まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。8月は中寺廃寺についてお話しします。
日時 8月24日(日)10:30~12:00
場所 まんのう町図書館会議室
興味と時間のある方の参加を歓迎します。なお会場が狭いので事前予約をお願いします。
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A 土器川の洪水によってできた氾濫原に田んぼを造ったので造田B「サウダ」は遊水地を開拓して作った沢田(湿田)のことで、沢の田から起こった名だという説
石高、897石余り戸数 219(石居 153、掘立66)人数 922(男495、女424)職業別人数は、本百姓198 半百姓64 お林守1、刀指1、僧侶2、社人1、山伏3、鍛冶1、猟師1、馬医1、神社7、寺2、庵2、牛57頭、馬4頭神社は、天川神社と梶洲神社があり、『三代実録』に記載のある古い社です。外に天神社・久真奴神社などがあるが、山の神社・水除社などの小祠も多い。寺院は、浄土真宗長光寺・称名寺・真言宗吉田寺があります。
寛保四年の巡道帳から、元禄・宝永・正徳ごろになると開発田が多くなること文化二年の巡道帳には、延享・寛政・享和などの時代に「林ニナル」とか、「砂入ル」などの記入があること。
「那珂郡境笹ヶ多尾から、犬の塚を通り、炭所西境三つ頭まで、長さ千弐百問」
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。二月三日 西村市大夫宮井清上様十河亀五郎様
意訳変換しておくと一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候一末寺ノ岡犬の基御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候一 中寺堂所御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候右の通リニ御座候、以上庄屋 西村市大夫宮井清七様十河亀五郎様
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。一 末寺ノ岡犬の基鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。詳しいも伝承はないようです。一 中寺堂所コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここに出てくる中寺が中寺廃寺のあった所です。ということは、西村市太夫は中寺がどこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
以下の文書のやりとりについては、前々回に見ましたので今回は省略します。
入尾川橋(長さ七間、道幅二間)、西川井手橋(長さ二間半、道幅一間)同所下谷橋(長さ六間、 道幅一間半)佐次郎前橋(長さ三間半、道幅一間)
人足数 263人造田村 112人 (西村 69人 東村 46人)長尾村 45人炭所西村 38人岡田上村 125人岡田西村 25人岡田東村 8人
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也
意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
領収書 「四布(よの)布団一枚五分、三布(みの)布団一枚三分」2月25日付の書付け「御人数増につき、 畳拾五枚、風呂一本を送った」
これを見ると一行の総数は227名であったことが分かります。当時は、高松藩の財政が最も窮乏していた時で、経費節約のために領内巡視を「御鷹野」と称して行う事になったと最初に記しました。しかし、参加メンバー数を見る限りでは、「少数による巡視」にはほど遠いものであったことがうかがえます。ある意味では「動く御殿」でもあったのです。一、御本亭(客殿)御用達入谷主水。御用人古川市左衛門。同高崎清兵衛。御小姓斎藤尽左衛門外八名。御櫛番弐人。奥医師二人。奥横目二人。御庖丁人六人。賄人三人。末の者二人。小間使十四人。御肴量一人。八百屋一人。計四十五名。一、円勝寺本堂贅日山下新兵衛組十七人。御医師と足軽十一人。御茶道北村慶順組十三人。御内所方市原太郎組八人。御駕籠頭一人 .計五十人。一、円勝寺仮小屋御駕籠の者十人。小道具の者三人。御野合小使三人。助小使五人。御手回り御中間十一人。御荷物才領中間五人。計三十七名。一、組頭庄左衛門宅奥医師杉原養軒。同安達良長。外六名。計八名。一、百姓伊四郎宅惣領組中と御中間計十七人。一、百姓伝次郎宅御鷹方吉原男也外二十七人。計二十八名。一、百姓次郎蔵宅小歩行中間計十四人。一、百姓佐十郎宅御家来衆計二十人。一、百姓伝次郎宅郡奉行外七名。計八名。(総計二百二十七名)
焼尾笠松 御芦立所で小休し、永覚寺にて御昼所、羽床上村逢坂庫大方にて御泊り。
翌日、畑田村富野佐右衛門宅にて小休し、香川郡円座村遠藤和左衛門宅にて御小休、御帰城遊され候
川東村一人足五百二十一人 御小昼所一件遣済辻一馬 四疋(此人足十二人)右同断〆 五百三十三人一人足百六人 指掛三ケ所川東村分遣済辻一人足七百六十五人五分 御通行筋道作人足遣済辻三口
〆千四百四人五歩右の通に御座候以上未三月八日 兼帯庄屋 川西勇蔵奥村宇右衛門様水原先三郎様
拝啓 時下好季節となりました貴家御一同様益々御清祥奉ます陳れば例年通りに御引立を蒙ります。耕作牛件に付一般に連絡がおくれて居りますが相変ず追出し御用明下さる事と思ひますので追出期日は秋は十一月一日より夏は六月一日より尚仕り牛は早く来ても都合のよいのが居ります。又賃金も安く勉強して使用出来ると思いますれば近所誘合せて御出下され。尚小生一度御相談に参上ます積りですが若し行かず共入用事時に連絡が出来れば好都合と存じます先は取り急ぎ御依頼中止ます ´ 敬 具昭和 年 月 日 ..香川県仲多度郡琴南町中通小学校前家畜商并耕作牛仲介業 岩崎春市
若葉香る良き季節となりました。家族の皆様はご健勝にてお過ごしのことと推察申し上げます。本年度も耕牛を追出す予定と致していますが、期日は何時頃が良いか御一報お願い申し上げます。牛は昨年も世話になった牛で、六歳になっています。先方を選んでいただければ幸いかと思います。先ずは取り急ぎ、右御依頼申し上げます。早々
以上からは、借耕牛の仲介を世話したのは、博労(ばくろ)と呼ばれる仲介業者だったことが分かります。6月の田植え時期が近づくと、借方の讃岐の農家は地元の仲介業者に借耕牛の斡旋を依頼します。依頼を受けた仲介業者は、阿波の貸方の家畜商や農家に、日時、場所を指定して牛を連れてくるように依頼します。この通知を受けた貸方の家畜商が阿波のソラの農家を巡って、「今年は米に行くんか、行かんのか」と聞いて牛を集めたようです。①今年も牛を「追い出す(レンタル)」する用意があること②牛は六歳で、昨年もレンタルしたもの③レンタル先の確保の依頼④牛を追い出す日時の確認などが記されています。
①隣人など三・四人が連れ立って、阿讃の峠道を越えて明神に「牛を追い出す」②明神に着くのは午後3時~5時ごろ③その夜は明神の宿で泊まり、翌日に取引をする。④仲介人が、自分に頼まれた牛を借手に紹介し、値段を交渉して、双方が合意すれば契約成立⑤レンタル料は米一石(俵2俵:120㎏)前後だが、牛の大小・強弱・鍬の仕込み具合、耕作反別などによって差がついた。⑥成立すれば契約書を取り交わして、牛は借手人の手に渡される。⑦追い上げ(牛を返すこと)の場合はこの反対で、牛の背に報酬の米を背負って阿波へ帰っていった。
阿波から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子」と呼んだ。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きにくることを米の借り出し稼ぎと称していた。また、天保(1830~44)のころは、讃岐には砂糖キビを締める多くの人夫(締子)と牛が必要で、主として阿波の三好・美馬両郡から締子と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りする牛のことを「借耕牛」というようになった。(中略)徳島県は米が少なく、報酬に米が得られることは大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
村の牛保有数 本百姓の牛保有率
勝浦村 97頭 54%中通村 105頭 108%造田村 57頭 29%
覚一 米 二斗二升也一 丸札 二匁也右は此元持牛貸し賃米并追越賃共来る十月十日切、請取に罷越可レ申候為レ其手形如レ件阿州重清村 沼田 藤太天保十一年六月七日讃州川東村 忠右衛門殿
米2斗2升と丸札2匁は、牛貸の賃米と追越賃(輸送費)で十月十日までに、支払いを終えること
此牛借賃
十月十日藤太罷越、夫々相渡候事にし銀弐匁指支に付米二升、銀弐分相添指引相済候事
十月十日に沼田藤太がやってきて、米と丸札2匁の契約に基づいて、銀弐匁につき米二升、銀弐分を支払った。
①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山
①右下隅が大川山です。②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上二月三日 西村市大夫宮井清上様
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。A 一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上二月三日 西村市大夫宮井清上様
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日 西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上二月四日 西村市大夫杉上加左衛門様徳永二郎八郎様
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。二月四日 西村市大夫杉上加左衛門様徳永二郎八郎様
意訳変換(簡略版)しておくと一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り宮井清上様十河亀五郎様尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上二月四日
D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上´二月四日 庄屋 西村市大夫安富弥右衛円様森 人右術円様尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上二月五日 十河亀五郎宮井清七西村市太夫様
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上二月五日 森 太右衛円安富弥右衛門西村市大夫 様
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
意訳変換しておくと一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、一 犬の墓一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上二月六日 西村市大夫宮井清七様十河亀五郎様
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。一 犬の墓一 中寺堂所 但し寺号なども分かりませんこの外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上二月六日 十河亀五郎宮井清七西村市大夫様
殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候一末寺ノ岡犬の基御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候一 中寺堂所御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候右の通リニ御座候、以上庄屋 西村市大夫宮井清七様十河亀五郎様
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。一 末寺ノ岡犬の基鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。一 中寺堂所コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上九月六日 十河亀五郎西村市大夫様尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上九月七日 西付市大夫十河亀五郎様
①仏堂跡 三間×二間 (桁行6,7m×梁間4m)②塔跡 三間×三間の塔跡③大炊屋(おおいや)跡 仏堂跡・塔跡の下段
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らす。②広さは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0mの東西棟)③最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられたこと③遺構からは10~11世紀の遺物が出土④仏堂は塔と共に真南を向いて建てられ、仏堂の南には広場が造成⑤仏堂と塔の位置関係は讃岐国分寺の伽藍配置と相似で大官大寺式
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した基壇状の平坦地に建てられている。②広さは3間×3間③塔中央の心礎石の下から10世紀前半の土師器壺5個杯1個が出土④壺5個は赤く、陶の十甕山窯で特注品として焼かれたもの
ここからは古代の山林寺院の金堂は、中寺廃寺の仏堂より少し大きい規模であったことが分かります。①奈良市海王寺西金堂(8世紀) 桁行8.87m、 梁間5.96m(下図上)②京都府加茂町海住山寺文殊堂(鎌倉時代)桁行7.28m、 梁間4.25m(下図下)③崇福寺跡南尾根の小金堂跡(7世紀後半)桁行8.1m、 梁間5.4m④高松市屋島北嶺の千間堂(屋島寺前身寺院) (10世紀前半) 桁行6.7m、梁間4.5m
①中門・金堂間の回廊内東に寄せて塔を置く大官大寺式は、文武朝(697 - 707年)に藤原京内で造営した大官大寺(藤原京大安寺)に初めて採用②天平13年(741)の国分寺造営の詔を受けて、南海道や西海道の西日本国分僧寺の多くが採用した伽藍配置であること。
この建物からは、食器や調理具が出土しています。床面から竃の痕跡も確認できたので、大炊屋跡(供物の調理施設)と研究者は判断します。なお、Aゾーンから僧坊は出てきていません。僧坊があるのはBゾーンだけです。Aゾーンは、公的な仏教儀式の場で、僧侶達の日常生活の場はBゾーンであったようです。①掘立柱建物で、山側を切り崩して谷側へ盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らされている②規模は正面3間(約5.6m)×奥行き2間(約3.6m)で約20㎡。③建物跡からは土師器杯・椀、須恵器杯などの食器類や煮炊き用の土師器長胴甕が出土④竈跡と思われる遺構も出てきたので調理を行った大炊屋跡⑤近畿産黒色土器や西播磨産須恵器が出土し、遠方との交流を物語る。⑥建造時期は10世紀前後で、塔跡・仏堂跡と同時期の造営
Aゾーン(仏) 仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
① 割拝殿(仏堂跡?) 尾根上② 僧房跡数棟 下の2つのテラス
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。
①三間(6,2)m×二間(3m)②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)
Aゾーン(仏ゾーン) 仏堂と塔のある宗教的な中核エリアBゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
①阿波大滝嶽(太龍寺)②土佐室戸岬(金剛頂寺)③金巌(かねのだけ)④伊予の石峰(石鎚)
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」
在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない
「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
「本稲神ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立蒔餘リクル靭ヲ煎リタキテ供フ、是ヲ焼米ト云う、ソノ余りハ親しき家二贈りナドモスルニ又此日正月ニ飾リタル門松ヲ蓄ヘ置テ山テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」
「この稲神を迎えるときに、水口祭を行う。苗代の水口に保食神の璽(護符)を立てて、余った籾を煎って供える、これを焼米と云う、その余りは、親しい家に贈ったりする。またこの日は、保管してあった正月に飾った松で雑炊を煮る家もある」
日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。次のような記述内容から、女神と考えられる。天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。
A 櫛梨村周辺に「西讃府志」の「焼米」の習俗が今も行われているかどうかB 「保食神」の護符が、どの範囲で分布しているのか
①写真56の護符は高さ19,8㎝②松業二葉が二本四枚、稲穂二本粗籾十三粒が入る③護符は無料④12月初め、神宮大麻(有料千円)とともに総代を通じて配布⑤氏予約120名で、諏訪神社の氏子真野・吉井・山下・下所の四名の代表に配る⑥神野神社の氏子の池下は3月に配るという.
①「剣先形保食神」の護符は、丸亀藩と高松藩領の境界線を扶む地域に集中分布する。強いて云えば旧髙松藩に多く丸亀藩には少ない。②これは、満濃池を水源とする金倉川水系と土器川水系に挟まれたエリアと重なる③土器川より離れた九亀市綾歌町の神名は「保食神」ではなく、「祈年祭」である④鳥坂峠大日峠麻坂峠など大麻山より西の三豊市のものは「産土大神」「大歳大神」の神名で、保食神」護符は三豊地区では使用されていない。
「焼米 春、稲種ヲ下ストキ水口祭リトテ、苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ、蒔キ余レル籾ヲ煎リ、臼ニテハカキテ供フ、共余リハ親シキ家二贈リナドスルモアリ」
「焼米 春稲種ヲドス時水口祭トテ苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ潰籾ヲ煎リテハタキ籾殻ヲ去り之レヲ供ス其ノ余リハ家人打チ集ヒ祝食ス」
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。
寛元2年(1244)新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、貞治元年(1362)新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建永禄12年(1569)石川将監が社殿を造営
A 長尾エリア内に属する造田殿親子B 長尾エリアに転住してきている造田殿親子
長谷坂 佐野甚平(一宿)。半坂 佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎(一宿)。下福家 古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎(一宿)谷田 牛田武之丞 本村 稲毛千賀助(一宿)所村 与平次 新谷村 牛田藤七 猪の鼻 磯平 渕野 次郎蔵 樫原 梅之助、藤八 明神 古川嘉太郎 中熊八百蔵 中熊 源次郎 川奥 西岡忠太郎(一宿)。美角 七兵衛. 横畑 拾右衛門(一宿)堀田 林兵衛。前の川 御世話人。
以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。
これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)
長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
用水路の末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。
善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。
右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。
次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。
②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。
③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた
丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。
現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。
このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。
①護摩壇岩②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。④余水吐けは、堤防の下に埋められた
これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること②矢原家の伝統と格式の高さ③その象徴としてのかりん
①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。
①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。
②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。
この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。
三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない
弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。
「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。
それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。
日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。
5月2日(金)19:00 佐文公民館出発22:30 ホテル到着予定(淡路SA以後はノンストップ)5月3日(土)8:30~ 着付け(ホテル内の会場)11:00 ホテル出発13:30 EXPOメッセにて公演(30分)15:00 万博会場出発16:00 夕食(ホテル内)5月4日(日)8:30 ホテル発 会場到着後は自由行動11:30 パソナ館15:30 万博会場出発20:00 佐文帰着
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
6月10日の夜、
炭所西村の片岡上所横井(常包横井)
大向興免横井
長尾村薬師横井
札の辻横井6月22日八ツ時(午後2時)に、
炭所西村大向の吉野上村荒川横井
吉野上村大宮横井
恐れながら書付を以て願い上げたてまつり候、松平讃岐守領分、讃州鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村并に那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門申し上げ侯、去る巳年六月二十三日、当御支配所那珂郡苗田村庄屋倅源太 δ郎、同庄屋吉左衛門倅佐太郎、同年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、同村百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名名前相知れず、大勢并に、讃岐守領分同郡東西高篠村、四条村百姓共と一同申し合わせ、徒党を致し罷り越し、村々え引取候井路(井手)及び、炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰利不尽に切り払い候、素より照り続く早魃の時節、右然の浪藉を致され、御田地の耕作相続出来中さず候、勿論右堰(横井)の義は役場え相願い、御普請を受け候ものにて、御村方の進退自由に相成らず、捨て置き難く、其節早速役場へ願い上げ候所、則ち東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に二人召し出され、御純の上入牢仰せつけられ御吟味に付、苗田村の者共狼藉の始末願い上げ奉る可くと存じ奉り罷り在り候所、追々取扱人立ち入り、種々取り計らい候義にて、成尺熟談仕り度く、素より御役所へ御迷惑掛け奉り候段恐れ入り候、是又勘弁仕り居り申し候得共、弥々熟談相調い申さず、苗田村の者共追々我意相募り、連も熟談内済相調い候義、心証更に御座なく候、既に当年の田水にも指し掛り居り、捨て置き候仕り候に付、止むを得ざること願い上げ奉り候間、何卒苗田村の百姓前願人則ち弐拾壱人を召し出して御吟味の上、以来右黙の狼藉仕らざるよう仰せ付けられ下され度存じ奉り候、願い立て恐れながら書付を以て願い上げ奉り候以上文政六未年五月
松平讃岐守領分讃州鵜足郡炭所西村水掛百姓総代 小右衛門 判長尾村水掛百姓総代 与左衛門 判岡田村水掛百姓総代 縄 次 判讃州那珂郡吉野上村水掛百姓総代 十右衛門 判右郡村役人総代 伊右衛門 判同 浄 平 判大草太郎右馬様倉敷御役所
○ 恐れながら書付で次の事について願い出ます。松平讃岐守の領分である鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村、ならびに那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門が申し上げます。去る巳年六月二十三日に、那珂郡苗田村の庄屋倅源太 δ郎、庄屋の吉左衛門倅佐太郎、年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名は名前は不明。彼らが、那珂郡東西高篠村、四条村百姓たちと申し合わせ、徒党を組んでやってきました。そして、土器川からの用水取入口の横井や水路(井手)ある炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰を切り払いました。この狼藉の結果、照り続く早魃での時節だったために、田地の耕作ができなくなりました。この件については放置することが出来ず、早速に藩へ届け出ました。その結果、東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に2人が連行され、郷倉に入牢という処罰となりました。一方、天領の苗田村の狼藉者の始末(処罰)については、仲介人を立てて、慎重に調査を進めてきました。しかし、苗田村の「我田引水」的対応で協議は不調に終わりました。すでに今年の用水確保にも指し障りが出てきていますので、放置することができません。つきましては、事件に関わった苗田村の百姓21名を召し出して吟味した上で、以後の狼藉を再び起こさないように仰せ付けいただきたい。以上を恐れながら書付で願い上げ奉ります。(以下略)
○ 夫婦井横井の関立場所を決めることから始めたい。
この点については、宝暦年中入割の際に御裁許になっていることであるから、これと相違するような内容であれば承知できない、役所との交渉もあるので、まず全般についての仮議定書を見せてほしい。
常包横井以下の横井を苗田村の者が切り崩したことについては、苗田村から高松藩に詫書を入れる。 夫婦井横井掘割関立方については、木水道より烏帽子岩目当に真一文字に掘り割りする。岩薬師の川上に流水がある時には、羽間の中井手筋へ分水する、流水がなくなれば烏帽子岩から岩根右へ取り付け、横井を関立てる
夫婦井横井の関立てについては、宝暦五年の仰せ渡され書の通りに決まらなければ、私としては承知できない。井堰(横井)の場所の決定は私の権限外で、郷普請奉行の権限である。また仲裁人が現地を知らないでは話しにならない。仲裁人がが現地を見分した上で、仮議定書を再検討してほしい
○ 夫婦井横井は論所ではあるが訴状に含まれていない。見分するとすれば常包横井であるが、苗田側から仲裁人が出ているから見分の必要はない。
○ 夫婦岩の所は願書に書かれてないので、見分の場所ではないが、見分しなければ解決しないというのであれば、近く小豆島へ植付見分に渡海するので、そのついでに現地に行って見分しよう。仲裁の決定を日延し、帰村して十分に相談するよう
○ 現地視察をしなければ問題が解決しないという言い分はよくわかる。が、それをあくまで通そうとすると、倉敷代官が直接取り調べるというたいそうなことになる。そうなれば、文政四年六月に問題が起こった時、真光作左衛門が横井を立て直したこと、高松藩が仲裁を依頼した阿野郡南萱原村庄屋の治右衛門が、内済にするために烏帽子岩より五間下手にあった横井を、岩下手弐間半の所に築き直したこと、示談も整い内済になるべき所を、榎井村の半四郎と治右衛門が立ち入って仲裁が不調になったことなども表面に出て、最悪の場合には既得権利を失うことにもなりかねない。
高松藩の立場を心配しているようであるが、これは倉敷代官所から添翰を送って了解を求めるから、まず仮議定書に調印して仲裁を受け入れるようにしてもらいたい。仮議定書の文面は、正式の議定書に調印するまでに、交渉を続けて改定することもできるから。
内済議定証文讃州髙松御領分包横井切り放し候一件に付、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村、右村々総代浄平・伊右衛門より、苗田村へ相懸り候倉敷御役所へ御訴証申し上げ、御吟味中に御座候所、備中国都宇郡下庄村庄屋忠次、那珂郡三ケ村立会年寄榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助立人、双方ヘ理解申し談じ、右横井切り放し候義は心得違いの段、詫書差し入れるべき所扱人噺請、詫書の義は御役所へ指し上げ候て、訴証方中分これなく納得仕り候、然る上は、右一件出来候訳は、夫婦岩水鯰岩の溜りに落入候用水、木水道へ取り来り候井路筋指し縫れの論中より事起り候義にこれ有り、右に付き今般王書等取り調べの上利解申し談じ双方至至極納得和融内済儀(議)定左の通り一 夫婦岩用水引方の義は、鯰岩通烏帽子岩より木水道へ一文字に横井掘り割り致す可き事但し年々掘り割り普請の義は、高松御領より取り計らい申す可く候、若大水にて右掘割埋まり候はば、是亦高松御領より早々修繕申す可く候一 岩薬師川上より流水これ有る節は、水掛り村役人立ち会い相談の上、中井手筋へ分水致す可く、流水これ無き節は、烏帽子岩より横岩へ取り付け、堰方致す可き事但し川上より流水これ無き節は、鯰岩・横岩、表手通り砂相坪し、洩れ水これ無き様致す可く、砂地故若し洩れ水これ在り候はば真土(粘土)を入れ、洩れ水これ無き様致す可く、尤も尚又烏帽子岩の内手砂地故、洩れ水これ在り候はば、前同様真土を入れ洩れ水これ無き様取り計ろう可く候、尤も両所共御普請の節は水組役人立ち会わせ、高松御領より取り計らい中す可き事一 烏帽子岩下手凡そ五間掘り割り、横井より中井手の間有形の通にて、手入致し間敷候一 川内井路筋掘り浚えの事は、指し支えなく高松御領より致すべき事但し指し掛り掘り浚えこれ在る節は、東高篠村へ掛け合い候て、同村より指し支えこれ無き様、早々取り扱かい申す可き事一 木水道洩れ水これ在る場所は、用水引元迄指し支えなく、高松御領分より修繕中すべき事一 用水掛け時の御普請井びに修繕の節は、出来高の上水掛り村々え、東高篠村より通達これ有る可き事、右の条々の通り、今般双方熟談内済和融致し候上は、向後違変致し間敷候、依て儀(議)定証文絵図相添えて、取り替せ中す所件の如し大草太郎右馬御代官所那珂郡苗田村東組庄屋 吉左衛門文政六来年八月年寄 弥右衛門同 十右衛門百姓代 喜惣太苗田村西組庄屋代 佐 市年寄 弥源太同 熊 蔵百姓代 治兵衛那珂郡東高篠村 庄屋 紋右衛門組頭 七郎右衛門百姓代 九右衛門同西高篠村兼帯四条村庄屋 勝 蔵西高篠村組頭 利八郎那珂郡大庄屋代 吉野上村庄屋 平 蔵同郡組頭四条村 浄 平鵜足郡大庄屋代長尾村庄屋 喜三右衛門同村組頭 伊右衛門右前書の通り銘々共に立ち入り、双方納得和融熟談の上にて、儀(議)定証文等調い候に付、奥書印形致し置き候以上備中国都宇郡下庄村庄屋 中心 次那珂郡三ケ村立会年寄治右衛門代兼 半四郎倉敷村戸田屋寿助代兼 猶田屋幸助右の通り今般高松領分より苗田村に相掛り候一件、和融内済仕り候に付、取り替せ儀(議)定写し井びに絵図面相添え願い上げ候以上大草太郎右馬様
内済議定証文讃岐髙松領分の包横井の破壊の件について、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村の総代浄平・伊右衛門より、苗田村への提訴があった。この件について倉敷代官所で、備中国都宇郡下庄村庄屋の忠次、那珂郡三ケ村立会年寄の榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助が調停斡旋人となり和解調停作業が進められた。双方ヘの和解工作の結果、横井切り放しについては、苗田村の心得違いであり、詫書を関係村々に差し入れることになった。詫書の内容については双方が納得し、すでに倉敷代官所へ提出している。残る課題は、夫婦岩水鯰岩の溜りの用水、木水道へ取入口の位置についてである。これについては双方の言い分を良く聞いた上で以下の通りとりまとめた。一 夫婦岩用水の取入口については、鯰岩・烏帽子岩から木水道へ一文字に横井掘り割ること。但し、毎年の掘割普請については、高松領が行うこと。もし台風などの大水で掘割が埋まった場合には、高松領が修繕すること一 岩薬師の川上からの流水がある場合は、水掛りや村役人が立ち会って相談した上で、中井手筋へ分水すること、もし流水がない時には、烏帽子岩より横岩へ堰方を伸ばすこと。但し。川上より流水がない場合は、鯰岩・横岩附近を、表手で砂をならし、洩れ水がないようにすること。もし、砂地なので洩れ水がある場合には真土(粘土)を入れて、洩れ水がないようにすること。さらに、烏帽子岩の内手は砂地なので、洩れ水があれば、真土(粘土)を入れて洩れ水がないようにすること。この普請作業の際には、水組役人立ち会わせ、高松御領で行うこと一 烏帽子岩の下手の約五間を掘り割り、横井より中井手の間は手を入れてはならない。一 川内と水路筋掘り浚えは、高松御領が行う事但し、掘り浚えなどを行う場合には、東高篠村へ相談して、同村から差し支えがないことを確認してから作業に取りかかること一 木水道からの洩れ水がある場所から用水引元までは、高松領分でり修繕すること一 用水使用中に普請や修繕を行い場合は、下流の水掛かりの村々へ、東高篠村より連絡すること右の条々の通り、双方が内済融致した。その上は、これを破ることなく遵守しなければならない。以上について、定証文絵図相添えて、書面を取り替す。
A 天領の小松荘4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)B 髙松藩の真野・東七ケ村・岸上・吉野・塩入C 丸亀藩の西七ケ村・佐文
「鵜足郡と那珂郡の間を流れる大川(土器川)筋の井堰を天領苗田村の者たちが切放し、夫婦横井の水を奪おうとした一件について、文政6未年4月2日から9月28日まで備中倉敷代官所で行われた仲裁交渉についての控」
○ 中井手用水は、古絵図にも見えている用水で、郷普請奉行が仕渡しているものであるから、岩薬師という所の上に流水がある時は、中井手用水に水を遣すこと、この水分けをする時には双方の村役人が立ち合って、騒動がないようにすること
○ 水流がなくなって、出水からの水だけになると、三つの村の者が川の中の水路を掘り浚えて木水道へ水を引くことになる。中井手筋水掛りの者が、横井を塞き立てたり、川端を切り開いたりしてはいけない
「勿論当村百姓共より申出候は、弥々右普請相止め申さざる時は、御役所表江御訴証も致し候段申出候云々」
「藩が郷普請で維持している横井を、数か所にわたって、しかも白昼に切り崩したのは、理不尽な暴挙である。厳重に取り調べてほしい。」
○ 佐岡夫婦井横井の川上にある常包横井は、石だけで関(築)立てる慣行であったのに、近年になって石関の上に筵や菰をかけ土砂を持ちこみ、手丈夫に関立て少しの洩水もなくなった、常包横井にならって川下の横井も同様に関立てるようになったので、佐岡夫婦湧出水の水が出なくなった、横井を切り崩したのはそのためである。
○ 木水道(埋樋)とその井路筋(用水路)の掘り浚えの普請は、高松藩側で行ってきた普請であるが、近年になって修繕してくれないので、苗田村へ水が届かなくなった。
○ 鯰岩の際の岩(烏帽子岩)の下手に横井を関立て、木水道へ水を引く慣行であったのに、近年になってこの横井を烏帽子岩の上手に関立てるようになったので、木水道に水がかからなくなった、6月26日に改めて岩の上手へ関立てたので、7月2日に異議を中し立てると、岩の下手に関立てた。この七、8日の間に大切な水を失った。このようなことがないようにしてほしい。
○ 常包横井は石関立というが、石だけで水を引くことはできない。常包横井のある場所は川幅が至って狭く、 一面岩滑の上に関立てるので、下敷はしだ(羊歯)であって、その上に川筋にある砂に川筋にある砂を持ちこんで石で関立ててあるが、延や菰は一切使用していない。この横井の普請は炭所西村・長尾村・吉野上村の村役人が立ち合って、究め(規約)の通りに運用している。大向興免、薬師横井、札の辻横井も石を使っているが、延や菰は使用しないので、洩れ水がないように塞きとめることはできない。6月10日の夜、これらの横井に水が充分にあったということは虚偽で、ほとんど水はなかった。
○ 大向荒川横井と大宮荒川横井は、ともに吉野上村が水掛かりの横井で、二つとも川幅の広い所に設けてある。そのため川幅一ぱいに関立てることはできない。水流に応じて流れこみの石や砂の上に横井を関立てて筵や菰をかけ、川筋の土砂を持ち掛けて仕立ててある。横井の下手30間(約55m)ほどの所に漏れ水が湧き出ている。常包横井以下の横井が関立方を改めたので、夫婦湧出水の水が出なくなったというのは、池御料(天領苗田)側の強弁である。
○ 近年になって、木水道や井路筋の普請をなおざりにしたというのは、池御料側の詭弁である。享和年中(1801~4)以来、用水路の掘り浚えは隔年毎に行っている。池御料関係の用水路426間(約775m)についても、人夫313人を使って、さらえと刃金(粘土)入れ普請を行っている。
○ 鯰岩際の横井の立場所については、特定の規約はない。川中の流れの様子により、適当な場所を選んで関立ててきた。池御料側が横井の仕置を下げるように主張するのは、現在の川の流れからみると、下げる方が有利であるからで「木水道の取り入れ日から烏帽子岩にかけて」というのが原則であると思う。
第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂す第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること五、精製工場の急速整備を図ること備考二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など③配備が遅れている乾留釜の設置
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。
①マツを伐倒して根を乾留する方法②樹皮から松ヤニを採取する方法
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」 上田市教育委員会
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。
①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
タイトル 応召する三百歳の杉並木右上 松並木遠景左上 市長による斧入伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報で「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という情報が届いた。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」として、国内年間消費量の1/3ほどの採油が可能と報告した。その計画に陸軍、農商省、内務省が乗っかり、10月20日には最高戦争指導会議で承認された。
「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」
皇国決戦の最終段階に対応するために、山野に放置されている松根を動員する。そして乾留方法で松根油の飛躍的増産を図る。現在は非常に重要な局面にあり、ことは緊急を要する。ついては、皇国の農山漁民の底力を最高度に結集発揚し、本事業の完遂を図り、皇国戦力の充実増強に寄与すべし。
「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」
①松の立ち枯れた古木(樹齢50年以上)をさがしてし、松株を掘る。②伐根のノルマは 1 日 150~250kg③掘り出された松の根は、貯木場に蓄えられた後、小割材にしてカマス袋に入れ、乾溜缶(100 貫釜)に運ぶ。④釜の内部には中カゴがあり、この中にあらかじめ割砕した松根原料を詰める。⑤粘土と石灰を練り合わせたものを、釜と蓋の間に塗り込み密閉し、火を焚いた。⑥出てきた蒸気を冷却し、液体化した油分である「粗油」を改宗する⑦これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、⑧軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする
とに角この仕事に動員された人々は、ここでも滅私奉公を強要され、腹をすかしながら馴れぬ手に血豆を作り、死に物狂いで松根の掘り起しに従事した。先ず在来の松脂集めには、国民学校の生徒や、都市から農山村に疎開している婦人達が充当された。松根株集めには、鉄道の枕木、鉱山の杭木用に伐採されて全国の山野に放置されている推定八十億株の松の古株を第一目標にした。これが無くなれば次々に立木を伐採し、枝も葉も根も接触分解法や乾溜法の原料にすることになった。
旧石見町では中野茅場にまず松根油抽出工場が建ち、抽出釜6基を配置。田植えが済むと松根堀りに駆り出され、中野の松根油は検査の結果、島根県下最優秀油に選ばれ、軍部も目をつけるようになった。山口の徳山から技術者を呼び寄せ、工場は矢上にも建てられ、抽出釜は中野7基、井原7基、矢上6基を設置してフル回転。海軍省からは矢の催促と慰問、激励を受けた。そこで、村民あげての松根堀りになった為に、20基そこそこの釜では対応し切れず、根っこをそのまま大田や松江の工場へ運ぶほどだった。そのおかげで、島根県の松根油は海軍大臣より感謝状を贈られた。
「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」「掘って蒸して送れ」「全村あげて松根赤たすき」
大戦末期の松根油の採集・増産活動は、松林の広域伐採を招き、これが敗戦後の山地荒廃を招いたとする説がある。しかし、実際にどれほどの松の木が伐採され、山地荒廃にどれほどの影響を与えたかは資料的に残っていない。文献資料を通じて、松根油生産の実態を可能な限り詳細に明らかにすることを目的とした。
①松根油生産は第二次世界大戦以前から生産が行われていたが、その生産は大戦末期に極限に達した。②松根油を生産する地域には偏りがあったが、大戦末期になるに従い、全国的に生産されるようになった。③過剰な松根油生産が山地荒廃につながる危険性が認識されながら、大戦末期には過剰な生産ノルマが設定された可能性が高い。④松根掘り取り過程に関しては、概ね生産ノルマが達成された。
⑤松根油生産が山地荒廃に与えた影響を検討するためには、対象地区を限った上で調査を行う必要がある。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
「石室は小振りではあるが構築状況は見事」玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。
本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。
「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)
① 「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと② 土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模⑥煙道部は、住居側が地下構造
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展
A海岸線 当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であったB岡田台地 丘陵上で近世までは台地だったC旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原D土器川の氾濫原
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。④そのため条里制適応外エリアとされた。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
126~135は鉄尻鏃126~128は鏃身外形が長三角127・128は直線状。128は大型。129は鏃身外形が方頭形130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着134・135は鏃身外形が腸快の逆刺136~130は小刀と思われるが、いずれも破損
140に木質痕が認められる。146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土147~149は、か具である。148は半壊、147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式
150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土151・152も轡。155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。
157は4ヶ所の鋲が認められる。159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。160は平面卵形で、断面が非常に薄い。161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体高松市夕陽ケ丘団地古墳綾川町浦山4号墳観音寺市上母神4号墳同 黒島林13号墳同 鍵子塚古墳
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳②「一墳丘二石室」の佐岡古墳③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。③樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」
麦稈真田生産の利益は、独特の製法で作られる物なので家族経営でおこなうのが一番利益を上げられる。中でも農家が自分の家で栽培した麦で作れば 利益は大きいものになる。例えば一反当たり50貫の麦稈材料が確保できる。5反の田んぼで裏作に麦を作れば、
50貫×5反=250貫で、これを材料吟味して4割の歩留まりとすれば、約100貫の材料をえることができる。この麦藁材料を用いて平均的な麦稈真田を組むと1貫で7反が作れるので、106貫×7反=742反の真田が作れることになる。平均的出荷額は「1反=30銭」なので、その収入は「742反×30銭=約221円」となる。材料である麦を買うことなく、職人を雇わず家内工業で行えば、これがすべて家族の丸儲けとなる。
しかし、材料を他から買い入れ、職人を雇い入れたりすれば、このような高利益は上がらない。 1/3程度の利益しか上がらないだろう。まさに麦稈真田生産は農家の余暇を使って営める副業であり、しかも高利益が上げられる。何人も速やかに起業すべきである。
①大卒サラリーマンの初任給(月給)は、50~60円②職業婦人の平均月給はタイピストが40円③電話交換手が35円④事務員が30円
数日前の貴紙社説欄に麦稈真田の輸出振興策として漂白輸出を開始すべきだと述べていたことに大に我意を得た思いがする。輸出用の麦稈真田は、発展への今が大きな分岐路になっている。そのために発奮努力して日本麦稈の真価を世界に周知させる時である。①麦稈真田の世界市場での競争者は瑞西(スペイン)と伊太利(イタリア)である。瑞西の麦稈は、日本のものと似て細小である。それに対して伊太利のものは麦稈に穂先だけで組むトスカンと包被部分をも用いた二種がある。②日本麦稈と競合する中国の麦稈の産地は、山東、河南、安徽から揚子江北岸までの間のエリアである。ここの麦稈は伊太利トスカンとは違って、繊緯が強靭にして量目も重く欠点が多いので主に労働者用帽子の原料として使用されている。そのため価格も伊太利トスカンや日本麦稈に比べると低廉である。日本麦稈と同じように、一度欧洲に輸出せられた後に漂白染色して、中米南米方面に輸出されている。これは日本麦稈のライバルではない。
③日本麦稈は瀬戸内海の両岸の岡山・香川を主産地とする。繊緯は緻密で軟かく、そのうえ光沢に富み、軽いことを特色として、紳士用の夏帽子や婦人用の四季帽子に使用せられいる。帽子原料としての麦稈に求められる二大要件は、軽いこと、被って気持ちいいことであるが、色彩光沢に富み染上が美しいのは、日本麦稈だけである。この点では、ライバルである瑞西麦稈も伊太利麦稈も我國の麦稈には及ばない。④この真価が次第に世界の製帽家に認識せられるようになって、麦稈輸出が再び復興してきたとと思う。
日本の麦稈真田の次の課題は、新たなる飛躍策である。ところが日本麦稈の主産地である岡山・香川の瀬戸内海両岸の地は、⑥麻真田が市場に参入して人気を集めるようになると、生産意欲が萎縮しているように思える。ここには麦稈栽培を専業にする者はいない。そのため生産高が上がらず、品質も降下気味である。これを放置すれば、今後の輸出振興に大きな障害となりかねない。岡山・香川、山口などの主産地はもちろんのこと、⑦その他の各府県に対しても麦稈栽培を奨励し、同時に検査所の権限を拡張し、品質の均一化を計り、輸出振興策を今のうちから行うべきである。
一方、対岸の支那麦稈は粗悪で改良の余地がある。そこで日本は、技術者や指導者を派遣して播種耕作や乾燥技術などの技術援助を提案する。それが実現すれば、中国でも今まで以上の優良品を生産できるようになり、生産額も増加する。そうなれば我が國のみならず東洋麦稈の改良と産額の増加の実現につながる。これは世界の新需要につながる道となる。日本が率先して漂白輸出の道を開くためには、⑧今は一度欧洲へ運ばれている支那麦稈を隣国の日本で漂白して、日本経由で南米諸国へ輸出することになる。日本は日本麦稈と支那麦稈を双手に握って東洋のルートン、リヨン、もしくはフローレンスへの道を目指すべきである。近頃、支那の孫中山(孫文)氏が、やってきて盛に東亜同盟を説きつつある。私の立場からすれば、そのためには先ず実業界において「麦稈トラスト」を組織し、東洋麦稈の商権を伊仏英の手中より奪い、日華両国の支配下に置くことを主張したい。日本と中国の麦稈合同は、日本による漂白輸出の開始を意味する。そうなれば東洋麦稈は数年ならずしてイタリアの麦稈を凌駕するであろう。
神戸港の麦稈真田の輸出額は、年々その額を増加し重要物産中でも十指に数えられるまでに至った。近頃は不景気によって打撃は受けているものの、世間ではなお前途は楽観視され、通商発展は有望とされているように見える。しかし、昨今の麦稈真田の安値に市況は一段と沈静し、同業者は悲観の態である。下半期の業績もきびしい状況が予想せられている。これについて当事者の情況分析をを綜合すると、原料安に伴って麦稈帽なども三分の一の市価に落ち込んでいるという。値段が安ければ需要が増える、従って製品の販路は増えるというのが世間の見方だが、近頃の傾向はこれと正反対であるという。安値の藁帽子などは、中流以下の階級者に需要が多く、富裕層は麻真田とか品質のよいものが歓迎されていて、麦稈帽の人気は下落しているという。これは麦稈真田の同業者にとっては聞き捨てならないことである。
このような状況を打開するために香川県などの生産組合は、製品改良に努め、各地で講習会を開催するとか、技術員を駐在させて麦稈製品の品質改善に努めている。しかし、その効果はあまり現れていない。その要因は、麦稈生産者の多くが農家の副業者であるからだ。技術者が改良を奨励しても、それに応えずに普通の編み上げを続け、何等の改良を加えない農家も多いという。この点を考慮して伊賀上野では、細目の編方を奨励し成果を上げ、非常な好評を博し需用を伸ばしている。改良すれば改良する程、それが副業であろうと本業であろうと、それだけ収入を増加することができる。ところが農家の副業では、技術者の指導を馬耳東風と吹き流し、昔から仕来りの編方を踏襲してなんの改良を加えない。そして、一反25銭の編賃を得て満足しているのである。改良した編方をすれば収入は倍額になるのに、農民たちはそんな手間のかかる仕事は真平御免だと言わぬばかりに一向に改良をしようとしない。こんな様なので、生産組合も今は持て余し気味である。今の状態では麦稈帽の将来は危うい。当業者もこのことに気づいて、大改良を加え品位の向上はもちろん、加工にも十分の注意すべく計画中であという。
麦稈真田に比べて有望視されているのが麻真田である。麻真田は大工業家の手によって生産されているので、品質改良や生産工程の効率化などが着実に進められている。そういう点からすると、現在の麦稈帽は技術も品質も、麻真田に対して優った点を見出す事が出来きない。このままでも労働者の被る麦藁帽子などにも麻真田に奪われて行く可能性がある。今の内に、麦稈真田は改良すべきであるとの意見が昂まって来た」
香川県の農業は米麦作が主体で、剰余労力が多いので農家副業が欠かせない。香川県の麦稈真田の製造は明治15(1882)年に大阪の商人原田某氏が小豆郡草壁村に、麦稈購入にやってきて真田の製法を村民に伝えたことに始まるとされる。その後、麦作に適した気候風土もあって、麦稈の光沢が美しく、品質優良と認められ世界に販路を広げた。こうして農家副業として近年は急成長を遂げてきた。中でも大正元(1912)年度は、生産額が237万円に達した。①これは、生産額1位の岡山県に次いで、全国第2位になる。ところが流行の変化で麻真田帽や紙製帽が欧米の流行の中心となると、麦稈真田の需用は急減退し、市価も低落した。そのため②昨年度(1915年)の香川県の生産額は36万円まで落ち込んだ。しかし、③今春以来再び英米の需用が増えて、初夏以来は注文が頻々と舞い込んでいる。そのため業者は目下の所は麦稈真田の製造に忙殺され需用に追いつかないほどの未曾有の活況を呈している。香川県麦稈真田同業組合の小林氏の話によると、麦稈真田の価格は高騰しており、昨年1反9銭だったのが本年は15銭となっているという。特に合九平22粍巾のものは昨年は一反19銭だったのが本年は43銭と、倍以上に高騰して、需用に追いつかない状況にあるという。このような時期には、粗製濫造に走る業者も出てくるので、当局側はそれへの対応に追われている。また香川県は、岡山や広島県に麦稈真田の原料を供給している。昨年は1貫目22銭だったのが、今は34銭で取引されている。香川県にとって将来有望な種類は合三平種である。(中略)
合三平四五の巾で一反の売価22銭に対して、コストは組賃9銭、原料7銭、仕立・雑費2銭を除くと4銭の利益となる。目下香川県の麦稈真田界は黄金時代を謳歌している。九月中に同業組合は証紙検印を行うようにして粗製濫造を防止しようとしている。今年の海外輸出反数は、110万反にのぼる予想がでている。
香川県では農家の副業して麦稈真田が根付くことによって貧しかった農村は次第に富裕となってきた。中流以下の農家でも貯金が出来る者が少なからず現れている。もともと香川県は空気が乾燥し、土壌が砂質なので麦稈真田の材料となる麦類栽培に適していた。その上に県民が手工に長ずるという特性も重なって発展してきた。①大正元(1916)年度の産額は1072反・生産額は237万円で、本県の生産品の首位を占めるまでになった。以上を要約しておくと
ところが1917年度になって関東地方で麻真田が作られ海外に輸出されるようになった。麻真田は軽いので婦人帽子に使われ人気が出た。②そのため麦稈真田は婦人用帽子には使われなくなり、男子帽のみの原料となったために需用は低下し、価格も低落した。その結果、1917年の生産高は641反 売上額は115円と、前年度の半分まで落ち込んだ。本年度も麻真田が人気なので、
麦稈真田の回復の見込みはなく、しばらくはこの苦境がつづくことが予想される。(後略)
香川県下では米作に次ぐ農家の収入源となっているのが麦稈真田である。①第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、②休戦成立以後は次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。③香川県下の紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。以上を要約しておくと
麦稈真田同業組合調査によると昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。(中略)
統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると④戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているという。
輸出用の麦稈真田市場は新稈の出廻りを眼先に控えているのに、亜米利加からの註文も手控え状態で取引は極めて閑散としている。岡山・香川の生産地情報によると備後地方は刈取期の本月下旬に降雨が多かったために、品質は極めて低下しているという。それに加えて、前年も品底気味であったので、本来ならば優良品は相当高値になるはずであるが、今後の天候次第である。香川県地方では、岡山に比べて収穫期が遅いため降雨の被害は少い見込みで、昨年より良好とされる。以上から麦稈原料の市価も大した変化はないと見られる
① 麦稈真田の前途については、以前にも報告したように明るい兆しが見られない。同業組合や産地でもさまざまな改善策を講じ、品位向上に努めているが、生産農家が副業であるのがネックとなっていて改善は進んでいないのが現状のようだ。現在は主産地の岡山、広島、香川が盂蘭盆であり、製産品が市場に出廻らず品薄になる時期なので価格上昇が見られる時期である。ところが②海外からの注文薄のため相場は取引数も少なく、安値定着で、同業者は全く閉口している。一方相場の安値定着は、生産者に大きな打撃を与えていると思われるかもしれない。けれども副業としている農民たちは、案外のんきな対応ぶりである。(中略)③香川県などでは、麦稈真田を副業そしていた農家の大半が他の副業に転じているようだ。また同業者も対策に相当努力を払っているが、何分にも相場が安いため手の打ちようが無い状態だという。(中略)粗製品を売って利益を得ることは得策のように思えるかもしれないが、それは信用を失いて損失を招くことになる。今は輸出業者が団結一致し粗製品の濫造を防止することが必要であろうと同業者は語っていた」
「麦藁(ばっかん)」とは、麦のクキを日に干したもの、つまり麦わらのこと。それをで真田紐のように編んだもの。夏帽子や袋物の材料に用いる。裸麦・大麦の麦稈を最良として、編み方により菱物・平物・角物・細工物などがある。岡山県・香川県などの産。
麦稈真田の創業については今から23年前の明治15(1882)年、 大阪の原田某氏が大阪より小豆島の草壁に来て麦わらを買いつけた。何に使うかと問うと、加工して海外への輸出商品にするという。そこで試しに2、3人が作り始めた。これが香川県の麦稈真田業の始まりである。(明治38(1905)年
讃岐の地質は、主に花崗岩で構成され、地勢は南から北に傾斜する乾燥地形で麦作に適している。そのため麦稈にも光沢があり、真田の原料として品質がよく他の生産地に勝る。そのため讃岐産の麦稈を求めて商人たちが押し寄せるようになった。しかし、当時は農家は麦稈のままで出荷し、真田に加工して販売する者はほとんどいなかった。また明治31(1897)年頃までは、麦稈真田に従事する戸数は、全県下で200戸あまりに過ぎなかった。
明治32(1898)年頃になると、欧米で麦稈真田に対する需用が次第に高まり、販売数が増大するようになった。麦稈真田が利益率の高い副業であることが分かると、前年までは200戸余りだった生産農家が7倍も増加した。明治35(1902)年には、9350戸に至るまでに急増した。
麦稈真田の需用は近年ますます増加の一途にある。特に小豆島では、数年前から苗羽村の田の浦産は最上級品と需用が高い。そのためアメリカやイギリス・フランス・香港などからは需用に追いつかず品不足の様相を呈している。この田の浦は、わずか百戸ばかりの小さな集落に過ぎないが、麦稈真田からの収益金は一戸当たり年間1000円を下らないという。もし、農家の副業として麦稈真田が県下全体に普及すれば、小豆島の1/3としても300円が見込まれる。農家の救済方法を考えることは目下の大きな課題である。麦稈真田が、その救済手段となりえるように、将来に備えて検討していくことが必要である。
米作改良、麦作改良、肥料改善、養蚕普及、溜池利用、記念植樹、勤倹貯蓄の普及、
麦得真田の伝習
「翻刻香川県下に於ける副業中の首位を占め年産額に於て讃岐米に次ぐ数字を示せる麦稈真田は戦乱以来輸出杜絶又は船腹払底の為め久しく悲境に陥り居たりしが休戦以来昨年の春頃より漸次順調に立戻り七月以後益好況に赴き価格の騰貴は未曾有の記録を作り単四菱の如き一斑九十銭内外となり従って之が編賃も騰貴し一日少きも一円五十銭多きは三円内外の収入となるより県下紡績、製糸、燐寸等各工場の女工にして熟練せる工場を捨て自宅に於て賃編に従事するより何れの工場も女工の大払底を告げ三割乃至五割の労銀値上げを為すも応募者なき状況なるが麦稈真田同業組合調査に依る昨八年一月以来十一月末迄の産額は二千六百九十三万七千百三十六反価格八百七十五万九千八百九十五円の多額を示し居れるが大正二年以来七箇年間の産額を示せば左の如し(但し八年は十一月迄)
香川県下の副業の中で讃岐米生産に次ぐのが麦稈真田である。第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、休戦成立の昨年より次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。県下紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。麦稈真田同業組合調査によと昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。参考までに大正2年以後の7年間の香川県の出荷額は以下の通りである。
大正2(1913)年 6415538反、1153368円大正3(1914)年 4335724反五、616263円、大正4(1915)年 3338219反 362952円大正5(1916)年 5594076反 859919円大正6(1917)年 6038636反 1045094円大正7(1918)年 5754223反、1880879円大正8(1919)年26937136反 8759895円
この統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているというし居れりと(高松)」
①明治20(1887)年 約110万反②明治29(1896)年 約550万反③明治33(1900)年 約882万反
①凶作などで自作農が田畑を売却して、貧農に転落するのを防止すること②抵当地の勝手な売買で、領主の領知権と年貢の収納権が侵されることを防止すること
①百姓所持の田畑を質入れし、質流れによって所持権が移転することが法的にも認める②不在地主が小作地から小作料をとることも公認され保障される
「右は我等勝手筋有之候に付、此度右畝高の分銀何貫目請取、永代譲渡候間云々」「田地売主何右衛門」
A 炭所西村村高760石余りのうち、入作は86石2斗 (11%)B 長尾村村高1029石余りのうち、入作は74石6斗6升(7%)
①高松入作 5石4斗6升4合②金毘羅入作 1石2斗8升2合③他村入作 13石3斗5升2合④他郡入作 40石4斗3升5合⑤池御料榎井村入作 14石1斗3升
一 高拾九石七斗九升七合 造田免にて榎井村長谷川佐太郎持高一 高壱石四斗弐升九合 内田免にて同人(長谷川佐太郎)持高〆弐拾壱石弐斗弐升六合一 高壱石三斗七升四合 金毘羅領 利左衛門持高
郡々大庄屋只今迄、御領分ぇ他領者入作為仕候義在之、 別て西郡にては数多有之様相間、 古来より何となく右様成行候義、 可有之候得共、元来他領者入作不苦と申義は、御国法に有之間敷道理に候条、弥向後不二相成候間、左様相心得、村役人共ぇ申渡、端々迄不洩様相触せ可レ申候。(中略)他領者ぇ、田地質物に指入候義、 向後無用に為仕可申候。尤是迄指入有之候分は、 追て至限月候へば詑度請返せ可申候。自然至限月候ても返済難相成、日地引渡せ可申、至期候はば、村役人共より世話仕り、如何様仕候ても、領分にて売捌無滞指引為致可申候。
各郡の大庄屋へこれまで髙松藩領へ他領(金毘羅領)から入作することが、(金毘羅に近い)藩西郡では数多く見られた。 これは慣行となっているが、もともとは他領者が入作することは、国法に照らしてみればあってはならないことである。そこで今後は、これを認めないので心得置くように。これを村役人たちに申渡し、端々の者まで漏れることなく触れ廻ること。(中略)他領者へ、田地を質入れすことについても、 今後は認めない。すでに質入れしている田畑については、返済期限が来たときに担保解消をおこなうこと。期限が来ても返済ができない場合は、引き延ばし、村役人の世話を受けても返済すること。いかなる事があっても、領内における担保物権の所有権の移動は認めない。
天明2年(1782)に銀300目天明3年(1783)に銀200目天明5年(1785)に鞘橋の修繕に銀600目
御用聞き 多田屋治兵衛・山灰屋保次・伊予屋愛蔵・屋恒蔵・山屋直之進新御用聞き 釘屋太兵衛・金尾屋直七・鶴田屋唯助・福田屋津右衛門・玉屋半蔵・行蔵院
①菜種の年間手作手絞高(年間生産量)は、約20石(菜種油は藩の数量制限あり)②大坂から買い入れる27石の種子油③それ以外の油は、買田の水車で綿実から絞った白油
水車多く候節は、男子夜仕事も致さず風俗の害に相成候由相聞候間、 一通りにては取次申間敷候
「水車が稼働する期間は、男子が夜仕事せず水車小屋に集まり、風俗の害ににもなっていると聞く。そのために設置状況を調査し報告するように」
①川東村矢渡橋の水車で、枌所東村の直次郎が資本を出し、挽臼一丁と唐臼四丁②明神の水車は粉所西村の鶴松の出資で、挽日二丁と唐臼六丁
大庄屋に銀10匁、郡奉行、代官、郷会所元締めに銀四匁、銀二匁か酒二升。秋の松茸一籠、冬の山いも一貫目、猪肉一梱包(代六匁)、ふし(歯を染めるのに使用)一箱
「東二村水車買付に付諸事覚書(西村文書)]
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。別紙一、銀三百目 建築料一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。右の通被下候。天保十年二月 元〆大庄屋宛
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。別紙一、銀三百目 (住居)建築費一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。右の通被下候。天保十年(1839)2月 元締め大庄屋宛
十月三日一金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
十月三日一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと③男性よりも女性が多いこと④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」
「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、
「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」
「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。
送り手形之事一 三人 庄五郎 歳四拾女房 歳三拾男子卯之助歳七右の者、今般金毘羅御社領御地方二而借宅住居仕り度き段、願出候二付、聞届け、此方宗門帳差除き候間、自今已後、其御領宗門御帳面へ御書加え、御支配成らるべく候、且又宗旨之儀は代々一向宗二而多度郡弘田村円通寺旦那二而紛れ御座なく候、尤当村に於いて、己来何の故障も御座なく候、送り手形依而如の件し天保三年壬辰十一月多度郡善通寺村組頭 孫太夫金毘羅御社領百姓組頭治助殿治兵衛殿次郎助殿
以下の三人 庄五郎(40歳)・女房(30歳)・男子卯之助(7歳)について、このほど金毘羅寺領地方(町場)に、借宅を借りて生活を始めたことについて願出があった。ついては、こちらの宗門改帳から除き、今後は、そちらの金毘羅寺領の宗門帳面へ書き加えて、支配していただきたい。なお宗旨は、代々一向宗で多度郡弘田村の円通寺の門徒である。また当村では、何の問題もなかったことは送り手形の通りである。天保三(1832)年壬辰十一月多度郡善通寺村組頭 孫太夫金毘羅御社領百姓組頭治助殿治兵衛殿次郎助殿
送り手形一札之事一 弐人 口嘉 歳三拾五女子そね 歳拾七右之者今般勝手二付、御町方二而借宅仕り度き段、願出で候二付、聞届け、此の方宗門帳面差除き候間、自今已後、御帳面二御差加え、御支配成らるべく候、尚又宗旨之儀は、代々当所普門院旦那二而紛れ御座なく候、送り手形働て如の件し百姓組頭(治) 次助印天保四(1833)年巳十二月高藪組頭勘助殿(枝茂川家文書「天保三~六年枝茂川杢之助日記」)
浪人与申す義、心得違いニ候、已前ハ少々浪人もこれ有り候而、其の節は宗門帳ニも浪人帳与申し候而これ有り。皆其の義ハ、町人二而、町方町人帳二以前より今に相認め候、勿論皆々屋号を付キ商売方第一仕り候間、外々二而も評判これ有る通、町人ニハ紛れこれ無く候
浪人とするのは、心得違です。以前は少々の浪人がいて、宗門帳にも浪人帳に浪人と書くこともありました。しかし、今は町人として町人帳に記すようになっています。もちろん皆々が屋号を持ち商売を第一としていて、外部からも評判もありますので、町人に間違うことはありません。
陶製経筒外容器7点鉄製経筒 2点和鏡 1点
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
この時の発掘について報告書は次のように記します。①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。
「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、②が「奉納一乗真文六十六施内一部」③が「十羅刹女 」④が三十番神⑤が四国讃岐住侶良識」⑥が「檀那下野国 道清」⑦「享禄五季」、⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。
①行場に適した岩壁や洞穴を持つ谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて焼畑がつくられてゆく。④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。
白鳳・奈良期の古代寺院→ 平安時代の古代山林寺院→ 中世の山林寺院→ 経塚群
①凝灰岩製でできているので、石材産地は弥谷山 ・天霧山の凝灰岩 (天霧石)②制作時期は塔身形状から仏母院古石塔(多度津町白方)と同時期
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
「四條」は四条の地名「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々「并」は、菩薩の略字
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年②阿野郡南条組(綾川町) 「子・卯・午・酉」の年③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町) 「申・巳・中・亥」の年④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町) 「丑・辰・未・戊」
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。③これが滝宮踊りの始まりである。
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った②文久11(?)年6月18日③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。
それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。
兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。
百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。
以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。
①女装した6人の小踊り(小学校下級年)②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。③その後に太鼓と榊持(拍子)④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
芸司 大団扇寸法(鯨尺)縦 1尺7寸5歩(約52㎝) 横 1尺3寸(39㎝) 柄 6寸(18㎝)廻りには色紙を貼り、金銀色で日と月を入れて、その下に「水の廻巻」か、上り龍・下り龍を入れるのもよし。拍子(榊持ち) 中団扇寸法(鯨尺)縦 1尺2寸5歩(約38㎝) 横 9寸(27㎝) 柄 6寸(18㎝)デザインは、大団扇に同じ。小踊 女扇子台笠 (省略)
芸司・拍子スワタシ(直径) 1尺5寸5歩(鯨尺 約46㎝)3色で飾り付けよ、ただし赤色は使用しないこと小踊花笠スワタシ 1尺2寸5歩(約37㎝)ただし、ひなりめんにして両側を折る、そして正面は7寸(21㎝)開ける
①最初に来るのが「幟一本」で「佐文雨乞踊」と書かれたものです。それを礼服で持ちます。②「警固十(六)人」とあります。当初は十人と書かれていたものを六人プラスして「増員」しています。これ以外にも「増員」箇所がいくつかあります。その役割は、「五尺棒を一本持って、周囲四隅の場所を確保すること」で、履き物は草鞋ばきです。③次が「幟四本」で「一文字笠、羽織袴姿で上り雲龍と下り雲龍」を持ちます。
④「杖突(つけつき)六人」で「麻の裃で小昭楮、青竹を持て龍王宮を守護するのが任務」⑤「棒振(ぼうふり)・薙刀振(なぎなたふり)一人」で「赤かえらで刀頭を飾る。衣装は袴襷(たすき)」です。⑥「台笠一人」で、「神官仕立」で、神職姿で台笠を持つ」⑦「唐櫃(からひつ)」で、縦横への御供えを二人で担ぎます。これも神職姿です。⑧「正面幟二本」で「善女龍王」と書かれた二本の幟を拝殿正面に捧げ。一文字笠を被り、裃姿です。
⑨「鼓(つづみ)二人」の衣装は「裏衣月の裃に、小脇指し姿で、花笠」とあります。「小脇指」を指していることを押さえておきます。⑩「鉦(かね)二人」は「麻衣に花笠仕立て」で現在も黒い僧服姿です。
⑪「笛吹二人」は「花笠・羽織袴で、草履履き」です。太鼓や鼓に比べると「格下」扱いです。⑫「小踊六人」は「花笠姿で、緋縮綿の水引を八・九寸垂らす。(後筆追加?)。小姫仕立で赤振袖に上着は晒して麻帯、緋縮綿(ひじりめん)に舞子結」⑬「地唄八人」は「麻の裃に小服で、青竹の杖を持って、一文字笠を被る」とあります。裃姿でも、その材質によって身分差が示されています。⑭「大踊(おおおどり)」は、「大姫は女仕立で、赤い振袖で上着は晒して、麻の片擂(かすり)で、水のうずらまき模様りの袖留め。帯は女物で花笠を被る。
佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。
ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●「convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふうりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。
「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。
「上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀」
たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。
中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。
奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。
綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)日 程 9:00 受付開始10:00 公民館前出発 加茂神社への入庭10:15 保存会長による由来口上10:20 棒・薙刀問答10:30 芸司口上 踊り開始①水の踊 ②四国船 ③綾子踊 ④小鼓小休止⑤花籠 ⑥鳥籠 ⑦たま坂 ⑧六蝶子(ちょうし)小休止⑨京絹 ⑩塩飽船 ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首十七年十一月十四日長谷川佐太郎大久保正史景山甚右衛門大久保諶之丞
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首十七年十一月十四日
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓
募集株数 二、四〇〇株払込期限 明治31年5月5日取締役社長 樋口 治実専務取締役 赤尾 勘大取 締 役 山地 善吉外三名監 査 役 山地 健雄 富山民二郎支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願明治31年9月 西讃電灯株式会社創立。明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。
②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である
③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している
④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。
⑤そのために社長が短期間で交代している
⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。
⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。
⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。
入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや
電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。②多度郡はもっと低くて、38,8%。③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。④三豊全体の平均値は約40%。
「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江)
阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」
もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。 「借耕牛探訪記57P」
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」