景山甚右衛門
多度津の景山甚右衛門が「鉄道・銀行・電力」などの近代産業に、どのように参入していったのかに興味があります。各地方には「○○の渋沢栄一」と称される人物が現れ、近代産業を地域に根付かせていきます。「香川県の渋沢栄一」といえば、多度津の景山甚右衛門になるようです。彼は、次のような基幹産業の設立者です。鉄道 讃岐鉄道 → JR四国
電力 四国水力発電株式会社(四水) → 四国電力
銀行 多度津銀行
明治の「企業者」は、銀行の設立者であり、鉄道の発起・創設者でもあることが多いようですが、景山甚右衛門もこの例に当てはまります。今回は景山甚右衛門以前の、水力発電開発について見ていくことにします。テキストは「近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展
四国電力事業史319P」です。
四国電力事業史319P」です。
明治の電気(電灯)事業は、火力発電による電灯への電力供給事業としてスタートします。
銀座のアーク灯(明治15年)
初めて電灯がともされたのは明治11(1879)年、虎ノ門の工部大学校でのエアトン教授によるアーク灯の点灯です。エアトン教授の指導を受けた藤岡市助が中心となって、大倉喜八郎や渋沢栄一、矢島作郎らの協力を得て電力会社の創立準備が始まったのは明治15年です。同年11月には、宣伝のため銀座で2000燭光のアーク灯をつけて都民を驚かせます。しかし、実際に操業が始まるのは4年後の明治19年で、翌年に本格的な電灯供給という手順になります。東京での動きに刺激を受けて、北海道から九州まで全国にわたって、30社を超える電灯会社の設立が10年間で行われます。
明治30年代初め頃の電灯会社の経営規模と経営状況を見ておきましょう。
①明治30年代には、事業数で41社、払込資本金の総額で550万円に達し、供給戸数は約3万戸、取付灯数は約14万灯を数えている。
②電力供給戸数と取付灯数の10年間の伸び率は、戸数約360倍、灯数で100倍に達している。
もう少し詳しい状況を表2-2で見ておきましょう。
③ここからは、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6社が全国の取付灯数のうちの約75%を占めていたことが分かります。そういう意味では、明治20年代は、地方への電灯事業はまだまだだったようです。
上表の下から8番目に高松電灯の名前が見えます。
高松電灯は明治28年11月3日に、試験点灯を行っています。これが香川の電気の夜明けになるようです。初代社長の牛窪求馬(うしくぼもとめ)は、高松藩の家老職の生まれで、「ハイカラだんな」と呼ばれたような人でした。高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着たと言われる人物です。
求馬は明治26年、数え年31歳の時に、発起人となって電気事業の創設を志して資金集めに東奔西走します。しかし、思ったように資本は集まらず頓挫寸前になります。ここで救世主となったのが、旧藩主の松平家の殿様でした。こうして資本金5万円で、明治28年に高松電灯は発足します。本社事務所と石炭火力発電所を市内寿町(現在の四国電力本店の西で日本銀行高松支店のあたり)におき、50㌗発電機2台でスタート。当初の送電エリアは狭く、丸亀町、兵庫町、片原町という高松市の中心部だけで、電灯を取りつけたのは294戸、灯数は657灯でした。
電灯には半夜灯と終夜灯があり、半夜灯は日没から午後10時まで、終夜灯は朝までついていました。一ヶ月の点灯料(電気料金)は、10燭光(10W程度)の半夜灯で90銭、終夜灯は1円26銭でした。当時の公務員の初任給が10円程度の時代ですから非常に高い料金だったことになります。
当然、お客さんは、商家や官庁などがほとんどで、その上、人びとは「エリキに触れると死んでしまう」などといってこわがったので、なかなか普及しなかったようです。
電灯会社設立当初は、発電所から近いエリアの市街地に電灯を灯すことが業務で、その対象は公官庁や高所得者層でした。
そのため小規模で建設費が安い火力発電所を都市周辺に設置することが一般的でした。これに対して、当時の水力発電は、送電技術が未発達で近距離送電しかできません。水力発電が行える所は河川流域上部に限られますが、そこは高い料金の照明用電灯要家の数も少なく、事業としては成り立ちません。
電灯会社設立当初は、発電所から近いエリアの市街地に電灯を灯すことが業務で、その対象は公官庁や高所得者層でした。
そのため小規模で建設費が安い火力発電所を都市周辺に設置することが一般的でした。これに対して、当時の水力発電は、送電技術が未発達で近距離送電しかできません。水力発電が行える所は河川流域上部に限られますが、そこは高い料金の照明用電灯要家の数も少なく、事業としては成り立ちません。
都市近郊に最初の水力発電事業として完成したのが、京都市の蹴上発電所です。
京都市の蹴上発電所
この電力開発は、もともとは琵琶湖の水を利用し、疏水によって京都への水運の便、水車動力による工場建設、上下水道、農業用水等の総合的な開発計画の一環でした。ところが工事の途中で、アメリカの水力発電の例を参考にして、水車による水力利用計画を発電に変えることになります。その結果、工事計画を一部変更して水力発電計画を加え、明治24年には送電を開始します。蹴上発電所
最初は、120馬力のペルトン式水車2基で、エジソン型90馬力2基の発電機を稼動して、直流550Vの発電を行い、2 km以内の地域に動力用に供給します。翌年の明治25年末には、交流式1000V90馬力の発電機の増設によって、遠距離送電も可能となります。そこで、京都電灯への卸売供給を始めるとともに、2年後には一般電灯供給も行うようになります。
我が国における本格的な水力発電所建設は、日清戦争後の明治30年代に入ってからのようです。
その理由は、
①送電距離の延長という技術問題が解決したこと②日清戦争後の石炭価格の上昇で電カコストが高騰し、水力発電への転換が求められたこと
②の石炭価格の上昇を、表2-3で見ておきましょう。
この表からは明治24年から31年までの7年間に石炭価格は約2倍になっていることが分かります。このような発電コストの上昇は、火力発電事業の経営状態を大きく圧迫します。表2-4の燃料費の占める割合を見ると
①横浜共同電灯 24%から49%へ
②名古屋電灯 12%から44%へ
と、約4年の間に2~4倍に増大し、燃料(石炭)費が半分近くに達して利益率が挙がりません。そういう中で、全国の電灯会社の経営者が注目したのが、先にも見た京都の蹴上水力発電所です。これが目指すべきモデルケースになっていきます。しかし、人口密度の高い都市の近くに、水力発電所を建設するのは無理だったことは先ほど見たとおりです。
その壁を最初に乗り越えたのが、渋沢栄一を会長として明治30年に設立された広島水力電気です。
広発電所
広島水力電気は、広島市と我が国最大の海軍基地のある呉の両市に営業エリアを持っていました。そこで呉の近くの黒瀬川の滝を電源として、広発電所を建設して、発電した電力は変圧器によって11、000Vに電圧を上げ、送電線路で呉市経由で広島までの送電を開始します。この11、000Vの高圧送電線は、わが国では初めてのもので、これが以後の電気事業のモデルになっていきます。この成功を支えたのは藤岡市功などの技術者たちで、すべて外国製の優れた発電設備を輸入しています。
日露戦争後の明治30年代後半になると、産業資本の確立期を迎えてた産業界は、安くて豊富な新しい動力源を求めるようになります。
すでに先進国では、工業原動力は蒸気力から電力へ移っていました。しかし、火力発電では低価格で電力を供給することは困難でした。そのため、コストの安い水力発電にる電力供給が求められるようになります。
すでに先進国では、工業原動力は蒸気力から電力へ移っていました。しかし、火力発電では低価格で電力を供給することは困難でした。そのため、コストの安い水力発電にる電力供給が求められるようになります。
日露戦争の戦時景気による経済の拡大は、電力需要を増大させます。いままでの火力発電では賄いきれない需要が生まれます。それまでの電灯照明中心から、工場原動力に対する需要への転換が急速に進み、昼夜間を通じて電力供給が求められるようになります。そこで東京電力は、当初予定した千住火力発電所の規模を半減し、山梨県桂川水系の駒橋発電所から15000㌗を55000Vの高圧で83㎞隔てた東京へ送電することに成功します。
明治40年(1907)12月20日に運転開始した駒橋発電所(15,000KW)から東京の早稲田変電所までの約80Kmを高圧送電した「55KV駒橋線(2回線)」です。これが大都市圏への初の送電線となります。
鶴川横断地点の鉄塔
この鉄塔は、アメリカからの輸入品です。どの鉄塔もパネル割が同一で、鉄塔高も同じなので、同一仕様のものを22基輸入したものと研究者は指摘します。アメリカ西海岸のカリフォルニア州では、木柱線路の中の長径間箇所用に、この鉄塔を量産していて、それをそのまま輸入して使用したようです。
この長距離送電の成功を確信した各地の電気事業者や起業者は、積極的に電力消費地の遠隔地域での発電所建設に取り組み始めます。これが、後の大規模水力発電開発へとつながります。
明治40年(1907)12月20日に運転開始した駒橋発電所(15,000KW)から東京の早稲田変電所までの約80Kmを高圧送電した「55KV駒橋線(2回線)」です。これが大都市圏への初の送電線となります。
鶴川横断地点の鉄塔
この鉄塔は、アメリカからの輸入品です。どの鉄塔もパネル割が同一で、鉄塔高も同じなので、同一仕様のものを22基輸入したものと研究者は指摘します。アメリカ西海岸のカリフォルニア州では、木柱線路の中の長径間箇所用に、この鉄塔を量産していて、それをそのまま輸入して使用したようです。
この長距離送電の成功を確信した各地の電気事業者や起業者は、積極的に電力消費地の遠隔地域での発電所建設に取り組み始めます。これが、後の大規模水力発電開発へとつながります。
明治期から大正期の大規模数力発一覧一覧
こうして水力発電量は急速に増加し、大正元年には23、3万kWと総発電能力の半分を占めるようになります。高圧送電は7万Vに達し、送電距離も100 kmを超えるようになります。これらの技術革新を受けて、四水も吉野川上流での水力発電事業に乗り出して行くことになります。今回はここまです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319