西村遺跡は、国道32号綾南バイパス工事にともなう発掘調査で、古代から中世の須恵器・瓦窯跡と集落が一緒に出てきました。そのエリアは道路面なので、陶ローソン付近から東の長楽寺辺りまでに細長く広がる遺跡になります。
西村遺跡概念図
西村遺跡が、どんな所に立地するのかを見ておきましょう。
発掘調査によって遺構が確認された範囲は、東西1.1kmになり、遺構も連続しています。遺跡をふたつに分けるかたちで御寺川が東から西へ流れ、北条池の下で綾川と合流します。この谷の北側が、この地区の甘南備的存在である十瓶山から続く南麓斜面になります。谷の南側は、富川との間に挟まれ上面がほぼ平坦な台地(西村台地)が続きます。また谷の両側には御寺川に連なる小さな谷地形がいくつもあります。
こうしてみると西村遺跡は、地形的には御寺川で西村北地区と山原・川北地区の2つに分けることができます。さらに小規模な谷筋で西村北(西部・中部・東部)に、後者は2群(山原地区・川北地区)に細区分します。西村遺跡は、これらの複合した遺跡群と捉えることができるようです。
各地区の遺構のあった時期を西から順番に、一覧表にしたものが下の表です。
この表を見ると、西村北区中部からは西村1~2号窯跡が出土しています。その時期は、11世紀~13半ばまでで、それ以後に窯跡はありません。その東に当たる東部地区からは、窯跡が姿を消した後に建物群が姿を現しています。これをどう考えればいいのでしょうか?
発掘調査を指揮した廣瀬常雄氏は、西村遺跡について次のようにまとめています。
①西村遺跡の性格をよく表しているのは、掘立柱建物と窯跡(西村1~3号窯跡)であり、住居と生産遺構が時代別にあること②時期的には、窯跡や粘土採掘坑(土坑群)を含めた生産遺構は5期(12世紀後葉)まで、それ以降に居住遺構が認められる。③建物や溝の方位を規制する地割の存在と近世以前の耕作土の存在から、建物群の形成期には周辺が耕地化されていた。
ここからは、もともとは西村遺跡は窯業生産地であったが、6期(12世紀末葉)以降は、須恵器生産を終えて周辺一帯の開墾を行い農村へと変貌していったことになります。つまり、窯業地帯から農村への転進が中世初頭に行われたという結論になります。
これに対して、違和感を持ったのが佐藤竜馬氏です。
今回は、西村遺跡を佐藤氏がどう捉えているのかを見ていきたいと思います。テキストは「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討 埋蔵文化センター研究紀要 1996年」です。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
上表では12世紀後半に窯跡は消えますが、その後も「土坑群」と「焼土穴」は残っていたことが分かります。土坑穴は、須恵器の原料になる粘土を採集した穴跡で、「焼土穴」も窯の一種と考えられるようになりました。そうすると、西村遺跡では、その後も須恵器生産が続いていたことになります。
もうひとつは西村遺跡西の特徴的土器とされる「瓦質土器」の存在です。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
西村遺跡からは、中世前期の焼土坑が19基出土しています。その内訳は、西村北地区西部3基、西村北地区山東部6基、山原地区5基、川北地区5基です。これらが煙管状窯だった可能性が高くなります。
「煙管状窯」とは、どんな窯なのでしょうか
煙管状窯は、円筒形の窯体中位に火格子(ロストル)を設けることで上下に窯室(燃焼部・焼成部)を持つ垂直焔(昇焔)式の窯のようです。須恵器生産地では、燃焼部が窯体手前に袋状に延びたり、焼成部で絞り込まれるものがあります。これは燃焼部内のガス圧を高めて、焔を効率的に焼成部へ吹き上がらせるための工夫と研究者は考えています。
煙管状窯の系譜は、12世紀の東播磨系の窯では穴窯と焼成器種を分担・補完する窯であったことが分かっています。
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが?
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが?
「土器を並べて行き5段から6段程積みあげる。各々の土器は窯の中心において底面を合わせる様にして土器をきっちり詰め込む」
土師器皿を7000枚前後詰め込むことができたと報告されています。 研究者は、十瓶山窯の平均的規模の穴窯(焼成部長5.5m、幅1.3m)で試算しています。重ねられた1単位の個体数を平均15個程度ですので、床面に245単位を並べることができたとしても3675個が窯詰めができるだけです。これを焼土坑18の窯詰め量と比較すると、3倍程度にしかなりません。標準的な穴窯の焼成部床面積は7,15㎡です。焼土坑18の床面積はわずかに0,5㎡にしか過ぎません。面積比は14:1になります。しかし、窯詰め比率は3:1なのです。これは煙管状窯が焼成部内の空間をフルに活用できるのに対して、穴窯には「製品を積む高さにも限界が」あり、「窯体容積の割には生産力の低い窯であことに起因する」ことを研究者は指摘します。
さらに、煙管状窯は容積が小さい上に垂直焔構造のために、害窯よりも燃料効率がよく、温度調節も簡単で、焼成時間も短時間化できたようです。燃料消費量の節約ばかりだけでなく、年間使用回数によっては、穴窯で焼くよりもコストがかからず利便性が高かったことが考えられます。ここからは煙管状窯を「小型」な窯とだけという視点では捉えられないと研究者は指摘します。
西村遺跡の主生産品である須恵器椀などは低火度還元焔焼成品なので、煙管状窯で焼成する方があらゆる点で効率的だったと考えられます。
焼土坑は、煙管状窯の基底部との共通点が多いようです。そのため削平された地上(半地上)式の煙管状窯と見倣してよいと研究者は考えます。これらの焼土坑(煙管状窯)では、何が焼かれていたのでしょうか。
出土遺物で最も多いのは碗のようです。煙管状窯の操業期の12世紀後葉~13世紀後葉には、同じような形態・技法をもつ椀の多くは瓦質焼成です。ここから煙管状窯では、軟質焼成の須恵器椀が生産されていたことがうかがえます。
粘土採掘坑群
土坑群は、調査区内で8箇所で見つかっています。その立地は、谷筋に向う傾斜面の縁辺で地山が粘土層の地点です。土坑群が粘土採掘跡であったことの理由について、研究者は次のような点を挙げます。
①地形・地質に左右された立地②形状・規模に規則性がないこと③土器が出土した遺構が少なく、出土状況が多様であること④掘削のために使われた道具が出土した事例があること⑤窯業生産地に隣接し、操業時期的にも同時代であること
以上の理由から土坑群の多くは、粘上を採掘した跡とします。川北地区の土坑群8からは、多くの遺物が出てきました。これは、隣接する焼土坑18・19から焼土・土器の廃棄が行われたためで、粘土採掘坑が廃棄土坑に転用されたためと研究者は考えているようです。
遺構レイアウトを、山原地区で見ておきましょう。
西村遺跡山原地区の遺構配置
山原地区は、時期幅によって、次の4群に整理されています
①土坑群の掘削された11世紀中葉~13世紀中葉②西村3号窯跡の操業期である12世紀前葉③掘立柱建物・溝・墳墓・焼土坑のみられる12世紀末葉~13世紀前葉④多量の遺物を含んだ廃棄土坑のみられる13世紀中葉
土坑群は継続期間が長く、③の遺構とは同時並行期間があります。出土した遺物は11世紀中葉~12世紀前葉で、建物・溝を破壊した土坑がないようです。ここからは土坑群の大半は③の遺構群の時期よりも前に掘られたもので、③の時期にも掘削が続きますが、次第に低調になったと研究者は考えているようです。以上から12世紀末葉~13世紀前葉の遺構とされています。
建物群は、建物34(J群)、建物35~37(k群)、建物38(i群)、建物39・40(m群)の4グループに分けられます。
建物の主軸は、真北方向を意識しているようで、周囲の地割とほぼ平行になります。建物の規模は15~25㎡前後のものが多く、西村北地区東部の建物群よりも小規模です。ただし建物群の全体が窺えるのは、中央にあるK群(35~37)だけです。K群には廂や床束などの構造的な差異はありませんが床面積45mの建物(建物37)があります。中型建物1棟と20m前後以下の小型建物2棟(35・36)と3つの建物で1セットです。建物の周囲に、雨落ち溝的な小溝が掘られています。建物群には時期差があるようで、K群が13世紀前葉、m群が12世紀末葉~13世紀初とされています。
一方、研究者が注目するのは墳墓です。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
焼土坑は建物40の中から、5基出ています。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
このうち焼土坑10・12~14が煙管状窯とされています。焼士坑11は焼土(窯壁)や失敗品の廃棄土坑とされています。削平されていて、遺物はほとんど出土していませんが焼土坑10の周囲の遺構や包含層の遺物は13世紀前葉のものです。また焼土坑11からは12世紀末葉~13世紀初頭の須恵器椀が出土しているので、隣接する焼土坑12~14も同じ13世紀初頭前後を研究者は考えています。
m群の煙管状窯は、同時期のものとされる建物40溝と13と関連性がうかがえるがある位置関係にあります。建物40と窯が同時にあったとすると、窯の覆い屋的な施設になる可能性があります。
この他、御寺川の谷斜面に面した土坑5では、13世紀中葉の須恵器椀などが大量に破棄されていました。ここではヘラとみられる竹製工具も出土しています。こうした廃棄土坑があったことは、k群やm群の建物群が廃絶した後にも、付近で土器生産が行われていた可能性があると研究者は考えています。
以上のように各地区を検討した後に、西村遺跡について研究者は次のようにまとめています。
①西村遺跡では、12世紀中葉~13世紀後葉の間の期間、地上式の煙管状窯b類が各地区に複数あった。ここでは、軟質焼成の須恵器椀・捏鉢、恵器壷や叩き成形の鍋が焼成されていた。
②建物群が初めて姿を見せるのは、川北地区(N群)で11世紀後葉のこと。他地区では12中葉以降に始まり、13世紀後葉になると衰退し、14世紀前葉をもって廃絶する。
③西村北地区東部では建物跡が重っているので、比較的長期間建て替えながら存在した。
④床面積25m以上の大きな建物1棟と、20㎡以下の小型建物1~2棟が同時併存したこと。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。
以上から、中世前期の西村遺跡は12世紀中葉以降、急速に遺構群の形成が始まり、13世紀後葉には次第に廃絶に向うことが分かります。その操業単位については、建物群の構成や屋敷墓から見えるようにを自立した家族単位で行われていたと研究者は考えているようです。この時期の遺構は各単位(建物群)が煙管状窯を、いくつか持ち、原料となる粘土採掘場を共有で使うという姿が描けます。西村遺跡では「居住遺構」と「生産遺構」が不可分な関係を持ちながら消長した」と、研究者は記します。以上からは、13世紀中葉~14世紀前葉の西村遺跡は、軟質焼成の須恵器を中心にとした土器生産集団の活動の場であったと結論づけます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討 埋蔵文化センター研究紀要 1996年」最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献