瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐中世史 > 讃岐の中世寺院

多度津の郷 葛原・金蔵寺
葛原庄と金倉庄は隣同士
多度郡の葛原郷が京都の賀茂神社に寄進されるのは11世紀前半でした。それから約200年後の建仁3(1203)年に、金倉郷も近江の園城寺に寄進されます。
その経緯については、善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」から次のようなことが分かります。
①讃岐國の国領地の金倉郷が、智証大師円珍ゆかりの地という由縁で園城寺(三井寺)に寄進されたこと
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること
建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。ここからは後鳥羽上皇の圓城寺保護という意向があったことがうかがえます。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。ところが約130年後の建武3年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉上庄」とだけあります。金倉庄は、上下のふたつに分割され、下荘は他の手に渡ったようです。そして金倉上庄だけが残ったようです。それでは、金倉庄を園城寺は、どのように管理運営していたのでしょうか
圓城寺は、金倉上荘に公文を任命して管理させています。金倉寺文書には次のような文書があります。
「讃岐國金倉上庄公文職事
沙弥成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
  意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙弥成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきた功績を認めて、子々孫々に至りまで公文職を命じる。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
ここからは次のようなことが分かります。
①弘安3(1280)年10月に、先祖の功績によって成真に子孫代々にまで金倉上荘公文の地位を継承することを保証していること
②沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺と関係があったこと
③沙弥成真というのは、出家していても武士で「沙弥=入道」であったこと

それでは圓城寺の荘園である金倉庄と金倉寺は、どんな関係だったのでしょうか?
金蔵寺の衆徒(僧侶)たちが以下のことを訴えます。(意訳)
当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 
当寺は、智證大師誕生の地で(中略) 金倉寺周辺の武士たちは承久の変の際に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されてやって来て、多くの土地を没収しました。この間、衆徒たちは反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、やってきた地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
  この文書は徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころのものです。
こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」には、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活したことが記されています。南北朝時代の動乱も治まった頃に、金倉寺の復興もようやく軌道にのったようです。
 研究者が注目するのは、「目安」の中に金倉庄の取り分について「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注があることです。
それまで地頭の持っていた得分・権利を荘園領主園城寺が2/3、金倉寺が1/3で分けあったことになります。これを裏付けるのが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中にも、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」とあることです。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じです。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の1/3ではなく、荘園全体の1/3だと研究者は判断します。
 そうだとすると金倉寺が金倉上荘の1/3を領していたことになります。これは大きな財政的基盤を得たことになります。これが退転していた金倉寺の復興につながったのかもしれません。時期的には四国の南北朝の混乱を収拾した細川頼之が、寺社の保護を通じて、讃岐の政治的安定化を行っていた時期になります。同時期に善通寺も宥範によって再興が進められた時期と重なります。

 復興を遂げた14世紀後半頃の金倉寺について、次のように記します。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あります。金倉寺の周辺には数多くの別所(廻国勧進僧の拠点)や僧坊・末寺があったことがうかがえます。そこには夥しい聖や修験者がいたはずです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
中世の金倉寺が世のその後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、細川高国が香西氏に暗殺される永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。その後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、細川高国が香西氏に暗殺される永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍を維持できたようです。
それでは、この時期の金倉寺の運営は、どのように行われていたのでしょうか?
 金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院(後の大宝院)のようです。
 室町時代ころの法憧院の寺領について史料を見ておきましょう。
法幢院之講田壱段少  大坪
拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺                   法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  意訳変換しておくと
法幢院の講田壱段少について  大坪」
(良(吉)田郷石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が)納入する知行年貞米を毎年五石、十ケ年に渡って(渋谷殿)に納めることを契約する。もし、違約するようなことがあれば大坪助左衛門の屋敷と太郎兵衛屋敷の一段小を抵当に入れて、永代知行(譲渡)する。乃為己後支證状如件。
                金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  これは明応四年(1495)12月に、金倉寺の法瞳院の賃仁が書いた借金(米)証文です。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①金倉寺には、法瞳院という塔頭があったこと。
②法瞳院は、良田郷の石川に講田(領地)を持っていたこと
③石川には「大坪助左衛門屋敷」と「太郎兵衛屋敷」という名田がかつてはあったこと。
 
この法憧院の証文中にある「石川方」については、稲木地区の東部小学校の東側に石川という地名が残っています。
良田郷石川

良(吉)田郷に残る「石田」の地名(東部小学校の東側)
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は考えています。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとは名田「石川方」の農民の住居があったところかもしれません。文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返っています。ここでは法憧院という塔頭が寺領を持っていたことを押さえておきます。

善通寺寺領 鎌倉時代
鎌倉時代の善通寺領

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。
法憧院々領之事一町九段小 
①供僧二町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也 護摩供慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也 己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日 一乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
意訳変換しておくと
法憧院の院領二町九段小について
供僧管理下の土地は二町三段大で、これは風呂もとにあり、学頭田である。②護摩供養田は慶林房の抵当となっている三段六十歩、支具田は三百歩一段、ヨヒツキニンシ三段六十歩、上岡屋敷の二段、指坪の一段 以上合計で 五町四反余が法憧院の院領である。
永正六年(1509)8月  
一乗坊の先師良允馬の永代菩提寄進分 護摩供養 慶林坊三段半この内初二段半は六斗代支供田、ハ四斗五升也、岡之屋敷の二段中は屋根から南は大、東側の屋根の外に小ある。中屋根より北は一反合二反である

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院には、学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大あること
②の「護摩供養(田) 慶林坊」は、護摩供養の費用に充てられる供田は慶林房の手に渡っている
③渋谷に質入れされている講田があること、(先ほど見た抵当分)
④これらを併せると法憧院は、5町4段あまりの院領を持っていたこと
⑤現在は人手に渡っている護摩供田をのぞく一町九段あまりが所有地であること
  ここからは金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、「学頭田2町3段」があることで、それが裏付けられます。しかし、その所有権は金倉寺にあるのではなく、塔頭の法憧院領となっていることを押さえておきます。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。
 それでは法憧院領はどこにあったのでしょうか? それは先ほど見たように良田郷石川方周辺にあったと研究者は考えています。ここはもともとは、金倉寺領良田郷の一部でした。つまり金倉寺領を、僧坊の院主たちが分割してばらばらして所有していたことになります。その院主の中には○○入道や○○沙門を名乗る俗人がいたということになります。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。
 比較のために当時の善通寺の様子を見ておきましょう。
四国をまとめ上げた細川頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となり、上洛することになります。讃岐を離れる1ケ月前に、次のような「善通寺興行条々」(9ヶ条)を出しています。(意訳変換)
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
② 寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。
⑤ 今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。 
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦ 境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生、山林竹木を勝手に伐り取ることは先例通り禁止する
⑨ 徴税などのために守護使はこれまで通り寺領に入らせない。
多くの禁止事項が定められていますが。視座を逆転して見ると、これらの行為が当時は実態として行われていたことになります。実態があるから禁止されたのです。そういう目で各項目を見ておきます。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿=常住」していたことがうかがえます。これらを入道化した棟梁が率いていたのかもしれません。②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化した者がいたこと。⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたこと。
 以上からは、南北時代の善通寺には○○沙門や○○入道を名乗る俗人武士が軍事集団率いて武装化したまま常駐し、乗馬訓練を日常的に行う姿が見えてきます。西欧の教会史的に言うと「俗人による教会(寺院)支配」が行われていたということになります。これに対して「神のモノ(教会)は神(教皇)の手に、カエサル(皇帝)のモノはカエサルに!」という聖俗分離の主帳が現れるようになります。
 世俗化した善通寺に対して細川頼之が求めたことは、ある意味では「聖俗分離」であったようです。①②⑦は、○○入道の軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという守護の立場表明にもとれます。③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
 ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。れに対して守護としてやってきた細川氏は、それを改め「非武装化」しようとしていたということです。善通寺で進行中のことは、周囲の金倉寺や道隆寺でも起こっていたと考えるのが自然です。
  14世紀の中頃に、金倉寺は小松荘(琴平町)に地頭職を得ています。
寺院が地頭職を得るというのは不思議な気もします。しかし、僧坊の院主の中には、武装化した○○入道もいたとすれば、地頭職も充分に務められたことになります。
金倉寺文書の「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、地方の武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進も、そのような動きに沿うものかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。

金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       (香川?)元景(花押)
三嶋入道殿

これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者の元景です。
  元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の(香川)三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋入道のようです。西讃守護代の元景は、金倉寺の要望を無視して、従来どおりの段銭徴収を命じています。その指示を受けた又代官の三島入道は、金倉寺から段銭を徴収したのでしょう。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、戦国大名化していく天霧城の香川氏や、西長尾城主の長尾氏の押領を受け、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。こうして、善通寺や金倉寺の僧坊の経済基盤となっていた寺領は失われ、退転していくことになります。讃岐の寺社は「長宗我部元親の侵攻で焼き討ちされ退転」と寺伝に記すところが多いのですが、それ以前に戦国大名化していく香川氏によって、寺領を奪われ退転に向かっていたと私は考えています。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P
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  前回は金倉寺の北方にある道隆寺と賀茂神社の中世について次のようにまとめておきました。

中世道隆寺の歴史
 
 さらにこれを要約するなら賀茂神社と道隆寺は神仏混淆下では一体となって、鴨エリアの宗教センターと交易センターの役割を担っていたということです。その結果、「海に開けた寺社」として塩飽や庄内半島に至るエリアまでの数多くの寺社を末寺に組み込んでいたということになります。それでは内陸部の金倉寺はどうだったのでしょうか。今回は中世の金倉寺を見ていくことにします。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の多度郡葛原郷と那珂郡金蔵(かなくら)郷は隣同士の関係 

多度津・堀江・道隆寺・金蔵
葛原郷の北鴨と南鴨 その東が金倉郷
  前回に、葛原郷が京都の賀茂神社の荘園となったことをお話しました。葛原の東が金倉郷になります。
それがさらに分かれて、 中世には、上金倉(上流側)と下金倉に分かれます。さらに近代には次のように分かれていきます。
A 下金倉(中津)=上金倉村   + 金蔵寺村
B 上金倉    =丸亀市金倉町 + 善通寺金蔵寺町
 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条です。地図で見ると、この部分が多度郡の一条に突き出た形になっています。現在は金倉川は六条の東を流れていますが、条里制工事当初はその西側を流れていて那珂郡と多度郡の郡界であったことは以前にお話ししました。 ここでは金倉郷は現在の中津あたりまでが、その範囲に含まれていたことを押さえておきます。つまり、海に面したエリアが含まれていたということです。
  金倉寺は、内陸部にあって海からは隔たっているので海上交易とは関係のない寺院だと私は思っていました。ところが戦国前期頃に、金蔵寺が中讃地区の港町に次のような寄進依頼文書を出しています。
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
意訳変換しておくと
諸港へ 金倉寺の修造費用の寄進依頼  金蔵寺より
当寺は(大嵐で)大破したので修理が必要です。ついていは先例の通り寄進に協力していただければ幸いである。恐々謹言、なお先例の寄進額は以下の通りです。
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
ここでは金倉寺が大嵐で大破した際に、宇多津・多度津・堀江にそれぞれに先例に従って修造費負担を求めています。ここからは、金倉寺がこれらの港湾都市の住人の信仰対象となっていたことがうかがえます。ちなみに応永六年(1399)には、宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。こうしてみると金倉寺も中讃の港に信仰圏を持っていたことがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。ヒントになるのは、三豊平野の真ん中の本山寺の性格です。この寺の本尊は、牛頭天王で馬借たちなどの運輸労働者の信仰を集めた仏です。本山寺は仁尾や詫間・観音寺などの港の後背地で、その商業エリアは阿讃山脈を越えて阿波や土佐まで伸びていたことは以前にお話ししました。同じように、多度津・堀江・宇多津などの港への物資の集積地点の役割を、金倉寺は果たしていたのではないかと私は想像しています。金倉寺の背後の綾川沿いには、牛頭天王を祀る滝宮牛頭天王社(滝宮神社と、その別当寺の龍燈院が活発な布教活動を展開していたことは、以前にお話ししました。これらの動きと重なり会います。
 そういう目で金倉寺周辺の交通路を見てみましょう。
①堀江と金倉寺を結ぶのが、河川交通路としての金倉川
②もうひとつが堀江の道隆寺から加茂神社・葛原を経由して、金倉寺に至る遍路道(現町道)
③この遍路道が金倉寺の前を東西に通る中世の南海道に繋がる。
④金倉川沿いに金比羅への参拝道
こうして見ると金倉寺周辺は、丸亀平野の交通の要衝であり、人とモノと情報の集積地点だったことが分かります。本山寺がそうであったように、金倉寺も沿岸部の港へ後背地機能を果たしていたとしておきます。道隆寺、加茂神社、金倉寺は孤立したものではなく、ネットワークでで結びつけられていたと私は考えています。しかし、それを確かめる史料はありません。ちなみにこの史料で金倉寺が求めている寄付請求金額は、この時代の3つの港湾都市の規模や経済力を物語っているのかもしれません。
  もうひとつ金倉寺の信仰圏の広がりがうかがえる史料を見ておきましょう。
塩飽本島の正覚寺の大般若経です。
  写経は山野での修行と同じで、修験者たちは功徳として積極的に取り組みました。中でも大般若経は600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し奉納したのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます。例えば、東讃の大水主社や与田寺は、増吽を中心に多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことをお話ししました。

大般若経 正覚院第1巻奥書
上の巻第一には「文和四(1355)年十月十一日 始之」とあります。この巻から書写が開始されたようです。巻第572・573には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。
本島の正覚寺の大般若経で、金倉寺周辺で写経者と寺院が分かるものは次の通りです。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 (宇多津) 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 (宇多津) 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 (宇多津) 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮    (宇多津)      沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中(羽床) 
同郷大野村住(不明) 金剛佛子宥伎
⑦巻第五百七十二・五百七十三 讃岐國仲郡金倉庄 金蔵寺南大門大賓坊 信勢
当時、細川氏の政所が置かれた宇多津の僧侶が4名、その背後の羽床羽床郷の西迎寺坊中、同郷大野村住の僧侶の名前があります。第493・588を写経した金剛佛子宥海と、第571巻写経の金剛仏子宥蜜には「金剛」がつくので真言系密教僧(修験者)であり、名前に「宥」の一字がありますので同じ法脈関係にあったことがうかがえます。
 注目したいのは⑦の「金蔵寺南大門大賓(宝)坊 信勢」です。
大宝坊は金倉寺の塔頭のひとつで、
応永17年3月の金蔵寺文書に見える「大宝院」のようです。「願主」とあるので、金蔵寺の大賓坊信勢が発願者の第一候補だと研究者は考えています。信勢の呼びかけに応じて、多くの僧侶や修験者・聖たちが参加しています。それは宇多津から羽床にかけて、信勢のシンパがいたことになります。
  金倉寺が写経事業の中心であったことは、次のような変遷からも分かります。
①文和4年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻完成
②那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納
③約130年後の延徳三年(1491)に、道隆寺の僧が願主となって、大般若経全巻を折り畳み、巻物から旋風葉にスタイル変更
④永享7年(1435)に破損巻を、那珂郡杵原宝光寺(退転)の慶宥が写経補充
⑤慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶

大般若経 正覚院 下金倉
本島の正覚寺の大般若経 表紙見返し 
表紙見返しには次のように記されています。
「讃岐国金倉下村 惣蔵社御経 延徳三年(1491)六月二十二日」
ここからは金倉寺の呼びかけで写経された大般若経が保管されたのは、下金倉村の惣蔵社(宮)であったことが分かります。金倉下村は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社も今はありません。この神社は、金倉寺の末社であったようです。
 近年の各地の大般若経調査で明らかになったことは、明治の神仏分離以前は、大般若経は寺院ではなく、村社級の神社に保管されていたことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、金倉寺の発願によって写経された大般若経書写が、その末社の惣蔵社に奉納されたのも頷けます。こうして見ると、金倉寺の直接の信仰圏は下金倉村のあたりまで伸びていたことが分かります。
 それを補強するのが、北鴨・南鴨は葛原郷で多度郡、下金倉や上金倉は那珂郡に属していたことです。この郡境を境に、「道隆寺=賀茂神社」と「金倉寺=惣蔵社」は棲み分けていたことが考えられます。それが道隆寺の勢力が強くなって、金倉川以東にも伸びてきて、惣蔵社も勢力下におくようになります。惣蔵社は賀茂神社に吸収・合祀されます。その結果、惣蔵社の大般若経は不用となり、本島にもたらされたというストーリーが考えられます。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
正覚寺大般若経 第六百巻(延徳三年(1491)の奥書)    
ここには次のように記されています。

「讃州多度郡於道隆寺 宝積院 奉折如件

ここからは全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。これもある意味では、大事業なので「再興」とみなされ発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。
  道隆寺文書には永正8年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳3(1491)年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。

     以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金倉寺が願主となり、大般若経600巻が写経された。
②写経された大般若経は、金倉寺末社の那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納された。
③15世後半には、道隆寺が強勢になり金倉川東岸に進出し、下金倉の惣蔵社を末社化した。
④道隆寺院主は願主となって、惣蔵社の大般若経を「折り本」化した。
⑤その後、道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(宮)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

 金倉寺や道隆寺は中世には「談義所」「学問寺」として機能していたとされます。
多くの経典が写経されて収集され、それを求めて多くの廻国僧侶がやってきていたことが残された聖教類からも分かります。同時に大般若経の写経センターとしても機能していたことがうかがえます。これは、増吽の与田寺や水主神社と同じです。そして、その周辺には廻国の僧侶達が沢山いたようです。中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていました。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院のようです。次回は、この法憧院について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年
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坂出市の文化財保護協会の神谷神社見学会の後で、お話ししたことをアップしておきます。

中世の神谷神社1

白峯寺にある白峰寺古図です。白峰寺の中世の様子を江戸時代になって、洞林院が描かせたものとされています。そのため栄華が誇張されていて、事実を伝えるものではないと思われてきました。その評価大きく変わったのは最近のことです。発掘調査が行われた結果、三重塔が描かれている本堂横と別所跡から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えるようになっています。中世の神谷明神が置かれた環境を、この絵図から情報が読み取りながら見ていきたいと思います。最初に全体的な絵解きをしておきます。神谷神社がどこにあるか分かりますか?。

中世の白峰寺古図

 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと  海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れ落ちる。断崖の上に展開する伽藍が霊山としてデフォルメされています。①まず注目したいのは、白峯山です。ここには権現とあります。修験者たちが開いた霊山が権現と呼ばれます。②ここに別所があります。奥の院への入口あたりです。別所は、修験者や聖・僧兵たちの拠点となったところです。③ここが崇徳上皇陵です。中世には修験者の天狗信仰と結びつきます。④本堂と別所の間に、洞林院があります。それ以外にも多くの子院が描かれています。中世の白峰寺というのは、このような子院の連合体で運営されていました。④注目したいのは三重塔が3つ描かれています。神谷神社にも三重塔が描かれています。比叡山で云えば山上の大伽藍に対して、麓にいくつもの里の宗教施設をもっていました。中世の神谷明神も、白峰寺勢力を取り巻くサテライト寺院のひとつであったことを押さえておきます。見方を変えて云えば、ここに描かれている範囲が白峰寺の宗教的テリトリーであったとも考えられます。
神谷神社を拡大して見ていくことにします。

白峰寺古図の神谷明神
 
ここに「神谷明神」と書かれています。ここからは白峰寺の大門(現在の展望台)に向けて道が伸びています。神谷明神は白峰寺への入口でもあったことが分かります。
神谷の谷にいくつかの建物が描かれています。
①が一番奥の三重塔です。白峰寺の本堂横・別所にも三重塔は描かれていました。その存在が発掘調査で確かめれています。とすれば、ここにも三重塔があった可能性が高いと研究者は考えています。②が本堂でしょうか。しかし、妻入り社殿のようにも見えます。③が僧坊のようです。どちらにしても、ここからは中世には清瀧寺という神宮寺(別当寺)が神谷明神を管理していたという言い伝えが裏付けられます。ここで注目したいのが④の随身門です。これが随身門なら随身様がここにはいたはずです。
宝物庫には鎌倉時代作とされる随身立像があります。それを見ておきましょう。

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宝物庫前の随身像の説明版
神谷神社の随身さん

神谷神社の宝物庫の随身立像です。
 鎌倉時代中期の13世紀の作品とされ、全国でも記銘がある中では二番目に古い随身さんです。それを裏付けるかのように、次のような古風な要素を持ちます。
① 床几に坐る形式の随身像が多いが、立っている。
② 両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。様式化される前のタイプ。
③ かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。
④ これと同じ造りの随身さんが高屋神社にもある。
ここからは、随身さんや仏像などの職人集団が白峰寺の周辺にはいた可能性もうかがえます。また、この随身立像は、先ほどの絵図に描かれていた随身門に納められていたものかもしれません。また鎌倉時代の作とされる木造狛犬1対もあります。こうして見ると本堂が姿を現した13世紀初頭以後に、神谷明神が整備されていったことがうかがえます。この随身様の他にも、別当寺青竜寺の本尊とされる仏さまが伝わっています。

青竜寺本尊 阿弥陀如来立像

現在の青龍(立)の本尊「木造阿弥陀如来立像」(県文化)です。
ヒノキの寄木造、像高99cmで、胸部内側に墨書銘があって、「1270(文永7)年に僧長円が両親の極楽往生を願って造立した」とあります。とすると神谷神社本社が建立されて、約半世紀後の造られた阿弥陀仏になります。「讃岐国名勝図会」には、上図のように記します。これによるともともとは、神谷神社(五社明神)の別当寺清龍寺の本尊であったたものが、中世に寺が退転した後、現在地に下りて青竜寺の本尊として迎えられたようです。中世の別当寺の本尊が阿弥陀如来であったというのは興味深いところです。ここからはこの寺が阿弥陀浄土信仰の拠点として、高野聖などの念仏聖たちがいたことがうかがえます。
神谷神社には、中世の舞楽面が2つ伝えられています。

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神谷神社の舞楽面
神谷神社の舞楽面
 ひとつは抜頭面で、父親をかみ殺した猛獣と格闘し、勝利して喜ぶ様を演じた舞に使用されたものです。もうひとつは還城楽面(げんじょうらく)で、西域の胡人の姿に扮して朱の仮面をつけ、桴(ばち)を持ち、捕らえた蛇を食うさまを模した舞に使われるものです。ちなみに、讃岐で舞踊が奉納されていた記録が残るのは、善通寺と観音寺だけです。これらに比べると、各段に小規模な神谷明神に舞楽面が残されていることをどう考えればいいのでしょうか?
 それを解くヒントは、神谷集落に残る額(楽)屋敷という地名です。楽屋敷は、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。ここからは神谷集落の舞楽集団は、白峯寺の「楽所」として、白峯寺に舞楽を奉納していたことが考えられます。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さが見えて来ます。

神谷神社には、香西氏が「法楽連歌会」を神前で開いて奉納した記録があります。

神谷神社の香西氏連歌会

「神谷神社法楽連歌一巻」(神谷神社蔵)は、明応5年(1496)2月22日に神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。時代は応仁の乱の後の15世紀末で、この時期の香西氏は、管領細川政元の右腕として栄華の絶頂期にあった頃です。香西氏が率いる讃岐武士達が京都の政治動向を左右していたのです。
作者の香西元資は細川勝元の家臣で、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちに勧進して法楽連歌が行われたようです。連衆として、宗堅、宗高、元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
 神谷神社神前で開いた連歌会には、香西氏一族だけでなく、守護代の安富氏や有力武士や社僧・神官など29人が参加しています。明智光秀が本能寺の信長を襲う前にも連歌会を開いて、身内の団結と戦勝を願っています。 法楽連歌は、歌の内容如何にかかわらず、神仏に対する祈願を籠め、参加者の統合を保証するものでした。地縁・血縁等で結ばれた領主の連合=国人一揆は、公方や守護の圧力に対抗するために開かれたりもします。 
室町時代には連歌は武士の必須教養とされるようになります。
複数の者が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸で、コミュニテイ形成のツールでした。円滑な社会秩序の安定には価値観や情報の共有を図ることが不可欠です。連歌会は参加者同士の新たな人間関係を生み出します。連帯感や同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認し合う場でもありました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なこととされました。この連歌会を運営するにはプロの連歌師を京から呼ぶ必要がありますた。在京が長かった香西氏や安富氏に招かれて来讃する連歌師・猿楽師等がいたようです。彼らが逗留し活動拠点になったのが白峰寺だったのかもしれません。

連歌会を行うのは、自分が保護し、伽藍を整備した寺社が選ばれます。そういう意味からすると、神谷神社が香西氏の勢力下にあり、保護を受けていたことがうかがえます。また神谷明神は、讃岐武士団の団結を誓う場として機能していたことになります。それだけの規模設備があったのでしょう。香西氏は、一族や有力国衆を神谷神社の法楽連歌会に結集して、政治的・宗教的な人的ネットワークをより強固なものにしていたことを押さえておきます。

もうひとつ、神谷神社に残る中世的要素を見ておきましょう。鎌倉時代後期の層塔です。
神谷神社の層塔
           神谷神社の層塔と白峰寺十三重石塔
玄武岩ではなく凝灰岩の層塔なので、天霧産と思われます。これも別当寺の青竜寺に寄進されたのものでしょう。白峰寺十三石塔とよく似ています。もともとは十三重の塔だったのかも知れません。層塔を布教拡大のモニュメントとして使ったのが奈良の西大寺です。西大寺は天皇より各国の国分寺の再興を命じられ、瀬戸内海で活発な活動を展開します。讃岐国分寺再興や白峰寺に十三重塔が姿を現すのと同じ時期になります。これは律宗勢力伸張の痕跡とされます。そのような動きの中で、建立されたのがこの層塔ではないかと私は考えています。石造物にも、白峰寺のサテライト的な性格が見られることをここでは押さえておきます。
以上、中世の神谷明神を取り巻く環境をまとめておくと次の通りです。

中世の神谷明神と別当青竜寺

次回は近世の神谷神社について見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P
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坂出市の文化財協会の神谷神社本殿の修理保存見学会に行ってきました。

P1280461

最初に宮司の中尾格さんから今回の落雷被災の経過からクラウドファンデイング(CF)に至る経過について、次のようなお話しをうかがいました。
神谷神社 本殿2
          国宝 神谷神社 三間社流造 (1219年の墨書棟木あり)

神谷神社 屋根上部にあった箱棟
神谷神社 落雷した北側(左側)の千木
①2022年9月27日 正午頃に千木に落雷(避雷針なし)。千木を通じて屋根内部で火災発生し、風の影響か東側(右側)に火元が移動。そのため右側の方が激しく焼けている。

神谷神社 火災5

②消火施設は落雷のため機能せず。燃えているのが屋根内側のため放水しても効果なし。御神体を遷した後、檜皮葺屋根をはがして消火活動再開。
③消防士が消火活動を再開し、延焼を屋根部分に限定できた結果、16:30分頃鎮火
④屋根部分だけの被災にとどめることができたために、国宝指定解除にはならず。
④復興費用については、国宝なので国と県の補助金が下りるが、地元負担も1000万円を超える。

神谷神社 クラウドファン

⑤氏子140軒で年金生活者が多い現状では困難。そこで宮司の娘さんの提案でクラウドファンデイングを実施。
神谷神社 クラウドファティーグ

⑥最初は危ぶんでいたが、蓋を開けてみると開始して3ヶ月後には目標額に到達。結局、倍の2000万円が集まった。
神谷神社 工事計画日程
神谷神社本殿 工事計画 2025年夏の完成予定
⑦資金目処を得て、約1年後の2023年10月に工事開始。今年の秋の完成を目指している。
以上のようなお話しでした。
このあと参加者全員がヘルメットを被って工事現場に案内していただき見学しました。

案内していただく前に、神谷神社本殿がどうして国宝に指定されているかを見ておきましょう。

流れ造と神明造り


神社様式で最も古いのは神明造りです。伊勢神宮正殿が原形とされます。その特徴は、本を伏せたような切妻造(きりづまづくり)の屋根、屋根の端に飛び出た板・千木(ちぎ)、棟の上の丸太・鰹木(かつおぎ)などです。
 これに対して、新しく登場してくるのが流造りです。この特徴は、
正面側の屋根を長く伸ばした優美なな曲線美です。これはそれまでの直線的な外観の神明造と見た目に大きく異なる姿です。ここでは、流造りというのは、古代末から中世初頭に新しく登場してきた神社モデルであることを押さえておきます。それでは、代表的な三間社流造りの圓城寺新羅堂と神谷神社を比べてみなす。

神谷神社と圓城寺新羅堂

新羅善神堂(国宝)は、讃岐出身の円珍(智証大師)の創建した寺院です。その守護神が奉られているのが新羅堂で。両者はよく似ていていますが、相違点を挙げると次のような点です。

神谷神社の方が屋根の反りが強い。

②神谷神社は乱積み石垣の基壇の上に載っている。

③神谷神社は、扉口が真ん中だけで、脇間は板壁で閉鎖的である

④新羅堂は屋根がさらにのびて向背が付け加えられている。

以上からは、神谷神社の方がより古いタイプであると研究者は考えています。次に神谷神社の特徴を挙げておきます。

神谷神社の特色

ここからは、「古代様式 + 中世様式 + 仏教様式」が混じり合った建物で「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と研究者は評します。このように古いタイプの流造り社殿であることは、分かっていたのですが、国宝指定の決め手となったのは建築年代がわかる史料が見つかったことです。

神谷神社の墨書銘



 大正時代に行われた大改修の時に
、棟木に建築年代を記した上のような墨書銘が見つかったのです。

それを見てみると、
①まず「正一位
神谷大明神」とかかれています。ここからは中世は神谷神社でなく、神谷明神と呼ばれていたことが分かります。
②「健保(けんぽ)
7年2月10日に始之」とあるので、約800年前の1219年に、着工したことが分かります。建保7年は、その年の内に承久に代わります。後鳥羽上皇が承久の乱を起こす2年前のことです。施主は荘官であった刑部正長(さんみぎょうぶのすくね ながまさ)です。この物については、なにも分かりません。 当時は、古代綾氏が国府の在庁官人から武士団化する時期にあたります。そんな一族なのかも知れませんが手がかりはありません。 

神谷神社 本殿5
神谷神社本殿

 どちらにして、神谷神社本殿が約800年前に建てられた建物で、当時姿を現したばかりの流造り様式の原初的な位置にある建物であることが分かりました。これは、神社様式を考える上で、重要な建物になります。それが国宝に指定された決め手のようです。

神谷神社 落雷被災6


次に再建に向けたこれまでの動きを見ていくことにします。

まず足場が組まれ、覆屋が架けられ、次のような手順で作業は進められてきました。

神谷神社 改修手順
解体手順

P1280472
屋根の解体手順

神谷神社 桧皮葺屋根の解体4
檜皮葺屋根解体

神谷神社 桧皮葺屋根の解体5
檜皮葺の撤去

神谷神社 野垂木解体
野垂木解体 焦げていても仕える木材は出来るだけ残す

神谷神社 化粧裏板解体
化粧板解体

神谷神社 屋根解体終了
小屋組解体

神谷神社 部材検討
下ろした古材の保管と点検

私が興味があったのは、先ほど見た「建保(けんぽ)7年2月10日月始之」の年期の記された棟木です。

神谷神社 棟木墨書.3jpg
墨書銘の記された垂木
下ろされた棟木を見てみると、火災の煙で真っ黒になっています。ライトを当てて見ると・・・

神谷神社 棟木墨書.4jpg

浮かび上がってくる文字が見えるようです。神谷神社 棟木墨書.2jpg

大正時代の大改築の時の写真(右側)と比べて見ると「建保(けんぽ)7年2月10日月始之の最後の3文字だけがかすかに確認できたようです。この棟木も火災で真っ黒になりましたが、強度には問題ないので再建が進む本殿に使われていました。

P1280484

順調に工事は進んでいて、その様子を覆屋の中の2回に上がって身近に見ることができました。
貴重な機会を与えていただいたことに感謝。

神谷神社2
神谷神社本殿
そして本殿が私たちの前に一日も早く姿を見せてくれることを祈念。
今回の被災と復興をめぐる動きを見ながら私が思ったことを最後に記します。
神谷神社の起源は、この奥にある磐座(いわくら)である影向石(ようこうせき)への巨石信仰に始まるのかもしれません。それが阿野北平野の古代豪族綾氏に引き継がれ、ここに神社が創建されたのでしょう。。

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              神谷神社の磐座 影向石
綾氏は、讃岐で最大の古代豪族として国府の府中誘致などに力を発揮します。そして、他の郡司たちが律令制の解体の中で姿を消して行く中で、国府の在庁官人や武士団化してその統領として勢力を維持します。古代末から中世かけての阿野北平野の情勢を考える際に、綾氏一族を抜きにしては考えられません。800年前に神谷神社本殿を再建した庄司も綾氏につながる一族だったのではないかと私は考えています。そして、綾氏=讃岐藤原氏の一族である香西氏の勢力範囲に置かれるようになります。

神谷神社が受け継がれてきたのは・・・

そのような中で、神谷明神本殿は上図のような人たちによって、改修を重ねてきました。
そして今回の改修再建については、21世紀型の勧進活動=クラウドファンデイングによって実現したようにも思えます。担う人達がバトンタッチされながら、そのスタイルは違うかも知れませんが、この神社の本殿を未来に残したいという願いは同じではないかと思えてきました。中世の勧進聖達がこんな「勧進スタイル」を生み出した人達を驚きながら誉めてくれそうです。もし、崇徳上皇が天狗となって白峰寺から見ていたらこんな風に呟いたのではないでしょうか。
 天狗や雷神は私の配下の者達である。その者達が、この度は手違いで大きな迷惑と苦労をかけたことを詫びる。しかし、儂も越えられない試練は課さない。見事に21世紀型の勧進・結集(けつじゅう)で、困難を乗り越えたのは見事であった。以後も、天狗として天から見守っておるぞ・・・」
崇徳上皇と松山天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考資料
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】01プロローグ 工事内容紹介
https://youtu.be/rELeCq-v08Q
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】02解体作業状況
https://www.youtube.com/watch?v=O0Dxp1jr6-s
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まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
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 金剛寺(まんのう町長炭)の説明板には次のように記されています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。私が気になるのは、各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っていることです。ここからは坊を名乗る修験者たちが、数多くいたことがうかがえます。それでは修験者たちは、この地にどのようにして定着して行ったのでしょうか? 中世後半に姿を消した金剛寺には、それを物語る史料はありません。そこで、以前にお話した国東半島の例を参考に推測していきたいと思います。
やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。
            国東半島の天念寺と鬼会の里
国東半島に天念寺という寺院があります。
背後の無明橋と鬼会の里として有名です。この寺は、中世にはひとつの谷全体を境内地としていました。そのため長岩屋(天念寺)と呼ばれたようです。この寺が姿を見せるようになるプロセスを研究者は次のように考えています。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
①行場に適した岩壁や洞穴を持つ谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

「夷耶馬」にも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋があります。
古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源は長い年月、岩屋のまわりの森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山や、この長岩屋の住僧三人、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じようなプロセスで開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋エリアに住むことを許された62戸の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。
他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の様子が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
                鬼会の行われる身禊(みそぎ)神社と講堂

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)があります。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。ここからは、長岩屋は「宗教特区」だったことになります。国東の中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。このようなムラを「坊集落」と研究者は呼んでいます。

このように国東の特徴は、修験者が行場周辺を開発して定着したことです。
そのため修験者は、土地持ちの農民として生活を確保した上で、宗教者としての活動も続けることができました。別の視点で見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的環境を作り出してきた要因のひとつと研究者は考えています。どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
 別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。豊後灘の向こう側の伊予の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるような気配がします。しかし、今の私には、史料的に裏付けることはできません。
天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

以上、国東半島の天念寺の「坊集落」を見てきました。これをヒントに金剛院集落の成り立ち推測してみます。

金剛院集落=坊集落説

①古代に讃岐国府の管理下で、大川山の山腹に山林修行のために中村廃寺が建立された。
②山上の中村廃寺に対して、里に後方支援施設として金剛寺が開かれ、周辺山林が寄進された。
③廻国の山林修行者が金剛寺周辺に、周辺の山林を焼畑で開墾しながら定着し、坊を開いた。
④こうして金剛寺を中心に、いくつもの坊が囲む宗教的空間(寺社荘園)が現れた。
⑤金剛寺は、鎌倉時代には宗教荘園として独立性を保つことができたが、南北朝の動乱期を乗り切ることができずに姿を消した。
⑥具体的には、守護細川氏・長尾城主の長尾氏の保護が得られなかった(敵対勢力側についた?)
⑦古代後半から南北時代に、金光院集落からは多くの修験者たちを生む出す供給地であった。
⑧金剛寺が衰退した後も、大川山周辺は霊山として修験道の活動エリアであった。
こうして見てくると、旧琴南など地元寺院に残る「中村廃寺」の後継寺という由緒も、金剛寺とのつながりの中で生まれたと考えた方が自然なのではないかと思えてきます。また、旧琴南地区に山伏が登場する昔話が多く残っているのも、金剛寺の流れを汲む修験者の活動が背景があるからではないか。

金剛院集落 まんのう町
まんのう町金剛院集落(手前は十三重塔)
どちらにしても古代末から南北朝時代にかけて、まんのう町長炭の山間部には金剛寺というお寺があり、周囲にはいくつも坊を従えていたこと。そこは全国からの山林修行者がやってきて写経し経筒を埋める霊山でもあったこと、その規模は、白峯寺や弥谷寺にも匹敵した可能性があることとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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  金剛寺は中世まで遡ることの出来る寺院で、修験者の痕跡を色濃く残します。

金剛院集落と修験道
金剛院部落と修験道

現地の説明版に次のように記します。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
金剛院説明版
金剛寺前の説明版  
  説明板の要旨
金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。
要点を整理しておくと次の通りです。
①金剛寺の裏山の金華山は経塚が数多く埋められていること
②これを行ったのは中世の廻国の山林修行者(修験者・聖・六十六部たち)で、書経や行場であった。
③多くの僧侶(密教修行者)が各坊を構えて生活し、宗教的荘園を経済基盤に山林寺院があった。
④石造十三重塔は鎌倉時代中期のもので、修験者の行場であり、聖地であったことを伝える。

ここにも書かれているように金剛院地区は、仏教に関係した地名が多く残り、かつては大規模な寺院があったと語り継がれてきました。しかし 、金剛寺の由来を記した古文書がありません。目に見える痕跡は、門前の田んぼの中にポツンと立つ十三重の石塔(鎌定時代後期)だけでした。今回は、この石造五重塔に焦点を絞って見ていきたいと思います。テキストは以下の報告書です。
金剛院調査報告書2014
まず金剛寺の 地理的環境を見ておきましょう。
金剛院集落は、土器川右岸の高丸山 ・猫山 ・小 高見峰などに固まれ、西に開けた狭い盆地状の谷部にあります。金剛院地区周辺をめぐると気づくのは「阿弥陀越」や「法師越」といったいった仏教的な地名が数多く残っていることです。これらの峠道を通って、峠の北側の丸亀平野との往来が盛んに行われていたこと、そこに廻国の修験者や聖たちがやってきたこと、それらを受けいれる組織・集団がいたことがうかがえます。
イメージ 7
金華山と金剛寺

盆地の中央に金華山と呼ばれる標高約 207mのこんもりと盛り上がった小山(金華山)があります。この前に立つと何かしら手を合わせたくなるような雰囲気を感じます。そういう意味では金華山は、シンボル的で霊山とも呼べそうです。金華山を背負って南面して金剛寺は建っています。

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金剛寺の石造十三重の塔

 その金剛寺前の参道沿いに十三重塔はあります。参道の両側は、今は水田ですが、これは金華山南方の尾根を削平したものと研究者は考えています。そうだとすると、この塔は、境内の中にあったことになり、相当広い伽藍をもっていたことになります。塔身初重軸部より下は、今は土に埋もれています。しかし、笠を数えてみると十三ありません。今は十重の塔です。それがどうしてかは後ほど話すことにして先を急ぎます。
まんのう町周辺の古代から中世にかけての仏教関係遺跡を、報告書は次のように挙げています。

まんのう町の中世寺院一覧表

①白鳳・奈良期の古代寺院である弘安寺廃寺・佐岡寺跡
②平安時代の山林寺院である国指定史跡中寺廃寺跡
③平安時代後期から中世の 山林寺院である尾背廃寺跡
④平安時代後期の経塚群がある金剛寺
⑤弘法大師との関係が深いとされる満濃池
⑥高鉢山の氷室遺跡(修験者との関連)

これらの遺跡をつなぎ合わせていくと、次のような変遷が見えて来ます。
 白鳳・奈良期の古代寺院→ 平安時代の古代山林寺院→ 中世の山林寺院→ 経塚群

これらの宗教遺跡は約10kmの範囲内にあって、孤立したものではなくネットワークを結んで機能していた可能性があることは以前にお話ししました。しかし、文献史料がないためにその実態はよくわかりません。
十三重塔は、貴重な石造物史料ということになります。詳しく見ていくことにします。

金剛寺十三重塔9 
                  金剛寺十三重の塔 東西南北から

さきほどみたように、この十三重塔の一番上の十三重と十二重はありません。崩れ落ちたのでしょうか、金剛寺境内に別の塔の一部として今は使われています。
金剛寺十三重塔 13・12重 

金剛寺十三重塔 13・12重2 

上図のように上と下面に丸い穴が開けられています。上面の穴に相輪が設置されていたようです。他の塔身に比べ縦長です。ちなみに塔身11重は、今は行方不明のようです。
そうすると上から塔身の3つが欠け落ちているので、残された笠は十重になります。それを報告書は次のように記します。
①塔身初重から塔身 5重までは側面が揃うが 、塔身6重は上から見て反時計回りのねじれ 、塔身7~9重は時計回りのねじれがある
②塔身6~10重は南東方向へ若干傾く
③塔身は上層ほど風雨により侵食され、稜線が磨滅している。
④塔身12重は軸部と笠部がかなり磨耗しているため 、減衰率が低くなっている
次に塔身初重軸部を見ておきましょう。

金剛寺十三重塔 
金剛寺十三重塔4 
塔身初重軸部の東西南北

①上面と下面の中央に円筒状の突出部がある
②北側と東側 の側面に梵字が刻印されている 。

北側面の梵字は「アク」(不空成就如来)、東側面の梵字「ウン(阿閥如来)」です。そして研究者が注目するのは、上図のように梵字の方位が金剛界四仏の方位と合致することです。ここからは、この十三重塔は最初に建てられた本来の方位を向いていること、さらに云えば建立当初の位置に、今も建っていると研究者は推測します。ちなみに梵字が彫られているのは、北と東だけで、西側と南側にはありません。

それでは金剛寺十三重塔は、いつ・どこで作られたものなのでしょうか?
①凝灰岩製でできているので、石材産地は弥谷山 ・天霧山の凝灰岩 (天霧石)
②制作時期は塔身形状から仏母院古石塔(多度津町白方)と同時期
と研究者は考えています。
③の仏母院古石塔には石塔両側面に「施入八幡嘉暦元丙寅萼行」の銘があるので「嘉暦元丙寅 」 (1326年)と分かります。金剛寺十三重塔も同時代の鎌倉時代後半ということになります。

西白方にある仏母院にある石塔
             白方にある仏母院にある石塔「嘉暦元丙寅 」 (1326年)
ちなみに、これと前後するのが以前にお話しした白峰寺のふたつの十三重塔です。

P1150655
白峰寺の2つの十三重塔
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものとされています。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その代表作が金剛寺十三重塔ということになります。しかし、天霧石は凝灰岩のために、長い年月は持ちません。そのために上の笠3つが崩れ落ちたとしておきます。
天霧系石造物の発展2
 天霧山石造物の14世紀前半の発展

白峯寺石造物の製造元変遷
     
ちなみに中世に於いて五輪塔や層塔などの大型化の背景には、律宗西大寺の布教戦略があったと研究者は考えています。そうだとすると、讃岐国分寺復興などを担った西大寺の教線ルートが白峯寺や金剛寺に伸びていたという仮説も考えられます。
      
    周辺で同時代の天霧山石造物を探すと三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ大水上神社の燈籠があります。
大水上神社 灯籠
大水上神社の康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠

下図は白峰寺に近畿の石工が収めた燈籠です。これをモデルにして弥谷寺の石工がコピーしたものであることは以前にお話ししました。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峰寺頓證寺殿前の燈籠(近畿の石工集団制作

近畿産モデルを模造することで弥谷寺の石工達は技量を高め、市場を拡大させていたのが14世紀です。白峯寺に十三重塔が奉納された同時期に、まんのう町の山の中に運ばれ組み立てられたということになります。同時に、弥谷寺と金剛院の修験者集団のネットワークもうかがえます。弥谷寺の石工集団が周囲に石造物を提供するようになった時期を押さえておきます。

i弥谷寺石造物の時代区分表

白峯寺や金剛寺に十三重塔を提供したのは、第Ⅱ期にあたります。この時期に弥谷寺で起きた変化点を以前に次のように整理しました。

弥谷寺石造物 第Ⅱ期に起こったこと

第Ⅰ期は、磨崖に五輪塔が彫られていましたが立体的な五輪塔が登場してくるのが、第Ⅱ期になります。その背景には大きな政治情勢の変化がありました。それは鎌倉幕府の滅亡から足利幕府の成立で、それにともなって讃岐の支配者となった細川氏のもとで、多度津に香川氏がやってきたことです。香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、そこに五輪塔を造立するようになり、それが弥谷寺石工集団の発展の契機となります。そのような中で白峯寺や金剛寺にも弥谷寺産の十三重塔が奉納されます。ここでは金剛寺の十三重塔と、香川氏の登場が重なることを押さえておきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧石産石造物の分布図

天霧石製石造物はⅡ期になると瀬戸内海各地に運ばれて広域に流通するようになります。
かつては、これは豊島石産の石造物とされてきましたが、近年になって天霧石が使われていることが分かりました。弥谷寺境内の五輪塔需要だけでなく、外部からの注文を受けて数多くの石造物が弥谷寺境内で造られ、三野湾まで下ろされ、そこから船で瀬戸内海各地の港町の神社や寺院に運ばれて行ったのです。そのためにも弥谷寺境内で盛んに採石が行われたことが推測できます。ここからは弥谷寺には石工集団がいたことにが分かります。中世の石工集団と修験者たちは一心同体ともされます。中世の採石所があれば、近くには修験者集団の拠点があったと思えと、師匠からは教わりました。
また上の天霧山石造物の分布図は、「製品の販売市場エリア」というよりも、弥谷寺修験者たちの活動範囲と捉えることもできます。そのエリアの中に金剛寺も含まれていたこと。そして、白峰寺西塔に前後するように、弥谷寺の石工集団は金剛寺にも十三重塔を収めたことになります。
別の言い方をすれば、まんのう町周辺は天霧山の弥谷寺石工の市場エリアであったことがうかがえます。

最後に天霧山石造物のまんのう町への流入例を見ておきましょう。
弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
 この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に「四條一結衆(いっけつしゅう)并」
と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。


金剛寺4
金剛寺と十三重塔の位置関係

報告書は、金剛寺の十三重塔造成過程を次のようにまとめています。
①金剛寺が金華山南面に造営された際に、十三重塔付近の尾根も削平された
②続いて、石列と参道への盛士が行われ、金剛寺への参道が整備された。
③石列の一部を除去し盛士造成し、根石を設置した上に十三重塔が建てられた。
④それは天霧山石材を使ったもので弥谷寺の石工集団の手によるもので14世紀のことであった。
⑤天霧山で作られた石材がまんのう町まで運ばれ組み立てられた。
⑥天霧・弥谷寺と金剛院の山林修行者集団(修験者)とつながりがうかがえる。
⑦その後の根石の磨滅で、長期間根石が地上に露出していた
⑧この期間で十三重塔東西の平地は畑地化し、旧耕作土が堆積した。
⑨さらに、2回目の参道盛土が行われ、その際に人頭大・拳大の石が置かれた。
これは畑地化の過程で出てきた石を塔跡付近に集めてた結果である。
⑩さらに3回目の盛土が堆積し、水田化され耕作土が堆積する 。
以上からは、参道部分は何度も盛土が行われきましたが、参道と十三重塔は常に共存してきたようです。それは建立当初の位置に、この塔が今も建っているとから分かります。

香川県内の十三重塔はいくつかあるのですが、きちんと調査されているのは白峯寺の2基だけです。それに続いて調査されたのが金剛寺十三重塔になります。いろいろな塔が調査され、比較対照できるようになれば讃岐中世の石造物研究の発展に繋がります。その一歩がこの調査になるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金剛寺十三重塔調査報告書 まんのう町教育委員会
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白川琢磨氏 神祇信仰~神仏習合~神仏分離園技進行


白川琢磨先生に連続四回の比較宗教社会学のシリーズ講義をお願いしています。今回は、その2回目になります。仲多度や三豊の神仏習合から神仏分離に至る動きが聞けそうです。興味と時間のある方の参加をお待ちします。なお、会場が吉野公民館に変更になっていますのでご注意ください。
白川先生の著書です。
顕密のハビトゥス 神仏習合の宗教人類学的研究


英彦山の宗教民俗と文化資源

中世の白峯寺2

前回は、補陀落渡海信仰をもつ山林修験者によって開かれた白峰寺が修験者の拠点として成長していく姿を追いかけました。今回は、そこに崇徳上皇信仰が「接ぎ木」されていくプロセスを見ていくことにします。
崇徳上皇と後鳥羽上皇

崇徳院は「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 
滝川(たきがわ)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

の歌で有名な歌人です。しかし、政治的には不遇な運命を辿ります。弟の後白河上皇の権力争いに敗れて、讃岐に流され、国府のあった府中(坂出市)周辺で流配生活を送ります。寂しさに耐えられず、崇徳院は弟に向けて恩赦の願いを出しますが受けいれられません。そして、亡くなると弟の後白河天皇は、喪にも服せず、葬儀の指示も出していません。兄の崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。過去の人として、意識の外に追いやっていたようにも思えます。
 今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。中央からの指示がないので、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で白峰山に埋葬されたと坂出市史は記します。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なもので「薄葬」であったことを押さえておきます。このような扱いに対して、崇徳上皇はどのように「反撃」したのでしょうか。保元物語には次のように記されています。
天狗になった崇徳上皇

ここには、①崇徳院が「京に返してくれと、長い仏典を自分の血で書写し嘆願したこと ②それが適わないと、大魔王として日本国を滅ぼすと誓い ③生きながら天狗になったことが書かれています。保元物語のこの記述は後世の人達にインパクトを与えて、ここから数多くの物語や作品が生み出されることになります。崇徳院がどんな風に見られていたかを、今に残る史料で見ておきましょう。

崇徳上皇と松山天狗

左が怨霊となって天狗姿で飛び回り、祟りをふります崇徳上皇の姿です。これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。この舞台は白峯寺(松山)です。崇徳上皇と親しかった西行法師が廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。そこでは、崇徳院は多くの天狗達のボスとして描かれています。その下で、天狗達のとりまとめ役が相模坊という天狗頭です。
 謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説、相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がります。そして、天狗になるために修行する修験者も数多く現れます。室町幕府の将軍の中にも天狗道信仰に夢中になって、政務を顧みない人物も現れます。当時の「入道」と称した人々の多くは天狗信仰者でした。
 崇徳上皇に仕えた白峯の相模坊を見ておきましょう。

白峯寺の天狗・相模坊
相模坊

右が頓證寺前の相模坊像です。背中に羽根のある天狗として描かれています。左が現在の頓證寺殿権現堂の白峯大権現のお札です。修験者の守護神不動明王のようです。その前には二人の天狗が描かれています。ここにも天狗道の痕跡が見えます。これを別の表現で云うと、崇徳院が天狗集団のボスとなった、逆に言うと「天狗集団が崇徳上皇をかついだ」ということになります。天狗の中には、白峯寺の子院の主人達もいたはずです。これを別の史料で裏付けておきます。

相模坊・金剛坊 天狗経
            ①天狗経です。
これは今では近世に造られた偽書(偽の経典)とされています。ここには当時の全国の有名な大天狗とその拠点ががリストアップされています。京都の愛宕山の天狗をスタートに鞍馬・熊野・吉野・高野山・石鎚山の名前があります。讃岐では
最初の赤いマークが「黒眷属金毘羅坊 
2番目が「白峯相模坊」
3番目が「象頭山金剛坊」
が挙げられています。ここからは白峯山や象頭山は天狗信仰のメッカで、おおくの行者達が修行のために訪れていたことがうかがえます。金毘羅大権現の天狗の姿を見ておきましょう。

金毘羅大権現天狗説
           金毘羅大権現
大権現とはどんな姿だったのか? 「権現は、変化するもの」です。例えば金毘羅大権現は、高松藩に説明するときなど公的には、「クンピーラ(金毘羅)と称し、天部の仏と称しています。それでは、信者にはどう説明していたのでしょうか?
左図の上に「金毘羅大権現」と書かれています。これが金毘羅大権現の姿なのです。その下には天狗達が描かれています。右側には不道明のような姿で金毘羅大権現は描かれています。そして、その周りを囲むのは天狗達です。下には「別当金光院」とあります。金毘羅大権現社の別当金光院のことです。金光院は、このような掛け軸を、金毘羅行者と呼ばれた修験者たちに配布していたのです。まさに彼らは、天狗になるために修行していたのです。そのボスが白峯寺では崇徳上皇だったことになります。そのためか、幕末になると崇徳上皇の権化が金毘羅大権現だという説が、京都を中心に拡がっていたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際の金刀比羅宮により白峯寺乗っ取りの要因のひとつとされます。ここでは、天狗信仰で、白峰山と象頭山はつながっていたことを押さえておきます。
「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えは、幕末にはかなり広がっていたようです。
ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があります。皇国史観で歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は、近代以後は語られなくなります。

話をもどして、晩年の後白河上皇には不幸が重なります。

崇徳上皇の怨霊を怖れる後鳥羽上皇

これに対して、この禍が崇徳院の怨霊によるものと考えたブレーンたちは、次のような対策(怨霊封じ)を講じます。

崇徳上皇の怨霊慰安

 「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた墓は、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。⑤の結果、建てられるのが頓證寺です。

それでは、崇徳上皇慰霊のために建立された頓證寺というのは、どんな施設だったのでしょうか。
当時の建物は残っていませんが、初代高松藩主松平頼重によって、再建された建築物群が今に残っています。それを見ていくことにします。

P1150681

初の頓證寺の門前に戻ってきました。今度は門をくぐって中に入っていきます。
頓證寺1
頓證寺正面(白峯寺)
門をくぐると正面に頓證寺が見えてきます。背後の森が崇徳陵になります。もう少し近づいてみましょう。
頓證寺2
頓證寺
頓證寺と呼ばれていますがお寺らしく見えません。まるで神社の拝殿のように私には見えます。この建物の面白い所は、拝殿と本殿の関係です。まず、現在の姿を裏側の陵墓の方から見ておきましょう。

頓證寺の背後
頓證寺と本殿
陵墓方面から①が拝殿です。②が崇徳院の御影を祀っていた本殿です。ここに崇徳院の御影が祀られていましたが、今はありません。普通は、拝殿と本殿だけですが、ここには拝殿のうしろに仏式のお堂が2つあります。ここには何が祭られていたのでしょうか。③は本地堂(十一面観音堂) とも呼ばれています。ここに、先ほど見た十一面観音がありました。建築形式も仏堂スタイルです。権現堂は、先ほど見た天狗達の大ボスである相模坊が祀られていました。これを幕末の絵図で確認しておきます。

頓證寺 金毘羅参詣名所図会
崇徳上皇陵と頓證寺
 一番右側が拝殿です。そこから3本の渡り廊下が延びています。その先の右が観音堂 真ん中が 本殿 左が権現堂です。これは白峯寺の歴史が集約されてレイアウトされていると研究者は考えています。
①観音堂は、熊野行者達のもたらした観音信仰と山林修行
②本殿には崇徳院の御影
③権現堂は天狗の親玉相模坊
まさに、これは白峯寺の歴史です。それらが混淆した形を示しているように私には思えます。それでは、このレイアウトを考えたのはだれでしょうか、それはこの建物群の寄進者である松平頼重ということになります。

鎌倉時代の白峯寺がどのように、見られていたのかを資料で押さえておきます。
牟礼の洲崎寺には南海流浪記という鎌倉時代の讃岐のことを記した資料があります。これを書いたのは、道範という高野山の高僧です。当時の高野山での党派争いの責任を取らされて讃岐に流されて、8年ほど善通寺で生活しています。その時の様子を記録に残しています。ここには8年ぶりに帰国を許された際に、白峯寺に立ち寄ったことが記されています。そして次のように記します。

南海流浪記の白峯寺

 ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代には「崇徳上皇廟所としての白峯寺」という認識が人々の間に拡がっていたことが裏付けられます。  
崇徳上皇信仰が混淆してきた中世の白峯寺の性格をまとめておきます。
中世の白峯寺の姿

①もともとは熊野行者たちによって開かれた補陀落=観音信仰の霊地    ②そこに崇徳院の御霊が置かれ、中央の有力者の信仰を得るようになった。
③お堂や寺領が寄進され経済基盤が整えられた
④多くの子院を擁し、そこに念仏聖や熊野行者達が活動拠点とした。

今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史
  「羽床正明  崇徳上皇御廟とことひら53 H10年」
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金刀比羅宮を訴えた白峯寺

本日いただいたテーマは、大変重いもので私にこれに応える力量はありません。テーマの周辺部を彷徨することになるのを初めにお断りしておきます。さて、このテーマの舞台となるのが、白峯寺の頓證寺(とんしょうじ)殿です。門の奥に見えるのが頓證寺です。その奥に崇徳上皇の陵墓があります。ここでは、白峯寺の中には、頓證寺という別の寺があったことを押さえておきます。

白峯寺 謎解き

本日のテーマに迫るための「戦略チャート 第1」です。このテーマの謎解きのために、つぎのようなステップを踏んでいきたいと思います。 
①どうして、もともと白峯寺にあったお宝が、今は金刀比羅宮にあるのか。→ 明治の神仏分離の混乱期に 
②どうして白峯寺に沢山の宝物があったのか →
 崇徳上皇をともらう寺院として、天皇など有力者の信仰を集め、寄進物があつまってきたということです。
③どうして、崇徳上皇は白峯山に葬られたのか
 白峯山が山林修行者の霊山であり行場であったからでしょう。
④中世の白峯寺とはどんな寺院だったのでしょうか。
そこで、④→③→②→①のプロセスで見ていくことにします。

白峯寺古図3

まず見ていただくのが白峯寺古図です。これは中世の白峯寺の姿を近世になって描かせたものとされます。右下から見ていくと
① 綾川 ② 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと ③ふもとに高屋明神と紺谷明神が描かれています。このエリアまで白峯寺の勢力の及んでいたと主張しているようです。④海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れおち、断崖の上に展開する伽藍 ⑤崇徳上皇陵 本堂 いくつもの子院 三重塔 白峰山には権現とあります。
 書かれている内容については、洞林院が近世になって中世の栄華を誇張したものとされていました。だから事実を描いたものとは思われていませんでした。その評価大きく変わったのは最近のことです。そのきっかけとなったのは、四国遍路のユネスコ登録のために、各霊場での発掘発掘です。白峯寺でも発掘調査が行われた結果、この絵図に書かれている本堂横と別所から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えています。それを裏付ける資料を見ておきましょう。

白峯寺子房跡

白峯寺の測量調査も行われました。白峯寺境内の実測図 
①駐車場の ②本坊 ③崇徳上皇陵 ④頓證寺 ⑤本堂 
注目して欲しいのは、白い更地部分です。本堂の東側と川沿いにいくつものにならんでいます。これが中世の子院跡だというのです。ここからも中世には21の子院があったという文献史料が裏付けられます。もう少し詳しく白峯寺古図を見ておきましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 拡大 本堂周辺
①白峰山には「権現」とあります。「権現=修験者によって開かれた山」です。ここからはこの地が修験者にとって聖地であり、行場であったことが分かります。

白峯寺 別所5
白峰寺古図拡大 別所
②三重塔が見える所には「別所」とあります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」がある所です。現在の白峯寺の奥の院である毘沙門窟への分岐点で、ここに大門があったことになります。別所は、中世に全国を遍歴する修験者や聖などが拠点とした宗教施設です。ここからも数多くの山林修行者が白峯山にはいたことがうかがえます。

次に、中世の白峯寺の性格がうかがえる建物を見ておきましょう。
白峯寺は、中世末期に一時的に荒廃したのを、江戸時代になって初代高松藩主の松平頼重の保護を受けて再建が進められました。藩主の肝いりで建てられた頓證寺などは、当時の藩のお抱え宮大工が腕を振るって建てたものもので、いい仕事をしています。それが認められて、数年前に9棟が一括で重文に指定されました。そのなかで、中世の白峯寺を物語る建物を見ておきます。

白峯寺 阿弥陀堂
白峯寺阿弥陀堂
①本堂北側にある阿弥陀堂です。
宝形造りの小さな建物です。中には阿弥陀三尊、その後ろの壁に高さ16cmの木造阿弥陀如来像が千体並べられているので「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世には真言宗の高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていた時期があります。その時期には白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことが、この建物からはうかがえます。「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと研究者は考えています。

白峯寺行者堂

本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ行者堂です。
これも重文指定です。現在は閻魔などの十王が祀られています。
しかし、この建物は「行者堂」という名前からも分かるとおり、もともとは役行者を奉ったものです。役行者は、修験道の創始者とされ、修験者たちの信仰対象でもありました。修験者が活動した拠点には、その守護神である不動明王とともに、役行者がよく奉られています。これも、白峯寺が修験者の霊山であったことをしめしています。
今まで見てきた白峯寺の性格をまとめておきます。

中世の白峯寺の性格

次に白峯寺縁起で、本尊の由来を見ておきましょう。

白峯寺本尊由来2

 ここには次のようなことが記されています。
①五色台の海浜は、祈念・修行(行道)の修験者の行場であった。
②補陀落山から霊木が流れてきたこと。
③その霊木から千手観音を掘って、4つの寺に安置したこと。
④4つの寺院とは、根来寺・吉永寺(廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峯寺
この4つのお寺の本尊は同じ霊木が掘りだされものだというのです。共通の信仰理念をもつ宗教集団であったことがうかがえます。それでは、その本尊にお参りさせていただきます。

国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
①国分寺の観音さまです。讃岐で一番大きな観音さまで約5mのいわゆる「丈六」の千手観音立像で、平安時代後期の作とされます。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。奈良の長谷寺の観音さまと似ていると私は思っています。
②次が白峯寺の観音さまです。崇徳上皇の本地仏とされ、頓證寺の観音堂(本地堂)に安置されていました。③次は根来寺です。天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火で本尊が焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたと伝えられています。吉水寺も同じ霊木から掘りだされた観音さまが安置されたと縁起には書かれていました。
こうしてみると確かに3つの観音さまは、共通点があります。そして五色台周辺の四国霊場は、みな観音さまが本尊で観音信仰で結ばれていたことになります。ところがこれだけでは終わりません。四国霊場の屋島寺を見ておきましょう。

屋島・志度寺の本尊観音
屋島寺と志度寺の本尊
屋島寺も千手観音です。この観音さまは、平安時代前期のものとされ、県内でもとくに優れた平安彫刻とされています。
次の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。そして、志度寺の本尊も千手観音です。この観音さまの由来を、志度寺縁起7巻には次のように記します。

近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、・・・・24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音や まします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。

霊木が志度の浜にたどり着いた場面です。

志度寺縁起
志度寺縁起 霊木の漂着と本堂建立
流れ着いた霊木が観音さまに生まれ変わっている場面です。観音の登場を機に本堂が建立されています。寺の目の前が海で、背後には入江があります。砂州上に建立されたことが分かります。本尊は補陀落観音だと云っていることを押さえておきます。

最後に志度寺の末寺だったとも伝えられる長尾寺を見ておきましょう。近世の初めの澄禅の四国辺路日記には、次のように記します。

四国辺路日記 髙松観音霊場

こうしてみると、現在の坂出・高松地区の四国霊場は、中世には千手観音信仰で結ばれていたことになります。別の言い方をすると、観音信仰を持つ宗教者たちによって開かれ、その後もネットワークでこれらの7つの霊場は結ばれていたということです。それでは、これらの寺を開いたのは、どんな宗教者達なのでしょうか。それを解く鍵は、今見てきた千手観音さまにあります。
 千手観音信仰のメッカが熊野の那智の浜の補陀落山寺です。

補陀落渡海信仰と千手観音.2JPG

 ①補陀落信仰とは観音信仰のひとつです。②観音菩薩の住む浄土が補陀落山で、それは南の海の彼方にあるとされました。③これが日本に伝わると、熊野が「補陀落ー観音信仰」のメッカとなり、そこで熊野信仰と混淆します。こうして熊野行者達によって、各地に伝えられます。そして、足摺岬などで修行し、補陀落渡海するという行者が数多くあらわれます。それでは、補陀落信仰のメッカだった熊野の補陀落山寺のその本尊を見ておきましょう。

補陀落渡海信仰と千手観音

これが補陀落山寺の本尊です。
以上の補陀落・観音信仰の讃岐での広がりを跡づけておきます。
①熊野水軍の瀬戸内海進出とともに、船の安全を願う祈祷師として、瀬戸内海に進出 各地に霊山を開山・行場を開きます。
②その拠点になったのが、児島の新熊野(五流修験)です。児島を拠点に、小豆島や讃岐方面に布教エリアを拡げていきます。
③熊野行者達は、背中の背負子の中に千手観音さまを入れています。そして新しく行場や権現を開き。お堂を建立するとそこには背負ってきた観音さまを本尊としたと伝えられます。
④それが高松周辺の7つの観音霊場に成長し、七観音巡りがおこなわれていたことが見えて来ます。
こうしてみると、白峯寺や志度寺は孤立していたわけではないようです。「補陀落=観音信仰」のネットワークで結ばれていたことになります。それが後世になって高野聖達が「阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」をもたらします。そして、近世はじめには四国霊場札所へと変身・成長していくと研究者は考えています。
七つの行場で山林修行者は、どんな修業をおこなっていたのでしょうか? 
山林修行者の修行

①修業の「静」が禅定なら、「動」は「廻行・行道」です。神聖なる岩、神聖なる建物、神木の周りを一日中、何十ぺんも回ります。円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いています。「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになったようです。江戸時代には、ここで百日「行道」することが正式の行とされていました。
②行道と木食は併行して行われます。③そのためそのまま死んでいくこともあります。これが入定です。④そして修業が成就したとおもったらいよいよ観音浄土の補陀落めざして漕ぎ出していきます。これが補陀落渡海です。この痕跡が五色台や屋島の先端や志度寺には見られます。五色台の海の行場を見ておきましょう。

五色台 大崎の鼻

ここは五色台の先端の大崎の鼻から見える光景です。目の前に、大槌・小槌の瀬戸が広がります。補陀落渡海をめざす行者達の行場に相応しい所です。ここから見えるのが大槌と小槌島で、この間の瀬戸は古代から知られた場所でした。大槌・小槌は海底世界への入口だというのです。以前にお話しした神櫛王の悪魚退治伝説の舞台もここでした。瀬戸の船乗り達にとっては、ランドマークタワーで名所だったようです。そこに突き出たようにのびるのが大崎の鼻。中世の人々で知らないものはない。ここと白峰山の稚児の瀧を往復するのが小辺路だったのかもしれません。そこに全国から多くの廻国行者や聖達が集まってくる。その一大拠点が白峯山の別院であり、多くの子院であったということになります。これをまとめておくと、古代から中世の白峰寺は、次のような性格を持った霊山だったことになります。

中世の白峯寺2

こういう霊山だったから崇徳院は、白峯山に葬られたとしておきます。ここまでが今日の第一ステップです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音   四国へんろの歴史15P」
「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」
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 「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」とある人から言われて快晴の秋空の下、原付バイクを江畑の登山口めざして走らせました。グーグルマップで「江畑道駐車場」と検索すると出てくる駐車場が中寺廃寺への登山口になります。

中寺廃寺 江畑登山口HPT
中寺廃寺 江畑登山口

すぐに尾根にとりつきます。しばらくは急勾配が続きますが、この道はもともとは江畑から大川山への参拝道でもあり、徳島側の大平集落を経て阿波との交易路でもあった道です。さらに旧満濃町と仲南町の町境でもあった旧街道で、歴史を経た道は歩きやすい、しっかりとした道でハイキングにはもってこいです。しかも、迷い込み易い分岐には標識がつけられているので安心して歩けます。

中寺廃寺 江畑道
江畑道と柞木道の合流点
 傾きが緩やかになると標高700㍍付近です。気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れ、さらに進むと左手から柞野(くにぎの)道との合流点と出会います。最後の階段を登ると展望台です。ここからの展望は素晴らしい。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 
説明板に「讃岐山脈随一の展望台」と書かれています。確かに180度以上のワイドな展望が広がります。象頭山を枕に満濃池がゆったりと横たわる姿。その彼方には荘内半島や燧灘に浮かぶ伊吹島。そして丸亀平野には神がなびく山である飯野山。1時間弱の山道を頑張って登ってきたことへの天からのご褒美かもしれません。

中寺廃寺からの満濃池
中寺廃寺展望台からの満濃池
 東屋で、この絶景を独り占めしながら昼食。その後は中寺廃寺跡の散策です。この辺りは、「中寺」という地名が残り大川七坊といわれる寺院が山中にあったと伝えられてきました。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、長らく幻の寺院だったのです。それが発掘調査の結果、展望台の周辺から仏堂、僧坊、塔などの遺構が出てきました。現在では「仏・祈り・願」の3つのゾーンを遊歩道で結び、山上の文化公園として整備されています。

中寺廃寺跡地図1
 中寺廃寺は3つのゾーンに分かれている
まずは「祈り」ゾーンへと向かいましょう。
ここには割拝殿と小規模な僧の住居跡があったようです。

中寺廃寺からの大川神社
割拝殿跡から見上げる大川権現(大川山)
僧侶達は、ここに寝起きして聖なる大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたのでしょう。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中では重なってきました。

大川山 中寺廃寺割拝殿
割拝殿と小規模な僧の住居跡

 松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かいます。
ここには、仏堂と塔があったようです。遺構保護のため、埋め戻して元の礎石によく似た石で礎石の位置が示されています。その礎石に腰掛けて、千年前のこの山中に建っていた塔をイメージしようとしました。がなかなか想像できません。どちらにしても、この寺は平安期においては讃岐においては、有力な山岳寺院でした。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔
 最後に訪れたのが避難所兼お手洗い。なんとバイオトイレです。まんのう町では、初お目見えではないでしょうか。紅葉の季節、落葉の絨毯を踏みしめての中寺廃寺参拝は如何ですか?
まんのう町報2018年12月原稿分
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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(詳細版)




尾背寺跡

  昔から気になる廃寺があります。本目の尾背寺です。

尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

この寺の「発掘調査書」を要約すると、次のようになります。

①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で
②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺
③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地
④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
などから寺域はかなり広く、多くの山岳修行者たちが拠点とする寺院だったようです。讃岐で作られたものではない土器や高価な白磁なども出ててくるので、廻国の修験者や聖の流入もあったようです。

尾背寺 白磁四耳壷
白磁四耳壺(尾背寺出土)

 高野山の高僧道範が讃岐流刑中に著した『南海流浪記』(1248)には、次のように記されています。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記の尾背寺の部分

「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」

ここからはこの寺が善通寺の「森林管理センター」であると同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。本尊は善通寺と同じ薬師如来です。薬師如来は熊野行者の信仰する仏でもありました。13世紀半の尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

  近年、尾野寺のことが萩原寺(大野原町)に残る文書に書かれているのが明らかになりました。
尾背寺文書
萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法
例えば萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法は、文保元年(1317)に尾背寺下坊で書写されたと記されています。それが萩原寺の聖教として保管されていました。ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。
②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
こうして見ると尾背寺は山の中に孤立していたわけでなかったようです。大川山の中寺廃寺や炭所の金剛院とも結びついた山岳寺院ネットワークを構成していたことが考えられます。そして、これらの寺は阿波との交易の中継基地的な役割も果たしていたと私は考えています。

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前回は曼荼羅寺が、11世紀後半に廻国の山林修験者たちの勧進活動によって復興・中興されたことを見てきました。その中で勧進聖達が「大師聖霊の御助成人」という自覚と指命をもって勧進活動に取り組んでいる姿が見えてきました。これは別の言い方をすると、「弘法大師信仰をもった勧進僧達による寺院復興」ということになります。それは現在の四国霊場に「弘法大師信仰」が接ぎ木される先例として捉えることができます。そんな思惑で、弘法大師の伝記『行状集記』に載せられている四国の3つの寺、讃岐の善通寺・曼荼羅寺と阿波の太龍寺、土佐室戸の金剛頂寺の11世紀の状況を見ていくことにします。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」です。
この3つの寺に共通することとして、次の2点が指摘できます。
①弘法大師の建立という縁起をもっていること
②東寺の末寺であったこと
まず土佐室戸の金剛頂寺です。
室戸は、空海の口の中に光が飛び込んで来たことで有名な行場です。三教指帰にも空海は記しているので初期修行地としては文句のつけようがない場所です。この室戸岬の西側の行当岬に、空海によって建立されたのが金剛頂寺であることは以前にお話ししました。

DSC04521
      金剛定(頂)寺に現れた魔物を退治する空海

その金剛定寺も11世紀になると、地方豪族の圧迫を受けるようになります。1070(延久二)年に、土佐国奈半庄の庄司が寺領を押領します。それを東寺に訴え出た解案には、次のように記されています。
右、謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、 智弘和尚真言法界練行之砌天人遊之処、 明星来影之嶺也、因茲戴大師手造立薬師仏像安二置件嶺(中略)
是以始自国至迂庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠也、乃任各施本意、備以件地利、備仏聖燈油充堂舎修理 中略……、漸経数百歳也、而世及末代 ……、修理山川田畠等被押妨領  、茲往僧等、以去永承六年十二月十三日相副本公験注子細旨、訴申本寺随本寺奏聞 公家去天喜元年二月十三日停二止他妨
意訳変換しておくと
 謹しんで旧記を見ると、当寺は修行中の弘法大師が明星のもとで初めて悟りを開いた地とされている。智弘和尚も真言法界の修行の祭には天人が遊んだともされる明星来影の聖地であるとされる。それにちなんで、弘法大師の手造りの薬師如来像を安置された。(中略)
当寺は土佐ばかりでなく、広く全国の人々からも、仏法霊験の地として知れ渡っている。各所から山川田畠が寄進され、人々の願いを受けて、伽藍を整備し、聖たちは燈油を備え、堂舎の修理を行ってきた。 中略
それが数百年の長きに渡って守られ、末代まで続けられ……、(ところが)修理のための寺領田畠が押領された。そこで住僧たちは相談して、永承六(1051)年十二月十三日に、子細を東寺へ伝え、公験を差し出した。詳しくはここに述べた通りである。本寺の願いを聞き届けられるよう願い上げる。 公家去天喜元年二月十三日停止他妨
ここからは次のようなことが分かります。
①最初の縁起伝説は、東寺長者の書いた『行状集記』とほぼ同じ内容であること。(これが旧記のこと?)
②智弘和尚の伝説からは、金剛頂寺が修行場(別院)のような寺院であったこと
③そのため廻国の修行者がやってきて、室戸岬との行道修行の拠点施設となっていたこと
④金剛頂寺の寺領は、さまざまな人々から寄進された小規模な田畠の集まりであったこと。
⑥金剛頂寺が、庄司からの圧迫を防ぐために、東寺に寺地の公験を差出したのは、1051(永承六)年のこと

公験とは?

全体としては、「空海の初期修行地」という特性をバックに、東寺に向かって「何とかしてくれ」という感じが伝わっています。
①からは、これを書いた金剛頂寺の僧侶は、東寺長者の書いた『行状集記』を呼んでいることが裏付けられます。①②からは、室戸という有名な修行地をもつ金剛頂寺には、全国から山林修行者がやってきていたこと。しかし、寺領は狭くて経済基盤が弱かったことが④からはうかがえます。『行状集記』の金剛頂寺の伝説には、有力な信者がいないために、沖を往来する船舶にたいして「乞食行」が公認されていたという話が載せられていて、経済基盤の弱さを裏付けます。⑥の公験を差し出すと云うことは「末寺化=荘園化」を意味します。
ところが金剛頂寺では、これ以後は寺領が着実に増えていきます。その背景には、当時四国でもさかんになってきた弘法大師信仰が追い風となったと研究者は考えています。それが寺領・寺勢の発展をもたらしたというのです。それは後で見ることにして・・・。
4大龍寺16
太龍寺
次に、阿波国太龍寺を見ておきましょう。
1103(康和五)年8月16日の太龍寺の所領注進には、次のように記されています。
抑当山起、弘法大師之初行霊山也、……、於東寺別院既以数百歳、敢無他妨哉、 兼又勤仕本寺役耳、

意訳変換しておくと
そもそも当寺は、弘法大師の初修行地の霊山で・・東寺の別院として数百年の年月を経ている

大瀧寺も『行状集記』の「弘法大師之初行霊山也」以下の記述を、縁起に「引用」しています。この寺ももともとは、行場にやってきた山林修験者たちが宿泊する「草庵」から出発して、寺に発展してきたようです。
大瀧寺は、阿波国那賀郡加茂村の山の中にあります。
寺の周辺を寺域として、広い山域を占有していたことようで、注進文書では寺域内の荒野開発の承認を求めています。そして開発地を含む寺領の免租(本寺役のみの勤任)を、本寺の東寺にたいして要請しています。ここでも、それまでの庵や坊から寺に脱皮していくときに、東寺に頼っています。

 前回見た讃岐の曼荼羅寺と、今見てきた阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の3つの寺は、「空海の初期修行地」とされ、そこに庵や坊が誕生していきます。そのためもともとの寺の規模は小さく、寺領も寺の周りを開墾した田畑と、わずかな寄進だけでした。それが寺領拡大していくのは、11世紀後半になってからで、その際に東寺の末寺となることを選んでいます。末寺になるというのは、経済的な視点で見ると本寺の荘園になるとも云えます。そして、本寺の東寺に対して、なにがしらの本務を担うことになります。
           
東寺宝蔵焼亡日記
          東寺宝蔵焼亡日記(右から6行目に「讃岐国善通寺公験」)

東寺百合文書の中に『東寺宝蔵焼亡日記』があります。

この中の北宝蔵納置焼失物等という項に「諸国末寺公験丼荘々公験等」があります。これは長保2(1000)年の火災で焼けた東寺宝蔵の寺宝目録です。これによると11月25日夜、東寺の北郷から火の手が上がり南北両宝蔵が類焼します。南宝蔵に納められていた灌頂会の道具類は取り出されて焼失を免れましたが、北宝蔵の仏具類のほか文書類が焼失しました。焼失した文書の中に讃岐国善通寺などの「諸国末寺公験并庄庄公験等」があったようです。
ここからは次のようなことが分かります。
①平安時代の東寺は、重要な道具類や文書・記録類は宝蔵に保管されていたこと
②讃岐国善通寺が東寺に公験を提出していたこと。
③阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の公験はないこと。
つまり、善通寺はこの時点で東寺の末寺になっていたことが、太龍寺と金剛頂寺は末寺ではなかったことになります。両寺は縁起などには古くから東寺の末寺・別院であることを自称していました。しかし、本山東寺には、その記録がないということです。これは公験を預けるような本末関係にまでには、なってなかったことになります。金剛頂寺や大瀧寺が、東寺への本末関係を自ら積極的にのぞむようになるのは、11世紀後半になってからのようです。その背景として、弘法大師信仰の地方への拡大・浸透があったと研究者は考えています。
「寺領や寺勢の拡大のためには、人々の間に拡がってきた弘法大師信仰を利用するのが得策だ。そのためには、真言宗の総本山の東寺の末寺となった方が何かとやりやすい」と考えるようになってからだとしておきます。その際に、本末関係の縁結び役を果たしたのが弘法大師関連の伝説だったというのです。そのような視点で曼荼羅寺の場合を見ていくことにします。
曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。


これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。
 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、さきほど見たように公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったことが考えられます。
 
 曼茶羅寺はもともとは、吉原郷を拠点とする豪族の氏寺だったと私は考えています。その根拠を以下の図で簡単に述べておきます。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

上の青銅器の出土の集中から旧練兵場遺跡がその中心で、ここに善通寺王国があったと研究者は考えています。しかし、その周辺を見ると善通寺とは別の勢力が我拝師山の麓の吉原エリアにはいたことがうかがえます。
青龍古墳1
青龍古墳(吉原エリアの豪族の古墳)

さらに、古墳時代になっても吉原エリアの豪族は、青龍古墳を築いて、一時的には善通寺エリアの勢力を圧倒する勢いを見せます。古墳時代後期になって、善通寺勢力は横穴式古墳の前方後円墳・王墓山や菊塚を築きますが、吉原エリアでも巨石墳の大塚池古墳を築造する力を保持しています。この勢力が律令国家になっても郡司に準ずる地方豪族として勢力を保持し続けた可能性はあります。そうすれば自分の氏寺を吉原に築いたことは充分に考えられると思います。その豪族が氏寺として建立したのが「曼荼羅寺」の最初の形ではなかったのかという説です。「原曼荼羅寺=吉原氏の氏寺説」としておきます。

青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷
 弥生・古墳時代を通じて、吉原エリアは、善通寺勢力とは別の勢力がいたこと、その勢力が氏寺として建立したのが曼荼羅寺の原型という説になります。律令体制の解体と共に、吉原を基盤とする豪族が没落すると、その氏寺も退転します。地方の豪族の氏寺の歩む道です。しかし、曼荼羅寺が違っていたのは、背後に我拝師山を盟主とする霊山(修行地)を、持っていたことです。これは弘法大師信仰の高まりととともに、空海幼年期の行場とされ、山林修行者にとっては聖地とされていきます。ある意味では、先ほど見た土佐国金剛定(頂)寺、阿波国大瀧(龍)寺と同じように廻国の聖達から見られたのかも知れません。
 曼荼羅寺は、前回見たように11世紀後半には退転していました。それを復興させたのは廻国の山林修行者だったことはお話ししました。そういう意味では11世紀半ばというのは、曼荼羅寺にとっては、地方豪族の氏寺から山林修行者の拠点への転換期だったと云えるのかもしれません。以上をまとめておくと
        
曼荼羅寺の古代変遷

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」
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行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

曼荼羅寺 第三巻所収画像000007
曼荼羅寺(金毘羅参詣名所図会 1847年)

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。曼荼羅寺のことが史料に出てくるのは11世紀以降に書かれた空海の伝記の中です。まず、それから見ていくことにします。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。
同年成立の「弘法人師御伝」
「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

ここでは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたと記されています。また11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。

  1118(元永元)年の「高野大師御広伝」

「讃岐国、建立善通寺曼荼羅寺両寺、止住練行、尤聖亦多、有塩峯」「善通曼荼羅両寺白檀薬師如来像、(中略)。手所操庁斧也」

意訳変換しておくと

「空海は、議岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺を建立した。ここには行場(塩峰)があり、集まってくる聖も多い。空海はそこに留まり修行を行った。善通・曼荼羅両寺の本尊は白檀薬師如来像で、  これは空海が自ら手斧で掘ったものである。」

1234(文暦元)年の『弘伝略頒抄』

讃岐国善通寺・曼荼羅寺、此両寺、先祖氏寺、又曼荼羅寺、善通寺、大師建」

これらを見ると時代を経るに従って、記述量が増えていくことが見て取れます。後世の人の思惑で、いろいろなことが付け加えられていきます。それが後の弘法大師伝説へとつながっていくようです。研究者が注目するのは、これらの記録の中に出てくる「善通・曼荼羅寺両寺」という表記です。ふたつの寺が合わせてひとつのように取り上げられています。「空海ゆかりの寺院」というだけではない理由があるようです。この過程では、同時に曼荼羅寺の再建・中興が進んでいたようです。それを見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号」、H15」です。

一円保絵図の旧練兵場遺跡
善通寺一円保図
先ほど見たように、もともと善通寺と曼荼羅寺はべつべつの寺でした。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
西岡虎之助氏は「土地荘園化の過程における国免地の性能」のむすびで曼荼羅寺について次のように記します。

「東寺派遣の別当の文献上の初見は、延久四年(1072)」
「両寺所司の同じく文献上の所見は天永三年(1112)である」
「少なくも永久年間(1113~18)ごろには、両寺は組織的結合体をなすにいたった」

以上を補足してまとめておくと
① 初期における東寺の支配形態は、個別的で、両寺が単独にそれぞれ東寺に属していた。
② 12世紀前半に「東寺の一所領(荘園化)」になりつつあった。
③「次期」においては、東寺の住僧が別当として派遣され、 東寺が両寺の寺務を握るようになった。
④その結果、両寺は組織的に一体化したものとして捉えられるようになった。
こうして「善通・曼荼羅羅両寺」と東寺文書は表記するようになったとします。ここでは12世紀初めに、善通寺と曼荼羅寺が東寺によって末寺化(荘園化)されたことを押さえておきます。そのため末寺化過程の文書が東寺に数多く残ることになったようです。

東寺百合文書
東寺百合文書

 私にとっと興味があるのは、この時期に行われた曼荼羅寺の再建活動です。それがどのように進められたかに焦点を絞って見ていくことにします。

曼荼羅寺文書
東寺百合文書の中の曼荼羅寺関係文書一覧
曼荼羅寺再建は、だれが、どのような方法で行ったのか?
その鍵を解く人物が「善芳」です。東寺の百合文書の中には、1062(康平5)年4月から1069年まで20点余りの文書の中に善芳が登場します。「善芳」とは何者なのでしょうか?
文書の中の自称は「曼荼羅寺住僧善芳」「曼荼羅寺修理僧善芳」「修行僧善芳」などと名乗っています。一方、国衙(留守所)では、彼のことを「寺修理上人」「修理上人」「企修造聖人」と呼んでいます。
   善芳の「敬白」の文書(番号18)は、次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」、
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺伽藍に滞在しました。
ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部が破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
この退転ぶりに、善芳は「毎奉拝雨露難留落涙、毎思不安心肝」(参拝毎に涙を流し、何とかならぬものか)」と自問します。そこで善芳は国司に「勁進(勧進)」して、その協力をとりつけ「奉加八木(用材寄進)」を得て、「罷渡安芸日、交易材木(安芸国に渡って、材木を買付)」て、「講堂一宇」の改修造建立を果たします。それだけにとどまらず、さらに「大師御初修施坂寺三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」を行っています。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動ということになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①善芳が各地を遍歴する廻国の修験僧であったこと。
②善芳が五岳・我拝師山の行場修行のために、曼荼羅寺周辺に滞在していたこと
③古代に建立された曼荼羅寺が荒廃しているのを見て復興再建を勧進活動で行ったこと
④そのために讃岐国司を説得して建設に必要な用材費の寄進を受けたこと
⑤安芸国に赴いて、用材や大工確保を行ったこと
⑥さらにのために、「大師御初修施坂寺」に「三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」も行ったこと。
 つまり11世紀に退転していた曼荼羅寺の復興活動を行ったのは善芳ということになります。それだけでなく我拝師山の行場近くの施坂寺にお堂と如意堂を建立したとします。施坂寺は、現在の出釈迦寺あたりとされているようですが、私にはよく分かりません
 彼は、廻国の山林修行僧だったことを押さえておきます。正式の僧侶ではないのです。
一円保絵図 中央部
善通寺一円保絵図(拡大) 我拝師山ふもとに曼荼羅寺が見える

この他にも、次のような修験者や聖がいたことが記されています。

件寺家辺尤縁聖人建奇宿住給、‥…、為宿住諸僧等 御依故不候、 住不給事、……、 大師聖霊之御助成人并仏弟子……
 
意訳変換しておくと

曼荼羅寺の近辺には無縁聖人(勧進聖)たちが仮の住まいを建てて生活しています。宿住の諸僧は、着るものも、住む所にもこだわらず、……、 ただただ、弘法大師の聖霊地の建設のために活動した仏弟子であります。

ここからも曼荼羅寺の勧進活動が「大師聖霊の御助成人」といわれるような廻国の山林修行僧たちによって担われていたことが裏付けられます。そして彼らを結びつけ、まとめあげた力(きずな)が、弘法大師信仰だったと研究者は考えているようです。彼らは先ほど見たように、国衙や東寺からは「修理聖人」と呼ばれる下級僧侶や聖・修験者たちでした。
 以上からは全国廻国の修験者たちが、各地の霊山にやってきて修行を行いながら、退転してた寺院を復興していく姿が見えてきます。同時に、彼らの精神的原動力のひとつが「弘法大師聖霊の御助成人」という自覚と誇りだったようです。 
 この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
弘法大師信仰と勧進聖

 彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
修復財源として寺周辺の田畠の開発も始め、寺領の拡大をもたらします。これに対して東寺は、復興活動を支援するのではなく、新たな田地へからの富の確保を優先します。善芳は東寺の「本寺優先策」に抵抗して、文書による請願行動を始めます。善芳のたたかいは、1062(康平二)年にはじまり1069年の修理終了によって終わったかにみえます。ところが、東寺は善通寺別当に延奥を派遣します。新たにやってきた別当は、善通寺だけでなく曼荼羅寺からの収奪をおこなうようになります。こうして今度は善通寺をもまきこんだ紛争状態へと突入していうことになります。東寺に残る善芳の文書は、この闘いの記録だとも云えるようです。この辺りは、また別の機会にお話しします。
善芳の次に登場してくる善範です。
善範も善芳とともに、曼荼羅寺の勧進活動に参加していた僧侶のようです。1071(延久二・四)年の文書の差出人として、善範が初めて登場します。番号31文書には、次のように自分のことを記します。
右、善範為仏法修行、自生所鎮西出家入道シテ年来之間、五畿七道之間、交山林跡 而以先年之比 讃州至来、有事縁 大師之御建立道場参詣、大師入滅之後、雖経多歳 依無修理破壊、動為風雨仏像朽損、乃修行留自始康平元年乍勧進天……

意訳変換しておくと
私(善範)は仏法修行者で、生まれの鎮西で出家し、長く五畿七道の山林を廻国して修行を積んできました。先年に讃岐にやって来て縁あって、弘法大師建立の道場である曼荼羅寺を参詣しました。ところが大師入滅後、多くの年月を経て、修理されることなく放置されていたために、建物は壊れ、風雨で仏像も破損する状態を眼の辺りにした。そこで修行中ではりますがこの地に留まり。康平元年より勧進にとりかかりました

さらに番号31文書には、つぎのような箇所があります。
難修理勤念之不怠、末法当時邪見盛也、乃難動進知識 起道心人希有也、因之自去延久元年於曼荼羅寺井同大師御前跡大窪御寺両所各一千日法花講演勤行、本懐不嫌人之貴賤、又不論道俗、只曼荼羅寺仁致修治之志輸入可令御座給料祈持也、此間今年夏程祥房同法申云、仁和寺松本御童為件御寺修遺、令下向給由云 仰天臥地、歓喜悦身尤限、

  意訳変換しておくと

怠りなく修理復興に努めていますが、末法思想流行の中で邪教が人々の中に広がり、資金は集まらず修理は滞っています。道心を知る人達は稀です。そこで打開策として、延久元年から曼荼羅寺と大師御前跡の大窪御寺の両所で、一千日法花講を開いています。貴賤や道俗を問わず、広く人々に呼びかけ、曼荼羅寺の修復のための資金をもとめるものです。今年も開催準備をしていたところ、仁和寺の松本御童がやって来られることになりました。それを聞いて、仰天し地に伏し、歓喜に溢れています。

ここからは次のようなことが分かります。
①末法思想が広がり阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が讃岐の人々の心をとらえていたこと
②そのために勧進活動が思うように進まず、修復作業も停滞していたこと
③勧進方針として道俗・貴賤の差別なく、いろいろな層の人達に勧進を呼びかけるために一千日法花講を開催するようになったこと
④それを聞きつけて仁和寺の高僧が支援のためにやってきてくれることになったこと
一千日法花講に参加し結縁した人々には、大師信仰によって約束された現世利益とともに、寺で行なう法華講の功徳をもたらすとされました。実はこのような動きは、土佐国の金剛頂寺の、阿波国の大瀧寺など大師行道所を起源とする寺院も同時進行で勧進活動による復興再建が行われていたことが分かってきました。これも弘法大師信仰の広がりという追風を受けての地方寺院の勧進活動だったと研究者は考えているようです。
曼荼羅寺
曼荼羅寺周辺遺跡図
ここで私に分からないのが「大窪御寺」です。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
 ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。

出釈迦寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の我拝師山の霊場


 以上をまとめておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」の一つであった
②10世紀中頃に諸国廻国の聖(修験僧)であった善芳は、退転した曼荼羅寺の復興を始める。
③善芳は弘法大師信仰を中心に勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功した。
④このような勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤その勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと指命であった。
こう考えると弘法大師信仰が高野聖などで地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支えていたことになります。その讃岐における先例が11世紀の曼荼羅寺の復興運動であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号 平成15年

    宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。
③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ
④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた
⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された
⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。

しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院)

宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。
 細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間  
一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、
二月廿七日          頼春 (花押)
③善通寺 僧都御房(宥範)

②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。

細川頼春の墓
細川頼春(1299~1352)の墓の説明版には、次のように記します。

南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。


 
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
 しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。

宥範と利生塔の関係を示す年表を見ておきます。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
 同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)

 年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
 最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
 もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
 以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
 細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。

細川頼之(ほそかわよりゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
           細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
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善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
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滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。
(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。

姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
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 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
東京・埼玉へ: Neko_Jarashiのブログ
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

滝宮念仏踊りの変遷

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

補足(2024年4月19日)
 今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。
寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。
空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら  より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

滝宮牛頭天王社の絵札
滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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 前回は、次のような事を押さえました。
①飛騨の真宗教団の布教は庄屋や長百姓を中心に行われたこと
②そのため寺院があったわけではなく、惣道場といって有力者の家に、名号を床の間に掲げた部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
③そして惣村の自治活動と結びつき、信仰的なつながりや拠点として真宗の教えが広まったこと
ところが、江戸時代になると本末制度が調えられ、本山から木仏・寺号が下付され、伝絵や三具足なども整備され寺院化していきます。これらには本山に対して高額の納付金を納める必要があったことは以前にお話ししました。今回は、飛騨高山市の旧清見村の真宗寺院の道場から寺院化への成長を、史料で追いかけてみます。

飛騨清見村の真宗寺院

テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」です
了因寺のカヤ

最初に見ていくのは飛騨藤瀬の了因寺です。
この寺には蓮如筆の六字名号一幅と、蓮如筆とみられる十字名号一幅、文明18年(1486)蓮如が河上庄福寄の法明に授与した絵像本尊(方便法身尊形)が残されています。親鸞は名号を本尊としていましたが、その後、阿弥陀如来の御絵像が本尊に代わります。方便法身尊形は御絵像のことで「だいほんさま」とよばれます。
蓮如の絵伝
   
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)
            大谷本願寺釈蓮如(花押)
文明十八年柄二月廿八日
     飛騨国白河善俊門徒
同国大野郡河上庄福
願主釈法明

この寺の寺伝を年表化すると、次のように寺院化が進みます。
文明8年(1476)河内国出口にいた蓮如から六字名号を賜り、
同10(1478)年 福寄に道場を開き
同18(1488)年 山科本願寺において蓮如から絵像と十字名号の授与をうけた。当初は孫兵衛道場と称していた
元和9年(1623) 福寄から藤瀬の助次郎宅に移り
寛永元年(1614) 独立の道場を営んだ
万治2年(1659) 了因寺の寺号免許、翌年蓮如影像、
延宝5年(1677) 木仏と太子・七高祖影像
 同9年(1681)親鸞影像下付
貞享2年(1685) 親鸞絵伝下付
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 了徳寺
白川街道沿の牧ケ洞に了徳寺の基を開いたのは河上庄牧村の栗原衛門という豪族と伝えられます。
栗原衛門は長滝寺の荘官で牧村栗原神社の社人をつとめていました。文安5年(1448)に照蓮寺明誓のすすめによって本願寺存如に拝謁して、六字名号と了専の法名をもらって帰郷して、栗原道場を創始したと伝えられます。この頃、この地に栗原衛門という人物がいたことは、文安六年の土地売券二通に、その名前が売主として次のように出てきます。
売渡永代之田の事
合弐反者 つほハムカイ垣内
とんしはさと一反
佃をさ一反 是ハならひ也
右件之田地ハ依有要用永代に代陸貫文二うり渡中処実正也。但、 一そくしんるいにても急いらんわつらい申ましく候。
乃為後日状如件
文安六年五月二十五日
うリ(売)主河上荘まきの栗原衛門(略押)
  最後の売主名に「河上荘まきの(牧村の)栗原衛門」とあります。ここからは牧の洞に粟原道場を開いたのが、河上庄牧村の栗原衛門であることが裏付けられます。
さらに、永正11年(1514)12月には本願寺実如から絵像本尊を下付されています。その時の、願主は浄専とありますが当寺の二代目になるようです。
栗原道場から了徳寺への寺院化を年表化すると、次のようになります
天和3年(1682)に木仏・寺号下付
貞享四年(1687)親鸞影像
元禄14年(1701)太子・七高祖影像下付
享保15年(1720) 梵鐘設置を備え、寺院化への道をたどった。

夏厩の蓮徳寺を見ておきましょう。           81P
この寺は、名主次郎兵衛が長享年間に蓮如に帰依して、道場を開いたのが始まりと伝えられます。ここにも長享3年(1489)に蓮如から善性宛に授与された絵像本尊があります。
方便法身尊像
大谷本願寺釈蓮如(花押)
長享三二月十五日
飛騨国白川善俊門徒
同国大野郡徳長夏舞
願主釈善性

また蓮徳寺には15世紀の土地関係文書が数多く残されています。その中一番古い応永22年の土地譲状には、次のように記されています。
(前欠)
合一所者
右件田地ハ、宗性重代処也。子々孫々にいたるまて、たのいろいあるましく候。おい(甥)のさこん(左近)の太郎に永代ゆつり(譲)わたす処実正也。但シいつちよりさまたけを申事候とも、すゑまつ代まても、さまたけあるましく候。
乃為後日状如件。
応永廿二年十月廿二日
おとりの住人夏前名主宗性(略押)
この譲状を書いて最後に署名している「おとりの住人夏前 名主宗性」が、蓮如に帰依した名主次郎兵衛(法名善性)の父か祖父にあたる人と研究者は考えています。道場主次郎兵衛は、代々夏厩の名主としてこの地方の有力者であったこと分かります。
614
上小鳥の弘誓寺にも、蓮如筆の六寺名号と、明応4(1495)年の実如の絵像があります。
もともとは、七郎左衛門道場と呼ばれ、道場坊は上小鳥と夏厩の名主を兼ねていました。そのため道場に関わる事柄には法名を、名主としての署名は俗名を書いて使い分けています。例えば元禄7年(1694)五月に、道場敷地を検地役人に提出した書類には「上小鳥村道場玄西」と記し、同年6月の『検地帳』には「上小鳥村組頭七郎左衛門」と署名しています。
 弘誓寺には江戸時代の医書が多く残っていることに研究者は注目します。その中には牛馬に関するものもあり、人だけでなく獣医の役目も果たしていたことがうかがえます。まさに毛坊主として、門徒をまとめるだけでなく、医師や獣医として地域に関わる存在であったようです。また上小鳥は白川街道ぞいにあり、旅人の往来もあり、そのためこの寺は宿泊所としても機能していたと云います。しかし、それは商業的なものではなく、あくまで寺院としての人助けという意味です。これが、いろいろな情報収集等には役だったことがうかがえます。以上のように、坊主兼名主であり、医者・宿屋としての役割も果たしているが、本業は農業で家計をささえていたようです。


西方寺の五葉マツ
西方寺
白川街道の夏厩から小鳥川にそって北へ分かれると、左岸にあるのが二本木の西方寺です。
この寺にも蓮如筆六字名号と実如授与の絵像本尊があります。絵像の裏書は今では判読できませんが、『飛州志』には、文明18年(1486)正月25日に本願寺実如が善俊門徒の了西に下付したものとされます。そして、開基については次のように記されています。
大野郡小鳥郷二本木村西方寺者、東本願寺之派脈高山照蓮寺末寺、開基者百八拾四年已前文明十八年、元祖者了西与申者二而御座候。当西方寺迄六代、従往古御年貢出不申候。尤、由緒証文者無御座候得共、道場之境内被下置相続仕候様二奉願上候。則境内絵図二仕奉差上候。以上。
元禄七申成年六月八日                       二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
  意訳変換しておくと
大野郡小鳥郷二本木村の西方寺は、東本願寺派高山照蓮寺の末寺で、開基は184前の文明18(1486)年になる。元祖は了西と申す者である。西方寺は六代に遡るまで年貢を免除されておいた。もっともその由緒書や証文はない。道場の境内の相続について以下の通り、境内絵図を添えて提出する。以上。
元禄七(1694)申成年六月八日                   
            二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
ここからは二本松の道場も、蓮如の時代に開かれたことが分かります。
しかし、名号だけを手がかりに道場の開創期を推測するのは危険だと研究者は指摘します。なぜなら名号は、売買の対象物であったからです。それを示す史料を見ておきましょう。86P
質入仕申証文之事
一金弐両弐分   元金也
右者私儀当年石代金二行当り申候二付、伝来り候蓮如様八百代壱服(幅)、質入二仕り、書面之金子惟二預り申処実正二御座候。万返済之義ハ、来ル辰年限二而、金子壱両二付壱ヶ月二銀壱匁宛加利足、元利共二急度相済可申候。若相滞有之候ハヽ、右之質入貴殿二相渡シ可申候。其時一宮(言)申間鋪候。為後日受入証文、乃而如件。
天明三年八月                金子預主稗田村
清左衛門(印)
弥右衛門(印)
牧村 孫左衛門
森茂村 長助殿
         意訳変換しておくと
質入れについての証文
一 元金 金二両二分   元金
右の金額について私共は当年の年貢石代金の支払いのために、伝来の蓮如様の六字名号一幅を質入し、書面の金子を預りました。返済については、辰年限に金子壱両について、1月に銀壱匁の利足を加えて、元利とともに返済します。もし滞納することがあれば、質入れ物件を貴殿に渡します。これについては、一言も口をはさみません。以上を証文とします。
天明三年八月           
      金子預主稗田村  清左衛門(印)
       弥右衛門(印)
       牧村  孫左衛門
森茂村 長助殿
ここからは稗田村の清左衛門が森茂道場主の長助から金一両三分を借り、その質物に蓮如筆の六寺名号を充てたことが分かります。こういう形で、名号は価値がある物として移動していたことが分かります。絵像の裏書など確かなものによって道場の開創を確認する必要があると研究者は指摘します。
 以上、高山市の旧清見村の真宗寺院の道場成立時期をみてきました
それをまとめておきます。
①飛騨における真宗布教は、蓮如時代に、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がったこと
②山村での布教は庄屋や長百姓を中心に行われ、最初は道場は有力者の家に、名号を床の間に掲げただけのものだったこと
③そこで、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
④これが惣村の自治活動と結びつき、宗教的な結びつきの拠り所となったこと
⑤ところが、近世になると本末制度が調えられて、木仏や寺号が下付され寺院化する所も現れた。
⑥さらに、本山に奉納金を納めることで伝絵や三具足などを整備する寺院も増えた。
 飛騨の真宗寺院は15世紀後半に蓮如から六字名号をもらって、道場を設立していること江戸時代になって木仏・寺号下付を本山から得ていることが改めわかります。こういう視点で讃岐の真宗寺院の創建年代一覧表を見てみましょう。

讃岐の真宗寺院開基一覧
讃岐の真宗寺院開基時期一覧

これはいろいろな史料に出てくる開基年代を研究者が一覧化したものです。これを飛騨の道場成立期比べて見ると違和感を覚えずにはいられません。寺院化の年代が讃岐は早すぎるのです。飛騨では蓮如の時代に道場が姿を現しますが、讃岐では寺院化がすでに始まっていることになります。その一方で、飛騨にはそれを証明する蓮如の六寺名号を持つ寺が多いのに対して、讃岐は遙かに少ないのです。真宗の教線拡大も飛騨に比べ、四国は遅いとされます。そのような状況証拠から、讃岐に真宗寺院が現れ始めるのは、16世紀後半以後と私は考えています。そして、寺院化は飛騨と同じ、江戸時代になってからのことです。讃岐の真宗拡大の年代については、従来の見方を大きく変更する必要があると研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P

 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
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  戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは  「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。
②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと
③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。

それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか?               その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗
②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること
②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、
③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。

 大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。

第1515回 長年寺(ちょうねんじ)曹洞宗/ 群馬県高崎市下室田町 | お宮、お寺を散歩しよう
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。
ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。

また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
 遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
 松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
 拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)

  また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。

一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
  ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。

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16世紀に日本で宣教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人フランシスコ・カブラルは、ローマ教国宛ての報告書翰で次のように述べています。(
1571年9月5日付書簡)

「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」

ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。

先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
 また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。

こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
 
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。

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榮山和尚清規

 鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など
②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々
③天照大神
④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格
⑤「王城鎮守諸大明神」
⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
 こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

示現寺(喜多方市)
示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。

白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。

これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと
②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け
③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
 この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との
福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との
山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
 こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
越前龍澤寺
如仲天
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
 彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
 彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
 禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。
葬儀・葬式シリーズ 【5】 授戒会 - 新米和尚の仏教とお寺紹介

 禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。

最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。
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乾坤院
 愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
 また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。

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戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
 イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」
、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」

ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。
②そのためには金に糸目をつけないこと
③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
            「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」

      法然上人絵伝表紙
 
 以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。

鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。 
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
 そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。
②仏の教えを理解する度量・器のこと
③衆生の各人の性格。
④根性は、この機根に由来する言葉
  ④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」

というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。

次に 法然の略伝を見ておきましょう。  
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。

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         選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。
②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと
③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」

法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
聖典セミナー 選択本願念仏集|本願寺出版社

『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。

それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

     意訳変換しておくと

速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。

ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
 法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
二河白道(にがびゃくどう)の図
二河白道図

『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
 口称念仏の先駆けとされる | thisismedia
それまでは口称念仏は、「劣機のための低劣な行」とみなされてきました。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
 法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅう)修・無間(むけん)修・無余(むよ)修です。この三修は、称名の際の内面的なあり方を問題にしています。それに対して、長時修は臨終にいたるまで称名をやめるなというだけです。この長時修重視の姿勢は、法然の教説の中では、評判の悪いとされているようです。近代人のものの見方からすれば、当然かも知れません。例えば、ルター流の信仰義認説の立場に立つなら、機械的に称名を続けるなどというのは、はなはだ非宗教的なことで、内面的な信仰こそが重視されるべきだということになります。近代の法然解釈の多くは、こういう立場を暗黙の前提にします。
 「何でもいいから称名を続ける」ということは、自分が劣っていると深く自覚したものが、阿弥陀仏の本願のみを頼んで、ひたすら称名し続けるということです。これが法然の基本姿勢で、逆にいえば、これ以外はどうでもよいということになります。そう考えると法然が戒律をたもったことや、授戒を行ったことを、専修念仏に反する矛盾・妥協と非難する必要もなくなります。
 称名を行うことが第一義で、戒律の持破もどちらが本人に合っているかということに過ぎないのです。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
 専修念仏というと、他宗や他の行法を否定した面だけが強調されます。しかし、それは一部の弟子たちの行動で、法然とは異なると研究者は考えています。
七箇条起請文』
七箇条制誡

法然教団への弾圧
法然は『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』(1204)の末尾で、「三十年間、平穏に暮らしてきたが、十年前から、無智不善の輩が時々出るようになった」と述べています。ここで三十年前というのは、法然が専修念仏に回心した時点を指しています。法然の言葉を信じる限り、彼の思想が問題視されるようになったのは、むしろ弟子たちの言動によってだと考えていたことが分かります。法然没後、活発な活動を展開する弟子たちの多くは、ここでいう「十年」の間の人間者です。
☆彡「法然上人 芳躅集 全」浄土宗 知恩院 大原問答の顛末 | imviyumbo.gov.co
大原談義
法然の教説をめぐって諸宗の碩学を交えての討論会(大原談義)が行われたとされます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
①専修念仏以外の行業や教学を非難してはいけない(第1~第3条)
②破戒を勧めてはいけない(第4条)
③自分勝手な邪義をとなえてはならない(第5~第7条)
これに対して、弟子たちの中には「法然の言葉には表裏がある」などと称し、制誠に従わない者もいたようです。そのため事態は鎮静化しません。翌元久二年には、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が提出され、興福寺が専修念仏停止を訴えます。本状では、専修念仏者の悪行として次のような九項目を挙げています。

法然
興福寺の専修念仏停止状
①新宗を立つる失(勅許によらず浄土宗を立てたこと)
②新像を図する失(専修念仏者以外の不往生を不す摂取不捨曼茶羅を描いたこと)
③釈尊を軽んずる失(阿弥陀仏以外の諸仏を礼しないこと)
④万善を妨ぐる失(称名以外の諸行を否定すること)
⑤霊神を背く失(神明を礼拝しないこと)
⑥浄土に暗き失(諸行往生を認めないこと)
⑦念仏を誤る失(観念よりも口称を重んじること)
⑧釈衆を損ずる失(破戒・無戒を正当化すること)
⑨国上を乱る失(専修念仏によって八宗が衰徴し王法も衰えること)

これを見ると。専修念仏が当時の社会に与えた影響を網羅的に挙げていることが分かります。 親鸞は、『興福寺奏状』が一つの契機となって、法然の流罪を含む専修念仏弾圧が引き起こされたと解釈しています(『教行信証』)。
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しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、建永2(1207)年10月25日に改元して承元元年になると、法然が流罪に、住蓮・安楽房が死罪に処されるという事態になります。これが「建永または承元の法難」と呼ばれます。
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同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
 親鸞はこの事件について、次のように処罰の不当さを訴えています。(『教行信証』)。
「主上臣下、法に背き義に違し、恋を成し怨を結ぶ」
「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す」
ここからは多分に後鳥羽上皇の感情的な処置だったと親鸞は考えていたことがうかがえます。。
 なお、『歎異抄』の奥書では、安楽・住蓮の他、善綽房西意・性願房が死罪に処され、法然・親鸞以下八名が流罪、そのうち幸西と証空は慈円が身柄を預かり、刑を免れたとしています。しかし、これは他の史料にはみえない記述です。

小松郷生福寺2
流配中の法然(讃岐那珂郡小松郷:まんのう町)

法然は土佐国配流に決定します。

しかし、保護者である九条家の荘園だった讃岐の塩飽本島や、那賀郡小松庄(まんのう町)で逗留している内に、その年の秋には罪を許され、畿内へ戻っています。そして摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した後、建暦元(1211)年に京に戻り、翌年ここで臨終を迎えます。
   今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」
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    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

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奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
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叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

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 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

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前回は、次のような事をみてきました。
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、穢れも病原体も関係ないという考えが出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
⑤について、律僧が葬送に従事することで、律僧によって独自の「死の文化」が創られていくようになります。それが五輪塔、宝筐印塔などの石塔(墓塔・供養塔)、骨蔵器の登場です。これは葬送儀礼と呼ばれるもにになります。今回は、律宗によって生み出された「葬送儀礼」を見ていくことにします。 テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

伊勢の五輪塔、叡尊の弟子の作か/山形大教授が発見 | 全国ニュース | 四国新聞社
弘正寺五輪塔
最初に、伊勢市楠部の弘正寺跡五輪塔を見ておきましょう。
 楠部五輪塔はこれまで15世紀末のものとされ、廃寺となった律宗寺院「弘正寺」にあったため注目されてこなかったようです。それが2008年に、松尾剛次山形大教授(日本宗教史)の調査で次のような事が分かっています。
①楠部五輪塔が、奈良の西大寺を復興した高僧叡尊(1201-1290年)の弟子が造ったこと。
②鎌倉時代の律宗の五輪塔では最大級であること、
 五輪塔は、墓として律宗僧が建立を始めます。その際に葬られる僧侶の地位が上がるほど、その五輪塔も大きいという相関関係があるようです。奈良の西大寺にには叡尊の五輪塔がありますが、これが最大です。そして、楠部五輪塔の高さは約3,4mで、これと同格です。 五輪塔は弘正寺址に建っていること、五輪塔の形、年代、石の削り方などからみて、叡尊上人のお墓ではないかと考えられます。恐らく弟子が叡尊上人のお墓を建て、分骨したのではないかというのです。

律宗五輪塔
弘正寺跡五輪塔(叡尊の五輪塔)

 研究者が注目するのは、五輪塔の「水輪」の球体部分です。加工技術の特徴が、叡尊の弟子が造った極楽寺(神奈川県鎌倉市)の五輪塔などと一致します。そこから制作時期を、鎌倉時代後期から末期の制作と推察します。形から見ると、重厚感のある感じ、全体のバランスからみて鎌倉の忍性五輪塔によく似ています。
律宗五輪塔.2
弘正寺五輪塔
弘正寺五輪塔は、花崗岩製で、高さ3,4mもある巨大五輪塔です。伊勢弘正寺は、現在は廃寺ですが、叡尊が開山し、弘安3(1280)年に律寺として建立(再興?)された寺で、伊勢地方の筆頭寺院でした。この五輪塔は、大きさが、西大寺奥の院の叡尊塔と一致します。

巨大五輪塔!西大寺奥の院に眠る叡尊上人/毎日新聞「やまと百寺参り」第25回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

 叡尊教団では、その高さは僧侶の身分に比例するとされていたので、弘正寺五輪塔は叡尊の分骨塔かもしれないと研究者は判断します。五輪塔は、五つの石を積んだ墓塔、あるいは供養塔です。下から方形の地輪・球形の水輪・三角の火輪・半球形の風輪・団形の空輪からなります。平安後期に密教系の塔として現れ、後に宗派を超えて流行するようになります。
 五輪塔は、特に律僧によって数多く制作されました。
 2mを超える巨大五輪塔は、全国で70ほどありますが、ほとんどが叡尊教団の律僧の手によるもので、その寺の開山者の墓所である場合が多いようです。用いられている石材はそれまでは軟らかくて加工しやすい砂岩製が多かったのですが、律僧の五輪塔は硬い花崗岩や安山岩製です。堅い岩石を加工する新技術を持った中国からの石工集団を配下に組織して、般若寺十三重石塔をはじめ新しい石造物を創り出していったことは以前にお話ししました。
般若寺(はんにゃじ)十三重石塔
般若寺十三重石塔

古墳や古代寺院の登場と同じように、新たな宗教的なモニュメントは、新たな宗教ムーブメントの上に姿を現します。当時の人達にとっては、目に見える形で現れた大きな石造物は畏敬の念を抱く対象だったようです。五色台の白峰寺・十三重石塔も、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えていることは以前にお話ししました。
白峰寺 十三重塔 第五巻所収画像000010
白峯寺石造十三重塔

五輪塔が墓所な時には、地輪の下に骨蔵器に入った火葬骨があります。
額安寺五輪塔(鎌倉墓)|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)
額安寺の忍性五輪塔
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について、見ておきましょう。
忍性(にんしょう)は、建保5年(127)に大和国城下郡屏風里(奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くなった母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済に惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話には、慈悲深く意志の強い人柄がうかがえます。後半生は拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社会事業を展開しす。人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈しています。
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について「ふるさと大和郡山 歴史事典」には、次のように記されています。
   昭和34年3月23日重要文化財(建造物)。
額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは俗に「鎌倉墓」とも言われている。指定な受けた8基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでいる。東端および南から4番目のものに、永仁5年(1297)の銘があり、他のものも無銘ではあるが、このころ造立されたものと思われる。
昭和57年の解体修理の際行われた地下調査によって、南端の忍性墓のみが建立当初の位置を保っていることが判明している。また、忍性墓の骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となった。
額安寺(がくあんじ)五輪塔群(1)
忍性塔(額安寺)

 この忍性塔は塔高276㎝ある巨大五輪塔です。忍性は、嘉元元(1303)年に死去し、叡尊教団の鎌倉における拠点・極楽寺で火葬されます。そして、忍性の骨は分骨され、極楽寺(塔高308㎝)と竹林寺(大和郡山市、塔は破壊)にも五輪塔が立てられ金銅製の骨蔵器に入って納骨されています。こうして、骨蔵器という新たな葬儀用具が登場します。これは叡尊教団の「死の文化」創造の遺品と研究者は評します。
忍性骨臓器
額安寺の忍性骨蔵器

水輪に穴を開けて、水輪にも骨蔵器が納入される場合もあります。

西方院(唐招提寺 子院) そして今週のNHK歴史秘話ヒストリア | タクヤNote
唐招提寺西方院の證玄塔

唐招提寺西方院の證玄塔は、塔高が238㎝もある巨大五輪塔です。昭和44(1969)年6月の修理の際に、地輪の下から次のような金銅製の骨蔵器が出てきました。
律宗の骨臓器(証玄塔水輪)
唐招提寺西方院の證玄塔から出てきた骨臓器

図8のように水輪部に穴が開けられ、図9のような追葬された骨蔵器も出ています。ここからは律宗では、高僧の墓所として五輪塔を立て、骨臓器を埋葬していたことが分かります。

研究者が注目するのは、西方院が地域住民の墓所の中核となっていることです。
律僧たちが境内墓地や地域の惣墓を生み出し、その周辺に地域の有力者達が墓石を立て始めるのです。そして墓域を管理するのは律宗僧でした。ここからは、律宗僧侶の五輪塔が核となって、地域の墓所へつながっていく道が見えて来ます。
以上をまとめておきます
①葬送に関わるようになった律宗僧は、五輪塔を葬儀モニュメントとして建てるようになる
②最初は、開祖や高弟のもので大きさと功徳は相関関係にあるとされた。
③分骨された五輪塔が各地に姿を現し、以後門弟達は、その周辺に自分の五輪塔を建てた。
④五輪塔の石材は、それまでは堅くて加工が難しかった安山岩や花崗岩であった。
⑤それを可能にしたのは東大寺再興のために中国から呼ばれた石工集団であった。
⑥彼らは律宗の求めに応じて、石造十三重塔などを各地の末寺に建立した。
⑦それは瀬戸内海に伸びゆく律宗西大寺の教勢拡大のモニュメントでもあった。
⑧その一例が、五色台・白峰寺の十三重塔(東塔)である。
⑨この時期、讃岐国分寺の再興を行ったのも律宗西大寺の僧侶であった。
⑩高瀬の謎の石塔とされる威徳院勝造寺層塔(八百比丘尼塔)も、このような文脈の中で考える必要がある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

今では日本の仏教は「葬式仏教」とまで云われ、僧侶が葬儀に関わるのは当たり前とされています。しかし、古代では僧侶が葬儀に関わることは、タブーだったようです。そういう意味では、中世になって律僧が葬送に従事するというのは、「大革新」だったようです。その転換が、どのようにして進んだのかを、今回は見ていくことにします。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

古代・中世の興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺などの官僧たちは、「穢れ忌避」が求められていたので、葬儀にはアンタッチャブルでした。穢れには、死穢(しえ)、産穢(さんえ)などがありました。死穢というのは、死体に触れたり、死体と同座したりすることにより起こる穢れです。それに触れる(=触穢)と30日間は、謹慎生活を送る必要がありました。というのも、触穢れは伝染すると考えられていたのです。そのため他人に伝染させないために、穢れが消える期間、謹慎生活を送らねばならなかったようです。

 穢れ忌避については『延喜式』に穢れ規定が神事従事に関わるものとして載せられています。
ここからは本来は、神事従事の規定だったことが分かります。ところが十世紀以後、神仏習合が進むと、寺院にも鎮守の神社が併設されるようになり、官僧たちも神前読経に従事するようになります。その結果、官僧も穢れ忌避が義務化されるになったようです。つまり、僧侶は死体に近づけない、触れないということになります。

今昔物語集 | 書物で見る日本古典文学史 | 国文学研究資料館

『今昔物語集』巻13第20話は、次のように記します。

比叡山東塔の広清という僧が京に下り、 一条の北辺の堂で病死します。その死体は「弟子ありて、近き辺に棄て置かれ」ます。その「墓所」からは毎晩『法華経』を諦す声がした。弟子はこれを聞いて、遺骸を山の中の清いところに移しますが、そこでも声が聞こえた。

この物語からは、比叡山で学んだ僧で、弟子がいる立場の者でも、きちんとした葬送もなされず、死体が「近き辺に棄て置かれ」たというのです。この扱いが特別だったのではないようです。
『今昔物語集』巻28第17話には、次のような話が収められています。
藤原道長の御読経を勤めた奈良興福寺の僧が、毒キノコを食べて死んだ。哀れに思った藤原道長から葬料を賜って、立派な葬式をしてもらった。それを聞いた藤原道長の御読経僧の一人で、東大寺の某は、次のように嘆いた
「恥をみなくてすんだのはうらやましいことだが、自分などが死んだら大路に捨てられてしまうだろう」。
栄華を極めた藤原道長に連なる興福寺や東大寺の僧でも、有力僧でなければ、仲間に葬送をしてもらえず、道に棄てられる恐れは十分あったことがうかがえます。
どうして、お寺のお坊さんが亡くなった師匠や同僚を丁寧に埋葬しないのでしょうか?
その背景にあったのは、葬送費用の問題だけではなく、官僧たちが死穢を避けるために死体に近づけなかったことがあります。死体に近づくというのは死穢で「30日間の謹慎生活」だったことは最初に見ました。悪くすると官僧(高級国家公務員)としての地位を失うことにもなります。供来をしたくてもできない体制下に置かれていたようです。これだけ見ると古代における僧侶というのは、先端の思想・知識・技術者集団であったが、庶民とはほど遠い存在だったことが分かります。彼らは庶民の平安や冥福を祈る存在ではなかったことを押さえておきます。
長明発心集(鴨長明) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それが中世になると、葬送を願う庶民に対して、死穢を憚りつつ、慈悲のために葬送に従事する僧侶の話が出てくるようになります。
鎌倉前期成立の鴨長明『発心集』巻4第10話には、次のような話があります。
ある偉い僧侶が日吉神社に百日参拝の願を掛けたが、80日目の参拝の途中に、亡くなった母親の葬送ができずに泣いている独り身の女性に出会った。あわれに思って葬送をしてやった後で、穢れねをはばかりつつ日吉神社を参拝したところ、日吉神が現れて僧の慈悲をほめて、参拝を認めた。

ここには、葬式を望む人、慈悲のために穢れを憚らず葬式を行う僧侶、さらには慈悲のために穢れ忌避のタブーを犯す僧侶がいたことが分かります。それを日吉神も誉めています。こうして、死者をともらい、冥福を祈る僧侶が現れてきます。
この際に官僧であったかどうかは重要でした。
というのも、官僧たちには、死穢などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは最初にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な違いを生むことになります。

伊勢岩田の円明寺(廃寺、津市岩田)の覚乗の話を見ておきましょう。
覚乗は伊勢弘正寺(伊勢市楠部)で受けた伊勢神官の神のお告げによって円明寺に住むことになります。ある日、彼は、神を尊ぶあまり、御神体を見たくて、円明寺から伊勢神官へ百日間参拝する誓いをたてます。ところが、結願の日になって、斎官の料地を通り過ぎた時に旅人の死者に出会ってしまいます。覚乗は、死者の関係者から引導をたのまれ、葬送の導師をつとめます。その後、宮川の畔に到着したところ、一老翁が出てきて、「あなたは今、葬送を行ったではないですか。死穢に汚染されているのに、神官に参拝しようとするのは、どういうことですか」といった。それに対して、覚乗は次のように答えたという。
「清浄の戒は汚染しないのです。それなのに、末世に相応して、いったん円明寺に帰れというのですか」。
その問答が終らないうちに、白衣の童子が、どこからともなく現れて歌を詠み、「これからは円明寺から来るものは穢れないものとする」と言って影のように消えた
「三宝院旧記14」『大日本史料』6ー24、868P
 先ほども見たとおり官僧は、葬送に関与したものは、神事などに携わるためには三十日間謹慎する必要がありました。ところが律僧の場合は、「清浄の戒は汚染なし」という論理により、死穢を恐れずに、厳しい禁忌を求める伊勢神官にすら参詣したというのです。
 「清浄の戒は汚染なし」、これを言い換えれば、我らは日々厳しく戒律を護持しており、それがバリアーとなってさまざまの穢れから守られているのだ、ということになります。この主張こそが死穢を乗り越える論理になります。この一老翁と覚乗との問答には、厳しい戒律を守り続けていた律僧たちが、葬送従事とのはざまで、戒律を守ることをどのように考えていたかを示しています。彼らは、律僧として厳格な戒律を守った生活を行っていました。戒律を守ることは、社会的な救済活動を阻害するどころか、戒律が穢れから守ってくれているんだと考えていたことが分かります。この史料では、そうした主張を伊勢神官の神も認めたことになっています。

この物語の持つ意味をもう少し別の視点で見ておきましょう。
ここでは神は「円明寺から来るもの=叡尊教団の僧侶集団」を、穢れていないと認めています。別の言葉で言うと叡尊教団の律僧たち全体が、「清浄の戒は汚染なし」とされたのです。これは穢れのタブーから解き放たれたことを意味します。
 説話などに、この話の類型が出てきますが、逆に見ると神仏習合の時代においては、僧侶が葬送に従事しながら、死穢の謹慎期間を守らずに神社に参詣することはタブーだったことを現しています。
「清浄の戒は汚染なし」という論理が、葬送などの穢れに関わる活動を律宗僧が行うことを可能したことを押さえておきます。これは、穢れの恐れがある活動に、律僧たちが教団として従事していく扉を開いたのです。

 叡尊教団の律僧たちは、斎戒衆という組織をつくります。
そして、斎戒衆に葬送、非人救済といった穢れに関わる実務を専門に扱わせるようになります。この斎戒衆というのは、俗人でありながらも、斎戒を護持する人びとであり、俗人と律僧との境界人でした。律僧たちが、関与しにくい活動、例えば戒律で禁止されているお金に関することなどに従事します。こうした組織を作ったことにも、官僧が穢れに触れるとして忌避した葬送活動に、組織として取り組もうとした律僧たちの決意を見ることが出来ます。

以上を整理して起きます
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、私たちには穢れも病原体も関係ないという流儀が出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

        
前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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  小松郷生福寺2
流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
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宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
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千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

 以前に浄土真宗の伊予への布教活動が停滞したのは、禅宗寺院の存在が大きかったという説を紹介しました。それなら禅宗寺院が伊予で勢力を維持できたのはどうしてなのでしょうか。今回は、禅宗のふたつの宗派が伊予にどのようにしてやってきて、どう根付いていったのかを見ていくことにします。テキストは、「千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 (地域社会と真宗 千葉乗隆著作集第2巻2001年)所収」です。
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  近世初期になると、四国各宗派の勢力分布はほぼ固定します。それを各県毎にまとめたのが次の表です。
近世四国の宗派別寺院数

この表からは、次のようなことが分かります。
①讃岐国では真宗・真言の両者が、ほぼ同勢力で二者で全体の9割近くになる。
②阿波国では、旧仏教の真言宗が圧倒的に多い。
③土佐国においては真宗・日蓮宗・真言宗の順序となっている。
④伊予国では、河野氏の保護を受けた禅宗が他の諸宗を圧倒しているが、真言も多い。
⑤四国に共通しているのは、真言宗がどこも大きな勢力を持っていた
⑥四国の新興仏教としては、禅宗・日蓮宗・真宗の3教団である。
新興の浄土・禅・日蓮の各教団は、旧仏教諸宗勢力を攻撃・排除しながら教勢を伸ばしたようです。

四国への新仏教の教線拡大ルートしては、つぎのようなコースを研究者は考えています。
①堺港より紀伊水道を通って、阿波の撫養・徳島へ
②堺から瀬戸内海航路で、讃岐の坂出、伊予の新居浜、高浜へ
③堺から南下して土佐の各港へ
④中国地方の安芸・備後・周防から、讃岐・伊予の各港へ
⑤北九州から伊予の西部の各港へ
この中でも①が近畿から最短のコースになります。古代南海道もこのコースでした。新仏教も①のルートで、四国東部の阿波国へ進出し展開したと研究者は考えているようです。

四国への禅宗教団の進出の始まりは、臨済宗が阿波の守護細川氏一族を保護者として獲得したことに始まるようです。
その流れを年表化してみましょう。
暦応二年(1339) 
阿波の守護細川和氏が、夢窓疎石を招いて居館のある秋月に補陀寺建立。和氏のあとをついだ頼春・頼之も、引き続いて補陀寺の維持経営を援助。
貞治二年(1363) 
細川頼之は前代頼春の菩提供養のために、補陀寺の近くに光勝院建立。
至徳二年(1385) 
細川頼之は美馬郡岩倉に宝冠寺を建立し、絶海中津を招く。補陀寺の疎石のあとをついだ黙翁妙誠は妙幢寺を別立。補陀寺に住んでいた大道一以は、細川氏春の招きで淡路に安国寺建立
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このように阿波守護の細川氏の保護を得た臨済宗教団が、阿波の補陀寺を中心に拠点を形成していきます。
次に臨済宗の伊予への教線拡大の拠点寺を見ておきましょう。
伊予でも阿波と同じころの14世紀に、
①伊予北部に観念寺と善応寺が鉄牛景印・正堂士顕によって開かれ、越智・河野氏の保護獲得。
②伊予南部の宇和島では、常定寺が国塘重淵によって、中部の温泉郡川内村には安国寺が春屋妙砲によって営まれ、ややおくれて南部には、寂本空によって興福寺が大野氏の保護の下に開かれます。
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム
臨済宗の法系
これらの諸寺を、越智・河野・大野氏などの在地領主層がパトロンとなってささえることで、臨済教団は周辺に教線を拡大していきます。ちなみに、これらの伊予臨済教団の教線ルートは、備後・周防・出雲等の中国地方から伸びてきた禅僧によって開拓されています。臨済宗には、いろいろなネットワークがあったことがうかがえます。その背後には活発な「海民」たちの活動がうかがえます。

古代の瀬戸内海航路
芸予初頭や豊後海道を舞台とした交易活動

つぎに曹洞宗教団の展開について見ておきましょう
阿波では、
①坐山紹理(1268ー1325)が川西村に城満寺開基
②全奄一蘭(1455頃)が那賀郡長生村に佳谷寺開基
③金岡用兼が永世年間に(1504ー21)に細川成行の招請によって桂林寺・慈雲寺建立
④一蘭の弟子雪心真昭は、その南方の土佐に予岳寺を建立
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四国最古の禅寺 城満寺
伊予では
⑤永享年間(1429ー41) 周防・豊後での曹洞宗盛況をうけて、周防龍文寺の仲翁守邦が奈良谷に龍沢寺建立
⑥応仁年間(1467ー70) 備中の車光寺より大功円忠がきて伊予西部に高昌寺建立
⑦文明年間(1469~87) 備中より玄室守腋がきて安楽寺建立
卍禹門山 龍澤寺|愛媛県西予市 - 八百万の神
龍沢寺
こうしてみてみると禅宗の曹洞・臨済の両教団は、阿波・伊予では14世紀頃から他国からの導師を招くことによって拠点寺院が姿を現していきます。
ところが讃岐と土佐では、禅宗寺院が建立されません。これはどうしてなのでしょうか? 
これについては、研究者は次のように推察します。
①阿波・伊予両国においては細川・越智・河野・大野氏などの在地領主を保護者に獲得して、その強力な支援を得たこと。
②讃岐・土佐は、善通寺・観音寺・竹林寺・最御崎寺・金剛頂寺・金剛福寺など、真言宗勢力が巨大で、真言系の修験者や聖達による民間信仰が根付いていたこと。そのため進出の余地が見出せなかったこと
③阿波・伊予は、鎌倉新興仏教の先進地域である近畿や中国西部・九州に地理に近く、活発な交流があったこと
このように阿波・伊予では臨済・曹洞の両禅宗教団が寺院数を増やしていきます。しかし、禅宗の信徒は在地領主層や繁栄する港の商人や海運業者などが中心で、農村の村々まで浸透することはなかったようです。そのため農民の間では、修験者や聖・山伏などによるマジカルな真言宗信仰が根強く行われていました。つまり、港町では禅宗、その背後の農村部では真宗修験者たちの活動という色分けが見られるようになったことになります。
 戦国時代の戦乱による社会混乱の波の中で、パトロンである武士階層が没落すると、禅宗寺院の多くは廃寺か真言宗化か、どちらかの道をたどることになります。例えば、四国の中ではいちはやく禅宗が進出した阿波では、次のような言葉が残されています。

「むかし阿波国より天下を持たるにより、武辺を本意とたなミ申ゆへ、禅宗に御なり候、壱人も余之宗なく候」

天下持ちの阿波守護など上層部の武士団の間に普及していた禅宗が、パトロンである守護細川一族の没落で、その寺が衰退していった様が記されています。
さらに、天正3年(1575)に、三好氏が法華宗を阿波に強制しようとして、反発する諸派が法華騒動を起こします。
これをきっかけに、真言宗勢力が勢いを盛り返します。こうして、それまで阿波最大の禅寺として発展してきた補陀寺は経営困難となって、光勝院と合併します。その他にも、宝冠寺は廃寺、桂林寺は真言宗に転宗するなど、細川氏の衰退と共に阿波禅宗教団は衰退の道を歩むことになります。
 一方、伊予では阿波の法華騒動とか、真言宗の反撃というような危機がありませんでした。
そのため海岸部の武士階層、上層商人層僧からしだいに、港のヒンターランドである農村部の有力者の間に時間を掛けて浸透し、教線を拡大していくことになります。

以上をまとめておくと
①四国で禅宗が伝播・定着したのは阿波と伊予で、讃岐・土佐には布教ラインを伸ばすことが出来なかった。
②阿波では守護細川氏の保護を受けて、禅宗寺院が建立された時期もあったが、細川氏が衰退するとパトロンを失った禅宗寺院も同じ道をたどった。
③伊予では、河野氏などのパトロン保護が長期に渡って続き、その期間に港から背後の農村部への教線拡大に成功し、地域に根付いていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  

滝宮念仏踊り1

滝宮念仏踊り(滝宮神社)
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。一冊の長帳に「口上書壱通」とあり
此の度 瀧宮念仏踊の由来委細申し出で候様 御尋ね仰せ出され候二付き 申し上げ奉る口上
意訳変換しておくと
この度 瀧宮念仏踊の由来について詳しく報告することという指示を受けましたので別紙の通り報告いたします。

語尾の「申し上げ奉る」という表現から、この文書の書かれた背景が分かります。つまり高松藩が念仏踊りの由来についての東坂本村に問い合わせした、そのことへの回答という形になっています。つまり、これは高松藩への回答書の写しで、公式文書だったようです。そして次のような由来が述べられています。
光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守になって讃岐に赴任した。翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社)で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
この史料からは次のようなことが分かります。
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意しておきたいのは、雨乞いのために踊られているのではないことです。菅原道真の降雨成就を祝って踊られています。もうひとつは、各郡からの踊組が地元で踊っていた風流踊りを奉納していることです。ここでは滝宮念仏踊りが雨乞いのために踊られているのではないことを押さえておきます。道真が雨を降らせたことに対する感謝のために踊ったという趣旨になります。ここでは、この時点では「瀧宮踊り」は「雨乞成就の感謝踊り」で、あって雨乞い踊りではなかったことを押さえておきます。

滝宮神社・龍燈院
滝宮牛頭天皇社(滝宮神社 讃岐国名勝図会)

今は滝宮というと、天満宮の方を思い浮かべてしまいます。

しかし、天満宮が現在のように整備されるのは、近世になってからです。滝宮の中心は明治以前には、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)でした。 祭神は須佐之男命で医薬の神とされ、また牛馬の守護神として農民や馬借などの信仰を集めていました。その別当寺が龍燈院です。上の讃岐国名勝図会には、天満宮と滝宮神社の間に大きな境内を持った寺院として描かれています。龍燈院の社僧達が、両者を管理運営していました。神仏混淆下では、当たり前のことで金毘羅大権現と金光院の関係のようなものです。同時に、周辺には別院や子院が点在して、そこには念仏聖や山伏たちが住み着いて、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)のお札を周辺の村々に配布していました。中世のこの滝宮牛頭天皇社の信仰範囲の郷から、各郷の郷社で踊られていた盆踊りや風流踊りが、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)の7月の夏祭りに奉納されていたと私は考えています。そのような形を作ったのは、中世の聖や修験者たちだったと研究者は考えています。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院の十一面観音像(綾川町蔵)
 これだけの規模の寺院を、龍燈院はどのようにして維持していたのでしょうか? それを解く鍵は、蘇民将来のお札にあるようです。

蘇民将来
蘇民将来のお札
蘇民将来伝説に基づいて、わが家にはこのお札が今も神社から配布されてきます。神仏分離以前に中讃地区で、このお札を配布していたのが滝宮牛頭神社だったようです。そして、実際に配布を行っていたのが龍燈院の修験者(聖)たちでした。龍燈院も中世には、周辺に多くの修験者や廻国行者達を抱え込んでいたようです。その修験者や聖たちが、お札の配布で周辺の村々に出向きます。同時に、その時に各郷社に奉納されていた風流念仏踊りの滝宮への奉納を勧めたと私は考えています。次のような勧誘を修験者から受けたのではないでしょうか?

この郷でも盛大に風流踊りがおどられよるんやなあ。それを郷社だけに奉納するのはもったいないことや。滝宮牛頭権現さまにも奉納したらどうな。牛頭さまも歓んでくださるし、霊験もあらたかで疫病退散まちがいなしや。そのうえいろいろな郷から踊り込みが合って、大勢の人が見てくれるけんに、この郷の評判にもなるで。7月末の夏祭りが、踊込みの日になっとるけん、是非参加しまえ

こうして中世には、周辺の各郷から風流踊念仏踊りが滝宮に奉納されるようになります。奉納された踊りは、時衆の影響を受けた念仏踊りもあり、盆踊りや祭礼で踊られていた風流踊りです。

滝宮(牛頭)神社
現在の滝宮神社
龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』が天満宮に残っています。この表紙裏に、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
意訳変換しておくと 
中世には風流念仏踊りは讃岐のすべての13郡から踊り込みがあった。それが江戸時代には、参加するのは4郡までに減っている
 
讃岐の13郡のすべての郡から参加していたというのは、すぐには信じられません。しかし、中世には丸亀平野のいくつの郷社から踊り込みがあったことは事実のようです。それも戦国時代の戦乱で途絶えていたようです。

P1250408
滝宮念仏踊の各組の惣踊りの入庭

中断していた踊りを復活させたのが初代高松藩主の松平頼重です。
1650(慶安三)年7月20日の記録には、次のように記されています。
就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候
「押さえのための高札をお立てなされるように承知いたしました」とあります。分かりにくい所がありますので補足します。戦国期には、中断していた踊りを「中興」したとあります。これは松平頼重が水戸から高松へ入り、松平藩による藩政が整備される中で、中断していた滝宮念仏踊りを復活させたということのようです。その際に、当時の寺社は「天下泰平」「安寧秩序」などの祈願を求められていました。そこで「風流踊り」に「雨乞い祈願」という名目を+アルファして、地域興しのイヴェント行事を姿を変えた形で復活させたと私は考えています。
 当時の風流念仏踊りは、庶民が楽しみにする一大イヴェントで、夏の祭礼に併せて踊りは奉納されます。
4344101-61滝宮念仏踊り
          滝宮念仏踊り(北條組)

そのため滝宮には、大勢の人が集まって来ることが予想されます。大きな祭りやイヴェントを開く際には、予防措置を講じることを江戸幕府は各藩に命じていました。行事に掲げる高札の内容の見本まで示しています。そこで高松藩も、それを参考にして喧嘩などを禁ずる高札を掲げるように、龍燈院に命じたようです。その命に応じて建てられた高札のようです。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(北條組拡大)

こうして、丸亀平野の4つの郡によって滝宮への踊り込みが復活します。
四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の郷ということになります。最初は、いろいろな混乱があったようです。例えば、復活直後の正保二(1645)年には、踊りの順番を巡って次のような殺傷事件が起きています。
滝宮1916年香川県写真師組合
明治の滝宮付近の綾川
 前夜からの豪雨で、綾川は水嵩が増します。当時は綾川には橋がかかっていませんでした。そのため那珂郡南部の真野・吉野・子松郷で構成される七箇村組は、綾川を渡れずに、滝宮牛頭神社のすぐ手前の対岸で水が引くのを待っていました。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた阿野郡の北条念仏踊組が、境内に入場しようとします。この動きを川向こうから見ていた七箇村組の人たちはいきり立ちます。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、入場していた北条組の小踊二人を切り殺してしまいます。小踊は、踊組の代表と考えられていたようです。踊る順番や場所について、命懸けで守ろうとしていた気迫が伝わってきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
滝宮念仏踊り(那珂郡七箇村組 場所はまんのう町諏訪神社)

  ちなみにこの事件はふたつの踊組に、深い対立感情を残すことになります。以後、北条組は48人の抜刀隊を編成して踊り手達を警固するようになります。踊り手達警固のために、棒持ちなどが配備されるようになった背景には、こんな事件があったようです。また、七箇村組と北條組は踊る年を変えて鉢合わせしないように踊奉納をする措置も取られています。踊る順番が固定するのは、『瀧宮念仏踊記録』に記されている享保三年(1718)からと研究者は考えています。

龍燈院・滝宮神社
     滝宮の滝宮牛頭権現社と別当寺龍燈院と天満宮
ちなみに龍王院は、明治維新の神仏分離政策を受けて住職がいなくなり、廃棄されました。実質的な受入側である龍燈寺がなくなったことで、4組による奉納は一時的に停止されたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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浪打八幡宮 | 神社仏閣めぐり
浪打八幡神社(三豊市詫間町)

中世名主座が近世にどのように変わっていったのか、浪打八幡宮名主座の行方をたどってみます。
浪打八幡 駕輿丁次第之事

                 .
史料Bは1391(明徳二)年のもので、8月に行われる放生会の駕輿丁(神の乗る駕篭かき)のローテション・リストです。これを見ると、太鼓夫を仁尾が担当し、駕輿丁を他の4つの村が担当していることが分かります。
 研究者が注目するのは、この時点で浪打八幡宮名主座の名が、村ごとに区分けして表示されていることです。ここからは、14世紀末期には詫間荘には個別村落が姿を見せていたことがうかがえます。
 浪打八幡宮名主座の場合は、惣荘名主座の名がそれぞれの個別村落名で表記されています。これは詫間荘の名というよりも、吉津村、中村、比地村、仁尾村(仁尾上村)や詫間村の名という意識の方が強いように思えます。そうだとすれば、浪打八幡宮名主座の名は、「個別村落の名」の集合体ということになります。
 これについては、前回見たように詫間荘内の仁尾浦の動きが強い影響を与えていると研究者は推測します。
  仁尾浦の京都鴨社の供祭人(神人)たちは、神饌奉納の代償として、いろいろな特権を手に入れ、広範囲の経済活動を燧灘を舞台に繰り広げます。それが仁尾賀茂神社を単なる個別村落鎮守社にとどまらない、より広範囲に影響力をもつ神社へと成長させたことは前回見たとおりです。仁尾賀茂神社は「準惣荘鎮守社的な存在」に成長したのです。このような仁尾浦の動きが、他の吉津村、中村、比地村や詫間村を刺激し、自立化を促したというのです。

【史料H】 1769(明和六)年に浪打八幡宮検校宝寿院が詫間村庄屋に社領の内容を伝えた覚書を見ておきましょう。
高四拾石
一五町七反四畝拾歩
生駒様御代より御免許御証文御座候
(中略)
右之通浪打八幡宮社領分二而御座候、以上
                 詫間村検校
明和六(1769)年丑七月六日
庄屋 惣十郎殿
(香川県立文書館所蔵片岡氏収集文書一五七号)。
ここからは次のようなことが分かります。
①浪打八幡社は、生駒時代に寄進された40石(約15、7㌶)の社領を持っていたこと
②所有社領面積を、浪打八幡宮検校(宝寿院)が詫間村庄屋(惣十郎殿)伝えていること
この背景には江戸時代の後半になると、荘郷神社が維持管理することが難しくなったことが背景にあるようです。ここは浪打八幡宮が社領の維持管理が困難になって、詫間の庄屋に援助を求めていることがうかがえます。これは、経済的基盤が崩れた惣荘鎮守社の名主座が、だんだんと政治的主導権を失っていく過程でもあるようです。浪打八幡宮の名主座も、それまでのスタイルでは存続できなくなってきたようです。
【史料I】未(元禄四年力)八月浪打八幡宮旧例書(香川県立文書館所蔵)
豊後
相模
浪打八幡宮旧例書
浪打八幡宮神方旧例有来之次第
一 毎年八月祭礼二五ヶ之頭人方へ門注連おろし二御前人三右衛門榊を持進、五ヶ村之村頭人方へ参、門注連八月朔日二おろし申次第
一番     吉津村
二番     中村
二番     比地村
四番     仁尾村
五番     詫間村
右之通仕来り申候
一 八月三日四ヶ之村頭人詫間之頭人方へ寄合、神事有来之相談仕、詫間頭人より四ヶ之村頭人を振廻申候、右之通、毎年仕来り申候
一 八月十日八幡宮御はけおろし、所かざり仕、検校説言上ヶ御ヘい三右衛門請取、社人頭人共頂戴仕次第
一番    中村  豊後
二番    中村  相模
三番    吉津村 頭人
四番    中村  頭人
五番    比地村 頭人
六番    仁尾村 頭人
七番    詫間村 頭人
八番    詫間村 惣大夫
右之通頂戴仕候、其上二検校上座二面右之次第二座を作り、検校より御かわらけ始り連座次第二御酒頂戴仕候而宮ヲ披申候
(中略)
未ノ八月廿二日            中村社人 豊後 判
        同村社人 相模 判
中村豊後・相模相談、両人旧例書仕、吉田へ指上候へ者、御帰被成、拙僧二、二人之社人役付旧例書付候へと被仰出、書付指上候、則吉田二留り、其返二被仰付候
                    検校理巌
意訳変換しておくと
豊後
相模
浪打八幡宮の旧例書の次第は次の通りである
一 毎年八月祭礼の際には、25の頭人が門注連を下ろしのために、御前人三右衛門の所へ、五ヶ村の村頭が榊を持っていく。門注連を八月朔日(旧暦8月1日=新暦9月半ば)に下ろす順番は次の通りである。
一番     吉津村
二番     中村
二番     比地村
四番     仁尾村
五番     詫間村
ローテンションは以上の通りである。
一 8月3日に四ヶ村の頭人が詫間の頭人方へ集合して、神事進行について協議した。そこで詫間頭人から四ヶ之村頭人を振り分け、以下のようなローテションにすることになった。
一 8月10日八幡宮御幣おろし(おはけおろし=神社の祭前の清め)、所かざりを行った後で、検校(宝寿院)から、三右衛門が受取り、社人頭人がともに頂く。その時の順番は以下の通りである。
一番     中村 豊後
二番     中村 相模
三番    吉津村 頭人
四番    中村  頭人
五番    比地村 頭人
六番    仁尾村 頭人
七番    詫間村 頭人
八番    詫間村 惣大夫
以上のような順番で受取り、上の順番で座を作って検校(宝寿院)を上座にして座を作り、御かわらけを廻して御酒を頂戴することにする。
(中略)
未ノ八月廿二日          中村社人 豊後 判
        同村社人 相模 判

以上は、中村豊後・相模が相談し、両人が旧例を書きだし、吉田へ提出されたものである。拙僧び、二人の社人役付が旧例書付があることを申し出て、それを提出したので、吉田が預かり確認した上で、返却を申しつけた
                               検校(宝寿院)理巌

史料Iは年紀未詳、未八月の文書です。浪打八幡宮の中村社人である豊後・相模両人の社務に関する係争があったことが別の文書から分かります。その文書には1691(元禄四)年八月の年紀が入っているので、史料Ⅰも同年文書のようです。
神幸祭注連下し祭典 in 神崎聡(こうざきさとし)夢からはじまる
注連下ろし
   文書に出てくる「門注連を下ろし」とは、祭りの始まる前に、神域や町内を清めるために行う行事のことです。注連縄を貼った青笹を門状に立て、竹串御弊(たけぐしごへい)と呼ばれる竹で作った御弊を飾って神域にします。つまり、祭り期間中は、注連縄を貼った青笹からは神様の領域ということになります。
  また、祭り終了時の御神酒をいただく順番をめぐっても争われていたようです。それが新たに決められたようです。社務をめぐる係争の中で、検校(宝寿院)はリーダーシップを強化して、新ルールを制定しています。そして以後は、「別当」と自称するようになります。ちなみに、中世の文書には宝寿院が別当であったことを示すものはないようです。別当呼称の初見は、この元禄四年八月御断申上覚写からで、これ以降に、宝寿院検校は別当または別当検校と呼ばれるようになります。

 史料Iで研究者は注目するのは、浪打八幡宮名主座の頭役の表記です。吉津村頭人、中村頭人、比地村頭人、仁尾村頭人、詫間村頭人というように、村ごとの頭役として勤仕されています。今までは、史料Bで見たように、「名」の名前が記されて固定されたものでした。それが各村ごとにそれぞれ頭人を選出して、その村の頭人が頭役として奉仕する祭祀形態に変化したことになります。このような形態の宮座を、研究者は「郷村頭役宮座」と呼んでいます。

駕輿丁(かよちょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
駕輿丁(かよちょう)

1645(正保二)年には、駕輿丁を名ごとに昇ぐ方式を確認しています。これも係争があったのでしょう。
浪打八幡 駕輿丁次第之事2

この史料を見ると、中世以来の名主座がまだ維持されていたことが分かります。それが17世紀後期になると、郷村頭役宮座の形に変わったことになります。
池田町における百手の神事について

浪打八幡宮でも近世になってから百手神事が行われるようになります。
その百手頭人もやはり郷村頭役としておこなわれています。17世紀後期には、各村の名主家継承者が頭役を勤めていたようです。それが、次第に頭役勤仕者はより広い階層に拡がっていくようになります。各村落で、「郷村頭役宮座」の頭役を勤める身分階層が「郷村頭役身分」です。浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質したと研究者は考えています。

詫間荘における村落内身分についてまとめておきます。
①詫間荘の惣荘鎮守社である浪打八幡宮の名主座は、14世紀後期までには成立していた。
②中世の浪打八幡宮名主座の運営は、社務(惣官)と検校が指導的な役割を果たしていた。
③詫間荘準惣荘鎮守社である仁尾賀茂神社宮座は、京都の鴨社との関係から、鬮次成功制宮座であった。
④畿内近国の鬮次成功制宮座は、京都の鴨神社との関係を通じて仁尾に伝播した。
⑤詫間荘という一つの荘園に二つのタイプの宮座の併存するのは、「周辺部」の特徴である。。
⑥浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質した。
⑦浪打八幡社の郷村頭役宮座は、単なるトウヤ祭祀ではなく、宮座である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」

古代三野郡郷名
古代の三野郡詫間郷
 前回は三野郡詫間郷の浪打八幡社が郷社として、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名主座という宮座によって祭礼が行われていたことを見ました。その中で浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていました。
 ここで私が気にかかるのが仁尾浦の賀茂神社との関係です。
仁尾浦の「名」たちは、詫間の浪打八幡社の宮座のメンバーでありながら、仁尾の賀茂神社にも奉仕する神人でもあったことになります。この関係は、どうなっているのでしょうか? 両神社の関係を、今回は見ていくことにします。テキストは、「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。

賀茂神社の注連石 --- 巨石巡礼 |||
仁尾賀茂神社

【史料E】仁保浦鴨大明神御前之まつり覚之事
文禄弐(1593)年閏菊月拾五日
但前々のかたきのまつりなり、右後日如件
                仁保(仁尾)年寄中
この文書からは、中世の仁保浦鴨大明(仁尾賀茂神社)では「仁保年寄中」による祭祀が行われていたことが分かります。それでは、この年寄中というのは、どのような人達なのでしょうかに。
【史料F】寛永10年2月鴨大明神祠官仁尾大夫詫状『新編香川叢書』覚城院文書二五号)
(前略)
一 御宮さいかうなとの御時、万事年寄衆被仰次第二可仕事
一 祭礼御まつり、如先例□、供祭人衆被仰次第二可仕事
一 まつり之時、神子、大夫分、日之儀、如先例之、可仕事、付り、重而何にてもいつわり申間敷事右之通、少も相背申候ハヽ、何時二ても、御奉行様へ被仰上テ、我等越度二相極候ハヽ、大夫被召上ケ候様二可被成候、為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日      二保(仁尾)ノ大夫 印
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
意訳変換しておくと
一 御宮再興などの際には、万事について年寄衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、先例通りに、供祭人衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、神子、大夫分、日之儀なども先例の通り行う事、また重ねて何事についても嘘偽りを云わないことを誓います。少しでもこれに背いた場合には、何時でも御奉行様へ申し上げること。その結果、大夫の役割を召し上がれることも承知しました。為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日           二保(仁尾)ノ大夫
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
内容は1633年春に、仁尾の大夫が嶋大明神(賀茂神社)の氏子衆・年寄衆・覚城院にたいして提出した詫状です。今後は指示に従わずに勝手な行動をとることはしないことを誓う内容です。逆に言えば「二保(仁尾)大夫」が先例に従わず、年寄衆や覚城院の指示にも従わずに、勝手な振る舞いが目に付いたので「詫び状(誓約書)」をとられたようです。
 史料Fからは、仁尾年寄衆が宮年寄であることが分かります。
宮年寄とは、祭祀集団において年長が上位で、祭祀を主導する立場にある者のことです。史料Fで仁尾賀茂神社の宮年寄が祭祀を主導しています。ここからは次のような事が分かります。
①仁尾賀茂神社の祭祀組織が宮座であこと
②覚城院に対しても誓約しているので、覚城院が鴨大明神(賀茂神社)の神宮寺であったこと

覚城院】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仁尾の覚城院

【史料G】文政十二年加茂社御頭心得惣記録(仁尾賀茂神社文書)
加茂社御頭心得惣記録
一 八月朔日御閥戴キ承人々社頭ヨリ呼二参候間、早速袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より御閣戴候趣承り罷帰り可申事
(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
意訳変換しておくと
加茂社御頭の心得全記録
一 旧暦の八月朔日(ほずみ=8月1日で新暦の九月中旬頃)、社頭からすぐに来るようにとの連絡があり、早速に袴羽織に着替えて、宮座へ出席した。年寄衆より協議議題について聞いて帰ってきた。(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
ここには、「・・袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より・・・」とあり、仁尾賀茂神社の祭祀組織が「宮座」と表現されています。さらに研究者は注目するのは、頭人が年寄衆の集会で差配されていることです。
 名主座では頭文が作成され、頭文順番で名主座の名頭は奉仕します。第二次大戦前の仁尾賀茂神社宮座は、塩田・鴨田・河田・倉本の四苗(みよう)だけの家で頭屋が運営されていたようです。この四苗の家が300軒あり、そこから5人の頭屋を鬮(くじ)引きで選びます。履脱八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
履脱八幡神社(仁尾)

 仁尾の履脱八幡宮の宮座も十二苗の輪番制で運営されています。
苗はオヤ(本家筋)を中心にまとまっていたようです。この苗が「名」の名残である可能性もありますが、仁尾の場合はそのようには解釈できないと研究者は考えています。それは仁尾賀茂神社宮座の五苗は、名主座の名の数が少ないこと。また履脱八幡宮宮座の十二苗は、オヤを中心とする同族的集団です。仁尾賀茂神社の苗も塩田・鴨田・河田・倉本・吉田という苗字に固定されています。そこから、仁尾賀茂神社・仁尾八幡宮のどちらの苗も、もともとは名ではなく同族を意味するものと研究者は考えています。したがって、両社の宮座は鬮次成功制宮座が変質して、近世以降に家単位の宮座になったようです。

 仁尾賀茂神社の宮座は以下の点から、鬮次成功制宮座であると研究者は判断します。
①宮年寄があること
②宮座という史料表現
③「御鬮(くじ)」による頭人差定
 史料Eの記載から宮座は、中世後期に遡ることができるようです。
中世讃岐の仁尾港 守護細川氏は、香西氏を仁尾の浦代官に任じて支配しようとした : 瀬戸の島から
仁尾賀茂神社

どうして、浪打八幡社という惣荘名主座がある詫間荘内に、もうひとつ別の宮座があるのでしょうか。
 その解決のためには、詫間荘の仁尾浦と仁尾賀茂神社の歴史を見る必要があるようです。まず研究者が注目するのは、以下のように仁尾賀茂神社に免田があったことです。

延文二年二月御代官三郎次郎免田安堵状
(『香川県史』仁尾賀茂神社文書一六号)、延文三年九月詫間荘領家某免田寄進状(同一七号)                         

これは、仁尾賀茂神社が仁尾浦(村)の神社でありながら、詫間荘全体にとっても重要な神社であったことを意味しています。浪打八幡宮は詫間荘の全荘的名主座です。しかし、詫間荘のすべての名を網羅したものではありませでした。仁尾浦(村)には、浪打八幡宮名主座に入っていない名として、金武名・武延名・延包名の三つの名がありました。ここでは浪打八幡宮名主座に編成されていない名が仁尾浦(村)にあったことを押さえておきます。

仁尾浦(村)の他にない特色は、京都の鴨社との関係です。
1090(寛治四)年に鴨社供祭所として「讃岐国内海」が指定されます。この讃岐国内海とは、仁尾浦の津多(蔦)島のことです。その関係から仁尾に賀茂神社が勧請されます。この仁尾の浦人が仁尾賀茂神社の供祭人(神人)へと成長して行きます。
仁尾 初見史料
仁尾浦が史料で最初に確認できる文書 仁尾浦鴨大明神とある

 京都鴨社の仁尾浦支配は、土地支配ではなく、供祭人を通しての支配でした。そのため詫間荘の荘園支配と併存することが可能でした。仁尾賀茂神社の宮座成員は、鴨社供祭人であり、詫間荘荘民でもあるという関係です。仁尾賀茂神社の鴨社供祭人は、京都の鴨社に供物をおくる義務とひき替えに、保護を得て仁尾浦漁携や海運特権を独占するようになります。
 それが1415(応永22)年になると、讃岐国守護の細川頼之から海上諸役や兵船の供出を命じられています。ここからは15世紀初頭になると、仁尾浦供祭人は京都の鴨神社から細川京兆家へと保護者を替えたことが分かります。そうすることで、仁尾浦供祭人は伊予や安芸方面と燧灘を通じての交易活動を活発に展開します。仁尾賀茂神社の鬮次成功制宮座が成立したのは、京都鴨社との関係を持つ賀茂供祭人(神人)がいたからのようです。そして、浪打八幡宮の惣荘名主座とは異なる祭祀スタイルを、仁尾浦の供祭人(神人)は生み出していったと研究者は考えています。

7仁尾3
 中世の仁尾浦の海岸線と寺社分布(点線が海岸線)

仁尾浦と鴨社供祭人は、瀬戸内海を舞台にしして広範囲の経済活動を行っていました。燧灘に面する伊予や安芸の拠点港として機能していたことが考えられます。
 その結果、仁尾賀茂神社は単なる村の鎮守社にとどまらない神社に成長して行きます。ここでは次の事を押さえておきます。
①仁尾賀茂神社が「準惣荘鎮守社的な存在」だったこと
②詫間荘内には異なるタイプの宮座が併存してたこと。それは、一つの荘園に二つのタイプの宮座が併存する珍しい例だったこと。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

                  
三豊の古代郷
讃岐国三野郡詫間郷(庄内半島とその付根部分)
三野郡には詫間郷がありました。それが1250(建長2)年頃には、九条家領として立荘され詫間荘となります。その荘域は、荘鎮守の浪打八幡宮の祭祀圏から推測して、近世の吉津村、中村、比地村、仁尾村と詫間村の五ヶ村だったとされます。
詫間郷3
詫間郷の各地域
 詫間荘の惣荘鎮守社は、詫間村八幡山の浪打八幡宮です。この神社は、「名主座」と呼ばれる宮座で祭礼がおこわなれていたようです。今回は浪打八幡宮の宮座について見ていくことにします。テキストは「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。
浪打八幡神社/三豊市

まず、浪打八幡宮の放生会も御頭所(頭屋)を見ていくことにします。
  【史料A】  浪打御放生会御頭所
  ①比地村
一番 安行   二番 黒正   三番 守弘  四番 清追   五番 小三郎  六番 助房
七番 吉光   八番 糸丸   九番 貞門  十番 包松
  中村分
一番 宗国   二番 真守   三番 友成  四番 重光   五番 吉真   六番 安弘
七番 成松   八番 末守   九番 国正      (中略)
(中略)
  吉津詫間仁尾分十二年廻
一番 則永   助宗   守永
二番 経正   西光   則方
三番 真光   宗久   金武
四番 則久   時延   宗吉
五番 為弘   吉松   武経
六番 依国   行真   宗藤
七番 則包   近光   土用
八番 是時   国光   定宗
九番 光永   正光   友行
十番 秋弘   真光   久則
十一番 正光   為時   吉久
十二番 延正   末次   宗成
浪打御放生会御頭所Ξ
史料Aは、浪打八幡宮の放生会の頭人の年周りの割当表です。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
①比地村10名で10番まであるので10年ごとに巡ってくること。
②中村は9名で9番までなので9年ごと
③吉津村・詫間村・仁尾村分は三名1組で12番まであり、12年ごとにめぐってくる。
そして比地1名 + 中村1名 + 吉津・詫間・仁尾3名=5名で担当したようです。このように、各村の名によって「御頭(頭屋)」が決められているので、浪打八幡宮の宮座は名主座だと研究者は判断します。
史料Aは写で、中略部分に「正元ハ永正六(1509)マテ五十一年二成也」とあります。ここからは原文書の年紀は1509(永正6)年のものと分かります。16世紀初頭の浪打八幡宮では名主座という宮座によって祭礼が行われていたようです。 辞書で「名主座」を調べると次のように記されています。

「名主座は宮座の一形態で、 14世紀初頭ごろに成立した名主頭役身分の者たちが結集した村落内身分集団」

よく分からないので、あまり深入りしないで、先に進みます。
それでは、浪打八幡宮の名主座は、いつごろ成立したのでしょうか。
【 
浪打八幡 駕輿丁次第之事

史料B(端裏書)「八幡宮 御放生会驚輿丁并義量等神判 写」
史料Bは、浪打八幡宮放生会の駕輿丁と太鼓夫の勤仕を定めたものです。ここからは次のようなことが分かります。
①  駕輿丁は、4人の名で担当し  左右の場所まで指定される。
② 仁尾は太鼓夫を担当している
この勤仕も「名」によって行われています。
①「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件
②明徳二(1291)年 八月九日定之」
史料Bの②からは、1291(明徳二)年の年期があるので、元寇後の13世紀末には、浪打八幡宮の名主座は成立していたことが分かります。①については、次の史料と一緒に見ることにします。浪打八幡宮が詫間荘惣荘鎮守社であることが確認できる史料をみておきましょう。
史料Cは、1367(貞治六)年2月の浪打八幡宮年中行事番帳の写です。
浪打八幡 八幡宮年中行事番帳之次第
【史料C】定 八幡宮年中行事番帳之次第

ここに記されているのは、詫間荘内の詫間・吉津・比地にあった寺院や坊舎などです。それが4つの寺を一組として、ローテションで浪打八幡宮の年中行事に奉仕していたことが分かります。ここに出てくる寺院や坊が、史料Bの
「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件」
の「供僧中」だと研究者は考えています。この供僧中は本来12口でした。それが史料Cの14世紀になると新加入の供僧が増えて、その数はその倍以上にふくれあがっています。浪打八幡宮供僧中は、詫間荘全域ではありませんが、詫間・吉津・比地と荘内の各地域に分散しています。ここからは、浪打八幡官が惣荘鎮守社であるとともに、詫間荘全荘の宗教的センターの役割も担っていたことが分かります。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
正保国絵図に見る詫間郷周辺

史料Bでは、「社務供僧中検校雇頭神人有会合定之」とあります。
そして検校と惣官が署判しています。社務は神職で、署判している惣官がこれにあたるようです。検校は供僧の代表的存在、雇頭神人は名頭役を勤仕する名主のことでしょう。ここからは、浪打八幡宮名主座の運営は、社務・検校・供僧・名主の合議で行われていたことがうかがえます。そのなかでも史料Bに署判している社務(惣官)と検校が指導的な役割を担っていたようです。僧侶が神を祀る祭礼に奉仕するのは、今の私たちには違和感があるかもしれません。しかし、神仏混淆のすすんだ中世は、神も僧侶によって祀られていたのです。同時に、三野平野西部の詫間荘には、これだけのお寺や坊があって、多くの僧侶がいたことを押さえておきます。そして、その数は中世の間に、次のように大幅に増えています。
1391(明徳二)年の史料Bには、詫間・吉津・比地・仁尾の19の名。
1509(永正六)年の史料Cの頭文には、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の36名が見えます。
  別の見方をすると、浪越八幡社は36のお寺や坊が関わる地域の宗教センターであったことになります。そして、大般若経を整備したりする場合には、これだけの僧侶が写経や寄進に関わることになったはずです。
 それではこれだけの寺院に支えられた浪打八幡社は、どこの寺院の傘下にあったのでしょうか?
 それは多度津の道隆寺だったようです。中世の道隆寺明王院の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

道隆寺温故記
 
これを見ると西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。それは、その下で奉仕する僧侶達も影響下にいれていたことになります。
その中に
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

 庄内半島や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。詫間荘の浪打八幡宮の祭礼に参加する僧侶達は、道隆寺の下に組織化されていたことになります。道隆寺は讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。道隆寺の果たしていた役割については、以前にお話ししました。それを要約しておくと
①地域の学問寺として僧侶育成の場でもあり、写経センター的な役割を果たしていた。
②堀江港の管理センターの役割を持ち、塩飽など海に開かれた布教活動を行っていた
③讃岐西守護代香川氏の菩提寺として、香川氏を経済的・文化的に支援した
 このように香川氏の下で活発な活動を行う道隆寺の傘下にあったのが浪打八幡宮と、それに奉仕する詫間荘の36の寺院・坊の僧侶達と云うことになります。道隆寺は、海を越えた児島の五流修験(新熊野)との関係があった痕跡がします。熊野修験 → 児島五流 → 道隆寺 → 浪越八幡という流れが見えてくるのですが、これを史料で裏付けることはできません。しかし、このような関係の中で、道隆寺傘下の寺社は活発な瀬戸内海交易活動を展開していたと私は考えています。そして、それを保護したのが天霧城の主である香川氏と云うことになります。

以上を整理しておくと
①三野郡詫間郷は、13世紀半ばに立荘され九条家の荘園となった
②その郷社として建立されたのが浪打八幡社である。
③浪打八幡社の祭礼には、詫間荘の 詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名や寺院がローテンションを組んで奉仕していた。
④浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていた。
⑤浪越八幡宮は、その上部組織としては多度津の道隆寺の傘下にあった。
⑥道隆寺は海に開かれた寺院として、堀江港を管理する港湾管理センターの役割を果たしていた。
⑦道隆寺傘下の寺社は、道隆寺のネットワークに参加することでそれぞれの地域で瀬戸内海交易を展開した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」
関連記事

   
香川県史・中世編は、讃岐の領主的な志向をもつ神主として、次の3氏を挙げています。
大水主社(大内郡)の水主氏
田村大社(香川郡)の一宮氏
賀茂神社(三野郡)の原氏
今回は、水主神社の水主氏を見ていくことにします。
水主氏は、一宮田村大社と並ぶとされていた大水主社の「惣官」であり、「地頭」でもありました。水主氏は「惣官源盛政」「水主三郎左衛円尉源盛政」と、源姓を称していますがその出自はよく分からないようです。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
大内郡の郷名(与泰が与田)

水主氏が「地頭」として管理していた大水主社領は、大内郡の与田・入野両郷から一部を割り分けるという形をとっていました。そして両郷の残りの部分には「与田殿」「入野殿」「下村御代官」などがの荘園がありました。ここからは、水主神社の社領は、上級領主のいない一円的所領であったことが分かります。

讃岐東讃の荘園
大内郡の荘園
社領内は1386(至徳三)年の奉加帳によると「水水主分・与田郷分・入野郷分」を除いて、以下の8つの集落から構成されていたようです。
武吉・岩隈別所・中村・大古曽・原・宮内・北内・焼栗


水主神社領2

これらの地域を地図上で見ておきましょう。
水主神社領
赤い枠内が水主

三本松湾に流れ出す与田川の水源である焼栗付近から、平野部がはじまる与田寺あたりまでの谷間に当たり、現在の大字水主に相当します。奉加者名が114名いますので、それ以上の戸数があったことが分かります。
 中世になって武吉村などの各集落は、谷沿いに棚田を開いていきます。その際に農業用水確保のために、避けては通れないのが谷頭(たにがしら)池の築造です。与田川支流の小谷の谷頭に小さな池が作られます。その労働力や資金は、各集落内で賄われたはずです。こうして「水確保のための共同体」が各集落に成長します。中世の谷田開発は、このようにして進められて行きます。こうして水主神社の周辺には8つの集落が形成されます。しかし、この地域の住民は「農民」という範疇だけでは、捕らえきれない性格をもっていたようです。

水主神社大般若経と浪花勇次郎
水主神社の大般若経
   水主神社には、「牛負大般若経」と呼ばれ国重文に指定されている大般若経があることは以前にお話ししました。
この大般若経を収めるために、1386(至徳三)勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・上総公
一 細工助成、堀江九郎殿ト(研)キヌ(塗)ルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により運ばれてきた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
建保職人歌合 塗仕
塗師
ここからは、経函制作のために地元の信者達が次のように関わったことが分かります。
①経函製作用の桧用材を運送してきたのは北内・原の住人であること。北内・原は先ほど見た水主の集落名の中にありました。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家者で、馬借・車借などの陸上輸送に従事するものと研究者は考えています。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。

第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

 また、中世の引田港の船は畿内に、薪炭や薪を積んで行き来していたことが「兵庫北関入船納帳」から分かります。後背地の山々で採取された薪類が水主の馬借・車借によって集められて、引田港に運ばれていたことが考えられます。同時に彼らは、阿讃山脈を越えて阿波の南部とも行き来していたことが見えて来ます。水主は、人とモノが行き交う経済活動の中心地であったことがうかがえます。

水主氏は地頭として、このような「村」をどのように指導・支配したのでしょうか?
それを示す史料はないようです。しかし、水主氏が神社惣官として、宗教的・イデオロギー的に社領内住人を掌握していたことがうかがえるものはあるようです。
①水主の住人は、1386(至徳3)と1445(文安2)年に奉加行動を行っていること
②水主の谷を囲む山が那智山・本宮山・新宮(虎丸山)と称されていること
などから水主住民にも熊野信仰が強く根付いていたことがうかがえます。
水主三山 虎丸山

このような住民の信仰を前提として、水主氏は1444(文安四)年8月吉日に、「大水主社神人座配の事」を「先例に任せて」定めています。水主氏は惣官として神人の座の決定権を握ることで、「村」の住人とはちがう高い位置に立つことになります。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』では、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされたのです。
 旧大内郡は、13世紀後半以降は南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせることになります。例えば、神祇信仰関係の文化財を見てみてると、国指定重要文化財だけでも次のようなものが挙げられます。

P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対

大水主神社獅子頭  松岡調
木造狛犬一対
 これらは、いずれも平安時代前後のものです。この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。これらの文化遺産は、中世村落に神祇信仰の対象として偶像や神殿が造営されていく時期にちょうどあたります。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も隆盛を迎えていたのです。その保護者であったのが水主氏であったということになりそうです。そして、水主氏は守護であると同時に神官でもあったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    中世讃岐の国人領主 香川県史2 中世347P

出立随員
                    法然讃岐流刑 京都出立場面(法然上人絵伝第34巻)
法然上人絵伝で讃岐流刑の場面を見ていて思うのは、法然に多く弟子たちが従っていることです。
    法然上人絵伝 巻34第1段には、次のように記されています。

三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立することになった。その際に信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、①「力者の棟梁」として最後のお供にと御輿を用意して、②僧六十余人と馳せ参じた。
 出立輿
法然の京都出立
ここからは次のようなことが読み取れます。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
まず、私に分からないのは「力者の棟梁」です。そして、法然の教団には60人を越える僧侶がいたことです。この教団を維持していくための経済的な基盤は、どこにあったのでしょうか。これに対して、法然は、勧進集団の棟梁であり、勧進で教団を維持していたとという説があります。今回は、その説を見ていきたいと思います。テキストは「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」です。
 
高野聖(五来重 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

五来重氏は、法然の勧進僧としての出自を次のように述べます。

「法然が比叡山の別所聖であったという観点に立ってみると、聖者法然が形成されてゆく履歴苦が見えてくる」

1180(治承四)年1月に、平家によって東大寺が焼きはらわれたとき、法然に東大寺再建の大勧進聖人という名誉ある白羽の矢がたてられたことを挙げます。そして法然は「勧進の才能と聖の組織をもつていた」と指摘します。結局、法然はこれを辞退して、重源という大親分にゆずってしまいます。しかし、法然が如法経の勧進聖であったことは、いろいろな史料から実証できると云います。
 例えば『法然上人絵伝』(『四十八巻伝』)の巻九からは、先達として如法経供養をしたことが分かります。また、九条兼実が法然の下で出家し、その庇護者となったことは、よく知られたことです。その他の史料から分かってきたことは、九条兼実の舘に出入りしていた宗教者は法然だけではない云うことです。その他にも仏厳や重源などの僧侶も、九条兼実の邸に出人りしているのです。それは勧進のためだというのです。
その中の高野山の仏厳の動きを見ておきましょう。
九条兼実の日記『玉葉』には、安元三年(1177)4月11日に、次のように記します。
朝の間、小雨、仏厳聖人来る。余、障を隔てて之に謁す。法文の事を談ず。又風病の療治を問ふ。此の聖人能く医術を得たるの人なり
意訳変換しておくと
朝の間は小雨、仏厳聖人がやってきた。障を隔てて仏厳と接する。法文の事について話す。そして、風病の治療について問うた。この聖人は、医術について知識が深い人だ。

「官僧でなく、民間の験者のようなもので、医術の心得のあった人であろう」としています。
 安元2年11月30日に仏厳房がきて、その著『十念極楽易往集』六巻を見せたが、書様に多くの誤りがあるのを兼実が指摘すると、聖人は、満足してかえって行った。  
 治承元年(安元三年)十月二日には、兼実は「仏厳聖人書く所の十念極楽易往集」を終日読んで、これは広才の書である、しかもこれは法皇の詔の旨によって撰集したということだと、仏厳の才能を認めています。
どうして高野山の別所聖である仏厳が、関白兼実の屋敷に出入りするのでしょうか?
12世紀半ばになると皇族や関白などが高野山に参拝するようになります。彼らを出迎えた僧侶を見ると、誰が政府要人を高野山に導いたのかがわかります。唱導師をつとめたのは、別所聖たちです。このころに高野山にやってきた有力貴族は、京に出て高野浄土と弘法大師伝説と大師霊験を説く高野聖たちのすすめでやって来ていたようです。
性霊集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

『性霊集』(巻八)には空海の「高野山万燈会願文」(天長九年〈811)を、次のように記します。

空海、諸の金剛子等と与に、金剛峯寺に於て、馴か万燈万華の会を設けて、両部の曼茶羅四種の智印に奉献す。期する所は毎年一度斯の事を設け奉り、四恩に答へ奉らん。虚空尽き衆生尽き湿槃尽きなば、我が願も尽きなん

ここには勧進の文字はありませんが、一燈一華の万燈奉納の勧進をすすめた願文と研究者は考えています。関白道長の法成寺御堂万燈会や平清盛の兵庫港経ヶ島の万燈会などは長者の万燈でした。一般の万燈会には、燈油皿に一杯分の油か米銭を献じました。いまも法隆寺や元興寺極楽坊には、鎌倉時代に行われた万杯供養勧進札が残っているようです。
参拝者によって彩られる10万本のろうそくの灯火「高野山 萬燈供養会 ろうそくまつり」|ろうそくまつり実行委員会のプレスリリース

 高野聖たちは、空海いらいの高野山万燈会を復活することによって、 一燈一杯の喜捨をすすめていたことが分かります。寛治二年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(西南院本)には、高野山奥之院で行われた行事を、次のように記されています。

其の北頭の石上に御明三万燈を並べ置く、土器三杯に之を備ふ

ここでは土器1杯を一万燈にかぞえています。これは横着な「長者の万燈」の例かもしれません。集めた喜捨は、丸残りで高野山復興資金に廻せます。
このように勧進活動は、次のようないろいろな勧進方法がとられています。
①配下の勧進聖を都に遊行させて、奥之院に一燈を献ずることをすすめたり、
②御影堂彼岸会に結縁をすすめ、
③仁海創意による五月十四日の花供結縁をすすめる。
大国の募財は京都で仁海が貴族のあいだ廻ってすすめ、荘園からの年貢や賦役は、慈尊院政所が督促するという風に手分けして勧められたようです。これらの勧進活動で、高野山の諸堂は復興していくのです。
この聖たちの中で際立った動きを見せているのが仏厳房聖心です。
 『玉葉』の安元元年(1176)8月9日に、仏厳房の住房の塔に、「金光明寺」という額を関白兼実が書いてやったこと、おなじ堂の額を故殿(関白忠通)が書いてやったことなどが記されています。
 内大臣中山忠親の『山枕記』にも、仏厳が出入りしていたようです。忠親が治承四年(1180)3月12日に、洛外洛中の百塔請をした残り二十八塔をめぐって、常光院(清盛の泉邸内)・法住寺・法性寺・今熊野観音などをへて東寺へ行き、仏厳房のところで天王寺塔を礼拝したとあります。これは四天王寺五重塔のミニチュアをつくって出開帳の形で礼拝させたか、あるいは四天王寺塔造営の勧進をしていたかの、いずれかだと研究者は推測します。高野聖と四天王寺の関係は密接で「高野 ―四天王寺 ― 善光寺」という勧進聖の交流ルートがあったと研究者は考えています。
 つまり高野聖である仏厳が関白や内大臣の家に出入りするのは、勧進の便を得るためで、趣味や酔狂でおべっかするわけではないのです。これは西行や重源の場合みれば、一層あきらかになります。勧進聖にとって、なんといっても京はみのり多い勧進エリアです。そのため仏厳は、高野山をくだって京に入れば、高野山の本寺である東寺に本拠の房をもっていて、そこを拠点に勧進活動を勧めていたはずです。

 このころ仏厳の本職は、高野山伝法院学頭でした。
高野聖の中では、支配的地位にいました。しかし、『玉葉』や『山枕記』にみられる仏厳は、やたらに人の病気を診察したり治療のアドヴァイスをしています。そのため彼の名は『皇国名医伝』にのせられています。医学と勧進は強い関係があったようです。勧進にとって医術ぐらい有力な武器はなかったと研究者は云います。勧進聖は本草や民間医学の知識ぐらいはもっていました。また高野聖はあやしげな科学知識をもっていて、やがて鉱山開発などもするようになります。
 仏厳もそれをひけらかしていたようです。
 例えば、重源が渡来人縛若空諦をつかって、室生寺経塚から弘法人師埋納という舎利をぬすみ出します。
その時に、その真偽鑑定を九条兼実から依頼されています。(『玉葉』建久 年八月一日)。この重源の悪事も、東大寺勧進のために後白河法皇と丹後局にとりいるためのものでした。仏厳は「お互いに勧進を勧めるのは大変なことで、手を汚さないとならないときもあるものよ」と相哀れんだかもしれません。勧進聖は呪験力とともに、学問や文学や芸能や科学の知識など、持てるものすべてを活用します。文学を勧進に役だてたのは、西行でした。仏厳は雨乞などの呪験力と科学的知識と、伝法院学頭としての密教と浄土教の学問を、勧進のために駆使したと研究者は指摘します。

以上のように、仏厳が法然や重源などとともに、兼実のもとに25年の間(1170~94)出入りして法文を談じたり、兼実や女房の病気を受戒で治し、恒例念仏の導師をつとめていることが分かります。これが法然の動きとよく似ていることを押さえておきます。

話を最初に戻します。法然が九条兼実宅を訪れていた頃に、高野山の仏厳は高野山復興のための勧進に、そして重源も東大寺復興のために勧進活動のために、頻繁に同じ舘を訪れていたのです。
  
こういう視点で、最初に見た法然讃岐流刑の出立場面を、もう一度見てみましょう。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
①の「力者の棟梁」や②の60人を越える僧侶集団は、法然も勧進集団の棟梁として活動していたように、私には思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」

讃岐への真宗興正派の教線拡大は、三木の常光寺と阿波の安楽寺によって担われていたことが従来から云われてきました。前回はこれに対して、ふたつの寺の由緒を比較して、次のような点を指摘しました。
①常光寺と安楽寺は、興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって同時期に開かれた寺ではないこと
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったこと
③両寺の開基年代が1368年というのは、時代背景などから考えると早すぎる年代であること。
安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里:吉野川の河岸段丘上にある)

それでは安楽寺の讃岐布教の開始は、いつ頃だったのでしょうか。
16世紀初頭になると阿波では、守護細川氏に代わって三好氏が実権を握る「下克上」が進んで行きます。美馬郡里周辺でも三好氏の勢力が及んできます。そのような中で、大きな危機が安楽寺を襲います。
そのことについて寺史には「火災で郡里を離れ、讃岐財田に転じて宝光寺を建てた」と、そっけなく記すだけです。しかし、火災にあっただけなら再建は、もとの場所に行うのが自然です。どうしてわざわざ阿讃山脈を越えて、讃岐財田までやってきたのでしょうか。

安楽寺讃岐亡命事件

それを解く鍵は、安楽寺文書の中でもっとも古い「三好千熊丸諸役免許状」にあります。
従①興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世申候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言
      三好千熊丸
永正十七年十二月十八日              
郡里 安楽寺
意訳変換しておくと

①興正寺正寺殿からの口添えがあり、②安楽寺の還住を許可する。還住した際には、③諸役を免除する。もし、④違乱するものがあれば、ただちに(私が)が成敗を加える

三好千熊丸(長慶?)から郡里の安楽寺に和えられた書状です。日付は1520年12月ですから、亡命先の讃岐の財田に届けられたことになります。ちなみに、四国における真宗寺院関係の史料では、一番古いものになるようです。これより古いものは見つかっていません。ここからは四国への真宗布教は、本願寺に蓮如が登場した後のことであることがうかがえます。
三好長慶

 三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。

もう少し深く、三好千熊丸諸役免許状を見ておきます。
和解書というのは、騒動原因となった諸要因を取り除くことが主眼になります。ここからは③④が「亡命」の原因であったのかがうかがえます。 
③賦役・課税をめぐる対立
④高越山など真言勢力の圧迫 
親鸞・蓮如が比叡山の僧兵達から攻撃を受けたのと同じようなことが、阿波でも生じていた。これに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な一時退避行動ではなかったと私は考えています。
②の「特権を認めるからもどってこい」というのは、裏返すと安楽寺なしでは困る状態に郡里がなっている。安楽寺の存在の大きさを示しているようです。
もうひとつ注目しておきたいのは、書状の最初に出てくる①の興正寺の果たした役割です。
この時代の興正寺門主は2代目の蓮秀で、蓮如の意を汲んで西国への布教活動を積極的に進めた人物です。彼が三好氏と安楽寺の調停を行っています。ある意味、蓮秀は安楽寺にとっては、危機を救ってくれた救世主とも云えます。これを機に、安楽寺は本願寺から興正寺末へ転じたのではないでしょうか。
     
   財田亡命で安楽寺が得たもの何か?
①危機の中での集団生活で、団結心や宗教的情熱の高揚
②布教活動のノウハウと讃岐の情報・人脈
③寺を挙げての「讃岐偵察活動」でもあった
④興正寺蓮秀の教線拡大に対する強い願い
⑤讃岐への本格的布教活動開始=1520年以後
財田亡命は結果的には、目的意識をはぐくみための合宿活動であり、讃岐布教のための「集団偵察活動」になったようです。その結果、次に進むべき道がみえてきます。
④そこに、働きかけてきたのが興正寺蓮秀です。彼の教線拡大に対する強い願い。それに応えるだけの能力や組織を讃岐財田から帰還後の安楽寺は持っていました。それは、1520年以後のことになります。そして、それは三好氏の讃岐侵攻と重なります。
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「南海通記」で、讃岐への三好氏の侵攻を要約すると次のようになります。
1507年 細川家の派閥抗争で養子澄之による正元暗殺で、細川家の内紛開始。「讃岐守護代香川・安富等は、澄之方として討死」とあり、讃岐守護の澄之方についた香西・香川・安富家の本家は断絶滅亡。以後、讃岐で活躍するのは、これらの分家。一方、阿波では、勝利した細川澄元派を押した三好氏が台頭。
1523年 東讃長尾荘をめぐって寒川氏と守護代安富氏・山田郡十河氏が対立開始。これに乗じて、三好長慶の弟三好義賢(実休)が十河氏と結んで讃岐に進出し、実休の弟一存が十河氏を相続。こうして三好氏は、東讃に拠点を確保。
1543年には、安富・寒川・香西氏も三好氏に服従。16世紀半ば頃には、東讃は三好氏の支配体制下へ組み込まれた。
 そして、三好氏は丸亀平野へ進出開始。雨霧城攻防戦の末に、香川氏を駆逐し、三好氏による讃岐支配体制が完成。讃岐の国人たちは、服従した三好長慶の軍に加わり、畿内を転戦。その時に東讃軍を率いたのは十河氏、西讃軍を率いたのは三好氏の重臣篠原長房。
以上からは次のような事が分かります
①細川氏の内紛によって、阿波では三好長慶が実権を握ったこと。
②三好氏は十河氏などと組んで、16世紀半ばまでには東讃を押さえたこと
③16世紀後半になると丸亀平野に進出し、西長尾城の長尾氏などを配下に組み入れたこと
④そして天霧城の香川氏と攻防を展開したこと
  先ほど見たように「三好千熊丸諸役免許状」によって、三好氏から安楽寺が免税・保護特権を得たのが1520年でした。その時期は、三好氏の讃岐侵攻と重なります。また侵攻ルートと安楽寺の教線伸張ルートも重なります。ここからは、安楽寺の讃岐への布教は三好氏の保護を受けて行われていたことが考えられます。三好氏の勢力下になったエリアに、安楽寺の布教僧侶がやってきて道場を開く。それを三好氏は保護する。そんな光景が見えてきます。

安楽寺末寺17世紀

約百年後の1626年の安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図です。
百年間で、これだけの末寺を増やして行ったことになります。ここからは何が見えてくるでしょうか?
①阿波の末寺は、吉野川沿岸部のみです。吉野川の南側や東の海岸部にはありません。どうしてでしょうか。これは、高越山など代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。
②小豆島や塩飽などの島々、東讃にはほとんどない。
③東讃地域も少ない。大水主神社=与田寺の存在
④高松・丸亀・三野平野に多いようです。
これらの方面への教線拡大には、どんなルートが使われ、どのような寺が拠点となったのでしょうか。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(東西二つの十三重石塔が描かれている)

白峰寺の十三重石塔について以前にお話ししました。十三重石塔は、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えるようになっているようです。

P1150655
白峰寺の十三重石塔

どうして西大寺律宗は、石塔造立を重視したのでしょうか。それを解く鍵は、西大寺中興の祖とされる叡尊にあります。叡尊にとっての多重層塔の意味は何だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

叡尊上人
西大寺中興の祖・叡尊上人
叡尊上人の伝記・作善集には、次の2つがあります。
①『金剛佛子叡尊感身学正記』
②『西大寺勅謚興正菩薩行實年譜』
西大寺叡尊傳記集成[image1]

ここに記された多重層塔の造立勧進の記事を研究者は見ていきます。
「暦仁一(1238)年」八月から九月
①又流記日 四王堂八角塔塞韆講郎佛舎利可爲當殿奪乏旨顯然。故告當寺五師慈心爲彼五師沙汰。以二九月上旬。立八角五重石塔。②郎奉納予所持佛舎利一粒一畢。(中略)
從同月卅日。一寺男女奉爲供養舎利。受持八齋戒。③可爲毎月勤行

ここには次のような事が記されています。
①四王堂の中心として本尊舎利を納めていた木造八角五重塔を八角五重石塔に造りかえた、
②そして叡尊の所持する舎利を一粒納入し、復元した
③四王堂本尊舎利塔再興後は、毎月舎利供養がおこなわれた
ここからは西大寺の八角五重石塔は「当殿本尊」である仏舎利を納入する舎利塔として造られていたことが分かります。
さらに『行実年譜』の暦仁一年十月には、次のように記されています。
廿八日結界西妻而爲弘律之箋醐覺葎師羯摩菩嗜相講翌日始行二四分衆法布晦

十月二十八日に西大寺に覚盛律師をむかえて、弘律の道場としています。再興された八角五重石塔は、単に四王堂本尊の舎利を納める舎利塔としてだけではなく、弘律道場の中心的存在を示すシンボルタワーとしての意味を持つものでした。言いかえれば、舎利塔としてだけではなく、釈迦の仏体そのものを示すものとして考えられていたと研究者は指摘します。
宇治の十三重石塔
宇治の浮島十三重塔
『行実年譜』「弘安九年丙戌」の条に出てくる宇治の浮島十三重塔(1286年)を見ておきましょう。
この塔は叡尊が宇治川の大橋再建の際に建立した日本最大の石造物で、次のような銘があります。
菩薩八十六歳。宇治雨寳山橋并(A)宇治橋修造己成。啓建落成佛事。(中略)
而表五智十三會深義。(B)以造五丈十三層石塔。建之嶋上。
(A)宇治橋修造にさいして、梵網経講読に集まる聴衆の中の漁民が発心して、舟網など殺生具をなげだした。その供養として川中に小島を築き、殺生具を埋めた。
(B)石塔造立に続いて、漁人の発心によって築かれた島上に十三重石塔を造立した。
ここには宇治に建てられた十三重石塔は「五智十三会の深義」を表わすものであったことが記されています。ここからこの石塔は、宇治川の漁業禁止と宇治橋供養のため建立され、塔の下には漁具などが埋められたと伝えられます。
この石塔について『行実年譜』には、次のような願いがこめられていると記されています。
意欲救水陸有情也。所謂河水浮塔影。遠流滄海。魚鼈自結善縁。清風觸支提。廣及山野。鳥獸又冤惡報。其爲利益也。不可測也。印而教漁人。曝布爲活業。又時有龍神。從河而出來。從菩薩親受戒法。歡喜遂去亦不見矣。

意訳変換しておくと
水に映える塔影が広く世界隅々までおよび、人間はもとより生きとし生けるものすべてにわたるもので、漁民も含まれる。さらには竜神にさえも、その功徳をさずけるものである。


そして十三重石塔銘文には、次のように刻まれています

於橋南起石塔十三重於河上奉安佛舎利并數巻之妙曲載在副紙令納衆庶人等與善之名字須下預巨益法界軆性之智形上

ここからは次のようなことが分かります。
①十三重塔の塔内には、金銅製・水晶製五輪塔形舎利塔数個と功徳大なる経典・法花経などを納入されたこと
②併せて舎利を納め「法界軆性之智形」として、釈迦の仏体として造立されたものであること
③「衆庶人等與善之名字」を記した結衆結縁名帳も納入したこと
これは名を連ねた結縁者を極楽に導びこうとするものとされます。
それでは、石塔造立を行なうことで得られる功徳とは何だったのでしょうか
それについてて『覚禅抄』には、次のように記されています。
寳積經云。作石塔人。得七種功徳。一千歳生瑠璃宮殿。壽命長遠。三得那羅延力。四金剛不壊身。五自在身。六得三明六通。七生彌勒四十九重宮夢。

塔の造立者に授けられる功徳が7つ挙げられ、弥勒四十九重宮へ導びかれると説いています。宇治浮島の十三重石塔に納められた名帳に名を連ねた人は、その功徳(勧進)によって、弥勒浄土へ導びかれると説かれたのです。
 
 以上から叡尊上人と十三重石塔には、次のような関係があると研究者は指摘します。
①五智十三会の深義を表わし、仏舎利を納入することで、釈迦の仏体そのものとなっていること
②塔は弘律道場の中心で、その存在が永遠の弘律道場となるには必要であったこと。
③造塔功徳によって、衆生を弥勒浄土への道筋を示すこと
このように十三重石塔は、信者を弥勒浄土へ導くためのシンボルタワーとして不可欠なものだったようです。上田さち子氏は「叡尊の宗教活動は。こうした点でも、融通念仏、時衆、真宗仏光寺派と共通するものが認められる。」と評します。
以上を整理しておきます。
①叡尊は光明真言を、融通念仏的より簡単に功徳が受けられるようにした
②それは貴族や一部の僧侶たちだけのものから光明真言を社会の底辺まで広げることになった。
③その根本思想は、時衆などの阿弥陀如来による往生ではなく、釈迦如来における往生であった。
④十三重石塔銘文中の「釈迦如来、当来導師弥勒如来」が、そのことを物語っている。
 
西大寺律宗は、末寺をどのように増やして行ったのでしょうか?
  1391(明徳二)年の西大寺『諸国末寺帳』には、数多くの寺院が末寺として記されています。しかし、これらの寺は最初から西大寺末寺であったのではないようです。その多くは叡尊と、その死後に弟子たちによって西大寺末寺として組みこまれたものです。
それでは西大寺は、どのようにして末寺を増やして行ったのでしょうか。それと石塔造立とはどんな関係にあったのでしょうか。
叡尊の布教勧化活動を考える際に、研究者が取り上げるのが奈良の般若寺です。
般若寺 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」
般若寺の十三重石塔(宋人石工の伊行末作)

般若寺の十三重石塔と本堂と本尊の出現時期を見てみます。
十三重石塔は、石塔内に仏舎利、経巻が納入されていて、経箱には「建長五(1253)年」の墨書銘が残されています。ここから塔納入時の年代が分かります。

本尊については『感身学正記』に、次のように記されています。

建長七年乙卯 當年春比。課佛子善慶法橋。造始般若寺文殊御首楠木。自七月十七日迄九月十一日。首尾十八日。
1255年の春に、仏師善慶法橋に命じて、般若寺のために文殊菩薩像の首を楠木で作らせた。
奈良般若寺
般若寺本堂と十三重石塔
本堂については、次のように記されています。
弘長元年辛酉二月廿五日。文殊奉渡般若寺。御堂半作之間。構彼厨子。奉安置堂乾角。
1261年 製作開始から六年後に文殊菩薩が般若寺に渡され、本堂に厨子が作られ、そこに安置した。
以上からそれぞれが出現した年は以下の通りになります。
1253年 十三重塔造立
1255年 般若寺本尊の文殊菩薩像製作
1261年 般若寺本堂建立
ここからは十三重石塔は、文殊菩薩像製作開始より2年前、本堂完成より8年前には般若寺境内に造立されていたことになります。何もない伽藍予定地に、まずは十三重石塔が建てられたのです。これは現在の私たち感覚からすると、奇異にも感じます。本尊や本堂が建てられる前に、十三重石塔が建てられているのですから・・・
「伊派の石工」
      南宋からやってきた石工集団・伊派の系譜
 般若寺の十三重石塔を製作したのが伊行末(いのすえゆき)とされます。
伊行末は、明州(淅江省寧波)の出身で、重源が東大寺大仏殿再興工事のために招聘した、陳和卿(ちんなけい)などととともに来朝し、石段、四面回廊、諸堂の垣塌の修復に携わっています。正元二年(1260)7月11日に行末はなくなりますが、その後は嫡男の伊行吉(ゆきよし)をはじめとして、末吉(すえよし)・末行(すえゆき)・行氏(ゆきうじ)・行元(ゆきもと)・行恒(ゆきつね)・行長(ゆきなが)といった石工たちが伊(猪・井)姓を名乗り、伊派石工集団を形成し優れた作品を残しています。伊派石工集団の菩提寺だったのが般若寺でもあるようです。般若寺】南都を焼き打ちの平重衡が眠る奈良のお寺
  般若寺の笠塔婆(伊行末の息子・伊行吉が父母のために寄進)

十三重石塔建立の意義とは、何なのでしょうか?
『覚禅抄』の「造塔巻」建塔萬處事には、次のように記されています。
諸經要集三云。僣祗律云。初起僣伽藍時。先觀度地。將作塔 處不得在南。不得在西。應得在東。應在北。

ここには伽藍を建てる時には、まず塔造立から始めることとされています。般若寺中興も、まずは宋人石工の伊行末によって十三重石塔が造立されたようです。
1267(文永四)年に、般若寺は僧138人の読経の中で整然と開眼供養が行なわれ、再興されます。その様子が次のように記されています。
抑當寺者。去弘長年中。奉安讒尊像以來、雖不經幾年序。自然兩三輩施主出來。造添佛殿僧坊鐘樓食堂等。殆可謂複本願之昔。數宇之造營不求自成。是偏大聖文殊善巧房便與。願主上人良恵无想之意樂計會之所致也。

このように往古の姿に復興させた後、次のように管理されます。
印爲西大寺之末寺。可令管領一之由。上人競望之間。遣同法比丘信空一令住。

ここからは般若寺が西大寺末寺に置かれ、叡尊の弟子信空が責任者として管理したことが分かります。

西大寺の叡尊による般若寺復興事業の手法を整理しておきます
①叡尊と伊派石工により、十三重石塔が造立され、弘律道場とされた。
②その後に文殊菩薩像を造立し、その礎を築いた
③復興が終ると、大量の僧を動員して大イヴェントを開催して、西大寺の勢力の大きさを示し、末寺に組みこんだ
④さらに弟子信空を送り込み、 西大寺末寺の固定化をはかった。
④弟子信空は、叡尊亡き後に西大寺第二代長老となる人物である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六

      弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
  前回に天霧山の麓の萬福寺の十三仏笠塔婆を見ました。これと同じようなスタイルのものがまんのう町四条の弘安寺跡にあることもお話ししました。
十三仏笠塔婆
         弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆(まんのう町HPより)

この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に

「四條一結衆(いっけつしゅう)并」

と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。私が注目するのは「一結衆」です。今回は、この言葉を追いかけて、見えて来た事の報告です。 テキストは「川勝政太良 講衆に関する研究」です。結衆とは何だったのかを押さえた後に、笠塔婆の造立過程を物語り化する事を今回のミッションとします。まずは結衆についての情報収集です。
「結衆」は「講衆」から生まれてきたようです。
「講衆」を辞書で調べて見ると「講義を聞く大衆、講会に集る人衆」から転じて「無尽講や頼母子講など金銭の融通を目的とする講の人々」と転化していったと記されていました。よく分からないところもありますが、古代から中世から間に「仏教講義から俗社会的なもの」に変化していったようです。その間に石造物造立などの「仏教的作善」を行ったグループのことを含めて結衆と呼ぶようです。
まず、結集の起源である「講」を押さえておきます。
奈良時代に行われていた最勝会・仁王会・法華会は、それぞれ金光明最勝王経・仁王般若経・法華経を読論し、これを講義する国家的な大法会でした。平安時代に盛行した法華八講は法華経八巻を朝と夕と各二巻ずつとして四日間に八巻を講読する法会です。経を読み講じ、供養することが目的です。こうした講会は、東大寺などの国家的寺院など大きい寺で行われました。それを真似た大貴族は、自宅の仏堂などで、私的な講を行うようになります。
 鳥羽上皇の女院高陽院泰子主催の阿弥陀講について、平信範の日記『兵範記』(仁平三年(1153)六月十五日条)には、次のように記されています。 (意訳変換)
高陽院の御所は今の堀川西洞院の間、竹屋町椹木町の間の二町四方にあった。その中の御堂において阿弥陀講が営まれた。この御堂は九体の阿弥陀像をまつる九体堂で、中尊は丈六像だった。中尊の前に仏鉢に白飯を盛って供え、九体の像それぞれに香、花、燈明を供えられていた。はなやかに堂内は荘厳され、六人の僧の座の前の机に法華経一部八巻と開経(般若心経)結経(阿弥陀経)各一巻、合わせて十巻の他、阿弥陀講の式文が置かれていた。
殿上人、上達部が多く参列し、午后二時に権少僧都相源など六人の僧が着座すると、院司の顕親朝臣が挨拶し、ついで阿弥陀講がはじまった。相源を導師として、法華経開結十巻が供養され、阿弥陀講の讃文を書いた式文が説かれ、これで講は終了し、導師は座を下り、ついで僧六人に布施を下された。
 ここからは、講が講義よりも仏や経の供養に重点が移っていることがうかがえます。そして飾り立てられてヴィジュアル化した美しい行事になっていたようです。
寺での講の例としては、『大鏡』の物語の舞台に使われた雲林院の菩提講があります。
雲林院は、今の紫野大徳寺のある辺りにあったお寺で、毎年五月に菩提のために法華経を講説する法会でした。講師は、大衆にもわかるような説教をしたようです。「法華経講説」と云えば難しそうですが、要は極楽浄土信仰です。その他にも、人々を集めて弥陀来迎のようすを見せる法会の迎講もありました。それが阿弥陀信仰の広がりと供に、念仏講などの講や講衆を生みだすようです。

講や講衆はいつ、どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  その源を研究者は、奈良の元興寺極楽坊に求めます。

奈良元興寺
元興寺極楽坊
 現在の極楽坊の本堂は、鎌倉時代中期の寛元2年(1244)の再建です。その内部の柱に、田地寄進文が刻まれています。その一は、鎌倉時代はじめの貞応元年(1222)に、百日講の御仏供料として田地を寄進した文です。百日講は、百日にわたって法華経を講じた講で、極楽往生の信仰があったようです。寛元2年(1244)の本堂棟札の中には「往生講衆一百余人」とあります。ここからは極楽浄土に生れたいという講衆が百余人、本堂再建に協力していることが分かります。この寺では、このような百日講、往生講などの信者のメンバー(講衆)が育っていたと研究者は考えています。
 しかし、講衆という文字の用いられる例は、鎌倉時代のはじめには少ないようです。「仏教的作善に、多くの人が参加した」という記し方の多いようです。その後の動きを見ておきましょう。

愛知県蒲郡市勝善寺の鐘は、もともとは三河国薬勝寺の旧鐘でした。
愛知県蒲郡市勝善寺の鐘銘
三河国薬勝寺の旧鐘の銘文
承元二年(1230)に「大衆ならびに結縁衆」によって造立されたと銘文にあります。これは梵鐘造立にあたって、大勢の人々が費用を出すことに協力したもので、「事業」に参加することで縁を結ぶ人たちが多くできたという意味合いです。ここで注意しておきたいのは、最初から信仰組織があったわけではないことです。

これに対して、埼玉県の竜興寺の文永八年(1271)の板碑を見てみましょう。
   龍興寺板碑(青石卒都婆)緑泥片岩、高さ 166Cm 下幅 61Cm)

右志者、毎月廿四日結衆奉造立 青石卒都婆現当二世利益衆生也

この石塔は法界衆生の菩提をとむらうために造立され、造立者は「毎月廿四日を期日とする結衆」と記されます。そして、新平三入道以下十二人ばかりの名が見えます。「藤五郎、藤三、三平太」など、姓がない人が多いので、この土地の中級の百姓たちの結衆で建てられたことがうかがえます。この板碑の上部はなくなっているので、本尊の梵字は分かりません。しかし「毎月二十四日」とあるのは、地蔵菩薩の結縁日なので、この結衆は地蔵信仰で結ばれていたと推測できます。地蔵菩薩は六道に迷う亡者を極楽浄土に導くと説かれましたから、浄土信仰につながるものだったのでしょう。
 「廿四日結衆」の場合は、先に結衆という母胎があって、その結衆の作善として板碑が造立されたことになります。日常的に信仰活動を行うグループが作善行為として、板碑を造立しています。
 
群馬県邑楽郡千代田村赤岩の光恩寺板碑も、文永八(1271)年に造立されています。
光恩寺板碑
光恩寺板碑

板碑上部はなくなっていますが蓮座は残っています。身部に地蔵立像、下方に二十人の交名・紀年銘が次のように刻まれています。
   大檀那、阿闍梨、幸海」
藤原吉宜、紀 真正、弥五郎入道、六郎房、日奉友安、伴 吉定、田中恒吉、藤原光吉、藤原友重、藤原貞盛 藤原兼吉、大春日光行、藤原安重、藤原国元、藤原時守、平 貞吉、藤原貞口、田上則房、藤原助吉
 結集、文永八(1271)辛未、八月時正、仏蓮坊、敬白」

ここからは鎌倉時代中期の文永八年(1271)八月彼岸の中日に、大檀郡阿闇梨幸海をはじめとして、藤原吉宣、藤原兼吉、紀真正など19名が結集し造立したことが分かります。名には姓名があるので、庶民ではなく武士層か名主層の人たちの結衆だったことがうかがえます。しかし、富裕な豪族ではなく、中級階層でだったことを押さえておきます。

結衆は、一結衆とも称するようになります。
 高野山金剛峰寺の鐘は、もともとは弘安三年(1280)造立の河内国高安郡(現在八尾市)教興寺にあったものです。この銘文には「一結講衆同心合力」して奉鋳したとし、施主美乃正吉、僧教善など二十三人の名前があります。大勧進浄縁の名があるので、この勧進僧によって誘われた人々が梵鐘奉鋳のために結衆したことが分かります。一結講衆は一結衆と同じ意味です。この頃から一結衆の文字が見られるようになります。
山形県上山市前丸森板碑は、応長元年(1311)の造立です。
上山市前丸森板碑
前丸森板碑
置賜と村山を結ぶ古くからの旧道のある前丸森山の坊屋敷という所あり、高さ98㎝、最大幅52㎝の砂質の凝灰岩の碑で、次のように刻まれています。
辛四十八日念佛結衆
バン(金剛界大日)應長元年八月二十九日
亥二十人面々各々敬白
大旦那有道坊
 結衆の碑としては山形最古のものになるようです。本尊の梵字は金剛界大日如来の「バン」で、「四十八日念仏結衆等二十人面々各々敬白」とあります。阿弥陀の四十八願にならって四十八日念仏の結衆が二十人の人々で結ばれ、この供養のために板碑が造立されたようです。密教の大日を本尊としているので、密教系の念仏講のようです。中世には高野山も時衆僧侶により念仏化し、高野聖がそれを全国に広めたこと、近世最初の四国霊場では念仏が唱えられていたことは以前にお話ししました。修験者たちの廻国僧侶の活動が背景にうかがえます。

寺と密接な関係を示すのが、滋賀県大津市葛川坊町の明王院の宝簾印塔(正和元(1212)年)です。
明王院の宝簾印塔
           明王院の宝簾印塔

基礎の東側に、次のように刻まれています。
「正和元年(1312)壬子、卯月八日、奉造立之、四村念仏講衆等敬白、常住頼玄」

これは坊村ほか付近の四か村の念仏講衆で、明王院は天台宗延暦寺の別院、頼玄は明王院中興者として有名な僧です。その明王院主が念仏講衆の世話をしたことを語る遺物になります。これは天台系の念仏信仰の講衆です。
一結講衆と刻まれたものが出てくるのは、鎌倉時代末頃になってからのようです。

四条畷町逢坂の延元元年(1338)の五輪塔
    大阪府四条畷町逢坂の五輪塔(延元元年(1338)
  大阪府北河内郡四条畷町逢坂の五輪塔は、「大坂一結衆」の造立です。 地輪正面に「大坂一結衆、延元元年(1336)丙子三月日、造立之」の刻銘があります。大坂は逢坂と同じで、この集落の人たちの結衆で、地名をつけた講衆で、まんのう町四条の笠卒塔婆と同じです。

宝福寺宝塔は、永享十一年(1439)
群馬県高崎市町屋の宝福寺宝塔
この宝塔は、永享11年(1439)の造立で、次のように刻まれています。
一郷五種行結衆、村中、三人、同旦那十二人、敬白
永享十一年二月二十八日

これは、一郷の内で、僧侶が三人、村の富裕層の旦那十二人が結衆して、極楽に往生するための五種行を行った珍しいものです。浄土信仰の結衆であることがうかがえます。
  以上をまとめておくと
  ①仏教的作善の参加者は、古代には上級貴族たちのみであった
  ②鎌倉時代になると、経済的に台頭してきた中流階層にも仏教の浸透が進み、講衆(結衆)として石造物造立塔に参加するようになる。

室町時代前期までの結衆や講衆は、仏教信仰に関するものがほとんどでした。それらがやがて庶民の日常生活と結びつくものに変化していきます。つまり民俗要素が強くなります。それは表向きは、信仰のために集まりますが、念仏をとなえたあとは酒食をたのしむといった風です。それが強くなるのは室町時代中期からです。
まず六斎念仏の講衆があらわれます。
六斎日と称して毎月戒を保つべき特定の日を決めて、身をつつしみます。これと念仏とが結びついたのが六斎日の念仏講です。大阪府岸和田市池尻町の久米田寺五大院の石燈籠竿(文安五年1448年)に「六斎衆等」とあります。これと同じようなものが奈良県・大阪府中心に増えてきます。
この他にも念仏講は、さまざまな形をとるようになります。そのひとつが夜念仏です。

永享八年(1436)夜念仏板碑

 夜念仏(よねんぶつ)板碑(永享八年(1436)東京都
①塔身部表面には、周囲に枠線、上部に天蓋・瓔珞(ようらく)
②その下に阿弥陀三尊を表す梵字3字
 「キリーク〈阿弥陀如来種子〉」
 「サ〈観音菩薩種子〉」
 「サク〈勢至菩薩種子〉」
③下部の中央に
 「永享八年丙辰八月 時正敬白」
 「夜念佛供養一結衆修」
 左右に光明真言が梵字24字で陰刻
ここからは、1436年の秋彼岸に人々が集まり、死後の冥福を祈って光明真言を唱える念仏供養を行ったことを記念し造立したことが分かります。国内に残る夜念仏板碑のなかで最古の紀年銘をもつ板碑になるようです。
私の興味がある庚申板碑が現れるのも室町時代中頃からです。
庚申信仰の歴史は古いのですが、民衆に拡がるのはこの時代からです。東京都練馬区春日町稲荷神社にあった長享二年(1488)の板碑には、「奉申待供養結衆」として十四人の農村の人たちを中心とする名前が刻まれています。
以上をまとめておきます
①古代東大寺などで行われていた法会が、大貴族の舘で講としてきらびやかに行われるようになった
②古代の仏教的作善として寺院建立・仏像造営・石造物造立をおこなったのも、大貴族たちであった。
③中世になると石造物造営などの「仏教的作善」を、中層階層が講、結衆、講衆を組織して行うようになった。
④結集は、仏教信仰からスタートし、室町時代になると娯楽的要素が強くなる。
⑤人々は様々な信仰の下に結衆し、各種の石造物を寺院に寄進するようになる。
以上の情報収集をもとに、弘安寺に十三仏笠塔婆が寄進されるまでの経緯を物語風に描いてみます。
時代背景
応仁の乱が終結してからの16世紀初頭の頃のこと、管領家の棟梁は修験道に凝って、自分は天狗になるんだと女人も寄せ付けず修行三昧の日々。そのため世継ぎもできず、養子を迎える始末。それも事もあろうか3人も。3人の世継ぎ候補が現れれば、世継ぎ争いが起きるのはこの世の習い。この結果、細川家は永正の錯乱と呼ばれる泥沼状態にたたき込まれる。讃岐の有力被官香川・安富・香西などの首領も命を落とし、後継者をめぐって一族の対立が起きて、讃岐では他国に先駆けて戦国時代に突入。天霧城の香川氏も一族内紛で混乱状態へ、そこにつけいるのが丸亀平野南部で勢力を拡大していた長尾氏。長尾氏は、これ幸いにと金倉寺から多度津方面へ勢力拡大を目論む。
 讃岐の戦国時代化が進む中の那珂郡四条
16世紀の弘安寺
 白鳳時代に建立された弘安寺は古代有力者の菩提寺として建立されたが、中世になるとパトロンが力をなくし、お堂だけに小規模化し無住になっていた。そこに定着したのが廻国の高野聖。彼は阿弥陀念仏信仰をもつ修験者でもあり、十三仏信仰の持ち主でもあった。彼の同僚の中には、海運業で賑わう塩飽の海運業者を結衆に組織化し、信者を増やしているものもいた。弥谷寺の石工達に十三仏笠塔婆の制作を依頼し、それを本島や粟島に造立もしていた。さらには、天霧山麓の萬福寺や牛額寺にも寄進しているのを、五岳に修行に行った際に見ていた。それを見ていた弘安寺の聖も、布教活動が軌道に乗ると、有力者達に働きかけて十三仏結衆を組織化した。そして、1519年の秋の彼岸の日に、弥谷寺の石工達によって造られた笠塔婆が馬で四条に運ばれ、弘安寺に寄進された。そのモデルになったのは、天霧山麓の萬福寺に10年前に造立されていた十三仏笠塔婆だった。
(あくまで私のフィクションです。)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川勝政太良 講衆に関する研究 1973年
満濃町の文化と人物 立薬師の十三仏笠塔婆 満濃町誌1005P
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弘安寺跡 薬師堂
立薬師(弘安寺跡 まんのう町四条)
 まんのう町四条には立薬師と呼ばれるお堂があります。
このお堂の下には、古代の弘安寺跡の礎石が今でも規則正しく並んでいます。
DSC00923
        弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

また出土した白鳳時代の瓦は、善通寺のものと関連があり、阿波郡里廃寺の瓦と同笵である事を以前に紹介しました。ここには、もうひとつ見るべきものがあります。それが十三仏笠塔婆です。

DSC00918
弘安寺跡の十三仏笠塔婆

柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面 上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面 上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
十三の仏が笠塔婆に彫られているので十三仏笠塔婆というようです。この石造物には、年号があるので16世紀初頭のもとのと分かります。この時期は、細川家の内紛に発した永正の錯乱に巻き込まれ、在京中だった香川・安富・香西などの棟梁が討ち死にし、その後も讃岐の国人武士達が動員されていた時代です。その時代まで、弘安寺は存続していたことがうかがえます。そうだとすれば、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことになります。 

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑 - 石造美術紀行
 奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

話を十三仏笠塔婆にもどします。私は、この塔については何も知らないので、周辺知識をまずは集めていこうと思います。
同じような塔が、天霧山の麓の萬福寺(善通寺市吉原町)にあるようです。その報告記を、まずは見ていきたいと思います。テキスト「海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年」です。
萬福寺
萬福寺(善通寺吉原町)
 萬福寺は、さぬき三十三観音の霊場で、中世の讃岐西守護代香川氏の詰城があった天霧山の東山麓にあります。丸亀平野の西の端に位置して、目の前に水田地帯が拡がります。

萬福寺2
萬福寺境内から望む五岳
南側には吉原大池に源をもつ二反地川が、多度津白方方面に流れ、東側には東西神社が鎮座し、西側には十五丁の集落が旧道沿いに並んでいます。位置的には、萬福寺は十五丁集落の東端になります。また、天霧石の採石・加工場であった牛額寺が西奥にあります。
 開基は行基とされますが、不明です。もともとは吉原町本村寺屋敷にあったようですが水害を避けるため現在地に移転したと伝わります。移転時期は『讃州府誌』には正徳元(1711)年、別の記録では天正年間(1573~91)とされます。

東西神社
萬福寺に隣接してある東西神社  
『全讃史』には、「東西大明神の祠令なり」と記されています。東西神社は中世後半の中讃一帯を支配下においていた香川氏の氏神でした。萬福寺は、東西神社の別当寺として栄えていたことが推測できます。
本尊は行基菩薩の作と伝えられる聖観世音菩薩像と馬頭観世音菩薩像であります。馬頭観音が本尊である事は、押さえておきます。現在は讃岐三十三観音霊場第二十四番札所になっています。

さて笠塔婆・十三仏とは何なのでしょうか? 
①基礎の上に板状、あるいは角柱の塔身を置き、
②塔身に仏像などの種子や名号・題目などを刻んで、
③その上に笠をのせ、頂上に宝珠、もしくは相輪を立てた塔
笠塔婆

 板碑の先駆となる石塔で、平安後期に姿を見せ始め、鎌倉後期以降には多くの笠塔婆が造られたようです。最初は、追善供養や逆修供養のために造られますが、時代と共に、五穀豊穣、国家安泰、国土安全などの民衆の信仰心が深く刻まれるようになります。笠塔婆は、その後に登場する板碑の原型でもあり、同時に現在の角柱墓標などの原型ともされる石造物のようです。一番古い笠塔婆は、熊本市本光寺の安元元(1175)年のものとされます。

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真言宗の十三仏
十三仏とは、死者の初七日から三十三回忌までの法事の時に本尊とする十三体の仏・菩薩のことです。
初七日は不動明王、
二七日は釈迦如来、
三七日は文珠菩薩、
四七日は普賢菩薩、
五七日は地蔵菩薩、
六七日は弥勒菩薩、
七七日は薬師如来、
百か日は観世音菩薩、
一周忌には勢至菩薩、
三回忌には阿弥陀如来、
七回忌には阿問如来、
十三回忌には大日如来、
三十三回忌には虚空蔵菩薩
 十三仏笠塔婆は、このような十三仏信仰が基にあります。
寺の門前や村の入口、辻などに立て、先祖の冥福と仏の加護による招福除厄を祈ったのがもともとの起源のようです。成立根拠は経典にはなく、日本で独自に生まれた民間信仰なのです。そのため宗派と直接的な関係はありませんが、真言宗では檀信徒の日用経典にも十三仏の真言が取り入れられるなど、最も密接な宗派となっているようです。
 その出現当初には、九仏や十仏などいろいろな数の仏が描かれたようですが、室町期になると十三仏に定型化します。その中で在銘最古のものは、河内と大和の国境の信貴山にあります。ここと生駒山周辺に十三仏石造物は密集していので、このエリアを中心に全国に普及していったと研究者は考えています。こうして先祖供養と現世利益の両面から十三仏信仰は、庶民の間に広がって行きます。近世になると、十三仏を祀る寺院の巡拝が盛んに行われるようになります。これだけの予備知識を持った上で、萬福寺の十三仏笠塔婆を見ていくことにします。

萬福寺
萬福寺本堂への階段

十三仏笠塔婆は、階段を登った本堂横の墓地内に安置されています。
笠塔婆は南側を正面にして立てられています。基礎・塔身・笠はもともとのものですが、笠は別部材の可能性があると研究者は指摘します。部材ごとの研究者が観察所見を見ておきましょう。

万福寺笠塔婆正面
萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

 基礎は、
①高さ31cm、幅51cm、奥行き52cm。平面はほぼ正方形。
②どの面もやや粗く整形され、上面は斜めに緩く傾斜。
③石材は火山、天霧山麓に分布するの弥谷Aと分類されている
 塔身は、
④高さ71cm、幅35、奥行き35cmの直方体。
⑤側面に大きな月輪があり、加工当初から正面を意識していた可能性が高い。
⑥塔身には、方向にいろいろな印刻あり。
⑦正面(南面)には、十体以上の仏の略像が印刻
⑧略像は五段形式で、上段中央に1体、その下段に3体ずつ横並びで、3段まで確認できる。
⑨下部は剥落して確認は出来ないが、さらにもう1段があった。
⑩つまり、上段から順に1・3・3・3の計13体の略像が陰刻されていた
以上から、この塔が十三仏信仰に基づいて作られた笠塔婆であると研究者は判断します。
萬福寺十三仏笠塔婆実測図
           萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

ここに刻まれている略像を、研究者は次のように推察します。
①最上段が虚空蔵菩薩、
②2段目が左側から順に大日如来・阿悶如来・阿弥陀如来、
③3段目が勢至菩薩・観音菩薩・薬師如来、4段目が弥勒菩薩・地蔵菩薩・普賢菩薩、
④欠損している最下段には、文殊菩薩・釈迦如来・不動明王
これらは右下から左へ右上への順に並んでおり、千鳥式に配列されていると研究者は考えています。
 右側面(東面)には、上端から21cmの所に、直径約15cm、幅1,5cmの月輪が箱彫りされています。 左側面(西面)にも、上端から21cmの所に、右側面とほぼ同じ大きさの月輪が刻まれています。その下側には3行にわたり縦書きで次のようにあります。
 「永正五口(年?)」
 「戊口(辰?)」
 「八月升二日」
 この年号から室町時代中期末の永正5(1508)年に造立されたことが分かります。まんのう町の弘安寺のものが永正16年(1519年)9月21日でしたから、それよりも10年近く前に作られています。
背面(北面)には、なにも彫られていません。石材は、基礎と同じもので、同一の石塔部材と研究者は考えています。
 笠は、
①幅65cm、高さ31cm、軒厚は中央で9cm、隅で11cm
②笠幅と高さのバランスは比較的取れており、全体的に均整な形状
③軒四隅の稜線の反りは殆どなく、軒口は若干斜めに切られている。
④石材は灰褐色の火山傑凝灰岩で、安山岩と玄武岩の爽雑物を含む。
作者が指摘するのは笠の石材が基礎・塔身とは、同じ天霧石ですが異なる性質の石材が使われいることです。見た目には基礎・塔身とほぼ一致するように見えますが、石材が異なることから本来は別の部材であった可能性を指摘します。寺院が移転した時に、この笠塔婆も移動したはずです。その際に別の石造物の笠と入れ替わった可能性があるようです。しかし、笠のスタイルや塔身の年代に大きな時期差はありません。同時期の複数基の石造物があって、その間で入れ替わったとしておきましょう。以上から、この十三仏笠塔婆は、讃岐では銘のあるもっとも古い三仏笠塔婆だと研究者は判断します。
十三仏笠塔婆
まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆 

讃岐で他に紀年銘があるのは、まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆で、永正16(1519)年9月21日銘でした。
この石造物も萬福寺と同様に1・3・3・3・3の5段形式の十三仏略像で、その上部には天蓋が線刻されています。左右側面には月輪が、その内部には大日如来の種子が刻まれているなど、萬福寺例と比べて丁寧に作られています。そして、紀年銘に加えて四條村一結衆との文言もあり、造立者が推定できます。

萬福寺笠塔婆2
          萬福寺十三仏笠塔婆
この他に讃岐で笠塔婆スタイルの十三仏石造物は、次の3つがあります。
善通寺市吉原町牛額寺奥の院、
丸亀市本島町東光寺、
三豊郡詫間町粟島梵音寺
これらには紀年銘がありませんが、笠部スタイルから室町中期以降のものとされます。これらの分布位置を見ると讃岐の十三仏笠塔婆は、全てが中讃地域に分布していることになります。また、その内の2つが本島と粟島という塩飽の島です。
  このことからは塩飽諸島を拠点として海上輸送業務などで活躍した勢力が十三仏信仰と密接に関わっていたことがうかがえます。そこに、十三仏信仰を伝えた宗教集団として思い浮かぶのは次の通りです。
①庄内半島までの沿岸や塩飽に教線を伸ばしていく多度津の道隆寺
②児島を拠点に瀬戸内海に教線を伸ばす五流修験
③多度津を拠点に、瀬戸内海交易で利益を上げようとする香川氏
④高野聖や念仏聖などの活動拠点であった天霧山背後の弥谷寺
⑤弥谷寺信仰の瀬戸内側の受口であった多度津白方の仏母寺や海岸寺の前身勢力。
 対岸の吉備地域と比較検討が進めば、中世の十三仏信仰の受容集団や信仰のあり方などが見えるようになってくるかもしれません。

誰が造ったのか?

 讃岐の5つの十三仏石造物は、どれも天霧山周辺の凝灰岩で作られています。ここからは、弥谷寺や牛額寺の石工集団がこれらを制作したことが推測できます。彼らは、多量に五輪塔を作って、三野湾を経て瀬戸内海全域に供給していたことが分かっています。しかし、十三仏石造物は、讃岐で5つだけで、数が少ないので、造立者の注文でその都度、オーダーメードで製作したのかもしれません。
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院墓地で弥谷寺産天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部からの流入品である五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
萬福寺の十三仏笠塔婆が制作されたのは、Ⅱ期にあたります。
中世讃岐石造物分布表
讃岐中世の主要な石造物分布図
最後に萬福寺の十三仏笠塔婆をめぐる「物語」をまとめておきます。
①管領細川氏の讃岐西守護代とやってきた香川氏は、多度津に拠点を構え、天霧城を山城とした。
②細川氏は氏神を東西神社、氏寺を弥谷寺として保護した
③氏寺となった弥谷寺には、数多くの五輪塔が造られ安置された
④弥谷寺周辺には、凝灰岩の採石場が開かれ専門の石工集団が活動するようになった。
⑤弥谷寺の石工は、坂出の白峰寺の石造物造営などに参加する事で技術を磨き成長した。
⑥弥谷寺石工集団は、三野湾から瀬戸内海エリア全体に石造物を提供するようになる。
弥谷寺 石造物の流通エリア
           天霧石製石造物の流通エリア

このように、香川氏の保護の下で成長した石工集団がいたことが、弥谷寺や牛額寺の採石場の存在からうかがえます。そこに、十三仏信仰という新たなモニュメントが宗教集団によって持ち込まれてきます。それを最初に受けいれたのは、塩飽の海上運輸に関わる人たちだったのでしょう。彼らが天霧山周辺の石工に制作を注文します。そこで、作られたものが自分たちの島に安置されます。同時に、香川氏の縁のある寺院にも寄進されたと私は推察します。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年
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  真宗王国と言われる讃岐では、910ヶ寺あるお寺の内の、約半分は真宗寺院です。そして、その中の半分が興正寺派に属するという特色があります。わが家も興正寺派の門徒で江戸時代に、お寺と一緒に現在地に移住してきたという言い伝えを持ちます。わが家のご先祖さんは信仰心が強かったようです。今でも家族が集まる新年会や盆には、座敷の床の間には「南無阿弥陀仏」の六寺名号を掲げて、最後に正信偈をみんなであげてお開きとなります。集落の常会も、つい最近までは持ち回りで各家を廻って、仏壇のある座敷で最後は正信偈を挙げていました。これも「お座(講)」の名残のようです。
 そういう中でこんなやりとりが交わされたりします。
「真宗の御本尊はなんな?」
「それは南無阿弥陀仏の六寺名号やろ」
「親鸞さんは、仏さんは目に見える物ではない、形にできるものではないというたげなで」
「ほんなら仏壇に、阿弥陀さんの木仏は奉ったらいかんのな?」
「そなんことはないわな、お寺にやって阿弥陀さんを祀っとるとこあるで」
というような真宗の「偶像崇拝論争」が発生して、論争の火の子がこちらに飛んでくることもあります。そこで、こちらもそれなりの「理論武装」のための知識を知っておくことが必要になります。そのためにかつてまとめた「真宗の本尊」レポートを、アップしておきます。
 親鸞当時の御本尊と御絵像
浄土真宗の開祖・親鸞は、偶像排除に徹底した態度を示しました。
親鸞の場合、信仰の極地は、色も形もない真如そのもので、光りのようなものであると説きます。具体的には「尽十方無尋光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)」と名付け、その如来の呼び声として「帰命」の二字を加え、「帰命尽十方無尋光如来」の十字の名号を本尊とします。(『中世真宗思想の研究』重松明久)
親鸞が掲げていた十字名号を見ておきましょう。
親鸞聖人御真筆 黄地十字名号 (高田本山専修寺 蔵) | 同朋舎新社 公式ショップ
親鸞の十字名号
よく知られているのが、高田専修寺所蔵の十字名号本尊です。中央に籠文字の「帰命尽十方無尋光如来」の十字名号があり、その上下に、親鸞が83歳の時の自筆の銘文があります。
「帰命」(きみょう)とはサンスクリット語で、自己の身命を差し出して仏に帰依すること。
「尽十方無碍光如来」(じんじっぽうむげこうにょらい)とは阿弥陀仏のことです。阿弥陀様の光明があまねく全世界を照らして妨げるものが無いという意味になるようです。

 親鸞は、名号本尊の他に、勢至・龍樹・天親・曇鸞・善導・聖徳太師・源信・法然・聖覚等の絵像を尊像として礼拝し、その事蹟を絵像に書き加えて、弟子たちを教えたといわれています。

親鸞鏡御影
鏡御影(親鸞)
  もう一つのご本尊は、親鸞の絵像です。
生前のものとしては、「鏡御影」と「安城御絵」の2つで、ともに西本願寺に伝えられています。

親鸞鏡御影コピー
鏡御影(コピー)

鏡御影は、鎌倉時代の肖像画の名手藤原信実の子専阿弥陀仏が描いたものです。親鸞が立ち姿で描かれ、その上に覚如筆の讃名があります。親鸞の面貌は鏡に写したかのように繊細に描かれているのに対し、その着衣は素描風で、親鸞の寿像といわれています。讃名は「正信偈」の文で、覚如が延慶3年(1310)に修理した際に、現在の文に改められたようです。

親鸞安城御影2
安城御影
安城御影は、御影の上に書かれた銘文が、親鸞83歳の時の筆跡です。
絵は建長七年(1255)に法眼朝日が描いたものです。常陸国真壁の親鸞の直弟子真仏房の弟子で、親鸞には孫弟子にあたる専海という僧が、三河にあってよく親鸞に仕えたしるしとして親鸞から授かっていました。それを本願寺の第三世の覚如の長男存覚が、専海の弟子照心房に乞い願って本願寺に譲り受けたもので、鏡御影と同じ様に礼拝されてきたようです。
光明本尊は、名号本尊の初期のもので、親鸞の後に用いられるようになった本尊です。これは念仏する人々を残らず救済しようとするようすを表した曼荼羅様式の絵画で、浄土真宗独自の画像です。

光明真言
         光明本尊   
光明本尊には、上下の欄に経典が賛として記されています。賛(さん) とは仏徳などをほめたたえることばです。
①中央に九字名号(南无不可思議光如来:なむふかしぎこうにょらい)と書かれ、名号光明が放射状に36本描かれる。
②左右両側に釈迦如来・阿弥陀如来立像と十字名号・六字名号
③右方上部に日本の浄土系高僧を示す絵系図
④左方上部にはインド・中国の浄土系高僧を示す絵系図
この種のものは、光明品(こうみょうぽん)とも呼ばれるようです。
宗派によって中央の名号本尊と、左右の人物に一部違いがあります
下図は、聖徳太子を中心に日羅上人や蘇我馬子ら聴衆が描かれています。
絹本著色光明本尊(けんぽんちゃくしょくこうみょうほんぞん ...
       光明本尊 光照寺(福島県坂下町)

最初に触れたように親鸞は偶像崇拝を避けようとしたはずです。
どうして親鸞後に、このような絵像本尊が生まれてきたのでしょうか?
聖衆来迎図
聖衆来迎図
 研究者がそのきっかけとなったとして挙げるのが聖衆来迎図です。浄土宗では弥陀の来迎を信じて、来迎会の法要を営んでいました。そこに阿弥陀仏が聖衆を従えて、やや右向きで死者を出迎え、釈迦仏がやや左向きに死者を見送っている聖衆来迎図(迎接曼茶羅)が掲げられるようになります。これが次第に、真宗僧侶の「偶像崇拝」への抵抗感を弱めていく働きをしたというのです。
  次に考えられるのは、親鸞やその直弟手たちが尊信した善光寺信仰の影響です。
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善光寺の曼茶羅図様は光明本尊によく似ており、後背からの一つの光明が、阿弥陀仏と観音・勢至の三尊仏を照らしています。善光寺の一光三尊形式は、光明本尊の三名号形式に引き継がれていると研究者は指摘します。
光明本尊から、左右上下の人物や化仏を取り去って、中央の名号と上下の銘文だけを残したのが名号本尊になります。
 名号は、先ほど見たように親鸞の十字名号が最も早く用いられます。
スタンド掛軸 真宗大谷派の脇掛 十字名号・九字名号 小(脇侍・2枚セット) :kakeziku17-05:仏壇・仏具販売-仏壇屋 滝田商店 - 通販  - Yahoo!ショッピング

その後に、九字名号、八字名号、七字名号などが登場します。
九字名号は、南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい、なもふかしぎにょらい)で、これも「阿弥陀如来に深く帰依いたします」です。
八字名号
楽天市場】【床掛軸】七字名号「南無釈迦牟尼仏」手書き (直筆/手書き/肉筆)◇高級桐箱付き/金襴表装《曹洞宗・臨済宗・黄檗宗用》法事 法要 床の間  床軸 掛け軸 床掛軸 手書掛軸 掛軸 法事 お彼岸 お盆 : ごくらくや
七字名号

そして蓮如によって、六字名号(南無阿弥陀仏)が、名号本尊の中心とされるようになります。しかし、蓮如も最初は十字名号を使っていたようです。

もともとの名号本尊の形は、蓮台の上に金字の名号を描き、名号と金色の四十八条の光明の線を切金細工で現わし、上下に親鸞以来の十字名号と同文の讃文を墨書したものです。蓮如によって、金色の四十八条の光明が加えられ、絹本着色の美しいものとなります。

正覺寺 絹本着色 阿弥陀如来絵像 文化遺産オンライン
方便法身尊像
名号本尊の名号に換わって、光を発する阿弥陀如来の絵像を置いたのが、絵像本尊(方便法身尊像)です。
 その背景には阿弥陀如来を登場させるときに、聖衆来迎図の阿弥陀像との関係が問題になったようです。なぜなら親鸞は生前に、阿弥陀如来の来迎について次のように記しているからです。

真実信心の行人(ぎょうにん)は、摂取不捨のゆえに、正定衆のくらい(死ねば必ず極楽浄土で仏になることが約束されている人)に住す、このゆえに臨終をまつことなし、来迎をたのむことに信心のさだまるとき往生また定まるものなり。(「建長三歳閏九月二十日親鸞消息」)

 「来迎をたのむことに信心のさだまるとき往生また定まるものなり」とあり、親鸞は阿弥陀仏の来迎を認めていなかったことが分かります。そこで登場するのが今までにない阿弥陀さまです。聖衆来迎図に描かれている右向きの阿弥陀仏でない真向きの阿弥陀仏が生まれます。これを「マムキ(真向)の本尊」としてある寺院が末寺に下付するようになると、各派は真似るようになります。こうして絵像として正面を向いた阿弥陀如来絵像が本尊として、信仰対象になっていきます。
光増寺-寺宝:真向如来尊像・三名号
光増寺(東京都葛飾区東金町)

15世紀後半には現れた蓮如は、どんな本尊と礼拝物を下付していたのでしょうか。それを見ておきましょう。

蓮如の十字名号.jpg帰命尽十方無碍光如来
 蓮如が初期に下付した名号本尊(縦103.6cm、横38.3cm)
「帰命尽十方無碍光如来」の名号本尊です。この十字名号には別に裏書(縦48cm、幅23cm)があり、そこには次のように記されています。
大谷本願寺 釈 蓮如 
寛正五年甲申五月七日 
方便法身尊号 
尾張国羽栗郡 河野道場本尊也 
願主 釈 善性」

ここからは、この十字名号が大谷本願寺の蓮如により、尾張国羽栗郡(岐阜県各務原市)の河野道場の本尊として、寛正5年(1464)5月7日に善性へ下付されたものであることが分かります。
注意したいのは、寺院名でなく「河野道場」であることです。
このように蓮如は、寛政6年(1465)までは、本尊として光明十字名号を下付していたことが分かります。

蓮如の十字名号2
蓮如下付の十字名号

それは紺地に金泥の文字で名号を現わし、四十八条の金色の光明を加え、名号や光明の細い線を切金細工で現わされています。上下には、赤黄・白などで彩色された色紙に銘文を書かれています。
しかし、寛政六年(1465)に比叡山の襲撃を受けて以後は十字名号の下付を取り止めます。
紙本墨書蓮如上人名号[しほんぼくしょ・れんにょしょうにんみょうごう] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)
蓮如の名号本尊
換わって下付するようになるのが「南無阿弥陀仏」の六字名号の墨書です。吉崎では一万以上の六字名号を書いて下付したといわれます。

蓮如上人御真 筆 六字名号 | 同朋舎新社 公式ショップ


そして六字名号の下付とともに、先ほど見た絵像本尊として「マムキ(真向)の本尊」も下付するようになります。
それは蓮台に立つ尊像と四十八条の光明のみで、化仏や人物、名号等一切のものが捨て去られたものです。古いものは像容全体の線を繊細な切金細工で仕上げていましたが、次第に墨書の本尊に移っていきます。
蓮如は、親鸞絵像や七高僧の絵像、自らの絵像をはじめ歴代門主の絵像も下付しています。親鸞の影像は、札盤の上に経綱模様(同色系統の濃淡を段層的に現わした紋様)の縁をつた畳を置き、その上に座しています。これは天皇や上皇の像と同じスタイルです。その他の影像は、麗縁の畳の上に座したものです。

蓮如は、これらの礼拝物を統一・分類して、次のような形で門末へ下付しました。
①名号や絵像を  「本尊」
②開山絵像を   「御影」
③蓮如や門主の影像を「真影」
下付する時には、表画に添えて裏書を添付しています。その裏書は、中央上部に表画の題を書き、下部に右から下付者の署名、下付年月日、在所(充所)、本末関係、願主(法名)の名が書かれます。裏書は、別紙に書かれたり、表画の裏紙の左上部に墨書されています。表装される時に、表画裏左上部に張りこまれ、改装される時には、裏書の部分を切り取つて表画に張りつけて、表画が本山から下付された証拠としたようです。そのため下付された寺院では、これを大切に保存して今に伝えられているものが多いようです。
戦国末の天正期になると本願寺には、絵所が置かれて専門職員が礼拝物の製作を行うようになります。
そして、礼拝物のサイズによって価格が次のように決められていたようです。
基本的な御影の大きさ 
 縦三尺三寸(約1m)、横一尺四寸(13㎝) 銀一貫匁
②小形のものは一般の信者対象で個人用
 唐紙六つ切りで、縦一尺寸四分(37㎝)、横五寸八分(17㎝) 銀500代
 唐紙八つ切りで、縦一尺(30㎝)、横四寸八分(14㎝) 銀300代
重要文化財 鎌倉時代13 14世紀 宗祖大師親鸞聖人熊皮御影 工芸印刷 賢美閣 古書 古文書 仏書 仏教 浄土真宗本願寺 掛け軸 掛軸  書画(人物、菩薩)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)
親鸞御影

こうして蓮如は、本願寺と末寺や道場の間に、次のような関係を結んでいきます。
①仏前勤行に「正信偈」を読むことで、七高僧の教えを門末に教え
②御文によって親鸞と門末を結び
③御本尊と礼拝物の規格を統一して作成・下付し、本山との結びつきを強め
④その後の礼拝物の修繕までも本山で行うことで、本末関係を永続化させる。
以上の一連の流れで、門末を統制することに成功したと研究者は考えているようです。

見てきたように、真宗の礼拝物はほとんどが掛軸です。
そのため「掛け軸教団」と揶揄されることもあるようです。しかし、阿弥陀如来像だけは木造の本尊が奉られていました。例えば、山科にあった本願寺の阿弥陀堂の本尊は、木造の阿弥陀如来像でした。
 慶長6年(1603)正月に、東本願寺は上野厩橋の妙安寺に伝わっていた親鸞聖人の本像を迎えて、本願寺から分立します。いわゆる本願寺の東西分裂です。以後、両者は激しい戦力拡張運動を展開して、しのぎを削るようになります。翌年、西本願寺では分立後の勢力維持のために、地方の念仏道場に、寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。こうして、慶長7年から寛永19年までの約40年間に、183カ所の道場に木仏を下付しています。

尊光寺本尊 本寺からの下付
尊光寺(まんのう町種子)に下付された木仏本尊
下付された木仏が損傷した時や、寺格が昇進した時には再度下付されているようです。名号中心といっても、木仏を完全に無視することはできなかったことがここからはうかがえます。

   しかし、念仏者たちは蓮如の次の教えを大切にしています。
他流(他の仏教宗派)に、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流(本願寺)には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」
(蓮如上人御一代聞書69条:浄土真宗聖典註釈版1253頁)

阿弥陀如来の救いの本質は、ただただ名号にありという意味です。このことを決して忘すれるなということでしょう。

以上をまとめておきます
①浄土真宗には3つの本尊(木物本尊・絵像本尊・名号本尊)がある
②親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を本尊とした。
③以来、本願寺では本尊といえば十字名号であった。
④その中で蓮如は、本尊を「六字名号」に変更した。
⑤第9代実如の頃から「絵像本尊」が、主流になった。
⑥江戸初期に本願寺が東西に分裂すると、両派は教勢拡大のために競って、木仏が下付されるようになった。そのため「木物本尊」が一般的となった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  以前に中世の弥谷寺には、どんな「僧」たちがいたのかをお話ししたことがあります。それを振り返っておくと次のようになります。
①行人・聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、行場が中心で善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかった
②弥谷(寺)は、善通寺の「別所」で、阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいた
③行人層は、自分の生活は自分で賄わなければならなかったので、周辺のムラで托鉢行や布教活動も行った。
④治病や死者供養にも関わり、わかりやすい言葉で口称念仏を広めた。
⑤弥谷寺や白峯寺は高野聖たちの阿弥陀信仰の布教拠点となった。
 地方の有力寺院の僧侶は、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていました。
学侶(学頭)は、僧侶身分の最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する学頭も中央の大きな寺院にはいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。それに対して、ほとんどは「衆徒(堂衆)」だったと研究者は考えています。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般に衆徒は武装し、僧兵としても活動する者も多かったようです。中世の白峯寺や善通寺に僧兵がいたことは充分に考えられます。
 13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②「勤行次第」を書いた薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③「勤行次第」は、重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
A白峰寺の子院の多くが高野聖などの修験者が管理運営者であったこと
B子院やそこに集まる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。類は類をよぶで、廻国の宗教者たちにとっては、人気のある行場があり、しかも立ち寄りやすい施設がいくつもあったのでしょう。

白峯寺 別所拡大図
白峯寺古図に描かれた「別所」

 中世の白峯寺には「別所」と呼ばれるエリアがあったことは、以前にお話ししました。
「別所」は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰」の念仏聖たちの活動拠点であった可能性があります。ちなみに白峯寺の別所は、かつての行場で現在は奥の院に最も近い位置にあったことが分かっています。

白峯寺 別所3
白峯寺の本堂と別所跡
このような別所や子院では、衆徒に奉仕する行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成していたことが考えられます。そして、衆徒の中にも行人と一緒に修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、その区分も曖味だったようです。また、彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったようです。そのために、雲辺寺・小松尾寺・金倉寺などは、中世には真言と天台の両方の「学問寺」であったと伝えられます。
観音寺山を愛する会
伊吹山観音寺の伽藍図(明治29年)
長浜城主であった羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名な話です。この舞台となった伊吹山観音寺は、修験道の拠点の一つでした。その僧侶構成を見てみましょう。
①学僧(清僧すなわち独身者)・
②衆徒(妻帯)・
③承仕・
④聖(本堂聖・鎮守聖・太鼓聖・鐘撞聖・灯明聖)
④の聖とは堂衆にあたる職掌です。ここの出てくる学僧以外は、妻帯者でした。修験道の拠点寺院では、衆徒たちの多くは妻帯し、社僧などもしばしば妻帯していたことを押さえておきます。
   伊吹山観音寺の1303(乾元2)年の文書には、次のように記されています。
「(衆徒集団が)寄進地の坊領や修正行、大師講などの宗教活動のための料田としての配分や分米等を掌握」

 こうした事例からすると、中世の白峰寺や弥谷寺なども、衆徒にあたる人々が中心に運営が行われていたと考えるのが自然のようです。中央の門跡寺院や本山クラスの大寺とちがって、清僧の学侶を多数置く必要性がありません。「白峰陵の護持」が存在理由だったとすれば、学侶がいなくてもなんら不都合はないはずです。むしろ、バイタリティのある衆徒達が意思決定権を持っている方が、中世の時代に自力で維持運営をするには好都合だったかもしれません。
以上をまとめておくと
①中世の讃岐の山岳寺院は、学僧的な僧侶はほとんどいなかった。
②寺院は子院の連合体で、集団指導体制であった。
③その院主達は、衆徒出身で修験者にかぎりなく近く、妻帯しているものも多かった。
④また彼らは武装している入道も多く僧兵としても働いた。 
④については中世の善通寺には、武装した僧侶がいたことを以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



大黒天 | 天部 | 仏像画像集

前回はインドのシヴァ神の化身だった大黒天が、日本にやって来て「打出の小槌と俵」をアイテムに加えることで富貴のシンボルとして信仰されるようになるとともに、日本神話の大国主神と混淆していく過程をみてきました。今回は、大黒天のその後の発展過程を見ていくことにします。  テキストは「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」です。
もとはインドの大魔神であった・大黒天│沖縄県那覇市の密教護摩祈祷、祈願寺

室町時代になると、打出の小槌を持ち、俵の上に乗る日本独自の大黒天は、盛んに信仰されるようになります。
そして室町時代末期に七福神が考え出されると、大黒天はそのメンバーに仲間入りします。夷・大黒天・毘沙門天・弁才天・福禄寿・寿老人・布袋の七つを、七福神といいます。福禄寿と寿老人は同じものであるので、このどちらかのかわりに吉祥天を加えることもありました。
大黑天 七福人
七福人に仲間入りした大黒天
大黒天の流行の中から新たに登場してくるのが三面大黒天と勝軍大黒天です。
三面大黒天は、大黒天・弁才天・毘沙門天を合体させて三面六胃像になります。三面大黒天の持ち物は、一定してないようですが、延暦寺のものは俵に乗り、その中面は大黒天で剣と宝珠を持ち、左面は弁才天で鍵と鎌を持ち、右面は毘沙門天で鉾と宝棒を持っています。まずは、この登場の背景について見ておきましょう。
大黑天 比叡山

   比叡山では最澄が唐からもたらした大黒天は、各院の食厨に大黒天像が祀られ、修行僧たちの生活を維持してくれる神として崇敬されてきました。そんな中で、比叡山では護国の三部経の尊が次のようにされます。

大黑天 比叡山2
大黒天は『仁王経』
弁才天は『金光明経』
毘沙門天は『法華経』
つまり、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することになるとされたのです。三面大黒天を祀ることは三部卿信仰にもつながることになります。この言い伝えを拠り処にして、三面大黒天は成立したと研究者は考えています。
三面大黒天のご利益と効果

 こうして比叡山で登場した三面大黑天は、今までは黒くて怖い顔から、次第に柔和な親しみやすい面相に変化していきます。蓮の葉の上に立っていた木像も、俵の上に載せられるようになります。
 三面大黒天へと変身することによって、新たな「流行神」として、京都の人々に受け入れられて大流行します。文化の中心である京都での流行は、地方に伝播していきます。こうして、比叡山で信仰されていた大黒天が、三面大黑天に変身することで、全国的デビューを果たしたことになります。それは室町末期の風流や流行神の時代背景の中でのことのようです。
三面大黒天信仰 新装2版の通販/三浦 あかね - 紙の本:honto本の通販ストア

こうして誕生した三面大黒天のその後を見ておきましょう。
室町末期に七福神がグループとしてデビューし、大黒天はそのメンバーに迎え入れられます。そして、七福人の人気が高まるにつれて、大黑神の認知度も上昇し、より多くの人々に信仰されるようになります。この上昇気流が、三面大黒天という新たな大黒天を生み出したことを押さえておきます。大黒天信仰が盛んなのを見た延暦寺の僧は、全く新しい民衆のニーズにあった大黒天をつくって、民衆の信仰を得ようとします。それだけの柔軟性が比叡山にはあったことになります。
大園寺の勝軍大黒天
      勝軍大黒天(目黒区大園寺)

 三面大黒天と同時に考案されたのが勝軍大黒天のようです。
勝軍大黒天は黒い唐風の甲冑をまとい、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負って、臼の上に右足を垂らして座っています。臼に座っているのが勝軍大黒天がポイントのようです。臼は脱穀や精白を行うための道具で、精白をした米を入れる容器です。俵と臼は密接につながっています。俵に乗る大黒天の影響を受けて、勝軍大黒天は臼に座わる姿で登場したようです。
 比叡山延暦寺大黒堂の勝軍大黒天は、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、額上に如意宝珠の付いた宝冠を戴き、身に甲をまとい、自の上に左足を垂らしています。延暦寺本坊の勝軍大黒天は、右手に手三量貢を持ち、左手に宝棒を持ち、宝冠をかぶって、臼の上に右足を垂らして座っています。
 .東京都目黒区大園寺の勝軍大黒天は、左手に金嚢を持ち、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、甲冑をまとい、臼の上に左足を垂らして座っています。
大将軍
京都大将軍八神社の大将軍神
勝軍大黒天の成立の背景を研究者は次のように考えています。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であるというのです。大将軍神像は、衣冠束帯の座像と立像が二十二体、武装の座像と半珈像が四十三体あります。

大将軍2
 武装の半珈像(京都の大将軍八神社)
武装の半珈像の中には、右手に剣を持ち、左手の人差し指と中指を揃え立てて印を結び、唐風の甲冑をまとい、岩座の上に左足を垂らして座ったものもあります。このような大将軍神半珈像と、『南海奇帰内法伝』に出てくる大黒天半珈像を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天と研究者は考えています。勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。

「大黒天+大将軍神」=勝()軍大黒天

ということになるというのです。そうだとすれば勝(将)軍大黒天の甲冑は、大将軍神から貰ったものになります。
江戸時代になると大黒天はさらに人気が高まり、様々な種類の大黒天像が造られます。
江戸期の『仏像図彙』には、次の六種の大黒天が載せられています。
「摩訶迦羅大黒、比丘大黒、王子迦羅大黒、夜叉大黒、摩訶迦羅大黒女、信陀大黒」の六種です。これについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神に取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②日本に伝わってきた大黒天は「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、それを背負うために立姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。
⑦室町時代になって七福人の仲間入りすることで流行神の性格を帯びるようになり、新たな大黑新が生まれてくる
⑧比叡山では三面大黑天や勝(将)軍大黒天が登場し、京都の庶民の流行神となる。
⑨それが各地に伝播し、江戸時代になると大黒天ファミリー版の六種大黒も登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
      「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」
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大黒天 シヴァ神
踊るシヴァ神
インドのヒンズー教では、次の神々を三大神として信仰しています。
ブラフマー 創造
ヴィシュヌ 維持
シヴァ   破壊
仏教は、ヒンズー教で信仰されていた神々を数多く取り込みます。三大神の中でも、ブラフマーとシヴァは、仏教にとり入れられ、ブラフマーは梵天になり、シヴァは大自在天・青頚観音・摩臨首羅・大黒天に「権化」します。
 シヴァ神が恐ろしい戦闘神になる時には、三面六腎で全身に灰を塗り、黒い色になります。大黒天のことをマハーカーラとも云いますが、マハーは「大」、カーラは黒の意味のようです。

大黒煙1

大黒天のル―ツは戦闘神のシヴァ神で、次のふたつの姿を持っていることを押さえておきます。
①戦闘モードの忿怒の三面六腎大黒天
②福神モードで袋を持った一面二臀大黒天

密教の胎蔵界曼荼羅には、三面六臀大黒天が描かれています。
大黒天は、胎蔵界曼茶羅では外金剛部中の左方第三位にいます。

三面大黒天 マハーカーラ 青面金剛 三宝荒神 庚申塔 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市
大黒天(マハーカーラ)
そこでは①「全身黒色で忿怒怒相をしていて、火髪を逆立てた三面六腎像」=忿怒の戦闘モード」のお姿で描かれています。
その姿を見ておきましょう。
①右第一手は、剣を握って膝の上に置き、左第一手は一手は剣の先端を持ちます。
②右第二手は合掌した人間の頭髪を握ってぶらさげ、左第二手は白羊の角を握ってぶらさげます。
③左右の第三手は象の生皮を背後に掲げます。首には髑髏を貫いたネックレスをかけ、腕には毒蛇を巻いて腕輪としています。体には人間の死灰をを塗り、黒色になっています。
大黒天4

これが怒りモードの大黒天のようです。大黒天の怒りの姿は余り見ることがないので、これが大黒天と云われてもすぐには信じられない姿です。これも「権化」としておきましょう。

しかし、インドのマハーカーラ神は、あまり見かけることのない神で、ヒンドゥー教のなかではそれほどポピュラーな存在ではなかったようです。それがどうして、日本にやってくると大黒天として、大人気をよんだのでしょうか。それはマハーカーラ神が日本で、独自の進化発展・変身をしていったからのようです。
 日本の大黒天には、次の四種の姿があるようです。
①忿怒相としての大黒
②天台系寺院に見られる武神の装束を身につけ、左手に宝棒、右手に金袋を持つ像
③袋を背負った立像
④「三面大黒」で、正面が大黒天、脇の二面が毘沙門天と弁財天
①②も大黒天として日本に入ってきましたが庶民に信仰されることはありませんでした。庶民から信仰されるようになったのは③です。そして、その後に④が生まれてくると云う流れになるようです。

マハーカーラ神からの変容については、弥永信美氏が次のように述べています。
誰にも知られ、親しまれている大黒天が、古来、日本の密教では恐ろしい像容をもって描かれていることを知っている人は、それほど多くはないかもしれない。たとえば、もっとも普及した現図胎蔵曼荼羅の図像では、大黒天は摩訶迦羅という名で知られ、三面六臂、前の二手では剣を横たえ、、右に小さな人間を髪つかんで持ち、左に山羊の角をつかみ、後ろの二手は、左右で象の皮を被るように広げている。曼荼羅の数々の忿怒相の諸尊のなかでも、これほど恐ろしい形相の尊像は多くはない。「おめでた尽し」の福の神・大黒天が、一方ではこの恐るべき忿怒の形相の摩訶迦羅天と「同じ神」であるとは、いったいどうしたことなのだろう。(略)
つまり大黒天とは、本来、ヒンドゥー教のシヴァ神の眷属であったのが仏教の守護神とされ、さらに厨房の神から日本では福の神として信仰されるようになった、というふうに要約することができるだろう。弥永信美『大黒天変相』74-76P
真読】 №18「大黒天、寺の食厨(くり)を守る」 巻一〈祈祷部〉(『和漢真俗仏事編』読書会) - BON's diary

          インドの大黒天(マハーカーラ)

求法のためにインドに赴いた義浄の「南海寄帰内法伝」には、大黒天について次のように記します。

西方の諸大寺処にはみな食厨の柱側に於て、或は大庫の門前に在りて木を彫りて形を表す、或は二尺三尺にして神王の状を為す。坐して金嚢を把(と)り、却(かえ)って小状に鋸し、一脚を地に垂る。毎に油を将(も)って拭ひ、黒色を形と為す。(中略)淮北には復た先に無しと雖も、江南には多く置く処あり。求むれば効験あり、神道虚に非ず。

ここからは次のようなことが分かります。
①インドの諸大寺では食厨の柱や大庫の入口に高さ二尺(約60㎝)~三尺(約90㎝)の二臀大黒天の本像を安置していていたこと、
②その木像は片手に金嚢を握り、小さな台の上に片足を垂らして座っていること。
③人々は供養のため、油でそれらの木像を拭うので、黒く光っている。
④中国の江南地方では、よく二腎大黒天を祀っているが、淮北地方では全く祀っていない

  大黒天のルーツは、ヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身・破壊と戦闘を司る神マハーカーラでした。
戦闘色の強い忿怒の神で、その名前の意味は「偉大なる暗黒」です。「黒」の文字が「大黒天」につながっているようです。しかし、私たちの大黒天のイメージは、財福の神として、温和な姿の大黑さまです。ここに出てくる大黒天とマハーカーラはイメージが違います。それがどんな風に繋がっていたのでしょうか?

大黒天 長谷寺
長谷寺の大黒天 片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っている。

平安時代になると、日本でも大黒天信仰が広がります。
最澄・円仁・円珍などの入唐した天台の高僧が、大黒天を請来します。最澄は大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置します。最澄が請来して延暦寺の食厨に安置した大黒天は、インドで義浄が見たものと同じもので、片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っています。

覚禅(平安末期~鎌倉前期の頃の僧侶)の著した『覚禅抄』に、三態の大黒天の次のような図が載せられています。

大黒天三体
           大黒天三態
①左 『伝神憧記』の大きな袋を背負って立つ一面二臀大黒天
②中央『南海奇帰内法伝』の小さな金嚢を持ち、片足を垂らして座る一面二腎大黒天、
③右  胎蔵界曼茶羅の忿怒相をした三面六臀大黒天
③→②→①の順に「進化」していくようです。
真ん中の大黒天の嚢を強調して生まれたのが、左側の大黒天のようです。嚢を強調した結果、小さな金嚢は大袋になります。大きな袋を背負うために大黒天は立ち姿になります。
 最澄が入唐した時、中国ではインド伝来の②の大黒天が盛んに信仰されていました。そのため最澄は②の大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置したと研究者は推測します。①や③の大黒天は、その後に円仁や円珍が請来したのでしょう。③の大黒天が伝えられると、③の大黒天が②の大黒天に取って代わり、②の大黒天は衰退し、現在ではお姿を見ることはなくなりました。②の大黒天は室町末期に勝軍大黒天に生まれ変わり、信仰を集めますが、それまでは鳴かず飛ばずでした。
大黒天三態

福岡の観世音寺にある藤原時代初期作の大黒天像を見ておきましょう。
大黒天 観世音寺
観世音寺の大黒天像
この大黒天像は左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。

奈良の文化と芸術 松尾寺の大黒様
松尾寺の大黒天
奈良県矢田松尾寺や奈良県興福寺南円堂脇納経所にも、観世青寺のものに似た大黒天像があって、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握るスタイルです。
木造大黒天立像(だいこくてんりゅうぞう) - 法相宗大本山 興福寺
興福寺の大黒天

この二つの大黒天像は、観世音寺のものより新しく、鎌倉時代前期のものです。しかし、これを大黒天といわれても「????」です。何かが足りないのです。それは、打ち出の小槌と米俵と、温和な笑顔でしょう。それは、後で見ることにして・・。

大黒天2
打ち出の小槌を持ち、俵の上に立つ大黒天
この大黒天が神話に出てくる大国主命と混交します。
『古事記』上巻の「大国主神と菟と鰐の条」には、次のように記されています。(要約)
大国主神とその兄弟の八十神は、因幡の八上比売に求婚するため、因幡の国に出掛けたが、大国主神には大きな袋を背負わせて、従者として連れていった。途中の海岸で隠岐島から鰐(鮫)を欺いて本土に渡った菟が、本土の寸前で欺いたことがばれて鰐に皮をはがれて泣いているのに出会い、八十神は出鱈目の治療法を教えた。しかし、大国主神は正しい治療法を教えて菟を救った。八上比売は八十神の求婚を断り、大国主神を夫とした。

ここからは、大きな袋を背負った大国主神と大きな袋を背負った大黒天とが混交して、同一視されるようになったことがうかがえます。
仏像の種類:大黒天とは、ご利益や真言】ふくよかな七福神…しかし実は武闘派戦闘神!開運最強の三面大黒天!|仏像リンク

③の大黒天に打出の小槌と俵が与えられるのは鎌倉時代の後期になってからです。

日本独自の、打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、俵の上に乗る大黒天の登場です。佐和隆研『日本密教 その展開と美術』(NHKブックス323P、昭和41年)323Pには、次のように記されています。

「版画で仏像をあらわしたものをもって、それをお守りにするということは天台、真言両系統で行なわれていた。そのお守りは「九重のお守り」と言って、それぞれの系統の修験者、ひじりたちが本山から受け取って地方に持ちまわって、売り歩いたものである。このお守りの起源がいつごろまで遡りうるものか、文献的には明らかでないが、鎌倉時代末期ごろにはあったと推定されている。このお守りは、諸種の種子曼茶羅を中心としたものをはじめとして、日本人の信仰の対象になっている、多くの諸尊の姿をならべたものなど、種々の系統のものがある。この最古の例は金沢文庫所蔵の一本で、鎌倉時代末期ごろと推定されている。」

ここからは鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」が使われたこと分かります。
大黒天 九重守

「九重のお守り」には、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになります。

九重守・九重守経・九重御守
九重守りに印刷された仏たち

林温「荼枳尼天曼荼羅について 仏教芸術』二一七号、毎日新聞社発行、1994年)には、「九重のお守り」について、次のように記されています。(要約)
奈良県西大寺蔵の木造文殊菩薩騎獅像内に納入された九重のお守りには、「弘安八年(1285)二月信聖」という記がある。この九重のお守りは、諸種の曼茶羅・真言・図像などを列挙したもので、図像だけでも六十三種が印刷されている。釈迦や観音といった伝続的な仏尊の他に、日本で変貌した日本独自の仏像も登場する。例えば、十五童子を眷属として従えた弁才天(宇賀弁才天)、白狐の上に乗った天女子・赤女子・黒女子・帝釈使者の四天を従えて剣と宝珠を持った女神が辰狐の上に乗る荼枳尼天(だきにてん)、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天などが印刷されてている。
 神奈川県称名寺蔵木造弥勒菩薩像内に、右に良く似た九重のお守りが納められていた。称名寺の九重のお守りには西大寺の九重のお守りにない地蔵十三や晋賢十羅刹女があり、西大寺の九重のお守にはある天形星が称名寺の九重のお守りにないとか、西大寺の九重のお守りの聖天は人間の男女が抱き合うものであるのに対して称名寺の九重のお守りの聖天は象頭人身の男女が抱き合うものであるといった、若干の違いは存在するけれども、基本的には両者は合致するものである。
 称名寺の方が西大寺よりもいくらか古く、弥勒菩薩像内に、納入されたその他の多くの品とともに弘安八年(一二七八)頃のものと思われる。
ここからは、鎌倉時代後期には九重のお守りの尊像の一つとして、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天が、印刷されていたことが分かります。

鎌倉時代の大黒天は、左で大きな袋を背負い、右手は拳を握っていました。
このような大黒天に打出の小槌と俵を与えることで、日本独自の打出の小槌を持ち、大きな袋を背負い、俵の上に乗る大黒天が生まれたようです。興福寺走湯や河内大黒寺の大黒天彫像は、左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、俵の上に乗っている姿です。その姿から鎌倉時代後期のものとされます。鎌倉中期から後期の初めにかけての頃に誕生した日本独自の大黒天は、最初は九重のお守りにとり入れられ、それがやがて彫像とされるようになったようです。

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神にに取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②中国では特に「富貴福禄」の部分に焦点が当てられ信者が増えた。
③日本に伝わってきた大黒天も「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、大きな袋を背負うために大黒天は立つ姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」に、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになり、広範に知名度を上げていく。
⑦知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。

大黑神と大国主の混淆
大黒天と大国主の混淆まで

以上、インドのシバ神の化身が、日本神話の大国主神と混淆するまでの物語でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。

 讃岐の中世遺跡の発掘調査によって分かってきたことのひとつが、平安時代末から鎌倉時代にかけての時期が、新田開発の一つの画期があったことです。新田開発を進めたのは、その多くは武士団の棟梁であったり、有力な農民たちです。中には、西遷御家人としてやってきた東国の武士たちが進んだ治水技術で、水田化した所もあります。その代表が高瀬郷にやってきた秋山氏で、残された秋山文書から水田や塩田開発の様子がうかがえます。
 こうして新たに拓かれた新田には、新たな集落が形成されていきます。そして、村の安全と豊穣を願って氏神、産土神、鎮守や村堂、あるいは、五穀成就を祭る社祠への奉仕を厚くしたり、新たに祭神を勧請するなどの宗教活動が盛んに行われるようになります。
 
今回は中世の小松荘(現琴平町)の神社を見ていくことにします。
テキストは「小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P」です。

琴平 本庄・新庄
琴平の本庄と新庄

小松荘は、藤原氏の本流である九条家の荘園として立荘されます。

琴平町内には現在も「本庄」という地名が残っています。これは、琴平町五条の金倉川右岸で、現在の琴平中学や琴平高校周辺になります。この地域の農業用水は、大井八幡神社の出水を水源地としています。ここからは大井八幡神社は古代以来の湧水信仰に基づき、その聖地に水神が祀られ、中世になって社殿などの建造物が建てられるようになったことがうかがえます。
 大井神社から南を見ると買田峠の丘の上には、かつては古墳時代の群集墳が数多くあったようです。また、現在の西村ジョイの南側の買田岡下遺跡からは郡衙跡的な遺構も出ています。さらに、東南1㎞の四条の立薬師堂には、白鳳時代の古代寺院の礎石が並んでいます。そして、丸亀平野の条里制施行の南限に位置します。古代には大井神社付近に、丸亀平野の有力氏族がいたことがうかがえます。
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榎井の春日神社の出水と水神社

 早くから開発されたこの地域は立荘化され、本庄となります。その後、新庄が開発されたようです。そのエリアは金倉川の伏流水が流れる榎井の春日神社の出水を農業用水として利用するエリアです。それは、榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域のようです。
琴平 本庄・新庄2
石川城跡と小松庄新庄

 現在は春日神社と呼ばれています。俗説では「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたようです。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
新庄氏・本庄氏については、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)といわれる『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーの一族の者のようです。もともと、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。
 こうして見てくると、この春日神社は新庄氏や、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことがうかがえます。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
金毘羅街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社も、もともとは旧金倉川の出水を水神として祭る神社です。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社と金刀比羅街道
石井神社周辺拡大(金毘羅参詣名所図会)

 石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。

大般若経転読法要(興福寺) - 奈良寺社ガイド

 神仏混淆の進んだ中世の郷社的神社では、別当寺の供僧よって大般若経の転読が神社で行われるようになります。
大般若経が村々を回って、お経を転読するさいの「般若の風」が疫病神を払い、郷村に繁栄と平和をもたらすとされました。そのため地方の有力寺社は、こぞって大般若経六百巻を書写し、保管するようになります。その書写方法は、僧侶のネットワークを利用したもので、各地の何十人もの僧侶が写経には関わるようになります。それを組織したのが与田寺の増吽のような有力な「勧進僧侶」でもあったようです。
石井神社と春日神社は、中世後半期に両社で大般若経を共有保管していました。それが分かる史料があります。
金井町 - Wikiwand
佐渡郡金井町

新潟県佐渡郡(佐渡島)金井町の大和田薬師教会に、比叡山の僧朗覚が延暦寺大講堂落慶に際して、元徳四年(1332)から延元5年(1340)にかけて写経をした大般若波羅蜜多経六百巻が所蔵されています。その巻四以降の巻数に移管した時の註記が記され、そこに次のような文言が後補されています。
① 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮 両社御経也」
② 「両社 御経」
③ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 為令法久住読之坊中」
④ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮」
⑤ 巻二十四の巻頭には「讃州財田庄八幡宮流通物也」
ここからは次のようなことが分かります。
A 仲郡小松荘の石井八幡宮と榎井大明神(春日神社)に保管されていた大般若経の一部が、佐渡島まで伝来したこと
B 春日神社は「榎井大明神宮」と呼称されていたこと
C ⑤からは、石井・榎井神社に所蔵されていた時に、その欠落巻を「讃州財田庄八幡宮」から補充したこと。
Cの財田庄八幡宮は鉾八幡神社(三豊市財田町)のことで、鎌倉時代の木造狛犬を所蔵する古社です。ここにも大般若経が収蔵され、転読が行われていたことがうかがえます。

第980話】 「般若の風」 2015(平成27)年3月11日-20日 | 曹洞宗 光明山 徳本寺

佐渡の金井町文化財指定の解説は、次のように記されています。

「この写経は、叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していたが、慶長十年(1605)、法印快秀の手によって畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、南北朝以降から慶長十年までの間は、もともとは小松庄の石井・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。地方の有力寺社では、毎年期日を決め、恒例行事として転読が行われていたのは先ほど述べた通りです。
次に疑問になるのは、転読を主催していた「石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社」のことです。これはどこのお寺だったのでしょうか?

比叡山と石井八幡宮と榎井大明神宮の関係についてはよく分かりません。小松庄の近辺の木徳荘は延暦寺領でした。16世紀末の讃岐の戦国時代の中で、焼き討ちや押領で衰退した別当寺が手放したことは考えられます。それを周辺の比叡山に関係する僧侶が手に入れ、持ち帰り、それが法印快秀の手に渡り、佐渡にもたらされたという仮説は考えられそうです。ちなみに、小松荘に隣接する真野荘は、智証大師(円珍)の園城寺領でした。また、叡山僧→延暦寺比叡山座主慈円→九条家→小松荘という関係も考えられます。

まんのう町の郷
真野郷と小松郷の関係

榎井大明神や三井八幡の別当寺として私が考えるのは、隣接する真野郷岸上の光明寺です。
光明寺については以前にもお話ししましたが、金毘羅大権現の出現以前の丸亀平野南部において、大きな勢力を持っていたと考えられる真言系密教山岳寺院です。ここは「学問寺」でもあり、多くの僧侶を輩出してています。高野山の明王院の住持を勤めた岸上出身の2人が「歴代先師録」に、次のように記されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれ、勝義の弟子で、光明院と兼務」

「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らを輩出した岸上の光明寺は「学問寺」としてもが繁栄していたこと
③それが金毘羅大権現が現われると、その末寺に組み込まれ衰退していったこと

まんのう町岸の上 寺山
岸上村に残る寺山・寺下の地名 光明寺跡推定地

   当寺の真言系僧侶は学僧だけでは認められませんでした。
行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされました。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。岸上の光明院の行場ゲレンデは、次のような辺路ルートが考えられます。
①金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルート
②大麻山から尾野瀬寺や仲村廃寺の奧の大川山、あるいは萩原寺を経て雲辺寺など
近世になって、大麻山に金毘羅神が現れ、松尾寺別当金光院が生駒家からの手厚い保護を受けるようになると、丸亀平野南部の宗教地図は大きく塗り替えられていきます。中世に栄えた山岳寺院が衰退していくのです。これは、金光院院主宥盛の修験者としての力にもよるものなのでしょう。多くの天狗(修験者)たちが彼の下に集まり、周辺山岳寺院を圧迫吸収していったようです。それは、尾背寺(まんのう町新目)をめぐる抗争からもうかがえます。そして、自分の腹心の修験者を送り込み、最終的には廃寺化させています。その際には、仏像・仏具・聖典などが、金光院に運び込まれたことが考えられます。
 明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
 さらに想像を加えると、榎井大明神(春日神社)や石井八幡社の別当寺は、光明寺ではなかたのかということです。光明寺の聖典類も売却されます。ちなみに、岸上は真野荘に含まれ、智証大師(円珍)の園城寺領でした。この縁から圓城寺を通じて畿内に運ばれ、それが佐渡にもたらされたという「仮説」を私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P
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南北朝初期の康永元年(1342)ごろの善通寺の寺領目録には、次のような寺領が記されています。
善通寺々領目録
①壱円(善通寺一円保)
②弘田郷領家職善通寺修理料所
③羽床郷萱原村誕生院領
④生野郷内修理免
⑤良田郷領家職
⑥櫛無郷内保地頭職 当将軍家御寄進
己上
この目録によると善通寺領の一つとして⑥に「櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」と記されています。ここからは善通寺が「櫛無郷内保地頭職」を所有し、それが「当将軍=足利尊氏」の寄進によるものだとされていたことが分かります。この寺領の由来や性格について、今回は見ていくことにします。テキストは「 善通寺誕生院の櫛無社地頭職  町史ことひらⅠ 135P」です。

⑥が誕生院に寄進されたときの院主は、宥範になります。
宥範については以前にお話ししましが、櫛無郷で生まれた名僧で、「贈僧正宥範発心求法縁起」によると、彼は善通寺の衆徒たちに寺の再興を懇願されて、次のような業績を残しています。
元徳三年(1321)7月28日に、善通寺東北院に居住
建武年間(1334~38)に誕生院に移り
暦応年中(1338~42)より、五重塔並びに諸堂、四面の大門、四方垣地などをことごとく造営
こうして宥範は善通寺中興の祖といわれます。
その宥範が観応元年(1352)7月1日に亡くなる5日前の6月25日に、法弟宥源にあてて譲状持を作成しています。そのなかに次の一項があります。
一、櫛無社地頭職の事、去る建武3年(1336)2月15日将軍家ならびに岩野御下知にて宥範に成し下されおわんぬ。乃て当院の供僧ならびに修理等支配する者也

  意訳変換しておくと

一、櫛無神社の地頭職については、去る建武3年2月15日将軍家と岩野氏の御下知で宥範に下されたものである。よって誕生院の供僧や修理などに供されるものである。

ここからは誕生院の持つ櫛無保の地頭職は櫛無社地頭職ともいわれ、建武3年(1336)2月15日に、足利尊氏と「岩野」家より宥範に与えられたものであることが分かります。ここで「岩野」家が登場してきます。これが宥範の実家のようです。これについては、後で触れることにして先に進みます。
建武の新政 | 世界の歴史まっぷ

建武三(1336)年2月の讃岐を取り巻く情勢を見ておきましょう。
この年は鎌倉から攻め上った足利尊氏が京都での戦に破れて九州に落ちていく時です。尊氏は後備えのために中国・四国に武将を配置します。この中で四国に配されたのが細川和氏、顕氏で、彼らには味方に加わる武士に恩賞を与える権限が与えられます。和氏、顕氏はこの権限を用いて各地の武士に尊氏の名で恩賞を約し、尊氏方に従うよう誘ったのです。讃岐においても、細川顕氏が高瀬郷の秋山孫次郎泰忠に対して次のように所領を宛行っていたことが秋山文書から分かります。
讃岐国高瀬郷領家職の事、勲功の賞として宛行わる所也、先例を守り沙汰致すべし者、将軍家の仰によって下知件の如し
建武三年二月十五日        兵部少輔在御判
           阿波守在御判(細川顕氏)
秋山孫次郎殿            
日付を見ると、誕生院宥範が櫛無社地頭職を与えられたのも同じ日付です。ここからは、この宛行いも目的は同じで、顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院に所領を寄進して、その支持を取り付けようとしたものであることが分かります。
櫛無郷

ここで疑問に思えてくるのが島津家が持っていた櫛無保の地頭職との関係です。
貞応三年(1324)以来、櫛無保守護職は薩摩守護の島津氏が地頭職を得ていたはずです。これと誕生院が尊氏から得た櫛無保内地頭職(櫛無社地頭職)は、どのような関係にあるのでしょうか
このことについて、別の視点から見ておきましょう。
「善通寺文書」のなかに、建武五年(1328)7月22日に、宥範が櫛無保内の染谷寺の寺務職を遠照上人に譲った譲状があります。
染谷寺とは持宝院のことで、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。この寺伝には、文明年中(1469~86)に奈良備前守元吉が如意山に城を築く時に寺地を移したと伝えられます。もともとは、この寺は、島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中ににあったようです。譲状の内容を要約して見ておきましょう。
染谷寺(持宝院)は宝亀年中(770~80)の創立で、弘法人師御在生の伽藍であるが、年を経て荒廃していたのを、建久年間(1190~98)に、重祐大徳が残っていた礎石の上に仏閣を再建した。さらに嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立した。これより以来「偏に地頭家御寄附の大願所として」、珍慶・快一・尊源・公源・宥範と歴代の住持が御祈躊を重ねてきた。
 宥範も寺務職についてから多年御祈躊の忠勤を励んできたが、老齢になったので、先年門弟民部卿律師に寺務職を申し付け、努めて柴谷寺に住して「地頭家御所願の成就を祈り奉る」よう命じていた。ところが、民部卿律師はこの十数年京都に居住して讃岐の寺を不在にして、宥範の教えに違背した。そこで改めて奈良唐招提寺の門葉で禅行持律の和尚であり密宗練行の明徳である遠照上人を染谷寺寺務職とし、南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与することにした。しからば、長く律院として、また真言密教弘通の寺院として興隆に努め、「天長地久の御願円満、殊に地頭家御息災延命御所願の成就を祈り奉るべき也」

「嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立」とありますが、この年は島津忠義が櫛無保の地頭に任じられてから12年後のことになります。「地頭御寄附の大願所」とあるので、珍慶の伽藍建立には、地頭島津氏の大きな援助があったことがうかがえます。荘園領主や地頭が、荘民の信仰を集めている荘園内の神社や寺院を援助、保護する、あるいはそれがない時には新たに建立することは、領主支配を強化する重要な統治政策です。島津氏も染谷寺に財物や寺領を寄進して再建を援助することで、信仰のあつい農民の支持を取り付け、また自身の家の繁栄を祈らせたのでしょう。  また「南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与」とあるので、持宝院は周囲の谷に広がる田畑や山林を寺領として持っていたようです。
櫛梨
持宝院(現在は廃寺)
こうして見ると「⑥櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」というのは、櫛梨保全体のことではないようです。
善通寺寺領の「⑥櫛無郷内保地頭職」は、櫛梨保の一部であったものが、染谷寺(持宝院)が島津氏によって建立された際に、寺領としてして寄進されたエリアであると云えそうです。そのため櫛無保における誕生院の地頭職と島津氏の地頭職は、互いに排斥し合うものではなく両立していたと研究者は考えています。
 そうだとすると誕生院の「櫛梨社地頭職」というのは、櫛無保の一部を地頭職の名目で所領として与えられたことになります。また「櫛無地頭職」ともあるので、櫛無神社の社領であったところでもあるようです。荘園の一部が荘内の寺院、神社に寄進されて自立した寺社領となることは、よくあることでした。櫛無神社は、神櫛皇子を祭神とし、「延喜式」の神名帳に載る式内神社です。
 この推測が当たっているとすれば、神仏混淆が進んだ南北朝・室町時代には、櫛無神社も誕生院の管領下にあったことになります。つまり櫛無神社の別当寺が善通寺で、その管理は善通寺の社僧が行っていたことになります。櫛無神社の祭礼などのために寄進された田地は、善通寺が管理していたようです。
 讃岐忌部氏の氏寺で式内社の大麻神社が鎮座する大麻神社の南には、称名寺というお寺がありました。
宥範も晩年は、この寺で隠居しようと考えた寺です。この寺も善通寺の末寺であったようです。善通寺で修行し、後に象頭山に金比羅堂を建立した宥雅も、称名寺に最初に入ったとされます。彼は西長尾城主の弟とも伝えられ、長尾一族の支援を受けながら称名寺を拠点に、象頭山の中腹に新たな宗教施設を造営していきます。それが金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の始まりになります。
 私は、称名寺・瀧寺・松尾寺などは、善通寺の「小辺路」ルートをめぐる修験者たちの行場に開かれた宗教施設が始まりと考えています。櫛梨の公文山にある持宝院も、広く見ればその一部であったと思うのです。それらの管理権は、善通寺が握っていたはずです。例えば、江戸時代になって善通寺誕生院が金毘羅大権現の金光院を自分の末寺として藩に訴え出ていることは以前にお話ししました。これも、当寺の善通寺が管理下に置いていた行場と辺路ルートにある宗教施設を考慮に入れないと見えてこないことです。

  最後に宥範と実家の岩野家について見ておきましょう。
  14世紀初期の善通寺の伽藍は荒廃の極みにありました。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように、隠居地の称名寺に嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
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櫛梨城跡から南面してのぞむ櫛無保跡 社叢が大歳神社 

そして、建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
 これは先ほど見たように「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。宥範には有力パトロンとして、実家の岩野一族がいたことを押さえておきます。

 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧が管理運営していたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。

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       琴平町上櫛梨小路の「宥範僧正誕生之地」碑
 別の研究者は、次のような見方を示しています。

  「大歳神社の北に「小路(荘司)」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

櫛梨保の現地管理人として島津氏が派遣した「保司」が居館を構えていた跡に大歳神社が建立されたと云うのです。そして、宥範の生地とされる場所も、この周辺にあります。つまり、岩野氏は島津氏の下で、櫛梨保の保司を務めていた現地の有力武将であったことになります。当寺の有力武将は、一族の中から男子を出家させ、菩提を供来うとともに、氏神・氏寺の寺領(財産)管理にも当たらせるようになります。宥範もそのような意図を持って、岩野家が出家させたことが考えられます。
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    「宥範墓所の由来」碑(琴平町上櫛梨)背後の山は大麻山
 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。
 それを見て、長尾城主もその子を善通寺に出家させます。それが、先ほど見た宥雅で、彼は一族の支援を受けて新たな宗教施設を象頭山中腹に造営していきます。それが現在の金刀比羅宮につながります。

   以上をまとめておくと
①鎌倉時代の承久の変後に櫛無保地頭職を薩摩守護の島津氏が得て「保司」による支配が始まった
②島津氏は櫛梨保の支配円滑化のために式内社の櫛無神社を保護すると共に、新たな信仰拠点として、持宝院を建立し寺領を寄進した。これが「櫛無郷内保地頭職(櫛梨社地頭職)」である。
③その後「櫛無郷内保地頭職」は、南北朝動乱の中で細川顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院宥範のの支持を取り付けようとして、誕生院に寄進された。
④その寄進に対して、宥範の一族である岩野氏も同意している。
以上からは、岩野氏が櫛梨保の「保司」あるいは「荘司」であり、宗教政策として櫛梨保内の寺社などの管理権を一族で掌握し、ひいては善通寺に対する影響力も行使していたことがうかがえます。宥範の善通寺伽藍再興も、このような実家である岩野氏の支援があったからこそできたことかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐・金倉寺 - SHINDEN

金倉寺の所領についての一番古い記録は、享保19年(1734)に寺僧了春僧都が著した「鶏足山金倉寺縁起」のようです。
そこには弘仁初め(810年頃)と仁寿二年(852)の二度にわたり、和気宅成が父道善の建立した自在王堂(金倉寺前身)を官寺として租税を賜わらんことを奏請し、この希望が許されて、田園32町が寄せられたと記します。さらに延長六年(928)には、それまで道善寺と称していた寺名を金倉寺と改め、金倉・原田・真野・岸上・垂水の租税を納めて寺領としたとも記されています。
 寺に古くから伝えられていることのようですが、この史料は江戸時代に書かれたもので同時代史料ではありません。和気氏の氏寺である金倉寺や、佐伯直氏の善通寺が官寺になったことはありません。寺領についてこれをそのまま信じることはできません。またこれを裏付ける史料もないようです。
その後の寺領について手がかりとなるのは「金蔵寺立始事」で、その後半は主に所領関係のことが次のように箇条書きで記されています。
一 宇多天皇御宇(智證)大師御入寂、寛平三年十玄十月廿九日年齢七十八。
一 村上天皇御宇天暦年中、賀茂御油田御寄進、応徳年中里見に除く。
一 土御門御宇建仁三年十月日官符宣成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。
一 亀山法皇御宇文永年中、良田新開官符宣御下知状下し賜い畢んぬ。
一 徳治二年、金銅薬師如来出現し給う事、天下其の隠れ無き者也。
一 高氏将軍御代貞和三年七月二日、小松地頭職御下知状給い早んぬ。
一 管領細河弘源寺殿御代永享二年九月廿六日、良海法印御申有るに依って、諸公事皆免の御判成  され畢んぬ。寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                                                
一 細川右京大夫勝元御時、享徳二年十二月廿八日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。
  法憧院第五代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
意訳変換しておくと
① 智證大師が寛平3(892)年10月29日に78歳で入寂。
② 天暦(947~57)年中に、賀茂御油田が寄進された。応徳年中里見に除く。
③ 土御門の治政、建仁三年十月日官符が下され、上金倉の寺の敷地が寺領となった。
④ 亀山法皇の治政文永年中に、良(吉)田新開の官符がくだされ寺領となった
⑤ 徳治二年、金銅薬師如来が出現し、天下に知られるようになった。
⑥ 高氏将軍の治政の貞和3年7月2日、小松庄の地頭職下知状が下賜された。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                         
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。
  法憧院第五代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
ここに書かれている金倉寺の寺領を今回は見ていくことにします。テキストは「金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P」です。    
まず最初に②の天暦年中(947~57)に寄進を受けたとあるの「賀茂(鴨)御油田」を見ておきましょう。
讃岐國多度郡鴨庄南方内金蔵寺御油畠
合参段者
右件の御燈油は、往古従り本器五升得りと雖も、自然の慢怠致すに依って、当年自り本器七升七合に改め、御燈油之を定め、毎年榔怠無く弁進す可く候。若し少分未進致し候はば、罪科に処せ被る可く候者也。乃って請文の状件の如し。
延文六年卯月五日                                   時光(花押)
意訳変換しておくと
讃岐國多度郡鴨庄南方の金蔵寺御油畠について
合計3段の御燈油は、古くから本器五升を金倉寺に納めていたが、次第に慢怠になってきた。当年からは本器七升七合に改め、毎年怠りなく納めるように定める。もし、不足や未進があれば、罪科に処せられる。乃って請文の状件の如し。
延文六(1361)年卯月五日            時光(花押)
ここからは次のようなことが分かります。
①賀茂御油国(畠)があったのは、多度郡鴨庄南方であること
②ここに金倉寺に燈油を納入する畠二段が定められていたこと
③納入額は昔から五升と決められていたが、納入を怠ることが多かったので、延文六年に七升七合に値上げされたこと
④時期は南北朝混乱期で細川頼之の讃岐統治以前のこと
金倉 鴨
葛原郷鴨庄の北鴨と南鴨

鴨庄は、多度津の道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
嘉元二(1304)年
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、重修造伽藍」

ここからは鴨庄が、道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたようです。葛原郷には、すでに賀茂社領葛原郷がありましたが、それとの関係は分かりません。
 この御油畠は、金倉寺が直接所有しているのではなく、鴨庄内に指定された三段の田から収穫される燈油五升を、金倉寺分として送付されるにすぎないこと、そして燈油の徴収と送付は鴨荘の役人によって行われたこと、この請文を提出した時光が、その役人であると研究者は考えています。
所有形態は分かりませんが、鴨庄からの御油の収納は、天暦年中という寄進の時期が事実とすれば、平安時代の前期から南北朝・室町時代のころまで、時おり「憚怠」があったとしても、ながく続いたことになります。

善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺の寺領

次に良田郷にあった金倉寺の寺領です
④には亀山法皇の文永年中に、良(吉)田新開が寺領となったとあります。
これは「善通寺文書」の建冶二年の院宣や弘安四年の官宣旨の中にもでてくるので裏付けられます。弘安の官宣旨では、次のように記されています。
凡そ同郷(良田郷)内東寄田畠荒野三十餘町は、国領為りと雖も、去る文永五年始めて智證大師生所金倉寺に付せらるるの刻、宣旨を下され畢んぬ。

ここからは、寄進地が良田郷東側の国衙領で、面積は田畑・荒地を含む30町であったことが分かります。ちなみに良田郷西側は、善通寺の領家職だったことは以前にお話ししました。
「金倉寺立始事」に「良田新開」とあるのは、寄進地に荒地が多く、開発によって開かれたことを示しているようです。寄進は官宣旨によって行われたと記されているので、善通寺良田郷と同じように、智証大師生所という理由で金倉寺から申請があり、亀山天皇の承認によって行われたと研究者は考えています。
 嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
次に室町時代ころの金倉寺寺領について分かる史料を見ておきましょう。
(追筆)
「法幢院之講田壱段少  大坪」
拾ケ年之間可有御知行年貞之
合五石者 
右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。
                                           金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日                   
   澁谷殿参
これは借金(米)の証文のようです。明応四年(1495)12月、金倉寺法瞳院が渋谷殿という人物に負債がありました。その返済方法として、良(吉)田石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が納入する年貢米を毎年五石ずつ10箇年間渋谷へ渡すことを契約しています。また大坪助左衛門屋敷・同太郎兵衛屋敷一段小を抵当に入れ、返済ができなかった時はそれを引渡すことにしています。
 法瞳院は金倉寺の塔頭一つです。
金倉寺文書の一つに応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があり、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺のなかにはこれら多くの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。他の史料にも一乗坊、東口坊などの名があります。法憧院はこれらの僧坊の中心で、善通寺における誕生院のような地位にあったようです。

良田郷石川
良田郷石川周辺 現在の善通寺東部小学校周辺

 この法憧院の証文中にある「石川方」については、現在稲木地区に石川という地名が残っています。
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は推測します。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとはこれらの農民の住居があったところかもしれません。
 文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしていたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返ります。

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。 
法憧院々領之事
一町九段小 供僧 
ニ町三段大   此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田
護摩供 慶林房
三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩
一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也
己上
岡之屋敷二段 指坪一段
已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日
一 乗坊先師良允馬永代菩提寄進分
一、②護摩供養 慶林坊 三段半
  此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也
一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院領のうち二町五段は供僧(本尊に供奉(くぶ)する供奉僧たち)の管轄する領地であること、
②そのうち渋谷に質入れされている講田と、これも人手に渡っている護摩供(護摩供のための費用のための田地)をのぞく一町九段あまりが現有地であること
③寺の学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大(240歩)あること
金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、それが裏付けられる史料です。
 ②の「護摩供養 慶林坊」は、護摩供田で慶林房の手に渡っているようです。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
④の「岡之屋敷二段」は、同じ金倉寺の塔頭である一乗坊の良允から寄進されたもので、ここには家が建っていたようで、屋根の部分で分割線が記されています。
以上から法憧院は5町4段あまりの院領を持っていたことが分かります。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、 一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。これらの院や坊の所領は、金倉寺領と別の所にあったとは思えないので、法憧院領良田石川方は金倉寺領良田郷の一部と研究者は推測します。そうすると金倉寺領は、このころには寺内の僧坊の分散所有となっていたことになります。時はすでに戦国時代に入っています。寺領が鎌倉時代の状態そのままで存続していたとは考えられません。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。これは、善通寺も同じような形態であったことと推測できます。
讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
金倉寺は、小松荘に地頭職を得ていたときがあるようです。
「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。
 貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
 ところで細川頼之の末弟満之の子頼重が、応永12年(1405)に将軍義満から所領安堵の御教書をもらっています。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。

「立始事」の終りの二ケ条は、幕府から寺領ついての諸公事を免除してもらった内容です。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                 
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
段銭というのは田畠の段別に課せられた税で、一国平均役につながるものです。だから本来は朝廷―国衙に賦課、徴収権があり、大嘗会や伊勢神宮造営などの費用のための臨時税だったはずです。ところが室町時代には幕府が賦課の権限を握り、徴収は守護が行うようになります。また、その取りたても臨時的なものから次第に恒常的なものとなり、さらに守護自身の守護段銭がこれに加わって課せられるようになります。このため負担者である領主・農民にとっては耐え難い重圧でした。そこで室町時代には荘園領主や農民がさまざまな形で段銭徴収に抵抗するようになります。金倉寺も良海、有海などの運動が成功して、幕府から諸公事段銭免除の御判をもらっています。金倉寺にとっては大変な喜びだったことでしょう。しかし、この免除の約束がはたしてどこまで効力をもったかについては研究者は懐疑的なようです。
それは、在地武士による寺領侵入や押領が日常的に繰り広げられる時代が丸亀平野にも訪れていたからです。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       元景(花押)
三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、 元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者です。
天霧山・弥谷山@香川県の山
香川氏の山城があった天霧山

元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。

彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
段銭

 段銭は幕府・守護の重要な財源でした。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、香川氏が戦国大名化していく中で、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。つまり、金倉寺や善通寺の寺領は、香川氏に侵略横領されて入ったと研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P

     讃岐の郷名
讃岐の古代郷名 
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、
南は那珂部木徳郷
西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。

讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
 江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金
②高松藩領の金寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。

丸亀市金倉町
丸亀市金倉町

 上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺金蔵寺
善通寺市金蔵寺町

 建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)
況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること


4344103-26円珍
円珍

建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
 ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。

園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事
右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安
金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□
右当寺は、智證大師誕生の地(中略)
而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)
ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
 研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
 ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
 また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。

金蔵寺
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか?   金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。
 土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。

ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
 縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。

4344103-24金蔵寺
金倉寺

研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。
②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。
③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。
④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)
B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」

これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
費徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。

「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。        長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
 そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献           金倉寺領および圓城寺領金倉荘     善通寺市史574P    

細川頼之 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

貞治元年(1362)細川頼之は南朝の細川清氏を白峰合戦で破り、讃岐の領国支配を着々と進めていきます。
それまでの頼之は、中国管領として中国地方を幕府の支配下に治めることが第1の課題でした。ところが白峰合戦の翌年の貞治二年に、頼之は中国管領の職を解かれ、以後四国管領を命じられます。そして貞治4(1365)年ごろには、従来の分国である阿波・伊予に讃岐・土佐を加えた四国全域の守護となり、分国経営を強化していきます。その際の有力なアイテムとなったのが、足利尊氏から認められた次のような権限でした。
①武士同士の所領争いの裁決を現地で執行する権限(使節運行)
②敵方所領の没収地を国内の武士に預け置く権限
③半済といって寺社本所領の年貢の半分を兵粮料として取り上げ、それを配下の武士に宛がう権限
これの権限を行使することで讃岐武士団の家臣化は進められます。
それを年表化して見ておきましょう。
1365年4月 香川郡由佐村の国人山佐弥次郎に、安原城における合戦の軍忠を賞す。
1366年12月 山佐氏の一族の由佐又六に井原庄内の御寺方半分を預け置く
由佐氏は、以前に顕氏から感状を与えられているので、顕氏の被官でした。それが改めて頼之の被官となっています。『全讃史』によると清氏討代後、頼之は安富盛長・香川景房・奈良元安などの有力被官を外から呼び寄せ、讃岐に配置したとされます。
また頼之は、讃岐の寺社保護と引き替えに、これらを統制下に置いていきます。
1363年4月 宇多津の西光寺への禁制発令
     9月 宇多津の歓喜寺に土器保田所職を安堵
1364年3月 寒川郡長尾の八幡池築造し、寺社領用水確保
 このように協力的な有力寺社については、保護と安堵をあたえ、国内の安定化を図ります。こうして貞治年間には讃岐の国人・寺社は、細川頼之に属するようになります。その結果、白峰合戦以後は、讃岐の南朝方が全く姿を消し、讃岐は細川氏の勢力の基盤となります。
 頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となります。
そのため、義満の政治を補佐するために上京し、讃岐を不在にすることになります。讃岐を離れる一ケ月前に頼之の弟頼基(のちの頼元)は、善通寺に対して規式を定め、諸堂の勤行、鎮守の祭礼、寺僧の行儀などを励行させ、軍勢の寄宿、寺領の押領、境内の殺生などを禁じたりして、細川氏の讃岐の寺院支配の方針を示しています。それが貞治6年(1367)7月に出された「善通寺興行条々」(9ヶ条)で、次のように記されています。
一 寺内坊中軍勢甲乙人(誰彼の人)寄宿有るべからざる事。
一 寺僧弓箭兵杖を帯ぶるの條、向後一切停止せしむる事。
一 寺領并に免田等、地頭御家人甲乙人等押領を停止し、寺用を全うすべし。
一 同寺領以下諸方免田等の事、縦え相博為りと雖も、 寺中に居住せしめず俗鉢と為て管領せしなる事、固く停止する所也。向後に於いては、寺領免田等の内知行の輩の事、俗を止めて綺いせしめ、寺家に居住すべき也。  
一 罪科人跡と号し、恩賞に宛て贈ると稀し、寺領井びに寺僧供僧免田等相混えて知行せらるるの段、向後に於ては、縦え共身に至りては罪科有りと雖も、所帯に於ては、寺領為るの上は、寺中の計所として沙汰致すべし。
一 寺務の仁、寺川を抑留せず、勧行并びに修造を守るべし。
一 寺内栞馬の事、今自り以後停止せしむべし。
一 寺領の境内、殺生先例に任せて停止せしむべし、次いで山林竹木雅意に任せ(勝手に)伐り取る亨、子細同前。
一 守護使先例に任せ、寺領に人部せしむべからざる事。
  意訳変換しておくと
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
②寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、例え相伝されたものでも、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。
⑤ 罪科人の跡とか恩賞地とか称して、武士が寺領や寺僧の免田を知行するようになれば、前条の趣旨に反することになるので、寺領や寺僧免田の場合は、たとえ所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと、寺中の計らいとする
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生は先例通り禁止とする。また、山林竹木を勝手に伐り取ることも禁止する
⑨徴税などのために守護使はこれまで通り、寺領に入らせない。
「法令で禁止令が出されるのは、現実にはそのような行為が行われていたから」と考えるのが、歴史学の基本的セオリーです。禁止されている行為を見ていくことにします。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿」していたことがうかがえます。これらが入道化した棟梁が率いる武士集団だったのかもしれません。
②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化していたことがうかがえます。また⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたようです。以上からは、南北時代の善通寺には軍事集団が駐屯し、武装化していたことがうかがえます。比叡山のように、僧兵を擁し、武士たちが入り込み、軍事的な拠点となっていたと私は考えています。
①②⑦は、それらの軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。
③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという守護の立場表明にもとれます。
③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
④は、寺の名で年貢免除の特権を認められている土地は、先祖伝来と称していても、寺に居住していない俗人や武士が持つことを認めない。それを所有するのは、寺家に居住する僧に限るとしています。ここからも善通寺が武士(俗人)の拠点となっていたことがうかがえます。
⑤は、武士が寺領や寺僧の免田を知行しないようにすること。そのために、寺領や寺僧免田の場合は、所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと。
これらは、実行されたかどうかは別にして、寺側の打ちだした「寺領から武士の勢力を排除して寺僧の一円支配を強化する」という方針を、守護としても認めて協力することを示したものと研究者は考えています。ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護としてやってきた細川氏は、それを改め「非武装化」しようとしていたということです。
また「条々」からは、善通寺には寺領とならんで「寺僧供僧免田」があったことが分かります。
例えば宥範譲状の中の、次のものがそれにあたるようです。
一 良田郷内学頭田二町内壱町円明院(第三条)
一 良田郷郷大勧進国二町(第四条)
第四条の良田郷大勧進田二町は、真恵によって大勧進給免として設定されたものです。善通寺内の院や坊が自分の所領免田を持っていたのは誕生院だけではないようです。宥範譲状でも良田郷内学頭田のうち一町は円明院(赤門筋の北側にあった)の所領だといっています。
次の文書は、勧学院領に対する院主・別当の干捗を止めて勧学院の領掌を保証した守護細川満元の書状です。
讃岐国善通寺誕生院内勧学院領の事、早く寄進状の旨に任せ、所職名田出等院主別営の綺いを停止せしめ、先規に任せ領掌相違有る可からずの状件の如し。
應永七(1400)年七月十二日      右京大夫(花押)
誕生院兵部卿法印御房
院主というのは誕生院主、別当は善通寺別当のことのようです。勧学院は誕生院内にありながら(観智院の横にその跡がある)、誕生院からも、また善通寺別当の支配からもある程度自立した所領を寄進されていたことが分かります。こうしてみると南北朝以後室町のころになると、誕生院にせよ、他の寺内の小院や僧坊にせよ、それぞれ所領を持ち、在地領主的性格を強くしていたことがうかがえます。そして、それらの主の中には、周辺の武士団の一族出身者もいて、強いつながりがあったことがうかがえます。宥範と岩崎氏にも、強いつながりがあったとしても不思議ではありません。
以上をまとめておくと
①南北朝時代の動乱期に、讃岐武士たちは細川頼之によって束ねられ家臣団化された
②讃岐の組織化された家臣団は、細川氏の中央における暴力装置としてよく機能した。
③細川頼之は讃岐の有力寺社にも安堵・保護を与えている
④その中の「善通寺興行条々」(9ヶ条)からは、保護のための条件としていろいろなことが記されている
⑤そのひとつが寺内の「非武装化」であり、俗人の寺内からの排除である。
⑥これを逆に見ると当寺の善通寺では、入道化した武士が寺内を拠点として、乗馬訓練などを行っていたことが分かる
⑦深読みすると、善通寺防衛のために武装集団を寺内に招き入れたり、僧兵集団の存在もうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 南北朝・室町時代の善通寺領559P

  経筒 白峰寺 (2)
白峯寺の六十六部経筒の蓋           
白峯寺の「西寺」から出土したと云われる経筒について、以前に紹介しましたが別の視点から見ておきたいと思います。それは、この経筒を納めたのが六十六部の良識と記されているからです。
まずは、経筒についてもう少し詳しく見ておきます。
①経筒は、全面に鍍金した銅製で、筒身と筒蓋に分かれます。
②筒身は円筒形でし、高さ9,9㎝、身底径4,8㎝ 身口径4,5㎝。
筒身には、縦書き五行で次のような文字が刻まれています。
白峰寺経筒2
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」で主文
③が「十羅刹女 」で、奉納経典の守護神
④が三十番神も経典守護神
⑤が「四国讃岐住侶良識」で、奉納代理人(六十六部)
⑥が「檀那下野国 道清」で、奉納者
⑦「享禄五季」、奉納年
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
この経筒から研究者は、どんな情報を読み取り、考察していくのでしょうか?
銅経筒の全国的な出土傾向をは、11世紀後半~12世紀後半と16世紀前半~中葉に2つのピークがあります。11世紀後半~12世紀後半に銅経筒の出土例が多いのは、末法思想が影響しているものとされます。末法元年と考えられていた永承7年(1052)以後になると、法華経を中心とした仏教典を金属製の経筒に納め、霊地や聖地とされる山頂や社寺境内に経塚が造られるようになります。

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経塚の埋葬例
この時期の経筒は。高さ20~45㎝程度の大型のもので、和鏡、銭貨、刀身、小仏、などの副納品とともに、陶製などの外容器にいれて埋納されています。これが県内では善通寺の香色山山頂の経塚やまんのう町金剛院背後の経塚群から出土しています。

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    善通寺市香色山1号経塚(佐伯直一族のもの?)

12世紀をすぎると、経筒埋納は一時衰退していきます。こらが再び活発化するのは16世紀になってからです。その背景には、廻国聖の納経活動の活発化があります。庶民が現世利益や追善供養も含め諸国を廻国し、その先々で経筒埋納を祈願するというスタイルが流行するようになります。経筒は、永正11年(1514)~天正13年(1585)に多く、円筒形の経筒は、16世紀中頃~後半に多いようです。
以上をまとめておきます。
①11世紀末になると末法思想の流行と供にお経を書写し、経筒に埋めて霊地に奉納するようになった。
②この時は、大型の経筒が使われ、鏡や銭・小刀・などが副葬品として経塚に埋められた。
③16世紀に活発化する廻国聖六十六部は、全国をめぐり経筒を埋納するようになったが、使われた経筒は小型化した。
この程度の予備知識を持って、再び白峯寺の経筒を見てみましょう。
 白峯寺所蔵の経筒は、筒身外面の紀年銘から享禄5年(1532)であることが分かります。これは先ほど見た銅経筒の全国的な出上時期の傾向と一致します。また、大きさについては、この時期の経筒は10~12㎝と小型のものが中心ですが、白峯寺経筒も総高10、5㎝で、この範囲です。今度は銘文をひとうひとつ見ておきましょう。
  まず、中央の「奉納一乗真文六十六施内一部」です。
これは諸国六十六ケ国に納める内「施内」のひとつである経典(法華経)「一乗真文」を「奉納」したと研究者は考えています。この時期の経筒の主銘文には、「大乗経王」「大乗法花」「大乗真文」「法華妙典」「法華真文」「妙法典」「一条妙典」「如法経」と、経典の表現がさまざまです。「一条真文」の例はないようですが、埋納された経典の種類は、法華経と研究者は考えています。
 この文の上位には「釈迦如来」を示す種字である「バク」が描かれています。
真言文字バク 釈迦如来
バク 釈迦如来
ここからは奉納者(檀那下野国道清)が釈迦如来を信仰していたことが分かります。この時期の主銘文の種字には「阿弥陀三尊(キリーク、サ、サク)」「釈迦三尊(バク、アン、マン)「釈迦如来(バク)」「観青菩薩(サウ」などありますが、その中でも多いのは「釈迦如来(バク)」のようです。これも全国的な傾向と一致します。

守護神(十羅刹女)
十羅刹女
「十羅刹女」は、仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神とともに法華経の守護神です。

三十番神
三十番神

「三十番神」は神仏習合の信仰で、毎日交代で国家や国民等を守護する30柱の神々のことです。最澄が比叡山に祀ったのが最初で、鎌倉時代に盛んに信仰され、中世以降は特に日蓮宗・法華宗で重視され、法華経守護の神とされることは以前にお話ししました。このように「十羅刹女」や「三十番神」も法華経の守護神で、この時期の小型経筒の主銘文に、よく登場するようです。

「四国讃岐住侶良識」からは、四国讃岐の僧侶・良識によって経筒が奉納されたことが分かります。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」ことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

高野山 金剛三昧院
高野山金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老良識(讃州之人)
第32長老良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。また、「良識」は、讃岐の国分寺本堂の板壁に落書きを残しています。その落書きを書いていた板壁が屋根の野地板に転用されてて残っていました。そこには次のように記されています。
  当国並びに井之原庄天福寺客僧教□良識
  四国中辺路同行二人納中候□□らん
 永正十年七月十三日」
「当国井之原庄」は、讃岐国の井原庄(いのはらのしょう)で、旧香川郡南部(現高松市香南町・香川町)から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒(近世成立)には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
「天福寺」は、高松市香南町岡にある美応山宝勝院天福寺と考えられます。
岡舘跡・由佐城
高松市香南町岡天福寺

この寺は、神仏分離以前には香南町由佐にある冠櫻神社の別当寺でした。天福寺は本尊薬師如来、真言宗御室派です。天福寺由来記には次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。
「客僧」とは、修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことです。
31歳の「良識」は修行のため廻国し、天福寺に滞在した僧侶と研究者は考えています。つまり、四国霊場第80番札所国分寺の「落書」からは、高松市香南町岡にある天福寺の客僧だった良識が四国遍路を行い、永正10年(1513)7月14日、札所である国分寺に札等を納めた時に「落書」を書いたことが分かります。
経筒の銘文にもどって「旦那下野国道清」を見てみます。
ここからは、この法華経を納めた小型経筒の施主は下野国の道清であることが分かります。良識は、下野国(栃木県)の道清から依頼を受けて、法華経を経筒に納め、諸国の社寺に奉納していたことになります。社寺への奉納には、直接社寺へ法華経を奉納する場合と、自ら塚などを築き法華経を納めた経筒を奉納する場合があったようですあります。白峯寺の経筒の場合は後者で、宝医印塔も同時に造立したと研究者は考えています。ただ、経筒を奉納しただけでなく、埋納施設や印塔も建立しているというのです。これを全国でやっていたとしたら多額の資金と労力が必要になります。下野国の檀那道清は、それだけの資力を持っていた人物だったようです。このように当寺の六十六部は、かつての熊野行者のように有力者の依頼を受けて、全国を代参していたものもいたようです。
 経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。
廻国聖の場合は、諸国を廻国するので社寺に奉納する時期がいつになるか分かりません。そのために「今月今日」としていたようです。ここからは、良識は、白峯寺にやてきて長期滞在して経典を書写したのではなく、出発前に書写されたものを持参していたことがうかがえます。確かに経筒は10㎝程度の小さいものなので、それも可能かも知れません。

以上のから「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれが、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に没した良恩に次いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、またが「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。
経筒外面に刻まれた文字から、この経筒は廻國行者である「良識」によって奉納されたことを見てきました。
私が気になるのは、この経筒を納めた良識につながる法脈です。
先ほど見たように金剛三昧院の住持は、戦国時代には「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌と続きます。
良識の跡を継いだ良昌を見ておきましょう。
高野山大学図書館蔵の『折負輯』には、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生、法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺を兼帯していたことが分かります。そして、天正8(1580)年に亡くなっています。
 ちなみに、法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。法勲寺を継承する島田寺も『讃留王神霊記』(島田寺蔵)には綾氏の氏寺と記されています。そして、「大魚退治伝説」は、島田寺僧侶による「創作神話」と考えられています。このふたつの寺は、神櫛王の「大魚退治伝説」の「発信地」なのです。背後には、綾氏一族の勢力があります。
  財田で生まれた良昌が、綾氏の氏寺とされる丸亀市飯山町の法勲寺や島田寺の住持になる。そして、さらに高野山三間維持の住持へと転進する。そこには、どんな「選考基準」や「ネットワーク」があったのかと不思議になります。考えられる事は、次のようなステップです。
①有力者(武将)の一族の子弟が、近くの学問寺に入り出家する。(例 萩原寺・大興寺・金倉寺・金倉寺)
②能力と資力のある若い僧侶は、師匠から推薦されて、讃岐出身者が住持を務める高野山金剛三昧院に留学する。
③そこで教学を学ぶと供に、真言系修験道も身につける。(例 良識の四国辺路や廻国六十六部)
④教学と修法の両道を納め地元讃岐の島田寺などの住持に収まる。
⑤金剛三昧院の「次期長老候補リスト」があり、師弟関係にある弟子として後継者指名を待つ。
こうして、「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」という讃岐出身者による住持継承が行われたと私は考えています。
そうだとすると、高野山金剛三昧院の住持になるための必要要件としては、次のような要件が求められることになります。
①有力武将の一族であること 一族の支援が受けられること ある程度の経済力があること 
②地元の学問寺で初期的な手ほどきを受けて、師匠から師匠の推薦を受けて高野山留学を行う事
③高野山留学中に、修業先の住持と師弟関係を結び法脈の中に名前が入ること
④経典研究など山内での修養だけでなく、真言修験者としての山林修行も積むこと
⑤以上を満たして、現住持との信頼を得て、「次期長老候補リスト」に入ること
 こんなところでしょうか。これを史料で裏付けておきます。

下の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。
萩原寺文書 真言法脈
「良恩授慶祐印信」(萩原寺文書)
これは、萩原寺(観音寺市大野原町)の聖教の中にあったもので、「町誌ことひら 史料編282P」に掲載されています。ここで登場する「良恩」とは、「第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水」のことです。良識や良昌の前の金剛三昧院の住持になります。彼の法脈がどのように伝えられてきたかを示すものです。

これを見ると、そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが「⑥勝義 ⑦忠義」です。彼らについては、後述しますが讃岐岸上(まんのう町岸上)出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は島田寺の⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。

「⑥勝義 ⑦忠義」は、高野山の明王院の「歴代先師録」に登場します。
⑥勝義は次のように記されています。
「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

と記されます。忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房」と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。泉聖房・泉行房からは、彼らが修験者であったことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 ここからは多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったことが分かります。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地のまんのう町岸上の光明寺を兼住していたこと
③彼らが修験者でもあったこと
これは、先ほど見た金剛三昧院の住持「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」と同じパターンです。先ほどの仮説を裏付ける史料となりそうです。また、別の法脈として次のようなものもあります。

①明王院の勝義・忠義→②金剛三昧院良恩→③萩原寺五代慶祐

ここからは、この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。例えば、①の兼帯する光明寺と、②の兼帯する島田寺と③の萩原寺は、この法脈につながる僧侶が多数存在し、人脈的なつながりがあったことが推測できます。さらに、このような高野山ネットワークの中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥雅や宥盛もいたことになります。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持ち、師弟関係や受け継いだ法脈で結ばれると同時に、時には反発し合うライバル関係でもあったことが考えられます。そこに多数の高野聖たちが入り込んでくるのです。
 それでは、高野山の今号三昧院や明王院など有力寺院の住持を、讃岐から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                   祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
この経典の奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は解釈します。以前にお話ししたように、三豊の萩原寺・大興寺や 丸亀平野の善通寺・道隆寺や金蔵寺、そしてまんのう町の尾背寺なども「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山林修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 彼らが地元の修行ゲレンデとしたのが、次のような中辺路ルートだと私は考えています。
①三豊の七宝山から善通寺我拝師山まで(観音寺から曼荼羅寺まで)
②弥谷寺と白方海岸寺の行道
③善通寺から大麻山・象頭山の行場を経てまんのう町の尾野瀬寺まで
このような行場ルートに、他国からも多くの山林修行者がやてきて写経と行道を長期に渡って繰り返します。これがプロの宗教者による「中辺路ルート」の形成につながります。それが近世になると、行場での修行を伴わないアマチュアによる札所めぐりに変化していきます。そうなると行場のそばにあったお堂や庵は、里に下りてきて本寺へと変身していきます。これが四国遍路へと成長していくというのが、現在の研究者の見解のようです。

 良識は若い頃には、四国辺路を行い、長老となっていても廻国六十六部として諸国をめぐっていたとするなら、プロの修験者でもあったことになります。そして、良識と師弟関係を結ぶ者、法脈を同じくする者は、同じく山林修行者であった可能性が強いと私は考えています。彼らは「不動明王・愛染明王」など怒れる明王たちを守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたのです。その代表例が、東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽だったのでしょう。まんのう町の光明寺も、丸亀市飯山の島田寺も与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。こうした学問寺が数多くあったことが、優秀な真言僧侶を輩出し続けた背景にあったようです。
 それは「古代に大師を何人も輩出したのが讃岐」の伝統を受け継ぐシステムとして機能していたように思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図に描かれた三重塔
  白峯寺古図には、次の三つの三重塔が描かれています。
①神谷神社の背後の三重塔
②白峯寺本堂西側の三重塔
③白峰寺本堂の東側の「別所」の三重塔
白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺本堂西側の三重塔(白峯寺古図)

前回は②の本堂西側の発掘調査の結果、塔の遺構が出てきて、中世には三重塔がここにはあったことが確認されたことを見てきました。それでは、③の別所の三重塔はどうなのでしょうか。まずは、白峯寺古図で「別所」の部分を拡大して見てみましょう。
白峯寺 別所拡大図

「別所」をみると、白峯寺から根香寺に向かう参道沿いで、中門と大門の間にあります。参道沿いに鳥居が描かれていて、鳥居をくぐると次のような建物が並んでいます。
①正面に梁間3間×桁行2間、桁行3間の入母屋造りの瓦葺建物
②向かって右側には梁間2間×桁行2間の入母屋造りの瓦葺
③建物②と直行するように瓦葺の建物
④向かって左側には瓦葺の三重塔
⑤三重塔の前に鐘楼
鳥居が描かれているので、正面にある建物は、神仏混合の堂舎のようです。しかし、塔や鐘楼もあるので白峯寺の一つの子院の可能性があります。
「別所」を「浄土宗辞典」で調べると、次のように記されています。
本寺の地域とは別に、修行のためなどに存在する場所。別院。隠遁者や修行者が草庵などを構えて住む場所で、特に平安後期以降、念仏者が好んで別所に住した。所属する寺院にあわせて「○〇別所」などとして用いられる。例えば南都寺院では東大寺の別所として、重源が定めたとされる播磨別所や高野の新別所など七箇所が、興福寺には小田原別所がある。また京都比叡山の別所には西塔黒谷や大原の別所が存在した。別所は念仏信仰とかかわりが深く、播磨別所には浄土寺が、小田原別所には浄瑠璃寺が存在し、ともに念仏信仰の場であった。また比叡山の別所である黒谷からは法然が、大原からは良忍がでている。
また別所は、聖(ひじり)と呼ばれる行者たちとも関係が深く、彼らの存在は民間への念仏信仰の普及の一助になったと考えられている。平安後期頃から見られる別所を中心とした様々な念仏信仰の形成は、日本における浄土教の発展を考える上で重要なものである。
  ここからは別所は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となったとあります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰の念仏聖たちの活動拠点」であった可能性があります。
「白峯山古図」に描かれている「別所」は、どこにあったのでしょうか?
研究者は次のような手順で、位置を確定していきます。
①白峯寺古図の細部の情報読取り
②周辺エリアの詳細測量で、かつて子院や堂宇があった可能性のある平坦地の調査と分布図図作成。
③絵図資料と比較しながら平坦地分布図に、かつて存在した子院や堂宇を落とし込んでいく
白峯寺 境内建物変遷表2
白峯寺境内の平坦地分布図

高屋や神谷村方面からの参道にも大門と中門が描かれていたのは前回に見たとおりです。「別所」周辺にも、「大門」と「中門」があります。
白峯寺 別所5
白峯寺古図 別所の中門付近
まず中門を見ると、周辺に白色の五輪塔が11基が群集するように描かれています。この五輪塔群は、現在の白峯寺の歴代住職の墓地とその背後に凝灰岩製の五輪塔が多数建ち並ぶ墓地周辺だと研究者は推測します。
白峯寺近世墓地3
白峯寺歴代住職の墓地
また、中門より手前(西側)には「下乗」と描かれた白色の石造物があります。ここは白峯寺の境内中心部の建物群が途切れる所になります。ここからは、中門は白峯寺の墓地あたりであることが裏付けられます。
白峯寺下乗碑
下乗碑
「大門」について見てみると、「大門」と注記された左下方に「昆沙門嶽」と書かれています。
「昆沙門嶽」は、現在の白峯寺の奥の院です。奥の院毘沙門窟への分岐点に大門はあったことになります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」でもあります。
P1150814
白峯寺奥の院毘沙門窟への分岐点

この推察に基づいて、研究者は「中門」と「大門」の間を踏査します。その結果、10m×10m程度の平坦地や20m×15m程度の平坦地が7か所集中している場所を発見します。平坦地の中には、礎石と考えられる石材の散布する地点を2ヶ所見つけます。この場所をトレンチ調査した結果を、次のように報告しています。要約
白峯寺別所三重塔基壇跡
白峯寺別所の三重塔基壇
 別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。建物規模は2×3間と推定される。

白峯寺 別所拡大図

先ほど見たように「白峯山古図」の「別所」には、左に三重塔、右に入母屋造りの瓦葺建物が描かれていました。これは、発掘調査の結果とぴったりと合います。ここからは以下のことが云えます。
①「白峯山古図」に描かれている建物の存在が発掘調査で証明されたこと、
②出土遺物からこれらの建物は、使用瓦から15世紀前半を中心と時期のものであること
白峯寺 別所仏塔出土物
白峯寺別所 仏塔の出土遺物

ここまでで私に理解できたのは、白峯寺の伽藍は中世においては現在よりも遙かに広かったということです。研究者は、白峰寺の伽藍を上図の3つのエリアに分けて考えているようです。

白峯寺 伽藍3分割エリア図
中世白峯寺の3つの伽藍配置図
A地区 現在の白峯寺境内を中心として、稚児川を挟み平坦地が確認できる地区
B地区 A地区の奥に広がる傾斜の緩やかな地区、別所地区
C地区、B地区の奥の古田地区   現自衛隊の野外施設周辺
今まではA地区だけを、私は白峯寺の伽藍と考えていました。しかし、白峯寺古図が教えてくれたことは、「別所」と呼ばれるB地区があったこと、そこには本堂と同じように三重塔を持った宗教施設があり、そこが修験者や念仏阿弥陀聖の活動拠点であったことです。
「解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)

 また、発掘調査した次の3ヶ所からは、白峯寺古図に書かれていたとおりのものが出てきたことになります。
①本堂西側16世紀の三重塔跡
②本堂東側16世紀の洞林院跡
③別所の三重塔
 ここからは、白峯寺古図に書かれた絵図情報が極めて正確なことが改めて実証されたことになります。絵図上に書かれた大門や中門なども実在した可能性が高くなりました。

最後に地図で別所を確認しておきます。
白峯寺 別所3

本坊から現在の四国の道「根香寺道」をたどって登っていきます。この参道沿いの両側にも平坦地が並び、かつての子院跡があったようです。摩尼輪塔と下乗石の上の窪みが池之宮になります。反対側が白峰寺の墓地で、この辺りに中門があったことになります。
白峯寺 別所周辺地図
白峯寺別所への道

笠塔婆/下乗碑を経て、左に白峯山墓地、右に池之宮跡の凹地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)があり、ここには石仏が見守っています。
白峯寺遍路道 別所分岐点
白峯寺別所へのT字路
石仏背後の平坦地の右奥が別所跡になるようです。しかし、発掘調査後に埋め戻されたようで、仏堂や塔跡などを示すものは何もありません。どの平坦地が塔跡なのかも分かりません。ただこの辺りに、三重塔をともなう寺院があり、行場である毘沙門窟と、五色台の岬先端の海の行場を結ぶ「行道」を繰り返していたのかもしれません。また、後にはここを拠点に高野聖たちが阿弥陀・念仏信仰を里の郷村に布教していたのかも知れません。どちらにしても多くの行者や聖たちのいた別所は、いまは礎石らしい石がぽつんぼつんと散在するのみです。
白峯寺へんろ道石仏
白峯寺別所跡を見守る石仏たち
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平成23年度白峯寺別所の調査 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」

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