瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 丸亀城と城下

    
   高瀬町史の年表篇を眺めていると幕末の慶長2年のところに、次のような記事がありました
1866(慶応2)年
1月 坂本龍馬の斡旋で薩長連合成立
6月20日  丸亀藩 幕府の長州討伐に対しての警備強化通達に応えて、領内8ケ所に「固場」を置き郷中帯刀人に「固出張」と命じる(長谷川家文書
12月 多度津藩、横浜でミニュエール銃を百丁買い入れる
この年、多度津藩は50人編成の農民隊「赤報隊」を組織する

 第二次長州戦争が勃発する中で、濁流のように歴史が明治維新に向けて流れ出す局面です。多度津藩は、その流れの中で長州の奇兵隊を真似て、赤報隊を組織しています。一方、丸亀藩はと見ると「固場」を設置しています。これは何なのでしょうか。「固場」に光を当てながら、丸亀藩の幕末の動きを見ていきたいと思います。テキストは 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

丸亀藩では慶応元(1865)年に第二次長州征伐に備えて、軍用人足の徴用が行われています。
ところが徴用に応じたのは20人に過ぎなかったと長谷川家文書には記されています。困った村々の庄屋たちは相談の上で、次のような口上書を藩に提出しています。

夫役人足之義は高割にて組分取計、村分ケ之所も右に順シ高割にて引分ヶ、村方においては鵬立之者相選、家別に割付人数国取にて繰出候事」
意訳変換しておくと
夫役人足の不足分については村高に応じて人数を割り当て、強健な者を選び、家ごとに割り当てる。以下、寺社井びに庄屋、組頭、五人頭、肝煎、使番の医師などは除き、十五歳より六十歳の者から差出す。

 つまり、村役人や医師は除いて、農家の家毎に強制的に割り当てるという案です。そして賃銀は一日拾匁位で、半分を藩より、半分は村方より出す。留守中の家族は宿扶持を支給し、農地は親類や村方で面倒を見る。出勤日数は適当に交替する。出夫の者が病死し、残された者が難渋する場合は御上より御救遣わす等が列記されています。
 藩にとっても、軍用人足の徴用は簡単にはいかなかったことがうかがえます。
幕末のすべて
第二次長州戦争

  第二次長州戦争が本格化すると、瀬戸内海沿岸の丸亀藩も領内監視体制を強化することを幕府から求められます。
その一貫として、翌年の慶応2(1866)年6月11日に設けられたのが「御固場」です。
「当今不容易形勢に付、郷中帯刀之者野兵と相唱、要路之場所え固めとして出張申付候」

意訳変換しておくと
昨今の不穏な情勢に対応するために、郷中の帯刀者を野兵として、街道の重要地点において、その場所の監視や固めのために出張(駐屯)を申しつける。

御固場の設置は、次の8ヶ所です。
左(佐)文村牛屋口、      (まんのう町佐文 伊予土佐街道)
大麻村にて往還南手処、   (善通寺大麻村 多度津往還)
井関村御番所、                 (観音寺市大野原町)
箕之浦上州様御小休場所 (豊浜町 伊予・土佐街道)
和田浜にて往還姫浜近分南手処、 (豊浜町)
観音寺御番所
仁尾村御番所
庄内須田御番所                 (詫間町須田)
そして取締り責任者に、次の者達が任ぜられます。
佐文村 宮武住左衛門、 寛助左衛門
大麻村 真鍋古左衛門、 福田又助
庄内 斉田依左衛門、 早水伊左衛門
仁尾村 松原得兵衛、 真鍋清左衛門
観音寺 勝村与兵衛、 須藤弥一右衛門
井関村 古田笑治、 西岡理兵衛
和田浜 藤寛左衛門、 渡辺半八
箕浦 大田小左衛門 早水茂七郎
この取り締まりを命じられた人たちは、どんな立場の人たちなのでしょうか
彼らは「野兵」と呼ばれた人たちで、大庄屋、庄屋を除く帯刀人だったようです。大麻村では、人数不足のために7月には、神原幸ら十人が新たに「出張」が命じられています。その働きに対して「御間欠これ無き様厳重相勤候様」と「礼状」が出されています。野兵は9月には58人に増員されます。

6月19日には、丸亀の商家大坂屋に数人の浪人が押し入り、番頭二人を殺害し、放火するという事件が起きます。残された書状には、「天下精義浮浪中」と名乗り、砂糖入札などを通じ、藩の要人と結託した奸商を成敗するとありました。巷では尊攘志士のしわざとの噂もあり、小穏な情勢が生まれていきます。このような状態を受けて、6月27日に、丸亀藩の京極佐渡守家来宛に幕府より次のような通達がきます。
「此度防長御討伐相成候二付、国内動揺脱た等も之れ有り、自然四国え相渡り粗暴之所行致すべくも計り難く候間、ゝ路之場所え番兵差出置、怪敷者見受候はゞ用捨無く討取候様致すべく根、其地近領え乱妨に及び候義も之れ有り候はゞ相互に応接速に鎮定候致すべく候」。
意訳変換しておくと
「この度の防長討伐については、国内の動揺もあり、その影響で四国へ渡り粗暴を働く者がでてくることも予想でる。ついては要路に番兵を置き、怪しい者を見受た時には、容赦なく討取ること。また、近隣で乱暴を働くような者が現れたりした時には、相互に協力し、迅速に鎮圧すること。」

御固場設置は、長州討伐にともなう不穏な情勢を、事前に絶つための治安維持のために設けられたようです。
御固場が、どう運営されたかを見ておきましょう。
 御固場に出仕する「野兵」への手当はなく、ボランテア的存在でしたが食事は出たようです。その経費について「御固メ所御役方様御賄積り書」には、次のように記されています。
「御役方様御賄之義は先づ村方より焚出候様、尤一菜切に仕り候ゝ仰付られ候、然に御手軽之御賄方には御座候へ共、当時諸色高直に御候間、余程之入箇に相見申候」
「一ヶ所一日之入筒高凡百五拾目、八ヶ所一日分〆高を貫弐百目に相成、一ヶ月二拾六貫日、当月より当暮まで六ヶ月分弐百冷六貫日、此金三千両に相成候様相見申候」
  意訳変換しておくと
「御固場に出仕する野兵の食事については、先づ村方で準備するように。内容は一菜だけでいいとの仰付けであった。確かに高価な賄いではないが、この節は物価も上がっているので、大きな経費になりそうだと話し合っている

「一ヶ所の御固場の一日当たりの経費として凡150目、八ヶ所では一日分合計1貫200目になる。これは一ヶ月で26貫芽、当月から今年の暮までの6ヶ月分では2弐百十六貫日、併せて三千両の見積もりとなる」

と、当初から多大な経費がかかることが危惧されていたようです。
周辺の住民は、御固場近隣の見回りに駆り出されています。

「敷地之者軒別順番にて三・四人づヽ見廻り仕らせ候ヶ処も御座候、(中略)如何様当今米麦高直故、家別廻り番当たり候ては迷惑之者御座候故に相聞申候
意訳変換しておくと
「地域内の者を家軒別に順番で、三・四人づつで見廻させている所もありますが・・(中略) 
当今は米麦の値段も上がり、家別の廻り当番が頻繁に当たっては(麦稈などの夜なべ仕事もできず)迷惑至極であるとの声も聞こえてきます。
御固場は、近隣の村々には迷惑だったようです

これに対して、9月2日には御用番岡筑後より指示があり、次の条目が御固場に張り出されます
一、御固所出張之者共心得筋之義は、取締役も仰付られ、一通規定も相立候由には候得共、猶又不作法之義これ無様厳重二番致すべき事
一、出番之義昼夜八人相詰、四人づゝ面番これ有、通行之者鳥乱ヶ間敷儀これ有候はゞ精々押糾申すべき事
一、組合々々之中、筆上直支配之者申合、油断これ無き様気配り令むべき事
一、面番之者仮令休足中たりとも、外方え出歩行候儀停止たるべき事
一、若病気にて出張相調い難き者これ有候節は、其持場出張之者共え申出候はヾ 与得見届け、弥相違これ無候得ば連名之書付を以て申出るべき事
一、非常之節、固場所にて早拍子木太鼓打候はゞ、其最寄り々々にて請継ぎ、銘々持場え駆付け相図中すべき事
一、非常之節、銘々持場を捨置、家宅を見廻り候義は無用之事
但、近火之節、代り番申遣置、引取候て不苦、盗難同断之事
一、出番中酒肴取扱い之義堅無用之事
右之条々堅相守申すべきもの也
意訳変換しておくと
一、御固所への出張勤務している者の心得については、取締役からの仰付であり、規定も出しているので、不作法がないように厳重に勤めること
一、勤務については昼夜8人体制で、4人づつが交替で監視に当たること。通行者による騒動が起きないようにし、もし発生すれば速やかに取り締まること
一、組内のメンバー同士は、意思疎通をはかり、上に立つ者の指示に基づいて、油断のないように  気配りすること。
一、当番のメンバーは休息中といえどもも御固所を離れて、外へ出歩くことのないように
一、もし病気で出張(勤務)ができない場合は、組のメンバーに申し出、メンバーが確認し、間違いないことを見届けた上で連名で書付(欠勤届)を提出すること
一、非常時には固場所で早拍子や太鼓を打ち鳴らし、最寄りの村々に知らせること、その際には早  急に持場へ駆付け対応すること
一、非常の際には、持場を捨てて、自分の家を見廻るようなことはしないこと
  ただし、火事の時には、番を交替し、引取ることを認める。盗難についても同じである
一、出番(勤務)中の酒肴は、堅く禁止する
  以上について、堅く守ること

長州征伐は幕府の苦戦が続き、8月11日になると将軍家茂死去を理由に征長停止の沙汰書が出されます。そして10月には、四国勢も引き揚げを開始します。これにともなって御固所も役目を終えたようです。6月に設置されてから約4ヶ月の設置だったことになります。
御固所が解散された後の治安維持は、村々に任されます。つまりは、村役人に丸投げされたことになります。以後の対応も問題ですが、それ以上の問題は、今までの御固所の運営経費の精算も済んでいなかったことです。この方が庄屋たち村役人にとっては心配だったようです。
 そんな中、11月21日になって、次のような通達が藩から廻ってきます。
一、太鼓鐘拍子木等鳴候はゞ、聞付け次第村方庄屋役人は得物持参、百姓は竹槍持参駆付け、妨方心配致すべき事。 
一、村庄屋役人罷出候節、村高張、昼は職持たせ、役人は銘々提灯持参致すべき事
一、村々において廿人歎廿五人歎壼組として其頭に心附候者二人位相立、万一之節は其頭之者方へ相揃付添組頭所え罷出、案内致し、指図を請罷出申候事」
意訳変換しておくと
一、太鼓・鐘・拍子木などが鳴るのを聞いたら直ちに、村方庄屋役人は武具を付けて、百姓は竹槍持参で駆付けるなど、騒動の早期鎮圧に心がけること
一、村庄屋役人が出動するときには、村高張、昼は職持たせ、役人はめいめいに提灯を持たせること
一、村々において20~25人を1組として、そのリーダーにしっかりとした者2人を立て、万一の時には、そのリーダーの者へ集合し、組頭の所へ出向き、指図を受けること
伝達された内容は、御固場条目を踏襲しているようです。
ここから分かるように、丸亀藩の御固場は、長州征討に伴う不穏な事態に対処するために設けられた軍用人足だったことです。それも長州征討が行われた慶応2年6月から10月にかけての、わずか4月間の設置だったようです。
   これは、隣の多度津とは大違いです。多度津藩の軍備近代化についての意義や評価をもう一度見ておきましょう。
白方村史は次のように評価します。
赤報隊は、地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった」

三好昭一郎の「幕末の多度藩」には、次のように記されています。
「兵制改革展開の上で最大の壁は、何といっても家臣団の絶対数不足という現実であったし、藩財政の窮乏に伴って地方に対する極端な負担増を背景として発生することが予想される農民闘争に対して、十分な対応策を早急に講じなくてはならないという、二つの課題の同時的解法の方策が求められていた」

「沿海漁業権や藩制に対する丸亀藩のきびしい干渉や制約のもとで、宗藩からの自立をめざすための宮国強兵策として推進されるとともに、何よりも外圧を利用することによって、慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、さらに藩の支配力低下と農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする意図をもって、藩論を統一し兵制改革に突破口を見出だそうとしたことも明らかな史実であった」

以上から多度津藩の軍備の近代化の意図と意義を次のようにまとめておきます。
①幕末の多度津藩は近代的な小銃隊を編成することを最重要課題とした。
②そのためには、武士層が嫌がるであろう銃砲隊を新たな農兵隊によって組織することで兵制改革を実現しようとした
③その軍事力を背景に、藩内の諸問題の打開を図るとともに、幕末情勢に対応する藩体制の強化をねらった。
このような多度津藩の取組に比べると、丸亀藩の対応の遅れが対照的に見えてきます。
丸亀藩では、多度津藩に比べると新たな兵制改革に取り組む意欲には欠けていたようです。丸亀藩でも、洋式銃隊は上級藩士の子弟で集義隊が編成されます。ところがペリー来航の翌年の元治元年(1854)6月、集義隊員の6人が脱藩事件を起こします。彼らが提出した建言書には次のように記されています。
「御向国御固め武備御操練等も御座遊ばさるべき御儀と存じ奉り候処、今以て何の御沙汰もこれ無く、右様御因循に御過し成され候ては、第一朝廷を御欺き幕府を御蔑成され候御義に相当り、実に以て国家の御大事恐燿憂慮の至りに存じ奉り候。依て熟慮仕り候処、御家老方には御重職の儀御奮発御配慮御座候有るべくは勿論の御儀には候へ共、全く以て姦人等両三輩要路に罷り在り、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏」(村松家文書)

意訳変換しておくと
「国を守るための武備や操練などが行われるものと思っていましたが、今以て何の御沙汰もありません。このようなことを見逃しているのは、朝廷を欺き幕府を侮ることになります。実に以て国家の大事で憂慮に絶えません。なにとぞ熟慮の上に、家老方には重職に付いての件は、奮発・配慮の結果とは思いますが、この3人は全く以て姦人で、要路に居ること自体が問題で、一己の利欲に相迷い、武辺の儀ハ甚だ以て疎漏な輩です」(村松家文書)

 これだけでは訓練の中で何が起こっていたのかは分かりません。しかし、管理運営をめぐって反発する若者が脱藩したことは分かります。彼らはまもなく帰還しています。これに対する処罰も与えられた形跡はありません。所属隊から脱走しても責任が問われない軍隊だったことになります。

当時の丸亀藩では、原田丹下らの洋式訓練と佐々九郎兵衛らの和式訓練との対立が激しかったようです。藩主自らが「西洋銃砲でいく!」と決めて、突き進んだ多度津藩とは出発点からしてちがうようです。そして、その対立は明治元年の高松征討の際にまで続いていたようで、高松に向けてどちらが先に立って出発するかろめぐって和式と洋式が争ったという話が伝わっています。ここからは丸亀藩では、藩を挙げての兵制改革はほど遠い状態であったことがうかがえます。

以上をまとめておきます。
①多度津藩は、小藩故の身軽さから藩主が先頭に立って、軍制の西洋化(近代化)を推進し、農民兵による赤報隊を組織することに成功した。
②赤報隊を組織化を通じて藩内世論の統一にも成功し、挙国一致体制を取り得た。
③その成功を背景に、幕末においては土佐藩と組むことで四国における特異性を発揮しようとした。④一方、丸亀藩はペリー来航後も藩内世論の統合ができず、幕末の動乱期においても、その混乱を主体的に乗り切って行こうとする動きは見られなかった。
④それは長州戦争時に設置された御固場に象徴的に現れっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小山康弘  讃岐諸藩の農兵取立 香川県立文書館紀要   香川県立文書館紀要NO4 2000年 

三浦 地図1
1928年国土地理院地図

今から約百年前の国土地理院の宇多津周辺の上の地図を眺めていると、青野山のまわりは水田が拡がり、北側には塩田が広がります。古代においては、海が入り込み丸亀城の亀山も青野山も角山・聖通寺山も海に浮かぶ島だったとされます。今回見ていくのは、聖通寺山周辺にあった平山と御供所です。このエリアの人たちは、近世初頭に丸亀の土器町に移住して、三浦を開きます。その過程を追ってみたいと思います。
  坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬で、旧石器時代から人が生活していた痕跡があります。頂上には積石塚古墳があり、室町時代には聖通寺城が築かれていました。「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は、城を捨て勝瑞城の十河存保を頼り敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の海際で瀬戸内海交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。
 中世の平山について
 平山は聖通寺山の北西にあり、湾入する入江の北に平山、南に宇多津が位置します。湾を挟んで北と南という関係で、その間に大束川が流れ込みます。平山も中世には活発な瀬戸内海交易活動を行う港であったことが史料から分かります。兵庫北関を平山船籍の船が19艘も通過し、通行税を納めていることが記録されています。これは讃岐の17港のうちランキング6位になります。船の大きさや積荷は宇多津と似ています。例えば塩の表記を見ると、詫間や児島といった近隣海域から集めたものを運んでいて、宇多津船とは機能差・性格差があり「棲み分け」をおこなっていたことがうかがえます。
 「与四郎」、「与平四郎」、「新左衛門」という船頭名は宇多津にはみられません。平山の集落を本拠地として活動した人物と研究者は考えているようです。また宇多津との関係では、平山から出た船の大多数が宇多津から出た船とほぼ同じ日に兵庫津を通過しています。ここからは、平山と宇多津の船頭の間には密接な関係がうかがえます。宇多津と平山はそれぞれ自立した港ですが、機能面で連動し、相互補完的な関係で交易船を運航していたようです。
 ここで押さえておきたいのは、平山がただの漁村ではなかったということです。宇多津と共に、瀬戸内海交易をになう湊であったことを確認します。
丸亀三浦 平山
  平山と宇多津は湾を挟んで向かい合う形にあった実線が復元海岸線
中世の平山の位置は?
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのがうらずけとなります。
 平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。平山の交易湊としての性格は、宇多津と他の港を繋ぐ結節点としての役割を担い、それをベースに宇多津と強く結びつけられていたと研究者は考えているようです。
 以上から聖通寺山の周辺には、中世以来の瀬戸内海交易活動を行っていた集団がいたことを押さえておきます。

秀吉が四国を平定し、長宗我部元親が去った後に讃岐領主としてやってくるのが生駒親正です。生駒藩では、平山や御供所の船乗り達を水夫として使役します。
その経緯を「三浦漁夫旧記」で見ておきましょう。
「文禄年中、太閤高麗御陣の節、塩飽廻船加子六百五十人、三浦加子二百八十人、西国船頭御案内のため、三浦加子共召し遣わされて」朝鮮まで出て行った。その功として、塩飽は、御朱印を賜ったにもかかわらず、三浦の方には何もなかった。そこで生駒様に申し出て、三浦加子共の大坂夏の陣での活躍にもとづき「鵜足郡土器村に於いて畑高百七十五石、御城下近辺二て百二十二石、諸役御免許の御墨付」を賜った。また、「追って御用相勤むべき旨、かつ御用先二於いては船下中共帯刀御免成さるべき旨」

ここには次のように記されています。
①朝鮮出兵の際に、秀吉の命にで三浦の加子が朝鮮にまで出掛けて行ったこと
②それに対して秀吉からは何の報償もなかった
③そこで領主の生駒氏に交渉し、畑高175石と(丸亀)域下近辺に132石の土地と諸役(税)免除の墨付が三浦に与えられた。
④その代わりに三浦衆は、加子役を引き受け帯刀が許された
 これを『西讃府志』は慶長六(1601)年のこととして記しています。
三浦側では、現在の土地は恩賞として生駒家から与えられたものとしています。どちらにしても、生駒親正が讃岐に入ってきたときに早急にやらねばならないことの一つは、水軍整備だったことは以前にお話ししました。四国兵隊後の秀吉の次の目標は、九州平定と朝鮮出兵でした。そのための水軍整備を秀吉は「四国勢」に申しつけていました。秀吉の直属として、その準備を進めたのは小西行長で、塩飽はその配下に入ります。つまり、塩飽は秀吉直属の輸送船団となります。
 一方、平山は生駒氏の水軍に編成されます。国立か県立かの違いのようなものでしょうか、「任命権者が違うので、秀吉から恩賞がでるはずはありません。三浦衆の主張では、朝鮮出兵の際の恩賞が、どこからももらえなかったというのです。
丸亀三浦 1928年

1928年の国土地理院地図  土器川から弓なりになった街道が東に伸びる。これは当時の海岸線沿いに御供所や平山の町がつくられたため。
 関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。
今後、もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐのことが幕府より求められます。そのため瀬戸内海沿いの各藩では水城の築城と水軍の組織化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を行ったのもこのようなことが背景にあるのではないでしょうか。
 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させます。その狙いは、どこにあったのかを考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫、
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団の集中化
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
 こうして、新しく築造が始まった丸亀城の海際には、聖通寺山から平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアはどこだったのでしょうか。
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
丸亀城周辺 正保国絵図
③や④は砂州になります。①の土器川河口の③の砂州の先端に舟番所が置かれています。ここが福島湛甫や新堀が出来る以前の丸亀湊でした。その湊に隣接する砂州の上が、移住地になります。
同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 砂州1・2の間を西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州①②の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。砂州①の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。砂州の方向に沿って弓なりに高松街道が通されます。その道沿い平山や御供所からの移住者の家は建ち並んでいきました。
 丸亀城下には三浦以外にも、藩が進める移住計画に沿って、南条町や塩飽町を中心に家並みや寺院が立ち並んでいくようになり城下町整備が進みます。ところが大阪冬の陣が終わると、一国一城令が出され、丸亀城は廃城とされます。私は、この時に城下町も消えたと思っていましたが、そうではないようです。城下に集められた集団は、なんらかの特権を認められていたので城が廃城になっても動くことなく、そのまま丸亀で生活していたようです。例えば生駒時代の三浦は、舟御用の水夫役を果たす代償として、阿波から伊予までの漁業権が保障されていました。その特権で讃岐の領海一円での漁業活動が認められていたのです。これは、城がなくなっても動けません。城下町として人為的に作られた街並みが、城がなくなっても活動を続けていたのです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

 そのため生駒氏に代わって西讃に入ってきた山崎氏は、この地に城を復活することにしたのではないかと私は考えています。山崎時代に書かれた城下町絵図には、生駒時代の街並みが「古町」と記されます。三浦の街並みも「古町」と書かれています。
丸亀市東河口

 三浦衆は入国した山崎氏に、次のような嘆願書を提出しています。
生駒様御没落後、御入国二相成り、寛永十九年、山崎様御入国の砌、前件加子地、委細申し上げ奉り候処、御聞こし召し届かされ、御身上相応と御座候て、畑地八町六反四畝、一三浦庄内並二加子弐百八十、新た二御免許成し下され候義二御座候
意訳変換しておくと
生駒様が没落後の寛永十九(1642)年に、山崎様が入国の際に、今までの加子地のことについて経緯を説明した結果、お聞き届けいただいて、三浦庄内に畑地8町6反4畝頂き、加子280人を、新たに任命していただきました。

  ここからは山崎氏がやってきた時点で三浦は正式な加古浦として認められたことがうかがえます。
当時の各藩の加古浦をめぐる状況を見ておくことにします
 生駒藩時代に「先代慶長年中 生駒一正時代、魚棚野方へ引き、その時より水夫役勤め候」といった記事が「英公外記」(延宝五年(一六七七)にあります。高松城下の魚棚町の住人の一部を野方町へ移動させて水主役を務めさせたという内容です。この政策は岡山藩の水主浦役の設定と共通するものがあるようです。各藩では廻米輸送のために藩有船を動かすよりも水主浦を指定し、税金としての水夫役を納めさて船を動かせた方が得策と考えるようになっていたことがうかがえます。江戸時代の蔵米輸送船の国(藩)有化から民営化へという政策転換かもしれません。それを山崎藩も採用したとしておきましょう。

 この時に認められた加子地(畑地8町)は、13年後の明暦元年(1655)の検地でようやく承認されます。この間に、三浦衆は塩飽を訴えて漁場争論を起こしています。承応三年(1654)に大坂町奉行の判決は、三浦の一方的な敗訴でした。しかし、天下の塩飽衆と争うというのは、三浦衆が山崎氏に対して行っていた加子役要求のデモンストレーションの一環とも思えます。その後、京極氏に替わても三浦の地位は変わりませんでした。

三浦の水夫役数は「280所」で、内訳は御供所85、北平山76、西平山119です。この加子役は一年に5040と決められていました。以後、三浦は次のような役割を果たすようになります。
 「一軒二付き一ヶ月一人半、外夫召し遣われ候節は壱人一日町升にて一升、賃銀五分宛下され候、右五千四拾人の内召し遣われ候分、大船頭宛通の表にて差し引き、水夫未進分として壱人二付き五分宛御船手へ納める」

この役割を果たしながら、丸亀藩の加古浦として、次第に交易活動を復活させていきます。
 加子浦としての三浦が果たした役割は、なんだったのでしょうか
その役割を挙げておくと、次のようになります
①藩主の参勤交代の際などの人員輸送
②江戸藩邸への日用品輸送
③廻米輸送・城米輸送

次に三浦にあった東河口湊を見ておきましょう。
丸亀市東河口 元禄版

1645年の山崎藩の時に幕府に提出された正保城絵図には、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流して、真光寺の東北に番所が描かれています。この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」には、真光寺の東南と東北の二か所に番所があります。一か所は土器川を渡る人々を、 一か所は港に出入りする船の番所と研究者は考えているようです。

土器川河口 明治
明治末の土器川河口周辺(現在よりも西側を流れていた)

 近世前半の丸亀港は、東川口湊だったようです。
二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には「備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候」とあります。ここからは京極公は、初めてのお国入りの時には、船は土器川河口の東河口に着いたことが分かります。
丸亀三浦3

 土器川河口の湊(東河口湊)のことについて、もう少し見ておきましょう。17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」

意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わわないが、神徳の高い象頭山(金毘羅大権現)へ参拝客が数多く集まってくる。数多(あまた)の船宿が建ち並び、市もたつ。諸国引合目印の幟は、旅籠の軒にひるがえり、中でも丸ひ印の棟造りは、二軒茶屋のあたりであろうか。川口(土器川河口の船着場)の繁雑、出船や入船、舫われた船、曳舟か 「おはやい」との正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客が絶えることはなく賑やかで、中村・淡路の屋台を初め、二階座敷からは長歌が聞こえてくる。

ここからは東河口湊に上陸した金毘羅詣客が、東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。三浦は漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、交易活動を行う者もいたようです。三浦は丸亀の海の玄関口で、繁華街でもあったようです。  
東河口湊は東汐入川と外堀で城下の米蔵(旧市民会館)にながっていました。

丸亀三浦2 東河口湊


山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。荷物を積んだ小舟は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのばり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が運ばれていたようです。米などは、外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央(現県道三二号。市民会館北交差点の東方)付近にある米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(現市民会館付近)に納入していたと云います。
丸亀市米蔵

文化三年(1806)には、福島湛甫、天保初年には新堀湛甫ができると、東川口は旅客の港としては次第に寂れていきます。三浦に代わって福島が丸亀の玄関口となっていきます。
丸亀城絵図42
 
まとめておくと
①中世奈良氏が聖通寺山に城を構えていた頃に、そのふもとの平山には瀬戸内海交易を行う集団がいた
②平山に拠点を置く海民たちは、秀吉の朝鮮出兵の際に加古集団として生駒氏に組織された
③丸亀城築城の際には、加古や交易管理集団として丸亀の海際に移住させらた
④山崎藩では、正式に加古浦に指定され、特権を得るようになった
⑤京極藩では、東河口湊の管理・運営を任され、金毘羅船の運行や旅籠経営、海上交易などに進出する者も現れ、三浦は繁華街としても栄えた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史352P   近世漁業の成立と塩飽・三浦

西讃府志 表紙

  かつては、西讃地域の郷土史を調べようと思ったら、まず当たるのが西讃府志だったようです。そういう意味では、西讃府志は郷土史研究のバイブルとも云えるのかも知れません。しかし、その成り立ちについては、私はよく知りませんでした。高瀬町史を眺めていると、西讃府志の編纂についての項目がありました。読んでいて面白かったので紹介します。
西讃府志 讃岐国
西讃府志の第1巻 最初のページ

丸亀藩が支藩多度津藩を含めた領内全域の本格的地誌を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。『西讃府志』は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保十一(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした
     覚
加藤俊治
岩村半右衛門
右、此の度西讃井びに網千。江州御領分の地志撰述の義伺い出でられ、御聞き届け二相成り候、これに依り往古よりの名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来都て、御領中格段の事跡何事に寄らず委細調子書、其の村方近辺の識者古老等の申し伝え筆記等、其の組々大庄屋、町方二ては大年寄迄指し出し、夫々紛らわ敷くこれ無き様取り約メ、来ル十月中迄指し出し申すべし、尤も社人亦は寺院二ても格別二相心得候者へ、俊冶・半左衛門より直ち二、応接に及ばるべき義もこれ有るべく候条、兼ねて相心得置き申すべき旨、 方々御用番佐脇藤八郎殿より仰せ達せられ候条 其の意を得、来ル十月上旬迄二取調子紛らわ敷くこれ無き様、書付二して差し出し申さるべく
候、以上
意訳変換しておくと
加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。
 特に、社人(神官)や寺院については、特に注意しておきたいので、担当者の俊冶・半左衛門が直接に、聞き取りを行う場合もある。事前に心得ておくことを、 御用番佐脇藤八郎殿より伝えられている。以上の趣旨を理解し、提出期限の10月上旬までにはきちんと整理して、書面で提出すること。以上

ここからは次のようなことが分かります。
①加藤俊冶と岩村の提案を受けて、「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを藩は大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。

  西讃府志 郡名
西讃府志の讃岐の各郡について

これを受け取った大庄屋は、どうしたのでしょうか。
各村のお寺や神社の歴史を調べよというのです。とまどったにちがいありません。今では神社やお寺には由緒書きや縁起が備わっていますが、この時期には自分の村の神社の歴史などは興味もなく、ほとんどの神社はそんなものはなかったようです。書かれた歴史がないものを、レポートして報告せよと云われても困ってしまいます。とにかく大庄屋は、各組の構成員の庄屋に連絡します。和田浜組(三豊市高瀬町)の大庄屋宮武徳三郎は各村へ、藩からの通達文に添えて次のような文章を回しています。

「御別紙の通り御触れこれ有り候間御承知、寺院社人は格別二念を入れ、御申し達し成らるべく候、尚又名所古跡何事に寄らず、委細の調子書早々御指し出し成らるべく候」

意訳変換しておくと
「別紙の通りのお達しがあったので連絡する。神社や寺院は格別に念を入れて調べるようにとのことである。また、名所や古跡などに限らず、なんでも委細まで記して、期限までに提出せよとのことである」

と伝えています。これを受けて丸亀藩の庄屋たちは、自分の村の歴史調べとフィルドワークにとり組むことになります。今風に云うと、レポート「郷土の歴史調べ」が庄屋たちに課せられたのです。
西讃府志 延喜式内社
西讃府志の讃岐延喜式神社一覧

それから9ヶ月後の天保十二(1841)年3月に、大庄屋宮武徳三郎は和田浜組の村々へ次のような通達を出しています。
急キ申し触れ候、然れは昨子ノ六月、御達しこれ有り候御領分地志撰述御調子二付き、名前、古跡、且つ神社鎮座、寺院興立等の由来書付、早々差し出す様御催促これ有り候間、急二御差し出し成らるべく候、右書付二当たり御伺い申しげ候、左の通り
村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起
宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓 森
小名 産物 孝子 順拝 義夫 □婦
右、夫々相調子書付二して、指し出し候様仰せ付けられ候間、芳御承知何分早々御取計らい成らるべく候、以上
意訳変換しておくと
急ぎの連絡である。昨年6月の通知で村内の地志撰述の件について、名前、古跡、神社鎮座、寺院興立等の由来の調査し提出するようにとの指示があった。この詳細な調査項目は次の通りである。 村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓  森 小名 産物
孝子 順拝 義夫 □婦
これらの項目を調査し、報告書として提出するように藩から再度指示があった。できるだけ早く提出するように、以上

この文書が出されたのは、翌年の3月です。藩から求められたレポート提出期限はその年の10月だったはずです。〆切期限を過ぎて翌年の春が来ても、和田浜組ではほとんどの村が未提出だったことが分かります。そこで、藩からの督促を受けて、大庄屋が改めて、レポート内容項目の確認と提出の督促を行ったようです。
西讃府志5
西讃府志 復刻版

さらにその年の八月には、藩から大庄屋へ次のような通達が再再度出されています。
急ぎ御意を得候、然れは地志撰述の義認め方目録、先達て相触れられ候処、未だ廻達これ無き村々も多くこれ有る由、全く何レの村々滞り居り候事と存じ候、右は在出の節寄々申し承り度き積もリニ候間、早々廻達村々二於いて通り候ハ、写し取り置き候の様、其の内ケ条の内、細密行い難き調子義もこれ有り候ハヽ、品二寄り皆共迄尋ね出し候ハヽ、指図に及ぶべき儀もこれ有り候、何様早々廻達候様御取り計らいこれ有るべく候、以上

意訳変換しておくと
 地志撰述の件について、先達より通達したようにて早々の報告書の提出を求めているが、未だに指示が伝わっていない村々もあると云う。どこの村で滞っているのか、巡回で出向いたときに確認するつもりである。早々に村々に通達を回して、写し取り指示した項目について、細々としたことは調査ができなくても、調査が出来る項目については尋ね聞いて、指図を受けることも出来る。とにかく早々に廻状をまわし、報告書が届くようにとりはかること 以上

 西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション
二年後の天保十四(1843)年六月には、次のように記されます
「地志撰述取調書き上げの義、去ル子年仰せ含め置き候得共、今以て相揃い申さず、又は一向指し出さざる組もこれ有る趣二て、掛り御役手より掛け合いこれ有り候」

意訳変換しておくと
「地志撰述の作成提出の県について、3年前に申しつけたのに、今以て揃っていない。一向に提出していない組もあるようだ。組番より各村々に督促するように」

ここからは3年経っても、各村からの地志撰述の提出が進んでいないことが分かります。レポート課題が指示されて3年が過ぎても、地志撰述の作成の通知がいっていない村があるということはどういうことだ、早く報告書を出すように藩から催促されています。督促された庄屋たちもどうしていいのか頭を抱えている様子がうかがえます。
 それまで何も知らずにお参りしていた神社やお寺のことを調べて提出せよと云われても困り果てます。和尚さんや神主さんに聞いても分からないし、史料はないし、レポート作成はなかなか進まない村が多かったようです。
 今までなかった寺や神社の歴史が、これを契機に書かれ始めたところも多かったようです。由緒書きや縁起がなければ、「創作」する以外にありません。またかつて住んでいた旧族についても、調べられたり、聞き取りが行われます。そこには同時に「創作」も加えられました。
その翌年の弘化元(1844)年2月には、次のような通達が廻ってきます。
社人秋山伊豆 右の者兼ねて仰せ達し置かれ候 地志撰述の儀二付き、御掛り置きこれ有り候、これに依り近日の内村々見聞として、御指し出し成られ候段、右御掛り中り御掛け合いこれ有り御聞き置き成られ候」

意訳変換しておくと
社人(櫛梨村神官)秋山伊豆が、地志撰述編纂に関わることに成り、近日中に村々を訪ねて指図することになった。疑問点があればその際に尋ねよ

ここからは櫛梨村の社人(神主)秋山伊豆が地志撰述作成のために、領内を廻って援助・指導することになったようです。4年目にして地志撰述の作業は軌道に乗り始めたようです。こうして各村での「地志撰述」が行われます。現在確認できるのは次の表の通りです。

西讃府志 地誌成立年代表

村によって「地志御改二付書上帳」、「地志目録」など名前が違います。最も古いものは多度津藩領羽方村の天保十二年十月の「地志撰述草稿」です。そして一番最後にできたのが丸亀藩領奥白方村の嘉永三(1850)年六月の「地志撰」、多度津藩領大見村・松崎村の嘉永三年夏の「地志目録」になるようです。
 提出日を見ると、期限どおりに提出されたものはほとんどありません。一番早い羽方村のものでも翌年の10月で、1年遅れです。そして、遅いものは嘉永三年夏ころになりますから、出そろうまでに十年間かかっています。各村から提出された地志撰述をもとにして、『西讃府志』が編集されていくことになります。

西讃府志 目次
西讃府志の多度津藩の村々の目次


 一番早く提出された羽方村の「地志撰述」を見てみましょう。 
     
藩からの指示では「村の広さ、田畝、租税・林・藪床・戸口・牛馬・陵池(はち)・里名庄内郷積浦小名・唱来候地名・神祠・仏寺・家墓・古跡・風俗・物産・孝義・雑記」などの項目がありました。
大水上神社 羽方エリア図
赤いライン内が羽方村 大水上神社の鎮座する村
『西讃府志』に載せられなかった部分には何が書かれていたのでしょうか。
  貞享二(1685)年の検地畝68町余のうち等級を示す位付の面積が次のように記されています。

上田一町五反余、上下田三町三反余、中田六町九反余、中下田五町九反余、下上田八町八反、下田一一町二反余、下々田一六町二反余、上畑二反余、中畑一町一反余、下畑二町九反余、下々畑八町余

ランク付の低い田畑の「下以下」で五五町余を占めており、生産高の低い土地が多かったことが分かります。
  年貢率も次のように記されています。
川北・白坂・長坂 三割七分
瀬丸・二之宮・石仏・上所 四割三分、
村中・下所 三割四分
庄屋分池之内出高 三割
宮奥 二割五分
田畑68町余のほかに、新田として正徳から寛政までの1町3反余、新畑として正徳から享和までの4町9反余が開かれたことが分かります。
惣田畑74町3反余で、石高は519石6斗余で、租税202石3斗余の内訳は、定米(年貢米)176石2斗余、日米5石2斗余、夫米20石7斗余で、ほかに夏成(年貢麦)が12石余となっています。
戸数は156軒で、内訳は本百姓87軒、間人69軒とあります。間人とは田畑を持たない水呑百姓のことで、村の中の階層構成が分かります。
池は17のため池が全て書かれています。一番大きな瀬丸池の池廻りは32町46間で、水掛かり高は上高野村1000石、寺家村300石、羽方村160石となっていて、瀬丸池のある羽方村の水掛かり高は少いことが分かります。次に大きい白坂池は池廻りは11町45間で、水掛かり畝が本ノ大村12町三反余、羽方村3町9反余、上高野村1町9反余、大ノ村1町2反余となっており、白坂池も本ノ大村の水掛かりが多いようです。そして、どちらも樋守給(池守の給料)は羽方村から出されていることも分かります。

DSC02799
大水上神社(二宮神社)

神祠のうちでは、大水上大明神(二宮社)について詳しく述べられています。
 祭礼・境内諸社を述べた後に「二宮三社之縁起」の全文が載せられています。二宮三社之縁起については以前に紹介しましたが、この時に成立したのではないかと私は考えています。羽方の庄屋から相談を受けた宮司が書いたという説です。そのほか「神事之次第」。「大水上御神事指図之事」・「ニノ宮記」などが添えて提出されています。「仏寺」では、大水上神社の別当寺龍花寺のことにも触れられています。しかし、龍花寺は以前にお話ししたように、祭礼をめぐる神職との対立の責任を取らされ、藩から追放されています。この時期の大水上神社の運営主体は、神職だったと思います。
 こうしてみると羽方村の庄屋が一番早く調査報告書(地志撰述)を提出できたのは、大水上神社に縁起やその他の史料があったこと、別の見方からするとそれが書ける神職がいて、延喜式内社という歴史もあったからとも云えそうです。こんな条件を持っているのはわずかです。その他の多く村々では、中世に祠として祀っていたものを、近世の村々が成立後に社殿が建立された神社がほとんどです。そこには、祀ってある神がなんだか分からないし、縁起もないのが普通だったようです。そこに、降って湧いてきた「寺社の歴史報告レポート」作成命令です。庄屋たちは、あたふたとしながらも互いに情報交換をして、自分の村々のデーターを作り、歴史を聞き取り報告書として提出したようです。それは、藩が命じた〆切までに、決して間に合うものではなかったのです。
 これを契機に「郷土史」に対する興味関心は高まります。
西讃府志は幕末から明治にかけての西讃の庄屋や知識人の必須書物となります。そして、西讃府志をベースにしていろいろな郷土史が書かれていくことになります。戦前に書かれた市町村史は、西讃府志を根本史料としているものがほとんどです。それだけ史料価値も高いのです。手元に置いて史料や辞書代わりに使いたいのですが、いまだに手に入りません。ちなみに古本屋での値段は55000円とついていました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献 高瀬町史392P 西讃府志の編纂

丸亀城  山﨑時代の城郭絵図2
①が現在の裁判所付近
前回は大手町が明治以後は丸亀12連隊の兵舎や倉庫、病院になっていたことを見ました。今回は発掘地点の丸亀裁判所には、江戸時代には誰の屋敷があって、住人がどのように移り変わっていったのかを見ていくことにします。
丸亀連隊 西端
内堀の向こうに見えるのが丸亀十二連隊 

そのために、まずやらなければならないことは発掘地点が絵図のどの辺りにあたるかを確定しなければなりません。普通は道路などで簡単に現在位置との関係が分かるのですが、ここではそうは行かないようです。明治の連隊建設の際に、敷地が奇麗さっぱりと更地にされているからです。調査地周辺は、目印になるものがほとんど残っていません。街路も近世には鉤状に屈曲する部分がありましたが、近代の連隊建設の際に、街路は直線的な道路へと作り替えられました。そのため街路も基準になりません。そうなると、基準点は現在の道路にも引き継がれる外堀くらいになります。
   外堀を基準に、基準線を引くプロセスは以下の通りです。
①西隣の郵便局の西側から出土している①外堀遺構を基準点にする
②発掘エリアから出てきた2本の屋敷割の溝②までの距離の確認
③のマンション建設の発掘調査区から石組みの護岸を持つ溝の西側の肩の確認
以上のような基準点を地図上に落としたものが次の下図①②③になるようです。

丸亀城大手町屋敷割り

報告書は、これを嘉永8年の絵図と比較し、基準線を次のように決めていきます。
①西側の外堀(旧R11号)から外堀沿いの屋敷地・屋敷地東の街路を超え、今回調査地が位置する屋敷地の大区画の西端に至るには、街路②の距離を仮に数間程度と見積もると、10間以上(約18m)の距離が想定される。
②最も西端の岩間長屋の区画の東西幅は27間(48.6m)なので、全体では70m弱になります。
③外堀のラインから今回調査地までの距離を計測し、その条件に最も近いものは2区の区画施設である(約75m)。
以上から検出された溝②を、屋敷間の区画施設(ライン)と考えます。
次のような理由を挙げてこの溝②が区画であることを補足します。
①この溝の近辺から多く廃棄土坑がでてくること
②溝のすぐ東に丼戸があること
③溝を境として出土する陶磁器破片の組成が違うこと
こうして区画②が屋敷間の区画であるとします。
 以上からこの発掘地点は、嘉永7年絵図の「岩間長屋」「高宮」にあたると結論づけます。こうして、江戸時代の絵図から裁判所周辺の屋敷変遷を見ることが出来るようになります。
丸亀城 大手町居住者19jpg

上の絵図は享和2年(1802年)作成のもので、裁判所付近の屋敷を切り取ったものです。
①は「林求馬」と読めます。彼は以前にお話ししたように、多度津陣屋や湛甫の建設に尽力し、藩政改革を進めた多度津藩の家老です。そして、その屋敷と背向かいにあるのが②「御用所」です。これは多度津藩の政庁になります。多度津藩は、分家しても陣屋を構えずに丸亀城下内のここに政庁を置いていたのです。つまり本家への「間借り状態」にありました。それが、幕末がちかづくにつれて自立心が高まり、本家丸亀藩からの自立・独立路線を指向するようになります。その動きが新たな陣屋建設でした。この後多度津藩は、家老林求馬によって完成した陣屋に移って行くことになります。この周辺は家臣の氏名から、多度津藩に関係のある家臣の屋敷が多いと研究者は指摘します。
江戸時代の8つの絵図資料に記された屋敷図を模式化して示すと次のようになります。
丸亀城 大手町居住者変遷表

絵図を簡略化し、居住者が書かれています。例えば山崎藩時代の正保の「讃岐国丸亀城絵図」には、屋敷の主の名前はなく「侍屋敷」としか書かれていませんのでこうなります。
次の「元禄年間丸亀城下図」には、林求馬の屋敷の所が「壱岐守」となっています。これは、分家して成立したばかりの多度津藩藩主のことです。多度津藩藩主は、本家京極藩の家老の屋敷よりもはるかに小さい屋敷です。別の所に本宅はあったのかもしれません。そして、多度津藩の「御用所」は「御配所」とあります。これは当時丸亀藩に預けられていた、日蓮宗の僧日尭、日了の配流地だったことを示しています。

1832(天保3)年の絵図に記された住人達を視てみましょう。
多度津藩御用所のあった部分が空白になっています。それ以外の区画についても住人変更があったようです。これは、さきほと述べたように陣屋完成に伴って、多度津藩の藩士達が多度津に住居を移したためと考えられます。一方、一番西の「岩万長屋」の住人は、多度津藩士でなかったのでしょう。

次のような居住者の変更があったことが分かります。
①1692年(?⇒原田、実態不明)
②1692年~1802年(原田⇒伴)
③1802~1830年代(伴⇒高宮)
④1865年前後(高官⇒連隊建物)
この4つのタイミングで居住者の変更が起こっています。
大手町の丸亀地裁エリアの遺構がどんな変遷を経ているのか、またそれにはどんな事件が背景に考えられるのかを報告書は教えてくれます。その変更背景を、報告書は次のような図に整理して提示しています。表の左側が遺物や遺構の整理から導かれる年代、右側が、丸亀城下町や大手前の出来事です。
丸亀城大手町 裁判所付近時代区分表

第一の画期は、京極家による「城下の再整備」が考えられます。丸亀城Ⅰ期です。
 山崎藩時代には城の南側にあった大手門を付け替え、北側に移したことです。これに伴い城下の再整備計画が行われ、屋敷地や拝領地にも変更がうまれ、スクラップ&ビルドが行われたことが考えられます。この時期に、廃棄された瓦が大量に出てくることがそれを裏付けます。新しい主の京極氏によって、建物の建て替えなどが行われたとしておきましょう。
第2の画期は、18世紀後半代から始まり、19世紀の初めごろまで続きます。
この時期に、瓦などの廃棄物を埋めた土坑が屋敷の中にいくつも掘られています。これはこの時期に屋根の葺替えと、それに伴う瓦の廃棄があったことが考えられます。安永7年(1777年)に、二の守の修理が行われたことが、銘が刻まれた瓦から分かっています。その「大工事」に伴って瓦の大きな需要や生産体制の変化があったこと推測できます。それに伴い城下での瓦の消費拡大が起き、廃棄瓦の増加という形になったことが考えられます。
 それ以外には、先ほど述べたように多度津藩が自前の陣屋を築いて丸亀城下町から出ていったことです。ここでも住民異動によるリフォームなどで古い瓦の大量廃棄が起きたことが考えられます。これが第2の画期と報告書は指摘します。それは、この発掘エリアの一番西側の岩間長屋では、この時期の遺構は少なく、この変動が及ばなかったことが裏付けとなります。
第3の画期は、明治になっての陸軍歩兵12聯隊の建設です。
これは前回にお話ししたように、大手町全体の屋敷地引き払いを伴う大規模な接収でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に摂取されます。そして、そこに建っていた家臣団の屋敷は解体破棄されたのです。そのエリアをもう一度地図で確認しておきましょう。
丸亀連隊 エリア地図
ピンクの部分が連隊用地として買い上げれたエリア
 
 建物の解体ももちろんですが、道の形状もそれまでの城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されています。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があるようです。
 例えば発掘エリアの岩間長屋からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が同時に進み、それが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。

以上をまとめておくと
①山崎氏から京極氏に藩主が変わり、城の大門が南から北に移設されたに伴い城下町の再編成が行われ、建築群もスクラップ&ビルドが行われた。
②裁判所周辺には多度津藩の政庁が置かれ、周辺には多度津藩士の屋敷が集まっていた。それが多度津陣屋の建設で退去し、大幅な寿運変更が行われた。その際にも廃棄瓦の量が増えている。
③明治になって十二連隊が設置されることに成り、大手町全体が国により買収された。藩士は屋敷を売り、全員がここから退去した。
④その後に、丸亀十二連隊の施設が作られ敗戦まで設置されていた。⑤丸亀城下町は、そういう意味では「軍都」であった。
⑥戦後、その後に市庁舎などの公共的な建築物が立ち並ぶエリアとなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年

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丸亀連隊 裁判所

  丸亀城の北側の大手前地区は市役所や裁判所などの公的施設が多いエリアです。そこでは近年の建て替え工事に伴う発掘調査が行われ、その報告書も何冊か出ています。今回は丸亀裁判所の発掘調査報告書(2018年)を見てみたいと思います。
 このエリアは内堀と外堀に挟まれて大手町の西の端です。郵便局の西側を通る旧R11号がかつての外堀にあたります。郵便局の発掘の際に、その遺構も確認できているようです。大手前エリアでは中心部から離れているので、二百石前後の中級家臣団の屋敷が並んでいたようです。
このエリアを発掘して、まず顔を覗かせてくる遺構は何でしょうか? 
わたしはぼんやりと、京極時代の屋敷跡が出てくると思っていました。しかし、それは大間違い。年表を確認しておきましょう。
1597年(慶長2年)に、生駒親正が西讃岐支配の拠点として丸亀城築城開始
1615年(慶長20年)一国一城令により、丸亀城はいったん廃城
1643年(正保元年)山崎家治が幕府からの許可を得、丸亀城の再築開始。
1658年(万治元年)山崎家断絶により京極氏が入封。城の整備と城下町の開発を継続
1670年(寛文10年)大手門を南側から北側に移し、「再開発」事業展開。
1688年(元禄元年) 丸亀藩から多度津藩分封。
1827年 多度津藩の陣屋完成 多度津藩家臣団の丸亀城下寄りの退去
1875年 丸亀歩兵第12連隊設置 
16世紀末に、生駒氏によって丸亀城は開かれ、その後一国一城令で廃城。その後、西讃の領主として入ってきた山崎氏によって、再築。しかし、築城途中で山崎藩は廃絶。替わって、京極氏の下で大門の移動など「再編整備」が進んだことが分かります。また、このエリアは、多度津藩主の邸宅や御用所、家臣の屋敷があったようです。

丸亀連隊

年表の一番最後に注目。
明治になって大手町地区は、陸軍歩兵第12聯隊の兵舎が造営されているのです。これは大手町全体の接収と屋敷地の引払いを伴う大規模な工事でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に接収されます。その経緯は次の通りです。
明治6(1873)年4月、旧武家屋敷地一番丁から四番丁(旧丸龜縣庁、旧藩刑法局、元家老・佐脇邸、他元藩士87家)に丸龜營所の設置を決定、名東縣(現、香川県)に通達します。
名東縣高松支所は区長・戸長に命じて、該当用地59,463坪を45,243円(土地16,908円、移転費用27,375円、輸送費960円)で買収(費用は大蔵省が負担)
12月20日、御用地は陸軍省に受領され、営所・練兵場の建設開始
明治7(1874)年夏、五番丁から十番丁を新たに御用地に指定。五番丁を作業場用地として買収。
明治7(1874)年9月、丸龜營所が竣工、
12月4日、第十六、第二十四大隊が高松營所から移駐、
明治8(1875)年5月10日、両大隊により歩兵第十二聯隊編成

大手前の家臣団屋敷は、解体破棄されたのです。そのエリアを明治38年の地図で確認しておきましょう
丸亀連隊 明治38年

 この地図からは次のようなことが分かります。
①大手町地区は、東側が病院、西側が連隊駐屯地となったこと
②お城の東側に練兵場があったこと
③城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されていること。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があること。
  京極さんの家臣団が住んでいた大手町は駐屯地になったのです。お城の上から見てみましょう。ちなみに戦前は「軍事機密」のために一般人は、本丸などには登れなかったようです。
丸亀連隊 合体版
ここには12連隊兵舎の西半分が写されています。その右側は兵舎が並びます。
丸亀連隊8

 左側(西)は、真ん中の空地を囲むように兵舎が立ち並びます。こちらは倉庫群だったようです。さらに西側を拡大して見ましょう。
丸亀連隊 西端

とまどうのは手前の内堀の内側にも建物が数多くあることです。現在の芝生公園も建物で埋まっています。内堀の外側に沿っては兵舎倉庫が並びます。その西の突き当たりは外堀でが、すでに半分は埋め立てられ道路になっています。そのコーナーが現在の郵便局付近になります。裁判所は、その東側の兵舎の始まりあたりになりそうです。これだけの予備知識を持って、発掘現場を見てみましょう。

丸亀連隊 裁判所発掘地点
丸亀裁判所発掘エリア(白い空白部)
上図が今回の裁判所の発掘地点になるようです。
 ここからは、聯隊兵舎3棟が出てきました。建物1は第一大隊の倉庫で、その西端の一部のようです。建物1については、多度津町資料館に聯隊建設の際の設計図が残されていて、建物の構造が分かります。それを参考にして建物1の下部構造を模式的に復元したのが下図です。
丸亀連隊 倉庫下部構造

報告書はこれについて次のように述べています。
溝を掘り基盤を補強したのちに、レンガ積みにて外壁基礎を構築している。上部は、漆喰の壁を用いていたようである。床支えの柱が存在しており、それらが桁行2間存在し、その内側に外壁と同様の構造をもつ基礎と、屋根支えの柱列を2列立て、柱と柱の間を廊下としている。

この模式図を建物1に当てはめてみると、出土したのは外壁の基礎と床支えの柱穴だったことが分かります。図面に残される寸法では、外壁と柱の間隔が1、5mであり、遺構の間の距離と合致します。
建物1は、明治8年に建設され敗戦まで使われた第一大隊の倉庫としておきましょう。
丸亀連隊 正面
 丸亀十二連隊正面玄関 
 建物1に先行する建物2、3については、明治26年以降火災で消失したものを、再建したという記録があるようです。そのため建物2、3は焼失した明治8年段階の建物である可能性が高いと指摘します。建物2と3は軸を一にして並んでいたことから、同時に建っていた可能性が高いようです。発掘からは、明治8年にこれらの兵舎群が一斉に立ち並び始めたことがうかがえます。
面白いのは埋甕が出てきています。これを便所遺構と報告書は考えています。
丸亀連隊 発掘図
十二連隊の倉庫跡

それでは、取り壊された屋敷群の残土などはどのように処理されたのでしょうか。
それをうかがわせる廃棄穴が、発掘されています。発掘エリアの岩間長屋から出てきた廃棄穴からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が連隊建設のために同時に進み、それらが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。こうして、ここからは大量の瓦が出てくることになります。これは発掘者にとっては「宝の山」です。高松城に比べて遅れていた丸亀城の瓦の編年編成資料の貴重なデーターとなるようです。

丸亀連隊 瓦変遷
 
こうして明治に建てられた十二連隊の兵舎跡層をはぐることによって、江戸時代の層が出てきたことになります。そして、それは明治の兵舎建設のために更地にされた破棄現場だったのです。
 その下に眠る江戸時代の屋敷跡については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年



 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



 満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治維新になって決壊していた満濃池を改修した後の水掛かり図と用水路を描いた絵図です。これは、丸亀平野のそれぞれの藩図や天領が色分けされていて、その領域がよく分かります。
草色 → 丸亀領
桃色 → 高松領
白色 → 多度津領
黄色 → 池御領(天領)
赤色 → 金毘羅大権現 金光院寺領(朱印地)
 これを見ていて、改めて思うのは丸亀城のすぐ南は、高松藩の領土だということです。高松藩と丸亀藩の「自然国境」は、土器川でなくて金倉川だということです。そして丸亀城は領土の一番東の隅にあります。どうして、領域の中央でなく東端が選ばれたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」です。

まずは、生駒騒動後に讃岐は東西に分けられることになります
生駒家は生駒騒動で寛永17年(1640)秋田の矢島へ転封になります。幕府は讃岐の接収と次の領主への引渡準備のために、摂津国尼崎城主の青山幸成を讃岐国御使として派遣します。
 この時に幕府は青山に「讃岐を東二、西一の割合に分割」せよと指示しています。讃岐へやってきた青山幸成は各地を検分した後に、幕府の指示に従って、分割ラインを引きます。「東二、西一」の割合だと、だいたい鵜足郡と那珂郡の郡境が境になります。具体的には土器川を越えて那珂郡の半分は、東讃高松藩の領地になります。これだと土器村は鵜足郡なので、生駒氏が城を築いていた亀山の東三分の一くらいは東領になってしまいます。

讃岐国郡名 那珂郡

 次に西讃領主としてやってくる山崎氏には「城地は見立てて決定」と指示しています。お城をどこに置くかは入国後に調査して決定させるという方向だったようです。そのため青山は、亀山にお城を築く場合の事も考えて、土器村は鵜足郡に属していましたが西讃に入れます。さらに、土器川の西側とお城の北側までも、西讃に入れて線引きを行います。
 こうして、土居村(現土居町)や風袋町、霞町などは鵜足郡ですが西讃に入りました。その分の代償として、松亀城の南側では土器川を越えて金倉川まで高松藩領になります。丸亀の南部では、国境線が金倉川となったのです。こうして、東讃は12万石、西讃は5、3万石という石高で讃岐の分割ラインが決められました。西讃の領地は豊田郡、三野郡、多度郡、那珂郡のうち中府・塩屋・津森・今津・田村・山北・金倉・櫛梨・佐文・西七箇村、鵜足郡の土居村で計53000石になります。
青山幸成は、那珂郡で線引仕置を終えた後に、こんな感想を漏らしたと伝えられます。
「西讃の城地は、観音寺の琴弾山がよい。在所は穀物も豊かだし、もっともよいところだと思う。けれども箱のみさき(庄内藩半島)が突き出て、そのうえ隧灘を受けている。ここに決めるのは、後の領主の意見によるべきである。このほかでは、丸亀の亀山がよいと思うが、五万三〇〇〇石では維持するのがむずかしいであろう。しかし大志のある領主は、これを望むかもしれないから、東讃領に近接していて不適当ではあるが、亀山を西讃に入れておく。城地としては多分、三野郡下高瀬か、多度郡下吉田辺りが選ばれるだろう」
 
 丸亀城を維持するには、五万石ぐらいの大名では無理だという見方をしていたことが分かります。。

西讃の城主としてやって来ることになった山崎家を見ておきましょう
成羽愛宕大花火の起源

 山崎堅家は、もともとは彦根の出身です。彦根の西に荒神山という山と山崎山という山があります、この山崎山に本拠を構えていたようです。天正10(1582)年4月21日の本能寺の変直前に織田信長が、堅家の館へ来て茶を飲んだということが『信長公記』に記されています。堅家の子が家盛、家盛の長男に家勝、次男に家治と続きます。この次男・家治が、丸亀にやってくることになります。
 長男の家勝は、関ヶ原の戦いに大坂方の西軍につきました。そして今の三重県の津市にある安濃城を攻め落としますが、西軍は関ヶ原で負けてしまいます。それで、家勝は伊吹山へ逃れそこで隠れ住みます。
 一方、弟の家治の方は東軍の徳川方について、その後とんとん拍子に次のように出世していきます。
①彦根の山崎山
②兵庫県の三田
③三田から鳥取県の若桜
④岡山県の成羽へ、
⑤成羽から肥後天草郡富岡城4万石の城主として、島原の乱後の戦後処理・整理(富岡城の修築など)
 島原の乱で焼け落ちた富岡城を修復して、わずか3年で寛永十八年(1641)に西讃の城主に指名されます。丸亀にやって来たのは翌年寛永19年9月のことです。家治が丸亀へ来たときは、生駒さんの時の城は、一国一城令でこわされています。寛永四年(1627)の隠密の報告書にも、丸亀に城があったという記録はありません。幕府からは「城地は見立てて決定」と指示されているので、どこに城を構えても良かったのです。家治の築城術を評価していたようにも思えます。
成羽愛宕大花火の起源

それでは、どこに作るのか?
 
周囲のお城の立地条件を参考にしてみると、高松城、今治城・岡山城・福山城・三原城は、水城がほとんどです。近世に入って瀬戸内沿いに築かれたお城は、海に開かれた性格を持ちます。海上交通を監視・防衛すると同時に、交易拠点としての機能ももった水城が主流になっていたのです。さらに、山崎家治は、彦根出身で琵琶湖の水上交通の重要性は肌身で感じていたはずです。内陸にお城(城下町)を築こうという考えは、なかったでしょう。近世の城は、海に開けて、背後に経済的後背地を持つという条件で選ぶというのが流行になっています。
 家治は、初め三野郡勝間(高瀬町)の仮の館に住み、 城地を決めるため琴弾山(観音寺市)・下高瀬(三野町)・下吉田(善通寺市)を中心に領内を見てまわります。候補地としてあがったのは次の4ヶ所だったようです。
①観音寺の琴弾山
②高瀬の下高瀬
③多度津
④丸亀の亀山
4つの候補地のプラス面とマイナス面を検討しておきましょう。
①の観音寺については、琴弾八幡の門前町として活発な海上交易行う港があります。生駒時代には観音寺に枝城もありました。しかし、地理的に西に偏ります。また、瀬戸内海の海上交易路という海のハイウエーからは、庄内半島などがあり奥まった位置になります。
②の高瀬は、地理的には領土の真ん中です。しかし、当時は三野平野は大きな入り江でした。後背地が小さく将来性的には不安が残ります
③は、中世は香川氏が拠点としていた所で、居館(山城は天霧城)があった現在の桃陵公園が候補地となります。
④は領地の中で、最も東の端ですぐ東は高松藩です。地理的な偏りはありますがヒンターランドは広大な丸亀平野が金毘羅に向かって広がります。また、目の前の塩飽は海のハイウエーのサービスエリアとして、繁栄しています。家治の中では、③と④が最終候補として残り、最後に「亀山に城を築く」という決定がされたのではないかと私は考えています。 老臣たちは青山幸成の意見を参考にするよう進言しますが、家治は自説を守り亀山を選んだと伝えられます。

 家治は新城建設地を丸亀として幕府に報告します。
そして、幕府から下の「丸亀城取立に付いて老中連署状」ををもらっています。ここには次のように書かれています。
丸亀城取立に付いて老中連署状

丸亀城取立候について、銀三〇〇貫目これを下され候、すなわち大坂御金奉行衆え、添状相調え越候間受け取らるべく候、然れば差し当たり普請の外は、連々以て申しつくべきの旨仰せいだされ候、因って故当年参勤の儀は御赦し置きなされ候間、其意を得られ可く候、恐々謹言
二月六日                 阿部対馬守重次(花押)
阿部豊後守忠秋(花押)
松平伊豆守信綱(花押)
山崎甲斐守殿

「丸亀に城を築くについて銀三百貫をお前にやる。大坂の御金奉行からもらえ、そこへ添状は出してあるから」といった意味です。最後に当時の老中3人の花押があります。新城建設の補助金300貫が幕府から出されていることは驚きです。各藩のことは各自で取り仕切れという建前から、お城は全て自己負担で建てられるものと思っていたのですが、そうではないようです。
幕府からの「銀三百貫」というのは、どのくらいの価値なのでしょうか?
家治が富岡にいた頃の記録に「米一石=銀35匁」というのがあります。一石=一両で計算すると300貫÷35匁=8571石で約8570両ということになります。山崎藩の年間税収の1/3程度のようです。3人の老中の名前と花押が並び、最後にあて先の山崎甲斐守殿と記されています。これが家治のことのようです。

 家治が作った丸亀城がどんなものだったのか見ていきましょう
幕府は正保元年(1644)、二回目の国絵図・郷帳の提出を諸大名に命じて、同時に城絵図も出させています。
これが絵図が、正保の国絵図と城絵図です。山崎家治が丸亀城の再築城を開始するのは寛永19(1642)年9月のことでした。
1 讃岐国丸亀絵図
丸亀城(正保の城絵図) 
再建が進む丸亀城の様子が幕府に提出した城絵図には描かれているはずです。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスでも見ることができて拡大・縮小が自由にできます。
1丸亀城 縄張図G
城郭部分を拡大すると上図のようになります

これで、丸亀城の当時の縄張りを見てみると次のようになります。
①亀山の周囲に、東西に28間、南北は東は216間・西190間、幅20間の堀をめぐらし
②山に石垣を積み立てて三ノ丸、その上にまた石垣を積み本丸とニノ丸がつくられ
③本丸・ニノ丸の隅には二層の櫓を建て、櫓の間は渡り廊下をもつ多聞塀で連絡されていた。
④本丸は山頂西寄りにあり、南北29間、東西は南方で23間、北方では南より約10間の長い鍵形で、
⑤北側中央には三層の櫓(矢倉、現在の天守閣)が設けられ、
⑥ニノ丸の南側中央には二層の櫓、東側には櫓門がつくられていた。
⑦当時の大手門は南東にあり、三ノ丸の南に続いていた。
⑧山の北側には藩主の居館と思われる山下屋敷の記載がある。
1 丸亀城 生駒時代

生駒時代の丸亀城


これを生駒時代と比べてみる比べて見て、研究者は次のように指摘します。
①天守台などのある位置が違っている。
②二の丸が生駒時代よりも狭くなっている。
③山崎城は、本丸と二の丸の周りに新しく三の丸が作られている
④「五の郭」が山下屋敷となっている
⑤生駒時代の城は「一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭」とあったのが、山崎時代の城では、本丸、二の丸、そして三の丸が回りを取り囲んでいるようになっている。
ちなみに現在の丸亀城では、山下屋敷はありません。
 次に、丸亀城の断面図を見てみましょう。
1 丸亀城断面図

黒い部分が生駒時代のもので、白い部分が山崎時代のもので、東側から見ている図です。
①生駒時代の黒い部分は、天守台が一番上にあって、その下に一の郭があります。
②山崎さんの城は、この一の郭より5,6mぐらい上げて本丸を造っていることが分かります。
③二の丸は本丸の東側と北側にあって南側にはありません。
④三の丸は二の丸と本丸の周囲に造られています。
発掘調査で、現在の石垣側の端から3mぐらい入ったところを掘ってみると、生駒時代の城の石垣の跡が出てきました。ここからは山崎時代の本丸が5,6mかさ上げしたことがうかがえます。

出来上がった石垣の上に建ち上がった天守閣はどんな姿だったのでしょうか?
1 丸亀城天守閣 山崎時代

資料⑧「天守復元立面図」は、左の図が西側から見た天守閣で、右が南側から見たものです。左の図の一階の部分に白いところがありますが、これは多聞櫓のあったところで、幅二間半の廊下のような多聞櫓がこの天守閣に続いていたところです。
もう一度、山崎藩時代の城郭図を見てみましょう 
讃岐国丸亀絵図2

よく見ると斜面であった城の北側(海側)部分に、石垣が見えます。
 張り出して石垣を築いたので、そのために必要な土や石は、方々から集めています。たとえば内堀を東と西で山麓まで広げた際に掘り出した土や、山下屋敷の土をとって上へ運んだようです。こうして山麓直下まで堀を造れば、山下屋敷へ山伝いに入ってくることを防げます。張り出した石垣は上手な石工が見事な勾配を造りました。扇の勾配といって全国でも有名な石垣になっています。
   これは瀬戸内海をゆく船からは、良い目印となったでしょうし、モニュメントの役割も果たしたかもしれません。古墳時代に明石に築かれた五色塚古墳の石葺が、沖ゆく船への権威モニュメントとなったのと同じような効果があったのかもしれないと勝手に考えています。
丸亀城 正保国絵図拡大

丸亀城は、石垣の美が特色の一つとして挙げられます。    
先ほど見たように家治は、徳川家が復興した大阪城の天守閣石垣の入口周辺を担当しています。石垣作りには定評があったようです。丸亀城に石垣にも、それは活かされたのでしょう。この石垣を築くのに、家治が用いたのが羽坂重三郎だと伝えられています。
丸亀散歩~丸亀城を訪ねて(2015 11 21) - なかちゃんの断腸亭日常
伝重三郎の墓
彼の墓は、城の石垣の余材を用いたと云われる「伝重三郎の墓」が南条町の寿覚院にはあります。墓は全面に字が刻まれていたようですが、今は読み取れる字は少なく、「南無阿弥陀仏・為・第二回忌・正保三年八月三日」がかろうじて読みとれるようです。
  ここからは「南無阿弥陀仏」とあるので、真宗信者であったこと、正保3年が2回忌になることなどがうかがえます。お城の再建中に亡くなっていることになります。彼の生・没年、経歴等素性は、史料がないのではっきりとしないようです。石工ではなく、山崎時代の普請方で、城の縄張りをした人ではなかろうかという説もあることを丸亀市史は紹介しています。
   この石垣は、技術的に難しい急勾配の工事だったようです。そのためか石垣が何度も崩れます。家治に続いて俊家の時代には、石垣の修理工事や、堀を浚い、櫓を建てるなどの普請真性が幕府に出されています。幕府に修理を申し出て許されたのが資料⑩の史料です。
折りたたんだ文書なので、下側は逆向きになります。これが「修築についての老中の連署状」です。
1丸亀城 修築についての老中の連署状

丸亀の城の三の丸坤の角の石垣破損について、同所の櫓の壊れた石垣の築き直し、櫓立てること、並びに親甲斐守家治が上意を伺ってあった所々の普請の内、石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣等、同じく東南の堀浚えの事、絵図のとおり其意を得侯、もっとも前の奉書の趣を守られ、普請連々以て申し付けられ可く候、恐々謹言
慶安二丑正月二十三日                 阿部豊後守忠秋(花押)
  阿部対馬守重次(花押)
山崎志摩守殿                             松平伊豆守信綱(花押)
意訳変換しておくと
丸亀城の三の丸坤の角の石垣破損について、この箇所の櫓の壊れた石垣の築き直しと、櫓を建てること、について以前に家治から伺いがあった。これに対して石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣や東南の堀浚えの件についても、絵図のとおり普請を行う事を申しつける。

先ほど見た再建許可所である「丸亀城取立に付いて老中連署状」と差出人の3人の老中名は同じです。しかし、あて先は山崎志摩守となっています。初代の家治が亡くなって二代目俊家に代替えしています。この文書が出された前年の慶安1(1648)3月17日に、初代丸亀藩主山崎家治は55歳で亡くなっています。つまり家治によって築かれた石垣は、すぐに崩れたことになります。 お城の改修には幕府の許可が必要です。この文書は、丸亀藩からの許可申請に対する幕府からの許可状です。この達しに従って普請が行われ、堀浚えには八月初めから取り掛かり九月に終わり、橋も九月末には完成したようです。
山崎家三代の城主の統治年数を見ると、僅かな期間で交替したことが分かります。
丸亀藩山崎家領主一覧

山崎家治は慶安元年(1648)に55歳で没し、子の俊家が跡を継ぎますが、俊家も三年後の慶安4年に35歳で没します。このとき嗣子虎之助治頼は三歳です。そして、治頼も明暦三年(1557)3月6日に没し、山崎家は所領没収されます。これに先だって、俊家の弟の豊治が、6000石を分けられて仁保(仁尾)に居住してました。彼は備中成羽で五〇〇〇石を賜り、 以来その子孫は成羽領主として明治維新を迎えることになったようです。
  さて、山崎藩によって再建・改修された丸亀城はどうなっていくのでしょうか。それはまた、別の機会に・・・
丸亀城絵図3.33jpg

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」

 
1 讃岐国丸亀絵図
山崎藩が提出した丸亀城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。他にも城下の町割・川筋などが載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを紅葉山文庫に保管・収蔵していたようです。幕末には131図が所蔵されていたようですが、現在は63の正保城絵図があります。この絵図は、山崎藩が提出した丸亀城絵図です。これを山崎藩が提出したのは、幕府の指示があった翌年、つまり1645年とされます。しかし、これについては、私は疑問を持っています。その疑問の背景を年表から見てみましょう
丸亀城を、年表で見ておきましょう。(香川県史の年表より作成)
1600年 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
1601年  生駒一正,徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵       生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280 人を丸亀城下へ移住させる
1602年  生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1610年  生駒一正没する.56歳 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1615年  徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
     一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
1621年  生駒正俊,没する.36歳.生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見する
1626年  間旱魃となり,飢える者多数出る
1628年  西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
     西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
1640年  幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を,出羽国矢島1万石に移す.
1641年  肥後天草の領主山崎家治,西讃5万石を与えられる。城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年  松平頼重,常陸下館から讃岐高松12万石へ移封を命じられる。山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府は諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年  初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
  生駒騒動後に、肥後天草からやって来たのが山崎藩で、1641年のことです。居城をどこにおくかについては、後ほど幕府に報告せよとの指示でした。引渡手続きに当たっていた要人達は、観音寺・多度津・丸亀を候補地としていましたが、丸亀に居城を置く可能性は低いと推察していたようです。
満濃池水掛村々の図

 その理由は、上の絵図を見ると分かります。これは明治初頭の「満濃池水掛かり村々図」で、丸亀平野の領地区分が次のように色分けされています。丸亀平野は、国割りの境界線が金倉川沿いに引かれ、領地区分けは次のようになりました。
①ピンク 高松藩
②草色  丸亀藩
③白色  多度津藩(京極家分家)
④黄色が天領 池御領
⑤赤色  金毘羅大権現金光院寺領
これを見ると分かるように、丸亀は高松藩の領地の中に取り込まれたような形になります。丸亀城から南に見える水田は、ほとんどが高松藩のものになります。丸亀は、西讃の東端になるだけでなく、戦略的にも問題があります。そのために、ここにお城を構えることはないだろうというのが、大方の見方でした。しかし、山崎家治は生駒時代の丸亀古城跡を改修し、新たな居城とすることを選択します。

年表でその後の流れを再確認すると、次のようになります
1642年 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府が諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年 初代丸亀藩主山崎家治が没する.山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
                   
最初に見た丸亀城の正保城絵図は、1645年に幕府に提出されたとされます。しかし、それに対する私の疑問点は以下の通りです。
①42年に「古城を修築」開始し、3年で完成していたのか。工期が短すぎる。
②48年に「丸亀城修復・普請などの指示を出す」とある。これが幕府からの正式の改修許可ではないのか。
③山崎氏の丸亀城は、48年以後に正式に大規模改修工事が始まり、それが完成したのは数年後のことではないのか
④丸亀城の正保城絵図は、1650年代半ばに完成した丸亀城を描いたものではないのか。
 当時は幕府の了承や指示なしで、お城に手を加えることは御法度です。それを破った安芸の福島正則がお取りつぶしになったことを、大名達は目の前で視ています。山崎家も廃城となっていた丸亀城を、居城とすることを幕府に伝えて、最低限の改修工事を行い、正式の許可が下りるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その許可が下りたのが1648年ではないのかという仮説です。その指示を受けて、新城に向けた大規模工事工事が始まったのでしょう。そうだとすれば、工事終了はさらに後のことになります。
  「各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出」とありますので、各藩もすぐに提出したのではないようです。山崎藩の場合は、改修が完成した「晴れ姿」の丸亀城を描いて提出したかったはずです。そうだとすれば、提出が一番遅かった藩かも知れないと私は考えています。
そういう目でもう一度、生駒藩時代の丸亀城と、正保城絵図の丸亀城の拡大図を比べて見ましょう
       1 丸亀城 生駒時代
生駒藩時代の丸亀城
讃岐国丸亀絵図2
       山崎藩が提出した丸亀城絵図

この2枚の絵図から基本的な構図に変化はないようですが、建築物については、二の丸などの構造物も増えて大規模な改修が行われ、一新された姿になっていることが分かります。これは、肥後からやってきて2,3年で行えるものではないような気がします。仮説として、この絵図が作成されたのは1645年ではないこと、48年に幕府からの工事許可が出て、数年を経て完成した姿を描いたものである可能性があることを指摘しておきます。どちらにしても、復興した山崎藩の丸亀藩の姿を伝える貴重な絵図です。

この丸亀城の海側を見ながら読み取れる情報を挙げていきましょう。
讃岐国丸亀絵図 拡大

「讃岐国丸亀絵図」から海辺に近い部分を拡大したものです。
①東側(左)に土器川
②土器川から東側の外堀につながる東汐入川 河口の砂州の上に船番所
③北側の海岸線には、③砂州①が伸びて遠浅の浜辺を形成、
④西側にも砂州2があり、砂州1との間から⑤西汐入川が海に流れ出している
⑤の西汐入川は⑥舟入に船が入ることが出来る
⑥の外堀は⑧の寺町の水路を経て⑤西汐入川につながる
⑦古町と表記されたエリアが⑤西汐入川沿いにある
この絵図の④の砂嘴2が現在の福島町に発展していきます。福島町は、無人の砂嘴の上に作られた町場です。そして、③と④の砂嘴の尖端には、船番所が置かれています。

研究者が注目するのは、⑨の「古町」です。
丸亀城下町の海浜部
「古町」エリアを黒く塗りつぶしたのが上図になります。古町に当たる町名を、挙げると次のようになります。
上南条町  
下南条町  
塩飽町  
横町(現在の本町) 
船頭町 (現在の西本町)
西平山町 北平山町御供所町
これらの町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町です。だから「古町」なのでしょう。この絵図からは、丸亀城が廃城になっても、西汐入川の河口周辺には、漁師(水夫)や廻船関係者などが残り、浦や町場があったことが分かります。山崎氏が、ここを居城とした理由の一つかも知れません。
古町のルーツを見ておくと
①西平山・北平山・御供所の三町は、宇多津の聖通寺山麓の三浦から漁夫を、
②塩飽町は、沖合の塩飽諸島からの人たち
を生駒藩が丸亀城の築城の際に、この地に移住させて成立させたものです。
何のために、漁師達を城下に呼び寄せたのでしょうか? 
新鮮で美味しい魚が食べたかったという理由もあるかも知れません。しかし、当時の生駒藩を初めとする瀬戸内海の諸藩の課題は、九州平定や朝鮮出兵に向けた水軍の整備でした。そのため城下と一体になった湊の整備が求められていたようです。そのためには、水軍の主体となる水夫を城下に配置する必要があったと私は考えています。それは、高松城の場合にも見られる事です。
 「高松国絵図」に見えていた「町」は、このエリアのことでしょう。丸亀城廃城後も町場や浦(湊)が存続していたことが分かります。それは、東西の汐入川は、港(舟入)として用いられ、船番所も置かれています。また、この二つの川は、外堀につながっています。ここからは、城下町の整備と同時に建設された水路(運河)でもあったと研究者は考えているようです。これらが行われたのも山崎藩の時代になってからのようです。とくに西汐入川は、明治43年に河口に近い部分が付け替えが行われて、現在の流路となるまで、その役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

丸亀城下町比較地図51

以後の丸亀城下町は、海に向かって発展していきます。先ほど見たように④の砂堆②に福間町が現れ、さらにその北に福島港が作られます。
1 文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

そして、大坂からの金比羅船の受入港として発展していくことになります。
丸亀新堀1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
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金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

 
丸亀新堀湛甫3

「丸亀繁昌記」の冒頭は、次のような文章で始まります。
「玉藻する亀府(丸亀)みなとのにぎわいは、昔も今も更らねど、猶神徳の著しく、象の頭の山へ(象頭山)、歩みを運ぶ遠近の道俗群参す、数多の船宿に市をなす」
また、江戸千人講の趣意書「讃州丸亀平山海上永代常夜灯講」『孤座特質』)には、
「讃州丸亀平山海岸は、往古より 金毘羅参詣の渡海着船の処にて象頭山へ順路の要地なり……」

と記されます。丸亀が金毘羅船の帰着港で「象の頭の山」に向けて多くの人が歩み始める要地として認識されていたことが分かります。
 19世紀になって新湛甫ができ銅灯寵が建立され、参詣客がいっそう増えると、その恩恵に浴した船宿やその他の人々が、玉垣講や灯明講を結成して玉垣や灯寵を寄進しているのは、以前にお話ししました。丸亀からの寄進について、もう少し踏み込んで今回は見ていきたいと思います。
 丸亀の玉垣講と灯明講について、金毘羅の側では次のように記録されています。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納
丸亀玉垣講寄進の玉垣(四段坂)

  丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄附仕り候、且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、戸帳料として当卯・天保12(1841)年に金子弐拾両、勘定方え相納め侯事、但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛  金刀比羅宮文書
 意訳すると
丸亀玉垣講は本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進した。また内陣での参拝料として1841年に二十両を勘定方へ納めた。丸亀玉垣講のメンバーは毎年正月と九月の2回、総勢180人ほどで参拝する。取次宿は余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛である。

ここからは、丸亀玉垣講が本社正面の南側玉垣(四段坂)を寄進したことが分かります。この時期は、金毘羅さんにとって着工から30年近くを経た金堂(現旭社)がやっと姿を見せて、周辺整備が進められる中でした。また、丸亀新港も姿を見せ、参拝客はうなぎ登りに増え続ける時代でした。上方からの金毘羅船を迎える丸亀も、そのおかげで大いに潤いました。
 そんな中で、
「金堂の完成を祝して、我々もこの際に一肌脱ごうではないか、日頃お世話になっている金毘羅さんに、何かお返しができないものか」
という気運が盛り上がり、玉垣講の結成となったようです。
6 玉垣四段坂 丸亀奉納2

親柱に、「天保十三年(1842)九月」と奉納年月があります。

 この玉垣講のメンバーはどんな人たちなのでしょうか。

6 玉垣四段坂 丸亀奉納3
親柱3には、奉納年月の下に「世話方船宿中」と刻まれています。
 「船宿中」の「中」は「御中」と同じような意味で「仲間・衆」と考えれば良いようです。「船宿衆」が世話役として、この玉垣建立を進めたことが分かります。そのメンバーとしては、佃屋金十郎と明石屋又兵衛、柏屋団次、阿波屋栄吉、備前屋藤蔵、大黒屋清太夫の名前が見えますが、彼らは銅灯寵建立のときの寄進にも名前があります。その末尾には「丸亀船宿」としてあみや為次郎、米屋弥太夫、つくたや金十郎の名前もあります。文化十四年(1817)、奈良の椛屋半助の四角形石灯寵一基の奉納を取り次いだ淡路屋市兵衛、天保五年京錦講の八角形青銅灯寵二基の寄進を取り次いだ多田屋為助の名もみえます。
 ここからは、この丸亀玉垣講のメンバー180名の多くが船宿の宿主で、丸亀港周辺の整備や灯籠・丁石設置に関わっていたことがうかがえます。
次に灯籠を寄進した丸亀灯明講について見てみましょう
講元は梶春助、灯明料として一五〇両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納、講中は毎年九月十一日に残らず参詣して内陣人、そのたびに金子五〇両寄附、宿は高松屋源兵衛
と記されています。
意訳すると
丸亀灯明講の講元は梶春助で、灯明料として150両、また神前へ仙徳灯寵一対奉納した。講中は毎年9月11日に講員が残らず参詣して内陣に入る。そのたびに金子50両を寄附する、取次宿は高松屋源兵衛である。

 灯明講も玉垣講と同じ年の天保十二年(1841)に結成されています。両者が競い合うように同時期に作られたようです。そしてすぐに六角形青銅灯寵両基を奉納しています。

 「町史ことひら」には玉垣講と灯明講のメンバー表が載せられています。
1 金毘羅大権現 丸亀玉垣講と灯明講人名対照表
まず、灯明講の講員は、屋号から職業が想像できそうな人が多いようです。例えば
鉄屋弥兵衛、竹屋粂蔵、板屋清助、槌屋茂右衛門、銘酒屋喜兵衛、指物屋嘉右衛門、油屋茂助、糸屋喜四郎、笹屋仁兵衛、万屋豊蔵です。扱っている商品が目に浮かんできます。

船宿以外の商人たちで構成されているのが灯明講という印象を受けます。
屋号毎に見ていくことにします。
①吉田屋は灯明講に6軒ありますが、玉垣講にはなし。。
②唐津屋は灯明講に3軒あるが、玉垣講には1軒のみ。
③松屋が灯明講では7軒、玉垣講では2軒のみ。
④塩飽屋は灯明講に4軒、玉垣講に8軒
⑤越後屋は灯明講に6軒、玉垣講には1軒もなし。
 ここからは、灯明講と玉垣講のメンバーは丸亀城下でも異なった仲間同士であったことがうかがえます。丸亀玉垣講寄進の玉垣は、天保十三(1842)年9月、四段坂の権現前に建てられます。その二年後に、その対面に明石玉垣講からの寄進の玉垣が建立されます。この取次を行ったのは、丸亀船宿・明石屋又兵衛です。明石屋は、その屋号どおり、明石に縁のある家だったようです。丸亀の玉垣講の前に、自分の故郷の明石講を導いたようです。

 金毘羅参拝客相手の客商売の旅館(船宿)の主と、城下町の住民を相手にする商売主との間には人脈的にも、隔たりがあったようです。

参考文献 町誌ことひら


1丸亀城3

天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国を統一した時からが近世の始まりといわれます。秀吉が讃岐国を託した仙石氏と尾藤氏は、両者とも九州遠征に失敗し、短期間で罷免されます。
その後に生駒親正が天正十五年(1587)8月10日に讃岐領主としてやってきます。戦乱で荒廃していた讃岐国は生駒家によって、立て直されていくことになります。まさに讃岐の近世は生駒家と共に幕開けると云ってもいいと思うのですが、後世の評価は今ひとつ高くありません。それは、次にやって来る松平頼重の影に隠されたという面があるのではないかと私は思っています。

 生駒親正は、まず東讃の引田にやって来て城作りを始めます。
しかし、引田はあまり東の方に寄り過ぎると考えたのでしょうか、短期間で放棄して次候補を物色します。さてどこに城を築こうかと考え、宇多津の聖通寺山は狭過ぎる、丸亀はちょっと西に寄り過ぎ、由良山は水が足りないなどと考え、最後に決めた所が野原庄、現在の高松城がある所に決めたようです。この辺りのことは以前にお話ししましたので省略します。野原庄での城作りは天正十六(1588)年から始まったとされますが、近年の発掘調査から本格的な築城は関ヶ原の戦い後になると研究者は考えているようです。
  南海通記は、高松城は着工2年後の1590年には完成したとありますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままです。文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。天守台の解体修理に伴う発掘調査からは、大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と報告書は指摘します。つまり、入国して10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたと考古学的資料は示しているようです。織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は、関ヶ原の戦い以後に行われた可能性が出てきたようです。そして、同じように発掘調査から引田城も関ヶ原以後に、本格的に整備されたようです。
次に丸亀城がいつ築城されたのかを見てみましょう
   丸亀は、慶長二年(1597)に城の築城にとりかかったと「讃羽綴遺録」・『南海通記』・「生駒記」などに書かれています。これが現在の「定説」のようです。
年表で当時の政治情勢をを見てみましょう。
1590年天正18 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
1591年天正19 9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年文禄1 12・8 生駒親正・一正父子,5500人を率いて朝鮮半島出兵
1594年文禄3 生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
1597年慶長2 2・21 生駒一正,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣する
   春   生駒親正,一正と計り,亀山に城を築き,丸亀城と名付ける

 しかし、年表を見れば分かる通りこの時期は、秀吉の朝鮮出兵の時期と重なっています。多くの兵士が長期に渡って朝鮮半島で戦っています。軍事遠征費に莫大な費用がかかっている上に、親正や一正父子も兵を率いて遠征し讃岐には不在なのです。この様な中で、丸亀に新城を築くゆとりがあったのでしょうか。それに高松城も、まだ姿を見えていません。
 築城が急がれる軍事的な背景や緊張関係も見つかりません。 秀吉没後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)以後に、東西の緊張関係激化に対応して築城したというのなら理由もつきますが、・・・・。
関ヶ原の戦い前後の生駒藩の動きを年表で見ておきます
1598年慶長3年9月18日)秀吉没
1599年 生駒藩の検地が始まる〔慶長7年頃まで〕
1600年慶長5 6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため従軍
 7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,
     騎馬30騎を参陣させる.
 8・25 生駒一正,岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感状
 9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する
 9・- 生駒親正,高野山で出家し家康に罪を謝る
1601年慶長6 生駒一正,家督をつぎ家康より讃岐17万1800石余を安堵
     生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下
     へ移住させる
1602年慶長7 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1603年慶長8 2・13 生駒親正,高松で没する.78歳

弘憲寺(生駒親正夫妻 墓所)「香川県指定史跡」 香川県高松市 ...
生駒親正夫妻墓所(高松市弘憲寺)

  生駒家も真田家と同じように、父子がそれぞれ豊臣と徳川に別れて付いて、お家の存続を図っています。そのお陰で、一正は家康より讃岐国を安堵されます。そして、一正は丸亀城から高松城に移り、父に代わり正式に領主となります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正

 この時に新領主となった一正に、家康が求めたこと何でしょうか。
それは、次の戦争に向けた瀬戸内海交易路の確保のための、海軍力増強と防備ラインの構築だったのではないでしょうか。周囲の姫路城や岡山城などの瀬戸内の城主は一斉に、水城の整備・増強を始めます。先ほど見たように発掘調査によっても高松城は、関ヶ原の戦い後に岡山城との同版瓦が使用されています。ともに、徳川時代になって作られているのです。姫路城には、強力な水軍基地があったことも分かってきました。この様な中で、生駒家は引田城の整備を行っています。丸亀に新城を築くとすれば、この環境下ではなかったかと私は考えています。ちなみに「讃羽綴遺録」では、丸亀城築城を関ヶ原の戦い後の、慶長7年としています。

生駒さんの丸亀城とは、どんな姿だったのでしょうか?
資料①「讃州丸亀城図」とある図面が生駒さんの丸亀城です。
1 丸亀城 生駒時代

 この絵図は、東京目黒の前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されていたようです。「前田」と云えば、加賀百万石の前田家です。前田家の五代藩主前田綱紀が古今の書を広く収集し、それらの収集した書物を「尊経閣蔵書」といい、その文庫を「尊経庫」と呼んでいたようです。その中で、城絵図は有沢永貞という人が中心になって集めています。有沢は文武にすぐれていた金沢の藩士で、藩内にこの人に武芸を習わなかった者はいないとまでいわれていたようです。その人が絵図の収集にも精力的に動きました。そして、現在に伝わっています。

 丸亀城は亀山という山に築かれています。この山の岩質は輝石安山岩で、五色台や飯ノ山のと同じ系統の岩で、堅くて割れるとが非常に鋭い岩になります。
城図からは、次のような事を研究者は読み取っています。
①真ん中の黒く囲まれたのが郭一で、今でいえば本丸で、まん中に天守台があります
②図の左側が東で、天守台は入口が東向きにあり、今のお城と異なります。
③天守台を囲んだ郭一の南側から東側・北側にかけて二の郭が取り囲んでいます。
④さらに東側に郭があり、これが三の郭です。
⑤三の郭の南に続いて四の郭があります。四の丸は今はありません。
⑥二、三、四の郭があって、南西に大手門があります。
⑦三の郭の東北端と西北端から山麓へ石垣があり、北側の中腹くらいから平地になっており、ここが五の郭で、山下屋敷といわれた所です。
後に山崎さんによって、再築される丸亀城との比較は次回に行います。次に、お城ができた頃の丸亀城周辺は、どんな状態だったかを見ておきましょう。生駒藩お取りつぶし直前の寛永十七(1640)年「生駒高俊公御領讃州惣村高帳」を見てみましょう。
   鵜足郡
一 高百七袷貳石八斗八升      三浦
  高合 貳万貳千百六播八石四斗五升五合
 那珂郡
一 高四百六石八斗九升一合                  圓龜(丸亀)
一、高八百Ξ拾Ξ石四斗九升Ξ合    柞原
一 高八百三石八斗         田村
 鵜足郡の三浦は、予讃線の北側の西平山、北平山、御供所にあたる所です。ここで172石の米が取れたようです。そして圓龜(丸亀)には、406石余の土地があったと書かれています。今の丸亀の町は、お城周辺以外は、ほとんど田んぼだったということになりそうです。
 次の田村は現在の田村町で田村池周辺ですが、この村高が「八百三石八斗」とありますから、丸亀は、田村のほぼ半分くらの石高だったようです。
「讃岐国内五万石領之小物成」には「小物成」が記されています
小物成ですから雑税、米以外の税金になります。
  「銀子弐百拾五匁  圓龜村  但横町此銀二而諸役免許」

とあり、丸亀は215匁の銀を納め、これで横町は諸役を免除されていたことが分かります。また、
「米三石  圓亀村  但南条町上ノ町 此米二而諸役免許」
とあります。米三石を納めることで、南条町の上ノ町は諸役が免除されていたようです。それから「宇足郡之内」とある中に
一、干鯛(ほしたい)千枚  三浦運上
一 鰆之子百五拾腸     同所
とあります。三浦は先ほど見たように平山町や御供所のことです。ここからは干鯛と鰆の子が納められています。鰆の卵は、からすみにされて珍重されていたようです。江戸での贈答品にしたものでしょう。この地域が漁師町であったことがうかがえます。

亀山の小さな山の上に、お城が乗っていたのは、わずかの間でした。大坂夏の陣のあと軍事緊張がなくなると、幕府は一国一城令を出します。その結果、寛永初めころまでに丸亀城は廃城となったようです。
寛永4(1627)の8月に幕府隠密が讃岐を探索し、高松城と城下町の様子についての報告書が「讃岐探索書」として残っています。そこには高松城については、当時の状態が破損箇所も含めて詳細に絵図を付けて報告されています。しかし、丸亀城については、なにもありません。隠密にとって「報告価値なし」と判断したようです。関ヶ原の戦い後に、西国大名への備えとして作られた丸亀城は、ここに役割を終えたようです。
 ちなみに、この年の生駒藩の蔵入高は「9万4636石3斗4升,給知高12万63522石9斗8升」と報告されています。隠密は必要な情報を集めて、幕府に報告しています。ちゃんと仕事をしていたようです。
以上見てきたように、生駒さんは関ヶ原の戦い前後に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。讃岐への定住覚悟ができたのは関ヶ原後で、その時期から3つの城の工事が本格化したようです。
今回はここまでで、おつきあいいただき、ありがとうございました。

           
丸亀絵図5
『讃岐国丸亀絵図』(正保年間一六四四~一六四八年)です。
この城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
  この絵図を見ていると私には分からないことがいくつもあるのですが、それは今は置いておいて基本的なことを確認しておきます。
①丸亀城下町は北に開ける瀬戸内海を意識した城造りがされている。そのため町割りも北には伸びているが東・西は外堀の外は田んぼや畑が広がっていた。
②西側には西南に延びる金毘羅街道沿いに市街位置が形成されている。
③外堀と汐入川を結ぶ運河は、現在の北向地蔵菩薩堂の所で直角に曲がり、城乾小学校の西側を通って汐入川とつながっていた
④汐入川河口は西から東に流れ現在の港公園付近を経由して海に流れ出ていた。
以前に、丸亀駅の北側は汐入川の河口で、その向こうには長い中洲があったこと、そこに人が住むようになり町になり、金比羅船が着く港が作られ大いに繁栄するようになったことをお話ししました。この上の地図では河口の右手(西側)の砂州にあたります。
今回は上(南)に向かって、城の方へ真っ直ぐに伸びている「運河」(水路)について見てみましょう。
この『讃岐国丸亀絵図』には「船入」書かれていることから城下町の奥深くまで船が入りこめるように、運河のような港がつくられていたようです。
丸亀市実測図明治
この「船入運河」は、現在のどこにあったのでしょうか? 
この絵図だけ見ていては分からないので、明治34年の『香川県丸亀市実測全図』と比べてみましょう.。明治34年と云えば日露戦争直前で善通寺に11師団が設立された直後になります。現在の東中学校や大手前高校、消防署・警察署丸亀城には、丸亀連隊が置かれ
明治天皇も視察に訪れたりしています。城の東側(労災病院周辺)には、広大な練兵場があったことが分かります。また、丸亀から高松への鉄道も開通し、丸亀駅も現在地点に移転しているので、江戸時代と現在を比較する際の「座標軸」の役割を果たしていくれるので私は重宝しています。
この地図で注目したいのは次の3点です
①汐入川は丸亀駅のすぐ裏を西から東に流れている
②東に流れる汐入川が直角に流れを返るあたりから南(上)が埋めたてられて「船入運河」が姿を消している
③埋め立てられた上を高松行きの鉄道が通っている。
丸亀市が西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手するのは、日露戦争後のことです。この時点では汐入川は江戸時代と同じ流路でした。
  この地図から推察できるのは、埋め立てられた「船入運河」が流路を東から北にかえるポイントの南への延長線上にあるということでしょうか。17世紀と20世紀の地図を拡大して比較してみると次のようになるようです。
丸亀実測図拡大版
この『香川県丸亀市実測全図』では「船入運河」の細長い港は線路より南(上)は埋め立てられています。その埋められた部分が、この地図でどこに当たるのでしょうか。ふたつの地図を眺めてみると現在の本町通りあたりまでが、埋め立てられた部分になりそうです。
丸亀城下町比較地図1
 現地調査を行って見ましょう。
線路上に「停車場」とあるのが丸亀駅です。駅前の本町通りに百十四銀行支店と記されています。現在はここには、ホテルアルファーワンが建っています。その西通は富屋通りで、南へ行くと妙法寺方面です。この通りは今でも健在です。さて、めざすホテルの東側の通りに入っていきます。はすかいの十字路を越えて丸亀市の商店会連合会事務局の前をなおも進むと、突き当たりになります。そして、左折(東)方向にしか進めない「L字道」になっています。

丸亀福島・新堀
手前左が新堀港・右が福島港 城方向に真っ直ぐ「船入運河」が伸びている
丸亀新堀湛甫3
上の拡大図

 そして、東に進むと、すぐに通町商店街に出て、そこで再び突き当たりとなってしまいます。その突き当たりからさらに東の松屋町の方へ進もうとすると、いったん右折してから、すぐに次の角で左折するというルートをたどらなければなりません。城下町として整然と区画された町割りの中で、この「L字道」は少し「ヘン」です。「地図上の比較 + 現地調査」の結果から「このL字道は、船入運河(港)の終点のコーナーであった」という結論が引き出せそうです。
2丸亀地形図
 江戸時代は、本通りの「ラーメンきらく」あたりまで港が入り込んでいたようです。明治になって鉄道が高松に伸びる頃になって、港の奥が埋め立てられ、本町通りは東に延びて通町で松屋町の方につながりました。しかし、運河によって隔てられていたために埋め立てた後に、本町通りは通町のところで突き当たって、そこから先は道が作られなかったということになります。

丸亀新堀1
 通町の真ん中あたりまで運河が入り込んで、船が出入りしていたということは新鮮な驚きです。満潮になると底の浅い川船に積み替えられた荷物が運ばれてきて、ここから荷揚げされていた光景がかつては見られたのかもしれません。
 丸亀も瀬戸の城下町として目の前の海に向かって開かれた町であり、直接に城下町の真ん中まで船が入ってくることの出来る港湾施設があったようです。

参考文献 井上正夫 丸亀本町通りの東はし 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

 
DSC01386多度津街道1
 城下町丸亀の港は、上方や中国筋からの金比羅詣で参拝客が多く上陸するところでした。とりわけ、下津井と丸亀間は中国地方と四国地方を結ぶ上で距離が短く、その上、島も多いので安全性が高く往来する船が多かったようです。そして、陸に上がると丸亀から金毘羅の間は、整備された丸亀街道で結ばれていました。そのような地理的な好条件を背景に、丸亀藩は金毘羅参拝客の呼び込み政策を積極的にとります。
 真念の『道指南』には、
「摂州大坂より讃岐丸亀へ渡海の時ハ、立売堀丸亀屋又左衛門・同藤兵衛かたにて渡り様可相尋。白銀弐匁、丸亀まで船賃、但海上五拾里。」
とあります。丸亀に船で渡たる時には、大坂の立堀売丸亀屋又左衛門あるいは丸亀屋藤兵衛に相談をするようにと案内しています。
 天保7年(1836)3月、丸亀に着船した武蔵国中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、持参の寺往来手形を番所へ出し、さらに1人前世話料として銭105文ずつを差し出して、丸亀西平山町の備前屋の世話で次のような「(船)揚り切手」を手に入れています。
     覚貫
武州旗羅郡中奈良村重蔵同行弐人
右当地着船仕、往来手形所持見届ヶ船揚申處相違無御座候、已上
  天保七年    讃州丸亀
    丙申      吉岡惣八 印
   三月七日占百五十(日)之内
 四ヶ国御番所衆中
DSC01232
 
同じ年に四国遍路した松浦武四郎は次のように記します、
「下津井の湊に(中略)船を求て海上七里、船賃七十弐文、切手銭十三文、毎夜出船有、渡海し、(中略)
故此四国の内二而頓死、病死等二而も有而は、其所の例を受べき手形を持、別て此丸亀二而船上り切手と云るものをもらひ行ことなり。其切手は上陸の上問屋に行、船改所二国元の寺、往来を書認めもらふこと也。右之代銭八十五文也。此の船揚りを持たざるものは、土州甲の浦の番所等二而甚陸ケ敷云て通さゞること也。故二遍路の衆は皆失念なく此湊ニ揚り切手を取行かるべし。」

 彼は下津井港から船で丸亀港にやって来ています。その船賃は72文・切手銭13文を支払います。その上に遍路途上で亡くなった場合に備えて「死手形」が必要だといいます。特に、丸亀港で「揚り船切手」を手に入れておくことがポイントであると強調しています。これは、以前お話ししたように、土佐藩は遍路の長逗留や遍路乞食の活動防止策として入国の際に「上り船切手」の提示を求めるようになっていました。これがないと入国を認めなかったのです。
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 金比羅参拝の拠点となる丸亀は当時、多くの参拝客が大坂からやってきました。しかし、東国から金毘羅参拝客は、「一生に一度のことだから、伊勢も宮島も金比羅も四国遍路もすべて一緒に、この際に巡ってやろう」と考えている人たちも多かったのです。金比羅詣客と四国遍路を明確に区分することは出来ないようです。
 さて丸亀で船から上陸した四国遍路をめざす人たちは、多度津の七十八番道場寺から札打ちを始めたようです。幕末の嘉永・安政期になると東国から伊勢や高野山・熊野を経てやってきた人たちは紀州加太浦を経て志度港に上陸し、高松からの参詣道を利用するルートが多く使われるようになります。そのため、志度寺を札打ち始めとする遍路も増えます。
1丸亀城
丸亀城と城下町と港 
天明年間(1781~89)に成立したといわれる丸亀藩法制の「古法便覧」の中に、下のような公設の遍路屋についての史料があります。  
一、遍路屋事、元文五さる十一月、役中より覚書を以御伺候所被仰付、西平山熊野屋孫兵衛明地所望いたし、弐間・五間之長屋建る右代銀七百目、入札落に成り申也、宿守居へ候事、
一、遍路屋は町会所所持也(中略)
一 遍路家は町内三浦より建候也
元文5年(1740)11月に、丸亀藩の許可を受け、城下町中と三浦地区によって、丸亀城下の西平山に遍路屋が建てられたことや、そこには宿守りが置かれ、町会所が運営に当たっていたとことが分かります。
230七箇所参り

さらに翌年7月には、藩から三浦地区に次のような運営規則が通達されています。
一廻国辺路(遍路)人宿
 右往来手形寺手形相改相違無之候晋一夜泊可差置、依勝手逗留頼候共、二夜与指置申間敷事
一木賃壱人前宵越三拾銭以下可取候、其外ハ取間鋪事
一米塩味噌等調候ハゝ外方高直二無之様二仕売可申事
     (中略)
一辺路人之中病人成者貧賤之者ハ別而いたはり可申事
一船二而来候ハゝ川口二おゐて往来手形出させ見届相違無之候ハ二番所江其段相断船方可揚、出船之節茂右同様二可相心得事     (後略) (「丸亀城下御定目」)
意訳すると
①遍路屋では往来手形、寺請手形を改め間違いがなければ一泊を限りに認めること、身勝手な頼みなで連泊させないこと。
②木賃は一人30文以下、米一塩・味噌などは他の店より高く売らないこと
③遍路のうち病人や貧窮の者には格別にいたわること
④舟でやってきた者は川口で往来手形を改め、問題がなければ川口の番所へ報告してその者を上陸, させること、出船のときも同様にするよう心得る
など細かく定められてます。米・塩などについても暴利を得ることを禁じるなど遍路に対する「お接待マインド」がうかがえます。。
 この定目(規則)は町奉行からて大年寄を通じ、丸亀城内14の町内の21の年寄と、三浦の3人の庄屋通達して、それぞれの請け判がとられています。城内全体に周知させています。
丸亀地形図
 この2年後の1744年には、大阪江戸堀の明石屋によって金比羅参拝船が運行を開始します。金比羅船が追い風に帆を上げて、大挙してやってくる時代が幕明けるのです。その流れに乗って四国遍路もやってきます。丸亀藩は金毘羅参拝客の誘致に積極的に動いていますが、四国遍路に関しても目配りしていることがうかがえます。そして、その姿勢は「お接待マインド」で、排斥の姿勢ではなかったようです。

4北前船

高松藩の物乞い禁止令               
高松城下の様子を知るものとして、文化12年(1815)8月に、町年寄に藩が出した次のような史料があります。
廻国並びに四国辺路(遍路)之類、御城下江大込候義兼而停止之事二候所、近頃猥り二町方江大込、就中他所乞喰辺路之類多入込、托鉢致候様二相聞候、向後右様之類惣而他国者与見受物貰之類江一向手之内之合カヲも遣申間敷候、畢竟町方二而托鉢有之候故、多入込候義と相見候開堅相守可申候、若心得違之者も有之托鉢於遣者、屹度咎可申付候、(後略)
(「高松町年寄御用留(抄)」)
意訳すると次のようになります。
従来から遍路の城下への入り込みは禁じているが、近頃乞食や遍路が城下に多く入り込んで盛んに托鉢をしていると聴く。今後は乞食遍路の類や他国者で物乞いをする者に対しては、一切布施をしてはならない。もし心得違いの者がいれば、今後は罰する
という達しです。この達しの末文には、この達しの趣旨はすでに天明5年(1785)や寛政7年(1795)にも触れ達しているが、それにもかかわらず、近年心得違いの者もあって徹底していないので重ねて通達すること、本家は言うまでもなく裏だな・借家に至るまで趣旨を徹底するようにと、厳しく申し渡しています。
 ここからは18世紀末から19世紀にかけて金比羅参りや四国遍路が盛んになるにつれて、四国に「滞留」し、高松周辺でも「遍路乞食」をするものが増えていることが分かります。これは当時の四国各藩の抱える共通の問題だったようです。

4弁財天Ueno_junks
 しかし、その対応策はそれぞれの藩で異なりました。
最も強硬策をとったのが土佐藩で入国制限から、大地震の後は入国禁止へと進みます。そして、それは明治後にも引き継がれ高知県では、遍路排斥が地方行政の手によって進められたのです。
 ところが阿波や讃岐は「遍路乞食」の禁止通達は何度も出されるのですが、土佐のように入国制限や禁止策までには居たらないのです。そのため現場の村役人が対応に苦慮していることを窺わせる史料が阿波藩などには残っています。
 逆に阿波藩や讃岐では、なぜ遍路排斥を行わなかったのかというのが次の疑問点となります。
しかし、現在の私にはそれに答える材料はありません。あしからず・・・
 参考文献 「四国遍路のあゆみ」
    平成12年度遍路文化の学術整理報告書

丸亀駅裏に「新町」ができるまでのお話

「丸亀駅近くの線路の北側は明治の末ごろまでは海であった。福島町はそこに浮かぶ中洲だった」と聞きました。本当でしょうか?
丸亀城絵図56
 『讃岐国丸亀絵図』(正保年間(1644年)
上の絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
丸亀の海岸線17世紀
この絵図で注目したいのは海に面した北側(下側)です。海際には砂州が広がり、その南側を汐入川が西から東に流れています。現在の丸亀駅は海の中です。その北に広がる塩屋町は、近世以後の開拓で陸地化されたようです。江戸時代には、丸亀駅の北側には旧四条川がもたらす堆積物で塩屋の方から突き出た洲浜が続いていたことが絵地図からも分かります。この洲浜を中須賀と呼び、浅瀬を挟んで浜町と向かい合っていました。ここは誰も人の住まない砂嘴(さし)の先端でした。1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入ってきます。その2年後には、現在の丸亀城天守が石垣の上に姿を見せます。

中須賀に最初に家を建てたのは塩飽大工たち?

1 讃岐国丸亀絵図部分図

「福嶋町由来書」には、京極藩の支配が固まっていく中で大工十六人が、この中須賀に家を建てることを願い出て、許可され移り住んだことが記されています。最初に家を建て住み着いたのは、塩飽の大工達のようです。当時の丸亀は、京極氏の移封に伴う建築ラッシュで、塩飽大工が仕事を求めて丸亀城下に数多く入っていました。彼らが島に近いこの地に「進出・移住」しようとしたのでしょう。その後、この中須賀へ移住する者が相次ぎ人口も急速に増えます。
二年後には天満宮を、さらに弁天財をここへ移し中須賀の氏神としました。その後も中須賀へ移住するは増え続けますが、海を隔てて不便なので1691(元禄四)年に長さ約二八・八㍍の橋が初めて架けられます。
当時の二代藩主京極高豊は、この橋を福島橋と名づけました。
同時に中須賀といっていたこの中洲は福島町と改められたのです。橋ができて便利になっため、そして湊に近いという利便さ、
さらに庶民の町としての生活のしやすさなどから、
この中洲は最初に十六戸が移住してから約十年後の元禄六年には、家や人が百倍にもなったようです。
当時の福島町の景観は?
 このころの絵地図からは、福島の南岸と北岸には松林が東西に続いているのが見えます。南岸の松林は、現在の弁天通の南側に沿って東西に続き、松林の西には弁財天の祠があり、東には天満宮が見えます。その後、天満宮と弁財天を1力所に合わせ祀ります。
丸亀新堀1

これが現在の厳島神宮天満宮(福島町)です。後には、ここで日照りの年には雨乞いの祈願もするようになり信仰の中心になっていきます。
イメージ 1
厳島神宮天満宮(福島町)

金比羅詣での湊として繁栄する福島町

Ã\¤§Ã\‚からの玄関Ã\£ã¨ãªã£ã¦ã„た丸亀の湊
丸亀湊の賑わい(右が福島湛甫、左が太助燈寵のある新堀湛甫)
時代とともに金比羅参詣の客が増えて「金比羅船船 追い風に吹かれてしゅらしゅしゅしゅ」の通り、福島町は繁栄していきます。
1806(文化三)年には、北側に船の停泊所が築かれます。
福島湛甫といわれ、東西111㍍・南北91㍍・東側にある入口32㍍、深さ3㍍の大きさで、太助燈寵のある東側の新堀湛甫より27年も前のことです。つまり、新堀湛甫が作られるまでは、金比羅詣での参拝者は、福島湛甫に上陸し福島の町を抜けて福島橋を渡り、金比羅への道を歩み始めたのです。
両宮橋の架橋
 こうして、福島が栄えるにつれ、多くなった通行人を福島橋一つでは賄いきれなくなります。そこで、その西に簡単な橋を架けることになりました。この橋は福島の天満宮と浜町の船玉神社との間に架けられたので両宮橋と人々は呼びました。現在でいえば、新町にある松田書店のあたりから南へ架けられていたようです。福島町には弁天筋、大井戸筋、榎木町、暗夜小路、材木町などの幾筋もの町筋が並ぶようになります。
丸亀新堀1
福島湊と福島町の街並み その向こうに福島橋が見える
確かに福島町は近世まで中洲であったようです。それが金比羅詣での盛況ぶりに合わせるかのように発展してきた町だったのです。それでは福島町と丸亀駅の間にあった「海」は、どんな状態だったのでしょうか?

2丸亀地形図

現在の丸亀駅のすぐ北は満潮時の深さは2,5㍍ほどでの海浜で、西汐入川が西から東へ流れ海に注いでいました。旧藩時代には、福島町弁財天社と浜町との間は藩の船隠しで、御召船泰平丸、住吉丸、御台所船浪行丸、先進丸。出来丸、幸善丸、白駒丸、その他漕船、小遣舟などの船体を繋留した所でした。南の浜町側には船の倉庫が十以上もあり、その関係の役所や長屋・小屋などが建ち並んでいました。ここが船手浜之町ですが、人々は俗に「船頭町」と呼んだようです。
丸亀城下葛1828年

それでは、福島町が陸続きになったのはいつなのでしょうか?
 それは明治の鉄道建設と関係があります。
1889(明治二十二)年、琴平まで讃岐鉄道が開通した時の丸亀駅は始発駅で、現在地よりは250㍍ほど西にありました。それから8年後に鉄道が高松まで延長されます。その際に、駅は現在地へ移りそこにあった「船手浜之町」の跡は消えます。しかし「船頭町」と呼ばれていた町の名は、その後も長く残ります。
丸亀地図 明治
 20世紀を迎え日露戦争に勝利すると、本格的な近代化の波が瀬戸の港にも押し寄せます。こうしたなかで、丸亀史は市は1909(明治41)年から西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手します。その手順は以下の通りです。
1 浜町銀座通りの鉄道線路までの丸亀港の浚渫、
2 西汐入川河口の埋め立てと福島湛甫の西側一帯の埋め立て(広島方面行き三洋汽船発着場の西)
3 現在の流路への西汐入川の附け替え
 先ず港の浚渫によって出てくる土砂で西汐入川河口と福島湛甫の西側を埋め立てます。同時に、駅の方へ流れていた西汐入川を藤井建材店の所から流れを北へ変え、現在の流路にする工事でした。
この西汐入川の附け替えと埋め立てによって、水によって隔てられていた福島町は陸続きとなりました。

丸亀古城図1802年
また埋め立てられた海(河口?)には、新町もできました
新町は名の通り埋め立てによって1912(大正元)年に新しくできた町なのです。この結果、西汐入川河口に架けられていた福島橋と両宮橋は不要となりました。福島橋の石造欄干は東汐入川の渡場の欄干に使われていましたが、これも今では、その一部が資料館に保存されているそうです。この欄干が福島町(島)と丸亀城下を結ぶ架け橋だった時代があったのです。今から百年前以上のことになります。
参考文献 丸亀の歴史散歩

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