前回は熊野や伊勢の御師(修験者)たちが髙松平野周辺の港や村々の檀那を廻って、お土産を配って伊勢詣を勧誘していたこと、その代償として初穂料を集めていたこと、そのテリトリーは讃岐の5つの郡に跨がることを見てきました。これは宗教的な見方を離れてながめると、広域エリアの有力者からの集金システムが機能していたことになります。これを徴税に「転用して利用」しようとする勢力も現れます。今回は備前において棟別銭の徴収を請け負った児島五流修験の動きを見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造」です。
棟別銭は、段銭と並んで室町幕府の重要な財源でした。
大まかに云うと、段銭は田数に掛けられ、棟別銭は家に課せられものでした。しかし、古代と違って中世は戸籍台帳は作られていません。守護所には、郷村の人口や戸数なども分かっていなかったようです。ある研究者は次のように述べています。
大まかに云うと、段銭は田数に掛けられ、棟別銭は家に課せられものでした。しかし、古代と違って中世は戸籍台帳は作られていません。守護所には、郷村の人口や戸数なども分かっていなかったようです。ある研究者は次のように述べています。
「室町期の守護体制下であらためて棟別設定の行われた徴証はなく、棟別銭の賦課台帳は守護職機能の属性の一として前代から継承されたと推測される」
なんとも頼りない話ですが、確かな戸数や人口も分からないのですから、各家の経済状況も分かるはずがありません。名主を通じての徴収ですから、そこだけ押さえていればよかったのでしょう。
網野善彦氏は、棟別銭と勧進の関係を次のように指摘します。
弘安九年(1286)の東寺造営の際に、大勧進憲静が朝廷に請って五畿内諸国から棟別十文の銭を「勧取」ることを許された点に注目します。これから棟別銭を「門付」勧進の体制化として、勧進の「堕落」という文脈の中で捉えます。
「家々を遍歴するかわりに、国家機構を全面的に利用し、それに依存して、間別に銭を徴収、勧進の目的を達成しようとする」
これを逆の面から見ると、棟別銭は勧進聖の活動があってこそ、徴収することができたとも考えられることになります。
応永十九年東寺修造料棟別銭
応永19年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭を課します。備前では、この棟別銭を誰が徴収したかは、次の史料で分かります。
当時修造料備前国棟別事、小島(児島)山臥方申付候処、無正躰候、御屋形被仰付左右候は、殊畏入候、伽藍修理要脚候之間、可為御祈蒔専一候、尚々追而憑申外無他候、恐々謹言、九月二十九日 快玄浦上三郎左衛門殿
この文書の端裏書には「棟別守護方状案」とありますが、内容から推察して守護方が発給したものではなく、東寺から守護赤松氏の重臣浦上氏に充てた書状だと研究者は考えているようです。研究者が注目するのは、次の部分です
「東寺修造料の備前国棟別銭については、小島(児島)山臥(伏)方へ申付けた候処」
ここには棟別銭微収を「児島山臥方」に命じたとあります。「児島山臥(山伏)方」は、児島五流修験のことでしょう。五流修験については、以前にお話ししましたが「復習」のためにので、宮家準氏の論文をそのまま引用します。
①が児島五流
五流修験は岡山県南部の児島半島に本拠を持つ修験集団である。その濫傷は平安時代中期熊野本宮長床に依拠した長床衆と呼ばれる熊野修験に求めることが出来る。長床衆は熊野本宮の神領中最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成した。この集団は役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元のそれぞれを開祖に仮託した、尊滝院、大法院、建徳院、伝法院、報恩院の五カ寺を中心としていることから五流と呼ばれた。その後平安時代末頃には児島の五流は、 一時衰退した。しかし鎌倉時代初期、承久の乱により、児島に配流された頼仁親工の皇孫によって五流の五カ寺が再興された。以後中世期を通して、五流修験は五流とそれをとりまく公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄した。五流山伏は、児島のみでなく熊野にも拠点をもち、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍した。
五流修験が「児島山臥方」のようです。つまり東寺は、棟別銭の徴収を五流山伏に請負わせたのです。
応永20(1414)年9月、備前から東寺に届いた現地報告には、次のように記されています。
五流修験の尊瀧院
応永20(1414)年9月、備前から東寺に届いた現地報告には、次のように記されています。
「取始候て四日目にて候やらん、野田と申所にてハ、すてに山伏共打ころされ候ハんするにて候」
意訳変換しておくと
「棟別銭の徴収を始めて4日目に、野田という所で、山伏たちは打ち殺されそうになりました・・」
とあるので、山伏たちが実際に、棟別銭徴収に廻っていたことが分かります。これと同じように備前からの六通の現地報告書が東寺に残っているので事情が分かります。研究者が注目するのは、6通の報告書の現地差出人です。
四通は縁親一通は縁秀残る一通は無署名だが、筆蹟から推して縁親のもの
その内容はどれも徴収の進捗状況や守護との交渉経過についてです。現地報告を作成した縁親、縁秀が棟別銭徴収に大きな役割を果たしていたことが分かります。
では、彼らはいったい何者なのでしょうか。
文中に守護に対して使節を発遣するよう交渉しているので、守護配下の者ではないようです。では東寺の僧侶でしょうか。その可能性もないと研究者は考えています。それは、守護使の発遣を要請してきた東寺に対し、守護側は東寺が使を下向させるならば、守護使を出してもよいと回答してきているので、これ以前には東寺の使は備前にはやって来ていなかったと推測できるからです。
その中で、縁親は4、5月ごろにはたびたび守護所である備前福岡に赴いて守護と交渉を重ねています。ここからも、彼が東寺の下した使である可能性はなくなります。とすれば残る可能性は五流山伏の一員だったということになります。
清田八幡宮
児島の五流熊野権現の近くの清田八幡宮には、応永28年(1421)の棟札が残っています。
そこには「祝師縁西」の名があります。清田八幡宮は、熊野権現の御旅所で、その庄務は五流山伏が勤めていました。研究者が注目するのは、「縁親、縁秀、縁西」のいずれも「縁」の字が共通している点です。ここから彼らは五流山伏の一員だったのではないかと推察します。
焼失以前の五流長床
では五流山伏は、なぜ棟別銭徴収を命じられたのでしょうか。
日頃から東寺の命令を受けるような立場にあったのでしょうか。
徴収の始まる直前の応永20年4月末ごろ、縁親から東寺に届けられた書状の一節には、次のように記されています。
先々不致沙汰在所を小寺方より注文を出候、うらに小寺判候、三社領あまた所々、此注文の在所皆国中大庄にて候、是を除候者、 いかほども取候ハんする分ハ候ましきよし申候、此外吉備津宮領・西御所御知行なと共儀候へく候程無正外事にて候、かヽる様者存知不中候て、愚身も領状申て候、後悔仕候、(下略)
意訳変換しておくと
「棟別銭を前々より免除されている在所の注文は小寺方(守縦代小寺備前入道)より提出された。皆大庄ばかりで、これを除くとどれほど徴収できるか疑わしい。そのうえ吉備津宮(備前一宮)や両御所一足利義満側室高橋殿)の所領も協力は期待できないだろうから、棟別は殆んど集められないかもしれない。このような状況は予想できたことで、私自身も(引き受けたことを)後悔している。」
研究者が注目するのは、最後の「かゝる様者存知不申候て、愚身も領状申て候、後悔仕候」という部分です。ここから、縁親は東寺の一方的な命令によって否応なく徴収にあたっているのではなく、断りたければ断ることもできた立場にあったことがうかがえます。つまり五流山伏は棟別銭徴収に何らかの成算をもって、東寺の要請を受けたようです。また東寺も、五流山伏に徴収できる能力を認めなければ、一国の棟別銭徴収を彼らに一任することはないと研究者は考えます。
その場合、 一番に思いつくのは、五流山伏が備前守護と密接な関係にあったのではないかということです。ところが、どうもそうではないようです。
棟別銭が徴収され始めてからの様子を見ても、守護である赤松氏が五流山伏に協力的であったようには思えません。縁親らの書状には、4月中旬ごろから、直接備前守護所の福岡に出向いて、守護使の発遣を求めています。赤松側は一応これを了承したものの、6月に入ってもなかなかに動こうとはせず、何度も交渉を重ねているうちに、その経費だけでも十貫余に及んでいます。6月も半ばになってようやく、守護より東寺に、東寺が使を下向させるなら守護も使節を出そうという通知があり、盆を過ぎたころになって、ようやく徴収が始められたようです。しかし、それでもなお守護の全面的な協力は得られず、徴収の成果は散々でした。九月の初め、縁親は東寺に、幕府に働きかけて守護の協力が得らるようにして欲しい、と訴えています。このような経過を見ると、五流山伏と守護の間に親密なつながりがあったとは考えられません。
五流山伏が棟別銭徴収を請け負ったのは、彼らが守護と特別なつながりをもっていたためではないとすれば、東寺は、いったい何を見込んで五流山伏に棟別銭徴収の詰負いを指名したのでしょうか。
それは修験者たちが初穂料集金のために、村々をめぐっていたからです。
五流の修験者たちは、伊勢御師と同じように各村や港の有力者である檀那たちの間を、お土産を持ってめぐり、その代償として初穂料を「集金」していました。初穂料の代わりに、東寺に代わって棟別銭を徴収するという感覚だったのかも知れません。
神仏分離以前の五流各寺院跡
それは修験者たちが初穂料集金のために、村々をめぐっていたからです。
五流の修験者たちは、伊勢御師と同じように各村や港の有力者である檀那たちの間を、お土産を持ってめぐり、その代償として初穂料を「集金」していました。初穂料の代わりに、東寺に代わって棟別銭を徴収するという感覚だったのかも知れません。
廻檀(檀那めぐり)を行つていたのは、山伏だけでなく伊勢御師が有名です。
前回は讃岐の「さぬきの道者一円日記」で、高松周辺での伊勢御師の活動を見ました。今回は「丹後国御檀家帳」(神宮文庫所蔵天文七年(1538)を見てみましょう。
丹後国与謝郡の日置郷
これは伊勢御師・福井末高が残した丹後の檀那帳の冒頭の与謝郡の日置郷の部分です。与謝郡分一ひをき(日置)の郷一円里数あまたあり、ちぃさき村へは毎年音信不申候、一ひおきしを(日置塩)浜 家弐拾軒計南大夫殿 かうぉや也(以下、二十名省略)一ひをきむこ山の御城 御内衆家参拾軒計(以下、二名省略)一ひをさ田中むら 家八拾軒計中垣小治郎との(以下、五名省略)一ひをきくわ田村 家八拾軒計かうおや 川ら殿
このように、この檀那帳は村ごとに福井末高の檀那が書き連ねられています。村の数は百を超え、丹後全域に及びます。この檀那帳で研究者が注目するのは、それぞれの村の家数が書き上げられていることです。この家が檀那の数ではなく、村全体の家の数であることは、村ごとに名前の挙がっている檀那の数と家数の一致しないことからも明らかです。なぜ御師が家数を把握する必要があったののでしょうか。考えられる理由は次の通りです
①信者獲得・教線拡大のための資料として記録した②丹後守護一色氏の意を承けてその領国支配の一環として記録した。
②だとすると、御師(修験者)は守護や戦国大名の間者(スパイ)としの役割も果たしていたことになります。土佐の長宗我部元親がブレーンや右筆集団に修験者たちを重用したという話ともつながってがきます。どちらにしても御師は、村の中に入り込み、村の家数を数えて記録しています。山伏の家数把握を明示する史料は今のところはないようですが、彼らも廻檀によって家数を把握していたことは、十分ありえることと研究者は考えています。
以上のような五流修験の山伏集団の特性と情報能力、初穂料徴収能力の慣行などを見込んだ上で、東寺は五流修験の山伏たちに軒別銭を徴収させようとしたのでしょう。
児島五流
戦国期の五流一山が直面した課題は、何だったのでしょうか
①五流一山では、戦国時代の争乱で神領の多くを失ってしまいます。神領に頼らない一山の経営方法が求められます。
②戦乱で修験者たちに大きな実入りになっていた熊野詣でも衰退します。この結果、熊野本宮との関係自体も薄れていきます。代わって本山派の聖護院末寺として活動するようになります
このような時代の変化に、どのような対応策したのかをみておきましょう
室町時代になると、院の財源は「配札・祈祷」などの布教活動に求められるようになります。こまめに村々を歩いて初穂料を集めることが必要にとされるようになったのです。そのための「営業努力」が続けられます。五流修験では次のような「霞(かすみ=テリトリー)」が設定されていました。
尊滝院 塩飽七浦、備中松山・連島、肥前七浦、肥後太法院 備前瓶井山・金山・脇田・武佐・御野、小豆島 作州(本山、桃山除)、日向建徳院 伊予、安芸内豊田郡、紀伊の内日高郡報恩院 備前国岡山並四十八ヶ寺、作州本山・横山、備前西大寺伝法院 讃岐、備後一万国並備中之内浅口郡
ここからは5流(5つの院)が、それぞれテリトリーを持ち、その地域の山伏たちを統括して、布教活動を行っていたことが分かります。統一した組織体と云うよりは、5つの院の連合体と捉えた方がよさそうです。これを見ると、備前は報徳院の霞になっています。この霞が中世においても同様であったとすると、応永19年の棟別銭の集金には、報徳院の山伏が備前の村々を巡って集めたことになります。
最後に棟別銭を負担する側から見ておきましょう。
棟別銭は、各家に一律に同額が課されたものではありません。戦国大名後北条氏や武田氏は、棟別銭は家の大小に応じて一定の差額を設けて賦課しています。戦国期のものとされる「菅浦文書」中の棟別掟には、村の家は「本屋」「かせ屋」「つのだ」に格付けされ、ランクを設けて、それぞれから相応の棟別銭が徴収されています。
これらの例からは、室町期における棟別銭も、画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課されたと研究者は考えています。そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があったはずです。
これらの例からは、室町期における棟別銭も、画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課されたと研究者は考えています。そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があったはずです。
同時に、棟別銭を求められる者と求められない者の二つに分類されます。さらに、軒別銭をいくら払ったかでも階層化されていきます。これは、軒別銭を集金する修験者のネットワークを通じて地域の人々にも周知拡大されていきます。
「あそこはいくら出したんな」「ほんならうちも、同じだけでお願いします」「うちは、その半分で・・・」
こんな会話は、鎮守の神社の新築寄付金集めの時によく聞きます。自分の家の格にあわせた額をはじき出しています。ある意味、風流踊りや猿楽の際の桟敷席順と同じです。何処に座っているかによって、その家の家格は決定されたのです。神社への奉納金も額によって、玉垣の大きさは変わりますが、これも家格とリンクします。その原型となるものが中世の村に姿を現していたようです。
極楽寺
応安8年(1375)、紀伊国粉河庄東村で、極楽寺造営のための勧進が行われます。そのときの史料には、80名近い村民たちからの勧進銭は、百文から五貫に至る10段階に分かれて集められています。また正長元年(1428)に行われた近江国今堀郷での大般若経勧進でも、村民からの勧進銭は50文から一貫文までの五段階に分かれています。
村の鎮守や寺院の棟札・鐘銘などから、その造営が「村人」の勧進で行われたことが分かるものが数多くあります。ここに登場する「村人」とは村民一般を指す語ではなく、宮座の構成員である特定の有力村民のみを指す語でした。このような勧進のあり方を通して、村の中では、勧進に参加しうる層としえない層という形で、あるいは、参加しうる層の中でもどれほど出銭しうるかという形で、階層秩序、家の格付けがされていたのです。
そして重要なのは、この秩序は一村内で確認されるのみではなく、より広い地域に信仰圏を有する寺社の造営への参加を通じて、村々を超えた広い地域の中で承認されたものとなっていたことです。
たとえば、応永26(1419)年の近江国伊吹山観音寺の造営では、姉川流域の多くの村々の「村人」が奉加銭を寄進しています。村内での秩序が、より広い地域の場にもちこまれていることになります。これを研究者は次のように評価します。
たとえば、応永26(1419)年の近江国伊吹山観音寺の造営では、姉川流域の多くの村々の「村人」が奉加銭を寄進しています。村内での秩序が、より広い地域の場にもちこまれていることになります。これを研究者は次のように評価します。
「 つまり信仰圏に対応して重層的な勧進が存在しており、それに参加することによって、村内の秩序は一村内においてのみならず、より広い地域において承認を得たものとなりえたのである」
東寺のための課せられた軒別銭を集めるという「徴税行為」について考えてきました。
この「徴税行為」を、守護は実施できる能力を持っていなかったと研究者は考えているようです。それは、徴税組織がなかったこともありますが、戸籍台帳を持たず、村々の戸数も掴んでいない守護所の武士たちに手におえるものではなかったのです。彼らには、村の一軒々々の家の格付けもできなかったでしょう。
荘郷寺社における祭礼時の席順というかたちで、宗教的には、自然な形でそれができたのです。それも地域の有力者が自らランク付けを行う形で・・・。これは、別の言い方をすると「勧進を通して家々の格が地域的な承認を得た」ことになります。幕府が棟別銭を賦課するにあたって、この体系を賦課基準として「転用」したことになります。
廻檀(檀那めぐり)のために各地を巡った山伏たちが書き留めている村の棟数とは、単なる家屋数ではなく、「勧進の体系」に則った、格付けされた家数だったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①室町時代の棟別銭は、各家々に画一的に課されたのではなく、家の格付けを前提として差額を設けて、一定の格以上の家にのみ課された
②そのため棟数把握は、家屋の数を勘定すればすむというものではなく、村内部の情況に精通している必要があった。
③そのため当時の守護所には、棟別銭を徴収する能力も情報も人員もなかった。
④そこで東寺は伽藍修復のために幕府に許された軒別銭の徴収を備前では、五流修験に請け負わせている。
⑤五集修験は、熊野・伊勢御師と同じように、お札を持って各村々の檀那をめぐりを日常的に行っており、村の情報などに精通し、地域の荘郷寺社への影響力も強かった。
⑥五流修験の修験者たちは、地域の祭礼の際の席次ランクなどから村の有力者の階層化情報を掴んでおり、それを棟別銭を集める際にも利用した。
⑦また、地域の祭礼を握る修験者によって進められる「募金活動」を、村の有力者も無碍には断り切れない部分もあった。
⑧信者組織が徴税マシーンとして機能するのを知った戦国大名の中には、これを積極的に活用しようとする者も現れる。こうして修験者組織と政治勢力が結びついていくことになる。
⑨徳川幕府は、政治勢力化した修験者勢力を嫌い、この力を削ぐ方向に動く。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造」
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中世讃岐の伊勢信仰 伊勢御師は讃岐の村々を廻って初穂料を集めていた
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