「史談会」へのお誘い 以下のような内容で5月の史談会を開きます。
講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
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講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
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第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂す第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること五、精製工場の急速整備を図ること備考二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など③配備が遅れている乾留釜の設置
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。
①マツを伐倒して根を乾留する方法②樹皮から松ヤニを採取する方法
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」 上田市教育委員会
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。
①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
タイトル 応召する三百歳の杉並木右上 松並木遠景左上 市長による斧入伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報で「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という情報が届いた。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」として、国内年間消費量の1/3ほどの採油が可能と報告した。その計画に陸軍、農商省、内務省が乗っかり、10月20日には最高戦争指導会議で承認された。
「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」
皇国決戦の最終段階に対応するために、山野に放置されている松根を動員する。そして乾留方法で松根油の飛躍的増産を図る。現在は非常に重要な局面にあり、ことは緊急を要する。ついては、皇国の農山漁民の底力を最高度に結集発揚し、本事業の完遂を図り、皇国戦力の充実増強に寄与すべし。
「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」
①松の立ち枯れた古木(樹齢50年以上)をさがしてし、松株を掘る。②伐根のノルマは 1 日 150~250kg③掘り出された松の根は、貯木場に蓄えられた後、小割材にしてカマス袋に入れ、乾溜缶(100 貫釜)に運ぶ。④釜の内部には中カゴがあり、この中にあらかじめ割砕した松根原料を詰める。⑤粘土と石灰を練り合わせたものを、釜と蓋の間に塗り込み密閉し、火を焚いた。⑥出てきた蒸気を冷却し、液体化した油分である「粗油」を改宗する⑦これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、⑧軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする
とに角この仕事に動員された人々は、ここでも滅私奉公を強要され、腹をすかしながら馴れぬ手に血豆を作り、死に物狂いで松根の掘り起しに従事した。先ず在来の松脂集めには、国民学校の生徒や、都市から農山村に疎開している婦人達が充当された。松根株集めには、鉄道の枕木、鉱山の杭木用に伐採されて全国の山野に放置されている推定八十億株の松の古株を第一目標にした。これが無くなれば次々に立木を伐採し、枝も葉も根も接触分解法や乾溜法の原料にすることになった。
旧石見町では中野茅場にまず松根油抽出工場が建ち、抽出釜6基を配置。田植えが済むと松根堀りに駆り出され、中野の松根油は検査の結果、島根県下最優秀油に選ばれ、軍部も目をつけるようになった。山口の徳山から技術者を呼び寄せ、工場は矢上にも建てられ、抽出釜は中野7基、井原7基、矢上6基を設置してフル回転。海軍省からは矢の催促と慰問、激励を受けた。そこで、村民あげての松根堀りになった為に、20基そこそこの釜では対応し切れず、根っこをそのまま大田や松江の工場へ運ぶほどだった。そのおかげで、島根県の松根油は海軍大臣より感謝状を贈られた。
「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」「掘って蒸して送れ」「全村あげて松根赤たすき」
大戦末期の松根油の採集・増産活動は、松林の広域伐採を招き、これが敗戦後の山地荒廃を招いたとする説がある。しかし、実際にどれほどの松の木が伐採され、山地荒廃にどれほどの影響を与えたかは資料的に残っていない。文献資料を通じて、松根油生産の実態を可能な限り詳細に明らかにすることを目的とした。
①松根油生産は第二次世界大戦以前から生産が行われていたが、その生産は大戦末期に極限に達した。②松根油を生産する地域には偏りがあったが、大戦末期になるに従い、全国的に生産されるようになった。③過剰な松根油生産が山地荒廃につながる危険性が認識されながら、大戦末期には過剰な生産ノルマが設定された可能性が高い。④松根掘り取り過程に関しては、概ね生産ノルマが達成された。
⑤松根油生産が山地荒廃に与えた影響を検討するためには、対象地区を限った上で調査を行う必要がある。
「幕末から明治にかけて、丹波からやってきた如松斉が縁あって法然堂の住職務めた。堂塔修繕などに功績を残したが、明治になり時代が変わると隠居し、生間の豊島家の持庵に移り活花三昧の生活を送り未生(みしよう)流師範を名乗った。自庵で教授するばかりか各地に招かれて出張指導し、広く仲多度南部から阿波にかけて門弟は六百余名を数えるほどにもなった。」
「四条川は那珂郡にあり、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。」
「照井川と合流した四条川は、現在の吉井橋に至り①水戸大横井より北流を続け吉野下、林、川滝、鱈池を過ぎ、さらに、②旧満濃町役場前から四条・天皇を経て上田井の高篠大分岐に至り、ここから支流は田井に東流し、田井からは郡界に沿って北流し土器町聖池に至る。一方、本流はここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、③象郷小学校から上櫛梨の④木の井橋の南へと流れる」
①吉野橋の上流と下流では川底の深さがちがう。新たに河道となった下流は浅い。②琴平より北は河床が高く天井川で、東西からほとんど支流が流れ込まない。③金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川なら、境界となることが多い。④河口の州が、万象園付近だけで極端に小さく、川の歴史の浅いことを示している。
①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと③全国からの公演依頼への補助金支出④公開記録作成と「佐文誌」の出版
魁天下
従二位勲一等子爵・石黒忠恵による題額二宮忠八君は伊豫八幡の出身で、陸軍看護兵として、明治22(1889)年11月に演習からの帰路この地で昼食をとった。その際に、烏の群れが羽ばたきもせずに滑空して弁当柄に集まるのを見て、軍用飛行機の着想を得た。明治二十七年に空中滑走器を自作し、その飛行実験に成功した。これはライト兄弟が飛行機を完成させる数年前のことである。まことに我同胞の名誉である。よって石碑を建て長く後世に伝えるものとする。大正十四年九月十七日香川縣仲多度郡十郷村長王尾金照香川縣三豊郡財川付長建設委員 従六位勲五等澤原貞吉
1866(慶応二)年6月29日 愛媛県八幡浜市矢野町八幡神社下に生まる。1878(明治11)年(13歳) 親の事業失敗で、家産が傾き古着屋に丁稚奉公。14歳で活版屋の小僧。15歳で薬屋奉公。16歳で物理、化学の研究をして、凧を制作して書籍代をかせぐなど、いろいろな丁稚奉公などを行いながら向学心を失わず。1887(22歳) 丸亀連隊に入隊し、陸軍看護兵に1889(24歳) 演習帰路に樅木峠でカラスの滑空するのを見て飛行原理を着想。1891(26歳) 丸亀練兵場でゴム動力のカラス型模型機飛行実験に成功(飛行距離30m)1893(28歳) 虫型棋型機を作成。1896(31歳) 軍上層部に軍用飛行機試作を再度上申するも却下。1904(38歳) ライト兄弟が飛行に成功。忠八は制作中の飛行器の枠組みをハンマーで破壊。以後は、製薬の仕事に没頭し、大阪製薬株式会社を設立し局方塩の製造開始1906(40歳)大日本製薬本社支配人に就任1914(大正3)年 (49歳) 第一次世界大戦において飛行機がはじめて実戦参加。1919(54歳) 白川義則大将に発明の功が認められ、後に通信大臣から表彰。1926(大正15)年(61歳) 記念碑完成除幕式。自宅に飛行神社を祀り、宮司となって奉仕。1936(昭和11)年4月9日 71歳で京都府八幡市で死去。1937 飛行機発明の元祖として国定教科書に収載1966(昭和41)年1月 国道32号線改修の際に、追上地区住民により現在地に移転整備。1986(昭和61)年 銅像建立
実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。
「初期の飛行機事故で亡くなった人を祀る航空神社を京都府綴喜郡八幡町に建立した飛行機の好きな薬業関係の経済人。」
①利息金で毎年度末優良児童に「二宮賞」を授与。②仲南北小学校の子供会は「魁(さきがけ)子供会」→「天下に魁ける」③模型飛行機作成が夏休みの宿題。2学期の始業式の後で、飛行時間測定会。
一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)
①一、地踊 彦三郎②一、同 古来仁左衛門株 助左衛門③一、同 宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
一、旗 二本 社面と白籐一、長柄鑓 五本一、棒突 三本
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)佐文村C天領 小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
7月17日の満濃池の池の宮から始まって18日七箇春日宮・新目村之宮21日五条大井宮・古野上村宮22日が最終日で岸上村の久保宮と、真野村の諏訪神社に奉納27日に滝宮牛頭大明神(滝宮神社)への躍り込みとなっています。
①2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、②日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知③同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。④花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。⑤頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。」
A舞台が神社の境内であることB中央に大きな団扇を持った下司C花笠を被った中踊りと6人の子踊りD警固の棒突や棒振・長刀衆など
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」
「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」
松尾山 苗田村・木徳村西山 櫛無村・原田村大麻山 与北村・郡家村・西高篠村羽間山 垂水村・(東)高篠村
一、仲郡と多度郡の農民が東西七ヶ村の山や満濃池周辺へ入り、柴木苅りをおこなうことを認める。ただし、従来通り手形(鑑札札)を義務づけること。一、三野郡の麻山については、子松庄(琴平)に鑑札付きで認める。ただし、佐文の者は、鑑札札なしで苅る権利を認める。
「多度郡(多度津町・善通寺市)には山がないので、多度郡の者は那珂(仲)郡の山脇・新目・本目・塩入で柴木を刈ることを許す。」
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した②その死亡率は6割を超えている
①飲料水は必ず濾過器を通し、また暴飲暴食をせず、飲食物に気を付けること、②患者発生の場合は、家族はもちろん、五人組親も直ちに組長へ、組長は戸長役場へ届け出ること、③伝染病の懸念あるときは、届出の処置と同時に、その家の「交通遮断」(隔離)を行うこと。
付近の子どもが次のように教えてくれた。「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と。このあたりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林と同じように木々が茂り、大きな森となっている。
「伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候」
「石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していた。(中略)そのため、上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置いたが、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい堰堤は崩れるであろう。」
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
「行こか まんしょか(やめようか) 満濃普請 百姓泣かせの池普請」
「五百石ばかりの山田となって人家なども建ち、池の内村と呼ばれた」
「平安末期に、大洪水により堤は崩壊して跡形もなくなり、石高500石ばかりの山田となり、人家も置かれて、池内村と呼ばれた」
「合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬乃池内御公用銭、送り進すところくだんのごとし 賀茂御社沙汰人御中 瀧宮新三郎 」
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」
1919 大正8年9月 実測開始1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。