瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐古代史 > 讃岐国府跡周辺

 
阿波国府周辺
阿波国府周辺の遺跡

 阿波国府推定地については、鮎食川の扇状地上の大御和神社を中心とする地域と観音寺を中心とする地域の二説がありました。そんな中で養護学校近くの舌洗(したあらい)川の旧河道から多量の木簡が出土しました。そこに書かれた記述内容から、この周辺に国府や国衙があることが明らかになりました。今回は、出てきた木簡から、阿波国府の役割や業務などを見ていくことにします。

阿波国府は名東郡にあり 
和名類聚抄の阿波部分 各郷名も見える
テキストは「森 公章 倭国の政治体制と対外関係 300P 国宰、国司制の成立をめぐる問題  ―徳島県観音寺遺跡出土木簡に接して―」です。
倭国の政治体制と対外関係


まず、比較のために木簡を出土する国府関連遺跡を挙げておきます。
①鹿の子C遺跡出上の漆紙文書(約290点)が出てきた常陸国府
②下野国府跡(2300点強)、
③但馬国府跡関連遺跡(約230点)
④出雲国庁跡(15点)
⑤周防国府跡(約20点)
出てきた木簡の特色としては、国関連の施設であったことを裏付ける内容が含まれています。それは国内の各郡からの文書や物品が届けられていることから分かります。例えば出雲国庁跡出土の「大原評 □磯部 安□」とあって、意宇郡にあった出雲国府に大原評(郡)などからの個人情報が集められています。
阿波国府 観音寺遺跡木簡
徳島県観音寺遺跡出土の木簡

 但馬国府跡関連遺跡の木簡には、次のように記されています。
「・朝来郡/・死逃帳/天長□□(右側面)/□□三年(左側面)」
「・二方郡滴田結解/天長□〔四ヵ〕□」
このような個人情報が各郡からの文書が巻子の形で送られてきています。これらをもとにして個別人身支配の基本となる戸籍が作られたのかもしれません。

わかめ朝貢木簡
観音寺遺跡木簡 わかめが貢納されていた

観音寺遺跡から出土した木簡にも、各郡からの運ばれてきた物資の搬入を示すものがあります。
「麻殖評伎珂宍二升」
「□〔評?〕曲マ里五人」
麻殖評(郡)や板野郡津屋郷、美馬郡奏原郷などからの荷札木簡があります。阿波各郡からの物品が、ここに集められていたことが分かります。

阿波国府木簡 ミニエ うにの朝貢
観音寺遺跡木簡 がぜ(うに)も貢納されていた

 木簡には、次のような人名や年齢を記すものがあります。
井上戸主弓金口□□〔片力〕七」(名方(東)郡井上郷?)
「□子見爾年 五十四」
ここからは井上郷では戸籍が実際に作成され、人名・年齢など個人情報を国府が握っていたことが分かります。男女の名前が書かれていまので、庚午年籍の記述とも整合性があります。国司主導の戸籍作成が行われていたことが裏付けられます。
 次の木簡は、国司の国内巡行が行われていたことが分かるものです。
阿波国府木簡4
aには「□(名ヵ)方」「阿波国道口」などとあり、地域の交通要所などが列挙されています。これらの地点を目印や起点にしながら国司の各郡視察が行われていたようです。
bの「水原里」がどこにあったのかは分かりませんが、田地面積と「得」の記載があります。これは職員令大国条の国守の職掌「田宅」の規定通りに、国内巡行による検田作業が行われていたことを示すものだと調査報告書は記します。

木簡の中での徴税に関するものを見ておきましょう。

阿波国府木簡の記載
            観音寺遺跡木簡
c  波亦五十戸税三百□
  高志五十戸税三百十四束   
  佐味五十戸税三□□
古代の郷は50戸をひとつの目安にして編成されていました。
「高志五十戸税三百十四束」は、高志(郷)の50戸の税が稲束340束であったことを記すものです。報告書では50戸に課された額が310束前後というのはやや少ないとして、国府から何らかの稲を下行した記録としています。

阿波国府木簡 板野国守
            観音寺遺跡木簡

研究者が注目するのが上の木簡です。
「板野」はやや大ぶりの文字で、「国守」との間には、心持ちスペースがありますので、文章的にはここで切れていると研究者は判断します。報告書では「国守」を国司の長官の守(カミ)のこととします。そして某年四月に行われた板野評への部内巡行に際して、国守と従者の小子に対して支給された食米を記録した木簡としています。そうだとすれば、ここでも国守による国内視察が行われ、それに対して給付金が支給されていたことになります。以上のように国府遺跡から出てきた木簡は、観音寺遺跡周辺に国府があったことを裏付けます。

徳島県国府 矢野遺跡 

それでは律令時代の国司は、どのように生まれたのでしょうか。その形成過程を見ておきましょう。

  国司の古訓は「クニノミコトモチ」で、「国宰」と書かれることもありました。大宝令よりも以前の7世紀の国司は、宰や国宰と記され、長官は頭、次官は助と呼ばれていたようです。この「宰」に関しては、『日本書紀』敏達六年五月丁五条に次のように記されています。
「遣大別王与・小黒吉士・宰於百済国・王人奉命為使三韓、自称為宰、言於韓 蓋古之典乎。如今言使也。余皆倣此 大別王未詳所出也。」

『釈日本紀』巻十一・神功紀の「宰」は、これを次のように解説しています。
「私記曰く、師説、今持天皇御言之人也。故称美古止毛知」

ここからは、「宰」が特定の使命を与えられ、地方や外国などに臨時に派遣される使者がもともとの意味だったことが分かります。
以上をまとめておくと
①臨時に任命され、その時々の政治的使命を果すために地方に派遣された使者を「宰」と呼んだこと
②それが地方監督機能が強化されるにつれて、定期的に任命・派遣されるになったこと。
ここでは中央官人が一定期間・一定地域内に常駐して地方支配を統括するようになり、それが国司制の成立につながることを押さえておきます。
 その過程は、次のような段階を経たと研究者は考えています。
①皇極紀の「国司」や孝徳紀の「東国等国司」など、ミコトモチ的色彩の強い使者派遣の段階
②壬申紀に見える常駐的な「国司」を初期国宰と呼ぶこと
③それは白村江役前後の対外的緊張の高まる時期に派遣されたもので、壬申の乱後の国司に比べて、行政権以外に財政・軍事権も有する強大な存在であったこと、
④天武・持統朝頃の行政権のみを付与された存在になったこと
⑤天武朝末年の国司の管轄領域としての令制国の成立
⑥大宝令制による財政・軍事権付与による律令制的国司制の完成
 次に国府の業務内容が見える木簡を見ていくことにします。
下野国府跡木簡(延暦十年頃)には、次のように記します。

「□□□□(依ヵ)国二月十日符買進□□/□(同ヵ) 六月十三日符買進甲料皮」

ここからは甲冑製造用の皮類を購入していることが分かります。これと次の蝦夷三十八年戦争の時に出された『続日本紀』延暦九年間二月庚午(四日)条の記述内容はリンクします。

「勅為征蝦夷、仰下諸国令造革甲三千領 東海道駿河以東、東山道信濃以東、国別有数。限三箇年並令造詑」
同十年二月丙戊(二十六日)条
「仰京畿七道国郡司造甲。共数各有差」
六月己亥(十日)条
鉄甲三千領、仰下諸国、依新様修理。国別有数」
ここには蝦夷遠征の際に、中央政府は各国に甲冑2000領の提出を命じています。その命に答えるために、下野国府は甲冑用の材料を購入しているのです。中央政権の命令通りに動く国司の姿が見えます。こうして国府の仕事はいろいろな分野に及ぶようになり、そのために大量の文書が作成されるようになります。
 例えば周防国府跡の木簡には「鍛冶」と記して人名を記したものがあります。この「鍛冶」は、鉄器生産の現業部署が国府に直轄していることがうかがえます。鉄器の生産・管理も国府の役割であったようです。
 また下野国府跡の木簡には「造瓦倉所」(2165号)、「造厨」(2662号)、「検領藤所」(1213号)など「所」と書かれたものが出てきています。これらも先ほどの鉄製品と同じように国府の管轄下にあったようです。
阿波国府周辺遺跡航空写真2
阿波国府周辺
 国府と郡衙が、同じ場所にあることの意味を研究者は次のように考えています。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあって、国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。これは阿波国府と名方評(郡)家の関係と同じです。
 どうして、国府と郡家がすぐ近くに置かれたのでしょうか? 
それは中央からやってきた国宰が国府所在地の評司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰は、出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。これは8世紀以降同じで、文書逓送や部領に充てられるのは、国府所在郡の郡司の例が多く、郡散事も国府所在郡出身者が多いようです。
 『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあって「養郡」というものがあったことが分かります。「養郡」についてはよく分かりませんが、国司の在地での生活する上で、郡からの食料などの生活物資の提供に頼っていたことが考えられます。観音寺遺跡木簡からも、板野評から国宰への食米支出があったことが分かります。
 また丹波国氷上郡の郡家付属施設の木簡は、国司が氷上郡に巡行した際に病に倒れ、その病状を見るために浄名という人物(郡関係者?)が使者を派遣したことが記されています。国司が病気になったような場合でも、郡司に頼らなければならなかったのです。初期の在地勢力の制約を抜け出して国宰、国司が、どのようにして独自の権力機構を地方に築いていくかが課題となったようです。。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「森 公章 倭国の政治体制と対外関係 300P 国宰、国司制の成立をめぐる問題  ―徳島県観音寺遺跡出土木簡に接して―」

          Amazon.com: 菅家文草 [1] (国立図書館コレクション) (Japanese Edition) eBook : 菅原道真: Kindle  Store

 前回は、『菅家文草』に収められた作品から讃岐時代の菅原道真のことを見てみました。今回は他人が書いた讃岐時代の菅原道真を見ていこうと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

『菅家文草』は、道真自身の作品ですから信頼性もあります。しかし、後世になって書かれた史料は成立時期も降り、怨霊・天満天神としての道真のことにポイントが置かれ、史料的価値は低いようです。
 まず取り上げる史料が『菅家伝』です。
『菅家伝』は、正式には『北野天神御伝』という題名で、10世紀前半頃に、道真の孫である在射によって著されたとされる史料です。道真の伝記としては、最も早い成立になり、後世の天神信仰の影響を受ける前に書かれている点が貴重とされるようです。
この『菅家伝』には、次のような記事が見えます。

「仁和二年出為讃岐守、在任有述、吏人愛之。三年進正五位下。寛平二年罷秩帰洛。」

讃岐赴任について書かれている分量は、ほんのわずかですが「吏人愛之」とあり、「良吏」としての評価がなされています。
次に、『北野天神縁起絵巻』をはじめとする各種天神縁起について見ておきましょう。
忘れへんうちに Avant d'oublier: 北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金

これらの原本の成立は平安時代後期とされます。この時期になると天神信仰の強い影響が見られ、史実と虚構の境が分からなくなります。共通するのは、讃岐守時代についての菅原道真は何も書かれていないことです。完全に無視省略しています。その一方で、道真の太宰府左遷を讃岐守赴任の際と比較する叙述がみられます。それを天神縁起のなかで根本縁起とされる「承久本」巻四第一段には、次のように記します。

仁和の頃をひ、讃州の任に趣きじ折には、甘寧の錦の績を解きてぞ、南海の浪の上に遊びしに、此の度の迎えには、十百重も化ぶれたる海人の釣舟出で来たり。

意訳変換しておくと
仁和の時に、讃州守として任地に趣いた際には、甘寧の錦の績を解いて、南海の浪の迎えの船が並んだ。それに対して、この度の太宰府の迎えには、海人の釣舟が出迎えただけであった。

「甘寧錦績」とは豪奢の例えですから、讃岐への赴任が厚遇であったことを記します。少なくとも天神縁起絵巻では、讃岐守赴任は立派な出迎えで、太宰府左遷とは違っていたと語られています。

 文人国司の登場と道真の立場の独自性について
九世紀において「文人」とは「貴族社会内部では比較的問地の低い人で、学問や能力のわりにめぐまれない地位に甘んじなければならなかった人々」とされます。「文人」が地方官に赴任することは、珍しいことではなかったようです。のちには、文章生から諸国橡に任じられる昇進コースが通例化するのは、こうした傾向の延長線上にあったとも考えられます。道真自身が「天下詩人少在京」(263)と詠んでいるのも、以上のような状況をふまえてのことのようです。

 九世紀前半に「文章経国」思想が広がると、紀伝道を修得した者=文人が、現実への対応能力のある「良吏」として期待されるようになります。実際に効果が上がったかどうかを別にして、能力のある者によって体制を立て直すという合理性を持っていたのかもしれません。 もっとも現実は、全国各地に「良吏」が赴任していたわけではありません。一人の意欲的な「良吏」のみで律令制の原則的な秩序を回復するのは不可能でした。それに道真も気づいていたはずです。
 このような情勢の中で、文人派=菅原氏も決して例外ではありませんでした。
 例えば道真の祖父清公も、美濃少嫁(『公卿補任』承和六年条)や尾張介(『続日本後紀』承和九年十月丁丑条)に赴任しています。したがって、道真が讃岐へ赴任命令を、次のように読むのは無理があると研究者は指摘します。

「倩憶分憂非祖業   倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず」 (つらつら考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。)

祖父清公は地方官として赴任しているのですから・・。地方に赴任しなかった父是善のみを念頭に置いた表現なのかもしれません。
菅原道真
 讃岐国司として赴任してきた菅原道真(滝宮天満宮の絵馬)

文人国司=讃岐守菅原道真を、どう評価すべきなのでしょうか。
 道真の讃岐での政治的評価を判断する時に挙げられるのが次の二点です。
①道真在任中の仁和三年六月に、貢絹の生産について朝廷から譴責を受けた19か国に讃岐が入っていること(『三代実録』同年六月二日甲申条)
②『菅家文草』の中で自らを卑下している詩的表現が多いこと
これらを背景に、道真は京に未練があり、「詩人」に徹しようとしたために、あまり有能・熱心な国司=「良吏」ではなく、そのため業績も上がらなかったとする見解が多いようです。

菅家文草 菅家後集 日本古典文学大系72(川口久雄 校註) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 しかし、前回に触れたように『菅家文草』の中には、注意して読めば国司としての自らに対して否定的な自己評価だけではなく、肯定的な表現もあります。さらに『菅家後集』においては、「叙意一百韻」(484)の中で、自らの人生を振り返る部分がありますが、そこで自らの讃岐守時代を評して「州功吏部鐙」と記します。つまり、業績を上げたと自己評価しているのです。
 また、「路遇二白頭翁」(四)の詩の中で、「良吏」として名高い安倍興行や藤原保則と比較して自らを卑下しながらも、「就中何事難併旧、明月春風不遇時」「自余政理難無変」などと記します。ここからは、国司として一定の責任感・自負も持ち合わせていたことが分かります。
 道真は「国司」という官職につくことを嫌悪していたわけでもないようです。
このことを直接的に示すのが、『菅家文草』巻第二の「喜被三遥兼賀員外刺史」(‐00)です。これは元慶七年(883)正月11日の除目で、道真が加賀権守を兼ねることになったときの詩です。これは題名の通り、この任命を喜ぶものです。その内容は、次のようなものです。

「家門・家学である紀伝文章の道は、経済的には恵まれることはないが、父・是善も任ぜられた加賀権守の月俸によって、北陸の残雪をおかして赴任する苦労もなく、ただ秋の豊作を期待するだけである」

 地方に赴任することのない遙任であれば、このように心からの喜びが表現されています。
以上の点をふまえて、道真が讃岐守に任命された仁和二年正月の補任記事について見ておきましょう。
「讃岐左遷説」の状況証拠とされてきたのは、この時の人事が「門地の低い実力者=文人派」が締め出される学閥間の争いの中で行われたとされるからのようです。そのため敗れた道真閥側が地方に「左遷」されたというのです。さらに、この学閥間の争いとは、貴族上層部から支持を受けた「詩人無用論」を唱える実務家的儒者派と、文学創作を第一義とする道真らの詩人派との対立であったという見方もあります。確かに9世紀後半には、次のような政治の流れがあったようです。
①大学制度の衰退とそれに伴う家学の発展が、学閥の抗争の中で「文章経国」の思想を後退させた
②そのため「文人派」の政治的局面からの後退が見られた
これを事実として受け止めても、菅家廊下門人三千人の主催者である道真が、4年後に再び京に復帰している点をどう理解すればいいのでしょうか。
 以前は、道真が中央政府に復帰し異例の昇進を遂げたのは、障害となっていた藤原基経や橘広相の死があったためとされました。しかし、これらは道真の讃岐帰京より後のことです、寛平3年2月29日の蔵人頭補任以後の昇進の理由にはなりますが、讃岐から帰京したことの直接的な原因とすることはできないようです。また、阿衡問題解決の功績についても、基経への著名な書状「奉昭宣公書」は時期を逸し、実質的に有効ではなかったという見解もあって、これも決定的な理由にはならないようです。交替の手続きを待たずに行なわれた道真の帰京は、宇多天皇による優遇に関係するようです。
 以上から、仁和二年の道真の讃岐守赴任は、文人派(詩人派)の決定的な敗北を示すものではなかった。帰京後の異例の昇進を念頭に置くならば、「左遷」と映るかも知れないが、単なる「転勤」とも考えられるようです。
 道真は他の文人国司や詩人派とは大きくちがった面を持っていたいた人物と考えられると研究者は指摘します。讃岐守赴任を左遷と見なされることへのおそれ(‐87)、何度も繰り返される「客意」表現、外官赴任拒否の意志表示(324)など、極端に地方への赴任を嫌悪しているのは異常です。
 文人の地方官赴任は、漢王朝の宣帝の「典我共此者、其唯良二千石乎」(『漢書』循吏伝序)にも見られるよう伝統的な地方官重視の帝国統治理念を実践できる絶好の機会とされてきました。また、白居易と同じように諷喩詩をもって諫言するという、「詩臣」の立場をとることもできました。さらに、地方官を歴任したことは、地方官在任中のみならず、中央政府に復帰した際に発言の重みとして作用します。例えば、道真の「請令二議者反覆検税使可否状」(602)は、自分の国司赴任の経験に立って、各国に検税使を派遣することなく、国司の統治に任せることを述べたものです。また三善清行の「意見十二箇条」も国司経験者としての提言で、いずれも自らの政治的立場を有利にするには有効であったことがうかがえます。
 しかし、讃岐赴任前の道長は都の廷臣であることを強く意識しています。
そして、積極的に廷臣・儒者として、直接諫言することで政治参加したいという願望を持っていたようです。道真にとって、都から離れ讃岐に出向かねばならないことは「左遷」以外には、受け止められなかったのかもしれません。確かに都人の地方官赴任は、本当に左遷の場合もありました。白居易のように唐王朝では、その傾向が強かったことを、道真は知っていたはずです。このあたりが一般の文人とは違った認識と感性を持っていたと云えるのかも知れません。このような強い「思い込み」は、敵対する勢力からは、「政治的野心」としてみなされる危険性があったでしょう。道真に対する三善清行の警告「奉菅右相府書」は、反道真派の論客として提出されたものですが、道真の本質的な問題点を衝いていたものだったと研究者は考えているようです。
 藤原氏の世代交代の空白期に、菅原道真は偶然にも宇多天皇の優遇を得ます。その反動として昌泰四年(901)1月の太宰府への左遷という結果につながります。そして、道真が危惧した「詩人」と「儒者」の分裂は、この時点で決定的になったといえそうです。

以上をまとめておくと
①『菅家文草』には、菅原道真の複雑な心情が含まれているが、「文学作品」であり。詩的表現を額面通りに読み取ることはできない。
②「文人相軽」の時代風潮の中での讃岐守赴任を、道真が当初は「左遷」と思い込んでいたフシはある。
③あるいは尊敬する白居易へ左遷と自分の地方転出を同一視したような所も見られる。
④道真の讃岐での作品全体を見ると、政治の現実に押しつぶされそうになりながらも前向きに対処していこうとする作品の方がはるかに多い

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

      菅原道真

菅原道真(845~903年)は、仁和三(886)年から寛平二(890)年にかけての四年間、讃岐守として讃岐にやってきます。これに対しては、かつては左遷説が強かったようです。確かに、以前見たように赴任当初に書かれた作品には、左遷を憂うようなものがいくつも見られます。これに対して、左遷ではなかったと考える研究者が近年には増えているようです。何を根拠に、左遷説を否定するのでしょうか。今回は、その辺りを見ていきたいと思います。テキストは「竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」です。

菅家文草とは - コトバンク
菅家文草

『菅家文草』十二巻は、昌泰三年(900)に、道真が醍醐天皇に奏進した『菅家三代集』二十八巻の一部です。その中の巻第三と巻第四は讃岐守時代の詩を集めたもので、もとは「讃州客中詩」二巻と呼ばれ、醍醐天皇が皇太子であった時に、求めに応じて献上した詩集です。その内の巻第三には仁和二年(886)正月16日に讃岐守に任じられてから、仁和三年の年末に一時帰京し、翌四年正月の初めまでに詠まれた詩が収められています。このうち、讃岐着任の直前の作が五首、二月の赴任の途次の作が三首あります。着任直後の詩は非常に少ないようです。年の後半の秋の訪れとともに作品の数は増加します。
 道真が讃岐で作った詩作は、旅愁・悲嘆が詠まれているものに目がいきがちです。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを    
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。

しかし、一方で国司の職務に伴う印象や国情に対する感想が詠まれた詩もあります。例えば、
①輸租のやり方を論じたり
②訴訟の判決を書いたりすることを詩の中に詠み込んだり「重陽日府衛小飲」、
③国内巡行によって把握したと思われる貧しい庶民の実情を題材にした「寒早十首」(200)
これらは任期後半になって、新しい職務・環境に慣れて、詩作されるようになるのは以前に紹介したとおりです。ここからは、都から離れたことに悲観するだけではなく、国司としての職務にかなり意欲を持っていたことがうかがえます。
「従初到任心情冷 被勧春風適破顔」の句のように(「春日尋山」)、赴任の動揺からようやく落ち着いたことを告白した詩もでてきます。
 また、過去に讃岐に赴任した「良吏」である安倍興行や藤原保則と比較して、自らの国司としての非力を卑下する(「路遇二白頭翁」)一方で、「外聞幸免喚・蒼鷹(酷吏という噂はない)」・「到州半秋清兼慎」(赴任後、清廉と謹慎をもって務めた)という表現で自己評価もするようになります。(「行春詞」)。
 また、年末に一時帰京する際には、再び讃岐へ帰ってこないのではないかと州民が案じたというような詩も書くようになります。
巻第三は、京の自邸で越年し、翌仁和四年(888)の初めに讃岐に帰任する直前までの詩が収めれています。この中の京で詠んだ詩には、早く讃岐に帰任したいという意向までうかがわれます。(「残菊下自詠」(238)「三年歳暮、欲二更帰州、柳述所懐、寄二尚書平右丞こ(240))。
 ここからは、左遷に対して「失意・挫折感」の視点のみで、道真の心の動きをみることはできないようです。
巻第四は、仁和四年(888)春、再び讃岐に帰任する途中の作品から始まります。
この年の前半には、讃岐守として特徴的な作品はありません。ところが四月以降、早魃に見舞われたため、降雨を城山の神に祈願(「祭城山神文」)したことが記されています。この災害への対処に疲労したためか、国司として自信を喪失したような詩も出てきます。この秋には阿衡問題に関わって一時帰京し、「奉二昭宣公書」(『政事要略』巻丹、阿衡事)を奏上しています。
 翌年の仁和五年(889)になると、交替・帰京を意識した作品が目立つようになります。
例えば夏には、「官満未成功」(「納涼小宴」)などと、謙遜しながら四年間を決算するような表現が出てきます。その一方で、自分の功績に対する評価への不安も隠すことなく表しています。帰京途中の際には作品はなく、巻末の一三首は帰京後の詩になります。以上、菅原道真が讃岐で詠んだ詩のテーマ・題材を、研究者は次の4つに分類します。
①讃岐守・外官として赴任したことに対する悲嘆
②国司の職務・治政に対する自己評価。讃岐国の社会情勢の観察。
③国司としての処遇・国府の環境や前任国司について。
④讃岐国内外での遊興・門人や詩友との交流。

 これらの作品を見る場合に、巻第三・巻第四は、東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)の求めに応じて献上された詩集であることを忘れてはならないと研究者は指摘します。帰京後の「二月二日、侍二於雅院。賜侍臣曲水之飲、応製」(324)の詩には、「長断詩臣作外臣」とあります。ここからは、2度と「外官赴任」が行なわれないことを願うことが詩集成立の主たる目的であったことが分かると研究者は指摘します。そのためにも、赴任初期には、讃岐守赴任によって、どれほど難渋したかということが強調するテーマ①に関する作品が並べられていると研究者は考えます。
 テーマ③④については、道真の孤絶性を特に強調するのは偏った見方だと研究者は指摘します。道真は属僚と遊興を楽しむだけではなく、「菅家廊下」の門人の訪間を受けたり、詩友との詩を介した交際も楽しんでもいます。「左遷による失意と望郷」の面からだけで捉えるのは、一面的な見方だと云うのです。
白氏文集とは - コトバンク
白氏文集

『菅家文草』は『白氏文集』の強い影響を受けていることを、研究者は指摘します。
『白氏文集』は、唐代の詩人白居易(772~846)の詩集で、完結したのは、会昌五年(845)のことです。日本には、その直後の承和14(847)に、入唐僧恵薯によってもたらされたようです。その前後から、自居易の詩は急速に日本の詩人に広まります。
 菅原道真も、『自氏文集』の影響を強く受けていることが、次のように指摘されます。
①詩の中に割注を設けている点
②詩の題材として諷喩詩・詠竹詩が見られる点
③仏教的な内容を持つ点
④叙意一百韻という長大な形式
 道真は讃岐の居館にも白居易の詩文を持ってきていて、これらを手許に置いて参考にしながら、詩を作った可能性があるようです。 
 さらに注目すべき点として、白居易と菅原道真の官歴が似ていることを研究者は指摘します。
 白居易は、学越権行為をとがめられ左遷されて江州司馬に赴任し、続けて忠州刺史を任じられます。その後も、中央の党争に巻き込まれることを避けて、希望して杭州刺史になっています。このような白居易の左遷体験から作られた作品と、自分との境遇をダブらせ共感していた。それを自分の作品作りの材料にしていた、という仮説も文学者からは出されています。

道真が赴任当初は、悲観的な心持ちを持っていた讃岐国とはどんな国だったのでしょうか?
当時の讃岐国の位置付けを見ておきましょう。
「延喜民部上式」によると、讃岐国は上国で、大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田の11郡からなり、国司の定員は、職員令上国条によれば、守・介・嫁・目各一人と史生二人です。「延喜式部上式」諸国史生条には、史生の定員については上国四人のところ美濃・讃岐のみ大国並みに五人と規定されています。ちなみに、「延喜民部上式」戸損条によれば、下野と讃岐のみ大国に準じて四九戸を例損とすることが規定されています。このように、九世紀後半における讃岐国は、上国ですが大国並みに扱われていたことがうかがえます。
讃岐守一覧表(9世紀)
九世紀代に讃岐守に任命された国司一覧表を見ておきましょう。
彼らの官位欄を見ると、赴任寺には四位の者が多いことが分かります。讃岐守は上国守なので官位令従五位条の規定では従五位下の位階が相当になります。とくに九世紀半ばころから讃岐守は、参議・京官と兼官している場合が多かったようです。そのため、讃岐守は遥任が多かったことがうかがえます。
 讃岐赴任経験者の、その後の昇進具合はどうでしょうか。一番右の欄の最高到達ポストを見てみると、讃岐守を歴任した者は、最終的に二位・三位まで昇進している者が多いようです。ここからは次のようなことがうかがえます。
①九世紀の讃岐守は、給付目的のための官職の性格が強く、国衛では守不在でも統治ができた。
②讃岐は安定した統治しやすい所とされていた
道真は従五位上行式部少輔兼文章博士加賀権守から讃岐守に転じます。そして、前任官と相当官位で任じられています。先ほど見たように従五位上は、官位令では大国守の官位です。讃岐が大国に準じた扱いをされていることを、裏付けます。同時に、位階的には左遷とは云えないようです。
道真が守であった時期に、同僚であった国司官人を見ておきましょう。

讃岐守菅原道真の同僚一覧表(9世紀)

 下級国司については分かりませんが、上級官については京官と兼官しているものが多いようです。『菅家文草』の作品の中にも、次のような同僚が登場します。
①「倉主簿」(227・23Y
②「藤(十六)司馬」(277・28・30・31)
③ 書生「宇尚貞」(219)
④「物章医師」(3o6)です。
彼らは、姓名は分かりませんが、それぞれ目・嫁・書生・国医師です。特に①②は道真と同じく中央派遣官で、詩簡をやりとりするなど友誼を通じていたようです。ちなみに①「倉主簿」は仁和三年末に交替し(234)、②「藤司馬」は道真の交替後も、讃岐に在任していたようです。
しかし、「苦日長」(292)の詩の中で、京の菅家廊下にいた多くの門弟に比べると「衝掩吏無集」と官人の少なさを嘆いています。ここからは、気心の知れた同僚は皆無ではなかったものの、少なかったことは確かなようです。『菅家文草』に表現される孤独感の一端は、遥任国司が多く、京から実際に赴任している官人の少なさにもあったのかもしれません。
 最後に、九世紀後半の讃岐国の実情を同時代の史料から見ておきましょう。『菅家文草』の詩文の中には、讃岐の国情を詠み込んだものがあります。例えば
「八九郷晶。十一郡四万戸・人口二八万人(279)」

 讃岐には「89の郷があり、11郡で4万戸、人口は28万人」というような数字は、現場にいる国司でなければすぐには出てきません。菅原道真が、これらを頭に入れた上で、執務していたことがうかがえます。延喜式の28社なども頭に入っていたかもしれません。
この他にも
①国司が多くの訴訟に対処しなければならなかったこと(97)、
②「青々汚染蝿」、すなわち様々な不正を行なう者がいたこと(219)
③社会の底辺を主題にした「寒早十首」(200~209)
などからは、ある程度当時の讃岐の国情を推察するための材料になりそうです。


  以上をまとめておくと
①菅原道真の讃岐国守任命は、自らの作品の中にも「左遷」と書かれているために、それが定説とされてきた。
②しかし、道真の作品を見る限り、「左遷悲嘆」的なものは初期のものだけに限られる。
③多くの作品は、現実の政治に押しつぶされそうになりながらも、国司として前向きに取り組む姿勢が見られるものの方が多い。
③当時の讃岐の国のランクも準「大国」であり、位階的には左遷とは云えない。
④菅原道真のその後の「出世」ぶりからも、左遷であったとは云えない
以上から、菅原道真の讃岐守への任官は、決して異常なものではなく、通例の「転勤」であった、道真は「左遷され降された」のではなく、「転じて」讃岐守になったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  竹中康彦 讃岐守菅原道真に関する一考察  古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室 1998年」

   菅家文草とは - コトバンク
菅原道真の漢詩集『菅家文章』

 菅原道真は国司として讃岐在任中に140編の漢詩と8編の文章を作っています。その中に当時の讃岐の庶民や道真の政治意識が、どう記されているのかを見てみることにします。テキストは  菅原道真が見た「坂出」  坂出市史 古代編  120P  です。 
 菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、二月に赴任しています。漢詩集『菅家文章』には、初めての地方赴任への悲嘆が、次のように記されています。
北堂餞宴
我将南海飽風煙      我将に南海の風煙に飽かむ
更妬他人道左遷       更に妬む 他人の左遷と道ふを        
倩憶分憂非祖業       倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず 
徘徊孔聖廟門前       徘徊す 孔聖廟の門前                         
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。
その他にも、(『菅家文草』84番詞書には
「心神迷乱し、わずかに、声発するのみにして、晨流れて嗚咽す」「おのずからに悲し」
とも記します。
ここからは、はじめて国司として「讃岐に赴任して、ばりばり働こう!」という前向きのやる気は伝わってきません。讃岐赴任が自分が望んだものではなく悲嘆に暮れるか細い文人官僚の姿が、最初詠んだときには浮かんできました。

菅原道真
菅原道真42歳(滝宮天満宮に奉納された絵馬)

ちなみに、この漢詩には「他人の左遷なりといはむ」と記されています。このため菅原道真の讃岐守任命については、文章博士をめぐる派閥争いの末の左遷という見方がされてきました。
 しかし、菅原道真は讃岐から帰任した後に実務官僚を経て、参議、民部卿、そして大納言、右大臣と政策上立案・遂行する立場に昇っていきます。この姿を見ると単なる左遷ではなく、むしろ「良吏国司」派遣策のもとで、文人政治家としての実務を「現場」で経験させるための「現地研修的な赴任」であったと今では考えられるようになっているようです。 それを裏付けるように、道真の讃岐守在任中には、郡司定員の増加など政府を挙げて、国司をバックアップする改革も実施されています。

坂出 中世の海岸線

菅原道真は、どのようなルートで讃岐国府にやってきたのでしょうか
平安時代後期の10世紀に因幡国司となった平時範の赴任事例では、官道を進み国境で在庁官人が出迎える儀式があったと記されます。しかし、道真は赴任時の様子を『菅家文草』に何も記していません
 「中上り」として任期途中でいったん都に一旦戻る慣例があったようですが、その道程は都から播磨国明石駅家までは陸路でやってきて、そこから船に乗り込み瀬戸内海を海路進み、「客館」のある松山湊に上陸というルートをとったようです。
讃岐にやって来てはじめての秋を向かえた頃に造られた漢詩です
涯分浮沈更問誰  涯分がいぶんの浮沈 更さらに誰にか問はん
秋来暗倍客居悲  秋よりこのかた暗ほのかに倍ます 客居の悲しみ
老松窓下風涼処  老松の窓の下もとに風の涼しき処ところ
疎竹籬頭月落時  疎竹の籬まがきの頭ほとりに月の落つる時
不解弾琴兼飲酒  琴きんを弾ひき兼ねて酒を飲むを解さとらず
唯堪讃仏且吟詩  唯ただ仏を讃たたへ且かつ詩を吟ずるに堪たふるのみ
夜深山路樵歌罷  夜深くして 山路さんろに樵歌せうか罷やむ
殊恨隣鶏報暁遅  殊ことに恨むらくは 隣鶏りんけいの暁あかつきを報ずることの遅きことを
 秋の涼風が吹きはじめ、群竹に月が沈む情景に、胸を締め付けられた道真は、何とか気を紛らわせようとします。ところが琴も酒もたしなまないために、読経と詩吟で長い秋の夜を過ごすしか術がないようです。ここで出てくる「琴・酒・詩・仏教」という組み合わせは、琴詩酒を「北窓の三友(書斎の三つの友)」と呼び、自ら「香山居士こうざんこじ(香山の在家仏教信者)」と号した白居易の存在が念頭にあるようです。琴も酒も詩人には欠かせませんが、白居易は「琴を弾き、琴に飽きれば酒を飲み、酒を飲んでは詩を作る」といった調子で、これらを愛好していました。
 それでは道真はどうだったのでしょうか?
彼は「琴」はものにできず稽古を止めてしまっていたようです。「琴を弾くを習ふを停む」と述べている下りがあります。それでは酒はどうでしょうか? どうやらあまり好まなかったようです。
友人知人と酒席を囲んでいるので全くの下戸だった訳ではないようですが、白居易のように浴びるほど飲んで、興が乗れば漢詩が流れるように生み出されるという感じではありません。
 讃岐赴任後の重陽の節のときに、国府の庁舎では宴が開かれます。それまでは宮中で華やかな宴を催していましたが、讃岐では「独りい対ふなり、海の辺なる雲」と単身赴任の淋しさをぐちっています。単身赴任でやってきで、在庁官人たちと毎晩のようにどんちゃん騒ぎというイメージにはほど遠い感じです。それどころか「讃州」は「惨愁」と音の響きが通うことを気にするようになります。どうも神経が細く滅入っている様子です。
「私は琴も酒もさほど嗜まないから彼等とはお別れして、後に残る詩を死ぬまで友としよう、詩こそが私にとっては死ぬまでの友であり、先祖代々詠み続けてきたのだ」

といった独白的な漢詩が残されています。讃岐の生活になじめないまま冬を迎える姿が浮かびます。

客舎冬夜
 道真が讃岐国司として赴任した仁和二(886)年の季節が秋から冬に移り変わる季節のことです。国府の官舎で床に就いた時のことを「客舎冬夜」と題して、次のように詠っています
「客舎の冬の夜」
客舎秋祖到此冬
空床夜々損顔容
押衛門下寒吹角
開法寺中暁驚鐘
行楽去留遵月湖
詠詩緩急播風松
客舎(かくしゃ)秋(あき)徂(ゆ)きて此の冬に到る
空床(くうしょう)夜夜(よなよな)顔容(かおばせ)を損(そ)したり
押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く
開法寺の中(うち)暁にして鐘に驚く(開法寺は府衙(ふが)の西に在り
行楽の去留(きょりゅう)は月砌(げっせい)に遵(したが)ふ
詠詩(えいし)の緩急は風松(ふうしょう)に播(うごか)さる
世事(せいじ)を思量(おもいはか)りて長(つね)に眼(まなこ)を開けば
知音(ちいん)に夢の裏にだにも逢ふことを得ず
意訳変換しておくと
秋が過ぎてとうとう冬になり、官舎暮らしも長くなった。
床に就いても妻はおらず、夜ごとに顔がやつれていくようだ。
寒いなか、衛兵が牛の角笛を吹いて門の守りを固めている。
明けがたに開法寺の鐘が鳴って、目が覚めてしまう。※(自注)開法寺は国府の西にある。
月を愛でる場所は、月が石だたみを照らす加減で決まる。
詩を詠じる調子は、松を通り抜ける風音の加減で決まる。
世の中のことをあれこれ考え、ずっと眠れないままでいるから夢の中でさえ、私の思いを語ることができない。
 ここからは元気に、仕事をてきぱきと熟しているような感じには見えません。どちらかというと哀愁を通り越して、ホームシックになっているようにも思えます。
この漢詩がよく取り上げられるのは「開法寺中暁驚鐘」(開法寺の中、暁にして鐘に驚く)に、「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」という註がついているからです。これはいろいろな書物に引用され、讃岐国府跡の発掘調査場所選定の際にも手がかりとされてきました。発掘前の予備知識は、次の通りでした。
①国衙は平城京などのように1ヶ所に権力機関は集中している。
②開法寺の東に「隣接」して国衙はあった。
ところが、この先入観で発掘調査が進むと混乱が起きました。どこを掘っても遺跡がでてくるのです。どこが中心施設か分からないほどに、いろいろな建物跡が毎年のように出てきたのです。つまり国衙には、いろいろな機能があり、それが分かれて「分庁舎」として散在してことがだんだんと分かってきます。
讃岐国府跡機能一覧表
坂出市史古代編より

整理すると「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」なのですが、「逆は必ずしも真ならず」の原則が働きます。たしかに府衛(国衛)の西に開法寺はあったのですが、国衙全体は広くて、必ずしも開法寺の東の方角に位置したとはいえないとします。 つまり、府衛は開法寺の東方ではなく東側一帯にあったと考えておくべきだということです。建物によると北東や北にあるものもあります。ここでは、国衙のエリアは広く、建物は分散して建っていたことを押さえておきます。
讃岐国府跡エリア

讃岐国府跡地形復元図

話を「客舎冬夜」にもどしましょう。
「押衛門下寒吹角」「押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く」を見てみましょう。ここに押衛門が登場します。押衛門とは押牙とも書いて府衛の入口を指します。そこの門番が日没閉門の際に吹く角笛が聞こえてくるというもので、次句の「開法寺中に暁の鐘に驚く」と対句表現になっています。月明かりの中を不眠で府衛縁辺を逍遥した道真は、たまたま開法寺に入ったときに暁を迎えるとともに鐘が鳴って驚かされたという場面です。この詩からは、府衛の入口には守衛門番のいる門(押衛門)があり、西隣は開法寺が建っていたことが分かります。誤解してはならないのは客舎(宿舎)の布団の中で、角笛や鐘の音を聞いているのではないことです。

讃岐国府跡1

 それでは客舎は、どこにあったのでしょうか。
客舎とは、赴任してくる国司用の官舎(国司館)のことを指すようです。客舎の位置は、まだよく分からないようですが、手がかりとしては、「客舎陰蒙四面山」の表現から四方の山陰に囲まれた立地だったようです。そうだとすれば国衙の外にあった可能性もあります。また発掘調査から中国製の高級陶器が密集して出てくるエリアが、北の方にあります。この辺りに客舎があり、菅原道真は単身赴任で暮らしていたことが想像できます。
 道真は讃岐国司の三回目の冬を過ごした頃、帰京の思いが募り松山津の客館に移り住むようになったとも伝えられます。そうなると、道真の讃岐での常住居(客舎)は、少なくとも府衛及び松山津近辺の二ヵ所以上にあったことになります。

讃岐国府跡復元図2
讃岐国衙の政庁復元図
菅原道真の国司時代の讃岐国衙の姿を見ておきましょう。
開法寺塔跡の北東に隣接するエリアには、奈良時代8世紀の終わり頃から区画で仕切られた中に大型建築物が整然と立ち並ぶようになります。一辺80mほどの敷地を、本柱の塀で取り囲み、次のような大形建物3棟が建てられています。
①西側には、五間×二間の母屋に南面廂で床面積約100㎡の超大形建物
②北には、東西主軸の建物二棟が東西にならび
③東には南北主軸の建物(床面積約76㎡)
この三つの建物は、何度かの建て替えを経ながら連綿と継続されていきます。コの字空間は、北京市の紫禁城に見られるように中国王朝の伝統的な儀式空間です。これが平城京に取り込まれ、地方の国衙にもミニコピー版が造られていたことが分かります。国府のなかでも儀式などに使われた最も重要な空間だったのでしょう。
讃岐国府跡 政庁?
 この空間を構成する建物は、同じ場所に何度も建て替えられていきます。西の超大形建物は南北画面廂付で、床面積も140㎡へと「成長」します。北には大形建物が南北にならび、東部の建物では廂がなくなります。これらの大型建物の建替え時期が、菅原道真が讃岐国司としてやってくる前後と重なるようです。つまり、一番全盛期の国府の姿が見られた時期になるようです


この政庁の姿をみながら菅原道真は、政治に向き合う姿勢をどのように考えていたのでしょうか
そのヒントになる漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)を見てみましょう。これも『菅家文草』に収録されています。讃岐国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたものです。
【「路遇白頭翁」 「道で白髪頭の老人に出会う」の口語訳
 道で白髪頭の老人に出会う。頭髪は雪のように白いのに、顔は(若者のように)赤味を帯びている。
 自ら語る。
 「歳は九十八歳。妻も子もなく、貧しい一人暮らし。茅で葺いた柱三間の貧居が南の山のふもとにあり、(土地を)耕しもせず商いもせず、雲と霧の中で暮らしております。財産としては家の中に柏の木で作った箱が一つ。箱の中にあるのは竹籠一つでございます。」
 老人が話を終えたので、私は問うた。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」
 老人は杖を投げ出して(私が乗っている)馬の前で一礼し、丁寧に(私の言葉を)受けて語る。
 「(それでは私が元気な)理由をお話し致します。
(今から十年ほど前の)貞観の末、元慶の始め(の頃は)、政治に慈悲(の心)はなく、法律も不公平に運用されていました。旱魃が起きても(国司は減税措置を取るよう朝廷に)申請することもせず、疫病で死ぬ者がいても(役人は食料を援助して)哀れむことはありませんでした。(かくして国内全域が荒廃し)四万余りの民家にいばらが生え、十一県に炊事の煙が立たなくなりました。
 (しかし)偶然(ある)太守に出会いました。
(それは)「安」を姓とする方〈現在の上野介(安倍興行)のことである〉(安様は)昼夜奔走して村々を巡視されました。(すると)はるばる名声に感じ入って、(課税を逃れて他国へ)逃亡した者も帰還し、広く物品を援助し、疲弊した者も立ち上がりました。役人と民衆が向かい合い、下の者は上の者をたっとび、老人と若者が手をつなぎ合い、母は子(の孝行心)を知りました。
 さらに太守を得ました。(それは)「保」を名に持つ方〈現在の伊予守(藤原保則)のことである〉
(彼は)横になったまま滞ることなく政務を執り、国内は平和になりました。春は国内を巡視しなくとも生気が隅々まで届き、秋は実り具合を視察しなくても豊作となりました。天が二つに袴が五本と通りには称讃の言葉。黍はたわわに麦はふた股と、道には(喜びの)声。
 翁めは幸運にも保様と安様の徳に出会い、妻がおらずとも耕さずとも心はおのずと満ち足りております。隣組の人が衣服を提供してくれますので、体はとても温かく、近所の人と一緒に食事をしますので食べ物にも事欠きません。楽しみはその(貧しいながら悠々自適の生活の)中にあって、憂いや憤懣を断ち、心中には余計な思いもなく、体力を増します。(それゆえ)鬢(耳周辺の髪)のあたりが白くなることにも気付かず、自然と顔が(若々しく)桃色になるのです。」と。
 私は 老人の語った言葉を聞き、礼を述べて老人を帰らせ(話の内容を)振り返って思う。
「安」を姓とする人には私の兄の(ような)恩義がある。「保」を名に持つ人には私の父の(ような)慈愛がある。(この国には)すでに父兄の恩愛が残っている。どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ。(だが)とりわけ昔どおりには行かないのはどの事柄だろう。
 (詩の題材となる)明るい月や春の風は時世にそぐわない。(興行殿の)奔走をまねようとしても身体が皆ままならず、(保則殿の)臥聴に倣おうとしても(そこまで)年齢を重ねていない。その他の政治の手法にも変更がないことはないだろう。奔走する合間に私は(政務の一端として)詩を詠もう。
ここには道真に先だって2人の「良吏」が国司としてやってきて、それぞれ善政を行っために人々の生活は安定するようになったことが老人の口から語られています。これを聞いて道真は「どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ」と述懐しています。
その一人が安倍興行(おきゆき)です。
「たまたま明府に逢ひにたり、を氏となせり」と記されるのが安倍興行です。彼は、元慶二(878)年に讃岐介として国府ヘやってきます。白頭翁によれば、国内の現状を調べるため、国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済したと云います。安部興行は民政を担当していた民部少輔から、初めて地方官である国司(讃岐介)となり、以後、諸国の国司を歴任しています。
二人目が「更に使君、保の名あるひと」で、藤原保則(825~895)です。
彼は天慶六(883)年に讃岐権守として赴任してきます。部下への指示が的確で、政治が停滞することがなかったと、白頭翁は語っています。 「良二千石」との別名を持つ藤原保則は、地方官を多く歴任し、東北地方の戦乱(元慶の乱)元慶2(878~9)年を、苛政を改めることで収束させたた後に、讃岐国にやってきます。彼については以前にお話ししましたが、彼の伝記『藤原保則伝』では、「讃岐国は、良い紙と素晴らしい書跡がある国と伝え聞いているので、赴任して寺院に納められている経典を書写したい」と、讃岐国への赴任を希望していたと書かれています。藤原保則も、晩年には参議となり、菅原道真とともに地方官での経験を国政に反映させています。この藤原保則の後に讃岐守に任命されたのが菅原道真になります。
  九世紀後半の讃岐国は、「良吏国司」により律令国家の「特別なてこ入れ」が行われたようです。そのような一連の人事で派遣されてきたのが菅原道真だと研究者は考えているようです。この「良吏国司」時代が、讃岐国府の充実期にもあたるようです。
先輩国司の善政の成果が、国衙の建築物群の姿となって目の前にあるのです。道真には「良吏」国司としてお手本とするべき先輩がいたようです。
菅原道真は国司として、具体的な統治に心がけていたのでしょうか
 「 旅亭歳日、客を招きて同(とも)に飲む」を見てみましょう。
讃岐に赴任して初めて迎えた元日に道真は近在の村老たちを官舎に招いて酒をふるまっています。
  江村の老人たちを招いて新年を祝う酒をふるまったが、初めて異国で新年を迎えた主人の私は、また新たに郷愁が湧いてくるのを禁じえなかった。子どもらが(私があまり飲めないのを知っているので)浅く酌んだ酒をしきりに勧めてくれたが、私は酔えなかった。しかしそんな私にかまわず、郷老たちは盛んに盃を巡らし、後れて来た者には罰酒を強いていた。
 去年、家族や知友や門人たちと袂を分かって以来ずっと私は悲しみに心をふさがれていたのだ。しかし今日は、楽しげに談笑する老人たちに、つい私も笑いを誘われて心がなごみ、両眉の開く思いを味わったことであった。彼らは正体もなく酔っぱらって帰っていったけれど、あの酔い方はやっぱり陽(うそ)じゃなかった。その証拠にほらあの連中ときたら、大事な楫(かじ)や釣竿を置き忘れて行っているよ。

  「国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済」した先輩国司に習って、近在の年寄り要人を招いて新年を祝っています。住民たちとのコミュニケーションを計ろうと心がけている姿が見えます。庶民たちの生活と現実をしっかりと見つめる中で、政治の問題と課題が見えてくるという姿勢を持っていたようにも思えてきます。
 
そういう目で見で 「寒早十首(かんそうじゅしゅ)」を見てみましょう
「寒さは誰に早く来るのだろうか」の問いかけに、十の連句で具体的な人々を詠った詩文です。そこには次の10人の庶民の姿が詠われています。

菅原道真 寒早十首

これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。
 こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配システムを考えていたのかもしれません。そして、最後に弱い者にはしわ寄せがくることを見抜く視力も持っていたことがうかがえます。その1番目だけを見ておきましょう

何人寒気早  誰に寒さは早く来る
寒早走還人  寒さは走還人に早く来る
案戸無新口  戸籍を調べても新しい戸籍がなく
尋名占旧身  名前を聞いて出身地を推量する
地毛郷土痩  故郷の土はやせているので  
天骨去来貧   あちこちで苦労して骨までやせてしまった
不似慈悲繋   国司が慈悲でつなぎ止めなければ
浮浪定可頻   逃げ出す人はきっとしきりに出てくるだろう
 走還人とはあまりの貧しさに他国に逃げた人が、逃走を見つけられて, 強制的に本国に還された人のことです。桓武朝以来の中央政府にとって浮浪民の増大は頭の痛い問題でした。逃げ出した百姓の中には大貴族・大寺社に身をよせて、その庇護下に入って土地を耕す者もありました。しかし、この詩のように、どうにもならなくなって、また戻ってくる者もあったのです。道真は、その本質を見抜いているようです。彼らの暮らしに、道真が深い同情を寄せ、政府のあり方に疑問を感じていることが、この詩から読み取れます。

しかし道真は讃岐の民の貧しさを詩には詠みますが、具体的に民の手助けをするとか、税を減らすとか、特に行政官として成果を上げた様子はありません。それをどう考えていたかがうかがえるのが次の作品です。意訳だけにします。
  冥感終無馴白鹿 冥感(めいかん)終に白鹿の馴るること無かりき
  讃州太守としての私の政治が天の思し召しにあずかって、今日の行春に白鹿が現れるというようなことはついに起こらなかった。それはまあいたしかたないこととしても、ただせめて「苛酷なること青鷹のごとし」などといわれることだけは免れたいものだ。
 私の政治は拙く、私の声価は地に落ちることだろう。四年間の国守の任期が満了して政績功過が評定される時、善最野評価を受けることなど、まず望み難いことだ。
今朝、馬の轡を廻らして行春に出で発ったのは、ようやく朝日が射しそめる頃だった。そして雨にひしげた頭巾さながら身も心も疲れ果てて感謝に戻ってきた時には、とっぷり日も暮れて夕立を降らせた雲が暗く空を覆っていた。
 駅亭の高楼で日没を告げる鼓が三たび連打され、官舎の窓にぽつんと一つ燈が灯っているのが見えた。人気が無くなった官舎で静かに思いめぐらしているとさまざまな悲しみが胸に迫り、夜深けて一人横になっていると涙がこみ上げてくる。
この讃州に赴任して来てからほぼ一年。私はもっぱら清廉と謹慎とを心がけてきたつもりだが、残念なのは、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できないことだ。

ここからは「清廉と謹慎」に心がけながら、国司としての任務に打ち込んでいる姿が見えます。
菅原道真公⑧ 「仁和2年の除目・讃岐国司へ」。 - 神戸の空の下で。~街角の歴史発見~
          長岡天満宮の碑。道真の人柄を表す

朝早く馬に飛び乗り、夕立の雨にも負けずに巡視を行い、日が暮れて官舎に帰っています。国司の最も重要な仕事は、国内を巡視し国情を把握することです。その業務を精力的に行っています。
ホームシックに押しつぶされ、閉じこもりがちな生活を送っているように漢詩からは読み取れましたが、それだけではないのです。それは、詩作上のことだけかもしれません。
「駅亭の高楼」は、南海道の駅舎のことでしょう。
駅には見張り用の高楼があったようです。そこから官舎の窓の明かりが見えたというのですから、国衙近くに駅舎はあったことになります。そこで今日見聞きしたことを思い出してくると怒りがわいてくるのです。それは「不整腐敗に汚染された青蝿のような官吏」に対する怒りです。ここにも現実を直視しながら、その改善のためににじり寄っていこうとする情熱を感じます。それでも勤務評定で「善最野評価を受けることなど、まず望み難いこと」という現実も知った上でのことです。「現実は厳しい やったって無駄」ではなく「現実は厳しい、しかし清廉と謹慎に勤め最善を尽くす」という姿勢でしょうか。これを知性というのでしょう。

最後に、道真が讃岐を離れる際に詠んだ漢詩を見ておきましょう
忽忝専城任       忽ち 忝くす 専城の任                                    
空為中路泣       空しく為に中路に泣く                                     
吾党別三千       吾が党、別るること三千                                   
吾齢近五十       吾が齢(よわい) 五十に近し                        
政厳人不到       政 厳にして人到らず                                     
衙掩吏無集       衙(つかさ)掩(おお)ひて 吏集まることなし               
茅屋独眠居       茅屋(ぼうおく)に独り眠りて居り                         
蕪庭閑嘯立       蕪庭(ぶてい)に閑(しずか)に嘯(うそぶ)ひて立つ       
眠疲也嘯倦       眠りに疲れ、また嘯くことも倦む                     
歎息而鳴慨       嘆息して鳴き悒(うれ)ふ                                   
為客四年来       客となって四年来                                         
在官一秩及       官にあって一秩及ぶ                                       
此時最攸患       此の時最も患ふる所                                       
烏兎駐如繋       烏兎(うと)駐(とどま)つて繋れしが如し  
日長或日短       日長く 或は日短し                                       
身騰或身繋       身騰(のぼ)り或は身繋がる                            
自然一生事       自然なり 一生の事                                       
用意不相襲       意を用(も)って相ひ襲(おそ)はず                       
意訳変換しておくと                     

あっという間に国司としての任期は終わりに近づいた。
私はこの任務のために道半ばにして泣いたのだ。
わが門弟は三千人が離れていった。
わが齢は五十に近い。
政治が厳しいので誰も寄り付かない。
役所はみすぼらしく、役人は集まらない。
私は茅葺き屋根の小屋で独り眠り、
蕪の生い茂る庭で静かに詩を口ずさんで立つ。
眠りに疲れ、また詩を口ずさむことにも飽きる。
ため息をついて嘆き憂う。
この地に客人となって四年。
役人となってからは十年経つ。
この時もっとも心配するのは、
時間の進行が止まって、縛り付けられたように思うことだ。
日は長く、あるいは日は短く、
わが身は舞い上がるかと思うと、あるいは地に縛り付けられる。
人の一生は天然自然のことだ。
賢い心で、逆らわないようにしよう。

道真の4年間の讃岐国司時代を、どうとらえればいいのでしょうか。
有意義な人生経験。下積み修行。そう言えば聞こえはいいのですが・・・。
当の道真にとって、讃岐守という職務は、あまり楽しくはなく、充実感の得られない毎日だったと私は考えています。任期四年目に詠んだ「苦日長(日の長きに苦しむ)」という詩からは、ほとほとくたびれはてた道真の声が聞こえてくるようです。しかし、それでも、現実を直視しながら、最善を尽くす姿勢は変わらなかったのではないでしょうか。それが、後の栄達へとつながったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  菅原道真が見た「坂出」  坂出市史 古代編  120P
関連記事

図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
 発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
中央を流れるのが綾川 赤が横穴式石室をもつ古墳 青が古代寺院
右下が府中で青四角が国府跡推定地

讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
 国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から

「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」

という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。

讃岐の郷分布図
讃岐の郷分布図
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。
②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ
③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
 こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
 そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。

綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
讃岐の大型石室を持つ古墳分布図 阿野北平野に集中しているのが分かる。

まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)
②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)
③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた
②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
それよりも注目すべき点は、その後の築造動向です。

綾北 香川の横穴式古墳規模2
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室

醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。

こうした阿野北平野の背景には何があるのでしょうか
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
 氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。

次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
 先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
坂出 海岸線復元3
坂出の古代海岸線復元図の中の国府と城山

阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です  
 屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
 古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
 讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。

DSC09305
城山頂上に残る礎石群

 その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。

20200404094112

こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。

氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
 綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
 さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
 当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。
5讃岐国府と国分寺と条里制

  以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。

①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  讃岐国府跡の位置と地理的環境 
    「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
        香川県教育委員会

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


  古代には城を「き」と呼んだので城が築かれて以来、この山は「きやま」と呼ばれてきました。
城山は西の聖通寺山、角山、常山、金山、東の五色台山塊と共に綾北平野を囲み、南に続く低い山並みは丸亀平野の東の境となります。備讃瀬戸を見下ろす位置にあり、標高462mの山頂は古代の山城としては一番高いところにあり、東の屋嶋城、西の西条市・今治市の永納山城対岸の鬼城山(鬼ノ城)等の古代山城と結ばれ、足下には讃岐国庁が構え、南に南海道が走ります。東の麓にある讃岐国府を西からの敵に対して守るには、戦略的な意味をもつ山です。

坂出古代海岸線

城山城の立地上の特徴は、「海際」という点にあるようです。
「海際立地」と云われても今の私たちにはぴんときません。海から城山の山裾までは、今では5㎞近くあります。しかし、以前にお話したように、古代坂出の海岸線を復元すると、海が深く湾入してきていたようです。復元地形図で見れば分かるように、西庄の山裾近くまで海だったようです。 海に近接するという特徴は、瀬戸内の四国側に築かれた他の二基の古代山城にも共通します。

DSC09363
城山から阿野北平野
屋嶋城(高松市屋島東町他)が築かれている場所は、古代は南北に長い島で、瀬戸内海に突出した岬の先に築造されています。伊代の永納山城(東予市河原津)は高縄半島の付け根に辺り、海岸線までの距離は0,3㎞です。
 この特徴は、瀬戸内の山陽側の4つの山城とは対照的です。山陽側の山城を東から見ていくと、播磨城山城(兵庫県たつの市)は古代の推定海岸線から14㎞、大廻り小廻り山城(岡山県岡山市瀬戸町他)は8㎞、鬼ノ城(岡山県総社市奥坂)は11㎞、石城山城(山口県光市)は約4㎞です。
史跡城山 - 坂出市ホームページ

城山城のもうひとつの特徴は、城壁が二重に巡らされていることです
これを複郭構造というそうです。外側の城壁は全長5,3~7,6㎞ 内側の城壁は3,4㎞になりまます。二重の城壁の外側は土塁で、内側は石塁です。共に上面は幅が5mもあり、平坦面になっていて城山に伝わる長者伝説では、城壁を足の悪い我が子を運ぶ「車道」として登場します。

DSC09253
外側の城壁

 外側の城壁は現在のゴルフ場を取り囲むようにあったようです。
しかしゴルフ場建設のために地形改変され、城壁の大部分は撤去されて、今は広大な起伏のゴルフコースとなっていて、一部がのこっているに過ぎません。 ゴルフ場が出来る前は「第二車道」と呼ばれる外壁が延長5,3㎞~7,6㎞ほどで巡っていました。 
 一方内側の城壁は城山山頂と浅い谷(池内盆地)を囲んだ尾根の高まりを囲んで巡っています。
内側の城壁ラインは標高400m前後の城山山頂の山腹を巡り「第1車道」と呼ばれ、延長は3,4㎞あります。山頂近くには大型建物跡に使われたと思える礎石がごろごろと転がっています。
DSC09305
頂上広場の礎石群?
 
地図を見ると城山城は、北西側への防御を堅固にしています。
これは西からの海路に対して、讃岐国府を守る備えなのでしょう。古代山城は防衛を目的とした軍事的構造物ですが、当時の防衛組織、兵士、軍団、兵法、武器・武具などについては、なにも分かりません。
この築城を命じたのは大和政権なのでしょうが、実際に建設にあったたのは、百済からの亡命技術者集団がいて、そのもとで地元の有力者への動員命令が下ったはずです。しかし、そこれも詳しくは分かりません。どちらにしても、7世紀後半は、大土木工事が目白押しでした。それを挙げて見ると
①南海道の建築
②条里制工事
③屋嶋城・城山城
④有力者による氏寺建設ラッシュ
中央が求める土木工事を無難にこなしていった有力者が大和朝廷からの信頼を得て、後の国府で有力者として力を発揮していくことになります。それが綾氏や佐伯氏であったのでしょう。そうだとすれば、この城山城の造営に、綾氏や佐伯氏が関わっていたことになります。
DSC09417

城山の調査は、大正13(1924)年に香川県によって初めて調査が行われます。
戦後の昭和26(1951)年になって国史跡に指定されました。その後、次のように調査が行われています
平成10(1998)年 内側の城壁である水口付近の測量、
平成16(2004) 水口の北に続く城壁の写真測量
平成17年 北延長部を測量。
DSC09348

城山城の築城日的は、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるとされます。
白村江の敗北以後、唐・新羅の連合軍が侵攻してくるという恐怖に指導者は襲われていたようです。そのために九州や瀬戸内海沿いの国府周辺に、20を越える山城が一斉に築城されはじめます。まさに国家主導の一大プロジェクトです。これに地元の豪族たちも協力し、多くの讃岐の人々が動員されたのでしょう。時期的には白村江敗北直後ですから、7世紀後半のことになります。
DSC09356

城山城は、西日本に築かれた約20カ所の山城のうち規模が2番目の大きさになるようです。
最大の規模をもつのは大宰府の背後にある大野城です。外郭線の全周は6,8㎞で総面積は181㌶です。これに対して城山城は外郭全周が6,3㎞、総面積は168㌶です。ちなみに平均的な規模は、外周は2,3㎞、面積は10~40㌶になります。規模の面からだけ推察すると、第一の防衛拠点が大野城で、第二の防衛拠点が城山城だったことになります。備讃瀬戸は海域が狭く、ここを抜けると東側は灘になるため海路の最後の防衛箇所という位置付けだったと坂出市史は指摘します。
具体的に城山の城壁を見てみましょう
石塁部分は安山岩の平石を積み上げ、その背後に小石混じりの土砂を詰めた後、上面に盛土がされていて、高さは1,8m程度です。

城山城門跡

ゴルフ場の中にある門を見ておきましょう。
①門は幅4,4m、高さ1,8m
②門の角は、加工した縦0,6m、横1m、厚さ0,3mの安山岩を高さ2mまで算木積状に積み上げている
③門道の側壁は垂直で、壁石の内側に盛り土した基底面幅約7m、上面幅約3,6mのかまぼこの石塁が9mほど続き、その後は次第に低くなり通常の高さにもどっていく
④門道からは瀬戸内海側へ30度の急傾斜で標高350mあたりまで敷石の舗装道が延びていた
 この門で不思議なのは、ここ1ヶ所しか門がないのです。これをどう考えればいいのでしょか?
城山水戸

門の南西の池内盆地の口に、排水施設の水口を設けた石塁があります。
浅い谷を渡る城壁は中央部では幅5mほどのかまぼこ型になります。谷部西端の城壁は土塁で、基礎に平たい石を敷いた上に土盛がされています。外側城壁の上塁構造は分かりません。
DSC09321
まないた石
城山にはホロソ石、 マナイタ石、カガミ石と呼ばれる加工石が各所に残されています。
DSC09351

ホロソ石は門柱の礎石、マナイタ石は門扉の敷居(蹴放し)と研究者は考えているようです。ホロソ石には扉の軸を受ける軸摺り穴、方立の刳り込みがないので未完成品のようです。門遺構が1ヵ所だけということと合わせて考えると、城山城、内側と外側の両城壁ともに未完成で終わったことがうかがえます。築城作業が途中で放棄され、完成に至っていないと云うことです。

池内盆地の東側斜面からは、須恵器や平瓶、土師器が出土しています。
山頂の西南方標高300m、外側城壁が巡る坂本バエの石積遺構からも小型の須恵器杯、土師器杯が多量に出土したと伝えられます。城山城は二重の城壁をもち、内郭と外郭の構成は戦国末期の織豊城郭の縄張りと同じ構造です。古代山城には、このような構造を持つ山城は他にありません。
 未完成のの門柱礎石は、光市の岩城山神籠石(石城山城)や、たつの市城山城跡にもあるようです。屋嶋城も城門の門柱痕跡がはっきりしないのは、同じ理由かもしれません。古代山城の築城背景を見てみると、白村江の敗戦後の唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えての国家プロジェクトとして、 一斉に始まり、短期間で終了したと研究者は考えているようです。そのため国際政治的な情勢が好転すると、一斉に築城中止となったのかもしれません。
DSC09403
城山からのぞむ高松方面
 屋嶋城は、日本書紀、続日本紀にでてきますが、城山はでてきません。これは「戦略上の役割分担」と、次のように研究者は考えているようです。
①屋嶋城は日本水軍の城
②城山城は讃岐の「国城」
城山城をめぐる防衛組織、兵士、軍団、兵法、武器・武具などについては、分からないことだらけですが、手がかりはあるようです。
「日本書紀』天武天皇十四(685)年11月条は当時の軍事体制整備の一端が垣間見えます。
周防総領の所に鉄一万斤を送り、筑紫太宰にはあしぎぬなどの織物多数、鉄一万斤、矢に用いる竹二〇〇〇連を送っています。総領の役所を総領所というようですが、物資はこの総領所か、山城の倉庫に備蓄されたのでしょう。
伊予総領が讃岐の統治権を持っていたことをうかがわせる建物群が讃岐国符跡から出てきました。
  それは7世紀後葉から8世紀初めの掘立柱建物跡4棟や溝跡です。一番大きな建物跡は桁行七間(12m)、梁間2間(5m)の規模です。地方の国府に建物が並び出すのは8世紀前半代が多いようですが、それよりも大分古い建物になります。建物の特徴は、建物向きが真北を基準とする点です。それまでの建物は自然地形に沿つた北西方向で、後代は北24度西になっているので、この建物は変わっています。同じ方位の建物が複数営まれていて、初期の役所と研究者は考えているようです。とすると、府中に国府が置かれる前に、役所的施設が姿を見せていたことになります。それは、城山城の関連施設で、唐・新羅侵攻という非常事態に備えて、配備された伊予総領の管理下にあったものではないかという仮説です。
DSC09251
外側の石塁への入口
『日本書紀・持統天皇3(689)8月21日の記事に、讃岐国御城(三木郡)で捕らえた白い雉は、放し飼いにせよと、伊予総領田中朝臣法麻呂に対して命令が下されたことが記されています。
ここからは7世紀後半に、伊予の「総領」という行政官が讃岐の一般行政を行っていたことが分かります。この総領が配置された地域は、吉備(岡山県)、伊予(愛媛県)、周防(山口県)、筑紫(福岡県)で、畿内と北部九州を結び、大陸への動脈をなす瀬戸内沿岸などの諸国に限られています。それは古代山城が築かれた地域とも重なっています。ここからは「総領」は軍事的性格が強い地方官であること、それが伊予・讃岐の統治権をもっていたことがうかがえます。これは、対外的な脅威に備えて、四国北部に置かれた行政長で、もしもの時には彼の命令で軍団が動かされたのかもしれません。大部隊が迅速に移動するためにも、南海道の建設は急ピッチで進められたことが考えられます。

ちなみに城山の長者伝説は、次のように始まります。
   むかしむかし,このあたりで一番高く見晴らしのよい城山の頂上に,立派な家を建てて住んでいた人がいました。その人は,瀬戸の海を荒らしていた悪魚を退治して,この地を治めた武殻王(神櫛王=讃留霊王)の子孫で,益川(やがわ)という人でした。この人は,大変な大金持ちで,人々から城山長者と呼ばれていました。 大金持ちの長者は,どんなことでも自分の思いのままにかなえられました。
  (中略) しかし,この長者にもどうにもならないことがありました。それは一人娘の乙姫様のことです。姫は,生まれた時から足が悪く,立つ事もできなかったのです。姫は成長するにしたがって,長者も目を見張るほど美しくなっていきました。村の人たちの間では,この美しいお姫様を一目でも見たいものだと噂されるようになりました。
 長者は,「姫も家の中ばかりでは心も晴れまい せめてこの山のまわりの素晴らしい景色を見せてやりたい」
「何かよい方法はないものか....」
「そうだ 姫を車に乗せて散歩をさせよう。」
 その日から,大勢の人夫を集めて,木を切り石垣を築き,土をならして車の通る道と,姫を乗せる立派な車を作り始めました。こうして,大金をつぎ込んで,城山を二重に取り巻く長く立派な車道(くるまみち)が出来上がりました。長者は大変喜んで,さっそく姫を車に乗せ,自分もそばに付き添って散歩に出かけました。
 北に出ると,むかし祖先が勇敢に悪魚と戦った瀬戸の海が開け,遙かにかすんで見える備前の山々を背景に,塩飽の島々は白砂と青松の美しい島影をうつし,船は青い海にいくすじも白い船のあとを残していました。
 毎日お姫様が車道(くるまみち)を散歩しているという噂を聞いた村人たちは,城山へ登って行きました。城山長者の車道は,美しい乙姫様を一目見ようと,毎日毎日大勢の人が集まってきたという事です。
  ここには、城山の車道が城山長者によって造られたこと。城山長者の祖先は、神櫛王につながることが語られています。「神櫛王の子孫=綾氏=讃岐国造」という「神櫛王の悪魚退治伝説」の変形バージョンとして流布していたようです。讃岐における「神櫛王伝説」の拡がりと深さを示す「城山長者伝説」です。同時に、悪魚伝説が作り出された中世には、城山の城壁が何のために造られたものかは分からなくなっていたことがうかがえます。

  まとめておくと
①城山城は白村江敗北後に、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築造された山城群のひとつである
②その特徴は、海際に立地することと、二重城郭に囲まれていることである
③城山城の規模は、大野城に続いて2番目の大きさであり、その重要性がうかがえる。
④山中に残された石材などから城山城は築城途中で廃棄されたことがうかがる。これは、軍事的緊張が緩和されたため不用となり放棄されたようである。
⑤城山城は、渡来人の技術が各所に見えるが、讃岐の有力豪族も動員された。
⑥城山城築城に大きな役割を果たした綾氏や佐伯氏は、府中の国府で大きな政治力を持つようになる。
⑦後世には城山長者伝説として、神櫛王の子孫(綾氏)の長者が造った車道と伝えられるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   坂出市史 古代史料編 城山城跡162P

  5讃岐国府と国分寺と条里制

綾川が府中でドッグレッグして北に流れを変えた右岸(東側)が鴨になります。この辺りには、山部には古墳時代末期の横穴式古墳が群集し、その後には鴨廃寺も建立されていて、古代綾氏の拠点とされています。そして、綾川の対岸に讃岐国府が姿を見せます。「国府誘致」の原動力になった勢力の基盤があったところとも考えられます。

坂出 条里制と古墳
賀茂古墳群と鴨廃寺の位置関係 綾氏の存在がうかがえる

 全国には、古代以来の鴨部を引き継ぐ地名がありますが、古代の讃岐にも、鴨部(坂出市)と鴨部(さぬき市)の2カ所の鴨部がありました。空海の叔父阿刀大足が、この地に京都の賀茂神社(上下二社を総称して賀茂社)を勧請したので、鴨部郷から鴨郷に変更されたと伝えられます。また、鴨を狩猟し、献上する部民が配置された鴨部の呼称が始まりとされます。しかし、それらを裏付ける史料はないようです。
  鴨村の位置を確認して、ズームアップしていきます。
坂出 鴨
江戸時代の阿野北絵図
黄色ラインは街道、赤は村境になります。 注目しておきたいのは、鴨村の東にある烏帽子山です。
坂出 賀茂烏帽子山
現在の烏帽子山 山頂付近が削りとられてしまった姿
この山は、今は採石作業で削り取られて見る影もありませんが、かつてはその名の通り烏帽子の形をした甘南備山で地域の信仰対象だったことがうかがえます。明治の地形図の麓の地名は「神の山」です。ちなみに、頂上からは弥生時代の高地性集落跡も見つかっているようです。この山が鴨村の「シンボルタワー」の役割を果たしていたことは容易に想像がつきます。その麓にあるのが鴨村です。
5讃岐国府と国分寺と条里制

府中から真っ直ぐに北に伸びていく道が「大道」と呼ばれた、国府とその外港の林田湊を結ぶ連絡道だったと研究者は考えているようです。大道の西が氏部村です。近代には「鴨村+氏部村」=加茂村となります。綾川の西側は、西庄村になります。
坂出 鴨

この地図には、城山の北麓に「賀茂村御林」「氏部村御林」とあります。ここがふたつの村の「御林」だったことが分かります。農民たちは、この御林から若芽や小枝を刈り取って来て、それを背負って帰って田んぼにすき込んでいたのでしょう。


近世の鴨村と氏部村には、それぞれ鴨(賀茂)神社が鎮座していました。
鴨部郷の鴨神社1
  両神社の位置を、明治の地図で確認しておきます。
綾川に面してあるのが上鴨神社で、川の向こうにはJR予讃線の賀茂駅があります。今は採石で美しい姿を失ってしまった烏帽子山の西北麓に鎮座するのが下鴨神社です。ここでふたつの神社の鎮座する地名を下の地図で押さえておきます。
①上鴨神社(西鴨)が鎮座するのが氏部の「本鴨
②下鴨神社(東鴨)が鎮座するのが「鴨の庄

これを幕末の讃岐国名勝図会に載せられた絵図で見てみましょう。
絵図は国会図書館のアーカイブからダウンロードしたもので、クリックすれば拡大します。詳細部までみることができます。
鴨部郷の鴨神社

手前から見ていきましょう。
①右から左へ綾川が流れています。
②綾川に沿って高松ー丸亀街道が伸びていて、綾川を渡る木橋が見えます
③丸亀街道にそって鎮座するのが上鴨社(西鴨社)で、鴨前院という別院があり神仏混淆です
④さらに北に行くと氏部村の集落があるようです。
⑤田んぼには、雀おどしらしきものが張られているので、季節は取り入れ前の秋なのでしょうか
⑥背後には、五色台が横たわり、その前に奇景の烏帽子山が見えます。
⑦烏帽子山の前に、下鴨神社が見えます。
⑧その左に正蓮寺が大きく描かれています。

 西鴨(上賀茂)神社は、今も「あおいさん」とよばれ信仰を集めています。

坂出 上鴨神社

かつては三所大明神と呼ばれ、社内に神宮寺の一つ鴨箭(おうせん)院や地蔵堂などの堂塔がある神仏混淆の神社で、社僧が奉仕していました。
 西鴨神社(上賀茂・葵さん)には県内最古の棟札が保存されています。
年号は己□(卯)と見えるので、長禄二(1459)年のものと研究者は考えているようです。県下の棟札で、年紀の入ったものとしては、一番古いものです。西鴨神社周辺には京都の上賀茂神社の荘官で、「南海通記」などに登場する入江民部(代々民部を名乗った)がいました。この人江氏であった景輝という人物が願主となり、白峯寺の大僧都俊玄を西鴨神社社殿落慶の法要に際し導師に招いて供養したときのものが、この棟札になるようです。ここからは、西鴨神社が京都の上賀茂神社の寺領となっていたことが分かります。

坂出 下鴨神社

 東鴨(下賀茂)神社は鴨居大明神や、葛城大明神とも称していました。どちらも延喜式内社とする議論もありますが、京都の上賀茂、下賀茂は、併せて一社です。西鴨、東鴨もそう考えるのが自然のようです。
福江 西庄


鴨ノ庄(下鴨神社領)賀茂御祖神社は、下鴨神社領で現在も鴨庄の地名が残ります。そして、下社である東鴨神社があります。上鴨神社があるのは本鴨で、ここも京都の下鴨神社領といわれています。ところが、なぜか上社の西鴨神社が鎮座します。下鴨領に上社が鎮座するのは変です。『名勝』には、上社は氏部・鴨二郷の総鎮守であるとされます。また、本鴨は、賀茂庄の本条で、中心地を意味します。そうすると、この地は本来は、上社の荘園に含まれていた可能性が高くなります。綾川の流路沿いにあり、氏部郷と接続する場所です。そのためかつては氏部郷に属していた可能性もあるのでしょう。西鴨社の位置が変わっていないとすれば、氏部ではなく上賀茂領であったということになると坂出市史は指摘します。
牛ノ子山と牛子天神 
 ここは、国府と松山津との間を往返する「大道」道筋の途中になります。讃岐国守を勤めた菅原道真もこの付近にあった客館に足繁く通った(『菅家文草』)ことがうかがえます。伝承では、この小山で道真は牛に乗って戯れたと云います。また、道真が国司として最も重要な臨時祭事である雨乞いを城山山上において祭文を奉じて行ったところ、たちまちに恵みの雨が降ったとされます。それを讃えてこの地の民衆が乱舞したといわれ、これが雨乞踊りの発祥であるとも伝えらます。その後、これに讃岐配流になった法然上人が振り付けをして、北条念仏踊となったと伝えられます。ここには、中世に都から始まって地方に伝播した風流踊りの讃岐への定着プロセスがうかがえます。
 こうした雨乞い念仏踊組が讃岐各所に形成されて、江戸時代になると早魃の時には郡内の各組からも牛頭天王(滝宮神)社へ奉納するようになります。ここからは、いまはほどんど姿を消してしまった牛頭天王信仰のネットワークが見えてきます。

讃岐国名勝図会に描かれた上下鴨神社の周辺をみてきました。この地が烏帽子山を甘南備山(霊山・聖山)として、古来から信仰対象となっていたことを痛感します。古墳時代の人々は、この山の奥に古墳群を築き、仏教が流行するとそれを取り入れ鴨廃寺を建立する。そして、国府をここに「誘致」したのも、ここを拠点とする勢力だったのかもしれません。その後、京都の秦氏の氏神である下上賀茂神社に寄進され、中世には賀茂神社の寺領となったようです。秦氏との関係を通じて、成長して行ったのが古代綾氏です。綾氏は在庁官人として国府の指導権を握り、勢力を拡大していきます。その基盤は、国府と近いこの鴨(加茂)の地にあったのではないかと、私は考えています。
しかし、烏帽子山の今の姿は残念です。
坂出 賀茂烏帽子山
頂上部がなくなった現在の烏帽子山の姿

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

藤原保則伝に描かれた9世紀の備中・出羽・讃岐
      『考証前賢故実』に描かれた藤原保則
         『考証前賢故実』に描かれた藤原保則       
 藤原 保則(やすのり)という平安時代前期の公卿がいます。地方官として善政により治績をあげ良吏として知られた人物のようです。後に、三善清行がその功績を称えて『藤原保則伝』を著しています。
  その中に、藤原保則が讃岐国司としてやってきて残した言葉が記されます。9世紀の讃岐のことを知る手がかりにもなるようです。
今回は、『藤原保則伝』を史料に国司から見た地方の情勢を見ていきたいと思います。
悪霊だらけ(その7) | 京に癒やされ
三善清行

『藤原保則伝』を書いた三善清行は学者で政治家で、菅原道長のライバルとされる人物です。
三善清行がどちらかというと理想主義者で、道真がやることがあまり面白くなかったようです。道真を冷ややか見ていて、律令こそが本来のあり方だという考え方を持った人です。9世紀後半は、そういった理想と現実の間で政治家は揺れ動くような時代だと研究者は考えているようです。
三善清行 人物叢書 : 所功 | HMV&BOOKS online - 9784642751698
 
 三善清行は「意見封事十二ヵ条」という意見書を、当時の醍醐天皇に対して提出しています。その中に備中国下道郡邁磨(にま)郷という地域を取り上げて、こういうことを言っています。
もともと渥磨郷の地名の由来は、そこに2万人の人たちがいた。ところが7世紀後半に倭国は百済を救援するために朝鮮半島に軍隊を送り込み大敗北します。いわゆる白村江の戦いです。その時に西日本の成人男子が兵士として大量動員されます。その結果、西日本の成人男子の人口が減ってしまうのです。この遜磨郷は時代が下るに従ってどんどん成人男子の数が減ってきている、と三善清行は言っています。天平年中(765~767年)には、成人男子が、1900人いたと云いますからかつての2万人から比べると激減です。2万人が本当かどうかは別として。それからおよそ百年年後の貞観年間(866年頃)には70人余りになったと云うのです。これが藤原保則が備中の役人だった時のことです。かなり大げさに書いているようですが、人口が減ってきている、とくに税金を納めるべき成人男性が減ってきているということはたしかです。一つの郷でさえこのような状況だから、他もそうなんじゃないかと、だから今は大変な時代だと、三善清行は国家に向かって警告しています。一見、唐風文化とか中国風の文化を取り入れて、都の方では「先進文明化」が進んだように思っているかも知れないが、備前を始め地方社会はかなり疲弊しているじゃないか、と三善清行は警告していたわけです。三善清行とはそういう政治家であり、現実主義の菅原道真とはそりが合わなかったようです。彼が理想の地方政治家としたのが 藤原保則であり、そのために後に伝記を残したようです。

前置きが長くなりましたが本題の藤原保則について、見ていきましょう。
藤原保則(やすのり)が飢饉で大打撃を受けた直後の備中に赴任することになるのは貞観8年(866年)のことです。これがはじめての地方官への転出で、40歳台のことです。
 『藤原保則伝』には、備中・備前国司時代の業績が次のように記されます。  
 藤原保則は、貞観8年42歳にして、備中権守となり赴任した。当時の備中国は大飢饉の後を受けて、とくに今の阿哲郡の辺りは、疲弊最も甚だしく白昼にも強盗が横行し、道にさえ餓死したものを見るありさまで、全くの生き地獄であった。そこで、保則は、まず貧困者を救い、大いに農耕を励まし倹約を勧めたので、漸く窮民も豊かになり盗賊も後を絶った。
貞観16年(874年)備前権守となったが政策方針は殆どかわらない。部下に悪者あらば、ひそかに説き、或は、自分の財産を分け与えた。もし、国内に大事あれば、必ず自ら吉備津神社に詣でて、これを祈った。すると常に感応があった。為に教化が大いに行われて、父母のごとく慕われた。
 あるとき、安芸の賊が備後に入り込み、調の絹を盗んで備前磐梨郡にきて、宿の主人に備前国司のことを聞くと、藤原保則の善政がいき渡っており、「仁義を持って教え、国人みな廉潔を守り、信義を重んじること神明に通じている。ゆえに、もし悪事あらば吉備津の神のお叱りを直ちに受ける。」このことを聞き、盗人大いに驚いて、夜も寝られず、夜明けとともに、国府にいたり自首していった。
「わたしは、備後の官絹40匹を盗みました。どうかお仕置きください。」
と保則その状を喜び、召して食事をとらせ、その絹を封じ、添え書きして備後に持ち帰らせた。備後の国司小野喬査、怪しみ且つ喜び直ちに盗人を赦し、自ら備前に至り、保則に深謝した。

貞観17年役目を終えて、京に帰るとき、両備の人が道を遮り、泣いて別れを惜しむ。老人が酒を持ってきて酒、肴を勧めて止めない。保則老人の言に反することをおそれ、滞留すること数日、その間訪れる人絶え間なく、保則困り果てて、ある夜、ひそかに小船にのって去った。従者を待つため、和気郡方上津に停泊した。郡司その糧食の少なきを聞きて、白米二百石を贈る。保則その志を喜んで是を受け、国の講読師に書を送り、「船中に怪事が多い。僧に頼んで祷らしめよ」と。そこで、国分寺の僧を遣わす。保則乞うて般若心経一本をよませた、贈られた白米は全て布施して去った。これぞ、官界に職を奉ずるものの鑑である。

他国から入った盗賊が保則の善政を聞いて恥じ入り自首した話や、保則が任を終えて帰京する際に、人々が道を遮り泣いて別れを惜しんだというエピソードを三善清行は、挿入してその善政ぶりを記しています。
 これ以外にも当時の備中の情勢を次のように記しています。
藤原保則が備中の役人になった時に、ここでは略奪をして殺し合いをしたり、税金を払うのを嫌って逃げたりして、税金を納めるべき成人男子が一人も残っていなかった。これを書いた三善清行は、最初に述べた通り、後に備中国に国司として赴任した経験があるので、当時の備中国が大変な状況だったことを知っていました。それを藤原保則は、見事に統治したと云うのです。
 その後に保則は、お隣の備前国の国主になります。
吉備津彦神社/岡山県岡山市(Kibitsuhiko Jinja,Okayama-shi,Okayama,Japan) - 神社と狛犬見て歩き

ここには吉備津彦神社が登場してきます。この神社が、備前国の命運を左右するような大事な神様であると記されます。当時の国守達も吉備津彦神社が精神的な支柱となっているとを肌身で分かっていたようです。これも一つの地域観でしょう。どんな神様を信仰しているかは、地域によって違います。その神様がどういうことをしてくれるかということも、地域によって違うわけです。この神様に対してよい行いをすれば豊作になり、そうでなければ罰を受けるということがここには書かれています。祭事と政事は、まさに一体であったことが改めてうかがえる史料です。

清和朝末の貞観18年(876)に、保則は平安京に戻り、検非違使佐となり都の治安に手腕を発揮します。元慶2年(878年)出羽国で蝦夷に反乱が発生し、官軍が大敗します。すると保則は地方官としての経験を期待され反乱の鎮圧を命じられてます。この戦争は、蝦夷が圧倒的に有利でした。
菅原道真と空海の蝦夷(えみし)観。 – 太古につながる生活者の目

そのような状況下に保則は、出羽でどう対応したのでしょうか。
一言で言うと、力でねじ伏せたのではなく、懐柔政策を取ります。それが功を奏して平定されます。その後、秋田城の建直しまで行います。具体的には、保則は早速現地へ向かい、防備のため兵の配置整備を行います。また反乱の原因を調べると、当時は全国的な飢饉が起きていたにもかかわらず、役所の人間が厳しい取り立てを続けていたことが分かります。そのために起きた反乱だったようです。そこで保則は、まず役所にしまいこまれていた米を民衆に配ります。このような対応ぶりに懐柔策も軌道に乗り、蝦夷の指導者が投降してきます。保則はこれを受け入れ、中央への報告書には「反乱は鎮まりましたので、穏便な措置をお願いしたい」と記します。それを政府も受けいれます。この蝦夷の反乱を【元慶の乱】と呼びます。ここには、藤原保則の国守としての能力がいかんなく発揮されたシーンが描かれています。
 「藤原保則伝」には、前任者の国司のことが次のように記されています。
秋田国守の良岑近(よしみねのちかし)は
「聚(あつ)め斂(おさ)むるに厭(いと)うことなく、徴(はた)り求むるに万端なり(税を徴収することはいっさい厭わない)」
「貪欲暴獷(ぼうこう)にして、谿壑(けいがく)も填(うづ)みがたし(広い谷も填めきれないほど貪欲である)」
「もし毫毛(ごうもう)も(少しでも)その求めに協(かな)わざるときは、楚毒(そどく)(苦しみ)をたちどころに施す」

といった人物であったと記します。
  ここからは乱の原因が、前年の不作にもかかわらず、国司たちが農民から収奪を繰り返したことにあったことがうかがえます。また『藤原保則伝』には、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことを行っていたことが記されます。馬や鷹は、東北の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの利益を上げることができたようです。ここからは現地官僚の悪政だけでは片付けられない一面が見えてきます。見方を変えると、中央集権的な律令国家が変容して、地方の現地官僚がその政治の実権を握って、自分の利益を追い求める政治が行われるようになっていたことを示します。こうした国司らの圧政に抵抗して、生きるために多数の蝦夷が反乱に立ち上がったと云えそうです。

それが「藤原保則伝」には、
「出羽国は公民と蝦夷が雑居していて、田地が豊かで珍しい特産物もたくさんある。力の強い官吏が居座って租税を増やし、勝手に賦課を加えている」

と記されています。
これに対して藤原保則は何をしたのでしょうか。
『藤原保則伝』には「法律を百姓に教え示す」とあります。法律に暗い人たちに対して法律を教えたと云うのです。これを最初に読んだときには、脈略がつながらずに「支離滅裂」という印象を受けました。

 その後、藤原保則が讃岐国守としてやってきて残した言葉を読んで、その意図が何となく見えてきました。そこには、出羽とは対照的なことが讃岐については書かれています。
「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」

文章が上手い人が多いというのです。そして、次のように讃岐のことが記されます。
「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」

 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多いとして、かえってやりづらい、やり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。これは出羽国とは対照的です。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多く、そういう争いを止めるように、保則が取り成すことを讃岐では行ったようです。
 ちなみに藤原保則は、菅原道真の前任者になります。
保則が讃岐を去るに当たって次のような言葉を残したと三善清行いうのです。
「今度の新任の国司はたしかに大学者であり、私の能力の及ぶところではないけれども、内面の志を見ると危険な人物なんじゃないか」

ということを語ったと三善清行は記します。確かに菅原道真は中央政界に戻ったあと左遷されます。これはたぶん、保則の口を借りて三善清行の本音が語られていると研究者は考えているようです。

 「藤原保則伝」では、かなりの分量を割いて出羽国を治めることがいかに大変だったかということが書かれています。しかし讃岐国はあっさりと書かれていて、統治の上ではあまり手がかからなかったような印象を受けます。

 最後に藤原保則は九州の筑前・筑後・肥前に行きます。
そしてこの地域を「群盗が多く、治安が悪く、まるで法律がないがごとく略奪される」であると言っています。いろいろな人たちが集まってくる地域なので、なかなか秩序が守られないというのです。それに対して保則が、それを守らせるようにしたという美談が語られています。確かにこの地域は朝鮮半島や大陸と近い関係にあるところで、ある意味で「防衛前線」にあたるエリアです。讃岐とは置かれている地域の状況が違ったようです。出羽国は蝦夷がいるし、大宰府は新羅が攻めてくるかもしれないという緊迫感があります。そのなかで、讃岐の地域はみんなが法律を学んでいるというのです。このような任地の状況を、藤原保則はどう考えて地方長官として対応したのでしょうか。地域によってさまざまだなという感じがします。これを「多様性」と云うのかも知れません。9世紀の日本は、地域によって多様性のあふれる国家だったとしておきましょう。
 
 保則はその後は都に帰り、その業績が認められ官位をどんどん上げていきます。最終的には公卿の一員にまで登ります。公卿というのは、公家の中でも一定以上の地位にある人たちのことです。今のお役所に例えるとすれば、国家公務員の中でも「○○長」という役職についている人くらいの感じになるようです。政治中枢で活躍した人が多いとはいえない藤原南家の中では、かなりの出世です。それにおごり高ぶることはなく、亡くなる直前には比叡山に入り、念仏を唱えながら往生したと記されます。
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
886 1・16 菅原道真を讃岐守に任命する(三代実録)   
888 5・6 守菅原道真,降雨を阿野郡城山神に祈る
890  春 菅原道真.任を去る(菅家御伝記)
 年表を見ると9世紀後半の讃岐には、藤原保則や菅原道真など、有能な実務型国司が実際に赴任してきます。讃岐の国司のトップの守は、中央政府の主要メンバーである「参議」という役職を兼任している人が多かったようです。そのため実際には讃岐の国にやってこない人が多かったようです。ところが、藤原保則や菅原道真は実際に赴任し、讃岐にやってきます。そういった特徴が讃岐国の国司にはあるようです。
 例えば、藤原保則の後にやって来た菅原道真は、その後右大臣までとんとん拍子に上がっていきます。
菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)-人文研究見聞録

その中で彼はいろいろな政策を出しています。例えば、税収が上からないことに対して、国司を責めるのではなく、ある程度国司が国内のことを自由に運営できるようにしたらどうかというような制度改革をやります。ある意味「寛平の改革」と云えるかも知れません。これはひょっとすると、讃岐国での実務経験を踏まえた上で、そのような政策が行われたのではないかとも思えてきます。それは「保則伝」にあるように、讃岐国は他の国に比べて非常に治めやすい国だ、という評価とも関わってきます。藤原保則の赴任地を見ると、他の国はかなり苦労している様子がうかがえます。ところが讃岐はそうではないようです。讃岐の国司になることが、国司としてある種のステータスのようなものがあったとも思えます。
 「寛平の改革」は、9世紀の終わりに行われた地方改革で、きちんと税収を取るにはどうすればよいかということに焦点を合わせて、毎年にわたって改革を進めています。そこには道真の讃岐における実績・業績が反映されていて、それは都の論理では分からない、都の論理だけでは思い付かない改革ができたのではないかと研究者は考えているようです。だとすれば、讃岐における経験が大きなものだったとも云えます。そういう意味では、讃岐国の統治というものは、大げさに言えば中央の国政を左右するようなものであったという認識が、役人の間でもあったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献    シンポジウム記録「地域から見る古代史の可能性」 香川県歴史ミュージアム

 
  讃岐地には2000を超える横穴式石室墳が築かれたようです。しかし、多くは失われてしまいました。現在、石室の規模や形が分かっているのは、その約1/10の235になるようです。その玄室規模 (面積) をグラフで示すと次のようになります。
綾北 香川の横穴式古墳規模

ここからは次のようなことが分かります。
①玄室床面積5㎡前後の石室が最も多く、8㎡未満の横穴式石室 が 全体の約8割
②10㎡ 級の石室は26基で、全体の一割強
③13㎡を超える大型クラスはわずかに8基
ちなみに
床面積5㎡では、玄室長3,5m 幅1,2m 、
床面積8 ㎡では、   4m   幅2m ほどの広さになります。 
大形の横穴式石室墳(玄室床面積8㎡以上)がどこに多いか見てみましょう
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布

A 石室が13㎡を越える大型古墳(赤)は、①大野原②綾北③善通寺にしかない
B また大型横穴式古墳は、大野原と綾北に集中する
C 東讃に大型巨石墓は少ない
D 中小河川沿いに大形石室墳が少なくともひとつはある。
A・Bからは、古墳時代末期において①大野原や②綾北平野を拠点にする有力者がいたことがうかがえます。
Cからは、東讃がすでにヤマト政権下の直接統治を受け始め、大型横穴式古墳を造れる首長達が少なくなったことを示すのかもしれません。
Dからは、律令制国家になると讃岐では河川水系ごとに「郡」を設置されます。河川毎に、大型横穴式古墳があるというのは、後の郡領相当の有力者をこのクラスの大形石室墳の造営者層と考えることも出来ます。しかし、巨石墳の分布上の偏りがはっきりと見えます。
ここでは、綾川河口の綾北平野に注目してみましょう。
綾北平野の8㎡を越える大形石室墳を紫色で示したのが下のグラフになるようです。
綾北 香川の横穴式古墳規模2

綾北平野に讃岐では超大型の横穴式古墳が多いことが改めて分かります。 研究者は次のようなグラフも用意しています

綾北 香川の横穴式古墳規模3

一番右のグラフで見方を説明すると、讃岐の13㎡ 超クラスの8基の地域別数を示したグラフです。真ん中に8基とあるのが讃岐にある古墳数です。綾北平野が赤、三豊が黄色で示されています。阿野郡北部にあたる綾北平野と椀貸塚古墳・平塚古墳などの3つの巨石墳が並ぶ大野原古墳群が突出しています。6世紀末期の蘇我氏全盛時代には、この2つのエリアに、讃岐の最強勢力はいたと言えそうです。
大型石室墳が集中する綾北平野の後期古墳 ( 横穴式石室墳 ) の分布を見てみましょう
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
全体で45の大型古墳(横穴式)があったようです。これらを分布からグルーピングする3つに分かれれるようです。

綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2

ひとつは、城山温泉周辺の醍醐古墳群です。
ここには、綾北平野最大の巨石墳があります。醍醐 2 号墳 (15.8 ㎡) と同 3 号墳 (15.6 ㎡)です。 三豊 南 部 の 平塚古墳(大 野 原 古 墳 群 18.3 ㎡) に次ぐ規模で、このサイズの巨石墳は他に縁塚 4 号墳 ( 三豊南部 ) と大塚池古墳 ( 善通寺 ) が知られるだけす。 醍醐4号墳 (11㎡ ) と同7号墳 (10.9 ㎡ ) も他地域ではトップクラス巨石墳のクラスです。
 綾川を挟んだ蓮光寺山南麓の鴻ノ池周辺にも、ひとつのグループがあります。
山ノ神 2 号墳 ( 推定 10.6 ㎡ )、鴻ノ池 4 号墳 (10.4 ㎡ )を筆頭に巨石墳が集中します。巨大な石組みだけが鴻ノ池に残る鴻ノ池 1 号墳もこれらに匹敵する規模のようです。北側の烏帽子山中腹には、これらを見下ろすように、単独で綾織塚古墳 (13.8 ㎡)があります。
 平野南端の丘陵には新宮古墳(12.8 ㎡)が単独で立地します。

綾北平野に巨石墳が次々と造られたのは、いつなのでしょうか?
綾北平野に巨石墳が集中することの意味を知るためにも避けては通れない課題です。今のところ綾北平野では 6 世紀後半より以前の横穴式墳は見つかっていないようです。

坂出古墳編年

雄山山麓には6世紀前半代初期の横穴式石室を持つ雄山古墳群がありますが、古墳時代中期の後半段階以降、綾北平野は目立った古墳が確認できない空白エリアであったようです。
 大型石室墳の築造は新宮古墳から始まるようです。
そして、これと同時に中小形の横穴式石室墳も登場します。新宮古墳の石室は、大野原の椀貸塚古墳の特異な形態(複室構造)を引き継ぎ、その一部を省略したものと研究者は考えているようです。型式的には、椀貸塚古墳と平塚古墳の中間にあたるようです。つまり 
①椀貸塚古墳→ ②新宮古墳 →③平塚 

という系譜に位置づけられます。
年代は、羨道前面から出土した須恵器の特徴から6世紀末から7世紀初頭とされます。さらに、綾織塚古墳と醍醐3号墳の石室は、新宮古墳の特徴を簡略化させながら引き継ぐので、新宮古墳に続く時期と研究者は考えているようです。
 醍醐2号墳は、さらにもう一段階新しいもので、醍醐4号墳、鴻ノ池1号墳,同4号墳、山ノ神2号墳は醍醐3号墳や醍醐2号墳と並行して、同時期に造られたようです。
 玄室と羨道がほとんど一体化するなどニュースタイルの醍醐7号墳、同 8号墳、鴨庄1 号墳、お宮山古墳は、さらに新しい時期の古墳となるようです。
 そして醍醐7号墳で綾北平野の巨石墳築造は終わります。
この終焉期は横穴式石室は7世紀半ばの角塚古墳(大野原)や大石北谷古墳(旧寒川郡)に共通するので7世紀半ば頃と研究者は考えているようです。つまり、先述したように大野原や綾北平野で横穴式石室を持った大型墳が築かれるのは7世紀半ばまでなのです。それは中央での蘇我氏の全盛期と符合します。
ここで研究者は、次のような疑問を出します。
①新宮古墳が造られてから半世紀の間に綾北平野には、いくつの大型古墳が造られたのか。
②8㎡以上だと24の大型古墳が造られたことになるが、ひとつの氏族だけで半世紀で築けるのか
③半世紀だとせいぜい2世代か3世代の代替わりが行われたとすると
24÷2世代=12グループ 
24÷3世代=8グループ 
のこのクラスの墳墓を築きうるような有力グループの存在を考えなければならなくなる。
そんなに多くの有力者が綾北平野に並び立っていたのか?

研究者が投げかけているのは、飛鳥のヤマト政権が豪族連合政権であったように、綾北平野にも讃岐の有力豪族グループがここに結集していたのではないかという仮説です。
綾川流域の平地を見下ろす山腹の各所に、巨石墳が分かれて築かれている事実はこの推測に合います。それでも醍醐古墳群や山ノ神・鴻ノ池の古墳群に属する巨石墳は多過ぎるかもしれません。これら自体が複数グループの有力者の共同墓所的な性格を持つのなら説明ができます。
 
綾北平野の隣接地域では、逆の展開が読み取れるようです。
綾川を遡った羽床盆地では、古墳時代中期から後期の初めまで津頭東古墳、津頭西古墳、般若ヶ丘古墳などの有力墳が連続して築かれていました。ところが後期半ば以降は、大形の横穴式石室墳が築かれることはありませんでした。額坂峠を越えた城山西南麓一帯には、中期末から後期後半までには国持古墳、久保王塚古墳など有力墳がありますが、新宮古墳以降には大型石室墳はでてきません。
 国分寺盆地でもや大形の横穴式石室を持つ石ヶ鼻古墳がありますが、石室形態から新宮古墳に先行するものです。新宮古墳以後は、横穴式石室墳はありません。
 こうした状況を踏まえて、研究者は次のような仮説を提出します。
  古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)

 この立場に立つと、次のような事が描けるようになります
①6世紀末に蘇我氏は、物部氏を破り、物部氏の持っていた瀬戸内海の拠点を自己の支配下におさめた
②物部氏の支配下にあった大野原・三野津・綾北平野は蘇我氏の影響下に入った。
③綾北平野の勢力は、大野原勢力と同盟し新たな技術や文化を取り入れた
④そして、綾北平野の入口に大野原勢力から学んだ大型横穴式古墳を造営した
⑤新宮古墳は、綾川流域や周辺地域の統合のモニュメントでもあった
⑥以後、連合関係を形成した有力者達は綾北平野の開発を進め、それぞれの拠点に「墓域」を開き大型墳墓を次々と造営していく。
⑦蘇我氏の失脚後も、白村江以後の臨戦態勢の中で勢力を維持し朝鮮式山城を城山に築く。
⑨このような危機感の中で指揮権を握り、他地域の豪族よりも一歩ぬきんでた力を持つようになる。
⑧さらに律令体制下においては、府中への国衙誘致を行い、南海道整備なども進めた

ここからおぼろげながら見えてくることは、7世紀前半は綾北平野が讃岐の「飛鳥」だったといいうことでしょう。ここに周辺の有力豪族が集中して拠点を置いていたことがうかがえます。そのために、ヤマト政権から白村江以後の臨戦態勢下で朝鮮式山城の築城を命じられて時にも、この地を守るために城山を選んだのでしょう。さらに、律令体制が整えられる7世紀末に、国府をこの地に造営し、南海道を整備したのもこの地を拠点とする勢力だったのでしょう。それを、綾氏とする考えもあります。
  しかし、綾氏単独の支配エリアではなかった。複数の有力豪族が拠点を置く政治空間だったというのは面白いと思います。

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
         大久保徹也(徳島文理大学)  坂出市綾北平野の巨石墳

坂出 綾川河口地形図

以前に古地名から綾川河口の歴史を探ろうとするアプローチを紹介しました。今回は用水路を探ることで、讃岐国府に通じる綾川河口エリアの歴史を紐解こうとする試みを紹介します。これは、香川県の埋蔵文化センターのが平成22・23年度にボランティア調査員と現地調査を行った研究成果として報告書にまとめられたものです。水田ごとの取排水口の確認、基幹用水路からの導水経路の確認を現地で行い、水利慣行についての聞き取り調査を行ってまとめられています。膨大な手間と時間を掛けて作られたものです。

  まずは対象エリアと前回の地名調査から分かったことを確認しておきましょう。
綾川が府中に流れ落ちてきて不自然なドックレックを繰り返すあたりが讃岐国府の推定地で、いまも発掘が続けられています。そこから綾川は西に傾きながら北流していきます。

3坂出湾4

古代は高屋町と林田町の境になる雄山・雌山あたりが海岸線で、高屋町に国府の外港・松山港、林田町の総社神社辺りに交易港が置かれていたと研究者は考えているようです。そして、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたようです。

3綾川河口条里制
   前回の地名調査で分かったことを確認しておきましょう
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで
②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された
③大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。
④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で
⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた

坂出 綾川河口灌漑水路図2

調査報告書は、まずこの地区の灌漑用水路網の現状を確認します。
①加茂町南東部(字杉尾付近)では五色台山塊麓にある溜池から灌漑する
②加茂町の大部分は鴨用水、氏部井口用水から灌漑する
③林田町では氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、新開。与北用水、大番・横井用水、鞍敷用水から灌漑し、溜池灌漑はない。
④神谷町・高屋町の一部の地域は神谷川と新池から灌漑するが、大部分は三ケ庄用水から灌漑する。
現在は、鴨用水、氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、三ケ庄甲水は府中ダムを水源とする北條幹線用水路から取水しています。この北條幹線用水路は府中ダムからトンネルで坂出市立府中小学校の東まで導水して、地上に水路として現れます。水路は綾川右岸沿いを走り、林田町字東梶乙の西梶用水と濱用水の分岐点で終点となります。この区間の長さは4,097mです。この用水路は、府中ダム完成7年後の昭和48年(1973)に使用を開始しています。それ以前は、綾川町にある北條池を水源とし、綾川を経由して取水していたようです。
坂出 綾川河口灌漑水路図1

かつての綾川の取水口の位置をしめしたものが上図になるようです。ここで分かるとおり、現在、綾川から取水するのは新開・与北用水だけのようです。
これらの用水路は、いつ頃み開かれたのでしょうか?
手がかりは『阿野郡北絵図」(図3)です。

坂出 江戸時代絵図

上図は鎌田共済会郷土博物館が所蔵する模写図で、江戸時代の絵図を昭和12年(1937)に鎌田共済会が模写したものです。現在の坂出市林田町・加茂町・王越町をはじめとする坂出市北部が描かれています。作成年は記されていませんが、ある程度推測ができるようです。

 研究者が、どのように年代推定を行うのか見てみましょう
A手がかりにするのは塩田です。
①木沢浜の塩田(現在の坂出市王越町)
②末包新開(現在の坂出市江尻町)
が描かれています。木沢浜は宝暦8年(1763)、末包新開は文化元年(1804)に出来上がっています。そこから絵図は、文化元年(1804)以降に作成されたことが分かります。
B 文政9年(1826)に干拓工事を開始し、天保4年(1833)に完成した③坂出墾田は描かれていません。以上から『阿野郡北絵図』に描かれた姿は、文化元年(1804)以降天保4年(1833)以前のものと研究者は考えているようです。
絵図を拡大して見ましょう。
坂出 阿野郡北絵図拡大

 この絵図には山・川・池、村名・村境のほかに、道や用水路が描かれています。山裾の池の名まえはすべて記されていますが、用水名は一部のみです。絵図に描かれている用水路は鴨用水、三ケ庄用水、氏部井口用水、今井用水、郷佐古用水、新開・与北用水、濱用水のようです。山裾沿いに鴨用水が北流し、雄山の南の条里制区割り地区に導水されていたことがよく分かります。この絵図が書かれた天保4年(1833)以前には、これらの用水路は機能していたようです。
 また、神谷川から出る用水路は描かれていません。絵図の成立時期には大番・横井用水はまだなかったようです。明治維新後の名東県時代(明治6~8年)に成立した壬申地券地引絵図には、大番・横井用水が描かれています。そこから大番・横井用水が出来たのは、明治維新前後だったと研究者は考えているようです。
一方、雄山ラインから北部には用水路は、あまり伸びていないようです。幕末期になっても、綾川河口の北部エリアの水田化は遅れていたことがうかがえます。
 しかし、地名調査からは林田町北部には、新たに開発された田畑が広がっていることがわかってきました。
水田ができても、水の確保なしでは稲は実りません。水田と灌漑水路はセットで作られたはずです。水田開発が行われていれば水路も作られているはずです。水田開発の時期を明らかにすることで、用水路の開削時期を知ることができると研究者は考えているようです。
そこで次に研究者は、水田化の状況から見きます。
その際の手がかりは、以前に紹介した検地帳に記された古地名を調査の成果です。

坂出 検地帳古地名

検地帳には、年貢の課税単位である免ごとに田畑の情報が記されています。図4をみると、雌山より北の林田町北部には「新開」「新興」の付く古地名が多いのが分かります。これは、新たに開発された田畑であるということです。「新開」・「新興」の付く地名が多いのは濱(浜)免・古川免になります。
坂出 綾川河口灌漑水路図2

上図の各用水路の灌漑域をみると、濱免は大香・横井用水と濱用水の灌漑域、古川免は西梶用水と新開・与北用水の灌漑域に当たります。
濱免の田畑の古地名には「元禄六酉新興」というように、「新興」の前に「元禄六酉」という年紀が付けられたものが多いようです。この年紀は、田畑として開発した後で、初めて検地をした時に付けられたもののようです。そのため濱免の田畑は、元禄6年酉年(1693)の少し前に開発されたことが分かります。
 古川免では年紀の付くもの少ないのですが「延宝二寅新興」・「宝永六巳新興」。「安政二卯新興」がありますので、延宝2年寅年(1674)・宝永6年巳年(1709)・安政2年卯年(1855)頃に開発された田畑があることが分かります。
西梶用水の灌漑域の北部は、古川免の東部に当たります。
この付近の古地名には「新開」が付いています。ここから新しい開発であることが分かります。しかし、年紀がないので開発時期は分かりません。
新開・与北用水の灌漑域は古川免の西部になり、灌漑域は延宝2年(1674)、中部は宝永6年(1709)、南部は安政2年(1855)頃と数回に分けて開発されたようです。延宝2年(1674)に開発された田畑は新開・与北用水の幹線に西接しますので、新開・与北用水は延宝2年(1674)頃に開削された可能性が高いようです。
 大番・横井用水と濱用水の灌漑域は濱免に当たります。
濱免は古地名から元禄6年(1693)頃に大規模に開発したことが分かります。先述のように絵図から大番・横井用水は濱用水よりも後に作られたと考えられるので、濱用水が先に開かれ、その時期は元禄6年(1693)頃になると推測できます。
また、「阿野郡北絵図』をよくみると濱用水は途中で2本に分岐します。
坂出 阿野郡北絵図拡大4

 1本は海岸近く、もう1本は弁財天の北を走り、大番・横井用水の灌漑エリアのほうまで延びています。現在、弁財天は林田町にある惣社神社に合祀されていますが、元は惣社神社の200m北西の県道太屋富・築港・宇多津線の路線内にあったと伝えられます。現在、濱用水は元弁財天のあった場所の北方に北東方向に走る2本の幹線用水路があります。これらの2本の用水路が絵図に描かれた用水路の可能性が高いようです。以上から推定すると、このあたりは元禄6年(1693)頃に開発され、賓用水だけで灌漑していたのが、水量が不足したので、江戸時代末頃神谷川を水源とする大番・横井用水が開削されたのではないかと研究者は考えているようです。
三ケ庄用水が開かれたのはいつのなのでしょうか。
 それは平成23年度の竹北遺跡の発掘調査が手がかりを与えてくれるようです。ここからは南東から北西に走る河川跡が出てきて、埋没時期は平安時代から鎌倉時代とされています。この河川と三ケ庄用水が重なるとすると、三ケ庄用水は河川が埋没後の鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
また、鴨用水と三ケ庄用水、今井用水と総社用水が開かれた順番を考える材料に「用水管理の既得権」へ配慮があります。古い用水路が優先され、後発用水路はすでにある用水路に影響を与えないように設計されます。先発組優先なのです。
そのような視点で鴨用水と三ケ庄用水を見ると、
①鴨用水のほうが上流で取水する。
②加茂町南部で両用水路が交差する際には、三ケ庄用水は鴨用水の下をくぐり、鴨用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。
③今井用水と総社用水の関係をみてみると、今井用水のほうが総社用よりも上流で取水する。
④総社用水は林田町南部の坂出市立林田小学校の北東部で今井用水の下をくぐり、今井用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。

先発する用水路の上から水を導水することは、水利用の既得権に反することで騒動のもとになります。用水が交差する際には、後発組が下を通過するように設計されます。ここからは 
鴨用水 → 三ケ庄用水    
今井用水 → 総社用水
という前後関係がうかがえます。
以上のことから、現在みられる加茂町・林田町・高屋町付近の用水路は江戸時代末までには作られていたことになります。
 この中でも、
①新開・与北用水は延宝2年(1674)頃、
②濱用水は元禄6(1693)頃、
③大番・横井用水が最も新しく江戸時代末頃
に開かれた用水になるようです。その他の用水路の開かれた時期は不明ですが、鴨用水よりも三ケ庄用水、今井用水よりも総社用水の方が新しいようです。このなかで、三ケ庄用水は一番古いのですが、それでも古代に遡ることはないようです。鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
 加茂町、神谷町西部、高屋町南部、林田町南部には条里地割が広がります。
3綾川河口復元地図2

条里地割は西に24度傾き、N-24°Wを示します。
綾川河口の灌漑システムを大きく見ると、南北方向に基幹用水路を作り、条里地割と組み合わせて、全体に水が行き渡るように工夫しているようです。鴨用水は山麓沿いに幹線用水路を設置し、この用水路から樹形状に数本の用水路を分岐し、北方向に流します。東西の水路へは堰板等を利用して分水します。大部分の水田の細長く、水田の取水口はどこも水田の短辺に設けられています。

坂出 阿野郡北絵図拡大

 三ケ庄用水は綾川から取水して、鴨用水の灌漑域の中を北方向に直線的に走ります。鴨用水の灌漑域の中でも三ケ三用水が走る場所は最も低い場所であり、用水路は深く、鴨用水の排水を集めながら北方に走ります。
 三ケ庄用水は灌漑域に達すると数本に分岐し、条里地割の間を基本的に北方向に流れます。やはり頁西の水路へは、堰板を利用して分水します。ここでも大部分の水田の平面形は細長く、取水吉は短辺に設置されています。氏部井口用水は、綾川の右岸沿いに走る基幹水路から東西に樹形状に再水路を分岐させ、条里地割に沿って北方向に走り、神谷川に至ります。
三ケ庄用水の灌漑域には整然とした条里地割が広がりますが、用水が開かれたのは鎌倉時代以降である可能性があります。そうだとすると三ケ庄用水の灌漑エリアは。鎌倉時代以降に開発したものになります。
5讃岐国府と国分寺と条里制

 かつては、現在に残る条里制区割りを古代にまで遡らせて考えていました。例えば次のような主張でした。
「綾川河口エリアの条里制ラインが引かれたのは白鳳時代で、それと同時一斉に、造成工事が始まった。それを行ったのが新宮古墳に代表される地域の有力豪族だ」

 しかし、その後の丸亀平野や高松平野の考古学的な発掘調査で分かってきたことは、南海道が直線的に設置され、それに直角に条里制ラインは引かれた。しかし、それと土木工事の時期は一致しないということです。ラインが引かれたままで、その後は長らく放置され、中世になってから水田化が進められたような実例が数多く出てきたのです。この綾川河口においても、用水路を見る限り、水田化は中世に始まるエリアもあると研究者は考えているようです。

3綾川河口復元地図
条里制中央部を南北に貫通していた「馬さし大貫」道があった?
  出石一雄氏は、綾川河口エリアの中央を、南北に通る農道(馬さし大貫)を南北の基準線として条里地割が施行されたのではないかと推定しています。
この道は、雄山の南から綾川の南の府中まで延びていたと伝えられます。これを「馬さし大貫」と、呼んでいたと云います。道幅が広いので馬を走らせる練習をしたり、加茂から林田へ行くのに使われていたようです。この農道に隣接して用水路が走りますが、この農道は加茂町と林田町との町境であり、坂出市立白峰中学校の北側では氏部井口用水と三ケ庄用水の灌漑域の境界にもなっています。中学校の南側の三ケ庄用水の灌漑エリアが、馬さし大貫の西側にあたると研究者は考えているようです。ここは元来、氏部井口用水の灌漑エリアですが、末端であるため水が不足し、江戸時代後半の寛政年間(1789~1801)に水争いが起こり、その後三ケ庄用水の灌漑エリアになった経緯がある地域です。このように、馬さし大貫は灌漑エリアの境界にもなっています。南海道などの大道が古代の行政区画の境界になっていたことを思い出させます。
 三ケ庄用水の灌漑エリア全体が開発されたのは鎌倉時代以降で、鴨用水の灌漑エリアよりは開発が遅れた可能性もあるようです。その場合は、雄山から綾川まで走る馬さし大貫は少しずつ作られたことになります。条里地割ともに馬さし大貫ができた時期についても、今後の検討課題のようです。
4林田町1

以上、用水路の分析からは古代に遡るモノは見当たらないということでしょうか。しかし、雌山より北側や綾川流域の開発は、近世になってから断続的に進んだことがうかがえます。また、雄山の南部も古代から水田地帯ではなく、早くとも中世、遅ければ幕末に掛けて用水路は整備されたことが分かります。 
 古墳時代末期から古代にかけて、綾川河口の開発が進み、その経済的な発展を背景に在地有力豪族の綾氏が台頭したという物語を描くのには無理があるようです。

参考文献 讃岐国府跡探索事業調査報告 平成23・24年度 地形・地名調査

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


     
3綾川河口ezu JPG
     
讃岐国府の外港として「林田港」の存在が注目されるようになっていることを以前に伝えました。それなら今まで国府の都とされてきた「松山津」との関係は、どうなのかという点が疑問に残ります。今回は松山津について見ていきます
 松山津は讃岐国府から綾川沿いに南約五㎞の地点にあり「国府の外港」として古代以来の重要な港とみなされてきました。讃岐国十一郡のうち阿野郡に所在する九郷の一つである松山郷のにあったとされるのでこの名前で呼ばれてきました。現地に石碑は建てられていますが、具体的な位置など分からないことが多いようです。
6松山津

史料に出てくる松山津をまずはチェックしましょう。
 菅原道真の「菅家文草」には、讃岐国の迎賓用施設である松山館が津(松山津)のほとりにあったと記し、海や津の情景が詠われています。そこには
「予れ近会、津の客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」

との自註があり、別の詩で「小松を分かち種ゑて」と詠んでいますので「官舎」=「松山館」で、その近くに「松山津」があったと考えられてきました。
 保元の乱に敗れ、讃岐国に配流された崇徳上皇の上陸地は?
 上皇の滞在地については諸説ありますが、讃岐国への上陸は松山津からであったことがいずれの史料も記されています。ここからは公人を迎え入れる国府の港としての松山津の役割がうかえます。
6白峰古図
 この「白峯山古図」(資料13)は、永徳二年(1382)以前の白峯寺とその周辺の景観を江戸時代になって描いたものです。
ここには断崖絶壁の上から流れ落ちる稚児の滝と、その上に立ち並ぶ白峰寺の伽藍群や崇徳上皇陵が描かれています。目を下に移してみると、画面右下に綾川が右から左に流れ、中央下に男山・女山に湾入した入海があり、そこに館が描かれています。ここが松山津の有力な候補地となります。
  もう少し詳しくこの絵を見ていくことにしましょう。
①湾入地形に続く緩斜面地からは、上屋敷西遺跡と高屋遺跡が発掘され、塩作りに関連した集落がここにあったことが分かっています。
②雄山東麓にある雄山古墳群は、県下でも導入時期となる横穴式石室墳です。近畿と九州地方の横穴式石室の特徴を融合した石室形態で、この地が古くから瀬戸内海を往来する船が出入りし、人と物が行き来した場所であったことを示しているようです。


 文献史料+考古学的データ+現地踏査=「松山津は、雄山・雌山の東麓一帯に比定」することができると研究者は考えているようです。そして「菅家文草」に記された松山館は、津の最奥部付近に面した緩斜面地にあった可能性が高いとします。そして、国府とのアクセスは、津の最奥部から国府に延びる直線的な陸路があったのかもしれません。それは国宝の神谷神社の前を通ることになります。
以上からは「松山津=国府の外港」という従来の説は揺らがないようにおもえるのですが・・・
ところが、松山津の機能は「松山館」に象徴されるような公的人物往来に限定されるのではないかと考古学者たちは考えるようになっています。その根拠を見ていきましょう。

3綾川河口復元地図
  物資の移動港は綾川河口の林田津
 国府の港として、物資の移動を担った港は林田郷に所在する綾川河口にあったことが分かってきました。図4のように古代~中世前半の綾川河口はいくつもの河道がまるで龍の頭のようにうねり、その間に中洲があったことが分かります。その中でも安定した中洲には居住可能な微高地があり、ここを中継地として川運で国府と繋がっていたと研究者は考えているようです。
 以前にも紹介しましたが川筋には西梶・東梶という地名が残り、そこからは当時としては入手が困難な青磁碗などもが出土しています。「梶」地名は船の輸送に携わる梶取からきていると云われ、青磁碗出土地が旧河道に面していることもこれを裏付けます。

3綾川河口図3
 また、江戸時代の検地帳には綾川右岸の「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」などの古地名が残っています。東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の一になります。このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、総社神社・総倉神社・八坂神社といった複数の神社も旧河道に面し、物資流通への拠点的な役割を果たしていたことがうかがわれます。特に總倉神社の鎮座する所は、讃岐国の国府と綾川で結ばれ海陸の利便性が良かったために、税として徴収された雑穀等を貯蔵する官営倉庫が建てられたので總倉と号し、この神社をその鎮守神としたと伝えられます。「香川県神社誌より(要旨)」
5讃岐国府と国分寺と条里制
 このように、綾川河口の林田郷の微髙地には、蔵が建ち並び、瀬戸内海を交易する船の船頭達が住むエリアが想定できます。ここから綾川を通じて舟運で国府と繋がり、大量の人や物資の流通を担う国府の港としての機能が、この周辺にはあったと研究者は考えているようです。そして、この一帯にあった港湾機能を郷名にちなんで、林田津と呼んでいます。
古代の最新鋭工場の十瓶山窯跡群と林田港
 瀬戸内海の海底から引き揚げられた陶磁器の中に、十瓶山周辺で作られた須恵器があります。
 十瓶山は綾川の上流で、古代には須恵器窯と瓦窯跡からなる県内最大の窯跡群で、いまでいうなら最新鋭の工場群があった所です。ここで作られた製品(須恵器)はどのようにして、都に運ばれたのでしょうか? それは綾川水運によって林田津まで運ばれ、そこから瀬戸内海航路にのせて搬出されたようです。いまでは綾川を川船が行き来することなど想像も出来ませんが、上流のダムなや堰がなかった時代は川船は驚くほど奥地まで入ってきています。丸亀平野では白方から弘田川をさかのぼって善通寺までは、入ってきたことが分かっています。大束川でも川津から法勲寺辺りまでは行けたようです。
 こうして、須恵器をはじめとした調・庸などの多くは綾川の水運によって、国府からその河口部の林田津を経て、運び出されたと考えられます。
讃岐国府の外港   松山津は人 林田津は物 
 讃岐国府の港は、次のように機能分化していたというのです。
政府の要人などの人的移動は松山津・松山館
物資移動は林田津
そして、二つの港が複合した港が讃岐国府の外港ということになるようです。 
国府の港は、中世後半以降の史料ではみられなくなります。
それは、国府の機能が衰退するにつれて港湾機能が低下したということもあるでしょう。藤原純友の讃岐国府焼き討ちの際に、略奪放火にあったかもしれません。しかし、近年の環境考古学岳は、古代末の地球規模の寒冷化現象の影響が大きかったことを教えてくれます。寒冷化は、海面低下をもたらし河川の水位を低下させ、度重なる洪水を誘発し、その結果綾川河口は急速に陸地化していったようです。この二つの要因により、13世紀以降は国府の外港としての綾川河口の港湾機能は、急速に衰退していくことになります。
関連記事

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


        
3綾川河口図2
                           
   この地図は、約90年前の昭和7年(1932)に作られた綾歌郡林田村の行政地図です。現在の坂出市林田町ですが、この地は古代讃岐国府の外港があったところです。まず地図を見ながら旧林田村のアウトラインを掴んでおきましょう。
 西側を綾川が南から北の瀬戸内海へ流れ出しています。北側の海岸線は一直線で、埋め立てられて塩田化しているようです。そして、埋め立てられる前の旧海岸線沿いに人家が集中しています。
東側は雌山・雄山が並んで、その麓の微髙地に集落が形成されています。ここには、総社神社が鎮座していて、古代はここから先が海でした。南は条里制跡が残り、整然とした土地区画が続きます。つまり、南側は古代から陸地で水田化が進んだことが窺えます。
 この地図の中央から北に掛けては条里制の跡はみられません。今は西を流れる綾川が、古代には幾重にも別れ、湿地・水郷地帯を形成し、耕地化を拒んできたきたようです。その中に浮かぶ島のような微髙地に人々は集住し、周辺の開拓・開発を進めたようです。その歴史を、この地図から読み取って行きましょう。
3綾川河口復元地図
現在の林田出張所には、江戸時代の検地帳が残されています。そこには、地目・地位等級・面積・耕作者のほか、田畑の呼び名(古地名)などが記されているものもあります。また、明治時代に作成された数種類の絵図も保管されていて、田畑1筆ごとに赤字で地番、黒字で地目・地位等級・二号・人名(所有者)が記されています。絵図の赤字の地番と所有者、文化年間に作成された『阿野郡北林田|||巨道帳』に添付された貼り紙に記された赤字の地番と所有者を見比べると、ほぼ一致していことから、文化年間の検地帳の貼り紙に記された赤字の地番と、地引絵図を対照させることで、検地帳に記された古地名の場所が現在のどこに当たるのかを比定することができます。口で言うのはたやすいのですが、この比定作業は気の遠くなるような手間と時間がかかることは、私にもおぼろげながら分かります。
 この作業の結果、どの田畑にどんな古地名が付いていたのかが分かります。研究者が復元した地図を見ながら江戸時代以前の林田町の地形・開発・構造物などについて追いかけて見ましょう。
 古地名からは大きく分けて、次のような4つの情報を読み取ることができます。
①構造物または付近の構造物、
②地形
③土地利用
④田畑開発の時期に由来するものが多い
①には「寺ノ西」・「祇園前」・「宮ノ脇」・「宮武新開堤」などで、ここからは寺や神社に近隣することが分かります。また、「宮武新開堤」は宮武氏が開発した堤であることを示します。
②は「須が端り(すがべり)」・「さこ」などで、前者は砂州の端、後者は低地を表します。
③は「新開畑」「茶園」などで、「新開畑」は新たに開発した畑、「茶薗」は茶畑です。
④は「元禄六酉新興」「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」などで、年紀が入ります。「興」は開発を表すので、「新興」は新開発した田畑を表しています。
4林田町1
古地名からみた林田町
 第7図は、林田町の小字名と微高地に当たると思われる箇所を黒く示した図です。これを見ると、林田町の南東部(標高2.5~5.0mの平地)には条里制地割が広がっていることが分かります。つまり、条里制が実施されているエリアは安定した陸地で会ったということです。それに比べてまた、林田町の北部、標高2.0m以下の平地には江戸時代に開発された田畑が多いことも分かります。つまり、それまでは湿地・荒地として放置されてきたようです。
 黒くメッシュ掛けされた部分が微髙地です。
この部分に古くからの神社が鎮座し、その周辺に人家が集中しているのが分かります。台風時の洪水を避けることが出来た微髙地に人々は、家を建てて周辺の湿地を開発していったのでしょう。
この地図を各地区を4つのエリアに分けて見ていきます。まず、東南部のエリアから見ていきましょう。
4林田町 東南部
A林田町南東部(下所・上・東下所・角戸・東梶甲付近)
 このエリアは現在の雄山の南から綾川にかけての地域で、現標高は2.5~5.0mです。黒い部分は微髙地ですので「上」の中央部から「角戸」にかけて、南北に細長い微高地があり、その上に集落があります。その東は、下所にかけて条里型地割りの田畑が広がり、新興住宅が点在します。
微髙地の上には、次のような建物を示す古地名が残ります。
「蔵尻」・「地蔵ノ元」・「道西」・「今井井手西ノ上」・「三時今井井手東」

「蔵尻」は「上」の南端にあたります。「蔵尻」の北西方200mに「地蔵ノ元」が見えます。この付近に地蔵さんがいたことを暗示しますが、今はなにもありません。
  「地蔵ノ元」の南100mに「道西」があります。
これは道の西にある土地からついた地名のようです。この田の東を南北に走る道に[地蔵ノ元]は隣接していたようです。「道西」や付近に地蔵があることから、この南北の道は当時の幹線道路と研究者は考えているようです。ひょとしたら国府から林田湊への幹線道だったのかもしれません。
  「上」の南西の角に「今井井手西ノ上」があります。
現在でも「今井井手」と呼ばれる用水路がこの田畑の東を走っています。今井井手は、林田町の南方の府中町で綾川から取水し、林田町に水を供給しています。
 地形との関りが深い地名には「流田」があります。
  「角戸」の南東に「流田」があります。位置的には、坂出市立白峰中学校の西方150mになります。「流田」は、かつて洪水により田が潰された土地によく付けられる地名です。この付近は南北の細長い微高地の東側の低位部になり、地形的にもぴったりと合います。古代において綾川は、この辺りを台風の洪水のたびに奔放に流れを変えながら海に流れ出していたようです。しかし、ここから東側は条里制が残りますので、古代からの耕作地ということになるのでしょう。

3綾川河口図3
B 祓川西岸(川向・長明寺・野末)
 綾川の左岸(西岸)の「野末・川向」の境には
「寺ノ西」・「寺裏」・「寺東」・「寺前新開」・「長命寺新開」

の古地名が残ります。『阿野郡北絵図』には、この付近に高照院という寺が記されています。現在の高照院は坂出市西庄町にある四国霊場79番札所です。現在の高照院のある場所は、江戸時代には妙成就寺があったようです。この寺は讃岐へ配流された崇徳上皇を祀る御廟の別当でしたが、明治初年(1868)の神仏分離令によって廃寺となりました。その後、末寺の高照院が現在地に移転し、79番札所を引き継いだようです。今はここに高照院があったことを示す遺構や碑はありません。しかし、これらの古地名から移転する前の高照院の場所がよくわかります。
  寺院の名称をもつ地名としては「長命寺新開」があります。
「長命寺新開」は、綾川に架かる長命寺橋と三井橋間に挟まれた綾川西岸の堤防のすぐ西にあたります。長命寺は、讃岐に流された崇徳上皇が3年間過ごした場所とされます。この寺は戦国時代に長曽我部氏の兵火により消失し、崇徳上皇御親筆の柱だけが1本残りますが、万治年間(1658~1660)の洪水で綾川の堤防が崩壊し、この柱も流失してしまったという伝承が伝えられます。「長命寺新開」の北方100mには、「崇徳天皇駐暉長命寺奮趾」と刻まれた石碑が大正時代に建立されています。
   この地域には「新開」という開発を表す次のような地名が数多く残ります。
「長命寺新開」以外にも「二天新開」・「新開」・「道新開」て「人名口新開」・「道西新開」・「寺前新開」・「裏道之端新開」・「帰佐古新開」

ここからは、この一帯が湿地や荒れ地を開発し、田畑にしていったことが分かります。
 年紀の入る地名は「野末」に「正徳五未新興」があります。ここは今は堤防となっていますが、地名から正徳5年(1715)に新たに検地された田畑として登録されたことが分かります。
『綾北問尋紗』には正徳5年(1715)の50年ほど前に大洪水がおこり、この付近は荒廃し「流田」になっていたと記されています。それを後再開発したことから、新開という地名が数多く残っているようです。ここからは、綾川河口の開発が江戸時代の元禄年間に本格化したことがうかがわれます。

3綾川河口図3
C)雄山の麓から祓川東岸の林田町中部から南西部(字中川・東梶乙・城ノ角・三十六・川原・西梶・前場・惣社・馬場北・馬場南付近)
 この付近の綾川右岸(東岸)には、構造物があったことを示す地名が数多く残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、
「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」
「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」・「宮添」・「宮添井手東」・「井手東」・「井手西」・「道北井手内西」、
「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、
「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」などが残ります。
この地域は船の「舵取り」たちの居住区だったといわれるます。瀬戸内海を交易する船頭や船乗りが生活し、周辺には蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
  東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。しかし、かつて城があったという記録や伝承はないようです。
 崇徳上皇がの仮住いとなった綾高遠の屋敷がどこにあったかは昔から議論されてきました。彼は林田郷を管轄する責任者の職務に就いていたとされるので、その屋敷も林田郷内にあったと考えられます。「城屋敷」の古地名が残るこの丘もひとつの候補かもしれません。
  「西梶」の「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」は綾川の右岸堤防沿いに残る地名です。
「宮」は隣接する總倉神社を指しているようです。總倉神社は「綾北問尋鈴」に「西梶の牛頭天王」、「神功皇后の右舵を守らせ玉ふ神」、「威神天王とも、又は惣蔵天王とも云す」と記されています。
  「宮ノ脇」の北方100mにある「寺裏」は薬師院総倉寺の北にあたります。
薬師院総倉寺は總倉神社の北にあり、總倉神社の別当であったエ薬師院総倉寺の所蔵する鰐口には「明徳元年」(1390)、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵天皇御社」の銘があります。
  八坂神社の旧名は祇園社
 「西梶」の「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」は県道大屋富築港宇多津線(通称さぬき浜街道)の南方100mにあたり、「寺裏」の100m北西になります。この付近には八坂神社があります。八坂神社の旧名は祇園社ですから、これらの地名は祇園社に由来するものでしょう。祇園社は寛文年間(1661~1672)に備後鞆の祇園宮を勧請したので、これらの地名はそれ以後に生まれたと研究者は考えているようです。
4林田町総社
  惣社神社に隣接する弁財天を祀る厳島神社
  「馬場北」から「惣社」にかけては「弁財天西」・「弁財天裏」・「宮添」・「宮添井手東」が残ります。
昭和7年作成の『綾歌郡林田村全図』(第2図)には「弁財天西」・「弁財天裏」付近には弁財天を祀る厳島神社が記されています。今は、厳島神社の社域は県道大屋富・築港宇多津線の道路になり、厳島神社は隣の惣社神社に合祀されたようです。「宮添」・「宮添井手東」は惣社神社に隣接することを表すものなのでしょう。

3綾川河口条里制
 惣(総)社神社は海に突き出す北端の微高地の上に鎮座していることになります。
境内には古代のものと考えられる土器片が散布しており、古来より安定した地盤で、林田湊の最有力地であることは、前回お話ししました。
  「前場」にある「鞍敷之内」は、林田町東端の雄山・雌山に挟まれた谷部で、神谷川の右岸になります。
雄山・雌山を横からみると、その間の凹み部分が鞍壷にみえることから、この付近を鞍敷と呼ぶようになったようです。
   佐古(さこ)は一般的に低地・湿地を表します。
「馬場南」の「さこノ上」・「さこ」は県道大屋富築港宇多津線(通称さぬき浜街道)のすぐ北で、林田町交差点の西にあたります。「さこノ上」・「さこ」付近の地割は、細長く蛇行していることから、この付近は河川跡であったようです。
5林田 総社2
「前佐古」は綾川東岸から林田小学校付近までのびる微高地と、惣社神社付近の微高地の間の低地にあたります。「川原」の「道西佐古ノ上」は綾川東岸から林田小学校付近まで南北にのびる微高地の西側に立地していることが分かります。
 また、開発を示す地名として神谷川東岸と雌山・雄山の間には
「堤下延宝二寅新興」・「水口東延宝二寅新興」・「水口西延宝二寅新興」・「橋之元延宝二寅新興」・「卯ノ興」・「興八王神下川中瀬」、神谷川西岸には「宝永元申新興」
などの地名が続きます。年代からこの周辺は、江戸時代になってから開発されたことが分かります。
 神谷川は流れの方向が不自然であることから付け替えを行なったことが推測できますが、今のところでは記録や伝承は見つかってないようです。
5
(D)林田町北部(字大番南・大番北・番屋前・浜・北須賀・与北・新開・古川付近)
 林田町の北端で瀬戸内海に面する「大番南・大番北・州鼻前・番屋前」には開発を表す地名が続きます。
「雀二き新興」「元禄八亥新興」・「道東角地元禄六酉新興」・「立道東・元禄六酉新興」・「中井手ノ肥直こ元禄六酉新興」・「屋敷元禄六酉新興」・「元禄八亥新興」・「裏ノ堂元禄六酉新興」・「墓ノ堂元禄六酉新興」・「屋敷、之三禄六酉新興」・「道下元禄六酉新興」
これらの年紀から、この付近が元禄年間に開発されたことがわかります。この付近の現地表の標高はO~1mを測り、高潮の際には被害を受ける可能性がある地域です。
  大番南・大番北・番屋前の海岸部には、細長い微髙地が南西から北東に長く向かってのびています
この高まりの上には[明治四辛新興]・「文政十一子新開水門裏源八屋敷」の地名があることから、幕末から明治初期にかけて開発したことがわかります。
 「浜・字北須賀・字古川・新開・与北」には
「宝永元申新興」・「延宝二寅新興」・「新開」「新開畑」・「中檻が新開」・「須が前新開」・「安政二卯新興」・「宝永六巳新興」「明治四辛興」
があり、小規模な開発が、延宝2年(1674)頃・宝永年間(1704~1710)・安政年間(1854~1859)頃・明治初期と何回かに分けて断続的に行われたようです。
 綾川にかかる雲井橋の北東付近から北西方向の「川原・古川・北須賀」に向かっては、新田が長く、蛇行しながら連続します。ここは周囲に比べると標高も低く、細長い窪みとなっていることから、綾川の支流の河川跡のようです。
5
江戸時代の林田湊は米の積み出し港
  大番北にある現在の林田港は、江戸時代にも港として機能していたようで、明治初期に作成された地引絵図にもL字状の突堤が描かれています。
突堤の南側には「米下道須が端」・「米下通寅添」・「米須端り西」「米下道東」があります。幕末に作成された『讃岐国松平領海岸絵図』には林田港付近が描かれていますが、この絵図には、「女山」の北側に四角に飛び出した部分があり、この部分に「打場」、その先端に「米出場」と記されています。ここから江戸時代から林田の港から米を積み出していたころが分かります。「米下道」というのは米を港へ運ぶ運搬道路だったのでしょう。
 この付近の様子を記した資料に[海上湊之記]があります。
これは寛文7年(1667) 幕府乃毎辺唆使高林又兵衛の視察記で、この中には
「林田 拾軒、遠干潟也、舟掛り無、是ヨリ白奎ヘ程有、此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜卜云。」
とあります。この資料をみると、林田付近には遠干潟が広がっており「舟掛かり」(湊)はなかったとされています。「大番北」にある港は、寛文7年(1667)には築造されていなかったようです。「遠干潟」は字大番北・大番南・洲鼻前・番屋前の平坦地を指しているようですが、この「遠干潟」の干拓と同時に、港も築造したのではないかと研究者は考えているようです。したがって、港の築造は元禄年間(1688~1703)頃で、米下道・米下道と呼ばれたのは港築造後ということになります

5讃岐国府と国分寺と条里制
   以上をまとめると、次のようになるようです。
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで
②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された
③しかし、大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。
④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で
⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた
参考文献 森下友子 検地帳の古地名からみた坂出市林田町 香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
関連記事

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

                   

         
3古代坂出湾地図

古代の遺跡を見る場合に、その当時の地理環境を復元することが大切なようです。例えば古代と現在の海岸線では大きく変わっています。川も流れを変えられている場合もあります。まず巨視的に古代の坂出湾を見ておきましょう。
 この地図は標高3m以下にグラデーションを付け「海の下に沈めて」古代の海岸線をよみがえらせたものです。五色台の先端を境に備讃海峡の東西両側の平野部に、大きく湾入する低地が浮かんできます。東側では、高松市街地と屋島の間に大きく湾入する低地で、近世の干拓の範囲と重なります。屋島は陸と離れた島で、この地域の中心は現在の古高松とその外港である方本(かたもと)湊です。そして現在の高松市街地は郷東川の河口で、野原村がありました。これが中世以前に存在した海域「古・高松湾」です。このエリアについては以前紹介しました。

3坂出湾1
 目を西側に転じると、坂出市街地にも深く湾入する低地があります。
大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所
と集落が連なる旧海岸線と、その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川が浮かび上がってきます。西には宇多津、東には木沢・王越があります。これらの海域世界を研究者は「古・坂出湾」と呼んでいるようです。古・坂出湾には、港がいくつかありました。

この中で中世史料に登場するのが松山津と福江です。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子が山家集に次のように記されています。
「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]
これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。これら以外は「津」がなく「松山」とのみ記す史料ばかりで、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などがあるようです。
  ここから中世に「松山津」があったことは確かなようです。
しかし、菅原道真の「菅家文草」には「津」と記されただけですので、これを「松山津」と同一視するのには研究者は慎重なようです

3坂出湾2
  古・坂出湾拡大図 島は津山と聖通寺山
もう一方の福江は、私は初めて聞く名前でどこにあるのか分かりませんでした。
  福江は現在の坂出市街の南側にそびえる金山の麓にあった湊で、
坂出商業や坂出高校は海の中にあったようです。神櫛王の悪魚伝説を伝える「綾氏系図」(南北朝期)に「福江湊浦」と記されています。また、兵庫関に入った船に「福江丸」があったことが記録されています。(1460年、長禄4、「六波羅蜜寺文書」)ここからは崇徳院御影堂領北山本新庄の年貢積み出し港としての役割をもった湊がここにあったことがうかがえるようです。
 また、『玉藻集』(1677年、延宝5)には、天正7年の香川民部少輔(西庄城主)の讃岐復帰の際のこととして、次のような記述があります。
 讃州宇足津の浦にわたる。香川、潮を計て遠干潟の坂出の浜魚の御堂より八町計沖の方を一文字に渡し、西ノ庄へ押着ける。(中略)
 彼中道と云は、聖通寺山より西ノ庄の間一里なり。外は道なく、陸路の方より八町計は歩の者足も立たざる深江なり。沖は満汐にてなけれ共、猶足入なり。
 ここには戦国時代末期に香川民部が西ノ庄の城に帰る際に、宇多津から角山(津の山)の北から西の庄に向けて「潮を計り」って干潟になった「海の中道」を押し渡ったと記されます。海の中道は、現在の坂出市寿町2丁目、本町2丁目、元町2・4丁目の砂堆のことです。これが戦国末期には形成途上で、福江の浜との間はまだ水深があり、福江の港湾機能は維持されていたことがうかがわれます。確かに福江の街並みを歩いてみると、石組みの古い井戸が残されたりしていて瀬戸の島の港町の雰囲気が感じられます。この地域が中世までは、古・坂出湾の西部の湊町だったようです。
古・坂出湾の東側=「松山津」と、西側=福江浦(のち御供所・平山・宇多津)の対抗関係は?
砂堆形成、潟湖埋積、河道変化などの地形環境の変化を背景に、各時代ごとの湊の盛衰の推移を簡単に見ておきましょう。 図式としては、
  両者の並立(7世紀)→「松山津」の優勢(8~12世紀)
→宇多津・平山・御供所の優勢(13~17世紀)→坂出浦の興隆(18~19世紀)

という流れを研究者は考えているようです。
2 レベル2:備讃海峡》
 海峡の西側(古・坂出湾)と東側(古・高松湾)は、讃岐国内での港湾機能をめぐる対抗関係がありました。それは政治拠点がどこにあったかということと結びついています。
 図式としては、
両者の並立(7世紀)→古・坂出湾の優勢(8~14世紀)→
両者の並立(14~16世紀)→古・坂出湾の優勢(16世紀末葉)→古・高松湾の優勢(16世紀末葉~17世紀中葉)→古・坂出湾外周地域の拡張・丸亀城下町建設)と、両者の並立(17世紀中葉~19世紀)
という流れを研究者は考えているようです。
 大まかな全体像は、これくらいにして具体的に見ていくことにしましょう。
3綾川河口復元地図
綾川河口の総社神社遺跡は林田津?
 まず総社神社の由来です。古代、国司にとって「国祭り」重要な任務の一つでした。そのためは各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたといいます。しかし、これは手間暇が掛かるので国府近くに国内の神を集めて合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになったようです。この総社神社は、もともとの讃岐国の総社だと、この神社の由来は伝えます。確かに、府中に近く松山湊にも近い地理的にはふさわしい場所に鎮座する神社です。
 社殿では、旧林田村の郷社であり、926年に国府近くにあったものが現在地に移ってきたといいます。戦国末期の1597年(慶長2)に新社殿が建てられ、江戸時代には現在のような状況になったようです。どちらにしても讃岐一国の総社として存在したのは10世紀以降のことと研究者は考えているようです。
5讃岐国府と国分寺と条里制
 境内には総社神社遺跡があり、弥生時代中期中葉の壷形土器がほぼ完形で出土していることから、これまで弥生時代の遺跡とされてきました。しかし、改めて遺跡の立地を見ると、総社神社境内と東側・北側にまとまる総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地です。最初に見た国土地理院「5mメッシュ標高データ」でも、このエリアが小高い場所であることが確認できます。つまり、総社神社周辺の微高地は、自然堤防もしくは砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所で、8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡といえるようです。
 この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出てきます。ここからは、外部との交易活動を行う港湾機能をもった湊ではなかったのかと推測できます
 古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります
ここも古代は漁労活動(飯蛸漁)を行っていたのが8世紀後半頃から交易機能へ転じていったことが分かっています。これは総社神社遺跡の活動と、同じ時期のようです。

3綾川河口条里制

3.菅原道真が「寒早十首」を詠ったのは林田湊?
 讃岐に国司としてやって来た菅原道真は、庶民の生活に視線を注いでいます。『菅家文草』巻第三の「寒早十首」には「賃船の人」(206)・「魚を釣る人」(207)・「塩を売る人」・「商(塩商人)」(208)が、津頭(港のたもと)に集い売買や廻漕の請け負いをする姿が詠われています。

3菅原道真が「寒早十首」
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早釣魚人    寒さは釣魚人に早く来る
陸地無生産    陸地じゃ何にもできないから
孤舟独老身    じいさん一人で舟の上
撓絲常恐絶    釣り糸切れそうで心配し
投餌不支貧    魚とれても貧乏のまんま
売欲充租税    税金ばっかり取られっぱなし
風天用意頻    風空まかせのその日暮らし

何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民攉    お役人に訴えたくて、港で待っているんだ。
886年(仁和2)に作られたと見られるこの漢詩を通して、たくましい庶民の暮らしが見えてきます。  讃岐人にとって、先祖に当たるこの人達を道真が見かけた湊はどこなのか?というのは古くから興味の的でした。まず最初に思い浮かぶのは、
「予れ近会、津の11る客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」
との自註(234)があり、別の詩(222)で「小松を分かち種ゑて」と詠んだ「官舎」=「松山館」に程近い「松山津」です。しかし、松山津は現地に立ってみると分かるとおり雄山・雌山の東側に広がる入江に面した閉鎖的な港湾です。そのため
「松山館の主要機能は要人の接待・逗留であることから、限られた人的な移動(交通)を前提にするものであり、一般的な流通とは一応切り離される
と考える研究者が今では多いようです。
 これに対して林田郷周辺は、綾川の河川交通と海運が結びつく結節点です。「石清水八幡宮文書目論」(石清水文書)の1023年(治安3)の文書で讃岐国の石清水領として見える「林津」が、林田巷湾(林田津)とも考えられます。
 したがって「寒早十首」のいう「津頭」とは、林田(林津)の一角と捉え、総社神社遺跡周辺が最もふさわしい場所と多くの研究者は考えているようです。
 また、この漢詩には「津頭」には、「塩を売る人」が塩商人を訴えることを考えた「吏」がいたことが詠われています。ここからは、港湾の管理を行う役人と役所が存在したことがうかがえます。このような機能を持っていたのが総社神社遺跡のようです。
3綾川河口ezu JPG
 
次は林田町の綾川右岸に鎮座する総倉神社を見てみましょう。
先ほどの総社神社とよく似ていますから混同しないでください。
この神社の近くには西梶と東梶という地名が残っています。梶は「舵」で中世の船舵たちの拠点であったと考えられている地域です。
 ここには地元で「碇石」と呼称される石造物が2基あります。西碇石は総倉神社の西約150mの水田の中に、東碇石は同神社の東約100mの宅地にあります。
これらは『綾北問尋紗』(1755年、宝暦5年)には次のように記されています。
  攬(ともづな)石 〔神功〕皇后御船の梶取し石とて東西にあり。其間十町計り。
 神功皇后がここに着岸したのは、「三韓征伐」の際に強風が吹き航行が危険になったためと、同書の「東梶・西梶」の項で記されています。同じような説話は、幕末の『讃岐国名勝図会』にもあります。また、総倉神社境内の石製注連柱(1888年、明治21)の片側には「霊区碇石表神威」と刻されていて、総倉神社との関わりをうかがわせます。しかし。これは明治の神仏分離以前には牛頭天王(惣蔵天王)と呼ばれていたこの神社が神功皇后の船の右揖を守護したとする伝承(『綾北問尋炒』「東梶・西梶」「牛頭天王」の項)に由来するもののようです。
 「綾北問尋炒」では、両碇石(徴石)の間隔は10町(約1,100m)とされていますが、現在は約250mです。この違いはどこから来るのでしょうか。
同書が書かれた時には、東の碇石が東梶神社周辺にあったのではないかと研究者は考えているようです。ちなみに西碇石から東梶神社旧境内地までは800m程度であり、字「城ノ角」の東限までは約1,100mであることから、この推測は距離の点では整合します。
 東碇石が現在の石造物になったのは、神社郷士運動が進められる明治末期頃に東梶神社が総社神社に合併され、拠るべき伝承地がなくなってしまったためのようです。その時に、東碇石が東梶から移されたのか、新たに西梶の石造物が東碇石とされたのかは分かりません。
 東西の碇石を考古学者は次のように分析しています
西碇石は五夜ケ嶽産の凝灰角傑岩で作られた六角石憧であり、東碇石は五夜ヶ嶽産凝灰角傑岩の五輪塔水輪と考えられる。両者ともに15~16世紀の所産と思われ、伝承で語られるような係船石柱ではないことは明確である。
 つまり、碇石(緻石)というのは事実無根な伝承ということになります。しかし、この地域の石造物の多くが総社神社や薬師院(総倉神社)に集められたのに、西碇石だけは、ぽつんと水田の中に斜めに埋まって残されたのでしょうか。その不思議さは消えません。

3綾川河口条里制
2.中世の梶取名と「潮入新開」
 先ほど述べたように中世の東梶・西梶は、八坂神社文書や「昭慶門院領目録案」、薬師院所蔵の鰐口銘(1390年、明徳元)には「梶取名」と呼ばれていたことが記されています。
 京都の祇園社は、文永年間(1264~74年)に林田郷内の「湖(潮力)人新開」を寄進され、開発を進めていました。この「新開」はどこなのでしょうか?
 祇園社関係の史料を見ると、 1340年(暦応3)の「顕増譲状」に次のような記載があります。
 讃岐国・(潮力)入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪附等在之
 「塩浜5反のうち、3反分に条里の坪付がある」というのです。ここから塩浜(塩田)の一部は条里制の中にあったことが分かり、条里型地割の広がるエリアに近接して塩田があったうかがわれます。ここで祇園社領の新開田が、「湖入新開」あるいは「潮入新開」と記されていることを再確認すると「湖入」というのは、綾川旧河道と砂堆の間のラグーン状の水域と推測できます。以上から八坂神社領として新田・塩浜の開発が行われたのは、東梶・西梶・川向(以上、林田町)、東条・南条(以上、江尻町)付近のエリアの範囲内であったと研究者は考えているようです。
 条里型地割を伸ばしての開発と、地形に応じた不定形な開発単位。この二者が、綾川河ロエリアの中世開発パターンであったようです。京都の祇園社は、そうした土地や飛び地を少しずつ開発したことが見えてきます。
以上をまとめると
①古代讃岐には五色台を挟んで「東の古・高松湾と西の古・坂出湾」のふたつの大きな湾入があった。
②古代の古・坂出湾では、林田津と福江津が並び立っていた
③総社神社遺跡が古代林田津であると考えられる
④菅原道真が「寒早十首」を詠ったのも林田湊ではないか?
⑤総倉神社周辺は、京都の祇園矢坂神社の荘園があり周辺の開発を行っていた。
参考文献
西村尋文・佐藤竜馬  綾川河口域における開発史一古代から中世の林田郷周辺-
                    香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
関連記事

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

  


このページのトップヘ