞い踊りの多くは、法然が演出し、振り付けたとされています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は、次のように記します。

  「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡子松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

ここからは研究者達は「法然=念仏踊り」ではなく、もともとは「一遍=踊り念仏」が実態であったものが後世の「法然伝説」によって「株取り」されていると考えていることが分かります。一遍の業績が、法然の業績となって語られているということでしょう。そして、讃岐での一遍の痕跡は、次第にみえなくなり、法然にまつわる旧蹟が時代を経るにつれて増えていきます。これは弘法大師伝説と同じ流れです。
 中世には高野聖たちのほとんどが念仏聖化します。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。

最後に、法然上人絵伝の讃岐への流刑を見てきて疑問に思うことを挙げておきます。
①流刑地は土佐であったはず。どうして土佐に行かず讃岐に留まったのか。
これについては、庇護者の九条兼実が手を回して、自らの荘園がある子松荘に留め置いたとされます。そうならば当時の讃岐国府の在地官僚達は、それを知っていたのか、また知っていたとすればどのような態度で見守ったのか?
②法然死後、約百年後に作られた「法然上人絵伝」の制作意図は「法然顕彰」です。そのため讃岐流配についても流刑地での布教活動に重点が置かれています。それは立ち寄った湊で描かれているのが、どれも説法シーンであることからもうかがえます。「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」から、讃岐にとっては「法然流刑」は、願ってもない往生念仏の布教の機会となって有難いことだったという結論に導いていきます。そのため、後世の所の中には、これが流刑であることを忘れ「布教活動」に讃岐にやって来たかのような視線で物語る書も現れます。それは、信仰という点からすれば当然の事かもしれません。しかし、歴史学という視点から見るとあまりに史料からかけ離れたことが、史実のように語られていることに戸惑いを思えることがあります。空海が四国88ヶ所を総て開いたというのが「弘法大師伝説」であるように、法然に関わる旧蹟や物語も「法然伝説」から産まれ出されたものと割り切る必要があるようです。
以上をまとめておくと、
①土佐への流刑となっていた法然一行は、塩飽から子松庄の生福寺に入った。
②子松荘は現在の琴平周辺で、九条兼実の荘園があっので、そこに法然を保護したとされる。
③生福寺には、数多くの人々が往生念仏の道を求めてやってきて結縁したと伝えられる。
④しかし、子松庄にあった生福寺については、よくわからない。
⑤生福寺が再び登場するのは、高松藩主松平頼重が仏生山に菩提寺を建立する際に「再発見」される。
⑥松平頼重は、法然の聖地として退転して草庵になっていた生福寺を仏生山に移し、法然寺と名付けた。
⑦これは高松藩の寺院ヒエラルヒーの頂点に法然寺を置くための「演出」でもあった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
法然(増上寺) 
浄土宗を開いた法然は、延暦寺・興福寺など専修念仏に批判的な旧仏教教団の訴えで、建永二年(1207)3月16日、土佐国へ流されることになります。実際には土佐国まで行くことはなく、10か月ほど讃岐国にとどまって、その年の12月には赦免されて都へ帰っています。その間の様子を、「法然上人絵伝」で見ています。

瀬戸の港 日比と塩飽

今回は、都を出立して11日目の3月26日に到着した塩飽島(本島)を見ていきます。
塩飽地頭舘1
   讚岐国塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

  巻三十五〔第一段〕 三月十六日、讚岐国塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍が館に着き給ひにけり。
 西忍、去にし夜の夢に、満月輸の光赫尖たる、袂に宿ると見て怪しみ思ひけるに、上人人御ありければ、このことなりけりと思ひ合わせけり。薬湯を儲け、美膳を調え、様々に持て成し奉る。上人、念仏往生の道細かに授け給いけり。中にも不軽(ふきょう)大士の、杖木・瓦石を忍びて四衆の縁を結び給ひしが如く、「如何なる計り事を廻らしても、人を勧めて念仏せしめ給へ、敢へて人の為には侍らぬぞ」と返すがえす、附属し給ひければ、深く仰せの旨を守るべき由をぞ申しける。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外他事なかりけり。
意訳変換しておくと
  都を出立して11日目の3月26日に、塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍の館に着いた。西忍は、出家入道の身であった。彼は、満月の光が自分の袂にすっぽりと入る夢を見ていたので、法然上人がお出でになるとという吉兆の知らせだったのだとすぐに思い当たった。そこで一行を舘に迎え、薬湯や美膳を調え、いろいろなところにまで気を配ってもてなした。
 法然は、念仏往生の道を細かいところまで西忍に指導した。中でも不軽(ふきょう)菩薩が、杖木・瓦・石で打ちたたかれた話をして、「どんな計り事を廻らしても、人に勧めて念仏させることが、その人のためになる」と返すがえす伝え、これを守るべしと申し渡した。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外になにもないとも云った。
   
塩飽地頭舘2
     塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

入道西念は、自分の舘に法然一行を招き、歓待します。
①の畳の上に座るのが法然
②の下手の板戸を背に座っているのが主人の西念。出家入道なので僧服姿です。扇の柄ををトントンと板間につきながら「実は、先日、満月の光が私の袂に入る夢をみましてなあ・・」と、語り始めます。
③都から高僧がやってきたという知らせを聞いて、③の武将がお供を連れてやってきています。しかし、地頭の舘なので、いろいろな階層の人達の姿はありません。武士と僧侶だけで、庶民や女性の姿は見えません。木戸の奥を、見てみましょう。

塩飽地頭舘3
    塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)
①奥では接待のための膳の準備が整ったようです。「心込めて、気をつけて運べよ」と指示しているのでしょうか。奥は棟がいくつも続き広い空間が拡がっています。塩飽は、瀬戸内海の流通センターの役割を果たし、人とモノが集まってくる所でした。そこを押さえた地頭の羽振りの良さがうかがえます。
②縁側の上に首飾りをつけた犬がいます。猫ではないようです。ペットとして室内犬的に飼われていた犬もいたようです。

塩飽地頭舘4
     塩飽の地頭舘の奥(法然上人絵伝 第35巻第1段)

『拾遺古徳伝絵詞』七巻第七段『拾遺古徳伝』には、次のように記します。                                               貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館
聖人ノ配所ハ土佐国トサタメラレケレトモ、讃岐国塩飽庄ハ御領ナリケレハ、月輸ノ禅定殿下(九条兼実)ノ御沙汰ニテ、ヒソカニカノトコロヘウツシタテマツラレヶル、カノ庄ノ預所駿河守高階ノ時遠(たかしなときとう)入道西仁力館二寄宿シタマフ、御教書ノム子等閑ナラサレハナシカハ昧ニシタテマツルヘキキラメキモテナシタチマツル、温室結構シ、美膳調味シツツノアヒタノ、ソノアヒタノ経営、イカニカナトソフルイヒケル、近国遠郡ノ上下、傍庄隣郷ノ男女群集シテ、世尊ノコトクニ帰敬シタテマツリケリ、 一向専念ナルヘキヤウシヨミタイヒケル
意訳変換しておくと
法然聖人の配所は土佐国とされていたが、月輸ノ禅定殿下(九条兼実)の指示で、その領所である讃岐国塩飽庄に密に変更された。塩飽荘の預所は駿河守高階時遠(たかしなときとう)入道で、彼の西仁の館に寄宿することになった。そこで法然はたいへん厚いもてなしを受けて、温い部屋で、美味しい御前を振る舞われた。その間にも法然がやって来ていると聞きつけた近国遠郡の人々が上下の身分を問わず、その話を聞こうと男女群集ししやってきた。そして、多くの人々が帰依した。 


「塩飽」とありますが、塩飽諸島のどの島に上陸したのでしょうか
中世の塩飽の島々は、バラバラで一体感はなかったようです。例えば、各島の所属は次のようになっていました。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡

塩飽諸島絵図
塩飽嶋(本島)周辺の島々
ここからは中世の塩飽諸島は、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があって、それぞれ所属が異なってひとまとまりではなかったことが分かります。近世には「塩飽諸島」と呼ばれるようになる島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったのです。
 以上から「塩飽嶋=本島」で、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったようです。本島がこの地域の中核の島だったので、次第に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったと研究者は考えています。つまり、法然や後のキリスト教宣教師が立ち寄ったのも本島なのです。

「塩飽島=本島」が史料に最初に現れるのは、いつなのでしょうか。
「塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
①元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の支度料物に「塩飽荘からの塩二石の年貢納入」
②保元4年(1156) 藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
③元暦二年(1185) 三月に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退
④建長五年(1253) 十月の「近衛家所領目録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
⑤建永二年(1207) 3月26日に法然が流刑途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
⑥康永三年(1344) 11月11日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
⑦⑧永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
ここからは次のような事が分かります。
①②からは、12世紀に摂関家藤原氏の荘園として伝領するようになっていたこと
③からは、12世紀後半に平清盛が日宋貿易や海賊討伐で瀬戸内海の海上支配を支配し、塩飽もその拠点となっていたこと。そのため屋島の戦い後の平家撤退時に、戦略拠点であった塩飽を経由して宮島に「転戦」していること。
④からは鎌倉幕府の下で、九条家を経て近衛家に伝領するようになっていたこと
⑥からは、小笠原氏の領地となっているが現地支配をともなうものではなかったこと
⑦からは「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっているので、すでに荘園ではなくなっていること。つまり、14世紀後半には「塩飽荘」は荘園としては消滅していたことがうかがえます。

4 武士の成長とひろしま ~厳 島 神社 と 平 清 盛 ~
平清盛と日宋貿易における瀬戸内海ルートの重要性

  法然がやって来た13世紀初頭の塩飽を取り巻く状況を見ておきましょう。
平氏の支配下にあった讃岐は、源平合戦後は源氏の軍事占領下に置かれます。そして、1185年「文治の守護地頭補任の勅許」で、讃岐にも守護・地頭が設置されることになります。しかし、当初は、西日本の荘園には地頭は設置でず、それが現実化するのは、承久の変以後とされます。ちなみに、鎌倉時代の讃岐の地頭・御家人の補任地は次の22ヶ所です。
鵜足郡 法勲寺  二村
那珂郡 真野勅使(高井) 櫛梨保(島津) 木徳荘(色部) 金蔵寺(小笠原)
多度郡 善通寺 生野郷 良田郷 堀江荘(春日兼家) 吉原荘(随心院門跡) 仲村荘
三野郡 二宮荘(近藤) 本山荘(足立) 高瀬荘(秋山) ()は地頭名
地頭名は、ほとんどが東国出身の御家人で、讃岐出身の武士名はいません。地頭が配置されているのは、丸亀平野と三豊平野がほとんどです。東讃にはいません。これは、東讃の武将がいち早く源氏方についたのに対して、西讃の武士団が旧平家方に最後までいたので、領地没収の憂き目にあったようで、その後に西遷御家人が地頭として東国から乗りこんできたと説明されます。しかし、この一覧を見ると、塩飽に地頭は配置されていません。塩飽の地頭として登場してくる「駿河権守高階保遠入道西忍」の名前もありません。これをどう考えればいいのでしょうか?  その謎を解くために、20年ほど時代を遡って、平家が塩飽戦略拠点とした経過を見ておきます。

千葉市:千葉氏ポータルサイト 千葉氏ゆかりの史跡・文化財
平氏の撤退と源氏の追撃ルート

『玉葉』の元暦二年(1185)12月16日条に屋島合戦の後の平家の退路が次のように記されています。
伝え聞く、平家は讃岐国シハク庄(塩飽)に在り、しかるに九郎(義経)襲政するの間、合戦に及ばず引き退き、安芸厳島に着しおわんぬと云々、その時饉かに百艘ばかりと云々

ここには屋島を追われた平氏は、まず塩飽荘に逗留したこと、義経の追撃をうけて戦わずに安芸国の厳島に百艘余りで「転戦」したとされています。厳島神社は清盛をはじめとして平氏一門とかかわりの深い神社であり、戦略拠点でもあったとされます。どうやら平家は、塩飽も戦略拠点地としていたようです。
それでは、どうして平家が塩飽を支配下に入れていたのでしょうか?   丸亀市史1(606P)は、次のように推測します。
①塩飽荘は、藤原師実以来の摂関家領であった。
②本家の地位は師実より孫の忠実、さらにその子忠通へと伝領され、基実を経て近衛家の相伝となった。
③清盛は関白基実が没したときに、遺子基通に相統させ、未亡人の盛子の管理下に置き、実質的に 摂関家領の多くを平氏の支配下に入れた。
④こうして塩飽荘は平家支配下に組み込まれ、瀬戸内海の戦略的な要衝として整備された。
⑤源平合戦後に平家が落ち延びていくと、源氏は塩飽を直轄地として支配下に入れた。
⑥その際に「平家没官領」として、鎌倉から代官が派遣された。それが「得宗被官塩飽氏」である。
この北條得宗被官が「駿河権守高階保遠入道西忍」で、得宗家領の代官として塩飽にやってきていたと考えることはできます。得宗家領には平家没官領などの没収地が多くありました。塩飽という地名は塩飽諸島以外にはありません。この地を名字の地とする塩飽氏が得宗被官として、鎌倉時代の後半には登場してきます。以上から塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理していた、その代官が「駿河権守高階保遠入道西忍」だとしておきます。
  
それでは入道西忍の舘があったのは、どこなのでしょうか?
1 塩飽本島
本島に「塩飽嶋」と注記されている(上が南)
その候補は、「①笠島 ②泊 ③甲浦」が考えられます。しかし、決め手に欠けるようです。
笠島城 - お城散歩
本島笠島は、中世山城と一体化した湊

①の笠島は、塩飽島(本島)北側にあり、山陽道を進むことの多かった古代・中世の船が入港するには、都合のいい位置です。しかし。笠島は中世の山城と一体的に作られた湊の雰囲気がします。一般的に、中世の武士団の拠点が湊と一線を画した所にある点からすると異色の存在といえます。ここは、海賊衆の鎮圧などのために香西氏などが進出してきた後に作られた湊と私は考えています。

そうすると残りは、島の南側の②か③になります。古代から塩が作られていたのは、②の泊になるようです。ここに海民たちが定着し、塩などの海産物を京に運ぶために海運業が育ち、そこに荘園が置かれたことは考えられます。つまり、古代の本島の中心は②にあった、そして①笠島は中世以後に軍事拠点として現れたという説です。そう考えると、法然が立ち寄った際には①笠島は、まだ姿を見せていなかったことになります。
 「泊=荘園政所説」に、さきほどみた「塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理」説を加えると、得宗家領の代官としてやってきた入道西忍はどこに舘を構えたのか?ということになります。
地頭の舘は、支配集落のすぐそばには作られません。意図的に孤立した場所が選ばれていることが発掘調査からは明らかになっています。そうすると②の泊ではなく、①か③ということになります。そして①の出現は、南北朝以後とすると③の可能性もあります。このように決定力に欠けるために、どこか分からないということになります。
 西行が崇徳上皇慰霊のために讃岐に渡る際に、備中真鍋島で塩飽のことを次のように記しています。
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申しけるをききて、真鍋よりしわく(塩飽)へ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

意訳変換しておくと
(上方の船は)真鍋と中島で、京からの商人たちを下船させた。そこで様々な商品を商いして、また塩飽島に渡って、商いを行うと云う。真鍋から塩飽へ通う商人は、商品を売買したり、仕入れたりしながら塩飽を中心に活動しているようだ。

ここからは塩飽島が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことがうかがえます。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになていたのです。人とモノと金が行き交う塩飽を治めた入道西忍の舘がその繁栄を物語っているように思えます。法然は、ここにしばらく留まったと伝えられます。
塩飽が備讃瀬戸の交易センターとして、さまざまな人とモノが行き交っていたことがうかがえます。

重要文化財の「絵巻物」2億円超で落札 文化庁は?(2021年11月22日) - YouTube

「拾遺古徳伝絵詞」には、法然の塩飽滞在について次のように記します。
「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」

塩飽本島は、瀬戸内海の交易センターで交通の便がよかったので、周辺の国々から多くの人達が法然を尋ね結縁を結んだというのです。

本島集落
塩飽嶋(本島)の集落
以上をまとめておきます
①讃岐に流刑となった法然一行は、京を出て11日目に塩飽島に到着した。
②塩飽島は、現在の本島(丸亀市)のことである。
③塩飽島の地頭は、出家して入道西忍と名のっていて、法然を歓待した。
④当時の塩飽荘は平家没官領で、得宗家領として代官が派遣され管理していた。それが入道西忍であった。
⑤入道西忍の舘がどこにあったかは分からないが、経済力を背景に豪壮な舘に住んでいた。
⑥ここに法然はしばらくとどまり、その後に讃岐に上陸していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   屋島合戦と塩飽 丸亀市史1(606P)

 瀬戸の港 室津
    室津は古代以来の重要な停泊地でした。
1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。
 室津には、多くの船頭がいたことが史料から分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。当時の瀬戸内海には、港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことを以前にお話ししましたが、室津も塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったようです。 そして、室津は多くの遊女達がいることで有名だったようです。法然上人絵伝の室津での出来事は、遊女が主役です。その段を見ておきます。

室津の浜
室津の浜辺と社(法然上人絵伝34巻第5段)

室津の最初に描かれるシーンです。浜に丘に松林、その中に赤い鳥居と小さな祠が見えます。中世の地方の神社とは、拝殿もなく本殿もこの程度の小さなものだったようです。今の神社を思う浮かべると、いろいろなものが見えなくなります。
室津の浜と社(拡大)
神社と浜部分の拡大

 神社の下が浜辺のようですが、そこには何艘もの船が舫われています。ここも砂浜で、港湾施設はないようです。
 浜辺の苫屋から女房が手をかざして、沖合を眺めています。
「見慣れない船が入ってきたよ、だれが乗っているのかね」。
見慣れない輸送船や客船が入ってくると真っ先に動き出す船がありました。それが遊女船です。

第5段    室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。
室津
       室津(法然上人絵伝34巻第5段)
室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。これが遊女が船なり。遊女申しさく「上人の御船の由承りて推参し侍るなり。世を渡る道区々(まちまち)なり。如何なる罪ありてか、斯かる身となり侍らむ。この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と申しければ、上人哀れみての給はく、「実にも左様にて世を渡り給ふらん罪障(ざいしょく)真に軽からざれば、酬報又計り難し。若し斯からずして、世を渡り給はぬべき計り事あらば、速やかにその業を捨て給ふべし。若し余の計り事もなく、又、身命を顧みざる程の道心未だ起こり給はずば、唯、その儘にて、専ら念仏すべし。弥陀如来は、左様なる罪人の為にこそ、弘誓をも立て給へる事にて侍れ。唯、深く本願を馬みて、敢へて卑する事なかれ。本願を馬みて念仏せば、往生疑ひあるまじき」由、懇ろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙を流しけり。
後に上人の宣ひけるは、「この遊女、信心堅同なり。定めて往生を遂ぐべし」と。帰洛の時、こゝにて尋ね給ひければ、「上人の御教訓を承りて後は、この辺り近き山里に住みて、 一途に念仏し侍りしが、幾程なくて臨終正念にして往生を遂げ侍りき」と人申しければ、「為つらん /」とぞ仰せられける。
意訳変換しておくと
室の泊(室津)に船が着こうとすると、小舟が一艘近づいてきた。これは遊女の船だった。遊女は次のように云った。「上人の御船と知って、やって来ました。世を渡る道はさまざまですが、どんな罪からか遊女に身を落としてしまいました。この罪業重い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
上人は哀れみながら「まったくそのような身で渡世するのはm罪障軽しとは云えず、その酬報は測りがたい。できるなら速やかに他職へ転職し、今の職業を捨てることだ。もし、それが出来きず、転職に至る決心がつかないのであれば、その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ、誓願も立ててくださる。ただただ、深く本願を顧みて、卑しむことのないように。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」ち、懇ろに教へた。遊女は、随喜の涙を流した。
後に上人がおっしゃるには、「この遊女は、信心堅くきっと往生を遂げるであろう」と。
流刑を許されて讃岐からの帰路に、再び室津に立ち寄った際に、この遊女のことを尋ねると、「上人の御教訓を承りて後は、この辺りの山里に住みて、一途に念仏し臨終正念にして往生を遂げた」と聞いた。「そうであろう」とぞ仰せられける。
室津の遊女
        室津(法然上人絵伝34巻第5段)

この場面は、遊女が法然に往生への道を尋ねに小舟でこぎ寄せたシーンと説明されます。

⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取り? 船の前では船乗りや従者達が近づいてくる遊女船を興味深そうに眺めています。
この場面を、私は出港していく船に追いすがって、遊女が小舟で追いかけてきたものと早合点していました。なんらかの事情で法然の話を聞けなかった遊女が、救いの道を求めて、去っていく法然の船に振りすがるというシーンと思っていたのです。しかし、入港シーンだと記します。すると疑問が湧いてきます。わざわざ小舟で、こぎ寄せる必要があるのか?
 兵庫浦のシーンでは、法話の場に遊女の姿も見えていました。室津でも法話は行われたはずです。小舟でこぎ寄せる「必然性」がないように思えます。しかも海上の船の上ですので、大声で話さなければなりません。「往生の道」を問い、それに応えるのは、あまり相応しくないように思えます。
法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
室津船上の法然(一番左 弟子たちには困惑の表情も・・) 
そんな疑問に答えてくれたのが、風流踊りの「綾子踊り」の「塩飽船」の次の歌詞です。
①しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ  津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
②さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ  津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
③多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

ここには瀬戸の港で繰り広げられていた、入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われているというのです。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりが「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。

室津の遊女拡大
      室津の遊女船(法然上人絵伝34巻第5段)
  当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このように入港してくる船を、遊女船が出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。

ここで兵庫湊(神戸)の場面に現れた遊女達の場面をもう一度見ておきましょう。

兵庫湊2
      兵庫湊の遊女船(法然上人絵伝34巻第3段)

左手の艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、若い二人の女が飛び移りました。傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、小堤を叩きながら「たまさか」の歌を歌いかけています。「 綾子踊り」の「たまさか(邂逅)」の歌詞を見ていくことにします。
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露 ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番を「解釈」しておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でした。私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っているようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。
兵庫湊の遊女
兵庫湊の遊女船(拡大図)
「たまさかに」は、港や入江の馴染みの遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面を謡った風流歌だと研究者は考えています。

なじみの男に、再会したときに真っ先に話しかけたことばが「たまさかに」なのです。そういう意味では、恋人や遊女達の常套句表現だったようです。こんな風にも使われています。

○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば  わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)

この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、その内容は「たまさか(久々ぶり)にやって来た愛人と、若宮に籠もって・・・」となり、ポルノチックなことが、さらりと謡われています。研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評します。当時の「たまさかに」という言葉は、女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
こういうやりとりが入港してきた船の男達と交わされていたのです。その後に、遊女達は旅籠へと導いていくのです。
      
ここで押さえておきたいのは、次の通りです。
①遊女船が入港する船を迎えに出向くという作法は、どこの湊でも行われていたこと。
②その際に、遊女は3人1組で行動していたこと
③出迎えに行った遊女は、相手の船に乗り移って、「塩飽船」などの風流歌をやりとりし、遊郭に誘ったこと。
④そのシーンが法然上人絵伝にも登場すること

遊女達を代弁すると、決して、船の上から大きな声でやりとりをするという下品なまねを彼女らはしません。相手の船に移ってから、歌を互いに謡い合い、小堤をたたい優雅に誘うのです。
 以上から、船上から遊女に往生の道を説いたという話には、私は疑問を持ちます。事情をしらない後世の創作エピソードのようにも思えます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

法然が讃岐流刑の際に立ち寄った港町を、「法然上人絵伝」で見ています。今回は高砂です。

法然上人絵伝 34巻第4段 
播磨国高砂の浦に着き給ふに、人多く結縁しける中に、七旬余りの老翁、六十余りの老女、夫婦なりけるが申しけるは、「我が身は、この浦の海人なり。幼くより漁を業とし、朝夕に、 鱗(いろくず)の命を絶ちて、世を渡る計り事とす。物の命を殺す者は、地獄に墜ちて苦しみ堪え難く侍るなるに、如何してこれを免れ侍るべき。助けさせ給へ」とて、手を合はせて泣きけり。上人哀れみて、「汝が如くなる者も、南無阿弥陀仏と唱ふれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生す」べき旨、懇ろに教へ給ひければ、二人共に涙に噎びつゝ喜びけり。上人の仰せを承りて後は、昼は浦に出でて、手に漁する事止まざりけれども、国には名号を唱へ、夜は家に帰りて、二人共に声を上げて終夜(よもすがら)念仏する事、辺りの人も驚くはかりなりけり。遂に臨終正念にして、往生を遂げにける由伝へ聞き給ひて、「機類万品なれども、念仏すれば往生する現証する現証なり」とぞ仰せられける。

意訳変換しておくと

多くの人が結縁(けちえん:仏道に縁を結ぶこと。未来に成仏する機縁を作ること。)する中に、70過ぎの老翁と、60余りの老女の夫婦が次のように問うた。「我たちは、この浦の海人(漁師)で、幼いときから漁業を生業として、朝夕に 鱗(いろくず)を獲って生業としてきました。生けるものの命を奪う者は、地獄に墜ちて耐えがたい苦しみ受けると聞きました。これを逃れる道はないのでしょうか。どうしたらいいの、どうぞお助けください。」と、手を合はせて泣きます。
 上人は、「あなた方のような者も、南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の悲願で浄土で往生できます。と優しく教え導きました。二人共に涙にむせび、歓びました。上人の教えを聞いてからは、昼は浦に出でて、漁することを止めることはできませんが、常に口に名号を唱へ、夜は家に帰って、二人共に声を上げて終夜(よもすがら)念仏しました。これには、辺りの人も驚くばかりでした。そして遂に往生を遂げます。これを上人は伝へ聞いて、「機類万品なれども、念仏すれば往生する現証なり」とおっしゃいました。

高砂
高砂の浜 法然上人絵伝 34巻第4段
高砂の浜に着くと近くの家に招かれます。ここでも「法然来たる」という情報が伝わると多くの人がやってきました。
①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせた。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろした。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、中世にはそのような施設もなかったようです。
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。

野原の港 イラスト
   野原湊(高松城跡)の復元図 船着き場に建物はない  

  船着き場周辺に建物が立ち並ぶようになるのは、13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所でした。高松城を作るときに埋め立てられた野原湊も、同じように建物跡はでてきていないようです。
 しかし、法然上人絵図には、高砂の湊のすぐそばに家屋が建っています。ちなみに、法然上人絵伝が描かれたのは14世紀初頭です。その頃には、高砂にも湊沿いに家屋が建ち並ぶようになっていたのかも知れません。しかし、法然が実際に立ち寄った13世紀初頭には、このような家はなかった可能性が強いようです。
    石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)これが当時の河口港の現実の姿だったのである。       (石井謙治「ものと人間の文化史」

野原 陸揚げ作業イラスト
野原湊(中世の高松湊)の礫敷き遺構の復元図

それでは、港湾施設が港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀

私がもうひとつ気になったのが船の先端に乗せられている⑤や⑥です。
高砂漁船の碇

これと同じものが高松城が作られる前の野原湊跡から出土しています。それが木製の碇です。中世の漁船は木製碇を使っていたようです。
野原の港 木碇
高松城跡出土の中世の木製碇

また船着場からは杭と横木が出てきています。杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。

参考文献

   参考文献 小松茂美 法然上人絵伝 中央公論社 1990年

法然上人絵伝表紙

   法然上人絵伝は、法然(1133-1212年)が亡くなった後、約百年後の1307年に後伏見上皇の勅命で制作が開始されます。そのため多くの皇族達も関わって、当時の最高のスタッフによって作られたようです。
法然上人行状絵伝 | 當麻寺奥院

また、全48巻もある絵巻物で、1巻が8-13mで、全巻合わせると約550mにもなるそうです。これも絵巻物中では「日本一」のようです。今回は法然の「讃岐流刑」に関する次の①から④区間を見ていきたいと思います。3月16日に京都を出立してから、3月26日の塩飽の地頭宅までの10日です。描かれた場面は次の通りです。
①京都・法性寺での九条兼実と法然の別れ
②京都出立
③鳥羽より川船乗船
④摂津経の島(兵庫湊=神戸)
⑤播磨高砂浦で漁師夫婦に念仏往生を説く
⑥播磨国室(室津)で、遊女に念仏往生を説く
九条兼実を取り巻く状況を年表化すると次の通りです。
1202年 兼実は、法然を師に隠遁生活後に出家
1204年 所領の譲状作成。この中に初めて讃岐小松荘が登場
1207年 法然の土佐流刑決定。3月16日出発。しかし、前関白兼実の配慮で塩飽・小松庄(摂関家所領)へ逗留10ヶ月滞在で、許されて12月に帰京。兼実は、この2月に死亡。
1247年 後嵯峨天皇による九条家の政治的没落

法然上人絵伝中 京都出立
         法然上人絵伝 巻34第1段
三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。凡そ上人の一期の威儀は、馬・車・輿等に乗り給はず、金剛草履にて歩行し給ひき。然れども、老邁の上、長途容易からざるによりて、乗輿ありけるにこそ、御名残を惜しみ、前後左右に走り従ふ人、幾千万といふ事を知らず。貴賤の悲しむ声巷間に満ち、道俗の慕ふ涙地を潤す。
 彼等を諌め給ひける言葉には、「駅路はこれ大聖の行く所なり。漢家には一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、
権化の住む所なり。震旦には白楽天、吾朝には菅丞相なり。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」とぞ仰せられける。
 さて禅定殿下(=九条兼実)、「土佐国までは余りに遥かなる程なり。我が知行の国なれば」とて、讚岐国へぞ移し奉られける。御名残遣方なく思し召されけるにや、禅閤(兼実)御消息を送られけるに、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど。踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
と侍りければ、上人御返事、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも心は同じ花の台ぞ
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立した。信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と馳せ参じた。法然は、馬・車・輿等に乗らずに、金剛草履で歩いて出立したいと考えていた。けれども、老邁の上、長途でもあるのでとの勧めもあって、輿に乗った。名残を惜しんで、沿道には前後左右に走り従う人が幾千万と見送った。貴賤の悲しむ声が巷間に満ち、人々の慕い涙が地を濡らした。彼等に対して次のような言葉を贈った。
「駅路は、大聖の行く所である。唐国では一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、権化の住む所でもある。震旦には白楽天、我国には菅丞相(菅原道真)である。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」と仰せられた。
法然と禅定殿下(=九条兼実)の別れの場面
  法然と禅定殿下(=九条兼実)の法性寺での別れの場面 庭には梅。
この度の配流、驚き入っています。ご心中お察し申す。
 禅定殿下(=九条兼実)は、「土佐)国までは余りに遠い。私の知行の国の讚岐国ならば・・」と、配所を土佐から讃岐へと移された。名残り惜しい気持ちを、禅閤(兼実)は次のように歌に託された、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど、
   踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
これに対して上人は、次のように応えた、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも
   心は同じ花の台ぞ
そして3月16日 法然出立の日です。
出立門前
京都出立門前と八葉車(法然上人絵伝 巻34 第一段)
門前に赤い服を着た官人たちと八葉車(はちようくるま)がやってきています。法然を護送するための検非違使たちなのでしょうか。

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      出立の門前(法然上人絵伝 巻34 第一段)

   車の前には弓矢を持った看監長(かどのおさ)、牛の手綱をとる小舎人童(こどねりわらわ)の姿が見えます。そして沿道には、法然を見送るために多くの人々が詰めかけています。その表情は悲しみに包まれています。
「おいたわしいことじゃ 土佐の国に御旅立ちとか・・。」
「もう帰ってはこれんかもしれん・・・」

出立随員
    輿を追う随員達(法然上人絵伝 巻34 第一段)
  「法然最後の旅立ちじゃ、馬にも輿にも乗らず、金剛草履一足で大地を踏みしめていくぞ。それこそが私に相応しい威儀じゃ。」と法然は力んでいました。しかし、信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と門前に現れ、こう云いました。
「あなたさまはもう高齢で、これからの長旅に備えて出立は輿をお使いください」
出立輿
      法然の輿(法然上人絵伝 巻34 第一段)
しぶしぶ、法然は輿に乗りました。六人の若い僧が輿を上げます。別れを惜しむ人々の前を、輿が進んで行きます。京大路を南に下って向かうは、鳥羽です。そこからは川船です。
  ここで私が気になるのが僧達の持つ大きな笠です。笠は高野聖のシンボルのように描かれていますが、法然に従う僧達の多くが笠を持っています。
〔巻34第2段〕鳥羽の南の門より、川船に乗りて下り給ふ。
鳥羽の川港
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
都大路を南下してきた法然一行は、鳥羽南門の川湊に着きました。ここで川船に乗り換えて、淀川を下っていきます。見送りにきた人達も、ここでお別れです。
鳥羽の川港.離岸JPG
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。このシーンで私が気になるのが、その先の①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。周囲を見ると②のように自然の浜しかありません。この時期の13世紀には、まだ港湾施設はなかったとされますが、どうなのでしょうか。③には、驚いた白鷺が飛び立っています。この船の前部を見ておきましょう。
.鳥羽の川船jpg
      鳥羽の川船(法然上人絵伝 巻34第2段)
どこに法然はいるのでしょうか?
①上下の船は、上が切妻屋根、下が唐屋根でランク差があります。下の唐屋根の中にいるのが法然のようです。舳先の若い水手のみごとな棹さばきを、うつろな目で見ているようにも思えます。淀川水運は、古代から栄えていたようですが、この時代には20~30人乗りの屋形船も行き来していたようです。


 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)に到着                     
摂津国経の嶋に着き給ひにけり。彼の島は、平相国(=清盛)、安元の宝暦に、一千部の「法華経』を石の面に書写して、漫々たる波の底に沈む。鬱々たる魚鱗を救はむが為に、村里の男女、老少その数多く集まりて、上人に結縁し奉りけり。

  意訳変換しておくと
摂津国の経の嶋(兵庫湊)にやってきた。この島は、平清盛が一千部の「法華経』を石の面に書写して、港の底に沈めた所である。魚鱗の供養のために、村里の男女、老少たちが数多く集まりて、上人の法話を聞き、結縁を結んだ。

兵庫湊での説法
   法然上人絵伝 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)
  兵庫湊に上陸した法然を、村長がお堂に案内します。京で名高い法然がやってきたと聞いて、老若男女、いろいろな人達がやってきて、話を聞きます。
①の女性は、大きな笠をさしかけられています。遊女は3人セットで動きます。その一人が笠持ちです。
②背中に琵琶、手に杖をもっているので、盲目の琵琶法師のようです。
③は、黒傘と黒衣から僧侶と分かります。集団でやってきているようです。
④は、尼さん、⑤は乗馬したままの武士の姿も見えます。いろいろな階層の人たちを惹きつけていたことがうかがえます。法然は集まった人達に、「称名念仏こそが往生への道です。かたがた、構えて念仏に励みなさるように」と説いたのでしょう。
お堂の前の前には兵庫湊(現神戸)の浜辺が拡がります。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺(現神戸)
 
・馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。
・浜辺の家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指しています。
私がこの絵で興味を持つのは、やはり湊と船です。
何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。

兵庫湊2
 法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺の続き(現神戸)
つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊では、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。

兵庫湊の遊女

ここで注目したのが左側に描かれている小舟と、3人の女性です。
船に乗って、どこへいくのか。艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、二人の女が飛び移りました。そして、傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、「たまさか」の歌を歌いかけています。これが入港してきた船に対する遊女の出迎えの儀式です。これと同じ場面が室津でも出てきますので、そこで謎解きすることにします。

14世紀になって描かれた法然上人絵伝の「讃岐流配」からは、当時の瀬戸内海の湊のようすがうかがえます。それは人工的な港湾施設のほとんどない浜がそのまま湊として利用されている姿がえがかれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

松家氏のルーツ2:真説!木屋平氏から松家氏へ
旧木屋平村
木屋平(こやだいら)は穴吹川の最上流に位置し、霊山剣山の山岳修行の拠点となった龍光寺のあった所です。
文化9年(1812)に作成された村絵図の写しが旧役場から近年発見されています。この麻植郡木屋平村分間絵図には、剣山周辺の宗教施設や,剣山修験の霊場等が精密に描かれています。また、19世紀初頭の集落の様子も見えてきます。今回はこれを見ていこうと思います。テキストは「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年p.171-182)」です。
木屋平 森遠
対岸から見た森藤(遠)名

中世に森藤城があった森遠(もりとう)名周辺を見てみましょう。
「名」は中世起源の集落のことで、山村集落を示す歴史的な地名です。ほとんどの地域では、もはや使われなくなった「名」が、19世紀初頭には日常的に使われていたことが分かります。

木屋平 森藤2
木屋平森藤名の正八幡神社
森藤名は、剣山に源をもつ穴吹川が西から東に流れ下っていきます。それに沿って整備された国道438号が谷筋を東西に走り抜けています。その剣山に向かって開けた南斜面に、氏神の「正八幡宮」が鎮座します。ここは中世には森藤城があったところです。

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森藤八幡神社の鎮守の森

この神社の北側には、石垣と門や白壁の土蔵と母屋を持つ家が建っています。これが中世からのこの地域の土豪名主で,木屋平一帯を支配した「オヤシキ」と呼ばれた「松家(まつか)家」です。中世山岳武士「木屋平氏」の子孫と云うことになるのでしょう。

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八幡神社鳥居への山道
松家氏=木屋平家も平家落人伝説を持つようです。
美馬市(旧木屋平村)のホームページには、次のように記されています。
これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経・平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。

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木屋平森遠の八幡神社境内と拝殿
森遠周辺は、緩やかな傾斜地や窪地が広がります。
また南向きで日照条件もいい上に、清水が湧く湧水も何カ所かあり、小谷も流れています。入植者なら真っ先に居住する好条件の場所と研究者は考えています。平家伝説をそのまま事実として、研究者が受けいれることはありませんが、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置き、南北朝時代には、小屋平氏がこの土地を支配するようになったことは推測できます。そして室町時代初期になると、それまでの「大浦名」から「木屋平名」に改めて、「コヤ平」の地を「森遠」と呼ぶようになったようです。


木屋平 森遠城
        木屋平氏の森遠城(現正八幡神社)
森遠城は本丸・外櫓・馬場などを含めると約一町五反の広さであったようです。「阿波志」には、次のように記されています。

「八幡祠平村森遠名に在り、俗に言う土御門天皇を祀ると地丘陵にあり、祠中偃月刀及び古冑を蔵す、阿部宗任持つ所」

江戸時代の初期に松家氏は本丸の北東の北櫓跡へ屋敷を移して、城を廃して跡地を整理します。そして万治2年(1659)12月12日に正八幡宮を建立して、松家氏の祖霊を合祀して霊廟とし、本丸跡約6反歩を森遠名の共同管理値としています。そのため現在も境内には空掘・武者走り・古井戸など城内の遺構が完全なままで残っていています。元禄4年(1691)銘の棟札に松家姓の3人・阿部姓の8人・天田姓の1人の人物名があります。
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森遠名の八幡神社 井戸が復元されいてる
約210年前の村絵図に森遠名の中心部が、どのように描かれているのかを見ておきましょう。
木屋平森藤 拡大

確かに村絵図にも正八幡神社周辺は、緩やかな傾斜地で、窪地が広がり、周辺の棚田にくらべると田んぼが広いことがわかります。ここに何枚もの「オゼマチ」があったようです。
 寛文12年の検地帳によると、松家家は、森遠名で8町7反5畝17歩の田本畑を所有しています。
これは名全体の水田面積の約半分になります。所有する水田は、これだけではありません。5ヵ名全体で16町6反6畝5歩を所有しています。これは5ヵ名全体の田畑面積73町2反9歩の23%にあたります。
 また文化6年(1809)には、5ヵ名で下人層56人を配下に入れて使役しています。そのうちの半分にあたる28人は、森藤名で生活しています。「オヤシキ」と呼ばれた屋敷地は1反2畝12歩(372坪)あり、そこで下僕的な生活を送っていたことがうかがえます。まさに中世の名主的な存在であったようです。

木屋平村絵図1
木屋平村分間絵図 森藤名部分
上の絵図には穴吹川に流れ落ちる4筋の谷が森遠名を南北に貫いているのが見えます。中央が一番左が「大島谷」で、谷川の周囲は穴吹川から正八幡神社の辺りまで、魚の鱗を並べたように棚田が描かれています。ここには研究者が数えると約390枚あるようです。棚田の用水は、4つの谷川から導水されていたようです。寛文12年(1672)の検地帳の田総面積は、3町9反5畝10歩です。1筆平均面積は約30坪で小さな田んぼが積み重なった景観が見られたはずです。
木屋平森遠上部

 松家家から上には、段畑(本畑)が広がります。
これは約590枚あるようです。切畑・山畑を除く本畑総面積は12町8反20歩で,1筆平均面積は約65坪になります。棚田の一枚当たりの面積の倍になります。そんなことを知った上で、もう一度絵図を見ると、確かに下部の棚田の方が密度が濃く、上部の畑は密度が低く見えてきます。
 現在の正八幡社に拠点を構えた松家家の先祖が、まずは居館の上部を焼畑などで開墾しながら本畑化し、その後に用水路を整備しながら下部に棚田を開いていったことが推測できます。そして、松家家は中世には、武士団化していったのでしょう。

木屋平森遠上部

最後に森遠の祭祀空間を見ておきましょう。
まず森藤名の西側から見てみます。正八幡社の西にある成願寺には享保6年(1721)の棟札が残ります。この寺が松家家が大旦那で、その菩提寺であったのでしょう。成願寺の東隣には「観音堂」,「チン守」が見えます。
木屋平森遠名 成願寺
成願寺(木屋平森遠)
木屋平の昔話」には、この寺のことが次のように記されています。
成願寺の庵主、南与利蔵の話によると、成願寺の無縁仏のある草地には、沢山の五輪塔の頭部がある。二〜三十個はあるという話だが、それは五輪塔の空、風輪にあたる重さ五〜六粁のものである。昔、五輪塔の宝塔部分だけをすえて墓とする、略式の方法ではなかったかという説もある。それでは、どんな事件でここに沢山の墓があるのだろう。森遠城は百米上方にある。山岳武士として活躍した南北の朝時代に、三ッ木の三木重村らと共に出征して、他郷の地で戦死した木屋平家の勇士達の首塚なのか?。
あるいは蜂須賀入国の砌。これに反抗した木屋平上野介の家来達の墓だろうか?。南北朝の末期の、森遠合戦で討ち死にした木屋平家の勇士達なのか?。今はこれらを裏付けるすべもない。
 絵図中央部には、先ほど見たように中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡に鎮座する「正八幡宮」「地神」 が描かれています。この地区は村民から「オヤシキ」とか「オモリ(お森)」と呼ばれていて、森遠名の中核的な場所であったようです。

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 さらに東部を見るともうひとつの「八幡宮」があります。
「山神」は「谷口名」境と集落北西部の山中の「中内」に2社あります。また家屋内の火所に祀られ火伏せの神と、修験道の崇拝対象とされる「三宝荒神」も2社描かれています。
三宝荒神 | 垂迹部 | 仏像画像集
三宝荒神

 このように,正八幡宮・八幡宮・地神・成願寺・チン守・山神・三宝荒神等が集落中心部に配置されている空間構造であることを押さえておきます。
木屋平 森遠航空写真 
木屋平森遠名の航空写真(1994年)
1994年撮影の空中写真(写真2)と比較して、その景観変化を研究者は、次のように指摘します。
①棚田の消滅,確かに穴吹川から積み上げるように並んでいた棚田群は姿を消しています。
②穴吹川沿いの成願寺周辺,上部の三宝荒神付近,集落上部の絵図では田であった小谷沿い一帯の林地化現象が進んだ。
③本畑はゆず園化現象がみられ,幼木のゆず園が圧倒的多いことから,1994年頃がゆず園化のピークであったこと
④正八幡宮の東に4棟の鶏舎が姿を現したこと,
⑤過疎化による集落空間の縮小化現象がみえる。
木屋平森遠の風景 剣山の眺めと柚子 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」
ゆず畑のひろがる森遠名

中世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が拠点とした「森遠城」跡は、今は正八幡宮となっています。村絵図は約210年前の木屋平の姿を今に伝えてくれます。同時に、戦後の高度経済成長の中でのソラの集落の変貌も教えてくれます。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 第54号2008年

新見荘エリア
新見荘のエリア
新見荘は岡山県の高梁川の上流にあった荘園で、現在の新見市と神郷町に広がっていました。初めは皇室領、鎌倉時代末から東寺領となります。そのため百合文書の中に、伊予の弓削荘や播磨の黒田荘とともに多くの関係史料が伝わっているようです。特に、鎌倉時代中期と末期に、全荘にわたって検注が行われています。その時の詳しい土地台帳類が何冊も残っていて、村や耕地の状況を知る手がかりとなるようです。

新見の荘と呼ばれた荘園が、どのようにして、近世の「村」へと変化していくのでしょか。それをイラストで見ていきたいと思います。テキストは「朝日百科 日本の歴史 中世」です。

テキストでは、平安時代後期(院政期)→鎌倉時代→室町時代→江戸時代前期(元禄以前)の村の様子を、冬、春、夏、秋の季節順に描いています。一見すると左右同じような絵に見えますが、右側が平安時代後期、左側が中世になります。
新見荘1

このイラストは、ひとつの谷の模式図です。 一つの谷ごとに一つの名があり、交通路の通るサコの出口近くに屋敷があって、その中に名主の家が建ち、周囲に里畠が開かれています。谷沿いの川沿いの低湿地に水田が拓かれていて、これらを含めて屋敷のまわり一帯を垣内と呼びます。垣内の外、谷の対岸のサコには、作人が家を建て名主の水田を耕作しています。
新見荘中世1
平安末期
 山には至る所から煙がもうもうと立ち上っています。
焼き畑が行われていたようです。 焼畑耕作は山焼き、種まき、害虫駆除、収穫などあらゆる作業が、各谷・サコごとに共同で行われます。全員参加でないとできないので、名の人々を結びつける共同活動でもありました。種まき前の山焼きは、どこの谷でも同じころ行われたので、この時期の山々は白煙をあげる大火災のような光景だったのでしょう。焼畑のあとは、地面がむき出しになります。焼き畑の面積が広がれば広がるほど、わずかな雨でも土砂崩れが起きます。こうして、土地台帳類には、「崩」「流」などの耕作不能地になった注記が記されるようになります。これは土砂崩れの跡を示すもののようです。そのため交通路は、焼畑より高い所を通すようになります。山崩れを避けるために家・屋敷は、岩山の下などに建てられ、崩壊を避けるために屋敷周りには竹が植えられ、家は竹藪に囲まれるようになります。
新見荘中世2

平安末期(谷の下の方)

 一つの谷の名主は、用水源である谷や井の権利を持ち、屋敷・田畠を含む垣内を支配していました。作人は名主に従属し、作人小屋に住み、山畠耕作など共同作業を通して共同体員として働いていまします。
 しかし、中世になると作人の中にも、土を切り盛りし、ならす技術などを自らのものにして、サコの出口の新田を開発するようになります。その努力の結果、鎌倉時代中期になると名主の下から独立しようとする動きを示し始めるようになります。
谷には、それぞれ名主の名が見えます。谷の出口から大川(高梁川)までの緩傾斜地の「中須」には荘官など領主の名が見えます。名主の屋敷はやや小高い場所にあり、周囲や山腹には広大な焼畑が広がります。谷ぞいの湿地には、井(湧水・サコ)から水を引いたりして本田が開かれています。
 谷の住人は名主と作人です。名主が用水の権利を持ち、荘園主から請け負った垣内(屋敷と田畠)を支配し、迫(サコ)の小屋などに住む作人は、名主に従属する立場です。谷を取り巻く山腹には、広大な焼畑が展開されていまします。焼き畑農耕を行いながら、次第に谷田の開発を行っていったのでしょう。
 高梁川の流れに近い「中須」には荘官と、それに従属する百姓たちが住んでいまします。
これら百姓たちの実体は、谷の名主に近く、彼らはその下に作人たちを従えています。作人たちは小屋住まいです。
 注目しておきたいのは、川の中の中島は、この時代には手が入っていないことです。また、耕地と荒地の比率は、半分ずつくらいで、川の近くの低湿地はほとんど開発されない葦原状態だったことが分かります。

新見荘2
右が室町時代 左が江戸時代

 中世には時代が下るにつれて、焼畑も行われなくなります。
山畠耕作が衰退したのです。その背景には、谷の迫田(さこた:谷沿いの湿地田)や高梁川の低湿地の開発があったと研究者は考えています。水田開発に伴い、山畠耕作の比重が低くなり焼畑が行われなくなったと云うのです。これは名ごとの共同作業の減少につながります。そして名の共同体解体や、作人の独立の動きを促進します。それまでの長い間の山畠耕作による山地の崩壊は、当然下流の河川沿いに土砂の堆積をもたらし、低湿地を拡大させていまします。

新見荘室町1
室町時代
 高梁川の河原に広がる低湿地を開拓するには、用・排水路を整備する必要がありまします。
この技術がなかったために、開発は遅れていまいします。
そんな中で承久3(1221)年、承久の乱で勝利を収めた鎌倉幕府は新見荘に地頭を派遣します。西遷御家人として下司に代わってやってきた東国出身の地頭は、湿地帯の広がる東国地方で開発を進めてきた経験と技術を持っていました。彼らの持っていた低湿地の用水、排水のための水路を開設する土木技術が役だったようです。この新技術で、今までは手のつけられなかった広い河原が水田開拓の対象になります。こうして河原や葦原であった低湿地が急速に水田に姿を変えていきます。

  新見荘政所跡
 
 関東からやってきた地頭は低湿地の中でも微高地を選び、開発の拠点となるところに政所④を置きます。
新見荘地頭方政所
新見荘 地頭方政所跡
 近くの川の中島には市②が立ち、地頭屋敷の近くには鍛冶屋が住みつくようになります。「中須」の下方から河原、中島など低湿地帯の水田開発は、室町時代・戦国時代とさらに拡大して行きます。この地域の中心は、川沿いに開けていきます。
 地頭方は毎月「2」の付く日(2日、12日、22日)に地図の2の上市井村(かみいちいむら)で、市庭を開くようになります。
「4」の付く日や「8」の付く日ではなく、「2」の付く日に市庭を開いたのには、次のような目論見がありました。地頭方は利益を生み出すために、まず川上の二日市庭で物資を集め、翌日に川下の①の三日市庭(現在の新見市街)で、売りに出したのです。三日市庭は二日市庭よりも規模が大きく、領家方や新見荘以外の人物とも取引をできる機会があったので、より多くの収益が見込めまします。二日市庭で集めた物資は舟に積み込まれ、その日のうちに高梁川を南に下り、翌日に三日市庭で売りに出されるという寸法です。
   ②の二日市庭は地図で見ると、地頭方の支配の拠点である③「地頭方の政所」の目と鼻の先にあります。地頭方は支配の拠点と経済・流通の中心地を、同じ場所に設けていたことが分かります。
新見荘領家政所

一方、領家方の東寺の③「領家方の政所」付近で市庭が開かれることはなかったようです。
江戸時代 

新見荘江戸時代
新見荘 江戸時代
江戸時代の大きな変化は、「中須」から河原一帯に散在していた屋敷が、すべて山ぞいの小高い場所に集中したことです。山裾への民家の集住化が起きたのです。これが近世の村の登場になります。定期的に襲ってくる洪水などへの対応策だったのかも知れません。結果としては、水田と住居が分離します。それは「生産現場と生活の場の空間的な分離」と云えるのかも知れません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 朝日百科 日本の歴史 中世


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絵巻は四天王寺の沖の海波を、まるで縮緬のしわを一本一本描くように書いています。浪速江の向こうに見えるのが淡路島なのでしょうか。そして、 一遍絵図巻二の緑に染められた高野山の詞書が始まります。
天王寺より高野山にまいり給えり
この山はみね五智を表し、やま八葉にわかれて・・
と読めます。天王寺から高野山へ向かったようです。
どうして、高野山なのでしょうか。
詞書には、次のようにその理由を記します。

一遍絵図 高野山詞書

意訳しておくと
 弘法大師は唐より帰朝した後、狩人の教えに従い三鈷の霊験を古松の枝に訪ね、五輪の鉢を苔むした洞に留めた。そして願力で、己の身を留めた。これは天竺国の釈迦のごとく、わが国においては弘法大師が龍華としてこの世に下りてくることであった。
 また大師は六字名号(南無阿弥陀仏)の印板を残し、汚れた世間のなかで迷い苦しむ衆生のための本尊とされた。そこで、浄土の縁を結ぶために、遙かなる山を分け入り参詣に訪れた。
ここには、前半に高野山が弘法大師の開いた聖山であることが語られ、後半に、その大師との結縁のために訪れたことが記されています。
「弘法大師との結縁」という言葉は、以前に「菅生の岩屋(岩屋寺)」での修行目的の際にも語られたように思います。旅立つ前に、 一遍が菅生の岩屋で行ったことは、修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとすることでした。それは、土佐の女人仙人や弘法大師がかつて行ったことで、大師はその良き先例として捉えられています。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得ました。
 岩屋寺の行場には、全国から修験者たちや聖が集まっていたようです。その中には、高野山の念仏聖などもいたでしょう。また、熊野行者もいたはずです。彼らからの情報を得て、高野山・熊野に詣でるというプランが 一遍には伊予を旅立つときにはあったのではないでしょうか。
高野山を巡る | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

  以前にもお話ししたように中世の高野山は、浄土信仰の中心地でもありました。それを広めたのが高野聖たちです。彼らの果たした役割を挙げると
①高野山を弘法大師が入定する日本の総菩提所であると全国に広めた
②各地で浄土信仰と念仏を勧めた。
③このとき弘法大師の六字名号(南無遍照金剛)を賦算した
①②については、高野山をはじめ、善光寺・四天王寺・熊野は、古代から葬送の霊山だったようです。高野山は融通念仏聖や勧進聖が集まり、全国各地の霊山を廻る拠点でもありました。その僧侶集団の一群の中に、若き日の 一遍もいたということになります。そういう意味では、一遍も念仏聖の一人であったと言えるのかもしれません。

③については、最初の遊行地である信州善光寺は、生身の阿弥陀仏が本尊でした。そして本尊の三仏の分身といわれる宝印三判を捺した御印文を賦算して、極楽往生の保証としていたことは以前にお話ししました。一遍も、これらにならい賦算を行ったと研究者は考えているようです。

  それでは、この詞書をもとに絵師がどのように絵画化したかを見ていくことにします。
『聖絵』巻二第四段の高野山です。
一遍絵図 高野山伽藍図

  山上の金堂付近の主な建物が、忠実に描いていると研究者は考えているようです。
①左側に、七間五面の入母屋造りで朱塗りの建物が金堂で、正面に一間の向拝が付けられています
②金堂の後の五間四面の建物が潅頂堂、
これも檜皮葺の入母屋造で丹塗の柱や勾欄(こうらん)が映えて美しさを増しています。
③その前の方三間の宝形造りの堂が弘法大師をまつる御影堂
 その前に、架台で囲まれた松が詞書に「狩人の教えに従い④「三鈷の霊験を古松の枝に訪ね」と書かれていた三鈷松のようです。
⑤三鈷松の右の二つの建物は、薬師堂と「?」です。両方とも格子のついた檜皮葺の立派な建物です。
⑥その右が鐘楼
⑦堂舎手前では、桜が幹を左にくねらせ木棒が下から支えています。

ここで気になるのがまたしても「桜」です。
伊予松山を出て、ここまでの行程と桜の関係を見ておきましょう。
①2月8日に松山を発ったときには周囲は枯れ野原でした。
②伊予桜井(今治)を出発する時には、桜が満開です。
③大阪浪速の四天王寺の桜も満開でした
④高野山の山桜がまだ見えます。
つまり、②③④と桜が画面を飾ります。
   一遍は高野山に続き六月初旬に熊野を訪れたと詞書には書かれています。そのため、高野山参詣は5月頃とされます。高野山が山の中で桜の開花が遅いとしても、5月まで山桜の花が残ることは考えられません。高野山の桜は、季節を表すために描かれたのではなく、やはり宗教的・思想的な意味をもった象徴的なものと研究者は考えているようです。
  先の金堂に続く部分です。
DSC03176

金堂の後ろには、高野山のシンボルである大塔が建ちます。
この塔を修理した平清盛が夢のお告げで安芸守に出世したと伝えられます。金銅の相輪・露盤・風鐸などが輝く美しい多宝塔です。多宝塔は真言密教のシンボルタワーとして普及し、四国霊場のお寺さんも競うように、この塔を建てるようになります。
塔の手前前方には、鐘楼がもうひとつ見えます。
一遍絵図 高野山伽藍模写

江戸時代に書かれた模写になります。
その左側は、山また山の深山奥山のたたずまいです。
弘法大師の霊地であることを示しているのでしょう。
そして、この奥に奥の院は描かれています。
DSC03177高野山奥の院

奥院まで続く参道は、縦の構図で描かれています。
参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。画面手前の小川に橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。今の「中橋」になるようです。 
世界遺産高野山・奥の院(ガイド案内)めぐり – 京都さくら観光

中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きますす。
一遍絵図 高野山奥の院2

その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。

 この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。
しかし、 一遍たちの姿はどこにあるのでしょうか。礼堂の右側の二人の人物でしょうか。高野山は女人禁制なので、超一たちは上がってこれなかったはずです。 一遍だけが参籠したのでしょうか。しかし、高野山の場面のどこを探しても、これが 一遍だと確信を持って指させる人物はいないように思えます。
 
 一遍の死後、高野聖たちの時衆化が急速に進みます。
そして高野聖はすべて、時宗の聖になったとまで云われるようになります。その背景に何があったのかを最後に見ておくことにします。

高野聖とは - コトバンク
高野聖

平安時代中期に阿弥陀仏信者たちが、高野山の小田原谷に住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て浄土へといざなってくれるされた時代です。そのような中で、鎌倉初期にやって来た明遍が蓮花谷聖を組織し、高野山と極楽浄土との結びつきを説いて廻るようになります。
 次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖という聖集団が現れ、高野山における聖の勢力はますます大きくなっていきます。こうして、念仏が高野山本来の真言密教を圧倒する勢いになっていったようです。
 さらに高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきます。高野山は、寛容に他宗を受け入れたようで、宗派を超えた霊場となっていきます。
  一遍がやってきたのは、この時期のことになります。
一遍の高野山参籠がどのような影響を与えたのかはよく分かりません。しかし、千手院谷で称名念仏を始め念仏化をさらに進めたとされているようです。一遍後も、その教えを受け継ぐ千手院聖(時宗聖)は、その勢力を拡大し、聖集団の時宗化が進みます。こうして、高野聖の時宗化が完成します。
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 そうなると高野聖は、かつての道心と苦行と隠棲をすてるようになります。そして遊行と勧進を中心に賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得するという方法に活動方針を転換します。
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なぜ高野山の聖集団が時宗化したのでしょうか。
 時宗聖の勧進形態が当時の世の中にマッチしたからと研究者は考えているようです。そのために、他の高野聖が、時宗の勧進方式を採用し、結果として時宗の聖となったというのです。

しかし、これはマイナス面も現れてくるようになります。
念仏踊りが庶民の要求に応えて、娯楽的・芸能的色彩が強くなると俗悪化していきます。高野聖の中にも、信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」

などと世間で言われるようになる始末です。
さらに戦国時代の動乱の中で、今までのようような勧進活動が出来なくなった高野聖の生活は困窮します。そのため商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。

このような中で、高野山では真言密教の「原理主義」運動が起こり、聖の念仏や鉦の音に対して異論を唱えるようになります。その結果、総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止します。こうして高野聖は拠点としての高野山から追放される事態になります。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、信長の高野攻めだとされます。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を開始します。しかし、その最中に信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は撤退を余儀なくされました。
 江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきます。
 以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
五来重 高野聖
 一遍上人絵伝 日本の絵巻20 中央公論社

物部さん考(10)戦国時代・石山合戦図に見える本願寺・大阪城の前 モノノベ式聖地 - ものづくりとことだまの国       
  平安時代の末に浄土信仰が盛んになると、四天王寺には法皇や貴族たちの参詣が盛んとなります。鎌倉時代以降には、浄土信仰と太子信仰が庶民にまで広がって、ますます賑わうようになったようです。
  駅から歩いていくと最初に大きな石の鳥居に出会います。
DSC05284c.jpg

正面上の額には
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」

とあります。「釈迦如来が説法された聖地であり、西門は極楽の東門にあたる」という意味になるそうです。
一遍 四天王寺鳥居

鳥居をくぐると正面に西門が見えてきます。この門と鳥居の間が浄土信仰の聖地でした。
昔は鳥居の直ぐ近くまで海が入り込んでいたようです。そのため彼岸の夕陽は鳥居の中心から海に沈みました。その時の鳥居の向こうは、まさに極楽につながる道が現れると信じられるようになります。そのため、彼岸の中日には「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が集まってきました。日想観とは、四天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から来たものです。このため人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。これには作法があるようで、まず夕日をじっと眺め、目を閉じてもその像が消えないようにしてから、夕日の沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされてきました。まさに、ここは極楽浄土への入口が見える聖地だったようです。

『聖絵』の天王寺の詞書には、次のように記されています。
一遍 四天王寺詞書

これでは私には読めませんので、変換ボタンを押します

一遍 四天王寺詞書書き下し
  さらに意訳しておきましょう
文永十一年(1274)桜の季節に伊予桜井(今治)を出た一遍一行は、やがて四天王寺にやってきて参籠した。この伽藍は釈迦如来転法論の古跡で、□□? 東門中心の景勝地でもある。歴代の皇室の崇拝を集め、600を越える道場があり、星霜の歳月を経てもお堂や堂の甍が朽ちることはなく、露盤は光り輝いている。亀井の井戸の水が涸れることはなく、宝水が絶えることもない。
  (中略)
この地において信心を深め、発願を堅くし誓い、十種のの制文をおさめて、如来の禁戒を受け、 一遍は念仏を唱え衆生の救済を開始した。
この詞書がどのように絵画化されているのか見ていきましょう。
一遍 四天王寺伽藍東端導入部

巻物を開いていくと詞書に続いて、まず最初に見えてくるのは築地塀をめぐらした天王寺の伽藍の一部です。霧の海の中に、いくつもの建物の屋根だけが浮かんでいます。広大な広さを持ていることがうかがえる光景です。左下には参拝者達の姿が見えます。被衣(かずき)姿や市女笠をかぶった女人達が門から入っていく姿が見えます。一部だけ見えているのが南大門のようです。

一遍 四天王寺伽藍1

全体構図を見ておきましょう。四天王寺の伽藍が描かれています。
先ほど見たのは①の南大門から東の部分になります。

一遍 四天王寺伽藍配置図

画面上部が北で、画面の右側に講堂・金堂・五重塔・中門が延長線上に真っ直ぐにならぶ「四天王寺式」の伽藍が描かれています。
伽藍中心部を拡大して見ましょう
一遍 四天王寺伽藍


伽藍中央に五重塔があり、その北に金堂の屋根が見えます。よく見ると金堂の扉は開かれて、釈迦入来座像が安置されているのも見えます。その向こうに屋根だけをのぞかせているのが講堂になるようです。境内にはいろいろな参拝者の姿があります。
被衣姿の女
黒染め衣の尼
従者を連れた連れた絵帽子姿の男

画面手前の築地に沿った道は熊野街道です。
傘を差して馬に乗っているのは、熊野詣でに出掛ける武士の姿のようです。従者は行器(ほかい)を背負い、弓矢、毛鞘(けざや)の太刀を担いで、主人に従っています。
DSC03165

⑤西門に目を移すと、そこには時ならぬ人だかりがしています。
その中心にいるのが 一遍のようです。その背後にが超一、超二の二人でしょうか。

DSC03168

いろいろな姿をした参拝客が一遍の周囲に集まっています。一遍はここで初めて念仏札をくばった(賦算、賦はくばる、算はふだ)とされます。その姿が描かれているようです。これが一遍布教のスタートの姿です。
札を配る一遍を取り巻く人たちの姿も見ていると細かく描き分けられています。
集まってきた人たちの背後には一基との灯籠があり、その左右に檜皮葺のお堂があります。念仏堂や絵殿だと研究者は指摘します。このあたりの参拝者も遠巻きに一遍を見守っているようです。
蓑笠をかぶり弓を持った狩場帰りの武士
折絵帽子狩衣姿の屈強な若者が水干姿の垂髪を従えて、うさんくさそうに眺めています。
お堂に腰掛けて見守る僧侶ふたり
その向こうでは両手を広げて踊っているような姿も見えます。一遍の念仏は、踊り出すような節回しとリズムがあったのかもしれません。

一遍達が札を配る伽藍の外では、築地塀沿いにいくつもの小屋が並んでいます。
DSC03171

小屋には車が付いているものあります。これらは「乞食小屋」のようです。熊野街道沿いの築地塀前はスラム街であったようです。都市近郊の四天王寺には施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。四天王寺は、そのように病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でもあったようです。
DSC03166

このような人たちを描かせた聖戒の意図とは、なんだったのでしょうか。
それは西門での一遍のはじめて賦算(お札配り)と関係があると研究者は考えているようです。ここでは一遍は、「境外の乞食には札を与えていない」ことをまず指摘します。そして
「賦算が見返りとしての喜捨を期待していたこと」
「不信・不浄の乞食には賦算札を与えない。与えようとしても受け入れられないことをこの絵ははっきり示している」
と云うのです。なぜならば、乞食・非人には「明日の命はわからない。神仏などいくら信仰しても《腹のたしに》ならぬのだ」
からだと、中世の乞食や非人には「近代人の善意」による解釈や「普通人の想像」がまったく通用しないことを