①飯野・東二瓦礫遺跡は。飯野山西麓と土器川の間に挟まれたエリアに立地する②土器川右岸に氾濫原と自然堤防が広がり、飯野山の西麓との間に狭い凹地が南北にある。③そこを赤山川が南北方向に流れている。④凹地は、遺跡周辺で最も狭くなっている。
⑤遺跡の東北方向が津之郷盆地で、赤山川から山崎池の下を通って分水用水が伸びている。
次に遺跡周辺の地質分類図(第3図)を見ておきましょう。
①土器川の氾濫原と飯野山西麓の間に、条里制跡が見られる②条里制以前の埋没河川痕跡が幾筋も網目状に見える。③崖面以東の平地部と比較すると、この遺跡周辺は地表面高が約0,5mほど低い凹地となっている。④この低地部分は、土器川が蛇行した痕跡で、古代末頃の「完新世段丘」により形成された「氾濫原面」である。⑤崖面上位の平地面を「段丘1面」とする。⑥段丘1面と氾濫原面の旧河道は不連続である
1次調査区(昭和63年度調査、香川県埋蔵文化財調査センター1996)の調査報告書には、次のように記します。
A 段丘1面の旧河道は弥生時代~古墳時代のもので、古代には埋没過程にあったことB 氾濫原面の旧河道(SR01)は、14世紀頃に新しく掘られたものであること。
現在の赤山川(さぬき医療専門学校の下)
この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
飯野山の尾根が張り出して崖になっているところが、最も狭くなっているくびれ部分。その南側を真っ直ぐに流れる赤山川
この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
①延長約3、5kmの土器川の小さな支流の一つ②氾濫原面の出水が水源で、緩やかに蛇行しながら北に流れ、遺跡の南方で大きく東に屈曲③その後は、微高地を横断して段丘1面上を北流し、遺跡北方で再び西へ屈曲して、土器川へ合流。
地図を見れば分かるように、赤山川は自然河川としては怪しい不自然な流れをしています。
南で氾濫原面を流れるときには、何度も屈曲していますが、段丘1面上では、条里型地割の方向に沿って直線的です。これは条里制施工の時に、流路が人工的に変えられたことが考えられます。どちらにしても、赤山川は自然の川ではないようです。
赤山川に合流する小さな支流の水源は、すべてが出水です。土器川伏流水の出水からの水を、人為的に条里型地割に沿って掘られた用水路で水田に供給されていたことになります。つまり、これらの小さなな支流は、人為的に開削された用水路だったと云うのです。それらが赤山川として、凹地の中央を北にながれていたことを押さえておきます。
飯野山西麓から土器川に流れ込む赤山川
もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
飯野・東二瓦礫遺跡周辺の土地条件図
それでは、赤山川の流路変更は、いつだったのでしょうか?
すぐにイメージするのが、条里制施行に用水路も掘られたという「条里制施工時の用水路説」です。しかし、どうもそうではないようです。発掘調査で明らかとなった古代の溝は、深さが0、5m以下で浅いのです。段丘1面上を流れる旧土器川の支流から直接取水し、用水路として利用していたことが考えられます。一方、中世以降になると、残存深0、7m以上と、一定の深さ深度を有する溝が出てきます。これは、古代末頃の河床面の下刻と重なります。
また、段丘面上には遺跡南部に条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)があります。これは段丘面が形成されたことで放棄・埋没した古代基幹水路であった可能性があります。つまり、古代の用水路は流路bということになります。
このような大型幹線水路は、飯野山東麓の大束川両岸の川津川西遺跡や東坂元秋常遺跡にもあったことは、以前にお話ししました。
飯野山東麓の古代用水路
その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
飯野山東麓の古代用水路
その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
以上をまとめておくと、
①土器川の氾濫原と飯野山に挟まれた飯山町東二にも、古代の条里制施行が行われた。
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた
ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた
赤山川の津之郷方面と土器川の分地点
ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
その対応のために広域的な地域的統合や開発領主と呼ばれる新規指導者層の登場を招くことになったことを押さえておきます。それが新たな中世の主役として名主や武士団たちの登場背景となります。そこに東国からの進んだ灌漑・土木技術をもった西遷御家人たちの姿が見えてくるようです。これは、飯山町の法勲寺あたりの灌漑用水整備で以前にお話ししました。
最後に1970年代の「古代讃岐のため池灌漑説」で、津之郷盆地がどのように記されていたかを見ておきましょう。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。
津の郷における稲作発展の第1次は、津の郷池(前池ともいう)の設置から始められた。
大束川の周辺では流水はそのまま横井堰から引かれ、また、ため池程の大きさでなく少し掘れば伏流水が湧出する出水などが作られた。2メートルも掘れば清水の得られる井戸も沢山作られ、かめて水を汲みあげる方式などもとられたであろう。第2次展開は、飯の山山麓にある蓮地と長太夫池であろう。柳池というのも一連のものと考えても不合理ではないが、その大きさと構造から考えて第3次展開とした方がよいかも知れない。
ため池発展の過程を1次、2次、3次という風に抽象的な言葉で表現したのは、稲作が拡大していく順序をいうもので、現在のそれらのため池が現状の規模や大きさで古代からあったという意味ではない。したがって、そこには当然そのため池の前身らしきものがあったか、あり得なければならないという必然性を指摘するものである。そういう意味である。
この説を現在の考古学者の中で支持する人はいません。しかし、津之郷盆地西部の開発のための灌漑用水路は、赤山川から引かれていたことは今見てきた通りです。それは、上の地図上で示したため池展開のルートと一致します。水源をため池とするか、土器川の氾濫面の出水からの灌漑用水とするかの違いであったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書 2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書 2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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