瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:善通寺と空海 > 空海伝説を追いかけて

  
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 

前回までに見てきたように弘法大師の肖像が盛んに造られるようになったのは、鎌倉時代になってからでした。このことは遺品の数が鎌倉時代になると、各段に増えることからもうかがえます。それでは、どうして鎌倉時代に入って弘法大師像が盛んに造られるようになったのでしょうか。今回は、この謎を追いかけて見ようと思います。

空海6

テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。

 「肖像彫刻の概説書  日本の美術 10号肖像彫刻」、至文堂、一九六七年)は、鎌倉時代に肖像製作が盛んになる理由を次のように記します。

「近代以前の日本彫刻史のうえで、鎌倉時代ほど精神につらぬかれた時期はなかったといってよい。それと同時に、人間に対する興味深い観察がこれにともない、肖像彫刻あるいは肖像画のいちじるしく発達する温床が設けられることになった。」

 確かに、鎌倉時代の時代精神が肖像製作の背景にあったことはあるかもしれません。しかし、それだけでは納得できません。研究者は、別の観点からこのことについて次のように説明します。
背景要因のひとつは、鎌倉時代に、一時途絶えてい入宋僧の肖像が増大していくことです。
ここには鎌倉初期に入宋した禅宗僧侶の影響が考えられます。彼らは肖像製作が盛んであった中国の実情に触れ、それを日本に伝え、高僧の肖像が作成されるようになったと云うのです。


 例えば重源については、鎌倉時代前半期の肖像彫刻が四体遺されています。栄西や俊芿(しゅんじょう)の肖像画もあります。

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俊芿(しゅんじょう) 泉涌寺
特に俊芿については、亡くなる直前に中国人の画人によって描かれた泉涌寺本の肖像画があります。
寿福寺 | かまくら・れぽじとり
                栄西 鎌倉の寿福寺
さらに、栄西も鎌倉・寿福寺に二体の肖像彫刻の古像があります。
これら三人の僧侶は教団はちがいますが、いずれも入宋僧で、帰国後鎌倉時代の仏教史に大きな足跡を残した人物です。彼らが中国の肖像製作や最新の情報を多量に日本にもたらしたことが、肖像製作につながったと研究者は考えています。
 もちろん、奈良時代には鑑真のような中国僧の来日もありました。また空海を始めとする入唐八家のような著名な高僧たちもいました。 彼等の中には、中国の肖像製作の実情に通じていた人物もいたはずです。
円珍坐像 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺
鑑真(688~763) や円珍(814~891)のように亡くなる前後に肖像彫刻が製作された人物もいます。しかし、この時期は肖像の製作が始まったばかりでその数は限られています。ところが10世紀を過ぎると入宋者が激減し、中国の肖像情報が減少します。その結果、奈良時代から平安時代半ばにかけて高まった肖像製作機運が継続せずに中折れ状態になります。そんな中で鎌倉時代になると宋元との交流が復活して、高名な中国人禅僧の来日が続くようになります。日本の禅僧も中国に赴き、修行を積んで帰国する者が数多く出てきます。禅僧の中国への渡航は明朝になっても変わりません。こうした交流は新たな肖像情報を日本にもたらし、肖像製作意欲を高めます。これが鎌倉時代半ば過ぎに禅宗の拡大と共に、肖像が数多く造られるようになる背景だと研究者は考えています。

鎌倉時代に入ると、 新たな宗教教団の誕生が相次ぎます。
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鎌倉時代は、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗 禅宗などの諸宗派が誕生します。各宗派は信仰基盤を固め、発展していくために宗派、教団のシンボルを求めるようになります。そこで登場してくるのが、法然・親鸞・日蓮などの宗派開祖の像です。彫像は大勢の礼拝に適しているので布教面での効果は大きく需要が高まります。宗派開祖たちの肖像が数多く作られるようになったのは、新興の宗派や教団だけではありませんでした。伝統的な顕密宗派 (奈良時代以来の伝統的宗派と、平安時代に興った天台宗や真言宗などの密教宗派でも再興運動が活発化します。この動きと肖像の需要増大はリンクしているようです。
どの教団や寺院でも、祖師像の需要が高まります。
例えば、 南都では戒律の再興運動を目指してさまざま社会活動を行った西大寺の叡尊の肖像彫刻が弘安三年(1280)に造られます。

西大寺の叡尊の肖像彫刻
                叡尊坐像 奈良西大寺
後年、興正菩薩と呼ばれる叡尊は大和国箕田に生まれ、はやくから仏門に入り、醍醐寺や高野山で密教を学びました。さらに東大寺で修学を積み、当時荒廃の一途を辿っていた西大寺に住み、律院として復興しました。その後、鎌倉にも戒律の種を蒔き、後の西大寺流律宗(今日の真言律宗)の隆盛の基礎を築きました。叡尊の80歳を寿して善春によって造られた西大寺の寿像がよく知られています。叡尊の肖像彫刻は、幾つかの模刻像が造られ、末寺におさめられるようになります。 

白毫寺 叡尊(興正菩薩)坐像
           叡尊坐像 白毫寺 像高74cm、檜材寄木造(国宝.鎌倉中期)

白毫寺の像は、西大寺のものを忠実に模したものとされます。模作ですが形式化が目立たず、各地の西大寺系寺院に伝わる叡尊の肖像彫刻のなかでも優れた作であり、造立時期も叡尊没後まもなくの時期と研究者は考えています。このように、本山で開祖像が造られると、そのコピー版が各地の末寺にも姿を見せるようになります。これが彫造や画像の需要背景です。

 天台宗でも宗祖を始めとして兵庫・円教寺の開山性空(910~1007)などの過去の高僧の肖像彫刻製作が行われるようになります。

性空 書写山
性空

その中でも盛んに造られたのが慈恵(じえ)大師(良源)の肖像です。

慈恵大師坐像(ヒノキ寄木内刳)弘安9年(1286年)蓮妙作。
慈恵大師坐像 東京国立博物館
慈恵大師は、元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれ、比叡山延暦寺の中興の祖として知られます。また、中世以降は「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになります。「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物を伝え、これが沢庵漬けの始祖ともされているようです。
 このような流れを受けて真言宗でも、開祖空海弘法大師の肖像が盛んに造られるようになります。
 弘法大師像についても文献史料から平安時代にある程度の数の肖像が造られていたことが分かります。しかし、平安時代のものは少数で、本格的に肖像が造られるようになるのは、嫌倉時代に入ってからであることは、前々回に見た通りです。このことは、残された弘法大師像の製作年代からも次のように裏付けられます。
東寺御影堂に祀られる大師像

天福元年(1233)の康勝の東寺像が先駆けで、鎌倉時代後半期になると造像が活発化します。

紀美野町津川の遍照寺
永仁2年(1294) 和歌山 遍照寺 弘法大師像
弘法大師 奈良・元興寺
             正中2年(1325) 奈良・奈良・元興寺像
天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺

大興寺(三豊市) 弘法大師坐像      建治二年(1276年)
この像は、後世に彩色されているので新しそうに見えますが13世紀後半のものです。
前回見た通り、高野山の真如親王モデルの絵画を踏襲したスタイルのものが、各地に拡がっていったことが分かります。真言宗は、いくつかの流派に分化しますが、その場合も宗祖像として、流祖像とともに末寺に祀られます。そのためにも膨大な数の弘法大師像が造られるようになります。四国遍路をしていると真言宗でない札所にも大師堂があり、そこには大師像があります。そういう意味では、大師像はいまでも需要があり造り続けられていると云えます。

以上から弘法大師像が鎌倉時代に造られるようになった背景には、次の3点が考えられます。
①鎌倉時代頃から活発化する中国との文化交流で肖像文化が伝わる
②教団の団結や教勢拡大のためのシンボルとしての祖師像の需要増大
③系列化された末寺への祖師像の安置
ただ弘法大師像は他の始祖像と比べると、その数が圧倒的にが多いようです。これに対して天台宗の始祖伝教大師最澄像は、はるかに少ないのです。そして、天台宗では、延暦寺の中興の祖・慈恵大師良源や、寺門派の始祖智証大師円の肖像の方が数多く遺っています。これらをどう考えればいいのでしょうか?

円珍坐像2 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺 

天台宗の祖師像の製作状況について、研究者は次のように述べています。
①慈恵大師良源像については、悪鬼をも畏怖させるような力を持つ人物という「特殊な信仰」が大きく反映していたこと
②円珍については天台宗の山門派と寺門の対立を背景に、寺門派教団では派祖としての円珍が教団のシンボルとなり、崇拝対象となっていたこと
これらが肖像が数多く造られた背景だと云うのです。
一方、真言宗における弘法大師空海の位置づけは、新派として新義真言宗が生まれても、始祖としての空海の地位は揺るぐことはありませんでした。新しい真言宗の勢力が生まれても弘法大師像は製作され、宗派の始祖の像として後世まで広く製作されていきます。さらに言えば、弘法大師信仰の広がりから、真言宗の枠組みを超え、偉大な高僧といイメージが広く世に流布します。これは、先ほど見たように四国霊場の真言宗以外の札所にも大師堂が建てられ、そこには弘法大師像が本尊として安置されるということが近代になっても進められてきたのがひとつの例かもしれません。
こうしたことも弘法大師像が鎌倉時代以降盛んに製作された要因の一つなのかもしれません。
以上をまとめたおきます。
①平安時代にも高僧肖像画は、描かれていたがその数は限られていた。
②それが鎌倉時代になると、入唐僧の激増を背景に高僧の肖像画が数多く作られるようになった。
③肖像画や彫造は、教団や流派の布教活動や信者の団結を培うものとして有用であった。
④そのため鎌倉時代に生まれた新教団は、教祖の肖像画や遺品を信仰対象(聖遺物)とした。
⑤これは旧仏教教団にも広がり、今まであまり描かれなかった高僧の肖像画が信仰対象となった。
⑥こうして真如親王モデルの弘法大師像が各地の真言寺院の大師堂に本尊として祀られることになった
⑦この背景には、弘法大師信仰を持った高野聖や真言系密教修験者の活発な活動があった。
⑧こうして讃岐でも13世紀後半頃から弘法大師像が造られ安置する寺院が現れるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
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まんのう町図書館郷土史講座でお話ししたことをアップしておきます。

中寺廃寺講演会ポスター

弘法大師行状絵詞 真魚伝説

本日の与えられたテーマには「若き空海も修行した(?)中寺廃寺のを探る」ですが、真ん中に(?)がついています。これについては、追々お話しすることにして、
今日は次のような三部構成で進めていこうと思います。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
まず、①若き日の空海がどんな山林修行したかを見ていくことにします。上の絵は弘法大師行状絵詞とよばれるもので、空海亡き後に300年ほど経って書かれた絵伝です。赤い服を着ているのが空海で、幼年期は真魚と呼ばれていました。巻物は右から左へ開かれていきます。時間変遷も右から左へと進んでいきます。
①右端が、蓮の花の円座を敷いた雲の上に乗った空海が仏たちと話しています。
②真ん中では「さあ仏ができたぞ」と、土で仏を作りています。
③左端は、出来上がった仏をお堂に安置して祈っています。
こうして空海は小さい頃から、仏と共にあったことが語られます。

弘法大師 行状四天王執蓋事
空海を守護する四天王(弘法大師行状絵詞)
ある日のことです。真魚(空海)がいつものように仙遊寺あたりに遊びに行こうとしています。仏を守護する天部の四天王が、ボデイーガードとして真魚を護っています。四天王の姿は人々には見えません。

四天王に護られた空海
四天王を従えた真魚に跪く役人
しかし、都からやってきた偉い役人には、その姿が見えます。役人は驚いて馬を下り、地面にひれ伏します。その前を真魚は通り過ぎて行きます。絵伝は、空海の幼年期のことをカリスマ化ししていきます。このような話が、後の空海伝説につながって行きます。そんな中で、善通寺でだけで語られるシーンが出てきます。それを見ていくことにします。

空海の捨身行 我拝師山
我拝師山からの真魚の捨身行
 この絵の舞台は、善通寺五岳の我拝師山です。岩場から真っ逆さまに墜ちているのが真魚です。実は落ちているのではありません。説明文には次のように記されています。

弘法大師は、五岳の我拝師山の崖に立ち、次のように誓願した。吾に生きる意味があるならば、仏よ助け賜えと」と念じて、空中に身を踊らせた。すると釈迦(天女)が現れて真魚を救った。

ここでは釈迦の替わりに天女が現れていますが、もともとは釈迦でした。この言い伝えから、ここは釈迦が現れた所ということで出釈迦と呼ばれ、空海が初めて行を行った場所とされました。後には高野聖でもあった西行も、「空海の行場」に憧れ、ここにやってきて修行したことは以前にお話ししました。つまり、中世は我拝師山は空海修行の地として、山岳修験者に人気があった行場であり霊山だったことを押さえておきます。また、命をかけての最終行を「捨身」行とも云います。 この絵以来、空海は五岳で捨身行の修行をしたと語り継がれてきました。それが現在にもつながっています。現在の出釈迦寺の奥の院の鐘楼を見ておきましょう。

出釈迦寺奥の院と釈迦像

 鐘楼の横に近年姿を見せたのが金色に輝く釈迦像です。これは、先ほどの出釈迦のエピソードを受けてのことでしょう。さらに深読みすると、ここは幼年の空海の修行地であるというアピールしているようにも思えます。もうひとつ、出釈迦が今に語り伝えられているものを見ておきましょう。

ふたつの空海像

空海像です。左が高野山、右が善通寺に伝わるものです。どちらも椅子に座り右手に三鈷杵(さんこしょ)を持っています。これは、仏敵を追い払うと共に、自分の弱い心を打ち砕くとされる神聖な仏具です。後でもういちど出てきます。弘法大師の姿は、ほぼ同じです。違うのは、後ろに釈迦が雲に乗って現れています。これは先ほど見た出釈迦のエピソードに由来するものでしょう。善通寺のセールスポイントは「空海誕生の地」でした。同時に、我拝師山で空海がはじめて修行を行ったことをアピールしているものとも思えます。ここでは中世には、幼い空海が我拝師山で修行したと考えられていたことを押さえておきます。
 最初のテーマにもどりますが、中寺と空海をむすぶものは、山林修行です。
それが我拝師山までは辿れるということです。これを中寺でも行ったとすればいいわけです。次に、空海が若き日に行った山林修行とはどんなものだったのかを次に見ていくことにします。その前に、山林修行者と、修験道・修験者の違いを押さえておきます。

山林修行者から修験道へ

空海以前から山野に入って山林修行していた人達はいました。その目的は超能力を身につけるためと、鉄・銅・水銀などの鉱山資源開発のための山師(最先端テクノ技術)や、医学者としての薬草採集などの実利的な面もありました。彼らは渡来系の人達で当時の先端技術や知識を持っていた人達です。空海によって密教がもたらされると、その影響を受けて組織化が進みます。そして、12世紀になると始祖を役行者、守護神を蔵王権現・不動明王として、ひとつの部門を仏教教団の中で構成するようになります。これが修験道です。義経に仕えた弁慶も僧兵であると同時に修験者でした。讃岐に流された崇徳上皇も都に帰れぬ恨みを、「天狗になってこの恨みはらんさん」といい天狗になります。天狗になるために修行する修験者も出てきます。これを天狗道(信仰)と呼びます。そのメッカが白峰寺や象頭山でした。そこには天狗になるために修行するひとたちが沢山いたことは以前にお話ししました。
 整理しておくと、12世紀より以前に修験道もなく修験者もいなかった、いたのは雑多な山林修験者でした。そこで、中世以後を修験者、修験道、それ以前を山林修行者と分けていつこと。空海は古代の山林修行者のひとりになります。
それでは山林修行者は、どんなところで修行したのでしょうか。

山林修行者が選んだ行場とは


彼らが行場として選んだのは「異界への入口」でした。天界への入口として相応しいのは、石鎚などの切り立った山です。そこには多くの行場があり、山林修行者が集まりました。一方、地界(地下)への入口とされたのが、火口や洞窟・滝や断崖でした。洞窟は、地界に続く入口とされましたがそれだけではありません。修行者にとって雨風を凌ぐ、生活の場が必要です。お堂や寺院が出来るまでは、洞窟が生活の場でした。

空海の伝記には、空海の山林修行について次のように記されています。

空海の山林修行

以上を要約すると次のようになります。
A 山林修行の僧中に飛び込んで行動した。(先行する集団がいたこと)
B 具体的な修行内容は、②岩ごもり ③行道 ④座禅だった。
C 短期間でなく⑤何年も行った
 空海が行った修行2

 空海の行った修行を具体的に押さえておきます。
   ①まず岩籠(いわこ)もりごもりです。洞窟は、魑魅魍魎の現れる異界の入口と考えられていました。そこに一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。それだけで一般の人達から「異人」と思われたかもしれません。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。これが「木食」です。洞窟は、生活空間で、修行者が多くなると庵や寺院(奥の院)に成長して行きます。
 ②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。
どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは当時の僧侶が朝廷や貴族から求められたのは高尚な仏の教えだけでなく、旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことでした。そのためには修行を積んだ「験」が高い僧侶が求められます。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントやアイテムが必要で、それが修行だったということでしょうか。そのために東大寺や地方の国分寺の高級国家公務員である僧侶も机に向かうだけでなく、空海のような山林修行を行うことがもとめられるようになります。そうしないと護摩祈祷しても所願成就とはなりません。僧侶としての栄達の道も歩めません。

空海は、どんな修行をおこなったとされているのでしょうか?
絵伝に出てくる修行シーンを見ていくことにします。

阿波太龍寺 宝剣飛来
阿波の大滝山で虚空蔵求聞持法を唱える空海と飛来する宝剣(弘法大師行状絵詞)
阿波大滝山での空海の修行の成就シーンです。空海が座っている所は、よく見ると崖の上の洞窟です。これが大瀧山の不動霊窟のようです。行場として相応しいところです。空海の前には黒い机が置かれています。その上には真ん中の香炉、左右に六器が置かれています。虚空蔵求聞持法というのは、百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。すると、 雲海が切れて天空が明るなります。そして雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。これが修行によるパワーポイントやアイテムの獲得です。しかし、これで修行が終わったわけではありません。成就すると次の行場に向かいます。絵巻は室戸へとつながっていきます。

室戸 明星 空海
室戸で明星が口に飛び込む
太龍寺からの続く雲海が切れると、岬の絶壁を背にして空海が瞑想しています。前は大海原で逆巻く波濤を押し寄せています。すると、輝く明星が室戸の海に降り注ぎます。その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を体験し、身を以て体感し悟りに近づいていきます。これが山林修行です。
  
金剛頂寺 空海
金剛頂寺で禅定する空海と、そこに現れる魔物たち。
この舞台は金剛頂寺です。壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいます。本堂に空海は座って、修行に励んでいます。上の説明文を読んでおきましょう。
「汝ら

金剛頂寺 生木仏像
魔物退散のために生木に仏を彫る空海
木に仏を彫るというのは、魔除けのために空海が行ったことです。このため後の修験者たちも生木に仏を刻むことを行います。生木地蔵などがあれば、そこが修験者や高野聖の拠点であったことが推測できます。また、この魔類や妖怪たちは、柳田國男の民俗学で仏法以前の「地主神」とされます。このように、もともといた神々を追い払ったり、従えながら仏法が定着する姿を語ったというのです。
ここで注目しておきたいのは、室戸岬で生活していたとは書いていないことです。生活していたのは金剛頂寺で、行場が室戸岬で、そこを往復=行道していたと記します。これを整理して起きます。

金剛頂寺と室戸の行道

位置関係を地図で見ておきます。①こちらが金剛頂寺 こちらが室戸岬。20㎞余り離れています。研究者は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマだったようです。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺(ほつみさきじ)となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。ここでは、禅定や巌籠もりだけでなく、行道もおこなっていたことを押さえておきます。
 以上から、どうして山林寺院がこの時代に姿を見せるようになったかをまとめておきます。

山岳寺院誕生の背景

このようなことを背景に、中寺は国衙によって建立されることになります。ここまでが第1部です。

辺路修行から四国遍路へ

  蛇足になりますが、四国遍路の形成について現在の研究者は次のように考えています。
①小辺路は我拝師山や室戸岬のように1ヶ所での修行
②中辺路は、観音寺から七宝山を越えて我拝師山までとか、丸亀平野の七ケ所詣り・髙松平野の七観音巡礼のように、いくつかの小辺路を結んだもの
③さらに中辺路のブロックをいくつか重ねたものが大辺路
こうして、中世のプロの修験者たちは四国の行場で辺路修行を重ねていました。それが近世になるとアマチュアが、これに参入するようになります。彼らは素人の修験者なので、行場での長期の修行はしません。お札だけを奉納する巡礼に替わります。つまり、修行なしの遍路になります。そうすると、行場のある奥の院を訪れる参拝者は少なくなり、お寺は行場のあった奥の院から里に下りてきてきます。そして里の札所をめぐるスタンプラリーとなります。ここでは中世の辺路修行(=行場めぐり)が、四国遍路のベースにあったことされていることを押さえておきます。 今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年もまんのう図書館の郷土史講座でお話しすることになりました。テーマは、こちらで決めることは出来ません。リクエストのあったテーマについてお話しするのですが、満濃池へのリクエストは高いようで毎年選ばれます。昨年は近世の満濃池の変遷を話したので、今回は空海の満濃池築造についてということでした。そこで、研究者たちが「空海が造った」と断定的に云わずに。どうして「空海が造ったと云われる満濃池」と表現するのかをお話しすることにしました。その内容とレジメ資料をアップしておきます。


まず満濃町所蔵のこの版画から見ていきます。これは今から約180年ほど前、19世紀半ばに描かれたもので「象頭山八景 満濃池遊鶴(弘化2年(1845)」です。当時は金毘羅さんの金堂(旭社)が完成し、周辺整備が進み石畳や玉垣なども整備され、境内が石造物で白く輝きだす時代です。それが珍しくて全国から参拝客がどっと押し寄せるようになります。そんな中でお土産用に描かれた版画シリーズの一枚です。ここに「満濃池遊鶴」とあります。鶴が遊ぶ姿が描かれています。江戸時代には満濃池周辺には鶴が飛んでいたようです。
 話を進める前に基礎的な用語確認を、この絵で確認しておきます。東(左)から
①護摩壇岩
②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘
③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。
④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
この構造は江戸時代の最初に、西嶋八兵衛が築いたものと基本的には変わっていません。それではここでクイズです。この中で、現在も残っているもの、見ることができるのはどれでしょうか。

満濃池  戦後の嵩上げ工事で残ったのは「護摩壇岩」のみ
1959年の第3次嵩上げ後の満濃池 護摩壇岩だけが残った
戦後の満濃池嵩上げ工事後の現在の姿です。貯水量を増やすために、次のような変更が行われました。
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、
②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。
③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。
④余水吐けは、堤防の下に埋められた
こうして護摩壇岩だけが残されました。

満濃池 護摩壇岩3
満濃池の護摩壇岩

現在の護摩壇岩です。護摩壇岩と向こうに見える取水塔の真ん中当たりに池の宮はありました。その丘は削りとられ池の底に沈みました。それでは、クイズの第2問です。どうして護摩壇岩だけがして残されたのでしょうか。

空海修復の満濃池想像図
空海が修築した満濃池の想定復元図(大林組)

これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。

6 護摩壇岩 空海が護摩祈祷を行った聖地
 
護摩壇岩と碑文です。護摩壇岩は「空海の作った満濃池」を裏付けるモノと私は思っていました。
ところが中央からやってきた研究者の中には「空海が作ったとされる(伝えられる)満濃池」という言い方をするひとがいます。含みを持たせる言い方です。どうして「空海が作ったと言い切らないのですか?」と訪ねると、文献的にそれを証明できる・裏付ける資料がないというのです。これに私は驚きました。空海=満濃池築造説は史料的に裏付けられているものと思っていたからです。今回は、学者たちが空海が満濃池を作ったと言い切らない理由を追いかけて見ようと思います。まず空海が満濃池をつくったという最初の記録を見ていくことにします。

日本紀略の満濃池記述
日本紀略の空海の満濃池修復部分

まず古代の根本史料として六国史があります。これは、日本書紀など国家によって編纂された正史です。この編纂には公文書が用いられていて信頼度が高いとされます。6つあるので六国史と呼ばれます。ちなみに、誰が書いたか分からない古事記は、正史には含まれません。ところで六国史の中に満濃池は出てきません。満濃池が初めて出てくるのは日本略記という史書です。満濃町史や満濃池史など地元の郷土史は、日本紀略の記述を根本史料として「空海=満濃池修築説」を紹介しています。しかし、原典にはあたっていません。日本紀略の原典は上記の通りです。読み下しておきます。

讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。

最後に「許之」とあります。この主語は朝廷です。つまり朝廷が讃岐国司の空海派遣申請を認めたということです。これだけです。分量的には百字あまりにすぎません。内容を確認しておきます。

日本紀略の満濃池記述(要点)
日本紀略に書かれていることは

ここでは国司の空海派遣申請と、それに対する国家の承認だけが簡潔に述べられているだけです。空海が讃岐で何を行ったかについては何も触れていません。堤防の形や、護摩壇岩のことは何も出てこないことを押さえておきます。次に日本紀略の性格に就いてみておくことにします。

日本紀略の性格
日本紀略の史料的性格と評価
紀略はこの書は、①国家が誰かに編纂を命じて作られたものではありません。誰が書いたのかも、正式の書名も分かりません。当然、正史でもありませんし、何の目的で書かれたのかも分かりません。②内容は、それまでに造られている正史からの抜粋と、あらたに追加された項目からなります。空海と満濃池の部分は、新たに追加され項目になります。③成立時期は11世紀末後半から12世紀頃とされます。これは空海が亡くなった後、200年を経た時点で書かれた記録ということにります。同時代史料ではないことを押さえておきます。④評価点としては・・・⑤注意点としては・・・・    
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒書があって箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、古文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると「日本紀略」は満濃池の記述に関しては同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書ということになります。満濃町誌などは、紀略を「準正史的な歴史書」と評価しています。しかし、研究者は「注意して利用すべき歴史書」と考えているようです。両者には、根本史料である日本紀略の評価をめぐって大きなギャップがあることを押さえておきます。

 空海=満濃池修築悦を裏付ける史料として、満濃町史が挙げるのが「讃岐国司解」です。

満濃池別当に空海を申請する讃岐国司解
讃岐国司が空海派遣申請のために作成したとされる解(げ)

冒頭に「讃岐国司申請 官裁事」とあります。「解」とは、地方から中央への「おうかがい(申請)文」のことです。最後に弘仁12年(820)4月と年紀が入っています。ここで注意しておきたいのは、現物では実在しないことです。写しの引用文です。④これが載せられているのは、空海の伝記の一つである「弘法大師行化(ぎょうけ)記」です。つまり、空海伝記の中に引用されたものなのです。それを押させた上で、内容を見ておきましょう。

①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。

満濃池 空海派遣を命じる太政官符
空海を満濃池修復の別当として派遣することを認めた太政官符

太政官符の前半部は紀略の内容とほぼ同じです。つまり、讃岐国司からの解(申請文)がそのまま引用された内容です。後半部には空海を別当として派遣する上での具体的な指示が書かれています。そのため日本紀略よりも分量も多くなっています。また最後の年紀が「弘仁元年」とする誤記があります。それ以上に研究者が問題にするのは太政官符の体裁・スタイルです。この太政官符より15年前に出された空海出家を伝える太政官符と、比較して見ましょう。

空海入唐 太政官符
延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)
この内容は、遣唐使として入唐することになった空海が正式に出家して国家公務員となったので、課税を停止せよと命じたものです。一部虫食いで読み取れませんが補足しながら読んでいくと
①冒頭に「大政官符 治部省」とあって、補足すると「留学僧空海」と読めます。
②その下に空海について記され、「讃岐國多度郡方田郷方田郷」とあります。ここからは空海の本籍が多度郡方田郷だったことが分かります。方田は「弘田郷」の誤りとされていました。しかし、平城京からは「方田郷」と記された木簡が2本出てきました。実際に存在した郷であったかもしれません。どこであったかはよく分かりません。
③空海の属した戸主は「戸主正六位上佐伯直道長」とあります。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、佐伯直道長です。彼の官位は正6位上という地方では相当高い官位です。どのようにして手に入れたのか興味あるところです。多度郡の郡長を務めるには充分な官位です。佐伯家では多度郡では有力な家であったことが裏付けられます。ちなみに、道長は空海の父ではありません。空海の父は田公です。道長が空海の祖父だった可能性はあります。当時の戸籍は大家族制で、祖父から叔父たちの子ども達(従兄弟)まで百人近くの名前が並ぶ戸籍もあります。空海も、道長の戸籍の一人として「真魚」と記帳されています。
④次からが本題の用件です。延暦22年4月7日「出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここからは空海は留学直前まで得度(出家)していなかった。正式の僧侶ではなかったことが分かります。
以上を、先ほど見た満濃池別当状を命じるものと比べるとどうでしょうか。官府は「何々を命じる」とコンパクトな物です。国司の解を引用し、説明を長々とするものではありません。そういう意味からも満濃池別当状は異例なスタイルです。太政官符の写しとしてはふさわしくないと研究者は考えているようです。
      また空海死後直後の9・10世紀に成立した伝記には満濃池は出てきません。
死後2百年後を経た11世紀に書かれた伝記は4つあります。その中で満濃池が出てくるのは「弘法大師行化記(ぎょうけき)」だけです。その他の伝記には出てきません。ここからは紀略の記述を参考にして「行化記」の作者が、讃岐国司解と太政官符の写しを新たに作成して載せた可能性が出てきます。

空海=満濃池修復説の根拠とされる史料に今昔物語があります。

今昔物語 満濃池の龍
今昔物語 満濃池の龍の冒頭文
この中に「満濃池の龍」が載せられています。その冒頭は、この文章から始まります。そこには、空海との関係が次のように記されています。
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」

空海について触れられているのは、これだけなのです。空海が別当として派遣されたことなども書かれていませんし、護摩壇岩やアーチ型堤防などについては何も触れていません。
空海が朝廷の命で雨乞祈祷をして雨を降らせた話があります。その時に祈るのが善女龍王です。善女龍王は、雨を降らせる神として後世には信仰されるようになります。綾子踊りでも善女龍王の幟を立てて踊ります。
綾子踊りの善女龍王
綾子踊の善女龍王
ちなみに善女龍王は普段は小さな蛇の姿をしています。満濃池の龍も、堤で子蛇の姿で寝ているところを、天狗の化けたトンビにさらわれて、琵琶湖周辺の天狗の住処の洞穴に連れ去られてしまいます。龍の弱点は、水がないと龍には変身できない所です。かっぱと同じです。そこに京から僧侶もさらわれてきます。この僧侶が竹の水筒をもっていて、水を得た子蛇は龍に変身し、天狗を懲らしめて、僧侶を寺に送り届けて満濃池に帰って来るというお話しです。

今まで見てきた3つの史料の成立した年代を見ておきましょう。

満濃池記載史料の成立年代
 満濃池と空海の関係を述べた史料の成立年代

11世紀になると、空海は死んではいない。入定しただけで身は現世にとどまっているという「入定留身信仰」説が説かれるようになります。これは今も空海は、この世に留まり衆生を見守り、導こうとしているということになります。これが近世になると「同行二人」いつも空海さんと一緒に ということになっていきます。佐文の綾子踊りでも由緒書きには、「ある旅の僧侶が綾に雨乞踊りを伝授した。踊れば雨が振った。村人は歓喜した。いつの間にか僧侶はいなくなっていた。その僧侶が弘法大師であったと村人はささやきあった。と記します。つまり、いろいろな行事や功績などが空海に接ぎ木されていくようになのです。そんな流れの中で登場してくるのが空海ー満濃池修復説といえそうです。
 満濃町史は、国司解や太政官符を見て紀略がかかれたという立場です。しかし、それは成立年代からすると無理があるようです。紀略の記事を見て、太政官符が創作されたということも考えられます。 こうして弘法大師伝記には、いろいろな話が付け加えられていくのです。そして92種類の伝記が確認されています。
次にいろいろな話が付け加えられていく過程を、満濃池史の今昔物語の記述で見ておきましょう。

今昔物語の原文と「満濃池史」の比較

先ほど見たように今昔物語が空海と満濃池の関係に触れているのは、一行でした。それが満濃池史の「今昔物語」には、次のようになっています。

満濃池の龍神 今昔物語に付け加えられた部分


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満濃池史の「今昔物語」
ここには①讃岐国司・清原夏野の嵯峨天皇への直訴的申請 ②路真人浜継(みちのまびと)の来讃。③空海の派遣申請などがいろいろなことが記されています。しかし。これらはもともとの今昔物語には書かれていないことです。日本紀略や「行化記」などに書かれていることが今昔物語に接ぎ木されています。伝説とは、このようにして後世にいろいろな物語が付け加えられて膨れあがっていきます。地域の歴史を書く場合には、地元の歴史について知ってほしい、そして誇りを持って欲しいという思いが強く働きます。私もそうです。そのためサービス精神が旺盛になりすぎて、史料検討が甘くなり、いろいろなことを盛り込んでしまうことが往々にしてあります。そういう意味では、厳密に云うと、これは今昔物語ではありません。いろいろな情報が付加された「今昔物語増補版」ともいえるものです。
 ここまでを整理しておくと、12世紀前後に成立した3つの書物に、空海と満濃池の関係が書かれるようになったこと。しかし、その内容は、空海の派遣経緯が中心でした。空海がこの地にやってき何をしたかについては、何も記されていませんでした。それでは最初に見た護摩壇岩やアーチ型堤防などの話はいつ頃から語られ始めたのでしょうか。これは近世に書かれた矢原家文書の中に出てくるものです。
満濃池池守 矢原家について
これは幕末の讃岐国名勝図会に描かれている矢原家です。おおきな屋敷と二本の松の木が印象的です。カリンの木は見えませんが、大きな財力をもっていたことが屋敷からはうかがえます。この場所は、満濃池の下のほたるみ公園の西側で「矢原邸の森」として保存されています。矢原家について簡単に触れておきます。①真野を拠点とする豪族とされますが ②史料からは中世以前のことについてはよく分かりません。③文書的に確実にたどれるのは生駒藩時代以後です。④西嶋八兵衛が満濃池を再興するときに、用地を寄進したことで、池の守職に任じられたこと ⑤しかし、満濃池修復費用に充てるために池の御領とよばれる天領が設置されます。天領が置かれると代官もがの指揮下におかれて、既得権利を失ったこと⑥そのため池の守職を無念にも辞任したこと。
このように池の守として満濃池に関わった矢原家には、満濃池についての文書が多く残されたようです。その一部を見ておきましょう。


矢原家々記の空海による満濃池築造
矢原家々記の空海来訪場面

 古代のことが昨日のように物語り風に語られています。こんな話を矢原家では代々語り伝えてきていたのかもしれません。この内容をそのまま史実とすることはできませんが書いた人の意図はうかがえます。
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること 
②矢原家の伝統と格式の高さ 
③その象徴としてのかりん 
これらは空海の来訪を記すと同時に、作成目的の中に「矢原家顕彰」というねらいがあったことを押さえておきます。矢原邸跡に香川県が設置した説明版には「空海が矢原正久の屋敷に逗留した際、記念にお手植えされたとされるカリンがある。」と記されています。矢原家々記を書いた人物の意図が、現在に生きていることになります。

矢原家文書の空海伝説 アーチ堤防


我々が満濃池の特徴としてよく聞く話は、近世になって書かれた矢原家文書の中にあることを押さえておきます。これらを受けて満濃池町史は、次のように記されています。

満濃町史の伝える空海の満濃池修復

①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の
神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。

①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。

②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。


この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。

空海関与を伝えない満濃池後碑文
満濃池後碑文(まんのういけのちのいしぶみ)
以下も意訳変換しておくと

三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない


ここには、空海の満濃池修復後の約20年後に決壊した満濃池を国司の弘宗王が修復したことが記されています。その内容を見ると動員数など具体的で、日本紀略の記述に比べると、よりリアルな印象を受けます。弘宗王とは何者なのでしょうか?

 満濃池修復を行った讃岐国司弘宗王
満濃池を修復した弘宗王

弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守
弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。


空海と弘宗王の相互関係の年表

「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。

それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。


満濃池後碑文に空海が出てこない理由は

日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。


空海満濃池築造説への疑問

考古学的な疑問点は次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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弘法大師が「入定」後に、多くの伝記が書かれます。いったい伝記は、いくつあるのだろうかと思っていたら『弘法大師伝全集』に、93種あると記してありました。弘法大師の伝記は、代々の真言僧や蓮華谷聖の手によって何度も増補改制されてきました。さらにそれが高野聖たちによって人々に口伝えに伝えられ拡がって行きます。そして、「弘法清水」とか「再栗」や「三度柿」などの、水と救荒食物の救済者としての大師のイメージが定着していきます。 私が興味があるのは、これらの伝記類に善通寺がどのように記されているかです。そのことについて触れている論文に出会いましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2」です。
一円保絵図 曼荼羅寺3

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。それが同年成立の「弘法大師御伝」には次のように記されています。

「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

意訳変換しておくと
「讚岐国の善通寺と曼茶羅寺の両寺について、善通寺は空海の先祖である佐伯直氏の氏寺で、曼荼羅寺は大師が建立したものである

ここではじめて善通寺と曼荼羅寺が登場します。注意しておきたいのは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたのみ記されています。ここからは11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。これが時代を経るに従って、いろいろなことが追加されて、分量が増えていきます。

以下、大師伝記の中の善通寺に関連する記事を年代順に見ていくことにします。

弘法大師伝の善通寺 高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立
弘法大師伝記の善通寺・曼荼羅寺部分の抜粋

  (1)高野大師御広伝(下)・元永元年(1118年)成立(上の右端部分)
 
  唐より帰朝後に、仏像を大師自ら造った。また先祖菩提のために善通寺を建立し、その額を書いた。そして、善通寺と曼荼羅寺の両寺に留まり、修行を行った。そのため周辺には多くの聖地がある。この寺の山に塩峰がある。地元では、大師が七宝を埋めた山と伝えられる。これが後世に「七宝」から「塩」に転じてしまった。ここには行道(修行路)の跡が残っている。そこには草木が生えずに、海際に巨石がある。その石は落ちそうで落ちず、念願石と呼ばれている。また、人々が伝えるところによると、弘法大師の遺法が滅したときに、この石も墜ちるとも云う。

要点を挙げておくと
①善通寺と曼荼羅寺は空海が建立したこと
②塩峰=七宝山で辺路修行ルートがあったこと
③そのルート上に念願石があること
ここで気になる点を挙げておきます。
・「弘法人師御伝」(1089成立)に比べると分量が大幅に増えていること
・善通寺と曼荼羅寺の一体性を強調していること。曼荼羅寺への気配りがあったことがうかがえる
・七宝山をめぐる辺路行道ルートがあったこと。五岳山については何も触れられていないこと
・七宝山の行道ルートには海にも面していて、「念願岩」があったこと。

以前にお話しした10世紀末から11世紀の曼荼羅寺をとりまく状況を振り返っておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」となっていた
②10世紀中頃に廻国聖・善芳が、退転した曼荼羅寺の復興開始。
③善芳は弘法大師信仰を中心にして勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功。
④勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと使命であった。
 ここからは弘法大師信仰が高野聖などによって地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支える時代が始まっていたことが分かります。その先例が廻国聖・善芳による曼荼羅寺の復興運動でした。その成果が、高野山にもたらされ伝記の中に曼荼羅寺が善通寺と併記して登場するようになったことが考えられます。同時に彼らは、観音寺から七宝山を経て我拝師山に至る中辺路行道ルートを開いたのかもしれません。

弘法大師信仰と勧進聖

曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。

これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったようです。つまり、中央の支配管理を受けるようになり、東寺から派遣された僧侶達がやってくるようになります。それを追いかけるように、廻国の高野聖たちがやってきて活動を始めます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
善通寺一円保絵図に描かれた曼荼羅寺と我拝師山


2 弘法大師行化記(1219年)
善通寺額事 (高野大師行状図画)
                善通寺額事 (高野大師行状図画)

弘法大師は先祖のために讃岐に善通寺を建立した。その山門に大師自筆の額を掲げた。その額には聖霊が宿っていた。陰陽師の安倍晴明が縁あって讃岐に下向した。暗くなったので識神に松明を持たせて進んだ。ところが善通寺あたりで松明が消えて、寺を通過してしまった。このことについて安倍晴明が疑問に思うと、識神が云うには「弘法大師の額がこの寺には掛けられています。それを四天王が守護しています。そのために四天王が安部清明様の霊力を怖れて路を変えたのでしょうと

弘法大師行化記は、空海を満濃池修復の別当に任命することを申請した讃岐国司解と、それを中央政府が許可した太政官符の写しを載せている伝記です。そして、もうひとつ新しいエピソードを載せます。それがこの「善通寺額事」です。そこに登場するのは空海の筆による額と安倍晴明です。

ここに記された「善通寺額事」について見ていくことにします。
弘法大師の筆による「額」は四天王が守護したりして、額に精霊が宿っているという奇瑞が、大師伝記の名筆説話伝説に述べられています。それが「五筆勅号」「虚空書字」「大内書額」のエピソードです。
中でも「大内書額」は掲額説話として、最も有名なモノです。俗に「(弘法大師)筆」といわれるもので、次のような有名な説話です。

勅命によって応天門に掲額する字を書き・・・額うち付けて後見たまひければ、応の字の上の円点かき落されける程に、筆をなげあげて点をうたれけり         「大師行状記」巻五)

その他にも宮中の門に関わる説話としては「皇嘉門額」などという似たような伝承もあります。伝記に採用されなくとも、之に類する話は全国にあったことがうかがえます。善通寺掲額説話もその一つでしょう。冷静に考えてみると、掲額は門に掲げられます。そのため百年も経てば、風雨にさらされてぼろぼろになるのが普通です。平安前期の大師真筆が風雨にさらされて中世まで何百年もそのまま残っている方が不思議です。また、弘法大師が書いたものでなくても掲げられた額が、筆ぶりが達者であれば、大師筆と化してしまったものも、少なくかったはずです。弘法伝説の拡がりを考えれば、高野聖たちはそれらを「大師真筆」と語るのは当然のことだったでしょう。この動きに、中近世の書道家家元制度の喧々たる連中たちは、「地元の誇り・光栄」として乗っかっていきます。
 善通寺は大師生誕の地とされたので大師にまつわる伝承には事欠きません。
産湯の水や幼年時代の砂遊び(童雅奇異)などのストーリが創作可能でした。それが伝記には取り上げられていきます。その他にも多くの伝承が語り継がれていたはずです。善通寺のエピソードを伝記作家(僧)が求める中で空海の名筆にちなんだ掲額説話が、後に加えられていくのは自然のなりゆきです。ただ、善通寺掲額説話は筆伝説(大内書額)とちがって、中世期になって登場する話です。それはこの話が『高野大師行状図画』に語られながら、もう一つの中世期の大師伝記代表作品である『弘法大師行状記』には載せられていないことからもうかがえます。93もある大師伝記の中で、枝葉を生やし数を増してきた多くの奇瑞譚の末端が善通寺掲額説話であると研究者は指摘します。その登場過程は次のような流れが考えられます。
①生誕の地の善通寺で「弘法大師名筆」に影響されて語られ始めた「善通寺額事」
②それを流布し、高野山に伝えた高野聖たち
③高野聖たちから聞き取ったエピソードを伝記の中に載せた伝記作家(僧)
善通寺は多度郡司であった佐伯直氏の氏寺として建立された地方小寺院でした。
氏寺であるがために、佐伯直氏一族が平安京に本貫を移し、中央貴族化したり、高野山の管理者になって去って行くとパトロンを失い退転していきます。それは平安時代中期以後の古代瓦が出てこないことからもうかがえます。中世を前に善通寺は、衰退していたのです。そのような中で弘法大師伝説が流布され、弘法大師信仰が広がり始めます。そして「弘法大師生誕の地」と中央貴族の信仰を集めるようになります。大師が有名化するとともに信仰が拡がり参詣者も増えるのに連れて、大師にまつわる伝説も数が増えていきます。大師が善通寺を建立したという伝承など生まれてくるのは、自然な流れです。これが大師伝説を語る時衆系念仏聖たちの流れを汲む中世高野聖によって採録され、そのネットワークを通じて、高野山の真言僧などにもたらされます。
 善通寺掲額説話は先ほども見たように、初期の『弘法大師伝』には出てきません。また93あるというわれる大師説話の中で、重要な地位を占めていません。そして今は、あまり語られないエピソードになっています。私も知りませんでした。それはどうしてなのかは、別の機会に考えるとして、先を急ぎます。
3 弘法大師略欽抄 1234年
 
讃岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺は、弘法大師空海の先祖菩提の氏寺である。また曼荼羅寺は大師が建立したもので、両方の寺にその住居跡がある。

ここでも善通寺と曼荼羅寺の一体性が語られます。そして、曼荼羅寺をフォローするかのように、曼荼羅寺にも弘法大師の住居跡があると補足します。そこには、下表のように12世紀になると曼荼羅寺が東寺の荘園となり、善通寺と一体化して経営されていたことが背景にあるようです。

曼荼羅寺の古代変遷

4弘法大師伝要文抄 1251年

善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、弘法大師が唐からの帰国の際に嵐に出会って遭難しそうになった際に、その嵐が収まることを祈り、一難を避けた際の成就御礼として、自ら造ったものである。

ここに初めて、嵐退散のために空海が手造りした白檀の薬師如来像が登場します。これが今の私にはよく分かりません。なお、現在の善通寺金堂の本尊は丈六の薬師如来坐像で、江戸時代前期のものです。 

5 高野大師住処記 1303年

   善通寺は讃岐国にあり、空海の先祖の氏寺である。曼荼羅寺も大師が建立した寺である。両寺に大師が修行した住居が残っている。

6 弘法大師行状要集 1374年
伝記によると、善通寺と曼荼羅寺の白檀の薬師如来像は、大師が唐からの帰国の際に大嵐に際に風波の収まることを祈願して、自ら造ったものである。言い伝えによると、伝教大師は入唐の際に、風波の禍を避けるために鎮西で薬師如来を造って奉納したと伝わる。弘法大師と伝教大師の両大師が帰国後に、無事帰国を感謝して薬師如来を造った。その意を察すべし。

7高野大師行化雑集(1630年?) 
 善通寺・曼荼羅寺の白檀の薬師如来は、入唐の際の嵐の際に、無事を祈って大師自らが造ったものである。讃岐多度郡の吉原中郷に善通寺を建立する。また中郷は大師が御桑梓の地でもある。また大師は吉原郷に曼荼羅寺を建立した。この寺の南には五岳山がある。第一峰は高識山、第二峰が五筆山、第三峰が我拝師山で、この山の麓に寺がある。寺号は出釈迦寺である。善通寺と曼荼羅寺、并に中郷・吉原は一続きのエリアである。第四峰が火上山、第五峰が獅子山で、この五山の浦を屏風ヶ浦と称する。 
以上を見た上で気づくことを挙げておきます。
A (1)高野大師御広伝(元永元(1118年成立)では、弘法大師が帰朝後に「手ヅカラ数(多)ノ仏像ヲ造った」とある記事は、その約百年後の(4)弘法大師伝要文抄(1251年)では、「善通曼荼羅両寺の薬師如来像、唐ヲ欲スルノ時、風波(安全)祈ル為ニ、手ヅカラ斤斧ヲ操リ彫った」となり、分量が増えています。
B (6)の弘法大師行状要集(1374年)では、伝教大師が登場して真言天台両密教の宗祖が並んで渡海安全を祈ったことに変化します。
C 七宝山が辺路修行の場であり、念願石の伝説が語られていたのが、(7)高野大師行化雑集(1630年)では、七宝山は消えて、替わって五岳山が聖地とされるようになります。これには、五岳山を取り巻く状況の変化があったことは以前にお話ししました。

曼荼羅寺
幕末の曼荼羅寺(讃岐国名勝図会)
 こうしてみると、もともとは平凡な説話だったものが、誇張化し奇瑞化されていく過程が見えてきます。善通寺と曼荼羅寺の両方に「大師御住房アリ」と記されるようになるのも、これも善通寺が大師の生誕地であって、生誕地ならばその帰るべき住居があったのは当然という考えから、後世に追補されたものしょう。
弘法大師伝記の善通寺記述の分類
弘法大師伝記に登場する善通寺関連記事のモチーフ分類 下段番号は登場する伝記 
以上見てきたように、善通寺の関連説話で一番古いのが元永元年(1118)年成立の(1)高野大師御広伝(下)です。しかし、これは12世紀初頭の成立なので、大師伝記中の説話の中では、新しい部類のものにになります。そして、近世以降のものは、それまでの伝記の写しで内容が重なっています。逆に言うと新しいことは付け加えられていません。例えば12などは『高野大師行状図画』の「善通寺額事」とほぼ同じ内容です。以上のように大師伝記伝説の中に出てくる善通寺関連説話は、12世紀以後に付け加えられた「新しい弘法大師エピソード」であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
渡遺昭五 弘法大師善通寺掲額説話の周辺 大師名筆伝説の行方NO2
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弘法大師入定留身の形成過程

前回は、上記のように空海への大師号下賜がきっかけとなって、入定留身信仰が形成される過程を「高野空海行状図画」で見てきました。入定留身説が初めて語られるようになるのは、11世紀初頭のようです。それと、観賢の御廟開扉の話をからめて語られるようになるのは、約80年後の11世紀の後半以降だとされます。今回は、「入定留身」について、史料はどのように記しているのかを見ていくことにします。
まず最初に「空海の最期はどうであったか」を史料で押さえておきます。
大正から昭和にかけての歴史学者の喜田貞吉は「空海=火葬説」を出しますが、真言宗内からの猛反論を受けます。以後、この問題に正面から答えようという動きはなかったようです。21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える研究者が現れます。これが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」です。これをテキストにして見ていくことにします。

弘法大師伝承と史実: 絵伝を読み解く
伝記などに書かれているように、空海は自分の意志で入定したのでしょうか?
これについて研究者は「NO」の立場です。その根拠を見ておきましょう。空海の最期について、もっとも信憑性が高い史料は空海の最期をみとった実恵(じちえ)をはじめとする弟子達の手紙です。

実恵 
         実恵(観心寺)
実恵は空海の筆頭弟子で、高野山開創を手がけた高弟で、東寺の長者(管長)を務めた人物です。実恵の手紙は、空海入滅の翌年の承和3年(836)5月5日付で、その師・恵果和尚の墓前に報告するために、長安の青竜寺に送った書状です。この手紙は、承和の遣唐使の一員として入唐することになった真済と留学僧真然に託して、青竜寺に届けるために書かれたものです。
実恵の青竜寺に宛てた手紙のなかで、空海の最期を記したところを見ておきましょう。
【史料1】承和3年(836)5月5日付実恵等書状(『弘法大師全集」・第五輯、391P~)
①その後、和尚、地を南山に卜して一つの伽藍を置き、終焉の処とす。その名を金剛峯寺と曰う。②今上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。③二年の季春、薪尽き火滅す。④行年六十二。
⑤鳴呼哀しいかな。南山白に変じ、雲樹悲しみを含む。⑥一人傷悼し、弔使馳驚(りぶ)す。⑦四輩鳴咽して父母を哭するが如し。鳴呼哀しいかな。⑧実恵等、心は火を呑むに同じく、眼沸泉の如し。死減すること能わず、房を終焉の地に守る。
研究者は次のように現代訳します。
①空海は南山・高野山の地を卜定して一つの伽藍を建てられ、そこを終焉の地となされた。その名を金剛峯寺といった。②今上、つまり仁明天皇の承和元年(834)をもって高野山に隠居なされた。③同二年の季春(二月)に、薪が燃え尽き、火の勢いがだんだんと弱くなるように最期を迎えられた。④このとき62歳でした。⑤空海の滅を哀しんで、南山の樹々は一度に白くなり、雲も樹々も悲しみを表しました。⑥天皇は深く哀悼なされ、速やかに弔使を遣わされた。⑦また、 一般の人たちも鳴咽して、父母の死を悼むがごとくであった。⑧残された実恵等の弟子は、心は火を呑むように苦しく、眼からは泉のように哀しみの沸が流れた。⑨殉死することもままならず、師の開かれた房舎を末永く守ることにした。

ここには、空海の最期に立会った弟子の真情がストレートに現れていると研究者は評します。
ここで研究者が注目するのは、この文章の内容が空海が書いた「恵果和尚の碑文(大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨耶恵果和上之碑 日本國學法弟子 苾蒭空海撰文并書)」を参考にしていることです。
「恵果和尚の碑文」とは、長安で空海が恵果の弟子を代表して碑文を起草したものです。
全文が空海の韓詩文集である「遍照発揮性霊集」に収録されています。そこには、恵果の最期と埋葬のようすが次のように記されています。

遂に乃ち永貞元年に在る極寒の月満を以って、住世六十、僧夏四十にして、法印を結んで摂念し、人間に示すに、①薪の尽くるを以ってす

嵯呼痛いかな、日を建寅の十七に簡(えら)んで、塚を城郎の九泉に卜す。腸を断つて玉を埋め、肝を爛して②芝を焼く。泉扉永く閉じぬ。天に想うれども及ばず。茶蓼鳴咽(とりょうおえつ)して③火を呑んで滅えず。(傍線筆者)

これを「性霊集講義侃(107P)」は、次のように現代訳しています。

断腸の思いをしながら尊体を埋め、肝を焼爛せらるる思いをしながら之を焼き奉る。ああかくて永遠に貴泉に旅立たれてしまった。天に訴え叫けべども今は詮かたなし。

 ①「薪の尽くるを以ってす」と ②「之を焼き奉る」からは、恵果和尚が火葬されたのを空海は見ていたことになります。碑文を書いた空海は、師である恵果和尚の最期や葬送儀式に立ち会っていたはずです。そうすると、自分の最期を迎えるとき、師・恵果和尚の葬儀を思い返したことでしょう。

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         恵果崩御(高野空海行状図画)
また、実恵らの手紙の文章に対応する空海の「碑文」のことばをあげると(前が実恵らの手紙、後が空海の「碑文」)
③「薪尽き火滅す」     → 「人間に示すに、薪の尽くるを以てす」
⑤「雲樹悲しみを含む」→ 「天雲鯵々として悲しみの色を現わし、松風厖々として哀しなの声を含めり」
⑧「心は、火を呑むに同じく」→「荼蓼(とりょう)鳴咽して火を呑んで滅えず」
この対応関係からは、空海の最期を恵果和尚に重ね合わせて書かれたことがうかがえます。ここからは実恵が報告文を書く際に、空海の文章を何度も読んでいたことが見えて来ます。実恵らの書状には、「薪尽き火滅す」とあるだけで、具体的な葬送儀礼は伸べられていませんが、状況証拠からして、空海は火葬されたと研究者は考えています。なお「南山白に変じ、雲樹悲しなを含む」は、お釈迦さまが涅槃に人られたとき、沙羅双樹の葉が瞬時に白くなってしまったことを下敷きにしているようです

次に正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月21日の記録を見ておきましょう。

承和2年3月丙寅(21日)、大僧都伝燈大法師位空海紀伊国の禅居に終る

ここでは「禅居に終る」と記すだけです。これに対して、3月25日には、後太上天皇(淳和天皇)をはじめとする人たちの対応のようすが次のように詳しく記されています。

庚午(25日)、勅して内舎人(うどねり)一人を遣わして法師の喪を弔し、併せて喪料を施す。後太上天皇(淳和天皇)の弔書有りて曰く、真言の洪匠、密教の宗師。。邦家、其の護持に憑り、動植、共の掃念を荷ふ。あに図らんや。御慈いまだ逼(せま)らず。無常速に侵さんとは。仁舟悼を廃し、弱喪帰を失ふ。ああ哀しいかな。A禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。これを言いて恨みとす。帳恨何ぞ巳(やみ)なん。付にして旧窟を思うこと、悲涼料べし。今は通かに単書を寄せて之を弔す。著録の弟子、入室の桑門、棲愴(せいそう)奈何、兼ねて以つて旨を達す、と。  (『国史大系』第二巻 38P)

ここで研究者が注目するのが、Aの文章です。

禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。

周辺部を意訳変換しておくと

「大師のお住まいは僻左で、ずいぶん遠い山のなかであるから、その訃報が届くのが遅かった。そのため、使者を派遣して荼毘をお助けすることができなかったことは、痛恨の極みである

荼毘を相助くる」の「茶毘」をどう理解すればいいのでしょうか?
一般的には「茶毘にふす」といった形で使われ、火葬のことをさすことばです。これを「茶毘」は、「火葬ではなく、単に葬儀をさすことばである」とする説もありますが、すなおに読めば「火葬」とするのが自然と研究者は判断します。
我が国における火葬の初見記録は、『続日本紀』巻  文武四年(700)三月己未(十日)条の道昭の卒伝で次のように記します。
道昭和尚物化(みまか)りぬ。縄床に端座して、気息有ること無し。時にし七十有二。弟子ら、遺(のこ)せる教を奉けて、栗原(あわはら)に火葬せり。天下の火葬、此より始まれり。

ここには「栗原に火葬せり」と出てきます。考古学的には、それ以前の火葬の例も報告されているので、奈良時代にはある程度普及していたとされます。したがって、空海が火葬にされたことは充分に考えられます。しかし、ここでも研究者は断定はしません。それはこの後太上天皇の弔書が、いつの時点で書かれたかがよく分からないからです。天皇が正確な報告を開かないで書いたとすれば、推測で「茶毘」と記したとも考えられるからです。

ここまでを整理・要約しておきます。
①真言教団では入定留身信仰から「空海=火葬説」はタブーとされてきた。
②空海は入唐時に師の恵果の葬儀に参列し、その追悼文に「薪の尽くるを以ってす」②「之を焼き奉る」と書いている
③ここからは、恵果和尚が火葬されたことが分かる。
④空海入滅を長安の青竜寺に報告するために、実恵は留学僧に文書を渡した。
⑤その空海入滅報告書には、空海入定については何も触れられていない。
⑥空海の葬儀について、正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月25日の条には、「荼毘を相助くる」という言葉が出てくる
⑦これは「荼毘=火葬」と考えるのが自然であると研究者は判断する。
以上から、根本史料からは「空海火葬説」が優位であるします。また、空海入滅直後の記録には、生きながらにして成仏したということを裏付ける記述は見えないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」
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前回は、9世紀末までに成立していた大師伝の次の2つを比較対照しました。
A「続日本後紀」(空海卒伝)承和2年3月25日条(貞観11年(869)年成立)
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝)      寛平7年(895)成立
その結果、空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことを見ました。今回は、C『遺告二十五ヶ条(御遺告)」(10世紀中頃成立)では、どうなっているのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」です。

御遺告2
遺告二十五ヶ条 巻首(奈良国立博物館)

遺告二十五ヶ条は、従来は次のように考えられてきました。

「空海が、死期を悟って門弟のために遺したとされる遺言。
本品は真言宗全体に関わるさまざまな事柄を二十五箇条にまとめたものである。」

そのためその記述が聖典化され、疑われることなく事実とされ根本史料とされてきました。しかし、他の空海の文章と比べると稚拙で、内容も世俗的なことが付加されていて格調や緊張感に欠けるとされます。そのため十世紀中頃までに、弟子らによってまとめられたものと考えられるようになっています。二十五箇条遺告の最古写本は、金剛寺所蔵の安和二年(969)書写本です。研究者は、これを全文を28段落に分け、その部分が後の「高野空海行状図画」などの絵巻伝記にどのように取り込まれ、神秘化・伝説化されていく経緯を見ていきます。なお末尾数字は同じ趣旨の話がみられる『高野大師行状図面』の巻と場面・標題です。

i遺告二十五ヶ条冒頭部 年少期エピソード
                遺告二十五ヶ条の冒頭部
書き下し文
①夫れ以れば、吾れ昔、生を得て父母の家に在りし時、生年五、六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語ると見き。然りと雖も専ら父母に語らず。況んや他人に語らんや。此の間、父母偏に悲んで、字して貴物(とふともの)と号す。

高野大師行状 (2)
 八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語る(高野空海行状図画(1-2  幼稚遊戯)
②年始めて十二なりき。後に父母の曰く、我が子は是れ、昔仏弟子なる可し。何を以ってか之を知る。夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。然れば則ち、此の子をもたらして、将に仏弟子と作さんとすべし。吾れ若少の耳に聞き歓んで、泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて、彼の内に安置して礼し奉るを事と為しき。 一の1 誕生奇譚

DSC04476真魚誕生
夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。
(弘法大師行状絵詞 一の1 誕生奇譚

高野大師行状 (1)
泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて(高野空海行状図画一の1 誕生奇譚

遺告二十五ヶ条の①の五、六歳のころの逸話と②の十二歳のとき聞いた出生の秘話です。
10世紀末までに成立した大師伝は、次の5つです。
①『続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条  貞観11年(869)年成立
②『増大僧正窄海和上伝記』(覚平御伝)  寛平7年(895)成立
③『遺告二十五ヶ条』(御遺告)  10世紀中頃成立)
④「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝)  10世紀中頃成立)
⑤「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起)  康保5年(968)成立
このうちで御遺告以外は、どれも空海の誕生から亡くなるまでを年代順に記述します。例えば①の「空海卒伝」や②の「寛平御伝」では、15歳でおじの阿刀大足について本格的に学問をはじめ、18歳で大学に入り、程なくして虚空蔵求聞持法と出会い神秘体験をへて、俗世間での出世を断念し仏門に入るという運びです。これは『三教指帰』序文を参考にしながら書かれたことがうかがえます。
  ところが御遺告で冒頭に来るのは、次のようなエピソードです。
A 5,6歳のころに、いつも蓮華に坐して諸仏と語らう夢をみていた
B 11歳のとき、インドの僧が懐に人るのを夢みて懐妊したので、将来、仏弟子としようと考えていたと父母から聞かされ、喜んだ。
C 泥土で作った仏像を草茸きの小屋に安置し礼拝するのが常であった、
これは三教指帰などにはない事績です。遺告二十五ヶ条ではじめて登場します。
ここには空海が生まれながらに僧になることが約束されていたかのような導線として描かれます。
多くの障害を越えて空海(真魚)を平城京の大学に進学させたのは、中央の高級官僚をめざすという一族の期待を背負っていたことだ私は考えています。それを否定するエピソードが冒頭に置かれます。ここに御遺告の空海伝の性格が如実に出ているように思います。ここでは『御遺告』では、空海の生涯全般において神秘化・伝説化が著しく進んでいることを押さえておきます。そして、今までに書かれていなかった新しい空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以下、高野空海行状図画などの絵図を挿入しながら見ていきます。

⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑤然して後、生年十五に及んで人京し、初めて石淵の贈僧正大師(勤操?)に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵(虚空蔵求聞持法)の法呂を受け、心に入れて念持す。‥…一の6 聞持受法
虚空蔵求聞持法 勤操
 初めて石淵の贈僧正大師に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵の法呂を受け(一の6 聞持受法)

⑥後に大学に経遊して、直講味洒浄成(あらさけのきよなり)に従って毛詩・左伝・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問う。博く経史を覧しかども、専ら仏経を好む。一の5  明敏篤学

明敏篤学の事
大学に経遊して博く経史を覧し(一の5  明敏篤学)

⑩或いは土佐室生門(室戸)の崎において、寂暫として心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵の光明照し来たって普薩の成を顕し、仏法の無二を現わす。      一の11  明星入口

明星入口3 室戸 高野空海行状図画
土佐室戸にて明星口に入り、虚空蔵の光明を照(一の11  明星入口)
⑫爰に大師石淵の贈僧正(勤操?)召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除して、沙弥の十戒、七十二の成儀を授け、名を教海と称し、後に改めて如空と称しき 
一の10  出家受戒

空海出家1
和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除(一の10  出家受戒)

⑬此の時仏前に誓願を発して曰く「我れ仏法に従って、常に要を求め尋ぬるに、三乗五乗十二部の経、心神に疑い有って、米だ以って決を為さず。唯だ願くは三世十方の諸仏、我に不二を示したまえ」と心に折感するに、夢に人有りて告げて曰く。「此に経有り、名字は「大毘庸遮那経」と云う。是れ乃が要むる所なり」と。 二の2 久米東塔

⑭即ち随喜して件の経王を尋ね得たり。大日本の国高市の部久米の道場の東塔の下に在り。此に於いて一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞り有りて、憚(ただ)し問う所無し。二‐2 久米東塔

久米寺東塔2 高野空海行状図画
国高市の部 久米の道場の東塔
入唐求法については
⑯彼の海路の間、三千里なり。先例は揚蘇洲に至るて傾無し、とム々、面に此の度般(たび)七百里を増して衡洲(福州)に到る、障多し。

大師入唐渡海2 遣唐使船

此の間、大使越前国の太守正三位藤原朝臣賀能、自手書を作して衡洲の司に呈す。洲司披き看て、即ら此の文を以って已て了んぬ。此の如くすること両三度なり。然りと雌も胎を封じ、人を追って湿沙の上に居ら令む、此の時に、大使述べて云く。切なる愁、之れ今、抑大徳は筆主になり。書を呈せよ、と云々。爰に吾れ書様を作り、大使に替わって彼の洲の長に呈す。開き覧て、咲(えみ)を含んで船を開き、問いを加えて即に長安に奏す。三十九箇目を経て、洲府の力使四人を給へり。且つ資糧を給うて、洲の長好し問うて、借屋十三烟を作りて住せ令む。五十八筒日を経て、存問の勅使等を給う。彼の儀式極り岡し。之を覧る主客、各々涙を流す。

入唐着福州 高野空海行状図画
福州での大師に代わっての代書

次で後、迎客の使を給う。大使に給うには七珍の鞍を以ってす。次々の使等には皆粧る鞍を給う。
入唐入洛3 高野空海行状図画


長安入京の儀式、説き尽す可きこと無し。之を見る者、選池に満てり。此の間、大使賀能大夫達、向に国に帰る。其れ延暦二十四年電時なり。即ち大唐の貞観二十一年に配り。
                               二の5 入唐著岸
⑱少僧、大同二年を以って、我が本国に帰る。此の間、海中にして人々の云はく。日本国の天皇崩じたまへり、と云々。是の言を聞き諌(ただ)して本口の言を尋ぬるに、船の内の人、首尾を論争して都て一定せず。注り繋ひで岸に着く。或る人云いい告げらく。「天皇、某の同時に崩じたまう」者(てへり)。少僧、悲を懐いて素服を給わる。爾従り以降、帝四朝を経て、国家の奉為(おんため)に壇を建て法を修すること五十一度なり。 三の9  著岸上表


⑲神仙苑における雨乞祈祷と善女龍王について
⑲亦神泉苑(しんせんえん)の池の邊にして、御願に法を修して雨を祈るに、霊験其れ明かなること、上殿上従り下四元に至る。此の池に龍王有り、善如龍王と名く。元是れ無熱池の龍上の類なり。慈しみ有つて人の為に害心を至さず。何を以ってか之を知るとならば、御修法の比(ころおい)、人に託して之を示す。即ち真言の奥旨を敬って、池の中従(よ)り形を現す時に悉地成就す。彼の形業を現すこと、宛かも金色の如し。長さ八寸許の蛇なり。此の金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂きに居在するなり。此の現形を見る弟子等は、実恵大徳井びに真済・真雅・真照・堅恵・真暁・真然等なり。諸の弟子は敢えて覧看ること難し、具に事の心を注して内裏に奏聞す。少時の間に、勅使和気真縄、御弊種々の色の物をもって龍王に供奉す。真言道の崇めらるること、爾れ従り弥起れり。若し此の池の龍王他界に移らば、池浅く水減して世薄く人乏しからん。方に此の時に至って、須らく公家に知ら令めずして、私に析願を加うべし。而己。八の1  神泉祈雨

神仙苑4
  神泉祈雨と善女龍王の出現(高野空海行状図画八の1)

㉑大阿閑梨の御相弟子・内供奉十禅師順暁阿閣梨の弟子、玉堂寺の僧珍賀申して云わく「日本の座主、設ひ聖人なりと雖も是れ門徒に非ず、須らく諸教を学ば令むべし。而るを何ぞ密教を授けられんと擬す、と云々。両三般妨げ申す。是に珍賀、夜の夢に降伏せ為れて、暁旦来り至って、少僧を三たび拝して過失を謝して曰く、と云々。‥…3の3  珍賀怨念

守敏降伏2 高野空海行状図画 
高野空海行状図画(三の3  珍賀怨念)
㉒又去じ弘仁七年に、表をもつて紀伊国の南山を請うて、殊に入定の処とんす。一両の草庵を作り、高雄の旧居を去つて、南山に移り入る。厥の峯絶遥にして遠く人気を隔てり。吾れ居住する時に、頻りに明神の衛護在り。常に門人に語らく。我が性、山水に慣れて人事に疎し。亦、是れ浮雲の類なり。年を送って終りを待っこと、此の窟の東たり。……七の2  巡見上表
㉕万事遑無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(高野山)を看る。山の裏の路の辺りに女神有り。名づけて丹生津姫命と言う。是の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝(ふしゅく)に託して曰く、「妾は神道に在って、成福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり 。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国岬命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。冀(こいねが)わくば、永世に献して仰信の情を表す、と云々。如今(いま)、件の地の中に所有開川を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、是れなり。 七の3  丹生託宣

丹生明神
丹生託宣
㉖吾れ、去じ天長九年十一月十二日由り、深く穀味を厭いて、専ら座禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。井びに丼びに末世後生の弟子・門徒等が為に、方に今、諸の弟子等、諦に聴け、諦に聴け。吾が生期、今幾ばくならず、仁等好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾人減せんと擬することは、今年三月二十一の寅の旭なり〕諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ、吾れ即減せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾れ生年六十二、腸四―なり。……九の3  入定留身

入滅2
㉗吾れ初めは思いき 。百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。然れども諸の弟子等を恃んで、急いで永く即世せんと擬するなり。九の3 入定留身

入滅3
㉘但し弘仁の帝卑、給うに東寺を以ってす。歓喜に勝えず。秘密の道場と成せり。努力努力(ゆめゆめ)他人をして雑住令むること勿かれ。此れ狭き心に非ず。真を護るの謀なり。圓なりと雖も、妙法、五千の分に非ず。広しと雖も、東寺、異類の地に非ず。何を以ってか之を言うとならば、去じ弘仁十四年正月月十九日に東寺を以って永く少僧に給い預けらる。勅使藤原良房の公卿なり。勅書別に在り。即ち真言密教の庭と為ること、既に謂んぬ。師師相伝して道場と為すべき者なり。門徒に非ぎる者、猥雑す可けんや……七の11 東寺勅給  『伝全集』第一 10~23P

以上の中で⑩と⑱以外の十五項目は、遺告二十五ヶ条にはじめて出てくる話です。しかも、伝説的要素が非常に強いものです。その中でも、
②と①の出生の秘話と神童の逸話迎話、
⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑬と⑭の『大日経』の感得、
㉒と㉕の丹生津比売命からの高野山譲渡説
㉖と㉗の高野山への隠棲
㉘の嵯峨天皇からの東寺給預説
などは、絵伝類の中に取り入れられ後世に大きな影響を与えます。その絵伝類の「根本史料」となったのが遺告二十五ヶ条の空海の事績のようです。遺告二十五ヶ条の事績を元に、絵伝は描かれた。そして、時代が下るにつれて、神格化・伝説化のエピソードは付け加えられ、増えていったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」

空海については、実像像と神格化・伝説化された弘法大師像のふたつの像があるようです。研究者は「弘法大師の神格化・伝説化は、大師の末徒によって「大師伝」が書かれた頃、つまり9世紀末からはじまっていた」と指摘します。それを具体的に見ていくことにします。
平安中期(10世紀末)までに成立していた「大師伝」は、次の5つです。
A「続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条 貞観11年(869)年成立
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝) 寛平7年(895)成立
C『遺告二十五ヶ条』(御遺告) 10世紀中頃成立
D「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝) 10世紀中頃成立
E「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保5年(968)成立
今回はAとBを比較して、大師伝に奇跡譚や伝説化された事績が、どのように追加されていったのかを見ていくことにします。テキストは、武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収です。
まず、Aの『続日本後紀』から見ていきます。
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続日本後記
これは朝廷が作った正史で、根本史料です。この巻第四、承和2年(835)3月庚午(二十五)の条に、大師の略歴が記されています。正史にの略伝を「卒伝」と呼びますが、この「空海卒伝」を、研究者は13項目に分けて次のように要約します。
①法師は、讃岐国多度那の人。俗姓は佐伯直
②15歳にして、おじの阿刀大足について文書を読み習い、
③18歳にして、大学に入った。
④時に一人の沙門から求聞持法を習い、
阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎において、求聞持法を修し、霊験を得た(山谷瞥に応じ、明星
末影す)
⑥これより、彗星、日々新たにおこり、信宿のあいだに「三教指帰」を書いた、
⑦書法においては最もその妙を体得なされ、草聖と称せられた。
⑧31歳で得度し、
⑨延磨23年(804)に入唐留学し、青龍寺恵果和尚から真言を学んだ。帰国後、はじめてわが国に秘密の門を啓き、大日の化を弘めた。
⑩天長元年(824)、少憎都に補せられ、
⑪天長7年(830)、大僧都となった。
⑫みずからの志により、紀伊国金剛峯寺に隠居した。
⑬化去の時、63歳であった。
ここには空海の生涯が事実だけが簡潔に記されています。神秘化・伝説化された事績は、ほとんど見られません。強いて云うなら⑤の「求聞持法によって霊験をえた結果、日々慧解(理解力)がすすみ、2日ほどで『三教指帰』を書き上げた。」という点くらいでしょうか。これも、編者のひとりである春澄普縄の空海に対する思い入れが強かったことによるとしておきます。ちなみに⑪の天長七年に大僧都に昇補したことと、⑬の亡くなったのが63歳であったとするのは、最近の定説とは異なるようです。
 ここで押さえておきたいのは、死後直後に書かれた正史には、空海についての事績は、非常にコンパクトで、神秘化・伝説化されたモノは少ないということです。

次に『贈大僧正空海和上伝記』(寛平御伝)を見ていくことにします。
これは、真言宗内で書かれた一番古い大師伝です。奥書から寛平七年(八九五)三月十日、貞観寺座主の聖宝が撰述したとされてきました。研究者は、これも全文を29に分けて次のように要約します。

①讃岐=多度郡の人で、姓は佐伯氏、後に京の地に移貫した。
②宝亀5年(774)に誕生した。殊に異相があった。
③延暦7年(788)15歳。伊予親王の文学であったおじの阿刀氏について学問をはじめた。
④延暦10年(791)18歳、大学に入り経籍を歴学した。
⑤心中に避世の志あり、沙門について求聞持法を学んだ。ついに学問を出でて山林を経行した。
⑥阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎にて修行に励み、法験の成就をえることができた
⑦播磨国において、旅中、路辺の家に寄宿した。老翁が出できて、飯を鉄鉢に盛って空海に供養し、つぎのように語った。「私は、もと行基書薩の弟手の僧のいまだ出家せざりし時の妻なり。彼の僧、存りし日にこの鉄鉢をもつて、私に授けて曰く、「後代に聖あり。汝が宅に来宿せん。須らくこの鉢を捧げて汝が芳志を陳ぶべし」と。今、来客に謁して、殊に感ずるところがあったので、是をもって供養した」と。

⑧伊豆国桂谷山寺に往き、「大般若経』の「魔事品」を虚空に書写した。六書八体、点画を見た。始めて筆を揮うに、憶様成懸瞼監視(古来、理解不能とされてきた)。そのほか、奇異の事は多くあり、そのすべてをあげ、述べることはできない。
⑨その明年、剃髪出家して沙弥形となった。25歳。
⑩延磨23年(804)4月8日、東大寺戒壇院において具足戒を受けた。31歳
⑪延暦23年6月、命を留学にふくんで、大使藤原葛野麻呂と第一船にのり、咸陽に発赴した。
⑫8月、福州に着岸。10月13日、書を福州の観察使に呈した。
⑬12月下旬、長安城にいたり、宣陽坊の官宅におちついた。
⑭延暦24年2月11日、大師等、帰国の途につく。空海、勅により西明寺永忠僧都の故院に移り住む。
⑮城中を歴て名徳を訪ね、たまたま青龍寺東塔院の恵果和尚に遭いたてまつる。空海、西明寺の志明・談勝法師等五六人と同じく往きて和上にまみえる。
⑯6月上旬、学法潅頂壇に人り胎蔵法を受法する‐
⑰7月上旬、更に金剛界の法を受法する。
⑱8月上旬、伝法阿閣梨位の滞頂を受法する。兼ねて真言の教文・両部曼荼羅・道具・種々の法物等を請う。
⑲12月15日、恵呆和尚入滅する。
⑳大同元年(806)10月22日、招来法文の状を判官高階達成に付して上表する。
㉑弘仁11年(820)11月20日、天皇より、大法師位を授けられる。47歳。
㉒天長年中、旱魃あり。天皇、勅して神泉苑にて雨乞を祈らせるに雨降りたり。その功を賀して少僧都に任ぜられる。
㉓いくばくならずして大僧都に転任する。
㉔和上、奏聞して東寺に真言宗を建て秘密蔵を興す。
㉕承和2年(835)病にかかり、金剛峯寺に隠居する。
㉖承和3年(836)3月21日、卒去する。63歳
㉗仁寿年中(851~54年)、僧正貞済の上奏により、大僧正を贈られる。
㉘和上、智行挺出にして、しばしば異標あり。後葉の末資、委しく開くことあたわず。仍って、しばらく、一端を録して、謹んでもって上聞する。謹言
㉙寛平7(895)年3月10日 貞観寺座主
  (『伝令集』第1  37P~38P
この『寛平御伝』は、空海が卒去してからちょうど60年目に書かれた大師伝です。真言教団で書かれたものとしては最古のものになります。空海卒伝と比べて見て、一目で感じるのは、項目が倍増し、ボリュームも大幅に増えていることです。それだけ新しい事項が付け加えられたことになります。
ここで研究者が注目するのは、以下の3点です。
①に誕生年次を「宝亀五(774)年」と明記すること
㉖に卒去を「承和三年三月二十一日」とすること
㉘に「謹んでもって上聞す」とあって、宇多天皇に提出されたものであることが分かること。    

この大師伝には、伝説的な記述が次のように三ヶ所でてきます。
⑦の播磨の国で、行基菩薩の弟子の出家する前の妻から鉄鉢にご飯をもって差し出される話
⑧の伊豆の桂谷山寺において、虚空に『大般若経』の「魔事品」を書写する話
㉒の天長年中に、京都の神泉苑において、雨乞いの法を修された話
⑧と㉒の話は、簡略な記述で、これが原初的な形です。これが後世になると拡大され、絵伝にも収められるようになります。どちらにしても、この3つのテーマは、「弘法大師行状絵巻」には必ず図絵されてて、伝説化されていきます。

もうひとつ研究者が注目するのは、空海の神秘化・伝説化要素が、最初と最後に配置されることです。
最初は②の「宝亀五年(774)、誕生す。殊に異相あり」です。最後は㉘の「和上、智行挺出にして、しばしば異標あり」です。この「殊に異相あり」「智恵・言動が傑出していて、しばしば異標あり」の「異相・異標」は、すでにこの当時から、誕生とその後の事積に関して、いくつかの神秘的・伝説的なことが語られていたことがうかがえます。
 ここからは空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことが分かります。次回は、遺告二十五ヶ条では、その動きがどのように加速化されるようになったかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

新訂増補 国史大系10・11 日本紀略 前編/日本紀略 後編・百錬抄(黒板勝美編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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東北日本には「弘法とサケ」話型の伝説が広く伝わっています。
サケ漁の行われていた地域では、「弘法とサケ」の伝説が語られていたようです。この伝説には、自然界を法力で支配する者として漂泊の宗教者が登場します。たとえば、新潟県岩船郡山北町では、昔、カンテツボウズ(寺をもたない放浪の僧)が村を訪れ、人々は坊さんには生臭物は御法度であるということを知っていたにもかかわらず、サケを椿の葉に包んで強引に背負わせます。坊さんは怒って「ここには二度とサケを上らせない、椿を生えさせない」と呪文を唱えます。それ以来、サケが上らないし椿も生えない、という伝説が語られるようになります。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

千葉県香取郡山田町山倉でも、空海が東国巡錫の途次、この地の疫病流行に人々が苦しむのをみて哀れみ、龍宮より生贄としてサケを供します。それから初卯祭には、サケが贄魚とされるようになったとする伝説が伝えられています。ここからは、修験者がサケ漁に深く関わっていたこと、また修験者が特別な呪力を持っていたことが見えてきます。
サケと宗教者の繋がりを示す弘法伝説を、今回は見ていくことにします。テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」です。

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書) | 菅 豊 |本 | 通販 | Amazon
それでは、研究者が挙げる弘法大師伝説を読んでいきましょう。
事例1 青森県青森市
青森市の真ん中を流れる堤川は、上流で駒込川と荒川が合流するのである。むかしその駒込川には、サケがたくさん上って来た。たまたま弘法人師がここを通りかかったところ、村人がおおぜいでサケを取っていた。これを見て大師が、その魚を恵んでくれと頼んだところ、村人は川辺に生えていたアシを折り、それにサケを通して与えた。ところが、大師はこの川辺のアシにつまずいて倒れ、しかもアシの茎で片目をつぶしてしまった。そこで大師は大いに怒って、これからはこの川にアシも生えるな、サケも上るな、といった。そのことがあってから、荒川にはサケが上るにもかかわらず、駒込川には全く来なくなり、また川辺にアシも生えないようになった。                    

マス/鱒/ます - 語源由来辞典

事例3 山形県新庄市
むかし、むかし。泉田川じゃあ、せん(昔)には、うんと鮭のよが上る川でしたど。この村のちょっと先の村の人だ、すこだま(多量に)鮭のよば獲ってなおす。ほらほらど、魚、余るほど網さかげでな、いだれば、ほごさ、穢ったこん穢たね色の衣ば着たほえどこ(乞食)みでだ坊主が、切れだ草軽履いで来たもんだど。見れば見るほど良くなし衣ですけど。ほれば村の人だ(達)、本当にはえどこだど思ってしまいあんしたど。
「ほら、坊主。鮭のよば背負えや。ほれっ―」
「いらねごです。欲しぐありゃへん」
て、いらねていうなば、面白がつてですべ。ほれ、坊主の背中さ上げ上げしたなですと。そしてその鮭のよばな、あ葦さ包んで葛の蔓で背負わせだなですと。
「村の衆、ほんげいらねていったなば背負わせなだごんたら、この泉田川さ、鮭のよも来ねたていいべ。今度からこの泉田川さ水が来ねようにしてけっさげな。ええが。あ葦も葛の蔓もみながら無ぐすっさげてな。ええが、忘んねでいろよな」
汚れた衣着たこん穢だね様態の坊主がな、こういうど。村の人だ、
「なにい、このほえど野郎。なにぬがすどごだ。鮭のよもあ章も、葛の蔓も、こんげあるもの無ぐするえが、この鮭のよばあくへっさげて(与えるから)にし(汝)の背中さ、くっつげで行がしやれ」
ほの穢ねて穢ね衣の坊さんは、構んめが構んめだもんだし、衣の上から鮭のよば背負わらつてなおす。ヒタッ、ヒタッと、まだ(また)出掛げあんしたど。ヒタッ、ヒタッと歩きながら、
「来年からはこの川、絶対に水ば通さんね。この村には水通さねで、底通しするさげてな。あぶでね(勿体ない)ごどした鮭のよも、あ葦も葛の蔓も絶対に生やさねさげてな。覚えでろ」
て、言い捨てて行ってしまったど。村の人だ、
「何ば言う、このほえど坊主。さっさどけづがれ(行ってしまえ)。早ぐ行がしやれ」
と言つていだれば、本当に次の年からビダッ、と、水が上つてしまっだどは。ほして、あ章も葛の蔓もな、去年まであんげに(あんなに)蔓延ってグルン、グルン、と、絡まがったりして生えったものが、何も無ぐなってな。何ひとつ無ぐなってしまったなであんしたど。村の人だ、もう困ってなおす。
「あんげこん穢たね坊さんだげんども、あのお方こそ弘法様に違いねべちゃ。まず、まず、大変なごどしてしまったもんだはあ」
て、話し合ったなですと。                   
三陸水産資源盛衰史│25号 舟運気分(モード):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

以上の話には、旅の僧が呪術でサケがやって来るのを封じ込んでしまったことが記されています。
旅の僧は、「大成徳神」、「阿羅羅仙人」などのように、在地の祭神として語られる場合もあります。しかし、多くは弘法大師とされています。旅僧の意に反したために、呪文を唱えたりする呪法によってサケの遡上が停止されます。
その呪法のひとつとして、「石」が出てくる話を見ておきましょう。

  事例4 岩手県宮古市津軽石 234P
当村何百年以前の事に御座候や。北より南へ通る行人一人参り候て、最早、日暮れにも罷り成り候間一宿下さる可シと、無心仕り候得ば、亭主易き事に御座候え共、貴僧へ上げ申す物御座無く候。行人申すには、そなた衆、給べ申す物下され候て一宿給う可く候。支度は入り申さず候。左様ならば私共給べ候もの上げ申す可く候間、御一宿成さるべくと、とめ申候。朝に成り、行人申すには、紙包み一つ進上致し候、行く行くは村のちょうほうに相成る可くと相渡し、南の方へ参られ候。右紙包み仏だんへ上げ置き、行人出達後、夫婦いだして見申し候えば、石を包み置き申し候。是は何に成る筈、「めのこかて」を洗いながし、うしろの川へなげこみ申し候。然らば、一両年過ぎて、鮭斗らずも登り申し候、後は、村中朝々大勢参り取り申し候、老名共寄り合い、是は、ふしぎの仏神のおさずけと申す物に御座候。稲荷山にて湯釜を立て、いのり申す所に、たくせんに、宿くれ申す行人申すには「我を誰と心得候哉。我は大師に御座候。津軽方面廻り申す所に、津軽には宿もくれず、ことごとく「悪口」いたし、依って津軽石川より石一つ持参、当村の者へくれ申し候。夫れ故、鮭のぼり申すべし」と、たくせんに御座候。
 老名共「扱て扱て有難き仕合わせ、左様ならば村中老名共相談の上、此の度より津軽石」と、申しなしに御座候由、其の前、村名相知れ申さず候。何百年以前の事に御座候や、いいつたえにて、年号は知れ申さず候。                           (宮古市教育委員会市史編纂室 1981)

この弘法伝説は、大師が人々の歓待に報いるためにサケを授けたとする話です。
その呪法に石が用いられています。石は、サケを遡上させる霊的に特別な力をもっていることが描かれています。「弘法とサケ」の伝説が、特殊な石と関係して伝えられることは、東北や中部日本の日本海側に広がっていて特別な例ではないようです。石がどんな風に用いられているのかを見ていきます。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

事例5 青森県青森市             
青森市の駒込川に、むかし大水が出て橋もなく、通行人が難儀したので、人夫が出て川渡しをした。ところがある日のこと、その日に限って川魚がたくさん群れて、人夫たちは夢中になって魚を捕っていた。そこへみすぼらしい破れ衣を着たひとりの旅僧がやって来て、川を渡してくれと頼んだ。すると人夫は、このかごに入れてある魚を担いでくれれば、渡してやろうといった。旅僧は仏に仕える身だから、殺生に手を貸すわけにはいかぬと断ると、それでは川を渡してやれぬという。
仕方なく旅僧は、魚のはいったかごを背負い、人夫に背負われて川を渡った。しかし立ち去りぎわにタモトかし小石を三つ取り出して川に投げ、「七代七流れ、この川に魚を上らせない」といった。それから駒込川に魚が上らぬようになったといわれる。           (森山 一九七六¨九六―九七)

       事例6 岩手県下閉伊郡岩泉町
下名目利のセンゴカケ渕は、毎朝サケが千尾も二千尾も掛ったといわれる渕である。また2㎞ほど下流の間の大滝では約200年位前に、もっこで三背おいずつもとれたという。
 この豊漁にわく朝、どこから来たか見すぼらしい旅僧が一尾所望していたのに、村人たちは知らん顔をしていた。旅僧は川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めたら、そこに大滝(門の滝)ができ、ここから上流にはサケがのぼらなくなった。旅僧は弘法大師であった。

事例7 岩手県下閉伊郡田野畑村
明戸の浜から、唐松沢の入り、いくさ沢まで鮭が上って、明戸村富貴の時があった。行脚して来られた弘法大師を怪しい売僧といって追払ったので、大師は、この因業な人達を教化するために、唐松沢の入口にあった「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げられた。石はそのまま行方知れず飛んでいってしまった。そして大師はそこについて来た卯ツ木のつえをさして行かれた。それから、さしも上った鮭がさっぱり上らなくなってしまった。大師が投げた「恵美須石」は南の津軽石に落ちて、それかい津軽石の鮭川は栄え出して今につづいている。

上の3つの事例では、石は次のように使われていました。
①小石を三つ取り出して川に投げ
②川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めた
③「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げ

19 鮭文化とともにある、村上の暮らし | 003 かくも美しき里山の年寄りたち 佐藤秀明 Hideaki Sato | 日本列島 知恵プロジェクト

登場するのは弘法大師ばかりではありません。
事例8 岩手県? 此庭(陸中愧儡坂)
 谷川に村の長が魚梁瀬を掛けて毎年鮭を捕つて居た。或時一人のクグツ即ち此辺でモリコ又はイタコと呼ぶ婦人が通つたのを、村長等無体に却かしてかの鮭を負はせた。クグツは困労に堪えず人に怨んで死んだ。其時の呪詛の為に鮭は此より上へ登らなくなった。箱石は即ち卸して置いたクグツの箱の化したものである故に四角な形をして居る。

ここでは、弘法大師の代わりに、この地域で活躍する巫女やモリコ、イタコが登場します。
また六部や乞食坊主として描かれる場合もあるようです。「弘法とサケ」話型の伝説の主人公には、弘法大師に限らず漂泊する宗教者たちが選ばれているようです。行脚する宗教者の石の呪法は、石を川に投げ込む、しまい込む方法があるようですが、石に「真言」の文字を記すという呪法もあるようです。
以上のように、サケの遡上について、「石」が大きな力をもっているとする信仰があったことがうかがえます。ここから研究者は次のような仮説を設定します。
①「サケ→弘法→石」という繋がりから、サケにまつわる石の信仰を、弘法・六部・乞食坊主・イタコ等たちが儀礼化し、儀式として行っていたのではないか
②そのような信仰・口承文芸を、漂泊する宗教者が、流布・伝播してきたのではないか

まず①の仮説を考えてみましょう。
サケを誘引する石の伝承は、元修験の神主らによって儀礼化されています。その行為は弘法伝説などの説明体系によって裏づけられています。伝説の世界は、単なる空想ではなく、現実の世界で実際に行われていたことが書かれています。つまり登場する人物(宗教者)は、実在していたと研究者は考えています。
 伝説には弘法大師が石を川に投げ込む、あるいは川から石を拾うという場面が描かれています。
ところが、実際の津軽石のサケ儀礼には、宗教者が石を投げ込むような場面はないようです。しかし、民俗事象を細かく検討すると、宗教者が石を投げ込むことによって魚を寄せるという呪法は、いくつかの地域にあるようです。
たとえば、新潟県荒川中流にある岩船郡荒川町貝附では、10月末のサケ漁が始まる前、荒川から握れる程度の大きさの石を10個ほど拾ってきて、ホウイン(法印)に梵字を書いてもらうという民俗があったようです。ホリイシと呼ばれる文字の書かれたこの石は、川に均等に投げ込まれます。上流の岩船郡関川村湯沢ではサケが捕れなくなると、サケ漁をしている場所の川底でこぶし大の石を拾い、ホウインのところへ持て行きます。これをホウインに拝んでもらい、もち帰り川に投げ入れると、とたんにサケが捕れるようになったと伝えられます。
 サケではなくハタハタを捕るための儀礼ですが、秋田県男鹿の光飯寺には、10月1日浦々の漁師たちが小石をもってきて、これに一つずつ光明真言を一字書き、法楽加持します。それを漁師はもって帰り自分の漁場へ投げ入れたと伝えられます。
 このように、魚を寄せ集めるために石を用いる呪法を、宗教者が使っていたようです。
こうしてみると、弘法伝説に登場する宗教者の行為は、空想上の絵空事ではなく、実際の宗教者が現実に行っていたことだったことがうかがえます。そうだとすると、この弘法伝説が生まれた背景には、サケの漁撈活動に宗教者が関わっていたことがあったことになります。
次に、このような弘法伝説を漂泊の宗教者が伝播した、という仮説を研究者は裏付けます。
弘法伝説の拡がりについての研究は、その背景に聖や巡礼の聖地巡拝の全国的流行があったとします。とくに弘法大師を祖師とあおぎ、高野山に本拠を置く旅僧の高野聖たちが、全国を行脚、流浪するうちに広めていったとするのが一般的です。研究者は、その上に東北地方の弘法伝説には、大師信仰の基底にオオイゴ=タイシ(太子)信仰が横たわっていることを指摘します。大師信仰流布以前に「タイシ信仰」があったというのです。「弘法大師の名のもとに統一、遵奉して行った者の姿と、そこでの意志を確実に垣間みるような思いがする」と、弘法伝説を広げた宗教者集団のいたとを指摘します。
 
 研究者は、近世になっても「弘法様」と呼ばれる六部、巡礼者が活躍していたことを報告しています。
「弘法様」には、弘法伝説に登場する弘法大師のように、実際に恩を受けた家に突然と笈や奉納帳を置いていったり、呪いを教えていくなど特徴的な宗教活動を行っていました。この「弘法様」との交流の中で、さまざまな弘法大師伝説が生まれ、広げられていったことです。
そrを研究者は以下の三つのタイプに分類します。
①「弘法様」との関わりの経験諄として話者自身が登場する弘法伝説
②「弘法様」は実際に様々な呪法をもち、駆使していたらしいが、それを実際に目のあたりにした話者が観察者として生み出した「世間話」としての弘法伝説
③「弘法様」自体が伝えていった弘法伝説
このうちの②は弘法伝説の形成の場面で、③は、伝播、伝達の場面になります。

 宮城県石巻市生まれの松川法信は、現代の「弘法様」と呼ばれた人物です。
彼は一陸沿岸では青森県八戸地方から宮城県の牡鹿半島まで、日本海側では、秋田県山本郡八森町を北限に、南は山形県最上部の真室川町まで15年間にわたって修業に歩いていたようです。
そして行く先々で、弘法伝説の形成、伝播に一役も二役もかっています。それだけでなく新たな祭祀も創り出しています。
もちろん、現代の漂泊する宗教者松川法信が、中陛の高野聖や、近世の廻国聖へと結びつけることはできません。しかしかつては、このような廻国の主教者が様々な文物、情報を交流させる媒介者として活躍していたのです。綾子踊りにつながる風流踊りや、滝宮念仏踊りにつながる時衆念仏踊り、あるいは秋祭りの獅子舞なども、彼らを仲介者とすることによって広められたと研究者は考えています。
「弘法とサケ」伝説に、現実の宗教者の儀礼的な動作が反映された可能性があること、この伝説には、その話自身を流布させる宗教者の姿も投影されていることを押さえておきます。
 「弘法とサケ」伝説には、想像上の宗教者の活動を語ったものではなく、漂泊する宗教者が、石を用いてサケの遡上に関する呪法を執り行い、石の信仰の形成に大きくかかわったこと、それが修験系統の宗教者たちであったいうことです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」

  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

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参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 


善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です

この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
和漢三才図会 第1巻から第6巻 東洋文庫 寺島良安 島田勇雄 竹島淳夫 樋口元巳訳注 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。

後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。
☆駅長お薦めハイク 大淀町散策(完)弘法大師井戸と薬水駅 : りんどうのつぶやき

  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
せいざんしゃ.com / [仏教百事問答]塵添壒嚢鈔―抄訳
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
河野忠研究室ホームページ 弘法水

整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。
これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。
往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!
四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
広告広場 隠れたお大師さまの足跡 お大師お杖の水 otsuenomizu 10

次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。
浜島の人たちは昔から、海辺の近くに住んでいたので井戸が少なく、たいへん水に不自由をしていました。 また、井戸があっても海が近いのでせっかく掘った井戸水も塩からかったりすることがあったのです。  今から、二百年も前のある年に、長い間日照りが ...

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている
大垣市湧き水観光:十六町の名水 弘法の井戸 : スーパーホテル大垣駅前支配人の岐阜県大垣市のグルメ&観光 ぷらり旅
  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます
わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


弘法大師については、実像と死後に作られた伝説とがあり、これが渾然一体となって大きな渦(宇宙)を作り出しているようです。ここでは、それをとりあえず次のふたつに分けておきます。
太子伝  史料等で明確に出来る年表化が可能な事項
大師伝説  大師死後に生み出された民間伝承・信仰
大師伝説が大師伝の中にあらわれたのが、いつ頃のことなのでしょうか
大師没後255年の寛治三年(1089)、東寺の経範法務の『弘法大師御行状集記』が一番古いようです。この本は『今昔物語集』と同じじ時代のもので、霊異説話集の影響を受けたせいか、大師行状の中の伝説的部分に強い関心を示す大師伝と言われます。
その序には、次のように記されています。(意訳)
大師が人定したのが承和二年乙卯で。現在は寛治三年己巳で、その間に255年の歳月が過ぎた。入城直後の行状には、昼夜朝暮(一日中)いろいろな不思議なことを聞かされたが、時代が離れるに従って、伝え聞くことはだんだん少なくなり、1/100にも及ばなくなった。これはどうしたことだろうか。これより以後、末代のために、伝え聞いたことは、すべて記録に残すことにする。後々に新たな事が分かれば追加註していく。

このような趣意で、できるだけ多くの大師に関する伝聞を記録しようとしています。そのために、大師の奇蹟霊異も多く集められ収録されているようです。注目したいのはこの時点で、すでに多数の伝説が語り伝えられていて、記録されていることです。『弘法大師御行状集記』に収録されている弘法大師伝説を挙げて見ます。
1、板尾山の柴手水の山来。
2、土佐の室戸に毒龍異類を伏去すること。
3、行基菩薩出家前の妻と称する播磨の老姫、大師に鉄鉢を授くること。
4、唐土にて三鈷を上すること。
5、豊前香春(かすい)山に木を生ぜじめること。
6、東大寺の大蜂を封ずること。
7、わが国各所の名山勝地に唐より伝来の如意宝珠をうづむること。
8、神泉苑祈雨の龍のこと。
9、祈雨に仏合利を灌浴すること。
10観行にしたがって其の相を現ずること。
11五筆和尚のこと。                                         5
12伊豆柱谷山寺にて虚空に大般若経魔事品を吉すること。
13応天門の額のこと
14河内龍泉寺の泉を出すこと。
15大師あまねく東国を修行すること。
16陸奥の霊山寺を結界して魔魅を狩り籠めること。
17生栗を加持し蒸茄栗となし供御して献ずること。
18日本国中の名所をみな順礼し、その御房あげて計うべからざること。
19高野山に御入定のこと。
20延喜年中(901~)、観賢僧正、御人定の巌室に大師を拝することの
以上の項目を見てみると、のちの大師伝が伝説としてかならずあげるものばかりです。
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『弘法大師御伝』(11世紀末)と『高野大師御広伝』(12世紀)になると、弘法大師伝説はさらに増えます。ふたつの弘法大師伝に追加された項目を挙げると次のようになります。
1、唐にて大師の流水に書する文字、龍となること
2 大師筆善通寺の額の精霊と陰陽師晴明の識神のこと。
3、大師筆皇城皇嘉門の額の精霊のこと。
4、土佐国の朽本の梯(かけはし)に三帰をさずくること
5、石巌を加持して油を出すこと。
6、石女児を求むれば唾を加持して与えるに児を生むこと。
7、水神福を乞えば履を脱いでこれを済うこと。
8、和泉の国人鳥郡の寡女の死児を蘇生せしむること。
9、摂津住古浦の憤のこと。
10行基菩薩の弟子の家女に「天地合」の三字を柱に書き与うるに、その柱薬となること。
11河内高貴寺の柴手水に椿の本寄生すること。
12天王寺西門に日想観のこと。
13高雄寺法華会の曲来と猿の因縁。
14讃岐普通寺・曼荼羅寺の塩峰と念願石のこと。
15阿波高越山寺の率都婆のこと。
上の大師伝説は、伝記の本文から離して「験徳掲馬」の一条を立てて別立てにしています。そしては次のようなことが序文に書かれています。
今、大師御行状を現したが 神異を施し、効験を明らかにすために、付箋を多く記した。世俗では多くの弘法大師伝が語られるようになり、それが多すぎて、詳しく年紀をしるすことができない。書くことができないものは、左側に追加して記すことにした。

年紀(年表)に、民間に伝わる大師伝説を入れていこうとすると、無理が起きてきたようです。弘法大師伝説が多すぎて、年紀の中に入りきれなくて、はみ出さざるを得なかったのです。世に伝わる大師伝説を全て収録しようとすると、大師伝の中に伝説がどんどん流入してきます。その結果、「或人伝云」「或日」「世俗説也」「世俗粗伝」などの註記を増やす以外に道がなくなったようです。

 私は最初は、弘法大師伝説は歴代編者の「捏造」と単純に考えていました。
しかし、どうもそうではないようです。世の中に伝わる弘法大師伝説が時代とともに増え続けていたのです。つまり、生み出され続けたのです。編者は世俗の説(弘法大師伝説)にひきずられる形で書き足していたようです。
「弘法大師伝説」の画像検索結果

深賢の『弘法大師行化記』二巻は、奥書に編集方針が次のように記されています。
この書の上巻裏書には、やや詳しく大師の伝説をのせています。しかし、ここでは「世俗説也」「彼土俗所語伝也」の註があります。伝記と伝説を区別すべきものであるという編集姿勢が見えます。そして、この伝が書かれた鎌倉初期までに、大師伝中の大師伝説は固定したようです。これから新たに伝に加えられるものは出てきません。

 しかし、鎌倉時代末以後に書かれた大師伝のスタイルは大きな変化を見せるようになります。
このころの大師伝は伝記と伝説のあいだの区別がまったくうしなわれてしまうのです。そして、伝記と云うよりも奇瑞霊験に重点を置き説話化していきます。
 これは鎌倉中末期という時代に『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧絵伝が多数つくられたことと関係するようです。これとおなじ時期に、弘法大師初めての絵図である『高野大師行状画図』十巻が作られます。これは他の高僧絵伝の説話化とおなじで絵入物語です。
「高野大師行状画図」の画像検索結果

 正中一年(1325)の慈尊院栄海の『真言伝』に見える弘法大師伝などは、まさにこの行状画図路線をいくものです。
こうして伝説は伝記の中に織り込まれて説話化、物語化するようになります。この傾向が進むと次第に大師伝説は、「歴史」として扱われるようになります。そうなると編者の次の課題は、大師の奇瑞霊異の伝説がいつのことであったのかに移っていきます。伝説に年紀日付を付けて、年表化する作業が始まります。こうなると伝説と歴史事実との境がなくなります。「伝説の歴史化」が始まります。
その研究成果が結実したものが報恩院智燈の『弘法大師遊方記』四巻(天和四年(1684)になるようです。
その成果を見てみましょう
①大滝獄捨身が延暦十一年(791)、大師19歳とされ、
②播州に行基の妻より鉢を受くる奇伝と伊豆桂谷山寺の降魔は延暦12年、大師20歳
③横尾山に智慧水を湧かし、高貴寺の泉の檜木に椿を寄生せしめる伝説が大同二年(807)
こうして「遊方記」では、編者の智燎の手に負えない伝説は、みな捨てられてしまいます。その上、伝悦をそのまま歴史事実とする無理は寂本の『弘法大師伝止沸編』一巻(貞享三年(1685)によつて指摘せられます。そして、高野開創の逢狩場神や逢丹生神の物語なども、紀年を附すべき事実でないことがあきらかにされていくのです。
 これ以後、大師伝説は大師伝の編者にとっては、あつかいに苦慮する部門になっていきます。
これはそれまでの編者が、伝記と伝説のちがいや立場を認識することなしに、「伝記の伝説化」や「伝説の伝記化」を行ってきた結果とも云えます。これに対して、この区別を認識して不審は不審、不明は不明のままに、伝えられてきた記録をもらさず集録したものが得仁上綱の『続弘法大師年譜』巻六です。できるだけ多く採録して、後の世代に託すとする態度には好感が持てます。多くの集録された史料の中から伝説の変化がうかがえます。
 以上をまとめておくと
①初期の弘法大師伝では、伝記と伝説は分けて考えられていた
②その間にも民間における弘法大師伝説は、再生産され続けた
③増え続ける弘法大師伝説をどのように伝記に記すのかが編者の課題となった。
④宗法祖信仰が高まるにつれて伝記は説話化し、伝記と伝説の境目はなくなっていった
⑤弘法大師伝説も年紀が付けられ年表化されるようになった。
しかし、これは編者の捏造とおいよりも、弘法大師伝説の拡大と深まりの結果である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重 弘法大師伝説の精神史的意義 寺社縁起と伝承文化所収


前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
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大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
DSC04524

 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

DSC04521

 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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稚児大師像 与田寺

  戦後の空海研究史については、以前にお話ししました。その中で明らかになったのは、空海が一族の期待を裏切るような形で、大学をやめ山林修行の道を選んでいたことです。これは私にとって「衝撃」でした。「空海=生まれながらにして仏道を目指す者」という先入観が崩れ落ちていくような気がしたのを思い出します。
 佐伯一門の期待の星として、平城京の大学に入りながら、そこを飛び出すようにして山林修行の道を選んだのです。これは当時の私には「体制からのドロップアウト」のようにも感じられました。ある意味、エリート学生が立身出世の道を捨てて、己の信じる道を歩むという自立宣言であったのかも知れません。それまでの「弘法大師伝説」では、空海はどのような過程で仏門へ入ったとされていたのでしょうか。
弘法大師行状絵詞に描かれた「空海出家」のプロセスを見て行くことにします。

〔第四段〕             
大師、天性明敏にして、上智の雅量(がりょう)を備ヘ給ふ。顔回(=孔子の弟子)が十を知りし古の跡、士衡(しこう=陸機。中国晋代の人)が多を憂へし昔の例も、斯くやとぞ覚えける。こゝに、外戚の叔父、阿刀大足大夫(伊予親王の学士)、双親に相語りて日く、
「仏弟子と為さむよりは如かじ、大学に入りて経史を学び、身を立て、名を挙げしめむには」と。
此の教へに任せて則ち、白男氏に就きて俗典を学び、讃仰(さんごう)を励まし給ふ。遂に、即ち延暦7年(788)御歳十五にして、家郷を辞して京洛(けいらく)に入る。十八の御歳、大学に交わり、学舎に遊び給ふ。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)に従ひて
「孟子」「左伝」『尚書』を読み、岡田博士に逢ひて、重ねて「左氏春秋」を学べり。大凡(おおよそ)、蛍雪の勤め怠りなく、縄錐(じょうすい)の謀心を尽く給いしかば、学業早く成りて、文質相備はる。千歳の日月、心の中に明らかに、 一朝(↓期)の錦繍、筆の端に鮮やか
  意訳変換しておきます
大師は天性明敏で、向学心や理解力が優れていた。中国の才人とされる孔子の弟子顔回や、陸機の能力もこのようなものであったのかと思うほどであった。そこで、母の兄(叔父)・阿刀大足は、空海の両親に次のように勧めた。
「仏弟子とされるのはいかがかと思う。それよりも大学に入りて経史を学び、身を立て名を挙げることを考えてはどうか」と。
この助言に従って、阿刀大足氏に就いて俗典を学び、研鑽を積んだ。そして延暦7年(788)15歳の時に、讃岐を出て平城京に入った。
十八歳の時には、大学に入り、学舎に遊ぶようになった。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)から「孟子」「左伝」『尚書』の購読を受け、岡田博士からは、「左氏春秋」を学んだ。蛍雪の功を積み、学業を修めることができ、みごとな文章を書くことも出来るようになった。
 ここには、空海の進路について両親と阿刀大足の間には意見の相違があったことが記されます
①父母は   「仏弟子」
②阿刀大足大  「経書を学び、立身出世の官吏」
一貫して佐伯家の両親は仏門に入ることを望んでいたという立場です。  それでは絵巻を見ていきましょう。
 DSC04489

このシーンは善通寺の佐伯田公の館です。阿刀大足からの手紙を大師が読んでいます。そこには
「仏門よりかは、大学で経書を学び、立身出世の道を歩んだ方がいい。早く平城京に上洛するように」

と書かれています。
 佐伯直の系譜については、以前にも紹介しましたが、残された戸籍を見ると一族の長は「田公」ではありません。田公には兄弟が何人かいて、田公は嫡子ではなく佐伯家の本家を継ぐものではなかったようです。佐伯家の傍流・分家になります。また、田公には位階がなく無冠です。無冠の者は、郡長にはなれません。しかし、空海の弟たちは地方人としてはかなり高い位階を得ています。

1 空海系図

 父田公の時代に飛躍的な経済的向上があったことがうかがえます。
それは田公の「瀬戸内海海上交易活動」によってもたらされたと考える研究者もいます。このことについても以前に触れましたのでここでは省略します。
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   平城京に向けて善通寺を出発する馬上の真魚(空海幼名)

絵図だけ見ると、どこかの武士の若君の騎馬姿のようにも見えます。叔父阿刀大足からの勧めに従って平城京に向かう真魚の一団のようです。これが中世の人たちがイメージした貴公子の姿なのでしょう。いななき立ち上がる馬と、それを操る若君(真魚)。従う郎党も武士の姿です。
 空海の時代の貴族達の乗り物は牛車です。貴族が馬に跨がることはありません。ここにも中世の空気が刻印されています。また、田公は弘田川河口の多度津白方湊を拠点にして交易活動をいとなんでいた気配があります。そうだとすれば、空海の上洛は舟が使われた可能性の方が高いと私は考えています。
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   平城京での阿刀大足と真魚の初めての出会いシーン

阿刀大足は、伊予親王の家庭教師も務めていて当時は、碩学として名が知られていました。館には、門下の若者達が詰めかけて経書を読み、議論を行ってる姿が右側に描かれます。左奥の部屋では、讃岐から上洛した真魚と阿刀大足が向き合います。机上には冊子や巻物が並べられ、四書五経など経書を学ぶことの重要性が説かれたのかもしれません。この時点での真魚の人生目標は阿刀大足により示された「立身出世」にあったと語られます。
阿刀大足の本貫は、もともとは摂津の大和川流域にあり、河川交易に従事していたと研究者は考えているようです。そのために空海の父田公と交易を通じて関係があり、その関係で阿刀大足の妹が田公と結婚します。しかし、当時は「妻取婚」ではなく、夫が妻の下へ通っていくスタイルでした。そのため空海も阿刀氏の拠点がある大和川流域で生まれ育てられたのではないかという説も近年には出されています。
1 阿刀氏の本貫地
〔第五段〕出家学法 空海が仏教に惹かれるようになったのは?
御入洛の後、石渕(=淵)の僧正勤操(ごんぞう)を師とし仕へて、大虚空蔵、並びに能満虚空蔵等の法を受け、心府に染めて念持し給ひけり。この法は、昔、大安寺の道慈律師、大唐に渡りて諸宗を学びし時、善無畏(ぜんむい)三蔵に逢ひ奉りて、その幽旨を伝へ、本朝に帰り来りて後、同寺の善儀(↓議)大徳授く。議公、又、懃(↓勤)操和尚に授く。和尚此の法の勝利を得給ひて、英傑の誉れ世に溢れしかば、大師、かの面授を蒙りて、深く服膺(ふくよう)し給へり。しかあれば、儒林に遊びて、広く経史を学び給ひしかども、常は仏教を好みて、専ら避世の御心ざし(↓志)深かりき。秘かに思ひ給はく 「我が習ふ所の上古の俗典は、眼前にして一期の後の利弼(りひつ)なし。この風を止めて如かじ、真の福田を仰がむには」と。則ち、近士(=近事)にならせ給ひて、御名を無空とぞ付き給ひける。延暦十六年〈797〉朧月の初日(=十二月一H)、『三教指帰』を撰して、俗教の益なき事を述べ給ふ。其の詞に云ぐ、「朝市の栄華は念々にこれを厭ひ、巌藪の煙霞は日夕にこれを願ふ。軽肥流水を見ては、則ち電幻の嘆き忽ちに起こり、支離懸鶉を見ては、則ち因果の憐れび殊に深し目に触れて我を勧む。誰か能く風を繋がむ。
 ここに一多の親戚あり。我を縛るに五常の索(なわ)を以てし、我を断はるに忠孝に背くといふを以てす。余、思はく、物の心一にああず、飛沈性異なり。この故に、聖者の人を駆る教網に三種あり。所謂、釈(迦)。李(=老子)・孔子)なり。浅深隔てありと雖も、並びに皆聖説なり。若し一つの網に入りなば、何ぞ忠孝に背かむ」と書かせ給へりcこの書、一部三巻、信宿の間に製草せられたり。元は『聾書指帰』と題し給ひけるを、後に『三教指帰』と改めらる。その書、世に伝はりて、今に絡素(しそ)の翫(もてあそび)び物たり。
意訳変換しておくと
「勤操 大安寺」の画像検索結果
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)

空海は入洛後に儒教の経書を学んでいただけではなかった。石淵の勤操を師として、大虚空蔵法を授かり、念持続けるようになった。この法は、大安寺の道慈律師が唐に渡って諸宗を学んだ時に、善無畏(ぜんむい)三蔵から伝えられたもので、帰国後に、同寺の善儀に受け継がれた。それを懃(勤)操和尚は修得していた。英傑の誉れが高い勤操(ごんぞう)から個人的な教えを受けて、大師は深く師事するようになり、仏教に関しての知識は深まった。
 そうすると、儒学を学んでも、心は仏教にあり、避世の志が深かまってきた。当時のことを大師は『三教指帰』の中で、このように述べている
「私が学ぶ儒学の経典は、立身出世という眼前のことだけに終始し、生涯をかけて学ぶには値しないものである。こんな心の風が次第に強くなるのを止めることができなくなった。真の私の歩むべき道とは?」
 そして、近士(=近事)になり、無空と名乗るようになる。延暦十六年〈797〉朧月の初日に『三教指帰』を現して、儒教や道教では、世は救えないことを宣言した。その序言に次のように記した「朝廷の官位や市場の富などの栄耀栄華を求める生き方は嫌でたまらなくなり、朝な夕な霞たなびく山の暮らしを望むようになりました。軽やかな服装で肥えた馬や豪華な車に乗り都の大路を行き交う人々を見ては、そのような富貴も一瞬で消え去ってしまう稲妻のように儚い幻に過ぎないことを嘆き、みすぼらしい 衣に不自由な身体をつつんだ人々を見ては、前世の報いを逃れられぬ因果の哀しさが止むことはありません。このような光景を見て、誰が風をつなぎとめることが出来ましょうか!
  わたくしには多くの親族がいます。叔父や、大学の先生方は、儒教の忠孝で私を縛り、出家の道が忠孝に背くものとして、わたくしの願いを聞き入れてくれません。
  そこで私は次のように考えました。
「生き物の心は一つではない。鳥は空を飛び魚は水に潜るように、その性はみな異なっている。それゆえに、聖人は、人を導くのに、仏教、道教、儒教 の三種類の教えを用意されたのだ。 それぞれの教えに浅深の違いはあるにしても、みな聖人の教えなのだ。そのうちの一つに入るのであれば、どうして忠孝 に乖くことになるだろうか」
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勤操(ごんぞう)の住房 建物の下は懸崖で下は幽谷 

ここで空海は虚空蔵法を学んだとします。
これが善無畏(ぜんむい)三蔵から直伝秘密とされる虚空蔵法じゃ。しかと耳にとめ、忘れるでないぞ。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。

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   和泉国槙尾寺での空海剃髪
廊下から見ているのは都から駆けつけた空海の近習たちという設定。 剃髪の儀式は戒師の立ち会いの下で、剃刀を使う僧が指名され人々が見守る中で、厳かに行われる儀式でした。ここでは左側の礼盤に座るのが勤操で、その前に赤い前机が置かれ、その上で香炉が焚かれています。

巻 二〔第一段〕                      
大師、遂に學門を逃れ出で、山林を渉覧して、修練歳月を送り給ひしに、石渕(=淵)の勤操、その苦行を憐れみ、大師を招引し給ひて、延暦十二年〈793〉、御年二十と申せし時、和泉国槙尾といふ寺にして、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授け奉る。御諄、教海と号し給ふ。後には、改めて如空と称せらる。
 同十四年四月九日、東大寺戒壇院にして、唐僧泰信律師を嘱(↓屈)して伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を卒して潟磨教授とし、比丘の具足戒を受け給ふ。この時、御名を空(海)と改めらる。
しか在りしよりこの方、戒珠を胸の間に輝かし、徳瓶を掌の内に携ふ。油鉢守りて傾かず、浮嚢惜しみて漏らす事なし。大師御草の牒書、相伝はりて、今に至る迄、登壇受成の模範と仰げり。
意訳変換すると
大師は遂に學門を逃れ出て、山林を行道する修練歳月を送りはじめます。師である勤操は、その苦行を憐れみ、大師を呼び戻して和泉国槙尾寺で、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授けます。これが延暦十二年〈793〉、20歳の時のことです。そして教海と名乗り、その後改めて如空と呼ばれるようになります。
その2年後の延暦十四年(795)四月九日、東大寺戒壇院で、唐僧泰信律師を伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を教授とし、比丘の具足戒を受けました。この時に、名を空(海)と改めます。
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東大寺の戒壇院の朱塗りの回廊が見え隠れします。
剃髪から2年後に、今度は東大寺で正式に具足戒を受けたと記されます。これを経て僧侶としての正式な資格を得たことになります。
戒壇院の門を入ると、大松明が明々と燃え盛っています。儀式の先頭に立つのが唐僧泰信律師で遠山袈裟を纏っています。その後に合掌して従うのが如空(空海)のようです。

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  切石を積み上げて整然と作られた戒壇の正面に舎利塔が置かれています。その前に経机と畳壇が置かれます。ここに座るのが空海のようです。
 以上をまとめておくと、次のようになるのでしょうか。
①空海は叔父阿刀大足の勧めもあって平城京に上がり、大学で儒教の経書をまなぶ学生となった
②一方、石淵の勤操から虚空蔵法を学ぶにつれて儒教よりも仏教への志がつよくなった。
③こうして、一族や周囲の反対を押し切って空海は山林修行の道に入った
④これに対して、勤操は空海を呼び戻し槙尾寺で剃髪させた
⑤その後、空海は東大寺で正式に得度した
  これが、戦前の弘法大師の得度をめぐる常識であったようです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
空海 太政官符
延暦24年の太政官符には、空海の出家が延暦22(802)年4月7日であっったことが明記されています。これは唐に渡る2年前の事になります。それまでは、空海は沙門(私度僧)であったのです。
 沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
 高野山としては、沙門(私度僧=非公認)という身分のままで各地を修行したというのでは都合が悪かったのでしょう。そこで東大寺で正式に得度したと云うことになったようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

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