前回の最後に、備前福岡の市が、山陽道と吉井川の水上交通の交わる地点に立地していたこと。しかし、そこに架かる橋は現在の視点から見れば「粗末な板橋」だったことを見ました。今回は、福岡の市にならぶ「店」をめぐって見ようと思います。テキストは「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」です。
この場面では、追いかけてきた①吉備津彦神社の宮司の子息(武人姿)が黒い僧服を着た一遍に、②切りつけようとするシーンが真ん中に描かれています。その周囲を驚いた人達が取り囲み、成り行きを見守っています。その周囲に、5つの黒屋根が建っています。よく見ると茅葺屋根2棟・板葺屋根3棟です。一遍のことは、以前に見ましたので、今回は、この小屋でどんな商いが行われているのかを、時計回りに順番に見ていくことにします。
市の中央では「一遍受難劇」が起きようとしているのですが、その背後では、いつもどおりの商いが行われ、誰も事件には目を向けようともしていないように見えます。
上部の反物屋と履き物の小屋を見てみましょう。
上部の反物屋と履き物の小屋を見てみましょう。
①言葉巧みに往来まで出て、色目づかいまでして商品を押し付けている売り子②売り子から反物を買って、銭を払おうとしている男③座り込んで、反物を手にとって値踏みしている女④紐で通したサシと呼ぶ銭を数えている女店主
ここで目に付くのは、女性達の多さと元気さです。この店では、ほぼ全員が女性です。生き生きとした表情で、声が聞こえて来そうな気がします。市全体が賑わいで満ちていたことがうかがえます。
並べられている反物をよく見ると、丸く巻いたものと、やや平たく巻いた2種類があります。これが丸巻反物と平巻反物で、現在に続くものです。また、着物は売ってはいません。反物を買って、それを自分で縫って着物にしていたようです。時代が下ると、これが呉服屋へと展開していくのでしょう。
この場面で歴史教科書が必ず触れるのが、銭が使われていることです。
当時の日本では通貨は発行されていませんでした。古代の律令時代に国作りの一環として古代貨幣が造られたことはあります。しかし、それが一般化することはなく姿を消し、そのままになっていました。流通経済が未熟で、貨幣が必要とされなかったのです。銭が流通するようになるのは日宋貿易が始まって以後です。それも宋の銅銭を「輸入」し、そのまま国内で使用します。商品経済が始まったばかりの経済規模は、それで十分だったのでしょう。面白いのは、いろいろな金額を刻印した宋銭が入ってきますが、日本ではどれもが全て一文銭として扱われていたようです。この場面でも、女主人は銭を鹿の革の銭指しに通しているようです。
ここで研究者が注目するのが、②の反物を女性から買っている男です。
「足半(あしなが)」履きの船頭?
この男は紐を通した銭と引き換えに、反物を受け取ろうとしています。彼の履物を見てください。よく見ると足全体をカバーせずに、前半分だけしか底がついていない草履です。これを「足半(あしなが)」と呼ぶようです。これは滑りにくく、河船頭達が履いていたようです。つまり、男は、吉井川を上下する高瀬舟の船頭と推測できます。さらに想像を膨らませると、この船頭は、次のような役割を担っていたことが考えられます。①田舎の者に頼まれ反物を仕入れて持って帰ったり、②田舎から市場へ反物を持ち込み、委託販売を依頼したり③田舎の人達から依頼されたものを、市で仕入れて持ち帰る便利屋の役割
彼が買い込んだ上物反物が、女房へのプレゼントである確立は低いと研究者は考えているようです。
建物の左端⑤の人物の前には高下駄が置かれています。反物屋とは、別の履き物屋のように見えます。
次の草葺小屋には、俵を積んだ米屋と、魚屋が見えます。
①青い着物を着た女が魚屋の店先に座り込んでいます。前には空の擂鉢風のものを持参しているので、魚を注文しているようです。よく見ると手元には風呂敷包みのようなものを持っているので、すでに1つの買い物を済ませて、次に魚を買いに来たのかもしれません。その女性客が魚を料理している男を見ています。③男は右手に細い包丁を持って切り込んでいますが、女が何やら話しかけているようにも見えます。「そこのところをもう少し大きく切って頂戴な」とか「もうちょっとまけとき」とでも言っているのでしょうか。
②使われているまな板は脚付きの立派なものです。大きさは1m以上はありそうです。まな板の魚は、尻尾がベロッとせず、ピッと細く上下に伸びているので、川魚ではなく海魚だそうです。
⑤女の向こうには上半身裸の男が、吊した魚の重さでしなった棹を担いで出かけています。魚の行商でしょうか。④魚屋の奥の天井には、山鳥と同時に干しダコが吊り下げられています。これは倉敷市下津井の名産・大干しダコとそっくりです。この時代に、その原型はできていて、売られていたことが分かります。
福岡の市 米屋
当時の一升枡なのでしょうか。現代の一升枡と比べると、高さ寸法が低いように思えます。これが豊臣秀吉によって、枡制が変更される以前の一升枡の大きさだと研究者は指摘します。秀吉は天下統一後に「升制度量衡改定」で、1升枡の容積を大きくします。これは、入ってくる米の取り分を増やす「増税」になります。 また、⑧米俵が積まれているので、当時は戦前までと同じで俵詰で流通していたことが分かります。客が持ってきた米袋に枡で量り売りしています。その左側では、口をゆがめた男が順番を待っているようです。
福岡の市のシーンには、馬の背に俵を載せて運ぶ姿が、2ヶ所で描かれています。これも戦前までは、各地で見られた光景だったようです。今では、紙袋に変わってしまいました。
中段右の板葺小屋を見ておきましょう。
①足が不自由で歩けないために地車に乗った男が物乞いをしています。②それに応対する店屋の主人らしき男がいます。物乞いする人間がやってきているので、食べ物屋でしょうか。店屋の主人は血色も良く満ち足りてふくよかに、しかも綿入れのような温かそうな着物を着けて手は袖の中に入れて描かれています。物乞いをする男は、素足で上半身裸のように見えます。この対比は、冷酷なほどリアルです。救われなければならない人たちを生んだ社会に、敢えて目を向けさせようとしているようにも思えてきます。
ここには、③流しの琵琶奏者もいて、昭和の居酒屋と流しのギターの関係と同じです。小屋の中には、④女性が何人かたむろしています。客なのでしょうか、店の人なのでしょうか・・よくわかりません。小屋の右端には、⑤大甕が3個並べられています。ここにはお酒が入っているようです。客に提供する居酒屋としたら、つまみ的なものもあったはずです。そういう目で見ると、四角っぽいやや厚みのある短冊状のものがかすかに見えます。冬の食べ物で想像すると、吉備では切り餅や凍り餅が候補に挙がるようです。
小屋の左手隅には、⑥面のようなものをぶら下げて売っている男が描かれています。街道をいく旅人のお土産なのでしょうか? よく分かりません。
右側の板葺小屋には壁がありません。その下には、大きな壺がいくつも転がっています。先ほどの「居酒屋」も壺のように立てて並べてなくて、まさに転がっているという感じです。これを大壺が商品として売られていると、研究者は考えています。この辺りで、大壺と言えば備前焼です。この壺が登場することで、醤油や漬け物などの食文化が拡大していきます。生活にはなくてはならない必需品です。
小屋の下の「川港」には、高瀬舟が到着して、船頭が何かを抱えて下船しています。
そういえば、魚屋の魚は海の魚でした。河口から高瀬舟で運ばれてきたのかもしれません。また、反物屋で女から反物を買っていた船頭の船が、ここに舫われているのかも知れません。どちらにして、福岡の市が山陽道と吉井川水運の交叉点に開けた定期市であったことが、ここからは見えてきます。
小屋の下の「川港」には、高瀬舟が到着して、船頭が何かを抱えて下船しています。
そういえば、魚屋の魚は海の魚でした。河口から高瀬舟で運ばれてきたのかもしれません。また、反物屋で女から反物を買っていた船頭の船が、ここに舫われているのかも知れません。どちらにして、福岡の市が山陽道と吉井川水運の交叉点に開けた定期市であったことが、ここからは見えてきます。
その左手の茅葺小屋は壁があって、何を商っているのかよく分かりません。
しかし、左端に一部、商品らしきものが見えます。 福岡の市では、刀剣類は売られていないとされてきました。刀剣は店先に並べて売るようなものではなく、注文生産だと思われていたからです。しかし、研究者が注目するのは、下段左端の小屋左端の店先に置かれている棒状のものです。これだけでは刀剣だとは云えません。
福岡の市 武士が一遍に帰依して剃髪する場面
裏付け史料になるのが剃髪場面です。ここに描かれている短刀には折り紙のようなものが一緒に添えています。これと同じものが、先ほど見た店の台にも描かれていることを研究者は指摘します。確かに、鞘の色や描き方もまったく同じです。ここからは、刀も商品として市で売られていた可能性が出てきます。
一遍が福岡の市を訪れた季節は、いつなのでしょうか。
落葉した梢、ススキと紅葉した秋草が残って、遠景に雪山を描いているので初冬のようです。しかし、登場人物を見ると上半身が裸の男達が何人もいました。当時の人達は薄着だったのでしょうか? よく分かりません。
一遍受難事件の発生した時刻は、何時頃なのでしょうか?
研究者が注目するのは、絵巻の左上の松などの樹木です。その上部の方がぼかされて表現されて、上部が薄く霞むように途切れていると指摘します。これは夕方黄昏時の「昏くらいとばり」が降るように迫ってきていることの表現のようです。一遍上人が危機迫るこの大事件に遭遇しながらも、逆に相手を折伏してし、剃髪が行われたのは夕方近い頃であるとしておきます。
最後に中世の市は、毎日開かれていたわけではありません。期日を決めての定期市だったと教科書には書かれています。それでは、市が立っていない時の様子はどんな様子だったのでしょうか?
それを最後に見ておきます。
備前福岡の市の後に、京を経てやってきた信濃国佐久郡の伴野の市の光景です
信濃国佐久郡の伴野の市
道をはさんだ両側に六棟の茅葺小屋が建っています。附近には家のありません。向こう側の小屋にはカラスが下りてきて餌をあさっています。犬たちの喧嘩に、乞食も目覚めたようです。
こちら側の小屋には一遍一行が座っています。ここで一夜を過ごしたようです。そして、背後には、癩病患者や乞食達の姿も見えます。
「あら、西の空に五色の雲が・・・」という声で、時衆たちは両手を合わせて礼拝します。そして、瑞雲に歓喜したと詞書は記します。
この絵からは、市が建たない時は閑散としていたこと。そこは乞食たちの野宿するところでもあったこと。そんな場所を使いながら、一遍たちの廻国の旅は続けられていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。