瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝の師真雅は時の権力者である藤原良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめました。それは弟子の聖宝からは「天皇家専属の護摩祈祷師」のように見えたこと、それが聖宝と真雅の歩む道を次第に遠ざけていったことを前回は見てきました。
 そのような中で貞観十三年(871)、応天門が再建された年に、四十歳になった聖宝は、師の真雅から無量寿法を受学しています。真言密教をより深めていくと同時に、山林修行の道も極めようとします。顕教と密教を研究し、ふたつを包み込んで実践する道をえらんだのでしょう。聖宝は、行動する人でした。
研究者は聖宝を次のように評します。
  「貴族社会に進出し、有力な貴族の援助のもとにつぎつぎと建立する大寺院の中に真言宗の勢力を扶植して真雅のような道を行くのではなく、そうした方向に批判を感じながら、山林料藪の修行を重ね、日本の土着の信仰と仏教との関係の中に新しいものを摸索しっづけた」(大隅和雄『聖宝理源大師』)。

 このころの聖宝は、山林修行に活動の場を求めつづけ、諸方の山々を縦横に歩きまわっていたようです。そして真雅との距離を保つためにも、聖宝は新たな自分の活動拠点を創り出す必要に迫られていました。そうしたなかで捜しあてた地が、山城の宇治郡の笠取山(京都市伏見区醍醐)でした。
岩間山から東海自然歩道で宇治へ 岩間寺は西国三十三観音霊場 十二番札所(大津市石山千町)です。 2016・2・17  先週、千頭岳へ登った時、岩間山への分岐で石山寺へ下山してしまったので少し気になっていました。この日の朝、なんとなく岩間寺 ...

今回は、どうして聖宝がこの山を選んだのか、そこで何を行おうとしていたのかを見ていくことにします。

  テキストは 参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館です。

笠取山は高さ370mほどの醍醐山地の一山で、北に485mの高塚山、南に251mの天下峯が連なります。
そのありさまを『醍醐寺要書』は弟子の観賢の言葉をは、次のように引用しています。
適々(たまたま)、貞観の末を以て此の峰(笠取山)に攀じ昇り、欣然として故郷に帰るが如し。黙示として精舎を建てんことを思ふ。樹下の草を採り奄居を結成し、石上の苔を払ひ尊像を安置す。

これが醍醐寺創建の端緒のようです。
理源大師 醍醐寺発祥の地 醍醐水
醍醐寺発祥の地 醍醐水

『醍醐寺縁起』には、聖宝が醍醐寺を開創するまでの経緯が記されています。その書きだしの部分を意訳してみましょう。
聖宝は、諸名山を遍歴し、仏法の久住の地を求めていた。たまたま普明寺において七日間、仏法相応の霊地を祈念していたところ、その祈請に答えて、五色の雲が笠取山の峯にたなびくのを見た。聖宝は、この峯に登つて、このうえなく喜び、あたかも故郷に帰ったかのようであった。物も言わないで、ただ精舎を建てようとしたのである。そうすると谷あいに一人の老翁がいて、泉の水を嘗めて、醍醐味であると褒めたたえた。
 聖宝は、その老翁に、
「ここに精舎を建てて、仏法を弘めたいのだが、永く久住の地となるかどうか」

と訊ねた。老翁は、
「この山は、むかし仏が修行したところで、諸天が仏を護衛し、仏が遊行なさったところであり、名神のおられたところである。如意宝生の嶺、功徳の集まる林、法燈がつづいて、龍幸の開くに及び、僧侶は絶えず鶏足山に弥勒かあらわねる時に至るのである。
 私はこの山の地主神(横尾明神)である。この山を永く和尚に献ずるが、仏法を弘め、広く人びとを救うために、わたしは、ともにお護りしたい」
と答え、たちまち見えなくなってしまった。梢に飛び交う鳥が三宝を唱え、聖宝は、感涙にむせぶばかりであった。

聖宝の前に現れた地主神(横尾明神)については、『醍醐雑事記』巻第二に、次のように記されています。
「横尾明神、往古の本所は薬師堂の跡と云々。御願の勝地に立つ可き為るに依り、尊師(聖宝)、今の横尾に勧請し奉らると云々。本は地主明神と申すと云々」

ここからはもともとが「地主明神」で後世になって「横尾明神」と呼ばれるようになったことが分かります。
東海自然歩道放浪記

聖宝が笠取山の地に「醍醐水の霊泉」を見つけ、そこに草庵を設けるようになった理由は何なのでしょうか。
 第一に考えられることは、笠取山周辺は聖宝にとって通い慣れた地であった研究者は次のように指摘します。
 つまり聖宝が奈良・東大寺に遊学していたころ、近江の国の石山寺は東大寺の末寺で修練の道場でした。そのためこの間を何度も行き来して、その間に山中の踏査を行なったのであろうというのです。
 また笠取山は、山城、近江、大和への道の要衝であって、笠取山の西麓を南北に走る道は、この時代の京都と奈良を結ぶ主要な道でもありました。東山から山科に入り、勧修寺、小野、下醍醐、日野、六地蔵と山麓の隈を抜けて宇治に抜ける道を見おろす地点に笠取山はあります。さらに、笠取山の山頂から尾根伝いに東に進めば、石山を経て琵琶湖の南岸に至り、山頂から南へ山伝いに行けば宇治に至るようです。笠取山を通る尾根伝いの道は、山林修行の行者道でもあったと研究者は考えているようです。
 笠取山の山頂に草庵を構えた聖宝は、貞観十六年(874)六月一日に、准胆(じゅんでい)・如意輪のふたつの観音像を造像するための木材を、みずから斧を手にして切り出したと云います
 聖宝と宇治の宮道氏             
  新たに寺院を建立するには経費が必要です。つまり保護者や支援者がいなければできることではないのです。聖宝の背後にいた人物は誰なのでしょうか。聖宝の支援者は、都の皇族や貴族でなく、山城の国宇治郡の大領であった宮道弥益だったと研究者は考えているようです。
  正史の記すところによると、宮道弥益は朝臣の姓をもち、聖宝が笠取山に堂舎を建立した翌年の貞観十九年(877)、正月に漏刻博士の任についています。そして外従五位下から従五位下に昇っています(『三代実録』元慶九年正月三日乙亥条)。
理源大師 宮道氏と醍醐天皇

 
 宮道弥益は、その後に醍醐天皇の外曾祖父になる人物でもあるようです。
弥益と醍醐天皇が誕生されるまでのいきさつは『今昔物語集』巻第二十二の第七「高藤の内 鴨大臣の語」に詳しく物語られています。長くなるのでここでは触れませんが、後の醍醐天皇との結びつきがこのあたりから見えてきます。宮道弥益の勢力下にあったのは、現在の下醍醐の一帯であったようです。
聖宝が笠取山に醍醐寺を創建した大きな理由を、研究者は次のように指摘します。
「聖宝が笠取山を開き、醍醐寺が醍醐天皇の勅願寺となったことの背景に、宮道氏の存在があったこと」
「聖宝が笠取山に入って山上に堂を建てる際に力を貸したのがこの宮道氏であった」 (大隅和雄『聖宝理源大師」参照)
以上をまとめておくと、聖宝が上醍醐の笠取山に醍醐寺を開いたのは、次の2点が考えられるようです。
①山林修行の中で適地だと考えていたから
②支援者の宮道弥益のテリトリーであったから
聖宝は、この寺院をどんな性格の宗教施設にしようとしていたのでしょうか。
それは本堂に安置されたふたつの観音さまからうかがうことができるようです。それは 准抵(じゅんでい)観音と如意輪観音です。こののふたつの観音さまを安置する堂舎が笠取山の山上に姿を現したのは、貞観十八年(876)六月十八日のことでした。
准胝観音 - Wikipedia

その堂舎が准胝堂で、三間四面の檜皮葺でした。ここに安置された観音さまは今までの観音さまとは違っていたようです。これは聖宝が創り出したニュータイプの観音たちで、彼独自の信仰を表現したものとされます。
京都の仏像その3 醍醐寺 | 京都大好き隆ちゃん - 楽天ブログ

准胝観音は、当時の「円珍入唐求法日録」などの経典で仏母(准瓜仏母、七倶抵仏母)とされる観音さまです。
この観音の効験については、経典では次のように説かれていました
「准胝陀羅尼を誦すれば、薄福無善根の人々も、仏の教えを受けて真実の悟りに達することができ、聡明になり、湖善不善をよく知るようになり、悪と戦う争いには勝っことができ、夫婦は敬愛し、愛し合わなかった夫婦も制愛を得て子を生み、望みの子が与え婿られ、諸病は治癒して長寿を得、降雨などの祈りに効験がある」

不思議体験日記(京都 醍醐寺展~真言密教の宇宙~ 仏様たちからの心暖まる慈愛のメッセージ 1) |  菊水千鳳の不思議体験日記~神仏の声を聴いて、人と神仏との橋渡し役をさせていただいております。視えない世界をご紹介しています。

 一方、如意輪観音の効験については、『如意輪陀羅尼経』で次のように説かれています。
「一切の衆生の苦を救い、すべて福を求める事業において意の如く成就させる」
「世間の願、つまり富貴、資財、勢力、威徳などをすべて成就させるとともに、出世間の願、つまり福徳、慧解、資糧などをととのえて慈悲の心を増大させて人々を救うことを成就させる力がこめられている」
「如意輪観音を深く信仰し、如意輪陀羅尼を念誦する者は、珍宝を授けられ、延寿、宇宙宙や心の災を除き、安心・治病を得、鬼賊の難を免かれる」

聖宝の造立した如意輪観音像は、現在は残っていませんが、六腎の尊像だったと研究者は考えているようです。
醍醐寺 如意輪観音坐像 - はんなりマンゴー
 
『醍醐寺縁起』には、聖宝の如意輪観音像について、次のような伝説が記されています。
 聖宝が如意輪観音像を准抵堂に奉安しようとしたところ、その尊像は、みずから東の峯に登って、石上の苔がはびこっている所に座していた。そこで聖宝は堂を建て、崇重にあつかい昼夜にわたって行じつづけた。すると如意輪観音は、聖宝に 

「この山は補陀落山であり観音菩薩が住む山である。この道場は、補陀落山の中心であって、金剛宝葉石があり、自分は、この上に座って十方世界を観照し、昼も夜も、いつも衆生の苦しみを抜き去り、楽しみをあたえているのだ」

と語ったと伝えられます。
この伝説からは、聖宝がとくに如意輪観音を信仰の中心に置いたのは、衆生救済のためであったと研究者は考えているようです。
理源大師 准胝堂跡
准胝堂跡 落雷により焼失
   聖宝が笠取山(醍醐山)に今までにない二つの観音さまを安置する安置する堂舎を完成させたのは貞観十八年(876)でした。
この年の11月に、清和天皇は位を皇太子貞明親王に譲っています。その時、右大臣の藤原基経は、九歳の新天皇陽成を補佐するために摂政となります。
 清和天皇の譲位の詔は次のように述べます。
君臨漸久しく、年月改る随に、熱き病頻に発り、御体疲弱して、朝政聴くに堪へず。加以、比年の間、災異繁く見れて、天の下寧きことなし。此を思ふ毎に、憂へ傷み弥 甚し。是を以て此の位を脱展りて御病を治め賜ひ、国家の災害をも鎮め息めむと念し行すこと年久しくなりぬ。(『三代実録』貞観十八年十一月二十九日千宙
条)
   ここからは、清和天皇の譲位の理由が、自身の病気と国家の災異・災害にあったことが分かります。清和天皇はこの時にまだ27歳です。それでも退かなければならないところへ追い詰められてとも考えられます。この背景には、4月10日の大火があります。大極殿から出た火は、小安殿、蒼龍・白虎の両楼、延休堂、および北門(照虜門)、北東西三面の廊百余間に延焼し、数日にわたって燃えつづけます。清和天皇をはじめとして、すべての人びとは、先の応天門の変という忌まわしい事件が思い浮かんだでしょう。
理源大師 如意輪堂(重文)
如意輪堂(重文) 准胝堂と共に最初に建てられた建物とされます

一方聖宝の師真雅は、どのような動きを見せていたのでしょうか 
  
 聖宝が上醍醐に堂舎を完成させる2年前の貞観16年2月23日、真雅は絶頂の極みにいました。貞観寺に道場が新しくできたのを祝って大斎会(だいさいえ)が設けられたのです。その催しのさまは、「三代実録』貞観十六年二月のように記されています。
「荘厳、幡蓋灌頂等の飾、微妙希有にして、人の日精を奪ひ、親王公卿、百官畢く集ひ、京畿の士女、観る者填喧(みちあふれる)しき」

 この時の真雅の誇らしげな顔貌は、際立って人びとの目に映ったのかもしれません。ところが大斎会が終ってから三カ月余り経ったころから真雅は、病気勝ちとなり、肉体の衰えを感じたのか、しきりに僧正の地位からおりることを申しでるようになります。しかし、 その辞任は認められないまま亡くなっていくのです。
 真雅の死と共に、聖宝には今まで考えられなかったような道が開けてくることになります。

理源大師 願堂として創建された「五大堂」
醍醐天皇の御願堂「五大堂」 真ん中が聖宝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 佐伯有清 聖宝の笠取山開山 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館


理源5

聖宝は16歳で空海の弟真雅に入門し、東大寺でいろいろな宗派を学びながら山林修行にも関わるようになっていたことを見てきました。南都奈良での修学がいつまで続いたのかはよく分かりません。歳仁寿三年(853)・聖宝22歳の時に東大寺の戒壇に登り、受戒したする伝えがあります。(雲雅『理源大師行実記』、祐宝『続伝燈広録』) また受戒後に、元興寺の願暁らに随従したという説もあります(雲雅、前掲書、竜海『理源大師是録』)。
 しかし、これらの説は、同時代史料ではありません。聖宝に理源大師の論号が贈られ「理源大師伝説」が語られるようになる宝永四年(1707)以後に成立した伝記書に記されるものです。これらを信ずることはできないと研究者は考えているようです。
 このような伝説の中に、聖宝が四国にやって来たと伝えるものがあります。それを今回は見ていこうと思います
天安二年(858)、聖宝が27歳の時に四国を遍歴し、観賢を見出だしたという説話です。最初に確認しておきたいことはこの話は、観賢が五、六歳の童子のころであったという他の記録から「逆算」して創作されたものであることです。そのため聖宝が実際に、天安二年に四国を巡錫したとすることはできないと研究者は考えているようです。それを念頭に置いた上で、見ていくことにします。
聖宝の四国巡錫のきっかけは、聖宝と師の真雅との対立だったようです。

理源大師 醍醐雑事記

この話についての一番古い記録は、『醍醐雑事記』で、犬をめぐって師弟の争いが、次のように記されています。
真雅は、犬をたいそう可愛がり、大事に飼っていた。聖宝は、犬を憎み嫌悪していた。二人の犬にたいする愛憎は、水火の仲といってよいものであった。真雅が外出していた折りに、門前に猟師が行ったり来たりして、犬を見ながら、いかにもその犬を欲しそうなそぶりをみせた。聖宝は、それを察して欲しいなら捕まえて、早く立ち去れと言った。猟師は、たいそう喜んで犬を連れて行ってしまった。
 やがて真雅が寺に帰って、食事の時間に愛犬を呼んだが、もちろん犬は顔をみせなかった。翌日になって真雅は犬を探したが犬の姿はどこにもみあたらなかった。この時、真雅は怒って、「この寺房には犬を憎んでいるものがいることを私は知っている。私の寺房の中で、私が可愛がっているのを受けいれないものは同居させるわけにはいかない」といった
 聖宝は自分のしたことを顧みて、真雅の言いつけを気にかけ、寺を抜けだしてて四国に旅立ち修行につとめることになった。
真作)室町古仏画 理源大師像 九曜紋の時代箱入 聖宝 真言宗 修験道 醍醐寺 仏教美術 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報  オークフリー・スマートフォン版

 ここには師の真雅が大事にしていた愛犬を、聖宝が勝手に猟師にあたえてしまったこと。それを反省し、聖宝は四国山林修行に旅立ったというのです。話としては無理があるようです。しかし、この説話からは聖宝と真雅とのあいだに確執があったことはうかがえます。研究者は次のように指摘します。
「聖宝が真雅と必ずしも信仰と行動をともにせず、仏教のあり方についてもこの師弟が考えを異にしていた」

 真雅は時の権力者良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめてたことは以前にお話ししました。
 一方弟子の聖宝は、前回に見たように南都奈良で修学中のエピソードからは、東大寺の腐敗した上座僧侶を批判していたことがうかがえます。その腐敗が、天皇や藤原家への接近の中から生まれてきたことを見抜いていたはずです。そのため真雅のやり方に同調することができず、批判の眼をそそぐようになっていたことが考えられます。だとすれば、師弟のあいだに隙間ができるようになったのは当然かも知れません。 この説話の中に出てくる「犬=宮廷貴族勢力」と聖宝が捉えていたと見ると、当時の様子が見えてくるのかも知れません。
  説話に戻りましょう。次のシーンは四国辺路巡りに出た聖宝が、幼い日の観賢と出会うシーンです。
 讃岐路で聖宝が人家の前で乞食をしていると、門のあたりに五、六歳くらいの子供が遊んでいた。聖宝が立ちどまって、よくよく見ると、その子供は非凡な顔だちをしており、仏法の大立て者となるにちがいない相をしていた。
聖宝が、その子供に父親はどこにいるのかと訊くと、子供は、「父は田植をしているが、母は家にいる」と答えた。聖宝が、子供の家に行って物を乞うと、家の主は、聖宝を見て深く尊敬の念をおこし、「食物を召しあがるか」と言ったので、聖宝が「いただこう」と応じると、大豆の飯を新しい黒色の上器に盛ってきて、食べるように勧めてくれた。食事をすませて立ち去ろうとしたら、門の外には、まだその子供がいた。そこで聖宝が、「さあ坊や、都に来ないか、美しいものを見せてあげるよ」と話しかけると、その子供は、「はい」と答えた。聖宝は子供を抱いて、足早にそこを立ち去ったのであった。

地域の偉人・観賢僧正のお話 | おじゅっさんの日々
観賢
 これが聖宝とその弟子観賢との出会いです。
観賢は、後に弘法大師の入定留身説を説き始め、現在の大師信仰を広めた真言宗再興の大きな貢献者として、高い評価を得ています。
 観賢の出身については史料がなくよく分からないようです。
 『東寺相承血脉』に「大師(空海)の甥也 七歳聖賓(宝)具足洛中入給」

とあって、空海の甥で、7歳の時に聖宝に伴われて洛中にやってきたと記します。しかし、これをすぐに信じるわけにはいきません。大師(空海)の甥というのは、無理があります。
理源1
  左から観賢、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

 観賢の生まれは、讃岐国呑東郡坂田郷(高松市西春日町)の生まれとされます。そのために奏氏であるとも、大伴氏の人とも云われまが、これもよく分かりません。
どこいっきょん? 観賢僧正など(高松市西ハゼ町)

誕生地とされる西春日町には観賢堂というお堂が地元の人たちによって建立されています。お堂の周りには「観賢御廟」「弘法大師剃刀塚」の二つの石碑があり、地元の信仰を受けてきたことが分かります。
観賢さん | おじゅっさんの日々
観賢堂(久米寺)香川県高松市西ハゼ町

説話に戻りましょう。まるで人さらいのように観賢を讃岐から平安京へ連れ帰った聖宝です。

ほどなく都に帰ってきた聖宝は、仁和寺や般若寺などの庵室に、その子供を置き、都に出かけては乞食をつづけます。しかし、一日に供養を受けた食物は、あくる日の分に残すことができなかった。このような苦労をかさねて、聖宝は、月日を送っていた。ある日、中御門の下で、しきりに先払いの声がして、集まっている人びとを追いはらつていた。聖宝は扉の陰に隠れて、ひそかに見ていると、先払いの主人が藤原良房であることが分かった。聖宝が扉の陰に隠れていたにもかかわらず、良房は聖宝に目をとめて、驚いた様子で、「どういうお方か」と訊ねた。聖宝が、「乞食法師である」と答えると、良房は、
「あなたは非凡なお方であろう。深く敬意を表したい。しかるべき日に、かならずわたしの家に来てもらえないか。お話ししたいことがある」

と語った。聖宝は、それに応じたのであつた。

理源大師 藤原良房
邸にもどった藤原良房は、
「しかじかの日に、僧がやって来て案内を乞うたら、すぐに取りつげ」

と家人に命じた。約束した日に、聖宝が参上すると徳の高そうな老人がすぐに取り次いだ。良房は、聖宝を召し入れ、普段着のまま聖宝と対面した。しばらくして良房は若君を呼びだして、聖宝に、
「申しつけたいのは、この若君のために祈一幅してもらいたいことだ。今後、祈躊してもらえないものか。」

聖宝はそれを引き受けることにした。
その後、聖宝が子どもを般若寺に住まわせて、乞食をしながらその子どもを養っていることを話した。すると良房は、若君の衣服を持たせて、子供を迎える使者を般若寺に遣わした。やがて連れてこられた子供を見た良房が、
「この子供は、非凡な相があり、聡敏さも人に抜きんでている。この邸に住まわせ、若君(惟仁親王(後の清和天皇?)と遊ばせたい」

と言うと、聖宝は、
「毎日、倶舎の頌(世親の著で唐の玄美が訳した『阿昆達磨倶舎論本頌』)を読ませているので、御殿に伺候させれば、学問は怠りがちになるから、時々参上させたい」
と答えた。
その子供は、読書をすれば、たちまち理解してしまい、ふたたび質ねるようなことはなかった。たちまち倶舎の頌三十巻を覚えてしまったのである。般若寺の僧正観賢こそが、この子供なのであった。
 聖宝が師の真雅から勘当されていることを良房に語ると、
良房は、
「わたしが一緒に貞観寺へ行って、勘当を許してもらえるようにしてやろう。その日になったら来てほしい」

と言った。それに応じた聖宝は、良房のもとを退出した。
理源大師 金剛草履
金剛草履
 藤原良房は、家人に命じて墨染めの衣服と狩袴、そして金剛草履を用意させた。聖宝が約束した日に参上すると、良房は以前のように対面し、用意させた衣服と狩袴を聖宝に着せて、同じ車で貞観寺へ向かった。良房の車が貞観寺に近づくと、先払いの声が、しきりに聞えてきたので、寺の人びとは、良房がどのような用事で、寺にやって来たのか計った。良房が車から降りようとした時、踏み台に金剛草履が置いてあっためを目にとめた寺の人びとは、不思議に思った。それは聖宝が車から降りる時に履くための草履であった。
貞観寺跡
真雅

  良房は真雅と面会して、
「聖宝が勘当されているのを聞いたので、許してもらえるようにと一緒に参ったのである」
と語った。それに答えて真雅は、
「わたくしから申しあげることは、なにもない。思いもよらず聖宝を離別させてしまい、それ以後は、いつも後悔し、残念なことだと思っていた。聖宝がもどって来たのならば、このうえもなく嬉しいことで、わたくしの本心を満足させてくれることになる」

と述べた。良房は喜んで、真雅のもとに来た時と同様に聖宝と同じ車に乗って帰ろうとしたが、聖宝は辞退したために馬で送ろうとした。しかし、聖宝は金剛草履を履き、般若寺へ歩いて帰っていった。
ヤフオク! - KM484 大峰山 深山辯才天 大峰役行者 理源大師 ...
修験者姿で描かれた聖宝(理源大師)
 
これが聖宝が真雅の勘気にふれ、四国遍歴に出かけたさいに観賢を見出だし、また真雅の勘当を藤原良房のとりなしで許されたという説話です。この『醍醐雑事記』を撰述したのは慶延です。彼は12世紀後半の人物で、鎌倉幕府成立の頃には、このような話が醍醐寺に伝えられていたことが分かります。
 ちなみに『醍醐雑事記』では、聖宝が観賢を抱いて讃岐の国から「ほどなく都にもどった」とあります。しかし、後の憲深の説話には
「小者(観賢)を取りて打ち負ひて、一日の間に般若寺に着き給ひけり」

に「発展」します。「観賢を背負って、一日で讃岐から京に帰ってきた」と、「聖宝=スーパーマン」説が強調されるようになります。鎌倉時代初期には、聖宝が不思議な能力を持っていた修験者として、描かれるようになっていたことがうかがえます。
 この説話には、藤原良房の時代には、まだなかった仁和寺や般若寺などが出てきます。仁和寺は、仁和二年(886)に起工され、翌年に完成した寺です。般若寺は、延喜年間(901)に観賢を開基として建立された寺院です。どちらも観賢と関係の深い寺です。ここからは、この話が「創作」されたものであって、事実を物語るものではないことが分かります。
 また、聖宝が良房から祈祷を頼まれた「若君」というのは、良房の外孫惟仁親王(清和天皇)であったかもしれません。そうすると、この説話は、天安二(858)年頃のことを踏まえて語られていると研究者は指摘します。
この時期の聖宝の師である真雅の動きを見ておきましょう。
嘉祥3年(850年)右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。真雅は親王生誕から貞観16年(874年)まで24年間、宮中に詰めて聖体護持
仁寿2年(853年)惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院建立。
仁寿3年(854年)10月、少僧都に任ぜられる。
斉衡3年(856年)10月、大僧都に任ぜられる。
貞観2年(860年)2月、真済没し、東寺一長者に就任
貞観4年(862年)7月、嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
元慶3年(879年)1月3日、貞観寺にて入滅。享年79。
  真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 真雅は、貞観寺創建と前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  このように真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。しかし、聖宝から見れば真雅は「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。このような布教方針や真言教団の経営方針に、聖宝は批判の目を向けていたとしておきましょう。
  聖宝と真雅の師弟の間に生まれた亀裂が埋められることはなかったようです。この時期の聖宝の行方が「空白」なのも、山林修行ばかりのせいではなさそうです。聖宝に光が当たり出すのは、真雅の亡き後のことのようです。それは高野山の真然によってもたらされるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館


理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

前回は聖宝(理源大師)が、空海の弟真雅に入門し、奈良の東大寺で次のような師からいくつもの宗派について学んだことを見てきました
①三論宗を元興寺の願暁と円宗に
②法相宗を東大寺の平仁に
③華厳宗を同寺の玄永(玄栄)に
④真蔵のもとで律宗を
もちろん師である真雅からは密教も学んだでしょう。聖宝の南都奈良での修学が何年までのことかは分かりません。南都での修学を終えて都に帰ってきた年代を確定することはできませんが、聖宝20歳の半ば、すなわち斉衡三年(856)頃としておきましょう。これは空海没後約20年後のことになります。
理源6
八経ケ岳の聖宝像

この時期から聖宝は、山林修行をすでに行っていた形跡があるようです。
 聖宝が師真雅の犬をめぐって怒りを受けて破門同然になり、四国へ巡錫の旅に出たり、乞食の行をしたりしたという説話があります。これも、聖宝の山林修行が反映していると研究者は考えているようです。
聖宝の山林修行については、『醍醐寺要書』の延喜十三年(913)十月二十五日付の「太政官符」に引用されている観賢の奏状に、次のように記されています。
先師(聖宝)、音、飛錫を振つて、遍く名山に遊び、翠嵐、衣を吹きて、何れの巖を踏まず、白雲、首を払めて、何れの岨を探らざるはなし。然らば則ち徒、遁世長往のい収を側めんとす
意訳変換しておくと
聖宝は、むかし錫杖を手にして、数多くの霊山・高山を遊行・修行した。緑の山の気が、衣を動かし、いずれの大きな岩(巨石信仰)を踏まないことがなく、白い雲が頭をかすめて、いずれの山の洞穴を探らないことはなかった。こうしてただ、山林に隠遁し、修行を行う場所をさだめようとした。

とあります。ここからは、聖宝が霊山の行場で、岩籠もりして、巨石や霊石に座して山林修行を行ったことが分かります。
理源5

それでは、聖宝が修行の霊山として選んだのはどこだったのでしょうか?
 聖宝が修行の地としたのは吉野の山々だったようです。
善無畏三蔵(637~735)が訳出した『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』一巻の所説にもとづく虚空蔵求聞持法という行法があります。この行法の分別処法には、空閑静処・浄室・塔廟・山頂・樹下の場所を選ぶという条件があげられていて、山林修行を一つの重要な行法としています。これを実践したのが若き日の沙門空海でした。
空海は「三教指帰」の序文で次のように記します。
爰(ここ)に一の沙門有り。余に虚空蔵聞持の法を呈す。……
ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鑽燧に望む(精進努力し、道を求めてやまない)。阿国大瀧嶽に踏り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す(修行につとめた結果、虚空蔵菩薩の応化があった)。

ここからは、空海が虚空蔵求聞持法にもとづいて阿波の国の大瀧嶽(徳島県太龍寺)や土佐の国の室戸岬(高知県室戸市)で山林修行をし、虚空蔵菩薩の応化をえたことを語っています。空海が求聞持法を行ったことは、その弟子たちにもつながっていたと研究者は考えているようです。
 以前にお話ししましたが、空海に虚空蔵求聞持法を教えた「一の沙門」は、大安寺三論宗の碩学勤操とされてきました。しかし、今では勤操説に疑いをかける研究者が増えているようです。ただ、勤操と空海とのあいだに師弟関係がなくても、両者は親密な間柄であったことはうかがえます。入唐して、虚空蔵求聞持法をももたらした道慈から善議へ、そして善議から勤操へと伝えられた同法の影響を空海が受けたとしておきましょう。聖宝は空海の高弟真雅のもとで、出家したのですから空海が持っていた虚空蔵求聞持法の行法の流れのなかにいたことになります。
 元興寺法相宗の大成者とされる護命(750~834)は、空海と同時代人です。彼は吉野山に入って苦行した学僧ですが、次のような事を実践していたと記されています。
「月の上半は深山に入り、虚空蔵法を修し、下半は本寺(元興寺)にありて、宗旨を研鑽」

彼が入った「深山」とは吉野山の現光寺とされます。そこで、月の半分は虚空蔵法(山林修行)を行い、残りの半分は元興寺で修学していたようです。ここからは、 元興寺の法相宗唯識では、学僧のあいだに虚空蔵求聞持法の行法が伝えられ、法相を学んだ願暁にも、その行法の知識が受けつがれ、実践されていたようです。この時代には、山林修行と修学が一体と考えられるようになっていたことがうかがえます。そのような機運の中で、讃岐の中寺廃寺のような山岳寺院が各地に建立されていくことになるようです。
 そのような中で、いろいろな宗派に関心を持った若き聖宝も虚空蔵求聞持法を実践するようになり、霊山に入るようになったとしておきましょう。
 閑古鳥旅行社 - 金峯山寺本堂、金峯山寺二王門
聖宝の山林修行で、もっとも有名なのは金峯山への入峯です。
その中で最も信憑性のある『醍醐根本僧正略伝』には、次のように記されています。
「金峯山に堂を建て、並に居高六尺の金色如意輪観音、並びに彩色一丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造る。……
金峯山の要路、吉野河の辺に船を設け、渡子、倍丁六人を申し置けり」

ここからは聖宝の業績として次のようなことが記されています。
①金峯山における堂舎の建立、造像
②金峯山への要路である吉野川の渡船の設置と船頭、人夫の配備
しかし、これは聖宝が南都奈良で学んでいた若い頃のことではないようです。研究者は次のように指摘します。
「そうした活動が可能で、しかも実際に山岳を跛渉して激しい修行を続けることができた年齢を考慮す」
              (大隅和雄「聖宝理源大師』)

聖宝の宗教的活動が、かなり熟していた時期のことだというのです。
大峯山・大峰山
金峯山は大峰山(山上が嶽 標高1720m)を盟主とする連山の総称です。
聖宝が金峯山に入峯したことを伝えるもっとも古い伝説は『諸山縁起』です。この書には聖宝は念怒月緊菩薩の峯に二部経(『無量義経』『法華経』『観音賢経』の法華の二部か)と天台大師智顎の『摩訂止観』などを埋納し、醍醐天皇の使いとなって天皇震筆の『法華経』を般若菩薩波羅蜜の峯に安置したと記します。天皇の使いとして、金峯山の峯のに経塚を作り納経したというのです。
 これに対して研究者は次のように指摘します。
『醍醐根本僧正略伝』以外に金峰山における聖宝の修行を語るものは、すべてが伝説である」 (大隅和雄「聖宝理源大師』)

その根拠を見てみましょう。
聖地に残る怖い信仰(5)(金峯山寺と大峰山) - 慶喜

金峯山での埋経は、寛弘四年(1004)八月に入峯した藤原道長の事績がよく知られています。
 寛弘四年(1004)8月11日に、大峯山に登った藤原道真は、前年に書写した『妙法蓮華経』をはじめ、あらたに書写した『弥勒経』三巻、『阿弥陀経』一巻などあわせて十五巻を銅筐に納めて埋め、その上に金銅燈楼を立て、常燈を奉った(『御堂関白記』寛弘四年八月十一日条裏書、金峯山出土「経筒銘」参照)とされます。その経筒が金峯山経塚遺跡から出土していて、遺物と記録とが一致します。道長の埋経が確認できます。出土した銅筐の銘文には、次のように記されています。
「先年、書き奉り資参せんと欲するの間、世間病悩の事に依りて、願ひと違ふ」

 金峯山などへの埋経は、この時に初めて道長が行なったものではなく、すでに埋経の風習はあったようです。しかし、9世紀の聖宝の時代には「経塚」が普及していません。埋経が盛んに行われるのは、11世紀の後半から12世紀になってからのことです。聖宝の金峯山への埋経も、そのころから語られだした伝説であって、事実を物語るものではないと研究者は考えているようです。
大峰山
聖宝は「強力」だったという伝説が金峯山には伝えられてます
 もっとも古いものは『東大寺要録』諸院章第四、三面僧房に次のように記されています。
「件の房、椚の下に赤石一丈ばかりを埋む。僧正(聖宝)、金峯山従り脇に爽み持ち来れりと」
意訳変換すると
「この房の椚の下に赤石が一丈ほど埋まっていた。これは僧正(聖宝)が金峯山から脇に抱えて持ち帰ってきたものである」

十三世紀後半に書写された『尊師御一期日記』の「私に云はく」には
「嶽獄(金峯山)従りして自ら大石を持ち来り、斯を履脱の所と為す。即ち今にいたる迄、之に有り。其の力、等倫(同じ仲間)には無し。事已に以て顕然たるものか」
意訳変換しておくと
「金峯山から大石を持ち来り、これが現在の靴脱ぎ場の大石である。聖宝の力は、同じ仲間にはない。飛び抜けた力を持ていたことが分かる」

というかたちで伝えられます。
さらに時代を下った14世紀前半の『元亨釈書』になると、
庭上に巌石有り。世に日ふ、宝(聖宝)、金峯山従り負ひ来れりと。而して其の大なること人の力の耐する所に非ざるなり。宝、修練を好み、名山霊地を経歴す。金峯の瞼径、役君の後、榛塞ぎて行く路無し。宝、葛苗呻を撥ひて踏み開く。是れ自り苦行の者、相ひ継ぎて絶えず。
意訳変換すると
庭に巌石がある。これが宝(聖宝)が金峯山から背負って持ち帰った伝えられる石である。その大きさは人の力で動かせるものではない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴した。。金峯の険しく危険な小径は、役行者の後は廃絶されて路もなくなっていた。これを聖宝は再び踏み開いた。こうして、苦行の者(修験者)は、再び多くのものがこの道を辿って修行を行うようになった。

という話に「成長」して、聖宝の強力伝説となって、ひろく世に伝えられます。同時に聖宝は、役小角ののちに絶えていた金峯山への入峯を開いた人物として人びとのあいだで信じられることになります。なかでも修験者から聖宝は、「金峯山修験道再興の祖」として崇められるになります。
理源大師 (江戸後期)
聖宝(江戸時代)
修験者は、霊山などで修行することによって超自然的な力を獲得した者のことです。
聖宝が金峯山から大きな巌石を持ってきたという強力伝説も、聖宝を修験者とみなすことから生まれた伝説でしょう。そして、聖宝が厳しい修行の末に、超自然的な験力を持っていたと信じられていたことがうかがえます。ある伝記には、聖宝が一日で醍醐を出て、大峯山の蔵王堂に参詣し、ついで東大寺に立ち寄り、正午には醍醐寺に帰って勤行をしたと記します。これは聖宝は、醍醐寺から山上(大峯山)へ日参修行していたことになります。まさにスーパーマンです。

理源4

『真言伝』は、栄海が正中二年(1325)ごろに撰述したものです。
その聖宝の伝には、次のように記されています。
「凡ソ幼少ヨリ斗藪ヲ業トシテ大峯等ノ名山霊地経行セズト云事ナシ」
「又、大峯ハ役行者、霊地ヲ行ヒ顕シ給シ後、毒蛇多ク其道ヲフサギテ参詣スル人ナシ。然ルヲ僧正、毒蛇ヲ去ケテ山門ヲ開ク。ソレヨリ以来斗藪ノ行者相続テ絶ル事無シ」
意訳変換しておくと
「聖宝は幼少の頃から、山林修行を行っており、大峯などの名山霊地を遍歴していた」
「また、大峯は役行者が開いた霊地であるが、その後毒蛇が多く、この道を塞ぎ参詣する行者は途絶えていた。そこで聖宝は、毒蛇を退散させて山門を再び開いた。以後、山林行者も絶えることなく訪れるようになった
ここに初めて、聖宝の大峯山での大蛇退治に関する有名な伝説が登場します。
この大蛇退治の話は、承平七年(九二七)九月に書かれた『醍醐根本僧正略伝』にはないので、後世になって付け足された伝説のようです。
 正安元年(1299))四月に定誉によって『醍醐寺縁起』が書写されたころに金峯山での大蛇退治伝説が付け加えられたとすれば、その伝説の成立は、13世紀末期のことになります。前回に大蛇退治伝説は、東大寺の住房での大蛇伝説に影響を受けて成立したものであるとしましたが、それと合致するようです。

最後に聖宝伝説がどのようにして生まれてくるのか、大蛇退治伝説で見ていくことにします。
金峯山には、素材となる話が「人に危害を加える竜の話」として10世紀前半にあったようです。まず、これを語ったのが聖宝の門弟・貞崇であることを押さえておきたいと思います。その話は、醍醐天皇の皇子重明親王の日記である『吏部王記』の承平二年(932)二月十四日条にありましたが、今は伝わっていません。しかし、逸文が九条家本『諸山縁起』と『古今著聞集』にあって、次のように記されています。
 古老が伝えている話によると、昔、中国に金峯山という山があって、金剛蔵王菩薩がそこに住んでいた。ところが、その山は飛び去って大海を越えて日本に移ってきた。それが吉野の金峯山である。山に捨身の谷があって、阿古谷(あこだに)といわれ、 一頭八身の竜がいた。
 昔、本元興寺の僧のもとに童子がいて、阿古と名づけられていた。幼少なのに聡明であったので、得度を受ける前に行なわれる試験の時に、師は阿古に身代わり受験させる。合格すると、かわりに他人を得度させてしまうことが三度ほどあった。阿古は恨み怒って、この谷に身を投げ、竜となった。師は阿古が投身したことを聞き、驚き悲しんで谷に行って見ると、阿古は、すでに竜に化していて、頭はなお人の顔をしており、走ってきて師を害しようとした。その時、金剛蔵王菩薩の冥護があって、石を崩して竜を押しつけてしまったので、師は害をのがれた。
 貞観年中(859)に観海法師が竜を見ようとして、その谷に行ってみると、夢に竜があらわれて、翌朝お目にかかりたいと頼んだのであった。夜明けごろになると、雲が湧き起こり、雹が降ってきて、竜が首をあげるのを見ると、高さは二丈ばかりで、一頭八身であった。
 観海は竜に祈って、「八部の『法華経』を写し奉って、汝の苦を救いたいから、私を害しないでくれ」と言った。竜は、なお毒気を吐きつづけたので、害が観海の身におよぼうとした。観海は、大いに恐れ、心神が迷い惑った。そこで金剛蔵王菩薩に帰命して、『法華経』を写すことを願った。すると雲霧が立ちこめて暗くなり、竜のいるところが見えなくなってしまった。
 しばらくして雲霧が晴れると、たちまち菩薩の御座します所に至った。観海は祈感して願いのように経を写し、これを供養しようと善祐法師を請じて、講師とした。善祐法師は、それを固辞した。夢に菩薩が告げて、「我は今、汝を請じるのだ。あまり固辞するな。すべからく『法華経』方便品まで漢音で読まなければならぬ」と言った。善祐は感じ悟って起請し、菩薩が告げたとおりにした。『法華経』の第二品である方便品に至るころになって、大風が経をひるがえして、経典の飛び去った所がわからなくなってしまった。したがって、八部の『法華経』は、現に、その一巻が欠けているのである。
この説話からは、十世紀の前半以前に、すでに金峯山には竜が住んでいた話があったことが分かります。
物語は、そして人を害する竜に化身した阿古という童子の悲しい物語です。そのなかで活躍するのが僧観海法師です。この人物は、聖宝の同時代人として、実在の人物だったことが他史料から分かります。
  観海のことは、それ以外には分かりませんが、「状況証拠」から真言密教系の僧で、金峯山で山林修行をして、金剛蔵王菩薩に帰依していたのでしょう。修験者としても有名だったので世に伝わっていたのでしょう。これを親王に語ったのが聖宝の門弟の貞崇なのです。
 ここから研究者は次のように推察します
①吉野の鳥栖に住んだ貞崇が親王に観海のこととして語った話だった
②貞観年間に阿古谷の竜の障害を止めさせた観海が、聖宝であるかのように受けとられた
③この時期は、聖宝が南都で修行中の時期でもある。
つまり、「観海=聖宝」と「株取り」「接ぎ木」されたと指摘します。 たしかに『理源大師是録』に引用されている『源運僧都記』には、次のように記されています。
金峯山は、聖宝僧正以前は 一切参詣人なし。その故は、大蛇ありて参詣すれば、悉く是を嗽食(たんしょく)す。尊師彼山に参詣し玉ふに、蛇是を悦びて尊師を嗽食せんとす。
尊師蛇尾を踏玉ふに、起んとすれども、強力に踏付られて起事能はず。尊師蛇に宣し含め仰せらるゝは、永く遠く此御山を去るべし。若猶来らば命根を断べし。如此降伏して後、阿古谷に追ひ入給ひ畢云々
意訳変換しておくと
金峯山は、聖宝がやって来る前までは、一切参詣人はいなかった。それは大蛇がいて、参拝人を嗽食(たんしょく)したからだ。聖宝が参詣すると、蛇は悦んでこれを取って食おうとした。聖宝は蛇の尾を踏んだ。蛇は起きようとするが、強力に踏付られて起きられない。聖宝は、蛇に次のように言い含めた。「この金峯山から去るべし。もし、この山に近づけば命根を絶つ。」
 こうして大蛇を退治して行場に入って行かれた。

ここでは蛇退治の主役は観海でなく、聖宝にすり替えられています。
ただ入峯した人を食らうのは、竜ではなく大蛇です。大蛇が竜にとってかわるのは、聖宝に理源大師の論号が贈られた宝永四年(1707)正月前後のころからです。
理源の龍退治

その翌年に刊行された雲雅の『理源大師行実記』には次のように記されています。
悪竜、威ヲ和(やまと)ノ金峯山二檀(ほしいまま)ニシテ、毒ヲ吐(はき)人ヲ害スルフモツテ、斗撤(とそう)ノ行者、峯二入ルコト能ズ、修験ノ一道、既二断絶ニヲヨブガユヘニ、此災アリト云云。コレニヨツテ、上皇師二詔シテ而モ衣裳宝剣ヲ賜り、用テ竜ヲ伏シ、道フ開シム。
 師、勅命ヲ奉テ剣ヲ侃ビ、錫ヲ持チ、芳野二発向シ、径(ただち)二金峯二今り、安居谷(あこたに)ニ至テ、遙二コレノ観察スルニ 幸ヒナルカナ毒龍首ヲ南ニシテ障臥ス。師、右手に独古(独鈷)ヲ持、左手二錫杖ヲ付いて,僅カニ其尾ヲ踏メ、竜大二古痛シ鬣(たてがみ)ヲ揺シ、鱗ヲ振ヒ、頭ヲ撃(ささ)ゲ身ヲ煩(もだえ)へ後ヘニ顧ミ、前二躍テ山谷二宛転(えんてん)シテ毒ヲ吐コト尤劇(はなはだ)シ。
 師、燿怖(くふ)シ玉フコト無シテ、印ヲ結ビ明ヲ誦シテ、遂ニコレヲ降伏シテ、即上皇賜トコロノ宝剣ヲ以テ其鱗爪ヲ抜採コト三枚、時ニ竜首ヲ低(た)レ救ヒヲ求ム、憐ンデタメニ法ヲ授ケ、帰戒ヲ受シメテ、以テ他処二永ク移シ、霞ヲ喰ヒ、雲二臥ルノ輩ヲシテ悩害アルコト無ラシム。
ここには次のようなことが記されています。
①金峯山の悪龍のために修験者たちが参拝できなくなっていたこと
②悪龍退治のために上皇は、衣装と宝剣を聖宝に授け勅命を与えたこと
③安居谷=阿古谷(あこたに)で龍を退治したこと
④上皇から与えられた宝剣で悪龍の鱗を3枚採集したこと
これが現在に伝わる聖宝の悪龍退治のモデルになったようです。この原型は、貞崇が重明親王に語った金峯山の竜伝説を下敷きにして、登場人物を聖宝に置き換える「接ぎ木」が行われていることがうかがえます。しかも、悪龍退治は上皇による勅命であったと権威付けが行われます。 
 その背景には、聖宝が「修験道中興の祖」として、当山派の修験者たちの信仰対象となっていたからでしょう。こうして、いくつもの聖宝伝説が、当山派山伏たちによって創作されていくことになります。それは弘法大師伝説を彷彿させるものです。しかし、違う視点から見れば、それほど聖宝(理源大師)が庶民信仰化していったともいえます。

理源2
神変大菩薩像とは役行者のこと 役行者と並ぶ存在になった聖宝

 こうして聖宝の誕生地とされるようになった讃岐の本島には、多くの信者達が訪れ、沙弥島にも聖宝(理源大師)のお堂が作られるようになったことは、前々回にお話ししました。
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坂出市沙弥島の理源大師堂
そして聖通寺は「聖宝の学問寺」を称するようになっていきます。それでは、このエリアで聖宝伝説を流布した宗教勢力は、どんな勢力だったのでしょうか。それは今の私には分かりません。今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝の山林修行 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館

聖宝3
聖宝(理源大師)
 前回は、聖宝が王族出身で大和を本貫地としていたこと、そして生まれも大和であることを見てきました。今回は、聖宝の青年期に当たる東大寺での修学と、そこに残された伝説を見ていくことにします。
 聖宝が真雅(801~79)のもとで剃髪し、仏教の修行に励むようになったのは、承和14年(847)、十六歳の時のことのようです。真雅は、空海の末弟で兄空海から真言宗を学び、当時は、東大寺の別当に補任されています。この時、真雅は四十七歳です。真雅は16歳でしたから30歳の年の開きがある師弟だったことになります。
 聖宝が真雅を選んだのは、真雅が栄達の極みにあると同時に、聖宝の母が、佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。
弟子入りした聖宝は、真雅の下ではなく東大寺で修業したようです。
そのころの聖宝をめぐる著名な伝説に、次のようなものがあります。
修学の比(ころ)、東大寺の東僧房の南第二室に住めり。件の房は、本願の時従り、鬼神が栖(すみか)たるに依り、内作(内部の造作)もせず、並びに荒室と号し、人が住むこと能はず。而して居住の房無きに依りて、件の室に寄住す。其の間、鬼神種々の形を現し、戟を持ちて遂に勝つことを得ず。鬼神、他処に去り畢んぬ。
意訳変換しておくと
聖宝が居住していた東大寺の東僧房の南第二室は、建立した時から鬼神の栖となっていたようで、内部の造作もしないままに放置され、「荒室」と名づけられていたのです。僧侶が住める状態の部屋ではありません。しかし聖宝は住む所がなかったので、その部屋に寄宿することになった。鬼神は、さまざまな形であらわれたけれども、聖宝に対抗することができないで、ついに退散していったというのです。

 この伝説は、聖宝が亡くなった後、28年がたった承平七年(937)九月に書かれた『醍醐根本増正略伝」に、すでに書きとめられていて、かなり早くから語られていた伝説のようです。
 ここには、後の大蛇伝説のように蛇は登場しません。この話をベースにして、要約や潤色が加えられていろいろな物語にとして残されています。それだけ聖宝が伝説化しやすい人物であったのでしょう。
これには省略されたところあるようです。それを補って、研究者が「完成版」としたのが次の物語です
聖宝が少年の時に、東大寺にやって来たがまだ住む房舎がなかったので、師資相承の次第を書き記して、寺務に住房をあたえてくれるように願いでたのである。その時、聖宝には、まだ一人の弟子もいなかったので、寺司は嘲笑いを浮べながら住房を認める判を押してくれた。それを受け取った聖宝は、鬼神が住むと畏れられていた東僧坊の南第2室に居住することになった。
 その夜、聖宝は燈をもやし、徹夜で学問に励んだ。眠気覚ましに茶を一杯用意して鬼神かあらわれるのを待りていた。真夜中になると、天井から大蛇がが頭を垂れ、目を開いて、まさに聖宝を呑みこもうとした。大蛇の頭が、茶碗の底に写ったので、聖宝は上を向いて、剣を抜いて大蛇を斬り落とした。
 翌朝になると、雌の蛇が人になってあらわれ、聖宝に、「この部屋は、近年、私たちの住んでいた部屋です。私は、いま夫を喪い、住居もまた失ってしまいました。どうか、慈しみ哀れんでくださって、住まわせてください」と懇願した。そこで聖宝は、その雌の蛇を他の所に住まわせた。その間、多くの奇妙なことが、数えきれないほどあった。
 すなわち一匹の蛇が命にかえて、多くの人びとの寿命を延ばしてくれることになったのである。蛇であるこの小菩薩は、戒律を堅く遵奉したので、饒益有情(もろもろの衆生を救済すること)と名づけられた。道理にはずれている行ないをしたものでも、仏の説いた道によく熟達するというのは、これを言うのである。
この伝説の奥にかくされている意味を、研究者は次のように汲みとります。
ひとつは、東大寺の破戒僧の存在が浮びあがってくるといいます。
それは、ここに出てくる寺務です。彼は鬼神の住処だと触れまわって、人びとを恐れさせ、その部屋に人を住まわせないでいた。それは、そしてこっそりと「妻」をその空き部屋に置いていたためだった。寺司は鬼神が出ると語ったのに、聖宝は、いっこうに怯まず、その部屋に長く住みこむ気配であった。これでは寺司にとって、まことに都合が悪い。蛇の姿に化けた寺司が、聖宝を驚かせ、部屋から退散させようとして夜中にあらわれたのはよいが、逆に聖宝に剣で打ち殺されてしまう結果となった。
 ここからは一人の破戒僧の姿と、腐敗した東大寺の姿がダブって見えてきます。
この伝説で研究者が注目する二つ目は、「金峯山の聖宝の大蛇退治伝説」よりも、こちらの東大寺の方が成立が早いことです。
金峯山の大蛇退治伝説の成立は、13世紀末期のことです。
 ちなみに『元亨釈書』の大蛇伝説では、聖宝がただ蛇を叱りつけただけで、剣で斬り落とした話がありません。これは僧侶である聖宝が剣を身のまわりに置き、大蛇を斬るといった話は、ふさわしいことではないから、故意に抜剣のことを取捨選択した結果のようです。醍醐寺の『東大寺具書』には、大蛇を斬ったのは聖宝ではなく、「誰人」かが斬った「異朝伝来」の剣であるとします。もっとも早い『醍醐根本僧正略伝』には、鬼神伝説だけが記されていて、大蛇伝説はありませんでした。鬼神伝説に潤色が加えられて大蛇伝説が添えられたようです。鬼神伝説の背後には、次の3点があったことを確認しておきます
①当時の東大寺の中に派閥的争いがあったこと
②東大寺の僧侶の破戒行為や腐敗堕落した状況があったこと③聖宝の霊力と正義感を伝えようとしていた
僧侶の乱れに聖宝が抵抗していたことを物語る説話があります。
絹本著色 聖宝僧正渡一條大路図
小堀鞆音作 「聖宝僧正一条大路渡る事」

『宇治拾遺物語』巻第十二の「聖宝僧正一条大路渡る事」を見てみましょう。
その昔、東大寺に上座法師(僧侶集団において上座(かみざ)に座るべき高僧のこと)で、きわめて富裕な僧侶がいた。取るに足りない物でも他の人に与えることをせず、物惜しみをし、貪欲で罪深く思われた。
 聖宝は、そのころまだ若い僧であったが、この上座の僧侶の物を惜しむ罪の極端さを見るにみかねて、故意に争いごとをもちかけ「あなたは何をしたら多くの僧たちに供養をしますか」と問いかけた。
 上座の僧侶は「争いごとをして、もし負けた時に供養してもつまらない。そうかといって、多くの僧侶のなかで、こういうことについて何も答えないのも残念なことである」と思い、聖宝には、とてもできそうにないことを思いついた。
 そこで聖宝に「賀茂祭の日に、まる裸になり、揮だけで、千鮭を太刀としてさし、やせた牝牛に跨がって、 一条大路を大宮(皇居)から賀茂川の河原まで、『わたしは、東大寺の聖宝である』と大声で名乗りをあげて通ってみよ。そうすれば、東大寺の大衆から下部にいたるまで、すべての僧達に大いに供養することにする」と語った。

上座の僧侶達は心の中で、そんなことを聖宝がするはずがないと思い、かたく賭の約束をしたのである。上座の僧侶は、聖宝をはじめ東大寺の大衆をすべて呼び集めて、大仏の前で鐘を打って誓い、仏に告げて去って行った。上座の僧侶が約束した日が近くなって一条の富小路に桟敷を構え、聖宝が通るのを見ようと東大寺の大衆がすべて集まってきた。上座の僧侶も、もちろん群集のなかに顔を見せていた。しばらくして、 一条大路の見物の人たちが、ひどく騒がしくなった。何事が起こったのかと思って、頭を突きだして西の方を見てみると、牝牛に跨がつた裸の聖宝が、千鮭を太刀としてさし、牛の尻を鞭で打ち、そのあとから何百何千という子供たちがついてきて、「東大寺の聖宝が、上座の僧侶と賭をして、今こそお通りだ」と大声をはりあげてやつて来たのである。この年の賀茂祭において、これが、まさに第一の見ものであった。
こうして東大寺の大衆は、それぞれ寺に帰り、上座の僧侶に大いに供養を施させたのである。これを聞いた天皇は、「聖宝は、自分の身を捨てて、他の人を導く立派な人物である。現代に、どうしてこのような尊い人物がいたのであろうか」と聖宝を召しだして、僧正に昇任させたのである。

 聖宝が権僧正になったのが71歳、僧正になったのが75歳のことです。ここからすると、結びの部分が説話らしい誇張であることはすぐに分かります。しかし、聖宝ならばこんなこともやりそうだという雰囲気を持っていたのかも知れません。彼の豪放な性格を語り、東大寺修業時代の姿をしのばせるものだと研究者は考えているようです。
同時に、強欲な東大寺の上層部僧侶にたいして、聖宝が批判の眼をそそぎ、敢然として上座の僧に抵抗する姿勢がうかがえます。

聖宝は、奈良の東大寺で誰から何を学んだのでしょうか
①真言を真雅から
②三論宗を願暁と円宗に、
③法相宗を平仁に
④華厳宗を玄永に、
⑤律宗を真蔵に
ついて学んだようです。いくつかの宗派の教学を併せて修めることは、当時の僧侶の間だでは、さして珍しいことではなかったようですが、聖宝の場合は際立っています。それは聖宝の強い探究精神によるものなのでしょうが、それだけではなく当時の仏教界の置かれた状況が背景にあったと研究者は考えているようです。つまり、仏教界の腐敗堕落の傾向がなかで、仏教の真理を求められるのは、どの宗派なのかを模索していたとも考えられます。
 後世の東大寺の凝然(ぎょうねん 1240~1321)が著わした「三国仏法伝通縁起』の三論宗の項において、凝然は聖宝のことを次のように評します。
「三論を以て本宗と為し、法相、華厳、因明、倶舎、成実を兼学す。顕宗の義途は、精頭にして究暢し、秘蔵の真言は、旨帰を研致す。包括の徳は、敵対する者無し
意訳変換しておくと
三論を本宗とし、法相・華厳・因明・倶舎・成実を兼学し、顕教の正しい道を詳しく調べて、究め広げ、密教の真言の趣旨を深く明らめ究めた。その包括した教化に対抗できる者はいなかった

と評しています。 いろいろな宗派の研鑽につとめた聖宝にたいする評価の言葉です。
 このような中で聖宝は、自分が歩むべき方向を見つけ出していきます。
それは、空海が大学をドロップアウトした後に歩んだ山林修行の道であったようです。師である真雅は「天皇のお抱え祈祷師」として、貴族世界への寄生する存在であり、そして東大寺の上座たちと同じように写ったのかもしれません。師弟の対立は避けられないものとなっていきます。
今回はこのあたりで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館人物叢書

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坂出市沙弥島の柿本人麻呂碑と瀬戸大橋

いつものように原付ツーリングで宇多津から坂出方面をドライブしていて、海を身近で見たくなったのでやって来たのが沙弥島です。この島は今は坂出と陸続きになっていますが、名前だけは住民の意志で「島」を名乗っています。「その心意気やよし」と応援したくなる島です。
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小さいけれど、箱形石棺から方墳の千人塚、ナカンダ濱の製塩遺跡、柿本人麻呂の碑と、掘り下げれば瀬戸内海の島らしい歴史が出てくるところでもあります。そして、なによりこの島からの瀬戸大橋は絶景です。あまり知られていませんが海に沈む夕陽が見える讃岐の数少ないヴィユーポイントでもあります。

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 さて、千人塚を報告書を片手に見て帰って来ると見つけたのがこの標識。「理源太子堂」と書かれています。今まで気付かなかった標識です。道標の示すとおりにお堂を訪ねてみます。
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おもっていたよりもおおきな規模の敷地とお堂です。
かつては、祭事には多くの信者達が集まってきたことがうかがえます。しかし、管理はされているようですが、境内の手入れはされていません。今は、訪れる人もいないようです。このままで朽ち果ててしまいそうな雰囲気もします。
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沙弥島は近世初頭には、無人島になっていました。そこへ、塩飽から人名が入ってきて「入植開発」を始めます。そして、その宗教的センターとして、新たに建てられたのがこのお堂のようです。

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なぜここに理源大師のお堂があるの?
そういえばこの沙弥島に来る前に立ち寄ってきた聖通寺には「理源大師学問所?」という看板も掛かっていたように思います。後で知ったのですが、聖通寺は聖宝(しょうぼう=理源大師)が通った寺だという言い伝えでその名がつけられたのだとも云われています。この周辺は、理源大師との関係が深いようです。
 その後、四国辺路に関わる修験者たちのことを調べて行くにつれて、理源大師を避けては通れなくなってきました。読書メモ代わりにアップしておこうと思います。テキストは、佐伯有清 「聖宝」 吉川弘文館です
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沙弥島の理源大師堂

聖宝(しょうぼう=理源大師)の業績とされるものを、まず押さえておきましょう
①京都山科の醍酬寺創建
修験道中興の師 後に当山派による伝説化
③真言宗教団の主柱として活躍
④准紙、如意輸観音像の造像と″観音信仰″の祖
  聖宝1
 
  次に聖宝の出自を見てみましょう。
 聖宝の俗名は恒蔭王(つねかげ)といい、父は正六位下の位に相当する兵部大丞の官職にあった葛声(かつな)王だというのです。名前から分かるように、聖宝は王氏の家柄のようです。遡ると天智天皇の皇子である施基皇子(しきのみこ)を始祖としていた名門のようです。
施基(志貴・志紀・芝基)皇子の子には、後に光仁天皇となる白壁王や湯原王・榎井王・春日王などの兄弟がいました。聖宝は、その中の春日王の子孫といわれます。
『三代実録』仁和九年二月十五日辛丑の条には、次のような記事があります
左京の人、大舎人助正六位上氏宗王の男峯兄、峯行、峯良、峯安、峯依、峯永、正六位上氏世王の男俊実、正六位上浜並王の男有相、正六位上弥並王の男善益、秋実、秀範、春淑、正六位上富貞王の男恒並、恒世、今恒、浄恒、良並、恒身、恒秀等の十九人に姓惟原朝臣を賜ふ。其の先は田原天皇の後春日親王自り出づるなり。

 例の如く、賜姓記事です。田原天皇は、施基皇子のことです。施基皇子の子白壁王が天皇になったので、施基皇子にも田原天皇の称が後から贈られたようです。その子の春日王も、天皇の皇子に準じて親王と呼ばれるようになります。

聖宝系図1

そして、仁和元年(885)二月に惟原朝臣の氏姓を賜わった峯兄以下、十九名の人たちの続柄は、上のような系図が伝えられています。
次頁に掲げた系図によって明らかなように、惟原朝臣の氏姓を賜わった峯兄らの父親、すなわち氏宗王、氏世王、浜並王、弥並王、富貞王は、ともに五世の王であって、聖宝と同じ世代です。
 系図を見て分かるのは、五世の上の富貞王の子の多くが「恒」の字を通り名としていることが分かります。「恒」の字は、聖宝の俗名にもふくまれています。この一族のあいだでは、「氏」「並」「世」「実」などの字が、兄弟をこえて、ひろく名前にもちいられています。ここからは恒蔭王(聖宝)は、恒並、恒世ら兄弟の近親者であって、恒並らの父富貞王とは従兄弟の続柄にあったと研究者は考えているようです。
 その関係を系図にしたのが下図になるようです。
聖宝2


もし、聖宝が僧籍に入らなかったら、その氏姓が惟原朝臣であったことは確かなようです。聖宝は、史料的にも王族出身であることが裏付けられるようです。
王族出身の聖宝が、どうして讃岐で岐で生まれたとされるのでしょうか?
聖宝は、讃岐の塩飽の島で生まれたする説が地元にはあります。
その伝説によると、聖宝の母がこの地に流されてきた時、もしくは、ある罪をきて大宰府に流されていた夫の葛声王を慕って大宰府ヘ行く途中、この地に着いて聖宝を産んだと伝えます。そして天安二年(858)ごろに、空海の弟真雅から破門され聖宝が讃岐の国を巡錫したさいに、沙弥島に一堂を建てて、亡き母を供養したというのです。(竜海『理源大師完録』上)

 沙弥島の権現山の山頂(28m)の方墳千人塚は、聖宝の母の墓であると、地元では言い伝えられてきました。
さらに塩飽の沖の塩飽諸島の本島(丸亀市本島町)にある正覚院(妙智山観音寺、本島町泊)の地が聖宝の誕生地であるという異伝もあります。
 聖宝の誕生地に関しては、明治の初めに沙弥島と本島との間で、裁判沙汰にまでなっています。その結果、明治12年8月26日に下された和解案は、次のようなものでした。

本島正覚院は誕生地、沙弥島は母(綾子姫)御着船のところなり

母が乗った船が着いたのが沙弥島で
母が聖宝を生んだのは本島
と、両者の顔が立つ「名調停」です。こうして、近代になって香川県では聖宝は、讃岐の本島生まれで、「讃岐人」であるかのようにあつかわれてきました。
聖宝3

 しかし、同時代史料には聖宝が、塩飽の島で生まれたという記録はありません。
死後、300年以上経った鎌倉時代の「明匠略伝」や「元亨釈書」から登場する話なのです。それを受けて江戸時代に書かれた聖宝伝「理源大師完録」にも塩飽生まれと書かれています。
近世になると、聖宝は醍醐寺の当山派修験道の祖として、神聖視されるようになります。その結果、修験者たちがいろいろな伝説を作り出し、付け加えていくようになります。聖宝伝説の始まりです。私には、醍醐寺系の修験者たちによって作られ、広められた伝説のように思えます。
 同時代史料に、何も書かれていないことが、後の時代に新たに付け加えられるのは、書き手の作為がある場合が多いようです。聖宝の場合も、生誕地を塩飽生まれとすることは、後の時代になって布教上必要な勢力や教団によって、作られ流布されたと私は考えています。それを流布する背景があったはずです。そのような視点にたって、聖宝と修験道の関係を見ていきたいと思います

それでは、なぜ「聖宝=讃岐誕生説」が広まったのでしょうか。
聖宝は讃岐と、なにも関係がなかったのでしょうか?
 聖宝の誕生地が讃岐の国と結びついているのは、聖宝の母が、讃岐の国の佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。聖宝が讃岐の国の佐伯直氏の一族である空海の実弟真雅の門に入って出家したのも母方の縁によるものかもしれません。佐伯直氏一族であることを前面に出した方が、真言宗教団の中では何かと有利だったようです。

それでは聖宝は、どこで生まれたのでしょうか。
多くの研究者は、大和の国の人と考えているようです。その根拠を見ていきましょう。
『密宗血脈抄』には、「大和の国の人、兵部丞葛声王の息」
同書に引く『或記』に「大和の国の兵部大丞葛声王の息」
『石山寺座主伝記』が引用している『石山寺僧宝伝』には、
「大和の国の人、兵部郎中葛声王の子」

と記されているようです。どれも、同時代史料は、父葛声王と共に大和の国の人と明記しています。
また、竜海『脚測対師息瞭』上には「葛声王大和より左京に移り玉ふか」とあり、平安京に都が移されるまで葛声上の家は、大和の国を本貫の地(本籍地)としていたことがうかがえます。大和で生まれたとするのが自然なようです。
 父が九州に流刑になっていたということを証明する史料もありません。流刑された夫を折って身重の母が、瀬戸内海を舟で行くというのは物語としては面白いですが現実的ではありません。聖宝伝説のひとつとしておきましょう。
最後に史料として「香川叢書 第1巻 386Pの沙弥島嶋縁起」を意訳して載せておきます。
 沙弥自派は、人郊遠ク、蒼海を四方に囲まれた波浪静な瀬戸の島である。この島の南方に、壺平山があり、そこは佛法が繁榮し、聖宝の霊場で、聖通寺がある。北の海は塩飽七嶋山が並び、峰峰が高くそびえている。雲佛霊社がいくつも鎮座し、堂塔佛閣の数はしれない。寺院坊舎は甍をならべ、朝暮勤行が止むことはない。東は白峯の山脈で、山頭に雲霧をいただき、断崖巖石がそびえ立つ。西は湖のような瀬戸内海が漫漫と波を写す。誠に曼茶九品の言葉通りである。その中にこの嶋は、決然とある。
 嶋の周辺は一里にも足らないほどの小島であるが、清浄霊地である。昔、光仁天皇ノ孫葛馨王は、ここで生を受けた。その後、入京・出家して聖宝尊師と称し、醍醐寺を開山した。聖宝は修練を好み、名山を遍歴して、霊地を巡った。金峯の峨峨の峻嶽瞼嶺で修行した。 役小角以後、空飛ぶ鳥や、地を走る獣も通わなくなった行場の再開拓を聖宝は行い、踏み跡を残した。こうして苦行修行を行う人(修験者)たちの活動は、今に続くことになった。
 清浄な霊地は、不思議なほど美しい。聖宝は権化の身となったが、その生を辺境異域に受けている。聖宝は古郷を忘れがたく、群情利済の霊佛なので萬民之塗炭を救い、四輩の迷方を導く。こうして聖宝の名はますます高く広まり、生地に伽藍を建立し、その島を沙弥島と名付けた。華臓を心海に観て、実相をこの嶋で念ずる。峨々な巖嶋は率法の華台を現す。白砂が敷き詰められた様は、化仏浄土にも似ている。煩悩は、乃ち菩薩を観ているようにも思えてくる。深海の浮船は彼岸の船筏。波浪揺動は生界の彼方。波濤寂静なことが則ち佛界の智水である。生佛の二界の霊地が目の前に拡がっている。瀬戸の海を東西南北に行き交う船は、上韓下韓の法でもある。生死は寂静の道場。と察すべし。

役行者の縁起に曰く。行者の叔父願行に云う。行者は角帽子をつけ、九條を用いる。嚢を被り、錫杖ついて、獨鈷を持つ。義學は初て頭巾や不動袈裟を来て、剣を持つ。義玄は寶冠架裟を着て、笈を担ぐ。義真は賓冠を着て、珠敷袈裟を持つ。壽元は角帽子袈裟を着て、索を持つ。(以上は山伏五代の次第である)
 木集に掲載された歌は次のようにある。葛城屋木間仁比加留稲妻渡、山伏乃宇津火加登許曾兄礼。三井寺の山伏の入峯が、私に云ったことに「昔は、入峯する者の神名を問うていた。神が答えて入山の許可を出した。琥は一言主ノ神とされる。光仁帝の孫恒蔭王の子葛磐王は、出家して聖宝を名のった。聖宝は讚岐國の人である。真雅(空海の弟)の弟子として、東大寺で学んだ。その庭上に岩石があった。聖宝は、その岩を背負って金峯山にやってきたと伝えられる。その力は人力の及ぶところでない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴し、役行者以後は通うことのなかった金峯の険しい行場を再興させた。このため、苦行者(修験者)たちの行場は閉ざされることなく今に続いている。また、金峯山に衛役を置いて、渡舟を設け、人々の吉野川の行き来を助けた。

興福寺の坤の隅に、葛城一言主神の祠がある。祠前には木忠樹が植えられている。平家が南都を焼き討ちした際に、煙がこの木忠樹の孔に入って、くすべられた。人々は火を消そうと灌水したが、七十餘日たってもくすぶり続けた。平清盛が熱病にかかったときに、この樹穴からは煙が強く上がった。ところが清盛が亡くなると、その火は忽ち消えて、再び枝葉が繁茂した。人々は奇っ怪なことだと噂した。

聖宝尊師は、生を讚州の小さな名小島受けた。それは延喜九年七月六日ノ暁天のことで、寛文13年には764年目のことになる。そして醍醐寺で亡くなった。無上菩提の台に眠り、永く常槃我浄睡の床についた。
 その後、この島は浪高く陸遠いため、澄む人もいなくなり、伽藍佛閣は零落破烈した。そして、信仰は中絶し、日往き月落チ、歳霜は積み重なった。その間に、水緑の草は秦々とし、青苔は年々に厚く、島は森に埋もれた。そのため近年まで、人影は絶え、往時の姿は見る影もなくなった。
 このような中で、溝縁庄兵衛の尉宗重がこの嶋のに渡って、主人となった。そして、開墾を進める中でかつての伽藍古跡を発見して、それが聖宝の遺跡であることを知った。そんななかで宗重は奇異な霊夢を観た。そこには聖宝尊師の御影を拝む姿であった。そこで、新たにお堂を建立し、御影と形像を安置し、青蓮之眸を開いた。五限具足は備り、形は醍醐寺に、心魂は、この島にある。こうして、寛文十一辛亥之暦林鐘中旬に、一堂を旧伽藍跡にお堂を建立した。
佛法守護の鎮守は、葛城一言主紳を勧進し安置した。この地は、濁世末代の衆生の印身成佛の直路を祈念する場である。島の翁・宗重は、この中古開山である。これは聖賓が再び出世し給ふと信じるが為である。
右の一巷は、先徳師が古歴を捜し、旧訳を集め、新たに書いたものである。誤りがあるであろうが、それは後の世の人達に正してもらいたい。悉く皆世上の咲卓である。盲者の怖さ知らずで書かれたものである。
讚陽賀郁桑門の沙門捨典稽へ綴りし之畢ス。
寛文十三天夷則中旬                           溝淵庄兵衛尉宗重
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館 平成3年

空海のあとを受け継いだ真言教団のリーダーたちをみると、空海の血縁者が多いようです。前回に見た実恵にしても、真雅、真然、智泉など、いずれも空海の血をひく佐伯直氏の出です。初期の真言宗教団のなかで佐伯直氏一族は強い勢力をもっていたことがわかります。空海の死後に、真言宗教団をまとめたのは東寺長者の実恵でした。その後が、空海の末弟の真雅です。しかし、兄の空海とは、年が27歳も違います。異母兄弟と考えるの自然です。
佐伯直家の本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを中央政府に求めた「貞観三年記録」には、空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
1 空海系図

今回はこの真雅(しんが)を見ていくことにします。
 真雅についての根本伝記は、寛平5年(893)に弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝になるようです。
 それによると、真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたのが、申請運動の結果、宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになたことが記されます。真雅の兄は空海で、年齢的には27歳も年が離れています。異母兄弟と考えるのが自然です。父と子ほども年齢が離れていることは、頭の中に入れておきます。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
真雅像(地蔵院流道教方先師像)

 真雅が生まれたのは延暦20(801)年です。この当時、兄の空海は、大学をドロップアウトし、沙門として各地の行場を修行中です。もしかしたら行方知れずで、弟の生まれたことも知らなかったかもしれません。真雅は9歳の時、讃岐から上京しています。官吏となるためには、この頃からから書道や四書五経について学ぶ必要がありました。しかし、彼の進む道は、兄空海の栄達と共に変化していきます。この時期の空海と真雅の動きを年表で見ておきましょう
801年 真雅誕生
805年 長安で青竜寺の恵果に師事し密教を学ぶ。
806年 明州を経て十月帰国。
809年 上京、高雄山寺に居を構える。
810年 勅許を得て実恵、智泉らに密教を教える。真雅上京
813年 真言密教の本旨を示す。
816年 高野山開創を勅許。(43歳) 弟真雅(16歳)を弟子とする。
817年 高野山開創始まる。
819年 真雅(19歳)に具足戒を授ける。
822年 東大寺に灌頂道場建立。
823年 嵯峨天皇から東寺をもらう。
     真雅(23歳)天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。
834年 空海が東寺で実慈と真雅に両部灌頂を受ける。
835年 空海死亡
  真雅にとっては、記憶にほとんどない兄が突然遣唐使になって唐に赴くことになったことは驚きだったでしょう。それがわずか2年で帰国し、その後は密教のリーダーとして飛躍していく姿には、もっと驚いたかも知れません。

大師堂(神護寺) - コトログ京都
神護寺大師堂

真雅が空海と初めて出会ったのは、いつどこででしょうか。
 それを示す史料はありませんが、九州太宰府での「謹慎待機」が解けて、空海が京都の髙尾山神護寺に居を構えてからのことでしょう。それに時期を合わすように、真雅は上京しています。この時期の空海の動きは密教伝来の寵児として、スッタフの拡充充実が求められます。真雅が16歳になるのを待っていたかのように、真雅を出家させ、19歳の時には具足戒を授け、スッタフの一員としたようです。
 真雅は、唐の長安・青竜寺住職恵果和尚から伝えられた新しい密教の教義を、むさぼるようにして兄から学んだのでしょう。そんな真雅を空海は身近において、宮中へも連れて行ったようです。
   『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には、真雅の活躍が次のように記されています。
 真雅(23歳)の時、内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、天皇はよろこび、厚く施しをした。

また、この年に空海は10月13日には、皇后院で息災の法を三日三夜修法し、12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっています。このような儀式に空海は真雅を伴って参内したようで、淳和天皇や朝廷の面々の知遇を得ることができました。これが後の真雅の人的ネットワークとして財産になり、空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立ったようです。
真雅

承和元年(834年)9月、真雅と実慈は、病が重くなっていた空海から東寺で、共に両部灌頂を受けます。空海が後事を託したのは、一族の実恵と真雅の二人だったことがうかがえます。
「東寺長者」には実恵が就きますが、遺命で東寺の大経蔵管理については、真雅に全責任を任したと云います。東寺の大経蔵は、空海が唐から持ち帰ったおびただしい数の経典や密教の法具など一切が納められていた真言密教にとって最も重要な蔵です。ある意味、空海後の真言宗組織は、実恵・真雅の「二頭体制」だったといえるのかもしれません。以後の真雅の動きを年表で追ってみましょう

835年 弘福寺別当、また、一説に東大寺真言院を委託される。
847年 東大寺別当に任ぜられる。
848年 大権律師、9月:律師に任ぜられる。
850年 3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。
     真雅は親王生誕から24年間、常に侍して聖体を護持
853年 惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。
860年 真済死亡後の東寺長者となる(先任二長者の真紹をさしおいて就任)
862年 嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
864年 僧として初めて輦車による参内を許される。
874年 7月、上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)。
879年 1月3日、貞観寺にて入滅。享年79歳79。
1828年 950回忌に、法光大師の諡号が追贈。

この年表を見ると、850年の清和天皇の誕生が真雅の大きな転機になっていることがうかがえます。

真雅と藤原良房
藤原良房

そこに至るまでに真雅は、実力者藤原良房への接近を行っています。良房の強大な力を背景に、真雅は天皇一家の生活に深くくい込んでいったようです。良房をバックに真雅が天皇家と深いかかわり合いを持ちはじめたころに発生するのが「承和の変」です。

真雅と承和の変

良房が図ったこの政変は、天皇家を自らの血縁者で固めようとしたもので、これに反対する皇位継承者や重臣橘逸勢らを謀反人と決めつけて流罪・追放します。ところが実権を収めた良房に舞い降りてくるのが
①応天門の放火炎上
②流感のまんえん
③地震の続発
です。当時は、これらは怨霊のたたりとされていました。たたり神から身を守ってくれるのが先進国唐から導入された最先端宗教テクノである密教でした。具体的には真言高僧による祈祷だったようです。ここが真雅の舞台となります。
真雅と応天門2
こうした世情のなか、真雅は良房の意を受けて
①仁明天皇の病気平癒
②惟仁親王(のちの清和天皇)の立太子祈願
などの重要な収法の主役を演じます。
 真雅の躍進は、藤原良房の保護・支援が大きいようです
嘉祥3年(850)3月25日に生まれた惟仁親王(後の清和天皇)は、文徳天皇の第4皇子でしたが、母は藤原良房の娘です。そのため11月には皇太子に立てられます。これは童謡に次のように謡われたようです。
大枝を超えて走り超えて躍り騰がり超えて、我や護る田や捜り食むしぎや。雄々いしぎやたにや。」

「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇には4人の皇子ありながら、その兄たちを超えて惟仁親王が皇太子となったこと風刺したもののようです。その皇太子を護持したのが真雅でした。
 また藤原良房の娘明子が文徳天皇のもとに入った後、長らく懐妊しませんでした。ここでも藤原良房は真雅と語り、真雅が尊勝法を修した結果、清和天皇が誕生したとも記されます。
真雅と応天門の変

このように惟仁親王(清和天皇)降誕の功もあって、真雅は藤原良房より信認を受けるようになっていきます。
仁寿3年(853)10月25日には、少僧都
斉衡3年(856)10月2日には大僧都
僧官を登り詰めていきます。さらに清和天皇が即位した翌年の天安3年(859)に嘉祥寺西院に年分度者を賜ったのも、それまでの真雅の功に対する、摂政藤原良房からの賞であったのかもしれません。
真雅と清和天皇

清和天皇
 真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 実恵は、空海のワクのなかで忠実に法灯を守ろうとしました。それに対して、真雅は師空海の残した法灯と貴族社会との結びつきを強めていったと言えそうです。
  この結果、真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。
しかしある意味、「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。
 これが天台宗との大きな違いだったと私は思っています。真言宗は、空海がきちんと教義を固めて亡くなります。それを継いだ宗主たちは、教団内部の教義論争に巻き込まれることはありませんでした。そして、真雅は「天皇家の専属祈祷師」の役割を引き受けます。
 一方、天台宗の場合は最澄は、教義の完成を志し半ばにして亡くなります。
残された課題は非常に多く、内部論争も活発に繰り返され、そこから中世の新宗教を開くリーダーが現れてきます。それだけカオスに充ち満ちていて、新しいものが生まれだしてくる環境があったのでしょう。これが比叡山と高野山のちがいになるのではないでしょうか。少し筆が走りすぎたようです。話を真雅にもどしましょう。

真雅は藤原良房の政治力をフルに活用し、真言宗の拡充を図ります
そのひとつが貞観四年(862)に、伏見区深草僧坊町に貞観寺を開創し、初代座主となったことです。この寺は、東寺をはるかに上まわる大伽藍と、広大な荘園を有するようになりますが、やがて東寺、のちに仁和寺心蓮院の末寺となり、中世に衰退して廃寺となります。

 真雅は、貞観寺創建と相前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  「幸いにして時来にかない、久しく加護に侍る。かの両師(実恵と道雄)と比するに、たちまち高下を知らん」(『日本三代実録』巻5、貞観3年11月11日辛巳条)

と評されたように、真言宗においても実恵と道雄の権勢は高まります。そのため真雅の貞観寺には多くの荘園が寄進されます。朝廷と密接な結びつきのある貞観寺に寄進することによって、租税から免れることを狙うとともに、有力者と接近して地域の権益の保護をはかるためでしょう。貞観寺の田地は約755町(750ha)にも及んだといわれます。

 真雅は自分が法印大和尚位についた年、師の空海が死後も無位であることに気を遺います。そして、空海への法印大和尚位の追贈を、清和天皇へ願い出て許されています。
 
貞観の大仏開眼供養会があった年の十一月、
讃岐の国多度郡の佐伯直氏の一族十一人に、佐伯宿爾の姓があたえられ、あわせて平安左京に移貫することがみとめられます。    
空海の甥たちの悲願がやっとかなったのです。これより先に一族を代表して佐伯直豊雄が、宿爾の姓を賜わるために提出した申請書には次のように記されています。

今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸ひに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師 実恵と道雄)に比するに、忽ち高下を知らん」(「三代実録」貞観三年十一月十一日辛巳条)

ここからは、賜姓と京への本貫地の移管が、叔父真雅の威光を背景に行われたことがうかがえます。豊雄らの賜姓を周旋したのは、佐伯直氏の本家とされる中納言伴善男でした。(『三代実録』同上条参照)。
 真雅も伴善男と組んで佐伯氏一族の賜姓と移貫を実現させるために工作したのでしょう。
 貞観六年(864)二月、僧綱の位階が制定されたさいに真雅は、法印大和尚位の位階を賜わり、僧正に任ぜられています。もともとこの新位階の制定は、真雅の上表によって定められたものです。こうして真雅は、僧綱の頂点に立って仏教界を牛耳る地位を獲得したのです。
 しかし、そのころの政局は、けっして平穏ではありませんでした。咳逆病の流行による社会不安が広がっていました。そのような中で起きるのが先ほど述べた応天門の変です。応天門は、大内裏の正殿である朝堂院(八省院)の南中央に位置する重要な門です。そこから火が出て、門の左右前方に渡廊でつながる棲鳳・翔鸞の両楼も応天門とともに焼け落ちてしまったのは、貞観八年(866)二月十日の夜のことです。そして、半年後には時の大納言伴善男は、息子の中庸とともに応天門に火をつけた主謀者として告発され、善男らは大逆の罪で斬刑を命じられますが、罪一等を減じられて遠流の刑に処せられることが決定し、善男は伊豆の国へ、中庸は隠岐の国ヘ配流されます。伴善男は佐伯直氏の本家とされ、賜姓を周旋した人物です。賜姓決定が、もう少し遅ければ佐伯直氏の請願も認められることがなかったかもしれません。

874年7月
「上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)」

とあるように、真雅は七十歳を過ぎたころには、何度も朝廷へ一切の要職から引退したいと願い出ますが聞き入れられません。
『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)には、真雅の死を次のように記しています。

 晩年真雅は病に伏せ、医者や薬に頼ることなく、手に拳印を結び、口に仏号を唱えて遷化した。享年79歳。元慶3年(879)正月3日のことであった。真雅は清和天皇が降誕以来、左右を離れずに日夜護持していたから、天皇ははなはだ親しく重んじていた。天皇は狩猟を好んでいたが、真雅の奏請によって山野の狩猟を禁じて、自らもこれを断ったばかり、摂津国蟹胥・陸奥国鹿尾の贄を御膳に充てることも止めたほどであった

彼も江戸時代末期の文政十一年(1828)になってから法光大師の号が贈られています。
真然像
真然(しんねん)像

最後に真雅や空海の甥に当たる真然を見ておきます。
彼は空海の実弟である佐伯直酒麿(佐伯田公の五男)の子といわれ、真雅や空海とは叔父。おいの間柄になります。真然は、空海から密教の教義、真雅からは両部潅頂を受けています。そして、空海没の翌年の承和三年(836年)に、遺唐使として真済とともに出港します。その際に、空海の死を長安・青竜寺に報告する手紙を託されますが、乗船の難破で入唐が果たせず、命からがら帰国しています。
空海の遺命で、その後の真然は金剛峰寺の伽藍造営に全力を傾注します。
真然廟(高野山)
真然廟(高野山)

そのためか、空海亡きあとの真言教団は、東寺派と金剛峰寺派に分かれ冷戦状態が続き、円仁、円珍らによって降盛をみせていた天台宗とは対照的な様相をみせます。心配した真然は晩年、真言宗の復興へ動き出しますが、果たせないまま党平二年(890年)9月に没します。真然の果たせなかった夢を継ぎ、真言宗を盛り立てたのが益信、聖宝、観賢らになるようです。
真然大徳廟

  以上見て来たように、空海は真言教団の重要ポストに佐伯直親族を当て、死後も彼らが教団運営の指導権を握っていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 讃岐人物風景1 四国新聞社 1980年

 「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち 
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
この系図は以前に見ましたので、分かること、疑問に思うことを要約して指摘しておきます
1 空海系図


①空海家の苗字は、佐伯直氏であること。
②父は田公で、官位はないこと(無冠)
③空海には、弟たちが4人いたこと。(ここには記されませんが妹もいたようです。)
④一番下の弟真雅とは、年齢が27歳離れること。
以上からは、次のような事が推察できます。
①空海の父田公には、官位がないので郡長等の政治的な職務にはついていなかった
②父田公の家系は佐伯直家の本流ではなく傍流であった。
③田公の兄弟の中に佐伯直本家を継承する一族がいて郡衙の郡長等に就いていた
④本家筋は、田公一族に先駆けて都に本籍を移し、中央貴族への道を歩み出していた。
⑤田公は官位がなかったがその息子達は、僧侶になった空海・真雅以外は官位を得ている。
⑥田公の時代に、一族の急速的な経済的な上昇があったことが考えられる。
⑤空海の甥たちの課題は、空海や真雅などの高僧をだした家として、本家一族のように本貫を京に移し中央貴族への道を歩み出すことにあった。
   佐伯直一族をとりまく情勢を押さえて上で、空海の高弟達を視ていくことにします。平安京で活躍した讃岐の佐伯一族は、空海のあとに何人かの高僧を輩出します。
空海をはじめとする讃岐の五大師です。
①空海高弟集団のトップとされる実恵=道興大師
②空海の実弟である真雅      =法光大師
③空海のおいで因支首(和気)氏出身=智証大師
④真雅の弟子である聖宝      =理源大師  醍醐寺創設
 このうち、空海の甥になる和気氏出身の智証大師(円珍)は、空海と対立していた最澄のもとで、のちに天台宗座主となります。それ以外は、すべて真言宗の法灯を継いでいます。④の理源大師以外は、佐伯氏の血脈に連なる者達なのです。この点に焦点を当てながら、空海の後継者となった実恵を、見ていくことにします

実恵は、延暦四年(785年)多度郡に生まれたといいます。

1 空海系図52jpg

松原氏が考える上の系図によると、田公とは異なる佐伯直家本家筋にあたるようです。空海が774年生まれですから年齢的には一回り若いことになります。ちなみに空海と末弟の真雅よりは15歳ほど年長という関係でしょうか。
  実恵が生まれた時には、まだ空海は善通寺にいたかもしれません。空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあったり、幼い実恵とは顔見知りだったと考えることもできそうです。
 奈良・大安寺で得度し、空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた時代から傍らにいたようです。そのため空海第1の弟子とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。
 また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)32歳の時になります。実恵が大阪府河内長野市に観心寺を開創したのは、その十年後の天長四年(827年)です。この頃になると、空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。

「わが滅後、諸弟子は実意によりて教えを受くべし」

と、東寺の学僧たちに空海が指示したと伝えられています。
東寺の最高位は「東寺長者」と呼ばれ、その歴代が『東寺長者補任』(『群書類従』巻第五十八所収)にまとめられています。空海と実恵の部分を見てみましょう。
(承和)同二年乙卯 長者大僧都空海
正月八日。於宮中真言院被始行後七日御修法。依重宣下止勘解由司庁号内道場真言院。
三月廿一日丙寅。寅尅。於金剛峯寺御入定。年六十二。
同三年丙辰 長者権律師実恵。五月十日任権律師。年五十一
同四年丁巳 長者権律師実恵。
同五年戊午 長者権律師実恵。
同六年己未 長者権律師実恵。
同七年庚申 長者権律師実恵。九月廿八日。転任少僧都。年五十五。
同八年辛酉 長者少僧都実恵。権律師真済。十一月九日。任権律師并長者。四十三。元内供。二長者初也。
同九年壬戌 長者少僧都実恵。権律師真済。
同十年癸亥 長者少僧都実恵。権律師真済。
同十一年甲子長者少僧都実恵。権律師真済。
同十二年乙丑長者少僧都実恵。権律師真済。
同十三年丙寅長者少僧都実恵。権律師真済。
同十四年丁卯
十五年六月十三日改元。長者少僧都実恵。十二月十二日入滅。年六十二。寺務十二年。号檜尾僧都。法禅寺是也。権律師真済。
 四月二十三日転正律師。十一月至一長者。年四十八。 権律師真紹。
 四月二十三日任権律師。十一月補二長者。年四十二。

毎年の東寺長者名とその年齢がが記されています。最初に記されているのが空海です。その後に「実恵 → 真済」と引き継がれていったこと、また実恵が東寺長者に就任したのが51歳の時だったことが分かります。実恵が「真言二祖」と呼ばれたのは、空海に続いて「東寺長者」に就任したからだったようです。

空海が亡くなった翌年の承和三年(836年)、実恵は唐の長安、青竜寺にある空海の師・惠瓊和尚の墓前に空海の死を報告する一文をしためています。
……その後、和尚、地を南山に卜して一伽藍を置き終焉の処とす。今上の承和元年をもって都を去り行いて住す。二年の季春、薪尽き火滅す。行年六十二。ああかなしいかな。南山、白に変じ、雲樹悲しみを含む……。
この報告文は、弟子の真済、真然の二人が入唐するのに託したものす。しかし、出発後間もなく船が難破して失敗、翌承和四年(837年)の入唐僧円行へ改めて託します。ところが円行の乗った船もまた途中で引き返し、翌年五月に再度出発し、目的を果たす。実彗の書いた名文は三度目にやっと長安。青竜寺の恵果和尚の墓前に供えられたようです。
 このことは、実恵の記録の中で必ず触れられます。先代の葬儀を執り行うことは、後継者の正当性を示すことにもなります。長安の恵果墓前への報告も、実恵の後継者としての正当性の主張のひとつと私は考えています。つまり、高野山の真雅との間に、何らかの確執があった可能性があります。
実恵は、東寺の別当職として真言宗門を率いるトップの座に座ります。
彼の人柄は、師の教えに忠実な、極めて実直な性格だったと研究者は考えているようです。そのため強い政治力を発揮するといったタイプではなかったようです。ある意味。大きな支えであった空海を失ったあと、真言宗の統率は、実恵にとって重荷だったのかもしれません。
 実恵の没年は承和十四年(847年)11月で、空海と同じ62歳です。その生涯の業績を見てみましょう。
空海が没した後に直面した課題は、未完成のままの東寺伽藍群です。
それは食堂をはじめ、わが国最大の五重塔などを完成させることです。これを朝廷の厚い保護を受けながら完成させて、東寺別当の地位を固めます。
 しかし、空海が初めて創設した庶民の学校である綜芸種智院を廃校にし、校舎を処分しています。承和12年(845)9月のことで、空海の没後十年のことです。このため
「わが国初の庶民の学校として空海の肝いりで作られた綜芸種智院を廃校にした実恵

という評を後世には受けるようになります。東寺の伽藍整備に精いっばいだった実恵には、付属機関である学校経営まで手が回らなかったとしておきましょう。その代わりとも言えますが、実恵はその二年後の承和十四年(847年)から東寺で「伝法会」を開くようになります。伝法会とは大日経や金剛経など真言密教の教義についての講義や研究を行うもので、空海の教えを忠実に守り広めていこうとする実恵の意図がうかがえます。
 この伝法会の開催には多額の経費が必要だったようです。そのために、綜芸種智院の建物を処分した費用で丹波国(兵庫県)の大山に荘園を買い求め、その荘園からあがる年貢で賄ったと云われます。しかし。これも、彼の没後には中絶してしまいます。
実恵は師の教えを忠実に守った律義者としての性格が強いようです。
例えば彼が好んだ仏像の作風は、師の空海とは違い、繊細な日本的風潮だったようです。
1東寺御影堂不動明王国宝

東寺御影堂の不動明王(平安初期作 国宝)は、空海の念持仏と伝えられますが、その作風は空海独特のインド的な神秘さではないと研究者は考えているようです。
観心寺】 秘仏如意輪観音像ご開帳 楠木正成の菩提寺 / 大阪府河内長野市 | 西国巡礼手帖

また河内長野市の観心寺の本尊の如意輪観音像(国宝)も、日本的です。ここからこの2つの仏像は、実恵時代に作られたものでないかとという見方もあるようです。

実恵は、承和十四年に亡くなります。
その後、千年近くたった江戸時代の安永三年(1774年)8月に、後桃園天皇から道興大師の号を贈られます。空海後の真言宗門の混乱を未然に防いだ実恵の功績は高く評価されます。しかし偉大でありすぎた師の空海の陰で、目立たない性格ゆえに、実恵の存在に人々の目は向けられなかったようです。
ある本は
「空海の教えのワクから一歩もはみ出ようとしなかった実恵は、ある意味で最も讃岐人らしい讃岐人だった」
と評しています。

ところで、高野山金剛峯寺における空海の後継者は弟の真然(伝燈国師)です。では、実恵と真然、どちらが実質的な後継者だったのでしょうか。年齢的には先ほど見たように実恵のほうが一回り年上のようです。また、空海との関係も実恵の方が緊密で長かったようです。

最後に実恵を、空海の甥たちはどのように見ていたのかをみておくことにしましょう。
空海の甥たちが本貫を京都に移すことを政府に願い出た 「貞観三年(861)の記事」の後半部を、見てみましょう。原文は以前に紹介したので意訳のみにします。

1 空海系図52jpg

①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。このことは実恵・道雄の功績によること。しかし、我ら田公の一門はまだ改居・改姓ができていない。
②実恵・道雄の二人は、空海の弟子である、 一方田公は、空海の父であり、我らの叔父にあたる。
⑧田公一門の大僧都真雅(空海末弟)は、今や東寺長者となっている。しかし、田公一門と実恵・道雄一門に比べると、格差は明らかである。
③身内の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえりみて悲歎することが少なくない。なにとぞ正雄等の例に従って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

ここからは甥たちの実恵・道雄の本家筋への不満が聞こえてきます。同時にここからは田公の息子や孫たちの系譜は、佐伯直家の傍流であったことがうかがえます。実恵・道雄を輩出した系譜で、佐伯家の本流(本家)だったようです。空海や真雅の系譜は、佐伯家の中では傍流で「位階獲得競争」の中では遅れをとっていたようです。
系図の実恵・道雄系の真持の経歴を正史で確認しておきましょう。、
承和四年(837)十月 左京の人 従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月 正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年  (846)七月 従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月 従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす。
同五年(863)二月 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和介とす。
ここからは、本家筋に当たる真持は、23年前の承和四年(837)十月に、すでに佐伯宿雨の姓を賜わっています。また「左京の人」とあるので、これ以前に都に本貫が移っていたことが分かります。そして、真持はその後は昇進を重ね栄達の道を歩んでいきます。
  つぎに、正雄の経歴を正史で確認しましょう。
嘉祥三年(850)七月 讃岐国の人 大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
とあり、正雄は真持におくれること13年で宿爾の姓を得て、左京に移貫しています。ここからは、佐伯家の本家筋に当たる真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
 これを空海の甥たちは、どのように思っていたのでしょうか。
「謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。」

と申請文書には書かれています。真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるというのです。今見てきたように実恵・道雄は、空海の十大弟子です。そして、俗姓は佐伯氏で空海の一族(本家筋)にあたります。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

とあって、生国は記されていませんが、佐伯氏の出身であったことが分かります。
  真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)なので、東寺は東寺長者であった実恵の尽力があったのでしょう。実恵は承和十四年(847)に亡くなっているので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居には関わりを持つことはなかったはずです。
 これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっているので、前年の正雄の改姓に力があったのでしょう。ここからは、
①実恵は真持一門に近い出自であり、
②道雄は正雄一門に近い出身
と研究者は考えているようです。

空海の甥たちの思いは、次のようなことではなかったでしょうか。
  真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場である。なのに空海を出した私たちは未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅は、東寺長者となった。しかし、我々田公の系譜と実恵・道雄一門とを比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。

 地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったことがうかがえます。佐伯一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったのです。空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたようです.実恵と真雅の間には、本家筋と分家の一族的なつながりと同時に、反目やしがらみがあったことがうかがえます。これは、円珍の場合も同じであることは以前見たとおりです。

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