瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:弘法大師空海 > 空海伝説を追いかけて

前回は、9世紀末までに成立していた大師伝の次の2つを比較対照しました。
A「続日本後紀」(空海卒伝)承和2年3月25日条(貞観11年(869)年成立)
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝)      寛平7年(895)成立
その結果、空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことを見ました。今回は、C『遺告二十五ヶ条(御遺告)」(10世紀中頃成立)では、どうなっているのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」です。

御遺告2
遺告二十五ヶ条 巻首(奈良国立博物館)

遺告二十五ヶ条は、従来は次のように考えられてきました。

「空海が、死期を悟って門弟のために遺したとされる遺言。
本品は真言宗全体に関わるさまざまな事柄を二十五箇条にまとめたものである。」

そのためその記述が聖典化され、疑われることなく事実とされ根本史料とされてきました。しかし、他の空海の文章と比べると稚拙で、内容も世俗的なことが付加されていて格調や緊張感に欠けるとされます。そのため十世紀中頃までに、弟子らによってまとめられたものと考えられるようになっています。二十五箇条遺告の最古写本は、金剛寺所蔵の安和二年(969)書写本です。研究者は、これを全文を28段落に分け、その部分が後の「高野空海行状図画」などの絵巻伝記にどのように取り込まれ、神秘化・伝説化されていく経緯を見ていきます。なお末尾数字は同じ趣旨の話がみられる『高野大師行状図面』の巻と場面・標題です。

i遺告二十五ヶ条冒頭部 年少期エピソード
                遺告二十五ヶ条の冒頭部
書き下し文
①夫れ以れば、吾れ昔、生を得て父母の家に在りし時、生年五、六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語ると見き。然りと雖も専ら父母に語らず。況んや他人に語らんや。此の間、父母偏に悲んで、字して貴物(とふともの)と号す。

高野大師行状 (2)
 八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語る(高野空海行状図画(1-2  幼稚遊戯)
②年始めて十二なりき。後に父母の曰く、我が子は是れ、昔仏弟子なる可し。何を以ってか之を知る。夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。然れば則ち、此の子をもたらして、将に仏弟子と作さんとすべし。吾れ若少の耳に聞き歓んで、泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて、彼の内に安置して礼し奉るを事と為しき。 一の1 誕生奇譚

DSC04476真魚誕生
夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。
(弘法大師行状絵詞 一の1 誕生奇譚

高野大師行状 (1)
泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて(高野空海行状図画一の1 誕生奇譚

遺告二十五ヶ条の①の五、六歳のころの逸話と②の十二歳のとき聞いた出生の秘話です。
10世紀末までに成立した大師伝は、次の5つです。
①『続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条  貞観11年(869)年成立
②『増大僧正窄海和上伝記』(覚平御伝)  寛平7年(895)成立
③『遺告二十五ヶ条』(御遺告)  10世紀中頃成立)
④「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝)  10世紀中頃成立)
⑤「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起)  康保5年(968)成立
このうちで御遺告以外は、どれも空海の誕生から亡くなるまでを年代順に記述します。例えば①の「空海卒伝」や②の「寛平御伝」では、15歳でおじの阿刀大足について本格的に学問をはじめ、18歳で大学に入り、程なくして虚空蔵求聞持法と出会い神秘体験をへて、俗世間での出世を断念し仏門に入るという運びです。これは『三教指帰』序文を参考にしながら書かれたことがうかがえます。
  ところが御遺告で冒頭に来るのは、次のようなエピソードです。
A 5,6歳のころに、いつも蓮華に坐して諸仏と語らう夢をみていた
B 11歳のとき、インドの僧が懐に人るのを夢みて懐妊したので、将来、仏弟子としようと考えていたと父母から聞かされ、喜んだ。
C 泥土で作った仏像を草茸きの小屋に安置し礼拝するのが常であった、
これは三教指帰などにはない事績です。遺告二十五ヶ条ではじめて登場します。
ここには空海が生まれながらに僧になることが約束されていたかのような導線として描かれます。
多くの障害を越えて空海(真魚)を平城京の大学に進学させたのは、中央の高級官僚をめざすという一族の期待を背負っていたことだ私は考えています。それを否定するエピソードが冒頭に置かれます。ここに御遺告の空海伝の性格が如実に出ているように思います。ここでは『御遺告』では、空海の生涯全般において神秘化・伝説化が著しく進んでいることを押さえておきます。そして、今までに書かれていなかった新しい空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以下、高野空海行状図画などの絵図を挿入しながら見ていきます。

⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑤然して後、生年十五に及んで人京し、初めて石淵の贈僧正大師(勤操?)に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵(虚空蔵求聞持法)の法呂を受け、心に入れて念持す。‥…一の6 聞持受法
虚空蔵求聞持法 勤操
 初めて石淵の贈僧正大師に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵の法呂を受け(一の6 聞持受法)

⑥後に大学に経遊して、直講味洒浄成(あらさけのきよなり)に従って毛詩・左伝・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問う。博く経史を覧しかども、専ら仏経を好む。一の5  明敏篤学

明敏篤学の事
大学に経遊して博く経史を覧し(一の5  明敏篤学)

⑩或いは土佐室生門(室戸)の崎において、寂暫として心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵の光明照し来たって普薩の成を顕し、仏法の無二を現わす。      一の11  明星入口

明星入口3 室戸 高野空海行状図画
土佐室戸にて明星口に入り、虚空蔵の光明を照(一の11  明星入口)
⑫爰に大師石淵の贈僧正(勤操?)召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除して、沙弥の十戒、七十二の成儀を授け、名を教海と称し、後に改めて如空と称しき 
一の10  出家受戒

空海出家1
和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除(一の10  出家受戒)

⑬此の時仏前に誓願を発して曰く「我れ仏法に従って、常に要を求め尋ぬるに、三乗五乗十二部の経、心神に疑い有って、米だ以って決を為さず。唯だ願くは三世十方の諸仏、我に不二を示したまえ」と心に折感するに、夢に人有りて告げて曰く。「此に経有り、名字は「大毘庸遮那経」と云う。是れ乃が要むる所なり」と。 二の2 久米東塔

⑭即ち随喜して件の経王を尋ね得たり。大日本の国高市の部久米の道場の東塔の下に在り。此に於いて一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞り有りて、憚(ただ)し問う所無し。二‐2 久米東塔

久米寺東塔2 高野空海行状図画
国高市の部 久米の道場の東塔
入唐求法については
⑯彼の海路の間、三千里なり。先例は揚蘇洲に至るて傾無し、とム々、面に此の度般(たび)七百里を増して衡洲(福州)に到る、障多し。

大師入唐渡海2 遣唐使船

此の間、大使越前国の太守正三位藤原朝臣賀能、自手書を作して衡洲の司に呈す。洲司披き看て、即ら此の文を以って已て了んぬ。此の如くすること両三度なり。然りと雌も胎を封じ、人を追って湿沙の上に居ら令む、此の時に、大使述べて云く。切なる愁、之れ今、抑大徳は筆主になり。書を呈せよ、と云々。爰に吾れ書様を作り、大使に替わって彼の洲の長に呈す。開き覧て、咲(えみ)を含んで船を開き、問いを加えて即に長安に奏す。三十九箇目を経て、洲府の力使四人を給へり。且つ資糧を給うて、洲の長好し問うて、借屋十三烟を作りて住せ令む。五十八筒日を経て、存問の勅使等を給う。彼の儀式極り岡し。之を覧る主客、各々涙を流す。

入唐着福州 高野空海行状図画
福州での大師に代わっての代書

次で後、迎客の使を給う。大使に給うには七珍の鞍を以ってす。次々の使等には皆粧る鞍を給う。
入唐入洛3 高野空海行状図画


長安入京の儀式、説き尽す可きこと無し。之を見る者、選池に満てり。此の間、大使賀能大夫達、向に国に帰る。其れ延暦二十四年電時なり。即ち大唐の貞観二十一年に配り。
                               二の5 入唐著岸
⑱少僧、大同二年を以って、我が本国に帰る。此の間、海中にして人々の云はく。日本国の天皇崩じたまへり、と云々。是の言を聞き諌(ただ)して本口の言を尋ぬるに、船の内の人、首尾を論争して都て一定せず。注り繋ひで岸に着く。或る人云いい告げらく。「天皇、某の同時に崩じたまう」者(てへり)。少僧、悲を懐いて素服を給わる。爾従り以降、帝四朝を経て、国家の奉為(おんため)に壇を建て法を修すること五十一度なり。 三の9  著岸上表


⑲神仙苑における雨乞祈祷と善女龍王について
⑲亦神泉苑(しんせんえん)の池の邊にして、御願に法を修して雨を祈るに、霊験其れ明かなること、上殿上従り下四元に至る。此の池に龍王有り、善如龍王と名く。元是れ無熱池の龍上の類なり。慈しみ有つて人の為に害心を至さず。何を以ってか之を知るとならば、御修法の比(ころおい)、人に託して之を示す。即ち真言の奥旨を敬って、池の中従(よ)り形を現す時に悉地成就す。彼の形業を現すこと、宛かも金色の如し。長さ八寸許の蛇なり。此の金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂きに居在するなり。此の現形を見る弟子等は、実恵大徳井びに真済・真雅・真照・堅恵・真暁・真然等なり。諸の弟子は敢えて覧看ること難し、具に事の心を注して内裏に奏聞す。少時の間に、勅使和気真縄、御弊種々の色の物をもって龍王に供奉す。真言道の崇めらるること、爾れ従り弥起れり。若し此の池の龍王他界に移らば、池浅く水減して世薄く人乏しからん。方に此の時に至って、須らく公家に知ら令めずして、私に析願を加うべし。而己。八の1  神泉祈雨

神仙苑4
  神泉祈雨と善女龍王の出現(高野空海行状図画八の1)

㉑大阿閑梨の御相弟子・内供奉十禅師順暁阿閣梨の弟子、玉堂寺の僧珍賀申して云わく「日本の座主、設ひ聖人なりと雖も是れ門徒に非ず、須らく諸教を学ば令むべし。而るを何ぞ密教を授けられんと擬す、と云々。両三般妨げ申す。是に珍賀、夜の夢に降伏せ為れて、暁旦来り至って、少僧を三たび拝して過失を謝して曰く、と云々。‥…3の3  珍賀怨念

守敏降伏2 高野空海行状図画 
高野空海行状図画(三の3  珍賀怨念)
㉒又去じ弘仁七年に、表をもつて紀伊国の南山を請うて、殊に入定の処とんす。一両の草庵を作り、高雄の旧居を去つて、南山に移り入る。厥の峯絶遥にして遠く人気を隔てり。吾れ居住する時に、頻りに明神の衛護在り。常に門人に語らく。我が性、山水に慣れて人事に疎し。亦、是れ浮雲の類なり。年を送って終りを待っこと、此の窟の東たり。……七の2  巡見上表
㉕万事遑無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(高野山)を看る。山の裏の路の辺りに女神有り。名づけて丹生津姫命と言う。是の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝(ふしゅく)に託して曰く、「妾は神道に在って、成福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり 。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国岬命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。冀(こいねが)わくば、永世に献して仰信の情を表す、と云々。如今(いま)、件の地の中に所有開川を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、是れなり。 七の3  丹生託宣

丹生明神
丹生託宣
㉖吾れ、去じ天長九年十一月十二日由り、深く穀味を厭いて、専ら座禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。井びに丼びに末世後生の弟子・門徒等が為に、方に今、諸の弟子等、諦に聴け、諦に聴け。吾が生期、今幾ばくならず、仁等好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾人減せんと擬することは、今年三月二十一の寅の旭なり〕諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ、吾れ即減せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾れ生年六十二、腸四―なり。……九の3  入定留身

入滅2
㉗吾れ初めは思いき 。百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。然れども諸の弟子等を恃んで、急いで永く即世せんと擬するなり。九の3 入定留身

入滅3
㉘但し弘仁の帝卑、給うに東寺を以ってす。歓喜に勝えず。秘密の道場と成せり。努力努力(ゆめゆめ)他人をして雑住令むること勿かれ。此れ狭き心に非ず。真を護るの謀なり。圓なりと雖も、妙法、五千の分に非ず。広しと雖も、東寺、異類の地に非ず。何を以ってか之を言うとならば、去じ弘仁十四年正月月十九日に東寺を以って永く少僧に給い預けらる。勅使藤原良房の公卿なり。勅書別に在り。即ち真言密教の庭と為ること、既に謂んぬ。師師相伝して道場と為すべき者なり。門徒に非ぎる者、猥雑す可けんや……七の11 東寺勅給  『伝全集』第一 10~23P

以上の中で⑩と⑱以外の十五項目は、遺告二十五ヶ条にはじめて出てくる話です。しかも、伝説的要素が非常に強いものです。その中でも、
②と①の出生の秘話と神童の逸話迎話、
⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑬と⑭の『大日経』の感得、
㉒と㉕の丹生津比売命からの高野山譲渡説
㉖と㉗の高野山への隠棲
㉘の嵯峨天皇からの東寺給預説
などは、絵伝類の中に取り入れられ後世に大きな影響を与えます。その絵伝類の「根本史料」となったのが遺告二十五ヶ条の空海の事績のようです。遺告二十五ヶ条の事績を元に、絵伝は描かれた。そして、時代が下るにつれて、神格化・伝説化のエピソードは付け加えられ、増えていったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」

岩手県大槌町が発祥の地?東日本大震災、復興の鍵にもなった「新巻鮭」を徹底調査 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

東北日本には「弘法とサケ」話型の伝説が広く伝わっています。
サケ漁の行われていた地域では、「弘法とサケ」の伝説が語られていたようです。この伝説には、自然界を法力で支配する者として漂泊の宗教者が登場します。たとえば、新潟県岩船郡山北町では、昔、カンテツボウズ(寺をもたない放浪の僧)が村を訪れ、人々は坊さんには生臭物は御法度であるということを知っていたにもかかわらず、サケを椿の葉に包んで強引に背負わせます。坊さんは怒って「ここには二度とサケを上らせない、椿を生えさせない」と呪文を唱えます。それ以来、サケが上らないし椿も生えない、という伝説が語られるようになります。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

千葉県香取郡山田町山倉でも、空海が東国巡錫の途次、この地の疫病流行に人々が苦しむのをみて哀れみ、龍宮より生贄としてサケを供します。それから初卯祭には、サケが贄魚とされるようになったとする伝説が伝えられています。ここからは、修験者がサケ漁に深く関わっていたこと、また修験者が特別な呪力を持っていたことが見えてきます。
サケと宗教者の繋がりを示す弘法伝説を、今回は見ていくことにします。テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」です。

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書) | 菅 豊 |本 | 通販 | Amazon
それでは、研究者が挙げる弘法大師伝説を読んでいきましょう。
事例1 青森県青森市
青森市の真ん中を流れる堤川は、上流で駒込川と荒川が合流するのである。むかしその駒込川には、サケがたくさん上って来た。たまたま弘法人師がここを通りかかったところ、村人がおおぜいでサケを取っていた。これを見て大師が、その魚を恵んでくれと頼んだところ、村人は川辺に生えていたアシを折り、それにサケを通して与えた。ところが、大師はこの川辺のアシにつまずいて倒れ、しかもアシの茎で片目をつぶしてしまった。そこで大師は大いに怒って、これからはこの川にアシも生えるな、サケも上るな、といった。そのことがあってから、荒川にはサケが上るにもかかわらず、駒込川には全く来なくなり、また川辺にアシも生えないようになった。                    

マス/鱒/ます - 語源由来辞典

事例3 山形県新庄市
むかし、むかし。泉田川じゃあ、せん(昔)には、うんと鮭のよが上る川でしたど。この村のちょっと先の村の人だ、すこだま(多量に)鮭のよば獲ってなおす。ほらほらど、魚、余るほど網さかげでな、いだれば、ほごさ、穢ったこん穢たね色の衣ば着たほえどこ(乞食)みでだ坊主が、切れだ草軽履いで来たもんだど。見れば見るほど良くなし衣ですけど。ほれば村の人だ(達)、本当にはえどこだど思ってしまいあんしたど。
「ほら、坊主。鮭のよば背負えや。ほれっ―」
「いらねごです。欲しぐありゃへん」
て、いらねていうなば、面白がつてですべ。ほれ、坊主の背中さ上げ上げしたなですと。そしてその鮭のよばな、あ葦さ包んで葛の蔓で背負わせだなですと。
「村の衆、ほんげいらねていったなば背負わせなだごんたら、この泉田川さ、鮭のよも来ねたていいべ。今度からこの泉田川さ水が来ねようにしてけっさげな。ええが。あ葦も葛の蔓もみながら無ぐすっさげてな。ええが、忘んねでいろよな」
汚れた衣着たこん穢だね様態の坊主がな、こういうど。村の人だ、
「なにい、このほえど野郎。なにぬがすどごだ。鮭のよもあ章も、葛の蔓も、こんげあるもの無ぐするえが、この鮭のよばあくへっさげて(与えるから)にし(汝)の背中さ、くっつげで行がしやれ」
ほの穢ねて穢ね衣の坊さんは、構んめが構んめだもんだし、衣の上から鮭のよば背負わらつてなおす。ヒタッ、ヒタッと、まだ(また)出掛げあんしたど。ヒタッ、ヒタッと歩きながら、
「来年からはこの川、絶対に水ば通さんね。この村には水通さねで、底通しするさげてな。あぶでね(勿体ない)ごどした鮭のよも、あ葦も葛の蔓も絶対に生やさねさげてな。覚えでろ」
て、言い捨てて行ってしまったど。村の人だ、
「何ば言う、このほえど坊主。さっさどけづがれ(行ってしまえ)。早ぐ行がしやれ」
と言つていだれば、本当に次の年からビダッ、と、水が上つてしまっだどは。ほして、あ章も葛の蔓もな、去年まであんげに(あんなに)蔓延ってグルン、グルン、と、絡まがったりして生えったものが、何も無ぐなってな。何ひとつ無ぐなってしまったなであんしたど。村の人だ、もう困ってなおす。
「あんげこん穢たね坊さんだげんども、あのお方こそ弘法様に違いねべちゃ。まず、まず、大変なごどしてしまったもんだはあ」
て、話し合ったなですと。                   
三陸水産資源盛衰史│25号 舟運気分(モード):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

以上の話には、旅の僧が呪術でサケがやって来るのを封じ込んでしまったことが記されています。
旅の僧は、「大成徳神」、「阿羅羅仙人」などのように、在地の祭神として語られる場合もあります。しかし、多くは弘法大師とされています。旅僧の意に反したために、呪文を唱えたりする呪法によってサケの遡上が停止されます。
その呪法のひとつとして、「石」が出てくる話を見ておきましょう。

  事例4 岩手県宮古市津軽石 234P
当村何百年以前の事に御座候や。北より南へ通る行人一人参り候て、最早、日暮れにも罷り成り候間一宿下さる可シと、無心仕り候得ば、亭主易き事に御座候え共、貴僧へ上げ申す物御座無く候。行人申すには、そなた衆、給べ申す物下され候て一宿給う可く候。支度は入り申さず候。左様ならば私共給べ候もの上げ申す可く候間、御一宿成さるべくと、とめ申候。朝に成り、行人申すには、紙包み一つ進上致し候、行く行くは村のちょうほうに相成る可くと相渡し、南の方へ参られ候。右紙包み仏だんへ上げ置き、行人出達後、夫婦いだして見申し候えば、石を包み置き申し候。是は何に成る筈、「めのこかて」を洗いながし、うしろの川へなげこみ申し候。然らば、一両年過ぎて、鮭斗らずも登り申し候、後は、村中朝々大勢参り取り申し候、老名共寄り合い、是は、ふしぎの仏神のおさずけと申す物に御座候。稲荷山にて湯釜を立て、いのり申す所に、たくせんに、宿くれ申す行人申すには「我を誰と心得候哉。我は大師に御座候。津軽方面廻り申す所に、津軽には宿もくれず、ことごとく「悪口」いたし、依って津軽石川より石一つ持参、当村の者へくれ申し候。夫れ故、鮭のぼり申すべし」と、たくせんに御座候。
 老名共「扱て扱て有難き仕合わせ、左様ならば村中老名共相談の上、此の度より津軽石」と、申しなしに御座候由、其の前、村名相知れ申さず候。何百年以前の事に御座候や、いいつたえにて、年号は知れ申さず候。                           (宮古市教育委員会市史編纂室 1981)

この弘法伝説は、大師が人々の歓待に報いるためにサケを授けたとする話です。
その呪法に石が用いられています。石は、サケを遡上させる霊的に特別な力をもっていることが描かれています。「弘法とサケ」の伝説が、特殊な石と関係して伝えられることは、東北や中部日本の日本海側に広がっていて特別な例ではないようです。石がどんな風に用いられているのかを見ていきます。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

事例5 青森県青森市             
青森市の駒込川に、むかし大水が出て橋もなく、通行人が難儀したので、人夫が出て川渡しをした。ところがある日のこと、その日に限って川魚がたくさん群れて、人夫たちは夢中になって魚を捕っていた。そこへみすぼらしい破れ衣を着たひとりの旅僧がやって来て、川を渡してくれと頼んだ。すると人夫は、このかごに入れてある魚を担いでくれれば、渡してやろうといった。旅僧は仏に仕える身だから、殺生に手を貸すわけにはいかぬと断ると、それでは川を渡してやれぬという。
仕方なく旅僧は、魚のはいったかごを背負い、人夫に背負われて川を渡った。しかし立ち去りぎわにタモトかし小石を三つ取り出して川に投げ、「七代七流れ、この川に魚を上らせない」といった。それから駒込川に魚が上らぬようになったといわれる。           (森山 一九七六¨九六―九七)

       事例6 岩手県下閉伊郡岩泉町
下名目利のセンゴカケ渕は、毎朝サケが千尾も二千尾も掛ったといわれる渕である。また2㎞ほど下流の間の大滝では約200年位前に、もっこで三背おいずつもとれたという。
 この豊漁にわく朝、どこから来たか見すぼらしい旅僧が一尾所望していたのに、村人たちは知らん顔をしていた。旅僧は川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めたら、そこに大滝(門の滝)ができ、ここから上流にはサケがのぼらなくなった。旅僧は弘法大師であった。

事例7 岩手県下閉伊郡田野畑村
明戸の浜から、唐松沢の入り、いくさ沢まで鮭が上って、明戸村富貴の時があった。行脚して来られた弘法大師を怪しい売僧といって追払ったので、大師は、この因業な人達を教化するために、唐松沢の入口にあった「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げられた。石はそのまま行方知れず飛んでいってしまった。そして大師はそこについて来た卯ツ木のつえをさして行かれた。それから、さしも上った鮭がさっぱり上らなくなってしまった。大師が投げた「恵美須石」は南の津軽石に落ちて、それかい津軽石の鮭川は栄え出して今につづいている。

上の3つの事例では、石は次のように使われていました。
①小石を三つ取り出して川に投げ
②川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めた
③「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げ

19 鮭文化とともにある、村上の暮らし | 003 かくも美しき里山の年寄りたち 佐藤秀明 Hideaki Sato | 日本列島 知恵プロジェクト

登場するのは弘法大師ばかりではありません。
事例8 岩手県? 此庭(陸中愧儡坂)
 谷川に村の長が魚梁瀬を掛けて毎年鮭を捕つて居た。或時一人のクグツ即ち此辺でモリコ又はイタコと呼ぶ婦人が通つたのを、村長等無体に却かしてかの鮭を負はせた。クグツは困労に堪えず人に怨んで死んだ。其時の呪詛の為に鮭は此より上へ登らなくなった。箱石は即ち卸して置いたクグツの箱の化したものである故に四角な形をして居る。

ここでは、弘法大師の代わりに、この地域で活躍する巫女やモリコ、イタコが登場します。
また六部や乞食坊主として描かれる場合もあるようです。「弘法とサケ」話型の伝説の主人公には、弘法大師に限らず漂泊する宗教者たちが選ばれているようです。行脚する宗教者の石の呪法は、石を川に投げ込む、しまい込む方法があるようですが、石に「真言」の文字を記すという呪法もあるようです。
以上のように、サケの遡上について、「石」が大きな力をもっているとする信仰があったことがうかがえます。ここから研究者は次のような仮説を設定します。
①「サケ→弘法→石」という繋がりから、サケにまつわる石の信仰を、弘法・六部・乞食坊主・イタコ等たちが儀礼化し、儀式として行っていたのではないか
②そのような信仰・口承文芸を、漂泊する宗教者が、流布・伝播してきたのではないか

まず①の仮説を考えてみましょう。
サケを誘引する石の伝承は、元修験の神主らによって儀礼化されています。その行為は弘法伝説などの説明体系によって裏づけられています。伝説の世界は、単なる空想ではなく、現実の世界で実際に行われていたことが書かれています。つまり登場する人物(宗教者)は、実在していたと研究者は考えています。
 伝説には弘法大師が石を川に投げ込む、あるいは川から石を拾うという場面が描かれています。
ところが、実際の津軽石のサケ儀礼には、宗教者が石を投げ込むような場面はないようです。しかし、民俗事象を細かく検討すると、宗教者が石を投げ込むことによって魚を寄せるという呪法は、いくつかの地域にあるようです。
たとえば、新潟県荒川中流にある岩船郡荒川町貝附では、10月末のサケ漁が始まる前、荒川から握れる程度の大きさの石を10個ほど拾ってきて、ホウイン(法印)に梵字を書いてもらうという民俗があったようです。ホリイシと呼ばれる文字の書かれたこの石は、川に均等に投げ込まれます。上流の岩船郡関川村湯沢ではサケが捕れなくなると、サケ漁をしている場所の川底でこぶし大の石を拾い、ホウインのところへ持て行きます。これをホウインに拝んでもらい、もち帰り川に投げ入れると、とたんにサケが捕れるようになったと伝えられます。
 サケではなくハタハタを捕るための儀礼ですが、秋田県男鹿の光飯寺には、10月1日浦々の漁師たちが小石をもってきて、これに一つずつ光明真言を一字書き、法楽加持します。それを漁師はもって帰り自分の漁場へ投げ入れたと伝えられます。
 このように、魚を寄せ集めるために石を用いる呪法を、宗教者が使っていたようです。
こうしてみると、弘法伝説に登場する宗教者の行為は、空想上の絵空事ではなく、実際の宗教者が現実に行っていたことだったことがうかがえます。そうだとすると、この弘法伝説が生まれた背景には、サケの漁撈活動に宗教者が関わっていたことがあったことになります。
次に、このような弘法伝説を漂泊の宗教者が伝播した、という仮説を研究者は裏付けます。
弘法伝説の拡がりについての研究は、その背景に聖や巡礼の聖地巡拝の全国的流行があったとします。とくに弘法大師を祖師とあおぎ、高野山に本拠を置く旅僧の高野聖たちが、全国を行脚、流浪するうちに広めていったとするのが一般的です。研究者は、その上に東北地方の弘法伝説には、大師信仰の基底にオオイゴ=タイシ(太子)信仰が横たわっていることを指摘します。大師信仰流布以前に「タイシ信仰」があったというのです。「弘法大師の名のもとに統一、遵奉して行った者の姿と、そこでの意志を確実に垣間みるような思いがする」と、弘法伝説を広げた宗教者集団のいたとを指摘します。
 
 研究者は、近世になっても「弘法様」と呼ばれる六部、巡礼者が活躍していたことを報告しています。
「弘法様」には、弘法伝説に登場する弘法大師のように、実際に恩を受けた家に突然と笈や奉納帳を置いていったり、呪いを教えていくなど特徴的な宗教活動を行っていました。この「弘法様」との交流の中で、さまざまな弘法大師伝説が生まれ、広げられていったことです。
そrを研究者は以下の三つのタイプに分類します。
①「弘法様」との関わりの経験諄として話者自身が登場する弘法伝説
②「弘法様」は実際に様々な呪法をもち、駆使していたらしいが、それを実際に目のあたりにした話者が観察者として生み出した「世間話」としての弘法伝説
③「弘法様」自体が伝えていった弘法伝説
このうちの②は弘法伝説の形成の場面で、③は、伝播、伝達の場面になります。

 宮城県石巻市生まれの松川法信は、現代の「弘法様」と呼ばれた人物です。
彼は一陸沿岸では青森県八戸地方から宮城県の牡鹿半島まで、日本海側では、秋田県山本郡八森町を北限に、南は山形県最上部の真室川町まで15年間にわたって修業に歩いていたようです。
そして行く先々で、弘法伝説の形成、伝播に一役も二役もかっています。それだけでなく新たな祭祀も創り出しています。
もちろん、現代の漂泊する宗教者松川法信が、中陛の高野聖や、近世の廻国聖へと結びつけることはできません。しかしかつては、このような廻国の主教者が様々な文物、情報を交流させる媒介者として活躍していたのです。綾子踊りにつながる風流踊りや、滝宮念仏踊りにつながる時衆念仏踊り、あるいは秋祭りの獅子舞なども、彼らを仲介者とすることによって広められたと研究者は考えています。
「弘法とサケ」伝説に、現実の宗教者の儀礼的な動作が反映された可能性があること、この伝説には、その話自身を流布させる宗教者の姿も投影されていることを押さえておきます。
 「弘法とサケ」伝説には、想像上の宗教者の活動を語ったものではなく、漂泊する宗教者が、石を用いてサケの遡上に関する呪法を執り行い、石の信仰の形成に大きくかかわったこと、それが修験系統の宗教者たちであったいうことです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」

  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。

実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。

こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
 
意訳変換しておくと

海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。

青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー

神託は聖なる泉で行われていた

常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。

ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々

意訳変換しておくと

息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。
『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
神話に登場する泉の3つのタイプ

第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。
それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。

日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか

神託は聖なる泉で行われていた

A  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。

  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

B 現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
C 日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。
D 小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいます。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんだったのでしょうか? 

泉信仰が鏡信仰へスライド移行した    

 
 
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。

古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。

放生会の登場と人身御供

そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。
そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 


善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です
この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
和漢三才図会 第1巻から第6巻 東洋文庫 寺島良安 島田勇雄 竹島淳夫 樋口元巳訳注 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。

後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。

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  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。

往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!

四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている

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  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます。

わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


弘法大師については、実像と死後に作られた伝説とがあり、これが渾然一体となって大きな渦(宇宙)を作り出しているようです。ここでは、それをとりあえず次のふたつに分けておきます。
太子伝  史料等で明確に出来る年表化が可能な事項
大師伝説  大師死後に生み出された民間伝承・信仰
大師伝説が大師伝の中にあらわれたのが、いつ頃のことなのでしょうか
大師没後255年の寛治三年(1089)、東寺の経範法務の『弘法大師御行状集記』が一番古いようです。この本は『今昔物語集』と同じじ時代のもので、霊異説話集の影響を受けたせいか、大師行状の中の伝説的部分に強い関心を示す大師伝と言われます。
その序には、次のように記されています。(意訳)
大師が人定したのが承和二年乙卯で。現在は寛治三年己巳で、その間に255年の歳月が過ぎた。入城直後の行状には、昼夜朝暮(一日中)いろいろな不思議なことを聞かされたが、時代が離れるに従って、伝え聞くことはだんだん少なくなり、1/100にも及ばなくなった。これはどうしたことだろうか。これより以後、末代のために、伝え聞いたことは、すべて記録に残すことにする。後々に新たな事が分かれば追加註していく。

このような趣意で、できるだけ多くの大師に関する伝聞を記録しようとしています。そのために、大師の奇蹟霊異も多く集められ収録されているようです。注目したいのはこの時点で、すでに多数の伝説が語り伝えられていて、記録されていることです。『弘法大師御行状集記』に収録されている弘法大師伝説を挙げて見ます。
1、板尾山の柴手水の山来。
2、土佐の室戸に毒龍異類を伏去すること。
3、行基菩薩出家前の妻と称する播磨の老姫、大師に鉄鉢を授くること。
4、唐土にて三鈷を上すること。
5、豊前香春(かすい)山に木を生ぜじめること。
6、東大寺の大蜂を封ずること。
7、わが国各所の名山勝地に唐より伝来の如意宝珠をうづむること。
8、神泉苑祈雨の龍のこと。
9、祈雨に仏合利を灌浴すること。
10観行にしたがって其の相を現ずること。
11五筆和尚のこと。                                         5
12伊豆柱谷山寺にて虚空に大般若経魔事品を吉すること。
13応天門の額のこと
14河内龍泉寺の泉を出すこと。
15大師あまねく東国を修行すること。
16陸奥の霊山寺を結界して魔魅を狩り籠めること。
17生栗を加持し蒸茄栗となし供御して献ずること。
18日本国中の名所をみな順礼し、その御房あげて計うべからざること。
19高野山に御入定のこと。
20延喜年中(901~)、観賢僧正、御人定の巌室に大師を拝することの
以上の項目を見てみると、のちの大師伝が伝説としてかならずあげるものばかりです。
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『弘法大師御伝』(11世紀末)と『高野大師御広伝』(12世紀)になると、弘法大師伝説はさらに増えます。ふたつの弘法大師伝に追加された項目を挙げると次のようになります。
1、唐にて大師の流水に書する文字、龍となること
2 大師筆善通寺の額の精霊と陰陽師晴明の識神のこと。
3、大師筆皇城皇嘉門の額の精霊のこと。
4、土佐国の朽本の梯(かけはし)に三帰をさずくること
5、石巌を加持して油を出すこと。
6、石女児を求むれば唾を加持して与えるに児を生むこと。
7、水神福を乞えば履を脱いでこれを済うこと。
8、和泉の国人鳥郡の寡女の死児を蘇生せしむること。
9、摂津住古浦の憤のこと。
10行基菩薩の弟子の家女に「天地合」の三字を柱に書き与うるに、その柱薬となること。
11河内高貴寺の柴手水に椿の本寄生すること。
12天王寺西門に日想観のこと。
13高雄寺法華会の曲来と猿の因縁。
14讃岐普通寺・曼荼羅寺の塩峰と念願石のこと。
15阿波高越山寺の率都婆のこと。
上の大師伝説は、伝記の本文から離して「験徳掲馬」の一条を立てて別立てにしています。そしては次のようなことが序文に書かれています。
今、大師御行状を現したが 神異を施し、効験を明らかにすために、付箋を多く記した。世俗では多くの弘法大師伝が語られるようになり、それが多すぎて、詳しく年紀をしるすことができない。書くことができないものは、左側に追加して記すことにした。

年紀(年表)に、民間に伝わる大師伝説を入れていこうとすると、無理が起きてきたようです。弘法大師伝説が多すぎて、年紀の中に入りきれなくて、はみ出さざるを得なかったのです。世に伝わる大師伝説を全て収録しようとすると、大師伝の中に伝説がどんどん流入してきます。その結果、「或人伝云」「或日」「世俗説也」「世俗粗伝」などの註記を増やす以外に道がなくなったようです。

 私は最初は、弘法大師伝説は歴代編者の「捏造」と単純に考えていました。
しかし、どうもそうではないようです。世の中に伝わる弘法大師伝説が時代とともに増え続けていたのです。つまり、生み出され続けたのです。編者は世俗の説(弘法大師伝説)にひきずられる形で書き足していたようです。
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深賢の『弘法大師行化記』二巻は、奥書に編集方針が次のように記されています。
この書の上巻裏書には、やや詳しく大師の伝説をのせています。しかし、ここでは「世俗説也」「彼土俗所語伝也」の註があります。伝記と伝説を区別すべきものであるという編集姿勢が見えます。そして、この伝が書かれた鎌倉初期までに、大師伝中の大師伝説は固定したようです。これから新たに伝に加えられるものは出てきません。

 しかし、鎌倉時代末以後に書かれた大師伝のスタイルは大きな変化を見せるようになります。
このころの大師伝は伝記と伝説のあいだの区別がまったくうしなわれてしまうのです。そして、伝記と云うよりも奇瑞霊験に重点を置き説話化していきます。
 これは鎌倉中末期という時代に『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧絵伝が多数つくられたことと関係するようです。これとおなじ時期に、弘法大師初めての絵図である『高野大師行状画図』十巻が作られます。これは他の高僧絵伝の説話化とおなじで絵入物語です。
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 正中一年(1325)の慈尊院栄海の『真言伝』に見える弘法大師伝などは、まさにこの行状画図路線をいくものです。
こうして伝説は伝記の中に織り込まれて説話化、物語化するようになります。この傾向が進むと次第に大師伝説は、「歴史」として扱われるようになります。そうなると編者の次の課題は、大師の奇瑞霊異の伝説がいつのことであったのかに移っていきます。伝説に年紀日付を付けて、年表化する作業が始まります。こうなると伝説と歴史事実との境がなくなります。「伝説の歴史化」が始まります。
その研究成果が結実したものが報恩院智燈の『弘法大師遊方記』四巻(天和四年(1684)になるようです。
その成果を見てみましょう
①大滝獄捨身が延暦十一年(791)、大師19歳とされ、
②播州に行基の妻より鉢を受くる奇伝と伊豆桂谷山寺の降魔は延暦12年、大師20歳
③横尾山に智慧水を湧かし、高貴寺の泉の檜木に椿を寄生せしめる伝説が大同二年(807)
こうして「遊方記」では、編者の智燎の手に負えない伝説は、みな捨てられてしまいます。その上、伝悦をそのまま歴史事実とする無理は寂本の『弘法大師伝止沸編』一巻(貞享三年(1685)によつて指摘せられます。そして、高野開創の逢狩場神や逢丹生神の物語なども、紀年を附すべき事実でないことがあきらかにされていくのです。
 これ以後、大師伝説は大師伝の編者にとっては、あつかいに苦慮する部門になっていきます。
これはそれまでの編者が、伝記と伝説のちがいや立場を認識することなしに、「伝記の伝説化」や「伝説の伝記化」を行ってきた結果とも云えます。これに対して、この区別を認識して不審は不審、不明は不明のままに、伝えられてきた記録をもらさず集録したものが得仁上綱の『続弘法大師年譜』巻六です。できるだけ多く採録して、後の世代に託すとする態度には好感が持てます。多くの集録された史料の中から伝説の変化がうかがえます。
 以上をまとめておくと
①初期の弘法大師伝では、伝記と伝説は分けて考えられていた
②その間にも民間における弘法大師伝説は、再生産され続けた
③増え続ける弘法大師伝説をどのように伝記に記すのかが編者の課題となった。
④宗法祖信仰が高まるにつれて伝記は説話化し、伝記と伝説の境目はなくなっていった
⑤弘法大師伝説も年紀が付けられ年表化されるようになった。
しかし、これは編者の捏造とおいよりも、弘法大師伝説の拡大と深まりの結果である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重 弘法大師伝説の精神史的意義 寺社縁起と伝承文化所収

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