瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 瀬戸の島と船

 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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    「鎌倉新仏教」の通説がぐらついているようです。
かつては、鎌倉時代は天台・真言系や南都(奈良)の「旧仏教」(顕密仏教)が民衆の支持を失い、法然や親鸞、道元、日蓮らが唱えた「新仏教」が勢力を拡大してきたとされてきました。しかし、以前見たように四国への「新宗教」の伸張と信者の獲得は、思っていたよりもはるか後であったことが次第に分かってきました。浄土真宗の道場が讃岐で姿を現すのは、16世紀になってからです。近年の研究では、鎌倉時代は「旧仏教」が主流で、「新仏教」は少数派の異端に過ぎなかったと研究者は考えるようになっています。

真言律宗総本山 西大寺|JAFナビ|JAF会員優待施設
奈良・西大寺

 その中で南都・西大寺の叡尊は、旧仏教改革派の旗手として戒律復興を掲げ、弟子らの活躍で帰依者を全国に爆発的にひろげることに成功します。晩年には内紛の続いていた四天王寺の別当に就任して鎮静化をはかるなど、叡尊は後年「真言律宗」の祖と呼ばれるようになります。
 以上を整理しておくと、
①鎌倉時代に登場する新仏教は、開祖達が新たな教義を説くが、未だ「異端的存在」であった。
②そのため教団を組織し、全国的な活動を行えるまでには成長し切れていなかった。
③それに対して、鎌倉時代にめざましい発展を遂げるのが律宗西大寺であった。
つまり、鎌倉時代に最も教勢を拡大していたのが西大寺律宗と云うことになります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
叡尊

律宗西大寺を率いた叡尊とは何者なのでしょうか?
叡尊は建仁元年(1201)5月、現在の大和郡山市白土町で生まれます。父親は興福寺の学侶・慶玄。7歳で母親が亡くなり、醍醐寺の巫女の家の養子となります。4年後に養母も亡くし、11歳で醍醐寺の叡賢に預けられ、17歳で醍醐寺・恵操を師として出家、東大寺戒壇で受戒し、真言宗の官僧(官僚僧)になります。ここまでは順調に官僧(高級国家公務員)への階段を登ってきます。以後は、高野山などで修行を重ね、嘉禎元年(1235)1月に持斎僧(戒律を守る僧)を募集していた西大寺に入ります。

仏教の戒律とは不淫(セックスをしない)、不殺(殺生をしない)、不盗(盗みをしない)、不妄(うそをつかない)など僧侶たちの規範のことです。ところが、当時の僧侶は叡山延暦寺のふもとの坂本や南都の東大寺、興福寺の門前に僧侶が住む家が社宅のように並んでいました。そこには僧侶の妻子がおり、坊さんは妻子に見送られて修行に向か姿が当たり前になっていたのです。不淫の戒など無きに等しいありさまでした。

叡尊は僧たちを魔道から救うには戒律を厳しくする以外にない、と戒律復興運動を決意します。
覚盛(かくじょう)(1194〜1249)らと出会い、同志4人は嘉禎2年(1236)9月、東大寺法華堂で仏・菩薩から直接に受戒して戒律護持を誓う「自誓受戒」を挙行し、官僧を離脱します。これが叡尊のターニングポイントになるようです。官僧であったかどうかは重要でした。というのも、官僧たちには、死穢(しえ)などの穢れを避けることが求められ、活動上の制約があったかことは以前にお話ししました。これに対して官僧から離脱した遁世僧たちは、制約から自由となり、穢れに関わる社会活動に関与でるようになります。これが死者の救済という面では、決定的な一歩を踏み出すことになります。

創建1250年記念「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」 | 日本学術研究支援協会

 もともとの西大寺は奈良時代、仏教第一の政治を進めた称徳天皇が建立した寺院です。
しかし、創建当時には百を超えてあった堂宇が平安中期以降は数棟になり荒廃が進んでいました。叡尊が活動理念とした「興法利生」は、釈迦本来の仏教に立ち返り人々を救うことです。叡尊は「妻帯をしない、家族を持たない、財産を求めない」といった戒律を厳格に守ります。その清廉潔白な人柄に弟子が集まり、西大寺の再建が軌道に乗るようになります。
 仁治元年(1240)には忍性(1217〜1303)が弟子に加わってハンセン病患者や身体障害者、生活に困窮した物乞いら「非人」と呼ばれた社会的弱者の救済に乗り出します。
叡尊らは戒律復興運動、弱者救済、さらに庶民の働き口となる勧進事業を精力的に展開します。
そして、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めます。一方、鎌倉に下った忍性の社会活動は、鎌倉幕府の要人の注目を集め、帰依者も増えます。こうして、叡尊は幕府から懇請されて鎌倉に出向き、帰依者は支配層から最下層まで貴賤の別なく広がるようになります。また、亀山上皇に授戒するなど朝廷からも信頼を得ます。叡尊は生涯で9万7710人に菩薩戒を授け、西大寺が直接、住持を任命した寺は全国に262寺、末寺総数は1500寺に上ったとされ、亀山上皇から興正菩薩の貴号が贈られます。

中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

 叡尊教団の社会救済活動の一つに港の管理維持・河海支配がありました。
かつては、遣唐使派遣停止以後の影響を「国風文化」形成の要因になったなどと教科書には書かれていました。しかし、これは海外取引の「過小評価」だったようです。その後の研究で、日宋・日元・日明貿易の果たした役割は、考えられた以上に大きかったことが分かってきました。遣唐使廃止後も、それまで以上に、人・物・情報の国際交流は想像以上に進んでいたのです。
韓国新安沖の海底で発見された沈没船の積荷の中国陶磁器
新安沈没船から引き上げられた中国陶器
 例えば、1976年に韓国新安沖で引き上げられた新安沈没船を見てみると次のようなことが分かります。
①船は、全長28m、幅6,6m、重量約200屯
②元亨3(1323)年に中国(寧波)から日本に向かう途中で、新安沖で沈没
③積荷は、2万点の白磁・青磁、28トン、800万枚もの中国銅銭
④積荷の木札の墨書銘から、京都東福寺がチャーターした貿易船だった
こうした荷物を積んだ貿易船4艘ほどが船団を組んで貿易に従事し、鎌倉の和賀江津、六浦津などに入港していたのです。
 今度は足利尊氏が律宗西大寺の、鎌倉の極楽寺に対して出した文書を見ておきましょう。
飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺
生禁断といい、厳密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、寿算長遠のためなり、忍
性菩薩の例に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言
ごくらく噸和五年二月十一日        尊氏
極楽寺長老                     
                                     『鎌倉市史 史料編第3』426号
この史料は、足利尊氏が、貞和五(1349)年2月11日付で、鎌倉の極楽寺に対して、「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」に関する支配権を今まで通りに認めたことを示しています。ここからは次のようなことが分かります。
①極楽寺は、飯島(和賀江津)の敷地で、着岸船から関米(一石につき一升、約1%)を取る権利を認められていたこと
②それは「嶋築興行」(飯島の維持・管理の代償)でもあったこと
③同時に、前浜の殺生禁断権が認められていたこと
④「忍性菩薩の例に任せて・・・」とあるので、これらの権利は忍性以来のことだったこと

①の関米(一石につき一升、約1%)については、新安沈没船の積荷は「2万点の白磁・青磁、800万枚の中国銭」でしたから、極楽寺の取り分1%は、200点の白磁・青磁、8万枚の銭ということになります。これが1船分の取り分です。これらが唐物の市で販売され、極楽寺の収益となります。
鎌倉の港
鎌倉の和賀江島
どのようにして、極楽寺は関税徴収権を手に入れたのでしょうか。
和賀江島は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工の岸壁です。岩を埋め立て、江を作ったとされます。今は、千潮時に黒々とした丸石が現れるだけで、これが鎌倉時代の港跡とは思えません。それまでは鎌倉の由比ヶ浜は遠浅ですので、中国船などの大型船は着岸できません。そこで武蔵国の六油津に入港していたようです。ところが、貞永元(1232)年7月12日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「舟船着岸の煩いをなくすために、和賀江島を築きたい」(『吾妻鏡』同日条)と、鎌倉幕府に申請します。時の執権北条泰時は、これを喜んで許可し、支援します。こうして和賀江津の工事は始まります。しかし、土砂の堆積などにより、その維持は難しかったようです。そこで、技術的な指導を含めて関わったのが忍性を中心とした極楽寺、つまり律宗傘下の技術者集団です。この成功報酬が、先ほど見た「着岸船積荷1%の関米(関税)ということになるようです。
 これに対して日蓮は『聖愚間答抄』で、次のように忍性を批判しています。
忍性 -救済に捧げた生涯-』展 レポート【奈良国立博物館 】│寺社参拝 法輪堂 拝観日記
鎌倉を拠点に社会活動を行った忍性

極楽寺良観上人(忍性)は上一人より下万民に至て生身の如来と是を仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに実に以て爾也.飯島の津にて六浦の関米を取ては、諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取ては、諸河に橋を渡す。(『昭和定本日蓮聖人遺文』第1巻 353P)
 
意訳変換しておくと
(鎌倉)極楽寺の良観上人(忍性)は、多くの人から生身の如来と尊敬されている。彼のやり方を見ると、まことにおかしい。飯島の津や六浦で関税を取ては、諸国の道を作り、全国七道に関所を構えて、通行税を取り立てる。その銭で、諸河に橋を渡す。
ここからは、次のようなことが分かります。
①飯島津で船から徴収した米は、諸国の道の造成にも使われていたこと。
②作った道に関所を作って、通行税を徴収していたこと
③さらに、それを資金に橋を架けていたこと
 飯島の関米徴収は、現在の光明寺のところにあった末寺万福寺が担当していたようです。また、鎌倉の化粧坂には鎌倉時代には燈炉堂がありました。そこでは夜に火が灯され海上を進む船の目印として灯台的役割を果たすようになります。これに関わって、唐招提寺系の律僧琳海(りんかい)が建治元(1251)年に開いた大覚律寺は、兵庫県尼崎にあった河尻燈炉堂の管理をまかされていました。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉幕府からも鎌倉の海上交通管理を任されていた忍性が、鎌倉化粧坂の燈炉堂の管理も鎌倉末期には任されていたこと。
②全国の主要港に建立された律宗寺院は、港湾管理センターとしての役割を果たしていたこと。
 先ほど見た足利尊氏の文書には「飯島敷地升米ならびに嶋築および前浜殺生禁断等事」とあって、前浜での殺生禁断権を認められています。これは「前浜での全面漁業禁止」ではありません。浜での一般人の禁漁と、漁民に対しては 一定の金品を寺院に寄附することで、漁を認める権利です。つまり極楽寺は漁民に対しての漁場管理権を握ったことになります。これは以前にお話しした叡尊が弘安9(1286)年に宇治橋を修造した時に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた「漁業権」と同じ扱いです。
 現在、千潮時に残る丸石の多くは、相模川・酒匂川および伊豆海岸から筏などにで運ばれてきたものとされています。
研究者は、そうした石を採取した川などの通行管理権を握っていた可能性が高いとします。
 ここでは次の事を押さえておきます。
①鎌倉の内港和賀江津を叡尊教団の関東における拠点寺院・極楽寺が握っていた
②六浦津は、金沢称名寺が管理責任を持っていました。
こうして律宗西大寺教団は、中国との交易利益を求めて、瀬戸内海に進出してきます。その際に尾道や博多などには、港湾管理センターとしての西大寺末寺が建立されます。そして、そこには律宗独自のモニュメントして、十三重石塔や巨大五輪塔などが建立されます。瀬戸内海沿岸に残る巨大石造物は、このような西大寺律宗の教線拡大の動きの中で押さえていく必要があるようです。

今日はこのあたりで、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」

俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

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河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

いただき屋さん
いただきやさんの海鮮食堂(高松市)
高松には「いただきやさん」という海鮮食堂があります。取れたての活きのいい魚を、安価に食べさせてくれる食堂です。この「いただきやさん」のネーミングを、私は「いただきます・ごちそうさまでした」からとったものと思っていました。しばらくして気づいたのは「いただく」とは「頭の上に掲げる=頭上運搬」だということです。
瀬戸内地方では、頭上運搬を「カベル」「イタダク」「ササグ」という動詞であらわします。それが転じて「販女(ひさぎめ)」をさすようになったようです。その分布は次のようになります
カベリ  能地・竹原市忠海・二窓、尾道市内や生口島、今治市大島
カネリ  島根県・山口県の西沿岸
ササグ  徳島県三野町阿部、運ぶ籠がイタダキ寵
イタダク 高松市瀬戸内町西浜は、販女をイタダキさん、
     魚を入れた籠がサカナハンボウ
イタダキさんについては、こんな話が伝わっています。

イタダキさんの先祖は糸より姫といい、後醍醐天皇の皇女で南北朝の戦乱をさけて西浜に落ちのび、糸を紡いでくらしていた。やがて漁師と結婚して行商をはじめたとき、えらい役人が使う言葉で「魚御用、魚御用」といったため、人々は恐れて家の戸を閉ざしてしまった。そこで、糸より姫が言葉や服装などを庶民に合わせると、魚が売れるようになった

   こうして高松周辺では頭上に物を載せて運搬することを"いただき"と言い、その人を"いただきさん"と呼んでいたというのです。今では、その姿も次第に消え自転車などで鮮魚を行商する人を、糸より姫の伝説にちなんで"いただきさん" と呼んでいます。
 いただきさんの先祖 イトヨリ姫
いただきやさんの先祖 糸より姫
伝説の"糸より姫"は1970年に、西浜漁港に銅像として建立されています。今では働き者の良妻賢母の範として親しまれているようです。その流れを汲む海鮮食堂なので「いただきやさん」の食堂と名付けられたのです。

高松の頭上運搬については、 以前に高松城下図屏風で紹介しました。そこには48名の「頭上運搬」の女性が描かれていました。
高松の頭上運搬
高松城下図屏風に描かれた頭上運搬の女達
この部分は現在の三越辺りにあった大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行く様子が描かれています。しかし、これはどうも魚ではないようです。彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんの家まで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。ここでは、以下のことを押さえておきます。
①木管による水道が整備される前の高松では、水が桶で武家屋敷などに運ばれていたこと、
②水運搬は、女は「頭上運搬」、男は担ぎ棒という違いがあったこと。
③頭上販売が魚行商の「専売特許」ではなかったこと

瀬戸内海沿岸で魚を販売していた販女を見ておきましょう。
『金毘羅山名所図絵』には、塩飽の家船漁民のことが次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 

意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

 塩飽は人名の島で漁業権はありますが、近世最初頃には漁民はいませんでした。ここで「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師でなく、能地(三原市幸崎町)を親村とする家船の人びとのことです。彼らは「船をすみかとし」て塩飽沖で漁を行い、獲れた魚を「妻は魚を入れた籠を頭にいただき」とあるので、頭上運搬で丸亀城下で行商をしていたことが分かります。
『金毘羅参詣名所図会』には海の向こうの下津井(現倉敷市)の頭上運搬者の行商を次の挿絵入りでオタタと紹介しています。

下津井の販女
下津井の販女(金毘羅参詣名所図会)
夫婦一緒に漁にでて、魚はオタタが籠にいれて頭の上にのせて売りました。挿絵には、一人が蓋をあけて豊かそうな町人客に魚をみせ、もう一人は子供を背負って、頭上には竹網の盥をのせているオタタの姿が描かれています。
  以上からは高松・丸亀・岡山の城下町には、頭上運搬で魚を行商する販女がいたことを押さえておきます。

家船の本村である能地(広島県三原市幸崎町)も販女がいました。
男たちが手繰網でとった海産物を、妻が朝から農家をまわって穀物類と物々交換しました。ただし、テリトリーやお得意さんの農家は決まっていたので、得意先をあらそうことはなかったようです。販女が担ったカエコトによる交換も、後には現金販売へと変わります。販路も遠隔までひろがり、商うものも主人がとった海産物から仕入れた海産物へと「成長」していきます。さらには海産物以外の小間物や薬なども扱うようになり、さらなる販路拡大へと向かう場合もあったようです。
松山市の道後平野の東部には、三津浜や松前から海産物の行商がきました。
普段はオタタが「魚おいりんか」といって得意先をまわり、支払いはカケで盆や節季にまとめて米や麦と交換します。ただし、法事や結婚式などの慶事のときは種類と量が揃う三津浜から直接買い入れたと云います。高松の西浜の販女が町場で売るときは、家ごとに事情にあわせて魚の種類と量を選んでいたと云います。このように瀬戸内沿岸部の村では、日常の海産物は販女によって供給されていたようです。

太閤検地 タイムスリップ
検地や刀狩りの進む中で、姿を現す近世の城下町

江戸時代になると瀬戸内沿岸にはお城が築かれ、城下町が発達します。
それが日本海の海路と結ばれ廻船による海運が盛んとなると港町も発達します。こうして城下町や港町などの町場では、正月や盆、祭りの年中行事、人生儀礼はもちろん、もてなし料理など多くの機会に生魚を食べるようになります。生魚などの海産物の需要が高まると、町場近くに漁村ができ市場を中心に流通するようになります。これが海産物の表(おもて)の流通市場です。
 一方、漁村はもうひとつ販売ルートを持っていました。
それは後背地の農村部です。そこでは百姓の穀物類と漁民の海産物をカエコト(物々交換)する中世以来の交換経済が続いていました。現在、日本の三大朝市で知られている佐賀県唐津市の「呼子朝市」なども、起源は漁民と農民の物々交換にあると言われます。
 農民に比べて漁民のほうが物々交換に切実でした。漁民は生活を維持するためには、どうしても穀物が必要だったからです。そのため夫が獲った魚を女(販女:ひさぎめ)が農村に出向いて物々交換したのです。西浜の販女は行商相手によって、次のように売る魚を替えていたと云われます。
農村には、小網漁でとった雑魚やエビを農家と交換
城下町の家々には、一本釣りでとった魚を販売
これも城下町と周辺農村では、求められる海産物に違いがあり、それをいただき屋さんはよく知っていたというこでしょう。同時に海産物の流通ルートには、いろいろな種類があったことがうかがえます。

販女については、民俗学者たちがはやくから注目してきました。
理由のひとつが、「頭上運搬」です。このルーツが海洋民族に関わるものと考えられたからです。

頭上運搬の輪 男1人を楽々乗せて: 日本経済新聞

販女は海産物を入れた浅い丸盤や籠を、頭上にのせて、安定するように頭と盥の間に輪を置いていました。この運搬方法は、女性特有の古い運搬法といわれ、次のような史料に登場します。
①絵画では選択場面が描かれた平安時代の『扇面古写経』
②文学では『源氏物語』に京で頭上運搬しながら商いをする販女
①の絵図を見てみましょう。
扇面古写経」に描かれた洗濯場面
平安時代の扇面古写経
この絵は当時の洗濯風景を描いたものですが、器物や衣裳、習俗などに関する情報がぎっしり詰まっていて研究者にとっては「宝の山」のようです。幼児や成人女性の髪型スタイル、洗濯の仕方など、ながめているだけでも興味が尽きません。⑱に描かれているのが頭上運搬の桶(籠?)のようです。これに洗濯物を入れて運んでいたのでしょうか? それとも高松と同じように、水を運んでいたのでしょうか?   
 これと同じようなものが一遍上人絵図にも出てきます。
一遍上人絵図 頭上運搬
一遍上人絵図
  何を運んでいるのかまでは分かりません。しかし、中世の絵巻物に描かれた女性の運搬方法は、みな頭上運搬だという研究報告もあります。どうやらこの国では近世までは、女性は頭上運搬が当たり前だったようです。特別な運搬法ではなかったのです。

伊勢物語 奈良絵本の頭上運搬
        伊勢物語に登場する頭上運搬者

1960年代前半に、文化庁が全国約1500か所で緊急民俗資料調査をおこなっています。それを交易・運搬の項目について、図と表で再整理されたものが次の地図です。

販女が行商する物品

 女性が行商していた品からは次のようなことが分かります。
①全国的に沿岸では海産物(魚・海藻)を行商していること
②山の産物(薪・炭)とその他(小間物・薬.・花)は全国的にみてもわずかであること
 瀬戸内海では、ほとんどが海産物であったことが分かります。薪や炭・花などの山の産物については、京都周辺の大原女の行商がよく知られていますが、全体から見ると少数派になるようです。1960年代には、海辺の女達による周辺農村への海産物の行商が、その中心だったことを押さえておきます。

大原女の頭上運搬
大原女(観光写真)
それでは、彼女たちはどんな方法で行商する品を運んでいたのでしょうか。
販女の運搬方法

上の表からは次のようなことが分かります。
①背負運搬と肩担運搬は東日本に多い
②頭上運搬は西日本に多く、瀬戸内海・琵琶湖などの沿岸地帯に集中する傾向が強い
③日常生活でも頭上運搬を行うエリアは、沿岸地帯に集中する。

調査が行われたのは1960年代前半は、高度経済成長の入口で自動車が普及していく時代です。輸送手段が自動車にかわり、販売の担い手が女性から男性へと変化していきます。そうしたなかで女性の行商が続いて行われているのは、市場からはみ出た品で、流通機構のからこばれた不便なわずかな場所に限られていたことが推測できます。

式根島の頭上運搬
式根島の頭上運搬
近世になって、女性の頭上運搬が姿を消して行くようになるのはどうしてでしょうか?
ある民俗学者は次のように考えています。
頭上運搬がおこなわれたのは、産物を神祭りに捧げいただく敬虔な心意を表わした運搬法だったからだ。そこには宗教的な理由があった。それが信仰心がうすれて、より有効な運搬法が一般に普及してくると、頭上運搬は一部の地域だけに遺風をとどめながら衰退していった。それは、実際に、頭上運搬から肩おい運搬、背おい運搬に変化していく地域が多いことからも推測できる。

 確かに、販女が神祭りのときに特別な存在であったという伝承は各地に残っています。
愛媛県伊予郡松前町の販女、オタタさんは、松山地方の農村が早害になると、みな潔斎して海水を汲んで頭上にいただき、川上の雨滝に参って海水を注ぎいれて、雨を祈念したといいます。しかし、これでは「合点だ!」とは私は云えません。よく分からないとしておきます。

DSC02389カベル 高見島除虫菊
除虫菊を「カベル」 高見島 1960年代

以上をまとめておくと
①日本列島には近世までは、女性がものを運ぶ場合には「頭上運搬」が行われていた。
②それが近世になると瀬戸内海沿岸部や島嶼部だけに見られる遺風となっていった。
③瀬戸内海では漁村の女性達が行商の際に、「頭上運搬」を続けたので目立つ存在となった。
④それに注目した民俗学者が「頭上運搬のルーツ=海洋民族説」と結びつけたこともあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

瀬戸内海

参考文献
印南敏秀    海産物の流通と行商の  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会
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中世の瀬戸内海の海運活動では、為替決済が行われていたことは以前にお話ししました。
古代には、地方の人々は指定された特産物を中央の支配者に直納していました。しかし、中世になるとモノではなく銅銭(カネ)で納入するようになります。地方の人々が産物を販売して得た銅銭を支配者に送付し、支配者の方は入手した銅銭で必要な物を中央で購入するようになったのです。これは、社会的分業と交換が進展していたことを意味します。
 それなら「銅銭建て納入」ということで、瀬戸内海を大量の現金を積んだ船が行き交ったのかというとそうではないようです。これは輸送リスクが大きすぎます。そこで登場するのが「為替」です。商人が地方で銅銭と交換するかたちで放出した為替文書を荘園が購入し、それを領主に送付し、領主が中央で換金するという仕組みが生まれます。それが実際にどのように運用されていたかを今回は見ていくことにします。
『厳島神社蔵反古裏経紙背文書』は、本山寺の本堂が建立された1300年頃の文書で、京都方面と歌島(今の尾道市向島)との間でやりとりされた手紙が中心です。

反古裏文書(紙の裏に書かれた書面)
紙は貴重品だったので、片方だけ使って捨てたりせずに、先に書いた文書を反故(ほご。ひっくり返して無効化)として、裏面に新たな文書を書いて利用していました。反故にされるような内容なればこそ、日常的な生活のリアルな情報が記録されているともいえます。宮島の反故文書には、多くの為替記事があるようです。それを見ておきましょう。中世の為替は、次の2種類に分けられます。

①「原初的替銭のしくみ」
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)
替米

為替取引とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」と言われています。「替米」は、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。中世になると為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれるようになります。
為替

 この場合、為替をやりとりする者同士には信頼関係があることが前提になります。この信頼関係をもとに、文書が次の人へと手渡されていき、その上で最終的な払出人と文書の持参人の間にも信頼関係がある場合に、払い出しが行われます。しかし、このシステムでは、払出人が為替を持ってきた人を知らない場合には、支払いは行われません。
そこで②「割符」というシステムが登場します。
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

このしくみでは、最終的な払出場面のおいて信頼関係がない(払出人が持参者と面識がない場合)でも払い出しができます。なぜならば、振出人が割符を振り出す際に、「もう1つの紙切れ」との間で割印を施しておき、その「もう1つの紙切れ」の方を振出人自身(あるいはその関係者)が直接払出人に持ち込めば、払出人は割符と片方文書との割印が合致すものを見て、面識のない持参人が持参した割符が本物であることを確信できるからです。この「もう1つの紙切れ」のことを、片方(カタカタ)と呼んだようです。

SWIFT動向(ISO20022)について | 2021/10/27 | MKI (三井情報株式会社)
割符屋の役割と割符発行

この2つの為替システムの併用版が、「明仏かゑせ(為替)に状」(『鎌倉遺文』24368号文書)に次のように登場しています。

ひこ(備後)の国いつミ(泉)の庄よりぬい殿かミとのヽ御うちへまいる御か□せ(為替)にの事
合拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、
さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

意訳変換しておくと
備後国泉の庄のぬい殿からヽ御うちへまいる御か□せにの事
拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

 ここからは現在の広島県庄原市にあった備後泉庄から京都の領主に送金するために、為替つまり替銭が利用されたことが分かります。最後に登場する「明仏」は、備後国の金融業者で京都の荘園領主とは面識はなかったかもしれません。あるいは、面識があったので、荘園領主から現地での年貞の取立をまかされていたのかもしれません。それについては、これだけでは分かりません。
 この文書の背景には、次のようなやりとりがされています。
①荘園の使者(oR領主)は、備後国で明仏に10貫文(銅銭1万枚)を支払う。
②これに対して明仏は、京都綾小路の宿での払い出しを、淀の魚市次郎兵衛尉に委託する文書である「替状」を使者に渡す。
③その後、使者は淀まで行って魚市次郎を訪ね、京都の錦小路での払い出しを受ける。
④そこで使者は、備後での人金分10貫文を京都で入手する。
ちなみに、当時の米1石の値段が大体1貫文だったようです。10貫文は、米10石に相当します。当時の米10石は、平安時代末期の基準で考えれば、今の米6石(米900 kg)で、現在の米価格を10 kg=4000円で計算すると、10貫文は現在の36万円相当になるようです。
お寿司の一貫は? Part.4(最終回) | 雑学のソムリエ

   ただし、今は米の価値が昔に比べて下がってしまいました。当時の米10石は、もう少し当時は値打ちがあったと研究者は考えています。
 もう一度史料を見てみましょう。この時に3貫文分の割符が同時に送られています。これはどうして分けて発行しているのでしょうか。その3貫文分は魚市次郎が割符屋に持ち込んで、片方文書との間で施された割印が、割符の割印と合致すれば、換金が可能です。割符の方はそれでいいのでしょうが、問題は残り10貫文の方です。これは知らない人間には払い出せないというしくみのはずです。魚市次郎は安心して払い出すことができるのでしょうか。それとも、明仏の書いた文書(替状)を持参してきた使者と面識があったのでしょうか。

この問題について、研究者は次のように考えていきます。
①もし面識があるならば、使者の実名が記されていれば十分で、文書の中に備後国云々まで書く必要はない。
②「御うたかい候ましく」とあるのは、逆に疑わしかった証拠。使者が本当に荘園の使者なのかどうか分からなかった。
つまり、魚市次郎と使者には面識がないことになります。にもかかわらず、明仏が払出の依頼をできたのはなぜでしょうか。

この謎を解く手がかりは、替状と割符とが一緒に送られている事実にあると研究者は指摘します。
つまりこの替状は、単独で持ち込まれたのでは本物かどうか分かりません。しかし、魚市次郎のところに同時に持ち込まれた割符が割符屋で木物と判断されて払い出されれば、魚市次郎は割符屋を通じて、割符主が明仏と取り引きをしたかどうかが確認可能になります。たとえその確認ができなくても、魚市次郎は、筆跡からみても自分の知り合いの明仏のものと思えるその文書は、やはり本物だろうという判断がしやすくなります。
 このように明仏は、魚市次郎に見知らぬ使者に対する払い出しを依頼する際に、額面10貫文の割符を調達できない場合でも、当面入手可能な3貫文の割符を入手して替状に添えて送れば、魚市次郎は払い出してくれるはずだと考えたのです。ようするに、この割符は、持参人と払出人との間の信頼関係がないばあいには機能しない「原初的替銭」に対して、その「弱点」を補完するために利用されているということになります。

こうしてみると、1300年代初めには、為替はさらに進化していたことが分かります。
瀬戸内の物流を担う商人たちが活動するなかで、それを支える金融業者が各港に現れ、円滑な資金移動を支える金融ネットワークが形成されていたことになります。為替が瀬戸内海を結ぶ遠隔地交易の発展を促していたとも云えます。
 為替文書が、交易商人によって生み出されます。最初は「疑わしい紙切れ」だったかもしれません。それを瀬戸内の物流活動が「有価文書」に成長させ、さらには紙幣へと発展せしめることになると研究者は考えています。
 1500年以降に割符はいったん消滅するようです。為替の発展と紙幣の登場は直線的ではないようです。しかし、中世の為替システムは、大きな視点で見ると日本金融のスタートとも云えるようです。

DSC07725
大野祇園神社(三豊市山本町)

最後に讃岐三豊市山本町にあった大野荘で使われていた為替システムを見ておきましょう。

大野庄は、京都祇園宮の社領でした。そのため京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)が産土神と勧進され、毎年本宮の京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。『八坂神社記録』(増補続史料大成)(応安五年(1372)十月廿九日条)には、次のように記します。
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

意訳変換しておくと
讃岐の西大野から伊予房が上洛してきた。今年の年貢は二十貫だという。この内の一貫は讃岐での必要経費、又一貫は上洛にかかる経費で差し引くという。伊予房とともに近藤氏の代官が同道して、割符は運んできた。しかし、今日は近藤氏の役人は所用で来れないので、明日諸事務を行うつもりだと伊予房から報告を受けた。

 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。一行目に「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。
  伊予房という人物が出てきます。この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来て、京都に帰ってきたようです。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、年貢から差し引かれるようです。
DSC07715
大野祇園神社(須賀神社と八幡神社の2つの社殿が並んでいる)

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」とある近藤という人物が西大野荘の代官です。

近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符(割符:さいふ)」で年貢を持参して一緒に、上洛してきたようです。
ここまでを整理すると、
①荘園領主の八坂神社の 伊予房が、年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符(割符)」で、京都に持参した。
  ここからは、麻の近藤氏が「割符」で八坂神社に年貢を納めていたことが分かります。この割符は、観音寺などの問屋が発行しことが考えられます。その「割符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやったようです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符(割符)」には、次のようなことが書かれていたと研究者は考えています。
①金額 銭20貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
 ちなみに大野荘の代官を務めた近藤氏は、その後押領を繰り返すようになり、荘園領主の八坂神社との関係は途切れていったようです。

参考文献 井上正夫 中世の瀬戸内の為替と物流の発展 瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
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   瀬戸内海の港について、これまでに何度もお話ししてきました。しかし、大きな流れの中で捉えることは出来ていませんでした。そんな中で瀬戸内海の港町の歴史をコンパクトにまとめている文章に出会いましたので、「読書ノート」としてアップしておきます。テキストは「市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海」です.

瀬戸内海

 
港と言われると、船が入港して停泊する場のことを思い浮かべます。しかし、古代には港という言葉は使われず、「水門・津・泊・船瀬」などの語が使用されていたようです。それぞれを見ておきましょう。
  水門は「水戸や江戸」と同じで河口にできた船着き場のことです。
その「みなと」が漢字で表記されて「湊」になったと研究者は指摘します。紀の川の河口に立地する和歌山市の一角に「湊村」があります。これは城下町になる前の和歌山が、港・湊を基礎に発展してきた例のひとつです。

津は川や海に面した湾・入江に成立した渡し場、船着き場を指す言葉でした。

宇多津地形復元図
中世宇多津復元図(聖通寺山との間に大きな入江があった)

宇多津は、大束川の河口とそれを包み込む湾にありましたので、宇多津と呼ばれたようです。袋状の湾からなる兵庫県の室津や広島県福山市の鞆の浦は津の代表です。

泊も湊・津と同じく船の着岸する場を意味します.
しかし、重点は停泊地という側面にあるようです。
福原京と大輪田泊(おおわだのとまり) | 自然に生きる
大輪田の泊と福原京
泊は、平清盛が整備した大輪田の泊(神戸市)がその代表になります。清盛が整備した港に、音戸の瀬戸(広島県音戸町)がありますが、ここは倉橋島との間の水道があります。尾道や瀬戸田も水道に成立していて、瀬戸内海の港湾のひとつの特徴のよううです。
 10世紀に編纂された『延喜式』には、主として川湊を指す言葉として船瀬が見えます。しかし、時代が下ると次第に、湊・津・泊の違いはなくなっていきます。中世後半には、どれも区別なく港湾を指す言葉として使われ、江戸期以降には港の表記が一般化します。

以上を整理しておきます。
①古代には「港」は使われずに、「水門・津・泊・船瀬」が使用されていた
②中世後半なると、その区別がなくなった
③江戸期には「港」が一般化する。
 港が登場したのは、いつなのでしょうか?
人々が生活のために川を渡り、海に漕ぎ出すことが多くなれば、船の発着する場が必要になります。縄文時代には丸木舟・刳り舟が登場するので、自然地形を利用した原初的な港があったはずです。
弥生時代の船-大航海時代のさきがけ- : 御領の古代ロマンを蘇らせる会
弥生・古墳時代の船
 弥生時代になると、刳り船の他に準構造船も現れます。倉敷市の上東遺跡では、船着き場らしい遺構も出てきていますが、その数が多くないので分からない事の方が多いようです。
古墳時代になると、讃岐から播磨や摂津に古墳の石棺などが運ばれています。ここからは物資輸送のために、大きな準構造船が瀬戸内海を往来していたことが考えられます。また、漁携や小規模な物資などを運ぶ小さな船も瀬戸内海を行き来していたのでしょう。当然、そこには船が寄港する港が各地にあったはずです。それは、大きな古墳に葬られる首長が管理る港から、民衆が日常的に使う地域の港まで階層性を持って、海岸線にあったと思います。この時代の船着き場や遺構は、残っていまでんが、河口や入江などに造られていたと研究者は考えています。

律令制の時代になると、瀬戸内海では海運・水運がかなり発展していたようです。
律令国家は最初は、陸運を重視する政策をとって、平城京や平安京を中心に7つの幹線道路が整備されます。そのうち瀬戸内地方では、
①中国地域南岸を東西に走る山陽道
②淡路島から阿波・讃岐・伊予を通って土佐国府に通じる南海道
南海道はのちに四国山地を横断するルートが開かれますが、これらの幹線は、畿内と各国の国府を結び、街道沿いにはは駅が置かれ、馬やその飼育に当たる人、宿泊・休憩施設などが設けられました。国司や朝廷の使者の移動、調庸をはじめとする貢納物輸送などに使用されていました。

5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(
鎌倉時代の船

律令制が崩れる10世紀以降になると、地域の実情に応じて柔致な交通路の選択が許されるようになります。

そうすると、瀬戸内海沿岸では便利で安価に物資や人を大量輸送できる海運・水運が改めて評価されるようになります。こうして、ほとんどの京都への貢納品は船で運ばれることになります。
どんな港が瀬戸内海沿岸には、現われたのでしょうか?
第一は、国府津・国津などと呼ばれる国衙管理下の公的な港です。
これらの港は、留守所と呼ばれるようになった国衛保護のもとに、山陽道・南海道の最大の港になっていきます。そこには石積で築かれた船着場や、船の発着を管理する人や施設、物資を保管する倉庫なども姿を見せるようになります。後には、隣接して市が建てられるようになります。
6松山津
讃岐国府津の林田・松山
讃岐の国府津のついては、綾川河口の林田や松山などに、機能を分散させながらあったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
第二は、郡単位に置かれた郡衛の付属港です。
律令制が崩れると郡衙も変質し、国司の子孫や武士化した郡司の子孫らが管理・運営するようになります。彼らは国府津に準じて沿岸部や河川の郡の港を整備し、船着き場や管理施設を持つ港も現れます。この例としては、多度郡の弘田川河口の白方湊や、三野郡三野湾の三野津が考えられます。
宗吉瓦窯 想像イラスト
三野津(宗吉瓦窯から藤原京への積みだし)
第三は、荘園の港です。これは11世紀以後のことになります
11世紀の院政期になると、院・天皇家や有力公家・寺社に荘園が寄進され、各地に荘園が増えます。荘園の年貢を京都の領主に輸送するためは、その積出港が必要になります。例えば、当時の国際港湾都市であった博多の西にある今津は、博多に対す新しい港であることを意味する名称です。、ここは12世紀に仁和寺領恰土(いと)荘(福岡市)の港として設置されたものです。

 尾道は、12世紀に後白河院を本家とする備後国大田荘(広島県世羅町)の倉敷(倉庫の敷地)に指定されたのが、港に発展する出発点です。こうして、そこに本家の氏神が勧進され、保護を受けた寺院が姿を現します。そして本家からの保護を受けた寺社は、港の交易センターの機能を果たすようになります。僧侶は、港や交易ネットワークの管理者でもあったようです。対外貿易にもつながるこのネットワークは、莫大な富をもたらすようになります。各宗派は瀬戸内海沿いに布教ラインを伸ばし、重要な港に拠点寺院を構えていくようになります。
第四は地域の必要から成立した港です。
大きな川の河口に、港が出来て大都市に成長するのは世界中で見られることです。大河川は河川輸送の最大の集積地の役割を果たすからです。人とモノとカネが集まってきます。これは瀬戸内海に流れ出す川の河口でも見られます。また、山地と海をつなぐ道路の海側の起点にも、港が現れます。こうして瀬戸内海沿岸地域には、大小さまざまな港が姿を見せるようになります。さらに、船の運航上、潮待ち・風待ちのためのための港も必要になります。現在では「離島」と呼ばれる島々にも港ができ、瀬戸内海航路や廻船のネットワークの中に組み込まれていきます。

 中世の航海法は、安全重視です。船から陸地が見えるところを目指し、隣り合った港に立ち寄りながら目的地に向かいます。沿岸部に並び立ち、島々にも散在する港は航海の安全を保障するためには必要な設備だったのです。目的地に一番最短距離で、一番早くというのは、動力船が登場する近代以後の論理です。

瀬戸内海の港町が発展するのは14世紀以後のことでした。
博多や兵庫(大輪田)など、比較的早く港町に発展したところもあります。しかし、瀬戸内沿岸の港が港町に発展するのは、案外新しく14世紀以降の経済発展によるもと研究者は考えています。
兵庫湊が港町に発展するのは、京都の発展に伴うもので13世紀にさかのばります。14世紀後半以降の物流の増大は、瀬戸内沿岸に新たな港を生み出すことになります。新しく登場する港を挙げておきましょう。
備前の牛窓・下津丼、
備後の尾道・輌
安芸の十日市
周防の三田尻・上関
讃岐の野原(現在の高松)・宇多津
野原復元図
野原(高松)港復元図

これらの港町の立地条件としては、中国山地から南下する河川や道路、讃岐山脈から流れ下る香東川などの河川や道路の結び目にあります。内陸から運ばれた物資が川船や馬借たちによって集められ、そこで海船に積み替えて各地に運ばれていきます。港は最大の物資集積地になります。港町は物資の集散地として、内陸から来たものは海へ、海から来たものは内陸へ運んでいく拠点となっていたことを押さえておきます。
DSC03842兵庫入船の港
野原(現高松港)の動き

 中世港町の構造の特色はなにか?
中世港町の尾道は、備後国太田荘の倉敷から発展した尾道は、次のような複数の集落から発展します。
①浄上寺とその麓の堂崎
②西国寺とその麓の上堂
③その西側に成立した御所崎
備前の牛窓も関・綾・紺など複数の集落からなっていました。讃岐の宇多津や綾川河口の林田湊なども同じことが云えるのは、以前にお話ししました。中世の主要な港町は、ほとんどがこうした複数集落の寄り集まりでできています。そして、それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かってきました。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、船に乗りこんでいたのです。つまり、船の運航は陸上での生活集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

法然上人行状絵図34貫 淀川を下る船
法然上人絵図の室津 塩飽に向かう法然が乗った船
 
もうひとつ押さえておきたいことは、港町は地域の権力から自立していたことです。
堺が自治都市であったことは有名ですが、瀬戸内海の港町にも、その中や周辺に武士団の館跡は見当たりません。尾道・牛窓・下津井などが、領主権力により直接支配されたことはなかったと研究者は考えています。確かに16世紀上を過ぎると、牛窓や下津井にも地域権力の城が造られます。これは権力が富の集まる港町に寄生するようになったことを示します。しかし、これで「支配下に置いた」とは云えないようです。
中世の和船2
中世の船
 江戸時代になると、幕府や藩の直轄港に指定される港も出てきます。それでも、港町の自治が全面的に否定されたことはありませんでした。それは、宇多津などにも云えることです。
 しかし、城下町最優先政策の結果、それまで重要な港湾機能を持っていた港町から、その一部が取り上げられ、城下町に持って行かれたり、主要住民が強制移住させられたりはします。それは藩主による城下町重視の「地域経済圏の再編」策のひとつであったようです。宇多津や多度津の機能も近世始めに大きく変化したようです。

 北前船の運航によって日本海沿岸と瀬戸内海の港町が大いに発展し、港町が日本の都市の代表となります。しかし、これが明治半ば以後に鉄道が姿を現すようになると大きく変化することになります。その中で、博多・下関・兵庫など主要な港町は、新たな役割を担って発展します。しかし、次のような状況が海運業界を襲います
①廻船輸送から鉄道輸送に主役が代わること
②船の動力化と大型で、目的地に直行
こうして主要道路や鉄道からから外れた港町は、瀬戸内海の多くの港町は衰退に向かうことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海
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 周防大島沖家室地下

周防大島の姿は、頭を西にして、尾っぽを東に振る金魚に例えられるようです。二つに分かれる下側のちぎれた尾っぽの先にくっついているのが沖家室島です。この島は、九州諸大名の参勤交代のときの寄港地で、海の荒れたときには御座船がここに船を着け、泊清寺を宿所にしたといいます。泊清寺は、海の本陣だったことになります。そして、幕末の頃には、千軒近い民家のある賑やかな浦だったようです。今回は、「宮本常一 私の日本地図 周防大島」に導かれて、沖家室を訪ねて見た報告です。
P1200863
沖家室大橋
島の南側の車道を走ってくると、島にかかる橋が見えてきました。
橋を渡った橋桁の下に、ドッグ跡のようなようなものがありました。
P1200878

説明版には次のように書かれています。
P1200879
御船倉跡
これを要約しておくと
①沖家室島は阿波からの一本釣り漁法をはやくから取り入れ、浦(漁港)として発展してきたこと。
②さらに九州の諸大名の参勤交替の御座船の寄港地ともなり、津(交易港)としても成長したこと
③そのために毛利藩は、沖家室島に船番所を設置して、公用船を常備させ行き交う船の管理監督を行ったこと
④18世紀のサツマイモの普及によって、幕末には人口が十倍に増え3000人近くになったこと
⑤そのため集落背後には、山の上までサツマイモ畑が開墾され「耕して天に至る」光景が見えたこと
こうして沖家室は、瀬戸内海屈指の漁村で、家室(かむろ)千軒といわれるようになります。
P1200881
沖家室の早舟
ここには早舟が常備され、火急の時には対岸の地家室や、本土の大畠まで海上を漕いで知らせたと書かれています。この港が毛利藩の重要拠点であったことが分かります。

それでは、中世の沖家室はどうだったのでしょうか?
戦国時代後半の16世紀終り頃には、ここは無人島でした。それが伊予河野氏の滅亡によって、その家臣(海賊衆)たちがこの島に「亡命」して来て住むようになります。本浦の泊清寺(はくせいじ)は、寛文三(1664)年頃の創建ですが、よく整理せられた過去帳がのこっていて、家々の系譜を正しくたどることができます。それは年代別だけでなく、家別のものも作られているからです。伊予からこの島に渡って来た古い家には、石崎・友沢・柳原などがあります。

P1200880
沖家室の本浦と洲崎 黄緑は段々畑の分布

地図を見ると島には、本浦と洲崎の二つの集落(地下)があります。文字の通り、本浦の方が早く開けます。上の地図を見ると、本浦の山裾がほぼ等間隔に海岸から山に向つて分けられ、段々畑が重っています。いまは、自然に帰って畠は見えませんが林の中には、段々畑の跡が残っています。近世初期には、この縦割の数と同じだけの人家があった、つまり、初期には移住者に均等に土地が配分されたと研究者は考えています。これは、以前にもお話ししましたが瀬戸の島々の初期開墾時には良くみられる光景です。その区画を数えると40少々なので、はじめは40戸足らずの人家によって開墾がはじまったと研究者は推測します。
沖家室本浦

それでは近世初期以前には、この島には人はいなかったのでしょうか?
伝承では、昔は海賊がいたと伝えられます。実際に、古い墓が本浦の家の上の畑の隅にあるようで、研究者は五輪搭のかけらをいくつも採集しています。この中には「国東塔の変形」のようなものもあると研究者は指摘します。さらに石質は凝灰岩で国東半島から来たもので、年代的に見れば江戸時代より古いものだと考えています。そうだとすれば、沖家室島は、中世には国東塔を残すほどの勢力を持った者がいたこと、そして国東半島と深い関係をもっていたことが推測できます。それがいつの頃かに、無人島になったようです。浮島とおなじように、厳島合戦のとき陶氏に属し、敗れて毛利氏によって島を追われたという説を研究者は考えています。そうだとすれば、それから50年ほど経って、江戸時代になって平和な時代になってから伊予からの河野氏や村上氏の海賊衆の末裔が住み着くようになったのかもしれません。
 無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
 元禄11(1698)年になると、この島には鼠が異常発生して畑作物を食いあらし、島民が飢餓に襲われます。そこで庄屋の石崎勘左衛門は、紀州(和歌山県)からイワシ綱を招いてイワシをひいて飢をしのぐ方策を実行します。この計画はうまくあたります。こうしてこの島は「農業+漁業」のミックスした島として成長していくことになります。これに拍車をかけたのが、この島が九州諸大名の参勤交代のときの寄港地になったことです。海の荒れるときなど大名は、ここに船を着け、泊清寺を宿所にします。泊清寺は、「海の本陣」の役割を果たすようになります。

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沖家室島の案内図
本浦の泊清寺に行って見ることにします。
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泊清寺
港からの坂道を登るとすぐに見えて来ました。


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泊清寺の井戸
大きな石垣の上に境内はあります。その下にはしっかりとした井戸が見えます。瀬戸の港にとって、井戸は最重要なものでした。これを制する者が地域の有力者です。寄港する船もきれいな水を求めます。それを提供できる勢力が船乗りにとっては、第1の交渉相手となることは古代以来の定めです。この井戸を見るだけで、この寺の果たした役割がある程度はうかがえます。
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泊清寺山門
山門は竜宮城をイメージするような形で「海の寺」であることを主張しているように思えます。P1200920
泊清寺本堂
今の視点からすると周防大島の中でも辺境の地にあるお寺にしては立派と思ってしまいます。しかし、瀬戸内海が海のハイウエーであった時代は、人とモノの流通路にこの港はあり、多くの富も出入りしたようです。
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泊清寺
本堂横には「参勤交替本陣跡」の石柱が建てられていました。「海の本陣」としての格式を備えた寺院だったようです。この港が大名の御座船の潮待ちの際の寄港地だったことを裏付ける史料を見ておきます。
肥後熊本藩は「海の参勤交替」を行っていたことは以前にお話ししました。阿蘇を越えて大分から船で瀬戸内海を渡っていました。藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を以前に見ました。彼の乗る船は、桜満開の旧暦3月8日(新暦4月上旬)に大分を出港して、そのまま北流する潮の流れに乗って、周防上関に入ります。そして、満潮で東流する潮に乗って、周防大島周辺を以下のように航海していきます
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室(沖家室)の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路と伊予の島々

 上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。

上関 → 大津浦 → 加室(沖家室) → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

この時は沖家室には、潮待ちのために入港し滞船しただけで、
上潮を待って夜中に出港しています。しかし、非常時には上陸し、その際には泊清寺が本陣として使用されたようです

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泊清寺のフカ地蔵堂
この本堂の隣に建っているのがフカ地蔵堂です。この地蔵さまは、いろいろの伝説があります。その一つを紹介すると

昔、下関に山形屋庄右衛門という商人いた。その娘と船で上方から戻って来る途中、沖家室の沖で船がとまって動かなくなった。よく見ると大きなフカが船底についている。これは船に乗っている者をほしがっているのではないかと人々はささやきあった。そこで誰をほしがっているのかそれぞれ手拭を海にうかベてみた。すると山形屋の娘の手拭が沈んでしまった。親子は大変おどろき、かなしんだ。船に乗っている人の一人が、「沖家室にはフカ地蔵といって霊験あらたかな地蔵様がある。その地蔵様に祈ってみてはどうか」と言った。そこで親子の者は 心になって祈り、「命を助けて下さるなら、孫子の代まで代々地蔵様を造って寄進します」といった。するとフカが船からはなれ、船は動き出した。そこで親子は、泊清寺のフカ地蔵にお礼参りして、下関へ帰ってからから石地蔵を送り届けた。そして代の変るごとに地蔵の寄進が続いたので、、いまは五体ならんでいる。最も新しいものは昭和14年5月とある。地蔵様は、真中のものが一番大きい。だんだん小さくなっているのは信仰心のうすれてきたのかもしれない。と島の人達は噂しているといいます。

ここからは庶民たちの信仰心を捉える流行神を作り出す「経営努力」を、この寺が続けていたことや、瀬戸内海の交易ルートの要衝にあって、広域的に多くの信者を抱えていたことがうかがえます。

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沖家室の漁師は、一本釣りでタイとハマチを釣るのが上手でした。
タイは沖家室の沖にもいましたが、漁期をすぎると、 隧灘の魚島へ釣りに出かけます。そこに鯛が集まり出すからです。中には讃岐の与島まで釣りにいく者もいました。塩飽では6月頃まで釣れるからです。それから宇和島沖へも行きます。戻って来ると盆です。盆から秋祭りまでの一月は島の付近で釣り、祭がすむと北九州へ下っていきます。
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本浦港
 博多組、唐津組、伊万里組などという組がありました。明治になると壱岐や対馬へも進出するようになります。さらに台湾組というのもできて、台湾の南端ガランピにまで進出し、分村を作っています。明治10年頃からはハワイにも渡って、ホノルルを中心にした漁場は沖家室人が開いたともいわれます。
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本浦港
 漁師たちは一人前の漁師になるために親方につきます。親方が、こ一人前と見れば漁船を造ってやって独り立ちさせます。とは云っても船代は親方からの借金です。米や薪も親方に借ります。そのため釣って来た魚は、全て親方に渡します。親方は盆と暮れに勘定して釣りあげた魚の価格から貸した金や米塩代を差引いたものを漁師に渡すという流儀です。これにはいかがわしい勘定もあったようで、「搾収」もあったようです。しかし、借金することのできることを誇りに思っていたくらいの風土ですから、漁民たちはあまり苦にせず、問題にもならなかったようです。

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沖家室島の本浦港へ帰ってくる漁船

旅することを苦にしない人たちなので、ハワイがよいとなると皆押しかけていきます。そしてホノルルで漁業に従った者もいましたが、甘藷畑で働き、そのままハワイにとどまった人達も多かったようです。それでもふるさととの心の縁はきれないで、ふるさとの寺や神社の修復工事の時には、ハワイヘ寄付を依頼すると、多額の金が送られて来たといいます。
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蛭子神社
今度は、港を見下ろす所に鎮座する蛭子神社に行ってみましょう。
この島も氏神様のすぐ近くに小学校が作られていたようです。子ども達は神社の境内も含めて遊び場にしていたことでしょう。

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本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
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狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。

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その礎石には、「高雄沖家室同郷会」と刻まれています。高雄とは、台湾の台北の外港です。戦前には、沖家室の同郷会があり、故郷の鎮守に立派な狛犬を寄進する力があったことが分かります。
   神社の玉垣にも海外在住者の名前が多いのに驚かされます。敗戦後の物不足の時も、ハワイからいろいろの物を送ってくるので物資には困らず、あり余ったほどだったという話が伝わっています。

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沖家室本浦の高札場

沖家室は、お寺や神社をめぐっていても、いろいろな発見がある所でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

私の日本地図 9 瀬戸内海 Ⅲ周防大島 宮本常一著作集別集(宮本常一 香月洋一郎 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本 の古本屋

参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
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伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
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           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
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箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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  丸亀平野は浄土真宗王国とも云われ、多くの人たちが真宗信者です。持ち回りで開かれる隣組の「寄り合い(月の常会)」でも、最近まで会の最後には正信偈があげられて、お開きとなっていました。親戚の葬儀や法要も真宗僧侶によって進められていきます。そんな地域に住んでいるので、四国全体も浄土真宗が支配的なエリアと思っていました。でも、そうではないようです。浄土真宗の信者が圧倒的に多いのは、讃岐だけのようです。どうして、讃岐に浄土真宗のお寺が多いのでしょうか。下表は、現在の四国の宗派別の寺院数を示したものです。
四国真宗伝播 四国の宗派別寺院数
四国の宗派別寺院数一覧

ここから分かることを挙げておきます
①弘法大師信仰の強い四国では、真言宗寺院が全体の約1/3を占めていること。
②真言宗は四国四県でまんべんなく寺院数が多く、讃岐以外の三県ではトップを占めること
③特に阿波では、真言寺院の比率は、70%近くに達する「真言王国」であること
④真言宗に次いで多いのは真宗で、讃岐の真宗率は50%に近い。
⑤伊予で臨済・曹洞宗などの禅宗が約4割に達する。これは河野氏などのの保護があったため
⑥土佐の寺院数が少ないのは、明治維新の廃仏毀釈影響によるもの

④で指摘したとおり、讃岐の浄土宗率は46,6%にもなります。どうして讃岐だけ真宗の比率が高いのでしょうか。逆の見方をすると③の阿波や⑤の伊予では、先行する禅宗や真言勢力が強かったために、後からやって来た真宗は入り込めなかったことが予測できます。果たしてどうなのでしょうか。讃岐への真宗布教が成功した背景と、阿波や伊予で真宗が拡大できなかった理由に視点を置いて、真宗の四国への教線拡大が、どのように行われたのかを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。
まずは、伊予の真宗寺院について見ていくことにします。
伊予には真宗伝播に関する史料がほとんどないようです。その中でも
古い創建由来を持つ真宗寺院は、芸予諸島に多いようです。四国真宗伝播 川尻の光明寺
光明寺(呉市川尻) もともとは伊予の中島にあった禅寺

安芸国川尻の光明寺は明応五年(1496)に禅宗から真宗に転宗した寺です。その前身は伊予国中島にあった西光寺と伝えられます。芸予諸島の島々を転々とし、天正元年(1573)年に安芸川尻に移ってきます。伊予中島で禅宗から真宗に転じた際に、檀家も真宗に改宗したと云います。中島では光明寺(西光寺)が移転したあとは、お寺がなくなりますが、信徒たちは教団を組織して信仰を守ったようです。
 この時期の安芸国では、仏護寺を中心として教線を拡大していきます。仏護寺が天台宗から真宗へ改宗した時期は、光明寺の改宗した時期とほぼ同じ頃になります。ここから15世紀末頃が、真宗が瀬戸内海を通じて芸予諸島一帯へと、その教線を伸ばしてきた時期だと研究者は考えています。
安芸竹原の長善寺について

四国真宗伝播 安芸長善寺と
竹原の長善寺と大三島

 芸予諸島で一番大きな大三島は、安芸から真宗が伝わってきたようです。「藤原氏旧記」によると、祖先の忠左衛門は竹原の長善寺の門徒でした。それが大永7(1527)年に大三島へ移住し、島に真宗を広めたと伝えられます。
四国真宗伝播 長善寺進者往生極楽 退者尤問地獄
長善寺の黄旗組
長善寺には石山戦争の時に、使用されたと言われる「進者往生極楽 退者尤問地獄」と記された黄旗組の旗が残されています。忠左衛門は同志を募り、兵糧を大坂へ運び込んでいます。彼は、石山にとどまって戦いますが、同志18名とともに戦死します。長善寺に、その戦死者の法名軸か残されています。その中に「三島五郎太夫、三島左近」といった名前があります。彼の「三島」という名から大三島出身者と考えられます。他の者も大三島かその周辺の出身者だったのでしょう。ここからは、石山戦争時代には、竹原の長善寺の末寺や坊が芸予諸島にいくつできて、そこから動員された真宗門徒がいたことが分かります。しかし、村上海賊衆に真宗は門徒を広げては行けなかったようです。村上武吉も、周防大島の真言宗の寺院に葬られています。
大三島の真宗寺院で、寺号を下付されたのが古いのは次のふたつです。
①宮浦の教善寺 寛文11(1673)年
②井口の真行寺  延宝6(1678)年
 寺院としての創建は、江戸時代前半まで下るようですが、それまでに道場として存在していたようです。道場などの整備や組織化が行われたのは、石山戦争が契機となったと研究者は考えています。石山戦争を戦う中で、本願寺からのオルグ団がやってきて、芸予諸島での門徒の組織化が行われ、道場や庵が集落に設けられたと云うのです。大三島の各地に、現在も道場・寺中・説教所の痕跡が見られることは、このことを裏づけます。伊予では安芸から芸予諸島の島々を伝って、真宗伝播の第一波が波が、15世紀末にやってきます。そして、16世紀後半の石山戦争中に、第2派が押し寄せてきたようです。

次に伊予本土の方を見ていくことにします。
伊予本土で創建が古いとされる真宗寺院は、次の通りです。
①東予市の長敬寺 弘安6(1283)年創建、再興後三世西念の代に本願寺覚如から寺号を賜ってて真宗に転宗。
②明勝寺は 天文15(1546)年に、真言宗でから転宗し、円龍寺と改称
③新居浜の明教寺は元亀年間に、佐々木光清によって開創
④松山の浄蓮寺は、享禄4年(1531)河野通直が道後に創建
⑤定秀寺 永禄元(1558)に、風早郡中西村に鹿島城主河野通定が開き、開山はその子通秀。
⑤の定秀寺については、通定は蓮如に帰衣し直筆名号を賜わり、子通秀は石山戦争に参加して籠城し、その功績により顕如から父子の名を一字ずつとり定秀寺という名を賜ったと伝えられます。しかし、鹿島城主河野通定なる人物は存在しない人物で、寺伝は信憑性にやや欠けるようです。
①は別にして、その他は16世紀半ばの創建を伝える寺院が多いようです。しかし、浄土真宗の場合は、道場として創建された時と、それが本願寺から正式に認められた時期には、時間的なズレがあるのが普通です。正式に寺として認められるには本願寺からの「木仏下付」を受ける必要がありました。
 慶長年間に入ると、道後の浄蓮寺・長福寺、越智郡今治の常高寺、松山の正明寺に木仏下付されています。これらの寺も、早い時期に下付になるので、それまでに道場として門徒を抱え、活動していたことが推測できます。しかし、それ以後の真宗の教線拡大は見られません。
伊予では瀬戸内海交易を通じて、禅宗が早い時期に伝わり、禅宗寺院が次のように交易港を中心に展開していたことは以前にお話ししました。
①臨済宗 東伊予から中伊予地区にかけては越智・河野氏の保護
②曹洞宗 中・南伊予地区には魚成氏の保護
東伊予と海上交易活動においては一体化していた讃岐の観音寺港でも、禅宗のお寺が町衆によっていくつも建立されていたことは以前にお話ししました。禅宗勢力の強い伊予では、新興の真宗のすき入る余地はなかったようです。

瀬戸内海を越えて第一波の真宗伝播を芸予諸島や安芸にもたらしたのは、どんな勢力だったのでしょうか
 中世の瀬戸内海をめぐる熊野海賊衆(水軍)と、熊野行者の活動について、以前に次のようにお話ししました。
①紀伊熊野海賊(水軍)が瀬戸内海に進出し、海上交易活動を展開していていたこと
②その交易活動と一体化して「備中児島の五流修験=新熊野」の布教活動があったこと
③熊野行者の芸予諸島での拠点が大三島神社で、別当職を熊野系の修験僧侶が握っていたこと。
④大三島と堺や紀伊との間には、熊野海賊衆や村上海賊衆による「定期船」が就航し、活発な人とモノのやりとりが行われていたこと。
以上からは中世以来、芸予諸島と堺や紀伊は、熊野水軍によって深く結びつけられていたことがうかがえます。その交易相手の堺や紀伊に、真宗勢力が広まり、貿易相手として真宗門徒が登場してくるようになります。こうして、瀬戸内海に真宗寺院の僧侶たちが進出し、て布教活動を行うようになります。芸予の海上運輸従事者を中心に真宗門徒は広がって行きます。それを、史料的に研究者は追いかけていきます。
瀬戸内海への真宗布教のひとつの拠点を、阿波東部の港町に求めます。
四国真宗伝播 阿波信行寺

 阿波那賀郡の信行寺は、那賀川河口の北側に位置し、紀伊水道を挟んで紀伊の有田や御坊と向き合います。この海を越えて、中世には紀伊との交流が活発に行われ、紀伊武将が阿波にやってきて、定住し竹林寺などに寄進物を納めています。

四国真宗伝播 阿波信行寺2
阿波国那賀郡今津浦信行寺 

 信行寺の寺伝には、開基は浅野蔵人信時で、寛成年間に京都で蓮如に帰衣して西願と称し、文明13(1481)年に那賀郡今津浦に一字を創建、北の坊と称したと伝えられます。永正年間に二代目の西善が実如より寺号を賜り、慈船寺と改めたとします。また亨禄年間には、今津浦には、もうひとつ照円寺も建立されてます。この寺は信行寺が北の坊と呼ばれたのに対して、南の坊と呼ばれるようになります。こうして、今津浦には、北の坊と南の坊の二つの寺院が現れます。これは、本願寺の教線が紀伊に伸びて、さらに紀伊水道を渡って阿波の那賀川河口付近に伸びてきたことを示します。「紀伊→阿波ルート」としておきます。

四国真宗伝播 阿波信行寺3

この両寺院が建立された今津浦は、那賀川の河口に位置し、中世には平島と呼ばれた阿波の代表的な港の一つでした。

阿波の木材などの積み出し港として重要な地位を占めていました。熊野行者たちや修験者たちのネットワークが張り巡らされて、真言宗の強いエリアでした。そこに、本願寺によって真宗布教センターのくさびが打ち込まれたことになります。
 北の坊と南の坊の二つの寺院の門徒は、今津浦の特性から考えても海上輸送に関わる人々が多かったことが考えられます。彼らは「渡り」と呼ばれました。「渡り」によって、阿波東部から鳴門海峡を経て瀬戸内海沿岸地域へと本願寺の教線は拡大したと研究者は考えています。これらの紀伊や阿波の「渡り」の中に、真宗門徒が拡がり、讃岐の宇多津や伊予の芸予諸島にやってきて、それを追いかけるように布教のための僧侶も派遣されます。おなじように堺に本願寺の末寺が建立されることで、堺の海上ネットワークを通じた布教活動も行われるようになります。それが15世紀末頃ということになるようです。

 興味深いのは、東瀬戸内海エリアの小豆島や塩飽諸島には、浄土真宗のお寺はほとんどありません。
私の知る限り、近世になって赤穂から小豆島にやってきた製塩集団が呼び寄せた真宗寺院がひとつあるだけです。本願寺は、このエリアには拠点寺院を設けることができなかったようです。この背景には、旧勢力である真言寺院(山伏寺)の活発な活動があったためだと私は考えています。具体的には、児島五流修験者に連なる勢力だと推測しています。
真宗門徒が確保できた拠点港は、讃岐では宇多津でした。
ここに西光寺を創建します。この寺のことは以前にお話ししましたので省略します。西光寺を経て芸予諸島や安芸方面に布教先を伸ばしていきます。そして、その結果は先ほど見たとおりでした。芸予諸島や伊予本土の港町周辺には勢力拠点を開くことが出来ましたが、それは、あくまで点の存在です。点から面への拡大には至りませんでした。その背景を考えておきます。
①芸予諸島や今治周辺では、大三島神社の別当職をにぎる真言宗勢力が強かったこと
②松山周辺では、河野氏など領主僧が禅宗を信仰しており、真宗を保護することはなかったこと
③南予は、旧来から土佐と一体化した修験道集団が根強く、真宗進出の余地はなかったこと
こうしてみると、真宗の伊予布教活動は進出が「遅かった」と云えそうです。旧来の修験道と結びついた真言勢力の根強さと、先行する禅宗の板挟みにあって、芸予諸島やその周辺部の海岸線沿いにしか信者を獲得することができなかったようです。

以上をまとめておくと
①浄土真宗が堺や紀伊にまで広がって行くと、海上交易ルート沿いに真宗信者が増えていった。
②そのひとつの拠点が阿波今津港で、真宗門徒化した「渡り(海上交易従事者)」が瀬戸内海や土佐方面の交易活動に従事するようになる。
③「渡り」の交易相手の中にも、布教活動を受けて真宗門徒化するものが出てくる。
④讃岐で本願寺の拠点となったのが宇多津の西光寺である。
⑤15世紀末には、安芸や芸予諸島にも真宗門徒によって、各港に道場が開設される。
⑥16世紀後半の石山戦争では、石山本願寺防衛のために各道場の強化・組織化が図られた。
⑦それが石山戦争での安芸門徒の支援・活躍につながっていく。
⑧しかし、伊予での真宗勢力の拡大は、地域に根付いた修験道系真言寺院や、領主たちの保護した禅宗の壁を越えることができなかった。
  それが最初の表で見たように、伊予の真宗寺院の比率9,2%に現れているようです

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

    
前回は幕末の宇和島藩には880人の修験者たちがいて、それぞれが地域に根付いた宗教活動を行い、定着していたことを見ました。これは別の言葉で表現すると「修験者の世俗化」ということになるようです。地域社会に修験者が,どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかを明らかにするのは、ひとつの研究テーマでもあるようです。
 修験者が自分の持つ権成や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していくプロセスの解明と云うことかもしれません。その戦略は、置かれた時代・地域・生活形態に応じて変化します。前回はその戦略の一端を宇和地方に見たということになります。今回は、国東の田染庄への修験者たちの地元への定住戦略を見ていくことにします。

やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。

国東の修験者の修行の道を歩いて見たくなり、天念寺耶馬の無明橋を目指したことがあります。やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
  
目をこらすと無明橋も見えているような気もします。
ところがあいにくの雨。雨具を付けて出発しようとすると鬼会の里のスタッフから「雨天時の登攀は、危険で事故も多発していますので、ご遠慮いただいております」との言葉。

天念寺の看板に誘われ参拝する。
長岩屋天念寺
行く場をなくして、雨の中の彷徨を始まります。まず、訪れたのが駐車場の横にある長岩屋天念寺です。お寺には見えない民家のような小さな本堂です。
この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたという。<br />しかし、明治以後は大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたという。今の寺の規模は最盛時の何十分の1になっている。<br /> 売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で今は公開されているという。<br /><br />

この寺もかつては講堂を持つ大きな寺院で、いくつもの坊を構えていたようです。しかし、明治の神仏分離で神社から切り離されて、ここに移動。その上に大洪水の被害もあり再建のために本尊を売却する窮地も迎えたといいます。今の寺の規模は、最盛時の何十分の1になっているようです。売却されていた本尊は、地元の悲願で買い戻され、隣接する歴史資料館で公開されていました。

天念寺への参拝終了とおもいきや、<br />このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからにあった。<br />川下に歩いて行くと・・・
身禊神社

天念寺への参拝終了とおもいきや、このお寺の本領発揮というかすごさは、ここからでした。川下に歩いて行くと・・・
萱葺きの神社が現れました。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
身禊(みそぎ)神社と講堂
背後は切り立つ断崖。
天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの修験者たちの「行の場」のひとつでした。神仏混淆で神も仏も一体化し、天念寺がこの神社の別当だったようです。

背後は切り立つ断崖。<br />天念寺から無明橋にかけての岩峰は、六郷満山などの僧侶たちの「行の場」のひとつでもあった。<br /><br />そして神仏混淆で神も仏も一体化していた。<br />天念寺がこの神社も管理していたのだろう。<br />
身禊神社 鳥居と本殿
鳥居の奧が本殿?
それでは、左の萱葺き屋根の建物が拝殿?
中に入って参拝させていただきます。
拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。

拝殿で「ここに導き頂いたことに感謝」と礼拝。
そして、隣接する謎の建物の礼拝所へ<br /><br />広いのです。<br /><br />神社の拝殿の規模を遙かに超えています。

そして、隣接する謎の茅葺き建物へ
広いのです。神社の拝殿の規模を遙かに超えています。
無造作にいろいろなものが置かれています。
ここが何に使われる空間か、私にはこの時には分かりませんでした。

中世の村を歩く - 新書マップ

後に「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」を読むと、次のようにありました。
昭和4年にこの地をは、種田山頭火もこの地を訪れ、萩原井泉水に宛てて出した書翰には「小耶馬渓とでもいひたい山間」と記し、しぐれる耶馬を越えた行程に思いを馳せて、「いたゞきのしぐれにたゝずむ」などの俳句を詠んでいます。
      身禊神社の前の川中不動
昼の勤行が終わると、ホラ貝と鐘を合図に勤行の僧と祭りに奉仕するムラ人のテイレシ(松明入れ衆)たちは、川中不動の前の淵に集まる。
テイレシたちは水中に入って身を清めるコーリトリ(垢離取り)の式を行う。真冬二月の夕方の薄暗がりの中に、白い裸身が浮かび、見るだけでもいかにも寒そうだが、そこが信仰の力なのであろう。

そして川中不動に会いに行きます。
コーリトリ(垢離取り)が行われる川中不動

やがてまたホラ貝と早鐘を合図に、寺の前や橋の上など三か所に立てられた三本の大松明がテイレシたちによって次々に点火されると、暗くなった谷の中はパッと明かるくなる。夜の勤行の始まりである。

天念寺鬼会2

岩壁に直接建て掛けられた講堂の中は、すでにムラの人たちや参詣者たちでいっぱいである。勤行の前半は読経を中心に、さまざまの祈祷が行われ、比較的単調な時が流れる。
天念寺鬼会1 

後半は一転して芸能的色彩が濃くなり、人々を飽きさせない。まず「香水棒」と呼ばれる、小正月の削掛に似た棒を持った二人の僧が登場、足拍子と下駄の音高く、互いに棒を打ち合わせ、堂を踏み鎮める。「マンボ」のリズムにも似た調子で、いかにも快い。やがて長老の僧二人が「鈴鬼」の夫婦として現れ、おだやかに舞い納めて、「災払鬼」「荒鬼」を招き入れる。いよいよ「鬼走り」といわれるクライマックスだ。
修正鬼会とは - コトバンク
              「災払鬼」
「災払鬼」は赤鬼の面に赤の着衣で、右手に斧、左手に小松明を持つ。 一方、「荒鬼」は黒鬼の面に黒(今は茶)の着衣、右手に太刀、左手に松明を持つ。ともに体力のある若い僧侶の役で、順に登場、法会を主催する僧に聖なる水を吹きかけられると、とたんに武者震いをし、活動を始める。
 カイシャク(介錯)役の数人の村人とともに点火した松明を打ち振り打ち振り、堂の廊下を「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」と大声で連呼しつつ、乱舞し、飛び回る。満員の堂内はどよめき、人の粉の飛び散るなかを逃げまどう人々も多い。騒然たるなかで、「鬼の目」と呼ばれる餅が撒かれる。この餅は無病息災の御利益があるとして、人々は争ってこれを拾おうとする。また堂内に座っている人々の背中を鬼が次々と松明で叩き、加持を加える。鬼会もここでようやく最後となり、天念寺の僧による「鬼鎮め」を受けた鬼は静かに講堂から退場する。
天念寺鬼会3

 藁葺きの講堂は真冬に行われる「鬼会」の舞台だったようです。
そのための空間なので、ただ広く殺風景なのです。しかも、ここは身禊神社に隣接していますが、所属は天念寺の講堂になるようです。神仏分離への苦肉の対応ぶりがうかがえます。

それでは鬼会の鬼とは、何なのでしょうか?
「鬼会」に登場する鬼たちは、どうも節分の豆撒きで払われるような単純な鬼ではないようです。
「ホーレンショーヨ、ソリャオンニワヘ」という鬼の掛け声は、宇佐八幡宮の創始者の法蓮を誉め称える、との意味で、鬼はまさに法蓮の化身、あるいは不動明王の化身

とパンフレットには説明されていました。
 一方では、「災払鬼」「荒鬼」の着衣は、十二か所(閏年は十三か所)も麻縄(昔はカズラ)でくびられています。これはいかにも一年のはじめに来訪する神を暗示します。

天念寺鬼会 鈴鬼
天念寺鬼会 鈴鬼
また白塗りでおだやかな夫婦の「鈴鬼」は、老人の姿をとって現れる先祖の神のようにも思えます。「鈴鬼」が手に持った団扇には米粒が入っていて、これをガラガラと打鳴らしながら舞をします。米粒に象徴される農耕神の再生を暗示ともとれると研究者は考えているようです。
そこからさらに一歩進めて、修正鬼会の鬼は、実は仏であり、また神でもあるのだという説もあるようです。この講堂は、鬼が仏や神に変わっていく舞台でもあるようです。
 確かに、国東の神社には仁王の像が立ち、寺と社がほとんど一体化した神仏分離以前の姿が残っています。鬼にも仏と神が一体化した姿が宿っているのかも知れません。

修正鬼会へ行ってきました! | アナバナ九州のワクワクを掘りおこす活動型ウェブマガジン | [九州の情報ポータルサイト]

鬼会の主催者は?
私は神社で行われているので、身禊(みそぎ)神社の主催かと思っていました。そうではないようです。鬼会は、長岩屋の地区の主催する行事なのです。テイレシ(松明入れ衆)やカイシャク(介錯)の役をはじめ、笛・太鼓・鉦などのお囃子方も、また運営の役員も、松明や香水棒を作ることも、すべてはムラの人々によって行われているようです。それは、中世にここにあった都甲荘内のムラからの伝統を受け継いでいるのです。
天念寺修正鬼会 - 写真共有サイト「フォト蔵」

鬼会の大松明は、明治までは十二本供えられたようです。
長岩屋の谷の各所にあった天念寺の十二の坊が、それぞれ一本ずつ大松明を作っていました。またテイレシの人々も十二の坊から出されていました。
 中世荘園では、名が年貢や公事(雑税)を出す単位でした。一年十二ケ月ごとに雑税を分けて負担するので、名の数は十二とされることが多かったようです。鬼会の負担が天念寺の十二坊に割り当てられているのも、中世荘園の痕跡だと研究者は指摘します。

行者による谷の開発
この谷は今も長岩屋という地区名で呼ばれています。それは、この谷の領域の全体がそのまま長岩屋(天念寺)という寺院の境内地だったからのようです。谷の開発過程を見ておきましょう。
①急峻な岩壁を持つこの谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

都甲からは北方の夷も、「夷耶馬」と称される景勝の地です。
ここにも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋がありますた。古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源はすでに長い年月、岩屋に接した森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山はもとより、この長岩屋の住僧三人以下、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じような開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
近年の調査で、この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)が発見されています。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。長岩屋は、宗教特区だったことになります。特別なエリアという印象も持ちますが、国東の谷々で開発された中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。

天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

 長岩屋エリアに住むことを許された62の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。

他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の姿が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。
 「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。 これはまんのう町金剛院の修験の里を考える場合のヒントになります。金剛院にも、屋号に「○○坊」と名乗る家が残ります。彼らが廻国行者などとして全国をめぐり、金剛院周辺に定着し、周辺地を開発していったということが考えられます。

天念寺境内実測図
現在の天念寺境内実測図
最初に見た「修験者の世俗化」テーマをもう一度考えてみます。
地域社会に修験者が、どのように根付いていくのか、修験者が地域に定着していくためにとった戦略は、どんなものであったのかという問いに対しては、ある研究者は次のように応えています。

「(修験者が)自分の持つ呪術力や能力を武器に、里人の生活に寄与することで、社会的・経済的地位を獲得していく戦略」

その戦略は、時代や場所などに応じて変化させなけらばならなかったはずです。その柔軟性こそが、修験者が里修験化できるかどうかの分かれ目となったとも云えます。そんな視点から「修験者の世俗化」を見ると、修験者たちは、農耕や狩猟、漁業、鉱業、交通・医療などに、積極的に関わりをもち、参入していったことが見えてきます。
富山県西部の砺波平野の例を見ておきましょう。
砺波平野の定着修験(里修験)は、次の三つに分類できるようです
①高野聖、廻国聖などの遊芸聖系
②山伏系、
③貧民・落人・漂泊民系
この3タイプは、①の遊芸聖系が中世全般、②の山伏系が中世末から近世初期、③の貧民・落人・漂泊民系が近世前期に定着していきます。定着修験たちは、自分たちの生活のためにも地域の仏事法要や仏事講に携わっていきます。同時に、多数の氏子を獲得できる堂社祠にも奉仕するようになります。例えば具体的に、初夏には「虫除ケ祈疇」という虫送りの民俗と融合した儀礼を執り行うようになります。また「雨乞祈疇護摩札」なども、配布したりするようになります。そして、「農村的歳事年中行事との結びつきにより、山伏は役割的にも村落社会に確実に定着していた」と研究者は指摘します。
 修験者は、農民たちの農耕儀礼に関わることによつて、農村社会での存在価値が高めらいきます。それは、同時に彼らの定着化の大きな原動力になります。定着後は、儀礼執行者として指導性を発揮すよようになります。
 また農民として農耕を行う修験者も出てきます。
新潟県岩船郡山北町搭ノ下の修験であるホウインは、寛文年間(17世紀中葉)にすでに約2反の水田を持ち、後にはそれをい1町歩にまで増やしています。宗教的教導者としての性格よりも、次第に農民化しているようにも見えます。
天念寺周辺行場
天念寺周辺の行場
国東のムラで起こっていたことも、地域へ定着という方向は同じです。
 しかし、地域への定着後のあり方が大きく異なってきます。それは、行場の周辺を開発し定着したことです。さらに、住人の選別を行ったことです。そのため他の地域では、行場から乖離し、里下りした修験者が多くなりますが、国東では行場と一体化した宗教活動が続けられたことです。修験者は、土地持ちの農民としての生活を確保すると同時に、活発な宗教活動を展開する修験者でもあったようでっす。経済的に見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的な環境を作り出してきたひとつの背景になるのではないでしょうか。
 どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。四国の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるようなきがするのですが、史料的に裏付けるものはありません。  
 
天念寺(てんねんじ) | 観光スポット&お店情報 | 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト
天念寺無明橋

以上をまとめておくと
①国東の霊山にやってきた修験者たちは行道を行い各地に行場を開いていった
②急峻な岩壁を持つ天念寺耶馬の谷にも修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②その中の大きな岩屋である「長岩屋」周辺に施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③修験者たちは坊を開き、その周囲は開拓されて田畠ができ、あるいは焼畑がつくられてゆく。
④屋敷は12坊に編成され、その宗教センターとして神仏混淆の天念寺が建立される。
⑤ここでは「鬼会」を初めとするさまざまな年中行事が、修験者たちによって営まれていくことに⑥修験者たちは、この地に定住した後も峰入りなどを継続して行い、行場から分離されることがなかった。
⑦また明治の神仏分離も柔軟に受け止め神仏混淆スタイルとできるだけ維持しようとした。
⑥そのため独自の国東色を残す宗教的なカラーが受け継がれてきた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。

村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。

DSC03568厳島神社の舫い船
一遍上人絵伝に出てくる宮島湊の舫い船

村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。
ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
近世の瀬戸内海No1 海賊禁止令に村上水軍が迫られた選択とは? : 瀬戸の島から

 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち

 小早川氏は、鎌倉初期に相模の土肥実平の子・遠平が安芸沼田荘の地頭職を得たことに始まるようです。遠平は平家討伐の恩賞として平家家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を得ます。これを養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)に譲ります。安芸国にやてきたのは景平になるようです。

小早川氏系図
建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えます。長男茂平は承久の乱で戦功を挙げ、安芸国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう)の地頭職を得て支配エリアを瀬戸内海沿岸に伸ばします。茂平の三男・雅平が沼田本荘などを与えられ、高山城を本拠としたのが始まりで、これが沼田小早川氏で、本家筋になります。
高山城 沼田小早川氏 350年間の本拠となった中世山城 | 小太郎の野望 ::

高山城 沼田小早川氏の居城 三原市本郷町

 茂平の子・朝平は、元弘の乱で鎌倉方として六波羅探題に味方し付き従ったため、建武政権によって沼田本荘を没収されます。しかし、竹原小早川家の取り成しなどにより、旧領を安堵されています。
その後の「宣平、貞平、春平」の3代の間に芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築くことになるようです。
 今回は小早川氏の瀬戸内海への進出過程を見ていくことにします。
テキストは 山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年です。

系図を見ると分かるように沼田小早川氏の宣平の子である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」というふうに兄弟が、海に向かって一斉に進出する態勢をとりはじめます。自分たちの活動の部隊は、海にありと意識したような動きです。
 中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』には、次のように記されています。
 南北朝期、小早川氏の主な領域は沼田本荘、沼田新荘、都宇・竹原荘だった。本荘の惣領家は足利氏方、新荘の一部庶家が南朝方として戦い、一時は惣領家の城を占拠し、面目を失わせた。
 だがこの時期、惣領家は本荘沼田川流域の塩入荒野を干拓
造成した新田を庶子に与えた。庶子は新田地を本拠とし地名を姓とした。小泉、小坂、浦、生口、猪熊ら新庶家が生まれ、惣領家を支えた。小泉氏は氏平が始祖。干拓地のうち西部山寄りが領地である。  

杜山悠『歴史の旅 瀬戸内』P222~225P)には、次のように記されています。
惟平が拠った生口島瀬戸田は、航海業者たちの一つの拠点で商船の往来が激しく島内生活もその刺激を受けて活発になり、自由の気風に充ちた明るい世界が開けていた。生口船とか瀬戸田舟とかいわれたこの島の商船は、小早川生口因幡守道貫(惟平)支配のもので、商船とはいいながら、半面には海賊的性格も持っていて、兵庫関など平気で無視して通ったといわれる。また本荘小早川(本家沼田)でも能美島に進出し、大崎上島(近衛家荘園)にも南北朝の動乱期に入り込んでその支配権を持った。
 竹原小早川の海島進出もやはり始まっていて、景宗(二代)のとき安芸の高根島を含めた地頭職として島嶼に一つの足がかりをつかんだ。このようにして小早川一族が所領とした島々はおびただしい数にのぼり、その主なものでも、因島、佐木島、高根島、生口島、越智大島、大崎上島、生野島、大崎下島、豊 島、三角島、波多見島、能美島、向島、江田島、倉橋島、上下蒲刈島などがあげられる。」
   小早川氏の庶家である「小泉氏平、浦氏実、生口惟平」の拠点を押さえておくと、次のようになります。
①沼田荘内小泉に土地を与えられて小泉氏を名乗る氏平
②沼田荘内田野浦に拠って浦氏を名乗る氏実
③沼田荘に近い生口島の地頭職を与えられ、生口氏を名乗る惟平
④茂平の子経平は、これらよりも早く分立して船木氏を名乗る
 南北朝期の弓削島荘で「悪党」として活動するのは、これら小早川庶家衆です。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
手前左が因島 その右が生名島 その向こうが弓削島

彼らにとって、最大のチャンスは南北朝の内乱期であったことです。
これが国境を越えての伊予の島々への進出の機会となります。
  芸予諸島では伊予海賊衆が北上していましたが、小早川氏は三庶家を先頭に伊予衆を押し返す形で南下することになります。きっかけは伊予出兵でした。 興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。
   こららの動きがあった康永二年(1343)には、庶家衆に関する史料がいくつか東寺に残されています。その四月、東寺雑掌光信の訴えをうけて室町幕府引付頭人奉書が、当時伊予守護であった細川頼春に次のように訴えています。

「小早川備後前司(貞平)、同庶子等当所住人民部房・四郎次以の、なほもって退散せず、いよいよ乱妨狼藉を致」
                (東寺百合文書・六八四)

「国中劇の隙を伺ひ、当島に打入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉を致すの条、濫吹の至り、言語道断の次第なり」
「事を世上の動乱によせ、使節遵行の地に立ち還り、若干寺物を押取り、下地を押領せしむるの条、造意の企て、常篇を絶つ」(同・八〇〇)

 ここからは動乱のすきをねらって、乱暴狼藉をはたらく小早川氏の巧妙な荘園進出のやり方がうかがえます。また、東寺側の激しい非難のなかには、小早川勢力の弓削荘侵略に直面した荘園領主の危機感がよくあらわれています。
弓削島荘遺跡」の国史跡指定に係る文化審議会の答申について - 上島町公式ホームページ
伊予国弓削島荘地頭領家相分差図(「東寺百合文書」)

 幕府(北朝)は小早川氏に退去を命じますが、四氏は無視して居座ります。幕府は使者を派遣して強制退去させます。東寺は小早川氏を警戒し、伊予海賊衆(村上氏)雇って警固します。にも関わらず、小早川氏はすぐに乱入。その後、島を占拠しますが、その先頭に立ったのは四氏の庶家小泉氏でした。小泉氏は因島でも居座り、年貢を横取りしていたようです。南北朝の争乱を、自己の権益拡大に最大限利用している姿がうかがえます。
 足利尊氏と弟直義が争う観応の擾乱が始まると、一時期、反尊氏派が島を占拠したので、幕府は小早川惣領家に地頭職を与えて守らせます。だが惣領家家も『乱妨』を働くと領主東寺から訴えられて、地頭職を取り上げられています。しかし、居座りを続け、島を勢力下に取り込んでいきます。領家である東寺にしてみれば手の付けられない「悪党」です。
弓削島荘遺跡ポスター

小泉氏二代の宗平が、応安四年(1371)7月に、伊予国越智郡大島の地頭職に任命されます。
 それまで非法ぶりを非難され続けてきた一族が、今度は全く立場をかえて、東寺から荘園を守り管理する地位に任ぜられたのです。これはアメリカ西部の悪党を保安官にするようなやり方です。当時の弓削島荘の周辺は、西部の無法地帯とよく似ていたようです。なぜなら、南北朝の動乱で海上秩序が失なわれて、無法地帯になっていたのです。東寺にしてみれば、年貢を無事に京都にもたらしてくれる者であれば、誰でもいい、その素性を問うてはいられなかったのでしょう。そのような視点からすれば海上機動力にすぐれ、軍事力も持つ小泉氏は、地頭として候補者にあげられても不思議ではありません。東寺は、かつての非法、悪党ぶりに目をつぶり、年貢請負額京定30貫文という破格の安値で請負契約を泣く泣く結びます。
しかし、東寺の小泉氏への期待と信頼は、みごとに裏切られます。

弓削島遺跡2

小泉宗平は、地頭職についても非法をやめません。

それを東寺雑掌は、次のように記します。
「令同意山地以下悪党、致押妨」(17) (18)

   弓削島押領人事 
公方奉公 小早川小泉方 
海賊 能嶋方 (能島)
海賊  山路方(讃岐)
此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之 
小泉氏を中心にして、伊予の海賊能島氏、讃岐の海賊山路(地)氏等が弓削島を押領しているというのです。讃岐の山地氏については、以前にお話ししましたので、今は触れません。
  ここからは、年貢の輸送路をはじめとして周辺の海賊を悪党・海賊に固められて、弓削島荘の経営にもはや身動きのとれなくなっている東寺の窮状を知ることができます。まさに弓削島周辺は海賊衆の世界となっていたのです。
弓削神社

弓削神社(ゆげじんじゃ) 「浜途明神」「浜戸宮」の後身


 東寺は、現実をまのあたりに学んだようです。荘からの年貢収取を維持していくためには、今までのように荘官を派遣して荘園の管理をやらせる方法ではダメだということです。そこで、新たな方法として採用したのが「所務請負い方式」です。そして、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や同治部進と年貢請負の契約を結びます。村上氏も芸予諸島周辺の海賊衆の一人であったこと間違いありません。東寺にしてみれば、海賊衆小泉氏を制するのにに別の海賊衆を以てしたということになります。このような動乱期の中で、伊予海賊村上氏と安芸の小早川氏は芸予諸島をめぐって勢力範囲を拡大していくことになります。
第11番札所・向上寺 緑に映える朱塗りの国宝三重塔
向上寺の三重の(生口島 瀬戸田)

   最後に生口島を拠点とした小早川氏の庶子家生口氏を見ておきましょう。
生口島には国宝の三重塔が海を背景に建っています。これは1432年に、初代生口惟平とその子守平によって建立された向上寺の塔です。小早川氏の庶子である生口氏は、この島が生口島と呼ばれていたことから、その名を名乗ることになったようです。生口島はもともとは皇室領でしたが、源平合戦や承久の乱を通じて、武家方に没収され没官領地となりました。南北朝の騒乱期に、この島を拠点としていた南朝方を落とした功績により、小早川惟平にこの島が与えられ、生口氏が移り住み拠点とします。
向上寺三重塔 - ひろしまたてものがたり

 小早川氏は、安芸国の沼田荘に土着した頃は、内陸部への進出や沼田川河口部の干拓などで勢力を拡張していました。それが、生口氏の生口島獲得によって、小早川氏は陸の武士団という性格から、小早川水軍と称されるような海の武士団へと性格を変えていくことになります。
 小早川氏は、小泉氏が弓削島、生口氏が生口島へと瀬戸内海へ進出することによって、海上輸送に関わるようになります。それは瀬戸内海交易を越えて、朝鮮や明との貿易にも従事していたようです。 そこからあがる利益は莫大なものでした。
小早川氏の本拠沼田の外港として、位置づけられたのが生口氏の瀬戸田港だったようです。
小早川氏が他の安芸の国人領主レベルから一段と上のレベルに位置付けられていたのは、海の武士としての海上交易活動がありました。
 生口船は、兵庫北関に入港する際の免税の特権を持っていました。生口氏の海の経済活動は、目を引くモノがあります。主な輸送品は、弓削島や因島の塩です。「兵庫北関入船納帳」(1445年)によれば1月から2月半ばまでに61艘の入船があり、うち30艘が塩を積んだ船であり、そのうち1/3が小早川氏の支配する地域からの塩です。しかも生口氏配下の船は免税です。
 弓削島を押さえた小泉家の塩を、生口島の免税特権を持った舟が運ぶという「分業」体制があったことになります。そこからあがる莫大な利益を蓄積しながら次第に大名化していくのが小早川家ということになります。毛利元就の三男隆景が継いだ小早川家とは、そういう家系だったのです。
 生口・小泉氏などの庶家を配下に置く小早川家は、海の経済的・人的ネットワークを背景として、強力な軍事力と水軍を持ち、他の安芸国の国人領主を圧倒していきます。因島や能島の村上氏も最終的には、この軍門に降ることになります。
 その生口島の繁栄の象徴が向上寺の三重塔ということになるようです。小早川氏の外港として繁栄する瀬戸田港からの財をバックにして作り上げ塔です。
 向上寺(広島県安芸幸崎駅)の投稿(1回目)。#国宝 #向上寺三重塔 ・生口島へは尾道から…[ホトカミ]
  以上をまとめておきます
①鎌倉時代初期に西遷御家人として沼田庄に小早川氏が入ってきた。
②沼田庄を拠点に、竹原などの沿岸部に勢力を伸ばし、開発を行った。
③南北朝の争乱期に宣平の4人の子ども達は、芸予諸島に進出し、小早川水軍の基礎を築いた。
④「塩の荘園」として東寺の最重要荘園であった弓削荘に対して、小早川氏は侵入し「悪党」ぶりを発揮する。
⑤東寺はこれを幕府に訴えでるが有効なただ手は見つからず、小早川の庶家小泉氏に官吏を任せることもおこなったがうまく行かなかった。弓削荘は次第に小泉氏に侵食されていく。
⑥一方、生口島の瀬戸田港を拠点とした生口氏は、周辺の海民を組織し「海の武士団」へと成長して行く。
⑦生口氏は、明や朝鮮との交易活動などにも参入し、莫大な富を小早川氏にもたらした。
⑧瀬戸田港の山の上に建つ向上寺の国宝・三重塔は、そのシンボルである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上水軍の解体過程
能島村上水軍の解体過程

村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。

村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。

村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。

村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。

村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
島吉利の子孫

  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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引田 新見1
 新見の荘から倉敷→塩飽→引田→兵庫→淀を経ての帰路

以前に永禄九(1566)年に「備中国新見庄使入足日記」を紹介しました。そこには、新見にあった京都・東寺の荘園の役人が、都へ帰って行くときの旅費計算記録が載せられていました。彼らは新見から高梁川を荘園専用の川船で、河口の玉島湾まで下っていました。
 今回はそれ以後の高梁川の高瀬舟の活動を見ていきたいと思います
高梁川3

高瀬舟といえば、川舟の一種で森鴎外の小説「高瀬舟」に登場してきます。「高瀬」は辞書では、「川の瀬の浅いところ、浅瀬」とあります。高瀬舟の名前の由来も川の浅瀬に対応できるように、舟底が浅く平らであり、いわば浅瀬舟のイメージで「高瀬舟」と呼ばれるようになったという説が一般的です。
 一方、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」では、高瀬舟の特徴は「高背たかせ(底が深い)」とあり、川漁などする当時の小舟と比べて、やや大きくて底の深い舟であったとする説もあります。
高瀬舟模型 勝山歴史博物館

 慶長12年(1607)角倉以子(すみのくらりょうい)が、高瀬川・大堰川に、川舟を浮かべたことから、高瀬舟と呼ばれるようになったと云われます。しかし、備中の高梁川や吉井川には、それ以前から川舟が数多く往き来していたことは史料から分かります。
角倉了以は、慶長九年(1604)安南(ベトナム)航海を終えて帰国した際に、高梁川に浮かんでいる川舟を見て、このような形の舟であれば、どんな急流でも就航が可能であることに気付き、備中から舟大工や船頭をつれて京都に帰り、高瀬舟を作り、大堰川を開いて、丹波国から洛西の嵯峨へ物資を運ぶ舟を通わせたとされます。高梁川の川船が高瀬舟のモデルになったようです。
高瀬舟(京都) 船曳
京都の高瀬舟 曳舟
  
 私も何回かカヌーでこの川を下りました。今はダムが上流にあるため水量が少なくなり井倉洞あたりでは水深も浅く、場所によってはカヌーの底をこするような所もありますが、流れはゆるやかで初心者にやさしい川下りゲレンデを提供してくれます。
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高梁川

 高梁市の市街地をゆったりと流れていると、かつての川船の船頭になった気分で鼻歌まで出てきそうな気がします。成羽川と合流すると水量も一気に増えて、大河の片鱗が見えてきます。今でも川船が舫われ、川漁が行われていることがうかがえます。
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川岸に舫われた高梁川の川船

かつての川湊らしき所が見えてきます。この川は室町時代以前からも、新見の荘園の物資や鉄などを積んだ川舟が往き交い、幕末のころには、その数130隻にも及んだといいます。
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  グーグルで見ると、備中を北から南に流れる高梁川は、奥深い中国山地にその源を発し、瀬戸内海の水島湾に注いでいます。逆に見ると、高梁川の河口、倉敷市の水島港から川を登ると総社市、高梁市、新見市とへ中国山地の源流地帯へと続きます。この川筋を辿って新見までやってくれば、山陰地方の人たちも、高梁川を上下する高瀬舟で、倉敷へ舟で下って行くことができたことになります。高梁川は、川筋の平野を潤すとともに、人やモノの移動の動脈だったことが分かります

 「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」井上家文書 
 新見市には、高梁川沿いに、かつての船着場が保存されています。
高梁川高瀬舟船着場
新見市の船着場跡

船着場には寺院が有り、川船の管理センターの役割を果たし、荘園管理も行っていたのでしょう。新見荘には、鎌倉時代の文永八年の「検注目録」に、船人等給が出てきます。ここからは新見の荘には、何人かの河川交通の専門家、船人がいたことが分かります。また、新見の「市」のたったところは、中洲という地名です。これは、新見の町が川の中洲にできた町が起源だったことを示していると研究者は指摘します。
高梁川1
高梁の川湊と高梁川
私は新見が川船のゴールだと思っていましたが、さらに奥まで行っていたようです。津山や勝山や広島県の三次からもカヌーで下ったことがありますが、吉井川や高梁川、旭川、江ノ川のように、河口の拠点湊から奥地の内陸部の川湊まで、大小の川を体内の血管のように川が交通路として機能していたことが分かります。
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現在の高梁市と高瀬川


高梁川の支流の成羽川の難所を開墾して河川を開いた、律宗の僧侶で実専という人がいます。
彼の記念碑が「笠神文字石」という自然石の石碑として高梁市備中町にはありました。徳治二年(1307)に、成羽善養寺の僧尊海と、西大寺の奉行代実専が中心になって、成羽川の10ヵ所の瀬を笠神船路のため開削したと刻まれています。ここに石切大工として名前が刻まれている伊行経は、鎌倉時代初期に東大寺の再建のため招かれた南宋の石工、伊行末の一族とされます。現在は新成羽川ダムのため水没してしまいました。河川交通整備のための努力が中世から続けられてきたことが分かります。
高梁川高瀬舟 井倉洞
高梁川の井倉洞付近をいく高瀬舟

山本剛氏「高瀬舟と船頭並びに筏渡船」には、高梁川の川船のことが記されています。
その中に川船で瀬戸内海を渡り、金毘羅詣りをした話が載せられています。
高瀬舟といえば底の浅い川舟です。川船で海を越えるというのが驚きです。その話を見ていくことにします。守田寿三郎翁は、次のように語っています。
「明治30年頃、村長であった父瞭平が、川口石蔵さんの新造船で金昆羅詣りに招待された。帰りには、玉島から強い南風を帆いっぱいに受けたので、玉島を朝出て昼頃には水内に着いた」

高瀬舟の進水祝いに金毘羅詣でに出掛けたようです。高梁川の河口から出港し、海を越えているようですがどこの湊に入ったかは分かりません。帰りは玉島港からは、折りから吹き始めた南風を受けて川を上ったことが分かります。

高梁川高瀬舟 金毘羅詣で

 別の船頭は、次のように語っています。
「高瀬舟で四国へ渡るには、潮が引き始めると、潮に乗って玉島を出港した。追手風が吹くときに帆を揚げて、本舵操縦して渡った。途中、本島へ着くと潮待して、潮が満ち始めると、潮に乗せて舟を出し、追手風が調子よく吹くときには潮待しなくても渡れるときもあった。風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半くらいで渡ることができた。潮待ちして海を渡るときは、丸亀まで六時間、多度津へは七時間くらいかかった。
 昼間、海を渡っていて、突風にさらされ、もうこれまでと絶望したことが幾度かあった。その時は、 一番近い島影に退避して、風の治まるのを待った。昼間は突風が起きる危険があるので、穏やかな風の吹く夜を選んで渡ることが多かった。風の強く吹く時には「風待ち」といって、港や島影で、二日でも三日でも風の静まるのを待った」

ここからは次のようなことが分かります。
①引潮にのって玉島を出て本島で潮待ちして、満ち潮になると丸亀をめざした
②追風だと潮待ちなしで坂出まで2時間半
③潮待ちして本島経由だと丸亀へ6時間、多度津へ7時間
④昼間の突風を避けるために、穏やかな風の吹く夜が選ばれた。
⑤強風の時には「風待ち」のために、何日でも待った

潮待ちに本島(塩飽)に立ち寄っています。
そういえば「備中国新見庄使入足日記」の東寺の僧たちも、本島で長逗留していたことを次のように記していました。
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。そして、塩飽(本島)の湊で10月11日まで長逗留しています。これは、上方への便船を待っていたようです。本島が潮待ちの湊として機能していたことがうかがえます。
ここで疑問なのは、「風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半」とあり、坂出も寄港対象となっている点です。多度津・坂出は金毘羅船の帰港地として栄えていましたが、坂出がでてくるのがどうしてなのか私には分かりません。
備中松山城 城と町家と武家屋敷
高梁川の高瀬舟(高梁市)
高梁川で使っていた舟の大きさは、全長五十尺(約15m)、幅七尺(約2m)で舟底は浅いものでした。
いくら穏やかな瀬戸内海とは云え、風が吹けば波が立ちます。特に突風に会うと転覆する危険がありました。平底の川舟で波や風のある海を渡るのは、細心の注意が必要だったようです。高瀬舟の船頭たちは、遥か海上から金毘羅さんに向かって手を合わせ、航行中の安全を祈願してから船を出したと云います。そこまでして自分の船で、海を渡り金毘羅さんへの参拝することを願っていたのでしょう。金毘羅信仰の強さを感じます。
まにわブックス
旭川の高瀬舟
 高梁川は備中松山城の城下町である高梁から上流は川幅も狭くなり、落ち込みの急流もあって、危険箇所がいくつもあったようです。それが慶安三年(1650)藩主水谷勝隆が新見まで舟路を整備し安全性が増します。そのため輸送量が増えるとともに、山陰地方の人々が、新見まで出てきて、高瀬舟で瀬戸内海に出るというコースも取られるようになります。金昆羅詣りに使われた記録も残っています。
高梁川 -- 高瀬舟

 上流には難所と云われる船頭泣かせの急流もありました。そのため舟の安全航行を願って、金毘羅信仰を持つ船頭が多く、お詣りも欠かさなかったようです。彼等の間では、高梁川の支流・成羽川の流れに、薪を削って「金毘羅大権現」と墨書して投げ入れ、これを拾った者が、金毘羅さんに奉納するという風習があったようです。それでも、長い歴史の内には、高瀬舟の転覆事故が発生しています。
高梁川の上流に一基の慰霊碑が残っています。
寛政七年(1795)6月8日、新見から高梁川を下った舟が、阿哲峡の広石で転覆し、金毘羅詣りの乗客15人が溺死しています。碑には、遭難した人の出身地と名が刻まれているが、その中には、地元の人以外に、雲州(島根県)の人が6人含まれています。これらの人々は山道を歩いて、新見にやってきて、ここの舟宿の高瀬舟に乗り込んだのでしょう。定員30名の客船だったようですが、阿哲峡の難所を乗り切れなかったようです。
 高梁川の中流、総社市原には、昭和20年ごろまで、高瀬舟の造船所が残っていたようです。市原には、船大工、船元、船頭、船子たちが集落をなして住居していて、殆んどの者が室町時代からの世襲であったといいます。毎日、30隻近くの高瀬舟が荷物や船客を乗せて上り下りしていました。昭和3年10月25日に国鉄伯備線が全面開通します。高梁川沿いを走る伯備線の登場は、それまでの運輸体系を一変させます。昭和15年には高瀬舟は、その姿を消してしまいます。
高梁川高瀬舟と伯備線
伯備線の開通と高瀬舟
   
高梁川を行き交う川船の船頭達の間には、いつしか金毘羅信仰がひろがりました。そして、金毘羅参りに自分の川船を操って海を渡っていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 妹尾勝美 高瀬舟で金毘羅参り ことひら52 H9年
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    前回は瀬戸内海船の石船と砂舟の歴史を見てみました。今回は、石炭船を見ていきたいと思います。テキストは  宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船です。
1石炭運搬船

 日本列島では塩を海の潮からつくってきました。その行程の最後には煮詰めるという手順が欠かせません。そのために燃料としての大量の木材が必要とされ、塩田付きの汐木(塩木)山が確保されるようになります。しかし、塩の生産が増えれば増えるほど、消費する木材も増え、塩木山ははげ山化していくことになります。こうして、近世になると瀬戸内海周辺の塩田地帯では、燃料用の木材不足に悩まされるようになります。
 その解決法のひとつが石炭の利用です。
今回は、石炭がどのように塩田で用いられるようになったのか、またその輸送はどのように行われたかを見ていくことにします。
石炭はいつどこで使われるようになったのでしょうか。
 正保二年(1645)に板行された『毛吹草』という書物の長門の項に「舟木石炭」という言葉がでてきます。この書物は寛永一五年(1638)には成立していたようですから、山口県厚狭郡船木(宇部市)周辺では、そのころから石炭の採掘がはじまっていたことがうかがえます。舟木で採掘された石炭は、小野田の赤崎周辺に運ばれ塩焼きに用いられていたようです。それは小野田市の赤崎神社の境内に、約350年前の石炭ガラの堆積があることから分かります。赤崎神社の北の竜王町は、現在は住宅地になっていますが、もとは塩浜だった所です。このあたりの海岸には、百姓小浜とよばれる小さい揚浜塩田がたくさんあり、赤崎神社の北側もその一つであったようです。
 宇部赤崎神社

ここからは宇部周辺では、製塩のために石炭を使うことは17世紀に始まってたことが分かります。しかし、なぜか周辺には広がってゆかなかったようです。その理由はよくかっていません。
塩田での石炭使用の普及は
 明和九年(1771)三月、安芸厳島に安芸・備後・伊予・周防・長門の五カ国の塩田業者が集まって、塩の生産過剰に対して「休浜法」の協議をしています。その際に
「塩並二石炭相場、時々無怠通合候事」

という一条があります。塩と石炭の相場については、怠りなく互いに連絡しあうという合意内容です。ここからは、18世紀後半には石炭が燃料として使用されていたことがわかります。その石炭は、多くは船木・小野田・宇部などから運ばれてきたものでした。百年かけて、塩田での石炭使用が広がっていったことがうかがえます。
北九州でも石炭が燃料として着目されるようになったのは17世紀に入ってからです。
元禄四年(1669)のケンペルの『江戸参府旅行日記』に、黒崎(北九州市八幡西区)で見分したことを次のように記します。
「数力所の石炭坑あり(案内の藩役人が)我等に甚だ珍奇なるもの、注目すべきものとし教えてくれた」
ここからは、17世紀後半に北九州では石炭採掘が行われ市場に出回っていたことが分かります。
  12年後に完成した『筑前国続風土記』(貝原益軒)には、次のように記されています。
「燃石、燃 遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の処々の山野に有之、村民是を掘りて薪に代用す。遠賀、鞍手殊に多し。頃年糟屋の山にてもほる」
意訳変換しておくと
燃石(石炭)は遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像などの山野にあって、村民はこれを掘って薪の代用にしている。なかでも遠賀、鞍手は産出量が特に多い。近頃は糟屋でも採掘するようになった。

とあって、17世紀後半には盛んに石炭を掘るようになっていたことが分かります。筑前の隣の豊前地方でも石炭はそのころ掘られていましたが、それが製塩のため利用されるようになったのは、明和年間になってからのようです。

 このような中で石炭利用の先進地域である筑前の遠賀郡若松(北九州市若松区)の庄屋和田佐平は、塩焼竃の下部に鉄網を敷いて石炭を焚くと火力がつよく経済的であることに気づきます。これを長州の塩田主に売り込もうと石炭を船に積んで三田尻に持って来ます。彼は、宇部地区では石炭を製塩燃料に使っていることを知っていたのかもしれません。三田尻では石炭の使用法をまだ知りませんでした。そのため異国者の佐平のセールスを相手にする者がなく、商談は成立しません。佐平はやむなく石炭を海に捨てて帰国したといわれます。これも宇部以外では、石炭を製塩には使っていなかったことを示すことを裏付ける話です。

1防府・三田尻塩田
1928年国土地理院地図
 三田尻の浜主たちが佐平のすすめを思い出したのか、豊前の塩浜が石炭を使用していることを聞いて、塩竃の築造を学び、石炭を試用してるのは安永七年(1778)になってからです。その結果、その効果の大きいことに驚き、すぐに筑前から石炭を買い付けを始めます。ここからも、石炭の使用が広がるのは18世紀後半になってからということが裏付けられます。こうして石炭の使用エリアは西から東に広がっていきます。
 三田尻の帆船は、筑紫の遠賀川口につめかけて瀬戸内海沿岸に運ぶようになります。
天保八年( 1837)には6880万斤(4,1万トン)が採掘され、地元消費は60万斤だけです。そのほとんどが他国に「輸出」されていたようです。そのうち最大の購入所は、三田尻塩浜で4565万斤という数字が残っています。筑紫の石炭産出量の約5/7は、三田尻の塩田主が買っています。三田尻が筑紫の最大のお得意さんでした。

  石炭需要の高まりを他の地域も指をくわえて見ているはずもありません。
1宇部市 居能
1928年国土地理院地図 宇部線がかつての海岸線
各地で炭鉱が開かれるようになります。その筆頭が、宇部小野田地区です。宇部は今では海を大きく埋め立て大きな臨海工業都市になっていますが、昔は海岸に松原が並ぶ光景が続いていました。その松原の外側は砂浜、内側は水田です。石炭が掘られたのは水田の東の丘陵地②です。そこに竪坑を掘って、そこから掘り出していました。掘り出された石炭は、ザルに入れて天粋棒で担いで海岸まで運ばれます。それが船に積まれて各地の塩田に運ばれていきました。一荷を一振とよび、 一振一六貫すなわち100斤という計算になります。
明治になると炭坑から海岸までレールが敷かれ、炭車に石炭を積んで後を押して海岸まで運び出されるようになります。海岸には何十というほど桟橋がならんでいて、炭車を桟橋の先まで押していき、そこに横着けにしている船にバラ積みします。その船は普通のイサバやバイセンなどとは違って、船べりには垣板がなく、丸太をふたつに割ったものを打ちつけて丈夫に作ってあります。普通の帆船は米を積むのが主で、何石積みというように容量で大きさを示していました。その中で最も大きいものが千石船でした。
それに対して石炭を積む船は、土船または胴船とよばれました。
容量ではなく重量積み、すなわち斤で大きさをはかったのです。二〇万斤も積める船は大きいほうでした。土船というのは土や砂を積む船のことです。17世紀に入ると、内海沿岸では埋立てや干拓が相次いで行なわれ、また塩田も多く築造されるようになります。埋立てのためには、たくさんの土を必要とします。その土は背後の山を切り崩して用いることもありましたが、背後が平地なときには埋立用の土が手に入りにくくなります。そこで近くの島や岬などの土を切り崩して、船に積んで運んでくるようになります。ここで活躍するのが土船です。現在風にいうなら「海のダンプカー」といった所でしょうか・・・
土船は瀬戸内海のいろいろな所にいたようです。
特に倉橋島・能美島に多かったようです。その土船も石炭を積むようになっていきます。宇部市の①居能は、もと北前船の多いところでした。居能の船は日本海岸を山形・秋田方面まで行って米を積んで帰り、下関の亀山の下にずらりと並んでいる米蔵にそれを納めました。彼らの役割はここまでです。いったん米倉に入れられた米は、時期をうかがって大阪・兵庫へ運び出されていきます。そのときには、瀬戸内専用の別船が担当していました。居能など瀬戸内海の千石船は一時は、北前航路専用で運用されていた時期があるようです。しかし、18世紀後半になると近畿や瀬戸内海の北前船は、日本海エリアの船に押されて撤退する船が多くなります。いわば活動場所を失ったのです。
1石炭運搬船

 宇部での石炭の産出が増えるにつれて、北前船に乗つていた人たちが石炭船に乗替えるようになります。
彼らは北前船の経験から土船の規模をを大きくして、より多くの石炭を積めるタイプの船を作ります。胴の張った船だったので胴船と呼ばれたようです。居能の北前船やイサバが胴船に切り替えられるようになったのは明治30年(1871)ごろでした。
 埋立てが進むにつれて、宇部には⑥新川という新しい港が造られました。ここには千トンの船も着岸可能だったので、石炭の荷役はここで行われるようになります。そうすると居能の船も新川を中心にして活躍することになります。石炭需要はうなぎ登りですから船主として新造船を投入したいところです。しかし、船乗りがそろいません。居能の人は代々船乗りですからみな水夫として働きます。それでも足りません。そこで宇部周辺の者を水夫として雇おうとしますが、農民は水夫には向かなかったようです。水夫不足という課題を抱えることになります。
 石炭の産出は年々増加し、塩田からの石炭需要も増えます。しかし、船員は確保できない。そうなると次に考えることは、船を大きくして一度に運べる量を増やすことです。いまの海運業界の対応と似ています。
1スクーナー型帆船

こうして明治40年(1907)ごろから腰の高いスクーナー型帆船が造られるようになります。これは黒船または合の子船とも呼ばれたようです。石炭を積むために造られた船です。土船は腰が低く、風浪にも弱く沈没の危険性も高かったようですが、この点でもスクーナー型帆船は改良されています。
土船は「斤積み=重量計測」でしたが、スクーナー型帆船になるとトン積み計算になります。
石炭は炭坑から浜までかごで運ばれ、100斤を一振として取り扱ってきました。それがさきほど述べたように日清戦争前後の明治27年頃に、王子炭破塙が炭坑から海岸までレールを敷いて炭車で運ぶようになったときに、炭車の箱を500斤入りにします。これを半トンとして計算するようになります。つまり「500斤=80貫」、「1トン=270貫」から、「半トン=135貫」になります。500斤を半トンとして計算すると、実際には半トンは55貫も軽いことになりますが、当時はそれでいくことになったようです。こうして炭車の石炭をいくつ積むかで、船の大きさは測られるようになります。 10箱ならば5トン、 100箱なら50トンということです。そして明治40年ごろになると、炭箱も大きさを一定にして、四箱で1トンに標準化されます。
 炭車が利用されることによって、積み降ろしも操作も楽になります。スクーナー型帆船の登場で船の大型化と安全性・操作性が高まると、外部からの新規参入者も出てくるようになります。このときに採用された船員は、島根県出身者が多かったようです。こうして大正時代になると、宇部には100隻をこえる石炭船が出現するようになります。

 宇部には、瀬戸内海各地から石炭を積みに船がやってくるようになります。
それは阿知須・岐波[宇部市]、三田尻、上関の白井田、広島県の能美・倉橋が多かったようです。前回もお話ししたように能美・倉橋は土船・石船の多いところでした。山田洋次監督の「故郷」の陰の主役は石船でした。広島湾周辺の埋立地で働いていた石船の中には、石炭船に転身するものが出てきます。それを真似て、広島県の幸崎・音戸や、愛媛県の伯方や今治の波方からも石炭船に転業した船がやってくるようになります。

 石炭掘りは、たいへんもうかる仕事だったようです。
初めは掘った石炭を共同組合が集めて売っていました。それを船を持っている者が買いとって、それぞれの塩田へ持って行って売るという訪問販売スタイルでした。買ってくれる塩田まで船で運んでいきました。注文を受けての輸送ではないので買い手がつかないと、斎田(徳島県鳴門市)まで行ったこともあるようです。ここまでくると投げ売りで安くても売ってしまうこともあったと口伝は伝えます。
石炭売りは訪問販売でしたので、すべて現金取引きでした。
石炭も採掘方法が進み産炭が多くなると、炭坑自身も資金力をつけて、自前の船を持って売り歩くことも多くなります。これを直売と呼びます。売りさきは石炭問屋が多かったようですが、塩田の浜主のところへ売ることもでてきます。こんな状態が明治30年ごろまで続きます。日清戦争が終わり日本の産業革命が本格化する明治30年をすぎると石炭大型船(黒船)は、大阪の工場へ向かう船が多くなり、塩田の比率は低下していきます。その中で、小型の土船型船の多くは、それまで通り塩田へ石炭を売って瀬戸内海を回っていました。石炭の流通路が大きく変わりつつあったのです。
 こうして昭和になると瀬戸内海には石炭を満載した船が、西から東へと連なるようにして運行されるようになるのです。その寄港地として、大崎下島の御手洗の花街は輝き続けます。

以上をまとめておくと
①石炭は17世紀に宇部周辺の塩田で使用されるようになった
②これが周辺に拡大していくのは18世紀後半になってからのこと
③最初は石炭を買い取った石炭船が瀬戸内海の塩田主を訪ねて売りさばく訪問販売で現金支払いだった
④次第に、各地の石船や土船が石炭船に転業し、宇部に石炭の買い出しに訪れるようになる
⑤明治になると千石船から石炭船に乗り換える水夫が増えるなど、実入りのいい仕事であった。
⑥しかし、当時の船乗りは「特殊技能職」で人手が揃わず、資本力のある船は大型化した。
⑦日清戦争後の第2次産業革命の進行は石炭需要を大幅に増大させ、京阪工業地帯へ石炭を運ぶ船は機帆船と成り大型化した。
⑧御手洗などの色街の最大のお得意さんは、石炭船の船乗りであった。
⑨小型の土船は相変わらず地元の塩田へ宇部の石炭を運び続けた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船
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山田洋次・名作映画DVDマガジン 2013年4/2号 【付録】 「故郷」復刻版ポスター 講談社 本/雑誌 - Neowing

1972年公開の山田洋次監督「故郷」は、瀬戸内海の倉橋島で石船で生計を立てていた夫婦が工業化の波の中で、島での生活を諦めて故郷を捨てる決断をするまでを描いた作品でした。見終わった後に心にずっしりとしたものが残った記憶が今でもあります。この映画の影の主役は「石船」でもありました。
塩田 石船
映画「故郷」の蔭の主役 石船
船が石を運ぶ、海のダンプカーのような役割を果たし、それが夫婦で運営されていることも印象深いことでした。瀬戸内海の石舟の歴史について、知りたいなとかねてから思っていたのですが宮本常一の著作集を読んでいると出会うことができました。今回は読書メモ代わりに瀬戸内海の石舟を見ていきます。テキストは宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船です。
塩田 石垣
波止浜塩田の堤防石垣と雁木
 日本で石垣が盛んに築かれるようになったのは、城郭の築造が盛んになる中世末からのようです。
この時代の石垣の多くは、穴太衆が積む石垣のように大きな石の間に小さい石をはさんだものです。 ところが、近世になって海岸埋立てのための石垣や波止(防波堤)が築かれるようになると、それでは波が小さな石をぬきとって石垣を崩していきました。そのために大きい石のみを積み重ね、その石のからみあいによって破壊されることを防ぐようにするようになります。そのために使われるようになるのが花崗岩です。

瀬戸内海は1300年前には火山の密集地帯で、活発な火山活動を行っていましたから花崗岩は各地に分布しています。東から見ても、兵庫県男家島・西ノ島、香川県小豆島・豊島・庵治町、岡山県大島、香川県櫃石島・与島・小与島・広島、岡山県北木島・白石島、愛媛県越智大島、広島県倉橋島・能美島、山口県浮島・黒髪島などと東西に並びます。
塩田石の採石場 北木島
北木島の採石場跡(岡山県笠岡市)
 小豆島は大坂城の石垣の石を出したところといわれ有名です。しかし、周辺の島々を訪ねて歩いていると各大名の石切場として大阪城に石を出したという島がたくさんあります。当然、採石場のあるところには石船が多かったことは家島をみても分かります。石船というのは石を積むのに適した造りの船で、頑丈でした。船底を浅くして石の積みおろしに便利なように造り、船べりが高くはありませんから、波には弱かったようです。映画「故郷」で活躍していた石船も、江戸時代からの石船の延長線にあるようです。
塩田 故郷2
荷を下ろすときには船体を大きく傾けて滑り落とす石船
  江戸時代の海岸の埋立ての手順を見ておきましょう
①遠浅地形の石垣を築こうとするところへ捨石をする。
②届石を海中に投げ捨て、千潮のときにはその石群が水面へ出るようにする。
③するとその石の周囲に砂が集ってきて、州ができる。
④そして捨石群が列に置かれていれば自然に長い州ができ、そこへ石垣をついていく
⑤最後は干潮時でも干上がらぬ所が出てきます。そこを残して石垣を積み上げ、大潮の干上がりのとき、せきとめをする。
塩田復元 宇多津1
宇多津の復元塩田

ここからは置石をポイントに並べていくことがポイントであることが分かります。また、石垣を組む作業が出来るのは干潮の限られた時間だけです。そのため塩田のような大きな干拓を行なうときには10年以上もかかることがあったようです。
  映画「故郷」の舞台となった広島県能美島にも石船が昔から多かったと宮本常一は指摘します。
小型のものは、大黒神島から屑石を主として広島湾岸の埋立地の捨石として運んでいました。この島には自然のままの屑石が多く、それをかき集めては船に積んで運び、帰りにはその地の塵芥をもらい受けて持ち帰り、これを堆肥にして畑に入れたといいます。映画でも出てきましたが、資本力のある家は、船を大型化していきます。そして、石を運ぶよりも、宇部や九州から石炭を塩田へ運ぶようなります。これは大崎や油良の石船も同じて、石船の多くが石炭運搬船に変わっていったようです。
塩田 故郷石船3

  瀬戸内海の石船や石工は、塩田築造にも大きく関わっています。
広島県生口島南岸にはかつては小さい入浜塩田が多くありました。その塩田の石垣は越智大島からやってきた石工によって築かれたものが多く、石も大島から船で運んだきた伝えられます。そして、そのまま定着し塩田経営者になった者も多かったと云うのです。塩田の石垣作りを依頼されてやってきて、傍らに自分の塩田を作って塩田主に変身したということになります。

生口島には、砂船乗りが多かったようです。
干拓地を作るのなら土を運びますが、塩田の場合には砂を多く運ぶことになります。この島では土船といわず砂船と呼んでいたこともそれを裏付けます。明治時代には300隻をこえる砂船がいたとされます。船は大きいものではなく、石船をさらに小さくしたようなもので、たいてい夫婦で乗っていたようです。ここにも、昭和の石船につながる姿が見えてきます。
塩田復元 宇多津2
砂が敷かれた塩田 宇多津

 塩田築造が遅くまで行われたのは生産条件がよかった讃岐です。
讃岐を稼ぎ場にしていた砂船の船頭は次のように回顧しています
石垣の築造が進むと、次には塩田に入れる砂を運ぶ。粗い砂はどこの砂浜のものを採ってもよかった。塩田の近くの場所で、砂がとれる所に冥加金をおさめて船へ砂を運び込む。築造地へ行って、その砂を田面にまいてゆく。船から陸へあゆみの板をかけ、砂を皿籠に入れて天粋棒で担いで運ぶ。荷揚げしてしまうと、また砂を採りにいく。満潮時でないと船を塩浜の中へ乗り入れることができないので、稼ぎの時間は限られていて、毎日砂をあげる時間が違っていたのが辛かった。
 粗妙をまき終わって粘土を入れ、その上に目の細かい砂をまく。これはどこの砂でもいいものではなかった。愛媛県の新居郡の浜まで採りにいかねばならなかった。新居郡で手に入らないと大分県の海部郡の海岸にも採りに行った。

  砂船の多かったのは生口島の南側ばかりでなく、生口島の東南の生名島や徳島県の撫養にも多かったようです。
大正時代になると、塩田築造はほとんどなくなり、砂を運ぶ仕事がなくなります。
仕事場をなくした船は貨物運搬に転ずるものが多かったようです。しかし、中には大阪付近の川ざらいの仕事に携わる者も出てきます。川底の砂をすくいあげて運ぶのです。いわゆる河川改修工事にあたるのでしょうか。
 大正12年(1923)の東京震災の後は、東京から仕事が舞い込み、焼跡の瓦礫を深川付近の低地埋立てのために運びます。これをきっかけにして瀬戸内海から東京に進出した者が多く現れます。彼らは船を家として働く家船生活で、子供たちも親と共に船で生活するようになります。瓦礫運搬の終わった後は、利根川の改修工事が舞い込みます。このようにして隅田川を根城にしていた水上生活者は、瀬戸内海から出かけて行った砂舟業者が多かったようです。
 戦後、陸上ではトラック輸送によって土が運ばれるようになり、水上では浚渫船が活躍するようにると、砂船や土船は隅田川から姿を消すことになります。
 その後、臨海工業地帯の造成のための大規模な埋立工事が行われるようになります。しかし、ここには瀬戸内海の砂船には登場の機会はありませんでした。大型化されシステム化された企業の活躍の場となっていったのです。
 映画「故郷」は「人類の進歩と調和」を掲げた万博を終え、「大きいことはいいことだ」とCMが歌いあげていた1970年代前半の日本を見事に切り抜いて見せてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
 宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船

伴天連追放令
1587(天正15)7月24日(旧暦6月19日) 九州平定後に秀吉は、伴天連追放令を出します。
 秀吉から棄教を迫られた高山右近は、それに従わず追放されます。そして、九州の教会はことごとく閉鎖され破壊され、イエズス会が所領としていた長崎、茂木、浦上も没収されます。九州の宣教師達は、平戸に逃れて緊急会議を開き、当面の対応策を協議し、可能な限り日本滞在を引きのばすことを決定します。
 秀吉の命令は、畿内にも及びます。京都の南蛮寺をはじめ、畿内の教会は次々と破壊されます。右近の淡路の領土も没収され、多くの吉利支丹が路頭に迷います。

1室津 俯瞰図
    播磨室津 当時は小西行長の支配する軍港でもあった

このようななかで近畿の宣教師達は、室津に避難して今後の対応策を有力信者たちと協議します。
ここにやってきた宣教師達は、前日本副管区長のオルガンテイーノ、大坂のセスペデス神父、プレネスティーノ神父、コスメ神父、堺のパシオ神父たちでした。
 右近が追放された今となっては、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、若き「海の青年司令官」の小西行長でした。行長の保護がなんとしても欲しかったのでしょう。しかし、頼りとする行長は九州から帰った後、宣教師からの呼びかけに応じようとしません。堺から動かないのです。それは、なぜだったのでしょうか。

室津で何が話し合われ、どんなことが決定されたのかの手がかりは、オルガンチーノの報告書にあります。
 オルガンチーノはイタリア人で1570年来日。1603年まで30年余の間ミヤコ地区の伝道に係わり、1577年からはルイス・フロイス神父に替って長らく同地の布教長を勤めています。1580年に信長の許可を得て安土に創立されたミヤコのセミナリヨの院長も兼務しています。彼は「ウルガン伴天連」の名で上方の日本人によく知られていたようです。1603年晩年を長崎で過ごし、1609年76歳で他界しています。
 オルガンチーノが潜伏地から1587年11月25日付で、平戸のイエズス会宛てに送った経過報告書をみましょう。
 秀吉の伴天連追放令でイエズス会の宣教師やイルマン達は平戸に集合させられた。しかし、私は決死の覚悟でミヤコ地区(近畿以東)で、唯一人留まる決心を固め、室津(むろつ)に残った。
しかし、追放令のことを知った室津の人達の私への対応は非常に冷たく、私がこの地に留まることを拒んだ。アゴスチニヨAgostinho小西行長の兄弟が、私の室津退去を促す行長からの通知を伝えてきた。港の重立った人達も、私の室津残留を不可とし追放するよう主張した。
   私は、日比屋了珪の息子ビセンテを堺へ赴かせ、行長を連れてくるように命じた。しかし、行長は、神父に好意を寄せると秀吉ににらまれて自身やキリシタン宗団に不幸が降りかかるかも知れないと恐れ、室津へ来ようとしなかった。私は、再度ビセンテを堺に遣わし、
「もし室に来ないのなら、こちらから大坂か堺の貴殿または父君(小西隆佐)の所へ行って告白を聴かなければならない。」
と伝えさせた。恐れた行長はやっと室に来たが、罪の告白のためではなく、私を室津から去らせようとして来たのであった。行長の心中は、室津到着早々に受けた室の人達や都にいる兄弟からの影響もあって、絶望的な状態に陥っていた。それを察した私は行長に述べた。
「私が室に残留することにしたのは、貴殿やミヤコのキリシタン達の信仰を守り抜く為である。しかるに、貴殿が告白もせず、私をどこかにかくまって助けることをしないのなら、私は都または大坂に行き、泊めてくれる人がいない時は街路に立つつもりである。平戸は遠過ぎてミヤコ地区の信徒の援助に来られないから、私は平戸へ行くべきではない。」と。
これを聞いた行長は泣き出した。こうして私の覚悟を知った行長は、信仰のために命を賭して私を隠す決心をしたのである。
ここからは次のような事が分かります
①オルガンチーノが平戸に退避せずに、この地に残ることを主張したこと。
②それに対して小西行長や室津の有力者達は、室津からの退去・追放をもとめたこと
③オルガンチーノの「脅迫」で、行長は室津にやって来るがそれは室津からの退去を求めるためであった。
ここからは行長が怯えていたことがうかがえます。行長だけではありません。室津の信徒たちまでが行長の意向を受けて、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫っていたようです。そして、堺から行長の弟がやってきて、「これ以上の助力は自分に不可能だから、すぐにも立ち去るように」と行長の命令を伝えるのです。
 九州平定を終えた秀吉が、まもなく大坂に凱旋するような時期に、室津に宣教師を匿っていることを秀吉が知ればどうなるでしょうか。秀吉の怒りをかうのが怖かったのです。信仰よりも、高山右近の二の舞になるのはゴメンだという気持ちの方が、この時点では強かったのでしょう。行長の胸の内を、もう少し覗いてみましょう。
 怯えた行長は、了珪が持参した手紙さえも受けとりません。了珪はふたたび室津に戻り、その旨を神父に報告します。オルガンティーノは再度、了珪を堺に送り、行長が室津に来ないのなら自分が堺に赴き、隆佐(行長の父)とお前とに会おう。そして切支丹として告白の秘蹟を受けぬ限りは堺を立ち去らぬつもりだと言伝ます。
 この言伝てを聞いた行長は、迷い悩みます。オルガンティーノが堺にくれば事態は一層、悪化し、自分や一族に累が及ぶだろう。それは避けなければならない。そこで、ジョルジ弥平次(河内岡山の領主・結城ジョアンの伯父)を伴って、重い心で自ら室津にやってきます。それは。オルガンティーノに九州に去るよう説得するためでした。

1室津 絵図
室津
 神父と行長との間には激論がかわされたようです。
オルガンティーノは秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長に、信仰の決意を促したのでしょう。にもかかわらず行長の動揺は消えません。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言し、自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと宣言します。オルガンティーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのかもしれません。   
1 イエズス会年次報告
                     
   オルガンチーノ神父書簡の和訳は、2つ出版されています。
「新異国叢書」村上直次郎氏訳も「十六・七世紀イエズス会日本報告集」松田毅一氏監訳も、「泣き」「泣き出し」と訳されています。
 しかし、ルイス・フロイス著「日本史」中央公論社版1の松田毅一・川崎桃太両氏共訳では、「ほとんど泣き出さんばかりになりました」とあり、和訳の表現に微妙な違いがあようです。どちらにしても行長は、信仰と現実の間で苦しみ悩んでいたようです。 オルガンチーノは、自分の決意と説得が思い悩む行長の気持ちを変えたと報告しています。
 しかし、自らもキリスト教徒であった作家の遠藤周作は、小説「鉄のくびき 小西行長伝」の中で、それよりも大きな人物の存在があったと云います。行長の迷える心を支えたのは、高山右近の登場だったと云うのです。

高山右近とは?高槻城やマニラ、子孫や細川ガラシャとの関係について解説!

オルガンチーノの報告書の続きを読んでみましょう
この日、うれしいことにジュストlusto高山右近と三箇マンショManclo及び小豆島を管理している作右衛門(?)が私に会いにきた。また、都からは数人のキリシタンが、私の潜伏に適した家を近江に準備してあるからと、駕籠と馬を伴い迎えに来たのである。一同は、室津付近に行長からジョルジorge結城弥平次(河内出身のキリシタン武将)に隠れ家兼臨時宿泊所として与えられた家に集まって聖体拝領した。
   次の日、互いに決意を述べ合い、私と高山右近が当地方に隠れることについて協議した。
私は、行長領たる室津に隠れて発見された時は行長一家に迷惑を掛けるから、都のキリシタンの設けた隠れ家へ行くのが何かにつけ最良だ、と言ったところ、行長がきっぱりした言葉で私の都行きに反対し、自分が他の誰よりも巧妙に神父・右近やその父ダリヨと妻子を隠すことができる、と決死の思いを述べた。皆賛成して非常に喜んだ。
バテレン追放令後に、大名の地位を捨て姿を消していた高山右近は、行長の手引きで淡路島に帰っていたようです。
船上西公園 | ヤング開発グループ|スタッフブログ
右近は、明石船揚城の城下町に宣教師を招き、最盛期には2000名を超える信者がいたという。明石の町は堺などへ海上ルートの中継港町として大いに栄えた。

室津の状況を聞いて、父ダリオ・弟太郎右衛門や行長の家臣の三箇マンショと室津にやってきます。
右近は、行長たちに向って我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語ります。それは「地上の軍人から神の軍人」に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えないことを誓います。
 また父ダリオ・弟太郎右衛門も宣教師たちを励まし、慰め、生涯、信仰を棄てぬことを誓います。このような右近一族と、行長の態度は対照的です。フロイスも「行長は宣教師たちに冷たかった」と書いています。右近一族の登場が、その後の展開に大きな影響をもたらすことになったと遠藤周作氏は考えているようです。

フィリピン マニラ 高山右近 禁令 キリシタン大名 パコ Manila Takayama
マニラの高山右近像

 この後の対応策は、いかに秀吉をだますかということです。秀吉への裏切工作が話し合われます。
秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、切支丹信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを、日本人信徒達は夜を徹して話し合い、その結果を、翌朝に宣教師達に伝えたようです。
 こうして行長と右近たちは協議の結果、次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を、小豆島に隠すこと。(史料には小豆島の地名は出てきません)
②二人の住居は秘密して、誰も近づかぬようにすること。
③神父と右近とは離れて別々に住む。万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の知行地に逃げること。
小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンショが代官でした。前年には、セレペデスによって布教活動も行われ「1400人」の信者もいます。二人を隠すには最適です。

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小西行長

 国外退去命令の出た宣教師をかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする反逆です。
これは自らを危険にさらすことです。バテレン追放令が出された時には、自分や一族のことを守ることだけを考え、卑怯で、怯えた行長が、このような危険に身を曝すようになったのです。そこには、試練と向き合い成長し、強くなっていく姿が見えてきます。
 あるいは、秀吉の野心実現のための駒には、なりたくないという気持がうまれていたのかもしれません。権力者の人形として、動くことへの反発心かもしれません。
 あるいはまた「堺商人の処世術」かもしれません。
表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという生き方です。その商人の生き方を、関白にたいして行おうとする決意ができたのかもしれません。
 切支丹禁制に屈服したように装いながら、宣教師をかくまうことは秀吉を「だます」ことです。それはある意味で裏切りであり、反逆でした。その「生き方」が、朝鮮侵略においても秀吉を「だまし」和平工作を行うようになるのかもしれません。

 資料には出てきませんが、室津では今後の「秀吉対策」も協議されたたのでないかと研究者は考えているようです。
行長と宣教師の間では南蛮貿易が、宣教師の介入なくしては成り立たないことが分かっています。南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは、日本通の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きを行っていました。そして、イエズス会は南蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなってきました。バテレン追放令の目的の中には、宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして秀吉が南蛮貿易の利益を独占しようとする意図もあったようです。
 これに対してイエズス会からすれば、それを許してはならず

「宣教師がおればこそ、ポルトガル商人との貿易も円滑に成立するのだ」

ということを秀吉に知らしめる必要があるという共通認識に立ったはずです。そうすれば、やがて関白は嫌々ながらも、一時は追放しかかった宣教師の滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノが、このような方策を協議したことは考えられます。

 「イエズス会の対秀吉戦略」の成果は? 
バテレン追放令の翌年天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行おうとします。秀吉は二十万クルザードという大金をだして生糸のすべてを買いとろうとします。この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐でした。彼はこの交渉を成立させています。しかし、後にこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を得たからであることを、秀吉はしらされます。
 更に、天正十九年(1591)には、鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船から直接に金の買占めをしようとします。しかし、ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲介を主張してこれを拒否し買い占めは成立しません。秀吉は、ここでも宣教師達の力を見せつけられてのです。

ヨーロッパから伝来した「南蛮文化」とは? | 戦国ヒストリー

 これらの経験から南蛮貿易で儲けるためには、宣教師の力が必要だということを、秀吉は学ばされたのかもしれません。
これ以後、秀吉は少しずつ折れはじめます。当初は教会の破壊やイエズス会所領の没収を命じていた関白は、宣教師の哀願を入れ、その強制退去を引き延ばし、最後には有耶無耶になってしまいます。
 秀吉はマニラやマカオとの貿易では、宣教師の協力がなくては儲けにならないことが分かってきたのでしょう。秀吉は、現実主義者です。宣教師たちの残留を公然とは認めませんが、黙認という形をとりはじめます。実質的には、行長たちは勝ったと云えるようです。
 
一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび五島、豊後に秘密裡に散っていきます。
彼等はこの潜伏期間を日本語の習得にあて次の飛躍に備えたようです。小豆島にかくれたオルガンティーノも変装して扉をとじた駕寵にのり、信徒たちを励ましに歩きまわるようになります。

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秀吉のバテレン追放令後の天正十五年(1587)の陰暦六月下旬から七月上旬に、室津で開かれた吉利支丹会議は、イエズス会の日本布教にとっては大きな試金石であったように思えてきます。
 小西行長にとっては、彼の生涯の転機となった場所だったと研究者は考えているようです。彼の受洗は幼少の時のことで、動機も父親の商売上の都合という功利的なものだったかもしれません。しかし、彼はこの時、室津から真剣に神のことを考えはじめるようになります。そのためには、追放令という試練と高山右近という存在と、その犠牲とが必要だったのかもしれません。
  今日、グーグルで検索しても室津には、行長や右近をしのぶものはないようです。ここが行長の魂の転機となった場所だとは、知るひとはいないようです。
参考文献 遠藤周作 鉄のくびき 小西行長伝



5 小西行長像5
小西行長
 
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
5 堺南蛮貿易

 秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握
②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える
③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
                    
 パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。
 86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
 行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。

韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像

彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」

と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。

グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役 

同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について
上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。

「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
 1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに