女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。 高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。 高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島の丸山古墳
①5世紀後半の円墳で、直系約15m②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。
「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」
5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。
丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長②朝鮮半島百済系の渡来人
①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
倭人については、次のような見方もあります。
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)外島1号墳(三角板革綴短甲)ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。
高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」
この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。
倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。
以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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