崇徳院は「瀬を早(はや)み 岩にせかるる
滝川(たきがわ)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」
の歌で有名な歌人です。しかし、政治的には不遇な運命を辿ります。弟の後白河上皇の権力争いに敗れて、讃岐に流され、国府のあった府中(坂出市)周辺で流配生活を送ります。寂しさに耐えられず、崇徳院は弟に向けて恩赦の願いを出しますが受けいれられません。そして、亡くなると弟の後白河天皇は、喪にも服せず、葬儀の指示も出していません。兄の崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。過去の人として、意識の外に追いやっていたようにも思えます。
今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。中央からの指示がないので、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で白峰山に埋葬されたと坂出市史は記します。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なもので「薄葬」であったことを押さえておきます。このような扱いに対して、崇徳上皇はどのように「反撃」したのでしょうか。保元物語には次のように記されています。
ここには、①崇徳院が「京に返してくれと、長い仏典を自分の血で書写し嘆願したこと ②それが適わないと、大魔王として日本国を滅ぼすと誓い ③生きながら天狗になったことが書かれています。保元物語のこの記述は後世の人達にインパクトを与えて、ここから数多くの物語や作品が生み出されることになります。崇徳院がどんな風に見られていたかを、今に残る史料で見ておきましょう。
左が怨霊となって天狗姿で飛び回り、祟りをふります崇徳上皇の姿です。これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。この舞台は白峯寺(松山)です。崇徳上皇と親しかった西行法師が廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。そこでは、崇徳院は多くの天狗達のボスとして描かれています。その下で、天狗達のとりまとめ役が相模坊という天狗頭です。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説、相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がります。そして、天狗になるために修行する修験者も数多く現れます。室町幕府の将軍の中にも天狗道信仰に夢中になって、政務を顧みない人物も現れます。当時の「入道」と称した人々の多くは天狗信仰者でした。
崇徳上皇に仕えた白峯の相模坊を見ておきましょう。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説、相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がります。そして、天狗になるために修行する修験者も数多く現れます。室町幕府の将軍の中にも天狗道信仰に夢中になって、政務を顧みない人物も現れます。当時の「入道」と称した人々の多くは天狗信仰者でした。
崇徳上皇に仕えた白峯の相模坊を見ておきましょう。
相模坊
右が頓證寺前の相模坊像です。背中に羽根のある天狗として描かれています。左が現在の頓證寺殿権現堂の白峯大権現のお札です。修験者の守護神不動明王のようです。その前には二人の天狗が描かれています。ここにも天狗道の痕跡が見えます。これを別の表現で云うと、崇徳院が天狗集団のボスとなった、逆に言うと「天狗集団が崇徳上皇をかついだ」ということになります。天狗の中には、白峯寺の子院の主人達もいたはずです。これを別の史料で裏付けておきます。
①天狗経です。
これは今では近世に造られた偽書(偽の経典)とされています。ここには当時の全国の有名な大天狗とその拠点ががリストアップされています。京都の愛宕山の天狗をスタートに鞍馬・熊野・吉野・高野山・石鎚山の名前があります。讃岐では
最初の赤いマークが「黒眷属金毘羅坊
2番目が「白峯相模坊」
3番目が「象頭山金剛坊」
が挙げられています。ここからは白峯山や象頭山は天狗信仰のメッカで、おおくの行者達が修行のために訪れていたことがうかがえます。金毘羅大権現の天狗の姿を見ておきましょう。
金毘羅大権現これは今では近世に造られた偽書(偽の経典)とされています。ここには当時の全国の有名な大天狗とその拠点ががリストアップされています。京都の愛宕山の天狗をスタートに鞍馬・熊野・吉野・高野山・石鎚山の名前があります。讃岐では
最初の赤いマークが「黒眷属金毘羅坊
2番目が「白峯相模坊」
3番目が「象頭山金剛坊」
が挙げられています。ここからは白峯山や象頭山は天狗信仰のメッカで、おおくの行者達が修行のために訪れていたことがうかがえます。金毘羅大権現の天狗の姿を見ておきましょう。
大権現とはどんな姿だったのか? 「権現は、変化するもの」です。例えば金毘羅大権現は、高松藩に説明するときなど公的には、「クンピーラ(金毘羅)と称し、天部の仏と称しています。それでは、信者にはどう説明していたのでしょうか?
左図の上に「金毘羅大権現」と書かれています。これが金毘羅大権現の姿なのです。その下には天狗達が描かれています。右側には不道明のような姿で金毘羅大権現は描かれています。そして、その周りを囲むのは天狗達です。下には「別当金光院」とあります。金毘羅大権現社の別当金光院のことです。金光院は、このような掛け軸を、金毘羅行者と呼ばれた修験者たちに配布していたのです。まさに彼らは、天狗になるために修行していたのです。そのボスが白峯寺では崇徳上皇だったことになります。そのためか、幕末になると崇徳上皇の権化が金毘羅大権現だという説が、京都を中心に拡がっていたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際の金刀比羅宮により白峯寺乗っ取りの要因のひとつとされます。ここでは、天狗信仰で、白峰山と象頭山はつながっていたことを押さえておきます。
「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えは、幕末にはかなり広がっていたようです。
ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があります。皇国史観で歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は、近代以後は語られなくなります。
ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があります。皇国史観で歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は、近代以後は語られなくなります。
「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた墓は、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。⑤の結果、建てられるのが頓證寺です。
それでは、崇徳上皇慰霊のために建立された頓證寺というのは、どんな施設だったのでしょうか。
当時の建物は残っていませんが、初代高松藩主松平頼重によって、再建された建築物群が今に残っています。それを見ていくことにします。最初の頓證寺の門前に戻ってきました。今度は門をくぐって中に入っていきます。
頓證寺正面(白峯寺)
門をくぐると正面に頓證寺が見えてきます。背後の森が崇徳陵になります。もう少し近づいてみましょう。
頓證寺
頓證寺と呼ばれていますがお寺らしく見えません。まるで神社の拝殿のように私には見えます。この建物の面白い所は、拝殿と本殿の関係です。まず、現在の姿を裏側の陵墓の方から見ておきましょう。
頓證寺と本殿
陵墓方面から①が拝殿です。②が崇徳院の御影を祀っていた本殿です。ここに崇徳院の御影が祀られていましたが、今はありません。普通は、拝殿と本殿だけですが、ここには拝殿のうしろに仏式のお堂が2つあります。ここには何が祭られていたのでしょうか。③は本地堂(十一面観音堂) とも呼ばれています。ここに、先ほど見た十一面観音がありました。建築形式も仏堂スタイルです。権現堂は、先ほど見た天狗達の大ボスである相模坊が祀られていました。これを幕末の絵図で確認しておきます。
崇徳上皇陵と頓證寺
一番右側が拝殿です。そこから3本の渡り廊下が延びています。その先の右が観音堂 真ん中が 本殿 左が権現堂です。これは白峯寺の歴史が集約されてレイアウトされていると研究者は考えています。
①観音堂は、熊野行者達のもたらした観音信仰と山林修行②本殿には崇徳院の御影③権現堂は天狗の親玉相模坊
まさに、これは白峯寺の歴史です。それらが混淆した形を示しているように私には思えます。それでは、このレイアウトを考えたのはだれでしょうか、それはこの建物群の寄進者である松平頼重ということになります。
鎌倉時代の白峯寺がどのように、見られていたのかを資料で押さえておきます。
牟礼の洲崎寺には南海流浪記という鎌倉時代の讃岐のことを記した資料があります。これを書いたのは、道範という高野山の高僧です。当時の高野山での党派争いの責任を取らされて讃岐に流されて、8年ほど善通寺で生活しています。その時の様子を記録に残しています。ここには8年ぶりに帰国を許された際に、白峯寺に立ち寄ったことが記されています。そして次のように記します。
ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代には「崇徳上皇廟所としての白峯寺」という認識が人々の間に拡がっていたことが裏付けられます。
①もともとは熊野行者たちによって開かれた補陀落=観音信仰の霊地 ②そこに崇徳院の御霊が置かれ、中央の有力者の信仰を得るようになった。
③お堂や寺領が寄進され経済基盤が整えられた
④多くの子院を擁し、そこに念仏聖や熊野行者達が活動拠点とした。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史
「羽床正明 崇徳上皇御廟とことひら53 H10年」
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