瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 四国の川

                      平田船
吉野川の平田船
少し前に半田の川港のことを紹介しました。すると井川町の辻にも川港があると教えられました。しかも、「川港跡」ではなく現役の港として機能していること、その港の管理センターや船の修復所まであって、管理センターには要員まで待機しているというのです。ホンマかいな?と思いましたが、実際に確認しに行ってきました。その報告書です。
 吉野川の川港
吉野川の旧川港 辻の浜は⑧

 吉野川の旧川港地図を見ると、確かに辻には港があったことが分かります。それでは、どのくらいの川船がいたのでしょうか。
三好・美馬郡の平田船数

近代の川船(平田船)の所属表を見てみると、東井川村(辻)は、35艘とあります。これは池田や白地よりも多く、最も多くの川船が母港としていたことが分かります。ここからも、辻が人とモノの集まる経済的な集積地であったことがうかがえます。その繁栄の源が何であったかは後で見ることにして、さっそく原付バイクを走らせます。

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美濃田大橋
猪ノ鼻トンネルを越えて美濃田大橋まで30分でやって来てしまいました。新猪ノ鼻トンネルの開通で、まんのう町から池田方面は本当に近くなりました。雰囲気のある大好きな美濃田大橋を渡って、辻の旧道に入っていきます。
 辻の町は旧道沿いにはうだつの上がった家が並びます。個性を主張する独特な家もあり、見ていて楽しくなります。
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三階建ての木造母屋 奥が深い町屋作り

 辻は、半田や貞光・穴吹に比べても面積は狭いのですが、江戸時代から祖谷や井内などの後背地を持ち、その集積地として栄えてきました。

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讃岐からの塩などが昼間を通じて、祖谷や井内に入っていく交易拠点で、モノと人が行き交う要衝でした。近世後半の辻の発展は、刻み煙草によってもたらされます。井内など周辺のソラの村で収穫された煙草が、辻に集積されるようになります。それが明治になり、営業の自由が認められると煙草工場がいくつも立ち並び、煙草専売化前には70の工場があったようです。それらが辻の川港から平田船で積み出されていきます。一艘分の煙草荷で一軒の家が建つと云われたそうです。それでは、煙草を積んだ船が出港していった港を見に行きましょう。

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 旧道に青石で囲まれた共同井戸に、赤い鉄板が被せられています。もう使われていないようです。井戸があった場所は、町のポイントになります。ここから港に下りていく道があります。この道が浜の坂とよばれ、両側には料亭や飲み屋が軒を並べていたと云います。
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真っ直ぐ進むと、国道と線路の下をくぐります。振り返るとこんな感じでした。

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すると視界が開けて、すぐ目の前を吉野川が流れています。
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辻の川港跡
上流を眺めると空色の高速道路の橋が見え、すぐ上流で瀬が北岸にぶつかって流れを変えて流れの速い所です。ここは井内谷川との合流地点のすぐ下手で水深が深く流れの静かな淵になっています。ここが辻の川港跡です。

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 入江を見ると、今も鮎船が浮かんでいます。

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それに監視センターもあります。
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川船の保管庫もあります。確かに現役の川港と云えなくはありません。
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この椅子に座って、想像力を羽ばたかせると、棹さして川の流れに乗って出港していく平田船のイメージが湧いてきます。吉野川の旧川港の中で、一番保存状態がいい所かもしれません。
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辻の浜を守る会の活動日

管理センターの張り紙をみると、多くのボランテイアの活動でこの光景が維持されていることが分かります。感謝。
吉野川の川船IMG_4161

吉野川には多くの帆かけ船(平田船)が行き来していました。
帆にいっばいの東風を受けて、三隻・五隻とつらなって吉野川をさかのぼっていったと回顧されています。上流に消えたかと思うとやって来るといった具合に、古野川には帆かけ船の通行が絶えなかったといいます。
上流からは、たばこ・木炭・薪・藍その他、山地の産物
下流からの積荷は、塩などの海産物・肥料・米・衣料・陶器。金物・その他雑貨日用品など。
吉野川の川船輸送は、時代とともに盛んとなり、明治24年頃が最盛期でした。その後、道路の改修、牛馬車の発達、鉄道の開通によって河川交通は陸上交通にその役割をゆずっていきます。特に大正3年(1914)に鉄道が池田まで延長されると、川船はほとんどその姿を消すことになります。
吉野川にて渡し船で六田に渡る 1896
奈良の吉野川にて,渡し船で六田に渡る 1896年 パーソンズの日本記
 それならこの港に人影は絶えたのかというと、そうではないようです。
美濃大橋が出来るのは、戦後のことです。さきほど見たように、明治になって煙草工場が数多くできると、そこで働くために、北岸の人達は渡舟で辻にやってきていました。通勤のために利用したのが辻の渡場になります。さらに、大正3年(1914四)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されると、人とモノの物流の拠点は辻駅になります。北岸から鉄道を利用する人々は、辻の渡場を利用して、辻駅で乗り降りするようになります。三好高等女学校、池田中学校(旧制)へ通学する昼間・足代の人たちも渡船の利用者でした。

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美濃田大橋
 辻の渡場は、この港から200mほど下流にあります。行ってみましょう。
赤と白のストライプの美濃大橋を眺めながら川沿いの道を歩いて行きます。そうすると岩場がコンクリートで固められた所が出てきます。

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辻の渡し跡
これが渡場の桟橋だったようです。向こう岸の昼間側にも露出した岩場があります。


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美濃田大橋からの辻の渡場 左が辻側、右(北岸)のオツゲ岩
 大正15年に、南岸は岩場を掘り抜いた道が新設されます。それに併せるように、北岸の渡場も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができます。ただし、北岸は荷車以外は、それまで通り、川原の大きな「オツゲ岩」のところから渡し船で往来したようです。北岸川岸の大きな岩が「オツゲ岩」のようです。

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美濃田大橋からの北岸の辻の渡し場
辻の渡しは、古くは宮の下(滝宮神社)の渡しともいわれ、辻町の中心部と昼間を結ぶ重要な渡し場でした。
ここは先ほど見たように、すぐ上流で瀬が終わり、美濃田の瀞場の始まりになるところで、流れもゆるやかになる所です。上流で流された流木が、この瀞場で回収されて筏に組まれて、ここからが筏氏たちが下流まで運んだことは、以前にお話ししました。そのため渡船を渡すには安全で、出水時にも、かなりの増水でも渡船できたようです。
池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
渡場には多くの事故が起きています。辻の渡場で最も大きな事故では、17名の若人が溺死しています。
明治42年(1909)年4月7日午前7時のことです。前夜からの雨で、吉野川は増水し勢いを強めていました。渡し船に乗ったのは官営になったばかりの煙草刻工場へ通勤する工員たちで、すべて北岸の者ばかりでした。出勤時間前なので、工場に急ぐ工員たちが、昼間側から定員一杯に乗りこみます。辻側の岸に着くや否や、先を争て舟の縁を踏み切って跳び出します。その反動で船が大きく揺れ、濁水が底をすくって転覆します。本流が南岸に近く、増水していたので、17名が濁流に飲まれて尊い命を落としました。

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昼間側の岡の上に建つ地蔵さん

このような惨事を見守り続けた地蔵さまがいらっしゃいます。
辻渡船場北岸の旧渡場が見下ろせる民家の屋敷内に立派な地蔵さんが座っています。碑文には次のように記します。

「三界萬霊、天保五甲午歳  1834)二月、世話人・泰道・正圃・武之丈・昼間村・東井川村・西井内谷・足代村・東井谷・東山村講中」

北岸の村々の人々によって、約190年前に建立されたお地蔵さまです。渡船場での水の事故はつきものだったので、多くの人々が水の犠牲になっています。この地蔵さんは、水難事故で亡くなった人々の霊を慰めるとともに、渡船の安全守護を祈願して建てられたのでしょう。
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美濃田大橋
昭和34(1959年に、美濃田大橋が完成します。そして、渡船場は廃止されます。お地蔵さまもその使命を終えたかのように、今は吉野川の流れを見守りながら庭先にぽつんと立っています。
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  以上、辻の川港の調査報告でした。確かに、川港の雰囲気を最も伝える環境が残されていました。監視小屋の前に置かれた椅子に座って見える、吉野川の姿も素晴らしいものがありました。紹介していただいたことに感謝。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     吉野川の水運        三好町史歴史編 772P    
 菖蒲・土居町内会小誌 三好町史地域編  71P
関連記事

前回に続いて、吉野川の船と港について見ていくことにします。テキストは  「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」です。
吉野川に、どのくらいの川港があったのでしょうか

吉野川の川港

上図の吉野川川港の分布図からは、次のようなことが分かります。
A 一番奥の港は、阿波池田を越えた①の阿波川口までで、ここまで川船は入り込んでいたこと
B 吉野川には、30近い川港が分布しており、その地域の物流拠点となっていたこと。
C 下流終着地点は、撫養や城下町徳島で、そこからは廻船で大坂や瀬戸内海の各港とつながっていたこと
この他にも、芝原の浜・中の島の浜・江ノ脇の瀞・轟の浜・足代の東浜なども川港として機能していたようです。
平田船
吉野川の平田船
 吉野川にはどのくらいの数の川船が運航されていたのでしょうか?
現存する阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)の情報を基にして研究者がまとめたのが下表になります。
平田船港別就航数一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①吉野川就航の川船は750~1000隻程度であった。
②川船所属数ベスト5の川港は、半田50・脇40・佐間地(白地)36・池田31・白地29で 下流部よりも上流部の美馬郡・三好郡に多かったこと
②について、上流部の川港に所属する船が多かったということをどう考えればいいのでしょうか? これは、また後に考えるとして、先に進みます。
 当時の船運の状況が、『阿波郡庄記』三好郡の条に次のように記録されています。
「芝生村南北加茂村の内に、江口と云う渡場あり。讃州金比羅へ参詣の節帰りには当村へ出かけ船数艘下りあり。3月・10月・10艘または15艘、人ばかり乗船夥敷く宿多く御座候。(中略)
半田小野浜にも船頭多く乗船客も多く、明治末期~大正初期の半田小野浜~船戸(川田から鉄道)間の船賃は3銭5厘」


徳島日々新聞…明治28年2月23日の記事は、次のように記します。
「吉野川筋貨物を積載上下する船数150隻・1か年の往復回数2万回・物資品目・藍玉・藍草・すくも・玉砂・砂糖・塩・石灰・鯡粕・米麦・煙草大豆・木炭・薪・雑貨・陶器・物資総重量200万貫・船客用の船50隻・利用船客6~7万人・内・県外客10分の1、時期は9月から翌年5月の間が多い。

高瀬舟と平田船

 吉野川の浜(津)を結ぶ川船は、平田船・比良多船・平駄船とも表記されています。

大言海は、次のように記します。
「平板の約と略して、ひらだ・薄く平たくして長き船。倭名抄11船類に、艇薄而長者曰く・比良太・俗用平田船・また石を運送する船・段平船。昔々物語(享保)に(涼みのため平田船に屋根を造りかけ是れを借りて浅草川を乗り廻し。)とある。

阿波志には
「船長2丈5尺許広さ6尺底平板厚舳」

14世紀の頃は田船として利用され、慶長(1596~1615)の頃、大坂で上荷船として大型化され、寛永時代(1624~1644)は樽前船、北前船の荷物の揚げおろしや河川の物資輸送に利用されるようになります。
 吉野川には、この他に「エンカン」・「イクイナ」と呼ぶ船もあったようです。
エンカンは、長さ7間・巾6尺。8反帆、40石積と、少し小型でした。イクイナは、エンカンよりせまく、舳が2岐の角状になっていて、その岐の間に櫂を差し込んで漕ぐことができたために、半田川や貞光川の支流に入ることができました。
 川船の帆は、松右衛門という純綿の厚い織物作りで、そこには、□上(かたがみ)・臼(かねうす)などと親方(船主)の家印を入れていました。
帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
 帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
平田船は、どんな風に吉野川を行き来していたのでしょうか?
笠井藍水の回想記「帆かけ舟」には、次のように記します。

「春夏は川に沿って東風が吹くので帆かけ船が上って来る。夏・水泳に行くと大きな帆(8反帆)をかけた平駄船が後から後から船首に波をけって上って来るのを面白く眺めた。また、秋冬は・西風となるので帆は利用できず2~3人の船頭が綱で船を曳いて上る。脇町の対岸の河原の水辺を綱を肩にかけ身体を前に屈めて船を曳く景物をよく見た。帆かけ船は全国何処の川にもあっただろう。しかし吉野川の如く巨大な帆を使用した処は他にあまりなかっただろうと思う。吉野川の帆かけ船は日本一であったかも知れぬ。とにかく吉野川の風景に興趣をそえるものであった。……」

北上川の平田船
復元された北上川の平田船
吉野川船運の特徴は、春・夏は東風が吹くことです。
この風を利用して帆を建てて上ることができました。追い風を受けてゆたりと上流に上っていく川船が、夏の風物詩でもあったようです。これは楽ちんです。一方、秋・冬は西風が吹くので、帆は利用できません。そこで友船と2艘をつなぎにして、1人が楫をとり他の船頭は綱を引いて川岸を登ることが行われていました。

遠賀川の船曳
遠賀川の船曳

なかでも難所は、岩津橋下流のソロバン瀬だったようです。
ここでは300mもある長綱で船を引っ張らなければなりません。引綱は、60~100尋(100~200m)もある細長い綱(日向産)です。これを足中草履(あしなかぞうり)をはいて、石を拾うように体を前に傾けて引きあげた。まさに「船曳」の重労働です。
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淀川の船曳図

  このソロバン瀬を見下ろす南岸にあるのが「忌部十八坊」のひとつ福生寺です。「福」という文字がついているので、高越山を拠点とする忌部修験道の関わりが想定できます。瀬戸の拠点港に、各宗派が寺院を競って創建したように、吉野川河運の難所に立っているこの寺は、私にとっては気になる存在です。吉野川流通の管理・安全センターのような機能を果たしていたのではないかと思います。
 船頭たちは、暴風雨や洪水にあったときは、下流の芝原・覚円・川島・岩津・猪尻の浜などに錨を下ろして、水流が和らぐのを待って、上流にある母港を目指したようです。

平田船と千石船

吉野川上流から~徳島間の往復には、どれくらいの日数がかかったのでしょうか?
カヤックで阿波池田の川港を出港すると、水量にもよりますがゆっくりのんびと漕いでも一日で美馬市(穴吹)あたりまでは行きます。平田船も下りは2日間・上りは約1週間で、合計10日程度の運行日数だったようです。そのため1カ月2回の運航回数が標準的でした。
 行先は、徳島・撫養が中心ですが、上流の池田にも数多く上っています。池田周辺が流通センター的な機能を持っていたことがうかがえます。
 増水時は、第十堰を越えて徳島に下りますが、平水時は第十堰から大寺へ廻り、高房から古川を下り、新町川(徳島)に入っています。航路としては、次のような徳島航路・撫養航路の上り下りがあったようです。
 徳島航路
 A 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-覚円-第十名田-新町川-徳島
 B 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-三つ合-今切川-榎瀬川-吉野川-新町川(徳島)
 撫養航路
 川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-旧吉野川-三つ合-新池川-撫養 
遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
どんなものが吉野川を下って運ばれたのでしょうか
まず、木材です。中世の阿波の最大商品は、木材でした。三好氏の堺での活動を見ても、木材取り引きで巨額の利益を上げていたことがうかがえます。県南部地域と並んで、吉野川上流も木材の産出地でした。木材は筏に組んで吉野川を流されました。上流で流された木材の集積地が美濃田の淵であることは、以前にお話ししました。ここで再度、筏を組み直して下流へと運んだようです。近代まで撫養川下流には木材集積場がありました。

藍の葉

 江戸時代に後期には藍葉が主要商品になります。
吉野川中流では、藍・゙煙草、砂糖を生産し、主として大阪、江戸、遠くは北海道まで積み出すようになります。瀬戸内を抜け日本海に出て、浜田港、北陸小浜港、東北酒田港、そして松前江差まで運ばれています。木材を中心に、米穀、薪炭、楮紙、鰹節など、土佐の主要産物も阿波の廻船は運んでいます。廻船の多くは帰路には、鯡粕や鰯粕、その他の物資を積み込んで帰路に就きます。

明治30年代の輸送物品(上荷・下荷)について、『山城谷村史』には次のような表が載せられています。
山城谷村 移入移出品

山城谷村(旧山城町)は、川船の最奥部の阿波川口港がある所です。山間部なので板材や木炭・楮皮(こうぞかわ)・三股皮など山林産の商品が多いようです。そのなかで三股皮の商品価値の大きさが注目されます。
 また、煙草関係の商品比重が多いのが注目されます。山川谷村は、1612年に修験者の筑後坊が長崎から最初に煙草の種を持ち帰って蒔いた所と伝わります。これが徳島産葉タバコ(阿波葉)の起源とされ、近隣町村と共にタバコの一大生産地であったようです。それが、川船によって下流に運ばれていることが分かります。
  次に中流域の貞光町の港の出入り積荷を見ておきましょう。

貞光町移入移出品

ここからは次のようなことが分かります。
①葉煙草や葉藍などが主要な積荷で、徳島までの1隻の輸送賃が8円程度であったこと
②徳島からの上り船には、穀物・塩など生活必需品が主であること。
③上り船には石灰や肥料など、農業資料がふくまれること
②の塩については、讃岐の塩入(まんのう町)などから昼間などに、塩が峠を越えて運ばれていたとされます。貞光より西部には、川船でも塩が運ばれていたようです。しかし、先ほど見た山城の上り舟には、塩はありませんでした。貞光と池田あたりが、讃岐産塩との移入境界線になりそうです。
 『山川町史』には、川船の積荷について次のように記します。
「吉野川は常に帆かけ船の航行で賑わっていた。寛政10年(1789)の頃、タデ藍の製造に使う玉砂だけでも輸送量は1500石・トラック950台分ぐらいあった。これは、わずか1部で、肥料・藍玉・米麦・雑貨・薪・炭・塩等も含めると吉野川流域で動く物資のほとんどが川船に積み込まれていた。…後略…」

 以上から、当時の吉野川輸送の積荷をまとめておきます
移出物品は
煙草・木材・樵木・薪・木炭・三椏・楮・葉藍・藍玉・すくも
移入物品は、
米・裸麦・小麦・大豆・小豆・食塩・種油・柿原の和砂糖・魚類・半紙・洋紙・唐糸・木綿・織物・鯡粕・鰹節・陶器・畳表ござ・肥料・石灰
阿波藍 | 公益社団法人徳島県物産協会 公式ホームページ あるでよ徳島

川船船頭の収入について「吉野川の輸送船」(「阿波郷土会報」11号)には、次のように記します。
「50貫の石を抱えて歩く。35貫のニシン肥1俵をくるりと担ぐ。穀物5斗俵1つなら片手で肩に乗せるのが普通であるが、そのうえ川幅の狭い急流や渦さきを熟知して他の船や障害物に衝突しないように進んで行く「ケンワリ」を心得えている荒シコの給料が半期(6か月)で30円・「ケンワリ」を知らない5斗俵ひとつを片手で担ぐだけの能無しは、15円(食事船主持)船は男世帯、船主のほか船頭2人乗る。」

 大正初期の小野浜(半田)~徳島間(標準が1往復10日間)の労働収入は、3円銭程度であった。ただし、船頭が船主でもあり仲買商を兼ねての物資の上荷・下荷の運送取引を行う場合は別である。川船1艘の船主は、少なくとも水田1町歩の農家に相当する収入があったと言う。(「阿波河川の歴史的変遷過程の研究」小原亨著)
 
 田んぼ1町歩(1㌶)というのは、中農規模の裕福な百姓に属します。かれらが資本を蓄えて、問屋業や半田では素麺製造業に転出していくのは、前回見たとおりです。
池田町」ちょこっと歩き(徳島県三好市) : 好奇心いっぱいこころ旅

 吉野川の船運は、明治の中期(明治30年代)が最盛期だったようです。
明治後半になると、陸上交通路の整備改修が進められ、道幅が広く平になり牛馬車・大八車・トラックヘと輸送能力の高い車種が登場してきます。それは、河川交通から陸路の時代への転換でした。
 川船に大打撃を与えたのが、鉄道です。明治33年に徳島鉄道が徳島~船戸(川田)間に鉄道を敷設し、大正3年3月には池田まで延長されます。これは川船に致命的な打撃を与えます。大正5年には、川船は吉野川から姿を消していきます。

   以上をまとめておくと
①吉野川の川船運航の、最上流の港は阿波川口で、ゴールは撫養(鳴門)や城下町徳島であった。
②この間に約30余りの川港が散在し、それが各エリアの物資の集積地点となっていた。
③川船は、約750隻ほどが運航しており、半田や池田など美馬・三好の川港に所属する船が多かった。
④運航方法は、下りに2日~3日、上りに7日程度で、一往復10日間で、月に2回ほどの運航回数であった。
⑤下流からの帰路は、春・夏は追い風に帆を上げての順風満帆であったが、冬場は逆風で過酷な
船曳作業を伴うものであった。
⑥下りの積荷は、木材製品や木炭、藍・煙草関係のものが主であった。
⑦上りの積荷は、穀類や塩・日常雑貨や農業用肥料など多様なもので、村の生活を豊かにするものも含めて、多くのものが川船に載せられて運び挙げられていた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


2016 ラフテングプレ世界大会 徳島県吉野川

吉野川を見ながら樹上散歩を楽しんでいました。

10月10日(月)来年、吉野川で開催予定の世界ラフテング大会の国内選考会を兼ねた大会がありました。
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スタート視点は大歩危のウエストウエスト。大会期間中は展望台が無料開放されていました。
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快晴の吉野川に、ラフテングが集められ13:30分のスタートに向けて準備が整えられています。
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ここにはモンベルのお店も入っています。ラフテングやカヤックの受付も行っています。私もカヤック講座受講の際にはお世話になりました。
今回新しくこんな施設も登場していました。
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樹間に張られたロープの上をゆらりゆらり。歓声が谷に響きます。
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すぐそばは吉野川。
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踏み出す足に緊張感が張り詰めているのが分かります。
父親と楽しむ子どもの姿が多かったように思います。体験型のスポーツのひとつといえるのかもしれません。いい経験してるなと感じました。
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その前をアンパンマン列車が通過していきます。

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 スタートまでの時間を、吉野川の流れを眺めながら過ごしました。


釧路川源流下り 2016 9月


高梁川下り

吉野川 カヌーで下る水運の歴史 NO4

美濃田の淵の川に浮かぶ「石庭」を過ぎると、吉野川は三加茂台地にぶつかり、流れを大きく北東へ変える。そして見えてくるのが青い橋。さんさん大橋だ。
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私はこの名前を「SUNSUN Bridge」と連想し、なかなか遊び心があってGOODと思っていた。しかし、旧三好町と旧三野町を結ぶので「三三大橋」と名付けられたようだ。この縁から両町は合併することになる?
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この橋を越えた左岸(旧足代村)にも「東の浜」と呼ばれた川港があったと三好町誌には書かれている。
北岸の国道沿いの道の駅を見上げながらカヌーは吉野川の流れに任せて進んでいく。流れが止まったあたりが角浦。ここは南岸の中の庄と北岸の大刀野を結ぶ渡しがあった。明治42年発行の国土地理院の地形図には、「角浦渡」が船のマークとともに記載されている。さらに上流から渡場が 辻 → 下滝 → 不動 → 角浦 → 江口 とあったことが分かる。
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角浦渡には、後に沈下橋が架けられる。そして、その下流に立派な青い橋が架かっている。新大橋が完成後は沈下橋は撤去された。吉野川の沈下橋も少なくなっていく。沈下橋の下をくぐるのは、川下りの楽しみの一つでもあるのだが・・・
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この橋を抜けると、長い瀞場が続く。
東風が強くパドルを漕がないとカヌーは前には進まない。この東風を受けて、かつての川船は上流を目指したのだろう。
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三加茂町史には、吉野川の水運についてこんな記述がある。

 加茂町では、長さ九メートル未満の小型廻船が多く用いられて航行していた。これは積載量は少ないが航行が容易で、船足か速かったので、一般に早船とも呼んでいた。徳島へ下るには約2日を要した。上りは真夏の候は東風を利用しで帆を使ったが、帆の利用ができない季節には徳島から一週間もかかったという。
吉野川をさかのぼる際に、いくつかの難所がある。毛田も難所の一つである。ここでは三隻~五隻の舟がたがいに助けあっで航行したという。
 船主には運送業専門もあったが、仲買い商人を兼ねた人か多かった。下りは買入れた物資を自船に積み、徳島で問屋にその商品を売る。上りは仕入れた物資を積んで帰える。
吉野川沿岸の船着き場を「はま」と呼んた。三好郡では、江口(加茂町)辻(井川町)州津(池田町)川崎(池川町)川口(山城町)は主要な船着場であった。
このほかに小型廻(早船)の積みおろし場があった。本町では、毛田、角、不動、赤池がそれである。
 吉野川か上下する川舟輸送は、明治25五年ごろから、35年までが最盛期であった。本町の川舟輸送業者は、明治5年には13人であったが、明治9年21人となり、同15年には、小廻船が30隻を越え、舟乗労務者も80人を数えるようになった。
 川舟による貨物運賃は舟によっで、まちまちであった。大正元年―月になると、加茂村では、川舟は三艘あっで、その巡行は、一人一里に付七銭、物資は10貫目1里に付3銭であった。
 明治33年8月、徳島ー船戸(川田)間の鉄道開通によっで、麻植郡以東の物資輸送は順次陸上へと移った。平田船(ひらだぶね)が帆に東風をうけて、上流へ消えてゆくかと思うとまた下流から現われて、次々と川上の方へのぼってゆく。こんなのどかな情景を、明治生れの人はみな記憶にとどめていることであろう。

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 美濃田大橋

  美濃田大橋から長い瀞場になる。同時に景色が大きく替わる。
県の名勝・天然記念物に指定されている美濃田の淵にさしかかるのだ。北岸に高速道路のサービスエリアが設けられ、付属する施設も充実し「吉野川中流域の景勝地」として知られるようになった。

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美濃田の淵
 しかし、ここはかつては「網場」であったという。最初聞いたときには、鮎を捕るための仕掛網の設置場所かと思ったが、大外れ。
 三好町誌には次のような記載がある

 網場と筏流し

 明治11年ころの美濃田の渕の見取図には千畳敷岩の上の岩に「アバカケ岩」の名が記されている。水かさが増えると、丸太を結び付けた太いワイヤーを岩間に渡し川をせく。鰹つり岩からは、黒川原谷の谷尻まで斜にワイヤーを渡し、川の北側をせいたという。
 上流からは出水を利用して木材を流出する。この流材をせき止め、筏に組んで下流へ運ぶのである。 これを筏流しといい、それを操る人を筏師といった。足代村には筏師が7、8人いたようである。一艘が約一万才(当時の木運家屋1戸分の木材)で、腕の良い筏師は一度に二艘運んだとのことである。これを一週間かけて徳島の木材市場へ運ぶのである。
 山から切り出され、荷車や馬車で川まで運ばれてきた木材や洪水にのって流れついた木材を集めて、これも筏にした。小山の西内には大量の木材が流れ着いたとのこと。流木を集める組合のようなものがあったようである。また、流木を集める世話人がいて流木を拾った人にはいくらかお金を渡して引き取っていた。
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流れのない美濃田の淵は、上流で流した木材を集積し、筏に組んで下流に運んでいく木材集積地の機能を果たしていたようだ。

もうひとつ川を下っていて気になったのがこれ。河の上に立つ橋脚跡。かつての鉄橋の跡かなと考えていた。しかし、この橋脚にも物語が隠されていた。
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「まぼろしの美濃田観光大橋」について

 終戦直後、吉野川を渡る橋が美濃田の渕に計画され、期成同盟会が結成された。
当初は延長一五〇メートル・幅員二・九メートル・工事費四五〇万円の鉄橋であった。後には観光兼人道橋に変更している。
 美濃田の渕の川中の岩に橋台を建て、現在の三加茂町加茂西町に至るつり橋にして、開通後は工事に要した経費の立替金の支払が終わるまで「賃取橋」にする計画であった。
 橋脚工事は発注され、昭和二十八年の秋に着工している。
 起工式には早期架橋を願って美濃田・小山地区の全戸が出席した。
北岸の橋台が完成し、中央の橋脚が岩の上に雄姿を現した時は、開通した橋を想像し胸をおどらせ、地域の発展を期待したものである。
 しかし、工事半ばにして資金難に陥り、加えて施工主が病に倒れ、役員はハ方手を尽くし努力したがままならず、勤労奉仕で労力を提供した小山地区の人たちの願いもむなしく、資金が全く絶えるとともに工事は中止となった。
 一六〇余万円を投じたといわれているが、残ったのは北岸と中央の橋脚と負債であった。役員は負債の返済に大変な苦労をしたとのことである。
  美濃田の奇勝をめでる観光と吉野川南北の生活道として計画された「観光大橋」があったこと。その痕跡が河に建つ橋脚であるようだ。
現在の美濃田大橋は、その数年後の1969年に完成している。

ゆるやかにゆるやかに流れはカヌーを運んでいく。


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阿波池田の親三好大橋の上流からから出港。
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三好大橋下の落ち込みをなんとか通り抜けて、鉄橋と高速の橋をくぐる。
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吉野川鉄橋を土讃線の普通列車が通過していった。

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昼間の長いザラ瀬抜けると最後に落ち込みがあり、宮下の台地にぶつかり大きく流れを変える。そして正面に見えてくるのが美濃田大橋。
この橋が1960年竣工。上流にあった三好大橋より1年若く「56歳」
ここから長い瀞場が始まる。
プールがなかった1970年頃までは、この付近は川原が広がり遠浅であったので、子供の楽しい水泳場であったようだ。夏休み中は、PTAの監視下で水泳が行われたという。

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「上陸」してみると、こんな石碑が建てられていた。
昼間と辻を結ぶ「辻の渡し」とある。
この渡場について三好町史にはこんな記述がある。
 「明治から大正・昭和の戦後まで、辻地区は面積は狭いが、井内谷・祖谷谷という後背地を有し、特に刻み煙草で繁盛しており、人家が密集し商店が軒を連ねた。特に渡し場上がりの浜地区には、大きな商店や、料理店まであり、その賑やかさは北岸の比でなかった。こうした状況から、北岸から南岸へ渡る人は増加していった。」

 明治四十四年(1912)ごろに、中屋から辻渡船場への道も道路改修が行われた。大正三年(1914)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されるにいたって、人はいうに及ばず、物資輸送もこの駅が起点となった。北岸の昼間側からの利用者は急増し、特に朝夕の通勤・通学時には非常に混雑した。
 大正十五年現在の町道・昼間中屋線(通称新道)が完成し、同時に南岸は岩場を掘り抜いた道が新設され、北岸も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができた。
 昭和三十四年、美波田大橋の架橋で廃止となった。船頭さんの逸話、施与米、賃取、昭和二十三年県営化、借耕牛、カンドリ舟、転覆の惨事など、悲喜・哀歓の長い歴史を両岸の岩場に残して、幕を下ろした。
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美濃田大橋から上流をながめた風景。
向こう側(南岸)の井内谷川の流入点とこちら側(北岸)を渡し船は結んでいたという。渡場につながると思われる道路は残っているが、ここが上陸点という地点は分からない。

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 現在では早明浦・池田ダム等による香川用水等への取り込みによるものかこの当たりの吉野川の水位はニメートル以上低くなっているという。地理や風景も大きく変わっている。
 56歳の美濃田大橋が「遠い昔のことだよ」と呟いた気がした。
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吉野川の川船IMG_4161

吉野川はかつて多くの川船が行き来した川。
吉野川を池田からカヌーで出発。その痕跡を探してみました。
まずは、阿波池田の川港跡へ。

諏訪神社下の千五百河原にあった川湊
対象頃の池田の川港 諏訪神社の鳥居に向かって階段が伸びている
船頭達が航海の安全を祈った神社へ長い
石段が残っています。
ここから池田への人と物が荷揚げされ、積み出されていきました。
池田の旧街道もこの港を起点に発展したようです。

阿波池田の川港の灯籠

川船の安全を祈願して建立された灯籠が今も建っています。
ここから出港です。馬10頭分の荷物を満載した川船(平田船)も、出港していきました。

遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
穀物・薪炭・足代桐・藍・まゆ・野菜などを積んで徳島まで下り、
帰りは塩や肥料・海産物・日用雑貨品などを運んできました。
下りは3日程度。登りは、風向きのよいときは帆を張り、一週間ほどだったといいます。

遠賀川の船曳

船には船頭の他に丘船頭が乗って艪や櫂の使えない浅瀬に来ると、川へ飛び込んで船を進ませたそうです。

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三好大橋

出港から30分。赤い橋が見えてきました。
三好大橋です。
吉野川に架かる橋としては創生期の鉄橋です。1968年竣工ですからもう50歳になろうとしています。この橋が出来る前は、どうやって川を渡っていたのか?

池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
この日は梅雨の中休みで真夏日。
蒼い空と白い雲と赤い橋を川が映していました。

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三好大橋の下流、三好高校の下あたりの風景です。
今回の「航行」では一番危険な瀬です。流れや地形は当時と変わっているのかもしれません。でも、ここを平田船で下るのも登るのもたいへんだったと思います。

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一番の難所を過ぎると、鮎師さんの立ち並ぶザラ瀬の向こうにみえてくるのがこの風景。
東みよし町昼間(左側)と三好市井川を結ぶ鉄橋と高速道路がクロスしているように見えます。
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鉄橋は讃岐琴平からの列車に阿波池田に至るため架橋されたもの。
昭和の初めのことです。阿讃のトンネルを抜けてきた蒸気機関車が誇らしげにこの鉄橋を渡って行ったのでしょう。
 この鉄橋のあたりにも、井川と昼間を結ぶ渡船場があったようです。布屋渡と呼ばれていました南岸を通る伊予街道と北岸の撫養街道を結ぶ渡船場として、地域の人たちには大切な渡しでした。

 この渡しの下流に土讃線の鉄橋ができた「影響」を三好町史(775P)は、こんな風に紹介しています。
 この渡しを通っていた人たちの中には、鉄橋に付けられている保線のための側道を歩いたり、自転車を押したりして通る者ができた。もちろん、国鉄当局からは通行を禁止されていたので、当局の者の目を逃れて、秘かに通っていた。


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 高速道路の橋のたもとの風景です。
かつての瀬戸の港のような「雁木」構造のように見えます。
この当たりが昼間の川港だったようです。
今は鮎船の係留場として利用されています。

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下流から昭和初期と平成に登場した2つの橋を振り返ってみました。
ザラ瀬をカヌーは下っていきます。

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ザラ瀬が終わると赤い橋が見えてきました。
美濃田大橋です。
この橋のたもとにも渡場があったようです。その話は次回に・・



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