瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 中世の琴平

 「町史こんぴら」の金毘羅宮の歴史を見ていると、多聞院のことがよく出でてきます。近世の金比羅は、金光院が宗教的領主として支配する幕府の朱印地でした。その意味では金光院院主は、僧侶であると同時に、お殿様でもあったことになります。そして、NO2の地位にあったのが多聞院のようです。
多聞院については、次のようなことが云われています。
①初代金光院院主の宥盛の弟子として、信頼を得ていた片岡熊野助が多聞院初代である。
②片岡熊野助は、長宗我部元親に仕えた土佐の国人武将・片岡家出身である。
③片岡熊野助は、大坂夏の陣の際には還俗して大阪城に入り豊臣方について戦った。
④戦後に土佐に隠れ住み、修験者や祈祷などで生活していた。
⑤隠密生活から17年後に、土佐藩主から赦され、金毘羅に復帰し、多聞院初代となった。

このように片岡熊野助(多聞院)は、若くして宥盛に弟子入りして、修行に励み、その信頼を得て多聞院を宥盛から名告ることを許されます。この多聞院は、金光院に仕える子院の中でも特別な存在で、金毘羅の行政にも大きな影響力を行使しています。そして、江戸期を通じて全国からやってくる天狗道信者の統括・保護や、金毘羅信仰の流布などに関わっています。今回は、この多聞院初代の片岡熊野助の出身地と、片岡氏について見ていくことにします。
テキストは、「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

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仁淀川から見た片岡(越知町)

片岡氏の最初の拠点は、仁淀川中流の越知町片岡にあったようです。
仁淀川は、今では「仁淀ブルー」で、有名になりラフテングや川下りのツアーも行われるようになりました。「永遠のカヌー初心者」である私が川下りを楽しんでいた頃は、ほとんど人に会うことがない静かな川でした。1年に一度は、越知中学校前の沈下橋からスタートして、V字に切れ込む谷を浅野沈下橋・片岡沈下橋を経てあいの里まで、のんびりと下っていました。

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上流から見た片岡と沈下橋
その中でも片岡は、沈下橋とともに絵になる光景が拡がり、上陸して集落をよく散策していました。なになく雰囲気のある集落だという印象を持っています。後でもお話ししますが、仁淀川は中世から越知や支流の柳瀬川を通じて川船が遡り、河川交通が盛んに行われた川だったようです。今では、時代の中に置き去りにされたような片岡集落も、かつては川船の寄港する川港として賑わいを見せていたようです。
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片岡沈下橋
 この地が片岡氏のスタート地点だったようです。
『片岡物語』には、片岡氏の由来を次のように記します。(現代語要約)

片岡氏 片岡
片岡周辺と法厳城跡

①平家の減亡後に別府氏のもとに身をよせていた坂東大郎経繁が、この地域の土豪矢野和泉守俊武を討って吾川山庄を手中におさめ、出身地上野国の荘片岡の地名をつけた。
②その後、南北朝時代には経繁の子孫である経義・直嗣の兄弟が北朝方として活動した。
③室町前期には片岡直之が黒岩郷代官を務め、その跡を嗣いだ直綱は柴尾城に拠って勢力を拡大した。
④文明16年(1484)に、直光が継ぐと柴尾城を廃して、その上流に黒岩城を築いて拠点とした。
④永正17年(1520)に直光の後をついだ茂光は、翌年の大永元(1531)年に徳光城下にあった台住寺を黒岩城西方の山麓に移して累代の蓄提をとむらう一方、越知に支城清水城を設けて以北の守りとした。
 ここからは、片岡氏が片岡を拠点に勢力を蓄えて、「片岡(宝厳城 → 柴尾城 → 黒岩城」と仁井淀川を遡り、その支流である柳瀬川流域の黒岩方面に勢力をのばそうとしていたことがうかがえます。さらに柳瀬川を遡り南方に進むと豊かな佐川盆地です。ここを片岡氏は目指します。
佐川盆地周辺の城跡
佐川盆地周辺の城跡


しかし、この頃の佐川城(のちに松尾城と改称)には、三野氏(のち中村氏を称す)が拠点を置いていました。さらに
佐川盆地一帯を見渡してみると
①南部の斗賀野城には米森氏
②西部の尾川城には近沢氏
③黒岩城との中間庄田には中山氏
が割拠して、蓮池城主大平氏のもとに属しています。
このような中で天文15年(1546)に、中村の一条氏が大平氏を滅して高岡郡に進出してきます。すると、佐川盆地の国人たちの多くは、一条氏の勢力圏下に組み込まれていきます。これに対して、永隷6年(1562)になると、長宗我部氏が仁淀川東岸の吉良域を奪取して、西進してきます。この結果、仁淀川西岸以西を勢力圏とする一条氏と長宗我部元親は、佐川盆地をめぐって対峙するようになます。

 元亀元年(1570)になると、長宗我部元親は一気に佐川盆地の攻略を進め、片岡氏を初めとする佐川盆地の国人たちはその軍門に下ります。佐川盆地平定後、元親は佐川盆地に重臣の久武内蔵助親直を入れています。久武氏は石ノ尾城(佐川城)を修築して、ここを佐川盆地支配の拠点とします。この際に、黒岩城主の片岡光綱は、それまでの本領を安堵されます。
 元親は、佐川盆地制圧4年後の天正3年(1574)に、公家大名一条氏を征服し、翌年には甲浦城を攻略して土佐一国を統一します。そして四国制覇にのりだしていきます。元親傘下に入った片岡氏以下の佐川盆地の国人たちも、これに従って四国各地に出陣することになります。そして、天正13(1584)年に片岡光綱は、遠征中の伊予国金子陣で戦死します。この年に長宗我部元親は秀吉に降って、土佐一国のみを安堵され、翌年1585年には秀吉の九州征伐に従軍させられます。この時に薩摩島津氏と戦った豊後戸次川の戦いは「四国武将の墓墓」とも云われ、多くの四国の武将が戦死します。片岡光網の子光政(一説甥)も、ここで亡くなっています。片岡氏は連続して、当主を失ったことになります。
 この前後に生まれたのが後の金毘羅の多聞院(幼名片岡熊野助)です。熊野助が生まれたときには、片岡氏は、佐川盆地周辺の有力国人であったことを押さえておきます。

片岡氏がこの地域で大きな勢力を持っていたことを見ておきましょう。
 その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
黒岩古城詰門外タン共二           同(黒岩村)次良大夫居
一 (所)壱反拾七代一分   下屋敷   同じ(片岡分)
ここからは天正18(1590)年に検地が行われた時には、このエリアが古城と呼ばれる廃城になっていたことが分かります。

片岡氏 黒岩城周辺
黒岩城周辺 南を流れるのが仁淀川支流の柳瀬川

この黒岩は現在では黒岩小学校敷地となって、わずかに土塁の一部を残しているだけです。

片岡氏 黒岩居館跡
黒岩城周辺の土地割

 明治前期の地籍図からは、小字「黒岩」の北部にその居館遺構があったことが分かります。その規模は東西南北の最大幅約70mです。これが片岡氏の居館跡と研究者は考えています。
これを裏付けるのが『地検帳』で、黒岩古城(居館跡)について次のように記します。
片岡氏 黒岩地検帳1

ここからは、このエリアが片岡分の「御土居=居館跡」であると記されています。その背後には給主片岡右近が居住する総面積一反四一代一分の屋敷が、またその南には片岡右近に給された総面積四三代一分の屋敷があったことが記されています。この「御土居」が、検地の時点での片岡氏の本拠である居館と研究者は指摘します。
 
『地検帳』は、その他にも片岡氏が多くの土地や要衝の地を手にしていたことを示します。佐川盆地から高知平野に向う出入口にあたる日下川上流河谷の加茂永竹村にの大谷土居ヤシキ(片岡治部給、主居)を片岡分としています。
片岡氏 三野古城跡
三野古城(居館跡)
また、三野古市については次のように記されています。
片岡氏 地検帳2


ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
以上を整理して、研究者は次のように指摘します。
「元亀元年に長宗我部氏の軍門に下った片岡氏が、その居城である黒岩城は廃城化されたものの、その東方に「御土居」を構えて本領を安堵されたうえ、さらに佐川盆地中央部や日下川上流河谷にも所領を拡大して、かつてそれぞれの地区を基盤に成長してきた小領主の上居をも支配するようになった。換言すれば、片岡氏は長宗我部氏に降ることによって、かつては片岡氏と措抗する小領主の支配下にあった佐川盆地中央部などへも進出して、この地域最大の地域的領主にまで成長し、長宗我部氏による領国支配の一環を構成するようになった。
『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱が佐川盆地実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
長宗我部氏の地域的領主としての地位を片岡氏が握るようになって、発展するのが「黒岩新町」だと研究者は推測します。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。

 片岡氏盛期の黒岩城下が賑わっていたことは、『片岡盛衰記』に次のように記されています。
「今の本村は帯屋町とて南北一筋の町あり、中にも和泉屋勘兵衛とて茶屋あり、其時代は他国入込にて、大坂より遊女杯数多下り、新居浜(仁淀川河口)迄舟通いければ、夜毎にうたいさかもり殊の外賑々しく今に茶園堂と申伝候」
 
意訳変換しておくと
「今の本村は帯屋町と呼ばれて南北一筋の町で、その中には和泉屋勘兵衛の茶屋があった。ここに他国から多くの人々がやって来た。大坂から遊女も数多く下ってきて、新居浜(仁淀川河口)まで川舟が通行していたので、夜毎に宴会が開かれ、謡いや酒盛り開かれ賑々しかった。これが今の茶園堂と伝えられている。

ここからは、佐川までは川船が運航していて「本村」は、その川港として大いに賑わっていたことがうかがえます。
それでは、ここに出てくる「本村」とは、どこのことなのでしょうか
『佐川郷史』は、最初に見た仁井淀川北岸の片岡本村の宝厳城下のこととしています。しかし、先ほど見たように仁淀川が深いV字谷を刻んで東流していて、その北岸には河道に沿った狭い場所があるだけです。「南北一筋の町」が立地するスペースはありません。
そこで研究者は、本村とは黒岩城下について記したものと推察します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
 市場集落の近世化と新設域下町の登場は、地域経済に大きな影響を与えます。小商圏の中心である各地域の市が、大高坂城下町の建設で、その一部分を吸収されていきます。それは、現在の市町の商店街がスロート現象で、県庁所在地などの都市圏に吸い上げられ、衰退化していったのと似ているようにも思えます。
 このように黒岩新町も、江戸時代に入ると急速に衰退し、一面の水田と化してしまいます。
その時期や経過については、よく分かりません。しかし、山内氏入国後の佐川と越知の発達が、黒岩新町の衰退要因のと研究者は考えています。長宗我部氏によって佐川城主に任じられた久武氏がその城下に新市を開設したことは、『佐川郷地検帳』に、次のようになることから裏付けられます。
新市                    本田村
一 (所)弐反弐拾代 出弐反拾四代三歩才下   久武内蔵助給
ここには、「新市」が本田村に作られたことが記されています。この佐川の「新市」は、片岡氏が大きな力を持っていた時には、黒岩新町には適いませんでした。ところが、慶長5年(1600)年の関ケ原合戦後に、長宗我部氏が領国を没収されてその後に山内一豊が入国します。その翌年には一豊の国老格をもって呼ばれた深尾重良が佐川郷一万石の領主として佐川城に入ります。このとき、黒岩村は藩主山内氏の直轄地として深尾氏の領地でした。深尾氏がその城下に現在の佐川町中心市街の前身となる町場を建設した際に、黒岩新町はこの町場に吸収されます。それ以後は佐川が佐川盆地唯一の町場として発達するようになります。
 なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
17世紀中葉に推進された土佐藩の殖産興業政策の一環として、仁淀川流域の林産物開発が進められます。その輸送のために仁淀川水運の整備が行なわれた際に、その拠点として町立てが行なわれたのが越知のようです。

以上、戦国時代の片岡氏についてまとめておきます。
①片岡氏は、仁淀川中流の片岡を拠点に、上流に向かって勢力を伸ばし、居城を移して行った。
②戦国時代には、上流の黑嶋に居館を構え、佐川につながる河川交易ルートを押さえて勢力を拡大した。
③片岡氏は長宗我部元親と一条氏の抗争では、長宗我部方の付いて佐川盆地における勢力拡大に成功した。
④その後、片岡氏は長宗我部元親の四国平定戦に従軍し活躍したが、当主を伊予の戦いで亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤片岡熊野助が生まれたのは、このような時期で片岡家が長宗我部支配下の国人武将として活動し、その居館のある黑嶋が大いに賑わっていた時期でもあった。

この後、関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた長宗我部氏は土佐を没収され、家臣団は離散します。代わって山内氏が新たな領主としてやってきて、長宗我部に仕えていた旧勢力と各地で衝突を繰り返します。このような中で、14歳になっていた片岡熊野助は、土佐を離れ出家し金毘羅にやってきます。そして、金光院宥盛に弟子入りして、修験者としての道を歩み始めるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

 讃岐の中世遺跡の発掘調査によって分かってきたことのひとつが、平安時代末から鎌倉時代にかけての時期が、新田開発の一つの画期があったことです。新田開発を進めたのは、その多くは武士団の棟梁であったり、有力な農民たちです。中には、西遷御家人としてやってきた東国の武士たちが進んだ治水技術で、水田化した所もあります。その代表が高瀬郷にやってきた秋山氏で、残された秋山文書から水田や塩田開発の様子がうかがえます。
 こうして新たに拓かれた新田には、新たな集落が形成されていきます。そして、村の安全と豊穣を願って氏神、産土神、鎮守や村堂、あるいは、五穀成就を祭る社祠への奉仕を厚くしたり、新たに祭神を勧請するなどの宗教活動が盛んに行われるようになります。
 
今回は中世の小松荘(現琴平町)の神社を見ていくことにします。
テキストは「小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P」です。

琴平 本庄・新庄
琴平の本庄と新庄

小松荘は、藤原氏の本流である九条家の荘園として立荘されます。

琴平町内には現在も「本庄」という地名が残っています。これは、琴平町五条の金倉川右岸で、現在の琴平中学や琴平高校周辺になります。この地域の農業用水は、大井八幡神社の出水を水源地としています。ここからは大井八幡神社は古代以来の湧水信仰に基づき、その聖地に水神が祀られ、中世になって社殿などの建造物が建てられるようになったことがうかがえます。
 大井神社から南を見ると買田峠の丘の上には、かつては古墳時代の群集墳が数多くあったようです。また、現在の西村ジョイの南側の買田岡下遺跡からは郡衙跡的な遺構も出ています。さらに、東南1㎞の四条の立薬師堂には、白鳳時代の古代寺院の礎石が並んでいます。そして、丸亀平野の条里制施行の南限に位置します。古代には大井神社付近に、丸亀平野の有力氏族がいたことがうかがえます。
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榎井の春日神社の出水と水神社

 早くから開発されたこの地域は立荘化され、本庄となります。その後、新庄が開発されたようです。そのエリアは金倉川の伏流水が流れる榎井の春日神社の出水を農業用水として利用するエリアです。それは、榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域のようです。
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石川城跡と小松庄新庄

 現在は春日神社と呼ばれています。俗説では「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたようです。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
新庄氏・本庄氏については、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)といわれる『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーの一族の者のようです。もともと、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。
 こうして見てくると、この春日神社は新庄氏や、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことがうかがえます。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
金毘羅街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社も、もともとは旧金倉川の出水を水神として祭る神社です。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社と金刀比羅街道
石井神社周辺拡大(金毘羅参詣名所図会)

 石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。

大般若経転読法要(興福寺) - 奈良寺社ガイド

 神仏混淆の進んだ中世の郷社的神社では、別当寺の供僧よって大般若経の転読が神社で行われるようになります。
大般若経が村々を回って、お経を転読するさいの「般若の風」が疫病神を払い、郷村に繁栄と平和をもたらすとされました。そのため地方の有力寺社は、こぞって大般若経六百巻を書写し、保管するようになります。その書写方法は、僧侶のネットワークを利用したもので、各地の何十人もの僧侶が写経には関わるようになります。それを組織したのが与田寺の増吽のような有力な「勧進僧侶」でもあったようです。
石井神社と春日神社は、中世後半期に両社で大般若経を共有保管していました。それが分かる史料があります。
金井町 - Wikiwand
佐渡郡金井町

新潟県佐渡郡(佐渡島)金井町の大和田薬師教会に、比叡山の僧朗覚が延暦寺大講堂落慶に際して、元徳四年(1332)から延元5年(1340)にかけて写経をした大般若波羅蜜多経六百巻が所蔵されています。その巻四以降の巻数に移管した時の註記が記され、そこに次のような文言が後補されています。
① 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮 両社御経也」
② 「両社 御経」
③ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 為令法久住読之坊中」
④ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮」
⑤ 巻二十四の巻頭には「讃州財田庄八幡宮流通物也」
ここからは次のようなことが分かります。
A 仲郡小松荘の石井八幡宮と榎井大明神(春日神社)に保管されていた大般若経の一部が、佐渡島まで伝来したこと
B 春日神社は「榎井大明神宮」と呼称されていたこと
C ⑤からは、石井・榎井神社に所蔵されていた時に、その欠落巻を「讃州財田庄八幡宮」から補充したこと。
Cの財田庄八幡宮は鉾八幡神社(三豊市財田町)のことで、鎌倉時代の木造狛犬を所蔵する古社です。ここにも大般若経が収蔵され、転読が行われていたことがうかがえます。

第980話】 「般若の風」 2015(平成27)年3月11日-20日 | 曹洞宗 光明山 徳本寺

佐渡の金井町文化財指定の解説は、次のように記されています。

「この写経は、叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していたが、慶長十年(1605)、法印快秀の手によって畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、南北朝以降から慶長十年までの間は、もともとは小松庄の石井・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。地方の有力寺社では、毎年期日を決め、恒例行事として転読が行われていたのは先ほど述べた通りです。
次に疑問になるのは、転読を主催していた「石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社」のことです。これはどこのお寺だったのでしょうか?

比叡山と石井八幡宮と榎井大明神宮の関係についてはよく分かりません。小松庄の近辺の木徳荘は延暦寺領でした。16世紀末の讃岐の戦国時代の中で、焼き討ちや押領で衰退した別当寺が手放したことは考えられます。それを周辺の比叡山に関係する僧侶が手に入れ、持ち帰り、それが法印快秀の手に渡り、佐渡にもたらされたという仮説は考えられそうです。ちなみに、小松荘に隣接する真野荘は、智証大師(円珍)の園城寺領でした。また、叡山僧→延暦寺比叡山座主慈円→九条家→小松荘という関係も考えられます。

まんのう町の郷
真野郷と小松郷の関係

榎井大明神や三井八幡の別当寺として私が考えるのは、隣接する真野郷岸上の光明寺です。
光明寺については以前にもお話ししましたが、金毘羅大権現の出現以前の丸亀平野南部において、大きな勢力を持っていたと考えられる真言系密教山岳寺院です。ここは「学問寺」でもあり、多くの僧侶を輩出してています。高野山の明王院の住持を勤めた岸上出身の2人が「歴代先師録」に、次のように記されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれ、勝義の弟子で、光明院と兼務」

「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らを輩出した岸上の光明寺は「学問寺」としてもが繁栄していたこと
③それが金毘羅大権現が現われると、その末寺に組み込まれ衰退していったこと

まんのう町岸の上 寺山
岸上村に残る寺山・寺下の地名 光明寺跡推定地

   当寺の真言系僧侶は学僧だけでは認められませんでした。
行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされました。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。岸上の光明院の行場ゲレンデは、次のような辺路ルートが考えられます。
①金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルート
②大麻山から尾野瀬寺や仲村廃寺の奧の大川山、あるいは萩原寺を経て雲辺寺など
近世になって、大麻山に金毘羅神が現れ、松尾寺別当金光院が生駒家からの手厚い保護を受けるようになると、丸亀平野南部の宗教地図は大きく塗り替えられていきます。中世に栄えた山岳寺院が衰退していくのです。これは、金光院院主宥盛の修験者としての力にもよるものなのでしょう。多くの天狗(修験者)たちが彼の下に集まり、周辺山岳寺院を圧迫吸収していったようです。それは、尾背寺(まんのう町新目)をめぐる抗争からもうかがえます。そして、自分の腹心の修験者を送り込み、最終的には廃寺化させています。その際には、仏像・仏具・聖典などが、金光院に運び込まれたことが考えられます。
 明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
 さらに想像を加えると、榎井大明神(春日神社)や石井八幡社の別当寺は、光明寺ではなかたのかということです。光明寺の聖典類も売却されます。ちなみに、岸上は真野荘に含まれ、智証大師(円珍)の園城寺領でした。この縁から圓城寺を通じて畿内に運ばれ、それが佐渡にもたらされたという「仮説」を私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P
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南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

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 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。
.観応の擾乱

 薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。
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細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
尊氏と直義の和睦によっていったんおさまったように見えた観応の擾乱は、まもなく尊氏・義詮と直義の対立があらわになって、再び燃え上がります。

島津家系図
島津家系図 貞久は5代目
 康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。
その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所  
嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上
(中 略)
 讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、
康安二年六月 日              
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。

将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言
十一月二日               (花押)
細河稀駐頭殿             
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。
十一月二日              将軍義詮 (花押)
細河稀駐頭(細川頼之)殿 
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?
細川氏系図
細川氏系図
  讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
  それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

細川清氏 - Wikipedia
細川清氏 白峰合戦で敗れる

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
 『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。
細川頼之」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。
 先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。
 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。

島津家五代の墓
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
島津家五代の墓2

櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与  師久分
薩摩国守護職
同国薩摩郡地頭職
(中略)
讃岐国櫛無保上下村
公文名并光成
田所
(中略)
右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し
貞治弐年卯月十日     道竪      
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。

島津貞久の墓
 島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。
島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
細川頼之の宇多津守護所
 以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

讃岐丸亀平野の郷名の
古代の櫛梨郷
   古代の那珂郡櫛無郷は、東が垂水、南が小松、西が生野、北が木徳郷に接して郷の北部に式内神社の櫛梨神社が鎮座し、西側を金倉川が北に流れていきます。
櫛無郷

古代の櫛無郷は現在の次のエリアを併せたものになります。
①上櫛梨(無) 琴平町
②下櫛梨    琴平町
③櫛梨町    善通寺市
櫛梨郷は古代末には櫛梨保となり、中世にはその地頭職を薩摩守護の島津氏が持っていたようです。今回は櫛梨保の成立とその地頭職を島津氏が、どのように相続していたかを見ていくことにします。テキストは「法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P」です。
 櫛梨保が最初に登場する史料は、『経俊卿記(後嵯峨院に仕えた吉田経俊の日記)』の正嘉元年(1257)4月19日の次の記事のようです。
十九日雨降、参院、奏條ヽ事、(中略)
正嘉元年四月十九日源雅言 奉
法勝寺條ヽ
(中 略)
櫛無保年貢事、
仰、於寺用者、地頭抑留不可然之由、先度披仰下了、任彼趣重可被仰遺武家、
(図書寮叢刑)
この日記には、後嵯峨院の評定での記録が記されています。この日の記録には天候は雨で「法勝寺条々」が議せられ、その審議の中に「櫛無保年貢事」が出てきます。ここから櫛無保が京都の法勝寺の寺領だったことが分かります。また、鎌倉時代には、櫛無保の地頭が年貢を送ってこなくなり「抑留」していたことも分かります。この日の院評定で、櫛無保の年貢を抑留している地頭に、幕府に命じて止めさせるよう議定しています。
櫛無保 法勝寺1
法勝寺町バス停 地名として残っている
ここに出てくる法勝寺とは、どんなお寺だったのでしょうか?
法勝寺のあったのは、平安神宮の南側、岡崎一帯で、現在では京都国立近代美術館、京都市美術館、京都会館、京都私立動物園、都メッセなどの文化施設が建ち並ぶエリアです。
法勝寺

この地は、平安時代の後期、白河天皇が建立した寺院が大伽藍を並べる地域でした。その最初は、白河天皇が藤原師実から別荘地を譲り受け、1075年(承保2年)に造営を始めたのが法勝寺です。

法勝寺の説明版
 法勝寺の説明版
 白川天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えの下に、仏教を保護して統治する金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立したと伝えられます。この寺を、慈円は「国王の氏寺」と呼んでいます。それは天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王の寺院」ということのようです。白河には法勝寺に続いて次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれるようになります。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものでした。法勝寺には、金堂、五大堂、講堂、阿弥陀堂などが建ち並び、約四町という広大な寺域を誇っていました。
法勝寺の塔
①が法勝寺の大塔 ②が東寺五重塔 ③醍醐寺五重塔

1083年(永保3年)なると、高さ約80mという当時の高層建築である八角九重塔が建立されます。ちなみに現存する日本最大の塔は、東寺の五重塔で高さ55mです。

法勝寺八角九重塔 CG復元図

 また、白河には他にも次々と天皇の寺院が作られ、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺)と総称されました。しかし、文治元年(1185)の大地震で法勝寺の諸堂の大半は倒壊し、八角九重塔もかろうじて倒壊は免れたものの垂木はすべて落ちるという状態でした。1208年には落雷で八角九重塔も焼失し、一部は再建されましたが、1342年の火災で残る堂舎も焼失しました。鎌倉時代になると寺領からの年貢が途絶え、伽藍維持が困難になり衰退していきます。現在は遺跡をとどめるのみです。
 以上からは法勝寺は、11世紀末に白川天皇によって建立された「国王の氏寺」で、栄華を誇った寺院であったこと。それが鎌倉時代には、維持管理が出来なくなり衰退していったことが分かります。これだけの寺院の維持管理のためには、大きな経済的な基盤が必要です。そのために櫛梨郷もどこかの時点で、「櫛無保」に指定され法勝寺領になったようですが、その過程は史料がないのでよく分からないようです。ただ「保」という用語がついています。
保は、本来は国衛領のなかの特別行政区域になります。
 律令制が傾いてくると、封戸からの租税の徴収が困難になってきます。そこで封戸の代わりに田地を定めて、そこから納められる租税(官物・雑役)を封主に与えることになります。このような代替給付を行うことを便補といい、定められた田地が保と呼ばれるようになります。(便補保)。
 法勝寺も、落慶供養の6日後の12月24日に、1500戸の封戸が寄せられています。寺は出来ても経済的な基盤を保証されないと「持続可能」にはなりません。この封戸が何処にあったのかは分かりませんが、櫛無郷が便補保とされたのが法勝寺領櫛無保ではないかと研究者は考えているようです。

法勝寺跡
白川院・法勝寺跡

  島津忠義は、宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任された
 貞応三年(1324)9月7日付で、鎌倉幕府の北条泰時が藤原(島津)忠義を櫛無保地頭職に任命した開東下知状には次のように記されています。     
可令早左衛門少尉藤原忠義(忠時) 、為讃岐國 (那珂郡)櫛無保地頭職事、
右人為彼職、任先例可致沙汰之状、依仰下知如件、
貞應三年九月七日
                                                       武蔵守不(花押)   (北条泰時)
読み下しておくと
早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職と為すべき事。右の人彼の職と為し、先例に任せ沙汰致すべきの状、仰に依て下知件の如し、
貞応三年(1324)九月七日
武蔵守平(花押)    (北条泰時) 
藤原忠義は忠時ともいい、薩摩国守護島津氏の第二代当主のことです。
忠時の父忠久は、本姓は惟宗氏で、摂関家近衛家の家人です。近衛家の荘園である薩摩国島津荘の荘官となり、文治二年(1186)、源頼朝から島津荘惣地頭職に補せられて島津氏を名乗るようになります。藤原氏を称することもあったようですが、主家藤原氏(近衛氏)との関係を強調して家柄を高める意図があったのではないかとされます。これは古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏も同じようなことをやっています。

島津家系図
島津家系図

 島津氏は建久8年(1197)に、薩摩・大隅の守護職に任ぜられ、さらに日向の守護も兼ね勢力を拡大していきます。ところが建仁3年(1203)、二代将軍源頼家の外戚比企能員とその一族が反逆を起こし、北条時政によって滅ぼされたれます。(比企氏の乱)、この時に島津氏は破れた比企氏側に味方したために三か国守護職及び島津荘惣地頭職を没収されます。しかし、その後に薩摩国守護職だけはほどなく返され、建暦三年(1213)には、島津荘惣地頭職も返されています。ここでは比企氏の乱で、「勝ち馬」に乗れなかった島津氏が領地を大きく削られたことを押さえておきます。

承久の乱 (1221年)【政広】 - 居酒屋与太郎

島津忠義に復活のチャンスはすぐにやってきました。承久の乱です。
先ほど見たようにその3年後に、櫛梨保の地頭職が島津氏に与えられています。ここからは、この補任は承久の乱の功賞によるものと推測できます。島津忠久、忠義も承久の乱の当時は鎌倉に在住し、上京の軍勢に加わって戦功を挙げたようです。『吾妻鏡』の承久3年6月18日の記事には、14日の宇治川の合戦で敵を討ち取った戦功者98人の名が挙げられています。そのなかに「島津二郎兵衛尉(忠義)(辻袖離一ゑ)」の名前もあります。幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流し、上皇方についた貴族や武士の所領を没収して、戦功のあった武士たちに恩賞として与えました。島津忠義も宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任されたとしておきます。

地頭職

鎌倉幕府が武士に所領を与えるのは、当寺は地頭に任命する形をとりました。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の頭領であった羽床重基が、承久の乱の際に讃岐国の軍勢を率いて後鳥羽院の味方に参じ、敗戦で所領を没収されたことが書かれています。また『全讃史』には、綾氏の嫡流綾顕国が羽床重員とともに院方として戦ったと記されています。院方について破れた勢力は、当然領地没収されました。その跡に、東国武士たちが地頭として送り込まれたわけです。承久の乱で、地頭が置かれたことが明らかなのは、櫛無保のほか法勲寺、金倉寺、善通寺などです。讃岐の地頭のほとんどが承久以後になって現れる東国武士であることは、以前にお話ししました。
地頭が新恩の地に補任された時は、前の領主の所領・得分を受け継ぐのが原則です。承久新恩地頭の場合は、前領主の所領・得分が少なく、またはっきりとした基準がなかったので、やってきた地頭地頭に対して幕府は新しく所領・得分の率を次のように定めています。
①荘園全体の田地に対して11町について1町の割合で与えられる給田
②一段ごとに五升の加徴米徴収権
これを新補率法と呼びます。承久の乱後に地頭になったものを一般に新補地頭と呼んでいますが、厳密な意味では新補率法が適用される地頭が新補地頭になるようです。 これに対して、前領主の所領・得分を受け継いだ地頭を本補地頭と呼びます。島津氏が補任された櫛無保地頭職は、承久の乱後の地頭なので、本補地頭になるようです。
櫛無保は、封戸から転じた便補保ですので、地元に保司(ほうし)という保を管理する在庁官人がいて、租税を徴収して保の領主に送ります。したがって、保司は保全体に対して強い支配力を持つようになります。櫛無保にもこうした保司(武士団)がいて、保領主の法勝寺とは無関係に後鳥羽上皇方につき、所領没収の憂目を見たと研究者は推測します。

島津氏が前保司から受け継いだ櫛無の所領は、給田・給名などの限られた田地ではなく、上村・下村といった領域的な所領です。
さらに公文名や田所名を所有しています。これは下級荘官の公文や田所の所領名田です。地頭島津氏は、公文や田所の所職も兼ねていたことがうかがえます。公文は文書の取り扱い、年貢の徴収に当たる役人、田所は検田などに当たる役人で、これらの下級荘官は実際に田地や農民に接して検地や徴税に当たります。彼らの権限を掌握することは、地頭が荘園を支配する上で重要な意味を持ていました。ちなみに、櫛梨町には公文という地名が今も残ります。このあたりに公文名や彼らの舘があったことが推測できます。

島津氏は三代久経までは鎌倉に在住し、その後は薩摩国守護として薩摩に本拠を置いていました。
そのため櫛無保には、一族か腹心の家臣を代官として派遣して支配したようです。そして、今見てきたような背景から考えて、その支配力はたいへん強力なものであったと研究者は考えています。

最初に挙げた『経俊卿記』正嘉元年(1257)4月19日の記事には、この日の院評定で、法勝寺に納入すべき櫛無保の年貢を地元の地頭が送ってこないのを、幕府に命じて止めさせるよう議定されていました。地頭はもともとは土地管理、治安維持、租税の徴収などを職務とする役職で、所領を与えられたものではなく「領主」ではありませんでした。しかし鎌倉時代の中ごろから、地頭たちは次のような「不法行為」を次第に働くようになります。
①徴収した年貢を荘園領主に送らず自分のものとしたり(年貢抑留)
②給田以外の田地を押領したり
③規定外の租税を農民から徴収したりなどの手段で、荘園全体を支配下に置こうとする動き
櫛無保地頭島津氏も、①の年貢抑留という手段によって、櫛無保内の領主権をさらに強化しようとしていたことがうかがえます。
 隣接する善通寺領良田郷では地頭が年貢抑留に加えて農民の田地を奪い、永仁6年(1298)には、領主善通寺と土地を分け合う下地中分になっています。三野郡二宮荘でも、地頭の近藤氏と領家とのあいだで下地中分が行われています。さらに鎌倉幕府が倒れた元弘の乱の時には、荘園領主分の年貢をことごとく押領していたことは以前にお話ししまします。櫛無保以外でも讃岐各地で地頭の荘園侵略が進んでいたのです。
島津家系図

元寇前の文永二年(1265)、島津忠義(時)の嫡子久経が父のあとを継いで薩摩国守護となります。
文永四年(1267)12月に、忠義(忠時)は譲状を作っています。そのなかで、「櫛無保内光成名給米百石」については、次のように記されています。
こけふん (後家分)
さつまのくに みついゑのゐん
しなのゝくに かしろのかう
さぬきのくに(讃岐国)くしなしのほう(櫛無保)の内
みつなり名(光成)給米百石  一 このちはすりのすけ(修理免久経)
ここからは次のようなことが分かります。
①久経の母尼忍西に「後家分」として、「櫛無保内光成名給米百石」が給米として与えること
②百石という年貢はたいへん多いので、光成名は大きな名田で、荘官の給名田だったこと
③この給米は、彼女の死後は嫡子久経に返すように指示されていること
建治元年(1275)、それまで鎌倉にいた三代目の久経は、文永11年(1274)に、蒙古軍の再度の来攻に備えて九州にやってきています。そして弘安4年(1281)の弘安の役では、薩摩の御家人を率いて奮戦しています。久経は元寇後の弘安七年(1284)に没し、嫡子忠宗が4代目を継ぎます。
それから34年後に文保二年(1318)二月十五日に、忠宗は次のような2つの譲状を書いています。
    〔史料A 島津道義(宗忠)譲状〕
 〔島津道義譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
    ちやくし(嫡子)三郎左衛門尉貞久
さつまの國すこしき(薩摩国守譲職)
十二たうのちとうしき(地頭職)
さつまこほり(薩摩郡)のちとうしき(地頭職)
山門のゐん
いちくのゐん
かこしま(鹿児島)のこほり 同なかよし
さぬき(讃岐)の国くしなしのほ(櫛無保)上村・下村
しなのゝ(信濃)國太田の庄内南郷
下つさの國さむまの内ふかわのむら、下黒
ひうか(日向)の國たかちを(高千穂)の庄     
ふせん(豊前)の國そへたの庄
右所ヽ、貞久にゆつりあたうる(譲り与える)所也、女子分子なくば其一この後ハ、そうりやう(総領)貞久可知行之状□□
文保二年二月十五日     沙爾道義(花押)
 (島津家文書)
   〔史料B 島津道義納譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
女子大むすめ御せん分
さぬきの國くしなしのほう(櫛梨保)のうちくもんみやう(公文名) 同たところみやう(田所名)
右、大むすめ御せんにゆつりあたうる所也、但、子なくハ、一この後ハ(死後は)、そうりやう(総領)貞久ちきやうすへし(返還すべし)、乃状如件、
文保二年三月十五日      沙爾道義(忠宗)(花押)
史料Aは、忠宗が、嫡子貞久に譲ったすべての「領地」の中に、讃岐国櫛無保の上村・下村も含まれています。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)の地になります。
 ところが忠宗は同じ日に、史料Bの譲り状を書いています。そこには「女子大むすめ御前」に櫛無保内の公文名・田所名を譲り、ただしこれについては、その死後には惣領貞久に返す定めであると記されています。このように所領を生きているあいだ(一期)に限り認め、死後は一族の惣領(家督を継いだもの)に返  す規定は、領地分散を防ぐための方策で、鎌倉中期以後武家領のあいだでは一般的になります。特に女子は、そのままでは婚嫁先に所領が移ってしまうので、この規定が設けられるようになったようです。櫛梨保地頭職は、島津氏出身の女性たちに一代限りで認められ、死後は総領に返却され、島津家のものとして相続されたことがうかがえます。
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文元年(1356)8月6日に、足利義詮が島津貞久に与えた安堵下文には、櫛無保上村・下村のほか、公文名・光成名が加わっています。ここには公文名とともに貞久に返されるはずの田所名がありませんが、その所有については分かりません。

櫛無郷2
櫛梨(明治39年地形図)

 貞久は、鎌倉幕府が滅亡する2年前の元徳三年(1321)八月九日に嫡子生松丸(宗久)に、薩摩国薩摩郡以下の所領を譲っています。
そのなかに櫛無保については次のように記されています。
さぬきの国くしなし(櫛無)の保上村・下村 此内上殿給ハ、資久一期之後可令知行之
同くもんみよう(公文名)
同みつなりみやう(光成名)
これによると上村・下村のうちに「上殿給」というのがあって、当時は貞久の弟である資久がそれを知行していたことが分かります。そしてこれは「資久一期」のもので、資久の死後は宗久が知行することになっています。しかし、宗久は父貞久に先立って死んでしまいます。 すでに老齢に達していた貞久は、その後二男師久、三男氏久とともに貞治二年(1363)、95歳で亡くなるまで、南北朝動乱を戦い抜くことになります。その混乱の中で、島津家も櫛無保の地頭職を押領され失っていくようです。
以上をまとめておくと
①櫛無郷は延喜式の櫛梨神社一帯に成立した古代の郷である。
②櫛無郷は白川天皇が造営した法勝寺の保に指定され櫛無保となった。
③鎌倉時代の承久の乱後に、櫛無保の地頭職を得たのが島津氏である。
④島津氏は地頭として、領主である法勝寺への「抑留」などを行いないながら、実質的な支配権を獲得していった。
⑤櫛無保は、一時的には女性の一代限りの相続を経ながらも、基本的に島津氏の棟梁が相続して引き継がれて行った。
⑥しかし、南北朝の動乱期に「押領」を受け、島津氏の支配から脱落していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
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丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
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今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
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大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
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大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
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さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
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薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
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ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

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 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
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しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
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称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
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現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献

小松庄 本荘と新荘
本庄城と石川城の推定地(山本祐三 琴平町の山城)

「本条(本荘)」という地名が琴平五条に残っています。このエリアが九条家が小松荘を立証した際の中心で、もともとの立荘地とされているようです。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。新荘(庄)については、榎井にあたり、そこに石川氏が居館を構えていたことを前回に見ました。今回は、本荘を探ってみることにします。テキストは前回に続いて「山本祐三 琴平町の山城」です。

五条にあったとされる居館跡(城址)は史料には、次のように記されています。
『讃岐廻遊記』1799年
榎井村光泉(興泉)寺  一向宗にて 美景の庭有り 井法蔵ひくの尊像有 和田小太郎兵衛正利 屋鋪と云
『讃州府志』1745年
本庄城 小松庄ニアリ 能勢大蔵之二居タリ 文明(1469~87)中 泉州人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)此邦ニ来リ大蔵ノ嗣トナル…入道シテ寺ヲ建テ祐善坊卜云フ 今の興泉寺是ナリ
〇興泉寺  同上 真宗興正寺末寺 天文二年(1533)榎井僧祐善ノ開基也 昔文明二年泉州人和田小太郎兵衛正則ナルモノ  此邦ニ来リ能勢大内蔵ノ養子トナリ 姓フ泉田卜改メ後剃髪シテ本願寺二帰シ 祐善坊卜琥シ寺ヲ立テタリト云フ
  ●『全讃史』1828年(現代語訳)一古城志―
本庄城  同郡(那珂郡)小松庄に在る。
能勢大蔵(のせおおくら)がここにいた。文明(1469~87)中、泉州の人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)がこの邦に来たり、大蔵ノ後嗣(養子)となった。天文(1532~55)中に入道し寺を建てて祐善坊といった。いまの興泉寺がこれである。
●『讃陽古城記』1846年
一 同(那珂郡)  同村小松庄割季分城屋敷  能勢大蔵 今本庄卜云
一 同(那珂郡)  同村泉田屋敷   和田小太郎兵衛正利 右正則 泉州之住和田和泉守孫ナリ 文和(文明の誤りか)年中当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之養子分二成り 後改名泉田氏卜云 剃髪シテ号祐善坊卜 今興泉寺卜云
  ●『古今讃岐国名勝図絵』1854年
◎榎井村
○興泉寺  同所にあリ ー向宗京都興正寺末寺
 文明2年(1470年) 泉州人和田小太郎兵衛正利なる当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之の弟子となり 姓を泉田と改め、剃髪して本願寺に帰し、祐善坊と号し寺を建てたという
○割季分城屋敷跡 同所にあり 能勢大蔵といふもの是に居たり 今此地を本荘という。
○泉田屋敷跡 同所にあり 和田小太郎兵衛正利と云者是に居たり 正則は泉州和田和泉守が孫なり
○本庄城  小松庄にあり 能勢大蔵之に居たり 文明中(1469~87)和田小太郎兵衛正利(正則の子)此邦に末り大蔵嗣となる。天文(1532~55)入道して寺を建て祐善房と云う
  ●『新撲讚岐国風土記』1898年
本庄城  那珂郡榎井村  能勢大内蔵    六条の南民四、五軒ある所を本庄という。少し東に小祠ある所など城跡ならむ
馬場  那珂都五条村    馬場南大井堀地 馬場北
  『仲多度郡史』(大正7年(1918)
本庄城址  神野村 大宇 五條
村の北部 榎井村 宇 六條の地に接する所にあり。
元は榎井村たりき。而して今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。
榎井村興泉寺々伝に「沙円祐善の草創なり。文明二年(1470)和田小太郎兵衛正利、この地に来たり 能勢大内蔵の養子と為り 姓を和泉田と改む。後剃髪して本願寺に属し 祐善坊と称す」云々とあれは 廃城の事明らかなり。今榎井村の血泉秀八は其の一門の裔なりと云ふ.

これらの史料から分かることは、
①本庄城の城主は、能勢大蔵(おおくら)則季(のりすえ)
②「泉田屋敷」は、興泉寺の地のことらしい。
③泉州から移ってきた和田正則が、本庄城主の能勢大蔵の弟子となって本庄城の北の興泉寺の辺りの「泉田屋敷」にいた。
④和田正則は後に剃髪して祐善と号し、興泉寺を建立した。
⑤「泉田屋敷」と呼ぶのは、和田正則がもともと泉州に居た和田氏(泉州之住和田和泉守孫)の子孫なので、琴平に来てから「泉州+和田」=「泉田」と名乗った。
⑥彼が住みついたところが「和泉屋敷」で、後に興泉寺と呼ぶようになった。興泉寺というのは「州からる」の意味
ここまではなんとかまとまるのですが、以後が文書によってバラバラです
⑦和田正則が能勢氏の養子となって、本庄城と和田屋敷を相続した
⑧和田正則には男子がなかったので、能勢家から男子を迎えて養子とした
興泉寺に残る「橘楠和田系図」は⑧の立場です。「琴平町の山城」では、この系図が信頼性が高いとして、⑧を採用しています。
 
  ちなみに泉州からやってきてた和田正則は「入道して寺を建て祐善房と云う」とあります。彼は修験者であったのではないかと私は考えています。この時期から金毘羅山は修験道のメッカであった気配がします。そして、能勢氏も入道し、修験活動を行っていたのではないでしょうか。その能勢氏に和田正則は「弟子」となり入門し、男子がいないので師匠の子どもを養子として迎えたと推測します。金毘羅山の里には、そのような修験者たちが住み着き有力者に成長していたことが考えられます。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址2 

もう一度、能勢大蔵則季の居館とされる「本庄城(居館)」の位置を見てみましょう。
 これは、現在の琴平高校の北側の「八反地」とよばれるエリアだとされてきました。そして、仲多度郡史には「今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。」とあります。
ここからは、六条の南民四、五軒ある所が本庄で、その少し東に小祠ある所が「城跡」らしい。しかし、数年前に取り壊された」とあります。約百年前に、祠はなくなったようです。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址 

 小松荘本荘は、琴平町 五条に相当します。
そして、五条の「本条 八反地」に居館跡はあったようです。明治の地籍簿を見ると、「八反地」は現在の琴平高校の北側のエリアであったことが分かります。広さは、2400坪ですので(1坪=畳2丈=1,8㎡)で計算すると、4320㎡で、約65m×65mの広さになります。中世の居館としては、少し小規模な感じです。
 この付近が九条家荘園の小松庄の立荘の際の中心で「本所」であったと、町誌ことひらは推測しています。
琴平町八反地 本庄城址 
「山本祐三 琴平町の山城」から

手がかりはとなるのは、次の記述です
①六条に接する辺りには「田城(居館)」があった。(『琴平町史』(昭和45年(1970))
②居館の東に祠あり、「椋木祠」と称せりが、数年前に廃せり「仲多度郡史』大正7年(1918))
手がかりは「椋木祠」のようです。「椋木祠」があれば、そこが居館の東側にあたることになります。「琴平町の山城」には、現地を歩いて「椋木祠」を探しています。そして、二本の石柱を見つけます。これが「椋木祠」跡ではないかと推測します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「山本祐三 琴平町の山城」

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  以前に紹介した「琴平町の山城」です。著者は私のかつての同僚で、ライフワークとして讃岐の山城を歩きつぶしていました。退職後はその集大成として、調査した山城の成果を各町毎に次々と出版しています。「琴平町の山城」の中には、私にとっては刺激的な山城がいくつか取り上げられています。そのひとつの櫛梨城は、以前に紹介しました。今回は小松荘(琴平町)の榎井にあった石川城(居館)を、この本を手に散策してみることにします。
 琴平 本庄・新庄
琴平町の山城より引用

 小松荘には「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこには、それぞれ有力な地侍がいたことを前回は見ました。それでは「本荘」と「新荘」は、現在の琴平町の、どこにあったのでしょうか。また、その有力者とはどんな勢力だったのかを今回は見ていくことにします。
 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、下の地図の党利現在の琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアではなかったのかと研究者は考えているようです。
琴平 本庄・新庄2
山本祐三「琴平町の山城」より
 
一方、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。
 「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」・「新荘殿」と記されています。ここからは、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。それでは新荘殿とは、どんな武士団だったのでしょうか?
 それを知るために榎井の「春日神社」を訪れてみました。
 
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春日神社(琴平町榎井)
この神社は小松の荘が九条家(藤原氏宗家)の荘園として立荘された際に、藤原氏の氏寺である奈良の春日大社が勧進されたのが創始されたと云われます。しかし、社伝には、そうは書かれていないのです。社伝には、もともとは榎井大明神を称しており、社伝によれば榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられたと云います。そして次のような記録が残ります。
寛元 二年(1244) 新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治 元年(1362) 新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄十二年(1569) 石川将監が社殿を造営

 新庄氏・本庄氏については、前回に見た観応元年(1350)十月日付の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などの名前が出てくる一族です。彼らは、もともと小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として、戦国期には小松荘を基盤に活動する地侍たちと研究者は考えているようです。
 ここからは、中世に榎井明神(春日神社)の維持管理を行ってきたのは、新庄氏であり、その一族である石川氏であったことがうかがえます。このようにして見てくると、この春日神社は新庄氏、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたと町誌ことひらは指摘します。
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春日神社の出水
 春日神社には、神域の中に出水があります。
南の大井神社方面から流れてくる水脈が地下を流れているようです。この出水を中心に古代には、開発が進められたようです。この湧水地に水神や水上神が祀られ、それが祠となり、中世には建造物が姿を現すようになったことが想像できます。それが榎井大明神と呼ばれていたのが、いつの間にか春日神社と名前が変わってしまったのかも知れません。
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春日神社の湧水と水神社
 この神社を訪ねて私の印象に残るのは、本殿の南側の湧水です。底から湧き出す伏流水は青く澄んでいます。ここには水神さんの祠が建てられています。これがこの神社の原初の姿だと私には思えてきます。ちなみに、この透明な湧水で近くの武士団のお姫様が化粧の際には、顔を洗ったので「化粧堀」とよばれているという話が伝えられています。

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 春日神社の北側には、醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけて見ると、下図のように石川氏の居館跡の続きます。
小松荘 石川居館

春日神社の西北には、中世武士の居館跡があったようです。
「琴平の山城」には、上のような地図が掲載され、2つの推定エリアが示されています。小さい「中心部?」という枠で囲まれたエリアが居館跡になるようです。これは、現在では、国道319号によって貫かれたエリアで、コトデンの高架橋の南手前の信号付近になります。
この地図を参考に現地を歩いてみました。居館周囲の堀の痕跡が次のように残っていると指摘します。
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東側の堀跡(隣は長谷川佐太郎の墓地)
①東側の堀が、長谷川佐太郎墓地との墓地の間に

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北側の堀跡
②北側の堀が京金醤油のとの間に残ります。
居館跡の西端には、榎井蔵中の新しい鎮守堂が鎮座しています。
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榎井鎮守堂
この鎮守堂に掲げられた「説明板」には、次のように記されていました。

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当地は石川将監の「石川城址」であり、子孫の豪族石川家が居住し、江戸時代榎井村の庄屋をつとめ、金比羅祭の頭人(とうにん)を出す頭屋(とうや)であった。石川家鎮守は、古代石川城の西に位置し、霊験あらたかな神として万人に崇敬されている。祭神  弁財天
善女龍王(清瀧権現)」

この鎮守堂が建つ所から東側が石川氏の居館跡のエリアになると 「琴平の山城」は記します。

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そして、次のような聞き取り調査の結果を記します。

「この鎮守はもともとは「石川家鎮守堂」ですが、個人名では、一般の人のお参りがしにくいので、今では「榎井町鎮守」として祀られている。7月26日(正当縁日)は、石川氏の命日として、今でも毎年お祭りをしている。

昭和の初めまで、このあたりは樹木と竹藪が覆い茂って「石川藪」と呼ばれていた。東側の外堀(現在は水路)は、春日神社からの清らかな水が流れていて、城の姫はこの水で顔を浄め化粧したと伝えられる。そのためこの水路は、化粧股と呼ばれていた。
 
  中世の武士居館の特徴は、水源開発と絡んで行われることが多かったようです。居館まで水源から用水路を整備し、それを居館周囲の堀として、さらにそこから周辺に用水を供給するというプランです。

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榎井神社からの用水路の又(分岐点)に建つ三十番社

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ここでも榎井大明神(春日神社)の湧水を居館まで用水路で引き、その後に周辺に用水路として農業用水を配布していた地侍達の農業経営の姿もうかがえます。
 この居館の主は、どんな武士だったのでしょうか。
「琴平の山城」は、次のような史料を紹介しています
『讃州府志』1745年
榎井城 榎井ニアリ 石井(川?)将監之二居タリ
『全讃史』1828年(現代語訳) 一古城志一
榎井城  那珂郡榎井村に在る。石井(川?)将監がここに居た。
『讃陽古城記』1846年
 同(那珂郡) 榎井村大屋敷  石川将監居城卜云テ 今有小城ト云
讃岐岐国名勝図絵』1854年
榎井村屋敷跡  同所(榎井村)にあり 石川将監是に居たりしなり。今の地を小城ともいう 
●『新撰讃岐国風土記』1898年
石川城  那珂郡榎井村  石川将監 中町の北裏にあり 石川将監之に居たり。全讃史に石井とあるのは誤りなり。いまは六反ばかりの畑地にして、将監が子孫と云う石川某が屋敷となれり。又北には三方に外堀残れり。また北には樹木茂りて、東には地蔵堂、西には弁天祠あり。
『仲多度郡史』(大正7年(1918)
石川城址  榎井村 中ノ町の北裏に営れる所に在り。石川将監の城址なりと云ふ。現今は六段餘歩の畑地となりて 将監が子孫と称する石川某の屋敷なれり。東北西の三方には外堀残れり。又北には樹木を存し 東に地蔵堂あり、西に弁天祠あり
或記|こ「榎井 石川兵庫助従五位下 七千二十石」と見ゆるは是に由あるか
ここからは次のようなことが分かります。
①榎井の城(居館)の主は、石川氏であること
②明治の中頃には、居館跡とその周囲の六反ばかりは、畑地となっていたこと
③東西北に外堀が残っていたこと
④東に地蔵堂があり(現在はない)、西側に弁天祠があった。これは現在は鎮守堂として残っている。
居館の周辺の施設を確認しておきましょう
①東には三十番神堂、榎井大明神(春日神社)
②東の堀跡に面して、長谷川佐太郎墓地、
③西側に鎮守堂(弁天祠、善女竜王堂)。
④西南には、玄龍寺。

以前にも紹介したように、中世武士の居館は、周囲に堀を巡らし竹木を植えた土塁を○○城と表記していました。石川城址は、百年前の大正時代までは東北西に堀を巡らした、竹木の藪であったことが資料から分かります。これは典型的な中世武士の居館です。このエリアが石川氏の居館である可能性は高いようです。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
中世の居館
石川氏についての史料には、どんなものがあるのでしょうか?
石川氏については、西長尾城主の長尾氏が南北朝時代に軍功を挙げて、庄内半島から長尾(まんのう町)やってきた。その際に、家臣として長尾氏についてやって来て、小松庄に定着したのが石井氏や石川氏であると記す史料があります。これが「石井家系譜」で、町史ことひらにも収められています。

 石井家系譜

意訳変換しておくと
十一世 石井太郎左衛門  信光
貞和二年(1346年)正月に、三野郡の海崎・詫間両城主の大隅守橘元高(もとたか)に仕えて五百石を受け、馬廻り武士組となった。
 その後貞治元年(1362)に主人の大隅守が北朝の勅命によって、南朝方の長尾城(西長尾城)に遠征し、中院源少将(なかのいんみなもとのしょうしょう)を誅伐し、その勲功によって主人橘元高は讃岐国の奈賀(那珂郡)・鵜足(宇多津郡)の二郡を賜り、學館院領とした。讃岐国で、北朝将軍(足利)義詮公より六万石を賜っている。
 これによって橘元高は長尾に新城を築き、応安元年(1368年)正月七日に海崎城より長尾城へ移り、長尾大隅守と改名した。
 この時に石井太郎左衛門・石河兵庫介・三井大膳守も勲功によって、那珂郡小松庄に領地をもらつた。榎井・五条・苗田の半分の三か所はおよそ學館院領のうち三千石となり、石河兵庫介に下された。石河はすなわち榎井に居城した。また四条本村・苗田本村・松尾本村のおよそ学館院領のうちの二千石は石井太郎左衛門に下された。石井は松尾愛宕山の陣所に居城した。四条半村・松尾半村・大麻上村はおよそ学館院領のうちの二千石となり、三井大膳に下された。三井は松尾西山に居城した。

しかし、これは300年以後の後世の文書で、同時代史料ではありません。石井・石川氏たちが海崎氏(後の長尾氏)に、西長尾城にやってくる以前から仕えていたということが強調された作為が感じられる史料のようです。どちらにしても、小松荘の地侍たちが長尾氏に従っていたことは押さえておきます。

それでは、石川氏が同時代文書に出てくるのはいつ頃からなのでしょうか。 
前回見た「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったようです。
 南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘の惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったことが想像できます。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。この中に榎井の石川家も入っています。

 法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。その背景には、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

次に町誌ことひらの史料編に収められている〔石川家由緒書〕を見てみましょう。
石川九左衛門事
一 曽祖父            改
           石川権兵衛
右者生駒讃岐守正俊様へ被召出地方二而弐百石頂戴、榎井村二住居仕 御番出府仕候
一 祖父        石川六郎兵衛
右者生駒家牢人之後、藤堂大学様へ罷出、中小性役相勤居申候処、病氣二付、御晦申請罷帰り、榎井村二牢人二而住居仕居申候
一 親         石川平八
延宝之頃御料所榎井村庄屋役被仰付候
御預り地之頃る御出入御目見被為仰付候
右平八悴
                          平八
当時御出入御目見被為 仰付候
            倅 弥五郎
当時庄屋役相勤御出入御目見へ被為仰付候
            倅 石川九左衛門
            御駕籠脇組頭役相勤居申候
当時酒井大和守様二相勤御小性役相勤居申候
右之通二御座候 以上                     平八(二代目)
意訳変換しておくと
曽祖父の石川権兵衛は、もともとの名である九左衛門を改名したものです。曽祖父が生駒家から知行をもらいながら、榎井村に住み、御番の際には高松城下に出府していました。
祖父・六郎兵衛は、生駒騒動後に浪人となりましたが、その後は藤堂家に中小性役として仕えていました。しかし、病身のため暇を頂き、榎井村へ帰って牢人していました。
私の父である初代平八は延宝年間に、池御料所の榎井村の庄屋役を仰せつかるようになりました。
そして、享保六年(1721)年から高松藩の預りの池御領に出入り御目見えさせて頂くようになりました。二代平八の私や、倅の弥五郎もそれを引き継いでいます。なお、もう一人の悴である九左衛門は、酒井大和守様に奉公しています。
この由緒書からは次のようなことが分かります。
①祖父母の時代に生駒家に地侍として知行二百石で召し抱えられた。
②しかし、生駒騒動で牢人となった
③祖父の時代に、生駒家の外戚である伊賀藤堂家に召し抱えられたが病弱で帰讃した。
④小松庄に帰った後に。父平八の代には、榎井村の庄屋を務めるようになった。
⑤この由緒書きを書いたのは二代目の平八である。

生駒藩は讃岐の地侍達を数多く召し抱えます。それ以上に、生駒家の重臣達が召し抱えた地侍は多かったようです。以前にもお話ししましたが生駒藩では、家臣達は自分の領地に居着いたままであったようです。石川氏も、長宗我部元親の讃岐侵入をやり過ごし、なんとか戦国末期を乗り切り、生駒氏の地方侍として知行を得る身になっていたとしておきましょう。
 しかし、生駒騒動でお家は断絶し、浪人の身となりますが生駒藩の外戚である伊賀の藤堂家に再就職ができたようです。しかし、祖父が病弱のため暇乞いをして讃岐に帰ってきたと記されます。
 ここで疑問に思えるのは石川氏は中世以来、小松荘の有力地侍であったはずです。前回見たように、「神事記」には石川家の名前は、宮座の構成メンバーとして次のように登場します。
慶長十二年石川庄太郎
元和 三年石川権之進、
寛永十八年石川幾之丞
承応元年(1653)喜太郎子三太郎、
寛文三年(1663)喜太郎子権之介
の名前が見えます。
ここからは、戦国末期からは、石川氏は小松荘の庄官でもあったことが分かります。しかし、提出された由緒書きには、そのことが何も触れられません。庄大郎以前のことは、忘れ去られていたのでしょうか。それとも別系統の石川氏なのでしょうか。今の私には、このたりのことはわかりません。

 豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。この史料からは小松荘の地侍のひとりである石川家は後者を選び、榎井村の庄屋としての道を歩んでいたことが分かります。それが、石川氏の居館跡で、その周囲六反地だったのかもしれません。しかし、石川家が途絶えた後は、居館は堀に囲まれた竹藪と、その周辺の畑地となっていたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献
山本祐三 琴平町の山城 石川城 
町誌ことひら第1巻 室町・戦国時代の小松・櫛梨
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金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

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 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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    藤原鎌足より続く藤原一族の宗家にあたる九条家は、小松荘(琴平)の荘園領主でもあったようです。九条家に残る史料から小松荘という荘園を見ていきます。テキストは町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」です。
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九条兼実(かねざね)と讃岐那珂郡小松荘          
 小松荘が最初に史料に見えるのは、元久元年(1204)4月23日の九条兼実が娘で、後に鳥羽天皇の皇后となった宜秋門院任子に譲った25の荘園(女院庁分)の一つとして「讃岐国小松荘」と出てくるのが初めてのようです。
五摂家とは - コトバンク

九条兼実は、久安五年(1149)、摂政藤原忠通の三男として生まれます。
彼の生きた時代の主な事件を挙げると、
 8歳の時  保元の乱
11歳の時  平治の乱
37歳の時  平氏の滅亡、
44歳の時 源頼朝の征夷大将軍就任
という事件に遭遇しています。後白河上皇の院政  → 平氏の全盛と滅亡 → 鎌倉幕府の成立という歴史の大転換期を生き抜いた人物のようです。関家の三男ですから出世は早く、13歳の時に権大納言、13歳で内大臣、18歳で右大臣ととんとん拍子です。彼は、まじめな性格の兼実は、放縦といっていい後白河院政に対して批判的で、成り上がりの平氏政権にも非協力的な態度で接します。そのために両者から疎んぜられます。院や平氏に近づいて摂政関白となった長兄基実の子基通や、次兄基房とはちがい、政治の中心から遠ざけられて、官職もしばらく右大臣の地位のままにあったようです。

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しかし、それが幸いするようになります。鎌倉幕府が成立すると、後白河天皇や平家に距離を置いていた兼実は、頼朝の推挙を得てにわかに脚光を浴びることになります。京都九条に邸宅を構えていたことから、九条右大臣と呼ばれ、兼実の後は九条家を称するようになります。また、父の忠通の居宅近衛殿に住んだ基実の子孫は、近衛家となり、ここに藤原摂関家は九条・近衛の二流に分かれることになります。これが後の藤原氏の宗家をめぐっての争いの原因を生み出すようです。
九条良経とは - コトバンク
九条良経(よしつね)

九条家領小松荘の成立   
 小松荘がいつ成立したのは、建永4年(1209)以前に、兼実の子良経(よしつね)が讃岐の知行国主であった時に寄進されたものではなかと研究者は考えているようです。荘園のエリアは詳しくは分かりませんが、小松郷のほとんど全域が荘園化されたようです。

まんのう町の郷
小松郷と周辺郷

国衛領である郷が寄進されて荘園となることについては、「善通寺一円保」の所で以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
11世紀後半ごろになると、国司は有力な地方豪族たちを郡司や郷司などの地方役人に任命します。そして、彼らの力を利用して、農民の支配や徴税を進めようとします。こうなると、郡や郷は国の行政単位ではなくなり、郡・郷の徴税権、農民の支配権をあたえられた地方豪族の所領へと性格を変えていきます。こうして豪族は、自分の開発した所領ばかりでなく、郡司・郷司という肩書きを得て、郡・郷全体の個人所領化を進めていくようになります。国家の所領をかすめ取り、個人所有化が進められたのです。
 しかし、このようなことができたのは、彼ら地方豪族が、国司から任命された郡司・郷司の地位にあったからです。そのため国衛への官物、年貢の納入を怠ったり、国司の命令をきかなかったりして、その職を解任されれば、たちまちその基盤は崩れてしまいます。そこで彼らは、国司より権力がある皇族・公卿あるいは大寺社などに、自分の開発所領のみならず、国から委託された郡・郷までも寄進して、その有力者の荘園にしてしまうようになります。これが郡・郷単位で広大な寄進地系荘園が成立してくる背景です。

寄進系荘園の成立

讃岐の場合は、郡がそのまま荘園化するのは、東讃の大内郡が荘園化した大内荘以外にないようです。しかし郷単位の荘園は多数でてきます。金倉川流域だけでも、次のような荘園がありました。
①琴平の小松荘(九条家)
②まんのう町の園城寺領真野荘
③善通寺の金倉荘
④善通寺の善通寺領良田荘、
⑤多度郡の賀茂社領葛原荘
⑥多度郡の高野山一心院領仲村荘
 荘園成立の際には、自分の開発所領だけでなく、本来国衛領である土地を自分が支配権を握っているのを利用して寄進するのです。これは国衙の管理する土地が減り、減収を意味しますから、国司の立場としては反対するのが当然です。
荘園構造

そのため寄進先は、国司の反対を十分に抑えることができる有力者が選ばれることになります。寄進を受けて荘園領主になった寺社や貴族を領家と云います。領家が国司を抑える力がない場合は、さらに領家から上級の有力者、例えば院、摂関家、大寺社などに再寄進されることになります。その再寄進を受けた上級領主が本家と呼ばれます。そして寄進した地方豪族は、下司・公文などの荘園役人となって実質的な荘園支配を行うようになります。
 こうして成立した荘園は「本家―領家―下司ー公文」という階層的に重なった形となります。その下は、荘園のなかに住む有力農民が名主となり、その経営する田畠(名田)の年貢と公事を納入するようになります。残りの農民は小百姓や下人といい、名主の名田や下司・公文の領地、荘園領主の直属地を小作します。これが寄進地系荘園の構造です。高校で習った日本史の復習のような感じになってしまいました。
以上は、寄進が在地領主によってなされた場合です。これに対して知行国主や院などが寄進を行う場合があります。例えば、兼実の孫の九条道家が讃岐の知行国主であった時に、寒川郡神崎郷を興福寺に寄進して神崎荘としています。また真野荘は後鳥羽上皇によって那珂郡真野郷が園城寺に寄進されたものです。摂関家が荘園に対して持っている権限は、本家職である場合が多いようですが、九条家が小松荘に対して持っていた領主権は、領家職でした。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 小松荘も在地領主による寄進ではなく、九条兼実が、良経の讃岐知行国主としての地位権限を利用して、九条家に関わりある寺社に寄進して荘園としたということは考えられます。そしてその寺社を本家とし、自らは領家としての権限を握るという手法がとられたのかもしれません。ただし兼実やその後の譲状には、本家としての寺社の注記はないようです。これもあくまで推測です。
寄進系荘園の構造

 建武三年(1336)6月、九州から攻め上った足利尊氏は、上皇の弟豊仁親王を立て光明天皇とします。
その10日後の8月24日、九条家の当主道教(みちのり)は、自分の知行地の目録を提出し、次のような足利尊氏の安堵を受けています。
御当知行の地の事、武士の違乱を停正し、所務を全うせしめ給うべく
 候、恐々謹言
     九月十八日      尊氏御判
   九条大納言入道殿        
この辺りの次の天下人の見極めが九条家の眼力であり、生き残りの力だったのかもしれません。この安堵状に付けられた目録には道教の所領が40か所、記されています。そのなかに「讃岐国小松荘領家職」が見えます。ここからは小松庄(琴平)が14世紀の半ば頃までは、引き続いて九条家の所領となっていたことが分かります。その後は、金蔵寺が小松荘の地頭職を持つようになるようです。

「金刀比羅宮文書」の中には南北時代の寄進状が4通あるようです  
①康安二年(1362)4月15日 預所平保盛小松庄松尾迦堂免田職寄進状
②応安4年(1371)11月18日 僧頼員断香免田寄進状
③康暦元年(1379)9月17日 御寺方御代官頼景寄進状
④永徳二年(1382)3月26日 平景次子松荘松尾寺金毘羅堂田地寄進状

この中の①④は松尾寺金比羅堂への免田寄進状ですが、年号的に明らかな偽書であると研究者は指摘します。金毘羅神が産み出され、そのお堂が建立されるのは16世紀後半になってからです。①④は始めて金比羅堂を開いた宥雅によって捏造された文書と研究者は考えているようです。この中で信用できそうなのは③の康暦元年の寄進状です。これを見てみましょう。
奉寄進  
松尾寺鐘楼 免田職事
 合参百歩者 御寺方久遠名無足田也。在坪六条八里十一坪
 右件の免田職に於ては、金輪聖王、天長地久、御願円満、殊には、当荘 本家、領家、地頭、預所安寧泰平故也。勁て寄進し奉らんが為め、状件の如し、
   康暦元年九月十七日
            御寺方御代官 頼景(花押)
意訳変換しておくと
奉寄進について  
松尾寺鐘楼の免田職について、合わせて三百歩は久遠名のことで、六条八里十一坪に位置する。この免田職については、金輪聖王、天長地久、御願円満、さらには当荘の本家、領家、地頭、預所の安寧泰平のためであもある。寄進し奉納すること件の如し
 康暦元(1379)年九月十七日
            御寺方御代官頼景(花押)
ここからは次のような事が分かります。
①14世紀後半の小松荘(琴平)に、松尾寺という寺院があったこと
②松尾寺の鐘楼管理のために免田が寄進されたこと
③その免田は久遠名と呼ばれ、位置は那珂郡の六条八里十一坪あたること
④寄進状の「本家・領家・地頭・預所」が小松荘の領主階級であること。具体的には
 A 本家・領家は荘園領主で、小松荘の本家は不明
 B 領家は、九条家
 C 地頭は荘官で、在地領主で実際に小松荘周辺を拠点にしていた武士団(不明)
 D 預所は荘園領主(領家)によって任命され、領家の代理として荘園の管理を行う人物。領家の腹心の人物で、摂関家領の場合は、摂関家に仕える家人が任命されることが多かったようです。
⑤「御寺方御代官頼景」とあり、花押を書いた頼景の肩書きは「御寺方代官」とあるので、この人物が「預所」だったことが分かります。

以上を総合すると、小松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。これ以外にも一定の寺領があったようで、その寺領の代官を「御寺方御代官頼景」が兼ねたとしておきましょう。
 さて、それでは松尾寺鐘楼の免田は、どこにあったのでしょうか。寄進状には「六条八里十一坪」とあります。これを条里制遺構図で見てみると・・・
岸の上遺跡 那珂郡条里制
  
 丸亀平野の条里制は、東から一条→二条。里は南から一里→二里と打たれています。小松荘(現琴平)は、「金比羅ふねふね」で謡われるとおり「讃州那珂郡 象頭山 金刀比羅宮」で、那珂郡に属します。那珂郡の条は上図で見ると「六条」は現在の金倉川沿いのエリアになります。八里は現在の善通寺と琴平の境界線の北側のエリアで、赤印が「六条八里」になります。大麻神社の北東部になるようです。旧市街周辺にあるものと思っていたので、意外な感じがします。
  延慶二年(1309)の「九条忠教注給条々」という文書には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には馬を飼育する牧場があったことがうかがえます。本当なのでしょうか?
  江戸時代初期、生駒騒動で生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』には、こんな記事が載せられています。

「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」

意訳変換しておくと
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があるが、これに三野郡の麻山を加える

ここに出てくる「能(よ)き牧」とは牛馬が放たれていた牧場のことのようです。確かに大麻山のテレビ塔から南には、石の遺構が長く伸びて残っています。これは、一体何だろうと疑問に思っていたのですが、この文章を見て牧場跡の遺構ではないかと密かに推測しています。中世には、大麻山の緩やかな稜線は牧場で牛や馬が飼育されていたとしておきましょう。話が横道に逸れてしまいました。元に戻しましょう。 
金蔵寺の小松荘地頭職 の獲得について
 預所に対して地頭は、その多くは荘園の寄進者でした。彼らは在地領主で下司・公文などに任じられていたようです。これが鎌倉将軍の御家人となり地頭と称するようになります。その任命権を鎌倉幕府が握ぎり、東国からの御家人が占領軍指令のような気分で西国に乗り込んできます。ある意味、東国武士団による西国の占領地支配です。そのため預所と地頭は荘園支配をめぐって、しばしば対立し争そうようになります。小松荘の鎌倉時代の地頭が誰なのかは分かりません。しかし、南北朝時代の地頭については「金蔵寺縁起条書案」という文書に次のような記載があります。

尊氏将軍御代、貞和三年七月二日、小松地頭職 御下知状給畢                          金蔵寺

  ここには貞和三年(1347)7月2日に金蔵寺が足利尊氏から小松荘地頭職を与えられたというものです。この「縁起条書案」という文書は、金蔵寺が享徳二年(1453)までの主な出来事を箇条書に記したもので、内容的には信用できるものが多いと研究者は考えているようです。
 さらに嘉慶二年(1388)に金蔵寺から寺領に課せられた段銭を幕府へ納入した時の請取状にも次のような記載があります。
 金蔵寺領所々段銭事
 同上荘参分一、4十壱町五反半拾歩者、
合 良田内陸(六)町4段者、同不足追下地九反小、門分弐百捌(八)拾文、
 子松瀬山分七段者、尚追不足分銭三八文正月十七日、
    都合拾肆(4)貫五百玖拾陸(六)文者、
 右、請取る所の状件の如し、
   嘉慶弐年十二月一日    世椿(花押)

 金蔵寺領の段銭について「子松瀬山分柴段」とあって、金蔵寺が小松荘の瀬山に寺領を持っていたことが分かります。地頭というのは本来は治安や徴税の任に当たる荘園の役人の職で、現在で云うと「警察署長 + 税務署長」のような存在です。その役職に、金蔵寺の僧侶がつくのはおかしいという気もします。しかし、鎌倉中期になると地頭職というのは、その職に伴う領地という面が強くなります。善通寺市吉原町にあった吉原荘でも、建長4年(1152)に九条兼実の子・良平の孫である京都隨心院門跡厳恵が地頭職に任じられています。金蔵寺も小松荘の瀬山というところに地頭職という名目で領地を持っていたと研究者は考えているようです。ちなみにこの「瀬山」がどこに当たるかは、分からないようです。
 金蔵寺は小松荘地頭職を、南北朝時代最末期まで持っていたようですが、その後は分かりません。室町時代の「金毘羅大権現神事奉物惣帳」には、「御地頭同公方指合壱石弐斗五升」とあるので、この時期にも地頭がいたようです。しかし、これが金蔵寺を指すものかどうかは分からないと研究者は考えているようです。

 備中守護細川家による小松荘支配    九条家領から細川家領へ  
「九条家文書」の「諸御領仏神事役等注文」のなかには、尾張国の大鰐社恒例役の成就宮祭禄上絹のところに、「動乱以後無沙汰」という注記があります。この「動乱」は、鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱と考えられるので、この「注文」は南北朝時代前期のものとと研究者は考えているようです。この注によると、小松荘では仏神事役のうち、報恩院御畳六帖と御八講中小坑飯一具、それに宜秋門院御忌日用途が無沙汰であると記されます。つまり、納入されていないと云うのです。他の荘園を見ても、ほとんどが諸役の半分以上が無沙汰です。和泉国日根荘からは、すべての役が無沙汰になっています。これは、九条家の荘園経営が困難に落ち入っていることを物語っています。

九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。
 一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。
細川頼之とは - コトバンク
讃岐守護 細川頼之
守護による権力の行使
南北朝時代の守護は、敵方の武士から没収した土地や、死亡などで所有者のいなくなった土地(欠所地)を、戦功のあった部下に預け置く権利(欠所地預置権)を持っていました。この権利を用いて、守護は任国内の武士を被官(家臣)にしていきます。また、欠所地を自分の所領に加えることもありました。この史料に出てくる讃岐の「金武名、高篠郷一分地頭職、高篠郷の公文職」は、細川頼之が讃岐守護であった時に、こうした方法で所領としたものと研究者は考えているようです。逆に見ると、ここには細川頼之に抵抗した勢力がいたことになります。それを没収し、戦功のあった武士たちに恩賞としてあたえたようです。
 それでは、「金武名」とはどこにあったのでしょうか? 
中(那珂)首領跡とあります。想像を働かせると、もとは那珂郡の首領郡司の地位にあった武士の所領で、頼之に敵対する行動があって没収されたのではないでしょうか。丸亀市垂水町に金竹の地名が残っています。この辺りに金武名があり、那珂郡の首領がいたとしておきましょう。高篠郷公文職は、まんのう町公文の地でしょう。
 小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
   守護が荘園を支配下に入れる方法の一つに守護請があります。
内乱の時代になって荘園支配が困難になった荘園領主たちは、守護と契約を結んで、荘園の管理を一任し、代わりに豊凶に関わりなく毎年一定額の年貢・公事の納入を請負わせることで、収入を確保しようとします。これが守護請で、実際には、現地の実力者である守護の被官が代官に任命されて、荘園の管理と年貢の納入に当たりました。しかし、守護請代官たちは、契約に違反して領主に年貢を送らないことが多く、結局、荘園が守護被官や守護の支配下に入ってしまうことになります。
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九条家領でも、応永二十六年(1419)8月に、所領の回復を幕府に訴えた「不知行所々注文」(蒜家)に
  近江国伊庭荘伊庭六郎左衛門入道押領
  和泉国日根荘昌詣年
  丹波国多紀北荘代官増位入道押領
などとあります。ここからは、守護や守護請代官による荘園押領が進んでいることがわかります。。
 備中守護細川家の小松荘支配と伝領              
小松荘も、同じように讃岐守護である細川氏の所領になってしまったようです。以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、満之、頼重、氏久、勝久と、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は、怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の大乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
乱後の延徳三年(1491)十月、備中守護代荘元資が反乱を起こし、勝久は浦上氏らの援助を受けてかろうじて元資を破りますが、備中守護の権威は地に落ちてしまいます。こうして、細川氏の備中支配は急速に衰退に向かうようになります。讃岐の所領も、このころにはその手を離れたと研究者は考えているようです。以後の備中細川家関係の安堵状には、讃岐小松荘の名は見えません。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。それは、また別の機会に・・・

以上をまとめておきます
①那珂郡小松郷は、13世紀初めに摂関家九条(藤原)兼実の荘園となった。
②九条兼実は、法然を保護し、四国流刑となった法然を小松荘で保護した。
③九条家は14世紀頃の南北朝時代まで、小松庄を所領としていた。
④小松荘の地頭職を金蔵寺に認める足利尊氏の文書が残っている。
⑤鎌倉幕府滅亡の混乱の中で、九条家の小松庄経営は困難に陥った
⑥代わって守護として入国した細川氏が小松荘を支配下に置いた
⑦さらに小松荘は、備中守護細川氏の所領になっていった。
⑧応仁の乱の混乱の中で、小松荘は備中細川氏の手を離れた。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」 
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 知人から「琴平の山城」という冊子が送られてきました。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
1 櫛梨城 地図2
櫛梨周辺図(「琴平町の山城」より)

 櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。

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櫛梨神社への参道と、その上にある櫛梨城跡
 
 櫛梨は銅鐸・平形銅剣が捧げられ、式内社の櫛梨神社が鎮座することから分かるように、早くから開発が進み諸勢力を養ってきた地域です。中世には、櫛梨は宥範を出した岩崎氏の勢力下にあり、彼の生誕地ともされています。戦国時代には、この山に山城が築かれていたようですがそれが岩崎氏のものであったかどうかは分かりません。
 三野の秋山家文書には、応仁の乱後に櫛梨山周辺での戦闘があり、秋山氏の戦功に対して、天霧城主の香川氏から報償文書が出されています。丸亀平野に侵入しようとする阿波三好勢力と、香川氏の間に小競り合いが繰り返されていたことうかがえます。
 それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
1 櫛梨城 地図
櫛梨神社と櫛梨城の関係図(琴平町の山城より)

 どちらにしても元吉合戦が始まる前には、この城には毛利氏の部隊が駐屯し、山城の普請改修をおこなっていたようです。その経過については、以前にお話ししましたので、要点だけを羅列します。
 毛利氏は石山本願寺支援のための備讃瀬戸ルート確保が戦略として求められます。そのためにも讃岐を押さえておく必要性が高まり、櫛梨城を調略し、改修普請を行います。これに対して、織田信長の要望を受けた三好勢力は、配下の讃岐惣国衆を動員し、櫛梨城を攻めました。これが1577年の元吉合戦です。
元吉合戦の経過


DSC04665
櫛梨神社
   麓には式内社の櫛梨神社が鎮座します。明治になって合祀した周辺の祠が集められきちんと祀られています。この神社にも神櫛王(讃留霊王)伝説が伝わっています。しかし、社伝ではなく善通寺中興の祖=宥範の伝記の中に記されているものです。中世以後に、語られるようになったものであることは以前にお話ししました。

DSC04673

 神社に参拝し、拝殿の東側から整備された遊歩道を登ります。遊歩道は頂上に向かって直登するのではなく、トラバースした道でなだらかな勾配です。10分ほどで①尾根上に立つことができました。
DSC04692
毛利援軍が陣取ったという摺臼山、その向こうには善通寺の五岳

ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。

1 櫛梨城 山本先生分
 
毛利軍の冷泉元満らが送った勝利報告書には次のようにあります。
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここからは、元吉城に攻めかかっている三好軍の背後を毛利援軍が襲ったようです。そうだとすると三好軍は、摺臼山に陣取る毛利軍を背後にしながら元吉城の攻撃を始めたようです。敵を背後にしながら攻城戦をおこなうのかな?と疑問に思いながら緩やかで広い稜線を東に歩いて行きます。そうすると木橋と階段が見えてきました。ここが縄張り図Aの位置になるようです。

DSC04697
竪堀にかかる木橋

   ここで縄張り図について、専門家の説明を聞いておきましょう。
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(東部分の)曲輪Ⅱは低い土塁で囲み北側に虎口を開く。Iとの段差は小さい。Iへは北西部で虎口より上り、南側隅は緩い斜面で下の曲輪へ通ずるが虎口かどうかはっきりしない。この曲輪は土塁に囲まれ両側に虎口を有するので大型の枡形といえる。
 曲輪は幅4~8mでI・Ⅱを完全に取り囲む。Iとの段差は3m前後と高い。南側中央には虎口状の小さな凹みがあり山道が下る。東端は低いが土塁となっている。
 曲輪IVは頂部を半周し、西側には一部土塁が残り土橋状地形もある。曲輪IVの南西隅から緩やかに下ると小さな平場があり、直下には幅6m前後の堀切Aがあり、両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない。

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 南西尾根先端には出曲輪Vがある。尾根は緩やかに下るが途中両側に土塁があり、先端に性格不明の凹みがある。V南直下には曲輪があり、その下は採石場により崖となる。現在神社よりここまで立派な道が作られている。
  木橋がかかる所は「堀切A」で「両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない」とあります。報告書通りに、木橋がありました。そして木橋の両側には竪堀があり、下におちています。
  山城としては、なかなか遺構が良く残っています。木橋を渡って整備された急な階段を登っていくと曲輪Ⅳを経てⅠへたどり着きます。ここが頂上ですが、まず感じるのは、その広さと大きさです。
人為的な整地や整形が加えられているような感じがします。

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   平成7年の試掘調査では、主郭中央で柱穴が見つかっているようです。さらに、主郭と堀切Aの間で地山を削り出した上に盛り土を行った3段の帯曲輪を確認し、そこからは土器片や火炎を受けた石材が多数出土したようです。
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休息所のベンチに腰を下ろして、報告書を読みながら改めて、南に広がる景観を楽しみます。
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琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
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 クヌギの大きな木の枝にブランコが懸けられています。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
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如意山に向かっては、いったん鞍部を東に下りていきます。その前に、報告書で確認です。
 曲輪Ⅲの東下には塹壕状の突出を持つ横堀Bがあり北寄りに虎口が開く。この横堀は上の曲輪の切岸を高くしたために出来たと思われるが、北端と南端は上の曲輪とつながる道があり、曲輪Ⅲから横矢も効くので登城路として使用し、突出部は枡形機能を持たせ尾根続きへの防御を強めたものであろう。その下には2重堀切Cがあり竪堀となって両側へ深々と落ちる。C北側にはしっかりした連続竪堀2本(1本はその後の調査で判明のため未描写)を構築している。竪堀の間には上の横堀より道が下る。 
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   確かに鞍部まで下りると竪堀が2本連続して、鞍部を横切っています。これは、今から向かう如意山方面からの攻撃に備えるためのようです。「東方の防御性に備えた縄張り」となっているようです。
 しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
   櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
1 櫛梨城 山本先生分

この鞍部からさらに東に伸びる稜線を辿っていくと、石の祠があるピークに着きます。
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この祠の前には、こんな「説明版」が置かれていました。
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近代には、雨乞い行事がここで行われていたようです。社伝に伝えられる尾野瀬山から運ばれた聖なる火がここで再び灯され、雨乞いが行われたのかも知れません。
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 さらに、なだらかな歩きやすい稜線を行くと三角点のあるピークに出ました。ここが如意山頂上のようです。櫛梨山に比べると頂上は狭く、山城を築くには不適な印象を受けます。展望もないので早々に、稜線を下ります。
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ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと

①天霧城の香川氏が本当に、毛利氏のもとに亡命していたのか
②香川氏の讃岐帰国支援とリンクした備讃瀬戸海上覇権確保
③そのための毛利水軍衆による櫛梨城防衛=元吉合戦
④その後の土佐・長宗我部元親の侵攻と西長尾城や櫛梨城の改修普請
そんなことを頭の中で考えながらの里山歩きは、楽しいものでした。
山城についての著書を送っていただいたYさんに感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三 琴平町の山城
          中世城郭分布調査報告書 香川県教育委員会

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