瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 小説「小豆島恋叙情」掲載部屋

小説「小豆島恋叙情」目次

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に織られた小説「小豆島恋叙情」
作者の鮠沢 満氏の好意で連載させていただきました。
その後も訪ねて読んでくださる方がいらっしゃるようで、大変喜んでいます。
読みやすくするために目次を作りました。
お読みいただき、ますます小豆島が好きになっていただければ幸いです。
第1話 天使の道   エンジェルロード http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19362944.html
第2話 天涯の寺  笠が滝 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19394691.html
第3話 涙の波止場 土庄港   http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19414831.html
第4話 一枝のオリーブ http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19445409.html
第5話 夏至観音   洞雲山 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19506545.html
第6話 邂逅の石門洞 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19666017.html
第7話 残照の海 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19712837.html
第8話 星ヶ城 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19758333.html
第9話 漁り火の海 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19804948.html
第10話 夢小路恋酒場 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/19995113.html
第11話 空谷の跫音 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20094222.html
第12話 西の瀧 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20323324.html
第13話 波と巻き貝 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20513856.html
第14話 老船 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20649585.html
第15話 虫送り   肥土山 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/20757514.html
第16話 残念石 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21013046.html
第17話 春暖 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21110033.html
第18話 涙の海峡 どぶち海峡 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21615525.html
第19話 迷い恋 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/21677098.html
エピローグ 夢の浮島 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/22287403.html

エッセイ「想遠」(小豆島発夢工房通信)
はじめに http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/22568817.html 
第1話 刹那の寺 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/22642034.html長浜 長勝寺
第2話 海の森 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23062622.html島のサンセット・ビート
第3話 寒霞渓 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23144150.html
第4話 四方指 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23357606.html
第5話 岬の分教場 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23472088.html
第6話 消えゆく島 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23600757.html 木香の浜
第7話 廃船 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/23653952.html
第8話 意石の館  段山 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24135894.html
第9話 渡し船 小江 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24256424.html
第10話 銚子渓 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24490596.html
第11話 重ね岩 小瀬 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24763521.html
第12話 迷路 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/24989569.html迷路の街
第13話 憂悶の長城 三都半島 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25191906.html
第14話 海の道 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25510228.htmlエンジェルロード
第15話 美林 http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25672160.html島の素麺
第16話 散るということ(前編) http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/25954506.html
第17話 おわりに(愛する者へ) http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/26270092.html

随想 膝の上
第1話 膝の上             http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/29837294.html
第2話 痕跡              http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/29900701.html
第4話 誕生日プレゼント        http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30049139.html
第6話 金木犀             http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30089000.html
第7話 彼岸花             http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30197408.html
第8話 かけうどん           http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30248971.html
第10話 言葉を失うとき        http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30321855.html 
第11話 胸キューン話         http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30376807.html
第12話 すっぱいみかん(前編)    http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30409316.html
    すっぱいみかん(後編)    http://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/30431457.html 

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はじめに

小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、20話で最終回を迎えました。
「最後は、新たな始まり」の言葉通り、
第一話で引き裂かれた幸一と園子の新たな始まりの物語です。_(._.)_
小豆島恋叙情第20話 夢の浮島
鮠沢 満 作
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 暁闇を押し破るようにレンブラント光線が落ちてきた。
「見てごらん。また新たな約束が生まれようとしている」
 幸一が言った。
「でも何もないところから生まれるって不思議ね」
 園子が返した。
「でもそうなることがあらかじめ約束されているんだよ、きっと」
「宇宙の理」
「小さな胎動が次第に大きくなって潮騒になる」
「そして二つの魂が出逢う」
  園子は荘厳な光りのカーテンにうっとりとし、目を閉じた。
「そして愛が生まれる」
「愛は夢観音」
 オリーブの枝が風にさやぐ。
「愛は夢風車」
「風と太陽に背を押されてくるくる回る」
 青い空に鳥たちがカンツォーネを唄い、青い海に魚影が走る。二人はそれを思い描いた。
「でも……」
「でもどうした」
「いつかは別れが来るのね」
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 島影が暁光に蜃気楼のように浮かび上がる。
 園子が目を開けた。
「そう、日が沈むように」
「だから鈴を鳴らし遍路道をゆくのね」
「天涯の寺をめざして」
「そして無に還る」
「そう。でも生きるということは、無の中に有を積み上げていく行為」
「仏様の掌に〈ありがとう〉を重ねることね」
「無は無であって無でない。だからその中にあっても夢を描くことができる」
「愛と慈悲を信じて」
「そう僕が君を信じてきたように」
 島が砂州でつながろうとしている。
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 幸一は此方、園子は彼方。
「さあおいで」
 幸一は待ちきれずに手を伸ばした。
 園子が幸一の手を握る。
 幸一は力強く園子の手を引いた。
 園子は羽毛のようにふんわり宙を舞い、砂州を渡った。
「ずっと待っていたんだ」
「うん」
 園子は、こっくり頷いた。
「園子」
「なあに」
 幸一は園子の目を見て、ゆっくりと、しかし確かな自信をもってはっきりと言った。
「あ、い、し、て、る」
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もしあなたがどこかに忘れ物をしたのであれば、
諦めないでもう一度探してみませんか。
どんな形の忘れ物だっていいのです。
○、△、□、凸、凹。色だって構わない。
○、●。
もう一度、その日に返って探してみましょう。
そう、夢の浮島こと、ここ小豆島で。
なぜって? 
なぜなら、ここは天使が舞い降りる島。

                                〈了〉

一枚目と2枚目の写真は「いきいき小豆島」http://homepage3.nifty.com/maekka/
さんから、お借りした写真を使わせていただいています。感謝_(._.)_


おわりに

最終回いかがでしたでしょうか。
作者の当初の予定を、大きく上回る連載数であり枚数になりました。
書きながらブログで発信し、それにみなさんからの反応が返ってくる。
それが作者にとって、大きな刺激となったようです。
「コメントをいただいたみなさんに改めて、
お礼を申し上げておいて欲しい」と作者から伝えられています。
長い間、小説「小豆島恋叙情」におつきあいいただいてありがとうございました。_(._.)_

小豆島恋叙情第19話

迷い恋  後編  鮠沢 満 作


琴美の家の前に立っていた。
表札には琴美の名前はなかった。
なくて当然だった。
玄関の呼び鈴を押そうか押しまいか逡巡していた。
「お帰りなさい」
背後から声がした。
誠は吃驚して振り返った。
琴美がいた。笑っている。
二十年前と変わらない笑顔。
こぼれる白い歯。
背骨がジャムのように溶けそうになった。
「帰りが遅くなってご免」
最大のジョークを言ったつもりだった。
「随分遅かったわね。
どこをほっつき歩いてたの」
「ここのところ残業続きでね」
「じゃあ許してあげる」
「歩こうか」
「ええ」

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 長い時間の空白にも拘わらず、琴美のそばにいると素直になれた。
手が触れた。琴美の肌の温もりが伝ってきた。
江洞窟でのことが思い出された。
王子東港の防波堤の先端に座っていた。
誠も琴美も敢えて何も言わなかった。
ただ黙ってお互いの心の隙間を、
無言というこれ以上ない濃密な意思伝達手段で埋めようとしていた。
最初ぎこちなく、それからゆっくりと自然に。

 皇踏山の新緑にたるんだ夕暮れ時の皮膜が被さろうとしていた。
外海から漁船のエンジン音が波打って聞こえてきた。
「知っていたのか」
「新聞で見たの」
漁船が一隻港に帰ってきた。
ボラが港の中で跳ねた。
皇踏山の陰影が波紋に崩れて揺れた。
「左遷さ」
「左遷?」
「前の学校でいろいろあってね。誤解しないでくれ」
「誤解は一度で十分」
 琴美の言葉が多少皮肉っぽく聞こえた。
「生徒を辞めさせようとしたんだ。
校長は反対だった。
真正面から対立した」
「それって厭ね。そんなことで転勤させるなんて」
「生徒の親に脅されたんだ。
結局、俺が貧乏籤引いた。
同じことの繰り返しさ。
二十年前と」
「これって貧乏籤なの」
「えっ?」

 蟹の爪のような形で港を囲う防波堤の先に、赤と白の小さな灯台があった。
その灯台に灯が入った。
光りは細く、港を出たすぐ先で折れて水面に落ちた。
乾いた潮風が気持ちいい。
琴美が目を細めた。
優しい眼差しをしていた。
「私たちこうやって会えたんでしょう」
誠は琴美の顔を見つめた。
歳月は誠のために琴美から美しさを奪うのをためらっていたのか。
表情に翳りはあるものの、それでも琴美は美しかった。
「死ぬまで会えないと思ってた」
「俺は死んだ。というか、死んだように生きてきた」
「まるで放哉ね。先生、放哉好きだったもんね」
「不必要なものはすべて削り取って生きてきたんだ」
 琴美は誠の言わんとすることが分かるような気がした。

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 誠は高松の学校に変わった。
だが、学校が変わったからといって、誠の精神的な傷が癒えたというわけではなかった。
それどころか自分の弱さに益々嫌気がさして、一時期自暴自棄な生活を送った。
負け犬。
世間に負けた。
自分が弱かった。
どんなことがあっても琴美を手放すべきではなかった。
そういった負の烙印が、いつもブリキの勲章みたいに首にぶらさがっていた。

 そんな状況の中、誠を救ったのは他ならぬ放哉の生き方だった。
彼の生き方をすべて肯定する気持ちはなかったが、
それでも個人主義の充満した社会から離れ、
無一文の生活に人間本来の在り方を求めた生き方に、誠自身を重ねることはできた。
深い孤独感に個人主義を超えた人間としての素朴な感情を持ち続けた放哉。
不必要を限りなく削ぎ落とし生きる。
自己を厳しく律する。
これ以外に自己崩壊を防ぐ道はない、と誠は考えた。
それは琴美を責めるためではなく、
むしろ鋳型に入る前の瑞々しい琴美の将来を潰してしまった自分への戒めだった。
それと結果はどうであったにしろ、
琴美を忘れることはできないと誠は思った。
自分を戒めることは、誠にとってはとりもなおさず琴美を忘却の餌食にさせないための
唯一の手段に他ならなかったのだ。

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「二十年前の落とし物というか忘れ物、取りに帰ってきたんでしょう。
この迷路の町へ」
「そう」
「それで見つかった?」
「ああ目の前にいる。
でも一つ訊きたい」
「分かってる。先生が訊きたいこと。
どうして一緒に島を出なかったのか、でしょう」
「結局は俺を好きではなかった。そうだろう」
 誠は心にもないことを言ってしまった。
「帰るわ。母が病気なの。
それに主人が出張先から帰ってくるの……」
 琴美は急に腹立たしそうに立ち上がった。
表情が険しい。


 琴美は高校を卒業すると、地元の漁協組合に事務員として勤めるようになった。
しかし、心には大きな穴が空いたままだった。
十八歳の少女の若さとエネルギーを以てすれば、
その空洞は朝の目玉焼きを平らげるくらい簡単に埋められたはずだ。
十代の単なる気まぐれな恋。
掃いて捨てるくらいそこら辺りにごろごろしている陳腐な恋。
そう思えば……。
しかし琴美は違った。

 その後、誠との破綻が元凶になったみたいに、次々と予期せぬ不幸が琴美を襲った。
父親が交通事故で他界し、それが引き金になったみたいに、
今度は母親が倒れ動けなくなってしまったのである。
そして上司の世話で定規でなぞったような結婚。
一見平穏な生活にも、琴美の思いは彷徨っていた。

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 余島の砂州が上げ潮に呑まれようとしていた。
引き合ったものが離れていく。
誠は歩き出そうとする琴美の手首をつかんだ。
琴美は手首をつかまれたことで、一瞬、ピクッと躯を引きつらせた。
「さっきも言ったが、俺はこの二十年間死んだように暮らしてきた。
余計なものを削ぎ落として生きないと、
自分がまた何かに希望を託してしまう。
そしたら必ず失望がやってくる。
それだったら最初から何もないと思って生きる方がいい。
そのために自分を律してきた」
「私を責めるために」
「違う」
「でも結果的にはそうでしょう。
もういい。済んだことよ。
帰る」
 琴美は腕を振りほどいた。
 涙が見えた。
「琴美」
 誠は自分の我が儘を知った。
「俺はただ……もういいんだ……俺たちが出逢ったのも定め、
そして別々の道を歩むのも定め。
ずっと前から決められていたんじゃないか。
そう思えてきた」
「あのね」
 琴美は思い直したように向き直った。
 険しさが消えていた。
反対に海に溶けるような優しさがにじみ出ている。
 琴美は真っ直ぐ誠を見つめてきた。

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 スイッチが押され、感情の砲弾が飛んできた。
 誠はそれを真正面から受け止めた。
「たった一度でいいの。たとえ花火みたいでも、女として咲けば。それも命を賭けて」
 琴美は左手をそっと持ち上げ、手首にかかったブラウスのボタンを外した。
それから袖をめくると、誠の目の前にかざした。
 灯台の灯が琴美の白い顔と細い手首を浮かび上がらせた。
誠は見た。
 手首に引かれた生々しいまでの傷跡。
「いつ?」
「先生が島を出てしばらくして」
 誠はやっと迷路で忘れたものを取り戻すことができた、と思った。
「ありがとう」
 誠の言葉に、うん、と頷き、さらに柔らかな表情をつくると、
「先生、ようやく帰ってきたのね。私、ずっと迷い子だったの」
 と琴美が返した。
 海からせり上がってくる茫漠とした夕闇。
世の中の突起とかざらつき、そういったものすべてを飲み込んでしまう優しさがあった。
さらに闇が深くなり、海が遠のいた。
空に星の瞬きさえ見え始めた。
奥行きを失った空間の中で、二つの影が一つになった。
目の錯覚だろうか。
いや違う。

 真っ白なテニスウェアに身を包み、コートで躍動する琴美。
月夜に銀色の波の衣をまとい、人魚になって泳ぐ琴美。
迷路は異次元。
こんなことが起こってもおかしくはない。
 果たされなかった邂逅、破れた夢の修復、語られなかった愛の言葉、等々。
 それらが、路地裏の片隅で、菫の花のように、人知れず咲いている。

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その言葉は何光年もかけて、遠い遠い夜空のまたその果てから落ちてくる。
まるでそのこと自体が久遠の始まりから定められていたように。
「人にはそれぞれ運命みたいなものが当初からあるのではないか。
岐路に立ったとき、勿論自分で決めて進むのだけれど、
それもそうなるように決まっていたのではないか。
だからすべてに意味がある。たとえどんな方向に進んだとしても意味がある」

追いかけて追いついた風の中

?H5>放哉

小豆島恋叙情第19話

迷い恋  中編  鮠沢 満 作


長く伸びた四肢がはち切れそうなほど躍動していた。
琴美の白い腕には筋肉の筋が盛り上がり、
眩しいばかりの夏の太陽が絡み付いた。
誠はそれを眩しそうに目を細めて見ていた。
しかし出る言葉は裏腹に厳しいものだった。
「もっと力強く、上から打ち下ろすようにしろ」
「はい」
はきはきした返事が返ってくる。
振り下ろされるラケット。
飛び散る汗。
その度、太陽が砕け、飛び散った。
琴美は苦手なサーブの特訓をしていた。
個人レッスンだった。
他の生徒は武道場の軒下でスポーツ飲料で喉をうるおして涼んでいた。
「さっき言っただろう。
 もっと上からはたくんだ。
 ちゃんと言われたことをしろっ!」
誠の檄が飛ぶ。
それに悪びれず応じる琴美。
他の生徒が誠のスパルタに目を丸くしている。

炎天下、三十分ほどぶっ続けの特訓だった。
さすがに琴美も疲れた。
木陰に倒れ込むと、ぐいぐいと水分を補給した。
喉が軽快に上下運動をした。
誠はそれがとても美しいと感じた。
生きているという実感があった。
生徒と共にいるという喜びがあった。
「ねえ先生、今度の日曜日、部活休みでしょう。
  鹿島の海岸に泳ぎに行きませんか」
余裕を取り戻しての琴美の一言だった。
「えっ?」
 誠は頭の芯が抜けるのを、初めて感覚として感じた。
どんな言葉を返したのか記憶にない。
きっと頷いたのだろう。
うん、と。

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 誠は故意に回り道して歩いた。
気持ちの整理はできていたはずなのに……。
果たして琴美はいるのだろうか。
どこかに嫁ぎ、この小豆島にいない確率の方が高いのだ。
琴美がいると思いこんでいる誠の方がよほどおかしい。
狭い駐車場で子供たちが石蹴りをしていた。
子犬が彼らの足下にまとわりついている。
杖をついた老人がそばを通り過ぎた。
誠に目もくれなかった。
ただの通りすがりの一人に過ぎないのだ。

 よそ者。
放哉記念館の前に出た。
かつてここに南郷庵があった。
得度した尾崎放哉の終の棲家となったところである。
誠は当時から放哉の生き方に一種の憧れのようなものを抱いていて、
よくここに足を運んだものだった。

      ==== 入れものがない両手で受ける ===

 記念館から琴美の家が見えた。
 でも遠い。

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 尾崎放哉。
大正の一茶と呼ばれる。
明治十八年(一八八五)一月二十日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)に生まれる。
本名秀雄。
鳥取中学、一高、東大を経て保険会社要職に就く。
大正十二年世を捨て京都一燈園に身を投じるものの、
後、寺を転々とし、自ら無一物の托鉢生活に入り、
大正十四年流浪の果て辿り着いたのが、ここ小豆島である。
自身自由律俳句を学んでいた住職宥玄和上のはからいで、
西光寺奥之院南郷庵を与えられ、終の棲家とした。
大正十四年八月から翌年四月七日までのことである。
その間、多くの秀句を残して孤高孤絶の生涯を閉じた。
最後は病死であった。
享年四十二歳。
辞世句は、
〈 春の山のうしろから烟が出だした 〉
である。

お粥煮えてくる音の鍋ふた
 とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
月夜の葦が折れとる
海が少し見える小さい窓一つもつ
淋しい寝る本がない

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「泳ぐというから昼間かと思った」
「先生ってバカねえ。
昼間から泳ぎに行くなんて、それこそ二人の秘密を一般公開しているようなものじゃない」
 琴美はTシャツとハーフパンツを無造作に脱ぎ捨てた。
 水着姿になった琴美は、恥ずかし気もなくくるっと回って見せた。
「どうこの水着」
昼間コートで躍動していた琴美のしなやかな躯が目の前にあった。
琴美は月の光を全身に浴びていた。
すらっと伸びた四肢に月が冷ややかな光を投げかけ、
琴美に大理石のようなつややかさを与えていた。
「ねえ、早く泳ぎましょう」
誠の手を引っ張って海に導いた。
海面が夜光虫をまぶしたように輝いている。
その中を琴美はイルカのように泳いだ。
まるで人魚だ。
真っ直ぐに伸ばした手の先から、琴美の煌めきがこぼれ落ちた。
寄せ来る波は花芯を包むように優しい。
誠は必死になって自分を抑えようとしていた。
が、その努力もむなしく何かが大きな音を立てて弾け飛んだ。
その瞬間、恋に落ちた、と思った。
琴美とはそんな風に始まった。
風が流れるように、ごく自然に。

  イメージ 4            *

 江洞窟(小豆島霊場第六十番)の中。
小さな宇宙の懐に抱かれているようだ。
静けさまで匂ってくる。
空気が針の先のように張り詰め、静寂を凝縮した氷みたいに冷ややかだ。
洞窟の奥には井戸があり、清水が湧いている。
多分そのせいだろう。
昔、船乗りがここに立ち寄り水を求めたと言われている。
すぐ外は海。波の音が聞こえてくる。
琴美の肌の匂いがする。
太陽の匂い。
静寂のるつぼ。

誠は琴美を引き寄せ、おとがいを上げた。
花びらのような小さな唇が薄く開かれた。
弁財天と不動明王が意識の中で遠ざかっていった。

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 PTA役員の一人が校長に電話をしてきた。
それが発端だった。
「教師が高校生をたぶらかした。
  不道徳極まりない。許せない」
開口一番そう言った。
そして事はPTA役員と校長だけでは済まなくなった。
狭い土地柄、いらぬ枝葉が付いた。
震源地はその役員。果ては教育委員会に投書までした。
そして実質的糾弾に進展した。
そもそもの原因は、誠がそのPTA役員の息子の喫煙を発見、
生徒指導に報告したことにあった。
結果、生徒は停学。そのことを根に持っていたのだ。
実につまらないことをする。
大義名分さえない。
大人として恥ずかしい。
しかし往々にしてそういう輩が多い。
そしてそういう輩が幅をきかせている。

 誠は琴美を愛していた。
女として。そして一個の人間として。
教師も一個の人間。生徒を愛することだってある。
人を愛することは理屈ではない。
理性も眠る。
道理も引っ込む。
在るのは、相手を想う気持ちだけ。
相手を自分の一部としたい。
互いを分かち合いたい。
互いの中に内在したい。
その渇望が炎となって燃え上がる。

 誠と琴美の純粋な思いは、曇った水晶体しか持たない人間には理解されなかった。
波紋はどんどん大きくなって、誠は一年で転勤を余儀なくされた。

             *

 西光寺の三重の塔から町を眺めていた。
そばに琴美がいた。
石段を登ってくるときから無言を通している。
言うと涙が堰を切って溢れ出すのだろう。
目が充血していた。
横顔は悲しみに打ちひしがれ、溌剌とした琴美の顔は微塵もなかった。
暮色が土庄の町を静かに包み込もうとしていた。
だが優しさはない。
痛いほどの棘を含んでいた。
吐き出す息さえ固かった。
海は黒ずんで、波の襞も見えない。
海の底では、漁師の網に怯えた魚が、片目を開けて眠ろうとしていた。
目の前の釣り鐘が、慟哭を抱えてぶら下がっている。
その重さに形状が崩れ、打てば音さえたわむに違いなかった。
カラスの群れが、ねぐらに向かって羽音を立てて飛び去った。
静寂を破る羽音は、すりガラスを爪で掻いたようなおぞましさを置き去りにしていった。
すべてに空しいという予感があった。

 町に灯が灯り始めていた。
一つ、また一つ。
家族の団欒が花開く。
小さな幸せ。
しかし誠と琴美には、その小さな幸せさえなかった。
「仕方ないわよ」
 琴美がやっと口を開いた。
「仕方ない? 何が仕方ないもんか」
 誠は声を震わせた。

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 はぐれカラスが一羽、嗄れた声で一声啼いて墓地の方へ飛んでいった。
墓地が沼の底のように暗く沈んでいた。そこに何かが蠢いているような気がした。
「転勤……でしょう」
「単なる転勤じゃない。転勤させられるんだ」
 琴美は俯いていた。何かを言いたそうだ。
「一緒に来ないか」
 誠は本気だった。
「……」
「何とか言えよ」
 琴美の肩を大きく揺すった。
 ようやく琴美が口に含んでいた言葉を声にした。
「こういう形ではダメ。逃げるようで」
 誠は追われる如く島を去った。
 誠二十三歳、琴美十八歳だった。

はじめに

土庄の曲がりくねった町並みが「迷路の街」としてデビュー。
作者は、その「迷路」を舞台にした話を書いてみたくなったようです。
短い期間で書き足されたものですが、「恋叙情」の最後を飾るにふさわしいお話のように思います。_(._.)_

小豆島恋叙情第19話

迷い恋   鮠沢 満 作

 小豆島の玄関口である土庄町のほぼ中心部にそれはある。
もともとは海風から家を守るためと、
海賊の攻撃を避けるための防衛手段として考えられたものらしい。
一歩足を踏み入れると、そこはまさに異次元。
そもそも原点がどこで、X軸とY軸がどれかも定かでない。
路地は狭く、人ひとり通るのがやっと。
家並みは蜘蛛の巣状に広がり、無秩序な空間に無理矢理押し込んだに等しい。
しかし、この無秩序さと混沌の中に理路整然としたものが存在している。
その証拠になぜか心が落ち着くのだ。

ここに迷い込むと、ずっと昔に失った「青い自分」を取り戻すことができそうな気がする。
まるで初めて訪れる外国の小さな田舎町を想像させる。
城壁でぐるっと囲まれた中世の町。
もうとっくに忘れ去られた幻の町。
封印された空間の中で、毎日が寸分の狂いもなく過ぎてゆく。
退屈、倦怠、沈滞さえ日課の一つになっている。
しかしそこに生きるものすべてが、
その単純さを自明の理として身体と精神で完全なまでに咀嚼し、受け入れている。
改革も変革もない。
斬新さもない。
それでいて退廃を感じさせない。
なぜならそこに確かに息づいているものを感じることができるからだ。
果たされなかった邂逅、破れた夢の修復、語られなかった愛の言葉、
そういったものがこの迷路のどこかに息づいている。
日陰の迷路の片隅で。
誰しれず咲く菫のように。
確かにそこには何かがある。

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「えっ? 小豆島……ですか」
 誠は思わずそう叫んでいた。
「単身赴任で不便な思いをさせるかもしれないが、三年辛抱してくれ給え」
 校長は実に申し訳ないといった顔をしていた。
それは表面だけの繕いで、本音のところまでは分からなかった。
もともと気弱な性格のくせして見栄を張りたがる。
生一本で竹を割ったような性格の誠とは反りが合わなかった。
校長は困ったときにいつもそうするように、俯いて両の指先をもじもじやっていた。
だから彼の言った言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかなかった。

それより誠の脳裏をかすめたのは、これから赴任する学校のことではなく、迷路の町だった。
そこに一つの忘れ物をしてきた。
二十年前のことだ。

「気にしなくていいですよ。
 人事というのはそういうもんでしょう。
 お互い宮仕えの身ですからね。
 それに随分ごたごたしましたからね。
 当然でしょう」
 誠は正直な気持ちを述べたまでのことだったが、
 校長は素っ気ない言い方と最後の言葉を捨て台詞と見たらしい、眉根が少しつり上がった。
「私は何も厄介払いをしようとしているのではないよ。
 誤解しないでくれ」
「いろいろお世話になりました。失礼します」
誠は慇懃無礼に思えるほど深々と頭を下げて校長室を出た。
迷いはなかった。
ついにその忘れ物を取りに行く日がきたというわけだ。
これも人生。避けては通れないと思っていた。
人にはそれぞれ運命みたいなものが当初からあるのではないか。
岐路に立ったとき、勿論自分で決めて進むのだけれど、
それもそうなるように決まっていたのではないか。
だからすべてに意味がある。
たとえどんな方向に進んだとしても意味がある、と。
誠は、ふとそんなことを思った。

 何もかもがごちゃ混ぜになった迷路の町。
自分ではそこを抜け出していたと思いこんでいた。
が、実際は一歩たりともそこから出てはいなかったのだ。
二十年の間、道に迷った子羊よろしく同じところをぐるぐる回り続けていたに過ぎない。
時を忘れた未熟児。
栄養失調なのに化学肥料で身体だけ肥大化した大人。
だからもう一度そこに帰れ、そういうことらしい。
古びた町並みに三重の塔が手招きしていた。
「言っとくが、くれぐれも道に迷うんじゃないよ。
 目印は分かっているな。
 赤い屋根だ」

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 篠突くような雨が上がって、青空が顔を出した。
狭い路地に割って入った陽光が、心地よい陰影をこさえている。
木々の滴るような緑が路面に散っており、飼い猫が水溜まりに映った緑を舌先で舐めていた。

五月の日曜日。
遅い午後。
にわか雨が舞い戻ってくるとでも思っているのか、路地にはまだ人の姿はない。
お寺の少しくぐもったような鐘の響きが、
甍の上に昼寝を決め込んだ雨の滴をふるい落としにかかっていた。
雨の匂いをかすめ取ったやや冷ややかな風が、
壁づたいに小走りに駆け抜けると、陽炎のような水蒸気が舞い立った。
誠はやや動悸が高まっているのを意識せずにはおれなかった。
赴任早々行動に移すべきだったが、やはり忸怩たるものがあって、
ついつい今日まで延ばしてしまった。
憶病という名の背信。
償いは一秒でも早いに越したことはない。

 コールタールがはげ落ちた板塀の家の角を曲がると、
小豆島霊場第五十八番西光寺の「四恩の門」と呼ばれる朱塗りの門が目に飛び込んできた。
仕舞屋を思わせる家の連なりのくすんだ色合いから、目が覚めるような鮮やかな朱への転換は、
自分が歩いているのが紛れもなく現実世界であることを示唆すると同時に、
すぐ目と鼻の先に「牙をむいたまま色褪せない過去」が
鎮座していることを意識させずにはおかなかった。

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 門をくぐり寺の中に入った。公孫樹が大枝を広げている。木陰が涼しそうだ。
背後にこれまた朱塗りの三重の塔が見える。
公孫樹の手前に「心洗」と彫られた手洗いがあった。
手を洗って、心も洗う。
誠にとっては少し身につまされる思いだった。
公孫樹は樹齢何百年という大木で、胴回りも太く、木肌がごつごつとしていて威厳を発していた。
その根元に句碑があった。

   咳をしても一人

  詠み手は、漂泊の詩人尾崎放哉。
横には放哉の墓参に訪れた種田山頭火の句も刻まれている。
誠は本堂に行き、千手観世音に手を合わせた。
それでも気持ちは落ち着かなかった。
むしろ上げ潮のようにどんどん高くなっていくばかりだった。
本堂右の石段を噛みしめるように登っていった。
あのときもこうして石段を登った。二人して。
息は乱れていたが、お互いせめてもの気持ちだけでも合わせようとしていた。
それが最後の思いやりに思えた。石段が尽きればすべてが尽きる。
そうならないことを何度祈ったことか。

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 三重の塔から眺める風景は当時のままだった。
古い家並みが肩を寄せ合いひしめき合っていた。
刻まれた時がそのまま古ぼけた波形になって甍に残っている。
煤けた思い出を枕に化石のように眠る町。
それでもかつてここに無垢で真っ直ぐな夢を馳せたことがあった。
真下に誠の勤める学校が見える。
テニスコートから部活動に励む生徒の元気な声が、甍の波に乗って伝わってきた。


 胸の奥に小さな痛みが走った。
まだ気にしているのか? もう時効だよ。傷は完全にふさがったはずだが……。
どこからともなく声が聞こえてきた。
そしてある情景が浮かんだ。
降り注ぐ太陽。
真っ白なテニスウェア。
飛び散る汗。
真っ白な歯を見せて笑う少女。
すべてが清く、澄んでいたあの頃。
シミ一つなかった青春の日々。
翳りを創造する皺一つなかった情熱の時代。
新米教師で、教えるということに純粋に喜びと充実感を味わっていた。

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 憧憬を割るように、焦げたような潮の匂いが漂ってきた。
誠は海の方に目を転じた。
王子東港に繋がれた漁船の群れが見える。
波にもまれ漁船同士が擦れ合う音が聞こえてきそうだ。
カモメが青空に落書きするように群れ飛んでいる。
包丁の刃みたいに海に突き出した三都半島。弛緩した空気にブスリと突き刺さっている。
半島を舐める青い海。
赤と白に塗られた貨物船が、音もなく滑ってゆく。
あの日と同じだ。
胸の奥に翳りができた。
鉛のように重くて濃い翳り。
肺病患者の肺の中のようだ。
尾崎放哉の記念館がある辺りに視線を移した。
最後にそこを見たのには、それなりの理由があった。

     

 見た目には二十年前と変わった様子はない。
あくまで表面上のことだが……。
実際には多くのことが変わった。
誠自身にしても、二十年という歳月を考えると、いろんなことがあった。
二十年という歳月は、いろんなことがあってしかるべき年月なのだ。
しかしその中に、敢えて目を背けてきた一つの記憶があった。
今考えるに、それはあの日以来、形を変えることもなければ色褪せることもなく、
じっと誠の中に癌みたいに巣くって居座ってきた。
いや、別の言い方をすれば、この迷路の町にかもしれない。
時間という万能薬は、果たして誠の傷付いた心を癒したことは事実であるが、
それでも記憶は葬り去られることをきらい、逆に誠にそのことを忘れさすまいとするかのように、
間断的にではあるが怒りを吹き上げては傷口を逆撫でし、
その疼きを刷り込んでは支配力を継続的なものにしようとしてきた。

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 黴臭い砂に半分以上埋もれかかった古い記憶を、今さらスコップで掘り起こしてどうなるという。
癒えたと思い込んできた傷。
それならそう思い続ける方が楽ではないか。
蒸し返すことは、決して罪滅ぼしにはなりはしない。
むしろまた傷を大きくするだけだ。

誠はじっと見入っていた。目に赤い屋根が映っていた。
急に瞼の裏が熱くなり、赤色が崩れ、にじんだ。
「琴美」
 誠は久し振りにその名を口にした。
 こ、と、み。
 三文字が風に流れ、迷路に吸い込まれていった。

はじめに

小説「小豆島恋叙情」、最初はこのお話が最後になるはずでした。
恋叙情を寄せ集めたモザイクの中で、最後に埋め込まれるピースとして作られていたのですが・・・
 みなさんかのコメントや励ましの言葉をいただいた作者は、気になっていた「迷路の街」を舞台に短期間であと2つの物語を書き上げました。もうしばらくおつきあいいただければ幸いです_(._.)_

小豆島恋叙情第18話

涙の海峡    鮠沢 満 作

 土渕海峡。
長さ二、五キロメートル。
幅九、九三メートル。
世界一狭い海峡。

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 男は海峡のこちら側から叫んだ。
「愛している。だから今そっちに行く」
 女は海峡の向こう側から叫んだ。
「私も大好きよ。でも渡し船がないの」

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 男と女の間には、この狭いが深い海峡が横たわっている。
ときとして男も女もこの海峡をどうしても越えられないときがある。
そのとき男も女も人知れず涙を流す。
海峡はその涙を集め、瀬戸の内海へと運ぶ。
だから瀬戸の海は涙が溶けている分、たおやかで温かい。

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小豆島恋叙情第17話

春暖 終章    鮠沢 満 作

 ドアを開け、隣の部屋に入った。そしてそこにあるソファーに、よいしょ、と座った。
いつもしていることだった。
武春の死はそんな死だった。
あっけないと言えば、あっけなかった。

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 晴美は九十九折りの山道を灯台目指して車を走らせていた。
進行方向左手に海が広がっていた。白い波が、これまた眩しいばかりの白い砂浜に打ち寄せていた。
誰もいない。貨物船が我がもの顔に通り過ぎていく。
後方に残された曳航の白い軌跡が、老爺の白髭に見える。
 所々で鶯が啼いているが、子供の鶯らしく啼き方がまだぎこちない。
晴美は久し振りに口元を緩めた。
カーブを曲がったとき、助手席に置いてあったハンドバッグが落ちそうになった。
スピードを落とし、左手でそれをぐいと押さえた。
まるで見知らぬ手がどこからともなく伸びてきて、それを奪い去るのを恐れてでもいるかのように。

 武春の墓は地蔵崎灯台と備讃瀬戸が一望できる山の縁に建っていた。
墓石はまだ新しく、故人の生前の行為を飾り立てるまで古色蒼然とはしていなかった。
歳月が流れ、やがて故人が生きていたことも、ほとんど誰の記憶にも登らなくなると、はじめて墓らしくなるのだろう。
 風が吹き上げてくる。それに乗って波の音が、途切れ途切れに運ばれてくる。
五剣山と屋島が春の霞に透かし彫りされている。

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 晴美は線香と花を供えた。
「人間ってあっけないものね。
これで本当に独りになっちゃった。言ってくれればよかったのに。
神戸に転勤したのがいけなかったのね。
まともな食事もろくすっぽ摂らずに、仕事ばかりしていたんでしょう。
それに煙草。超ヘビースモーカー。
肺も悪くなって当たり前。ときどき咳き込んでたから、おかしいとは思っていたの。
でもお互い睨み合ってたから……。妻として失格ね。母にもなれなかったし……。
いっぱいいっぱい謝ることがあるの。今さら言っても仕方ないけど、ご免ね。
私が手紙受け取ったときには、あなたはもうなにもかも覚悟ができていたのね」

 晴美は少し傾いた線香を直した。
「でも嬉しかった。あなた許してくれたもんね。
あなたは一生私を憎み続けるだろうなって思っていたの。
私もあなたの気持ちを理解しながらも背中向けていた。
我が儘で意地っ張りの武春、なんてね。
 私、救われたわ。手紙の最後の一言で」
 晴美は両の手を合わせた。
「プロポーズのとき言われたきりね。あのときの言葉、今でも宝石箱にしまってあるのよ」
 真珠の粒が頬を伝った。
「愛してる、か。やっぱりいい言葉ね。
今度は宝石箱なんかにしまわずに、ちゃんと胸に付けとくわ。
干からびないようにね」
 風が肩で切りそろえた晴美の直毛を掻き上げていった。シャンプーの甘い匂いを攪拌した。

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 鶯が啼いている。
でも小一時間くらいでは進歩がなかったようだ。
やっぱり啼き方は下手くそだった。
「私、ハンコ押さなかったよ」
  そう言うと、晴美はハンドバッグから一枚の紙を取り出した。
武春が死ぬ一週間前、手紙とともに晴美に送りつけてきた離婚届だった。
独り身になってもう一度出直せということだった。

「誰がこんなものにハンコなんか押すもんですか」
 晴美は離婚届をもうこれ以上ないくらい小さく破った。まるで罪滅ぼしのように。
 晴美は小さくなった紙片を両手に包み込むと、もう一度言った。
「ご免ね。あなたの最後の言葉、これからはちゃんとブローチにして胸に付けとくわ」
 それから晴美の髪にまとわりつこうとする気まぐれな風に、これあげるわ、と言って両手を大きく空にかざし、パッと開いた。
 紙吹雪が綿帽子になって舞った。
蘇芳色の過去が後方に飛び去っていく。癒やしがたいすべてのものが、どんどん小さくなっていく。
そして最後には空の青に吸い込まれて消えていった。

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 鶯が啼いた。やっぱり下手くそだ。でも許せる。今ならすべてを。
「無」。
武春の墓碑銘である。
生きることは、無。
しかし、無の中に有を積み上げていく行為こそ生きるということである。
 自分を灯明とせよ。
武春はそう晴美に言いたかったに違いない。
晴美は、うん、と頷き、勢いよく立ち上がった。
「私、これから清滝山へ行ってみる」

 灯台が、よくやった、と快哉を叫んでいた。
ホー法華経! 鶯が啼いた。
うん、随分うまくなった。その調子だ! 

小豆島恋叙情第17話

春暖 後編    鮠沢 満 作


「産みますか」
 医者は単刀直入に訊いた。
「いや堕ろします」
 晴美は躊躇なく答えた。
「初めてのお子さんでしょう」
「でも年齢と子宮の状態を考えると……怖いんです」
 晴美は唇を噛んだ。
「年齢的には高齢出産ぎりぎりですが、現代医学の進歩はめざましいものがありますから、それほど心配はいらないと思いますよ」
 医者は産む方を勧めている。自分の腕に自信があることを誇示したいのか、少し横柄ですらある。
「でもこの前超音波で診察したとき、何か言い淀みましたよね」
 医者はカルテから目を上げた。用心ならない女と思ったに違いない。瞳に猜疑的な光が留まっていた。
 晴美はそんな医者の拗ねたみたいな視線を押し返して、
「前回と同じことが起こりそうで……子宮が完治していないような気がするんです。
 無理して子供の一生を駄目にしたくはありません」
 医者は、今度は露骨に厭な顔をした。晴美が完治していないと言ったことに対してである。
ここ数年医者は晴美の主治医を務めていた。
本音を言えば、晴美はこの医者をあまり快く思っていなかった。
頭はいいのだろうが、人間的にどこか欠陥がありそうだった。
裕福な家庭に生まれ、不自由なく育って、いい大学にストレートで入った。
回り道をしてない分、自己本位で他人に優しくない。
それでいて人間味を売り物にしようとしているタイプだった。

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 晴美は二年くらい前、一度出産した。
しかし赤ん坊は早産ですぐ息を引き取った。もしかすると、死産だったのかもしれない。
というのも、産まれたとき赤ん坊の泣き声がしなかったからである。一週間ばかり入院して家に帰った。
そのとき武春が言葉を濁しながら晴美に事の次第を説明した。
 が、それがすべてでないことはすぐに分かった。
武春が慎重に言葉を選んで、おまけに彼の財産ともいえる実直さを隠せないまま、しどろもどろで説明したからである。これまで何度も子宮が異常を訴えた。
が、副作用を代償にした良薬のお陰で事なきを得てきた。
ただ子供の発育に関しては、医者としてはやるだけのことはした、しかし百パーセントの信頼を寄せることはできない、と言われていた。換言すれば、何かあってもそれはあなたの過失によるものですよ、と予防線を張ったのである。

 結局、武春は子供を失ったことに落胆し、晴美はそのことに加え、子宮を持ちながらも健康な子供を産めない身の上を悲しく思った。
 そのときなぜか「石女」という言葉が浮かんだ。だから今度も晴美は恐れた。
「やっぱり駄目です」
「ご主人と相談なさってはどうですか。まだ時間は十分ありますから」
 堕ろすまでにはまだ十分時間があるとでも言いたいのか。医者という職業は、肉体的処置さえしておけば、患者が抱える心理的・精神的な苦痛を度外視して行える仕事なんだろうか。
純白の白衣に身を包んだ目の前の医者が急に空恐ろしく思え、悪阻に似た吐き気さえ覚えた。
医者の助言にも拘わらず、数日後、晴美は決断を実行に移した。

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 術後、躯は鉛を埋め込まれたように重く、自分のものとは思えなかった。
それよりやはり精神的な呵責の方が大きかった。
ほんの数時間前まで自分の胎内で鼓動していたもう一つ
の命がなくなったのだ。晴美は、これで自分は完全に母性を失った、と思った。
女に戻れても、母にはなれない。
それでも悲しい女の性か、下腹部に諦めがたい愛情の袋が宿っているのをはっきり感じざるを得なかった。
晴美は確かめるように、もう一度手の平でお腹をさすってみた。
やはりつい先ほどまでそこにあった温もりがない。
あるのは石のように固くて冷たい不毛の肉の塊。
自分の躯が急速に滋養を失い、しぼんで、そして老いてゆくのを感じた。

 晴美に襲いかかった喪失感は底知れないものがあった。
自分の躯を自分のものと同一視できないもどかしさ。
他の女と同じように我が子を抱きしめることができない空しさ。
自分が下した結論ではあったが、やはり女であると同時に一時的であれ母親だった自分にしか分からない無念さ。
それまで後生大事に抱いていた未来を見据えた希望は背を向けて遠ざかり、下腹部にはどす黒い慚愧の苦汁にまみれた掻き傷と、言い様のない喪失感だけが残っていた。

 晴美は傷付いた躯を抱きかかえるようにして病院を出た。
外には晴美の癒されない傷とは無関係に、何食わぬ顔で昨日の続きがあった。
餌をもらおうと足にまとわりついてきた野良犬。
右足にギブスが入っているのに、院外では松葉杖も使わず散歩する初老の男。
帰ってこない患者を待つ霊柩車に似たタクシーの群れ。
煙草を吸うのを日傘で隠す女。
どれも手術前と同じで、奥行きがなく平板そのものだった。
無機質な上に無味乾燥。それに無意味。

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 夏だというのに、晴美は寒さで震えていた。
さらに強く両手で自分を抱きしめ、凍えそうな胸を温めた。
いくら温めても、胸に質量に富んだ暖かみは戻ってこなかった。
 晴美は空を見上げた。別に空が見たかったわけではない。両手に赤ん坊を抱いた女と自分を比べ、
自分は何かに負けたんだ、という敗北の涙を流したくなかっただけだ。
夏の太陽は容赦なく晴美を打ち据えた。手を貸すものは誰一人いない。
人は結局はいつも独り。
生まれるときも、死ぬときも。
誰にも言えない秘密を持った罪悪感が、晴美の両肩にずっしりのしかかっていた。
  
 迂闊だった。産婦人科医院の名前のある薬袋を食器棚の奥にしまうのを忘れていた。
洗濯物を干して、肩で息しながら部屋に戻ると、武春がじっとこちらを睨んでいた。
その表情からして明らかに怒っていた。
結局は白状してしまった。

              *

「神戸に単身赴任だ」
「会社が決めたの」
武春はすぐに返事ができなかった。しばらく置いて、
「半分は会社、半分は俺の考えだ」
理由は訊かなくても分かっていた。
「何年くらいで帰れるの」
晴美にしてみれば何年でも同じだった。ただそう訊く以外、その場のふやけた空気を取り繕う言葉がなか
っただけである。
「最低三年だな」
「お互いにその方がいいかもしれないわね」
どんな会話を交わしても、二人が行き着く先は決まっている。だから自然と投げやりな言い方になってし
まう。
「その間、じっくり考えてみたい」
「そうやって私を責めるのね」
「そうじゃない。お前がもう少し素直になれば……」
「責任はすべて私なのね。私が、ご免なさい、と謝ればいいのね」
 もうそれ以上言っても仕方ないと思ったのか、二人とも次の言葉を構築しようとはしなかった。

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 お互い相手のことを心底憎んではいない。いや、むしろ気遣っていたくらいだ。
なのに口から飛び出す言葉は、封印しておきたい言葉ばかりで、相手を思いやる言葉はいつも気弱で、
たとえ喉元までたどり着いたとしても必ずブレーキがかかって立ち往生してしまう。
行こうか行くまいか迷ってぐずぐずしているうちに、後から駆け込んできた礼儀知らずの連中に先を越さ
れてしまうのだった。
 こんな不甲斐なさが歯痒く、自分たちの卑小さに嫌気がさすことがあった。
しかし、最後の一言だけは、どちらも口にしなかった。それを言うと、あらゆるものが本当にお終いにな
ってしまう、そんな不安を互いに抱えていたからである。


PS 5000字制限に収まり切りませんでした。
終章を次回お届けします。<(_ _)> 黒子より

小豆島恋叙情第17話

春暖 中編    鮠沢 満 作


「この世は無常。それを頭に叩き込んでおきなさい」
「無常ですか」
「そうじゃ。生者必滅 会者定離。
我々人間は、生と死を背中合わせに生きている。
朝に生まれて夕べに死すことも可なり。
十分あり得ることだ。
さっきまで楽しそうにお茶を飲んでいた朋友が、
さようならと言って目の前の角を曲がったところで車に轢かれ絶命する。
そういうことは日常茶飯のことだ。
他人だけじゃない。
あなただって同じです。
今こうやって私と話をしている最中にも、
心筋梗塞かなにかでぽっくりいくことだってある。
かく言う私だってその例にもれない。
未来のことは誰にも分からない。
だから生かされている時間を精一杯生きる。
それしか業から逃れる道はない。
出し惜しみなく生きることによって自己を高める以外術はないんじゃ。
毎日が一期一会と思って暮らすことじゃのう」

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 白い髭を伸ばした住職が、武春の肩越しに語りかけてくる。
決して説教的な響きがないのが嬉しかった。
住職の嗄れた声が岩室に微妙な震動を伝える。
「精一杯生きたらこれまで私が犯してきた罪は消えるのでしょうか」
「消えはしないが、仏に祈って懺悔し、そして精進することで人の心は救われる」
「賢くなれと」
「そう。そのためには、一人でも生きられるよう、自らを灯明にすることを学ぶことだ」
「自らを灯明にする」
「そう。他人の助けを必要とせず、自らの力で生きることじゃ。
  それとこれはなかなか難しいが、他人の幸せを自らの幸せとすることじゃ」
「他人の幸せを自らの幸せに」
「言うは易しい。
 しかしいざやってみるとなると、天上遙か彼方に明滅する星をつかむに等しい。
 これができたら仏様に一歩近づいたことになる。
 かく言う私もそれができないでいる。
 毎日懺悔の日々を送っている」
「ご住職様でも」
「そう。まさに凡夫じゃな。
 迷いが多い。
 しがらみばかりじゃ、この世は」

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「手始めに何からすればいいのでしょうか」
「許すことじゃな」
「許す?」
「そう。許すんじゃ。
 あらゆることを。
 あなたの周りの者も、自分のことも。本来は無。
 何もないのじゃ。だから生きることも無の中にある。
 無の宇宙。悟りはその無に在り」
「無ですか」
「つまりは欲を捨てろということかのう。
 無だから無為というのではない。
 誤解してはいけない。
 生きるということは、無の中に有を積み上げていく行為に他ならない。
 よって生きるという行為は、時間の長短で評価されるものではない。
 いかに生きるかが問われる。
 罪を重ねて生きることは、生きていても死んだに等しい。
 高潔に生きて死んだとしても、生き続けることができる。
 そのためには、与えられ許された生命の限り、強く、熱く生きることじゃ。
 ときには他者のことを思いながら」
「他者を思いながら」

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 武春の声がぽつり膝の上に落ちた。
その上に置かれた両の手が心持ち震えていた。
隙間風もないのに、ロウソクの炎が線香の匂いを焦がして揺らめいている。
焦がされた香の微粒子が、クルミの殻に閉じこめられたような静寂の隙間に漂っていた。
これまで長い年月をかけて岩間にしみ込んだ空気が、岩室全体から冷ややかに匂ってくる。
そればかりではない。
惻々と全身に伝わってくるのだ。
武春はこの濾過された空気の鋭利さに、
菜の花のねっとりとした匂いを嗅いだときそうしたように咳き込んでしまった。
 手が朱に染まっていた。
 武春は、はっとなり、悟った。
 時は人を待たない。
 毎日を一期一会に生きる。
 生きるというのは、時間の長短ではない。
 住職の言葉が思い出された。
 武春は慈悲窟と呼ばれる本堂の地蔵菩薩に手を合わせた。

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 大きく枝を広げた公孫樹の木が、
岩窟に嵌め込まれた窓に無理矢理切り取られた恰好で収まっていた。
左手には沈黙がそのまま形になったような梵鐘が、
つるし柿よろしくぶら下がっており、
ひずんだ楕円形の影を手水鉢の腹に投げかけていた。
その先に内海湾がうっすらけぶって見える。
本尊に手を合わせて祈っていると、躯がフィルターにかけられたように、
ゆっくり清められていく思いがした。

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不思議な気分だった。
これまで経験したことのない法悦感が細胞の一つひとつを満たしていく。
茫漠としていたはずの脳裏の風景でさえ、新たな輪郭を確保し始めていた。
「すべてを許す、か。
 所詮は無。限りなく無に生きる。
 そしてそれを喜びとせよ」
 住職の最後の言葉を繰り返してみた。

 ザーと何かが鳴った。
この寺に住みついた言霊の仕業か。
それとも単に断崖を掃き降ろす風の音か? 
晴れ間が急速な勢いで狭められ、しばらくすると激しい雨のつぶてが落ちてきた。
境内の木々は瞬く間に濡れ、乾いた緑が滴るような緑に早変わりした。
葉の縁に少し顔を覗かせていた初夏の彩りが、
慌てて頭をすぼめどこかに雨宿りに行ってしまった。
しかし、その雨も武春の決心がいかほどのもかを試していたかのように瞬時の勢いに過ぎず、
やがて雲が割れ、その裂け目から光の束が落ちてきた。
見上げると、醒めた目つきで武春を見下ろすごつごつとした岩肌に、
出来立ての青空がへばり付いていた。

 この切り立った崖をよじ登ってこそ、物の哀れが分かるというものだ。
そして人を許すことができる。そう思わんか? 
それともそうする自信がないとでも?

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  小豆島霊場第十四番、清滝山。
読んで名のとおり、清い滝があったのだろう。
今はそれほどの水量はないものの、泉は枯れることなくこんこんと湧き出ている。
本殿は慈悲窟と呼ばれ、地蔵菩薩を安置している。
他の多くの小豆島霊場と同じように、修験者の行場として始まった。
本殿左には岩を穿ってこしらえた洞穴の桟閣がある。
祭壇に不動明王が奉られている。
小豆島霊場の中で最高峰に位置している。
背後の屏風岩は、山伏をも跳ね返すほど険しい。
まさにばっさりと垂直に切り落とされている。
この峻烈無比な懸崖を人生に譬え、苦難苦行したに違いない。
困難を乗り越えることによって始めて悟りを開き、
この世の森羅万象あらゆるものを慈悲でもって受け入れることができる。
境内に佇んでいるだけで、身も心も洗われる思いがする。
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はじめに

小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、最後の2話になりました。
本編は、作者が「気合いが乗らず放置」されていた作品です。
みなさんからのコメントをいただいて、
「いろいろな人が読んでいただいている」という気持ちをエネルギーにして、
再度書き加えて完成させたものだそうです。
そういう意味では、コメントをいただいた人たちに感謝_(._.)_
これも「長編」となりました。(^_-)
前・中・後編の3回に分けてお届けします。
おつきあいいただければ幸いです。

小豆島恋叙情第17話

春暖 前編    鮠沢 満 作

 まさに花の海だった。
男はその花の海で溺れていた。
菜の花の鮮やかな黄色に目を焼かれ、思わず瞼を閉じた。
瞼の裏に焼き付いた菜の花の暗転した残像でさえ、今の男の気持よりはるかに明るかった。

 しばらく目を閉じたままでいた。
やがて瞼の裏にこびり付いた菜の花に鮮明な色が戻ってきた。
男は蘇生した映像にやや暗い絵の具を重ねることで、
ひび割れた心と釣り合った色調に近づけようとした。
が、春先のこと、いったん目を開くと、まるで男の期待を裏切るかのように、
視角に訴えるものすべてが春の衣に身を包み、
生命力に満ち、そして照り輝いていた。
それは男にとっては無慈悲とも思える責め苦に等しかった。

 男は襲いかかる色彩のつぶてを避けるように、神経を視覚から聴覚へとシフトした。
聞こえてきたのは、そのときだった。
チリン。チリン。
それは花の海の底からやってきた。
そよぐ花の波をかき分けるようにして。
空耳だろうか。
一瞬、耳を疑った。
耳を空にした。
チリン。チリン。
間違いない。
深い井戸の底から、しじまを破って空気の筒を登ってくるような澄んだ音色。
猜疑の耳を確信へと作りかえ、殺菌された音色を拾い上げていった。

 最初、音は朝露が葉の表面を滑り落ちるようにか細いものだった。
しかしそれが次第に音色の振幅を広げ、男の方へと近づいてきた。
男はわけもなくあとじさったが、その凜烈な響きにどこか心和むものを感じ、
それを迎え入れようとする自分がすでにいることを認めないわけにはいかなかった。
やがて音は男をすっぽり包み込んでしまった。
大地の掌が地上の生きとし生けるものすべてをそっと包み込むように。

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 男は無数のひびが入った陶器そのものだった。
そこに音がしみ込んでいった。
男は、癒されていく、と感じた。
と同時に、これまでの自分がいかに愚かであったか、犯した罪がいかに重かったか知った。
男の前を白装束に菅笠をかぶった遍路姿の一団が、念仏を唱えながら通り過ぎていったのだ。
足下に咲いた蓮華が、納得したように春風に小気味よく頭を揺らし、彼らを見送っていた。
同行二人、か。
口からリンゴの種がこぼれるような口吻だった。

 黄一色に塗り込められた菜の花の照り返しに炙られ、
空気はまどろむような微熱を帯びていた。
そのまどろみの中で、誘惑するように肢体を揺らめかせながら白い蝶が一つ二つ舞っていた。
まさか遠ざかる鈴の音の残響が……?
そんなはずない。
男は頭を振った。
だが、思い直して蝶の舞姿を追ってみたが、窈窕とした姿はすでになかった。
花の海の向こうに、もう一つの海が広がっているばかりだった。

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 冬の噛むような冷たさから解放された瀬戸の海は、
かじかんだ手足を時間をかけてゆっくり解きほぐし、
未練がましく張り付いている冬の名残のひとかけらを、
えい、と掛け声もろとも弾き飛ばした後のような爽快感を漂わせていた。
緩やかに蛇行した潮目が、午後の白っぽい日差しの中にたゆたっていた。

 男はその絹を思わせる柔肌に、そっと身を任せたい衝動に駆られた。
気休めと分かっていても、少なくとも胸の内を掻き破る苦しみだけでも、
やんわり包み込んでくれそうな気がしたからである。

 俺は弱すぎる。
男の弱音をなじるみたいに、塩気混じりの春風が男の横顔をはたいていった。
それでも男は、男としての矜恃だけは捨てないぞ、
とばかりに真っ直ぐ海を睨み、凪にひそむ波の群れの激しさを手繰り寄せて、
自分の下した決断の正しさを飾ろうとしているように思えた。

 男は大きく息を吸い込んで、花々の甘酸っぱい熟した匂いと、
萌え立つ若葉の青っぽい羞恥の匂いを、肺の奥に巡らせてみた。
しかし、相反する二つの空気は乱気流となって、男をむせ返らせてしまった。
 男は激しく咳き込んだ。
肺を針で突かれたような痛みが走り、胸を両手で強く押さえたままその場にうずくまってしまった。
背を丸め息を殺してしばらくそうしていると、やがて痛みは和らいでいった。
漁師の見習いを始めて一年。
潮風ごときに咳き込むようじゃ、まだまだ修行が足りんな。

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「兄貴、すまない。世話になる」
「親父とお袋だって、口には出さないが内心は喜んでいるんだ。
 俺には分かる。
 二人ともこの頃めっきりふけこんじまったからな。
 形はどうあれお前が帰ってきたことは、
 親としてはうれしいに違いない。
 その証拠に親父は今朝早く海に出たよ」
「海に?」
「お前に食わすんだと言って、春一番の鯛を釣りに行ったよ」
「この俺のために鯛を?」

 父親は感情をあまり表に出さない寡黙な漁師だった。
それに実直だが往々にして愚直。
これが男の記憶にある父親であった。
漁船の舳先にへばり付くようにして小魚を相手にしている父親が、
ネクタイを締めスーツに身を包んで会社勤めをするクラスメートの父親に比べ、
どこかみすぼらしく、卑屈そうに見えた。
魚を捕るだけしか生活の知恵を持たない父親。
無学でろくすっぽ読み書きさえできなかった。
小学生の頃、教科書の読み方を教えてくれるよう言ったら、
海に湧き上がった嵐みたいに急に不機嫌になった。
漁師に読み書きはいらない、と言ったそのときの怒った顔を今でも忘れていない。
空を見、海の色を読んで、どこに魚がひそんでいるか探し出す嗅覚は天才的で、
どの漁師にも負けなかった。

しかし、いつも貧乏だった。
遊ぶ金も無聊を慰める金も持たなかった。
魚の臭いのしみ付いた、くたびれた作業服に押し込められた肉体だけの男。
太陽と潮に焼かれる単調な毎日。
それに飽きもせず、それを疑いもせず、ただ日課としてそれを受け入れて過ごすことが
漁師の勲章と信じて疑わなかった男。
男はそんな父親を、どこかつまらないちっぽけな人間として軽蔑していたところがあった。

「くだらんことを訊くが、本当に漁師になるつもりか」
 兄がもう一度訊いた。
「ああ。決めたんだ」
「サラリーマン根性じゃ務まらねえ。辛いぜ」
「分かってる。
  ドン底の生活を強いられるかもしれないが、それでもいいと思っている。
 この際自分をしっかり見つめたいんだ。
  もう失うものは何もない」
「ならいい」
 兄はもうそれ以上言わなかった。

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「小豆島へ帰ることにした」
武春は躊躇しながらも、他にいい手段がないんだといった面持ちで言った。
晴美に会うのは三日ぶりだった。
晴美は「そう」と生返事をしただけで、別段驚いた様子も見せなかった。
こうなることは随分前から分かっていた、
と言わんばかりの冷ややかな態度である。
二人の間に冷たい空気が流れ込む。

 それもそのはず、晴美にとってはこの三年間、
実質的には別居生活を強いられてきたからである。
それも武春からの一方的な別居宣言といってよかった。

「一緒に来ないか。お前さえよければもう一度やり直してもいい」
喋り方と声に晴美にイエスの返答を期待するだけの執拗さと熱意が感じられなかった。
一応形式的ではあるが最後のオプションだけは提示した、決めるのはお前だ、
と手順を踏んだことで責任は果たしたと言わんばかりの男の傲岸さがあった。
男って勝手。
この三年間、私がどんな思いで暮らしてきたか、分かるはずないわ。
晴美はそう言いたいに違いない。
武春に半分背を向けた姿勢がそのことを物語っていた。

 晴美は洗濯物を静かに畳んでいる。
返事はない。
ただおざなりではあっても武春の誘いが意外だったのか、
ちらっと目の隅で武春の煮え切らない横顔を捉えたが、
それに気付かれないようにすぐさま洗濯物に注意を戻すと、
先ほどよりもっと堅牢な沈黙で身を固め手を動かし続けた。
どこの歴史資料館にも置いてあるマネキンみたいだ。
動きが機械的で感情が枯渇していた。
まさに化石人間演ずる無言劇。
しかしその無言はどこまでも深く、辛辣で、武春が最後のオプションを提示したのと同じように、
晴美も置かれた状況はどうであれ、これまでまがりなりにも妻としての責任は果たしてきたつもであると抗議していた。

 武春は、晴美の答えが十分すぎるほど分かっていたはずなのに、
まだ晴美に未練を残しているような言い方をしたことと、
自分の人間的弱さからつい偽善とも取られかねない優しさを示唆したことを悔いた。
「すまなかった。忘れてくれ」
口の中が乾いて、言葉が口腔内に引っ掛かりそうになった。
晴美は貝のように口を閉ざしたまま、やはり一言も言わない。
人生をやり直すなんて、そんな簡単なことじゃないのよ。
あなたは何にも分かっちゃいない。
そう顔に書いてあった。
黙りこくった晴美の怒りも尤もだと思う。
武春自身も自分がどんなに虫のいいことを言っているか、百も承知していた。
三年間放っておいて、今度は島に帰るときた。
いくら気の長い晴美でも頭にくるはずだ。

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 洗濯物を畳み終えると、晴美は箪笥から武春のワイシャツを取り出してきて、
アイロン台の上に置いた。
アイロンが熱くなるまでの間、二人とも気まずい思いをした。
アイロンがどんどん熱くなるのに、二人の関係は氷室の中みたいに冷え冷えとしていた。
アイロンのランプが時間切れを知らすみたいに点滅している。
その点滅が消えると、晴美はアイロンをワイシャツに走らせた。
近々離婚するかもしれない男のワイシャツにアイロンがけをする女。
いったいどういうつもりなんだ。
愛情が切れてしまった男のワイシャツの皺を伸ばすことが、
自分たちに生じた瑕疵の皺をも伸ばすことにつながるとで思っているのだろうか。
まったくもって晴美の気持ちが読めなかった。
晴美はもしかすると、武春のそういう気の利かない直線的な実直さに腹を立てているのかもしれなかった。

 晴美は仕上がったワイシャツを、ポンと武春の膝元に投げて寄こした。
これであなたへの最後のご奉公も終わり。
まさにそういう意味らしい。
「みっともないからそれ着て出て行って。
 しみったれと思われるの厭なの。
 それに狭い島のことだもの、ワイシャツの皺一つで夫婦仲の良し悪しが噂になる。
 そうなったらあんたみじめじゃない」
「いずれは分かることだ」
「そうね。最初は根掘り葉掘り奥さんのこと訊くでしょうけど、
 なるほどそういうことだったのか、と納得したら公然のタブーになる」
 武春は晴美の元を去った。 

小豆島恋叙情第16話

残念石    鮠沢 満 作

 まさか?!
 ぼんやり鬼灯が浮かんだように、女はそこに座っていたはずなんだが……。

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  一日の仕事を終えた太陽が、帰り支度を済ませ、
茜色の大輪になって水平線に引っ掛かっている。
入道雲に取り付いた毒々しいまでの朱の色が、
にじみ出す寂寥の重さに堪えられなくなって港に落ちていた。
石組みの防波堤とそこに築かれた灯台が赤く染まっている。

女は灯台とは反対の残念石を並べたもう一つの防波堤の突端にいた。
今度積み出されるとしたら、真っ先に運び込まれるはずの残念石の上に、
しなだれかかるようにして座っていた。
女は半袖の白いワンピースを着ていた。
裾からそれと同じくらい白い足が覗いている。
遠目にもどきっとするほど艶めかしい。
髪はまさに烏の濡れ羽色で黒くしなやか、
そしてこれまで一度もハサミを入れたことがないほど長かった。
女は波打つ髪を束ねておらず、腰の辺りまで流れるがままにしていた。
ときどき海風が誘惑するみたいに梳きあげていくが、
そのたびに髪にまぶされた朱の鱗粉が海面にこぼれ落ちた。
そして一瞬ではあるが、水面にパッと花火を咲かせた。

 女は外海の方に向き、何かに取り憑かれたように、じっと一点を見つめていた。
が、視線はゆるやかにうねる波の背に浮いた残照と同じように頼りなく、完全に拡散していた。
外海から誰かが帰ってくるのを待っているのか、それとも迎えにくるのだろうか。
潮は満ちていた。
その上穏やかで、なめした皮のようにすべすべしていた。
女は子守歌を口ずさみ始めた。
細くて泣き出しそうな声が、次第に濃くなる夕闇に押し潰されそうだ。
昼間の暑さを残した空気が気だるそうに震え、
防波堤に囲まれた港の中を迷い子のように彷徨った。

 明らかに女は待っていた。
そのときが来るのを。
「美紀、もう家に帰っておいで」
母親らしい女が家並みの間から叫んだ。
甍が低く、海の続きのように見えた。
海辺に近いというのに、どこかでヒグラシが鳴いていた。
ヒュッヒュッヒュッ。
女の声に似ている。
か細く、途切れそうな声。
いや、女の声だったのかもしれない。
女が子守歌を唄い終えた。
そしてうっすら笑った。
どんよりとしていた目に、閃光に似た光が浮いた。
「敏樹が帰ってきた。
  私を迎えに。
  ほら、あそこ。
  わたし、明日花嫁になるの」
女が指さす方を見ると、空と海が混ざり合って底知れぬ深さを湛え、
どこまでが空でどこまでが海か判然としなかった。
弛緩した空気は、その下にあるものすべてに覆い被さり、
有無を言わさず飲み込もうとしていた。

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 海はもうどっぷりと暮れかかっていた。
背後から迫り来る濃紺の闇を感じる。
目を凝らすと、確かに舟影が見えた。
いや見えたような気がした。
「確かに一隻の舟が見えるね」
そう言いたくなって、女を見た。

しかし、女はいなかった。
もう一度薄闇を掻き分けるようにして防波堤の突端を凝視した。
やはり女はいなかった。
ただ、女が座っていた一番早く積み込まれるはずの残念石が、
鬼灯のようにほんのり明るく灯っていた。

確かに誰かが迎えに来たらしい。
丁場のあった山の方に、狐火が見えた。

             *

 1583年、石山本願寺跡に一つの城が築かれた。
「天下無双」と謳われた大坂城である。
城主は、豊臣秀吉。
この大坂城は1620年から十年かけて大改修が行われた。
その際、多くの石が陸路及び海路を経て大坂に運ばれた。
ここ小豆島は良質の花崗岩を産すること、
また、海路という運搬に適した立地条件にあったことで、
多くの丁場がつくられ、石が切り出された。

 切り出された石は、美しい小豆島を離れ、
恐らくは大きな城の石垣になるという晴れがましいロマンを胸に、
大坂へと運ばれていったのに違いない。

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 多くの丁場のなかでも、小海の丁場は隆盛を極め、切り出された石の数は定かではない。
しかし、切り出されながらも積み出されず残された石は、
大坂に行けずに「残念」ということから「残念石」と呼ばれているが、
この残念石が小海浜に四百個ほど残されていたというから、相当数に登ったことは間違いない。
他の丁場から切り出された石も合わせると、その数たるや驚くべきものになる。
一つの残念石の大きさは、約九十センチ角、長さ二メートル、重さ約五トン。
 
 現在のように高度な運搬技術と重機が発達していない時代のこと、
石切、運搬、舟への積み込み等、すべて人力に頼るしかなく、
苦役を強いられた人の数、そして不幸にも命を落とした石切職人の数、
それら諸々のことを思うと、残念石に込められた〈残念〉は、
漢字二文字に凝縮されるべきものではない。

事実、小豆島町岩ヶ谷には、天狗岩、豆腐岩などの丁場が残されており、
矢孔や刻印のある巨石があるが、なかでも八人石と呼ばれる残石は、
運搬中にぱっくり石が二つに割れ、八人の石切職人が下敷きとなって命を落としたとされている。

現在、〈八人石〉として残されているが、その惨事を思うにつけ心が痛む。

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 小海の港には、現在、四十個の残念石を明治15年国より払い下げてもらい、
記念石として防波堤の上に並べている。
残念石は、大坂に行く日を、今か、今か、と四百年もの間待ち続けてきた。
これからもまたそうであろう。
まるで離ればなれになった家族、又は恋人を待つように。
ちょうど女がそうしていたように。

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小豆島恋叙情第15話
虫送り 終章  鮠沢 満 作

「さっきどうしてご免と謝ったんだい」
「あなたを残して島を出たこと」
「どうしてそのことを謝る」
「あなたの気持ちを知りながら出たから。ずっと引きずってたの。大阪で働いていても、心はこっち
にあった。というか、あなたに。体がむこうで、心がこっち。自分じゃなかった。大阪に発つ夜、フ
ェリーの待合室であなたの泣き出しそうな顔を見たとき、決心が鈍りそうになった。でもとにかく独
り立ちしたかった。祖父と祖母に迷惑をかけたくなかったの」
「知ってたよ」

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「あの頃、貧しかった。心も体も。それなのに痩せ我慢ばかりしてた。強くなるんだって。負けない
よって。あなたに会えなくなるかもしれないのにね。無理して背中向けちゃった」
 沙織の脳裏に当時のことがよぎっているのか、表情が幾分固くなった。
「沙織はいつも誰彼なく遠慮ばかりしていた」
「仕方なかったわ。私は父が誰か知らないのよ。それに母がああいう形で他界したでしょう。もう世
間の笑いもの。大きな顔して暮らせるわけないじゃない。母が私を産んだ劫罰を受けているんだと思
った。死ぬまでこんなことが続くんだろうなって考えると、正直言って生きる自信さえなかった。
 母が死んで実質的に独りになって、人間ってなんて淋しいんだろう、どうして生まれてきたんだろ
う、生きることって何だろう、そんなことばかり考えてた。昼間あんなに強がっていたのに、夜にな
るとからっきしダメ。魂が抜けたみたいに萎えてね。暗い部屋で膝小僧抱えてめそめそ、夜空の星を
眺めて涙してた。泣かないぞって思うと、かえって泣けてくるの」
「ご飯もろくすっぽ食べていなかった」
「いくら血がつながっているとはいえ居候の身でしょう。体中に遠慮を貼り付けていたわ」

 ここで沙織はふーと大きな息を一つした。
「なのに俺はあんなひどいことを言ってしまった」
「でも本当に痩せていたわね、あの頃の私って。でもあの一件がなかったら、私たち今こうやって一
緒にいないかもしれないわ」
「そうだね」
「その頃のあなたの私に対する気持というのは、てっきり同情とばかり思っていた。沙織は不幸で可
哀想な女の子だって」
「俺はそんな慈善家じゃない」
 沙織への思いがそんな薄っぺらなものでないと断言したつもりだった。
「私、傷付くのが怖かった。いつでもそうだった。だから傷付く前に背中を向けるの。私の得意技。
だからあなたの一言も、ただの言い訳だと」
「違う。俺は聞いたんだ」
「聞いた?」
「そう」
「何を?」
「火傷した夜、布団の中で。夜中、手がひりひり痛んで目が覚めた。そしたら枕元に誰か座っている
んだ。薄目を開けてじっとそれを見ていた。ちっとも怖くはなかった。それどころか不思議と温かい
んだよ。さらによく見ると光背が見えた。ああ観音様だ、と思った。その観音様が言ったんだ」

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「何て?」
「沙織を守れ」
「私を?」
 沙織は眉根を吊り上げ、いかにも驚いたという表情を浮かべた。
「そう。きっとそれは俺自身の願望から生まれたんだろうと思う。なぜなら実際にそう思っていたん
だから。それだけじゃない。沙織が大阪に行って一年くらいして、どうしても会いたくなって、それ
で俺も大阪に行こう、そう決めた。荷物をまとめていよいよ出発というとき、千手千眼観音様に今後
のことをお祈りするためにここに来たんだ。両手を合わせて祈っていたら、また声がした」
「今度は何て?」
「一刻も早く沙織を小豆島に呼び戻し、一緒に暮らせって」
「それであの手紙が届いたのね」
「沙織が何か抜き差しならぬ状況にいる。そう思って、素直に自分の気持を書いた。それまで回りく
どいことばかり言ってたけど、そのときばかりはすらすらと正直な気持ちを綴ることができた」

「なんだ私だけじゃなかったのね」
「と言うと?」
「私も同じ声を聞いたの。でも随分突拍子もないことだから、誰にも話したことないの。
 勤めていた会社ね、ちょっと危ない会社だったの。いわゆる暴力団の息がかかった会社。そう言え
ば分かるでしょう。何も知らずそのまま会社に残っていたら、私今頃どうなっていたか分からない。
 ある日、仕事で疲れてぼろ切れみたいになってアパートに帰ったの。夕食もろくすっぽ取らずに、
シャワーを浴びるとすぐ布団にもぐり込んでしまったわ。エレベーターのドアが閉まるみたいに、す
ぐに機械的な眠りが襲ってきた。三十秒も経たないうちに、眠りの底のまた底。そこであなたと同じ
ものを見て、そして聞いたの」
「どんなこと?」
「努が淋しがっている。黙って努の胸に飛び込めって。翌日、あなたから手紙が届いた」
「そうなんだ。沙織が見たものって多分俺が見たものと同じで、きっとここの千手千眼観音様だよ」
「うん。で私ね、もう矢も楯もたまらず退職届を出して、あなたの待つ小豆島に帰ってきたというわ
け。あんなに逃げるようにして出て行った島なのにね。
 でも嬉しかった。虫送りの日あなたが言った言葉が本心だったこと、それといつも私のことを優し
く見守ってくれていたこと」
「これから先だってずっとそうさ。観音様に誓うよ」

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風が薄絹を垂らしたような優しさで斜面を駆け下りる。
稲が波打ち、小鳥が囀る。
川でメダカが笑い、ナマズが跳ねる。
いい気分だ。
真清水のせせらぎ。棚田に降り注ぐ陽光。
こんもりとした木立。瀬戸の波を思わせる甍。
何かが包み込んでくる。
大きくて柔らかな手で。何かが見つめている。
微笑みをたたえた温かな眼差しで。
二人は千手千眼観音に両手を合わせて祈っていた。

「ねえ行かない、今夜。直樹を連れて」
「どこへ?」
「蛍見に」
「いいけど、また急にどうした」
「あなたの手を見て」
「あれか」
「ええ」
 努は右腕のシャツをめくった。
 それは確かにそこにあった。目にはさやかに見えないが、はっきりと。

やがて夜が里山を下り、静謐が盆地を満たす。
真っ黒な闇を縫うように、無数の光りが瞬き始める。
蠢く平家蛍。乱舞する源氏蛍。
もう戦いは終わった。
強者どもよ、静かに眠れ。
虫送りは終わった。
子供たちも眠れ。

 稲虫来るな、実盛失せろ。
  稲虫来るな、実盛失せろ。
稲虫来るな、実盛失せろ。

子供たちの声が次第に小さくなる。
山里の母なる大地も安らかな眠りにつくだろう。
沙織にようやく心の安寧が訪れた。

小豆島恋叙情第15話
虫送り 後編  鮠沢 満 作

ご免なさい」
 唐突とも思える沙織の謝罪の意味を、努は推し量ることができなかった。
「何が?」
「ううん、何でもないの」
 沙織が蠱惑的な含み笑いをしている。
「気持ち悪いね」
「そんなことないわよ。それより手を見せて」
 沙織は努の腕を取った。
「ここね」
 沙織はやさしくその部分をさすった。指の先から、柔らかで丸みのある温かさが伝わってくる。
柔軟性を失いギザギザになった心の襞がほぐれていく。日々の生活に取り付いた棘が、どんどん抜け
落ちていく。沙織の手にはそんな温もりがあった。
 努の右上腕部には、今では目を凝らしてみなければ判別できないくらいになってしまったが、蛍の
ような形をした薄い紋様があった。

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 努が十二歳、沙織が十歳のときだった。努にとっては最後の虫送り。
その日は朝から曇っていて、ひと際雨の匂いがした。しかし、子供たちの祈りが通じたのか、午後遅
くには低く垂れ込めていた空も高くなり、暮色が盆地全体を黄金色に染めた。すべてのものが動きを
止め、金色の光を全身に浴び、恍惚とした表情を浮かべている。いつもは打たれるまで無言を通す梵
鐘でさえ、今日は特別な日か、どことなくフォルムが柔らかい。
 祈祷が始まる前、二人はいつものように互いの悪口を言ってふざけ合っていた。
「沙織はのろまなアヒルだな」
 努が軽く牽制球を投じた。
「アヒルで結構よ。なによ、努なんかでぶのカバ雄君じゃないの」
 沙織が負けずにボールを打ち返してきた。

 祈祷が終わりたいまつに火が灯された。子供たちはそれぞれ自分の火手に火を点け、住職の合図で
坂道を下っていった。
 子供たちの話し声が、山あいに押し寄せた潮のように、高くなったり低くなったりした。
 夕暮れを知らせるフクロウの声もややこもっている。
 梅雨明けはまだ先か、カエルがせわしなく声帯を震わせている。火手のパチパチという乾いた音が
それにかぶさり、虫を焦がす音を掻き消した。

 沙織は努のすぐ前を歩いていた。疲れた木綿のスカートから細い足がのぞいている。ゴム草履を履
いて小股で歩く姿に何か胸打たれるものがあった。同情とか憐憫では決してなかった。何かに負けま
いと、一途に生きる沙織の姿だった。努の胸の奥に恋の火種が撒かれたのは、このときだったのかも
しれない。努は境内でのやり取りを思い出し、理由もなくそれを蒸し返してしまった。
「沙織はチョロチョロ、まるでアヒルだな」
 沙織が振り向いた。
「何よ、カバ雄君が」
 沙織も余裕をもってやり返してくる。いつものパターンだ。
「ちゃんと火手を持って歩けよ。ただでさえ危なっかしいんだから」
「余計なお世話よ」
「へたすりゃアヒルの丸焼きだ。そしたら食っちまうぞ」
 沙織は右手であっかんべーをした。
「でも痩せてるからうまくないか。もっとご飯食べろよな」
 沙織の顔色がさっと変わった。引き潮のように血の気が失せてしまったのだ。日暮れの暗さにも、
その変化ははっきりと見て取れた。

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 まずいことを言ってしまった。努は正直そう思った。
 沙織は足を止め、黙って努を見つめていた。悲しそうな瞳の中に、意志の強さを代弁する光が漲っ
ていた。それは怒りではなく、沙織の防衛本能のようなものだった。
 努は継ぐ言葉が見あたらず、気まずい空気を背負ったまま立ち尽くすしかなかった。
 後からやってきた友人が声を掛けたが、それも聞こえなかった。睨み合う恰好の二人をどんどん追
い越していった。努は、綱が切れて井戸の底に沈んだつるべみたいなみじめな気持ちを味わっていた。
 ようやく言葉を見繕って、
「そんなつもりじゃなかったんだ。俺、沙織のことが……好きで……」
 謝罪とも告白ともとれる曖昧な一言だった。
 努は羞恥で全身を熱くしているというのに、沙織は氷のように冷ややかな態度で、硬質で直線的な
視線を努に向けたままでいる。その落ち着きように、どっちが年上か分からなくなっていた。

 努は覚悟を決めた。沙織に何と言われようと、非はこちらにある。
 努は沙織の視線を押し返すように見た。沙織の感情は凍結していた。怒りの色もない。もちろん優
しさもなかった。努と沙織の間にあるものは、取り付き難い無機質な沈黙だった。それは沙織が努に
向けた侮蔑だったのかもしれない。
 努は沙織が怒り出すものと思った。あんなにひどいことを言ったのだ。
 努は右頬を突き出した。ここをぶて、と。
 互いの感情の糸が、風に吹き飛ばされたみたいに交錯し、もつれ合った。
 どこかでフクロウが鳴いた。
 早く片を付けろよ、と。

 とそのとき、沙織の澄んだ瞳の奥がにわかにさざめき立ち、張り詰めた感情の縦糸が一気に裁断さ
れた。糸は眼底深く沈んでいった。
 沙織の目元が潤み柔和さが戻った。努はホッとした。がその直後、
「努はカバ雄じゃなくってバカ雄よ」
 沙織は持っていた火手を努に向けて振った。
 それは決して努に敵意を抱いてのことではなかった。努に自分の本心を見透かされてしまった羞恥
を隠すためのものであった。しかし当時の努は、沙織の胸の内を斟酌できるほど人間的に成熟してい
ようはずがなかった。努は、沙織が自分に近づいてくる邪悪なものを打ち払うためにそうした、と解
釈した。窮地に陥ったとき、無意識に働く沙織の防衛本能として。
「熱い」
 努は右腕を押さえた。
 沙織が振り下ろした火手の先から、燃える油の玉がこぼれ、運悪く努の上腕部にへばり付いてしま
ったのだ。

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 努の上腕は赤く腫れ上がっていた。母が軟膏を塗り、その上に何故か油紙を重ねて包帯を巻いてく
れた。日焼けした真っ黒な腕に巻かれた真っ白な包帯が、努にはわざとらしく思えて仕方なかった。
一刻も早く取り去りたかった。それを付けることで、自分が被害者であることを強調することになり、
またそのことがどれほど沙織の心を抉ることになるか、努には分かりすぎるほど分かっていたからで
ある。明らかに非は努にあったのだから。
 傍らで手当を見ていた沙織は、いつまでも泣いていた。「僕が悪いんだから」と何度なだめても、
泣きやまなかった。ようやく泣き声が嗚咽に変わり、涙でぐしゃぐしゃになった顔を濡れタオルで拭
くまでに一時間以上かかった。沙織にしてみれば、自分が大変なことをしでかしたという罪悪感で、
少女の小さな胸をこれ以上ないほど痛めていたに違いない

 努はそのとき、子供ながら自らの横暴で他人を傷つけることの愚かさと虚しさを知り、また、いつ
もおてんばな沙織が、実は誰よりも心根の優しい少女であることを知った。と同時に、努の中にそれ
までとは異質な感情が芽生えたことも否定できなかった。幼馴染みとか遊び友達とかいった通り一遍
の感情ではなく、小さな少年が背伸びはしていたものの、ちょっぴり大人の気持ちで沙織を見ていた
のである。それは別の言い方をすれば、沙織に対する淡い恋心だったかもしれない。たいていの子供
が儀式として経験する、異性に対して抱く面はゆい純な憧れ。努の場合もそれに違いなかっただろう
が、一つ違っていたものがあった。それは感情の昂ぶりが、間歇泉のように時間を置いて爆発的に噴
出する類のものではなかった。地下の水脈を地下水が、静かに、ゆっくり、途切れることなく流れる
のに似ていた。努の思い入れはこんなふうに始まった。

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 幸い手当が早く、火傷は大事には至らなかった。それでも皮膚の一部は数日後ぱくりとめくれ、ピ
ンク色の肉が顔を出した。
それは蛍の形をしていた。
しかし、その痕跡も年齢を重ねるごと段々と薄れていった。ただ、努の地下水だけは脈々と流れ続けた。
静かに、しかし激しく。

小豆島恋叙情第15話
虫送り 中編  鮠沢 満 作

小豆島霊場第四十四番、湯舟山。
銚子渓の南麓にあたる。
岩間から湧き出る真清水は、日本名水百選の一つ。
標高四百メートル。
本尊に千手千眼観音を奉る。
もとは山岳信仰で、山伏が開いたとされる寺である。
境内から俯瞰すると、千枚田と呼ばれる棚田が、急斜面に肩を寄せ合うようにしてへばり付いている。
田には湯舟山からの湧き水が張られ、アントニオ・ガウディーばりの神秘的な造形美を織りなしている。

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 数日後、努と沙織は湯舟山を目指した。
稲が青々と育ち、V字に切り込まれた空に向かって背筋をピーンと伸ばしている。
水路を流れ落ちる水のせせらぎの響きが涼感を誘い、
体中の細胞全てから何か凛としたものが湧き上がってくる。
棚田の間を縫う畦道を、息を合わせながら二人して登った。
途中、水を引き込むための堰が幾つも設けられあった。
清水の底に陽光が波形となってゆらゆらと踊っていた。

 湯舟山に着いた。
二人とも息が弾み、額には汗が光っていた。
努は手洗い場から流れ落ちる水を両手で掬った。
雪解け水のように冷たい。
「気持ちいい」
沙織も水を掬った。
「本当に冷たくて気持ちいいわ」
沙織はためらわずそれを口に含んだ。
「甘くておいしい」
今度は何はばかることなく、上気した顔を真清水で洗った。

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 努は「満たされるということ」がどういうことか考えていた。
子どもを一人産んだのに、化粧なしの沙織の顔はまだ若く、青春時代の面影を随所に残していた。
血管が透けるほど白い額と頬。
その上に丸い水滴が危なっかしそうに留まっている。
光の粒子をいっぱい詰め込んだ水滴は、触れると重力の僕と化してすぐさま流れ落ちるに違いなかった。

 大切なものは自分の手で守らなければならない。
努が子どもの頃からずっと思い続けてきたことだ。
努は妻の顔を眩しそうに眺めた。
沙織は努が自分を見つめていることに気付くと、鳳仙花がはぜたような笑顔を作った。
恥じらいを笑みに封じ込めたというところだろうか。
そのパッと一気に咲いた少女っぽい笑顔に、努も思わずつられて破顔してしまった。
しかしその裏にやや憂いを帯びた表情が、一瞬ではあるが顔を見せたことも事実である。
努はこのどちらの素顔も沙織そのものである、と寛大に受け容れていた。
そうすることが、一番自然体でいられる自分流の愛し方だと思っていた。

「私の顔に何か付いてる」
「虫」
「えっ、虫?」
 沙織は素早く手の平で顔を払った。
 額と頬の滴が、小さな太陽の粒子となって飛び散った。
「嘘だよ」
「だと思ったわ」
「じゃあわざと驚いて見せた」
「あなたのせっかくの好意だもの」
大きなモミジの木陰に腰を降ろした。
木漏れ日が葉を通して降り注いでくる。
葉影が沙織の顔の上でワルツを踊った。
努は黙ってタオルを差し出した。
沙織は、うん、と頷いて受け取ると、顔をそっと拭った。
上気した頬にモミジの緑が跳ね返ってきた。

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「やっぱりここからの眺めが一番だね」
「落ち着くわ。でも不思議ね」
「何が」
「だってあんなにここを出たかったのに」
「結局は自分のふる里なんだよ。寄る辺は生まれたところというのかな」

沙織は湯舟山から少し下った農家で育った。
父のことは知らない。
小学校までは肥土山で暮らしていたが、母が泥酔した上に心臓発作を起こして他界してからは、
中山の祖父と祖母のところで暮らすようになった。
「ここがこんなに美しいところだなんて、大阪に行くまで知らなかった。
 随分と嫌っていたのに。
 でも都会の暮らしを考えると、やっぱり田舎の方が性に合ってる」
「帰ってきてよかっただろう」
「今の幸せな暮らしを考えるとね。でも怖い」
「何が」
「それを失うこと」
「大丈夫。俺が守る」
「うん」
「俺は幸せだよ」
「本当に?」
「嘘じゃない」
「ご免ね」
「何が」
「ううん、何でもないの」

 五月の末、沙織は一人で湯舟山を訪れた。
そのとき、千枚田と呼ばれる狭小な棚田には並々と水が張られ、鏡の表面のような光沢を放っていた。
セル状になった何百という水田が房状に寄り添い、下方に非幾何学的ではあるがパーフェクトな連な
りを見せていた。
一見するとほどよく崩れた蜂の巣のように見えなくもない。
山の稜線の上に広がる青い空と真っ白い雲を小さな断片に分割し、
それを一つ一つのセルに嵌め込んで、空全体をもう一度構築し直してみた。
大聖堂の壁面を飾るステンドグラスを、そっくりそのまま谷間に寝かしつけた恰好になっていた。

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 今、努も沙織も何故か満ち足りた気持ちだった。
何のてらいもなく、幸せと言えた。
どうして? 
それは平凡だから。
平凡こそ幸せの母である。
努は沙織の幸せを自分の幸せと感じることができた。
沙織も努の幸せを自分の幸せと感じることができた。
これ以上何を望むというのか。
「互いの魂が共鳴し合っていればいい」
普段感情をあまり表に出さない努にしては気障な言い方だった。
しかし、
「そうね。互いの気持ちに素直になって、寛大に相手を受け容れる。
 それにこの目の前の自然を見て。
 たおやかで麗しい。
 すべてを包み込んで許す優しさがある。
 眺めているだけで心がふっくらとしてくる。
 つつましやかでもいいじゃない。
 私たちにはこんな素敵な贈り物があるんだから。
 それに直樹もいる。
 ねえ努?」

 沙織も真っ直ぐに気持ちを重ねてきた。
「僕たちは往々にして、平凡な日々に幸福という一字を掘り当てる触覚を鈍らせてしまう。
 それで疲労と倦怠だけしか見えなくなって、揚げ句の果てにはそれらに振り回されて、自分は不幸
 だって思うようになる。
 隅っこにちょこんと腰を降ろし、こっちに微笑みかけている「幸せ君」には気付かない。
 それができるようになるには、沙織が言うように、つつましさの中にも感謝する気持ちとか満足する心 を持つことなんだ、きっと」
「それで初めて幸せの羅針盤が針を震わせる」
「俺たちの原点はやっぱりあの日だね」

 努は、何歳になっても沙織が見せる少し戸惑ったというか、はにかんだような少女っぽい表情が好きだった。
それは沙織の少女時代から引き継がれてきたもので、これからもずっと持ち続けて欲しいと努が願っているものの一つだった。
沙織は沙織で、努の言動一つひとつからあふれ出る愛情が分かるだけに、ときに不安に襲われることがあった。
「もし努と直樹に何かあったら……」そう考えるだけで背筋に冷たいものが走るのだった。
だから現在自分が享受してる幸せにどっかりと胡座をかくようなことだけはしないようにしていた。
いかなる喜びも常に最小限の範囲にとどめ、また、不測の事態が起こったとき失望が最小限で食い止めら
れるようにと、常に心の準備だけはしていた。
それでも努の肩肘張らない優しさに包まれると、ついつい鎧の紐を緩め、ひたひたと押し寄せる甘美な僥倖に身を委ねる自分の弱さを情けなく思うことがあった。

 そんなとき沙織は湯舟山まで坂道を一息に駆け上り、本堂の千手千眼観音に手を合わせて自分の心の弱さを懺悔し、そして必要以上に自分を叱咤するのであった。

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 傍目には奇異とも取れる沙織のこうした行動は、決して沙織の生い立ちと無関係ではない。
沙織は感情が豊かすぎて、かえって自分を傷付けることが多かった。
それを恐れるあまり、極力人との付き合いを避けてきた。
特に異性に対してはそうで、努以外の男性に心を開いたことがなかった。
色白の瓜実顔に収まったきりっとした眉、輪郭のはっきりした目鼻立ちに恵まれて美人と言えた。
口元はいつも引き締められ、意志の強さが自ずとにじみ出ていた。
中学生になると、沙織の美しさは痩身が醸し出すか弱さと、そこはかとなく漂う清潔感が相まって、一気に花開いた。
沙織に思いを寄せる男のクラスメートもかなりいた。

 それでも沙織は垂直に立ち続けた。
感情の振り子は、ただ一点を指したまま右にも左にも揺れなかった。
極端な言い方をすれば、頑なまでに一点を見据えていたのである。
そうさせたのは、一つの言葉だった。
一人寂しく膝を抱えて夜空の星を眺めながら涙したとき、勇気をくれたのはこの言葉だった。
言葉はやがて思い出となった。
言葉はやがて沙織の守り神となった。
言葉はやがて沙織の魂の一部になった。
その言葉が沙織を育ててきた。
沙織はその言葉が発せられたときの思い出を、誰にも言わず胸の奥にひしと抱きしめ、育んできた。

 人にはそれぞれ思い出がある。
種類も千差万別だ。
忘れたいもの。
ときどき思い出して懐かしむもの。
そっと心の引き出しの奥にしまって、大事に温めておきたいもの。

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 沙織は自分の出自とか生い立ちがどうあれ、自分自身を悲劇の主人公に仕立て生きたくはなかった。
悲劇の主人公を装うことで他人の同情を買う生き方は、生きるという行為そのものがただでさえ無為に思えることがあるのに、それをやっぱり無為だったと肯定するようなものだ。
生きるという行為によって紡ぎ出される思い出だって同じである。
どう生きるかによって有為になったり無為になったりする。
思い出は多い方がいい。
それもいい思い出が。
誰もがそう思う。
しかし、沙織は違った。
思い出は少なくてもよかった。
なぜなら、感傷に両脇を支えられた思い出はいくらあっても、いったん忘却という魔物の歯牙にかかるとたちまちにして色褪せ、しぼんで、やがてはその存在さえ顧みられなくなるからだ。

 沙織は努との思い出を大事にしたかった。
二人が紡いできた思い出は、紡ぐ糸一本一本に質量があり、絵柄に互いの思いが織り込まれていたからである。
通常の思い出が時間の経過と共に薄れていくのに対して、二人の思い出は時計の針を逆回転させるかのように、その色彩と輝きをより鮮やかなものにしていった。

はじめに

小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、いよいよ15話。
当初は、15話で「完結」予定でした。
しかし、みなさんからのコメントをいただいて、新たに書き足したのが本編。
多門寺の住職への取材を敢行し、「最大の長編」となりました。(^_-)
前・中・後編の3回に分けてお届けします。
おつきあいいただければ幸いです。
小豆島恋叙情第15話 虫送り 鮠沢 満 作

小豆郡土庄町肥土山、小豆島霊場第四十六番、多聞寺。
本尊に薬師如来、前庭に築山があり、築山の地下には不動明王が奉られている。
正面入り口に梵鐘があり、これは農村歌舞伎が行われる離宮八幡宮から献上されたもので、
町指定文化財の一つ。
ここ多聞寺は、半夏生に当たる七月二日、
「五穀豊穣」「害虫駆除」「厄災消除」「如意円満」を
祈願する「虫送り」の行事が行われる寺として知られている。

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 太陽が西に大きく重心を傾けた頃、多聞寺本堂では住職が虫除けと豊作のための祈祷を始めた。
太陽から火を取った灯明が、次第にオレンジ色の輪を広げ、その輪郭を濃くしていった。
 大般若経を転読する住職の全身が熱を帯び、打ち震え、あたかも仏が憑依したような不思議な感慨に襲われる。
両手にひしと握られた大般若経。
これをパラパラめくる音が本堂にこだまし、読経の声が一層大きくなると、
西日に色付き始めた山合の地は分厚い陶器に包含されたような静寂に包まれた。

 住職は本尊の御前に供えてある燈明から火を分け、朱塗りの手燭に移した。
それから旧毘沙門堂にある「虫塚」で読経し虫の供養した後、
離宮八幡に移り、境内前にある「たいまつ」に火を灯した。
「火入れ式」である。
子供たちが嬉々とした表情で「火手」と呼ばれるたいまつをかざしながら火に近づいていく。
中には今年初めて虫送りに参加するため、恐る恐る火に歩み寄る子供もいた。
直樹もその一人だった。

 火はたちまちにして子供たちのかざした火手に乗り移った。
最初小さかった炎がやがて意志を持った生き物のようにめらめらと燃え盛った。
山の稜線越しに仰ぎ見る空は、夕暮れの寂寥で狭まりつつあった。
盆地状の山里が息をひそめ横たわっていた。
そこに流し込まれた夕焼けの赤と、燃え盛るたいまつの炎の赤が舐め合い、よじり合わさって、新たな赤が生まれた。
パチパチと炎のはぜる乾いた音が、谷間の集落、こんもりと陰影となって盛り上がった木立の群れに散った。
土と草の匂いを吸い取った柔らかな風が木々を揺らし、葉裏に隠れた梅雨の湿っぽい鬱陶しさをも払い落としていった。
炎はいよいよ大きくなり、それに奮い立てられた子供たちの歓声も自然と大きくなった。

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 直樹がやや及び腰で、丸々と膨れ上がった龍の胴体のような炎と格闘していた。
「あの子大丈夫かしら」
 沙織が心配そうに我が子を見守っている。
「平気さ。お前なんか今の直樹よりもっと小さい頃から、火を振り回して遊んでいたじゃないか」
 努がいかにも冗談ぽく沙織に言った。
「またそれを言う。恥ずかしいんだから」
 沙織はそこで言葉を切り、もう一度直樹の方に母性に満ちた視線を送った。
 炎にゆらめく直樹の顔が、この頃とみに努に似てきたと思った。

子供たちが火の輪の中にいる。
努も沙織もそれに加わった。
日はすでに山の向こうに落ち、薄闇が里山の斜面を歩み下りようとしていた。
子供たちが元気な声を張り上げながら、畦道を練り歩き始めた。
揺らす火が、薄闇を裂いてゆるやかな軌跡を描く。
その幽玄とした炎の軌跡が結び合う。
その結び目は、この上もなく尊いものが生まれた証であるように思えた。

「直樹もすっかり慣れたようね」
「アヒルの血を引いてるからね」
「カバ雄君の血はないの」
「残念だが、火の扱いは君の方が上だ」
「そんなこと言うと、また火傷するわよ」
「神様がもう一つ幸せをくれるんだったら、甘んじて受けてもやぶさかでないね」
「あなたって欲張りね。私は今のままで十分」
「あやしいね」
「本当よ。直樹、それに……」
「それにどうした」
「あなたはいつもそうやって私にばかり言わせようとするんだから。
 それって男らしくないわ。
 その点に関しては、あなたは子供のときのままね」

 なるほどそうかもしれない。
沙織とまっすぐ向かい合って、ストレート勝負したことがなかった。
カーブも一つの愛情表現なんだが……。
そっぽをむいた沙織に
「また怒らせたかな」
と言うと、
「あっかんべー」
と返してきた。
「お母さんとお父さん何やっているの」
直樹がいつ来たのか、不思議そうに二人のやり取りを眺めていた。

「お父さんがお母さんをいじめるの。直樹、助けて」
「じゃあこの火貸してあげるよ。悪い虫は退治しなくっちゃ」
「直樹、それはダメだ。母さんは火を持つと……」
 努が言い終わらないうちに、沙織はたいまつをまっすぐ努の前にかざしていた。
「うん、この感じ。懐かしいわ。
 お父さん、あの日のこと思い出すわね」
 さらにたいまつを努の方に近づけてくる。
 目が完全に笑っている。

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「お母さん、あの日のことってなあに?」
「虫退治のこと。お母さんね、
 小さいとき意地悪な虫を退治したことがあるの。
 今思い出してもそれはそれは大きな虫だったわ」
「大きいって、どれくらい大きかったの」
 直樹は真剣だ。
「今の直樹を少し大きくしたぐらい」
「どんな顔してた」
「顔?」
 沙織は返答に窮したが、いいことを思い付いたと言わんばかりに少し勿体ぶって言った。
「何て言ったらいいのかしら。
 一言で言うと物凄くこわい顔。
 そうね、お父さんが怒ったときの顔。
 あれそっくり。
 分かるでしょう」
「じゃあ怪獣みたいなやつだね」
「そう、怪獣」
沙織は、私を困らせるとこんなことになるのよ、分かったでしょう、
と目元に小皺さえ作って笑いかけてきた。
いかにもしてやったりという感じだ。

それに対し、努は両手を広げ心持ち肩をすくませた。
君には負けたよ。
それが努の返答だった。

「ねえ、その虫最後にどうなったの」
 直樹はまだ食い下がってくる。
「最後にって?」
沙織は、実は今そばにいるのがその虫なの、と返答しようかどうか迷っていると、
「ほらほらみんなが待ってるぞ。直樹、早く行きなさい」
努が助け船を出してくれた。
友達が直樹に向かって、早く来い、と手を振っている。
直樹は沙織からたいまつをもらうと、仲間のところに走っていった。
いよいよ蓬莱橋までの約一キロ、炎が夜気を焦がしながら幻想的に揺らめく。

「やはり火を持たせたら、君の方が一枚も二枚も上だな」
「見直した?」
「ああ、惚れ直したよ」
〈稲虫来るな、実盛失せろ〉
子供たちの声が薄闇の帳を掻き破るように聞こえてきた。

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 虫送りの始まりは、1661年(江戸時代)頃と言われている。
当時は現在のように農薬がなかった。
そのため、各家では稲についた虫を退治するために、火の点いたたいまつ(火手)を持ち、
太鼓と鉦を鳴らしながら般若心経や火天呪などを唱え、田んぼの畦道をぐるぐると練り歩いた。

 斎藤実盛は平安末期の武将で平家に味方し、源義仲との戦に於いて、
稲に足を取られつまずいたたために討たれてしまった。
そのため稲を恨み、稲虫になったという。
火手隊の出発は、現在は肥土山離宮八幡宮となっているが、
昔は中山→肥土山→黒岩→上庄→北山、そして最後に瀬戸内海へと日をずらせながら虫を送った。
もともと連帯の強い地域で、この虫送りの儀式も村が共同で行っていたものである。

 虫送りの日は田植えを終えた慰労の日で、「足洗の日」とも言われ、
どの家でもたらいうどんを食べる風習がある。
尚、火手に点ける火は多聞寺本堂の燈明から移すが、この燈明の火は太陽の光から取る。
         (以上は多聞寺住職より)

2枚目の虫送りの写真は、多聞寺のHPから許可を得て使用させていただきました。感謝<(_ _)>
http://www1.quolia.com/tamonji-46/mushiokuri.html

はじめに

小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、いよいよ14話。
今回も前回に続いてショートショートでお送りします。
みなさんからのコメントをいただいて、続編をさらに書き足すために、
「大阪城残石」のことを取材してきたわ」と作者が申しております。
作者のやる気も出てきて、さらに続編が期待できそうな気配です。
それでは連載第14回をお届けします。
 
小豆島恋叙情第14話 老船  鮠沢 満 作

港の端っこの、それも漂流してきたゴミが集まる汚い隅っこに、
一隻の漁船がロープにつながれていた。
ペンキは剥げ落ち、木製の船体は痛みがひどく、ところどころが腐りかけている。
あと二日もすれば、業者が来て解体することになっていた。
船の名前は隆祥丸。
その船首に花束が添えられていた。

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「今日もだめか。糞っ!」
 修が腹立たしそうに糸を巻き上げた。
「あんた、明日があるわよ」
 咲恵が修を励ます。
「昨日も同じことを言った。もうこれで一週間だ」
「焦らなくていいじゃないの」
「魚が捕れなきゃ、銭にならねえ」
「お金にならなくてもいいよ」
「えっ?」
 修は咲恵を見た。
「お金にならなくても、二人が食べていければそれでいいじゃないの」
「でもそのうち子供ができる」
「大丈夫。私たちにはこの隆祥丸があるわ。
まだ作って二週間にしかならないのよ。
そのうち海に慣れて、きっと魚を捕らしてくれるわよ。
 ねえ隆祥丸」
 咲恵はそう言って、優しく船の腹を撫でた。

「それに……」
「それにどうした、咲恵」
「あんたがいつも元気で、この海を照らす太陽のように笑ってくれたらそれでいいの」
 修は心の中で唸った。
〈咲恵。お前ってヤツは……〉
と同時に、俺は幸せ者だ、と心底思った。

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それから修と咲恵には四人の子供が生まれ、どの子も立派に育った。
そう、隆祥丸がある。
焦らなくていいじゃないの。
咲恵の言ったとおりだった。

 隆祥丸は老い、そして朽ちた。
しかし修と咲恵の絆を太くし、四人の子供を支えた。
花束はそのお礼の印だった。
二日後に老船が消える。

はじめに

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」
「連載」もいよいよフィナーレに近づいてきました。
お読みいただいて「ますます小豆島が好きになったと思っていただければなにより幸い」
と作者も申しております。
第15話までの予定でしたが、みなさんからのコメントをいただいて、中山の千枚田を舞
台にもう一編、書き上げたようです。
それでは連載第13回をお届けします。

小豆島恋叙情 第13話 波と巻き貝  鮠沢 満 作

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私の耳は貝の殻
海の響きを懐かしむ
ジョン・コクトー
「あんたに背中撫でられているとき、
背中が溶けてなくなるくらい気持ちよかった」
 巻き貝が昔を懐かしむように言った。

「俺はお前さんの背中の波模様が気に入っていた。
あんたの背中の上をすべるとき、
自分の躯がゆるやかに螺旋を描いて造形されていく、
あの未来へと切り込む感覚が好きだった」
 寄せる波が波打ち際から言葉を返した。

「あたしゃもう背中の波模様もなくなってしまった。
それにあんたの声も随分と遠くから聞こえる」

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入り江にはめ込まれた海岸線を、
真っ白な砂浜が天女の羽衣のように優美に飾り立てている。
無数の貝が波の囁きに耳をすませ、
過ぎし日の思い出を枕に眠る。

巻き貝は波打ち際から何十メートルも離れた砂山に、
殻になって埋もれていた。

小豆島恋叙情第12話 西の瀧 後編  鮠沢 満 作


二人は黙って石の階段を登った。
由貴はさっきまでのはしゃぎようとは打って変わって、沈黙の殻に身を包んでしまった。
秀樹が気に障ることを言ったわけではない。
心に引っ掛かるものがそうさせるのだろう。

 西の瀧。小豆島霊場第四十二番札所。
海抜四百二十七メートルの大麻山の嶮崖に大伽藍を構える。
慈眼院瀧水寺とも呼ばれ、東の洞雲山に対して「西の瀧」と呼称されている。
寺は下界から見上げると、そそり立つ垂直の岩盤にしがみ付くように建立されているため、
天空の楼閣を想起させる。
かつて村に棲む龍神が村人を襲い、多大の被害を及ぼしていた。
それを見た弘法大師が、密教の秘術を用いて龍神を岩窟に封じ込めてしまった。
自由を奪われた龍神は己の所行を悔い、懺悔の涙を流した。
現在も岩窟に和泉が湧いているが、それが龍水と考えられ、龍水寺の起こりとなった。

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 由貴は厄除けの本堂で賽銭箱に小銭を投げ込むと、何かに取り憑かれたように祈った。
あまりの真剣さに、見ている秀樹の背筋が寒くなったほどだ。
秀樹は少し後じさった。
由貴の様子が一変したのは、石段を登り始めたときだった。
秀樹を寄せ付けない空気が由貴の周囲に生まれた。
固く、切ないほど鋭
く尖った空気に、秀樹は呼吸が苦しくなってしまった。
由貴が若い異性というそれだけの理由だけではなかった。

 まさか自殺しに来たんじゃないだろうな。
 一瞬、秀樹に不安がよぎった。
 秀樹は黙ったまま横目で由貴を観察した。
 由貴の後ろ姿は、秀樹の不安を助長するかのように、
つい手を差し伸べたくなるほど弱々しいものだった。
 若い身空でわざわざ小豆島霊場を回る。
それも遍路姿で。
やはり何か理由があるのだろう。

 それにしても由貴の白装束の遍路姿が妙に似合っている。
秀樹はまずそのことに驚かされた。
と同時に何かが引っ掛かった。
手摺りから落ちそうになるくらい身を乗り出してはしゃいでいた由貴。
きっとあれが本当の由貴に違いない。
掛け値なしに元気で屈託がない由貴。
秀樹と会ったばかりだ。
お互い打ち解けるほど会話もしていない。
それなのに平気で秀樹のバイクの後部座席に飛び乗った。
そして安心して身を預けてきた。
傍若無人。
大胆不敵。
豪放磊落。
悪く言えば、脳天気。
だからそんな由貴と寺巡りがどうしても結びつかない。
それなのに遍路の衣装はあつらえたみたいにしっくりと由貴の身体の一部にさえなっているのだ。

 秀樹は高校三年生。
つい先日十八歳になったばかりだ。
年齢は由貴とたいして変わらないはずなのに、由貴は随分と大人びて見える。
都会育ちのせいだろう。
言葉も歯切れがよく、知性を感じさせる。
田舎育ちの秀樹は、恐らく由貴の目には銚子渓の猿くらいにしか映ってないのに違いなかった。
それとも学校をサボってバイクを乗り回している単なるアホな高校生か。
まあいずれにしても評価は低いはずだ。

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 由貴が念仏を唱えながら一心不乱に祈っている。
その隣で何もしないで木偶の坊みたいに突っ立っている秀樹。
十一面観世音菩薩がじっとこっちを見ている。
これにはさすがに秀樹も居心地の悪さを感じ、由貴と同じように黙って手を合わせるしかなかった。
「なんだ君もやっぱりお祈りするんだ」
由貴が笑っていた。
さっきの由貴に戻っている。
「こう見えても命だけは惜しいから」
「だったらあんな無茶な真似やめたら」
「飽きたらね」
「飽きる前に仏さんに召されるわよ」
「仏さんが俺みたいなクズを相手にするもんか」
 秀樹の頬がいきなり鳴った。
 由貴の平手が飛んだのだ。
 秀樹は頬に残った痛さより、胸の奥に湧き起こった羞恥の痛さの方が大きかった。
これまでに男に殴られたことは何度もあったが、女に殴られたことは一度もなかった。
 秀樹はあわてて取り繕う言葉を探したが、白んだ頭では言葉が見つかるはずもない。
 由貴は羊のようにしぼんだ秀樹に追い打ちをかけるみたいに、

「自分のことをそんなふうに卑下する人間って最低よ。
こんな立派な躯と健康をもらってさ。
それにこの島のように美しくて優しい心持ってるじゃない。
それなのに意気地なしみたいに自分のことを言う」
由貴の目にロウソクの光がとまっていた。
が、それがすぐに崩れた。
秀樹はそれが涙だと分かった。
自分は由貴を傷つけた、と思った。
男として恥ずかしい、と思った。
秀樹は動けなかった。

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 由貴がそっと秀樹の手を引いた。
外に出ると太陽の光が眩しかった。
鳥が囀り、風が木々の間を流れた。
由貴の頬には涙の跡が残っていた。
由貴は秀樹の方に向くと、
「痛かった」
と訊いてきた。
このままずっと由貴がだんまりを通すんじゃないか、
秀樹は硬直した空気に正直言って耐えられなかったのだが、
由貴が先に言葉をかけてくれてほっとした。
「目から火が出た」
「ご免なさい。
そんなに強くするつもりじゃなかったのに」
由貴は秀樹の頬を手の平でさすった。
柔らかな手だった。
それに温かかった。
秀樹の躯の心棒が溶けそうになった。
そんな感覚を今までに経験したことがなかった。

 秀樹はバイクで由貴を港まで送った。
由貴はフェリーで高松に向かうということだった。
待合室を出て、いよいよ由貴がフェリーに乗り込もうとしたとき、
「はいこれ」
と言って、秀樹の手に握らせたものがあった。
見ると、それはお守りだった。
「これは……」
「さっきお寺で買ったの。
あなたが無茶しないようにと。
それと……」
「それと……」
「ちゃんと学校に行って、勉強するようにと」
秀樹は由貴の顔を見た。
息を飲むほど美しい顔をしていた。
「私ね。未婚の母だったの」
「未婚の?」
「でも赤ちゃん、死んじゃったの」
「死んだ?」
「死産だったの。産みたかったわ」
 由貴はぽつり言った。
「だからあなたには懸命に生きてもらいたいの。
健康な躯と心を仏様から頂いたんだから」
 由貴を乗せたフェリーは出航していった。

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 デッキから由貴が手を振った。
秀樹も手を振った。
初めは胸の前で恥ずかしそうに小さく振っていたが、フェリーが遠ざかるにつれて、
秀樹はなりふり構わず頭の上で両手を大きく振っていた。
「由貴さ~ん。ありがと~う。
俺、頑張るよ。
約束する」
由貴は、うん、と頷いて、さらに大きく手を振ってくれた。
秀樹はフェリーが小さな点になるまで見送っていた。
たった三時間ばかりの出会いだった。
恋と呼ぶにはあまりにも短すぎたし、当然のことながら由貴の心になにがしかのさざ波を立てるほど秀樹は人間的にも成熟していなかった。
冬の暖かな日に、ちょっと気まぐれに咲いたタンポポみたいに、
由貴の心の片隅をちらっとくすぐった程度だろう。
いや、それもなかったかもしれない。
それでもいいや。

秀樹は由貴にもらったお守りを見つめ、それから由貴に平手打ちを食らった頬をそっと手の平で押さえた。
「由貴さん。俺、頑張ってみるよ」

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はじめに

 島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」
いろいろな人間の思いが織りなされてきましたが、いよいよ12話。
高校生の登場です。残りは3話。

小豆島恋叙情第12話 西の瀧 前編  鮠沢 満 作


シートを通して伝わってくるエンジン音がアドレナリンを全身に押し出す。
秀樹はバイクのスピードを落とそうとしない。急なカーブでもブレーキを最小限に抑えて、
ガードレールぎりぎりのところでやりすごす。
そのスリルが何とも言えなかった。
バイクは無断アルバイトして稼いだ金で友達の兄貴から五万円で買った。
その日も学校をさぼった。
反りの合わない担任の顔を見るのもいやだったし、それに勉強も好きではなかった。
ミカン畑を抜け、いよいよ九十九折りの山道にさしかかった。
カーブが目白押しだ。
これからがいよいよ腕の見せ所。
 秀樹はもう何百回となくその道を走っていた。
野良犬とか野生の鹿が突然現れることを除けば、目をつむっていたって走れるくらい熟知していた。

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 佛谷山を越えた辺りからやや勾配がきつくなってくる。
秀樹はグリップに力を込めてエンジンの回転数を上げた。
大きくなったエンジン音が路面に吸い付き、そこに映るバイクと秀樹の影を揺らす。
秀樹という一個の人間はスピードの代弁者となり、もはや個体ではなく空気を貫通する流体となる。
視界が狭まり、そのことによって危険の概念が振り落とされ、羊のように臆病な秀樹がオオカミに変身する。
青い分別が秀樹の捨て鉢とも思える無謀さに油を注ぎ、手が付けられないほどの獰猛さを誘引する。
そして気持ちの弱さという秀樹の性格的瑕瑾を、その獰猛さで塗りつぶそうとするもう一人の秀樹がそこに生まれる。
虚弱から脱出する自分。
たとえそれが一時的な逃避であっても、勇猛果敢に前を攻める自分は、たとえもう一人の自分であってもやはり自分だった。
秀樹はバイクの数メートル先に危険が待ち受けていたとしても、それを見事にかいくぐる快感に身を浸すことで、剥がれそうになる生への執着をどうにかつなぎ留めておくことができた。

 山の切り出し斜面に覆い被さった樹木が、秀樹の肩口辺りから一続きの壁となって後方に流れていく。
ときどき突き出た小枝が肩とか顔面をはたくこともあったが、それでも秀樹はひるむことなく流体であり続けた。
いよいよ目的のカーブだ。
あそこをいかに鮮やに回るか。
それもできるだけ小さなコーナリングで。
そのためにはプロ級のハンドルさばきと、絶妙な身体の重心移動が鍵になる。
ここ最近満足したコーナリングをしたことがなかった。
久し振りに一発決めたかった。
秀樹は身体を左に大きく倒した。
それに合わせて車体も大きく左に傾いた。
 さあ勝負だ。
 秀樹はバイクと一体になり、風を切った。
それに呼応したように全身が風の通り道になり、ふんわり軽くなった。
頭の中が真空になった。
]樹の厭なものすべてがどんどん道端に捨てられていく。
規則だらけの学校のこと、
愛人のところに入り浸って家に帰ってこない父親のこと、
振られた彼女のこと、バンド仲間と飲酒して
警察に追われたこと、拾った財布から万円札を抜き取ってゲームセンターで遣ったこと、
事故ったダチ公を見舞ったとき病院の植え込みに小便したこと。
そんな自分の身に起こったすべてのことが、最後のカーブで見事
に削ぎ落とされていった。

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 いい調子で曲がった。
 しかしカーブを曲がったとき、思わぬものが目に飛び込んできた。
道端に人がしゃがみ込んでいたのだ。
秀樹は咄嗟にブレーキをかけた。
前輪がぶれあやうく横転しそうになったが、持ち前の運動神経の良さでどうにかバランスを保った。
何でこんなところにいやがるんだ。それもカーブを曲がった直後だ。
「糞ったれ! 危ないじゃないか」
秀樹はそう怒鳴ってそのまま走り去った。
どうせ小豆島霊場を回っている遍路だろう。
慣れない坂道で疲れたのに違いない。
今どきてくてく歩くなんて古くさいんだよ。
そんなしんどい思いして何になる。
しかし秀樹の脳裏にさっき一瞬見た映像がフラッシュバックされた。
疲れて休んでいたにしては様子がおかしかった。
腰を降ろして休んでいたというより、うずくまっていた。
それに歳恰好は分からなかったが、その様子からして女のようだった。
 秀樹は引き返した。
 やはり女だった。
秀樹はバイクを降り、女の膝元にしゃがんだ。
 驚いたことに、顔を覗き込むと女は若かった。どう見ても二十歳そこそこだ。
 女はふくらはぎを押さえ、苦しげな表情で歯を食いしばっている。

「どうかしましたか」
 秀樹はやや遠慮がちに訊いた。さっき毒づいたことが嘘のような口調だ。
「足が……右足が……」
 女はそれだけ言うと、またしても苦痛に顔を歪めた。
 女はふくらはぎにこむら返しを起こしていた。
「じっとして」
 秀樹は女の足を真っ直ぐ引き伸ばし、それから踵を垂直に立てると、ぐいとスニーカーを膝の方へと押した。
すると不思議なことに、ふくらはぎの痙攣が嘘のように治まった。
女も秀樹の離れ業に驚きを隠せないでいる。
秀樹は柔道をやっていた。練習中によくこむら返しを起こす。
直すのはお手の物だった。
「ありがとう」
 女はようやく言葉を発した。

 由貴は秀樹の背中にしっかりつかまっていた。
急勾配だからしっかりつかまっているようにと秀樹に言われたからだ。
それにしても坂道は険しかった。
それでもバイクは急斜面をどんどん登っていく。
くの字になったカーブを曲がるとき、由貴は振り落とされそうになった。
由貴は秀樹の筋肉質の背中に頬を押しつけ、必死になってしがみ付いていた。
 駐車場に着いたとき、由貴は半ば放心状態だった。
「怖かった?」
「ええ。でも心配なんかしてなかったわ。運転が上手だということ、さっき見たから」
「毒づいて悪かった」
「あんなところにいた私の方が悪いのよ。怒鳴って当たり前。うわー」
 突然由貴が走り出した。
 秀樹は何事かと呆気にとられた。
「きれい」
 由貴は防護用の手摺から落ちそうなほど身を乗り出して、下界を見下ろしていた。

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 池田湾が真下に広がっている。左には池田の町が、まるで箱庭みたいに肩を寄せ合いながら行儀良く盆地に収まっていた。
秀樹の家の赤い屋根もくっきり見える。
池田港から高松行きのフェリーが出発したばかりだ。
港の赤灯台を通り過ぎるところで、いつものように汽笛を二回鳴らした。
汽笛の音波が山の斜面を押し上げるように伝わってきた。
視線を水平に戻すと、屋島が濃紺の輪郭に染められて横たわっていた。

小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 後編        鮠沢 満 作


亮介は男を待っていた。
見張り始めてもうかれこれ三十分は経つ。
ようやく男が鞄を提げて表玄関から出てきた。
真っ直ぐ駅には向かわず盛り場の方へ歩いていく。
一杯ひっかけて帰るのだろう。
男は焼鳥屋に入っていった。
亮介もそれに従った。
男の名前は黒原正和。
M商事会社の課長という肩書きである。
黒原はカウンター中ほどの席につくと、まず生ビールを頼んだ。
亮介はコの字になったカウンターの隅の席に陣取った。
ちょうど黒原の顔がよく見える位置だ。
黒原は運ばれてきたビールを一気に半分ほど飲み干した。
おしぼりで額の汗を拭き、またジョッキーを傾けた。
焼き鳥が焼ける前に大ジョッキーが空になった。
黒原はお代わりを注文すると、
「いい女だ」
と主人に言った。

主人は焼き鳥を焦がさないように丁寧にひっくり返しながら、
「また部下の女の子ですかい。黒原さんも好きですね」
と、軽く話を合わすように返した。
「書類ばかりじゃ面白くもねえ。
 若い女にでもちょっかい出さないと欲求不満になる」
「そんなにいい女ですか」
「いい女だ。竹下景子ばりのな」
「人妻にはちょっかい出さない方がいいんじゃないですか」
「人妻だからいいんだ」
「でもこの頃ただでさえセクハラとかで結構うるさいですからね。
 こちとらアルバイトの女の子にも気を遣うくらいですからね」
「そんなこと言ってちゃ何にもできやしない。
 この前なんか何食わぬ顔して胸に触ってやったけど、むしろ喜んでたくらいだ。
 女ってやつは分からねえ」
 亮介は黒原に対する怒りが湧き上がってくるのをビールでぐっと飲み下した。

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二人とも酒が入っていて、理性的に話ができる状態ではなかった。
特に黒原はかなり酒癖が悪く、酔うと絡む。
亮介は黒原を呼び止めた。
「俺に何か用か」
 黒原が横柄に言った。
「黒原さん、部下にセクハラするのはやめてください」
 黒原がぎっと睨んできた。
「セクハラだと。お前誰だ」
「三枝時江の夫です」
「三枝時江?」
「あなたずっと家内にセクハラしてるそうじゃないですか。止めないと訴えますよ」
「訴える。やれるもんならやってみろ。
 セクハラがどうしたというんだ。
 そのうちお前の女房は俺がじっくり味見してやるから安心しな」
 亮介はカッとなり黒原に組み付いていた。
 二人は揉み合い、そしてどちらからともなく殴り合っていた。
 気が付いたら黒原が路上に血を流して倒れていた。
 亮介の手にはビール瓶が握られていた。

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「私たち三人幼馴染みなの」
「主人が小豆島に住んでたなんて知らなかったわ」
「光ちゃん小学校六年のとき高松の学校に転校したの。
 私たち三人とても仲がよかった。
 光ちゃんが転校してもお互い連絡を取り合って、結構行き来してたの。
 その後、亮介は光ちゃんと同じ高松の高校に進学した。
 だからまた昔みたいな付き合いが始まった」
「そうだったの」
「あの人……私のためにあんな馬鹿なことして」
 時江は目頭を手拭いで押さえた。

 事件当日、黒原は亮介に殴られ意識不明のまま病院に運ばれたが、間もなくして死亡した。
死因は頭部挫傷。
三枝亮介は傷害致死罪で懲役五年の実刑を受けた。
情状酌量の余地があり、刑は軽減されたが執行猶予は付かなかった。
「服役するとき籍抜いちゃったの」
「あなたの意志?」
「ううんあの人。一旦言い出したらきかないの」
「それで時江さんはこっちに帰ってきたというわけ」
「小豆島でゆっくり考えたかったの。人生って何だろうって。
 だって実にあっけないんだもん。そうでしょう」
 紀子は光の事故死を思った。
 確かにあっけなかった。
「光は亮介さんにときどき面会に行っていたんですね」
「そうだと思います。光ちゃん優しいから」
「それで二人でいろいろ話した」
「光ちゃんがあの人を説得したんだと思うんです。
 あの人光ちゃんの言うことだけは素直に聞くんです」
「それであの手紙になった」
「多分」
「で、どうするつもり」
「男って勝手。
 離婚のときも一人でさっさと決めちゃって、それで今度だって一方的にこんなもの寄こして」
「亮介さんの服役はいつ終わるの」
「今月の二十三日」
「えっ! それじゃああと一週間じゃないの」
「こんな大事なこと、一週間で結論出せるわけないのに。本当に馬鹿なんだから」
「時江さんね、実はこの手紙三ヶ月ほど前に書かれたと思うの」
「三ヶ月前? それどういうことですか」
 紀子は仔細を時江に話した。

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 大島光さん(32)は、深夜帰宅途中、飲酒運転の車にはねられ死亡。
加害者、加藤雄三(26)はスナックでビール大瓶二本と焼酎を五杯ほど飲んでいた。
事故当時、加藤はほとんど酩酊状態で、青信号を横断中の大島さんに気が付かず、そのまま信号無視で走行、大島さんを轢いたと見られている。

「そんな。光ちゃんが……ねえ嘘でしょう」
「私も嘘であってほしい。そう何度願ったことでしょう。でも真実なの」
「そうですか。人生ってあっけないもんですね」
 時江もショックだったらしい。
「ほんとうに」
「紀子さん、突然ですけれどこれからお寺に参りませんか」
 紀子には時江の提案の意図が分かりかねた。
「お寺に、ですか」
「そう。光ちゃんの供養をしましょう」
 それを聞いて、紀子も納得した。


 小豆島霊場第八十一番、恵門ノ瀧。
開山は弘法大師。
恵門嶽中腹岩盤の洞窟を利用して伽藍を構え、岩窟が諸仏龕となっている小豆島霊場屈指の寺の一つである。
伽藍に覆い被さるように切り立つ懸崖は、善人を引き揚げ、
悪人を奈落の底に突き落とすかのように峻厳そのもので、
近寄るだけでこの世のしがらみと煩悩を削ぎ落としてくれそうな気がする。

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 紀子と時江は岩窟内の本尊の前に正座していた。
闇に浮かぶロウソクの火。
その奥から厄除けの不動明王像がこちらを睨んでいる。
岩からしみ出るような静けさに身を置いていると、紀子も時江もまるで自分たちが仏様の体内に包含されているような気持ちになった。
苦しみが和らぎ、怯懦が勇気に、そして猜疑が信頼へと変わっていくような気がした。

 二人とも仏にすがる思いで祈っていた。
特に紀子は、一時でも光を疑った自分の浅はかな心を打ち据えられたような心苦しさを感じていた。
夫を信じられなかった良心の呵責は紀子に大きくのしかかっていた。
紀子は自分が犯した背信の贖罪と光の魂の安息を祈った。

 長い間手を合わせていると、一時離れかけた光の心がまた紀子のそばに戻ってきた。
時江も同じで、亮介の優しさが再び時江の胸の内に蘇ってきた。
いつしか二人の顔には言いしれぬ僥倖が現れていた。
この世は無常。
いくら努力しても手に入らないものもある。
いくら尽くしても報われないときもある。
しかし、幸せとは自分が幸せと思う心を持つこと。
紀子も時江もようやくそのことが分かり始めていた。
「時江さん、主人もきっとそう思っているはずよ」

時江は指輪を取り出した。
ロウソクの炎が銀色の輪を淡く縁取る。
いぶし銀のように輝くリングの輪は回り続ける永遠の象徴であり、自分が幸せと思える心を持つことを表しているように思えた。
時江はしばらく指輪の重さを指先で確かめるようにしていた。
時江の顔から迷いが消えた。
彼女は指輪をゆっくりと左薬指に入れた。
「私、あの人を迎えに行きます」
「そうよ。それが一番いいことよ」
「光ちゃんに感謝しなくっちゃ」
時江がそう言ったとき、紀子は肩に温かいものを感じた。
光の両手がそっと両肩に添えられていたに違いない。
「あなた、有り難う」
 紀子は心の中で合掌した。

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小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 中編         鮠沢 満 作

  

時江の家はすぐ見つかった。本通りを突き当たって右に折れ、
少し行ったところに幼稚園があったが、そのすぐ裏手だった。
紀子は気後れしながらもベルを鳴らした。
ややあって中から腰の曲がった年寄りが戸を開けた。母親らしい。
「三枝時江さんおいでになりますでしょうか」
「時江ですか。時江は今仕事にでとりますわ」
「いつ頃お帰りになりますか」
「そやな。三時くらいかのう」

紀子は時計を見た。
まだ二時少し前である。
さてそれまでどうやって時間つぶしをしたものか。
紀子が思案しているとそれを察したのか、
「すぐそこの製麺所ですわい。
行ったらええ。
親戚の手伝いで仕事も暇やけん心配いらん。
あんた時江のお友達ですかいな」
「ええまあ」
ここは言葉を濁すしかない。
母親は紀子を娘の友達と信じて疑わない。
親切に道順を教えてくれた。

途中、隧道があった。
長い隧道ではないが、隧道を一歩一歩進むごと光から遠ざかるような気持ちに襲われた。
隧道に自分の靴音が反響する。
固い靴音は紀子の苦しい胸の内をそのまま反響しているようだった。
今ならまだ間に合う。
引き返そうと思えば引き返せる。
光の過去を暴いてどうなるというのだ。
故人への愛情と尊敬を失うばかりか、自分自身だって傷付く。
それでも紀子は確かめたかった。

 隧道を抜けると海だった。
隧道で丘を一つ越したせいか、風はなかった。
紀子は防波堤に腰を降ろして休んだ。
島が砂州で陸続きになっている。
かつては紀子も光もあのように心がつながっていた。
なのに一通の手紙が……。

 時江の母親は紀子の訪問の目的さえ訊こうとしなかった。
島では人を疑ったり妬んだりする風習に乏しいのか。
紀子はよそ者だ。
そのよそ者がのこのこ島にやってきて他人の安逸な生活を乱そうとしている。
自分ながら厭なことをしようとしている思った。
人柄の良さそうな時江の母親の顔が、瞼の裏にちらついて痛かった。

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 簾のように垂れ下がった素麺が、遠くからだと流れ落ちる滝のように見える。
素麺を天日干ししていた。
塩気を含んだ海風が素麺の乾燥に適しているのだろう。
紀子は素麺の間をかいくぐって、納屋のようなところに行った。
そこが素麺の作業場らしい。
老夫婦と若い女が一人いた。

 時江は遠目からもきれいだった。
紀子はどちらかといえば都会的な顔立ちであるが、時江はそれとは対照的にすべてがゆったりとした線で包まれ、一緒にいると気持ちが和みそうであった。

「ごめんください」
 紀子は思いきって声を掛けた。
 時江が気が付いてこちらに振り返った。
 応対に出てきたのも時江である。
 紀子は時江を目の前にして、不思議な感覚に襲われた。
 時江は自分を全面に押し出してくるタイプではないと直感した。
 その物腰から、おおよそ光と道ならぬ恋に身を投じるような情熱的な女には思えなかった。
 しかし、光はどうか。
 紀子のような繊細で感受性の強い女より、控えめで少し離れたところから黙って見守ってくれる女の方が気が楽だったのではないか。
肩肘張らずに自分をさらけ出すことができた。
違うだろうか。
時江はそういう類の女だった。

「何かご用でしょうか」
時江はパリッとスーツに身を包んだ紀子をやや警戒しながら眺めている。
「私、大島紀子と申します」
紀子ははっきり名前を名乗った。
「大島紀子さんですか」
紀子の予想に反して時江の反応が鈍い。
大島と聞いて少しは動揺するかと思ったが、時江にはピンとこないようだ。
顔色からしても偽っているふうでもない。
「素麺の注文は承っておりますか」
時江は紀子を完全に客人と思いこんでいる。
紀子は肩すかしを食らった。
しかしまだ分からない。
「実は少し込み入った話があってまいりました」
「素麺ではなく、込み入った話ですか」
ここではじめて時江は浮かぬ顔になった。
やはりね。

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「出られますか。ここではちょっと何ですので」
 時江は中の年寄りに一声掛けて出てきた。
 二人は海岸近くの空き地にやってきた。
「お話というのはあの人のことですか」
時江の方が先に切り出してきた。
その方が手間が省けて早い。
「そうです。いつからの関係ですか」
「いつからと言われても」
「はっきり言ってください」
「かれこれ二十七年近くになります」
「二十七年?」
「どうかしましたか」
どうも話が噛み合わない。
「大島光という名前を聞いて何かピンときませんか」
少し驚かせてやりたくなった。
「大島光! 光ちゃんがどうかしたんですか」
ほらやっぱりそうじゃない。
知っているんなら最初からそう言えばいいのに。
それに光ちゃんだなんて随分なれなれしい。

「私、大島光の妻です」
「光ちゃんの奥さんですか。
 これはどうも失礼しました。
 私てっきり素麺を受け取りに来たお客さんだとばっかり思って」
 時江は頭を深々と下げて丁寧な挨拶をした。

 またしてもどこか変だ。
「主人とはどこで」
「どこでと言いますと」
「よく会ってたんでしょう」
「あるときまでずっと一緒に暮らしておりました」
「恥ずかしいと思ったことは」
「それはあります。
 でも起こってしまったことはどうしようもありません。
 もう諦めています」
「私はそうはいきません」
 突然怒りだした紀子に、時江はどう返事していいのか分からない。
「はあ。でもそう言われましても」
「それで主人は私と別れると言ったんですか」
「別れる?」
 時江は突如笑い出した。
「何が可笑しいんですか」
「紀子さんて言いましたわね。何か勘違いしていらっしゃるようですけど」

「私、主人がてっきり時江さんと浮気しているものとばっかり思って」
「この手紙読んだらそう思うのも当然ですよね」
 紀子と時江は二人して呵呵と笑ってしまった。

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はじめに

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」
いろいろな人間の思いが織りなされてきましたが、いよいよ11話。
一番長いお話になります。一度に掲載できるのは5000字までのようです。
3部に分けて掲載しますが、おつきあいいただければ幸いです。

小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 前編      鮠沢 満 作

  
紀子は書斎のカーペットに萎れたように座り込んでいた。
机のそばに置かれた椅子を見ても、そこに光がいるような気がする。
パソコンに向かって手際よく書類を片づける光。
呼びかけると、どうした、と振り返る。
その顔にはいつも笑顔があった。
ときどき紀子は甘えて、後ろから光の首を抱きすくめることがあった。
光の頬に自分の頬をくっつけると、光のすべすべした皮膚の温かさがほんのり伝わってきて、思わず心の芯がジャムのように溶けそうになった。
そんなとき光は紀子の気持ちを優しく受け止めて、そっと唇を合わせてきた。

 紀子は光の衣服、本、クラッシックのCD、それにパソコンと片づけて、
アルバムに手を付け始めたところであった。
アルバムを片づけようと思ったのに、ついページをめくってしまった。
そこにあったのは新婚旅行で行ったパリでの写真だった。
セーヌ川に架かる橋の上で二人寄り添って撮ったものである。
光の手が紀子の右肩に置かれている。
紀子も光も七月の太陽の明るさをそのまま顔に映し出していた。
真っ白な歯を見せて笑う光。
それを心もち斜め下から見上げる恰好の紀子。
幸せが漲っていた。

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 紀子はこの写真をどれくらい眺めていたのだろう。
気が付くと涙が頬を伝っていた。
「こんなんじゃだめよ。
あの人が喜ぶわけないわ。
おい紀子、しっかりしろ」
 紀子は一つ気合いを入れた。
一週間前、紀子はマンションを引き払って、実家に帰ることにした。
子供がいなかったので、これからいくらでもやり直しはできると父母は慰めのつもりで言ってくれるのだろうが、光の死からまだ三ヶ月しか経っていない。
シュレッダーにかけるみたいに、二人のこれまでの生活をそう簡単には処理できない。
心の傷はあまりにも大きかったし、それに伴ってできた心の空洞もいつまで経っても風の通り道みたいで、思うように埋まらなかった。
特に仕事の上でも人生の上げ潮にさしかかろうとしていた光の気持ちを考えると、
妻でありながら何の役にも立てなかったことに無力感を覚え、自分を責めたりした。
翻弄された運命に歯痒さを感じ、独りぼっちになったことに怯えおののき、そして人生の虚しさを呪った。
気持ちが萎えてしまう自分を叱咤して、他人に頼らず何とか立ち直ろうと三ヶ月頑張ってはみたものの、やはり光という支えを失った独り暮らしは、努力すればするほどかえって空回りして、どんどん気持ちを滅入らせていった。
そんなとき母親が、帰ってきたら、と一言掛けてくれた。
その一言に紀子は涙を流していた。
ほっとしたのである。
周囲の目を気にして強がっていた自分が救われた思いだった。
紀子は素直にそうすることにした。


 紀子はアルバムを段ボールに押し込んで立ち上がった。
最後に光の机の引き出しの整理が残っていた。
紀子はこれまで光の机の中は見たことがなかった。
いくら夫婦といえども見ていいものとそうでないものがある。
お互いプライバシーを守るのが理知的な夫婦の在り方だと紀子は考えていた。
恋人同士でも互いの携帯電話を覗かないのと同じである。
 別段光が引き出しの中に何か秘密めいたものを隠しているはずもない。
でも引き出しに手をかけたとき、指先に緊張が走ったのはどうしてだろう。
たとえ夫婦であっても、なにがしかの秘密があって当たり前という世間一般の通説を紀子自身も暗に肯定したためだろうか。

 紀子は、たわいもない考え、と胸にわいた些細な疑心をかき消すと引き出しを開けた。
一番上の引き出しには会社関係の書類が入っていた。
ぱらぱらっと目を通してみたが、横文字も多く紀子には何だか分からなかった。
取り立てて大事なものはなさそうだ、と判断するしかない。
紀子は安心した。
光に限ってそんなわけない。
あんたは心配症なんだから、まったく。

 二段目の引き出しには鍵がかかっていた。
多分大切なものが入っているんだろう。
しかし鍵は一段目の整理用ラックに文房具類と一緒に入れてあった。
紀子は鍵を差し込んで回した。
カチッと小さな音を立てて鍵が外れた。
開けると一段目と同じように書類が入っていた。
しかし紀子の目を捉えたものがあった。
手紙である。
業務用のマニラ封筒ではなく、きちんとした封筒である。
紀子はそれを取り上げた。
住所と名前が書いてある。

小豆郡土庄町甲八五二番地二
三枝時江
ただし鉛筆書きである。
それも封筒の隅っこにメモ書き程度に。
筆跡は光のものに間違いない。
中に何か固いものが入っているらしく、封筒の下の部分が少しかさばっている。
上から撫でると、丸くて固い。

 紀子は、さてどうしたものだろう、と考え込んだ。
 紀子はもう一度住所を確認した。
 小豆島か。
 光と小豆島?
 高松市内にある紀子のマンションからは瀬戸の海が見える。
紀子はベランダの向こうに視線をやった。
女木島があり、さらにその先には小豆島の島影が横たわっていた。

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紀子はフェリーを降りた。
海からの冷気が紀子の頬を噛んだ。
紀子はそれから逃れるように正面の土産物売り場に飛び込んだ。
紀子は自分がこれから行こうとしている住所がどの辺りか誰かに訊いてみるつもりだった。
冬場は観光客もめっきり減るらしい。
店内にはほとんど客はいなかった。
紀子は掃除をしている店員に申し訳なさそうに近づいた。
「あのーすみませんが」
「はい、何でしょうか」
五十くらいの上品な感じの店員さんで、厭な顔をせず丁寧に応対してくれる。
「この住所を探しているんですが、どの辺りか見当がつきますでしょうか」
「土庄町の八五二ですか。ちょっと待ってくださいね」
店員は掃除の手を休め、どこかに消えた。
そしてしばらくすると、住宅地図を持って帰ってきた。
店員はページをめくり
「ここですね。すぐ近くですよ」
 と指で示した。
 紀子は大まかな地図をメモ用紙に書きうつすと、それをコートのポケットに入れた。
住所を聞いただけで店を出ていくのも済まなく思ったので、とりあえず一つ土産物を買った。
めざす住所は本通りを突き当たって、右に曲がってすぐのところらしい。
距離を訊いたら、歩いて十五分から二十分ですよと言われたので、紀子は歩くことにした。
そこに着くまでにもう一度気持ちの整理をしておきたかった。

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 三枝時江。

紀子はこの名前に記憶がなかった。
光はよく会社の仲間の話をしたが、時江という女の名前が話題に上ったことはない。
しかし何故か胸の奥が疼いた。
嫉妬というやつだろうか。
光が死んで三ヶ月。
だからこの手紙は少なくとも三ヶ月前に書かれたことになる。
でも何の目的で。

 その日はそのまま手紙を元の引き出しに返した。
それ以上詮索すると、光に対する全幅の信頼が崩れ去るような気がして怖かったのと、
まだ決まってもいないのに決めつけようとしている自分の浅ましさが厭だったからである。
しかし、翌日目覚めてもやはり気に掛かるのは例の手紙だった。
かつて一通の手紙でこれほど心を乱したことはなかった。
それに封印されたものはいったい何だろう。
紀子の好奇心はどんどん膨れ上がっていった。
もしかすると自分が傷付くかもしれない。
このまま開けずに処分してしまったほうがいいのでは。
そう思ったりもした。

 しかし、紀子は手紙を開けてしまった。
中から出てきたのは真新しい結婚指輪と破いたノートだった。
結婚指輪? 
これにはさすがに紀子も肝をつぶした。
どうして光が結婚指輪なんかを。
それに文面にも驚かされた。

〈もう一度チャンスをくれ〉

 たったこれだけである。
でも短い分、鮮烈だった。
やはり鉛筆で書いてあった。
強く上から押しつけるようにして書いてあったので、筆跡の特徴に乏しかった。
光の筆跡のようにも思えるし、そうでないようにも思える。
それより紀子の頭をかき乱したのは、光に裏切られた、という思いだった。
二人の関係は信頼という壁で塗り込められ、不義という穢らわしい邪心が入り込む余地なんぞ一ミリたりともないと思い込んでいた。
それなのに……。
 パンドラの箱を開けてしまった。紀子はそう思った。

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小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 後編

鮠沢 満 作   
 その夜、哲夫はリンの店に行った。
リンに佐藤の言ったことを確かめようとしたのだ。
しかし、リンの透き通るような笑顔を見たとき、哲夫の気力は失せてしまった。
結局、店が引けるまで訊けなかった。

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 哲夫はその後も店に通い続けた。
そんな哲夫の一途な思い入れが功を奏したのか、リンはときどき店以外でも哲夫と会うようになった。
哲夫は人目を避けながらもリンと会うとき、気分はいつも雲の上を歩いているようだった。
哲夫にしてみれば、店の客とホステスとはいえ、恋だった。
それも生まれて初めての恋。
もう誰にも止められなかった。
そのため、それまで苦労してこさえた貯金もリンに貢ぐ形になっていた。

哲夫の母親は息子の行状を心配していた。
哲夫とリンのことが母親の耳にも入っていたのである。
特にリンが外国人で、さらに飲み屋で働くホステスと聞いておおいに心を砕いた。
悩んだ末、母親は哲夫がその女に騙されているというような内容のことを言った。
すると哲夫は烈火の如く怒り出した。
そして物は壊すは母親に怒鳴り散らすはで、もう年老いた母親の手には負えなかった。
母親は思いあまって、佐藤のところに相談に行った。

 佐藤は母親の話を聞いて呆れ果てた。
そして再び哲夫を呼んで諭した。
「前にも言っただろう。あいつらはプロだ。
  そのうち身ぐるみ全部剥がされちまうぞ。
  そうなったら後の祭りだ。
  なあ哲っちゃん、いい加減目を覚ませよ。
  友達だからこの際はっきり言っとく。
  俺たちみたいな人間が女に持てるわけないだろう。
  リンの目当てはお前の金だよ。
  まったくお人好しで馬鹿なんだから」
哲夫は佐藤の思いもよらぬ激しい言葉の攻撃にたじろいだ。
しかし哲夫は佐藤に反論したかった。
というのも店以外で会うリンは、商売用のリンではなくもっと穏やかで優しかったからだ。
ドライブに出かけるときなど、哲夫のためにわざわざ弁当を作ってきたりした。
手間暇かけて作った弁当で、愛情がこもっていた。
それにクッキーを焼いてくることもあった。
そんなことまでしてくれるリンがどうして自分を騙すはずがある。
それだけじゃない。
中国に病気の両親がいる。
そのため遠く故郷を離れ小豆島くんだりまでやって来て、様々な屈辱に耐えながら働いているのだ。
稼いだわずかばかりの金とて自分のためには遣わず、ほとんど病気の両親に送っている。
リンは心根の優しい女だ。

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 そんな優しいリンが、この俺を騙すわけがない。
リンのことを知らないやつらに何が分かる。
俺とリンのことをとやかく言うのは、大きなお節介というものだ。
しかし母親までが心配している。
哲夫もさすがにこれには頭を悩ました。
哲夫の心は痛んだが、リンに事実を確かめるべく店にやって来たのだ。
正直言って怖かった。

 リンはいつものように陽気に振る舞っている。
そしていつものように優しい。
カラオケで誰かが歌い出した。
いいタイミングだ。
「リンちゃん、踊ろうか」

 哲夫はリンをステージへと導いた。
リンが身体をぴったり合わせてきた。
哲夫はリンをしっかり抱きしめて、リズムに合わせてゆっくりフロアを舞った。
「リンちゃん、僕のことどう思っている」
「どう思ってるって」
「つまり、僕のこと好きかってこと」
「そりゃ好きよ」
「僕たちの間には隠し事なんてないよね」
「隠し事? 難しい言葉分からない」
「つまり、お互い秘密はないよね」
「秘密? 秘密なんてないよ。てっちゃん、急にどうしたの」
「いや~」
「今日のてっちゃんどこか変だよ」
 哲夫は思い切って切り出そうとした。
しかし、そのときカラオケが終わった。二人はボックスに戻ろうとしたが、
哲夫がマスターを呼んで何やら言った。
マスターは、うんうんと頷いた。
 哲夫は話が終わるとリンに、
「ちょっと外に出よう。マスターには了解取ったから」
 と言った。
 二人は外に出た。
 塩気混じりの風が足下をかすめていく。
  少し背筋が冷たい。
 哲夫はリンに向き直って
「ちょっと聞きたいんだけど」
 と、いかにも言いにくそうに頭を掻きながら言った。
「話ってなあに」
「リンちゃん、俺を騙してないよね」
「騙す?」
 リンは哲夫の質問の意図が分からないといった様子である。
「僕とのことだけど……つまり何て言ったらいいんだろう。
  あくせくしているのはお金のため? 
  それって汚いんじゃない」

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 リンの顔色が変わった。
「お金のためというけど、みんなお金のためにあくせくしているんじゃない。
そのどこが悪いのよ」
 その言葉を聞いてリンの本性が出た思いがした。
「やっぱり」
「何がやっぱりよ。てっちゃんてそういう人だったのね」
「それはこっちが言いたいよ」
「分かったわ。これで何もかも終わりね。
  やっぱり日本人って信用できない」
 リンはそう言うと、店の中に消えた。
 いつ降り出したのか雨が落ちていた。
路面にネオンの光がビー玉をばらまいたように散らばり、周囲の闇をえぐり取るように際立たせていた。

 哲夫は店の中に入るのも憚られ、携帯でマスターを呼び出すと、勘定は近々払うからと伝言した。
胸の奥は鉛を流し込んだように重かった。
リンの勝ち誇ったような表情が、一瞬目の裏をよぎって悔しかった。
俺はやっぱりこういう役回りばっかりなんだ。
お前ってやつはつくずく馬鹿なんだから。
こんなの最初から分かっていたはずだ。
佐藤が言ったとおりだ。
鏡で自分の顔をよく見てみろやって。
こんなとっちゃん坊やみたいな顔して、女に持てるわけないんだよ。
なのに夢中になって。
とんだ一人芝居だ。
笑わせるよ、まったく。

 ちびのふとっちょでも涙は出る。
団子鼻のタラコ唇だって悲しいとき悔しいときには泣く。
哲夫の細い目から大きい涙がぽたぽた落ちた。
糞っ! みんなで俺を馬鹿にしやがって。
雨が哲夫の顔を濡らした。
涙が雨に溶け、ひときわ太い筋を引いた。

 それから二週間が過ぎた。
その間、哲夫はリンと喧嘩別れをしたことで、気分は随分と落ち込んでいた。
食事もろくに喉を通らなかった。
仕事に出てもぼんやりとして、作業に身が入らない。
午後五時半、くだらなく思える仕事がようやく引け、作業着から私服に着替えたとき佐藤がやってきた。
「お前に客人だ」
「俺に」
「店の女らしい。お前まだ懲りないのか」
佐藤はあきれ顔だ。
哲夫は外に出た。
一人の女が自動販売機のところに所在なく立っていた。
女は哲夫を見つけると、違和感の固まりみたいになって近づいてきた。
「わたし、マリア。リンちゃんのことで来た」
「リンのことで。もう用はないはずだが」
マリアは違うと、顔を横に振った。
「リンちゃん、今日中国に帰った」
「えっ! 今日、中国に」
「わたし伝言頼まれた」
「伝言?」
 マリアは哲夫に手紙を渡した。
「じゃあわたし店があるから」
 哲夫は、ありがとう、とだけ言って、マリアの後ろ姿を黙って見送った。
 哲夫は手紙を開いた。
便箋が一枚出てきた。
今さら何だと言うんだ。
俺をそんなに馬鹿にしたいのか。
俺はどうせのろまのどじ野郎さ。

便箋には拙い字が書き連ねてあった。

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 てっちゃんへ
わたし中国にかえります。
こっちにきてあまりいいことなかった。
いやだったのは仕事。
好きでもないお酒のんで、好きでもないお客の相手すること。
みんなウソつき。
きれいなこと言うけど、みんなウソつき。
わたしのこと遊びの道具にしか考えていなかった。
人間として見ていなかった。
でも働かないと、中国のりょうしんこまる。
病気だから。だからわたしがまんした。
心の中ではいつも泣いてた。
はやく中国かえりたいと。

 わたしにほんとうにやさしかったのは、てっちゃんだけ。
これうそじゃないよ。
てっちゃんは、顔はかっこよくなかった。
でもこころがきれいだった。
とってもすんでた。青空のようにはれてた。
てっちゃんといると、自分がやさしくなれた。
はじめはてっちゃんのことそれほど好きじゃなかった。
どうせお金でわたしとあそぶんだろうと思ってた。
でもつきあってるうちに、この人いい人だと思った。
気がついたら、本当に好きになってた。

 わたしお金のためにてっちゃんとつきあったんじゃないよ。
これだけは信じて。
ケンカしてわかれるのとてもさみしい。
てっちゃんといると、とても心があたたかくなった。
やさしくしてくれてうれしかった。これほんとよ。
てっちゃんがくれたフクロウの人形、中国にもってかえるね。
しあわせはこんでくる鳥でしょう。

 てっちゃん、ありがとう。
リンにたくさんたくさんしあわせくれた。
中国からてっちゃんのしあわせいのってるから。
                 リンより

 哲夫は身も蓋もなく泣いていた。
俺は何てことをしてしまったんだ。
もう取り返しがつかない。
「リンちゃん、俺は生まれつきの大馬鹿だよ。最低だよ。許してくれ」

夢小路では、今夜もどこかで誰かが叶わぬ恋の糸を紡ごうとしている。
何故って? 
だって恋とは糸しい糸しいと思う心と書くでしょう。

はじめに

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も10話を迎えました。
 みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がコメントという形でダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載もあと5話です。
それでは第10話をお届けします。

小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 前編

鮠沢 満 作   
「ねえ、リンちゃん呼んで」
 哲夫はソファーに座るなりそう言った。
マスターが指名の女の子の名前を訊く前にリンの名前を言っていた。
山村哲夫、四十五歳。
独身。職業、醤油会社勤務の会社員。
毎日、醤油の瓶詰めという単調な作業に追われる日々を送っている。

 今日は給料日。
哲夫は給料日を含め、一ヶ月に何度かここ小豆島の盛り場夢小路にやってくる。
夜になると昼間の辛気くさい雰囲気とは打って変わって、ネオンきらめく盛り場と化す。
哲夫は『皇帝』という店の常連である。
いわゆるキャバクラである。
女たちのほとんどが外国籍。
つたない日本語で客の相手をしてくれるが、これがどれも美人揃い。
昼間はどこに隠れているのか、まったく姿を見せない。
しかし、開店ともなるとどこから降って湧いたのかと思うほど、
たくさんの女たちがネオンに引き寄せられるように現れる。

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 リンは中国籍。
約一年前から店に出ている。
来日する前に少し日本語の手ほどきを受けたのか、それとも客商売にあっては言葉は死活問題、
こっちに来て猛勉強したのか他の女たちより堪能である。
結構難しいことを言っても、不自由なく応答できる。
顔はやや細面だが、感じとしては全体的にふっくらとしている。
目は大きく、瞳の中に真っ直ぐ前を見つめた溌剌としたきらめきがある。
鼻梁は高く、大きさもほどよい。
唇はやや薄いが、顔とのバランスで見ると肉感的だ。
笑うと右だけえくぼが出る。
「てっちゃん、いらっしゃい、会いたかったわ」
リンが哲夫のそばに座るや、腰をぴったり押しつけてきた。
哲夫はそれに合わせたように、左手をリンの肩に回す。
ごく自然な仕草だ。
店に入るまでは例のことがあるため気分的に沈んでいたが、
リンの屈託のない笑顔を見たとたん、哲夫は仕事仲間の心配が単なる危惧だったと思った。
こんなに純真な笑顔のリンちゃんがまさか……。

「僕も会いたかった」
哲夫はリンのほっぺに軽くキスをした。
それに対して、リンも哲夫にそうされることにまんざらでもない仕草だ。
「てっちゃん、何飲む」
「いつものやつでいい」
「私も飲んでいい」
リンが甘えた声で自分の飲み物もちゃっかりおねだりする。
これが案外馬鹿にならない。
いくらかホステスにも落ちるようになっている。
「いいよ」
女の手前、気前がいい。
哲夫の給料はお世辞にもいいとは言えない。
月に何度かキャバクラに通ってこれる身分ではない。
しかし哲夫が日頃の生活費を削ってまでリンに会いに来るのには、それなりの理由があってのことだ。

 哲夫の容姿は、はっきり言ってさえない。
背は低く、やや小太り。
顔は赤ら顔で、ぽっちゃりとしている。
そのぽっちゃりとした輪郭に、細い目と団子鼻、それに厚ぼったい唇が調和を乱してはめ込まれている。まあ醜男といっていい。

 そんな哲夫の日々の生活といえば、月曜から土曜日まで醤油の瓶詰めという単純作業に費やされる。
瓶詰めといってもすべて機械がしてくれる。
哲夫はただ空の瓶を流れ作業のベルトに乗せるだけのことである。
別段頭を使うこともないし、それに冷静な判断が求められるわけでもない。
あまり物事を深く考えない人間とか、単調な生活にも何ら不満らしきものを感じない人間にとっては、
賃金がもらえるのだから、割り切って考えれば楽な仕事と言えなくもない。

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 哲夫もどちらかといえば、自分の生活というものをそれほど深く考えたことはない。
いつも誰かの後ろをついて回るだけで、主体的に生きてきたという記憶さえなかった。
その証拠に、小さいときからいつも日陰にいたような気がする。
家にいても、賑やかで活発な兄弟の陰に隠れていた。
自分の言いたいことさえ言わなかった。
学校に行っても友達もできず、たとえ一瞬でもぱっと花の咲いたような学校生活を送ったこともなかった。
人生とは、自ら生きるのではなく生かされるもの、そう諦めていたところがある。

 年の瀬も押し迫ったある夜のこと、ぱっとしなかった忘年会の験直しに二次会に行って派手にやろうと、哲夫と同じ作業班の仲間が言いだした。
哲夫も無理矢理タクシーの後部座席に押し込まれ、盛り場にくり出して行った。
店内はカクテル光線が飛び交い、ホステスのねっとりまとわり付いてくるような色気でムンムンしていた。
哲夫はその熱気に圧倒された。
今までにキャバクラに来たことがなかったからである。
哲夫の容姿からして、そんなところに行っても持てるはずもない。
哲夫自身も自分のことがよく分かっていた。
ところがその夜哲夫の横に座ったのは、店でも人気ナンバーワンのホステスだった。
しなやかな身体つきに加えて、とびっきりの美人だった。
スリットの入ったタイトスカートからは、贅肉のない見事な足が伸びていた。
胸元も少し大きく開いており、前屈みになるたび胸の谷間がくっきり見えた。

 哲夫は生唾を飲んだ。
それを見ていた仲間の一人がからかい半分に言った。
「リンちゃん、こいつまだ経験ないからね。今晩ちゃんと教えてやってよ」
「えっ? ほんと?」
 リンは愛くるしい大きい目を哲夫に向け、信じられないといった表情で、まっすぐ瞳の奥を覗き込んできた。
哲夫はリンの顔を真正面から、それも至近距離から見て、背中から脳天にかけて電流のようなものが走るのを感じた。

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 その夜、店を出るまでリンは哲夫のそばを離れなかった。
哲夫は生まれて初めて、女という得体の知れない生き物をじっくりそばに置いて観察する機会に恵まれた。
リンは優しかった。
それもこれまで哲夫に接した誰よりも。
彼女の形のよい口から飛び出す言葉は魔法のように甘美で繊細だった。
哲夫の固い口の扉にかかった鍵でさえ容易に開けた。
普段口べたで無口な哲夫ですら憶することなく言葉を口にすることができた。
哲夫は今までとは違う自分がいることを発見しつつあった。
これまで日陰に隠れていた自分が、太陽の光によって目覚めようとしている。
もしかしてこれが本来の自分かもしれない。
そう感じた。
哲夫はリンに一目惚れした。

  それから哲夫は仲間に内緒で、一人で店に顔を出すようになった。
回数を重ねるごと、哲夫も店での振る舞いが板に付き、リンとのやりとりにも余裕さえ出てきた。
リンとの駆け引きにも慣れた頃、哲夫はときどきではあるがリンに贈り物を持って行くようになった。
高価な品物ではなかったが、まずは心配りが大事と考えた。
リンも哲夫の思いやりを理解したのか、黙って受け取った。
そんなときリンはいつも哲夫に言うのだった。
「てっちゃんて優しいから好き。
  わたし、てっちゃんに本気で恋しちゃうかも」
 哲夫はそんなリンの歯の浮くような言葉でも内心嬉しかった。
たとえリンとの軽いやりとりであっても、自分がひとかどの人間として認められたような気持ちになり、さらにリンに傾いていった。

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 哲夫が店に通い始めて数ヶ月が過ぎた頃、哲夫をリンのところに連れて行った仲間の一人が、
昼食が終わったときちょっと話があると言った。
佐藤という哲夫の唯一の友達は、哲夫を中庭に呼び出すとズバリ言った。
「哲っちゃん。あの店に行くのはやめとき」
哲夫は佐藤の言葉に驚いた。
誰にも気付かれずに通っていたつもりだったが、どうして佐藤が知っているのだ。
佐藤が知っているということは、他の連中も知っていることになる。
どうせ噂になっているに違いない。

「俺は……別に」
「狭い町のこと、誰が何をしているか筒抜けだ。
  哲っちゃん、勘違いしちゃいけない。
  あいつらはプロだ。金のためならどんなことだってやる」
哲夫は佐藤の言葉にがっかりすると同時に腹が立った。
リンちゃんはそんな女じゃない。
「佐藤、せっかくだが説教はやめてくれ。
 俺は子供じゃない。
 自分が何をしているか知っているつもりだ」

3枚目の写真は「小豆島孔雀園」で「いきいき写真館」さんが、撮られた物です
http://homepage3.nifty.com/maekka/
ありがとうございました。<(_ _)>

?H1>小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 後編
鮠沢 満 作   
その夜、勇作は伯父の友吉に呼ばれた。
 友吉の部屋に入ると、座るように言われた。
 勇作は言われるとおり友吉の前に正座した。
「勇作、はっきり言っておく。あの娘と会うのはやめろ」
 友吉はどこから聞いてきたのか、勇作と富江が逢い引きをしていることを知っていた。
どうせ近所の口のはじかい連中の一人が、点数稼ぎのために告げ口でもしたのだろう。

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「どうしてですか」
 勇作はまっすぐ友吉の目を見て言った。
「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」
「世間ですか」
「そうじゃ。お前はまだ若い。
 だから世の中の仕組みというものが分かっとらんのじゃ。
 それに女というもんがの。
 ところでお前と富江とかいうあの女はどこまでの関係や」
「どこまでの関係と言われても……相思相愛だと思います」
「なるほどの。でもあの女と付き合うのはやめろ」
「どうしてですか」
「勇作、はっきり言っておく。
  家柄が違う。
  こっちは先祖代々この地方でも有名な網元ぞい。
  それに比べ、その女の家はといえば、その日暮らしするにも事欠くありさまじゃ。
  まともな仕事もなく、どうせろくなことして生きとらん」
「伯父さん、家柄がどうしたというんです。
  大事なのは人間性じゃないですか」
「勇作、お前いつからこのわしに意見するようになった」
 勇作は友吉に刃物を突きつけられた思いだった。
  勇作は絶句するしかなかった。

 勇作の父母は、勇作が三歳のとき海難事故で亡くなった。
夫婦で漁に出ているとき、タンカーに衝突され、そのまま船もろとも沈没してしまったのである。
身寄りのなくなった勇作を引き取って育ててくれたのが、伯父の友吉だった。
「この世の中にはな、叶うものと叶わんもんがある。
  家柄がどうしたこうしたというが、家柄は大事じゃ。
  どこの馬の骨とも分からん女をお前の嫁にはもらえん。
  お前は俺の息子ぞい。
  大村家の跡継ぎぞい。そのことを忘れるな。
  世間の笑いものになるようなことだけはするな。
  分かったな」

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 勇作は一人浜で泣いた。
悔し涙だった。
伯父には確かに世話になってきた。
両親が死んで育ててくれたのは他でもない友吉だった。
だからといって富江の家のこと、それに富江自身のことをあんなふうに言う資格はない。

 翌日、いつもの待ち合わせの場所に行ったが、富江は来なかった。
勇作はそれでも待った。
だがやっぱり富江は現れなかった。
何かがおかしい。
勇作は富江の家に行くことにした。
ちょうどそのとき、小さな女の子が現れた。
「あのー、これおねえちゃんから預かってきた」
 その子は勇作に手紙を差し出した。
 その手紙には、もう二人とも会えない、とだけ書いてあった。
  理由は書いていなかった。
 もう会えない? 

 いったいどういうことなんだ。
 一週間くらいして、富江はかまぼこ会社を辞めた。
勇作は何度も富江の家に行ったが、父親が頑として富江には会わせてくれなかった。
そして一ヶ月後、富江は岡山のある家に逃げるようにして嫁いでいった。
あまりに急なことで、勇作は我を失った。
富江が嫁いだその晩、がっくりときて身動き一つできないでいる勇作に友吉が声をかけた。
「勇作、そうがっかりするな。これで良かったんだ」
「これで良かったというのは、どういうことなんですか」
「人間にはそれぞれ持って生まれた運命というものがある。
  それと属すべき階層。
  釣り合いの取れない結婚をすると、苦しむのはどっちかお前にだって分かるだろう」
「富江のこと、まさか伯父さんが……」
「そのまさかだったら、どうだというんだ。
  お前は世の中ちゅうもんが分かっとらん」

 後になって昌樹から事情を聞かされた。
勇作と友吉が富江のことで話をした翌日、友吉が富江の家に行き話しをつけたということだった。
勤め先のかまぼこ屋も友吉の息がかかっていた。
それにもう一つ驚いたことに、友吉からこっそり富江の父親になにがしかの金子が渡ったとも言われた。

 勇作は伯父には悪いと思ったが、以後一度も友吉のところには帰らなかった。
そしてその友吉が癌で亡くなった。
いくら何でも育ての親の葬儀に出ないわけにはいかなかった。
そのためやむなく帰省したのである。

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 勇作は昌樹に電話した。
「いいだろう」
昌樹はそう言った。
手はずは整えるという意味らしかった。
「いつものところでいつもの時間に、と伝えてくれ」
勇作はそう付け加えた。
数日して昌樹から連絡があった。
「富江は了解した。会うのは明日だ」
短く用件だけ伝えると、昌樹は電話を切った。
後はお前の仕事だ。
そういうことらしい。

 勇作は息を詰めて待った。
あの頃もそうだった。
富江の足音が聞こえるのを、息をひそめて待っていた。
富江の足音が聞こえてくると、勇作の胸は早鐘のように鳴った。
そして富江が目の前に現れると、無理をおしてまで勇作に会いに来る彼女のいじらしさを、とても愛おしく思ったのだった。
そのときほど富江を大事にしたいと思ったことはなかった。
 
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 約束の時間がやってきた。
夕暮れ時で、すべてのものが柔らかい光に包まれている。
ささくれだった気持ちも少しは和らいだが、それでもいざ十年振りに富江に会うとなると、
それなりの覚悟というか勇気が必要だった。
それに理不尽なことがあっただけに、やはり辛いものがあった。
紆余曲折を経ての再会は勇作をひどく憶病にさせ、
真っ直ぐな気持ちで富江と向かい合うことができるかどうか、勇作自身はなはだ自信がなかった。

 富江は約束の時間に現れた。
そして勇作の前に立っていた。
十年という歳月が逆回転し始めた。
何もかも純粋で透明だったあの頃に戻ってほしかった。
未来に背を丸めることもなかった。
風聞に耳を塞ぐこともなかった。
ただ真っ直ぐ前を見て、ありのままの富江を受け容れていればよかった。

「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」
伯父の悪意に満ちた言葉が蘇ってくる。
勇作の胸は押しつぶされるように痛んだ。
勇作は富江に近づいた。
富江の顔が逆光になってはっきりとは見えなかったが、輪郭にむかしの面影が残っている。
富江の周囲だけ柔らかな空気が漂い、懐かしい温かさが伝わってきた。
友吉が亡くなった今、誰憚ることもない。

「あの頃のように歩こうか」
 富江が小さく頷いた。
「痩せた?」
「ええ」
「富江」
「はい」
浜に向かって海風が吹いてくる。
それが富江の髪を悪戯っぽく掻き上げた。
一瞬富江の細い首筋が見えた。
勇作は立ち止まり、富江の方に向き直った。
「富江、悪かった。苦労させて。昌樹から聞いた」
勇作は富江をそっと引き寄せた。
「だって仕方なかったもの。あなたのせいじゃない」
「この十年間、一日も忘れたことなんてなかった」
この言葉に富江がまっすぐ勇作の目を覗き込んできた。
涙をこらえているのが分かる。
睫毛が小刻みに震え、富江の網膜の上にある勇作の姿が崩れた。
勇作は富江を折れるほど強く抱きしめた。
「わたし、汚れちゃった」
富江は勇作の胸の中で嗚咽を噛み殺すように小さな声で言った。
そのか細い声には呻吟が滲み出ていた。
「そんなことあるもんか。
  どうあろうと富江はいつだって俺の大好きな富江に変わりない」
勇作は富江のおとがいを上げた。
形のいい唇が薄く開かれている。
その花のような唇に、勇作はそっと口を合わせた。
「愛してる。もう二度と放さない」
「いつかあなたが迎えに来てくれると信じていたわ。
  だからどんなことがあっても頑張り抜いたの。
  あなたを生き甲斐にして」
夜の帳がいつしか降り、沖には漁り火がちらちら燃えていた。
苦しかった十年という歳月を、打ち寄せる波がそっと包み込んだ。
勇作はもう一度言った。
「富江、もう放さない」

はじめに

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も9話を
迎えました。
 みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載も半ばを過ぎたことになります。
それでは第9話をお届けします。

小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 前編

鮠沢 満 作   
 久し振りの同窓会で、勇作は懐かしい顔ぶれを見て一安心のはずだが、もう一つ気分が浮いてこない。
先ほどから入口の戸が開くたびに、無意識に目がそっちにいってしまう。
そんな勇作の落ち着かない様子を、昌樹は目の隅からちらちら見ていた。
会が始まってもう三十分になろうとしている。
富江は来ないのだろうか。
しかし富江のことを同級生に訊くわけにもいかない。
狭い地域のこと、同級生のたいていは勇作と富江の過去の一件を知っている。
だから勇作の前では彼らはそのことを口にしない。

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 結局、富江は来なかった。最初から欠席連絡が来ていたのかもしれない。
それとも音信不通になっていて、連絡さえ取れないのであろうか。
不安が勇作の胸をよぎる。
玄関で靴を履いていると、昌樹が勇作のところにやってきた。
「ちょっと俺に付き合えよ。
  今度いつ帰ってくるか分からないんだろう」
昌樹は何やら言いたいことがあるらしい。
口調からそのことが分かる。
むかしからそうだ。
昌樹とは家が近所で、兄弟のようにして育った。
言いたいことをはっきり言わないのが昌樹の癖だった。
言葉を換えて言えば、優しいということになるのだが……。

「ああ。今度みたいに葬式ができれば別だがな」 
勇作は伯父の葬儀のために帰郷した。
ちょうどそのとき高校の同窓会が開かれることになっていたため、勇作にも昌樹から連絡が入ったのである。
「そうたびたび家族の誰かが死ぬものか。
  それよりこっちに帰ってくると、まだ痛むんだろう」
「えっ?」
「ここが」
 昌樹は胸を親指でつついた。
勇作はそれには答えず、少し口元を緩め曖昧な笑いを浮かべただけだった。
「喫茶店にでも行こう。こう暑くっちゃ話しもできやしない」

 昌樹は先に歩き出した。
どうも昌樹の話は富江のことらしい。
「夏の葬儀は大変だっただろう」
 窓側の席に腰を降ろすと昌樹が言った。
「難儀したよ。会館でやればすべて業者がやってくれるのに、なにせ網元という肩書きが許さない。
 もう家の中はてんやわんや。
 それに夏だから仏の損傷もひどくなるし、いろいろなところで気を遣った」
「でもお前にとっては育ての親だからな。
  きちんとやっとかないと、世間の口はうるさい」
「分かってる」
「ここは昔と何も変わっちゃいない」

 昌樹は勇作と富江のことがまだ世間の噂にのぼるとでも言いたげだ。
勇作はコーヒーを口に運んだ。
ざらついた苦みが口の中に広がった。
「で、話というのは」
 勇作はわざととぼけて切り出した。
「富江のことだ」
 昌樹と富江は遠い姻戚関係にあった。
やはりな、と思った。
昌樹が話があると言ったときから、富江のことだろうと薄々分かっていた。

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「富江は今日同窓会に来なかったが、どうかしたのか」
「どうかしなくても、これやしないだろう。
  みんな例のことを知っているんだから」
「そうだな」
 富江が来ると思っていた勇作の方がおかしいのだ。
 勇作が富江と最後に会って十年ほどになる。
「俺たちも今年で三十になる。
  人生の地図に書き込むものとそうでないものを分けていかなくちゃならなくなった」
「もう十年になる」
「その間、自分を責めてきたんだろう」
「目をつぶって過ごせるやつがいたら顔が見たい」
 勇作はやや自嘲気味に答えた。
「富江はこっちに帰ってきた。去年のことだ」
「富江が?」
富江は岡山に嫁いだのは知っていた。
薄情だがそれ以後の詳細は知らなかった。
「いろいろあってな」
「元気でいるのか」

 昌樹はコーヒーに手を延ばし、できるだけ時間をかけてゆっくり飲んだ。
時間稼ぎをしていることが勇作にも明らかだ。
切り出す言葉を探しているのだろう。
昌樹はコーヒーが終わると、今度は水の入ったグラスをつかんだ。
しかし水は飲まず、ただグラスをくるくる指先で回していた。
しかしようやく口を開く気になったらしい。
 テーブル越しに身を乗り出してくると、
「勇作、会いたいか」
 と訊いてきた。

 唐突な質問に勇作はどう返事していいのか分からない。
本音を言えば会いたい。
しかしあのときのことを思うと、富江の前に姿を見せることさえ憚られた。
やっぱり富江に対する想いよりも、富江に対して悪かったという罪悪感の方が先に立ってしまう。
その後の富江の生活は想像に難くない。
決して安逸な生活におさまっていたわけではないだろう。
「会いたい。でも……」
「まだしばらくこっちにいるんだろう」
「あと四、五日な。いろいろと片づけることもあるし」
「気が変わったら電話してこいや」
 昌樹はレシートをつかむと立ち上がった。
昌樹がレジのところで金を払っているのが見えたが、勇作は黙って見送った。

 勇作は懐かしくなって松原に出てみた。
どの根上がり松も大きく、枝ぶりも立派だった。
その一つに腰を降ろした。
目の前には真っ青な海がある。
空もその色を撫で付けたように青い。
ときどき沖を貨物船が行きすぎる以外動くものはない。
穏やかだ。

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当時、勇作も富江も人目を気にしながら会っていた。
それが厭だったので、たいていは暗くなってから会うことにしていた。
待ち合わせの場所は勇作の伯父の倉庫の裏だった。
古くなった漁船が二隻修理のために引き上げられていた。
破れた網もその回りに掛けてあり、うまい具合に死角になっていた。
勇作と富江はそこで待ち合わせると、決まって浜に出て歩いた。
二人とも波の音を耳元で聞きながら、ゆっくり歩くのが好きだった。
波のうねりに合わせたように流れる時間。
そのたおやかな時間のうねりの中で、二人の次第に熟していく心を重ね合わせることが
この上なく心地よかった。

 勇作はエネルギッシュで逞しかった。
そして利発だった。
一方、富江も健康そのもので、よく気が付きよく働いた。
その上、美人で頭も良かった。
二人は当然のことのように恋に落ちた。
勇作は富江に将来を見ていた。
大学を卒業したら富江と結婚しようと、一人心に決めていた。
富江は高校を卒業するとすぐ、家が貧しかったのでかまぼこ製造関係の会社に就職した。

 勇作が大阪の大学に進んでも二人の想いは変わらなかった。
勇作は帰省すると、真っ先に富江に会いに行った。
社会人になった富江はさらに垢抜けして美しくなっていた。
大学四年の夏帰省した折に、勇作はそれまで胸に秘めていたことを富江に打ち明けた。

「大学を卒業して、俺が就職したら結婚しよう」
 勇作はこの言葉にてっきり富江も喜ぶだろうと思っていた。
ところが富江はそれを聞いて暗い表情になり、俯いてしまった。
「どうしたんだ。そんなに暗い顔して」
 しかし富江は答えなかった。

はじめに

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も
8話を迎えました。
 みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人に読んでいただいていることが、ダイレクトに返ってくるのは
今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を見せています。

それでは第8話をお送りします。

小豆島恋叙情第8話 星ヶ城

=== 鮠沢 満 作 ===  
智之は石舞台のような大きな一枚岩の上に胡座をかいていた。眼下に内海湾が広がる。
 星ヶ城。海抜八一七メートル。小豆島で一番の頂を誇る。

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 和美は智之を横にして、思い切って口にしようとしていたことが、喉の奥でつぶれかけそうになるのを
なんとか押しとどめた。ここ二ヶ月、本当に苦しい思いをしてきた。
食事もあまり喉を通らず、体重も二キロから三キロ落ちた。
 いつかこういう日が来ることを覚悟していた。
事実これまでだって何度最後の言葉を言おうとしたことか。
でもそのたびに智之に対する愛情の深さを思い知らされて言えなかった。
 今日だって同じだ。いやというほど予行練習をやって大丈夫だったはずなのに、
鷹揚に構えた智之を目の前にしていると、胸を掻き破られるほど苦しい思いに封じ込まれ、
挙げ句の果てには自分の下した決断が本当に正しかったのかどうかさえ怪しくなったほどだ。
 智之はそんな和美の胸の内も知らず、未来を見据えたような言い方をした。
「素晴らしい眺めだろう。でもここの名前の方がもっと素敵だとは思わないか。何か夢があるだろう」
「星ヶ城。本当に美しい名前で夢を抱かせるわね」
 和美はそう返すしかない。
「ここから眺める星はもっと凄い。あまりに美しくて、聖母マリアの涙と言った人がいた」
「想像できるわ。この世のどんな宝石よりも美しい光を湛え、慈愛に満ちた雫を万物に落とすんでしょう」

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 和美は智之の一見粗野に見えるがそれでいて繊細この上ない感性が好きだった。
和美は智之といると、どんなことだってできそうに思えたし、どんなことだって
もう一度やり直せるような気がした。実際そうだった。
離婚後、生きる希望を失い暗渠の底を彷徨っているとき、一条の光を投げかけてくれ、
そこから掬い上げてくれたのは智之だった。
家庭持ちの智之にたとえ止まり木的な安らぎであれ見出したのは、
彼の感情の線が子供っぽいほど真っ直ぐで、自分が失ってしまった朝露に濡れた
葉っぱのような感情の湖を取り戻すことができると思ったからに他ならない。
「ねえ和美、この星ヶ城でお祈りすると、それが叶うと言われている」
「ほんと? じゃあ二人してお祈りしましょう」
 二人は手を合わせ祈った。

「今日でお別れだね」
「えっ?」
 智之の突然の切り出しに、和美は不意打ちを食らった。
「今日俺に別れを言いに来たんだろう」
 智之がすでに和美の心を読んでいたとは夢にも思わなかった。
「私たち六年間一緒だったのね」
「神様が与えてくれた六年」
「私、幸せだった」
「俺もだ。不倫と世間のやつらは言うかもしれない。でも本気の不倫だってある」
「ご免ね。辛い思いさせるけど」
「仕方ない。和美はまだ若い。前を見て歩く。それでいいんだ。俺はこの六年間で君を一生分愛した」
「これからは同じ風景でも違った色合いで眺め、季節を巡る風も違った温度で感じなければいけないのね」
「もう和美と言葉も交わせなくなる。顔も見られなくなる。抱きしめることもなくなる。
そんなことこれまで考えたこともなかった」
「怖いわ」
「俺もだ。でも互いに温め合った心がある」
「そうね」
「俺には和美を忘れることなんかできない」
「私も」
「だから忘れないことにした」
「それで後悔しない。奥さんとのことはどう」
「女房には違った意味で感謝している。でも和美を愛するのとは異質の感情だ。
この歳になって初めて本当の恋をした。一人の男として一人の女を愛した。
女房には悪いが、君を想い続けていくしかない」
「何度も言うようだけど、ご免ね」
「たった六年だったけど、俺たちは神様が巡り合わせてくれたんだ。
だから俺は命を削って和美を愛した。後悔なんてしてない」
「うん」
「そして今度は神様が別れなさいと言っているんだ」
「ええ」
「神様は試練を乗り越えられない人間には試練を与えない」
 和美は涙がこぼれて、もうまっすぐ智之を見ることができなくなっていた。

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「さてと、リリーフピッチャーの仕事も終わったというわけだ。
それとも賞味期限の切れた男かな。君は今度の人と幸せになってくれ」
 智之は和美に、じゃあ元気で、と言って立ち去った。
 智之は、いつか和美が自分の元に返ってくることを祈った。
 和美は、智之が自分を忘れてくれることを祈った。
 愛は、多くを愛した者がそれを失う。

 ここ星ヶ城は、南朝後醍醐天皇に加勢した佐々木信胤が居城を築いた場所で、
連れあいお妻との悲恋で語られる。

小豆島恋叙情第7話 残照の海 後編

鮠沢 満 作   
文蔵が寝ていると、夢の中に幻の魚が出てきた。
シャチホコのような固い鱗を持ったその大魚は、
文蔵を挑発するように目の前で大きく背鰭をそり上げ海面から何メートルもの高さまで舞い上がった。
大魚は身体を空中で大きく回転させると、鋭い目であざ笑うように文蔵をぐっと睨み付けてきた。
空中でその巨大な鱗が銀色に光った。
これを見て文蔵の血が騒いだ。
大魚との闘いが始まったのはこのときである。
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 翌日目覚めても、空中で身をひるがえした大魚の銀色に輝く姿が離れなくなった。
取り憑いたと言っていい。
文蔵はいかにしてこの大魚をつり上げるか、寝ても覚めてもその攻略法を考えるようになった。
松江は文蔵の様子がおかしいことに気がついていたが、海の男から海を取ったらどうなるか、
これまで多くの漁師連中を見てきたので、文蔵もそのうちに憑きものが取れたみたいに穏やかな生活に戻るだろうと考えていた。
だからあえて男の誇りをちくりとやることは言わなかった。

 文蔵は船倉に上がって準備にかかった。
戸は閉め切り誰も中に入れなかった。
窓も閉め、海の匂いを完全に断ち切った。
これは真剣勝負だ。
命を賭けた男の闘いだ。
文蔵は鉄を打ち特製の釣り針をこさえた。
ずっしり重いその釣り針は、十年間の文蔵の想いを釣るための針だった。
糸も太いものを用意した。
糸で手が切れないように、新しい軍手も買ってきた。
餌もとびっきり上等な生きたイカを選んだ。
すべての準備はこうして整った。

 文蔵は一升瓶を提げて裏山にある海の神さんへ出かけた。
酒を神さんに捧げると、文蔵は柏手を打って、深々と頭を下げた。
そして何やらぶつぶつと祈願した。
鳥居のところから下を見ると、穏やかな瀬戸の海が横たわっていた。
これから闘いが始まるとはとても思えないほど静まり返っていた。

 果たしてやつは来るだろうか。
それだけが気掛かりだった。
文蔵はそのときが近づいてくるのをじっと待った。
両手を合わせ海の神に祈った。
あと一時間もすれば、海に出て行く。
もう一度海の男に戻ることができる。
これまで六十年間自分がしてきたことをやつに試すだけのことだ。
特別どうってことはない。
釣る魚がいつもと違うだけのことだ。
文蔵の腕をもってすれば、まず心配はない。
予め練った手順どおりすれば、やつを釣り上げることができる。
後は二度と海の男に戻るつもりはなかった。
文蔵はそう心に決めていた。

 日が落ちかかっていた。
島影が次第に濃くなっていく。
文蔵は船のエンジンをかけた。
ポンポンというエンジン音が、湾の中に響き渡った。
漁師仲間の一人が声を掛けてきたが、文蔵は「ちょっと船で散歩よ」と誤魔化した。

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 文蔵を乗せた船は、黄金色に染まった海を押し分けるように外海へと出て行った。
やがて沖に来た。
太陽は地平線のすぐ上にあった。
真っ赤に燃えていた。
文蔵の闘志に火が付いた。
文蔵は生け簀からイカを掬い上げた。
イカは半透明な身体をぬるっとくねらせ、文蔵の手を逃れようとした。
文蔵はイカの胴に針を素早く通すと、海に投げ入れた。
太い糸が海の中へとするすると吸い込まれていく。
文蔵はある程度糸が流れたところで糸を止めた。
これくらいの深さでいいだろう。
文蔵の長年の勘だ。

文蔵は指先に神経を集中した。
あいつはきっと来る。
この日暮れ時を狙って必ず動く。
十年前もそうだった。
あのときは糸が細くて見事に切られてしまった。
待っている間に、文蔵の気持ちは次第に昂ぶっていった。
興奮が上げ潮のようにせり上がってくる。
自分の中で何かが蠢いている。
心臓の鼓動が耳元でする。
アドレナリンが全身に回り始めた。

 あいつが近くにいる。
文蔵は海水の震えでそれを感じ取った。
あいつがじっと海の中から文蔵を見ている。
大きなぎらつく目で。
十年前に口元にできた傷跡が見えるようだ。
あのときあいつも必死の抵抗を試みた。
口をひん曲げ、ライギョのような平べったい頭を水面で振り回した。
結果、糸はぷつんと大きな音を残して切れた。
口から血を流したあいつは、水中に没するとき一度こっちに振り返って文蔵を見た。
痛手を負わせた相手の顔をじっくり脳裏に刻みつけておくように。
いつか訪れる仕返しのときのために。

 さあ来い。
 文蔵は船の上で仁王立ちになった。
 糸をゆっくり上下にあおる。
 糸の先でイカがピクンピクンと痙攣したように動く。
 ガツン。
 手に衝撃が走った。
 ついにきやがった。
 糸がピーンと張りつめ、緊張が指先に伝わってくる。
 文蔵は焦らず糸を少しずつ巻き上げにかかった。
しかし、あいつも相当なもの、なかなか真上には浮いてこない。
横に動いては針を外そうとしている。
しかしそれは無理だ。
今度の針は特製だ。
一旦口にかかると絶対に取れないようにしてある。

 西日がさらに赤くなり、文蔵をすっぽり呑み込んでしまった。
文蔵の赤銅色の腕がさらに赤くなった。
二の腕の筋肉の筋が、糸を引くたび浮いたり沈んだりした。
文蔵はしばらくあいつを泳がせていたが、少し締め上げてやることにした。
主導権を握っているのはこっちだということを、やつに知らせておくためだ。
一本の糸を通して、お互いが意地を張り合っている。

文蔵はやや強引ではあったが、少し糸をたぐった。
指先に、くくくくという震動が伝わってきた。
やつは古傷に痛みを感じているに違いない。
しかしやつにも誇りというものがある。
そう簡単に文蔵のいいようにはさせない。

格闘は十五分くらい続いた。
糸はかなり巻き上げられていた。
いよいよ最終段階だ。
文蔵は船の少し広い場所へと移動した。
やつは最後に左右に大きく文蔵を揺さぶってくるはずだ。
そしてにっちもさっちもいかなくなると、最後に渾身の力をこめてジャンプすることも考えられる。

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 空には鱗状の雲が現れていた。
やつの鱗がそのまま空に映し出されたようだ。
その一つひとつが、やつの動きに合わせて波打ちそうだった。
伸び、縮み、うねる。
文蔵はやつに疲れが見えたときを見逃さず、一気に糸を巻き始めた。
押しの一手だ。巻いて巻き上げるのだ。
筋肉が収縮した。文蔵の身体から汗が噴き出した。
そしてついにやつが姿を現した。
巨大だ。こんなにでかいやつを今までに見たことがない。
やつは船縁にそって左右に揺さぶりを掛けてきた。
それは計算済みだった。
文蔵は舳先の方に少し寄り、糸を少し緩めた。
やつがすかさず潜ろうとする。
しかし、文蔵は立つ位置を素早く変え、再び糸を巻き始めた。
やつが水面ぎりぎりのところまで浮いてきた。
背鰭が鎌のように水を切る。
切られた水が薄い断片となって崩れ落ちる。

 文蔵はゆっくりやつを引き寄せてきた。
腹の鱗が黄金色と紅に変わる。
やつの歪んだ醜い口が何かを叫んでいる。
文蔵は、ふん、と言ってさらにやつを締め付けた。
十分近づいたところで、文蔵は鉤を振り上げて、やつの首筋にとどめの一撃を叩き込もうとした。
とそのとき、やつが夕焼けの空高くジャンプしたのだ。
背鰭が胸鰭が鋼のような弾力を見せつけて唸った。

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 西の空には夕日の残照が散らばっていた。
浜では松江が文蔵のことを思って待っていた。
「あんたはやっぱり海の男ね」
 真っ赤な残照にまぶされた空に、一匹の大魚が再び舞ったのはそのときだった。
 文蔵は再び陸に上がることはなかった。
 

はじめに

島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も7話を迎えました。「短編集」ながら少々長くなり、ブログの制約上、前編・後編に分けて掲載しなければならないこともあります。
 みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人に読んでいただいていることが、ダイレクトに返ってくるのは今までにはなかった経験のようです。それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を見せています。
それでは第7話をお送りします。

小豆島恋叙情第7話 残照の海 前編

鮠沢 満 作   
障子あけて置く
           海も暮れ切る
                           ー放哉ー
文蔵は妻の松江と砂浜に平行して走る防波堤の石垣に座っていた。
赤く色づきだした西日が二人を飲み込もうとしている。
浜には一隻小舟が引き上げられ、傾く西日を受けて長い影を落としている。
その向こうで放し飼いにされた犬が二匹、無邪気に互いの影を追って駆け回っていた。

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 文蔵は昨日船を降りたばかりである。
文蔵は十五歳になってすぐ父親の船に乗り込み、漁師の手ほどきを受けた。
以来、六十年間海とともに生きてきた。
妻の松江は文蔵の三つ下で、二人の間には三人の子供がいた。
「現役を退くっちゅうのはやっぱり淋しいもんや」
「あんたまだ七十五やから、続けよう思うたら続けられたのに」
「いつまでも年寄りが漁に出よんでは、若いやつらに悪い」
文蔵は煙草を取り出すと火を点けた。
うまそうに一服吸うと、煙を口と鼻から吐き出した。
文蔵の顔は海で揉まれた男の顔だった。
赤銅色に焼けた首から始まって、ゴマ潮頭にいたるまで潮と太陽が作り出したものだ。
松江は文蔵の年輪の刻まれた彫りの深い顔が好きだった。
木訥だが、笑うと目元が優しくなる。
つくずくこの人の人柄だ、と松江は思うことがある。
子供たちもその血筋を引いていた。

 文蔵は主に一本釣りの漁師だった。
天気と勘に頼る昔ながらの漁法で魚を捕り、家族を養ってきた。
海が時化て漁に出られないときは、それこそ文蔵にとっては死活問題だった。
船具を置いた二階の窓から海の色ばかり眺めて暮らすことになる。
破れた網を直したり、手製の針を作ったりと、いろいろすることはあるが、
どうしてもそれらが手につかず、日がないらいらして過ごすのである。
そういうときは、たいていの漁師がそうであるように、酒を飲んで憂さを晴らし、そのまま松江の弾力に富んだ身体を抱くこともあった。

 文蔵は根っからの漁師だった。
海が自分を呼ぶ、と文蔵は常々感じていた。
沖から嬲るような波が押し寄せてくると、じっとしていられなくなる。
文蔵の中に猛り狂う漁師の血が流れていて、この血がざわざわと騒ぎ文蔵を海へと駆り立てるのである。

 文蔵は昨日船を降りて現役を退いたが、身体の奥深いところではまだくすぶったものがあった。
漁師への未練と言ってもよかった。
最後にどうしても釣りたい魚がいたのである。
ここ十年ばかり文蔵はその幻の魚を追っていた。
それを釣らないまま現役を降りるのは、漁師としての矜持が許さなかった。
しかし文蔵もよる年並みには勝てず、若い衆のことも考えて現役を退くことにしたのである。
文蔵はそのことを松江には言わなかった。
「あんた、あのときのこと覚えている」
 松江は文蔵の胸の内を察したのか、話題をそれとなく変えた。
 松江は、文蔵がそのことを忘れるはずがないのを知っていて、そう訊いた。
 文蔵も松江がなぜ話題を変えたのか分かっていた。
長年連れ添った夫婦だ。
お互いの心の襞まで分かっている。
「あの頃は俺も若かった」
「あんたがまだ二十一で、あたしが十八」

 松江は少女時代から可愛らしく美しかった。
だから巷でもよく噂にのぼった。
松江が年頃になると、港町の若い男衆連中が当然のことのように熱を上げ、恋文を何通も寄こすようになった。
だが一人だけ松江に関心を示さない男がいた。
それが文蔵だった。
その頃文蔵は、松江の噂は耳にしていたが、美人であるということで松江がてっきり自惚れの強い女であると勝手に決め込んでいた。
それに漁師には美人の妻は必要なかった。
必要なのは強い身体と精神力を持った家庭向きのする女だった。
 ちょっとした事件が起こったのは、盆踊りの夜のことだった。

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 男たちは酒によって荒ぶれていた。
盆踊りの最中に喧嘩を始める者さえいた。
血気盛んな若い衆がいる漁師町のこと、それくらいは日常茶飯のことといってよかった。
特に隣町とは漁場のこともあり仲が悪く、何かにつけ小競り合いが絶えなかった。
盆お踊りの中休み、松江は汗を拭きながら他の女たちと涼んでいた。
そこに豊松という隣町の若者が松江に近寄ってきた。
豊松は隣町切っての暴れん坊で、誰からも煙たがられていた。
豊松はいきなり松江の腕をつかむと、
「松江、俺と付きあえや。不自由はささへん」
 と言った。それから大胆にも松江の肩を抱き寄せようとした。
 松江は酔っぱらいは嫌いだった。
 思い切り豊松の手を振り払った。
「豊松、お前嫌われとるぞ」
 豊松の取り巻き連中が半畳を入れた。
「嫌いも好きのうちや。よく見とけや」
 豊松はさらに大胆になってもう一度松江の腕を取ると、強引に抱きすくめようとした。
 松江は叫び声を上げて腕を振り解こうとした。
が、豊松の腕の力は強い。そう簡単に解けない。
 松江はいやいやをする恰好で、豊松の腕に抱きすくめられているしかない。
隣町の若い衆が好き勝手なことをやっているというのに、地元の若い者は誰一人松江を助けようともし ない。
腕っ節では豊松にかなわなかったからである。
それを見ていた女連中は愛想を尽かせたように言った。
「お前らそれでも男か。そんなんじゃ嫁一人もらえんぞ」
 と、そのとき文蔵が現れた。

「放してやれや」
 文蔵は一言言った。
「ならお前が取り返してみろや」
「俺は喧嘩はすかん」
「だったら引っ込んでろ」
「地元の人間としてそれはできない」
「ということはやっぱり喧嘩売る気やな」
「どうしてもというんだったら仕方ない」
 文蔵はこれまで喧嘩一つしたことがなかった。
どう贔屓目に見ても勝ち目はない。
 豊松は松江を放した。
 豊松は文蔵の腹を殴った。
文蔵は後ろにぶっ倒れた。
腹を押さえて地面を転がった。
しかし文蔵はしばらくすると起き上がってきた。
「殴れや。俺はまだ立っとるで」
 豊松はまたしても文蔵の腹を殴った。
 文蔵はのけぞるようにひっくり返った。
しかしまたしても立ち上がってきた。
「それが元浜町の豊松か。噂ほどでもない」
 文蔵は豊松を煽った。
 豊松は文蔵の言葉にかっとなって、今度は顔を殴ってきた。
しかし文蔵は倒れなかった。
それどころかじわじわと豊松の方へにじり寄っていった。
 周囲の者が騒ぎ立てている。
地元の連中は女も男も文蔵の応援に回っている。
「文蔵、そんなやつのしちまえ」
 と喧嘩を吹っかける連中さえいた。
 しかし文蔵は両手を腰の後ろに回して無抵抗の構えだ。
「さあ殴れよ。でもな、俺も船町の人間や。そう簡単には倒れへん」
 豊松は文蔵の目を見て敗北を知った。
 それがきっかけで松江は文蔵の嫁になった。

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小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 後編 鮠沢 満 作  

 
その後、百合恵の体調は日ごとに悪くなっていった。
ある晩、仕事がやっと引けて病室を訪ねたときのことである。
その日は少し顔色もよく、元気そうに見えた。
昌文も少しは安心した。

 昌文が百合恵の脇に座ると、彼女が思わぬことを言った。
「ねえ、お願いがあるの」
「お願い? また改まってどうしたんだい」
「ここへ連れて行ってほしいの」
 百合恵は一冊の旅行ガイドブックを差し出し、あるページを開いた。
そこには深紅のモミジに染め抜かれた寺の写真があった。
岩をくり抜いて造った本堂。
それを燃えるようなモミジが抱擁していた。

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「小豆島?」
「そう。四国よ。ここに連れて行ってほしいの」
「元気になったらいつでも連れて行ってあげるよ。でも今はそのときじゃない」
 昌文は少し強い口調で諭すように言った。
「私が癌だから」

 昌文は耳を疑った。
「私、分かってるの。もうそれほど長くないってこと」
「誰がそんなこと言った。医者か、看護師か。
あいつらの言うことなんて嘘っぱちだ。
信じなくていい」
昌文は病室全体に響く大きな声で百合恵の言葉を打ち消した。
しかしそれは空しく響いた。
大きな声を張り上げること自体、百合恵の病気を肯定していることに他ならなかった。

「もういいの。分かってるんだから。
あなたの淋しそうな表情を見てると、私なんだか……こんなになってご免ね」
 百合恵はそこまで言うと嗚咽した。
 昌文は言葉を失った。
 ひとしきり涙を流した後で、百合恵はかすれた声で言った。
「婚約は破棄しましょう」
「それどういう意味なんだ」
 昌文は百合恵の細い肩を揺すった。
「私のことなんか忘れて、他の人を見つけて……幸せに……だから私の最後のお願い。
この寺に連れてって。
燃えるモミジの深紅に染められて死にたいの。
私も一度は燃えるような恋をしたっていう証に」

 昌文は天気予報を入念に調べて、晴れて温暖な日を選んで出発した。
百合恵は遊歩道を本当にゆっくり歩いた。
昌文は、百合恵が一歩踏み出すごと、命を失っていることを認識せずにはおれなかった。
普通なら寺まで二十分もあれば着くところを、百合恵は一時間以上かかった。

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 ようやく本堂を目の前にしたとき、思いが叶ったというように百合恵は静かに目を閉じた。
その閉じた瞼を押し開けるように、取れたての真珠のようにきれいな涙が溢れ出た。
涙にモミジが泳いでいた。
百合恵はモミジに染まりたいと言ったが、今まさにモミジ色に染まっていた。
顔も、涙も、首も、腕も、胸もすべて。
まるで百合恵の体内にぽっと灯りが灯ったようで、百合恵の身体が透きとおるようだった。
中に巣くっているガン細胞でさえ、モミジの炎に焼かれ消えてなくなりそうだった。
「有り難う」
 脆く壊れるものはすべてその寸前美しく装うが、そのときの百合恵は儚いくらい美しかった。
透きとおって手に触れることさえできない。
弱々しく気化して消えてしまいそうだった。
昌文は百合恵を思いっきり抱きしめてやりたかった。切なくて仕方なかった。
「こんなことくらいお安いご用だ」
 自分の言葉が空々しく響く。

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「この世のものとは思えないわ」
 百合恵はもうすっかり死を覚悟しているといった口調だ。
「幸せって何だろう」
 昌文は言ってはならない言葉をつい漏らした。
「互いに信じ合うことかな」
 百合恵が苦しそうに答えた。
「僕たちはどうなんだろう」
 さらに昌文はむごいと知りつつ百合恵に確たる答えを求めてしまった。
「あなたのこと信じてるわ」
「俺は何があっても百合恵のことは忘れない」
「そんなに無理しなくってもいいの。私もう十分すぎるほど優しくしてもらったから」
「まだ十分じゃない」
 ここまで言うと昌文は何を思ったのか、百合恵の手を引くと、本堂左の山道へと進んでいった。
昌文は何かに手繰られるように山道を進んだ。
百合恵は昌文の真剣な表情に、何かただならぬものを感じ、棒のようになった足をひたすら前に進めるしかなかった。
やがて山道が大きく右に曲がったところにやってきた。
百合恵はもう一歩も先には進めなかった。
胸を押さえ、俯いて今にも崩れ落ちそうだった。
「あれを見てご覧」
 昌文は指さした。
 そこで百合恵が見たものは、まさに神懸かりともいうべき大きな石門洞であった。
ドーナツのように見事に内側がくり抜かれていた。
高さは五メートル、幅は四メートルはあるだろうか。
それだけではなかった。
そのドーム状になった石門洞のあちこちからモミジが枝を伸ばし、まさに炎と化していたのである。

 百合恵はまたしても涙を流していた。
 昌文はその涙が何を意味するのか、分かりすぎるほど分かっていた。
 石門洞を通して青空が見えた。
その石門洞によって切り取られた青空の広さは、百合恵の残された命の長さに等しかった。

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昌文と百合恵は石門洞の真下に立った。
「百合恵、君を愛している」
「有り難う。嬉しいわ。
でも私が死んだら、いつかも言ったけど、誰かいい人見つけて再婚してもいいのよ」
「俺は君だけしか愛せない。
もし君がいなくなったら、毎年ここに来る。
君に会うために」
「もうこれ以上望むものはないわ。
深紅のモミジに染められて死ねるんだもの。
それにあなたの愛の深さを知ったから、私、この石門洞の向う側に行っても怖くない」

 それから一ヶ月後、百合恵は帰らぬ人となった。
婚約指輪だけが昌文の手許に残った。
昌文はそれから数年後、訳あって結婚したがうまくいかなかった。
それから毎年、一人の男が遊歩道を登り、寺に線香を手向け、
そして石門洞の下に佇む姿が見られるようになった。

はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
第6話になりました。

小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 前編

鮠沢 満 作   
草壁港から寒霞渓に向かう途中で道が大きく二手に分かれている。
左に行くと紅雲亭、右に行けば小豆島ブルーラインとなる。
その分かれ道の真ん中、猪の谷から雑木林へと分け入る一本の遊歩道がある。
そこを一人の男が先を急いでいた。
折しも紅葉真っ盛りである。
あと一週間もすればほとんどすべての木が裸になってしまう。
遊歩道の右側は深い渓谷で、息を飲むような切り立った岩が屏風状に連なっている。
遊歩道の出発地点から約三百メートルほど行ったところに簡易の展望所があるが、
そこから渓谷を見下ろすと、渓谷全体が燃えているように見える。

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 男の名前は永島昌文。年齢五十歳。
商社勤務のサラリーマン。
彼は年に一度遊歩道の先にある寺を訪れる。
昌文はリュックを背負って山道を達者な足取りで登っていた。
背負ったリュックは中にいろいろなものが入っているらしく、見た目にも結構重そうである。
昌文もご多分にもれず、やはり展望所のところにくると足を止めた。
彼は渓谷に目をやり、それからフーと大きく溜息に近い息をすると、
「もうあれから二十年か。早いもんだな」
 と言った。

 空はこの上なく晴れ上がり、かえってそれが昌文の気持ちを憂鬱にしたくらいだ。
ここを訪れるごと、昌文の気持ちも少しずつは軽くなっていった。
だが、それでも青春の記憶はそう簡単には癒されない。
いやむしろ癒されない方が、昌文にとってはある意味で幸せだったかもしれない。
気持ちが癒されないうちは、必ずここに帰ってくる。
そうすれば百合恵とのことをちゃんと心に刻んで、生涯忘れずにおれるからである。
 昌文は意を決したようにリュックを担ぐと、再び歩き出した。

 この遊歩道は裏八景と呼ばれ、紅雲亭から登る表十二景とは一本の稜線を境に反対側になる。
ここを訪れるのは地元の人間か、昌文のように山歩きに詳しい人間だけである。
展望所から約十分ほどで小豆島霊場第十八番石門洞に着く。
この寺も小豆島霊場の特徴の一つとなっている岩場をくり抜いて造った山岳信仰の寺である。
ただここが他の霊場と異なるのは、他に類を見ないほど美しいモミジにある。

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 昌文は岩をくり抜いて造られた本堂に着くと、重いリュックを降ろした。
肩の辺りを軽く叩いたり指先で軽く揉みほぐしたりした。
それからリュックを開け線香を取り出すと、ライターで火を点け、線香立ての真ん中に据えた。
昌文は立ち上る線香の煙の向こうに遠いむかしを見ているようにしばしぼんやりと佇んでいたが、
ふと我に返ると敬虔な気持ちで両手を合わせた。
新しい香の匂いが本堂全体を満たし、これまでの香の匂いと混ざり合って、昌文の胸を苦しくさせた。

 昌文が両手を合わせ目を閉じていると、住職が顔を出した。
「今年もやはり来ましたか」
「ええ。来ないと心が痛むんです」
 昌文は低い声で懺悔するように言った。
「もう何年になりますかね」
「二十年です」
「もうそんなになりますか。時間が経つのは早いもんですね」
 昌文は今年五十歳になった。
大手企業のエリートサラリーマンである。
毎日仕事に追われる日々。
しかし年に一度ここ小豆島に足を運んでくる。

「まだ独り身と見えますが」
「一度は結婚したんですが」
「やっぱり忘れることができませんか」
「ええ。それにこの年齢になりますと、もう今のままでもいいと思いましてね」
「人間の幸福とはいろいろな形でやってきます。
一口にどれがいいとは言えません。
自分が幸せと感じる心を持つことが幸せなんです。
しがらみの多い世の中にあって、まだお若いのにあなたのような人がいるとは、僧侶としても励みになります」
「一種の罪滅ぼしでしょうか」
「そう自分を責めるものではありません。
人間というのは、好きだからといって必ずしも一緒になれるというものでもありません。
運命というものもあります。
しかしあなたたちの場合、お互い心はつながっていますよ。
私にはそれがはっきり見えます。安心なさい」
 それを聞いて昌文の心も少しは軽くなった。
「どうです。ここから眺めるモミジは」
「いつ来ても言葉を失います」
「彼女、確か百合恵さんとか言いましたね。彼女もモミジが大好きでしたね」

 本堂左側はくり抜いた岩をそのまま残し、そこにガラス窓が入れてある。
ちょうど真下に境内があり、それを四方から大きなモミジが取り囲んで、
まるで寺全体がすっぽりモミジの手の中に収まった恰好になっているのである。
燃え立つモミジに抱かれた古刹。
そこに百合恵が眠っている。
かつて百合恵は昌文とここを訪れたのだ。
「石門洞へはもう行かれましたか」
「まだです。これから行きます」
「早く行ってあげなさい。あそこで百合恵さんが待っていますよ」
 住職の言葉に昌文は頷いた。
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 昌文と付き合い始めて三年、婚約して半年後のこと、百合恵は体調不良を訴えた。
最初、右下腹部に張りと痛みと覚えたが、市販の薬を飲むとそれもすぐ治まった。
仕事も忙しかった上に、三ヶ月後に昌文との結婚式を控えており、結構ばたばた動き回っていたので、
疲労から来る一過性の腹痛だろうと軽く考えていた。
 しかしある土曜日の午後、昌文と式場の打ち合せに行った帰り、差し込む痛みに下腹部を抱えて助手席にうずくまってしまった。
昌文は百合恵の尋常でない様子に、すぐ病院へと急いだ。
診療室に入ると、医者は即座に精密検査をすると言った。
百合恵が検査室に入って小一時間は経とうというのに、百合恵と医者はまだ帰ってこない。
昌文は不安になった。
看護師が、若いですから心配ないですよ、と優しく声を掛けてくれたが、百合恵の痛がりようはただ事ではなかった。
それを思うとやはり不安が残った。
二時間くらいしてようやく担当医に呼ばれた。
医者は昌文に座るように手で椅子を示し、それからレントゲン写真を光にかざして食い入るように眺めていた。
その表情から医者の言わんとすることが、なんとなく分かるような気がして怖くなった。

昌文はふと朝のことを思い出してしまった。
朝食を終え湯飲みに熱い茶を淹れた。
ところが湯飲み茶碗が、こともあろうに真っ二つに割れてしまったのである。
もうかれこれ一年くらい使っている萩焼の湯飲み茶碗で、分厚くそう簡単に割れる代物ではなかった。
それがぱっくり二つに割れたのである。

医者は、さてどう切り出したものか、思案しているようだった。
「先生、病気は……」
昌文の方が沈黙に耐えられなくなって、先に口を開いた。
若い医者はまだそれほど場数を踏んでいないらしく、あのですね、と言ったきり、その後の言葉が継げない。
「はっきり言ってください」
 昌文がせかす恰好になった。
「まず初めに腹痛の原因なんですが」
 と遠回しに話しを切り出した。
「これは難病の一つとされる子宮内膜症です。
簡単に言いますと、生理のときに子宮の粘膜から出血する病気です。
生理本来の出血とは違って、子宮の壁に穴が空いていて、そこから出血するのです。
だからその痛みは尋常なものではありません」
「難病と言いましたが、治療法はあるんでしょうか」
「残念ながら現在のところ完全なものはありませんが、効果的な薬はあります。
ただ副作用が強くてね。
あまり使いすぎると内臓疾患に罹ったり骨密度が失われたりします」
「じゃあ治療法がないと」
「一番いいのは妊娠することですね」
 その医者はにこりともせずそう言った。
医学書を棒読みしているようにさえ聞こえる。
「妊娠?」
「そう。妊娠すると生理が止まる。つまり出血も止まるということです。
その間に病気が治癒すればいいのですが」
「その間に治癒ですか……はあ」

 昌文は途方に暮れ、気の抜けた返事しかできなかった。
「ただですね、問題はそれだけじゃありません」
「それだけではない」
 いったいどういうことなのだ。
「実は、患者さんはもっと深刻な問題を抱えているようです」
「何ですか」
「まだ断定はできないんですが、その可能性があるということです」
「その可能性?」
「至急大きな病院へ行って、再度精密検査を受けることをお勧めします。
一応紹介状は書いておきました。
まず間違いないと思いますが」
 医者はここまで言って言葉を濁した。
断定して自分の立場を悪くしたくないのだろう。
「間違いないって、何がですか、先生」
 昌文は食い下がった。

 昌文はその後の医者との会話をよく覚えていない。
それから二日後、別の病院で再度精密検査を受け、子宮癌と診断された。
昌文は暗渠の淵に突き落とされた。
百合恵にとってもそうだが、昌文自身にしても死の宣告を受けたに等しかった。
百合恵にどう説明したらいいのだろう。
事実、昌文は百合恵のこっちまで染まりそうになる清らかな笑顔を見ると、
つい涙が出そうになって何度も病室を飛び出してしまった。
百合恵の左指にはめられた婚約指輪が痛々しかった。
未来のない婚約指輪。
百合恵はそのことを知らない。

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はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
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作者に伝えることはできます。あしからず
いよいよ第5話になりました。

小豆島恋叙情 第5話  夏至観音

鮠沢 満 作   
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浩一郎は真夏だというのに、妻の手を固く握りしめていた。
手の平が汗でじっとり濡れているのが分かる。
それでも浩一郎は妻の手を放そうとはしなかった。
 夏の午後三時といえば、歯に汗かくほどの暑さだ。
特にあれ以来体調を崩している佐和子にとって、
うだるような暑さは身を削るような責め苦に違いなかった。
歩行がややもすれば途絶えそうになる佐和子の手をやや強引に引いて、
ようやく洞雲山の大師堂近くまでやってきた。

 小豆島霊場第一番札所、洞雲山。
幽邃境の峻厳な尾根を千年杉が覆う雄大な岩山の裾に、
耽美な佇まいを残した小豆島霊場屈指の寺である。
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 参道脇にも杉の巨木が数本、聳えるように立っていた。
樹齢は定かではなかったが、数千年の時の流れを体内に宿していることは間違いない。
等間隔に並んだ杉木立はことのほか背丈が高く、
そして幹があまりにも太かったために、とても尋常な代物とは思えなかった。
事実、浩一郎も佐和子も畏怖の念さえ感じ始めていた。
特にその巨大な幹は非現実的なほど太く、
そこから何かオーラのようなものさえ発せられていると感じた。

 浩一郎は佐和子の手を杉の肌へと導いた。
 佐和子は浩一郎の自分の気持ちを無視したそのやり方に腹を立て、最初手を引っ込めようとした。
しかし、一瞬ではあるが浩一郎の顔が苦渋に歪んだのを見て、
あえて抵抗せずそのまま浩一郎の思いどおりにさせることにした。
 杉の幹に手を置いてしばらくしたとき、佐和子があっと小さく声をもらした。
「どうかした」
 浩一郎は感情を殺して言った。
 それに対し佐和子は、
「何かこの中に……」
 と言ったきり口をつぐんでしまった。
 杉の幹から手を離すどころか、さっきより強く手の平を幹に押し付けているのである。
まるで幹の奥に存在する何かを感覚的につかもうとしているようにさえ見える。
目をやや細め、全神経を指先に集中させた佐和子の顔は、
さきほどまで見せていた険しい顔ではなかった。
むしろ角が取れ、ふんわりとした優しさが滲み出ていた。
浩一郎は佐和子のそんな半ばうっとりとした穏やかな表情を、久しく見たことがなかった。
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 半年前、佐和子を思わぬ出来事が襲った。
 妊娠三ヶ月だった。もともと身体は丈夫だったが、
初めての妊娠ということで、期待も大きかった反面、不安も大きかったに違いない。
まだ下腹部に妊娠の兆候すら出ていないのに、
ベビー服とかおもちゃの類をあれこれ考えていたかと思うと、
翌日には子供を育てる自信がないと、まるで思春期の中学生みたいに恐れおののいた。
 ちょうどその日は浩一郎が半日出勤で、昼から休みが取れるということで、
佐和子を少しでもリラックスさせるつもりで、一方的ではあったがレストランでの食事に誘い出した。
佐和子は少し身体が重く、正直言って行きたくはなかったが、
浩一郎の優しさを思うと断ることができなかった。
 浩一郎は会社からそのまま約束の場所に向かうことになった。
 浩一郎がレストランに着いたとき、佐和子の姿はまだなかった。
浩一郎は予約の席に腰を降ろし、佐和子の到着を待つことにした。
 十分が過ぎた。しかし佐和子は現れなかった。不安が浩一郎の脳裏をよぎった。
それからさらに五分。
まだ佐和子は来ない。
 浩一郎は携帯を取り出すと、佐和子を呼び出した。
しかし呼び出し音だけが空しく浩一郎の鼓膜を震わせた。

 それからしばらくして浩一郎の携帯に電話があった。
「宇野さんですか。こちら中央病院ですが、奥様の佐和子さんが……」
 後のことは浩一郎もよく覚えていない。
 病室に入ると佐和子がベッドにぐったりとなって横たわっていた。
顔には落胆と疲労の色がありありと浮かんでいた。
浩一郎がそばに寄ると、佐和子は思い余ったのか大粒の涙を流した。
浩一郎は佐和子の気持ちが痛いほど分かっていた。
ポケットからハンカチを取り出すと、そっと涙を拭いてやった。
ハンカチに吸い取られた涙がとても重く感じられた。

 浩一郎は、
「心配しないでいいから、ゆっくりお休み」
 と一言だけ言った。しかし佐和子はその言葉に傷付き、顔をそむけると目を固く閉じた。
その固く閉じられた瞼は、完全に浩一郎に対する敵意を表していた。

 約束の日、佐和子は浩一郎との約束の時間に遅れまいと急いでいた。
すでに五分遅れていた。
佐和子は本通りから脇道に入り近道をしようとした。
とそのとき路地から自転車に乗った高校生が飛び出してきた。
余りに突然のことで、佐和子は身をかわすことができなかった。
佐和子はまともに自転車と衝突し、腹部をいやというほど痛打した。

 佐和子はまだ幹に手をやったままでいる。
「温かい。生きているのね」
 佐和子がはじめて浩一郎に話しかけてきた。
「そう生きているんだよ」
 浩一郎は慰めるような口調で返した。
「あの子が」
 と佐和子は付け足した。
「そう、この中に。この中だけじゃない」
「他にも?」
「これからそれを君に見せてあげる。今日は夏至」
 浩一郎は佐和子の背を優しく押した。
そして大師堂に続く階段をゆっくり登っていった。
 階段を登りきると、蝉時雨に包まれた。
浩一郎はすぐそばの木を見た。
何十匹というクマゼミが背中を震わせて鳴いていた。
短い生を懸命に生きている。彼らは自分たちに命があることさえ知らないのかもしれない。
それでも与えられた命を無意識のうちに意識し、その命を削って生きているのだ。

 浩一郎は思った。
 僕たちは一つの命を失った。
でもその生まれてこなかった命の分まで、生きている者が懸命に生きなければならない。
朝に生まれ夕べに死す蜻蛉とて、人間の一生分ほどのエネルギーを燃やすに違いない。
違うのは生きる時間の長短だけではないのか。
今を生きる。
それも身を削り、命を削って。
佐和子にもそのことが分かってほしかった。
死児の齢を数えても仕方ない。
前を見るしか生きようがないのだから。
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 やや奥に進むと大きな岩の洞窟があり、その中に菩薩があった。
慈悲深い顔をした菩薩は、傷ついた心を持つ人間の変わり身のように見えた。
一筋の滝の水が断崖のてっぺんから飛沫を飛ばしながら流れ落ち、下の水溜まりを激しく叩いていた。
空中に浮遊した水しぶきの粒に光が射して、小さな虹が浮かんでいた。
 佐和子は虹に向かって手を差し出した。虹の暖かさに触れたいのだろうか。
それとも虹の先に、生まれてこなかった嬰児の姿を思い描いているのだろうか。
虹の端が菩薩に落ち、金箔の剥げ落ちた顔に五つの色が乗った。
佐和子は浮かび上がった菩薩に両手を合わせると、うやうやしく祈った。
 浩一郎はそんな佐和子の姿に女としての母性を感じた。

 太陽が少し動き、日光がほどよい角度で懸崖を照らし始めた。
 浩一郎は佐和子を岩の裂け目に作られた仙霊窟の入口へと導いた。
本尊に毘沙門天を安置している。
「ここが一番いい場所なんだ。岩のあそこ辺りを見ていてご覧。しばらくすると現れるから」
 浩一郎は反対側の岩を指さした。
 それは高さがおおよそ十五メートルはあろうかと思われる乳白色の岩の屏風だった。
夏の暑さは相当なものになっているはずなのに、二人のいる岩の隙間はひんやりとして気持ちがよかった。
心と体が癒される思いがした。
そこに何かしら霊的なものを感じたとしてもおかしくはない。
実際、二人ともそれを感じつつあった。
 浩一郎はただ黙って佐和子のそばに突っ立っていた。
言葉はいらなかった。
見れば分かる。
佐和子はなぜ浩一郎が自分をその場所に連れてきたのか理解に苦しんだ。
まさか岩を見るためだけにこんな山の上まで自分を連れてくるはずはなかった。
佐和子は言われたとおりじっとそこを見つめた。
太陽はさらに西に動き、日射角を少し右に移した。
とそのとき、それは現れた。
岩からしみ出たように。
佐和子は一瞬目を疑った。
そして同意を求めるように、浩一郎の顔を覗った。
 浩一郎は黙って頷いた。
 佐和子は浩一郎の意図がやっと理解できた。
佐和子は浩一郎の思いやりの深さに、そのまま泣き崩れそうになった。
 浩一郎がそっと背中を支えた。
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「夏至観音。夏のこの時間帯だけに現れる。岩と日光が織りなす幻影」
 浩一郎の言葉に佐和子は頷き、
「私たちまだ若いんだもの、やり直しはいくらでもできる。
ご免なさい。
わたし、あなたのことを責めていたの。
あのときあなたが無理に私を食事に誘いさえしなければ……、と」

 岩の屏風に映し出された夏至観音。
それは光と影が生み出す幻影に過ぎなかったが、浩一郎と佐和子にとっては、
失った子の魂が姿を変えて現れたものに等しかった。
そして観音の口元は、光の加減によってかすかに笑っているようにさえ思えた。

3枚目と1番最後の「夏至観音」の写真は「いきいき写真館」
http://homepage3.nifty.com/maekka/
さんから提供された物です。ありがとうございました。<(_ _)>

はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
それでは連載第4回をお届けします。

小豆島恋叙情 第4話 一枝のオリーブ

== 鮠沢 満 作 ==  
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嘉則がオリーブの枝を手にしたとき、ある情景が心に登ってきた。

赤茶けやせた土壌は乾き切っていた。
一本道がだらだら丘のてっぺんまで疲労したように続いていて、
真っ白な太陽に焼かれると途中で溶けてなくなりそうだった。
嘉則は背中に灼熱を感じながら、ただ黙って頂上を目指し歩いていた。
カトリーヌも黙って嘉則に従った。
 
 その日は昼過ぎまで惰眠を貪っていた。
嘉則はベッドから音を立てないようにすり抜けると、窓際のところに行った。
カトリーヌはまだ眠りの底にいた。
嘉則はカトリーヌを起こさないようほんの少しだけカーテンを開けた。
まばゆい光の束が部屋になだれ込んできて、紫色の絨毯の一部を炙り出した。
嘉則がカーテンの間に顔をすべり込ませて、眼下に広がる『葡萄色の海』を眺めようとしたとき、
ちょうどカトリーヌが目を覚ました。
「どうしたの」
「起こしてすまない。エーゲ海がつい見たくって」
カトリーヌは上半身を起こした。
遠目にも裸の胸が豊かだ。
昨日付いた水着の跡がくっきり残っており、豊かな胸の部分が普段以上に白く際立っていた。
昨晩、カトリーヌの胸に顔を埋めたとき、嘉則は瀬戸内の穏やかな海のうねりを感じ取ることができた。
カトリーヌはガウンを羽織ると、嘉則のそばにやってきた。
そしてカーテンの端を両手でつかむと、思い切り両脇に引き開けた。

なだれ込んできた陽光の洪水に、しばし目がくらんだ。
しばらくして瞼の裏から黒い斑点が消え、視力が回復したとき、目の前にエーゲ海が広がっていた。
紺碧の空と海。
境界線はなく、どこまでが空でどこまでが海か判別できなかった。
ただ目の前にあるのは、ブルー一色の世界だった。
そのブルーの平面を裁断するように、白いヨットが斜めに水面をすべっていった。
「あれ見て」
 カトリーヌが嘉則に身を任せながら指さした。
 それは丘の上の風車だった。
海から吹き上げる風に、風車はゆっくりと回転していた。
風車を支えるのは、白い漆喰を打たれた円筒形の土台だった。
丘の斜面にはオリーブの木が植えられていた。
「あそこに行きたい」
 カトリーヌが甘えるように言った。

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二人は昼食を済ませると、半島の先の風車を目指した。
 頂上近くまで来ると、風車の風を切る音が聞こえてきた。
 風車の下にいると、ゴーゴーと風を切って回転する風車の羽根が、遠くから見るのと違い、悪魔的な力と獰猛さで迫ってきた。
風車から両側に滑り落ちる斜面にはオリーブが植えられていて、痩せた果肉の実が昼下がりの乾いた空気にうめき声を上げていた。
 嘉則はカトリーヌの碧い目を覗き込みながら言った。
「僕のふる里はここと同じで、オリーブの木がいっぱい植わっている」
「オリーブが育つんだったら、結構暖かいところなの」
「そう。それにとても美しい。海もある」
「どうして海が見たかったの」
「昨夜、君に海を感じたからだ」
「帰りたくなったのね」
「ここでの生活も随分長くなったから」
「私との関係もそうなの」
「カトリーヌ、君のことは今でも愛している」
「でも帰りたい」
 カトリーヌの目の奥に、一瞬小さなさざ波が膨れ上がった。
「俺と一緒に来ないか」
嘉則はカトリーヌの両肩を少し揺するようにして言った。
それは色よい返事をカトリーヌから引き出すため、予め考えられた嘉則の所作の一つだった。
昨夜、カトリーヌが嘉則の腕の中で眠りに落ちた後、考えた。
カトリーヌの心臓の鼓動が、嘉則の細胞の一つひとつに上げ潮のように入り込んできた。
嘉則の思考は乱れた。
カトリーヌの寝顔を見ていると、異郷の地にとどまってもいいとさえ思えた。
しかしその感傷を打ち払わなければならなかった。
それにどっちみちカトリーヌは来ないだろう。
そう嘉則は踏んでいた。
「私があなたと一緒に行かないことを知っていてそう訊くんでしょう。それってフェアじゃないわ」
「俺は君が好きだ」
「好きだけじゃ一緒には暮らせないわ。男と女が一緒に暮らすには、それなりの環境というものが必要」
「それは分かる」
「私はギリシャ人。あなたは日本人」
「愛はエーゲ海を越える」
「小説ではね。でも駄目」
「年老いた両親のこと?」
「それもあるわ。でも、一番大きい理由は、あなたの目の輝き」
「目の輝き?」
「私に対してもギリシャに対しても、ヨシノリは目の輝きを失ってしまったわ」
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 オリーブの葉裏が魚の鱗のように鈍く光っていた。
ギリシャと同じような風車が丘の中腹にあり、内海から吹き付ける風に羽根を回転させている。
嘉則はオリーブの枝を一つ折り、鼻先に近づけてみた。
生臭いが、どこかギリシャの香りがした。
「カトリーヌ」
 嘉則は激しく背を震わせた。
 嘉則はカトリーヌの中に海を感じ、かつてその海に自分が安らかな気持ちで内包されていたことを思い出した。
 愛はエーゲ海を越えることはなかった。
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はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えてきました。
短編集なので随時、掲載していきます。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
それでは連載第3回をお届けします。

小豆島恋叙情 第3話 涙の波止場

             鮠沢 満 作  
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フェリーの乗船を告げるアナウンスがあった。
あと十分もすれば、この島とも別れになる。
特別な用もない限り、ここに立ち戻ることもないだろう。
別れの日だというのに、空はどこまでも抜けるように青い。健一郎にはそれが腹立たしいくらいだった。
 健一郎は時間ぎりぎりまで待つことにした。
もしかして、という淡い期待もあった。
しかし心のどこかでは、裕子の性格からするとやっぱり来ないだろうという確信めいたものがあった。

「言っとくけど、あたしフェリーの乗り場まで行かないから。
あたしめそめそした別れって性に合わないの」
裕子はドライに割り切ったような言い方をした。
どこか無理してそれを繕っているようなところがある。
 健一郎は裕子の本当の気持ちが分かっていた。
いや裕子の気持ちが分かるのは自分だけであるという自信さえあった。
一緒に暮らし始めて三年。三年あれば、すべてとまでは言わなくても、大体のことはお互い分かる。
その日、仕事を終えて帰ると店に出ているはずの裕子がいた。
それに普段とは違って少しだけ豪華なご馳走がテーブルに用意してあった。
裕子のいつもの翳りのある横顔を見たとき、健一郎は胸の奥から嗚咽がこみ上げそうになった。
裕子に本当にすまないと思ったからである。
苦し紛れに面白くもない冗談を飛ばしてみたが、裕子は歯牙にもかけないと言った様子で茶碗にご飯を盛った。
「行くんでしょう」
「えっ?」
「今日、人事異動だったんでしょう」
「まあ」
 健一郎は曖昧に答えた。いくら曖昧に答えても、行くことに変わりはなかった。
 健一郎は黙って箸を動かせた。

 健一郎は裕子との三年にわたる歳月を思った。
 裕子は酒場の女。健一郎は三年間の勤務を勤め上げれば本庁へ還される公務員。
独り暮らしの淋しさを慰める日々に、すーっと風のように滑り込んできた女がいた。
それが裕子だった。
押しつけがましいところはなかった。
健一郎も裕子のどこか翳りのある物腰に、男としての矜恃を掻きむしられた。
つまり裕子に優しくしてやりたいと思ったのである。それはあきらかに同情からの始まりだった。

 裕子は店に出る前、こっそり健一郎のアパートに来ては夕食の支度をしたり、ワイシャツにアイロンがけをしたりと、こまめに世話を焼いてくれたが、
決して二人の関係を無理矢理進展させようとはしなかった。不思議な女だった。
 ある日、裕子が出がけにぽつり言ったことがある。
それは沈む夕日のように暗く切なかった。
「一緒にいても寂しいときがあるのに、もしこれが本当に一人になったら、死ぬくらい寂しいんでしょうね。それを考えると、急に憶病になって背を丸めたくなるの。
でもその日がいつかやってくるのね」
 健一郎は裕子の肩を抱いてやろうと手を伸ばしたが、裕子はそれからすり抜けるように身をひるがえすと、隙間風のように玄関から姿を消した。

 裕子はつぶれかけのスナックを経営していた。
健一郎は客の一人だった。
ある晩、仕事のことでむしゃくしゃしていた健一郎は、裕子の店で飲み過ぎ酔っぱらってしまった。
裕子が健一郎をアパートまで送ってくれた。
酔いつぶれた健一郎をどうにか布団に寝かしつけたとき、男の独り暮らしの物悲しさを見るとはなく見たのに違いない。

 それから裕子はときどき健一郎のアパートにこっそりやって来ては、掃除とか洗濯をするようになった。健一郎にしてみれば至れり尽くせりで文句はなかったが、そのうち無理難題を押しつけてくる女に違いないと、半ば警戒していた。
しかし、裕子は代償を求める女ではなかった。
時が経ち、裕子が店のないときは、健一郎のアパートに泊まっていくこともあった。
健一郎は妻帯していた。
子供も二人いた。
だからというわけではなかったが、二人の間に交わされる営みは、渇いた性愛というのではなかった。交わりは短く、淡泊だった。
むしろ別れのときのことを考えて、それ以上健一郎の身体の一つひとつの動きを自分の身体に刻みつけることを恐れているようなところが裕子にはあった。
あえて感情移入をせず、どこか遠くを見つめるような眼差しで身体を預けてくる裕子が、健一郎にはいつの頃からか愛しく思えるようになっていた。
そう、最初は同情からの始まりだったのに。

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雨が落ちる夜、短い交わりの後襲ってきたゆるやかな眠りの縁で、裕子が誰に言うでもなくぽつり言葉を紡いだことがあった。
「両親は漁師。でも時化で船が海に呑まれて、死体さえ浮かばなかった。
大阪に妹が一人いるけど田舎暮らしが嫌いで、小豆島に帰ってくることなんてないわ。
私は高校を中退して水商売に入ったの。食べて行かなきゃならないでしょう。
あの頃も今も同じ。なんも変わっていない。
一人暮らしが皮膚の裏まで張り付いちゃって」
 裕子が身の上話らしきものをしたのは、あのときが初めてだった。
それ以降二度とそのことを口にすることはなかった。

「高松の本庁に転勤だ」
 裕子は別段驚いた様子も見せなかった。
いつかこんな日が来ることを覚悟していた。
そう言いたげな強情そうな顔の表情を崩さない。
「言っとくけど、あたし見送りなんか行かないから。
一介の酒場の女がそんなことできるわけないでしょう。
行くときは一人で消えて」
「分かってる」
「何が分かってるって言うのよ。あんたは何も分かってない」
 裕子のそんな激しい口吻をこれまでに聞いたことがなかった。
「君にはすまないと思ってる」
それだけ言うのがやっとだった。
健一郎の瞼の裏には涙の袋がぶら下がっていた。
あと一言言えば、その袋は破れてどっと涙が溢れ出すに決まっていた。
「同情なんていらないわ。最初からこうなることは覚悟の上での関係だったんだから」
 健一郎はもうそれ以上言わなかった。別れる前に感情のもつれだけは避けたかった。

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健一郎は時計に目をやった。出発の時間だ。
諦めフェリーに乗り込んだ。
フェリーは皇踏山を後方に押し返すように港を出て行った。
「やっぱりあいつは来なかった。意地っ張りだからな」
 健一郎は客室の椅子に身を沈めた。新聞を読もうとしたが、同じところを何度も読んでいる自分に嫌気がさして放り出してしまった。
 この三年間はいったい何だったのだ。
 カモメがフェリーの上をかすめ飛んだ。
 と、そのとき、小瀬の海岸に目が留まった。
 健一郎は急いでデッキに走り出た。
「あいつ」
 健一郎は身を乗り出して手を振っていた。
 それに応えて一人の女も手を振った。
 裕子だった。
 桜が満開で、背後の山に小さな灯りのような斑点をいくつも滲ませていた。
「裕子、君のことは忘れない」
 裕子に聞こえるはずもないのに、健一郎はそう言った。
 裕子がハンカチで目頭を押さえるのが見えた。
「あたし見送りなんか行かないから。行くときは一人で消えて」
 裕子の強がりが本当の優しさに思えた。
 はじめは同情だったのに……。
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はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。

それでは連載第2回をお届けします。

小豆島恋叙情 第2話 天涯の寺 鮠沢 満 作

              
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頭上から途切れ途切れに読経の声が降り注いでくる。
今にも崩れ落ちてきそうな岩山が、近づく者の足をすくませるように屹立している。
その岩場の中ほどをくり抜き、寺が建立されていた。
見上げればそこまで目と鼻の先ほどだが、鎖に寄りかかりながらごつごつした足場を難儀しながら歩いてきた真理子にとっては、まだまだ数里も先のように思えた。

 真理子は途中で一息入れるため、勾配のややなだらかな場所を選んで立ち止まった。
大きく肩で息をすると、バッグから刺繍を施した薄ピンク色のハンカチを取り出した。
五月の陽光は柔らかい中にも刺すような痛みを含んでおり、真理子の顔と首筋を焼いた。
真理子の白い額に浮き出た汗はほんのり新緑を含み、宝石のような輝きを放っていた。
取り出したハンカチで、その緑を掬い取るようにして軽く汗を拭うと、
自分が歩いてきた険しい山道が本当にまだそこにあるのか確かめるように背後を振り返った。

 真理子は背筋を伸しまっすぐ前を見ていたが、視線はどこか定まらず中空を泳いでいた。
どこかに置き忘れてきたかつての記憶を拾い集めでもするかのようなその眼差しは柔らかく、
真理子の顔の表情までゆるめた。
樹間を縫って渡ってきたそよ風が、サワサワ葉擦れの音を掻き上げ、
その音にはじめて自分の存在に気付いたように、はっと我に返った。真理子の顔に安堵の表情が広がった。
視線をやや落とし樹間のさらに奥を覗き込むと、そこには光りにまぶされた瀬戸の海が、
ちらちら陽炎のようなゆらめきとともに見え隠れしていた。

 命の輝きにも似たその光の群れは、他でもない真理子の心の炎そのものだった。
ちらちらゆらめく炎ではあったが、実際には激しく燃え盛る前の炎であって、情念の炎と呼んでもよかった。
真理子がそのほとばしる情熱に押され、この急な坂道を何度も転げ落ちそうになりながらも登ってきたのは、一つの約束があったからである。

 健夫は言った。
「五年後、もしまだ君が心変わりしていなければ、この寺の祠で会おう。
今日と同じ日の同じ時間に。
俺の気持ちは変わらない。
たとえこの身が刃に刻まれ肉片になっても、俺はここで君を待つ。
君と一緒になれるのであれば、化石になってこの岩盤に封じ込まれても悔いはない」
「わたし、貫き通す自信があるわ。家のために人身御供なんかになりたくはないわ」
「これは俺たち二人の愛の試練だ」
 健夫はそう言うと、真理子の傍らをすり抜けるように去っていった。

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 真理子は迫り来る絶壁の険しさが、行く手を阻む悪魔の手先のように思えた。
いつしか陽光が柔らかさを失い、真夏の太陽のような刺々しさで真理子を焼き、揺さぶった。
目眩を覚え、思わず手摺りに寄りかかったほどだ。
真理子は背後から追っ手が迫ってくるような恐怖感と圧迫感を覚えながら先を急いだ。
垂直に切り立った岩に切り取られた空間に、一羽のトンビが飛翔を許されていた。
まるでこの山の守衛を任されていて、人間の愛の駆け引きをあざ笑うかのようなその飛行は、
幸と不幸がよじり合って生まれる空気の摩擦と震動を浮力にしているようであった。
高見から一人ひとりの人間の心の中を覗き込んでは、その穢れ具合をいちいち秤にかけている。
そんな印象さえ与えた。

やっと本堂の入口までやってきた。
錆びた欄干にもたれ掛かるようにして、くり抜かれた本堂を上目遣いに恐る恐る見上げた。
一瞬人影が動いたような気がした。
しかし、それは祠を内包する巨大な岩の壁から放出される妖気のようなもので、実際には人影ではなかったのかもしれない。
 読経がまたしてもうねりのようになって真理子に覆いかぶさってきた。
読経の重々しい旋律の重層の下で、真理子の胸は押しつぶされるような苦しさを覚えた。
果たして健夫は約束どおり自分を待っているのだろうか。
あれは単なる口先だけの慰めだったのだろうか。
もしそうだとしたら、この五年間の歳月はどうなるというのだろう。
そのことを考えるだけで憶病になった。

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 真理子は本堂に通じるトンネルの入口の前に立った。
そのトンネルは人の手によって穿たれたもので、岩肌が竜の内臓のようにごつごつと粗々しかった。
真理子ははやる気持ちと健夫がいない恐怖とを同時に身に宿していた。
ひたひたと打ち寄せる恐怖を脇に押しやり、息を整えて一歩踏み込もうとしたが、
どうしたことか真理子は恐懼し、あとじさってしまった。
理由は分からない。身体が金縛りにあったように動かないのだ。

 またしても人影が動いた。
真理子に襲いかかる新たな眩暈の群波。頭の内側に薄皮が張り付き、意識が白濁していく。
白濁し、沈殿した思考の堆積を掻き分け、その先にある一筋の光に手を伸ばしたとき、男の呼び声が聞こえた。

「真理子」
 健夫は崩れ落ちそうになる真理子を、両手で抱きすくめるように受けとめていた。
空を舞うトンビが、キーッと鋭い敗北の鳴き声を上げ、急上昇していった。
その鳴き声に重なるように、読経の旋律の襞が真理子と健夫を包み込んだ。

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 小豆島霊場第七十二番奥の院笠ヶ滝。
笠ヶ滝を名勝たらしめているのは、そこからの眺望の良さというより、本堂に至るまでの難所にある。
男女、年齢の別を問わず、笠ヶ滝に参拝しようとする者は、ごつごつ険しい鎖場を避けて通ることはできない。
難儀して登った者だけが本堂にたどり着く。まさに修行の一端を垣間見ることができる。
集魂岩をくり抜き、そこに本堂を構え不動明王を安置する。

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
立ち寄ってお読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
それでは連載第1回をお届けします。
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小豆島恋叙情
鮠沢 満 作

あなたが失ったものを取り戻したいのなら、ここにいらっしゃい。
あなたが心の奥に大切にしまっておきたいものをつくりたいのなら、ここにいらっしゃい。
普段なにげなく接している人を、もっと大切に思えるようになりたいのなら、ここにいらっしゃい。
瀬戸の暖流に身を任せ、輝く太陽とそよぐ風に心をときめかせながら両手を大きく差し出して、
あなたが好き、と言えばそれが叶うのです。
そう、ここは天使が舞い降りる島

第一話 天使の道

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ここは天空から天使が舞い降りる島
潮が引くにつれて、白い砂浜と二つの島の間に砂州がしずしずと現れた。
砂州は悠久の時間の流れに後押しされるように背を広げ、
やがて帆船の巨大な帆のような緩やかなカーブを描いて
小さな砂丘へと姿を変えていった。
朝陽が洋上の向こうに浮かび出た山の稜線から、
ぽつり最初の光の滴を落とした。
やがて待ちきれなくなった真っ赤な太陽が、
オレンジ色の衣をなびかせて山の上に躍り出た。
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眠けを波の縁にほんのり残した朝海は、鏡の表面のように穏やかで、
そのなまめかしいほどの若肌に一本深紅の帯が垂れた。
その真っ直ぐな帯は、静寂の壺と化した湾に抱かれるようにゆらりゆらりたゆたっていたが、
やがて押し寄せてきた波の一団に崩れ、無数の深紅の断片となって散った。
あわてて離れた手を手繰り寄せ元の一本の帯になろうとしたが、遅かった。
離ればなれになった輝きの断片は、夥しい数の布になってゆるゆる浮かんでいた。
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幸一は弁天島と中余島を繋ぐ砂州の上で、両手を腰に置いたままその光景を、
何かが憑依したように茫然と見つめていた。幸一の頬に一筋光るものがあった。
にわかに海からひんやりとした潮風が立ちのぼり、
その光るものをまるでこそげ落とすようにかすめていった。
そのとき幸一は、目に見えない小さい棘にひっ掻かれたような痛みを感じた。
「園子」
幸一は小さく呟いて瞼を閉じた。
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あのとき幸一のそばには、園子が寄り添うように立っていた。
園子の腕が幸一の腕にぐっと絡みつき、
どんなことがあっても離れそうにないくらいしっかり手を取り合っていた。
「ここは天使の舞い降りるところなんだ」
幸一は自慢そうに言った。
「天使?」
「そう。あの可愛らしい翼を持つ天使」
「じゃあ私たち二人を祝福してくれるのね」
 幸一は園子にプロポーズし、そして園子はその申し出を承諾したばかりだった。
「この弁天島、中余島、大余島とは引き潮のとき、砂州でつながる」
「いつもは離れているのね」
「そう。一日に二回手を取り合うことができる」
「素敵ね」
 園子は顔を幸一の胸に埋めた。
 長い黒髪が潮風になびいて、美しいメロディーを奏でそうだった。
「離れていても必ず手を取り合うことができる」
「幸せをつなぐ島」
「だから今僕たちが立っているここは、エンジェルロードと呼ばれている」
「やがてウェディングロードへとつながるのね」
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あれから一年の歳月が流れた。
今日、幸一のそばに園子はいない。
幸一は巻き貝の中を流れる風のような静かな声で言った。
「園子。ここは天使が舞い降りる島なんだ。
 覚えているだろう。
そして一日に二回手を取り合うことができる。
だから僕は毎日こうしてここに来るんだ」

王子東港から一隻の漁船が、
長い曳航の軌跡を残して出港していく。
長い深紅の帯が真っ二つに断ち切られ、
弱々しく漂っていた。

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