瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: まんのう町誌を歩く


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文綾子踊のルーツを探るために、佐文周辺の雨乞踊を見ていきたいと思います。

讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞踊の分布図
    上図からは次のような事が読み取れます
①東讃・髙松地域には、ほとんど分布していないこと → 大川郡の水主神社の存在(?)
②中讃には滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいた風流念仏踊が、いくつか残っていること
③三豊南部には、風流雨乞踊りが集中して残っていること。そして、三豊北部にはないこと。
④中讃の念仏踊系と、三豊の風流系の雨乞踊り境界上に、佐文綾子踊があること
以上からは、佐文綾子踊の成立には、上記の二のエリアの風流踊が影響を与えていることがうかがえます。これをある研究者は、「佐文綾子踊りは、三豊と中讃の雨乞い踊りのハイブリッド種」だと評します。
 以前にお話したように、佐文は滝宮に踊り込んでいた「七箇念仏踊」を構成する中心的な村でした。それが様々な理由で18世紀末頃から次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞踊を取り入れながら、新たな「混成種」を「創作」したのではないかと私も考えるようになりました。  それを裏付ける「証拠」を見ていくことにします。

豊浜町和田の「さいさい踊り」を見ておきましょう。

さいさい踊り 豊浜JPG
さいさい踊(豊浜町和田)
この躍りで、まず注目したいのは隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。そして、歌詞の内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。これは先ほど見た綾子踊の地唄と同じです。流行(はやり)歌が盆踊に取り込められていく過程が見えます。さいさい踊り以外の三豊に残る風流雨乞踊りも、もともとは盆踊りとしておどられていたと研究者は考えています。

それでは、この踊りを伝えたのは誰なのでしょうか?

さいさい踊り 薩摩法師の墓碑
豊浜町和田の道溝集落の壬申岡墓地にある薩摩法師の墓碑

墓碑には、上のように記されています。ここからは、つぎのような過程が見えてきます。

さいさい踊り 伝来


 佐文の西隣の麻(高瀬町)にも、綾子踊りが踊られていました。その由来を見ておきましょう。
  ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。           
沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。

 ここには、江戸時代の後半になって京都から下ってきた貴族の娘・綾子姫が下女と一緒に、当時の風流踊りを元にして綾子踊りを完成させて、麻に伝えたという伝説が記されています。雨乞踊の創作過程で、当時京都や麻周辺で踊られていた風流踊りが取り込まれた過程が見えていきます。言い方を変えると、風流踊が雨乞踊りに転用されたことになります。こうして見ると、前回見たように「綾子踊に恋歌が多いのは、どうしてか?」の応えも、以下のように考えることができます。

風流踊りから盆踊りへ

こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。



それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。

風流踊りの伝来者

A
 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。


百石踊の伝来委

兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司
は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?

「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。

百石踊り - marble Roadster2

百石踊りの芸司は、黒い僧服姿

 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?

由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。

以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

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綾子踊は、雨乞い踊りとされてきました。それでは、そこで歌われている地唄は、雨乞いに関係ある歌詞なのでしょうか。実は、歌われている内容は、雨乞いとは関係ない恋の歌が多いようです。
綾子踊りには、どんな地唄が歌われているのかを見ていくことにします。 綾子踊りには、12の地唄があります。その中で「綾子踊」と題された歌を見ておきましょう。

綾子踊り地唄 昭和9年
綾子踊地唄(尾﨑清甫文書 1934年版) 

尾﨑清甫が1934(昭和9)年に、残した「綾子踊」の地唄です。
歌詞の上に踊りの動作が書き込まれています。例えば、最初の「恋をして、恋をして」の所には、「この時に、うちわを高く上げて、真っ直ぐに立て捧げ、左右に振る」。「わんわする」で「ここでうちわを逆手に持ち替えて、腰について左に回る」、その後で「小踊入替」とあります。踊りの所作が細かく書き込まれています。一番を、意訳変換しておくと次のようになります。

綾子踊り地唄
綾子踊の1番
「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。「恋をして 恋をして ヤア わんわする。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。それを親は、夏やせだと思っています。「あじ(ぢ)きなや」です。「アヂキナイ」 とは情けないこと 、あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことです。恋やせなのに、夏やせとはあじけない。人の気持ちが分かっていない、情けないというところでしょうか。2番を見ておきましょう。

綾子踊り地唄2
綾子踊の地唄 2番

2番は①我が恋は夕陽の向こうの海の底の沖の石と歌います。これだけでは意味が取れないので、他の類例を見ておきます。備後地方の田植え歌には「沖の石は、引き潮でも海の底にあって濡れたままで乾く間もない」、千載和歌集には「沖の石は姿を現すことのなく、誰にも見えない秘めた恋」とあります。「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。これを参考に次のように意訳しておきます。

「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

綾子踊りの3番を見ておきましょう。
綾子踊り地唄3番

綾子踊り3番は、我が恋を細谷川の丸木橋に例えます。
これだけでは意味が分からないので、また類例を見ておきましょう。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。

次に花籠を見ておくことにします。
綾子踊り 花籠2
              綾子踊地唄 花籠(尾﨑清甫文書 1934年版)
綾子踊り 鳥籠
花籠の意訳

この歌は、閑吟集(16世紀半ば)の一番最後に出てくる歌のようです。
綾子踊り 花籠 閑吟集

ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した歌詞が、地唄として踊られているというのが「無形文化財」だと研究者は考えています。


私の綾子踊りに対する疑問の一つが「雨乞い踊りなのに、どうして恋歌が歌われるのか」でした。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
雨乞いなのに恋の歌

 つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。

どうして綾子踊りに、風流歌が踊られるのか?


綾子踊り 講演会表紙
郷土史講座でお話ししたことをアップしています。
どうして綾子踊は、国指定になり、ユネスコ登録されたのか。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と尾﨑清甫文書
西讃府誌は幕末に丸亀藩が編集したもので、各村の庄屋たちに命じて地誌的な情報をレポートとして提出させたものを藩が編纂したのものです。つまり、当時の佐文村の庄屋のレポートにもとづいて書かれています。その中に綾子踊りのことが次のように取り上げられています。
西讃府誌の綾子踊り

これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府誌の綾子踊り記述

西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
「雨乞踊緒書」というのは、佐文の尾﨑清甫の残した文書です。
尾﨑清甫
尾﨑清甫とその文書箱の裏書き
尾﨑清甫は、代議士でもあった増田穣から未生流家元の座を譲られた華道家でもありました。
尾﨑清甫華道免許状
秋峰(増田穣三)から尾﨑清甫(伝次)の華道免許状

尾﨑清甫 華道作品
未生流・尾﨑清甫の荘厳
今から110年前の大正3(1914)年の大旱魃が起こり、途絶えていた綾子踊が踊られます。それを機に、尾﨑清甫は記録を残しはじめ、昭和14年(1939)に集大成しています。

尾﨑清甫史料
尾﨑清甫文書
その中に、踊りの隊形がどのように記されているのかを見ておきましょう。以下が現在のフォーメーションです。

綾子踊り隊形

①女装した6人の小踊り(小学校下級年)
②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。
③その後に太鼓と榊持(拍子)
④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。
⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
綾子踊り4
綾子踊 小踊りと芸司
ここで押さえておきたいのは、綾子踊りの隊形は円形ではないことです。2つのBOXからなることです。讃岐で踊られる「風流小唄系雨乞い踊」は、先祖供養のための盆踊りが雨乞用に「借用」されたものなので、円形隊形が普通であることは以前にお話ししました。そのため綾子踊りの隊形は「ハイブリッド」だと評する研究者もいます。近世後半になって新たに作り出された可能性があります。
尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
綾子踊り隊列図 尾﨑清甫
尾﨑清甫の綾子踊隊形図
これが西山(にしやま)の山頂直下にあった「りょうもさん(旧三所神社)」に奉納されていたという隊形図です。読み取れることを列挙しておきます
①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
実は、尾﨑清甫は3つの隊形を記しています。それは「村踊り」「郡踊り」「国踊り」です。そして、これは「国踊り」とされます。つまり、踊る場所によって、その規模や編成が変えられたことが伝えたかったようです。しかし、綾子踊が村外に出て踊られたことはありません。この記述には、滝宮牛頭天王社に奉納されていた七箇念仏踊りのイメージが尾﨑清甫の頭の中にあったことがうかがえます。先ほど見た「西讃府誌」には「下知(芸司)1人、小踊6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各1人とありました。これが実際の編成だったのです。つまり、この絵は、頭の中の「当為的願望」と私は考えています。しかし、ここからは、小踊りと芸司の位置など現在にそのままつながる所も多いように見えます。ここでは昔の隊形を、綾子踊りが継承していることを押さえておきます。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊の入庭 棒と薙刀の問答
今回は、綾子踊の隊形についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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今回は、綾子踊りの団扇・花笠・衣装を見て行くことにします。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河の大念仏の大団扇
風流化のひとつに団扇の大型化があることは以前にお話ししました。
綾子踊りも、芸司や拍子の持つ団扇は大型化しています。

P1250507
綾子踊の芸司と拍子の持つ大団扇(中央)と中団扇(左右)
尾﨑清甫は、団扇について次のように記します。

団扇・台笠寸法 大正
綾子踊 芸司と拍子の団扇寸法
意訳変換しておくと
芸司 大団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺7寸5歩(約52㎝)  横 1尺3寸(39㎝) 柄 6寸(18㎝)
 廻りには色紙を貼り、金銀色で日と月を入れて、その下に「水の廻巻」か、上り龍・下り龍を入れるのもよし。
拍子(榊持ち) 中団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺2寸5歩(約38㎝)  横 9寸(27㎝)   柄 6寸(18㎝)
デザインは、大団扇に同じ。
小踊  女扇子
台笠 (省略)
P1250070

団扇には①月と太陽が貼り付けられています。月と太陽は、修験者の信仰のひとつです。この踊りを伝えたのが聖や修験者などであったことがうかがえます。なお、月・日の下に描かれているのが「水の廻巻」のようですが、今の私にはこれが何なのか分かりません。「雲」と伝えられるので、雨をもたらす「巻雲」と考えていますが、よく分かりません。ちなみに、ユネスコ登録を機に新しく大団扇を新調することになりました。大きさは、尾﨑清甫の言い伝えの通りに発注しました。分かることは、出来るだけつないでいこうとしています。

綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊 外踊(がおどり)の団扇と笠

次に、花笠についての記録を見ておきましょう。



綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊の花笠寸法(尾﨑清甫文書)
意訳変換しておくと
芸司・拍子 
  スワタシ(直径) 1尺5寸5歩(鯨尺 約46㎝)
  3色で飾り付けよ、ただし赤色は使用しないこと
小踊花笠
  スワタシ 1尺2寸5歩(約37㎝)
  ただし、ひなりめんにして両側を折る、そして正面は7寸(21㎝)開ける
小踊の花笠は赤い布を垂らして、正面21㎝開けよという指示です。
P1250029
                   綾子踊小踊の花笠
ポジションによって、被る笠がちがうことを押さえておきます。
花笠
綾子踊に使われる花笠や笠
かつては、花笠や笠も手作りでした。しかし、戦後の高度経済成長の中で、これらを作れる人達がいなくなってしまいます。重要無形文化財に指定されて、団扇や花笠も新調されますが、それらは総て京都の職人の手によるものでした。それから約半世紀の年月が経って、痛みが目立つようになっています。修繕を繰り返しながら使用していますが、それも限界に近づいてきています。これらの新調が課題となっています。最後に衣装を見ておきます。

「村雨乞行列略式」の中の衣装と役割を見ておきましょう。

綾子踊り 入庭
佐文賀茂神社への入庭と幟

綾子踊り 村雨乞行列略式
村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
①最初に来るのが「幟一本」で「佐文雨乞踊」と書かれたものです。それを礼服で持ちます。
②「警固十(六)人」とあります。当初は十人と書かれていたものを六人プラスして「増員」しています。これ以外にも「増員」箇所がいくつかあります。その役割は、「五尺棒を一本持って、周囲四隅の場所を確保すること」で、履き物は草鞋ばきです。
③次が「幟四本」で「一文字笠、羽織袴姿で上り雲龍と下り雲龍」を持ちます。
綾子踊り 警固
四隅で結界を作る警固(佐文賀茂神社)

警固以外に杖突も6人記されています。

P1250665
             村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
④「杖突(つけつき)六人」で「麻の裃で小昭楮、青竹を持て龍王宮を守護するのが任務」
⑤「棒振(ぼうふり)・薙刀振(なぎなたふり)一人」で「赤かえらで刀頭を飾る。衣装は袴襷(たすき)」です。
⑥「台笠一人」で、「神官仕立」で、神職姿で台笠を持つ」
⑦「唐櫃(からひつ)」で、縦横への御供えを二人で担ぎます。これも神職姿です。
⑧「正面幟二本」で「善女龍王」と書かれた二本の幟を拝殿正面に捧げ。一文字笠を被り、裃姿です。
⑥の「台笠一本」については、台笠の下は神聖な霊域で、悪霊や病魔も及ばないところとされました。普通は左右に2本なのですが、ここでは1本になっていることを押さえておきます。ちなみに前回見た「国踊りの絵図(拡大版)」では、台笠は2本描かれています。また、七箇念仏踊りや滝宮念仏踊りの絵図も2本です。しかし、実際には1本であったことが、ここからは分かります。

綾子踊り 台笠・幟
青い台笠が1本 その周囲に幟が林立

⑧の「善女龍王」は、善女龍王と書かれた幟です。人数は4人で「神官仕立」とあります。先ほどの「上り龍・下り龍」の幟の持手は、羽織袴姿でした。同じ幟でも、持ち手の衣装が違うことを押さえておきます。
綾子踊り 善女龍王幟
               綾子踊 善女龍王の幟(佐文賀茂神社)


P1250666 隊列昭和s4芸司
            村雨乞行列略式 NO3(尾﨑清甫文書 昭和14年)

⑨は「螺吹(かいふき)一人」で、法螺貝吹きのことで、「但し、頭巾山伏仕立、袈裟衣で」とあります。かつては頭巾を被った山伏の袈裟姿だったようです。
⑩が「芸司一人」で「花笠・羽織・袴姿で、大団扇を持って踊る」とあります。
風流踊りを伝えたのは、「芸能伝播者」としての山伏や念仏聖達です。綾子踊りの旅の僧が伝えたとされます。その芸能伝播者が「芸司」にあたります。そのため初期の風流踊の芸司の衣装は黒い僧服姿であったと研究者は指摘します。それが江戸時代になると羽織袴姿になり、さらに二本差しで踊るようになります。ここには芸司を務める者の「上昇志向」が見えてきます。風流踊りは、時と共に衣装や持ち物も変化してきたことを押さえておきます。
⑪が「太鼓二人」が続きます。鳴り物の中では太鼓が、一番格が高いとされます。
⑫最後が「拍子二人」で、「但し、羽織袴仕立で、榊に色紙を短冊にして付ける。6尺5寸以上の榊一本を龍王宮へ供えるために持つ。」とあります。そのため「榊持ち」とも呼ばれていたようです。今は、入庭の時には榊を持って入場しますが、踊るときには回収しています。

P1250667 衣装・役割 その他
         村雨乞行列略式 NO4(尾﨑清甫文書 昭和14年)
⑨「鼓(つづみ)二人」の衣装は「裏衣月の裃に、小脇指し姿で、花笠」とあります。「小脇指」を指していることを押さえておきます。
⑩「鉦(かね)二人」は「麻衣に花笠仕立て」で現在も黒い僧服姿です。

綾子踊り 鉦と大踊
綾子踊の鉦(かね)と大踊 鉦は僧侶姿

⑪「笛吹二人」は「花笠・羽織袴で、草履履き」です。太鼓や鼓に比べると「格下」扱いです。
⑫「小踊六人」は「花笠姿で、緋縮綿の水引を八・九寸垂らす。(後筆追加?)。小姫仕立で赤振袖に上着は晒して麻帯、緋縮綿(ひじりめん)に舞子結」
⑬「地唄八人」は「麻の裃に小服で、青竹の杖を持って、一文字笠を被る」とあります。裃姿でも、その材質によって身分差が示されています。
⑭「大踊(おおおどり)」は、「大姫は女仕立で、赤い振袖で上着は晒して、麻の片擂(かすり)で、水のうずらまき模様りの袖留め。帯は女物で花笠を被る。

綾子踊り4
綾子踊の小踊

  以上からは、衣装や笠については、その役割に身分差があって、細かく「差別化」されていたことが分かります。戦後の綾子踊り復活に関わった人たちは、尾﨑清甫の残した記録を参考にしながら、意図をくみ取って、できるだけ見える形で残してきたのだと思います。
今回は、綾子踊の団扇・花笠・衣装についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


まんのう町図書館の郷土史講座で綾子踊りについて、お話ししました。その時のことを史料と共にアップしておきます。
綾子踊り 図書館郷土史講座

佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。

ユネスコ登録書
ユネスコ無形文化遺産登録書

ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●
convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。

風流とは?
「ふうりゅう」と「ふりゅう」の違いは?

「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。

上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀


 たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、
人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。

やすらい踊りの風流笠
やすらい踊りの風流笠


中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河大念仏の大うちわ

奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。

文化庁の風流踊りのとらえ方

文化庁の「風流踊」のとらえ方は?
華やかな色や人目を引くためためにの衣装や色、持ち物の大型化などが、風流(ふりゅう)化で、「かぶく」と重なり会う部分があるようです。一方、わび・さびとは対局にあったようです。歌舞伎や能・狂言などは舞台の上がり、世襲化・専業化されることで洗練化されていきます。一方、風流踊りは民衆の手に留まり続けした。人々の雨乞いや先祖供養などのいろいろな願いを込めて踊られるものを、一括して「風流踊り」としてユネスコ登録したようです。

雨乞い踊りから風流踊りへ
雨乞い踊から風流踊へ

綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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綾子踊公開公演の中止について
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。


IMG_6568佐文公民館

       佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
IMG_6569佐文公民館

日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)
場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)
日 程  9:00  受付開始
   10:00  公民館前出発 加茂神社への入庭
   10:15  保存会長による由来口上
   10:20  棒・薙刀問答
   10:30  芸司口上 踊り開始
  ①水の踊 ②四国船 ③綾子踊  ④小鼓
 小休止
  ⑤花籠  ⑥鳥籠  ⑦たま坂  ⑧六蝶子(ちょうし)
 小休止                   
  ⑨京絹  ⑩塩飽船  ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
暑さ対策のために、今年は2回の休憩をとって、3回に分けて踊ります。11:40頃 終了予定 その後出演者の記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているともされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「神髄」かもしれません。「中世を感じたい人」や時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。

① 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。(農道駐車となります。)
② 先着100名の方に、以下のうちわかクリアケースを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

P1270160
綾子踊のうちわ(4種類)

香川県ではじめて電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)によって設立された高松電灯でした。
髙松電灯社長 牛窪求馬(うしくぼ もとめ) と副社長・松本千太郎

 髙松電灯について、以前にお話したことをまとめておきます。
①明治28(1895)年2月に設立認可、4月に設立、11月3日に試点灯、同月7日開業開始
②当初資本金は5万円で、後に8万円に増額
③社長は髙松藩家老の息子・牛窪求馬、専務は松本千太郎
④高松市内の内町に本社と火力発電所を設置
⑤汽圧80ポンドのランカシャーボイラー2基と、不凝縮式横置単笛往復機関75馬力2基によって、単相交流2線式50サイクル、1100Vスプリング付回転電機子型50 kWの発電機2台で、高圧1000V、低圧50Vの配電で電灯供給
⑥開業当時、供給戸数は294戸、取付灯数は659灯
⑦高松市内の中心部にある官公庁や会社、商店などが対象で、供給エリアは狭かった。 

設立されたばかりの明治期の四国の電灯会社の営業状況を見ておきましょう。
明治期四国の電気事業経営状況
ここからは次のような事が読み取れます。
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。
②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。
③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
こうして見ると、明治末の段階では、電線延長などの運営経費は増えているのに、契約者数はさほど増えていなかったことが見えてきます。出来たばかりの電灯会社は、急速な成長はなく、厳しい船出で「魅力ある投資先」ではなかったことを押さえておきます。

黎明期の電灯会社
黎明期の電灯(気)会社の状況
髙松電灯設立の動きを受けて、旧丸亀藩でも電灯会社の設立の動きが出てきます。 
中讃では電灯(力)会社の設立申請が、次のふたつから出されます。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体 
②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
①の景山甚右衛門は、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家がの連合です。こちらの方が有利だと思うのですが、国の認可が下りたのは、なぜか②の中讃名望家連合でした。この発起人の中心人物のひとりが増田穣三でした。

大久保諶之丞と彦三郎
大久保諶之丞(右)と弟の彦三郎(左)
当時の会社設立への動きがどんなものだったのかを知る史料は、私の手元にはありません。そこで、約10年前の四国新道建設に向けて地元の意見をとりまとめた大久保諶之丞の動きを参考にしたいと思います。彼が残した日記から、明治17(1884)年11月2日~15日を動きを見てみましょう。この時期は、四国新道のルート決定が行われる頃で、四国新道が通過する地元有力者の意見集約が求められた時期になります。
大久保諶之丞の新道誘致運動
大久保諶之丞の新道誘致をめぐる動き(明治17年11月)

大久保諶之丞が連日のように中讃各地を廻り、有志宅を訪問していること分かります。訪問先を見ると
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)
12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人 
14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)
15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
ここからは、地域の有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。その手順は、
①最初に、琴平の津村・榎井の長谷川佐太郎、多度津の景山甚右衛門に会って、了承をとりつける。
②次に各地区の要人宅を訪ねて協力依頼。
③その結果を報告するために再度、14日に景山甚右衛門・15日に長谷川佐太郎に訪ねている。ここからは、景山甚右衛門と長谷川佐太郎を、担ぎ上げようとしていたことがうかがえます。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で、大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。案内はがきが発送され、集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。
 案内状には、豊田元良の名前がありません。しかし、案内状をもらった人たちは、大久保諶之丞の背後には豊田元良がいることは誰もが分かっていたはずです。事前に、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。そして11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されます。このような形で、四国新道建設の請願運動は進められています。
讃岐鉄道や西讃電灯の設立に向けた動きも、地域の要人の自宅を訪ね歩いて、協力と出資をもとめるという形が取られたようです。
 それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
そして、次のように創立総会で決定され操業に向けて歩み始めます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。
資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓 
募集株数  二、四〇〇株
払込期限  明治31年5月5日
取締役社長 樋口 治実
専務取締役 赤尾 勘大
取 締 役 山地 善吉外三名
監 査 役 山地 健雄 富山民二郎
支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)
明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願
明治31年9月  西讃電灯株式会社創立。
明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
 ところがこれからが大変でした。
 高松電灯は、明治28(1895)年2月に設立認可で、4月に設立、11月3日に試点灯、11月7日開業開始で、設立認可から営業開始まで9ヶ月の短期間でこぎつけています。ところが西讃電灯は、認可から4年が経っても営業開始にたどり着けないありさました。認可から営業開始までできるだけ短期間に行うのが経営者の腕の見せ所です。その期待に応えられない経営者に対して、株主達は不満の声を上げ始めます。
西讃電灯の発起人と役員を見ておきましょう。

増田穣三と電灯会社4
西讃電灯の発起人と役員(村井信之氏作成)
上表からは、次のような事が読み取れます。

①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。

②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である

③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している

④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。

⑤そのために社長が短期間で交代している

⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。

⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。

⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。

営業開始の妨げとなっていたのは、何だったのでしょうか?

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ
電灯会社営業開始の遅れの要因
明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  には、問題点として上のようなことが挙げられています。第1には、設立資金が期限までにおもうように集まらなかったことです。そのために発注されていた発電機の納入ができず、再発注に時間が取られます。発注先が確定し、設計図が送られてくるまでは発電所にも本格的な着工はできません。また、電柱を発注しても、それを建てるための土地買収や登記までプロセスが考えられていなかったようです。
 設立当初の社長や経営者達は、他県の人物で香川県にはやって来なかった人もいるようです。技術者たちも頻繁に交代しています。責任ある経営が行えていなかったということでしょう。つまりは、素人集団による設立準備作業だったようです。そのため創業開始は、延べ延べになり、株主達の不満の声は、出資を募った増田穣三に向けられます。増田穣三は、当時は七箇村村長と県会議員を兼ねる立場でした。株主達からは「あんたが責任を持ってやれ」という声が沸き上がります。このような声に押されて、増田穣三が第4代社長に就任し開業を目指すことになります。これが明治35(1902)年8月のことでした。
このような事情を 「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」(明治37年刊行)は、次のように記します。

  入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや

 意訳変換しておくと
  電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。

増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
 増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、
②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電
③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
この時に金倉寺に増田穣三によって建設された本社と発電所を見ておきましょう。
高松発電所に続いて香川で2番目に建設された金倉寺火力発電所は、金蔵寺駅北側の東隣に隣接して建設されたようです。明治40(1907)年頃の様子が、次のように記されています。
金倉寺発電所(讃岐電気)
金倉寺発電所(西讃電灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。

 この記録と絵からは、次のような発電行程が推定できます。

金倉寺発電所2
金倉寺発電所の発電行程

讃岐電気本社・発電所2
讃岐電灯の本社
どうして多度津や丸亀でなく金蔵寺に発電所を建設したのでしょうか?それは石炭と水の確保にあったようです。

金倉寺発電所立地条件
金倉寺火力発電所の立地条件

石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
 火力発電は、石炭で水を熱して蒸気力でタービンを廻します。そのため良質の水(軟水)が大量に必要となります。金倉寺周辺は、旧金倉川の河床跡がいくつもあり、地下水は豊富です。金倉寺駅の西1㎞には、以前にお話しした永井の出水があります。金倉寺駅周辺も、掘れば良質な湧き水が得られるとを、人々は知っていました。

文中の「夕方になると煙突から黒い煙が出る」というのは、当時の電力供給は電灯だけで、動力用はありません。そのため社名も「高松電灯」や「西讃電灯」でした。夕方になって暗くなると石炭を燃やして、送電していたのです。つまり、明るい昼間には操業していなかったのです。一般家庭での電気料金は月1円40銭ですの、現在に換算すると数万円にもなったようです。そのため庶民にはほ程遠く、電気需要が伸びませんでした。そのため架線延長などの設備投資を行っても契約戸数は増えず、経営は苦しく赤字が累積していくことになります。
設立当初の収支決算は次の通りです。

電灯会社の収支決算 開業年

 収入が支出の三倍を超える大赤字です。
これに対して増田穣三の経営方針は「未来のためへの積極的投資」でした。
 日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が発注されます。これに対して、増田穣三は「お国のために」と採算度外視で短期間で完成させ、善通寺方面への送電を開始します。さらに翌年の明治38(1905)年には琴平への送電開始し、電力供給不足になると150㌗発電機を増設し、210㌗体制にするなど設備投資を積極的に行います。
明治の石炭価格水表
明治の石炭価格推移
 しかし、待っていたのは日露戦争後の石炭価格の高騰で、これが火力発電所の操業を圧迫するようになります。さらにこれに追い打ちをかけたのが日露戦争後の恐慌に続く慢性的な不況でした。会社の営業成績は思うように伸びず、設立以来一度も配当金が出せないままで赤字総額は8万円を越えます。
 ここに来て「未来のための積極投資」を掲げて損益額を増大させる増田穣三の経営方針に対する危機感と不安が株主たちから高まり、退陣要求へとつながります。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
電灯会社の経営戦略をめぐる対立

こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
増田穣三の責任の取り方

そして、2ヶ月後には七箇村村長を辞任し、次の県議会選挙には出馬しませんでした。私は、これは増田穣三なりの責任の取り方であったのではないかと思います。
 「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。    
    電灯会社設立に向けて、投資を呼びかけたのは増田穣三です。「資本減少」という荒治療は、出資者である名望家の増田穣三に対する信用を大きく傷つける結果となります。穣三自身も責任を痛感していたはずです。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないかと私は考えています。これが政界からの引退のようにも思えるのですが、5年後には衆議院議員に出馬し当選します。ちなみに、景山甚右衛門はこの時に地盤を三土忠三に譲って代議士を引退します。そして四国水力発電所の三繩発電所の建設に邁進していくことになります。
増田穣三・景山甚右衛門比較年表 後半

増田穣三と景山甚右衛門の年譜(村井信之氏作成)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
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増田穣三と電灯会社設立の関係年表
1894 明治27年 増田穣三が七箇村助役就任(36歳)→M30年まで
1895 明治28年 近藤秀太郎や増田穣三らによって電灯会社設立計画が進む。
1897 明治30年 西讃電灯会社(資本金12万円)設立 → 開業に手間取る
1899 明治32年 3・7 増田穣三が県会議員に初当選(41歳)
 4月26日 増田穣三が七箇村長に就任(41歳)→M39年まで7年
1900 明治33年10月21日 経営刷新のため臨時株主総会において、役員の総改選
1901 明治34年8月 増田穣三が讃岐電気株式会社の第4代社長に就任 
1902 明治35年7月30日 讃岐電気株式会社が電灯営業を開始(設立から6年目)
11師団設立等で電力需要は増加するも設備投資の増大等で経営は火の車。設立以来10年間無配。
   
1903 明治36 増田一良 黒川橋の東に八重山銀行設立。出資金5000円
1904  明治37年7月 増田穣三が株主総会で決算報告。野心的な拡張路線で大幅欠損
   9月 讃岐電気が善通寺市への送電開始。翌38年8月には琴平町にも送電開始。
1905 明治38年  日露戦争後の不況拡大
   8月 讃岐電気が琴平への送電開始
      電力供給不足のため150㌗発電機増設。新設備投資が経営を圧迫
  11月1日 県会議長に増田穣三選任(~M40年9月)(43歳)
1906 明治39年1月 増田穣三が讃岐電気社長を辞任
   3月 増田穣三 七箇村村長退任    
1907  9月25日 第3回県会議員選挙に増田穣三は出馬せず 
   10月7日 臨時県議会開催 蓮井藤吉新議長就任  増田穣三県会議長退任
    9月 讃岐電気軌道株式会社設立。発起人に、増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
1912(明治45・大正1年)5月 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 景山甚右衛門は、選挙地盤を三土忠造に譲って政界引退

借耕牛 美合落合橋の欄干
落合橋の借耕牛(まんのう町美合)
最初に見た美合の落合橋の欄干です。向こうに見えているのが谷川うどんになります。この橋は、勝浦からの道と三頭峠からの道の合流点に架かっていて、借耕牛の往来した道とされます。その橋に、さきほどの阿讃君レリーフやこの切絵風デザインが施されています。これを計画・実行した設計者に私は尊敬と感謝の念を抱きます。それでは、どうして借耕牛が讃岐にやってくるようになったのでしょうか。次に、このことについて見ておきましょう。

西讃府誌 牛馬普及率
仲多度・三豊郡の牛馬普及率(西讃府史による)

まず仲多度郡では、牛はどのくらい普及していたのかを見ておきましょう。幕末に丸亀藩が編集した西讃府史には、各村の農家戸数・水田面積・牛や馬の数が、各村ごとに記されています。これを数字化したのが上表です。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。
②多度郡はもっと低くて、38,8%。
③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。
④三豊全体の平均値は約40%。
讃岐には「五反農家」という言葉がありますが、仲多度郡の一戸辺りの耕地面積を見ると4反未満です。ここからは零細農家が多く、牛や馬を飼うことはできなかったことが考えられます。牛のいない家が、代掻きの時に牛が欲しいと思うのは当然でしょう。牛のレンタル需要があったとしておきます。
 次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
阿波池田の東側に井川町があります。井川スキー場のあるところです。そのスキー場の奥にあるのが腕山放牧場です。

借耕牛 腕山放牧場

阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。

借耕牛 井内谷村の牛馬保有数
井内谷村の牛馬所有数の推移
この表は井内谷村の牛馬・農家数牛馬所有数を年代毎にしめしてたものです。井内谷村(旧井川町・現在の三好市)は、先ほど見た腕山牧場の下にあるソラに近い集落です。左が年代推移です。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。

讃岐への借耕牛が本格化するのは、明治後半になってからのようです。その背景を考えたいと思います。

借耕牛 増加の背景

阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。

借耕牛登場の背景

①阿波のソラの集落には広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。それに対して、讃岐は近世になると刈敷や燃料薪などの入会権の設定されて、それまでの牧場が消えていくことは以前にお話ししました。そのため牛や馬にたべさせる飼料が手に入りません。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。

まんのう町の峠 阿波国図

これは阿波藩が幕府に提出するために作成した阿波国図です。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川  ②大滝山  ③大川山  ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。

真鈴峠

⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
 
5借耕牛 峠別移動数jpg

左側が讃岐の受入集落名(峠名)です。
①昭和5~10年には、夏秋合わせて8250頭の牛がレンタルされています。②多い順は、1美合 2岩部 3猪ノ鼻(戸川・道の駅)  4 清水口 5 塩入 となります。
②ここからは美合と塩入を合わせると3000頭を越える牛がまんのう町にやってきていたことになります。借耕牛の1/3は、まんのう町に入ってきていたことを押さえておきます。
③右段を見てください。それが戦後の昭和33年には、約1/3に激減しています。この理由は時間があれば考えることにします。

次に、牛たちが阿波のどこからやってきたかを見ておきましょう。

借耕牛の阿波供給地

この図は1935(昭和10年)の牛の供給源と、讃岐のレンタル先を示したものです。編目エリアは100頭以上、斜線エリアは50~100頭の牛を送り出したり、受けいれたりしている村々です。ここからは次のような事が分かります。
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
③借耕牛の通過は、岩部(塩江)→髙松平野  美合→坂出・丸亀  塩入・山脇・猪ノ鼻 → 丸亀・三豊 
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
 もうひとつ注目しておきたいのは髙松沖の女木島からも借耕牛は送り出されていたようです。 
借耕牛 男木島.2JPG

石垣でかこまれた坂道を牛が歩いています。ここは女木島のとなりの男木島です。この島は、古くから島全体が牧場とされてきました。島ですから放し飼いができます。また坂が多く、放し飼いの牛は坂を登り降りし、足腰が丈夫で強く、しかも人なつっこくて、よく云うことを聞くので農耕牛としては借り手に人気があったようです。

借耕牛 女木島

こちらは女木島の牛です。髙松から借耕牛が帰ってきた所です。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。

借耕牛 起源

ひとつは江戸後期説です。これはサトウキビを石臼で絞るために、大型の阿波の牛がやってきたというものです。ここで注意しておきたいのは、田畑を耕すためにやってきたのではないことです。その数も僅かなものです。もうひとつは、明治以後説です。
「藍栽培不振 + 葉煙草栽培の拡大」にともない牛の飼育数は減りませんが、役牛としての働き場はなくなります。そこに目を付けたのが讃岐の博労(ばくろ)たちです。

「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」

と委任を取り付け、讃岐の借り主との間を取り持ったのではないかと私は考えています。明治は、移動の自由、営業の自由が認められ、県境を牛がレンタルのために越えることも何ら問題はありません。
髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。

走人協定 髙松藩

例えば「讃岐男に阿波女」という諺が残っています。確かに、旧仲南の財田川沿いの集落には、阿波から牛の背中に乗って、嫁いできたという女性が昭和の時代には、数多くいました。しかし、江戸時代には高松藩は、藩を超えた男女の結婚は、上の「走人協定」で許していません。琴南町誌には、密に阿波の女性と結婚してたカップルが藩の手によって引き離されて、女性が阿波に追放される話がいくつか残されています。
借耕牛の増加には、次のような背景があった私は考えています。
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと
②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
うして借耕牛は讃岐に来なくなったのか?

借耕牛 45


戦後の高度経済成長前の1960年代(昭和30年代後半)になると、田んぼの主役交代します。

借耕牛と耕耘機

耕耘機の登場です。こうして牛は水田からは姿を消していきます。
トラックに乗る借耕牛

1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。

最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
峠でつながっていた阿讃の里

①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
 瀬戸内海の港や島々は、海を通じて人とモノと文化が行き来しました。それに対して、美合や塩入は阿讃交流の拠点でさまざまなものが行き交う拠点であったのです。そのような視点が今は忘れ去られています。阿讃の峠越えの文化交流をもう一度、見直す必要えがあると私は考えています。そのひとつのきっかけを与えてくれたのが借耕牛でした。最後に、参考文献を紹介しておきます。

借耕牛探訪記
借耕牛の研究

借耕牛講演会
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阿讃交流史 まんのう町(旧琴南町)の阿讃の峠
善通寺の古墳NO2 旧練兵場遺跡群と野田院古墳の関係は?
阿讃交流史 まんのう町造田の地鎮祭に、阿波芝生からのデコ人形奉納願いが許されなかった背景は?
幕末の金比羅阿波街道・三頭越のまんのう町のお堂から
阿讃交流史 讃岐山脈の峠を越えた塩・綿
阿讃交流史 江戸時代の絵図に書かれた讃岐山脈の峠道
阿讃交流史 まんのう町勝浦は阿讃の米の道が通っていた

借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

 借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
           もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。
 中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

借耕牛探訪記

借耕牛の研究

綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
IMG_0016
鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
IMG_0021
絵の提供は石井輝夫氏です。

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下記の通り、借耕牛についてお話しすることになりました。小学生達も参加するようなので、できるだけ分かりやすく、そして楽しく話したいと思います。借耕牛に、興味のある方で、時間の余裕のあるかたの参加を歓迎します。

借耕牛講演会ポスター
借耕牛 落合橋

借耕牛7

借耕牛 美合落合橋の欄干

借耕牛登場の背景

借耕牛 12

借耕牛のせり

借耕牛借用書2

借耕牛8

借耕牛の阿波供給地

借耕牛3
借耕牛 通過峠

借耕牛取引図3

借耕牛見送り 美合

借耕牛5

借耕牛6

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 国道377号の佐文交差点の西側から象頭山と西山の鞍部に旧道が伸びている。これがかつての旧伊予土佐街道だ。坂を登り詰めた所が牛屋口峠で、バブルの時代に坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」と記されている。

牛屋口の坂本竜馬像
牛屋口(まんのう町佐文)の坂本竜馬と燈籠群

ここは土佐・伊予方面からの参拝者が金毘羅大権現に参拝する際の西の人口で、かつては茶店なども軒を連ねていたという。今も同じ大きさの数十基の燈籠が並んでいる。この燈籠群は、いつ、だれが寄進したのだろうか? ひとつひとつの燈籠には、寄進した人たちの職域名・地域名・講名・年代・世話人などが刻まれていて、いろいろな情報を読み取ることができる。

1 燈籠の奉納者は、どこの人たちか?

牛屋口の燈籠3
牛屋口の土佐燈籠 
燈籠の正面に刻まれた金比羅講の地名から土佐の人たちの寄進であることが分かる。最も多いのは柏栄連で、これは和紙の産地として名高い伊野町の講名で12基寄進している。中には高知市内の歓楽街にあった花山講のように、「皆登楼」「松亀楼」などの名前があり、遊郭の主人達によって奉納されたものもある。

牛屋口の燈籠4
同年と奉納年が刻まれた燈籠

2 燈籠はいつ頃、奉納されたのか?
刻まれた年代は、 一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年で4年の間に69基が奉納されている。年に20基ほどののハイベースで建ち並んでいったようだ。
なぜ、明治初年に短期に集中して寄進されたのか? 
 それは幕末から維新への土佐藩の躍進を背景にしているのではないかと識者は言う。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとったのは土佐藩であり、幕府の親藩であった松山藩や高松藩とは政治的立場が逆転した。この前後から伊予土佐街道の燈籠・道標は、それまでの伊予からのものに替わって土佐から奉納されるものが増える。その象徴的モニュメントが牛屋口の並び燈籠なのだ。
牛屋口の並び燈籠
牛屋口の土佐燈籠群

改めてこの前に立つと維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。土佐が四国を動かす」という意気込みと、金昆羅さんに対する信仰のあかしを私たちに語りかけてくるように思える。
まんのう町報ふるさと探訪2018年6月分
参考史料

 まんのう町出身の戦前の衆議院議員増田穣三(じようぞう)の華道師匠の顕彰碑が宮田の西光寺(法然堂)にあると聞いて行ってみた。

増田穣三法然堂碑文.J2PG
園田翁顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)

碑文は、本堂の正面に忘れられたかのようにあった。そこには園田氏実(法号 丹波法橋、流号 如松斉(によしようさい)の業績が次のように刻まれている。(意訳要約)
「幕末から明治にかけて、丹波からやってきた如松斉が縁あって法然堂の住職務めた。堂塔修繕などに功績を残したが、明治になり時代が変わると隠居し、生間の豊島家の持庵に移り活花三昧の生活を送り未生(みしよう)流師範を名乗った。自庵で教授するばかりか各地に招かれて出張指導し、広く仲多度南部から阿波にかけて門弟は六百余名を数えるほどにもなった。」
未生流は陰陽五行説・老荘思想・仏教を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りをめざすもので、明治という新しい時代にマッチした活花として受け入れられたという。この流派を、最初にこの地に持ち込んだのが如松斉であり、多くの問弟を抱える華道集団に成長していた。如松斉は、明治16年に76歳で死去する。没後7回忌に当たる明治22年に、彼の高弟達が法然堂境内に、この顕彰碑を建てた。

碑文裏には、建立発起人の名前が数多く刻まれている。

増田穣三法然堂碑文
    園田翁顕彰碑の発起人たち 先頭は増田(秋峰)穣三
その筆頭に、増田穣三(秋峰)の名がある。後の衆議院議員で、銅像が塩入駅前に立っている人物だ。しかし、この碑文建立時には26歳の若者である。それがなぜ筆頭に?
 死を目前にして起き上がれない如松斉は、腹の上に花台を置いて、臨終の際まで穣三に指導を行い皆伝を許可したという。晩年の如松斉の穣三に対する思い入れが伝わってくる。経験豊富な兄弟子や高弟は、何人もいたと思われるが、彼が後継者に選ばれる。若き穣三の中に多くの門下生をまとめ上げ指導していく寛容力や人間的魅力があると、如松斉は見抜いたからではないか。その後、穣三は師匠の名を冠した「如松流2代目家元」を名乗る。この顕彰碑は、増田穣三の後継者継承を示すと同時に「流派独立宣言碑」とも読み取れる。
 穣三が家元として伝えた「如松流」の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
旧伊予街道の旧街道沿いにある尾崎家の玄関には、3代にわたる華道の看板が掲げられている。そこには「如松流」の文字が黒々と書き込まれていた。 一番古いものが穣三の高弟で如松流3代目と目されていた尾﨑清甫(博次)のものである。

尾﨑清甫華道免許状
尾﨑清甫の免許状 秋峰の名前が見える
尾﨑清甫は手書きの「立華覚書き」を残している。孫に当たる尾崎クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。如松斉により上方からもたらされた活花が、増田穣三やその高弟・尾﨑清甫の三代を経てまんのうの地に根付いて行った痕跡を見る思いがした。

  P1250693
尾﨑家に残る花伝書と雨乞踊諸書類の箱
 なお、尾﨑清甫は綾子踊り文書を書残した人物でもある。

増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ

(2017年12月分原稿)
参考文献 仲南町史 尾崎家に残る諸資料
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 「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」とある人から言われて快晴の秋空の下、原付バイクを江畑の登山口めざして走らせました。グーグルマップで「江畑道駐車場」と検索すると出てくる駐車場が中寺廃寺への登山口になります。

中寺廃寺 江畑登山口HPT
中寺廃寺 江畑登山口

すぐに尾根にとりつきます。しばらくは急勾配が続きますが、この道はもともとは江畑から大川山への参拝道でもあり、徳島側の大平集落を経て阿波との交易路でもあった道です。さらに旧満濃町と仲南町の町境でもあった旧街道で、歴史を経た道は歩きやすい、しっかりとした道でハイキングにはもってこいです。しかも、迷い込み易い分岐には標識がつけられているので安心して歩けます。

中寺廃寺 江畑道
江畑道と柞木道の合流点
 傾きが緩やかになると標高700㍍付近です。気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れ、さらに進むと左手から柞野(くにぎの)道との合流点と出会います。最後の階段を登ると展望台です。ここからの展望は素晴らしい。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 
説明板に「讃岐山脈随一の展望台」と書かれています。確かに180度以上のワイドな展望が広がります。象頭山を枕に満濃池がゆったりと横たわる姿。その彼方には荘内半島や燧灘に浮かぶ伊吹島。そして丸亀平野には神がなびく山である飯野山。1時間弱の山道を頑張って登ってきたことへの天からのご褒美かもしれません。

中寺廃寺からの満濃池
中寺廃寺展望台からの満濃池
 東屋で、この絶景を独り占めしながら昼食。その後は中寺廃寺跡の散策です。この辺りは、「中寺」という地名が残り大川七坊といわれる寺院が山中にあったと伝えられてきました。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、長らく幻の寺院だったのです。それが発掘調査の結果、展望台の周辺から仏堂、僧坊、塔などの遺構が出てきました。現在では「仏・祈り・願」の3つのゾーンを遊歩道で結び、山上の文化公園として整備されています。

中寺廃寺跡地図1
 中寺廃寺は3つのゾーンに分かれている
まずは「祈り」ゾーンへと向かいましょう。
ここには割拝殿と小規模な僧の住居跡があったようです。

中寺廃寺からの大川神社
割拝殿跡から見上げる大川権現(大川山)
僧侶達は、ここに寝起きして聖なる大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたのでしょう。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中では重なってきました。

大川山 中寺廃寺割拝殿
割拝殿と小規模な僧の住居跡

 松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かいます。
ここには、仏堂と塔があったようです。遺構保護のため、埋め戻して元の礎石によく似た石で礎石の位置が示されています。その礎石に腰掛けて、千年前のこの山中に建っていた塔をイメージしようとしました。がなかなか想像できません。どちらにしても、この寺は平安期においては讃岐においては、有力な山岳寺院でした。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔
 最後に訪れたのが避難所兼お手洗い。なんとバイオトイレです。まんのう町では、初お目見えではないでしょうか。紅葉の季節、落葉の絨毯を踏みしめての中寺廃寺参拝は如何ですか?
まんのう町報2018年12月原稿分
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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(詳細版)




 江戸時代初期のまんのう町には、吉野・四条から現在の象郷小学校に向けて四条川という川が流れていたようです。「全讃史」には、四条川のことが次のように記されています。

「四条川は那珂郡にあり、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す。」

  また丸亀市史も次のように記します。
「照井川と合流した四条川は、現在の吉井橋に至り
①水戸大横井より北流を続け吉野下、林、川滝、鱈池を過ぎ、さらに、
旧満濃町役場前から四条・天皇を経て上田井の高篠大分岐に至り、ここから支流は田井に東流し、田井からは郡界に沿って北流し土器町聖池に至る。一方、本流はここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、
象郷小学校から上櫛梨の④木の井橋の南へと流れる」
四条川2
旧四条川の流路
金倉川 国土地理院
高篠付近の金倉川と旧四条川
近世初期にあった四条川が消えたのは、なぜでしょう?
 江戸時代初め満濃池再築に向けて動き始めた西島八兵衛の課題のひとつが丸亀平野の隅々まで水を供給するための用水路の整備でした。池が出来ても用水路がなければ水田に水は来ません。しかし、問題がありました。それが四条川の存在です。この複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難です。
 そこで、西島八兵衛が行ったのが四条川のルート変更です。
満濃池水戸(みと)

流れを変えるポイントは吉野の吉井橋の少し上流の水戸大横井でした。ここで北上してきた流れを、西に流し現在の金倉川の流れを「放水路」に変えます。そして、この地点で水量調整を行い四条川を、直線化して用水路へ「変身」させます。新たに西に流されるようになった川は、買田川と合流させ琴平・神事場の石淵にぶつけて真っ直ぐに北上させます。この川が金倉川と呼ばれるようになります。

金倉川旧流路 吉野 
吉野周辺 四条川と金倉川の旧流路跡(国土地理院 土地利用図)

金倉川旧流路 神野
琴平町五条周辺の旧金倉川流路跡

そのため金倉川は、次のような人工河川の特徴を持つと言われています。
①吉野橋の上流と下流では川底の深さがちがう。新たに河道となった下流は浅い。
②琴平より北は河床が高く天井川で、東西からほとんど支流が流れ込まない。
③金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川なら、境界となることが多い。
④河口の州が、万象園付近だけで極端に小さく、川の歴史の浅いことを示している。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺市木徳町付近の金倉川と旧四条川
 以上が丸亀市史の「金倉川=人工河川」説の「根拠」です。
西島八兵衛は、満濃池再築前に事前工事として四条川の流れを換えて、金倉川に付け替え・改修を行った」というのです。しかし、これを裏付ける史料はありません。満濃池再築と共に四条川は水路に変身し、新しく金倉川が生まれたというのはあくまで仮説です。しかし、私にとっては魅力的な説です。

中又北遺跡 多度郡条里制と旧金倉川
金倉川の時代ごとの流域路
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 四条川と金倉川 新編丸亀市史

   
尾瀬神社地図
財田川上流にある尾瀬神社

財田川は塩入(まんのう町)の奥に源流があり、野口ダムを流れ落ちた所で大きく流れを西に変えます。ここがまんのう町久保(窪)です。財田川が河川争奪で、ここから上流の流れを金倉川から奪ったとされる地点です。この西側にあるのが尾瀬(おのせ)山です。

尾ノ背寺跡
尾背寺跡

この山には中世には「尾背寺」と呼ばれた山林修行の寺院がありました。修験者や聖達の「写経センター」的な役割を果たしていたことを前回はお話ししました。今回は、その後の近世・近代の尾瀬山のことを見ていくことにします。
 戦後時代の争乱や、金毘羅大権現・金光院の勢力増大の圧迫を受けて、周辺の山林寺院は衰退したようです。尾背寺も近世初頭には退転します。
「善通寺誌」には、
「善通寺、尊烏有印、宇多深町、聖遠寺と尾の背寺を兼務云々」
「朝倉記」には
「文禄のころ(1592~96)尾の背寺寺僧、三野郡勝間村、寺教院へ隠退せり」
ここからは次のようなことが分かります。
②神社の別当を尾背寺の僧侶(修験者)が務めていたこと
③尾瀬神社は神仏混淆で、社僧の管理下に置かれていたこと

 伝えるところでは、拝殿の塗板には次のように記れていたといいます。
A 文禄元年壬辰四月八日、本殿改築、願主・七ケ村氏子中・大工、七弥、
B 慶長十七年壬子年八月九日、一丈四方の拝殿建立、小池・春日・本目、惣氏子中
C 慶長年間に、朝倉生水義景(朝倉家中興の祖)が神官(修験者?)に就任。
ここからは次のような事が分かります。
①文禄・慶長の生駒藩時代に、戦乱で荒廃した尾背寺跡に、本殿改築と拝殿建立が行われ「尾瀬神社」が姿を現した。
②それを勧進したのが朝倉義景で、麓の小池・春日・本目など七箇村住人を氏子として組織した。
③尾背寺から尾瀬神社へ宗教施設が変化した。
その後、元禄年間に山頂の神社を、現在地に遷宮し南向に建立。それがいつのころか本殿の向きが東向に建て替えられた。
しかし、これらを裏付けるものはありません。事実だとすれば、生駒氏の時代になって、退転した尾背寺が神社として、再建されたことになりますが、この辺りのことはよく分かりません。

 改修記録で残されているのは、幕末の次の2点です。
D 安政三年(1856)増田伝左衛門が多治川の山を払い下げられたときに、6m~4mの遙拝殿を、西星谷に建立」

E 慶応三年(1867)に、本社の拝殿が老朽したので、遙拝傳を本社に移し拝殿として建て替えた。
  ここに登場する増田伝左衛門というのは、春日出身の国会議員・増田穣三の一族のようです。増田家には、名前に伝四郎・伝次郎・伝吾などの名前が付けられています。増田家が春日・塩入の奥の山林の払い下げを受けて、山林地主となっていたことがうかがえます。その増田家の寄進で、幕末に、遙拝殿が建立され、それが11年後に本社横に移築されて、拝殿とされています。尾瀬神社の実際の起源は、このあたりであった可能性もあります。

尾瀬神社4
尾瀬神社拝殿

尾瀬神社が人々の信仰を集めるようになるのは幕末になってからのようです。それは、雨乞の神としてリニューアルされたからです。
18世紀に善女龍王が善通寺などに勧進され、丸亀藩の雨乞祈祷寺に指名されます。すると、庶民の間でも、雨乞い祈祷ブームが起き、さまざまな雨乞いが実施されるようになります。
例えば、大川山(まんのう町)では雨乞講形成が次のように進みます。
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②頂上には修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤修験者たちは雨乞講を組織し、里の百姓達を組織化した。
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧明治の神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進し「ミニ大川神社」を建立した。
⑨それを主導したのは水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。
大川神社は、土器川源流にちかくにあり、その流域の人々を組織していきます。一方、金倉川流域の人々を組織したのが、尾瀬神社の修験者たちだったようです。尾瀬神社にも分社の勧請もあって、明治27年9月には、丸亀市原田町黒島下所に分社が建立されています。

こうして明治になると尾瀬神社の雨乞講が各地に作られて、経済的な基盤が確立して、神社の建物も整備されます。尾瀬信仰の範囲は、西讃一円と徳島県三好郡にも及んだようです。ある意味では、阿波と讃岐の交流の場ともなっていたのです。
尾瀬神社絵図
 明治17年ごろの尾瀬神社大祭日を描いた木版刷絵図

この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①「讃岐国那珂郡尾瀬神社式日」と題され、多くの参拝者で境内が賑わっていること
②本殿・拝殿・大門などが整い、水分社などの摂社がいくつも祀られていたこと
③御盥には柵が設けられ、聖地とされていたこと
④土俵がもうけられ尾瀬相撲が奉納されていたこと。

尾瀬神社 神泉
尾瀬神社 神泉(旧御盥)
尾瀬神社神泉 

この他にも、明治13年9月に「尾瀬神社」と墨筆した掛け軸発行。
明治21年には尾瀬講の木札発行。祭礼もそれまでは、秋一回であったのが、春秋二回行われることになります。祭礼行事としては、
春日、小池、本目の各集落から獅子舞いの奉納
麓の参道登山口の財田川河原では、農具市、植木市開催
などもあり、人々で賑わいます。こうした隆盛は、大正時代から昭和の初めまで続きます。このような隆盛をもたらしたのは、どんな「宗教勢力」だったのでしょうか?
これは讃岐と阿波を結ぶ修験者だったと私は考えています。
①山伏集団の拠点であった箸蔵寺(三好市)の隆盛
②剣山修験集団の円福寺修験者集団
などの動きと連動していたようです。それは、またの機会にするとして・・

隆盛なさまを見せていた尾瀬神社が衰退していくのは、どうしてなのでしょうか。
①雨乞踊りや、行事が「迷信」とされ、行われなくなるのが「合理主義」が農村にも浸透してくる大正・昭和です。
②財田駅から三好に、猪ノ鼻トンネルを抜けて列車が走り始めるのが昭和初めです。
雨乞信仰を支えた尾瀬講が解体し、農民達の組織的な動員力が衰えていきます。同時に、阿讃を結ぶ交易路の要衝にあった尾瀬神社は、鉄道の開通で辺境に「転落」していきます。こうして雨乞祈祷の聖地は、「聖戦」の名の下に進められる日中戦争の泥沼の中で、顧みられなくなり背景に消えていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中讃TV 歴史のみ方

中讃ケーブルTVに「歴史のみ方」という番組があります。10分ほどの短いものですが、よく練られた構成だなと思って見ていると、出演依頼がありました。綾踊りの踊りではなく、残された記録について焦点をあてることにして、引き受けることになりました。事前に渡されていた質問と、私が準備していた「回答」をアップしておきます。

尾﨑清甫2
尾﨑清甫と綾子踊りの文書の木箱

Q1尾﨑清甫の残した記録について

DSC02150
綾子踊り関係の尾﨑清甫文書
 ここにあるのは尾﨑清甫が書残した綾子踊りの記録です。これらは3つの時期に書かれたことが年紀から分かります。一番古いのが110年前の1914年(大正3)、そして90年前の1934(昭和9年)、1939年(昭和14)年に書かれています。面白いのは、書かれた年に共に厳しい旱魃に襲われて、綾子踊りが踊られた年にあたります。綾子踊りを踊った年にこれらの記録は書かれています。

Q2 どのような記録が書かれていますか?

綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来由来

最初にの大正9年に①綾子踊由来記などが書かれ、次に1934年に②踊りの構成メンバーや立ち位置(隊列図)などが書かれています。そして最後に1939年に、それらがまとめられ、花笠や団扇の色や寸法などの記録が追加されています。
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊りの各役割ごとの花笠寸法
ちなみにいまもこの寸法や色指定に従って、花笠や団扇・衣装は作られています。

Q3 記録の情報源は、何だったのですか?

西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と綾子踊文書
 地唄の歌詞と薙刀問答については、丸亀藩が幕末に編集した西讃府誌に載せられています。その他の由来などについては、古書を写したり、古老からの話とされています。

Q4 一番古く踊られた記録は、いつですか?
 綾子踊り控え記録では、約210年前の1814(文化11)が一番古い記録になります。その後は、幕末の日照りの年に2回ほど踊られたと記されています。この頃に編集された西讃府誌に綾子踊りのことが記されているので、それまでには踊られるようになっていたことは確かです。
Q5 意外と踊られていないのはどうしてっですか?
雨乞い踊りなので、旱魃に成らないと踊られません。昔は総勢で200人近い人数で踊られたとされます。準備も大変な踊りです。そのため、それまでに祈祷などのいろいろな雨乞いを行って、それでも雨が降らないときに最後の手段として綾子踊りは踊られたようです。毎年、祭礼に踊られる踊りではなかったのです。

Q6 この絵はなんですか
綾子踊り 奉納図佐文誌3
綾子踊り隊形図

綾子踊りの隊形図になります。この絵は、龍王山の山腹に祀られていた「ゴリョウさん」あるいは「リョウモ」さんで、綾子踊りが踊られています。「ゴリョウさん」は「善女龍王」のことで、空海が雨乞いの際に祈った龍王とされています。姿は「龍やへび」の姿で現れます。そのため背景の曲がりくねった松は蛇松と書かれています。そこに龍王社が祀られ、その前で、子踊りや芸司を中心に大勢の踊り手達が踊っています。注意して欲しいのは、その周りを警固の棒持ち達が結界を作って、その外側に多くの人達が取り囲んでいる様子が描かれていることです。基本的には、この隊形や人数を今も受け継いでいます。
1934年)大干魃に付之を写す


Q7 尾﨑清甫が記録を残したのはどうしてか
 
1934年 大干魃付写之 尾﨑清甫
    1934(昭和9)年に綾子踊りが踊られた経緯

彼の文書の一節には次のように記されています。

 「明治以来、世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、綾子踊りを踊ることにも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは今、記録に残しておかないと忘れ去られてしまう危機感があったことがうかがえます。

Q8 1934年に、すでに危機感を持っていたのはどうして?
近代化が進んで昭和になると着物から洋服に着るものが替わりました。同じように迷信的なモノは顧みられなくなり、合理的な見方をする人達が田舎でも増えます。人の心も変わっていったのです。そうすると雨乞いして雨が降ると思う人もだんだん少なくなります。佐文でも旱魃がやってきても、みんながまとまっておどることはできなくなります。このままでは、綾子踊りが消えてしまうと云う危機感があったようです。
綾子踊行列略式(村踊り)

Q 9 尾﨑清甫が記録を残そうとおもったのは?
1934(昭和9)年と、その五年後の1939年の大旱魃の時には、知事が各町村に伝わる雨乞い行事を行うように通達しています。これに従って、佐文村でも新しく団扇や花笠などが整えられ、綾子踊りが踊られます。その結果、雨が降ったようです。その成就祝いとして、村民一同で綾子踊りが踊られます。この時の感動が尾﨑清甫に、記録を残させる原動力になったのではないかと私は思っています。彼は記録を残す理由として、次のような点を記しています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
     綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

病魔に冒される中で、危機感を持って記録を残そうとした尾﨑清甫の願いが伝わってきます。

以上のようなやりとりを想定していたのですが、取材当日は支離滅裂になってしまいました。それをプロデューサーがどうまとめてくれるのか不安と期待で見守っています。放送は6月中の土日に流されるようです。
追伸
中讃ケーブルの歴史番組「歴史のみ方」で綾子踊りを紹介しました。6月中の日曜日に放送されてています。以下のYouTubeからも御覧になれます。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。https://youtu.be/2jnnJV3pfE0

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第八回 史談会 増田穣三と景山甚右衛門

今回のお話しは、讃岐の電力会社の創設過程と、それが四国水力発電会社として成長して行くまでの話になります。近代産業としての発電事業を根付かせる苦労を、増田穣三は背負います。それを水力発電の導入によって発展させていくのが多度津の景山甚右衛門です。ふたりの動きについてのお話しが聞けます。興味と時間のある方を歓迎します。
場所が吉野公民館に変更になっています。注意してください。
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琴平以南に電灯が点ったのは百年前 そこには増田穣三・一良の姿が・

尾背寺跡

  昔から気になる廃寺があります。本目の尾背寺です。

尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

この寺の「発掘調査書」を要約すると、次のようになります。

①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で
②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺
③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地
④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
などから寺域はかなり広く、多くの山岳修行者たちが拠点とする寺院だったようです。讃岐で作られたものではない土器や高価な白磁なども出ててくるので、廻国の修験者や聖の流入もあったようです。

尾背寺 白磁四耳壷
白磁四耳壺(尾背寺出土)

 高野山の高僧道範が讃岐流刑中に著した『南海流浪記』(1248)には、次のように記されています。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記の尾背寺の部分

「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」

ここからはこの寺が善通寺の「森林管理センター」であると同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。本尊は善通寺と同じ薬師如来です。薬師如来は熊野行者の信仰する仏でもありました。13世紀半の尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

  近年、尾野寺のことが萩原寺(大野原町)に残る文書に書かれているのが明らかになりました。
尾背寺文書
萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法
例えば萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法は、文保元年(1317)に尾背寺下坊で書写されたと記されています。それが萩原寺の聖教として保管されていました。ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。
②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
こうして見ると尾背寺は山の中に孤立していたわけでなかったようです。大川山の中寺廃寺や炭所の金剛院とも結びついた山岳寺院ネットワークを構成していたことが考えられます。そして、これらの寺は阿波との交易の中継基地的な役割も果たしていたと私は考えています。

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まんのう町山脇
まんのう町山脇
まんのう町の山脇は、JR土讃線の財田駅の東側に拡がる盆地で、ここには念仏踊りが伝えられています。この念仏踊りがどんな系譜のものだったのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」です。

最初に滝宮念仏踊りをめぐる動きについて、次のように押さえておきます。
①江戸時代を通じて滝宮では「滝宮神社(牛頭天王社)+天満宮+龍燈院滝宮寺」が神仏混淆的な宗教センターを形成し、龍燈寺の社僧が管理運営を行ってきた。
②その布教活動として社僧(修験者)が、蘇民将来のお札などを配布するとともに、祖先供養のために念仏踊りを村々に伝えた。
③社僧達は「芸能運搬者」として、念仏踊りを村々に伝えた。
④村々は連合して踊組を組織し、夏越しの供養に風流盆踊りを惣社に奉納するようになった。
⑤その踊りは牛頭天王信仰と菅原道真の天神信仰の中心でもあった滝宮にも奉納されるようになった。
滝宮への奉納を行っていたのは、次のような踊組でした。
A北条組念仏踊り(坂出市)
B滝宮組念仏踊り(綾歌町)
C坂本組念仏踊り(丸亀市)
D七箇村組念仏踊り(琴平町+まんのう町)
E南鴨組念仏踊り(生駒藩騒動後、讃岐の東西分離後には停止)
これらの地域は、滝宮牛頭天王社の信仰エリアであったことになります。
 さて山脇集落に話を戻します。山脇はこのうちのDの七箇村組に所属していたことが資料から分かります。それがどうして、「山脇念仏踊」を踊り出したのでしょうか?

大正時代に書かれた「念仏踊り略縁起」には、次のように記されています。
抑此の念仏踊は日本念佛の元祖法然上人の始め給ひしものなり。上人御年七十五歳の御時、流罪の御身となりて建永二年二月二十六日護岐の国塩飽の地頭駿河権守高階保速の方に御着。それより日を経て善通寺並に金昆羅権現へ御参詣の働り南の方を眺め給へば紫の雲のたなびく所あり。定めて有縁の霊地ならんと即ち宮田の西光寺へ歩を運ばせ給ひ御滞留。寒くとも袂に入れよ西の風弥陀の国より吹くと思へばと御詠ありて日夜衆生に念仏を動め給へ共其の頃一般の人心信仰の念薄く念仏を唱ふるもの砂かりき。然るに不思議なるかな上人念仏御修業の御徳にて岸石に泉を得給ひ、或は庭前の松に夜な夜な明星天下りて影向し給へり。又其の年夏照り打続き草木将に枯死せんとするに至りて上人日く念仏を唱ふれば必ず雨降るべしと。それより南方山脇と云ふ在所へ歩を運び給ひ、丘上に衆人を集め手踊りに念仏を合し盛に踊らしめたるに忽ち雨降りければ、人々生還の思ひをなして喜悦すること一方ならず。それより念仏踊りと称して後生に永く伝へられ、封建の昔は非常なる格式を与へられ遠く滝宮に至りて踊るを例とせられ、史実に残る西七ケ村の念仏踊り乃ち之れなり。
上人の衆人を集め給ひし丘山は山脇より阿波の国東山に超ゆる街道の畔の南に轟瀧眼下に上讃本線さぬき財田駅更に西方は遠く遂灘眺望絶佳の地にて法然上人をまつる廣場通称念仏場乃ちこの由緒
を樽へる踊り磯祥の地なり。時うつり世は変りて明治の文化開けて幾星霜全く村人より忘れられ
んとせしが、大正の末期古老有志相諮りて比の曲緒ある念仏躍を復活し、上人の御徳を偲ぶことを得たり。では謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませぅ。合掌
  意訳変換しておくと
そもそも、この念仏踊は日本念佛の元祖法然上人が始めたものである。上人75歳の時に、讃岐流罪となって、建永2年2月26日に護岐国塩飽の地頭である駿河権守高階保速の方に到着した。その後に、善通寺や金昆羅権現へ参詣した際に、南方を眺めていると紫の雲のたなびく所が見えた。これは有縁の霊地だろうと、宮田の西光寺(法然堂)までやってきて留まった。
その時の御詠が
寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思へば
こうして日夜、衆生に念仏を勧めた。しかし、その頃の人々は信仰の念が薄く、念仏を唱ふるものも少なかった。ところが不思議なことに、上人の念仏修業の徳によって、岸石から泉が湧き、庭前の松に夜な夜な明星が天下りて影向したりした。また、その夏は旱魃で草木が枯れ、作物も育たない有様であった。そこで上人は「念仏を唱えれば必ず雨降るべし」と云い。宮田の南方の山脇まで歩を進め、丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。するとたちまち雨が降り、人々生き返る思いと喜悦した。以後、これを念仏踊りと称して後生に永く伝へることにした。
 江戸時代には、高い格式を与えられ滝宮にも奉納されたと伝えられる。史実に残る西七ケ村の念仏踊りがそれである。
上人が衆人を集めた丘山は、山脇から阿波の国東山に続く街道沿いの岡で、南に轟(とどろき)滝、西には土讃本線さぬき財田駅、さらに遠く燧灘まで見える眺望絶佳の地である。この丘が法然上人をまつる廣場(通称念仏場)であり、この由緒を伝える踊り発祥の地である。時は移り、世は変わってこのことは村人から忘れ去られようとしている。そこで大正の末期、古老有志で相談し、由緒ある念仏踊りを復活し、上人の御徳を偲ぶこととした。謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませう。合掌
以上を要約しておくと
①讃岐に流刑となった法然は紫の雲のたなびくのを見て宮田の法然堂(西光寺)に留まった。
②夏の旱魃に法然は山脇の丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。
③するとたちまち雨が降り、これを念仏踊りと称して後生伝へた。
④これが七箇村念仏踊りの起源で、滝宮へも奉納された格式高い念仏踊りである。
⑤忘れ去られようとしていた念仏踊りを大正末年に復活させ、法然上人を偲ぶことにした。
宮田の法然堂
まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
ここでは山脇念仏踊は、法然上人によって始められたことが強調されています。ちなみに雨乞い踊りの由来に登場する伝播者を振り返っておくと、次のようになります。
A 滝宮念仏踊  菅原道真の雨乞成就に感謝して
B 佐文綾子踊  弘法大師が綾子に伝授
C 山脇念仏踊  法然上人
この「伝書」には、念仏踊りの踊り方や下知役の踊り方などの指南書的な内容になっています。大正末年には、昭和9・14年に匹敵する大旱魃が襲ってきました。そのため県などでも為す術がなくて、市町村に雨乞踊りの復活を通達を出しています。こうして何十年ぶりかに復活した雨乞い踊りを残すための踊り方指南書や、持ち物製作手順や由緒書きなどが新たに書かれます。佐文の尾﨑清甫が最初に綾子踊に関する記録を残すのも大正時代のことでした。ここでは、各地で雨乞い踊復活運動が起こり、新たな記録が残されたことを押さえておきます。

この伝書には「法然が山脇で念仏踊りを始めた。」
「念仏踊りの発祥の地が山脇だ。」、
そして山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊に「発展」したのだとされていました。これを検証しておきます。
まず、七箇村組念仏踊りのメンバーを見ると、「旧仲南町 + 旧満濃町の岸の上・真野・吉野 + 旧天領(五条・榎井・苗田・西山」など、数多くの村々の連合体だったことが次の表からは分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

その中で、山脇村に対しても役割や動員人数が割り当てられています。山脇は西七箇村に属しますが、構成メンバーの一員にしか過ぎません。ここからは、山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊りに成長・発展したとは云えないようです。それよりも踊られなくなった七箇念仏踊りを、山脇だけで復活させたと見た方が良さそうです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

   諏訪大明神(真野諏訪神社)に奉納された七箇村組念仏踊

どうして七箇念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか? 
①滝宮牛頭天王社の龍燈寺が廃仏毀釈運動の中で廃寺となり、滝宮念仏踊りの主催者がいなくなった
②七箇念仏踊自体が「天領+丸亀藩+高松藩」領の寄せ集め集団で内紛が絶えなかったこと
以上の理由から七箇念仏踊りは、空中分解してしまいます。そのような中で、西七箇村の最も西で、三豊郡境に接する山脇集落では、自分たちだけで念仏踊りを復活させようとしたのだと研究者は考えています。これは佐文の綾子踊も同じような歩みを辿ります。佐文の場合は、いろいろな騒動を組内で起こし、主要な役割を失っていきます。そのため佐文単独で風流踊系の綾子踊りを導入していたようです。どちらにしても、山脇と佐文という七箇村組の「西方辺境」の二つの集落が、自分たちだけで雨乞踊りを復活させようとしたのです。

龍燈院・滝宮神社
 滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)と天満宮を管理していたのは龍燈院

まんのう町民具館(旧仲南北小学校)の展示室には、山脇念仏踊の鉦がひとつ保存されています。
鉦の縁に「西七ケ村、山脇、香川景親」と彫り込まれています。この鉦の他にも、山脇にはこれと同じ鉦を保管する家が10軒ほどあると聞きます。この鉦からは次のような事が分かります。
①鉦の中側には「池下氏」と墨書があるが、年代がないのでいつのものかは分からない
②鉦の外側に紐をつける耳があり、経の糸を織としてそれに持ち手をつけてある。
③形や大きさは、坂本念仏踊のものと同じもの
なお、七箇念仏踊の「鉦打」は、60人。そのうち山脇が属する西七ケ村には21人が割り当てられています。

以上をまとめておきます
①大正時代に書かれた山脇念仏踊りの由来には、讃岐に流刑となった法然が、旱魃の年に山脇の丘の上に衆人を集めて、念仏踊りを踊らせたと書かれている
②それが山脇念仏踊の始まりで、これが後世に七箇村念仏踊りとして、滝宮へも奉納されるようになったとする。
③しかし、史料的には山脇は七箇念仏踊りの一員に過ぎず、中心的な役割を果たしていたわけではない。
④明治に七箇村組念仏踊が解体した中で、大正期の大旱魃の際に山脇が単独で念仏踊りを復活させたものが現在に継承されていると研究者は考えている。
どちらにしても、明治以後に踊られなくなり、忘れ去られようとしていた讃岐各地の雨乞い踊りが一時的に蘇るのが、大正の大旱魃期でした。県が市町村に、雨乞踊りや祈願の復活実施を指示したのが、そのきっかけです。その結果、多くの村々で雨乞い踊りが復活します。それは山脇や佐文でも同じでした。その際に、きちんとした資料や由来書を残したところが現在にまで継承されているように私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」
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讃岐の雨乞念仏踊りを見ています。今回はまんのう町の大川念仏踊りを見ていくことにします。問題意識としては、この念仏踊りは滝宮念仏踊を簡素化したような感じがするのですが、滝宮への踊り込みはなかったようです。どうして滝宮から呼ばれなかったのかを中心に見ていこうと思います。

大川神社 1
大川権現(神社) 讃岐国名勝図会

 大川念仏踊りは、大川神社(権現)の氏子で組織されています。
大川神社の氏子は、造田村の内田と美合村の川東、中通の三地区にまたがっていました。
大川神社 念仏踊り
大川念仏踊り 大川神社前での奉納
大川念仏踊りは古くは毎年旧暦6月14日に奉納されていました。それ以外にも、日照が続くとすぐに雨乞の念仏踊を行っていたようで、多い年には年に3回も4回も踊った記録があります。そして不思議に踊るごとに御利生の雨が降ったと云います。現在では7月下旬に奉納されています。かつての奉納場所は、以下の通りでした。
①中通八幡神社で八庭
②西桜の龍工神社で八庭
③内田の天川神社で三十三庭
④中通八幡社へ帰って三十三庭
⑤それから中通村の庄屋堀川本家で休み、
⑥夜に大川神社へ登っておこもりをし、翌朝大川神社で二十三庭
⑦近くの山上の龍王祠で三十二庭
⑧下山して勝浦の落合神社で三十三庭
2日間でこれだけ奉納するのはハードワークです。

大川神社 神域図

現在の大川神社 本殿右奥に龍王堂
今は、次のようになっているようです。
①早朝に大川山頂上の大川神社で踊り、
②午後から中通八幡神社、西桜の龍王神社など四か所
もともとは大川神社やその傍の龍王祠に祈る雨乞踊です。その故にかつては晩のうちに大川山へ登り、雨乞の大焚火をして、そこで踊ったようです。

大川神社 龍王社
大川神社(まんのう町)の龍王堂

大川念仏踊は、滝宮系統の念仏踊ですが、滝宮牛頭天王社や天満宮に踊り込みをしていたことはありません。
 奉納していたのは大川権現(神社)です。大川山周辺は、丸亀平野から一望できる霊山で、古代から山岳寺院の中寺廃寺が建立されるなど山岳信仰の霊地でもあったところです。大川権現と呼ばれていたことからも分かるように、修験者(山伏)が社僧として管理する神仏混淆の宗教施設が大川山の頂上にはありました。そして霊山大川山は、修験者たちによって雨乞祈願の霊山とされ、里山の人々の信仰を集めるようになります。

大川神社 本殿東側面
大川神社 旧本殿
由来には、1628(寛永5)年以後の大早魅の時に、生駒藩主の高俊が雨乞のため、大川神社へ鉦鼓38箇(35の普通の鉦と、雌雄二つの親鉦と中踊の持つ鉦と、合せて38箇)を寄進し、念仏踊をはじめさせたとします。以来その日、旧6月14日・15日が奉納日と定めたとされます。

 それを裏付ける鉦が、川東の元庄屋の稲毛家に保管されています。
縦長の木製の箱に収められて、次のように墨書されています。
箱のさしこみの蓋の表に「念佛鐘鼓箱、阿野郡南、川東村」
その裏面に、「念佛鐘鼓拾三挺内、安政五年六月、阿野郡西川東村什物里正稲毛氏」
しかし、今は38箇の鐘は、全部があるわけではないようです。稲毛氏に保存されている鉦には、次のように刻まれています。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、但為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃

    この銘からは、次のようなことが分かります。
①寛永5年に尾池玄蕃が願主となって、雨乞いのため35ヶの鉦を大川権現に寄進したこと
②大川山は当時は権現で修験者(山伏)の管理する神仏混淆の宗教施設であったこと。
③当時の生駒藩の国奉行は、三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛の3人であった。
④願主は尾池玄蕃で、藩主による寄進ではない。
当時の生駒藩を巡る情勢を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 4月より旱魃が例年続きり,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
同年4月 生駒高俊の命により,西島八兵衛・三野四郎左衛門・浅田右京ら白峯寺宝物の目録作成
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、ため池築造に取りかかった。
④大川権現に、雨乞い用の鼓鐘寄進を行ったのは、満濃池の着工の年でもあった。
⑤難局を乗り切った三奉行に対して、藩主生駒高俊の信任は厚かった。
⑥生駒藩の国奉行の3人の配下の尾池玄蕃が大川権現に、鉦35ヶを雨乞いのために寄進した。

この鐘鼓が寄進された時期というのは、生駒藩存続の危機に当たって、三奉行が就任し、藩政を担当する時期だっただったようです。大川権現に「鐘鼓数三十五」を寄進したのも、このような旱魃の中での祈雨を願ってのことだったのでしょう。ただ注意しておきたいのは、由来には鉦は生駒藩主からの寄進とされていますが、銘文を見る限りは、家臣の尾池玄蕃です。
 寄進された鉦の形も大きさも滝宮系統念仏踊のものと同じで、踊りの内容もほぼ同じです。ここからは大川念仏踊りは、古くからの大川神社の雨乞神とは別に、寛永5年に生駒藩の重臣達によって、新たにここに「移植」されたものと研究者は考えているようです。

大川念仏踊りの歌詞
 南無阿弥陀仏は、
「なむあみど―や」
「なっぼんど―や」
「な―む」
「な―むどんでんどん」
「なむあみどんでんどん」
「な―むで」
などという唱号を、それぞれ鉦を打ちながら十数回位ずつ繰り返しながら唱います。その間々に法螺員吹は、法螺員を吹き込む。こうして一庭を終わります。
その芸態は、滝宮系念仏踊と比べると、かなり簡略化されたものになっていると研究者は評します。滝宮系では中踊は大人の役で、子踊りが十人程参加しますが、それは母親に抱かれて幼児が盛装して、踊の場に参加するだけで実際には踊りません。ところが大川念仏踊は、子踊りがないかわりに、中踊りを子供が勤めます。

滝宮念仏踊と大川念仏踊りには、その由来に次のような相違点があります。
①滝宮念仏踊りは、その起源を菅原道真の雨乞祈祷成就に求める
②大川念仏踊は、生駒藩主高俊が鉦を寄進して、大川山(大川神社)に念仏踊を奉納したことに重点が置かれている
踊りそのものは滝宮系念仏踊であるのに、滝宮には踊り込まずに地元の天川神社や大川神社に奉納する形です。
どうして、大川念仏踊りは滝宮に踊り込みをしなかったのでしょうか? 
それは、滝宮牛頭天王社とその別当寺の龍燈院が認めなかったからだと私は考えています。龍燈院は牛頭天王信仰の神仏混淆の宗教センターで、滝宮を中心に5つの信仰圏(北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組)を持っていました。そのエリアには龍燈院に仕える修験者や聖達が活発に出入りしていました。その布教活動の結果として、これらの地域は念仏踊りを踊るようになり、それを蘇民将来の夏越し夏祭りの際には、滝宮に踊り込むようになっていたのです。踊り込みが許されたのは、滝宮牛頭天王信仰の信仰エリアである北条組、坂本組、鴨組、七箇村組、滝宮組だけです。他の信者の踊り込みまで許す必要がありません。
 そういう目で見ると、大川権現は蔵王権現系で、滝宮牛頭天王の修験者とは流派を異にする集団でした。それが生駒藩の寄進を契機に滝宮系の念仏踊りを取り入れても、その踊り込みまでも許す必要はありません。こうして新規導入された大川念仏踊りは、滝宮牛頭天王社に招かれることはなかったのだと私は考えています。

以上をまとめておきます
①大川山は丸亀平野の霊山で、信仰を集める山であった。
②古代には中寺廃寺が国府主導で建立され、讃岐の山岳寺院の拠点として機能した。
③中世には大川権現と呼ばれるようになり、山岳修験の霊地とされ多くの修験者が集まった。
④近世初頭の生駒藩時代に大旱魃が讃岐を襲ったときに、尾池玄蕃は雨乞い用の鉦を大川権現に寄進した。
⑤これは具体的には、滝宮念仏踊りを大川権現に移植させようとする試みでもあった。
⑥こうして大川権現とその周辺の村々では、大川念仏踊りが組織され奉納されるようになった。
⑦しかし、大川権現と滝宮牛頭天王社とは、修験者の宗派がことなり、大川念仏踊りが滝宮に踊り込むことはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 讃岐雨乞踊調査報告書(1979年) 15P 雨乞い踊りの現状」

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    以前から探していた冊子を手にすることが出来ました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

今から約45年前に刊行された「讃岐の雨乞い踊」調査報告書です。この巻頭の「雨乞踊りの分布とその特色」は武田明氏によるものです。当時の武田氏が、県下の雨乞い踊りについてどのように考えていたのかがうかがえます。今回はその中から念仏踊りについて見ていくことにします。テキストは「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
最初に武田明氏は、雨乞踊を次の二つに分けます。

① 念仏踊 
南無阿弥陀仏の称号を唱えながら踊るもので、それが訛ってナッパイドウ、ナモデ、ナムアミドウヤなどと唱和しながら踊っているもの

②風流小歌踊 
小歌と思われる歌詞を歌いながらそれにあわせて踊る

そして讃岐に残る念仏踊として、以下を挙げます。
北村組  滝宮北、滝宮萱原、羽床上 羽床 西分 山田 千疋 
七箇組  神野、古野、七箇 十郷 象郷
坂本組  坂本 川西  法勲寺  川津  飯野
北条組    松山 加茂  林田  西庄 金山 坂出
南鴨組  南鴨
吉原組  吉原
美合組  美合
これを地図に落としたものが次の分布図になります。

讃岐雨乞い踊り分布図

ここからは次のようなことが分かります。
①綾歌・仲多度の中讃地方に伝承されている踊りが多いこと
②西部の三豊郡や東部の大川郡や高松地方には念仏踊りは伝承されていないこと。
③特に綾歌郡の綾南町滝宮を中心としたエリアが分布密度が高い。
北村組、七箇村組、坂本組、北条組もかつては滝宮神社と滝宮天満宮に奉納され、「滝宮念仏踊」と総称されていました。しかし、この滝宮念仏踊の組は、現在では踊られなくなった組があったり、滝宮への奉納をしなくなった組もあります。現在、滝宮への奉納を行っているのは、次の通りです。
1組 西分 牛川 羽床上(綾歌郡旧綾上町)
2組 山田上 山田下  (綾歌郡旧綾上町)
3組 羽床下 小野 北村(綾歌郡旧綾南町)
4組 千疋  萱原 北村(綾歌郡旧綾南町)(北村組は二回奉納)
滝宮念仏踊り 御神酒
    滝宮天満宮に奉納された12組の御神酒(西分奴組を含む)

もともとはまんのう町の七箇村組や、坂出の北条組などからも奉納されていましたが、幕末から明治頃には途絶えたようです。また、高松藩以前の生駒藩時代には、多度津の南鴨組や吉原組も滝宮に奉納していたことは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 この分布図を見て武田明氏は「滝宮を中心とした地方に念仏踊の分布が著しいのはどう言う理由からであろうか。」と問いかけます。
その答えとして用意されているのが次の2点です。
①滝宮神社に対する雨乞いの信仰が強力であったこと
②菅原道真の城山の神に祈雨したという伝説にもとづくもの
①については、龍神を祀る山や渕が、一字の祠堂になった例を挙げます。そしてその中にはおかみ〈澪神)を祭礼とするものが多く、非常に古い信仰の姿をとどめていることを指摘します。万葉集巻二の中の出てくる「おかみ」です。
わが里のおかみに言ひて降らしめし
雪のくだけしそこに散りけむ
そして次のように述べます。

このような祈雨の神としての信仰の中心地が讃岐にはいくつかあった。その中でも綾川流域の滝宮の信仰は、もっとも強大であったのである。もともとこの地には北山龍灯院綾川寺という寺があった。そしてこの寺は綾川の深渕に沿うて建っていたのである。この測は古くは蛇渕と言い、龍神が接んでいると信じられていた。また傍に一本の大木があって、龍神がその木に来って龍灯を点ずると言われていた。すなわち非常に強力な龍神信仰を伴なっていたわけである。

滝宮神社・龍燈院
  滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
そして龍灯院綾川寺に伝わる次のような伝説を紹介します。
綾川寺の僧空澄は道真公の帰依僧であった。
菅公が太宰の権師として筑前に向い流されて行く途中で船は風波の難にあって、現在の下笠居の牛鼻浦に寄港した。それを聞くと、空澄は取るものもとりあえず牛鼻浦に行き、遠くへ流されて行く菅公に逢った。菅公は空澄に衣を脱いで与へまた自画像と書写された心経とを与えた。やがて、菅公は筑紫に下向したが、筑紫で死去するや空澄はこれらの遺品を祀って滝宮天満宮を建立したという。綾川寺の傍には、占くからの滝宮神社があるので、滝宮神社と天満宮の三社は何れも南面して並んでいる。
そして、滝宮念仏踊をまず奉納するのは滝宮神社であり、 ついで天満宮に奉納するのである。すなわち滝宮を中心とした念仏踊群がよく発達しているのは龍神の信仰と菅公祈雨の伝説かひろく並び行われた為であると考えられる。

  以上を「意訳要約」しておきます。
①綾川屈折地の羽床のしらが渕から滝宮にかけては、古代からの霊地で信仰の中心地であった。
②そこに中世になって龍灯院綾川寺が建立され、滝宮神社の別当寺となって神仏混淆が進んだ
③龍灯院綾川寺は菅原道真伝説を接ぎ木して、滝宮天満宮の別当職も務めた。
④こうして龍燈院による滝宮神社と天満宮の管理・運営体制が中世に形作られた
ここで押さえておきたいのは、滝宮神社がかつては「滝宮牛頭天王社」と呼ばれていたことです。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院滝宮寺と滝宮(牛頭)神社(讃岐国名勝図会 拡大)

牛頭天王信仰は、京都の八坂神社や姫路の神社がよく知られています。

そこでは修験者たちが各国を廻国して、自分たちの信仰テリトリーで「蘇民将来のお札」や「豊作祈願」「牛馬の安全」などのお札を配布していたことは以前にお話ししました。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
   牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札
中世の龍燈寺と滝宮牛頭天王社の修験者や聖達も、同じように周囲の信仰エリアの信者達にお札を配布する一方で、日常的な接触を持つようになったことが考えられます。中世は西方浄土での極楽浄土を願う念仏が大流行した時代です。その中で、最初に最も多くの信者達を獲得したのは時衆の踊り念仏でした。その結果、いろいろな宗派がこれを真似るようになり、一次は高野山でも時衆の念仏聖が一山を乗っ取るほどの勢いを見せたことは以前にお話ししました。讃岐でもこのような動きが広がります。その拠点の一つとなったのが龍燈院滝宮寺であったのではないかと私は考えています。高野山の真言宗のお寺がどうして「南無阿弥陀仏」を唱えるのかと、最初は私も疑問に思いました。しかし、先ほど見たように高野山自体が時衆の念仏聖達に占領されていた時代です。また近世の四国辺路の遍路達も般若心経ではなく「南無阿弥陀仏」を唱えていたことも分かってきています。龍燈寺の修験者や聖達も教線拡大のために踊り念仏を広めたのではないでしょうか。修験者や聖達は、宗教だけでなく「芸能媒介者」でもあったことは以前にお話ししました。こうして滝宮牛頭天王社の信仰圏には、踊り念仏が定着していきます。そして夏の大祭には、信者達が大挙して踊り組を送り込んでくるようになります。それが先ほど見た坂本組や七箇組・北条組などの踊組になるのです。

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 ここで注意しておきたいのは、もともとはこれらの踊りは「雨乞い踊り」ではなかったことです。
奈良などの風流踊りの由来には「雨乞成就」のための踊りと記されています。坂本組の由緒書きにも「菅原道真公による雨乞祈願成就へのお礼踊り」のためと記されています。さらに七箇踊りでは「大旱魃で忙しいので念仏踊りは今年は中止する」という年もありました。近世には念仏踊りを踊っている人達には、これが雨乞いのために踊っているという意識はなかったことがうかがえます。
 近世の人々は「竜神に雨乞いを祈願できるのは、修行を積んだ験の高い高僧や修験者」と考えていたようです。何の験もない自分たちが踊って、雨を振らせることなどお恐れ多いことと考えていたはずです。自分たちの力で雨を振らせようとするようになるのは近代以後のことです。農民達は念仏踊りを、祖先供養のために踊っていたと私は考えています。
多度郡 明治22年
南鴨組のメンバーの村々

武田明氏は多度津の南鴨念仏踊についてついて次のように記します。
この組もかっては滝宮へ踊りを奉納していたと言い、今では滝宮念仏踊群の中には人っていないがやはり菅公祈雨の伝説を持っている。すなわち仁和四年(888)の大千魃の折に菅公は城山の神に雨を祈るとともに北鴨道隆寺の理源大師を頼み牛頭天王社に祈祷を命じられたという。すると滞然として雨が降り百姓は菅公の前に集って狂喜乱舞した。これが南鴨念仏踊の起りであると言う。やがて道真公は鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請したが、理源大師を先達として多数の山伏がこの勧誘の行列には加わったという。そしてその折にも踊りの奉納があったと請うが、このような伝承はやはり念仏踊の中には修験の影響があったことを意味している。現に南鴨念仏踊においてはまず貝吹きが法螺の員を山伏の行装で吹くし、また滝宮念仏踊においても員吹きは重要な役割を背負っていることからも明らかである。なお、南鴨念仏踊は現在は南鴨の加茂神社の境内で行なっているが、加茂神社は別雷神を祭神とし、別雷神は降雨をもたらす神として信仰されていたからである。

以上を要約すると
①菅原道真は城山での雨乞い祈祷の際に、多度津道隆寺の理源大師に牛頭天王社への祈祷を命じた
②雨乞い祈願が成就して、狂喜乱舞し踊ったのが南鴨念仏踊りの起源である。
③菅原道真はそのお礼に、鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請した。
④その際には理源大師を先達として多数の山伏が、この勧誘の行列には加わった
⑤以上から念仏踊りには、念仏系修験者や聖達が大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
 
 多度津の南鴨念仏踊が滝宮への踊り込みを行っていたことは史料からも確認できます。それが近世初頭には、中止されます。それはどうしてなのでしょうか?
 生駒藩では龍燈院への保護政策として、各地からの踊り込みを奨励するような動きがあったことは以前にお話ししました。
ところが生駒藩転封以後に讃岐は東西に分割されます。高松藩の初代藩主としてやって来た松平頼重は独自の宗教政策を持っていました。彼は、龍燈寺保護と賑わい創出のために、念仏踊りの踊り込みを許可します。しかし、丸亀藩領となった多度津の南鴨からの踊り込みは、他国領土であるという理由で許さなかったようです。それ以外の4つの組からは「雨乞成就のお礼踊り」という
「大義名分」付で許可されたのです。

善通寺の吉原組の念仏踊について、武田明は次のように記します。

ここにもまた管公城山の神に雨を祈った伝説を付加していて、ここではその干魃の折に吉原の村人が火上山の中腹にある龍王の祠に鉦や太鼓を持ち出して踊ったのがその起りであるという。しかし、ここでは古老の伝えるところによると、古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まったものだと言っている。永らく廃絶していたが今では復興されて現在に至っている。

南鴨組滝宮念仏道具割
 南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
南鴨の念仏組の史料には、構成メンバーの村々の名前と役割分担が記してあります。この中に吉原組もあります。ここからは吉原組も、南鴨組の一員であったことが分かります。先ほど見たように、南鴨や吉原村が丸亀藩に属することになって、滝宮への踊り込みが出来なくなります。そのため南鴨組を構成する村々では、村単独で踊りを残そうとしていたことがうかがえます。そういう意味では「古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まった」という認識は誤っていません。

まんのう町美合中通の念仏踊(大川念仏踊り)は、どの念仏踊よりも素朴だと武田明氏は評します。
香川県琴南町(現まんのう町) 大川念仏踊り 東雲写真館

 この踊りは大川山の頂上で踊り祈雨を祈願してから山を下って中通の八幡宮で踊り、最後には土器川上流の龍神渕の傍で踊って踊り納めることになっている。この踊りも一時は滝宮まで行っていたというがそれは詳かでない。
武田明氏が注目するのは、多度津町高見島のナモデ踊りです。

高見島なもで踊り
多度津町高見島のナモデ踊り

踊り自体が今まで紹介した念仏踊とは、異なっているというのです。
踊りの唱和の中に
ナモデ(テンテレツクテン)ナモデ‥‥
などという言葉があるので、一応は念仏踊の中に入れられているようです。もともと、この踊りは旧盆(旧7月13、14日)に行われていたものです。高見島には浦と浜との二つの集落があって、その集落の中間にある海浜まで来て二つの集落の者が踊っていたようです。まず踊りのはじめに
鹿島の神のかなめ石
と歌い、それからは中央の者が太鼓を打って踊り円陣を作った周囲の者がナモデナモデと囃し立てます。ここで武田明氏が注目するのはせんだんの本の枝を持った者が先頭に立って参加することです。せんだんの木は、盆に訪れて来る精霊のための依代なのかもしれないと武田氏は、次のように推測します。

遠い常陸の国の鹿島の信仰に見える鹿島送りの行事、或いはその年の作物の豊凶や一年間のうらないを告げていた鹿島の言ぶれなどが背景にあってこのような歌詞が海を越えて伝わり、やがてはそれが念仏踊と習合したと云うのです。何れにしても、高見島のナモデ踊りは讃岐の各地に見る念仏踊とは異種のものだ。

 最後に武田明氏は次のような文で閉めます。
ナモデ踊り以外の念仏踊はそのほとんどが法然上人との間に何らかのつながりがあったことを伝えている。滝宮念仏踊では建久四年に法然上人が讃岐に配流された時に念仏修行を里人に説きこの踊りを振りつけしたと伝えている。はたしてそういう事があったかどうかは考察しなければならないが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら踊る念仏踊が法然上人の念仏修行に結びついてこうした伝説となったものであろう。

これに対して、讃岐叢書民俗編の筆者は、讃岐の念仏踊りの起源は法然上人ではない。それは時衆の一遍の踊り念仏をルーツとするものだという立場に立っています。私も後者を支持します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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 前回は戦後の満濃池土地改良区が財政危機から抜け出して行く筋道を押さえました。今回は土器川右岸(綾歌側)の土地改良区がどのように、用水確保を図ったのかを見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

土器川と象頭山1916年香川県写真師組合
土器川と象頭山(1916年 まんのう町長尾)

土器川は流路延長42㎞で、香川県唯一の一級河川ですが、河川勾配が急なため降雨は洪水となって瞬時に海に流れ出てしまいます。そして扇状地地形で水はけもいいので、まんのう町の祓川橋よりも下流では、まるで枯川のようです。
飯野山と土器川
土器川と飯野山(大正時代)
しかし、これはその上流の「札ノ辻井堰(まんのう町長尾)」から丸亀市岡田の打越池に、大量の用水を取水しているためでもあります。近世になって開かれた綾歌郡の岡田地域は、まんのう町炭所の山の中に亀越池を築造し、その水を土器川に落とし、札ノ辻井堰から岡田に導水するという「離れ業的土木工事」を成功させます。これは土器川の水利権を右岸側(綾歌側)が持っていたからこそできたことです。左岸の満濃池側は、土器川には水利権を持っていなかったことは以前にお話ししたとおりです。

土器川右岸の水利計画2
「亀越池→土器川→札の辻井堰→打ち越池」 
土器川は綾歌の用水路の一部だった 
 第3次嵩上げ事業の際に満濃池側は、貯水量確保のために綾歌側に土器川からの導水を認めさせる必要に迫られます。そのための代替え条件として綾川側に提示されたの、戦前の長炭の土器川ダム(塩野貯水池)の築造でした。それが戦後は水没農家の立ち退き問題で頓挫すると、備中地池と仁池の2つの新しい池の築造などの代替え案を提示します。こうして綾歌側は、土器川の天川からの満濃池への導水に合意するのです。今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして右岸(綾歌側)のために策定されたのが「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」 (1953年)です。この計画によると

満濃池右岸水系
①「札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新築
②あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池、仁池につながっている幹線水路を整備
③さらには飯野地区までの灌漑のために飯野幹線水路を整備
 しかし、大川頭首工の新設と幹線水路の改修だけでは綾歌地区2200㌶の灌漑は、賄いきれません。必要な用水量確保のために、考えられたのが次の二つです
④亀越池のかさ上げ
⑤備中地池と仁池の2つの新しい池の築造
備中地池竣工記念碑
備中地池竣工記念碑 1962(昭和37)年

この右岸地区の用水計画を行うために作られたのが、「亀越池土地改良区 + 飯野土地改良区 + 羽間土地改良区」など8つの土地改良区の連合体で構成された香川県右岸土地改良区連合(以下連合)のようです。
 土器川右岸用水改良事業は、次のように順調に進んでいきます。
1954(昭和29)年度 打越池幹線水路改修、
1956(昭和31)年度 仁池幹線水路改修
1957(昭和32)年度 小津森池幹線水路改修
1959(昭和34)年度 大川頭首工建設
1962(昭和37)年度 備中地池新設
1963(昭和38年)度 飯野幹線水路改修
一方、亀越池の嵩上げ工事は、用地買収が難航して着工できない状況が続きます。そんな中で昭和38年度末に連合の事業は全面ストップしていまいます。
亀越池
亀越池
  順調に進んでいた工事がどうしてストップしたのでしょうか?
土器川右岸用水改良事業の資金は、国・県が75%、地元25%の負担率でした。地元負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれることになります。定款によれば、賦課金のうち備中地池や大川頭首工など水源地事業は、全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し、水路事業は事業費20%を全土地改良区で負担、残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールになっています。そのため幹線水路の改修工事の場合、当幹線水路の土地改良区が賦課金を負担できないと、工事は進められなくなります。
 そうした中で、1955(昭和30)年に飯野村が丸亀市に合併されると、飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るようになります。さらに1960(昭和35)年には羽間土地改良区が連合を脱退することを決め、以降賦課金を納入しなくなります。こうして連合全体の財政が悪化し、ついに事業そのものを続けることが出来なくなります。
 そうした中で農林漁業金融公庫に対する償還金が支払えずに未払い分がふくれ上がっていきます。
対応策として連合は1965(昭和40)年12月、降賦課金を納入しない飯野、羽間の両土地改良区連合と丸亀市に対し訴訟を起こします。これに対して、高松地方裁判所は裁判による決着をさけ、県当局に調整を依頼します。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納、羽間土地改良区の賦課金未納は法律違反です。しかし、羽間土地改良区側には次のような言い分もありました。
①大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇したこと
②羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること
 また、丸亀市も次のように主張します。

「これまで飯野村が助成してきた飯野土地改良区の賦課金は、合併以降は丸亀市が代わって助成する約束になっていると、飯野村はいうけれど、市当局の認識はそのような合意は明文上成立していない。それに事業受益地の末端にある飯野地区では、亀越池のかさ上げが実現していない現状では、幹線水路を改修しても、事業の用水増強効果はほとんど期待できない。」

さまざまな事情を考慮した結果、裁判所は和解による解決の途を奨めます。
和解は1973(昭和48)年8月になってようやく成立します。この間、連合は両土地改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方で、1966(昭和41)年3月には、総会において事業の打切りを決定します。そして亀越池かさ上げに代わる水源に、香川用水を宛てることにします。土地買収が必要な亀越池かさ上げでは1立方メートル当たりの水価 220円に対し香川用水では60円ですむ計算が出されています。香川用水の方が1/3以下も安いのです。こうして香川用水に頼って、自前による用水確保(亀越池嵩上げ)を放棄することになります。これは賢明な決定だったようです。この年には、香川用水建設規成会が設立されます。翌年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も間近という背景がありました。
   前回もお話ししたように土地改良区の財政悪化問題は、綾歌や満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①戦前に策定された満濃池第3次嵩上げ事業は、戦時下の食糧生産増強という国策を受けて、土器川両岸の改良計画であった。
②しかし、戦後の計画では目玉となる「土器川ダム」が頓挫し、土器川から満濃池への導水については、右岸(綾歌)側の強い反発を受けるようになった。
③そこで県は新たな貯水量確保手段として「備中地池・仁池の新築 + 亀越池嵩上げ」を提案し、綾歌側の合意を取り付けた。
④こうして土器川右岸(綾歌側)は、独自の計画案で整備計画が進められるようになった。
⑤しかし、一部の土地改良区からの賦課金未納入や脱退が起こり、整備計画は途中中止に追い込まれた。
⑥この背景には、計画中の香川用水を利用する方が経済的に有利だという計算もあった。
⑦こうして綾歌地区は亀越池の嵩上げ工事に着手することなく、香川用水の切り替えを行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」

戦前の1939(昭和14)年に始まった満濃池第3次嵩上げ事業が完成したのは、1959(昭和34)年3月のことでした。天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。しかし、これを歓んでばかりはいられない状況に、満濃池土地改良区にはありました。それは忍び寄る財政破綻の危惧です。今回は戦後の満濃池土地改良区の財政問題について見ていくことにします。テキストは「満濃池史220P 財政不振とその再建」です。
1893(明治26)年 満濃池普通水利組合を設立
1951(昭和26)年 土地改良法公布・施行により、水利組合から衣替えして、満濃池土地改良区が発足。
 戦後になって土地改良区に組織は変わりますが、その運営には次のような問題があったと満濃池史は指摘します。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
①農地改革で生まれた自作農が無責任な言動を繰り返したこと。例えば水を貰う権利は主張するが、水利費の負担には応じようとしない。「水利費は従来どおり元の地主が払ったらよい」と言い放つ声がまかり通った。
②満濃池嵩上げ事業の負担についても「この工事は昔の地主が相談して始めたものだから新しい所有者や耕作者には責任はない。しかもまだ嵩上げ工事は終わらず貯水が増えた訳でもないのに、負担金を取るとは何事だ」
こうした意見が総会などで主流を占め、満濃池土地改良区の財政の悪化を招く要因のひとつになったと指摘します。
  それでは県は満濃池土地改良区の財政問題をどのように見ていたのでしょうか?
  1963(昭和38)年2月26日に、財政再建のために香川県知事が農林漁業金融公庫総裁宛に提出した「満濃池土地改良区財政再建についての県の意見」を見ていくことにします。
農林漁業金融公庫総裁 清井 正殿
香川県知事 金子 正則
「満濃池土地改良区の賦課金の増徴が困難である理由」の説明
1 満濃池が置かれている特殊な事情
  (1) 改良区内部の利害は必ずしも一致しない。
満濃池改良区は、形式的には単一の土地改良区であるが、内部構成を見た場合そう簡単ではない。たとえば他府県で見られるように、大河川に設けられた一つの頭首上によって取水された用水が、幹線→支線→分水路を通じて灌漑されるというような単純な用水系統ではない。即ち満濃池改良区の場合、その実態は多数の土地改良区の連合といっても差し支えない。そして現実には内部組合ごとに必ずしも利害が一致せず、勢い最小公約的な運営を行うほかない状況である。したがって、改良区運営の難易は、改良区の規模の大小にそのまま比例することとなり、この点からも満濃池改良区の運営の困難性が示されている。   
満濃池土地改良区の実態は「多数の土地改良区の連合」で「運営の困難性」が指摘され、「改良区内部の利害は必ずしも一致しない。」とされテーマがうたれています。それを以下のように細かく説明しています。
  (2) 多数の内部組合が存在し、その利害が一致しない。
満濃池土地改良区の地区内には、105団体(うち土地改良区30、その他の申合水利団体75)があること。これらの団体は、それぞれ時前の用水源をもち、複雑な水利慣行の下に活動していこと。そのため例えば、第3次嵩上げ事業に対しても、上流地域と下流地域では次のような対立点があった。
上流地域の主張
立地的にも、用水慣行上も現在の貯水量で十分であるから、増築の必要はない。
下流地域が、増築を要望するのであれば同意はするが、負担金は負担しない。
増築工事は、危険である。その危険負担は当然下流地域で考えるべきである。
下流地域の主張
上流地域は下流地域の犠牲において用水を賄っていたものであり、用水は不足している。
上流地域は過去数百年来下流地域の犠牲の上に、用水を使用してきたものであり、むしろ上流地域こそ負担すべきである。
・むしろ防災となる。
こうした利害の対立は、すべてについていえることで、全地区を通じて納得を得るような賦課基準を決めることはできなかった。そこで上流地域に対しては、今日まで受けた利益の代償として、下流地域に対しては、将来における配水量の確保、配水施設(特に用水路)の完備、用水管理の適正を条件として、なんとか均一賦課に踏みきった。この変更を提案すれば、収拾困難となる。
(4)嵩上げ工事計画における計画受益面積と、実際負担面積に食い違いについて。
満濃池嵩上げ工事は、戦前の1940(昭和15)年に着手して、約20年の歳月を経て、1959(昭和34)年に完成します。当初計画では、その受益面積4600㌶(従来3300㌶)で、新規加入面積(1300㌶ール)と想定していました。ところが思っていた以上に、新規加入地区が増えません。その背景には
①大戦による中断などがあり工事が長期化したこと
②用水路の不備を理由に加入をためらつていた区域も、戦後の嵩上げ工事完了後は用水が潤沢になり(上流側の余水の流入、地下水の増加など)、加入の必要がなくなった
③農地改革の結果、新たに水利費の負担を担うことになった自作農に、水利費支払いの概念がなかった。
④満濃池土地改良区の賦課金が、農民達にとっては割高で、その上今後どのように増額されるかわからない。
 この結果、新規加入したのは300㌶だけと結果に終わります。新規加入地区の負担金収入の伸び悩みは、財政収入の悪化をもたらします。
当時の土地改良区は、組合員から徴収する賦課金で運営されていました。しかし、賦課金の滞納が多く、徴収率は50%を割ります。そのため借金をするより手がなく、各農協からの借入れで何とか凌ぐというありさまです。さらに借金の利息の支払いのために再び借金をするという悪循環が続き、負債は雪だるま式に増えていきます。

 土地改良区も徴収率の向上に向けて1960(昭和30)年度からは、強制徴収に踏み切り、徴収率を80%まで上げます。
徴収率向上の成功の鍵は、満濃池第三次嵩上げの竣工にあったようです。嵩上げ工事の前と後では、農家の意識が変わったと云います。それまでは「水は来ないのに負担金だけは取られる」という怒りと反発がありましたが、嵩上げ工事と金倉川沿岸用水改良事業で、実際に水が自分たちの田に入り始めたことが、賦課金に対する認識を変化させ、徴収率は向上します。
 しかし、これも遅過ぎたようです。
1961(昭和36)年度末の農林漁業金融公庫からの借入金は、2,17億円に達していました。この借入金の内訳は
①県営事業の毎年度の地元負担金(25%)
②その内の約80%が長期低利(五年据置、20年元利均等年払、利率6,5%)の国の制度金融による借入金
③不良債務である一時借入金が1,16億円。これも一時借人金とは名ばかりで、実質上は借り替えを続け、長期借入金化したもの。
④以上の借入金合計額は、2,33億円で、利息だけでも年間2700万円余
 こうして満濃池土地改良区は、金融機関からも見放され財政破綻の危機に瀕します。
 日常業務はもとより、金倉川沿岸用水改良事業もこれ以上は継続できない情況に追い込まれてしまいます。そのため1960(昭和35)頃の満濃池土地改良区の職員8名の給与も未払いが続き、事務所に電話もなく、事務連絡などにも自転車で走り回っていたと職員は回顧しています。
満濃池土地改良区報1963年 宮武理事長
満濃池土地改良区報 宮武理事長挨拶 1963年

 財政再建策のために1961(昭和36)年に、宮武理事長が上京して、事情を当時の大平外務大臣に窮状を訴えます。
大平氏は伊藤農林次官に内容調査を依頼し、農務省の検査官が調査に訪れ、専門委員会が設置されます。そして次のような再建策が出されます。
① 再建の最大の障害である一時借入金を利率の低い一括長期債(農林漁業金融公庫資金)に借り替えする。
② 既借入れの長期債の約定償還について、六年間の中間据置し、その間に借り替えた資金を償還する。
③ 満濃池土地改良区の賦課金を増徴すると共に、徴収体制を強化してその完全徴収を図る。
④ 県の指導体制を強化し、非補助土地改良事業等の実施は極力圧縮指導する。必要不可欠の事業については単独県費補助事業として優先採択し、土地改良区財政を援助する。
この案が農林公庫や農林中央金庫等の地元金融機関の特別措置によって受け入れられることによって、財政再建は動き始めます。また当時は高度経済成長期のまっただ中で、兼業農家の農外収入が増えて、組合員の経済状態が向上していたという背景もあります。そのため賦課金も完全徴収ができるようになり、財務計画案通りの運営ができるようになります。
満濃池土地改良区報
満濃池土地改良区報 1964年 
以後、満濃池土地改良区は大平代議士の集票マシンとして機能していくようになる。

 こうして1967(昭和42)年度には短期債借り替え分の償還を完済し、その後には長期債も償還を終わらせ、財政健全化を達成します。そして1975(昭和50)年2月23日には、全国土地改良事業団体連合会会長より優秀土地改良区として金賞を授与されるまでになります。満濃池土地改良区は危機を乗り切ったのです。

満濃池土地改良区新事務所
2017年完成の満濃池土地改良区の新事務所

 土地改良区の財政悪化問題は、満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。
ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「満濃池史220P 財政不振とその再建」

戦後の満濃池第3次嵩上げ事業の「かなめ」となったのは、大川頭首工と天川頭首工でした。
前回まで見てきた堤防嵩上げや取水塔工事は、あくまで土木工事次元の問題で、技術的には大きな問題があった訳ではありません。最大の障害は、水利権のない土器川からどのようにして、満濃池に水を引くかということでした。これは、土器川の水利権をもつ右岸(綾歌側)と、交渉を通じて打開の道を探るしかない極めて政治的な課題でもありました。満濃池側が、どのようにしてこの課題に対応したのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

これまでの土器川から満濃池への導水計画の経緯を振り返っておきます。
①戦前の第3次嵩上げ事業は、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸(綾歌側)への用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものであった。
②内容の柱は「土器川ダム(塩尾の貯水池)」を築造して、土器川右岸への用水供給をすると同時に、その代償に満濃池の導水を綾歌側が認める内容であった。
③つまり、綾川側の水源確保の代償として、土器川への導水を認めるという政治的な妥協の上に成立した内容だった。
③しかし、戦後の計画では、多くの水没家屋を出すことになる「土器川ダム」計画は頓挫し、天川神社付近から満濃池に導水する「天川導水路計画」に変更された。
④これは綾歌側からすれば、上流で土器川のを満濃池にとられて、その見返りは何もないということを意味した。
⑤そのため綾歌側は「天川導水路計画」に反対の声を挙げたが、満濃池側では、1950年2月に綾歌側の合意をえないまま天川導水路工事を「見切り発車」させた。
⑥これに対して綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、農林省に対し天川導水路工事の即時中止を陳情した。
⑦中央にまで飛び火した情勢の収拾のために県は、綾歌側の要求に応える形で、「備中地池、仁池新池の二つのため池の新設 +  亀越池嵩上げ」土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保を綾歌側に提案。
⑧この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側は了承します。そして翌年には、今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
満濃池右岸水系
土器川右岸(綾歌側)の水系
つまり、県は備中地池や新池などの新池築造で綾歌側の水源確保に答えようとしたのです。こうして、満濃池側と綾歌側は歩み寄りのテーブルにつくことができる条件が整ったかのように思えました。

札の辻井堰.辻3JPG

そのような中で発生したのが長尾の札ノ辻井堰で起こった水争いでした。
その経過を見ていくことにします。満濃池第3次嵩上の堰堤工事が完成に近づく中、1955(昭和30)年は大旱魃に襲われます。水不足になると頻発するのが「水争い(水論)」です。

札の辻5
札の辻バス停(まんのう町長尾)  左が土器川、石碑は「大川神社」
長尾の札の辻井堰でも水争が起きます。長尾はかつては鵜足郡に属していて、ここには高松藩の札場がありました。今でも、バス停名は「札の辻」で、すぐそばに「大川神社」の大きな石碑が建っています。この地が雨乞い祈祷の場でもあったことがうかがえます。また、ここには土器川から岡田・綾歌方面への最大の取水口が開かれていました。それが札の辻井堰です。ここから取り入れられた土器川の水は、長尾を経て打越池へ送られ、綾歌各方面のため池に配分されます。つまり、綾川用水網の取り入れ口として最重要ポイントであった所です。
  ちなみに「岡田」は、その名の通り台地状地形で近世まで開発が遅れた地域でした。そこに水田開発が進められるようになるのは近世になってからのようです。谷間の一番上に、「谷頭池」を築くことで水田化が進められます。そして水田化が進むと水不足になり、ため池を築くと云うことを繰り返して、「岡田」は開発されていきます。そして「ため池飽和状態」になると、満濃の山の中に亀越池を築きます。そこから土器川に用水を流し、札ノ辻井堰で長尾側に取り入れ打越池に入れることが行われるようになります。つまり江戸時代から土器川自体が亀越池の用水路として利用されてきたのです。
8月15日付けの四国新聞は、辻の札での水争いの様子を「土器川を挟んで水げんか 約百名が座込み」という見だして次のように報じています。
「(8月)13日午後一時頃、綾歌郡長炭村長尾部落(耕地面積四十五町歩)が、土器川の取入れ口、札の辻井堰を同川全体に作り、川の水を同部落に引き入れようとした。このため対岸の吉野地区野津郷、宮東、宮西部落(耕地面積四十五町歩)では、従来二分されていた土器川の水を全然こちらへ流さないようにするのはもってのほかだと長尾側が作った井堰を直ちに切って落としたため、川をはさんで両部落の農民が対立、それぞれ約五十名ずつが同日午後七時ごろからクワ、ツノレハシを持って川をはさんで座り込み、不穏な形勢を示した」

札の辻井堰
現在の大川頭首工と札の辻井堰
 札の辻井堰直下の左岸(吉野側)には興免、荒川の出水があって、これらの出水の水は吉野地区に入ります。札の辻井堰は、これまで土器川の右岸堤防から川の中央部まで築き、そして長尾地区は右岸寄りの水を、吉野地区はその下流で左岸寄りの水を取るならわしでした。しかし、1954(昭和29)年の台風で河床の状況が変わり、翌年の夏の土器川は川水が左岸寄りにしか流れなくなったので、長尾地区は札の辻井堰を川幅一杯に築く措置をとったようです。これでは下流の吉野側の興免・荒川の出水に水が落ちなくなります。そこで、吉野村の農民達が井堰を切り落としたようです。こうして両地区がにらみ合う中で、昼間は警官が井堰の堤上に座り込み、夜間はパトカーの照明灯が明々と現場を照らすというものものしい警戒が続きます。
 ところが19日になって事態はさらに悪化します。
この日の午前中に、亀越池のユルが抜かれ、この池水を確保しようと長尾側がふたたび堰を川幅一杯に築いたのです。亀越池の水は、一度土器川に落としてから札の辻井堰まで導き、ここから綾歌側に取り込むシステムになっていることは以前にお話ししました。「亀越池の水の取り込み」を名目に、長尾側はふたたび川幅一杯に堰を築いたようです。しかし、吉野側の農民たちからすれば、堰を築く口実をつくるために亀越池のユルを抜いたと受取り、敵対感情に油を注ぐことになります。
8月20日の「四国新聞」は、その模様を次のように伝えています。

「香川県仲多度郡満濃町吉野と綾歌郡長炭村長尾との土器川をはさんでの水争いは十九日正午に至り長炭村農民百五十名が吉野川の水取り入口をせき止めたので、吉野川|は直ちに五十余名をかり集め、同三時半ごろこれを切断、険悪な空気をかもし出している。事態を重視した琴平署では県本部、綾南所の応援を求め武装警官一個小隊三十余名を現地に派遣、警戒に当たっているが、さらに同五時ごろ長炭側農民約百名が吉野川の水をせき止めたためますます険悪となている。…土器川をはさんで対立している農民の数は刻々増えており、一触即発の危機をはらんで夜に入った」
 
両者は川を挟んで十日間も向かい合い、21日の降雨によって「水入り」となって解かれます。しかし、問題はそのまま持ち越されます。
 亀越池は長尾地区だけでなく綾歌全体の水源でもありました。右岸の土地改良区連合の合意なしに岡田村は亀越池のユルを抜くことはできません。19日のユル抜きは、右岸全体の了承のもとに行われたはずです。
 一方、左岸の吉野地区は、満濃池掛かりです。札の辻井堰をめぐる吉野村の用水問題は、満濃池土地改良区の問題でもありました。これは当然、吉野地区と長尾地区の水利紛争にとどまず、左岸・満濃池と右岸・綾歌全体にかかわることで、裁判にまで発展します。
綾歌側は高松地裁丸亀支部に農事調停を申し立てますが、調停は難航し進みません。
この間に県では、1956(昭和31)年6月に県営土器川綾歌用水改良事業の一環として「札の辻井堰」の上流側に新たに「大川(だいせん)頭首工」を建設する案で両者の合意を取り付けます。
大川頭首工
大川(だいせん)頭首工
そして1958(昭和33)年3月4日に、水利紛争の農事調停がととのって協定が締結されます。
どのような協定内容だったのかを見ておきましょう。正式の名称は「香川県土器川右岸用水改良事業中『札の辻(大川)頭首工』に関する協定書」です。
①第3項「札の辻(大川頭首工)によって取水した水は、左右両岸の直接掛り面積に按分し、右岸側 75%、左岸側 25%の割合により分水するものとする」

ここには分水割合は、「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」と記されています。協定書の「覚書」に「大川頭首工改修前の分水の比は左右両岸対等であった」とあります。これまでの分水慣行からすれば、これは満濃側の大きな譲歩です。

大川頭首工2
大川(だいせん)頭首工を従流からのぞむ(ライブカメラ)

②第5項 「連合から要請があれば、満濃池土地改良区は救援水として満濃池の水5万立方メートルを右岸に送らなければならない。」

札の辻井堰

この協定に従って、満濃池の水路のうち土器川寄りの水路に連結させて土器川を経て右岸に出る分水路が新たに建設されます。満濃池からの救援水はこの分水路をとおして右岸に送られることになります。実際に、綾歌側に対して満濃池側が「救援」する体制が整えられたことになります。これも満濃池側の大きな譲歩です。
どうして満濃側は分水割合で譲歩し、さらに救援水を右岸に送ることに同意したのでしょうか?
その理由は、満濃池の水利権を土器川に新規に設定することを綾歌側に認めさせるための譲歩であったと研究者は指摘します。その見返りとして、天川頭首工の着工同意を得るというシナリオです。満濃池側は当初は「合意なき天川取水路の建設開始」など、綾歌側を刺激するような既成事実の積み重ねを行ってきました。しかし、最終段階になって綾川側の利害をくみ取った上で、大幅な譲歩をしたということになります。これに綾歌側も妥協したという結果となります。これを「巧妙な交渉術」と云うのかもしれません。
1959(昭和34)年8月30日に、大川頭首工が竣工します。
大川頭首工の分水装置には亀越池や新しく1960(昭和35)年に完成した備中地池の水が放流されたときは、これを綾歌側だけに分水するようにいように「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」の分水比率をかえる特殊な仕組みが組み込まれているそうです。 土器川でもっとも近代的な取水施設として建設された大川頭首エには、その構造に古い用水慣行が刻印されていると研究者は指摘します。
 また、大川頭首工をめぐる協定の当事者は、長尾村と吉野村ではありません。一方が満濃池土地改良区、もう一方が土器川右岸土地改良区連合になっています。この大川頭首工の建設をめぐって両者は、大きく歩み寄りテーブルについて協議を行うようになったのです。これが天川頭首工の協定書の成立に向けて大きなはずみとなります。
天川頭首工周辺の水利状況
天川頭首工
天川頭首工について、土器川土地改良区連合と満濃池土地改良区の聞で協定が結ばれたのも、1958(昭和33)年3月です。
 先ほど見た大川頭首工と天川頭首工は、ほぼ同時に協定書が結ばれいます。ここからは両協定が天秤にかけられながら同時進行で協議されていたことが分かります。この協定では満濃側は天川からは土器川の余剰水だけの取水を認められています。協定書第2条には次のように記されています。
「乙(満濃池土地改良区)は「天川頭首工地点」に於ける土器川流量が毎秒2,5立方m以上に達したときに取水する」

これに従って天川頭首工の構造も、土器川の流量が毎秒2,5立方mを超えたとき、その超えた分だけが導水するようになっています。

天川導水口 格子部分を通過した水が満濃池へ
 天川頭首工口 格子部分を越えた部分が満濃池へ導水される

 この「毎秒2、5立方メートル」という基準は、何に基づいているのでしょうか?
それはこれだけの水量が確保できれば、綾川側の水田はすべて灌漑できる水量であり、これ以上の水は瀬戸内海に流れ出てしまう水だという認識に基づく数字のようです。満濃池側が獲得したのは、このような右岸側には必要のない「無用の水」ということになります。しかし、表現上はそうであっても、既得水利でがんじがらめに縛られていた土器川から、導水できたという成果は大きな意味があります。満濃池側が、土器川へあらたに参入するとなれば、こういう形でしか参入するほかに途はなかったのかもしれません。「落とし所」をよく分かっていた交渉術と云えるのかも知れません。右岸、左岸の直接交渉なら、おそらく満濃池の新規参入はなかったと研究者は考えています。そこには県営事業として満濃池用水改良事業を推進させなければならない立場の県当局が、何度も綾歌側と交渉を重ねた結果、成立した協定書とも云えます。県の仲介なしでは、綾歌側が妥協することもなかったはずです。

天川導水口 2
 土器川の横一文字にた幅25mの天川頭首工が完成は、1959(昭和34)年3月のことでした。
天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。戦前の土器川沿岸用水改良事業開始からかぞえれば、18の歳月を要した大事業でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史189P 天川導水路計画 

満濃池 満水面の推移
嵩上げ工事による満水面積推移(満濃池名勝調査報告書104P)
 戦後の満濃池第三次嵩上げは、6mにおよぶものでした。そのため上図のグラフのように満水面は、それまでにくらべると約1,4倍拡がることになります。つまり、今まで以上に周辺の土地や集落が新たに水没することになるということを意味しました。この影響を最も受けることになるのが「五毛」と呼ばれている池南部の地域でした。

満濃池 五毛地図1
満濃池の五毛
五毛には、神野合股、上所、片山、三反地、長谷、岡等の小集落併せて戸数40戸がありましたが、その内の30戸、10haの水田、1 haの畑、 22 haの山林などが水没し、神社やお寺も移さなければならなくなります。

P1260807
五毛拡大図 赤は水没家屋
五毛水没地
 明治39年 右現在の五毛

 しかし、用地買収補償については、次のような経緯が問題を複雑化していました。
第一は、これ以上奥地への移住が難しい点です。
これまでの満濃池の嵩上げで、奥地へ奥地へと移転した経緯があるのです。その上、今回の嵩上げは今までになく規模が大きく、これ以上の奥地への移住はできないという事情がありました。

五毛の水没前民家2
水没前の五毛の藁葺き民家(かりん会館展示室)
第2は、満濃池の嵩上げ工事は、戦前の1940(昭和15)年に着手していました。
その時に買収補償の交渉も始められ、戦中の1943(昭和18)年度までに約30%の土地買収を終えていたことです。それが大戦のために工事が中断され、一部の土地買収が行われただけで、家屋移転の補償などは、調査さえされず放置されていまいました。つまり、戦後の買収補償交渉再開まで約十年間の空白期間が生まれていたのです。この間に「敗戦 → 民主化 → 農地解放」と大きな変動がありました。そうすると、戦中に土地のほとんど買収が終わっていた者、全然買収をしていない者、または、 一部の上地のみの買収をされた者など、個々に条件が異なってきます。これが交渉を難しくしたようです。
五毛の水没前民家1
          水没前の五毛の藁葺き民家
 中断されていた嵩上げ工事が再開するのは1947(昭和22)年のことでした。しかし、水没地の用地買収補償交渉は、予算的措置がつかずに取りかかることができないまま放置されます。五毛の住民は、堤防工事の建設機械の騒音を耳にしながら、自分たちの行末を不安に思いながら見守るしか術がありません。県がようやく買収補償交渉の前提となるべき水没物件の調査を実施したのは、1951(昭和26)年になってからです。対岸で進む巨大な新堰堤工事を見てきた五毛の人達は、水没地エリアを知り、買収や立ち退きについての交渉の早期開始を希望する声が出てきます。そして、1953(昭和28)年度末には約30%の住民が移転に向けて動き出す意向を示します。
五毛の渡船

 こうして1954(昭和29)年度になると、国からの用地買収の予算認証を得て本格的な交渉が始まります。交渉方式は先に述べたように個々に条件が異なり、団体交渉が難しいので個人交渉方式がとられたようです。交渉は、満濃池土地改良区内に「交渉委員会」を設け、この委員と県事業所が当たります。

満濃池 五毛水没物件概要
満濃池水没物件一覧表
 こうして1955(昭和30)年2月から担当官が五毛に出向いて交渉が始まります
この際に早期調印者には、その後に他の住民との調印で調印額以上の単価が出た場合は、その線まで増額する旨を約束します。これによって調印に応じる住民が現れ始めます。1957(昭和32)年になると、移転反対の強硬派が「水没対策委員会」を結成し、団体交渉を要求しますが、県はこれに応じません。その結果、1958(昭和33)年には、用地買収は原則、つぎのような条件で終了します。
①水田・畑の買収価格は、 10aあたり水田18万円・畑12万円
②生活補償費として、大人3、6万円 、子供はその半額
③協力感謝料という名目で、1戸当たり10万円の補償金
満濃池水没物件買収補償単価

  五毛での用地買収に当たった小比賀勝美氏は、満濃池史210Pに次のように回顧しています。
交渉の知識も経験の何一つなかった青二才の私が、平穏にそのすべてを終えることができた影には、交渉以来私と一心同体になって励ましとご指導をいただいた、今は亡き、満濃池土地改良区の徳田忠夫主任技師の公私にわたってのご協力があったればこそと、感謝の気持ちいっぱいである。

(中略)視野の広い先見の明をもった人で、信念の人でもあった。奉仕の精神に富み、水没交渉の過程では私によく「怒ったらいかんぜ」と戒めもしてくれた気概の人であった。また、水没交渉は、殆どが夜間で、夜ともなれば2人で泥棒のように夜の商売、自転車で五毛集落へ出向いたが、徳田さんは忍耐強い、飾り気のない人であり、私にはおおいに徳としなければならないものを兼ねそえた信頼の厚い人であったし、水没者や用地提供者からも信頼され、さらに土地改良区においても信頼を得ていたから、若い私にとっては、強い味方であったとつくづく思う。
P1260806
干ばつの時に現れる民家跡
 こうした現場の職員の誠意ある取組の中で、五毛の人達の多くは生まれ故郷を離れたのです。そして多くの屋敷が、満濃池の下に沈んだのです。
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水没による移転協力者の氏名一覧
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史194P 満濃池の嵩上げ 嵩上げ堤防工事、本格化

満濃池堤防断面図一覧
満濃池嵩上げ工事一覧表
満濃池嵩上げ事業一覧表
戦後の嵩上げ工事では、それまでの貯水量の約2倍にあたる1540万立方メートルが求められました。そのため従来の堰堤では耐えきれないので、いままの堤防を前側に抱き込むようにして本堤がその後方に築かれることになります。新堤は旧堤よりも6m高く、堤高は32m、堤長は155mの規模です。
長谷川佐太郎 平面図
1870年 長谷川佐太郎再築の満濃池

満濃池 1959年版.jpg2
      第3次嵩上げ事業で姿を現した現在の堰堤
旧堤の外側に、旧堤に重なるように新堤の天巾を20mも幅広くとったのは、恒例のユル抜きのときに、例年堤防上に出店や屋台が立ちならんで見物客が多数寄り集うことを配慮したからだとされます。

満濃池池の宮
堤防上にあった池の宮(神野神社)
この結果、旧堰堤上にあった池の宮(神野神社)は水没することになり、現在地に移されることになります。

満濃池 現状図

一方、空海伝説の伝わる②の「護摩壇石」は、水没を免れそのままの位置(現在地)に島として残されます。池の宮と、護摩壇岩の標高差は5m足らずです。この対照的な扱いの背景には何があったのでしょうか? 施工計画者の中に「空海=護摩壇岩は沈めずに残す」という意図があったように私には思えます。こうして両者は次のような対照的な道を辿ることになります。
①護摩壇岩は、湖面の中の島として存続
②池の宮の岡は、削りとって平面化し湖底化
満濃池水利組合では、作業人夫の割当表を作って、5反歩に1人の割合で15の旧村に割当てます。
 しかし、当初は事務所も池下の電気もない小屋で、所長を含めて3人の体制だったようで、戦後の混乱期でもあり、「資金 + 機械 + 技術者 + 人夫」など何もかもが不足していました。その上に労働運動の高揚期で、その余波が堤防の工事現場にも及んできて、「満濃池労働組合」が結成されます。特にはげしかったのが1948・49 年頃のようで、満濃池史186pには当時のことについて、次のように記します。
敗戦によって人心は荒廃し、現場労務者の素質は悪く、仲間同士の喧嘩沙汰も絶えず、作業中に怪我でもすれば、大したことがなくても過大な災害補償を要求し、何日も公休をとるような始末だった。昭和22(1947)年9月に結成された満濃池労働組合は、賃金値上げ、労働協約の締結、有給休暇の要求、経営協議会の提唱、慰安行事の実施など、次々と要求を掲げ、労働攻勢を続け、それによる作業能率の低下は今日では想像できないものであった。
また別の職員は次のように回顧しています
「県営事務所」の看板と並んで「満濃池労働組合」の看板が懸けられ、事務所内には組合専従者の机が設けられていた。最盛期には男子1名、女子1名が常勤して組合事務を処理するとことが約1年以上続いた。曰く「労働協約の締結」、曰く「有給休暇の要求」、曰く「経営協議会の提案」と、いとまのない労働攻勢で、所長室に組合幹部の姿が見えぬ日はないと云った状態だった」
昭和34年刊行 「まんのう 満濃池工事竣工記念号」
 組合問題に苦慮した県当局がとった対策は、工事の大半を満濃池普通水利組合(後の満濃池土地改良区)と請負契約することです。
1949(昭和24)年になると、県は一切の工事を、「地元請負」と称して「満濃池土地改良区」に請け負わせることとし、労務者170人のうち百人を解雇します。そして「満濃池土地改良区」に、県から請け負った工事を、建設業者に下請けさせる体制を作り出します。こうして県は、労務問題に直接関わらない体制を作ります。そして人員削減への対応として、当時としては珍しかったベルトコンベアを導入し、一番労働力を要していた盛土運搬の能率化を図ります。これが成功の要因だったと関係者は回顧します。

1950年代になると工事は、昼夜三交代になり本格化していきます。
この年の2月15日には、工事中の満濃池堤防を天皇が行幸して、工事状況を視察しています。この時は新堤は、まだ旧堤よりもはるかに下にあって、現場はまるで広場のような写真が残っています。

満濃池第3次嵩上げ事業 2
       満濃池堰堤工事現場 1951年
西側の山からベルトコンベアで運ばれてきた土を、ブルドーザーがならしている。これらの「新兵器」は米軍払い下げ。

満濃池第3次嵩上げ事業 1
満濃池嵩上げ工事1951年
3人1組のリヤカーで埋め立て地まで運び、それをローラで固めている。まるでグランド整備のように見える。ここが堰堤になっていく。

こうして、2年間で7万立方メートルを超える盛土が積まれていき、堰堤がみるみると高くなっていきます。1952年7月には、嵩上げ新堤姿が見えてくるようになります。
 満濃池1951年本堤
1951年11月29日の満濃池堰堤
(堤防越に見える樹木の推移に注目)
1952年満濃池
       1952年7月17日 満濃池堰堤の進捗状況
1953年満濃池堤防
1953年2月2日 満濃池堰堤の進捗状況

1952(昭和27)年3月28日の四国新聞には、次のように報じられています
工事は高松市玉藻建設が土砂運搬を請け負い、延長190mの大型コンベアで一日200立方メートルもの土砂を運ぶという大がかりなもので、水漏れを懸念してコンクリートは全然使わず、このため付近の小山六か所は変形するほどにつぶされ、毎朝午前四時頃から寒風にさらされ、野鳥の不気味な声を聞きながら総燭光5000ワットの投光器の光りの中で最後の仕上げを急いでいる」

  こうして1950(昭和25)年以後に本格化した堤防工事は、1953(昭和28)年に最後の仕上げに入ります。
盛上約18000立方メートル + 前法石張り3270平方メートル」を終えて、堰堤6mの嵩上げ工事が完了します。その際に、旧堤の弘法人師ゆかりの護摩壇は、その姿を残す形で石張りがおこなわれたようです。
P1240743 レンガ取水塔 1914年
大正時代の赤取水塔取水塔

堤防工事が終わると、最後に残されたのが新取水塔の建設です。
大正時代に作られた赤レンガの取水塔は、満濃池のシンボルタワーとして人々に親しまれてきました。しかし、堰堤が6m嵩上げされるために、水面も当然6m高くなり、水没していまします。そのため新しい取水塔を建設する必要が出てきます。
P1260822
旧取水塔と新取水塔(かりん会館展示室)

 取水塔の工事は、1955(昭和30)年度に実施されました。
取水塔は湖底の一番低い所にあります。そのため工事のためには、池を干し上げる必要があります。かつての底樋工事のように、秋から冬に行って、水をためる期間を出来るだけ長くとり、6月のユル抜きの時には満水で迎えるというのが「流儀」でした。たまたま1955(昭和30)年が大旱魃だった干ばつに見舞われ、秋には満濃池にはわずか50万屯の水が残っているだけです。その池水が吐き出され、池底が見えて来たのは10月半ばだったようです。
 新しい取水塔は、旧取水塔の立っている基盤が悪いために、その位置を堤防中心寄りに移し、旧堤防の先を掘削して設置されることになります。塔自体の計画原案は東京教育大学の松田教授に依頼し、細部は現地に合わせて県営事業所が設計しています。

満濃池取水塔
満濃池の新取水塔設計図

 貯水開始が12月20日と決められたので、2か月間で基礎部分を完成させ、それ以後は日増しに高まる池の貯水位と競争しながら、塔を高くしていくという工法です。
11月1日、旧取水塔の取り壊しが始まります。
取り壊しは、塔体の最下部を大本を伐採するように、ちきり形の切り込みを入れて、最後はダイナマイトを用いて、掘削しておいた池底に横倒しにするという工法です。こうして旧取水塔は、1955(昭和55)年11月15日午前11時、巨体を池底に横たえます。
満濃池 旧取水塔の取り壊し
倒れる瞬間の旧取水塔(1955年11月15日)
新取水塔の工事を監督した県担当者、横山伝治氏の記録が「満濃池史」に次のように収録されています。

取水塔の仮締め切りは普通するように土俵で行った。基礎岩盤の掘削が終わるとともに土俵を積み始め、二重ないし四重に高さモメートル程積み上げ、第一回のプレパクトコンクリートを打った。これは岩盤掘削の形どおりに型枠も使わず打ち込むわけで、このとき我々は、これなら大丈夫と安心するとともに、少しなめてかかる結果となった。

満濃池 新取水塔
湖底に姿を現した新取水塔
第二回日の打設も基礎部分で、これも苦もなく終わった。ただ気温が昼間でも三度、四度と下がり、とくに夜間には零下四~五度も珍しくなく、凍害を心配したが、まず失敗はなかった。次の第三回目は、打ち上げた基礎の上に塔体型枠を立てプレパクトコンクリートを打ち込む初めての作業でした。これはとくにモルタル乳の流出を防ぐため、型枠は相欠ぎ状として、幅五センチメートルの布を、その継ぎ手に厳重にパテで貼った。何しろ相手はドロドロのモルタル、型枠の僅かな隙問からでも漏れるのは当然のことで、用心に用心を重ねて施行した。これも成績は良かった。これなら大文夫と誰しも安堵した。
ところが、次は大きな失敗をした。そのときは、二日前の雨で高さ三メートルの締切り土俵の天端まで、おおよそ七〇センチメートルに水位が迫っていた。しかし、この程度の雨なら計算上まだまだ大丈夫であり、模様を見た上で、明朝でも土俵を嵩上げすればよいと楽観していた。しかし、その夜の増水は格別で、あっという間に土俵を押し流し、型枠越しに塔体内に溢水し始めた。一月十九日の夕方のことである。下手をすると、再び貯水を全部排除して、基礎だけを残してやり直しを覚悟しなければならない。県営事業所の所長以下一同顔色を失ったのも当然と言える。早速、雨の中を応急措置に走り回り、ともかくどうにか食い止めたのは二十日も真夜中のことだった。後で調べてみると、やはり予定外のことだった。今回の雨ではおおよそ二〇センチメートルの増水となるのが関の山であるはずが、貯水を心配した満濃池土地改良区が、折角の雨を無駄にしてしまうのはと、財田川からの取り入れを始めていたのであった。
満濃池土地改良区としては、六月二十日の間抜きまでには何とか貯水を増やし、組合員に迷惑をかけないようにしたいという、水に対する執念が、このような予想外の事態に直面する結果を招いたが、県の寝食を忘れた適切な対応で、これを乗り切ることができた。
満濃池 新取水塔2
完成間近の新取水塔
 新しい取水塔は、色々なデザインの中から近代的なものを選び、塗装の色も専門家を現地に招き、周囲の山と水にふさわしい純白色が採用されます。その結果、軽量感のある洒落たものに仕上がったと評判だったようです。取水塔建設費は、おおよそ三千万円でした

以上をまとめておくと
①戦前に開始された満濃池第3次嵩上げ工事は、戦争のために中断されていた。
②戦後の食料増産運動の一環として、戦後直後に再開されるが戦後混乱期の物不足の中で、工事は遅々として進まなかった。
③また戦後の労働運動の影響を受けて、労働問題が深刻化して現場の混乱に拍車をかけた。
④嵩上げ工事が本格化するのは1950年代に入ってからで、機械化が進む中で軌道にのり、1953年に完成した。
⑤こうして貯水量は従来よりも倍増したが、池の宮などは池に沈み、護摩壇岩だけが残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史194P 満濃池の嵩上げ 嵩上げ堤防工事、本格化 
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敗戦後の国民を襲ったのは食糧不足です。そのため政府は、食糧確保と増産に優先的に取り組みます。そして緊急開拓と土地改良が大々的におし進められます。そのような流れの中で、戦争で中断していた満濃池嵩上げ工事が敗戦の翌年1946年9月には再開されます。

再開に当たって戦前の計画は大きく変更されることになります。
まず、前回にお話しした「土器川ダム(塩野池貯水池)」の廃止です。このダムの建設目的は、次の2点でした。
①土器川綾歌の岡田地区などへの農業用水の配水、
②満濃池への取入口

土器川貯水池計画
炭所の常包橋上流に予定されていた土器川ダム
建設予定地は、現在のまんのう町炭所西の常包橋上流で、土器川本流を高さ24m、長さ153mのコンクリート堰堤で締切り、貯水量310万トンの貯水池を築造するものでした。塩田、平野の両集落の百戸あまりの人達は水没のため強制立ち退きが予定されていました。軍部は満州への集団入植を考えていたとも言われます。これは、戦時下の緊急増産の旗印があったから進めることができたことで、戦後になってこれを進めば猛烈な反対が予想されます。「水没予定地の人達の同意を得るのは無理、他の方法を検討すべし」ということになります。こうして土器川から満濃池の導水計画は、根本的に練り直されることになります。
満濃池天川導水路
土器川からの天川導水路と満濃池
 それに代わって提出されたのが「天川導水計画」です。
天川導水計画は、琴南町造田地区(天川神社前)に取水堰を設け、延長約4、7㎞の導水路によって、満濃池に導水する計画です。しかし、満濃池は土器川に関しては水利権を持っていません。そこで財田川と同じように、冬場の時期に限っての導水を求めます。その代償として県が打ちだした対応策が次の二点です。
①満濃池の嵩上げを、さらに1m高くして7mとする。これによって貯水量を150万屯増やして、綾歌側の用水に充てる。
②この満濃池の水を綾歌綾歌側に送水するために、土器川を越え綾歌側(満濃町長尾)に達する「土器川新分水路」を新設する
以上の変更案を、1949(昭和24)年8月に国に申請します。

天川導水口 2
現在の天川導水口

しかし、「天川導水路計画」が公になると、綾歌側から次のような強い反対の声が挙がります。
①「土器川の水は綾歌側のものである」
もともと土器川の水は、大部分が旧長炭村「札の辻堰」から綾歌へ取り入れられ、打越池、羽間池、小津森池、仁池、大窪池などのため池に送られてきた。さらに土器川の中に作られた十数か所の集水暗渠からの取水で、坂出、宇多津、土器の海岸近くまでも灌漑してきた。つまり土器川の水は、綾歌のもので、満濃池は土器川になんの水利権もない。土器川の水は、洪水までも自分たちのもので、それを侵すものは既得水利権を侵害するものであり、黙っておれない。

②県と満濃池水利組合の強引なやり方は、前例を無視した強引なやり方である。

県は綾歌側の水源となる「土器川ダム」計画を、事前の説明もなく一方的に中止した。にもかかわず、それに替わる綾川への水源計画を立てることもしない。その上に、こともあろうか綾歌が水利権を持つ土器川の上流の天川から満濃池への水を取り込もうとしている。これは水泥棒だ。黙っておれない。

 これに対して県は、次のように説明します。
「天川からの導水計画は、綾歌側の既得水利権を侵害してまで満濃池に導水しようというものではない。あくまでも洪水時の余水を取り入れようとするものである」

しかし、県側に最初のボタンのつけ間違いがあるので、入口でつまづいて話は進みません。
 これにたいして満濃池側では、1950年2月に綾歌側に対して天川導水路工事に着手を正式に申し入れます。
しかし、同意を得ることはできません。そこで綾歌側の同意なきまま「たとえ天川導水路が完成しても、綾歌側との話し合いがつかない限り、通水はしない」と、一方的な通告をした上で、天川導水路新設の工事実施に踏み切ります。これは「同意なき見切り発車」です。高圧的なやり方です。綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、代表を東京に送り直接農林省に対し、天川導水路工事の即時中止を、次のように陳情します。
一 綾歌の同意を得ずに強引に天川導水路工事に着工した。
一 県は、約束に反して塩野池貯水池廃上に替わる水源開発に着手しない。
中央にまで飛び火した情勢を受けて県は、収拾のために綾歌側の要求に応える形で次のような具体案を示します。
満濃池右岸水系
①備中地池、仁池新池の二つのため池の新設
②亀越池嵩上げと仁池導水路(札の辻井堰から仁池まで)の改修による用水改良計画
③以上で土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保する
この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側の了承を得ます。さらに国も、これを「県営土器川綾歌用水改良事業」として採択します。そして、翌年には、土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして、両者の歩み寄りが始まります。しかし、天川導水の合意までには「 札の辻井堰の水利紛争」というもう一波乱を経なければなりませんでした。

以上をまとめておくと
①戦後の食料増産の一環として、満濃池の第3次嵩上げ事業が再開された。
②しかし、戦前の「土器川ダム」建設によって満濃池に導水するという案は、大量の強制立ち退きと移住を前提としたもので、戦後の情勢の中では実施は困難となる。
③替わって、県は造田の天川神社前からの導水計画を出すが、事前説明や根回し不足などから綾歌側の強い反発を受ける。
④県は「土器川ダム」に替わる干害対策を立案し、新たなため池整備などを行うことで綾歌側の理解を得ようとした。
⑤こうして綾歌側も軟化し、1960年に「天川導水計画」の協定書が結ばれる。
以上を見て、現在の我々の高見から「教訓」を学ぶとすれば、県の対応に「上意下達」が目立つという点です。前々回の第二次嵩上げ工事の際の財田川流域の水利組合の対応の際にも述べましたが、事前説明もなければ、各水利組合への個別説明、ましてや根回しもありません。戦前の「土器川ダム」計画廃棄と新たな「天川導水計画」も一方的です。これは綾歌側の水利組合の怒りに油を注ぐようなものです。対応案も「後出しジャンケン」で、最初から示せたらもう少し結果は異なっていたかもしれません。どちらにしても、戦前と変わらない県と満濃池水利組合の対応ぶりを感じます。
 「事前説明+個別説明」などが県の対応に見られようになるのは、五毛地区の水没農家の立ち退きをめぐってのようです。それはまた別の機会に見ていくことします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  満濃池史185P 第3次嵩上げ事業 敗戦と事業の再開
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満濃池の近代になってから次の2つの嵩上げ事業が行われてきたことを見てきました。
①1905(明治28)年 第一次嵩上げ事業
②1930(昭和 5)年 第二次嵩上げ事業
満濃池嵩上げ工事一覧表
満濃池嵩上げ工事比較一覧
上記の2つの工事で満濃池は、約3割近く貯水量を増やし、総貯水量は780万屯になりました。これで満濃池掛かりは旱魃から逃れられると多くの人達は安堵したようです。しかし、1934(昭和9)年、1939(昭和14)年と、連続して「想定外的の未曾有の旱魃」が西日本を襲います。これについては以前にお話ししましたのでそちらを御覧下さい。
昭和14年の旱魃新聞記事
昭和14年の旱魃を伝える香川新報

P1260818

簡単に昭和14(1939)年の県の対応を見ておきましょう。
7月23日 香川県知事が滝宮天満宮で雨乞い祈祷実施
8月 2日 県下市町村長に対し、12日間一斉に雨乞い祈祷を行うように県が通達
9月 7日 県下各小学校に児童が日の出と日没前に土瓶水を稲にやって枯死を防ぐよう通達
知事も神頼みと雨乞い祈祷などしか打つ手がありません。小学生まで動員して、用水確保に努めています。しかし、苦労は報われません。全く米の獲れない田んぼが続出し、収穫があっても、全耕地の約半分が平均収穫の半分以下の大減収になります。
 この年の干ばつは、満濃池の水掛かりにも襲いかかってきます。
8月初めには「証文水」の水位まで下がり、残り水は僅かで一合水になってしまいます。ほとんど底を見せることのない満濃池も、8月21日になると昭和9年に続いて再び池底を見せます。そのため用水の最下流にあたる丸亀市や、多度津の白方村の収穫は皆無で、郡家・四箇村辺りも8割以上の大減収と記録されています。

その年の9月に、満濃池の池の宮(神野神社)で、満濃池水利組合の幹部らと県の耕地課の課長らの間で会談がもたれます。目の前の満濃池は、池底2、3尺だけの残水状況でした。組合の幹部らは干あがった池底を指差して、県の役人につぎのように訴えます。

「9年前の昭和5年に満濃池の堤防を5尺かさ上げして、貯水量は2割増しになりました。しかし、それでも足りなかった。再度かさ上げして、さらに池水をふやしたい。ついてはあらたに土器川から取水するつもりです。ご協力を願いたい」

こうして水利組合では、3度目の満濃池嵩上げを決議し、国や県に早期実現を訴えていきます。政治家達も「農業用水の確保」が至急の政治課題であることを改めて痛感し、国に働きかけます。その結果、農林省は1940(昭和15)年1月、係官を現地に派遣し、調査・設計に当たらせ、1941(昭和16)年度から工事に着手することが決まります。
この計画の特徴は、戦時体制下の食料増産とも結びついたもので、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸の岡田などの綾歌郡へも用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものでした。
 計画は、次の2つの柱で構成されていました。
①「土器川貯水池(ダム)」築造と土器川右岸への用水供給
②「満濃池の嵩上げ」工事で、大幅な貯水量アップ
②の嵩上げ計画では、堤防を6m嵩上げして貯水量を倍増させようとする画期的なものでした。また、水掛かり区域(水利エリア)も、旧白方村、四箇村、吉原村、川西村、豊原村の区域を加え、4600㌶に拡大しようというものです。しかし、この計画には問題点がありました。それは前回の第2次嵩上げ事業と同じく、満濃池を大きくしても、満水にできるかどうかです。1930年の第2次嵩上げ工事の時には、財田川から冬場に限っての導水ということでなんとかクリアしました。第3次の場合は、土器川からの導水案が出されます。
①の「土器川貯水池(ダム)」は、満濃池への導水のためと、土器川右岸(綾歌郡岡田側)水田2050㌶の用水源とするという二つの目的を併せもつものでした。

土器川貯水池計画
土器川ダム予定地は堰堤が常包橋上流附近

「土器川貯水池(ダム)」の建設予定地は、まんのう町炭所西の常包橋上流で、土器川本流を高さ24m、長さ153mのコンクリート堰堤で締切り、貯水量310万トンの貯水池を築造するものでした。水没地予定地の塩田、平野の両集落名の二字を合わせ塩野池貯水池(以下は土器川ダム)と計画書には命名されています。  
 こうして1941年4月、土器川ダムの築造と、満濃池の第3次嵩上げ工事が着工します。
まず土器川ダムの建設される常磐から満濃池への導水隧道工事が下流の満濃池側から始められます。同時に満濃池の嵩上げ工事についても盛土・余水吐放水路、付替道路等の工事が始まります。このまま進めば、ダム水没予定地の平野・塩田集落の集団立ち退きもスケジュールに入ってきたかもしれません。ところがその年の12月に、真珠湾攻撃が行われ日米開戦となります。それでも工事は続行されたようですが、次第に資材や労力が日増しに欠乏するようになります。国は1944年7月に「決戦非常措置」の名のもとに、戦争に直接関係のない公共事業の中止を命じます。このため土器川沿岸用水改良事業の工事も、全て中断されます。この間に進んだ工事は、次のような僅かなものにすぎなかったようです。
①導水隧道延長約200mの開削
②堤防盛土、3000㎥
③樋管、余水吐放水路・取付道路工事の一部を施行
ちなみに、このときに計画された塩野貯水池について「満濃池史184P」には「特集 まぼろしの土器川ダム」として、次のように紹介されています。
戦時中、土器川の本流をせき止めて巨大ダムを造る計画があった。建設予定地点は、まんのう町常包橋上流で、湖底に沈む長炭村や造田村(琴南町)の一部は、ごっそり満州に移民させようというものである。今から考えるとずいぶん乱暴な計画だが、戦時下の有無を言わさぬ「国家総動員法」のもとでは、泣き寝入りするほかなかったのかもしれない。この計画は「土器川沿岸用水改良事業」と名付けられ、土器川をはさんで丸亀平野一帯の用水を確保しようという、壮大なものであった。 満濃池は直接流域が狭いため、せっかく大きくしても水の貯まりが悪い。そこで近くを流れる土器川の本流を締め切って、高さ24m・貯水量310万屯のコンクリートダムを築造し、その貯水をトンネルで満濃池に導水しようというものである。
満濃池の高上げ工事は、昭和15年に着工されたが、その翌年に大平洋戦争に突入した。ダムと満濃池を結ぶトンネルも両側から掘り進められましたが、戦局は次第に悪化し、セメントや鉄筋などの建設資材や、労力も極度に不足してきた。そのうち昭和19年には「決戦非常措置要項」が発令され、不急の工事はすべて中止せよとのお達しである。
満濃池の工事も中止に追い込まれ、やがて敗戦を迎えた。こうして湖底に消え去る運命にあった村は、危うく満州移民から逃れることが出来た。満濃池の嵩上げ工事は戦後間もなく再開されたが、ダム建設計画は大きく変更される。すなわち土器川上流の天川(琴南町)に取入関を設け、ここから、直接トンネルを抜いて満濃池に取水することとなった。このため戦時中の土器川ダム計画は「まぼろしの計画」として消え去り、今では当時の事情を知る古老も少なくなってしまった。
(平井忠志)
また戦前に掘られた「①導水隧道延長約200mの開削」部分は、今も残っているようです。
満濃池 塩野池(土器川ダム)隧道
塩野池(土器川ダム)から満濃池への隧道の一部(かりん会館)

以上をまとめておきます
①明治以後の2回の嵩上げ事業によって、満濃池の貯水量は3割近く増加し、旱魃への対応も整ったと思っていた。
②ところが昭和9・14年の旱魃は想定外のもので、社会不安にさえなった。
③そこで第3次の嵩上げ工事が昭和16年から行われることになった。
④この事業の目玉は土器川からの導水で、そのために「土器川ダム」が計画された。
⑤しかし、第3次事業は着工後の12月に太平洋戦争に突入し、ほとんど工事進展を見ないまま終わった。
⑥そのため土器川ダムの湖底に沈む予定であった集落も、集団移転を免れた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史176P 第3次嵩上げ工事と土器川流域取水

 

前回は1907(明治29)年に満濃池の第一次嵩上げ工事が行われたことを見ました。しかし、この工事は、堤防を三尺(91㎝)の嵩上げしただけで、大幅な貯水量の増加をもたらすものではありませんんでした。そのため旱魃は大正に入ってからも、ほぼ3年おきに襲ってきます。特に1924(大正13)年の被害は『満濃池史要』によると満濃池掛かりで120㌶に及び、米の減収量は11322石にも達します。こうした中で再度の嵩上げの要望が高まります。今回は昭和の第二次嵩上げ事業について見ていくことにします。テキストは、「満濃池史143P」です。 
この時の嵩上げ事業の推進力となったのが1923(大正12)年に食糧局長通達として出された「用排水幹線改良事業補助要項」です。
これは受益面積500㌶以上の灌漑事業については、国が事業費の1/3を補助するというものです。それまでは全額を地元負担で行っていたことを考えると画期的なことです。この時期になって、ようやく日本も農業からの一方的な収奪から、農業への社会資本の投下という転換点ともなったようです。これを受けて、満濃池普通水利組合は、県と協議にしながら次のような「県営満濃池用排水改良事業」案を策定します。
① 堤防を1,52m嵩上げし、貯水量150万噸を増加させ、総貯水量を780万屯とする。
② 財田川の上流(現野口ダム)から導水トンネル(400m)で、満濃池に導水する。
③ 用水路整備として、丸亀幹線水路約5㎞を改修する。

①の堤防嵩上げで、貯水量の2割アップを目指します。これについては技術上の問題もありませんでした。問題は②の「財田川からの導水」です。これは財田川流域に水利権を持つ水利組合からの激しい反発を受けることになります。どのような経緯をたどったのか見ておきましょう。
それまで満濃池の嵩上げ工事が進まなかった原因の一つが、堤防を高くして貯水量を増やしても、水が集められない可能性があったことです。
満濃池は金倉川をせき止めて作られていますが、金倉川からの流量では、冬場の降雨が少ない年には満水に出来ないと専門家から指摘されていたようです。そこで県が考えたのは、財田川を仲多度郡七箇村(現まんのう町野口ダム附近)でせき止め、冬場(非灌漑期)の余水を満濃池に導水するというものでした。しかし、これは水利権がからむ非常にデリケートな問題です。財田川流域の水利組合との利害得失が複雑にからみ、交渉は難航します。

満濃池から塩入2
満濃池と財田川の関係 (幕末期)

県の当初計画は、塩人横井(別名、春日横井)と、これに接続する春日水路を改修して取水し、途中から分岐してトンネルで満濃池に導水するというものでした。県から施設共用の申出を受けた塩入横井は、取水する時期が異なるうえ、県が従来の取水施設を改良してくれることもあって、渡りに船と無条件で賛成します。

財田川と満濃池

財田川と満濃池の関係

 ところが、その下流の本目の新目の水利組合が反発します。
本目と新目は、もともと「本免」と「新免」で中世に開発領主達によって開かれたエリアで、本目城や新目城があったと伝えられています。財田川に簡単な横井を作って、川沿いの氾濫原を開発し水田化していったことがうかがえます。昭和の初めには、この地域には財田川に14ケ所の横井と、5か所の集水暗渠が作られて130㌶の水田に用水を供給していました。そこに上流で満濃池への分流の話が伝わってきます。
 昭和の讃岐の農民達は大正期の小作争議を経て、組織化され成長していました。それまでのお上の云うことを黙って聞くことはありません。もの云う農民達に成長していた本目と新目の農民達は、何の相談もないまま進められる分水計画に、農民達は激しく反発し、136名が連署して、「灌漑用水水利保護ノ義二付キ願」(1927(昭和2)年5月25日付)を県に提出します。
灌漑用水水利保護ノ義二付願」本目と新目の136人が、満濃池分水に対して知事宛てに提出した陳述書(昭和二年五月二十五日付)
灌漑用水水利保護ノ義二付キ願

さらに翌年の6月6日には、水利代表者連名で、「満濃池補水工事二関スル陳情書」を知事に提出して強硬に反対します。その論旨は、次のようなものでした。

満濃池取入口の変更反対の陳情書

「満濃池補水工事二関スル陳情書
①冬場の余水に限ると云うが、頭越しに上流から収水するというのは水利権を無視するものだ
②取水の横井や導水路については、今ある塩入横井とその水路を利用しないこと。
③その下流に満濃池専用の横井と導水路を新設すること
④取入水門の監視人は七箇村本目の住人を充てること
ここからは本目・新目の農民が、今ある塩入横井との共用を認めると、監視の目が届かなくなり、灌漑期の用水を夏場にも満濃池に取水されることを恐れていたことがうかがえます。
   財田川から満濃池への導水
財田川から満濃池への分水・導水
P1260814

本目・新目の反対に対して、県は仕方なく計画を次のように変更します。
塩入横井の下流180m地点に満濃池専用の横井と導水路を新設し、春日水路の下を立体交差のトンネルで抜いて取水することにしたのです。これに反発したのが塩入横井(春日横井)の農民達です。「満濃池疎水口開削工事設計変更二関スル請願」(昭和2年10月7日付)を知事宛てに提出します。これには塩人横井掛かりである七箇村春日、小池地域の農家119名が連署して、次のように記されます。

…我等二一言ノ通告モナク変更サレ、高圧的態度二出デラルルハ誠二遺憾二堪ヘズ。元ヨリ官憲ノ都合ニヨリ設計ヲ変更サルルハ、我等ノ関知スル所ニアラズトイエドモ、従来ノ関係上、 一言予告位ハアリテ然ルベキモノト思考スル次第二之有り候」
 
意訳変換しておくと
…我々に一言の協議や通告もないまま計画を変更し、高圧的態度に出ることいては誠に遺憾で堪ヘられない。これについては、官憲の都合による設計変更で、我々の関知する所ではないけれども、これまでの経緯上から、 一言の予告くらいはあってしかるべしと思う」

ここには県の違約を責めると共に、元の計画に返すよう訴え、県の「信義なき行為」を厳しく追及しています。さらに計画変更が不都合な理由として、次のような点を挙げています。
①下流に新設横井が出来ると、洪水のとき川の水位が上昇し、川沿いにある春日水路の側壁が洗われ崩壊する危険が大きいこと。
②新設の横井から取入れる満濃池導水路は、春日水路ヨリ低い位置を並行して走るため、春日水路の用水が満濃池導水路に漏水するおそれがあること。
③ 満濃池導水路が春日水路と立体交差し、トンネルで下をくぐる計画となっているが、春日用水がトンネル内に漏水する。

そして「最初の設計通り、今ある塩入横井を利用し。新たな堰を築造すること取りやめていただけるように切望する」と記されています。
 
県は塩入横井と何度も交渉を重ね、春日水路の崩壊対策と漏水対策に万全を期すことを約束し、塩入横井と「財田川分水二関スル協定書」を正式に結んだのは、昭和3年9月18日でした。そこには次のような項目が記されています。
財田川分水二関スル協定書
財田川ヨリ満濃池分水工事施エニ関シ香川県知事卜財田川関係七箇村卜満濃池普通水利組合トノ間二於テ左記事項ヲ協定ス
①新設横堰ヲ作ル為春日井手、川添堤防ヲ隧道口ヨリ長拾五間練積石垣トナシ完全ヲ期スル事
②取人口管理者ハ七箇村長二委嘱スル事
③新設横堰付近ノ田地及堤防ニシテ洪水の際横堰設置ノタメ損害ヲ受ケタル時ハ工事完成後ハ満濃池普通水利組合二於テ相当修繕ヲ為ス事
④新設工事ハ春日井手水利総代立会ノ上施行スル事
⑤将来第弐項ノ管理二要スル費用ハエ事完成後満濃池普通水利組合は七筒村長卜協議ノ上毎年度ノ支出額ヲ定ムル事
⑥隧道人日付近ノ春日井手底ハ「コンクリート」張リトシテ漏水ナカラシムル事
⑦分水工事事中及将来二於テ本協定二関スル水利及土地使用二付七箇村ハ異議ナキ事
但シ隧道修繕等ノ為新二工事ヲ施エスル際二於ケル土地使用ノ補償ハ七箇村卜協議ノ上之ヲ定ム
⑧本協定二基キ七箇村ハ工事施行者ヨリ金四千円ノ支払ヲ受クルモノトス
⑨本協定成立ヲ證スル為本書三通ヲ作成シ関係者連署ノ上各一通ヲ領置スルモノトス

昭和三年九月廿八日
仲多度郡七箇村長                           近石伝四郎
満濃池普通水利組合管理者          斎藤 助昇
香川県知事                              元田 敏夫
   意訳変換しておくと
①新設の横堰を築堤に当たっては春日井手、川添堤防を隧道口から長さ15間に渡って石垣を積んで万全を期すこと
②取人口の管理者は七箇村長に委嘱すること
③新設横堰付近の田地や堤防が洪水で損害を受けた場合には、満濃池水利組合が修繕を行うこと
④新設工事中は春日井手の水利総代が立会の上で施行すること
⑤取入口の管理費用は、満濃池普通水利組合と七筒村長が協議した上で毎年度支出額を決定すること
⑥隧道人口付近の春日井手底は「コンクリート」張りとして、漏水がないようにすること
⑦分水工事中や招来について、本協定に関する水利・土地使用について七箇村は異議を申し立てないこと。ただし、隧道修繕などの新工事を行う場合には土地使用の補償は七箇村と協議すること。
⑧本協定に従って、七箇村は工事施行者から金四千円の支払を受けること
⑨本協定成立の証明のために本書三通を作成し、関係者連署の上各一通を補完すること

県と満濃池水利組合は、満濃池取入口についての七箇村との交渉と併行して、財田川沿いの関係町村長とも協議を進めます。そして昭和2年6月に次のような合意を取り付けます。
① 満濃池への財田川からの取り入れは、毎年灌漑期終了後、翌年4月末までとする。
②財田川沿岸町村が用水を必要とする場合は、この期間をさらに制限できる。
しかし、これは関係村長との合意です。このような動きを知った財田川沿岸の水利団体は、次のように反発し長老達を突き上げます。

水利権に関する重大問題を、直接利害関係のある我々水利組合を差し置いて、町村長だけで決める権限はない。大事な水利権が侵害されようとしているのに、黙っていていいのか!

財田川沿いの水利組合の動きが気になった県は、県警察部にその動静を探らせています。その時に提出された観音寺警察署の報告書には、次のように記されています。

「観音寺町長ハ本月十五日、満濃池分水二関スル協定ノタメ、観音寺町役場二関係村長ヲ集合セシメ種々協議ノ結果、 一ノ谷、常盤両村長ハ別紙協定書ノ内容不備ナリトテ、賛意ヲ表セズ調印ヲナサザリシガ、コレガ協定状況ヲ知リタル本山、一ノ谷、常盤、財田大野及ビ観音寺町水利組合ハ、直接関係者タル水利総代二協議セズ調印シタルハ不当ナリトテ、左記改正事項ヲ記載セル陳情書ヲ本県知事二提出スベク、目下下調印中二候条、報告二及ビ候ナリ」(昭和3年7月23日付)
 
意訳変換しておくと
「観音寺町長は7月15日、満濃池分水に関する協定のために、観音寺町役場に関係村長を招集し、協議を行った。その結果、一ノ谷、常盤両村長は別紙協定書の内容は不備であるとして賛成せず調印もしなかった。また、協定状況を知っている本山、一ノ谷、常盤、財田大野と観音寺町水利組合は、直接の利害関係者である水利総代に協議せずに調印したことは不当であるとして、左記の改正事項を記載する陳情書を県知事に提出するために、目下協議中である。報告二及ビ候ナリ」(昭和三年七月二十三日付)

三豊の関係水利組合の中でも、県のやり方には従えないという動きが強かったことがうかがえます。この背景には、各水利組合に中で「物言う農民」達の存在が高まっていたことがあるようです。三豊では「不穏な情勢」が起きていたのです。

満濃池史151Pにはこのあたりの事情を「特集 しぶしぶの知事決裁」というエピソードとして載せています。これを引用しておきます。
県の場合、重要条件の決裁は先ず課員が起案し、次に係長、課長補佐、課長、部長、副知事の順で持ち上げる。最後に知事がハンコを押して決定する。昔は気に入らない条件を不承不承決裁するとき、わざとハンコを逆さまに押す上司もあった。
1927(昭和2)年、財田川の流水を満濃池に分水する問題が紛糾し、財田川沿岸の町村がこぞって反対していた頃のことである。この問題が解決しないと、県が計画した満濃池の第二次嵩上げ工事は、中止に追い込まれえう。そこで県は三豊の関係町村長を説得するため、四月六日に現地視察会を開催することとし、観音寺町長ほか九か村長に案内状を送付した。おそらく視察のあと、琴平あたりの料亭で花見を兼ねて一席設け、 一挙に分水問題を解決しようとしたのかもしれない。これに反発した町村長が申合わせて、説明会の前々日になって県内務部長あて「公務の都合上、出席出来ない」と通知してきた。 そこで県は仕方なく内務部長名で、視察延期の電報を打ったものとみえる。
「マンノウイケ  ジッチシサツノケン  エンキス」
(満濃池 実地視察の件 延期ス)
電文の起案書には、農林課長と内務部長の決裁印が押されているが、知事のハンコはない。知事の決裁欄には筆の軸尻に印肉をつけて、にじり付けたように赤丸が押してあるある。  
 今と違って当時の知事は、政府から任命された誇り高き内務省の官選知事である。県営事業の成否をかけた県の視察会を町村長にボイコットされた知事の無念さは、推して知るべし。
「お前たち、 一体何をやっていたんだ」
あらかじめ町村長に根回しも出来なかった部下の不手際に、知事は苦りきって筆の尻でしぶしぶ決裁したのではなかろうか。(平井忠志)
「マンノウイヶ デッチシサツノケン エンキス」


ここからも従来の上からの一方的な通達で運営しきれなくなった水利組合の動きがうかがえます。
ここにきてやっと県と満濃池水利組合は、財田川沿岸の31の水利組合のひつつひとつの説得を始めます。この結果、昭和3年10月21日に、やっと次のような内容で合意に至ります。
満濃池分水二関スル協定書(意訳)
財田川から満濃池への分水工事について、香川県知事と財田川下流利害関係町村と満濃池水利組合との間に、次のような事項を協定する。
① 財田川から満濃池へ分譲する用水は非灌漑時期則の11月1日から翌年4月20日までの期間の余水に限る。下流の利害関係町村で将来の耕地整理などで用水不足が起こった場合には、協議の上で取水期間を短くすることもある。但し、協議がまとまらない時には香川県知事が裁定する。
②満濃池水源取人口は七箇村春日横井から下流距離約百間ノ付近に新たな堰新設すること
 ただし、取入口や堰の新設・修繕の設計の際には、下流利害関係町村と協議を行うこと
③取人口水門には2個の錠前を設置し、鍵は常務委員が保管するものとする。
④取入水路は満濃池専用のものを新設すること。
 ただし、非灌漑時期でも下流の必要上の流量を流さないような設備を作ることはできない。
⑤春日横井からの用水は、どんな方法でも満濃池に取入ることはできない。
⑥ 取入口水門について委員四名を置く。七箇村字本目と十郷村から各1名、三豊郡下流町村から2名を選出し、委員互選で上常務委員2名を置く。常務委員は取入口水門やその他水利の状況を常に監視するものとする
⑦ 取入口水門の開閉は下流関係町村の水利実況を見た上で、前項委員立会の上で行う。
⑧ 取入口の営造物の管理については、満濃池水利組合が七筒村長に委嘱するが、七箇村長は水門の開閉やその他水利に関しては関係しないものとする。
⑨ 工事が竣功した際には、この協定の要項を記録した碑石を取入口にに建設して、永久にこれを表示して写真に残し、協定書と共に各利害関係町村で保管するものとする。
⑩ この協定に基づいて財田川下流域の利害関係者は水利保償として事施行者から金3150円の支払いを受けるものとする。
⑪ この保償金の管理・処理方法は、別に定める
以上、本協定の成立を証明するため本書14通を作成し、関係者連署上で各自1通を保管するものとする
昭和3年10月21日
三豊郡財田村長                  字野 嘉雄   
仝 財田大野村長                山川 正仲   
仝 本山村長                    関   一旦   
仝 桑山村長                    田淵箭太郎  
仝 神田村長                    近藤 明一   
仝 一ノ谷村長                  高橋長太郎  
仝 常盤村長                    安藤 家隆   
全 高室村長                    近藤 正直   
仝 観音寺町長                  宮本秋四郎  
仲多度郡十郷村字新目水利惣代   松園清太郎  
仝郡 七箇村字本目水利惣代    山下 友八   
仝郡 仝村 字久保水利惣代       田中 宮太   
三豊郡観音寺町水利土工惣代  宮本秋四郎  
仝郡 高室村大字高屋水利委員 井元 調吉   
仝郡 高室村大字高屋土工担理人  松原藤治郎  
仝郡 高室村大字高屋水利委員  五味 □重   
仝郡 常盤村大字植田水利惣代  長船 信吉   
仝郡 仝村大字村黒水利惣代      岡田 定吉   
仝郡 仝村大字流岡水利惣代  小西柚五郎  
仝郡 一ノ谷村大字吉岡        中野四万人  
仝郡  仝村大字吉岡水利惣代   中野喜四郎
全郡  仝村大字本大水利惣代    荻田 長治 
仝郡  仝村大字中田井水利惣代   大西小三郎
仝郡  仝村大字古川水利惣代   磯野安太郎
仝郡  桑山村大字岡本水利惣代   矢野芳太郎
仝郡  桑山村大字岡本水利惣代   矢野      
仝郡  本山村大字寺家水利惣代   円井甚五郎
仝郡  本山村大字寺家水利惣代   金九 弥八 
仝郡  仝村大字本大ド所水利惣代 藤田 直占 
仝郡  仝村大字本人四足水利惣代 岩本 直節 
仝郡  財田大野村大字大野上     河野長太郎
仝郡  財田大野村大宇大野上     高橋 八治 
仝郡  財田大野村大字大野L      □□小三郎
仝郡  仝村大字大野下ニ丁目水利惣代 田渕調太郎
仝郡  企村大字大野下円行水利惣代  森末庄三郎
仝郡  仝村大字大野西西光寺用水惣代  吉□ □□ 
仝郡  全村大字向                  森 多二郎 
仝郡  仝村大字財円西             伊藤弥太郎
仝郡  全村大字財田西             高木□□□
仝郡  全村人字財田西水利惣代   片木 正巳 
仝郡 神田村水利惣代                  細川 徳治  
仝郡 神田村                          細川唯五郎 
満濃池普通水利組合管理者  地方事務官 斎藤 助昇  
香川県知事                            元田 敏夫  

以上、観音寺町長ほか8ケ村の村長、33の水利惣代と、満濃池水利組合、香川県知事の間で調印されています。この調印当事者の数からみても、これらから同意をとりつけることが困難であったことがうかがえます。

協定書の⑨には「取入口に分水協定碑を建立」することが明記されています。

満濃池分水に関する協定碑
満濃池分水二関スル協定碑文(まんのう町一本松)

これに従って財田川の満濃池取入口(まんのう町一本松)に、「満濃池分水に関する協定書」の石碑が建てられます。内容は協定内容の①②③の三項だけを鋼板に刻んで石碑に埋め込んであります。4項以下は省略されているようです、この石碑はもともとは、取入口上の旧県道脇にあっようです。しかし、1967(昭和42)年に野口ダムが建設され、湖底に沈むことになったために新県道脇に移設されました。
 ちなみに財田川分水地点のすぐ下流に、野ロダムが出来ることになり、満濃池取人堰と導水トンネルの人口も、ダムの底に水没することになります。そこで以後は満濃池への取水操作は、「野ロダム管理事務所」(香川県)が実施することとなり、現在に至っています。

以上、昭和初期の満濃池の第二次嵩上げ事業に伴う財田川からの導水に至る経過をまとめておきます。
①大正末期に大型の灌漑事業に対しては、国が1/3の補助を行うことになり、それを受けて満濃池でも第二次嵩上げ事業が具体化した。
②しかし、金倉川だけからの集水では満水できないことが危惧され、財田川からの分水が計画された。
③そこで、冬期の用水を財田川の現野口ダムから隧道で満濃池に導水する計画が立案された。
④しかし、事前協議のないまま事業を進め、計画が行き詰まると「朝令暮改」の県の進め方に対して、地元農民の反発の声は高まり、水利組合の長老たちにも制御できない状況が生まれた。
⑤大正時代の小作争議を経た農民達は成長し、上意下達のそれまでのやり方に「異議あり!」という声を上げ、県の対応ぶりが問題として、水利組合や村長達を突き上げた。
⑥遅かれながら県も、三豊の水利組合などに個別に交渉を進め、何とか合意にとりつけ、財田川上流からの満濃池への用水設置工事は進められた。
⑦協定書に基づいて、石碑が作られ満濃池への用水取水口に建立された。いまは石碑は野口ダム建設のために、県道脇に移築されている。
こうして満濃池は、金倉川だけでなく財田川からの導水という手法によって、貯水量を確保することが出来るようになった。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
長谷川佐太郎 平面図
長谷川佐太郎によって再築された明治3年の満濃池
長谷川佐太郎による明治維新の満濃池再築後の課題について、以前に次のように整理しておきました。
①底樋を隧道化し、半永久的なものとした。しかし、 竪樋やユルは木製のままで定期的な交換が必要であった
②あくまで再築であり、嵩上げのは行われず貯水量は増えず、慢性的な水不足は続いた。
③用水末端エリアの多度津藩などは、水掛かりから脱退・離脱した
明治期の満濃池の最大の課題は、貯水量の増加と竪樋の改良でした。
今回は明治の第一次嵩上げ事業と、大正のレンガ取水塔について見ていくことにします。テキストは「満濃池史134P」です。幕末に決壊した満濃池は、多度津藩などが脱退したので、受益面積は35%も減りました。これで池掛り全体に水を供給できるようになったのかと思います。ところが水不足は、変わらなかったようです。これを逆に見ると多度津などの脱退地域には、以前から十分な配水が出来ていなかったことを裏付けるものとも云えます。
  次に讃岐を襲った干ばつを年表化したものをみてみましょう。
讃岐旱魃年表 近世
讃岐旱魃年表 近代
           讃岐への旱魃来襲年表

 上記の年表を見ると讃岐には明治初年から27年間に、9回もの旱魃が襲っています。これは3年に1度の割合になります。この時期の旱魃の多発化の背景には、次のような2つの新たな要因があると研究者は指摘します。
①新田開発による水田面積の増加
②サトウキビなどの商品作物栽培から水稲への作付転換増加 → 水不足
ちなみに香川県の水稲作付面積は
1889(明治22)年 31100㌶
1906(明治38)年 37500㌶
で約6400㌶増加しています。水に乏しい讃岐では、江戸時代後期に水稲に代えて節水作物の棉、砂糖きびを奨励しました。それが幕末から明治になると輸人製品に押されて価格が低迷し、サトウキビなどの大部分が水稲に転換していきます。サトウキビと綿花の作付け面積は、次のように激減します。
サトウキビ 
1865(慶応元)年 3800㌶ → 1910(明治42)年 600㌶
綿花
1889(明治22)年 2500㌶ → 1906(明治38)年 100㌶
減った分は稲作に転換されます。これにあらたな水田開発などが加わり、農業用水の年を追って逼迫します。日清戦争が勃発した1894(明治27)年には大旱魃を受けます。そして、1904年・05年にも連続して旱魃に見舞われます。旱魃になると激増するのが水争いで、社会不安まで拡がります。このような現状を治政者たちも放置できなくなり、日露戦争が終わった1906(明治38)年に満濃池の第一次嵩上げ事業」が着工します。
この事業についての要点を整理すると次の通りです。
①授業主体は「満濃池普通水利組合(明治25年設立」
②堤防を三尺(91㎝)嵩上げして、水深を2尺8寸4分(86㎝)深くし、貯水量を83万屯増加
③総貯水量は約660万屯、満水面積は、94、3㌶となった。
④堤防西端にあった余水吐を、堤防東瑞の移設し、トンネルを穿って放水路とした。
⑤旧余水吐は、弘法大師修築の遺跡「お手斧岩」として保存
⑥灌漑面積は約3861町
⑦工事費用は16761円で、明治39年1月完成
  しかし、②を見ると分かるとおり、堤防の嵩上げは1mに達せず、貯水量の増加は1割少々に留まりました。これは水需要に十分に答えられるものではありません。農民達が求めていたのは、大幅量増加だったのです。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
レンガ造りの満濃池の取水塔
 貯水量が大きく変わらない中で、大正時代になって大きく変わったのは取水塔の出現です。

軒原庄蔵の底樋隧道

幕末に決壊した満濃池は明治3年に再築されます。このときの従来との変化点は木造底樋に換わって、池の宮の岩山をトンネルで抜いて石穴底樋としたことです。しかし、 竪樋や取水櫓などは今まで通り木造でした。このため30年近く経つと木造部分が腐食し、明治31年には竪樋の取り替えを行っています。それから20年も経たない1914(大正3)年になると、再び竪樋交換が論議にあがります。
 この時の満濃池普通水利組合の管理者であったのが仲多度郡長の乾貢です。
彼は前任地の愛知県の人鹿池の取水塔方式の採用を提案します。議員達も現地視察のうえで新方式の検討を開始します。しかし、これに反対する組合員もいました。取水塔にした場合、今までの水利慣行が損なわれると危惧する人達です。具体的には江戸時代からの慣行である「樋外五十石」(樋外地域の常水の特権)と「証文水」(上流地域の用水独占使用の特権)の権利を失うエリアの人達です。
 そこで「配水塔方式になっても、旧来の水利慣行はこれを尊重し存続させる」ことを、組合議事録に明記することで反対議員を説得し、配水塔建設は議決されます。工事は1914(大正3)年9月起工、総工費18921円で、その年の11月に完成します。全高19,7m 円筒形の基底部径7,3m 上部径4,6mで、「仲多度郡史」(1918年刊行)には、次のように絶賛します。
「自然岩を基底とし、コンクリートと花崗岩を布置してその基礎を造り、煉瓦を重畳し鉄板をもって屋根とす。その構築円筒形にして……(中略)……

P1240742 レンガ取水塔

内部の中央部に直立する鉄管(径三十インチ)あり。石穴の一端に接続す。吸入鉄管(径二十四インチ)は総て七箇あり。上下適当の位置に配置して中央の立管に接続す。しかして各吸入鉄管に制水弁を備え、上部の屋内に設けたる『スタンドポスト』と称する小機によりて開閉を自由ならしむ。その機能の軽快及び放水の調節等、実に完備というべし」

P1240743 レンガ取水塔 1914年
 こうして満濃池に現れた円塔形で、赤れんがを積み上げ、三角錐の屋根をつけた姿は、ため池王国香川が全国に誇るモダンな景観として、人々に親しまれるようになります。

大正時代のユル抜き 池の宮


赤レンガ取水塔完成以前のユル抜き 池の宮の前
昔の満濃池の「ゆる抜き」は二十数人の男が取水櫓に上がり、長さ二間の桧丸太棒八本を梃子にして、「エーヤ、エーヤ」の掛け声で筆木を抜き上げていました。そんな勇壮な景観に大勢の見物人が集まり、歓声を上げたようです。取水塔の完成によって、そんな姿も昔の語り草となってしまいます。

満濃池と真野神社1916年香川県写真師組合
赤レンガ取水塔

 この取水塔は湖面から就きだした赤い屋根が印象的で、絵はがきなどにも取り上げられ、新たな観光資源になっていきます。こうして、「明治維新の底樋の隧道化 + 大正期の赤レンガ取水塔」の実現で、木造底樋や 竪樋・ゆるなどは姿を消します。300年間にわたって続けられてきた掛け替え工事から解放されることになったのです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献 「満濃池史134P」
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P1250029
佐文綾子踊 小踊りの花笠
昨年11月末にまんのう町のある小学校で綾子踊りのお話しする機会がありました。小学校4年生の郷土学習で、綾子踊りがどのように取り上げられているかを報告しておきたいと思います。
 教室に入っておどろいたのは、後ろの棚に並べられた花笠です。

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教室の花笠
子ども達は花笠を自分たちで造って持っているのです。この制作のために、時間も確保しています。ちなみに、このキットはまんのう町教育委員会が作成して、各小学校に配布しているようです。

P1260582 先生
ぼくの「マイ・花笠」

こんな「しかけ」を考えてくれている教育委員会の人達に感謝です。綾子踊りについて町内の人達に、どんな風に伝えて行くかを考える時に、こんな取組は本当にありがたいと思います。

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子ども達が自分が作った花笠を大切にしていることが分かります。
これを自分の手で作ったら子ども達の「興味関心」は、ぐーんと高まるはずです。今回、教室を訪ねて知ったことのもうひとつが4年生の「社会科の郷土学習読本」に、大きく綾子踊りが取り上げられていることです。
 
郷土学習 わたしたちの香川県

綾子踊りの部分を少し見ておきましょう。
綾子踊りとは、どんなおどりか調べよう。
綾子踊 郷土学習読本1

調べたことが、教室の背面掲示板に次のように掲示されています。

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教室の背面掲示板
綾子踊りは、どのようにはじまったのだろう?
綾子踊 郷土学習読本3

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私が思っていた以上に、詳しく深く書かれています。これまでに「花笠作り」の含めて、綾子踊りのことを学習してきているようです。

今日のテーマ 綾子踊りがどうして変わらずに残ったのか考えよう。

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4年生の教室
「綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?」という発問に生徒達が考えます。

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綾子踊 郷土学習読本5

先生が生徒の意見を引き出して板書していきます。
綾子踊板書2

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アクティブラーニングで生徒同士が情報交換
ここで私の登場です。ここでは尾﨑清甫が残した文書に何が書かれているのかを中心に話しました。詳しくは以前にお話ししましたので、ここでは省略します。

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    尾﨑清甫が残した「雨乞踊請書類」の花笠寸法帳
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫

私の話を、先生は次のように板書にまとめられました。

綾子踊板書3

そして読本には、佐文綾子踊保存会の取組みが次のように書かれています。
綾子踊 郷土学習読本6

綾子踊 郷土学習読本8

小学校の授業に招いていただいて、綾子踊りの保存と継承に向けて、周囲の人達からの支援を改めて感じる機会となりました。長い目で見ると、こうしたとりくみを経て「佐文の綾子踊」から「まんのう町の綾子踊」へと成長していけるののかなとも思えてきました。感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

P1260599
「綾子踊りがどうして変わらずに残ったのか考えよう。」全体板書
参考文献
香川大学教育学部社会科教育研究会 「香川県小学校社会科郷土学習読本 わたしたちの香川県

  
前回に佐文誌を読んでいると、6月18日に龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)が龍王講によって行われていたことが記されていました。そこからは龍王山は善女龍王の山として雨乞い信仰の山とされていたこと、その山腹に龍王祠が祀られていたこと、それを佐文の中筋の人達を中心に龍王講を組織してお奉りしていたことが分かります。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊が奉納された龍王社(踊入始第二図:尾﨑清甫画)

  私は佐文の住人なのですが、龍王(リョウハン)祭りのことは何も知りません。約90年前の戦前のことは人々の記憶からは、さっぱりと消えていくようです。今回は、龍王(リョウハン)とは何者なのかを探って見たいと思います。
香川県の水資源対策課のHPには「鰻淵と龍王社」と題して、次のような話が載せられています。
 むかしむかし、あるところに源左衛門、源三郎という親孝行で信心深い兄弟が住んでいました。ある年の春から夏にかけてのことです。①百日あまりもの長い間、雨が降らず日照りが続き、作物は枯れ、村人達は、たいそう困っておりました。
そこで、その兄弟は、みなを見るにしのびず、話し合って山の峰にこもり、②龍王の神に、七日間雨乞いの祈願をしました。
そして最後の夜、③なんと美しい女神様があらわれて「かの所を掘れば願いは、かなうであろう」と夢のお告げがあったのです。兄弟は不思議なことだと思いながら、さっそくその場所を掘ると、きれいな水がこんこんと湧き出してきました。
兄弟の喜びはたいへんなもので、夜の明けるころまで、一生懸命に拝んでいますと、その中から五色の光がまばゆく輝いたかと思う間に、④小さな黒い鰻が現れて岩の上に登りました。
兄弟はなおも一心に「どうかみなが助かるよう、大雨を降らせてくだされ」と祈り続けました。すると小さい黒い鰻がもとのところに入ったと見る間に、一天にわかにかき曇り、たちまち強い雨が降りだしてきました。雨は田畑をじゅうぶんに潤し、作物はよみがえって、みなは助かりました。
そこで兄弟は、⑤鰻淵の岩の上に、石のほこらを立てて、竜神様をお祭りしたのです。それが「龍王社」で、人々は「おなぎ(うなぎ)さん」と呼んで詣でる者は後を絶たなかったということです。
書かれていることを要約すると
①大干魃の年に、②龍王社に7日間の雨乞い祈願をしたこと
③美しい女神が指定した場所を掘ると、④小さな鰻が現れた
④鰻によってもたらされた雨に感謝して、鰻淵に龍王社を建てて祀った。
「小さなうなぎ」とは、善女龍王伝説の説くところの龍神で、美しい女神とは「善女龍王」のことのようです。近世以後に広がりを見せた善女龍王伝説の系譜が感じられるお話しです。このような説話が讃岐では各地に伝えられています。

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手元にある香川叢書民俗編68pの「雨乞い」記事を開いてみます。
まず出てくるのがオリョウハンマツリ(龍王祭)です。
観音寺市栗井町奥谷には通夜堂があります。
そこでは旧6月11日のオリョウハンマツリ(竜王祭)の宵にお籠りをしていたことが記されています。シンギョウハンをあげたり、お神楽の奉納します。そして龍王(オリヨウハン)を拝み、近くのオミクジバとかうなぎ渕とよばれる渕に行って、お神酒をそそいで祈願をします。このとき黒色のうなぎが姿を見せると雨、白色のうなぎだと晴天が続くとされたようです。ここでは雨乞い祈願と云うより、天気予報のような感じで、積極的な祈願という感じはあまりしません。
 うなぎ渕は、鉈(なた)やのこぎりなどの金物を嫌うとも云われていたようです。今は、7月11日が祭りで、きなこ(黄粉)をまぶしたむすびが出されていたようです。お籠もりとは広辞苑には「神仏に祈願するため、神社や寺にこもること」とあります。その内容については「立待ち」とのみ記されているだけです。これがなんなのかは、今の私には分かりません。

琴南町美合の美霞洞渕では、雨乞祈願のために流れの中の岩や石に小さい棚を設けて龍王(オリヨウハン)を祀り、そこで神主や村人が3日3晩祈願をしたことは、以前にお話ししました。

五色台 大崎の鼻から大崎山園地 | 心はいつも旅気分・らるふの雑記帳
          大崎の鼻からの大槌・小槌島
長尾町長行の当願堂にも龍王(オリヨウハン)が祀つられ、雨乞祈願が行われました。
近くの人々は、このお堂でお籠りをします。伝説では当願は、五色台の沖の小槌島と大槌島の間の海に身を沈めたと伝えられます。この海域は、古代の神櫛王の悪魚退治伝説の舞台でもあったことは以前にお話ししました。船乗りにとっては、ある種の海の神域とされていたミステリーゾーンでした。お籠りをしても雨が降らないと、長行の人々は一斗樽にお神酒を入れて、ここまで出かけます。一斗樽を投げ込むと酒樽は空になって浮き上がってきて、小さい魚が現れます。ここで先達がオクジイレをします。オクジイレというのは先達がお経をあげた後、こよりに一週間ばかりの天候予定を書き込んだものを盆の上に載せ、それをケンザキサンで釣り上げることです。それで釣れたものをあけると雨の降る日がわかったというのです。これも雨乞いと云うよりも、天気占いのような感じがします。
 この行事を主導した「先達」とは、聖や山伏だったのでしょう。
五色台全域が中世では、国分寺の奥の院とされる白峰寺や根来寺の行場であったことは以前にお話ししました。そこには全国から集まってきた廻国行者や聖達が「行道」を行っていました。その中の海の行場が、小槌島と大槌島に突き出す「大崎の鼻」でした。自分の行場へ、先達として信者達を連れてきている聖達の姿が見えてきます。

雨の少ない瀬戸内地方は、水不足に悩まされた地域でもあります。
そのため各地で雨乞祈願が行われました。龍王山という名前は、里の人々からは雨乞祈願の霊地で信仰対象の山であったことを示す痕跡のようです。
 国土地理院の地図検索機能で「龍(竜)王山」を入力すると、全国に68山が出てきます。そのうち岡山県が23で一番多く、次に多いのは広島13、香川5、徳島4と続きます。ことしは辰(たつ)年です。讃岐の5つの龍王山に登ってみようかと考えたりしています。

佐文地形図 ため池
まんのう町佐文の龍王山
続いて「もらい水」です。
これは雨乞いに霊験あらたかな社寺や渕へ代参を出して、そこの水をもらいうけてきます。それを神前に供えたり、池に入れる方法です。もらい水の聖地として信仰対象となっていたいたのは、次のような所です。
まんのう町新目の尾瀬神社
高瀬町羽方の大水上神社
琴南町美合の美霞洞渕
財田町財田上の渓道龍王社
伊予の黒蔵渕
もらい水に出かけるときは、竹筒や桶などにお神酒を入れて行って供え、帰りにお水をいただいてきます。豊中町・大野原町田野々あたりでは、伊予の黒蔵渕へ五升樽と五色の絹糸を持って出かけ、黒蔵渕の近くでお籠りをして、翌朝渕にお神酒をお供えしてお水をいただき、それを持ち帰って池にうつし込んだと伝えられます。
水でなくて火をもらってくることもあったようです。
 近くの社寺からもらってくることもありましたが、近代になってからは金毘羅さんへ出かけることが多くなります。布などを縄状にしたホテ・火縄・スボキなどとよばれるものに神火をいただきます。その時に注意することは
①途中で休むと、そこに雨が降り、自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで運ぶこと
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、蓑笠姿で拝むこと。
 前回に見た佐文誌の白川義則氏の日記には、次のように記されていました。
7月31日(1939(昭和14)年
青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)
 8月3日
朝、(煙草の)乾燥当番だったので少し寝過ぎた。起きてみると待望の雨だ。我等農民だけでなく山野の一木一草まで歓喜雀躍、どうかいつまでも降り続いてもらいたいと祈る。そして⑤今日は龍王講の日だ、中筋講中として龍王山に総参りをする。
 午前十時より(雨乞成就の)御礼のために、⑥先日いただいた御神火を金刀比羅宮に青年団として御返しに行く。今朝の雨で繩が湿って途中で御神火が消えそうになって困難を極めた。
持ち帰った火を龍王山に運び上げ、一人ひとりが持ち寄った藁束を燃やして大きな火を焚いて雨が降ることを祈っています。そして、願いを叶えてくれると雨乞成就のお礼参拝をしています。ちなみに金刀比羅宮に雨乞い参拝するという記録は近世には出てきません。日中15年戦争が始まり、戦時体制が強化する中で、戦勝祈願などのために金刀比羅宮への参拝が村ごと、組織毎に強制されるようになります。そのような流れの中で始まったことで、新しいことのようです。それまでは佐文は、財田上の渓道龍王社から神火を迎えていました。それが国家神道強化の中で金刀比羅宮へと変化したようです。

長尾町の女体山では、頂上に着くと竜王の祠の前で大火を焚きます。
男たちは素裸になって踊りながら竜王さんを抱えて手送りをします。綾上町羽床上では城山神社で大火をたきました。この時に燃やす木は、水の文字の形に組んだとと云います。そして、雨が降るとオカヤシ(お返し?)に行くといって、お神酒やお供えを持って金毘羅さんにお礼お参りに行きました。
  渕に汚物を投じて水神を怒らせ、大いに暴れていただいて雨を振らせる「フチアラシ」という雨乞いの方法もありました。
まんのう町塩入の釜が渕では、村人がコマゴエ(堆肥)をと少々のごぼう種を用意して渕に行きます。渕では神職が祈願中に幾人かの人が渕に入ってごぼう種をまき、続いてコマゴエを入れて渕の中をかき回します。このとき渕の上では獅子舞を奉納しますが、水神さんは金物が嫌いなので、鉦は叩かなくて太鼓だけを打ちます。
 金物が嫌いな水神様を怒らせるために寺の釣鐘をつけるところもありました。
白鳥町福栄の薬師庵
大川町の西教寺
三豊郡豊浜町姫浜の満願寺
釣鐘のほかに水につけるものとしては、次のようなものが報告されています。
白鳥町白鳥神社の石剣
綾上町粉所猿飼神社のご幣
大野原町田野々のオリョウハン石
多度津町高見島の竜王のご神体
DSC07612
大水上神社(高瀬町羽方)のうなぎ渕

高瀬町羽方の大水上神社のうなぎ渕では、水をかい出すと雨が降るとされました。
選ばれた若衆五名が神社でお籠りをして精進潔斎をしてから水を汲み出す。うなぎが姿を現わすが、それが白色だと晴天、黒色だと雨、かにが出ると大風が吹くとされました。
 塩江町下切の竜王渕は、かなり深いので梯子を三つほどつなぎ合わせて下に降り、バケツや桶でリレー式にかい出していたと云います。この渕の岩には馬踊形のくばみがいくつもありますが、これは竜神さんが馬に乗ってこられたときの馬の足跡だそうです。
その他に紹介されいる雨乞習俗を、要約して載せて起きます。
①高松市亀水町地下のジョウガ渕は、槌の間(大槌・小槌島)につながっているとされ、渕の水をかい出した底の砂地で麦わらを焚いた。
②琴南町美合の海手洗、三木町永代谷の無縁さんなどでも水をかい出すと降雨があった。
③高松市由良町清水神社の甕塚の要を掘り出して洗う
④綾歌郡綾歌町栗熊東や観音寺市粟井町奥谷では神輿をかついで田んばを回る
⑤仁尾町や長尾町塚原のように竜のつくり物を海に流す
⑥大野原町田野々ではオリョウハンヘ行って、祠の前でお神酒とオセンマイを供えて三部経をあげる。そのとき黒い蝶が出てきてお神酒をなめると雨が降るという。
戦前までの讃岐には、いろいろな雨乞習俗がまだまだ残されていたようです。「想定外の大干魃」に対して、県知事が雨乞祈願を行うように通達していたことは以前にお話ししました。襲いかかってくる大干魃に対して、最後は神に祈るしかなかったのです。
 見方を変えると雨乞は、村人が雨を得ようと心を合わせて協力して行う臨時の祭りともいえます。ある意味では、村の団結力や結束力を高める結果をもたらします。これが佐文に綾子踊が残った要因のひとつかもしれません。ちなみに、雨乞祈願で降らた雨を、讃岐では「ワタクシアメ」とよんでいたそうです。なんとなくその響きが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川叢書民俗編68pの「雨乞い」
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      前回は、1934(昭和9)年に香川県に大きな被害を与えた旱魃について見ました。しかし、その5年後の1939(昭和14)年には、これを上回る「想定外の大旱魃」が襲ってきます。
1939年大干魃グラフ
1939(昭和14)年の月別降水量(広島気象台)
上の表は広島気象台の1939年と平年の月別降水量をグラフで比較したものです。ここからは次のようなことが分かります。
①4月・5月と例年の半分程度の降水量で、ため池が満水にならないまま田植え時期を迎えた。
②6月も空梅雨の様相で、例年の半分程度の降水量で、田植えができない所が出てきた。
③梅雨が早く明けて、7・8月になっても雨は降らず酷暑が続いた。7月の降水量は極端に少ない。
④9月に入っても、降水量は少なめで推移した
1934年の旱魃と同じような推移を見せていますが、違う点は7月の降水量です。前回の1934年の時には、7月末に集中豪雨的な雨がもたらされせて、一息つくことができました。しかし、今回は7・8月の2ヶ月に渡って、雨が降っていません。
この時の年間降水量は693㎜で、平年の半分以下で、河川の水は枯れはて、ため池も干しあがってしまいます。6月になっても約1400㌶が田植ができず、地下水を利用して田植えを行った水田も約2000㌶の稲が枯れ果ててしまいます。
旱魃に対する県の対応を見ておきましょう。
 藤岡長敏(ふじおかながとし)県知事は、菅原道真が雨乞いを祈願したという城山神社(坂出市)に参拝し、雨乞いを行っています。そして、市町村に雨乞い祈願と、学童が朝夕に稲株一株ごとに、土瓶を使って水をかける「土(ど)びんみず灌水」を行うよう通達を出しています。これを受けて、各町村ではさまざまな雨乞い祈願が行われます。その時に、佐文で踊られたのが綾子踊りです。しかし、綾子踊りを最初から踊ったようではないようです。どんな過程を経て、綾子踊りが踊られたのでしょうか? 今回は1939年の大干魃の時の佐文の人々の動きを見ていくことにします。テキストは「綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史」です。

綾子踊の里 佐文誌 綾子踊の里 佐文誌編集委員会 編 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。
佐文誌
佐文誌には白川義則氏の当時の日記の一部が載せられています。
白川義則氏は、大正11(1922)年生まれで、当時17歳でした。彼は、綾子踊りの地唄の歌い手として戦後の綾子踊り保存活動に尽力するとともに、長きにわたって旧仲南町教育委員長を務めた人物でもあります。彼が残した日記からは、千ばつの年の人々の様子や、雨乞いに関すること、作物の話など当時の生活を垣問見ることができます。旱魃が深刻化する7月から見ていきます。


佐文地形図 ため池
佐文のため池(佐文誌23p)
7月16日 田に水は無く池の水、大に減少、心細き事なり。
7月18日
本日、新池の水全部使い果し大勢にて小鮒・うなぎ等取りたり、昼頃より①中筋婦人会が龍王山に登り清掃、雨乞い参りをして居たところ、空模様は良くなり待望の雨来たり、雷など鳴りしも、大した雨を落す事なく飛び去る。
7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てる為に労力奉仕、夕方までに屋根ふきのみ残して終る。
7月30日 今日また雨無く、水田の乾きと稲の姿見るに偲びず。
最初だけ意訳変換しておくと
7月16日 田んぼに水はなく、池の水も大きく減った。(これから先のことを考える)と心細くなってくる。
7月18日
今日、岡の新池の水を全部抜いて、みんなで小鮒(ふな)・うなぎを獲った。昼頃から①中筋婦人会が龍王山に登って、清掃、雨乞参りをしたところ、雷が鳴って待望の雨が少し降ったが、まとまった雨にはならずに雲は飛び去った。
7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てるために労力奉仕に参加した。夕方までには、屋根葺きだけを残して終了した。
7月30日 今日また雨は無い。田んぼの乾きと稲の姿を見るに偲びない。

ここまでで気になった部分を見ていきます。
7月18日 
新池が干上がったので、魚を獲っています。その午後に①中筋集落の婦人会が龍王山に登って、清掃・雨乞いを行っています。この竜王山というのが私には分かりません。現在では、竜王山というと地図上では「四国の道」の竹の尾越の東側のピラミダカルな姿のいい山を指します。しかし、この当時は違ったようです。それは追々見ていくことにします。ここでは、「中筋婦人会」が龍王山の管理を行っていることを押さえておきます。ちなみにここに龍王社(リョウモサン)が祀られ、三所神社ともよばれていたようです。それが現在は、加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。

佐文 加茂神社と上の宮(三所神社)
佐文の加茂神社境内 正面が加茂神社拝殿 右が上の宮(三所神社)

雨が降らず状況は、ますます悪化していきます。
そこで10日後の7月28日に②「竜王山に拝殿小屋を建てる」と出てきます。これは、雨乞い祈祷に向けての準備のようです。この日から京都から招いた行者(山伏)が降雨祈願のお籠りに入ったようです。

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。

 昭和14年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

ここに書かれている要点を挙げておくと
渓道(たにみち)の竜王祠の火を松明にともして、竹の尾峠の山道をかけ下って持ち帰って、竜王宮で火を燃やした。
②そこで住民総出で火を燃やして「おこもり(祈願)」した。
③御盥池の堤防に小屋掛けして、そこで行者が1週間祈祷した。

渓道神社.三豊市財田町財田上
渓道(たにみち)神社(財田町財田上)
①の渓道(たにみち)龍王宮というのは、三豊市財田町財田上の渓道神社のことです。この神社は国道32号の工事の際に、現在地に移されたようです。龍王宮という名前からもわかるように、善女龍王を祀り雨乞い信仰の霊地だったようで、雨乞い踊の「さいさい踊り」が奉納されていた所でもあります。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道神社の説明版
  高瀬町の地蔵寺の「善女龍王勧請記」 文化7(1810)年に、渓道神社から善女龍王が勧進されたことが次のように記されています。(意訳変換)
上勝間村の①地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。⑤すでに龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
ここからは次のような事が分かります。
①上勝間の地蔵寺に財田郷上之村の②善女龍王(渓道(たにみち)龍王)が勧請されたこと
②渓道龍王(善女龍王)は、財田中之村の③伊舎那院の管理下におかれていて、④降雨祈願に霊験があるとされていたこと
⑤すでに龍神社があった八つ山に、渓道龍王は勧進されパワーアップがはかられたこと。
この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったとも記されています。この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年)は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。このように上勝間村で行われていた龍神や善女龍王の勧進が佐文でも、この時期に行われていたことが分かります。
 佐文誌には、明治時代の雨乞いの際に、財田上の渓道龍王宮の御神体と佐文の龍王山の御神体を入れ替えという話が載せられています。
同時に財田上から竹の尾峠を越えて、神火を持ち帰って火を高く燃やし、雨乞いを行ったというのです。ここからも佐文では、龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)が龍王講によって行われていたことが裏付けられます。以上から龍王山は善女龍王の山として雨乞い信仰の山とされ、その山腹に龍王祠が祀られていたこと、それを佐文の中筋の人達を中心に龍王講を組織して、お奉りしていたとしておきます。

P1250512
綾子踊の芸司の大団扇(表が太陽、裏が月)

 そして、雨は1ヶ月以上降らないまま8月に入っていきます。
  7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)
 ③は31日に、青年団員が金刀比羅宮に参拝して、雨乞い用の聖火を貫い受けてきます。布などを縄状にしたホテ・火縄・スボキなどとよばれるものに神火をいただきます。その時に注意することとして、次のような事が云われていました。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいています。
 しかし、先ほど見た「佐文誌」には、持ち帰ったのは財田の渓道龍王社の神火とありました。ふたつの記述が異なります。これをどう考えたらいいのでしょうか。これはまた別の機会にするとして、先を急ぎます。
8月1日  
山神池の最後の水について、総寄合で反別の一割分と決まった。早速、水を引く。午後、待望の雨が降るがほんの埃を湿す程度であった。
8月3日
朝、(煙草の)乾燥当番だったので少し寝過ぎた。起きてみると待望の雨だ。我等農民だけでなく山野の一木一草まで歓喜雀躍、どうかいつまでも降り続いてもらいと祈る。そして⑤今日は龍王講の日だ、中筋講中として龍王山に総参りをする。午前十時より(雨乞成就の)御礼のために、⑥先日いただいた御神火を金刀比羅宮に青年団として御返しに行く。今朝の雨で繩が湿って途中で御神火が消えそうになって困難を極めた。
金毘羅さんの神火の霊験でしょうか、8月3日には待望のまとまった雨が降ります。8月3日は「龍王講の日」でもあったようです。
これが先ほど見た龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)です。これについては、佐文誌252Pに次のように記されています。
龍王祠は前山の頂上やキノエハン(甲子山)にまつられ、その祭りをリョウモウシと呼び、旧六月十八日に祭りを行なっていた。リョウモウシをするために、佐文では龍王講を組織していた。現在、天保二年(1831)から昭和十三年までの頭家帳が残っている。

龍王祭の頭家帳 佐文
佐文の龍王祭頭家帳(天保2年)
天保二年の記録を見ると、夕方、三名の頭家は加茂神社へお神酒と米を供えて、朝は龍王祠へお神酒とお供えをささげていたことがわかる。明治十年の龍王祭の記録を見ると、三名の頭家は米とお神酒銭を集め祭りを執行し、祭礼後は地区民一同が頭家のつくったオコワやお神酒で会食をしていたことがわかる。
大千ばつの時には善女龍王に降雨の祈願をして加茂神社の境内で綾子踊を奉納した。次に前山のリコウハンやキノエハン(甲子山)でも踊った。 一般の人びとは一束の麦わらを持ってリョウハンヘ行き、リョウハンで大火をたいた。
また、ある者は山伏姿でおこもりをした。おこもりの期間中は、ほとんど断食に近いようなそば粉の食事を取りながら善女龍王に降雨を祈願した。降雨の祈願をすると、必ずオシメリ(降雨)があったという。それほど佐文のリョウハンは霊験があらたかであった。
龍王社に中筋講中で、お参り後に10時からは青年団員として「雨乞成就のお礼参り」のために、御神火を金刀比羅さんに返しにいきます。
8月6日
今日は⑦大祓の農休の日である⑧龍王宮の「おこもり」に朝から参加、夕方7時過ぎまで⑨行者による火物断ちの雨乞いが行なわれた。⑩中筋隣組が当番だったので雑用に当った。
 8月6日の「⑦大祓の農休」は、旧暦6月30日の夏越(名越し:なごし)のことです。
夏越 茅の輪くぐり

この日は忌 (い)み日として、祓いの行事が行われました。そのひとつが輪くぐりで、神社に設けた大きな茅 (ち)の輪をくぐって、災厄を祓いました。これも虫害・風害・旱魃などを鎮める祓いの行事のひとつです。小麦饅頭や団子をつくって、農仕事は休みます。池や川で身を清め、牛馬も水に入れて休ませたりしました。この日だけは河童が出ないそうで、池や海で泳いでもおぼれることはないとされました。しかし、この年は旱魃で池には水がありません。
     そして⑧「龍王宮の「おこもり」に朝から参加」と出てきます。
 龍王山ではなく「龍王宮」であることを押さえておきます。「おこもり」とは何なのでしょうか? それは次の⑨「行者に依る火物断ちの雨乞い」のようです。 つまり、この時点でも行者(山伏)が「龍王宮」に籠もって「火物断ちの雨乞い=護摩祈祷?」を行っていたことが分かります。⑩「中筋隣組では当番にて雑用」というのも、行者の護摩祈祷を支える雑用だったことが考えられます。ちなみに中筋の一番奥に位置する真鍋家には、この時に山伏の食事などを真鍋家で準備して、「龍王宮」に持ち上がったという話が伝わっているようです。金毘羅山からのご神火以外にも、行者による「お籠もり祈祷」など、いろいろなな雨乞いが同時進行で行われていたことが、ここからはうかがえます。 それでも雨は降りません。そんな中で、いよいよ綾子踊りが踊られることになります。

本文 8月9日
佐文部落にて⑪雨乞のために、綾子踊りを実施する事が決り、⑫(私は)地歌読みに中筋より指名せれた。
早速⑬加茂神社での練習に参加するが、大方が年輩の方で、歌と言っても何を言っているのかさっぱり私には解らない。果して責任を果し得るだろうか。その後、毎日昼休みを利用し神社で練習する。
10日 米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫はないだろう。

11日から16日まで綾子踊の練習をする。
16日は、踊り手が全員が神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする.
8月17日 
昨夜から父は⑭煙草の乾燥当番だったが、朝食を終る頃に帰って来て、⑮雨乞いの衣裳を着付けてくれた。今日は、綾子踊の総踊りの日であるので、生れて始めて⑯紋付の着物に衿を着用した。紙諧の草履も父が念入りに作ってくれた。午前8時頃に王尾村長様宅に集合、⑰神事場にて一踊りして、加茂神社で行列を整え、⑱龍王山に向って山を登る、神前で一踊りして、雨を祈り力一杯踊る。その後⑲帰りて加茂神社でて二踊りした。見物人多く盛観であった。夕方早々終りたるも御利生の御雨は何時の日か。

金毘羅山からの神火も、京都から招いた行者の雨乞いも、効果がありません。
8月9日なると「⑪雨乞の為、綾子踊りを実施」とあります。綾子踊りを踊ることになったようです。「⑫地歌読みにと中筋より指名」とあるので、17歳の白川義則少年は、地唄に指名されたようです。「⑬加茂神社での練習に参加」とありますので、練習は賀茂神社で行われていたことが分かります。歌詞の内容はちんぷんかんぷんでよく分からないが、託された責務を果たそうと毎日昼休みに加茂神社にいって、長老から手ほどきを受けたようです。確かに綾子踊りの地唄の歌詞は、雨が降ることを祈るようなものはほとんどありません。その内容は、瀬戸内海各地の港町の遊女と船乗りの恋歌などで、まるで「港町ブルース」的なものが多いことは以前にお話ししました。それを聞いて17歳の白川少年が戸惑ったのも頷けます。踊りの練習は10日から16日迄の1週間です。そして17日が綾子踊り当日になります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
加茂神社への入庭(いりは)

 前日の夜から「⑭煙草の乾燥当番」に出ていた父が、朝早くに帰ってきて、⑮衣装の着付けをしてくれます。

⑯裃を身につけるのは初めてなので緊張気味です。午前8時に王尾村長宅に集合し、ここで行列を調えて加茂神社に向けて出発。踊りの奉納順は次の通りです。
 ⑰神事場(御旅所) → ⑱龍王山の神前 → ⑲帰りて加茂神社で二踊り

綾子踊り 入庭図4
尾﨑清甫の残した綾子踊「踊入始め第二図」(1934年)

加茂神社では多くの人々が集まって見物して、賑やかだったと記されています。しかし、雨が降ったとは記されていません。状況は、さらに悪化していきます。
8月18日、笛の本池の水をすべて放出して、池が空っぽになった。
23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。
24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。
25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。
30日、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。
9月に入っても夕立が少しある程度で、上旬は晴天が続いた。
  9月2日には、⑳北山集落から再度綾子踊を奉納しようという相談があった。
  9月3日、救荒作物のソバを蒔いた。この日、㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした。
4日、山上池の水が底をつく
6日、青年団員が集まり、金刀比羅宮へ行き総参りをした。翌日、雨が少し降る。
  17日の綾子踊り奉納後も、雨は降りません。状況は悪化の一途です。そんな中で9月2日に、次のようにあります。
「⑳北山集落の人から再度綾子踊をしようという相談があった。」、「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
とあります。これを、どう考えたらいいのでしょうか。
綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊りの団扇
以前に、綾子踊りの記録文書を残した尾﨑清甫のことをお話ししました。
P1250692
尾﨑清甫の残した記録

彼が文書を書いた時期は、1934(昭和9)年と1939(昭和14)年の両年のものがほとんどであることを指摘しました。この両年は、大干魃で県から雨乞いを行うように通達が出された年です。そして、佐文でも今見てきたように、さまざまな雨乞い祈願が行われていたことが分かります。そのような中で、雨乞い踊りが最後に踊られることになります。
 ここで注目しておきたいのは、最初から綾子踊りが踊られた訳ではないことです。佐文もいくつかの小さな集落の集まりで、その小集落の属する水系(ため池用水路)や属性が異なります。つまり、一枚岩ではないのです。例えば先ほど見たとおり、中筋は龍王山を信仰の対象として、龍王講を組織していました。一方、北山集落は綾子踊りを継承していたようです。そのためすぐには、綾子踊りは踊られません。いろいろな雨乞い行事が行われ、それでも駄目なときに、佐文全体で綾子踊りの奉納を行ったと私は考えています。
尾﨑清甫2
尾﨑清甫
    1934年の大干魃が去った秋に、尾﨑清甫は次のように記しています。
1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
これを意訳変換しておくと

  佐文の戸数も百戸を越えるようになって、綾子踊について協議・実施することが困難になってきた。そこで(佐文全体ではなく)「北山講中」だけで「村雨乞い」の規模で、1週間雨が降ること祈った。(それでも雨が降らなかったので)再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが利生は少なかった。ところが旧暦7月29日になって十分な雨が降った。そこで俄なことではあるが旧暦8月1日に、雨乞成就のお礼踊りを奉納した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

尾﨑清甫史料
         尾﨑清甫の残した綾子踊り文書


また「団扇指南書起」には、次のようにあります。

「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 意訳変換しておくと
「世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、色々な行事を行う際にも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見が分かれていたことがことがうかがえます。これを裏付けるものとして「佐文誌197P 綾子踊のこぼれ話」には、次のように記されています。
明治の末期からこんな話が残されている。
ある日照りの年、村人の意見で村長が雨乞踊の奉納を決定しようとしたところ、一人の村人いわく「今、如何なる踊りを奉納しようともその甲斐なし。その踊る時間と労力をもって池の泥を出せ。さすれば来年はそれだけ多くの水を貯えられるなり。」
 これを聞いた村長は、次のように答えたり。
「そなたの言もっともなれど、今、村人の欲するものは来年の水に非らず、明日の水なり。事ここに至りて神仏にたのまずして何に頼れるか。」
 この一言で、踊りを決定したという古老の話しである。
綾子踊りを奉納することについては「村内の者の心が同心に成りがたい」状況が生まれていたことが分かります。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
    そんな視点で白川義則氏の9月2日の日記を見てみましょう。
「北山集落の人から⑳再度綾子踊をしようという相談があった。」
そして、翌日に「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
これは再度の踊り奉納を北山集落が求めてきて、翌日にその対応を中筋集落が話し合ったということでしょう。その答えは、「NO」だったようです。日記には、踊ったとありませんから・・・。
その後の記録を見ると

9~10日の朝までに十分な雨が降ったので、11日は㉒お礼の踊りを神社で二回踊った。中旬も三度だけ少雨が降ったのみで、水不足は続いている。

ここからは、9・10日に一定の雨が降ったことが分かります。そこで翌日の11日に「雨乞成就」のお礼のために、佐文全体で綾子踊りを2回踊っています。雨が降ったことを歓ぶ佐文の人々の感謝の気持ちが爆発して、この時の踊りは総踊りになって盛り上がったはずです。この高揚感が、尾﨑清甫に「綾子踊文書」を書かせる大きなエネルギーになったのではないかと私は考えています。

綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊 花笠寸法(1939年 尾﨑清甫) 

こうして見ると、明治以来忘れ去られようとしていた綾子踊りは、昭和の2回の大干魃という危機的な状況の中で復活したとも云えそうです。その時に、踊りに必要な団扇や花笠などが改めて制作されました。それを後世に伝えるために、記録に留めようとしたのが尾﨑清甫だったのです。

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綾子踊の団扇
以上をまとめておきます
①讃岐には各地にさまざまな雨乞い踊りが伝承されていた。
②しかし、明治以後に文明化が進む中で、それらは迷信とされ踊られることが少なくなった。
③そのような中で襲来した昭和の2回の大干魃は、県知事に雨乞祈願をするようにという通達を出させるほど深刻なものであった。
④これに対して、各町村では伝えられるさまざまな雨乞い行事が行われた。
⑤その中で、佐文では忘れ去られようとしていた綾子踊りを佐文全体で復活させた
⑥それを後世に残そうとして、尾﨑清甫は由来や花笠・団扇などの記録を書残した。
⑦これがあったために、戦後に綾子踊りを再度復活させることができた。
そういう意味では、この時の大干魃がなければ綾子踊りは、忘れ去られていたかもしれません。
「2つの大干魃 + 尾﨑清甫の存在 = 綾子踊り文書の作成・保存」という図式がえがけそうです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾子踊り 雨を乞う人々の歴史 18P 綾子踊のはじまりと歴史
綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史
関連記事

                                
前回は今から90年前に香川県を襲った大干魃の様子を見ました。今回は、これをローカル紙であった香川新報がどのように報道しているかを見ていくことにします。テキストは、「辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月」です。 

1934年の旱魃 香川県
1934(昭和9)年の降水量(多度津測候所)

1934年の降水量比較 香川県
1934年の降水量比較
まず復習として1934年の降水量を見ておきましょう。上表からは次のような事が分かります。
①冬場に雨が少なかったため、春先になっても、各ため池は満水状態ではなかったこと
②4月には例年並の降水量があったが、満濃池などを満水にすることはできなかったこと
③6月20日の県の調査によると2割以上のため池が、貯水量が半分にも達しなかったこと。
④5月6月の空梅雨と水不足のため、田植えができないところがでてきたこと
⑤7月末から約1ヶ月、雨が降らず猛暑が続いたこと。

讃岐の大干魃新聞記事 昭和9年
干ばつを報じる香川新報(1934年)

1934(昭和9)年7月1日の香川新報は次のように記します。
「もう梅雨は明けてしまった」
香川県では十二日の入梅以来、潤雨のあったのは十六日と十九日午後から二十日迄と二十四日午後一寸降ったくらいだった。例年のような雨が一切なく梅雨明けという半夏生も後三日で如何様にも雨が少ないので田植えのまだ出来て居らぬ田地も多く。…」
水不足で田植えができない水田が多いと伝えています。このころから香川新報の紙面には、次のような旱魃の記事が目立ちはじめます。
 7月 6日
 県の農務課の調査によれば、田植えの終わった水田は県全体の水田のほぼ半分で、大川郡の相生村など17の町村では水源が枯渇し植え付け不能。
 7月 7日 
県当局は緊急干害対策協議会を開催、満田県農事試験場長は農会の技術指導員などに対し、仮植えでもいいからとりあえず苗代の苗を本田に移しかえるよう督励した。しかし、本田自体が水がなく乾いているから、仮植えをしてもその干害対策が大変である。同じく県農事試験場長から四五寸に切断せる藁稗其他之に類するものを株下一面に散布し、日光の遮断をし、地面の乾燥を防ぐこと、稲田の乾燥甚だしくて枯死に瀕せむとする場合には、井水其の他を利用し土瓶又は杓を以て少量宛にでも根元に濯水すること」などの注意事項が披露された。
 7月9日 
満濃池の水位が55尺から30尺に減じた。あと10日雨がなければ「証文ユル」の実施も止むなしという。もし実施されれば、大正2年以来のことになる。
 7月 10日
 栗林公園の池の水を譲り受けて灌漑されている高松市宮脇町の水田は、池水の減少とともに旱魃がいちじるしく、農民たちは県の公園課に一層の池水の流用を陳情、高松市農会長も木下知事に窮状を訴えた。
 7月 13日 
仏生山署は香南14ヵ町村の田植えの進行状況について、一宮、多肥、大野の3ヵ村では田植えがまだ半分も終わっておらず、一宮村では314町歩の水田のうち田植えの終わった水田はわずか100町歩しかないと報告した。

このような中で、7月13日夜半から14日早朝に「恵みの雨」が降ります。
雷鳴をともなったはげしい雨で、乾き切っていた水田は息を吹き返します。遅ればせながら田植えも、数日でほぼ完了の見とおしが出てきます。7月14日の香川新報は、田植えのはじまった田園の光景を入れて、大見出しで次のように報じます。
降った降った黄金の雨、もう農村は大丈夫」

 しかし、雨はこれっきりでした。その後は雨ふらないまま7月が終わります。8月に入っても晴天が続き、雨は一向に降りません。こうして盆前には、7月段階よりさらに深刻な水不足に襲われます。
8月18日の香川新報の見出しは、
「農村の惨状 目も当てられず旱魃非常時 学童から老人まで総動員で濯水作業に汗みどろ」
「天はまだ疲弊の農村に恵みを投げず、雨を見ざることここ1ヶ月余りに亘り、ジリジリと油照りの炎天つづきで、農村には恐る可き大早魁が予想され、農民は唯だ雲の動きを望んで青息吐息に萎れている。いづれを見ても田園には砲列のように濯水車がならんで涸れなん水に空車がきしる。殊に水不足の香川郡多肥、太田、一の宮方面では小学児童から爺さん婆さんまで総出動の活動で、眼前に楽しい孟蘭盆を控えて今はみぐるみ団子になりそうである。村の青年少女等がこの分では憧れの盆踊りも物にはならずとはいへ、皆々一言の不平も云わずに一心不乱で稲の看護、汗みづくとなりコトコトと濯水車を踏んでいる。」
と、盂蘭盆を前にしてもその準備もできず、濯水車を踏む人々の姿が報じられています。
足踏み揚水機
足踏揚水機(灌漑水車)

以後、旱魃記事が連日、次のように続きます。
8月21日
旱魃の被害田、三豊郡内耕地七千六百町中、亀裂枯死四百町歩、水不足で白田一千町歩、惨状目も当てられずか(白田は、涸れて稲が白くなること)
8月 22日
旱魃依然ノ農村の危機、県下の被害回一万町歩、ここ一週間で稲の運命の黒白を決す 木下知事、東に西に干害実況を視察。
8月24日
牢晴恨し、渇水地獄編、西讃七千の溜池全部サッパリと底を払ふ 東讃一万三千の池、一合平均に貯水、満濃池も足が立つ惨状。
8月26日
挺子でも動かぬ炎帝、雨に耳をかさぬ 無水地獄に農民なく 県下の被害回二万町歩、枯死一千町歩に上がる 今後七日間雨なき場合の枯死、三千町歩、けふ県の正式発表。
8月28日
大満濃池も気息奄々  砂漠のような姿で近く大戸の閘も抜、もはや、この8月末の時点における旱魃の稲作への影響は決定的というべく、県当局が8月29日現在の被害状況について発表したところによると、稲の枯死した水田は 23日時点の1000町歩からその5倍の5000町歩へと一挙に広がった。このまま事態が推移すれば、水田の半分近くがダメになると予想される。
                       (下図)


1934年の旱魃 香川県被害状況

そんな中で8月31日の夜半から9月1日の早朝にかけて、雨が降ります。
「潤雨、万霊を潤す 生気萌立つ県下農村」

と9月2日の香川新報は報じます。この雨で一部の水田では立ち枯れ状態だった稲が立ち直りますが、最終的には表 4にみるとおり、香川の稲作は惨たんたる状況でした。
1934年の旱魃 香川県被害状況2
1934年の香川県の稲作の干ばつ被害状況
この年の収穫高 76万石は前年の 107万石に対して約 30%減
となっています。
被害を大きくした要因の一つに研究者が挙げているのが、ため池の貯水機能の低下です。
当時は大正の小作争議で、地主たちの農業ばなれの傾向が強まっていました。つまり、地主達の農地に対する管理意欲が低下して、地主が今まで行ってきたため池の維持管理がなおざりがちになっていたと云うのです。
 この点について前年の県会で県当局に対して、ため池の施設改善を求めた議員の発言が残っています。

「県内耕地五万町歩に対する使命を持っている溜池が一万七千有余もあるようでありまするが、この溜池が一割及至二割位は土砂の堆積で水量を減退して居るものが殆どと言うても宣かろうと思ひます。多きは三割及至四割位減水をして居る所も往々あるのであります」

ここには、浚渫(泥さらえ)が長く行われずに放置されていて、貯水量が低下しているため池が多数あることが指摘されています。ため池の浚渫を長く怠ってきたことも、水不足に拍車をかけたようです。

文庫 百姓たちの水資源戦争 江戸時代の水争いを追う | 渡辺 尚志 | 絵本ナビ:レビュー・通販

干ばつになると、水争い(水論)が各所で激化するのが讃岐の常です

枯れていく稲を、眼前した村人たちは、雨乞いをします。その一方、我が村、我が部落に少しでも多くの水を確保するために「我田引水」の水争いを行うようになります。それが香川新報の紙面に登場するのは、7月のはじめのころからです。前回紹介できなかった記事を、時系列に並べて見ておきましょう。

昭和9年香川県水論一覧表1
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(7月・8月前半)

7月 3日
(三豊の)大谷池は 6月 21日にユルを抜き、池掛かりは全区域とも水田の6分を見当にして、第 1回の田植えを開始した。ところが上流の萩原村は、上流という地勢上の優位を利用して次々に田植えをすすめ、さらに水路を堰止めてしまった。そこで、下流の中姫村とはげしい水論となった。
7月 7日
香川郡多肥村の田井部落の出水は、木田郡の林村にも水掛かりがある。田井部落の農民たちは旱魃にそなえて、出水の周辺に数個の堀割りを新設した。そのため日ごとに細まりつつあった出水の水はさらに細まって、ついに林村に水が来なくなった。新設の堀割りを埋めるよう田井部落に掛け合ったが入れられそうになく、林村は県に陳情するつもりであるという。

 7月8日
小田池の末流に位置する円座村は上流の川岡村と交渉の結果、7月 4日から 3日間、田植え水の配水をうけることとなった。が、乾き切った水田は水を吸うばかりで田植えはいっこうにすすまず、そこで円座村は配水期間の延長をもとめて再度の交渉をもった。しかし、交渉が難行し要求が入れられないとみるや、円座村の農民たちは大挙してトラックで交渉の現場に急行、あわや大乱闘という寸前に仏生山署の警察官が駆けつけ、ひとまずその場はおさまったという。

 7月 10日
7月8日の夜中、実光寺池の水を発動機で引き揚げようとしていたひとりの男を、実光寺池掛かりの農民たちが大勢で袋叩きにしているところを、瀧宮署の署員が発見。この男を連行して取り調べたところ、この男は篠池掛りの農民で、枯死しつつある自分の回の稲を見るに忍びず、つい盗水におよんだとのことでした。。

 7月14日に慈雨が降ったことは、先ほど見たとおりです。この雨で、水争いのことはぴたりと紙面から見えなくなります。それが8月になっても雨が降らないと、再び水争いの記事が紙面に溢れるようにでてきます。それは前回に紹介しましたので、ここでは省略します。

昭和9年香川県水論一覧表2
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(8月後半)

 1934年の香川県を襲った旱魃については、以上に見てきた通りです。ところが5年後の1939年に、これを上回る「想定外の大旱魃」を経験することになります。
1939(昭和14)年の降水量676ミリは平年の半分です。そして米の収穫高も、前年の半分まで落ち込みます。そして深刻な影響を、香川の農村にあたえたのです。旱魃対策に無為無策では、社会不安をもたらし、県の指導者に対する批判にもつながります。こうして県は、干ばつ対策の目玉政策として、満濃池の第3次嵩上げ工事に取り組むことになります。そういう意味では、1934年と39年の大干魃が、満濃池の第3次嵩上げ工事を後押ししたといえるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月

満濃池堰堤の石碑
満濃池の3つの石碑
満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
 ① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記    (明治 8年)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
   この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
 幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。

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弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣
千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧
 明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと 
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。

②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。

③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。

④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。

⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。

 ⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。
 慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
 ⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。
松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
 ⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。
 空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤
を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美

この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
⑧ そして最後は、激情的な「十市池(真野池)賛美」で終わります。
満濃池 長谷川佐太郎
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
 前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建

ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。
その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。
52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。
その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。
 1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
  ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること
②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと
③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと
④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと
⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
 矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
 ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」
「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」
「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。

以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献
満濃池史398P 真野池記 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代


満濃池 現状図
 
昨年の12月に、2つの団体を案内して「ミニ満濃池フィルドワーク」を行いました。その時に、たずねられたのが堰堤の石碑に何が書いてあるかです。石碑の内容を一言で、説明するのはなかなか大変です。そこでここでは、敢えてその全文と意訳文を載せておくことにします。
満濃池の堰堤の東の突き当たり附近には、3つの碑文があります。

満濃池堰堤の石碑

右から順番に記すと次の通りです。
 ① 松坡(しょうは)長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記(明治3(1870)年以降)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
まず①の石碑から見ていきます。
この碑は明治29(1896)年11月に長谷川佐太郎の功績を讃え、朝廷より藍綬褒章及び金五十円を賜ります。これを機に、長谷川佐太郎への再評価の機運が高まります。その機運の中で建立されたと碑文の最後尾に記されています。明治の元勲・山縣有朋が題字、子爵品川彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書になります。それでは全文を見ておきます。
P1160061
            長谷川翁功徳之碑
  長谷川翁功徳之碑 
          従一位勲一等候爵山鯨有朋篆額

壽珊道禰於徳依於仁遊於蔡蓋長谷川翁之謂也翁名信之字忠卿琥松披称佐太郎讃岐那珂郡榎井村豪皇考練・和似姚為光氏翁為大温良有義気好救人急 夙憂王室式微輿日柳燕石美馬君田等協力廣交天下郎藤本津之助久阪義助等先後来議事文久三年有大和之挙翁奥燕石整軍資将赴援聞事敗奉阜仲小に郎来多度津翁延之姻家密議徹夜高杉晋作転注来投翁血燕石君田等庇護具至既而事覚逮櫨菖急使者作揮去燕石君田下獄翁幸得免替窺扶助両家族 及王政中興翁至京都知友多列顕職勧翁仕會翁固辞面婦素志専在修満濃池池為國中第一巨浸自古施木閉毎年歳改造為例嘉永中変例畳雑石作囃隋漏生蜜水勢蕩蕩決裂堤防漂没直舎人畜亘数十村田時率付荒蕪爾来十四年旱潜瑛萬民不聊生翁恨肺計奎修治屡上書切請明治三年正月得免起工高松藩松崎佐敏倉敷懸大参事島田泰夫等克輔翁志朧閲川告竣単工十四萬四千九百九十六人荒蕪忽化良田黎民励農五稼均登藩侯賞 翁功許称姓帯刀且購米若芭翁撰為区長後為満濃池神野神社神官廿七年叙正七位翁多年去庫國事頗傾儲蓄且修満濃醜蕩粛家産遂為無一物亦隅踊焉洋洋焉縦心所之楽書書好徘句不敗以得襄介意尚聞義則趨聞仁則起可謂偉矣廿八年満濃池水利組合贈有功記念章於翁且為翁開賀宴會者三百五十鈴大寄詩歌連徘頌翁嫡片亦無笑廿九年十一月朝廷賞翁功賜藍綬褒章及金五拾圓云郷大感懐仁慕義青謀建碑請文予乃序繁以斟
 明治廿九年 従二位勲二等子爵品川輛二郎撰 衣笠豪谷書
 P1260752
長谷川翁功徳之碑

意訳変換しておくと
人の志は道により、徳は仁において、遊は芸による。長谷川翁の名は信之、字は忠卿、号は松披佐太郎と称す。讃岐那珂郡榎井村の豪農である。いみ名は和信、母は為光氏。翁の人となりは、温良義気で、よく人の危急を救った。
特に幕末の王室の衰微を憂い、日柳燕石・美馬君田等と協力して広く天下の士と親交を結んだ。松本謙三郎・藤木津之助・久坂義助らが前後して琴平にやって来て、密議をこらした。文久三年の大和の天誅組の義挙に際しては、燕石と共に軍資を整えて、大和に行こうとしたが、時既に遅く果たすことができなかった。桂小五郎が多度津にやって来た際には、親戚の家に迎えて、夜を徹して話し合った。後に、高杉晋作が亡命してくると、燕石や君田らと共に疵護した。これが発覚し、晋作は逃亡させたが、燕石・君田は捕えられ高松で投獄された。翁は幸に逮捕をまぬかたので、ひそかに両家族を扶助した。
 明治維新になると、京都に上って顕職を求める知友もいて、翁に仕官を勧める者もいた。しかし、翁は固辞して故郷に帰った。その志は、満濃池の修築にあった。池は讃岐第一の大池であったが、木製の底樋のために三十年に一回は改修工事が必要であった。さらに嘉永中(1854)底樋の石材化工事が行われた際に、工法未熟で漏水を生じた上に、宝永の大地震のために堤防が決裂した。そのため民家人畜の漂没するものが数十村に及び田畑は荒れるに任かせた状態になっていた。以来14年旱魃になっても水はなく、作物はできず人々は苦労していた。翁は慨然として、再築計画を何度も倉敷代官所に上書請願した。明治3年正月になってようやく政府の免許が下り、起工した。高松藩の松崎佐敏・倉敷懸大参事島田泰夫などが、翁の志を支援して五か月竣工人夫十四万四千九百九十六人荒地は良田と化し、零細農民に至るまで五穀等しく稔った。藩は翁の功績を賞し、姓を与え帯刀を許し、且つ賜米若干包を下賜した。
こうして、翁は撰ばれて区長となり、後には満濃池神野神社の神官となった。そして明治27年に正七位に叙せられた。翁は多年に渡って国事に尽力し、自分の財力を傾けて満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。また義におもむき仁に立つなど偉大というべき人物である。
 明治28年、満濃池水利組合は有功記念賞を贈り、翁のため祝賀会を開いた所、参加者は350人を越えた。翁の徳を讃えた29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。
本文の内容を整理しておきます
①段目は、長谷川佐太郎の出自と人なりです
②段目は、勤王の志士としての活動で、特に日柳燕石とともに高杉晋作の支援活動
③段目は、満濃池再築に向けての活動
④段目は、再築後の隠居生活

現在の視点からすれば②段目は不要に思えるかもしれませんが、戦前では「勤王の志士」というのは、非常に価値のある言葉でした。戦前の皇国史観中心の歴史教育の中で、華々しく取り上げられたのは「皇室に忠義を尽くした人々」です。その中で、南北朝の南朝の楠木正成や、幕末の薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作は、功労者として教科書に取り上げられます。これに倣って、各県の郷土史教育でも「忠信愛国」の郷土の歴史人物が選定されていきます。その中で香川で取り上げられるのが琴平の日柳燕石です。「高杉晋作を救って、そのために下獄していた」というのが評価対象になったようです。また、戊辰戦争中に戦死しているのも好都合でした。その人間が生きている内は、なかなかカリスマ化できません。こうして日柳燕石についての書物は、伝記から詩文にいたるまで数多く戦前には出版されています。彼の裏の顔である「博徒の親分」というのは、無視されます。その燕石と活動をともにし、獄中の燕石を支援したというのは、書かずにはおれない内容だったのでしょう。
③段目の満濃池再築については、記述に誤りはありません。
④段目には「満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。」とあります。区長とありますが戸長です。しかし、長谷川佐太郎はこれを、すぐに辞退しています。そして、「家産をなくし無一物となるとも、一人静に心に従って俳句を好む」生活を送っていたのです。長谷川佐太郎は忘れ去られていたのです。それが明治27年に正七位に叙せられ、その2年後には藍綬褒章を受賞します。これを契機に周囲からの再評価が始まるのです。その出発点として、姿を見せたのがこの碑文だと私は思っていました。ところが裏側に刻まれた建立年月をみて驚きました。

P1260755
松坡長谷川翁功徳之碑の裏面
   【碑文 裏】
 昭和六年十月吉祥日建之
    滿濃池普通水利組合管理者
     地方事務官齋藤助昇
       建設委員 田中 正義
        仝   谷 政太郎
        仝   塚田 忠光
        仝   三木清一郎
        仝   三原  純
  香川県木田郡牟礼村久通
  和泉喜代次刻

   碑文表の最後には「翁の徳を讃えて明治29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。」とあります。碑文は、その前後に建立されたはずなのですが、現在の石碑の裏側には、「昭和六年十月吉祥日建之」とあります。そうすると、この碑文は2代目のもので再建されたものなのでしょうか。この辺りのことが今の私には、よく分かりません。ご存じの方がいれば、教えて下さい。
P1260752

最後の詩文の部分です。
 入賓始築萬農池 弘仁奉勅空海治 寛永補修雖梢整
 嘉永畳石累卵危 安政蟻穴千丈破 慶唐旱僚萬家飢
 松波老叟振挟起 壹為國土借家貨 章懐底績農抹野
 承前善後策無遺 曽悼亡友管祠宇 趨義拒肯畏嫌疑
 人富居貧率天性 蓋忠報國心所期 不侯櫨傅遭顕達
 山来天爵大宗師
意訳変換しておくと
 大賞年間に始めて満濃池を築き、
弘仁年間に時の天皇の勅を承って空海が手を入れ直し、
寛永年間に補修を加えて漸く整備されたけれども、
嘉永年間に石を畳んだものの崩れやすく、極めて危険な状態であり、
安政年間には堅固な堤防も蟻のあけた小さな穴がもととなり崩れてしまい、
慶応年間の日照りと長雨による洪水によって多数の人々は食物を得られずひもじくなった。
松披老翁が袂を振るって一大決心をして満濃池の修治に起ち上がったのは、
偏(ひとえ)に国のためであり、どうして家の資産を使用することを惜しむことがあろうか。
深く懐の底に思いをいたして事にあたったので農民達は野で手を叩いて喜び、
前を引き継いで善後策にも遺す所がなく、
かつて亡友を悼んで神社を営み、
義に趣いてそのためには嫌疑を畏れることはなかった。
富を去って貧に居るという天性に従い、
国のために忠義を尽すことは心に期す所であり、
世間の評判や立身出世を待たなかったことは、                   
生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。

長谷川佐太郎顕彰碑
        満濃池と松坡長谷川翁功徳之碑
碑文前の台石には、現代文で次のように記します。

  P1160062
        【台石】 松坡長谷川翁功徳之碑
 長谷川佐太郎は松坡と号し幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。榎井村の豪農の家に生まれ勤王の志士日柳燕石と交流し幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも挺身している
 一方、安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松・丸亀・多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府に百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。この陳情が功を奏し、高松藩の執政松崎澁右衛門の強力な支援のもとに明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。この碑は彼の功績を称え 明治の元勲山形有朋が題字を、品川弥次郎が撰文したものである。扇山
3つの碑文の内の最初に長谷川佐太郎のものを紹介しました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐人物風景 8 百花繚乱の西讃 四国新聞社 大和学芸図書 昭和57年

後日の補足
後日に、讃岐人物風景8の「長谷川佐太郎」には、次のように記されているのを見つけました。

このように私財をすべて投入し満濃池修築に献身するとともに動皇家としても立派に活動した。二面の顔を持つ佐太郎は、明治五年(1872年)香川県第五十八区戸長に任ぜられた。数カ月後に辞し、同年八月には松崎渋右衛門の祠を建て松崎神社とした。その後、神野神社の神官に任ぜられ、明治二十七年(一八九四年)には正七位が贈られた。
 明治二十八年(1895年)には満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈られて、三百五十人の参加で慰労の宴が催された。毎年五十円ずつを佐太郎に贈りその労をねぎらうことになった。翌二十九年(一八九六年)七十歳のとき、藍綬褒章が授与されたのである。
 大正四年(一九一五年)人々は佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀し、昭和六年十二月六日佐太郎頌徳碑を池畔に建立し永遠にその徳をたたえている。
 国と郷土に私財をなげうって奔走した佐太郎も晩年は不運のうちに生涯を閉じた。しかしその心意気は末永く人々の心に残り生き続けている。
 子孫と称する人が大阪、奈良、東家から丸尾家を訪れたのも数年前のことであり、佐太郎の妹が多度津へ嫁いだ先は薬局を営んでいたともいわれる。
 佐太郎は、明治三十一年(一八九八年)一月七日、七十二歳で象頭山下のふるさとで没し、いまもこの地で眠り続けている。 
これらを年表化すると次のようになります。
①1894(明治27)年 正七位が贈呈。
②1895(明治28)年 満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈呈
③1895(明治28)年 第1次嵩上げ工事実施
④1896(明治29)年 70歳のとき、藍綬褒章が授与
⑤1898(明治31)年 1月7日、70歳で没。
⑥1915(大正 4)年 佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀
⑦1930(昭和 5)年 第2次嵩上げ工事
⑧1931(昭和 6)年 12月6日 佐太郎頌徳碑を池畔に建立
⑨1941(昭和16)年 第3次嵩上げ工事
 ここからは次のようなことが分かります。
A ③の第1次工事の直前に、水利組合が褒賞していること。しかし、石碑は建立されていないこと。
B ⑦の第2次工事直後に、石碑は建立されたこと。
ここからは、嵩上げ工事が行われる度に、長谷川佐太郎の業績が再評価されていったことがうかがえます。それが1931年の石碑建立につながったとしておきます。長谷川佐太郎に藍綬褒章が授与されて、すぐに建立されたのではないことを押さえておきます。別の見方をすれば長谷川佐太郎の業績褒賞を、嵩上げ工事推進の機運盛り上げに利用しようとする水利組合の思惑も見え隠れします。
参考文献 
満濃池史391P 松坡長谷川翁功徳之碑 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代

                              
 以前に幕末の満濃池決壊のことについてお話ししました。

P1160035
満濃池の石造底樋(まんのう町かりん会館前)

 木造底樋から石造物に、転換された工事が行われたのは、嘉永五(1852)年のことでした。しかし、石材を組み立てた樋管の継ぎ手に問題があったこと、2年後の嘉永七年に大地震があったことなどから、樋管の継ぎ手から水が漏れはじめて、満濃池は決壊します。高松藩の事件などを記した『増補高松藩記』には、「安政元年六月十四日地震。七月九日満濃池堤決壊。田畝を多く損なう」と、簡潔な記述があるだけです。
P1160033

 そんななかで私が以前から気になっていた記録があります。
決壊から約60年後の大正4(1915)年に書かれた『満濃池由来記』(大正四年・省山狂夫著)です。
ここには、決壊への対応が次のように記されています。
七月五日
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
七月六日
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。
一番ユルと二番ユルの間に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
七月八日
夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
七月九日 
高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官。朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
この時の破堤の模様について、「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚鼈(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

  この記述を見ると気がつくのは、対応の記述内容が非常にリアルなことです。
   「土俵六十袋・直径三メートルほど陥没・二隻の船で土俵三百袋を投入」などの具体的な数字が並びます。時代がたつにつれて、記憶は薄れて曖昧な物になっていきます。それなのに、昨日に見てきたような情景が、後世の記録に叙述されるのは「要注意」と師匠からは教えられました。「偽書」と疑えというのです。比較のために、同時代の決壊報告記録を見ておきましょう。
 
【史料1】
 六月十四日夜、地震十五日暁二至小地震数度、十五日より十二日二至、京畿内近江伊勢伊賀等地大二震せしと云
   ( 中  略 )
九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツヽ残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二て さや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五日前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
  意訳変換しておくと
 6月14日夜に大地震、15日暁には小地震が数度、京畿や近江・伊勢・伊賀などで大地震が起きたという。
   ( 中略 )
7月9日に、満濃池堰堤が長さ四十間余りに渡って決潰、そのため下流の那珂郡は大水で田畑や人家に大きな被害が出ている。堤は六十間余の所が、両方から七八間だけが残って、真ん中の四十間余りが切れている。金毘羅は大水害で、鞘橋の上に一尺ほども水が流れ、橋は大きな損傷を受けている。町々の人家へも水は流れ込み、被害が出ている。もっとも水漏れ発見後に、郡奉行代官が出張指揮して、下流の人々へ注意を呼びかけていたので、人や馬などに怪我などはない。また、貯水量が満水でなく無之、4割程度であったので水の勢いも小さく被害は少なく終えた。
ここには決壊への対応については、何も出てきません。
決壊中の満濃池
決壊した満濃池跡を流れる金倉川
  【史料2 意訳のみ】
一 四日頃より穴が開いて、だんだんと大穴になって、堰堤は切れた。堰堤で残ったのは四五拾間ほどで、池尻の御領池守の居宅は流された。死人もいるようだ
一 金毘羅の榎井附近の町屋は、腰まで水に浸かった。金毘羅の阿波町も同じである
一 鞘橋はあやうく流されそうになったが、なんとか別条なく留まった。
一 家宅は、被害が多く出ている
一 田んぼなどには被害はないようだが、川沿いの水田の中には地砂が入ったところもある。
一 晴天が続いていた上に、田植え後のことで池の貯水量が4割程度であったことが被害を少なくした。
ここでも記されるのは、危害状況だけで堤防の決壊を防ぐために何らかの手当が行われたことは、何も記されていません。

ほぼ同時代に書かれた讃岐国名勝図会は、決壊経過やその対応について次のように記します。
満濃池 底樋石造化と決壊
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
7月4日に、樋のそばから水洩が始まった。次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
 P1160039
満濃池決壊で流出した底樋の石材
 ここでも決壊後の具体的な対応については、何も触れられていません。ただ「見守るしか出来ないでいるうちに・・」とあります。当時の人達は、為す術なく見守るしかなかったと考える方が自然なようです。
仲多度郡史 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

1918年(大正7)年1月に、仲多度郡が編集した『仲多度郡史』(なかたどぐんし)には、満濃池の崩壊が次のように記されています。
満濃池は寛永年間、西島之尤、之を再築して、往古の形状に復し、郡民共の恵沢に浴せりと雖も、竪樋、底樋等は累々腐朽し、爾後十五回の修営ありしか、嘉永二年に至り、又もや樋管の改造を要せり。此の時榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と議り、官に請ふて樋替を為すに当り、石材を用ひて埋樋の腐朽を除き、将来の労費を省かむとし、漸くにして共の工事を起し、数年を費して、安政元年四月竣工を告けたり。然るに同年六月地震あり。是より樋管の側壁に滲潤の兆ありしか、間もなく池水噴出するに至り、百方防禦に尽し、未た修理終らさるに、大雨あり。漏水増大して遂に防く能はす、七月九日の夜堤防決潰し、池水底を抑ふて那珂、多度両郡に法り、数村の緑田忽ち河原と変し、家屋人畜の損害亦彩しく、 一夜にして長暦の昔の如き惨状を現はし、巨額の資金と数年間の労苦は、悉く水泡に帰したり。是歳、十一月四日大地震あり。
家屋頻に傾倒するを以て、人皆屋外に避難せり。翌五日綸ヽ震動を減したるも、尚ほ車舎を造りて寝食すること十数日に渉れり。而して此の地震は、翠年の夏に命るまて、時々之を続けたり。当時民屋の破壊せしもの数千月にして、実に讃地に於ける未曾有の震災と云ふべし。
意訳変換しておくと
満濃池は寛永年間に、西嶋八兵衛之尤が再築して往古の姿にもどし、郡民に大きな恵沢をもたらすようになった。しかし、竪樋、底樋等は木造なので年とともに腐朽するので、交換が必要であった。そのため十五回の修営工事が行われてきた。嘉永二年になって、樋管の交換が行われることになった。この時に榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と協議して、幕府の代官所に底樋に石材を用いて、以後の交換工事をしなくて済むように申し出て許可を得た。こうして工事に取りかかり、数年の工事期間を経て、安政元年四月に竣工にこぎ着けた。ところが同年六月に大地震があり、樋管の側壁に隙間ができたようで、間もなく池水が噴出するようになった。百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し、池水は那珂、多度両郡に流れ込み、数村の水田をあっという間に河原とした。家屋や人畜の損害も著しく、一夜にして惨状を招いた。こうして巨額の資金と数年間の労苦は、水泡に帰した。(後略)
 
水漏れ後の対策については「百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し・・・」とあるだけです。ここにも具体的な対応は何も記されていません。「漏水は増大して止めようがなくなった」のです。ただ「百方防禦に手を尽した」とあるのが気になる所です。これを読むと、何らかの対応があったかのように思えてきます。そうあって欲しいという思いを持つ人間は、これを拡大解釈していろいろな事例を追加していきます。ありもしないことを「希望的観測」で、追加していくのも「歴史的な偽造」で偽書と云えます。

そういう視点からすると『満濃池由来記』の次のような記述は、余りに非現実的です。
「土俵六十袋を投入・
「夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。」
「阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。」
「高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。」
「二隻の船で土俵三百袋を投入。」
同時代史料には、何も書かれていない決壊時のいくつもの対応記事が、非常に具体的にかかれているのです。また『満濃池由来記』と、ほぼ同時代に書かれた仲多度郡史にも、「決壊対策」は何も書かれていません。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
それならば作者は、何のためにこのような記事を書いたのでしょうか?
  そこには、幕末の満濃池決壊の評価をめぐっての「意見対立」があったようです。この決壊に対して、地元の農民達は、工事直前から「欠陥工事」であることを指摘して、倉敷代官所へ訴え出ていたことを以前にお話ししました。そのため決壊後も工事責任者である長谷川喜平次に対する厳しい批判を続けたようです。つまり、水利責任を担う有力者と農民たちが長谷川喜平次の評価を巡って、次のような論争が展開されます。
①評価する側 
農民達のことを慮って、木造底樋から石造化への転換を進めたパイオニア
②評価しない側 
底樋石造化という未熟な技術を採用し、満濃池決壊を招いた愚かな指導者
①の立場の代表的なものが、前回見た讃岐国名勝図会の満濃池の記事の最終部分です。そこには次のように記されていました。(意訳変換済み)
  もともと、満濃池の底樋は木造だったために、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天はは御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている

②の農民の立場からすると、彼らは倉敷代官所に次のような申し入れをしていました
長谷川喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

 それに応ぜずに工事を継続した長谷川喜平次の責任は重い。にも関わらず責任を取って、止めようともしない。話にならない庄屋という評価です。こうした分裂した評価が明治になっても、引き継がれていきます。そして、満濃池の水利組合の指導部と、一般農民の中の対立の因子の一つになっていったようです。それが農民運動が激化する大正時代になると、いろいろな面に及ぶようになったことが考えられます。
  作者の「省山狂夫」が、どんな人物なのかは分かりません。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
 長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。

江戸時代後期になって西讃府史などの地誌や歴史書が公刊されようになると、この編纂の資料集めをおこなった庄屋たちの間には、郷土史や自分の家のルーツ捜し、家系図作りなどの歴史ブームが起きたようです。そんな中で、自分の家の出自や村の鎮守のランクをより良く見せたりするために、偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されて、私たちを惑わしてくれます。


 以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、今では椿井文書通りの式内社に位置づけされているようです。こうして、地域の鎮守社を式内社に格上げしていく試みが始まります。このような動きはの中で、満濃池の池の宮の「神野神社」への変身と、式内社化への動きもでてくるようです。歴史叙述には、自らの目的で、追加・書き換えられるものでもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「満濃池史」110p 幕末の満濃池決壊











満濃池 讃岐国名勝図会
      満濃池と池の宮(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
 讃岐国名勝図会の満濃池に関する記述と、その意訳変換を資料としてアップしておきます。

真野郷
此地初神野郷と書来りしか、嵯峨天皇御譚神野と申奉りしかハ、字音の同しきか故に、真野郷と改めしならん。其事諸記なしと雖も日本紀略大同四年九月二日乙巳、改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也と見えたり。其後弘仁十二年、富国より奏請して、弘法大師に萬濃池を築しめたまふ時の上書にも、神野郷と記さん事を憚て、真野と改めし物ならんか。後人の考を待。
意訳変換しておくと
真野郷
この地はもともとは、神野郷とされていたが、嵯峨天皇御譚神野と、字音が同じなのでお恐れ多いとして、真野郷と改められたのであろう。その記録はないが、「日本紀略」の大同四年九月二日乙巳に「改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也」とある。
 その後、弘仁十二年に弘法大師に萬濃池を修築させた時の上書にも、神野郷と記すことを憚って、真野と改めたものではないか。後人の考を待。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
    矢原邸と諏訪神社(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここでは、真野郷はもともとは神野郷であったという説が出されています。その理由が「嵯峨天皇御譚神野忌避説」です。しかし、これについては史料的な裏付けがありません。その他の古代・中世の史書に
は、「神野」という地名は出てきません。出てくるのは「真野郷」です。また、神野神社も近世前半までは、「池の宮」と記されています。敢えて「神野神社」と記すのは、一部の文書だけです。
 ここには、真野郷を神野と呼ばせたい意図があったことが見え隠れします。それは、神野神社を式内神社の論社とすることだったと、私は考えています。式内社の神野神社は、郡家の神野神社があります。これに対して、池の宮を神野神社として、論社化しようとする動きが近世後半から出てきます。それが満濃池築造と併せて語られ、「池の宮=神野神社」とされて行きます。
  
  讃岐国名勝図会 満濃池1
     矢原邸と諏訪明神(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
続いて満濃池本文を見ていきます。  
萬濃池 
同所にあり。十市池とも云。池の周廻八千五百間、水たまり二て二里三丁、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、富国第一の池なるに依て、萬濃太郎と云。中比廃して山田と成、堤長四拾五間、土廣さ六間、高サ拾弐間半、堤根六拾五間、三面八山也。漑田三万五千八百十石斗。貧呆長十八間、廣さ四尺弐寸、高さ弐尺八寸、穴壱尺六寸、櫓五ケ所二て、賓水穴十ケ所なり。営時水たまり深さ十一間。
意訳変換しておくと
萬濃池 
満濃池は真野郷ににあって、十市池とも呼ばれる。池の周囲は八千五百間、水が溜まると二里三丁(約9㎞)、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、讃岐国第一の池なので、満濃太郎とも呼ばれる。中世には、堤が崩壊してその姿を消して、池の中は山田となっていた。
 堰堤の四拾五間、堰堤幅六間、高さ拾弐間半、堤の根元幅六拾五間、三面は山に囲まれている。灌漑面積は三万五千八百十石斗。底樋長さは十八間、廣さは四尺弐寸、高さは弐尺八寸、穴は壱尺六寸、櫓(ゆる)は五つあり、満水時の水深は十一間。

讃岐国名勝図会 満濃池1
      満濃池 その2(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここから空海による満濃池築造が次のように記されます
 弘仁十年四月より七月迪、諸国雨ふらさりしかハ、公より諸国に令して池を掘らしむ。富国も溝渠をさらへ、池を築きける。同十一年より此池を築初しかと、目に除る大池なれハ、十二年にいたれともならす。諸人大に倦労れぬ。何ともすへからす。爰に人あり。沙門空海今都にあり、世人ミな其徳を慕ふ事、枯草の雨を待か如し。若爰二来ら八不日にならん、是に於て時の刺史其言を朝廷に奏す。同六月空海詔を奉して爰に至る。民大に歓ひ、堤にもまた日ならすしてなれり。同十三年勅して空海に新銭弐万を給ふ事日本紀略にみえた。

 寛仁四年時の国司碑銘を建さし給ふ。
其文次二出せり。治安年中、堤塘を更改す。爰に雖眼竜あり。此池に住む。傅云、寒川郡志度村の宿願と云者化する所也とそ。後此地を去て海に移る。其時堤防大に壊ると志度寺の縁起にみえたり(注1)。
 又元暦元辰年、大洪水二て 堤基破壊して跡方なくなりて、其後五百石斗の山田となり。人家なとも往々基置して、池の内村といふ。(弘仁十二丑年(む)、開発なして三百六十四年、池中満水なせし也、)
 爾後数多の星霜を経て、寛永三寅年閏四月七日大風雨二て、其後七月に至る法七十五日雨なく、大旱して、秋穀旱罹。一諸民餓死に及ひける。京都も井水涸て、草葉萎て糸になれるか如くなりける。
此年先封生駒の老臣西嶋八兵衛尤之といへる人、此池を再ひ築きにける。 普請奉行八福家七郎右衛門・下津平左衛門也。 今永世の助益となりて、下民其恩沢に 浴せり。生駒家国除の後、同十八年(ゆる)木朽腐しかと、国の大守なきによりて富郡木徳村の農民里正四郎大夫と云者をして、重修の事を幕府へ訴へ出ける。台命によりて富郡五条・榎井・苗田三村を池修補料と定給ふ。
意訳変換しておくと
弘仁十(819)年4月から7月にかけて、諸国では雨が降らず旱魃になったので、朝廷は諸国に命じて池を掘らした。讃岐でも溝渠をさらへ、池を築造した。翌年には、満濃池の築造に取りかかったが、それまでにない大きな池なので、12年になっても完成はしなかった。讃岐の人々は、すっかり疲れ果ててしまったが、どうしようもない。
 ここに人あり。沙門空海が今、都にいる。世人の空海の徳を慕ふことは、枯草が雨を待つかのようである。もし、空海が讃岐に帰国してくれたら・・・。これを讃岐の役人は朝廷に願いでた。こうして821年6月、空海は詔を奉じて讃岐に帰国することになった。民は大に歓び、堰堤は、あっという間に出来上がった。翌年13(822)年には、空海に新銭弐万貫が与えられたと、日本紀略には記されている。

満濃池 古代築造想定復元図2

   寛仁四(993)年 讃岐の国司が碑銘を建立した。
そこには次のように記されていた。治安年中に堰堤を修築したところ、独眼の竜が住んでいた。その竜は、寒川郡志度村の勧進者が龍となったものだと云う。その後、この池を出て海に去った。この時に、堰堤が大破したと志度寺縁起には記されている。
元暦元(1184)年、大洪水で堰堤が破壊して跡方なくなった。池跡は開墾されて、その後五百石ほどの山田となり、人家なども姿を見せて、池の内村と呼ばれるようになった。弘仁十二年に築造されて、364年の間、満濃池は存在していた。
 その後、長い年月を経て、寛永三(1626)年4月7日に大雨があった後、7月まで75日間も雨がなく、大旱魃となった。穀物は育たず、収穫がなく餓死者も出た。京都も井戸が涸れて、草葉は萎えて糸のようになってしまった。

西嶋八兵衛

 このような状況の中で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛と云う人が満濃池を再築することになった。
普請奉行は、福家七郎右衛門・下津平左衛門であった。こうして完成した満濃池は、永世の助益となって、下々の者までその恩沢を与えている。  
 お家騒動で生駒家が転封に騒動後も、寛永十八(1640)年に、池のユルの木材が腐っていまった。そこで、藩主不在の折に、那珂郡木徳村の農民・里正四郎大夫が、ユル替え工事を幕府へ訴へ出た。これを受けて幕府は那珂郡の五条・榎井・苗田の三村を池修補料と定めた。そのためこの三村を池御料と呼ぶようになった。

決壊中の満濃池
池御料の榎井・四条・苗田(白い部分:草色が高松藩)

讃岐国名勝図会 満濃池2
満濃池 その3(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
上のページを意訳変換しておくと
満濃池の底樋とユルの付け替え工事
 その後、高松藩祖松平頼重の時に、池御料所の代官である岡田豊前守殿・執政稲葉美濃侯に、満濃池修理費用は、高松藩と京極藩で負担することを申し出た。しかし、池修補料は巨額ではないが、三村はそのために、幕命によって設置された天領である、それに背くことは本位ではないという意向が伝えられ、沙汰止みとなった。その後、いくたびもの改修普請工事があったが、先例通りに、底樋やユルの材木費などは、池御料三村の租税で賄われてきた。
  
     ところがどういうことか宝永三(1706)年の改修工事の際に、代官遠藤新兵衛殿より、「以後は(幕府は)関与しない」と通達があり、現在のように高松・京極藩で取り扱うことになった。
 寛永8年の再興以来183年の星霜を経た文化十(1813)年に、苗田村の里正・守屋吉左衛門を中心に、池の底の土砂ざらえを行った。その際に、土砂を堤に土を置いて、六尺高くした。そのことを刻んだ碑銘を不動堂に建てた。
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満濃池の底樋とユル 底樋は四角い箱形
底樋の木造から石造への転換

 柚水木(ゆるき)は嘉永年中(1848)年ころまでは、周囲が3mあまりの巨木に穴を開けて、土中に埋めて、三十三年毎に交換を行う普請を行っていた。この時には、讃岐中の村々より人足数万人出て堤を切開き、土砂を荷ひ、底樋を掘出し、新木を埋めた。工期は、前年の8月より始めて、翌年春までには終えた。その費用は、多額に及び、筆紙に尽し難きい一大工事で、大イベントでもあった。

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満濃池堰堤の土固め

そこで村吏数人と協議して、巨木に換えて石材を使えば萬世不朽になり、費用削減につながり国益になると、衆議一決して、代官所に願い出た。それが許可されると嘉永五(1852)年4月より石材化の工事は始まり、巨木を除いて、石を使用した。
 満濃池樋模式図

底樋について「周囲が3mあまりの巨木に穴を開け・・」とありますが、これは事実誤認です
畿内の宮大工が見積書として一緒に提出した底樋の設計図が何種類も残っています。それは選ばれた最高の松材を使って、最先端技術で造られたものだったことが分かります。決して丸太を掘り抜いたものではありません。明治維新前後に、この辺りの記述は書かれたようですが、30年もすると過去のことが伝わって居ないことがうかがえます。

満濃池 底樋石造化と決壊
    満濃池 その4(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

底樋の石造化失敗と満濃池決壊
工事行程では、底樋の土と石がうまく接合せず、所々から水もれが起きた。それに対して、色々と工夫改良をこらして対処して、(1856)年夏には、堤塘はもとのように落成した。この成功で、代官所より関係者に、お褒めの言葉やその功に報いて格式が上げられる者も出た。また、着物や白銀を賜わる者もあり、諸民は安堵の思いをして歓んだ。

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1854年の満濃池の石造樋管(底樋)

 ところが、同年7月4日より樋のそばから水洩が始まった。
次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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金倉川改修工事で出てきた底樋石材


讃岐国名勝図会 満濃池5

 堤防決壊の被害と教訓
 貯水量が満水でなく、4割程度だったことは不幸中の幸いであった。天は、萬民を加護し、救ったとも云える。流れ出た水が金毘羅の鞘橋を越えて流れたことを考れば、もし満水の時に堰堤が切れていたならば、阿波町屋・金山寺町のあたりまで壱丈六尺高の水が流れ込んできたかも知れないと住民達は噂している。
 川下の村々も同じである。満濃池よりも四里(16㎞)下流の丸亀城下にまで流れ込んで海に落ちることもあると。これを教訓にして、川下の村々の人達も、油断することなく心の備えをすべきである。恐ろしいのは水の勢いである。正直第一にして信心して、仏神の擁護を願ふことである。あなかしこ。是を忘れ給ふな。
 
石造化計画の責任者を責めることなかれ
  底樋を木造から石造に転換したことが、堰堤決壊の原因で、責任はその計画者にあると非難する人もいる。そうではない。この計画は国益を慮り、多くの人々の労苦を思いやり、行った善事である。悪意で行ったものではないので、その人を罪してはならない。
 今昔物語に出てくるる魚が欲しくて満濃池の堤を壊した国司とは、雲泥の相違なのだ。天は、その善心を見て判断を下される。昔の如く堰堤が再び姿を見せる日も近いことだろう。

満濃池決壊拡大図
堰堤の切れた満濃池跡を流れる金倉川
讃岐国名勝図会の前編は安政4(1857)年に公刊されましたが、後編は公刊されることなく草稿本として明治まで保管されていました。その間にも、草稿を受け継いだ長男の手でいろいろな書き込み追加が行われていきます。以下の文章は、明治になってからの追加分になるようです。 

明治維新の長谷川佐太郎による満濃池再築
明治元辰年二至りて、王政復古旧政を御一新あり。
幕府権政を返上なせしかハ、天下一統旧政を改革なし、府藩懸の御政務決りしかハ香川料より主として今の池宮拝殿下二巨萬の大盤石のありしを、同二已年九月八日より、竪四尺除、横三尺五寸除、長弐拾八間除の水道を穿堀て、屈強成天然自然の賓水穴を開口始、同三年五月二至り穿拵て水道成就し、堤根八旧の如く六十間診堤を築重、桜・楓・桐嶋・さつき等を植置て池もとの如く造営成就なせし八、萬代不朽、天萬民を救助なし給ふ。時節到来のなせるなるべし。
 始め木を以て賓水道を通し、弐百年除、三十一年毎賓水木更とて、国中より幾萬の人足を出し、造替なせる民の辛苦をいとび、或人、嘉永年中其木を除きて石となしなバ、萬代不朽の栄なりとて人力を費せらしと。其後一とせも持たす流失なせしかハ斯なし。厚志の切なるを天道照給ひて今の如くなし候共、長谷川喜平次が忘眠丹誠成て数十年の辛労を天照覧なし、死後二至て則なれるも石の水道を思ひ付し八、今の如く自然の水道なれる魁なるべし。爰二於て遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎二弁当・割寵を携へ、爰二至る者の絶間
無りしかバ、堤の上二桟敷・机木を設て遊客を憩しめ、酒肴菓を商ふ者もあり。四時村民の潤となせる八、是も萬民を救ひ給ふ一助なるべし。)
意訳変換しておくと
明治元年になって、王政復古が行われ旧政御一新となった。
幕府が政権を返上したので、天下一統し旧政の改革が行われた。府藩懸の政務が固まると、今の池の宮拝殿の下に巨大な大盤石があることを見つた。そこで、同二年九月八日から、竪四尺除、横三尺五寸、長さ弐拾八間足らずの水道を穿堀することになった。こうして天然自然の底樋水穴の開口工事が始まった。同三年五月二に、隧道は開通した。また60間の堰堤も復活した。
 そこに、桜・楓・桐嶋・さつき等を植えて造営は完成した。こうして萬代不朽、天萬民を救助する満濃池が復活した。時節到来のなせるなるべし。

満濃池底樋石穴図(想像)
明治の底樋隧道化計画

③ もともとは木造底樋で水を通していたために、200年あまりに渡って、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。
④ それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。
⑤ 長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天は御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている。
⑥ こうして多くの人々が、弁当・割寵を携えて満濃池遊覧にやって来る。堤の上に桟敷・机木を設置して遊客に休憩所を提供し、酒肴菓を商う者もある。村民の潤の場として、萬民を救う一助ともなっている。
明治になって加筆された部分を要約しておきます。
①明治になって地下岩盤を開削し、底樋を通すことが計画された
②堰堤も再築され、そこに花木類が植えられた。
③底樋が木造の時代には、その改修のために多くの農民が動員され苦労した。
④それを長谷川喜平次は底樋を石造化することで解消しようとした。
⑤それは失敗したが、その上に現在の底樋隧道化の魁(さきが)けになった。
⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。
以上です。
ここで気がつくことは④⑤で、長谷川喜平次の底樋石造化を高く評価していることです。
これについては、長谷川喜平次については、当時の地元では評価が割れていたこと、特に農民層からは彼に対してや石造化計画を進めた庄屋たちに強い批判が挙がっていたことを以前にお話ししました。その中で、讃岐国名勝図会の作者は、長谷川喜平次を強く擁護していることを押さえておきます。
 長谷川喜平次とともに、底樋石造化を進めたのが三原谷蔵でした。
三原家は、真野村で代々政所を勤める家でした。満濃町誌には次のように記します。

三原谷蔵は、榎井村庄屋の長谷川喜平次と共に、満濃池の樋門を永世不朽のものとするため底樋の石造改修する等、水利開発や農民の救済に尽力した。嘉永元年より真野村庄屋を勤め、その間、安政年中には那珂郡大庄屋に登用され、慶応二年まで一九年の長期にわたって地方自治に貢献した。

つまり、長谷川喜平次を批判することは、大庄屋の三原谷蔵を批判することにつながったのです。そのために周りのとりまきの人たちは、類を及ばさないように長谷川喜平次を擁護したことが考えられます。
長谷川佐太郎

もうひとつ気になるのは長谷川佐太郎の名前が、どこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことがいまでは定説となっています。ところが、讃岐国名勝図会の明治後に加筆された部分には、長谷川佐太郎を登場させないのです。この時点で長谷川佐太郎の評価はいまと違っていたのでしょうか。あるいは意図的に無視しているのでしょうか。今の私には分かりません。

満濃池 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会の満濃池 鶴が舞う姿が描かれてる
最後の「⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。」という記述です
ここからは、満濃池が人々の行楽地となっていたことが分かります。堰堤からの四季折々のながめを眺望を、用意された休息所に座って愛でる文化が根付いていたようです。『金毘羅山名勝図会』には、人々が「朱の箭を敷」き「池見」を行ったと記します。

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)
金毘羅参詣名所図会の元絵とされる「象頭山八景 満濃池遊鶴」

以上、讃岐国名勝図会に記された満濃池をみてきまた。私は、以前には、ここには絵図しかないものと思っていました。しかし、実際に全文を見てみると非常に充実した内容です。これ以外にも省略しましたが、今昔物語の記事もあります。昔の人が満濃池の歴史を知ろうとすれば、まず、この図会を見たはずだと思いました。それだけ後の時代に影響を与えた図会であると改め思いました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
歴史資料から見る満濃池の景観変化 満濃池名勝調査報告書111P まんのう町教育委員会 2019年
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