| 小説「小豆島恋叙情」目次 | |
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に織られた小説「小豆島恋叙情」 作者の鮠沢 満氏の好意で連載させていただきました。 その後も訪ねて読んでくださる方がいらっしゃるようで、大変喜んでいます。 読みやすくするために目次を作りました。 お読みいただき、ますます小豆島が好きになっていただければ幸いです。
第2話 天涯の寺 笠が滝 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19394691.html
第3話 涙の波止場 土庄港 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19414831.html
第4話 一枝のオリーブ http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19445409.html
第5話 夏至観音 洞雲山 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19506545.html
第6話 邂逅の石門洞 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19666017.html
第7話 残照の海 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19712837.html
第8話 星ヶ城 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19758333.html
第9話 漁り火の海 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19804948.html
第10話 夢小路恋酒場 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19995113.html
第11話 空谷の跫音 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20094222.html
第12話 西の瀧 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20323324.html
第13話 波と巻き貝 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20513856.html
第14話 老船 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20649585.html
第15話 虫送り 肥土山 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20757514.html
第16話 残念石 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21013046.html
第17話 春暖 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21110033.html
第18話 涙の海峡 どぶち海峡 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21615525.html
第19話 迷い恋 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21677098.html
エピローグ 夢の浮島 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/22287403.html
| エッセイ「想遠」(小豆島発夢工房通信) | |
第1話 刹那の寺 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/22642034.html長浜 長勝寺
第2話 海の森 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23062622.html島のサンセット・ビート
第3話 寒霞渓 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23144150.html
第4話 四方指 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23357606.html
第5話 岬の分教場 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23472088.html
第6話 消えゆく島 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23600757.html 木香の浜
第7話 廃船 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23653952.html
第8話 意石の館 段山 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24135894.html
第9話 渡し船 小江 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24256424.html
第10話 銚子渓 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24490596.html
第11話 重ね岩 小瀬 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24763521.html
第12話 迷路 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24989569.html迷路の街
第13話 憂悶の長城 三都半島 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25191906.html
第14話 海の道 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25510228.htmlエンジェルロード
第15話 美林 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25672160.html島の素麺
第16話 散るということ(前編) http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25954506.html
第17話 おわりに(愛する者へ) http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/26270092.html
| 随想 膝の上 | |
第2話 痕跡 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/29900701.html
第4話 誕生日プレゼント http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30049139.html
第6話 金木犀 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30089000.html
第7話 彼岸花 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30197408.html
第8話 かけうどん http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30248971.html
第10話 言葉を失うとき http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30321855.html
第11話 胸キューン話 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30376807.html
第12話 すっぱいみかん(前編) http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30409316.html
すっぱいみかん(後編) http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30431457.html


島影が暁光に蜃気楼のように浮かび上がる。
園子が目を開けた。
「そう、日が沈むように」
「だから鈴を鳴らし遍路道をゆくのね」
「天涯の寺をめざして」
「そして無に還る」
「そう。でも生きるということは、無の中に有を積み上げていく行為」
「仏様の掌に〈ありがとう〉を重ねることね」
「無は無であって無でない。だからその中にあっても夢を描くことができる」
「愛と慈悲を信じて」
「そう僕が君を信じてきたように」
島が砂州でつながろうとしている。
幸一は此方、園子は彼方。
「さあおいで」
幸一は待ちきれずに手を伸ばした。
園子が幸一の手を握る。
幸一は力強く園子の手を引いた。
園子は羽毛のようにふんわり宙を舞い、砂州を渡った。
「ずっと待っていたんだ」
「うん」
園子は、こっくり頷いた。
「園子」
「なあに」
幸一は園子の目を見て、ゆっくりと、しかし確かな自信をもってはっきりと言った。
「あ、い、し、て、る」
もしあなたがどこかに忘れ物をしたのであれば、
諦めないでもう一度探してみませんか。
どんな形の忘れ物だっていいのです。
○、△、□、凸、凹。色だって構わない。
○、●。
もう一度、その日に返って探してみましょう。
そう、夢の浮島こと、ここ小豆島で。
なぜって?
なぜなら、ここは天使が舞い降りる島。
〈了〉
*

誠は故意に回り道して歩いた。
気持ちの整理はできていたはずなのに……。
果たして琴美はいるのだろうか。
どこかに嫁ぎ、この小豆島にいない確率の方が高いのだ。
琴美がいると思いこんでいる誠の方がよほどおかしい。
狭い駐車場で子供たちが石蹴りをしていた。
子犬が彼らの足下にまとわりついている。
杖をついた老人がそばを通り過ぎた。
誠に目もくれなかった。
ただの通りすがりの一人に過ぎないのだ。
よそ者。
放哉記念館の前に出た。
かつてここに南郷庵があった。
得度した尾崎放哉の終の棲家となったところである。
誠は当時から放哉の生き方に一種の憧れのようなものを抱いていて、
よくここに足を運んだものだった。
==== 入れものがない両手で受ける ===
記念館から琴美の家が見えた。
でも遠い。
尾崎放哉。
大正の一茶と呼ばれる。
明治十八年(一八八五)一月二十日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)に生まれる。
本名秀雄。
鳥取中学、一高、東大を経て保険会社要職に就く。
大正十二年世を捨て京都一燈園に身を投じるものの、
後、寺を転々とし、自ら無一物の托鉢生活に入り、
大正十四年流浪の果て辿り着いたのが、ここ小豆島である。
自身自由律俳句を学んでいた住職宥玄和上のはからいで、
西光寺奥之院南郷庵を与えられ、終の棲家とした。
大正十四年八月から翌年四月七日までのことである。
その間、多くの秀句を残して孤高孤絶の生涯を閉じた。
最後は病死であった。
享年四十二歳。
辞世句は、
〈 春の山のうしろから烟が出だした 〉
である。
*
江洞窟(小豆島霊場第六十番)の中。
小さな宇宙の懐に抱かれているようだ。
静けさまで匂ってくる。
空気が針の先のように張り詰め、静寂を凝縮した氷みたいに冷ややかだ。
洞窟の奥には井戸があり、清水が湧いている。
多分そのせいだろう。
昔、船乗りがここに立ち寄り水を求めたと言われている。
すぐ外は海。波の音が聞こえてくる。
琴美の肌の匂いがする。
太陽の匂い。
静寂のるつぼ。
誠は琴美を引き寄せ、おとがいを上げた。
花びらのような小さな唇が薄く開かれた。
弁財天と不動明王が意識の中で遠ざかっていった。
*
PTA役員の一人が校長に電話をしてきた。
それが発端だった。
「教師が高校生をたぶらかした。
不道徳極まりない。許せない」
開口一番そう言った。
そして事はPTA役員と校長だけでは済まなくなった。
狭い土地柄、いらぬ枝葉が付いた。
震源地はその役員。果ては教育委員会に投書までした。
そして実質的糾弾に進展した。
そもそもの原因は、誠がそのPTA役員の息子の喫煙を発見、
生徒指導に報告したことにあった。
結果、生徒は停学。そのことを根に持っていたのだ。
実につまらないことをする。
大義名分さえない。
大人として恥ずかしい。
しかし往々にしてそういう輩が多い。
そしてそういう輩が幅をきかせている。
誠は琴美を愛していた。
女として。そして一個の人間として。
教師も一個の人間。生徒を愛することだってある。
人を愛することは理屈ではない。
理性も眠る。
道理も引っ込む。
在るのは、相手を想う気持ちだけ。
相手を自分の一部としたい。
互いを分かち合いたい。
互いの中に内在したい。
その渇望が炎となって燃え上がる。
誠と琴美の純粋な思いは、曇った水晶体しか持たない人間には理解されなかった。
波紋はどんどん大きくなって、誠は一年で転勤を余儀なくされた。
*
西光寺の三重の塔から町を眺めていた。
そばに琴美がいた。
石段を登ってくるときから無言を通している。
言うと涙が堰を切って溢れ出すのだろう。
目が充血していた。
横顔は悲しみに打ちひしがれ、溌剌とした琴美の顔は微塵もなかった。
暮色が土庄の町を静かに包み込もうとしていた。
だが優しさはない。
痛いほどの棘を含んでいた。
吐き出す息さえ固かった。
海は黒ずんで、波の襞も見えない。
海の底では、漁師の網に怯えた魚が、片目を開けて眠ろうとしていた。
目の前の釣り鐘が、慟哭を抱えてぶら下がっている。
その重さに形状が崩れ、打てば音さえたわむに違いなかった。
カラスの群れが、ねぐらに向かって羽音を立てて飛び去った。
静寂を破る羽音は、すりガラスを爪で掻いたようなおぞましさを置き去りにしていった。
すべてに空しいという予感があった。
町に灯が灯り始めていた。
一つ、また一つ。
家族の団欒が花開く。
小さな幸せ。
しかし誠と琴美には、その小さな幸せさえなかった。
「仕方ないわよ」
琴美がやっと口を開いた。
「仕方ない? 何が仕方ないもんか」
誠は声を震わせた。
はぐれカラスが一羽、嗄れた声で一声啼いて墓地の方へ飛んでいった。
墓地が沼の底のように暗く沈んでいた。そこに何かが蠢いているような気がした。
「転勤……でしょう」
「単なる転勤じゃない。転勤させられるんだ」
琴美は俯いていた。何かを言いたそうだ。
「一緒に来ないか」
誠は本気だった。
「……」
「何とか言えよ」
琴美の肩を大きく揺すった。
ようやく琴美が口に含んでいた言葉を声にした。
「こういう形ではダメ。逃げるようで」
誠は追われる如く島を去った。
誠二十三歳、琴美十八歳だった。
「えっ? 小豆島……ですか」
誠は思わずそう叫んでいた。
「単身赴任で不便な思いをさせるかもしれないが、三年辛抱してくれ給え」
校長は実に申し訳ないといった顔をしていた。
それは表面だけの繕いで、本音のところまでは分からなかった。
もともと気弱な性格のくせして見栄を張りたがる。
生一本で竹を割ったような性格の誠とは反りが合わなかった。
校長は困ったときにいつもそうするように、俯いて両の指先をもじもじやっていた。
だから彼の言った言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかなかった。
それより誠の脳裏をかすめたのは、これから赴任する学校のことではなく、迷路の町だった。
そこに一つの忘れ物をしてきた。
二十年前のことだ。
「気にしなくていいですよ。
人事というのはそういうもんでしょう。
お互い宮仕えの身ですからね。
それに随分ごたごたしましたからね。
当然でしょう」
誠は正直な気持ちを述べたまでのことだったが、
校長は素っ気ない言い方と最後の言葉を捨て台詞と見たらしい、眉根が少しつり上がった。
「私は何も厄介払いをしようとしているのではないよ。
誤解しないでくれ」
「いろいろお世話になりました。失礼します」
誠は慇懃無礼に思えるほど深々と頭を下げて校長室を出た。
迷いはなかった。
ついにその忘れ物を取りに行く日がきたというわけだ。
これも人生。避けては通れないと思っていた。
人にはそれぞれ運命みたいなものが当初からあるのではないか。
岐路に立ったとき、勿論自分で決めて進むのだけれど、
それもそうなるように決まっていたのではないか。
だからすべてに意味がある。
たとえどんな方向に進んだとしても意味がある、と。
誠は、ふとそんなことを思った。
何もかもがごちゃ混ぜになった迷路の町。
自分ではそこを抜け出していたと思いこんでいた。
が、実際は一歩たりともそこから出てはいなかったのだ。
二十年の間、道に迷った子羊よろしく同じところをぐるぐる回り続けていたに過ぎない。
時を忘れた未熟児。
栄養失調なのに化学肥料で身体だけ肥大化した大人。
だからもう一度そこに帰れ、そういうことらしい。
古びた町並みに三重の塔が手招きしていた。
「言っとくが、くれぐれも道に迷うんじゃないよ。
目印は分かっているな。
赤い屋根だ」
篠突くような雨が上がって、青空が顔を出した。
狭い路地に割って入った陽光が、心地よい陰影をこさえている。
木々の滴るような緑が路面に散っており、飼い猫が水溜まりに映った緑を舌先で舐めていた。
五月の日曜日。
遅い午後。
にわか雨が舞い戻ってくるとでも思っているのか、路地にはまだ人の姿はない。
お寺の少しくぐもったような鐘の響きが、
甍の上に昼寝を決め込んだ雨の滴をふるい落としにかかっていた。
雨の匂いをかすめ取ったやや冷ややかな風が、
壁づたいに小走りに駆け抜けると、陽炎のような水蒸気が舞い立った。
誠はやや動悸が高まっているのを意識せずにはおれなかった。
赴任早々行動に移すべきだったが、やはり忸怩たるものがあって、
ついつい今日まで延ばしてしまった。
憶病という名の背信。
償いは一秒でも早いに越したことはない。
コールタールがはげ落ちた板塀の家の角を曲がると、
小豆島霊場第五十八番西光寺の「四恩の門」と呼ばれる朱塗りの門が目に飛び込んできた。
仕舞屋を思わせる家の連なりのくすんだ色合いから、目が覚めるような鮮やかな朱への転換は、
自分が歩いているのが紛れもなく現実世界であることを示唆すると同時に、
すぐ目と鼻の先に「牙をむいたまま色褪せない過去」が
鎮座していることを意識させずにはおかなかった。
門をくぐり寺の中に入った。公孫樹が大枝を広げている。木陰が涼しそうだ。
背後にこれまた朱塗りの三重の塔が見える。
公孫樹の手前に「心洗」と彫られた手洗いがあった。
手を洗って、心も洗う。
誠にとっては少し身につまされる思いだった。
公孫樹は樹齢何百年という大木で、胴回りも太く、木肌がごつごつとしていて威厳を発していた。
その根元に句碑があった。
咳をしても一人
詠み手は、漂泊の詩人尾崎放哉。
横には放哉の墓参に訪れた種田山頭火の句も刻まれている。
誠は本堂に行き、千手観世音に手を合わせた。
それでも気持ちは落ち着かなかった。
むしろ上げ潮のようにどんどん高くなっていくばかりだった。
本堂右の石段を噛みしめるように登っていった。
あのときもこうして石段を登った。二人して。
息は乱れていたが、お互いせめてもの気持ちだけでも合わせようとしていた。
それが最後の思いやりに思えた。石段が尽きればすべてが尽きる。
そうならないことを何度祈ったことか。
三重の塔から眺める風景は当時のままだった。
古い家並みが肩を寄せ合いひしめき合っていた。
刻まれた時がそのまま古ぼけた波形になって甍に残っている。
煤けた思い出を枕に化石のように眠る町。
それでもかつてここに無垢で真っ直ぐな夢を馳せたことがあった。
真下に誠の勤める学校が見える。
テニスコートから部活動に励む生徒の元気な声が、甍の波に乗って伝わってきた。
胸の奥に小さな痛みが走った。
まだ気にしているのか? もう時効だよ。傷は完全にふさがったはずだが……。
どこからともなく声が聞こえてきた。
そしてある情景が浮かんだ。
降り注ぐ太陽。
真っ白なテニスウェア。
飛び散る汗。
真っ白な歯を見せて笑う少女。
すべてが清く、澄んでいたあの頃。
シミ一つなかった青春の日々。
翳りを創造する皺一つなかった情熱の時代。
新米教師で、教えるということに純粋に喜びと充実感を味わっていた。
憧憬を割るように、焦げたような潮の匂いが漂ってきた。
誠は海の方に目を転じた。
王子東港に繋がれた漁船の群れが見える。
波にもまれ漁船同士が擦れ合う音が聞こえてきそうだ。
カモメが青空に落書きするように群れ飛んでいる。
包丁の刃みたいに海に突き出した三都半島。弛緩した空気にブスリと突き刺さっている。
半島を舐める青い海。
赤と白に塗られた貨物船が、音もなく滑ってゆく。
あの日と同じだ。
胸の奥に翳りができた。
鉛のように重くて濃い翳り。
肺病患者の肺の中のようだ。
尾崎放哉の記念館がある辺りに視線を移した。
最後にそこを見たのには、それなりの理由があった。
見た目には二十年前と変わった様子はない。
あくまで表面上のことだが……。
実際には多くのことが変わった。
誠自身にしても、二十年という歳月を考えると、いろんなことがあった。
二十年という歳月は、いろんなことがあってしかるべき年月なのだ。
しかしその中に、敢えて目を背けてきた一つの記憶があった。
今考えるに、それはあの日以来、形を変えることもなければ色褪せることもなく、
じっと誠の中に癌みたいに巣くって居座ってきた。
いや、別の言い方をすれば、この迷路の町にかもしれない。
時間という万能薬は、果たして誠の傷付いた心を癒したことは事実であるが、
それでも記憶は葬り去られることをきらい、逆に誠にそのことを忘れさすまいとするかのように、
間断的にではあるが怒りを吹き上げては傷口を逆撫でし、
その疼きを刷り込んでは支配力を継続的なものにしようとしてきた。
黴臭い砂に半分以上埋もれかかった古い記憶を、今さらスコップで掘り起こしてどうなるという。
癒えたと思い込んできた傷。
それならそう思い続ける方が楽ではないか。
蒸し返すことは、決して罪滅ぼしにはなりはしない。
むしろまた傷を大きくするだけだ。
誠はじっと見入っていた。目に赤い屋根が映っていた。
急に瞼の裏が熱くなり、赤色が崩れ、にじんだ。
「琴美」
誠は久し振りにその名を口にした。
こ、と、み。
三文字が風に流れ、迷路に吸い込まれていった。
男は海峡のこちら側から叫んだ。
「愛している。だから今そっちに行く」
女は海峡の向こう側から叫んだ。
「私も大好きよ。でも渡し船がないの」
男と女の間には、この狭いが深い海峡が横たわっている。
ときとして男も女もこの海峡をどうしても越えられないときがある。
そのとき男も女も人知れず涙を流す。
海峡はその涙を集め、瀬戸の内海へと運ぶ。
だから瀬戸の海は涙が溶けている分、たおやかで温かい。
晴美は九十九折りの山道を灯台目指して車を走らせていた。
進行方向左手に海が広がっていた。白い波が、これまた眩しいばかりの白い砂浜に打ち寄せていた。
誰もいない。貨物船が我がもの顔に通り過ぎていく。
後方に残された曳航の白い軌跡が、老爺の白髭に見える。
所々で鶯が啼いているが、子供の鶯らしく啼き方がまだぎこちない。
晴美は久し振りに口元を緩めた。
カーブを曲がったとき、助手席に置いてあったハンドバッグが落ちそうになった。
スピードを落とし、左手でそれをぐいと押さえた。
まるで見知らぬ手がどこからともなく伸びてきて、それを奪い去るのを恐れてでもいるかのように。
武春の墓は地蔵崎灯台と備讃瀬戸が一望できる山の縁に建っていた。
墓石はまだ新しく、故人の生前の行為を飾り立てるまで古色蒼然とはしていなかった。
歳月が流れ、やがて故人が生きていたことも、ほとんど誰の記憶にも登らなくなると、はじめて墓らしくなるのだろう。
風が吹き上げてくる。それに乗って波の音が、途切れ途切れに運ばれてくる。
五剣山と屋島が春の霞に透かし彫りされている。
晴美は線香と花を供えた。
「人間ってあっけないものね。
これで本当に独りになっちゃった。言ってくれればよかったのに。
神戸に転勤したのがいけなかったのね。
まともな食事もろくすっぽ摂らずに、仕事ばかりしていたんでしょう。
それに煙草。超ヘビースモーカー。
肺も悪くなって当たり前。ときどき咳き込んでたから、おかしいとは思っていたの。
でもお互い睨み合ってたから……。妻として失格ね。母にもなれなかったし……。
いっぱいいっぱい謝ることがあるの。今さら言っても仕方ないけど、ご免ね。
私が手紙受け取ったときには、あなたはもうなにもかも覚悟ができていたのね」
晴美は少し傾いた線香を直した。
「でも嬉しかった。あなた許してくれたもんね。
あなたは一生私を憎み続けるだろうなって思っていたの。
私もあなたの気持ちを理解しながらも背中向けていた。
我が儘で意地っ張りの武春、なんてね。
私、救われたわ。手紙の最後の一言で」
晴美は両の手を合わせた。
「プロポーズのとき言われたきりね。あのときの言葉、今でも宝石箱にしまってあるのよ」
真珠の粒が頬を伝った。
「愛してる、か。やっぱりいい言葉ね。
今度は宝石箱なんかにしまわずに、ちゃんと胸に付けとくわ。
干からびないようにね」
風が肩で切りそろえた晴美の直毛を掻き上げていった。シャンプーの甘い匂いを攪拌した。
鶯が啼いている。
でも小一時間くらいでは進歩がなかったようだ。
やっぱり啼き方は下手くそだった。
「私、ハンコ押さなかったよ」
そう言うと、晴美はハンドバッグから一枚の紙を取り出した。
武春が死ぬ一週間前、手紙とともに晴美に送りつけてきた離婚届だった。
独り身になってもう一度出直せということだった。
「誰がこんなものにハンコなんか押すもんですか」
晴美は離婚届をもうこれ以上ないくらい小さく破った。まるで罪滅ぼしのように。
晴美は小さくなった紙片を両手に包み込むと、もう一度言った。
「ご免ね。あなたの最後の言葉、これからはちゃんとブローチにして胸に付けとくわ」
それから晴美の髪にまとわりつこうとする気まぐれな風に、これあげるわ、と言って両手を大きく空にかざし、パッと開いた。
紙吹雪が綿帽子になって舞った。
蘇芳色の過去が後方に飛び去っていく。癒やしがたいすべてのものが、どんどん小さくなっていく。
そして最後には空の青に吸い込まれて消えていった。
鶯が啼いた。やっぱり下手くそだ。でも許せる。今ならすべてを。
「無」。
武春の墓碑銘である。
生きることは、無。
しかし、無の中に有を積み上げていく行為こそ生きるということである。
自分を灯明とせよ。
武春はそう晴美に言いたかったに違いない。
晴美は、うん、と頷き、勢いよく立ち上がった。
「私、これから清滝山へ行ってみる」
灯台が、よくやった、と快哉を叫んでいた。
ホー法華経! 鶯が啼いた。
うん、随分うまくなった。その調子だ!
晴美は二年くらい前、一度出産した。
しかし赤ん坊は早産ですぐ息を引き取った。もしかすると、死産だったのかもしれない。
というのも、産まれたとき赤ん坊の泣き声がしなかったからである。一週間ばかり入院して家に帰った。
そのとき武春が言葉を濁しながら晴美に事の次第を説明した。
が、それがすべてでないことはすぐに分かった。
武春が慎重に言葉を選んで、おまけに彼の財産ともいえる実直さを隠せないまま、しどろもどろで説明したからである。これまで何度も子宮が異常を訴えた。
が、副作用を代償にした良薬のお陰で事なきを得てきた。
ただ子供の発育に関しては、医者としてはやるだけのことはした、しかし百パーセントの信頼を寄せることはできない、と言われていた。換言すれば、何かあってもそれはあなたの過失によるものですよ、と予防線を張ったのである。
結局、武春は子供を失ったことに落胆し、晴美はそのことに加え、子宮を持ちながらも健康な子供を産めない身の上を悲しく思った。
そのときなぜか「石女」という言葉が浮かんだ。だから今度も晴美は恐れた。
「やっぱり駄目です」
「ご主人と相談なさってはどうですか。まだ時間は十分ありますから」
堕ろすまでにはまだ十分時間があるとでも言いたいのか。医者という職業は、肉体的処置さえしておけば、患者が抱える心理的・精神的な苦痛を度外視して行える仕事なんだろうか。
純白の白衣に身を包んだ目の前の医者が急に空恐ろしく思え、悪阻に似た吐き気さえ覚えた。
医者の助言にも拘わらず、数日後、晴美は決断を実行に移した。
術後、躯は鉛を埋め込まれたように重く、自分のものとは思えなかった。
それよりやはり精神的な呵責の方が大きかった。
ほんの数時間前まで自分の胎内で鼓動していたもう一つ
の命がなくなったのだ。晴美は、これで自分は完全に母性を失った、と思った。
女に戻れても、母にはなれない。
それでも悲しい女の性か、下腹部に諦めがたい愛情の袋が宿っているのをはっきり感じざるを得なかった。
晴美は確かめるように、もう一度手の平でお腹をさすってみた。
やはりつい先ほどまでそこにあった温もりがない。
あるのは石のように固くて冷たい不毛の肉の塊。
自分の躯が急速に滋養を失い、しぼんで、そして老いてゆくのを感じた。
晴美に襲いかかった喪失感は底知れないものがあった。
自分の躯を自分のものと同一視できないもどかしさ。
他の女と同じように我が子を抱きしめることができない空しさ。
自分が下した結論ではあったが、やはり女であると同時に一時的であれ母親だった自分にしか分からない無念さ。
それまで後生大事に抱いていた未来を見据えた希望は背を向けて遠ざかり、下腹部にはどす黒い慚愧の苦汁にまみれた掻き傷と、言い様のない喪失感だけが残っていた。
晴美は傷付いた躯を抱きかかえるようにして病院を出た。
外には晴美の癒されない傷とは無関係に、何食わぬ顔で昨日の続きがあった。
餌をもらおうと足にまとわりついてきた野良犬。
右足にギブスが入っているのに、院外では松葉杖も使わず散歩する初老の男。
帰ってこない患者を待つ霊柩車に似たタクシーの群れ。
煙草を吸うのを日傘で隠す女。
どれも手術前と同じで、奥行きがなく平板そのものだった。
無機質な上に無味乾燥。それに無意味。
夏だというのに、晴美は寒さで震えていた。
さらに強く両手で自分を抱きしめ、凍えそうな胸を温めた。
いくら温めても、胸に質量に富んだ暖かみは戻ってこなかった。
晴美は空を見上げた。別に空が見たかったわけではない。両手に赤ん坊を抱いた女と自分を比べ、
自分は何かに負けたんだ、という敗北の涙を流したくなかっただけだ。
夏の太陽は容赦なく晴美を打ち据えた。手を貸すものは誰一人いない。
人は結局はいつも独り。
生まれるときも、死ぬときも。
誰にも言えない秘密を持った罪悪感が、晴美の両肩にずっしりのしかかっていた。
迂闊だった。産婦人科医院の名前のある薬袋を食器棚の奥にしまうのを忘れていた。
洗濯物を干して、肩で息しながら部屋に戻ると、武春がじっとこちらを睨んでいた。
その表情からして明らかに怒っていた。
結局は白状してしまった。
*
「神戸に単身赴任だ」
「会社が決めたの」
武春はすぐに返事ができなかった。しばらく置いて、
「半分は会社、半分は俺の考えだ」
理由は訊かなくても分かっていた。
「何年くらいで帰れるの」
晴美にしてみれば何年でも同じだった。ただそう訊く以外、その場のふやけた空気を取り繕う言葉がなか
っただけである。
「最低三年だな」
「お互いにその方がいいかもしれないわね」
どんな会話を交わしても、二人が行き着く先は決まっている。だから自然と投げやりな言い方になってし
まう。
「その間、じっくり考えてみたい」
「そうやって私を責めるのね」
「そうじゃない。お前がもう少し素直になれば……」
「責任はすべて私なのね。私が、ご免なさい、と謝ればいいのね」
もうそれ以上言っても仕方ないと思ったのか、二人とも次の言葉を構築しようとはしなかった。
お互い相手のことを心底憎んではいない。いや、むしろ気遣っていたくらいだ。
なのに口から飛び出す言葉は、封印しておきたい言葉ばかりで、相手を思いやる言葉はいつも気弱で、
たとえ喉元までたどり着いたとしても必ずブレーキがかかって立ち往生してしまう。
行こうか行くまいか迷ってぐずぐずしているうちに、後から駆け込んできた礼儀知らずの連中に先を越さ
れてしまうのだった。
こんな不甲斐なさが歯痒く、自分たちの卑小さに嫌気がさすことがあった。
しかし、最後の一言だけは、どちらも口にしなかった。それを言うと、あらゆるものが本当にお終いにな
ってしまう、そんな不安を互いに抱えていたからである。
白い髭を伸ばした住職が、武春の肩越しに語りかけてくる。
決して説教的な響きがないのが嬉しかった。
住職の嗄れた声が岩室に微妙な震動を伝える。
「精一杯生きたらこれまで私が犯してきた罪は消えるのでしょうか」
「消えはしないが、仏に祈って懺悔し、そして精進することで人の心は救われる」
「賢くなれと」
「そう。そのためには、一人でも生きられるよう、自らを灯明にすることを学ぶことだ」
「自らを灯明にする」
「そう。他人の助けを必要とせず、自らの力で生きることじゃ。
それとこれはなかなか難しいが、他人の幸せを自らの幸せとすることじゃ」
「他人の幸せを自らの幸せに」
「言うは易しい。
しかしいざやってみるとなると、天上遙か彼方に明滅する星をつかむに等しい。
これができたら仏様に一歩近づいたことになる。
かく言う私もそれができないでいる。
毎日懺悔の日々を送っている」
「ご住職様でも」
「そう。まさに凡夫じゃな。
迷いが多い。
しがらみばかりじゃ、この世は」
「手始めに何からすればいいのでしょうか」
「許すことじゃな」
「許す?」
「そう。許すんじゃ。
あらゆることを。
あなたの周りの者も、自分のことも。本来は無。
何もないのじゃ。だから生きることも無の中にある。
無の宇宙。悟りはその無に在り」
「無ですか」
「つまりは欲を捨てろということかのう。
無だから無為というのではない。
誤解してはいけない。
生きるということは、無の中に有を積み上げていく行為に他ならない。
よって生きるという行為は、時間の長短で評価されるものではない。
いかに生きるかが問われる。
罪を重ねて生きることは、生きていても死んだに等しい。
高潔に生きて死んだとしても、生き続けることができる。
そのためには、与えられ許された生命の限り、強く、熱く生きることじゃ。
ときには他者のことを思いながら」
「他者を思いながら」
武春の声がぽつり膝の上に落ちた。
その上に置かれた両の手が心持ち震えていた。
隙間風もないのに、ロウソクの炎が線香の匂いを焦がして揺らめいている。
焦がされた香の微粒子が、クルミの殻に閉じこめられたような静寂の隙間に漂っていた。
これまで長い年月をかけて岩間にしみ込んだ空気が、岩室全体から冷ややかに匂ってくる。
そればかりではない。
惻々と全身に伝わってくるのだ。
武春はこの濾過された空気の鋭利さに、
菜の花のねっとりとした匂いを嗅いだときそうしたように咳き込んでしまった。
手が朱に染まっていた。
武春は、はっとなり、悟った。
時は人を待たない。
毎日を一期一会に生きる。
生きるというのは、時間の長短ではない。
住職の言葉が思い出された。
武春は慈悲窟と呼ばれる本堂の地蔵菩薩に手を合わせた。
大きく枝を広げた公孫樹の木が、
岩窟に嵌め込まれた窓に無理矢理切り取られた恰好で収まっていた。
左手には沈黙がそのまま形になったような梵鐘が、
つるし柿よろしくぶら下がっており、
ひずんだ楕円形の影を手水鉢の腹に投げかけていた。
その先に内海湾がうっすらけぶって見える。
本尊に手を合わせて祈っていると、躯がフィルターにかけられたように、
ゆっくり清められていく思いがした。
不思議な気分だった。
これまで経験したことのない法悦感が細胞の一つひとつを満たしていく。
茫漠としていたはずの脳裏の風景でさえ、新たな輪郭を確保し始めていた。
「すべてを許す、か。
所詮は無。限りなく無に生きる。
そしてそれを喜びとせよ」
住職の最後の言葉を繰り返してみた。
ザーと何かが鳴った。
この寺に住みついた言霊の仕業か。
それとも単に断崖を掃き降ろす風の音か?
晴れ間が急速な勢いで狭められ、しばらくすると激しい雨のつぶてが落ちてきた。
境内の木々は瞬く間に濡れ、乾いた緑が滴るような緑に早変わりした。
葉の縁に少し顔を覗かせていた初夏の彩りが、
慌てて頭をすぼめどこかに雨宿りに行ってしまった。
しかし、その雨も武春の決心がいかほどのもかを試していたかのように瞬時の勢いに過ぎず、
やがて雲が割れ、その裂け目から光の束が落ちてきた。
見上げると、醒めた目つきで武春を見下ろすごつごつとした岩肌に、
出来立ての青空がへばり付いていた。
この切り立った崖をよじ登ってこそ、物の哀れが分かるというものだ。
そして人を許すことができる。そう思わんか?
それともそうする自信がないとでも?
小豆島霊場第十四番、清滝山。
読んで名のとおり、清い滝があったのだろう。
今はそれほどの水量はないものの、泉は枯れることなくこんこんと湧き出ている。
本殿は慈悲窟と呼ばれ、地蔵菩薩を安置している。
他の多くの小豆島霊場と同じように、修験者の行場として始まった。
本殿左には岩を穿ってこしらえた洞穴の桟閣がある。
祭壇に不動明王が奉られている。
小豆島霊場の中で最高峰に位置している。
背後の屏風岩は、山伏をも跳ね返すほど険しい。
まさにばっさりと垂直に切り落とされている。
この峻烈無比な懸崖を人生に譬え、苦難苦行したに違いない。
困難を乗り越えることによって始めて悟りを開き、
この世の森羅万象あらゆるものを慈悲でもって受け入れることができる。
境内に佇んでいるだけで、身も心も洗われる思いがする。
男は無数のひびが入った陶器そのものだった。
そこに音がしみ込んでいった。
男は、癒されていく、と感じた。
と同時に、これまでの自分がいかに愚かであったか、犯した罪がいかに重かったか知った。
男の前を白装束に菅笠をかぶった遍路姿の一団が、念仏を唱えながら通り過ぎていったのだ。
足下に咲いた蓮華が、納得したように春風に小気味よく頭を揺らし、彼らを見送っていた。
同行二人、か。
口からリンゴの種がこぼれるような口吻だった。
黄一色に塗り込められた菜の花の照り返しに炙られ、
空気はまどろむような微熱を帯びていた。
そのまどろみの中で、誘惑するように肢体を揺らめかせながら白い蝶が一つ二つ舞っていた。
まさか遠ざかる鈴の音の残響が……?
そんなはずない。
男は頭を振った。
だが、思い直して蝶の舞姿を追ってみたが、窈窕とした姿はすでになかった。
花の海の向こうに、もう一つの海が広がっているばかりだった。
冬の噛むような冷たさから解放された瀬戸の海は、
かじかんだ手足を時間をかけてゆっくり解きほぐし、
未練がましく張り付いている冬の名残のひとかけらを、
えい、と掛け声もろとも弾き飛ばした後のような爽快感を漂わせていた。
緩やかに蛇行した潮目が、午後の白っぽい日差しの中にたゆたっていた。
男はその絹を思わせる柔肌に、そっと身を任せたい衝動に駆られた。
気休めと分かっていても、少なくとも胸の内を掻き破る苦しみだけでも、
やんわり包み込んでくれそうな気がしたからである。
俺は弱すぎる。
男の弱音をなじるみたいに、塩気混じりの春風が男の横顔をはたいていった。
それでも男は、男としての矜恃だけは捨てないぞ、
とばかりに真っ直ぐ海を睨み、凪にひそむ波の群れの激しさを手繰り寄せて、
自分の下した決断の正しさを飾ろうとしているように思えた。
男は大きく息を吸い込んで、花々の甘酸っぱい熟した匂いと、
萌え立つ若葉の青っぽい羞恥の匂いを、肺の奥に巡らせてみた。
しかし、相反する二つの空気は乱気流となって、男をむせ返らせてしまった。
男は激しく咳き込んだ。
肺を針で突かれたような痛みが走り、胸を両手で強く押さえたままその場にうずくまってしまった。
背を丸め息を殺してしばらくそうしていると、やがて痛みは和らいでいった。
漁師の見習いを始めて一年。
潮風ごときに咳き込むようじゃ、まだまだ修行が足りんな。
「兄貴、すまない。世話になる」
「親父とお袋だって、口には出さないが内心は喜んでいるんだ。
俺には分かる。
二人ともこの頃めっきりふけこんじまったからな。
形はどうあれお前が帰ってきたことは、
親としてはうれしいに違いない。
その証拠に親父は今朝早く海に出たよ」
「海に?」
「お前に食わすんだと言って、春一番の鯛を釣りに行ったよ」
「この俺のために鯛を?」
父親は感情をあまり表に出さない寡黙な漁師だった。
それに実直だが往々にして愚直。
これが男の記憶にある父親であった。
漁船の舳先にへばり付くようにして小魚を相手にしている父親が、
ネクタイを締めスーツに身を包んで会社勤めをするクラスメートの父親に比べ、
どこかみすぼらしく、卑屈そうに見えた。
魚を捕るだけしか生活の知恵を持たない父親。
無学でろくすっぽ読み書きさえできなかった。
小学生の頃、教科書の読み方を教えてくれるよう言ったら、
海に湧き上がった嵐みたいに急に不機嫌になった。
漁師に読み書きはいらない、と言ったそのときの怒った顔を今でも忘れていない。
空を見、海の色を読んで、どこに魚がひそんでいるか探し出す嗅覚は天才的で、
どの漁師にも負けなかった。
しかし、いつも貧乏だった。
遊ぶ金も無聊を慰める金も持たなかった。
魚の臭いのしみ付いた、くたびれた作業服に押し込められた肉体だけの男。
太陽と潮に焼かれる単調な毎日。
それに飽きもせず、それを疑いもせず、ただ日課としてそれを受け入れて過ごすことが
漁師の勲章と信じて疑わなかった男。
男はそんな父親を、どこかつまらないちっぽけな人間として軽蔑していたところがあった。
「くだらんことを訊くが、本当に漁師になるつもりか」
兄がもう一度訊いた。
「ああ。決めたんだ」
「サラリーマン根性じゃ務まらねえ。辛いぜ」
「分かってる。
ドン底の生活を強いられるかもしれないが、それでもいいと思っている。
この際自分をしっかり見つめたいんだ。
もう失うものは何もない」
「ならいい」
兄はもうそれ以上言わなかった。
「小豆島へ帰ることにした」
武春は躊躇しながらも、他にいい手段がないんだといった面持ちで言った。
晴美に会うのは三日ぶりだった。
晴美は「そう」と生返事をしただけで、別段驚いた様子も見せなかった。
こうなることは随分前から分かっていた、
と言わんばかりの冷ややかな態度である。
二人の間に冷たい空気が流れ込む。
それもそのはず、晴美にとってはこの三年間、
実質的には別居生活を強いられてきたからである。
それも武春からの一方的な別居宣言といってよかった。
「一緒に来ないか。お前さえよければもう一度やり直してもいい」
喋り方と声に晴美にイエスの返答を期待するだけの執拗さと熱意が感じられなかった。
一応形式的ではあるが最後のオプションだけは提示した、決めるのはお前だ、
と手順を踏んだことで責任は果たしたと言わんばかりの男の傲岸さがあった。
男って勝手。
この三年間、私がどんな思いで暮らしてきたか、分かるはずないわ。
晴美はそう言いたいに違いない。
武春に半分背を向けた姿勢がそのことを物語っていた。
晴美は洗濯物を静かに畳んでいる。
返事はない。
ただおざなりではあっても武春の誘いが意外だったのか、
ちらっと目の隅で武春の煮え切らない横顔を捉えたが、
それに気付かれないようにすぐさま洗濯物に注意を戻すと、
先ほどよりもっと堅牢な沈黙で身を固め手を動かし続けた。
どこの歴史資料館にも置いてあるマネキンみたいだ。
動きが機械的で感情が枯渇していた。
まさに化石人間演ずる無言劇。
しかしその無言はどこまでも深く、辛辣で、武春が最後のオプションを提示したのと同じように、
晴美も置かれた状況はどうであれ、これまでまがりなりにも妻としての責任は果たしてきたつもであると抗議していた。
武春は、晴美の答えが十分すぎるほど分かっていたはずなのに、
まだ晴美に未練を残しているような言い方をしたことと、
自分の人間的弱さからつい偽善とも取られかねない優しさを示唆したことを悔いた。
「すまなかった。忘れてくれ」
口の中が乾いて、言葉が口腔内に引っ掛かりそうになった。
晴美は貝のように口を閉ざしたまま、やはり一言も言わない。
人生をやり直すなんて、そんな簡単なことじゃないのよ。
あなたは何にも分かっちゃいない。
そう顔に書いてあった。
黙りこくった晴美の怒りも尤もだと思う。
武春自身も自分がどんなに虫のいいことを言っているか、百も承知していた。
三年間放っておいて、今度は島に帰るときた。
いくら気の長い晴美でも頭にくるはずだ。
洗濯物を畳み終えると、晴美は箪笥から武春のワイシャツを取り出してきて、
アイロン台の上に置いた。
アイロンが熱くなるまでの間、二人とも気まずい思いをした。
アイロンがどんどん熱くなるのに、二人の関係は氷室の中みたいに冷え冷えとしていた。
アイロンのランプが時間切れを知らすみたいに点滅している。
その点滅が消えると、晴美はアイロンをワイシャツに走らせた。
近々離婚するかもしれない男のワイシャツにアイロンがけをする女。
いったいどういうつもりなんだ。
愛情が切れてしまった男のワイシャツの皺を伸ばすことが、
自分たちに生じた瑕疵の皺をも伸ばすことにつながるとで思っているのだろうか。
まったくもって晴美の気持ちが読めなかった。
晴美はもしかすると、武春のそういう気の利かない直線的な実直さに腹を立てているのかもしれなかった。
晴美は仕上がったワイシャツを、ポンと武春の膝元に投げて寄こした。
これであなたへの最後のご奉公も終わり。
まさにそういう意味らしい。
「みっともないからそれ着て出て行って。
しみったれと思われるの厭なの。
それに狭い島のことだもの、ワイシャツの皺一つで夫婦仲の良し悪しが噂になる。
そうなったらあんたみじめじゃない」
「いずれは分かることだ」
「そうね。最初は根掘り葉掘り奥さんのこと訊くでしょうけど、
なるほどそういうことだったのか、と納得したら公然のタブーになる」
武春は晴美の元を去った。
一日の仕事を終えた太陽が、帰り支度を済ませ、
茜色の大輪になって水平線に引っ掛かっている。
入道雲に取り付いた毒々しいまでの朱の色が、
にじみ出す寂寥の重さに堪えられなくなって港に落ちていた。
石組みの防波堤とそこに築かれた灯台が赤く染まっている。
女は灯台とは反対の残念石を並べたもう一つの防波堤の突端にいた。
今度積み出されるとしたら、真っ先に運び込まれるはずの残念石の上に、
しなだれかかるようにして座っていた。
女は半袖の白いワンピースを着ていた。
裾からそれと同じくらい白い足が覗いている。
遠目にもどきっとするほど艶めかしい。
髪はまさに烏の濡れ羽色で黒くしなやか、
そしてこれまで一度もハサミを入れたことがないほど長かった。
女は波打つ髪を束ねておらず、腰の辺りまで流れるがままにしていた。
ときどき海風が誘惑するみたいに梳きあげていくが、
そのたびに髪にまぶされた朱の鱗粉が海面にこぼれ落ちた。
そして一瞬ではあるが、水面にパッと花火を咲かせた。
女は外海の方に向き、何かに取り憑かれたように、じっと一点を見つめていた。
が、視線はゆるやかにうねる波の背に浮いた残照と同じように頼りなく、完全に拡散していた。
外海から誰かが帰ってくるのを待っているのか、それとも迎えにくるのだろうか。
潮は満ちていた。
その上穏やかで、なめした皮のようにすべすべしていた。
女は子守歌を口ずさみ始めた。
細くて泣き出しそうな声が、次第に濃くなる夕闇に押し潰されそうだ。
昼間の暑さを残した空気が気だるそうに震え、
防波堤に囲まれた港の中を迷い子のように彷徨った。
明らかに女は待っていた。
そのときが来るのを。
「美紀、もう家に帰っておいで」
母親らしい女が家並みの間から叫んだ。
甍が低く、海の続きのように見えた。
海辺に近いというのに、どこかでヒグラシが鳴いていた。
ヒュッヒュッヒュッ。
女の声に似ている。
か細く、途切れそうな声。
いや、女の声だったのかもしれない。
女が子守歌を唄い終えた。
そしてうっすら笑った。
どんよりとしていた目に、閃光に似た光が浮いた。
「敏樹が帰ってきた。
私を迎えに。
ほら、あそこ。
わたし、明日花嫁になるの」
女が指さす方を見ると、空と海が混ざり合って底知れぬ深さを湛え、
どこまでが空でどこまでが海か判然としなかった。
弛緩した空気は、その下にあるものすべてに覆い被さり、
有無を言わさず飲み込もうとしていた。
海はもうどっぷりと暮れかかっていた。
背後から迫り来る濃紺の闇を感じる。
目を凝らすと、確かに舟影が見えた。
いや見えたような気がした。
「確かに一隻の舟が見えるね」
そう言いたくなって、女を見た。
しかし、女はいなかった。
もう一度薄闇を掻き分けるようにして防波堤の突端を凝視した。
やはり女はいなかった。
ただ、女が座っていた一番早く積み込まれるはずの残念石が、
鬼灯のようにほんのり明るく灯っていた。
確かに誰かが迎えに来たらしい。
丁場のあった山の方に、狐火が見えた。
*
1583年、石山本願寺跡に一つの城が築かれた。
「天下無双」と謳われた大坂城である。
城主は、豊臣秀吉。
この大坂城は1620年から十年かけて大改修が行われた。
その際、多くの石が陸路及び海路を経て大坂に運ばれた。
ここ小豆島は良質の花崗岩を産すること、
また、海路という運搬に適した立地条件にあったことで、
多くの丁場がつくられ、石が切り出された。
切り出された石は、美しい小豆島を離れ、
恐らくは大きな城の石垣になるという晴れがましいロマンを胸に、
大坂へと運ばれていったのに違いない。
多くの丁場のなかでも、小海の丁場は隆盛を極め、切り出された石の数は定かではない。
しかし、切り出されながらも積み出されず残された石は、
大坂に行けずに「残念」ということから「残念石」と呼ばれているが、
この残念石が小海浜に四百個ほど残されていたというから、相当数に登ったことは間違いない。
他の丁場から切り出された石も合わせると、その数たるや驚くべきものになる。
一つの残念石の大きさは、約九十センチ角、長さ二メートル、重さ約五トン。
現在のように高度な運搬技術と重機が発達していない時代のこと、
石切、運搬、舟への積み込み等、すべて人力に頼るしかなく、
苦役を強いられた人の数、そして不幸にも命を落とした石切職人の数、
それら諸々のことを思うと、残念石に込められた〈残念〉は、
漢字二文字に凝縮されるべきものではない。
事実、小豆島町岩ヶ谷には、天狗岩、豆腐岩などの丁場が残されており、
矢孔や刻印のある巨石があるが、なかでも八人石と呼ばれる残石は、
運搬中にぱっくり石が二つに割れ、八人の石切職人が下敷きとなって命を落としたとされている。
現在、〈八人石〉として残されているが、その惨事を思うにつけ心が痛む。
小海の港には、現在、四十個の残念石を明治15年国より払い下げてもらい、
記念石として防波堤の上に並べている。
残念石は、大坂に行く日を、今か、今か、と四百年もの間待ち続けてきた。
これからもまたそうであろう。
まるで離ればなれになった家族、又は恋人を待つように。
ちょうど女がそうしていたように。




































哲夫はその後も店に通い続けた。
そんな哲夫の一途な思い入れが功を奏したのか、リンはときどき店以外でも哲夫と会うようになった。
哲夫は人目を避けながらもリンと会うとき、気分はいつも雲の上を歩いているようだった。
哲夫にしてみれば、店の客とホステスとはいえ、恋だった。
それも生まれて初めての恋。
もう誰にも止められなかった。
そのため、それまで苦労してこさえた貯金もリンに貢ぐ形になっていた。
哲夫の母親は息子の行状を心配していた。
哲夫とリンのことが母親の耳にも入っていたのである。
特にリンが外国人で、さらに飲み屋で働くホステスと聞いておおいに心を砕いた。
悩んだ末、母親は哲夫がその女に騙されているというような内容のことを言った。
すると哲夫は烈火の如く怒り出した。
そして物は壊すは母親に怒鳴り散らすはで、もう年老いた母親の手には負えなかった。
母親は思いあまって、佐藤のところに相談に行った。
佐藤は母親の話を聞いて呆れ果てた。
そして再び哲夫を呼んで諭した。
「前にも言っただろう。あいつらはプロだ。
そのうち身ぐるみ全部剥がされちまうぞ。
そうなったら後の祭りだ。
なあ哲っちゃん、いい加減目を覚ませよ。
友達だからこの際はっきり言っとく。
俺たちみたいな人間が女に持てるわけないだろう。
リンの目当てはお前の金だよ。
まったくお人好しで馬鹿なんだから」
哲夫は佐藤の思いもよらぬ激しい言葉の攻撃にたじろいだ。
しかし哲夫は佐藤に反論したかった。
というのも店以外で会うリンは、商売用のリンではなくもっと穏やかで優しかったからだ。
ドライブに出かけるときなど、哲夫のためにわざわざ弁当を作ってきたりした。
手間暇かけて作った弁当で、愛情がこもっていた。
それにクッキーを焼いてくることもあった。
そんなことまでしてくれるリンがどうして自分を騙すはずがある。
それだけじゃない。
中国に病気の両親がいる。
そのため遠く故郷を離れ小豆島くんだりまでやって来て、様々な屈辱に耐えながら働いているのだ。
稼いだわずかばかりの金とて自分のためには遣わず、ほとんど病気の両親に送っている。
リンは心根の優しい女だ。
そんな優しいリンが、この俺を騙すわけがない。
リンのことを知らないやつらに何が分かる。
俺とリンのことをとやかく言うのは、大きなお節介というものだ。
しかし母親までが心配している。
哲夫もさすがにこれには頭を悩ました。
哲夫の心は痛んだが、リンに事実を確かめるべく店にやって来たのだ。
正直言って怖かった。
リンはいつものように陽気に振る舞っている。
そしていつものように優しい。
カラオケで誰かが歌い出した。
いいタイミングだ。
「リンちゃん、踊ろうか」
哲夫はリンをステージへと導いた。
リンが身体をぴったり合わせてきた。
哲夫はリンをしっかり抱きしめて、リズムに合わせてゆっくりフロアを舞った。
「リンちゃん、僕のことどう思っている」
「どう思ってるって」
「つまり、僕のこと好きかってこと」
「そりゃ好きよ」
「僕たちの間には隠し事なんてないよね」
「隠し事? 難しい言葉分からない」
「つまり、お互い秘密はないよね」
「秘密? 秘密なんてないよ。てっちゃん、急にどうしたの」
「いや~」
「今日のてっちゃんどこか変だよ」
哲夫は思い切って切り出そうとした。
しかし、そのときカラオケが終わった。二人はボックスに戻ろうとしたが、
哲夫がマスターを呼んで何やら言った。
マスターは、うんうんと頷いた。
哲夫は話が終わるとリンに、
「ちょっと外に出よう。マスターには了解取ったから」
と言った。
二人は外に出た。
塩気混じりの風が足下をかすめていく。
少し背筋が冷たい。
哲夫はリンに向き直って
「ちょっと聞きたいんだけど」
と、いかにも言いにくそうに頭を掻きながら言った。
「話ってなあに」
「リンちゃん、俺を騙してないよね」
「騙す?」
リンは哲夫の質問の意図が分からないといった様子である。
「僕とのことだけど……つまり何て言ったらいいんだろう。
あくせくしているのはお金のため?
それって汚いんじゃない」
リンの顔色が変わった。
「お金のためというけど、みんなお金のためにあくせくしているんじゃない。
そのどこが悪いのよ」
その言葉を聞いてリンの本性が出た思いがした。
「やっぱり」
「何がやっぱりよ。てっちゃんてそういう人だったのね」
「それはこっちが言いたいよ」
「分かったわ。これで何もかも終わりね。
やっぱり日本人って信用できない」
リンはそう言うと、店の中に消えた。
いつ降り出したのか雨が落ちていた。
路面にネオンの光がビー玉をばらまいたように散らばり、周囲の闇をえぐり取るように際立たせていた。
哲夫は店の中に入るのも憚られ、携帯でマスターを呼び出すと、勘定は近々払うからと伝言した。
胸の奥は鉛を流し込んだように重かった。
リンの勝ち誇ったような表情が、一瞬目の裏をよぎって悔しかった。
俺はやっぱりこういう役回りばっかりなんだ。
お前ってやつはつくずく馬鹿なんだから。
こんなの最初から分かっていたはずだ。
佐藤が言ったとおりだ。
鏡で自分の顔をよく見てみろやって。
こんなとっちゃん坊やみたいな顔して、女に持てるわけないんだよ。
なのに夢中になって。
とんだ一人芝居だ。
笑わせるよ、まったく。
ちびのふとっちょでも涙は出る。
団子鼻のタラコ唇だって悲しいとき悔しいときには泣く。
哲夫の細い目から大きい涙がぽたぽた落ちた。
糞っ! みんなで俺を馬鹿にしやがって。
雨が哲夫の顔を濡らした。
涙が雨に溶け、ひときわ太い筋を引いた。
それから二週間が過ぎた。
その間、哲夫はリンと喧嘩別れをしたことで、気分は随分と落ち込んでいた。
食事もろくに喉を通らなかった。
仕事に出てもぼんやりとして、作業に身が入らない。
午後五時半、くだらなく思える仕事がようやく引け、作業着から私服に着替えたとき佐藤がやってきた。
「お前に客人だ」
「俺に」
「店の女らしい。お前まだ懲りないのか」
佐藤はあきれ顔だ。
哲夫は外に出た。
一人の女が自動販売機のところに所在なく立っていた。
女は哲夫を見つけると、違和感の固まりみたいになって近づいてきた。
「わたし、マリア。リンちゃんのことで来た」
「リンのことで。もう用はないはずだが」
マリアは違うと、顔を横に振った。
「リンちゃん、今日中国に帰った」
「えっ! 今日、中国に」
「わたし伝言頼まれた」
「伝言?」
マリアは哲夫に手紙を渡した。
「じゃあわたし店があるから」
哲夫は、ありがとう、とだけ言って、マリアの後ろ姿を黙って見送った。
哲夫は手紙を開いた。
便箋が一枚出てきた。
今さら何だと言うんだ。
俺をそんなに馬鹿にしたいのか。
俺はどうせのろまのどじ野郎さ。
便箋には拙い字が書き連ねてあった。
てっちゃんへ
わたし中国にかえります。
こっちにきてあまりいいことなかった。
いやだったのは仕事。
好きでもないお酒のんで、好きでもないお客の相手すること。
みんなウソつき。
きれいなこと言うけど、みんなウソつき。
わたしのこと遊びの道具にしか考えていなかった。
人間として見ていなかった。
でも働かないと、中国のりょうしんこまる。
病気だから。だからわたしがまんした。
心の中ではいつも泣いてた。
はやく中国かえりたいと。
わたしにほんとうにやさしかったのは、てっちゃんだけ。
これうそじゃないよ。
てっちゃんは、顔はかっこよくなかった。
でもこころがきれいだった。
とってもすんでた。青空のようにはれてた。
てっちゃんといると、自分がやさしくなれた。
はじめはてっちゃんのことそれほど好きじゃなかった。
どうせお金でわたしとあそぶんだろうと思ってた。
でもつきあってるうちに、この人いい人だと思った。
気がついたら、本当に好きになってた。
わたしお金のためにてっちゃんとつきあったんじゃないよ。
これだけは信じて。
ケンカしてわかれるのとてもさみしい。
てっちゃんといると、とても心があたたかくなった。
やさしくしてくれてうれしかった。これほんとよ。
てっちゃんがくれたフクロウの人形、中国にもってかえるね。
しあわせはこんでくる鳥でしょう。
てっちゃん、ありがとう。
リンにたくさんたくさんしあわせくれた。
中国からてっちゃんのしあわせいのってるから。
リンより
哲夫は身も蓋もなく泣いていた。
俺は何てことをしてしまったんだ。
もう取り返しがつかない。
「リンちゃん、俺は生まれつきの大馬鹿だよ。最低だよ。許してくれ」
夢小路では、今夜もどこかで誰かが叶わぬ恋の糸を紡ごうとしている。
何故って?
だって恋とは糸しい糸しいと思う心と書くでしょう。
リンは中国籍。
約一年前から店に出ている。
来日する前に少し日本語の手ほどきを受けたのか、それとも客商売にあっては言葉は死活問題、
こっちに来て猛勉強したのか他の女たちより堪能である。
結構難しいことを言っても、不自由なく応答できる。
顔はやや細面だが、感じとしては全体的にふっくらとしている。
目は大きく、瞳の中に真っ直ぐ前を見つめた溌剌としたきらめきがある。
鼻梁は高く、大きさもほどよい。
唇はやや薄いが、顔とのバランスで見ると肉感的だ。
笑うと右だけえくぼが出る。
「てっちゃん、いらっしゃい、会いたかったわ」
リンが哲夫のそばに座るや、腰をぴったり押しつけてきた。
哲夫はそれに合わせたように、左手をリンの肩に回す。
ごく自然な仕草だ。
店に入るまでは例のことがあるため気分的に沈んでいたが、
リンの屈託のない笑顔を見たとたん、哲夫は仕事仲間の心配が単なる危惧だったと思った。
こんなに純真な笑顔のリンちゃんがまさか……。
「僕も会いたかった」
哲夫はリンのほっぺに軽くキスをした。
それに対して、リンも哲夫にそうされることにまんざらでもない仕草だ。
「てっちゃん、何飲む」
「いつものやつでいい」
「私も飲んでいい」
リンが甘えた声で自分の飲み物もちゃっかりおねだりする。
これが案外馬鹿にならない。
いくらかホステスにも落ちるようになっている。
「いいよ」
女の手前、気前がいい。
哲夫の給料はお世辞にもいいとは言えない。
月に何度かキャバクラに通ってこれる身分ではない。
しかし哲夫が日頃の生活費を削ってまでリンに会いに来るのには、それなりの理由があってのことだ。
哲夫の容姿は、はっきり言ってさえない。
背は低く、やや小太り。
顔は赤ら顔で、ぽっちゃりとしている。
そのぽっちゃりとした輪郭に、細い目と団子鼻、それに厚ぼったい唇が調和を乱してはめ込まれている。まあ醜男といっていい。
そんな哲夫の日々の生活といえば、月曜から土曜日まで醤油の瓶詰めという単純作業に費やされる。
瓶詰めといってもすべて機械がしてくれる。
哲夫はただ空の瓶を流れ作業のベルトに乗せるだけのことである。
別段頭を使うこともないし、それに冷静な判断が求められるわけでもない。
あまり物事を深く考えない人間とか、単調な生活にも何ら不満らしきものを感じない人間にとっては、
賃金がもらえるのだから、割り切って考えれば楽な仕事と言えなくもない。
哲夫もどちらかといえば、自分の生活というものをそれほど深く考えたことはない。
いつも誰かの後ろをついて回るだけで、主体的に生きてきたという記憶さえなかった。
その証拠に、小さいときからいつも日陰にいたような気がする。
家にいても、賑やかで活発な兄弟の陰に隠れていた。
自分の言いたいことさえ言わなかった。
学校に行っても友達もできず、たとえ一瞬でもぱっと花の咲いたような学校生活を送ったこともなかった。
人生とは、自ら生きるのではなく生かされるもの、そう諦めていたところがある。
年の瀬も押し迫ったある夜のこと、ぱっとしなかった忘年会の験直しに二次会に行って派手にやろうと、哲夫と同じ作業班の仲間が言いだした。
哲夫も無理矢理タクシーの後部座席に押し込まれ、盛り場にくり出して行った。
店内はカクテル光線が飛び交い、ホステスのねっとりまとわり付いてくるような色気でムンムンしていた。
哲夫はその熱気に圧倒された。
今までにキャバクラに来たことがなかったからである。
哲夫の容姿からして、そんなところに行っても持てるはずもない。
哲夫自身も自分のことがよく分かっていた。
ところがその夜哲夫の横に座ったのは、店でも人気ナンバーワンのホステスだった。
しなやかな身体つきに加えて、とびっきりの美人だった。
スリットの入ったタイトスカートからは、贅肉のない見事な足が伸びていた。
胸元も少し大きく開いており、前屈みになるたび胸の谷間がくっきり見えた。
哲夫は生唾を飲んだ。
それを見ていた仲間の一人がからかい半分に言った。
「リンちゃん、こいつまだ経験ないからね。今晩ちゃんと教えてやってよ」
「えっ? ほんと?」
リンは愛くるしい大きい目を哲夫に向け、信じられないといった表情で、まっすぐ瞳の奥を覗き込んできた。
哲夫はリンの顔を真正面から、それも至近距離から見て、背中から脳天にかけて電流のようなものが走るのを感じた。
その夜、店を出るまでリンは哲夫のそばを離れなかった。
哲夫は生まれて初めて、女という得体の知れない生き物をじっくりそばに置いて観察する機会に恵まれた。
リンは優しかった。
それもこれまで哲夫に接した誰よりも。
彼女の形のよい口から飛び出す言葉は魔法のように甘美で繊細だった。
哲夫の固い口の扉にかかった鍵でさえ容易に開けた。
普段口べたで無口な哲夫ですら憶することなく言葉を口にすることができた。
哲夫は今までとは違う自分がいることを発見しつつあった。
これまで日陰に隠れていた自分が、太陽の光によって目覚めようとしている。
もしかしてこれが本来の自分かもしれない。
そう感じた。
哲夫はリンに一目惚れした。
それから哲夫は仲間に内緒で、一人で店に顔を出すようになった。
回数を重ねるごと、哲夫も店での振る舞いが板に付き、リンとのやりとりにも余裕さえ出てきた。
リンとの駆け引きにも慣れた頃、哲夫はときどきではあるがリンに贈り物を持って行くようになった。
高価な品物ではなかったが、まずは心配りが大事と考えた。
リンも哲夫の思いやりを理解したのか、黙って受け取った。
そんなときリンはいつも哲夫に言うのだった。
「てっちゃんて優しいから好き。
わたし、てっちゃんに本気で恋しちゃうかも」
哲夫はそんなリンの歯の浮くような言葉でも内心嬉しかった。
たとえリンとの軽いやりとりであっても、自分がひとかどの人間として認められたような気持ちになり、さらにリンに傾いていった。
哲夫が店に通い始めて数ヶ月が過ぎた頃、哲夫をリンのところに連れて行った仲間の一人が、
昼食が終わったときちょっと話があると言った。
佐藤という哲夫の唯一の友達は、哲夫を中庭に呼び出すとズバリ言った。
「哲っちゃん。あの店に行くのはやめとき」
哲夫は佐藤の言葉に驚いた。
誰にも気付かれずに通っていたつもりだったが、どうして佐藤が知っているのだ。
佐藤が知っているということは、他の連中も知っていることになる。
どうせ噂になっているに違いない。
「俺は……別に」
「狭い町のこと、誰が何をしているか筒抜けだ。
哲っちゃん、勘違いしちゃいけない。
あいつらはプロだ。金のためならどんなことだってやる」
哲夫は佐藤の言葉にがっかりすると同時に腹が立った。
リンちゃんはそんな女じゃない。
「佐藤、せっかくだが説教はやめてくれ。
俺は子供じゃない。
自分が何をしているか知っているつもりだ」
「どうしてですか」
勇作はまっすぐ友吉の目を見て言った。
「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」
「世間ですか」
「そうじゃ。お前はまだ若い。
だから世の中の仕組みというものが分かっとらんのじゃ。
それに女というもんがの。
ところでお前と富江とかいうあの女はどこまでの関係や」
「どこまでの関係と言われても……相思相愛だと思います」
「なるほどの。でもあの女と付き合うのはやめろ」
「どうしてですか」
「勇作、はっきり言っておく。
家柄が違う。
こっちは先祖代々この地方でも有名な網元ぞい。
それに比べ、その女の家はといえば、その日暮らしするにも事欠くありさまじゃ。
まともな仕事もなく、どうせろくなことして生きとらん」
「伯父さん、家柄がどうしたというんです。
大事なのは人間性じゃないですか」
「勇作、お前いつからこのわしに意見するようになった」
勇作は友吉に刃物を突きつけられた思いだった。
勇作は絶句するしかなかった。
勇作の父母は、勇作が三歳のとき海難事故で亡くなった。
夫婦で漁に出ているとき、タンカーに衝突され、そのまま船もろとも沈没してしまったのである。
身寄りのなくなった勇作を引き取って育ててくれたのが、伯父の友吉だった。
「この世の中にはな、叶うものと叶わんもんがある。
家柄がどうしたこうしたというが、家柄は大事じゃ。
どこの馬の骨とも分からん女をお前の嫁にはもらえん。
お前は俺の息子ぞい。
大村家の跡継ぎぞい。そのことを忘れるな。
世間の笑いものになるようなことだけはするな。
分かったな」
勇作は一人浜で泣いた。
悔し涙だった。
伯父には確かに世話になってきた。
両親が死んで育ててくれたのは他でもない友吉だった。
だからといって富江の家のこと、それに富江自身のことをあんなふうに言う資格はない。
翌日、いつもの待ち合わせの場所に行ったが、富江は来なかった。
勇作はそれでも待った。
だがやっぱり富江は現れなかった。
何かがおかしい。
勇作は富江の家に行くことにした。
ちょうどそのとき、小さな女の子が現れた。
「あのー、これおねえちゃんから預かってきた」
その子は勇作に手紙を差し出した。
その手紙には、もう二人とも会えない、とだけ書いてあった。
理由は書いていなかった。
もう会えない?
いったいどういうことなんだ。
一週間くらいして、富江はかまぼこ会社を辞めた。
勇作は何度も富江の家に行ったが、父親が頑として富江には会わせてくれなかった。
そして一ヶ月後、富江は岡山のある家に逃げるようにして嫁いでいった。
あまりに急なことで、勇作は我を失った。
富江が嫁いだその晩、がっくりときて身動き一つできないでいる勇作に友吉が声をかけた。
「勇作、そうがっかりするな。これで良かったんだ」
「これで良かったというのは、どういうことなんですか」
「人間にはそれぞれ持って生まれた運命というものがある。
それと属すべき階層。
釣り合いの取れない結婚をすると、苦しむのはどっちかお前にだって分かるだろう」
「富江のこと、まさか伯父さんが……」
「そのまさかだったら、どうだというんだ。
お前は世の中ちゅうもんが分かっとらん」
後になって昌樹から事情を聞かされた。
勇作と友吉が富江のことで話をした翌日、友吉が富江の家に行き話しをつけたということだった。
勤め先のかまぼこ屋も友吉の息がかかっていた。
それにもう一つ驚いたことに、友吉からこっそり富江の父親になにがしかの金子が渡ったとも言われた。
勇作は伯父には悪いと思ったが、以後一度も友吉のところには帰らなかった。
そしてその友吉が癌で亡くなった。
いくら何でも育ての親の葬儀に出ないわけにはいかなかった。
そのためやむなく帰省したのである。
勇作は昌樹に電話した。
「いいだろう」
昌樹はそう言った。
手はずは整えるという意味らしかった。
「いつものところでいつもの時間に、と伝えてくれ」
勇作はそう付け加えた。
数日して昌樹から連絡があった。
「富江は了解した。会うのは明日だ」
短く用件だけ伝えると、昌樹は電話を切った。
後はお前の仕事だ。
そういうことらしい。
勇作は息を詰めて待った。
あの頃もそうだった。
富江の足音が聞こえるのを、息をひそめて待っていた。
富江の足音が聞こえてくると、勇作の胸は早鐘のように鳴った。
そして富江が目の前に現れると、無理をおしてまで勇作に会いに来る彼女のいじらしさを、とても愛おしく思ったのだった。
そのときほど富江を大事にしたいと思ったことはなかった。
約束の時間がやってきた。
夕暮れ時で、すべてのものが柔らかい光に包まれている。
ささくれだった気持ちも少しは和らいだが、それでもいざ十年振りに富江に会うとなると、
それなりの覚悟というか勇気が必要だった。
それに理不尽なことがあっただけに、やはり辛いものがあった。
紆余曲折を経ての再会は勇作をひどく憶病にさせ、
真っ直ぐな気持ちで富江と向かい合うことができるかどうか、勇作自身はなはだ自信がなかった。
富江は約束の時間に現れた。
そして勇作の前に立っていた。
十年という歳月が逆回転し始めた。
何もかも純粋で透明だったあの頃に戻ってほしかった。
未来に背を丸めることもなかった。
風聞に耳を塞ぐこともなかった。
ただ真っ直ぐ前を見て、ありのままの富江を受け容れていればよかった。
「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」
伯父の悪意に満ちた言葉が蘇ってくる。
勇作の胸は押しつぶされるように痛んだ。
勇作は富江に近づいた。
富江の顔が逆光になってはっきりとは見えなかったが、輪郭にむかしの面影が残っている。
富江の周囲だけ柔らかな空気が漂い、懐かしい温かさが伝わってきた。
友吉が亡くなった今、誰憚ることもない。
「あの頃のように歩こうか」
富江が小さく頷いた。
「痩せた?」
「ええ」
「富江」
「はい」
浜に向かって海風が吹いてくる。
それが富江の髪を悪戯っぽく掻き上げた。
一瞬富江の細い首筋が見えた。
勇作は立ち止まり、富江の方に向き直った。
「富江、悪かった。苦労させて。昌樹から聞いた」
勇作は富江をそっと引き寄せた。
「だって仕方なかったもの。あなたのせいじゃない」
「この十年間、一日も忘れたことなんてなかった」
この言葉に富江がまっすぐ勇作の目を覗き込んできた。
涙をこらえているのが分かる。
睫毛が小刻みに震え、富江の網膜の上にある勇作の姿が崩れた。
勇作は富江を折れるほど強く抱きしめた。
「わたし、汚れちゃった」
富江は勇作の胸の中で嗚咽を噛み殺すように小さな声で言った。
そのか細い声には呻吟が滲み出ていた。
「そんなことあるもんか。
どうあろうと富江はいつだって俺の大好きな富江に変わりない」
勇作は富江のおとがいを上げた。
形のいい唇が薄く開かれている。
その花のような唇に、勇作はそっと口を合わせた。
「愛してる。もう二度と放さない」
「いつかあなたが迎えに来てくれると信じていたわ。
だからどんなことがあっても頑張り抜いたの。
あなたを生き甲斐にして」
夜の帳がいつしか降り、沖には漁り火がちらちら燃えていた。
苦しかった十年という歳月を、打ち寄せる波がそっと包み込んだ。
勇作はもう一度言った。
「富江、もう放さない」
結局、富江は来なかった。最初から欠席連絡が来ていたのかもしれない。
それとも音信不通になっていて、連絡さえ取れないのであろうか。
不安が勇作の胸をよぎる。
玄関で靴を履いていると、昌樹が勇作のところにやってきた。
「ちょっと俺に付き合えよ。
今度いつ帰ってくるか分からないんだろう」
昌樹は何やら言いたいことがあるらしい。
口調からそのことが分かる。
むかしからそうだ。
昌樹とは家が近所で、兄弟のようにして育った。
言いたいことをはっきり言わないのが昌樹の癖だった。
言葉を換えて言えば、優しいということになるのだが……。
「ああ。今度みたいに葬式ができれば別だがな」
勇作は伯父の葬儀のために帰郷した。
ちょうどそのとき高校の同窓会が開かれることになっていたため、勇作にも昌樹から連絡が入ったのである。
「そうたびたび家族の誰かが死ぬものか。
それよりこっちに帰ってくると、まだ痛むんだろう」
「えっ?」
「ここが」
昌樹は胸を親指でつついた。
勇作はそれには答えず、少し口元を緩め曖昧な笑いを浮かべただけだった。
「喫茶店にでも行こう。こう暑くっちゃ話しもできやしない」
昌樹は先に歩き出した。
どうも昌樹の話は富江のことらしい。
「夏の葬儀は大変だっただろう」
窓側の席に腰を降ろすと昌樹が言った。
「難儀したよ。会館でやればすべて業者がやってくれるのに、なにせ網元という肩書きが許さない。
もう家の中はてんやわんや。
それに夏だから仏の損傷もひどくなるし、いろいろなところで気を遣った」
「でもお前にとっては育ての親だからな。
きちんとやっとかないと、世間の口はうるさい」
「分かってる」
「ここは昔と何も変わっちゃいない」
昌樹は勇作と富江のことがまだ世間の噂にのぼるとでも言いたげだ。
勇作はコーヒーを口に運んだ。
ざらついた苦みが口の中に広がった。
「で、話というのは」
勇作はわざととぼけて切り出した。
「富江のことだ」
昌樹と富江は遠い姻戚関係にあった。
やはりな、と思った。
昌樹が話があると言ったときから、富江のことだろうと薄々分かっていた。
「富江は今日同窓会に来なかったが、どうかしたのか」
「どうかしなくても、これやしないだろう。
みんな例のことを知っているんだから」
「そうだな」
富江が来ると思っていた勇作の方がおかしいのだ。
勇作が富江と最後に会って十年ほどになる。
「俺たちも今年で三十になる。
人生の地図に書き込むものとそうでないものを分けていかなくちゃならなくなった」
「もう十年になる」
「その間、自分を責めてきたんだろう」
「目をつぶって過ごせるやつがいたら顔が見たい」
勇作はやや自嘲気味に答えた。
「富江はこっちに帰ってきた。去年のことだ」
「富江が?」
富江は岡山に嫁いだのは知っていた。
薄情だがそれ以後の詳細は知らなかった。
「いろいろあってな」
「元気でいるのか」
昌樹はコーヒーに手を延ばし、できるだけ時間をかけてゆっくり飲んだ。
時間稼ぎをしていることが勇作にも明らかだ。
切り出す言葉を探しているのだろう。
昌樹はコーヒーが終わると、今度は水の入ったグラスをつかんだ。
しかし水は飲まず、ただグラスをくるくる指先で回していた。
しかしようやく口を開く気になったらしい。
テーブル越しに身を乗り出してくると、
「勇作、会いたいか」
と訊いてきた。
唐突な質問に勇作はどう返事していいのか分からない。
本音を言えば会いたい。
しかしあのときのことを思うと、富江の前に姿を見せることさえ憚られた。
やっぱり富江に対する想いよりも、富江に対して悪かったという罪悪感の方が先に立ってしまう。
その後の富江の生活は想像に難くない。
決して安逸な生活におさまっていたわけではないだろう。
「会いたい。でも……」
「まだしばらくこっちにいるんだろう」
「あと四、五日な。いろいろと片づけることもあるし」
「気が変わったら電話してこいや」
昌樹はレシートをつかむと立ち上がった。
昌樹がレジのところで金を払っているのが見えたが、勇作は黙って見送った。
勇作は懐かしくなって松原に出てみた。
どの根上がり松も大きく、枝ぶりも立派だった。
その一つに腰を降ろした。
目の前には真っ青な海がある。
空もその色を撫で付けたように青い。
ときどき沖を貨物船が行きすぎる以外動くものはない。
穏やかだ。
当時、勇作も富江も人目を気にしながら会っていた。
それが厭だったので、たいていは暗くなってから会うことにしていた。
待ち合わせの場所は勇作の伯父の倉庫の裏だった。
古くなった漁船が二隻修理のために引き上げられていた。
破れた網もその回りに掛けてあり、うまい具合に死角になっていた。
勇作と富江はそこで待ち合わせると、決まって浜に出て歩いた。
二人とも波の音を耳元で聞きながら、ゆっくり歩くのが好きだった。
波のうねりに合わせたように流れる時間。
そのたおやかな時間のうねりの中で、二人の次第に熟していく心を重ね合わせることが
この上なく心地よかった。
勇作はエネルギッシュで逞しかった。
そして利発だった。
一方、富江も健康そのもので、よく気が付きよく働いた。
その上、美人で頭も良かった。
二人は当然のことのように恋に落ちた。
勇作は富江に将来を見ていた。
大学を卒業したら富江と結婚しようと、一人心に決めていた。
富江は高校を卒業するとすぐ、家が貧しかったのでかまぼこ製造関係の会社に就職した。
勇作が大阪の大学に進んでも二人の想いは変わらなかった。
勇作は帰省すると、真っ先に富江に会いに行った。
社会人になった富江はさらに垢抜けして美しくなっていた。
大学四年の夏帰省した折に、勇作はそれまで胸に秘めていたことを富江に打ち明けた。
「大学を卒業して、俺が就職したら結婚しよう」
勇作はこの言葉にてっきり富江も喜ぶだろうと思っていた。
ところが富江はそれを聞いて暗い表情になり、俯いてしまった。
「どうしたんだ。そんなに暗い顔して」
しかし富江は答えなかった。
和美は智之を横にして、思い切って口にしようとしていたことが、喉の奥でつぶれかけそうになるのを
なんとか押しとどめた。ここ二ヶ月、本当に苦しい思いをしてきた。
食事もあまり喉を通らず、体重も二キロから三キロ落ちた。
いつかこういう日が来ることを覚悟していた。
事実これまでだって何度最後の言葉を言おうとしたことか。
でもそのたびに智之に対する愛情の深さを思い知らされて言えなかった。
今日だって同じだ。いやというほど予行練習をやって大丈夫だったはずなのに、
鷹揚に構えた智之を目の前にしていると、胸を掻き破られるほど苦しい思いに封じ込まれ、
挙げ句の果てには自分の下した決断が本当に正しかったのかどうかさえ怪しくなったほどだ。
智之はそんな和美の胸の内も知らず、未来を見据えたような言い方をした。
「素晴らしい眺めだろう。でもここの名前の方がもっと素敵だとは思わないか。何か夢があるだろう」
「星ヶ城。本当に美しい名前で夢を抱かせるわね」
和美はそう返すしかない。
「ここから眺める星はもっと凄い。あまりに美しくて、聖母マリアの涙と言った人がいた」
「想像できるわ。この世のどんな宝石よりも美しい光を湛え、慈愛に満ちた雫を万物に落とすんでしょう」
和美は智之の一見粗野に見えるがそれでいて繊細この上ない感性が好きだった。
和美は智之といると、どんなことだってできそうに思えたし、どんなことだって
もう一度やり直せるような気がした。実際そうだった。
離婚後、生きる希望を失い暗渠の底を彷徨っているとき、一条の光を投げかけてくれ、
そこから掬い上げてくれたのは智之だった。
家庭持ちの智之にたとえ止まり木的な安らぎであれ見出したのは、
彼の感情の線が子供っぽいほど真っ直ぐで、自分が失ってしまった朝露に濡れた
葉っぱのような感情の湖を取り戻すことができると思ったからに他ならない。
「ねえ和美、この星ヶ城でお祈りすると、それが叶うと言われている」
「ほんと? じゃあ二人してお祈りしましょう」
二人は手を合わせ祈った。
「今日でお別れだね」
「えっ?」
智之の突然の切り出しに、和美は不意打ちを食らった。
「今日俺に別れを言いに来たんだろう」
智之がすでに和美の心を読んでいたとは夢にも思わなかった。
「私たち六年間一緒だったのね」
「神様が与えてくれた六年」
「私、幸せだった」
「俺もだ。不倫と世間のやつらは言うかもしれない。でも本気の不倫だってある」
「ご免ね。辛い思いさせるけど」
「仕方ない。和美はまだ若い。前を見て歩く。それでいいんだ。俺はこの六年間で君を一生分愛した」
「これからは同じ風景でも違った色合いで眺め、季節を巡る風も違った温度で感じなければいけないのね」
「もう和美と言葉も交わせなくなる。顔も見られなくなる。抱きしめることもなくなる。
そんなことこれまで考えたこともなかった」
「怖いわ」
「俺もだ。でも互いに温め合った心がある」
「そうね」
「俺には和美を忘れることなんかできない」
「私も」
「だから忘れないことにした」
「それで後悔しない。奥さんとのことはどう」
「女房には違った意味で感謝している。でも和美を愛するのとは異質の感情だ。
この歳になって初めて本当の恋をした。一人の男として一人の女を愛した。
女房には悪いが、君を想い続けていくしかない」
「何度も言うようだけど、ご免ね」
「たった六年だったけど、俺たちは神様が巡り合わせてくれたんだ。
だから俺は命を削って和美を愛した。後悔なんてしてない」
「うん」
「そして今度は神様が別れなさいと言っているんだ」
「ええ」
「神様は試練を乗り越えられない人間には試練を与えない」
和美は涙がこぼれて、もうまっすぐ智之を見ることができなくなっていた。
「さてと、リリーフピッチャーの仕事も終わったというわけだ。
それとも賞味期限の切れた男かな。君は今度の人と幸せになってくれ」
智之は和美に、じゃあ元気で、と言って立ち去った。
智之は、いつか和美が自分の元に返ってくることを祈った。
和美は、智之が自分を忘れてくれることを祈った。
愛は、多くを愛した者がそれを失う。
ここ星ヶ城は、南朝後醍醐天皇に加勢した佐々木信胤が居城を築いた場所で、
連れあいお妻との悲恋で語られる。
































