聖宝の師真雅は時の権力者である藤原良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめました。それは弟子の聖宝からは「天皇家専属の護摩祈祷師」のように見えたこと、それが聖宝と真雅の歩む道を次第に遠ざけていったことを前回は見てきました。
そのような中で貞観十三年(871)、応天門が再建された年に、四十歳になった聖宝は、師の真雅から無量寿法を受学しています。真言密教をより深めていくと同時に、山林修行の道も極めようとします。顕教と密教を研究し、ふたつを包み込んで実践する道をえらんだのでしょう。聖宝は、行動する人でした。
研究者は聖宝を次のように評します。
「貴族社会に進出し、有力な貴族の援助のもとにつぎつぎと建立する大寺院の中に真言宗の勢力を扶植して真雅のような道を行くのではなく、そうした方向に批判を感じながら、山林料藪の修行を重ね、日本の土着の信仰と仏教との関係の中に新しいものを摸索しっづけた」(大隅和雄『聖宝理源大師』)。
このころの聖宝は、山林修行に活動の場を求めつづけ、諸方の山々を縦横に歩きまわっていたようです。そして真雅との距離を保つためにも、聖宝は新たな自分の活動拠点を創り出す必要に迫られていました。そうしたなかで捜しあてた地が、山城の宇治郡の笠取山(京都市伏見区醍醐)でした。
今回は、どうして聖宝がこの山を選んだのか、そこで何を行おうとしていたのかを見ていくことにします。
テキストは 参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館です。
笠取山は高さ370mほどの醍醐山地の一山で、北に485mの高塚山、南に251mの天下峯が連なります。
そのありさまを『醍醐寺要書』は弟子の観賢の言葉をは、次のように引用しています。
適々(たまたま)、貞観の末を以て此の峰(笠取山)に攀じ昇り、欣然として故郷に帰るが如し。黙示として精舎を建てんことを思ふ。樹下の草を採り奄居を結成し、石上の苔を払ひ尊像を安置す。
これが醍醐寺創建の端緒のようです。
聖宝は、諸名山を遍歴し、仏法の久住の地を求めていた。たまたま普明寺において七日間、仏法相応の霊地を祈念していたところ、その祈請に答えて、五色の雲が笠取山の峯にたなびくのを見た。聖宝は、この峯に登つて、このうえなく喜び、あたかも故郷に帰ったかのようであった。物も言わないで、ただ精舎を建てようとしたのである。そうすると谷あいに一人の老翁がいて、泉の水を嘗めて、醍醐味であると褒めたたえた。
聖宝は、その老翁に、
「ここに精舎を建てて、仏法を弘めたいのだが、永く久住の地となるかどうか」
と訊ねた。老翁は、
「この山は、むかし仏が修行したところで、諸天が仏を護衛し、仏が遊行なさったところであり、名神のおられたところである。如意宝生の嶺、功徳の集まる林、法燈がつづいて、龍幸の開くに及び、僧侶は絶えず鶏足山に弥勒かあらわねる時に至るのである。私はこの山の地主神(横尾明神)である。この山を永く和尚に献ずるが、仏法を弘め、広く人びとを救うために、わたしは、ともにお護りしたい」
と答え、たちまち見えなくなってしまった。梢に飛び交う鳥が三宝を唱え、聖宝は、感涙にむせぶばかりであった。
聖宝の前に現れた地主神(横尾明神)については、『醍醐雑事記』巻第二に、次のように記されています。
「横尾明神、往古の本所は薬師堂の跡と云々。御願の勝地に立つ可き為るに依り、尊師(聖宝)、今の横尾に勧請し奉らると云々。本は地主明神と申すと云々」
ここからはもともとが「地主明神」で後世になって「横尾明神」と呼ばれるようになったことが分かります。
聖宝が笠取山の地に「醍醐水の霊泉」を見つけ、そこに草庵を設けるようになった理由は何なのでしょうか。
第一に考えられることは、笠取山周辺は聖宝にとって通い慣れた地であった研究者は次のように指摘します。
つまり聖宝が奈良・東大寺に遊学していたころ、近江の国の石山寺は東大寺の末寺で修練の道場でした。そのためこの間を何度も行き来して、その間に山中の踏査を行なったのであろうというのです。
また笠取山は、山城、近江、大和への道の要衝であって、笠取山の西麓を南北に走る道は、この時代の京都と奈良を結ぶ主要な道でもありました。東山から山科に入り、勧修寺、小野、下醍醐、日野、六地蔵と山麓の隈を抜けて宇治に抜ける道を見おろす地点に笠取山はあります。さらに、笠取山の山頂から尾根伝いに東に進めば、石山を経て琵琶湖の南岸に至り、山頂から南へ山伝いに行けば宇治に至るようです。笠取山を通る尾根伝いの道は、山林修行の行者道でもあったと研究者は考えているようです。
笠取山の山頂に草庵を構えた聖宝は、貞観十六年(874)六月一日に、准胆(じゅんでい)・如意輪のふたつの観音像を造像するための木材を、みずから斧を手にして切り出したと云います
聖宝と宇治の宮道氏
新たに寺院を建立するには経費が必要です。つまり保護者や支援者がいなければできることではないのです。聖宝の背後にいた人物は誰なのでしょうか。聖宝の支援者は、都の皇族や貴族でなく、山城の国宇治郡の大領であった宮道弥益だったと研究者は考えているようです。
正史の記すところによると、宮道弥益は朝臣の姓をもち、聖宝が笠取山に堂舎を建立した翌年の貞観十九年(877)、正月に漏刻博士の任についています。そして外従五位下から従五位下に昇っています(『三代実録』元慶九年正月三日乙亥条)。
宮道弥益は、その後に醍醐天皇の外曾祖父になる人物でもあるようです。
弥益と醍醐天皇が誕生されるまでのいきさつは『今昔物語集』巻第二十二の第七「高藤の内 鴨大臣の語」に詳しく物語られています。長くなるのでここでは触れませんが、後の醍醐天皇との結びつきがこのあたりから見えてきます。宮道弥益の勢力下にあったのは、現在の下醍醐の一帯であったようです。
聖宝が笠取山に醍醐寺を創建した大きな理由を、研究者は次のように指摘します。
「聖宝が笠取山を開き、醍醐寺が醍醐天皇の勅願寺となったことの背景に、宮道氏の存在があったこと」「聖宝が笠取山に入って山上に堂を建てる際に力を貸したのがこの宮道氏であった」 (大隅和雄『聖宝理源大師」参照)
以上をまとめておくと、聖宝が上醍醐の笠取山に醍醐寺を開いたのは、次の2点が考えられるようです。
①山林修行の中で適地だと考えていたから②支援者の宮道弥益のテリトリーであったから
聖宝は、この寺院をどんな性格の宗教施設にしようとしていたのでしょうか。
それは本堂に安置されたふたつの観音さまからうかがうことができるようです。それは 准抵(じゅんでい)観音と如意輪観音です。こののふたつの観音さまを安置する堂舎が笠取山の山上に姿を現したのは、貞観十八年(876)六月十八日のことでした。
その堂舎が准胝堂で、三間四面の檜皮葺でした。ここに安置された観音さまは今までの観音さまとは違っていたようです。これは聖宝が創り出したニュータイプの観音たちで、彼独自の信仰を表現したものとされます。
准胝観音は、当時の「円珍入唐求法日録」などの経典で仏母(准瓜仏母、七倶抵仏母)とされる観音さまです。
この観音の効験については、経典では次のように説かれていました
「准胝陀羅尼を誦すれば、薄福無善根の人々も、仏の教えを受けて真実の悟りに達することができ、聡明になり、湖善不善をよく知るようになり、悪と戦う争いには勝っことができ、夫婦は敬愛し、愛し合わなかった夫婦も制愛を得て子を生み、望みの子が与え婿られ、諸病は治癒して長寿を得、降雨などの祈りに効験がある」
一方、如意輪観音の効験については、『如意輪陀羅尼経』で次のように説かれています。
「一切の衆生の苦を救い、すべて福を求める事業において意の如く成就させる」「世間の願、つまり富貴、資財、勢力、威徳などをすべて成就させるとともに、出世間の願、つまり福徳、慧解、資糧などをととのえて慈悲の心を増大させて人々を救うことを成就させる力がこめられている」
「如意輪観音を深く信仰し、如意輪陀羅尼を念誦する者は、珍宝を授けられ、延寿、宇宙宙や心の災を除き、安心・治病を得、鬼賊の難を免かれる」
聖宝の造立した如意輪観音像は、現在は残っていませんが、六腎の尊像だったと研究者は考えているようです。
『醍醐寺縁起』には、聖宝の如意輪観音像について、次のような伝説が記されています。
聖宝が如意輪観音像を准抵堂に奉安しようとしたところ、その尊像は、みずから東の峯に登って、石上の苔がはびこっている所に座していた。そこで聖宝は堂を建て、崇重にあつかい昼夜にわたって行じつづけた。すると如意輪観音は、聖宝に
「この山は補陀落山であり観音菩薩が住む山である。この道場は、補陀落山の中心であって、金剛宝葉石があり、自分は、この上に座って十方世界を観照し、昼も夜も、いつも衆生の苦しみを抜き去り、楽しみをあたえているのだ」
と語ったと伝えられます。
この伝説からは、聖宝がとくに如意輪観音を信仰の中心に置いたのは、衆生救済のためであったと研究者は考えているようです。
聖宝が笠取山(醍醐山)に今までにない二つの観音さまを安置する安置する堂舎を完成させたのは貞観十八年(876)でした。
この年の11月に、清和天皇は位を皇太子貞明親王に譲っています。その時、右大臣の藤原基経は、九歳の新天皇陽成を補佐するために摂政となります。
清和天皇の譲位の詔は次のように述べます。
清和天皇の譲位の詔は次のように述べます。
君臨漸久しく、年月改る随に、熱き病頻に発り、御体疲弱して、朝政聴くに堪へず。加以、比年の間、災異繁く見れて、天の下寧きことなし。此を思ふ毎に、憂へ傷み弥 甚し。是を以て此の位を脱展りて御病を治め賜ひ、国家の災害をも鎮め息めむと念し行すこと年久しくなりぬ。(『三代実録』貞観十八年十一月二十九日千宙条)
ここからは、清和天皇の譲位の理由が、自身の病気と国家の災異・災害にあったことが分かります。清和天皇はこの時にまだ27歳です。それでも退かなければならないところへ追い詰められてとも考えられます。この背景には、4月10日の大火があります。大極殿から出た火は、小安殿、蒼龍・白虎の両楼、延休堂、および北門(照虜門)、北東西三面の廊百余間に延焼し、数日にわたって燃えつづけます。清和天皇をはじめとして、すべての人びとは、先の応天門の変という忌まわしい事件が思い浮かんだでしょう。
如意輪堂(重文) 准胝堂と共に最初に建てられた建物とされます一方聖宝の師真雅は、どのような動きを見せていたのでしょうか
聖宝が上醍醐に堂舎を完成させる2年前の貞観16年2月23日、真雅は絶頂の極みにいました。貞観寺に道場が新しくできたのを祝って大斎会(だいさいえ)が設けられたのです。その催しのさまは、「三代実録』貞観十六年二月のように記されています。
「荘厳、幡蓋灌頂等の飾、微妙希有にして、人の日精を奪ひ、親王公卿、百官畢く集ひ、京畿の士女、観る者填喧(みちあふれる)しき」
この時の真雅の誇らしげな顔貌は、際立って人びとの目に映ったのかもしれません。ところが大斎会が終ってから三カ月余り経ったころから真雅は、病気勝ちとなり、肉体の衰えを感じたのか、しきりに僧正の地位からおりることを申しでるようになります。しかし、 その辞任は認められないまま亡くなっていくのです。
醍醐天皇の御願堂「五大堂」 真ん中が聖宝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 参考文献 佐伯有清 聖宝の笠取山開山 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館