①讃岐國の国領地の金倉郷が、智証大師円珍ゆかりの地という由縁で園城寺(三井寺)に寄進されたこと②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること
「讃岐國金倉上庄公文職事右沙弥成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。弘安四年二月二十九日 寺主法橋上人位学頭権少僻都法眼和尚位 (以下署名略)
讃岐國金倉上庄公文職について沙弥成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきた功績を認めて、子々孫々に至りまで公文職を命じる。弘安四年(1280)2月29日 (圓城寺)寺主法橋上人位学頭権少僻都法眼和尚位
当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□当寺は、智證大師誕生の地で(中略) 金倉寺周辺の武士たちは承久の変の際に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されてやって来て、多くの土地を没収しました。この間、衆徒たちは反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、やってきた地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
法幢院之講田壱段少 大坪拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺 法憧院 賃仁(花押)明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
法幢院の講田壱段少について 大坪」(良(吉)田郷石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が)納入する知行年貞米を毎年五石、十ケ年に渡って(渋谷殿)に納めることを契約する。もし、違約するようなことがあれば大坪助左衛門の屋敷と太郎兵衛屋敷の一段小を抵当に入れて、永代知行(譲渡)する。乃為己後支證状如件。金蔵寺法憧院 賃仁(花押)明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
この法憧院の証文中にある「石川方」については、稲木地区の東部小学校の東側に石川という地名が残っています。


16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。
法憧院々領之事一町九段小
①供僧二町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也 護摩供慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也 己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日 一乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
法憧院の院領二町九段小について供僧管理下の土地は二町三段大で、これは風呂もとにあり、学頭田である。②護摩供養田は慶林房の抵当となっている三段六十歩、支具田は三百歩一段、ヨヒツキニンシ三段六十歩、上岡屋敷の二段、指坪の一段 以上合計で 五町四反余が法憧院の院領である。
永正六年(1509)8月
一乗坊の先師良允馬の永代菩提寄進分 護摩供養 慶林坊三段半この内初二段半は六斗代支供田、ハ四斗五升也、岡之屋敷の二段中は屋根から南は大、東側の屋根の外に小ある。中屋根より北は一反合二反である
それでは法憧院領はどこにあったのでしょうか? それは先ほど見たように良田郷石川方周辺にあったと研究者は考えています。ここはもともとは、金倉寺領良田郷の一部でした。つまり金倉寺領を、僧坊の院主たちが分割してばらばらして所有していたことになります。その院主の中には○○入道や○○沙門を名乗る俗人がいたということになります。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。② 寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること④ 善通寺諸方免田について、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。
⑤ 今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること⑦ 境内での乗馬は、今後は禁止する⑧ 境内での殺生、山林竹木を勝手に伐り取ることは先例通り禁止する⑨ 徴税などのために守護使はこれまで通り寺領に入らせない。
金倉寺文書の「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、地方の武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進も、そのような動きに沿うものかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日 (香川?)元景(花押)
三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者の元景です。
金倉寺領のその後は分かりませんが、戦国大名化していく天霧城の香川氏や、西長尾城主の長尾氏の押領を受け、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。こうして、善通寺や金倉寺の僧坊の経済基盤となっていた寺領は失われ、退転していくことになります。讃岐の寺社は「長宗我部元親の侵攻で焼き討ちされ退転」と寺伝に記すところが多いのですが、それ以前に戦国大名化していく香川氏によって、寺領を奪われ退転に向かっていたと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
金倉寺領および圓城寺領金倉荘 善通寺市史574P
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