かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたとされています。
「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになります。
この説によると、先住民の弥生人の2倍以上の渡来人がやってと云うのです。だとすると、従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が集団で続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着してひとつの勢力を形成したことも考えられます。その象徴が、豊前の秦王国です。彼らは、優れた手工業的技術力や航海能力、言語力を活かして、朝鮮半島と日本列島を舞台に活動を展開し成長して行きます。そういう視点で善通寺を見ると、弥生時代の平形銅剣の中心地であった善通寺王国を引き継いで、古墳を造営していくのも渡来人であった可能性が出てきます。それが佐伯直氏につながっていくという話になります。最初から話が支離滅裂になりました。焦点を絞ります。
大量の渡来人がやってきたことを示す「根拠」としては、現在の考古学者達はどんなものを考えているのかということが私の知りたいことです。
そんな中で出会ったのが「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。これをテキストに、古墳時代の渡来人の痕跡をどのように明らかにしているのかを見ていくことにします。
稲作が始まると、炊飯用の土器(甕形土器)が使用されるようになります。
さらに、韓半島から新しい調理用土器や厨房施設であるカマドが、列島にもたらされます。カマドは、3世紀には北部九州を中心に伝来したようですが、邪馬台国の時代から古墳時代前期にかけては、点の存在で全国的な広がりとはなりません。住居内にカマドが造りつけられ、一般化していく時期は4世紀末から5世紀のようです。そして、この時期になると近畿では、カマドと一緒に韓式系軟質土器が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」やカマドは、渡来人の住所を探す上で欠かせないもののようです。
韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで。使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。同時に食器(土器)が多様化します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器に、よそって住居中央で食べるようになります。そのため個人個人の食器が必要になり、いろいろな食器が作られるようになります。カマドの導入によって食事のスタイルが一変します。
韓式系軟質土器 中央が甑(こしき)
「韓式系軟質土器」は、次のように定義づけられています。
この中で中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。
一方,和田晴吾は円墳の古式群集墳の出現を古墳時代後期の開始期として、この時期にヤマト政権による有力家長層の直接的な掌握が始まったとします。そして「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握が群集墳形成の1 つの契機となった」と記します。[和田 1992]。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたとされています。
「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになります。
この説によると、先住民の弥生人の2倍以上の渡来人がやってと云うのです。だとすると、従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が集団で続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着してひとつの勢力を形成したことも考えられます。その象徴が、豊前の秦王国です。彼らは、優れた手工業的技術力や航海能力、言語力を活かして、朝鮮半島と日本列島を舞台に活動を展開し成長して行きます。そういう視点で善通寺を見ると、弥生時代の平形銅剣の中心地であった善通寺王国を引き継いで、古墳を造営していくのも渡来人であった可能性が出てきます。それが佐伯直氏につながっていくという話になります。最初から話が支離滅裂になりました。焦点を絞ります。
大量の渡来人がやってきたことを示す「根拠」としては、現在の考古学者達はどんなものを考えているのかということが私の知りたいことです。
そんな中で出会ったのが「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。これをテキストに、古墳時代の渡来人の痕跡をどのように明らかにしているのかを見ていくことにします。
稲作が始まると、炊飯用の土器(甕形土器)が使用されるようになります。
さらに、韓半島から新しい調理用土器や厨房施設であるカマドが、列島にもたらされます。カマドは、3世紀には北部九州を中心に伝来したようですが、邪馬台国の時代から古墳時代前期にかけては、点の存在で全国的な広がりとはなりません。住居内にカマドが造りつけられ、一般化していく時期は4世紀末から5世紀のようです。そして、この時期になると近畿では、カマドと一緒に韓式系軟質土器が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」やカマドは、渡来人の住所を探す上で欠かせないもののようです。

韓式系軟質土器


布留式式系統の甕
「韓式系軟質土器」は、次のように定義づけられています。
「器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、長胴甕、小型平底鉢、甑、鍋など、日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群」( 田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』大橋信弥・花田勝広編 サンライズ出版)
韓式系軟質土器の種類には、次のようなものがあります。
①カマドの前において調理された小型平底鉢②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕④同じくカマドにかけられた羽釜はがま⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋⑥厨房道具としての移動式カマド⑦蒸し調理に用いられた甑こしき⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠
全羅道出土須恵器とその影響を受けた須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中で中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。
畿内で韓式系軟質土器の分布が濃密なのは,河内湖周辺を中心とする大阪湾岸のようです。
その中の長原遺跡群では、定着型軟質土器(長胴甕,小型平底鉢,甑,鍋)を用いる渡来人集落が現れ、周辺の煮炊器と急速に融合する過程が見えて来ます。また、渡来人がもたらしたものは、土器だけではないことが近年分かってきました。
古代河内湖周辺の韓式系軟質土器と定着型平底鉢の出土状況
古代河内湖周辺の鍛冶遺物と手工業生産工房の分布
上の図は、韓式系軟質土器出土遺跡(左上),定着型平底鉢・長胴甕出土遺跡(右上),鍛冶関連遺物・遺構(左下),主要手工業生産工房(右下)の分布を示したものです。
ここからは、その分布が重なりあうことが見えてきます。
これをどのように考えればいいのでしょうか? 代表的な遺跡を挙げていくと次の通りです。
大阪市から八尾市にまたがる長原遺跡群(長原遺跡,瓜破遺跡,城山遺跡),久宝寺遺跡,大園遺跡,生駒西麓遺跡群(西ノ辻遺跡,鬼虎川遺跡,神並遺跡),蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡群
そして,そこでは鍛冶関係だけではなく,馬飼や玉作,紡織や木工といった各種の手工業生産の痕跡が見えて来ます。これらは韓半島からもたらされた当時のハイテク技術です。その背景には活発な人的交流が幾重にも積み重ねられていたことがうかがえます。ただの交易だけでなく技術や知識の導入も意図していたと研究者は考えています。
その中の長原遺跡群では、定着型軟質土器(長胴甕,小型平底鉢,甑,鍋)を用いる渡来人集落が現れ、周辺の煮炊器と急速に融合する過程が見えて来ます。また、渡来人がもたらしたものは、土器だけではないことが近年分かってきました。
古代河内湖周辺の韓式系軟質土器と定着型平底鉢の出土状況
古代河内湖周辺の鍛冶遺物と手工業生産工房の分布
上の図は、韓式系軟質土器出土遺跡(左上),定着型平底鉢・長胴甕出土遺跡(右上),鍛冶関連遺物・遺構(左下),主要手工業生産工房(右下)の分布を示したものです。
ここからは、その分布が重なりあうことが見えてきます。
これをどのように考えればいいのでしょうか? 代表的な遺跡を挙げていくと次の通りです。
大阪市から八尾市にまたがる長原遺跡群(長原遺跡,瓜破遺跡,城山遺跡),久宝寺遺跡,大園遺跡,生駒西麓遺跡群(西ノ辻遺跡,鬼虎川遺跡,神並遺跡),蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡群
そして,そこでは鍛冶関係だけではなく,馬飼や玉作,紡織や木工といった各種の手工業生産の痕跡が見えて来ます。これらは韓半島からもたらされた当時のハイテク技術です。その背景には活発な人的交流が幾重にも積み重ねられていたことがうかがえます。ただの交易だけでなく技術や知識の導入も意図していたと研究者は考えています。
5世紀になると、それぞれの業種で次のような「専業的生産拠点」が現れます。
大阪府大県遺跡(鍛冶)大阪府南部泉北丘陵一帯に広がる陶邑窯跡群(窯業)奈良県曽我遺跡(玉作)大阪府奈良井遺跡,蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡(馬飼)和歌山県西庄遺跡(製塩)
ここからは各種の特定工房が畿内一円に分散し,それぞれの工房が特定の製品を生産する体制が出来上がったことを示します。この背景には、手工業拠点を計画的に配置した政治権力があったことがうかがえます。つまり「領域に対する一定の支配権が確立=国家の出現」を意味すると研究者は考えています。
「専業的生産拠点」からさらに進んで,各種製品を生産する「複合工房群(コンビナート)」も現れます。その研究の進展ぶりを振り返って起きます。
①「大和の場合,鍛冶工房集落では他の生産工房と併存する遺跡例が多いが,河内例では単一製品工房であり,大王陵群内に含まれる集落で工房を保有する(和泉を含めて)ことが多い」[堀田1993:pp.155-156]。つまり地域差の確認です。
②その地域差の背景には、渡来人技術者集団の存在があるという仮説発表
③この仮説が奈良県・南郷遺跡群の発掘調査成果から「豪族膝下の複合工房」として認知される
④南郷遺跡群と布留遺跡の比較分析から、鍛冶集団の支配者を前者に葛城氏,後者に物部氏として、各豪族がそれぞれ別個に技術者集団を支配下においたという説。
⑤その上に立って、南郷遺跡群を経営した「カツラギ」氏は渡来人を積極的に活用し、奈良盆地中央部に拠点をおく「ワニ」氏はそうではなかったと,豪族の開発方式に差異があったという推測
⑥これらの成果吸収の上に「大和の工房が王権を支える豪族の家産に組み込まれていたものであったのに対し,河内の工房は王権の工房として再編されたものであった」と,複合工房群と専業的生産拠点の経営主体の違いを対比的にまとめた説
ここでは半島からのハイテク技術を持った渡来者集団を、支配下に組み込んで生産体制を伸ばした勢力が台頭していったと研究者は考えています。
⑥これらの成果吸収の上に「大和の工房が王権を支える豪族の家産に組み込まれていたものであったのに対し,河内の工房は王権の工房として再編されたものであった」と,複合工房群と専業的生産拠点の経営主体の違いを対比的にまとめた説
ここでは半島からのハイテク技術を持った渡来者集団を、支配下に組み込んで生産体制を伸ばした勢力が台頭していったと研究者は考えています。
次に渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
古墳は立地によって、単独墳と、大小の群をなす古墳群,小規模墳が数十基~数百基群在する群集墳に分類されます。このうちの群集墳は,6世紀以降に爆発的な増加をみることが通説です。この現象については、次の2つの見解がありました。
①古い共同体の分解とともに出現した家父長的首長層の墳墓とみる近藤義郎の議論[近藤1952]②古墳を身分表示として理解し,家父長的家族層に至るまで身分秩序に組み込まれたと考える西嶋定生説[西嶋1961]
しかし,群在する小規模な古墳は6世紀をさかのぼることが分かり、従来の説では説明できなくなります。そこで白石太一郎は、次のような新説を提起します。
出現契機を共同体を解体することなく,5世紀後半から6紀にかけて生産力の著しい発展を基礎として新しく台頭してきた中小共同体の首長層や有力成員層を,ヤマト政権が直接その支配秩序に組み込もうとしたものである[白石1976]。
一方,和田晴吾は円墳の古式群集墳の出現を古墳時代後期の開始期として、この時期にヤマト政権による有力家長層の直接的な掌握が始まったとします。そして「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握が群集墳形成の1 つの契機となった」と記します。[和田 1992]。
どちらにしても「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。
その中心地とされる河内湖周辺を見ていくことにします。
韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いた勢力が「産業殖産」を次のように展開します。
その中心地とされる河内湖周辺を見ていくことにします。
韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いた勢力が「産業殖産」を次のように展開します。
①5世紀初頭に河内湖南岸の長原遺跡群で開発が始まり②5世紀中葉に生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)や、上町台地(難波宮下層遺跡)へと広がり、③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)
①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。
蔀屋北遺跡
蔀屋北遺跡の馬1頭分の全身骨格
③の蔀屋北遺跡からは、馬1頭分の全身骨格、馬具(轡・鞍・鐙)以外にも、飼育に必要であった塩の入った大量の製塩土器も出てきています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが分かります。その他にもこの遺跡からは、

蔀屋北遺跡の馬1頭分の全身骨格
③の蔀屋北遺跡からは、馬1頭分の全身骨格、馬具(轡・鞍・鐙)以外にも、飼育に必要であった塩の入った大量の製塩土器も出てきています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが分かります。その他にもこの遺跡からは、
①住居域と倉庫群、水利施設が溝によって区画されて配置されていること②これは韓国・忠清南道の燕岐・羅城里遺跡と同じ集落構造であること③鉄滓、鞴羽口、刀装具未成品、鉄鏃、砥石、紡錘車、織機といった各種手工業の痕跡発見
以上から、この遺跡は馬飼を中心としながら、鍛冶、漆工芸、玉生産、木工等といった多種類の手工業生産活動を行っていた渡来集団の拠点であったとされます。また、集落形成期には周溝墓や、大溝から5世紀後半の埴輪が出土しています。ここからは集落の近くには小規模な古墳群あった可能性があります。そして、周溝墓からは韓式系軟質土器が出土しています。
蔀屋北遺跡
周辺遺跡で「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳」が見られる所を研究者は次のように挙げます。
蔀屋北遺跡
周辺遺跡で「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳」が見られる所を研究者は次のように挙げます。
A 生駒西麓遺跡群では、鞴羽口、鉄滓、鍛冶炉壁の検出されているので、鍛冶が行われていたこと
B 神並遺跡に隣接する植附1号墳周溝からは、韓式系軟質土器、鉄滓、馬の上顎骨、製塩土器が出土。この古墳は小規模方墳なので地域統括の首長墓とは云えませんが、この地域の開発に深く携わっていた渡来人リーダと研究者は考えています。
C 難波宮下層からは、法円坂遺跡の5世紀後半代の掘立柱建物群が出てきています。このほかにも鞴羽口やガラス玉鋳型が出土していて、須恵器窯(上町谷1・2号窯)とあわせて考えると、複合的生産が行われていたようです。また初期古墳は。孝徳朝難波遷都にともなって破壊された古墳があったことが分かっています。ここでも複合工房群と初期群集墳がリンクしています。
奈良県の奈橿原市域について、研究者次のように指摘します。
A 玉製品の生産拠点となった曽我遺跡B 小型把手付台付鉢や小型器台などの初期須恵器が出土した四条大田中遺跡、C 阿羅加耶系陶質土器が出土し、多量の製塩土器に加えて木器、鋳造鉄斧、織機具部材、鞴羽口、鉄滓等の手工業生産関連遺物を豊富に出土した新堂遺跡・東坊城遺跡、D 鍛冶関連遺物を出土した内膳・北八木遺跡
これらの手工業的な先進技術を持った集落遺跡からは、百済の全羅南道の韓式系軟質土器が出てきます。そして、周辺には小規模な古墳群が築造されているのです。これは河内湖周辺とよく似ていると研究者は指摘します。
須恵器生産の一大拠点である陶邑窯跡群でも、初期群集墳が近くにあります。
陶邑窯跡群
研究者は、陶邑の集落展開を次のように捉えます。
須恵器生産の一大拠点である陶邑窯跡群でも、初期群集墳が近くにあります。
陶邑窯跡群
研究者は、陶邑の集落展開を次のように捉えます。
①渡来系工人を主体とする大庭寺遺跡の出現段階(TG232期)、②小阪遺跡への倭系工人の須恵器生産への参画(TK73期)
③伏尾遺跡の出現期に居住・生産・流通をなど計画的集落形成が行われた。④この計画的集落形成や須恵器生産設備の拡充整備は、ヤマト政権の政策的介入があった⑤これが5世紀前後にはじまる大規模須恵器生産につながる。⑥さらに小規模方墳群の築造は中央政権による手工業生産の組織化と結びついていた
これ以外にも「韓半島系土器 + 手工業生産関連遺物 + 小規模古墳群」という関連性が見られる遺跡が畿内には数多く見つかっています。この3点が揃う遺跡は、渡来人の拠点であったとしておきます。

今回はここまでとしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」
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今回はここまでとしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」
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