中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
この神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。水主神社はその名前からも分かる通り、もともとは水源の神を祀った神社だったようです。三豊の二宮川上流の大水上神社と性格がよく似ています。そこへ中世になって、熊野三所権現が勧進しされて、併せて祀られ同体とされるようになります。つまり、地神が水主神、客神が熊野権現ということになります。
この神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。水主神社はその名前からも分かる通り、もともとは水源の神を祀った神社だったようです。三豊の二宮川上流の大水上神社と性格がよく似ています。そこへ中世になって、熊野三所権現が勧進しされて、併せて祀られ同体とされるようになります。つまり、地神が水主神、客神が熊野権現ということになります。
水主神社の「大水主大明神和讃」は、中世の水主神社知る上では貴重な資料です。熊野信仰との関係がどのように記されているのかを見てみましょう。。
従孝霊天皇元年、至応永十七庚賞一千六百三十四年。
親依明神之御託宣直以和讃二結玉フ。又熊野与明神一外之事ハ、依熊野ノ若殿ノ御託宙、除今宮五郎殿ノ段、熊野本宮結御前与明神同一之由直承之。我御山ニテモ、水主二テモ、雖有因呆之不同一口也 神言銘肝、結和讃給。北御前ハ 如本宮証誠 天神六代 此ハニ親大御前ハ 結御前 南御前ハ 早玉 熊野両所三所権現卜中モ 一所大明神卜中モ 一然卜云々明応第五天卯月五日書之。是偏二大明神之神慮卜存也。其故ハ、愚僧此和讃ヲ先年所持之処、行方不知失畢。乃此年来五六ケ年之間、彼方此方雖尋申更不得遇事然処二、此本ハ地蔵院宥改、大水主山麓之砌、自社中申出、所持之乃今熊野任神慮苦写之畢。此和讃之趣興大水主差図縁起寸分相違之儀無之。但従安居院神道出ル処ノ水主ノ本縁起ニハ、相違之処多之。但神秘之儀式、能々思エハ、只秘事ヲ尽シタル迄ニテ、更々無相違云々。
意訳変換しておきましょう。
孝霊天皇元年から応永十七(1410)年に、明神の御託宣によって、この和讃が完成した。熊野と明神は一体であり、熊野の若殿の御託宙、今宮五郎殿ノ段を除き、熊野本宮の御前で明神と同一であることの由緒を承った。我山、水主においても、この二つを同一とすることは肝に銘じるべしと和讃は結んでいる。北御前は、熊野本宮であり 天神六代は 親大御前は 結御前 南御前は 早玉熊野両所三所権現とも、三所大明神とも申す。明応五(1496)年に卯月五日にこの書は書かれた。これは大明神の神慮である。それ故に、愚僧(宥旭)は、この和讃を先年より所持してきたが、行方不明となっていた。近年の五・六ケ年の間、見つからなかった。ところが偶然に、宥改が、大水主山麓の地蔵院のにあることお申出でてきた。さっそく手元に置いて、書写して和讃の趣と大水主差図縁起を比較してみたところ寸分の相違もなかった。ただし安居院神道の水主本縁起と比べると、相違する所が多い。神秘の儀式については、よくよく考えるに、ただ秘事を尽したるに過ぎず、更々相違はない。
ここからは次のような事が分かります。
①応永十七年(1410)に、明神の託宣によって、増吽がこの和讃を作成したこと②大水主大明神と熊野三所権現とが一体であること③明応五年(1496)に僧宥旭が、これを書き終わるとしている。④安居院神道の水主の縁起とは相違するところが多い⑤この和讃以外にも縁起が存在した
ことが述べられています。
この和讃については『大水寺山緒』では、増吽の作としています。
つぎに、水主神社所蔵の「水主神社社坊図」をみていきますが、残念ながら絵図はアップできません。悪しからず。
この図は文政四年(1821)に石門露珍によって描かれたもののようです。水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアに多くの宗教施設がひしめきあっている姿が描かれています。水主神社を中心にして本宮山・新宮山・那智山が描かれ、その山麓に数多くの寺院・庵・神社などが極彩色で細かく描かれています。それぞれに短冊形の銘記欄を設けて、寺院名や坊の名が墨書されていますが、墨書の部分が剥落していて分かりにくい状態です。後世の貼紙に墨で寺院名や坊名が記されているので、個々の名称を知ることができます。有難いことです。
この図は文政四年(1821)に石門露珍によって描かれたもののようです。水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアに多くの宗教施設がひしめきあっている姿が描かれています。水主神社を中心にして本宮山・新宮山・那智山が描かれ、その山麓に数多くの寺院・庵・神社などが極彩色で細かく描かれています。それぞれに短冊形の銘記欄を設けて、寺院名や坊の名が墨書されていますが、墨書の部分が剥落していて分かりにくい状態です。後世の貼紙に墨で寺院名や坊名が記されているので、個々の名称を知ることができます。有難いことです。
しかし、江戸末期にこれほどの建物がこの地にあったとは、考えられません。
「往古は大内一郡の惣鎖守なれば、社家も七十五員、僧坊四十二宇ありて繁栄なりしが、(中略)さるにより社殿・境内は古のままなりといへども、社家・僧坊もあまた退転し、寺跡当村に所々に存せり」
「仲善寺跡、釈迦寺跡、孝徳寺跡、葉王寺跡、蔵坊跡、観通坊跡、念仏坊跡、多聞坊跡、新蔵坊跡、善福寺跡、その他三十四坊一々挙ぐるにいとまあらず」
ここからは江戸時代末期には、寺跡を残すだけになっていたことが分かります。そのため文政四年の社坊図は、中世末の室町時代ころの全盛期の様子を描いた古図を模したものと研究者は考えているようです。作者の石門露珍も「臨写」したと記しています。「臨写」とは「手本を見ながら写す」という意味になるようです。
そのような視点で「社坊図」をみると、「大水主大明神旧記」にある嘉古二年(1442)九月八日の「大水主社供僧座配之事」の記述と、一致していると研究者は指摘します。そこには、供僧名が次のように記されています。
そのような視点で「社坊図」をみると、「大水主大明神旧記」にある嘉古二年(1442)九月八日の「大水主社供僧座配之事」の記述と、一致していると研究者は指摘します。そこには、供僧名が次のように記されています。
宰相坊・薬王坊・党音坊・釈迦寺・円光寺・満蔵坊・宝幢坊・定光寺・持宝坊・玉泉坊・仲善寺・善福寺・孝徳寺・城琳寺・宝積坊・岡之坊・財林坊・北之坊・継養坊・聖無動坊・十輪寺・妙光坊・浄土寺・多聞坊・十乗寺・遍照寺・忠日寺。光善坊・本蔵坊・善勝坊・智海坊・宝住坊・高原寺・I蔵坊・念仏寺・慈尊坊・報恩坊・願成坊・国護坊・観通坊
これだけの院坊が水主神社の周囲にはあり、僧侶や修験者・聖が住持していたことになります。以上のことを頭に入れた上で、研究者は絵図を読み込んで、次のように指摘します。①大水主神社を図の中央に大きく描き、参道には桜並木があり、赤い大きな鳥居が一基描かれる。②その奥まったところに本殿や摂社などが並び、三重塔が傍らにみえる。いかにも神仏混淆の中世の伽藍らしい③水主神社に隣接して大水寺がみられるが、その規模はかなり大きい。
ここからは水主神社の別当寺として、大水寺があったことが分かります。
私は、水主神社の別当寺は与田寺だったと思い込んでいたのですが、そうではないようです。水主神社の別当寺は大水寺であったようです。水主神社と与田寺がかなり離れているので、神仏分離後に与田寺が移動したのかなと思っていました。それなら大水寺と与田寺の関係はどうなるのでしょうか? 今後の宿題としておきます。
私は、水主神社の別当寺は与田寺だったと思い込んでいたのですが、そうではないようです。水主神社の別当寺は大水寺であったようです。水主神社と与田寺がかなり離れているので、神仏分離後に与田寺が移動したのかなと思っていました。それなら大水寺と与田寺の関係はどうなるのでしょうか? 今後の宿題としておきます。
大水寺について『御領分中寺々山来』には、次のように記されています。
「大水主人明神之別当にて在之候、開基は知不申候、中古応永年中、増吽僧正再興、則自筆之棟札有之事」
とあり、増吽の棟札が残り、彼が再興したと伝えます。また『御領分中寺々由来』には大水寺の項に
「当寺開基詳ならず、初め社坊といいしを寛文の頃、今の寺号に改む」
とあり、大水寺というのは江戸初期ころからの寺号とします。
たしかに『大水寺大明神社旧記」には、
永享四年(1432)卯月十五日の御法楽には「水徳山神宮寺宝珠院」とあり、古くはこの寺が神宮寺と呼ばれていたようです。また水主神社の鳥居の下部に位置するところの数棟には、浄土寺と刻まれているようです。
この浄土寺は「御領分中寺々山来」には
「水主山石風呂在之事 、弘法大師堂、代々堂守之寺にて有之候、文禄年中再興、共後元和年中再興棟札有之事」
とあり、次のような事が分かります
①水主の石風呂があったところにあった
②弘法大師堂があり、弘法大師伝説が伝わっていた
③その大師堂の堂守を代々勤めていた寺である
④元禄期に再興された
①については「社坊図」を見てみると、堂宇に隣接して小さな建物があります。これが石風呂になるのでしょうか。よく分かりません。
その後は『讃岐国名勝図会』の「弘海寺」の項目に「はじめ浄土寺といえり」とあるので、浄土寺から江戸時代の末期には弘海寺と改名していたようです。
大水寺の変遷を整理しておきます
とあり、次のような事が分かります
①水主の石風呂があったところにあった
②弘法大師堂があり、弘法大師伝説が伝わっていた
③その大師堂の堂守を代々勤めていた寺である
④元禄期に再興された
①については「社坊図」を見てみると、堂宇に隣接して小さな建物があります。これが石風呂になるのでしょうか。よく分かりません。
その後は『讃岐国名勝図会』の「弘海寺」の項目に「はじめ浄土寺といえり」とあるので、浄土寺から江戸時代の末期には弘海寺と改名していたようです。
大水寺の変遷を整理しておきます
①中世は水徳山神宮寺宝珠院②鳥居には浄土寺③江戸時代の末期には弘海寺④その後、大水寺?
この変遷を見ていると、ひとつの寺院系譜ではないような気がします。中世には水主神社に仕えた社僧の寺がいくつかあって、並立していたのではないでしょうか。彼らが寺の寺勢とともに別当職を交替して担当していたようにも見えます。
社坊図には、背後に大きな山が描かれます。
水主三山のようです。 水主三山とは水主神社を取り囲む虎丸山・那智山・本宮山の三山です。今でも「ミニ熊野三山巡り」のハイキングルートとして親しまれています。社坊図には、それらの山の頂きには、那智・新宮・本宮と注記され、鳥居と社殿がみえます。特に那智には、滝が流れ落ちています。熊野の那智の滝にちなんだデフォルメのようです。
水主三山のようです。 水主三山とは水主神社を取り囲む虎丸山・那智山・本宮山の三山です。今でも「ミニ熊野三山巡り」のハイキングルートとして親しまれています。社坊図には、それらの山の頂きには、那智・新宮・本宮と注記され、鳥居と社殿がみえます。特に那智には、滝が流れ落ちています。熊野の那智の滝にちなんだデフォルメのようです。
この他に銘記欄には、依守太夫・定吉・貞遠太夫・守重太夫・楠谷太夫などと記されます。これらの人物は『大水主人明神旧記』の文安元年(1444)の「大水主神人座配之事」の座配に出てくる人物名と同じです。
社坊図には、数多くの寺院や坊が書き込まれていますが、□□坊と記される建物は、小さく簡素なものです。
ここに居住したのが水主神社を根拠地とする熊野修験者であったのではないかと研究者は考えているようです。中世には、与田山の若一王子権現社や水主神社を中心とする熊野信仰を背景に、東讃の地には熊野系の勧進聖や先達が数多くいたようです。増吽はそうした熊野先達の中心的な存在であったことは前回に見たとおりです。
ここに居住したのが水主神社を根拠地とする熊野修験者であったのではないかと研究者は考えているようです。中世には、与田山の若一王子権現社や水主神社を中心とする熊野信仰を背景に、東讃の地には熊野系の勧進聖や先達が数多くいたようです。増吽はそうした熊野先達の中心的な存在であったことは前回に見たとおりです。
水主神社を囲むように配置された水主三山の熊野権現は、熊野三山を勧進したものです。
それを増吽を中心とする熊野勧進集団は信仰し、勧進活動を進め、この地に数多くの神仏施設を作りあげていったのでしょう。それは、建物や施設だけでなく教学センターや書経センターも含め、一大宗教センターとなり、「東讃の新熊野」として機能していたようです。そのような姿は、海を越えた備中児島の五流修験の活動と重なり合ってきます。増吽が児島の数多くの真言寺院を創建したと語り伝えられていることとつながります。
水主三山の那智山からの瀬戸内海方面
以上のことから、与田山や水主の地は、五流修験の児島と共に熊野信仰の極めて盛んな霊地で、熊野信仰の四国の拠点として機能していたとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰