瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 四国の山々から

猛暑もやっとおさまり、山の上には涼しさが戻ってきたようなので「山のてっぺんで私も考えた」シリーズを再開しようと思います。これは気になる山のてっぺんに行って、その山を取り巻く歴史について、知ったかぶりの少ない知識を並べて、ああでもない、こうでもないと考え、「新説」を紡ぎ出すというとんでもない試みです。興味と閑のある方は、お立ち寄りください。前回は、阿波木屋平の天行山と修験者の関係を見ました。今回は、土佐の奥神賀山にある奥神賀神社を遡上にあげます。

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奥神賀神社
この神社が気になるのは、そのロケーションです。神賀山は、土佐矢筈山からのびる笹の主稜線が美しい山で、広い笹野原の中に、ポツンと鳥居と神が宿る神聖な磐境があります。この光景が、なんとも微笑ましくもあり、私の想像力を刺激します。というわけで、今回も国道32号を原付バイクで南下して、池田・大歩危経由で国道439号に入り、大豊町の西峯までやってきました。

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                     大豊町西峯
豊永の西峯集落の最後の民家を過ぎると、稜線上の豊永峠までの約10㎞の林道です。舗装された林道で油断していると・・

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小桧曽林道の起点 ここから2㎞はダート
峠まで残り4㎞附近が小桧曽林道起点で、ダートの始まり。原付スクターとダートは相性が悪い。苦戦しながらもスクターを進めていくと、

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豊永峠手前の上り坂
峠手前2㎞あたりで再度舗装道路に行き当たりました。ここからは快調にアクセルを廻して、豊永峠に到着です。
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ススキ一面の豊永峠
峠ではススキが風に吹かれておいでおいでと迎えてくれました。ここから南に拡がる展望は素晴らしい。めざす奥神賀神社は、この後方の稜線上にあります。わずかな稜線歩きを楽しみます。

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豊永峠
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                      奥神賀神社
峠から道草歩きで20分足らずで鳥居が見えて来ました。

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奥神賀神社 (神が降臨する甘南備岩が御神体)
無事やってこれたことに感謝して参拝。そして、笹に腰を下ろして遅いおにぎりを食べます。そして、寝そべりながら考えます。どうして、ここに鳥居が建てられたのでしょうか?。この神聖な石の廻りでどんな神事や、祭礼が行われていたのでしょうか。それを知る「手がかり1」を見ておきましょう。

  四国霊場39番の延光寺(宿毛市)は、かつては修験道当山派の拠点でした。

四国霊場延光寺 貝の森 宿毛
延光寺(宿毛市)の東南の貝の森
この寺の4㎞ほど東南に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀り、修験者の修行の山でり、日照りの時には雨乞のために、里人が登って祈念していたようです。この貝の森については、次のような話が伝えられます。

 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こした。それがきっかけで、貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と、近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡者が出た。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなった。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、その頂上では多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は、中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと

宿毛の貝の森山は、伊予と土佐の境に近く、その信仰主権をめぐって、修験者たちや在地の豪族たちを巻き込んだ対立が起きていたようです。
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そういう目で、神賀山を見るとこの山も草原の中にポツンとあるこの奇岩は、神が宿る御神体には相応しく、自然と手をあわせたくなります。ここが霊山として修験座達の信仰されていたのは納得できます。同時に、この山も次のような二つの修験者たちの境界線に立つ山です。
①北側 豊永の定福寺   (霊山は梶ケ森)
②南側 物部のいざなぎ流 (霊山は高板山)
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定福寺山門
①の定福寺については、以前にお話ししたように「熊野 → 伊予新宮村の熊野神社 → 大豊の豊楽寺 →  定福寺」の系譜上つらなる熊野行者によって開かれた山岳寺院と研究者は考えています。

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定福寺の本堂の横に鎮座する熊野神社

定福寺の本堂の横には、今も熊野神社が鎮座していることが、それを裏付けます。そして、その行場が梶(加持)が森になります。梶が森と神賀山は、ひとつながりの山域です。定福寺を拠点とする修験者たは、この山までテリトリーを伸ばしていたはずです。
一方、南側は物部の谷です。そして、ここは物部修験いざなぎ流の拠点でした。その霊山は、高板山で、神賀山の三つの峰を連ねて目の前にそびえています。つまり、神賀山は物部修験と、熊野修験のテリトリーの境界線上の霊山だったのです。しかし、そこでは対立・抗争だけが行われていたようではないようです。第2の手がかりを見ておきましょう。
幡多郡の四万十川上流の旧大正町奥地の佐川山を見ておきましょう。
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵のふたつの地蔵さまが鎮座します。旧3月24日は、この山の周囲の大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山しました。見所は喧嘩でした。土佐と伊予の人々が口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作柄がよくなるといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てて、豊作を祈願しました。
このような「鎮めの地蔵(喧嘩地蔵)」として、地蔵が鎮座していた山を挙げると次の通りです。
①西土佐村藤ノ川の堂ヶ森
②東の大正町杓子峠
③西の佐川山
④南の宿毛市篠山
⑤北の高森山
⑥中央の堂ヶ森
また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは、周囲の集落の信仰対象となっていること、相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 この史料を読んで私は、神賀山でも、武闘から「口げんか」や「相撲」に姿を変えながら、物部と豊永の人達の交流が行われていたのではないかと思うようになりました。

最後に、窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰を見ておきましょう。

御在所の森 高知県
                      御在所の峰

 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。役小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は、修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
 別の見方をすると、テリトリーの境の霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとっては争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。
 もちろん山伏の背後には、地元の武士団の意向もあったはずです。それは寺蔵が建立される以前には、地域間の抗争があったこと、それを鎮めるために「山頂での相撲や喧嘩」など山伏たちによって行われるようになったと考えることができそうです。そして、私には奥神賀神社のご神体である奇岩は、寺蔵のようにも見えて来ます。
そういう目で、奥神賀神社の廻りで行われていたことを、想像も交えながらまとめておきます。
①奥加賀山は、北の豊永と南の物部の境界に位置する山で、両者の対立抗争の山でもあった。
②そこで、北の豊永・定常寺(熊野修験)と南の物部いざなぎ修験の修験者たちは、奥神賀山の笹の原にある奇岩の廻りで、両者が集まるイヴェントを年に1回開くようになった。
③それは武闘抗争に替わる口げんかや相撲であった。
④こうして、豊永と物部は対立を含みながらも、交流が続けられる関係が作られた。

そんなことを考えながら笹の原に寝っ転がりながら、ススキの向こうに見える高板山を眺めていました。
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物部修験いざなぎ派の霊山高板山
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事





石堂山
石堂神社から石堂山まで
つるぎ町半田の奥にそびえる石堂山は、かつては石堂大権現とよばれる信仰の山でした。
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標高1200mと記された看板
 現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。

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 スチールの鳥居が白く輝く石堂神社

 かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。

石堂山2
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。
 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。

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明るく開けた石堂神社の神域
  現在の石堂神社には、素盞嗚尊・大山祇尊・嵯峨天皇の三柱の祭神が祭られているようです。

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石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。
①白竜神 (百米先の山中に祭る)
②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩
③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者と修験道の世界 : 山岳信仰の秘宝 : 役行者神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念(大阪市立美術館 編) / ハナ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
役行者(えんのぎょうじゃ)

②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。

問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。

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石堂山への参道登山口(石堂神社の鳥居)
 持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。

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最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群

石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
金毘羅神
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
 修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。

天狗 烏天狗
霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)

つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群(石堂神社裏)

ここも修験者たちにとっては聖なる場所のひとつで、その下に遙拝所としての石堂神社が鎮座しているとも考えられます。
下の地図で①が石堂神社、②が白竜神の磐座です。

石堂神社

ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。

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南側の黒笠山から津志獄方面
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
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黒笠山から津志獄方面の稜線

いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。

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三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
 この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。

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林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
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          小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
 標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。

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ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。

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後は黒笠山

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稜線上のブナ 私が見つけた中では一番根回りが太い

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ブナ林の中から見えた吉野川方面
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拡大して見ると、
直下が半田川沿いの集落、左手が半田、右が貞光方面。その向こうに連なるのが阿讃山脈。この範囲の信者達が大祭の日には、石堂山を目指したはずです。

石堂神社

④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
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白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
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白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
石堂山から風呂塔
北側上空からの石堂山系俯瞰図
 今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

 秋の杖立峠を訪ねて
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穴吹の奥の内田集落の家屋を見て、さて次はどこへ向かおうか考えます。
この庭から見える綱付山から正善寺への稜線を見ていて、杖立峠に行ってみることにします。

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最後の集落である田之内を超えて車を走らせます。
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このあたりの道路は幅もありますし、カーブも適度なので快適な山岳ドライブが楽しめます。振り返ると、いま登ってきた渓谷が深くV字を刻んでいます。そして、田之内集落が、その向こうに見えているのは半平山の稜線でしょうか。

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30分足らずも走ると稜線が近くなってきました。
この地区は友内山、八面(やつら)山、綱付山、正善山、奥野々山、高越山など1,000m を超す高い山々で囲まれています。
かつて修験者達は、各地からこの山々を越えてを剣山をめざしました。口山の閑定滝前にある昭和3年(1928)建立の
「剣山道 是よりお山へ十里 龍光寺八里」
と刻まれた高さ3m、幅1.1m、厚さ40cm の道標や、
古宮の石尾(いしお)神社の鳥居横の
「剣山大権現 明治三十三年(1900)三月建之」
本殿横の「安政五午年(1858)三月吉日」
などに、かつての痕跡がうかがえます。
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稜線が明るく輝いてきました。峠に近づいたようです。
稜線上の広葉樹は、色づき秋の気配です
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林道の開通記念碑が建っています。
杖立峠1080m(つえたて)峠は、剣山への参拝道としてよく使われた峠です。
古老の話では、昔は先達さんに連れられて村の若者達の多くがこの峠を越えたそうです。その時に登りの時に使った杖を、この峠に刺し立てて木屋平へ下って行きました。そのためこの峠は「杖の森」とも「杖立峠」とも呼ばれていたといいます。
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この峠は、平成5年(1993)3月に完成した林道杖立線の工事で、昔の面影はなくなりました。ちいさな祠がかすかにその当時のことを伝えるだけです。
この峠は剣の前衛峰として西から東に、八面山 → 綱付山 → 杖立峠 → 正善山と連なる嶺峰が続きます。かつて、私もテントや寝袋の入った重いキスリングザックを背負って、この辺りを徘徊したことがあります。当時は、ここに車道はなく奥深い峠でした 
 
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 正善寺に向けての道標が立っています。
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林道もついているようです。この稜線沿いの林道を行けるところまで行って見ることにします。
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峠からの坂を登ると、林道工事で出た残土で埋め立てられた広場があります。植林された唐松が梁のような色づいた葉を落としています。
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林道は、稜線を傍若無人に切り開いて伸びていきます。
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そして、迎えてくれたのが彼女・・・・。
なにしきにきたんな あんた かえりな ここは私の領分で・・・
こちらをにらみつけて(?)逃げようとしません。
どうぞ通して下さいとお願いして通過・・・


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そして行き止まりは、集木作業場になっていました。
JP(ジャンクション・ピーク)まで林道は延びているのかもしれません。
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そして、開けた稜線から北側をのぞむと・・
剣山から天神丸を経て、雲早山に続く四国の背骨に当たる山々が東に伸びています。
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中尾山には「天使の階段」が架かっています。
天使が舞い降りてきているような光景です。
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あの嶺峰が白く染まるのもあとわずか・・・
晩秋から冬の気配を感じる杖立峠でした。
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つつら折れの道を針葉樹林帯を抜けると稜線が近づいてくる。
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稜線直下の谷沿いにはブナ林が残る。
葉を落とし、冬を迎える準備は完了。
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稜線へと道は続く。
秋の空の青さがまぶしい。
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稜線に出るとすぐに看板が・・
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この分岐点をすこし上がった所にある駐車場に車をおいて、歩くことにする。
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林道を歩き振り返るとこんな光景。
石鎚の山脈(やまなみ)がこんな風に見えるとは・・・
思いもかけなかった光景に呆然。
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石鎚から一の森、黒森への稜線が美しい。

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松山の南の皿が嶺、今治に続く高縄半島の山々も見える。

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東には石灰岩採取のために山容を変えた鳥形山も・・

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南にはのっぺり、のんびりと四国カルストが横たわる。
車に乗っていては、こんなにゆっくりと山を眺めってはいられない。
歩くことによって出会えた光景かもしれない。

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林道は笠取山駐車場まで続いている。
この横の笹道を登ると・・・
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笠取山山頂 
いとも簡単に山頂に立ててしまう。
しかし、ここからの光景は素晴らしい。
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稜線は私の大好きな笹の原と大展望+青空=最高の気分です
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笠取山へは、内子町の小田深山渓谷からの登山道も整備されています。
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大川嶺に続く笹の稜線です。
茂っているのはツルギミツバツツジだそうです。
5月末には素晴らしい光景が見えると聞きました。
久住の深山霧島に負けないと地元の人は言います。
機会を見つけてやって来たいという気持ちがわき出します。

この稜線を大川嶺まで歩いて行きます。
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天空に続く笹の稜線です。
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あっけないほど簡単に大川嶺につきました。
もっと歩いていたいと思わせる道です。
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ここからは久万高原がよく見えます。
逆に察すると、久万高原からこの山は「神山」と
なりうる山かもしれないと思ったりしました。
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駐車場に向けての下山路
石鎚が正面に見えました。
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天空の笹の原の山がお手軽に楽しめる大川嶺でした。

30年ぶりに芸北の恐羅漢に行く。

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牛小屋高原のエコロジーキャンプ場で前泊。

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ミズナラやアカマツの木立の中のキャンプ場を独り占めして気持ちの良い朝を迎える。
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砥石郷との鞍部にあたる夏焼峠に向かってミズナラの林の中を歩く。
昨日の雨上がりの後で、沢からは水の流れる音があちこちから聞こえてくる。
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所々にベンチやテラスが設置され、高低差も少ないため快適な森歩きができる。
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次第にトチや沢ぐるみの巨木が混じるようになる。
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小さな尾根を越えるとブナの子ども達が姿を見える。
かつて芸北ののブナの原生林は臥竜山を除いて、伐採された。
稜線沿いに残されたブナの母たちが飛ばした種子が広がり、再びブナの幼木が育ちつつある。40年以上の年月が経ち、ブナ林はよみがえりつつある。
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ゆっくりと森を楽しみながら歩いて50分で夏焼峠。
真っ直ぐに行くと中の甲を経て奥匹見峡へと続く。
稜線を恐羅漢に向けて南に進む。
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夏焼けの丘から台所原にかけての稜線で、ブナの巨木が迎えてくれる。
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山葡萄の葉が赤く紅葉し、黒い実をつけている。
ナナカマドも赤い実をたわわにつけている。
今年の森は豊穣だ。豊かな実を求めて、北からやってきたばかりのツグミやシロハラが集まってくる。南に帰る夏鳥達も混じる。
双眼鏡を取り出して「鳥見」。さえずりがあちらこちらから聞こえてくる。

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 早手のキビレ付近では紅葉が盛りになっていた。
葉っぱを拾ってみるとハウチワカエデだ。
天狗がもっていた団扇の形に似ている。
同じ葉っぱでも色づきが異なる。不思議なものだ。
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そして頂上直下へ。ここまでで約二時間が経っていた。
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恐羅漢頂上へ

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展望は360度と言うわけにはいかない。南や西方面は灌木で視界は開けない。
やはりこの山からの眺めは北方がいい。
掛図から臥竜の稜線のラインは美しい。

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そして、なにより深入山のどっしりした山容とドーム状の山頭が愛らしい。
この日は、天候が不安定。山頂もあっという間にガスに包まれ視界が効かなくなった。
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帰路は立山分岐からスキー場経由のルートをたどる。
紅葉が始まった木々の尾根を下ると・・・。
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スキー場の最上部に出る。
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立山ルートを直登してくるグループとすれ違い、ゲレンデをジグザクに走り下りる。
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下りきったところにあるのが広大WV部の山小屋。
綺麗になっている。
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牛が放牧されていた牛小屋高原。
そして開拓者達が入植し、戦後拓かれた場所。
そこはスキー場やキャンプ場となり、その痕跡を探すのは難しくなっています。
しかし、変わらないものはここにはたくさんありました。
私にとっては魅力的な場所の一つです。

日本一早い大雪山の紅葉を見に 
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9月末 旭川のホテルでテレビを見ていると、「日本一早い紅葉前線が大雪山系にやってきました」と報じられていた。天気予報をチェックすると明日は快晴。これは行かねばなるまい。予定を変更し急遽、黒岳を目指すことにした。
朝早く旭川を出発し7:30には黒岳ロープウエイ乗場に到着。
この時間帯なら観光バスもいなし、行列も出来ていない。
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10分足らずの空の旅。高度が上がるにつれて、大雪の峰が見えてくる。
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5合目駅から遊歩道を5分ばかり歩く。白樺の白い幹と黄色く色づいた葉のコントラストが私には珍しい。
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今度は、山岳スキーゲレンデのリフトで、7合目まで15分。
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黒岳を眺めながらゆらりゆらり。上に上がってくると無風で日も差しリフトに乗っていても寒くない。至福のひととき。
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7合目のリフト終点展望所からの眺め ニセイカウシュッペから屛風岳に続く稜線が美しい。
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今年開設されたばかりという、あまりょうの滝展望台へ行って見ることにする。
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10分少々の整備されたトラバ道で到着。黒岳の山容と斜面の紅葉が美しい。
後から団体バスツアーの一団が到着。
滝をバックに写真を撮ると10分足らずで引き上げていく。
さらに高みを目指したいが・・・「思いつき登山」ではここまで
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来た道を引き返す。
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ロープウェイ周辺の稜線まで紅葉前線は下りてきている。
でも駅から下の谷沿いは、まだまだこれから。
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5合目駅の屋上展望台に上がってみるとこんな景色が広がっていました。
ここからは360度のパノラマ展望。
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層雲峡はまだまだ前線が下りていません。



デジタルマップを眺めていると、西熊林道が別府につながっている。
今まで持っていた30年前の「山と高原」地図は、もちろんつながっていない。
しかも、白髪山に登るルートまである。さらに、コースタイムは50分。
「えーーー! ほんまかいな?」が第一印象。
こりゃ行かねば成るまいが次の判断。そして行動あるのみ。
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落合峠~矢筈峠~久保影でやってきました西熊林道。
道幅は広がっていないがどこまで行っても舗装路。ダート無し。
ちなみに、道路崩壊のために別府峡には抜けられないとの標識は出ていました。
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こんな「人」がいらっしゃいと、お出迎え。
車道まで現れるようでは、樹木の被害は推して知るべし。
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道標に導かれて、登山口の駐車場到着。
ここには、地元ボランテイアによって清潔なトイレも、快適な山小屋も、ミソサザイのさえづりが響く広い駐車場もある。いうことなし。
私のプライベート山小屋にしたいくらい。
本日の野宿先に決定。
 時は8月下旬、午後は暑いので山小屋で涼しくなるまでお昼寝。
明日は天候が崩れると予報なので、夕方から白髪山を目指す。
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16時過ぎ、小屋の上の登山口から出発。ほんまに50分で頂上につけるんやろかと、疑いながら深いクマザサをかき分け登山道をたどる。すると目の前を何かが走り抜け木に登り、こちらを注視する。
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「おまえ誰や?」
「おまえこそ誰や、先に名のらんかい」と無言の火花が両者に飛び交う。
ほんまにこれなんでしょうか。私にはわかりません。

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未練を残しながらもリョウブ・ブナ・モミの入り交じる尾根を登ると、笹の原に抜けて、そして頂上が見え始める。
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大昔、何度目かの三嶺・剣の縦走中に、白髪の避難小屋前で幕営したときに、早朝散歩でここまでやってきたことがあるが、てっぺんに立つにはそれなりの「仁義」が必要な山であったように記憶する。それが50分。
世の中の便利さを喜ぶべきか、なんちゃって登山化したお手軽さを嘆くべき・・・。しかし、多少の「罪悪感」らしきものはありますが、私は林道を使って50分で立ちました。懺悔しません。
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こんなに眺めが良かったかなと思うほど、素晴らしい眺めでした。
北には「鍋の蓋」あるいは「笠ヶ岳」のような山容の三嶺。
東の肩には、避難小屋がくっきりと見えます。
東熊山から伸びる稜線もセクシー。
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西熊山から天狗塚にかけてのなだらかな稜線。
あの稜線を、もう一度歩きたい素直に思うようになりました。
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8月下旬の平日、17時。だれもいない白髪の山頂を堪能。
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下山します。そして、あの山小屋で泊まらしていただきます。
山の神からの素敵なプレゼントに感謝。謝々


残暑が続いた今年の夏、秋の気配を山に探しに出かける。私にとって秋の気配は、彼岸花とススキの揺れる高原。それで選んだのが四国カルストの姫鶴平高原。前日出発し、深夜に到着。そのまま風力発電の前で車中泊。
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朝ぼらけころに目が覚める。ライジングサンを見るために、早朝の高原散歩。
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東の空の彼方にぽっかりと太陽が現れました。
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振り返ると白い石灰岩も赤く染まっています。谷には雲海がまだ貯まっています。
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牛たちも牛舎から出てきて朝の食事中。
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牧草がまぶしい。
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「天空の爽回廊 カルスト高原展望ロード」を歩いて天狗塚方面へ

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かなたの天狗塚と天狗荘。
私のイメージしたとおりのススキの高原歩きを満喫できました。

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高原の空には秋の雲が浮かんでいます。
秋の気配がいっぱいの姫鶴平から天狗塚への高原の道でした。

 土佐矢筈山へ早朝登山
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8月下旬 猛暑を避けて山に「避暑」 
三加茂から入り、落合峠を越えて国道439号を京柱峠へ。そしてダートの林道を抜けてたどり着いたのが土佐矢筈峠。初日はここで野宿。
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翌朝は鳥たちのさえずりで目を覚ます。朝日を受けた矢筈山が輝いている。
食事を済ませて「早朝登山」
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峠から登り始めるとブナのゲートが出迎えてくれる。
鞍部からリョウブの木肌が印象的な登山道を直登気味に登る。




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樹林限界を超えて笹が広がり始める。
その中に磐城に見える石灰岩の巨石が姿を見せ出すと頂上は近い。
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足下にはシコクフウロ

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稜線直下の一面の笹の海。
「大牧場はみどり」を口ずさみながら歩く。
笹の海に「島」 いとおかし。どんな現象なのか分からない。
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峠から1時間足らずで矢筈山頂上。ここからの展望はすばらしい。
西には京柱峠に続く笹の海。どこまでも歩いて行きたくなる。
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東には、ぐっとせり上がった天狗岳と独特の傾きを見せる三嶺。
上空には空を切るアマツバメの羽音
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小一時間、寝転がって山と空を眺めて過ごす。それでも飽きない。だれもいない山を独り占め。

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笹の原の稜線にお別れして下山開始。
つい昔歌った山の歌を口ずさんでいる。
穂高よさらば・・・
シーハイル・・・・
広島高師の山男・・
「年を重ねた証拠だよ」とかつて一緒に山に登った友人が何処かで呟いたような気がした。


9月早朝の瓶が森 2つの山小屋跡を訪ねて

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   瓶が森の駐車場に車を入れて石鎚をビール片手に眺める。
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今晩はここで野宿。
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楯を横にしたような石鎚に朝日が照らす。
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早朝の笹の原を「独り占め」する目論見で足を伸ばす。
誰もいない。高原の小鳥のさえづりのみが耳に入る。
駐車場の向こうには、子持ち権現がぽつんと見える。
笹の原の中の道は草刈りされたばかりで歩きやすい。山の歌を歌いたくなる。
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白石小屋への分岐点。顔を洗うために瓶壺に降りていく。
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瓶壺の水で顔を洗う。顔だけでなく全身を浸して修験者のように清めたい処だが、冷たそうなので辞めておく。
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この木 何の木?
コメツガでもモミでもない。葉はマツ。五葉松?
まさかこんなところに???
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白石小山に人の気配はない。
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しかし、第二キャンプ場は笹が刈られ幕営可能状態。
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お気に入りの場所で読書と早いお昼寝タイム
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第一キャンプ場へ向かう。
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  瓶が森ヒュッテは廃墟化して「倒壊注意」の貼り紙あり。
そのそばを黙祷をするかのように頭を落として通り抜けていく。
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このキャンプ場からの石鎚は最高。
重いザックをかついでたどり着いたときの安堵感をいまでも思い出す。
蛇口をひねれど水は出ず。
されど、次は水を担ぎ上げてもここで「野宿」したいという気になる。
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氷見二〇〇〇石の笹の原にガスがかかり始め、石鎚も見えなくなっていく。
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ふと足下を見るとリンドウの花が・・

「生きている鳥たちが飛び回る山を 
あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは
近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう。」
昔歌った歌を自然と口ずさんでいた。

瓶が森の笹の原を独り占めする贅沢な時をいただいたことを、山の神に感謝!

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ぼくM.DAXのたかしです。

青い空がいっぱいに広がった下、瓶が森を登ります。


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四国笹がいっぱい広がってきもちいい!(^^)!


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でも、足の短い僕には歩きにくい。

こんな時には、もう少し足が長くてもいいなと思ったりする(-_-;)


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ここから見える石鎚山は、ぼくも「最高!」だと思う。

昼ご飯の後、ぼんやりと眺めていました。


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瓶が森の頂上から眺めた稜線です。

紅葉は少し遅れているそうです。


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最後に、稜線からの石鎚です。

「ドウダンツツジの紅葉が綺麗」とお母さんが呟いていました。

ぼく、最後までしっかりと歩きました。

その様子はこちらの動画でご覧ください。

http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376151906697
たかしとキョン  愛媛の瓶が森に登るM・DAX

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先月末にお伝えした吉野川の源流です。

沢歩きの途中で、竿を取り出しフライフッシング。


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山女魚が潜んでいそうな落ち込みを、ひとつひとつ攻めます。

辛抱強く疑似餌を流れに落とし込んでいきます。


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餌が水面から消えました。初めてのあたりでヒット。


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はかってみると26センチの山女魚でした。(^_^)v

生きている魚は側面の文様がきれいです。


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自作の疑似餌で釣り上げた満足感を味わうとリリース。

網からゆっくりと川に帰っていきました。


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9月末でも里は暑さを感じるくらいでした。

でも、沢には秋の気配がそこかしこに感じられました。。

おまけの動画です。

http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376151902079
高知県本山町 汗見川にて フライフィッシング 山女魚

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真夏日が22日も続いた四国の9月。

8月よりも暑い9月を逃げ出して、友人と沢に入ってきました。

両岸が絶壁のゴルジュの谷をじゃぶじゃぶと進みます。


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現れた二段の滝を越えていきます。


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足下を白い清流が洗います。


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その上には一枚のナメ状の岩場が続きます。


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どこの庭園にも負けない光景の連続。

どこまでも歩いていたい明るい渓谷です。


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流れの中に見つけた橡の実です。

縄文人が主食にしていたとも聞いています。

下界は真夏日でしたが、渓谷は秋の訪れを感じさせてくれました

残暑お見舞い申し上げます。

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暑い毎日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。

四国の沢から涼風をお届けします。

高知の吉野川源流の一ノ谷渓谷に入ってみましょう。


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流れ落ちる清流にじゃぶじゃぶと入って上流を目指します。

周りの石は特有の「緑石」

川の色も透明のエメラルドグリーンのように見えます。

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ナメの滝を登ると足下がこんなふうになります。

暑さはいつしか消えて、涼しさ一杯。

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岩の壁に囲まれたゴルジの谷は中央突破。

水は冷たいです。

長くは入っていられません。(^_^;)

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谷の向こうから水の落ちる音が聞こえてきて・・。

無名の滝が姿を現します。

流れ落ちる水の水圧を体中に感じます。

しばし、何も忘れて見上げていました。

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帰りに見つけたかわいい(?)いきもの。

クロサンショウウオ(?)だとおもうのですが。

手は川につけています。写真でも川底がくっきり見えています。

私たちの「沢登りごっこ」、涼風が伝わったでしょうか?(^_^)/~

剣山のアサギマダラ
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先週の台風4号の通過後に、徳島の剣山に行きました。

台風一過の晴天とはならず、頂上にはガスがかかっています。

ひらりひらり、空から舞い降りてくるものが目に入ります。

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細かく羽ばたかずにふわふわと滑空します。

すぐ目の前の山アザミに留まりました。

アサギマダラのようです。

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夏に日本で生まれたアサギマダラは、秋には台湾まで南下するそうです。

「渡り」をすることで有名です。

人をおそれることがない蝶のようで、何枚もシャッターを切りました。


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この蝶も、これからの「渡り」に備えているのでしょうか。


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ガスのかかった頂上です。

剣神社の祭礼が「磐倉」の下で行われていました。

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ホラ貝の音が鳴り響く「天涯の頂」でした。

高越山のオンツツジ
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先日の日曜日、徳島県の高越さんにお参りにいきました。

新緑の木々の間から朱赤に染まった所があります。

船窪のオンツツジが咲いているようです。

もう一がんばり、足をのばしてみましょう(^o^)。


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これがつつじ? 私の「ツツジ」のイメージを越えています。

「樹齢300年 樹高6㍍を越えるものもある」ようです。

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もうすこし近づいてみましょう。

「落葉低木」に分類されていますが、「低木」(?_?)

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先日紹介した「ミツバツツジ」と同じで、冬には落葉します。

花が先に咲き、後から新緑の若葉が出てきます。

そういう意味では、少し遅すぎたようです(-_-;)


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「花も終わりにけり(^_^;)

花びらが大きな幹の下に、集められているように見えました。

5月20日前後が、一番の見頃だったようです。

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雄(オン)ツツジは、その樹形が男性的ということに由来と聞いていました。

この木を見て、なるほどなと納得できた一日でした。(^_^)/~

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四国徳島県の剣山に連なる次郎笈(1929㍍)です。

かつては剣を「太郎笈(ぎゅう)」と呼んでいたようです。

そういう意味では、弟分にあたるのがこの山です。

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スーパー林道側の登山口から芽吹き始めたブナ林を抜けると・・

新緑の山並みを背負って紅紫の花が咲いています。

近づいてみましょう。

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葉に先んじて花が開いています。

「トサノミツバツツジは紫色が濃く、ツルギミツバツツジは赤色が強い」

と以前教わったことを思い出します。

剣山周辺の高山に咲く希少種のツルギミツバツツジのようです。


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こちらは葉も出かけています。

枝先に輪生する3枚の葉が分かりますか?

これが「ミツバツツジ」の名前の由来だそうです。

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こちらは花も終わり、三つ葉が青空に背伸びしています。

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ブナの大木も若葉を空一杯に広げています。

新緑まっさかりの次郎笈でした。

コバノミツバツツジとの比較は、こちらをご覧ください。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/kobanomitsuba/kobamitsu.htm
岡山理科大学 植物生態研究室(波田研)のホームページです

東黒森山のアケボノツツジ
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先日、横峰寺から石鎚を「遙拝」していて、山が呼んでいる気がしてきました。

遍路を中断、手頃に稜線に立てる東黒森にやってきました。

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四国笹の稜線を歩いていると、ピンクの花が目に入ります。

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近づいてみます。

葉が出る前、花だけが風にゆらゆらしています。

あけぼのつつじのようです。

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五月の青空をバックに、風に揺られています。

枝にぶら下がってダンスをしているようで、見ていて飽きません。(*^_^*)

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まわりは芽吹きの瞬間

傾いた太陽の光を浴びて、若葉が行灯のように見えます。

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山の裾野から新緑が駆け上がっている。

そんな風に思えた東黒森山(1750㍍)でした。


アケボノツツジについて、詳しく知りたい方はこちらへどうぞ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/akebonotsutsuji/akebonotsutsuji.htm 
岡山理科大 植物生態研究室のHPです。

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