瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐古代史 > 讃岐の弥生時代

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
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旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
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以前に旧練兵場遺跡について紹介しましたが、その後に平成12年度に開かれたシンポジュウム資料を入手しました。ここには、この遺跡の持つ特徴がコンパクトにまとめられていますので、メモ代わりにアップしておきます。
金倉川 善通寺遺跡分布図

旧練兵場遺跡は、現在の「子どもと大人の医療センター」から農事試験場を含む広大なエリアになります。国立病院の建て替えに伴い西側部分が発掘対象となり、何次にも渡る調査が行われ、分厚い報告書が何冊も出ています。しかし、素人の私が読んでもなかなか歯が立ちません。コンパクトにまとめて、問題点を指摘してくれるシンポジウム資料などは有難い「教材」になります。

まず旧練兵場遺跡の地形復元図を見てみましょう。
この遺跡は、北流するふたつの川にはさまれた微髙地に立っています。ひとつは弘田川で有岡大池から流れ出し、誕生院の裏側(西)を取って北流していきます。遺跡の西側の境界となっています。
 もうひとつが中谷川で源流は大麻山東山麓の大麻で、四国警察学校に至り、大通り(県道24号)の側溝となって北流し、農事試験場の北東部のコーナで大きく西流し、甲山寺(四国霊場)あたりで合流します。ちなみに中谷川は現在は小さな川ですが、かつては金倉川の旧ルートであったようです。
この二つの川の合流点の南に旧練兵場遺跡は広がります。これまでに発掘調査が行われた面積は約2、2万㎡で、遺跡の全面積は約50万㎡と言われますからまだ4%しか発掘は終わっていないことになります。
旧練兵場遺跡 地形区分図

まず、遺跡の大きさを資料で確認しましょう
①弘田川と中谷川に挟まれたエリア面積は約50~70ha
②生活域となりうる微高地(周辺より高い地形)は約25ha
③水田などに利用された低地部分が20~40ha
発掘から復元された地形は、幾筋もの支流が流れ、その間にできた自然堤防のような微髙地の上に、それぞれの集落が現れます。地形復元については、以前にお話ししましたので省略します。
 これまで発掘された丸亀平野の遺跡と比べると、格段に規模が大きいことが分かります。
旧練兵場遺跡からは環濠が出てきません。
 これをどう考えるかは別にして、遺跡の範囲をどこまでとするかが難しいようです。微高地と微高地の間の低地部を含めて遺跡面積を計測すると、50haになるようです。これを吉野ヶ里遺跡(佐賀県)、池上・曽根遺跡(大阪府)、唐古・鍵遺跡(奈良県)などの各地域の環濠集落と比較するために縮尺を同じにして並べたのが下の図です。
旧練兵場遺跡 弥生時代の拠点集落規模

吉野ヶ里遺跡よりも広いのにびっくりします。しかし環濠をもたない比恵那珂遺跡群(福岡県)や、文京遺跡を有する道後城北遺跡群(愛媛県)と比較すれば、それらを下回る規模になります。環濠があるかどうかで、大きな違いがあるようです。
 それにしても、香川県内ではずば抜けて大規模な古代の集落跡であることは確かなようです。当時、西日本に姿を現しつつあった小国家のひとつだったのかもしれません。
旧練兵場遺跡のもう一つの特徴は、集落が継続して営まれていることだと研究者は考えているようです。
 弥生中期後半以後は、すべての微高地で建物が確認され、それが終末期まで続きます。弥生時代の全期間に渡って途切れることなく、集落が続いているのです。弥生時代の拠点集落は、中期末から後期にかけて廃絶するものがほとんどです。この現象を 「集団の再編成」などと研究者は読んでいるようです。しかし、具体的に何がどう変わったのか、一つの遺跡で追いかけることができるのは少ないようです。ところが、その断絶がなく継承している旧練兵場遺跡は「弥生社会の変化」が何であったのかを知ることができる「貴重な資料」でもあるようです。
旧練兵場遺跡 縦穴式住居変遷

住居の推移の中では、
①多角形住居が出現する後期後半
②方形住居に統一される終末期
に研究者は注目しています
①については、この時期に登場する多角形住居には南九州のいわゆる花弁形住居に似た「張出部」をもつものが見つかっているようです。ここからは、他地域の住居との影響がうかがえるようです。つまり、「平形銅剣=瀬戸内海文化圏」のリーダーとして、九州勢力や吉備勢力と活発な交流が始まったことがうかがえます。
②については、それまではいろいろな形だった住宅が終末期に方形住居に統一されます。しかも住居の方向性をみると、微高地のどの地区の住居も北から20°ほど東に振った方向に向いて建てられるようになります。それまでは建物方向はバラバラだったことから比べると、すべての集落がひとつのまとまりとして意識されるようになったことを示すものと研究者は考えているようです。これがオウとクニの誕生につながるのかもしれません。

旧練兵場遺跡 掘立柱建物変遷

<掘立柱建物>
掘立柱建物は住居でなく倉庫として使われたと研究者は考えているようです。
掘立柱建物(倉庫)が登場するのは中期後葉になってからです。梁行が2.5~3.5mで、桁行は短いものもあれば、長いものもある(図5-5)。出現期の中期後葉は面積が20㎡を超えるものが3棟出てきています。
 讃岐地域の中期の掘立柱建物の面積は、平均15㎡ほどであるから、それよりも一回り大きいことになります。
 面白いのは、面積の大小に関わらず梁行の長さは一定なのです。つまり、面積を大きくするには行方向に建物を伸ばしています。収納物の重量を主として桁柱で支える構造です。このような点も掘立柱建物を米や物資を蓄える倉庫とみる理由のようです。生産力と向上と、備蓄品の増加が背後にはあったのでしょう。  

旧練兵場遺跡 居住区1の掘立柱建物

もう一つの特徴は、柱穴が平面方形だと研究者は指摘します。
近隣の矢ノ塚遺跡・西碑殿遺跡や、庄内半島の紫雲出山遺跡で見つかった掘立柱建物の柱穴も方形だったようです。これは讃岐西部の特徴と研究者は考えているようです。
 掘立柱建物は、後期後半以後には姿を消します。
終末期も多数の竪穴住居はありますが掘立柱建物(倉庫)は見つかっていません。後期のある段階から倉庫姿を消す現象は、讃岐だけでなく吉備でもみられるようです。その背景については、後ほどに廻します。
  旧練兵場遺跡からは近畿地方の「方形周溝墓」、北部九州の「甕棺墓」などのような埋葬場所は見つかっていません。
ただ、小児用と推定される土器棺墓が後期後半に見つかり、終末期には一カ所にまとめられる傾向がみられるようです。
旧練兵場遺跡 石棺墓

  遺跡内に墳墓が作られるのは、弥生後期後半になってからです。
 仙遊調査区では人面を線画した箱式石棺が見つかっています。しかし、終末期になると遺跡内からは成人墓はなくなります。集落外に墓域を造るようになったようです。
旧練兵場遺跡 王墓山古墳石棺墓

周辺からは、王墓山古墳の下層に箱式石棺が集中する場所が見つかっています。
旧練兵場遺跡 香色山石棺墓

また香色山山頂周辺には、多数の土器棺や箱式石棺が出ています。このように終末期には、墓を集落の外に作るようになりますが、小児墓だけは集落内に埋葬され続けます。

微高地内には小規模な水路が網目のように流れます。
旧弘田川や旧中谷川から低地に網目状に伸びる小さな水路が数多く見つかっています。河川から伸びる水路は、弘田川と中谷川の合流点あたりの水田域に水を配る用水路であったと研究者は次のように指摘します。
居住域に近い水路は、生活雑器類の廃棄場ともなっていたようで、何回かの堀直しや人工的な埋め立てなど行われていた。水田維持のための用水路修繕や居住域の拡大などが埋め立てなども行われていた。

遺跡内で水田遺構はまだ見つかっていません。人口が増加するにしたがって、微髙地周辺の居住地が埋め立てられていきます。水田面積は次第に減少したと推定されます。遺跡内の水田面積は約18haだったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 弥生時代年代区分

発掘された竪穴住居の数からおよその人口を研究者は次のように推定しています
  後期後半には、西・東の2つの居住区をあわせて1500~2000人の人口規模だったします。そうすると18haの水田からの米の収穫量では、2ヶ月足らずになくなってしまいます。年間を通して、人口を維持するには、もっと広い範囲に水田が広がっていたと考えなければならないようです。
中谷川を北に越えると、金倉川の河川水系になります。
そこには九頭神遺跡をはじめとして、小規模な遺跡が点々と存在します。周辺の集落とは、弥生時代中期以来、利水の利害関係から始まり、水田維持・水路造成の労働力や矢板・杭など大量に必要となる木材、集団祭祀に必要な祭祀具など、様々な物資のやりとりが行われていたと研究者は考えているようです。
 例えば、旧練兵場遺跡では木材を伐採するための石斧は、3本だけです。一方で、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことが予想されます。
 イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。
 旧練兵場遺跡は丸亀平野西部の小国家として、周辺集落を影響下に置くようになっていったことが考えられます。それがその後の野田院古墳の造営につながっていくのかもしれません。周辺の集落の求めるものは、鉄でしょう。鉄を提供できることが指導者の条件だった時代だったようです。

住居の型式や倉庫のあり方など、集落の内容の変化に話を戻しましょう。
後期前半までは竪穴住居と掘立柱建物(倉庫)はセットで存在します。ところが、後期後半になると倉庫が姿を消し、終末期には住居が小形化し均質化して、方向も棟筋をそろえて配置されるようになるのは先ほど見たとおりです。何かしらの統制が加わったことがうかがえます。
 墳墓を見ると、後期後半に箱式石棺墓や土器棺墓が姿を見せます。そして、終末期には成人墓が集落の外部に設けられ、丘陵の上に作られるようになります。
このような動きの中で、最も重要な時期は後期後半にあると研究者は考えているようです。
  倉庫が姿を消したのは、それまで微髙地の集落単位で管理していた米などが、一括管理されるようになったからだとします。
後期後半からは鉄器・青銅器・装身具の出土量が増えます。伊予や吉備などの他地域の土器が出てくるようになるのもこの時期です。後期後半以降は、丸亀平野の周辺集落との関係とは別に、遠く離れた瀬戸内海の「小国家」の関係が活発化したことがうかがえます。
この時期の彼ノ宗調査区ST09では、小形倣製鏡がでてきています。
これはそれまでの平形銅剣や銅鐸などの青銅祭祀具が、古墳時代に引き継がれる「鏡」ヘと変化したことを示すものだと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡

鏡は、個人帰属的性格の強い祭器です。箱形石棺や古墳にも埋葬されるようになりますし、卑弥呼の鏡好きは有名です。シャーマン達は、自前の鏡で占うようになったのです。
人口が1000人を超えた旧練兵場遺跡は、それを統括する社会システムが必要になってきます。
  「約50年後に出現する前方後円墳(野田院古墳)は、この地域の首長の墳墓とみて差し支えない。」

と研究者は記します。
 先ほど見たように、終末期の住居が規格化されていたことを、それを住民に徹底させる階層社会が現れたとみることができます。つまり、オウ(首長・王)の登場です。
  しかし、強力な首長権力が外部からやって来て、この時期から急速に階層社会ヘと変化したとは研究者は考えません。継続して続いてきた旧練兵場遺跡からは、外部からの侵入者の存在や征服の痕跡は見えないからです。
 この時期に急速に組織強化が図られるのは、旧練兵場に居住する集団が積極的に外部との交渉を行い始めた結果だと研究者は考えます。対外的な活動や交渉の目的は「鉄」の入手でした。
 後期後半から終末期にかけて香色山の流紋岩が砥石として使用され始めます。それまでの石器用の砂岩や安山岩の砥石とはちがって、きめが細かく粘りのある石材です。その後、中世まで砥石石材として使用され続けています。このように、香色山の砥石から見ても後期後半に、鉄器化が急速に進んだのは明らかです。鉄資源を入手するために、瀬戸内海を広域的に動き回り、各地の拠点集落と交易や情報交換、人的な交流が求められるようになったのでしょう。単独で鉄を入手することが難しければ団結・連合も行います。それが前回お話しした「平形銅剣文化圏」の形成だったのかもしれません。鉄の入手なくしては、周辺集落をつなぎ止めておくこともできません。鉄の入手は、小国家の存続条件になっていきます。あるときには北部九州勢力に組入り、あるときには近畿勢力に荷担し、朝鮮からの「直輸入の仕入れ」に参加するなど、外交方針までもが鉄の入手とリンクする時代だったのかもしれません。
私が気になるのは、善通寺地域の初期首長は鉄の入手のために、何を「売り物」にしたのかという点です。

以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡では弥生時代中期から人口集中がみられ、同じ場所で人口密度を高めながら後期を迎えた。
②弥生時代後期後半以後の住居の変化や、祭祀具の変化から見て、首長権力という古墳時代に続く 下地が形成され始めていること
③後期後半~終末期の倉庫群や首長居館などの大形建物などはいまだ見つかっていない。
④古墳時代前期になると、突然集落内の住居が激減するが、この要因は明らかではない。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 森下英治  旧練兵場遺跡の集落構造 旧練兵場遺跡シンポジュウム資料 平成12年


2有岡古墳群2jpg
善通寺の背後の我拝師山や大麻山は、甘南備山の山容で霊山として信仰されてきたようです。ここからは、数多くの青銅器が出てきています。
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

 善通寺・瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口と中細形銅矛1口が出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。青銅祭器が一ヶ所に埋納されていたことから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀のあったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 銅剣出土2jpg

これらの青銅祭器を使って祭礼を行っていたのは、旧練兵場遺跡の集落の首長(シャーマン)のようです。かつては銅鐸と銅剣は
「銅鐸(近畿)文化圏と銅剣・銅矛(九州)文化圏のどちらかに属する勢力がせめぎ合うことを示す証拠」

のように云われてきました。しかし、島根の荒神谷遺跡からは銅鐸と銅剣が同時に埋葬されて出てきました。我拝師山からも、銅鐸と銅剣は一緒に出ています。今では、銅剣と銅鐸が相対立するシンボルとは考えられなくなってきました。
 この旧練兵場遺跡では、いろいろな青銅器祭祀を使って祭礼を行っていたと研究者は解釈するようになっています。
青銅祭器のエリア分類を確認しておきます。
①銅鐸は近畿地方を中心とした青銅祭器であり
②銅剣・銅矛は九州地方を中心として盛行したものである。
②の銅剣は、中細形銅剣と平形銅剣の大きく2つに分かれます。讃岐に関連するのは平形銅剣です。善通寺の瓦谷から出てきた平形銅剣をみてみましょう。

旧練兵場遺跡 平形銅剣
弥生時代中期 前1世紀~1世紀 長46.0㎝ 幅11.1㎝ 厚0.3㎝

銅剣は、弥生時代前期に朝鮮半島よりもたらされます。弥生時代中期には早くも国産化が始まりますが、その際に実用品であった武器形の青銅器は、大型化・祭器化してこんな形になるようです。身は薄く先も丸く、刃は研がれていません。武器としての実用性はまったくなくなっています。茎や樋が痕跡のようにかろうじて残るだけです。
 それでは、この平形銅剣はどんな地域から出てくるのでしょうか。
 旧練兵場遺跡 平形銅剣讃岐分布図

    香川県では、上の図から分かるとおり丸亀平野の善通寺周辺に集中していることが分かります。
 平形銅剣の出てくる範囲を愛媛に広げてみてみましょう
旧練兵場遺跡 平形銅剣愛媛分布図

  平形銅剣について愛媛県史には次のように記されています。
 愛媛の平形銅剣は41本と爆発的にその数が増加している。これらの地域別の内訳は東予地方17本、中予地方21本、南予地方3本となり、県下均一に分布しているとはいい難い。最も出土数の多い中予地方も一本を除いたすべてが、松山市の城北地域に集中している。特に石手川の右岸の扇状地の扇端部に近い松山市道後今市(もと一万市筋)から10本、樋又から7本、道後公園東から3本と、狭い範囲に集中している。これら平形銅剣を出土した三ヶ所はいずれも至近距離にあり、周辺には弥生中期から後期にかけての遺跡がほぼ全面にわたって分布している。この地域は水に恵まれた地域でもあり、古くから稲作が行われていたことは土居窪遺跡の調査によっても明らかである。
 これら東・中予地方の銅剣の出土分布をみると、沖積平野の広さと出土数との間に明らかに相関関係を認めることができる。このことは沖積平野における人口数、すなわち統合集団の数をあらわしているともいえるし、その埋納の状態から小国家群が統合される状況をうかがうこともできる。
   愛媛県からは銅鐸が出てきません。非ヤマト色の強いエリアなのです。出てくるのは銅剣と銅矛がほとんどです。その内の平形銅剣を見てみると、松山の特定地域に集中しているのが分かります。旧練兵場遺跡のような拠点になる弥生集落があったことが分かっているようです。そこからは「小国家群が統合される状況」が見えてくると指摘します。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏
青が平形銅剣の分布エリア

 ちなみに、芸予諸島の島嶼部からは出てきません。また、瀬戸内海の対岸である広島や岡山からは、出てきますが松山や善通寺に比べるとその数は少ないようです。松山と善通寺が平形銅剣文化圏の中心なのです。
 ここまでをまとめておくと
①北九州の銅鉾文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏の中間地帯にあって、平形銅剣が出土している広島・愛媛・香川・徳島・岡山南部は平形銅剣文化圏という一つの文化圏を形成している。
②その中でも平形銅剣は松山平野や丸亀平野の大規模集落周辺から多くが出土している。
③そのため平形銅剣は松山平野での作られた可能性も指摘されている。
また、平形銅剣を出土するエリア地域は、弥生中期末の凹線文土器の出土範囲と重なります。単に青銅器だけでなく、交易や文化・人的な交流が瀬戸内海を通じて、瀬戸内海の「小国家群」が舟で活発に行われていたことがうかがえます。善通寺の旧練兵場遺跡も、この瀬戸内海・平形銅剣エリアの重要メンバーだったことが推測できます。

「平形銅剣文化圏」形成の背景は何なのでしょうか?
 平形銅剣は、瀬戸内沿岸の小国家が新しく作りだした自分たちの独自のシンボルだったと研究者は考えているようです。その背景には、弥生時代中期(BC2C前後)になって、高まる北部九州の政治的権力の脅威に対して、瀬戸内のクニグニが抱くようになっていた強い政治的緊張があったとします。銅鐸でも銅矛でもない新しいタイプの祭器を採用し、そのもとでの「同盟・連合」を計ったというのです。それは北九州勢力への脅威に対抗するためだった推測します。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

 クニやオウが現れた弥生時代中期の動きを見ておきましょう。
それにはマツリの変化が手掛かりとなようです。
 北部九州で中期前葉(前二世紀後半)に始まった青銅のマツリの第1段階は、銅鐸と銅剣・銅矛の共存でした。
①北部九州では、銅矛と銅戈が祭器シンボルになっていきます。
②近畿周辺では、銅鐸が青銅祭器マツリのシンボルになります。
③その中で、瀬戸内は銅鐸と銅剣の共存を図りながらも、しだいに平形銅剣をシンボルとしていくようになります。
 こうして、中期後半(前一世紀後半~一世紀前半)第Ⅱ段階には、それぞれの地域が独自のマツリのシンボルを掲げだしたようです。
 なぜそんな現象が生まれることになったのでしょうか?
 それはいち早く国家を生み、苛酷な階級社会に足を踏み入れた北部九州と、未だ縄文的階層社会を引きずりながら祭祀的に統合をはかり国家を生み出しつつあった西日本との違い

と研究者は考えているようです。「国家統合の進んだ北九州、遅れた近畿」ということでしょうか。
 北部九州が銅剣や銅矛などの武器形青銅祭器を、シンボルとした背景には、小国家同士の戦いがあったようです。武力をもって自らのクニを守り、他を威嚇することが日常化した中では、武器形はシンボルとしては素直に受けいれられるオブジェだったのでしょう。
 一方、近畿周辺のいまだ緊迫感がさほど現実的でなく、農業の経済的発展を重視するような社会では、穀霊を加護し、生産の安定をはかってくれる呪器(銅鐸)がシンボルに選ばれたと研究者は考えているようです。

 旧練兵場遺跡で平形銅剣を使ったマツリが行われた時期は、いつなのでしょうか?
善通寺瓦谷からは製作時期が違う中細形銅剣、同銅矛、平形銅剣の3型式の青銅祭器が一括埋納されていました。古くから伝わっていたものを長く使っていたようです。その中で最も型式的に古いものは瓦谷7号中細形銅剣のようです。現在まで、中細形銅剣の最も古い鋳型は、九州と近畿で1例ずつ出土しています。(佐賀県姉遺跡中期初頭~中尋兵庫田能遺跡中期前葉末~中葉)。瓦谷の例は、これらより型式的には後のものになるようなので、平形銅剣の祭器が行われたのは中期後葉と研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 弥生時代年代区分

漢書地理志が「楽浪海中に倭人あり 分かれて百余国をなす」と記す時代です。
高校日本史B】「『漢書』地理志」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

百あまりの小国家のひとつが松山平野や丸亀平野にはあったのかもしれません。それは、平形銅剣文化圏の中心国であったとしておきましょう。
三豊市高瀬町北条出土の平形銅剣

旧練兵場遺跡で平形銅剣が使用されなくなった時期はいつなのでしょうか。
旧練兵場遺跡の西にあたる観音寺市の一の谷遺跡からは、平形銅剣の破片が柱穴に廃棄された状態で出土しています。破片の状態ということと、出土状況、再加工を施した痕跡があることなどから、青鋼祭器としての機能を失っていたものが再加工されて何かに使われていたようです。それがいつ頃のことなのかは、一緒に出てきた土器などがないのでよく分からないようです。しかし、一の谷遺跡が終末期の集落であることから、弥生終末期の時期には破棄されたと研究者は考えているようです。卑弥呼の登場が3世紀前半ですから、その50~100年前の倭国大乱以前のことになります。

旧練兵場遺跡の特徴の一つが弥生時代から古墳時代末期に至るまでの遺跡が継続して見られる事です。
平形銅剣マツリが行われていた当時の旧練兵場遺跡の集落を見てみましょう。
旧練兵場遺跡 変遷図4
 弥生時代後期初頭~前半(図6)

 この時期には居住エリアが12ケ所に増えます。これが「善通寺王国」の原型になるようです。
①居住域3は住居が密集し、人口密集率がもっとも高いエリアです。
②居住域3と居住域2の間の凹地からは、松山・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中して出ています。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきました。
④居住域2の竪穴住居内からも他地域からの搬入土器が出てきた。
ここからは、瀬戸内海を通じた交易活動が活発化し、瀬戸内海沿岸の小国家から搬入された土器が増えているようです。また九州タイプの住居や豊前の土器が出てくることは、そこからの移入者や「常駐駐在員」がいたことがうかがえます。外部との交流が活発化するにつれて、居住域2・3は、遺跡のコア単位に成長し、外部との交流を受け持つ施設に特化したようにも見えます。

青銅器マツリが終焉を迎え、平形銅剣などが埋葬された弥生時代終末期の旧練兵場遺跡を見てみましょう。
旧練兵場遺跡 弥生時代終末期
 弥生時代後期後半(図8)

居住エリアは15ケ所に増えています。旧練兵場遺跡のスタート時点では、善通寺病院地区の居住域3に遺構が集中していました。それが、この段階では、分散的な傾向を示すようになります。
①中でも居住域8は、竪穴住居が密集し「コア地区」で、その周辺に子集落が形成されています。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できる体制が生まれたようです。これ以降には、確実に鉄器が増加していきます。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。 
 鉄の普及が集団を大きく変えていくことになるようです。鉄を手に入れるために、旧練兵場遺跡は何を見返り商品として提供したのでしょうか。疑問は膨らむばかりです。
青銅器データ集

 銅剣については小林行雄が、銅鉾が外洋航行に伴う祭器であるのに対し、平形銅剣は瀬戸内海沿岸にのみ集中して発見されていることから、内海の海の神への祭祀の祭器としています。
しかし、愛媛県や香川県の銅剣の出土地をみると島嶼部からの出土が全くありません。ここからは、平形銅剣を瀬戸内海の海上交通にかかわる祭器とすることはできないようです。また、松山市今市出土の平形銅剣には鹿の絵が鋳出されています。これは銅鐸の狩猟図と共通します。平形銅剣も豊作を祈り、あるいは農耕を称える農耕儀礼に使われたと多くの研究者は考えているようです。

 四国では見つかっている平形銅剣は136本です。その内、松山平野と丸亀平野で6割を占めるようです。この二つの地域を中心に、東進してくる九州勢力への脅威に備えるための連合のシンボルとされたのが平形銅剣を祭器とするマツリだったようです。
 そして、卑弥呼が現れる3世紀になると銅剣や銅鐸は埋められ、姿を消します。代わって登場するのが鏡になるようです。
旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡

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参考文献 

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