瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の中世山城

   5分でわかる!]戦国一の暴君はこの武将!! | 戦国日誌
 三好長治(暴君説は、近世の蜂須賀時代の創作?)
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三好長治について、ウキは次のように記します(要約))
①天文22年(1553年)以降に三好実休の長男として生まれる
②永禄5年(1562年)、父・実休が久米田の戦いで戦死し、家督を相続
③伯父・三好長慶が畿内の支配力を支える重要な役割を期待された。
④幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。
⑤分国法「新加制式」を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛
⑥これらは篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の成果
⑦織田信長の上洛により、三好氏は次第に畿内から追われて阿波国に撤退
⑧元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。
⑨摂津国では、管領細川氏の嫡流・細川昭元を大将に担ぎ除く三好一門の大半を結集して、織田信長との戦いに挑んだ(野田・福島の戦い)。
⑩石山本願寺の加勢や近江国での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。
⑪元亀3年(1572年)には不仲となった篠原長房を、異父兄である守護の細川真之と協力して攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。
⑫強権化した長治に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告
⑬それを受けて十河存保からも長治の暴政について諫言あり。
⑭これを疎んじた長治は兵3000で香川・香西両氏を攻め、両氏の離反を決定的なものとした(「全讃史」)。
⑮天正3年(1575年)、阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要し、猛反発をうける。
⑯このため国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、支配力喪失
⑰国内の混乱は、長宗我部元親による阿波侵攻を誘発し、海部城や大西城などが陥落。
⑱天正4年(1576年)秋、守護・細川真之が本拠の勝瑞を出奔した
⑲長治は真之を討つため、那東郡荒田野へ出陣したが、一宮成相や重臣の伊沢越前守が離反で敗北⑳その後、篠原長秀の居城・今切城に籠もったが一宮勢の攻撃により追われ、
㉑同年12月27日、板東郡別宮浦(吉野川の川口付近)で自害した
㉒辞世の歌は、次の通りです。

三好長治 挽歌

「三好野の 梢の雪と 散る花を 長き春(長治)とは 人のいふらむ」

三好家の最後となった三好長治については、阿波では暴君説が流布されています。しかし、18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長治、さらに長宗我部元親などの評価が貶められていくことは以前にお話ししました。その一例が「三好長治=暴虐説・無能説」と私は考えています。話を本題にもどします。
天正4(1576)12月に、三好長治が阿波守護家の細川真之と阿波国人一宮成相・伊沢頼俊らに襲われて敗死します。この時期の阿波の政治状況を森脇崇文氏は、次のように述べます(要約)

 一宮成相と伊沢頼俊は細川真之とともに三好長治を攻め減ぼした。その後の阿波国主は織田信長と相談して決めようとしていた。織田氏に対する配慮のため、一宮・伊沢は長治横死に乗じて阿波復帰を合てた篠原松満(長房の遺児)の入国を拒否し、真之とも決裂してしまう。
 これに対し、信長との協調に反対する矢野房村(駿河守)らは細川真之、篠原松満、篠原実長らも糾合し、毛利氏と連絡を取り始める。すなわち、巨視的に見ると阿波三好権力は長治の死を契機に、織田氏と結ぼうとする勢力と毛利氏と結ぶ勢力に分裂した。前者に一宮・伊沢が、後者に細川真之、篠原松満、篠原実長、矢野房村が結集する状況にあった。

これを整理すると次のようになります。
阿波三好氏の内部対立
ここでは阿波では、「信長 OR 毛利」の同盟先をめぐる対立渦中にあったことを押さえておきます。
これは三好氏支配下にあった讃岐の支配体制にすぐに影響します。

まず、丸亀平野の中央にある元吉城の城主が毛利氏に寝返ります。
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか? 元吉合戦に参加した毛利方の乃美宗勝の記録には、次のように記されています。

「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、
毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴古館蔵)には次のように記します。

「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

両書ともに元吉城の主は、「阿波の三好遠江守であった、それが毛利方に寝返った」と記されています。
 ここからは三好遠江守は、阿波出身でありながら讃岐の元吉城を知行していたことが分かります。天霧城主の香川氏を追放した後、阿波や讃岐の国人たちに知行割りが行われていたのです。
三好遠江守の寝返りの背景には、阿波における「A 海瑞派(信長派) VS B 反海瑞派(毛利派)の対立があったと私は考えています。こうして翌年1577年7月には丸亀平野中央の元吉城をめぐって、毛利氏と「讃岐惣国衆」が交戦します。経過は以下の通りです。

1 櫛梨城2


元吉合戦の経過

小早川家臣の岡就栄に、元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状を見ておきましょう。
(意訳変換)
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐惣国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村三好安芸守の軍勢合わせて3000ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この時に参戦している讃岐惣国衆のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守も、三好遠江と同じように先国内に所領を盛っていた阿波の国人のようです。彼は、阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことが史料から分かります。
ここで注目しておきたいのは、攻城側の主体が「讃岐惣国衆」で、阿波側は三好安芸守しかいないことです。讃岐勢のメンバーの思惑は、香川氏追放後に得た知行地の死守だったことが推測できます。しかし、どうして阿波三好側は、兵力を差し向けなかったのでしょうか? 当時の三好氏は、信長と同盟関係にあり、毛利氏の瀬戸内海覇権を阻止する立場にあったはずです。前置きが長くなりましたが
今回は、「讃岐惣国衆」の中に名前がある安富氏の動きから、その疑問を探っていこうと思います。
テキストは、「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」

阿波情勢への讃岐の勢力の関与について、「昔阿波物語」には次のように記します。

【史料八】「昔阿波物語』第二   
一、天正五年五月に、伊沢越前(頼俊)、坂西に城を作るとて、坂西の町屋に御座候時、矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など談合して、若も伊沢が、我等を助ける事有間敷候間、伊沢を夜打掛に打ちはたさんと談合して、(略)

庄野久右衛門を頼み、夜半に見てに入る。伊沢殿満足めされ候様に申しなし候によりて、酒もりになり、平に正林も無くゑひつぶれ候所を、久右衛門、伊沢殿御宿を出ると否や、弓六十ちやうにて取かけ申し候。伊沢殿人数は千五百人御座候ひつれ共、夜半の事に候へば、町屋より出る所を射たをし/ヽ仕るに付て、千五百人は役に立たず、町屋の裏々より逃げて、伊沢殿宿計残り候を、火を付けて焼ころし候。一宮(成相)殿は、夜明て其儘、奥野迄御手遣なされ候ひつれ共、角瀬川・住古川水ふかく候に付て、勝瑞町人、河の端に出候て、勝瑞は持ち堅め申し候。(略)

矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃、この衆は勝瑞の町をたよりにして、住吉河切に戦を仕り候に付、讃岐の国東方の安富は、東方半国の大将なり。伊沢越前のをぢなる故に、人数五千人大山へ打上りて、 一宮殿と申合せ候。勝瑞の町は一宮殿計させ敵にして、大事に存じ候に、讃岐の人数を見てきもをつぶし候時、矢野駿河申され候様は、讃岐の者は大さか(大坂峠)を一足もゑさがるまじく候。是はきつかひなく候。 一宮計てきぞと申さる。少もちがはず、讃岐の勢は頓てもどり候。此内に篠原自返(実長)は、淡州の人数引連て、勝瑞へ御入り候。

意訳変換しておくと
一、天正5(1577)5月に、伊沢越前(頼俊)、坂西城の築城工事中に、坂西の町屋で矢野駿河(房村)・矢野備後・三好越後など、もしもも伊沢が、我等の味方をしないのなら討ち果たすべしとと談合した、(略)

庄野久右衛門が夜半に見に入ると、伊沢殿は満足し、酒盛りとなった。正体もなく酔い潰れているのを確認すると、久右衛門は外に出て、弓六十帳で矢を宿に打ちかけた。伊沢殿は千五百人の人数を連れていたが、夜半の事なので、廻りの町屋から飛んでくる打ち手が分からず、千五百人の兵は役に立たず、町屋の裏々より逃げ出した。それを、伊沢殿は宿に火を付けて焼殺した。伊沢氏と連携していた一宮(成相)殿は、夜明てから奥野まで兵を進めたが、角瀬川・住古川の水深が深く、また、勝瑞町人が河の端に出て防備したので、勝瑞への侵入は果たせなかった。(略)

反海瑞派の矢野駿河・矢野備後・三好越後・木村飛騨・赤沢信濃は、勝瑞の町を拠点として、住吉川まで押し出した。この際に、東讃岐守護代の安富は、伊沢越前の叔父であり親族関係にあったので、五千の兵を率いて大坂峠までやってきて、一宮殿と連携する動きを見せた。勝瑞の町は一宮への対応だけでなく、新たに姿を見せた讃岐の兵力を見て肝を潰した。その時、矢野駿河は「讃岐の者どもは、大坂峠を一歩も超えることはない。心配無用。一宮市への防備だけを考えれば良い」と云って不安を払拭した。この言葉は見事に的中し、讃岐勢は大坂峠から引き返した。こうして篠原自返(実長)が、淡路から兵力を連れて、勝瑞へ入城した。

これを要約しておくと次の通りです。
①天正5(1577)5月 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討った。
②伊沢氏と連携関係にあった一宮成相は、これを受けて、勝瑞を舞台に房付らと対峙した。
③そこへ讃岐「東方半国の大将」である安富氏氏が5000人を率いて、一宮成相を加勢する動きを見えた。
④これに対して、矢野房村は安富氏など讃岐勢が撤退すると予見し、その通りになった

ここには、安富氏は伊沢頼俊の(叔父)であったとも記されています。安富氏が三好氏の有力武将と婚姻関係を結んでいたことを押さえておきます。その関係もあって、安富氏は讃岐勢のリーダーとして、伊沢氏の側に立って、阿波の政争に介入する動きを見せたと記されています。

それでは矢野房村が讃岐勢がすぐに撤退すると予見できたのはどうしてでしょうか?
それが先ほど見た元吉合戦とリンクすると研究者は指摘します。
改めて1577年前後の毛利氏や信長の動向を見ておきましょう

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ここからは、当時は石山本願寺の攻防戦が本格化し、毛利方は石山本願寺への兵糧などの戦略物資の輸送ルート確保が最重要課題であったことが分かります。そのために寝返った元吉城を備讃瀬戸南航路の拠点として、改修工事を行い防備を固めます。これは、阿波では親毛利派の反海瑞派の政権奪取後のことなので、三好側の了解も得れると考えたのかもしれません。ところが、阿波国人はこれに納得しても、毛利の讃岐侵入を許せないと考えたのが「讃岐惣国衆」だったのではないでしょうか。その背景には、毛利氏の占領が元西讃守護代の香川氏の帰国復権とリンクしていたからです。1563年の天霧城攻防戦に敗れた香川氏は、安芸に亡命します。香川氏の所領は、この戦いに参加した、阿波・讃岐の国人たちに分配知行されます。香川氏が帰ってくるということは、得た知行地を失うことにつながります。
まさに「一懸命」の戦いが元吉合戦だったと私は考えています。
 しかし、寄せ集めの「讃岐惣国衆」は、戦術的な失敗をいくつもやらかしてしまいます。
①三好側の援軍が少数で、総勢で圧倒できない兵力で元吉城を攻めかかっていること。
②援護に駆けつけた摺臼山の毛利軍の大軍を背後にして、城攻めを開始していること
その結果、「讃岐惣国衆」は敗北します。これが長宗我部元親の讃岐侵攻開始の1年前のことです。これに懲りて、讃岐国人衆は土佐軍への組織的な抵抗をせず、帰順し先兵として活動することになったのではないかとも思えてきます。話が少し脱線しましたが、毛利方にとっては「讃岐惣国衆」の抵抗は「想定外」だったようです。親毛利方の三好配下にあると思っていた讃岐国人たちが攻めてきたのですから。
 
話を、天正5(1577)5月にもどします。 矢野房村ら「親毛利派」は、「親信長派」の伊沢頼俊を討ちました。大坂峠までやってきた安富氏が、それ以上は阿波に入ってこなかったのは、元吉城をとりまく状況が切迫し、阿波への介入どころではなかったこと。矢野房村が安富氏の撤退を予見できたのも房村が毛利氏との交渉を担当していたためと研究者は推測します。

  昔阿波物語は三好氏にも仕えた二鬼島道知の著で、道知が体験した元亀以降の戦乱についての信憑性は比較的高いとされるようです。
 安富氏ら「讃岐惣国衆」が伊沢氏らの「勝瑞派」と提携した理由については、研究者は次のように推測します。
①伊沢頼俊の叔父にあたるという安富氏との縁成関係
②安芸亡命中の香川氏復帰を伴う毛利氏の讃岐進出への讃岐国人の抵抗
 11月に毛利氏と「讃岐惣国衆」の羽床氏・長尾氏が和睦すると、「阿・讃平均」と呼ばれる小康状態になります。そして天正6年(1578)には、三好存保が淡路から阿波に入国して阿波三好家が再興されます。そして安富氏ら東讃岐の国人もまた、阿波三好家の傘下に戻ったようです。
   以上を整理しておきます。
①三好長治の敗死によって、阿波三好家は「親信長派」と「親毛利方」に分裂した。
②これに対して、安富氏ら東讃岐の勢力は「讃岐惣国衆」として結集した動きをみせる。
③「讃岐惣国衆」は「親毛利方」と連携して阿波の混乱に軍事介入の意図を見せた
④しかし、毛利氏が讃岐元吉城に進駐すると、讃岐に戻り毛利氏と戦った。
⑤この戦いに「讃岐惣国衆」は敗北し、毛利氏や妥協し、三好氏の下へ帰順することになった

最後に、毛利氏の讃岐経営方針を推測しておきます。

毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号
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 阿波国守護の細川氏の拠点としては、勝瑞が有名です。それ以前は秋月に拠点がありました。しかし、「秋月」については守護館跡をはじめ、町場跡や梵光寺跡などの位置が分かっていません。

秋月城4
          秋月城跡 かつては細川氏守護館跡と考えられていた
かつては「秋月城跡」(土成町秋月)を細川氏守護館跡とする説が定説化していました。
ところが発掘調査の結果、秋月城跡からは守護館跡に関連する遺構や遺物が出てきませんでした。その結果、「秋月城跡が守護館跡である可能性なし」との結論に至っているようです。考古学による「通説否定」の上にたって、「秋月」の空間構成を研究者がどのように考えているのかを見ていくことにします。テキストは「福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年」です。

秋月 細川氏拠点2JPG

まず最初に研究者が確認するのは「秋月」の領域は、古代和名抄郷「秋月郷」の「秋月荘」の荘域全体に及んでいたことです。そして、守護館・町場跡・梵光寺跡を次のように比定します。
A【守護館】 山野上城(伝細川隠居城・仏殿城・阿波市市場町大野島王子前)

山の上城跡 細川氏守護所跡候補
山野上城跡 細川氏の守護所候補地
秋月城跡が否定された後、新たな守護館候補として研究者が考えるのが「山野上城跡」です。この城は、阿波市市場町大野島の王子神社の北東200mの一帯にあります。中世山城・居館という視点から次のように評されています。

「南側の平野部に突き出した比高5mほどの土手状地形を利用して築かれたもので、東側には小川、西側には切通しの道路が通っており、これによって区画された東西50mほどの部分が城であったようだ。内部にはわずかな段差があり、3つの区画が想定できるが、後世の改変もあり、旧状がこの通りであったかどうかは分からない。」

という評価であまり特徴があるようには見えません。
しかし、明治初期編纂の「阿波郡風土記」は、細川氏の守護所について次のように記します。

「(秋月城には)射場という処もあり。此処は細川阿波守和氏の住まれし古址なるなり。按ずるに、此所分内小際にして北山に迫れり。大国の府城を営みし址とは見えず。「阿波物語」に秋月を守護所と定めらるとあるは此所にはあらで、山の上村成るべし。」

意訳変換しておくと
「秋月城には射場という所もあり、ここは細川阿波守和氏の拠点古址とされる。しかし、ここは後に山が迫り狭い。大国の府城を置いたところとは思えない。「阿波物語」に秋月を守護所と定めるとあるのは、秋月城ではなくて、山の上村であろう。」

『阿波郡風土記』の編者(近藤忠直・浦上利延)は、「射場(的場)=秋月城跡)」を守護館とするには、あまりにも小さく狭いとして、「山野上村の屋形跡=守護館」説を唱えています。「秋月城」説が発掘調査によって否定されたので、「山野上村の屋形跡」説についても改めて検討する必要が出てきます。研究者がこの説に注目するのは、次の3つの理由からです。
①吉野川の段丘を利用した立地条件
②仏殿庵の所在であること
③仏殿庵には「梵光寺観青御宝前」と彫り込まれた寛文4(1644)年の手水鉢があること
③については、仏殿庵は「梵光寺」にあったと伝えられます。梵光寺は秋月荘や守護所の鎮守社である秋月八幡宮別当院で、「秋月」にとって最も重要な寺院です。その梵光寺を「鬼門鎮護の守り」としているのが山野上村の「屋形跡」です。ここから梵光寺が守護する館こそA守護館の可能性が高いと研究者は判断します。

B【補陀寺〈ふだじ):安国寺〉】(秋月城跡周辺)を見ておきましょう。
日本歴史地名大系 「補陀寺跡」には、次のように記されています。
御嶽(おみたけ)山南麓、秋月城の近くに位置した臨済宗寺院。
南明山安国補陀禅寺・安国補陀寺などと称され、阿波国の安国寺とされたほか(光勝院縁起略)、諸山の寺格も与えられた(扶桑五山記)。近接して光勝(こうしよう)院・宝冠(ほうかん)寺が建立された。光勝院は当寺の後身ともいわれ、のち板野郡萩原(現鳴門市)に移されて同地に現存している。
阿波州安国補陀寺仏殿梁牌(夢窓国師語録拾遺)に「阿波州安国補陀寺仏殿」とみえ、暦応二年(一三三九)八月に足利尊氏が造立し、開山は夢窓疎石とされている。しかし夢窓疎石は招請開山で、実際には細川和氏が秋月府内南明山に建立し、和氏の五男、細川頼之の猶子笑山周を開山としたという。また足利尊氏の保護を受け、同年阿波国の安国寺に指定されたとされる(光勝院縁起略)。ただし「夢窓国師語録」「阿波志」は翌三年の創建と伝える。安国寺とともに建立された利生塔は切幡(きりはた)寺に建てられた(贈僧正宥範発心求法縁)。康永元年(一三四二)夢窓疎石の招聘により大道一以が入寺し(禅林僧伝)、以後、黙翁妙誡・大岳周崇・鉄舟徳済・観中中諦などが住持となったという(「夢窓国師語録」「阿波志」など)。出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について
補陀寺は阿波初代守護和氏が夢窓礎石を開山に招いて創建した禅宗寺院で、和氏の墳寺でした。和氏は尊氏の側近として活躍したことから、創建に際しては尊氏からも寄進が寄せられ、後に阿波安国寺に指定されます。補陀寺は夢窓派の重要寺院として、夢窓派の僧侶が住持として派遣され、四国内では唯一の十刹寺院でした。通説では秋月が勝瑞に移転した時に、光勝院と合併して萩原の地に移転されたとされています。しかし、萩原に移転したのは光勝院のみで、補陀寺は守護所移転後も引き続き戦国期に至るまで、秋月にあって法灯を伝えたと考える研究者もいます。

C  切幡寺に建てられたという「利生塔」を見ておきましょう。
 
切幡寺の安国寺利生塔礎石

足利尊氏は全国66ヶ国へ利生塔を建てます。そのねらいは、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための警察権行使の拠点置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。その利生塔が、阿波安国寺の補陀寺に建立されることになります。その際に供養導師を務めているのが善通寺誕生院の宥範です。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、これは事実ではないようですが、切幡寺や善通寺の利生塔は、全国的に見ても早い時期に建てられていることを押さえておきます。当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。ただ「八幡町史」は、利生塔造立地は現在の切幡寺境内ではなく、字観音の「西堂(りじどう)」と呼ばれる地点とします。
D 【守護創建寺1 梵光寺】(阿波市市場町山野上)を見ておきましょう。
秋月には補陀寺以外にも守護創建の十院がありました。その代表的寺院が梵光寺です。しかし、この寺は今となっては、どこにあったのかも分からなくなっています。そんな中で戦前に「再発見」されたのが「秋月荘八幡宮鐘銘」です。この古鐘銘について 阿波学会研究紀の「市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号」は次のように記します。

昭和13(1928)年頃、松山市弁天町の善勝寺に日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から70・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。(中略)
 この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。 

以上を整理・要約しておくと、
①幕末の1850年前後に、松山市の善勝寺の住職が讃岐で古鐘を手に入れた。
②日中戦争が激化して金属物の供出運動が起こり、古物商の手に落ちた。
③銘文を改めて調べてみると室町時代初期の阿波国市場の八幡神社の古鐘であることが分かった

 銘文は、4区の面にタガネ刻で次のように刻まれています。
 第1区奉鋳造
   ①大阿波国秋月庄八幡宮
   大檀那
    梵光寺  ②守格
    右京大夫 (細川)頼元
    兵部少輔 義之
第2区右奉為
   金輪聖皇天長地久御願
   円満天下奉平国土豊饒
   殊者大檀那御息災安穏
   増長福寿家門繁栄 并
   結縁奉加之衆現当二世
 第3区願望成就乃至鉄囲沙界
   之情非情悉利益平等敬白
    応永二暦乙亥八月十二日
    勧進沙門金対資頼業敬白
   神主 宇佐輔景宗
   大工 伴左衛門正光
 第4区奉再興
   明月山梵光寺住持②比丘尼守久
   神主 沙弥盛宗
   永享七年(1435)乙卯六月廿九日
   願主 内藤元継敬白
  一打鐘声 当願衆生
  脱三界苦 得見菩提
 この史料からは次のようなことが分かります。
①梵光寺が秋月八幡宮の別当寺であったこと
②住職として「守格」「守久」の名前があること。
③「守格」は細川頼春の子で、梵光寺の開山者。「守久」は頼有の子で、「守格」の後継者として梵光寺に入ったこと。
④守久は尼僧であるので、梵光寺は尼寺だったこと。
⑤大檀那京太夫頼元は阿波国守護の細川頼春の三子で頼之の弟。
⑥義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った武将
阿波市場の八幡神社 
              市場の八幡宮

郷土研究発表会紀要第25号は、続けて次のように記します。
              

市場の八幡宮には、寛永17(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とあり、秋月郷の郷社であった。

 鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当で山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。

「観中和尚語録』永徳元(1381)年8月6日条には「秋月捻分八幡霊祠」として出てくるのが八幡神社です。守護所が置かれた秋月荘の鎮守社でした。それが近世になっても郷社として、周辺の村々の信仰の中心となっていることが分かります。

 また市場の八幡神社には、次のような梵光寺の銘文のある手洗鉢が本堂の前に残っています。

梵光寺の銘文のある手洗鉢 
この手洗鉢は砂岩製で、横巾55cm、高32cm、厚36cm。
 正面に
  寛文四(1644)甲辰年
   梵光寺
  観音御宝前
   手洗鉢
  願主  山上村八左衛門
   六月十八日造立
寛文4年(1644)の江戸時代には神仏混淆下にあり、別当寺の梵光寺の社僧達の管理下にあったことが分かります。

D【守護創建寺院2 光勝院については、一般的には次のように云われています。
 南北朝時代の歴応2年に阿波細川家の祖となる細川和氏が居城とした秋月に夢窓疎石上人を勧請開山に南明補陀寺として創建された。和氏の5男で細川頼之の猶子笑山周念上人が開山に迎えられた。その後、足利尊氏、義直兄弟が阿波国安国寺に当て、安國補陀寺と改称し幕府の保護を受ける官寺として諸山の寺格を与えた。
貞治2年に幕府管領細川頼之が父頼春(光勝院殿)の13回忌に普明国師を開山に迎えて安國補陀寺の南に光勝寺を創建し、応安年間に頼之の弟詮春が居城を勝瑞に移すと安國補陀寺と光勝寺を合併し現在地に移転して安國補陀寺光勝院と改称し、室町時代の文明18年に十刹に列した。
光勝院は守護頼之が、亡父頼春の十一回忌に際して創建した禅宗寺院です。通説では秋月のBの補陀寺に隣接して建てられたとされています。しかし、研究者の中には補陀寺境内に建てられた仏堂とする説もあります。これも「寺々注文」に出てくる寺院ですが康暦の政変後に、頼之によって板東郡萩原の地に独立移転されたという説もあります。

秋月 細川氏拠点2JPG

E【菩提寺参道】
かつての「大道」とされる旧川北本道から補陀寺山門まで南北方向には、直線的に延びる道です。守護が書提寺補陀寺参詣のために開いた参詣道とされます。
F【大道】
藩政期の川北本道と重なる「大道」です。山野上城跡の市側の河岸段上直下も吉野川沿いの街道とともに中世の守護所設置時期にはすでにあったと研究者は考えています。
H【町場(含む市庭)
秋月八幡宮の周辺に広がる「八幡町」は、近世初期には「郷町」で町場でした。つまり、蜂須賀氏入国以前に町場が成立していたことになります。その起源は補陀寺などの寺院の門前町が町場化したことが考えられます。さらに、町場の起源は、守護所が置かれていた時期まで辿ることができるようです。以上から近世の郷町「八幡町」を守護所に伴う町場の発展型と研究者は考えています。
なお、周辺には「市の本」(阿波市市場町山野上)、近世初期の「古市付」(現在の阿波市市場町市場・香美)があります。「市の本」は古野川水運(地名「渡」)を核として成立した市庭の発展型と考えられます。
秋月荘は古野川に面していたので、当然川湊があったことが推定できます。
その地点は、その後の吉野川の流路変更で、特定することは難しいようです。敢えて探すとすれば、秋月八幡宮から南に直進した地点や市場町香美渡付近あたりが考えられます。

J【外港 引田港】(香川県東かがわ市)
引田 大内郡 正保国絵図
           引田と周辺地域 正保国絵図
「秋月」から最も近い海港は、讃岐国の引田港などになります。引田港は以前にお話したように、中世においては大坂峠を越えて阿波もヒンターランドとしていて、畿内・瀬戸内方面への拠点港となっていたしまた。また阿讃山地沿いに東進すると、撫養港(鳴門市撫養町)に出て、阿波国南部への航路と接続が可能でした。

以上から研究者は「秋月」の空間構成を次のように考えています。
① 守護所エリアは秋月荘全域。
② 守護所空間は大きく三ケ所
 A 守護役所〈館・被官屋敷等〉空間、B 寺院空間、C 鎮守・町場空間)の空間を核として、有機的に結節。
③ 守護所に付随した町場は秋月八幡宮周辺や古市など吉野川北岸域に成立。
④ これまで守護所とされてきた秋月(旧秋月村)は隣接する切幡(旧切幡村)も寺院空間に含む

こうして見ると、「秋月」は吉野川北岸の街道「大道」沿いの約1㎞の範囲内に「守護役所等」「鎮守社」「町場+市庭」「川湊」などが集中しています。そしてそのエリアから約1㎞北に隔てた山麓部に菩提寺・利生塔を配する寺院空間(奥津城)が配置されています。ある意味で集中性の高い空間構造であったことが見えて来ます。ここからは逆に、細川氏が阿波国守護になった後も国府地域へ進出せずに、引き続いて秋月を守護所としたのはどうしてか?という問題にも答えることができそうです。
 
 阿波国守護細川氏は、和氏・頼春ともに守護職在職当時は阿波国以外での活動に多くの時間を割かざるを得ない状況にありました。
阿波細川氏年表1
阿波細川氏の年表
 瀬戸内海・畿内方面への軍事的移動を考えると、その外港は南海道を利用した引田港になります。引田港へは阿讃山脈越えになりますが、大坂峠は低い峠道で古代以来南海道として整備されており、短時間で引田港へ出ることができます。そういう点からすれば、秋月の地は、阿波国府地域よりも瀬戸内海方面への軍事力の移動などにははるかに有利だったと研究者は考えています。
 頼春が観応の擾乱によって京都市中で戦死した後を受けた頼之と、頼之が管領として上洛した後を受けた頼有もまた、阿波一国だけでなく、四国の他国や中国地方の守護などを引き続き兼務していました。そのために「秋月」から守護所を移すことはありませんでした。要するに「秋月」は阿波国守護所であると同時に、瀬戸内海・中国地方での活動などを含めた広域守護細川氏にとっての活動拠点としての適地であったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年
阿波学会研究紀 市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号
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前回見たように滝宮氏の初見史料は、次のA・Bのふたつです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
同じ年の文書で、Aが京都の賀茂別雷社領の満濃池跡の池之内の請負契約書で、Bが善通寺誕生院領の萱原領家方代官職の契約書です。同じ滝宮氏が請け負っていますが、請負人の名前がAが「実明」、Bが「実長」です。ここからは二つの滝宮家があったことが分かります。南海通記によると、滝宮氏には2つの流れがあり、居館は次の通りです
Aが本家(実明系)で、松崎跡で滝宮豊後守
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。

香川県中世城館跡詳細分布調査報告 - 古書店 氷川書房


まず、Bの滝宮城跡ですが、これは今は滝宮神社や天満宮の社地となっているようです。

滝宮城
滝宮城

 西側に綾川が入り込む深い谷があり、その上に拡がる広い微高地に立地していたようです。周辺の地形観察等から研究者は次のように指摘します。
①綾南警察署から100m南で幅の広い谷が川から入り込み、またこの東延長上も堀切状となっている。
②この入江は川港の役割も果たしていた可能性がある。
③滝宮天満宮正面の東西の道辺りに空堀があったと伝えられる。
④滝宮神社を中心とした南北200mx東西150mの台状地形を復元できるが、城域とするには広い。
⑤遺構は未確認である。
⑥A地点で行われた試掘調査で、滝宮城跡と同時期とされる柱穴群・土師器・瓦が確認
次に、滝宮城の北方1kmの松崎城(柾木城)跡を見ていくことにします。

松崎城 2滝宮氏

松崎城
松崎城は県道184号線沿いにある松崎バス停付近に築かれていたようです。伝承地を地形復元すると綾川に流れ込む南と北の谷に囲まれた段丘状の解析台地上に立地します。府中湖の低地に突き出た舌状地形になっています。古代の綾氏は、陶に最先端の須恵器工場群を造って、水運を通じて綾川河口から畿内へ運び込んでいたとされます。綾川は重要な交通路でした。その綾川を見下ろす丘にお城は築かれいたことになります。また、川港としても利用されていたことがうかがえます。どちらにしても、戦略的な要衝で城を築くには好適の地です。ただ、西側の谷の付け根には堀切の痕跡はないようです。

松崎城 滝宮氏
松崎城跡周辺 綾川に面した入江の上に立地する
天正年間に松崎城主として『南海通記』などに登場する滝宮豊後守は、実長の後裔とされます。そこには、次のように記されています。

松崎城主の滝宮豊後守安資は、羽床城主羽床伊豆守資載の女を妻にしていた。ところが同じく羽床伊豆守資載の女を妻に迎えていた勝賀城主香西伊賀守佳清が、天正6年(1578年)に、これを離縁した。これに憤激した羽床氏と香西氏の間で争いが始まり、羽床伊豆守の嫡男羽床忠兵衛が軍勢を率いて柾木城を攻めてきた。滝宮豊後守の軍勢が羽床忠兵衛を討ち取ると、伊豆守が大軍を率いて押し寄せてくるのを恐れ、松崎城から香西氏の勝賀城へ逃れた。

 南海通記については、その内容に誤りや作為が多くてそのままは信じることができないと研究者は考えています。しかし、敢えてこれを事実を伝えているとすると、次のような事が読み取れます。
①滝宮氏は、羽床氏と深いつながりがあった
②しかし、羽床氏と香西氏の抗争がはじまると、松崎城主の滝宮豊後守は香西方についた。
③その結果、羽床氏の攻撃を受けて、松崎城を退いて香西氏の勝賀城に身を寄せた。
④一方、滝宮城の滝宮弥十郎は羽床氏に従い、松崎城を攻め勢力を拡大した。
⑤滝宮城の滝宮氏は、その後も羽床氏に従い、長宗我部元親に降伏後は東讃制圧の先兵として活動した。
⑥秀吉の讃岐侵攻後には長宗我部元親に従って土佐に引き上げたとも伝えられるがよく分からない。
 
羽床城縄張り図
羽床城縄張図 滝宮氏の居館と比べると格段の相違

ここには、滝宮氏が香西氏と羽床氏にの抗争に巻き込まれ、一族同士が相争う状態になったと記されています。そういう点からすれば、羽床氏も香西氏も讃岐綾氏の同族の流れを汲む名門武士団です。それが、時の流れの中で相抗争していることになります。
 しかし、この記事が本当かどうかは分かりません。私は疑いの目で見ています。
その根拠は、当時の讃岐が阿波三好氏の氏配下にあったという視点がないからです。前回お話ししたように、当時は阿波三好氏の讃岐支配が進展し、讃岐国人の裁判権を三好氏が握っていました。それをもう一度確認しておきます。「阿波物語」第二は、1570年代のこととして三好氏の有力武将であった「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」が次のように出てきます。

伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

年代的に見てここに出てくる「滝宮豊後殿」は「1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、当時の松崎城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係について次のようなことが分かります。
①滝宮豊後守は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮豊後守と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると滝宮氏は、三好氏の有力家臣伊沢氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。また阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下に編成し軍事動員できる体制にあったことも分かります。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうした中で、三好氏が傘下に置いた羽床氏や香西氏の軍事衝突を許すでしょうか? 
丸亀平野の元吉(櫛梨)城をめぐる合戦について毛利方史料には次のように記します。
天正五(1577)年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、
意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここには、阿波三好氏の指示で讃岐国衆の「長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人程」が元吉城に攻めかかってきたと記されています。羽床氏と香西氏は、三好配下にあって元吉攻めに従軍していたことが裏付けられます。ここからも南海通記の記録は、そのままは受け取ることはできません。

滝宮氏が去った後の滝宮城はどうなったのでしょうか。
それがうかがえるのが幕末の讃岐国名勝図会に載せられた「滝宮八坂神社・龍燈院・天満宮」です。

龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(讃岐国名勝図会)
ふたつの神社に挟まれた龍燈寺が別当寺で、この社僧達がこれらの宗教施設を管理運営いました。神仏混淆下にあって大いに栄えていたことがうかがえます。この繁栄の基盤は中世の滝宮氏の時代に作られ、それが生駒・松平の保護を受けながら、この絵図の時代に至っていたようです。それが明治の神仏分離で龍燈寺が姿を消して行くことになります。

 祇園信仰 - Wikipedia
 最後に江戸時代の人々が、滝宮牛頭天王社や龍燈寺をどのように見ていたのか昔話から探っておきます。
綾川シラガ渕
山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭天王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭天王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④別当寺龍燈院のいわれは、「龍灯石」であること
⑤牛頭天王が現れるみたらが渕は霊地として信仰されていたこと

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社に奉納された牛 牛頭天王信仰の痕跡
以上をまとめておきます
①滝宮氏には、本家分家の2つの流れがあった。
②本家は、松崎城を居館とする滝宮豊後守
③分家は、滝宮城を居城として牛頭天王を奉り、氏寺として龍燈院を建立していた。
④両秋山氏の居館は、古代以来から河川水運として利用されていた綾川沿いに立地する。
⑤周辺の陶は、平安期まで須恵器などの讃岐窯業の中心地で、これらは古代綾氏によって整備された
⑥藤原氏は古代の綾氏が武士団化したものとされるが、その流れを汲むのが滝宮氏や羽床氏だったと推測できる。
⑦南海通記には、天正年間になると両滝宮氏は、香西氏と羽床氏の抗争に巻き込まれ、一族同士が相争うようになったと云うが、それには疑問が残る。
⑧滝宮氏が去った後の滝宮城跡には、牛頭天王社・龍燈院・天満宮が並び立ち、神仏混淆下で牛頭天王(蘇民将来)信仰の拠点となった。
⑨龍燈寺の社僧達は、蘇民将来などのお札を周辺の村々に配布し、牛頭天王信仰を拡げると供に、風流念仏踊り等も村々に伝えた。
⑩牛頭天王社の大祭には、中世の郷単位で構成された踊り手達が「踊り込み」奉納を行った。
⑪それが現在の滝宮念仏踊りの源流である。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札
         龍燈院が配布していたお札 「牛頭天王」とみえる


滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」
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 前回は香西成資の南海治乱記と、阿波の三好記に書かれた記述内容を比較してみました。今回は、前回登場してきた岡城と由佐城について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「由佐城跡 香川県中世城館調査分布調査報告2003年206P 香川県教育委員会」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県城館跡詳細分布調査報告

南海治乱記の阿波平定に関する記述は、大部分は『三好記』の記述を写しています。しかし、(富)岡城については、次のような記述の違いもありました。
三好記では「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
ここに出てくる「(富)岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。『南海治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、それに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。  岡城について、別の史料で見ておきましょう。
岡城が文書に最初に登場するのは、観応2年(1351)の由佐家文書です。
「讃岐国香川郡由佐家文書」左兵衛尉某奉書写122'
安原鳥屋岡要害之事、京都御左右之間、不可有疎略候也、傷城中警固於無沙汰之輩者、載交名起請之詞、可有注進候也、乃執達如件、
観応二卯月十五日                          左兵衛尉 判
由佐弥次郎殿
   意訳変換しておくと
讃岐香川郡安原の鳥屋と岡要害について、京都騒乱中は、敵対勢力に奪われないように防備を固め死守すること。もし警固中に沙汰なく侵入しようとするものがいれば、氏名を糾して、京都に報告すること、乃執達如件、

 ここには「京都御左右」を理由として讃岐国「安原鳥屋岡要害」の警固を、京都の「左兵衛尉」が命じたものです。文書中の「安原鳥屋岡要害」は、反細川顕氏勢力の拠点の一つで、由佐氏にその守備・管理が命じられていたことが分かります。髙松平野における重要軍事施設だったことがうかがえます。「安原鳥屋岡要害」は、安原鳥屋の要害と岡の要害とは別々に、ふたつの要害があったと研究者は考えています。ここでの岡要害(岡城)は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下での讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力の拠点だったようで、その防備を由佐氏が命じられています。
 14世紀後半になると、讃岐守護細川頼之が宇多津を拠点にして、「岡屋形」は行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春がいたとされます。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」とも記され、現在の高松空港方面には無常院や平等寺などの寺院もあったようです。ここでは岡屋形が讃岐の守護所としての機能を持っていたことを押さえておきます。

「岡村」付近のことは「由佐長曽我部合戦記」に書かれています。
「由佐長曽我部合戦記」は、阿波の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落城させ阿波平定を成し遂げた長宗我部軍が讃岐へ侵攻した時の由佐氏の戦いの様子を後世になって記したものです。一次資料ではないので年代や人名、合戦経過などについては、そのまま信じることが出来ない部分はあるようです。研究者はその記述内容の中で、合戦が行われた場所に注目します。主な合戦は、由佐城をめぐって攻める長宗我部軍と防御する由佐軍の対決です。由佐城の攻防に先立って、由佐城の南方において合戦があったと次のように記します。

南ハ久武右近ヲ大将ニテ千人百余騎、天福寺ノ境内二込入テ陣ヲトル、衆徒大二騒テ、如何セント詮議半ナル中、若大衆七八十人、鑓、長刀ノ鞘ヲ迦シ、(中略)、土佐勢是ヲ聞テ、悪キ法師ノ腕達カナ、イテ物見セント、大将ノ許モナキニ、衆徒ヲ中ニヲツトリ籠テ、息ヲツカセス揉タリケル、(中略)、塔中六十二坊一宇モ残ラス焼失セリ、(中略)、僧俗共二煙二咽テ道路二厳倒シ、或ハ炎中二転臥テ焚死スル者数ヲ不知、(後略)、

意訳変換しておくと
由佐城の南は、久武右近を大将にして千人百余騎が、天福寺の境内に陣取る。衆徒は慌ててどうしようかと対応策を協議していると、若大衆の数十人が、鑓、長刀の鞘を抜いて、(中略)、土佐勢はこれを聞いて、悪法師の腕達を物見しようと、大将の許しも得ずに、衆徒が籠城する所に、息も尽かせないほどの波状攻撃を仕掛けた。(中略)、その結果、塔中六十二坊が残らずに焼失した。(中略)、僧侶や俗人も煙に巻かれて、道路に倒れ、あるいは炎に巻き込まれ転臥して焚死する者が数えきれないほど出た、(後略)、

由佐城の「南」、岡屋敷の西側に、「天福寺」があります。そこを拠点にしてに長宗我部軍側と、「天福寺」「衆徒」との間に合戦があったというのです。
岡舘跡・由佐城
由佐城と天福寺

天福寺は、舌状に北側の髙松平野に伸びた丘陵部の頂部にあり、平野部から山岳部に入っていく道筋を東に見下ろす戦略的な意味をもつ場所にあります。そのすぐ北に由佐城はあります。また「岡要害(岡舘)」にも近い位置です。天正10年秋に長宗我部内記亮親康が兄の元親から占領を命じられた「岡城」は、この「岡要害」のことだったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
香川県中世城館跡調査報告書(209P)には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)」に、次のように記されています。(要約)
この高台は従来は行業城跡とも考えられていました。しかし、測量調査の結果から岡氏の居館(行業城)とするには大きすぎます。守護所とするにぴったりの規模です。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名や現地踏査結果からこの高台を、今では岡館跡と専門家は判断しています。そうすると従来の「宇多津=讃岐守護所」説の捉えなおしが必要になってきます。

由佐城跡に建つ歴史民俗郷土館(高松市香南町)

次に岡舘のすぐ北側にあった由佐城跡を見ていくことにします。
歴史民俗郷土館が建ている場所が「お城」と呼ばれる由佐城跡の一部になるようです。館内には土塁跡が一部保存されています。

由佐城土塁断面
由佐城跡土塁断面図
郷土館を建てる際の調査では、建物下の北部分で幅3m。深さ1、5mの東西向きの堀2本が並んだものや、柱穴やごみ穴などが出てきています。堀は江戸時代初期に埋められていことが分かりました。調査報告書は、つぎのように「まとめ」ています。
由佐城報告書まとめ
由佐城調査報告書のまとめ
由佐城跡を含む付近には「中屋」というやや広範囲の地名があり、「西門」や堀の存在も伝えられています。郷土館の東には「中屋敷」の屋号もあり、いくつかの居館があった可能性もあります。由佐氏は、益戸氏が建武期に讃岐国香川郡において所領を給されたことによってはじまるとされます。
江戸時代になって由佐氏一族によって作成された系図(由佐家文書)には、次のように記されています。

「益戸下野守藤原顕助」は代々「常州益戸」に居していたが、元弘・建武期に足利尊氏に属して鎌倉幕府および新田氏との戦いに従い、京都で討死する。顕助の子・益戸弥次郎秀助は、父・顕助への賞として足利氏から讃岐国香川郡において所領を給される。秀助は、細川氏とともに讃岐国に入り、由佐に居して苗字を由佐と改めた。

由佐城についての基本的な史料は次の3つです。
①「由佐氏由緒臨本」の由佐弥二郎秀助の説明
②「由佐城之図」
③近世の由佐家文書

①「由佐氏由緒臨本」には、由佐城について次のように記されています。(要約)
由佐氏の居城は「沼之城」とも称した。城の「東ハ大川」、「西ハ深沼」であり、「大川」は「水常不絶川端二大柳有数本」、「深沼」は「今田地」となっている。外郭の四方廻りは「十六丁余」ある。その築地の内には「三丸」を構えている。本丸は少し高くなっていて「上城」と称し、東の川端には少し下って「下城」と称すところがある。西には「安倍晴明屋敷」と称される部分がある。そして、「外郭丼内城廻り惣堀」である。外郭には「南門」があり、そこには「冠木門」があった。また「南門」の前には「二之堀」と称される「大堀」があった。外郭には「西門」もあり、「乾」(北西)には「角櫓」があった。

由佐城2
由佐城跡周辺地図
「本城」の北には「小山」が築かれていた。「小山」は「矢籠」とも称されていた。「北川端筋F」は「蒻手日」と称され、「ゴトクロ」ともいう。「東丸」すなわち「下城」は「慶長比」に流出したとする。
  安原の「鳥屋之城」を「根城」としていた。
鳥屋域から東へ「三町」のところは「安原海道端」にあたり、そこには「木戸門」が構えられていた。鳥屋城の麓には「城ケ原」「籠屋」と称するところがある。「里城」から「本道」である「安原海道」を通ると遠くなるために、「岡奥谷」を越える「通路」がもうけられていた。

②「由佐城之図」は「由佐氏由緒臨本」などを後世に図化したものと研究者は考えています。由佐城絵図
由佐城絵図
居城の東端部分のこととして次のように記します。
「昔奥山繁茂水常不絶、城辺固メ仕、此東側柳ヲ植、固岸靡満水由処、近頃皆切払大水西へ切込、次第西流出云」(以下略)

意訳変換しておくと
①「昔は奥山のように木々が繁茂して、水害が絶えなかった。城辺を固めるために、東側に柳を植え、岸を固めて水由とした。近頃、柳を総て切払ったところ大水が西へ流れ込んで、西流が起きた。

②居城の西は「沼」と記し、「天正乱後為田地云(天正の乱後は、水田化されたと伝えられる」
③居城全体は「此総外郭十六町、亘四町、土居八町、総堀幅五間深サー間余、土居執モ竹林生茂」。
④外郭南辺には「株木南門」とあり、「此所迫手口門跡故南門卜云、則今邑之小名トス、此故二順道帳二如右記」
⑤外郭内の西北付近は「此辺元之浦卜云、当郷御検地竿始」とあり、検地測量がここからスタートしたので「元の浦」と呼ばれる。
⑥内の城の堀の北辺には小山を描き、「此の築山諺二櫓卜云、元禄コロ迄流レ残り少シアリ、真立三間、東西十余間」
⑦この小山の西側に五輪塔を描いて「由佐左京進墓」と記す。「由佐左京進」は天正期の由佐秀盛のことと研究者は考えています。
⑧ 砦城については、居城の西方に古川右岸に南から「天福寺」「追上原」「西砦城」「八幡」「コゴン堂」と記す。
⑨このうちの「西岩城」については次のように記します。
「御所原也、又一名天神岡卜云、観応中南朝岡た近、阿州大西、讃羽床、伴安原居陣窺中讃、由佐秀助対鳥屋城日夜合戦、羽床氏襲里城故此時構砦」
⑩居城の東の川を挟んで、東側には山並みを描いて「油山」「揚手回」「京見峰」などと記す。
⑪「油山」北端付近には「東砦城也、城丸卜云」と記す。

③文化14年(1817)11月に、由佐義澄は「騒動一件」への対応のために自分の持高の畝をしたためた絵図を指出しています。
由佐城跡畝高図
由佐義澄持高畝絵図(1817年)
絵図は「由佐邑穐破免願騒動一件」(由佐家文書)に収められています。これを見ると、次のようなことが書き込まれています。
①「屋敷」という記入があり
②屋敷の南・西・北に「ホリ」がある。堀に囲まれた方形区画が、本丸跡
③「屋敷」西側の「上々田五畝九歩」と「上畑六畝歩」および「元ウラ」という記載のある細長い区画は、堀跡?
④「屋敷」南の「七畝地」区画も堀跡?

④由佐城跡と冠尾(櫻)八幡宮は、近接していて密接な関係がうかがえます。冠尾(櫻)八幡宮の由緒を記した文書には、次のように記されています。
天正度長宗我部宮内少輔秦元親催大軍西讃悉切従由佐城責寄時、先祖代々墳墓有冠山ノ後墓守居住」
「此時八幡社地并二墓所士兵ノ冒ス事ヲ歎キ墓所西側南北数十間堀切土手等ヲ築ク此跡近年次第二開拓今少シ残ス」
意訳変換しておくと
   天正年間に長宗我部元親大軍が西讃をことごとく切り従えて由佐城に攻め寄せてきたときに、由佐氏の先祖代々の墳墓は、冠尾(櫻)八幡宮の後ろの山に葬られていた。」「この時に侵入してきた土佐軍の兵士の中には、八幡社や墓所を荒らした。これを歎いて墓所西側に南北数十間の堀切土手を築いた。この堀切跡は、近年に次第に開拓されて、今は痕跡を残すにすぎない。」

ここには南海通記の記述の影響からか、土佐軍は西讃制圧後に西から髙松平野に侵入し、由佐城にあらわれたと記します。しかし、由佐城に姿を見せたのは、阿波制圧後の長宗我部元親の本隊で、それを率いたのは元親の弟だったことは、前回に見てきた通りです。また長宗我部元親の天正期に、冠尾八幡宮の西側に長さ数十間の堀切と土手がもうけられたとします。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

都市―ローマ人はどのように都市をつくったか』|感想・レビュー - 読書メーター

善通寺市の旧練兵場遺跡群の報告書を読んでいて「古代の都市的景観が、ここには現れている」という表現に出会いました。私の愛読書のひとつが上の「絵本」なので、「都市」と言われるとローマやギリシャの古代都市国家を、イメージしていまいます。しかし、どうも編者の伝えたい内容とは違うようです。讃岐の「古代都市」とは、何なのでしょうか。それを今回は追いかけて見ます。テキストは「阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
 古代都市の条件として、研究者は次の3つの条件を挙げています。
①政治的中心機能
②経済的中心機能
③文化的中心機能
  たくさんの人が住んでいるだけでは都市とはいえないと云うのです。これには耳が痛い地方都市があるかもしれません。③の「文化的中心」が見当たらない地方都市は、たくさんあるように思えます。

中国の咸陽や長安に似せて作られた平城京や平安京は、日本を代表する古代都市ということになります。
これらは都城とも呼ばれ、天皇の居所、政治の場であった官と、官人らが住む京から成っていました。京には官人の住居のほか寺院や市もあったので、政治・経済・文化の中心機能を持っていました。
それでは、讃岐はどうでしょうか?

讃岐国府跡復元図2

讃岐にも現在の県庁に当たる国衙が置かれていました。国衙は国司が行う政治の場であり、その近くに国司館や国分寺・国分尼寺などがあり、市も置かれていました。国司の数は、国の規模によって違いますが、守・介・佐官・目を合わせ、小国でも20人、大国では70人くらいはいたようです。さらに、彼らの家族や国分寺・国分尼寺の僧侶たちもいたので、ただの村でなかったことは間違いありません。
讃岐の国衙は、発掘によって坂出市府中町にあったことが確実視されるようになっています。開法寺周辺を中心に官衛らしきエリアがポツンポツンと散在していたことが分かっています。これも「古代都市的景観」のようです。
讃岐国府跡 4
讃岐国府の位置と構成

 讃岐の中世都市の成立
律令制の崩壊とともに平安京は衰退し、右京は廃絶して田園化してしまいます。代わって院政期なると鴨川沿いの白河に政治の中心が移っていきます。そうすると左京から白河にかけて、「平城京から京都へ」と新たな都市として京都は再生します。同じ頃に、筑前(福岡県)の鴻櫓館(迎賓館)とともに日本の国際交流の拠点だった博多津が国際港湾都市に生まれ変わり、唐人たちが居留する唐坊と呼ばれるチャイナタウンも登場するようになります。
この時代の讃岐国衙は、どうだったのでしょうか?
国衙遺跡存続表1
国衙の存続期間

国衙は10世紀頃に廃絶するところも出てくることは以前にお話ししました。しかし、政務を請け負った現地の国司(受領)らが、それまでの国衛を留守所と呼ばれる役所に再編し、一国支配の拠点とします。留守所の多くは13世紀半ば頃には、鎌倉幕府が任命した守護に政務の主導権導権を奪われ、守護館を中心とした府中と呼ばれる都市域の中に消えていった所が多いようです。もちろん留守所と守護館が別の所にあったこともあり、そこでは留守所の廃絶後、守護館を中心に新たな政治都市が形成されることになります。
讃岐国府跡建築物との比較
           讃岐国府跡の遺跡消長表
 

上表の坂出国府跡遺跡でも、建物の数は減りますが11世紀中頃までは機能していたことが分かります。綾氏などの武士化していく在地勢力は留守所を拠点としていたようです。
 このほか、院政期に整備された諸国の一宮(各国の中で最も社格の高いとされる神社)を中心に宮中という都市が成立する所もあります。宮中は府中とともに鎌倉期の地方都市の代表でした。こうしてふたつの都市が地方に見られるようになります
①府中 守護館を核に守護の菩提寺・家臣屋敷を伴う
②宮中 一宮を核に神宮寺や神官たちら屋敷を伴う
府中や宮中は、国府津の港町を支配下に置き、さらに街道沿いに成立した宿も緩やかに掌握するようになります。
 讃岐の一宮は田村神社(高松市)、伊予は大山祇神社(今清市)、備前は吉備津彦神社(岡山市)、備中は吉備津神社(岡山市)です。田村神社周辺にも「宮中」的なものがあったのかもしれません。
しかし、府中・宮中はまだまだ隙間だらけの都市でした。
府中は守護館・菩提寺・家臣屋敷を中心に一定のまとまりを持っていました。しかし、経済集落である宿・町や港町とは、離れていて一体化はしていなかったことは前回にお話しした通りです。宮中も一宮・神宮寺・神官屋敷などが一定のまとまりを持っていましたが、宿や港町は少し離れて存在しました。門前町と呼ばれる段階ではなかったようです。

 中世都市の発展と宿・町と市
鎌倉幕府が成立し、鎌倉が東国の首都として発展すると、京都と鎌倉を結ぶ東海道の重要性が増します。2つの中心都市の間を輸送される物資が増大し、往来する武士や公家・僧侶・百姓なども増加するようになります。京都と鎌倉の間には、いくつかの府中や官中がありました。その間に宿と呼ばれる町場が次々と成立します。これは山陽道や南海道でもおなじです。鎌倉時代になると、京都と各地の府中・官中の間に宿・市が相次いで姿を現します。

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『一遍上人絵伝』に描かれた備前福岡の市の賑わい

福岡の市は山陽道が吉井川を渡る地点にありました。立ち並ぶ市小屋の中には米・布・魚や備前焼など様々な商品が並べられています。武士・僧侶・商人・旅人・子どもをはじめ多くの老若男女が描かれて、市の開催日の賑わいのさまが伝わってきます。

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          備前福岡の市(拡大)
この絵が描かれた13世紀末頃は、月に3度開かれる三斎市が中心でした。それが15世紀になると、六斎市になって開催日が倍増するようになります。市日でないときの市場は、乞食や犬・鳥が描かれていて、閑散とした様子が強調されています。もっとも市と宿・町とは別物でした。河原に立っている福岡の市とは別に、山陽道の道沿いに福岡の宿があった研究者は考えています。
 こうした市や宿・町が13世紀以降、各地に次々と立てられるようになります。讃岐でも、港周辺や街道の交流点などには、このような市が立っていたはずです。さらに時代が下ると市は、町に発展していきます。同時に、瀬戸内海沿岸部の港町も、その数を増していきます。
5 居館・城郭と宿・町・市
鎌倉幕府は東国武士が源頼朝を担ぎ上げて、東国に成立した武士政権です。承久の乱などを期に、東国武士の一族が西日本に守護や地頭としてやってくるようになります。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
武士の居館

彼らは征服者として東国にいたときと同じように、地域の要となるところに居館を構え、その周辺に一族・家臣を配置します。そして、周辺にある宿・町・市に寄生する形で経済的な優位性を確保しようとします。同時に土器川などの氾濫原などの未開の荒野の開発を進め、地域の支配者として定着していきます。
 そのような中でも守護としてやってきた有力な東国武士の中には、国府の近くに守護所を建て、周辺に一族や家臣を配置し、国府ゆかりの工人や商人を自己の支配下に編入していきます。さらに近隣の街道沿いの宿・町・市や港町を緩やかに統合し、菩提寺なども建立します。こうして武士の居館を中心に、府中と呼ばれる都市が姿を見せるようになります。
府中城 - お城散歩
国府のあった跡に築かれた中世の府中城(茨城県石岡市)
 守護の本拠である府中は15世紀前後に充実期を迎えます。
14世紀の山口市の大内氏館跡 再現CG 友森工業7 - YouTube
大内氏館
その代表が、周防・長門の守護大名の大内氏館(山口市)です。館内には立派な庭園を設け、隣には迎賓館として利用されたとされる築山館を伴い、街道沿いには町も発展していました。また、豊後守護大友氏の館は大分川河口近くの府内(大分市)にあり、庭園跡や遺物が出土しています。

6宇多津2
   中世宇多津の復元図 多くの寺院が青野山の麓に並ぶ

 讃岐守護の細川氏の館は、青野山の麓(香川県宇多津町)にあったようです。
将軍義満の信頼を得ていた細川頼之が失脚したときに、一時的に宇多津に留まります。しかし、その他は幕府管領として在京することが多く、宇多津にはほどんどいませんでした。国元の支配を守護代に委ねていたため、宇多津が「府中」として発展することはなかったようです。
6宇多津1
中世宇多津復元図
 戦国城下町の成立と発展
 16世紀になると戦国大名と呼ばれる地域権力が登場します。彼らは守護大名より進んだ支配方式を取り入れるようになります。それが、防御に強い山や台地などに城郭を築き、その城下に一族・家臣団を集めるという方式です。こうして、いままでの宿・町・市に加えて、新たに新宿・新町と呼ばれる町の建設を行い、城下町を地域経済圏の中心に置いた経済政策が進められるようになります。こが戦国城下町の登場です。大内・大友・河野氏らは守護から戦国大名化し、府中を戦国城下町に発展させます。しかし、讃岐では先ほど見たように管領細川氏の被官で京都に在勤することの多かった安富氏や香西氏などは、本国経営がおろそかになり戦国大名化が進まず、本格的な城下町も出現しませんでした。一部、讃岐守護代の香川氏にその動きが一部見られる程度のようです。
太閤検地 タイムスリップ
近世城下町の出現 検地や刀狩りの中で進みお城造り
 近世城下町から近代都市へ
16世紀末~17世紀初の戦国時代から天下統一・江戸幕府成立の時期になると、生き残った大名や新規に取り立てられた大名が、藩づくりのために城と城下町の建設・改変をセットで進めるようになります。この時期の城下町建設ラッシュによって、姫路・岡山・福山・広島・小倉・高松・丸亀・今治・松山など、瀬戸内海の主要都市の配置ができあがります。

野原の港 俯瞰図イラスト
中世の野原(現高松)復元図
 高松城とその城下町は、16世紀末に讃岐にやってきた生駒氏が中世の港町である野原の上に建設したものです。生駒氏の後、松平頼重が高松12万石の大名になり、城と城下町を改修して近世城下町高松を完成させていくことは、以前にお話ししました。

6 高松城 天守閣2
取り壊される前の高松城天守
城下町は、明治になると廃藩置県で城が廃止され、その主人である武士がいなくなると、衰退するところも出てきました。
しかし、多くの城下町の場合、城跡に県庁・市役所などの役所、学校、図書館、軍隊などの公共施設が建設されます。それらの施設が核となって新たな活力を都市に与え、城下町を近代都市に再生させていくエネルギー源のひとつとなります。瀬戸内の都市の多くは、こうして時代の変化に対応しながら生き残り、発展してきたのです。
丸亀連隊 明治38年
      明治以後の丸亀城大手町は、陸軍がいた。

以上をまとめておくと
①中世には、市、宿、哺、泊、津、境内、門前と呼ばれる場所が、流通や宗教などの機能と補完し合う形で存在していた。
②これらは1か所に密集していたのではなく、分散しながらも緩やかに連携しあって「都市的場所」を形成していた。
③近世になると、それがら城下町に取り込められて城下町などに再編成される。
④城下町は、それまでの都市的空間をいくつも取り込むことで、巨大化した。
⑤明治維新になり、城下町から武士はいなくなったが、それまで通りの政治的中心機能を維持することで、地域社会の中心で在り続けることができた。
⑥それが高度経済成長期やバブル崩壊を機に、地方都市はふたたび厳しい時代を迎えている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会

        雨瀧山城 山頂主郭部1
雨瀧城山頂部主郭部
雨瀧山の頂上にある三角形状の曲輪C1は、近世城郭の本丸にあたる所になります。そのため最大の広さと強固な防禦装置群が構築されているようです。今回は、雨瀧山の主稜線上の防御施設を見ていきます。テキストは、「池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」です。

まず、虎口とされる①の枡形Ca遺構を見ておきましょう。
雨瀧山城 山頂主郭部1拡大図
         雨瀧山城 山頂部主郭部拡大図
曲輪W2・S2方面からの通路は、曲輪C1の南側を回廊の様に通過します。その中央部辺りに、曲輪C1から南へ突出した①に枡形Ca遺構があります。この突出した地形を通過して曲輪C1へ入っていたようです。曲輪W2方面からCa台地へつづく通路には、横並びに三つ横矢ポイントが連続して並びます。同じように曲輪S2方面から①のCa台地につづく通路に対しても、曲輪C1南南東隅に石垣を使用した上下三段構造による大横矢拠点が待ち受けています。これら二方面からの通路に対して、曲輪C1には強固な防衛拠点の備えがあります。さらに突出させた台地地形構築から推測すると、ここが枡形形状の虎口遺構と研究者は考えているようです。
 もうひとつの虎口とされる②の枡形Cb遺構を見ていくことにします。
 曲輪N2方面からの通路の上に、帯状の空間地形Cbが見られます。曲輪N2からこのCbに登り、さらに東に回り込み、第2次大戦時に構築したと言われる監視所跡の切り込み(坂虎口)から、曲輪C1へ入るルートがあったと研究者は考えています。通路構築状況から見ると、通路の中間部にある帯状の空間地形Cbは、曲輪C1の枡形としての機能を果たし、尾根N方面に対する最終防衛拠点であったとことがうかがえます。
③ 曲輪C1大横矢拠点(堡塁か)
この横矢拠点は、S尾根方面から攻め寄せる敵を迎え撃つために、南南夷隅に石垣で上下三段構造の拠点を構築しています。一方、W尾根方面に対応する西隅は、竪堀と横堀を組み合わせた凸構造の構築がされています。最後の決戦場としての曲輪C1を守る防衛構造物と研究者は考えています。
以上から曲輪C1には、同一パターシ化された防衛構造物が配置されていて、縄張りには「ある一定の法則性」があり、かなり高度な築城技術が使用されていたことが分かると研究者は評価します。

本丸からに西尾根に続く曲輪W群を見ていきます。
雨瀧山城 山頂西部拡大図
雨瀧城 曲輪W群

曲輪W群は、西の寒川方面の尾根からの攻撃を想定しています。曲輪C1防衛のために、曲輪W群にはさまざまな築城技術の使用が見られます。まず曲輪W5直下の尾根地形上の斜面に、堀切状の凹地形を削り出しています。さらに凹地形の南北両端の斜面に竪堀を落としています。これらの一連の構築物は、敵による斜面上の回り込み攻撃を阻止します。正面突破の敵勢力に対しても、凹地形の西側土塁と曲輪W5からの上下2段による横矢迎撃で撃退する備えです。またこの凹地形は、西尾根正面に平虎口を開口させ、その左右を土塁で固めた枡形虎回の機能をもあわせ持つ防衛拠点となっています。
  主郭西部の防禦構造物には、北側斜面上の5本の竪堀があります。
①凹地形の北斜面を遮断する竪堀
②曲輪W5北斜面を遮断する竪堀
③曲輪W2北斜面を遮断する竪堀
④曲輪C1北斜面を遮断する竪堀の西4本
で、北斜面上を攻め登る敵を阻止します。
以上の構造は、この城郭の中では最高の技巧性を見せる遺構だと研究者は評価します。

 南尾根の曲輪S群の虎口と通路について、見ていくことにします。
雨瀧山城 山頂南主郭部1拡大図
雨瀧山城 曲輪S群
曲輪S群は、南方の柴谷尾根方向からの攻撃を想定しています。
この方面の攻防ポイントは堀切S10になります。堀切S10を守るために、まず曲輪S8・7・6が防衛拠点と配置されています。堀切S10から上の通路は、次の2つが考えられるようです
①枡形虎口Sbに入り、曲輪S4下の斜面上を北西へ直進、曲輪S3の「登り石垣?」ラインが斜面を下がってくる地点で突き当たり、そこを折り返して曲輪S4へ登るか
②「登り石垣」部分を越えて直接に曲輪S4へ登る通路が見えてくる。この通路を登る。
 この通路方法からすると、小空地S5は上下一体性のある枡形虎口遺構そのものです。上段の空地は下段の枡形空間にたいして、武者隠し的空間として機能します。さらに西尾根の枡形遺構と同じ様に、曲輪S4と併せると、ここにも上下三段構えの立体防禦装置があったと研究者は指摘します。

南方の曲輪S群には、西尾根曲輪W群には、見られなかった土塁構築があります。
曲輪S6は東斜面側の南北に立つ自然の大岩間に、貴重な土塁構築と枡形虎口Scが作られていますので、何か特別な空間のようです。曲輪S7・8では、虎口Sdが敢えて尾根筋を避けて、西側にずらしています。そして、曲輪S7.8を防禦機能上、一対とした空間として配置しています。そのねらいは、東尾根櫓台地区SEを突破し、なだれ込んできた敵を、ここで阻止するための軍事空間のようです。特に曲輪S8の形を回廊状にしているのは、尾根斜面を登ってくる敵兵に対して、迎撃のための砲列を敷く足場にするためだったと研究者は考えています。

最後に雨瀧山城が、いつ、誰によって、どのような目的で造営されたのかを見ておきましょう。
 私は先入観から安富氏が、阿波の三好勢力に対して造営したもので、16世紀初頭には原型的なモノが姿を見せ、それが土佐勢侵攻の脅威が高まる中で整備されたものと思っていました。さてどうなのでしょうか。
『雨滝城発掘調査概要』(1982年)の報告によると、山頂部曲輪群からは、礎石と瓦を使用した建物群が出土しています。瓦が出てくる山城は、讃岐ではあまり聞きません。全国の中世城郭で、礎石建物の出土事例の初見は、次のようになるようです。
①横山城の大永年間1520~天文年間1550年
②観音寺城では天文年間1530~永禄年間1558年
③四国では「土佐では16C後半以降」
 そうすると雨瀧山城に礎石建物が建てられたのは、元亀年間(1569)の寒川氏問題での緊張時か、それ以後と研究者は推測します。
 瓦については、『調査概要』や『織豊期城郭の瓦』(1944)の報告によると、瓦制作技法はコビキA手法や紋様等より、織豊期の系譜を持つ瓦と判定されています。とすると、秀吉のもとで、讃岐制圧部隊として活動した仙石氏や生駒氏による改修・増築などが考えられます。その遺構年代は天正13(1585)年前後と研究者は考えています。とすると、安富氏のものか、仙石氏のものかについての判定は微妙な問題になるようです。

 別の視点から見てみましょう。
雨瀧山城の遺構の中で、特に目立つのは8ヶ所ある枡形空間です。城郭遺跡の中で、枡形の構築年代が古いものを並べると次のようになります
①京都嵐山城  永正4(1507)年  『多聞院日記』香西又六元長」
②京都中尾城  天文18(1549)年 『万松院殿穴太記』将軍足利義晴」
③近江小谷城攻の陣城群 天正元年(1571)(織豊期城郭)」
④讃岐勝賀山城 天正7(1579)年   香西氏」
⑤備前国児山城 天正9(1581)年  『萩藩 閥閲録』(宇喜多与太郎基家の陣城 )
これらの城郭との枡形の比較検討からも、雨瀧山城の遺構は天正期頃のものと推測できます。
上記の城の枡形を雨瀧城のものと比べて見ましょう。
雨瀧山城 比較
細川系枡形技法
比較からは、京都嵐山城・讃岐勝賀山城・讃岐雨瀧山城の枡形形状が同類型であることが分かっています。
3つの城の枡形の共通点を見ておきましょう。共通点は、堀切内部の空間を土塁等で一部仕切って、切り離した枡形空地を創出して構築した独特の形の枡形であることです。堀切と枡形を併用した形状の事例は限られます。
 さらに三城郭の共通項を探すといずれも築城者が、香西氏と安富氏という細川京兆家の関係者であることです。ここからは「細川系築城技法」とよべる技法があり、それを持った土木築城集団が細川氏周辺にいたことが見えてきます。
 三城郭の構築年代を考えると、天文年間から天正初期という時代は、信長の上洛以前で、細川・三好の勢力が京畿を支配していた頃になります。畿内で用いられていた築城工法を、香西氏や安富氏は讃岐の城の改修や新築に採用したようです。

 天正3年香西元成が堺の新堀に新城を築城したことが『信長公記』には記されています。
この時期に、香西氏は旧地である京都嵐山城も改修した可能性が高いと研究者は考えています。そうすると香西氏の讃岐の新城と築城された勝賀山城の枡形遺構も天正期あたりの構築と云えそうです。これは三城郭の年代及び築城系譜とも一致します。

以上をまとめておきます。
① 雨瀧山城の東西両尾根上に対象にある「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構は、縄張り上で「パターン」を繰り返して使用している。
②畿内などで使用されている防禦施設(枡形)が採用されている。
③全体としても縄張りに「統一性」が見られる。
④雨瀧山城の縄張りは、築城時以前に「縄張図面」があった
⑤この縄張り構想は、細川系築城技法を持つ築城集団によってもたらされた。
そして、頂上の曲輪に建てられた礎石建物は、安富氏か織豊系大名のどちらが建てたものかは微妙な年代だが、建物配置状況や出土した織豊期瓦から織豊系大名によるものと研究者は判断します。具体的には、秀吉の命で天正13(1585)年に仙石氏が讃岐入国後に行った領国経営上の支城網群整備時に築城・改修された城郭群中の一城とします。仙石・生駒期になっても、讃岐の山城は改築・増強され軍事的機能を果たし続けていたのは、最近の勝賀城の発掘からも明らかになっています。
 ここからは、讃岐の中世山城の中には長宗我部元親や信長・秀吉の侵攻で陥落し、そのまま放置されたのではなく、改修・増築が行われ新たな軍事施設としてリメイクされていたことが改めて分かります。西長尾城や聖通寺山などの発掘から分かったことは、土佐軍は、旧来の山城に大幅な手を入れて増強していることです。それが東讃の雨瀧山城にもみえるようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度

雨瀧山 居館跡2
 雨瀧城 奧宮内居館跡

前々回は、東西尾根上の遺構をみて、雨瀧山城の城郭エリアを確認しました。前回は、居館跡や屋敷地群があった奥宮内エリアの建物群の配置などを見ました。
雨瀧山 居館跡奧宮内3

 居館跡とされる奥宮内を中心に「富田城下町」が形成されと研究者は考えているようです。
しかし、地図や現地を見る限りでは、私には見えてきません。研究者は何を材料にして「城下町復元」を行うのでしょうか。今回は、「城下町富田」の復元過程を見ていくことにします。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。

前回見たように、居館跡は雨瀧山城南側のふもとである奧宮内にあることは、前回にお話しした通りです。
まず、奥宮内を囲む外郭の大堀を次のように想定します。
居館跡東側の「げじょうだに」から「のぶはん」を経て津田川の合流点の「てさき」に走る大溝地形を外堀とします。そして改修した津田川に連結させて、両堀を外郭としたL字ラインの内側に、奥宮内谷居館群とさらに宮内・大船戸両地区を結合させて「戦国期城下町・富田」が形成されていたとします。
 また、城下町の最大の防御網は、東側の大堀遺構と南側の津田川になります。仮想敵勢力が攻め寄せてくるのは、この方向からであったと考えていたことがうかがえます。そうだとすれば、仮想敵勢力は、次のように考えられます。
①城主が安富氏であった時代には、阿波三好勢力や土佐の長宗我部元親
②城主が仙石氏や生駒氏であった時代には、土佐の長宗我部元親
 外郭の大堀に囲まれた城下集落
このエリアには地形を表現した地名には次のようなものがあります。

「ごい」・「みいけ(御池?)」・「いけじり(「池尻)」・「たなか(田中)」・「のぶはん」「げじょうだに(下所谷)」「いずみたに(和谷」・「おおぜつこ(大迫古)」・「てのく」・「西野原」・「うらんたに(裏の谷)」・「すぎのはん」・「しんがい(新開)」等

町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります
「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」等

これらの地名がある場所を下図で確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山城 商家町富田 
           雨滝城城下町
 河川港と港町
津田川に沿った付近には、「しもぐら」・「こふや」・「おおふなとじんじゃ」・「しんがい」等の地名が散在します。
「しもぐら」・「こふや」からは、川港倉庫群の存在
「おおふなとじんじゃ」からは、海上運行の祭祀した船頭や、船戸からは港があったことや、河川港とその港湾に働く人々がいたこともうかがえます。津田川を利用した河川交通の運航が行われ、この周辺には川港的機能を果たしていた「施設」があったと研究者は考えているようです。

雨瀧山城 城下町富田2 


富田荘の物産類が集結したのが船戸神社の下の「しもぐら」・「こふや」の川筋でしょう。ここからは富田庄の流通経済活動拠点とし、大船戸地区が考えられます。また宮内地区には、「本家」・「隠居」・「南屋敷」などの雨瀧山城や「守護代所」に関係した行政・統治機関の人々の居住地があったことが推測できます。
 経済活動の中心地としての津田川流域の大舟戸地区、
 政治的中心地としての富田神社周辺の宮内
それぞれ別の機能を持つ両地区を中心にして、「戦国期城下町」富田が出現したいたというのです。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する富田

確かに雨瀧山城の南側の富田エリアを巨視的に見ると、髙松平野の東の端にあたります。髙松平野に侵入しようとする勢力が、ここを拠点に勢力を養った例が古代にもありました。津田湾沿岸に古墳を築いた勢力は、ヤマト朝廷に近く、瀬戸内海南航路を紀伊の勢力と共に確保していたとされます。彼らは津田川を遡り、この富田の地で勢力を養い岩清尾・峰山勢力を圧倒していくようになります。その政治的シンボルが、この地にある富田茶臼山古墳とされます。古代においても、津田川は、津田港と富田を結ぶ基幹ルートであったことが推測できます。
雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。
讃岐富田荘の港は、一般的には鶴箸(鶴羽)浦か津田浦と考えられています。
雨瀧山城 安富氏と海上交易
兵庫北野関入船納帳に出てくる讃岐の17港
  津田湾周辺では鶴箸(羽)が記されている

鶴箸(鶴羽)浦と津田浦は近世にも繁栄していた港です。特に鶴箸には「江田=えだ」の地名を残す港湾遺構もあり、『納帳』にも出てきます。しかし、富田荘との荷物のやりとりには相地峠を越える必要があります。それを避けるために、津田川を利用し富田荘内に川船を接岸する方法が取られていたことが考えられます。とすれば津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があったはずだと研究者は指摘します。富田荘内を貫流する津田川(=富田川)に、「古枝=古江?」や「船井」などの川湊がいくつもあり、それが海岸線の後退に伴い、江戸期の「津田浦」の発展につながったとしておきましょう。

以上をまとめておきます

①雨瀧山城の居館跡は、奧宮内エリアを中心に「舟渡地区(津田川河岸) + 宮内地区(富田神社周辺)」までをエリアとして「城下町・富田」の町割りが行われていた。
②城下町富田の外堀は、「東の大溝遺構 + 南の津田川」であった。
③舟渡地区を中心に定期市が開かれ、川港もあり、ここが経済的な中心地であった。
④城下町富田は津田川を通じて、瀬戸内海東航路に接続していた。
⑤雨瀧山城西尾根筋の先端にある「船井」には、船井大権現と船井薬師があり、往時の繁栄と港湾の痕跡が推定できる。
⑥津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があった?

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 雨瀧山 遺構図全体2
  
雨瀧城の居館や屋敷地群は、どこにあったのでしょうか。
雨瀧山の南側の奥宮内を最有力候補と研究者は考えています。その居館跡を今回は見ておきましょう。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。
  奥宮内は、富田神社の鎮座する奥まった谷に位置します。
 奥宮が居館跡だったすると、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部に居館を置かずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたことになります。古代にも、交通の大動脈である瀬戸内海の入江である津田湾ではなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳を内陸部平野の富田に築いた古代首長がいました。津田川流域のこの平野は、戦略的な魅力があるのかもしれません。
雨瀧山 居館跡2
雨瀧城 奧宮内の居館跡
 奥宮内は、東側のげじょう谷の尾根筋と、てのく谷の尾根筋に挟まれた谷筋です。
ここには、宮内谷扇状地が形成されて、その先端に中池が築かれています。中池について、研究者は次のように考えています。もともとは、ここに土塁が築かれて、堀となっていた。それが後世にため池堤防に「転用」された。つまり、中池の堤防は、谷筋防衛のために遮断された大土塁であった云うのです。これを裏付けるように、平成6年のため池改修時の調査では、池の内部底土層の堆積が南北幅が5m程でしかなく、東西に細長い水堀であったことが確認できています。

雨瀧山 居館跡奧宮内1
        雨瀧城 奧宮内の居館跡(拡大図1)

奥宮内は、南に傾斜した扇状地上の地形の上に屋敷地跡が残ります。
全体は次の3地区に分けられます。
① 西尾根下の小さな谷地形(おおぜっこ)
② 東尾根下の小さな谷間(いずみだに)
③ この小さな谷地形が合流した小扇状地(中池・小池・さくらんぽ)地区
各地区の機能は、次のようになります。
①②のおおぜっこ・いずみだに両地区は、飲料水の確保と畑地として利用していた空間地
③の中池・小池・さくらんぼ地区は、屋敷地や倉庫地
雨瀧山 居館跡奧宮内3
雨瀧城 奧宮内の居館跡
中池に面したL字形平地は、館の「表」として公的機能を持つ守護代所の建物等があったところで、地図上のA・B・Cは領主の表での屋敷部分で、A・Bは領主の奥の居館部分の建物があったところと研究者は推測します。
さらに、屋敷地周辺について、次のように推察します。
・上部のさくらんぼ地区は、厩屋等の建物があったところ
・中池の堤防が西尾根に接するところと、尾根との間に残る小空地が虎口で、城門のあった可能性
・虎口の背後地のⅠA屋敷地に接するところは、枡形機能を果たす空間地
・居館内を警護する家人は、小池の西側と東側尾根先端部の高台曲輪に駐屯
以上のように、ここには居館全域の監視・防衛に最適な地点であったことが想定できます。

 もう一度、「げじょうだに」(=下城谷か?)周辺を見ておきましょう。

雨瀧山 居館跡2

ここには居館地の東側防衛のために、軍事色濃厚な遺構群があります。
① 大堀
城山の稜線より一気に下る「げじょう谷」が、緩傾斜した谷地形あたりの「のぶはん」地区を通過して、さらに宮内地区と森清地区の境「ゴイ」・「ミイケ」・「タナカ」・「スナゴ」・「テサキ」を通り、津田川へ流入する谷間地形が広がります。この南北を貫流する谷筋を、城郭遺構の防衛線の「大堀」と研究者は考えています。
 特に谷地形の西側縁(宮内地区)は、湿地及び泥田地形であったようです。日葡辞書には「sunago=砂、または砂をまきちらしたように」から、このあたりは河川敷のようであったらしく、それが「タナカ」・「ミイケ」の地名からもうかがえます。
②   奥宮内の居館推定地の東側の「のぶはん」とは、何でしょうか?「のぶ」と「はん」に分けて考えると、「のぶ」=伸ぶ・延ぶ=のびる=空間的に長くひろがるとの意味になります。日葡辞書でも「nobu=せいたけがのぶる」で、地形の状況を示す言葉の意味になるようです。稜線より一気に下る「げじょう谷」と、暖傾斜状谷地形の「のぶはん」の谷内部より稜線を見上げると、天空に向かって一直線の「げじょう谷」空間が走り、「空間的に長くひろがる」の言葉の意味どおりの地形となると研究者は考えているようです。
③ 首切り地蔵尾根
「のぶはん」東壁の尾根は、東側面に自然地形を壁面状に加工したようすが見られます。城郭防禦の遮断線としての尾根ラインを構築したようです。中段付近には、堀切と「首切り地蔵」のある曲輪等が二段構築されています。今はこの堀切りは、柴谷峠に抜ける山道が通過していますが、往時も道として使用していたと考えられ、曲輪の存在は堀切道を通過する敵にたいして、防衛拠点としての機能を持つところと研究者は考えているようです。

   以上見てきた通り、奧宮内は、雨瀧山の南の谷の奧に南面して配置されていたと推測されています。
このレイアウトは、津田方面の海上交易よりも南方に広がる内陸盆地に主眼を置いたかのように思えます。これ対して、西讃守護代の香川氏が多度津の現桃陵公園付近に居館を置き、その背後に天霧城を築いています。香西氏も内陸から次第に海際に進出して、勝賀城を築いています。そこには、交易湊を確保して瀬戸内海交易に参加していこうとする意欲がうかがえます。それに対して、海に背を向けて居館を置いた安富氏のねらいはどこにあったのでしょうか。考えられるとすれば、阿波三好氏への備えを主眼として作られた城なのかも知れません。
 また、安富氏は古髙松港(屋島)・志度・引田に加えて小豆島の各港の管理権を握っていた節もあります。そのための経済的な機能を各湊にあり、政治的な居館を津田湊に置く必要がなかったのかもしれません。この辺りが今の私には、よく分からないところです。

    雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。その権利を安富氏は持っていたようです。
 守護細川氏が在京であったために、讃岐の守護代たちも京都に詰めていたことは、以前にお話ししました。雨瀧山城の居館には安富氏の守護代事務所からさまざまな行政的な文書が届けられ、在郷武士たちの管理センターとして機能していました。津田湊を経て、京都と交易路も確保されていたのです。安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていました。
 しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えるようになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして安富氏を配下に繰り入れ、東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小
豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、小豆島は瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。その目の前にあったのが、この城になるようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度
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        雨瀧山城 説明看板

雨瀧城の主である安富氏については、守護細川氏のもとで東讃の守護代を務めていたことは、以前にお話ししました。文献史料から指摘されているのは、次の二点のようです。
①讃岐守護代家安富氏が讃岐に所領を与えられたこと
②安富氏が寒川郡七郷へ侵攻して雨瀧山・昼寝山押領をしたこと
政治的経過はある程度は分かるのですが、それを雨瀧山城と結びつけて論じたものは、あまりないようです。雨瀧山城を縄張研究の視点から城郭遺構を見直し、築城者までもを探ろうとする論文に出会いましたので紹介します。テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。今回は、雨瀧城の範囲と遺構を縄張図で見ていきます。

雨瀧山 遺構図全体
雨瀧城全体遺構図

 尾根上に残る遺構は、次の3つに分けられるようです。
1 寒川方面主尾根NW遺構群
2 火山方面主尾根E遺構群
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群
 雨瀧山山塊の背骨ラインを形成する尾根は、東から2の火山遺構群を経て、本丸のある雨瀧山山頂を通って、北西に伸びる寒川尾根遺構群から津田川(富田川)へ落ちていきます。津田川(富田川)へ落ちる尾根裾部付近には、造田の春日神社や「河川港」と見られる「船井」が残っています。

雨瀧山 遺構図全体2

ここからは、古代荘園時代から尾根筋が雨瀧山頂部と河川港などをつなぐ通路として利用していたことがうかがえます。中世の雨瀧山城を拠点とした勢力は、瀬戸内海交易に便利な津田湾側の北側裾部を本拠地とはせずに、あえて河川交通に頼る内陸部の南側裾部・富田荘に依拠していたようです。この城の築城者が何者か、また築城の意図がなんであったのかを解く糸口があると研究者は指摘します。交通の大動脈である瀬戸内海の入江でなく、讃岐最大の前方後円墳の茶臼山古墳がある内陸部平野を拠点とした意図はなんっだのでしょうか?  それについては、後に考えるとして、まずは遺構を見ながら雨瀧山城の範囲を確定しておきましょう。

まず津田川に落ち込んでいく西方尾根 寒川方面主尾根NW遺構群を見ていくことにします。

雨瀧山城 寒川方面遺構図
雨瀧城 寒川方面尾根上の遺構群

尾根に取り付いた攻め手を待ち受けているのは、狭い「一本橋(NWー4遺構)」です。尾根上の幅が約3m程の馬背状地形を、両側から空堀構築のように削り取り、その一部(幅約60㎝)を掘り残して、一本橋状(長さ約18m)に加工した痕跡があります。これを「一本橋=いっぽんばし」遺構と呼ぶようです。
   一本橋遺構とは、何なのでしょうか。
尾根上を攻撃してくる敵は、 一人ずつ一列縦隊で侵攻して来るのではなく、数人の集団で押し寄せてきます。一本橋装置は、一人ずつしか渡れません。隊列を崩して一列になる必要があります。そこを飛び道具で狙い撃つというしかけです。この遺構は、単に堀切と一本橋(土橋状)で、敵を遮断するというよりも、ここに敵を招き入れて迎撃することで、打撃を与えることを目的にしていると研究者は指摘します。そのために、橋を長くしているのです。単なる「土橋」ではなくて「一本橋」と呼ぶ由縁のようです。

雨瀧山城 寒川方面遺構図拡大
寒川方面尾根遺構図 拡大版
 空間地形NWー3遺構
一本橋を渡った所の空地(NWー3)は、「一本橋」の附属空間だと研究者は指摘します。この地点は、自然地形上のピーク地点で一本橋よりも、一段高い位置にあります。一本橋を敵兵が乗り越えてきた時には、坂を駆け上ってこの空間に飛び込んで来ます。それをここで待ち構える守備兵が周りから迎撃します。そのための陣地空間です。
ここに一本橋と陣地空間を配置したのは、偶然ではなく縄張り上の工夫と研究者は評価します。一本橋効果をより高めるために工夫された陣地割と云えます。 次のNWー2遺構は、堀切状遺構です。
その下の斜面にあるのが竪堀NWー5・6遺構です。
「馬の背」尾根上の「展望所」の下になります。このふたつの遺構は、NW1遺構方向に向けて、敵が尾根側面へ回り込むのを防ぐ竪堀のようです。竪堀NW5の東側面は、わざわざ土塁状に構築していて、城内側が優位になるように斜面上にしています。軍事的視点からも、ここが竪堀構築位置としては、最良地点だと研究者は評価します。
 堀切NW1遺構 西主尾根防禦の基幹となる堀切です。
 攻城側・城内守備側双方の接近戦が行われる所で、攻防戦の勝敗を左右する所です。守備側にとっては最後の遮断線であり、攻城側にとっても城郭主要部攻撃への拠点(西主尾根)の確保となり、双方ともに譲れない拠点になります。
以上、寒川方面の尾根上の遺構群を見てきましたが、主尾根防禦の構築物群に、「一本橋」・「陣地小空間」・「堀切」・の配列が確認できます。一定の「縄 張り技法」に基づく築城があったことがここからは分かります。
雨瀧山城 火山方面遺構図
            雨滝城 火山方面主尾根E遺構群(上図参照)
雨瀧山より火山に続く尾根は長く、何処までが雨瀧山系の尾根なのかよく分かりませんが、一般的にには柴谷峠辺りまでとされます。ただ尾根筋を、火山から雨瀧山へ向かって下っていくと、柴谷トンネルの上辺りの鞍部が、火山尾根の終点とも見えます。
この方面の防衛をどのように考えるか、または防禦物群の構築があったのかが、雨瀧山城の範囲を何処までとするかのポイントになります。
 一本橋(E5)遺構
火山に続く尾根筋がの傾斜地形の途中にも、「一本橋E5」があります。これは寒川方面主尾根にのNW4遺構と同じものです。ただこちらの遺構は、NW4よりもさらに規模が大きく、また弧状に湾曲させた形なので、さらに防禦機能を強化した「一本橋」に仕上がっているようです。この地点は、火山側へ登る傾斜地形上にあり、高低の逆転地で、防衛的には弱点地になります。その弱点を補完するための工夫として、一本橋を直線としないで、湾曲させる事で橋の上を走り抜けにくくして、守備側に射撃チャンスを確保しようとしたものと研究者は指摘します。そして「一本橋」があるこの地点を、雨瀧山城の東方面の城域をしめす遺構とします。ここから東に雨瀧山城は展開していたことになります。

雨瀧山城 火山方面遺構図拡大図
 雨滝城 火山方面主尾根E遺構群 拡大図
 空間地形E4遺構も、寒川方面主尾根で見られたNW3の遺構と同じ効果を狙った空間地形のようです。続くE3遺構も、小規模な「一本橋」遺構のようです。
 曲輪E2遺構 ここで城山から東へ続く尾根筋が、火山山系と分けられることになります。雨瀧山系の尾根筋を分ける象徴的なピーク地点とも云えます。頂上面は、曲輪としても十分な空間地形がありますが、現在は高圧線鉄塔が建っていて頂上地形状況はよく分かりません。位置や尾根筋上に孤立するピークの高さから、火山方面主尾根防衛の指揮所的機能を持つ曲輪であったと研究者は考えています。
以上からは、寒川方面の尾根防衛と同じように、こちらも「一本橋」で防衛する縄張り構造が見られ、縄張りに統一性があることがうかがえます。
雨瀧山城 東尾根
雨瀧山 東尾根筋柴谷峠方面遺構図
3 東尾根筋大堀切(柴谷峠)遺構群(上図)
富田地区と津田地区を結ぶ柴谷峠道は、今はトンネルで結ばれていますが、かつてはトンネル上に旧道があり、掘割地形となった峠に出ました。中世には、ここには城郭遺構である堀切があったはずです。当時ここは、城山尾根と火山尾根を遮断する大堀切だったと研究者は考えています。
雨瀧山城 津田浦方面尾根
雨滝城  津田浦方面泉聖天尾根NE遺構群(上図参照)
雨瀧山稜線SE4の小空地の北壁下から泉聖天が建っている元古墳に向けて伸びる尾根筋の間には、遺構は確認されていないないようです。しかし、元古墳のピークは、縄張りから考えると津田方面の戦闘指揮所としての曲輪があったと研究者は推測します。
① 屋敷地NE1遺構     岡
尾根先端裾部の東方向に下ったところに、通称「岡」と言われる屋敷地があります。この屋敷地周辺は、古代より開けたところで、屋敷地の南東側向かいに呉羽信仰の祭祀場があり、東下の海岸崖にも古墳とされる祭祀遺構が確認されています。この辺り一帯を、御座田と呼ぶので、古代からの集落地があったようです。この地区内で、屋敷地として一枚の広さと方形地形を見せる通称「岡」を特別な場所と見て、雨瀧山城に関連する屋敷地と研究者は考えています。
② 屋敷地NE2遺構  御殿
泉聖天が祀られている祠から東北方向に下ったところに、「御殿」と呼ばれる屋敷地があります。、ここは「岡」の地形と比べても、 一枚の広さや形状が狭く、周辺地形も手狭なので、屋敷地としての研究者の評価は少々劣るようです。
 地元の伝承では、ここに御殿があったとの説が有力なようです。
城門がここより移転して、現に火打山霊芝寺の門として残っているという研究者もいます。(『安富氏居館の謎』筑後正治)
 しかし、現在の寺門が雨瀧山城に関連する遺物かどうかは分かりません。調査結果からは、雨瀧山城の城門であるとする積極的な意見は見当たらないようです。むしろ江戸期に、藩主の別荘(御殿)を領地内の各地に設置していますが、そのひとつという意見の方が有力なようです。
③ 曲輪NE3遺構 ここは往時古代遺跡の前方後円墳でした。
今は、そこに泉聖天が建てられ、遺構調査はできないようです。先に述べたように、ここが戦闘指揮所として適所で、曲輪としての好地のようです。
 以上からは、この尾根筋を遮断する堀切は、構築時期に疑問が残り城郭遺構と判断できないと研究者は考えています。

 雨瀧山城の城郭プランがどの範囲まで及んでいるのかを見ました。
以上の防禦遺構から、雨瀧山城の範囲は、東西両尾根上の「一本橋」までと研究者は判断します。そして、津田方面では等利寺谷及び泉聖天古墳までとします。
 研究者が改めて注目するのは、「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構です。これは「ひとつのパターン」を繰り返して使用しています。現在では、パターン化は当たり前の工法ですが、中世ではそうではなかったようです。中世城郭での縄張りは、その場の地形にあった防禦構築物を、その場その場限りのものとして作っていくのが一般的です。ところが、雨瀧山城では、「あるパターン」の防禦構築物を繰り返して用いられています。また畿内などの他地域で使用されている「同一形状」の防禦施設が採用されています。そして、全体としても縄張りに「統一性」が見られます。
 ここからは、雨瀧山城の縄張りは、その場その場限りの発想ではなく、築城時以前に「縄張図面」があったこと。その構想とは、細川系築城技法を持つ者による縄張りだと研究者は指摘します。しかし、主郭部分には、織豊政権的な要素もあるようです。それは、また後に見ることにします。次回は、この城の主が生活した屋敷跡を見ていきたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度
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  戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」

  このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺山

聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
聖通寺城 曲輪2

この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
聖通寺城 曲輪

 北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
それを「聖通寺山には石垣がない」をキーワードに解いていくことにします。織豊政権のお城に石垣はつきものです。ところが聖通寺城は、戦国時代の終末期まで存続しながら石垣跡がありません。

聖通寺山 仙石秀久

 天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 |  サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
 織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。
仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。 
 仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。

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仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
 仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。
生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】 | でも、日本が好きだ。

 讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
  以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
聖通寺 岡豊城の石垣 長宗我部元親
長宗我部元親の居城 土佐・岡豊城の石垣

讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
聖通寺 長宗我部元親の侵攻
坂出市史より

県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
  長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡
②藤目城跡(観音寺市)
③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)
④西長尾城跡(丸亀市)
⑤勝賀城跡(高松市)
⑥上佐山城跡(同)
⑦鳥屋城跡(同)
⑧内場城跡(同)
⑨雨滝城跡(さぬき市)
⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。

他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引田城 - お城散歩
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。
「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
聖通寺城 坂出の城郭
坂出市史より

ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙名島 石垣
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。
その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
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聖通寺山・南峰山中の磐座
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
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聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。

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 聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
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聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。
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聖通寺

 そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。

聖通寺 復元図
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
 それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
 聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある
①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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 知人から「琴平の山城」という冊子が送られてきました。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
1 櫛梨城 地図2
櫛梨周辺図(「琴平町の山城」より)

 櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。

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櫛梨神社への参道と、その上にある櫛梨城跡
 
 櫛梨は銅鐸・平形銅剣が捧げられ、式内社の櫛梨神社が鎮座することから分かるように、早くから開発が進み諸勢力を養ってきた地域です。中世には、櫛梨は宥範を出した岩崎氏の勢力下にあり、彼の生誕地ともされています。戦国時代には、この山に山城が築かれていたようですがそれが岩崎氏のものであったかどうかは分かりません。
 三野の秋山家文書には、応仁の乱後に櫛梨山周辺での戦闘があり、秋山氏の戦功に対して、天霧城主の香川氏から報償文書が出されています。丸亀平野に侵入しようとする阿波三好勢力と、香川氏の間に小競り合いが繰り返されていたことうかがえます。
 それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
1 櫛梨城 地図
櫛梨神社と櫛梨城の関係図(琴平町の山城より)

 どちらにしても元吉合戦が始まる前には、この城には毛利氏の部隊が駐屯し、山城の普請改修をおこなっていたようです。その経過については、以前にお話ししましたので、要点だけを羅列します。
 毛利氏は石山本願寺支援のための備讃瀬戸ルート確保が戦略として求められます。そのためにも讃岐を押さえておく必要性が高まり、櫛梨城を調略し、改修普請を行います。これに対して、織田信長の要望を受けた三好勢力は、配下の讃岐惣国衆を動員し、櫛梨城を攻めました。これが1577年の元吉合戦です。
元吉合戦の経過


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櫛梨神社
   麓には式内社の櫛梨神社が鎮座します。明治になって合祀した周辺の祠が集められきちんと祀られています。この神社にも神櫛王(讃留霊王)伝説が伝わっています。しかし、社伝ではなく善通寺中興の祖=宥範の伝記の中に記されているものです。中世以後に、語られるようになったものであることは以前にお話ししました。

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 神社に参拝し、拝殿の東側から整備された遊歩道を登ります。遊歩道は頂上に向かって直登するのではなく、トラバースした道でなだらかな勾配です。10分ほどで①尾根上に立つことができました。
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毛利援軍が陣取ったという摺臼山、その向こうには善通寺の五岳

ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。

1 櫛梨城 山本先生分
 
毛利軍の冷泉元満らが送った勝利報告書には次のようにあります。
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここからは、元吉城に攻めかかっている三好軍の背後を毛利援軍が襲ったようです。そうだとすると三好軍は、摺臼山に陣取る毛利軍を背後にしながら元吉城の攻撃を始めたようです。敵を背後にしながら攻城戦をおこなうのかな?と疑問に思いながら緩やかで広い稜線を東に歩いて行きます。そうすると木橋と階段が見えてきました。ここが縄張り図Aの位置になるようです。

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竪堀にかかる木橋

   ここで縄張り図について、専門家の説明を聞いておきましょう。
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(東部分の)曲輪Ⅱは低い土塁で囲み北側に虎口を開く。Iとの段差は小さい。Iへは北西部で虎口より上り、南側隅は緩い斜面で下の曲輪へ通ずるが虎口かどうかはっきりしない。この曲輪は土塁に囲まれ両側に虎口を有するので大型の枡形といえる。
 曲輪は幅4~8mでI・Ⅱを完全に取り囲む。Iとの段差は3m前後と高い。南側中央には虎口状の小さな凹みがあり山道が下る。東端は低いが土塁となっている。
 曲輪IVは頂部を半周し、西側には一部土塁が残り土橋状地形もある。曲輪IVの南西隅から緩やかに下ると小さな平場があり、直下には幅6m前後の堀切Aがあり、両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない。

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 南西尾根先端には出曲輪Vがある。尾根は緩やかに下るが途中両側に土塁があり、先端に性格不明の凹みがある。V南直下には曲輪があり、その下は採石場により崖となる。現在神社よりここまで立派な道が作られている。
  木橋がかかる所は「堀切A」で「両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない」とあります。報告書通りに、木橋がありました。そして木橋の両側には竪堀があり、下におちています。
  山城としては、なかなか遺構が良く残っています。木橋を渡って整備された急な階段を登っていくと曲輪Ⅳを経てⅠへたどり着きます。ここが頂上ですが、まず感じるのは、その広さと大きさです。
人為的な整地や整形が加えられているような感じがします。

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   平成7年の試掘調査では、主郭中央で柱穴が見つかっているようです。さらに、主郭と堀切Aの間で地山を削り出した上に盛り土を行った3段の帯曲輪を確認し、そこからは土器片や火炎を受けた石材が多数出土したようです。
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休息所のベンチに腰を下ろして、報告書を読みながら改めて、南に広がる景観を楽しみます。
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琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
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 クヌギの大きな木の枝にブランコが懸けられています。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
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如意山に向かっては、いったん鞍部を東に下りていきます。その前に、報告書で確認です。
 曲輪Ⅲの東下には塹壕状の突出を持つ横堀Bがあり北寄りに虎口が開く。この横堀は上の曲輪の切岸を高くしたために出来たと思われるが、北端と南端は上の曲輪とつながる道があり、曲輪Ⅲから横矢も効くので登城路として使用し、突出部は枡形機能を持たせ尾根続きへの防御を強めたものであろう。その下には2重堀切Cがあり竪堀となって両側へ深々と落ちる。C北側にはしっかりした連続竪堀2本(1本はその後の調査で判明のため未描写)を構築している。竪堀の間には上の横堀より道が下る。 
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   確かに鞍部まで下りると竪堀が2本連続して、鞍部を横切っています。これは、今から向かう如意山方面からの攻撃に備えるためのようです。「東方の防御性に備えた縄張り」となっているようです。
 しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
   櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
1 櫛梨城 山本先生分

この鞍部からさらに東に伸びる稜線を辿っていくと、石の祠があるピークに着きます。
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この祠の前には、こんな「説明版」が置かれていました。
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近代には、雨乞い行事がここで行われていたようです。社伝に伝えられる尾野瀬山から運ばれた聖なる火がここで再び灯され、雨乞いが行われたのかも知れません。
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 さらに、なだらかな歩きやすい稜線を行くと三角点のあるピークに出ました。ここが如意山頂上のようです。櫛梨山に比べると頂上は狭く、山城を築くには不適な印象を受けます。展望もないので早々に、稜線を下ります。
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ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと

①天霧城の香川氏が本当に、毛利氏のもとに亡命していたのか
②香川氏の讃岐帰国支援とリンクした備讃瀬戸海上覇権確保
③そのための毛利水軍衆による櫛梨城防衛=元吉合戦
④その後の土佐・長宗我部元親の侵攻と西長尾城や櫛梨城の改修普請
そんなことを頭の中で考えながらの里山歩きは、楽しいものでした。
山城についての著書を送っていただいたYさんに感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三 琴平町の山城
          中世城郭分布調査報告書 香川県教育委員会

 「南海通記」の画像検索結果

讃岐の戦国史は、史料的な制約もあり『南海通記』など後世の戦記物の記述に頼らざるえない状況にありました。こうした状況に風穴を開けようとする動きが、昭和の終わり頃から始まります。まず国島浩正氏は、毛利側の一次資料を利用した元吉合戦解明を提唱し、その概要を次のように明らかにします(1993年)
①元吉城の所在地を琴平町の櫛梨山(櫛梨山城)に比定
②合戦の性格を、毛利・足利義昭・石山本願寺連合と織田信長の瀬戸内海制海権をめぐる一連の抗争の中での戦闘
そしてこの戦いが、小さな戦闘ではなく瀬戸内海の制海権をめぐる戦略的な戦闘であったことを明らかにします。続いて多川真弓氏は、毛利氏の対織田戦争における瀬戸内海の海上支配の観点から次のような検討を加えました
①合戦に参加した毛利勢、讃岐惣国衆の具体的な陣容
②毛利氏の備前児島~塩飽~宇多津の備讃海峡支配との様相と関連
 そしてこの合戦の性格が備讃瀬戸海峡の支配権をめぐるものという視点から、元吉城は海に近い綾歌郡宇多津町の聖通寺城に比定します。
 橋詰・多田氏両氏の成果は、元吉合戦が讃岐だけでなく阿波三好氏や毛利氏・長宗我部元親氏の動きとも関連してくることを明らかにすることで、各方面の研究者の注目と関心を引くようになります。
そこで改めて問題になるのが元吉城が、どこにあったかです
①橋詰氏は、琴平町の櫛梨山城
②多川氏は、宇多津の聖通寺城
と見解が分かれました。
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櫛梨山城のある櫛梨山 ふもとには式内社の櫛梨神社が鎮座

 川島好弘氏は橋詰氏・多田氏の成果をふまえながら、元吉合戦に至る経緯、戦いの具体的な状況を再度検証し、元吉城の所在地を明らかにしていきます。そのうえで、讃岐に侵攻した毛利氏の合戦の意図についても検討をすすめていきます。その足取りを追ってみましょう。
テキストは「川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット」です。

まず元吉合戦までの動きを見てみましょう。

元吉合戦の経過

1577(天正五)年7月、冷泉元満は小早川隆景から次のように命じられています。

「二十日至讃州乗渡、其儘岩屋可有上着候」

舟で讃岐に渡り、そのまま淡路岩屋に向かえという指示内容です。讃岐のどこに渡ったのかは、分かりません。ただ、ここからは讃岐国内で合戦になるような緊張した動きはうかがえません。七月以前の毛利側の史料に元吉城は、まだ現れてきません。ここからは毛利氏は、当初においては元吉城の確保を戦略的な目的としてはいなかったと研究者は考えているようです。
元吉合戦は、どのように戦われたのか?
その後、閏7月12日頃に冷泉元満が再び讃岐に渡たります。この頃から元吉城が史料に現れるようになります。18日付けの冷泉元満宛小早川隆景書状には、次のように記されています。
「其表数日御在陣、殊普請等之儀」
20日付の毛利輝元書状にも
「至元吉城城番衆 御馳走候而頓被差籠之由」

とあることから、閏7月20日以前の段階で冷泉元満は元吉城の普請をおこない、軍勢を送り込んていたことがうかがえます。そして、閏7月20日、讃岐惣国衆が元吉城を攻撃し、毛利勢との間で合戦が繰り広げられます。この戦いが元吉合戦です。
川島好弘氏は、合戦の詳細を史料で検討していきます
史料1天正五年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、

天正五年閏七月二十二日   
乃美兵部      宗勝
児玉内蔵太夫  就英
井上又右衛門肘 春忠
        香川左衛門尉  広景
桂民部大輔      広繁
杉次郎芹衛門尉 元相
粟屋有近助      元之
古志四郎五郎  元清
杉民部大輔      武重
村上弾正忠      景広  (笠岡)
村上形部人輔  武満 (上関)
包久宮内少輔  景勝
杉七郎        重良
冷泉民部大輔  元豊(満)   (元吉城普請)
岡和泉守殿
この史料は、小早川家臣の岡就栄に元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状です。意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この史料から合戦の推移や参加者の顔ぶれがうかがえます。
毛利勢は、元吉城の普請に関わった冷泉元満のほか、乃美宗勝や井上本忠など毛利・小早川配下の水軍を中心とした部隊のようです。笠岡の村上景広や上関の村上武満のほか、この史料には名前がありませんが、海賊大将とよばれた能島村上氏の村上元吉も動員されていることが他の史料から分かるようです。機動力のある毛利・小早川水軍が燧灘を越えて、備讃瀬戸になだれ込んできたようです。

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櫛梨城から眺める丸亀平野 備讃瀬戸も見渡せる

これに対する讃岐勢のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守については、同時期に阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことから、阿讃国境付近に所領をもつ勢力のようです。
織田信長と結んでいた三好氏は、信長の意向を受けて毛利氏の備讃瀬戸制海権確保を防ぐために元吉城への派兵に応じたとも考えられます。そうだとすれば、派遣部隊の指揮を執ったのは、⑥の阿波の三好安芸守ではないでしょうか。「元吉城奪還」の命に応じた讃岐勢のメンバーの思惑は、丸亀平野北部の分割です。

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櫛梨城からの南方方面 琴平を経て阿讃山脈を望む

合戦は、閏7月20早朝、長尾氏・羽床氏ら讃岐勢が元吉城に攻めかかることから戦いの火ぶたが切って降ろされました。しかし、事前に補強普請が行われた山城は墜ちません。
 これに対し、毛利の援軍である警固衆は、元吉城の向かいの摺臼山に陣を敷いていたようです。
頃合いを見て讃岐勢に攻め掛かり、数百人を討ち取って勝利を収めました。讃岐連合の大敗北に終わったようです。しかし、合戦後も讃岐勢は、依然として不穏な動きをみせます。そこで毛利氏は、8月に湯浅宗将を派遣し、元吉城のさらなる補強普請を行っています。
 9月になると、信長に追放された後に鞆に亡命していた元将軍足利義昭が「儂の出番だ」とばかりに、阿波三好氏と和議交渉に乗り出してきます。毛利氏は11月に長尾・羽床両氏から人質を受け取り、一部の軍を撤収します。

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櫛梨から望む西方 大麻山に続く摺臼山が張り出す 

ここからは1577年秋の時点で、丸亀平野の中央部の櫛梨城には毛利軍が駐屯し、丸亀平野の北部までを守備エリアとしていたことが分かります。毛利水軍は、このような中で安全に備讃瀬戸を航行することが出来たわけです。
 以上のように元吉合戦に至る経緯をみると、閏七月に入り冷泉元満が元吉城に軍勢を入れて、城の普請をおこなったあたりから、状況が急変し合戦に至った様子がうかがえます。
改めて1577年前後の毛利氏や周辺勢力の動向を見ておきましょう
天正4年12月、阿波の三好長治は細川真之に敗北自刃。
この結果、三好家は当主不在の状況となり、阿波周辺は混乱状態へ
天正4年以降 毛利氏の瀬戸内海地域における制海権確保のためのはたらきかけが活発化
天正5年正月 小早川隆景が淡路の海上勢力に対織田氏への軍事行動に協力するよう協力依頼
  同年3月 信長が塩飽船の堺への航行を保証し、塩飽勢力の取込みに成功
毛利氏が、織田氏との抗争において重視したのは、畿内最大の勢力である石山本願寺でした。本願寺への支援をおこなうためには、第一次木津川合戦のように、淡路岩屋を経由して大坂湾に至る海上輸送ルートの確保が重要戦略となります。そのような中で、瀬戸内海中央部に位置する塩飽に織川氏の調略の手が伸びてきたのです。これは毛利氏に、少なからず動揺を与えたようです。その対応策を考えなければならなくなります。そこで毛利氏は、七月に大坂・淡路(岩屋)・阿波・讃岐への警固衆の派遣を画策します。
 閏7月には、毛利側の史料に
「阿讃両国任存分候」「抑阿州両国之儀、如御存分伎仰何候」

などの記述が見えるようになります。ここからは元吉合戦以前に、すでに阿波・讃岐に毛利氏の軍隊が駐屯していたことがうかがえます。織田信長の塩飽取り込み策への対抗として、阿波・讃岐の陸地寄りの別航路を確保しようとしていたと研究者は考えているようです。
 元吉合戦の際に、「堀江口」でも毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したと記されています。

道隆寺 堀越津地図

堀江津は、現在の四国霊場道隆寺の北側に開けていた潟湖の入口にあった中世の港町です。この湊は活発な交易活動を行っていたようで、毛利水軍の兵站輸送湊としても機能していたようです。後には村上元古が警固船を、残し置いています。それも堀江湊であったと思われます。
 こうしてみてくると橋詰・多田両氏が指摘しているように、元吉合戦は「毛利 対 織田」の備讃瀬戸の海上覇権抗争の一環だったようです。

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一方で、元古合戦直後に小早川降景は乃美宗勝に、次のように書送っています。
他国渡海之儀候条、無心元候処、存之外之太利、祝着此事候」
             〔「浦家文書」「戦瀬」五三二号〕

合戦がおこなわれた讃岐を「他国」と認識していることが分かります。ここから毛利による讃岐への直接的な領域支配は行われていなかったと研究者は考えているようです。阿波についても同じで、毛利氏の侵攻は確認できません。同時期に毛利氏は、阿波の大西氏と結び、足利義昭の上洛戦に協力する申し合わせをしています。毛利方の「阿讃両国任存分候」という認識は、毛利よる直接支配ではなく、三好家当主不在という混乱のなか、毛利氏と提携する道を選んだ阿波や讃岐の諸勢力との結びつきを指すようです。

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櫛梨山から望む丸亀平野と瀬戸内海
元吉合戦の直接のきっかけは、何だったのでしょうか?
元吉合戦後に小早川隆景が冷泉元満に送つた書状に、次のように記されています。
史料2 天正五年閏七月二十九日付 小早川隆景書状〔「冷泉家文書」「県史」中世二、二〓号〕
今度元吉現形之刻、御方御人数被差籠、初中後御気造令察候、殊彼城へ敵取詰及難儀候 別而被致御辛労此由、淵底承候、至三原此由可申達候、尚自是申候、恐々謹言、
天正五年七月二十九日  小早川隆景(花押)
冷泉民部少輔殿 御陣所
ここに「今度元吉現形之刻」とあります。現形とは寝返りを意味することのようです。つまり、元吉城の「現形(=寝返り)」をきっかけに毛利氏は、兵士を配備させたこと。それが讚岐勢と合戦となったことがうかがえます。
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櫛梨城跡の展望台
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか
元古合戦に参加した乃美宗勝の家に伝わる記録には次のように記されています。
「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、

毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴占館蔵)には
「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

ここには元吉城の主は、阿波の三好遠江守であった、それが寝返ったと記されています。
 三好遠江守は冷泉元満が、再度讃岐にやって来た閏七月中旬には、毛利方についていたことがうかがえます。毛利方が「阿讃両国任存分候」と配下の武将達に触れていたことと合わせて考えると、三好遠江守に対しても毛利氏から何らかの領土的報償をえさに寝返り工作が行われたこと、それが功を奏したとしておきましょう。三好遠江守の寝返りが、長尾氏・羽床氏ら讃岐惣国衆を刺激することになり、元吉合戦の直接の契機となったと研究者は考えているようです。

   1 櫛梨城
 
元吉城はどこにあったのか?
先に見たとおり元吉城の候補地は、櫛梨山城と聖通寺城のふたつの説があります。研究者は「史料1」を検証して、城の具体的な構造や周囲の状況を明らかにして、所在地を特定していきます。

尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条

ここには元吉城を攻撃した讃岐勢が最初に攻めかかった所が記されています。それが「尾頚・水手」です。「尾頚」は、山の尾根筋の一番狭くなった場所で「馬の背」とも呼ばれるところです。「尾頚」があるということは、平城ではなく山城であったことが分かります。
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「尾頚」とおもわれる所
 「水手」とは、井戸などの水場がある所で、ここが奪われたら長くは籠城できません。城の防衛上、最重要なポイントです。しかし、この史料からは、これ以上の情報を得ることはできません。

②「警固三里罷上 元吉向摺臼山与申二陣取」

ここには「警固衆(毛利氏の援軍)は、(堀江港から)三里ほど上がり、元吉城の向かいの「摺臼山」に陣取った」とあります。
毛利側の別史料には、次のようにも記されています。
「今度於元吉城山下敵罷出候刻、従船本被罷出、以堅同之党語相副候」(「萩藩閥閲録」山内源右衛門〕)

ここからは毛利側の援軍は「船本」から元吉城の救援に向かっています。「三里」とは、沿岸部からの距離であったことがうかがえます。「御答書』には「元吉ノ城より坤二 摺臼と申ス山候へ」とあり、摺臼山は元古城の「坤(ひつじさる=南西」に位置すると記されています。
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大麻山から張り出した尾根の先端が摺臼山

③「従摺臼山悉打下仕懸候、河縁二立合候、河口思切渡懸候間、 一息二追崩数百人討取之候」

 元吉城に攻め寄せた讃岐勢が攻めあぐねているのを見て、摺臼山に陣取っていた毛利の援軍は、山を下って敵に仕掛ます。その際に、y敵前渡河を行っています。川を一気に渡り、敵数百人を討ち取る戦果をあげというのです。ここからは摺臼山と元吉城の間には河川があったことが分かります。

DSC05457櫛梨城

史料を並べて、比べて検討して元吉城を比定してみると
以上の情報を、櫛梨山城・聖通寺城に対照させながら研究者は検討していきます。まず櫛梨山城の位置を確認します。
①この城は、堀江津の海岸より南に約8㎞の位置にあること
②西側を金倉川が南北に流れ、対岸に摺臼山があること
③古墳時代に築かれた前方後円墳の摺臼山古墳がある丘で、ここに中世には山城もあったこと
ここからは、金倉河口付近の堀江津を連絡湊として、上陸した毛利軍の援軍が道隆寺から金倉寺を経て金倉川沿いに進軍し、摺臼山に陣を構えるというあらすじが描けそうな立地条件です。
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すぐ西に位置する大麻山

 それでは、聖通寺城はどうでしょうか
 聖通寺城は、現在の聖通寺の上に築かれた山城で、津の山から北に伸びた半島の上に位置します。川は飯野山と城山の間を大束川が流れ、宇多津で海に流れ込みます。宇多津は中世の守護所があったとされ、聖通寺城と対峙する関係にあります。しかし、地図を見れば分かるとおり海のすぐそばに位置する城で、「三里罷上(海より三里)」という条件を満たしません。
 『毛利輝元卿伝」は、坂出市の西庄城を元吉城とします。
ここも海からは三里も離れていません。そこで堀江津から東方に三里移動したと解釈しているようです。なにかしら「邪馬台国比定」を思い浮かべてしまいます。
 この時の状況をもう一度確認すると、讃岐に確保した元吉城が包囲されたために毛利の警固衆(増援部隊)が急遽、舟で安芸から送り込まれたという場面です。求められるのはスピードです。私が海の司令官であれば、海上輸送部隊を元吉城に一番近い湊に着けて、陸戦隊を上陸させます。毛利・小早川水軍は、機動力に富みます。この時には、能島村上武吉も参陣しているのです。堀江口に上陸して、わざわざ坂出の西ノ庄まで陸上を進軍するは下策です。西ノ庄を目指すのなら宇多津や林田湊などに着岸下船を考えます。
  これらの検討から、元吉城は橋詰氏や『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』が指摘する仲多度郡琴平の櫛梨山城と研究者は比定します。そして、毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したとされる堀江口は、多度津町の堀江とします。毛利氏の丸亀平野方面への進出拠点湊は、多度津港か堀江港としておきましょう。

  次に研究者は櫛梨山城(=元吉城)の立地や遺構の状況について検討します
元吉城は、九亀平野西端に連なるる山々(天霧山~五岳山~象頭山)から突出した独立丘陵の櫛梨山にあり、那珂郡と多度郡の境目にあたります。この山の麓には、式内神社の櫛梨神社があり、古代以来一つの宗教ゾーンを形成していたと琴平町史「ことひら」は指摘します。
櫛梨神社の裏から続く遊歩道を登ると10分程で、城跡の丘陵頂上部に立てます。
1櫛梨神社32

櫛梨山の頂上からの眺望を見ておきましょう

1 櫛梨城2

北側は条里制の残る丸亀平野が広がります。山の直ぐ下を古代南海道が東西に善通寺に伸びていました。その向こうには瀬戸内海が見え、多度津の桃陵公園や丸亀城も見渡すことができます。当時は、堀江港に入港する毛利の輸送船団も見えたでしょう。
1櫛梨神社322
櫛梨山から西を望む 眼下に金倉川 その向こうが摺臼山
はるかに五岳の我拝師山

 西側には、眼下に金倉川、対岸には毛利の増援部隊が陣を敷いた摺臼山が見え、その背後に大麻山が迫っています。さらに善通寺の背後の五岳の連山や、天霧山も見えます。ここには香川氏の天霧城がありました。
 南側には、金倉川を辿ると琴平です。さらに金倉川を遡ると、阿波へと続く峠越えの道につながります。
 東側からは宇多津・飯野山方面が一望でき、反毛利勢力の長尾氏の西長尾城や羽床氏などの動きを制することができます。
こうしてみると元吉城は丸亀平野の中央部を押さえる戦略的重要ポイントであったことが頷けます。毛利氏はこの元吉城を掌握することで、周辺勢力の動きを抑えることができるようになったとも考えられます。逆に言えば、丸亀平野のど真ん中に毛利氏に、このような拠点を構えられたのでは近接する長尾氏や羽床氏はたまりません。毛利氏の打ち込んだ拠点を排除するという「共通目的」のために激しく抵抗するのは当然です。
櫛梨城について「香川県中世城館跡詳細分布調査報告』所収の縄張図には
1 櫛梨城1

頂上部の主格を中心に、周囲を帯曲輪を巡らせ、南西の尾根先端部に出曲輪を配した比較的堅固な構造となっています。毛利側の史料からは、元吉合戦の前後に改修普請を行ったことが記されています。どこを補強強化したのかは、この縄張図の説明では触れていません。ちなみに城の南東の二重堀切は、その後に讃岐に侵攻した長宗我部氏による改修とされます。長宗我部元親もこの城を軍事的な拠点として重視していたことがうかがえます。
DSC04695
櫛梨城堀切
なぜ毛利氏が丸亀平野に拠点を作ることができたのか?
丸亀平野を取り巻く当時の有力武士団としては、次の3つが挙げられます。
①天霧城   香川氏
②聖通寺山城  奈良氏
③西長尾城  長尾氏
この中で②③は反毛利陣営で三好方に与していたようです。ところが①の香川氏の動向が見えてこないのです。
亡命中の香川氏は毛利氏の援助で讃岐に帰国した?
元吉城から西北を見ると、五岳の向こうに天霧山が見えます。ここには西讃守護代を務めてきた香川氏の居城天霧城がありました。ところが香川氏は、永禄年間(1558~70)初頭から讃岐を支配下に置こうとする三好氏の攻撃を受け守勢にまわされます
1558年には、東讃の讃岐国衆を従えた三好軍が善通寺を拠点にして天霧城と対峙しています。その前後から、周辺での小規模の軍事的衝突が繰り返されていたことは以前に見た秋山文書からも分かります。こうして永禄6(1563)年8月の発給文書には、香川之景が天霧城を退出する際の家臣の奮戦に対しての感状が何通か残されています。ここからは香川氏の天霧城退去が実際あったことが分かります。
 『南海通記』には、引き続き香川氏讃岐で活動している様子が描かれますが、永禄8(1565)年を最後に、香川氏の発給文書が確認できなくなります。このような状況から香川氏は、讃岐を追われ毛利氏のもとに身を寄せていたが、元吉合戦に前後して讃岐帰国を果たしたと考える研究者が多いようです。

1 櫛梨城 縦堀
櫛梨城竪堀
改めて、元吉合戦を中心に据えて、香川氏の讃岐帰国問題について考えてみましょう。
永禄11(1568)年9月 篠原長房ら三好勢は備前児島に攻め込み毛利氏と交戦しています。(第一次本太合戦)。この合戦後、毛利方の細川通童と足利義昭家臣細川藤賢とのやりとりのなかで、香川氏の存在が確認できるようです〔「下関文書館蔵文書´細川家文書)」「県史」中世四、 一三号〕。
 それ以後、将軍義昭の御内書やその副状に香川氏の讃岐帰国を促す記述が出てくるようになります。しかし、実行されることはなかったようです。
その後、天正五年(1577)になり、再び香川氏の発給文書が確認できるようになります
〔史料3〕(天正五(1577年)八月一日付足利義昭御内書〔『大日本古文圭[ 家わけ第九 吉川家文書之一」七五号〕
至讃州、香川入国之儀、最可然候、弥彼表之儀可令馳走事肝要候、自然阿州之者共和談旨申候共、不可許容候、於此方、和平之儀申聞半候間、以其上可申遣候、委細申含元政候、猶藤長可申候也、
天正五年八月朔日   (義昭花押)
古川駿河守とのヘ
小早川左衛門佐とのヘ
毛利右馬頭とのヘ
この史料は、毛利輝元・古川元春・小早川隆景に宛てた足利義昭の御内書になるようです。毛利輝元への「右馬頭」の官途授与は、元亀四年二月のことになります。元吉合戦直後に小早川隆景が讃岐を「他国」と認識していたことから、それ以前の段階とは考えがたく、香川氏の発給文書再開と同じ天正五年のことと研究者は考えているようです。
ここには「至讃州、香川人国之儀、最可然候」とありますから、香川氏が讃岐帰国を果たしたことが確認できます。
香川氏はこの年(1557)の二月以降に、家臣たちに三野郡の所領安堵をおこなっています「帰来秋山家文書」『高瀬町史」史料編、号・四号、「秋山家文書」『高瀬町史』史料編、〕
 これは、帰国後の合戦に備えて家臣団を再編成したのでしょう。元吉合戦の前後に毛利氏が使用していた湊は、多度津や堀江だったのは、先ほど見てきたとおりです。多度津は、西讃守護代として香川氏が代々掌握してきた港で、現在の桜川河口一帯だったと考えられます。毛利氏が容易に安芸から多度津へ海を渡って帰国できているのも、毛利氏の支援があったと考えると納得がいきます。元吉合戦と香川氏の讃岐帰国は、深く結びついているようです。
 香川氏の居城天霧城と、元吉城の立地と合わせて考えると
①天霧城は多度津を抑える要害
②天霧城からみて元吉城は、東方からの勢力の侵入を防ぐ、出城のような機能を果たした
③両城は丸亀平野を東西に走る古代の旧南海道や中世の「大道」を挟む位置関係にもある。
以上から、帰国した香川氏にとっても元吉城を押さえることは、丸亀平野に侵入してくることが予想される敵対勢力に備える最重要戦略課題であったのではないでしょうか。

1 櫛梨城
   以上をまとめておくと
①1577年の元吉合戦の舞台となった元吉城は、櫛梨山城である
②元吉合戦は、備讃瀬戸の制海権確保の観点から注目されてきた
③しかし、元吉城は丸亀平野のど真ん中にあり、軍事的拠点の掌握をめぐる合戦でもあった。
④毛利氏は、西讃岐の影響力を握るために亡命中の香川氏の後ろ盾となり、讃岐帰国運動を進めた。

このような動きの背景には、「①石山本願寺救援のための瀬戸内海交易ルートの確保 、制海権確保」があることが従来から言われてきました。しかし、もうひとつの要因もあるようです。
 それは、吉備方面で三好氏と対立してきた毛利氏は、讃岐から渡海してくる三好勢にたびたび悩まされてきた苦い経験があります。元吉合戦の頃は、三好氏は当主不在の混乱状態にありました。毛利氏はこうした混乱期に三好支配下の讃岐の諸勢力を押さえ込み、あわせて香川氏を帰国させることによって、沿岸部を含めた西讃岐一帯を安定的に影響下に置こうとしたと研究者は指摘します。
 帰国してきた香川氏を通じて、親毛利勢力を西讃岐に培養しようとしたというのです。しかし、それは叶わぬ夢と消えます。土佐を統一し、阿波池田に進出してきた長宗我部元親が讃岐に進行して来たのです。元親は、分散する三豊の諸勢力を次々と破り、配下に加えていきます。
天霧城主の香川氏も毛利氏から離れ、長宗我部元親に降伏し、元親の息子を養子に迎えることで生き残りを図ります。こうして西讃には土佐軍による占領時代が始まるのです。元親は占領者として、様々な新政策を実施していきます。そのひとつができあがったばかりの金毘羅寺を修験道化することでした。そのために呼ばれたのが足摺で修行を積んだ延光寺の南光院でした。彼が第2代金光院として、「四国鎮護の寺」作りを始めるのです。これが金毘羅大権現へと変身していきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット
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