瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:瀬戸の島と船 > 小豆島の集落と民家

俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

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河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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伴天連追放令
1587(天正15)7月24日(旧暦6月19日) 九州平定後に秀吉は、伴天連追放令を出します。
 秀吉から棄教を迫られた高山右近は、それに従わず追放されます。そして、九州の教会はことごとく閉鎖され破壊され、イエズス会が所領としていた長崎、茂木、浦上も没収されます。九州の宣教師達は、平戸に逃れて緊急会議を開き、当面の対応策を協議し、可能な限り日本滞在を引きのばすことを決定します。
 秀吉の命令は、畿内にも及びます。京都の南蛮寺をはじめ、畿内の教会は次々と破壊されます。右近の淡路の領土も没収され、多くの吉利支丹が路頭に迷います。

1室津 俯瞰図
    播磨室津 当時は小西行長の支配する軍港でもあった

このようななかで近畿の宣教師達は、室津に避難して今後の対応策を有力信者たちと協議します。
ここにやってきた宣教師達は、前日本副管区長のオルガンテイーノ、大坂のセスペデス神父、プレネスティーノ神父、コスメ神父、堺のパシオ神父たちでした。
 右近が追放された今となっては、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、若き「海の青年司令官」の小西行長でした。行長の保護がなんとしても欲しかったのでしょう。しかし、頼りとする行長は九州から帰った後、宣教師からの呼びかけに応じようとしません。堺から動かないのです。それは、なぜだったのでしょうか。

室津で何が話し合われ、どんなことが決定されたのかの手がかりは、オルガンチーノの報告書にあります。
 オルガンチーノはイタリア人で1570年来日。1603年まで30年余の間ミヤコ地区の伝道に係わり、1577年からはルイス・フロイス神父に替って長らく同地の布教長を勤めています。1580年に信長の許可を得て安土に創立されたミヤコのセミナリヨの院長も兼務しています。彼は「ウルガン伴天連」の名で上方の日本人によく知られていたようです。1603年晩年を長崎で過ごし、1609年76歳で他界しています。
 オルガンチーノが潜伏地から1587年11月25日付で、平戸のイエズス会宛てに送った経過報告書をみましょう。
 秀吉の伴天連追放令でイエズス会の宣教師やイルマン達は平戸に集合させられた。しかし、私は決死の覚悟でミヤコ地区(近畿以東)で、唯一人留まる決心を固め、室津(むろつ)に残った。
しかし、追放令のことを知った室津の人達の私への対応は非常に冷たく、私がこの地に留まることを拒んだ。アゴスチニヨAgostinho小西行長の兄弟が、私の室津退去を促す行長からの通知を伝えてきた。港の重立った人達も、私の室津残留を不可とし追放するよう主張した。
   私は、日比屋了珪の息子ビセンテを堺へ赴かせ、行長を連れてくるように命じた。しかし、行長は、神父に好意を寄せると秀吉ににらまれて自身やキリシタン宗団に不幸が降りかかるかも知れないと恐れ、室津へ来ようとしなかった。私は、再度ビセンテを堺に遣わし、
「もし室に来ないのなら、こちらから大坂か堺の貴殿または父君(小西隆佐)の所へ行って告白を聴かなければならない。」
と伝えさせた。恐れた行長はやっと室に来たが、罪の告白のためではなく、私を室津から去らせようとして来たのであった。行長の心中は、室津到着早々に受けた室の人達や都にいる兄弟からの影響もあって、絶望的な状態に陥っていた。それを察した私は行長に述べた。
「私が室に残留することにしたのは、貴殿やミヤコのキリシタン達の信仰を守り抜く為である。しかるに、貴殿が告白もせず、私をどこかにかくまって助けることをしないのなら、私は都または大坂に行き、泊めてくれる人がいない時は街路に立つつもりである。平戸は遠過ぎてミヤコ地区の信徒の援助に来られないから、私は平戸へ行くべきではない。」と。
これを聞いた行長は泣き出した。こうして私の覚悟を知った行長は、信仰のために命を賭して私を隠す決心をしたのである。
ここからは次のような事が分かります
①オルガンチーノが平戸に退避せずに、この地に残ることを主張したこと。
②それに対して小西行長や室津の有力者達は、室津からの退去・追放をもとめたこと
③オルガンチーノの「脅迫」で、行長は室津にやって来るがそれは室津からの退去を求めるためであった。
ここからは行長が怯えていたことがうかがえます。行長だけではありません。室津の信徒たちまでが行長の意向を受けて、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫っていたようです。そして、堺から行長の弟がやってきて、「これ以上の助力は自分に不可能だから、すぐにも立ち去るように」と行長の命令を伝えるのです。
 九州平定を終えた秀吉が、まもなく大坂に凱旋するような時期に、室津に宣教師を匿っていることを秀吉が知ればどうなるでしょうか。秀吉の怒りをかうのが怖かったのです。信仰よりも、高山右近の二の舞になるのはゴメンだという気持ちの方が、この時点では強かったのでしょう。行長の胸の内を、もう少し覗いてみましょう。
 怯えた行長は、了珪が持参した手紙さえも受けとりません。了珪はふたたび室津に戻り、その旨を神父に報告します。オルガンティーノは再度、了珪を堺に送り、行長が室津に来ないのなら自分が堺に赴き、隆佐(行長の父)とお前とに会おう。そして切支丹として告白の秘蹟を受けぬ限りは堺を立ち去らぬつもりだと言伝ます。
 この言伝てを聞いた行長は、迷い悩みます。オルガンティーノが堺にくれば事態は一層、悪化し、自分や一族に累が及ぶだろう。それは避けなければならない。そこで、ジョルジ弥平次(河内岡山の領主・結城ジョアンの伯父)を伴って、重い心で自ら室津にやってきます。それは。オルガンティーノに九州に去るよう説得するためでした。

1室津 絵図
室津
 神父と行長との間には激論がかわされたようです。
オルガンティーノは秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長に、信仰の決意を促したのでしょう。にもかかわらず行長の動揺は消えません。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言し、自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと宣言します。オルガンティーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのかもしれません。   
1 イエズス会年次報告
                     
   オルガンチーノ神父書簡の和訳は、2つ出版されています。
「新異国叢書」村上直次郎氏訳も「十六・七世紀イエズス会日本報告集」松田毅一氏監訳も、「泣き」「泣き出し」と訳されています。
 しかし、ルイス・フロイス著「日本史」中央公論社版1の松田毅一・川崎桃太両氏共訳では、「ほとんど泣き出さんばかりになりました」とあり、和訳の表現に微妙な違いがあようです。どちらにしても行長は、信仰と現実の間で苦しみ悩んでいたようです。 オルガンチーノは、自分の決意と説得が思い悩む行長の気持ちを変えたと報告しています。
 しかし、自らもキリスト教徒であった作家の遠藤周作は、小説「鉄のくびき 小西行長伝」の中で、それよりも大きな人物の存在があったと云います。行長の迷える心を支えたのは、高山右近の登場だったと云うのです。

高山右近とは?高槻城やマニラ、子孫や細川ガラシャとの関係について解説!

オルガンチーノの報告書の続きを読んでみましょう
この日、うれしいことにジュストlusto高山右近と三箇マンショManclo及び小豆島を管理している作右衛門(?)が私に会いにきた。また、都からは数人のキリシタンが、私の潜伏に適した家を近江に準備してあるからと、駕籠と馬を伴い迎えに来たのである。一同は、室津付近に行長からジョルジorge結城弥平次(河内出身のキリシタン武将)に隠れ家兼臨時宿泊所として与えられた家に集まって聖体拝領した。
   次の日、互いに決意を述べ合い、私と高山右近が当地方に隠れることについて協議した。
私は、行長領たる室津に隠れて発見された時は行長一家に迷惑を掛けるから、都のキリシタンの設けた隠れ家へ行くのが何かにつけ最良だ、と言ったところ、行長がきっぱりした言葉で私の都行きに反対し、自分が他の誰よりも巧妙に神父・右近やその父ダリヨと妻子を隠すことができる、と決死の思いを述べた。皆賛成して非常に喜んだ。
バテレン追放令後に、大名の地位を捨て姿を消していた高山右近は、行長の手引きで淡路島に帰っていたようです。
船上西公園 | ヤング開発グループ|スタッフブログ
右近は、明石船揚城の城下町に宣教師を招き、最盛期には2000名を超える信者がいたという。明石の町は堺などへ海上ルートの中継港町として大いに栄えた。

室津の状況を聞いて、父ダリオ・弟太郎右衛門や行長の家臣の三箇マンショと室津にやってきます。
右近は、行長たちに向って我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語ります。それは「地上の軍人から神の軍人」に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えないことを誓います。
 また父ダリオ・弟太郎右衛門も宣教師たちを励まし、慰め、生涯、信仰を棄てぬことを誓います。このような右近一族と、行長の態度は対照的です。フロイスも「行長は宣教師たちに冷たかった」と書いています。右近一族の登場が、その後の展開に大きな影響をもたらすことになったと遠藤周作氏は考えているようです。

フィリピン マニラ 高山右近 禁令 キリシタン大名 パコ Manila Takayama
マニラの高山右近像

 この後の対応策は、いかに秀吉をだますかということです。秀吉への裏切工作が話し合われます。
秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、切支丹信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを、日本人信徒達は夜を徹して話し合い、その結果を、翌朝に宣教師達に伝えたようです。
 こうして行長と右近たちは協議の結果、次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を、小豆島に隠すこと。(史料には小豆島の地名は出てきません)
②二人の住居は秘密して、誰も近づかぬようにすること。
③神父と右近とは離れて別々に住む。万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の知行地に逃げること。
小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンショが代官でした。前年には、セレペデスによって布教活動も行われ「1400人」の信者もいます。二人を隠すには最適です。

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小西行長

 国外退去命令の出た宣教師をかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする反逆です。
これは自らを危険にさらすことです。バテレン追放令が出された時には、自分や一族のことを守ることだけを考え、卑怯で、怯えた行長が、このような危険に身を曝すようになったのです。そこには、試練と向き合い成長し、強くなっていく姿が見えてきます。
 あるいは、秀吉の野心実現のための駒には、なりたくないという気持がうまれていたのかもしれません。権力者の人形として、動くことへの反発心かもしれません。
 あるいはまた「堺商人の処世術」かもしれません。
表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという生き方です。その商人の生き方を、関白にたいして行おうとする決意ができたのかもしれません。
 切支丹禁制に屈服したように装いながら、宣教師をかくまうことは秀吉を「だます」ことです。それはある意味で裏切りであり、反逆でした。その「生き方」が、朝鮮侵略においても秀吉を「だまし」和平工作を行うようになるのかもしれません。

 資料には出てきませんが、室津では今後の「秀吉対策」も協議されたたのでないかと研究者は考えているようです。
行長と宣教師の間では南蛮貿易が、宣教師の介入なくしては成り立たないことが分かっています。南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは、日本通の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きを行っていました。そして、イエズス会は南蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなってきました。バテレン追放令の目的の中には、宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして秀吉が南蛮貿易の利益を独占しようとする意図もあったようです。
 これに対してイエズス会からすれば、それを許してはならず

「宣教師がおればこそ、ポルトガル商人との貿易も円滑に成立するのだ」

ということを秀吉に知らしめる必要があるという共通認識に立ったはずです。そうすれば、やがて関白は嫌々ながらも、一時は追放しかかった宣教師の滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノが、このような方策を協議したことは考えられます。

 「イエズス会の対秀吉戦略」の成果は? 
バテレン追放令の翌年天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行おうとします。秀吉は二十万クルザードという大金をだして生糸のすべてを買いとろうとします。この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐でした。彼はこの交渉を成立させています。しかし、後にこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を得たからであることを、秀吉はしらされます。
 更に、天正十九年(1591)には、鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船から直接に金の買占めをしようとします。しかし、ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲介を主張してこれを拒否し買い占めは成立しません。秀吉は、ここでも宣教師達の力を見せつけられてのです。

ヨーロッパから伝来した「南蛮文化」とは? | 戦国ヒストリー

 これらの経験から南蛮貿易で儲けるためには、宣教師の力が必要だということを、秀吉は学ばされたのかもしれません。
これ以後、秀吉は少しずつ折れはじめます。当初は教会の破壊やイエズス会所領の没収を命じていた関白は、宣教師の哀願を入れ、その強制退去を引き延ばし、最後には有耶無耶になってしまいます。
 秀吉はマニラやマカオとの貿易では、宣教師の協力がなくては儲けにならないことが分かってきたのでしょう。秀吉は、現実主義者です。宣教師たちの残留を公然とは認めませんが、黙認という形をとりはじめます。実質的には、行長たちは勝ったと云えるようです。
 
一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび五島、豊後に秘密裡に散っていきます。
彼等はこの潜伏期間を日本語の習得にあて次の飛躍に備えたようです。小豆島にかくれたオルガンティーノも変装して扉をとじた駕寵にのり、信徒たちを励ましに歩きまわるようになります。

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秀吉のバテレン追放令後の天正十五年(1587)の陰暦六月下旬から七月上旬に、室津で開かれた吉利支丹会議は、イエズス会の日本布教にとっては大きな試金石であったように思えてきます。
 小西行長にとっては、彼の生涯の転機となった場所だったと研究者は考えているようです。彼の受洗は幼少の時のことで、動機も父親の商売上の都合という功利的なものだったかもしれません。しかし、彼はこの時、室津から真剣に神のことを考えはじめるようになります。そのためには、追放令という試練と高山右近という存在と、その犠牲とが必要だったのかもしれません。
  今日、グーグルで検索しても室津には、行長や右近をしのぶものはないようです。ここが行長の魂の転機となった場所だとは、知るひとはいないようです。
参考文献 遠藤周作 鉄のくびき 小西行長伝



5 小西行長像5
小西行長
 
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
5 堺南蛮貿易

 秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握
②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える
③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
                    
 パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。
 86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
 行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。

韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像

彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」

と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。

グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役 

同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について
上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。

「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
 1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに行き、1603年にみやこ、1606年に金沢、1607年2月にまた、みやこ下京のレジデンシャに居たが、同年10月の名簿には記入されていないので、そのうちに脱会したらしい。」

 豊後でイルマンとしての何年かの基本的学習を終えた後、出身地の摂津大坂に帰任して間もなく、定評ある日本語の知識表現力を買われて小豆島にセスペデスと共に派遣されたようです。

 コエリョー行は行長の用意した二隻の船に分乗して、堺を出て牛窓に到着します。
岡山牛窓オリーブ園 :: 岡山県牛窓の観光 牛窓オリーブ園/日本オリーブ株式会社
牛窓からの瀬戸内海と小豆島 海の向こうの山並みが小豆島

ここでセスペデス神父と日本人修道士ジアンを降ろしています。牛窓も行長の領地でした。牛窓は瀬戸内海航路のネットワーク拠点として重要な港でした。秀吉の四国平定の際には、多くの人馬や兵船が集結した軍港の役割も果たしていました。牛島の前の前島の丘に立つと、南に小豆島がすぐ近くに見えます。目を凝らせると小豆島の大観音も見えるほどです。その観音さまの足下辺りが屋形崎と呼ばれ、中世に居館があったと伝えられます。牛窓と屋形崎ならば直線で14㎞ほです。かつて道路が整備される以前は、小豆島の北岸の人たちにとって、草壁などの南岸との交流よりも牛窓などの吉備・播磨との交流の方か多かったと云います。近代以前の瀬戸内海は、人々を隔てるものではなく、結びつける役割を果たしていました。船さえあれば、海があればどこにでもいけたのです。小豆島北岸と牛窓は、経済的には一体化していたと考えられます。
 
11 小豆島 牛窓地図

セスペデス神父と日本人修道士ジアンは、その日のうちに牛窓から小豆島に向かう船に乗り込みます。二人を待っていたのは、行長が「小豆島の司令官(代官)に任命したキリシタン貴人」でした。これは河内出身のキリシタン武将で、行長の配下にあったジヨルジ結城弥平次かとする説もありますが、よくは分からないようです。
フロイスの年次報告書には、小豆島に派遣されたセレベデスからの次のような報告書簡が載せられています。
 予(セスペデス)は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。
この島にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆があった。彼等の半数以上は、よく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとおりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモの説教を網けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々に斎座の火を燃やし給ひ、①1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(6㎞)の間に接績していた村々において、②千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって③長さ七ブラサ(15m)を超ゆる立派な十字架をここに建て、④神仏は一つも残さず破壊した。また⑤聖堂を建てるため四十ブラサ(約90m)四方の地所を選んだ。その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この島の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ(4㎞)余りの道を急いで、私が滞在していた村にやって来て、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
ここには、牛窓を出発した船がどこに着いたのか、そして、彼らが布教活動を始めたのはどこなのかについては何も記していません。
まずセスペデスが宣教をおこなった場所についての手がかりを集めてみましょう。
①約六㎞周囲に連続した村々がある。
②1か月で1400人以上がキリシタンとなった。 
  → 島の人口集中地
③キリシタン達が建てた15m以上の十字架がある。
④キリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
⑤聖堂を建てるための約88m平方の土地があり、そこには梨、無果花、蜜柑の樹が多数あって、周囲には樹木が繁茂している。
⑥小西行長の支配の中心地に当り、「城」が築かれていた。
この条件がに当てはまるのは、内海湾に抱かれた苗羽、安田、草壁、西村の村が連続したエリアと研究者は考えているようです。映画「二十四の瞳」で、大石先生が岬の分校までが自転車を走らせた通勤ルートの沿線になります。

5 小西行長 小豆島5
 
延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、小豆島の「転び切支丹類族」の出た地域と数が次のように記されています。
草加部 54人
肥土山村 12人
土庄村  3人
渕崎村  2人
また、草加部の項目には次のようなことも記されています。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。

ここからは小豆島の草壁には18世紀の半ばまで、隠れキリシタンが50人以上もいたこと、さらに、草加部の他に、池田、小海、福田にもキリシタン関係者がいたことが分かります。このような「状況証拠」からすると、草加部村を中心とした地域が小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。

 ④のキリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
については、「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」

と記録され、小豆島の小西行長時代に神社仏閣の破壊が徹底して行われたと伝えています。
 小豆島における神社仏閣破壊は小規模なものだったという説もありますが、私は、次の2点から同意はできません。
A高山右近の淡路の領地では、大規模な破壊運動が組織的に展開されていた。
B偶像破壊運動が、新たな宗教活動を展開する側に大きな宗教的なエネルギーをもたらし、急速な 信徒増大をもたらす。それはムハンマドのメッカでの活動や、中国の太平天国の指導者達の活動からも垣間見える。
 偶像破壊という手法を、大坂で布教活動を行っていたセスペデスやジアンは熟知していた。もっと云えばすでに偶像破壊活動を伴う布教活動をすでに行っていた気配があります。「偶像破壊運動」から沸き上がるエネルギーが「1ヶ月で洗礼者1400人」という「成果」となったと私は考えています。

また、天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
「室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけ(安宅)の大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿」

とあります。これは、薩摩島津藩の藩士が見た報告ですが、ここからは小西行長の支配する室津には、大きな安宅船が係留されていたこと、室津でも「南蛮宗が保護され 大明神は廃」される組織的な神社仏閣破壊が行われていたことがうかがえます。

5 小西行長2

⑤の約15mの十字架の設置場所と聖堂建設用地については

片城に近く、海上からよく見える高台にあったことが考えられます。しかし、詳しい場所については分かりません。そして、1年後の九州平定の論功行賞として、行長は肥後南部の24万石の大名に「栄転」
しますので、教会が建設されることはなかったようです。あくまで「建設予定地」でした。
⑥の小西行長が築いたとされる片城については、草聖地区に片城という地名が残っているようです。

  最初私は、小豆島での布教と聞いて何年も苦労しながら信者を増やして行ったのかと思いました。ところが、宣教師の布教活動はわずか1ヶ月のことです。期間が決められていたのかもしれませんが、洗礼を済ませるとすぐに引き上げているのです。残された信者達は、その後どうなったのでしょうか。1ヶ月では、信の信者に成長できていたとは云えません。
5 小西行長 バテレン追放令2

 ところが1年後に秀吉のバテレン追放令が出ると小豆島は、多くの吉利支丹を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。右近は秀吉に屈する道を選ばずに、領地を捨て大名であることを止めます。この一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」

と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」

だったといいます。
5 高山右近
小豆島土庄の右近像と教会

右近の一族や重臣の中には、小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、バテレン追放令の後の小豆島には
①セスベデスによる1400人の地元改宗者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことになります。②③は筋金入りのキシリタンに成長しています。これらの人々が核となって、小豆島では信仰が守られていくことになったのではないかと私は考えています。

幕末の小豆島の廻船大神丸 何を積んでどこに航海していたか? : 瀬戸の島から
 
以上をまとめておくと
①四国平定前に秀吉は小豆島・室津を小西行長に与えて、東瀬戸内海の制海権確保の拠点とした
②行長は高山右近を見習って、「地上の神の国」を小豆島につくる理想を持っていた
③そのために二人の宣教師がイエズス会から派遣され、内海湾周辺で布教活動を行った
④それは偶像破壊運動を伴う宗教活動で、1ヶ月で1400人の洗礼者を産み出した。
⑤派遣された宣教師は、わずか1ヶ月で小豆島を去った。
⑥しかし、1年後に伴天連追放令が出されると各地から「亡命者」がやってきて信者集団は拡充した。
⑦そのような中で、小西行長は高山右近を小豆島の地に匿うことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 近藤春平 讃岐吉利支丹諸考  1996年

   
小豆島地図
  小豆島の安田の辺りの路地を歩くと醤油の匂いが漂ってきます。
この辺りには、マルキン醤油以外にも今も醤油醸造者が何軒も創業を続けています。各地域にあった醤油屋さんが姿を消した中で、小豆島の醤油倉だけが生き残ったのはどうしてなのかという疑問が昔からありました。その答えのヒントになりそうな論文に出会いましたので紹介します。テキストは「中山正太郎 明治期の小豆島土庄醤油会社の経営構造」 瀬戸内海地域研究第1号 です。

 明治を迎えたばかりの日本で、酒・醤油・味噌造などの醸造業は、地方有力者が手を出したいあこがれの産業でした。『明治七年府県別物産表』には、醸造品(酒・醤油・味噌を含む)の生産額は、3100万円余で織物の1700万円をはるかにしのいで第一位を占めています。明治前期の中心産業は、醸造業と織物業であったといえるようです。
 文化元年(1804)に、小豆郡安田村の高橋文右衛門が、大坂の醤油屋近江屋及び島新へ醤油を運び出しているのが小豆島醤油の最初の記録のようです。それ以前に小豆島で醤油醸造を始めていた蔵本があったことが分かります。
 明治三年(1870)には、小豆島の東部には75軒の醤油醸造家があり、諸味仕込高10699石、醤油製造石高5360石斗、西部の六ヵ村を加えると小豆島全体で約100軒の醸造家が醤油生産に従事していたことが記録から分かります。それが明治十年代になると醤油醸造家は218軒と倍以上に急増しています。約10年間で、75軒から218軒への増加というのは、どういうことなのでしょうか?

 明治21年度の香川県全体の各郡の醤油醸造所を示したのが図1です            
小豆島醤油1

ここからは次のような事が分かります。
①香川県には394の醤油醸造所があり、
②その醸生産高は61462石余、
③一醤油醸造所当り平均約156石
④小豆郡は、香川県内で醸造所数の55%
⑤造石高の約65%を占めています。
小豆島は、他の郡が全部集まっても適わないだけの醤油屋さんがあったことになります。
 香川県の全国に占める醤油生産の推移をしめしたのが表2です。
小豆島醤油2
 明治38年・45年・大正9年の生産高が示されています。ここからは次のような事が読み取れます
①千葉・愛知・香川のトップグルーが生産量を急激に伸ばし、市場占有率もじりじりと上げている。
②兵庫・和歌山の生産高の伸びには勢いがなく、占有率を下げている。
③香川は全国市場占有率約6%前後で、大正9年には府県別順位を第3位に上げている
小豆郡の大正四年の生産規模別階層構成を示したものが表3です。
小豆島醤油3

明治21年に218あった醸造所は約半数の108に減っています。生産能力は、一醸造所当り約885石に上昇していて、約6倍弱の規模に拡大してます。この中で生産能力が一番高いのはマルキン醤油で、1万石を越えていたようです。それに続いて
5000石以上が4社、
1000石以上が26社で
全体の25%近くを占めるようになっています。ここからは小豆島醤油業は、明治後期から大正期にかけて、生産規模の拡大と中小醸造所の淘汰が行われたようです。その大激変期をくぐり抜け、競争力をもった会社が生き残ったことがうかがえます。

さていよいよ土庄での醤油工場の設立です。
 明治19年~22年の企業勃興の大波は、小豆島にもやってきます。この波を受けて、安田地区の醤油醸造の隆盛に負けじと、土庄地区でも醤油会社の経営に乗り出そうとする人たちが現れます。
明治21年1月25日、大森弁蔵や三枝重太郎ら土庄地域の有力者ら七名は、小豆島土庄醤油会社創立発起人申令規約を作成し調印します。この申合規約には、次のように約されています。
一 当会社ハ有限責任トシ、資本金ハ金壱万円トス。
一 前項資本金ハ之ヲ弐百株二分割シ壱株五拾円トス。
一 株金受持及募集方法ハ左ノ如シ。
  弐百株之内
  百弐拾弐株 発起人二於テ受持
         此内訳
          四拾株 大森 弁蔵
          弐拾株 三枝 林造
          弐拾株 三枝 重太郎
          拾五株 原田 清四郎
          拾弐株 三枝 定蔵
          拾 株 大森 八蔵
          五 株 原田 安八
   弐百株之内
      七拾八株  他ヨリ募集ス。
    (中略)
一 当社倉庫・器機・宅地ハ発起人之内原田安八現今所持ノ
  宅地・畑・倉庫及器機〔座敷釜床ヲ除キ〕一切代価七百
  円ニテ購求シ、之二副築及増設ヲ加フルモノトス。
一 当会社発起人中所持シ 醤油製造用家屋及器機ハ、相当
  直段ヲ以テ当社ヱ購入スルモノトス。但、値段ハ発起人
  中二於テ相談之上之ヲ定ム。(後略)        
 ここからは次のような事が分かります。
①会社は有限責任会社で、資本金は一万円
②うち6100円は発起人7名が受け持ち、他を一般から募集しています。
③倉庫・器機・土地等は、原田安八所持のものを七〇〇円で購入し、
④発起人の醤油製造用の家屋・諸器機類は、相当の直段で購入
 こうして設立された会社は、同年4月13日に開業届を県庁に提出し、同月16日には臨時株主総会を開き、社則・業務細則等を議定し、同月18日開業式典を開くという手順で開業へと歩みます。
 新しく設立された醤油会社の経営に当たったのは、誰でしょうか 
小豆島醤油4
当初の役員は、表四の通りです。社長の大森弁蔵は、自ら塩・大豆・小麦・薪等を商う商人で、後には小豆島紡績会社や小豆島銀行を設立した企業家です。また県会議員・同議会議長を務めた名望家でもあったようです。三枝重太郎・太田耕治も県会議員等を歴任した人物で、他の人も手広く商業を営んだ地元の有力者達のようです。
 この内、三枝定蔵・林蔵・重太郎らは、以前から醤油醸造業を営んでいました。また、三枝定蔵と大森弁蔵は義理の兄弟にもなります。三枝の醤油醸造所で培ってきた技術や販売先をベースにして、資本を集めてより規模を大きくして行こうという話が身内の大森氏と三枝氏の間でまとまったのかもしれません。
 こうして公募された株式状況を示したものが表5です。これが新会社の株主たちと云うことになります。
小豆島醤油5

大森弁蔵・亀太郎・角平・三枝林蔵・定蔵・重太郎・原田清四郎・安八・太田耕治・森亀齢治らの役員及びその一族らは、予定通りの304株分の6080円を払い込み、株式を所有します。その他の人たちが残りの株式を購入しています。
 ⑤の九富森太郎は600円を出資していますが、小江で海運業を営む人物で、醤油をこの会社から買込み輸送した海運業者でもありました。 この表からは出資の呼びかけに応じたのは、土庄の有力な商人や海運業者・名望家・企業家であったことが分かります。ほぼ全額地元資本によって設立された醤油屋さんのようです。

新たに船出した土庄の醤油会社に、大波が打ち寄せます
原料の大豆・小麦・塩の価格変動です。大豆・小麦の一石当りの価格の変動と総購入量を示したものが図1です。
小豆島醤油6
この表から分かることは
①創業直後に原料の大豆の価格が高騰した。
②明治30年・36年・大正2年の三回の高騰期がある。
③日露戦争期以前には、麦より大豆の方がやや割高だったのが、41年以降は小麦の方が高くなった。
④大正七年の米騒動以降は、大豆・小麦ともに一石20円以上に暴騰した
⑤大正9年には、大豆・小麦共に高騰し、翌年には暴落するなど、原料価格の大変動期に突入した。 
安定して原料を買い付けるのが、難しい時代を迎えたと云えます。この時期に購入量が大きく増減するのは、大豆・小麦の価格変動を見ながら、価格が安くなれば購入量を多くし、価格が高くなれば購入量をひかえていることがうかがえます。
 小豆島では、田畠が少なく、醤油原料としての大豆・小麦は島内で自給することはできません。そのため大半を島外から買い付けていきました。どこから買い付けていたのでしょうか。以前に、江戸時代末期に、マルキン醤油の創業者の所有する廻船の動きを紹介したことがあります。マルキンの廻船は、九州の有明海沿岸にまで出向いて小麦や大豆を買い付けていました。
明治維新を経て買付先は、どのように変化しているのでしょうか?
最大の買付先は、朝鮮半島になっています。半島の小麦や大豆は国内産よりも安かったので、全体の4割を朝鮮から購入するようになっています。そして、同量を肥前、残りの15%が肥後となっています。
 購入先も一番安いところから一番多く買い付けていますが、集中しないようにバランスを保ちながら買い付けているようです。
 創業時に、原料買付を行っていたのは誰でしょうか 
小豆島醤油7

大豆購入量260石の半分を、購入しているのは社長の大森弁蔵です。小麦も購入量331石余のうち3/4を、大森弁蔵が扱っています。塩はどうでしょうか? 塩の購入量995俵のうち1/2を社長の大森弁蔵が購入しています。塩の購入先は全て小豆島の塩田地主です。
 のこりの原料費となるのが薪です。購入量の半分は八代定治からの購入です。彼は、この醤油会社へ塩の1/5強を納入しています。彼は塩田を経営しながら、薪も大量に売り捌いたようです。
  社長自ら原料の買付を行っていたようです。
さて、作られた醤油は、どこで売っていたのでしょうか?
 醤油の販売先は、明治三〇年代では
「大阪府ヲ主トシ、兵庫・広島之二次キ、他九州・台湾等ナリ」
と記されています。大坂・神戸・広島・九州と瀬戸内海交易のエリアで販売しています。当然、船で運ばれたのでしょう。
それでは、明治25年の醤油売上先を表19で見てみましょう。
小豆島醤油8

この表を見て、驚いたのは、総売上量の70%が地元小豆島関係者分に売られていることです。残りが大阪・兵庫などに販売されているのです。地元小豆島の消費用として生産されていたのかと思いましたが、そうではないようです。
 全体の4割に近い醤油を買い上げているのは、先ほど見た⑤の九富森太郎です。彼は小豆郡四海村出身で、土庄に在住する海運業者で、会社成立時に30株600を出資していました。彼は、買い入れた醤油を小豆島で売捌いたのではないようです。神戸・大阪方面へ自分の船で運んで、売ったようです。
 どうやら会社設立当社は、自前の販売網を持っていなかったので、売ってくれる地元の海運業者(仲買業者)に、半分以上を売っていたようです。
しかし、創業から20年近く経った明治44年の醤油売上高を示した表20を見ると、地元の小豆島への販売高は激減しています。そして、大阪が約1130石で全体の約1/2、神戸が約530石で約1/4を占めるようになっています。お得意さんを開拓し、自前の販売網を持つようになってきたことがうかがえます。

経営状態について
醤油屋さんの経営は、分かりにくいところがあります。原料の購入から仕込み・熟成を経て商品化するまでに最低一年数力月が必要です。そのため、その年に投入した資本が、その年内に回収されるものではありません。原料を仕込んでから商品化するまでに、長い時には3~5年もかかることもあります。さらに代金回収は、またその先になります。資金繰りが長期サイクルになるのでかなりの資金的余裕が必要なようです。
この会社の経営状態を見てみましょう
 支出部門の最大品目は、原料代です。創業時の明治21年には、半分が原料費です。以後、原料費が平均すればと48%になります。2番目が諸経費で約14%です。ここには、役員・雇用人の給与、雇用人への賞励金、会議費等を含む諸雑費が含まれています。そのうち最大のものは、醤油造りに直接携わる蔵人達の給与で、支出全体の約8%に当たります。その他の主要な支出項目としては、税金の約13%、製品残品・空樽・運搬費などです。
純益金の最高額は明治23年の1819円余で、その割合は18,6%になります。これは近隣の備前児島の東近藤家の12,8%、播州竜野の円尾家の6,8%に比べても高収益をあげていたようです。その原因が、どこにあったのかは現在の所は分からないようです。今後の課題ということでしょうい。
小豆島醤油9
 図二は、純益金額・純益金率の推移を示したものです。
純益金率の推移をみると、次のような5つの時期に区分できます。
①明治20年代の利益率が高い時期
②明治30年代前半の利益率の急激な低下
③明治30年代後半の日露戦争期に回復傾向
④明治41年の急激な低下、
⑤その後の一時回復と大正期の低迷
 この様な利益金率変動の原因を研究者は次のように考えています。
①明治20年代の高収益率確保の原因は、大豆・小麦価格の低価格安定。
②明治30年代前半の落ち込みは、小麦・大豆の価格高騰
③明治30年代の後半は、大豆・小麦の価格低下と日露戦争の影響
④明治41年の急落は、戦後恐慌による影響と三〇年代末の原料の高騰が
⑤大正期の低迷の原因は、大豆・小麦が一石一〇円を突破し、その後も暴騰を続けたこと
こうして、大正期の原料暴騰期を迎え、利益金率が大幅に低下するなかで、全国の醤油醸造業は経営の激動期を迎えることになります。
 この経営の危機を乗り越えるためには、革新的生産技術の開発と新しい経営形態への脱皮が求められることになります。小豆島の醤油屋さんは、それをどのように乗り切っていったのでしょうか。

 以上、まとめておきます。
企業勃興期の明治21年、小豆島でも新しい醤油醸造会社が、地域の有力者たちによって設立
② 小麦・大豆などの原料は、会社の役員など地元の有力商人達の手を通じて購入された。
③ 小麦・大豆は、江戸時代に引き続いて九州から買い入れているが、大豆は安価な朝鮮のものが使われるようになった。
④ 塩は明治末に台湾塩が使われるまで、地元小豆島産に限定されていた。
⑤ 醤油の販売先は、創業当初は、地元の関係者であったが、明治末期になると大阪・神戸がその中心となった。
⑥ 経営状態は原料価格に大きく左右され、大正時代に入ると利益率は悪化した。

おつきあいいただき、ありがとうございました。

小豆島慶長古地図


小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の航海日誌があります。
江戸時代末から明治20年頃にかけてのもので10冊ほどになるようです。
「米1030俵を一度に積み込んだ」

という記事があります。一俵は三斗四升(一石=10斗)というのが基準なので、それから計算すると、この舟は約350石から400石積みぐらいの中型船だったようです。形や大きさは、下図の金毘羅丸と同型だったことが考えられます。
5 小豆島草壁の弁財船

 小豆島草壁田浦の金毘羅丸 380石
慶応元年に金毘羅さんに奉納された模型

 実は、この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟でした。
木下家は屋号が塩屋という名からもわかるように、もともとは苗羽で塩をつくっていましたが、いつごろかに塩から醤油へと「転業」していったようです。この航海日誌からは、この舟が「何を どこで積んで、どこへ運んで売ったのか また、何を買ったのか」が分かります。
文政3(1820)年の交易活動の様子を追ってみましょう。
 まず、船主は小豆島のを買い入れています。小豆島は赤穂からの移住者が製塩技術を持込んでいて、早くから塩の生産地です。自前の特産品を持っていたというのが小豆島の強みとなります。
塩を積み込んだ大進丸が向かうのは、どこでしょうか? 
 すぐに考えつくのは「天下の台所」である大坂を思い浮かべます。ところが航路は、西の九州へ向かうのです。下関と唐津で積荷の塩を売ります。そして、唐津で干鰯を買い入れ、唐津の近くにある呼子へ移動して取粕と小麦を買っています。

6 干鰯3
干鰯
 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。それを唐津周辺で買い入れます。干鰯は小豆島の草壁村で、取粕は尾道と小豆島で売り払っています。

6 干鰯2

それから、呼子で小麦を買っていますが、これはどうするの?
小豆島の特産と云えば「島の光」、つまり素麺です。素麺造りに必用なのは小麦ということで、小豆島の藤若屋という素麺の製造業者に売り払っています。単純化すると大神丸は塩を積んで、北九州に行き、干鰯と素麺の原料の小麦を積んで帰ってきたことになります。

 次に約四二年後の文久二年の航海日誌を見てみましょう。
文久二年(1862)と云えば、ペリー来航から10年近くなり、尊皇の志士たちの動きが不運急を告げる時期です。大神丸という船名は代わりませんが、何代後の舟になっていたでしょう。その取引状況を次の表から見てみましょう。

DSC02502
大神丸の取引状況表
表の見方は、左から「売買品目・買入港・売払港」で、数字は品目の数量です。たとえば塩については、潟元・下村・土庄で買い入れ、筑後・島原・宇土・筑前で売り払ったということになります。塩買い入れ先の潟元は、屋島の潟元です。中世には、ここから塩専用の大型船が畿内に通っていたことが、兵庫北関入船納帳からは分かることとは以前にお話ししました。ここには塩田がありました。小豆島の対岸で、目の前に見える屋島で塩を買い入れています。下村・土庄は、小豆島ですが小豆島産だけでは不足だったのか、値段が高松藩の屋島の方が安かったからなのかわかりません。
 屋島と小豆島で塩を買い入れて舟に積み込んで、向かうのはやはり九州です。
40年前と違うのは、唐津よりもさらに南下して、筑後と島原、そして熊本の北の宇土まで販路を伸ばしています。
6 kumamoto宇土

島原地方は、天草の乱後に多くのキリシタン達が処刑され、人口減になった所に小豆島からの移住者を入植させた所です。それ以後、小豆島と島原周辺とのつながりが深まったと云われます。ちなみに、この地域は小豆島の素麺「島の光」の有力な販路でもあります。小豆島と九州は瀬戸内海を通じて、舟で直接的に結びついていたようです。
 次の品目の繰綿、これは綿から綿の実をとった白い綿で半原料です。
6 繰綿
これを買い入れたのは、高梁川河口の玉島と福岡(岡山の福岡)でしょう。この地域は、後に倉敷紡績が設立されるように早くから綿花栽培が盛んで、半加工製品も作られていました。

6 繰綿3

ここで仕入れた繰綿は、塩と同じく有明湾の奥の肥前や筑後まで運ばれます。瀬戸内海の港で積み込まれた塩・繰綿・綿などの商品が、有明湾に面する港町に運ばれ、筑後や島原で売り払われたことが分かります。
DSC04065

さて帰路の積んで帰る品物は何でしょうか? どこの港で積み込まれたのでしょうか?
まず小麦です。小麦は素麺の原料と先ほどいいましたが、仕入れ先は肥前、それから高瀬(熊本近郊)、さらに島原で買い入れています。その半分が多度津で売られています。当時の多度津港は、幕末に整備され西からの金比羅舟の上陸港として、讃岐一の港として繁栄していました。しかし、なぜ多度津にそれだけの小麦の需要があったのか? 
仮説① 金比羅詣客へのうどん提供?? そんなことはないでしょう。今の私にはこんなことくらしか考えられません。悪しからず。
 
DSC04064絵馬・千石船

 残りの小麦の行方は? 兵庫が大口です。
仮説② 揖保川中流のたつの市で作られる素麺「揖保の糸」の原料になった。
 この可能性は、多度津よりはあるかも知れません。残りの小麦は土庄、下村などの小豆島で売られています。「内上け」という記載は、船主の塩屋に荷揚げしたということです。塩屋が周辺の素麺業者に販売する分でしょう。

20111118_094422093牛窓の湊
牛窓湊
次に大豆を見てみましょう。

小豆島では醤油をつくっていますので、その原料になります。大豆と小麦は、仕入れ先も販売先も似ているようです。仕入れ先が川尻、島原、それから肥後、唐津などで、販売先が大坂近くの堺で売られていますが、土庄、下村あるいは、ここにも「内上け」とありますので、地元に荷揚げしています。

干鰯作業4

 干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。だから、九州に向かう途中の港で、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払ったと考えられます。

瀬戸内海航路1

 このように小豆島の苗羽を母港にする大神丸は、小豆島やその近辺の商品を積み込んで、それを九州西北部から有明海の奥の筑後や肥前・島原に持って行って売っています。そして、売り払った代金で小麦、大豆、干鰯などを買い入れて、小豆島で生産される素麺、醤油の原料としていてことが分かります。幕末から明治にかけて、こういう流通網が形成されていたのです。

wasenn 和舟
  こんなことを背景にすると、小豆島霊場のお寺さんの境内にある大きなソテツの由緒に「九州から帰りの廻船が積んで帰った」ということが語られるのが納得できます。
IMG_1481

 さらに私が大好きだった角屋のごま運搬船。
神戸に輸入されたゴマを土庄港の工場まで運ぶ胡麻専用の運搬船です。

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母港は島原の港。なぜ、島原の舟が小豆島で働いているのかは、大きな疑問でした。しかし、大神丸が小豆島と島原を結びつけていたように、かつては島原の舟も小豆島や瀬戸内海の港を往復する船が数多くあったのでしょう。そして、この舟は九州からのごま運搬に関わるようになり、胡麻が国産品から輸入品に代わると、神戸から土庄へその「営業ルート」を変更せざるえないことになったのかもしれません。これが今回の私の仮説③です


IMG_4846

参考文献 木原薄幸 近世瀬戸内海の商品流通と航路 「近世讃岐地域の歴史点描」所収

西の丸公園で行われる結婚式に参加するためにやってきたの大阪城。

イメージ 1

そのついでに見ておきたかったのは、石垣の巨石です。

イメージ 2

まず、大手門を入って迎えてくれるのが大阪城の巨石NO4・5の次の二つです。
NO4  見付石(大手門 約108t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
NO5  二番石(大手門 約85t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
  加藤忠広は、おなじみ清正の後継者です。この二つは、瀬戸の海を渡って小豆島から運ばれてきました。石の前に立ち、石との「交流」をはかります。しかし、石は何も語ってはくれません。

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 石との対話を諦め、NO1の巨石に会いに行きます。

大阪城の巨石NO1 桜門の蛸石

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桜門を登っていくと、開かれた門の奥に巨石が、そしてその上に天守閣が見えてきます。門をくぐると全景を見せてくれます。およそ36畳敷き(60㎡)、推定130tと言われています。岡山藩主・池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が寛永元年(1624年)に寄進した物で、備前犬島産の花崗岩です。

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 大阪城の石垣の巨石ベストテンは次の通りです。
 名前  設置場所   重量    生産地     寄進者 
1 蛸石  桜門   約130t   備前・犬島   岡山藩主・池田忠雄
2 肥後石  京橋門   約120t  讃岐・小豆島   池田忠雄
3 振袖石  桜門    約120t  備前・犬島    池田忠雄
4 見付石  大手門   約108t  讃岐・小豆島   熊本藩主・加藤忠広
5 二番石  大手門   約85t   讃岐・小豆島  加藤忠広
6 碁盤石  桜門    約82t   備前・沖ノ島  池田忠雄
7 二番石  京橋門   約81t   讃岐・小豆島  池田忠雄
8 三番石  大手門   約80t   讃岐・小豆島  加藤忠広
9 四番石  桜門    約60t           池田忠雄
10 竜石   桜門      備前・沖ノ島    池田忠雄

こうしてみると巨石群NO10の全てが、瀬戸内海の小豆島周辺の島から運ばれてきたことが分かります。
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「太閤さんのお城」と呼ばれる大阪城は江戸時代のもの。

1583年に秀吉により築城されますが三十年後、大坂夏の陣で落城し豊臣氏は滅亡。すると家康は、堀も石垣も打ち壊し、さらに盛土をして秀吉の城は、石垣も含めて埋めてしまいます。その上に改めて築かれたのが現在の大阪城です。現在の大阪城には、秀吉の痕跡はありません。
 再建されることになった江戸幕府の大阪城は、幕府の威信をかけ諸大名に普請を負わせる天下普請により造られることになります。 大阪城の修築の第一期工事は、藤堂高虎の縄張りで、元和六年から九年までに行われ、第二期は寛永元年から三年まで、第三期が寛永五、六年で、この工役に動員された西国大名は163家を数えました。石垣普請を任された大名達は、要所に配される巨石を島から切り出し、苦労しながら海を渡し、この上町台地の北端まで運び上げたのです。

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  この巨石群がどうやって切り出され、運ばれたのかを見るために小豆島の石切場を見に行きましょう。

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小豆島で採石した大名の受持地区は次の6藩です。
①岩ケ谷:筑前福岡城主    黒田筑前守長政、忠之父子、
②当浜、福田地区:伊勢津城主 藤堂和泉守高虎、高次父子、
③小海:豊前小倉城主     細川越中守志興、志利父子、
④小瀬、千軒等土庄地区:   肥後熊本城主 加藤肥後守忠広(清正の息子)
⑤池田町石場辺:       筑後久留米城主 田中筑後守志政、
⑥大部:豊後竹田城主     中川内
先ほど見た大手門にあるNO4・5の「見付石」「二番石」は、④ですから小豆島の前島の小瀬や千軒で切り出されたものだと分かります。ちなみにこの地区は、現在はパワースポットとして人気のある「重ね岩」がある場所としても有名です。もしかしたら、重ね岩も石垣として大坂に運ばれる可能性があったかも・・?
海岸に四十数個の残石が並ぶ「大坂城残石記念公園」
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 当時、小豆島小海村には七ヶ所の丁場(石切場)がありました。
ここは小倉藩細川家(熊本県知事から首相になった細川氏の先祖)の受け持ちでした。切り出された石は石舟や筏に載せられ大坂へ運ばれました。ここには、「洋上運搬実験」につかわれた筏が置かれています。

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 どういう理由か積み残され置き去りにされた石があります。

それが後に「残念石」と呼ばれるようになりました。折角、切り出されたのに運ばれることなく置き去りにされたという思いが込められているのでしょう。
 花崗岩から切り出した石材が御影石ですが、ここに残された積み石(平石)も上質の白御影石です。村のあちらこちらに散らばっていた残念石は明治初年にここに集められ、現在は香川県の指定史跡となっています。

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大坂城残石資料館には当時運搬に使われていた道具類、石工が使った工具などが展示されていました。

天狗岩丁場の巨大天然石「大天狗岩」

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東海岸の岩谷地区にも五つの丁場跡があり、福岡藩黒田家が採石に当たりました。
一帯には1,600個あまりの種石が残るといわれます。中でもこの天狗岩丁場は島内最大のもので、石切丁場としては唯一の国指定史跡となっています。
 入口の道標から畑の中を取って伸びる山道が延びていきます。振り返ると播磨灘が広がります。晴れていれば淡路島を望むことも出来ます。
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さらに登って行くと、みかん畑山の斜面に多くの天然石が露出しています。

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断面を見ると豆腐形に整形される「種石」の状態であることが分かります。
自然石が割られ、その中に豆腐形にするために四角い穴が並んで開けられています。
現場で整形され、海岸に下ろされていたことが分かります。
また、政策担当者(班)が分かるように○×△など簡単な刻印が刻まれています。この段階では藩の刻印はありません。

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ジブリのアニメに出てくるロボットのような石も土に埋もれながらあります。

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順路の道標に導かれながら石のトンネルをくぐります。
すると見えてきたのが
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大きな花崗岩の自然石です。
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これが推定重量1,700トンといわれる「大天狗岩」です。
高さ17m、周囲35mという巨石に、思わず立ちすくんでしまいました
大坂城の石垣の「鏡石」といわれる各巨石は、このような天然石から切り出されたのでしょう。大阪城の石のふるさとのひとつがここなのです。

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残念石やその元となった種石には表面に歯形のような一列の穴が残っています。これ矢穴と呼ばれるものです。石工が目を見定め、割る位置と方向を決め鉄製の石ノミで開けた下穴の跡です。
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途中で計画が変わったり目を読み違えた失敗作もあり、矢穴の跡のある大石が当時の姿のまま横たわっています。
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今は静まりかえった丁場跡です。
石の上に座って目を閉じてみると石工の鎚音が聞こえてくるような気がしてきます。海を渡り石垣に組み込まれた積み石と、ここに残された残石を比べながらひとときの時間を過ごしました。
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小豆島見目のやきいも
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今から200年ほど前に書かれた「小豆島図絵」

ずっと気になっていたこの一枚の絵の

「今」を探しに出かけました。

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やってきたのは、島の北浦の見目(みめ)

絵図に愛宕権現と書かれた山らしきものが見えますが・・

絵に描かれている山容よりも「貧相」に思えて・・・(^_^;)

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彼岸参りの帰りのおばあちゃんに聞きました。

「そうじゃ。あれが愛宕さんを祭ったるとこじゃ。

夏には子供らがたいまつ持って登って、

頂上にある大きな石の上で大きな火を燃やっしょったんで。

夜空を焦がすぐらい炎が昇ってな・・・」

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「今は、若いもんが少なくなってしもて、やっとらん」

「小学校も廃校になる言うし・・」

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「愛宕さんに登るか」

「ほんならこれ持って行け、愛宕さんに供えてつか

お婆ちゃんからもらった、焼き芋。

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これは是が非でも登らなくては・・ (^_^;)

気合いを入れて、水筒に水をくむためにあけた井戸に

青い空と私が映っていました。

小豆島 満月の下の潮干狩り
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仕事帰りに見えたお月様。

彼岸の大潮に当たるようです。

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満月の光の下で、貝掘りに励む姿。

春にしては空気は澄んでいますが、その分寒い(;_;)

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「よーけ、とれたで。帰って煮た後で冷凍にしておくじゃわで」

40を過ぎた長男に嫁が来ないのを嘆きながら掘る手は休めません(^O^)

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いつも紹介する小豆(あずき)島の上にも月が・・

本日異動辞令をいただきました。島を離れなければなりません。(>_<;)

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眺めていると海に映る月が、姿を変えて・・・。

「龍」に見えてきました。(^_^;)

「昇竜」は吉兆のしるし

そう言い聞かせ、島を離れる準備を進めます。(-_-;)

小豆島 生田春月の詩碑
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壺井栄の故郷「坂手村」の丘の上に立つ詩碑。

昭和14年に栄が発表した文章には、こんなふうに書かれてあります。

詩人生田春月が、洋上から見ると陸地が空白に見えると云う詩を残して
播磨灘へ投身し、自殺して流れついたのが私の村である。
空白に見えた陸地は小豆島であろうか。
今、春月は私共の先祖の墓地のある丘の上にその詩碑が建てられ、
永遠の眠りを小豆島にとっている。
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ついこの間帰島した私は、両親の墓参の時そこを通ると、
トランクを持った旅の学生が柵にもたれて物思かしげな恰好で沖を眺めていた。
妹の云うことに「姉さん、春月の墓に似合うとるのう」とにやにやする。
墓ではなく詩碑なのだろうけれど、私たちは墓なみに、持っていた椿や金盞花を供えた。
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絶筆「海図」の詩が原稿のまま銅板で自然石の詩碑にはめこまれ、
後ろに廻ると石川三四郎氏の筆で故人の来歴が刻まれてあった。
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小豆島は石の産地でもあり、北浦村あたりには大阪築城の残石が残っている位だから、
この詩碑も島の自然石なのだろうが、
周囲の地盤がコンクリートで固められてあるのは、心ないわざのように思える。
地盤をめぐらした鉄の鎖の外側は雑草が乱れていて、紫の露草の花が咲いていた。
夏が来れば虫も泣くであろうに、コンクリートは雑草もよせつけない固さで
しろじろとしているのは、春月氏のためにも辛い感じである。
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村中を見良せるこの丘は山を背負い、静かな海を目の下に眺められる特等席である。
空白の陸地に立って今春月の霊は、どんな気持で海を眺めているであろうか。
昭和十四年(1939年発表) 今から約70年前のことになります。(^_^;)

今は詩碑の周りは、芝生。

昨日は彼岸、詩碑の後ろの桃の花が、咲き始めていました。

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エンジェルロードの潮干狩り
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すっかり春めいてきた小豆島。

昨日12日は、ちょうど大潮。

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潮が大きく引いて「あずき島」とつながりそうです。

あらわれた中州で本格的に潮干狩り。

気温も20度近くまで上がって寒さを感じません。

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こちらはエンジェルロード。

青のりが打ち上げられたように見えます。

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ここでも黙々と貝掘る姿がありました。

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縄文時代からずっーと、こうして「海の幸」を「採集」してきたのでしょうか。

男達が「今日もいのししは獲れなかったな・・惜しかったな」と帰ってくる。

そんな「家計」を支えたのは、「女子供」のこんな姿だったのかな。

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みるみるうちに夕陽は地平線に

「戦い住んで日が暮れて・・」

浅瀬は掘り起こされ、貝は・・・。

人間はたくましい「動物」です。

いのししに負けていません。(^_^)/~

壺井栄  氷点下への追憶
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今年の冬、瀬戸の島にも何度か雪が積もりました。

そこで、(^_^;)壺井栄が島の冬を回想した文章を紹介しましょう。

戦時下の昭和17年2月発表されたもの、60年以上前の物です。

前から2段目 左の男先生から2人目が壺井栄だそうです。

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私の郷里は四国の海辺の村である。
四国の海辺と云う答えは大陸的な、多少壮士かな云い方で、
細かく云えば瀬戸内海の海に包まれた小豆島の中の一寒村なのである。
今では小豆島も国立公園などと呼ばれて、
半ば遊覧地的な言い方をされているようだが、
そういう他国人が入りこむのは主に春や秋のことである。
従って小豆島が多少とも旅行者に媚びることのない姿でいるのは、冬であろう。
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人々は、海から吹き上げてくる北風を頭巾でさけ、
袖口の小さい着物を着て外を歩いていたが、今でもそうだろうか。
 そのように、寒い冬であったが、雪はあまり積もらなかった。
積もると云ったところで、朝起きてきてみると銀世界なのが、
お昼すぎにはもう解けてしまうような降り方であった。
だから、三寸も積もることなどは殆どなく、私の記憶の中でも、
小学校の一年の時の紀元節に降った雪だけが、雪らしい雪だったと思う。
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 この時の雪を未だに忘れられないように、
郷里の子供は雪に一種のあこがれを持っている。
雪が降り出すと私たち子供は外に飛び出して行った。
雪花は風に舞いながら降りしきっても、散るに従って消えてしまう。
この中を、子供はまるで花びらを追うように、
大きな雪花を目がけて手をのばし、雪の中を追い回した。
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降りのひどい時は前掛で受けた。頭も顔も雪にまみれた。
それでも雪はなかなか前掛にたまらなかった。
一握りくらいたまると、私たちはそれを次から次と頬ばったり、
幼い妹たちに頬ばらせたりした。
食べてうまい筈はないのだけれど、食べずにはいられない気にもなり、
また良べるのがあたり前のように良べた。
うまいような気がした。
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鼻の頭や頬っぺたが、紫色になり、手が感覚を失っても、
雪の日は犬ころのように外で遊んだ。
からだの芯底まで冷えきって、家へ帰ってくると、
始めて辛くなって泣きだす始末だ。
そして、火燵に温まると、叉外へ出てゆくのであった。
{後略}
(昭和十七年二月)発表 

雪が降っても「犬ころのように」走り回る

子供の姿は見られなくなった瀬戸の島からでした。(-_-;)

壺井栄の「オリーブ植栽50周年式典」

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1900年 壺井栄生誕
1908年 小豆島にオリーブ植栽
1954年 映画「二十四の瞳」封切り
1958年 植栽50周年式典に壺井栄出席
2008年 オリーブ植栽100周年   

「二十四の瞳」が映画化された1954(昭和29)年。

一躍、売れっ子作家となった壺井栄は

4年後の「オリーブ植栽50周年祭典」に参加し、

会場となったオリーブ園の様子を次のように書き残している。

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オリーブは六月の花です。
梅雨のころ、オリーブの小さな花のひれは、やわらかなオリーヴ色の葉かげににおい、
雨期の息くるしい空気をなごめます。
だから平和のシンボルといわれるのでしょうか。
そんな花の咲くオリーブの木をごぞんじでしょうか。
日本ではただ1ケ所、瀬戸内海の小豆島にだけあったオリーヴ。
その木がはじめて日本に渡ってきたのは、明治十一年のことだそうです。
今から五十年前のことです。
それで、この三月十五日には、それを記念するためのオリーヴの祭典が、
小豆島で催されました。オリーブにゆかりのある人だちとともに、
私も招待をうけてそのお祝いの席につらなりました。
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 式典はオリーブの丘と呼ばれている、50年前からの旧オリーブ園で催されました。
園内に式典のための広場がとれたのも、はげしい戦争時代を挟んで、
荒れるにまかせたオリーブが枯れ果てたためかもしれません。
そんなオリーブ園の姿を、おじいさんはどんな気もちで眺められたでしようか。
オリーブの樹齢は私はわかりませんが、
おそらく、おじいさんの植えたオリーブなどは、もう影も形もなくなっているかもしれません。
なぜなら、かつて私が若いころの記憶にあるオリーブ園は、
オリーブの茂みにおおわれたオリーブ色の丘であったからです。
園内に入ると、腰をかがめてくぐりぬけねばならないほど、
オリーブは、頭上すれすれにまで枝をひろげていました。
それが、今では何千の人が一つ所に集まれるほどの隙間ができているのです。
しかし、オリーヴの若い苗木はすくすくとのびていました。
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  正直なところ、私の胸を去来する思いは、
オリーブの50年が、いつも平和と遠かったということでした。
そして、オリーヴ園にかぼちゃがが這っていたこともある戦時中のある時期など
を思い出し、このオリーヴ園の下の道を、
日の丸におくられる若者たちの姿があとをたたなかったその時代に、
オリーヴは枯れていたことなど、新しく思い浮べながら、
式典の進行を、多少、辛い思いで眺めていました。 
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そして、50年がたち今年はオリーブ100周年

50年前に植えられたオリーブの木々は島にしっかり根付きました。

「オリーブ特区」を活用した未来への取り組みが始まっています。

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瀬戸の海には、かつては鰯(いわし)がわき出てきたようです。

鰯によって支えられた島の漁村の暮らし。

そんな様子を戦前に書かれた壺井栄の随筆で見てみましょう。

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 近年まで鰯は私の生れた村の主要産物であった。
瀬戸内海の鰯は、主にいりこにしていた。
非常に美味で、煮出しに使っても今東京あたりで買うのとは段ちがいである。
(中略)
いりこを作る家のことをいりやと云った。
鰯網が沖へ出たとなると、いりやの人たちは、
頃合いを見計らって浜のいり納屋に出て待機する。沖からよく通る声で
「河内屋焚けェ」とか、
「喜悦衛どん焚けェ」とか
それぞれのいりやへ声がかかると、女たちは釜の下へ火を入れる。
大漁の時には沖からの声にも威勢が加わり、
「みな焚けえ」と叫ぶ。
釜の下をみな焚けいう意味である。
そう聞くといりやは天手古舞いで近所隣りを総動員する。
大漁は大抵夕方であったように思う。

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私たち子供の仕事は、いり納屋の前にずらりと並んだ鰯の入った四斗樽から
タモでしゃくっては、マイラセという平たい小ざるに七分目位ずつ入れて、
釜の人たちの都合のいい場所へ並べたり、鰯の中に交っている河豚をつまみ出したり、
まためばるや小鯖や小鰺などを撰り出したりするのであった。
いりやの仕事は大抵女がした。
手ぬぐいでで頭を引きしぼり、着物のの尻端折った女たちは忙しく立ち働いた。
釜の下に松の割木が赤々と燃えさかり、
天井のランプが陽気に包まれてぼんやりした光を役げていた。
仕事が終ると、さっき選りだした雑魚をざるに入れてもらって、私は得々と家へ帰った。
これだけが私のその日のお駄貨だったのである。

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 翌朝学校へ出かける順になると、浜は一ぱいに筵が敷き並べられて、
手拭や帽笠を披った女の人たちが、朝日に背を向けて中腰になり、
馴れ切った手つきで昨夜の鰯をピらぱらとまいている。
漁の多かった時には、道路の片端にも筵が並べられ、
学校の運動場から校舎の屋根のの上までいりこが干しひろげられた。
教室の窓から、銀色に光る鰯の筵を眺めることは、
子供にとってはただそれだけの珍らしさてはなかった。
大漁であれば村は潤い夏祭りは賑わうのでった。
漁の神様戎神社にお神楽も上るであろうし、
出雲から毎年やってくるだいだい神楽もはずむのでめった。
反対に雨でも降られると、いりやの人たちは雨空よりももっと暗い顔になる。
大漁の後、よく雨に降られることがあった。
そうなると、前日の苦労がくたびれ儲けになるのだから、
陰鬱になるのももっともなことであった。
それに、私か少女期を過ごし、成年期に入った頃から鰯漁は、
だんだん下火になって行く一方であった。
不漁が続き、鰯網では立ちゆかないので転業する人が増えた。

今では鰯網漁は、島ではなくなりました。

いりこを干す光景も見えなくなりました。

秋になると港にまで押し寄せてくるカタクチイワシの群れに

遠い日の鰯漁にわいた漁村の暮らしが忍ばれます。

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絵は「わたしたちの呉 歴史絵本」から転載させていただきました。

「二十四の瞳」の原作者壺井栄は故郷小豆島のことを数多く書いています。

戦前に書かれた物は、半世紀を超えて「資料」的にも価値があるように思います。

そんな中から「しし垣」が出てくる「鹿の角」をご紹介します。


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瀬戸内海の静かなな海の中にぽつりと浮んでいる小豆島なのであるが、
島には昔から猿や鹿などがたくさんいたという。
祖母の話を聞いていると、明治の初め頃には人聞の数よりも多い猿や鹿がいたように思える。
鹿のことを祖母はししと云った。
祖母に限らず、昔の人はみなししと云っていたらしい。

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そのししが本当の猪と一緒に山から出て来ては畑を荒して困るので、
山と里との境に石坦を作った。
それが今も残っている。
その石坦を村の人たちはしし坦と云い、
私たちは万里の長城などと云った。
子供の頃の私はししは猪だけだと思い、
猪が山の奥から里をめかけて向う見ずに、たあっ!と駆け出して来てしし坦に突き当り、
そこで大怪我して死んだのだろうとひとりで決めていた。

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そして自分たちの時代になって、ししが村里へ山て家なくなったことを、
大いに安心したものである。
ところが、ししが島にいなくなったのは、しし垣で怪我をしたのではなく、
ししコレラがやって死に絶えたという話であった。
それにもかかわらず、私はししは怪我をしたり、打たれたりして絶滅したのたと信じていた。
今でも村には「ししうち」と呼ばれている家がある。
現在は漁師なのたが、昔は猟師であったにちがいない。
ししに死なれて、山から海に縄張りをかえたものであろうか。

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 神懸山を根城に猿の方は群れをなしている。
禁漁区になっていて、危害を加えられないと知っている猿は、
その昔の海賊のように峰から峰を伝い歩き、傍若無人の振舞いをしているらしい。
それに比べて鹿の数はまた極めて少ない。

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もう二十年も前のことになるが、
ある曰、立派な鹿の夫婦が山の中から突き出している岬の灯台へ、のこのことやってきたことがあった。
燈台から電話で「只今、大きな鹿が二匹来ています」と告げた。
この電話は岬の燈台と、村の郵便局との専用であり、主に船舶の通信用に用いられていた。

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その時村の郵便局に勤めていた私がその電話を受けたことは、
当り前のことなのだが鹿を初めて見つけたのが灯台守で、
それをはじめて聞いた村人が私なのたということに私は妙な興奮を覚え、
仕事をおっぽり出して村の人たちに知らせたものである。
猿と同じに禁漁になっているので、生捕りも打ちとりも出来はしないのたが、
死に絶えたと言われていた鹿がいたということが喜びであり、ニュースであって、
長い間、人目にかからなかった位だから、
鹿は(祖母時代にはししである)殆ど全滅であったにちがいない。
その中を、この二匹の鹿夫妻がどのように暮らしていたらうと云うことを考えると、
何か落人的なあわれさと、つつましやかさが感じられた。  
後略     壺井栄 随想・小説「小豆島」 光風社 昭和38年発行より引用

分かったこと

①鹿を「しし」と呼んでいたこと
②鹿(?)は島では一時「ししコレラ」で絶滅寸前だったこと
③栄の娘時代の大正時代に、坂手の灯台で生き残った鹿の夫婦が発見させたこと
④岬の灯台と郵便局は専用電話で結ばれていたこと
読んでいて、いろいろなことが分かってきます。
私の今の「愛読書」です。
ちなみに、この文章が書かれて70年。
今では「保護」の甲斐あって鹿は増えすぎて、「駆除」の対象になっています。

小豆島には、海にまつわる昔話が残っています。

その中から大船主の物語を紹介しましょう。


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昔 二面(ふたおもて)の村に、
塩屋金八という大船主が住んでいました。
金八は瀬戸内海を股にかけ海運を営み
底をつくことのない膨大な財産を貯えておりました。

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ある時 美しい妻が
わたしたちの全部の船に、家の財宝を一度に積こみ船出したら、
どんなに楽しくすばらしい光景でしょう
と 夫に頼みました。
そこで成金ものの夫は
「お前の望みとどおりしよう」
と正月の朝に船出することになりました。

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しかし 世の中には、運の悪いこともあるものです。
空が一転にわかに曇り 大嵐となり
持ち船も財宝も 一瞬にして
海のもくずと消えましたとさ。

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誓願寺の山門の柱は、難破船のものが使われていると伝えられています。

この大きな蘇鉄も、江戸時代に九州から廻船が持ち帰ったもののようです。

海を股にかける大船主の痕跡が残る二面の集落です。


2枚目の写真は、大阪南港「海の時空館」の実物大の千石船「浪速丸」です。


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5月に小さな花が風に揺れていたオリーブの枝


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6月には小さな小さな実をつけていました。(^_-)


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そして11月、梅よりも少し小さい実が熟しています。

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オリーブ公園では収穫の真っ最中。

木の下に青いネットが敷かれます。

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そして、枝をしごいていくと・・・

ぱらぱらとオリーブの実がネットの上に落ちてきます。

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集められた実です。

そのまま囓っても食べられるものではありません(>_<;)

この実は搾られてオリーブオイルになるそうです。

バージンオイルは焼きたてのパンにつけると最高!(^^)!

この収穫が終わる頃には、寒霞渓の紅葉が見頃になっている小豆島です。


島のオリーブについて詳しく知りたい方はこちらにどーぞ(*^_^*)
http://www.olive.or.jp/blog/olivediary/2007/10/post_41.html

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小豆島旧池田町の亀山八幡。

境内ではいくつもの集落からやってきた太鼓台がそろい踏み。


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本殿の前での「かき比べ」を多くの人が見守ります。


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「えいしゃしゃげ」のかけ声とともにかき手は、両手を捧げます。


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そして、次ぎに太鼓台は大きく傾きます。

最初見たときには、バランスを崩して倒れるのかと思いました。


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大きな太鼓が下から見えます。

中にいる4人の太鼓打ちの子供たちは、この間も叩き続けています。

互いにぶつかり合い喧嘩をするのではなく、担ぐ技術を競い合う島の太鼓台。

「平和の群像」にふさわしい太鼓台だと思いました。


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見上げる空は鱗雲。

秋の空に太鼓の音と「えいしゃしゃげ」の声が響いていました。




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刈り取りの終わった稻藁が「ハゼ」にされています。

天日で乾燥したあと、脱穀されるのを待ちます。


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そのそばの棚田にあった竹の背負いかご。

かごの「持ち主」との会話です。


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「昔はな、堆肥から何でも背負て、田んぼに運び上げよったけんな。」

「重いや、言うておれんがな。そうせなええ米ができんのやきん。」


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「嬉しかったのは、田んぼで脱穀した米を、担いで家に持ち帰るときじゃわな」

「その時は重いんが、嬉しかったわな」


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「とんが」を杖代わりに、ゆっくりゆっくりとお婆ちゃんが家路につきます。

いろんなものが運ばれたお婆ちゃんの竹かご。

今日の帰りは空っぽでした。


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畦の彼岸花が、「ありがとう、ありがとう」と

手を振っているように見えました。(*^_^*)

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今日も今日とて千枚田の彼岸花ウオッチング

千枚田の下に見える鎮守の森が中山神社です。

あぜ道をあるいて見つけたものは・・・



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踏まれもなお起き上がり、天を目指そうとするもの


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切られてもなお、伸びようとする姿

曼珠沙華の世界も大変(-_-;)


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さて、中山神社に降りてきました。

正面(上側)が本殿


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そして、本殿の下側に農村歌舞伎の舞台。

公演に向けて夜な夜な練習が行われているようです。

今年の題目は

第一幕 三番叟

第二幕 白浪五人男 稲瀬川勢揃の場(子供芸)

第三幕 恋飛脚大和往来 封印切(こいのたよりやまとおうらい ふういんきり)

第四幕 義経千本桜より 鮓屋(よしつねせんぼんざくらより すしや)


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千枚田を彩る曼珠沙華がこの時期に満開なのは、何十年に一度。

歌舞伎も千枚田も、曼珠沙華も見ることができる今年の中山農村歌舞伎。

しかも入場料は無料(*^_^*)。

10月7日(日)開演は17時

是非、おいでください。(^_^)/~

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彼岸も過ぎたし、中秋の名月も終わったし、

開花の遅れた彼岸花も、そろそろ見頃ではと千枚田に出かけました。

取り入れの終わった田んぼの方が多いようです。


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バインダーが往復すれば刈り取りが終わる棚田の幅

刈り取られた藁束が集められています。


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さて、お目当ての曼珠沙華は・・・(?_?)

幼い子供が両手でつぼみをつくっているよう・・(*^_^*)


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遅すぎた開花に気づいたのかぐんぐん伸びて

秋空に背伸びするかのよう(^O^)。

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こちらは頭を垂れる稲など、どこ吹く風。

パカッと音を立てて花が開きそう。

彼岸花百態です。

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10月7日(日)は、この下の神社で農村歌舞伎が行われます。

その時には、花の帯が千枚田を赤く染めているかもしれません。

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盆明けの世界一狭い海峡・どぶち海峡

海峡にあるドックに熊本の船があげられています。

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海峡の潮だまりには、こんなものが打ち上げられています。

昨夜、流された精霊流しの「船」のようです。

島では霊は、海に還っていくと信じられているようです。

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お供えの飲み物や食べ物が積み込まれています。

まんじゅう・ぶどう・素麺・ミョウガ・シキミの枝等・・満杯状態(*^_^*)


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こちらはちょうどここに打ち上げられたのでしょうか。

船そっくりのかたちです。


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「節愛丸」と読めます。

お盆に還ってきた先祖の霊を、海に返しに船出した船たちです。

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役割を終えて、海に還っていく姿が海峡のいたる所で見えました。

極楽浄土は西方世界の遙か海の中にあるのかなと思いました。

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小豆島の三都半島を、いつものように原チャリ・ツーリング(^-^)。

小高い丘から見下ろすと、吉野の集落がひっそりとたたずんでいます。

海に突き出した波止場の突端に、行ってみたくなりました。

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海辺の浜まで降りてきました。

梅雨が終わって夏模様。

船止めの先端まで行ってみましょう。


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青い空と蒼い海が溶け合うようです。

「青い国 四国」というキャッチコピーに、やっと納得。

振り返ってみました。


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だーれもいない海と砂浜です。


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この吉野の集落も、かつては千石船のもたらした富で栄えました。

それも遠い昔のことです。 (-_-)

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湯船山から見る中山の千枚田です。

「虫送り」も終わり、稲たちはすくすく育っています。

いつもとは違う角度から田んぼを見てみましょう(*^_^*)。


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湯船山の豊かなわき水が水路を流れ落ちていきます。

このわき水のおかげで、畑でなく田んぼとして米作りができます。


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上から見ただけでは分かりませんが、放置された「休耕田」があります。

入ってみましょう。


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水田として水を張るために、大きな石垣が組まれています。

田んぼの幅より石垣の高さの方が高いようです。

畦は崩れて、畑のようになっています。

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耕作されている田んぼです。

こんな細い田んぼが積み上げられています。

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帰り際に下から湯船山を、望みました。

積み上げた石垣の上に立つお城のように見えました。(^_^)/~

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先日に続いて飯神山の頂上からです。

遙か向こうは四国、その間の備讃瀬戸を行き交う船たち

その手前に、小さな半島に抱かれた漁港が見えます。

「おいで(^_^)/~おいで(^_^)/~と呼んでいるように思えます。


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さっさくやってきました。三都半島の長崎漁港です。

砂浜が終わるあたりに海から顔をのぞかせてる岩の小島。

私には「マジンガーZ」の頭にも見えてきます(^_^)v

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港にいたお爺さんに聞きました。

「あれはのう、弁天島ゆうんじゃ
 目みたいな所の木の枠に、弁天さんをお祭りしてあっての
 夏祭りには、潮が引いた時に村中の人間が集まっての
 あのまわりで、どんとを焚いて、大漁と安全を祈ったもんじゃ
 そりゃ、昔は賑やかやった
 せんようになって30年は経つかの・・(-_-;)

木の四角い祠が「Z」の目になって、遠い昔と海を見ているようです。


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お爺さんが「年寄りと猫しかおらん」という集落の方に行ってみます。


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村の広場です。

大きな郵便受けか・・と思ったら現役の郵便ポストでした。(*^_^*)

その向こうで、猫たちが食事中です。


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餌をやっているお婆ちゃんと話し込みました。

「法事のお膳を食べる人間がおらんきんの
 余ったもんをやってしたら、だんだん増えてきての
 余りもんや、とれた魚を炊き込んでやっじょん
 けんかもせんで、仲ように食べよるじゃろがで 

おじいちゃんとお婆ちゃんと猫が元気な長崎の漁港でした。(^_^)/~

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小豆島の三都半島の林道を原付バイクでドライブ中

こんな看板を発見 しし垣とあります・

さっそく「寄り道」してみました。(*^_^*)

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三角点の小高いピークから下に「垣」が伸びています。

どこまで続くのか、たどってみましょう。

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高さ1㍍30㌢程度の壁が、ウバメガシワの森沿いに続きます

石垣ではなく、版築で土を固めて作っているようです。

その跡が筋のように見えます。

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イノシシやシカの被害を防ぐために、江戸時代後半に全島で作られたようです。

250年以上の年月の中で、風雨にさらされてきました。

穴蜂の住みかにも最適のようで、巣穴が多くあけられいます(-_-;)

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さらに、内海湾の方向に伸びています。

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ちょうど、草壁発高松行きのブルーラインが内海湾を出て行きます。

むこうにかすむのは、四国の山々

その上には、積乱雲の「子供」が見えました。

夏の気配を感じる小豆島・三都半島からでした。(^_^)/~

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小豆島神浦の海です。

釣れもしない海に竿をだして、空と海を眺めています。

「魚釣り」ではなく「魚の餌やり」の方が正しい表現と言われています。

海岸を歩くと、浪打際で魚のはねる音がします。


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くさふぐが産卵中のようです。

この時期の大潮の頃、見られると聞いていました。

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大きな雌を雄が取り囲むようにしています。

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雌が体を大きくくねらせるやいなや、雄がいっせいに激しく動き回ります。

めすが小石のすきまに卵を産みつけ、おすが精液をかけています。


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海が白く濁って受精が行われたことがわかります。

「昔は、この浜辺中が泡だらけになったもんだ」と地元の人はいいます。


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三崎半島の先端近く、島で一番南の神浦(こうのうら)

「かみさまの浦」で見かけた命をつなぐ営みでした。 (^_^)/~


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島にやってきた多くの人が訪れるオリーブ公園。

ここで99年前に、日本で最初の実が実ったようです。

それを記念して、香川県の県木はオリーブです。(*^_^*)


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五月の光を浴びて、オリーブの小さなつぼみが風に揺れています。

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もうすぐ、こんな可憐な花が見られます。

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この時期、オリーブは葉の刈り取りのシーズンでもあります。

以前紹介したように、乾燥して「オリーブ茶」として売り出されています。

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草壁航路のフェリー船内の売店で手に入れました。

苦みが効いていて、私には美味しかったです。

オリーブが実って、来年が百周年。

それに向けて、いろいろな「試行錯誤」の「チャレンジ」が行われています。

さいごにおまけ映像。24の瞳と風に揺れるオリーブの動画です。 (^_^)/~

http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376151748295

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30年前の中山付近の航空写真です。

島の札所湯船山のわき水を利用して、棚田が重なっています。

「今」は、どうなっているのでしょうか?

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中山神社のそばから見上げてみました。

石垣が積み上げられた小さな田んぼに水が入っています。

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小さな耕耘機が代掻きに、活躍しています。

今度は、上から見てみましょう。

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湯船山のすぐの下の田んぼです。

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おばあちゃんがひとり、苗を直しています。

わき出す水は清らかですが、手をつけてみると冷たく感じます。

一部、放置された水田も目に入ります(-_-;)

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最後に掟破りの一枚

一月後には、苗は元気に育ってこんな光景になります。

そして、この坂を子供たちの持つ「虫送り」の

たいまつが駆け下ります。


航空写真は下記から転用させていただきました。<(_ _)>

http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
(国土地理院 空中写真閲覧システム)

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先日に引き続き農村歌舞伎からです。

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「枡席」に座った人たちの楽しみは「観劇」だけではありません。

時間が経つにつれて、おしゃべりに夢中な人も。

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隣に座っていたおじいちゃんと私の会話です。

私「そのわりご弁当の写真を、撮らせてもらえませんか?」

おじい「ええで、なんぼでも撮ってよ」

   「これで5人前、はいっとる」


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私「何重にも重なっているし、奥にもまだあるんですね。

おじい「撮すだけでは味は分からんぞ 食べてみな」

私「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。(^o^)

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おじい「缶ビールは、こんなとこへもってきたらいかん。」

「一升瓶で、コップ酒を注ぎつ、注がれつでいかなの」

「ほい、コップ まあ一杯いけや」

「こら!コップ置いたら下が傾いとるけん、まけるが!」

「ついだら置かんと、全部飲まな!」

「よっしゃ、ええのみっぷりじゃ。もう一杯いけや!」

おばあちゃんが朝から用意した弁当とコップ酒片手の観劇。

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舞台が夕闇に包まれて、雰囲気は最高潮。

私の意識は「夕闇と酒に包まれて、真っ黒」

この「枡席」で、ぐっすり眠り込んでしまいました。(>_<;)

楽しい農村歌舞伎、ありがとうございました_(._.)_

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小豆島肥土山の茅葺きの建物。

旧家の家屋にも見えますが、何に使われるか分かりますか?

この建物が一年一度、賑わうのが5月3日です。

この地区に伝わる農村歌舞伎の舞台になるのです。

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夕方に訪れてみると、この通りお客さんがぎっしり。

五月の青空と新緑の下、地域の人たちが熱演中です。

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村の顔役や「貴賓者」は、桟敷席から

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地域の人たちは、割り当てられた「枡席」に座って観劇(^^)!。

朝から用意したわりこ弁当と一升瓶がふるまわれます。

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舞台では子供たちが熱演中

白い紙に包まれた「おひねり」が舞台に投げ込まれます。

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日が沈んで「観光客」が帰ると客席はますます賑やかになります。

「観劇」とともに、「地域の社交場」でもある農村歌舞伎です。

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空から見た土庄付近です。

どぶち海峡の「河口」に小さな島があります。

あずき島と呼ばれています。

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昨年暮れにタンカーから流出した重油が島に漂着。

その回収作業に、あずき島周辺であたっている様子です。

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同じ橋の上からの最近の写真です。

海岸に人影が見えます。近づいてみましょう。

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大潮の潮が引いた夕方、潮干狩りをしています。

黒い重油の海よりも、青い空と海が「あずき島」には似合います。

回収作業は心が痛みました。貝掘りはほのぼのします(*^_^*)

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土庄の産土社「富岡八幡」からのあずき島です。

海の神はあずき島から陸に上がられたと伝えられています。

きれいな海がもどったことを産土様に感謝。<(_ _)>


航空写真は下記から転用させていただきました。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
(国土地理院 空中写真閲覧システム)

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前島の高見山からの光景です。

下に見えるのが余島(よしま)に繋がる砂嘴(さし)です。

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アイデアマンの前町長が「天使の散歩道」と名付けました。

島に遊びに来た若い人に「どこに行きたい?」と聞くと。

「エンジェルロード」と言うので、案内しました。

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ちょうど潮が引いていて、渡れるようです。

いけるところまで行ってみましょう。

正面の島が小余島です。

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小余島の岩場を超えていきます。

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波に削られて小さくなっていく中余島です。

若い人たちが波と遊び、岩を超え喜ぶ姿をみて、 ただの「砂嘴」

が「観光資源」に「変化」する不思議さが少し分かりました。

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春の光の中、海の風紋がきれいに浮かび上がっていました。

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前回に続いて小豆島町苗羽(のうま)の醤醢の里からです。

訪ねたのは「山」に「三」の「ヤマサン醤油」さんです。

木造三階の建物に屋号が書かれています。

ここには醤油関係の登録文化財の建物が7棟残っています。

社長さんに案内していただきました_(._.)_

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今は使われていない醤油倉には、塩が保管されていました。

醤油の発酵に欠かせないのが麹カビです。

いまでも柱や梁には、クロコウジカビが住み着いています。

それで内部が、黒っぽく見えるのだそうです。

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外に出て、植木を見ても心なしか黒ずんで見えます。

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サザンカの葉が黒ぽいのもクロコウジカビの仕業だそうです。

醤油倉の中だけでなく、周囲でもしぶとく生き延びていました。

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他の建物の中には、こんなものが乾燥されていました。

オリーブの葉です。

オリーブ茶として人気があるそうです。

ヤマサン醤油さんの「多角経営」のひとつのようです。

おひとついかがですか(*^_^*)。

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池の堤防の上から小豆島内海の「ひしおの里」を見ています。

すぐ下に見えるのが、「ヤマキチ」の醤油醸造所跡です。

母屋・醤油倉・麹小屋などがそろって残っています。

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200年前からここで、醤油が作られきました。

でも、後継者がいなくなり放置されていました。

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煙突が残る醸造所はここだけですが、痛みが目立ちます。

ここも「登録有形文化財」に指定されます。

しかし、改修費は国からは出ません。

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同業者がここを借りて、もろみ蔵として使い始めていました。

朽ちていくしかないと思っていた建物です。

後世に残っていく道が開けてきたようです。

よかったなと、声をかけてやりたくなりました。

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前回に続いて香川県の瀬戸内民俗資料館からです。

我が配偶者の母の出身が芸予諸島の蒲刈島です。

配偶者は一輪車のことを「ねこごま」と呼びます。

変な呼び方と思っていましたが、これを見て納得。

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一輪車の原型は「ねこごま」だったのではないかと思いました。

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瀬戸の島は「耕して天に至る」と言われました。

天まで届く段々畑に、通うことが女たちの生活の一部でした。

ポリネシアの民俗と同じ「海の道」の途上に瀬戸内海の島々もあったのではと思います。

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男たちがかついだ「オーコ」と「ニナイ」です。

日本という国の変貌ぶりの意味を改めてここで、考えさされました。(=_=)

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若い人たちを案内して映画村にいきました。

今日は北風が強く、波もあり寒かったです。

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田中裕子版の映画のセットを、保存しています。

海のすぐそばです。

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20年前に、こんなシーンがこの中で撮影されました。

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20年後の今日、教室の窓から見えた光景です。

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少し抜け出して、男先生が住んでいた官舎をのぞいてみました。

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小さな部屋に上がって座ってみました。

窓から瀬戸の小島が見えます。福部島のようです。

どんな思いで、ここで生活していたのかと考えてしまいました。

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若い人たちは「まちこごっご」をしていました。

君の名という映画は聞いたことはあるようです。

でも佐田啓二や淡島千景を知っている子はいませんでした。(-_-;)

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神戸からの高速船が発着する坂手港のすぐそば

新鮮な魚や貝が生け簀にいるお気に入りの大衆食堂です。

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お勧めに「亀の手」があったので早速注文。

出てきたのがこれです。

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爪の下を折って、引っ張るとこうなります。

これを食べます。

形からは考えられないような綺麗なピンク色の身です。

かたちはとにかく、酒の肴にはあいます。

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亀の手といいますが、本当の亀の手ではありません。

磯場などの狭い隙間に並んで生息しているこの貝です。

冬場のこの時期は食用にもなるそうです。

おひとついかがですか(*_*)?

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小豆島の元気な地場産業見学・第三弾。

素麺製造の見学や箸分け体験ができる「なかぶ庵」です。

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さっそく「箸分け作業」に挑戦です。

2本の竹棒にかけた麺線をさらに引き延ばします。

一気に引っ張るとうまくいきません。

何回かに分けてゆっくりと引っ張ります。

これで太さ約3mmほどだそうです。

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伸ばした素麺はくっついているので竹の箸で分けます。

簡単そうですが、私は何本も切ってしまいました。

これにもコツがありました。

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一定の長さまでのばした素麺を、掛けていきます。

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外には、午前中にこびきした素麺が干してありました。

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白い素麺に春の陽光が当たって影が出来ていました。

もちろんこの後は試食。

島醤油のダシと出来たばかりの白いソーメン。

きれいで美味しかったです。


なかぶ庵のご主人のブログはこちらです。
http://www.olive.or.jp/blog/season/2007/03/post_11.html
小豆島素麺の製法については詳しい「素麺オジサン」さんのブログはこちらです。
私もいろいろなことを学ばせてもらっています。(^_^)/~
http://blogs.yahoo.co.jp/yume_shoudoshima

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前回に続いて小豆島食品さんの佃煮工場(?)からです。

こだわりは食材だけではありません。

化学調味料は使わず、「山六」の醤油と奄美の黒砂糖を使用。

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製造黒板です。これが佃煮のレパートリーのようです。

今日、作られている所に材料などの書き込みがしてあります。

ちょうど食べ頃になったようです。試食させていただきました。(~o~)

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タケノコです。

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昆布巻きです。

温かい「佃煮」は初めて食べました。

歯ごたえがしっかりしていて、独特の風味です。

パックに入れておみやげにいただいて帰りました。

ご飯が何杯も食べれる感じでした。(*^_^*)

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「どんこ」というの椎茸の最高級品だそうです。

傘が開く前の蕾のような状態で先が白いのがいいそうです。

撮った写真があったので追加します。

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小豆島で出荷額が一番多いのは醤油でも、素麺でもありません。

今では佃煮が一番。全国シェアーの3割近くを占めています。

こだわりの佃煮を作り続ける小豆島食品さんの工場です。

築100年近くのかつての醤油倉を使っています。

この建物も登録建築物に指定されています。

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材料は「いいもの・本物」にこだわりたいというご主人。

白い箱は厚岸の昆布。茶色い箱は日高昆布。

北海道から取り寄せた厚みのある昆布です。

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水で戻された厚岸産の浜中昆布。

まるで生きたウナギのように見えました。

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機械で裁断していきます。

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となりでは、別の佃煮が釜で茹でられていました。

人間の勘と経験で茹で具合や味付けを修正していきます。

「職人」の技と手間で、こだわりの佃煮が作られていました。

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前回に続いて醬(ひしお)の里、山六さんの庭先。

役割を終えた大きな醤油樽が転がっています。

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今も使われている醤油樽です。

杉の板で組まれています。

緊張がゆるむことを【箍が緩む】たががゆるむと言います。

樽を絞めているのが箍(たが)だそうです。初めて知りました。

この箍は竹が使われています。

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120年間、使われている醤油樽です。

塩を入れるために金属では20年ほどで腐食してしまいます。

竹と杉だから腐らずに長い間、使用することができるそうです。

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この樽の修理の出来る職人さんは日本に6人しか残っていません。

伝わってきた醤油樽を大切に使って、未来に残そうとしています。

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外に出ると使われなくなった樽の杉板でベンチが作られていました。

「訪れた人たちが憩えるように」とのことでした。

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小豆島では今でも19軒の醤油屋さんがあります。

その中で古い製法にこだわる小さな醤油屋さん「山六」を見学。

庭先には今も使われているおおきな醤油樽がありました。

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醤油倉の樽の上に上がって五代目の説明を聞きました。

建物自体が登録文化財の指定を受けています。

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壁は土壁が剥きだし。

ここに美味しい醤油をつくり出す酵母菌が住み着いているそうです。

「この醤油倉がうちの一番大事な財産」と社長は言います。

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下からぷくりともろみがわき上がってきます。

長い年月を経て住み着いた酵母菌たちが活動しています。


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下りて見ると百年以上前に作られた樽が並んでいます。

ここでしかできない醤油が、昔ながらの方法でつくられていました。


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幕末の「小豆島名所絵図」です。

島特産の素麺の粉ひき風景です。

大きな臼を牛が廻しています。

そこで疑問!

使われなくなった石臼は、今は何処に?

石臼探索に出発!

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まずは「大阪城残石公園」に集められているのを発見。

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続いて、神社で灯籠に変身。

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さらに札所の石垣の中に発見。

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最期にこんなところにもありました。

海に面した漁師さんの家です。

波を小さくするテトラポット代わりに使われているようです。

石臼の役割を終えて、それぞれ「第2の人生」を送っていました。

報告終了!(^_^)/~

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二十四の瞳の舞台となった分教場の奥にある田浦庵の大銀杏。

本堂の屋根を傷めないために、「枝下ろし」された姿を

先日、紹介しました。


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他の場所で、見事に「再生」している銀杏を見ました。

「枝下ろし」して、3年目だそうです。


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三年の間に、これだけの若枝を伸ばしています。

冬の青空に向かって、背伸びするような姿。

がんばれよと声をかけたくなります。

同時に、元気をもらった気になりました。感謝

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島を牛の形になぞらえると首の付け根にあたる淵崎。

伝法川の河口に小さな島があります。

「あずき島」と地元では呼ばれています。

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海からの神が、この島から本島に揚がってきたと伝えられます。

島の「国生み伝説」の場所です。

古代は、小豆島は「あずきしま」と呼ばれていたようです。

吉備(黍)と阿波(粟)の間の島があずき島というのは、説得力があります(?)

島で一番高い星ケ城山にある神社も「あずき神社」です。


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北アルプスの白馬岳は、地元の人たちが代馬(しろうま)と呼んでいたのを、

地図作りの役人が [白馬]と書き留めたため、

(はくば)と呼ばれるようになったと聞いています。

階段の先に見えるのが「あずき島」です。

今は、本島は「しょうどしま」と呼ばれています。


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海から延びる階段をのぼると富岡八幡神社があります。

ここで寅さんの「寅次郎の縁談」のラストシーンが撮られました。

この日は、春のような日射しに包まれていました。

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世界一狭いどぶち海峡にある製材所です。

船で運ばれてきた材木が海に浮かんでいます。


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テレビで見る木場職人のようにハッピも着ていません。

派手さもありませんが、手際よく作業は進みます。


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一本一本がいかだのようにまとまられていきます。


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翌日は快晴、すでに多くの木々が陸揚げされて切断されています

海に浮かぶ木のそばを、小舟が通過していきます。

重油処理の溶剤を、散布しています。

重油事故から2ケ月 

処理作業は完全に終わったわけではありません。

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前回紹介した「24の瞳」の中国語の映画ポスターです。

中国でも公開され、高い評価をうけたそうです。


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映画の中のワンシーンです。

子どもたちが洞雲山のふもとの醤油倉を駆けていきます。

山の中腹あたりまで段々畑が耕されています。

いまは放置され自然に還っています。


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でもマルキンの醤油倉は、むかしのまんまです。

この中でゆっくりと醤油ができあがっています。


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まわりを歩いてみると醤醢(ひしお)の香りが漂います。

ちょうど昼時、お腹も空いてきたようです。

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