瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:三豊の歴史 > 三豊市高瀬町

麻盆地の出口にあたる下麻には、「勝間次郎池」という大きな池があったという話が伝えられています。まずは、その昔話を見ていくことにします。
ヤフオク! -のむかし話(人文、社会)の中古品・新品・古本一覧
下女塚が載っているのは第1集
下女塚 勝間次郎という池の堤に人柱が立てられた話です。
昔、下麻と首山にまたがって、朝日山や傾山や福井山などに囲まれた大きな池がありました。名を勝問次郎といいました。
このあたりで一番大きいのが満濃池で、満濃太郎と呼ばていたのに対して、勝間次郎は、満濃太郎の次に大きい池だという意味です。勝間次郎は、数十の谷から流れこむ三筋の川によって、池はいつも海のように水をたたえていたと言われています.
大きな池には長い堤が必要です。勝間次郎にも、たいへん長い堤防がありました。大きい池は水が多くて重いので、長い堤は切れやすいのです。堤がきれるたびに、海のような水が流れだして、そのたびに家が水浸しになり、たんばやはたけの作物が流されたりして、たいへんな被害がありました。
こんなに被害をもたらす池ですが、旧んぼやはたけの作物には水が必要です。人々はつらい思いをしながら、切れた堤を修理するのです。
麻盆地 
大麻山の西山麓に広がる麻盆地
 その年も、勝間次郎の堤が切れて、たいへんな被害がありました。
堤を修理する工事は、たいへんな苦労で、大勢の人が、何十日も汗を流して働きました。
修理の工事をしているときに、ある人が言いました。
「このようにたびたび切れる池には、人柱を立てると切れなくなるそうだな。東のほうの池で、若い女を人柱を立てたところ、それから堤が切れなくなったということを聞いたぞ」
修理の工事がきびしく苦しいので、賛成する人が何人も出てきました。
「大勢の人を助けるためには、かわいそうだが人柱もやむをえない
「そうだ、そうだ」
「あすの朝、一番にここを通った女の人を人柱にしよう」
「そうだ、女の人をつかまえて切れた堤の中へうめることにしよう」
「うん、それがよい」
こうして、工事の人たちの話し合いは、人柱を立てることに決まりました。
この話は村の庄屋さんの家へも伝わりました。庄屋さんも奥さんもたいへん心配しました。
「村の女の人を死なせることはできないわ」
と、奥さんは思いました。
次の朝になりました。まだ夜が明けきっていません。
  庄屋さんの奥さんは、自分の家で働いているお手伝いの人を連れて、堤の上を通りかかりました。待っていた工事の人びとは、名前を聞くこともなく、
「それっ」
と取り巻いて、二人をとらえました。そして、わけも言わずに、堤の工事現場へむりやりに連れていって、土の中に押し込んで、うずめてしまいました。
後になって、人びとは、むりやりに堤の土の中に押し込めたのが、庄屋の奥さんとお手伝いの人だと知りました。奥さんが自分から人柱になろうとしたことも知りました。
そんな悲しいことがあってから後、しばらくは、災害が起こらなくなりました。村の人々は安心しました。人柱になってくれた二人のおかげだと思いました。
村の人びとは、奥さんが持っていた鏡をご神体として神社を建てました。それが池の宮です。
また、お手伝いの人が持っていた箱をうめて塚を建てました。
それが下女塚です。昔は、お手伝いの人を下女といいました。池の宮は福井山の側に、下女塚は傾山の側に、高瀬川をはさんで、今も建っています。
しかし、長い年月がたつと、人柱を立てたかいもなく、いつの年にか、また堤が切れました。堤は修理ができないほど、ひどくこわれてしまいました。それから、また何年もたちました。水がなくなった池の中に田んぼができて、家が建ちました。そうして、勝間次郎は、あとかたもなくなり、伝説の池になってしまいました。

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勝間次郎池が広がっていたとされるあたり 左が朝日山
この昔話は次のような事を伝えています
①下麻に高瀬川をせき止めた海のように大きな池「勝間次郎池」があったこと
②長い堤防で幾度の決壊に人々は苦しめられていたこと
③決壊を防ぐために人柱が立てられたこと
④人柱となた庄屋の奥さんと下女の供養のために池の宮神社と下女塚が建立されたこと
⑤その後も決壊を繰り返した勝間次郎池は放置され、池の中は開墾され田んぼとなったこと
 勝間次郎池は、満濃太郎に次ぐ周囲数里の大池で、弘法大師空海の頃に築造され、決壊を重ね中世には廃池となったと伝えられているようです。それが、この池に代わって上流に岩瀬池が築かれ、勝間次郎池のことはしだいに忘れられたと『高瀬町史2005年 151p」には記されています。本当に勝間次郎池はあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 地図
③が勝間次郎池の推定位置
 
今回は伝説の勝間次郎池を見ていくことにします。テキストは「木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る  香川地理学会会報N0.27 2007年」です
勝間次郎池があったことについて触れている史料をまず見ておきましょう。
西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション

丸亀藩が幕末に編纂した『西讃府志』には、三野郡勝間郷下麻村について、次のように記されています。

「池宮八幡宮 昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ 祭祀八月十五日 社林一段 社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」

意訳変換しておくと

「池宮八幡宮については、この地に勝間二郎という池があったので池宮と呼ばれています。祭祀は八月十五日で、社林一段鮨 社僧は歓喜院祠官の遠山伊賀が務めています。」

西讃府志の地誌部分は、地元の庄屋たちのレポートを元に作成されていることは以前にお話ししました。幕末に「昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ」という話が幕末には伝わっていたことが分かります。
麻 池八幡神社2
池八幡神社 高瀬川まで張り出した尾根上に鎮座している

まず、研究者が注目するのは「池ノ宮(池八幡神社)」です。
 池ノ宮は、社名からも池の守護神であることがうかがえます。同じような例としては、依網(よさみ)池と大依羅神社(大阪市住吉区)や狭山池と狭山堤神社(大阪狭山市)などがあり、池の周辺の丘の上に祀られています。
 下の地図を見てみましょう。
麻 池八幡神社周辺
池八幡神社(三豊市高瀬町下麻)と高瀬川
池八幡神社は、象頭山や朝日山などによって囲まれた麻盆地から高瀬川が流れ出す出口に鎮座しています。鬼が臼山と傾山に挟まれた最も谷幅の狭くなる地点になります。

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池八幡神社
境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。

麻 池八幡神社4jpg

 池八幡神社の祭神は、保牟田別命と豊玉姫命です。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
 それでは「豊玉姫」とは何者なのでしょうか?
 『日本書紀』(巻第二第十段)や『古事記』には、豊玉姫は海神の娘で、海幸彦の釣り針を探して海神(わたつみのかみ)の宮に訪れた山幸彦と結婚しますが、のち出産の際に鰐(龍)となっているところを山幸彦に見られたことを怒り、子を置いて海神の宮に帰ってしまった説話が記されています。
豊玉姫 | トヨタマヒメ | 日本神話の世界
豊玉姫

 豊玉姫は海の神とされ、讃岐では男木島の豊玉依姫神社などのように海に隣接する神社に祀られることが多いようです。一方で雨乞いや止雨、安産の神としても祀られています。たとえば阿波の豊玉姫を祀る神社には、那賀川沿いにある宇奈為神社(那賀町木頭)、雨降神社(徳島市不動西町)・速雨神社(徳島市八多町)など、立地や社名から雨乞神としてまつられていたことがうかがえます。
 讃岐の木田郡三木町の和年賀波神社には灌漑の神としての性格があると研究者は考えているようですが、これも祭神は豊玉姫です。高松市香川町鮎滝の童洞淵の童洞神社の祭神も豊玉姫命です。童洞淵は雨を祈った淵として有名な場所であることは以前にお話ししました。山幸彦が豊穣を約束された説話が多いように、豊玉姫についても、雨乞いや灌漑など豊穣の対象として信仰されていたことを押さえておきます。

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県道に面する民家の庭先にある下女塚 道の向こうが堰堤跡(?)

下女塚を見ておきましょう。
 勝間次郎池の堤塘復旧の際に、人柱となったのは、庄屋婦人とその下女でした。村人は婦人の鏡や櫛・算(髪飾り)を池ノ宮に、下女の持っていた手箱を塚に手厚く祀ったとありました。下女塚は、高瀬川を挟んだ県道沿の民家の庭先にあります。宝暦4年(1754)の銘のある舟形地蔵と寛政11年(1779)の銘のある供養塔が建てられています。

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下女塚
 人柱については、『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇11年)に茨田堤の築造に際に出てきます。
築いてもすぐに壊れて塞ぐことが難しい所に、人柱をたてた話が記載されています。大規模な土木工事の際に古くから行われていたようで、讃岐でも次のような池に人柱伝説があるようです。
平池(高松市仏生山町) 治承2年(1178)築造)
小田池(高松市川部町) 寛永4年(1627)築造)、
一の谷池(観音寺市中田井町) 寛永9年(1632)築造)
吉原大池(善通寺市吉原町) 元禄元年(1688)築造)
夏目池(仲南町十郷)
この中で小田池と一の谷池には、人柱を祀る祠が立てられています。勝間次郎池の堤塘と下女塚の位置関係は、小田池のものと共通すると研究者は指摘します。
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下女塚


勝間次郎池の堤は、どこにあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 余水吐

 池の宮の東側の傾山の裾に形成された断崖の西南端の部分が堤遺構だと研究者は考えています。尾根から突き出すように、池の宮の方向に伸びて、県道工事の際に切断されています。
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堰堤跡とされる部分

これについて研究者は次のように指摘します。
尾根の傾斜とも崖錘の傾斜とも不連続で、頂部は水平であることなどから人為的な構造物である可能性が高いと思われる。池ノ宮との標高もほぼ等しく、平面的な位置関係から勝間次郎池にかかわる堤塘の遺構と考えられる。
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堰堤跡の上から池之宮方向をのぞむ
神社西側の余水吐跡について、見ておきましょう。
麻 勝間次郎池 地図3
      
研究者が注目するのは、神社の背後(西側)に細長い谷状地形①がみえることです。これは尾根と神社境内との間を完全に切断しているのではなく、途中で切れています。この谷状地形は、昭和60年(1990)の神社の神域整備事業によって埋め立てられたため、今は見ることはできないようです。聞き取りによると、谷状地形の底は数段の棚田で、サコタ(低湿な田)であったようです。これを研究者は勝間次郎池の余水吐だったと推測します。

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本殿裏手の余水吐け跡

 豪雨によって池への流入水量が急激に増え、堤塘を越えるようになると、堤塘が崩壊するので、ため池には余水吐が作られます。排水量が多くなる大規模なため池では、人工の堤塘上ではなく自然地形を利用して余水吐をつしていることが多いようです。満濃池の余水吐については以前にお話ししました。ここでは、余水が10m近い落差を流れ落ちるために谷頭浸食が起こり、谷が形成されたと研究者は考えています。現地での聞き取り調査からも、地元ではこの谷や堤塘状遺構が勝間次郎池の跡だったと伝わっているようです。これまで勝間次郎池は、朝日山と傾山を堤防で結んでいたと伝わってきましたが、以上から堤塘の位置が推定できます。つまり、勝間次郎池の堤防は、②の堤跡から池の宮を結ぶルートで、その延長線上に余水吐があったという仮説が出せます。それを地図で示すと次のようになります。

麻 勝間次郎池 復元図
勝間次郎池の堤防と位置
  ②から池の宮のある尾根までの距離は約150mなので、そこに堤防を築いて高瀬川をせき止めたことになります。
麻 勝間次郎池 地図43
勝間次郎池 ③が池の面積 ①が池の宮
こうして生まれた勝間郷池は、どれくらいの拡がりを持っていたのでしょうか
 研究者は次のような方法で池の面積を推定しします。 ため池では、満水時の水面は堤頂部より1,5m程度低い位置になります。そこで現地で水準器を立てて、堤塘状遺構の頂部より1、5mほど低い水準で周囲を見渡すという方法をとります。その結果、復元したのが上の池敷きです。ここからは次のようなことが分かります。
①最も狭い部分に堤防を築き高瀬川をせき止めた。
②池の宮の西側には自然地形を利用して、余水吐が作られた。
③堤防の西側の丘の上に、池の宮が建立された。
④池の東側岸は傾山の麓部分になり、現在の県道になる。
⑤東は、高瀬川沿いの光照寺付近まで
⑥北東は、朝日山麓の仏厳寺手前まで
これを計測すると池の面積は約38,5万㎡になるようです。満濃池が約140万㎡で、これには遠く及びませんが、国市池が22,8万㎡なので、それよりは広かったことになります。
 池の堤防は、直線なのかアーチ状なのかは分かりません。地図上では全長150 mほどの規模になります。高さについては、高瀬川の河床高が変化している可能性があるため現時点では不明としています。

勝賀次郎池は、本流堰き止めタイプのため池だった
 この池は高瀬川を盆地の出口で締め切って作られています。讃岐のため池では、近世以前のものは本流をせき止め、流域すべてを集水するため池は、勝間次郎池のほかに井関池と満濃池ぐらいしかないと研究者は指摘します。
 井関池は、観音寺市大野原町の杵田川を締め切るため池で、集水面積は約3000haを越えます。寛永20(1643)年に近江の豪商平田詞一左衛門によって、「大野原台地総合開発」の一環として築造されます。池の東西にふたつの余水吐が設けられ、堤長378 m、堤高約118m、池面積12,1haの規模です。井関池は、「本流堰き止めタイプ」の池だったために、完成後わずかの間にあいだに3回決壊しています。このタイプの池は、大雨による急激な増水に対応しきれないことが多く、維持が難しかったことが分かります。それが最初に見たように昔話の中に、柱伝説を生んだのかも知れません。

勝間次郎池は、いつ築造されたのでしょうか?
 本流堰き止め型の大規模なため池は、愛知県犬山市の入鹿池、大阪府大阪狭山市の狭山池や奈良県橿原市の益田池などがあります。このうち狭山池と益田池は古代に築造されたため池です。
 表は8世紀中ごろから9世紀中ごろの利水・治水にかかわる記事を集成したものです。この表を見ていると、勝間次郎池が弘法大師空海のころに築造されたという伝承も荒唐無稽なものでないような気もしてきます。
 律令国家による主な治水利水事業の一覧年表

722 百万町歩開墾計画をすすめる
723 三世一身法を定める(続日本紀)
  矢田池(大和)をつくる(続日本紀)
731 狭山池(河内)を行基が改修する(行基年譜)
   昆陽池(摂津)を行基がつくる(行基年譜)
732 狭山下池(河内)をつくる(続日本紀)
734 久米田池(和泉)を行基がつくる(行基年譜)
737 鶴田池(和泉)などを行基がつくる(行基年譜)
743 墾田永年私財法を定める(続日本紀)
750 伎人堤(摂津・河内の国境)・茨田堤(河内)が決壊する)
761 畿内のため池・井堰・堤防・用水路の適地の視察(続日本紀)
   荒玉河(遠江)が決壊し,延べ303,700人で改修する(続日本紀)
762 狭山池(河内)決壊,延べ83,000人で改修する(続日本紀)
   長瀬堤(河内)が決壊し,延べ22,200人余りで改修する(続日本紀)
764 大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などに池をつくる(続日本紀)
768 毛野川(下総・常陸)を付け替える(続日本紀)
769 鵜沼川(尾張・美濃)を掘りなおす(続日本紀)
770 志紀堤・渋川堤・茨田堤(河内)を延べ30,000人余りで改修する(続日本紀)
772 茨田堤6箇所・渋川堤11箇所,志紀堤5ケ所が決壊する(続日本紀)
774 諸国の溝池を改修・築造する(続日本紀)
775 伊勢国渡会郡の堰溝を修理する(続日本紀)
   畿内の溝池を改修・築造する(続日本紀)
779 駿河国二郡の堤防が決壊,延べ63,200人余りで改修する(続日本紀)
783 越智池(大和)をつくる(続日本紀)
784 茨田郡堤15箇所か決壊し,延べ64,000人余りで改修する(続日本紀)
785 堤防30箇所(河内)が決壊し,延べ307,000人余りで改修する(続日本紀)
788 摂津・河内両国の国境に述べ230,000人余りで川を掘る(失敗する)(続日本紀・日本後紀)
800 葛野川(山城)の堤防を10,000人で改修する(日本紀略)
811 このころ伴渠(備口)を開削する(日本後紀)
820 泉池(大和)をつくる(日本後紀)
821 このころ空海が満濃池を改修する(日本紀略)
822 益田池(大和)をつくる(日本紀略)
ただ、讃岐の髙松平野や丸亀平野からは、古代の大型の用水路は出てきません。条里制の水路は貧弱で、長距離の潅漑施設が登場していた痕跡もありません。そのため考古学者の中には、満濃池の水が丸亀平野全域を潤していたという説には懐疑的な人も多いことは以前にお話ししました。
以上をまとめておくと
①高瀬の昔話の下麻に勝間次郎池という大きな池があり、決壊に苦しんだ人々が人柱を立てた話が伝わっている
②その供養のために建立されたのが池の宮(池八幡神社)と下女塚とされる。
③池の宮の東対岸にあたる傾山の麓の県道際には、堤防跡の遺構がある。
④池の宮の西側には、余水吐跡の痕跡がある。
⑤以上より、池の宮の尾根から傾山麓へ150mの堤防が築かれ、その丘の上に池の宮が建立されたことが考えられる。
⑥池の広さは、東は朝日山の光照寺や仏厳寺にまで湖面が至っていた
⑦この池の起源は中世から古代に遡る可能性もある。
古代だとすると、この大工事が出来るのは郡司の丸部氏かありません。丸部氏は、壬申の乱で功績を挙げ中央政府とのつながりを持つようになり、当時最新鋭の瓦工場である宗吉窯を建設して、藤原京の宮殿用の瓦を提供したり、讃岐で最初の氏寺である妙音寺を建立したとされる一族です。善通寺の佐伯家が一族の空海を呼び寄せて、金倉川をせき止めて満濃池を築造したと言われるように、丸部氏も高瀬川をせき止めて勝間次郎池を作ったという話になります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「下女塚」 高瀬の昔話 高瀬町教育委員会  2015年

七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
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金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

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天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

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      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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日枝神社 高瀬町
日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている

三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。

今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。

それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。

日吉神社 土佐神社
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」

というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、
善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社 土佐神社合祀
       日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
 例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
 いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
 その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
 その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
 毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主の詫間弾正、
④高瀬・麻城の近藤氏
⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
 一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

大水上神社 神田城
二宮近藤氏の居城・神田城
 一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?

大水上神社 神田城2

『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。

「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

  これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、
「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
五月には
「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
  先ほど見た昔話には、次のように記されていました。

「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」

 しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
 そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
土佐神社 高瀬町日枝神社と合祀
        日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

 土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変遷します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
威徳院の末寺である地蔵寺には、善女龍王の勧進記録があります。そこには、次のように記されています。
善女龍王勧進記 地蔵院
善女龍王勧請記 (文化7(1810年 地蔵寺)
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
①上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに⑤龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。⑥潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、次のようなことが分かります。
①地蔵寺住職が文化七年(1810)に②財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したこと。
③これは伊舎那院管理下のもので、④祈雨祈願に効力があること
⑤それ以前に上勝間では八つ山に竜神の小社が建立されていたこと
⑥その上に⑥渓道龍王を勧進してパワーアップを図ったこと
 威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。同時に、財田の伊舎那院管理下の渓道龍王が祈雨祈願に効力があると近隣の村ではされていたことがうかがえます。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王

 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  本山寺・威徳院・地蔵院に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。
それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これは那珂郡佐文へ麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる綾子踊りに、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があるようです。
イメージ 11
綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」

     さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)

 前回は、威徳院の歴史について次のような仮説を立てて見ました。
威徳院には史料的に中世に遡るものはない。戦国時代になってから道隆寺の末寺として建立されたのをスタートにする。それが生駒時代に藩の保護を受け、周囲の新田台地
の開発を進め伽藍を整備し西讃の教学センターとして大きな地位を占めるようになった

 ある意味、象頭山の松尾寺金光院と似ています。松尾寺も近世初頭に創建された新興寺院でした。それが、金毘羅神という流行神を祀り、天狗信仰の聖地となることで多くの修験者を集めるようになります。そして、金比羅で修行した修験者が各地に分散し、金比羅講を開き信者を組織し、彼らが先達として金比羅詣でを進めるようになります。金比羅の出発は「海の神様」ではなく、「天狗信仰の聖地」であったのです。同じような動きが高瀬の新田台地でも起こっていたと私は考えています。

「威徳院に近世以前の歴史はない」云いましたが、この寺には中世の絵図がいくつも伝わっています。これらをどう考えるかが次の問題になってきます。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院には、絵画や書跡の掛幅、屏風、扁額など135点が保存されているようです。その中には、奈良国立博物館に保管されている威徳院所蔵の中世仏画四件を含みます。その内訳を見ると、絵画90件、書跡45五件と、絵画が全体の約2/3を占めます。その伝来は、高野山や、住職の兼帯などが行われた本山寺(三豊市豊中町)からもたらされたものが多いのが特徴のようです。
この中で中世に遡るのは次の九件です。
①南北朝時代に描かれた「不動明王二童子像」
②室町時代の作として、「十三仏図」
③「十一面観音像」
④「愛染明王像」
⑤「三千仏図」
⑥「仏涅槃図」
⑦「弘法大師像」
⑧「荒神像」

大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)には①「不動明王二童子像」と②「十三仏図」を「宝物」として冒頭に記しています。ここからは、この2つが威徳院にとって特に重要な仏画と位置付けられていたことが分かります。

① 不動明王二童子像(南北朝時代(十四世紀)から報告書を片手に見ていきます。
威徳院不動明王

 右手に剣、左手に頴索を持って語々座に結珈践坐する不動明王です。頭頂に蓮華を載せ、髪を総髪にして左前に弁髪を垂らし、両眼を見開いて上歯で下唇を噛みしめています。いわゆる弘法大師様と呼ばれる図像です。背後の迦楼羅炎は、朱と金泥で全身を覆うように表され、激しい火焔が台座の下に写っているのが見えます。不動明王の肉身は群青で、頭髪や眉は金泥で線描されています。
脇侍の二童子は、床に置かれた方形の台座上に立ちます。向かって右が衿掲羅童子で、右手に蓮華、左手に独鈷杵を持ち、肉身を白色に近い明るい色の顔料で塗り、頭髪は墨の細線で描かれていて黒髪の雰囲気がよく出ています。
左が制吐迦童子で、右手に宝棒、左手に三鈷杵を握ります。躰は全身が朱色で、頭部の巻毛は金髪です。おおらかさも感じられ、制作時期は南北朝時代、十四世紀頃と研究者は考えているようです。
県内にある不動明王画像の中でも古作の一つになるようです。大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)では弘法大師筆と伝えられ「宝物第一号」とさています。大正時代には、この「不動明王二童子像」が最重要宝物として扱われていたようです。
 不動明王は修験者の守護神です。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
現在の四国霊場の多くは、このように行者たちの行場から生まれたお寺が数多くあります。行場には不動さまが祀られていました。山の上にの行場近くにあったお寺は、近世になると麓に下りてきます。本山寺などはその典型であることは以前にお話ししました。行場は奥の院として残り、そこには不動さまが今でも祀られていることが多いようです。
ここからは不動さまを祀っている寺院はかつては行場を持つ山岳(海洋)寺院であったことが推察できます。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。
威徳院十三仏図2

②「十三仏図」(室町時代(十四世紀)は三豊市の有形文化財に指定されています。
中世には、死者追善のために十三回の忌日ごとに供養を行う十三仏信仰が広がっていました。そのために描かれたのがこの仏画のようです。十三仏信仰は、鎌倉時代に中国から伝来した十王信仰をもとに、各王に本地仏を定め、忌日も増えるなどして南北朝時代頃に成立します。それぞれの忌日と本地仏は、次の通りです。
初七日忌-不動明王、
二七日忌-釈迦如来、
三七日忌-文殊菩薩、
四七日忌-普賢菩薩、
五七日忌-地蔵菩薩、
六七日忌-弥勒菩薩、
七七日忌-薬師如来、
百ヶ日忌―観音菩薩、
一周忌-勢至菩薩、
三回忌-阿弥陀如来、
七回忌-阿問如来、
十三回忌-大日如来、
三十三回忌-虚空蔵菩薩
威徳院十三仏図

威徳院の「十三仏図」は、各仏を上のように配置して、それぞれに仏の名称のほか、十王の名と忌日を二行で墨書しています。
 室町時代以降の十三仏図では、忌日順に本尊が並ぶのが多いのですが、この図は各尊像の順番が交錯する複雑な配置になっています。これは、「画面中央に位置する阿弥陀三尊や釈迦三尊などのまとまりを意識した構図とも考えられ、類例の少ない図像」と報告書は指摘します。
 それ以外の特徴としては、通常は虚空に浮かぶ蓮華座上に仏たちをを描くことが多いのですが、この図は文殊・普賢菩薩が獅子と象に騎座します。また各仏の下には、岩座や水波などの自然景が描かれます。この絵図の制作時期は、室町時代前半、十四世紀と推定されているようです。
 しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。

威徳院十一面観音像

③十一面観音像 縦100,5㎝ 横39㎝ 室町時代(十五世紀)
「十一面観音像」は、錫杖を持って立つ十一面観音の両脇に、難陀龍王と雨宝童子が配されるスタイルです。頭上に十一面を戴せて、右手首に念珠を巻いて錫杖を持ち、左手に水瓶を持って立ちます。その下側に両手で宝珠を捧げ持つ難陀龍王、宝珠と宝棒を持つ雨宝童子の二脇侍が描かれます。このような十一面観音三尊像スタイルは、奈良・長谷寺の本尊と同じで、長谷式十一面観音と呼ばれます。県内では、長谷式の十一面観音画像は非情にめずらしいようです。秘仏とされる威徳院の本尊も長谷式十一面観音像で、難陀龍王、雨宝童子の脇侍が附属する三尊像です。この図も本尊との関連性が考えられます。報告書の記述を見てみましょう
 十一面観音は、肉身を金泥で塗り、肉身線を朱の鉄線描で描き起こす。顔貌は、正面向きでやや平板化した印象もあるが、衣や光背の文様はのびやかな墨線で破綻なく描かれる。
脇侍の二尊はごく細い線で眉や頭髪を描き、顔は墨や朱などを使って表情豊かに描かれており、室町時代十五世紀に、優れた技量を持つ画家によって描かれたものと考えられる。巻留および箱の銘文から、十九世紀の前半と文久三年(1862)に、遍空と密道の二人の住職の手でそれぞれ修復されたことがわかる。
威徳院愛染明王像
④愛染明王像 縦104、2㎝横41、3㎝ 室町時代(十五世紀)
 愛染明王は、人々が愛欲、煩悩に向かう心を浄化して悟りへと導く明王です。息災、調伏、敬愛などを祈願する愛染法の本尊として信仰を集めたようで、香川県内にも数多く残されています。。
 この図は、中央に、宝瓶の上の蓮華座に結珈鉄坐する一面三目六腎の愛染明王が描かれます。その上には環路の下がった天蓋、床上には宝瓶から湧き出した宝玉や貝殻を描かれます。明王の六腎は、第一手の左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵、第二手の左手に弓、右手に矢、第三手の左手に蓮華が握られ、右手は金剛拳です。髪は怒りの怒髪で、獅子冠を戴せています。教典通りの絵柄です。
 報告書を見てみましょう
粗めの画絹の上に、愛染明王は肉身を朱で塗り、肉身線を細い墨線で描くが、描写は全体にやや硬く形式化がみられる。台座等も含めて截金の使用は見られず、衣の文様も金泥と彩色によって截金文様風に描いており、画風から、室町時代、十五世紀の制作と考えられる。巻留には、智証大師筆とする墨書があり、威徳院でも重要な仏画の一つとして伝来したものと考えられる。

⑤ 三千仏図 三幅 南北朝~室町時代(十四世紀)
 三千仏図は、過去・現在・未来に現れる諸尊の仏名を唱えることで、罪を傲悔し、功徳を得ようとする仏名会(仏名懺悔会)の本尊です。これも巻留に、宝暦五年(1755)に住職の周峯が高野山で求めたことが記されています。18世紀半ばまでは高野山に伝来していたものが、その後威徳院に伝来したことが分かります。
威徳院仏涅槃図幅

⑥ 仏涅槃図幅 縦140、9㎝ 横108,8㎝ (十五世紀)
 釈迦は、その生涯を沙羅双樹の下で終えます。釈迦入滅の情景を描いたのが仏涅槃図です。この図は、中央に右腕を枕にして宝床に横臥する釈迦を描かれます。その周りに釈迦の死を聞いて集まり、嘆き悲しむ諸菩薩や仏弟子、様々な動物たち会衆の姿があります。画面向かって左上には、知らせを聞いて天上界から飛来する釈迦の母摩耶夫人の姿も見えます。この構図が鎌倉時代以降に主流となった定形版のようです。
 仏涅槃図は、涅槃会の本尊として用いられるので、大きな寺院には必ず備えられていました。
  この図とほぼ同じものが、覚城院(三豊市仁尾町)、地福寺(丸亀市広島)などのいくつかの真言宗寺院に伝来しています。ここからは同一の絵師、または工房で制作された可能性があります。 室町時代以降、地方寺院では宗教行事のために「仏画需要」が高まります。それを受けて、絵所などで粉本を用いた仏画を数多く制作し、供給していたことがうかがえます。
 
 地福寺本の紙背には、次のように記されています。
文明三/辛/卯/十月十五日/絵所/加賀守主計/彩圓終焉屹

ここからは文明三年(1472)に絵所の絵師、加賀守主計が描いたことが分かります。威徳院のものも同じ工房で作られたとすると、十五世紀後半に加賀守主計の絵所か、またはそれに近い位置にいた絵師によって描かれたことが推測できます。加賀守主計については、史料では室町時代に、京都で活動した加賀守(加賀)を名乗る絵師がいたことが分かっているようです。
 高野山の寺院を兼帯する威徳院住職が高野山で求めて持ち帰ったのを周辺の僧侶が見て、「うちにもあれと同じものを求めてきてくらんやろか」と依頼する姿が浮かんできます。 
 この仏画にも紙背に宝永年間(1704~11)と文化11年(1805)の二度にわたって修復が行われたことを示す墨書銘があるようです。

威徳院弘法大師

⑦ 弘法大師像   室町時代(16世紀)
 画面向かって左斜めを向き、右手に五鈷杵、左手に念珠を持って背のある椅子に坐す弘法大師の姿が描かれます。その背後に、山間から姿を現した釈迦如来が描かれています。「善通寺御影」とよばれる弘法大師像です。高野山で描かれた弘法大師像には釈迦如来は描かれていません。ところが讃岐で描かれたものには、釈迦如来が描かれるようになります。
どうしてなのでしょうか?
 空海が四国の山中で修行をしていた時に、釈迦如来が雲に乗じて現れたという説話を絵画化したものとされます。鎌倉時代に讃岐に留配された僧道範が著した「南海流浪記」に、善通寺で釈迦如来の姿が描かれた空海自筆の大師像を見たという記述があります。ここからこのスタイルは「善通寺御影」と呼ばれるようになったようです。
 この様式は香川県内には、多くの作例があります。その背後には、与田寺の増吽の布教活動と重なることが指摘されています。つまり、この善通寺御影があるところは、増吽の組織していたネットワークに組み込まれていたと研究者は考えているようです。増吽の性格は「熊野信仰 + 勧進僧 + 書写ネットワークの元締め + 高野聖 + 弘法大師信仰」といくつもの要素が絡み合ってることは以前にお話ししました。そのようなネットワークの中に威徳院も組み込まれていたことがうかがえます。
 今に伝わる「善通寺御影」の作例は、どれもほぼ同じ図様です。そこからは原本となるものを、写し継いで、増吽の工房などで多数の画像を描いたことが想像できます。報告書の記述を見てみましょう。
本図は釈迦如来の描写も含めて、明快な墨線と彩色で描かれるのが特徴である。釈迦如来や岩山などの描写にやや形式化した硬さも認められることから、制作時期は十六世紀、室町時代後期と推定される。紙背の墨書から、仏涅槃図と同じ時期に修復が行われていることがわかる。
威徳院荒神像

⑧ 荒神像 縦70,2㎝ 横38、8㎝  室町時代(十五世紀)
 荒神は、仏教経典の中に出てきません。神仏習合思想や俗信的信仰の中から生まれたものです。荒神には、次の3つタイプがいます
A 相好柔和な如来荒神、
B 八面八(六)腎の夜叉羅刹形である三宝荒神
C 宝珠と宝輪を持つ俗体形で子島寺の真興が感得したという子島荒神
この荒神は、B三宝荒神を描いたもののようです。報告書を見てみましょう。
 本面の左右に脇面、頭上に五面を戴いた八面で、いずれも怒髪の忿怒形で怒る姿が描かれている。第一手は胸前で合掌し、第二手は左手に宝輪、右手に羂索、第三手は左手に弓、右手に矢、第四手は左手に三叉戟、右手に三鈷戟を持ち、火焔を背にして荷葉座に坐す。
荒神の肉身は朱で塗り、輪郭は肥痩のある墨線で描く。持物の一部や座具の縁には截金を施し、頭髪や眉を金泥で筋描きするほか、装身具や衣の文様なども金泥で描く。粗い目の画絹に素朴だが伸びのある描線で描かれており、火焔などの彩色には細やかな輦しも見られる。制作時期は、室町時代、十五世紀前半と考えられ、県内でも類例がほとんど見られない中世の荒神画像として貴重である。

  威徳院に伝わる中世仏画を見てきました。ここから推測できることを挙げておきます
①江戸時代の威徳院の住職は、高野山のお寺と兼帯する者が増え。その関係からか高野山からの伝来を伝えるものがいくつかある。
②「十三仏図」「仏涅槃図」「弘法大師像」「荒神像」「十一面観音像」などは、年間の宗教行事の「開帳」のために必要なもので、後世に必要に応じて購入伝来した可能性が高い
③「不動明王二童子像」「愛染明王像」などは、密教系修験道に関係するもので、威徳院の本源的な姿を伝えている。

   以上から威徳院に残された中世仏画類が威徳院の中世の歴史を伝えるものとは、必ずしもいえないことがうかがえます。「威徳院近世出現説」を葬り去ることはできません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2



前回は三野郡勝間(三豊市高瀬町)を拠点に古代の三野郡司から武士団へと成長を遂げた三野氏をみてきました。三野氏は下勝間の勝間城を拠点に、柞原寺を菩提寺として成長していきます。そして戦国期になると天霧城の香川氏の重臣として活動し、所領を守っていきます。香川氏が長宗我部と結ぶと讃岐平定の先兵として活躍し、人質として岡豊城にも出向いていました。さらに、生駒藩時代には、二代目一正を支える重臣として5000石の知行地をもつにまで至ります。
 生駒藩の文書には、藤堂高虎の意を受けて、藤堂藩からレンタル派遣されて奉行職を務めた西嶋八兵衛と並んで署名したものがいくつも残されています。ここからは西嶋八兵衛などと、実質的な藩運営に関わっていたことがうかがえます。
西嶋八兵衛による満濃池築造に代表されるように藩全域的な治水灌漑工事が一段落すると、つぎに問題になってくるのが知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、高松城下町のことが次のように記されています。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
ここからは太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたことが分かります。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、三野郡の三野氏のように生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きが活発化します。
 秀吉の太閤検地の意味をもう一度確認しておきましょう。
 太閤検地でと「領有制から領知制」に変わります。武士は、土地と百姓から切り離され、土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。検地後は、武士は自らの「あらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)」のように、百姓を自由に使うことは出来なくなったはずです。百姓層を使って、自由に新田開発を行うことはあり得ないことです。ところが、三野孫之丞は、700石もの「自分開」を新たに拓いています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。 この広大な新田を、どこにどのようにして拓いたのでしょうか。それを三野氏の拠点である下勝間で見ていくことにします。テキストは高瀬町史288P 勝間新田の開発    です。

    高瀬下勝間地図 
                              
下勝間村は、上の赤線で囲まれたエリアで、現在の三豊市役所(旧高瀬庁役場)から高速道路の北辺りまでにあった行政区画です。江戸時代初期の下勝間村の石高は次のように記されています。
下勝間村高千弐百壱石、 畝数百拾四町六反三畝
内訳 
田方本村五百弐石五斗    畝数四拾四町六反三畝
田方鴨分四百拾石九斗八升 畝数三拾八町四反
新田拾弐町九畝     
  居屋敷五町五反七畝
畑方村中九町三反     
  新畑三町弐反九畝
    「佐股組明細帳」『高瀬町史史料編』
①「田方 本村」は勝間小学校から高瀬中学校のあたり
②「鴨分」は国道以西から高瀬駅・高瀬高校あたりになります。
税率を示す「斗代」は一石七斗で、このころは上田の一石五斗が一般的でした。それからすると上田が多く勝間は三野郡における穀倉地帯だったといえそうです。この辺りが下勝間の「本村」であったことがうかがえます。本村を拠点に周辺部が新田開発されていきます。

新田開発を行ったのは、どのような勢力なのでしょうか。
生駒時代の寛永~元禄年間(1624~04)に新田開発の内訳です。
 新田開発の状況
既往の新田畑 三町四反九畝十九歩 四町三反四畝十八歩
新規開発新田 十町九反二十四歩
内訳
佐股甚左衛門新田 壱町七反弐拾歩
上高瀬新八新田 三町八反壱歩弐拾三歩
長右衛門新田 壱町三反九畝十三歩
巳ノ新田 三反六畝
六ツ松新田 壱反弐畝弐拾九歩
巳ノ新田元禄十二年改 壱反九畝弐拾三歩
同 元禄十六年改 六畝五歩
同宝永二年改 壱町七反弐畝十五歩
同 元禄十二年より宝永二年改 壱町五反壱畝六歩上勝間五兵衛新田
新たに拓かれた面積を計算してみると
既往の新田畑3町4反9畝19歩 + 4町3反4畝18歩 + 新規開発新田10町9反24歩=約18町6反

が下勝間地区で新たに拓かれたようです。
佐股甚左衛門新田とあるのは「佐股村庄屋の甚左衛門が拓いた新田」という意味になります。ここからは、開発者のひとりが、佐股村庄屋であったことが分かります。彼は六ツ松のほか西股でも1町5反の新田のほか、西山千田林には約2町歩の新田と甚(陣)左衛門池を拓いています。新田と池の築造はセットで行われなければ意味がありません。
 上高瀬大庄屋三好新八郎は、石の塔沿いに新田と上池・下池を築造しています。彼は威徳院検地帳に上勝間庄屋と記されています。ここからは、下勝間周辺の庄屋たちが村のエリアを越えて新田開発とため池築造工事をセットで進めていたことが見えてきます。彼らは幕藩政治の下で世の中が落ち着いて活躍場所を失った武士たちが帰農したものたちもいたはずです。その中には、讃岐以外の地からやってきて一族で住み着いて、豊富な資金力と労働力で急速に周辺の土地を集積していった勢力がいました。
 
  その例を多度津町葛原の木谷一族に見てみましょう
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれていた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。そして金倉川の氾濫原の新田開発と千代池などのため池改修を進めて、大庄屋へと成長して行きます。
 1628年に西嶋八兵衛は廃池になっていた満濃池の改修に着手し、同時に金倉川の流路変更や治水工事を行い、用水路整備をすすめます。それは、当時の新田開発という大きなうねりの中にあったことを押さえておきます。
 この他にも、生駒家2代目一正の側室となったオナツの実家の山下家も、この時期に財田西や河内で盛んに新田開発を行い分家を繰り返し、成長していきます。オナツによって生駒家に作られた外戚閥族が生駒騒動の原因の一つとも言われます。また、オナツの甥は金毘羅大権現の金光院院主でした。この「伯母・甥」関係が生駒家から金光院への330石という大きな寄進につながったようです。どちらにしても、当時の財田西の山下家は殿様の側室を出した家として、特別な存在だったようです。この山下家も新田開発に熱心だったことを押さえておきます。
  そういう目で見てみると、三野・多度郡・那珂郡は生駒時代に拓かれた新田が多いような気がします。それを裏付けるデーターに出会いました。

生駒藩新田開発割合

ここには讃岐11郡の生駒家時代の新田開発状況がグラフ化されています。
①灰色が「自分開」で、家臣団による新田開発面積
②桃色が「新田悪所改出」で、地主による新田開発面積  
これを見ると新田開発が盛んに行われた郡とあまり行われていない郡があるようです。また、新田開発の担い手にコントラストもあります。例えば山田郡を見ると、開発主体は地主たちだったようです。それに対して、香東郡・鵜足郡・多度郡・苅田郡は家臣たちが積極的に開発を行っています。さて三野郡はと見ると・・・、家臣団と地主が争うように行っています。
三野郡で新田開発をおこなっていた家臣とはだれなのでしょうか。

生駒家新田開発一覧表
そのトップにいるのが三野孫之丞です。彼は、前回見てきたように古代の三野郡司につながる三野氏の当主で、5000石の重臣でした。高松城の本丸近くに広い屋敷を持っていました。同時に、拠点の三野郡では、他に類がないほどの新田開発をおこなっていたことになります。ここからは、先ほど見た庄屋による新田開発と並ぶだけの面積が三野氏の手によって下勝間周辺では行われていたことがうかがえます。

新田が拓かれた場所は、周辺のため池の名前からその場所が推定できるようです。
「威徳院検地帳」の地名を見れば、それは、現在の新田部落の的場・彦三郎池そば・菖蒲池そば・丸山道下から六ツ松峠付近であったことが分かります。築造された主な溜池を挙げて見ましょう。
①山王下  山王池  かに谷池   菖蒲池  相本池
②威徳院上  菰池   皿池
③六ツ松  松葉崎池 かも池  陣左衛門池
④石ノ塔    新田池 同上池 同下池
⑤五丁池上 渡池 鬼ノ窪池 どじょう池
⑥上勝間村堺 皿池 丸山池(千田林)佐股新田
関連溜池 庄屋池。梅之谷池。足和田池・岩瀬池・立花池。
勝間 ため池

上の中から主要な溜池四池について、時代ごとの灌漑面積を比較したのが下表です。

①江戸時代前期の「佐股組明細帳」37、4町
②江戸時代末『西讃府志』    56,8町
③現在             70,0町 
江戸時代の200余年の間に、灌漑面積は約倍増しています。しかし、溜池の築造 →余水確保 → 新田開発 → 日照りと干害 → 新しい溜池築造という悪循環だったようで、池の嵩増しや「新池」を次々と造り続けられます。連続して並ぶ池は、その歴史を物語る証人でもあるようです。
高瀬町勝間のため池2

南海道と伊予大道が合流する六ツ松峠付近を見てみましょう
「勝間村郷土誌」は、池堤を旧国道として利用したことによって生まれた独自の溜池景観を次のように記します。

旧往環国道11号線 道音寺方面を通れば一歩に二池、五歩に十池、左右の水色道音寺城山の松、翠に映発して美観いうべからず

たしかに、六つ松から笠田に抜けて行く峠付近は、池の堤防が国道にもなっていたようで、小さなため池が左右に続く風景が残っています。これらも江戸時代の新田開発とともに谷頭に池が作られていった結果、生まれてきた光景で讃岐らしさが現れている「歴史的風景遺産」と呼ぶことができるのかもしれません。

さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
新田台地に建つ威徳院

この新田開発の推進役のひとつが威徳院です。

この寺は、新田台地中央に位置し、讃岐国領主生駒一正の保護を受けて20石を安堵された以後、寺勢が急速に伸びいきます。その時期は、三野氏が新田開発を大規模に推し進めていた時と重なります。
 さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院
また、三野四郎左衛門は一正に仕えて、朝鮮出兵や関ケ原の戦いにも従軍し、豊臣方の大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めていました。このような中で、新たに建立(再建)されたのが威徳院なのではと思っています。あるいは、当初は柞原寺の別院のような存在であったかもしれません。その院主が三野四郎左衛門の帰依を得て、そのつながりで藩主一正の保護を受けるようになったのではないかと推察します。

DSC06244勝間城・威徳院
勝間城と威徳院(中世城館跡詳細分布調査報告2003年)

なぜなら威徳院のある場所は、三野氏の居城である勝間城の直下です。ここには三野氏の保護支援なくして、寺院を建立できるものではありません。また、いまは廃寺となりかけている威徳院西院は、三野氏の居城跡ともされます。その跡に建立されていることも三野氏との関係を推測させます。ひょっとしたら三野氏が拓いた新田が、その後に威徳院に寄進されたことも考えられます。
 「西谷池の記念碑」には威徳院が、寺池として大池・西谷池・寺池・同上池・同下池などを築造し、田畑の開発に努めていったことが記されています。
その結果がどうなったのかを「威徳院検地帳」(元禄12(1699)年)に見てみましょう。
 下に挙げたのは、その一部ですがここから分かることを挙げておきましょう。
高瀬町威徳院検地帳

 威徳院寺領検地帳(元禄十二年)         高瀬町史資料編516P
①「堤まえ」などと、土地の位置が明記されているので、だいたいの場所が分かる。
②「下田」が多く本村と比べると、土地条件が劣る
③一反未満の小さな田畑が多く、棚田状にならんでいたことがうかがえる。
④「手作り地」といった記述もあるので、寺子などを使って寺独自に耕作が行われていた田畑もあった。

最後に威徳院寺領の総合計と、土地の等級評価が次のように記されています。
  畝数合七町弐反五歩 内三畝拾五歩  多門坊屋敷
残而七町壱反六畝廿歩再僻分
上田 六反四畝弐歩 反二付米八斗   取米五石壱斗弐升五合
下上田 壱町六反八畝 反二付七斗 取米拾壱石七斗六升
下田 壱町九反六畝七歩 反二付六斗五升 取米拾弐石五升四合
下々田 弐町弐拾七歩 反二付六斗 取米拾弐石五升四合
下畑 四反七畝十三歩 反二付二斗五升 取米壱石壱斗八升六合
下々畑 壱反七畝拾六歩 反二付壱斗五升 取米弐斗六升三合
屋敷弐反弐畝十五歩 反二付弐斗五升 取米五斗六升三合
(朱書き)
「其新畑四畝廿五歩 取米七升弐合  米合四拾三石七斗三合
右之通相定申候、以上
元禄拾弐年卯ノ三月十八日 
源右衛門
彦八郎
組頭 四郎兵衛
清右衛門
庄屋 五兵衛花押
寺内作付分
一、上田六畝拾弐歩  浦門内
一、上田九畝拾八歩  下藪北切
一、上田四畝八歩    ふろ屋敷
一、上田七畝廿歩    同所上切
一、上畑六畝拾歩    莱畑
一、上畑弐畝拾歩    泉ノ本
一、上田壱畝拾五歩  門道下
一、上田弐畝      同所道上

畝〆四反三畝
元禄拾弐年卯ノ三月廿八日
源右衛門
彦八郎
四郎兵衛
庄屋 五兵衛花押

 史料末尾に、村役人の連名がります。彼らが検地を実施し、その確認を行ったもののようです。寺は年貢米を徴収しただけと研究者は考えているようです。
  ここからは17世紀末には、威徳院は寺領として7町2反(7,2㌶)をもつ地主でもあったことが分かります。威徳院の近世の隆盛ぶりを支えた経済的基盤は、ここに求めることができそうです。

それでは、三野氏が開発した土地は、どうなったのでしょうか。
 最初に指摘したように生駒藩では「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていました。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していたのです。その上、新たに開発した新田は「自己開」として自分の知行に繰り込むことができたのです。そのため地元領主出身の三野氏は、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大したのです。それは先ほどのグラフで見たとおりです。周囲の一族や地主はそれを真似ます。このようにして生駒家の三野郡では、新田開発ラッシュが起きました。そのシンボルとして新田台地に姿を現したのが威徳院ではないでしょうか。
 三野氏の描いたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役し耕作をおこなうものです。これは秀吉の目指した太閤検地以後の時代の流れに「逆行」するものです。これを阻止しようする勢力が藩内に現れない方がおかしいのです。
新藩主のもと前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。もちろん家臣たちの新田開発などは許しません。家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向に軌道修正します。それは歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択が迫られるようになります。生駒騒動の背景には、このような土地政策をめぐる対立があったようです。

  以上をまとめておくと
①生駒藩では、「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわれ、生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していた。
②新田開発で生まれた田畑は、自分の所領とすることが出来たので讃岐出身の家臣を中心に新田開発が進められた。
③その中でも三野郡の新田開発は飛び抜けており、その中心に三野氏がいた。
④三野氏は下勝間を中心に新田開発を進め、それを一族や菩提寺も真似た。
⑤こうして生駒時代の勝間周辺は膨大な新田とため池が造られ今日的な景観に近づいた。
⑥この時期に新たな宗教施設として、姿を見せるのが威徳院である。威徳院は柞原寺に代わってこの地区の宗教センターとしての役割を担うことになる。
⑦威徳院の経済基盤は、この時代に拓かれた新田7町の田畑にあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 高瀬町史288P 勝間新田の開発 
      合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」
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1高松城 生駒氏重臣

生駒藩にて取り立てられ、家老までにまでなったのが三豊の三野氏です。上図は生駒藩時代の高松城の本丸周辺に配置された重臣たちの屋敷図です。⑦が「三野孫之丞」の屋敷です。生駒家の親族たちと比べても見劣りしない広さです。そして5000石の高級取りでした。
さて、三野氏とは何者なんでしょうか?
三野氏のことについては、私はほとんど知りませんでした。秋山氏や生駒氏のことを見て行くにつれて気になりだしました。一度、その「発生から消滅」までをまとめておきたいと思います。テキストは高瀬町史 高瀬町域の武家と生活 三野氏 133Pです。

 三野氏のことが最初に記された史料は『吾妻鏡』のようです。
源平合戦で、いち早く平氏を見捨てて、京都に上り源氏方に加勢する讃岐武士のグループのことは以前にお話ししました。下の氏名一覧が、この時のメンバー表です。
讃岐國御家人 注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日
①は古代綾氏の系譜をひく讃岐藤原氏の統領で、リーダー的な存在だったのでしょう。
古代綾氏は、阿野北平野を拠点に勢力を伸ばし、国府を府中に誘致し、その後は国衙の在庁官人の中心的存在になります。菅原道真が国司とやって来た時代にも、郡司兼在庁官人として出仕していたことが史料からも分かります。そして、讃岐最大の武士集団に成長し、中世には讃岐藤原氏(藤氏)を名乗るようになるのは、以前にお話ししました。つまり、国衙の在庁官人のトップが平家支配を嫌って、一族を率いて源氏方に走ったのです。
その中の⑤⑦に三野氏の名前があります。
⑤三野首領盛資は「首領」とあるので、三野郡の郡司
⑦三野首領太郎以下は、郡司盛資の息子や一党
三野家文書には、自らを綾氏の末裔と記します。つまり讃岐藤原氏の一族であるという意識を持っていたことがうかがえます。古代の綾氏は阿野郡を拠点に鵜足郡・多度郡へと勢力を拡大していったようです。十二世紀には、多度郡郡司に綾氏の名が見られます。中讃を拠点に西讃にも勢力を伸ばし、三野郡の郡司を代々務めるようになり、その一族が三野氏を称するようになったとしておきましょう。三野氏の郡司としての活動ぶりは分かりませんが、源平合戦ではその動向が『吾妻鏡』に記されているので武士化したことはうかがえます。

讃岐国絵図天保 三野郡
讃岐国絵図 天保版の三野郡 
 源平合戦の際に、いち早く平氏から源氏へと移り、勝ち馬に乗り換え、頼朝の御家人となった14人の武士達は、恩賞を受け、所領を安堵され、在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになります。三野氏も三野郡の勢力基盤を確保し、勢力拡大を果たした筈ですが史料的な裏付けはできません。その後は戦国期まで、三野氏は史料には登場しません。

1永正の錯乱

戦国期の三野氏 
 管領兼讃岐守護の細川政元が永正四(1507)年に家臣によって暗殺さます。後継者をめぐって、細川一族、家臣の間で争乱が起こり、讃岐も戦国時代に突入します。これが「永正の錯乱」という政治混乱です。このなかで、秋山氏は阿波守護家出身の澄元方についていることが分かります。秋山家文書の中に阿波守護家の重臣一宮賢長から、当時の秋山家の頭領・秋山源太郎にあてた書状が二通あります。そこに三野氏が登場します。
 阿波守護家から秋山源太郎に対して、三野氏が澄元へ味方する意思を示したならば、同道して一宮のもとに参上するよう促しています。またもう一通は、阿波守護家は秋山氏も三野氏も決して扱いをなおざりにするものではない。合戦で馬廻の者が多く死傷してしまったので、使者を立てられないが、直接会って申し上げると述べています。秋山氏を通して三野氏も阿波方の味方に引き入れようとしていることがうかがえます。この時点では、三野氏も秋山氏と同じように西讃守護代の香川氏の配下には入っていなかったようです。

高瀬下勝間地図 
下勝間のエリア
戦国時代の三野氏の拠点は、どこにあったのでしょうか。
善通寺から大日峠を越えて西進する南海道と、鳥坂峠から南下してくる中世の伊予見大道が合流するのが現在の国道11号の六つ松です。この合流点の西側の小高い丘の上に城山神社があります。
ここに勝間城があったとされます。

1勝間城

 ちなみに勝間城跡の候補地としては、県の調査報告書ではここよりも、隣にある②威徳院の西の院跡を候補地(③勝間城)として次のように述べています。

DSC06244勝間城・威徳院
「周囲より10m高い小山で、頂部は広い平坦地になっている。傾斜のゆるい北側には幅6~10mの細長い平坦地があり、西端は土塁状になっている。また南西端にも土塁状地形が続くが、池が決壊したときのための堤防という話も聞かれた。」

私もここを押したいと思います。かつての城郭があった丘の上に、柞原寺に代わる新たな菩提寺が江戸時代になって建立されたとしておきます。
 「全讃史」には
「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」
とあります。
三野氏は代々、この山城(勝間城)を拠点に勝間を支配した。三野菊右衛門は、その末裔であるというのです。地元では「勝間を支配した三野氏の居城があったのが、ここだ」とされてきたようです。『西讃府志』には城主名は無く、戸慶城とだけ記されています。
 西讃府志には16世紀初頭のこととして、詫間城の項目に詫間城城主に詫間弾正を挙げて、その後に「三野大炊頭城」と記します。ここからは、三野大炊頭が所領を没収された後に、詫間氏が城主となったことがうかがえます。中央の細川家の騒乱に際して、勝ち馬に乗りきれないと「所領没収」という羽目になります。三野氏は、この時に詫間の所領を失ったようです。

三野津5
 中世の三野湾の湾入状態
その後の動きを三野文書と秋山文書で追ってみましょう。
秋山文書の永禄四(1561)年の書状は、天霧城主香川之景が秋山兵庫助にあてた知行宛行状です。ここには秋山氏の所領であった三野郡高瀬郷水田分と守利名が、三野氏の所領になっているが、それを秋山氏に返付するというものです。ここで奉行的役割を果たした者として、三野泰佐、三野菊右衛門の名が見えます。香川之景の感状に「詳しくは三野菊右衛門が口頭で申す」と記されています。ここからは、三野氏が香川氏の重臣として活動していたことがうかがえます。

1563(永禄6)年8月7日の三野文書には、次のような内容が記されています。
 天霧城主・香川之景が、三野菅左衛門尉に阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の働きを賞し、河田七郎左衛門尉に扶持していた領地を本知行地として返還し、また作原寺分を返付することを約す

 そして翌年1564(永禄7)年5月13日には、約束通り、香川之景が三野勘(管)左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返し与えています(三野文書)
 鴨村というのは、 近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村と記されているので、柞原寺周辺にあった村のようです。これが30年前の大炊頭の時代に没収された所領のようです。失った所領を香川氏の下で取り戻したことになります。

永禄七年の三野文書に見える勘(菅)左衛門は、菊右衛門の父になるようです。
 「全讃史」の 「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」という記事は、一次資料で裏が取れます。三野菊右衛門は「三野大領の末裔」のようです。
 以上から、三野氏は、郡司時代には詫間を拠点にして、中世には詫間城を居城していたのが、内陸へも所領を拡大し、その一族が勝間にも入ってきて拠点を構えた。それが勝間城だったというストーリが描けます。

また帰来秋山家文書には、1577(天正5)年2月13日付けの次のような書状があります。
 香川信景が秋山帰来源大夫親安に高瀬郷のうち帰来分および近藤出羽守知行分の地を宛行い、奉行三野菊右衛門尉に、この旨の申し渡しを命じる

これは香川信景の知行宛行状で、秋山源大夫に知行を宛行うものです。その使者となっているのが奉行三野菊右衛門で、ぬかりなく忠勤を励むように伝達を命じられています。また、その際に作成された知行日録には、三野方一町三反とあり、三野氏も所領を獲得したことが分かります。その後も三野氏は、香川氏の奉行として活躍したようで、三野菊右衛門は、勝間城主と記されています。
 三野菊右衛門は天霧城主香川氏に仕え、その奉行(重臣)として活動していることが分かります。逆の視点で見ると天霧城主の香川氏は、周辺の三野・秋山・河田氏などを家臣団へと組織化して、急速に戦国大名へと変身していたことがうかがえます。

DSC09080
柞原寺とその向こうに爺神山
柞原寺は、三野氏の氏寺?
近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村が記されています。鴨村は現在の高瀬高校や杵原寺があるエリアにあったようです。柞原寺には境内に鎌倉期に建立された石造宝塔が残され、かつては方八町の大伽藍を有していたという伝承があります。これは大げさにしても『西讃府志』には、林三町五反を持っていたと記されます。

DSC09089
柞原寺
 実際に柞原寺背後の林を造成して高瀬高校を建設中に、山林の土中から五輪墓石数十基が出土しています。戦国期の戦死者をとむらつたものと伝えられます。三野氏のものかもしれません。どちらにして、現在の柞原寺から高瀬高校一帯が境内で、それが三野氏の菩提寺であったとしておきます。柞原寺は、その背後に甘南備山として信仰対象でもあった爺神山を望む「遙拝所」であったと私は考えています。秋山氏が本門寺を保護したように、三野氏も柞原寺を保護したのでしょう。
DSC09081
柞原寺
長宗我部元親の讃岐侵攻直前の三野郡の情勢を見ておきましょう。
①高瀬郷 秋山氏
②勝間郷        三野氏
③詫間郷 詫間氏
④熊岡(比地)郷帰来秋山氏
⑤麻郷    麻近藤氏
  当時の中讃から三豊にかけての勢力対立は、次の2勢力でした。
A 戦国大名化する天霧城の天霧山
B 讃岐全域を支配下に置こうとする阿波の三好勢力
三野郡の①~⑤の武士団の棟梁たちも、AかBのどちらに付くかの選択を求められることになります。Aの香川氏の外交方針は一貫しています。それは「反三好」です。主君である細川氏を下克上で追いやった三好氏は許せないという感情論もあったでしょう。讃岐に侵攻してくる三好に対抗するためにどうするかが香川氏の外交方針です。そのために、あるときは信長と組み、後には毛利に頼り、そした最後に長宗我部元親と同盟するのです。香川氏が目指したのは「反三好」戦線の構築です。
1細川氏と三好氏

 一方、香川氏の勢力に反発を抱く者は、阿波三好勢に頼ります。
例えば、⑤の近藤国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。こうして次のような関係ができます
 長宗我部元親=天霧城の香川氏 VS 阿波の三好氏=麻近藤氏

これを香川氏の目から見ると、三好氏についた讃岐の武士団は敵なのです。
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「南海通記」などの軍記物は、幕藩体制も固まった江戸時代中期になって書かれました。そのため各藩ごとの「郷土愛」で彩られ、長宗我部元親の侵攻を土佐軍と讃岐防衛軍の戦いという「郷土防衛戦争」の視点描いています。そこでは、最後まで抵抗する香西氏や東讃の武将に共感が働き、抵抗せずに降伏した香川氏は「悪者」としての役割を与えられています。読んでいて、土佐軍に果敢に抵抗する藤目城などに、どうして援軍をおくらないのか。同じ讃岐人として恥ずかしくないのか・! というような感情がわいて来ます。
 しかし、さきほど見たように、香川氏の基本的な外交戦略を思い返すと、その反発は的外れなことに気付きます。長宗我部元親と香川氏は「反三好」で利害が一致するのです。
そして長宗我部氏も香川氏も、かつては細川氏の臣下だったのです。
阿波三好氏との戦いは、主君細川氏のともらい合戦という大義名分もついてきます。香川氏は早い時期から長宗我部元親との同盟締結を模索していたと私は考えています。それは元親配下の修験者たちによって密かに進められていたと想像します。だから、香川氏は、土佐軍の侵入に対しても援軍を送らないし、動かないのです。近藤氏や本目・新目氏たちは、かつて三好氏の先兵として天霧城を取り囲み、その後も小競り合いを続けて来た敵なのです。それを土佐軍が「駆除」してくれる。その長宗我部元親と手を組むのは自然です。これは「降伏」ではなく「同盟」なのです。当初は「秘密同盟」であったかもしれません。
 そういう目で土佐軍が焼き討ちを行ったとされる所を見てみると。阿波三好方についていた武士団の拠点が多いことに気づきます。観音寺や本山寺、弥谷寺などの寺院は、焼き討ちを受けていません。それは、香川氏の勢力範囲だった所です。そういう意味では、三野氏の氏寺である柞原寺も戦禍にはあっていないと思うのですが、なぜか焼かれたと寺伝は伝えます。これも金刀比羅宮と同じで、長宗我部元親を嫌う機運が高まった結果かもしれません。そして、長宗我部側と戦った近藤氏などの所領は没収されます。

 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領として麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬などが挙げられています。これはかつての近藤氏の所領でした。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったのです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が移住・入植してきました。

香川氏が長宗我部元親に降って同盟関係を結んだ仕上げに、元親の次男親和が香川氏の養子に入ります。
その見返りの人質として岡豊城に入ったのが三野菊右衛門です。土佐へ移った香川信景・親和父子のその後の動向は、どうだったのでしょうか?
 岡豊城の近くの東小野という所に、屋敷を宛がわれたようです。『長宗我部地検帳』には「香川殿様分・香五様分」などと記されている土地があるようです。香川殿様は香川信景、香五様は香川五郎次郎(元親次男)のことです。ここからは、長宗我部氏から知行地を与えられていたことが分かります。この隠居地で晩年を過ごしたようです。
  一方、土佐へ赴いたのは香川氏父子だけではなかったようです。
『地検帳』には、三野・河田(川田)・詫間・山路・観音寺などの名前が見えます。これは香川氏の家臣です。その中の三野菊右衛門・河田七郎兵衛は、信景が元親と和議を結んだ際に人質として土佐へ赴いた人物です。ここからは香川氏の家臣の多くは土佐へ亡命し、そこで所領を与えられたことが分かります。戦いで敗れて逃げ落ちたかつての同盟軍のものたちを、元親は迎え入れています。多くの者は新しい領主山内氏のもとで帰農していったのでしょう。
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生駒親正
 秀吉によって讃岐領主に指名されたのは生駒親正です。
親正が秀吉から命じられたのは「次は九州平定で、その次は朝鮮出兵じゃ、それまでに船と兵をそろえておけ」ということです。水軍強化と兵士増強が最重要課題でした。そのために手っ取り早いのは、任地讃岐の讃岐の武士を家臣に取り立てることです。香西氏の家臣達をはじめ、数多くの土豪たちが取り立てられます。
 親正の子である一正に取り立てられたのが、三野四郎左衛門です。香川氏の重臣であった三野菊右衛門の息子です。彼は土佐に行かず三豊に残っていたようです。若き一正と共に、対馬海峡を越えて朝鮮出兵に従軍しています。讃岐武士団の登用は、朝鮮出兵の動員兵士を確保するためでもあったことが分かります。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺)
 関ケ原の戦いに生駒家は、父親正は西軍に、子一正は東軍について戦います。この時も、三野四郎左衛門は一正に従って関ヶ原で戦います。この時に四郎左衛門は、大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めることになります。讃岐出身者としては最高の出世者です。こうして生駒藩の中で三野家は押しも押されぬ存在になっていきます。

三野氏は、見てきたように中世の三野郡司の出身で国人領主でした。
そのため地元の勝間では、多くの作人を支配し土地耕作を行っていたと考えられます。特に生駒藩では、「自分開」の新田開発が認められていました。自分が開発した新田は自分の領地となるというのです。そのため有力者は百姓たちを使って周辺の未開地の新田開発を進めます。またこれを聞いて、周辺の国々からも資金力のある土豪や帰農を目指すかつての武士団の一族がやってきて開発を進める光景が至ることろで見られたようです。その筆頭に立っていたのが家老職にあった三野氏です。

生駒家新田開発一覧表

 こうして三野氏の拠点である勝間では、新田開発が急速に進められていきます。三野四郎左衛門の息子の孫之丞は、700石もの「自分開」を持っています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。この広大な新田を、どのようにして拓いたのでしょうか。これはまた次回に・・・

以上をまとめておくと
①三野氏は、綾氏出身で三野郡の郡司と在庁官人を兼務する有力者で、次第に武士団化した。
②源平の戦いの際には、平家の支配する讃岐国衙を捨てて、京都に上り源氏方に付いた「讃岐在庁官人グループ」の一員ともなった。
③これによりいち早く源氏の御家人となったメンバーたちは、その後の留守所でも大きな政治力をもつことになった。
④三野氏は、その後も三野郡で勢力を保持していたが16世紀初頭の細川家の内紛で、詫間城や勝間郷の権益を失った
⑤その後、天霧城の香川氏の重臣として活動し、勝間城を拠点に勢力を伸ばした。
⑥三野氏の菩提寺は、柞原寺が考えられる。
⑦香川氏が長宗我部元親と同盟を結ぶと、三野菊右衛門は人質として岡豊城に入るとともに、残された一族は東讃侵攻の先兵としても活躍した。
⑥生駒氏の下では、三野四郎左衛門が生駒家二代目の一正に登用されて、関ヶ原の戦いで大殊勲をあげ、その戦功で5000石の家老にまで出世した。
⑦生駒家の文書には、西嶋八兵衛と並んで生駒家の主の名前が並ぶものが数多くある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献 高瀬町史  高瀬町域の武家と生活 三野氏 133P
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大水上神社の参道
大水上神社は、古代には延喜式の讃岐の二宮神社でしたが、中世には衰退します。二宮三社縁起には、近藤氏がそれを八幡神と合祀して二宮三社神社として再建したこと、そして、神職も近藤氏の一族が務めるようになったことを記していることを前回は見てきました。中世には、近藤氏の保護を受けて二宮三社(大水上神社)は存続していたようです。今回は、大水上神社の保護者であった二宮近藤氏を見ていきたいと思います。テキストは高瀬町史です。
まずは近藤氏の系譜を最初に確認しておきます。
『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、「近藤国平」が記されています。
1 国平は讃岐守護となり、子孫は地頭として讃岐に定着する。
2 近藤国平の子の国盛は土佐に移住し、土佐大平氏を称し、子孫は後に讃岐に帰ってきた。
3 室町時代の「見聞諸家紋」には、大平氏は近藤国平の子孫を称している
4「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮」とあって、室町期には二宮、麻の両系統の近藤氏がいた。
5 二宮近藤氏は、大水上神社領を中核とした二宮荘を根拠地とした近藤氏
6 麻近藤氏は、土佐から讃岐に再び移住してきた大平氏の一族で勝間、西大野に所領を持った。
 ここではふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。
① 麻近藤氏 本地は麻城(高瀬町麻)
② 二宮近藤氏 本拠地は、大水上神社領を中心として
二宮荘(羽方、神田、佐俣)で神田城拠点
この内の①麻の近藤氏については、大野庄の年貢を手形送金していたことや、押領して訴えられていたことを以前にお話ししました。今回見ていくのは、②の二宮近藤氏です。
大水上神社 近藤氏系図

二宮近藤氏の祖先は、鎌倉時代初期に守護として讃岐にやってきたようです。
近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、戦功を挙げて頼朝側近の一人として仕えます。国平は元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。その直後の3月24日、平家は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡します。しかし、平家滅亡後も世の中が落ち着いたわけではなく、不穏な空気が瀬戸内海には漂います。そうした中で讃岐に、武士の乱暴狼籍の鎮定のために派遣されてくるのが近藤国平です。建久10(1199)年には、讃岐守護に就任します。混乱を鎮めた経験を買われ、動揺した讃岐国内を鎮める役割を果たしたようです。つまり、近藤氏は、讃岐守護としてやってきた西遷御家人になるようです。しかし、その後の近藤氏はパッとしません。その後の讃岐守護には有力御家人三浦氏や北条一門が就いています。近藤氏の出番はなくなり、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。近藤氏は讃岐国内においては、大きく成長することはなかったこと、二宮荘を拠点として、細々と存続していたことがうかがえます
一族の中で、国平の子の国盛は、土佐に移住して大平氏を称します。
『見聞諸家紋』には、大平氏は近藤国平の子孫を称していて、同じ左巴紋で「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」と記されています。室町期には、二宮、麻にふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。、
①二宮近藤氏は大水上神社領を中核とした二宮荘(三野郡)を根拠地
②麻近藤氏は土佐から讃岐に再び移住してきた一族で、麻を本拠地

その後の、史料に現れる近藤氏を見ておきましょう。
元德3年(1331)二宮荘を下地中分
文和4年(1355)藤原(近藤)国頼が祇園社領西大野郷の代官職獲得
文安3年(1446)祇園社から麻殿へ西大野郷の料足10貫文の請取受取
享徳3年(1454)将軍足利義政から近藤越中守に勝間荘領家職(三野郡)と西大野郷領家方代官職が安堵
このように近藤氏は、三野郡の大野郷・勝間郷を基盤として活動し、「麻近藤入道」あるいは「近藤二宮元国」と称されたようです。近藤氏は、西大野郷以外に「麻(勝間郷)」にも勢力を拡げます。その結果、讃岐二宮の大水上社に強い影響力を持つようになったようです。近藤氏は細川京兆家の内衆としては、名前が出てきません。しかし、応安2 年(1368)以後は在京していたことが、史料から確認できるので、守護細川氏の被官として奉公していたことは確かなようです。

大水上神社 羽方エリア図
二宮庄の羽方村エリア 北に佐俣、南に神田がある
二宮近藤氏が基盤とした二宮庄を見ておきましょう
 二宮荘は天文二(1533)年の「法金剛院領目録」に大水上社とあり、大水上神社を中心に、羽方・佐俣・神田のエリアで成立した荘園のようです。ここには、田101町2段70歩、畠151段160歩と記されています。元弘の乱後の元徳三(1331)年に、二宮庄の地頭近藤国弘以下の武士達が、年貢の滞納・押領の罪で領家の臨川寺に訴えられ、下地中分が行われたことが史料に残っています。
 『二宮記録』天正二(1574)年の記事には、領家方、地頭方に分かれて神事を負担したことが記されています。約240年前に下地中分で分割されたエリアが、戦国期になっても残っていたことがうかがえます。その地頭方と領家方にそれぞれ記されている名田をあげると次のようになります。

 地頭方として、
是延、友成、成重、徳光、時真、利真、友貞、是方、貞弘、光永、大村分、正時、吉光、末利、助守の一五名、
 
領家方として、
清真、光末、真久、為重、守光、安宗、光包、時貞、友利、末光、末真、国行、重安、是安、吉真、真近、国真の一八名

 これらの名主や地侍達が、二宮三社の神事を指図した宮座のメンバーたちのようです。羽方エリアには地頭の吉成、領家の光真、黒嶋に領家方の光弘の名が見えます。彼らは、数町規模の名を持っていた有力者だったのでしょう。
二宮三社縁起によると14世紀の半ばに、二宮近藤氏が本殿を建立したことを次のように記しています
大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享11(1439)年9月10日に、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、京都より帰国し、11月10から造営が開始された。そして、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏は安座した。
ここからは次のようなことが記されています
①二宮(近藤)国重が在京していたときに造営奉行に任じられて帰国し、建立に取りかかったこと
②その際に東西守護代の安富氏と香川氏と150貫の寄進があったこと
③建立された本陣には3つの神々と、その本地仏が祀られたこと
  この縁起は、江戸時代の中期に書かれたもので「造営奉行」などという用語も使われているように同時代史料ではないので、そのままを信じることはできません。しかし、「従京都下着」とあるように、近藤氏が常々は京都にいたことがうかがえます。また、近藤氏によって二宮三社の本殿がこの時期に建立されたことは事実と高瀬町史は考えているようようです。
 それでは二宮近藤氏の居城は、どこにあったのでしょうか
大水上神社 神田
神田エリアは二宮荘の南部に当たる。
全讃史には「神田村にあり、近藤但馬、これに居りき」とあります。ここから二宮近藤氏の居城は神田城(現山本町神田砂古)とされています。位置は、国道377号沿いのファミリーマート神田店の東南の竹藪の中になります。グーグルに「神田城跡」とマーキングされている所は、記念碑が建てられている所で、城郭跡はこの竹藪のうえになります。

大水上神社 神田城2
 
 中世城館調査報告書(香川県)で、神田城の縄張図を見ておきましょう。

大水上神社 神田城
神田城縄張図 中世城館調査報告書(香川県)

 記念碑が建っているのは城郭先端の「シロダイ」から伸びて来た尾根のスソになります。「城の下」や「下屋敷」という地名も残ります。下屋敷からは道路工事に伴う発掘調査で、中世後半の遺物が出ています。その前を神田川が流れています。このあたりに居館があったのかもしれません。城郭跡として確かな遺構は2本の堀切だけです。その他は山全体が畑化された際に破壊され、「曲輪らしいといえるだけ」と、報告書は記します。そして次のように続けます
「縄張り図のIも完全な削平地ではなく、Ⅲは広くはないが平坦地で曲輪と言え、両側に堀切がある。これより南東にも平坦地が続くが畑と考えられ、堀切までが城域と判断する。北の堀切から北東の谷に向かって溝が下り、先端に城の井戸といわれる小池がある。尾根先端部にも平坦地があるがかつて畑化されており、南端に城の井戸と言われる穴があり、昔からあったというが、表面観察では後世のものと思えたが、試掘調査を行った。遺構は存在しなかったが、中世後半の遺物が出土している。
  実際に、素人の私が見るとただの竹藪にしかみえません。しかし、「2本の堀切」と「中世後半の遺物が出土」しているので城郭跡にはまちがいないようです。二宮近藤氏の居城なのでしょう。

この地区には次のような話も伝わっています。
下屋敷の農家の庭先を東へ進むと雑木林の中に宝筐印塔があります。笠の古いものもあり、地元の人々の話では、ここを筍藪にでもしようと思って開墾にかかったところ、人骨が次々と出て、それがフゴに一杯もあった。しかたなくこれを川に流したところ、不吉なことが次々と起こった。そこで再び墓地にもどし、散乱した墓石などを整理した
これも落城悲話のひとつとして、古老が語り伝えてきた話です。この墓地は、二宮近藤氏の兵を弔うものでしょう。墓地からは、谷一つ向うに筍籔となった神田城跡があります。

 前回見た大水上神社に伝わる『二宮記録』には、本殿建立者として近藤国茂の名前がありました。
この城のある神田は、大水上神社の氏子エリアでもあります。近藤但馬の子孫という人たちが住む城跡北東の土井地区には、「ドイ」・「ドイノモン」の地名も残っています。その近くの薬師庵には、近藤但馬の墓と伝えられる五輪もあります。二宮近藤氏は、この城のある神田地区を拠点に、二宮三社(大水上神社)の筆頭氏子として宮座を率いて祭礼を行い、二宮荘への影響力を行使していたとしておきましょう。
 仁尾の近藤家の一族を見ておきましょう。
 応永九(1402)年、草木荘(仁尾町)の近藤二宮元国が仁尾の常徳寺に三段あまりの本浜田を寄進したという記録が残っています。草木荘は石清水八幡宮護国寺領の荘園で、現在の仁尾町草木にありました。「二親之菩提」と「当家繁栄」を祈るために寄進するとあます。ここからは、仁尾にも二宮近藤氏の一族がいて、その菩提寺が常徳寺であったことが分かります。ここからは二宮近藤氏のひろがりがうかがえます。草木には中上館跡と呼ばれる地頭の館跡との伝わる場所があります。また、土井、上屋敷、城の門、大門、上屋敷、前屋敷といった地名が残されています。これらが二宮近藤一族の館と高瀬町誌は推測しています。

 応仁の乱と近藤氏  
 応仁の乱において讃岐の武士たちは、守護の細川勝元にしたがって戦いました。応仁の乱で細川方についた武士の家紋を記した「見聞諸家紋」に、麻と二宮の近藤氏が載っています。ここからは近藤氏が従軍し、京都で戦闘に参加したことがうかがえます。
 応仁の乱後も、讃岐では兵乱が続きます。
文明十一(1479)年には守護細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、山名氏に味方した伊予の河野氏を攻撃します。この戦いで麻近藤国清は合戦に参加し、伊予寒川村で病死しています。二宮近藤氏も従軍していた可能性があります。
大水上神社 近藤氏系図
讃岐近藤氏の系図
国清のあとは、国保、国匡と続きます。近藤国匡は土佐の大平国雄から大江流軍法を学んだと云います。大平国雄は文明年間に在京して、和歌、連歌、五山僧と交流を持った人物で、父国豊から学んだ大江流軍法から二、三項を抜き書きし、心あるものに伝えようとしたことが五山僧月舟の「書決勝後」と題する一文に書かれています。ここからは、大平氏から近藤氏に大江流軍法が伝えられたことがうかがえます。これは、実戦に役立つものというよりも、武士としての必要な教養でした。どちらにしても、麻の近藤氏は在京し、中央の高い文化に触れていたことが分かります。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 二宮近藤氏の阿波三好氏への接近がもたらしたものは? 
国匡の次が国敏になります。国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えます。阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化しようとしたようです。そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。
  国敏によって取られた阿波三好氏への接近策は結果としては、二宮近藤氏を衰退に導くことになります。阿波三好氏の讃岐侵攻が本格化すると、近藤氏は阿波三好氏の先陣として動くようになります。
これに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
 織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

  永禄三(1560)年、尾張で織田信長が今川義元を打ち破った年から翌年にかけて、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは以前にお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで国雅が永禄三年に討死しています。これらの戦いは、麻の近藤氏と三野の秋山氏の間で代理戦争のような前哨戦が行われていたようです。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう
 武家家伝_大平氏大平国祐・国秀・国久 
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。かれを取り巻く肉親関係は少々複雑ですが見ておきましょう。国祐は大平氏を名乗ります。母親は大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。国祐の子が国常で、その母親は香川元景の娘だとされます。国祐を土佐の大平氏が滅亡後に讃岐に落ち延びてきたものという伝承もありますが、土佐大平氏の滅亡は天文十五(1546)年前後のことなので、国祐が土佐から落ち延びてきた人物とは考えられないと高瀬町史は記します。

 永禄六(1563)年8月7日に阿波三好勢の圧力を受けて、香川之景は、天霧城を一時的に落ち延びます。この時の感状が秋山氏や三野氏に出されています。しかし、城は落ちても香川氏の抵抗は続いていたようです。例えば、閏12月6日に財田では、讃岐武士が阿波大西衆と戦う財田合戦がありましたが、ここには秋山氏の一族である帰来秋山氏が参戦し、感状を香川氏から受けています。感状が出せるというのは、香川氏が一定の支配権を維持していたことがうかがえます。

大水上神社 長宗我部元親

長宗我部元親の讃岐侵攻
 このようななかで阿波三好勢の讃岐侵攻を根本からひっくり返すような「国際情勢の変化」が起きます。長宗我部元親が土佐から西阿波へ侵入してくるのです。天正5(1577)年に土佐勢は、阿波白地城の大西覚養を攻め落城させ、ここを阿波・讃岐侵攻の拠点とします。大西覚養は讃岐二宮の近藤国久のもとへに落ち延びたと西讃府志は記します。伝承では、近藤国祐や国久の母は阿波白地の大西長清の娘でだったとされます。そのために近藤氏は、母方の里である阿波の大西方として戦うようになったとします。
 白地城
長宗我部元親が白地城を落とした天正五(1577)年は元吉合戦が行われた年でもあります。
 この合戦で、香川氏は毛利方と協力し、讃岐の三好の勢力を一掃します。そして、次のような処置がとられています
①尊経閣文庫所蔵文書の「細川信元書状」では、大西跡職を香川中務大輔に申し付けられ
②出羽方所領の50貫文が帰来秋山親安に与えられてること
ここからは、毛利=香川=秋山氏が勝ち馬側で、大西氏側についた近藤氏は負け馬側となり所領を没収され、それが香川氏配下の秋山氏などに与えられたようです。近藤氏の勢力は、これによって大きく減退したと高瀬町史は指摘します。
近藤氏の滅亡 
第9章:讃岐侵攻 -長宗我部元親軍記-

 毛利氏が讃岐から手を引くのを待っていたかのように、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まります。
大水上神社 麻城

元吉合戦の翌年の天正6(1578)年、麻城は、財田本篠城を陥落させ侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城します。その年代はよく分かりませんが、麻城城主の国久は麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地を横死ヶ谷と呼んでいます。
 大平国祐の居城である獅子ヶ鼻城(和田城、大平城とも)も、落城します。国祐は出家して、姫郷和田村(豊浜町和田)にあった真言宗の寺を廃して、日蓮宗の国祐寺を開きます。その後、秀吉の四国平定後、仙石秀久につかえ九州遠征に従軍し、入水自殺し、国祐寺に葬られます。
雲風山・國祐寺 | kagawa1000seeのブログ

 国祐の弟で国久の兄国秀は、財田上の橘城(天王城)の城主でしたが、これもまた落城します。伝承では長宗我部元親によって焼かれたとあります。この城の構造は、讃岐にはあまり見られない竪堀構造で、土佐の山城の特徴を持っています。これは、藤目城や本篠城と同じです。落城後には土佐軍の讃岐侵攻の拠点として、土佐風の改修が行われたようです。この城跡の南東にある鉾八幡は、国秀が付近の神社を合祀したものとされます。また伊舎那院には中将国秀と書かれた竹筒が出土しています。
橘城の図/香川県三豊市|なぽのホームページ

 財田上の橘城(天王城)
二宮の近藤氏の居城である神田城については、どの史料にも落城のことは出てきません。しかし、麻城や獅子ヶ鼻城の落城のようすからみると、二宮近藤氏も最後まで抵抗し、落城した可能性が高いように思えます。こうして、麻の近藤氏 二宮(神田)の近藤氏 財田の近藤氏は領地を没収されることになります。
それでは、没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
 長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』には、三豊市域の地名がいくつか記されています。三豊平定から3年後の天正九年(1581)八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、香川氏に婿入りした長宗我部元親の次男親和に従って土佐からやってきた人物です。そこには、次のような地名が記されています。
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

これらは高瀬町や周辺の地で、大水上神社の旧領地であり、同時に近藤氏の領地でもあった所です。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が吉松右兵衛に与えられています。これらの地は財田・山本町域になります。ここからは、長宗我部元親に抵抗した近藤氏やそれに従った土侍衆から土地が没収され、土佐からやって来た新たな支配者に分配されたことがうかがえます。
 江戸中期に書かれた大水上神社に伝わる縁起の最後の巻には次のように記されます。
大水上神社縁起16
意訳変換しておくと
     昔は二宮三社神社(大水上神社)は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になってしまった。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。

ここからは、土佐軍侵入で大水上神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会ったこと。そして、近藤一族などの保護者を失い再建不能な状態にあったことが分かります。近藤氏の多くは神田を中心に帰農しますが、一部は大水上神社の神職として神に仕えるものもいたようです。後の時代に彼らの子孫達にとって書かれた縁起が、長宗我部元親に対して厳しいのは当然のような気がします。

高瀬町史は新たな視点から長宗我部元親の三豊支配に光を当てます。
 高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があるようです。またこの地にある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと云われます。一方、高瀬町上勝間に鎮座する土佐神社は、長宗我部元親が創建した神社で、もともとは矢ノ岡にあったものを、延宝三年(1675)に日枝神社境内に遷座したと伝わります。明治の北海道移住者が出身地の寺社を勧進し、新たな入植地の精神的なシンボルとしたように、土佐から移ってきた人々の信仰対象として祀られたものかもしれないと高瀬町史は指摘します。それは、先住者を追い出して土佐人が入植したと云うよりも、原野が開発され、新たな村落が形成されたという事実を紹介します。

そして、次のように閉めます。
 戦いの時に寺社は軍勢の駐屯地になり、もし敵に攻められれば火を放つこともあった。それは戦いの常套手段であり、かならずしも長宗我部氏だけがしたことではない。元親は大野原の地蔵院に禁制を出し、禁止事項を厳命している。これは戦時における寺院保護のため出されたものであり、寺院焼き打ちとは反対の施策である。以上のことから何を知ろう。「侵略者は悪者」といったイメージは勝手に作り上げられたものであり、歴史的事実の上で再度見つめ直さなければならないと考える。

 長宗我部元親=侵略者という論を越えた所に高瀬町史は、立っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高瀬町史 近藤氏の動向 127P

  DSC02784
大水上神社奥社 
二宮三社(大水上神社)は、長宗我部元親による破壊の後、「今に大破の儘にてこれ有り」と縁起にあることを前回は見てきました。ここからは社殿以外にも、2つあった神宮寺も消えたことがうかがえます。丸亀藩に提出された縁起書自体が、社殿の再興を願うものでした。この時期、二宮三社は小祠として存続していたようです。
しかし、元和五(1619)年の記録には、次のように記されています。
「佐股天神二て神楽執行につき二宮太夫差配のことで出入りに及んだ」
佐股天神社の祭礼の神楽をめぐって、勝間の大夫(神職)が近所であるという理由から佐股村で雇って神楽を踊らせます。これに対して佐俣の本社である二宮の太夫が反発して、「俺のテリトリーで勝手なことをするな」と、騒動になったようです。ここからは、二宮には太夫(神職)が存在し、神社組織が復活していたことがうかがえます。
 約40年後の寛文八(1668)年にも、再び佐股天神で行われた湯立神楽をめぐって二宮の大夫との間でもめごとが起こっています。さらに、延宝六(1678)年の「居林検地帳」には「長三百間 横三百拾間 〆九万三千坪」と居林(神社の所有林)のことがが記されています。ここからは、この時期には社林が確保され社殿なども整っていたことがうかがえます。
一方、龍花寺が別当寺として復活して活動を始めているのが史料からは分かります。この寺は、宮川を下った所にある延命院の末寺であったようです。こうして二宮三社は、神仏混淆の下に龍花寺の社僧と太夫らの努力によつて社殿の整備が進んだようです。

 二宮社の史料に、本地仏に関する記事があります。  373P
神仏習合下の二宮三社には、本尊(仏像)が置かれ信仰されていました。1714年9月に、大林徳左衛門の母が、二宮社に本地仏を寄進したことが、次のように記されています。
「二宮先寺龍花寺宥仁師御進メニ寄り 羽方村徳左衛門母より三尊の内弐体御寄進仕り置き候、則ち宥仁より下され候書付別紙に相添え御目に懸け申し候、徳左衛門覚中尊一体は右宥仁古仏(中略)
再興の上ニて三尊二成らるべき由、右中尊宥仁御物語ハ神田羽方左又撫も義進ヲ進メ、其の料物もらい取り立て申し度旨御噂承り候」
「右の仏体御宮内二置き申し度と申す義少しも御座無く侯、元来宥仁御進メ本地堂時節ニより二世安楽の為寄進候様二付き、致し置き候」

意訳変換しておくと
「二宮の龍花寺の宥仁師の勧めで、羽方村徳左衛門の母より三尊の内、2体の仏像寄進があった。そこで宥仁から下された書付別紙に相添えて、ご覧いただいた。徳左衛門の中尊一体は宥仁の古仏(中略)本殿再興の際に、三尊が安置された。中尊は宥仁が神田羽方左又(佐俣)で寄進を進め、それで集まった料物をもらい受けたもので・・」
 
ここからは別当寺である龍華寺の社僧宥仁の働きかけで、三尊仏の内の二体が寄進され、残りの一体を各村々の氏子たちの寄進で揃えたことが記されています。二宮神社の祭神と本地仏をもういちど確認しておきましょう。二宮文書には次のようにありました。
敬白上棟第二宮
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月評日子時御安座
ここに出てくる三尊とは、これらの祭神の本地物を指しているようです。羽方村徳左衛門母より三尊の内のふたつが寄進され、その後、もう一体も寄進活動で集まった資金でそろえることができたというのです。ここからは、社殿の中に本地仏三尊が安置されていたことが分かります。龍花寺の社僧と太夫が二人三脚で、二宮三社を復興させていたことがうかがえます。

 ところが18世紀になると、龍花寺の社僧と太夫との関係がぎくしゃくするようになります。
全国的にみて、この時期は、神道吉田家が地方の神社との関係を強める時期でもあります。吉田家の説く神道イデオロギーが浸透し、太夫達が別当寺との対立を引き起こす事件が多発するようになります。そのような時代の空気が、二宮三社にも及んでくるようです。
 事件は享保五(1720)年に、延命院が呼びかけ神田村六左衛門の寄付で、釣鐘を鋳造したことから始まります。
この鐘の銘文については、神主名は入れないままに鋳造されることが決まっていました。ところが出来上がってみると、銘文には「別当延命院」と鋳られていたのです。太夫達からすれば、延命院は龍華寺の本寺ではありますが別当寺ではありません。しかも、自分たちの名前は入れていないのです。そこで抗議して「別当」の字を削ったといういきさつがあります。他にも
1 棟礼に神主の名が入っていたために、延命院が龍花寺に命じて焼却させた。
2 龍花寺が二宮林の木を勝手に切り取って持ち帰った。
3 拝殿の鍵は延命院が管理していたが、勝手に取り扱っており、太夫が大晦日に供え物を献じに来ても、社殿の扉が閉まっていたこともあった。
 これは神社側の後の裁定での言い分なので、一方的批判になりますが、拝殿の鍵を延命院が管理していることをどう考えればいいのでしょうか。
①土佐軍の兵火で小さな祠だけになった二宮三社を、延命院が管理するようになっていた。
②新たに再建された神宮寺の龍花寺も延命院の援助の下に再建された。そのため延命院の末寺となった。
③そのような中で、近藤家の末裔達による神社復興も進み、近藤家の一族が太夫を務めるようになった。
その結果、近藤一族を背景とする力が復活するにつれて、拝殿を管理する延命院との対立が激化するようになった。こうして、近藤家の神主 VS 延命院=龍花寺の別当社僧という対立の溝が深くなっていったと高瀬町史は推測します。祭礼中止という事態も、このような対立が背景にあったようです。そして、対立は頂点に達します。

事件は文三(1738)年に起きました。その経過を、見ておきましょう。
 元文三(1738)年8月6日、本寺延命院からその末寺で二宮の社僧を勤めている龍花寺に指示書が届きます。そこには、去年のように物言いが起こらないように早く二宮の祭礼に出かけるようにとの指導内容です。物言いとは、神前の掃除などを行う御前人という役を勤めていた佐股村庄屋の瀬兵衛と延命院から出されていた次の2点の抗議です。
①御前人が宮中へ入ること
②神輿へ入れる幣について村の特定があるということ
①については、解決していましたが、②の幣については神輿への入れ方をめぐって延命院と太夫(神職)との間で対立がありました。三人の太夫は幣を拵え一本ずつ神輿へ入れると主張するのに対し、延命院はそうではないとします。祭礼ができなくなることを危惧した瀬兵衛は、三村の庄屋が一本ずつ入れるという妥協案を出しますが、収拾できずに双方物別れとなり、ついには、旅所に向けた御幸(パレード)が出来なくなってしまいます。以後、宝暦元(1753)年に最終決着を見るまで、十五年間は御幸は行われいままになります。

 これを嘆かわしく思った佐股・下麻・神田・羽方の四カ村の庄屋などが、寄合いを何度も重ね、協議し、新たなルールを作り出していきます。これが次の「覚書」です。
大水上神社祭礼覚え書き1

意訳変換しておくと
二宮三社神社の祭礼について、15年前から神輿へ御幣を入れる、入れないをめぐって、別当寺と神職の間で争論となり、御幸ができない状態となっていた。氏子達はこれを嘆かわしく思い、新たなルールを作成して寺社の和解を図るものとする。
1 幣は、太夫や社僧が行うのではなく、御前人が神輿に入れる、
2 祭りの時は龍花寺(別当)・太夫・御前人・神主が立ち会って、早朝より神輿三体を事前に幣殿に飾っておく、
3 龍花寺は祝詞と金幣をあげる、
4 三人の太夫は、神楽をあげる
5 神楽は名代が行う事は認めない。

 龍花寺の社僧と、太夫(神主)の間で分業がきちんとされる内容になっています。この取り決めを作成するために各村で寄り合いが開かれ、それを持ち寄り村役人による協議が何度も行われていたことが残された史料からは分かります。上から試案がだされて、これでいいかというものではなく、下から積み上げていく丁寧な試案作りです。時間と手間をかけた話し合いが行われています。そして、最後は村の戸主の一人ひとりの印をとっています。当時の村々をまとめて行くには、これだけの手間暇が必要だったのでしょう。同時にそれが村々の底力となったことがうかがえます。
 祭礼分担は、これで解決したようです。これが明治の神仏分離まで続くことになります。

そして御旅所までの御幸行列の順番が次のように示されています
先頭に榊神具、次に鉾をもって神田村の角左衛門が従い、行列の以下は次の通りです。
大水上神社祭礼2

これを見ると神輿の前に、社僧がきます。そして、神輿の後に神主や太夫が位置します。また、祭礼パレードのことだけではなく、瓦葺きなどの遷宮の時の導師は、延命院が務めることや、御神体は、別当寺の龍花寺が保持することなど、問題になりそうなことが事前に協議されています。そして、最後には各村々の代表者が署名しています。現在の祭礼ルールは、このような先人達の取り決めの上にあるようです。
  それでは、以後はこのメンバーによって祭礼が行われたのかと思っていると、そうではないようです。ルールができてこれにて落着かと思うと、丸亀藩は、関係者たちを厳しく裁定します。
 祭礼復活から5年後に、丸亀藩は祭礼中断を招き、藩や村に対する迷惑をかけたことに対する責任追求を開始します。その吟味は宝暦七年から九年にかけて行われています。
「宝暦七年 二宮寺社出入御吟味之次第覚書」は、その取調記録です。これは『高瀬町史史料編』の「大水上神社社人・別当出入一件」(高瀬町史資料編408P)に次のように載せられています。
大水上神社祭礼吟味1

  まずは羽方村の龍花寺と庄屋などの関係者を呼び出し、調書を取ることから始まっています。関係者一人ひとりの取り調べ調書が残されています。二宮三社神社をめぐる騒動は、当時の大事件になっていたことがうかがえます。3年間の取り調べの後に、藩の下した裁定は次の通りでした。
1 羽方村庄屋銀元郎は役目を十分に果たしていなかったことで「重々不届きニ付き閉門」
2 神田村庄屋近藤又左衛門も「閉門」
3 二宮神主の小十郎も「閉門」
4 社僧龍花寺は諸事の対応に「社僧に似合わざる不埓の至り」につき「両御領分御構い成られ追去」を命じられ、丸亀・多度津両藩領内にはいられなくなった。更に延命院からも勘当され、牛屋口から追放された。
5 延命院も「閉門」
6 二宮の太夫三人については篠原兵部と篠原因幡が追放、黒嶋子庫は神職取り上げの処分。
そして、二宮三社神社の新たな太夫には、麻部神社の太夫遠山氏と勝間の太夫藤田氏が任じられることになりました。こうして見ると、別当寺関係も神職関係もすべて追放され新たな体制となったことが分かります。いわゆる喧嘩両成敗の裁定です。
 ただ、社僧龍花寺が追放された後にあらたな別当が入ってきた気配はありません。また、延命院は閉門を契機に、二宮三社への影響力を弱めたことが考えられます。そうだとすれば、新たな太夫達による運営体制が整えられて行ったのかもしれません。拝殿の鍵を誰が持つようになったかは分かりません。

 江戸時代の中頃までは、寺院と神社の間で、領分が分けられ、権益が重ならないように調整され、「棲み分け」が行われていたようです。ところが江戸時代後半になると寺社のそれぞれが「新法」を主張し、それまでの「棲み分け」領分への「侵犯」が始まります。ここからいろいろな争いが起きるようになります。そのひとつの形が大水上神社には史料として残されています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献 高瀬町史

DSC02776
大水上神社の奥社に続く階段
前回は江戸時代中期に書かれた二宮三社(現大水上神社)縁起の前半を見てみました。今回は、その後半を読んでいくことにします。まず、二宮三社神社の修築に関する記事が次のように記されています。まずは棟札から始まります。
 
大水上神社縁起12

意訳変換しておくと
二宮大水上神社大明神の社殿の棟は建長六(1256)寅甲年八月午戊四日に挙げられ
大願主は沙弥寂阿   大工は 額田国弘
大水上神社縁起13
意訳変換しておくと
建立に当たって、後小松帝、弥光帝・後花園帝この三帝の勅書が内陣に保管してあったが、土州之賊徒(長宗我部元親)の悪逆で紛失した

 ここでは13世紀半ばに、朝廷の勅書で社殿が建立されたと記されています。その勅書は長宗我部元親の「悪逆」でなくなったと云うのです。讃岐の寺社の由緒書きのパターンです。土佐軍の兵火で焼かれて、証拠となる文書は燃やされてしまったという「釈明」です。

DSC02789
大水上神社奥社周辺の聖域

 さらに、大風で社殿が破損したときに、禁裏から修覆費の援助を受けたと次のように記します。
応永34(1427)年8月20日夜 にわかに大風が吹いて、周囲が十六間もある桧木が、社殿に倒れかかり大破した。そこで、年8月29日に、仮殿を建て、三神を仮殿に移した。新たな社殿の造営について京都からの援助があり、正長元(1428)年東讃守護代の安富有富が修復責任者として工事に当たった。

大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享3(1431)年7月、仮殿が雨漏りして、経蔵に宮を移した
永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、11月に京都より帰国し、造営が開始された。しかし、工事は遅々として進まなかった。そこで、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏を安座した。
大水上神社縁起15

意訳変換しておくと
今上皇帝は「聖寿万安」   将軍源朝臣は「武運長久 福禄増栄 国家安泰 万民豊楽 庄内繁昌 貴賤各願」の成就を祈願した。先だって性智院殿は讃州一国の人別銭で二宮社の落慶を行おうとしたが思うようには進まなかった。そこで、近藤二宮但州国茂を造立奉行にして三社神社の造営にあたらせた次第である。この一巻は、三社神社が大風で大破したのを近藤氏が再興したことについて記した。筆者 高松太郎頼重末葉正春

15世紀半ばに、二宮三社神社は(近藤)国重によって建立された?
二宮三社神社の修復に国家(朝廷?・幕府?)から東讃守護の安富氏が責任者に任じられたが、何年経っても完成しないので、二宮の近藤氏が造営奉行に任命されて、京都から帰り短期間で完成させたと記されています。その際に、東西の守護代である安富氏と香川氏から150貫の寄付があったというのです。
 前半部については、にわかには信じられない内容です。中世には、地方の小さな寺社を国家が保護することはありません。また守護代が他人の氏寺の修理に寄進することもありません。いろいろな虚実を取り去った後に残る核の部分は「永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が社殿を完成させた」という部分です。これは本当なのではないかと研究者は考えているようです。
 前回に見た縁起の初頭部分に、二宮の国人・近藤正光のもとに現れた八幡神を自分の館に祀り、館は藤の花で彩られるようになり、正光は藤樹公と呼ばれるようになったこと。そして、館は神社となり多くの人が参拝するようになったこと。社司は近藤家が勤めてきたことが記されていました。
   それは、今見てきた近藤氏による二宮三社神社(現大水上神社)の建立と重なり合うのではないかと思えてきます。

最後の巻で縁起は長宗我部元親について記します。それを見てみましょう。
大水上神社縁起16

 昔は二宮三社神社は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になっていました。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。
大水上神社縁起17

これに対して、毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて長宗我部元親を責めた。山伏は長宗我部元親の目には見えても、諸卒の目にはみえない。これは二宮三社や金毘羅大権現の神罰ではないかと疑うようになった。そこで元親は両神へお詫びのために金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた。これで狂気が去った元親は、大に悦び、近辺で兵卒が掠めとった宝物を残らず神納した。そして、任御門を建立した。これが今、金毘羅の門で棟札には長曽我部元親寄進とある。

ここからは次のようなことが分かります。
①土佐軍侵入で二宮三社神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会った
②近世のはじめの二宮三社(大水上神社)は、保護者の近藤氏を失い再建不能な状態にあったこと
③長宗我部元親が「金毘羅権現の近辺に放火」「金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃」と記されます。しかし、事実は、長尾氏出身の金光院院主宥雅が堺に亡命し、金毘羅は無傷で長宗我部元親の手に入っています。そこに、土佐修験道の指導者宥厳を入れ、讃岐平定の総鎮守としたことは以前にお話ししました。平定成就を感謝して建立されるのが現在の二天門です。
④長宗我部元親は、西讃や丸亀平野の平定の際には、琴平に本陣を置いたと記されます
⑤「香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って」と、香川氏が不在であったという書き方です。香川氏の毛利への一時亡命と混同しているようです。香川氏は、長宗我部元親とは一戦もせずに同盟関係に入っています。
⑥本陣を置いた金毘羅では「毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて」とあります。ここからは、当時の金毘羅が山伏(修験者)の集まる霊山であり修験の場であったことがうかがえます。
⑦「金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた」とありますが、大門が建てられるのは高松藩の松平頼重の時代になってからです。この時には金毘羅寺(松尾寺)には山門はありません。「中門」という表現は、これが書かれたのが大門建立以後のことであることを示します。

以上のように、長宗我部元親についての記述は他の史料との整合性がないものばかりです。「長宗我部元親=悪逆」という編者の先入観にもとづいて、それを示すための例が並べられている印象を受けます。
 長宗我部元親にたいしての「恨み」をはらすためには、これだけでは収まらなかったようです。さらに、次のような事が書き加えられています。
大水上神社 八幡武神
武者姿の八幡大菩薩

大水上神社縁起18
意訳変換しておくと
 その後、元親は阿波に向かい秀吉公と一戦を交えた。その時に、秀吉軍の先手の真先に武者三騎が現れた。大声を上げて元親の首を伐て、軍門に曝さんと名乗掛ける。見ればまん中の騎馬武者は雪よりも白い馬に跨がり、長さ三尺あまりの幡を掲げる。そこには地白に朱で八幡大菩薩とある。その左の騎馬武者は、栗毛の馬に乗り、幡に大水上大明神、その右は青の馬に乗馬し、幟は三嶋竜神とある。太閤秀吉は、これを見てこのような武士が味方にはいない、敵が紛れ込んでいるのではないかと使番に仰せ付けられたが、他人の目には見えない。
大水上神社縁起19

 八幡大神の加勢だ、ありがたい思し召しと南無八幡大菩薩と念誦し、筑紫宇佐の方に柏手を打ち遥拝したという。三騎は一文字に元親に向かって突入した。元親が乗った馬は膝をおりわなき振え、元親も身すくみしゃべることさえ出来ない。土佐軍の兵卒は退却するしかなかった。
この時に討取らた首は375にものぼる。これこそ二宮三社(大水上神社)の仇討ちであったと諸人は知った。
大水上神社縁起20

その後、秀吉公は滝川伊与守を二宮三神へ遣わして代参さた。その時には、元親違乱以後の後に建てられた薮の中に小さな社殿に参拝し帰京し、秀吉公へ報告した。
 この際に二宮三社の社司は秀吉公と元親との対陣の折りに起きた奇怪な出来事の端末を、次のように語った。その時には社殿が三日間震動し、三体の神輿が東南の方へ飛び去るのを肝を潰しながら見守った。どこに行ったのかもしれず、讃岐国中を尋ね探したが見つからず、
大水上神社縁起21

五十日程して神輿はいつものように拝殿に戻っていた。その側には切々になった幡があり、人々は不思議に思って、国中に尋ねたが幡の主は分からなかった。二三年後に、土州老士がこの村にやってきて元親秘蔵の幡が紛失したことを聞て思いあたった。秀吉公はこのことを聞いて、二宮三社の造営を命じ下さった。
 しかし、ほどなくして朝鮮出兵がが始まり、再建工事は始まりませんでした。その後は大坂冬の陣の時には、国主生駒雅楽頭殿に再建を命じましたが進まず、大坂落城後はほどなく権現(家康)様に再建を願いでましたが、これもかなわず、いままも社殿は大破したままである

  ここに書かれていることをまとめておくと
①二宮三社の三祭神が軍神として秀吉軍を加勢し、長宗我部元親軍を大敗させたこと
②その軍功に報いて、秀吉は社殿再興を約束したが朝鮮出兵などで適わなかったこと
③その後、生駒藩時代にも再建計画があったが実現しなかったこと
④そして、いまも社殿は再建されていないこと

 この巻は二宮三社の軍神達の活躍ぶりが印象に残ります。
八幡神は軍神として当然ですが、大水上明神も三島明神も武者姿として戦っています。「二宮三社=軍神」という目で、もう一度この縁起を見てみましょう。
 最初の巻で八幡神の軍神としての性格が語られ、次に源平合戦での神託が語られ、そして土佐軍との戦いぶりが語られていました。これは「二宮三社=軍神」観をアピールするためだったようです。
 アピールの対象は誰でしょうか。
それは最後の一行に現れています。秀吉も、生駒家も、家康も、再建を約束したのに、未だ社殿は大破したままだと記すのです。これは、京極家に対する社殿再建の請願です。別の見方をすると「二宮三社縁起」は、「社殿再建請願書」であったと思えるようになってきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

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  讃岐国二宮である大水上神社に伝来する縁起を読んでみます。
大水上神社は、延喜式内社の一つで「二宮」さんなどと地元では呼ばれています。財田川の支流である宮川の源流にあって、本殿の横には「竜王淵」があり、いまは鰻伝説が伝わり雨乞いの霊地だったようです。羽方遺跡からは銅鐸や平形銅剣も出土していますので、弥生時代から水神として祭祠したようです。
 最初に「天正三(1574)年頃に書かれたものを、徳川中期に書き写した」とあります。しかし、文中に「士農工商」などの表現がでてきたり、用字用語上の解析から江戸時代中期に編纂されたものと研究者は考えているようです。当時は「二宮三社」と自称していたようです。この縁起を書いた人物の歴史観を考えながら読んでみることにします。
 二宮三社之縁起(大水上神社所蔵)    高瀬町史史料編131  P
大水上神社縁起1
  意訳変換しておくと
「讃岐国三野郡神田村二宮三社之縁起
この延喜は天正三(1575)年頃に作成されたものを、徳川中期に写したものである。讃岐国三埜(野)郡神田村 二宮三社之縁記の目次は次の通りである
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
  大水上大明神と三嶋神と竜神社を二宮三社として祀り繁昌していること
一 元暦元年の源平両家の奉願書について
一 三社の御詫宣について
一 源氏が上矢を神納し、敵を滅ぼし会稽の雪辱を晴らしたこと
一 応永三十四年 御宮が破損したときに、今上皇帝が造営費を負担したこと
箱書に「二宮三社之縁起」とあります。三社とは大水上大明神・八幡大神・三島竜神の三神をいうと記されます。もともと祀られていた水神に、中世になって客神として八幡神や・三島竜神が祀られるようになったことが分かります。丸亀藩に納めたとあるので、最初に目次が付けられています。最初に記されるのは八幡神です。この三社の中で、当時の中心は八幡神にあったようです。
縁起は、八幡神の成り立ちを次のように記します。

大水上神社縁起2
意訳変換しておくと
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
 讃岐国三野郡神田村に鎮座する二宮三社とは、八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神のことである。
 八幡大神は、人皇十六代応神天皇のことである。その父仲哀天皇の母は神功皇后になる。皇后が三韓を征伐して凱旋した後に、その冬十二月に筑紫の蚊田でお生まれになった。これからあやしきことが続いた。皇后の治天三年に応神は四歳で皇太子と成り、71歳で帝位についた。在位41年2月15日大和国の軽(かる)の嶋明の宮で110歳で崩御した。 

人皇三十代欽明天皇の時に肥後国菱形の池乃辺の民家の子に憑依して次のようにおっしゃった。「我は人皇十六代誉田の八幡麻呂である。諸州において神明と垂跡(混淆)する。そのために、今ここに現れた」と。朝廷では勅使を下して豊前国菟狭郡に移して鎮坐し、ここから諸方に勧請伝導を行い、人々もそれを受けいれた。八幡とは八正道の幡を立て八方・衆生に利益をもたらす神号で、その霊験の強さは、古今から例証されている。
 当時流布されていた「八幡神=応神」説がそのまま記されています。次が八幡神が二宮に現れ、近藤氏の祖先と出会う場面です

80歳を越えたあるときに、八幡大神武士の姿をした老翁に出会った。翁は「汝何人ぞ」と問うと、武士はこう答えた。 
「我は八幡大神なり。この国の士農工商を守護するために、弓を帯びている」と 
翁は大いに驚いて次のように云った。
「私は、この地の領主である。まず我宅においでください。」と
 正光の館には藤樹があったが、この老武士がやって来てからは、その藤は大いに繁茂していろいろな花を咲かせるようになった。紫藤は棟となり、白藤は壁となり、青藤はハマカキと成り、黄藤は屋根を覆て、まさに不思議な館となった。そのため正光を藤樹公と呼ぶようになったと伝えられる。
  大水上神社 八幡武神
八幡神武人姿
 家は栄え、遠くまで藤の木のことは知られるようになった。藤樹の枝を折って並べると、風雨火水の難に合わないと伝えられ多くの人々が参拝するようになった。藤の花は弥生の頃に花開いて、林鐘(旧暦6月)の頃まで落花せす、霜月の雪中でも落葉しないので「常磐の藤」と云われるようになった。これもみな八幡の神力である。正光の子孫は、長きに渡ってこの地を領し、後には当社の代々の社司となった。その俗名は又十郎 官名は美濃守但馬守である。子孫代々がこの名を相続してきた。
ここに記されていることをまとめておきましょう。
①二宮の領主近藤正光のもとに八幡大神が現れた。
②近藤正光は、八幡大神を館に祀った。
③館は藤の花で彩られ、正光は藤樹公と呼ばれるようになった
④館は神社となり多くの人が参拝するようになった
⑤二宮三社の代々の社司は近藤家が勤めてきた。
書かれた内容から書き手の一番伝えたかったことを推察してみましょう。
それは、この地に現れた八幡神を祀り、維持してきたのは近藤家であるということのようです。丸亀藩に提出するために書かれたものであったすれば、それは当然なことでしょう。

もうひとつ指摘できるのは、延喜式以来の二宮神社が祀ってきたのは水神であったはずです。八幡神は後からやって来た「客神」です。本来の水神よりも、宮司の近藤氏にとっては八幡神の方が重要であったようです。二宮三社の当時の主神は八幡神であったことがうかがえます。
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次に記されるのが水神です。

大水上神社縁起4
二宮三社には岩清水の清き流があり、
その下流には大な池(淵)があって、竜神が住むと伝えられる。旱魃の時にも池の水が枯れることはない。この竜神の身体は、一月十日に白・黄・赤の三色に変わるので三嶋竜王と号する。一説には、竜身が白黄赤の三色なのでこう名付けられたという説もある。
 
 大水上大明神の尊号について考えてみると、水徳成就の水神で、天一水を生して五行思想の本源でもある。そのため五穀豊饒を守護する神号であろう。神代の昔より、この地に鎮坐してきたと伝えらる。延喜式神名帳に、当国二十四座之内三野郡一座大水上神社とある。人皇十二代景行天皇の皇子(神櫛王)が宇多津の沖で悪魚退治を行った恩賞に当国を賜り、香河郡に城郭を築いて住むようになった。当社も神櫛王の信仰を得て、正五九月に参拝され、 三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた伝えられる。
 八幡武士の姿で二月丑之日に正光の家にやって来たからので、昔は毎年この日に百手の興行を行い、八月十二日十三日は三嶋竜王の祭 十四日十五日は八幡の祭 十六日十七日は水上大明神之祭、初終六日が行われていた。遠国近国より多くの人々が、毎年祭礼を行っていた。天下泰平 国土安穏 万民繁昌の御神とされていた。
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ここで龍神伝説がでてきます。三色に変化するので「三嶋竜王」だと云います。
善通寺の影響を受けた威徳院(高瀬)や本山寺(豊中)は、善女龍王信仰が伝わっています。いろいろな形で雨乞いが行われていたようです。注目したいのは、二宮三社神社で、この縁起が書かれた頃には雨乞いは龍神伝説だったことです。それがいつの間にか現在の「鰻淵の大鰻伝説」に変わっています。今は、ここに龍が住むとは伝えられず、鰻が住むとされています。龍から鰻への交替がいつ頃のことだったのか、これも知りたいところです。また三島竜神は、どこへいったのでしょうか?
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最後に登場するのが「大水上大明神」です。
ここで延喜式以来の歴史が記されますが、その分量は
八幡神と近藤家の関係に比べるとわずかです。また、この縁起を書いた近藤家の宮司からすれば、それは遠い昔の話で、直接的には関係のないことだという思いがあったようにも感じます。
 古代の二宮社を語るときに神櫛王の悪魚退治伝説を登場させています。そして、国司となった神櫛王によって、三野・豊田の両郡が社領として寄進されたと大風呂敷を広げます。ここからは、宮司近藤家には、古代から中世の大水上神社の史料や歴史は伝わっていなかったことがうかがえます。

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 ここからは、次のような事が推察できます。
①古代に律令国家の保護の下にあった大水上神社は国家や有力豪族の保護下にあった。
②それらが衰退した後に、国人の近藤家が八幡神を合祀し二宮三社とした
③中世には近藤家の保護下のもとで、2つの神宮寺による神仏混淆体制下で神社経営は行われた。
④近世には、八幡神がもっとも信仰を集める神となっていた。

そして、縁起編纂者は空海を登場させます

大水上神社縁起5
一 弘法大師入唐の際に、当社に立ち寄られ詣法行い、次のような和歌を詠した。
はるばると詣きゑれば三の神
力をそへてまもりたまへや
五月雨ややまゑ思ひに旅の空
いとま恋しくまいる我なり
  八幡大神御返可
我はたゝいまも弓前の神としれ
もろこしまても守護じめくまん
両神御返歌
上之句   大水上大明神
往来は心やすかれそらの海
下之句   三嶋竜神
水上清きわれハ竜神

これが延暦弐十三年五月十八日のことと伝えられる。 これから大師は観音寺へ行って、琴弾社に参拝した。そして八幡大神と対面し、その夜は十二人の児達の琴を聞、翌日出帆していった。

一 額之字
華標之額 二宮八幡大神
拝殿之額 大水上大明神
    八播大菩薩
三嶋竜神
これらの額は大師が帰朝した後に寄進された大師真筆のものである。
大水上神社 空海入唐図
空海の入唐ルート

空海が唐に出発したのは、延暦23(804)年7月6日のことです。遣唐使船が難波宮を出発します。
5月12日唐に留学(遣唐使)のため難波津出港
7月 6日肥前国田浦を出発。
8月10日赤岸鎮に漂着。海賊と間違われる。

 遣唐使に選ばれた空海が讃岐にやって来て、二宮三社神社に立ち寄って、三社の神々と歌のやりとりをしたのちに、観音寺に向かい琴弾社に参拝し、翌日に出帆していったと云うのです。その日付を「延暦弐十三年五月十八日のこと」とします。入唐の前に、遣唐使船を離れた空海は善通寺に里帰りして、父母に挨拶したことは善通寺縁起にも伝えられます。九州から遣唐使船が出港していく前に、讃岐に里帰りしていたという空海伝説のひとつのパターンです。遣唐使の一員である以上、そんなことはできません。事実ではありません。
 ここからは縁起を書いた人物が「八幡信仰 + 弘法大師信仰」の持ち主であったことがうかがえます。この縁起は八幡信仰の上に、弘法大師伝説が接ぎ木されています。このパターンは観音寺縁起と同じです。観音寺縁起では、弘法大師は八幡神の権化で化身と記されているのは、以前に見たとおりです。何かしら観音寺縁起の影響を受けて、この縁起は書かれているような印象を受けます。とすると、真言密教系の僧侶達の中世三豊のネットワークの中に二宮三社の神宮寺の別当社僧達もいたのかもしれません。

 元暦元(1184)年の源平両家の奉願書について
 目次に挙げられた2つめのテーマは、源平合戦の際に、源氏と平氏がそれぞれ願文を奉納したということについて記されています。
大水上神社6源氏願書

 最初に記されるのが源氏願書です。その筆頭は頼朝、次に義経の名前があります。
 日本六十余州を悩ます悪臣登場する。数ケ国を奪い取り、誠に持って前代未聞の悪逆である。天子を称し、公卿大臣之位官を奪い、庶民にあたえる非道ぶりである。 保元に為義為朝源氏之一属を滅し 平治ニ義朝一家を誅す (以下略)

と平家の非道ぶりが指弾され、討伐の正当性が主張されています。そして奉納者のメンバーを見ると源平合戦で活躍する名前が目白押しです。
 それに対して平家願書はどうでしょうか。

大水上神社7 平家願書
敬白御立願状
この度の戦いの利運は、当社の霊力にかかっている。氏神を奉崇し、神力の功あるものは四海魔王の報恩を国家のためになすべし 願文如件

こうして二宮三社は源平の両方から願文を受け取ります。
それにどう対応したのかが次に書かれています。それを意訳して見ましょう
大水上神社8 源平願書
意訳変換しておくと

一 藤樹翁は代々に渡って近藤但州藤原朝臣国茂迄禁裏に仕えてきたが、元暦の戦の時には、源平両家から出兵の依頼があった。そこで神田治部少輔貞家は御湯立を行い、源平両家からの願状を占った。

その時に、三社は十二三歳の乙女に憑依して次のような託宣を下した。
「神は非礼を受けず、祈心の正しくない者の願いを叶えることはできない。躰を引き裂かれようとも霊験は得られない。ましてや正直慈悲の心があれば「不祈」とてしても神は守るであろう。」このように神は云うと、乙女は倒れた。その後、躰を震わせ持っていた鈴を鳴して「人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 離は大敵」と言い続けた。神が乙女に憑依して、乙女の口を通じて語らせのだ。賤き乙女が神の尊言を伝えたことについて、人々はおおいに驚嘆した。
 それから神懸かりとなった乙女は、神前の御幣を振って、拝殿を三度廻り内陣へ飛入って、人々を招いて次のように神託した。
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の化に如かず。人の恨深き方、軍に負ケ、人の祝多き方必勝利を得べし、力をもって利を得ようとするならば必ず利は得られない。これは古来より軍に勝つ法である。神の答えは以上であると両家へ伝えよ」と言い終わると乙女は内陣に三日の間、閉じこもった。その後に御戸を開いて出てきた乙女は、十七日絶食後に朝粥を少し食べた。その姿は狂人のようであったと云う。誠に三社の御神が乙女に乗り移り霊験を著した不思議なことであった。

  神が乙女に憑依して、神の宣告を伝えることがドラマチックに書かれています。なぜ、源平合戦なのでしょうか。これは当時の二宮三社神社の次のような立ち位置にあったように思います。
①八幡神を主神として祀る武門の神社であったこと
②この縁起(由緒書)が丸亀藩に提出されることを前提に書かれたものであること
そのためには、源平合戦において源平両家の請願を受けたというエピソードが入れられたのでしょう。そして、神の声が乙女に憑依して伝えられたとしていることは、興味深く思えます。中世らしい神社の姿を伝えているように思います。しかし、これも事実であったとは云えません。
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次に出てくるのが建久九(1198)年とされる社領目録です。

大水上神社10寺領

大水上神社11寺領

この度荒乱につき、この巻を誦じ、すわわち神力で氏子の難苦を遁れることは、社僧の度々の広恩によるものである。一家の喜びは小さいことで、神領の永続を願うものである。
建久九午成年二月日 散位秦支守法
摂津守大平忠
別当弁実聖人
別当圭如法印
先ほどの大水上神大明神について触れられた所では、「神櫛王の信仰を得て、三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた」とありましたが、ここでは社領は総合計200町と記されます。その内訳は「修理領+祝言領+燈明領+御供領=177町で、総合計とはあいません。
 また、中世の寺社の寺領は荘園領主や地頭などの有力者から寄進される場合が多いのですが、それは寺院年間行事のイヴェント運営のための寺領が多く、こんな簡単なものでないことは以前にお話しした通りです。これはこの縁起を書いた江戸時代中期の社僧の「常識」が反映されている内容です。中世の寺社の寺領構成を伝えるものではないようです。
 ここで興味深いのは、前回もお話ししましたが「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」と記るされていることです。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、2つの別当寺があったことはたしかなようです。それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あります。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
そのどちらかの社僧によって、この縁起は書かれたと私は考えています。
  どちらにもして中世の二宮三社神社は、近藤家の保護下にあって、神仏混淆下に社僧によって運営されていたことが分かります。
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    今回はここまでにしておきます。以上をまとめておくと
①「二宮三社之縁起」は、江戸時代中頃に丸亀藩に提出するために、当時の二宮三社神社の別当寺の社僧が書いたものと推測できる
②三社とは「八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神」のことであるが、当時は八幡神が主神とされていた。
③八幡神を合祀したのが近藤正光で、近藤氏が二宮信者の正統な継承者であることがはじめに書かれている。
④二宮三社神社のもともとの主神は、水神であったが中世に客神の八幡神に取って替わられている。
 これを進めたのが近藤氏と思われる。
⑤中世の寺領目録には、2つの神宮寺のことが書かれているので、神仏混淆下で神宮寺の社僧による神社運営が行われていたことがうかがえる。
⑥八幡信仰に空海伝説が附会されていることから密教系僧侶の存在がうかがえる。
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  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

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神社というものがどんなふうにして姿を見せるようになったのか考えるときに、私にとって身近で参考になるのが高瀬の大水上神社です。この神社は、その名の通り財田川の支流である宮川の源流に鎮座しています。祀られているのは水神です。そして、神が舞い降りてきたと思える巨石も、いまも信仰対象になっています。
 この神社について高瀬町史をテキストにして見ていきます。
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大水上神社の奥社
 この川の流域には銅鐸や広形鋼剣が出土した羽方遺跡があり、下流部は早くから水田稲作が進んだ地域です。ここに祀られている神は、弥生時代から集落の首長によって祀っていたと私は思っています。いまに至るまで、神々の名は幾度も変遷したかも知れませんが・・
 大水上神社は、三野郡唯一の式内社で延喜式では讃岐の二宮にランクされています。

羽方遺跡出土 平形銅剣
羽方遺跡出土の平形銅剣 平形銅剣は善通寺王国の象徴

 平安時代の神階授与記事には
貞観七 (八六五)年 従五位上から正五位下へ、
貞観十八(八七七)年 正五位上へ

に叙されたことが記されます。これが大水上神社が文書に残る初見になります。
 律令国家のもとでは、さまざまな神に対し位階が授けられていました。国家が神に授けた位階を神階と云います。律令国家は神階を授与することにより、神々の序列を明らかにしました。つまり、授ける方が偉いので、国家が地方の神々の上に立ったことになります。これは国家イデオロギーとしては、上手なやり方です。こうして、全国の神々はランク付けされ国家の保護を受けて、有力豪族によて管理・維持が行われるようになります。
羽方遺跡出土 銅鐸
羽方遺跡出土の銅鐸
 古代に、この神社を保護管理したのは、丸部氏が考えれます。
宮川を下って行くと延命院古墳や讃岐で最初に作られた古代寺院である妙音寺があるエリアが、丸部氏の拠点があったところでしょう。その氏神的存在として、この神社は出発したのではないかと私は考えています。それが律令国家の下で延喜式神社となり、二宮としてランクづけられたとしておきましょう。
 讃岐では、田村神社・大水上神社・多和神社への神階授与の記事があります。それぞれ讃岐国の一宮・二宮・三宮となる神社であり、社格が定められてきたようです。
DSC07605
 
 以前にお話ししたように、平安時代後期になると律令体制の解体と共に、国家による全国的な神社の管理は出来なくなります。
そこで国家が取った方法は、保護する神社の数を限定し、減らすことです。京都を中心とする周辺の大社や、地方では一宮や二宮だけに限定します。また延喜式内社を国府の近くに「総社」を新たに作るなどして「簡便化」します。この結果、国家的な保護を大い衰退しその跡を失った式内社も出てきます。
 国家の保護を失っても、パトロンとしての有力者が衰退しても、地域住民の信仰対象となっていた神社は消えることはありません。大水上神社を見てみると、背後に山を控え、社殿のすぐ横に川が流れ、淵があります。まさに水神の住処としては最適です。この水神は、時代と共に姿形は変えながら人々に、農耕の神と崇められてきたものでしょう。
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夫婦岩(かつての御神体) 

 大水上神社に瓦窯跡があるのはどうして? 
 大水上神社境内には、瓦を焼いた窯跡が残っています。神社の屋根はワラやカヤで葺きます。瓦は使われません。それなのに瓦窯跡があるのは、どうして?
 奈良時代の終わりごろから次のような事が云われ始めます。
「この国の神々は、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために神の身を離れ、仏教に帰依することを求めようとしている。」

 このような声に応えて、民間僧侶たちが神々の仏教帰依の運動を進めます。具体的には、神社の境内を切り開き、お堂を建て仏教の修行の場を作るようになるのです。神々は、元々は仏であったとして、神々が権化した権化仏が祀られるようになります。神と仏の信仰が融合調和することを神仏習合(混淆)といいます。仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として、神社に付属して寺が建てられるようになります。これが神宮寺(別当寺)です。こうして、結果としては、神社を神宮寺の僧侶が管理するようになります。ある意味、僧侶による神社の乗っ取りと云えるかも知れません。こうして、神社の周辺には別当寺が姿を現すことになります。神社の祭りの運営もこれらの社僧がおこなうことになります。
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 大水上神社の場合は、 2つの別当寺があったようです
江戸時代中期に書き写されるとされる「二宮三社之延喜」には次のような社領目録がのせられています。
国讃嶋二宮社領目録                  高瀬町史史料編133p
惣合(総合計) 弐百
右之内八九町    修理領
右之内三六町    祝言領
右之内二六町    灯明領
右之内三六町    御供領
右別当神主支配
三六町    別当清澄寺
三六町    別当神宮寺
二六町    神主  義重
二六町    社ノ頭 右近
二六町    惣社人
二六町    惣神子
右社領自今不可有変易者也
総合計は200町とあるのですが、合計すると176石にしかなりません。まあ、それは今は深入りせずに別当寺を見ておきます。

「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」

と記るされています。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、清澄寺神宮寺という2つの別当寺があったことは分かります。そして、それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あるようです。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
ここからは大水上神社には中世に2つの別当寺があったことが分かります。その別当寺の屋根の瓦を葺くために窯が作られていたようです。高瀬町史には、この窯跡について次のように記します 
①寺院に必要な瓦や日用品を焼くために作られたもの
②時代は平安時代後期~鎌倉時代のもの
③窯跡は二基が並び、西側が一号、東側が二号
④1932(昭和七)年国の史跡に指定。

二宮窯跡

一号窯跡の実測図で窯の構造を見てみましょう
①上側の図は、窯の断面形で底は傾斜している。
②下側の図は、平面形で、全長約3,8㍍の規模になる。
③左端が焚口、中央が火が燃え上がる燃焼室で、右側が焼成室と呼ばれ、ここに瓦などを詰めて焼き上げる
④焼成室の底が溝状に細長く窪められていて、ここに炎が入り上に詰められた瓦などが焼きあがっていく仕組み
⑤二号窯は焼成室の平面形が方形で、底が傾斜せず水平な平窯で、瓦のほか杯や硯も焼いている。

大水上神社のニノ宮窯跡と同じ時期に、使われていた瓦窯跡が下麻にあります。
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下麻の歓喜院本堂奥にある四基の窯跡で、1953(昭和28)年に発見されたものです。ここの窯跡の構造はニノ宮二号窯跡に似ていて、西から1号・2号が並んであり、17m東にに3号・4号が並んであります。

歓喜院窯跡
歓喜院瓦窯

二基一対で二組、合計四基が一列に並んでいることになります。4基の窯跡からは軒丸・平瓦が出土しています。
高瀬町の文化財を研修: 新二の宮の里

同じ時期に、大水上神社と歓喜院で焼かれていた瓦を、どのように考えたらいいのでしょうか 
1大水上神社瓦
二宮窯跡と大水上神社から出土した瓦

 大水上神社境内の鐘楼跡(別当寺)と歓喜院窯跡から出土した軒平瓦は、文様が似ています。ここからは、歓喜院の窯で焼かれた瓦が大水上神社まで運ばれ別当寺の屋根に葺かれたことがうかがえます。大水上神社と約三㎞離れた歓喜院法蓮寺は、平安時代後期には何らかのつながりがあったのでしょう。法蓮寺がいつ創建されたかは分かりません。
法蓮寺・歓喜院と瓦窯跡 : 四国観光スポットblog

しかし、ここには10世紀頃の作とされる重文の木造不空羂索観音坐像が残されています。また歓喜院のある下麻は大水上神社の氏子になります。以上をまとめておきます。
①弥生時代に稲作が始まった頃から宮川の源流には水神が祀られた。
②律令時代には大水上神社として、讃岐二の宮にランク付けされた。
③この背後には、三野郡の郡司の丸部氏の信仰と保護が考えられる
④中世になるとふたつの別当寺が境内に形成され、神仏混淆が進み社僧による管理が行われた。
⑤神宮寺(別当寺)建設のために下麻の歓喜院の瓦窯から瓦が提供された。
⑥輸送に不便なために、大水上神社の境内にもふたつの瓦窯が作られ、神宮寺のための瓦を提供した。
以上です。⑥は私の推察です。

三野平野の窯跡分布図2
古代三野郡の郷・寺院・窯跡
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史68P 古代第二節 大水上神社

短い夏の夜が、明けました。
今日も、朝からカンカン照り。
今年は、雨が少なかったというものの無事田植えもすませ、稲は見事に育っています。
でも溜池の水は、もう底をついてしまいました。
水不足で、田圃がひびわれはじめたところもあるといいます。
日照りの空を見上げて、人々はためいきをつきます。
「雨、降らんものかな。田圃が干上がってしまうワ」
「水がないから、稲の葉先が巻き上がってしまつた」
「井戸の水も、少のうなってしまつた」
「困ったものだ」
「雨雲は、どこにもないワ」
「お―い、お―い。おこもりすることになったぞ―」
「雨乞いのおこもりが、決まつたぞ」
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大水上神社の龍王淵に、おうかがいをたてることになったようです。
雨乞いの神さまの水上神社へ参籠することになりました。
神前で祈願したあと、龍王淵へ参ります。
老杉がおい茂った境内は、暑さをわすれさせてくれます。
でも、龍王淵の水はいつもの年よりこころなしか、水量が少な目です。

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龍王淵の水をすべて汲み出してしまい、淵の底にひそむウナギの色によって、雨うらないをしようというのです。
「ウナギが、黒なら、雨まちがいなし。ウナギが、白なら、まだ雨は降らないという、お告げ
なのだ。ウナギは、神さまのお使い姫さまだ」
「はっ―」
選ばれた男たちが、水を汲み出します。
日焼けした腕も背もあらわな男たちが、水を汲み出します。

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首すじにも、背中へも汗が流れ出ます。
淵の神水を頭から、ざ―ぶリーとかぶりました。
真夏の木もれ日がきらきらと水を輝かせ、淵の水はだんだん少なくなって来ました。
こんな作業が、どのくらい続いたでしょうか。
淵の底が見え始めます。
淵を取り囲んだ人々の目が、淵底の白砂に注がれました。
と、淵の底が、かすかに動いたようです。
声のないざわめきが、まわりから起きます。
あっ、また動きます。砂の中で、何かが動いています。
「あっ、お使い姫さまだ。お使い姫さまが、お姿を見せられた」
「黒だ、黒いウナギだ。お使い姫さまは、雨が降るとおつしゃっている―」

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お告げは、黒いウナギ。雨が降るといいます。
人々は大喜びです。
「雨が降る、稲に穂が出て、花が咲く。豊年じゃ、万作じゃ」
「これで、飲み水の不安もなくなった」
こんなお告げがあってから、ほどなく雨が降り出したのです。

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さて世の中には変わり者もいますし、 へそ曲がりもいます。
この、 へそ曲がりがこんなことを言います。
「なんだと、ウナギが黒なら雨、白だと晴、馬鹿、馬鹿しい。
そんなことがあるものか。
仕掛けがあるに違いない。ひとつ、俺が見破ってやろう」
と、こっそり龍王淵へやってきました。

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そして、水を汲み出しにかかります。
せっせと水を汲み出し、ひそむウナギを見つけました。
へそ曲がりは、大きな手を出してウナギを捕らえようとしますが、すらりと逃げてしまいます。
へそ曲がり、とうとう腹を立て、かっかとウナギの追っかけっこ。
水を、ちょろちょろ動かせては隠れてしまいます。
へそ曲がり男、気分が悪くなってしまいました。
お腹が痛くて痛くてたまりません。

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腹をかかえて家へ帰って来ましたが、とうとう寝込んでしまい起きることができません。
「めったなことはできんぞ、龍王淵のウナギは神さまのお使い姫だ…」
「あの男、ウナギを取りにいって腹が痛くなったそうな…」
「馬鹿だなあ…」
里の人々は、ひそひそとうわさをいたします。
でも、腹痛で寝ている男に同情はしませんでした。
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龍王淵はウナギ淵とも呼ばれ、現在も、山の清水を集めています。
いかにも、水上といった神淵なのです。


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国市池と爺上山

国市池(くにち)池の誕生については、次のような話が伝わっています。
江戸時代のはじめころの話です。武士たちは、戦の練習をかねて、タカ狩りということをしました。山などで、タカを飛ばせて、ウサギやイノシシなどの動物を見つけ、大勢の武士たちが戦のときのように大声をあげながら、追いかけて獲物を補らえるのです。お殿さまは、狩りのじょうずなタカをもとめていました。

あるとき、村の庄屋さんから、
「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」
ということが、お百姓さんたちに知らされました。
しばらくして、ある日、笠岡のお百姓さんで、じさえもんという人が、タカを捕らえて、庄屋さんの家へ持ってきました。そして、
「山でタカをつかまえたんじゃ。お殿さまに差し上げてくだせえ」
    「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」
ということが、お百姓さんたちに知らされました。

「どれどれ、おお、元気のよいタカじゃ。お殿さまも喜ばれるじゃろうて」
そう言って、庄屋さんは、タカを持って、お城へ行きました。

それから、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。
庄屋さんがじさえもんさんに言いました。
「喜びなされ、じさえもんさん。お殿さまからほうびとして土地をくだされたぞ。五丁池の下のところに、まだ田んぼにしていない土地がある。そこを田んぼにして米を作りなさい、というお知らせじゃ」
「ありがとうごぜえます」
と、お礼を言って、じさえもんさんは、庄屋さんの家を出ました。

「まだ田んぼにしてないっちゅうたら、どんな土地じゃろか」と、気になりましたから、五丁池の下のところの土地を見に行きました。そして、おどろきました。そこには小さな池がいくつもあって、とても田んぼにできるような土地ではありません。
じさえもんさんは、急いで庄屋さんの家へもどって、言いました。
「庄屋さま、せっかくじゃけれど、あの土地はもらってもこまります。いま見てきたんですが、わしがひとりの力で田んぼにでけるような土地ではないですけん。お返しでけるんじゃったら、返したいんでごぜえますが……」
「そうかあ。しかし、困ったことよのう、せっかくくださったものをお返しするのは。まあ、おまえがそういうのだから、お城へ取りついでみよう」
そう言って、庄屋さんはお城へ行き、じさえもんさんの気持ちを伝えました。
それからまた、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。
「お城からお知らせがあったぞ。おまえには別の土地をくださることになった。あの土地は大きな池にして、新名や下高瀬のほうの田んぼまで水を引けるようにするそうじや」
まもなくして、庄屋さんが言ったように、お城から役人がやって来ました。その役人の指図で、小さな池を取りこんで大きな池に作りなおす工事が始まりました。

そういうわけで坊主池・新名池、上池、盆の池などの小さな池を取りこんで大きくしたのが今の国市池です。なぜ、国市池という名がついたのかですって?

それは、そのあたりの池の世話をしていたのが国市さんという人だったのです。それで国市池と呼ばれるようになりました。   
   高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会平成15年
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国市の誕生物語を、史料で見ておきましょう。
国市池は3段階を経て現在の姿に成長しています。
 
戦国時代も終わりを迎えようとする慶長年間  1597年
焼け落ちた柞原寺の再建が進められる中、讃岐の大名としてやってきた生駒親正です。彼は戦乱の世が終わったことを示すために、大土木工事を讃岐各地で進めます。代表的な土木工事が丸亀城の築城と大池の築造です。
三豊では柞原寺西側に大池を作ることになりました。
10国市池形成図

その際に、堤防をこの丘からまっすぐに西に伸ばすため、新名池の半分は切り取られてしまいました。新名池を切り取って西に延びた堤防は、現在の1/3程度の長さでした。これが、国市池の東半分の誕生プロセスです。国市池の向こうに、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)は、そのまま残りました。
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        冬の国市池 (西香川病院から)
この時に出来上がったのが、現在の国市池の東半分です。
仮に、これを旧国市池と呼ぶことにします。この時は国市池の西側には、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)が残りました。つまり、旧国市池と併せて5つの池がモザイクのように並んでいたのです。

 生駒騒動で生駒藩が取り潰された後に、丸亀藩主としてやってきたのが京極氏です。丸亀藩の課題は、財政安定化のための大規模な新田開発でした。そのため三豊では、三野湾の干拓と大野原の灌漑工事が行われます。こうして、三野湾を水田に姿を変えていく大工事が進められます。三野津・吉津などから高瀬川河口に至る海が、広大な水田となります。平和になり明るい未来が見えてくる。希望の星の工事。人々が望んでいたことです。しかし問題は農業用水の確保です。どこから引いてくるのか? どうするか頭を抱えていたところ・・。
解決の糸口を示すこんな記録が残っています。

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国市池堤防の法華石

鷹を献上した褒美にいただいた土地が国市池の拡大用地に・・
「笠岡村七尾原の治左衛門は触れに従い、鷹狩り用の鷹を捕らえて献上した。その褒美として、比地中村五町池下の未墾地が与えられた。しかし、そこは作付けもできないほどの悪田だったので、返上申し上げた。
それを聞いた殿様が調べさせ、その地形。地勢が分かると・
『それでは、そこに池を築き吉津・下高瀬・松崎新田の用水とせよ』といわれた。こうして国市池増築は、藩の難局打開の事業と位置づけられ進められた。
こうして堤防が吹毛の山まで伸ばされていくことになります。
同時に堤防のかさ上げ工事も進みます。工事の結果、以前にあった4つの池は、池床や用水路に変わりました。。低地に住んでいた農家十数戸も、移住させられました。(中村古事記)。
新しく出来た大池の恵みを受ける村は、比地中村・新名村・下高瀬村・吉津村・松崎村の広域にまたがりました。新しく開かれた三野干拓の水田は、国市池からの水があったからこそ豊かな実りを実現させることができたのです。

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満々と水を満たす国市池を見て、
「その水未釣れば、13162坪(三四町三反8畝二二半)という大池となり、周囲一里余り、まさに海をみるようである」

と書き残されています。そこからは、この大池を作り上げ遠く三野の新田を潤すシステムを作り上げ完成させた喜びの賛歌が聞こえてくる気がします。

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さて、この大池のネーミングには、こんな話もあります。

 満濃池は高松藩に属します。丸亀藩内で、一番の大池であることから「国一池」と呼ばれることになりました。この名称は明治まで約200 年にわたって使われました。しかし、明治になって「国で一番ではない」とのことで、少しへりくだって「国市池」と改めたというのです。どちらが正しいのか、私に判断する材料はありません。

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21世紀の国市池

400年以上に渡って大切な水をため続けた国市池
香川用水が利用できるようになり、少しづつその役割も変わってきました。大池の一部を埋めて公共スペースとして利用しようとする動きが進みます。まず、
西香川病院
そしてB&G
そして、高瀬高校の野球グランド、陸上部の第二グランド
これらは国市池の池を埋め立てて利用しているものです。
そして、池の周囲の道は散策路として整備され、ウオーキングを楽しむ人々の姿が増えている国市池です。
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国市池と爺神山(高瀬高校前より)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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