宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。
しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。
細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
阿州切幡寺塔婆供養事。此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
意訳変換しておくと
阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。
この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、二月廿七日 頼春 (花押)③善通寺 僧都御房(宥範)
②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。
南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。
1070(延久2)年 善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
同年 宥範が半年で五重塔再建
同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年 宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)
年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。
細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。
細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
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