瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐近世史

      
中世以降になると、包丁諸流が奥義を書き伝えた料理伝書を残すようになります。伝書は料理の式法を伝えるもので、その読者は一部の料理専門家など少数の人々でした。また、伝書にはいろいろな故事引用が多く、神話、神道、陰陽道、儒教、仏教などによって権威付けがなされていることがその特徴とされます。その中で、魚介類の格付け(ランキング表)が登場してきます。
 鎌倉時代の『厨事類記 第□』(1295年)には「生物 鯉 鯛 鮭 鱒 雉子 成止鮭絆供幅雉為佳例。」とあり、鯛と鯉が並んでランクされています。また「徒然卓』(第118段)では、鯉が次のように記されています。

「鯉ばかりこそ、御前にても切らるヽものなれば、やんごとなき魚なり」

ここには鯉が「やんごとなき魚」として特別の魚とされ、14世紀初頭の魚ランキングでは、最上位の魚として位置づけられていたことが分かります。それでは室町期の流派相伝書に、鯉がどのように記されているのかを見ていくことにします。
① 『四條流庖丁書』(推定1489)年 
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る
「一美物上下之事。上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但定リテ雉定事也。河ノ物ヲ中二致タレ下モ、鯉二上ラスル魚ナシ 乍去鯨ハ鯉ヨリモ先二出シテモ不苦。其外ハ鯉ヲ上テ可置也。」

意訳変換しておくと
「美物のランキングについては、「上」は海の物、「中」は河ノ物、「下」は山ノ物とする。但し、鯉は「河ノ物」ではあるが、これより上位の魚はない。但し、鯨は鯉よりも先にだしても問題はない。要は鯉を最上に置くことである。」


「一美物ヲ存テ可出事 可参次第ハビブツノ位ニヨリティ出也。魚ナラバ、鯉ヲ一番二可出り其後鯛ナ下可出。海ノモノナラバ、 一番二鯨可出也。」

意訳変換しておくと
「美物を出す順番は、そのランキングに従うこと。魚ならば、鯉を一番に出す。その後に鯛などを出すべきである。海のものならば、一番に鯨を出すべし。」
「物一別料理申ハ鯉卜心得タラムガ尤可然也。里魚ヨリ料理ハ始リタル也。蒲鉾ナ下ニモ鯉ニテ存タルコソ、本説可成也。可秘々々トム云々」
 
意訳変換しておくと
特別な料理といえば、鯉料理と心得るべし。里魚から料理は始めること。蒲鉾などにも鯉を使うことが本道である。

以上は、鯉優位が明文化された初見文書のようです。
「料理卜申スハ鯉卜心得タラムガ」「里魚(鯉)ヨリ料理ハ始リタル也」などからは、鯉が最上位にランキングされていたことが分かります。また「ビブツ(美物)ノ位」とあるので、格付けの存在も明らかです。
素材に手を触れずに調理する「大草流包丁式」 - YouTube
 大草流包丁式の鯉さばき

 ①『大草殿より相伝之聞古』(推定1535~73)
「一式三献肴之事 本は鯉たるべし 鯉のなき時は名吉たるべし。右のふたつなき時は、鯛もよく候」

意訳変換しておくと
「一式三献の肴について、もともとは鯉であるべきだ。鯉が手に入らないときに名吉(なよし:ボラの幼魚)にすること。このふたつがない時には、鯛でもよい。

一式三献とは出陣の時、打ちあわび、勝ち栗、昆布の三品を肴に酒を三度づつ飲みほす儀式のことで、これを『三献の儀(さんこんのぎ)』と呼びました。以後は三献が武士の出陣・婚礼・式典・接待宴席などで重要な儀式となります。そこでは使われる魚のランキングは「鯉 → ボラの幼魚 → 鯛」の順になっています。
 
②「大草家料理吉」推定(1573~1643年)
「式鯉二切刀曲四十四在之。式草鯉三十八。行鯉ニ三十四刀也.(下略)」

  ③ 『庖丁聞吉』推定1540~1610)
「出門に用る魚、鯛、鯉、鮒、鮑、かつほ、数の子、雉子(きじ)、鶴、雁の類を第一とす。」
「一、三鳥と言は、鶴、雉子、雁を云也 此作法にて餘鳥をも切る也」
「一、五魚と言は、鯛、鯉、鱸、王餘魚(カレイ)をいふ 此作法にて餘の魚をも切る也。」
ここでは、鯉は五魚並列に位置づけられています。以上からも室町から江戸時代初期までは、魚介類の最上級は鯉であったことが分かります。
古文書 鶴庖丁之大事-魚の部・鳥の包丁の事 絵入1枚モノ 明治頃 : 古書 古群洞 kogundou60@me.com  検索窓は右側中央にあります。検索文字列は左詰めで検索して下さい。(文字列の初めに空白があると検索出来ません)
鶴のさばき方
次に 近世の料理伝書の鯉のランキングを見ていくことにします。
  ①『庖丁故実之書 乾坤巻』成立年不明、伝授年嘉永五年(1852)
「河魚にも鯉を第一之本とセリ」
「水神を祭可申時、鯉・鱸(すずき)・鯛、何れにても祭り可申事同然可成哉、(中略)、鯉の事欺、尤本成べし、鯛・鱸にてハ不可然、但鱸之事は河鱸にてハ苦しからすや、海鱸にてハ不可然(下略)」
「但分て鳥と云へきハ雉子之事なるべし」
意訳変換しておくと
「河魚ではあるが鯉を第一とすること。」
「水神を祭る時に、鯉・鱸(すずき)・鯛のどれにでもかまわないと言う者もいるが、(中略)、鯉を使うこと、鯛・鱸は相応しくない。但し、鱸は河鱸は可だが、海鱸は不可である(下略)」
「但し、鳥と云へば雉子と心得ること」

  ② 『職掌包丁刀註解』、伝授年嘉水五年(1852年)
「包丁手数職掌目録 右三十六数は表也 (中略) 右之外三拾六手之鯉数を合て目録ヲ定、表裏の品ヲ定て習之也」
「一夫包丁は鯉を以テ源トス、(中略)、凡四條家職掌庖丁ハ鯉を第一トス、雑魚雑鳥さまざまに、猶他流に作意して切形手数難有卜、皆是後人の作意ニよつてなすもの也、然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、是又従古包丁有し事上、(下略)」
「一夫包丁ハ鯉ヲ源トス、鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也(下略)」
「鯛 一延喜式二此魚を平魚卜云、国土平安の心ヲ取捨日本各々祝儀二も第一賞翫二用之也」
  意訳変換しておくと
「包丁手数職掌目録 これは36六数を表とする (中略) この外に36手の鯉数を合せて目録を定めています。表裏の品を定めてこれを習う」
「包丁は、鯉が源である。(中略)、四條家の職掌庖丁は、鯉を第一とする。雑魚雑鳥がさまざまに、他流では用いられ、形や技量が生まれてきたが、これは皆後世の作意である。しかし、鱸・真那鰹(なまがつお)・鯛・雉子・鶴・雁は格別の賞翫である。これは伝統ある包丁の道でもある。
(下略)」
「包丁は鯉が源である、鯉の鱗は、長龍門を登った徳のある魚である(下略)」
「鯛については、延喜式でこの魚を平魚と呼んで、国土平安の心を持ち、日本のさまざまな祝儀でも第一の賞翫として用いられる。

  これらの伝書は嘉永4年から6年にかけて、飯尾宇八郎より甲斐芳介へ伝授されたものです。この中で「職掌庖丁刀註解』は、何度も鯉を「第一の魚」としています。鯉を第一としつつ「然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、」と鯛なども同列に置きます。さらに、鯛を「祝儀二も第一賞翫二用之也」と祝儀の魚と位置づけるようになります。つまり、鯉の絶対的な優位性は見られなくなり、鯛に並ばれている感じがします。

④ 『料理切方秘伝抄」万治二年(1659)以前成立・四条家由部流の秘伝書     
「一鯛十枚 鮒十枚(喉・唯)何ぞ名魚はこんの字を人て書物也」
「二 唯鯉 一二つ鯉は四条家の秘伝也」
この書も、鯉の鱗の数を切り方の秘伝の数になぞった「三十六之鯉の秘伝」と記されていて、鯉優位を示します。 『料理切方秘伝抄」については、研究者は次のように評します。

「本書は、専門家の包丁人ばかりでなく、公家、武家また裕福な町人、上級文化人の間で読まれたのであろうか、その(端本)流布状態は、当初筆者が考えていた以上に広範囲に及んでいた」

ここからは、中世においては一部特定の人々のものであった伝書が広く流布されていたことを指摘します。

鳥魚料理指南
鳥魚料理指南
⑤『割烹調味抄』亨和2年(1803)以降成立。
ここには250種の料理の製法が載せられていますが、鯉の優位を説く記述はありません。その要因として、「伝書の内容の改変」があったことを研究者は指摘します。
この他にも、近世後半になると次のように鯉に対する否定的な評価が増えてきます。加賀藩四條家薗部流の料理人舟本家の近世成立の「料理無言抄」(享保14年(1729)
「鯉の鮨賞翫ならず。認むべからず」「鯉鮪賞翫ならず。」

「式正膳部集解』、安永5年(1776)成立
「小川たゝきの事 鯉は賞翫なるを以饗応にかくべからず」

御料理調進方』、慶応3年(1866)以前成立)
「塩鯉。江戸にては年頭の進物にする。其外一切賞翫ならず」

以上からは鯉料理に対する否定的な見方が拡がっていたことがうかがえます。
中世に鯉が優位であったというのは本当なのでしょうか?
 将軍御成の献立から供応の場における鯉と鯛の立場を研究者は比較します。
永禄4年(1561)、将軍足利義輝三好亭御成の献立「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」の鯉と鯛の使用状況は、鯉の「こい 三膳」の一回だけに対し、鯛は「をき鯛・式三献」「鯛・二献」「たい・二膳」「たいの子・一七献」の四回です。献立には焼物、和交、鮨など調理法だけの記載もあって、全容は分かりません。
 永禄11年(1568)将軍足利義明朝倉亭御成の献立「朝倉亭御成記」でも、鯉は「鯉・三献」「汁鯉・二膳」の二回ですが、鯛は「汁鯛・四膳」「鯛の子・九献」「赤鯛・九献」の三回となっています。ここからは、使用頻度は鯛の方が頻度が高く、鯉の優位性は見られません。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)、茶の湯隆盛のなかで催された『神離宗湛日記献立 上下』の会席での鯉と鯛を比較します。
 使用回数をみると、鯛が64回に対して、鯉はわずか7回です。太閤はじめ諸大名、利体その他歴々たる茶人が名を連ねる茶事は、会席としては同時代の最高の水準と考えられます。このなかで鯉が生物料理だけに用いられ、煮物や焼物には使用されていません。つまり、安土・桃山時代にの上層会席では、鯛が鯉を圧倒するようになっていたと言えそうです。
 この背景には「魚のランキング」よりも、「調理の適正」が魚類選択の基準になっていたことがうかがえます。あるいは魚の格付けそのものが考慮されていない可能性があります。
つぎに、上層間の美物贈答を見ておきましょう。
1430年の足利義教から貞成親王への美物贈答(五回)の魚介類には、鯛4回(25尾と2懸)、鰹(8喉)、以下、鱈、鰆、鱒、鰯、いるか、大蟹、海老、鮑、牡蛎、ばい、栄蝶、海月などです。この中で鯛と鯉を比較すると、鯛がやや多くなっています。
 文明5年(1483)、伊勢貞陸から足利義政への献上品の魚介類では、鯛25回(103尾と2折、干鯛2折)、鯉5国(11喉と2折)、以下、蛸(7回)、鰐(6回)、鳥賊(6日)、海月(4回)、鱸(3回)などが頻度が多い魚です。
この中でも鯛は、回数、数量ともに突出しています。鯛は京都の地理的条件から入手困難だったとよく言われますが、上層階層には地方から毎月多くの鯛が献上されていたことが分かります。
 「山科家の日記から見た15世紀の魚介類の供給・消費」には、
「山科家礼記」などの5つの史料に出てくるの魚類消費の調査報告書です。
そこには、淡水魚介類と海水魚介類の比較を次のように報告しています。
「教言卿記」は淡水魚介類のべ30件、海水魚介類59件
「山科家礼記』は淡水魚介類のべ194件、海水魚介類492件、
「言同国卿記」は淡水魚介類のベ132件、海水魚介類174件
これを見ると、海水魚介類の消費量の方が淡水魚介類に比べて多いようです。また、鯉と鯛の件数比較では、
「教言卿記」は、鯉6件、鯛25件
「山科家礼記」は、鯉43件、鯛155件
「言国卿記」は、鯉19件、鯛84件
で、どれも鯛が鯉を凌駕しています。鯛は全ての魚介類のなかで最も多く出てきます。ちなみに淡水魚だけに限って多い順に並べてみると
「山科家礼記」では、鮎64件、鮒58件、鯉43件
「言国卿記」では、鮎68件、鮒30件、鯉19件
ここでは鯉は淡水魚三種のなかの下位になっています。
これについて研究者は、次のように指摘します。

「中世社会においては魚介類は儀礼的、視党的な要素の強い宮中の行事食や包丁道の対象としても用いられており、これらの記述からは中世後期において魚介類相互間に人々が設定した一種の秩序意識、鯉を頂点とする秩序意識をも看取することができる」

「(しかし)山科家の日記類のなかには、こうした秩序意識の理解に直接資する記事は少なく、包丁書などで述べられる事柄と交差する点が見いだし難い」

「それぞれの魚介類の記事件数のみを物差しにすれば、鯉よりむしろ鯛の方が贈答されることが多く、重視されているように思われる」

「贈答や貫納の場面では鯛の需要が他の魚種を引き離し食物儀礼の秩序とは異なる構図がみえて興味深い,」

「ここからは「儀礼魚」としての役割が鯉から鯛へと重心移動しつつあった15世紀の現実世界を魚類記録は映し出してくれる」

つまり、従来の説では料理伝書の記述に基づいて「中世における鯉優位」が言われてきましたが、これは伝書、儀礼の場の中だけのことで、一般的な食生活の傾向とは乖離があったということになります。

以上、中世、近世の料理伝書の魚類の格付けをまとめておきます。
①中世の料理伝書には鯉優位のランキングが示されていること
②しかし、これは上層の供応、贈答などの実際の場には反映しておらず伝書の中に留まること
③伝書における中世の鯉優位は近世にも引き継がれるが、出版された伝書が改変が推定される伝書には、中世と異なる鯉への否定的な評価が見られること

それでは中世の鯉優位は、どのように形作られたのでしょうか
通説には伝書の権威付けとして引用されるのが次の中国の故事です。
「龍門(前略)此之龍は出門・津門・龍門とて三段の龍也、(中略)三月三日に魚此龍の下ニ集り登り得て、桃花の水を呑ば龍に化すと云う事あり」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也、毎鱗黒之点有之、鱗数片面三拾六枚有、依之衣共鱗数三拾六手の数ヲ定メ給ふ卜言ふなり」(『職掌包丁刀注解』)
 
意訳変換しておくと
「(黄河の)龍門(前略)の滝は、出門・津門・龍門の三段に流れ落ちる。(中略)三月三日に魚たちは、この滝の下に集まって、この滝を登り得た魚だけが、桃花の水を呑んで龍に変身すると伝えられる。」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉は龍門の滝を昇進した有徳の魚である。鱗ごとに黒い点があり、鱗数は片面で36枚ある。そのため包丁人は伝書に鱗数と同じ36手の数を定めている。(『職掌包丁刀注解』)

 ここからも「鯉の優位」を説く中世の伝書は、包丁家などに伝わる儀礼的な場面を想定して、鯉を「出世魚=吉兆魚」としていたことが推察できます。「徒然草」の「鯉ばかりこそ、御前にても明らるゝものなれば、やんごとなき魚なり」というのは、包丁人たちによって形成された評価と研究者は考えています。
今日はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」

瀬戸内海を前に見る讃岐では、魚介類の加工・貯蔵技術が発達してきました。なかでも水産練製品は、塩蔵、干物などとはちがう完成度の高い製品として珍重されるようになります。江戸期には、各地に趣向を凝らした名産蒲鉾が造られるようになります。今回は讃岐の慶事供応に登場する水産練製品を見ていくことにします。テキストは
       秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

練り製品(ねりせいひん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
水産練製品

讃岐の水産練製品の古い事例としては、明和年間(1764年から1772年)の高松藩主の茶会記「穆公御茶事記 全」に、次のような練製品が登場します。
「崩し(くずし)、摘入(つみれ)、真薯(しんじょ)、半弁、王子半弁、蒲鉾、竹輪」

えび真薯
同時期の漆原家の婚礼供応では「巻はんへん、肉餅」の2種が用いられています。その後、文化年間の婚礼では「巻半弁、茶巾玉子、青はしまき、大竃鉾、白焼かまほこ、舟焼」が記されます。ここからは讃岐の水産練製品は、明和年間の18世紀後半頃に登場し、次第に婚礼儀礼などを通じて普及したと研究者は考えています。
幕末の青海村大庄屋・渡辺家の史料には、代官供応、氏神祭礼など計9回の供応献立に、次のような水産練製品が出てきます。

「摘入(つみれ)、小川崩し、すり崩し、しんじょう、半弁、結半弁、大半弁、角半弁、茶巾、小茶巾、箸巻、市鉾、角蒲鉾、小板、船焼、大竹輪、合麹」

摘入/抓入(つみれ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
摘入(つみれ)
また、嘉永5年(1852)から安政3年(1856)の浦巡検使への供応(4回)には、次のようなものが出されています。
上分には「摘入、しん上、半弁、分鋼半弁、角半弁、竹輪、蒲鉾、鮒焼王子」
下分へは「摘入、半弁、竹輪、蒲鉾」
ここからも幕末には水産練製品が大庄屋などの上層農民に定着していたことが見えてきます。
以下明治以後の讃岐の庄屋で使われている水産練製品を挙げておきます。
①漆原家の婚礼(明治11年)では、以下の12種類の水産練製品
「進上、白子進上、炙十半弁、小判型半弁、茶巾、蒲鉾、舟焼、青炙斗玉子、養老王子、ぜんまい崩し、生嶋崩し、柏崩し」

②中讃の本村家の婚礼儀礼(明治期)には、多量の水産練製品
「生崩し十五杯、白玉九十九個、半弁(丸半弁)四一本、蒲鉾(蒲鉾圧文板)一六七枚、茶巾 十五枚、箸巻(青箸巻)六七本、生嶋崩し十八枚、藤半弁一七枚、相中蒲鉾八枚、花筏四〇枚、合麹二十枚」

ここでは、いろいろな形に成形、彩色した細工蒲鉾類が数多く使われるようになっていることが分かります。
  ③本付家史料は婚礼だけでなく、厄祝、名付、軍隊入営、上棟、新年会、農談会などの供応にも水産練製品が使われています。
  ④明治期に開かれた13回の供応には、次のような水産練製品が使われています
  「摘入、しんじょう、王子しんじょう、安平、半弁、小半弁、雪輪(半弁)、小板、白板、蒲鉾、肉餅、合麹」
 
⑤火事見舞(明治4年)には酒、菓子などの食品・日用品とともに、「竹輪、蒲鉾、紅白板、小板、箱浦鉾」が贈られています。
  以上からは明治期になると、水産練製品が上層農民の婚礼儀礼に使用され、それが庶民へと広がりをみせていたことがうかがえます
  さらに時代が下がると、天ぷら(すり身を平らに調え油で揚げた製品)、安ぺい、篠巻などの製品が増えます。これらの品々は、それまでの儀礼など晴(ハレ)食へとは違って、庶民が日常的に食べるものです。庶民の食生活にも普及する新たなタイプの水産練製品の登場といえます。これが水産練製品の需要の裾野をさらに広げることになります。
  讃岐の水産練製品は、どのように作られていたのでしょうか?
成形方法、加熱方法などから研究者は次のように分類します。
・①蒲鉾(かまぼこ)類
・②細工物、細工蒲鉾類)
・③半弁(はんべん)類
・④竹輪(ちくわ)類
・⑤真薯(しんじょ)類
・⑥舟焼(ふなやき)類                        ・
・⑦天ぷら類
・⑧その他
  それぞれを見ていくことにします。
①の蒲鉾は水産練製品の原型とされます。
その起源は永久3年(1115)に、関白右大臣藤原忠実の祝宴で亀足で飾った蒲鉾の絵が最古とされます。また、「宗五人双紙」(1518年)には「一 かまぼこハなまず本也 蒲のほ(穂)をにせたる物なり」とあり、「蒲のほ(穂)に似せて作られたと、その曲来が記されています。製法は『大草殿より相博之聞書』(16世紀半ば)に次のように記します。
「うを(魚)を能すりてすりたる時、いり塩に水を少しくわへ、一ツにすり合、板に付る也。(中略) あふり(炙り)ようは板の上に方よりすこしあふり、能酒に鰹をけつり(削り)、煮ひたし候て、魚の上になんへん(何遍)も付あふる也`」

ここからは、蒲鉾の初期の加熱方法は焼加であったことが分かります。
同時期の茶会記などには、次のように記されています。
一カマボコ 二切ホトニ切 ソレヲ三ツニ切タマリ 懸テケシ打チテ温也
一ヘキ足付三ツカマホコ キソク赤白(文禄三年九月二五日昼)
ここからは、いろいろに料理された蒲鉾が出てくるようになっていることが分かります。蒲鉾は、魚肉をすり潰したもので、初期には竹などに塗りつけた蒲の穂型でした。それが次第に板につけた板付蒲鉾に姿を変えていきます。このような板付蒲鉾を讃岐の史料では「板、小板、白板」と呼んでいます。また、肉餅に似ていることから「肉餅」の呼称もあったようです。
  蒲鉾は大小によって「小板三文半、五文蒲鉾、蒲鉾六文板」などのランクに分けられ、上分には六文板、五文板を、下分には三文板など客の階層に応じて出されていたようです。

細工かまぼこ 華ごよみ
細工蒲鉾類
細工物・細工蒲鉾類は、その形を色とりどりに飾って、デザインしたもので、その成形法にはいろいろな技法があったようです。
その製法は経験と熟練による高度な技術が必要な「ハイテク蒲鉾」でした。例えば、
値段はいくらでもいい』裏千家家元夫人の願いでできた、1枚450円の幻の高級笹かまぼこ「秘造り平目」数量限定・期間限定で発売。 | 株式会社  阿部蒲鉾店のプレスリリース
「鹿の子崩し」
⓵蒲鉾の表面にヘラで一つ一つ鹿の子模様を掘り起こした「鹿の子崩し」(ヘラ細工)
②すり身を薄焼卵や黄色の奥斗(すり身を薄く伸ばして蒸したもの)で包んだ「茶巾」「巾着」
③扇面に三菱松、鶴亀、寿などの祝儀の模様を描いた「末広」
④彩色したすり身を組み立て切り口に菊水の文様を写した「菊水崩し」
⑤二色のすり身を巻き切り口に渦巻模様を作る「花筏」「源氏巻崩し」
AR-A15<毎月数量限定>川畑かまぼこ店のうず巻き蒲鉾、ごぼうセット(5種・合計1.8kg)【AR-A15】 - 宮崎県串間市|ふるさとチョイス -  ふるさと納税サイト

⑥すり身と簾盤を合わせた合麹、麹巻
以上のように多彩な製品群が登場し、贈答品としては欠かせないものになっていきます。

【レシピ②】はんぺんフライ

半弁は明和年間に、蒲鉾とともに登場する代表的な水産練製品の一種です。

しかし、その名称と実態がよくわからないようです。史料には濁音符、半濁音符がないので、半弁は「はんペん、はんべん、はべん」とも読め、名称が特定できません。 讃岐の半弁は関東一円に流通するすり身に山芋、でん粉などを加え気泡により独特の軽い食感を持つ「はんぺん」とはまったくちがう製品であることは間違いないようです。
  近世料理書も半弁を特定する記述はわずかで、具体的な加熱、成形方法などもよくわかりません。讃岐のはんぺんは、すり身を巻き賽で巻き締め茄でた製品の総称であり、また、蒲鉾とともに水産練製品の代名詞的に用いられるなど、加賀藩の「はべん」とよく似ているようです。
  半弁は讃岐の近世から近代の史料では、蒲鉾とともに最もよく登場する水産練製品です。しかし、現在では讃岐では、ほとんど見ることができなくなっています。  
讃岐の半弁製法について研究者は聞き取り調査を行って、次のように報告しています。
⓵すり身を整えて巻き簀で巻いて大釜で茄でる
②茄であがった半弁を巻き簀から離れやすくするため巻き簀一面にたっぷりの塩を塗り、巻き締めた後で水洗いして茄でる
③茄で時間は半弁の大きさで異なるが、約70分から100分。
④茄で上がりの判別は叩いて音で聞き分けるが、実際には茄でる前の半弁に松葉(雄松)を刺し、半弁内の松葉が変色するのを目安とする
⑤この手法は生地の内部温度の上昇による松葉の変色を利用したもので、松葉が内部温度計の役割となっていて職人の知恵である。
⑥半弁の重さは製品により異なるが、約二〇〇匁から四〇〇匁(1125g~1500g)⑦巻き簀巾は一定なので、重量の増減により、半弁の直径がちがって、大半弁、並半弁、小半弁など大小が生じる。
水産練製品群は、茄でる、焼く、蒸す、揚げるなどの多様な加熱方法に加え、成形方法、特に細工蒲鉾にみられる複雑な形状、模様は職人の技術に支えられていました。近世の水産練製品が頂点を極めた完成期といわれる所以です。

水産練製品は最初は料理人が手作りしていましたが、そのうちに魚屋などが兼業で作るようになります。
青海村の渡辺家出入りの「多葉粉犀」は高松藩御用達の魚屋ですが、明治13年の渡辺家婚礼には鯛、幅などの魚介類とともに蒲鉾、半弁、茶巾などの水産練製品を大量に納人しています。また、渡辺家の「家政年中行司記」には次のように記されています。
「年暮 煙卓屋二くずし物買物之覚丸半排壱本 箱王子半分 小板三枚 竹わ五拾 半弁三本 小板三枚」(万延元年・1860)
「節季買物 上半弁二本 並雪輪同三本 小板五枚 船焼王子壱枚 竹輪三十本」(慶応四年・1868)
文久四年(1864)には来客に備えて「煙草屋ニ船焼小板等の崩物等誂在之候」と記されています。ここからは渡辺家では正月、祭礼などの折々に煙草屋から「崩し物購人」が行われていたことがわかります。ここからは、魚介類と水産練製品が煙草屋や魚屋の兼業によって作られていたようです。

明治29年婚礼の「生魚久寿し物控 明治十九年旧四月吉日」の水産練製品および価格一覧表を見てみましょう(表2―9).

婚礼用水産練製品一覧表 明治29年

この表からは次のようなことが読み取れます。
⓵客の階層は当日上分・人足、以下五階層に区分される
②4月12日当日は本客の上分と人足用で、半弁は「九半弁50銭・下半弁30銭」、蒲鉾も「茶引かまぼこ25銭・下かまぼこ 15銭」と階層の上下によって価格が違う。
③人足には合麹、箸巻(青色)、天ぷらなど比較的安価な製品が使われている
④4月16日の上分の客には、丸半弁、上丸半弁、蒲鉾ともに本客に準ずる価格帯のものが出されている。
⑤以下、源氏巻、合などの細工市鉾類も本客と同等の規格品が用いられている
⑥16日・17日の下作分と手伝人、内々の者などには、半弁、板(蒲鉾)、合麹、箸巻など比較的安価なものが出されていて、客の階層によって製品格差があった
明治になると、水産練製品は上分用だけでなく、下分用の下半弁、下蒲鉾なども製品化されて客の階層に対応する商品ラインナップが進んだことが分かります。
明治32年の婚礼で出された水産練製品全10品について、使用量と価格を一覧化したものを見ておきましょう。
婚礼用水産練製品一覧表 明治32年
この表から分かることを挙げておきます。
⓵種類や使用量・価格などの格差は、階層により異なること
②箸巻(青色)の価格は上位から1本「12銭・10銭・4銭」、半弁は「70銭・60銭」 など、水産練製品の価格ラインナップが細分化していること。
③これら製品格差は本客、友人などの前二立と手伝人、人足の後二献立間で明確であること
④さらに製品格差だけでなく、一人当たりの分量の概数にも差別化が行われていること
そういう意味では、水産練製品は「格差の可視化」のためには有効な機能を持っていたことになります。
 前回は、うどんが讃岐の庄屋層の仏事には欠かせないメニューとして出されるようになったこと、それが明治になると庶民に普及していくことを見ました。蒲鉾などの練り物も、婚礼の祝い物などとして姿を現し、幕末には供応食としてなくてはならないものになります。それが明治には、庶民にまで及ぶようになるという動きが見えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 今の私には、生姜はうどん、山葵(わさび)は刺身やそば・素麺の薬味という意識があります。それでは江戸時代はどうだったのでしょうか。今回は、議岐の婚礼に使用された生姜と山葵を見ていくことにします。
ショウガ栽培&育て方!初心者もプランターでOK、病害虫に強い|カゴメ株式会社
生姜
生姜は江戸時代の讃岐では階層を越えて、よく使われた薬味のようです。
それに対して山葵は、近世にはまったく使わた記録がありません。それが明治になって急速に使用頻度が高くなり、大正・昭和になると使用頻度が低くなります、また身分階層による使用頻度も大きくちがうようです。
山葵」とは何のこと?「やまあおい」ではありません【脳トレ漢字86】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
山葵
 例えば、丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)には、生姜は出てきますが山葵は出てきません。両者の間には、普及面での落差が見えます。山葵は九亀藩領内巡視の献上品として、大根、蕪(かぶら)などとともに献上されています。ここからは山葵は、一部の上層の人々が使っていたことがうかがえます。山葵は生姜に比べると、使用階層に格差があると同時に、普及が遅れていたことを押さえておきます。
生姜と山葵は、鮪、刺身などの生物料理に「辛味」「けん」として次のように添えられました
  [近世後半]
生盛(辛子酢、針生姜)
刺身(辛子酢)・刺身(辛子酢、けん生姜)
漆原家(文化年間) 差身(辛子酢) 刺身(辛子酢)
*大喜多家(天保年間) 筏盛(刺身) (煎酒、蓼酢)
  [明治時代]
・皿(けん生姜)  皿(生姜)
・刺身(辛子酢、山葵醤油)
・生盛(辛子酢、山葵将油)
。刺身(辛子、山葵将油)
・刺身(辛子酢) 刺身(生姜醤油)、 刺身(山葵)
 大正・昭和時代
・刺身(辛子酢)・刺身
・刺身(生姜醤油)・刺身(山葵)・刺身(山葵)
からし酢味噌
辛子酢味噌
以上からは次のようなことが読み取れます
①刺身などの調味は、江戸時代後半には酢系統の辛子酢が主で、生姜は針生姜などのけんとして使われていたこと、
②「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていること
③生姜は明治になって皿、瞼などにけんとしての使用されるとともに「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵は明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始める。
⑤刺身の調味は、近世では辛子酢などの酢系統が主であったが、近代になると山葵醤油、生姜醤油などの将油系統の調味が加わった。
⑥近代の山葵の増加と、生姜の用途の変化(けんから生姜醤油などの辛味)には、醤油の普及が背景にある。
⑦江戸時代後半では、山葵の使用事例は2例だけで、生姜や辛子などの酢系統が主であった。
⑧明治になると、刺身に酢、醤油両系統の2種類の異なる調味が添えられるようになった。
⑨讃岐でも武士階級などの供応には「両酢、いり酒、辛子酢」が使われるようになった。
ポカポカ生姜の醤油漬け
生姜の醤油漬け
近世から近代にかけての刺身の調味の変化について、西讃の山本町河内の大喜多家の史料を見ておきましょう。
山本町「ちょうさ祭り」Ⅰ | まほろばの島詩
大喜多家(三豊市山本町河内)
幕末の大喜多家の武士階級への供応には、刺身に辛子酢をはじめ煎酒、三杯酢、蓼酢、山葵酢、辛子酢味噌、辛子味噌、山葵醤油などの多彩な調味が使われています。それが時代と共にどう変化するのかを見ておきましょう。
①明治中期の冠婚葬祭祭には、煎酒、辛子酢、三杯酢などの酢系統の調味
②明治39年以降になると、生姜醤油、山葵醤油の醤油系統が主流となり酢系統と拮抗
③昭和期には山葵醤油が席捲
こうして、現在の刺身に山葵醤油のマッチングが定着したようです。
室町期の「四条流庖丁書」には、次のように記されています。
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る

「一サシ味之事。 鯉ハワサビズ(酢)。鯛ハ生姜ズ。備ナラバ蓼ズ フカハミ(實)カラシノス。エイモミカラシノス。王余魚ハヌタズ.」

ここには、鯉は山葵酢、鯛は生姜酢と、それぞれの魚に適した辛味が書かれています。このような多様な味の系統が明治期まで引き継がれていたことがうかがえます。ちなみに、大正3年には粉山葵(こなわさび)の製造が始まります。それ以降の「刺身に山葵、山葵将油」の画一化が加速したと研究者は考えています。

常温】粉わさび 銀印 S-5 350G (金印物産株式会社/わさび)
粉わさび
 なお、婚礼に使用される食品の価格記録では、「山葵大上々五本 三十銭、 生姜・十銭、辛子・八銭」とあります。分量の記載が不揃いですが、明治初期には山葵は高価で非日常的な食品であったことがうかがえます。庶民的でなかったということになります。

以上をまとめておきます。
①讃岐では江戸時代は、薬味としては生姜が日常的で、山葵は上層階層が使用するものであった。
②刺身などの調味は、生姜は針生姜などのけんと「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていた。
③生姜は明治になって「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵も明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始めた。
⑤こうして刺身を醤油で食べるようになると、山葵が刺身の薬味の主流となった。
⑥また、うどんには生姜、そばや素麺には山葵という棲み分けが成立した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったことがうかがえます。


次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋渡辺家の屋敷(坂出市青梅)

前回は坂出の青海村の大庄屋渡辺家の概略を見ました。今回は、渡辺家の幕末から明治に行われた葬儀に関する史料を見ていくことにします。ペリーがやって来た頃に、渡辺家では次の①から③ような大きな葬儀が連続して行われています。
①「宝林院」(渡辺五百之助妻) 嘉永六年(1953)11月13日没  享年54オ
②「欣浄院」(渡辺槇之助妻) 安政2年(1855)11月 2日没(11月3日葬儀)」享年25才
③「松橋院」(渡辺五百之助) 安政3年(1856) 8月 2日没(8月3日葬儀) 享年62才
④「松雲院」(渡辺槇之助)  明治4年(1871) 5月17日没(5月16日葬儀)」享年44才

まず③の「松橋院」五百之助について、押さえておきます。
1795(寛政7年)生、1856年(安政3)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
   ④の「松雲院」渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871(明治4)年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中に大庄屋代役就任
1856(安政3)年 父の死後大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
まず③の松橋院(渡辺五百之助)の葬儀を見ていくことにします。
この葬儀は、子の槙之助(28歳)によって行われています。五百之助は、以前から病気療養中で、槙之助が大庄屋代役や砂糖方をすでに勤める立場で、西渡辺家代表として葬儀万般を取りしきることになります。
人の死に際して最初に行われることは「告知儀礼」だと研究者は指摘します。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。

郡奉行(竹内興四郎)
郷会所(赤田健助・草薙又之丞)
砂糖方(安部半三郎・田中菊之助)
同役(本条勇七)
一類(青木嘉兵衛・山崎喜左衛門・小村龍三郎・松浦善有衛門・綾田七右衛円)

案内状の文面は、以下の通りです。
郡奉行中江忌引
一筆啓上仕候、然者親五百之助義久々相煩罷在候処養生二不叶相、昨夜九ツ時以前死去仕候、忌中二罷在候問此段御届申し上候、右申上度如斯二御座候以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
意訳変換しておくと
郡奉行への忌引連絡
一筆啓上仕ります。我父の五百之助について病気患い、久しく養生しておりましたが回復適わず、昨夜九ツ時前に死去しました。忌中にあることを連絡致します。以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
また、同役、親族にも「尚々野辺送之義ハ 明後三日四ツ時仕候 間左様御承知可被下候以上」のように、葬儀時刻なども案内されています。
 これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
①旦那寺行 ②塩屋行 大ばい行 ③専念寺行〆   (下)藤吉  次作
④坂出 八百物いろいろ〆              忠兵術 龍蔵
高松行 久蔵 弥衛蔵 亀蔵
西拓寺行 清立寺 蓮光上寸 徳清寺〆       三代蔵 恭助
正蓮キ案内行〆                  卯三太
林田和平方行                  卯之助 佐太郎
高屋行                      熊蔵
横津行                      関蔵 乙古 伊太郎
この表の左が行き先ですで、右側が連絡係の人足名です。
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
 葬儀の終わるまで葬儀は、喪家の手を離れ、互助組織(葬式組)が担当します。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。

①向(下、東、西)組  ②上組  ③大藪南数賀(須賀)組  
④大藪中数賀組 ⑤大藪谷組  ⑥鉱 ⑦北山組  ⑧中村組

この中で、渡辺家が属する免場は①の向組でした。
明治4年(1871)5月17日の松雲院葬儀には、次のように記録されています。
五月二十四日之分
免場東西不残朝飯後より
外二折蔵義者早朝より
好兵衛倅与助 半之助 網次
同二十五日之分朝早天より
一 免場東西組不残    勘六 辰次郎 作蔵  (北山)虎蔵・清助・久馬蔵・権蔵 (大屋冨船頭)市助
(惣社)和三郎家内 好兵衛倅半之助  同晰・与助 
  (惣社)網次
二十六日
三拾壱軒 免場不残 おてつ おぬい おいと おしげ おとみ おげん 長太郎 
給仕子供
    兼三郎 (北山)三之丞以下省略(五十七名)
ここには、次のようなことが記録されています。
①24日から26日日までの3日間、向組の免場は東西の組が総出で「朝飯後、朝早天」から葬儀を手伝っていること
②それだけでは賄いきれないので、近隣の免場からも手伝いが出されること。
③なかでも、葬儀当日の26日には青海村の北山組、上組、中村組、大藪組、鎗組など全ての免場や林田村(惣社・惣社濱)などからも女、子供(給仕)までが参加していること
ここからは次のようなことが分かります。
A 渡辺家の属する①向組が中心となって運営する
B しかし、葬儀の規模が大きいので、他の組からの多数の応援を受けて行われている。
C これは葬儀が個の家の宗教的行事の側面だけでなく、社会的儀礼であることを裏付けている
渡辺家葬儀は地域をあげての行事であったことを押さえておきます。 
 ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。

大名の葬儀1
大名の葬列
次に向組免場の葬送役割について、見ていくことにします。
葬儀当日には葬送、野辺送りが行われていますが、その関係史料が次のように残されています。
安政三年(1856)松橋院「御葬式之節役割人別帳」(表1ー10)
明治四年(1871)松雲院「野送御行列順次役付人別」(表1ー3)
野辺送り3
葬列

渡辺家 向組免場の葬送役割

①葬列の順序・役割・人数の総数は39人
②一番左が役割、次が衣装です
それぞれの役割に応じて、服装は次のように決められています。
上下(肩衣、袴の一対)、
袴・白かたぎぬ(袖なしの胴着)
かんばん(背に紋所な下を染め出した短い上着)
袴、純袴(がんこ、自練衣の袴)、
かつぎ(かずき。衣被・頭からかぶる帷子)
これらの装束に成儀を正して列に加わります。

野辺送りの道具 多摩市
野辺送りの道具

葬列には導師をはじめ数ヵ寺の僧侶が加わり、位牌は一類の者が持ちます。葬列の後尾の跡押、宝林院の時には当主の槙之助、松雲院では親族の藤本助一郎(後、久本亮平と改名)です。親族は女、男と分けて列の後部に続き、その後に一般の会葬者が続き、長い葬列になります。
 行列のメンバーは、青海村の向(上、西)組、大蔵(須賀)組、錠組、北山組、中村組、上組の各組と林田村の人々で構成されています。
 次に布施(葬儀費用)について見ていくことにします。
庄屋の葬儀について、研究者は次のように指摘します。

「庄摩、大庄屋など農村部の上層の家における冠婚非祭の儀礼は自家の権勢を地域社会に誇示する側面を有するが、他面、華美や浪費により家を傾けることを戒めており、この双方への配慮、平衡感覚の中で行われた」

庄屋たちが気を配ったのは「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスだったようです。それでは渡辺家では、どんな風にバランスが取られていたのでしょうか。
宝林院、欣浄院、松橋院、松雲院の時の布施内容を一覧化したのが次の表です。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

この表から見えてくるとを挙げておきます。
①渡辺家当主の松橋院、松雲院と、その妻女である宝林院、欣浄院では、大きな格差があること。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
大葬式(祖父母、父母、本妻)
小葬式(兄弟、子供、伯父伯母)
渡辺家の格式でも、次のような格差があります。
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
また、「天保集成』には次のように記します。

「衆僧十僧より厚執行致間敷、施物も分限に応、寄付致」

ここには参加する僧侶は10人を越えないこと、葬儀が華美にならないように規定されています。 渡辺家でも葬儀に参列する僧の人数は旧例を踏襲しながら、故人の生前の功績なども考慮して、増加する事もあったようです。
 例えば妻女は、一カ寺かニカ寺だけですが、当主であった松橋院、松欣院の時には八カ寺が参列しています。葬儀の際に檀那寺以外から僧侶を迎える慣習が、近世後半に全国的に拡がったっていたことがここからはうかがえます。
これら僧侶への布施を、松橋院(安政3年1856)の事例で見ていくことにします。(表1ー11)。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

一人の僧侶に、各数名の弟子、若党、中間などがついて、伴僧などを含めると総勢97人にもおよびます。これらの僧侶に対して、布施が支払われます。布施の金額は檀那寺の「金壱一両 銀七拾三匁 五分九厘」が上限です。その他の伴僧はほぼ同格で僧侶、弟子その他を含めて各63匁八分~75匁の布施です。なお、中間は僧侶の駕籠廻4人の他、曲録、草履、笠、雨具、打物、箱、両掛などの諸道共を持つ係です。檀那寺以外の伴僧では弟子、若党、中間ともに人数は少なくなっていて、布施の額も減少します。これらの布施については「右品々家来二為持、 十七後八月十三槙之助篤礼提出候事」とあるので、槇之助自らが寺に敬意をはらい自ら持参したことが分かります。

野辺送り2

さらに、松橋院の葬儀では故渡辺五百之助の生前の功績によって、刀剣料(刀脇指料)として「銀六拾目」を新例として設けています。また寺方についてもこれまでの最高である六カ寺にさらにニカ寺追加して八ヶ寺として、布施も増額するなど特別の計らいをしています。
 それが明治4年の松雲院の葬儀では、特例とされた刀脇指料(一百八拾:金札礼三両)、参列寺数ともにほぼ同数で、前例が踏襲されています。さらに檀那寺へ贈与品に御馬代(一同百八拾:金札.三両)、鑓箱代(同三拾目)が追加されています。こうしてみると布施の「特例」が通例化し、「新例」となっていくプロセスが見えて来ます。
 ここで研究者が注目するのは、同格の松橋院と明治になっての松雲院の布施総額が僅か20年あまりで3倍に高騰していることです。これは幕末から明治にかけての貨幣価値の変動によるものと研究者は指摘します。

野辺送り
 
 野辺送りをイメージすると、檀那寺、伴僧の僧侶は中間のかつぐ駕籠に乗って、仏具を持つ多くの人々を従えて、美々しい行列を仕立て進んで行きます。それは死者を弔いその冥福を祈るとともに、家の格式また権勢を地域社会に誇小する行進(パレード)でもあったようです。
また、布施についても僧侶には銀10匁から15匁、家来には2匁の他に菓子一折、味琳酒一陶などが贈られています。これも幕末の松橋院の六五匁から、明治の松雲院は132匁と約2倍になっています。ここでも物価高騰の影響がみられます。
  以上をまとめておきます
①幕末の青海村の大庄屋渡辺家では、4つの葬儀が営まれていた。
②その葬儀運営のために、村の免場(同行)のほぼ全家庭が参加し、それでも手が足りない部分には周辺からも手助けが行われた。
③ここからは、葬儀が家の宗教的行事だけでなく、社会的儀礼であったことが分かる。
④江戸時代の庄屋の葬儀は、「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスの上に立っていた。そのためにいろいろな自己規制を加えて、華美浪費を避けようとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
関連記事

  以前に 坂出市史に掲載されている青海村の大庄屋・渡辺家のことを紹介しました。
御用日記 渡辺家文書
大庄屋渡辺家の御用日記

その時は、当主達の残した「御用日記」を中心に、当時の大庄屋の日常業務などが中心にお話ししました。今回は別の視点で、渡辺家と阿野北の青海村について見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世から近代における儀礼と供応食の構造 ━讃岐地域の庄屋文書の分析を通して━

渡辺家は、讃岐国阿野郡北青海付(坂出市青海町)の大庄屋でした。
まず、青海村の属していた阿野郡北を見ておきます。
阿野北は、青海村をはじめ木沢、乃生、高屋、神谷、鴨、氏部、林旧、西庄、江尻、福江、坂出、御供所の村々を構成員としました。

坂出 阿野郡北絵図
阿野北の各村々 下が瀬戸内海

阿野郡北の各村々の石高推移は、以下の通りです。
阿野郡(北條郡)村々石高
         阿野郡(北條郡)村々石高
この石高推移表からは、次のようなことが分かります。
①江戸末期の阿野那北13カ村の村高は、9500石前後であること
②石高の一番多いのは林田村の2157石、最低は御供所村の63石、青海村は563石で9番目になること。
③林田など綾川流域の村々は、17世紀中頃からの干拓工事の推進で、石高が増加していること。
④それに対して、青海・高屋・神谷などは、石高に変化がなく、減少している村もあること。
④については、米から甘藷・木綿などの換金作物への転換が進んだようです。
明治8年の戸数・人口・反別面積です。
坂出市 明治8年の戸数・人口・反別面積
阿野郡の戸数・人口・反別 明治8(1876)年

この表を見ていて、反別面積の大きい林田や坂出の戸数・人口が多いのは分かります。しかし、青海村は耕地面積が少ないのに、戸数・人口は多いのです。この背景には、このエリアが準農村地帯ではなく、塩や砂糖などの当時の重要産業の拠点地域であったことがあるようです。
青海村の産業を見ておきましょう。青海村の産業の第一は糖業でした。

坂出 阿野郡北甘藷植付畝数

上右表からは、阿野郡北の文政7年(1824)の甘藷の植付畝数は157町、その内、青海村は7、3町です。また同時期の阿野郡北の砂糖車株数(上左表)の推移を見ると、10年間で約20%も増加しています。同時期の高松藩の甘藷の作付面積は天保5年(1814)1814)が1120町で、以後も増加傾向を示します。この時期が糖業の発展期でバブル的な好景気にあったことがうかがえます。この時期の製糖業は高松藩の経済を支えていたのです。

塩の積み出し 坂出塩田
塩を積み出す船
砂糖の出荷先は、大阪・岡山、西大寺、兵庫、岸和田、笠岡、尾道、輌、広島、下関、太刀洗、三津浜(伊予)な下の瀬戸内海沿岸諸港の全域におよんでいます。砂糖や塩の積出港として、周辺の港には各地からの船が出入りしていたことがうかがえます。商業・運輸産業も育っていたようです。

 坂出は塩業生産の中心地でもありました。

坂出の塩田
坂出の塩田開発一覧
この地域の塩田の始まりは、延宝8年(1680)の高屋村の高屋塩田創築とされます。操業規模は亨保13年(1728)の「高屋浜検地帳」では「上浜 三町四反壱畝六歩、中浜 二町九反八畝五歩、下浜 壱町三反武畝六歩、畝合七町七反壱畝式拾歩」、それが30年後の宝暦8年(1758)の「高屋村塩浜順道帳」では「畝合拾町八反四畝式拾七歩、うち古浜七町七反壱畝式拾七歩、新浜三町壱反一畝歩」と倍増しています。
坂出塩田 釜屋
坂出塩田の釜屋・蔵蔵
 亨保の検地以降に新浜を増設し、操業釜数は安政2年(1855)には、少なくとも4軒以上の釜屋による塩作りが行われていたことが分かります。亨保13年の高屋浜は塩浜面積に対し浜数は100、これを49人の農民が経営し、経営面積は一戸当たり一反五畝歩の小規模で、農業との兼業が行われていたようです。青海村でも高屋浜で持ち浜四カ所を所持する浜主や、貧農層の者は、浜子などの塩百姓として過酷な塩田労働に従事していました。

製塩 坂出塩田完成図2
坂出塩田
 阿野北一帯は、藩主導の次のような塩田開発を進めます。
文政10年(1827)江尻・御供所に「塩ハマ 新開地 文政亥卜年築成」、
文政12年(1829)、東江尻村から西御供所まで131、7町の新開地
その内、塩田と付属地は115、6町、釜数75に達します。ここに多くの労働者の受け皿が生まれることになります。

入浜塩田 坂出1940年
坂出の入浜塩田 1940年
以上、阿野北の青海村の農村状況をまとめておきます
①水田面積は狭く、畑作の割合が多い。
②近世初頭にやって来た渡辺家によって青海村は開拓進んだため、渡辺家の占有面積が多く、小農民が多く小作率が高い。
③19世紀になって、砂糖や塩生産が急速に増加し、労働力の雇用先が生まれ、耕地は少ないが人口は増えた。

次の阿野郡北の村政組織を見ておきましょう。
農村支配構造 坂出市

郡奉行の下代官職がいて、代官の下の元〆手代が郷村の事務を握っていました。各村々には庄屋1名、各郡には大庄屋が2名ずついました。庄屋以下には組頭(数名)、五人組合頭(―数人)を配し、村政の調整役には長百姓(百姓代)が当たりました。その他、塩庄屋・塩組頭・山守な下の役職がありそれぞれの部門を担当します。庄屋の任命については、藩の許可が必要でしたが、実際には代々世襲されるのが通例だったようです。政所(庄屋)の役割については、「日用定法 政所年行司」に月毎の仕事内容が詳述されているとを以前にお話ししました。 
庄屋の仕事 記帳

渡辺家の残された文書の多くは、藩からの指示を受けて大庄屋の渡辺家で書写されたり、記帳されて各庄屋に出されたものがほとんどです。定式化されて、月別に庄屋の役割も列挙されています。二名の大庄屋が東西に分かれ隔月毎に月番、非番で交代で勤務にあったことが分かります。

青海村の大庄屋・渡辺家について、見ていくことにします。

渡辺家系図1
渡辺家系図
渡辺家は系図によれば大和中納吾秀俊に仕え、生駒藩時代の文禄3年(1593)に讃岐国にやってきたされます。那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、
①万治2年(1659)に初代の嘉兵衛の代に青海村に定住。
②二代善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)に就任
③三代繁八は父の跡を継いだが早世したため、善次郎が再度政所就任
④繁八の弟與平次の3男藤住郎義燭を養子として家を継がせた。
⑤その子五郎左衛門義彬が1788(天明8)年12月阿野北郡大政所(大庄屋)に就役
⑥七郎左衛門寛が1818(文化15)年から大政所役を勤め、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられた。
⑦寛の弟良左衛門孟は東渡辺家の同姓嘉左衛門義信の家を継ぎ、養父の職を継いで政所となった。
寛の子五百之助詔は1820(文政3)年、高松藩に召出されて与力(100石)となり、次のような業績を残しています。
寛政7年(1795)生、安政3年(1856)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任

渡辺家系図2

   渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中の大庄屋代役
1856(安政3)年 大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
  渡辺渡(作太郎)
1855(安政2)年生、山田郡六条村の大場古太郎の長男
1871(明治4)年 17才で渡辺家養子となる
讃岐国第43区副戸長(明治6年)
愛媛県阿野郡青海村戸長(明治12年)
愛媛県阿野郡県会議員(明治15年)
阿野都青海高屋村連合会議員(明治18・20年)
愛媛県議会議員(明治21年)・香川県議会議員(明治37年)などを歴任
明治23年(1890) 松山村の初代名誉村長就任 
渡は経常の才に優れ精業、塩業、製紙、船舶、鉄道、銀行、紡績など各会社の設立しています。また、神仏分離で廃寺となった白峰寺の復興、さらに金刀比羅宮の管轄となった「頓証寺」の返還運動にも力を尽くし、この功績により同境内には顕彰碑が建立されています。

渡辺家の宗派は、浄土真宗です。
常福寺 丸亀市田村町


菩提寺は、もともとは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。先述したように渡辺家は、那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやって来るまでの檀那寺が常福寺だったようです。しかし、明治8年(1885)に加茂村の正蓮寺(常教院)に菩提寺を移しています。墓所は青海村向の水照寺(松山院、無檀家寺)に現存します。

 丸亀市田村町の常福寺には、次のような渡部家の寄進が記録されています。
一、御本前五具足・下陣中天丼・白地菊桐七条  施主 渡辺五郎左衛門
一、御前大卓   施主 渡辺嘉左衛門(五郎左術門女婿)
― 薬医門     文化2年(1805)施主 渡辺七郎左衛門(人目凡四貰目)
一、石灯籠一対   天保5年(1834)施主 渡辺七郎左衛門(代六八0目)
一、大石水盤    天保六年(1835)施主 渡辺五百之助   代十両
一 飾堂地形一式  施主 渡辺八郎右衛門(七郎左衛門改称)
   同 五百之助  地形石20両
   同 良左衛門  10両諸入目
ここからは渡辺家の常福寺に対する深い帰依がうかがえます。

渡辺家平面図
渡辺家平面図(昭和18年頃)
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
渡辺家の屋敷
江戸時代の渡辺家の土地所有を見ておきましょう。

青海村渡辺家の石高
渡辺家の所有耕地面積とその分布
この表からは、渡辺家の土地所有が青海村以外にも、高屋村、神谷村、林田村な下他村におよび、総〆石数は 285石にのぼることが分かります。青海村の石高が550石ほどなので、その半分は渡辺家の土地であったことになります。
 渡辺家「小作人名」から免場(組)、村別に小作人数をまとめたのが次の表です。
渡辺家の小作人数

ここからは次のようなことが分かります。
①青海村々内の免場(組)小作人は158人(実数は173人)
②他村その他は17人(同21人)
明治4(1871)年の青海村戸数は319人です。青海村の半数以上が渡辺家小作人であったことになります。
 渡辺家では、明治以降になり渡辺渡の代になると、次のような近代産業を興したり、資本参加していきます。
糖業「讃岐糖業大会社」
塩業「大蕨製塩株式会社」
製紙「讃紙株式含社」
船舶「共同運輸会社」
鉄道「讃岐鉄道株式合社」
銀行「株式会社高松銀行」
紡績「讃岐紡績会社」
このような事業の設立・運営などによって資本蓄積を行います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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前回に続いて、今年の春に刊行されたばかりの「八栗寺調査報告書」を見ていきます。今回は、江戸時代の四国遍路の挿絵から八栗寺の伽藍の推移を見ていくことにします。
1 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689) 八栗寺図より

八栗寺 『四国編礼霊場記」(元禄2年(1689)

①五剣山を見ると、5つの峯が全部描かれています。このうち宝永地震で、一番左側の峯が崩落してしまうので、それ以前の五の峰が揃った姿ということになります。この峯々に何が祭られていたかを本文には次のように記します。

「中峰の峙つ三十余丈、是に蔵王権現を鎮祠し、北に弁才天、南ハ天照太神なり」

 一番高い中央の峰の頂上部に「蔵王」と記された祠が描かれていて、ここに蔵王権現が祀られています。ここからはこの地が修験者たちによって開かれた霊山であったことが分かります。
 また「是に七所の仙窟あり」とあり、山中には「聞持窟」「明星穴」「護摩窟」など、修験のための窟が描かれています。以前にも、お話ししたように古代の山林修行者が行場にやって来て、まずやらなければならないのは、雨風を凌ぐ生活空間を確保することでした。整備された寺院やお堂は、後になって形を見せるもので、古代にはそんなものはありません。空海も太龍山や室戸で窟籠もりを行っています。そして、洞窟は異界に通じる通路ともされていたことは以前にお話ししました。
「丈六の大日如来を大師 岩面に彫付給へり」
「中区に大師求聞持を修し給ふ窟あり、是を奥院と号す、寺よりのぼる事四町ばかり也、此窟中 大師御影を置」
意訳変換しておくと 
「丈六の大日如来を弘法大師は、岩面に彫付けた。」
「中央に大師が虚空蔵求聞持法を修した窟がある。これを奥院と呼ぶ。寺より登ること四町ばかりである。この窟中に、弘法大師の御影がある。」
蔵王堂直下には、空海が岩に掘ったという丈六の大日如来が大きく描かれています。
大日如来(八栗寺の行場)
また、その下には「聞持窟」があり、空海がここで虚空蔵求聞持法を行ったされ、窟中には弘法大師の御影が置かれていたと記されてます。弘法大師伝説が、この時代までには定着していたことが分かります。
 さらにその下の中央部に「観音堂」が南面して建ちます。
「大師千手観音を刻彫して―堂を建て安置し玉ひ、千手院とふ」
「本堂の傍の岩洞に不動明王の石像あり、大師作り玉ひて、此にて護摩を修し玉ふと也、窟中一丈四方に切ぬき、三方に九重の塔五輪など数多切付たり」
意訳変換しておくと
「弘法大師が千手観音を刻彫して、安置した一堂を千手院と云う」
「本堂の傍の岩洞には不動明王の石像がある。これも大師の作で、ここで護摩祈祷を行ったという。窟の中は一丈四方を刳り抜いたもので、三方に五輪塔が多数掘られている。
ここでは、もともとは千手観音が本尊だったことを押さえておきます。ちなみに今は聖観音です。
絵図には現在の聖天堂・護摩堂付近の場所に、簡易な建物が描かれていて、「護摩窟」と記されています。
八栗寺線刻五輪塔
線刻五輪塔(八栗寺)
ここで護摩祈祷が行われ、その周囲の壁には、多くの五輪塔が掘られていたようです。中世の弥谷寺でも、数多くの五輪塔が祖先供養のために掘られていました。ここからは中世の八栗寺にも多くの念仏聖や修験者たちがいて、祖先供養を行い、周辺の有力者の信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。また、「中世石造物の影には、修験者や聖あり」と言われるので、八栗寺も彼らの拠点寺院となっていたのでしょう。
 観音堂の下方には、現在と違った場所に鐘楼が描かれています。さらに絵図下方には「千手院」と記された建物が描かれています。千手院が周辺の子院のまとめ役として機能していたのでしょう。
次に「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)の八栗寺を見ていくことにします。
八栗寺1800年

寛成年間に描かれた絵図なので、宝永地震で崩落した五峯がなくなって、四つの峰となった五剣山です。絵図下方に二天門があり、そこから正面に向かって五剣山を背に西面した本堂(観音堂)が描かれています。「本堂本尊聖観音御長五尺大師御作」とあるので、それまでの千手観音像から聖観音像へと変更されたようです。

八栗寺本尊聖観音2
八栗寺本尊 聖観音
 本堂の下方には、「聖天社」と記された聖天堂が南面して建ちます。
その屋根の上方には岩壁に刻まれた五輪塔が2基見えます。また聖天堂の下方の現在の通夜堂の場所、二天門の右上現在の茶堂の場所に、それぞれに建物が描かれています。通夜堂の場所にある建物については築地塀を挟んで二つの建物が並んで描かれています。また本文には「大師堂あり」と記されていますが、絵図中には描かれていないようです。鐘楼は「四国術礼霊場記」に描かれた場所と、変わりないようです。
この絵図と先ほど見た『四国編礼霊場記」(1689)を比較して見ると次のような変化点が見えてきます。
①五剣山の行場に関する情報が描かれなくなった。行場から札所への転換
②聖天堂が姿を現し、新たな信仰対象となっている 

『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)を見ていくことにします。
八栗寺 『讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854)

ここには江戸後期の八栗寺境内が描かれており、二天門、通夜堂、聖天堂、本堂、鐘楼は「四国遍礼名所図会」と同じ場所にあります。
①茶堂に隣接した後の御供所の場所に建物が描かれている
②本堂より南方の開けた場所には、石垣の上に大師堂
③石垣の手前、現在の地蔵堂の場所に小さいな建物
④大師堂の右手には大規模な客殿・庫裏の建物群
⑤聖天堂と本堂の間の岩壁には五輪塔が数基刻まれている
⑥境内に至る参道のひとつは、絵図左下、二天門に至る「七曲」と記された稜線を幾重にも折れ曲がった急峻な坂道
⑦もう一つは、大師堂と客殿・庫裡の間に至る「寺道」と記された谷筋沿いの道
ここからは、18世紀中に庫裡などの整備が進み、伽藍が大型化したことが見て取れます。信者たちの数を着実に増やしたのでしょう。

「讃岐国霊場85番札所 五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)を見ていくことにします。

五剣山八栗寺之図」(19世紀中頃)より

八栗寺所蔵の摺物で、年紀はありませんが建物の様子などから幕末期に作成されたものと研究者は考えています。『讃岐国名勝図会」の境内図との相違点としては、次のような点が挙げられます。
①鐘楼の位置が本堂と同じ石垣の上に移動
②「七曲」の参道から境内に至る道沿いに「七間茶や」と記された7軒の茶屋が描かれている
③聖天堂上方、五剣山麓に「中尉坊社」と記された堂が描かれている

「真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)を見ていくことにします。
「四国八十五番霊場 真言宗五剣山八栗寺之景」明治36年(1903)

明治後期の八栗寺境内が詳細に描かれています。研究者は次のような点を指摘します。
①建物の位置は、現在とほぼ同じ。八栗寺は120年前から伽藍配置は変化していない
②絵図中の建物名称が、聖天堂が「歓喜天」、茶堂が「茶所」、二天門が「二王門」と現在と異なること
③五剣山の山頂付近に「蔵王権現」と記された祠が描かれているが、「四国偏礼霊場記」で描かれた峰とは違った峰になっていること
④「七曲道」から境内に至る参道沿いには旅館が描かれていて、「讃岐国霊場八十五番札所五剣山八栗寺之図」では7軒の平屋の茶屋であったのが、4軒の旅館(内2軒が2階建て)になっていること
⑤絵図右方には庫裡・客殿の建物群が詳細に描かれいて、その内に御成門がある。
八栗寺00

参考文献
芳澤直起 八栗寺の境内 八栗寺調査報告書(2024年)
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中世の志度道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの一大根拠地であった。

水戸黄門のお兄さんに当たる松平頼重が初代髙松城主としてやって来るのが1640年のことです。彼は、幼少期には水戸藩の嫡男として認められずに京都の寺院に預けられて、そこで成長します。僧侶としての知識と世界観と人脈をもっていた人物でした。そのため次のような興正寺と姻戚関係を持っていまし。

松平頼重の真宗興正派保護の背景

これ以外にも髙松藩と興正寺の間には、家老などの重臣との間にも幾重にも婚姻関係が結ばれて、非常に緊密な関係にあったようです。そのことをもって、松平頼重の興正寺保護の要因とする説もありますが、私はそれだけではなかったと考えています。政治的な意図があったと思うのです。
宗教政策をめぐる松平頼重の腹の中をのぞいてみましょう。
大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしたい。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか?
 東讃では、髙松城下では? 中讃では?

もっとも手強いのは真言宗のようだ。その核になる可能性があるのは善通寺だ。他藩にあるが髙松藩にとっては潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか?

松平頼重の宗教政策

このような宗教政策の一環として、真宗興正派の保護が行われたと私は考えています。血縁でつながり信頼の置ける協力的な興正派の寺院を増やすことは、政治的な安定につながります。その方策を見ておきましょう。
まずは高松御坊を再興して真宗興正派の拠点とすることです。
御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。その一環として高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、坊が三木から移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。

髙松屏風図 高松御坊
髙松屏風図絵

髙松城屏風図とよばれている4枚の屏風図です。水戸からやってきた松平頼重やそのブレーンは、この屏風図を見ながら城下町の改造計画を練ったのかもしれません。現在の市役所がある西寺町から東寺町にかけて東西にお寺ぶエリアが置かれていました。これは高松城の南の防衛ラインの役割を果たし、緊急事態の折には各侍達はどこの寺に集合するのかも決められていたと云います。

高松御坊3
讃岐国名勝図会(1854年)に描かれた高松御坊(勝法寺)
 幕末の讃岐国名勝図会には、東寺町(現在の御坊町)に高松御坊が描かれています。前の通りが現在のフェリー通りで、その門前に奈良から連れてきた3つの子院が並び、東側には真言の無量寿院の境内が見えます。寺町の通りを歩けば、建物を見るだけで真宗興正派の勢力が分かります。
 高松御坊は、水戸から松平頼重がやってきたときにはここにあったようです。頼重は、その坊舎を修繕し、150石を寄進して財政基盤を整えます。その際に創建されたのが奈良から移された勝法寺です。
そして高松御坊・興正寺代僧勝法寺として、京都興正寺派の触係寺とします。勝法寺は、京都の興正寺直属のお寺として高松御坊と一体的に運営されることになります。そして勝法寺を真宗の触頭寺とします。
興正寺末寺
高松藩の興正派末寺(御領分中寺々由来書)
「代僧勝法寺」が本末一覧表のトップに位置する。

このように勝法寺は髙松藩における真宗興正派の拠点寺院として創建(移転)されたのです。そのため興正寺直属で、京都からやってきた僧侶が管理にあったりました。しかし、問題が残ります。勝法寺は、讃岐に根付いた寺院ではなく、末寺もなく人脈もなく政治力もありません。そのためいろいろと問題が起こったようです。そこで松平頼重が補佐として、後から後見役としてつけたのが常光寺と安養寺でした。そのうちの安養寺は、それまでの河内原からこの地に移されます。後から移されたので、建設用地がなくて堀の外側にあります。こうして高松御坊と一体の勝法寺、それを後見する安養寺と、3つの子院という体制ができあがったのです。御坊町はこうして、真宗興正派の文教センターとなっていきます。
高松興正寺別院
現在の高松御坊(高松市御坊町)


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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安楽寺の拠点寺院

前回までに阿波安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点寺院となった3つの寺院を見てきました。中本寺としての安楽寺があり、三豊への布教拠点となった寶光寺、丸亀平野への布教拠点となったのが長善寺ということになります。今回は髙松平野の拠点となった安養寺見ておきましょう。

安養寺縁起3


 髙松藩に提出された由来を見ておきましょう。
意訳変換しておくと

安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に河内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。


安養寺縁起5


①設立年代については、これを裏付ける史料がないのでそのまま信じることはできません。道場を開いたのは安楽寺からやってきた僧侶とされています。②「道場の場所は最初が安原村の東谷 その後、川内原に移転」とあります。いくつかの道場がまとめられ、惣道場となり、それが寺になっていくという過程がここでも見えます。地図で位置とルートを確認しておきます。安楽寺の真北が高松です。ここでも峠を越えてやってきたその途上に開かれた道場が末寺に成長して、里に下りていく過程がうかがえます。

③寺号許可は1595年とします。安養寺に下付された木仏が龍谷大学の真宗研究室にはあることが千葉氏の論文の中には紹介されています。木仏には1604年の年紀がはいっているようです。ここからは安養寺の寺号許可は17世紀初頭であることが分かります。本願寺が東西に分かれて、末寺争奪を繰り広げる時期です。この時期に、寺号を得た道場が多いようです。安養寺という重要な役割を果たした寺院でも寺号の獲得は、17世紀になってからだったことを押さえておきます。

安養寺末寺の木仏下付
本願寺の木仏下付日
安養寺の末寺リストを見ておきましょう。
寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
安養寺末寺リスト3

 安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)

安養寺末寺リスト2

ここからは次のような事がうかがえます。
①香川・山田郡の髙松平野を中心に、東の寒川方面にも伸びています。②注意しておきたいのは西には伸びていません。丸亀平野への教線拡大は、常光寺や安楽寺と棲み分け協定があったことがうかがえます。③一番最後を見ると天保4(1833)年3月の日付です。これは最初に見た常光寺の一覧表と同じ年なので、同時期に藩に提出されたもののようです。
ここには、髙松平野を中心に19寺が末寺として記されていますが、その多くがすでに離末しています。安養寺は安楽寺の末寺ながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院に成長していたことが分かります。まさに髙松平野方面への教線拡大の拠点センターであったようです。安養寺が髙松方面に教線を拡大できたのは、どうしてなのでしょうか。それには、次の二人の保護があったと私は考えています。

三好長慶と十河一存

真宗興正派を保護したのが、この兄弟がす。ふたりは姓は違いますが実の兄弟です。一人が三好長慶で、もうひとりが讃岐の十河家を継いだ十河一存(かずまさ)。この二人を見ていくことにします。

三好長慶と十河氏

美馬安楽寺に免許状を与え讃岐への教線拡大を保護したのは三好長慶でした。三好長慶は、天下人として畿内で活躍します。一方、弟たちは上図のように、阿波を実休、淡路を冬康・讃岐を十河一存が押さえます。そして、兄長慶の畿内平定を助けます。長慶が天下人になれたのも、弟たちの支援を受けることができたのが要因のひとつです。その末弟一存(かずまさ)は、讃岐の十河家を継ぎ、十河氏を名乗ります。十河氏は三好氏の東讃侵攻の拠点になります。また、三好・十河氏は、共通の敵である信長に対抗するために本願寺と同盟関係を結びます。「敵の敵は味方」というのは戦略のセオリーです。こうして安楽寺は三好一族の保護を得て、各地に道場を開いて教線を伸ばしていきます。それを史料で見ておきましょう。

十河氏の高松御坊への免許状

十河一存の後継者となった存保(実休の息子)が真宗興正派の高松御坊の僧侶達に出した認可状です。①の野原郷の潟(港)というのは、現在の高松城周辺にあった湊です。②高松にあった寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することを認める。③ついては課税などを免除するという内容です。「寺内」となっているので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアがあったことがうかがえます。地図で見ると池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺です。高松御坊が、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを十河氏が保護しています。ここで注目したいのは、新たに寺内町が作られることになった位置とその周辺です。近くには十河氏の居城十河城があります。そして、東には常光寺があります。ここからは常光寺や高松御坊が十河氏の庇護下にあったことがうかがえます。十河氏の保護を受けて常光寺や安養寺は髙松平野や東讃に教線ラインを伸ばしていたことがうかがえます。この免許状が出されたのは1583年で、秀吉の四国平定直前のことになります。三好長慶は、阿波の安楽寺に免許状をあたえ、十河存保は高松御坊に免許状をあたえています。
今までお話ししたことを、高松地区の政治情勢と絡ませて押さえておきます。

16世紀の髙松平野の情勢


①1520年の財田亡命帰還の際の三好氏の免許状で、安楽寺は布教の自由を得た。しかし、吉野川より南は、真言密教系修験者の勢力が強く、真宗興正派の布教は困難だった。

②そのような中で三好氏の讃岐侵攻が本格化する。香西氏など東讃武士団は、三好氏配下に組み入れられ上洛し、阿波細川氏の主力として活動するようになる。

③そこで堺で本願寺と接触、真宗門徒になり菩提寺を建立するものも出てきた。

④彼らに対して、本願寺は讃岐の真宗布教の自由を依頼。

⑤こうして、本願寺や真宗興正派は髙松平野での布教活動が本格化し、数多くの道場が姿を見せるようになる。それは16世紀半ばのことで、その拠点となったのが安養寺や常光寺である。

こうして、生駒氏がやってくるころには、讃岐には安楽寺・安養寺・常光寺によって、真宗興正派の教線がのびていました。それらの道場が惣道場から寺号を得て寺に成長して行きます。それを支えたのが髙松藩の初代藩主松平頼重という話になると私は考えています。今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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真宗興正派の研修会でお話しした内容の3回目です。今回は、美馬・安楽寺の丸亀平野への教線ルートを見ていきたいと思います。最初に安楽寺の丸亀平野の末寺を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

これをグーグル地図に落とすと次のようになります。

安楽寺末寺分布図 丸亀平野

黄色いポイントが初回に見た三木の常光寺の末寺です。緑ポイントが安楽寺の末寺になります。右隅が勝浦の常光寺です。そこから土器川沿いに下っていくと、長尾氏の居城であった城山周囲のまんのう町・長尾・長炭や丸亀市の岡田・栗熊に末寺が分布します。これらの寺は建立由来を長尾氏の子孫によるものとする所が多いのが特徴です。
 また、土器川左岸では垂水に浄楽寺があります。

垂水の浄楽寺

ここには垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転し再建されたと伝えられます。これは垂水の檀家衆の誘致に応えてのことでしょう。ここからも山にあった真宗興正派の寺が里へ下りてくる動きがうかがえます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
 
讃岐の真宗寺院で本願寺から木仏が付与されているのは寛永18(1641)年前後が最も多いようです。その中で、安楽寺末寺で木仏付与が早いのが上の4ケ寺になります。この4ヶ寺を見ておくことにします。
安楽寺の丸亀平野の拠点は、勝浦の長善寺であったと私は考えています。

イメージ 2
かつての長善寺(まんのう町勝浦)
  「琴南町誌」は、長善寺について次のように記します。
 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を含めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

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旧長善寺の鐘楼(鉦の代わりに石が吊されていた)
大川山に登るときには、よくこの寺を訪ねて縁側で、奥さんからいろいろな話を聞かせてもらったことを思い出します。檀家が阿波と讃岐で千軒近いこと、旧本堂は惣ケヤキ造りで、各ソラの集落の檀家から持ち寄られた檜材が使われたこと。阿波にも檀家が多いというのは、阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていたことが考えられます。


DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺(旧勝浦小学校跡)
次に長炭の尊光寺の由来を見ておきましょう。
DSC02132
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺中興開基玄正
上の史料整理すると
尊光寺中興開基玄正2

ここで確認しておきたいことは、安楽寺からやって来た僧侶によって開かれた寺というのはあまりないことです。開基者は、武士から帰農した長尾氏出身者というのが多いようです。

寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村  乗正坊
C 南条郡羽床村   乗円坊
D 南条郡羽床村   弐刀
E 北条郡坂出村   源用坊
F 宇足郡岡田村   了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村   源勝坊

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺
現在、グーグル地図には岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
この時期の真宗の教線拡大について、私は次のように考えています。
中世の布教シーン
 
世の村です。前面に武士の棟梁の居館が描かれています。秋の取り入れで、いろいろな貢納品が運び込まれています。それを一つずつ領主が目録を見て、チェックしています。武士の舘は堀や柵に囲まれ、物見櫓もあって要塞化されています。堀の外の馬に乗った巡回の武士に、従者が何か報告しています。
「あいつら今日もやってきていますぜ」
指さす方を見ると、大きな農家に大勢の人達が集まっています。拡大して見ましょう

中世の布教シーン2

後に大きな寺院が見えます。その前の家の庭に人々が集まっています。その真ん中にいるのは念仏聖(僧侶)です。聖は、定期市の立つ日に、この家にやって来て説法を行います。それだけでなく、お勤めの終わった後の常会では、病気や怪我の治療から、農作物や農学、さらにさまざまなアドバイを夜が更けるまで与えます。こうして村人の信頼を得ていきます。この家の床の間に、六寺名号が掲げられると、道場になります。主人は毛坊主になり、その息子は正式に得度して僧侶になり、寺院に発展していくという話になります。

蓮如の布教戦略を見ておきましょう。
蓮如は、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。そして
、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。


「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」


意訳変換しておくと

各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ


 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。

   岐阜県大野郡の旧清見村では、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。

①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ

②蓮如から六字名号(後には絵像本尊)を下付され

③それを自分の家の一室の床の間にかけ、

④香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。

⑤これを内道場または家道場という

⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。

⑦長百姓は毛坊主として集会の宗教儀礼を主宰する。

⑧村人の真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。

⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。

⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

この長百姓の役割を果たしたのが、帰農した長尾氏の一族達ではなかったのかと私は考えています。
 長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

安楽寺の丸亀平野への教線ルートをまとめておきます
①勝浦の長善寺が拠点となった
②長尾氏が在野に下り、帰農する時期に安楽寺の教線ラインは伸びてきた
③仕官の道が開けなかった長尾氏は、安楽寺の末寺を開基することで地域での影響力を残そうとした。
④そのため阿野郡の城山周辺には、長尾氏を開基とする安楽寺の末寺が多い。
今回は、このあたりまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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真宗興正派 2024年6月28日講演
安楽寺(美馬市郡里)
吉野川の河岸段丘の上にあるのが安楽寺です。周辺には安楽寺の隠居寺がいくつかあり寺町と呼ばれています。中世には、門徒集団が寺内町を形成していたと研究者は考えています。後が三頭山で、あの山の向こうは美合・勝浦になります。峠越の道を通じて阿讃の交流拠点となった地点です。

 手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。

安楽寺


安楽寺の三門です。赤いので「赤門寺」と呼ばれています。江戸時代には、四国中の100近い末寺から僧侶を目指す若者がやって来て修行にはげんだようです。ここで学び鍛えられた若き僧侶達が讃岐布教のためにやってきたことが考えられます。安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺2
安楽寺境内に立つ親鸞・蓮如像

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。

安楽寺 千葉乗隆
安楽寺の千葉乗隆氏
先々代の住職・千葉乗隆(じょうりゅう)氏です。彼は若いときに自分のお寺にある文書を整理・発行します。その後、龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長を数年務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。整理された史料と研究成果から安楽寺の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。千葉乗隆の明らかにした成果を見ていくことにします。まず安楽寺の由来を見ておきましょう。

安楽寺 開基由緒
安楽寺由来
ここからは次のようなことが分かります。
①真宗改宗者は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護だったこと
②上総の親鸞聖人の高弟の下で出家したこと
③その後、一族を頼って阿波にやってきて、安楽寺をまかされます。
④住職となって天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗します。
その時期は、13世紀後半の鎌倉時代の 非常に早い時期だとします。ここで注意しておきたいのは、前回見た常光寺の由来との食違いです。常光寺の由来には「佛光寺からやってきた門弟が安楽寺と常光寺を開いた」とありました。しかし、安楽寺の由緒の中には常光寺も仏国寺(興正寺)も出てきません。ここからは常光寺由来の信頼性が大きく揺らぐことになります。最近の研究者の中には、常光寺自体が、もともとは安楽寺の末寺であったと考える人もいるようです。そのことは、後にして先に進みます。

 安楽寺の寺史の中で最も大きな事件は、讃岐の財田への「逃散・亡命事件です。

安楽寺財田亡命

 寺の歴史には次のように記されています。永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田に転じて宝光寺を建てた。これを深読みすると、次のような疑問が浮かんできます。ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。その疑問と解く鍵を与えてくれるのが次の文書です。

安楽寺免許状 三好長慶
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)

三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」  宛先は、郡里の安楽寺です。

 興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。

意訳します。

安楽寺免許状2

三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。
 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。

安楽寺免許状3


この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼 
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
 という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。

 三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。

安楽寺免許状の意義

 先ほど見たように興正寺と安楽寺は、三好氏を動かすだけの力があったことがうかがえます。⑥のように「課税・信仰を認めるので、もどってこい」と三好氏に言わしめています。その「力」とは何だったのでしょうか? それは安楽寺が、信徒集団を結集させ社会的な勢力を持つようになっていたからだと私は考えています。具体的には「寺内」の形成です。

寺内町
富田林の寺内町
この時期の真宗寺院は寺内町を形成します。そこには多様な信徒があつまり住み、宗教共同体を形成します。その最初の中核集団は農民達ではなく、「ワタリ」と呼ばれる運輸労働者だったとされます。そういう視点で安楽寺の置かれていた美馬郡里の地を見てみると、次のような立地条件が見えて来ます。
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
 周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
  財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。

安楽寺の財田亡命

安楽寺の讃岐への布教活動の開始は、財田からの帰還後だと私は考えています。つまり1520年代以後のことです。これは永世の錯乱後の讃岐の動乱開始、三好氏の讃岐侵攻、真言勢力の後退とも一致します。

どうして、安楽寺は讃岐にターゲットを絞ったのでしょうか?

安楽寺末寺分布図 四国


江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。

①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。

②伊予については、戦国時代は河野氏が禅宗を保護しますので真宗は伊予や島嶼部には入り込めませんでした。また、島嶼部には三島神社などの密教系勢力の縄張りで入り込めません。真宗王国が築かれたのは安芸になります。
③阿波を見ると吉野川沿岸部を中心に分布していることが分かります。これを見ても安楽寺が吉野川水運に深く関わっていたことがうかがえます。しかし、その南部や海岸地方には安楽寺の末寺は見当たりません。どうしてでしょうか。これは、高越山や箸蔵寺に代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。これを悟った安楽寺は、阿讃の山脈を越えた讃岐に布教地をもとめていくことになります。

讃岐の末寺分布を拡大して見ておきましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐


讃岐の部分を拡大します。

①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。

②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。

この背景には、それぞれのエリアに大きな勢力を持つ修験者・聖集団がいたことが挙げられます。例えば大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。真言密教系の寺院で、多くの修験者や聖を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては以前にお話ししたように、善通寺は16世紀後半に戦乱で焼け落ち一時的に退転していたようです。
 こうして安楽寺の布教対象地は讃岐、その中でも髙松・丸亀・三豊平野に絞り込まれていくことになります。安楽寺で鍛えられた僧侶達は、讃岐山脈を越えて山間の村々での布教活動を展開します。それは、三好氏が讃岐に勢力を伸ばす時期と一致するのは、さきほど見た通りです。安楽寺の讃岐へ教線拡大を裏付けるお寺を見ておきましょう。

東山峠の阿波側の男山にある徳泉寺です。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。


男山の徳泉寺
徳泉寺(男山)


ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?

安楽寺の僧が越えた阿讃の峠
阿讃の峠

安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が東から西に、その北側に讃岐山脈が走ります。大川山がここです。雲辺寺がここになります。赤線が阿讃を結ぶ峠道です。そこにはいくつもの峠があったことが分かります。安楽寺のある郡里がここになります。
 相栗峠⑪を越えると塩江の奥の湯温泉、内場ダムを経て、郷東川沿いに髙松平野に抜けます。
三頭越えが整備されるのは、江戸時代末です。それまでは⑨の立石越や⑧の真鈴越えが利用されていました。真鈴越を超えると勝浦の長善寺があります。⑦石仏越や猪ノ鼻を越えると財田におりてきます。
そこにある寶光寺から見ておきましょう。

寶光寺4

 寶光寺(財田上)

寶光寺は、さきほど見たように安楽寺が逃散して亡命してきた時に設立された寺だと安楽寺文書は記します。しかし、寶光寺では安楽寺が亡命してくる前から寶光寺は開かれていたとします。

寶光寺 財田

開基は「安芸宮島の佐伯を名のる社僧」とします。そのため山号は厳島山です。当時の神仏混淆時代の宮島の社僧(修験者)が廻国し開いたということになります。そうすると寶光寺が安楽寺の亡命を受けいれたということになります。讃岐亡命時代の安楽寺は、僧侶だけがやってきたのではなく、信徒集団もやってきて「寺内町」的なものを形成していたと私は考えています。

先ほども見たように財田への「逃散」時代は、布教のための「下調べと現地実習」の役割を果たしたと云えます。そういう意味では、この財田の寶光寺は、安楽寺の讃岐布教のスタート地点だったといえます。

寶光寺2

寶光寺
寶光寺は今は山の中になりますが、鉄道が開通する近代以前には阿讃交流の拠点地でした。財田川沿いに下れば三豊各地につながります。この寺を拠点に三豊平野に安楽寺の教線は伸びていったというのが私の仮説です。 それを地図で見ておきます。

 

安楽寺末寺 三豊平野


安楽寺の三豊方面への教線拡大ルートをたどってみます。
拠点となるのが①財田駅前の寶光寺 その隠居寺だった正善寺、和光中学校の近くの品福寺などは寶光寺の末寺になります。宝光寺末に品福寺、正善寺、善教寺、最勝寺などがあり、阿讃の交易路の要衝を押さえる位置にあります。三好氏の進出ルートと重なるのかも知れません。②山本や豊中の中流域には末寺はありません。流岡には、善教寺と西蓮寺、坂本には仏証寺・光明寺、柞田には善正寺があります。。注意しておきたいのは、観音寺の市街にはないことです。観音寺の町中の商人層は禅宗や真言信仰が強かったことは以前にお話ししました。そのためこの時期には浄土真宗は入り込むことができなかったようです。

安楽寺の拠点寺院

ここからは寶光寺を拠点に、三豊平野に安楽寺の教線ルートが伸びたことがうかがえます。その方向は山から海へです。

今回はここまでとします。次回は安楽寺の丸亀方面への動きを見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

真宗興正派の研修会でお話ししたことをアップしておきます。

真宗興正派 2024年6月28日講演

讃岐は真宗寺院が多いと云われますが、その比率はどのくらいなのでしょうか。
それを最初に数字で押さえておきます。

四国寺院宗派別数


①最初に讃岐を見ておきましょう。真宗寺院が424 讃岐の寺院数910ケ寺の内、約47%約半分が真宗です。
これは思ったよりも少ない感じ。私の感覚では8割でもおかしくないのですが・・。分布に濃淡がありそうです。この中で約半分が興正派です。興正派の寺は全国は800程度と聞いているので、讃岐がその1/4をしめることになります。この背景には、何らかの歴史的な要因があるはずです。


②阿波については、真宗阿波では13%、真言が464で約7割になります。高越山や箸蔵山に代表されるように真言密教系の山伏寺の散在。庚申信仰など山伏たちの活動が活発だったこと。それを蜂須賀藩が保護したこと背景にあるようです。


③伊予ではわずか9%、真言も多いが、注目して欲しいのは臨済・曹洞宗の禅宗が両方を合わせると40%を越えることです。これは河野氏の保護によるようです。


④土佐は全体数がが358と他県に比べると半数以下です。お寺の数が少ないのが特徴です。明治の神仏分離が四国でもっとも過激に進められたのが土佐です。時の土佐藩は寺院廃止・統合政策を強力に進めました。その結果がこの数字です。その中では真言が多いようです。

⑤四国全体では、真宗寺院は700で23% 讃岐以外の各県では、真宗寺院の数は100以下、それが讃岐では400を越えます。この数字からも、讃岐で真宗寺院が多いこと、なかでも興正寺派が多いことが分かります。これはどうしてなのでしょうか。それを説明するために従来使われていた史料が三木の常光寺の縁起です。まず常光寺から見ておきましょう。

常光寺

常光寺
三木町の香川大学の農学部の南の方に常光寺というお寺があります。
この寺は銀杏が有名なようです。本堂前の碑文には、次のような縁起が記されています。 

常光寺縁起1

ここからは次のような事が分かります。


①開基年 1368年 
②開基者 生駒浄泉(泉州の城主の次男)  
③末寺が75 明治維新にも27の末寺 
④本堂が17世紀半ばのもの 



もう少し詳しい史料を見てみましょう。
江戸後半の18世紀になると、各藩では自藩の潜在能力を知るために地誌の出版がおこなわれるようになります。例えば丸亀藩が各村の庄屋に村の歴史と郷土の産物などを調べて提出させています。それに基づいて編纂されたのが西讃府誌です。髙松藩でも、その動きがあったようで各寺院へ由緒や現状などについてのレポート提出を求めています。次の縁起は幕末に髙松藩の求めに応じて、提出したレポートの一部です。

常光寺縁起

縁起を整理すると

常光寺縁起2

浄泉は泉州の城主の子孫でした。この寺歴で、常光寺が伝えたかったのは以下のことのようです
①開基が古いこと
②真宗布教の拠点が常光寺と安楽寺であること
③そのため多くの末寺を抱えていたこと。
この史料によって、讃岐への真宗伝播は語られてきました。 このレポートには、常光寺の末寺一覧表が添付されています。それも見ておきましょう。

常光寺末寺リスト1

常光寺末寺リスト その1

所在村名と寺名が示されたいます。最初に出てくるのは高松藩領内の末寺です。ここからは次のようなことが分かります。


①常光寺周辺の三木郡に多い。
②香川郡には少ない(阿波の安楽寺の末寺安養寺との棲み分け現象?)
③阿野郡西分村の善福寺(綾菊の南側)は、鴨村に末寺・正蓮寺などをもっている。
④那珂郡トップに登場するのが円徳寺も、3つの末寺を持っている。

常光寺末寺リスト 円徳寺


円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。

常光寺末寺リスト3 円徳寺 法照寺


ちょうと寄り道します。円徳寺の末寺の佐文の法照寺です。

佐文 法照寺

この寺の前には、金刀比・伊予土佐街道が通っています。かつては、金比羅参りの参拝客が数多くこの前を行き来していました。しかし、もともとここにあった訳ではないようです。丸亀藩に出された屋根の葺き替え申請書には次のように記されています。  
佐文 法照寺2

ここには次のような事が記されています。
①円徳寺の末寺として、生間に開基
②1722年に協議の末・佐文に移転
ここから分かることは18世紀になると村の間で、お寺の誘致合戦が展開されるようになっていることです。その背景には、お寺がないと不便なことがありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向いて頼んでやってきてもらうことになります。そのために村にお寺のない所は、誘致運動を展開するようになります。佐文の法照寺も、とともとは生間にあったのが「誘致運動」で佐文にやってきたようです。その際に、寺だけでなく門徒も一緒についてくることもあったようです。本寺の円徳寺ももともとは、本目にあったと聞いています。お寺さんは、昔からそこに有り続けるモノと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
常光寺文書には離末寺のリストもあります。
かつては常光寺に属していたが、何らかの理由で離末した寺のリストです。


常光寺離末リスト


①2番目のまんのう町高篠の円浄寺は、享保10(1725)
②天領榎井村の玄龍寺は1813年、
③赤丸以後の7ケ寺は、文化十年に一斉に離末
その内の一番最初は、天領榎井村の玄龍寺、そして次の4ケ寺が多度郡、最後の2つが三豊郡の2寺です。その理由は、後で見ることにしてここでは一斉離末があったことを押さえておきます。これを見ると、全盛期には75の末寺をゆうしていたという由緒書きは、本当だったようです。次に視点を変えて末寺分布を見ておきましょう。

興正寺派常光寺末寺

常光寺末寺分布図(丸亀平野)



常光寺丸亀平野の末寺をグーグル地図に落としてみました。
黄色ポイントが末寺です。円徳寺が右隅です。その末寺が佐文の法照寺・造田の西福寺・垂水の西の坊です。東から伸びてきた教線ラインが円徳寺にやってきて、丸亀平野に下っていく動きが見えて来ます。
ここからは次のような事がうかがえます。

①②多度津丸亀など海岸線部や都市部にはない。

③三野平野に進出していない。

その理由として対抗勢力の存在が考えられます。三野平野は、中世に秋山氏によって開かれた法華宗の本門寺の強固な信徒集団がいました。また、その背後には、弥谷寺の修験・聖集団がいました。また観音寺には禅宗の寺院がありました。
④髙松藩や丸亀藩の藩を超えて教線がのびています。これは讃岐が2つの藩に分割される以前の生駒藩時代に、この本末関係ができたことを示しています。以上が、末寺リストから分かることです。今回は、このあたりにしておきます。
次回は阿波美馬の安楽寺を見ていくことにします。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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塩飽諸島の本島については何回も取り上げてきましたが、その周辺の島々についてはあまり触れていません。坂出市市史(近世上29P)を見ていると、瀬戸大橋沿いの坂出市に含まれる塩飽の島々が載せられていました。これをテキストにして、見ていくことにします。

櫃石・与島の製塩遺跡

 まず、塩飽諸島の一番北にある櫃石島です。
この島の頂上附近には、島の名前の由来とされる櫃岩があります。古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。

櫃石 
櫃石島の磐座 櫃岩 (瀬戸大橋の真下)

瀬戸内海の島々に最初に定住したのは、製塩技術を持った「海民」たちでした。彼らが櫃石島周辺の島々の海岸で、製塩を始めます。櫃石島の大浦浜は、弥生時代の代表的な製塩遺跡です。

大浦浜遺跡
大浦浜遺跡(櫃石島)

瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。

製塩土器
製塩土器
これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。櫃石島には専業化した専門集団がいて、製塩拠点を構えていたことがうかがえます。この時期が
備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期で、その影響が塩飽諸島の南部や坂出の海岸部にも伝播してきます。これについては、坂出市史古代編が詳しく述べていますので省略します。
製塩土器分布 古墳時代前期
古墳時代前期の製塩土器出土遺跡の分布

 これらの製塩技術が渡来系の秦氏によって担われていたと考える研究者がいます
技能集団としての秦氏

備讃瀬戸の製塩と秦氏について、加藤謙吉著『秦氏とその民』は、次のように記します。


西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から9世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。
 
秦氏分布図
秦氏の分布図(瀬戸内海では吉備と讃岐に多い)

秦氏は製塩技術をもって島嶼部にまず定着して、その後に海岸部から内陸部に展開するという形をとることが多いようです。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏一覧表
古代讃岐にも秦氏の痕跡が多く見られます。そのなかでも高松の田村神社を氏神とした秦氏は、香川郡の開発に大きな痕跡を残しています。また、阿野北平野や坂出方面へ塩田を拡大しつつ、岡上がりしていく様子がうかがえます。

坂出市の製塩遺跡分布図
坂出の製塩遺跡
どちらにしても、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族が、弥生時代には島嶼部に定着したことを押さえておきます。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り

 「海民」は、造船と操船技術に優れた技術を持ち、瀬戸内海や朝鮮半島南部とも活発な交易を行っていたことは、女木島の丸山古墳に葬られた半島製の金のネックレスをつけた人物からも推測できます。海民たちは、漁業と廻船業で生計を立て、古代から備讃瀬戸周辺を支配下に置きました。そして、時には東シナ海を越えて大陸方面にまで遠征していたこともあるようです。

大宰府に配流される菅公の乗る13世紀前期の準構造船(『北野天神緑起絵巻(承久本)』より) ©東京大学駒場図書館
太宰府流罪の菅原道真を載せた船(北野天満宮絵巻)
 島の名前の由来とされる櫃岩には、この下に藤原純友が各地の国府を襲って奪った財宝が隠されているという伝説が残されています。
そうすると櫃石島の「海民」たちも純友の組織する海賊(海の武士団)の編成下に入り、讃岐国府を襲ったのかも知れません。どちらにしても海の武士団として組織されるようになった海民たちは、中世になると備讃瀬戸に入ってくる船舶から通行料(関銭)をとるようになります。そのため海賊とも呼ばれました。
 しかし、一方では航海術に優れ「塩飽衆」と呼ばれて海上輸送にその力を発揮、塩飽は備讃瀬戸ハイウエーのサービスエリア兼ジャンクションとして機能するようになります。瀬戸内海を行き来する人とモノが行き交い、乗り継ぎ地点としても機能します。塩飽を拠点とする廻船業に、活躍する船乗り達がいろいろな史料に登場します。

中世の船 一遍上人絵図
一遍上人絵伝に出てくる中世の船

 こうして戦国時代になると、瀬戸内海に進出してきた信長・秀吉・家康などの中央権力は、塩飽衆のすぐれた航海技術や運送技術を、その配下に入れようとします。それがうかがえるのが塩飽勤番所に残された信長・秀吉・家康の朱印状です。これについては以前にお話ししました。櫃石島に話をもどします。

P1150655
白峯寺の東西の十三重石塔(向こう側が櫃石島の花崗岩製)

中世の櫃石島の触れておきたいのは、この島が当時最先端の石造物製造センターであったことです。
最初に見たように櫃石島の磐座の櫃石は花崗岩露頭でした。その花崗岩で作られているのが、白峰寺の十三重石塔などの石造物と研究者は指摘します。それでは櫃石島で石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。

 DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺の十三重石塔 左が花崗岩製で櫃石島製

 讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、白峰寺などの特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は考えています。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業です。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。

白峯寺 讃岐石造物分布図

★が櫃石島系の花崗岩石造物の分布(白峰寺と宇多津のみに分布)
 そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたと云うのです。

櫃石島の石工集団と白峰寺

その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が櫃石島で作られ、白峰寺周辺に設置されたと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
頓證寺殿の燈籠(花崗岩製で櫃石島製作)
ここでは、関西から新たな技術を持つ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺に石造物を提供するようになったことを押さえておきます。櫃石島は、中世には最新技術をもった石工集団の島でもあったことを押さえておきます。

芸予諸島を拠点とした村上水軍が、その地盤を奪われ陸上がりしたり、周防大島の一部に封じ込まれたりして、海での活躍の場をなくしていったのは以前にお話ししました。それに比べると、塩飽衆は戦国時代以来の廻船業を続けていける環境と特権を得ました。それが「人名制」ということになるのでしょう。

江戸時代の櫃石島は、6人の人名(旧加子)がいて、庄屋の孫左衛門(高二石六斗、庄屋給分一石一斗)が治めていました。年末詳の「新開畑高之儀二付返答」(塩飽勤番所所蔵)には次のように記されています。
「櫃石嶋新開畠九反四畝は宮本伝右衛門代々所持仕り罷かり有り候、此儀櫃石嶋百姓得心の上二にて私先祖開作仕り則ち下作人の者共より定麦二石七斗年々私方へ納所仕り来り候処、紛れ御座なく候」

意訳変換しておくと
「櫃石嶋の新開畠九反四畝は、宮本伝右衛門が代々所有する土地で、このことは櫃石嶋の百姓も承知しており、私たち先祖開作の際に、下作人の者たちから麦二石七斗を毎年私方へめることになっていたことに間違い有りません。

ここからは櫃石島が、宮本伝右衛門によって開かれ、その影響下にあったことが分かります。
 櫃石島の島の規模は、次のように記されています。
島回り一里五町(約4,6㎞)・東西五町半(約600m)・南北五町(500m)、
在所(住居部分)長三六間(約65m) 横21間(約38m)
島はほとんどが山地で、集落(在所)は島の東南部分にありました。
近世の櫃石島の人口・戸数・船数などを史料でみておきましょう。
1676(延宝四)幕府巡見の記録には、次のように記します。

田畑高合四拾六石工升五合、家数合三十九軒、人数合百九十二人
、舟数五艘」 (竹橋余筆別集)

1713(正徳三)年の「塩飽島諸訳手鑑」には
家数五七件、水主役十人、人数三百人、船数十九艘)

これを見ると約40年の間に、戸数や人口が大幅に増えていることが分かります。その背景には船数の5艘から19艘の大幅増加がうかがえます。これを別の史料で見ておきましょう。

江戸時代前半には、櫃石島も廻船業務に携わっていたようです。
1685(貞享二)年「船二而他国参り申し候者願書ひかへ帳」「他国行願留帳」には、次のような記事があります。
一 塩飽ひついし九左衛門舟、出羽国へ参り申す二付き加子参り申し候願さし上、八、九月比罷的帰り判消し申すべく候
丑二月三口        吹上 仁左衛門
                                八月十一日ニ罷り帰り中し候、
意訳変換しておくと
一 塩飽の櫃石九左衛門の舟が出羽国へ航海予定のために、加子(水夫)として参加する旨の届け出があった。八、九月頃には帰国予定とのことである。
丑二月三口        吹上  仁左衛門
                 8月11日に帰国したとの報告があった。

この文書は内容は、櫃石島の廻船に吹上村の水夫が乗船し、出羽国酒田へ行く願書です。
同じような内容のものが、1689(元禄二)だけで6件あります。乗り組んだ船の内訳は、九左衛門の船が3件、三右衛門船が2件、七左衛門船が1件、孫七船が1件です。ここからは最低でも櫃石島から4隻の船が日本海に出港していたことが分かります。
どうして、櫃石島の船に備中吹上村の水夫が乗りこんでいたのでしょうか?
河村瑞賢~西廻り航路を開拓したプロジェクトリーダー~:酒田市公式ウェブサイト

1673(寛文十二)年の河村瑞賢による西廻り航路整備によって大阪・江戸と酒田が航路が開かれます。
この際に河村瑞賢は幕府に次のように進言しています。

「北連の海路は鴛遠、潮汐の険悪はまた東海一帯の比にあらず、船艘すべから北海の風潮に習慣せる者を雇い募るべし、讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜等の処の船艘のごときは皆充用すべし、塩飽の船艘は特に完堅にして精好、他州に視るべきにあらず、その駕使郷民主た淳朴にして偽らず、よろしく特に多くを取るべし」(新井白石「奥羽海運記」)

意訳変換しておくと
「北前航路は迂遠で、潮汐の厳しさは東海の海とは比べようもない。使用する船は、総て北海の風潮に熟練した者を雇い入れること。具体的には讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜などの船艘を充てるべきである。特に塩飽の船は丈夫で精密な作りで、他州の追随をゆるさない。その上、郷民たちも淳朴で偽りをしなし。よって(塩飽の船や水夫を)を特に多く採用すること」(新井白石「奥羽海運記」)

この建議にもとづいて、年貢米輸送の役目を主に命じられたのが塩飽の船乗りたち(塩飽衆)でした。こうして塩飽衆は、幕府年貢米(城米)の独占的輸送権を得ます。幕府からの指名を受けて塩飽船の需要は急増します。そのため船数の需要が多すぎて、水夫(加子)不足という事態が起きます。そこで塩飽船の船頭達は、周辺の下津井・味野・吹上、田ノ浦などの村々の港に、「水夫募集」を行ったようです。こうして塩飽船には、多くの備中の水夫達が乗りこむことになります。
櫃石島船への吹上村などからの乗船記録は、次の通りです。
1690(元禄 三)年  9件
1694(元禄 七)年  4件
1699(元禄十二)年 2件
1700(元禄十三)年 3件
1701(元禄十四)年  1件
1702(元禄十五)年  なし
これらの船の行き先は出羽国酒田や、越中や能代でした。ただ、この期間の出航数をみると次第に減少しています。この背景には、元禄年間(1688~1704)から正徳年間(1711~16)にかけて、塩飽廻船の海難が増加と、幕府の政策転換があったようです。この時期に、塩飽側は幕府に次のように訴えています。

「西国北国筋より江戸江相廻候御城米船積之儀、残らず塩飽船仰せ付けさせられ船相続仕り候処に近年は御米石高の内少分仰せ下させられ候、之れに依り塩飽の船持共過半明船に罷かり成り困窮に及び船相続罷かり成らぎる次第に減り嶋中の者至極迷惑仕り候」(塩飽勤番所所蔵文書)

意訳変換しておくと
「西国や北国筋から江戸への城米船の運行について、かつては総て塩飽船を指名されていました。ところが近年は運送米石高の内の一部だけの指名となりました。そのため塩飽船の半分は荷物のないまま運行することになり、困窮に陥り、操業が続けられなくなって、塩飽の者たちは、大変迷惑しています」(塩飽勤番所所蔵文書)

 塩飽の年寄り達は「塩飽廻船の城米船独占復活」を幕府に訴えています。しかし、「規制緩和」で「競争入札」し塩飽の独占体制を許さないというのが当時の幕府の方針ですから、受けいれられることはありません。こうして、18世紀になると、独占的な立場が崩れた塩飽廻船の苦境が始まることになります。
そんな中で、櫃石島のひとたちは、どんな道をたどったのでしょうか?
 それが、それまでは人名達が手を出さなかった漁業のようです。高松城下町での魚の需要が増加すると、坂出沖の金手などの漁場へ出て行くようになります。また、廻船製造技術を活かした船大工としての活動も活発化しいきます。それはまた別の機会に。

以上、櫃石島についてまとめておきます。
①弥生時代後期には、「海民」が櫃石島の大浦遺跡などに定着し、大規模な製塩をおこなっていた。
②中世になると海民たちは造船と操船に優れた技術を持ち、備讃瀬戸の通航権をにぎり海賊(海の武士)として活動を始めるようになった。
③また盤石「櫃石」は花崗岩で、畿内から送り込まれた石工集団が白峯寺の層塔などの石造物製作をこの島で行った。
④櫃石島の廻船業は近世になっても続き、幕府の城米船として活動する船が元禄時代には数隻以上いたことが記録から分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      江戸時代初期の櫃石島  坂出市市史(近世上29P)
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 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。



    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や配電が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

 1585(天正13年)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいました。そして四国の大名を一括して認識していたとも云われます。そのため四国衆は、秀吉の助言や指示を仰ぎながら国造りや、城下町形成を行ったことが考えられます。今回は、その中で阿波の蜂須賀家の徳島城下町形成を見ていくことにします。
Amazon.co.jp: 近世城下絵図の景観分析・GIS分析 : 平井 松午: 本
テキストは「徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較63P」です。
1585(天正13)年の秀吉による四国平定後に阿波に入ってきたのが蜂須賀家政です。
特別展 蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮 ―二五万石の礎【図録】(徳島市立徳島城博物館:編) / パノラマ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
蜂須賀の3代
彼は最初は鮎喰川中流の山城一宮城に入りますが、羽柴秀吉の指示で古野川河口南岸のデルタに新たな拠点に定めます。その背景としては、次のような事が考えられます。
①徳島が吉野川流域の「北ケ」と勝浦川・那賀川・海部川流域の「南方」の結節点であったこと
②畿内や瀬戸内経済圏に近く、海上交通に利便であったこと
そして吉野川デルタの城山(標高61.7m)に、徳島城を築き、翌年14年には、次の布令をだしています。

「去年から徳島御城下市中町割被仰付町屋敷望之者於有之ハ申出二任相応二地面可被下旨」
(「阿淡年表秘録」徳島県史編さん委員会編1964頁)

意訳変換しておくと
「去年から徳島の城下市中で町割を実施している。ついては屋敷を所望する者については、申し出れば相応な地面(土地)を下される。
 
ここからは城郭建設の一方で、積極的に町人の移住を奨励していることが分かります。こうして城下町建設は急速に進みます。蜂須賀家によって進められた徳島城下町は、全国的にみても早い時期に成立した近世城下町の一つのようです。
蜂須賀氏に少し遅れて讃岐に入ってきたのが生駒氏です。生駒氏も讃岐のどこに拠点を置くかについて、「引田 → 宇多津 → (丸亀) →高松」と変遷しています。高松への城下町設置についても秀吉からの助言と指示があったことが考えられます。

桃山時代に行われた徳島城下町プランの特徴を、研究者は次のように指摘します。
①古野川の分流である新町川・寺島川・助任(すけとう)川・福島川な下の網状河川を濠堀として利用した「島普講」
②従来の渭山城と寺島城のふたつの城を取り込んで築城し、「渭津」と呼ばれた地を「徳島」と改称。
③城郭のある徳島地区と大手筋(通町)にあたる内町・寺島地区を中心に、出来島・福島・常三島・藤五郎島の6島と前川・助任・寺町・新町の各地区を徐々に整備。(図4-1)c
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図
       御山下画図(徳島城下町の一番古い城下町図)
例えば、この時に整備された「寺島」地名の由来は、『阿波志 二巻』(国会図書館蔵)の次の記述からきているとされます。

「旧観多因名天正中移之街」

  ここに最初から寺社が建ち並んでいたのかと云えば、そうではないようです。もともと渭津には、中世には社寺はほとんどなかったようです。それでは、どこから移転させたのでしょうか。
中世徳島の政治的中心は、細川・三好氏の拠点があった勝瑞城館周辺でした。
そのためその周辺には、27ケ寺もの寺院がありました。その内の6ヵ寺を寺島に、8ヶ寺を徳島城下の寺町、2ケ寺を層山山麓に蜂須賀氏は移しています。寺院を城下町の一箇所に集め「寺町」を形成し、軍事的・政治的要地とするという手法は、当時の城下町形成のほとつの手法でした。

 御山下画図をもう一度みてみましょう。
御山下画図 、徳島城下町の一番古い絵図

これを見ると、徳島地区の城郭東隣3区画 + 徳島城側の寺島地区3区画 + 「ちき連(地切)」と呼ばれた籠島地区2区画は、「侍町」と記されています。寺島地区にはこの他にも、「侍町」「町や」、「城山」や、城山西隣に隣接した瓢箪島(一部は明屋敷、のちの花畠)や、出来島・常三島・前川に「侍屋敷」、助任や、福島川治いにも「町家」が見えます。新町川対岸の新町地区にも道路割から町割があったことが分かります。
 ここでは秀吉時代に姿を見せた徳島城下町は、徳島・寺島・出来島を中心とした小規模な城下町で、次第に町割が拡充整備されていったことを押さえておきます。

 徳島と寺島に架かる徳島橋(寺島橋)については、『阿波志 二巻』に、次のように記されています。
「紙屋街 坊三有、旧名寺島街、国初徳島橋跨此後移橋迂通街、官命許嵩(販売)紙他街不得」
「徳島橋 在左詐樵(物見櫓):門外、跨寺島川、旧在鼓楼下、跨紙量街後移迂此」
御山下画図
御山下画図の徳島橋

ここからは城下町建設当時の徳島橋は、寺島街(町)と呼ばれた紙屋町に通していたこと、それが後に約100m南に移され、通町につなげたとことが分かります。通町は、徳島城下町の大手筋にあたりますが、仮に城下町建設当初は紙屋町が大手筋とすれば、徳鳥橋移設前の城下町構造は寛永前期(1630年頃)までとは多少異なっていたと研究者は考えているようです。
 徳島城下町は豊臣期プランでは、天守を仰ぐタテ町型の城下町建設が進んだと従来はされてきました。
しかし、紙屋町・通町のいずれからも城山山上の本丸や東ニノ丸の天守を見ることはできません。ただ北方道と紙屋町通りが合流する三叉路地点からは、徳鳥城南西隅に設けられた物見櫓が正面に見えただけになると研究者は指摘します。

徳島城下町がヴァージョンアップするのは、1615(元和元)年の大坂の陣以後のことです。
大阪の陣の功績で、蜂須賀家は淡路一国七万石が加増されます。これを契機に徳島城の大幅改造が行われます。その一環として徳島城の拡幅や、徳島橋の架け替えが行われたようです。しかし、徳鳥城下町の町割自体には大きな変化は見当たりません。
 一方、大坂夏の陣が終わると―国一城令が出されますが、当時の蜂須賀家の阿波国統治の基本スタイルにすぐには変化はなかったようです。蜂須賀藩では、人部以来、手を焼いた祖谷山一揆や丹生谷一揆の領内鎮撫への反省・対応から、9つの支城をそれぞれ城番家老が担当するという分権的支配体制(「阿波九城」体制)がとられていました。

阿波九城a.jpg
阿波九城体制

そこで新たに領地となった淡路国にも、山良成山城に城番として大西城(池田城)の城番を務めた牛田一長入道宗樹が宛てられています。阿波九城の一宮城や川島城などは、元和元年ころまでには廃城となっていたようですが、支城すべての破却が完了するのは、島原の乱後の1638(寛永15)年頃になります。
 しかし、徳島城下町の都市改造は、これよりも早く1630年代(寛永期以降)には着手していたようです。それが分かるのが「(忠英様御代)御山下画図」で、これには次のような懸紙が付されています。
徳島城の建物・石垣の修復願い
徳島城下(御山下)周辺の佐古村に「町屋二被成所」
福島東部の地先に「御船置所」
富田渡場に「橋二被成所」
ここからは、この絵図が徳鳥城修復や城下町再編のために幕府に提出した計画図の控えであることが分かります。ちなみに富田橋の建設申請は何度も幕府に提出されますが認められず、架橋されたのは明治になってからです。
「御山下画図」には「島普請」の様子が、次のように描かれています。
①徳鳥・寺島・出来島・編島・住吉島・福島・前川地区に侍屋敷が配置されていること
②内町・新町・助任町・福島町の町人地の家並みが描かれていること
③内町には尾張・竜野出身の蜂須賀家譜代の特権商人が集められていること
④新町川を挟んだ対岸に地元商人が集つまる新町が形成されたこと
⑤新町と眉山の間に寺町が設けられていること
⑥城下町縁辺に配置されることが多い足軽町が見当たらないこと

⑥については、当時はまだ有力家臣による城番制で、各支城ごとに約300人の家臣団が分散配置されていたためと研究者は考えています。しかし、村方の佐古村や富田浦には生け垣で囲われた中上級武士の家屋が多く描かれています。すでに廃城となった一宮城や川島城にいた中下級家臣が、城下周辺に住むようになったことがうかがえます。これらの家屋は伊予街道・土佐街道沿いに建ち並び、家並みも後世の町割につながる形状です。この図が作られた頃には、徳島城下町の改造計画が始まっていたのです。
 この図には、次のような施設も描かれています
①常三島の南東部(現・徳島大学理工学部付近)に移転することになる安宅船置所(古安宅)や住吉島の加子(水主)屋敷
②城下町の北側には蜂須賀家菩提寺の福衆寺(慶長6年に徳島城内より移転、寛永13年に興源寺に改称)や江西寺、
③城下東側に慈光寺(慶長11年に名束郡人万村より福島に移転)。蓮花寺(寛永8年に住吉島に移転ヵ)、
④城下南方の勢見(せいみ)には1616(元和2)年に勝浦郡大谷村より移転し徳島城下の守護仏とされた観音寺
また、この図には描かれていませんが城下西の佐古村には1602(慶長7)年に大安寺が創建されています。これらの四囲の寺院は、城下町防衛の軍事的観点から配置されたと研究者は考えています。関ヶ原の戦い以後も、蜂須賀家が引き続き城下町整備に務めていたことがうかがえます。

以上、初期の徳鳥城下町は吉野川デルタの島々の上に形成されたために、同時期に建設された近江八幡・岡山・広島・高松の城下町のように方格状の町割や足軽町の形成などは見られません。そういう意味では、町割ブランは明確ではなかったと云えます。町割りプランが明確化するのは、徳川政権下の慶長期以降だったことを押さえておきます。
 徳島城下町が大きく再編するのは、1630年代末になってからです。
その背景には、1638(寛永15)年までに阿波九城(支城)の破却が進んだことが挙げられます。そして1640年代になると川口番所や境目(国境)番所や阿波五街道などのインフラ整備が進みます。こうして阿波九城に居住していた家臣団が徳島城下へ集住することになります。その対応策としてとられたのが佐古村や富田浦を新たに城下に組み入れ、武士団の居住地として整備することです。そこには伊予街道や土佐街道のインフラ整備と連動して、新たな都市プランが採用され、足軽屋敷や中下級藩士の屋敷、町屋など長方形街区の町割が整備され姿を見せるようになります。こうして「御山下」と称する徳島城下町の縄張りがほぼ確立します。
 洲本城下町の建設や徳島城下町の再編を主導したのは非城番家老の長谷川越前でした。蜂須賀家では、幕府指導の下にこうしたインフラ整備を実行していく中で、各城番家老による分権的支配体制から藩主直仕置体制への政治改革が同時に進んだと研究者は考えています。

  あたらしく城下に編入され佐古・富田の町割プランを見ていくことにします。
阿州御城下絵図 1641年
阿州御城下絵図(1641年)

徳島城下町 西富山の屋敷割図
新たに城下に編入された西富田の「屋敷割之絵図」(1641(寛永18)年:国文学研究資料館蔵)です。土佐街道が中央を貫いています。これについて、研究者は次のように分析します。

徳島城下町 富山の屋敷割図
富田地区の屋敷割図

①東富田地区は中下級家臣の拝領屋敷や有力家臣の下屋敷が多くを占めている
②新町川南岸沿いに長方形街区が2列幣然と区画され、東西幅はおおむね75間を基準とした
③一方で長方形街区の南側に立地する下屋敷の規模は大きく、町割は不規則区画を示している|。
徳島城下町 東富田の屋敷割り(1641年)
東富田地区の屋敷割り(1641年)
徳島城下町 左古の屋敷割図
佐古の屋敷割図
佐古は東西に伊予街道が貫きます。
④佐古橋で新町に通じる佐古地区では、4間幅の伊予街道北側に東西55間(約100m)×南北15間(約27m)の町屋敷ブロックが9丁にわたって整然と配置されている。

徳島城下町 左古の屋敷割図拡大
佐古一丁目の拡大図
⑤伊予街道と平行して北側に東西方向に伸びる4間道の両側と3間道の南側に、東西55間×南北15間の街区ブロック3列が9丁連続し、
⑥それぞれの街区ブロックには間口を道路側に向けた11戸の鉄砲組屋敷が短冊状に配置
⑦鉄砲組屋敷ブロックの北側には、3間道を挟んで御台所衆・御長柄の組屋敷や中級高取屋敷が不規則に配置

寛永末期の徳島藩士は3374人を数え、その内訳は高取482人、無足444人に対し、無格奉公人が2448人で約736%を占めています。阿波九城が破棄されると、その中下級藩士を徳島城下に集住させることになります。このために徳島城下町の大改造が行われたことを押さえておきます。
(正保元)年12月に、幕府は国絵図・郷帳と合わせて城絵図(城下絵図)の提出を各本に求めます。

正保国絵図 徳島3
正保国絵図 徳島城下

「阿淡年表秘録」正保3年の項には、次のように記されています。
今年 御両国絵図 且御城下之図郷村帳御家中分限帳依台命仰御指出」

この時に幕府に提出された正保城絵図(上図)が国立公文書館に所蔵されていて、控図も残っています。そこには「阿波国徳島城之絵図 正保三丙戊11月朔  松平阿波守」と奥付に記されています。
この絵図で研究者が注目するのは、「(忠英様御代)御山下画図」では、村方表記になっていた佐古・西富田・東富田の侍屋敷地が「御山下」に編人されていることです。
正保国絵図 徳島.左古拡大JPG
坂本の侍屋敷と伊予街道

西富田の足軽町は、徳島城|下の守護を祈願した観音寺や金刀比羅神社がある勢見岩ノ鼻まで拡大されています。1616(元和2)年の観音寺や全刀比羅神社の移転は、こうした城下町再編計画の一環だった可能性があります。福島地先には計画通り安宅船置所が設置され、その西側に「船頭町」も描かれています。船置き場移転の結果、常三島の古安宅付近は、「侍屋敷」になっています。また、阿波五街道に指定された讃岐本道・伊予本道・土佐本道・淡路本道の4街道は、徳島城鷲の門を起点に朱筋で示されています。
 正保城絵図は城地・石垣に関する情報のほかにも、城下の町割と侍屋敷、足軽町、町家、寺町な下の土地利用を記載することが幕府によって求められていました。これに従って「阿波徳島城之絵図」では次のような施設が描かれています。
城地に屋敷や馬屋・蔵屋敷
安宅に船頭町
西富田に餌指町・鷹師町
寺町周辺や城下四隅に置かれた「寺」
ここでは寛永後期~正保期にかけての都市大改造によって、徳島城下町の縄張りが確立されたこと、正保城絵図である「阿波国徳島城之絵図」は、そうした徳島城下町の再編計画の完成を示す城下絵図であることを押さえておきます。
明治初期の徳島城下町

以上をまとめておくと
①秀吉から阿波国主に封じられた蜂須賀家は、その指示に基づいて吉野川デルタ地帯に城下町を築いた。
②初期の城下町はデルタ上の島々の上に築かれたもので、寺町・町人などの居住区は整備されたが侍屋敷の数は少なかった。
③これは当時の蜂須賀藩が「九支城体制」で、多くの家臣団が支城に居住していたことによる。
④それが変化していくのは、淡路加増や一国一城が貫徹し支城が廃棄されるようになってからのことである。
⑤多くの家臣を徳島城下町に居住させるために、計画的な家臣団住宅整備プランが実施され、侍屋敷が整備された。
⑥これらは五街道や藩船置場(港)などの社会的なインフラ整備と一括して実施された。
⑦こうして1640年代には、徳島城下町はヴァージョンアップした。

こうしてみると高松城の変遷と重なる点が見えて来ます。高松城は、16世紀末に生駒氏によって、海に開かれた城郭として整備されます。しかし、城下町に家臣団は住んでいなかったことは以前にお話ししました。それは生駒藩が棒給制をとらずに、領地制を維持したために家臣団が自分の所領に舘を構えて、生活していたからでした。それが変化するのは、高松藩成立後です。生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重は、再検地を行い棒給制へ移行させ、家臣団の高松城下町での居住を勧めます。こうして高松城下町でも家臣団受入のために、侍屋敷の整備が求められると同時に、急速な人口増が起きます。その結果、南の寺町を越えて市街地は拡大することになります。高松と徳島で、城下町が整備されていくのは1640年代のことのようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 徳島城下町の町割変化 近世城下絵図の景観分析GIS分析比較
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前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
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以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 前回は戦後の満濃池土地改良区が財政危機から抜け出して行く筋道を押さえました。今回は土器川右岸(綾歌側)の土地改良区がどのように、用水確保を図ったのかを見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

土器川と象頭山1916年香川県写真師組合
土器川と象頭山(1916年 まんのう町長尾)

土器川は流路延長42㎞で、香川県唯一の一級河川ですが、河川勾配が急なため降雨は洪水となって瞬時に海に流れ出てしまいます。そして扇状地地形で水はけもいいので、まんのう町の祓川橋よりも下流では、まるで枯川のようです。
飯野山と土器川
土器川と飯野山(大正時代)
しかし、これはその上流の「札ノ辻井堰(まんのう町長尾)」から丸亀市岡田の打越池に、大量の用水を取水しているためでもあります。近世になって開かれた綾歌郡の岡田地域は、まんのう町炭所の山の中に亀越池を築造し、その水を土器川に落とし、札ノ辻井堰から岡田に導水するという「離れ業的土木工事」を成功させます。これは土器川の水利権を右岸側(綾歌側)が持っていたからこそできたことです。左岸の満濃池側は、土器川には水利権を持っていなかったことは以前にお話ししたとおりです。

土器川右岸の水利計画2
「亀越池→土器川→札の辻井堰→打ち越池」 
土器川は綾歌の用水路の一部だった 
 第3次嵩上げ事業の際に満濃池側は、貯水量確保のために綾歌側に土器川からの導水を認めさせる必要に迫られます。そのための代替え条件として綾川側に提示されたの、戦前の長炭の土器川ダム(塩野貯水池)の築造でした。それが戦後は水没農家の立ち退き問題で頓挫すると、備中地池と仁池の2つの新しい池の築造などの代替え案を提示します。こうして綾歌側は、土器川の天川からの満濃池への導水に合意するのです。今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして右岸(綾歌側)のために策定されたのが「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」 (1953年)です。この計画によると

満濃池右岸水系
①「札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新築
②あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池、仁池につながっている幹線水路を整備
③さらには飯野地区までの灌漑のために飯野幹線水路を整備
 しかし、大川頭首工の新設と幹線水路の改修だけでは綾歌地区2200㌶の灌漑は、賄いきれません。必要な用水量確保のために、考えられたのが次の二つです
④亀越池のかさ上げ
⑤備中地池と仁池の2つの新しい池の築造
備中地池竣工記念碑
備中地池竣工記念碑 1962(昭和37)年

この右岸地区の用水計画を行うために作られたのが、「亀越池土地改良区 + 飯野土地改良区 + 羽間土地改良区」など8つの土地改良区の連合体で構成された香川県右岸土地改良区連合(以下連合)のようです。
 土器川右岸用水改良事業は、次のように順調に進んでいきます。
1954(昭和29)年度 打越池幹線水路改修、
1956(昭和31)年度 仁池幹線水路改修
1957(昭和32)年度 小津森池幹線水路改修
1959(昭和34)年度 大川頭首工建設
1962(昭和37)年度 備中地池新設
1963(昭和38年)度 飯野幹線水路改修
一方、亀越池の嵩上げ工事は、用地買収が難航して着工できない状況が続きます。そんな中で昭和38年度末に連合の事業は全面ストップしていまいます。
亀越池
亀越池
  順調に進んでいた工事がどうしてストップしたのでしょうか?
土器川右岸用水改良事業の資金は、国・県が75%、地元25%の負担率でした。地元負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれることになります。定款によれば、賦課金のうち備中地池や大川頭首工など水源地事業は、全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し、水路事業は事業費20%を全土地改良区で負担、残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールになっています。そのため幹線水路の改修工事の場合、当幹線水路の土地改良区が賦課金を負担できないと、工事は進められなくなります。
 そうした中で、1955(昭和30)年に飯野村が丸亀市に合併されると、飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るようになります。さらに1960(昭和35)年には羽間土地改良区が連合を脱退することを決め、以降賦課金を納入しなくなります。こうして連合全体の財政が悪化し、ついに事業そのものを続けることが出来なくなります。
 そうした中で農林漁業金融公庫に対する償還金が支払えずに未払い分がふくれ上がっていきます。
対応策として連合は1965(昭和40)年12月、降賦課金を納入しない飯野、羽間の両土地改良区連合と丸亀市に対し訴訟を起こします。これに対して、高松地方裁判所は裁判による決着をさけ、県当局に調整を依頼します。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納、羽間土地改良区の賦課金未納は法律違反です。しかし、羽間土地改良区側には次のような言い分もありました。
①大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇したこと
②羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること
 また、丸亀市も次のように主張します。

「これまで飯野村が助成してきた飯野土地改良区の賦課金は、合併以降は丸亀市が代わって助成する約束になっていると、飯野村はいうけれど、市当局の認識はそのような合意は明文上成立していない。それに事業受益地の末端にある飯野地区では、亀越池のかさ上げが実現していない現状では、幹線水路を改修しても、事業の用水増強効果はほとんど期待できない。」

さまざまな事情を考慮した結果、裁判所は和解による解決の途を奨めます。
和解は1973(昭和48)年8月になってようやく成立します。この間、連合は両土地改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方で、1966(昭和41)年3月には、総会において事業の打切りを決定します。そして亀越池かさ上げに代わる水源に、香川用水を宛てることにします。土地買収が必要な亀越池かさ上げでは1立方メートル当たりの水価 220円に対し香川用水では60円ですむ計算が出されています。香川用水の方が1/3以下も安いのです。こうして香川用水に頼って、自前による用水確保(亀越池嵩上げ)を放棄することになります。これは賢明な決定だったようです。この年には、香川用水建設規成会が設立されます。翌年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も間近という背景がありました。
   前回もお話ししたように土地改良区の財政悪化問題は、綾歌や満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①戦前に策定された満濃池第3次嵩上げ事業は、戦時下の食糧生産増強という国策を受けて、土器川両岸の改良計画であった。
②しかし、戦後の計画では目玉となる「土器川ダム」が頓挫し、土器川から満濃池への導水については、右岸(綾歌)側の強い反発を受けるようになった。
③そこで県は新たな貯水量確保手段として「備中地池・仁池の新築 + 亀越池嵩上げ」を提案し、綾歌側の合意を取り付けた。
④こうして土器川右岸(綾歌側)は、独自の計画案で整備計画が進められるようになった。
⑤しかし、一部の土地改良区からの賦課金未納入や脱退が起こり、整備計画は途中中止に追い込まれた。
⑥この背景には、計画中の香川用水を利用する方が経済的に有利だという計算もあった。
⑦こうして綾歌地区は亀越池の嵩上げ工事に着手することなく、香川用水の切り替えを行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」


かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

                                
前回は今から90年前に香川県を襲った大干魃の様子を見ました。今回は、これをローカル紙であった香川新報がどのように報道しているかを見ていくことにします。テキストは、「辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月」です。 

1934年の旱魃 香川県
1934(昭和9)年の降水量(多度津測候所)

1934年の降水量比較 香川県
1934年の降水量比較
まず復習として1934年の降水量を見ておきましょう。上表からは次のような事が分かります。
①冬場に雨が少なかったため、春先になっても、各ため池は満水状態ではなかったこと
②4月には例年並の降水量があったが、満濃池などを満水にすることはできなかったこと
③6月20日の県の調査によると2割以上のため池が、貯水量が半分にも達しなかったこと。
④5月6月の空梅雨と水不足のため、田植えができないところがでてきたこと
⑤7月末から約1ヶ月、雨が降らず猛暑が続いたこと。

讃岐の大干魃新聞記事 昭和9年
干ばつを報じる香川新報(1934年)

1934(昭和9)年7月1日の香川新報は次のように記します。
「もう梅雨は明けてしまった」
香川県では十二日の入梅以来、潤雨のあったのは十六日と十九日午後から二十日迄と二十四日午後一寸降ったくらいだった。例年のような雨が一切なく梅雨明けという半夏生も後三日で如何様にも雨が少ないので田植えのまだ出来て居らぬ田地も多く。…」
水不足で田植えができない水田が多いと伝えています。このころから香川新報の紙面には、次のような旱魃の記事が目立ちはじめます。
 7月 6日
 県の農務課の調査によれば、田植えの終わった水田は県全体の水田のほぼ半分で、大川郡の相生村など17の町村では水源が枯渇し植え付け不能。
 7月 7日 
県当局は緊急干害対策協議会を開催、満田県農事試験場長は農会の技術指導員などに対し、仮植えでもいいからとりあえず苗代の苗を本田に移しかえるよう督励した。しかし、本田自体が水がなく乾いているから、仮植えをしてもその干害対策が大変である。同じく県農事試験場長から四五寸に切断せる藁稗其他之に類するものを株下一面に散布し、日光の遮断をし、地面の乾燥を防ぐこと、稲田の乾燥甚だしくて枯死に瀕せむとする場合には、井水其の他を利用し土瓶又は杓を以て少量宛にでも根元に濯水すること」などの注意事項が披露された。
 7月9日 
満濃池の水位が55尺から30尺に減じた。あと10日雨がなければ「証文ユル」の実施も止むなしという。もし実施されれば、大正2年以来のことになる。
 7月 10日
 栗林公園の池の水を譲り受けて灌漑されている高松市宮脇町の水田は、池水の減少とともに旱魃がいちじるしく、農民たちは県の公園課に一層の池水の流用を陳情、高松市農会長も木下知事に窮状を訴えた。
 7月 13日 
仏生山署は香南14ヵ町村の田植えの進行状況について、一宮、多肥、大野の3ヵ村では田植えがまだ半分も終わっておらず、一宮村では314町歩の水田のうち田植えの終わった水田はわずか100町歩しかないと報告した。

このような中で、7月13日夜半から14日早朝に「恵みの雨」が降ります。
雷鳴をともなったはげしい雨で、乾き切っていた水田は息を吹き返します。遅ればせながら田植えも、数日でほぼ完了の見とおしが出てきます。7月14日の香川新報は、田植えのはじまった田園の光景を入れて、大見出しで次のように報じます。
降った降った黄金の雨、もう農村は大丈夫」

 しかし、雨はこれっきりでした。その後は雨ふらないまま7月が終わります。8月に入っても晴天が続き、雨は一向に降りません。こうして盆前には、7月段階よりさらに深刻な水不足に襲われます。
8月18日の香川新報の見出しは、
「農村の惨状 目も当てられず旱魃非常時 学童から老人まで総動員で濯水作業に汗みどろ」
「天はまだ疲弊の農村に恵みを投げず、雨を見ざることここ1ヶ月余りに亘り、ジリジリと油照りの炎天つづきで、農村には恐る可き大早魁が予想され、農民は唯だ雲の動きを望んで青息吐息に萎れている。いづれを見ても田園には砲列のように濯水車がならんで涸れなん水に空車がきしる。殊に水不足の香川郡多肥、太田、一の宮方面では小学児童から爺さん婆さんまで総出動の活動で、眼前に楽しい孟蘭盆を控えて今はみぐるみ団子になりそうである。村の青年少女等がこの分では憧れの盆踊りも物にはならずとはいへ、皆々一言の不平も云わずに一心不乱で稲の看護、汗みづくとなりコトコトと濯水車を踏んでいる。」
と、盂蘭盆を前にしてもその準備もできず、濯水車を踏む人々の姿が報じられています。
足踏み揚水機
足踏揚水機(灌漑水車)

以後、旱魃記事が連日、次のように続きます。
8月21日
旱魃の被害田、三豊郡内耕地七千六百町中、亀裂枯死四百町歩、水不足で白田一千町歩、惨状目も当てられずか(白田は、涸れて稲が白くなること)
8月 22日
旱魃依然ノ農村の危機、県下の被害回一万町歩、ここ一週間で稲の運命の黒白を決す 木下知事、東に西に干害実況を視察。
8月24日
牢晴恨し、渇水地獄編、西讃七千の溜池全部サッパリと底を払ふ 東讃一万三千の池、一合平均に貯水、満濃池も足が立つ惨状。
8月26日
挺子でも動かぬ炎帝、雨に耳をかさぬ 無水地獄に農民なく 県下の被害回二万町歩、枯死一千町歩に上がる 今後七日間雨なき場合の枯死、三千町歩、けふ県の正式発表。
8月28日
大満濃池も気息奄々  砂漠のような姿で近く大戸の閘も抜、もはや、この8月末の時点における旱魃の稲作への影響は決定的というべく、県当局が8月29日現在の被害状況について発表したところによると、稲の枯死した水田は 23日時点の1000町歩からその5倍の5000町歩へと一挙に広がった。このまま事態が推移すれば、水田の半分近くがダメになると予想される。
                       (下図)


1934年の旱魃 香川県被害状況

そんな中で8月31日の夜半から9月1日の早朝にかけて、雨が降ります。
「潤雨、万霊を潤す 生気萌立つ県下農村」

と9月2日の香川新報は報じます。この雨で一部の水田では立ち枯れ状態だった稲が立ち直りますが、最終的には表 4にみるとおり、香川の稲作は惨たんたる状況でした。
1934年の旱魃 香川県被害状況2
1934年の香川県の稲作の干ばつ被害状況
この年の収穫高 76万石は前年の 107万石に対して約 30%減
となっています。
被害を大きくした要因の一つに研究者が挙げているのが、ため池の貯水機能の低下です。
当時は大正の小作争議で、地主たちの農業ばなれの傾向が強まっていました。つまり、地主達の農地に対する管理意欲が低下して、地主が今まで行ってきたため池の維持管理がなおざりがちになっていたと云うのです。
 この点について前年の県会で県当局に対して、ため池の施設改善を求めた議員の発言が残っています。

「県内耕地五万町歩に対する使命を持っている溜池が一万七千有余もあるようでありまするが、この溜池が一割及至二割位は土砂の堆積で水量を減退して居るものが殆どと言うても宣かろうと思ひます。多きは三割及至四割位減水をして居る所も往々あるのであります」

ここには、浚渫(泥さらえ)が長く行われずに放置されていて、貯水量が低下しているため池が多数あることが指摘されています。ため池の浚渫を長く怠ってきたことも、水不足に拍車をかけたようです。

文庫 百姓たちの水資源戦争 江戸時代の水争いを追う | 渡辺 尚志 | 絵本ナビ:レビュー・通販

干ばつになると、水争い(水論)が各所で激化するのが讃岐の常です

枯れていく稲を、眼前した村人たちは、雨乞いをします。その一方、我が村、我が部落に少しでも多くの水を確保するために「我田引水」の水争いを行うようになります。それが香川新報の紙面に登場するのは、7月のはじめのころからです。前回紹介できなかった記事を、時系列に並べて見ておきましょう。

昭和9年香川県水論一覧表1
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(7月・8月前半)

7月 3日
(三豊の)大谷池は 6月 21日にユルを抜き、池掛かりは全区域とも水田の6分を見当にして、第 1回の田植えを開始した。ところが上流の萩原村は、上流という地勢上の優位を利用して次々に田植えをすすめ、さらに水路を堰止めてしまった。そこで、下流の中姫村とはげしい水論となった。
7月 7日
香川郡多肥村の田井部落の出水は、木田郡の林村にも水掛かりがある。田井部落の農民たちは旱魃にそなえて、出水の周辺に数個の堀割りを新設した。そのため日ごとに細まりつつあった出水の水はさらに細まって、ついに林村に水が来なくなった。新設の堀割りを埋めるよう田井部落に掛け合ったが入れられそうになく、林村は県に陳情するつもりであるという。

 7月8日
小田池の末流に位置する円座村は上流の川岡村と交渉の結果、7月 4日から 3日間、田植え水の配水をうけることとなった。が、乾き切った水田は水を吸うばかりで田植えはいっこうにすすまず、そこで円座村は配水期間の延長をもとめて再度の交渉をもった。しかし、交渉が難行し要求が入れられないとみるや、円座村の農民たちは大挙してトラックで交渉の現場に急行、あわや大乱闘という寸前に仏生山署の警察官が駆けつけ、ひとまずその場はおさまったという。

 7月 10日
7月8日の夜中、実光寺池の水を発動機で引き揚げようとしていたひとりの男を、実光寺池掛かりの農民たちが大勢で袋叩きにしているところを、瀧宮署の署員が発見。この男を連行して取り調べたところ、この男は篠池掛りの農民で、枯死しつつある自分の回の稲を見るに忍びず、つい盗水におよんだとのことでした。。

 7月14日に慈雨が降ったことは、先ほど見たとおりです。この雨で、水争いのことはぴたりと紙面から見えなくなります。それが8月になっても雨が降らないと、再び水争いの記事が紙面に溢れるようにでてきます。それは前回に紹介しましたので、ここでは省略します。

昭和9年香川県水論一覧表2
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(8月後半)

 1934年の香川県を襲った旱魃については、以上に見てきた通りです。ところが5年後の1939年に、これを上回る「想定外の大旱魃」を経験することになります。
1939(昭和14)年の降水量676ミリは平年の半分です。そして米の収穫高も、前年の半分まで落ち込みます。そして深刻な影響を、香川の農村にあたえたのです。旱魃対策に無為無策では、社会不安をもたらし、県の指導者に対する批判にもつながります。こうして県は、干ばつ対策の目玉政策として、満濃池の第3次嵩上げ工事に取り組むことになります。そういう意味では、1934年と39年の大干魃が、満濃池の第3次嵩上げ工事を後押ししたといえるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月

満濃池堰堤の石碑
満濃池の3つの石碑
満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
 ① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記    (明治 8年)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
   この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
 幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。

P1260747

弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣
千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧
 明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと 
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。

②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。

③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。

④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。

⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。

 ⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。
 慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
 ⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。
松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
 ⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。
 空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤
を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美

この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
⑧ そして最後は、激情的な「十市池(真野池)賛美」で終わります。
満濃池 長谷川佐太郎
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
 前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建

ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。
その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。
52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。
その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。
 1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
  ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること
②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと
③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと
④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと
⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
 矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
 ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」
「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」
「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。

以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献
満濃池史398P 真野池記 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代


満濃池 現状図
 
昨年の12月に、2つの団体を案内して「ミニ満濃池フィルドワーク」を行いました。その時に、たずねられたのが堰堤の石碑に何が書いてあるかです。石碑の内容を一言で、説明するのはなかなか大変です。そこでここでは、敢えてその全文と意訳文を載せておくことにします。
満濃池の堰堤の東の突き当たり附近には、3つの碑文があります。

満濃池堰堤の石碑

右から順番に記すと次の通りです。
 ① 松坡(しょうは)長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記(明治3(1870)年以降)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
まず①の石碑から見ていきます。
この碑は明治29(1896)年11月に長谷川佐太郎の功績を讃え、朝廷より藍綬褒章及び金五十円を賜ります。これを機に、長谷川佐太郎への再評価の機運が高まります。その機運の中で建立されたと碑文の最後尾に記されています。明治の元勲・山縣有朋が題字、子爵品川彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書になります。それでは全文を見ておきます。
P1160061
            長谷川翁功徳之碑
  長谷川翁功徳之碑 
          従一位勲一等候爵山鯨有朋篆額

壽珊道禰於徳依於仁遊於蔡蓋長谷川翁之謂也翁名信之字忠卿琥松披称佐太郎讃岐那珂郡榎井村豪皇考練・和似姚為光氏翁為大温良有義気好救人急 夙憂王室式微輿日柳燕石美馬君田等協力廣交天下郎藤本津之助久阪義助等先後来議事文久三年有大和之挙翁奥燕石整軍資将赴援聞事敗奉阜仲小に郎来多度津翁延之姻家密議徹夜高杉晋作転注来投翁血燕石君田等庇護具至既而事覚逮櫨菖急使者作揮去燕石君田下獄翁幸得免替窺扶助両家族 及王政中興翁至京都知友多列顕職勧翁仕會翁固辞面婦素志専在修満濃池池為國中第一巨浸自古施木閉毎年歳改造為例嘉永中変例畳雑石作囃隋漏生蜜水勢蕩蕩決裂堤防漂没直舎人畜亘数十村田時率付荒蕪爾来十四年旱潜瑛萬民不聊生翁恨肺計奎修治屡上書切請明治三年正月得免起工高松藩松崎佐敏倉敷懸大参事島田泰夫等克輔翁志朧閲川告竣単工十四萬四千九百九十六人荒蕪忽化良田黎民励農五稼均登藩侯賞 翁功許称姓帯刀且購米若芭翁撰為区長後為満濃池神野神社神官廿七年叙正七位翁多年去庫國事頗傾儲蓄且修満濃醜蕩粛家産遂為無一物亦隅踊焉洋洋焉縦心所之楽書書好徘句不敗以得襄介意尚聞義則趨聞仁則起可謂偉矣廿八年満濃池水利組合贈有功記念章於翁且為翁開賀宴會者三百五十鈴大寄詩歌連徘頌翁嫡片亦無笑廿九年十一月朝廷賞翁功賜藍綬褒章及金五拾圓云郷大感懐仁慕義青謀建碑請文予乃序繁以斟
 明治廿九年 従二位勲二等子爵品川輛二郎撰 衣笠豪谷書
 P1260752
長谷川翁功徳之碑

意訳変換しておくと
人の志は道により、徳は仁において、遊は芸による。長谷川翁の名は信之、字は忠卿、号は松披佐太郎と称す。讃岐那珂郡榎井村の豪農である。いみ名は和信、母は為光氏。翁の人となりは、温良義気で、よく人の危急を救った。
特に幕末の王室の衰微を憂い、日柳燕石・美馬君田等と協力して広く天下の士と親交を結んだ。松本謙三郎・藤木津之助・久坂義助らが前後して琴平にやって来て、密議をこらした。文久三年の大和の天誅組の義挙に際しては、燕石と共に軍資を整えて、大和に行こうとしたが、時既に遅く果たすことができなかった。桂小五郎が多度津にやって来た際には、親戚の家に迎えて、夜を徹して話し合った。後に、高杉晋作が亡命してくると、燕石や君田らと共に疵護した。これが発覚し、晋作は逃亡させたが、燕石・君田は捕えられ高松で投獄された。翁は幸に逮捕をまぬかたので、ひそかに両家族を扶助した。
 明治維新になると、京都に上って顕職を求める知友もいて、翁に仕官を勧める者もいた。しかし、翁は固辞して故郷に帰った。その志は、満濃池の修築にあった。池は讃岐第一の大池であったが、木製の底樋のために三十年に一回は改修工事が必要であった。さらに嘉永中(1854)底樋の石材化工事が行われた際に、工法未熟で漏水を生じた上に、宝永の大地震のために堤防が決裂した。そのため民家人畜の漂没するものが数十村に及び田畑は荒れるに任かせた状態になっていた。以来14年旱魃になっても水はなく、作物はできず人々は苦労していた。翁は慨然として、再築計画を何度も倉敷代官所に上書請願した。明治3年正月になってようやく政府の免許が下り、起工した。高松藩の松崎佐敏・倉敷懸大参事島田泰夫などが、翁の志を支援して五か月竣工人夫十四万四千九百九十六人荒地は良田と化し、零細農民に至るまで五穀等しく稔った。藩は翁の功績を賞し、姓を与え帯刀を許し、且つ賜米若干包を下賜した。
こうして、翁は撰ばれて区長となり、後には満濃池神野神社の神官となった。そして明治27年に正七位に叙せられた。翁は多年に渡って国事に尽力し、自分の財力を傾けて満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。また義におもむき仁に立つなど偉大というべき人物である。
 明治28年、満濃池水利組合は有功記念賞を贈り、翁のため祝賀会を開いた所、参加者は350人を越えた。翁の徳を讃えた29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。
本文の内容を整理しておきます
①段目は、長谷川佐太郎の出自と人なりです
②段目は、勤王の志士としての活動で、特に日柳燕石とともに高杉晋作の支援活動
③段目は、満濃池再築に向けての活動
④段目は、再築後の隠居生活

現在の視点からすれば②段目は不要に思えるかもしれませんが、戦前では「勤王の志士」というのは、非常に価値のある言葉でした。戦前の皇国史観中心の歴史教育の中で、華々しく取り上げられたのは「皇室に忠義を尽くした人々」です。その中で、南北朝の南朝の楠木正成や、幕末の薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作は、功労者として教科書に取り上げられます。これに倣って、各県の郷土史教育でも「忠信愛国」の郷土の歴史人物が選定されていきます。その中で香川で取り上げられるのが琴平の日柳燕石です。「高杉晋作を救って、そのために下獄していた」というのが評価対象になったようです。また、戊辰戦争中に戦死しているのも好都合でした。その人間が生きている内は、なかなかカリスマ化できません。こうして日柳燕石についての書物は、伝記から詩文にいたるまで数多く戦前には出版されています。彼の裏の顔である「博徒の親分」というのは、無視されます。その燕石と活動をともにし、獄中の燕石を支援したというのは、書かずにはおれない内容だったのでしょう。
③段目の満濃池再築については、記述に誤りはありません。
④段目には「満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。」とあります。区長とありますが戸長です。しかし、長谷川佐太郎はこれを、すぐに辞退しています。そして、「家産をなくし無一物となるとも、一人静に心に従って俳句を好む」生活を送っていたのです。長谷川佐太郎は忘れ去られていたのです。それが明治27年に正七位に叙せられ、その2年後には藍綬褒章を受賞します。これを契機に周囲からの再評価が始まるのです。その出発点として、姿を見せたのがこの碑文だと私は思っていました。ところが裏側に刻まれた建立年月をみて驚きました。

P1260755
松坡長谷川翁功徳之碑の裏面
   【碑文 裏】
 昭和六年十月吉祥日建之
    滿濃池普通水利組合管理者
     地方事務官齋藤助昇
       建設委員 田中 正義
        仝   谷 政太郎
        仝   塚田 忠光
        仝   三木清一郎
        仝   三原  純
  香川県木田郡牟礼村久通
  和泉喜代次刻

   碑文表の最後には「翁の徳を讃えて明治29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。」とあります。碑文は、その前後に建立されたはずなのですが、現在の石碑の裏側には、「昭和六年十月吉祥日建之」とあります。そうすると、この碑文は2代目のもので再建されたものなのでしょうか。この辺りのことが今の私には、よく分かりません。ご存じの方がいれば、教えて下さい。
P1260752

最後の詩文の部分です。
 入賓始築萬農池 弘仁奉勅空海治 寛永補修雖梢整
 嘉永畳石累卵危 安政蟻穴千丈破 慶唐旱僚萬家飢
 松波老叟振挟起 壹為國土借家貨 章懐底績農抹野
 承前善後策無遺 曽悼亡友管祠宇 趨義拒肯畏嫌疑
 人富居貧率天性 蓋忠報國心所期 不侯櫨傅遭顕達
 山来天爵大宗師
意訳変換しておくと
 大賞年間に始めて満濃池を築き、
弘仁年間に時の天皇の勅を承って空海が手を入れ直し、
寛永年間に補修を加えて漸く整備されたけれども、
嘉永年間に石を畳んだものの崩れやすく、極めて危険な状態であり、
安政年間には堅固な堤防も蟻のあけた小さな穴がもととなり崩れてしまい、
慶応年間の日照りと長雨による洪水によって多数の人々は食物を得られずひもじくなった。
松披老翁が袂を振るって一大決心をして満濃池の修治に起ち上がったのは、
偏(ひとえ)に国のためであり、どうして家の資産を使用することを惜しむことがあろうか。
深く懐の底に思いをいたして事にあたったので農民達は野で手を叩いて喜び、
前を引き継いで善後策にも遺す所がなく、
かつて亡友を悼んで神社を営み、
義に趣いてそのためには嫌疑を畏れることはなかった。
富を去って貧に居るという天性に従い、
国のために忠義を尽すことは心に期す所であり、
世間の評判や立身出世を待たなかったことは、                   
生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。

長谷川佐太郎顕彰碑
        満濃池と松坡長谷川翁功徳之碑
碑文前の台石には、現代文で次のように記します。

  P1160062
        【台石】 松坡長谷川翁功徳之碑
 長谷川佐太郎は松坡と号し幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。榎井村の豪農の家に生まれ勤王の志士日柳燕石と交流し幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも挺身している
 一方、安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松・丸亀・多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府に百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。この陳情が功を奏し、高松藩の執政松崎澁右衛門の強力な支援のもとに明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。この碑は彼の功績を称え 明治の元勲山形有朋が題字を、品川弥次郎が撰文したものである。扇山
3つの碑文の内の最初に長谷川佐太郎のものを紹介しました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐人物風景 8 百花繚乱の西讃 四国新聞社 大和学芸図書 昭和57年

後日の補足
後日に、讃岐人物風景8の「長谷川佐太郎」には、次のように記されているのを見つけました。

このように私財をすべて投入し満濃池修築に献身するとともに動皇家としても立派に活動した。二面の顔を持つ佐太郎は、明治五年(1872年)香川県第五十八区戸長に任ぜられた。数カ月後に辞し、同年八月には松崎渋右衛門の祠を建て松崎神社とした。その後、神野神社の神官に任ぜられ、明治二十七年(一八九四年)には正七位が贈られた。
 明治二十八年(1895年)には満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈られて、三百五十人の参加で慰労の宴が催された。毎年五十円ずつを佐太郎に贈りその労をねぎらうことになった。翌二十九年(一八九六年)七十歳のとき、藍綬褒章が授与されたのである。
 大正四年(一九一五年)人々は佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀し、昭和六年十二月六日佐太郎頌徳碑を池畔に建立し永遠にその徳をたたえている。
 国と郷土に私財をなげうって奔走した佐太郎も晩年は不運のうちに生涯を閉じた。しかしその心意気は末永く人々の心に残り生き続けている。
 子孫と称する人が大阪、奈良、東家から丸尾家を訪れたのも数年前のことであり、佐太郎の妹が多度津へ嫁いだ先は薬局を営んでいたともいわれる。
 佐太郎は、明治三十一年(一八九八年)一月七日、七十二歳で象頭山下のふるさとで没し、いまもこの地で眠り続けている。 
これらを年表化すると次のようになります。
①1894(明治27)年 正七位が贈呈。
②1895(明治28)年 満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈呈
③1895(明治28)年 第1次嵩上げ工事実施
④1896(明治29)年 70歳のとき、藍綬褒章が授与
⑤1898(明治31)年 1月7日、70歳で没。
⑥1915(大正 4)年 佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀
⑦1930(昭和 5)年 第2次嵩上げ工事
⑧1931(昭和 6)年 12月6日 佐太郎頌徳碑を池畔に建立
⑨1941(昭和16)年 第3次嵩上げ工事
 ここからは次のようなことが分かります。
A ③の第1次工事の直前に、水利組合が褒賞していること。しかし、石碑は建立されていないこと。
B ⑦の第2次工事直後に、石碑は建立されたこと。
ここからは、嵩上げ工事が行われる度に、長谷川佐太郎の業績が再評価されていったことがうかがえます。それが1931年の石碑建立につながったとしておきます。長谷川佐太郎に藍綬褒章が授与されて、すぐに建立されたのではないことを押さえておきます。別の見方をすれば長谷川佐太郎の業績褒賞を、嵩上げ工事推進の機運盛り上げに利用しようとする水利組合の思惑も見え隠れします。
参考文献 
満濃池史391P 松坡長谷川翁功徳之碑 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代

教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。

香川叢書
香川叢書
  師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。

高松藩 郷中住居の御家来
        高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)

郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
 高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士1

この一覧表からは、次のようなことが分かります。
①宝暦期と万延元(1860)を比べると、3家(*印)は幕末まで存続しているが、他は入れ替わっている
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
高松藩の郷居武士分布図
郷居武士の分布(1751年) 
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?     
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

次に出てくるのが郷騎馬です。これは武士ではなく帯刀人になります。その注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻るとあえいます。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。

続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。

高松藩帯刀人 他所牢人
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」
②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」
③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。

このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
 丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。

牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
坂出市史近世編(上)78Pには、 天保十四年「御用日記」に、牢人の「武役」を果たす経済的能力についての調査結果が一覧表で示されています。
高松藩帯刀人 他所牢人の経済力

これによると、牢人に求められたのは「壱騎役」と「壱領壱本」です。「壱騎役」は騎乗武士で、「壱領壱本」は、歩行武士で、具足一領・槍が必要になります。従者も引き連れたい所です。そうすると多額の経費が必要となります。阿野北郡に住む牢人に「丈夫に相勤め」られるかと問うた返答です。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、
②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名
③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。

次に、一代帯刀者を見ていくことにします。

高松藩帯刀人 一代 浦政所
        高松領郷中帯刀人別 一代帯刀

一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師
年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。
鵜足郡上法勲寺 葛井 三平 
7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。

一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。

高松藩帯刀人芸術 
      高松領郷中帯刀人別 一代帯刀 芸術
どんな職種が「芸術」なのかを、上表で見ておきましょう。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」
②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として
③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理
④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」

阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
 ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。

  帯刀人や郷居武士などは、高松藩にどのくらいいたのでしょうか? 
 郷居武士1 宝暦年間
          宝暦(1751年)ころの郡別帯刀人数(坂出市史81P)
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。

郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者
②代々刀指
③郷騎馬
④郷侍
⑤御連枝大老年寄騎馬役 
⑥其身一代帯刀之者
⑦役中帯刀之者 
⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士 
⑨年寄中出来家来 
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ
坂出市史

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」
関連記事

                              
 以前に幕末の満濃池決壊のことについてお話ししました。

P1160035
満濃池の石造底樋(まんのう町かりん会館前)

 木造底樋から石造物に、転換された工事が行われたのは、嘉永五(1852)年のことでした。しかし、石材を組み立てた樋管の継ぎ手に問題があったこと、2年後の嘉永七年に大地震があったことなどから、樋管の継ぎ手から水が漏れはじめて、満濃池は決壊します。高松藩の事件などを記した『増補高松藩記』には、「安政元年六月十四日地震。七月九日満濃池堤決壊。田畝を多く損なう」と、簡潔な記述があるだけです。
P1160033

 そんななかで私が以前から気になっていた記録があります。
決壊から約60年後の大正4(1915)年に書かれた『満濃池由来記』(大正四年・省山狂夫著)です。
ここには、決壊への対応が次のように記されています。
七月五日
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
七月六日
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。
一番ユルと二番ユルの間に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
七月八日
夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
七月九日 
高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官。朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
この時の破堤の模様について、「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚鼈(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

  この記述を見ると気がつくのは、対応の記述内容が非常にリアルなことです。
   「土俵六十袋・直径三メートルほど陥没・二隻の船で土俵三百袋を投入」などの具体的な数字が並びます。時代がたつにつれて、記憶は薄れて曖昧な物になっていきます。それなのに、昨日に見てきたような情景が、後世の記録に叙述されるのは「要注意」と師匠からは教えられました。「偽書」と疑えというのです。比較のために、同時代の決壊報告記録を見ておきましょう。
 
【史料1】
 六月十四日夜、地震十五日暁二至小地震数度、十五日より十二日二至、京畿内近江伊勢伊賀等地大二震せしと云
   ( 中  略 )
九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツヽ残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二て さや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五日前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
  意訳変換しておくと
 6月14日夜に大地震、15日暁には小地震が数度、京畿や近江・伊勢・伊賀などで大地震が起きたという。
   ( 中略 )
7月9日に、満濃池堰堤が長さ四十間余りに渡って決潰、そのため下流の那珂郡は大水で田畑や人家に大きな被害が出ている。堤は六十間余の所が、両方から七八間だけが残って、真ん中の四十間余りが切れている。金毘羅は大水害で、鞘橋の上に一尺ほども水が流れ、橋は大きな損傷を受けている。町々の人家へも水は流れ込み、被害が出ている。もっとも水漏れ発見後に、郡奉行代官が出張指揮して、下流の人々へ注意を呼びかけていたので、人や馬などに怪我などはない。また、貯水量が満水でなく無之、4割程度であったので水の勢いも小さく被害は少なく終えた。
ここには決壊への対応については、何も出てきません。
決壊中の満濃池
決壊した満濃池跡を流れる金倉川
  【史料2 意訳のみ】
一 四日頃より穴が開いて、だんだんと大穴になって、堰堤は切れた。堰堤で残ったのは四五拾間ほどで、池尻の御領池守の居宅は流された。死人もいるようだ
一 金毘羅の榎井附近の町屋は、腰まで水に浸かった。金毘羅の阿波町も同じである
一 鞘橋はあやうく流されそうになったが、なんとか別条なく留まった。
一 家宅は、被害が多く出ている
一 田んぼなどには被害はないようだが、川沿いの水田の中には地砂が入ったところもある。
一 晴天が続いていた上に、田植え後のことで池の貯水量が4割程度であったことが被害を少なくした。
ここでも記されるのは、危害状況だけで堤防の決壊を防ぐために何らかの手当が行われたことは、何も記されていません。

ほぼ同時代に書かれた讃岐国名勝図会は、決壊経過やその対応について次のように記します。
満濃池 底樋石造化と決壊
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
7月4日に、樋のそばから水洩が始まった。次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
 P1160039
満濃池決壊で流出した底樋の石材
 ここでも決壊後の具体的な対応については、何も触れられていません。ただ「見守るしか出来ないでいるうちに・・」とあります。当時の人達は、為す術なく見守るしかなかったと考える方が自然なようです。
仲多度郡史 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

1918年(大正7)年1月に、仲多度郡が編集した『仲多度郡史』(なかたどぐんし)には、満濃池の崩壊が次のように記されています。
満濃池は寛永年間、西島之尤、之を再築して、往古の形状に復し、郡民共の恵沢に浴せりと雖も、竪樋、底樋等は累々腐朽し、爾後十五回の修営ありしか、嘉永二年に至り、又もや樋管の改造を要せり。此の時榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と議り、官に請ふて樋替を為すに当り、石材を用ひて埋樋の腐朽を除き、将来の労費を省かむとし、漸くにして共の工事を起し、数年を費して、安政元年四月竣工を告けたり。然るに同年六月地震あり。是より樋管の側壁に滲潤の兆ありしか、間もなく池水噴出するに至り、百方防禦に尽し、未た修理終らさるに、大雨あり。漏水増大して遂に防く能はす、七月九日の夜堤防決潰し、池水底を抑ふて那珂、多度両郡に法り、数村の緑田忽ち河原と変し、家屋人畜の損害亦彩しく、 一夜にして長暦の昔の如き惨状を現はし、巨額の資金と数年間の労苦は、悉く水泡に帰したり。是歳、十一月四日大地震あり。
家屋頻に傾倒するを以て、人皆屋外に避難せり。翌五日綸ヽ震動を減したるも、尚ほ車舎を造りて寝食すること十数日に渉れり。而して此の地震は、翠年の夏に命るまて、時々之を続けたり。当時民屋の破壊せしもの数千月にして、実に讃地に於ける未曾有の震災と云ふべし。
意訳変換しておくと
満濃池は寛永年間に、西嶋八兵衛之尤が再築して往古の姿にもどし、郡民に大きな恵沢をもたらすようになった。しかし、竪樋、底樋等は木造なので年とともに腐朽するので、交換が必要であった。そのため十五回の修営工事が行われてきた。嘉永二年になって、樋管の交換が行われることになった。この時に榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と協議して、幕府の代官所に底樋に石材を用いて、以後の交換工事をしなくて済むように申し出て許可を得た。こうして工事に取りかかり、数年の工事期間を経て、安政元年四月に竣工にこぎ着けた。ところが同年六月に大地震があり、樋管の側壁に隙間ができたようで、間もなく池水が噴出するようになった。百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し、池水は那珂、多度両郡に流れ込み、数村の水田をあっという間に河原とした。家屋や人畜の損害も著しく、一夜にして惨状を招いた。こうして巨額の資金と数年間の労苦は、水泡に帰した。(後略)
 
水漏れ後の対策については「百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し・・・」とあるだけです。ここにも具体的な対応は何も記されていません。「漏水は増大して止めようがなくなった」のです。ただ「百方防禦に手を尽した」とあるのが気になる所です。これを読むと、何らかの対応があったかのように思えてきます。そうあって欲しいという思いを持つ人間は、これを拡大解釈していろいろな事例を追加していきます。ありもしないことを「希望的観測」で、追加していくのも「歴史的な偽造」で偽書と云えます。

そういう視点からすると『満濃池由来記』の次のような記述は、余りに非現実的です。
「土俵六十袋を投入・
「夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。」
「阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。」
「高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。」
「二隻の船で土俵三百袋を投入。」
同時代史料には、何も書かれていない決壊時のいくつもの対応記事が、非常に具体的にかかれているのです。また『満濃池由来記』と、ほぼ同時代に書かれた仲多度郡史にも、「決壊対策」は何も書かれていません。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
それならば作者は、何のためにこのような記事を書いたのでしょうか?
  そこには、幕末の満濃池決壊の評価をめぐっての「意見対立」があったようです。この決壊に対して、地元の農民達は、工事直前から「欠陥工事」であることを指摘して、倉敷代官所へ訴え出ていたことを以前にお話ししました。そのため決壊後も工事責任者である長谷川喜平次に対する厳しい批判を続けたようです。つまり、水利責任を担う有力者と農民たちが長谷川喜平次の評価を巡って、次のような論争が展開されます。
①評価する側 
農民達のことを慮って、木造底樋から石造化への転換を進めたパイオニア
②評価しない側 
底樋石造化という未熟な技術を採用し、満濃池決壊を招いた愚かな指導者
①の立場の代表的なものが、前回見た讃岐国名勝図会の満濃池の記事の最終部分です。そこには次のように記されていました。(意訳変換済み)
  もともと、満濃池の底樋は木造だったために、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天はは御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている

②の農民の立場からすると、彼らは倉敷代官所に次のような申し入れをしていました
長谷川喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

 それに応ぜずに工事を継続した長谷川喜平次の責任は重い。にも関わらず責任を取って、止めようともしない。話にならない庄屋という評価です。こうした分裂した評価が明治になっても、引き継がれていきます。そして、満濃池の水利組合の指導部と、一般農民の中の対立の因子の一つになっていったようです。それが農民運動が激化する大正時代になると、いろいろな面に及ぶようになったことが考えられます。
  作者の「省山狂夫」が、どんな人物なのかは分かりません。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
 長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。

江戸時代後期になって西讃府史などの地誌や歴史書が公刊されようになると、この編纂の資料集めをおこなった庄屋たちの間には、郷土史や自分の家のルーツ捜し、家系図作りなどの歴史ブームが起きたようです。そんな中で、自分の家の出自や村の鎮守のランクをより良く見せたりするために、偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されて、私たちを惑わしてくれます。


 以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、今では椿井文書通りの式内社に位置づけされているようです。こうして、地域の鎮守社を式内社に格上げしていく試みが始まります。このような動きはの中で、満濃池の池の宮の「神野神社」への変身と、式内社化への動きもでてくるようです。歴史叙述には、自らの目的で、追加・書き換えられるものでもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「満濃池史」110p 幕末の満濃池決壊











 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

P1240826
天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」

ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した豪族矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。

  矢原又右衛門の子利右衛門が貞享三寅年(1686)12月に病死して後、矢原家は池守職を離れます。
こうして、矢原家は満濃池との関係を失って行くことになります。代官・守屋家の失脚は、この4年後になります。それまでの代官と池守が去ったあと、満濃池と池御領は、どうなっていくのでしょうか。それはまたの機会に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    












            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分として、菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
以上の十二名。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」


   寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文が「祖谷紀行」です。この中で雨のために東祖谷の久保家に何泊かして、当主から聞いた平家落人伝説などのいろいろな話が載せられています。その翌日に平家の赤旗がある阿佐家を訪ねています。今回は、幕末に起きた久保家と阿佐家をめぐる事件を見ていくことにします。テキストは、 「阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7」です。

     阿佐家住宅パンフ
阿佐家パンフレット

阿佐家には「平家の赤旗」2流があり、祖谷平家落人伝説の中心であり、屋敷も「平家屋敷」として名高い旧家です。
平家の赤旗 4
阿佐家の平家の赤旗

平家の赤旗2

阿佐家の平家の赤旗(大旗と小旗)

阿佐家には28通の文書が残されています。それを研究者が内容別に分類したのが次の表です。 
阿佐文書 郷士身振の件名目録1
阿佐家文書 2

A.阿佐家の当主左馬之助の惣領で,17才となった為三郎の藩主への年頭御目見得関係文書(No.1~7)。
B.阿佐為三郎の政所助役就任関係文書(No.9~11)。
C.阿佐為三郎の御隠居様(蜂須賀斉昌)への御目見得関係文書(No.12~14)。
D.久保名名主代理関係文書。(No.15~26)。
E.外出時における供揃や藩士に出会ったときの挨拶の仕方など,郷士としての格式を記した「郷士身振」
F その他(No.8・27・28)
 ほとんどの文書は幕末の嘉永・安政期が中心です。中世や近世初頭に遡るものはありません。内容は阿佐為三郎に関係するものがほとんどです。この文書群の中で、多くの紙幅が費やされているのがDの文書です。
阿佐家住宅パンフ裏
阿佐家パンフレット(裏)
 安政2年(1855)5月に起きた久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応です。
久保家は阿佐家と同じく郷高取・郷士格となった「祖谷八士」の一人で、阿佐家の分家筋にあたるようです。名主であった久保大五郎が、どうして出奔したのかはよく分かりませんが、久保名の管理・運営に関してトラブルがあったようです。名主がいなくなった久保名を、どうするかについてについて対応が協議されます。まず考えられたのが先例に従って,次の名主が決定するまで喜多源内が管理する案です。しかし,喜多家は重末名(旧西祖谷山村)にあって、久保名とは6里も離れています。日常的な業務に差し障りありとして見送られます。
祖谷山の民家分布

 次に考えられたのが、政所喜多源内・政所助役南乕次郎・同菅生源市郎・政所助役見習喜多達太郎・同阿佐為三郎の5人による共同管理案です。この案が美馬三好郡代から藩に上申されます。この年7月、池田の郡代役所に呼び出された喜多源内ら5人に対して、郡代の上申に沿った措置が当職家老の命令として伝えられます。ここで阿佐名では無役であった阿佐為三郎が、久保名管理の中心となることが想定されていたようです。しかし、共同管理体制というのは、責任の所在が不明瞭で混乱が起きることが多々あります。この場合もそうで、早々に行き詰まります。
そこで、最後の手段として考えられたのが阿佐為三郎が久保名の久保大五郎の屋敷に移住し、政所助役見習と久保名主代理を当分の間兼帯する、そのかわりに四人扶持の扶持米(一人扶持に付き1日に玄米5合が支給)を支給するという案です。これを喜多源内は美馬三好郡代に提出します。ところが、これを徳島藩上層部は却下します。理由は「郷士格に扶持米支給の先例無し」でした。「郷士格に扶持米の支給をしたことはない、先例に無いことは困る」という所でしょう。

阿佐家上段の間
阿佐家 ジョウダンノマ
 久保名を治めるためには、阿佐為三郎の久保名移住・名主代理就任以外に方法はありません。
しかし、四人扶持支給がなければ為三郎の久保名常駐はできません。安政3年12月に、その旨の上申書が美馬三好郡代から城代家老に出されます。この中で三好郡代は、久保名の混乱が祖谷山全体に波及するおそれを強調します。それを防ぐためにも、久保名の早期の安定が必要であることを訴えます。こうして、出奔事件から2年目の安政4年4月になって、阿佐為三郎の久保名主代理就任と久保大五郎屋敷の拝借が藩によって認められます。懸案だった扶持支給については「申出之通承届(許可)」と書かれています。祖谷山の安定を優先させた妥協策が採られたようです。こうして、三好郡代や徳島の城代家老までも巻き込んだ久保名主代理一件は収束していきます。

阿佐家玄関
阿佐家玄関
 ここで研究者が注目するのは,「郷士身振」文書の中に何度も出てくる「(祖谷は)不人気之名柄」という言葉です。
祖谷が「不人気之銘柄」というのは、どういうことなのでしょうか。
 約十年前の天保13年(1842)に、東祖谷の名子が土佐への逃散事件を起こしています。近世後期の祖谷山では、名主の支配に対する名子の不満が蓄積していたようです。そのため名手と名子の関係はギクシャクしていました。それが郡代や政所・名主から見ると「不人気」という表現になると研究者は推測します。久保大五郎出奔の背景に、このような名子との対立があったようです。また「郷士格に扶持米支給の前例無し」という藩側の原則論を崩したのも、「不人気な祖谷山」に対する危機感があったと研究者は推測します。

栗枝渡火葬場

 平家落人伝説が書物に書かれ、それに従って関係する神社や名所が祖谷に姿を現すのは、近世後半になってからのことです。
そして、当時の「祖谷八家」と呼ばれる名主たちは、自らが平家の落人の子孫であると声高に語るようになります。これは自分たちの「支配の正当性」を主張するものとも聞こえます。つまり「(祖谷)不人気之名柄」=「名主の支配に対する名子の不満の蓄積」=「名主と名子のギクシャク関係」に対する名主側からの「世論工作」の面もあったのではないか、「祖谷八家=平家落人の子孫=支配者としての正当性」を流布することで、名子の不満を抑え込もうとしたとも考えられます。このことについては、またの機会にしたいと思います。
研究者は、徳島県立文書館寄託「蜂須賀家文書」の中の次の文書を紹介します。
蜂須賀家政の祖谷久保家への安堵状

①年号は慶長17年(1612)7月8日
②発行主は、阿波藩主蜂須賀家政
③宛先は、 祖谷久保名の久保源次郎
  藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書です。内容は、それまで持っていた名職と久保名内で30石の知行を安堵するものです。研究者は、これは写しでなく原本だと考えています。久保名の名主であり、郷高取・郷士格となった久保家にとって、藩主のお墨付きでもあるこの安堵書は、最も大切な文書であったはずです。
それがどうして藩主の蜂須賀家の手の元にあるのでしょうか
 研究者が注目するのが、この宛行状(判物)の包紙の差出者が阿佐左馬之助と西山内蔵之進(西山氏は西山名の名主で「祖谷八士」の一人)であることです。ここからは久保家の不始末を、わびるために久保家に残されていた宛行状を藩に「お返し」したのではないかと研究者は推測します。なお、この宛行状については宝暦9年(1759)に書かれた『祖谷山旧記』に全文が紹介されています。
以上をまとめておきます。
①「平家の赤旗」が残る阿佐家には、近世後半の多くの文書が残されている。
②その中に安政2年(1855)5月の久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応文書がある。
③それは出奔不在となった久保名の名主を、本家筋の阿佐家の一族が継承就任するまでのやりとり文書である。
④また藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書が、蜂須賀文書に収められていることは、久保家の不始末を詫びるために安堵状が藩主に変換されたことがうかがえる。
⑤当時の祖谷は名主と名子の関係が悪化しており、「不人気之名柄」と認識されていた。
⑥このようなことが久保大五郎の出奔事件の背景にある。

18世紀席末に、「祖谷紀行」を書いた菊地武矩が御世話になった久保家は、その後の約半世紀後に主人が出奔し断絶したようです。そして、入ってきたのが本家筋の阿佐家になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7
『東祖谷山村誌』(1978年 東祖谷山村)
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祖谷紀行 表紙
菊地武矩の「阿波紀行」
 寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文が残されています。
今回は、今後の史料として「祖谷紀行」を現代文意訳で、アップしておこうと思います。なお「祖谷紀行」は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧可能です。
 18世紀後半と云えば、金比羅船が就航して、その参拝客が急増していく時期です。この時期に、十返舎一九は、東海道膝栗毛を出しています。さらに紀行文ブームの風を受けて、弥次・喜多コンビに金毘羅詣でをさせています。これは「祖谷紀行」が書かれた約10年後のことになります。ここからは18世紀末から19世紀初めは、伊勢参りが大人気となり、その余波が金毘羅参りや、宮島参りとなって「大旅行ブーム」が巻起きる時期にあたるようです。文人で、歌好きの菊地武矩も、祖谷を「阿波の桃源郷」と見た立てて旅立っていきます。

 阿波紀行 1P
        菊地武矩の「祖谷紀行」の書き出し
左ページが祖谷地方について書かれた冒頭部です。これを書起こすと以下のようになります。

祖谷紀行 讃州浪士 菊地武矩
祖谷は阿波の西南の辺にあり、美馬郡に属す。
久保二十郎云、むかしハ三好部なり、蜂須賀蓬寺君の阿州に封せられ給ひしより、美馬郡につくとなり、美馬郡は昔名馬を出せし故に呼しと、
○祖谷を美馬となせしハ、寛文中、光隆君の時なりともいふ。南北遠き所ハ六里、近きハ三里余、東西遠きハ十五、六里、近き所ハ一二、三里、其地いと幽途にして一区中の如く、ほとんどは桃源の趣あり、むかし安徳天皇雲隠れまし、所にて、其御陵又平家の赤旗なんとありときこえけれハ、床しく覚えて行遊の志あり、ここに西湖といふものあり、

意訳変換しておくと
 祖谷は阿波の西南にあたり、美馬郡に属す。久保三十郎が云うには、昔は三好郡であったが、蜂須賀小六が阿波藩主に封じられた時に、美馬郡に属するようになった、美馬郡は、かつては名馬を産したので「美馬」と呼ばれたと。
○祖谷を美馬郡に編入したのは、寛文年間の時とも伝えられる。祖谷は、南北六里、東西は十五里で、幽玄で、桃源境の趣がする。かつて、安徳天皇が落ちのびた所で、その御陵には平家の赤旗もあると聞く。そんなことを聞いていると旅心が湧いてきた。友人に西湖といふ者がいる。
祖谷紀行2P
祖谷紀行2P目

意訳変換しておくと
もとは吉備の中津国の人で、祖谷の地理についてよく知っている。そこで彼が近村にやって来たときに、佛生山の田村惟顕(名敬、称内記)と、出作村の中膊士穀(名秀実、称六郎衛門)と、申し合せて、祖谷への先達を頼んだ。
こうして寛政五年(1792)卯月25日の早朝に、私たち4名は香川郡由佐を出立した。
香川(香東川)に沿って、南に半里ばかり歩いた。(文中の一里は五十丁、一町は五十歩、一歩は六尺) ここには讃岐の名勝として名高い「童洞の渕(井原下村)」がある。断岸の間にあって、青山が左右に起立して、明るい昼間でも仄かにくらく、その水は南から流れ来て、滝として落ちる。それは渦巻く波車のように見える。その中に穴がある。廣さは一丈ばかりで、深さはどれだけあるのか分からない。その中に龍の神が、潜んでいると云われる。旱魃の年には、雨乞い祈願のために、祀られる。
ここまでの要点をまとめておきます
1792年旧暦4月25日に、4人連れ添って祖谷への旅に出た。②香川(=香東川)の「童洞の渕(現在の鮎滝周辺)」は、讃岐の名勝で、龍神の住処で雨乞いの祈願が行われる場所でもあった。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。童洞淵は現在の鮎滝で高松空港の東側です。

相栗峠
鮎滝から相栗峠まで
鮎滝からは奥塩江を経て、相栗峠までを見ておきましょう。
 この渕からより東南へ一里ばかり行くと、関、中徳、椿泊、五名中村を経て、岩部(塩江美術館付近)に至る。また、中徳から右に進むと、西南半里余で、奥野に至る。その間には斧か渕、正兵瀧、虹か瀧などもあり、名勝となっている。これについては、私は別の紀行文で書いたので省略する。その道のりの間には、怪しい山が多くあることで有名で、翡翠も多い。
4344098-34香東川屈曲 岩部八幡
香東川曲水と岩部八幡(讃岐国名勝図会)
 さて岩部には、石壁がある。 高さ二丈余りで、長さ数百歩、好風が吹き抜けていく。その下を香川(香東川)が清くさやけく流れていく。巌の上の跡を見ながら、持参した酒をかたむける。この景色を眺めながら大和歌を詠い、吉歌を詠む。
 すでに時刻は午後2時に近く、西南に100歩も行くと、香川(香東川)に別れを告げ、(美馬・塩江線沿いに)いよいよ国境を目指す。ここからは不動の瀧、塩の井(塩江)鎧岩、簑の瀧などがある。これも別記した通りである。ますます幽玄になり、時折、鶯の声も聞こえる。

4344098-31
塩江の滝(讃岐国名勝図会)
 土穀詩の「深山別有春余興・故使鶯声樹外残・其起承」を思い出す。焼土(やけど)という所を過ると、高い山の上に、趣のある庵が見えて来た。白雲が立つあたりに、どんな人が浮世を厭い離れて暮らしているのだろうか。むかし人の詠んだ「我さへもすたしと思ふ柴の庵に、なかはさしこむ峯の白雲となん」という歌を思い出し、その通りだと納得する。

4344098-33塩江霊泉
塩江霊泉(讃岐国名勝図会)

 内場(内場ダム周辺)という所を過ぎると、山人の炭焼窯があちこちに見えてくる。山はますます深くなり、渓水はその間を流れ、香川(香東川)に合流する。その渓流の響きは、八紘の琴のようにも聞こえる。石壁にうけ桶が架けられた所、巖の列立て、笙の竹が植えられた所など、この間の風景は殊にいい。そうするうちに合栗(相栗峠)に着いた。
相栗峠(あいぐりとうげ)

ここまでのルートを振り返ると、次のようになります。

① 由佐 →鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠

現在の奥塩江経由になります。相栗峠は、龍王山と大瀧山の鞍部にある峠で、美馬と髙松平野を結ぶ重要交通路でした。中世から近世には、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の髙松平野への教線伸張ルートであったことは以前にお話ししました。
 話の中に詩文の引用が登場してきます。筆者にとっての紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。紀行文は、歌を登場させるための「前振り」的な意味もあります。詩文の比重が高かったことを押さえておきます。
相栗峠の由来について、作者は次のように記します。
ここは讃岐と阿波の境になる。この峠には、次のような話が伝わっている。昔、ここに栗の樹があって、阿讃の人達が栗を拾ったので、その名前がついた。そこに大田の與一という人物が四十年前に移ってきた。なお大田村の松本二郎は、その一族と云う。彼が私に語った所によると、安原は山村なので、南北五、六里の鮎瀧・関・中徳・五名・中村・椿泊・岩部・燒土・内場・細井などは、その小地名で、合栗も細井の小字名であろう。細井は、山の麓にあって、大干魃の際にも水が涸れず、大雨にも増水することがない。常に細々と水が流れるので「細井」という地名がついている。
 また細井には鷹匠が鷹を獲る山があり、綱を木の上に架け置いて、その下に伏せて待っていて、鷹がかかれば起出て捕える。しかし、鷹は蹴破って逃げることもある。
 朝に郷里の由佐をでて、阿讃国境の相栗峠まで四里、はるかまでやってきた。
由佐よりトウト渕まて半里、トウト渕から岩部まて一里半、岩部より合栗(相栗)まで二里半になる。はじめて讃岐を出て他国に入る。振り返れば、八重に山々が隔たり、雲霧もわき出ている。故郷の由佐を隔てる山々は、巨竜の背のように、その間に横たわる。
相栗峠について、私が疑問に思うのは関所らしきものが何も書かれていないことです。阿波藩と高松藩の間には、国境に関しての協定があって、重要な峠には関所が置かれ、通過する人とモノを監視していたとされますが、この紀行文にはそのような記録はでてきません。峠は、自由往来できていた気配がします。
相栗峠から貞光までの行程を見ておきましょう。
 相栗峠から東南へ、林を分け谷を周りこんでいくと谷川がある。これが「せえた川(野村川谷?)」で、その川中を辿って一里ほど下りていく。左右は高い山で、右を郡里山といひ、左りを岩角山と云う。草樹が茂る中を、川を歩き、坂を下り、平地を壱里ほど歩くと、芳(吉)野川に出る。この川の源流は土佐國で、そこから阿波国を抜けて海に出る。流域は六、七十里の、南海四州の大河である。大雨が降ると、水かさを増して暴れ川となる。私は、「其はしめ花の雫やよしの川と」という歌のフレーズを思い出したが。それは大和の吉野川のことであったと、気づいて大笑いした。
 船に悼さして吉野川を南に渡ると、人家の多い都会に行き着いた。これを貞光という。養蚕が盛んで、桑をとる姿がそこかしこに見える。その夜は、この里に宿を取った。
①相栗峠からは、「川中を辿り」「川を歩き」とありますので、沢歩
きのように渓流沿いを歩く道だったことがうかがえます。
②平地に出て一里歩いているので郡里まで西行したことが考えられます。
③そして郡里から「船に悼さして吉野川を南に渡」って、貞光に至ったとしておきます。
④貞光周辺は「養蚕が盛んで、桑をとる姿」が見えたことを押さえておきます。

旧暦4月26日の貞光から一宇までのコースを、見ていくことにします。
翌朝26日に、貞光を出発して西南方面の高い山に向かう。その山は岩稜がむき出しで、牙のような岩が足をかむことが何度もあった。汗を押しぬぐって、ようやく峠に出ると、方五間ほどの辻堂があった。里人に聞くと、①新年には周辺の里人達が、酒の肴を持ち寄って、このお堂に集まり、日一日、夜通し、舞歌うという。万葉集にある筑波山の会にも似ている。深山なればこそ、古風の習俗が残っているのかもしれない。その辻堂で、しばし休息した後に、さらに高い山に登っていくと、石仏が迎えてくれた。これが貞光よりの一里塚の石仏だという。
 古老が云うには、日本國には、神代の習俗として、猿田彦の神を巷の神として祭り、その像を刻印した。仏教伝来以後は、それを地蔵に作り替えたが、僻地の國では今も神代ままに、残っている所があると云う。辻堂の宴会が万葉の宴に似ているのを考え合わせると、この石佛も、むかしの猿田彦の神なのかもしれない。
 ここから仰ぎ見ると、高き山が雲や千尋の谷を従えているように見える。さらに、この道を登っていくと、壱里足らずで猿飼という所に至る。山水唐山に似て、その奇態は筆舌に尽くしがたい。

鳴滝 阿波名所図会
鳴滝(阿波名所図会)
 耳を澄ますと、水のとどろく音が聞こえてくる。何かと怪しみながら近づいていくと、大きな瀧が見えて来た。これが鳴瀧である。瀧は六段に分かれ、第一段は雲間より落てその源さえ見えない。第二段は岩稜に従い落ちて、第三段は岩を放れて飛び、四段五段は、巌にぶつかりながら落ちていく、第六段は谷に落ち込んで、その末は見えない。全長は上下約二百四五十尺にも及ぶ。適仙が見たという中国の濾山の瀑布水も、こんなものであったのかと思いやる。雲間から落てくる瀧の白波は、天の川の水がそそぎ落ちるのかとさえ思う。
 天辺の雲が裂けて龍の全貌が見えると、あたりに奇石多く、硯にできるとような石壁が数丈ある。形の変わった奇樹もあり、枝幹も皆よこしまに出たりして、面白い姿をしたものが多い。
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇

①貞光の端山周辺には、各集落毎にお堂があること。
②お堂に集落の人たちが集まり、酒食持参で祖霊の前で祈り・詠い・踊ること。
③祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくること。
④「ソラの集落」として、有名になっている猿飼を通過している
④鳴滝の瀑布を賞賛していること、しかし土釜は登場しない。

眺めを楽しみながら、山の半腹をつたい、谷を廻っていくと一宇という所に着いた。
一宇の人家は五、六軒。その中に南八蔵という郷士の家がある。この家は、祖谷八士と同格で、所領も相当あるという。その家の長さは九間だが、門も納屋もない。讃岐の中農程度の家である。山深い幽谷であるからであろうか。しばらく進むとふちま山がある。山の上に山が重なり。人が冠せたように見えるのが面白い。
さらに進んで松の林で休息をとる。そこで貧ならない山人に出会ったので、どこの人か聞くと、「竹の瀬」の者だと答えた。竹の瀬は、一宇の山里のようである。彼の名を問うと辺路と答えた。それは、世にいふ「辺路(遍路)」なのかと問うと、そうだという。聞くと、彼の父が四國辺路に出て、家を留守している間に生れたので、辺路とい名前がつけられたようだ。辺路とは、阿讃豫土の四国霊場をめぐり、冥福をいのることを云う。
 他にもそんな例はあるのかと問うと、伊勢参宮の留守に生れた男は、参之助・女は「おさん」と名付けられている。また、生れた時に胞衣を担いで、袈裟のやうにして生れた男の子は、袈裟之助、女の子は「おけさ」と名付けられている。また末の子を「残り」、その他に右衛門左衛門判官虎菊丸鳥とい名前もあり、源義明・源義経・浮田中納言秀家・法然上人という名前を持つものものいるという。ここで初めて、私は「辺路」や「遠島」という名前もあるのだと知った。ここで出会った「辺路」を雇って案内者とすることにした。
①当時の一宇には、五・六軒の人家しかなかったこと。近代に川沿いに道が伸びてくるまでは、多くの家はソラの上にあった。
南八蔵の家は、この地方では最有力な郷士であったが、門も納屋もなかった。
③「辺路」と名付けられた男に、案内人を頼んだ。
  ここに出てくる南八蔵の家は、一宇山の庄屋で今はないようです。南家については、弘化四年「南九十九拝領高并居宅相改帳」に、ここに「居宅四間 梁桁行拾五間  萱葺」と記載されています。この建物は明治30年に焼夫したようです。

しばらく行くと、「猿もどり」という巖が出てきた。
「猫もどり」、「大もどり」とも呼ばれるという。「ヲササヘ」(?)とい地名の所である。幅二三尺長七八丈、高三四丈で、藤羅がまとわりついて千尋の谷に落ちている。さらに数百歩で大きな巖の洞がある。その祠の中には二十人ほどは入れる。伝説によると、その祠の中に、大蛇が住んでいて、往来の人や禽獣を飲み込んでいたという。
 さらに進むと雌雄という所に着いた。
「こめう」は、民家十四、五軒で、山の山腹にある。ここまで来て、日は西に傾き、みんなは空腹のため動けなくなった。
一宇 西福寺2
最(西)福寺

ここにある最福寺の住職と西湖は知人であった。そこで、寺を訪ねて一宿を請うた。しかし、住職が言うには、ここには地米がなく、栗やひえだけの暮らしで、賓客をもてなすことができないので、受けいれられないと断られた。西湖が再度、懇願し許諾を得た。私たちが堂に上ると、住職や先僧などがもてなしてくれた。その先僧は西讃の人で、故郷の人に逢ふような心地がすると云って、時が経つのも忘れて談話をした。住僧は、人を遠くまで遣って米を求め、碗豆を塩煮し出してくれた。私たちは大に悦び、争うように食べた。その美味しさは八珍にも劣らない。先ほどまでの空腹を思えば、はじめやって来たときに、梵鐘が遠くに聞こえるように思い、次の詩を思い出した。
日暮行々虎深上、逢看蘭若椅高岡、応是遠公留錫杖、仙詔偏入紫雲長、諸子各詩ありこと長けれ
  貞光より雌雄までは、凡そ五里と云うが、道は山谷瞼岨で、平地の十余里に当たるだろう。    

一宇 西福寺
一宇から西光寺、そして小島峠へ

一宇から明谷の最(西)福寺寺までの行程は次の通りです。
一宇 → ふちま山 → 猿もどり → 雌雄 → 最(西)福寺

しかし、今の私には出てくる地名が現在のどこを指すのか分かりません。ご存じの方がいれば教えて下さい。どちらにしても、最福寺までやってきて、なんとか宿とすることができたようです。この寺の先僧が西讃出身と名告ったというのも気になる所です。四国霊場の本山寺は、その信仰圏に伊予や土佐・阿波のソラの集落を入れていたことは以前にお話ししました。本山寺と関係する馬頭観音の真言修験的な僧侶でなかったのかと私には思えてくるのです。
今回は「祖谷紀行」で、讃岐由佐から一宇まで、2日間の行程を追ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
菊地武矩 祖谷紀行 国立公文書館のデジタルアーカイブ
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       幕末の農民4
幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋

農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿

西川津町の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
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  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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神野神社 満濃池堰堤の背後の岡に鎮座
満濃池の堰堤の背後の岡に、神野神社が鎮座します。この神社の古い小さな鳥居からは眼下に広がる満濃池と、その向こうに大川山が仰ぎ見えます。私の大好きな場所のひとつです。

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神野神社からの満濃池と大川山
 この神野神社は延喜式の式内神社の論社(候補が複数あり、争論があること)でもあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴 象頭山八景(1845年)

この神社は、上の絵図のように戦後までは満濃池の堰堤の西側にありました。江戸時代には「池の宮」、明治当初は「満濃池神」と呼ばれてきたことが残された資料からは分かります。神野神社と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようです。どうして、神野神社と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、式内社をめぐる争論が関わっていたようです。

P1160049 神野神社と鳥居
神野神社の説明版
 神野神社について満濃町誌964Pには、次のように記されています。
①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。
 ④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
 ⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。
⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。
⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。
⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、
⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。
⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。
⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。
社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。
神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
以上から読み取れることを要約しておくと次の通りです。
神野神社の創建については、次の3説が紹介されています。
①伊予からの移住者が伊予の神野郡にちなんで神野と呼び、神野神社を建立した
②神櫛王の子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社
③満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社

①の「神野」という地名については、古代の郷名には登場しないこと
②神櫛王伝説は、綾氏顕彰のために中世になって創作されたもので古代にまで遡らないこと。
以上から③の民俗学的な説がもっとも相応しいものように私には思えます。

④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
⑤「神野神社」が古代の式内社であった
⑥中世の「神野神社」は。矢原氏によって守られてきた。
⑦江戸時代になって生駒藩の西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された。
⑧堰堤改修に合わせて池の宮も改修が行われてきた。
⑨1953年の昭和の大改修で、現在地に移された
⑩明治の再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門や榎井村庄屋長谷川佐太郎などが合祀された

以上をみると、満濃町史に書かれた神野神社の由来は、別の見方をすれば矢原家の顕彰記でもあることが分かります。
④⑤⑥では、満濃池築造以前から矢原氏がいたこと、古代から矢原氏などの信仰を受けて神野神社が姿を現し、式内社となっていたとされます。
ダムの書誌あれこれ(17)~香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)~ 2ページ - ダム便覧
満濃池史22Pは、空海と矢原氏の関係を次のように記します。

空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
 
 ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池下の矢原家住宅と諏訪明神(讃岐国名勝図会)
矢原氏は、近世の満濃池池守の地位を追われた立場でもあります。そのため満濃池の管理権を歴代の祖先が握っていたことを正当化しようとする動きがいろいろな所に見え隠れします。そのことについて話していると今日の主題から離れて行きますので、また別の機会にして本題に帰ります。
まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 寛永年間(1624~45年)
池の宮が最初に登場するのは、上の絵図です。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
池の宮3
            満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
 ③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。

金毘羅山名勝図会2[文化年間(1804 - 1818)
満濃池 (金毘羅山名所図会 文化年間1804~19)
この書は、大坂の国文学者石津亮澄、挿絵は琴平苗田に住んでいた奈良出身の画家大原東野によるものです。『日本紀略』や『今昔物語集』を引用し、歴史的由緒付けをした上で広大な水面に映る周囲の木々や山並み、堰堤での春の行楽の様子を「山水勝地風色の名池」と記します。上図はその挿絵です。東の護摩壇岩と西側の池の宮の間に堰堤が築かれ、その真ん中にユルが姿を見せています。その背後には、池面と背後の山容が一体的に描かれます。添えられた藤井高尚の和歌には、次のように詠われています。

 「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
 金毘羅名所図会 池の宮
満濃池池の宮拡大 (金毘羅山名所図会)
池の宮の部分を拡大して見ると、堤防から伸びた階段の沿いに燈籠や鳥居があります。その後に拝殿と本殿が見えます。こうして見ると、
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。


満濃池遊鶴(1845年)2
象頭山八景 満濃池遊鶴(1845年)
この時期の金毘羅大権現は、金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石畳や玉垣などが急速に整備され、面目を一新する時期でした。それにあわせて金光院は、新たな新名所をプロデュースしていきます。この木版画も金堂入仏記念の8セットの1枚として描かれたものです。 これを請け負っているのは、前年に奥書院の襖絵を描いた京都の画家岸岱とその弟子たちです。ここには、堤の右側に池の宮、その右側には余水吐から勢いよく流れ落ちる水流が描かれています。満濃池の周りの山並みを写実的に描く一方、池の対岸もきちんと描き、池の大きさが表現されています。後の満濃池描写のお手本となります。ちなみに、次の弘化4年(1847)年、大坂の暁鐘成の金毘羅参詣名所図会は、挿絵作家を連れてきていますが、挿絵については上の「象頭山八景 満濃池遊鶴」の写しです。本物の出来が良かったことの証明かも知れません。 
img000027満農池 金毘羅参詣名所図会
 金毘羅参詣名所図会 弘化4年(1847)
この絵からは、やはり鳥居や本堂は堰堤に向いているように見えます。そして地元の出版人によって出されるのが「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)です。

満濃池(讃岐国名勝図会)
満濃池「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)
梶原藍渠とその子藍水による地誌で、1854年に前編5巻7冊が刊行されますが、後は刊行されることなく草稿本だけが伝わることは以前にお話ししました。俯瞰視点がより高くなり、満濃池の広さが強調された構図となっています。これを書いたのは、若き日の松岡調です。彼は明治には讃岐の神仏分離の中心人物として活躍し、その後は金刀比羅宮の禰宜となる人物です。
 次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池普請図(嘉永年間 1848~54)
この時の普請は、底樋を石材化して半永久化しようとするものでした。しかし、工法ミスと地震から翌年に決壊して、以後明治になるまで満濃池は姿を消すことになります。右の池の宮の部分を拡大して見ます。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(池の宮) - コピー
満濃池普請図 池の宮拡大部分 嘉永年間
ここにも燈籠や鳥居、そして拝殿などが見えます。同じ高さに池御領の小屋が建てられています。この後、堤防は決壊しますが
  次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
軒原庄蔵の底樋隧道
満濃池 明治の底樋トンネル化図案
底樋石造化計画が失敗に帰した後を受けて、明治に満濃池再築を試みた長谷川佐太郎が採用したのが「底樋トンネル化案」でした。それまでの余水吐の下が一枚岩の岩盤であることに気づいて、ここにトンネルを掘って底樋とすることにします。その絵に描かれている池の宮です。
長谷川佐太郎 平面図
明治の満濃池 長谷川佐太郎によって底樋が西に移動した
ここでは、それまで堰堤中央にあった底樋やユルが、池の宮の西側に移動してきたことを押さえておきます。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。

ユル抜きと池の宮3 堰堤方面から
大正時代の満濃池ユル抜き
堰堤の西側に拝殿と本殿がつながれた建物があります。あれが池の宮ようです。堰堤には、ユル抜きのために集まった人達がたくさんいて、大賑わいです。

池の宮2
大正時代の満濃池のユル抜き風景
角度を変えて、池の宮の上の岡から移した写真のようです。左側が堰堤で、その右側に池の宮の建物と森が見えるようです。拝殿が堤防に併行方向に建っているように見えます。手前下で見物している人達は笠を指しているので雨が降っているのでしょうか。そのしたに流れがあるようにも見えますが、余水吐は移動して、ここにはないはずなのです。最後の一枚です。

大正時代のユル抜き 池の宮
大正時代の満濃池のユル抜き風景と池の宮
手前の一番ユルに若衆がふんどし姿で上がっています。長い檜の棒で、ユルを開けようとしています。それを白い官兵達が取り囲んで、その周りに多くの人達が見守っています。背後の入母屋の建物が池の宮の拝殿だったようです。明治以後、1914年に赤レンガの取水塔が出来るまでは、こうして池の宮前でユル抜きが行われていたようです。取水塔ができてユルは姿を消しますが、池の宮は堰堤の上にあったのです。それが現在地に移されるのは、戦後のことです。そして、池の宮の後は、削り取られ更地化されて、湖面の下に沈んでいったのです。以上をまとめておきます。
①中世の満濃池は決壊し、池跡には池之内村が現れていた。
②堤防跡に、その水神として祀られていたのが「池の宮」である。
③西嶋八兵衛による再築後は、満濃池の祭神として人々の信仰をあつめた
④池の宮は、堤防改築期に定期的に改修されるようになった。
⑤池の宮では滝宮念仏踊り七箇村組の踊りが、滝宮への踊り込みの前に奉納されていた。
⑥明治になると「神野神社」とされ、式内社の論社となった。
⑦大正時代にレンガ製の取水塔ができるまでは、満濃池のユル抜きは池の宮前の一番ユルで行われていた。
⑧戦後の堤防嵩上げ工事で、池の宮の鎮座していた丘は削り取られ更地化されて湖面に沈んだ。
⑨池の宮は神野神社として現在地に移転し、本殿などが新築された。

今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会
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林求馬 大塩平八郎の書
大塩平八郎の書(林求馬邸)
前回は多度津奥白方の林求馬邸に、大塩平八郎の書が掲げられていることを紹介しました。
  慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない。行動を起こすことで何かを得ることができる

「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが伝わってきます。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
今回は、平八郎と多度津をつないだ人物を見ていくことにします。テキストは「林良斎 多度津町誌808P」です。

大塩平八郎の乱(日本)>1

多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大塩平八郎が多度津にやってきています。
平八郎は貧民救済をかかげ、幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力です。多度津にやってきたのは金毘羅参りだけでなく、ある人物に会いにやって来たようです。それが林良斎(りょうさい:直記)です。林良斎は、多度津の陣屋建設に尽力した多度津藩家老になります。彼が林求馬邸を建てた養父になります。

林良斎

林 良斎については、多度津町史808Pに次のように記されています。
文化5年(1808)6月、多度津藩家老林求馬時重の子として生まれる。 通称は初め牛松、のち直記と言い、名は時荘、後に久中、隠居して良斎と改めた。字は子虚、自明軒と号した。父時重は厳卿と号し、文化4年多度津に藩主の館を建て、多度津陣屋建設の基礎をつくった。母は丸亀藩番頭佐脇直馬秀弥の娘で、学問を好み教養高い婦人であった。父求馬時重は、伊能忠敬の測量に来た文化5年9月良斎の生後わずか3か月で死去し、兄勝五郎が家督を継いだ。文化14年(1817)勝五郎は病と称して致仕したので、10歳にして家督を継ぎ、藩主高賢の知遇を得て、文政9年家老となり、多度津陣屋の建設の総責任者として、文政11年(1828)これを完成した。ときに林直記は弱冠21歳であった。多度津藩は初代高通より代々丸亀の藩邸に在って、政を執っていたのであるが、文政12年6月、第四代高賢はじめて多度津藩邸に入部した。多度津が城下町として発展するのはこの時からである。

林良斎全集(吉田公平監修 多度津文化財保存会編) / 松野書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここからは次のようなことが分かります。
①父時重は良斎の生後3か月の時に、陣屋建設途上で亡くなったこと
②兄に代わって10歳で家老職を継ぎ、陣屋建設の総責任者となり、21歳で完成させたこと。

そして天保4年(1833)、26歳のとき、甥の三左衛門(林求馬)に家督を譲ります。
良斎の若隠居の背景は、よく分かりません。自由の身になった彼は天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎の洗心洞の門を叩き、陽明学を学びます。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦(多度津新港)は完成していないので、平八郎は、桜川河口の古港に上陸したのでしょう。二人の年齢差は、14歳ほど違いますが惹きつけ合う何かがあったことは確かなようです。
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良斎の言葉
良斎は「中斎(平八郎)に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。

 「先生は壯(良斎)をたずねて海を渡って草深い(多度津の)屋敷にまでやって来てくれた。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきだしてくれた。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないでいる。このとき、先生の話をじっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて私の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がった。」

 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び大坂に行って洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
この頃、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達します。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行います。しかし、ここに至っては武装蜂起によって奉行らを討つ以外に解決は望めないと決意します。そして、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政刷新を訴えて、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起します。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられ、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
この大岡平八郎の最期を、多度津にいた良斎はどのよう感じていたのでしょうか?
 それが分かる史料は今は見つかっていません。ただ、良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。「知行一致」の教えのもとに、直裁的な蜂起を選んだ大岡平八郎の生き方とは、別の生き方を目指します。
弘濱書院(復元)
再建された弘浜書院(林求馬邸)

 39歳の秋には、読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。
その塾が弘浜(ひろはま)書院で、そこでまなんだ子弟が幕末から明治になって活躍します。教育者としては、陽明学を身につけ行動主義の下に幕末に活躍する多度津の若者達を育てたという評価になるようです。この弘浜書院は、現在は奥白方の林求馬邸の敷地の中に再建されています。そこには「自明軒」という扁額が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、平八郎が揮号(きごう)したものと伝えられます。良斎の教えを受けた人々の流れが、多度津では今も伝えられていることがうかがえます。思想家としては、良斎は陽明学者としては讃岐最初の人だとされ、幕末陽明学の讃岐四儒と称されるようになります。

良斎の残した漢詩「星谷観梅歌」を見ておきましょう。(読み下し文)
星谷観梅歌     林良斎
明呈夜、天上より来る     
巨石を童突して響くこと宙の如し
朝に巨石を看れば裂けて二つと為る   
須愈にして両間に一梅を生ず      
恙無(つつがな)きまま東風幾百歳
花を著くること燦々、玉を成して堆(うづたか)し
騒人、鐘愛して清友と称ふ 
恨むべし一朝、雪の為に砕かる    
又、他の梅を聘したひて嗣と為す
花王宰相をもて良き媒(なかだち)と定む      
我、来りて愛玩し聊(いささ)か酒を把れは
慇懃に香を放ち羽杯を撲(う)つ        
汝も亦、天神の裔なることを疑はず
風韻咬として、半点の埃(ちり)無し
 高吟して試みに問へども黙して答へず
唯見る、風前の花の嗤ふが如し
良斎は、大潮平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。
田町の勝林寺には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎(平八郎)から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされています。ここからは、この書が大塩平八郎が良斎に譲ったもので、その後に富井泰藏(たいぞう)に譲られたことが分かります。
林良斎~シリーズ陽明学27 - 読書のすすめ

 良斎が亡くなると、その門弟の多くは池田草庵について、学んだ者が多いようです。
但馬聖人 池田 草庵 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 さん
池田草庵は但馬八鹿の陽明学者で、京都で塾を開いていましたが、郷里の人々の懇望で、宿南の地に青然書院を開いて子弟に教えていました。良斎の人柄に感じ、生前には書簡で親睦を深め、自らの甥、池田盛之助を多度津の弘浜書院に行かせて学ばせています。ここからは、弘浜書院と青繁書院とは、人的にも親密に結ばれ活発な交流があったことがうかがえます。
 池田草庵は名声高く、俊才が集まり、弘化4年(1847)から明治11年(1878)までの青鉛社名簿には、多度津から入門者が次のように記されています。
讃岐多度津藩士 林求馬・岡田弥一郎・庭村虎之助・古川甲二郎
白方村高島喜次郎 藩医小川束・林凝・名尾新太郎・服部利三郎・塩津国人郎・野間伝三・大久保忠太郎・河口恵吉・早川真治
以下は明治以後)
菅盛之進・名尾晴次・字野喜三郎・畑篤雄・菅半之祐・神村軍司・大久保穐造・長野勤之助・小野実之助・奥白方村山地喜間人。

   良斎の影響で多度津の向学に燃える青年たちが京都に出て学んでいたことが分かります。

以上をまとめておくと
①林家は多度津藩の家老の家柄で、林求馬の祖父や養父である良斎が多度津陣屋建設に尽力した。
②良斎は、若くして家老として陣屋建設の責任者として対応したが完成後は若隠居した
③良斎は26歳で、大坂の大塩平八郎の門を叩き、陽明学を学び交流を深めた
④そのため良斎の元には、大庄平八郎の書や書物などが残り遺品として、現在は林求馬邸に残っている
⑤良斎は、教育機関として弘浜書院を開設し、行動主義の陽明学を多度津に広めた。
⑥この中から登場する若者達が明治維新の多度津の躍進の原動力になっていった。
⑦良斎の後、林家を継いだ甥の林求馬は、幕末の混乱期に多度津藩の軍事技術の近代化を進めた。
⑧長州遠征後の軍事衝突に備えて、藩主や家老の避難先として奥白方が選ばれ、そこに新邸が建設された。
⑨それは明治維新直前のことで、明治になって林家はここで生活した。
⑩そのため、林家に伝わる古文書や美術品が林求馬邸に、そのまま残ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町誌808P

まんのう町文化財協会の仲南支部の秋のフィルドワークが多度津の林求馬邸と合田邸になりました。その「事前研修資料」として、林求馬邸をアップしておきます。
香川県の近代和風建築 : ShopMasterのひとりごと

テキストは「香川県の近代和風建築 香川県近代和風建築総合調査報告書113P 林求馬邸 香川県教育委員会」です。 

 林求馬5
林求馬邸は、幕末の嘉永4年(1851)から慶応4年(1868)の間に、多度津藩家老を務めた林求馬(1825~1893)の屋敷として奥白方に建てられたものです。それを聞いて最初に私が疑問に思ったのは次の二点です。
①どうして、海の見えない奥白方に建てたのか
②どうして明治維新間際の時代に、建てられたのか
①の奥白方に建てられたのは、幕末の軍事情勢の中で、海からの艦砲射撃を受ける可能性が出てきたためです。多度津港のそばにあった陣屋では、それを防ぎきれません。多度津藩は、幕末に軍備の近代化を進める一方、土佐藩に接近し、倒幕の動きを強めていました。そのような中で、丸亀藩や高松藩に比べると、強い軍事的な緊張感を持っていたことは以前にお話ししました。そのような中で、藩主や家老の避難場所として奥白方に白羽の矢が立ったようです。ここは、瀬戸内海の展望を楽しむための別荘や保養施設ではなかったこと、非常時のための待避場所(下屋敷)として急遽建設されたことを押さえておきます。
林求馬広間2
林求馬邸座敷
②の建設時期については、座敷の天丼裏に、嵯峨法泉院の祈祷札があります。
そこには「慶応3(1867)年6月」という年号が記されているので、鳥羽伏見の戦いの始まる直前に、この建物が完成していたことが分かります。まさに江戸幕府が倒れる前年に、新築された建物ということになります。
 廃藩置県後に、家老の林求馬は免官となります。
その後は林求馬は、この建てられたばかりのこの家を自邸として使います。その後も子孫が居住して建物が維持されてきましたが、1960代から無住となりました。その後の活用化を年表化しておきます。
1977年、林家より林求馬邸の土地建物が寄付され、財団法人多度津文化財保存会が設立
1983年、周辺整備を終えて、一般公開開始
1986年 求馬の養父林良斎が開いた私塾弘濱書院が敷地内に新築復元
1995年 南土蔵を改造した資料展示館がオープンし、林家に伝わる書画や古記録類なども公開
弘濱書院(復元)
弘濱書院(復元)
「香川県の近代和風建築」には、この建物について、次のように記します。

林求馬平面図
林求馬
邸平面図
林求馬邸の敷地面積は1,646㎡で、敷地南辺に表門を開く。門の北側に、西から主屋(座敷棟)、頼所、管理棟を建て、門の北東に弘濱書院、その南に展示資料館を建てる。
林家には、明治20~30年代初頭の屋敷の様子を描いた銅版画(鳥睡図)が伝わり、ほぼ建築当初の敷地内の様子を知ることができる。また、昭和30年発行の『白方村史』には内部の見取図が記されている。それらの資料と、現状の平面図を比較すると、頼所から西側部分は建築当初に近い状態で現存していると考えられ。東側部分は、家族の居住空間で、生活様式に合わせて改変が加えられたたと思われる。かつて台所や湯段があった場所に、現在は弘濱書院が建設されている。現在資料館となっている南土蔵、管理事務所とつながる東西の土蔵2棟は建設当時から現存するものと考えられ、土蔵をつなぐ部分は昭和になってから増築されたものという。

林求馬正面

 表門は、建設時に、陣屋から移築したものと伝えられ、その両脇に続く土塀は建設当時からあったが、昭和57年の修理時に腰部を海鼠壁とした。敷地南辺以外の土塀は現在失われている。
林求馬玄関

主屋は、入母屋造、妻入で正面に入母屋造の屋根を持つ大玄関が付く。屋根はいずれも本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りである。
林求馬大玄関

大玄関の式台の奥に、8畳間があり、その両側に6畳間がある。板敷きの廊下が東西に通り、それをはさんで北側に14畳の広間、その東に6畳の枠の間と8畳の座敷が配置されている。
IMG_0006林求馬

広間は西側に、8畳の座敷は東側にそれぞれ床の間を配置し、北側は背後の山を借景にした庭を望むことができる。大玄関は、藩主のための玄関で、座敷は藩主との対面の場、広間は多くの家臣が集まる場所として作られたものであろう。従者は、大玄関の東側にある小玄関から出人りし、控の間に入る。