瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の神櫛王伝説

前回は、文献の上で「牟礼の青墓」が「神櫛王墓」になっていく過程を見てきました。それを「復習」しておくと次の通りです。

神櫛王墓の変遷
牟礼の青墓が神櫛王墓に変身していく過程

①17世紀は、神櫛王は阿野郡に在住したという古代伝承が一般的でした。そして、王墓については何も触れていませんでした
②ところが18世紀初めにの南海通記で「神櫛王が山田郡を治めた」「その子孫が神内・三谷・十河の三家」と書かれました。これが次第にいろいろな本に取り上げられ世間に広がって行きます。しかし、この時点では、墳墓については何も書かれていませんでした。後に神櫛王墓となる丘陵は、青墓と呼ばれて共同墓地として利用されていました。
③3期18世紀末には『三代物語」が、「青墓が王墓で、牟礼にある」とします。その後はこれが一般化されます。
④19世紀になると、青墓の上に建つ大きな二つの立石が、その墓石であるとされます。こうして、時代が下るにつれて、神櫛王=牟礼在住説は強化されていきます。以上、神櫛王の王墓が書物で牟礼にあったとされるまでの過程を見てきました。
 それでは、共同墓地だった青墓が現在の姿になったのはいつなのでしょうか。またそれはなんのために、だれが行ったのでしょうか。
神櫛王墓看板
神櫛王墓の説明版(牟礼町)

神櫛王墓の説明版には、墓所は「草に埋もれていたのを新政府の許可を得て、高松藩主だった知事が明治2年に再営」したと書かれています。
神櫛王墓整備後
神櫛王墓の古図(牟礼町史より)

これは牟礼町史に載せられている「再営」後の王墓を描いた絵図です。王墓山と書かれていています。2つの立石以外の石造物は撤去されています。絵図の下の注記には、次のように記されています。

明治2年、御国主より沙汰ありて、牟礼村の松井谷と申す所に墓地を移した。

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          松井谷墓地の青墓地蔵尊
現在の松井谷墓地には、青墓から明治初年に移されたという青墓地蔵があることは前回に紹介した通りです。その背面には、次のように記されています。
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青墓の地蔵さま

どうして、明治になってそれまであった共同墓地が移されたのでしょうか?王墓として「再営」されたのは、どうしてなのでしょうか。
それは、幕末に畿内の天皇陵とされる陵墓が、幕府の手によって修復整備されたことと関わってくるようです。その背景を見ておきましょう。
文久山陵図 / 外池昇 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 文久年間に(1861年)描かれた文久山陵図です。この中には当時の天皇陵とされた陵墓修復の「ビフォアー&アフター」が描かれています。一例に崇神天皇陵をみてみます。
文久陵墓 
左:修復前 右:修復後
二つの絵図の変化点を見ると、どのような修復が行われたのかがうかがえます。よく見ると①周濠の拡張②土堤の嵩上げ、③拝所の整備 ④高木の伐採整理が行われています。この修復に幕府が垂仁天皇陵に投じた金額は749両2分。この時に、神武陵も増築されていますがそれは1万両を越える工事費がかけられいます。この時には120の伝天皇陵の修復が行われています。ここから分かることは、現在私たちが見慣れている天皇陵は、幕末の大修復(大改造・拡張工事?)を経た姿であるということです。現在の姿は幕末に調えられたモノなのです。それではどうして幕末に幕府の手で、整備が行われたのでしょうか?
天皇陵改修のねらい

 幕末に朝廷への恭順をしめすために、天領陵とされる陵墓が幕府の手によって行われたことを押さえておきます。実は同じような情勢が明治維新に高松藩を襲います。

高松藩の神櫛王墓整備目的

①それは鳥羽伏見の戦いに高松藩は幕府方として出兵し敗れます。
②薩長土肥は、江戸遠征のためにも西国の徳川幕府の親族の各松平藩の勢力を削いでおく必要がありました。そこで高松藩や松山藩など西国の五つの松平藩を朝敵とします。こうして高松藩や松山藩には朝廷から官軍に任じられた土佐藩が錦の御旗を掲げてやってきます。これに対して高松城は、鳥羽伏見の指揮官を切腹させ、恭順の意を示し降伏します。こうして高松城は土佐藩に占領下の置かれます。高松藩は、新政府に8万両の献金をするとともに、朝敵の汚名をそそぐために涙ぐましい努力を重ねています。そのような一環として行われたのが神櫛王墓修復だったようです。

神櫛王墓の宮内庁管理

①高松藩は、維新の翌年明治2年には、神櫛王墓の修復伺いを出しています。
②明治3年には、それまで青墓とよばれていた共同墓地から墓石や地蔵などの石造物が撤去され、王墓として整備が完了します。
③明治4年になって、皇子陵墓の全国調査が行われますが、その時には神櫛王墓に終了していたことになります。
こうして見ると皇子の墓としては最も早い時期に整備が行われた王墓とも云えそうです。この早さは、異様に見えます。この背景には、高松藩の政府への恭順の姿勢を示すというねらいがあったと研究者は考えています。
 先ほど見たように幕末には、天皇陵とされた陵墓の修復(改造)が幕府の手によって行われていたのは先ほど見たとおりです。それを明治維新で、高松藩は各藩に先駆けて行ったのです。これには姻戚関係にあった京都真宗興正寺派の院主のアドバイスもあったようです。

神櫛王墓のその後
その後の神櫛王墓の果たした役割は

①こうして戦前は、神櫛王は讃岐の国造りの創始者として、郷土の歴史のスタートにはかならず取り上げられる人物となります。神櫛王を知らない香川県民はいなかったはずです。そして、その王墓も牟礼にあると教えられました。②そのため戦前には戦勝祈願の場所として、信仰対象にもなっていたようです。③それが敗戦によって、皇国史観が廃止されると神櫛王が教科書に登場することはなくなり、教室で教えられることはなくなりました。こうして神櫛王と王墓は、讃岐の歴史教育から静かに退場したのです。
 一方、牟礼の王墓が神櫛王の陵墓とされることによって、阿野郡や鵜足郡の陵墓とされていた所はどうなったのでしょうか。
そのひとつである飯山町法勲寺の陵墓跡を最後に見ておきましょう。

神櫛王 法勲寺1
綾氏の氏寺とされる法勲寺跡 後方は讃岐富士
     丸亀市飯山町の讃留霊王神社から眺める讃岐富士と古代法勲寺跡です。この左手の岡の上に鎮座するのが・・
神櫛王 法勲寺の讃留霊王神社

神櫛王墓とその神社です。しかし、神櫛神社とは書かれていないことに注意して下さい。神櫛王の諡とされる讃留霊王神社とされています。どうしてでしょうか。これは明治になって、神櫛王の陵墓は庵治にあると国家が認定したためです。神櫛王のお墓がいくつもあっては困るのです。そのため他の王墓とされてきた所は、神櫛王の名を名のることが出来なくなります。そこで別名で祭られることになります。そのひとつが讃留霊王の墓です。
讃留霊王神社説明版

神社の説明版です。祭神は神櫛王でなく、弟の建貝児王(たけかいこう)になっています。そして父はヤマトタケルになっています。しかし、神櫛王とは名のっていません。
最後に、牟礼の神櫛王伝説の経緯をまとめておきます
神櫛王牟礼

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

  P1240478
                牟礼町の神櫛王墓
前回に続いて牟礼町文化財協会総会で、お話ししたことをアップします。牟礼の神櫛王墓です。私は宮内庁管理の王墓が、白峰寺の崇徳上皇陵以外にあるのを、10年前までは知りませんでした。どうして、牟礼に神櫛王の王墓があるのかが気になって調べてみると出会ったのが「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号」です。今からお話しすることは、この論文を参考にしています。
讃岐府史の神櫛王記述
17世紀後半の讃岐府史 神櫛王についての記述は赤色のみ
江戸時代の初め頃、元禄年間に神櫛王については、どんなことが書かれていたのか見ておきます。讃岐府史は17世紀後半、初代の高松藩主松平頼重の時代に刊行された所で、讃岐の人物や陵墓などが記されています。神櫛王については「讃岐国造の祖、景行天皇の孫」だけです。押さえおきたいのは、この時点では、古代の紀記の内容と変化はないことです。陵墓についても何も書かれていません。それでは神櫛王が、東讃に定住したと最初に書いたのは誰なのでしょうか?

1櫛梨神社3233
神櫛王伝説は綾氏系図から分かれて、15世紀初頭に成立した宥範縁起に取り込まれていることが近年に分かってきました。宥範は琴平の櫛梨出身で、高松の無量寿院で学び、全国各地で修行を重ね、中世善通寺中興の祖とされる高僧です。そこに神櫛王伝説がとりこまれていきます。そこでは、上表のように凱旋地などが坂出福江から高松の無量寿院周辺に書き換えられていきます。つまり、神櫛王が高松周辺に定住したという物語になります。これを受けて「神櫛王=高松周辺定住説」が拡がるようになります。

南海治乱記と南海通記

この普及に大きな役割を果たしたのが香西成資(しげすけ)です。
彼は滅亡した一族の香西氏の顕彰のために南海治乱記を記します。その増補版が南海通記になります。彼は後に軍学者として黒田藩に招かれ大きな邸宅を与えられます。この2冊が発刊され人々の目に留まるようになるのは18世紀になってからです。『南海治乱記』は、神櫛王ついて何も触れられていません。神櫛王は、南海治乱記の増補版である南海通記に次のように登場します。

 南海通記の神櫛王記述
 南海通記の神櫛王記述

何があたらしく加えのか押さえておきます。
南海通記の神櫛王記述追加分

ここには①神櫛王が屋島浦で政務を執った ②神内・三谷・十河の三家は神櫛王の子孫であることがあらたに加えられています。南海通記は、軍記ものとしても面白く、読み継がれていきます。そして讃岐の戦国時代を語る際の定番となります。戦後に作られた市町村史も中世戦国時代については、この南海通記に基づいてかかれているものが多いようです。南海通記に記されることで、神櫛王=東讃定住説の知名度はぐーんと上がります。この時点では、神櫛王=鵜足郡定住説と屋島説の2つの説が競合するようになります。しかし、その墓については何も触れていません。

それでは神櫛王が屋島に定住したという根拠はなんなのでしょうか。
南海通記の神櫛王東讃定住根拠

①最初に見たように、日本書紀に神櫛王が讃岐に定住し、最初の国造となったこと
②続日本記に讃岐氏が国造であったと主張していること、そうならば讃岐の国造の始祖は神櫛王であるので、讃岐公は神櫛王の子孫であること
③その子孫が武士団化しのが神内・三谷・十河の三氏であること。神櫛王は東讃に定住し、その子孫を拡げ、その子孫が実際にいるという運びです。
これは筋書きとしては、無理があるようです。しかし、考証学や史料検討方法が確立するまでは、それが事実かどうかチェックのしようがありませんでした。イッタモン・書いた者の勝ちというのが実態でした。南海通記でプラスされた2つの内容が事実として後世に伝えられることになります。南海通記はベストセラーだけに後世への影響力が大きかったのです。

そして18世紀後半になると神櫛王の王墓が牟礼にあるする本が現れます。
三代物語の神櫛王
三代物語の神櫛王記述
①この本は増田休竟によって、南海通記公刊から約半世紀後に書かれた地誌です。②内容は郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。③彼の家は祖母・祖父・自分・兄と三代が、見聞してきた記録を残していました。そのうち重要なものを数百件集めて三巻となしたと巻頭に書かれています。ただこの本は、それまでの書物に書かれていなかったことが既成事実のように突然に紛れ込んできます。例えば、「実は崇徳上皇は暗殺された」という崇徳上皇暗殺説」などが始めて登場するのもこの本です。そのため取扱に注意が必要な資料と研究者は考えています。その中で神櫛王墓に関する記載を見ておきましょう。三木郡の所で次のように記されています。

三代物語の神櫛墓記述

①王墓牟礼にあり 
②神櫛王が山田郡高松郷(古高松)に住んだ
③そこで亡くなったので王墓に葬ったので王墓がある
と記されています。そして小さな文字で注記があります。拡大して見ると「青墓・大墓」とも呼ばれるが、もともとは王墓で、それが青墓に転じたとわざわざ説明しています。つまり、牟礼の共同墓地である青墓が、王墓であるというのです。視点を変えて逆読みすると、当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。さらに追加して、この書では青墓が神櫛王の王墓とします。
 王墓が青墓だったことは、現在は松井谷墓地に移されたお地蔵さんからも裏付けられます。
 このお地蔵さんに会いに行ってきました。
P1240496
牟礼町松井谷墓地の六地蔵
石匠の里公園の近くにある松井谷墓地の上側の駐車場の手間に六地蔵が並んでいます。その奥に佇んでいるのが青墓(現神櫛王墓)にあった地蔵さまのようです。近づいてみます。P1240501
神櫛王墓にあった青墓地蔵
背面を見てみます。
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青墓地蔵背面
願主同村最勝寺堅周」は読み取れますが、後はよく分かりません。史料によると次のように刻まれているようです。
青墓の地蔵さま
青墓地蔵背面の文章
宝永2年とありますので今から約320年あまり前に、牟礼村の人々が「青墓地蔵尊」を奉納した。願主は最勝寺堅周だったと記されています。ここからは現在の王墓が、300年ほど前は村民の墓地だったことが裏付けられます。この青墓地蔵さん以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机も地蔵さんの手前にあります。以上から神櫛王王墓は、江戸時代には共同墓地で、青墓と呼ばれていたことを押さえておきます。

さらに60年ほど時代が進んだ19世紀始めに書かれた全讃史を見ておきましょう。
全讃史の神櫛王


①仲山城山(じょうざん)が書いた全讃史です。15冊にもなる大冊です②この中には神櫛王について、屋島に舘を構えた、これが牟礼だとします。③陵墓については牟礼の王墓とします。ここまでは出版された書物に学び、そこに書かれていることを継承しています。そして、さらに新しい説を加えていきます。彼が注目したのは青墓に並ぶ石造物の中の二つの立石でした。それを見てみましょう。

三代物語の神櫛王墓2
仲山城山の神櫛王墓の立石図

このころになると個人の墓石が死後に立てられるようになります。青墓にも19世紀になると立石の墓石が立てられるようになったようです。その中でも大きくて目立つ立石が2つありました。それに中山城山は注目します。そして二つの立石の図を載せています。よく見るとこの立石には星座が刻み込まれています。修験者の愛宕大明神信仰によくみられるものです。牟礼は五剣山のお膝元です。五剣山は修験者や山伏にとって聖地で、全国から多くの修験者たちがやっきて修行し、中には定住するものも出てきます。その中には、ここにとどまり八栗寺の子院を形成し、周辺の村々への布教活動を行うものもいたはずです。それは、志度寺や白峰寺、三豊の八栗寺と同じです。この立石も修験者の活動の痕跡と研究者は考えています。
 さて図を見ると「王墓 牟礼村にあり」とあります。そして①大王墓 高さ五尺7寸 北面 神櫛王墓」、②北極星が描かれた小さい方が「小王墓、その孫(すめほれのみこと)の墓」と記します。
全讃史の神櫛王記述を整理して起きます。
三代物語の神櫛王墓認識


最後に江戸時代における神櫛王墓記述の到達点を見ておきましょう。幕末になると絵図が入った「名勝図会」というのが、全国各地で作られるようになります。讃岐では嘉永六年(1853)に全一五巻の讃岐国名勝図会が出されます。巻三に三木郡牟礼村の項があります。絵図では五剣山と八栗寺がセットで描かれています。
讃岐国名勝図会の牟礼
五剣山と八栗寺(讃岐国名勝図会)
その中に神櫛王の王墓について次のように記されます。
讃岐国名勝図会の神櫛王墓

讃岐国名勝図会の記述内容は、今までに見てきた神櫛王の記述の総決算・完成形のような内容になっています。①前半部分は『三代物語」を下敷きに、山田郡に大墓があるとされます。②そして後半部は、神櫛王が景行天皇の皇子で、母はいかわひめで、讃岐国造と記されます。これは日本書紀の記述に立ち戻っています。そして、ふたつある墓うちのひとつは、武鼓王(たけかいこう)としている点がこの書の独自性のようです。讃岐国名勝図会の作者が、先行する地誌や歴史書を参考にしながらこれを書いたことがうかがえます。こうして、幕末には「神櫛王墓=牟礼説」が定着し、王墓は牟礼にあるというのが、世間では一般的になっていきます。そして、神櫛王墓=坂出説を凌駕するようになっていたことを押さえておきます。
 それでは、共同墓地だった青墓は、いつどのようにして陵墓へと改修整理されたのでしょうか。それは、明治維新を迎える中で起こった高松藩の危機が背景にあったようです。それはまた次回に・・

神櫛王墓整備後
青墓改修後の神櫛王墓の絵図(牟礼町史より)

 参考文献
  「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

          P1240478
牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
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         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

DSC01220
滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)



神櫛(かんぐし)王墓 : 四国観光スポットblog

 天皇・皇后や皇子などの墳墓である「陵墓」は全国で894基あるそうです。香川県にあるのは崇徳天皇の白峯陵だけとおもっていたのですが、もうひとつあるようです。それが神櫛王墓のようです。崇徳天皇は保元・平治の乱での讃岐流配や怨霊のトップスターとして有名で、その陵についても西行の『山家集』や上田秋成の『雨月物語』などに出てきますので知名度は高いようです。
 これに対して神櫛王は、どうでしょうか。ほとんどのひとが知らないのではないでしょうか。
神櫛王墓 | 眩暈の森
『日本書紀』には第21代の天皇の景行天皇の皇子の一人として「神櫛皇子」と記されています。また讃岐国造の始祖とされていますが、その事績などの記録が全くありません。そのため彼が讃岐の古代史を語るときに登場することはほとんどないようです。
 陵墓に指定されている神櫛王の墓とされるものは、高松市北東部の高松町と牟礼町の町境にあります。
全長約175㍍の小さな山全体が墓とされ、北・東部には濠状の窪みがめぐり、頂部に四角錐状に石が積まれています。ここはもともとは「大墓」と呼ばれていました。それが明治になって、手を入れられ「神櫛王墓」とされます。
どうして、ここが神櫛王の墓になったのでしょうか?
讃岐の食文化ゎ日本一ィィィィッ!:【古高松学】その7 ♢「神櫛王墓 ...

古代の史料において神櫛王がどのように記されているかを、見ておきましょう。
 神櫛王(神櫛皇子・神櫛別命・神櫛命、死後は讃留霊王)は、景行天皇の皇子とされ『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』などにその名が見えます。『古事記』と『日本書紀』とでは母も、始祖伝承も次のように異なります
①『日本書紀』は讃岐国造の始祖
②『古事記』では木国及び宇陀の酒部の祖
 讃岐国造に関しては、『先代旧事本紀』「国造本紀」には軽嶋豊明朝御世(=応神天皇(景行天皇の二代後)の時代に、神櫛王の三世孫である須売保礼命を定めたとあります。
 古代の天皇等の陵墓に関しては、『延喜式』「諸陵寮」に神武天皇から光孝天皇までの歴代天皇・皇后等の陵七十三基、皇子・皇女等の墓四十七基が記されていますが、この中に神櫛王の墓は出てきません
 紀記の神櫛王について確認しておくと次のようになります
①紀記の両者の記述内容に大きな違いがあること
②書かれているのは「系譜」で、治績は一切ない
③墓についての記述もなし
 神櫛王の父とされる景行天皇は『古事記』・『日本書紀』では十二代天皇となっています。十代は初めて国を治めた天皇として書かれている崇神天皇で、十六代は中国の史書に見える倭の五王の「讃」とされる仁徳天皇です。
讃岐国造から考察 ① | コラクのブログ

景行天皇は、この二人の間の四世紀中頃の人物ということになります。彼の崩御干支は『古事記』・『日本書紀』に書かれてはいません。さらに「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という和風謐号は、後世に作られた可能性が高いことから、現在の古代史研究では実在が疑問視されている人物のようです。父が実在しなかったとなると、皇子である神櫛王もいなかった可能性も出てきます。また、この時代の陵墓なら大型の前方後円墳が想定されますが、ここからは埴輪などの遺物は一切見つかっていません。この丘は古墳ではないようです。
 神櫛王について触れている古代の関係史料を、確認しておきましょう。
①『日本書紀』景行天皇四年二月甲子条
 次妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。其の兄神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖なり。
②『古事記』景行天皇条
 吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生ませる御子、櫛角別王、(中略)、次に神櫛王、(中略)其れより余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気、及稲置、県主に別け賜ひき。(中略)、次に神櫛王は・・・
③『先代旧事本紀』「国造本紀」
 讃岐国造 軽嶋豊明朝御世、景行帝見神櫛王の三世孫須売保礼命を国造に定め賜う。
④『先代旧事本紀』「天皇本紀」景行天皇条
次妃五十河媛神櫛皇子を生めり。次稲背入彦皇子。(中略)
  神櫛別命悶四。稲背人彦命。(中略)
  五十河彦命諸叶心。(中略)櫛見皇命詣。
⑤『新撰姓氏録』和泉国皇別
 酒部公 讃岐公と同じき祖。神櫛別命の後なり。
⑥『新撰姓氏録』右京皇別下 
 讃岐公 大兄彦忍代別天皇の皇子、五十香彦命船勁の後なり。続日本紀に合えり。
⑦『続日本後紀』承和三年(八三六)三月戊午条
 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直、右少史兼明法博士同姓永成等合わせて廿八姻、公を改めて朝臣を賜ふ。永直は是れ讃岐国寒川郡の人なり。今、山田郡の人、外従七位上同姓全雄等の二姻と、本居を改め、右京三条二坊に貫附す。永直等の遠祖は景行天皇第十の皇子、神櫛命なり。
⑧『日本三代実録』貞観六年(八六四)八月条
 右京の人、散位従五位上讃岐朝臣高作、右大史正六位上讃岐朝臣時雄、右衛門少志正六位上讃岐朝臣時人等に姓を和気朝臣と賜ふ。其の先は景行天皇の皇子神櫛命より出づるなり。

神櫛王について触れている平安時代までの史料は以上です。ここからは神櫛王について記されているのはその系譜だけで、具体的活動や墓については、なにも書かれていないことが分かります。
 ところが江戸時代になると、彼の住んでいたところやその墓の場所まで記した歴史書が出てきます。
今度は近世の資料を順番に見ていきましょう。

6 讃岐国大日記
『讃岐国大日記』
 慶安四年(1651)までのことを編年体形式で記した讃岐の歴史書で、石清尾八幡宮祠宮である友安盛員によって承応元年(1652)に書かれたものです。この書は、多くの写本が伝わっていて、『香川叢書』第二にも載せられています。
 また、これとは別に歴博に五冊の写本が保管・所蔵されているようです。これらについては資料番号を用いて「歴博914号本」、「歴博915号本」「歴博916号本」、「歴博617号本」、「歴博27号本」と便宜的に呼ばれているようです。
 これらの記された神櫛王に関する事項は次のようになります
①叢書本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。讃留霊公五代孫日向王阿野北条阿野南条郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡」
②歴博九一四号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
③歴博九一五号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
④歴博九二(号本 景行天皇条
 日本紀曰、神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
⑤歴博五一七号本 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。皇子、讃岐国造之始祖也。日本紀日、讃留霊公五代孫日向王阿野北條阿野南條郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡卜云云。

ここまでの5冊は、神櫛王に関する記述が景行天皇条のみで、シンプルで、記述内容に大きな変化はありません。内容が変わってくるのは次からです。
⑥歴博二十七号本
 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行帝、母五十媛。此皇子、讃岐造之始祖也。大系図景行帝妃五十媛、生神櫛皇子稲背人彦皇子。其兄神櫛皇子、是讃造始祖。弟稲背入彦皇子播磨国別始祖。
  讃岐公系図
 是ヨリ絶諸家ノ譜中、而不分明。後ノ人考侯ツ。山田、三木、寒川、改公賜朝臣家廿八畑其大後家尚多。植田、三谷、十河、一姻別同。
 仁明天皇条
 同帝承和三年三月十九日(中略)
永直等遠祖景行天王十七皇子神櫛命見続日本紀神櫛王被封讃岐造、止住山田郡。陵在牟礼高松間謂王墓(後略)
⑥の歴博27号本には仁明天皇条も加えられ、神櫛王の子孫や墓の位置まで加筆されています。時代が下るにつれて、記事が加えられるのは、何らかの意図があってのことです。この本は加筆が進んだ「異本」とも呼べるものです。しかし、神櫛王墓についての世間の見方がどう変化してきたかを見る上では、注目される資料です。

なんでも鑑定団では、「箱書きが大事だ」とよく言われます。古書もその伝来が問題になります。
これら諸本の「伝来」を、研究者は次のように確認します。
①の「歴博914号本」は高松藩松平家の伝来で、書写年代は分かりませんが「考信閣文庫」という押印があります。考信閣は第九代高松藩主松平頼恕が、天保六年(1835)に梶原藍渠の『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要紀』)の正確を期すために西の丸に建設した建物で、翌年正月には「考信閣文庫」という銅印が作られたようです。その印が押されているので、この書が高松藩で保管されていたことが分かります。伝来のはっきりした信頼がおける書物です。
②の「歴博915号本」も高松松平家の伝来で、表紙に「中山城山書入本」と記された付札があり巻末に城山の践文があります。中山城山は『全讃史』を著した人です。彼が持っていた本のようです。
④の「歴博916号本」は本奥書に、本文と同筆で「承応元年仲春日 石清尾神主 従五位下藤原盛員謹書 讃岐国大日記巻終」と記され、奥書は本文とは異筆で「享和二年中山氏隆助写之」とあります。中山氏隆助については分かりませんが、享和二年(1802)に書写された本のようです。
⑤の「歴博517号本」は奥書がなく、年代は分かりません。
そして、問題の⑥の「歴博27号本」です。この奥書には
「寛政六寅龍集 晩冬三日書畢 美作屋清兵衛」
とあります。この美作屋清兵衛については何も分かりません。伝来がはっきりしない怪しいと思われる本になります。

 次に、これらの書物の記述内容を見てみましょう。
 歴博27号本の奥書を史実とするならば、本書ができた承応元年(1652)以後、美作屋清兵衛によって寛政六年(1794)に書写されるまでの約140年間の間に、大幅な加筆がなされたと推定できます。この間には、いくつもの地誌・歴史書が作られています。
それらと比較すると
①景行天皇条の記載は『南海通記』からの引用
②仁明天皇条の内容は「三代物語」『翁堰夜話』の引用
して「美作屋清兵衛」が加筆したと研究者は考えているようです。南海通記の影響力やおそるべし!です

 歴博27号本のもつ意義は、その内容よりはむしろ、神櫛王に関する認識が18世紀末には、このような形として定着しつつあったことを示していることにあるのかもしれません。
讃岐府志 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
2 『讃陽箸筆録(讃岐府志)』
 この書は延宝・天和年間(1673)頃に、高松藩儒臣七條宗貞によって讃岐の歴史・人物・陵墓などについて書かれたものです、神櫛王については
「神櫛、為国造祖、或曰、景行之皇孫」
と記載されているのみで、陵墓の項には何も触れられていません。
Amazon.co.jp: 南海通記eBook: 香西成資, 竹田定直: Kindleストア

4 『南海治乱記』 ・ 『南海通記』
 両書とも香西成資によって著された四国を中心とした軍記物です。『南海治乱記』は、成資が幼少の頃から聞き知った話を歴史的に配列し、寛文三年(1663)に執筆したもので、刊行は半世紀後の正徳四年(1714)になります。
 一方『南海通記』は『南海治乱記』の巻初に、四国における歴史や系譜など三巻を加えるとともに、他巻も増補し、宝永二年(1704))に一応完成しますが、白峰寺に奉納されたのは15年後の享保四年(1719)になります。
 最初に書かれた『南海治乱記』には、神櫛王は出てきませんが、後になって加筆された『南海通記』には巻之二の旧姓考に「讃岐山田郡神櫛王記」という一項が入れられ、次のように神櫛王を登場させています。
日本書紀曰、景行天皇、妃五十河媛生神櫛皇子稲背入彦皇子。其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也。弟稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。
  6 神櫛王系図

  上のような系図を入れて、次のように解説します。
神櫛王は讃岐国山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まり、その後讃岐ノ君と称したと世に伝えられているが、成務天皇四年に国郡に長を立て、県邑に首を置くとあることから、この時に神櫛王は山田郡に封ぜられ、政務を執ったのである。
 『続日本後紀』承和三年の記事に見えるとおり讃岐公永直・永成ら二十八個が神櫛王の子孫である。そして山田郡植田郷は地勢堅固で土地は豊かであるから、一姻はここに居を定めて代々住み、その後裔が分かれて神内、三谷・十河の三家となったのである。 

この『南海通記』の記載から、戦国時代から江戸時代にかけて神内、三谷、十河の三氏がその始祖を神櫛王と称していたことがわかります。山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まったという伝承も、この三氏の祖先伝承として語られていたものを、成資が聞き取り『南海通記』に書き込んだようです。
 
しかし、ここでも神櫛王の墓については、何も出てきません。
『南海治乱記』巻十二「阿讃考」及び『南海通記』巻十五「阿讃考三」の「元親自阿州来讃州記」に次の記述があります。
 高松ノ東二大陵アリ 何ノ王ノ陵卜云コトヲ知ラズ
其傍二佐藤継信ヲ葬リタル塚アリ
 そばにあるという佐藤継信の墓は、現在では高松市屋島東町と高松市牟礼町(神櫛王墓の南東50㍍)の二ケ所にありますが、前者は寛永二十年(1643)に松平頼重が新たに造らせたもので、後者も現在地の西に接する平田池の位置にあったとされているようです。池と神櫛王墓は隣接していますから、ここに出てくる大陵が現在の神櫛王墓の丘陵を指すようです。
 この記述は、長曾我部元親が天正十一年(1583)讃岐を攻めた際に、法橋という僧侶が元親に屋島近辺の説明をしたものです。ここからは、戦国時代末期には、地元では王の墓という意識はあったものの、その被葬者が誰であるのかは分かっていなかったことがうかがえます。そして、この逸話がそのまま採録されています。成資が『南海治乱記』を書いた時にも、被葬者は未定であったのです。被葬者が神櫛王という伝承があれば、必ず書いたはずです。
6 神櫛王三代物語jpg

 『三代物語』『翁嘔夜話』
 この書は、神櫛王墓について最初に書かれたものです。『三代物語』は増田休竟によって明和五年(1768)にできた地誌で、郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。著述の経緯については、増田休意、増田正宅(休意の父)、菊池武信(休意の祖父)の三代が、見聞してきたもののうち重要なものを数百件集めて三巻となしたという断りがあります。
 一方、『翁嘔夜話』は、休意の弟である菊池武賢が延享二年(1745)に完成させたものです。内容は讃岐の地誌で『三代物語』と重なる所が多いようですが、古代から高松藩五代藩主までの歴史が加わっている点が大きな違いです。著述の経緯については、休意の父が書き記し、休意もまた父の意思を継ぎ記録を続けてきました。ある日休意は、弟の菊池武賢のところに今までの記録類を持ち込み校合するように依頼し、武賢は断れずに引き受け完成させ、これに休意が『翁躯夜話』と名付けたというものです。しかし、この本にはそれまで書かれていなかったことが、あたかも古くから云われてきたように紛れ込まされていることが多いのです。要注意の資料です。

6神櫛王4

 その中で神櫛王墓に関する記載は「歴代国司郡司村主田令」の条に次のような内容があります。
①神櫛王が郡司として山田郡を治めたこと、
②その墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と呼ばれていること
が簡潔に書かれています。
 神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。それが広まっていったようで、さらに「発展」してこの書では牟礼の王墓が神櫛王のものとされるようになります。
わざわざ「青墓・大墓」は王墓の転誂だとわざわざ説明しています。王の墓であることを改めて強調する効果をねらったようにも見えます。ここからは、この古墳が当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。
 
 現在の神櫛王墓は、かつて地元の人たちの墓地だったようです。
ここにあったという石仏が高松市牟礼町松井谷墓地に移されています。その石地蔵の背面には次のように刻まれています。
   宝永二(1705年)乙酉
   施主牟礼村信心男女
   奉造立青墓地蔵尊
         願主同村最勝寺堅周
  七月二四日
 この石仏は、神櫛王墓の丘陵から明治期の修復時にここに移転されたものです。これ以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机もあります。ここからは現在の神櫛王墓の丘陵が江戸時代には村民の墓地として利用されていたことを示しています。
 
6 讃岐廻遊記
 この本は讃岐の名所旧跡を紹介したもので、進藤政重によって寛政十一年(1799)に発行されていますが神櫛王墓についてはなにも触れていません。

7 讃岐志
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)を著した梶原藍渠が、その編集の傍ら文化・文政年間の十九世紀初め頃に著述した讃岐の地誌です。ここには三木郡の陵墓の項に次のように記されます。
  王墓 在牟礼村神櫛王墓也 有大楠樹

 すでに牟礼の王墓が神櫛王の墓ということが一般に広まっていたようです。「有大楠樹」と大きな樟があったことを報告していますので、作者自ら訪れたようです。信頼性があります。
全讃史 標註国訳(復刻讃岐叢書 1)(中山 城山 / 青井 常太郎 校訂国 ...
8『全讃史』
 中山城山によって天保二年(1832)に編まれ、天保十一年(1840)に改訂された讃岐の歴史書で、全一二巻の大著です。神櫛王については巻二の「人物志上」、墳墓については巻十の「古家志」に次のような記述があります。
 ①人物志上「讃岐国造世紀」
 景行帝更に神櫛王に命じて、其政を検せしめたり。国造本紀に云く、軽島の豊明の朝の御世に、景行帝の児神櫛王三世の孫、須責保疆命に国造を定め賜へり。蓋し讃岐の国造此より始るか。殖田氏の譜を閲するに、曰く人王十二代景行帝第十七の皇子神櫛命を山田郡に封じ、屋島の下に止ると。蓋し今の牟礼の墟を云ふ。(中略)神櫛王蔓じ給ひ此を牟礼に葬りまつる。今の王墓是なり。
 ②古家志
  王墓 津村の東に在り。二つの立石あり。一は則ち高五尺七寸、一は則ち高四尺三寸。皆北面して面に星辰の象を刻せり。或人云ふ。是れ蓋し神櫛王の墓なりと。伝えて言う。昔、此の墓、鳴動して己まざりき。安部清明之を符して止みき。其の言う所の符とは、蓋し星象を刻せるなり。而も何者か櫛王たるを知ざらん。城山逸民因って之を考えるに、書記に日く、景行天皇は八十余子ましまして、日本武尊、稚足彦天皇を除く外の七十余子は、皆国郡に封ぜられて、各々其の国に如くと。

 又云ふ。神櫛皇子は、其れ讃岐国造の始祖なりと。国造本紀に云う。軽島豊明の朝心昌の御世、景行帝の児神櫛王三世孫を讃岐国造に定め給ふと。公家大日記に云う。神櫛王及び稲背入彦は釆を山田郡に食み、屋島の下に止ると。然らば則ち大なる者は神櫛王の墓にして、小なる者は須売保礼命の墓なり。

この特徴は、今までの地誌・歴史書に較べると墓の内容が具体的になっている点です。星辰の象を刻んだ立石が二基あることに注目し、それぞれの被葬者の比定を試みています。そして、大きい立石を神櫛王の墓としています。

6 神櫛王墓石?jpg
 作者の城山はこの書とは別に「全讃聞見録」も書いていますが、そこには、神櫛王墓の二基の立石の上図を残しています。この立石を誰がいつ、どのように据えたのかは分かりません。墳墓に墓標を置くことが一般化するのは江戸時代になってからで、明治初期に丘陵全域が神櫛王墓として修造される直前までは、丘陵は墓地として利用され多くの墓石が林立していたことは先ほど述べた通りです。この二石は、それらの中でも大きく目立つものだったののかもしれません。
 ここからは中山城山に、古墳の概念がなかったことがうかがえます。「墓=墓石」なのです。
それが当時の讃岐人の「王墓」に対する認識だったようです。
讃岐国名勝図会(梶原景紹著 松岡信正画) / 古本、中古本、古書籍の通販 ...

9 讃岐国名勝図会
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)や『讃岐志』を著した梶原藍渠とその子藍水によって編まれた地誌で、嘉永六年(1853)に完成します。全一五巻の巻三の三木郡牟礼村の項に神櫛王について次のように記されます。
王墓 同所、往来の傍ら岡にあり。相伝ふ、神櫛王山田郡を治めたまひ、この郡に崩じここに葬りしゆゑ王墓とはいえり。往古、牟礼・高松の村民、五月五日この地にて飛棟相撃、これを印人撃といふ、けだし戦場の遺事ならん、今は絶えたり。
 神櫛王は、景行天皇の皇子、母は五十河媛、讃岐国造なり。寒川・三木・山田諸郡に苗裔多し。植田・神内・十河氏はその裔なり。今王の墓といへる物二基あり。おもふに一基は武鼓王を祭りしならん。
 右の王墓の説明の前半部分は『翁嘔夜話』三木郡条、後半の神櫛王の系譜部分は同書の山田郡を参考にしたようです。王の墓が二基あると言うのは『全讃史』の解釈を踏襲しています。二基のうち一基の被葬者を、武鼓王としている点がこの書の独自性です。
 ちなみに、崇徳暗殺説を最初に出しているのもこの本です。

 神櫛王墓が作り出された過程と背景
 以上のように讃岐近世の地誌・歴史書を見てみると、『翁躯夜話』が神櫛王墓に触れた最初のもので、これ以後「牟礼の王墓」が神櫛王の墓とされ、地誌・歴史書に広がっていく過程を見てきました。それを研究者は次のように整理しています。
   「第一期」(17世紀まで)
神櫛王について地誌・歴史書に取り上げられているが、その内容は古代の史料の範囲内である。後
に神櫛王墓となる丘陵は地元では王の墓であるという見方はあるが、それが神櫛王とは結びついていない段階。
   【第二期】(18世紀初め)
 神櫛王が山田郡を治めたということが広まり始めた段階です。この時期には神内、三谷・十河の三族において、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られ、これを香西成資が『南海通記』に採録し、神櫛王が山田郡を治めたということが讃岐の歴史の一部となっていきます。しかし、墳墓についてはまだ特定されていない段階で、後に神櫛王墓となる丘陵は村民の墓地として利用されていました。
  「第三期」(18世紀半ばに墓が特定される段階)
『翁嘔夜話』が初めて「墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と俗称される」と記し、18世紀末には『讃岐国大日記』の写本にこのことが書き加えられ、それ以後も「讃岐志」などで取り上げられ広がっていく段階です。
   「第四期」(19世紀前半の時期)
 『全讃史』において墓地の中にある二つ墓石が注目され、大きい方が神櫛王の墓とされます。

 以上のような過程を経て、地元の人たちが立石を神櫛王の墓と語り伝えるようになったようです。しかし、そうなっても藩の記録や地誌・歴史書を見る限り神櫛王墓が特別な扱いを受けた様子は見られません。村民の墓地の中に、神櫛王の墓石はあり、村民の墓石と並び立っていたようです。

 ところで香川県のもう一つの陵墓である白峯陵は、高松藩においては初代藩主頼重が手を入れ修築します。五代藩主頼恭は、600年忌にあたり宝暦十三年(1763)にも修繕され、石灯寵一対が奉納されています。これを神櫛王墓と比べると、対照的に見えます。
 高松松平家は、水戸徳川家の分家であり水戸本家の学風、思想を継承しているとされます。水戸一族の家訓である「天朝に忠ならしむる」という尊王思想を受け継いたはずです。しかし当時の尊王思想は、天皇に対する崇拝の念であって、皇子・皇女にまでは及んでいなかったようです。それが高松藩の神櫛王墓の扱いからうかがえます。

 神櫛王墓は、皇子の墓としては最も早い時期に修造の決定が政府によって行われています。明治政府は、明治四年二月に太政官布告を出し、后妃・皇子・皇女の調査を始めます。それより前の明治2年に、神櫛王墓は新政府に修理伺いを出して、明治3年9月には工事が終わっているのです。この早さは、異様に見えます。どうして、こんなに早かったのでしょうか・

 江戸時代の陵墓の探索・修復は、天皇陵を主な対象として何度か行われていました。そして安政期には調査の精密度が増し、文久期には内容・規模が大幅に拡充され、一定の形式が整えられていきます。
 明治四年の布告は、江戸時代の「実績」を踏まえたものだったようです。その調査には「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などの6項目についての報告が求められています。これらに携わったのは、讃岐の神仏分離政策の大本締めとして活躍した多和神社の神主・松岡調であったことは以前お話ししました。彼は、東讃の神社全てを訪ねて、その祭神などをチェックし、仏教色の強い祭神を本殿から排除する作業を行っています。これらの作業は彼にとっては「讃岐宗教史」を学ぶフィルドワークの機会となり、彼の学問的な知見を飛躍的に向上させることになります。
 その後、松岡調は金毘羅宮の禰宜として、そこに琴平に神道の香川県惣社の指導者として、明治の宗教政策を指導していく立場に立ちます。当時の彼の手元にも、神櫛王墓の扱いについての公文書は回ってきたはずです。それへの対応をどうするかを決定する立場にあったのが彼だと私は考えています。あるいは、政府の調査を見越して神櫛王墓の修造を行わせたのも彼かもしれません。
 松岡調は、神櫛王墓のことをよく知っていたはずです。私たちが今までに見てきた資料も古文書を集めを趣味としていた彼の手元にはあったでしょう。新政府が求めた6つの調査項目である「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などは、彼ならすぐに書けたはずです。
 つまり江戸時代に積み上げられ集積された神櫛王墓の情報と松岡調の存在が神櫛王墓修造の決定を早めた要因のひとつだったのではないでしょうか。
 

  以上、高松方面での神櫛王伝説とその墓について見てきました。
全体をまとめたおきます
①紀記には、神櫛王は系譜だけが書かれ、悪魚退治やその墓などについては書かれていない。
②中世になって綾氏が神櫛王(讃留霊王)を、始祖とする「綾氏系譜」が作られる。
③ここに初めて「悪魚伝説」が登場し、綾氏に繋がる武士団の顕彰物語として広がる。
④高松方面では、神内、三谷・十河の三族が、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られる
⑤香西成資の『南海通記』にも採録されし、神櫛王伝説が広がる
⑦江戸時代後半になると牟礼の丘陵墓地が神櫛王墓とされるようになる。こうして出来上がった神櫛王墓は、明治になるといち早く王墓に指定され宮内庁の管理下に置かれることになる。
⑧並んでいた墓石や石仏は、王墓エリアから取り除かれる
⑨戦前には皇国史観の元で讃岐始祖「神櫛王」の墓として、歴史教育などでも必ず取り上げられるようになる
⑩戦後の皇国史観排除によって、神櫛王の比重は低下し、彼が歴史的に取り上げられることはなくなった。そのため神櫛王が何者であるのか、王墓がどこにあるのかも触れられることはなくなった。

参考文献 大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

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    霊山・如意山(公文山)に鎮座する櫛梨神社 
金毘羅さんの鎮座する象頭山の東を金倉川が北に向かって流れていきます。この金倉川を挟んで小高い峰峰が続きます。これが如意山です。この山の麓には中世には荘園の荘官・公文の館があったようで、公文山とも呼ばれています。この山の周辺は、古代中世からひとつの宗教ゾーンを形成していたと「町誌ことひら」は記します。
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 如意山(公文山)の西に伸びる尾根の下に鎮座するのが櫛梨(くしなし)神社です。ここにも「悪魚退治伝説」が伝わっています。前回、讃留霊王に退治された「悪魚」が、改心して「神魚」となり、金毘羅神(クンピーラ)に変身した。そこには宥範から宥雅という高野山密教系の修験者のつながりがあることを前回は紹介しました。その二人の接点が櫛梨神社になるようなのです。今回は、この神社について見てみることにします。
1櫛梨神社

 この櫛梨神社は、讃岐国延喜式内二十四社の一つです。
高松市の田村神社(讃岐国一宮)、三豊市高瀬町の大水上神社(同二宮)と並び称される古大社だとされてきました。大内郡の大水主神社と三宮、四宮の席次を争った形跡があります。古代には、周辺に有力な勢力がいたようです。目の前の霊山として崇められたであろう大麻山(象頭山)山腹には、数多くの初期古墳がありました。善通寺勢力と連合勢力を組んでいたのが、どこかの時点で「吸収合併」されたと私は考えています。それが野田院古墳の出現時ではないかと思います。それ以後も、如意山周辺は丸亀平野南部の一つの政治的宗教的拠点であったようです。中世は、ここは東国出身の薩摩守護になた島津家の荘園になっています。櫛梨神社は、その櫛梨荘の文化センターであったようです。
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「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」には、この神社の由緒を次のように記します。
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、
 付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、
櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、
城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。
天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
   
ここには次のようなことが書かれています
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた
②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。
③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。
④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。
⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった
⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失
 ここにも讃留霊王(神櫛皇子)の悪魚退治伝説が伝わっています。
それも、皇子の乗った船の漂着地であり、葬ったのが櫛梨山とされています。この伝説が作られた時の人々は、かつてはこのあたりまで海だったのだという意識を持っていたようです。空海生誕伝説の「屏風ヶ浦」の海の近くで空海は生まれたという当時の「地理感覚」と相通じる所がありそうです。
1櫛梨神社32.3jpg

 この神社の讃留霊王伝説で新味なのは「神櫛(醸酒一カムクシ)王を祭(祖先)神」として、その子孫酒部氏族が奉斎した氏神社としている点です。古くは、櫛梨山上の本台(山頂の平坦地)に社殿を構えていたといいいますが、祭神の性格からすると平地にあってしかるべき神社だと研究者は考えているようです。山上には、祠様があっただけで山そのものが神体であるされ、櫛梨山全体が信仰の対象だったのでしょう。
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 櫛梨神社には悪魚退治伝説は、史料としては伝わっていないようです。伝えられているのは善通寺誕生院の宥範の縁起の中に書かれているのです。
 2つの【悪魚退治伝説】 
 悪魚退治伝説は、南北朝期の作とされ讃岐藤原氏(綾氏)の系図「綾氏系図」に冒頭に付けられているのが知られてきました。綾氏先祖の英雄譚として、氏族の栄光を飾るものと理解されてきました。そしてこの伝説を作ったのは、文中に出てくる寺名から法勲寺の僧侶であるとされてきたのです。つまり、この『綾氏系図』は、綾氏の有力な氏寺の一つである法勲寺の縁起としての性格をもっているとされてきました。
しかし、近年になって「綾氏系図』よりも古いとされる史料が出てきたようです。それが、高松無量寿院所蔵文書の中にある応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源の『贈僧正宥範発心求法縁起』(=宥範縁起」です。

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 宥範は何者?
 宥範は櫛梨の有力豪族出身で、高野山や各地の寺院で修行を積み、晩年は善通寺復興に手腕を見せ「善通寺中興の祖」と呼ばれた名僧です。この中に、讃留霊公の悪魚退治伝説が語られているようです。
16歳で仏門に入り、高野山などに学び、当時の密教仏教界において、その博学と名声は全国に知られていたようです。善通寺復興に尽力し「中興の祖」と称されています。
 宥範は、各地ので修行を終えて翌嘉暦二年(1327)、讃岐国に帰り、
「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
します。そして『妙印抄』三十五巻本の増補を行い3年かかって『妙印抄』八十巻本を完成させ、これを善通寺誕生院に奉じます。念願を果たして、故郷・櫛梨の小堂から象頭山の称明(名)院に移り住んでいます。生まれ故郷の櫛梨の里を、眼下にできる寺に落ち着きたかったのでしょう。こうして、八十巻を越える大著を書き終え、静かに隠退の日々を送ろうとします。しかし、それは周囲が許しませんでした。
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   善通寺中興の祖として 
  当時、善通寺は中世の荒廃の極みにありました。伽藍も荒れ果てていたようです。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、
建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り
建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」と研究者は考えているようです。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。「岩野」は宥範の本家筋の人物と考えられるようです。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。その有力パトロンとして、実家の岩野一族の存在が考えられます。
 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧によって奉じられていたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。
 別の研究者次のような見方も示しています
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。その伝記が弟子たちによって書かれるのは自然です。しかし、この「宥範縁起」の中に、どうして「悪魚退治伝説」が含まれているのでしょうか。悪魚と宥範の関係を、どう考えればいいのでしょうか?
宥範縁起(無量寿院系)と綾氏系図(法勲寺系)を比較してみましょう。
1櫛梨神社3233
それぞれの寺運興隆を目的に、作られたものですから、少しずつアレンジがされています。例えば、悪魚の表記は「神魚」と「悪魚」、凱旋地も「高松」と「坂出」のように相違点があります。どちらが、より原典に近いのか研究者もなかなか分からないようです。しかし、強いて云えば
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』
②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
と、宥範縁起の中にでてくる「悪魚退治伝説」の方が古いのではないかと「町史ことひら」は考えているようです。
  どちらにしても櫛梨神社に伝えられた悪魚退治伝説は、法勲寺系ではなく、高松の無量寿院系のものであることに変わりはありません。
無量寿院は、宥範が若い頃に密教僧侶として修行をスタートさせたたお寺でもあります。そして、このお寺の由来が悪魚退治伝説ならぬ「神魚伝説」であったようです。
宥範から聞いた神魚伝説は善通寺や櫛梨神社の社僧たちに語り伝えられていくようになります。
そして、櫛梨神社の例祭には、修験者の社僧(山伏)の語る縁起を聞きながら「神魚」や「櫛梨神社」への畏怖と尊崇とを新たにし、胸熱くして家路を急いだのかもしれません。この時にまだ金毘羅神は生まれていません。
 高松から琴平にかけての中讃地区の寺社の中には、似たような悪魚退治伝説がいくつか伝わっています。これらは、社寺縁起の流行する近世初頭に『宥範縁起』をテキストに広がったのではないかと研究者は考えているようです。
 このような中で人々がよく知っている「悪魚」を、神として祀ることを考える修験者があらわれるのです。それが前回お話しした宥雅です。彼は
 悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
というストーリーを下敷きにして、金毘羅神を創出し、それを松尾寺の新たな守護神を作りだし、それを祀るための金比羅堂を象頭山に建立したのです。その創出は彼一人のアイデアだったかどうかは分かりません。しかし、金比羅堂建設というのは、支援者や保護者なしではできることではありません。彼は、西長尾城の城主の甥でした。つまり、長尾氏の一族です。当然、背後には長尾氏の支援があったはずです。
 以上、前回の「悪魚が金毘羅神に変身」したお話の補足をまとめておきます。
①中世の公文山周辺は、丸亀平野南部の宗教ゾーンで、そのひとつが櫛梨神社である
②櫛梨神社には「悪魚退治伝説」が伝わるが、これは宥範伝来のものである。
③もともと高松の無量寿院の由来に登場する「神魚」が、そこで修行した宥範によって伝えられレ「宥範縁起」の中に記された
④中世の櫛梨神社では、この悪魚退治伝説が社僧たちによって人々に語られるようになる。
⑤社伝由来の流行で、古い神社ではどこにも社伝が語られるようになり悪魚退治伝説を採用する神社が増える。
⑥これは法勲寺で行われていた「綾氏祖先崇拝」による団結を図る武士団への広がりと同時に、中讃地区での悪魚退治伝説の広がりをうむ
⑦この広がりを下敷きに「悪魚」をモデルに新たな「金毘羅神」が登場してくる
⑧それを進めたのが西長尾城主の甥の修験者宥雅であった。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 第5章 中世の宗教と文化

 
12金毘羅ou  
        
金毘羅神とは何かと問われると、このように答えなさいと云う問答集が江戸時代初期に金光院院主の手で作られています。そこには、金毘羅とはインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、天部の武将姿に「変身」して仏教を護るようになったと説明されています。 日本にやってきたクンピーラは、薬師如来を護る十二神将の一人とされ、また般若守護十六善神の一人ともな武将姿で現れるようになります。彼は時には、夜叉神王と呼ばれ、夜叉を従え、また時には自らも大夜叉身と変化自由に変身します。仏様たちを護る頼れるスーパーヒーローなのです。 このような内容が、真言密教の難解な教義と共に延々と述べられています。
1drewniane-postaci-niebianskich

「神が人を作ったのではない、人が神を創ったのだ」という有名な言葉からすると、この金毘羅神を創り出した人物の頭の中には、原型があったはずです。「インドの鰐神=クンピーラ」では、あまりに遠い存在です。身近に「あの神様の化身が金毘羅か」と思わせ納得させる「しかけ」があったはずです。
1 クンピーラmaxresdefault

 この謎に迫った研究者たちは、次のような「仮説」を出します

 「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」

 松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。

「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」

「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
 羽床氏「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)
つまり、「讃留霊王伝説に登場する悪魚」が、金毘羅神(クンピーラ)に「変身」したというのです
Древнерусское солнцепоклонство. Прерванная история русов ...
 クンピーラはガンジス河にすむワニの化身とも、南海にすむ巨魚の化身ともいわれ、魚身で蛇形、尾に宝石を蔵していたとされます。金毘羅信仰は中讃の悪退治伝説をベースに作り出されたというのです。30年ほど前に、この文章を読んだときには、何を言っているのか分かりませんでした。今までの金毘羅大権現に関する由緒とは、まったくちがうので受けいれることが出来なかったというのが正直な所かもしれません。しかし、いろいろな資料を読む内に、次第にその内容が私にも理解できるようになってきました。整理の意味も含めてまとめておくことにします。
  讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。

この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。「大魚退治伝説」は、神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族が伝えてきた伝説です。これについては、以前に全文を紹介しましたので省略します。
この伝説については、研究者は次のような点を指摘しています
①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。
②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。
③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。
④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある
⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。
⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった
⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
 悪魚伝説が作られた法勲寺跡を見てみましょう。
 現在の法勲寺は昭和になって再建させたものですが、その金堂周辺には大きな礎石がいくつか残っています。また、奈良時代から室町時代までのいろいろの古瓦が出でいますので、奈良時代から室町時代まで寺院がここにあったことが分かります。
 中世になると綾氏の一族は、香西・羽床・大野・福家・西隆寺・豊田・作田・柴野・新居・植松・阿野などの、各地の在郷武士に分かれて活躍します。綾氏から分立した武士をまとめていくためにも、かつてはおなじ綾氏の流れをくむ一族であるという同族意識を持つことは、武士集団にとっては大切なことでした。
 阿波の高越山周辺の忌部氏の「一族結束法」を、以前に次のように紹介しました。
高越山周辺を支配した中世武士集団は、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
ここからは忌部氏の団結のありようが次のように見えてきます
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
阿波忌部氏のような一族団結のしくみを法勲寺(後には島田寺)の社僧(修験者)も作り上げていたはずです。
1 讃留霊王1
それの儀式やしくみを推測して、ストーリー化してみましょう。
 讃留霊王(武卵王)を共通の祖先とする綾氏一族は、毎年法勲寺へ集まってきて会合を開き、食事を共にすることで疑似血縁意識を養います。それに先立つ前に、儀式的な讃留霊王への祭礼儀式が行われます。そのためには聖なる場所やモニュメントが必要です。そこで、法勲寺の僧侶たちは近くの円墳を讃留霊王の墓とします。ここで集まった一族に悪魚退治伝説が語られ、儀式が執り行われます。そして、法勲寺に帰り食事を共にします。こうして自分たちは讃留霊王から始まる綾氏を共通の先祖に持つ一族の一員なのだという思いを武士団の棟梁たちは強くしたのではないでしょうか。こうして、法勲寺を出発点にした悪魚退治伝説は次第に広まります。
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社
②東坂元本谷の讃留霊王神社
③陶猿尾の讃留霊王塚
②の東坂元本谷には現在、讃留霊王神社が建っています。
③の陶猿尾では、小さな小石を積み上げてつくった讃留霊王塚とよばれる壇状遺構が残ります。そして「讃留霊王(さるれおう)塚」から「猿尾(さるお)」の地名となって残っています。この他にも「讃王(さんおう)様」と呼ばれる祠が各地に残っています。このように悪魚退治伝説は、丸亀平野を中心に各地に広がった形跡があります。
1讃留霊王2

 このような装置を考え、演出したのは法勲寺の修験者たちです
彼らをただの「山伏」と考えるのは、大きな間違いです。彼らの中には、高野山で何年も修行と学問を積んだ高僧たちがいたのです。彼らは全国から集まってくる僧侶と情報交換にある当時最高の知識人でもありました。
「悪魚退治伝説」と「金毘羅神」を結びつけたのは誰でしょうか?
 小松の荘松尾寺(現琴平町)には、法勲寺の真言密教僧侶修験者と親交のある者がいました。法勲寺を中心に広がる悪魚退治の伝説を見て、このが悪魚を善神に仕立てて祀るということを実行に移した修験者です。悪魚退治伝説の舞台は坂出市の福江の海浜ですが、それが法勲寺の僧侶によって内陸の地にもちこまれ、さらに形を変えて象頭山に入っていったのです。それが金毘羅神だというのです。
  推論とだけでお話をしてきましたが、史料的な裏付けをしておきましょう。  金毘羅さんで一番古い史料は元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札です。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
と云われてきました。しかし、近年の調査の中で、金毘羅さんにこれより古い史料はないことが明らかとなってきました。これは「再建」ではなく「創建」の棟札と読むべきであると研究者は考えるようになっています。つまり、元亀四年(1573)に金比羅堂が初めて建てられ、そこの新たな本尊として金比羅神が祀られたということです。これが金毘羅神のデビューとなるようです。
それでは棟札の造営主・宥雅とは何者なのでしょうか?
  この宥雅は謎の人物でした。金毘羅堂建立主で、松尾寺別当金光院の初代院主なのに金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物なのです。彼を排除する何らかの理由があるのだろうと研究者は考えてきましたが、よく分かりませんでした。
 宥雅については、文政十二年(1829)の『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)によれば、
宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
 御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去
 故二御一代之 烈に不入云」
意訳
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない

 とあって、
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥
②長宗我部侵入時に堺に亡命
③そのために金光院院主の列伝からは排除された
と記されています。金毘羅創設記の歴史を語る場合に
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
と今まで云われてきた所以です。
 ここからは長尾家の支援を受けながら金毘羅神を創りだし、金比羅堂を創建した宥雅は、その直後に「亡命」に追い込まれたことが分かります。
その後、高松の無量寿院から宥雅に関する「控訴史料」が見つかります 
堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の院主に復帰しようとして、訴訟を起こすのです。彼にしてみれば、長宗我部がいなくなったのだから自分が建てた金比羅堂に帰って院主に復帰できるはずだという主張です。その際に、控訴史料として自分の正当性を主張するために、いろいろな文書を書写させています。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのです。その結果、宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。このことについては、以前お話ししましたので要約します。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
①「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための文書加筆(偽造)
②松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏として、その垂迹を金毘羅神とする。その際に金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記す。
③「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」など寄進状五通(偽文書)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと泊付けねつ造

この創設工作の中で、宥雅が出会ったのが「神魚」だったのではないかと研究者は考えているようです。
 法勲寺系伝説が「悪魚」としているのに高松の無量寿院の縁起は「神魚」と記しているようです。宥雅は「宥範=金比羅堂開祖」工作を行っている中で、宥範が書き残した「神魚」に出会い、これを金毘羅神を結びつけのではないかというのです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものとします。
 つまり宥雅が参考にしたのは法勲寺の「悪魚退治伝説でなく、それに先行する『宥範縁起』中の無量寿院系の伝説」だとします。そして、宥範の晩年を送った生地の櫛梨神社に伝わる「大魚退治伝説」は、この『宥範縁起』から流伝したものと考えるのです。整理しておきましょう。
①「悪魚退治伝説」は 法勲寺 →  宥雅の金比羅堂
②「神魚伝説」  は 高松の無量寿院の建立縁起 → 宥範 → 宥雅の金比羅堂
ルートは異なりますが、宥雅が金毘羅(クンピーラ)の「発明者」であることには変わりありません。
 金毘羅神とは何かと問われて「神魚(悪魚)が金毘羅神のルーツだ」と答えれば、当時の中讃の人々は納得したのではないでしょうか。何も知らない神を持ち出してきても、民衆は振り向きもしません。信仰の核には「ナルホドナ」と思わせるものが必要なのです。高野山で修行積んだ修験者でもあった宥雅は、そのあたりもよく分かった「山伏」でもあったのです。そして、彼に続く山伏たちは、江戸時代になると数多くの「流行神」を江戸の町で「創作」するようになります。その先駆け的な存在が宥雅であったとしておきましょう。

 宥雅のその後は、どうなったのでしょうか。
これも以前にお話ししましたので結論だけ。生駒家に訴え出て、金毘羅への復帰運動を展開しますが、結局帰国はかなわなかったようです。しかし、彼が控訴のために書写させた文書は残りました。これなければ、金毘羅神がどのように創り出されてきたのかも分からずじまいに終わったのでしょう。
最後にまとめておきます
①讃留霊王の悪魚退治伝説は「綾氏系図」とともに中世に法勲寺の修験者が作成した。
②讃留霊王顕彰のためのイヴェントや儀式も法勲寺の手により行われるようになった
③綾氏を出自とする武家棟梁は、「悪魚退治伝説」で疑似血縁関係を意識し組織化された。
④綾氏系の武士団によって「悪魚退治伝説」は中讃に広がった
⑤新しい宗教施設を象頭山に創設しようとしていた長尾家出身の宥雅は、地元では有名であった「善通寺の中興の祖」とされるる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための工作を行っていた。
⑥その工作過程で高松の無量寿院の建立縁起に登場する「神魚」に出会う
⑦宥雅は「神魚(悪魚)」を金毘羅神として新しい金比羅堂に祀ることにした。
⑧こうして、松尾寺の守護神として「金毘羅神」が招来され、後には本家の松尾寺を凌駕するようになる。
⑨宥雅は、土佐の長宗我部侵攻の際に、堺に亡命した。後に帰国運動を起こすが認められなかった。
⑩自分の創りだした金毘羅神は、長宗我部元親の下で「讃岐の鎮守府」と金光院が管理していくことになる。
⑪時の権力者の宗教政策を担うことを植え付けられた金光院は、生駒・松平と時の支配者との関係をうまくとり、保護を受けて発展していく

以上です おつきあいいただき、ありがとうございました。

   
5讃岐国府と国分寺と条里制
 讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。私もこれまでに何回かとりあげましたが、今回は視点を変えて地名から地理的なアプローチを行っている研究を紹介します。

  最初に『綾氏系図』をもとに悪魚退治伝説を意訳したものを紹介します。
 景行天皇23年、土佐の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。船を飲み込み、人々を食べた。また舟が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。天皇は兵士を派遣したが、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公(別名神櫛王)に命じて欲しいと言った。天皇は喜び、ただちに霊公に命じた。
 霊公はわずか10日で土佐に到着、そこにとどまった。悪魚は阿波の鳴門へと移動、24年1月に霊公も鳴門へ向かった。3月1日、讃岐の槌の門に悪魚が現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。2日後、霊公は讃岐に移動し、軍船をつくって1,000人の兵士を集めた。
 25年5月、霊公らは船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は倒れず10日経っても平然としていた。そして霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ出た。
   悪魚の死体は福江湊の浦へと流れ着いた。
そこで一人の童子が波打ち際に現れ、瓶に入った水を霊子に碑げた。霊公がこの水を飲んでみるとせ露のように美味だった。霊公が「この水はどこにあるのか」と問うと、童子は「八十場の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。霊公と童子は水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
5月5日14時、霊公は兵士を連れて上陸した、
 霊公は薬師如来の威神力で悪魚を退治することができた。霊公は病を除け九横の難を排することを誓い、浦の陸地に精舎を建てて薬師如来像を安置し、法勲寺と名付けた。以後、人々は貢物をおさめられるようになり、船舶や船員の煩いはなくなった。
 童子は日光菩薩が姿を変えた横潮明神であった。この童子の姿にちなみ浦を児ヶ浜と名付けた、水は瑠璃水、瓶は薬壷であるため、薬壷水と言った。
 霊公は鵜足郡に移住し、兵士たちから讃留霊公(讃留霊王)と呼ばれた。また、井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤の四人の将軍がいた。人々は彼らを四天王と呼んだ。
 霊公は三男一女をもうけた。現在の首領、郡司、戸主、長者たちは、すべて三男一女の子孫である霊公の胸には阿耶の黒点があったため、子孫は綾姓を名乗った。仲哀天皇8年9月15日、霊公は123歳で亡くなった。
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話を要約すると 
讃留霊王は、もともとは景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王でした。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、神櫛王がその退治に向かった
②しかし、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。そこで大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
③その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
④これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
⑤彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 子孫は綾姓を名乗った。
⑥彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①②です。しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
 悪魚退治伝説は中世末から近世にかけての讃岐のいくつかの史料に載せられるようになります。
このうち最も古いのは『綾氏系図』です。この系図は、景行天皇に連なる綾氏の系図で、その前段に綾氏の成立にかかわる悪魚退治伝説が載せられています。この成立時期は15世紀中葉から17世紀後葉で古代に遡ることはありません。神櫛王という名前は紀記にはありますが、悪魚退治伝説はありません。つまり、この伝説は中世讃岐で作られたお話なのです。
 しかし、この中には綾氏の歴史が語られている部分もあるのではのではないかと考える研究者もいます。つまり、綾川流域を地盤としていた古代の豪族・綾氏の「鵜足郡への進出」を深読みするのです。その仮説につきあってみることにします。その際にポイントになるのは地名のようです。
3坂出湾1
「綾氏系図」の悪魚退治説話は、伝承を重ねいくつもの書に書き写され姿を変えていきます。そのために記載内容が少しずつ異なるようになります。その辺りを含んだ上で登場する地名を見ていきましょう。
  悪魚の登場場所は? 槌の門
 悪魚出現地には土佐、鳴門、水崎などもありますが12の史料に共通するのが槌の門(椎門、槌途など)です。槌の門とは、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡のようです。確かに、小さな円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。瀬戸内海を行く船からすれば、異界への関門のように思えたかもしれません。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。同時に、この物語が書かれた中世においても、多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。
 退治された悪魚が流れ着く場所は9/12の史料が福江としています。
残りの4史料でも悪魚の死骸が埋められるのは福江です。つまり「悪魚の最期の地は福江」ということになります。福江については前々回に紹介しました。「古・坂出湾」の西部で、西の金山・常山、東の角山に挟まれた現在の坂出市福江町周辺で、近世の埋め立て以前には大きく湾入し、瀬戸内海に面する湊がありました。
 童子の姿をした横潮明神は11/12の史料で登場し、いずれも福江の浜に登場します。
 その童子が持ってくる蘇生の水はすべての史料で八十場(安庭、八十蘇など)の水です。
現在の坂出市西庄町にある八十場の湧水は、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年、1847)で「国中第一の清水」と評されており、近世には広く知られていたようです。
  ここまでで、多くの史料に共通するのは、槌の門、福江、八十場の地名です。
これらの地名を地図上でみると阿野郡の沿岸地域にすべてあります。ここからは、この伝説を聞いた人たちは、少なくとも槌の門、福江、八十場の地名とその位置関係
を知っていたと推測できます。そうでないと説話は時代を超えて伝わりません。

3坂出湾2
 悪魚退治伝説で、イヴェントが発生する回数が多いステージは福江です。
①悪魚の死骸がなんらかの理由で福江にあり、
②横潮明神の化身である童子が現れて倒れた兵士を蘇生させ、
③魚御堂、もしくは法勲寺が建立される、
④讃留霊王が悪魚退治後に上陸したのも、文脈からは福江のようです
ここからは福江が伝説における重要ステージと考えられます。

福江 中世
坂出市史から
 
次に福江について、考古学の発掘調査を見てみることにします。
坂出市西庄
坂出市史より

 考古学者は「福江の景観復元」を次のように述べます「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観

『玉藻集』(延宝5年、1677)には天正7年(1579)、香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあります。そこには、次のように記されています。
①「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと
②「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」であること
坂出の復元海岸線3

 浜堤Aには文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります
文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しています。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。
 両遺跡の調査結果からは、陸地側の浜堤上では7世紀前半に製塩活動が行われ、やや地点を違えて7世紀後半に飯蛸壷漁が開始、8世紀までは続きます。この間、8世紀中~後葉には、生産用具(飯蛸壷)に加えて日用雑器(須恵器など)が増えてきます。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落がここにはあったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
坂出の復元海岸線2

下川津遺跡との関係は?
   文京町のふたつの遺跡(福江湊)から約1.5km南西の大東川下流の右岸には下川津遺跡があります。復元図のように、古代以前には下川津遺跡は直近まで海岸線が湾入し、大束川の河口に近い場所だったと研究者は考えているようです。
この遺跡は坂出IC工事に伴う発掘調査の結果、大規模で異色な集落群が出てきて注目を集めました。遺構は、周りを低地帯に挟まれた四つの微高地の上に次のように展開します。
①6世紀後葉に集落が出現
②7世紀中葉には建物が急速に増加、企画性をもつ大型建物も出現
③8世紀後半から9世紀にかけて集落規模が縮小
④9世紀後葉以降には再び建物群が再出現
建物規模や配置の企画性などから、②と④の時期は官街的な性格持ち郡衙跡とも考えられているようです。また②の時期には土師器や飯蛸壷の製作、鍛冶、紡織などの諸生産活動が活発に行われていたようです。
鎌田池2
古代の旧大束川は坂出に流れ出ていた

 浜堤A(福江湊?)と下川津遺跡を合わせてみるとどんなことが分かるの?
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下川津遺跡に集落が出現した時点、浜堤A(文京町)は製塩の場でした。下川津遺跡が官街的性格をもつ7世紀後葉~8世紀中葉には浜堤Aで飯蛸壷漁が行われると同時に港湾機能が充実し活発化したとみられます。「断絶期」を挟み、再び官管的性格が下川津遺跡に現れるのはれた9世紀後葉です。その時期も浜堤Aは継続して利用されたようです。ここからは、7世紀から中世まで両者が共に活動を続けていたことが分かります。
 ふたつの遺跡は直線距離で約1.5kmしかありません。途中に大束川(旧河道)がありますが郡衙とその外港のような関係にあったという「仮説」は考えられます。それは、国府と林田湊、善通寺と白方湊のような関係を私に思い描かせてくれます。
 この仮説を頭に入れて、再び悪漁退治伝説をみてみましょう。
悪魚退治伝説は『綾氏系図』に記され、主人公である讃留霊王もしくはヤマトタケルは綾氏の祖先とされます。このことから悪魚退治伝説は、綾氏によって生み出されたと研究者は考えているようです。綾氏は7世紀後半には有力豪族であり、8世紀にかけて阿野郡で大きな力を持っていたようです。国府が阿野郡に設置された背景には、綾氏の政治力の影響があったとも考えられます。
伝説の共通する槌の門、福江、八十場がいずれも阿野郡にあるのは、伝説と綾氏との関連性を裏付けるものです。
 一方、『綾氏系図』には法勲寺や鵜足郡の地名が出てきます。
これは綾氏の「鵜足郡への進出」が表現されていると考える研究者もいます。また
①嶋田寺本「讃留霊公胤記」にも「讃留霊王が鵜足に居住した」
②『讃岐国大日記』では「讃留霊王が鵜足津(宇多津)へ上陸」
③嶋田寺本「讃留霊公胤記」では「法勲寺か登場」
④『綾北問尋鈴』でも「悪魚の霊を鎮めるために魚御堂または法軍寺を建てた」
とあります。
法勲寺は現在の丸亀市飯山町上法軍寺・下法軍寺にあたります。この地には飛鳥時代~奈良時期の建立とされる寺院跡があり、この寺院跡が古代の法勲寺であった可能性は高いようです。『讃岐国名所図会』では、この地を法勲寺跡とし、福江にあった魚御堂を移して法勲寺としたという内容を『宇野忠春記』から引用しています。

 法勲寺が『綾氏系図』に登場することから「法勲寺は綾氏の氏寺ではないか」と考える研究者もいるようです。法勲寺跡と国府の開法寺跡からは、同文の軒瓦が出土していることも、「」法勲寺=綾氏の氏寺」説を補強します。
 福江湊の位置づけ役割については?
古代の阿野郡には、福江のほかに現在の綾川河口付近(坂出林田町)にも港湾施設があったことは前々回にお話ししました。ふたつの湊の位置を比較すると福江は阿野でも西端に位置し、国府との距離があります。しかし、福江は鵜足郡や下川津(郡衙跡?)へのアクセスが便利です。鵜足郡を流れる大束川は、古代は川船輸送にも使われていたと考えられています。そうすると大束川へ陸揚げルートとしても重要であったはずです。つまり、悪魚退治伝説で福江が重要視されているのは、福江が阿野郡と鵜足郡をつなぐ地であったからと研究者は考えているようです。綾氏が国府のある阿野郡に本拠地をもちながらも鵜足郡への影響を強めていたとするならば、伝説の中で福江が強調されていても不思議ではないというのです。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄

以上を仮説も含めてまとめると次のようになります。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。

このように考えると古墳時代の川津周辺の前方後円墳の立地などもしやすくなります。大束川の河口から流域沿いに開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。その入口が福江湊だったというストーリーが描けるようになります。
 もうひとつ曖昧なのは、宇多津の位置づけです。宇田津が港湾機能を発揮するのはいつ頃からなのでしょうか。宇多津と福江と下川津遺跡の関係はどうなのか?
 その辺りは、また別の機会に
 参考文献
乗松真也
「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



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金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」というのです。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたのではないだろうか」と
 
 この元亀四年(1573)には、現在の本社に松尾寺本堂がありました。その四段坂の階段の下に金比羅堂が建てられ、そこに新たな金比羅堂が創建されたようです。しかし、金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。
 松尾寺には、十一面観音が祀られています。松尾寺は、近世初頭には観音信仰の寺でもあったようです。それが、現在の金刀比羅宮本社前脇に建っていた観音堂になるようです。
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 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう
それは「三十番社」だったようです。
地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が、神祇信仰において旧来の地主神と、飛来してきたり、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。
 これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。
しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれているようです。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたもののようです。
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なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」で、古くから墓所の山でもあったようです。そこに、墓寺的性格の松尾寺はあったようです。そのため小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもありました。やがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。
 そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれない。そこで、強力な霊力を有する新たな守護神の飛来が必要になったのではないでしょうか。ここに、金毘羅神の将来と勧請の意味があったと研究者は推測します。

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  正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、松尾寺別当金光院の院主です。ところが金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物です。現存する史料(元亀四年の棟札以下)には、彼の名前が院主として残されています。しかし、正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」は、次のように考えます
宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?

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 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は、『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)によれば、
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
とあって、当時、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。
そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

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金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
このように宥雅が、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。
 また、宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とするのです。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、
「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」と指摘します。
 
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さらに伝来文書をねつ造します

「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。
 「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。
 ある研究者は
「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号) より
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宥雅の最後の「課題は」は、金比羅神を松尾寺に伝来する十一面観音とどう結びつけるかです。
 いままでの流れを整理すると
金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」に求めました。つまり、インド仏教の守護神クンビーラです。クンビーラとは、ガンジス川の鰐の神格化したものです。それらインドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来されていました。大きく見ると、それらの守護神たちが二十八部衆に収斂されていたのです。
 ここで最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
しかし、金毘羅神の本地仏は、千手観音なのです。新たに迎え入れた金比羅神と本尊の十一面観音がリンクできなのです。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。
  真言密教の高僧でもある宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

 金刀比羅神社蔵 十一面観音立像(重文)=木造平安時代
 ちなみに宝物館にある重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。
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それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神で行っていた祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。
 こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

近世の史料を読んでいると、自らを讃留霊王伝説(=神櫛王)を始祖とする系譜を持つ一族によく出会います。一体、讃留霊王とは何者なのでしょうか。また、それはどのような一族と考えれば良いのでしょうか。私なりに考えてみました。
古代讃岐の開拓伝承のなかで讃留霊王伝説は広く流布しています。
地域的には、現在の綾川や大束川の流域、古くは讃岐国阿野郡・鵜足郡と呼ばれた地域を中心に残る伝承であり、近世には宣長の『古事記伝』にも取り上げられ全国的にも知られるようになったようです。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 
讃留霊王とは、景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王の諱です。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、讃留霊王がその退治に向かったところ、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。しかし、大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
②その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
③これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
④彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
⑤彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①です。
しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。
つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
200017999_00178悪魚退治

王悪魚退治のモデルになった話があると研究者は指摘します。
それを見ていくことにしましょう。
  阿蘇開拓の神健磐龍命(たけいわたつのみこと)」(蹴裂(けさき)伝説)
むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑をひらいた神様、健磐龍命のおはなしをしましょう。 
命は、神武天皇のおいいつけで、九州の中央部を治めるために、山城の国から、はるばる阿蘇の地にやって来たのです。
 外輪山の東のはしから、満々と水をたたえた湖を眺めていた命は、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えました。外輪の壁を蹴破ることは出来まいかと、ぐるっと見回し、北西にあたるところにやってきたのです。
 「よし、ここを蹴破ってみよう。」
 しかし、そこは、山が二重になっていて、いくらけってもぴくともしないのです。現在、二重の峠と呼ばれているところでした。命は、少し西の方にまわってみました。「ここならよかろうか。」
満身の力をこめて蹴りつけました。 湖の壁は大きな地ひびきをたててくずれ落ち、どっと水が流れ出したのです。
 あの阿蘇谷.南郷谷いっぱいの水も、みるみるうちに引いていきました。しかし、途中からばったりと流れがとまってしまったのです。
 「これはおかしい。水が動かなくなってしまった。」
 命は川上を調べてみました。
おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていたのです。
尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたといいますから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになります。
命は、この鯰を退治しました。
鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになりました。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 
土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 
小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、
水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、
スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれるのです。
阿蘇には、このように神話や伝説にちなんだ地名が多いようです。
この讃留霊王伝承の怪魚退治と、阿蘇祖神の健磐竜命の「なまず退治説」は
「土地開発、巨大魚退治、射矢伝承、巨石祭祀」など、いくつもの点でで類似します。
そこで、研究者は次のように考えます
①讃留霊王伝承の「悪魚伝説」は「大鯰退治」の転誂である
②共通点の多い両者の伝承を始祖神話としてもつ両者の関係は、もともとは出自も共通するのではないか
③つまり讃留霊王の「讃岐開発」者は、阿蘇開発者の息長氏や秦氏の系譜につながるものではないか
この説を少し、追っていくことにします。  
古墳時代の西讃には、わざわざ九州から運ばれた石棺を使用した古墳がいくつもあります。また、善通寺の大墓山古墳は九州的な要素を持つ石棺です。古墳時代から瀬戸内海の交易ネットワークの中で九州と西讃が結びついていたことがうかがえます。
 7世紀には坂出の城山には神寵石系の朝鮮式山城が築かれ、その麓の府中は、古代讃岐の中心地とされます。九州及び四国に分布す神寵石系の築造には五十猛神後裔氏族が関係していると言われます。
何かしら両者をつなぐ「糸」が見えてくるような気もします
まず、中讃の神櫛王を祀る神社巡りをしてみましょう。
ちなみに息長氏の始祖神は少彦名神といわれます
城山神社は神櫛命を祭神とします。
その社伝では、元は城山一峰に残る明神原の地に鎮座したといいます。今でも明神原を訪れると巨石群が茂みの中に林立しています。これがこの神社のもともとの磐境なのでしょう。

讃岐平野の真ん中にある飯野山(讃岐富士)にも巨石群があります。こちらは鵜足郡の式内社飯神社の磐座とされます。同社の祭神は飯依比古命(讃岐国の国魂神)・少彦名命とされているようです。
神櫛命は那珂郡式内の櫛梨神社(仲多度郡琴平町)でも祀られています。
「クシナシ」は酒成しで、造酒の意と説く人もいます。
しかし、「クシ」は酒ばかりではなく、「奇し」(神秘、霊異)にも通じるとしたら、讃留霊王という美称にも通じるのかもしれません。
 満濃池を見下ろす丘の上にある式内の神野神社(論社の一つ、まんのう町神野〔真野説〕。加茂大明神も合祀)は、境内社に神櫛神社があって神櫛王命を祀ります。この神社を創建した矢原氏も和気氏に連なるといい 讃留霊王伝説を引きます。ちなみに矢原氏は、江戸時代初期の満濃池再築の際に、旧満濃池内にあった池内村を生駒家に寄進し、後に「池守」と命じられています。
 神野神社については丸亀市郡家町に論社があります。
この神社は、伊予国神野郡の久留島なる者(和気氏の一族?)がこの地に移り住み、祖神の伊曽乃神(御村別君が奉斎:西条市)を勧請したと伝えます。社伝では、神託が綾大領の多郡君にあって社殿を再築し、推古天皇朝に郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになったといいます。内容についてはともかく、綾氏一族に関連することを伝えます。「多郡君」は綾氏の系図には「多祁君」という名で見えます。

 阿野郡には鴨郷に式内社の鴨神社(坂出市加茂町)があります
鴨氏族の祖神・別雷神(=少彦名神)を祀ります。綾氏一族の奉斎とされます。ちなみに、少彦名神は息長氏の始祖神ともされますので、両者のつながりがうかがえるといいます。
最後の一社が式内社が神谷神社(坂出市神谷町)です。
この本殿が鎌倉期の三間社流造で、神社建築では珍しい国宝指定がされています。 祭神は、『讃岐国官社考証』には天神立命とされますが、この神は天押立命ともいい、久我直等の祖とされます。実体は少彦名神の父神の天若日子(天津彦根命)です。
以上、見てきたように綾郡の式内三社にはすべて少彦名神で綾氏の関与が考えられるようです。
飯山町下法勲寺には、その名もずばり讃留霊王神社があります
 この神社は讃留霊王後裔の城山長者酒部黒丸の創祀と伝え、後裔には綾氏や和気氏があるといいます。しかし、現在の神社はもともとは八坂神社の境外末社であったものを近くにある円墳の上に移動して新たに作られたものです。明治以後に、新たに古代の天皇陵が指定されたようなもので、この古墳の埋葬者は誰であるかは考古学的には分かりません。明治以後になっても讃留霊王伝説を信仰し、その系譜の中に自分や一族を位置づけようとする人たちの熱意には驚かされます。
 今は丸亀市となった綾川町陶にある北条池の付近にも、讃留霊王神社があり、本殿裏の前方後円墳が、讃留霊王の墓と地元では伝えられています。

中讃地域の式内社を見て思うことは、
祭神が共通すると言うこと、つまり少彦名神か、それに連なる神々を始祖神として祀っているところが多いようです。古代においては、共通の神を祀る一族として互いに同族意識を持っていたのかも知れません。
次は、古墳の石棺を追いかけます。
阿蘇ピンク石(溶結凝灰岩)は近畿や讃岐などの古墳の石棺に用いられました。哀皇后が石作連を率て、仲哀天皇の遺骸を収める石棺用として讃岐国の羽若(綾歌郡羽床)の石を求めさせたという記事が知られます。産地の羽床に、中世に割拠したのが古代綾君の流れを引く羽床氏です。
三木郡庵治には同族の奄智首かおり、庵治の石は今も有名です。
瀬戸内海を越えた播磨には竜山石(宝殿石)があって、高砂市伊保町竜山に産する凝灰岩の石材で、仁徳天皇陵古墳、津堂城山古墳(雄略真陵)や今城塚占墳(継体真陵)などの長痔形石棺にも使用されています。竜山には巨大な石造物「石の宝殿」を神体とする生石(おうしこ)神社もあり、大己貴神・少彦名神を祀ります。
次は巨石祭祀です。
 伊予の佐田岬半島の付け根・愛媛県大洲市の粟島神社(大洲市北只。祭神少彦名命)には巨石遺跡があり、もとは大元神社の地といいます。何か国東や宇佐につながる感じがしてきます。大洲市内には仏岩や高山寺巨石群など巨石遺跡がちらばります。これらを同族の宇和別が祭祀したのではと考えるようです。また、佐田岬は宇和郡に属し、大洲市には稲積・菊地・阿蔵などの地名も残ります。瀬戸内海の海洋ネットワークを天かける息長氏につながる一族の活躍ぶりがうかがえる気もします。
しかし、「蹴裂(けさき)・大鯰退治」伝説を持つ阿蘇開発者の息長氏、宇佐地方の開拓者である秦氏、伊予の西条開拓者である和気氏と讃岐の古代開発者とは、共通点が多いのでないか」という位のことしか分かりません。
ただ、注意しなければならないのは「ヤマト政権による瀬戸内海交易ネットワーク」という風に捉えると、この時代の讃岐の動きは見えてこないような気がします。
「ヤマト政権を介してもたらされた」という従来の見方を一度棚上げして、人と物の動きを見ると別の景色が見えてくるような気がします。それは、例えば今まで見てきたような神社であり石棺です。これらは、九州から東へと「息長氏 → 秦氏 → 和気氏」らの氏族が瀬戸内海を東に勢力を拡大していく姿がうかがえます。中讃地域の古代開発者もこれらの動きの一環として捉えることが出来るような気もします。

さて、悪魚退治伝説に中世において、自らの家系を「接木」する一族が現れます。
                 
讃留霊王の悪魚退治というのは、綾氏の先祖を飾る話です。
古代において綾氏の名前が見えるのは阿野・香川郡一帯です。
その後に綾氏は多く枝分かれして、武家として戦国末期まで長く活動します。江戸期以降は帰農し、有力な庄屋として近代まで続いた家があります。そして、讃留霊王(=神櫛王)に始まる系譜を今に伝える家もり、地元香川県在住の岡伸吾氏が丁寧に系図収集につとめ「綾・羽床一族推定系図稿」「讃岐氏一族推定系図稿」として整理されています。
 平安中期には綾一族から押領使や大禄・府老など国管在庁役人などが多く出ます。
平安時代後期になると、綾氏をにはさらに2つのドラマチックなSTORYが付け加えられます。
 ひとつは、国司の落とし子説です。
一族の長の綾大領貞宣(羽床大夫)の娘が、讃岐守として赴任した藤原家成との間に、もうけた章隆だと言うのです。家成の讃岐守在任は、一年弱だから疑問もありますが、国司の「落とし子」章隆の登場で、以後の綾氏は、藤原姓を称して「讃州藤家」と名乗るようになります。その後の子孫一族は、羽床・香西・新居・福家など多くの有力な武家を出し、中世の讃岐において大きな力を持つようになります。
 もうひとつは、崇徳上皇をめぐる話です。
讃岐に配流となった崇徳上皇は、林田の雲井御所(綾高遠の旧宅という。坂出市)で幽閉生活を送ったと言われます。ここで、上皇奉仕したのが綾一族である綾高遠の娘・綾局だと言うのです。高遠の後裔は林田氏を名乗り、後に苗字が綾にも戻りますが、子孫が残した系図は宮内庁書陵部に『綾氏系図』として所蔵されているようです。

ちなみに、 讃留霊王の悪魚退治伝説が生み出されたのもこの時代ではないかと専門家は考えているようです
話の中に「瓦経」言葉が出てきます。これは経塚の要素が見られ、古代においては使われることない言葉です。そこから、この伝説の成立は平安末期と推定しています。古代まで遡る話ではなく「大鯰退治」をモデルに、讃岐でこの時代に作られたのが「悪魚退治」伝説のようです。
 その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
讃留霊王という先祖を同じくする伝説のヒーローの他に、新たに「国司落とし子」説や「崇徳上皇への奉仕」説が加えられて行ったのではないでしょうか。一族の結束を深めに、いつの時代にも行われてきたことです。その頃に、この説話の骨格はできあがったようです。
  そして、綾氏に近い擬似的な血縁集団も悪魚退治伝説をかたり、自分の始祖を讃留霊王とした系図を作るようになっていきます。
さらに、息長氏の研究者は次のように論を進めます
 綾君の「綾」について言うと、語源の「アヤーアナーアラ」は韓地南部、伽耶の同じ名の地域、安羅(「阿・安」十「耶・那・羅・良」「地域・国の意」を指す。漢字では「穴、荒」とも書かれて大和などの穴師にも通じ、日本各地に同種の地名が残こる。これら地名の担い手として、安羅方面からの渡来の天孫族や天日矛の一族があげられる。
日向国諸県郡にも綾の地名があり、中世に綾氏がいた。。肥後国の火君一族とみられる飽田郡領の建部君の流れとみられ、建部宿祢姓で日向国諸県郡(中郡)富山に起こり藤原姓と称した富山氏の一族と考えられる。綾の地名自体は日向国造一族が命名か)。
  つまり、綾とは朝鮮半島の加耶の「安羅」から来ていて日本での漢字表記は「穴・荒」だったというのです。これは私の今の守備範囲を大きく越えてしまいました。
 景行天皇の後裔と称する氏族について見ておきましょう
記紀に従えば景行天皇には八十人もの多くの皇子がいたことになりますが、無論史実とは言えないでしょう。記、紀、旧事本紀等にあげられる名前は、それが全てではないうえに、名の重複もあります。景行天皇の皇子たちは、国造としては、讃岐国造、針間国造、日向国造等を出しています。詳しく見てみると、近江及び大隅(日本武尊後裔と称)、讃岐(神櫛命の後裔)、播磨(稲荷人彦命後裔)、伊芦(武旧凝別命後裔)、日向(豊国別命後裔)及び美濃(人碓命後裔)ですが、実際には地方豪族がほとんどです。これら氏族の実際の系譜は、殆どが宇佐国造から分岐した大分・火国造と同族で、武国凝別命(別名が豊国別命、健磐竜命)の後裔、ないしは彦坐王一族の出と称した氏族(非息長氏族)と研究者は考えているようです。
  実際の景行天皇の皇子で後裔諸氏を遺したものはないようです。
その考えは以下の通りです。
①例えば、日本武尊の子孫の諸氏が近江や讃岐などに実在したことは、疑問が大きい。子と称する稲依別命の後とされる近江の犬上・建部君一族は、実際には息長氏と同系の伊賀国造の同族ではないか。
神櫛王は、日本武尊の子と称される武貝児命、息長田別命と同人であり、景行天皇の子とされる櫛角別命(茨田下連の祖)や、五十河彦命とも同人。
讃岐の綾君や吉備の宮道別君は、景行天皇の子と称する武貝児命(たけかいこう 武卵王、武鼓王)の子孫とされるが、実際には建緒組命の後裔と考えられる。
『記・紀』等では、武貝児王が日本武尊の子と伝える。
しかし、神櫛王は日本武尊の兄弟だするとと両者の関係は、神櫛王の甥が武貝児王ということになり、これだと別人なる。しかし、実際には原型が同一人物であり(本居宣長もそう示唆)、景行皇子の日本武尊とはまったく別人。
この場合、日本武尊に建緒組命を考えた方がよさそう。
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香西漁民の讃留霊王信仰の高まりの背景は?

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飯山町下法勲寺には、讃留霊王神社があります。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会

   飯野山と讃留霊王墓・法勲寺跡(讃岐国名勝図会 幕末)
讃留霊王の古墳とされる後円部の上が玉垣で囲われ聖域となっています。そこに近世以後に新しく神社が建てられます。その背景には、讃岐における讃留霊王伝説の広がりがあります。

讃留霊王神社 讃岐国名勝図会
讃留霊王神社拡大図 「讃王明神」とあり、背後に陵墓がある

讃岐のローカルストーリであった讃留霊王説話を本居宣長が「古事記伝」にとりあげると「讃留霊王=讃岐の国造の始祖=綾氏の祖先」とする認識が全国的に広がり、認知度もアップします。これも、綾氏を祖先とする人々の讃留霊王信仰の拡大につながりました。

 なぜ讃留霊王神社が香西漁民の信仰を集めたのでしょうか?
 讃留霊王は、悪魚退治に従った漁民に瀬戸内海での漁業の自由をゆるした

とも言われはじめ、漁民の信仰も集めるようになります。この神社の境内には明治に建立された際の王垣が立っています。
その中に高松の香西港の漁民「香西久保利作、漁方中」の名が見えます。また、境内に建つ旅所由緒之碑には、次のように記されています。
神社氏子は、明治初期まで香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上を恒例としていたと伝えり。」
意訳変換しておくと
(当社の)氏子は、明治初期までは香西浦や直島にもいた。その方々の崇敬は厚く、祭礼行事に参加するとと共に、春の初鯛の献上を恒例としていたと伝わる」

香西浦や直島の漁民が祭事に係わり、春の初鯛献上を毎年行っていたとと刻まれています。香西漁民が讃留霊王説話をどのように受け止め、歴史意識を形作っていったのでしょうか? 探ってみることにします。
香西漁港の三和神社 「瀬居島漁場碑」を読む

香西湊の三和神社と讃留霊王顕彰碑
三和神社(高松市香西)と「瀬居島漁場碑」 
高松市の西にある香西漁港には漁民達から信仰を集めた三和神社が鎮座しています。もとは海神社と呼ばれていたことからも海に関係した神社であることが分かります。この神社の境内に「瀬居島漁場碑」が立っています。120年ほど前の明治32年(1899)に立てられた碑です。読んでみましょう。
「相伝う。景行の朝、讃の海に巨魚有り。漁民之を畏れ敢えて出漁せず。天皇、皇孫武殼王を遣わす之を除く。王、網を結び魚を掩い殺し、遺類莫し。百姓慶頼す。因って其の地を称して網の浦と曰うと云う。嗚呼往昔は皇威悪魚を駆りて民の害を除き、今は官裁漁域を定めて争訟をおさむ
意訳変換しておくと
 景行天王の時代(4世紀)、讃岐の海に巨大な悪魚が現れた。そのため漁民はこれお怖れて出漁出来なかった。景行天皇は、皇孫武殼王(神櫛王・讃留霊王)に命じて、討伐することを命じた。そこで王は、網を結んで悪魚を捕獲し、憂いをなくした。これを見て、百姓は大喜びした。そのためその地を「網の浦」と呼ぶようになった。このように香西は、往昔は皇威を駆りて悪魚を駆逐し、今は国家の裁定で漁域を保証されて、漁業権を巡る争訟に勝利した。

武殼王は景行の孫、日本武尊の子として記紀にも出てきます。
しかし、悪魚退治は讃岐で付け加えられた讃岐独特の伝説です。悪魚退治ののち讃岐に留まったので讃留霊王と呼んだと讃岐では言い伝えています。
 この碑の内容は、香西漁民の先祖の活躍には比重は置かれていないように感じます。それよりも、先祖が悪魚退治をおこなった讃留霊王に世話になった話として書かれています。最後に、むかし讃留霊王の世話になったように今は官(明治政府)のお陰で白分たちの漁域が守れたと結んでいます。
 この官裁というのは、明治19年に下津井の漁場争いで、香西漁民に有利な裁決が大阪控訴院によって下されたことをさします。つまり、自分たちの漁場が守れた嬉しさから武殼王(讃留霊玉)を連想し、敬っているのが「瀬居島漁場碑」です。

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香西漁民による大槌島での鯛網漁(讃岐国名勝図会)

 ところが、大正期に入ると歴史意識がさらに進化します

大正5年(1916)に香川県水産試験場が発行した「鯛漁業調査」には鯛網の起源として、次のように書かれています。 
鯛網ノ起源ハ、十二代景行天皇廿四年、当漁場大槌島・小槌島ノ南二海上ノ通航船呑ム悪鱒棲み居り候故、鱒又卜云フ。廿五年皇子日本武尊ノ御子讃留霊王、大鱒退治ノ勅ヲ奉じ、三月ヨリ弥々退治ノ御用意二付き、叫臣下ヲ召寄セ御評議色々工夫ノ上、始メテ網の事ヲ案出シ、魚引キ揚ゲ候段、
讃留霊王御感ジノ余り御褒美トシテ即ち網ヲ給リ、当網代ノ義、瀬居島海猟場御免許成られ候二付き、彼ノ網ヲ以テ鯛網当浦二於テ初メテ出来、瀬居島海ニテ猟業仕り候二付き、往古ヨリ瀬居島海香西浦漁場二相限り申し候。茲に因って香西鯛網ハ、当国ハ勿論、近国二於ケル網ノ元祖ニテ、是ヨリ追々諸網開キ候モノ也。鯛網ノ元祖讃留霊王御寿百廿五歳、仲哀天皇八年亮ゼラル。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓二讃王神号ヲ奉ルト言フ」
意訳変換しておくと
鯛網の起源は、十二代景行天皇24年、当漁場の大槌島・小槌島の南の海上に通航する船を飲み込む悪魚が棲み着いたことに始まる。25年に天王は皇子日本武尊の御子讃留霊王(神櫛王)に、悪魚退治を命じた。そこで王子は3月から準備を進め、臣下を呼び寄せて評議した結果、網で捕まえる案が出され、悪魚は引揚げられた。
讃留霊王は、この成果に感心し褒美として網を漁民に与えた。当漁港の漁場権については、瀬居島周辺が与えられ、王子から下賜された網で鯛網を行ったのは、香西浦が初めてである。また瀬居島周辺でも操業を行ってきたので、古くから瀬居島は香西浦の漁場とされてきた。よってここに香西鯛網はもちろん、近国における網の元祖であり、その他の網は、それから追々に開始された。鯛網の元祖である讃留霊王は寿125歳、仲哀天皇八年に亡くなった。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓に讃王神号を奉るという
ここでは、香西漁師が讃留霊王が悪魚退治の際に、網を初めて使用して大活躍し、その結果讃留霊王から漁場をもらったことになっています。
「自分たちが讃留霊王に従って悪魚退治を行った末裔である」だから、「瀬戸内海での特別な漁業圏を与えられた漁民」
という「選民意識」的な歴史意識を主張するようになっていることがうかがえます。
 「香西浦ノ漁夫御用子ア罷り出」というところは、江戸時代の御用水主そのままです。江戸時代は御用水主というだけで漁業権は保護されていましたから、讃留霊王の権威などは借りる必要はありませんでした。実際、近世の文書には漁民が讃留霊王のことに触れたものは見当たりません。
せい島の鯛網
瀬居島の鯛網漁(明治後期)

明治になり、香西浦はそれまでの水主浦としての特権を失います。
従来の漁業権が無効になり、漁場争いが激化していく中で、香西の漁民達は自分たちが「讃留霊王から保護を受けた特別な漁民集団」であることを主張し、いままでの権益を守っていく道を選んだのかもしれません。そのためにも遠く離れた讃岐富士の麓に鎮座する讃留霊王神社奉納品を贈ります。それが

「信徒は香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上」

と讃留霊王神社の碑文に記されることになったのでしょう。 香西漁民を習うかのように直島の漁民達もこの神社に多くの寄付をするようになります。いわば意識の伝播が見られるのです。民衆はその時代が必要とする歴史意識を生みだし、広げていくのです。

讃留霊玉の悪魚退治伝説が、どのように生まれてきたのか 

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古代寺院法勲寺跡の礎石を眺めるために讃岐富士の見える道を原付バイクを走らせていると・・
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讃留霊王(さるれお)神社が現れました。
ここに祀られている讃留霊王について、少し考えてみました。

讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 

讃留霊王とは、もともとは景行天皇の御子神櫛(かんぐし)王でした。
①彼が瀬戸内海で人々を困らせていた悪魚(海賊)を退治し、海の平和を取り戻します。
②しかし、その後も京に帰らず、宇多津に本拠を構えました。
③彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
④諱を讃留霊公というのは、京師に帰らず、讃岐に留まったからです。
⑤彼が讃岐の国造の始祖です。
さて、この話を作った人は何を一番伝えたかったのでしょうか。
それは、③と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。
讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
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この説話は、いつごろできたかのでしょうか?

話の中に瓦経という経塚の要素が見られることから平安末期と推定できます。その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
先祖を同じくする伝説のヒーローの下に、集い結束を深めるというのはいつの時代にも行われます。その頃に、この説話の骨格はできあがったのではないでしょうか。

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この説話が初めて書物となったのは、いつ頃でしょう

 天正一五年(一五八七)讃岐に入った生駒親正は、法勲寺(高田寺 現飯山町)の良純に帰依し、讃岐武士の始祖としての讃留霊王を再評価し顕彰します。そのための伝説のリメイクと書物化が行われます。それを担ったのが
法勲寺 → 嶋田寺 →  弘憲寺
の学僧ラインではないでしょうか。
法勲寺は親正の子一正の代になって飯山から高松西浜に移され、今の弘憲寺になります。その弘憲寺には、近世に描かれた立派な武士の姿をした讃留霊王の肖像画が伝えられています。讃留霊王を祀っていたことがうかがえます。
 こうして、生駒藩の新参の武土層にも悪魚退治の話と綾氏=讃留霊王の子孫という話は広がっていきます。

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江戸時代になると多少余裕が出てきますから、庶民の中にも悪魚退治の話を写して読む人が現れます。そのためかいくつかの讃留霊王説話の写本が残っています。戦前に編纂された『香川叢書』には、それらの説話集の何種類かが「讃留霊公胤記」として収められています。 現時点で成立年が判明しているものを年代順に並べてみると次のようにります。
1 承応元年 1652 年 友安盛貞 『讃岐大日記』
2 享保三年 1718 年 香西成資 『南海通記』 「讃留霊記」
3 享保二十年 1735 年 書写 嶋田寺本 「讃留霊公胤記」
4 明和五年 1768 年 菊池黄山 『三大物語』
5 文政十一年 1828 年 中山城山 『全讃史』綾君世紀 「霊王記」
6 安政五年 1858 年 丸亀藩京極家 『西讃府史』 
最も古いものでも、江戸時代を遡ることはないことがわかります。
つまり讃留霊王伝説のリメイク本は、近世以後に現れたと言うことがここからも分かります。

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讃留霊王説話に熱い思いを持ち続けた人たちが香西氏です。
香西氏は戦国の戦いの中で、生駒氏が来る前に滅びてしまっています。しかし、庶民としては生き続けていました。香西氏というのは讃岐藤原氏、すなわち綾氏の直系を自負する人たちなんです。香西氏の子孫、香西成資が享保四年(一七一九)に白峯寺に奉納した『南海通記』には「綾讃留王記」が入っています。同じ讃岐藤原氏の血を引く新居直矩が寛政四年(一七九三)に香西の藤尾八幡に奉納した『香四記』にも「讃州藤家香西氏略系譜」が入っていて、讃留霊王のことが出てきます。

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讃岐のローカルヒーローを全国的認知度に高めたのは誰?

 讃留霊王説話はあくまで讃岐独自の物語で全国的には殆ど知られていませんでした。この説話がもともとは地方武士である綾氏の先祖を飾るローカルな話であったことからして、当然なことです。
   しかし、全国的に認知される機会がやってきます
   本居宣長が「古事記伝」で、この讃岐独特の説話を次のように引用したのです。
「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と云う祠あり。そは彼の国に古き書ありて記せるは、景行天皇廿二年、南海に悪き魚の大なるが住みて往来の船をなやましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て討ち平らげ給ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に讃留霊王と申し奉る。これ綾氏・和気氏等の祖なりと云うことを記したり。或いは此を景行天皇の御子神櫛玉なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。讃岐の国主の始めは倭建命の御子武卵王の由、古記に見えたれば武卵王にてもあらむか。今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事どもを記せる物に云えり」
 
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 何を見て書いたのかはわからないのですが、本居宣長は讃岐で書かれた悪魚退治の本を入手して、これを書いたのでしょう。宣長が「古事記伝」で引用したことで、讃留霊王説話は全国の知識人に知られることになります。そして、明治にかけてその認知度をアップさせていきます。
   宣長の記述から次のような事が分かります
(1)讃岐に讃留霊王という祠があること。
(2 『讃留霊記』という古書があること。 
(3)倭建命の御子が讃岐に来て悪しき魚を退治し、讃留霊王と呼ばれたこと。
(4)讃留霊王は神櫛王・大碓命・武卵王の諸説があること。
(5 「讃留霊」は後の当て字で 「さるれい」の 意味は不明であること。
こうして戦前の皇国史観においては、讃留霊王は郷土の英雄として故郷学習などにも登場し、知らない人がいませんでした。そういう讃留霊王信仰の高まりの中で、元々は、八坂神社の中にあった祠が讃留霊王の古墳とされる上に建立されたのでしょう。

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