瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 瀬戸の島と船


播磨の大避神社

瀬戸内海の赤穂市坂越の大避神社は秦河勝(かわかつ)を祀る神社です。そして、この神社の周辺や千種川流域には多くの大避神社が鎮座しています。どうしてこれだけの濃密な分布が見られるのでしょうか? それは古代以来の秦氏の活動の痕跡だと研究者は考えています。今回は、大避神社の歴史と秦氏との関係を見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」です。
まず祭神として奉られている秦河勝を押さえておきます

秦川勝
 秦河勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
秦河勝は飛鳥時代に聖徳太子の最高のブレーンとして朝廷の財務担当責任者として活躍した人物です。彼は新羅使の導者を3回務め、『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。推古21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。その広隆寺と一体で管理されたのが山城国の大酒神社で、山城秦氏の本拠地太秦(うずまさ)の拠点となります。
次に赤穂坂越の大避神社を見ておきましょう。
京都の大酒神社と同じように、秦河勝を氏神として祭ったのが赤穂市坂越(さこし)の「大避大明神」(大避神社)です。神明帳には「元名大辟」と書く「オオサケ神」を「大荒大明神」と記します。周辺には、大酒神社と酒の字をあてる神社もありますが酒の神ではないようです。坂越の大避神社と同じ性格で境の意の「辟」が「酒」になったのであり境界神としての神社名を持つ塞の神、道祖神的な意味をもっていると研究者は考えています。
③『播磨鏡』(宝暦12年(1762)成立)は、大避神社の社伝を引用し、次のように記します。

秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖酒公を祀り、社名を「大荒(さけ)」「大酒」と称したが、治暦4年(1068)に「大避」に改めた。また、山背大兄王と親しかった河勝が蘇我入鹿の嫉みを受け、ひそかにこの地に難を「避けた」ので、「大避」に改めた

この社名由来は、秦河勝を祀る山城の神社の「大酒」をもともとの表記と思い込み、「大避」と書く理由を述べています。しかし、神名帳の大酒神社の注記からは「酒」よりも「辟」「避」の方が古い表記であることが分かります。
播磨の大避神社と山城国の大洒神社は、同じ秦河勝を祭神にし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏です。しかし、同じ秦氏の氏神と云っても、次のような違いは見られます。
①山城の大洒神社は広隆寺の境内社で桂宮院(太子堂)の守護神、鎮守の性格
②播磨の大避神社は、猿楽との関わりが強い
どうして、播磨の大避神社は猿楽との関係が深いのでしょうか。
世阿弥は『風姿花伝』で、次のように記します。

(申(猿)楽の祖は秦河勝で)、彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。
意訳変換しておくと
申(猿)楽の祖は秦河勝で、この河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子(聖徳太子)に仕えた。猿楽の芸を子孫に伝え、その継承跡を留めないようにと、摂津国難波の浦から、うつほ舟に乗って、風にまかせて瀬戸内海を西に漕ぎ出し、播磨の国坂越の浦に着いた。浦人が舟を上げみると、かたちが人間に変わっていた。そして諸人に奇瑞をもたらしたので、神と崇められて、国は豊かになった。

金春禅竹は『明宿集』で『風姿花伝』と同じような記述をして、更に次のように記します。
坂越ノ浦二崇メ、宮造リス。次二、同国山ノ里二移シタテマツリ、宮造リヲ、タタシクシテ、西浦道フ守り給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。
  意訳変換しておくと
(秦河勝は)坂越の浦に社殿を建立し、次二、同国の山里に移って、宮を正式に建立した。そして、西浦道を守ったので、人々は、猿楽ノ宮とも、宿神とも、この宮を読んで崇拝した。

ここには、秦河勝が建立した神社を「猿楽ノ宮」と呼び、祭神の秦河勝を「宿神」と記します。
大避神社を「猿楽ノ宮」と呼ぶのは、秦河勝を猿楽の祖とみるからでしょう。この猿楽の徒の神「宿神」について、禅竹は『明宿集』で、次のように記します。

「翁ヲ宿神卜申タテマツル」「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」

『風姿花伝』は次のように記します。

秦河勝が猿楽の祖といわれるのは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたからだ。そのとき太子は「六十六番の面」を作って河勝に与えたが、そのなかの一面(鬼面)だけが円満井座に伝えられて重宝になった

初めて一般公開される「蘭陵王の面」など大避神社の宝物
  秦河勝の作とも伝わる「蘭陵王」面(大避神社)
ここでは中世以後に「秦河勝=猿楽の祖」とされ、大酒神社が「猿楽の宮」と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

次に播磨国の大避神社(赤穂市坂越)周辺に秦氏がいたことを史料で押さえておきます。
①延暦12 年(793)4 月 19 日付の播磨国坂越・神戸両郷解(げ)には天平勝宝 5 年(753)頃、この地に秦大炬(おおこ)なる人物がいたこと
②「三代実録」の貞観6 年(864)8 月 17 日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麿が外従五位下になったこと。
③赤穂郡の大領が秦造であったということが「続日本紀」にある。大領は郡の長官でもとの国造クラスで、有力な豪族が郡の大領に任ぜられるのが律令制の慣例でした。その大領が秦造になります。
④「平安遺文」の11 世紀後半の東寺文書の中に、赤穂郡の大領秦為辰(はたためとき)が土地の開発領主として開墾していること
⑤長和4 年(1015)11 月の国符に記された赤穂郡有年(うね)荘の文書に寄人41人の連名があり、その中に秦姓を名乗る者が 12人いること
以上から、秦河勝を氏神として祭った大避神社が鎮座する赤穂郡は秦氏の勢力範囲であったこと史料からも裏付けられます。
 赤穂周辺の秦河勝を祭神とする大避神社の分祀は30社あまりあるようですが、その分布は、千種川流域の赤穂郡を中心として佐用郡・揖保郡にまで、秦河勝の伝承が伝えられています。ある研究者は、「旧時、赤穂郡内の神社の1/3は秦河勝を奉祀した大避社であった」と記します。

播磨坂越の大避神社 播磨名所縦覧

坂越の大避神社
坂越周辺の地で祀られる大避神社と秦氏の関係について太田亮は、次のように記します。
「播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と称するも、其の発生に関して徴証乏しく、果して然りしや否や証なき能はず。赤穂郡は古代秦氏の繁栄せし地なり。
貞観六年八月紀に『播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麻呂、借りに外従五位下に叙す』と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏、系を雲上家に架して村上源氏と称せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり。秦氏の奉斎にかかる」。
『角川日本地名大辞典兵庫県』は、「氏神は大酒神社」と書き、「地名の由来は、秦酒公を祀る大酒神社にちなむと思われる。高瀬舟に従事した人たちの信仰」と記します。
現在の祭神は天照大神・春日大神・大避大神ですが、本来の祭神大避大神は先ほど見た『風姿花伝』『明宿集』には「秦河勝」と明記されていました。大避神社を氏神とする上月町大酒の人たちは、かつて「高瀬舟に従事した人々」とされていますが、彼らは渡守です。白山開基の泰澄は、渡守の秦氏だから、秦氏奉斎の大避神社を氏神とする大酒の人たちも、秦氏及び秦氏と結びつく人たちです。

大避神社2

 もう少し周辺の大避神社を見ておきましょう。
千種川中流の上郡町の金出地(かなじ)は、明治22年まで金出地村でした。
延享4年(1747)に書かれた『播州赤穂郡志』には「金出地八幡宮総山月大避明神」と書かれています。そして、八幡宮の祭神を大避神と記します。金出地の地名について『角川日本地名大辞典・兵庫県』は次のように記します。
山中に溶滓が散在する所」があるから「銅あるいは砂鉄を産出したと伝えられることによるものか

大避神を祀る岩木・金出地以外にも、上郡町旭日には旭山(旭日)鉱山があり、金・銀の採掘をおこなっていました。このように、上郡町は金・銀・銅や砂鉄が産出地でした。岩木・金出地以外に上郡町には大避神社が、大枝新・竹万・休治にもあるので合計5社になります。これは金属の採鉱と精錬にたずさわった人たちが、大避神社を祀っていたからと研究者は考えています。
千種川上流の上月町には、大酒の大酒(避))社以外に、久埼(旧久崎村)、西大畠(旧西庄村)に大避神社が鎮座します。

大酒神社 播磨上郡町

この町は、千種川・佐用川の流域にあり、金属資源にめぐまれていました。千種川上流の千種町も有名な千種鉄・千種鋼の産地です。鉱山と水運という秦氏の職能分野です。

技術集団としての秦氏

中世の赤松氏の菩提寺・法雲寺の境内には赤松円心・則祐・満祐等の五輪等が残されています。上郡町の中心から国道375号線を千種川に沿って北上すると左側に広い沖積地に鎮守の森が見えきます。それが上郡町大枝新の酒神社です。

大酒神社2 播磨上郡町

境内には巨木が何本も生えていて歴史を感じる神社です。

大酒神社3 播磨上郡町
 旧赤松村の岩木にも大避神社があります。
播磨岩木の大避神社
旧岩木村の大避神社
この岩木は「慶長播磨絵図」に載せられている岩木鍛冶屋村を含む旧岩木村です。岩木には良質の銅鉱山の峯尾山がありました。そこに鎮座する大避神社は鍛冶鋳物・採鉱にかかわる人たちが祀っていたのでしょう。岩木鍛冶屋村は鍛冶村とも呼ばれていたようですが、それよりも昔は鍛冶千軒ともいわれていたようです。
千種の鉄山も、中世には秦氏出自ではないかといわれる赤松氏の支配下にありました。
上月町には西新宿の八幡神社も、秦河勝と誉田別命(応神天皇)を祭神にしています。誉田別命は宇佐八幡宮の祭神ですが、上月町早瀬の白山神社の祭神も誉田別命です。白山神社も宇佐八幡宮も秦氏が祭祀する神社です。上月町で、大避神社の祭神秦河勝が八幡神社でも祀られ、八幡神社の祭神が白山神社で祀られているのは、秦氏系氏族との関係なくしては考えられません。

技術集団としての秦氏

相生市にもかつては大避神社が三社あったと伝えられます。

『角川日本地名大辞典・兵庫県』は、相生市北部から南部にかけて、「近世まで六社あった」と書いています。相生市は赤穂郡に属し、平安時代から中世にかけての八野郷・矢野荘が相生市全域とほぼ重なります。
『三代実録』の貞観六年(864)8月条に、赤穂郡大領の秦造内麻呂が従五位下に叙せられたという記事があります。『峰相記』は三濃山には、秦内麻呂が観音寺を建立したとあります。現在は元三濃山求福教寺といわれ、境内に観音堂と大避神社があります。

元三濃山求福教寺2

元三濃山求福教寺
元三濃山求福教寺の観音堂
 秦河勝が大蛇を退治したという似た伝説を伝える相生市若狭野町下上井にも、大避神社があります。この下上井の大避神社を「土田宮」というのは、土地の人たちが河勝を上段座を設けて供応したという伝説からきているようです。
大避神社を氏神とする若狭野町下土井は、鎌倉時代から中世に活躍した寺田氏の本拠地です。
ここには中世矢野荘の鎮守社としてたびたび登場する大避神社が鎮座します。ここにも秦河勝の末裔の秦為辰の子孫と称する家があります。秦為辰は、11世紀に、相生市とその周辺を開発した人物で、国行の大塚と赤穂郡司を兼ねていた人物です。
①為辰の子孫で牛窓荘司であった寺田太郎人道法念は、坂越の大避宮別当神主祝師職
②法念は弘安四年(1281)に山陽海路の警固に動員されており、坂越浦の水軍の長
③法念の子範兼は正和三年(1313)に、長男の範長に大避宮別当神主祝師職を譲っている
④秦氏の末裔の寺田氏によって世襲されていたこと。
以上からは、秦氏の末裔が中世になっても「金属精錬+海野の民としての水運・水軍」などとして活躍していたことが分かります。
大避宮のある坂越の属す赤穂市には、木津・西有年(うね)・中山にも、大避神社があり、木津にも秦河勝の末裔と称する家があります。

大避神社 木津
赤穂市木津の大避神社
木津の地名は、その名前の通り古代に千種川河口で、材木の集散地であったことによるとされます。『角川日本地名大辞典 兵庫県』は次のように記します。

「七世紀中頃、秦河勝に随従した匠(大工)たちが住みついたため、字名に大工山、通称地名に大工村・手能(手斧)村がある。(中略)通称大工村の住人大多数が領内外の寺社建築に携わる」

 この地の秦の民は、上寸大工、宮大工だったようです。

赤穂市西有年にも大避神社があります。
西有年 大避神社
西有年の大避神社
この有年の地も千種川に沿いにあって、有年谷回は江戸時代に高瀬舟による運漕業の拠点でした。上月町大酒の大避神社が、高瀬舟に従事していた人たちが祀っていたことからみて、有年谷回の人たちも、西有年の大避神社を奉斎していたでのでしょう。有年にも、秦河勝の末裔と称する家があります。

以上述べたように、坂越の大避神社を取り巻く状況について整理要約しておきます
①鎌倉時代には、大避神社の別当神主祝師職であった秦河勝の末裔の寺田氏は、「海の民」の末裔として水軍の長として坂越浦・那波浦を本拠に、瀬戸内海の海運を握っていた。
②その時には、大避神社は海運の神だった
③千種川を上下する高瀬舟に従事する秦氏も、それぞれの居住地に海軍の神としての大避神社を祀った
④千種川とその支流で採鉱・鍛冶などにかかわる秦氏や、寺社造営にかかわる秦氏も、大避神社を信仰していた。
⑤これらは猿楽・海運・水運・採鉱・鍛冶・寺社造営などに、秦氏がかかわっていたからである。
⑦大避神社を奉斎する播磨の秦氏は、赤穂郡が本拠地として、周辺に勢力を拡大した。

最後に、広峯神社と秦氏の関係を見ておきましょう。
 飾磨郡の枚野里の新羅訓村のいわれは次のように記します。

「新羅訓と号くる所以は、音、新羅の国の人、来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く。山の名も同じ」

「しら」「ひら」は同義ですから「ヒラノ」も「白野」です。「シラクニ」は、今は「白国」と書かれますが(姫路市白国)、「山の名も同じ」といわれる山は、広峯山のことだと研究者は考えています。「広」は「シラ → ヒラ → ヒロ」と転じます。白国(新羅訓)山が白峯山になり、更に広峯山になったことが考えられます。現在ここには広峯神社があります。
廣峯神社 | 観光スポット | ひめのみち
                 広峯神社
この神社はかつては、西方の白幣山にあり、天禄3年〈972に遷座したと伝えられます。秦氏系の赤松氏が城をかまえた白旗山と同じに、白神信仰による名が白幣山と研究者は考えています。幣・旗を神が依代にして降臨することは、山頂の上社(広峯神社)に対する下社が、広峯山の山麓にある式内社の白国神社になります。
白國神社(しらくにじんじゃ、姫路市) : 古代史探訪


同郡の賀野里は「幣丘」と『風土記』には記します。たぶん「幣丘」も「白幣丘」の意なのでしょう。「カヤ」は「伽耶」で、加羅の意ですが、加羅・新羅から渡来して来た秦氏系を中心とする人たちが、飾磨郡には住んでいたことを、この地名は示していると研究者は考えています。

以上見てきたように、赤穂郡を中心に大避神社は佐用郡・揖保郡に分布しますが、いずれも秦氏の伝承があります。一方、飾磨郡の秦氏は広峯(白国)山の信仰が主体で、この秦氏は秦巨智氏と研究者は考えています。どちらにしても大避神社が広く分布するのは、古代における秦氏の活動の痕跡であるとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」
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 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

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河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

いただき屋さん
いただきやさんの海鮮食堂(高松市)
高松には「いただきやさん」という海鮮食堂があります。取れたての活きのいい魚を、安価に食べさせてくれる食堂です。この「いただきやさん」のネーミングを、私は「いただきます・ごちそうさまでした」からとったものと思っていました。しばらくして気づいたのは「いただく」とは「頭の上に掲げる=頭上運搬」だということです。
瀬戸内地方では、頭上運搬を「カベル」「イタダク」「ササグ」という動詞であらわします。それが転じて「販女(ひさぎめ)」をさすようになったようです。その分布は次のようになります
カベリ  能地・竹原市忠海・二窓、尾道市内や生口島、今治市大島
カネリ  島根県・山口県の西沿岸
ササグ  徳島県三野町阿部、運ぶ籠がイタダキ寵
イタダク 高松市瀬戸内町西浜は、販女をイタダキさん、
     魚を入れた籠がサカナハンボウ
イタダキさんについては、こんな話が伝わっています。

イタダキさんの先祖は糸より姫といい、後醍醐天皇の皇女で南北朝の戦乱をさけて西浜に落ちのび、糸を紡いでくらしていた。やがて漁師と結婚して行商をはじめたとき、えらい役人が使う言葉で「魚御用、魚御用」といったため、人々は恐れて家の戸を閉ざしてしまった。そこで、糸より姫が言葉や服装などを庶民に合わせると、魚が売れるようになった

   こうして高松周辺では頭上に物を載せて運搬することを"いただき"と言い、その人を"いただきさん"と呼んでいたというのです。今では、その姿も次第に消え自転車などで鮮魚を行商する人を、糸より姫の伝説にちなんで"いただきさん" と呼んでいます。
 いただきさんの先祖 イトヨリ姫
いただきやさんの先祖 糸より姫
伝説の"糸より姫"は1970年に、西浜漁港に銅像として建立されています。今では働き者の良妻賢母の範として親しまれているようです。その流れを汲む海鮮食堂なので「いただきやさん」の食堂と名付けられたのです。

高松の頭上運搬については、 以前に高松城下図屏風で紹介しました。そこには48名の「頭上運搬」の女性が描かれていました。
高松の頭上運搬
高松城下図屏風に描かれた頭上運搬の女達
この部分は現在の三越辺りにあった大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行く様子が描かれています。しかし、これはどうも魚ではないようです。彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんの家まで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。ここでは、以下のことを押さえておきます。
①木管による水道が整備される前の高松では、水が桶で武家屋敷などに運ばれていたこと、
②水運搬は、女は「頭上運搬」、男は担ぎ棒という違いがあったこと。
③頭上販売が魚行商の「専売特許」ではなかったこと

瀬戸内海沿岸で魚を販売していた販女を見ておきましょう。
『金毘羅山名所図絵』には、塩飽の家船漁民のことが次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 

意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

 塩飽は人名の島で漁業権はありますが、近世最初頃には漁民はいませんでした。ここで「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師でなく、能地(三原市幸崎町)を親村とする家船の人びとのことです。彼らは「船をすみかとし」て塩飽沖で漁を行い、獲れた魚を「妻は魚を入れた籠を頭にいただき」とあるので、頭上運搬で丸亀城下で行商をしていたことが分かります。
『金毘羅参詣名所図会』には海の向こうの下津井(現倉敷市)の頭上運搬者の行商を次の挿絵入りでオタタと紹介しています。

下津井の販女
下津井の販女(金毘羅参詣名所図会)
夫婦一緒に漁にでて、魚はオタタが籠にいれて頭の上にのせて売りました。挿絵には、一人が蓋をあけて豊かそうな町人客に魚をみせ、もう一人は子供を背負って、頭上には竹網の盥をのせているオタタの姿が描かれています。
  以上からは高松・丸亀・岡山の城下町には、頭上運搬で魚を行商する販女がいたことを押さえておきます。

家船の本村である能地(広島県三原市幸崎町)も販女がいました。
男たちが手繰網でとった海産物を、妻が朝から農家をまわって穀物類と物々交換しました。ただし、テリトリーやお得意さんの農家は決まっていたので、得意先をあらそうことはなかったようです。販女が担ったカエコトによる交換も、後には現金販売へと変わります。販路も遠隔までひろがり、商うものも主人がとった海産物から仕入れた海産物へと「成長」していきます。さらには海産物以外の小間物や薬なども扱うようになり、さらなる販路拡大へと向かう場合もあったようです。
松山市の道後平野の東部には、三津浜や松前から海産物の行商がきました。
普段はオタタが「魚おいりんか」といって得意先をまわり、支払いはカケで盆や節季にまとめて米や麦と交換します。ただし、法事や結婚式などの慶事のときは種類と量が揃う三津浜から直接買い入れたと云います。高松の西浜の販女が町場で売るときは、家ごとに事情にあわせて魚の種類と量を選んでいたと云います。このように瀬戸内沿岸部の村では、日常の海産物は販女によって供給されていたようです。

太閤検地 タイムスリップ
検地や刀狩りの進む中で、姿を現す近世の城下町

江戸時代になると瀬戸内沿岸にはお城が築かれ、城下町が発達します。
それが日本海の海路と結ばれ廻船による海運が盛んとなると港町も発達します。こうして城下町や港町などの町場では、正月や盆、祭りの年中行事、人生儀礼はもちろん、もてなし料理など多くの機会に生魚を食べるようになります。生魚などの海産物の需要が高まると、町場近くに漁村ができ市場を中心に流通するようになります。これが海産物の表(おもて)の流通市場です。
 一方、漁村はもうひとつ販売ルートを持っていました。
それは後背地の農村部です。そこでは百姓の穀物類と漁民の海産物をカエコト(物々交換)する中世以来の交換経済が続いていました。現在、日本の三大朝市で知られている佐賀県唐津市の「呼子朝市」なども、起源は漁民と農民の物々交換にあると言われます。
 農民に比べて漁民のほうが物々交換に切実でした。漁民は生活を維持するためには、どうしても穀物が必要だったからです。そのため夫が獲った魚を女(販女:ひさぎめ)が農村に出向いて物々交換したのです。西浜の販女は行商相手によって、次のように売る魚を替えていたと云われます。
農村には、小網漁でとった雑魚やエビを農家と交換
城下町の家々には、一本釣りでとった魚を販売
これも城下町と周辺農村では、求められる海産物に違いがあり、それをいただき屋さんはよく知っていたというこでしょう。同時に海産物の流通ルートには、いろいろな種類があったことがうかがえます。

販女については、民俗学者たちがはやくから注目してきました。
理由のひとつが、「頭上運搬」です。このルーツが海洋民族に関わるものと考えられたからです。

頭上運搬の輪 男1人を楽々乗せて: 日本経済新聞

販女は海産物を入れた浅い丸盤や籠を、頭上にのせて、安定するように頭と盥の間に輪を置いていました。この運搬方法は、女性特有の古い運搬法といわれ、次のような史料に登場します。
①絵画では選択場面が描かれた平安時代の『扇面古写経』
②文学では『源氏物語』に京で頭上運搬しながら商いをする販女
①の絵図を見てみましょう。
扇面古写経」に描かれた洗濯場面
平安時代の扇面古写経
この絵は当時の洗濯風景を描いたものですが、器物や衣裳、習俗などに関する情報がぎっしり詰まっていて研究者にとっては「宝の山」のようです。幼児や成人女性の髪型スタイル、洗濯の仕方など、ながめているだけでも興味が尽きません。⑱に描かれているのが頭上運搬の桶(籠?)のようです。これに洗濯物を入れて運んでいたのでしょうか? それとも高松と同じように、水を運んでいたのでしょうか?   
 これと同じようなものが一遍上人絵図にも出てきます。
一遍上人絵図 頭上運搬
一遍上人絵図
  何を運んでいるのかまでは分かりません。しかし、中世の絵巻物に描かれた女性の運搬方法は、みな頭上運搬だという研究報告もあります。どうやらこの国では近世までは、女性は頭上運搬が当たり前だったようです。特別な運搬法ではなかったのです。

伊勢物語 奈良絵本の頭上運搬
        伊勢物語に登場する頭上運搬者

1960年代前半に、文化庁が全国約1500か所で緊急民俗資料調査をおこなっています。それを交易・運搬の項目について、図と表で再整理されたものが次の地図です。

販女が行商する物品

 女性が行商していた品からは次のようなことが分かります。
①全国的に沿岸では海産物(魚・海藻)を行商していること
②山の産物(薪・炭)とその他(小間物・薬.・花)は全国的にみてもわずかであること
 瀬戸内海では、ほとんどが海産物であったことが分かります。薪や炭・花などの山の産物については、京都周辺の大原女の行商がよく知られていますが、全体から見ると少数派になるようです。1960年代には、海辺の女達による周辺農村への海産物の行商が、その中心だったことを押さえておきます。

大原女の頭上運搬
大原女(観光写真)
それでは、彼女たちはどんな方法で行商する品を運んでいたのでしょうか。
販女の運搬方法

上の表からは次のようなことが分かります。
①背負運搬と肩担運搬は東日本に多い
②頭上運搬は西日本に多く、瀬戸内海・琵琶湖などの沿岸地帯に集中する傾向が強い
③日常生活でも頭上運搬を行うエリアは、沿岸地帯に集中する。

調査が行われたのは1960年代前半は、高度経済成長の入口で自動車が普及していく時代です。輸送手段が自動車にかわり、販売の担い手が女性から男性へと変化していきます。そうしたなかで女性の行商が続いて行われているのは、市場からはみ出た品で、流通機構のからこばれた不便なわずかな場所に限られていたことが推測できます。

式根島の頭上運搬
式根島の頭上運搬
近世になって、女性の頭上運搬が姿を消して行くようになるのはどうしてでしょうか?
ある民俗学者は次のように考えています。
頭上運搬がおこなわれたのは、産物を神祭りに捧げいただく敬虔な心意を表わした運搬法だったからだ。そこには宗教的な理由があった。それが信仰心がうすれて、より有効な運搬法が一般に普及してくると、頭上運搬は一部の地域だけに遺風をとどめながら衰退していった。それは、実際に、頭上運搬から肩おい運搬、背おい運搬に変化していく地域が多いことからも推測できる。

 確かに、販女が神祭りのときに特別な存在であったという伝承は各地に残っています。
愛媛県伊予郡松前町の販女、オタタさんは、松山地方の農村が早害になると、みな潔斎して海水を汲んで頭上にいただき、川上の雨滝に参って海水を注ぎいれて、雨を祈念したといいます。しかし、これでは「合点だ!」とは私は云えません。よく分からないとしておきます。

DSC02389カベル 高見島除虫菊
除虫菊を「カベル」 高見島 1960年代

以上をまとめておくと
①日本列島には近世までは、女性がものを運ぶ場合には「頭上運搬」が行われていた。
②それが近世になると瀬戸内海沿岸部や島嶼部だけに見られる遺風となっていった。
③瀬戸内海では漁村の女性達が行商の際に、「頭上運搬」を続けたので目立つ存在となった。
④それに注目した民俗学者が「頭上運搬のルーツ=海洋民族説」と結びつけたこともあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

瀬戸内海

参考文献
印南敏秀    海産物の流通と行商の  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会
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中世の瀬戸内海の海運活動では、為替決済が行われていたことは以前にお話ししました。
古代には、地方の人々は指定された特産物を中央の支配者に直納していました。しかし、中世になるとモノではなく銅銭(カネ)で納入するようになります。地方の人々が産物を販売して得た銅銭を支配者に送付し、支配者の方は入手した銅銭で必要な物を中央で購入するようになったのです。これは、社会的分業と交換が進展していたことを意味します。
 それなら「銅銭建て納入」ということで、瀬戸内海を大量の現金を積んだ船が行き交ったのかというとそうではないようです。これは輸送リスクが大きすぎます。そこで登場するのが「為替」です。商人が地方で銅銭と交換するかたちで放出した為替文書を荘園が購入し、それを領主に送付し、領主が中央で換金するという仕組みが生まれます。それが実際にどのように運用されていたかを今回は見ていくことにします。
『厳島神社蔵反古裏経紙背文書』は、本山寺の本堂が建立された1300年頃の文書で、京都方面と歌島(今の尾道市向島)との間でやりとりされた手紙が中心です。

反古裏文書(紙の裏に書かれた書面)
紙は貴重品だったので、片方だけ使って捨てたりせずに、先に書いた文書を反故(ほご。ひっくり返して無効化)として、裏面に新たな文書を書いて利用していました。反故にされるような内容なればこそ、日常的な生活のリアルな情報が記録されているともいえます。宮島の反故文書には、多くの為替記事があるようです。それを見ておきましょう。中世の為替は、次の2種類に分けられます。

①「原初的替銭のしくみ」
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)
替米

為替取引とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」と言われています。「替米」は、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。中世になると為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれるようになります。
為替

 この場合、為替をやりとりする者同士には信頼関係があることが前提になります。この信頼関係をもとに、文書が次の人へと手渡されていき、その上で最終的な払出人と文書の持参人の間にも信頼関係がある場合に、払い出しが行われます。しかし、このシステムでは、払出人が為替を持ってきた人を知らない場合には、支払いは行われません。
そこで②「割符」というシステムが登場します。
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

このしくみでは、最終的な払出場面のおいて信頼関係がない(払出人が持参者と面識がない場合)でも払い出しができます。なぜならば、振出人が割符を振り出す際に、「もう1つの紙切れ」との間で割印を施しておき、その「もう1つの紙切れ」の方を振出人自身(あるいはその関係者)が直接払出人に持ち込めば、払出人は割符と片方文書との割印が合致すものを見て、面識のない持参人が持参した割符が本物であることを確信できるからです。この「もう1つの紙切れ」のことを、片方(カタカタ)と呼んだようです。

SWIFT動向(ISO20022)について | 2021/10/27 | MKI (三井情報株式会社)
割符屋の役割と割符発行

この2つの為替システムの併用版が、「明仏かゑせ(為替)に状」(『鎌倉遺文』24368号文書)に次のように登場しています。

ひこ(備後)の国いつミ(泉)の庄よりぬい殿かミとのヽ御うちへまいる御か□せ(為替)にの事
合拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、
さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

意訳変換しておくと
備後国泉の庄のぬい殿からヽ御うちへまいる御か□せにの事
拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

 ここからは現在の広島県庄原市にあった備後泉庄から京都の領主に送金するために、為替つまり替銭が利用されたことが分かります。最後に登場する「明仏」は、備後国の金融業者で京都の荘園領主とは面識はなかったかもしれません。あるいは、面識があったので、荘園領主から現地での年貞の取立をまかされていたのかもしれません。それについては、これだけでは分かりません。
 この文書の背景には、次のようなやりとりがされています。
①荘園の使者(oR領主)は、備後国で明仏に10貫文(銅銭1万枚)を支払う。
②これに対して明仏は、京都綾小路の宿での払い出しを、淀の魚市次郎兵衛尉に委託する文書である「替状」を使者に渡す。
③その後、使者は淀まで行って魚市次郎を訪ね、京都の錦小路での払い出しを受ける。
④そこで使者は、備後での人金分10貫文を京都で入手する。
ちなみに、当時の米1石の値段が大体1貫文だったようです。10貫文は、米10石に相当します。当時の米10石は、平安時代末期の基準で考えれば、今の米6石(米900 kg)で、現在の米価格を10 kg=4000円で計算すると、10貫文は現在の36万円相当になるようです。
お寿司の一貫は? Part.4(最終回) | 雑学のソムリエ

   ただし、今は米の価値が昔に比べて下がってしまいました。当時の米10石は、もう少し当時は値打ちがあったと研究者は考えています。
 もう一度史料を見てみましょう。この時に3貫文分の割符が同時に送られています。これはどうして分けて発行しているのでしょうか。その3貫文分は魚市次郎が割符屋に持ち込んで、片方文書との間で施された割印が、割符の割印と合致すれば、換金が可能です。割符の方はそれでいいのでしょうが、問題は残り10貫文の方です。これは知らない人間には払い出せないというしくみのはずです。魚市次郎は安心して払い出すことができるのでしょうか。それとも、明仏の書いた文書(替状)を持参してきた使者と面識があったのでしょうか。

この問題について、研究者は次のように考えていきます。
①もし面識があるならば、使者の実名が記されていれば十分で、文書の中に備後国云々まで書く必要はない。
②「御うたかい候ましく」とあるのは、逆に疑わしかった証拠。使者が本当に荘園の使者なのかどうか分からなかった。
つまり、魚市次郎と使者には面識がないことになります。にもかかわらず、明仏が払出の依頼をできたのはなぜでしょうか。

この謎を解く手がかりは、替状と割符とが一緒に送られている事実にあると研究者は指摘します。
つまりこの替状は、単独で持ち込まれたのでは本物かどうか分かりません。しかし、魚市次郎のところに同時に持ち込まれた割符が割符屋で木物と判断されて払い出されれば、魚市次郎は割符屋を通じて、割符主が明仏と取り引きをしたかどうかが確認可能になります。たとえその確認ができなくても、魚市次郎は、筆跡からみても自分の知り合いの明仏のものと思えるその文書は、やはり本物だろうという判断がしやすくなります。
 このように明仏は、魚市次郎に見知らぬ使者に対する払い出しを依頼する際に、額面10貫文の割符を調達できない場合でも、当面入手可能な3貫文の割符を入手して替状に添えて送れば、魚市次郎は払い出してくれるはずだと考えたのです。ようするに、この割符は、持参人と払出人との間の信頼関係がないばあいには機能しない「原初的替銭」に対して、その「弱点」を補完するために利用されているということになります。

こうしてみると、1300年代初めには、為替はさらに進化していたことが分かります。
瀬戸内の物流を担う商人たちが活動するなかで、それを支える金融業者が各港に現れ、円滑な資金移動を支える金融ネットワークが形成されていたことになります。為替が瀬戸内海を結ぶ遠隔地交易の発展を促していたとも云えます。
 為替文書が、交易商人によって生み出されます。最初は「疑わしい紙切れ」だったかもしれません。それを瀬戸内の物流活動が「有価文書」に成長させ、さらには紙幣へと発展せしめることになると研究者は考えています。
 1500年以降に割符はいったん消滅するようです。為替の発展と紙幣の登場は直線的ではないようです。しかし、中世の為替システムは、大きな視点で見ると日本金融のスタートとも云えるようです。

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大野祇園神社(三豊市山本町)

最後に讃岐三豊市山本町にあった大野荘で使われていた為替システムを見ておきましょう。

大野庄は、京都祇園宮の社領でした。そのため京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)が産土神と勧進され、毎年本宮の京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。『八坂神社記録』(増補続史料大成)(応安五年(1372)十月廿九日条)には、次のように記します。
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

意訳変換しておくと
讃岐の西大野から伊予房が上洛してきた。今年の年貢は二十貫だという。この内の一貫は讃岐での必要経費、又一貫は上洛にかかる経費で差し引くという。伊予房とともに近藤氏の代官が同道して、割符は運んできた。しかし、今日は近藤氏の役人は所用で来れないので、明日諸事務を行うつもりだと伊予房から報告を受けた。

 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。一行目に「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。
  伊予房という人物が出てきます。この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来て、京都に帰ってきたようです。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、年貢から差し引かれるようです。
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大野祇園神社(須賀神社と八幡神社の2つの社殿が並んでいる)

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」とある近藤という人物が西大野荘の代官です。

近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符(割符:さいふ)」で年貢を持参して一緒に、上洛してきたようです。
ここまでを整理すると、
①荘園領主の八坂神社の 伊予房が、年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符(割符)」で、京都に持参した。
  ここからは、麻の近藤氏が「割符」で八坂神社に年貢を納めていたことが分かります。この割符は、観音寺などの問屋が発行しことが考えられます。その「割符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやったようです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符(割符)」には、次のようなことが書かれていたと研究者は考えています。
①金額 銭20貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
 ちなみに大野荘の代官を務めた近藤氏は、その後押領を繰り返すようになり、荘園領主の八坂神社との関係は途切れていったようです。

参考文献 井上正夫 中世の瀬戸内の為替と物流の発展 瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
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   瀬戸内海の港について、これまでに何度もお話ししてきました。しかし、大きな流れの中で捉えることは出来ていませんでした。そんな中で瀬戸内海の港町の歴史をコンパクトにまとめている文章に出会いましたので、「読書ノート」としてアップしておきます。テキストは「市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海」です.

瀬戸内海

 
港と言われると、船が入港して停泊する場のことを思い浮かべます。しかし、古代には港という言葉は使われず、「水門・津・泊・船瀬」などの語が使用されていたようです。それぞれを見ておきましょう。
  水門は「水戸や江戸」と同じで河口にできた船着き場のことです。
その「みなと」が漢字で表記されて「湊」になったと研究者は指摘します。紀の川の河口に立地する和歌山市の一角に「湊村」があります。これは城下町になる前の和歌山が、港・湊を基礎に発展してきた例のひとつです。

津は川や海に面した湾・入江に成立した渡し場、船着き場を指す言葉でした。

宇多津地形復元図
中世宇多津復元図(聖通寺山との間に大きな入江があった)

宇多津は、大束川の河口とそれを包み込む湾にありましたので、宇多津と呼ばれたようです。袋状の湾からなる兵庫県の室津や広島県福山市の鞆の浦は津の代表です。

泊も湊・津と同じく船の着岸する場を意味します.
しかし、重点は停泊地という側面にあるようです。
福原京と大輪田泊(おおわだのとまり) | 自然に生きる
大輪田の泊と福原京
泊は、平清盛が整備した大輪田の泊(神戸市)がその代表になります。清盛が整備した港に、音戸の瀬戸(広島県音戸町)がありますが、ここは倉橋島との間の水道があります。尾道や瀬戸田も水道に成立していて、瀬戸内海の港湾のひとつの特徴のよううです。
 10世紀に編纂された『延喜式』には、主として川湊を指す言葉として船瀬が見えます。しかし、時代が下ると次第に、湊・津・泊の違いはなくなっていきます。中世後半には、どれも区別なく港湾を指す言葉として使われ、江戸期以降には港の表記が一般化します。

以上を整理しておきます。
①古代には「港」は使われずに、「水門・津・泊・船瀬」が使用されていた
②中世後半なると、その区別がなくなった
③江戸期には「港」が一般化する。
 港が登場したのは、いつなのでしょうか?
人々が生活のために川を渡り、海に漕ぎ出すことが多くなれば、船の発着する場が必要になります。縄文時代には丸木舟・刳り舟が登場するので、自然地形を利用した原初的な港があったはずです。
弥生時代の船-大航海時代のさきがけ- : 御領の古代ロマンを蘇らせる会
弥生・古墳時代の船
 弥生時代になると、刳り船の他に準構造船も現れます。倉敷市の上東遺跡では、船着き場らしい遺構も出てきていますが、その数が多くないので分からない事の方が多いようです。
古墳時代になると、讃岐から播磨や摂津に古墳の石棺などが運ばれています。ここからは物資輸送のために、大きな準構造船が瀬戸内海を往来していたことが考えられます。また、漁携や小規模な物資などを運ぶ小さな船も瀬戸内海を行き来していたのでしょう。当然、そこには船が寄港する港が各地にあったはずです。それは、大きな古墳に葬られる首長が管理る港から、民衆が日常的に使う地域の港まで階層性を持って、海岸線にあったと思います。この時代の船着き場や遺構は、残っていまでんが、河口や入江などに造られていたと研究者は考えています。

律令制の時代になると、瀬戸内海では海運・水運がかなり発展していたようです。
律令国家は最初は、陸運を重視する政策をとって、平城京や平安京を中心に7つの幹線道路が整備されます。そのうち瀬戸内地方では、
①中国地域南岸を東西に走る山陽道
②淡路島から阿波・讃岐・伊予を通って土佐国府に通じる南海道
南海道はのちに四国山地を横断するルートが開かれますが、これらの幹線は、畿内と各国の国府を結び、街道沿いにはは駅が置かれ、馬やその飼育に当たる人、宿泊・休憩施設などが設けられました。国司や朝廷の使者の移動、調庸をはじめとする貢納物輸送などに使用されていました。

5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(
鎌倉時代の船

律令制が崩れる10世紀以降になると、地域の実情に応じて柔致な交通路の選択が許されるようになります。

そうすると、瀬戸内海沿岸では便利で安価に物資や人を大量輸送できる海運・水運が改めて評価されるようになります。こうして、ほとんどの京都への貢納品は船で運ばれることになります。
どんな港が瀬戸内海沿岸には、現われたのでしょうか?
第一は、国府津・国津などと呼ばれる国衙管理下の公的な港です。
これらの港は、留守所と呼ばれるようになった国衛保護のもとに、山陽道・南海道の最大の港になっていきます。そこには石積で築かれた船着場や、船の発着を管理する人や施設、物資を保管する倉庫なども姿を見せるようになります。後には、隣接して市が建てられるようになります。
6松山津
讃岐国府津の林田・松山
讃岐の国府津のついては、綾川河口の林田や松山などに、機能を分散させながらあったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
第二は、郡単位に置かれた郡衛の付属港です。
律令制が崩れると郡衙も変質し、国司の子孫や武士化した郡司の子孫らが管理・運営するようになります。彼らは国府津に準じて沿岸部や河川の郡の港を整備し、船着き場や管理施設を持つ港も現れます。この例としては、多度郡の弘田川河口の白方湊や、三野郡三野湾の三野津が考えられます。
宗吉瓦窯 想像イラスト
三野津(宗吉瓦窯から藤原京への積みだし)
第三は、荘園の港です。これは11世紀以後のことになります
11世紀の院政期になると、院・天皇家や有力公家・寺社に荘園が寄進され、各地に荘園が増えます。荘園の年貢を京都の領主に輸送するためは、その積出港が必要になります。例えば、当時の国際港湾都市であった博多の西にある今津は、博多に対す新しい港であることを意味する名称です。、ここは12世紀に仁和寺領恰土(いと)荘(福岡市)の港として設置されたものです。

 尾道は、12世紀に後白河院を本家とする備後国大田荘(広島県世羅町)の倉敷(倉庫の敷地)に指定されたのが、港に発展する出発点です。こうして、そこに本家の氏神が勧進され、保護を受けた寺院が姿を現します。そして本家からの保護を受けた寺社は、港の交易センターの機能を果たすようになります。僧侶は、港や交易ネットワークの管理者でもあったようです。対外貿易にもつながるこのネットワークは、莫大な富をもたらすようになります。各宗派は瀬戸内海沿いに布教ラインを伸ばし、重要な港に拠点寺院を構えていくようになります。
第四は地域の必要から成立した港です。
大きな川の河口に、港が出来て大都市に成長するのは世界中で見られることです。大河川は河川輸送の最大の集積地の役割を果たすからです。人とモノとカネが集まってきます。これは瀬戸内海に流れ出す川の河口でも見られます。また、山地と海をつなぐ道路の海側の起点にも、港が現れます。こうして瀬戸内海沿岸地域には、大小さまざまな港が姿を見せるようになります。さらに、船の運航上、潮待ち・風待ちのためのための港も必要になります。現在では「離島」と呼ばれる島々にも港ができ、瀬戸内海航路や廻船のネットワークの中に組み込まれていきます。

 中世の航海法は、安全重視です。船から陸地が見えるところを目指し、隣り合った港に立ち寄りながら目的地に向かいます。沿岸部に並び立ち、島々にも散在する港は航海の安全を保障するためには必要な設備だったのです。目的地に一番最短距離で、一番早くというのは、動力船が登場する近代以後の論理です。

瀬戸内海の港町が発展するのは14世紀以後のことでした。
博多や兵庫(大輪田)など、比較的早く港町に発展したところもあります。しかし、瀬戸内沿岸の港が港町に発展するのは、案外新しく14世紀以降の経済発展によるもと研究者は考えています。
兵庫湊が港町に発展するのは、京都の発展に伴うもので13世紀にさかのばります。14世紀後半以降の物流の増大は、瀬戸内沿岸に新たな港を生み出すことになります。新しく登場する港を挙げておきましょう。
備前の牛窓・下津丼、
備後の尾道・輌
安芸の十日市
周防の三田尻・上関
讃岐の野原(現在の高松)・宇多津
野原復元図
野原(高松)港復元図

これらの港町の立地条件としては、中国山地から南下する河川や道路、讃岐山脈から流れ下る香東川などの河川や道路の結び目にあります。内陸から運ばれた物資が川船や馬借たちによって集められ、そこで海船に積み替えて各地に運ばれていきます。港は最大の物資集積地になります。港町は物資の集散地として、内陸から来たものは海へ、海から来たものは内陸へ運んでいく拠点となっていたことを押さえておきます。
DSC03842兵庫入船の港
野原(現高松港)の動き

 中世港町の構造の特色はなにか?
中世港町の尾道は、備後国太田荘の倉敷から発展した尾道は、次のような複数の集落から発展します。
①浄上寺とその麓の堂崎
②西国寺とその麓の上堂
③その西側に成立した御所崎
備前の牛窓も関・綾・紺など複数の集落からなっていました。讃岐の宇多津や綾川河口の林田湊なども同じことが云えるのは、以前にお話ししました。中世の主要な港町は、ほとんどがこうした複数集落の寄り集まりでできています。そして、それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かってきました。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、船に乗りこんでいたのです。つまり、船の運航は陸上での生活集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

法然上人行状絵図34貫 淀川を下る船
法然上人絵図の室津 塩飽に向かう法然が乗った船
 
もうひとつ押さえておきたいことは、港町は地域の権力から自立していたことです。
堺が自治都市であったことは有名ですが、瀬戸内海の港町にも、その中や周辺に武士団の館跡は見当たりません。尾道・牛窓・下津井などが、領主権力により直接支配されたことはなかったと研究者は考えています。確かに16世紀上を過ぎると、牛窓や下津井にも地域権力の城が造られます。これは権力が富の集まる港町に寄生するようになったことを示します。しかし、これで「支配下に置いた」とは云えないようです。
中世の和船2
中世の船
 江戸時代になると、幕府や藩の直轄港に指定される港も出てきます。それでも、港町の自治が全面的に否定されたことはありませんでした。それは、宇多津などにも云えることです。
 しかし、城下町最優先政策の結果、それまで重要な港湾機能を持っていた港町から、その一部が取り上げられ、城下町に持って行かれたり、主要住民が強制移住させられたりはします。それは藩主による城下町重視の「地域経済圏の再編」策のひとつであったようです。宇多津や多度津の機能も近世始めに大きく変化したようです。

 北前船の運航によって日本海沿岸と瀬戸内海の港町が大いに発展し、港町が日本の都市の代表となります。しかし、これが明治半ば以後に鉄道が姿を現すようになると大きく変化することになります。その中で、博多・下関・兵庫など主要な港町は、新たな役割を担って発展します。しかし、次のような状況が海運業界を襲います
①廻船輸送から鉄道輸送に主役が代わること
②船の動力化と大型で、目的地に直行
こうして主要道路や鉄道からから外れた港町は、瀬戸内海の多くの港町は衰退に向かうことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海
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 周防大島沖家室地下

周防大島の姿は、頭を西にして、尾っぽを東に振る金魚に例えられるようです。二つに分かれる下側のちぎれた尾っぽの先にくっついているのが沖家室島です。この島は、九州諸大名の参勤交代のときの寄港地で、海の荒れたときには御座船がここに船を着け、泊清寺を宿所にしたといいます。泊清寺は、海の本陣だったことになります。そして、幕末の頃には、千軒近い民家のある賑やかな浦だったようです。今回は、「宮本常一 私の日本地図 周防大島」に導かれて、沖家室を訪ねて見た報告です。
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沖家室大橋
島の南側の車道を走ってくると、島にかかる橋が見えてきました。
橋を渡った橋桁の下に、ドッグ跡のようなようなものがありました。
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説明版には次のように書かれています。
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御船倉跡
これを要約しておくと
①沖家室島は阿波からの一本釣り漁法をはやくから取り入れ、浦(漁港)として発展してきたこと。
②さらに九州の諸大名の参勤交替の御座船の寄港地ともなり、津(交易港)としても成長したこと
③そのために毛利藩は、沖家室島に船番所を設置して、公用船を常備させ行き交う船の管理監督を行ったこと
④18世紀のサツマイモの普及によって、幕末には人口が十倍に増え3000人近くになったこと
⑤そのため集落背後には、山の上までサツマイモ畑が開墾され「耕して天に至る」光景が見えたこと
こうして沖家室は、瀬戸内海屈指の漁村で、家室(かむろ)千軒といわれるようになります。
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沖家室の早舟
ここには早舟が常備され、火急の時には対岸の地家室や、本土の大畠まで海上を漕いで知らせたと書かれています。この港が毛利藩の重要拠点であったことが分かります。

それでは、中世の沖家室はどうだったのでしょうか?
戦国時代後半の16世紀終り頃には、ここは無人島でした。それが伊予河野氏の滅亡によって、その家臣(海賊衆)たちがこの島に「亡命」して来て住むようになります。本浦の泊清寺(はくせいじ)は、寛文三(1664)年頃の創建ですが、よく整理せられた過去帳がのこっていて、家々の系譜を正しくたどることができます。それは年代別だけでなく、家別のものも作られているからです。伊予からこの島に渡って来た古い家には、石崎・友沢・柳原などがあります。

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沖家室の本浦と洲崎 黄緑は段々畑の分布

地図を見ると島には、本浦と洲崎の二つの集落(地下)があります。文字の通り、本浦の方が早く開けます。上の地図を見ると、本浦の山裾がほぼ等間隔に海岸から山に向つて分けられ、段々畑が重っています。いまは、自然に帰って畠は見えませんが林の中には、段々畑の跡が残っています。近世初期には、この縦割の数と同じだけの人家があった、つまり、初期には移住者に均等に土地が配分されたと研究者は考えています。これは、以前にもお話ししましたが瀬戸の島々の初期開墾時には良くみられる光景です。その区画を数えると40少々なので、はじめは40戸足らずの人家によって開墾がはじまったと研究者は推測します。
沖家室本浦

それでは近世初期以前には、この島には人はいなかったのでしょうか?
伝承では、昔は海賊がいたと伝えられます。実際に、古い墓が本浦の家の上の畑の隅にあるようで、研究者は五輪搭のかけらをいくつも採集しています。この中には「国東塔の変形」のようなものもあると研究者は指摘します。さらに石質は凝灰岩で国東半島から来たもので、年代的に見れば江戸時代より古いものだと考えています。そうだとすれば、沖家室島は、中世には国東塔を残すほどの勢力を持った者がいたこと、そして国東半島と深い関係をもっていたことが推測できます。それがいつの頃かに、無人島になったようです。浮島とおなじように、厳島合戦のとき陶氏に属し、敗れて毛利氏によって島を追われたという説を研究者は考えています。そうだとすれば、それから50年ほど経って、江戸時代になって平和な時代になってから伊予からの河野氏や村上氏の海賊衆の末裔が住み着くようになったのかもしれません。
 無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
 元禄11(1698)年になると、この島には鼠が異常発生して畑作物を食いあらし、島民が飢餓に襲われます。そこで庄屋の石崎勘左衛門は、紀州(和歌山県)からイワシ綱を招いてイワシをひいて飢をしのぐ方策を実行します。この計画はうまくあたります。こうしてこの島は「農業+漁業」のミックスした島として成長していくことになります。これに拍車をかけたのが、この島が九州諸大名の参勤交代のときの寄港地になったことです。海の荒れるときなど大名は、ここに船を着け、泊清寺を宿所にします。泊清寺は、「海の本陣」の役割を果たすようになります。

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沖家室島の案内図
本浦の泊清寺に行って見ることにします。
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泊清寺
港からの坂道を登るとすぐに見えて来ました。


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泊清寺の井戸
大きな石垣の上に境内はあります。その下にはしっかりとした井戸が見えます。瀬戸の港にとって、井戸は最重要なものでした。これを制する者が地域の有力者です。寄港する船もきれいな水を求めます。それを提供できる勢力が船乗りにとっては、第1の交渉相手となることは古代以来の定めです。この井戸を見るだけで、この寺の果たした役割がある程度はうかがえます。
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泊清寺山門
山門は竜宮城をイメージするような形で「海の寺」であることを主張しているように思えます。P1200920
泊清寺本堂
今の視点からすると周防大島の中でも辺境の地にあるお寺にしては立派と思ってしまいます。しかし、瀬戸内海が海のハイウエーであった時代は、人とモノの流通路にこの港はあり、多くの富も出入りしたようです。
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泊清寺
本堂横には「参勤交替本陣跡」の石柱が建てられていました。「海の本陣」としての格式を備えた寺院だったようです。この港が大名の御座船の潮待ちの際の寄港地だったことを裏付ける史料を見ておきます。
肥後熊本藩は「海の参勤交替」を行っていたことは以前にお話ししました。阿蘇を越えて大分から船で瀬戸内海を渡っていました。藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を以前に見ました。彼の乗る船は、桜満開の旧暦3月8日(新暦4月上旬)に大分を出港して、そのまま北流する潮の流れに乗って、周防上関に入ります。そして、満潮で東流する潮に乗って、周防大島周辺を以下のように航海していきます
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室(沖家室)の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路と伊予の島々

 上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。

上関 → 大津浦 → 加室(沖家室) → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

この時は沖家室には、潮待ちのために入港し滞船しただけで、
上潮を待って夜中に出港しています。しかし、非常時には上陸し、その際には泊清寺が本陣として使用されたようです

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泊清寺のフカ地蔵堂
この本堂の隣に建っているのがフカ地蔵堂です。この地蔵さまは、いろいろの伝説があります。その一つを紹介すると

昔、下関に山形屋庄右衛門という商人いた。その娘と船で上方から戻って来る途中、沖家室の沖で船がとまって動かなくなった。よく見ると大きなフカが船底についている。これは船に乗っている者をほしがっているのではないかと人々はささやきあった。そこで誰をほしがっているのかそれぞれ手拭を海にうかベてみた。すると山形屋の娘の手拭が沈んでしまった。親子は大変おどろき、かなしんだ。船に乗っている人の一人が、「沖家室にはフカ地蔵といって霊験あらたかな地蔵様がある。その地蔵様に祈ってみてはどうか」と言った。そこで親子の者は 心になって祈り、「命を助けて下さるなら、孫子の代まで代々地蔵様を造って寄進します」といった。するとフカが船からはなれ、船は動き出した。そこで親子は、泊清寺のフカ地蔵にお礼参りして、下関へ帰ってからから石地蔵を送り届けた。そして代の変るごとに地蔵の寄進が続いたので、、いまは五体ならんでいる。最も新しいものは昭和14年5月とある。地蔵様は、真中のものが一番大きい。だんだん小さくなっているのは信仰心のうすれてきたのかもしれない。と島の人達は噂しているといいます。

ここからは庶民たちの信仰心を捉える流行神を作り出す「経営努力」を、この寺が続けていたことや、瀬戸内海の交易ルートの要衝にあって、広域的に多くの信者を抱えていたことがうかがえます。

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沖家室の漁師は、一本釣りでタイとハマチを釣るのが上手でした。
タイは沖家室の沖にもいましたが、漁期をすぎると、 隧灘の魚島へ釣りに出かけます。そこに鯛が集まり出すからです。中には讃岐の与島まで釣りにいく者もいました。塩飽では6月頃まで釣れるからです。それから宇和島沖へも行きます。戻って来ると盆です。盆から秋祭りまでの一月は島の付近で釣り、祭がすむと北九州へ下っていきます。
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本浦港
 博多組、唐津組、伊万里組などという組がありました。明治になると壱岐や対馬へも進出するようになります。さらに台湾組というのもできて、台湾の南端ガランピにまで進出し、分村を作っています。明治10年頃からはハワイにも渡って、ホノルルを中心にした漁場は沖家室人が開いたともいわれます。
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本浦港
 漁師たちは一人前の漁師になるために親方につきます。親方が、こ一人前と見れば漁船を造ってやって独り立ちさせます。とは云っても船代は親方からの借金です。米や薪も親方に借ります。そのため釣って来た魚は、全て親方に渡します。親方は盆と暮れに勘定して釣りあげた魚の価格から貸した金や米塩代を差引いたものを漁師に渡すという流儀です。これにはいかがわしい勘定もあったようで、「搾収」もあったようです。しかし、借金することのできることを誇りに思っていたくらいの風土ですから、漁民たちはあまり苦にせず、問題にもならなかったようです。

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沖家室島の本浦港へ帰ってくる漁船

旅することを苦にしない人たちなので、ハワイがよいとなると皆押しかけていきます。そしてホノルルで漁業に従った者もいましたが、甘藷畑で働き、そのままハワイにとどまった人達も多かったようです。それでもふるさととの心の縁はきれないで、ふるさとの寺や神社の修復工事の時には、ハワイヘ寄付を依頼すると、多額の金が送られて来たといいます。
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蛭子神社
今度は、港を見下ろす所に鎮座する蛭子神社に行ってみましょう。
この島も氏神様のすぐ近くに小学校が作られていたようです。子ども達は神社の境内も含めて遊び場にしていたことでしょう。

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本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
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狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。

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その礎石には、「高雄沖家室同郷会」と刻まれています。高雄とは、台湾の台北の外港です。戦前には、沖家室の同郷会があり、故郷の鎮守に立派な狛犬を寄進する力があったことが分かります。
   神社の玉垣にも海外在住者の名前が多いのに驚かされます。敗戦後の物不足の時も、ハワイからいろいろの物を送ってくるので物資には困らず、あり余ったほどだったという話が伝わっています。

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沖家室本浦の高札場

沖家室は、お寺や神社をめぐっていても、いろいろな発見がある所でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

私の日本地図 9 瀬戸内海 Ⅲ周防大島 宮本常一著作集別集(宮本常一 香月洋一郎 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本 の古本屋

参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
P1200643
伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
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           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
P1160277
箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
関連記事


前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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  丸亀平野は浄土真宗王国とも云われ、多くの人たちが真宗信者です。持ち回りで開かれる隣組の「寄り合い(月の常会)」でも、最近まで会の最後には正信偈があげられて、お開きとなっていました。親戚の葬儀や法要も真宗僧侶によって進められていきます。そんな地域に住んでいるので、四国全体も浄土真宗が支配的なエリアと思っていました。でも、そうではないようです。浄土真宗の信者が圧倒的に多いのは、讃岐だけのようです。どうして、讃岐に浄土真宗のお寺が多いのでしょうか。下表は、現在の四国の宗派別の寺院数を示したものです。
四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国の宗派別寺院数一覧

ここから分かることを挙げておきます
①弘法大師信仰の強い四国では、真言宗寺院が全体の約1/3を占めていること。
②真言宗は四国四県でまんべんなく寺院数が多く、讃岐以外の三県ではトップを占めること
③特に阿波では、真言寺院の比率は、70%近くに達する「真言王国」であること
④真言宗に次いで多いのは真宗で、讃岐の真宗率は50%に近い。
⑤伊予で臨済・曹洞宗などの禅宗が約4割に達する。これは河野氏などのの保護があったため
⑥土佐の寺院数が少ないのは、明治維新の廃仏毀釈影響によるもの

④で指摘したとおり、讃岐の浄土宗率は46,6%にもなります。どうして讃岐だけ真宗の比率が高いのでしょうか。逆の見方をすると③の阿波や⑤の伊予では、先行する禅宗や真言勢力が強かったために、後からやって来た真宗は入り込めなかったことが予測できます。果たしてどうなのでしょうか。讃岐への真宗布教が成功した背景と、阿波や伊予で真宗が拡大できなかった理由に視点を置いて、真宗の四国への教線拡大が、どのように行われたのかを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。
まずは、伊予の真宗寺院について見ていくことにします。
伊予には真宗伝播に関する史料がほとんどないようです。その中でも
古い創建由来を持つ真宗寺院は、芸予諸島に多いようです。四国真宗伝播 川尻の光明寺
光明寺(呉市川尻) もともとは伊予の中島にあった禅寺

安芸国川尻の光明寺は明応五年(1496)に禅宗から真宗に転宗した寺です。その前身は伊予国中島にあった西光寺と伝えられます。芸予諸島の島々を転々とし、天正元年(1573)年に安芸川尻に移ってきます。伊予中島で禅宗から真宗に転じた際に、檀家も真宗に改宗したと云います。中島では光明寺(西光寺)が移転したあとは、お寺がなくなりますが、信徒たちは教団を組織して信仰を守ったようです。
 この時期の安芸国では、仏護寺を中心として教線を拡大していきます。仏護寺が天台宗から真宗へ改宗した時期は、光明寺の改宗した時期とほぼ同じ頃になります。ここから15世紀末頃が、真宗が瀬戸内海を通じて芸予諸島一帯へと、その教線を伸ばしてきた時期だと研究者は考えています。
安芸竹原の長善寺について

四国真宗伝播 安芸長善寺と
竹原の長善寺と大三島

 芸予諸島で一番大きな大三島は、安芸から真宗が伝わってきたようです。「藤原氏旧記」によると、祖先の忠左衛門は竹原の長善寺の門徒でした。それが大永7(1527)年に大三島へ移住し、島に真宗を広めたと伝えられます。
四国真宗伝播 長善寺進者往生極楽 退者尤問地獄
長善寺の黄旗組
長善寺には石山戦争の時に、使用されたと言われる「進者往生極楽 退者尤問地獄」と記された黄旗組の旗が残されています。忠左衛門は同志を募り、兵糧を大坂へ運び込んでいます。彼は、石山にとどまって戦いますが、同志18名とともに戦死します。長善寺に、その戦死者の法名軸か残されています。その中に「三島五郎太夫、三島左近」といった名前があります。彼の「三島」という名から大三島出身者と考えられます。他の者も大三島かその周辺の出身者だったのでしょう。ここからは、石山戦争時代には、竹原の長善寺の末寺や坊が芸予諸島にいくつできて、そこから動員された真宗門徒がいたことが分かります。しかし、村上海賊衆に真宗は門徒を広げては行けなかったようです。村上武吉も、周防大島の真言宗の寺院に葬られています。
大三島の真宗寺院で、寺号を下付されたのが古いのは次のふたつです。
①宮浦の教善寺 寛文11(1673)年
②井口の真行寺  延宝6(1678)年
 寺院としての創建は、江戸時代前半まで下るようですが、それまでに道場として存在していたようです。道場などの整備や組織化が行われたのは、石山戦争が契機となったと研究者は考えています。石山戦争を戦う中で、本願寺からのオルグ団がやってきて、芸予諸島での門徒の組織化が行われ、道場や庵が集落に設けられたと云うのです。大三島の各地に、現在も道場・寺中・説教所の痕跡が見られることは、このことを裏づけます。伊予では安芸から芸予諸島の島々を伝って、真宗伝播の第一波が波が、15世紀末にやってきます。そして、16世紀後半の石山戦争中に、第2派が押し寄せてきたようです。

次に伊予本土の方を見ていくことにします。
伊予本土で創建が古いとされる真宗寺院は、次の通りです。
①東予市の長敬寺 弘安6(1283)年創建、再興後三世西念の代に本願寺覚如から寺号を賜ってて真宗に転宗。
②明勝寺は 天文15(1546)年に、真言宗でから転宗し、円龍寺と改称
③新居浜の明教寺は元亀年間に、佐々木光清によって開創
④松山の浄蓮寺は、享禄4年(1531)河野通直が道後に創建
⑤定秀寺 永禄元(1558)に、風早郡中西村に鹿島城主河野通定が開き、開山はその子通秀。
⑤の定秀寺については、通定は蓮如に帰衣し直筆名号を賜わり、子通秀は石山戦争に参加して籠城し、その功績により顕如から父子の名を一字ずつとり定秀寺という名を賜ったと伝えられます。しかし、鹿島城主河野通定なる人物は存在しない人物で、寺伝は信憑性にやや欠けるようです。
①は別にして、その他は16世紀半ばの創建を伝える寺院が多いようです。しかし、浄土真宗の場合は、道場として創建された時と、それが本願寺から正式に認められた時期には、時間的なズレがあるのが普通です。正式に寺として認められるには本願寺からの「木仏下付」を受ける必要がありました。
 慶長年間に入ると、道後の浄蓮寺・長福寺、越智郡今治の常高寺、松山の正明寺に木仏下付されています。これらの寺も、早い時期に下付になるので、それまでに道場として門徒を抱え、活動していたことが推測できます。しかし、それ以後の真宗の教線拡大は見られません。
伊予では瀬戸内海交易を通じて、禅宗が早い時期に伝わり、禅宗寺院が次のように交易港を中心に展開していたことは以前にお話ししました。
①臨済宗 東伊予から中伊予地区にかけては越智・河野氏の保護
②曹洞宗 中・南伊予地区には魚成氏の保護
東伊予と海上交易活動においては一体化していた讃岐の観音寺港でも、禅宗のお寺が町衆によっていくつも建立されていたことは以前にお話ししました。禅宗勢力の強い伊予では、新興の真宗のすき入る余地はなかったようです。

瀬戸内海を越えて第一波の真宗伝播を芸予諸島や安芸にもたらしたのは、どんな勢力だったのでしょうか
 中世の瀬戸内海をめぐる熊野海賊衆(水軍)と、熊野行者の活動について、以前に次のようにお話ししました。
①紀伊熊野海賊(水軍)が瀬戸内海に進出し、海上交易活動を展開していていたこと
②その交易活動と一体化して「備中児島の五流修験=新熊野」の布教活動があったこと
③熊野行者の芸予諸島での拠点が大三島神社で、別当職を熊野系の修験僧侶が握っていたこと。
④大三島と堺や紀伊との間には、熊野海賊衆や村上海賊衆による「定期船」が就航し、活発な人とモノのやりとりが行われていたこと。
以上からは中世以来、芸予諸島と堺や紀伊は、熊野水軍によって深く結びつけられていたことがうかがえます。その交易相手の堺や紀伊に、真宗勢力が広まり、貿易相手として真宗門徒が登場してくるようになります。こうして、瀬戸内海に真宗寺院の僧侶たちが進出し、て布教活動を行うようになります。芸予の海上運輸従事者を中心に真宗門徒は広がって行きます。それを、史料的に研究者は追いかけていきます。
瀬戸内海への真宗布教のひとつの拠点を、阿波東部の港町に求めます。
四国真宗伝播 阿波信行寺

 阿波那賀郡の信行寺は、那賀川河口の北側に位置し、紀伊水道を挟んで紀伊の有田や御坊と向き合います。この海を越えて、中世には紀伊との交流が活発に行われ、紀伊武将が阿波にやってきて、定住し竹林寺などに寄進物を納めています。

四国真宗伝播 阿波信行寺2
阿波国那賀郡今津浦信行寺 

 信行寺の寺伝には、開基は浅野蔵人信時で、寛成年間に京都で蓮如に帰衣して西願と称し、文明13(1481)年に那賀郡今津浦に一字を創建、北の坊と称したと伝えられます。永正年間に二代目の西善が実如より寺号を賜り、慈船寺と改めたとします。また亨禄年間には、今津浦には、もうひとつ照円寺も建立されてます。この寺は信行寺が北の坊と呼ばれたのに対して、南の坊と呼ばれるようになります。こうして、今津浦には、北の坊と南の坊の二つの寺院が現れます。これは、本願寺の教線が紀伊に伸びて、さらに紀伊水道を渡って阿波の那賀川河口付近に伸びてきたことを示します。「紀伊→阿波ルート」としておきます。

四国真宗伝播 阿波信行寺3

この両寺院が建立された今津浦は、那賀川の河口に位置し、中世には平島と呼ばれた阿波の代表的な港の一つでした。

阿波の木材などの積み出し港として重要な地位を占めていました。熊野行者たちや修験者たちのネットワークが張り巡らされて、真言宗の強いエリアでした。そこに、本願寺によって真宗布教センターのくさびが打ち込まれたことになります。
 北の坊と南の坊の二つの寺院の門徒は、今津浦の特性から考えても海上輸送に関わる人々が多かったことが考えられます。彼らは「渡り」と呼ばれました。「渡り」によって、阿波東部から鳴門海峡を経て瀬戸内海沿岸地域へと本願寺の教線は拡大したと研究者は考えています。これらの紀伊や阿波の「渡り」の中に、真宗門徒が拡がり、讃岐の宇多津や伊予の芸予諸島にやってきて、それを追いかけるように布教のための僧侶も派遣されます。おなじように堺に本願寺の末寺が建立されることで、堺の海上ネットワークを通じた布教活動も行われるようになります。それが15世紀末頃ということになるようです。

 興味深いのは、東瀬戸内海エリアの小豆島や塩飽諸島には、浄土真宗のお寺はほとんどありません。
私の知る限り、近世になって赤穂から小豆島にやってきた製塩集団が呼び寄せた真宗寺院がひとつあるだけです。本願寺は、このエリアには拠点寺院を設けることができなかったようです。この背景には、旧勢力である真言寺院(山伏寺)の活発な活動があったためだと私は考えています。具体的には、児島五流修験者に連なる勢力だと推測しています。
真宗門徒が確保できた拠点港は、讃岐では宇多津でした。
ここに西光寺を創建します。この寺のことは以前にお話ししましたので省略します。西光寺を経て芸予諸島や安芸方面に布教先を伸ばしていきます。そして、その結果は先ほど見たとおりでした。芸予諸島や伊予本土の港町周辺には勢力拠点を開くことが出来ましたが、それは、あくまで点の存在です。点から面への拡大には至りませんでした。その背景を考えておきます。
①芸予諸島や今治周辺では、大三島神社の別当職をにぎる真言宗勢力が強かったこと
②松山周辺では、河野氏など領主僧が禅宗を信仰しており、真宗を保護することはなかったこと
③南予は、旧来から土佐と一体化した修験道集団が根強く、真宗進出の余地はなかったこと
こうしてみると、真宗の伊予布教活動は進出が「遅かった」と云えそうです。旧来の修験道と結びついた真言勢力の根強さと、先行する禅宗の板挟みにあって、芸予諸島やその周辺部の海岸線沿いにしか信者を獲得することができなかったようです。

以上をまとめておくと
①浄土真宗が堺や紀伊にまで広がって行くと、海上交易ルート沿いに真宗信者が増えていった。
②そのひとつの拠点が阿波今津港で、真宗門徒化した「渡り(海上交易従事者)」が瀬戸内海や土佐方面の交易活動に従事するようになる。
③「渡り」の交易相手の中にも、布教活動を受けて真宗門徒化するものが出てくる。
④讃岐で本願寺の拠点となったのが宇多津の西光寺である。
⑤15世紀末には、安芸や芸予諸島にも真宗門徒によって、各港に道場が開設される。
⑥16世紀後半の石山戦争では、石山本願寺防衛のために各道場の強化・組織化が図られた。
⑦それが石山戦争での安芸門徒の支援・活躍につながっていく。
⑧しかし、伊予での真宗勢力の拡大は、地域に根付いた修験道系真言寺院や、領主たちの保護した禅宗の壁を越えることができなかった。
  それが最初の表で見たように、伊予の真宗寺院の比率9,2%に現れているようです

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

    
前回は幕末の宇和島藩には880人の修験者たちがいて、それぞれが地域に根付いた宗教活動を行い、定着していたことを見ました。これは別の言葉で表現すると「修験者の世俗化」ということになるようです。地域社会に修験者が,どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかを明らかにするのは、ひとつの研究テーマでもあるようです。
 修験者が自分の持つ権成や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していくプロセスの解明と云うことかもしれません。その戦略は、置かれた時代・地域・生活形態に応じて変化します。前回はその戦略の一端を宇和地方に見たということになります。今回は、国東の田染庄への修験者たちの地元への定住戦略を見ていくことにします。

やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。

国東の修験者の修行の道を歩いて見たくなり、天念寺耶馬の無明橋を目指したことがあります。やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
  
目をこらすと無明橋も見えているような気もします。
ところがあいにくの雨。雨具を付けて出発しようとすると鬼会の里のスタッフから「雨天時の登攀は、危険で事故も多発していますので、ご遠慮いただいております」との言葉。

天念寺の看板に誘われ参拝する。
長岩屋天念寺
行く場をなくして、雨の中の彷徨を始まります。まず、訪れたのが駐車場の横にある長岩屋天念寺です。お寺には見えない民家のような小さな本堂です。
この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたという。<br />しかし、明治以後は大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたという。今の寺の規模は最盛時の何十分の1になっている。<br /> 売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で今は公開されているという。<br /><br />

この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたようです。しかし、明治の神仏分離で神社から切り離されて、ここに移動。その上に大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたといいます。今の寺の規模は、最盛時の何十分の1になっているようです。売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で公開されていました。

天念寺への参拝終了とおもいきや、<br />このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからにあった。<br />川下に歩いて行くと・・・
身禊神社

天念寺への参拝終了とおもいきや、このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからでした。川下に歩いて行くと・・・
萱葺きの神社が現れました。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
身禊(みそぎ)神社と講堂
背後は切り立つ断崖。
天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの修験者たちの「行の場」のひとつでした。神仏混淆で神も仏も一体化し、天念寺がこの神社の別当だったようです。

背後は切り立つ断崖。<br />天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの僧侶たちの「行の場」のひとつでもあった。<br /><br />そして神仏混淆で神も仏も一体化していた。<br />天念寺がこの神社も管理していたのだろう。<br />
身禊神社 鳥居と本殿
鳥居の奧が本殿?
それでは、左の萱葺き屋根の建物が拝殿?
中に入って参拝させていただきます。
拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。

拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。
そして、隣接する謎の建物の礼拝所へ<br /><br />広いのです。<br /><br />神社の拝殿の規模を遙かに超えています。

そして、隣接する謎の茅葺き建物へ
広いのです。神社の拝殿の規模を遙かに超えています。
無造作にいろいろなものが置かれています。
ここが何に使われる空間か、私にはこの時には分かりませんでした。

中世の村を歩く - 新書マップ

後に「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」を読むと、次のようにありました。
昭和4年にこの地をは、種田山頭火もこの地を訪れ、萩原井泉水に宛てて出した書翰には「小耶馬渓とでもいひたい山間」と記し、しぐれる耶馬を越えた行程に思いを馳せて、「いたゞきのしぐれにたゝずむ」などの俳句を詠んでいます。
      身禊神社の前の川中不動
昼の勤行が終わると、ホラ貝と鐘を合図に勤行の僧と祭りに奉仕するムラ人のテイレシ(松明入れ衆)たちは、川中不動の前の淵に集まる。
テイレシたちは水中に入って身を清めるコーリトリ(垢離取り)の式を行う。真冬二月の夕方の薄暗がりの中に、白い裸身が浮かび、見るだけでもいかにも寒そうだが、そこが信仰の力なのであろう。

そして川中不動に会いに行きます。
コーリトリ(垢離取り)が行われる川中不動

やがてまたホラ貝と早鐘を合図に、寺の前や橋の上など三か所に立てられた三本の大松明がテイレシたちによって次々に点火されると、暗くなった谷の中はパッと明かるくなる。夜の勤行の始まりである。

天念寺鬼会2

岩壁に直接建て掛けられた講堂の中は、すでにムラの人たちや参詣者たちでいっぱいである。勤行の前半は読経を中心に、さまざまの祈祷が行われ、比較的単調な時が流れる。
天念寺鬼会1 

後半は一転して芸能的色彩が濃くなり、人々を飽きさせない。まず「香水棒」と呼ばれる、小正月の削掛に似た棒を持った二人の僧が登場、足拍子と下駄の音高く、互いに棒を打ち合わせ、堂を踏み鎮める。「マンボ」のリズムにも似た調子で、いかにも快い。やがて長老の僧二人が「鈴鬼」の夫婦として現れ、おだやかに舞い納めて、「災払鬼」「荒鬼」を招き入れる。いよいよ「鬼走り」といわれるクライマックスだ。
修正鬼会とは - コトバンク
              「災払鬼」
「災払鬼」は赤鬼の面に赤の着衣で、右手に斧、左手に小松明を持つ。 一方、「荒鬼」は黒鬼の面に黒(今は茶)の着衣、右手に太刀、左手に松明を持つ。ともに体力のある若い僧侶の役で、順に登場、法会を主催する僧に聖なる水を吹きかけられると、とたんに武者震いをし、活動を始める。
 カイシャク(介錯)役の数人の村人とともに点火した松明を打ち振り打ち振り、堂の廊下を「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」と大声で連呼しつつ、乱舞し、飛び回る。満員の堂内はどよめき、人の粉の飛び散るなかを逃げまどう人々も多い。騒然たるなかで、「鬼の目」と呼ばれる餅が撒かれる。この餅は無病息災の御利益があるとして、人々は争ってこれを拾おうとする。また堂内に座っている人々の背中を鬼が次々と松明で叩き、加持を加える。鬼会もここでようやく最後となり、天念寺の僧による「鬼鎮め」を受けた鬼は静かに講堂から退場する。
天念寺鬼会3

 藁葺きの講堂は真冬に行われる「鬼会」の舞台だったようです。
そのための空間なので、ただ広く殺風景なのです。しかも、ここは身禊神社に隣接していますが、所属は天念寺の講堂になるようです。神仏分離への苦肉の対応ぶりがうかがえます。

それでは鬼会の鬼とは、何なのでしょうか?
「鬼会」に登場する鬼たちは、どうも節分の豆撒きで払われるような単純な鬼ではないようです。
「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」という鬼の掛け声は、宇佐八幡宮の創始者の法蓮を誉め称える、との意味で、鬼はまさに法蓮の化身、あるいは不動明王の化身

とパンフレットには説明されていました。
 一方では、「災払鬼」「荒鬼」の着衣は、十二か所(閏年は十三か所)も麻縄(昔はカズラ)でくびられています。これはいかにも一年のはじめに来訪する神を暗示します。

天念寺鬼会 鈴鬼
天念寺鬼会 鈴鬼
また白塗りでおだやかな夫婦の「鈴鬼」は、老人の姿をとって現れる先祖の神のようにも思えます。「鈴鬼」が手に持った団扇には米粒が入っていて、これをガラガラと打鳴らしながら舞をします。米粒に象徴される農耕神の再生を暗示ともとれると研究者は考えているようです。
そこからさらに一歩進めて、修正鬼会の鬼は、実は仏であり、また神でもあるのだという説もあるようです。この講堂は、鬼が仏や神に変わっていく舞台でもあるようです。
 確かに、国東の神社には仁王の像が立ち、寺と社がほとんど一体化した神仏分離以前の姿が残っています。鬼にも仏と神が一体化した姿が宿っているのかも知れません。

修正鬼会へ行ってきました! | アナバナ九州のワクワクを掘りおこす活動型ウェブマガジン | [九州の情報ポータルサイト]

鬼会の主催者は?
私は神社で行われているので、身禊(みそぎ)神社の主催かと思っていました。そうではないようです。鬼会は、長岩屋の地区の主催する行事なのです。テイレシ(松明入れ衆)やカイシャク(介錯)の役をはじめ、笛・太鼓・鉦などのお囃子方も、また運営の役員も、松明や香水棒を作ることも、すべてはムラの人々によって行われているようです。それは、中世にここにあった都甲荘内のムラからの伝統を受け継いでいるのです。
天念寺修正鬼会 - 写真共有サイト「フォト蔵」

鬼会の大松明は、明治までは十二本供えられたようです。
長岩屋の谷の各所にあった天念寺の十二の坊が、それぞれ一本ずつ大松明を作っていました。またテイレシの人々も十二の坊から出されていました。
 中世荘園では、名が年貢や公事(雑税)を出す単位でした。一年十二ケ月ごとに雑税を分けて負担するので、名の数は十二とされることが多かったようです。鬼会の負担が天念寺の十二坊に割り当てられているのも、中世荘園の痕跡だと研究者は指摘します。

行者による谷の開発
この谷は今も長岩屋という地区名で呼ばれています。それは、この谷の領域の全体がそのまま長岩屋(天念寺)という寺院の境内地だったからのようです。谷の開発過程を見ておきましょう。
①急峻な岩壁を持つこの谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

都甲からは北方の夷も、「夷耶馬」と称される景勝の地です。
ここにも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋がありますた。古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源はすでに長い年月、岩屋に接した森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山はもとより、この長岩屋の住僧三人以下、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じような開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
近年の調査で、この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)が発見されています。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。長岩屋は、宗教特区だったことになります。特別なエリアという印象も持ちますが、国東の谷々で開発された中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。

天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

 長岩屋エリアに住むことを許された62の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。

他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の姿が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。
 「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。 これはまんのう町金剛院の修験の里を考える場合のヒントになります。金剛院にも、屋号に「○○坊」と名乗る家が残ります。彼らが廻国行者などとして全国をめぐり、金剛院周辺に定着し、周辺地を開発していったということが考えられます。

天念寺境内実測図
現在の天念寺境内実測図
最初に見た「修験者の世俗化」テーマをもう一度考えてみます。
地域社会に修験者が、どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかという問いに対しては、ある研究者は次のように応えています。

「(修験者が)自分の持つ呪術力や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していく戦略」

その戦略は、時代や場所などに応じて変化させなけらばならなかったはずです。その柔軟性こそが、修験者が里修験化できるかどうかの分かれ目となったとも云えます。そんな視点から「修験者の世俗化」を見ると、修験者たちは、農耕や狩猟、漁業、鉱業、交通・医療などに、積極的に関わりをもち、参入していったことが見えてきます。
富山県西部の砺波平野の例を見ておきましょう。
砺波平野の定着修験(里修験)は、次の三つに分類できるようです
①高野聖、廻国聖などの遊芸聖系
②山伏系、
③貧民・落人・漂泊民系
この3タイプは、①の遊芸聖系が中世全般、②の山伏系が中世末から近世初期、③の貧民・落人・漂泊民系が近世前期に定着していきます。定着修験たちは、自分たちの生活のためにも地域の仏事法要や仏事講に携わっていきます。同時に、多数の氏子を獲得できる堂社祠にも奉仕するようになります。例えば具体的に、初夏には「虫除ケ祈疇」という虫送りの民俗と融合した儀礼を執り行うようになります。また「雨乞祈疇護摩札」なども、配布したりするようになります。そして、「農村的歳事年中行事との結びつきにより、山伏は役割的にも村落社会に確実に定着していた」と研究者は指摘します。
 修験者は、農民たちの農耕儀礼に関わることによつて、農村社会での存在価値が高めらいきます。それは、同時に彼らの定着化の大きな原動力になります。定着後は、儀礼執行者として指導性を発揮すよようになります。
 また農民として農耕を行う修験者も出てきます。
新潟県岩船郡山北町搭ノ下の修験であるホウインは、寛文年間(17世紀中葉)にすでに約2反の水田を持ち、後にはそれをい1町歩にまで増やしています。宗教的教導者としての性格よりも、次第に農民化しているようにも見えます。
天念寺周辺行場
天念寺周辺の行場
国東のムラで起こっていたことも、地域へ定着という方向は同じです。
 しかし、地域への定着後のあり方が大きく異なってきます。それは、行場の周辺を開発し定着したことです。さらに、住人の選別を行ったことです。そのため他の地域では、行場から乖離し、里下りした修験者が多くなりますが、国東では行場と一体化した宗教活動が続けられたことです。修験者は、土地持ちの農民としての生活を確保すると同時に、活発な宗教活動を展開する修験者でもあったようでっす。経済的に見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的な環境を作り出してきたひとつの背景になるのではないでしょうか。
 どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。四国の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるようなきがするのですが、史料的に裏付けるものはありません。  
 
天念寺(てんねんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト
天念寺無明橋

以上をまとめておくと
①国東の霊山にやってきた修験者たちは行道を行い各地に行場を開いていった
②急峻な岩壁を持つ天念寺耶馬の谷にも修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②その中の大きな岩屋である「長岩屋」周辺に施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③修験者たちは坊を開き、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④屋敷は12坊に編成され、その宗教センターとして神仏混淆の天念寺が建立される。
⑤ここでは「鬼会」を初めとするさまざまな年中行事が、修験者たちによって営まれていくことに⑥修験者たちは、この地に定住した後も峰入りなどを継続して行い、行場から分離されることがなかった。
⑦また明治の神仏分離も柔軟に受け止め神仏混淆スタイルとできるだけ維持しようとした。
⑥そのため独自の国東色を残す宗教的なカラーが受け継がれてきた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。

村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。

DSC03568厳島神社の舫い船
一遍上人絵伝に出てくる宮島湊の舫い船

村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。
ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
近世の瀬戸内海No1 海賊禁止令に村上水軍が迫られた選択とは? : 瀬戸の島から

 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

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 小早川氏は、鎌倉初期に相模の土肥実平の子・遠平が安芸沼田荘の地頭職を得たことに始まるようです。遠平は平家討伐の恩賞として平家家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を得ます。これを養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)に譲ります。安芸国にやてきたのは景平になるようです。

小早川氏系図
建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えます。長男茂平は承久の乱で戦功を挙げ、安芸国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう)の地頭職を得て支配エリアを瀬戸内海沿岸に伸ばします。茂平の三男・雅平が沼田本荘などを与えられ、高山城を本拠としたのが始まりで、これが沼田小早川氏で、本家筋になります。
高山城 沼田小早川氏 350年間の本拠となった中世山城 | 小太郎の野望 ::

高山城 沼田小早川氏の居城 三原市本郷町

 茂平の子・朝平は、元弘の乱で鎌倉方として六波羅探題に味方し付き従ったため、建武政権によって沼田本荘を没収されます。しかし、竹原小早川家の取り成しなどにより、旧領を安堵されています。
その後の「宣平、貞平、春平」の3代の間に芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築くことになるようです。
 今回は小早川氏の瀬戸内海への進出過程を見ていくことにします。
テキストは 山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年です。

系図を見ると分かるように沼田小早川氏の宣平の子である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」というふうに兄弟が、海に向かって一斉に進出する態勢をとりはじめます。自分たちの活動の部隊は、海にありと意識したような動きです。
 中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』には、次のように記されています。
 南北朝期、小早川氏の主な領域は沼田本荘、沼田新荘、都宇・竹原荘だった。本荘の惣領家は足利氏方、新荘の一部庶家が南朝方として戦い、一時は惣領家の城を占拠し、面目を失わせた。
 だがこの時期、惣領家は本荘沼田川流域の塩入荒野を干拓
造成した新田を庶子に与えた。庶子は新田地を本拠とし地名を姓とした。小泉、小坂、浦、生口、猪熊ら新庶家が生まれ、惣領家を支えた。小泉氏は氏平が始祖。干拓地のうち西部山寄りが領地である。  

杜山悠『歴史の旅 瀬戸内』P222~225P)には、次のように記されています。
惟平が拠った生口島瀬戸田は、航海業者たちの一つの拠点で商船の往来が激しく島内生活もその刺激を受けて活発になり、自由の気風に充ちた明るい世界が開けていた。生口船とか瀬戸田舟とかいわれたこの島の商船は、小早川生口因幡守道貫(惟平)支配のもので、商船とはいいながら、半面には海賊的性格も持っていて、兵庫関など平気で無視して通ったといわれる。また本荘小早川(本家沼田)でも能美島に進出し、大崎上島(近衛家荘園)にも南北朝の動乱期に入り込んでその支配権を持った。
 竹原小早川の海島進出もやはり始まっていて、景宗(二代)のとき安芸の高根島を含めた地頭職として島嶼に一つの足がかりをつかんだ。このようにして小早川一族が所領とした島々はおびただしい数にのぼり、その主なものでも、因島、佐木島、高根島、生口島、越智大島、大崎上島、生野島、大崎下島、豊 島、三角島、波多見島、能美島、向島、江田島、倉橋島、上下蒲刈島などがあげられる。」
   小早川氏の庶家である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」の拠点を押さえておくと、次のようになります。
①沼田荘内小泉に土地を与えられて小泉氏を名乗る氏平
②沼田荘内田野浦に拠って浦氏を名乗る氏実
③沼田荘に近い生口島の地頭職を与えられ、生口氏を名乗る惟平
④茂平の子経平は、これらよりも早く分立して船木氏を名乗る
 南北朝期の弓削島荘で「悪党」として活動するのは、これら小早川庶家衆です。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
手前左が因島 その右が生名島 その向こうが弓削島

彼らにとって、最大のチャンスは南北朝の内乱期であったことです。
これが国境を越えての伊予の島々への進出の機会となります。
  芸予諸島では伊予海賊衆が北上していましたが、小早川氏は三庶家を先頭に伊予衆を押し返す形で南下することになります。きっかけは伊予出兵でした。 興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。
   こららの動きがあった康永二年(1343)には、庶家衆に関する史料がいくつか東寺に残されています。その四月、東寺雑掌光信の訴えをうけて室町幕府引付頭人奉書が、当時伊予守護であった細川頼春に次のように訴えています。

「小早川備後前司(貞平)、同庶子等当所住人民部房・四郎次以の、なほもって退散せず、いよいよ乱妨狼藉を致」
                (東寺百合文書・六八四)

「国中劇の隙を伺ひ、当島に打入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉を致すの条、濫吹の至り、言語道断の次第なり」
「事を世上の動乱によせ、使節遵行の地に立ち還り、若干寺物を押取り、下地を押領せしむるの条、造意の企て、常篇を絶つ」(同・八〇〇)

 ここからは動乱のすきをねらって、乱暴狼藉をはたらく小早川氏の巧妙な荘園進出のやり方がうかがえます。また、東寺側の激しい非難のなかには、小早川勢力の弓削荘侵略に直面した荘園領主の危機感がよくあらわれています。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
伊予国弓削島荘地頭領家相分差図(「東寺百合文書」)

 幕府(北朝)は小早川氏に退去を命じますが、四氏は無視して居座ります。幕府は使者を派遣して強制退去させます。東寺は小早川氏を警戒し、伊予海賊衆(村上氏)雇って警固します。にも関わらず、小早川氏はすぐに乱入。その後、島を占拠しますが、その先頭に立ったのは四氏の庶家小泉氏でした。小泉氏は因島でも居座り、年貢を横取りしていたようです。南北朝の争乱を、自己の権益拡大に最大限利用している姿がうかがえます。
 足利尊氏と弟直義が争う観応の擾乱が始まると、一時期、反尊氏派が島を占拠したので、幕府は小早川惣領家に地頭職を与えて守らせます。だが惣領家家も『乱妨』を働くと領主東寺から訴えられて、地頭職を取り上げられています。しかし、居座りを続け、島を勢力下に取り込んでいきます。領家である東寺にしてみれば手の付けられない「悪党」です。
弓削島荘遺跡ポスター

小泉氏二代の宗平が、応安四年(1371)7月に、伊予国越智郡大島の地頭職に任命されます。
 それまで非法ぶりを非難され続けてきた一族が、今度は全く立場をかえて、東寺から荘園を守り管理する地位に任ぜられたのです。これはアメリカ西部の悪党を保安官にするようなやり方です。当時の弓削島荘の周辺は、西部の無法地帯とよく似ていたようです。なぜなら、南北朝の動乱で海上秩序が失なわれて、無法地帯になっていたのです。東寺にしてみれば、年貢を無事に京都にもたらしてくれる者であれば、誰でもいい、その素性を問うてはいられなかったのでしょう。そのような視点からすれば海上機動力にすぐれ、軍事力も持つ小泉氏は、地頭として候補者にあげられても不思議ではありません。東寺は、かつての非法、悪党ぶりに目をつぶり、年貢請負額京定30貫文という破格の安値で請負契約を泣く泣く結びます。
しかし、東寺の小泉氏への期待と信頼は、みごとに裏切られます。

弓削島遺跡2

小泉宗平は、地頭職についても非法をやめません。

それを東寺雑掌は、次のように記します。
「令同意山地以下悪党、致押妨」(17) (18)

   弓削島押領人事 
公方奉公 小早川小泉方 
海賊 能嶋方 (能島)
海賊  山路方(讃岐)
此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之 
小泉氏を中心にして、伊予の海賊能島氏、讃岐の海賊山路(地)氏等が弓削島を押領しているというのです。讃岐の山地氏については、以前にお話ししましたので、今は触れません。
  ここからは、年貢の輸送路をはじめとして周辺の海賊を悪党・海賊に固められて、弓削島荘の経営にもはや身動きのとれなくなっている東寺の窮状を知ることができます。まさに弓削島周辺は海賊衆の世界となっていたのです。
弓削神社

弓削神社(ゆげじんじゃ) 「浜途明神」「浜戸宮」の後身


 東寺は、現実をまのあたりに学んだようです。荘からの年貢収取を維持していくためには、今までのように荘官を派遣して荘園の管理をやらせる方法ではダメだということです。そこで、新たな方法として採用したのが「所務請負い方式」です。そして、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や同治部進と年貢請負の契約を結びます。村上氏も芸予諸島周辺の海賊衆の一人であったこと間違いありません。東寺にしてみれば、海賊衆小泉氏を制するのにに別の海賊衆を以てしたということになります。このような動乱期の中で、伊予海賊村上氏と安芸の小早川氏は芸予諸島をめぐって勢力範囲を拡大していくことになります。
第11番札所・向上寺 緑に映える朱塗りの国宝三重塔
向上寺の三重の(生口島 瀬戸田)

   最後に生口島を拠点とした小早川氏の庶子家生口氏を見ておきましょう。
生口島には国宝の三重塔が海を背景に建っています。これは1432年に、初代生口惟平とその子守平によって建立された向上寺の塔です。小早川氏の庶子である生口氏は、この島が生口島と呼ばれていたことから、その名を名乗ることになったようです。生口島はもともとは皇室領でしたが、源平合戦や承久の乱を通じて、武家方に没収され没官領地となりました。南北朝の騒乱期に、この島を拠点としていた南朝方を落とした功績により、小早川惟平にこの島が与えられ、生口氏が移り住み拠点とします。
向上寺三重塔 - ひろしまたてものがたり

 小早川氏は、安芸国の沼田荘に土着した頃は、内陸部への進出や沼田川河口部の干拓などで勢力を拡張していました。それが、生口氏の生口島獲得によって、小早川氏は陸の武士団という性格から、小早川水軍と称されるような海の武士団へと性格を変えていくことになります。
 小早川氏は、小泉氏が弓削島、生口氏が生口島へと瀬戸内海へ進出することによって、海上輸送に関わるようになります。それは瀬戸内海交易を越えて、朝鮮や明との貿易にも従事していたようです。 そこからあがる利益は莫大なものでした。
小早川氏の本拠沼田の外港として、位置づけられたのが生口氏の瀬戸田港だったようです。
小早川氏が他の安芸の国人領主レベルから一段と上のレベルに位置付けられていたのは、海の武士としての海上交易活動がありました。
 生口船は、兵庫北関に入港する際の免税の特権を持っていました。生口氏の海の経済活動は、目を引くモノがあります。主な輸送品は、弓削島や因島の塩です。「兵庫北関入船納帳」(1445年)によれば1月から2月半ばまでに61艘の入船があり、うち30艘が塩を積んだ船であり、そのうち1/3が小早川氏の支配する地域からの塩です。しかも生口氏配下の船は免税です。
 弓削島を押さえた小泉家の塩を、生口島の免税特権を持った舟が運ぶという「分業」体制があったことになります。そこからあがる莫大な利益を蓄積しながら次第に大名化していくのが小早川家ということになります。毛利元就の三男隆景が継いだ小早川家とは、そういう家系だったのです。
 生口・小泉氏などの庶家を配下に置く小早川家は、海の経済的・人的ネットワークを背景として、強力な軍事力と水軍を持ち、他の安芸国の国人領主を圧倒していきます。因島や能島の村上氏も最終的には、この軍門に降ることになります。
 その生口島の繁栄の象徴が向上寺の三重塔ということになるようです。小早川氏の外港として繁栄する瀬戸田港からの財をバックにして作り上げ塔です。
 向上寺(広島県安芸幸崎駅)の投稿(1回目)。#国宝 #向上寺三重塔 ・生口島へは尾道から…[ホトカミ]
  以上をまとめておきます
①鎌倉時代初期に西遷御家人として沼田庄に小早川氏が入ってきた。
②沼田庄を拠点に、竹原などの沿岸部に勢力を伸ばし、開発を行った。
③南北朝の争乱期に宣平の4人の子ども達は、芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築いた。
④「塩の荘園」として東寺の最重要荘園であった弓削荘に対して、小早川氏は侵入し「悪党」ぶりを発揮する。
⑤東寺はこれを幕府に訴えでるが有効なただ手は見つからず、小早川の庶家小泉氏に官吏を任せることもおこなったがうまく行かなかった。弓削荘は次第に小泉氏に侵食されていく。
⑥一方、生口島の瀬戸田港を拠点とした生口氏は、周辺の海民を組織し「海の武士団」へと成長して行く。
⑦生口氏は、明や朝鮮との交易活動などにも参入し、莫大な富を小早川氏にもたらした。
⑧瀬戸田港の山の上に建つ向上寺の国宝・三重塔は、そのシンボルである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上水軍の解体過程
能島村上水軍の解体過程

村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。

村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。

村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。

村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。

村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
島吉利の子孫

  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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引田 新見1
 新見の荘から倉敷→塩飽→引田→兵庫→淀を経ての帰路

以前に永禄九(1566)年に「備中国新見庄使入足日記」を紹介しました。そこには、新見にあった京都・東寺の荘園の役人が、都へ帰って行くときの旅費計算記録が載せられていました。彼らは新見から高梁川を荘園専用の川船で、河口の玉島湾まで下っていました。
 今回はそれ以後の高梁川の高瀬舟の活動を見ていきたいと思います
高梁川3

高瀬舟といえば、川舟の一種で森鴎外の小説「高瀬舟」に登場してきます。「高瀬」は辞書では、「川の瀬の浅いところ、浅瀬」とあります。高瀬舟の名前の由来も川の浅瀬に対応できるように、舟底が浅く平らであり、いわば浅瀬舟のイメージで「高瀬舟」と呼ばれるようになったという説が一般的です。
 一方、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」では、高瀬舟の特徴は「高背たかせ(底が深い)」とあり、川漁などする当時の小舟と比べて、やや大きくて底の深い舟であったとする説もあります。
高瀬舟模型 勝山歴史博物館

 慶長12年(1607)角倉以子(すみのくらりょうい)が、高瀬川・大堰川に、川舟を浮かべたことから、高瀬舟と呼ばれるようになったと云われます。しかし、備中の高梁川や吉井川には、それ以前から川舟が数多く往き来していたことは史料から分かります。
角倉了以は、慶長九年(1604)安南(ベトナム)航海を終えて帰国した際に、高梁川に浮かんでいる川舟を見て、このような形の舟であれば、どんな急流でも就航が可能であることに気付き、備中から舟大工や船頭をつれて京都に帰り、高瀬舟を作り、大堰川を開いて、丹波国から洛西の嵯峨へ物資を運ぶ舟を通わせたとされます。高梁川の川船が高瀬舟のモデルになったようです。
高瀬舟(京都) 船曳
京都の高瀬舟 曳舟
  
 私も何回かカヌーでこの川を下りました。今はダムが上流にあるため水量が少なくなり井倉洞あたりでは水深も浅く、場所によってはカヌーの底をこするような所もありますが、流れはゆるやかで初心者にやさしい川下りゲレンデを提供してくれます。
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高梁川

 高梁市の市街地をゆったりと流れていると、かつての川船の船頭になった気分で鼻歌まで出てきそうな気がします。成羽川と合流すると水量も一気に増えて、大河の片鱗が見えてきます。今でも川船が舫われ、川漁が行われていることがうかがえます。
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川岸に舫われた高梁川の川船

かつての川湊らしき所が見えてきます。この川は室町時代以前からも、新見の荘園の物資や鉄などを積んだ川舟が往き交い、幕末のころには、その数130隻にも及んだといいます。
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  グーグルで見ると、備中を北から南に流れる高梁川は、奥深い中国山地にその源を発し、瀬戸内海の水島湾に注いでいます。逆に見ると、高梁川の河口、倉敷市の水島港から川を登ると総社市、高梁市、新見市とへ中国山地の源流地帯へと続きます。この川筋を辿って新見までやってくれば、山陰地方の人たちも、高梁川を上下する高瀬舟で、倉敷へ舟で下って行くことができたことになります。高梁川は、川筋の平野を潤すとともに、人やモノの移動の動脈だったことが分かります

 「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」井上家文書 
 新見市には、高梁川沿いに、かつての船着場が保存されています。
高梁川高瀬舟船着場
新見市の船着場跡

船着場には寺院が有り、川船の管理センターの役割を果たし、荘園管理も行っていたのでしょう。新見荘には、鎌倉時代の文永八年の「検注目録」に、船人等給が出てきます。ここからは新見の荘には、何人かの河川交通の専門家、船人がいたことが分かります。また、新見の「市」のたったところは、中洲という地名です。これは、新見の町が川の中洲にできた町が起源だったことを示していると研究者は指摘します。
高梁川1
高梁の川湊と高梁川
私は新見が川船のゴールだと思っていましたが、さらに奥まで行っていたようです。津山や勝山や広島県の三次からもカヌーで下ったことがありますが、吉井川や高梁川、旭川、江ノ川のように、河口の拠点湊から奥地の内陸部の川湊まで、大小の川を体内の血管のように川が交通路として機能していたことが分かります。
DSC08347
現在の高梁市と高瀬川


高梁川の支流の成羽川の難所を開墾して河川を開いた、律宗の僧侶で実専という人がいます。
彼の記念碑が「笠神文字石」という自然石の石碑として高梁市備中町にはありました。徳治二年(1307)に、成羽善養寺の僧尊海と、西大寺の奉行代実専が中心になって、成羽川の10ヵ所の瀬を笠神船路のため開削したと刻まれています。ここに石切大工として名前が刻まれている伊行経は、鎌倉時代初期に東大寺の再建のため招かれた南宋の石工、伊行末の一族とされます。現在は新成羽川ダムのため水没してしまいました。河川交通整備のための努力が中世から続けられてきたことが分かります。
高梁川高瀬舟 井倉洞
高梁川の井倉洞付近をいく高瀬舟

山本剛氏「高瀬舟と船頭並びに筏渡船」には、高梁川の川船のことが記されています。
その中に川船で瀬戸内海を渡り、金毘羅詣りをした話が載せられています。
高瀬舟といえば底の浅い川舟です。川船で海を越えるというのが驚きです。その話を見ていくことにします。守田寿三郎翁は、次のように語っています。
「明治30年頃、村長であった父瞭平が、川口石蔵さんの新造船で金昆羅詣りに招待された。帰りには、玉島から強い南風を帆いっぱいに受けたので、玉島を朝出て昼頃には水内に着いた」

高瀬舟の進水祝いに金毘羅詣でに出掛けたようです。高梁川の河口から出港し、海を越えているようですがどこの湊に入ったかは分かりません。帰りは玉島港からは、折りから吹き始めた南風を受けて川を上ったことが分かります。

高梁川高瀬舟 金毘羅詣で

 別の船頭は、次のように語っています。
「高瀬舟で四国へ渡るには、潮が引き始めると、潮に乗って玉島を出港した。追手風が吹くときに帆を揚げて、本舵操縦して渡った。途中、本島へ着くと潮待して、潮が満ち始めると、潮に乗せて舟を出し、追手風が調子よく吹くときには潮待しなくても渡れるときもあった。風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半くらいで渡ることができた。潮待ちして海を渡るときは、丸亀まで六時間、多度津へは七時間くらいかかった。
 昼間、海を渡っていて、突風にさらされ、もうこれまでと絶望したことが幾度かあった。その時は、 一番近い島影に退避して、風の治まるのを待った。昼間は突風が起きる危険があるので、穏やかな風の吹く夜を選んで渡ることが多かった。風の強く吹く時には「風待ち」といって、港や島影で、二日でも三日でも風の静まるのを待った」

ここからは次のようなことが分かります。
①引潮にのって玉島を出て本島で潮待ちして、満ち潮になると丸亀をめざした
②追風だと潮待ちなしで坂出まで2時間半
③潮待ちして本島経由だと丸亀へ6時間、多度津へ7時間
④昼間の突風を避けるために、穏やかな風の吹く夜が選ばれた。
⑤強風の時には「風待ち」のために、何日でも待った

潮待ちに本島(塩飽)に立ち寄っています。
そういえば「備中国新見庄使入足日記」の東寺の僧たちも、本島で長逗留していたことを次のように記していました。
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。そして、塩飽(本島)の湊で10月11日まで長逗留しています。これは、上方への便船を待っていたようです。本島が潮待ちの湊として機能していたことがうかがえます。
ここで疑問なのは、「風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半」とあり、坂出も寄港対象となっている点です。多度津・坂出は金毘羅船の帰港地として栄えていましたが、坂出がでてくるのがどうしてなのか私には分かりません。
備中松山城 城と町家と武家屋敷
高梁川の高瀬舟(高梁市)
高梁川で使っていた舟の大きさは、全長五十尺(約15m)、幅七尺(約2m)で舟底は浅いものでした。
いくら穏やかな瀬戸内海とは云え、風が吹けば波が立ちます。特に突風に会うと転覆する危険がありました。平底の川舟で波や風のある海を渡るのは、細心の注意が必要だったようです。高瀬舟の船頭たちは、遥か海上から金毘羅さんに向かって手を合わせ、航行中の安全を祈願してから船を出したと云います。そこまでして自分の船で、海を渡り金毘羅さんへの参拝することを願っていたのでしょう。金毘羅信仰の強さを感じます。
まにわブックス
旭川の高瀬舟
 高梁川は備中松山城の城下町である高梁から上流は川幅も狭くなり、落ち込みの急流もあって、危険箇所がいくつもあったようです。それが慶安三年(1650)藩主水谷勝隆が新見まで舟路を整備し安全性が増します。そのため輸送量が増えるとともに、山陰地方の人々が、新見まで出てきて、高瀬舟で瀬戸内海に出るというコースも取られるようになります。金昆羅詣りに使われた記録も残っています。
高梁川 -- 高瀬舟

 上流には難所と云われる船頭泣かせの急流もありました。そのため舟の安全航行を願って、金毘羅信仰を持つ船頭が多く、お詣りも欠かさなかったようです。彼等の間では、高梁川の支流・成羽川の流れに、薪を削って「金毘羅大権現」と墨書して投げ入れ、これを拾った者が、金毘羅さんに奉納するという風習があったようです。それでも、長い歴史の内には、高瀬舟の転覆事故が発生しています。
高梁川の上流に一基の慰霊碑が残っています。
寛政七年(1795)6月8日、新見から高梁川を下った舟が、阿哲峡の広石で転覆し、金毘羅詣りの乗客15人が溺死しています。碑には、遭難した人の出身地と名が刻まれているが、その中には、地元の人以外に、雲州(島根県)の人が6人含まれています。これらの人々は山道を歩いて、新見にやってきて、ここの舟宿の高瀬舟に乗り込んだのでしょう。定員30名の客船だったようですが、阿哲峡の難所を乗り切れなかったようです。
 高梁川の中流、総社市原には、昭和20年ごろまで、高瀬舟の造船所が残っていたようです。市原には、船大工、船元、船頭、船子たちが集落をなして住居していて、殆んどの者が室町時代からの世襲であったといいます。毎日、30隻近くの高瀬舟が荷物や船客を乗せて上り下りしていました。昭和3年10月25日に国鉄伯備線が全面開通します。高梁川沿いを走る伯備線の登場は、それまでの運輸体系を一変させます。昭和15年には高瀬舟は、その姿を消してしまいます。
高梁川高瀬舟と伯備線
伯備線の開通と高瀬舟
   
高梁川を行き交う川船の船頭達の間には、いつしか金毘羅信仰がひろがりました。そして、金毘羅参りに自分の川船を操って海を渡っていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 妹尾勝美 高瀬舟で金毘羅参り ことひら52 H9年
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    前回は瀬戸内海船の石船と砂舟の歴史を見てみました。今回は、石炭船を見ていきたいと思います。テキストは  宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船です。
1石炭運搬船

 日本列島では塩を海の潮からつくってきました。その行程の最後には煮詰めるという手順が欠かせません。そのために燃料としての大量の木材が必要とされ、塩田付きの汐木(塩木)山が確保されるようになります。しかし、塩の生産が増えれば増えるほど、消費する木材も増え、塩木山ははげ山化していくことになります。こうして、近世になると瀬戸内海周辺の塩田地帯では、燃料用の木材不足に悩まされるようになります。
 その解決法のひとつが石炭の利用です。
今回は、石炭がどのように塩田で用いられるようになったのか、またその輸送はどのように行われたかを見ていくことにします。
石炭はいつどこで使われるようになったのでしょうか。
 正保二年(1645)に板行された『毛吹草』という書物の長門の項に「舟木石炭」という言葉がでてきます。この書物は寛永一五年(1638)には成立していたようですから、山口県厚狭郡船木(宇部市)周辺では、そのころから石炭の採掘がはじまっていたことがうかがえます。舟木で採掘された石炭は、小野田の赤崎周辺に運ばれ塩焼きに用いられていたようです。それは小野田市の赤崎神社の境内に、約350年前の石炭ガラの堆積があることから分かります。赤崎神社の北の竜王町は、現在は住宅地になっていますが、もとは塩浜だった所です。このあたりの海岸には、百姓小浜とよばれる小さい揚浜塩田がたくさんあり、赤崎神社の北側もその一つであったようです。
 宇部赤崎神社

ここからは宇部周辺では、製塩のために石炭を使うことは17世紀に始まってたことが分かります。しかし、なぜか周辺には広がってゆかなかったようです。その理由はよくかっていません。
塩田での石炭使用の普及は
 明和九年(1771)三月、安芸厳島に安芸・備後・伊予・周防・長門の五カ国の塩田業者が集まって、塩の生産過剰に対して「休浜法」の協議をしています。その際に
「塩並二石炭相場、時々無怠通合候事」

という一条があります。塩と石炭の相場については、怠りなく互いに連絡しあうという合意内容です。ここからは、18世紀後半には石炭が燃料として使用されていたことがわかります。その石炭は、多くは船木・小野田・宇部などから運ばれてきたものでした。百年かけて、塩田での石炭使用が広がっていったことがうかがえます。
北九州でも石炭が燃料として着目されるようになったのは17世紀に入ってからです。
元禄四年(1669)のケンペルの『江戸参府旅行日記』に、黒崎(北九州市八幡西区)で見分したことを次のように記します。
「数力所の石炭坑あり(案内の藩役人が)我等に甚だ珍奇なるもの、注目すべきものとし教えてくれた」
ここからは、17世紀後半に北九州では石炭採掘が行われ市場に出回っていたことが分かります。
  12年後に完成した『筑前国続風土記』(貝原益軒)には、次のように記されています。
「燃石、燃 遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の処々の山野に有之、村民是を掘りて薪に代用す。遠賀、鞍手殊に多し。頃年糟屋の山にてもほる」
意訳変換しておくと
燃石(石炭)は遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像などの山野にあって、村民はこれを掘って薪の代用にしている。なかでも遠賀、鞍手は産出量が特に多い。近頃は糟屋でも採掘するようになった。

とあって、17世紀後半には盛んに石炭を掘るようになっていたことが分かります。筑前の隣の豊前地方でも石炭はそのころ掘られていましたが、それが製塩のため利用されるようになったのは、明和年間になってからのようです。

 このような中で石炭利用の先進地域である筑前の遠賀郡若松(北九州市若松区)の庄屋和田佐平は、塩焼竃の下部に鉄網を敷いて石炭を焚くと火力がつよく経済的であることに気づきます。これを長州の塩田主に売り込もうと石炭を船に積んで三田尻に持って来ます。彼は、宇部地区では石炭を製塩燃料に使っていることを知っていたのかもしれません。三田尻では石炭の使用法をまだ知りませんでした。そのため異国者の佐平のセールスを相手にする者がなく、商談は成立しません。佐平はやむなく石炭を海に捨てて帰国したといわれます。これも宇部以外では、石炭を製塩には使っていなかったことを示すことを裏付ける話です。

1防府・三田尻塩田
1928年国土地理院地図
 三田尻の浜主たちが佐平のすすめを思い出したのか、豊前の塩浜が石炭を使用していることを聞いて、塩竃の築造を学び、石炭を試用してるのは安永七年(1778)になってからです。その結果、その効果の大きいことに驚き、すぐに筑前から石炭を買い付けを始めます。ここからも、石炭の使用が広がるのは18世紀後半になってからということが裏付けられます。こうして石炭の使用エリアは西から東に広がっていきます。
 三田尻の帆船は、筑紫の遠賀川口につめかけて瀬戸内海沿岸に運ぶようになります。
天保八年( 1837)には6880万斤(4,1万トン)が採掘され、地元消費は60万斤だけです。そのほとんどが他国に「輸出」されていたようです。そのうち最大の購入所は、三田尻塩浜で4565万斤という数字が残っています。筑紫の石炭産出量の約5/7は、三田尻の塩田主が買っています。三田尻が筑紫の最大のお得意さんでした。

  石炭需要の高まりを他の地域も指をくわえて見ているはずもありません。
1宇部市 居能
1928年国土地理院地図 宇部線がかつての海岸線
各地で炭鉱が開かれるようになります。その筆頭が、宇部小野田地区です。宇部は今では海を大きく埋め立て大きな臨海工業都市になっていますが、昔は海岸に松原が並ぶ光景が続いていました。その松原の外側は砂浜、内側は水田です。石炭が掘られたのは水田の東の丘陵地②です。そこに竪坑を掘って、そこから掘り出していました。掘り出された石炭は、ザルに入れて天粋棒で担いで海岸まで運ばれます。それが船に積まれて各地の塩田に運ばれていきました。一荷を一振とよび、 一振一六貫すなわち100斤という計算になります。
明治になると炭坑から海岸までレールが敷かれ、炭車に石炭を積んで後を押して海岸まで運び出されるようになります。海岸には何十というほど桟橋がならんでいて、炭車を桟橋の先まで押していき、そこに横着けにしている船にバラ積みします。その船は普通のイサバやバイセンなどとは違って、船べりには垣板がなく、丸太をふたつに割ったものを打ちつけて丈夫に作ってあります。普通の帆船は米を積むのが主で、何石積みというように容量で大きさを示していました。その中で最も大きいものが千石船でした。
それに対して石炭を積む船は、土船または胴船とよばれました。
容量ではなく重量積み、すなわち斤で大きさをはかったのです。二〇万斤も積める船は大きいほうでした。土船というのは土や砂を積む船のことです。17世紀に入ると、内海沿岸では埋立てや干拓が相次いで行なわれ、また塩田も多く築造されるようになります。埋立てのためには、たくさんの土を必要とします。その土は背後の山を切り崩して用いることもありましたが、背後が平地なときには埋立用の土が手に入りにくくなります。そこで近くの島や岬などの土を切り崩して、船に積んで運んでくるようになります。ここで活躍するのが土船です。現在風にいうなら「海のダンプカー」といった所でしょうか・・・
土船は瀬戸内海のいろいろな所にいたようです。
特に倉橋島・能美島に多かったようです。その土船も石炭を積むようになっていきます。宇部市の①居能は、もと北前船の多いところでした。居能の船は日本海岸を山形・秋田方面まで行って米を積んで帰り、下関の亀山の下にずらりと並んでいる米蔵にそれを納めました。彼らの役割はここまでです。いったん米倉に入れられた米は、時期をうかがって大阪・兵庫へ運び出されていきます。そのときには、瀬戸内専用の別船が担当していました。居能など瀬戸内海の千石船は一時は、北前航路専用で運用されていた時期があるようです。しかし、18世紀後半になると近畿や瀬戸内海の北前船は、日本海エリアの船に押されて撤退する船が多くなります。いわば活動場所を失ったのです。
1石炭運搬船

 宇部での石炭の産出が増えるにつれて、北前船に乗つていた人たちが石炭船に乗替えるようになります。
彼らは北前船の経験から土船の規模をを大きくして、より多くの石炭を積めるタイプの船を作ります。胴の張った船だったので胴船と呼ばれたようです。居能の北前船やイサバが胴船に切り替えられるようになったのは明治30年(1871)ごろでした。
 埋立てが進むにつれて、宇部には⑥新川という新しい港が造られました。ここには千トンの船も着岸可能だったので、石炭の荷役はここで行われるようになります。そうすると居能の船も新川を中心にして活躍することになります。石炭需要はうなぎ登りですから船主として新造船を投入したいところです。しかし、船乗りがそろいません。居能の人は代々船乗りですからみな水夫として働きます。それでも足りません。そこで宇部周辺の者を水夫として雇おうとしますが、農民は水夫には向かなかったようです。水夫不足という課題を抱えることになります。
 石炭の産出は年々増加し、塩田からの石炭需要も増えます。しかし、船員は確保できない。そうなると次に考えることは、船を大きくして一度に運べる量を増やすことです。いまの海運業界の対応と似ています。
1スクーナー型帆船

こうして明治40年(1907)ごろから腰の高いスクーナー型帆船が造られるようになります。これは黒船または合の子船とも呼ばれたようです。石炭を積むために造られた船です。土船は腰が低く、風浪にも弱く沈没の危険性も高かったようですが、この点でもスクーナー型帆船は改良されています。
土船は「斤積み=重量計測」でしたが、スクーナー型帆船になるとトン積み計算になります。
石炭は炭坑から浜までかごで運ばれ、100斤を一振として取り扱ってきました。それがさきほど述べたように日清戦争前後の明治27年頃に、王子炭破塙が炭坑から海岸までレールを敷いて炭車で運ぶようになったときに、炭車の箱を500斤入りにします。これを半トンとして計算するようになります。つまり「500斤=80貫」、「1トン=270貫」から、「半トン=135貫」になります。500斤を半トンとして計算すると、実際には半トンは55貫も軽いことになりますが、当時はそれでいくことになったようです。こうして炭車の石炭をいくつ積むかで、船の大きさは測られるようになります。 10箱ならば5トン、 100箱なら50トンということです。そして明治40年ごろになると、炭箱も大きさを一定にして、四箱で1トンに標準化されます。
 炭車が利用されることによって、積み降ろしも操作も楽になります。スクーナー型帆船の登場で船の大型化と安全性・操作性が高まると、外部からの新規参入者も出てくるようになります。このときに採用された船員は、島根県出身者が多かったようです。こうして大正時代になると、宇部には100隻をこえる石炭船が出現するようになります。

 宇部には、瀬戸内海各地から石炭を積みに船がやってくるようになります。
それは阿知須・岐波[宇部市]、三田尻、上関の白井田、広島県の能美・倉橋が多かったようです。前回もお話ししたように能美・倉橋は土船・石船の多いところでした。山田洋次監督の「故郷」の陰の主役は石船でした。広島湾周辺の埋立地で働いていた石船の中には、石炭船に転身するものが出てきます。それを真似て、広島県の幸崎・音戸や、愛媛県の伯方や今治の波方からも石炭船に転業した船がやってくるようになります。

 石炭掘りは、たいへんもうかる仕事だったようです。
初めは掘った石炭を共同組合が集めて売っていました。それを船を持っている者が買いとって、それぞれの塩田へ持って行って売るという訪問販売スタイルでした。買ってくれる塩田まで船で運んでいきました。注文を受けての輸送ではないので買い手がつかないと、斎田(徳島県鳴門市)まで行ったこともあるようです。ここまでくると投げ売りで安くても売ってしまうこともあったと口伝は伝えます。
石炭売りは訪問販売でしたので、すべて現金取引きでした。
石炭も採掘方法が進み産炭が多くなると、炭坑自身も資金力をつけて、自前の船を持って売り歩くことも多くなります。これを直売と呼びます。売りさきは石炭問屋が多かったようですが、塩田の浜主のところへ売ることもでてきます。こんな状態が明治30年ごろまで続きます。日清戦争が終わり日本の産業革命が本格化する明治30年をすぎると石炭大型船(黒船)は、大阪の工場へ向かう船が多くなり、塩田の比率は低下していきます。その中で、小型の土船型船の多くは、それまで通り塩田へ石炭を売って瀬戸内海を回っていました。石炭の流通路が大きく変わりつつあったのです。
 こうして昭和になると瀬戸内海には石炭を満載した船が、西から東へと連なるようにして運行されるようになるのです。その寄港地として、大崎下島の御手洗の花街は輝き続けます。

以上をまとめておくと
①石炭は17世紀に宇部周辺の塩田で使用されるようになった
②これが周辺に拡大していくのは18世紀後半になってからのこと
③最初は石炭を買い取った石炭船が瀬戸内海の塩田主を訪ねて売りさばく訪問販売で現金支払いだった
④次第に、各地の石船や土船が石炭船に転業し、宇部に石炭の買い出しに訪れるようになる
⑤明治になると千石船から石炭船に乗り換える水夫が増えるなど、実入りのいい仕事であった。
⑥しかし、当時の船乗りは「特殊技能職」で人手が揃わず、資本力のある船は大型化した。
⑦日清戦争後の第2次産業革命の進行は石炭需要を大幅に増大させ、京阪工業地帯へ石炭を運ぶ船は機帆船と成り大型化した。
⑧御手洗などの色街の最大のお得意さんは、石炭船の船乗りであった。
⑨小型の土船は相変わらず地元の塩田へ宇部の石炭を運び続けた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船
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山田洋次・名作映画DVDマガジン 2013年4/2号 【付録】 「故郷」復刻版ポスター 講談社 本/雑誌 - Neowing

1972年公開の山田洋次監督「故郷」は、瀬戸内海の倉橋島で石船で生計を立てていた夫婦が工業化の波の中で、島での生活を諦めて故郷を捨てる決断をするまでを描いた作品でした。見終わった後に心にずっしりとしたものが残った記憶が今でもあります。この映画の影の主役は「石船」でもありました。
塩田 石船
映画「故郷」の蔭の主役 石船
船が石を運ぶ、海のダンプカーのような役割を果たし、それが夫婦で運営されていることも印象深いことでした。瀬戸内海の石舟の歴史について、知りたいなとかねてから思っていたのですが宮本常一の著作集を読んでいると出会うことができました。今回は読書メモ代わりに瀬戸内海の石舟を見ていきます。テキストは宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船です。
塩田 石垣
波止浜塩田の堤防石垣と雁木
 日本で石垣が盛んに築かれるようになったのは、城郭の築造が盛んになる中世末からのようです。
この時代の石垣の多くは、穴太衆が積む石垣のように大きな石の間に小さい石をはさんだものです。 ところが、近世になって海岸埋立てのための石垣や波止(防波堤)が築かれるようになると、それでは波が小さな石をぬきとって石垣を崩していきました。そのために大きい石のみを積み重ね、その石のからみあいによって破壊されることを防ぐようにするようになります。そのために使われるようになるのが花崗岩です。

瀬戸内海は1300年前には火山の密集地帯で、活発な火山活動を行っていましたから花崗岩は各地に分布しています。東から見ても、兵庫県男家島・西ノ島、香川県小豆島・豊島・庵治町、岡山県大島、香川県櫃石島・与島・小与島・広島、岡山県北木島・白石島、愛媛県越智大島、広島県倉橋島・能美島、山口県浮島・黒髪島などと東西に並びます。
塩田石の採石場 北木島
北木島の採石場跡(岡山県笠岡市)
 小豆島は大坂城の石垣の石を出したところといわれ有名です。しかし、周辺の島々を訪ねて歩いていると各大名の石切場として大阪城に石を出したという島がたくさんあります。当然、採石場のあるところには石船が多かったことは家島をみても分かります。石船というのは石を積むのに適した造りの船で、頑丈でした。船底を浅くして石の積みおろしに便利なように造り、船べりが高くはありませんから、波には弱かったようです。映画「故郷」で活躍していた石船も、江戸時代からの石船の延長線にあるようです。
塩田 故郷2
荷を下ろすときには船体を大きく傾けて滑り落とす石船
  江戸時代の海岸の埋立ての手順を見ておきましょう
①遠浅地形の石垣を築こうとするところへ捨石をする。
②届石を海中に投げ捨て、千潮のときにはその石群が水面へ出るようにする。
③するとその石の周囲に砂が集ってきて、州ができる。
④そして捨石群が列に置かれていれば自然に長い州ができ、そこへ石垣をついていく
⑤最後は干潮時でも干上がらぬ所が出てきます。そこを残して石垣を積み上げ、大潮の干上がりのとき、せきとめをする。
塩田復元 宇多津1
宇多津の復元塩田

ここからは置石をポイントに並べていくことがポイントであることが分かります。また、石垣を組む作業が出来るのは干潮の限られた時間だけです。そのため塩田のような大きな干拓を行なうときには10年以上もかかることがあったようです。
  映画「故郷」の舞台となった広島県能美島にも石船が昔から多かったと宮本常一は指摘します。
小型のものは、大黒神島から屑石を主として広島湾岸の埋立地の捨石として運んでいました。この島には自然のままの屑石が多く、それをかき集めては船に積んで運び、帰りにはその地の塵芥をもらい受けて持ち帰り、これを堆肥にして畑に入れたといいます。映画でも出てきましたが、資本力のある家は、船を大型化していきます。そして、石を運ぶよりも、宇部や九州から石炭を塩田へ運ぶようなります。これは大崎や油良の石船も同じて、石船の多くが石炭運搬船に変わっていったようです。
塩田 故郷石船3

  瀬戸内海の石船や石工は、塩田築造にも大きく関わっています。
広島県生口島南岸にはかつては小さい入浜塩田が多くありました。その塩田の石垣は越智大島からやってきた石工によって築かれたものが多く、石も大島から船で運んだきた伝えられます。そして、そのまま定着し塩田経営者になった者も多かったと云うのです。塩田の石垣作りを依頼されてやってきて、傍らに自分の塩田を作って塩田主に変身したということになります。

生口島には、砂船乗りが多かったようです。
干拓地を作るのなら土を運びますが、塩田の場合には砂を多く運ぶことになります。この島では土船といわず砂船と呼んでいたこともそれを裏付けます。明治時代には300隻をこえる砂船がいたとされます。船は大きいものではなく、石船をさらに小さくしたようなもので、たいてい夫婦で乗っていたようです。ここにも、昭和の石船につながる姿が見えてきます。
塩田復元 宇多津2
砂が敷かれた塩田 宇多津

 塩田築造が遅くまで行われたのは生産条件がよかった讃岐です。
讃岐を稼ぎ場にしていた砂船の船頭は次のように回顧しています
石垣の築造が進むと、次には塩田に入れる砂を運ぶ。粗い砂はどこの砂浜のものを採ってもよかった。塩田の近くの場所で、砂がとれる所に冥加金をおさめて船へ砂を運び込む。築造地へ行って、その砂を田面にまいてゆく。船から陸へあゆみの板をかけ、砂を皿籠に入れて天粋棒で担いで運ぶ。荷揚げしてしまうと、また砂を採りにいく。満潮時でないと船を塩浜の中へ乗り入れることができないので、稼ぎの時間は限られていて、毎日砂をあげる時間が違っていたのが辛かった。
 粗妙をまき終わって粘土を入れ、その上に目の細かい砂をまく。これはどこの砂でもいいものではなかった。愛媛県の新居郡の浜まで採りにいかねばならなかった。新居郡で手に入らないと大分県の海部郡の海岸にも採りに行った。

  砂船の多かったのは生口島の南側ばかりでなく、生口島の東南の生名島や徳島県の撫養にも多かったようです。
大正時代になると、塩田築造はほとんどなくなり、砂を運ぶ仕事がなくなります。
仕事場をなくした船は貨物運搬に転ずるものが多かったようです。しかし、中には大阪付近の川ざらいの仕事に携わる者も出てきます。川底の砂をすくいあげて運ぶのです。いわゆる河川改修工事にあたるのでしょうか。
 大正12年(1923)の東京震災の後は、東京から仕事が舞い込み、焼跡の瓦礫を深川付近の低地埋立てのために運びます。これをきっかけにして瀬戸内海から東京に進出した者が多く現れます。彼らは船を家として働く家船生活で、子供たちも親と共に船で生活するようになります。瓦礫運搬の終わった後は、利根川の改修工事が舞い込みます。このようにして隅田川を根城にしていた水上生活者は、瀬戸内海から出かけて行った砂舟業者が多かったようです。
 戦後、陸上ではトラック輸送によって土が運ばれるようになり、水上では浚渫船が活躍するようにると、砂船や土船は隅田川から姿を消すことになります。
 その後、臨海工業地帯の造成のための大規模な埋立工事が行われるようになります。しかし、ここには瀬戸内海の砂船には登場の機会はありませんでした。大型化されシステム化された企業の活躍の場となっていったのです。
 映画「故郷」は「人類の進歩と調和」を掲げた万博を終え、「大きいことはいいことだ」とCMが歌いあげていた1970年代前半の日本を見事に切り抜いて見せてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
 宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船

伴天連追放令
1587(天正15)7月24日(旧暦6月19日) 九州平定後に秀吉は、伴天連追放令を出します。
 秀吉から棄教を迫られた高山右近は、それに従わず追放されます。そして、九州の教会はことごとく閉鎖され破壊され、イエズス会が所領としていた長崎、茂木、浦上も没収されます。九州の宣教師達は、平戸に逃れて緊急会議を開き、当面の対応策を協議し、可能な限り日本滞在を引きのばすことを決定します。
 秀吉の命令は、畿内にも及びます。京都の南蛮寺をはじめ、畿内の教会は次々と破壊されます。右近の淡路の領土も没収され、多くの吉利支丹が路頭に迷います。

1室津 俯瞰図
    播磨室津 当時は小西行長の支配する軍港でもあった

このようななかで近畿の宣教師達は、室津に避難して今後の対応策を有力信者たちと協議します。
ここにやってきた宣教師達は、前日本副管区長のオルガンテイーノ、大坂のセスペデス神父、プレネスティーノ神父、コスメ神父、堺のパシオ神父たちでした。
 右近が追放された今となっては、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、若き「海の青年司令官」の小西行長でした。行長の保護がなんとしても欲しかったのでしょう。しかし、頼りとする行長は九州から帰った後、宣教師からの呼びかけに応じようとしません。堺から動かないのです。それは、なぜだったのでしょうか。

室津で何が話し合われ、どんなことが決定されたのかの手がかりは、オルガンチーノの報告書にあります。
 オルガンチーノはイタリア人で1570年来日。1603年まで30年余の間ミヤコ地区の伝道に係わり、1577年からはルイス・フロイス神父に替って長らく同地の布教長を勤めています。1580年に信長の許可を得て安土に創立されたミヤコのセミナリヨの院長も兼務しています。彼は「ウルガン伴天連」の名で上方の日本人によく知られていたようです。1603年晩年を長崎で過ごし、1609年76歳で他界しています。
 オルガンチーノが潜伏地から1587年11月25日付で、平戸のイエズス会宛てに送った経過報告書をみましょう。
 秀吉の伴天連追放令でイエズス会の宣教師やイルマン達は平戸に集合させられた。しかし、私は決死の覚悟でミヤコ地区(近畿以東)で、唯一人留まる決心を固め、室津(むろつ)に残った。
しかし、追放令のことを知った室津の人達の私への対応は非常に冷たく、私がこの地に留まることを拒んだ。アゴスチニヨAgostinho小西行長の兄弟が、私の室津退去を促す行長からの通知を伝えてきた。港の重立った人達も、私の室津残留を不可とし追放するよう主張した。
   私は、日比屋了珪の息子ビセンテを堺へ赴かせ、行長を連れてくるように命じた。しかし、行長は、神父に好意を寄せると秀吉ににらまれて自身やキリシタン宗団に不幸が降りかかるかも知れないと恐れ、室津へ来ようとしなかった。私は、再度ビセンテを堺に遣わし、
「もし室に来ないのなら、こちらから大坂か堺の貴殿または父君(小西隆佐)の所へ行って告白を聴かなければならない。」
と伝えさせた。恐れた行長はやっと室に来たが、罪の告白のためではなく、私を室津から去らせようとして来たのであった。行長の心中は、室津到着早々に受けた室の人達や都にいる兄弟からの影響もあって、絶望的な状態に陥っていた。それを察した私は行長に述べた。
「私が室に残留することにしたのは、貴殿やミヤコのキリシタン達の信仰を守り抜く為である。しかるに、貴殿が告白もせず、私をどこかにかくまって助けることをしないのなら、私は都または大坂に行き、泊めてくれる人がいない時は街路に立つつもりである。平戸は遠過ぎてミヤコ地区の信徒の援助に来られないから、私は平戸へ行くべきではない。」と。
これを聞いた行長は泣き出した。こうして私の覚悟を知った行長は、信仰のために命を賭して私を隠す決心をしたのである。
ここからは次のような事が分かります
①オルガンチーノが平戸に退避せずに、この地に残ることを主張したこと。
②それに対して小西行長や室津の有力者達は、室津からの退去・追放をもとめたこと
③オルガンチーノの「脅迫」で、行長は室津にやって来るがそれは室津からの退去を求めるためであった。
ここからは行長が怯えていたことがうかがえます。行長だけではありません。室津の信徒たちまでが行長の意向を受けて、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫っていたようです。そして、堺から行長の弟がやってきて、「これ以上の助力は自分に不可能だから、すぐにも立ち去るように」と行長の命令を伝えるのです。
 九州平定を終えた秀吉が、まもなく大坂に凱旋するような時期に、室津に宣教師を匿っていることを秀吉が知ればどうなるでしょうか。秀吉の怒りをかうのが怖かったのです。信仰よりも、高山右近の二の舞になるのはゴメンだという気持ちの方が、この時点では強かったのでしょう。行長の胸の内を、もう少し覗いてみましょう。
 怯えた行長は、了珪が持参した手紙さえも受けとりません。了珪はふたたび室津に戻り、その旨を神父に報告します。オルガンティーノは再度、了珪を堺に送り、行長が室津に来ないのなら自分が堺に赴き、隆佐(行長の父)とお前とに会おう。そして切支丹として告白の秘蹟を受けぬ限りは堺を立ち去らぬつもりだと言伝ます。
 この言伝てを聞いた行長は、迷い悩みます。オルガンティーノが堺にくれば事態は一層、悪化し、自分や一族に累が及ぶだろう。それは避けなければならない。そこで、ジョルジ弥平次(河内岡山の領主・結城ジョアンの伯父)を伴って、重い心で自ら室津にやってきます。それは。オルガンティーノに九州に去るよう説得するためでした。

1室津 絵図
室津
 神父と行長との間には激論がかわされたようです。
オルガンティーノは秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長に、信仰の決意を促したのでしょう。にもかかわらず行長の動揺は消えません。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言し、自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと宣言します。オルガンティーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのかもしれません。   
1 イエズス会年次報告
                     
   オルガンチーノ神父書簡の和訳は、2つ出版されています。
「新異国叢書」村上直次郎氏訳も「十六・七世紀イエズス会日本報告集」松田毅一氏監訳も、「泣き」「泣き出し」と訳されています。
 しかし、ルイス・フロイス著「日本史」中央公論社版1の松田毅一・川崎桃太両氏共訳では、「ほとんど泣き出さんばかりになりました」とあり、和訳の表現に微妙な違いがあようです。どちらにしても行長は、信仰と現実の間で苦しみ悩んでいたようです。 オルガンチーノは、自分の決意と説得が思い悩む行長の気持ちを変えたと報告しています。
 しかし、自らもキリスト教徒であった作家の遠藤周作は、小説「鉄のくびき 小西行長伝」の中で、それよりも大きな人物の存在があったと云います。行長の迷える心を支えたのは、高山右近の登場だったと云うのです。

高山右近とは?高槻城やマニラ、子孫や細川ガラシャとの関係について解説!

オルガンチーノの報告書の続きを読んでみましょう
この日、うれしいことにジュストlusto高山右近と三箇マンショManclo及び小豆島を管理している作右衛門(?)が私に会いにきた。また、都からは数人のキリシタンが、私の潜伏に適した家を近江に準備してあるからと、駕籠と馬を伴い迎えに来たのである。一同は、室津付近に行長からジョルジorge結城弥平次(河内出身のキリシタン武将)に隠れ家兼臨時宿泊所として与えられた家に集まって聖体拝領した。
   次の日、互いに決意を述べ合い、私と高山右近が当地方に隠れることについて協議した。
私は、行長領たる室津に隠れて発見された時は行長一家に迷惑を掛けるから、都のキリシタンの設けた隠れ家へ行くのが何かにつけ最良だ、と言ったところ、行長がきっぱりした言葉で私の都行きに反対し、自分が他の誰よりも巧妙に神父・右近やその父ダリヨと妻子を隠すことができる、と決死の思いを述べた。皆賛成して非常に喜んだ。
バテレン追放令後に、大名の地位を捨て姿を消していた高山右近は、行長の手引きで淡路島に帰っていたようです。
船上西公園 | ヤング開発グループ|スタッフブログ
右近は、明石船揚城の城下町に宣教師を招き、最盛期には2000名を超える信者がいたという。明石の町は堺などへ海上ルートの中継港町として大いに栄えた。

室津の状況を聞いて、父ダリオ・弟太郎右衛門や行長の家臣の三箇マンショと室津にやってきます。
右近は、行長たちに向って我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語ります。それは「地上の軍人から神の軍人」に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えないことを誓います。
 また父ダリオ・弟太郎右衛門も宣教師たちを励まし、慰め、生涯、信仰を棄てぬことを誓います。このような右近一族と、行長の態度は対照的です。フロイスも「行長は宣教師たちに冷たかった」と書いています。右近一族の登場が、その後の展開に大きな影響をもたらすことになったと遠藤周作氏は考えているようです。

フィリピン マニラ 高山右近 禁令 キリシタン大名 パコ Manila Takayama
マニラの高山右近像

 この後の対応策は、いかに秀吉をだますかということです。秀吉への裏切工作が話し合われます。
秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、切支丹信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを、日本人信徒達は夜を徹して話し合い、その結果を、翌朝に宣教師達に伝えたようです。
 こうして行長と右近たちは協議の結果、次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を、小豆島に隠すこと。(史料には小豆島の地名は出てきません)
②二人の住居は秘密して、誰も近づかぬようにすること。
③神父と右近とは離れて別々に住む。万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の知行地に逃げること。
小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンショが代官でした。前年には、セレペデスによって布教活動も行われ「1400人」の信者もいます。二人を隠すには最適です。

小西 行長 | サラリーマンと不動産投資
小西行長

 国外退去命令の出た宣教師をかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする反逆です。
これは自らを危険にさらすことです。バテレン追放令が出された時には、自分や一族のことを守ることだけを考え、卑怯で、怯えた行長が、このような危険に身を曝すようになったのです。そこには、試練と向き合い成長し、強くなっていく姿が見えてきます。
 あるいは、秀吉の野心実現のための駒には、なりたくないという気持がうまれていたのかもしれません。権力者の人形として、動くことへの反発心かもしれません。
 あるいはまた「堺商人の処世術」かもしれません。
表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという生き方です。その商人の生き方を、関白にたいして行おうとする決意ができたのかもしれません。
 切支丹禁制に屈服したように装いながら、宣教師をかくまうことは秀吉を「だます」ことです。それはある意味で裏切りであり、反逆でした。その「生き方」が、朝鮮侵略においても秀吉を「だまし」和平工作を行うようになるのかもしれません。

 資料には出てきませんが、室津では今後の「秀吉対策」も協議されたたのでないかと研究者は考えているようです。
行長と宣教師の間では南蛮貿易が、宣教師の介入なくしては成り立たないことが分かっています。南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは、日本通の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きを行っていました。そして、イエズス会は南蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなってきました。バテレン追放令の目的の中には、宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして秀吉が南蛮貿易の利益を独占しようとする意図もあったようです。
 これに対してイエズス会からすれば、それを許してはならず

「宣教師がおればこそ、ポルトガル商人との貿易も円滑に成立するのだ」

ということを秀吉に知らしめる必要があるという共通認識に立ったはずです。そうすれば、やがて関白は嫌々ながらも、一時は追放しかかった宣教師の滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノが、このような方策を協議したことは考えられます。

 「イエズス会の対秀吉戦略」の成果は? 
バテレン追放令の翌年天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行おうとします。秀吉は二十万クルザードという大金をだして生糸のすべてを買いとろうとします。この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐でした。彼はこの交渉を成立させています。しかし、後にこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を得たからであることを、秀吉はしらされます。
 更に、天正十九年(1591)には、鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船から直接に金の買占めをしようとします。しかし、ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲介を主張してこれを拒否し買い占めは成立しません。秀吉は、ここでも宣教師達の力を見せつけられてのです。

ヨーロッパから伝来した「南蛮文化」とは? | 戦国ヒストリー

 これらの経験から南蛮貿易で儲けるためには、宣教師の力が必要だということを、秀吉は学ばされたのかもしれません。
これ以後、秀吉は少しずつ折れはじめます。当初は教会の破壊やイエズス会所領の没収を命じていた関白は、宣教師の哀願を入れ、その強制退去を引き延ばし、最後には有耶無耶になってしまいます。
 秀吉はマニラやマカオとの貿易では、宣教師の協力がなくては儲けにならないことが分かってきたのでしょう。秀吉は、現実主義者です。宣教師たちの残留を公然とは認めませんが、黙認という形をとりはじめます。実質的には、行長たちは勝ったと云えるようです。
 
一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび五島、豊後に秘密裡に散っていきます。
彼等はこの潜伏期間を日本語の習得にあて次の飛躍に備えたようです。小豆島にかくれたオルガンティーノも変装して扉をとじた駕寵にのり、信徒たちを励ましに歩きまわるようになります。

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秀吉のバテレン追放令後の天正十五年(1587)の陰暦六月下旬から七月上旬に、室津で開かれた吉利支丹会議は、イエズス会の日本布教にとっては大きな試金石であったように思えてきます。
 小西行長にとっては、彼の生涯の転機となった場所だったと研究者は考えているようです。彼の受洗は幼少の時のことで、動機も父親の商売上の都合という功利的なものだったかもしれません。しかし、彼はこの時、室津から真剣に神のことを考えはじめるようになります。そのためには、追放令という試練と高山右近という存在と、その犠牲とが必要だったのかもしれません。
  今日、グーグルで検索しても室津には、行長や右近をしのぶものはないようです。ここが行長の魂の転機となった場所だとは、知るひとはいないようです。
参考文献 遠藤周作 鉄のくびき 小西行長伝



5 小西行長像5
小西行長
 
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
5 堺南蛮貿易

 秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握
②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える
③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
                    
 パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。
 86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
 行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。

韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像

彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」

と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。

グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役 

同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について
上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。

「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
 1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに行き、1603年にみやこ、1606年に金沢、1607年2月にまた、みやこ下京のレジデンシャに居たが、同年10月の名簿には記入されていないので、そのうちに脱会したらしい。」

 豊後でイルマンとしての何年かの基本的学習を終えた後、出身地の摂津大坂に帰任して間もなく、定評ある日本語の知識表現力を買われて小豆島にセスペデスと共に派遣されたようです。

 コエリョー行は行長の用意した二隻の船に分乗して、堺を出て牛窓に到着します。
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牛窓からの瀬戸内海と小豆島 海の向こうの山並みが小豆島

ここでセスペデス神父と日本人修道士ジアンを降ろしています。牛窓も行長の領地でした。牛窓は瀬戸内海航路のネットワーク拠点として重要な港でした。秀吉の四国平定の際には、多くの人馬や兵船が集結した軍港の役割も果たしていました。牛島の前の前島の丘に立つと、南に小豆島がすぐ近くに見えます。目を凝らせると小豆島の大観音も見えるほどです。その観音さまの足下辺りが屋形崎と呼ばれ、中世に居館があったと伝えられます。牛窓と屋形崎ならば直線で14㎞ほです。かつて道路が整備される以前は、小豆島の北岸の人たちにとって、草壁などの南岸との交流よりも牛窓などの吉備・播磨との交流の方か多かったと云います。近代以前の瀬戸内海は、人々を隔てるものではなく、結びつける役割を果たしていました。船さえあれば、海があればどこにでもいけたのです。小豆島北岸と牛窓は、経済的には一体化していたと考えられます。
 
11 小豆島 牛窓地図

セスペデス神父と日本人修道士ジアンは、その日のうちに牛窓から小豆島に向かう船に乗り込みます。二人を待っていたのは、行長が「小豆島の司令官(代官)に任命したキリシタン貴人」でした。これは河内出身のキリシタン武将で、行長の配下にあったジヨルジ結城弥平次かとする説もありますが、よくは分からないようです。
フロイスの年次報告書には、小豆島に派遣されたセレベデスからの次のような報告書簡が載せられています。
 予(セスペデス)は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。
この島にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆があった。彼等の半数以上は、よく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとおりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモの説教を網けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々に斎座の火を燃やし給ひ、①1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(6㎞)の間に接績していた村々において、②千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって③長さ七ブラサ(15m)を超ゆる立派な十字架をここに建て、④神仏は一つも残さず破壊した。また⑤聖堂を建てるため四十ブラサ(約90m)四方の地所を選んだ。その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この島の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ(4㎞)余りの道を急いで、私が滞在していた村にやって来て、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
ここには、牛窓を出発した船がどこに着いたのか、そして、彼らが布教活動を始めたのはどこなのかについては何も記していません。
まずセスペデスが宣教をおこなった場所についての手がかりを集めてみましょう。
①約六㎞周囲に連続した村々がある。
②1か月で1400人以上がキリシタンとなった。 
  → 島の人口集中地
③キリシタン達が建てた15m以上の十字架がある。
④キリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
⑤聖堂を建てるための約88m平方の土地があり、そこには梨、無果花、蜜柑の樹が多数あって、周囲には樹木が繁茂している。
⑥小西行長の支配の中心地に当り、「城」が築かれていた。
この条件がに当てはまるのは、内海湾に抱かれた苗羽、安田、草壁、西村の村が連続したエリアと研究者は考えているようです。映画「二十四の瞳」で、大石先生が岬の分校までが自転車を走らせた通勤ルートの沿線になります。

5 小西行長 小豆島5
 
延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、小豆島の「転び切支丹類族」の出た地域と数が次のように記されています。
草加部 54人
肥土山村 12人
土庄村  3人
渕崎村  2人
また、草加部の項目には次のようなことも記されています。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。

ここからは小豆島の草壁には18世紀の半ばまで、隠れキリシタンが50人以上もいたこと、さらに、草加部の他に、池田、小海、福田にもキリシタン関係者がいたことが分かります。このような「状況証拠」からすると、草加部村を中心とした地域が小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。

 ④のキリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
については、「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」

と記録され、小豆島の小西行長時代に神社仏閣の破壊が徹底して行われたと伝えています。
 小豆島における神社仏閣破壊は小規模なものだったという説もありますが、私は、次の2点から同意はできません。
A高山右近の淡路の領地では、大規模な破壊運動が組織的に展開されていた。
B偶像破壊運動が、新たな宗教活動を展開する側に大きな宗教的なエネルギーをもたらし、急速な 信徒増大をもたらす。それはムハンマドのメッカでの活動や、中国の太平天国の指導者達の活動からも垣間見える。
 偶像破壊という手法を、大坂で布教活動を行っていたセスペデスやジアンは熟知していた。もっと云えばすでに偶像破壊活動を伴う布教活動をすでに行っていた気配があります。「偶像破壊運動」から沸き上がるエネルギーが「1ヶ月で洗礼者1400人」という「成果」となったと私は考えています。

また、天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
「室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけ(安宅)の大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿」

とあります。これは、薩摩島津藩の藩士が見た報告ですが、ここからは小西行長の支配する室津には、大きな安宅船が係留されていたこと、室津でも「南蛮宗が保護され 大明神は廃」される組織的な神社仏閣破壊が行われていたことがうかがえます。

5 小西行長2

⑤の約15mの十字架の設置場所と聖堂建設用地については

片城に近く、海上からよく見える高台にあったことが考えられます。しかし、詳しい場所については分かりません。そして、1年後の九州平定の論功行賞として、行長は肥後南部の24万石の大名に「栄転」
しますので、教会が建設されることはなかったようです。あくまで「建設予定地」でした。
⑥の小西行長が築いたとされる片城については、草聖地区に片城という地名が残っているようです。

  最初私は、小豆島での布教と聞いて何年も苦労しながら信者を増やして行ったのかと思いました。ところが、宣教師の布教活動はわずか1ヶ月のことです。期間が決められていたのかもしれませんが、洗礼を済ませるとすぐに引き上げているのです。残された信者達は、その後どうなったのでしょうか。1ヶ月では、信の信者に成長できていたとは云えません。
5 小西行長 バテレン追放令2

 ところが1年後に秀吉のバテレン追放令が出ると小豆島は、多くの吉利支丹を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。右近は秀吉に屈する道を選ばずに、領地を捨て大名であることを止めます。この一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」

と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」

だったといいます。
5 高山右近
小豆島土庄の右近像と教会

右近の一族や重臣の中には、小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、バテレン追放令の後の小豆島には
①セスベデスによる1400人の地元改宗者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことになります。②③は筋金入りのキシリタンに成長しています。これらの人々が核となって、小豆島では信仰が守られていくことになったのではないかと私は考えています。

幕末の小豆島の廻船大神丸 何を積んでどこに航海していたか? : 瀬戸の島から
 
以上をまとめておくと
①四国平定前に秀吉は小豆島・室津を小西行長に与えて、東瀬戸内海の制海権確保の拠点とした
②行長は高山右近を見習って、「地上の神の国」を小豆島につくる理想を持っていた
③そのために二人の宣教師がイエズス会から派遣され、内海湾周辺で布教活動を行った
④それは偶像破壊運動を伴う宗教活動で、1ヶ月で1400人の洗礼者を産み出した。
⑤派遣された宣教師は、わずか1ヶ月で小豆島を去った。
⑥しかし、1年後に伴天連追放令が出されると各地から「亡命者」がやってきて信者集団は拡充した。
⑦そのような中で、小西行長は高山右近を小豆島の地に匿うことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 近藤春平 讃岐吉利支丹諸考  1996年

11因島箱崎 地図

家船(えふね)漁船の拠点地の一つが因島の箱崎です。家船集団の拠点は、漁師達の家が狭い地域に密集していることがひとつの特徴ですが、箱崎にも「漁民密集住居区」があるようです。しかも、その地区は中世の揚浜塩田跡に形成されたものといいます。

11因島箱崎 地図2

 家船漁民とは、小さな船に家族が乗って長い間、海で操業・生活する漁民達です。彼らの先祖については次のような説があることを以前にお話ししました。
①小早川氏の中世以来の海賊対策で弾圧を受けた海民達が、家船漁民たちの祖先
②秀吉の海賊禁止令以後に行き場をなくした村上水軍の末裔が、家船(えふね)漁民の祖先
これだけを押さえて今回は、箱崎の揚浜塩田の歴史を追いかけて見ようと思います。
揚浜式塩田(石川県珠洲市) - おさかな'sぶろぐ
能登の揚浜

『因島市史料』には、寛永15年(1638)の土生村箱崎の塩浜が「地詰帳」が次のように載せられています。
①塩浜弐畝拾八歩 (ぬい弐ツ)六斗 五郎兵衛
②塩浜三畝    (ぬい弐ツ)六斗 久右衛門
③塩浜三畝廿壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 清 吉
④塩浜弐畝九歩 (ぬい壱ツ)三斗 同 人
⑤塩浜弐畝一壱歩 (ぬい弐ツ)六斗 正左衛門
⑥塩浜四畝    (ぬい弐ツ)六斗 半二郎
⑦塩浜二畝    (ぬい弐ツ)六斗 与兵衛
⑧塩浜三畝三歩 (ぬい弐ツ)六十 孫有衛門
⑨塩浜弐畝甘四歩 (ぬい式ツ)六斗 清吉
ここからは次のようなことが分かります。
A 箱崎に9枚の塩浜があったこと
B 清吉が③④⑨の三枚の塩浜とぬい(沼井)6つを所有していて、塩浜所有者としては最大の家であること。
C 塩浜は平均3畝前後(約教室3つ分)で、瀬戸内海の揚浜塩田の平均であること
 なおBの清吉は別の資料からは、箱崎に屋敷を持っていないこと、畑は2ヶ所持っていますが、その面積は二七歩と七畝一五歩で、あまり広いとは云えない上に、かなり離れたところにあります。そして、二七歩の畑は新開(新規開墾)で、古くから持っていたのは七畝一五歩だけのようです。以上から、清吉は、塩造りを専業として、塩焚小屋にでも住んでいたのではないかと研究者は考えているようです。
  箱崎は、この資料に現れた塩浜のエリアが現在に残っているのです。それは地図5上の太実線のエリアになります。
11因島箱崎 地図旧塩浜

詳しく見ると9つに区画されていたことが分かります。これがもともとは9枚の揚浜塩田だったようです。ここに前の海から海水を汲み上げ、天日で干していたのです。地図で塩田の背後を見ると、すぐそばまで山が迫っていて背後地がほとんどありません。
揚げ浜の塩 歴史・文化

 漁民たちが古い塩浜の区画の上にそのまま家を建てたようです。
かつて塩浜の境だった所が道になっています。港町はどこでも、近代になって車道を付ける際には、海を埋め立てて道路を通しました。つまり海の直ぐそばを車道が走ることになります。
11因島箱崎 syasinn

箱崎もご多分に漏れません。箱崎はも、地図5を見ると分かるとおり海岸には車道が走っています。そして、古い道は塩田と山裾と平地の境にあって今もそのまま残っています。今は、その旧道から上の家は農家が大半で、道から下が漁家です。その漁家の中を五本の道が、海と山裾の道との間をつないでいます。
かつて9枚の塩田だった所に、漁民たちが家を建て集住を始めます。
図5の太線のエリア(塩浜跡)を拡大し、地籍図にしたものが下の図6です。
11因島箱崎 旧塩浜地籍図

NO57の屋敷地が最も広く、海に近い重要ポイントを占めています。ここを中心に屋敷が建ち並び始めたようです。各区画で一番大きい面積を占める屋敷が、塩浜の所有者だったことが考えられます。
 そして、明治になって地籍調査が行われ、一軒一軒に番号が打たれます。全部で161に分けられているは、その時に屋敷が161軒あったことを示します。一戸当りの屋敷面積は20坪程度でだったようです。同規模の家がびっしり立ち並んでいたことが分かります。

11因島箱崎 旧塩浜ido

 かつての塩田跡の住宅区には井戸がなかったようです。
それは当然かもしれません。塩田の中に井戸は必要ありませんから・・・。井戸は、山裾と旧塩田の間の大師堂沿いの道に沿っていくつかの共同井戸が点在します。この井戸は、古くから行き交う交易船に水を提供してきた井戸かもしれません。塩田跡の新住居者たちは、水道が整備される以前は、そこへ水を汲みに行っていたようです。

どうして塩田が廃れて、そこに家屋が建設され始めたのでしょうか
宝暦五年(1755)の「土生村実録帖」によると土生村は、102軒の家があり、そのうち漁家が17軒に増えています。
因島の「中庄村差出帳」享保11年(1726)には
「塩浜只今は田畠に相成候(あいなりそうろう)」

「田熊村村立実録帳」宝暦一四年(1764)には
「塩浜

とあります。ここからは享保前後のころから因島の揚浜塩浜は、田畑になったり、荒地として放置されていたことが分かります。その背景には、入浜式塩田の登場があるようです。
入浜式塩田の製塩方法 | 西尾市塩田体験館 吉良饗庭塩の里
入浜式塩田

大量に安価に良質の塩が生産できる入浜式塩田が瀬戸の入り浜に作られるようになり、揚浜塩田は駆逐され始めたようです。箱崎の塩浜でも、塩を造らなくなり放置されるようになります。その頃から漁民が増えはじめたようです。
  箱崎の塩浜に家を建てて住むようになった者を、対潮院の過去帳には「浜ノ者」と記しています。そして「浜ノ者」が過去帳に登場するのは江戸中期ごろからです。ここからも、浜床への漁民定住が始まったのが江戸時代中期になってからだったことがうかがえます。
 塩浜床跡に、家を建てはじめた漁民はどこからきたのか?
 その漁民たちがよそから来たものか、もともと塩田に働いていた者の子孫であるかは史料的には分かりません。しかし、研究者は
「塩浜で働いていた人たちの子孫が、塩浜跡に家を建てるようになった」

と考えているようです。そう考える理由を見ていきましょう。
 「地押帳」に記録せられた塩浜の総面積は二反六畝六歩で、畑地を加えても三反にすぎません。箱崎の面積はわずか一町歩もない狭いエリアです。ところが箱崎には、漁港として適当な船着がありました。
塩浜関係に従事していた子孫が漁業に転じたのは、この良港があったことがひとつの要因でしょう。
しかし、それだけでは丘上がりした者が再び海へに進出する理由にはなりません。海に出れば利益が出るという採算性がなければ動かなかったはずです。それがイワシ漁だったようです。

11因島箱崎 小豆島イワシ漁do
   「漁業旧慣調」〔愛媛県立図書館蔵〕)右上に高台から合図を送る人がいる

箱崎とその対岸の生名島の間には深い入江があって、そこがイワシ地曳網の良い漁場でした。ここには鰯屋と呼ばれる網元が早くからいたようで、この家が箱崎でも一番古い家とされています。イワシ漁は季節的なもので、イワシのやって来る間だけ操業します。その他の時期は船を浜にひき揚げて船囲いしておきます。その間、網子たちは別の仕事をしていますが、たいていは小漁を行なっています。イワシ網のような経営を大職、小網や釣漁などを小職と呼んでいたようです。この二つがうまく組み合わされて、漁業は発展します。
 イワシ網は「根拠地漁業」に対して、小職漁業は、たいてい放浪性を持った漁業だったようです。これが箱崎を考える上でつ大事な手がかりになると研究者は指摘します。
 箱崎は「浜」で、「浦」ではありませんでした。
瀬戸内海では漁民のいる所をと呼び、塩浜のあった所がです。ここからは箱崎は、もともとは塩浜で「浜」と呼ばれていたこと、それが江戸中期からイワシ網を梃子にして漁村へ転向していったと研究者は考えます。それは塩浜を営んでいた製塩業者が鰯漁をバネにして、再び海に進出していったということです。同時に、尾道からの漁民達も受けいれたようです。こうして塩浜跡に、漁民達の家が建ち並ぶようになったと研究者は考えているようです。
 しかし、漁民としての道を歩みだした箱崎の人たちにとって厳しい試練が待ち受けます。

11因島箱崎 地図3

グーグル地図で見ると箱崎の沖は水道で、その対岸は愛媛県の漁区でした。そこに入漁するにはエビス金(入漁料)が必要でした。江戸時代の瀬戸内海は各エリアに漁業権が設定されて、自由に稼げる漁場はなかったのです。したがって、より有利な漁場を求めて新しいエリアに出かけて行く以外に、発展の道はなかったことになります。それに果敢にチャレンジしたのが家船漁民達だったのかもしれません。より有利な漁場を求め漂泊性を、高めることにもなります。また自分たちの漁業権を持たない流れ者の漁民として、出先では蔑視間を持って見られる事もあったようです。
 
明治14(1881)には、箱崎の漁業専業者が226戸であったことが記録されています。屋敷は161軒ですから60戸余りは、どこに住んでいたのか疑問になります。
 戸籍の上では、戸主の家族として記録せられます。そのため、 一戸当りの家族数は平均12~13人くらいになります。その生活実態は、「家船」で妻も子供も船に乗せて、海上漂泊生活(長期漁業)を送っていました。戸籍上は一世帯でも、一世帯が二隻か三隻の船に分住して、「核家族」で操業を行います。長い家船生活を終えて帰って来ると、次男・三男は本家の長男の家の一間に起居していたと云います。それが後に入江を埋め立てて土地ができると、そこへ分家分住する者が増え、したがって戸数も爆発的に増えます。家船の数は戦前の調査でも170隻程度で、明治から比べても増減はないようです。
 これだけ見ると数が増えていないように思えます。しかし、それは箱崎の「停滞」を意味するものではありません。彼らは「漂泊」し、条件が良いところを見つけては「移住」していったのです。その移住先をみると
広島県豊田郡吉名村[竹原市]
同郡大崎中野村[大崎上島]
同郡生口島[尾道市]
同県御調郡向島[尾道市]
山口県都濃郡太華村[周南市]
岡山県下津丼[倉敷市]
愛媛県岩城島[越智那上島町]
伯方島[今治市]
松山市三津浜
香川県岩黒島[坂出市]
本島[塩飽本島、丸亀市]
福岡県若松市
大分県鶴崎[大分市]
長崎県対馬
などが挙げられます。どこも釣漁を行なう仲間のようです。
 ここからは、狭い塩浜跡地に人口があふれると、船住居(家船)分家という方式を採用し、移住によって瀬戸内海から東シナ海へ膨張したことが分かります。これは、その他の家島漁民も同じような戦略を採用しています。
 瀬戸内海の港には、狭い土地に人が密集し、人口増大のエネルギーを抱えた場合に、周辺に開拓地がなければ、家船分家がが行われ、移住という方法が取られたことがわかります。これが近代には、ハワイや南米移住につながっていくのかもしれません。
瀬戸内海の中世の揚浜塩田を何回かに分けて見てきました。その中で私が学んだことは、中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることです。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 この条件がそろえば、中世に塩浜があったことが考えられるようです。

最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田全体について、研究者は次のようにまとめています。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④入浜塩田のように大きい資本を持つ者の開発の行なわれる所では、浜旦那と呼ばれる塩田経営者がみられる
⑤しかし、小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、それが大きな経営に発展していったような例は姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑥製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。因島箱崎は家船漁民に転進しているが、これは特例である。
⑦畑作農家への転進を助けたのは甘藷の流入である。江戸中期から甘藷の栽培が瀬戸内海の島々に急速に広がってくる。するとそれで食料の確保ができ、さらに段畑をひらいて人口を増やしていく。そして、時間の経過と共に完全に、海から離れて「岡上がり」している。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところと考えてみてよい
⑨しかし、揚浜製塩に従った人々のすべてが、製塩のやんだあと陸上がりしてしまったわけではない。因島箱崎の場合は、もう一度海へ帰っていった例である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

  


10 大崎上島広域

大崎上島(広島県)は竹原市の南にある島ですが、しまなみ海道もとびしま街道も通っていないので、船でないといけない芸予の島です。逆に見ると各方面から船便が出ていて、瀬戸の船旅が好きな私にとっては大好きな島のひとつです。山田洋次の監督の東京物語が撮られたのもこの島です。島東部の木江は、かつては御手洗をしのぐほど繁盛した色街があり、多くの船を惹きつけた所です。しかし、島の南部まで足を伸ばす人は少ないようです。

10 大崎上島tyuuiki

南部の沖浦は、古くから揚浜塩田があった所のようです。
 小早川義春から徳平への譲状に大崎上島猟浜とあるのはが沖浦のことのようです。いまも狩浜の名が残っていて、猟浜は猟浜浦と呼ばれているようです。
「浦」は漁民の村ですから、漁民が古くからいたのでしょう。いまもここは、純漁民の集落で、周囲の農民とは一線を画しているようです。農家は山麓に散在しています。この農家の先祖はいつどこからやってきたのでしょうか。もし、海から陸上がりした人たちの子孫だとすれば、現在の「浦」の漁民達がやって来る前になります。そうだとすれば、中世には農民化していたことになります。
 山が海にせまり、海岸に近い所にやや緩傾斜があり、そこが畑にひらかれています。今は、そこがみかん畑になっています。ここは「大長みかん」の産地です。
  寛永一五年(1638)の「地詰帳」には沖浦は
「田五町一反二畝一八歩、畑二〇町三反四畝二一歩」

とありますから、畑が水田の5倍になります。畑が断然多いようです。そして、塩浜が七反六畝一二歩です。沖浦の塩浜は一畝半から三畝が塩田一枚の単位です。
  「地詰帳」を整理した表2です。
ここには沖浦の構成員の田・畑・屋敷・塩浜の所有面積が示されてい
ます。例えば一番上の庄屋を務める助作は、田65畝、畑216畝、屋敷3畝、塩浜1,2畝を持っていたことになります。
10 大崎上島土地所有pg

塩浜に焦点をあてて見ると次のような事が分かります。
①43軒のうち、塩浜をもつのが24軒、
②塩浜所有面積の最大のものは七畝九歩、
③最小一畝一五歩であり、
④所有しない者が19軒
⑤屋敷を持たないもの10軒
 このような状況は、この時代までに売買による土地移動がかなり激しく行なわれていた結果と研究者は考えているようです。
もう少し表2を見てみましょう
 庄屋の助作は二町八反四畝二四歩という広い畑を持ちますが、屋敷は三畝二一歩しかありません。ここからは、彼は中世的な土豪の流れをくむ者ではないようです。土豪なら居館跡はもう少し広いはずです。もともと沖浦には、戦国時代には小早川氏の代官がいたはずです。ところが、秀吉による小早川氏転封とともに他に移り、古くからの生産者層のみが残ったと研究者は考えているようです。
 さらに研究者は細部まで検討して、次のような点を指摘します。
①標準農家は屋敷二畝を持ち、耕地は田畑合して一町一反余から一町五反ぐらいを所有する
②そういう農家が15戸ほどあったのが、分家によって屋敷と耕地を、均等に二つに分けたものが5つか6つ見られる
③屋敷を持たないで分家したものが10戸ある。
④売買によって移動した土地が若干ある。
以上から、最初は均等に分割されてい所有されていた土地が、時代と共に所有階層分化されてきていること。そして屋敷も持たず、少ない畑を所有する人たちは、漁民であったのではないかと考えるのです。
10 大崎上島グーグル

 揚浜塩田は、先ほども云ったように、狩浜といわれる所にあったと伝えられます。その塩田跡は、現在は集落になています。沖浦には、漁民が住み、アゲといわれる山麓集落には農民が住んでいますが、アゲの農民が漁業に進出することはなかったようです。
それでは、塩田経営を行っていたのは、どの集団なのでしょうか
 塩を造ったのは主としてアゲの農民達だったというのです。
彼らが、狩浜へ毎日塩を造りにアゲから下りてきていたようです。浦に住む漁民の中にも、塩浜を持つ人たちがいましたが、それは少数だったようです。塩浜を所有していた農民たちが、当初から農民だったのか、あるいは漁民が陸上がりして塩を焼いて定住して次第に農民化していったかは分かりません。沖浦では、塩を造った場所と、造る人たちの住んでいる場所は離れていて、塩浜跡ヘ住みついた人たちは塩浜の古くからの住人ではなかったということになるようです。
 以上を整理して、想像も加えて沖浦の歴史を物語化してみましょう。
①中世の早い時期に海民達が沖浦にやって来て揚浜塩田を開いた
②彼らは塩田後方の塩木山の裾野を切り開き開墾し畑とした
③こうして「製塩業+畑作農業」で生計を立て、農地に近いアゲに屋敷を構えた
④そこへ秀吉の海賊禁止令後に、村上水軍の一部がやってきて沿岸部に定着し「沖浦」を形成した
⑤かれらは沖浦の住民は漁民として生きる道を選び、先住民とは「棲み分け」をおこなった。
⑥揚浜塩田の経営が行き詰まると、塩田跡地は沖浦の漁民に売られ、そこに住宅地が密集するようになった。
⑦先住民は畑作専業化し、現在はみかん農家になっている。
揚浜塩田を拠点に海民によって開かれた「浜」に、解体された村上水軍の一部がやってきて「浦」をひらいたのが沖浦のようです。沖浦の二面性や重層性は、ここからきているのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一 塩の生活と民俗


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  柱島(はしらじま)は、安芸灘の南西に並ぶ柱島群島の本島です。北は倉橋島、江田島、南は屋代島とその属島、東は中島をはじめとする忽那諸島に囲まれ、これらの島々のちょうど真ん中にあります。今は岩国市に属しますが、中世末までは山口県大島郡に属し、南北朝のころは伊予の中島を中心とした忽那七島のひとつになっていました。当時の忽那七島は松山市の野忽那島・睦月島・中島・怒和島・津和地島・二神島と、周防大島郡の柱島で構成されていたようです。つまり、周防と伊予という国境を越えての「連合」になります。このように柱島の所属がいろいろ変わるのは、この島が陸からやってきた人たちによって開拓されたものではなく、「海民」の手によって開拓されたことに由来すると研究者は考えているようです。

この島は古くは、讃岐・仁尾と同じ京都賀茂神社社領のひとつでした。
賀茂神社は瀬戸内海に早くから進出し、多くの社領を持っていました。「賀茂注進雑記」によると、全国各地に42カ所を数える社領の中で瀬戸内海にあるものが次の16ケ所です。
播磨安志庄、林田庄、室塩屋御厨、備前山田庄、備後竹原庄、有福庄、伊予菊万庄、佐方保、周防伊保庄、矢島(八島)、竃戸関(上関)、柱島、和泉深日庄、箱作庄、淡路佐野庄、生穂庄

このほかにも「賀茂社古代庄園御厨」には、寛治四年(1090)年7月12日付文書に月供料として次の6つが記されています。
播磨同伊保崎・伊予国宇和郡六帖網・伊予国内海・讃岐国内海・豊後国水津・周防国佐河(佐合)・牛島御厨

この中ある周防の佐合島も牛島も小さい島です。それは後の弘安元(1278)年に讃岐・仁尾の蔦島が、同じように賀茂神社の御厨に指定されたのとよく似ています。こうした小さい島が御厨として寄進されたのは海産物の供進のためです。供物を採取・提供していたのが「供祭人」です。
「御厨供祭人者、莫卜附要所令中居住一之間、所じ被免・本所役也、傷櫓樟通路浜、可為当社供祭所・」

ここには「莫卜附要所令中居住一之間」とあるので御厨の供祭人が定住しないで海上漂泊をしていたことが分かります。柱島や蔦島も、そうした海人が漁業シーズンにやって来て漁労を行なった漁場の一つであったようです。
 これらの島の産土神が賀茂神社なので、御厨(みくろ)の海人が次第に島に定住するようになったことがうかがえます。そういう人たちの定住は、採塩の作業と結びついていると研究者は考えているようです。おなじ賀茂神社の社領であった八島・佐合島・牛島などにも、おなじように製塩跡がみられるからです。
 例えば上関島(長島または竃島ともいう)の蒲井には、山地の均等地割が見られるので、塩木山があったことがうかがえます。これは前回もお話ししたように、「海人が陸上がりして採塩した」ことを示すものです。
9柱島地図
 
その後の柱島をめぐる情勢を見ておきましょう
「柱島旧記」からは、室町後期には桑原氏がこの島の支配者になっていたことが分かります。桑原氏の先祖は、青山五郎兵衛といって備後田島の出身者のようです。その先祖は、芸予諸島・能島村上氏の御部屋(隠居分家)と記されています。つまり、備後の田島は、村上氏が地頭だったようです。ここからは桑原氏が、能島村上氏につながる系譜に絡んでいたことが見えてきます。
 初め青山五郎兵衛は倉橋島を拠点としていましたが「法体」となって柱島にきて、「辻本」を勤めたと云います。辻本というのは島の僧役を勤める者のようです。同時に、年貢を取り立て領主に納める役目を果たしています。その年貢が誰に納められたかは分かりません。しかし後には毛利元清に納めたとありますから、元清の所領になったこともあるようです。
9柱島と大島の西芳寺地図

 青山五郎兵衛の弟四兵衛は陶晴賢の小姓となっていましたが、厳島合戦に敗れて柱島に帰り、出家して僧となり、周防大島へ渡って森村の西方寺を創建したと記します。しかし、桑原氏系図(「萩藩閥閲録」)では、桑原五郎兵衛元国が、朝鮮侵略の後、森村に退隠して僧となり寺を建てたのが西方寺だとあります。
  一方、周防大島の森にある西方寺の「西方寺縁起」には、
桑原四兵衛が兄で、五郎兵衛は弟、厳島合戦に敗れて柱島に渡り、五郎兵衛は島司富永角兵衛の養子となり、四兵衛は森村に居住して西方寺を建てたとあります。どちらが正しいかは分かりませんが、備後田島から来た青山という者が、周防大島の桑原氏と姻戚関係を持ち、桑原氏が大島海賊の統領の一人であったことから、その配下に属して桑原を名乗ったと研究者は考えているようです。
9柱島地図拡大

 青山五郎兵衛との関係はよく分からないのですが、桑原杢之助という者が島司を勤めていたときのことです。
中富弾右衛門という者が杢之助を頼って来て島に住みついていまします。ところがこの男は、荒者で周りのものも手を焼くようになったようです。そこで、そのままにしておいては、どんなことを仕出すかわからないと、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったとき、杢之助の指図で大勢で討ち取ってしまいます。討たれた弾右衛門には、小次郎という子があり、能島の「海賊大将」の村上武吉に仕えていました。
 父が討たれたと聞いて、小次郎はひそかに桂島にやってきて、杢之助夫婦を夜討ちにします。そこで能島武吉は柱島を中富小次郎に与えたというのです。小次郎には子がなったので、末弟万五郎が跡を継ぎます。彼は、毛利元清に仕えた後に、柱島庄屋になっています。また、中富氏一族の者で桑原氏の跡をたて、桑原氏も庄屋を中富氏と交代で勤めています。
「柱島旧記」は江戸中期に中富氏一族の者が、口述と過去帳を頼りに書いたもので、叙述に混乱はあるようです。しかし、そのなかに信憑性のあるものもあります。この史料から分かることは
①桂島の支配者層は、島外から新しく来た者であり、武力で容易に島民を支配することができた
②支配者が、さらに強力な島外の勢力(村上氏)かに結びつくことによつて、その島が島外支配者の所領になった
こういう支配体制は平安末期にすでに、真鍋島・忽那島でも見られるので、瀬戸内海では珍しいことではなかったようです。その中で、柱島には古い住民の組織が残ったようです。その背景には島の製塩がありました。
9柱島砂浜


次に、桂島の製塩組織について見てみましょう。
柱島は柱十二島とよばれてきたように、次の12の島からなっています。
本島・端島・小柱島・続島。長島・フクラ島・鞍掛島・黒島・伊ケ子島(伊勢小島)・中小島・手島・保高島

近世初期までは本島に人が住んでいただけで、他は無人島でした。そしてその土地利用は
①黒島・伊勢ガ小島が、牧島(牧場)
②その他は桂島の揚浜塩田の「薪島」
でした。
『玖珂郡志』によると、
「柱島本屋敷四十五軒ナリ。御討入(中富弾正が)ノ後、田畠塩浜山ヲモ厚薄組合セ、割方有之。今以其通ニテ、夫ヨリ一カマチ(一株内)卜云。右四十五軒ノ内、内証不勝手二付テ、売方仕候連モ半カマチ迄、売ラセ申候。半カマチ過候テハ売方不レ被差免候由。悉ク売方候ハ勝手次第り本屋敷ノ者、一カマチノ内ヲ四分一計所持仕候テハ御役目不・得仕二一付テ也。但手島・ホウ高・端島・続島モ塩付ノ山配ノ内也。珂子屋敷四十五軒、内一軒歓喜寺、内一軒庄屋、内二軒両刀爾、内一軒山守、内一軒小触。右六軒現人差出ナシ。残九人役目相勤候也」
意訳すると
「柱島本屋敷には45軒の家があり、御討入(中富弾正が)の後は、田畠塩浜山を組合せて、均等に所持するシステムで運営してきました。今でもその通りで、この1単位を「一カマチ(一株内)」と呼びます。45軒の中で、経済的な困窮のために、売りに出すものもいますが、それは「半カマチ」までです。それ以上を売ることはできません。
 ただし、手島・ホウ高・端島・続島の塩付も「カマチ」に含まれます。45軒の内で歓喜寺、庄屋、両刀爾、軒山守、小触。右六軒は今は差出がありません。残九人役目で勤ています」
ここからは次のような事が分かります。
①塩焼(製塩)を行いながら、藩の水夫役を勤めていたこと
②「享保村記」には、何子屋敷四二軒の石高八石四斗は引石、すなわち無税になっていること。

同じ郡志には、次のような記述もあります。
「今津草津屋吉左衛門屋敷ハ、柱島船子、今津へ罷出候時ノ屋敷也。是ハ或時、船子、御用二付テ罷出、滞溜仕候処、誠、野伏体ニテ罷居中ヲ、今津ノ御一人被見付、御領ノ者雨露二触レテハ不相済候間止宿ノ場所支配可レ致トテ、日屋掛ノ所、今ノ草津屋々敷 支配有レ之候。然処二吉左衛門先祖、草津ョリ柱島へ罷越滞溜イタシ候。島中ノ者申様、今津ノ船子屋敷へ普請仕罷居候得バ此後船子御用二付テ罷出候時、宿二可レ仕候卜申談.草津屋、今津へ移居申候。依レ之何子御用二付テ罷出、吉左衛門処二滞留仕候テモ、宿銭卜申事ハ無レ之、今以其分ノ由也。」とある。
意訳すると
今津の草津屋吉左衛門の屋敷は、柱島船子たちが、今津へ出向いたときに使用する屋敷です。これは昔、船子が御用で出向いて、滞在しなければならなくなったときに、小屋掛けしたのが始まりです。今津の人がこれを見て、賀茂神社の御領の者が雨露に濡れているのは忍びないと、宿の場所を提供した所へ小屋掛けしたものです。今の草津屋敷は、このようにして出来ました。
 ところが草津屋吉左衛門の先祖が草津から柱島へやってきて、住み着くようになりました。島中の者がいうには、草津屋が今津の船子屋敷へ新たな屋敷を構え、その後は船子御用を申しつけられ、今津へ移居しました。これより「何子御用」について今津に出向いた際にも、吉左衛門屋敷に滞留しても、宿銭を支払うことはありませんでした。今以其分ノ由也。」とある。
ここからは次のような事が分かります。
①「船子屋敷」は桂島の船子たちが、今津に出向いたときの仮小屋だった。
②それを今津の者が小屋掛けをし、柱島の者が普請して建てた。
つまり、藩の制度として作れたものではないことが分かります。ここからも、桂島の島民が、陸の住人ではなく、「海民・海人」の流れをくむ人たちであったことが分かります。

それでは島に42軒の家のあったころは、いつごろなのでしょうか
それは慶長検地の時と、研究者は考えているようです。
寛永三年検地のときは「屋敷四五軒共」とあります。そこには庄屋・寺・刀爾なども含まれているので、寛永よりさらにさかのぼった時代と考えられます。そして家が増えていっても、船子屋敷として石高を免ぜられたのは「四二屋敷」で、その屋敷の広さは一戸当り三畝でした。この屋敷はもともとは慶長以前から受け継がれてきた揚浜塩田でした。慶長当時に分割したものではありません。それ以前からこの島に住む者が、分家する時には、均等に三畝ずつの塩田を与えられたようです。その中でも、寺は倍の六畝です。そして、刀爾といえども屋敷の広さは三畝で、一般百姓と同じです。
 ここからは「四二軒」の人たちは、海から島上がりして定住したものの子孫だと研究者は考えているようです。これらの人々は、漁民として網漁も行なっていました。
それは先ほど見たように
「島にやって来た暴れん坊の中富弾右衛門を、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったときに討ち取った」

という記述からも分かります。
また、享保九年(1724)に、桂島には
「六端帆1隻、三端帆11隻、十二端帆船1隻」

の船がり、あると記されています。十二端帆というのは大きさから見て船曳船で地引網漁に使われていた船と考えられます。ここからもこの島が、網漁の島であったことが裏付けられます。網漁業を行なうためには網代が必要になります。地曳網ならば、どうしても船を寄せる島または海岸が必要です。柱島島民は周囲の島々に網代を求め、同時にそこへ占有権を確立していったようです。
このようにして桂島の海民達は、周囲の島を属島にしていきます。
それが製塩の「薪島=塩木島」としての利用にもつながるようになります。一つの島を中心にして無人島を11も属島に持つということは、瀬戸内海にも珍しい例のようです。それは、もともとはこの島が網漁業の島であることを物語るようです。百姓島ならば薪島を1つや2つは持っている例はあります。しかし、桂島のように広域にわたって島を持つ例はあまりありません。

柱島は近世に入って岩国藩に属することになり、その海上生活技術が買われて岩国藩の何子(船子)役を仰せつかったようです。
 桑原氏が、この島に来住したころから、忽那七島の連合体から離脱していきます。桑原氏の厳島合戦参加とその敗北がひとつの契機となって、島民が武器を捨て、完全に生産民化していきます。「柱島旧記」にも、桑原氏が持っていた刀を林某に与えて、武士ををやめた記事があります。
 岩国藩の何子(船子)になっても、操舟技術と労力を夫役として藩に提供する立浦式の船子にすぎなかったようです。岩国藩には、安芸浦から今津に移った水夫が別にいました。それらは足軽の資格を持ち、扶持五石を与えられ武士の下層に属していました。桂島の支配者達は、生産民の道を選ぶしかなかたのです。

 柱島は慶長検地の行なわれた時に、山林および農地の割替が行なわれ42等分されます。さらに寛永三年の検地の時のことを「享保村記」は、次のように記します
「田畠塩浜トモニ厚薄組合セ、本屋軒四五軒二分配、山ヲモ塩浜二応ジテ夫々分割方被仰付申タル也、付田畠塩浜井二山ヲ軒別へ割付被下候、尤一軒別ノ割方ヲ一トカマチト島人イヘリ」
意訳すると
田畠や塩浜を組合せて本屋軒の45軒に均等分配した。山も塩浜に応じて、それぞれ均等に分割した。田畠・塩浜(塩田)並びに、山を一軒毎に均等分割し、その一軒の単位を「一トカマチ」と島の者は云う」

ここからは慶長・寛永の江戸時代初期に「田畑+塩田+塩木山」を45軒で割って、均等に分割したことが分かります。
ここからは桂島の当時の人たちが「構成員の平等性・均等性」に、価値観を置く集団であったことうかがえます。これは、陸の人間の発想にはない「海民」の価値観です。
船乗りとして、東シナ海を荒らし回った倭寇軍団の組織原理の中にも見られますし、村上水軍の規範意識の中にも見えます。それを、海からやって来た桂島の人たちは受け継いていたことを示すと研究者は考えているようです。

この島の塩浜は揚浜で、総面積は三町五反二八歩です。
塩田の枚数は、北浜14枚、長浜3枚、中浜・西浜46枚で、合計63枚で、島の周辺全体に分布していました。浜に赤土をたたきつけて塀のように塗り、その上に砂をまき、潮を打って日にさらします。塩屋は23軒しかありませんから、一枚一軒の制ではなかったようです。
人口増加と土地不足に、どのように対応したのか?   
寛永三年の割替の後は、土地割替は行われていませんので、本家四五戸の株は固定しました。しかし、製塩が順調に発展すると戸数は増えます。寛文年間(1661~)のころには108戸に増えています。そして、飽和状態になり享保1年(1777)年には、89戸に減っています。
 こうして増えた家は間脇(分家)とよび、本家に附属する家として、独立した一戸とは見なされなかったようです。しかし、実際には屋敷・耕地なども同じように分けたために、分家を出すためにその家の土地所有は細分化されます。この結果、土地所有の「階層分化」がおきます。しかし、それは農村部のように有力な者が耕地を買い集めた結果の階層分化ではありません。そのため大土地所有者は、島には現われません。
 このような人口増加や分家問題、ひいては土地不足に対して、取られた方策が移民です。
文政13(1830)年、黒島ヘの分村移住が始まります。その際にも、徹底した土地の平等分割が行われています。このように、柱島に住みついた海民たちは「均等性」を求めるのです。上にたつ支配力があまり強くなかったためか、後々まで引き継がれていったようです。柱島は江戸時代には外からの刺激が少なく、生産条件が、農業主体とならず、漁業と製塩に重点をおいたことで、中世以来の古い構造を残したとも云えます。

これと対照的なのが、隣島の端島です。
 
9柱島と端島

端島は柱島の属島ですが、ここを開いたのは柱島島民ではありませんでした。明暦4(1659)に、能美島大原の農民・安宅又右衛門の一族が、やってきて6軒の家を建てて住み着きます。その後、開墾も進み、享保12(1727)年には、石高80石余りになり家屋数も23軒に増えています。
しかし、この島が目指したスタイルは柱島とはちがいます。
この島に移住したのは農民で、農民の性格を強く持っていました。耕地は平等分割されず、未開地を開墾できるだけの力のある者が、本家から分け与えられた土地を併せ持って分家します。そのため耕地をひらくことのできない家は、分家することもなく、叔父坊主と言って、兄の家で働きつつ一生を終わったようです。したがって、 一家の家族員は7、8人が多く、10人を超えるものも数多くあったことが残された戸籍から分かります。
 そして習俗を異にする、桂島の通婚も少なかったようです。島が小さく、その上、南半のミカベ山が柱島の塩木山で、柱島民によって四五に等分せられていたため、そこに入りこみ開墾することも許されません。「享保村記」には、船はわずかに一隻あるだけで、それも漁労用ではなく、島外との連絡に用いられているにすぎなかったと記されます。海に出て、漁を行うという姿勢は 、端島には明治になるまで見えません。
 この二つ島の違いをどう見ればいいのでしょうか。
並んだ近隣の島で、地理的条件が似ていても、生産方法や社会構造が似てくるとは限らないことが分かります。そこには、主体となる人間集団の価値観や理念も関わってくるようです。それは「新大陸」と呼ばれるアメリカ大陸でもラテン世界とアングロサクソン世界では、その後の発展過程が大きく違っていくのと同じなのかもしれません。
 海上生活から陸上がりした「海民」が、製塩や農耕に従った島嶼社会には、柱島と相似た現象がみられると研究者は指摘します。これが庄内半島や塩飽・直島・屋島・小豆島などの中世揚浜塩業が行われた地域にも当てはまるのかどうか、今後の課題となりそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

           
 瀬戸内海沿岸の地図を見ていると、「泊」「津」「浦」「浜」のついた地名が数多く出てきます。
1「泊」とついた地名は、「船の泊」だといいます。
「泊(とまり)」は、遠浅になっている所が多いようです。古代は、遠浅の砂浜に船を着けていました。すると潮がひくにつれて船が浜に、安定して座ります。海が少々荒れても、次の満潮時までは船は安全に係留されます。そういう所が、船の停泊地となり「泊」と呼ばれたようです。現在の岸壁に囲まれた港のイメージとは違っています。
2「津」もあります。
難波津・住吉津・兵庫津・大津・など聞き慣れた地名があります。讃岐の宇多津、中津、多度津、三野津などは、古代の郡港があった所と云われます。津は、巨船が停泊可能だったようです。
3「浦」と呼ばれる所もあります。
これは、漁村が多かったようです。近世になると、浦は漁村に限られてきます。
4そして「浜」という地名があります。これは塩浜のあった所が多いようです。

中世の揚浜塩田は、床を作ってその上に砂を載せ、それに海水を散布して、鍼水を採るため、そこを浜床とか床浜と呼びました。小字の名には、それが海岸地方の遠浅の海には見られます。ここも塩浜跡の候補と考えられます。
揚げ浜塩田

塩田跡の痕跡は、浜の後ろの山や畑にも残されています。
  海に面した畑が海から山へ縦割りに地割されているところがそうです。これは塩山跡で塩浜についた山で、はじめは製塩用の薪を切っていたのが、後には畑に開墾されたようです。そういう畑のある所には揚浜があったと研究者は考えているようです。このような風景は小豆島の内海湾の海岸線を歩いていると見えてきます
製塩が行われていた地形は?
 中世の地形復元を行ってみると、もともとは深い入江になっていたと考えられるところがあります。その入江の中ほどに弓形の砂州が発達して、その内側に潟沼や潟州(ラグーン)が形成されていることが多いようです。ここに「泊」として、瀬戸内海交流の拠点となる集落が形成されます。そして、砂州を利用して揚浜塩田も作られるようになります。これが近世の入浜塩田に、成長して行きます。
 塩浜には、「藻塩を焼く」と云われたように燃料としての薪が大量に必要とされます。そのために「塩(汐)木山」が背後の山に確保されていきます。

8塩田 周防大嶋全体
中世の揚浜塩田跡のある周防大島

 中世の揚浜式の塩田の例を 周防大島に見てみましょう。
周防大島には、慶長15年(1610)の「検地帳」と寛永二年(1625)の「坪付帳」があります。そこには塩浜の面積が書き込まれてた「浜」がいくつかあります。
 揚浜には二つのスタイルがあったことが分かります。
①砂浜がいつも海から出ているもの、つまり揚浜です。
②浦の奥に砂嘴が発達して、その内側に潟州を持ち、その潟州を利用したもの
②の潟州は満潮時には海水が入って来て入海となります。しかし、潮が引くと干潟になる塩田です。干潮で潮が引いた後に、日干しされた砂を採って、これに海水を注いて鹹水を採ったようです。こちらの方が「労力削減」ができて、効率的です。しかし、日中が満潮の時は、作業は行えません。そこで砂嘴の先端、潮の入口をせきとめて、満潮時に必要なだけ海水を入れて、日干しさせる方法が考え出されるようになります。それが後の入浜塩田になります。
 このように次のような条件がそろう所は揚浜塩田に最適地でした。
①入江を持ち
②広がる砂浜
③砂嘴も発達して内潟を抱いている
こんな場所は、小豆島や本島にはたくあります。
次に、揚浜塩田の構造を見てみましょう。

8塩田 周防大嶋和佐1
周防大島の和佐の海岸
周防大島で、古い遺構を残存しているのは和佐の塩田です。
 元文三年(1738)の『地下上申』を見ると、揚浜一七枚、畝数五反一畝(0,5㌶)なので、一枚の大きさは平均三畝(約3㌃)になります。石高は25石5斗です。1畝(せ)は一反の1/10で、約0.992㌃です。
三畝が生産単位ならば16戸分にあたるわけで、寛永二年のころには20戸が塩を造っていたようです。当時の和佐全体の戸数は30戸ですから、塩を作らない家が10戸あったことになります。これは和佐の領主平岡氏の家臣であったようで、この郷で生活していたようです。つまり江戸時代初期の和佐は、戸数30戸、製塩業20戸、その他10戸で成立していたようです。

8塩田 周防大嶋和佐2

和佐の塩浜の経営構造を押さえておきましょう
一枚の揚浜の年生産高の約50石です。和佐東浜の塩田17枚で、856石になります。ただし、浜一枚で年間に釜屋を使用する日数は24日のみです。 一昼夜で7釜炊き、三回塩水[戯水]をつぎ足して、 一釜で三斗を得る計算です。ここから生産高は七釜で二石一斗になり、24日で50石4斗になります。これを俵詰めします。一俵は6斗入りですから、一浜で84俵、17浜で1428俵になります。
  浜子は浜1枚に四人で17浜ですから合計68人。塩浜には一枚に一頭ずつ牛が必要でした。
その他の浜道具としては、各浜ごとに次のような物がいります
①六斗入りの打桶   1一つ
②塩水を担ぐ担いタゴ 3
③ジョレン      1
④浜鍬        3
⑤振杓        1
こうした浜を一戸が一枚ずつを4人の労働力で経営していたようです。4人の家族労力による自営経営です。このように塩浜は、均等に分割されていたようです。逆に言うと、4人の労働力で操業可能なのは、この広さまでの塩田だったようです。これ以上の広さがあっても、逆に人手が足らなくなります。中世の揚浜塩田は小規模だったのです。
8塩田 周防大嶋和佐

それでは耕地はどうだったのでしょうか。
和佐は、検地図では図1のように耕作地が21に区画されています。そのうち6つが水田で、他の15が畑地です。一見すると区画面積はさまざまで、均等ではないように見えます。しかし、詳しくみると、水田の東冷田・吉平・九十岡・末通・折田・神田二の6区画を除くと、残りの畑地15のうちの6が二つ以上に分割されているのが見えてきます。分割される前は、畑地同士はほぼ同じ面積で均等であったようです。つまり、畑地に開墾される前は「塩木山」でだったのが、製塩用の薪をとるために利用され、切りつくした後が畑に開墾された研究者は考えているようです。整理すると、
①中世の和佐は、二、三の家を除いては、どの家も塩浜を経営する塩業従事者であったこと。
②塩木山は、平等に割り付けられていたこと
③中世末に、入浜塩田が現れると生産性が低く、効率の悪い揚浜の東浜塩田は衰退したこと
④近世初期に検地が行なわれた時、残った製塩家の数に応じて塩木山を平等分割されたこと。
⑤塩木山が開墾され畑地となったこと
が分かります。図1からは、畑地の区画境が、海岸からほぼ直角に山頂に向かって通っているのが見て取れます。それが以上の経過を物語っていると研究者は考えているようです。
 どちらにしても、この和佐の村は、海から来た者による開拓痕跡が強く残っています。海からやってきた「海民」は、どんな人たちだったのでしょうか。史料はありませんので想像力を膨らませると
①中世揚浜塩田の生産技術を持った弓削島の技術者集団の一部が、戦乱・抗争でなどで本拠地を逃れ、大島に新天地を求めた。
②戦国時代末期の村上水軍の亡命者たちの定住。
などが思いつくところです。

これに対して和佐の西隣の森集落や、北隣の神ノ浦集落を見てみましょう。
ここは区画線の引かれ方が和佐とは、かなりちがうと研究者は指摘します。図1で森集落の畑地の区画線をもう一度見ていましょう。確かに複雑に折れ曲がっています。これは、森や神ノ浦が早くから山麓緊落として発達した所であり、複雑な境界線を持つ畑地や山林区画が形成されていたからのようです。
 ここからは、最初から農耕を目的にして本土から渡って来た森集落の祖先と、海から来て陸上がりした「海民」との生活様式の差が表されていると研究者は考えているようです。
和田も海岸線沿いに「浜割」が見られます。

8揚浜塩田 和田

図2で黒いメッシュ部分が旧塩田跡です。今では、ここに家が建ち集落になっています。しかし、ここには先住の山麓集落があったようです。海岸線から奥へ行けば行くほど区画線が複雑に折れ曲がったものになっています。これは「先住者」のテリトリーだった地域です。そこへ海からやって来た「海民」が海岸沿いに、均等に土地を分けて揚浜塩田を開いたようです。そして薪は、先住者のテリトリーを侵すことなく、周辺の無人島の山から切り出してきたようです。
 このように和田集落は先住者である畑作農耕者いる所へ、海からの海民が入り込み塩田を開いて住み着いたという事になるようです。両者の間に「棲み分け」が成立したのでしょう。

8塩田 揚浜塩田

近世初期に周防大島で揚浜を経営した村は数多くあり、当時の揚浜総面積は9町5畝23歩になるようです。
これをひとつの経営単位を三畝一枚して計算すると、約300枚の揚浜があったことになります。一枚で年間塩10石を生産するとして、約3000石の塩生産石高になります。当時の大島は、戸数は約2000戸で、1戸平均5人とすれば人口は1万人程度であったと考えられます。すると島民の塩の消費量は1000石を越えることはなかったでしょうから、多くは島外へ売られていたことになります。近世になって入浜式の大規模塩田が姿を見えるまでは島の重要産業だったことが分かります。

もうひとつ研究者が指摘するのは、周防大島で畑作率の高いのは和佐や和田なと島東部で、そこに揚浜が多かったことです。
その背景には何があったのでしょうか?
島の開発の大きな原動力は、本土からの移住と水田開拓でした。水田開発が可能なエリアでは、農耕民の渡島によって開拓が進み、村落が成立していきます。それは本土と同じような農耕集落が形成されます。
 ところが水田開発が不可能な所では、陸地は牧場などに利用せられてきました。瀬戸の島でも、日本海の隠岐のように牛が放し飼いにされていたのです。確かに古代においては、瀬戸内海沿岸や島には「牧」が開かれていたことを示す史料が残されています。
 漁民が定住した浜で、揚浜経営可能の砂浜を持つ所では自然に製塩が始められるようになります。同時に製塩のためには山の木を切ります。その跡が開墾され畑になっていきます。それは自然の成行きだったのかもしれません。こうして畑作と製塩を生業とする村が海沿いにできます。しかし、これは漁村ではありません。浦ではないのです。
 弓削島・因島・生名島・岩城島・佐島・周防大島をはじめ、中世以前に製塩が行なわれたとされる姫島・柱島・能美島・大崎上島・新居大島・塩飽島・小豆島などは、どこも畑作を主体とする島です。そしてそれらの島々には、山を海岸から頂に向かって縦割りにし、その割られた所が段々畑にひらかれている光景が、かつては見えていました。「耕して天に至る」の景色です。
耕して天に至る 歴史遺産で育つ、究極のじゃがいも | 健菜通信 | 健菜倶楽部

 塩を生産するためには、大量の薪を必要だったことは何回もお話ししました。そのため、塩浜には薪を供給する山がついているのが普通で、塩(汐)木山という地名が今に残ります。それでは、塩木山が先住者との関係や地理的な制約から確保できない場合はどうしていたのでしょうか
 そんな場合には近くの無人島を「薪島」にしていた所もあります。
たとえば、山口県岩国市柱島は、早くから塩を焼いた島でしたが、この島には11の属島がついていて、柱十二島とよばれていたようです。
8塩田 無人島塩木島

今は干拓で陸続きになってしまいましたが岡山県笠岡市の神島も塩を焼いた島ですが、沖合の片島・明地・稲積・高島・小高島・白石島などを薪島としていたようです。また、香川県直島も古代以来、塩を生産しており、直島をめぐる10の属島は、薪島であったようです。
  塩田の面積が広ければ広いほど、薪山・薪島の面積は広かったはずです。逆に考えると
「属島を多く持つ島は、製塩が盛んであった」

と考えられます。そうだとすると属島を多く持つ兵庫県家島群島、香川県小豆郡豊島、香川県塩飽本島、真鍋島なども、中世以前には塩の有力な生産地であったことがうかがえます。そして、それらの地域からその推察は近畿に運ばれた塩の量から裏付けられます。

こういう視点で瀬戸内海を見ていくと、中世以前の揚浜のあった所が浮かび上がってきます。香川県では、次のような所で中世に揚浜製塩が行われていたと研究者は考えているようです。
①引田町
②小豆郡内海町馬木・新開・片城、池田町、
③木田郡庵治村
④高松市
⑤丸亀市塩飽本島生之・尻()浜、
⑥丸亀市
⑦三豊市詫間町箱・室・仁老・大・栗島京・永・東風
⑤三豊市三野町浜・新

以前に甲州からやってきた西遷御家人の秋山氏が三野津湾で揚浜塩田を経営していた話をしましたが、このような背景があったことを押さえておきたいと思います。
 海民の陸上がりして定住したとみられる島々では、親方や支配者の家を除いて、財産も家屋敷も平均化していたのです。それが徹底して行なわれたのが岩国市の柱島のようです。それは、また別の機会に
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 宮本甞一    塩の民俗と生活 

   
小豆島地図
  小豆島の安田の辺りの路地を歩くと醤油の匂いが漂ってきます。
この辺りには、マルキン醤油以外にも今も醤油醸造者が何軒も創業を続けています。各地域にあった醤油屋さんが姿を消した中で、小豆島の醤油倉だけが生き残ったのはどうしてなのかという疑問が昔からありました。その答えのヒントになりそうな論文に出会いましたので紹介します。テキストは「中山正太郎 明治期の小豆島土庄醤油会社の経営構造」 瀬戸内海地域研究第1号 です。

 明治を迎えたばかりの日本で、酒・醤油・味噌造などの醸造業は、地方有力者が手を出したいあこがれの産業でした。『明治七年府県別物産表』には、醸造品(酒・醤油・味噌を含む)の生産額は、3100万円余で織物の1700万円をはるかにしのいで第一位を占めています。明治前期の中心産業は、醸造業と織物業であったといえるようです。
 文化元年(1804)に、小豆郡安田村の高橋文右衛門が、大坂の醤油屋近江屋及び島新へ醤油を運び出しているのが小豆島醤油の最初の記録のようです。それ以前に小豆島で醤油醸造を始めていた蔵本があったことが分かります。
 明治三年(1870)には、小豆島の東部には75軒の醤油醸造家があり、諸味仕込高10699石、醤油製造石高5360石斗、西部の六ヵ村を加えると小豆島全体で約100軒の醸造家が醤油生産に従事していたことが記録から分かります。それが明治十年代になると醤油醸造家は218軒と倍以上に急増しています。約10年間で、75軒から218軒への増加というのは、どういうことなのでしょうか?

 明治21年度の香川県全体の各郡の醤油醸造所を示したのが図1です            
小豆島醤油1

ここからは次のような事が分かります。
①香川県には394の醤油醸造所があり、
②その醸生産高は61462石余、
③一醤油醸造所当り平均約156石
④小豆郡は、香川県内で醸造所数の55%
⑤造石高の約65%を占めています。
小豆島は、他の郡が全部集まっても適わないだけの醤油屋さんがあったことになります。
 香川県の全国に占める醤油生産の推移をしめしたのが表2です。
小豆島醤油2
 明治38年・45年・大正9年の生産高が示されています。ここからは次のような事が読み取れます
①千葉・愛知・香川のトップグルーが生産量を急激に伸ばし、市場占有率もじりじりと上げている。
②兵庫・和歌山の生産高の伸びには勢いがなく、占有率を下げている。
③香川は全国市場占有率約6%前後で、大正9年には府県別順位を第3位に上げている
小豆郡の大正四年の生産規模別階層構成を示したものが表3です。
小豆島醤油3

明治21年に218あった醸造所は約半数の108に減っています。生産能力は、一醸造所当り約885石に上昇していて、約6倍弱の規模に拡大してます。この中で生産能力が一番高いのはマルキン醤油で、1万石を越えていたようです。それに続いて
5000石以上が4社、
1000石以上が26社で
全体の25%近くを占めるようになっています。ここからは小豆島醤油業は、明治後期から大正期にかけて、生産規模の拡大と中小醸造所の淘汰が行われたようです。その大激変期をくぐり抜け、競争力をもった会社が生き残ったことがうかがえます。

さていよいよ土庄での醤油工場の設立です。
 明治19年~22年の企業勃興の大波は、小豆島にもやってきます。この波を受けて、安田地区の醤油醸造の隆盛に負けじと、土庄地区でも醤油会社の経営に乗り出そうとする人たちが現れます。
明治21年1月25日、大森弁蔵や三枝重太郎ら土庄地域の有力者ら七名は、小豆島土庄醤油会社創立発起人申令規約を作成し調印します。この申合規約には、次のように約されています。
一 当会社ハ有限責任トシ、資本金ハ金壱万円トス。
一 前項資本金ハ之ヲ弐百株二分割シ壱株五拾円トス。
一 株金受持及募集方法ハ左ノ如シ。
  弐百株之内
  百弐拾弐株 発起人二於テ受持
         此内訳
          四拾株 大森 弁蔵
          弐拾株 三枝 林造
          弐拾株 三枝 重太郎
          拾五株 原田 清四郎
          拾弐株 三枝 定蔵
          拾 株 大森 八蔵
          五 株 原田 安八
   弐百株之内
      七拾八株  他ヨリ募集ス。
    (中略)
一 当社倉庫・器機・宅地ハ発起人之内原田安八現今所持ノ
  宅地・畑・倉庫及器機〔座敷釜床ヲ除キ〕一切代価七百
  円ニテ購求シ、之二副築及増設ヲ加フルモノトス。
一 当会社発起人中所持シ 醤油製造用家屋及器機ハ、相当
  直段ヲ以テ当社ヱ購入スルモノトス。但、値段ハ発起人
  中二於テ相談之上之ヲ定ム。(後略)        
 ここからは次のような事が分かります。
①会社は有限責任会社で、資本金は一万円
②うち6100円は発起人7名が受け持ち、他を一般から募集しています。
③倉庫・器機・土地等は、原田安八所持のものを七〇〇円で購入し、
④発起人の醤油製造用の家屋・諸器機類は、相当の直段で購入
 こうして設立された会社は、同年4月13日に開業届を県庁に提出し、同月16日には臨時株主総会を開き、社則・業務細則等を議定し、同月18日開業式典を開くという手順で開業へと歩みます。
 新しく設立された醤油会社の経営に当たったのは、誰でしょうか 
小豆島醤油4
当初の役員は、表四の通りです。社長の大森弁蔵は、自ら塩・大豆・小麦・薪等を商う商人で、後には小豆島紡績会社や小豆島銀行を設立した企業家です。また県会議員・同議会議長を務めた名望家でもあったようです。三枝重太郎・太田耕治も県会議員等を歴任した人物で、他の人も手広く商業を営んだ地元の有力者達のようです。
 この内、三枝定蔵・林蔵・重太郎らは、以前から醤油醸造業を営んでいました。また、三枝定蔵と大森弁蔵は義理の兄弟にもなります。三枝の醤油醸造所で培ってきた技術や販売先をベースにして、資本を集めてより規模を大きくして行こうという話が身内の大森氏と三枝氏の間でまとまったのかもしれません。
 こうして公募された株式状況を示したものが表5です。これが新会社の株主たちと云うことになります。
小豆島醤油5

大森弁蔵・亀太郎・角平・三枝林蔵・定蔵・重太郎・原田清四郎・安八・太田耕治・森亀齢治らの役員及びその一族らは、予定通りの304株分の6080円を払い込み、株式を所有します。その他の人たちが残りの株式を購入しています。
 ⑤の九富森太郎は600円を出資していますが、小江で海運業を営む人物で、醤油をこの会社から買込み輸送した海運業者でもありました。 この表からは出資の呼びかけに応じたのは、土庄の有力な商人や海運業者・名望家・企業家であったことが分かります。ほぼ全額地元資本によって設立された醤油屋さんのようです。

新たに船出した土庄の醤油会社に、大波が打ち寄せます
原料の大豆・小麦・塩の価格変動です。大豆・小麦の一石当りの価格の変動と総購入量を示したものが図1です。
小豆島醤油6
この表から分かることは
①創業直後に原料の大豆の価格が高騰した。
②明治30年・36年・大正2年の三回の高騰期がある。
③日露戦争期以前には、麦より大豆の方がやや割高だったのが、41年以降は小麦の方が高くなった。
④大正七年の米騒動以降は、大豆・小麦ともに一石20円以上に暴騰した
⑤大正9年には、大豆・小麦共に高騰し、翌年には暴落するなど、原料価格の大変動期に突入した。 
安定して原料を買い付けるのが、難しい時代を迎えたと云えます。この時期に購入量が大きく増減するのは、大豆・小麦の価格変動を見ながら、価格が安くなれば購入量を多くし、価格が高くなれば購入量をひかえていることがうかがえます。
 小豆島では、田畠が少なく、醤油原料としての大豆・小麦は島内で自給することはできません。そのため大半を島外から買い付けていきました。どこから買い付けていたのでしょうか。以前に、江戸時代末期に、マルキン醤油の創業者の所有する廻船の動きを紹介したことがあります。マルキンの廻船は、九州の有明海沿岸にまで出向いて小麦や大豆を買い付けていました。
明治維新を経て買付先は、どのように変化しているのでしょうか?
最大の買付先は、朝鮮半島になっています。半島の小麦や大豆は国内産よりも安かったので、全体の4割を朝鮮から購入するようになっています。そして、同量を肥前、残りの15%が肥後となっています。
 購入先も一番安いところから一番多く買い付けていますが、集中しないようにバランスを保ちながら買い付けているようです。
 創業時に、原料買付を行っていたのは誰でしょうか 
小豆島醤油7

大豆購入量260石の半分を、購入しているのは社長の大森弁蔵です。小麦も購入量331石余のうち3/4を、大森弁蔵が扱っています。塩はどうでしょうか? 塩の購入量995俵のうち1/2を社長の大森弁蔵が購入しています。塩の購入先は全て小豆島の塩田地主です。
 のこりの原料費となるのが薪です。購入量の半分は八代定治からの購入です。彼は、この醤油会社へ塩の1/5強を納入しています。彼は塩田を経営しながら、薪も大量に売り捌いたようです。
  社長自ら原料の買付を行っていたようです。
さて、作られた醤油は、どこで売っていたのでしょうか?
 醤油の販売先は、明治三〇年代では
「大阪府ヲ主トシ、兵庫・広島之二次キ、他九州・台湾等ナリ」
と記されています。大坂・神戸・広島・九州と瀬戸内海交易のエリアで販売しています。当然、船で運ばれたのでしょう。
それでは、明治25年の醤油売上先を表19で見てみましょう。
小豆島醤油8

この表を見て、驚いたのは、総売上量の70%が地元小豆島関係者分に売られていることです。残りが大阪・兵庫などに販売されているのです。地元小豆島の消費用として生産されていたのかと思いましたが、そうではないようです。
 全体の4割に近い醤油を買い上げているのは、先ほど見た⑤の九富森太郎です。彼は小豆郡四海村出身で、土庄に在住する海運業者で、会社成立時に30株600を出資していました。彼は、買い入れた醤油を小豆島で売捌いたのではないようです。神戸・大阪方面へ自分の船で運んで、売ったようです。
 どうやら会社設立当社は、自前の販売網を持っていなかったので、売ってくれる地元の海運業者(仲買業者)に、半分以上を売っていたようです。
しかし、創業から20年近く経った明治44年の醤油売上高を示した表20を見ると、地元の小豆島への販売高は激減しています。そして、大阪が約1130石で全体の約1/2、神戸が約530石で約1/4を占めるようになっています。お得意さんを開拓し、自前の販売網を持つようになってきたことがうかがえます。

経営状態について
醤油屋さんの経営は、分かりにくいところがあります。原料の購入から仕込み・熟成を経て商品化するまでに最低一年数力月が必要です。そのため、その年に投入した資本が、その年内に回収されるものではありません。原料を仕込んでから商品化するまでに、長い時には3~5年もかかることもあります。さらに代金回収は、またその先になります。資金繰りが長期サイクルになるのでかなりの資金的余裕が必要なようです。
この会社の経営状態を見てみましょう
 支出部門の最大品目は、原料代です。創業時の明治21年には、半分が原料費です。以後、原料費が平均すればと48%になります。2番目が諸経費で約14%です。ここには、役員・雇用人の給与、雇用人への賞励金、会議費等を含む諸雑費が含まれています。そのうち最大のものは、醤油造りに直接携わる蔵人達の給与で、支出全体の約8%に当たります。その他の主要な支出項目としては、税金の約13%、製品残品・空樽・運搬費などです。
純益金の最高額は明治23年の1819円余で、その割合は18,6%になります。これは近隣の備前児島の東近藤家の12,8%、播州竜野の円尾家の6,8%に比べても高収益をあげていたようです。その原因が、どこにあったのかは現在の所は分からないようです。今後の課題ということでしょうい。
小豆島醤油9
 図二は、純益金額・純益金率の推移を示したものです。
純益金率の推移をみると、次のような5つの時期に区分できます。
①明治20年代の利益率が高い時期
②明治30年代前半の利益率の急激な低下
③明治30年代後半の日露戦争期に回復傾向
④明治41年の急激な低下、
⑤その後の一時回復と大正期の低迷
 この様な利益金率変動の原因を研究者は次のように考えています。
①明治20年代の高収益率確保の原因は、大豆・小麦価格の低価格安定。
②明治30年代前半の落ち込みは、小麦・大豆の価格高騰
③明治30年代の後半は、大豆・小麦の価格低下と日露戦争の影響
④明治41年の急落は、戦後恐慌による影響と三〇年代末の原料の高騰が
⑤大正期の低迷の原因は、大豆・小麦が一石一〇円を突破し、その後も暴騰を続けたこと
こうして、大正期の原料暴騰期を迎え、利益金率が大幅に低下するなかで、全国の醤油醸造業は経営の激動期を迎えることになります。
 この経営の危機を乗り越えるためには、革新的生産技術の開発と新しい経営形態への脱皮が求められることになります。小豆島の醤油屋さんは、それをどのように乗り切っていったのでしょうか。

 以上、まとめておきます。
企業勃興期の明治21年、小豆島でも新しい醤油醸造会社が、地域の有力者たちによって設立
② 小麦・大豆などの原料は、会社の役員など地元の有力商人達の手を通じて購入された。
③ 小麦・大豆は、江戸時代に引き続いて九州から買い入れているが、大豆は安価な朝鮮のものが使われるようになった。
④ 塩は明治末に台湾塩が使われるまで、地元小豆島産に限定されていた。
⑤ 醤油の販売先は、創業当初は、地元の関係者であったが、明治末期になると大阪・神戸がその中心となった。
⑥ 経営状態は原料価格に大きく左右され、大正時代に入ると利益率は悪化した。

おつきあいいただき、ありがとうございました。

   18世紀半ばすぎから19世紀初頭の半世紀で御手洗の人口は4倍に激増しています。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
明治5年(1872) 戸数369
そして、明治10年(1877)には400戸を越えています。このあたりが御手洗の繁栄のピークだったようです。そして明治20年代に入ると、戸数はしだいに減少に転じていきます。それは塩飽や小豆島など島嶼部の港が共通にたどる道です。
どうして、明治二〇年代に瀬戸内海の港町の勢いが失われていくのでしょうか。いくつかの要因がありますが
まず第1に考えられるのが鉄道の到来です。
 日清戦争の際に広島に大本営が置かれるのは、広島まで鉄道が延びていたからです。明治27年の日清戦争の開戦時には、鉄道が広島までやってきていたのです。これは輸送革命をもたらします。輸送手段の主役は、船から鉄道へと代わっていくことになります。人とモノの流れが変わります。芸予の人たちは、船で大阪に向かっていましたが山陽沿いに鉄道が走るようになると、尾道や三原に出て鉄道に乗るようになります。御手洗をはじめとする瀬戸の港町は「瀬戸内海という海のハイウエーのSA(サービスエリア)」の地位を、次第に追われるようになったようです。
 2つめは、ライバル港の登場です。
明治になると、御手洗の北側にある大崎上島の東をぬける航路が整備されます。この航路に沿って燈台建設などが進められ、そのルート沿いの木之江や鮒崎が御手洗のライバル港として現れます。それまで御手洗を中心に形成されていた商業圏が崩れ始めます。
3つめは、船の変化です。
7 機帆船

 明治後半になると、江戸時代以来の帆船に変わり機帆船の数が増えはじめます。この時代になると人もモノも鉄道に流れ、北前船の姿は消えます。瀬戸内海物流の主役は、石炭になります。北九州の石炭を大阪に運ぶ機帆船が多くなります。この船は御手洗に入港しますが、その積み荷の石炭を御手洗商人が買い入れて、地域で売るということはできません。御手洗商人の活躍の場が無くなったのです。
 また、機帆船は焼玉エンジンを積んだ動力船なので、それまでの帆船のように風待ち、潮待ちを重ねながら航海をするということはなくなります。目的地の大坂を目指して、御手洗を素通りしてしまう船が多くなります。それに加えて、先ほど行ったように大崎上島の木之江、鮒崎が寄港地として台頭します。減った船を、ライバル港と奪い合うよう状況になっていったようです。
 それまで、芸予諸島西部の商業圏を、江戸時代に広島藩の海駅だった下蒲刈島の三之瀬と御手洗が二分してきました。ところが大正時代にはいると、大崎上島の木之江がめざましい成長をとげ、御手洗の北部の商圏は木之江のものとなっていきます。 御手洗を中心とする経済圏が、次第に狭められていきます。

 4つめは、焼玉エンジンが海のストロー現象を引き起こします。
7 御手洗 焼玉g
動力船の一般化によって島の人々の線の行動範囲は、ぐーんと広がりました。尾道、竹原、今治などの大きなまちに、一日で往復できる時代がやってきたのです。島の人たちは、動力船に乗り合わせて「都会」に買物にでかけるようになります。動力船が普及する前は、手こぎ船で往復できる御手洗、三之瀬、木之江というまちが商圏でした。御手洗商圏を動力船が突き崩してしまったのです。近年の高速道路や新幹線が、お洒落な人たちを三宮や梅田まで買い物に出かけさせるようになったのと似ています。百年前のストロー現象が瀬戸内海で起きていたのです。
  「繁栄」を続けていたのは、御手洗のどの地区なのでしょうか?
当時の地籍図からそれが読みとれるようです。明治28年の地籍図には、地租徴税のために御手洗の10の町毎にの宅地評価ランクが1~5等で示されています。ここからは屋敷地の評価価値を読みとれます。評価が高い町は、活発な活動が行われていると考えられます。
 
7 御手洗 M28

 一等の黒い宅地部分はは、住吉町の海岸通りと相生町です。
住吉町は、江戸時代後期に新しい波止場築かれ、船宿、置屋のある歓楽街として賑わいをみせてきました。それが、帆船がまだ多かった明治二〇年代には、寄港する船乗り相手に賑わいを維持していたことがうかがえます。また、相生町は、御手洗の商業の中心地です。中継的商業が衰退しても、賑わいの「残照」が残っていたようです。

 二等の斜線部分は、蛭子町と、住吉町、榎町、天神町のI部です。
蛭子町は、住吉神社の前の波止場が出来る前までは、北前船の荷揚げ場の中心でした。そのため蛭子町は、相生町にも増して賑わいをみせたところと思われますが、この頃には多くの宅地が二等となっています。
   三等の格子状部分、常盤町に多く分布します。
常盤町は、今でも古い町並みを残す一角で、江戸時代のある時期までは、御手洗の商業の中心であったところでした。しかし、明治二〇年代には、相生町、蛭子町より等級は落ちています。かつての賑わいがなくなっていたことがうかがえます。
それでは、これが16年後の明治44年には、どう変化しているでしょうか?
明治44年版は、25ランクに細分化されています。しかし、一等の黒い部分が一番高く評価されている宅地であることに変化はないようです。
7 御手洗 M44
 前回の明治28年に一等だった住吉町は、一~三等の三ランクに区分されています。大東寺付近が一等で、南に行くと三等となるようです。しかし、住吉町がトップランクなの変わりないようです。石炭をはこぶ機帆船が主流になっても、船員たちは大坂からの帰路には、馴染みの女がいる住吉町に立ち寄る者は少なくなかったようです。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」
という船宿の主人の言葉が思い出されます。
 16年前は二等であった相生町は九等まで下がっています。蛭子町は、大部分が10等です。やはり、住吉町の色町の輝きは船乗りを引きつける魅力があったようです。
戦前の御手洗の「主力商品」は、なんだったのでしょうか?
7 御手洗 交易表

  一番下の昭和13年の輸入金額でみると、最も多いのは「弁甲」とあります。私は、最初は「鼈甲」と勘違いしていて、不思議に思っていたことがあります。弁甲とは、九州日向産の杉のことです。これが木造船には最もいい用材とされたようです。それが御手洗港の輸入取扱額の半分以上を占めます。丸太材も10%ありますので、6割は木材ということになります。輸出に至ると、「弁甲」は8割近くになります。
 明治には米の取扱が半分だったのが、主役は「弁甲」に代わっているのが分かります。この背景には何があったのでしょうか?
弁甲は宮崎から御手洗に送られてきて、ここから阪神地方へと送られていたようです。丸太材は宮崎、高知、徳島から御手洗にはいり、やはり阪神地方に運ばれています。
 瀬戸内海は、古くから「海民」の活躍の場であり、その機動力として多くの船が作られてきた土地柄です。御手洗の近くにも広島県倉橋島や岡山県牛窓などの船大工が集まり、船造りが盛んな所がありました。
 明治末期から大正時代にかけ、その船大工の伝統をもとに、大規模な造船地が生まれてきます。大正時代にはいると巨大な造船地帯を形成するようになり、第一次世界大戦の戦争景気ではおびただしい数の船が作られて、造船景気を生み出します。
 御手洗の港で弁甲が大量に取引されるようになったのも、芸予諸島の造船地帯の勃興が背景にあったようです。御手洗は、弁甲産地の宮崎と、主な需要地の阪神地方のほぼ中間に位置し、また、瀬戸内各地に造船地帯を背後に持ちます。そのことが御手洗を船材の中継地としての役割を持たせることになったと研究者は考えているようです。
 もちろんそこには、中継的商業の伝統のノウハウが御手洗に根づいていたこともあります。御手洗は大正時代に「北前船の米」から、「造船所で使う弁甲」の中継地へと転進したようです。
 しかし、これも木造船から鋼鉄船へと変わる時代がやって来ます。それに対応する術は、なかったようです。

 現在の御手洗で、約百年前の昭和初年からの商売を引き続いて行っている家は、10軒もないと言います。大きな変動の中で多くの人が、ここから出て行ったのです。
 御手洗のまちを歩くと、塗寵造りの商家の二階の格子窓をぶちぬき、物干し場をとりつけたり、表通りの倉庫が蜜柑納屋に変わっている光景がかつてはありました。商家の多くが仕舞屋に変わったばかりでなく、いつの頃からか町中にみかん農民が住みはじめたのです
 戦後、御手洗の商業がまったくふるわなくなると、人びとは家を空けて、他の土地に稼ぎに出かけ、そのまま出先に住みつく人が増えました。あるいは旅稼ぎに出かけず、店をしまったまま老後を御手洗ですごした人もいました。その家もいつしか代替わりをし、次の世代を受けつぐ者が、よその土地で暮らしをたてはじめます。そこで、その空家を買い取り、新たな人びとが御手洗の地に住みついていったのです。
 戦後、住民が交替した家を研究者が調べてみると、現在の212戸の中で、53戸までが大長出身者であったようです。大長集落は、「大長みかん」で有名なところです。かつては、「農船」(農耕船)で、周辺の無人島に出作りに出かけていました。その範囲は、芸予諸島のほか、呉市から竹原市にかけての山陽沿岸、菊間町から今治市にかけての四国地方までも及んでいたことがあります。
 大長みかんはブランド化され、みかん農家は豊かになりました。このため末子相続制のこの集落では、自立した長男たちが分家の際に御手洗の空家を手に入れるようになったのです。そのためかつては商家だった家屋に、みかん農家が入り、みかんの納屋が建てられているという姿が普通に見られたこともありました。
 何もなかった御手洗の浜に、潮待ち風待ちに入り込んだ船を相手に商売を始めたのも大長の人たちでした。社会変動の中で、人びとがまちをあとにした後に、かつての親村である大長から人々が入って行って住み始めるのを、先祖たちはどんな風に見ているのでしょうか。
 いろいろなよそ者がやってきたが、最後は地元の大長の者の手に帰ってきたと、苦笑いしているのかもしれません。
参考文献  廻船寄港地御手洗町の繁栄とそのなごり
                

広島県呉市「御手洗」は懐かしい故郷のような町並み | 広島県 | LINE ...
 江戸時代の街並みは、大火災に見舞われた経験をどこも持っています。御手洗のまちも、元文、宝暦、文政、天保と、四度の火災にみまわれているようです。なかでも宝暦九年(1759)宝暦の大火は、延焼が127世帯におよんでいます。全世帯が300軒余りでしたから半数近くの家が失われたことになります。この大火の後、まちでは年寄紋右衛門(柴屋)以下四名が、豊田郡代官所にあて、救助を願い出で次のような家屋再建の用材を求めています。
壹軒分諸入用左之通
柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
合掌、向差、角木、拾本 壹丈壹尺位
家なか、垂木、ゑつり、ぬいほこ 共大から竹三乗 貳尺五寸手抱
藁 三拾乗 五尺手抱
縄 貳乗半 三拾尋操
   ここからは火災後に、どのような構造の家が建てられたかが推察できると研究者は云います。
「壹軒分諸入用左之通」とありますので、一軒の家再建のために次の材料を用いるということなのでしょう。この材料を使って再建されたのは、二間四方の藁葺き家だったようです。
①柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
 梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
 柱を一間間隔に四方にたて、柱の上に四本の桁と二本の梁をのせて木組みをした構造
②合掌とは、草屋根をささえる材、
③向差とは、妻側で草屋根をささえる材、
④角木は、家屋の四隅にわたして草笛根をささえる材
で、それぞれ、四本、二本、四本の計10本が必要です。
⑤家なか(屋中竹)は、合掌材の上にくくる竹。
⑥ゑつりは、藁の下地をなす桟竹
⑦ぬいほこは、藁をおさえる矛竹
⑧藁の量や縄の長さ 
ここからは、宝暦九年の大火で、更地になった跡地にあまり時をおかずに、御手洗商人たちは同規格の新たな家屋を一斉に新築していったことがうかがえます。一八世紀中期という時代は「戦後の高度経済瀬長期」と同じように、そんな再築方法が進められるだけの経済力と機運があった時代だったようです。

 今、常盤町に残る「妻入り本瓦葺き、塗寵造り」の家屋は、デザインだけでなく防火建築としても優れたものだと研究者たちは評価しています。それは「モデル住宅」を基準に、工法やデザインを共通にして建てられた建物群だからできたのではないかと研究者は考えているようです。常盤町では、古い土蔵をとりこわした際に、安永期(1772~80)の棟札が出てきたそうです。その頃には、すでに主屋の再建が一段落し、土蔵を建てる時代に移っていたのかもしれません。
 瀬戸内海の港町を歩くと「妻入り本瓦葺き塗寵造り」の町屋建築物がその「街並みの顔」となっている姿をよく見かけます。この建築様式は、18世期中期に確立されたと云われます。御手洗に今日に残る町並みも、
①宝暦の大火の後に、二間四方の藁葺き建物群が再建された
②その後、安永期にかけて現在のタイプに再建された
と研究者は考えているようです。それは
「御手洗の商人が、中継的商業を興しながら財力を築き、その力をもって生み出した町並み」
であるようです。

19世紀はじめの御手洗の人たちの職業は?
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」には、次のように記します。
当村町形勢気候民戸産業之事(前略)
御手洗町之儀者
問屋中買店商  三歩(3割)
船宿客屋風呂等焚キ渡世仕候もの三歩(3割)
農業並びに船抄日雇中背相混シ渡世仕候もの四歩(4割)
つまり、①問屋仲買人が3割  ②船宿・風呂屋が3割 ③農業と日雇い4割  という職業構成だったようです。当時、大長村と御手洗町をあわせた家数は、736軒。うち百姓481軒、社人2軒、医者4軒、町人118軒、職人13軒、浮過(日雇い)118軒とあります。百姓は大長に住んでいたので、
736軒 - 百姓481軒= 255軒
が御手洗の戸数と考えられます。そして、その3割が商人であり、日雇い無産階級の人々と同数であったということになります。
 三割を占める問屋、仲買、店商いは、どのような品物をあつかっていたのでしょうか?
  穀物 あいもの 荒物 小間物 酒 塩 薪 茶 味噌 醤油 酢 油 粕 蝋燭 呉服類 木綿 綿 紙 章汗子 銘酒 瀬戸物 琉球芋 桃 柿 諸茸類、金物細工もの類 野菜類 かう類
 以上の29品目です。主力商品は穀物(米)でした。3月から8月までは北国登りの廻船をを扱い、日本海の荒れはじめる9月から翌年の2月には、伊予、中国、九州の米穀を扱っていたようです。
  この頃には、御手洗は周辺の島々の商圏の中心地になっていました。そのため周囲の米需要を御手洗の米穀問屋が引きうけていたようです。芸予諸島の耕地は、水田耕作をするところが少なく、江戸時代は、麦や甘藷の栽培が主流でした。この畑は明治期を迎えると桃や蜜柑等の果樹園に変わり、以後も水田となることはありませんでした。そのため、島じまでは裕福な人たちは、御手洗商人から米を買っていたようです。寄港する船が購入する米も、少なくはなかったのでしょう。御手洗には、米の小売業を営む者が戦前まで多かったようです。
 小間物屋が多いのも、この町の特徴ですが遊女屋の女性たちの需要があったようです。船宿、客屋、風呂屋等については、次のように記します。
   茶屋については、
(前略)右遊女平常勤方之儀者、昼者かりと唱宿屋或者船杯ヘモ遊二参り申候、夜分者暮合頃より夜店ヲ出し時節流行之唱歌ヲ唱ひ三味線小弓杯ひき 四つ時限り夜店相仕舞申候
とあり、夜昼となく賑わいをみせていた様子がうかがえます。室町時代に、外交使節団長としてやってきた李氏朝鮮の儒学者が
「日本の港では、昼間から遊女が客を町中でひいている」
と、おどろいていましたが、時は経っても変わらない光景が日本にはあったようです。
   風呂屋については
 風呂屋之儀者貸座敷と中懸ヶ行燈ヲ出し 遊女芸子等すすめ候儀二御座候
とあり、風呂屋が貸座敷となり、客に遊女をすすめていたようです。
前回もお話ししましたが船乗りたちは船宿に到着すると茶湯の接待を受けた後,風呂に入り酒宴に興じます。この時に馴染みの女性が湯女として世話し、宴会にも侍ります。船宿に泊まるのは原則は船頭だけでしたが、船員の中には「ベッピン」と呼ばれる芸娼妓を伴い,船宿や旅館で一夜を共にすることも少なくなかったようです。置屋は,こうした芸娼妓たちの居住の場でした。芸娼妓たちは,置屋から船宿や料理屋へ出張したり,おちょろ船に乗って沖に出たりするだけでなく,置屋へ客を引き入れる場合もあったと云います。これらの業種は, 千砂子波止に近い築地通り沿いの住吉町にあったのです。住吉神社が姿を現して以後は、ここが御手洗の歓楽街だったようです。
   舟稼ぎ、旦雇、中背(沖仲仕)等については記載がありません
 船の荷物の積み卸しなどの作業には港湾労働者が必要です。彼ら「無産階級」が戸数の4割を占めていたことにも注意しておく必要があります。御手洗に来れば稼ぎ口があり、よそからの参入者を受けいれる土地柄であったのです。当然、人口流動性も高くなります。
7 御手洗 8北
  千砂子波止と住吉神社の出現が御手洗に何をもたらしたのか・
 19世紀になると御手洗には、北前船や各藩の廻船と共に、仲買商人や文人墨客など、沢山の船や人が集まる様になりました。そんな中でこの港の課題として浮かび上がってきたのが、港入口の岩礁の存在です。ここが難所となり、船を傷つけることがあったようです。そこで、幕府は広島藩に指示し、千砂子波止の着工を命じます。難工事の末、文政12年(1829)に完成した石造りの波止場は、当時「日本一無双の大波止」として、全国の船乗りに知られるようになります。
7 御手洗 波止場98北

 これの波止場の完成を契機に御手洗港は、ますます北前船が立ち寄るようになり、多くの物資が集まる巨大な経済圏の中心になっていきます。 この波止場の完成を記念して、広島藩はこの波止場に住吉神社の勧進建立計画を作成します。そして、有力者に神社建設の寄進の話を持ちかけるのです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

住吉神社の建立資金を出したのは、だれなのでしょうか?
広島藩の勘定奉行が話を持ち込んだのは、藩の蔵本で大坂商人の鴻池善右衛門でした。善右衛門は、即座に社殿の寄付を申し出ます。彼の頭の中の算盤には、御手洗の巨大な商圏を手中に収めておこうという算段があったのかもしれません。御手洗の経済規模は、それだけの投資をしても惜しくないものに成長していたのです。
  こうして造営は、鴻池家の寄進によって進められることになります。社殿寄付の話がまとまると、天保元年(1830)年5月から境内の埋め立てが始まります。 工事の材料入手や夫役が「波止鎮守社住吉大神宮寄進帳」に詳しく残されています。
 埋め立てに先だって海辺に長さ30間の石垣が築かれます。石垣のために1446石の石が付近の村から寄進されています。寄進したのは予州北浦、御調郡鰯島、安芸郡坂村、安芸郡呉村、瀬戸田村、大長村、大河原田村などの有力者30名です。船で、御手洗に運ばれてきたのでしょう。
 次に、埋立作業の人夫のことが記されます。
付近の東野村、沖浦村、中野村、明石方村、原田村、大串村、大長村、豊島村、久比村、大浜村、斎島の島じまの庄屋が世話方になり千人を超える人夫が集められ工事が始まります。さらには、芸予諸島以外の山陽側の田万里村、小阪村、七宝村、竹仁村、小泉村の庄屋も世話方となり、工事に力をかし、人夫を送り込んできます。御手洗の商圏エリアの有力庄屋たちが協力していることがうかがえます。   
 そして、地固めの際には茶屋の遊女が総出で繰り出し、華やかな踊りを披露して、港は祭り気分に湧きたったようです。その姿をひと目見ようと、近在近郷より見物入が舟を仕立てて群をなしてやってきたと記されています。新しい港の完成と、その守り神となる住吉神社の勧進事業は、一大イヴェントに仕立てられていきます。人を呼び込むことが、港町や門前町の必須課題なのです。
  海が埋め立てられ造成されると、上棟式が行なわれます。
鴻池氏の寄進になる社殿の材は、大阪から積み出されて船で御手洗に運ばれました。同時に、大工棟梁、金具屋、屋根屋も大阪からやって来ます。波止ができ、その鎮守の住吉神社が姿を現すようになると、住吉町は御手洗の新しい表玄関となります。次々に家が建ちはじめ、紅燈あでやかな町並みが出来ていきます。この海沿いの街に建ち並んだのは、船宿と置屋だったといいます。この街並みには住吉神社の由来から住吉町と呼ばれるようになります。
  現在の住吉神社を訪ねて、その歴史を感じてみましょう
 住吉神社は御手洗の斎灘を眼前にひかえた街の南端に鎮座しています。
呉市豊町御手洗住吉町 船宿cafe若長 - 大之木ダイモ|広島、呉の ...

この境内には創建時の奉納物が数多く残されています。大坂の鴻池家により建立されたという歴史から大坂と関係したものが多いようです。まず、迎えてくれるのは境内入口に高くそびえる石造高燈寵です。これには「太平夜景」と刻まれ、天保三年(1832)、金子忠左衛門、男十郎右衛門と寄進者の名が記されています。この金子氏は、三笠屋を屋号とする御手洗の庄屋です。
 境内入口にかかる太鼓橋は、もとは木造でした。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

それを明治43年に、鞆田幸七、今田愛兵衛の寄進により、伊予の今治から石工を呼び寄せて石造りに改修しています。
 鳥居は、文政13年(1830)、大阪の和島屋作兵衛が寄進したものを、大正2年、「住吉燥浜組合」が世話人となり改修しています。
7 御手洗住吉神社3
 拝殿の前に建つ一対の狛犬には、天保4年(1833)若胡屋亀女と刻まれています。御手洗で最大の勢力を誇った遊女屋からの奉納物です。手水鉢には、文政一三年大坂岩井屋仁兵衛と寄進者の名が刻まれています。
 参道両側に建ち並ぶ30基余りの常夜燈もみごとです。
その中で、鳥居前のひときわ目立つ位置におかれた常夜燈は、文政13年多田勘右衛門が尾道の石工に刻ませたものです。多田家は、竹原屋を屋号とする御手洗の年寄を勤めた家です。ほかの常夜燈にも寄進者の名が刻まれています。その中には大阪からの海部屋、和島屋、岩片、竹雌唯、町波屋、河内屋、住吉屋、姫路屋などからの奉納があります。九州延岡の石見屋からも寄進も混じっているようです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

 境内をとり囲む玉垣も住吉神社造営の時につくられたものです。
そこには多くの御手洗商人の名と共に、若胡屋、堺屋、扇屋内何某と遊女の源氏名もあります。住吉神社造営にあたり、彼女たちが競い合うように寄付をしているのが分かります。売られて来た身の行く末を案じて、神仏にすがることが唯一よりどころだったのかもしれません。
7 御手洗住吉神社5

しかし、この港の色町は「遊郭」とは、云えないと考える研究者もいるようです。
特に19世紀になって現れた住吉街は,千砂子波止の目の前に現れた歓楽街ですが、ここには「廓」がありません。女たちの生活と地域住民の間に垣根がないのです。地域住民と芸娼妓,船乗りが同じ、商店や施設を利用していました。大崎下島の若い男性が芸娼妓と懇意にしたり,芸娼妓が「地域住民の一員」として祭礼や運動会へ参加したりして、人的交流もあったといいます。これは「廓」に囲まれた遊郭とは、性格を異にします。女たちが地域に溶け込んでいたのが御手洗のひとつの特徴と云えるのかもしれません。

 19世紀初めに姿を現した新しい波止場と、その守護神である住吉神社の勧進は新しい御手洗の玄関口となりました。そして、その海沿いには歓楽街が姿を現したのです。そして、この歓楽街は機帆船の時代になっても生き残り、戦後の買収禁止法が出来るまで生きながらえていくことになります。
以上をまとめておくと
①17世紀末に埋立地に新しく常葉町が作られた。
②しかし、宝暦の大火で焼け野原になってしまった
③復興計画により同一規格の家屋が常葉町には並んで建った
④そして、この町が新しい御手洗の中心商店街となっていく
⑤18世紀初頭に新しい波止場と住吉神社が建立された
⑥そこは新しい玄関口として機能し、周辺は歓楽街となった
⑦そして、御手洗で最も最後まで活気がある場所として戦後まで存続した。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 港町御手洗の歴史一昭和33年(1958) 以前
年次
寛文 6年(1666)  御手洗への移住開始
延宝 (1673~8 1) 大長村から 18軒の商人が移住
貞享 2年(1685) 島外から商人が移住する
     4年(1707) 小倉から勧請した恵比寿神社を建て替える。
正徳 3年(1713) 町年寄役が設置される。
事保 2年(1717) 弁天~蛭子海岸線の埋め立て開始する。
事保 9年(1724) 若胡屋が広島藩から営業免許を受ける。
延享 2年(1745) 船燥場(ふなたでば)を設遣
:      年(1759)   大火が発生。
文政11年(1828) 広島藩が新たに市街地の開発を計画
文政13年(1830) 大波止ができる。大坂商人・鴻池善右衛門(広島藩蔵元)らが住吉神社を寄進
明治20年 (1887) 飛地交換分合により,大長村から独立
明治22年 (1889) 市制・町村寄せの施行で御手洗町となる。
大正 2年 (1913) 御手洗~尾道間の定期旅客線が就航
昭和33年 (1958)   売春紡止法の施行により,置屋業が廃業

旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

  御手洗が発展期を迎えたのは、18世紀半ばすぎの寛延から19世紀初頭の享和期にかけてのようです。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   御手洗の戸数は、この半世紀で四倍近くに激増しています。
  シルクロード沿線のオアシス都市では、やってくるキャラバン隊商隊の数と、その都市の経済力は比例関係にあるといわれます。そのためオアシス都市は宿泊場所やサライ(市場)などの設備投資を怠りませんでした。一方、キャラバン隊へのサービスも充実させていきます。その中にお風呂や娼婦を提供する宿も含まれました。キャラバン隊に嫌われた中継都市は滅びるのです。
 この時代の瀬戸内海の港町にも同じような圧力がかかっていたように私には思えます。港町は廻船を引きつけるためにあの手この手の戦略を練ります。廻船への「客引きサービス合戦」が激化していたのです。その中で、御手洗は新しい港町でネームバリューもありません。沖往く船を引きつけ、船員たちをこの港に上陸させるための秘策が練られます。その対策のひとつが「茶屋・遊女屋」設置だったようです。この申請に対して、広島藩は許可します。
日本の町並み遺産
 そして若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋の4軒に許可が下り、遊女屋が開かれることになります。
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」によると、
①若胡屋              40人
②堺屋(酒井屋)、藤屋(富土屋)  20人
③海老屋(のち千歳屋)       15人
の遊女を抱えていたと記されています。4軒あわせると百名ちかいの遊女がいたようです。
どんな人たちが遊女屋を開いたのでしょうか?
文化12年(1815)ころの町の記録「町用覚」に次のように記されています。
 若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広嶋中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや知か上ノ関二住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるものの世話となり小家をかり見せ(仮店)なと出し、いつしか此所の帳に入り住人とハなりぬ(後略)
  ここからは、次のようなことが分かります。
①若胡屋はもともとは広島城下で魚屋を営業していた海に関係ある一族のようです
②いつの頃からか上関(周防)に住み、めんるい屋の株を持って営業するようになった
③それが享保の頃に、御手洗にやって来て「船後家(?)」を営むようになった
④その後、土地の船宿の世話で陸に上がり、小家を仮店舗としてこの土地の者として登録されてるようになった。
分からないのは「茶屋子供をつれ船後家の商売」です。今は触れず後に廻します。「此の所の帳に入る」とは、正式にこの町の住人になったということのようです。
御手洗町並み保存地区 呉市豊町御手洗 | ツーリング神社巡り 狛犬 ...
もうひとつの桜屋を見てみましょう
 堺屋が御手洗に来たのは、若胡屋に少し遅れたころのようです。
 堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延享寛延の頃より若胡屋に等しく此湊へ船にて後家商ひしか、陸にあかり蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主増蔵栄介ふたりとも打つりきて不仕合して難渋にせまり一跡かまかり、引取しかいよく極難に降して公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり寛政の頃至り此所へ入帳して本住居となりぬ
 意訳整理すると
① 堺屋は蒲刈(三の瀬?)の茶屋であったが延享寛延の頃に若胡屋と同じように、この港で船の「後家商い」を行うようになった。
②御手洗に出店しても40年ほどの間は、御手洗へ「住人登録」せず、正月と盆には郷里の蒲刈に帰って行事を済ませ、再び御手洗に稼ぎに来るといった形をとっていた。
③その後、御手洗に移住したが、不都合な事件に出会い難渋し、ついには蒲刈の商売を手放し、正式に御手洗の住人となった。
お知らせ: HPA・Photo・ワークス
御手洗の沖に停泊する廻船 
 若胡屋、堺屋が商売としていた「船後家」とは?
 沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話や、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は「一夜妻」として伽をつとめるものです。どうも藩の公認以前から「後家商い」船を使ってやっていたことになります。桜屋の場合は、蒲刈から出張してきていたものが御手洗を拠点にするようになります。そしていつの間にか「陸上がり」して、人別帳に登録される正規の住人になっていたようです。面白いのは、船に女たちを載せて、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけて、やがては住みつくという方法は、どこか「家船(えしま)漁民」に似ている感じがします。この「漂泊」は「海の民の」の子孫の姿かもしれません。彼らは、御手洗を拠点としてからも、鞆、尾道、宮島、大三島などさかんに出向いている記録が残っています。
花街ぞめき Kagaizomeki
  何のために女たちを船に積んで、港に移動していたのでしょうか
鞆、尾道、宮島、大三島に共通するのは、どこも大きな社寺があります。その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったようです。船さえあればどこにでも行くことができ、商売もできたのです。

 四国伊予の大洲藩の船宿の建物が今も住吉町に残っています。
子孫の木村氏は、今から半世紀前に船宿のことについて、次のように語っています。
船宿の暮らしは、海を眺めているのが商売でした。沖になじみの船が見えると、まずは風呂を沸かします。風呂といっても、浴槽に狭い五衛門風呂です。船宿の主人が伝馬船に乗り、沖の船を出迎えに行きます。その時の挨拶は「風呂が沸いたけえ、おいでてつかあさい」というのが決まり文句でした。
 沖に碇泊する船の乗組員には、豆腐を手土産にするならわしでした。豆腐は、味噌汁の具とするものでしたが、船乗りは、豆腐が時化よけにきくと信じていました。
 船乗りが宿に着くと、茶湯の接待が行なわれます。宿の主人は、まずは船乗りに航海の労をねぎらいます。一休みすると、船乗りたちが風呂に入り、潮風にさらされた身体を流します。このとき置屋から遊女がかけつけてきます。遊女は、湯女として船乗りの背中を流します。
 港が夕闇につつまれると、酒宴がはじまります。船乗りのもとには、なじみの遊女がはべり、三味や太鼓もにぎやかに夜がふけるまで、宴がつづきました。戦前までの住吉町は、今日の姿からは想像のできないほどの賑わいがあり、夜ふけでも灯の消えた家は一軒もなく、船宿では大戸をおろすこともありませんでした。
 宴が終わると、船乗りたちはそれぞれ船に帰っていきます。
船頭のみが船宿で寝泊りします。次の朝、船頭は船宿に祝儀をおいて船に戻っていきます。祝儀の額については、定まった額はありません。船頭の心付けといった程度でした。船宿の収入のほとんどは、夜の飲食の代金でまかなわれていました。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」船宿を営んだ木村さんはそう話しています。
おちょろ船 御手洗 大崎上島

 先ほど話したように、港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつける必要があったことを改めて知ります。
この話から分かることは
①船宿は、お風呂と宴会の場を提供するだけで、船員は泊まらない。泊まるのは船頭だけ
②船宿の収入の夜の飲食の代金でまかなわれていた。
③置屋から遊女が呼ばれいろいろな世話をした
④遊女たちが船を引きつける大きな役割を果たしていた
  おちょろ船 御手洗 大崎上島
 同じ頃の讃岐を見ると、次のようなことがおこなわれていた頃です。
①上方からの金比羅詣で客を迎えるためのに丸亀新港建設
②九州方面からの金比羅詣客の受入のための多度津新港建設
③金毘羅大権現の金丸座の建設と富くじ、歌舞伎上演
備讃瀬戸と芸予諸島の間には共通する「事件」が起きていたことが分かります。そして、瀬戸内海の物流は明治に向けて、さらに発展していくのです。

7 御手洗 ti北

 御手洗は、江戸時代になって新たに開かれた港町です。
近くには下蒲刈島に三の瀬という中世以来の有力な港町があります。それなのにどうして一軒の家もなかった所に、新しい港が短期間に姿を現したのでしょうか。
   それは、航海技術の進歩と船の大型化、そして御手洗の置かれたロケーションにあるようです。瀬戸内海航路は、中世まではほとんどが陸地に沿って航行する「地乗り」でした。現在のように出発港から目的港まで、どこにも寄港せずに一気に航海するようなことはありません。潮待ち、風待ちをしながらいくつもの港町に立ち寄りながらの航海でした。
   例えばそれまでの地乗り航路は
7 御手洗 航路ti北
①伊予津和地島から安芸の海域に入り、
②倉橋島南端の鹿老渡(かろうど)を経て
③下蒲刈島三之瀬に寄港し、
④豊田灘にはいって山陽沿岸を、竹原、三原、尾道と通って鞆へ
と進むルートが一般的でした。
 ところが、以前お話ししたように朝鮮出兵の際に軍船として用いられてた「関船」の「水押」などの造船技術が民間の廻船にも使われるようになります。今風にいうと「軍事先端技術の民間への導入」ということになるのでしょうか。また、船頭の航海技術も一気に上がります。それが北前船の登場につながるのです。腕の良い船頭の中には、それまでの潮待ち、風待ちの「ちまちま」した航海から、大崎下島の沖の斎灘を一気に走り抜けていく航路を選ぶようになったのです。これを「沖乗り」というようになります。
風待ちの港、御手洗
赤が地乗り、黄色が沖乗り航路
 沖乗りルートは
①倉橋島から斎灘を一気に渡り
②伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸をぬけ
③岩城島、弓削島を経て鞆へ
向かいます。倉橋島から大三島にかけての斎灘には、多くの島が浮かんでいます。西から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島(以上広島県)、岡村島、小大下島、大下島(愛媛県)ですが、これらの島じまの南岸をみると、直接南風をうけるため天然の良港はなく、集落もほとんどありませんでした。それまでの多くの集落は、小島にはさまれた瀬戸にのぞんで風当たりの少ないところを選んでつくられていました。しかし、小島にはさまれた瀬戸の多くは、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮のときは、繋船ができないほどの沿岸流が流れます。斎灘から豊田灘にかけては、北東方向に潮の流れがあり、ほとんどの瀬戸は、斎灘から北東方向を向いてぬけています。そのため大型船が湊に入ったり、係留するには不向きでした。

御手洗 (呉市) - Wikiwand
 ところが、大崎下島と岡村島にはさまれた御手洗水道は、斎灘から北西方向にぬけているのです。それに加えて御手洗水道の北には、現在は橋で結ばれている中島、平羅島、初島が並んで浮かび、潮流や風をふせぐ防波堤の役割を果たしてくれます。そのため、この瀬戸は潮の流れがゆるやかでした。大崎下島の東岸の岬の内側にある御手洗が船着場として注目されるようになったのは、そうした自然条件があったからのようです。
 沖乗りの大型船が、この海峡に入り込むようになったのは、江戸時代になってからです。
 大崎下島では、寛永一五年(1638)、安芸藩による「地詰」が行なわれています。地詰とは非公式な検地のことで、地詰帳によると御手洗地区には、
田が二町二反五畝一八歩
畠が六町四反二畝九歩、
あわせて八町六反七畝二七歩の耕地
が記録されています。しかし、屋敷は一軒も記録されていません。近くの大長や沖友の農民が、出作りの耕地として所有していたようです。 
 御手洗に屋敷割り記録が残るのは寛文六年(1666)からです。
 幕命をうけた河村瑞賢が西回り航路を開く少し前になります。しだいに北前舟の沖往く船の数が増え、なかには潮待ち、風待ちのために寄港する船も出てくるようになります。それを目あてに、大長や沖友など周辺の人びとが移り住み、にわかにまちが形づくられたようです。御手洗の屋敷割りは、制度的には寛文六年(1666)ということになっていますが、それよりも早く人々が集まり住むようになっていたようです。それは、港町といっても小さなものだったでしょう。
広島藩の藩の保護育成政策を受けた御手洗
当時は、農地をつぶして屋敷地にすることは禁止されていましたが、御手洗は特別に許されていたようです。また、海を埋め立てて屋敷をつくることも行なわれています。しかも、地子免除であったようです。ここからは広島藩が、新興港町・御手洗に人びとが移り住むことを奨励していたことがうかがえます。
御手洗の戸数が記録にあらわれるのは、それから80年後で
寛延元年(1748) 戸数83
明和五年(1768) 人家106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   と18世紀後半の半世紀で御手洗の戸数、人口は四倍近くに増加します。そこで藩は、文化五(1808)年に、御手洗の大長村からの分離独立を行い、新たに町庄屋が任命します。
 斎灘に浮かぶ芸予賭島でそれまで広島藩の重視してきた港は、下蒲刈島にある三之瀬でした。

三之瀬は、広島城下の南東30㎞に位置し、ここに番所を設け用船を常備し、船頭、水夫をおいて公用に備えていました。御手洗は、城下から約45キロ離れ、伊予境に近くにあるために不便と考えられたのか、最後まで番所が設けられることはありませんでした。それが御手洗に「自由」な発展をもたらしたのかも知れません。
 御手洗のまちを歩いてみましょう。
 御手洗は、斎灘につきだした小さな岬の周囲をぐるりととりまく形で町並みがひろがっています。船が桟橋に近づくと、岬の先端に、海に向かって建てられた石鳥居が目に入ってきます。
  蛭子神社の鳥居です。
港町 | ShimaPro BLOG
明治22年の再建で、沖からのランドマークの役割を果たしていました。まずは、やってきた報告と新しい出会いを祈念して蛭子神社に向かいます。境内は、樹木もなく瀬戸の潮風が吹きぬける海辺の社といった印象です。入母屋造り瓦葺きの社殿が迎えてくれます。
境内には、一対の常夜燈を除いて古い奉納物はありません。この常夜燈は、寛政元年(1789)、御手洗で遊女屋を営む若胡屋権左衛門と、商人新屋定蔵・吉左衛門が尾道の石工につくらせて寄進したことが銘文に刻まれています。
御手洗(蛭子神社)「チョロは出て行く」の案内板 | 古今東西散歩
 蛭子神社は、御手洗の商人が篤い信仰を寄せた社であったようです。この神社がいつ創建されたかは分かりませんが「九州の小倉から勧請されたもの」と伝えられるようです。創建当初は、梁行二尺五寸、桁行三尺五寸の柿葺きの小さな祠であったと云います。
 まちの発展に歩調を合わすように社殿は改修がくりかえされ、境内が整えられていきます。記録にあらわれる最初は、宝永四年(1707)で、御手洗に町年寄がおかれたのを祝うかのように姿を現します。以後、次のように定期的な改修が行われます。
元文四年(1739)本殿の前に拝殿がつくられた。
明和四年(1764)その拝殿が新たに建て替えられる。
安永八年(1779)社殿屋根が瓦葺きに葺き替えられる。
このように改修が行なわれたのは、御手洗の港が発展し、商人たちの「資本蓄積」が行われたことが背景にあるのでしょう。
 蛭子神社の西には弁天様を祀った尾根筋が海に向かってのびています。この二つの山の鼻にはさまれたところに、天満宮が鎮座しています。ここは背後の山が谷をつくるところで地下水脈に恵まれたところです。境内には、古い井戸が掘られています。瀬戸内海を行く交易船が昔から港に求めたものは、まずはきれいな水です。絶えることのない泉があることが必須条件です。ここから南にある荒神様も窪地となり、いくつかの井戸があります。このふたつのエリアが、御手洗が港として開発される際のチェックポイントだったのでしょう。
御手洗の10の町筋について  
7 御手洗地図1
御手洗には、複雑に入りくんだ細い路地がいく本もめぐらされ、まちが形づくられています。町名を挙げると大浦、弁天町、上町、天神町、常盤町、相生町、蛭子町、榎町、住吉町、富永町の10町になるようです。
 それらのまちの表情は、それぞれ少しずつ違っています。
西方の大浦から見て行きましょう
大浦は明治中期までは、町外れで人家が三軒しかないさびし所い所だったようです。後に海岸を埋め立て家々が建ち、今日では隣の弁天町と町並みつづきになっています。かつてはここには「貯木場」があったようで、造船材をたくさん浮かべてあったと云いますが、今はその面影もありません。
  大浦の隣の弁天町は、弁財天が祀られている山の鼻付近にひろがるまちです
弁天社本殿は、間口四尺、奥行三尺程のトタン屋根の小さなな祠です。境内には材木問屋大島良造奉納の鳥居が建ち、須賀造船所奉納の手水鉢がおかれています。寄進者から海にゆかりの人びとに信仰された社なんだなと勝手に想像します。この弁天社がいつ創建されたかは分かりません。しかし、現在地に移されたのは、文化年間(1804~18年の約2百年前のことで、庄屋柴屋種次が境内地と材料を寄進して建てたものと伝えられています。
漁師が住んでいた弁天町の長屋
 今の状態からは想像しにくいのですが弁天社の地先は、もともとは海に突き出した埋め立て地でした。そして海際から奥に続く道幅二間程の細い街路には、軒が低くたれこめた長屋が並んでいたようです。長屋一戸分の間口は三間半で、なかにはそれをさらに半分に仕切った家もありました。屋敷の奥行は、六間半余りです。長屋の建物は、四間半の奥行で、いずれも裏に一間ほどの庭があり、さらにその後に奥行一間余りの納屋があります。ここには、どんな人が住んでいたのでしょうか?
 この弁天様の先の突き出した埋立地には、漁民が住んでいたと云います。御手洗は、港でありながら漁民の数は少なかったようです。それは、この港の成立背景を思い出せば分かります。何もないところに、入港する大型船へのサービス提供のために開かれた港です。漁師はもともとはいないのです。港の人口が増えるにつれて、魚を供給するために漁民が後からやって来たのです。まちのはずれの土地を埋め立て、そこに漁民が住みついたのです。漁師が活動していた港が発展した町ではないのです。ここでは後からやって来た漁師は長屋暮らしです。
7 御手洗 北川家2
   弁天様から天満宮へつながる道筋沿いの町が上町です。
 ここには、平入り本瓦葺き塗寵造りの昔ながらの町家が何軒か残っています。しかし、壁はくずれおちています。大半は「仕舞屋(しもたや)」です。辞書で引くと「1 商店でない、普通の家。2 もと商店をしていたが、今はやめた裕福な家」と出てきます。この町筋に商家はありませんが町並みや街路の様子から早い時期につくられたまちだと研究者は考えているようです。御手洗はこのあたりから次第に開けていったようです。いわば御手洗の「元町」でしょうか。

 天満宮がこの地に移されたのは、神仏分離後の明治四年のことのようです。

それまでは、満舟寺境内に三社堂があり、そこに菅原道真像が祀られていたようです。神仏分離で
明治初年に、この地に天満宮の小祠が建てられ菅原道真像が移され
大正六年に、今の社殿が建てられたようです。

 先述したようにここが「御手洗(みたらい)の地名発祥の地といわれるのは、きれいな湧き水があったからでしょう。そのため、ここに港町がつくられる際に、まず人家が建てられたのもこの周辺だったと研究者は考えているようです。
天神町には、瓦葺きの白壁のあざやかな御手洗会館が建っています。
日本の町並み遺産

今は公民館としてつかわれているようですが、この建物は「若胡屋」という御手洗で最も大きな遊女屋の建物を改造したものです。御手洗会館の前には、やはり白壁造りの長屋門を構えた邸宅があります。
豊町御手洗の旧金子家住宅の公開 - 呉市ホームページ
これが、御手洗の庄屋を勤めた金子家の屋敷です。このようなモニュメント的な建物が並んでいることからも、天神町が、かつての御手洗の中心であったと研究者は考えているようです。
 天神町から御手洗郵便局の角を左に折れると常盤町です。
ここは、古い町並みが一番残っている町です。妻入り本瓦葺き塗寵造りの家が軒を連ねています
①もと酒・米穀問屋を営んだ北川哲夫家
②金物屋の菊本クマヨ家
③醤油醸造を行なう北川馨家
などは御手洗商人の家構えをよく残しています。
御手洗街並みレポート

 上町と天神町が、自然の地形を利用して山麓に街並みが作られているのに対して、常盤町はどちらかというと人工的なまち並みのイメージがします。ある時代、海を埋め立てて作られた街並みではないかと研究者は考えているようです。そのため、屋敷は街路に沿って整然と区画されています。町家も、同じ時期に一斉につくられたようで、よく似た規模とデザインです。御手洗が港町として繁栄の頂点にあった時に、今までの街並みでは手狭になって埋め立てが行われ、そこに競い合うように大きな屋敷が建てられたというストーリーが描けます。そして、それまでの古い町筋の上町や、天神町に代わって、常盤町が御手洗のセンターストリートになっていったようです。
   常盤町から海に向かって三本の小路がのびています。
①旧大島薬局横の小路はやや道幅が広く、小路に沿って人家が並んでいます。ここには古い木造洋館を利用した旅館などもあり、昭和初期の港町の雰囲気が残ります。
②北川哲夫家の左右にある小路は、杉の焼板を腰壁とした土壁の建物がつづいています。港とともに繁栄をきわめた商家の屋敷構えが、小路の景観にあらわれています。
 御手洗郵便局から蛭子神社に向かう道筋が相生町です。
ここは本通りと呼ばれ、明治、大正、昭和初期にかけて、御手洗の商業の中心として賑わいをみせた通りです。この町の町家の多くは、繁盛した大正から昭和初期にかけて建て替えられたようで、、総二階建て、棟の高い家屋が多いようです。
 目印になる昌文堂は、もとは、酒・醤油の小売りをしていた家でした。それが明治42年に、本屋と新聞店として開業し、この港町に新しい時代の息吹きを伝えました。この店は、大崎下島唯一の書店で、戦前までは下島から大崎上島まで、教科書の販売独占権を持っていました。そのため店先には「国定教科書取次販売所」とケヤキ板に墨書きした古めかしい看板が、掲げられていました。
 昌文堂の三軒隣の新光堂は、時計を形どった看版が目印です。

明治
17年に神戸で時計修理の技術を修得した松浦氏が、船員が数多く立ち寄るこのまちで店をひらき、珍しかった時計を売りはじめます。時代の最先端の時計を売ることが出来る豊かさがこの港はあったのです。このように相生町は、常盤町と同時代に新しく御手洗の商業の中心地となった街並みのようです。
 ところで相生町には、伝統的な町家は二軒しか残っていません。どうしてでしょうか? 
それは、このまちが御手洗の商業地として賑わい、資本蓄積が行われ、それにともない建替えがくりかえされてきたためだと研究者は考えているようです。都会でも資本力のある店は、早め早めに店を建て替えて、お客を引きつけようとします。そのため有力な商店街に、古い建物は残りません。逆説的に云うと
「建て替えるお金がないところに古い建物が残る」
といいうことになるのかもしれません。神様はこういうプレゼントの仕方をするのかもしれません。
 蛭子神社付近が、蛭子町です。
岬を中心にコ字型の町並みがあります。御手洗商人の篤い信仰を得た蛭子神社のおひざもとのまちです。ここは相生町の町並みとつづきとなっていて、明治から昭和初期まで賑わいが残りました。
 蛭子町には、江戸時代からつづく旧家が何軒か残っています。神社裏側の七卿館は、幕末に三条実美をはじめとする七卿が宿とした家で、江戸時代に庄屋を勤めた竹原屋多田氏の屋敷跡です。
ひろしま文化大百科 - 御手洗七卿落遺跡
竹原屋多田氏の屋敷跡
 竹原屋が御手洗に移住したのは、貞享二年(1685)ですので、御手洗のパイオニア的な存在になります。また、脇屋友三家は、九州薩摩藩の船宿を勤めた家です。さらに蛭子町の町はずれにある鞆田稔家は、海鼠壁の意匠が目を引く構えで、明治期に力を蓄えた商家です。この家については前回に紹介しました。
瀬戸内海の道・大崎下島|街道歩きの旅
鞆田家
蛭子町には、昭和初期に建てられた洋館が多く残っています。鞆田家の前には、別荘として建てた洋館が海に向かって今も建っています。この洋館は、もともとは芸妓の検番としてつくられたもののようです。芸子たちがお呼びがかかるまでここで、海を見ながら過ごしていたのかもしれません。
 蛭子神社の近くで医院を開業する越智家も昭和初期の洋風建築です。
とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地:5日目(5)』大崎下島・豊島 ...
昭和になるとハイカラな建物が好まれ、競い合うように洋風建築物が現れたことが分かります。蛭子町は昭和初期には御手洗で一番モダンな雰囲気の町だったようです。
 蛭子町の南が榎町です。
Solitary Journey [1792] 江戸時代から昭和の初期までに建てられた ...

大東寺の大楠が高くそびえ、ここには仕舞屋が並んでいます。満舟寺の石垣もみごとで、苔むした石が、野面積みで高く積みあげられています。
満舟寺石垣/豊地区 - 呉市ホームページ
 大東寺から海岸に沿って南にのびる町並みが住吉町です
まちの南端には住吉神社が祀られています。ここは斎灘に面したところて南風をまともにうける所で、台風などの時には被害が出ました。そのため御手洗がひらかれた時には、人家もないところでした。
 ところが文政11年(1828)に、ここに波止が築造されると、ここは御手洗の新しい玄関口なり人家が建ちこむようになります。船もこの波止場に着いたり、沖に停泊してここから渡船で行き来するようになります。波止のたもとに大坂から勧進された住吉神社が祀られたのは、その時期のことのようです。
 住吉町の山側が、富永町です。
このまちの裏手は小さな谷となっていて地下水脈に恵まれた土地のようです。この町の由来は、よく分からないようです。あまり商業が盛んでもなく、仕舞屋が並んでいます。
    隣の住吉町は船宿や置屋が建ち並びぶようになり、歓楽街として発展するようになります。この港には、オチョロ船という小舟が夜になると現れました。
おちょろ船 御手洗 大崎上島
船に遊女を乗せて沖に碇泊する船に漕ぎ寄せるのです。遊女は、船乗りの一夜妻をつとめました。彼女たちを船乗りは「オチョロ」と呼んだようです。この富永町は、このオチョロを乗せた伝馬船を漕ぐことを生業とした「チョロ押し」が多く住むまちだったと云われます。

         
大崎下島は、 大長みかんの島として知られています
今はとびしま街道のいくつかの橋で結ばれ呉市の一部となっています。芸予諸島のこの島も半農半漁の村で、明治の初め頃までは桃の木が山に多かったそうです。明治の終り頃に、温州ミカンの栽培が始まってから大きく変貌していきます。
大崎下島 - Wikipedia

 みかんのブランド化に成功するきっかけが選果機の導入だったといいます。
みかんは箱につめて出荷しますが、昭和の初め頃は、下の方には小さいのをつめ、上の方に大きなのを並べるのがあたりまえで、これをアンコとよんでいたそうです。買う方も不平を言いながらも、それを商習慣の一つとして受け取っていた時代です。このような「小さな不正」は、みな当前えに思っていたのです。
 そんな中で大正の終り頃、アメリカ農務省の嘱託として渡米した田中長三郎博士は、アメリカで機械選果機を見て感心します。これを輸人して選果して品質をそろえたら、きっと市場の信用を得て商品の価値を高めるだろうと考えました。そこで、3台の選果機を買って日本に送ります。その機械を導入して機械選果をはじめたのが、静岡・和歌山と大長だったようです。中には
「高い機械を買って選果して粒をそろえて売るのは、粒の小さいものが売れなくなり割に合わないし、もうからない」
という声も強かったようです。しかし、実際に選果機でより分けて大きさをきめ、それにあわせた定価をつけてみると、買う方は安心して買えるのでかえって信用が高まり「大長ミカン」のブランド力がいちじるしく上がったのです。
大長みかん Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
 プライドを持った農民たちは美味しいミカン作りに熱中するようになります。
売り上げも上がるので生産意欲もあがり、それまでサツマイモが植えられていた畑に次々とみかんの苗木を植えられるようになります。畑が足らなくなると、今度は誰も住まない沖の島々も買いとって、そこをミカン畑にしていったのです。そして
「大長のミカン畠は三〇〇ヘクタールであるが、島外にはそれ以上のミカン畑がある」
とまで言われるようになります。
島の末子相続がもたらしたものは?
 この島の人たちが、島外にミカン園をひろげるようになったのは、もう一つ原因があるといわれます。それはこの島の末子相続の風習です。長男が嫁をもらうと、少々の土地をもらって分家します。長男たちは、みかんを植えれば収益はあがるので、無人島に土地を買い足たし開墾して、みかん畑にしていきました。
 末子相続の風習は、芸予の漁民の間に昔からあったようで、そうした漁民たちが陸上りすると、その風習が農村社会にも引き継がれたようです。そのため、島では兄弟の関係がフラットで家長制度が緩かったと民俗学者は云います。
 大長のみかん農家は船を利用して、他の島々へ耕作に出かけていきました。
大崎下島・大長』を写真と紀行文で紹介 | 島プロジェクト

そのため大長の港は、かつては農耕船がいっぱい舫われていました。


寅さんも「難波の恋の物語」のロケシーンでムームーを行商したことがあります。この時はバックに多くの農耕船が映り込んでいました。しかし、今はその港に耕作船の姿はほとんど見られなくなりました。港の近くの公園に、一艘の耕作船が引き上げて展示されていました。
 ちなみに分家したみかん農家の長男たちが屋敷を求めたのが御手洗です。
ここにはかつての港町として栄え、大旦那の屋敷や店が軒を並べていました。しかし、昭和になるとその繁栄にも陰りが見え始め、歯が抜けるように商人たちは屋敷を残し御手洗から出て行きました。その後に移り住んだのが大長のみかん農家の長男たちだったようです。御手洗の街歩きをしていると、大きな商家風の建物に出会います。しかし、今そこに住んでいるのは商家の子孫たちばかりではないようです。

7 御手洗 北川家2
その中の一軒「北川家」をのぞいてみましょう。
瀬戸内海航路で「沖乗り」が行われるようになり、御手洗が潮待ち港として発展し始めるのは、江戸時代の後半になってからです。それまでここは、何もない海岸だったようです。港町の繁栄に引かれて周辺の大長から移り住む有力者が出てきます。北川家もそんな一軒だったようです。

 北川家の祖は吉郎右衛門で、もともとは大長の農家です。
末子相続によって、大長の家をついだのは次男兵次で、長男恵三郎が御手洗に出て商いを営むようになります。その後を継いだ喜兵衛は問屋商人として財をなし屋号を「北喜」とします。過去帳から喜兵衛は文化期に生またことが分かりますから、その活躍は天保期からあとの19世紀前半から半ばになるようです。喜兵衛の
①三男 定助が「北喜」をつぎ、
②五男 豊助が分家して「北豊」を興します。
「北豊」は廻漕店を営み、豊助の子利吉の代には、大正丸、北川丸をもち、御手洗と尾道のあいだを往き来して、廻船問屋として活躍します。
 その後、分家の成功を見て大長の本家をつぎ農業にいそしんだ兵次の孫仁太郎も御手洗に出て商いを営みだします。その家が「北仁」です。仁太郎は弘化期の生まれですから、その活躍は幕末の慶応から明治にかけてのことと考えられます。「北仁」は、蓄えた財力をもとでに金融業も営み、次第に大崎下島の土地を買い集めます。
 昭和になって廻船業が衰退すると「北仁」の当主は、商売をやめますが島は出て行きませんでした。先祖が手に入れた土地でみかん作りに乗り出すのです。みかん農家として島に生きる道を選んだ「北仁」の屋敷が残っています。この家は、常磐町の中ほどの海側に奥深くのびた作りになっています。
7 御手洗 北川家
②間口は約四間余りで、主屋の北に庭園があり、土蔵・離れ座敷が奥に建つ。別棟は渡り廊下で結ばれている。
③離れ座敷は、大正時代の建築で、入畳二室と茶室から成る数寄屋普請で、北川家が商家として全盛を誇った時代の建物。
④主尾は、妻入り塗籠造り本瓦葦きの伝統的な様式

この主屋は、北川家が御手洗進出以前に建てられていたものと研究者は考えているようです。つまり、以前に住んでいた人から買ったということでしょう。台所はのちに増築したもので、店の横の板敷きも改造した部分であるので、この増築部分を除くと、庭に沿って建屋が一列に並ぶという町家の間取りになります。
 廻船業から金融業、そしてみかん農家へと明治以後の北川家の活動の舞台となった家屋がここには、そのまま残っています。
  親子2代で御手洗の町長を務めた鞆田家を見てみましょう
7 御手洗 鞆田家
この家も幕末頃に佐藤家が立てたものを、後に鞆田家が購入したようです。佐藤家は屋号「里惣」で、幕末に船持ちとして活躍し、一代で財を築き、急成長をとげた家といわれます。その後、日清戦争を前にして軍港呉防備のために能美島に砲台が建設されることになり、「里惣」はこの仕事を請負います。ところが、工事に失敗し家運を傾けます。その際にこの「里惣」の屋敷は、そのころ金融業で羽振りの良かった鞆田家の手にわたったようです。
御手洗のクチコミ -重厚ななまこ壁の家 | 地球の歩き方[旅スケ]
 鞆田家は、それまでは住吉町に住んでいたようで屋号は「鞆幸」でした。
幕末から明治20年にかけて海産物・穀物問屋を営み、あわせて金融業にも手をひろげていた資産家です。「鞆幸」(ともこう)を名のったのは、幕末に活躍した祖父幸七に由来しているといいます。この辛七の子が市太郎で商売は行わず、医者として開業します。頼りになる
人物だったようで、明治後半には御手洗町長を勤めています。その間も、大崎上島や愛媛県岡村島、中島方面の土地を集積しています。
 市太郎の跡をついだ子は、教員となり、戦前は父と同じく町長を勤めています。先ほども云いましたが鞆田家が「里惣」(さとそう)と呼ばれる佐藤家の屋敷を買い取って、住吉町に移ったきたのは、明治三〇年ころです。
  この鞆田家の家屋を、研究者は次のように紹介しています

7 御手洗 鞆田家2
①主屋は「里惣」が全盛を誇った幕末のころのもの
②主屋は、間口四間半の妻入り塗籠造りで、脇に間口二間の平入り家屋を別棟でとりつけた造り。
③一階の開口部には当時の蔀が残されている。二階外壁の一部は、海鼠壁の凝った意匠がある。
④主屋の屋根は、寄棟桟桟瓦葺きで、御手洗の伝統的な町家の形式とは異なる。
⑤屋敷取りは、主尾の真に広い庭園を配し、土蔵、湯殿、二棟の離れ座敷を構え、それぞれが渡り廊下で結ばれている。
⑥道路をへだてた海辺には昭和10年ころに建てられた木造洋館があり、別宅としてつかわれている。
⑦主屋の間取りは通庭に沿って店、中の間、座敷の三重が一列に並ぶ
⑧台所は以前は土間につきでた板敷き、後に改造を加えて部屋とした
⑨土間の入口右手にある部屋は、市太郎が医業を営む際に用いた
御手洗の町家は、有力者の家でも通り庭に沿って部屋が二列に並ぶ造りは、ほとんどないようです。そこに中継的商業をなりわいとした問屋商人の住まいの特色があると研究者は考えているようです。

御手洗に残された有力者の家屋の遍歴を見ていると、その家を舞台に活躍した「栄枯盛衰」が見えてくるような気がします。都会では残されることのない幕末や明治の木造建築物が何軒も残っていることに驚かされると共に、そこには一軒一軒の歴史があることを改めて気づかせてくれます。
御手洗地区ガイドマップ | 田中佐知男のスケッチによる御手洗案内地図
参考文献 谷沢明 瀬戸の街並み 港町形成の研究

  

    海賊禁止令以後に行き場をなくした海賊たちが、家船(えふね)漁民の祖先ではないかというストーリーを以前にお話ししました。それに対して、小早川氏の中世以来の海賊対策に、家船漁民たちの問題はあると考える研究者もいます。この家が12世紀の終り以来、芸予地方にいたことが、大きな爪跡を残しているというのです。今回は「家船漁民=小早川氏原因説」を追いかけて見ようと思います。

まず、小早川氏について押さえておきます。
 小早川氏は毛利元親の息子隆景が養子に入って、大きな活躍をするようになりますが、元々は関東からやって来た「東遷御家人」です。その先祖を土肥実平と云い伊豆の土肥を出身地とした武士です。そのまえは平良文から出ているようです。その子孫の実平は、はじめ土肥郷にいましたが、源平戦の功によって、その北の相模の早川荘を与えられます。そして、その子の遠平(とおひら)の時に、安芸国沼田荘の地頭となって関東から下って来たようです。安芸では小早川を名乗るようになります。ここまでの「経歴」を見ても分かるように、もともとは海に縁のない家です。
 この家が芸予諸島の島々に進出するようになったのは、
沼田新荘の住人が海賊をはたらいたのを討伐したのがきっかけのようです。建保年間(1221年)の頃のことなので、安芸にやってきて土地勘や武士相互の人間関係にも不慣れな時に、海に出て行き「海賊討伐」を行うのは大変です。まず、一族には船を操船する者がいなかったでしょう。漁民か商船の船人をやとわなければなりません。そこから小早川氏のとった対応は、船を提供する漁民や商人には特権を与えて保護するけれども、海賊系の漁民に対しては冷くあたったと研究者は考えているようです。さらに、広島県下の漁民で周囲からいちだん低く見られたものの多くは、小早川氏に抵抗した系統の家ではないかとも云います。このような「差別」は、伊予側の漁村には見られないようです。
 なぜそのようになったのかを史料的に「証明」することはできないようですが、状況証拠として小早川氏の漁民分断政策が大きく影響しているのではないかという「仮説」を出します。

 小早川氏は、五代目の朝平も14世紀前半に海賊討伐で幕府から報償されています。芸予の「海賊」たちにとっては「嫌な家」という感じだったようです。といっても、中世の海賊と武士とは表裏一体です。小早川氏の領内にも、海賊は多かったようです。
 何度も取り上げますが応永二七(1420)年に、室町幕府の将軍に会うためにやってきた李朝儒家・老松堂の『日本行録』にも、渡子島・蒲刈・高崎など、小早川の領内で海賊に逢っています。どうも鎮圧しきれい状況だったようです。しかし、権威に従わない漁村に対しては、たえず圧迫は加えていたようで、他の浦に与えたような特権は与えずに冷遇していたようです。
   のちの広島藩には、玖波・江波・仁保島、向洋・長浜などに、特権を持った漁民がでてきます。特権を持ち保護された漁村は本浦として水夫浦として藩の勤めを果たし、それ以外の浦は藩との結びつきが弱かったようです。後者には、二つのグループがあって、
一つは近世に入ってから漁業をはじめたもので釣浦に多い。
一つは近世以前からの家船漁民で「海上漂泊」者です
このような状況証拠から、海賊鎮圧の役をおびた小早川氏からにらまれているような浦が差別視されたのではないかという「仮説」が出てくるようです。
もう一度整理して、さらに時間を進めます
①小早川氏は武力をもっているけれども船の操作には弱い。
②そこで漁民を軍船の水夫として使用し、協力的な浦には特権を与え水夫浦とする。
③小早川氏の正和三(1224)年と元応元(1319)年の海賊討伐は伊予の海賊であった
④この頃から伊予の海賊との間に敵対関係を生じた
⑤承久の変の功績で、竹原荘の地頭として海岸に進出する
⑥その結果、康永元(1342)年頃から「海への進出」が始まる
 「小早川家文書」からその進出過程を見てみましょう。
①生口島への進出、おなじ年にさらに因島へ
②翌年には伊予・弓削島を押領。
③さらに越智大島から大崎上島・佐木島・高根島・大崎下島にまで勢力をのばす
瀬戸内しまなみ海道|瀬戸内の島々|特集|広島県公式観光サイト ...

こうして芸予諸島を支配下に置くようになると、小早川氏自体が水軍的性格(海賊的?)を持つようになってきます。そして生口島を領有した小早川惟平は朝鮮貿易に参入し、その名は高麗にまで知られるようになります。
小早川氏と漂泊漁民について 
小早川氏から圧迫を受ける立場になった漁民は、はじめは芸予諸島の島々にいたようです。水軍力がなかった頃の小早川氏にとっては、攻めて行くにもいけなかったでしょう。海賊行為を働いた村上・多賀谷・桑原氏などの拠点は、どの勢力も島にありました。
村上水軍と海賊停止令 | けいきちゃんのブログ
 ところが豊臣秀吉の海賊鎮圧政策によって、これらの海賊は芸予諸島の島々から姿を消してしまいます。
それは討伐によって、全滅したためではないようです。そこで行われたのは、島にいた漁民たちの本土への強制移住だったと研究者は考えているようです。以前紹介した家船漁民の拠点である三原市能地なども、その「強制移住先」だというのです。能地だけでなく竹原市二窓・豊田郡吉名村・同郡川尻町・呉市長浜などは、近世以前は小さな漁村でしたが、近世に入って急に大きくなったようです。それは島の「海賊」たちの「指定移住先」であったという仮説です
 そうしたなかでも、三原市能地はテグリ網漁を主とした浦です。船を家にして瀬戸内海の各地を回る者が多く、よい漁場を見つけるとその付近に仮小屋をして、そこへ住み着いてしまうこともあったことは以前お話ししました。
 テグリ網で操業する家船漁民の生活は?
手繰網使用図 | 漁具画像
小さな網で、二人乗りか三人乗りの小さな船に網を積み、魚のいそうな網代へゆくと、浮樽に錨をつけて海に入れ、樽に綱の一端をつけておいて、一定の長さの綱を海中にはえ、そのさきに網をつけてあって、その網を半円形に海へ入れる。その先はまた綱をはって樽のあるところまで戻り、船を横にしてオモテとトモにいて二人で網をひきあげるのである。
 後には船を横にして帆を張り、網を海中に入れたものをそのままひいてゆき、適当なところまでゆくとひきあげる方法もとった。網にのるものは雑魚が多く、雑魚は主として釣漁の餌として売り、のこりは村々を女が売ってまわったものである。
 ハンボウという浅いたらいを頭にのせて売り歩くのが能地の女たちの一つの姿であった。売るといっても金をもらうことは少なく、たいていはイモ・ムギなどのような食物と交換した。
 この漁は夜おこなうことが多かったので、夜も沖にいることが多く、しぜん、女も船に乗り、子供ができれば子供も船の中で暮して大きくなっていった。
人口圧の高まりと、その打開策は? 
   時が経つにつれて人口増の圧力や「強制移住」策の緩和が行われ、「指定移住先」からの「脱出」が可能になったのではないでしょうか。そして、2つの道が開けてくるようになります。
 ①新天地の浦への移住
 ②強制移住以前の祖先のいた漁村への回帰
下蒲刈島の人々の選択は?
安芸灘とびしま海道|瀬戸内の島々|しまなみ|広島県公式観光サイト ...
今は呉市となってとびしま街道で本土とつながるようになった下蒲刈島の宝永二(1705)の村明細帳には、船が18艘しかなかったことになっています。家も34戸です。かつて、この島に三之瀬と呼ばれ朝鮮からの使節団が寄港するような港がありました。それが戸数34戸まで激減していたことが分かります。
 それが、宝永から100年ほどたった1805年ごろには310艘に増えています。かつての賑わいを取り戻しているのです。ここからも、島々にいた海賊は禁圧令によって島を追いはらわれ、一時、本土の指定された浦に強制移住された。それが18世紀になって追々と島へ帰ってくる者もいたかえっていったというストーリーが描けるのではないかと研究者は考えているようです。
18世紀の瀬戸内海をかえたのはサツマイモです。
甘藷 – 有限会社 新居バイオ花き研究所
このイモが栽培されるようになって、急速に人口が増えます。増える人口を養うために山がひらかれてイモ畑になります。増える人口に対応するために、天に向かって島の狭い土地が耕されます。そして「耕して天に至る」という光景が見られるようになります。幕末に瀬戸内海を黒船でクルージングした外国人が、瀬戸内海の美しさを賞賛しますが、そのビューポイントが山の上まで耕された段々畑でした。
耕して天に至る棚田・段畑 ―大地への刻印
 水平方向にも耕地開発の手は進められます
蒲刈島の周辺の島々では、山船(耕作船)が姿を現します。ずんぐりとして幅の広い船で、人々はこれに乗って小さな島の畑へ耕作にいくようになります。何よりもまず食料を確保することが島民にとっては大切でした。海賊行為は、島の食料不足が原因でもあったのです。
こうして強制移住地に閉じ込められていた家船漁民は、新天地を目指すか、故郷に帰って農民となるかの道を選ぶようになったのではないのでしょうか。
農船|岩城島
山船(耕作船)

 最後に、家船漁民を先祖とする豊島の漁民を見ておきましょう。
豊島 (広島県) - Wikipedia
この島も今はとびしま街道で陸と結ばれ、呉市に編入されています。この島をグーグルで見ると分かりますが、ゆるやかな傾斜面に家がびっしりと立て込んでいます。明治から現在までに、最も人口が増え発展した漁村ではないかとある研究者は云います。明治初年の記録には、漁家の数は14戸とあります。それが多いときには700戸を越えていました。
 漁船にはどの船の側面にも漁船番号が記されています。その頭に府県の記号が書かれます。広島県は「H」です。このHの頭文字が書かれた漁船が、長崎や対馬・平戸まで行って操業していました。そのほとんどがこの島からの「出稼船」(かつての家船漁民)です。そして、平戸や天草などに枝村を作ってきました。
 その操業スタイルは次のようなものだったといいます
目的の漁場へ着くと近くの漁港へ行っていって、漁業組合に挨拶し、民家に宿を借りる。民家の一間を借りて持ってきた行李をあずけておき、漁からかえってきたときや雨の日はそこで休み、風呂や食事の世話も依頼する。いわゆるる船宿である。行李の中には晴着も入れてあって、その地の祭などのときには村人同様に盛装してお宮へもまいる。その村の人たちからお宮や寺への寄付をたのまれれば義理を欠かすようなことはない。山口県平郡島の寺で寄付者の名をかいたものを見ていると、豊島のものが多いのでおどろいてきいてみると、漁にきた人たちの寄付であった。
 また村の寺に報恩講などがあれば、漁を休んでまいる。広島に近い海田市の寺の報恩講に見知らぬ参拝者がたくさんあるので、土地の人がきいてみると豊島の者が漁に来ていてまいったのだと言った。
 けんか早いのも豊島の特色だ。血の気が多いのであろう。が、とにかく世間のつきあいをよく心得た人たちであり、そのことによって、広い海を自由自在に活動しているのである。

 ひとつの漁村が活気を持って活動していくためには好漁場をいくつももっていることがひとつの条件のようです。
しかし、漁場を持たなかった家船漁民の子孫たちは、瀬戸内海を越えて東シナ海を舞台に活動していたようです。それれは先祖が倭寇と呼ばれた活動した舞台でもあったようです。
以上をまとめておくと
①東遷御家人として安芸にやってきた小早川氏は、当初は海は苦手であった。
②そのために地元の「海民」の協力を得て、水軍を編成し「海賊退治」を行った。
③小早川氏に協力するのが「水軍」で、敵対するのが「海賊」と識別(差別)された。
④芸予諸島に進出するようになり因島・能島の「村上水軍」を従えるようになる。
⑤海賊禁止令後に、海賊たちは強制移住され指定移住地での居住を強制されるようになる
⑥18世紀にサツマイモが人口増大をもたらし「人口圧」が急激に膨らむ。
⑦あるものは、家船漁船で新天地を求めて「開拓民」となった
⑧あるものは、故郷に帰り帰農し「耕して天に至る」道を選んだ。
⑨家船漁民の伝統を持つ浦では、豊島漁民のように東シナ海で操業するものもいた
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 宮本常一 「瀬戸内海 芸予の海」 

  

3 家船3

村上海賊衆の水夫達の行方については、史料がないのではっきりしたことは研究者にも分からないようです。しかし、想像を巡らせるなら「海賊の末裔」「水軍の敗残兵」としてひどい目にあわされたのではないかと思います。周辺の島々で住み着いて暮らしていくとしても、農耕する土地もなければ、船に乗る以外にこれといった技術もありません。そこで、小さな舟に乗り漁民として生計を立てる者が多かったようです。しかし、好漁場には古くから漁場権があります。新たに漁を始めた新参者が入って行くことはできません。そこで船に寝泊まりしながら漁場を求めて遠くの海まででかけます。船に乗って生活しているので、家船(えぶね)漁民とよばれるようになります。

3 家船6
 広島県因島の家船(昭和25年頃)
村上水軍の水夫達の末裔とも云われる家船の漁師動きを 物語風に再現してみましょう。
 漁業権がないため目の前の海で操業できない新参漁師達は、新たな漁場を探して、一家で船に乗って出かけて行きます。漁場に出会うと水や薪を補給し、網を干したりするキャンプ地を開きます。それは、先住者との対立を招かないために、目の届きにくい岬の磯などに小屋掛けされました。時と共にそのキャンプ地を拠点に陸上がりして、仲間達を呼び寄せ、次第に小さな集落をあちこちの浦浜に作るようになります。新参者の零細漁民としてさげすみの目で見られることが多かったので、陸上がりしてもあまり「本村」の村人とは交わらずにひっそりと住んでいました。また農民は、漁民と混在することを嫌がって土地を提供しません。そのために。海沿いの条件の悪い狭い所に密集して住むことになります。当初は、このように本浦と「棲み分け」て、関係もほとんど持たなかったようです。
  浦にも幕藩体制が力が及ぶようになると・・・
鎖国体制が進むと幕府は造船・海上運送・廻船難破などについて統制を強化します。各地の浦浜には、浦方取締りを箇条書きにした「浦高札」が立てられるようになります。そして、毎年のように「船改め」を行い、漁業権についても法的規制を強めていきます。農村支配だけでなく「浦方」と呼ばれた海村にも浦庄屋が置かれるようになり、加子(水夫)役や、海高と呼ばれる漁業租税が漁民に担わせるようになります。
 課税できるのは定住し、戸籍が作られてからです。しかし、家船漁民は定住しないので、どこの海にいるか分かりません。そのため水夫役米は納めていませんでした。藩としては、いつも海上にいる彼らの所在を掴むことが出来ないし、全体から見ると少数・少額なので放置していたというのが実情かも知れません。家船漁民の姿が讃岐の史料にも出てくるようになります。
200年ほど前の『金毘羅山名所図絵』には、次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる。
意訳すると
①塩飽の漁師は、丸亀沖の船を住み家としていること
②夫は漁師、妻は夫の獲った魚を頭上の籠に載せて丸亀城下を行商して売り歩くこと
③その代金で、米酒や薪などから絹まで買って船に帰る
とあります。
 補足すると、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民はいませんでした。人名達は漁民を格下として見下していたようです。この文章の中で「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船漁民のことをさしています。

3 家船4
 「船をすみかとし」て漁を行い、妻は丸亀城下で頭上の籠に魚を入れて行商を行っていたようです。最大の現金収入は、一本釣りのタイ漁で、釣った鯛は海上で仲買船に売って大坂に運ばれました。彼らの中には塩飽周辺で操業し、次第に近くの港の民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。更に進んで、讃岐の港町に密かに家を持つ者も出てきます。丸亀駅の北側の福島町には、家船漁民の家がたくさんあったと云われています。
3 家船5

家船漁民の讃岐への定住 
家船漁民の中には、讃岐への移住を正式に願い出る者も出てきます。
宝暦九年(1759)に、宇多津村庄屋豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎あてに出された「願い上げ奉る口上書」の内容は、次のような「移住申請」です
 宇多津ニて住宅仕り猟業仕り良く願い上げ奉り候、猟場の儀は右塩飽四ヵ所、島は申すに及ばず、御領分ノウ崎俵石より大槌鳥を見通し、西は丸亀詫間村馬の足目まで猟業仕り来たり候二付き、外漁師衆の障りは相成し申さざる様仕り来たり申し候、尤も生国へも一ヵ年の内一度づつは託り戻り申し候得共、大方年中船住居ニて暮し居り申し候ゆえ、寺用の事典御座候原は御当地南隆寺様へ御願い申し上げ来たり候、右住宅の義は御影ニて租叶ひ下され候はば、御当浦の御作法仰せ付けられ候通り少しも違背仕る間敷候、並びに御用等御座奴原は、何ニても相勤め申し度く存じ奉り候、生国の義胡乱が間敷思召し候弓ば、目.部厚―びニ付
 守旧九年卯二月計四日 芸州広島手繰り九右衛門
                    長作
                     徳兵衛
   意訳すると
①私は宇多津に住宅を持ち、漁業を行うことを許可していただけるよう願い出ました。
②猟場は塩飽諸島をはじめ、東は大槌島から西は庄内半島で、讃岐の漁師の邪魔にならないように行っています。
生国に1年に一度は戻りますが、ほとんどは船の中を住居にして暮らしていますので、葬儀などで寺に用事が出来たときには、南隆寺様でお世話になっています。
④宇多津に住宅を持つことがかないましたら、ご当地の作法を守り、破ることはしませんし、御用はきちんと勤めさせていただきます。なにゆえ許可願えますようお願い申し上げます。
    以上のように広島領の手繰り漁師九右衛門ら三名が宇多津浦への定住を願ったものです。
    この願いに対して、次のような許可認定が行われています。
   一筆申し達し御座候、其の浦辺ニて船住居致し罷り在り候芸州二窓浦の漁父九右衛門・長作・侭兵衛、右三人の者其の浦へ住居致し良く侯二付き、先達てより度々願い出候処、此の度国元の送り状持参致し、願い出侯趣余義無く相聞き申し候、願書の通り承り届け申し候二付き、其の浦蛸崎へ住宅指し免し申し候、其の段右漁夫共へ申し渡さるべく候、尚又、御帰城御参勤の御用は申すに及ばず、小間立て水夫御用等の節は差し支え無く罷り出、相勤め申すべく候、尚又、其の浦方作法の義違背無く相守らせ申すべく、此の段申し達し候、以上
日付けは  宝暦九年三月十五日、
差出し人は 御船蔵会所
宛先は   宇多津浦豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎です。
 この文書のやりとりからは次のような事が分かります。
①家船漁民が宇多津を拠点に「手繰り」漁を行なっていた
②彼らは一年に一度は生国に帰るが、ほとんどを船で生活していた
③生国は広島領の二窓浦であること
④定住願いは前々から度々出されていてやっと認められたこと
⑤宇多津の漁民が参勤交替の御用船の水夫として、使われていたこと
こうして、正式の手続きを経て市民権を得て、殿様の参勤交替の水夫の役目も担うようになったようです。海賊禁止令で村上衆が離散してから約200年の歳月を経て、新たな新天地の正式のメンバーになる者もでてきたようです。
 しかし、このような例は少なかったようです。『検地帳』や『差出帳』には、家船漁師が定住した後でも一般漁民より格下に位置づけられいます。百姓株を持った村仲間としては扱われることはなく、村の氏神の祭礼にも参加できませんでした。
 結婚相手も家船漁民同士に限られました。
本浦の娘と家船漁民の若者のロマンスが生まれることはなかったようです。そのために金毘羅大権現の大祭の夜が、家船漁民の大婚活行事になっていました。こんぴらさんで出会った男女が、契りを交わし夫婦になるのです。これは面白い話ですが、以前にお話ししましたのでここでは省略します。
  家船漁民の浦は、「かわた」として特定の地域に囲い込まれ、それがあちこちの島々に点在している被差別部落の起源となったと考える研究者もいます。
   以上をまとめてみると、次のようになります
①村上海賊衆の水夫達は、家船漁師として海に生きようとする者もいた。
②漁業権のない彼らは、船に寝泊まりしながら遠くの新しい漁場を開拓した
③初期につっくられて遠征先の小屋掛け集落は、先住者の「本浦」とは没交渉であった。
④しかし、高い技術力を活かし出稼ぎ先にいろいろな形で定住するものが現れた。
しかし17世紀半ばまで移住は、細々としていたようです。それが大きく変化し、大勢の人間が移住をはじめるようになります。次回は、その動きを追ってみます。
以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。

  

3村上武吉水軍43
前回は村上水軍の領主達の末裔を追いかけました。
今回は、その下の武将や下級水夫層の行く末を探ってみようと思います。
 天下を取った秀吉が、海賊禁止令を破った能島村上に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞんだことを前回はお話しました。能島水軍の水城は焼き払われ、首領の武吉は瀬戸内海から引き離されるように九州小倉に連れて行かれます。海賊達は「失業」し、ばらばらになります。警固衆として雇い入れていた多くの大名たちも秀吉の威光を恐れて、海賊衆をリストラし見捨てます。ここに能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に「企業解体」させらたのです。そして村上衆の離散が始まるのです。
そんな中で村上水軍に属していた一族が、讃岐に、「亡命」してきます。
江戸時代の葛原村の庄屋に成長する木谷家です。その子孫である名古屋大学の歴史教授が、その後の木谷家の歩みを本にまとめています。
3村上水軍木谷家3

以前にも紹介しましたが、ここでは木谷家の「讃岐移住」に絞って見ていこうと思います。
 木谷家の「讃岐移住」は天正15(1588)年の「刀狩り・海賊禁止令」前後と伝わっているようです。当時は、秀吉の天下統一が着々と進むなかで、海賊への取締りが強まる時期でした。その時代の流れをひしひしと感じ、将来への不安が高まったのかもしれません。特に能島を拠点にする村上武吉の配下の有力武将は、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く、金倉川の氾濫で荒野となっている多度津葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然ではありません。
それでは、なぜ移住先に多度津を選んだのでしょうか?
 木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないかと私は考えています。
  第1の仮説は、戦争による木谷家武士団の讃岐遠征の経験です。
毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(1577)、讃岐の香川氏(天霧山城主)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあった。
 同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた

 この戦いを「元吉合戦」と呼んでいますが、背景には石山合戦があります。
当時の毛利方の戦略課題は石山本願寺支援のために、瀬戸内海支援ルートを確保することでした。そのために、織田と結ぶ三好勢力を讃岐から排除する必要があったと研究者は考えているようです。
 
3櫛梨城
ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは調査の結果、大規模な中世城郭跡が発見され、これが本吉合戦の舞台となった城であることが分かってきました。この時期に、毛利の大規模な讃岐侵攻作戦が行われていたのです。

3 櫛梨より
櫛梨山から善通寺方面をのぞむ 本吉合戦の舞台 
 注目したいのは次の二点です
①毛利方が小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくった
②毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた
 遠征軍の中に村上水軍の部隊があります。そして、戦後に一部兵力を残して引き上げています。この中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・
どちらにしても、木谷家には、多度津周辺についての情報があったと思います。金倉川流域の荒れた土地を眺めながら、ここを水田にすれば素晴らしい耕地になると思った先祖がいたと想像します。同時に、讃岐側の有力者との人間関係ができたのかもしれません。

3 葛原八幡神社3
葛原八幡の大楠
  第2の仮説の手がかりは、移住を行った1588年という年です。
その前年に、秀吉が讃岐領主に任じたのが生駒親正です。親正は讃岐にやって来る前は、播州赤穂の領主で対毛利攻略の要員として備前・備中を転戦していました。その過程で、生駒家の家臣団の誰かと親密になったという筋書きは考えられます。知行制の行われていた生駒藩で、金倉川流域に知行地を持つ有力武将をたよって讃岐にやってきたというのが第二の仮説です。いつもの通り、裏付け史料はありません。

3 葛原八幡神社4
 
木谷一族が庄屋に成長していった背景は何か?
 芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれいた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪族あるいは豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。特に目覚ましかったのが北條木谷家です、
年表で追うと
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 西嶋八兵衛が廃池になっていた満濃池の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、棟札に施主・木屋(木谷)弥三兵衛の名あり
以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、庄屋をつとめることになります。

3 葛原 金倉川
生駒藩の「旧金倉川総合開発プロジェクト」
『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の前に、事前の用水整備工事の一貫として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったことが記されています。その結果、流路の変わった金倉川の旧流路跡が水田開発エリアになります。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が築造されます。これらの開発・灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍したのが木谷家の先祖ではなかったのでしょうか。
ちなみに、当時は生駒藩の時代で大干ばつに襲われた後の復興が、藤堂高虎の指示の下に急ピッチで行われていました。その責任者が藤堂家から生駒家監督のために派遣されていた西嶋八兵衛です。かれが短期間の内に、満濃池をはじめ60あまりの大池を築造していた時期です。
3 葛原 千代池pg
木谷家が改修を行った千代池
生駒藩は「新田は開発者のもの」と新田開発を後押しします。
この時期に新田開発を行った家が庄屋となっている場合が、土器川や金倉川流域では多いように思います。木谷家もそのような生駒藩の「金倉川総合開発プロジェクト」を推進する旗頭として、多くの新田を手にしたのでしょう。1670年には、葛原村に八幡本宮が建立されますが、これは「金倉川総合開発」の成就モニュメントだったと私は考えています。

3 葛原八幡神社
葛原八幡神社
以上をまとめておきましょう。
①海賊禁止令が秀吉によって出された辱後に、村上水軍の木谷家の2軒が讃岐に移住してきた。
②彼らは「元安合戦」か「生駒氏」を通じて、金倉川流域について事前知識をもっていた。
③生駒藩の新田開発・ため池築造事業に乗じて、金倉川流域の葛原地区の新田開発を行った。
④その結果、短期間に有力者になり村の庄屋を務めるまでになった。

 芸予諸島で村上武吉のもとで海賊稼業を務めていた一族が、中世からの近世への激動の中で、讃岐に新天地を求め帰農し、新田開発を行い庄屋へと成長していくストーリーでした。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」

 塩飽衆は、中世から近世への激怒期の中を本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切りました。「人名」して特権を持つだけでなく、「幕府専属の船方役」として交易活動を有利に展開する立場を得ました。それが、多くの富を塩飽にもたらしたのです。ある意味、海賊衆の中では「世渡り上手」だったのかもしれません。
 それでは村上水軍の領主たちは、どんな選択を選んだのでしょうか
3村上水軍
まずは能島の村上武吉の動きを見てみましょう。
 村上水軍の運命を大きく左右したのは、秀吉が出した海賊禁止令です。前回も触れましたがこの禁止令は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に出されています。全国統一をすすめてきた秀吉にとって「海の平和」の実現で、全国的な交易活動の自由を保証するものでした。ある意味、信長が進めた「楽市楽座」構想の仕上げとも云えます。そして「海の刀狩り」とも云われるようです。
 しかし、海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止です。水軍力を駆使した警固活動や、関役・上乗りなどの経済的特権も海賊行為として取り締まりの対象となりました。

3村上武吉水軍3
 
村上武吉は、これに従いません。秀吉の命に背いて密かに関銭を取り続けます。秀吉は激昂し、武吉の首を要求しますが、この時も小早川隆景の必死の取り成しで、どうにか首はつなぎとめることができたようです。
3 村上水軍 海賊禁止令
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町)で起きたのは曲事である。
一 海で生きてきた者を、その土地土地の地頭や代官が調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊が生じた場合は、地域の領主の責任として、土地などを取り上げる
 天下を取った秀吉は、能島村上を名乗る海賊衆に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞみます。能島の水軍城は焼き払われます。
3村上水軍nosima 2
武吉の拠点 能島
海賊達は「失業」しますが、多くの大名たちは秀吉の威光を恐れて、警固衆として雇い入れていた能島海賊衆を見捨てます。そんな中で陰に陽に武吉を庇ったのは小早川隆景だったようです。そのために隆景までもが秀吉に睨まれて、彼の政治的立場も一時危うくなりかけたことがあったようです。しかし、隆景は最後まで義理を通して武吉を守ります。そのためか村上水軍の記録には、
隆景評として「まことに智略に富み人情厚き武将だった」
と記されています。小早川隆景が筑前に転封されると、武吉も筑前に移ります。 
3村上武吉水軍43

 能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に解体させらたことになります。多くの「海賊関係者」が「離職」するだけでなく、住んでいた土地も住居も奪われます。こうして村上衆の離散が始まるのです。それは、後に見ることにして武吉のその後をもう少し追いかけます。
 筑前に移った武吉ですが、秀吉が朝鮮攻めで名護屋城に行くために筑前に立ち寄る際には「目障りになる」と、わざわざ長門の寒村に移住させられています。そこまで秀吉に嫌われていたようです。秀吉の死で、ようやく気兼ねすることがなくなります。
武吉の晩年は周防大島
 晩年は、毛利氏の転建先である長州の周防大島の和田に千石余の領地をあたえられます。ここが武吉の最後の住み家となったようです。海賊大将の武吉は、関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰れることはありませんでした。
3村上武吉墓2
菩提寺と墓は次男景親が和田に建立しています。武吉の墓と並んで妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻の墓で、大島出身の女であったようです。
 以後の能島村上氏は、毛利家に使える御船手組頭役して生きていくことになります。つまり、毛利の家臣となったのです。天下泰平になると、この家の当主達は伝来する水軍戦術を兵法書にしたためます。これが今に伝わることになるようです。
3村上水軍3
 一方、いち早く秀吉側についたのが来島村上氏です。
時代は、石山合戦の「木津川(きづかわ)口海戦」までもどります。この時に村上武吉の率いる毛利水軍にコテンパンにやられた信長は、秀吉に命じて、村上水軍の分断工作を行わせます。秀吉が目がつけたのは、来島村上でした。巧みな工作が成功し、天正十年(1582年)三月、来島の村上通総は、本能寺の変の直前に信長方に寝返ります。これに対して能島、因島、毛利の連合軍は、来島村上氏の居城や各地の所領を一挙に攻撃します。村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出する羽目になります。
 天正十二年(1584年)、信長死後の跡目争いに勝ち残った秀吉は、その傘下に入ってきた毛利氏に対し、来島と改姓した通総を伊予国に帰国させることを命じています。通総は、秀吉に気に入られて「来島(正しくは来嶋)」の名を与えられ、歓喜した通総は翌年の秀吉の四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒をつとめ活躍します。伊予の名族・河野氏を滅ぼし、新たな領主となった通総は、鹿島(現北条市)を居城に風早郡、旧領野間郡とあわせ一万四千石の所領を与えられることになったのです。これは来島村上「水軍=海賊」が、秀吉によって大名に取り立てられたということになるのでしょう。
 元「村上海賊」の来島通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、各地で戦功をたてています。朝鮮出兵にも水軍として出陣し、李氏朝鮮の李舜臣(イ・スンシ)率いる水軍との間で何度も戦っています。しかし、朝鮮火砲の威力と砲艦「亀甲船」の登場による火力の差で、日本水軍は連敗を続けます。来島村上一族の多くが、異国の海で命を失っています。
 来島氏は、関ヶ原合戦で一時西軍につきました。
3村上kurusima水軍3

そのため翌年に、豊後国森藩(大分県玖珠郡玖珠町)一万四千石へと転封となります。取りつぶしにならなかっただけでも幸いだったかもしれませんが、瀬戸内の「海賊」の旗を掲げ続けた最後の村上氏は、周りに海をもたない山間の地に移ることになったのです。そして名前も来島氏から「久留嶋(くるしま)」氏と改称することを余儀なくされます。こうして来島通総の子孫は、海と「海賊」の名を捨てることで、山の中で近世大名へと脱皮していきます。

3 村上来島陣屋kurushima-jinya_01_2146
来島氏の陣屋跡

●最後に因島の村上氏を見ておきましょう
海賊大将の能島村上武吉は、秀吉の横槍を受けて、瀬戸内海から追放されてしまいましたが、因島村上氏は小早川隆景に属して「海の武士」として因島・向島を領有していました。そのため、その後も勢力を維持することができました。
 しかし、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」で、毛利輝元は豊臣方の総大将を務めました。その結果、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分されます。多くの家臣団が、毛利氏に従って長門に移住していきました。因島村上氏も芸予諸島から立ち去ることを余儀なくされます。その後、子孫は能島村上氏系船手衆の支配下に入り、代々世襲して明治維新に至ったようです。

以上を、総括すると
「海賊禁止令」後の村上水軍の末裔は、次のような路を歩んだことになります。
①来島村上    秀吉に従って大名となる
②能島・因島村上  毛利の家臣となる
しかし、これは豊臣権力と妥協して生きのびた武将クラスの藩士です。村上水軍の実戦部隊だった下級水夫たちの末路は、どうなったのでしょうか。次回は、それを探って行くことにします。

参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

  老松堂日本行録 【ろうしょうどうにほんこうろく】を読む
 
1 日本行禄
         
江戸時代の朝鮮通信使のことはよく知られるようになりましたが、それに先立つ室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。そして、その団長が詳しい記録を残しています。宋希璟(老松堂はその号)の紀行詩文集「老松堂日本行録」です。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。見ていくことにします
当時の日朝関係と使節団団長の宋希璟を調べておきましょう
1419年(応永二十六)、朝鮮は倭寇の根拠地をたたく目的で対馬を攻撃します(応永の外寇)。
1応永(おうえい)の外寇img_0-9

朝鮮水軍の対馬攻撃は室町幕府に強烈な衝撃を与えたようです。
倭寇鎮圧は理解できるがどうしてこの時期なのか。
朝鮮側の真の目的は何か、何を意図しているのか。
さらに「朝鮮が攻めてくる」
「対馬が取られた」
「九州で合戦が始まった」
「婦女子が拉致された」
などの謀略まがいの怪情報、不安、不信や恐怖をあおる悪質なデマ、中傷が京都の町に渦巻きます。足利幕府は朝鮮の真意を探らせるため、大蔵経を求めるという口実で使節団を派遣し、内実を探らせます。これに対して李朝は、宋希璟を日本回礼使として日本使節団の帰国に同行させます。その時の見聞を団長の宋希璟が記録したものです。
1
世宗
漢陽(ソウル)を出発する際に、世宗から
「他国へいくに、詩は以って作らざるべからず」
と教えられ、
「出城の日より復命の時に至るまで、浅酬を揆らず、凡そ耳目に接するものあらば、皆記してこれを詩とすると云うのみ耳」
という覚悟で記録したのが、この「老松堂日本行録」です。行程は次の通りで9ヵ月余りの日本出張です。
1月15日 ソウル出発
3月 4日   博多着
4月21日 京都に到着
6月16日 将軍足利義持に謁見
6月27日   京都出発
10月25日 ソウル帰着
それでは「瀬戸内海」に絞って見ていきましょう。
 3月4日、博多に入った一行は大歓迎を受けています。宋希璟は、正式使節団の団長として身分を示す玉の飾りと冠をつけて、法螺貝を吹く螺匠4名をはじめ供の者を率いてパレードを行っています。日本側の警備兵が左右を守り、しずしずと進む行列は、当時の博多の人々にとっては大変めずらしいもので、老若男女から僧尼にいたるまで、路をうずめてこれを見たと記します。現在のエンターテイメント的イヴェントの側面があります
 江戸時代の朝鮮通信使の先駆けにもなるようです。後の通信使がそうであったように、僧を中心に多くの文人と交わり詩文を交わしています。とくに対外貿易や外交に携わっていた宗金や陳外郎の息子である平方吉久とは、頻繁に会い、情報を交換したようです。
 当時の博多は国際都市で、中国・朝鮮をはじめ異国人が数多く住んでいたようです。百年ほど後の記録には、次のように記されます。
博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えている、日本の女を妻にしている者もいる
異国人が渡来し、倭人とともに貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたことがうかがえます。
国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶です
以前に禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)の活動ぶりを紹介しました。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
 そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。
彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。
 こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景にあるのではないかと研究者は考えているようです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。
ここでは博多が当時の東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
 宋希璟が博多に滞在したのは20日あまりです。京都に使者が上り、将軍義持から折り返し上京の許しが出るのを待っていたのです。博多ー京都の往復が早船で20日ということになります。3月24日に、志賀島から出発しています。
  瀬戸内海で一番怖れていたのは?
 船は、赤間関を経て春の瀬戸内海に入っていきます。京都に到着したのが4月21日ですから、1ヶ月近い瀬戸内海の船旅の始まりです。穏やかな瀬戸内海は、時として悪天候や強風も襲いかかってきます。しかし、宋希璟が一番怖れているのは海賊だったようです。将軍・義持は、多くの護送船をおくって使節団一行の警護を固めていますが、不安でならなかったようです。
 赤間関を発するとすぐに海賊の偵察船らしい小船がやってきます。源平の合戦で有名な壇ノ浦に停泊しますが、夜中に怪しい声がして眠れません。朝になって、その正体をしるとただの雉(きじ)の声です。知らない海ををゆく者の気持ちは、不安でいっぱいです。
 室積を過ぎて、遠くに村の火をみたときも
「海辺にすむ人たちは皆海賊である。だから村の火をみても心は安らかではない」
と書いていま。                        
 当時の「海賊」たちは、足利幕府のゆるやかな支配の網のなかで活動していますから外国使節団を襲うほどの「無法者」ではなかったと私は考えていました。
 しかし、これ以前の1395年の回礼使は、安芸国高崎(広島県竹原市)あたりで海賊に襲われ、携えてきた贈り物や食糧、衣服にいたるまで一切を奪われたと云います。護衛の船がついていても、当時の航海技術では風向き次第で船団がばらばらになり、孤立することもあったようです。警護の隙があれば、襲いかかってくる海賊達はいたようです。
そんな時に、危険水域近くで、一艘の小船が矢のように近づいてきます。一行は鼓をうち、旗をふり角笛をふき、鐸をならして精一杯応戦します。甲をかぶり、弓を手にして船上に立ちます。海賊の船にも、人が麻のように立ち並んだと記します。この時は幸い亮況と宗金の船2艘が、すぐに駆けつけて事なきをえたようです。
 その後は、大きな騒動もなく尾道、日比、牛窓、室津をすぎ、各地の寺を訪れながら、4月16日兵庫港(神戸)に入ります。博多を出たのが3月14日でしたから、ここまでが約1ヶ月です。春が深まっていきます。
   京都の室町幕府の外交・交易担当者は?
 4月21日、京都に入った宋希璟は、魏通事天の家に宿泊します。
魏通事天は、実に数奇な運命をたどった人でした。
彼は、1350年頃(元末)の生まれの中国人ですが、子どもの頃、倭冦によって日本に連れさられてきたようです。しかし、なにかの事情で朝鮮にわたり高麗末の大貴族李子安の奴となります。李子安は、中国にも聞こえた優れた文人で、『陶隠集』という文集があるようです。この人に仕えて才能を見込まれたのでしょう。回礼使に従って日本にむかいます。そこで、たまたま中国からの使節に見出され、中国人であることが分かると、中国に連れて帰られます。時代は、すでに明となっていましたが洪武帝に謁見し、帝の命令によって再び日本に送還されて、室町幕府の通事として活躍することとなります。
 時の将軍義満は、永楽帝に親書をおくり、対明貿易の道をひらくことに大いに心をくだいた人でしたから、魏天は働き場所を得て、水を得た魚のように大活躍します。日本人の妻をめとり、娘をふたりまでもうけます。時は移り、この当時は対明政策に消極的な義持の天下となっていました。彼にとっては困難な外交交渉が続いたに違いありません。魏天もすでに70歳をすぎていました。
 彼は、宋希瑳の一行が宿舎の冬至寺についたと知ると酒を持って迎えに来て自宅に招待します。魏天は若いころ身につけた朝鮮の言葉をわすれず、宋希璟と旧い友達のようこに自由に話し、昔を懐かしがったそうです。
その日、もう一人やってきたのが陳外郎です。
彼は博多商人の平方古久の父です。彼の父陳延祐は帰化中国人でした。元朝が滅びた時、礼部員外郎であった延祐は、日本に亡命し博多に住んだようです。延祐は、多才な人で特に薬学にくわしかったので、足科義満に再三上洛をもとめられますが、応じることはなかったようです。
 しかし延祐の子宗希が、父に代わって上洛し、父の中国での官職名「外郎」を名乗り、医学・薬学の専門家として、室町幕府に重く持ち抱えられました。陳外郎は、さらに遣明使に同行して、中国の薬学を学び、秘薬霊宝丹を持ち帰ったとされます。その後の外郎家は代々医を業とし、さまざまの薬を生み出し。毎年1月7日、12月27日には将軍に謁し、薬を献上することが慣わしとなっていました。
   宋希璟の訪れたころの初代外郎は、すでに五十をすぎていたかもしれませんが、魏天とともに、中国通として、足利幕府の外交の上でも大きな役割を果たしていました。外郎が父延祐の医業を、平方吉久が祖父の博多商人としての貿易業を受け継ぎ、京・博多という当時の政治・ 経済の中心にあって、父子連携して、日本の外交を担っていたことが分かります。    
 このように、博多や京都の室町幕府周辺には中国や朝鮮のことを深く知る帰化人やハーフがいて、重用されていたことが分かります。そして、彼らが朝鮮からの国王使節団に接近して関係を持とうとしていたこともうかがえます。
 さて京都での外交交渉については省略して、返りの瀬戸内海航路に目をやります。
 6月27日深夜、宋希璟の一行は、将軍義持の書簡を持って淀川を下ります。瀬戸内海をゆっくりと、むかって船をすすめますが
7月8日、尾道まで進んで「風に阻まれ、賊に阻まれて」、
7月22日まで停滞です。この間、尾道の天寧寺の住職と役僧・梵道と親しく交わります。この時、希環がは次のような詩の序文を二人に送っています。意訳するとだいたい次の通りです。
  大抵の僧侶には2つの問題がある、
ひとつは行いを偽って人を惑わすことであり、もう一つはその言葉を偽って自らを利することである。このことは中華世界にも見られる。しかしたとえ中華世界ではなく、外国であっても、その言動に誤りがなく道に近ければ、ともに語り合うに足りる。日本の仏教は町でも村でも信奉されており、あちこちに寺があり僧侶の数が一般人の倍もいる。いま旅の途上で語り合うと、その優しい言葉は実に行き届いている。言葉は違うけれども、その理は私だちと共通する。まして朝鮮と日本は、古くから隣り付きあいをしてきた。今、朝鮮国王の命を受けて、平和と友好の旅をして、二師と会うと。、旧知の友と会うようだ。いま、ともに寺を訪れ、また船上に会って、行き来をして美しい松や竹、海や山を目にし、香をたいで茶をいれて、詩を交わし。秋を楽しんでいる。とても楽しい。
 一方に、海賊あり、嵐がありますが長閑な交流の風景です。異国人であり、儒者でもある宋希璟が、懐の深い、広い視野をもって禅僧たちと交わっているのがわかります。
 瀬戸内航行のハイライトとなるのは、翌日の蒲刈での体験です。
同行した博多商人の宋金から次のように教えられます。
蒲刈島を境に海賊の縄張りは東西に分かれる。そこで、あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはない。蒲刈のあたりが瀬戸内の東西を分かつ関所だ
 あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはないというのです。この金は、一種の通行料であり、警護料なのでしょう。そこで、宋金のはからいで銭7貫文(7000枚・現在の相場で約60万円)を払い、一人の海賊が乗りこんできます。その賊は「私がいるから安心しなさい」といって海賊の家に向かいます。そして交渉が成立すると、しばらくして海賊たちが小舟に乗ってやってきて、宋希璟の船が見たいというのです。
 その時の海賊のリーダーを次のように記します
魁首の一僧は甚だ奇異で、起居言変りて吾人と異なるなし
つまり僧侶の姿をして、朝鮮語を流暢に操ることができ、宋希璟も彼と「欣然として酬答」したというのです。そして「家に来て一緒に茶を飲もう」と誘います。普段は海賊に対する警戒心の強い宋希璟が、これに応じようとして、周囲に制止されるほど、僧(首領)の振る舞いが洗練されていたようです。それほど朝鮮の文化・教養を身につけていたのです。
海賊の魁首は、その素養をどこで身につけたのでしょうか?
 瀬戸内海の海上勢力と朝鮮半島との密接な交流があったことがうかがえます。当時、蒲刈の領主は多賀谷氏です。多賀谷氏は守護大名・大内氏に属していて、蒲刈船も大内氏の物資を積載して運行してたことが『兵庫北関入船納帳』から分かります。大内氏は赤間関などを拠点に朝鮮貿易も行っていて、海賊衆である多賀谷氏や蒲刈の「海賊」たちも朝鮮貿易に関わっていたと考えられます。その中で朝鮮語や挑戦的な文化素養を身につけたのではないでしょうか。
 どちらにしても、当時の海賊(海の民)のもうひとつの顔が見えてきます。彼らは海の武士で有り貿易業者であり、「海の関所」の管理人であったようです。
 彼らには国境に囲まれた陸の国家とは別に、玄界灘や東シナ海によって結ばれた海の世界があったことがうかがえます。「倭寇」と呼ばれる人々には、陸に住む人々とは違った掟とネットワークがあったと研究者は考えているようです。
 彼らは、多国籍集団で、日本語のみならず朝鮮語や中国語をあやつり、民族の梓を越えて行動していたのでしょう。その本拠となっだのが、済州島であり対馬であり、北九州であり瀬戸内海であったのでしょう。彼らにとって海に国境はなかったのです。そして、言葉や民族は関係ないのです。同じ船に乗って活動すれば「みな兄弟」だったのかもしれません。宋希璟は、まさにそんな倭冦の縄張りを旅していたのです。
 宋希璟がさらに船を進めると、赤間関で三甫羅(サブロウ)という日本名をもった朝鮮人に出会います。当時の瀬戸内には朝鮮語を解する日本人や、日本の名前をもう朝鮮人が、ごく普通に暮らしていたようです。
 讃岐の舟が塩や米・赤米・薪を積んで兵庫湊や神崎・堺を往復していた時代、そして、西大寺律宗や日蓮宗・弁円の臨済宗僧侶の弁円が聖一派などが瀬戸内海に交易ネットワークを形成し、拠点港に寺院を建立していた瀬戸内海世界の背後には、こんな国際的な環境があったようです。
参考文献  樋口淳 老松堂の見た日本 
          

 
大山祗神社1

 大山積神社は芸予諸島の真ん中にあり、一番大きな大三島にあります。古来から瀬戸内海交易ルートのど真ん中にあるで、モノと人が行き交う流通ルートに位置していました。この神社の由緒は古く延喜式内社で、のちに一ノ宮と称せられ、明治時代には国幣大社となっています。この神社には、有名な武将たちが奉納した鎧兜・太刀等が数多くあります。その数量は国宝七点、重要文化財七四点に達し「刀剣・兜の宝庫」ともいわれます。平安初期から鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代を通じての、逸品が時代を超えて納められています。
大山祗神社 甲冑1

例えば国宝に指定されている平安期のものを4つ挙げてみると、
①わが国最古の作品といわれる沢潟威鎧兜(国宝)
②源頼朝が寄進したという豪壮華麗な紫綾威鎧(平安末期の制作 国宝)
③源義経の奉納と伝える赤糸威胴丸鎧(平安末期、国宝)
④伊予の豪族河野通信の寄進にかかる紺糸威鎧兜(平安末期 国宝)
  武将が武具類を奉納した背景には、祭神大山祗神が海の守護神であるとの信仰があったようです。
「大山祗神社=大三島神社=海の神様」というイメージを私も、何の抵抗もなくうけいれてきました。しかし、考えて見れば、大山祗神そのものは山の神です。それが、なぜ海の神に「変身」したのでしょうか。そこには、神社をとりまくいろいろな社会事象があったようです。それを今回は見ていく事にします。

大山祗神2
 大山祗神は、もともとは山を祀る神
 この神社の祭神は大山祗神であって、大山積・大山津見とも書き、三島大神・三島大明神とも呼ばれました。今では大山祗と表記しますが、古くは大山積でした。『古事記』によると、大山祗神はイザナギ・イザナミの二神の子です。この神を同書および『日本書紀』の一書では山の神とし、また書紀の一書に火神の分神としています。大山祗とは山津持を意味し、山を持つ神すなわち山を掌る神としています。
大山祗神1
大山祗神
 また古事記では、伊井諾命が十拳剣カグツチ石神を斬った時、オド山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生まれたことを伝えます。本居宣長の説によると、大山祗神はこれらの山神を統轄する神であるとしています。
 ところが、天平二十年(七四八)までに編集されたと思われる『伊予国風土記』逸文のなかに大山祗神に関する異説が記載されています。そこには次のように記されます。

 宇知(越知)郡御島坐神御名大山積神、一名和多志大神也、是神者仁徳天皇御世、此神自百済度来坐而津国坐云々、謂御島者津国御島名也、
この本文のなかの「宇知」は「乎知」(すなわちのちの越智)の当字と考えられます。意訳変換しておくと、
越智郡の大三島に鎮座する大山祗神は、別名を和多志大神と称する。この神は仁徳天皇の時代に百済国から渡来して津国(伊予)に鎮座したという。御島とは伊予の島名である。

ここに書かれる津国の神社とは、式内社の三島鴨神社のことのようです。伊予以外に、由緒の古い三島神社は、伊豆国賀茂郡にもあって、同社の金石文によると天平二年に伊予国から勧請したと記されます。これらの三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、また伊予国越智郡内に鴨部郷があるので、はじめは伊予国には賀茂氏の手によって勧進されたと研究者は考えます。
 越知氏が越智郡司となって権勢が強大になると、越智氏は大山祗神を氏神(一族の守護神)として祭祀するようになります。
 風土記逸文のなかに書かれた大山祗神の説話については、次のようないろいろな解釈があります。
その1 仁徳期の朝鮮半島遠征の際に、従軍した越知氏がもたらした説
しかし、仁徳期に、越智氏とよぶ強大な部族の出現は視られません。越知氏の存在が分かるのは7世紀になってからです。この説を研究者は次のように考えています。
「この説話は史実ではなく、恐らく風土記が編集されたころ、大山祗神が百済国から渡来したとの伝承が醸成せられていたのであろう。この説話の背景に、先進国家百済国と関係づけ、その評価を高めようとする考えがひろく存在していたことがうかがえる。」

  その2 越智直が百済救援軍に参加した伝承と深い関係があるとする説
『日本国現報善悪霊異記』のなかに、越智直が百済に出征した際、不幸にして唐軍の捕虜となり中国に拉致され、九死に一生を得て帰国した。朝廷ではその労苦をねぎらうため、彼の要望によって越智郡がつくられた旨を述べています。そこで、彼が帰国した事件を奇縁として大山祗神が百済から渡来したとの説話を生むようになったと解釈する説です。
   霊異記は弘仁十三年(812)に景戒の手によって編集された仏教説話集です。そのため大部分は因果応報物語で、資料的な信憑性について問題があるのは当然です。研究者達は次のように指摘します。
「この説話は史実として見るべきではなく、越智郡の創設された時期を推察する一参考資料として取扱わなければならない」

大山祗神が百済から渡来したとの説話を、霊異記と関係づけて伝承史料とするには、無理があるようです。
 仏教が伝わり、平安時代中期に神仏習合思想がおこり、日本の神々の本地は印度の仏菩薩であり、仏菩薩が衆生を救済するために神の姿で現れると説きます。
大山祗神は、どんな仏が神様に「変身」したものなのでしょうか?
伊予の豪族河野家で編集された『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、大山祗神の本地仏は大通智勝仏としています。大通智勝仏は法華経化城喩品の中に登場する仏で、はるか昔に出世した仏となっています。
大通智勝仏
 大通智勝仏
大山祗の本地仏を大通智勝仏としたのなぜでしょうか? 
それは本社を祀った越智氏(のちの河野氏)が、自分の姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」ことから出発して、仏教思想に結びつけたからのようです。また平安末期の河野通清・通信をはじめとして、その嫡子たちが名前に通の字を使用したのも、大通智勝仏にあやかったからでしょう。後世の記録ですが『北条五代実記』のなかには、このことについて次のように記します
 抑三島大明神卜申ハ 元来ハ伊予国二御鎮座アリ、(中略)本地ハ大通知勝仏ニテ御座ス、是二依テ彼御神ノ氏人伊予河野ノー門ハ、今二至テ大通ノ通字ヲ名乗トカヤ、越智ノ姓是也、

意訳しておくと
そもそも三島大明神は、もともとは伊予国に鎮座していた。(中略)
その本地仏は、ハ大通知勝仏である。ここにこの神の信者(氏人)の伊予河野ー門は、今にいたるまで大通の通字を名乗るという。越智の姓もそうである。
大通智勝仏の弟子達1
               大通智勝仏の弟子達

 大山祇神社の創建については、『予章記』などの郷土史料に次のような「創建説話」があります。

越智玉興が海路により伊予国に帰る途中、備後国の沖で飲料水の欠乏に苦しんだ時、霊験によって潮中に清水を得て、苦難をまぬかれた。そこで玉興はこの奇瑞を朝廷に報告し、勅宣によって大三島に社殿を造営し、大山積大明神と称した
 
創建説話とは別に、確実な史料によって本社の変遷をたどってみましょう。
『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月の条に、大山祗神に神階従四位下と神戸五戸があてられています。
天平神護二年夏甲辰、伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、井授従四位下、充神戸各五戸、

この記事によってすでに奈良時代には本社が存在し、地域の尊崇をうけていたことが分かります。さらに大同一年(八〇六)に神封五戸があてられ(『新抄格勅符抄)承和四年(八三七)に明神に列しています(『続日本後紀』)。

大山祗神社3

 延長五年(九二七)に『延喜式』の編集が完成し、その神名帳のなかに、本社が国幣大社として記載されています。神名帳に登載された神社は、延喜式内社と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇をうけ、祈年の頒幣に預かった官社でした。その中でも神祇官の祀る神社を官幣社、国司の祀る神社を国幣社と称しました。国幣社に指定されていたという事は、この神社が特別な厚遇をうけ、また国との関係も深かったことが分かります。
 天慶三年(九四〇)九月に封戸が施入されますが、これには藤原純友の乱討平の祈願がこめられていたようです。その後も幾たびかの火災に遭いながら現在の本殿および拝殿が再建されたのは、応永年間(一三九四~一四二八年)のことです。

大山祗神社2

さて、この神社を神仏混交時代に管理していたのはどのような人たちでしょうか
 この神社には早くから塔頭が置かれ僧侶が勤務していたことが『大山積神社文書』によって分かります。また大三島の『神原文書』からは、大三島の十六坊が16世紀初頭の文亀年間にはあったことも分かります。ここからも神仏習合の下に、社僧による神社の管理が行われていたことがうかがえます。そして社僧の多くは熊野系の山岳修験者であったようです。

越智氏の台頭と大山祗神社の関係は?
大山祗神社の保護者であった越智氏は、古代末期に風早郡河野郷に移住して河野氏と称するようになります。河野氏はどんな一族だったのでしょうか?また、どのような過程をたどって武士化したかのでしょうか。
 越智氏の出自については、古くからいろいろの説があります。
①孝霊天皇の子伊予親王から出た説(『予章記』・『予陽河野家譜』による)
②武内宿禰から出た説(一条院坊宮内侍原刑部卿家蔵本『河野系図』による)
③大山祗命から系統を引く説(『三島系図』および『水里玄義』による)
④伊予御村別の祖先である武国凝別命から出た説(『和気系図』・『与州新居系図』による)
 これらの説に対し考証がすすめられた結果、現在ではニギハヤヒ命から出た小致命の子孫とする説(『天孫本紀』・『国造本紀』による)が妥当なものと研究者達は考えているようです。
 越智氏は、はじめ伊予国の中枢部に位置する越智地区を本拠としていました。
『国造本紀』によると応神天皇の代に大新川命の孫の小致(おち)命が国造に任ぜられています。その後、越智郡が設置されると、その子孫は越智郡司に任命されます。したがって、越智氏は国造→郡司のコースを歩んだ地方豪族のようです。

 越知氏が郡司であったことを物語る史料は「正倉院文書」の「正税出挙帳」です。
これは天平八年(七三六)に伊予国から政府へ提出された正税に関する報告書で、次のように記されますある。
   郡司 越知直広国 主政越知東人
  「?」税穀「?」千伍栢弐拾肆餅玖斗陸升参合
  頴稲肆万伍仔陸俗五拾漆束捌把
  出挙壱万弐千束
  借貸壱万「?」
  「?」伍拾漆東捌把
この記録には、大領の越智広国と主政の越智東人らの名が見えます。さらに『続日本紀』の神護景雲一年(七六七)二月二十日の条によると、大領の越智飛鳥麻呂が「あし絹」および銭貨を献納した功によって、外従五位下に叙せられています。

神護景雲元年二月庚子、伊予国越智郡大領外正七位下越智飛鳥麻呂、献絶二百舟疋銭一千二百貫、授外従五位下。

当時は物資を献納して叙位されることはよく行われていました。ここからは越智氏が開発領主として大規模な農地経営に乗り出して経済的な成長を背景に位階を高めている様子がうかがえます。
 海賊討伐と越智氏の武士化
 古代律令体制の傾きとともに、瀬戸内には海賊が横行するようになります。伊予国も彼らの震源地となります。治安の維持のために警備増強が求められるようになります。しかし、海賊の横行は激しくなるばかりで官物を強奪し、人の命を奪うので瀬戸内海の交通も途絶えがちになります。『日本紀略』『本朝世紀』・『扶桑略記』等には、朝廷が各国府に対し山陽・南海の両道の海賊を逮捕するように命令し、諸社には海賊鎮圧の祈願をさせた記事が載せられています。
 このような中で伊予では、藤原純友が瀬戸内の海賊をまとめて、宇和郡日振島を拠点にして反乱をおこします。越智郡司であった越智氏も、政府の討伐指令に従って動いたはずですが、正史のなかにその名を見出すことはできません。
信頼できる史料によって、それ以後の越智氏の活躍を追ってみましょう。
『貞信公紀抄』によると、越智用忠が海賊の平定につくしだので、天暦二年(九四八)七月にその功労を賞するために、国衙から叙位を申請しています。
天暦二年七月十八日、伊予国申、越智用忠依 海賊時功、可叙位解文等、
令公輔朝臣奏之、加用忠貢書即還来、伝仰可被叙之状、
この海賊がどこのものであるかは解りませんが、純友の一軍だったものかもしれません。
また『権記』によると、長保四年(1002)に越智為保が伊予追捕使に任ぜられています。
 長保四年三月十二日戊申、(中略)伊予追捕使越智為保任符、
奉送前守許、依有彼守之所示、令労成也、
さらに『除目大成抄』によると、
治安三年(1023)に越智時任が大目に(『江家次第』)
永久五年(1117)に越智貞吉が大徐に任ぜられている(『除目大成抄』)
越智氏はもと武官ではありませんでした。しかし、在庁官人の地位を長く占める事で、中世の混乱かの中で在地土豪化し武装化するようになったようです。そして「海賊討伐」などを通じて地方の兵権に関わり、彼ら自身が武士集団化するようになります。当時の愛媛の在庁官人層は精神的な拠点として大山祗神社を重視し、その祭祀に務めていました。
大山祗神社6重文宝塔

 越智郡を本拠とした越智氏は、親清の代に風早郡河野郷に移ります。
そこで中世には姓を河野氏ともよばれるようになります。越智氏一族の移動した時期は、十二世紀の前半期のようです。河野氏は道前と道後との境にある髙縄山(986㍍)に城砦を築きます。
河野氏は武士団を結成するにあたって、越智郡から風早郡にわたる地域の中小領主層を多く従え、家臣団を組織していきます。その間、家臣による私有田経営も行なわれ、また荘園の開発も積極的にすすめられたようです。こうして河野氏一族の所領は、伊予国の各地域に拡大されていきます。
 一方河野氏は、引き続き大山祇神社を氏神として奉祀します。
また風早郡内の式内社である国津彦神社・櫛玉姫神社も尊崇します。これらの神社を本所とし、みずから領家となった荘園も出てきます。
大山祗神社5

  大山祗神は武士団の団結を誓う聖地へ
 源平の争いである保元・平治の二大乱(1156・1159)の結果、西国に根拠地を持つ平氏が源氏の勢力を圧倒して、一門の極盛時代を迎えます。河野氏は源氏に親しかった関係から、平氏の制圧をうけて失意時代を経験することになります。しかし、それも長くは続きませんでした。治承四年(1180)八月に、源頼朝が平氏討伐の兵をあげると、河野通清・通信父子はこれに応じ(『吾妻鏡』・『源平盛衰記』)高繩山城に兵を集結させます。
 さらに源義経が四国に上陸すると、その指令によって屋島・壇の浦海戦に舟師を率いて活躍しました。また義経の死後、頼朝は奥羽の藤原泰衡を討って、全国の統一をはかりますが、この奥州征伐に河野通信が従軍したことは『吾妻鏡』に詳細に記述されています。ここからは河野通信は頼朝に非常に近かったことがうかがえます。そのため河野家は頼朝亡き後の北条氏政権に素直に従えないところがありました。
 こうして上皇方に加担した河野氏は敗軍となります。
通信は伊予国に帰り、高縄山城によって抗戦しますが、幕府の征討軍によって陥落し、通信は傷ついて捕えられ、奥州平泉に配流されます。
 『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』には、承久の変のまえにして、通信は大山積神社に参詣し神託を請うたところ「幕府に応ずべし」とあったにかかわらず、神慮に背いて上皇側に味方したと書かれています。
 これは家譜の編者が承久の変における結果論から「創作した説話」とも考えられますが、その背後に大山祗神に対する崇敬心の厚かったこともうかがえます。

大山祗神社117

 承久の変によって、河野家は衰微の過程をたどります。これを再建したのは通信の孫通有です
彼は元寇で功績をたてます。通有は文永の役(1274)の後、幕命によって防衛のために九州に出動することになります。その際に『八幡愚童記』によると、大山祇神社に参詣し
「一〇年以内に蒙古が来襲しなかった場合、異国に渡って戦いを敢行する」
との起請文を神前に捧げ、これを焼きその灰をのんで武運の長久を祈願したという話を載せています。
 この後に、弘安の役(1281年)に通有は、博多湾内の志賀島の海戦に大きな功を挙げます(『八幡愚童記』・『蒙古襲来絵詞』)
 このエピソードからは、河野氏が大山祇神を深く信じていたことが分かります。
また河野氏にとって、大山祗神社が一族の精神的な精神的拠点であり、危機的事案が乗じたときには一族で、ここに集まり協議し、祈願したのです。そのため、この神社の神事費用は一国平均役として調達されたようです。これらの史実・伝承からは、河野氏が軍事的に海上に活躍する際には、お山の神様である大山祗神に海上の守護神の性格を習合していたことが見えてきます。

大山祗神社52

 長々と大山祇神社と越知氏(河野氏)の関係を述べてきましたが、ゴールにたどり着いたようです。武士化した越知氏、河野氏にとっては、戦いは海上戦を伴うものでした。そこでその戦いの勝利をもともとは「山の神様である大山祗神」に祈るようになったのです。
 こうして大山祗神社は、一族的な団結を図る聖地として機能すると同時に「海の神様」としての信仰を集めるようになったようです。

 

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