瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐古代史 > 讃岐の古代窯跡

十瓶山窯跡支群分布図2
十瓶山窯跡群 C地区が西村遺跡

西村遺跡は、国道32号綾南バイパス工事にともなう発掘調査で、古代から中世の須恵器・瓦窯跡と集落が一緒に出てきました。そのエリアは道路面なので、陶ローソン付近から東の長楽寺辺りまでに細長く広がる遺跡になります。
十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

西村遺跡が、どんな所に立地するのかを見ておきましょう。
 発掘調査によって遺構が確認された範囲は、東西1.1kmになり、遺構も連続しています。遺跡をふたつに分けるかたちで御寺川が東から西へ流れ、北条池の下で綾川と合流します。この谷の北側が、この地区の甘南備的存在である十瓶山から続く南麓斜面になります。谷の南側は、富川との間に挟まれ上面がほぼ平坦な台地(西村台地)が続きます。また谷の両側には御寺川に連なる小さな谷地形がいくつもあります。
 こうしてみると西村遺跡は、地形的には御寺川で西村北地区と山原・川北地区の2つに分けることができます。さらに小規模な谷筋で西村北(西部・中部・東部)に、後者は2群(山原地区・川北地区)に細区分します。西村遺跡は、これらの複合した遺跡群と捉えることができるようです。
各地区の遺構のあった時期を西から順番に、一覧表にしたものが下の表です。
十瓶山 西村遺跡推移標

 この表を見ると、西村北区中部からは西村1~2号窯跡が出土しています。その時期は、11世紀~13半ばまでで、それ以後に窯跡はありません。その東に当たる東部地区からは、窯跡が姿を消した後に建物群が姿を現しています。これをどう考えればいいのでしょうか?
発掘調査を指揮した廣瀬常雄氏は、西村遺跡について次のようにまとめています。
①西村遺跡の性格をよく表しているのは、掘立柱建物と窯跡(西村1~3号窯跡)であり、住居と生産遺構が時代別にあること
②時期的には、窯跡や粘土採掘坑(土坑群)を含めた生産遺構は5期(12世紀後葉)まで、それ以降に居住遺構が認められる。
③建物や溝の方位を規制する地割の存在と近世以前の耕作土の存在から、建物群の形成期には周辺が耕地化されていた。
 ここからは、もともとは西村遺跡は窯業生産地であったが、6期(12世紀末葉)以降は、須恵器生産を終えて周辺一帯の開墾を行い農村へと変貌していったことになります。つまり、窯業地帯から農村への転進が中世初頭に行われたという結論になります。

これに対して、違和感を持ったのが佐藤竜馬氏です。
今回は、西村遺跡を佐藤氏がどう捉えているのかを見ていきたいと思います。テキストは「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」です。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
  上表では12世紀後半に窯跡は消えますが、その後も「土坑群」と「焼土穴」は残っていたことが分かります。土坑穴は、須恵器の原料になる粘土を採集した穴跡で、「焼土穴」も窯の一種と考えられるようになりました。そうすると、西村遺跡では、その後も須恵器生産が続いていたことになります。
 もうひとつは西村遺跡西の特徴的土器とされる「瓦質土器」の存在です。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
 西村遺跡からは、中世前期の焼土坑が19基出土しています。その内訳は、西村北地区西部3基、西村北地区山東部6基、山原地区5基、川北地区5基です。これらが煙管状窯だった可能性が高くなります。
「煙管状窯」とは、どんな窯なのでしょうか
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯
煙管(きせる)状窯
煙管状窯は、円筒形の窯体中位に火格子(ロストル)を設けることで上下に窯室(燃焼部・焼成部)を持つ垂直焔(昇焔)式の窯のようです。須恵器生産地では、燃焼部が窯体手前に袋状に延びたり、焼成部で絞り込まれるものがあります。これは燃焼部内のガス圧を高めて、焔を効率的に焼成部へ吹き上がらせるための工夫と研究者は考えています。

煙管状窯の系譜は、12世紀の東播磨系の窯では穴窯と焼成器種を分担・補完する窯であったことが分かっています。
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが? 

十瓶山 西村 煙管状窯
煙管状窯

ところが、具体的な窯詰め方法を考えると、そうとも云えないようです。煙管状窯では空間利用が非常に効率的に行われていたようです。近・現代の垂直焔構造の窯では焼成部内に隙間なく製品を積み上げて、最上段を壁体よりもさらに上に盛り上げています。木野・伏見・市坂(京都府)、有爾(二重県)、御厩(香川県)などで、 このような窯詰方法が行われているようです。
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯

田中一廣氏の報告書は、次のように述べています。
「土器を並べて行き5段から6段程積みあげる。各々の土器は窯の中心において底面を合わせる様にして土器をきっちり詰め込む」

土師器皿を7000枚前後詰め込むことができたと報告されています。 研究者は、十瓶山窯の平均的規模の穴窯(焼成部長5.5m、幅1.3m)で試算しています。重ねられた1単位の個体数を平均15個程度ですので、床面に245単位を並べることができたとしても3675個が窯詰めができるだけです。これを焼土坑18の窯詰め量と比較すると、3倍程度にしかなりません。標準的な穴窯の焼成部床面積は7,15㎡です。焼土坑18の床面積はわずかに0,5㎡にしか過ぎません。面積比は14:1になります。しかし、窯詰め比率は3:1なのです。これは煙管状窯が焼成部内の空間をフルに活用できるのに対して、穴窯には「製品を積む高さにも限界が」あり、「窯体容積の割には生産力の低い窯であことに起因する」ことを研究者は指摘します。
 さらに、煙管状窯は容積が小さい上に垂直焔構造のために、害窯よりも燃料効率がよく、温度調節も簡単で、焼成時間も短時間化できたようです。燃料消費量の節約ばかりだけでなく、年間使用回数によっては、穴窯で焼くよりもコストがかからず利便性が高かったことが考えられます。ここからは煙管状窯を「小型」な窯とだけという視点では捉えられないと研究者は指摘します。
 西村遺跡の主生産品である須恵器椀などは低火度還元焔焼成品なので、煙管状窯で焼成する方があらゆる点で効率的だったと考えられます。
 焼土坑は、煙管状窯の基底部との共通点が多いようです。そのため削平された地上(半地上)式の煙管状窯と見倣してよいと研究者は考えます。
これらの焼土坑(煙管状窯)では、何が焼かれていたのでしょうか。
出土遺物で最も多いのは碗のようです。煙管状窯の操業期の12世紀後葉~13世紀後葉には、同じような形態・技法をもつ椀の多くは瓦質焼成です。ここから煙管状窯では、軟質焼成の須恵器椀が生産されていたことがうかがえます。

粘土採掘坑群 
 土坑群は、調査区内で8箇所で見つかっています。その立地は、谷筋に向う傾斜面の縁辺で地山が粘土層の地点です。土坑群が粘土採掘跡であったことの理由について、研究者は次のような点を挙げます。
①地形・地質に左右された立地
②形状・規模に規則性がないこと
③土器が出土した遺構が少なく、出土状況が多様であること
④掘削のために使われた道具が出土した事例があること
⑤窯業生産地に隣接し、操業時期的にも同時代であること
以上の理由から土坑群の多くは、粘上を採掘した跡とします。川北地区の土坑群8からは、多くの遺物が出てきました。これは、隣接する焼土坑18・19から焼土・土器の廃棄が行われたためで、粘土採掘坑が廃棄土坑に転用されたためと研究者は考えているようです。
遺構レイアウトを、山原地区で見ておきましょう。

十瓶山 西村遺跡 山原地区
西村遺跡山原地区の遺構配置

山原地区は、時期幅によって、次の4群に整理されています
①土坑群の掘削された11世紀中葉~13世紀中葉
②西村3号窯跡の操業期である12世紀前葉
③掘立柱建物・溝・墳墓・焼土坑のみられる12世紀末葉~13世紀前葉
④多量の遺物を含んだ廃棄土坑のみられる13世紀中葉
土坑群は継続期間が長く、③の遺構とは同時並行期間があります。出土した遺物は11世紀中葉~12世紀前葉で、建物・溝を破壊した土坑がないようです。ここからは土坑群の大半は③の遺構群の時期よりも前に掘られたもので、③の時期にも掘削が続きますが、次第に低調になったと研究者は考えているようです。以上から12世紀末葉~13世紀前葉の遺構とされています。

建物群は、建物34(J群)、建物35~37(k群)、建物38(i群)、建物39・40(m群)の4グループに分けられます。
建物の主軸は、真北方向を意識しているようで、周囲の地割とほぼ平行になります。建物の規模は15~25㎡前後のものが多く、西村北地区東部の建物群よりも小規模です。ただし建物群の全体が窺えるのは、中央にあるK群(35~37)だけです。K群には廂や床束などの構造的な差異はありませんが床面積45mの建物(建物37)があります。中型建物1棟と20m前後以下の小型建物2棟(35・36)と3つの建物で1セットです。建物の周囲に、雨落ち溝的な小溝が掘られています。建物群には時期差があるようで、K群が13世紀前葉、m群が12世紀末葉~13世紀初とされています。
 一方、研究者が注目するのは墳墓です。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
 
 焼土坑は建物40の中から、5基出ています。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
このうち焼土坑10・12~14が煙管状窯とされています。焼士坑11は焼土(窯壁)や失敗品の廃棄土坑とされています。削平されていて、遺物はほとんど出土していませんが焼土坑10の周囲の遺構や包含層の遺物は13世紀前葉のものです。また焼土坑11からは12世紀末葉~13世紀初頭の須恵器椀が出土しているので、隣接する焼土坑12~14も同じ13世紀初頭前後を研究者は考えています。
 m群の煙管状窯は、同時期のものとされる建物40溝と13と関連性がうかがえるがある位置関係にあります。建物40と窯が同時にあったとすると、窯の覆い屋的な施設になる可能性があります。
 この他、御寺川の谷斜面に面した土坑5では、13世紀中葉の須恵器椀などが大量に破棄されていました。ここではヘラとみられる竹製工具も出土しています。こうした廃棄土坑があったことは、k群やm群の建物群が廃絶した後にも、付近で土器生産が行われていた可能性があると研究者は考えています。

  以上のように各地区を検討した後に、西村遺跡について研究者は次のようにまとめています。
①西村遺跡では、12世紀中葉~13世紀後葉の間の期間、地上式の煙管状窯b類が各地区に複数あった。ここでは、軟質焼成の須恵器椀・捏鉢、恵器壷や叩き成形の鍋が焼成されていた。
②建物群が初めて姿を見せるのは、川北地区(N群)で11世紀後葉のこと。他地区では12中葉以降に始まり、13世紀後葉になると衰退し、14世紀前葉をもって廃絶する。
③西村北地区東部では建物跡が重っているので、比較的長期間建て替えながら存在した。
④床面積25m以上の大きな建物1棟と、20㎡以下の小型建物1~2棟が同時併存したこと。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。

以上から、中世前期の西村遺跡は12世紀中葉以降、急速に遺構群の形成が始まり、13世紀後葉には次第に廃絶に向うことが分かります。その操業単位については、建物群の構成や屋敷墓から見えるようにを自立した家族単位で行われていたと研究者は考えているようです。この時期の遺構は各単位(建物群)が煙管状窯を、いくつか持ち、原料となる粘土採掘場を共有で使うという姿が描けます。西村遺跡では「居住遺構」と「生産遺構」が不可分な関係を持ちながら消長した」と、研究者は記します。以上からは、13世紀中葉~14世紀前葉の西村遺跡は、軟質焼成の須恵器を中心にとした土器生産集団の活動の場であったと結論づけます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」




       十瓶山 綾奧下池南遺跡
   

  前回は十瓶山窯跡の瓦窯跡めぐりに必要な地図と予備知識を見ておきました。今回は、十瓶山窯跡群についての研究史的なものに出会いましたので紹介したいと思います。テキストは 「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」です。この報告書には、西村遺跡を中心に十瓶山窯群についての概説や研究史的なものがコンパクトにまとめられて、私にはありがたい資料です。この報告書にもとづいて、十瓶山窯跡群を見ていきたいと思います。
十瓶山窯跡分布図5

 最初に、この窯跡群の呼称についてですが十瓶山(陶)窯跡群の両方が使われています。どちらの呼称を用いても問題ないのでしょうが「陶(スエ)」という地名は、堺市の陶窯跡など各地にあります。そのため、地域名をつけないと混同します。そこで森浩一氏は「その地域の中心的存在で、また窯業を象徴する十瓶山の名を採る」として、「十瓶山窯跡群」と呼んでいます。以後は、これに従いたいと思います。それでは見ていきます。
 1967(昭和42)に、府中湖造成の際に水没窯跡4基と関連窯跡2基の発掘調査が行われます。同じ年に同志社大学が十瓶山北麓窯跡の発掘調査を行っています。

十瓶山 北麓窯
十瓶山窯跡群 北麓遺跡出土の十瓶山式甕
この窯跡の調査理由として森浩一氏は次のように述べています。

「全国的にも特徴がつよくあらわれている平安時代後期と推定される甕形土器を主に生産している窯を発掘することにした」

そして森氏は出土した特徴的な広口長胴平底甕を「十瓶山式甕」と命名して、11~13世紀のものとし、十瓶山窯跡群について、次のような点を指摘します。
①十瓶山窯跡群が綾川の水運によって讃岐国府と結び付けられていたこと、その経営に国府が関与していたこと
②平安時代後期の「十瓶山式甕」が甕専業の窯で大量生産されていること。
③「十瓶山式甕」が徳島県花園窯跡でも生産されていることを紹介し、「十瓶山の工人が、ある期間この地で生産に従事していたのではないかと考えられる」と指摘した。
④瓦窯が須恵器窯とは別個にあることに注目して、讃岐国内の諸寺院からの需要や、平安京内への搬出がこのような生産体制を必要としたことも示唆した。
十瓶山  西村遺跡出土の大型甕
大型の十瓶山式甕

渡部明夫氏も森氏の視点を継承し、次のような点を指摘しました。
「一郡一窯」体制であった讃岐岐国の須恵器生産が、8世紀前半頃に十瓶山窯跡群の独占体制に急激に置き換わっていくことを、国衛権力が十瓶山窯跡群を管轄するようになったことから説明します。そして打越窯跡の開窯には、当初坂出平野の地域権力(綾氏)が介在し、国府が設置されると打越窯が国衛機構に組み込まれたと考えました。
 国衛機構下では、新たに登場した国府や国分寺・国分尼寺などでの大量需要が生まれ「陶窯跡群の国衛に対する依存は強まり、国衙による陶窯跡群の掌握も容易になされるように」なったこと、さらに各地の旧首長の地域権力が微弱になったことで各地の窯が廃絶し、十瓶山窯跡群の製品が讃岐全域 に流通することになったとします。
 また『延喜式』の規定にも触れ、貢納須恵器が十瓶山窯跡群で生産されていた可能性を指摘し、国衙の意志が十瓶山で生産に反映されやすいという状況があったことを指摘します。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土2

さらに平安時代の須恵器生産については、「そこには革新的な面よりむしろ、伝統的・停滞的な面が強いように思われる」と判断します。
その理由として次のような点を挙げます。
①製作段階においてロクロ水挽き技法や底部糸切り技法が最後 まで導入されずに「伝統的な技法」による生産が続いたこと
②窯体構造 に大きな改良の痕跡がみられないこと
など「技術革新」が行われていないことを指摘します。そして12世紀になると、生産が急速に衰退するという変遷観が示されます。こうして次のように結論づけます。

「備前焼のように須恵器の中から中世陶器を生み出し、新たな生産を発展させた形跡はみられない」

これに対して、渡部氏は大型品と小型品を焼く窯が分離した平安時代中・後期の様相 を指摘 し、「 そこに分業的な生産の萌芽を認めることができるか もしれない」との+評価もしています。
十瓶山西村遺跡山原地区出土

 1975(昭和50)年頃になると国道32号綾南バイパス建設のための事前調査や周辺の宅地開発などで発掘調査数とエリアが拡大するようになります。

十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

国道32号バイパス工事にともない昭和1980年前後に行われた西村遺跡の発掘調査では、中世前期を中心 とした掘立柱建物群や粘土採掘坑、融着品を含む廃棄土坑などが窯跡とともに出てきました。この結果、中世前期の十瓶山窯跡群の土器生産について、新たに多くのことが分かるようになりました。特に西村1号窯跡では、瓦と須恵器が一緒に出てきて、須恵器の実年代をめぐって多くの議論が交わされました。

須恵器 打越窯跡地図
十瓶山窯跡群のスタート地点となる打越窯跡

 その2年後の1982年 に発掘された打越窯跡では、窯自体は発掘されませんでしたが、灰原から7世紀中葉~末葉の須恵器が多量に出土しました。この結果、十瓶山窯跡群における操業開始期がここまで遡ることと、打越窯跡が十瓶山窯跡群のスタートとなることが分かりました。
 さらに1983(昭和58)年 と1994(平成5)年 に行われたすべっと窯跡群の発掘調査では、9世紀後葉~10世紀前葉の須恵器窯が大量に集中して出てきました。そこでは大型品の壷や甕を中心に焼く窯 と、小型の杯・皿を焼成するロストル式窯が並んで造られ、器種に応じて使い分けられていたことが分かってきました。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土4
すべっと4号窯跡出土

次に十瓶山窯の須恵器編年が、どのように作られたのかを見ておきましょう。
1965年頃に、四国の古代窯業生産をまとめた六車恵一氏の依拠資料の多くは、断片的な採集品に基づくものでした。そのため須恵器の編年を体系的に示せるものではありませんでした。そんな中で、田辺昭三氏による讃岐の須恵器の編年が開始されます。
 1968(昭和43)年、府中湖造成に伴う窯跡の発掘調査によって、初めて奈良・平安時代の須恵器の変遷について、報告書では次のような「見通し」が出されます。
①庄屋原2号窯跡 と池宮神社南窯跡の資料を比較すると、形態が比較的似ている。
②丸底に近い底部をもつ無高台杯が庄屋原3号窯跡には少ないこと
③庄屋原3号窯跡に比べて池宮神社南窯跡の杯蓋天井部のツマミの方が高く突出し、天井部も段状に屈曲するなど、古式のスタイルを留めること
以上から庄屋原窯跡と、池宮神社南窯跡を比較すると、「スタイルは一致するが、器形の組み合せや細部については必ずしも形式的特徴を同じくするとは云い難い」 として、鉄鉢形の類例から庄屋原3号窯跡を大阪府陶邑窯跡群のMT21型式、岡山のさざらし奥池式に併行する時期に比定します。
 また池宮神社南窯跡や庄屋原3号窯跡の後に続くものとして、「高台が全く退化してしまったか、又は高台が付 けられても形式的になり貧弱なものでしかない」一群を指摘します。これがすべっと1号窯跡・ 田村神社東窯跡・ 明神谷窯跡のもので、直線的に立ち上がる体部・口縁部をもつ椀の存在、杯・蓋の消滅、叩き目を施した平底の瓶が現れることが特徴とします。そして、平安中期の菊花双鳥文鏡を伴出した金剛院経塚(まんのう町)から、体部の直線的な片口鉢が出土していることから、これらの一群を平安時代前期のものとします。そして、岡山の鐘鋳場窯跡と併行する時期とと考えます。
 この編年案については、いろいろな問題がありましたが、岡山や近畿の編年を念頭に置きながら設定された相対的な前後関係については、その後の編年作業の基礎になったと評価されています。

水没窯跡の調査報告書の奈良・平安時代前期の変遷案 と、森氏らによる平安後期~鎌倉時代の変遷案を受けて、新規の窯跡採集資料も交えながら初めて開窯期から終焉 (廃窯)期までの変遷を提示 したのが渡部明夫氏です。

十瓶山窯跡編年表
十瓶山窯跡編年対照表

渡部氏は 1980(昭和55)年に、十瓶山窯跡群の須恵器を9時期 に分けて第10表のように示しました。

器種構成によって大まかな前後関係を決めて、そのうえで奈良・ 平安時代前期のものは杯・皿の形態・技法で、平安時代後期のものは甕の口縁端部形態や椀の形態によって細別するという手法がとられています。
 平安時代後期の須恵器の実年代については、西村1号窯跡で鳥羽南殿のものと同文瓦が須恵器と同時に出てきたした調査例を参考にして、西村1号窯跡を11世紀末前後とします。そしてかめ焼谷3号窯跡のものは、口縁端部にシャープさがなく、より後出的な要素をもつとして、「12世紀でもあまり下らないであろう」 と推定します。こうした一連の作業によって渡部氏は、十瓶窯跡群全体の推移を描くことに成功します。
十瓶山西村遺跡西村北地区 

 同じ頃に西村遺跡の調査を担当した廣瀬常雄氏は、この遺跡から大量に出てくる古代末~中世前期の土器編年を試みます。
これらの土器は、高台の付いた椀を中心としていましたが、同じ形態・技法でありなが ら焼成は不安定で、土師質・瓦質・ 須恵質と多様な様相を見せます。廣瀬氏 はその中でも「良好なカワラ質の土器」を「瓦質土器」と名付けて、土師器・黒色土器 とともに図10表のようなの編年表を示します。

十瓶山窯跡編年表
 廣瀬氏の編年作成の手法を見てみると、次のように遺構を3つに区分します。
土師器・黒色土器が出てくるる遺構 (遺構A)、
土師器・黒色土器・瓦質土器が出てくる遺構 (遺構 B)、
土師器・瓦質土器 を出土する遺構 (遺構 C)
そして椀以外の共伴内容を示 してA~ Cの3時期に大別できることを示します。その上で型式による細別を行っています。このようにして設定された1~9期の編年表で、西村1号窯跡灰原出土の黒色土器椀は3期に相当します。
①ここから3期を11世紀末頃
②4期は西村1号窯跡例よりも新しい須恵器甕があるので、12世紀前半
③6期の資料が出てきた溝から出土した輸入磁器から、6期を12世紀末葉~13世紀初頭。

以上の相対的な型式幅から1期は10世紀には遡らず、9期は14世紀には大きく入り込まないと想定します。この編年表によると、瓦質土器は3期に出現したことになります。このように廣瀬編年は、出土土器の一括性を考慮しながら設定されたものです。また型式的にも径
高指数がほぼスムーズな変化を示すので、ほぼ妥当なものであると評価されるようになります。

 しかし瓦質土器の系譜については、謎のままです。
瓦質土器は須恵器生産との関連があると考えられてきましたが、具体的には「どのような流れの中で生まれてくるものなのかが明確 にできなかった」と述べています。
 それは、西村1号窯跡に続くかめ焼谷 3号窯跡の年代が、「12世紀でもあまり下らない」とされ、瓦質土器生産が盛んになる頃には須恵器生産が衰退していたと理解されていたことと関連があるようです。
こうした実年代観に対して、異論が出されるようになります。
大山真充氏 は昭和60(1985)年に再検討を行い、それまでと異なった年代観を提示します。
大山氏が先ず指摘したのは、平安後期須恵器の実年代の重要な定点であった西村1号窯跡の瓦は、鳥羽南殿出土瓦とは同時代のものではないという点で、次のように述べます。
「1号窯出土瓦は鳥羽南殿出土瓦とは同文とはみなすことはできず、このため、年代推定についてもこれを白紙に戻して考えなければならないだろう」

 代わりに大山氏が示したのが、讃岐国分寺(昭和59年度調査のSDI最下層から西村産とみられる黒色土器椀 (4期)と 和泉型瓦器椀 (尾上編年II-2期 )が同時に出土したことです。そして4期を12世紀中葉と修正します。
 その後、高速道路やバイパスに伴う大規模発掘が進むと、県内各地で中世集落の調査事例が激増します。その結果、西村9期の瓦質椀と十瓶山窯跡で作られた須恵器甕が共伴する報告が増えます。こうして、13世紀代には両者が併存関係にあったことが分かってきます。 
 この上に立って荻野繁春氏は、西村遺跡出土の瓦質捏鉢や壷などを甕同様に中世須恵器系陶器として位置付けて次のような序列を示します。
西村 2号窯跡→西村 1号窯跡→赤瀬山 2号窯跡→かめ焼谷 3号窯跡・西村遺跡山原地区N14-SK03→ 西村遺跡山原地区S5-SK01

 こうなると次には、十瓶山窯跡群の終焉期の実年代 と、「瓦質土器」の関わりを整理し直す必要が生れます。
これに応えたのが片桐氏と佐藤氏で、新たな編年案を提示します。
まず片桐氏は、讃岐の中世土器を概観する中で、西村産の瓦質土器とされてきた椀・杯・小皿を須恵器の範疇で捉え直します。続いて瓦質捏鉢も須恵器とし、形態的な変化から細かく分けます。さらに、平安前期から鎌倉時代の須恵器を消費地の資料も援用しながら13小期 に細分します。
 この際に平安時代前期の標識窯にすべっと2号窯跡やかめ焼谷1号窯跡を、また平安時代後期初頭の西村2号窯跡に先行する標識窯として団子出窯跡を想定して渡部氏の変遷観をより細分します。これらの考察を通じて、甕以外の捏鉢・壺・椀などの器種が12世紀後葉に須恵質から瓦質へ変化することを指摘します。こうして須恵器と西村産瓦質土器との系譜関係に新たな解釈を示しました。

十瓶山須恵器編年
同じ頃に佐藤氏は、十瓶山窯跡群の須恵器編年案を提示します。
編年にあたって佐藤氏は、まず器種構成上の変化から第 I~ Ⅳ期の設定を行います。その上で各時期に特徴的で普遍的な器種によって細分化し、次のように指摘します。
①第Ⅱ期に蓋杯の法量分化がはっきりとあらわれないこと
②第Ⅲ期の器種構成に輸入磁器を模倣しようとする指向が薄いこと
③第Ⅳ期への転換が器種構成の大きな断絶を伴うが、一方で捏鉢・甕に形態的な連続性も認められること
 そして、また片桐氏の指摘と同じようにⅣ段階 (12世紀中葉~後葉)に軟質製品が多くなることを西村産瓦質土器でも明らかにします。
十瓶山  西村1・2号窯跡出土

 一方、羽床正明氏は文献史学的立場から平安時代後期の十瓶山窯跡群の生産体制を考察します。
 羽床氏は平安京の鳥羽南殿から出土した讃岐系瓦が、讃岐国守高階泰仲の成功行為によって生産されたことを認めながらも、実際の瓦生産への関与は伝統的な郡司層で在庁官人でもあった綾氏によって行なわれた点をより重視し、次のように述べています。
「鳥羽南殿の造営に際して、讃岐国遥任国司高階泰仲は京にあって、任国の在庁官人に瓦を焼くよう国司庁宣を下し、その意を受けて在庁官人である綾氏が陶の須恵器 (瓦 )生産者を率いて、瓦生産に当たった」

 また別稿では、鎌倉・室町時代の史料にみえる「陶保」の設定目的を11世紀に燃料供給源である山林の保護するためのものとして、須恵器・瓦生産のために国衛が設定したものとします。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土5

渡部氏は、平安時代の須恵器生産に停滞的な面を強調し、中世須恵器生産への転換を否定的に捉えました。それに対して地元の片桐孝浩氏と佐藤氏は、中世生産地への転換を積極的に捉える立場をとります。
片桐氏は、11世紀第2四半期 に大宰府周辺地域との技術的な交流の結果、「底部押し出し技法」による椀が出現すること。同時期に西村遺跡への須恵器・土師器工人が集住することによって生産組織の再編が行なわれたとします。
 佐藤氏は、時期別の窯跡分布状況から十瓶山窯跡群の生産構造について次のよう点を指摘します
①綾川に面した庄屋原窯跡群 (A一 b支群)では、8世紀前葉~10世紀前葉に継続的に窯場が操業していたこと
②十瓶山北東麓のすべっと窯跡群 (C一 e支群)では、9世紀後葉~10世紀前葉に響窯とロストル式窯による器種別の生産が行なわれたこと
③12世紀後半の西村遺跡の本格的な集落 (窯場)形成と、14世紀のかめ焼谷203号窯跡への甕生産の集約化によって、器種別分業を支える固定的な窯場経営が定着したこと
そして、③の動きを中世的な生産への転換と捉えます。

最後に十瓶山窯跡群の窯について、見ておきましょう。
十瓶山 窯跡群の断面図
十瓶山窯跡群の断面図

研究者は次のような特徴を指摘します。
①燃焼部から煙道部に至る窯体基底線が直線的であり、窯体幅に急激な変化が認められない。
②床面平均傾斜が25°前後のものが大部分で、10°前後の緩い床面傾斜いタイプの窯はない。
②規模は全長 7m前後、幅1、5m前後のものが多い。
④半地下式のものが大半であり、地上・半地上式のものはほとんど見つかっていない。
⑤窯は8世紀に採用された構造を改良することなく、終焉期を迎えている

12世紀後半以降の各地の中世須恵器生産地では、穴窯の床面傾斜が次第に緩くなる傾向があるようです。
十瓶山 窯跡群の断面図

 また分焔柱を設けたり(亀山窯)、障焔壁を備えたり(亀山窯・東播系諸窯)するなど、東海地方の姿器系陶器窯との技術交流の成果から窯体構造の改良が見られます。こうした動きと比較すると十瓶山窯の焼成技術の固定・保守的で「技術革新」が見られないようです。新たな改良点を上げるとすれば、「馬の爪」状の焼き台が12世紀に採用されているだけです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」

  ザックを背負って、地図とコンパスを持って山の中を若い頃に歩いていました。そのため地形図を持って、知らない土地を歩くのが今でも好きです。古墳や山城・古代廃寺めぐりは血が騒ぎます。最近、はまってるのが窯跡めぐりです。そのためには、詳細な地図を手に入れる必要があります。しかし。これがなかなか難しいのです。そんな中で見つけたのが陶(十瓶山)瓦窯跡群の詳細地図が入っている文章です。この地図で「フィールドワーク」(ぶらぶら歩き?)をするための自分用の資料を作成しましたのでアップしておきます。テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」です。

綾歌郡綾川町陶の十瓶山から府中湖周辺にかけては、陶(十瓶山)窯跡群と呼ばれる須恵器と瓦を生産した窯が集中的に分布します。古代から一大生産地を形成していたことは、『延喜式』主計寮式に、陶器(須恵器)が讃岐の調として記載されていることからも分かります。今回は、瓦窯に絞っての紹介になります。

十瓶山窯跡支群分布図1
陶(十瓶山)瓦窯跡分布図

 陶(十瓶山)窯跡群の範囲は、上図に示したように府中湖南部、北条池、十瓶山周辺になります。ただし、現在の地形は府中湖建設やため池設置、水田の基盤整備によって大きく改変されています。そのため、現地中に埋まってしまったものや湖岸にあるものがほとんどになています。しかし、もともとは、綾川に向かって開く谷状の地形に造られ、まわりには窯を造るのに適当な緩斜面があったようです。水運などの利用なども考えると、このような地形を巧みに利用して瓦窯が造営されたことが推察できます。それでは、確認できる瓦窯跡を地図で見ていくことにします。なお、窯跡名称の番号は、須恵器窯も含めたナンバリングのため、文章中に表記されず欠番のようになっているのは須恵器窯になるようです。

【下野原支群】第1図-1、

十瓶山 下野原支群
下野原支群

下野原支群は、府中湖の高速道の南側の東岸に位置します。
下野原1・2号窯跡(2図の1・2)が、深井池の北側から綾川に向かって開く谷の入口の北側緩斜面に立地します。陶(十瓶山)窯跡群の初期瓦窯とされる一群になるようです。この対岸には、須恵器の初期窯跡である打越窯跡があります。須恵器も瓦も、この辺りが陶窯跡群全体のスタート地点になるようです。
 下野原1・2号窯では窯壁片、須恵器、瓦片がまばらに分布しています。分布状態から焚口を南に向けてた穴窯が東西に並んで操業されていたと研究者は考えているようです。窯の構造は分かりませんが、須恵器や瓦片が5~10m範囲に散布していたようです。2基ともに軒瓦は出土していませんが、打越窯跡のものと考えられる須恵器と格子目の叩きをもつ平瓦が出土しています。
 下野6号窯(2図の4)は、普段は府中湖の中に水没しています。
水が引いた時に、窯の天井部が落ち込んだ状態で出現します。瓦片が採取でき、窯体の破片に混じって丸瓦も採集できたようです。下野原7号窯(2図の3)は府中湖の満水時の水位付近に、窯壁が散乱した状態で確認できるようです。かつては、瓦片も採集できたと云います。
 以上から、この支群は庄屋原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の初期の瓦窯とされています。
十瓶山 地下式穴窯

【内間支群】第1図-2、
府中湖に突き出た半島には、中世の庄屋原城址があります。
府中湖がなかった築城当時は、低地に突き出た丘陵という凄みのある要害の地であったのでしょう。丘陵の付け根を幅10m、深さ3。5mの堀切で遮断し、内部に8つの曲輪があることが報告されています。綾川の河川交易路を見守る要地に位置する中世城郭跡です。ここで古代の地形復元をしておきます。明治の地形図を、いつものように「今昔マップ」で見ておきましょう。
十瓶山 庄屋原1
明治の地形図に旧支流を水色で書き入れた地図
ここからは、庄屋原城址のある半島の東側には、水色で示した一本の支流が流れ込んでいた痕跡が見えてきます。この支流が綾川と合流する地点に、堤防を築いて造られたのが現在のカシヤキ池です。この支流跡沿いに田村うどん方面に、いくつかの瓦窯跡が並んでいます。まずは内間支群です。この支群は、次の2つの群からなります。

十瓶山 内間支群
①府中湖の庄屋原城址がある半島の東側の湖岸に立地する3基(10~12号)(5・6・7)
②カシヤキ池の南西部側の谷の5基(8~12号)。
②については、カシヤキ池の堤防がない時には、十瓶山北西麓から府中湖(旧綾川)に向かって開く深い谷の入口部で、川船が直下まで入ってくることができたようです。
①の群の3基周辺からは灰原が確認でき、北に焚き口を向けた窯が3基並んでいたようです。どの窯のものかは分かりませんが、次のような瓦が確認されています。
A 八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 高松市如意輪寺周辺で出土している八葉単弁蓮幸文軒丸瓦
C 丸山5号窯付近の瓦溜まり(SX01)
D 東かがわ市白鳥廃寺
E 京都市平安京左京二条二坊からも出土している八葉複千蓮華文軒丸瓦
F 外区に唐草文を施す均整唐草文軒平瓦
Fの軒平瓦は丸山5号窯付近の瓦溜り(SX01)、綾川町観音台廃寺・坂出市鴨廃寺などからも出てくる瓦
 ここからは、この瓦群で焼かれた瓦が京都や白鳥、府中周辺に運ばれたことが分かります。

②群のカシヤキ池周辺は、今は耕地整理の造成で谷が埋められ水田となり、当時の地形は分かりません。第3図のようにカシヤキ池に合流する小さな谷があり、その西側斜面に窯が造られたようです。1・8号窯はロストル式平窯であったことを研究者が確認していようです。2・13・9号窯では、焼上が確認されています。瓦の散布が確認されているのは1・9号窯ですが、その他にも8号からは行基式丸瓦、9号窯で均整膚草文軒平瓦が採集されています。

十瓶山 ロストル2

丸山支群(第1図-3・4)
十瓶山 丸山支群西

丸山支群は、カシヤキ池から伸びる綾川旧支流の上流にあたり、位置的には内間瓦窯の東側になります。グーグルマップと図4を重ねると、「ミルコム南 香川中央センター」が立地する場所を支流が流れていて、ここまでは船が入っていたことがうかがえます。その北側の斜面部に、6基(1・13・5~8号:第4図)、さらに県道を越えて田村うどんの前にあるミニストップの裏側の斜面に5基(4・9~12第5図)あり、合計11基になります。これは、陶(十瓶山)窯跡の支群の中で最も多いまとまりになるようです。県道西側の3・5・7・8号窯については、発掘調査が行われていて次のようなことが分かります。

十瓶山 丸山支群と高揚院同笵
      丸山窯跡の瓦と高陽院出土瓦は同笵関係

  丸山窯跡から出土した均整唐草文軒平瓦(TMY-203b 型式)は、高陽院出土瓦と比較すると同じ位置に大きな笵傷(はんきず・上写真の右の赤い矢印部分)があることがわかります。これによって、丸山瓦窯支群で作られた瓦が京都に運ばれていたことが証明できます。写真左の唐草文八葉複弁蓮華文軒丸瓦(TMY-102 型式)も同笵の可能性が高く、両者がセットで京都に運ばれたことが分かります。
 さらに、11世紀中葉に造られ高陽院と左京五条三坊十五町の貴族邸宅で使われた瓦も、丸山窯跡と西の浦窯跡で生産されたものです。平安京への提供が終わった後は、このタイプの瓦は白鳥廃寺・下司(げし)廃寺に供給されています。これは国衙工人の出張生産によるものと研究者は考えています。
十瓶山 丸山支群東

 一方、東側のミニストップ裏の丸山支群(2)については、発掘調査が行われていないのでよく分かりませんが、1998年頃の擁壁工事の際に、焼土が出てきて、窯の存在が確認されています。そのうち4号窯からは巴文軒平九が出土しているようです。

十瓶山 丸山・ますえ
丸山支群とますえ畑支群の位置関係

【ますえ畑支群】第1図-5、
十瓶山 ますえ畑支群

 ますえ畑支群は北条池から伸びて来た支流沿いに位置します。
支流跡沿いには、渇池や東谷池などいくつものため池が密集します。その中の今はなくなった濁池というため池の南側の堤防の下に立地する窯跡群で、7基(1~7号窯)が確認されています。

鳩山窯跡群
半地下式有状式窯
このうち1号窯は県指定史跡となって、次のような事が分かっています。
①半地下式有状式窯で、燃焼室、焼成室、分焔孔、隔壁などが残っていること
②焼成室は2条の状があり、長大
③床面は傾斜した構造で、登窯のような形態
④出土瓦は六葉重弁蓮華文軒丸瓦、宝相幸唐草文軒平瓦が出土し、後者は六波羅蜜寺からも出ている。
1号窯の構造について「須恵器生産技術との融合によってはじめて実現されたもの」で「大量生産」を可能にした窯と研究者は考えています。
十瓶山 ロストル3
 瓦専専用のロストル式平窯 

1号窯以外の窯跡については、次のように述べています。
①3・4号窯については、水路崖面を調査した際に焼土が確認されている
②5号窯については、1970年代前半に焼土や瓦が出土している
③7号窯については、1970年頃の農地の造成時に窯の存在が確認されている。
④3・4号窯からは丸山支群で出土している均整唐草文平瓦が出土している。
【庄屋原支群】第1図-6、
十瓶山 庄屋原2
庄屋原支群分布図

もう一度、府中湖畔に還ります。庄屋原城址のある半島から南に東岸斜面を進むと庄屋原窯跡群があります。南から4基(1~4号窯)の窯跡が並び、北側のやや離れたところに1基(5号)の窯跡が位置します。このうちの2・4号窯)が瓦窯でになり、湖岸崩壊防止工事に伴う試掘調査が行われていて、次のような事が分かっています。

①2号窯は燃焼部とみられる窯体が見つかり、4号窯は燃焼部、焼成部、煙道部などが確認された。
②4号窯の窯体は2回以上の補修を受けていて、第1次窯は全長5m、幅約1,44mで、第2次窯では全長約7m、幅約1.3mに増設されていること
③この支群からは須恵器片と凸面に格子目叩きがある瓦片がでてきていて、下野原支群のものとよく似ているので、下野原支群に続く時期の瓦窯の可能性が高い
④須恵器から操業時期は2号窯が8世紀前半、4号窯が9世紀前半以降
以上の点から、この支群は、この遺跡の半島を越えた下野原支群とともに陶(十瓶山)窯跡群の最初期の瓦窯支群と研究者は考えています。

【小坂池支群】第1図一ア、
十瓶山 小坂池支群
小坂池支群 分布図

小坂池支群は、池の底にある窯跡群です。小坂池は、北条池に向かって伸びる谷に位置し、その北側斜面に窯が開かれていました。池の改修工事に伴う事前の試掘工事が2007年に行われ、3基の窯跡が確認され、次のような事が分かっています。
①焼成室のみの確認で、構造は平窯(ロストル)であること。
② 20cm前後の状が1号は2条、2・3号はは3条ある形態
③窯の配置は1・2号が対になり、空間地をはさんで3号窯があるという配置スタイル
 11世紀前葉に小坂池支群で焼かれた瓦は、平安京の宮中内裏・豊楽(ぶらく)院・朝堂院と東寺・仁和寺などの中央政府に関わる施設から出土します。仁和寺の治安二(1022)年に竣工した観音堂に使われたようです。宮中の瓦は長元7(1034)年の暴風雨被害の修理の時に使用されたものと研究者は考えています。焼成瓦を笵に転用した陰面瓦が出てきているので、京への提供後には地元寺院へ転用供給された可能性があるようです。東寺に提供された瓦は、三野郡の妙音寺・道音寺にも供給されています。国衙工人が出向いての出張生産が行われたと研究者は考えています。
【北条池支群】第1図-8、

十瓶山 西浦支群
北条池支群

北条池支群は北条池の堰堤の内側に並んで位置します。
台地南端部の斜面を利用した窯跡群です。北条池は、綾川に流れ込む支流をせき止めて造られたため池です。その支流の右岸(南側)に、全部で7基(1~7号窯)がありますが、調査が行われていないので詳しいことは分かりません。そのうち1号窯については、半地下式有平窯(ロストル)であることが分かっています。窯壁片や焼成が見つかっているので、1号窯と同じような構造の瓦窯だと研究者は考えているようです。2号窯の下からは、西村支群からも見つかっている八葉複弁蓮華文軒丸瓦が採集されています。

【西ノ浦支群】第1図-10、
十瓶山 西浦支群南
西ノ浦支群

西ノ浦支群は、北条池支群の対岸にあり、台地北端部を利用した窯跡群で、次のような事が分かっています。
①4基の窯跡が確認され、そのうちの2号窯は平窯(ロストル)であること
②1号窯は焼土、4号窯は焼上や灰原が確認されている
③4号窯以外では、瓦の散布がある。
④1号窯からは四葉素弁軒丸瓦が出土していた、同一文様のものが高松市屋島寺からも出ている
⑤瓦については、 八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出ていて、同じものが内間支群や綾歌郡綾川町龍燈院で、坂出市鴨廃寺、丸亀市法勲寺、平安京左京五条三坊十五五町などで出土している。

【西村支群】第1図-12
十瓶山 西村支群

西村支群は、国道32号線綾南バイハス工事の際に、西村遺跡の発掘調査時に発見された窯跡群です。1・2号窯は御寺川へと向かって北に開く谷の東側斜面に、3号窯は御寺川によって形成された谷の北東側の斜面に立地していて、両者はかなり離れています。
ローソンそばの1・2号窯ついては、次のような事が分かっています。
①1号窯からは八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦が出ている。
②前者は、讃岐国内では、北条池2号窯ド、坂出市開法寺跡、高松市如意輪寺周辺からも出土しているほか、平安京の鳥羽南殿にも供給されている。
③後者は陶窯跡群の内間支群、善通寺市曼茶羅寺、丸亀市本島八幡神社、高松市如意輪寺周辺からも出土している。その他にも、平安京では鳥羽南殿、平安宮真言院、平安宮朝堂院に供給されている。
④2号窯では平瓦が出土している。
⑤灰原と一緒に出てきた須恵器から1号窯が11世紀末、2号窯が11世紀中頃と考えられる。
⑥1・2号窯周辺からは、窯の生産活動によって埋没した溝から巴文軒平瓦が出土している。
⑦ますえ畑と同文の宝相幸唐草文軒平瓦も出土している。
これに対して長楽寺北の3号窯は、焼成室、燃焼室が残っています。
燃焼室は3条のロストルをもつタイプで、多くの平瓦が出土しています。近接する廃棄上坑からは巴文軒平瓦が出土しています。

以上をまとめておきます
①陶(十瓶山)瓦窯跡群は、いくつかの支群に分かれています。その立地は旧綾川か、その支流の河岸斜面にあり、河川運送が行われていたことがうかがえる。
②陶窯跡群の瓦生産については、
前期として、府中湖南東部周辺に位置する下野原支群、庄屋原支群
後期として、府中湖の旧支流沿いに立地する支群に分けられる
③前期支群は、穴窯で、後期支群は新しいタイプの平窯(ロストル)という区分ができる。
④操業時期は、前期が白鳳~奈良良時代、後期が平安後期以降と設定されている。
⑤後期の瓦窯群で造られた瓦は、平安京の宮殿や寺院にも提供されている。

たとえば12世紀前半頃に、建設された鳥羽離宮には、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われていることが分かってきました。
鳥羽離宮は白河上皇の院殿です。南殿は讃岐国守高階泰仲が「成功」という位階買収の制度を使って応徳三(1086)年に造営した最初の寝殿です。発掘調査では多数の讃岐系瓦が出土しました。生産地は丸山窯跡・内間(うちま)窯跡・北条池窯跡といった瓦専用窯だけでなく工人集団の工房兼居宅と考えられる西村遺跡でも出土します。周辺の開法寺跡・鴨廃寺・綾川寺・曼荼羅寺にも瓦を供給しています。讃岐国分寺の塔頭とされる如意輪寺に附属する窯跡では、工人の出張生産が行われたと研究者は考えています。
12世紀になると、院殿附属の御願寺鳥羽離宮金剛心院・平安宮南面大垣・宇治平等院・法住寺殿蓮華王院・六波羅蜜寺などの建物にも、陶(十瓶山)瓦窯群の瓦が使われています。この需要に応えるために、内間窯・丸山窯・ますえ畑窯では多数の窯が同時にフル操業するようになります。この時期が、陶(十瓶山)瓦窯群の最盛期のようです。
   このように奈良時代以後、陶(十瓶山)窯群地帯は、綾氏の保護を受け、準国営工場的な性格を持ち瓦と須恵器生産の中心地に成長して行くことになります。その工人たちの生活拠点が西村遺跡だと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは「田村久雄・渡部明夫 陶(十瓶山)窯跡群の瓦生産について 瓦窯跡の分布 埋蔵文化財センター研究紀要  2008年」
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須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
 7世紀後半は、三野・高瀬窯で生産された須恵器が讃岐全体の遺跡から出てくる時期であることは、前回に見たとおりです。「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していた時期でもありました。7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へという流れだったのです。
 ところが、奈良時代になると三野・高瀬窯群の優位は崩れ、綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。今回は、それがどのように進んだのかを見ていきたいと思います。  テキストは  「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」です。 

 7世紀前半は讃岐の須恵器窯跡群と大型横穴式石室墳の分布は、郡域単位でセットになっていること、ここからは古墳の築造者である首長層が、須恵器の生産・流通面で関与していたと研究者は考えていることを、前回にお話ししました。その例を十瓶山窯群と神懸神社古墳との関係で見ておきましょう。
須恵器 打越窯跡地図

神懸神社古墳は、坂出平野南方の綾川沿いの山間部にある古墳です。古墳の周辺は急斜面の丘陵が迫っていて、平地部は蛇行して北流する綾川が形成した狭い氾濫原(現府中湖)だけです。このような耕地に乏しい地域に、弥生時代の集落の痕跡はありませんし、この古墳以外に遺跡はありません。四国横断道建設の予備調査(府中地区)でも、遺構・遺物があまりない地域であることが分かっています。
神懸神社(坂出市)

 ということは神懸神社古墳は、耕地開発が困難な小地域に、突如として現れた古墳と云えるようです。しかも、出土した須恵器や石室構造(無袖式)からは、新規古墳の造営が激減する7世紀中葉(T K 217型式相当)になって造られたことが分かります。つまり終末期の古墳です。7世紀中葉というのは、白村江敗北の危機意識の中で、城山や屋島に朝鮮式山城が造営されている時期です。そして、大量の亡命渡来人が讃岐にもやってきた頃になります。神懸神社古墳の背景には、特異な事情があると研究者は推測します。
研究者が注目するのが、同時期に開窯する打越窯跡です。
打越窯跡は、この古墳の南西1㎞の西岸にあった須恵器生産窯です。この窯跡を発見したのは、綾川町陶在住の日詰寅市氏で、窯跡周辺の丘陵がミカン畑に開墾された1968(昭和43)年頃のことでした。分布調査で、平安時代の須恵器窯跡を確認し、十瓶山窯跡群が綾川沿いに坂出市まで広がっていたことを明らかにしました。採集された資料を、十瓶山窯跡群の踏査・研究を続けられてきた田村久雄氏が見て、十瓶山窯跡群における最古の須恵器窯跡であることが明らかにされます。
 その後、研究者が杯・無蓋高杯・甕・壺脚部の実測図を検討して、7世紀前半~中頃のものと位置づけます。つまり、打越遺跡は、十瓶山を中心に分布する十瓶山窯須恵器窯の中でもっとも古い窯跡であるとされたのです。こうして、陶窯跡群の成立過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡という認識が研究者のあいだにはあったようです。しかし、打越窯跡自体は開墾のため消滅したと考えられていました。
 そのような中で1981(昭和56)年になって、打越窯跡のある谷部が埋め立てて造成されることになり緊急調査が行われました。発掘調査の第5トレンチの斜面上部には、灰と黒色土を含む暗赤褐色の焼土が約10㎝の厚さに堆積していました。また、良好な灰原が残っていて、大量の須恵器が出てきたのです。出土した遺物は、コンテナ約220箱にのぼりますが、すべてが須恵器のようです。報告書は、遺物を上層ごとに分けることが困難なために、時代区分を行わずに器種で分け、次に形態によって分けて掲載されています。

須恵器 打越窯跡出土須恵器2
打越窯跡出土の須恵器分類図
 打越窯跡から出てきた須恵器はTK48型式相当期のもので、先ほど見た神懸神社古墳の副葬品として埋葬されていたことが分かってきました。神懸神社古墳には初葬から追葬時期まで、打越窯跡からの須恵器が使われています。見逃せないのは室内から窯壁片が出ていることです。両遺跡の距離からみて、偶然混入する可能性は低いでしょう。何かの意図(遺品?)をもって石室内に運び込まれたと研究者は考えています。
須恵器 打越窯跡出土須恵器
          打越窯跡出土の須恵器
 打越窯跡で焼かれた須恵器(7世紀)をみると、器壁の薄さや自然釉の厚さなどから、整形、焼成技術面で高い技術がうかがえるようです。讃岐では最も優れたに工人集団が、ここにいたと研究者は考えています。どのようにして先進技術をもった工人たちが、ここにやってくることになったのでしょうか。それは、後で考えることにして先に進みます。
 以上から、この古墳に眠る人たちは打越窯跡の操業に関わった人たちであった可能性が高いと研究者は考えます。
彼らは窯を所有し、原料(粘土・薪)を調達し、工房を含めた窯場を維持・管理する「窯元」的立場の階層です。想像を膨らませるなら、彼らは時期的に見て白村江敗戦後にやってきた亡命技術者集団であったかもしれません。ヤマト政権が彼らを受けいれ、阿野北平野の大型石室墳の築造主体(在地首長層=綾氏?)に「下賜」したというストーリーが描けそうです。それを小説風に、描いてみましょう。
 綾氏は、最先端の須恵器生産技術をもった技術者集団を手に入れ、その窯を開く場所を探させます。立地条件として、挙げられのは次のような点です。
①綾川沿いの川船での輸送ができるエリアで
②須恵器生産に適した粘土層を捜し
③周辺が未開発で照葉樹林の原野が広がり、燃料(薪)を大量を入手できる所
④綾氏の支配エリアである阿野郡の郡内
その結果、白羽の矢が立てられたの打越窯跡ということになります。
 こうして、7世紀後半に打越窯で須恵器生産は開始されます。ここで作られた須恵器は、綾川水運を通じて、綾氏の拠点である阿野北平野や福江・川津などに提供されるようになります。しかし、当時の讃岐の須恵器市場をリードしていたのは三豊の辻窯群と三野・高瀬窯群であったことは、前回見たとおりです。この時点では、打越窯では他郡への移出が行えるほどの生産規模ではなかったようです。

須恵器 府中湖
府中ダムを見晴らす位置にある神懸神社
 窯を開設したリーダーが亡くなると、下流の見晴らしのいい場所に造営されたのが神懸神社古墳です。
その副葬品は、打越窯で焼かれた須恵器が使われます。また、遺品として打越窯の壁の一部が埋葬されます。それは、打越窯を開いたリーダーへのリスペクトと感謝の気持ちを表したものだったのでしょう。打越窯での生産は、その後も継続して行われます。そして、一族が亡くなる度に追葬が行われ、その時代の須恵器が埋葬されました。
  そうするうちに、打越窯跡周辺の原野を切り尽くし、燃料(薪)入手が困難になってきます。窯の移動の時期がやってきます。周辺を探す中で、見つけたのが十瓶山周辺の良質で豊富な粘土層でした。彼らは打越窯から十瓶周辺へ生産拠点を移します。こうして十瓶山窯群の本格的な操業が開始されていきます。
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
讃岐の須恵器生産窯(7世紀)

 7世紀後半には、讃岐では大規模な須恵器生産窯の開設が進みます。那珂郡の奧部の満濃池東岸窯跡や香南の大坪窯跡群のように、原料不足のためか平野部の奧の丘陵地帯に開かれる窯が多くなるのが特徴です。こうして発展の一途をたどるかにみえた讃岐の須恵器窯群です。
 ところが、8世紀になると一転してほとんどの窯が一斉に操業停止状態になります。そんな中で、陶窯跡群だけが生産活動を続け、讃岐の市場を独占していきます。各窯群を見ておく、庄岸原窯跡・池宮神社南窯跡・北条池1号窯跡などをはじめとして、北条池周辺に8世紀代の窯跡が集中し、盛んな窯業活動を展開します。
 須恵器生産窯の多くが奈良時代になると閉じられるのは、どうしてでしょうか?
その原因のひとつは、7世紀中頃に群集墳築造が終わり、副葬品としての須恵器需要がなくなったことが考えられます。もうひとつは、この現象の背景には、もっと大きな変化があったと研究者は考えています。それは、律令支配の完成です。各地で須恵器生産を管理していた地域首長たちは、律令体制下では各郡の郡司となっていきます。郡司はあくまで国衙に直属する地方官にすぎません。古墳時代の地域支配者(首長)としての権力は制限されます。また、律令時代にすべての土地公有化され、燃料となる樹木の伐採を配下にいる須恵器工人に独占させ続けることができない場合もでてきたかもしれません。原料である粘土と、燃料である薪の入手が困難になり、生産活動に大きな支障が出てきたことが考えられます。
 これに対して陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群でした。
 陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不使なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆わた原野で、豊富な燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。

 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得したのではないかと研究者は考えています。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。

 先ほど見たように陶窯跡群の中で最も古い窯跡は、打越窯でした。当時は、この窯で作られた須恵器が、器壁の薄さや自然釉の厚さ、整形、焼成技術などの面から見て技術的に最も高かい製品でした。それを作り出せる工人集団が存在したことになります。そして、そういう工人集団を「誘致」できたのが綾氏だったことになります。それは三野郡の丸部氏が藤原京の宮殿瓦を焼くための最新鋭瓦工場である宗吉窯群を誘致できた政治力と似通ったものだったと私は考えています。
 讃岐では最も優れたに工人集団がここにいたという事実からは、「綾氏 → 国衙 → 中央政府」という政治的なつながりが見えてきます。つまり奈良時代になると、最新技術やノウハウが国家を通じて陶窯群に独占的に注ぎ込まれたとしておきましょう。こうして陶窯跡群は、讃岐一国の需要を独占する大窯業地帯へと成長して行きます。

10世紀前半の『延喜式』には、讃岐国は備前国・美濃国など八国と共に、調として須恵器を貢納すべき事が記されています。
10世紀には、讃岐国で須恵器生産を行っていたのは陶窯跡群しかないのは、先に見てきたとおりです。陶で生産された須恵器が綾川を川船で下って、河口の林田港で海船に積み替えられて畿内に運ばれていたことになります。それは、7世紀末の藤原京の宮殿造営のための瓦が三野郡の宗吉産から海上輸送されたいことを考えれば、何も不思議なことではありません。陶窯跡群の須恵器が中央に貢納されるようになった時期や経緯は分かりません。その背景には、讃岐の須恵器生産を独占していた陶窯跡群の存在があったと研究者は考えています。官営的なとして陶窯跡群の窯業活動が国衛によって管理・掌握されていたことが、国衙にとっては都合が良かったのでしょう。
 讃岐国が貢納した須恵器は、18種類3151個になります。これだけの多種類のものを造り分ける技術を持った職人がいたことになります。7世紀後半に讃岐全体に須恵器を提供していた三野・高瀬窯群に、陶窯群が取って代わってしまったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
 「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」 
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前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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 須恵器 編年写真
須恵器編年
 讃岐で最初に須恵器生産が行われたのは、どこなのか?  須恵器窯が、どのようにして讃岐全体に広がっていったのか。また、須恵器生産のシステムは、どんなものであったのかなどを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」と「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」です。

須恵器 土師器

  五世紀前半頃に朝鮮半島南部から伝えられた須恵器生産は、それまで弥生土器や土師器とは全く系譜を異にする土器です。土師器が赤褐色、軟質であるのに対し、須恵器は青灰色・硬質です。これは土師器が野焼きによって酸化炎焼成されるのに対して、須恵器は穴窯と呼ばれる長大な構築窯で高温に還元炎焼成されるためです。この窯は、それまではわが国にはなかったもので、須恵器生産のために初めて構築窯が使われるようになります。
陶邑窯跡群 堺市
陶邑古窯址群(堺市)
この窯を使って大規模な須恵器生産工業地帯が作られるのが大阪南部に広がる陶邑古窯址群です。
ここは堺市の泉北ニュータウンの造成の際に発見された遺跡で、泉北丘陵一帯で焼かれた須恵器が各地に運び出されていたようです。朝鮮半島からの渡来人を、この地に定住させ官営窯工場地帯として整備します。平安時代までの約500年間で1000基近く者数の窯が次々とと築かれていき、日本最大の須恵器生産地に成長して行きます。これらの窯跡群は、『日本書紀』に「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられています。地方では、初期の須恵器窯跡が発見されることが少なかったために、陶邑古窯址群が独占的に須恵器を全国に供給したと考えられていたときもありました。しかし、福岡県や宮城県からも五世紀の須恵器窯跡が発見されるようになり、大坂の陶邑古窯址群とは系譜を異にする須恵器もあることが分かってきました。

須恵器 編年表3
須恵器編年図
香川県での初期の須恵器窯跡の発見
 そんな中で香川県でも、1975年に香川医科大学の建設に伴い権八原(ごんぱちばら)古墳群が調査され、大量の古式須恵器が出てきました。また1981年には、豊中比地大の宮山の果樹園工事で古式須恵器や窯壁が出土し、はじめて5世紀の窯跡が確認されました。
さらに、1983には高松の三谷三郎池西岸窯跡が発掘調査され、次のようなことが分かりました。
①焼成面は長さ5m 幅2,15m    幅広で傾斜の緩やかな床面
②床面の中央には二個の柱穴が縦に並んでおり、これは窯体の大井を築く時の支え柱の柱穴
③窯体の下方には灰原も検出されたが、薄くて須恵器片を少量しか出上しなかったことから、窯の操業は短期間であった
④甕・壷・高杯・器台や杯などの小破片が出土
須恵器 宮山1号窯跡2
三豊市豊中町の宮山一号窯跡

一方、豊中町の宮山一号窯跡には、以上の器種のほか、蓋または鉢や紡錘車なども含まれています。両窯跡の出土品とも、甕の内面の叩き痕を消したり、杯の立上りが高いことなどから古式須恵器とされます。さらに出土品の中には、定型化以前の須恵器を含むことから、両窯跡ともわが国で須恵器生産を開始して間もない頃に操業が始まった窯と研究者は考えています。つまり、渡来系の工人たちによって窯が開かれ、生産が行われていたようです。
須恵器 編年式
須恵器編年表
   須恵器の製作においては窯を造るほかにも、高温に耐える淡水性粘土の使用や、 ロクロによる造形など、それまでの土師器生産に比べるとはるかに高度な窯業技術と専門技術者やスタッフが必要でした。製鉄技術と同じように、技術者スタッフを集団で誘致し、定着させないと須恵器生産はできなかたのです。そこで各地の首長は、ヤマト政権の大王から、ある者は、朝鮮半島と直接関係を持つ九州の豪族たちの連携で、工人集団を招き入れたようです。

讃岐の初期の須恵器窯を順番に並べると、次のようになります。
①もっとも古い初期須恵器であるT G 232段階を生産した髙松の三谷三郎池西岸窯跡(4世紀末)
②T K 206~208式を焼いた豊中町の宮山1号窯跡(5世紀半ば)
③T K10型式相当期の多度津・黒藤窯跡(5世紀前半)
 ①②の窯跡の生産をめぐる経緯や工人の問題などは分かりません。あえて推測するなら①は秦氏、②は三野郡の丸部氏の基盤になります。②は、その後に展開する三野窯跡や三豊南部の辻窯跡群につながって行く先駆的なものとも考えられます。いずれにせよ、①②の両窯跡で讃岐の須恵器生産が開始されます。それが5世紀半以前であったことを押さえておきます。
須恵器 TK10
須恵器TK10~TK43が出土した窯跡分布
豊中の宮山1号窯跡や高松の三谷三郎池西岸窯跡から讃岐の須恵器生産は、5世紀前半には始まっています。これは全国的にも早い方になります。しかし、両者とも単独の窯で大きな窯跡群ではありません。しかも三谷三郎池西岸窯跡では、床面に残った灰原は薄く、数回しか焼成が行われなかったことからみると、この時期の須恵器生産はきわめて小規模で、不安定な操業体制だったことがうかがえます。6世紀前半から中頃の須恵器窯跡は、現在のところ多度津の黒藤窯跡しかありません。つまり、先行的な3つの窯跡以外で、後に続く窯はすぐには現れなかったようです。
須恵器 TK217
須恵器TK217が出土した窯跡分布

讃岐の須恵器生産の規模が拡大するのは、6世紀末から7世紀前半頃にかけてです。
この時期に操業を開始した窯跡を西からみておきましょう。
①山本の辻窯跡群
②高瀬の瓦谷窯跡・末窯跡群
③三野の三野窯跡群
④丸亀の青野山窯跡群
⑤綾南の陶窯跡群
⑥高松の公渕窯跡群
⑦三木の小谷窯跡
⑧志度の末窯跡群
ここからは窯跡が、ほぼ讃岐全域に拡大していることが分かります。
このような拡大の背景には、6世紀末から7世紀前半に急激な須恵器需要の拡大があったことが考えられます。その背景を坂出下川津遺跡や高漱の大門遺跡から見ておきましょう。
これらの遺跡発掘からは、作りつけのカマドを持つ竪穴住居が急速に普及したことが分かります。
竪穴(たてあな)住居にカマドや貯蔵穴が登場(古墳時代)|三島市
かまどを持つ縦穴式住居
このような住居は、この時期に台頭した新しい農民層の住居とされます。彼らのなかの有力者は、横穴式石室を持つ群集墳を築造し、死後そこに葬られるようになります。つまり6世紀末頃という時代は、新しく台頭してきた農民層が日用土器として須恵器を使うようになり、一方では爆発的に増えた横穴式石室への副葬土器とも須恵器が使われた時代であったようです。これが須恵器生産の拡大をもたらしたと研究者は考えています。

古代讃岐の郡域2
讃岐の各郡分布

 しかし、この時期の須恵器生産や流通は、工人たちが管理していたのではないようです。それは、地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と窯跡群が、セットで分布していることからうかがえます。西からそのセットを押さえておきます。
①辻窯跡群と観音寺の鑵子塚古墳(苅田郡)
②青野山窯跡群と青野山7号墳(鵜足郡)
③陶窯跡郡と坂出新宮古墳・綾織塚古墳・酬酬古墳群(阿野郡)
④公淵窯跡群と高松の山下古墳・久本古墳・小山古墳(山田郡)
⑤末窯跡群と寒川の中尾古墳(寒川郡)
 ここからは須恵器生産地の成立には、地域首長が関わっていると研究者は考えています。
須恵器 青野山

例えば②青ノ山エリアを見てみましょう。ここには6世紀後半から7世紀初頭の古墳群があります。1979年に、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際に、近くの青ノ山南麓の墓地公園入り口付近の事現場で窯跡が発見されました。焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備されました。全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降の窯跡でした。この窯跡は、青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されています。が、この窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないので、この他にも周辺に窯跡があった可能性があります。青野山周辺は「土器」という地名が残るので、土器作りが盛んな地域だったことが推測できます。

須恵器 青野山3
青野山1号窯跡

 ここでひとつの物語を考えて見ます。青野山から宇多津の角山にかけての入江周辺に拠点とした首長は、青野山周辺に良質の粘土が出てくることを知ります。そして粘土採掘地を確保した上で技術者集団を「誘致」して窯を開いたという話になります。これは、後の氏寺建立の際の瓦窯開設の際にも見られるやり方です。どちらにしても、渡来技術者集団が自由に、原料産出地を探して窯を開き、自由に商品を流通させたとは研究者は考えていないようです。窯開設から、生産・製品流通まで、地域首長の支配下にあったとします。
須恵器 窯

 当時は貨幣経済社会ではありませんでした。そのため須恵器を商品として生産し販売して生計をたてることは出来なかったようです。そのため須恵器生産工人たちは、自給自足で農業を営みながら、支配者に隷属してその保護のもとに須恵器生産を行ない、大部分の製品を貢納していたのではないかと研究者は考えています。
寒川の中尾古墳からは、異常に大きな高杯が出てきました。これは地域首長の死に際して、工人たちに特別に作らせたものでしょう。ここに地域首長と須恵器工人の関係が象徴的に現れていると研究者は指摘します。
 こうした状況が変化するのは、T K43型式~T K 209型式が姿を見せ始める6世紀後半頃になります。この時期になると、次のようないくつかの生産地が並立するようになります。

須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
7世紀の讃岐の窯跡分布図
④丸亀平野北東部の青ノ山1・2号窯跡
⑤丸亀平野北西部の黒藤窯跡
⑥三豊平野北部の瓦谷遺跡
⑦三豊平野南部の奥蓮花1・2号窯跡、高額窯跡、小松尾寺2号窯跡
⑦の三豊平野南部の辻窯跡群の急速な増加傾向が目につきます。
以上をまとめた起きます。

讃岐須恵器窯の分布

①朝鮮半島から渡来集団によってもたらされた須恵器生産は、いち早く讃岐にももたらされた。
②それは三豊豊中と、山田郡三郎池周辺であった。そこには、技術者集団をいち早く受けいれることの出来た有職者がいたことがうかがえる。
③豊中は丸部氏、山田郡は秦氏が考えられる。
④その後、しばらくは新たに窯が開かれることはなかったが、6世紀末に窯は讃岐全体に拡大分布するようになり、窯の数も増える。
⑤その背景には、有力農民層の台頭があり、彼らが須恵器を日用品として使用し始めたことや、群集墳の副葬品として大量消費したことが考えられる。
⑥こうして、巨大横穴式石室があるエリアには、須恵器窯がセットで存在するという景色が見えるようになる。
⑦これは律令時代になると「一郡一窯」と云われる状況を作り出す。
⑧その中でも、三豊の2つの生産活動は、他のエリアを凌駕するものがあった。
次回は、7世紀初頭段階において、三豊の窯後群がどうして他地域を圧倒していたのかを、見ていきたいと思います。
参考文献
「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開    埋文センター研究紀要1997年」
「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」

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神社というものがどんなふうにして姿を見せるようになったのか考えるときに、私にとって身近で参考になるのが高瀬の大水上神社です。この神社は、その名の通り財田川の支流である宮川の源流に鎮座しています。祀られているのは水神です。そして、神が舞い降りてきたと思える巨石も、いまも信仰対象になっています。
 この神社について高瀬町史をテキストにして見ていきます。
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大水上神社の奥社
 この川の流域には銅鐸や広形鋼剣が出土した羽方遺跡があり、下流部は早くから水田稲作が進んだ地域です。ここに祀られている神は、弥生時代から集落の首長によって祀っていたと私は思っています。いまに至るまで、神々の名は幾度も変遷したかも知れませんが・・
 大水上神社は、三野郡唯一の式内社で延喜式では讃岐の二宮にランクされています。

羽方遺跡出土 平形銅剣
羽方遺跡出土の平形銅剣 平形銅剣は善通寺王国の象徴

 平安時代の神階授与記事には
貞観七 (八六五)年 従五位上から正五位下へ、
貞観十八(八七七)年 正五位上へ

に叙されたことが記されます。これが大水上神社が文書に残る初見になります。
 律令国家のもとでは、さまざまな神に対し位階が授けられていました。国家が神に授けた位階を神階と云います。律令国家は神階を授与することにより、神々の序列を明らかにしました。つまり、授ける方が偉いので、国家が地方の神々の上に立ったことになります。これは国家イデオロギーとしては、上手なやり方です。こうして、全国の神々はランク付けされ国家の保護を受けて、有力豪族によて管理・維持が行われるようになります。
羽方遺跡出土 銅鐸
羽方遺跡出土の銅鐸
 古代に、この神社を保護管理したのは、丸部氏が考えれます。
宮川を下って行くと延命院古墳や讃岐で最初に作られた古代寺院である妙音寺があるエリアが、丸部氏の拠点があったところでしょう。その氏神的存在として、この神社は出発したのではないかと私は考えています。それが律令国家の下で延喜式神社となり、二宮としてランクづけられたとしておきましょう。
 讃岐では、田村神社・大水上神社・多和神社への神階授与の記事があります。それぞれ讃岐国の一宮・二宮・三宮となる神社であり、社格が定められてきたようです。
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 以前にお話ししたように、平安時代後期になると律令体制の解体と共に、国家による全国的な神社の管理は出来なくなります。
そこで国家が取った方法は、保護する神社の数を限定し、減らすことです。京都を中心とする周辺の大社や、地方では一宮や二宮だけに限定します。また延喜式内社を国府の近くに「総社」を新たに作るなどして「簡便化」します。この結果、国家的な保護を大い衰退しその跡を失った式内社も出てきます。
 国家の保護を失っても、パトロンとしての有力者が衰退しても、地域住民の信仰対象となっていた神社は消えることはありません。大水上神社を見てみると、背後に山を控え、社殿のすぐ横に川が流れ、淵があります。まさに水神の住処としては最適です。この水神は、時代と共に姿形は変えながら人々に、農耕の神と崇められてきたものでしょう。
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夫婦岩(かつての御神体) 

 大水上神社に瓦窯跡があるのはどうして? 
 大水上神社境内には、瓦を焼いた窯跡が残っています。神社の屋根はワラやカヤで葺きます。瓦は使われません。それなのに瓦窯跡があるのは、どうして?
 奈良時代の終わりごろから次のような事が云われ始めます。
「この国の神々は、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために神の身を離れ、仏教に帰依することを求めようとしている。」

 このような声に応えて、民間僧侶たちが神々の仏教帰依の運動を進めます。具体的には、神社の境内を切り開き、お堂を建て仏教の修行の場を作るようになるのです。神々は、元々は仏であったとして、神々が権化した権化仏が祀られるようになります。神と仏の信仰が融合調和することを神仏習合(混淆)といいます。仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として、神社に付属して寺が建てられるようになります。これが神宮寺(別当寺)です。こうして、結果としては、神社を神宮寺の僧侶が管理するようになります。ある意味、僧侶による神社の乗っ取りと云えるかも知れません。こうして、神社の周辺には別当寺が姿を現すことになります。神社の祭りの運営もこれらの社僧がおこなうことになります。
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 大水上神社の場合は、 2つの別当寺があったようです
江戸時代中期に書き写されるとされる「二宮三社之延喜」には次のような社領目録がのせられています。
国讃嶋二宮社領目録                  高瀬町史史料編133p
惣合(総合計) 弐百
右之内八九町    修理領
右之内三六町    祝言領
右之内二六町    灯明領
右之内三六町    御供領
右別当神主支配
三六町    別当清澄寺
三六町    別当神宮寺
二六町    神主  義重
二六町    社ノ頭 右近
二六町    惣社人
二六町    惣神子
右社領自今不可有変易者也
総合計は200町とあるのですが、合計すると176石にしかなりません。まあ、それは今は深入りせずに別当寺を見ておきます。

「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」

と記るされています。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、清澄寺神宮寺という2つの別当寺があったことは分かります。そして、それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あるようです。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
ここからは大水上神社には中世に2つの別当寺があったことが分かります。その別当寺の屋根の瓦を葺くために窯が作られていたようです。高瀬町史には、この窯跡について次のように記します 
①寺院に必要な瓦や日用品を焼くために作られたもの
②時代は平安時代後期~鎌倉時代のもの
③窯跡は二基が並び、西側が一号、東側が二号
④1932(昭和七)年国の史跡に指定。

二宮窯跡

一号窯跡の実測図で窯の構造を見てみましょう
①上側の図は、窯の断面形で底は傾斜している。
②下側の図は、平面形で、全長約3,8㍍の規模になる。
③左端が焚口、中央が火が燃え上がる燃焼室で、右側が焼成室と呼ばれ、ここに瓦などを詰めて焼き上げる
④焼成室の底が溝状に細長く窪められていて、ここに炎が入り上に詰められた瓦などが焼きあがっていく仕組み
⑤二号窯は焼成室の平面形が方形で、底が傾斜せず水平な平窯で、瓦のほか杯や硯も焼いている。

大水上神社のニノ宮窯跡と同じ時期に、使われていた瓦窯跡が下麻にあります。
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下麻の歓喜院本堂奥にある四基の窯跡で、1953(昭和28)年に発見されたものです。ここの窯跡の構造はニノ宮二号窯跡に似ていて、西から1号・2号が並んであり、17m東にに3号・4号が並んであります。

歓喜院窯跡
歓喜院瓦窯

二基一対で二組、合計四基が一列に並んでいることになります。4基の窯跡からは軒丸・平瓦が出土しています。
高瀬町の文化財を研修: 新二の宮の里

同じ時期に、大水上神社と歓喜院で焼かれていた瓦を、どのように考えたらいいのでしょうか 
1大水上神社瓦
二宮窯跡と大水上神社から出土した瓦

 大水上神社境内の鐘楼跡(別当寺)と歓喜院窯跡から出土した軒平瓦は、文様が似ています。ここからは、歓喜院の窯で焼かれた瓦が大水上神社まで運ばれ別当寺の屋根に葺かれたことがうかがえます。大水上神社と約三㎞離れた歓喜院法蓮寺は、平安時代後期には何らかのつながりがあったのでしょう。法蓮寺がいつ創建されたかは分かりません。
法蓮寺・歓喜院と瓦窯跡 : 四国観光スポットblog

しかし、ここには10世紀頃の作とされる重文の木造不空羂索観音坐像が残されています。また歓喜院のある下麻は大水上神社の氏子になります。以上をまとめておきます。
①弥生時代に稲作が始まった頃から宮川の源流には水神が祀られた。
②律令時代には大水上神社として、讃岐二の宮にランク付けされた。
③この背後には、三野郡の郡司の丸部氏の信仰と保護が考えられる
④中世になるとふたつの別当寺が境内に形成され、神仏混淆が進み社僧による管理が行われた。
⑤神宮寺(別当寺)建設のために下麻の歓喜院の瓦窯から瓦が提供された。
⑥輸送に不便なために、大水上神社の境内にもふたつの瓦窯が作られ、神宮寺のための瓦を提供した。
以上です。⑥は私の推察です。

三野平野の窯跡分布図2
古代三野郡の郷・寺院・窯跡
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史68P 古代第二節 大水上神社

日 本史ナビ

藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城でした。

また初めて宮城の建物屋瓦を葺いたことで も知られています。宮城の建物を瓦葺するためには、古代寺院の数十倍の屋瓦が必要になります。しかも、寺院のように着工から落慶法要までに何十年というわけにはいきません。短期間に生産する必要があります。
 その問題を解決するために取られてのが、地方に新たに最新鋭の瓦工場を作って、そこから舟で貢納させるという手法です。この手法は、どのようにすすめられたのか。またこの手法に従って、どのように宗吉瓦窯は新設されたのかを見ていきたいと思います
宗吉瓦窯 藤原京

藤原宮から出土した瓦は、製作技法・使用粘土・瓦デザインの違いか ら次の15グループに分けられています。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地2
それを具体的に見ると
①大和盆地内では、日高山瓦窯、高 台 ・峰寺瓦窯、内 山 ・西 田中瓦窯、安養寺瓦窯、
②大和盆地外では、近江、讃岐三豊の宗吉瓦窯、讃岐東部、淡路の土生寺窯、和泉地域
 で生産して供給されたことが分かります。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地

この内の②の大和以外のグループの立地については次のような共通点があると研究者は考えているようです。
①国家的所領に立地する
②藤原宮へ舟で瓦を運べる条件がある
③中央で編成された造瓦技術者集団が派遣されている
この3つの条件が宗吉瓦窯に、当てはまるのかどうかを検討していきましょう。  
この絵は三野湾に隣接した7世紀末の宗吉瓦窯を描いた想像図です。
宗吉瓦窯 想像イラスト

十瓶山北麓の斜面にいくつもの登窯が作られ煙を上げています。ここでは当時建設中の藤原京の宮殿に使用する瓦を焼くために、フル稼働状態でした。この想像図に書き込まれている情報を読み取っていきましょう。斜面にはいくつもの登窯が見えますがよく見ると3グループに分かれています。
①北側裾部(右)に左から順番に1号から9号までの9基
②その南(中央)に、左から10号から16号までの6基
③南側(左) 17号から23号窯の6基
 が平行に整然ならんでいます。南に少し離れて11号窯があります。発掘の結果、このように23の大型瓦窯があったことが確認されました。まるで瓦工場のようです。
  その横を流れるのが高瀬川になります。
高瀬川は、すぐ北で海に流れ込んでいます。当時の三野湾は南に大きく湾曲していて、宗吉瓦窯の近くまで海が迫っていたようです。海に伸びる道の終点は何艘もの小型船が停泊しています。そこに積み上げられているのが瓦です。瓦は小型船で、沖に停泊する大型船に積み込まれます。そして、瀬戸内海を難波の港まで渡り、大和川を経て大和に入り、藤原京まで舟で搬入されたようです。藤原京には、工事用のための搬入運河が作られていたことが分かっています。

宗吉瓦窯 藤原京運河
藤原京と運河

 藤原京建設の進展具合を見てみましょう
天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 6 692 藤原の宮地の地鎮祭を行う
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
       天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける

藤原京の建設が進む7世紀末には、この宗吉瓦窯はフル稼働状態で、作られた瓦が舟で藤原京に貢納されていたようです。
宗吉瓦窯 窯内部写真

 発掘が行われた17号窯を見てみましょう。
一番南側の窯になります。山麓を掘り抜い た全長約13m、幅 約2m、高さ1,2~1,4mの大型で最新鋭の有段式瓦窯です。この瓦窯からは、平瓦、丸瓦とともに、軒丸瓦、軒平瓦、熨斗瓦などが出土しています。その工法は、粘土板技法によるもののようです。
 また、軒丸瓦は単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので、これは三豊市豊中町の妙音寺から出てきた瓦と同じ型から作られた「同笵瓦」です。

3妙音寺の瓦

また、一番北側の8号瓦窯からは重弧文軒平瓦、凸面布目平瓦などが出土しています。その中の軒瓦は、以前にもお話しした通り丸亀市郡家の宝幢寺池から出てきたものと同笵です。ここからは、この宗吉瓦窯で作られた瓦が三野郡の妙音寺や多度郡の仲村廃寺や善通寺、那珂郡の宝憧寺に提供されていたことがわかります。

さらに、17号や8号で周辺寺院への瓦が提供された後に、藤原京用の瓦を焼くために多くの窯が作られ、フル稼働状態になったことも分かってきました。今までの所を整理しておきます

宗吉瓦窯は
①讃岐在地の有力氏族の氏寺である妙音寺や宝幢寺の屋瓦を生産するための瓦窯として最初は登場
②その後、藤原宮所用瓦の生産を担うに多数の瓦窯を増設された。
 この想像図に書かれたような当時のハイテク最先端の瓦工場が、どのようにして三豊のこの地に作られるようになったのでしょうか?

讃岐三野湾周辺の歴史的背景をみておきましょう。
 宗吉瓦窯が設けられた三野津湾は、古代には大きく南に湾入していたようです。
1三豊の古墳地図

周辺の古墳時代後期の古墳としては、宗吉瓦窯の約西北1,5kmに汐木原古墳、大原古墳、金蔵古墳などがありますが、首長墓とされる前方後円墳は見当たりません。ここからは古墳時代の三豊湾には有力首長がいなかったことがうかがえます。
 ところが蘇我氏が台頭してくる6世紀後半代には、三豊湾の東岸に三野古窯群が操業を始め、窯業生産地を形成していきます。

三野平野2

三野古窯群の「殖産興業」を行った勢力は、何者なのでしょうか?
『 先代旧事本紀』の「天神本紀」に、三野物部のことが記され、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。これは、中央の物部氏が九州から瀬戸内海、河内の要所の港津を掌握していたことと深く関連すると研究者は考えているようです。
 つまり朝鮮半島や九州と最重要ルートである瀬戸内海の拠点として、物部氏の拠点が置かれていたと云うのです。それは、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって先ほど見た三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。しかし、物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
それでは、三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか?
敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)によって、蘇我蝦夷・入鹿が中大兄 皇子・中臣鎌足らに倒され、滅亡します。
 後に成立した養老律では、謀反などによる者の財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。
つまり三野湾一帯の所領は、次のように変遷したと考えます
①瀬戸内海交易の拠点として物部三野が支配
②物部氏が蘇我氏に倒された後は、蘇我氏の支配
③乙巳の変(645)以後は、天皇家の家産財産化(国家的な所領)
 このように7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が所在し、その周辺 に国家的な所領があったと想定できます。
この状況を先ほど見た瓦窯設置条件から見るとどうなのでしょうか。
①周辺に先行する須恵器生産地がある。
  ここからは瓦製造に必要な粘土があること、また須恵器生産を通じて養われたノウハウや技術者が蓄積されていたと考えられます。
②国家的所領があること
 これは、労働力を徴発したり動員できること、燃料の薪も入手できることを意味します。7世紀末の時点で、すでに三野湾東部では燃料となる木材は伐採が進み、山は次々と禿げ山になっていたようです。そのため伐採がすすんだエリアの窯を放棄して、須恵器窯は山の奥へ奥へと移動していきます。しかし、国家的な事業であれば周辺の山々の木材を伐採することができます。少々遠くても、三野郡の住人を動員すればいいと担当者は考えるでしょう。どちらにしても、薪は今までのエリアを越えて集めることが出来ます。燃料供給に問題はありません。
③物部氏が運用してきた港津がある
 これは舟で近畿と結びついていることを意味します。郷里は遠くとも大量の製品を舟で藤原京まで運べます。藤原京造営のため京城内部まで運河が掘られていたことが発掘からは分かっているようです。
 以上のような好条件があったことになります。
中央の政策立案者達は、中央の進んだ造瓦技術者集団を派遣し、地元の須恵器工人たちに技術指導を行うことで、新たな造瓦組織が編成できると考えたのでしょう。あとは、製造技術や管理集団です。
 それでは、藤原京造営計画の中心にいた人物とは誰なのでしょうか。
  研究者は、平城遷都が右大臣藤原不比等の計画によって進めたとしますが、それに先立つ藤原宮の造営でも不比等が第1候補に挙げられるようです。地方に技術者を送り込み、新設工場を設置して、運営は地元の有力豪族に委託するというやり方は不比等周辺で考えられたとしておきましょう。
1 讃岐古代瓦

この時期に窯業などの先端技術を持つ人たちは、渡来人でした。
 彼らの中には、新羅・唐の連合軍の侵攻の前に国を追われ、倭国にやってきた百済の技術者が数多くいたはずです。百済滅亡時には、先端技術を持った多くの渡来人達がやってきてます。真っ先に国を逃げ出し、政治的亡命を行うのは高位高官者に多いのは今でも同じなのかもしれません。
 どちらにしても、地方における古代寺院の建立を可能にしたものは、彼らの存在を抜きにしては考えられないでしょう。ハイテク技術を持った技術者は、最初は中央の有力者の氏寺の建立に関わります。

宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原時の古代瓦
それが川原寺であり、本薬師寺であったのでしょう。藤原不比等も氏寺の造営を行っているようです。中央で活躍していた技術者達に、地方への転勤命令が下されたのです。それは藤原京の瓦造りのためにでした。
  宗吉瓦窯にやってきたのは、大和の牧代瓦窯からやってきた瓦技術者だったと研究者は考えているようです。
なぜ、そんなことが分かるのでしょうか。それは、瓦のデザインの分析から分かるようです。
宗吉瓦窯 牧代瓦窯地図
研究者は次のように考えているようです。
①大和の2荒坂瓦窯は川原寺の屋瓦を生産した有段瓦窯で、当時の最新鋭の設備と技術者によって運営されていた
②2荒坂瓦窯は川原寺の瓦生産が終了すると、瓦技術者たちは近くの1牧代瓦窯に移って本薬師寺用の瓦生産に取りかかった。
③本薬師寺へ屋瓦を供給することが終了した段階で、牧代瓦窯の造瓦組織は解体されいくつかの小規模なグループに再編成された
④それは、藤原宮用の瓦生産を行うためで、各グループが地方に技術指導集団として派遣された。
⑤藤原宮用瓦の生産を行った讃岐、和泉、淡路の瓦工場は、互いに密接な関連もっていた。
①から②の移動は、燃料となる薪の木材を伐採しつくしたので、新たな場所に瓦窯を移したようです。それも含めると、瓦技術者集団は、つぎのように移動した研究者は考えているようです。

2荒坂瓦窯 → 1牧代瓦窯 → 小グループに再編され讃岐、和泉、淡路の瓦工場への派遣

この際に①や②で使われていた軒平瓦の版木デザインを、宗吉瓦窯の新工場にも持ってきて、それに基づいて忍冬唐草文の文様を書いたとします。こうして、大和から讃岐への瓦技術者の移動が明らかにされているようです。そのデザインの変化を見ておきましょう。

宗吉瓦窯 軒平瓦デザイン
牧代瓦窯6647Gに類似する文様には、讃岐東部産(長尾町)の6647Eと讃岐三豊の宗吉瓦窯6647Dがあります。3つの瓦は
①8回反転の変形忍冬唐草文で、
②半パルメット文様が特殊な形状をなし、
③右第1単位の右斜め上に三日月形の文様
 があります。
④半パルメット、渦巻形萼、蕾の表現からみて、
牧代瓦窯6647G→讃岐東部産6647E→半パ ルメットが全て上向きに表現する宗吉瓦窯6647Dの順にくずれていることを研究者は指摘します。(図5)。 
  ここからは讃岐で生産された藤原京用の平瓦のデザインは、大和の牧代瓦窯で働いていた技術者集団がもたらし、その指導の下に作られたことがうかがえます。

宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦窯の瓦 

再度確認しておきます。牧代瓦窯―本薬師寺系列の軒瓦は、
①本薬師寺の造瓦組織(最先端技術保有集団)を解体し
②和泉、淡路、讃岐東部、讃岐三豊産の宗吉瓦窯などへ派遣された造瓦技術者が
③粘土板技法によって藤原宮所用瓦の生産にかかわった
ということになります。
こうして新たな京城の宮殿瓦を焼く工場新設という使命を受けて、中央から技術者集団が三豊にもやってきたようです。
三野 宗吉遺2

彼らは、どのような基準で瓦工場の立地を決めたのでしょうか。
 古代も現在も瓦工場には、瓦に適した粘土・薪(燃料)・水・交通・労働力などが必要です。その中でも粘土と薪と水は、瓦つくりには必須です。まず粘土のある場所と、地下水などの水が豊富なこと、港に近く積み出しに便利なことなどが選定条件になります。それらを満たしていたことは、先ほどの復元図から読み取れます。
宗吉瓦窯 瓦運搬ルート

 薪は今までは伐採が許されなかったエリアから伐採が可能になったようです。庄内半島方面から切り出してきた形跡が見えます。薪の運搬ルートも考えて選ばれたのが十瓶山北麓の丘陵斜面である宗吉だったのでしょう。これは今まで、須恵器窯群があった三野湾東部ではなく、湾の南側になります。

1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
 労働力は
①薪の伐採・運搬
②粘土の掘り出し
③焼きあがりの瓦の運搬
④製造工程の職人
が考えられます。これらの管理・運営は担うことになったのが、地元の有力者である丸部氏(わにべのおみ)ではないのかというのは以前にお話ししました。
 讃岐国三野郡(評)丸部氏は、7世紀後半に都との深いつながりをもつ人物を輩出します。
天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手です。君手は、壬申の乱(672年)の際に美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーでした。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
出来事を並列的にとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(2)- : 発想法 - 情報処理と問題解決 -

 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、讃岐最初の古代寺院・妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と考えることができそうです。豊中町の妙音寺周辺に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 
ちなみに丸部氏が讃岐最初の氏寺である妙音寺を建立するのは、宗吉瓦窯工場新設の少し前になります。その経験を活かして隣の多度郡の佐伯氏の氏寺善通寺や那珂郡の宝憧寺(丸亀市郡家)造営に際しても、瓦を提供していることは先述したとおりです。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったようです。

 このような実績があったから藤原不比等から役人を通じて、次のような声がかかってきたのかもしれません。
新たに造営予定である藤原京の宮殿は、なんとしても瓦葺きにしたいとお上は思っている。板葺宮では、国際的な威信にもかかわる。そこで、新たな瓦工場の設置場所を選定している所じゃ。おぬしの所領の近くの三野湾周辺では、いい粘土が出るようじゃ。それを使って、須恵器も焼かれていると聞く。
 そこでじゃが先の壬申の乱の功績として、おぬしの実家の丸部氏に氏寺の建立を許す。完成すれば、讃岐で最初の寺院になろう。名誉な事じゃ。もちろん建立に必要な技術者達は、藤原不比等さまが派遣くださる。氏寺建設に必要な瓦窯を作って、そこで瓦を焼いてみよ。うまくいけば周辺の氏寺建設を希望する氏族にノウハウや瓦を提供することも許す。
 そうして出来上がった瓦の品質がよければ、藤原京用の瓦に採用しようというのじゃ。その時にはいくつもの窯が並んだ、今まで見たこともない規模の瓦屋(瓦窯)が三野湾に姿を現すことになろう。たのしみじゃのう。
 ちなみに大和国までは舟で運ぶことなる。その予行演習もやっておけば不比等さまは、ご安心なさるじゃろう。詳しいことは、瓦の専門家グループを派遣するので、彼らと協議しながら進めればよい。どうしゃ、悪い話ではないじゃろう。 
 という小説のような話があったかどうかは知りません。
現在の工場誘致のように丸部氏側が、不比等に請願を重ねて実現したというストーリーも考えられます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  
宗吉瓦窯 ポスター

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小笠原好彦    藤原宮の造営 と屋瓦生産地
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三野平野2
前回に続いて、三野郡を見ていきます。まず復元図からの古代三野郡の「復習・確認」です
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。それが7世紀後半になると、時代の最先端に並び立つようになります。
三野郡発展の原動力になったのが窯業です。
このエリアには、火上山西麓を中心とした地域(三豊市三野町)と東部山南西麓(同市高瀬町)に窯跡が見つかっています。これらは7つ支群
瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻
の各支群)に分かれていますが、全体を一つの生産地と捉えて「三野・高瀬窯跡群」と研究者は呼んでいるようです。
発掘から分かった各窯跡の操業時期を確認しておきましょう。
第1段階(6世紀末葉へ一7世紀初頭)
 十瓶山北麓の瓦谷支群(1)で生産が始まる。
第2段階(7世紀前葉)
 瓦谷支群での生産停止と野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
 野田池支群での生産拡大と、道免(3)・高瀬末(5)群の生産開始、
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)
 道免・野田池の2支群での生産継続。宗吉瓦窯継続
第5段階(8世紀前葉~中葉)
 道免・野田池の2支群での生産継続。青井谷支群(4)での生産開始
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
 青井谷支群での生産拡大。五歩田支群(6)での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
 青井谷支群での生産継続。上麻支群(7)での生産開始
  6世紀末から始まって10世紀まで400年近く三野郡では、土器や瓦が作り続けられていたことが分かります。そして、窯跡は

瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)
と移動していったことが分かります
どうして窯跡(生産現場)は移動していくのでしょうか。
移動の方向は海岸線から離れて、次第に山の奥へと入っていくようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は次のように云います
 窯相互の間隔から半径500mが指標。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えると三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされた
  須恵器窯は、燃料として大量の薪を必用とします。そのため周辺の山林の木材を伐り倒して運ばれてきました。そのために木がなくなると木がある山の麓に移動して新たな窯場を作る方が、生産効率がよかったのです。そのために木を求めて、奥へ奥へと入っていったようです。そして、その跡には丸裸になった里山が残りました。当時の須恵器や瓦生産の背景には、里山の伐採と丸裸化があったようです。そして、これが大量の土砂を三野津湾にもたらし堆積し、陸地化を急速にもたらすことになったのは、前回にお話ししました。
東大寺に運ばれた三野郡の檜
 これに加え、7世紀半ばの東大寺大仏殿の建設には、高瀬郷から木材(ヒノキ)が供給されています。使える木材が三野郡で残されていたのは、毘沙古山塊(標高231m)と、その東側で多度郡に接している弥谷山塊(標高381.5m)だけにしかなかったようです。このふたつの山は、弥谷寺周辺の死霊のおもむく聖地や甘南備山(なんなび)とされていた霊山で、伐採が禁じられていたのかもしれません。そして、北側が瀬戸内海に面し、南西側は「浅津」という地名があるように三野津湾に近く搬出にも便利です。おそらく須恵器生産用の「陶山」と、東大寺材木用の「楠山」とは分けられて管理されてたはずです。保護されてきた檜も、東大寺建立という国家モニュメントのために切り出され、海に浮かべて運ばれていったのでしょう。
 このように8世紀には、周辺の里山の木材も資源としての重要性が高まり、管理強化が行われるようになった気配があります。
  窯跡の移動に関して、研究者は次のように指摘します。
①窯場の移動は、製品搬出に便利な河川や谷道沿いに行われている。
②7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、
③8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にあった。
③窯場をできるだけ高瀬郷内に設定するような傾向がある。
  このように先行する須恵器窯業を受けて、宗吉瓦窯跡が登場します。
三野 宗吉遺2

この瓦工場は、当時造営中の藤原京に瓦を大量供給するために作られた大規模最新鋭の瓦工場で、それまでの須恵器窯とは、スケールも技術も経営ノウハウも格段の違いがあります。地元の氏族が単独で設置運営できる代物ではありません。氏族が中央権力に働きかけて最新の瓦工場を誘致してきたということが考えられます。設置に当たっては、中央からの技術者集団がやってきて取り仕切り、完成後の運営も行ったと考えられます。
三野 宗吉遺跡1
 立地は、藤原京に送り出すために船舶輸送を考えて、三野津湾の奥の海岸線近くに設置されます。しかし、気になるのが燃料である薪の確保です。今までは、薪を求めて窯は奥地に入っていました。それが海岸線に工場を作って確保できるのでしょうか?

 宗吉瓦工場は、郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が行われたようです。それまでの須恵器窯は、移動をしながらも高瀬郷内に置かれています。つまり高瀬郷内を基盤とする氏族によって担われていたことがうかがえます。しかし、藤原京への瓦供給という国家プロジェクトに関わることによって、この勢力は高瀬郷以外への権益拡大を図っていったようです。
そして、須恵器生産でも次のように競合するライバル達を8世紀初頭までは凌駕していたようです。
①競合する三豊平野南縁の辻窯跡群(三豊市山本町、刈田郡)を7世紀中葉には操業規模で圧倒
②讃岐最大の須恵器牛産地・十瓶山窯跡群(綾川町陶)よりも、8世紀初頭までは規模で勝る
③8世紀以降は十瓶山窯が優位になり、10世紀前葉には格差がさらに大きくなる
④10世紀中葉以後、三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小
10世紀近くまで高瀬郷では土器生産が行われ、周辺の山の木が伐採が続いたことになります。
製塩用の薪を提供する山が汐(塩)木山
平城宮木簡には阿麻郷(託間郷?)で塩生産が行われたことが記されます。「藻塩焼く・・」と詠まれたように製塩にも、大量の薪が必要でした。三野津湾西側の山名「汐木(しおぎ)山」は、そのための山として古代から管理されきた山であることがうかがえます。
森林管理センターとしての密教山岳寺院の登場
 このように窯業や製塩業の操業のためには、大量の薪が必要で、そのためには山を管理しなければならないという発想が生まれてきます。条里制施行で田畑の管理は、机上では行えるようになりましたが山野は無放置だったのです。それに気付いた勢力が行ったことが山野の管理センターとして寺院を山の中に建立することだったようです。いわゆる山岳密教寺院の登場です。若い頃に讃岐山脈を縦走していて気付いたのは、山頂にお寺がぽつんぽつんとあったことです。
 西から稜線上に次のような山岳寺院が並びます。
 雲辺寺 → 中蓮寺(廃寺)→ 尾野瀬寺(廃寺)→中村廃寺 → 大川寺(廃寺)→ 大滝寺
これらの寺は、その山域の「森林管理センター」の役割も果たしていたのではないかと思うようになりました。管理人は真言密教の修験者たちということになるのでしょう。同時にこれらのお寺は、孤立化していたのではなく修験者のネットワークで結ばれ、ある程度一体化していたと思われます。
中世の熊野詣での行者たちは、里に下りることなく阿波の鳴門から伊予の八幡浜まで、山の上をつなぐ修験者ルートで行くことができたと云います。そのルートを唐に渡る前の若き空海が歩いたのかもしれません。最後は妄想気味になりました。
最後にまとめておくと
①古代三野郡には須恵器窯跡が数多く見つかっている。
②これは同時に操業していたものではなく、スクラップ&ビルドを繰り返した結果である
③その背景には、燃料の薪確保のために海際から次第に山の奥に入っていった経緯がある
④そのような中で藤原京への瓦提供のために宗吉瓦工場が誘致される
⑤これは当時のハイテク産業で、超大型の工場であった。
⑥この工場誘致を進めた勢力は、三野郡の有力者に成長し、讃岐で最初の古代寺院妙音寺を建立することになる。

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤 竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

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