瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:瀬戸の島と船 > 外国人の瀬戸内海礼賛

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

明治の半ばに、瀬戸内海を汽船で東から西に向かったフランスのコトーは、次のように言います。

「島々の大半は人が住み、よく開墾され、

人家や寺院で覆われている。

変化に富んだ外観によって、

これらの島々は族行者に素晴らしい眺望をあたえる」

と人々の暮らしや、その背後の歴史にまでまなざしを向けて、

瀬戸内海の景観を楽しんでいます。

多くの人たちによって受け継がれてきたものが、
いま継承者が見つからず消えていこうとしています。

小豆島・中山の千枚田も写真の通り、
耕作が行われない田んぼが増えてきました。

イメージ 1

カナダの女性キヤサリン・バクスターは数カ月の日本旅行を行ない、1895(明治二八)年に旅行記『美しい日本で』を出版。
そのなかで自然景と人文景・生活景が一体となった瀬戸内海の風景を賞賛。

美しい瀬戸内海を、これからぬっていこうとしていました。

神戸から下関まで主な島の問を240マイルにわたって広がる長い海峡、

そこは島々で満たされていました。

ある島は大きく緊密に人が住み高度に耕され、

またある島は、単なる名もない岩礁で海の男を困らせていました。

山々は七〇〇〇フィートあり、海辺には村が多く、樹林の問に寺院や廃城がきわだち、

滑らかな水面に四角い帆をもったジャンクや漁船が浮かんでいました。

イメージ 1

 イギリスの下院議員ウィリアム・ケインは日本を訪問し、
翌年1888(明治12)年に、『一888年世界一周旅行』を出版。
瀬戸内海の自然と一体となった人々の生活を次のように描く。

瀬戸内海の約七〇〇マイルの海岸には人が緊密に住み、

島はどこも役にたつ土壌で、山腹はみごとに耕されていた。

私は地図から神戸と下関の間に四〇七の島を数えた。

船の両側には六〇〇〇から八〇〇〇フィートの険しい山がそびえ、山や島や村が一体となって、

ジャンク(平氏の和船)や漁船が点々と浮かぶ広い青い海とともに、

夜明けから日暮れまで、一つの長く連続する魅惑的な絵をつくりあげていた。

イメージ 1

 夫の駐日英国公使に付き添い日本に滞在したイギリスのメアリー・フレイザー夫人は、1899(明治32)年に『一外交官の妻の日本滞在-故郷から故郷への手紙』(邦訳『英国公使夫人の見た明治日本』)を出版。

彼女は瀬戸内海の霜の風景を「一刻一刻の眺めがあまり美しいものですから」と語り、次のように絶賛。

べ-ルのような霧、
輝く金銅色のマツの山々
へさきが奏でる涼しい音楽
銀のクモの巣のような帆掛船と
繊細な感覚で、瀬戸内海を詩的に幻想的に、そして輝く色で描写する。

頂きにほかならず、群の松がなごやかに並び、霞が涙のしずくをたらす暗緑色の小枝や、
強い日ざしを受けて輝く金銅色の大枝を張り出しているのです。(中略〕

そして今はもう私たちは緑の山々にかこまれ、数かぎりない島々がちりばめられた、
あふれる陽光にきらめく海の上にまどろんでいるのです。(中略)

あの日本の船の帆が、独特のやわらかな輝きをたたえて風をはらむ姿は、
青空を背景に、銀のクモの巣を眺めるようでした。
       
               〔ヒユー・コクッツィ編、横山俊夫訳『英国公使夫人の見た明治日本』

イメージ 1

イギリスのアーサー・トンプソンは、1911〔明治四四)年に出版した『1週間の日本』の中で、スコ

ットランドの運河と湖の風景を比較しながら、瀬戸内海の船上の興奮を次のとおり伝える。

「神戸から長崎への二日間の航海は、おそらく世界でもっとも素晴らしい船の旅である。

私はカレドニア運河はすぐれていると思っていたし、カトリン湖もこの上なくみごとだと思っていた。

だが、今後秀でた水の風景について語るとすれば、日本の瀬戸内海の風景を引用するだろう。

瀬戸内海は、日本の中心となる島と次に大きい二つの島を分けている。

そこは、幅が一二〇マイルの所もあれば、一マイルに達しない所もある。

不規則な海岸線をもつ小さな島々が散在し、小さな湾や大きな湾や入江が深くいりくんでいる。

それは十月のやわらいだある日のことだった。

昼食の後いつものように甘い眠りにうとうとしていると、

突然、外を眺めていた幾人かの乗客の賛嘆の声におこされた。

そして二分後には、あらゆるデッキチェアーから人々が立ちあがり、

ふだんは寄りつかない船首に興奮した人々が群がり、魅惑的な多島海の印象をおさめようと、

あらゆるカメラのシャッターがきられた。」


百年前の欧米人の「風景観」について、知りたくなる文章です。

蒸気船で航海する当時の旅の様子が伝わってきます。

イメージ 1

 江戸に登る途中、備讃瀬戸の塩飽諸島に船でさしかかったとき。

シーボルトは島々のシークエソス景〔動的景)を、次のように記述しています。

船が向きをかえるたびに魅するように美しい島々の眺めがあらわれ、

島や岩島の問に見えかくれする本州と四国の海岸の景色は驚くばかりである。

時は録の畑と黄金色の花咲くアブラナ畑の低い丘に農家や漁村が活気を与え、

ある時は切り立った岩壁に滝がかかり、

また常緑の森のかなたに大名の城の天守閣がそびえ、

その地方を飾る無数の神社仏閣が見える。

はるかかなたには、南と北に山が天界との境をえがいている。

隆起した円い頂の峯、それをしのぐ線形の山、

きざきざの裂けたような山頂が見え、峯や谷は雪におおわれている。                                             (斎藤信訳『江戸参府紀行』より)


「隆起した円い頂の峯」って、讃岐の神なびた山々のことなんでしょかね。

「常緑の森のかなたに大名の城の天守閣」って、丸亀城のことなのかな。

このページのトップヘ