15世紀初頭の大内郡は、水主神社と与田寺を中心として仏神事が行われていて、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。その中の良仁と賢真は、次のように名乗っています。
「讃州大内郡与出虚空蔵院筆良仁」や「讃州大内郡大水主社良仁」
「讃州大内虚空蔵院賢真」「讃州大内大水主社住僧賢真」
二人は虚空蔵院(与田寺)とも、大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で、虚空蔵院(与田寺)が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していて、水主神社の運営管理も与田寺の社僧達が行っていたのです。与田寺の工房に属していていた職人たちを今回は見ていきます。テキストは、「唐木 中世讃岐における宗教と文化 香川史学1989年」です。
水主(みずし)神社には、中世に書写された大般若経が二部伝えられています。
本殿内陣に安置されていた600巻 (内陣大般若経)
外陣に安置されていた570巻 (外陣大般若経)
このうち、内陣大般若経は、1函に10巻ずつ、計60個の経函に収納されています。これらが一括で、国指定重要文化財となっています。今回、取り上げるのは大般若経ではなくて、それを入れてある箱=経函です。経函のうち32個の底には墨書があり、奉加帳や縁起などが記されています。その内の101〜160巻を収める6函には、至徳3年(1386)の経函制作・修復の奉加帳があり、勧進者の仲善寺亮賢によって次のような墨書が記されています。
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、持来ル事、北内越中公・原上総公一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山一 番匠助成、別所番匠中也(『香川県史』古代・中世史料)。
意訳しておくと
1 箱の周りの木は、全て阿波吉井の木が用いられ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。3 番匠の助成は、別所番匠が行った
ここからは、次のような事が分かります。
①経函に使われた材木が全て阿波国吉井から供給されたこと、
②その用材を運送してきたのは「北内越中公・原上総公」であること
「北内・原」は水主の地名にあるので、そこの住人のようです。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないと研究者は考えています。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものと推測します。水主神社の置かれた地理的環境を加味すると、馬車か車借とします。
これらを材料にして、ひとつの物語を考えて見ましょう
水主神社の経は、伊予の石鎚社から牛に背負われて水主神社に運ばれてきたので「牛負大般若経」と呼ばれていました。それを保管してた経函が傷んだので、新しいものに換えることになりました。その檜用材が阿波吉井から提供されたようです。用材を運んできたのが馬借の水主神社の周辺信徒である「北内越中公・原上総公」ということになります。そうだとすると、彼らは日常的には何を運んでいたのでしょうか?
そこで思い出すのが時代は百年下りますが兵庫北関入船納帳(1445年)の三本松船の積荷です。
兵庫北関入船納帳 讃岐船入港数上位船籍の積荷一覧
引田・三本松船は讃岐NO4・5の入港数を数えますが、その特徴は小型船が多いことです。その中で三本松船には290俵の材木(燃料材)があります。三本松の後背地は与田川沿いのエリアです。このエリアから切り出された薪材が三本松に集積されて、船で畿内に運ばれていたことが分かります。山から三本松港までの輸送にあたっていたのが「北内越中公・原上総公」の馬借・車借ではないかという仮説は考えられます。水主神社やその別当寺の与田寺の職人集団の存在が見えてきます。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社の別当寺・与田寺には職人集団が属する「番匠中」があったこと。
④与田山の宰相公は、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。
ここには「水主神社+与田寺」をとりまく周辺には、木工や大工・漆工芸などの職人集団がいたことが分かります。
水主神社の国指定重要文化財には、次のようなものがあります。
倭追々日百襲姫命坐像倭国香姫命坐像大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体男神坐像一体、木造狛犬一対
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。木造獅子頭(松岡調 作画)
この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。この獅子頭が讃岐に残る一番古い獅子頭とされます。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。これらの神像制作は、坂出の神谷神社のように中世の村落に神社の本殿が姿を現し、信仰対象として偶像が設置されていく時期にちょうどあたります。これらの木像は、別当寺の与田寺の工房の職人たちによって作られたと私は考えています。そして、周辺の神社からの「発注依頼」に応えたのも。与田寺の工房ではなかったのでしょうか。大内郡は水主神社と与田寺の神仏混淆体制の中で、独特の神祇信仰の隆盛を迎えていたのです。
別当寺の与田寺には、増吽作とされる十二天版木が残されています。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
十二天の風天
十二天の中の風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院応永十四丁亥三月二十一日敬印十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと②与田郷神宮寺虚空蔵院(与田寺)で作られたこと③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。
江戸時代後期の水主神社
同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために、塗師や摺師などのスタッフがいる工房があったことがうかがえます。また大般若経書写の際などには、これが写経センターに変身してフル稼働したと私は考えています。そのような体制の大締め(先達)として活躍したのが増吽だったのです。
薬師如来坐像(与田寺)
前回は、本山寺の仁王像の制作に、弥谷寺周辺の大見の仏師と、善通寺の絵師が関わっていることを見てきました。それが与田寺では、工房センターや写経センター的なものが存在し、そこに職人たちが集まられ、組織化され、神像や仏画版画などを提供する体制が出来上がっていたようです。彼らは職人であり、僧侶であったかもしれません。どちらにしても水主神社や与田寺への信仰で職人たちが結びつけられていたことが分かります。
以上をまとめておくと
①水主神社の「牛負大般若経」は石鎚神社から牛に背負わせて運ばれてきたという由緒がある。
②ここからは五流修験や石鎚信仰など熊野行者や修験道のネットワークの中に、中世の水主神社があったことがうかがえる。
③水主神社の別当は与田寺であり、与田寺の社僧達によって水主神社は管理されていた。
④「牛負大般若経」の経函作成の用材は、阿波吉井から水主神社周辺の信者である馬借によって運ばれてきている。
⑤その用材を与田寺の工房で加工し作成されている。
⑥この工房には、大行く・木工・漆職人・仏師などの職人(僧侶)がいたこと
⑦水主神社の重要文化財指定の神像等は、この工房で製作されたこと
⑧さらにこの工房では、周辺寺社からの求めに応じて神像などを提供したこと
⑨与田寺のネットワークは、阿波から備中、仁尾にいたるや東瀬戸内海に広がっていたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「唐木 中世讃岐における宗教と文化 香川史学1989年」
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