麻盆地の出口にあたる下麻には、「勝間次郎池」という大きな池があったという話が伝えられています。まずは、その昔話を見ていくことにします。
下女塚が載っているのは第1集
下女塚 勝間次郎という池の堤に人柱が立てられた話です。昔、下麻と首山にまたがって、朝日山や傾山や福井山などに囲まれた大きな池がありました。名を勝問次郎といいました。
このあたりで一番大きいのが満濃池で、満濃太郎と呼ばていたのに対して、勝間次郎は、満濃太郎の次に大きい池だという意味です。勝間次郎は、数十の谷から流れこむ三筋の川によって、池はいつも海のように水をたたえていたと言われています.
大きな池には長い堤が必要です。勝間次郎にも、たいへん長い堤防がありました。大きい池は水が多くて重いので、長い堤は切れやすいのです。堤がきれるたびに、海のような水が流れだして、そのたびに家が水浸しになり、たんばやはたけの作物が流されたりして、たいへんな被害がありました。
こんなに被害をもたらす池ですが、旧んぼやはたけの作物には水が必要です。人々はつらい思いをしながら、切れた堤を修理するのです。
その年も、勝間次郎の堤が切れて、たいへんな被害がありました。
堤を修理する工事は、たいへんな苦労で、大勢の人が、何十日も汗を流して働きました。
修理の工事をしているときに、ある人が言いました。
「このようにたびたび切れる池には、人柱を立てると切れなくなるそうだな。東のほうの池で、若い女を人柱を立てたところ、それから堤が切れなくなったということを聞いたぞ」
修理の工事がきびしく苦しいので、賛成する人が何人も出てきました。
「大勢の人を助けるためには、かわいそうだが人柱もやむをえない
「そうだ、そうだ」
「あすの朝、一番にここを通った女の人を人柱にしよう」
「そうだ、女の人をつかまえて切れた堤の中へうめることにしよう」
「うん、それがよい」
こうして、工事の人たちの話し合いは、人柱を立てることに決まりました。
この話は村の庄屋さんの家へも伝わりました。庄屋さんも奥さんもたいへん心配しました。
「村の女の人を死なせることはできないわ」
と、奥さんは思いました。
次の朝になりました。まだ夜が明けきっていません。
庄屋さんの奥さんは、自分の家で働いているお手伝いの人を連れて、堤の上を通りかかりました。待っていた工事の人びとは、名前を聞くこともなく、
「それっ」
と取り巻いて、二人をとらえました。そして、わけも言わずに、堤の工事現場へむりやりに連れていって、土の中に押し込んで、うずめてしまいました。
後になって、人びとは、むりやりに堤の土の中に押し込めたのが、庄屋の奥さんとお手伝いの人だと知りました。奥さんが自分から人柱になろうとしたことも知りました。
そんな悲しいことがあってから後、しばらくは、災害が起こらなくなりました。村の人々は安心しました。人柱になってくれた二人のおかげだと思いました。
村の人びとは、奥さんが持っていた鏡をご神体として神社を建てました。それが池の宮です。
また、お手伝いの人が持っていた箱をうめて塚を建てました。
それが下女塚です。昔は、お手伝いの人を下女といいました。池の宮は福井山の側に、下女塚は傾山の側に、高瀬川をはさんで、今も建っています。
しかし、長い年月がたつと、人柱を立てたかいもなく、いつの年にか、また堤が切れました。堤は修理ができないほど、ひどくこわれてしまいました。それから、また何年もたちました。水がなくなった池の中に田んぼができて、家が建ちました。そうして、勝間次郎は、あとかたもなくなり、伝説の池になってしまいました。
勝間次郎池が広がっていたとされるあたり 左が朝日山
この昔話は次のような事を伝えています
①下麻に高瀬川をせき止めた海のように大きな池「勝間次郎池」があったこと②長い堤防で幾度の決壊に人々は苦しめられていたこと③決壊を防ぐために人柱が立てられたこと④人柱となた庄屋の奥さんと下女の供養のために池の宮神社と下女塚が建立されたこと⑤その後も決壊を繰り返した勝間次郎池は放置され、池の中は開墾され田んぼとなったこと
勝間次郎池は、満濃太郎に次ぐ周囲数里の大池で、弘法大師空海の頃に築造され、決壊を重ね中世には廃池となったと伝えられているようです。それが、この池に代わって上流に岩瀬池が築かれ、勝間次郎池のことはしだいに忘れられたと『高瀬町史2005年 151p」には記されています。本当に勝間次郎池はあったのでしょうか?
③が勝間次郎池の推定位置
今回は伝説の勝間次郎池を見ていくことにします。テキストは「木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る 香川地理学会会報N0.27 2007年」です
勝間次郎池があったことについて触れている史料をまず見ておきましょう。
丸亀藩が幕末に編纂した『西讃府志』には、三野郡勝間郷下麻村について、次のように記されています。
「池宮八幡宮 昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ 祭祀八月十五日 社林一段 社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」
意訳変換しておくと
「池宮八幡宮については、この地に勝間二郎という池があったので池宮と呼ばれています。祭祀は八月十五日で、社林一段鮨 社僧は歓喜院祠官の遠山伊賀が務めています。」
西讃府志の地誌部分は、地元の庄屋たちのレポートを元に作成されていることは以前にお話ししました。幕末に「昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ」という話が幕末には伝わっていたことが分かります。
まず、研究者が注目するのは「池ノ宮(池八幡神社)」です。
池ノ宮は、社名からも池の守護神であることがうかがえます。同じような例としては、依網(よさみ)池と大依羅神社(大阪市住吉区)や狭山池と狭山堤神社(大阪狭山市)などがあり、池の周辺の丘の上に祀られています。
下の地図を見てみましょう。
境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。
池八幡神社(三豊市高瀬町下麻)と高瀬川
池八幡神社は、象頭山や朝日山などによって囲まれた麻盆地から高瀬川が流れ出す出口に鎮座しています。鬼が臼山と傾山に挟まれた最も谷幅の狭くなる地点になります。境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。
池八幡神社の祭神は、保牟田別命と豊玉姫命です。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
それでは「豊玉姫」とは何者なのでしょうか?
『日本書紀』(巻第二第十段)や『古事記』には、豊玉姫は海神の娘で、海幸彦の釣り針を探して海神(わたつみのかみ)の宮に訪れた山幸彦と結婚しますが、のち出産の際に鰐(龍)となっているところを山幸彦に見られたことを怒り、子を置いて海神の宮に帰ってしまった説話が記されています。
豊玉姫
豊玉姫は海の神とされ、讃岐では男木島の豊玉依姫神社などのように海に隣接する神社に祀られることが多いようです。一方で雨乞いや止雨、安産の神としても祀られています。たとえば阿波の豊玉姫を祀る神社には、那賀川沿いにある宇奈為神社(那賀町木頭)、雨降神社(徳島市不動西町)・速雨神社(徳島市八多町)など、立地や社名から雨乞神としてまつられていたことがうかがえます。
讃岐の木田郡三木町の和年賀波神社には灌漑の神としての性格があると研究者は考えているようですが、これも祭神は豊玉姫です。高松市香川町鮎滝の童洞淵の童洞神社の祭神も豊玉姫命です。童洞淵は雨を祈った淵として有名な場所であることは以前にお話ししました。山幸彦が豊穣を約束された説話が多いように、豊玉姫についても、雨乞いや灌漑など豊穣の対象として信仰されていたことを押さえておきます。
県道に面する民家の庭先にある下女塚 道の向こうが堰堤跡(?)
下女塚を見ておきましょう。
勝間次郎池の堤塘復旧の際に、人柱となったのは、庄屋婦人とその下女でした。村人は婦人の鏡や櫛・算(髪飾り)を池ノ宮に、下女の持っていた手箱を塚に手厚く祀ったとありました。下女塚は、高瀬川を挟んだ県道沿の民家の庭先にあります。宝暦4年(1754)の銘のある舟形地蔵と寛政11年(1779)の銘のある供養塔が建てられています。
下女塚
人柱については、『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇11年)に茨田堤の築造に際に出てきます。築いてもすぐに壊れて塞ぐことが難しい所に、人柱をたてた話が記載されています。大規模な土木工事の際に古くから行われていたようで、讃岐でも次のような池に人柱伝説があるようです。
平池(高松市仏生山町) 治承2年(1178)築造)小田池(高松市川部町) 寛永4年(1627)築造)、一の谷池(観音寺市中田井町) 寛永9年(1632)築造)吉原大池(善通寺市吉原町) 元禄元年(1688)築造)夏目池(仲南町十郷)
池の宮の東側の傾山の裾に形成された断崖の西南端の部分が堤遺構だと研究者は考えています。尾根から突き出すように、池の宮の方向に伸びて、県道工事の際に切断されています。
これについて研究者は次のように指摘します。
堰堤跡とされる部分
これについて研究者は次のように指摘します。
尾根の傾斜とも崖錘の傾斜とも不連続で、頂部は水平であることなどから人為的な構造物である可能性が高いと思われる。池ノ宮との標高もほぼ等しく、平面的な位置関係から勝間次郎池にかかわる堤塘の遺構と考えられる。
堰堤跡の上から池之宮方向をのぞむ
神社西側の余水吐跡について、見ておきましょう。研究者が注目するのは、神社の背後(西側)に細長い谷状地形①がみえることです。これは尾根と神社境内との間を完全に切断しているのではなく、途中で切れています。この谷状地形は、昭和60年(1990)の神社の神域整備事業によって埋め立てられたため、今は見ることはできないようです。聞き取りによると、谷状地形の底は数段の棚田で、サコタ(低湿な田)であったようです。これを研究者は勝間次郎池の余水吐だったと推測します。
本殿裏手の余水吐け跡
豪雨によって池への流入水量が急激に増え、堤塘を越えるようになると、堤塘が崩壊するので、ため池には余水吐が作られます。排水量が多くなる大規模なため池では、人工の堤塘上ではなく自然地形を利用して余水吐をつしていることが多いようです。満濃池の余水吐については以前にお話ししました。ここでは、余水が10m近い落差を流れ落ちるために谷頭浸食が起こり、谷が形成されたと研究者は考えています。現地での聞き取り調査からも、地元ではこの谷や堤塘状遺構が勝間次郎池の跡だったと伝わっているようです。これまで勝間次郎池は、朝日山と傾山を堤防で結んでいたと伝わってきましたが、以上から堤塘の位置が推定できます。つまり、勝間次郎池の堤防は、②の堤跡から池の宮を結ぶルートで、その延長線上に余水吐があったという仮説が出せます。それを地図で示すと次のようになります。
勝間次郎池の堤防と位置
②から池の宮のある尾根までの距離は約150mなので、そこに堤防を築いて高瀬川をせき止めたことになります。
研究者は次のような方法で池の面積を推定しします。 ため池では、満水時の水面は堤頂部より1,5m程度低い位置になります。そこで現地で水準器を立てて、堤塘状遺構の頂部より1、5mほど低い水準で周囲を見渡すという方法をとります。その結果、復元したのが上の池敷きです。ここからは次のようなことが分かります。
①最も狭い部分に堤防を築き高瀬川をせき止めた。②池の宮の西側には自然地形を利用して、余水吐が作られた。③堤防の西側の丘の上に、池の宮が建立された。④池の東側岸は傾山の麓部分になり、現在の県道になる。⑤東は、高瀬川沿いの光照寺付近まで⑥北東は、朝日山麓の仏厳寺手前まで
これを計測すると池の面積は約38,5万㎡になるようです。満濃池が約140万㎡で、これには遠く及びませんが、国市池が22,8万㎡なので、それよりは広かったことになります。
池の堤防は、直線なのかアーチ状なのかは分かりません。地図上では全長150 mほどの規模になります。高さについては、高瀬川の河床高が変化している可能性があるため現時点では不明としています。
勝賀次郎池は、本流堰き止めタイプのため池だった
この池は高瀬川を盆地の出口で締め切って作られています。讃岐のため池では、近世以前のものは本流をせき止め、流域すべてを集水するため池は、勝間次郎池のほかに井関池と満濃池ぐらいしかないと研究者は指摘します。
井関池は、観音寺市大野原町の杵田川を締め切るため池で、集水面積は約3000haを越えます。寛永20(1643)年に近江の豪商平田詞一左衛門によって、「大野原台地総合開発」の一環として築造されます。池の東西にふたつの余水吐が設けられ、堤長378 m、堤高約118m、池面積12,1haの規模です。井関池は、「本流堰き止めタイプ」の池だったために、完成後わずかの間にあいだに3回決壊しています。このタイプの池は、大雨による急激な増水に対応しきれないことが多く、維持が難しかったことが分かります。それが最初に見たように昔話の中に、柱伝説を生んだのかも知れません。
勝間次郎池は、いつ築造されたのでしょうか?
本流堰き止め型の大規模なため池は、愛知県犬山市の入鹿池、大阪府大阪狭山市の狭山池や奈良県橿原市の益田池などがあります。このうち狭山池と益田池は古代に築造されたため池です。
表は8世紀中ごろから9世紀中ごろの利水・治水にかかわる記事を集成したものです。この表を見ていると、勝間次郎池が弘法大師空海のころに築造されたという伝承も荒唐無稽なものでないような気もしてきます。
律令国家による主な治水利水事業の一覧年表
ただ、讃岐の髙松平野や丸亀平野からは、古代の大型の用水路は出てきません。条里制の水路は貧弱で、長距離の潅漑施設が登場していた痕跡もありません。そのため考古学者の中には、満濃池の水が丸亀平野全域を潤していたという説には懐疑的な人も多いことは以前にお話ししました。722 百万町歩開墾計画をすすめる723 三世一身法を定める(続日本紀)矢田池(大和)をつくる(続日本紀)731 狭山池(河内)を行基が改修する(行基年譜)昆陽池(摂津)を行基がつくる(行基年譜)732 狭山下池(河内)をつくる(続日本紀)734 久米田池(和泉)を行基がつくる(行基年譜)737 鶴田池(和泉)などを行基がつくる(行基年譜)743 墾田永年私財法を定める(続日本紀)750 伎人堤(摂津・河内の国境)・茨田堤(河内)が決壊する)761 畿内のため池・井堰・堤防・用水路の適地の視察(続日本紀)荒玉河(遠江)が決壊し,延べ303,700人で改修する(続日本紀)762 狭山池(河内)決壊,延べ83,000人で改修する(続日本紀)長瀬堤(河内)が決壊し,延べ22,200人余りで改修する(続日本紀)764 大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などに池をつくる(続日本紀)768 毛野川(下総・常陸)を付け替える(続日本紀)769 鵜沼川(尾張・美濃)を掘りなおす(続日本紀)770 志紀堤・渋川堤・茨田堤(河内)を延べ30,000人余りで改修する(続日本紀)772 茨田堤6箇所・渋川堤11箇所,志紀堤5ケ所が決壊する(続日本紀)774 諸国の溝池を改修・築造する(続日本紀)775 伊勢国渡会郡の堰溝を修理する(続日本紀)畿内の溝池を改修・築造する(続日本紀)779 駿河国二郡の堤防が決壊,延べ63,200人余りで改修する(続日本紀)783 越智池(大和)をつくる(続日本紀)784 茨田郡堤15箇所か決壊し,延べ64,000人余りで改修する(続日本紀)785 堤防30箇所(河内)が決壊し,延べ307,000人余りで改修する(続日本紀)788 摂津・河内両国の国境に述べ230,000人余りで川を掘る(失敗する)(続日本紀・日本後紀)800 葛野川(山城)の堤防を10,000人で改修する(日本紀略)811 このころ伴渠(備口)を開削する(日本後紀)820 泉池(大和)をつくる(日本後紀)821 このころ空海が満濃池を改修する(日本紀略)822 益田池(大和)をつくる(日本紀略)
以上をまとめておくと
①高瀬の昔話の下麻に勝間次郎池という大きな池があり、決壊に苦しんだ人々が人柱を立てた話が伝わっている
②その供養のために建立されたのが池の宮(池八幡神社)と下女塚とされる。
③池の宮の東対岸にあたる傾山の麓の県道際には、堤防跡の遺構がある。
④池の宮の西側には、余水吐跡の痕跡がある。
⑤以上より、池の宮の尾根から傾山麓へ150mの堤防が築かれ、その丘の上に池の宮が建立されたことが考えられる。
⑥池の広さは、東は朝日山の光照寺や仏厳寺にまで湖面が至っていた
⑦この池の起源は中世から古代に遡る可能性もある。
古代だとすると、この大工事が出来るのは郡司の丸部氏かありません。丸部氏は、壬申の乱で功績を挙げ中央政府とのつながりを持つようになり、当時最新鋭の瓦工場である宗吉窯を建設して、藤原京の宮殿用の瓦を提供したり、讃岐で最初の氏寺である妙音寺を建立したとされる一族です。善通寺の佐伯家が一族の空海を呼び寄せて、金倉川をせき止めて満濃池を築造したと言われるように、丸部氏も高瀬川をせき止めて勝間次郎池を作ったという話になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「下女塚」 高瀬の昔話 高瀬町教育委員会 2015年
木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る 香川地理学会会報N027 2007年
関連記事
讃岐の雨乞信仰 善女龍王を三野郡で広げたのは本山寺と威徳院だった。
関連記事