瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: まんのう町誌を歩く

法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部


法照寺寺史の歴代住職一覧は、15代霊順法師について次のように記します。

大正2(1913)年 12月31年没 
未生流皆伝(諸国総会司)。経済力に強く、寺田1町を小作人に耕作させ、寺経済に寄与していた
 
    前後の在職年数を整理すると、先代は幕末から明治半ばまで34年に渡って住職を務めています。
                 在職期間     在職年数
14代 勧浄法師 万延 元年~明治27年  34年    漢方薬「奇妙湯」調合販売
15代 霊順法師 明治27年~大正 2年  19年  未生流皆伝(諸国総会司)                             
先代の勧浄による漢方薬「奇妙湯」調合販売が経済的にプラスに働いたのか、霊順については「経済力に強く、寺田1町歩を小作人に耕作させ、寺経済に寄与」と、「未生流(立花)皆伝(諸国総会司)」と記されています。法照寺には、未生流の「初傳・中傳・奥傳」の3冊と、立花絵図と「天円地方」論などの書物が残されています。これらの書物は総て、師範である如松斎丹波法橋の署名と印があり、彼から免許の授与と同時に渡されたもののようで、時期は明治13年前後のものになります。この時期に、霊順が如松斎丹波法橋から未生流を学んでいたことが分かります。今回は、これらの花伝書を見ていくことにします。
初傳表紙
高井流 立花初傳關疑抄 (法照寺文書)
巻末を見てみます。

如松斎丹波法橋 初傳 明治14年10月

              高井流 立花初傳關疑抄の巻末
如松斎丹波法橋(藤原氏貫)が、明治14年10月に三好霊順に初傳を相伝したことが分かります。次に中傳を見ておきましょう。

如松斎丹波法橋 中伝巻末明治13年11月

中伝の巻末は、虫に食われてボロボロになっています。名前の部分が失われていますが、如松斎丹波法橋が三好霊順に与えたものでしょう。注意しておきたいのは、以下の二点です。
①如松斎丹波法橋が「未生流家元 国會司師範代」と名のっていること
②日付が明治13年11月で、相伝された花伝書の中では一番早いこと

次に奥傳の「如松流 立華奥傳秘極書」を見ておきます。

如松流 立華奥傳秘極書            嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
年号はありませんが、如松斎丹波法橋が未生流から独立して「如松流」を名のり、その家元と称していたこと、また、三好霊順の華号が蓮甫であったことが分かります。

如松斎丹波法橋 花伝絵図1

       嵯峨御所御立花職 兼未生家師範代 如松齊園田丹波法橋撰 慶応初年

如松斎丹波法橋 花伝絵図巻末 三好家宝物
巻末に「佐文村 三好家有宝物」と記されている
ここからは、これらの花伝書が「宝物」として、法照寺に伝えられてきたことがうかがえます。
明治初期に、未生流立花を三好霊順に伝えた如松斎丹波法橋とは何者なのでしょうか?

増田穣三法然堂碑文.J2PG
        園田翁(如松斎丹波法橋)顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
 丹波法橋の顕彰碑が宮田の西光寺境内に建っています。これについては以前にお話し、内容を年表的にまとめると次のようにまとめておきました。
①如松斉は丹波国、園田市左衛門の二男で、悟譽蓬山和尚という浄土宗西山派の僧侶
②文久2(1862)年 西光寺第17世住職となり堂塔修繕など功績多し
③明治4(1871)年2月10日、生間の豊島家の持庵に移り、未生流師範として活動
④遠近から教わりに来る者が多く、各地方に招かれて出張指導も行った。
⑤その結果、未生流は広く那珂郡南部一帯に広がり、門弟は六百余名に達した。
⑥明治13・14年 三好霊順に初・中・奥傳を伝授
⑦明治16(1883)年2月17日死去、享年76歳。
⑧生前に春日の増田秋峰(穣三:後の国会議員)に家元を継承させる
ここからは幕末に丹波法橋が廻国の僧侶として、西光寺にやってきて勧進活動を進めて堂塔修繕をおこなったこと、その後は引退して10年余りを未生流華道の普及に尽くしたことが分かります。
丹波法橋の七回忌にあたる明治23(1890)年4月に、この碑は建立されています。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。

増田穣三法然堂碑文

その先頭にあるのは、池元を継承した増田秋峰(穣三)です。2番目の田岡泰は、穣三の幼なじみので、初代七箇村村長になる人物です。この二人は、丹波法橋が亡くなった時には27歳でした。そして3番目に三好霊順の名前があります。ここからは次のような情報が読み取れます。
①筆頭に名前のある増田穣三が如松斉亡き後の門下を束ね、如松流家元を継承した
②三好霊順も丹波法橋に高く評価され、如松流立花集団の中で髙い立場にあり、さまざまな文化人との交流があった
③立花集団の指導者の年齢が20代後半で、非常に若いこと

尾﨑清甫 華道作品
如松流立花の作品 (尾﨑家)
 如松流の創始者である如松斎丹波法橋が住職を務めた「法然堂」の春市には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていたようです。それらを取り仕切ったのも若き日の増田穣三や三好霊順だったのでしょう。華道を通じて霊順の人的ネットワークも広がります。また、霊順は地元の佐文でも青年たちに、未生流立花の指導を行ったようです。その中から現れるのが三好霊順と同じ佐文に住む尾﨑伝次(蔵)です。伝次は、霊順の指導で如松流を学ぶようになり、明治24年に次のような皆伝を2代目家元の増田秋峰(穣三)から受けています。

尾﨑清甫華道免許状
               尾﨑伝次(清甫)の免許状 秋峰(穣三)の名前が見える

以上の未生流の家元継承を表にすると以下のようになります。

増田穣三・尾﨑清甫

ここでは三好霊順は、浄土真宗の僧侶としてだけでなく、如松流立花の高弟、漢方薬「奇妙湯」の製造販売元という肩書きをもって活動していたことを押さえておきます。

未生流物販 – 未生流
未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。
江戸時代後半になって町人文化が成熟期に入ると、生花にも多くの流派が生まれます。中には花をいけるに理屈は関係なく、ただ上手に生けられればいいとする風潮や、変わった形や、複雑化、単に形のための形を求めるといった流れも出てきます。
そのような中で 未生斎一甫は、文化十三年(1816年) 「生花百錬」を著します。

流派のあゆみ – 未生流

花とは何か。どうして美しく咲いている花を切って活けるのかということを問いかけます。そして「未生自然の花矩(はながね)」にたどりつきます。これは「天地創造に当たって、混沌としたカオスが生命の根源として存在する。」という立場で、立花を通じて、宇宙観、生命観を追求していくというスタイルをとります。
本朝 挿花百練(著:未生斎一甫 画:蔀関牛) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

未生斎一甫の「生花百錬」
この中で未生自然の花矩とは「天円地方説」という宇宙観から成り立っているとします。

天を円形、地を正方形で表し、円に正方形を内接してできた図形に天、人、地の三才(三つの働き)を配し、天と地の間に森羅万象が存在するとして「天地間の形するものにこの三角形より出ざるものなし」とした。これはガリレオの人体図にもみられる構図で、盛花の造形理論にも同じ図形が取り入れられます。この天・地・人の長さの比は、西洋の「黄金比」(1:0.618)とほぼ同じで「白銀比(はくぎんひ)」(1:0,708) )とも呼ばれ、美しい構成比とされました。一甫は、格外に枝や蔓(つる)が伸びるのも臨機応変に認め、「格に入って格を出よ」と説きます。
 こうしていままでのルールに縛られることなく、自己否定によってさらに美の追求を可能とする自由な芸術論の地平に立つことができるようになります。これは当時の知識人にとっては、今までにない新鮮でアカデミックな雰囲気がする華道の流派と感じられたようです。そのため知識人を中心に広く受け入れられ、門人を増やします。
 未生流二代目をついだ未生斎広甫は、大覚寺の華務職となり、多くの未生流の著作を世に出します。その結果、未生三百といわれるほど多くの未生流系の諸流が各地に生まれることになります。ちなみに、遠州流は約八十流派以上に、古流は百以上に分派します。こうした中で、未生流生け花が丹波法橋によってまんのう町にもたらされます。
 幕末の金毘羅周辺の村々には、遍歴の宗教者(僧侶・山伏・修験者)が集まってきて住み着きます。
その例を挙げておくと
A 棒術などの武芸を身につけた修験者
B 街道整備の勧進集団を率いる土木集団系勧進僧

道造行人 智典
会津からやってきた智典法師
丹波法橋もこのような廻国の勧進僧だったのでしょう。宮田の法然堂(西光寺)の改修活動を通じて、人々の信頼を集め、その後は未生流華道を広め、如松流として独立し家元を称することになります。
 明治維新によっていろいろな封建的な束縛から解放された若者は、新たな知識や習い事に飢えていました。若者たちが生間に隠居した丹波法橋の庵を訪れ、立花を習ったのです。そのメンバーが建立したのが西光寺の顕彰碑になります。ある意味で、外部からやってきた僧侶(知識人)が新しい文化を植え付けたことになります。現在の「町作り支援隊」にもつながるものがありそうに思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町佐文 法照寺の文書
関連記事

三好製薬所 表紙

  まんのう町佐文の法照寺の文書の中に「大正3年度 緒薬原品買入及使用 三好製薬所」があります。中を見てみましょう。
三好製薬所2

                三好製薬所(法照寺)の漢方薬の材料買入一覧
ここに出てくるのは、その薬草などの原材料の買入表になるようです。
  右が6月15日、左が7月20に仕入れた薬草になるようです。1ヶ月毎に薬材を仕入れていたことが分かります。仕入品目には、次のようなものが並びます。
A 露房
B 大黄
C 耳草
D 甘枝(草)
E 丁子
F 玉阿曜
G 山帰来
D 龍黄
私は漢方薬についてはまったくの素人なので、AIに教えられながら調べたことを記しておきます。
A  露房
 露蜂房 | スターの漢方専科

   「露蜂房」は、スズメバチやアシナガバチなどの巣を乾燥させた生薬(蜂房)です。「雨露に当たった巣の方が良い」ということからこの名前で呼ばれています。 効能は、殺菌解毒作用、血液凝固促進作用、利尿作用、鎮痙・鎮静作用、抗炎症作用など、様々な効果がある。
B 大黄( ダイオウ)はタデ科のダイオウ類の根茎を乾燥したもの。

ダイオウ
瀉下、清熱、活血、駆瘀血の作用があり、便秘、熱性疾患、打撲、月経異常などに用いられます。

C 耳草(ユキノシタ)
ユキノシタ(虎耳草)の販売店
ユキノシタを乾燥させたもの
漢名は「虎耳草(コジソウ)」で、毛が生えた肉厚の葉が虎の耳に似ていることから付いた名前といわれます。漢方のバイブル『本草綱目』には急性の中耳炎に対して生のユキノシタをついた汁を耳に垂らすという用法が記されています。中耳炎に対する効果があり、耳と関係が深い薬草のようです。

D 甘枝(甘草:カンゾウ)
カンゾウ属 - Wikipedia
炙甘草(しゃかんぞう)|生薬辞典|漢方薬・生薬大辞典 - 漢方薬のきぐすり.com

  甘草はカンゾウの根や根茎を乾燥させたもので、有効成分はグリチルリチン酸です。この成分は砂糖の50倍もの甘みを持ち、医薬品や食品の甘味料として幅広く利用されています。 多くの漢方処方(約7割)に配合され、「国老」という重要な称号で呼ばれたりもします。主な効能は、鎮咳・去痰: 咳や痰を抑える効果、 炎症やアレルギー反応を抑える作用、鎮痙・鎮痛: 筋肉の痙攣や痛みを和らげる効果、胃の働きを活発にする効果があります。化粧品の成分としても使われ、「芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)」などの漢方薬に用いられます。

E 丁子(ちょうじ)は、
チョウジ - Wikipedia
常緑高木「チョウジノキ」の開花直前の蕾を乾燥させたもので、別名をクローブといい、香辛料や生薬として広く利用されています。丁子は「釘」に似た形をしていて、和名や中国名の「丁」、英名のClove(クローブ)」の語源もこの形状(釘を意味する言葉)に由来しています。甘く濃厚で独特な香りを持っており、その香りの強さから「百里香」という別名もあります。
 用途と効果としては、丁子は香辛料としてだけでなく、漢方薬やアロマテラピー、防虫剤など幅広い用途で使われています。効能は、 消化促進や体を温める作用があり、冷えによる腹痛、消化不良、嘔吐、しゃっくりなどの漢方処方に用いられます。主成分である「オイゲノール」には鎮静・抗炎症作用があり、歯科の痛み止めとしても利用されていました。その他: 強い香りを利用して、ペスト予防のポマンダー(匂い玉)として使われた歴史や、ゴキブリなどの虫除けとしても効果があることが知られています。
 G   山帰来(サンキライ)は、「サルトリイバラ」 
No.73 サルトリイバラ(山帰来) – 株式会社 宮城環境保全研究所
 
名前の由来は、「山へ捨てられた病人が、この根を食べて病気が治り、元気に山から帰ってきた」というエピソードからきているようです。薬効としては、 根茎は「山帰来」や「土茯苓(どぶくりょう)」と呼ばれ、解毒や利尿、関節痛などの生薬として利用されます。 花言葉は、「不屈の精神」「屈強」「元気になる」など、生命力の強さや薬効にちなんだポジティブな意味を持っています。 

H 「龍黄(りゅうおう:牛龍黄):」

 【楽天市場】【ポイント20倍】【第2類医薬品】ウチダ和漢薬の牛龍黄 20カプセル ごりゅうおう 牛黄 ごおう ウチダ : あおき漢方堂

希少な動物性生薬である牛黄(ごおう)、蟾酥(せんそ)、鹿茸(ろくじょう)が配合されています。
効能: 動悸、息切れ、気付けなどに効果があるとされています。
以上は買入リストでしたが、次のような使用リストもあります。

法照寺 製薬使用
出てくる薬剤品名は買入リストと同じです。使用した分を確認し、翌月に補填していたことがうかがえます。どうして、このような漢方の薬剤買入リストが大正時代の法照寺にあるのでしょうか?
その答えは、「法照寺寺史の歴代住職一覧」にあります。

法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部
法照寺歴代住職一覧 後半部

14代観浄法師(明治27年没)の欄には、次のように記されています。

「奇妙湯(淋病・しょうかち・寝小便・血の下り等に特効有りあり)医薬を製造販売していた」

ここからは明治から大正3年には、法照寺が「奇妙湯」という漢方薬を製造販売していたことが分かります。お寺が薬品を製造するというのは、現在から見るとミスマッチのような感じがします。しかし、伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、宗教者(修験者)にたどりつくと研究者は考えています。 
 例えば修験者は、自ら狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に薬として病人に与えていました。ここからは「呪医=狩猟者 + 修験者」という姿が垣間見えてきます。熊の肝臓は高級漢方でした。 修験者と漢方の関わりを見ておきましょう。
修験者の拠点であった埼玉県秩父地方の三峰神社では現在でも次のような漢方が販売されています。

普寛行者と三峰山 | 角笛山空間
A 胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
B 心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
C 眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
D 胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
金毘羅神信仰の修験者たちが数多く集まってきた金毘羅大権現にも、独自の漢方薬が製造販売されていたことは以前にお話ししました。参拝客の多い寺社では、お土産としても人気があったようです。また、山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。

  「越中富山の万金丹」で有名な富山の薬は、もともとは砺波平野の里山伏たちが開発したものでした。彼らは農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていて、次のような薬が里山伏系の寺社で販売されていました。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
  野尻村法厳寺の薬は明治維新の神仏分離後になると真宗等覚寺に伝授されます。こうして、真言修験者系の専売特許的な漢方薬が浄土真宗などの寺院にも伝わっていきます。佐文の法照寺も、このような流れの中で漢方薬の製法を学び、製造販売を始めたことが考えられます。そして報恩講などでは、次のようなやりとりがあったかもしれません。
門徒「うちの孫は、いまだにおねしょが止まらないんですわ。」
住職「それならうちの奇妙湯を飲ませなさい、これは寝小便には良く効く。試しに、これを持って帰りなさい」
とセールスしていたのかもしれません。
 しかし、法照寺で漢方薬で調合されていたのも大正3年までのようです。これ以後の記録がありません。また、前年に住職が交代しています。新しい住職になってからは、調合をやめたようです。
以上をまとめておきます。
①法照寺では明治になって奇妙湯という漢方を調合・販売していた。
②奇妙湯製造のための漢方薬剤の仕入・使用の帳簿が残っている。
③薬剤を仕入れて、調合していたようで当時の住職が漢方薬剤の知識を持っていたことがうかがえる。
④これらは薬剤使用量からしても少量で、信徒など限られた人達だけへの販売で、手広く製薬業をおこなっていたのではない。
⑤しかし、定期的に仕入れているので、薬材行商人的な行者が定期的に法照寺を訪れていたことが考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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歴史の見方

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。
2月中いっぱい毎日21:00から放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。
西嶋八兵衛76

Q1西嶋八兵衛は満濃池を造るためにやってきたのではないのですか?
 そうではないようです。西嶋八兵衛は若い頃から藤堂高虎に仕え小姓や右筆として英才教育を施された人物でした。ところが高虎が娘を嫁がせていた讃岐の生駒藩に存亡の危機が訪れるんです。

生駒騒動 関係図1
それは3代藩主の生駒正俊が30歳過ぎで若死にしてしまいます。残されたのは11歳の幼君で、これが高虎の孫で生駒藩を継ぐことになります。当時の幕府は、幼い殿様が継いだ外様藩に対しては、落ち度を見つけては言いがかりをつけては取り潰すことを繰り返していました。生駒藩がその取り潰しのターゲットになったわけです。そんな中で藤堂高虎は家康に気に入られて、幕府からも一目置かれる存在でした。そこで生駒藩を守り、幕府介入の口実を与えないために目付(全権委任腹心)を送り込むことにします。その目付に撰ばれたのが育ててきた西嶋八兵衛だったのです。
 こうして讃岐にやってきた八兵衛は当時は26歳なんですが、今の県庁で云えば総務部・土木部部長に東京出張所所長を兼ねたような権限を持っていたことになります。ちなみに、この時点では、生駒藩の重臣たちは西嶋八兵衛が土木技術者であることはどうも知らなかったようです。西嶋八兵衛はあくまで藤堂高虎が送り込んだ全権委任の家老代理のような存在だったのです。

西嶋八兵衛 来讃理由

Q2 なぜ若い他国者の西嶋八兵衛に大工事を任せたのですか?

生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎
 それは主君藤堂高虎が「築城の名手」であったからです。高虎は、家康の命令で江戸城・二条城・大阪城のなどの天下普請を行っています。そこに八兵衛を参加させ実際に縄張り造り(設計)もやらせています。天下普請は、当時の最大の規模で、最高の技術を競う「土木技術競技会=土木技術コンテスト」のようなものでもありました。そこで西嶋八兵衛は腕を磨いた経歴も持っていました。それを知っていたので旱魃で農民達が逃散する現状打開のために、藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えています。
「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者(たっしゃ)の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

 こうして生駒藩では西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられます。それが讃岐各地で一斉にため池や用水路の大型土木工事が始まる政治的な背景になります。これを大きな目で見ると天下泰平の世の中になって、城づくりの軍用技術が、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、そのさきがけを告げるもので、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。

矢原邸(現在)
現在の矢原邸跡(まんのう町池の尻 ほたる見公園付近)
Q3 満濃池再築で立ち退きを迫られた人達はどうなったのですか?
このあたりが立ち退きを迫られた池之内村の人達の移転先と伝えられています。満濃池の堰堤の下側に当たるので「池の尻」と呼ばれています。このあたりを描いた江戸末期の絵図がこれです。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
            矢原家(まんのう町池の尻) 讃岐国名勝図会
大きな屋敷と松が描かれています。これが池之内村の名主だった矢原氏の移転後の屋敷になります。その跡がこの森になります。矢原家に残された文書には、西嶋八兵衛とのやりとりが次のように記されています。

   矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。するとその行為についてお喜びの様子でした。いずれかの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。讃岐の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

 ここからは、家老待遇の身でありながら西嶋八兵衛が矢原家に何度か足を運んでいたこと、そして満濃池築造の必要性を訴えて協力を求めていたことが分かります。今でも大規模工事をスムーズに進めるには地元の人達の協力が必要です。そういう点で西嶋八兵衛は、矢原家などの同意と協力を得ながら再築を奨めたことがうかがえます。そして矢原家の協力に対して、25石の所領と池の守の役職を与えることで報いています。いろいろな配慮や調整をしながら工事を進める利害関係調整能力や、その人柄までもがうかがえます。
Q4 空海に比べて西嶋八兵衛の業績があまり語られないのは?
満濃池を修復をした人物は3人います。
A 古代の空海
B 近世はじめの西嶋八兵衛
C 明治維新前後の長谷川佐太郎

弘法大師像除幕式 1933年.2JPG
満濃池の空海像 1933年建立

弘法大師像除幕式 1933年

空海については、神野寺に大きな銅像が昭和8(1933)年に建てられています。これが満濃池=空海築造を思い浮かばせるモニュメントとなっています。

長谷川佐太郎顕彰碑
満濃池堰堤の長谷川佐太郎の顕彰碑
長谷川佐太郎については堰堤に大きな顕彰碑が建てられています。ところが西嶋八兵衛については、石碑も銅像も満濃池にはありません。満濃池と西嶋八兵衛を視覚的に結びつけるモニュメントがありません。これがひとつの理由かもしれません。
Q5 どうして西嶋八兵衛の顕彰碑や銅像ががないのでしょうか?
  いろいろ考えられますが、西嶋八兵衛には後世の応援団がいなかったことがひとつの理由だと私は思っています。具体的には、次のような事が考えられます。
A地元讃岐の人間ではなかったこと 伊勢から生駒藩にレンタルされてやって来た客臣だったこと
Bもうひとつは彼が活躍した生駒藩が生駒騒動でなくなったこと。その後やってきた髙松松平藩では、初代の松平頼重がカリスマ化されて、それ以前の偉人に関してはあまり評価されなかったこと。
Cそのため西嶋八兵衛は江戸時代には忘れ去られた存在となっていたこと。彼の業績などが語られることがなかった、蓄積されなかったことが挙げられます。
Q6   西嶋八兵衛の再評価について
  西嶋八兵衛が満濃池を再築したのが1631年です。つまり、5年後に再築400周年をむかえることになります。それに向かって、西嶋八兵衛の果たした業績を、ため池づくりだけでなく、丸亀平野や髙松平野全体から見た治水灌漑プランからもみておくこと、ひいては戦乱から泰平時への移りかわりのなかで生駒藩が讃岐にもたらしたものという視点でとらえることが求められていると思っています。その中で西嶋八兵衛の果たした役割が見えてくるはずです。

時間と興味のある方はこちらの「歴史の味方(9分)を御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」で、長尾氏の西長尾城周辺を見ていました。https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434

長尾・城山 綾歌三山
讃岐国地図 西長尾城(まんのう町)周辺
右(西側)を流れているのが土器川です。土器川の東側の打越池から綾歌(青山)三山と呼ばれる城山・猫山・大高見峰が東に伸びていきます。城山は、長尾氏が山城を築き、その後に長宗我部元親によって大規模改築された山城遺構が残っています。ところが、この絵地図で城山を探しても見つからないのです。もう少し、拡大して見ます。デジタルアーカイブは、自由自在に拡大ができて便利で重宝しています。
城山は権現山
             讃岐国地図 城山はなく、あるのはオカダ 大権現」
①城山があるべき所には、「オカタ(岡田)大権現」とあります。大権現とは、修験者(山伏)たちが開山した霊山で、周辺には行場が拓かれることが多いことは以前にお話ししました。②は、今も猫山です。③は今は大高見峰ですが、この時の表記は「大高山(おおたかぼうさん)」です。地元では、この山のことを今でも「たかんぼさん」と親しみを込めて呼んでいます。もともとは「大高坊山」だったことがうかがえます。そうすると、この山も「大高坊」という修験者(山伏)と祀る権現山だった可能性があります。この地図でもうひとつ押さえておきたいのは、②の猫山と③の大高坊山の間に黒い実線が通っています。これが鵜足郡と阿野郡の郡境線になります。現在も、丸亀市と綾川町の境界となっています。

綾歌三山 猫山 高見峰2 
              綾歌三山(城山 猫山 大高見峰)
 大高見峰の頂上直下には、今も高見坊神社(権現)が鎮座しています。

高見峰神社6
             大高見(坊)神社(権現)
その拝殿にお祀りされているのは・・

高見峰神社8
               天狗信仰の大高見(坊)神社 
ここには天狗の面や絵馬・額など天狗に関するものが数多く奉納されています。天狗信仰のメッカであることが分かります。途中の登山道には天狗岩もあります。

大高見山前の天狗岩
大高見(坊)神社の登山道にある天狗岩
ここも天狗になろうとして修行を重ねた修験者たちの行場のひとつでしょう。城山から大高見峰は、修験者たちの行場エリアであったと私は考えています。それは、郡境の山脈によって阿讃山脈の龍王山や大滝山、そして大川山などの霊山に続いていたのでしょう。

高見峰神社5
            坂出・綾歌方面に展望が開ける大高見(坊)神社
高見峰の綾歌側からの登山口が勝福寺になります。

勝福寺からの大高見峰
               勝福寺から見える大高見峰

しょう高見峰登山口 

この登山口の入口には、次のような説明版が立てられています。
高見峰と天狗伝説

ここには次のように記されています。
①山岳修験者の霊場となり、その統率者の大高見坊の名前が山の名前になった
②ここは讃岐四大天狗伝説の聖地(白峯相模坊・象頭山金毘羅の金剛坊・五剣山中将坊)
③修験行者ルートが、大鉢山や竜王・大滝山へ伸びていた。
また福成寺(まんのう町)に残る天狗に関する古文書には、次のように記されているようです。
天文十三年(1544)年3月18日の六代住職が勤行の妨害をしたとして、天狗の腕を切り落とした
この背景には、16世紀初頭の永世の錯乱以後、阿波三好氏が土器川沿い讃岐に進出し、長尾氏など讃岐の国衆を配下に置くようになります。その後を、三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺も、阿讃山脈を越えて浄土真宗興正寺派の教線ラインを土器川沿いに北上させることは以前にお話ししました。その結果、まんのう町の各地に真宗の道場が開かれます。その流れの中で、真言系修験者の中にも浄土真宗に改宗する者が現れます。浄土真宗に改宗した僧侶に対して、妨害活動を行った修験者に対して「天狗の腕を切った」として記録に残ったことが考えられます。
 大高見峰に天狗信仰の権現さんが、どのようにして現れたのかを簡単に推察しておきたいと思います。
① 古代 霊山大川山信仰と、遙拝所としての山林寺院中寺廃寺の登場  
② 中世 中寺廃寺の退転と、それに代わる金剛寺の登場 → 霊山大川山の遙拝所
③ 鎌倉 末法思想の聖地として経塚群と、坊集落「金剛院」の形成
綾歌三山の修験者の活動を考える時に、大きな意味を持つのが金剛寺(まんのう町長炭)です。
この説明板には次のように記されています。


金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。そして各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っています。ここからはこの地が修験者たちによって拓かれた坊集落であることがうかがえます。

坊集落金光院の性格

金剛院では鎌倉時代中期頃には、写経し経典を奉納する経塚が作られ続けています。彼らは、写経するだけでなく行場でも修行も行いました。その行場が綾歌三山であったと私は考えています。

④ 綾歌三山の行場化と聖地化 多くの修験者の活動 
⑤ 室町 天狗信仰の拠点地化と、長尾氏の保護 → 金剛院と長尾氏の結びつき
⑥ 近世初期 天狗信仰による金毘羅信仰の隆盛 → 周辺の修験者の天狗行者化

大川山 金剛院
金剛院集落 後ろの山が経塚
金剛院を拠点に活動する修験者たちを保護していたのが長尾氏と私は考えています。
長尾氏の山城である長尾城は、背後の猫山や大高見峰が修験者たちの行場であり、霊場であったことになります。
西長尾城概念図3
長尾氏の西長尾城の背後の峰が修験者の行場となっている。

長宗我部元親は修験者たちを、メッセンジャーとしても情報収集者としても活用しています。天霧城を拠点とする香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、修験者たちを取り込んでいました。長尾氏も金光院の修験者たちを配下において、三好氏との情報のやりとりおこなった可能性があります。彼らの活動ルートは、大滝山や龍王山へと伸びていたのは先ほど見たとおりです。その向こうは阿波です。

鷹丸山(たかまるやま)387.2mからの城山
長尾の鷹丸山から望む城山 左手は象頭山、その奥が善通寺五岳
 長宗我部元親の侵入から生駒氏の来讃までに、長尾氏は没落していきます。長尾氏の生き残り戦略として、浄土真宗の道場の主人となり、寺院の住職として勢力を温存するという方法が取られたことは以前にお話ししました。
 それでは天狗信仰を持つ真言系修験者たちは、どのようにして生き残ったのでしょうか。ひとつは金比羅行者となって、全国に金比羅信仰を拡げるために散っていったことが考えられます。もうひとつの道として、滝宮牛頭天王社(別当・龍燈寺)の社僧として、牛頭天王のお札を配ったのではないかと私は考えています。滝宮牛頭天王社は、周辺の村々からいくつもの念仏踊りが奉納されていました。それは坂出の阿野北平野や、飯山の坂本念仏踊り、多度津の賀茂念仏踊り、那珂郡南部一帯の七箇村念仏踊りなです。滝宮に来れた野踊りが奉納されるということは、これらの地域を信仰圏に置いていたことになります。それは午頭天皇のお札を配る、そしてその奉納金を集めるという形で行われていました。つまり、ミニ伊勢御師のような存在が必要でした。それをつとめていたのが社僧(修験者)でした。そのため滝宮周辺のお堂や神社には、多くの修験者たちがいたことが推測できます。そして、修験者には、行場が必ず必要です。行を行わないと高い験は得られないのです。滝宮牛頭天王社などの修験者たちが行場としていたのが綾歌三山の霊山ではないかと私は考えています。

綾歌三山の権現開山と行場化(仮説)

 想像がふくらみすぎたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434
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水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

髙松平野とその丘陵部の東西の植田町には、熊野神社が数多く分布すること、その背景として、中世に屋島寺や大内郡の水主神社の熊野行者の活発な活動があったことを以前にお話ししました。熊野行者の痕跡は、香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」として報告されています。この中には、熊野信仰の道と「平家落人の道」・「義経がきた道」が重なりあっていることが指摘されています。今回は、これを見ていくことにします。
 髙松平野から塩江に至るルートには、次のような熊野信仰の痕跡が残されていることを以前にお話ししました。
①松縄町の熊野神社(熊野大社別当・熊野湛増の子孫の建立)
②元山町の熊野神社(元山権現) 大熊氏(熊野湛増の子孫)の建立
③十川西町佐古の熊野神社(吉田神社と同居)
④ヒジリ(聖)の墓  熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡
⑤トンボ越 修験者の聖地
⑥城池 植田美濃神の戸田城 山伏池と祠
⑦戸田城の守護神宝(熊野)権現           
⑧菅沢町の熊野三所権現
⑨塩江の熊野権現
「松縄 → 植田 → 菅沢→ 塩江」までは熊野行者の活動拠点が点々と続きます。これに県史14巻に載せられている平家落人伝説を重ねていきます。
まず②の「かまとこ寺蔵」からみていくことにします。 
 春日川の上流、神村(こうのむら)には、かまとこ地蔵が祀られてある。
平家の落人がここまで逃げてくると馬の足音がする。 追手が来た、とまだ火を入れていない炭焼窯にかくれたところ、源氏の兵たちはその炭焼窯を土でふたをしてしてしまった。それから後、さまざまの怪異が起きたので、源氏でもない平家でもない地元の人たちは炭焼窯の床に地蔵を祀った。窯の床に祀られた地蔵のそばに、桜の古木が植えられてある。
炭焼き窯に隠れた兵への落人を供養して地元の人たちが、その窯の床に寺蔵を祀ったというお話しです。続いて大石には「平家ばあさんの木」の話が伝わります。ここには姫君と乳母の塚があり、木を切るとたたりがあるとされます。桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿、こんなことわざとともに、平家ばあさんの木を切ることを諫めています。
黒岩神社 植田町
黒岩神社 髙松市西植田町
黒岩では平家の宝刀が埋められていると伝えられます。祈願を黒岩神社にこめたところ、病が治ったのでお礼に剣を埋めたと云います。
落人ではありませんが祇王(ぎおう)祇女が隠れ住んだという下谷も近くにあります。 妓王は「平家物語」に登場する白拍子のことで、ふたりとも 平清盛に寵愛されますが、仏御前に寵愛が移ると冷遇され、屈辱から自害を決するが母に止められ出家します。そして二人を追って仏御前もやってきたというのです。そして、それが次のような地名になっていきます。
①仏を背負って越えた峠が仏坂
②祇王たちが住んだ近くの山は祇王山
③これら迷いの多い女たちが煩悩を解脱したのが生枯(はえがらし)
④「もえ出るも枯れるも同じ野辺の草いずれか秋にあわれはつべき」と彼岸に達したところの地名が生枯
こんなストーリーを語るのは、行者や聖が得意とするところでした。全国を廻国して仕入れた情報や話題が「還元」されていきます。
 平家の女人伝説はさらに、綾上町前山に続きます。この周辺には姫塚伝説が各所に残ります。
都が見えるところ、すなわち海が見える高地へ葬られた塚とされます。さらに琴南町雨島にも姫塚があります。姫塚は、どこも屋島から逃れてきた足弱な姫君がみまかったところとされます。今は、山桜の古木が枝を広げています。景色の良い山の上に石組みの塚が造られていたことがうかがえます。それが姫塚として、平家落人伝説に結びつけられていきます。
 しかし、民俗学者は「姫塚」の別の用途を次のように述べます。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため
山の神を迎えに、人々は春の山に登って、積善のために石を積んだ。

「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔(塚)」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や国見を兼ねて見晴らしの良い山に登ります。そこで積善のために石が積まれたのです。以前にお話ししたように、中寺廃寺のCゾーン(祈り)の石組みも、春の「山遊び」の際に積まれた石組み(塚)と研究者は考えています。讃岐の景色のいい山の頂上近くや川原にも、このような塚が積まれたことがうかがえます。それが後世になって用途が分からなくと、修験者が落人伝説と結びつけて「姫塚」と呼ぶようになったと私は考えています。
中寺廃寺Cゾーン 石組み
中寺廃寺Cゾーンの石組み(まんのう町) これが姫塚とされた?

 屋島から矢が飛んできたという岩、平家の落人と地元の兵たちが戦った弓取橋など、名もない塚などはすべて落人の塚として今に伝わっています。

大滝山 龍王山から大川 讃岐国図2
                  江戸時代初期の讃岐国絵図 
山田郡の下司 → 塩江 → 貝の脵川 → 堂床 → 雨島 → 横畑というルートが見えてくる
   美合村(まんのう町)横畑集落の宮本家に伝わる平家落人伝説について、香川県史14巻民俗編540Pは、次のように記します。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は海上へ逃がれることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、①高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀ったと言う②かまとこ地蔵、③平家乳母の塚、落人ゆかりの伝説がいくつか語り残されている。春日川上流の峰を越えると香川郡香川町、さらに山道は綾歌郡綾上町仲多度郡琴南町へと一直線上にけもの道が隠されている。 
ここからは横畑への落人の道は、次の2つのルートがあったようです。
A 塩江町から貝股川沿いに、浅木原を越えて、横畑へ入りこんだルート
B 綾上町柏原から西谷川沿いに郡境を越えて、まんのう町の雨鳥の郡境尾根から浅木原→横畑というルート
大滝山 龍王山から大川 讃岐国図

そしてこれらのルート途中には、次のような落人伝説があるようです。
雨島に平家落人の塚
前の川に四方塚
長谷に、体の弱った兵たちがはぜの木にまけたという地名由来
雨島峠4
           綾川方面からの美合への入口となった雨島峠

こうしてみると、どちらのルートにも落人伝説が散在しています。これは、熊野行者や高野聖などの修験者が、このエリアを行場や霞として通ってきていたからだではないでしょうか。それが横畑の宮本家に残る平家落人伝説につながることは以前にお話ししました。

雨島峠の寺蔵
雨島峠に建つ「二界万霊」地蔵
 香川県史14巻468Pには、通説のルートとは違うもうひとつの「義経が来た道」紹介されています。それは吉野川をさかのぼり、まんのう町勝浦を越えて来たというルートです。それを最後に見ておきましょう。
 勝浦(かつうら)とは縁起のよい地名だと勇みたった義経軍は、通る道が二つ分かれた、右するか左するか、ええい、真ん中を通るべしと野原の中央を通る。中通(なかと)と現在呼ばれる地点である。流れの激しい渕では馬を休める、渕の石には義経の馬のあとが岩にきざまれる。駒が淵を通り、物見の兵が山へあがる。雨島の遠見山である。平家姫君の塚がある山である。日が暮れて道がよくわからないので、松明に火を点じたところ、牛の尾に火がついて山の木立が燃えはじめた。このあかりで峠を越える。これが焼尾峠、琴南町から綾上町へ抜ける峠道である。
 
 山が燃えたので雨が降り出した。しぼり谷でぬれた衣をしぼったものの兵たちに生気がない。そこで義経は牛の子堂に祈願をこめる。「勝利に導きたまえ。我にお力添えをいただけるのなら、あかしを見せ給えと。そのとき山上から赤い子牛が下りてきて、先へ先へと歩いてゆく。木が茂り曲がりくねったところも牛に続いて歩けば道は開ける。曲木(もじき)・開(ひらき)と呼ばれるところ。萩戸から菖蒲を通り、四歩市、九十谷へ来たとは、いつの間にか牛が九〇匹となり、千疋へ来たときは牛が千匹にもなっていた。矢坪で矢の用意をし、牛の角松明をつけて屋島へと向かった。義経弁慶石のあるあたりは柴折り神さんとなり、柴を折って手向ける。
 東谷には、義経の馬の病気を治したという神職の話も残されている。
これらの話も、大川神社の別当を務めていた山伏たちが祭りや庚申講の時に夜を徹して話したことが伝わったものでないかと私は考えています。「平家落人伝説の影には、山伏あり!」です。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 
香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」
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  香川県史14巻民俗編には、旧琴南町中熊の造田家の聞取り調査報告が載せられています。今回はこれを見ていくことにします。

中熊と山熊神社

中熊は、明神の谷川うどんの前から琴南総合センターの前を辿って行くと、すぐに土器川支流の中熊川沿いに南斜面が開けます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。それでは県史の記述を見ていくことにします。

中熊下
中熊下 集落の中央に山熊神社が鎮座する ⑤が造田家

 (前略) 谷のほとりの幾分平たんな土地へ人々は焼畑を作り、日当たりのよいところへ住まいも建てた。美合中熊の集落も、谷川を前に山の根にしがみついたようなところである。①山熊神社の周りに農家が点在する小集落で、南面し住居のなかで②ひときわ大きい屋敷を地元の人は「土居」と呼ぶ。③造田氏の屋敷なのだが、屋号の土居の方が通りがいい。
                        香川県史14巻民俗編 546P
 
中熊の造田氏
中熊の造田家 土居屋敷と呼ばれる
 土居屋敷の隅に土蔵がある。ここにはシロフスマという妖怪が棲んでいると言う。
目が一つの大きなマノモンだと恐れられている。目が一つ、足も一本のシロフスマは、いつもは蔵の中に棲んでいるが、雪が降り出すと屋敷の中を歩きまわる。一本足の足跡が、ぽつんぱつんと雪の中へ残されるが降り積む雪で足跡は消される。土蔵の北隅には④護摩札が祀ってある。この護摩札がじーんと鳴りはじめるとシロフスマが現われると言う。造田家の当主が幼いころはなんとも恐ろしいマモノだったと言うが、このシロフスマは造田家の者にしか見えない。
DSC07541
中熊の山熊神社
 この造田家の当主が行かなければ祭りにならないというのが山熊神社の秋の祭りである。
⑤造田氏は、羽織袴の正装で神社へ出向き、頭屋の人たちとともに神輿にミタマウツシを行なう。谷川のほとりへはハッタンノボリという白布を八反つづり合わせた大きな幟を立ててある。ヨミヤの日にお旅所と社の前へ立てるもので、遠くからでもよく見える。
 祭礼の日、ミタマウッシの後、神輿はお旅所までおみゆきする神輿の先導に立つ若衆は、黄色いたすきを首の両側に垂らして道案内となり、頭屋が白い御幣を、⑥造田氏が五色の御幣を持ってく。
 谷川を隔てた対岸には大川山があり、大川神社が祀られている。⑦大川神社の祭神と、山神社の神さまとは姉と妹。山熊神社の玉垣の中で、大川から遊びに来た姉神が妹神と仲よく手まりをついて遊んでいたとか。美しい姫神は、とてもかわいい神であったとも言う

以上からは、次のような情報が読み取れます。
①②③からは、「土居」と呼ばれる中世居館を中心に造田氏が舘を構えたこと。造田氏の氏神として、山熊神社が建立され、周辺に集落が形成されたこと
④からは、土蔵の北隅には護摩札が祀ってあり、修験者による護摩祈祷が行われていたこと
⑤⑥からは、造田氏は祭礼儀式に重要な役割を演じていたこと
⑦からは大川大権現(神社)と山神さまは姉妹関係とされていたこと。

造田家文書によると、山熊神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。江戸時代の祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷設置が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。山熊神社は造田氏の氏神で、中熊は造田氏によって開発が始まったことが裏付けられます。
DSC07548
山熊神社の神木

それでは、山熊神社の祭礼者たちはどんな人達だったのでしょうか?
中熊神の観音堂について、佐野家に弘化二(1845)年の由来記には、次のように記されています。
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、(後略)

意訳変換しておくと

一、中熊寺の前庵に奉納されている弥陀観音勢至三尊仏は、法然上人の自作の仏たちである。もともとは大川宮の別当十二房の内の房久保に鎮座していた。ところが土佐の長曽我部元親の乱入の際に、僧房が焼き払われしまった。(後略)

ここには大川神社(当時は権現)には、別当が12坊あったと記されています。神仏混淆下の大川山は修験者たちによって開山され大川大権現と呼ばれ、役行者や不動明王が祀られた霊山でした。その霊山に仕えていたのが周辺の里に住み着いた修験者たちです。彼らが「別当十二坊」のメンバーたちで、その中に山熊神社の別当をつとめる社僧(山伏)もいたはずです。彼らは、里の拠点として、小さな別当寺を持っていたことが考えられます。
 同時に⑦には、「大川神社(大権現)と山神社は姉妹」とあります。各集落の人々と大川権現を結びつけたのも彼らです。彼らは芸能伝達者として、踊りや歌などの芸能を伝えると同時に、平家落武者伝説などの話から、妖怪話などまでいろいろな話を、庚申講などでは寝ないで夜を徹して語ったります。「庚申講=山伏による組織化=妖怪話や民話の豊富さ」が民俗学者からは報告されています。美合のソラの集落に、面白い民話が数多く残されているのは、大川山を中心とする山伏たちの活動が背景にあったと私は考えています。
DSC07551
       山熊神社 本殿

山熊神社を考える上で、押さえておきたいのが熊野行者との関係です。神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表です。


神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表
これを見ると中熊の山熊神社には祭神として、天神地祈(てんじんちぎ)が祀られていたことが分かります。
天神地祇は「天の神」と「地の神」を意味するあらゆる神々の総称で、熊野信仰は神仏習合の思想を基盤とした「甦り(よみがえり)」を願う信仰です。この二つは、日本の古代信仰と神仏習合の過程で深く結びついています。中世では熊野行者が信仰した神です。つまり、ここには熊野行者の痕跡が見られます。また、造田氏が熊野詣でをおこなうなど熊野信仰をもっていたことも推測できます。そして、熊野行者たちが、霊山大川山で活動していた痕跡が見えます。 

修験者たちは、どのようにして里に定住するようになったのでしょうか?
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。それに代わる霊山として参拝知るようになるのが、伊予では石鎚、阿波では剣への参拝登山ということになります。
 もうひとつ大川山周辺の修験者にとって大きな問題がおきます。それが阿波三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺の真宗興正寺派の教線の拡大です。三頭越や真鈴越から情熱的な真宗僧侶がやってきて、里の農民達を組織し、道場を開いていきます。これへの対応には苦慮したはずですが、それはまたの機会にします。山神神社と造田氏の関係ついて戻ります。
 
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山神神社 拝殿 
 山熊神社は、造田氏の氏神として創建されたとしました。
そのため造田氏による「特権的な祭礼儀礼」が取られてきました。それに対して江戸時代の中ごろになると、台頭してきた高持百姓たちが祭りの運営をめぐって反発するようになり、両者の間でたびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し、裁定を下しています。その文書によると造田氏の棟札特権は、大幅に縮小されています。例えば、棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼時に造田氏に認められていた桟敷も全廃されます。造田氏に認められたのは祭礼儀式の上で一部分だけになります。この動きをまとめておくと
①中世以来の造田氏一族の宮座独占に対する百姓達の発言権の高まり
②その反発を受けて「氏神」から「産土社」への転換
 この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「脱皮」を遂げたと言えるのかもしれません。県史に語られていた造田氏の役割は、幕末の「祭礼変革」以後に一部残された特権の名残とも言えるようです。

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中熊の山熊神社
もうひとつ押さえておきたいのは、中熊の住人たちは大熊神社の氏子となったと同時に、「大川権現の別当12坊」の社僧たちによって、霊山大川山の信者としても組織されていたということです。だから、住人たちは地元の神社の祭礼も執り行うし、共同して大川権現の祭礼にも共同して参加していたことになります。
以上をまとめておきます。
①美合の中熊集落は造田氏によって開かれ、その氏神として山神神社が建立された。
②造田氏の入植は、屋敷周辺が「土居」呼ばれるなど中世居館の痕跡を残すので中世に遡ることが考えられる。
③中世から近世にかけて中熊川沿いのエリアが開発され、中熊と呼ばれる集落を形成するようになった。
④江戸時代後半になって、中堅農民が台頭するにつれて造田氏に対する反発が強くなった。
⑤その一例が、造田氏による山神神社の祭礼独占であり、自らの参加を求めるようになった。
⑥これに対して大庄屋の調停で農民達の祭礼参加が認められ、造田氏の権限は大幅に縮小された。
⑦しかし、その後も造田氏は中熊で隠然たる力を持ち続けた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編546P 造田家

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横畑 平家伝説の里3
            横畑 阿波国境に面して竜王峠の北側に位置する
  横畑は、阿讃山脈の寒風越の北側にある集落です。かつては鵜足郡長尾郷六村の勝浦村に属して、鵜足郡でもっとも南にあり、阿波国と国境を接していました。

横畑3 三条神社
横畑は川奥集会所(旧川奥小学校)から明神橋を渡る
横畑へは三頭トンネルの手前を土器川支流の明神川沿いに遡っていきます。川奥集会所(川奥小学校跡)の手前を右に曲がって林道を登っていくと開けてくるのが横畑集落です。

まんのう町 横畑集落3
横畑から望む竜王山方面
谷を越えた南側には、目の前に阿讃山脈が連なります。奥の山々が竜王山に連なり、三方を山に囲まれた地形です。阿讃山脈の向こうは阿波なので、阿波の村々との交流が古くからあり、寒風峠を越えて阿波文化圏の強い影響を受けています。ある意味では、讃岐のソラの集落と云えるかもしれません。今回は、この横畑について「香川県史14民俗539P」に「村の起こりと旧家」と題して、フィールドワークの成果が報告されてますので紹介したいと思います。

横畑 三条神社.と宮本家jpg
横畑の三条神社と宮前の宮本家
横畑の集落でもっとも古いとされる宮本家には、次のような平久盛の子孫説が伝えられます。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は、海上へ逃げることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀った。(中略)
 平久盛一行は、横畑からさらに阿讃山脈の峠を越えて祖谷まで落ちて行くつもりであった。が、あまりにも兵たちの疲れが激しいので、ひとまずこの地に落ちつくこととした。持っていた旗さしものを倒して横に寝かせ、山を開きはじめた。旅さしものを横に寝かせたということで、横畑の地名になった。このとき、武士の数は七人になっていた。
横畑は不思議な地形で、南面した山肌は比較的ゆるやかで、落人が隠れ住むにふさわしい。ふもとからは見通すことができないが、こちらからは意外に遠くまで見渡すことができる。だから、明神川に架かった橋、もちろん、昔は橋の形も違っていたのだが、このところへ見張りの番卒をたて、さらに、背後の山と山との峠道にも番卒をたてて固めておけば、追捕の兵をかわすことができると、厳重な木戸口を設けた。橋のほとりからは、木戸番の墓というのが掘り出されたことがある。峠道のキビヂリ屋敷時は、かって番卒が住んだところと伝えられている。(香川県史14巻540P)
ここには横畑が、平家の落武者7人を中心に開かれたことが語られます。これをそのまま信じることは出来ません。平家の落人伝説は、修験者や山伏によって広められたと研究者は考えています。また、修験者が開発・開墾し、そこに定住した「坊集落」は、落人伝説と重なることころが多いという報告もあります。つまり、横畑は修験者の坊集落として開発されたという見方も出来ます。定住後の開発の様子を、次のように記します。
 
横畑 平家伝説の里
横畑
まんのう町横畑

一段一段と山を聞いた。山を開墾し始めた最初の地には、オコンドサンという小さな石を重ねたものが祀られた。県史14巻541P)
まず、②木を切り、草を刈枯らして火をつけて焼く。木や草を焼いたは、土とまぜて種を播はじめは、ヒエの種を播いた。庄次郎畑という名がついているから庄次郎という人が開いた畑だろうと言う。次郎畑にヒエが実った。ヒエを刈りとり束にして積み重ねた。日当たりがよく平たい地形のところをヒエグロと呼んでいる。
③このヒエグロの続きの土地へ七人の武士の一人が屋敷を構えた。
ヨモギと屋号で呼ばれる屋敷地は、かってよもぎ原だったと言う。平久盛の子孫という宮本家は宮の前とも川崎屋とも呼ばれている。他に、カミジ、フルヤ、ニシ、ナカウラ、カイケノシタ、ニギヤ、クリノシタと、おいおい人口も増えて戸数も増し、屋号も多くなってきた。宮本家へは阿波から嫁入りすることもある。
 ④宮の前と呼ばれる宮本家は、三条神社のすぐ近く、さしものにはじまり刀などさまざまなものがあったという。⑤平家ゆかりのものを奉納して三条神社を祀った。
ここからは次のような情報が読み取れます。
②には、焼畑から開墾が始まり、最初にヒエの種を蒔いたこと
③には、開墾地の近くに家を建て屋号で呼ばれるようになったこと
④には、建立した三条神社の前に、宮本家の屋敷が位置したこと
⑤には、三条神社には平家ゆかりのものが奉納仏としておさめられたこと

まんのう町 横畑 三条神社と宮本家
横畑の三条神社
しかし、現在は何も残っていない。こんな言い伝えのみが残されている。
 ⑥勝浦村明神の庄屋が、神社のものすべてを持って帰ってしまった。最初に畑を開いたところのオコンドハンまで運んでしまった。しばらくたってから、墓石を受け取りに来いと言う。オコンドハンは丸い石なので、どうも物石にしていたようである。この石が「横畑へいぬ、いぬ」と泣いたという。気味悪くなった庄屋が、石だけを返してきた。他のものについては何も言わない。横に寝かせたというさしものもこのとき紛失してしまった。
 また、三条神社が勝浦神社と合併したことがあった。寛文年間とも言われるが、その間、祭りも合併で挙行したのだが、勝浦神社の祭りでありながら、三条神社の氏子たちが上座に座って祭祀を行う。年の初めの祝いにも上を占めていた。

ここからは次のような情報が読み取れます。
⑥は横畑が江戸時代には勝浦村庄屋の管理下に置かれていたこと 
⑦横畑の三条神社と勝浦神社が合祀されたことがあったが、その時には、三条神社の氏子が各上扱いされた。 
(中略)(県史14巻542P)
宮本家のもうひとつの屋号、川崎屋というのは、伊勢の太夫さんが名付けてくれたものである。
 ⑧伊勢の太夫というのは、来田監物太夫のことで、長谷坂、半坂、勝浦、下福家、八峯、家六、谷田、粉所、猪之鼻、渕野、樫原 堀田 前之川、明神、中熊、川之奥、美角、横畑へとお札を配ってきていた。横畑では、松右衛門宅へ来てから峠道を越え、阿州の別床、伊沢へも足をのばしていた。監物太夫が、宮本家が水に不自由しているのを見かねて水を呼んでくれたと言う。同じくフルヤという家の井戸も掘ってくれ、双方とも現在まで使用中である。このとき、川崎屋という屋号をつけてくれた。
 伊勢の太夫へのもてなしはねんどろだったが、時節柄、御馳走はいらないと断った書状が残されているところをみると、かなり無理をしてもてなしていたことがうかがえる。
 ⑨二段になった聖地には、伊勢屋敷があり、お伊勢さんを祀っていた。二間半と三間の社を建て、年に一度太夫が来たときには参詣の後、ここへ籠もったという。そして、方々へお札を配って回った。現在は屋敷はなく小さな祠があるのみだが、一畝ばかりの土地は、聖なる地ということで人々は立ち入らない。
⑧からは、宮本家が伊勢太夫の伊勢お札配布の拠点となっていたことが分かります。このことについて、満濃町誌の記述を要約すると次のようになります。
A 横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきた。
B 伊勢太夫のための宿舎として「伊勢家(おいせやはん)」と呼ばれる二間+三間の平屋に、お伊勢さんが祀られていた。(⑨)
C 伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動を行った。
D 伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになった。
E 伊勢太夫の中でも来田監物は横畑との関係が深かく、農業用水や井戸など水源を開いた。それは「伊勢太夫が呼んだ泉」と呼ばれ、今も二か所残っている

まんのう町 横畑集落4
横畑からの望む龍王山方面
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしています。
その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
長谷坂 佐野甚平 (一宿)
半坂  佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)
下福家  古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)
谷田  牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)
所村  与平次 新谷村 牛田藤七 
猪の鼻  磯平 
渕野  次郎蔵 
樫原  梅之助、藤八 
明神  古川嘉太郎 中熊八百蔵 
中熊  源次郎 
川奥  西岡忠太郎 (一宿)
美角  七兵衛
横畑  拾右衛門 (一宿)
堀田  林兵衛
前の川  御世話人
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。
「横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えらた」とあります。
これについて、別の視点で考えて見ます。

坊集落・金剛院の性格は
坊集落としてのまんのう町長炭の金剛院集落
中世の熊野詣での先達たちは、修験者たちでした。それが次第に里に定住する者が現れます。彼らが開墾して、姿を見せるのが「坊集落」です。このあたりでは、まんのう町の金剛院が典型的な坊集落であると研究者は考えています。阿波のソラの集落にも、修験者たちが定住して坊を開き、周辺を開拓したところがあることは以前にお話ししました。
村に現れた聖たち

 彼らは修験者としての痕跡を持っているので、伊勢御師などの廻国の行者たちとのつながりがあり、保護・支援しました。横畑の宮本家も「伊勢家(おいせやはん)」という宿舎兼布教所を持ち、伊勢御師と深いつながりを持っています。宮本家も、もともとは修験者であった可能性があります。ここでは、このくらいにして県史の続きを見ていきます。  
 横畑から阿波の伊沢へ伊勢の太夫が行くのには理由がある。( 県史14巻543P)
七人の落武者が一段一段とだんだん畑を開いた。生活が落ち着くにつれ人口もおいおい増加し、そのなかの何人かが伊沢へ分村して行ったようだ。ある年のこと伊勢の太夫の都合が悪くなり、⑩横畑の者が太夫の代わりにお札を持って伊沢へ行った。ところが「炭焼きがやってきた」と伊沢の人たちは、横畑の者を粗略に扱った。別に大事にしてくれとは言わないが、お札を持って来たのであるからそれでは困ると伊勢の太夫に愚痴をこぼした。次の年、伊勢の太夫は、今年はこのお札を別に持って行き、夜は枕元へ置いておくようにと言った。さて、伊沢へ泊まった夜、伊沢の山々では山犬が騒いで恐ろしいこと限りがない。「どうしてこんなに山が荒れるのだろう」と伊沢の人々は言う。「それは伊勢のお札を大事におまつりしないからだ」と教えたという。それから、伊沢の人たちもお札を大切に祀り、横畑の者にも親切だったという。
⑩からは、伊勢御師のお札配布を「横畑の者=宮本家(?)」が行っていたと記します。以前見たように、伊勢御師の檀那とお札を配っているのは、「○○坊」と称する修験者や聖が多かったことは以前にお話ししました。これも宮本家=修験者起源説の補強になります。

三条神社横畑 平家伝説の里
横畑の三条神社
 三条神社の祭礼や正月には、必ず伊沢から参詣にやってきた。 県史14巻544P)
この阿波から来る人のために、寒風峠の道のミチツクリを毎年、十月三日に行なっている。阿波から来るという人のなかには、幼い者も混っているというが、まだだれも行き合った人はいない。
 寒風峠は風がたむろしているように吹きあげる峠道で、ここには物見やぐらがあって見張りをしていた。三頭越えをする人も、吉野川も見え、阿波の動静が一望にできるところである。また、何かのときには祖谷へ知らせ任務も帯びていたという。ここにも番卒の墓というのが十あまりかたまってある。これらは現在も宮本家が供養を続けている。(中略) 
 サルガフタエを行くときは、石鎚参りの山伏たちも、「ぼーぼー」と法螺貝を吹き鳴らして通り過ぎる。平家谷伝説が語られるのにふさわしい地形と言えよう。現在、道路はよく整備され、平家落人が聞いたという畑は茶の木に囲まれ一面のキャベツ畑になっている。
ここからは正月などには、伊沢から横畑の神社に参拝に人々が訪れていたことが記されています。それと、伊勢神社のお札配布はリンクします。つまり、伊沢集落は「修験者宮本家」のかすみ(テリトリー)であったことがうかがえます。
   修験者のなかで、定住した修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。

定住した修験者(里山伏)の活動は?

彼らは、村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山・山林の開発に携わる者もいました。そのため、庚申塔などには導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものが見つかっています。また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったようです。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

庚申信仰=山伏形成説
 庚申信仰を拡げた修験者(山伏)たち
横畑の山向こうの葛寵野の大師堂には、次のような話が伝えられます。
昔、一人の修験者が大きなツヅラを背負ってこの地にやってきました。
ツヅラの中は立派な仏像でした。修験者はこの地の草庵に住み着いて、付近の集落を托鉢する日日を送ります。そのうちこの仏像が霊験あらたかで、どんな病気もなおしてくれ、願いごともかなえてくれることが近隣に知れわたるようになります。そのため遠くの村々からも参拝者が相つぎ、葛龍野の急坂に列をなしたというのです。そこで参詣者には、風呂を沸かして接待して大変喜ばれたと地元では言い伝えられています。
 伝説かと思っていると、実際に使われた護摩札が残っているようです。
護摩札は、文化11(1814)年のものと、文政三(1820)年の年号があります。山伏がツヅラに背負って持ってきた仏像もあり、江戸中期の作とされています。実際に、山伏たちがソラの集落に定住していたのです。
近世初頭の山伏の業務内容

こうして見ると横畑にも修験者の痕跡がおぼろに見えて来ます。
「石鎚参りの山伏たちも、「ぼーぼー」と法螺貝を吹き鳴らして」ともあります。石鎚講の先達に率いられて石鎚詣でをする人々がいたことがうかがえます。また、阿波のソラの集落に住み着いた山伏たちは、剣山詣での先達としても活躍する一方で、いろいろな加持祈祷を行っていました。同じような雰囲気が横畑からも感じます。
以上が、横畑から竜王山を見ながら考えたことです。しかし、横畑からは大川山は見えません。見えるのは竜王山です。ここに坊集落を開いた修験者たちは、大川山ではなく目の前の竜王山や大滝山を霊山として崇め、周辺の行場修行に励んでいたことが考えられます。
大滝山には太龍寺があります。 

大滝寺2
大滝山直下の大瀧寺 神仏混淆時は、西照神社の別当寺

大瀧寺は寺伝によると、江戸時代には稲田氏から禄を与えられ、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林(寺領)として寄進されています。さらに髙松藩からは供米として五十石を与えられていたと記します。その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
 この大龍寺の影響力の下にあった修験者が開いたのが横畑ではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 仲多度郡琴南町美合地区 香川県史14巻民俗編539P
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本日の授業

中寺と大川山に登って、上のような「授業」を行いました。その5時間目を報告します。
中寺展望台で昼食後に、大川山へ向かいます。

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大川神社前の紅葉(11月16日)
モミジとイチョウが紅葉で迎えてくれました。真っ青な秋のソラが赤や黄色を際立たせます。参加者からの歓声の声が上がります。まさに天からのプレゼントです。

大山神社1
大川山頂上の大川神社
大川神社の鳥居の前で、大川神社のお話しをします。まず、現在の大川神社が、どのように語られているのかを説明版で確認します。

大山神社2 2025 11月11日
大川神社の由来
 この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀で出てくる神々と、その神話だけが書かれています。これでは、中世や近世の大川山については何も知ることが出来ません。古代の大川山は、霊山として人々の信仰を集めていたことは、1時間目にお話ししました。その信仰を担ったのは密教系の修験者で、霊山大川山の遙拝所として登場したのが中寺でした。つまり、明治以前には大川山は修験者(山伏)たちの管理下に置かれていたのです。それでは、江戸時代には大川山は、どのように紹介されていたのでしょうか。

讃岐国地図 大川山権現
大川山権現 讃岐国図(髙松藩が幕府に提出した絵図)
讃岐国図には、独立峰であることを強調する姿で「大川山権現」と表記されています。「権現」は、修験者たちによって開山され、そこに彼らの信仰する神や仏が祀られた霊山であったことを表します。ここからは、大川山が修験者の山として認識されていたことが分かります。ちなみに、西側の「篠田尾」は1時間目にお話しした「笹ケ田尾(タオ=鞍部)」のことです。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。

①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。
④かつては
天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が寄進した鉦鼓

 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。
⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと

これくらいの予備知識をもって、山伏たちの痕跡を探しにいくことにします。
大山神社神域
大川神社の宗教施設
まずは、拝殿の裏側の①本殿を直接に参拝させていただきます。

大山神社 本殿 2025年
大川神社の本殿
本殿は近年に改修され、覆屋ができて直接に見ることは出来なくなりました。以前の写真がこれです。

大川神社 本殿東側面

この本殿が先ほど見たように髙松藩の歴代藩主によって改修が行われたものになるようです。それでは、この本殿は、いつころ建てられたものなのでしょうか?。本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立と、同時期に建立されたものと研究者は考えています。

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど説明版で見たように、現在祀られているのは上表下側の神々です。しかし、明治以前には大川山権現とされていました。権現と名が付く山々では、石鎚山などのように蔵王権現と役行者が祀られていました。
権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大山大権現の別当寺・新宮寺の役割を果たしたのが中寺廃寺でした。中世になって中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖としていた役業者や蔵王権現がもっとも相応しいことになります。 

石鎚 蔵王権現
石鎚山山頂に運び上げられる蔵王権現

高越山 役行者
阿波 高越山の役行者

修験道の成立と蔵王権現の登場

 明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように大川山からも権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っていることを押さえておきます。
 次に見ておきたいのが本殿の後側の石垣と玉垣で高く築かれた神域です。

大川神社3
            緑の屋根が本殿の覆屋 その手前のふたつの燈籠が並ぶ所
高い石垣を組んだ方形の区画があります。正面に立ってみます。
大川神社 松平家御廟
髙松松平藩の霊廟
階段がないので上れません。登れない聖域なのです。先ほど見たように本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたことが考えられます。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大川山権現のランクを高める物になったでしょう。
 次に見ておきたいのは、神域の西北隅にある小さな神社です。

大川神社 秋葉神社2
           大山神社の神域の玉垣(明治28年 日清戦争の戦勝記念?)
玉垣の北西隅に鳥居があります。

大山神社 秋葉神社3
鳥居には秋葉神社とあります。
秋葉大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神です。もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
 秋葉大権現の三代誓願は次の通りでした。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
秋葉大権現
 その姿は飯縄権現や愛宕権現と同じように白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿で描かれました。飛行自在の神通力を持ち、観音菩薩の化身(本地仏)ともされます。ここからは天狗信仰の修験者に担われて秋葉大権現が大川山に勧進されたことがうかがえます。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。 しかし、この秋葉神社が鎮座する位置は微妙です。

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大川神社神域の外に鎮座する秋葉神社
横から見ると、鳥居は神域の玉垣の内側ですが、社殿は石垣の外側に鎮座しています。これをどう考えればいいのでしょうか? 大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したのなら内側にあるのが当然です。しかし、どうみても玉垣の外にあります。

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              大川神社の玉垣の外に鎮座する秋葉神社
 もともとは神域の中にあったのが明治維新に「秋葉大権現」なので「秋葉神社」と改名し、その後に神域の外に追いやられたことが考えられます。その時期は、玉垣が整備された日清戦争後のことでしょう。しかし、もともとの信者たちの抵抗で、鳥居と入口は神域内に残されたのではないかと私は推察しています。そうだとすれば大川山周辺には、秋葉大権現を信仰する人達が数多くいて、講組織を作っていたことがうかがえます。その背景として考えられるのが、ソラ(山間部)の焼畑です。焼畑では、火を使います。火をコントロールし、最後にはきちんと鎮火させることが大切です。その火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。ここでは火を扱う焼畑の神様として、ソラの集落の人々の信仰を集めていたとしておきます。これも山伏たちの残した痕跡です。

神輿蔵の裏側に、ふたつの石造物が残されています。

 大川神社 魔除寺蔵と不動明王
            大山神社神域の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
 左が魔除け寺蔵です。地蔵信仰は、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。これを広めたのも廻国の修験者や高野の聖であったとされます。右は不動明王のようです。

P1290012
                大山神社の不動明王
不動明王は修験者が守護神として大切にした明王です。小さな不動明王像を持ち歩き、行場に入るときには安置して外敵や己の弱い心を打ち砕いたとされます。大山神社に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。
 
大川神社 龍王社
大川神社の龍王堂
本殿の東側に、東面して建っているのが龍王堂です。
どうしてここに龍王堂があるのでしょうか。それは龍王が雨を降らせる神様とされたからです。空海祈雨伝承では京都の神仙苑の池で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされてきました。これが近世になって讃岐にも拡がるようになります。そうすると、雨乞いが行われる山には、修験者たちによって龍王神が祀られるようになります。こうして大川山も雨乞いの霊山として信仰を集めるようになります。もともとは山頂に小さな池があったというのも、そこが善女龍王の住処であったことを暗示しています。ここに龍王神が祀られているのは納得できます。それを主導したのも、芸能伝達者としての修験者たちであったと研究者は考えています。彼らが、近世後半になると風流踊りを雨乞踊りにアレンジしていきます。これは滝宮念仏踊りや、佐文綾子踊りと同じ流れです。その背後には、修験者の姿が見え隠れします。
以上見てきた大川神社の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの施設は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。それではこの聖域が作られてのは、いつなのでしょうか。玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備されたことが分かります。現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。
 
中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺の遙拝殿跡から望む霊山・大川山
最後に中寺が衰退した後の大川山権現が歩んだ道程について考えておきます。
古代国家によって建立された山林寺院は、中世になって国衙の保護を失うと急速に衰退します。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。中寺に替わる勢力が、大川山を行場として活動するようにます。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説として最後にお話ししておきます。
  五流修験は、紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて分社したのが五流です。そのため「新熊野」とも呼ばれます。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとって泣き所は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領の児島に分社されたので高い山(霊山)がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚・大三島・宮島などです。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍の船に乗り込み、瀬戸内海や九州にも布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の丸亀平野にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは土器川・金倉川沿いにまんのう町にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡を地名で見たのが次の表です。

霊山大川山と五流修験

大川山の北側の麓には「吉野」、南側に勝浦の集落があります。吉野修験のコリトリ場として天川(てんかわ)が有名です。これは造田に天川神社としてあります。ここで身を清めて大川山に参拝したのでしょう。これらは熊野や吉野にある地名です。また、山伏たちが開いた坊集落が炭所の金剛院です。中寺が中世に衰退した後は、五流修験のネットワークの中に大山大権現は組み込まれていたと私は考えています。
本日の授業

 以上で、本日の授業を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社の玉垣と紅葉(2025年11月11日)
参考文献
 大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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本日の授業

ハイキングで中寺の遺構をめぐっています。前回は展望台と、B(祈りゾーン)で「授業」を行いました。今日は3限目をA(仏ゾーン)で行います。

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の3つのゾーン
Aゾーンの遺跡は、旧郡境尾根の東側のテラスに点在します。このあたりが前々回に見た江戸時代末の絵図には、「中寺」と表記されていた所になります。ここには、次のように本堂と仏塔があったとされます。
「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔

中寺廃寺 A(祈り)ゾーンの復元図
仏塔跡で3限目の「授業」を始めます。

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3時間目 中寺廃寺A(仏ゾーン)の塔跡にて
塔跡の発掘時野の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
 中寺廃寺A(仏ゾーン) 塔跡の発掘時写真
正方形に礎石が並んでいます。4つの礎石なので三間×三間の正方形です。真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。そして、この心礎から出てきたのが、次の土器です。

中寺廃寺 心礎地鎮用2
中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器

中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
①地鎮祭用に埋められたもので、10世紀前半のもの。
②製作場所は、綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯。
③特徴しては、赤みが強いこと
②からは、地鎮祭用に作られたとすると、この塔が作られたのも10世紀前半のことになります。時期的には、国司としてやって来ていた菅原道真が帰った後のことです。③からは、このような赤みを出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの手の込んだ仕上げが必要になるようです。どうやら、この壺も国衙の発注で焼かせた可能性が高いようです。そうすると、ここにも讃岐国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたと研究者は考えています。

次に仏塔の上の仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。
中寺廃寺 A遺構仏塔2
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡

最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。
礎石の数から大きさは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)です。いまから見ると非常に小さい本堂になります。小さなお堂のようです。ここからは、10~11世紀の遺物が出土しています。さきほど見た塔と同じ時期に建てられたようです。
①平面図を見ると本堂と塔は、両方とも真南を向いています。
②本堂は小さく、その中で儀式を行う事はできません。
③そこで考えられたのが本堂前に広場をつくり、野外で儀式を行うこうことです。
④全国の類例を探すと、古代の山林寺院には、この規模の本堂があるようです。
⑤山林寺院として出発した屋島寺の創建時も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、これが古代の山林寺院の姿だったようです。
⑥そして伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺様式だと研究者は考えています。
中寺廃寺 A 本堂から塔跡
中寺廃寺 A(仏)ゾーン 本堂跡から見る仏塔跡中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図

以上の情報をまとめて、推察します。
中寺廃寺への国衙の関与2
中寺廃寺の出土品が物語る国衙の関与

A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式でした。また、心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。つまり、地鎮用の須恵器は、国衙がこの寺のために作らせた特注品です。
以上から、中寺建立には国衙や国分寺の力が働いていたことがここからも裏付けられます。しかし、このAゾーンの仏教施設が登場するのは、Bゾーン(遙拝所)の割拝殿より半世紀後のことになります。歴史的に云うと、山林修行者が活動していた霊場に、国衙が仏施設を後からプレゼントしたとも考えられる関係になります。言い方を換えるなら、霊場大川山の遙拝所に、仏教施設が国衙によって接ぎ木されたとも云えます。このあたりの関係が面白い所です。

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礎石に座って一休み 仏塔跡にて 当時は前の木々も切り払われ、大川山が目の前の見えたはず・・

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間です。これが菜園だというのです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図 上のテラスには菜園があった?

発掘以前には、仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくるのでは期待していたそうです。しかし、出てくるのは、直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。しかし、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシや鹿の対策に柵が必要だったことが分かります。中寺でも生活のために野菜などが、日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。

 それでは午前中のまとめに入ります。パンフレットの表紙をもう一度見てください。

中寺廃寺と空海

ここには、いままで見てきた建物などの出現期が表にまとめられています。中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末でした。また、ここから発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年で、空海の20歳台のことです。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身は太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この間に中寺を訪れていたことは十分考えられます。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説
 もうひとつのチャンスは、821年の満濃池改修工事の時です。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海による満濃池修復想像図(大林組) ①が、護摩祈祷を行う空海
この時に空海は讃岐に帰ってきたと伝えられます。後の史料には工事成就と安全祈願のために護摩壇岩で護摩を焚いて祈祷を行ったと記します。その時に、どんな神様に祈願したのでしょうか。先ほど見たように、満濃池の正面に見えるのが大川山です。
満濃池と大川山2
満濃池から見上げる大川山
空海は、大川山に向かって祈ったと私は思います。当然、祈祷の前には中寺に参籠し、大川山に行道していたことが考えられます。満濃池修復の際に、空海は大川山に向かって祈願した可能性はあります。

これで3限目は終わりです。
予定していた4限目のC(願い)ゾーンについては、時間がないので現場には行かずに「リモート」で、次のようなお話しをしました。
パンフレットの地図を見てください。
中寺廃寺 3つのゾーン2

A・Bゾーンから谷を隔てて、向かいに河原場があります。そこにあるのがいくつもの石積み(塔)です。
中寺廃寺Cゾーン 石組み

この石組は、平安時代にさかのぼるものであることが分かりました。平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。河原に石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為(=供養・願掛け)の一つとされました。人々が霊山である大川山への参拝の時に、ここを訪れ、石を積んで石塔を作り、祈った場所と研究者は考えています。
 平安時代に丸亀平野に棲むの人たちは、春にはその年の豊作を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などに、霊山である大川山に参拝にやって来ました。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願にやってきた人達が、参拝道の周辺にある河原を訪れて、願いや供養を込めて石を積んだというのです。それが1200年前のままで残っています。平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所と云えるかもしれません。
 このような平安時代に庶民が積んだ石塔が見つかるのは、ここが初めてでした。ふつうは後世の人達によって石が転用されたり、破壊されることが多いのです。それがここには残っています。忘れ去られた場所だったから、そのままの姿で残ったと云えるのかもしれません。
   Cゾーン「石塔」は、大川山や中寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったとしておきます。これで午前のお話しを終わります。午後は、大川山でお待ちしています。

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中寺廃寺から旧郡境尾根を笹ケ田尾へ向かう
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追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

中寺・大川山でお話しした時間割です。

本日の授業


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中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。

山林寺院の役割

 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。

富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。
③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。 
 若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。

空海が行っていた修行

①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。

誓願捨身2 高野空海行状図画
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。

山林寺院出現の背景

それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
 ③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
 これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。

中寺廃寺 3つのゾーン2


上地図で現在地点の展望台を確認してください。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
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           Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山

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見上げると大川山
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2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。
石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。
 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

三鈷杵と柵状の破片

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

飛行三鈷杵との比較

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊

ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。

割拝殿とは・・
Bゾーンの割拝殿
ここから霊山大川山を仰ぎ見て祈りを捧げる拝殿ということになります。

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そして、中央に通路があって分かれているので「割拝殿」と呼ばれます。

そして、割拝殿の下の斜面を平らにして造られた僧坊跡を見ます。

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2限目 中寺廃寺 Bゾーンの僧坊跡にて
ここからは柱穴から変わった瓶が出てきました。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
いくつもの口があります。これは日常生活に使われるものではなく、仏事に使われたものです。これを復元すると下のようになります。

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶
現在の考古学では、土器編年体表が整備され、いつどこで作成されたかが専門家には分かります。
多口瓶(屋島寺・法勲寺)
中寺周辺の寺院から出てきた多口瓶の類例

この多口瓶が物語ることを整理しておきます。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと
②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること
③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。
④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと
⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと

最後に1・2限目のまとめを行っておきます

割拝殿 祈りの場

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


HPTIMAGE

中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
⑨9世紀半ばになって、讃岐国衙や国分寺の保護を受けてAゾーンの仏教施設が現れる。

ここからは、中寺で活動をはじめたのは山林修行者であったこと、その信仰の中心はBゾーンであったことが分かります。佛教的要素は、それに遅れて入ってきたことになります。また、若き空海が中寺で修行を行った可能性が生まれてきます。

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2限目終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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 11月16日(日)の勤労者山岳連盟のハイキングに招かれて、中寺と大川山でお話しすることになりました。本隊は江畑から登りますが、体力に自信のない私は笹の田尾(峠)の駐車場まで車で登ります。そこから車道を歩いて下って、中寺展望台で合流するという流れです。その模様をアップしておきます。
中寺廃寺 アクセス

中寺・大川山マップ
中寺・大川寺ハイキングマップ(まんのう町教育委員会) 各登山口に置いてあります。

 登山口の中通の野口から車で40程度で大川山への分岐を越えて、阿波大平の県境稜線尾根に出ました。ここではもう落ち葉が車道を埋めています。

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大川山西側の大平の県境尾根
このあたりのことについては、江戸時代末に高松藩主が鷹狩りと称して、大川山周辺の阿波との国境視察をおこなった時の模様が造田村庄屋の西村文書に記されています。そのルートは、次の通りです。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
この絵図からは次のようなことが分かります。
①大山社の西側の尾根筋には鳥居があったこと。
②この鳥居ルートが江畑・塩入や阿波の大平からの参道になっていたこと
③絵図の右端(西側)の尾根の分岐が「笹ケ多尾(タオ=峠)」と呼ばれていたこと
④「笹が多尾」から北西に伸びる尾根が中寺へのルートであったこと。
⑤大川山と笹が多尾を結ぶ県境尾根の北側は「新御林」とあって新たに藩の管理する山林に指定されたこと
この辺りの山林は髙松藩の藩有林で、それが明治維新に国有化され、一部は個人や各村に払い下げられたようです。
 大平への車道を一旦下って、分岐を笹ケ多尾へと登っていきます。高原キャベツ畑の奥の稜線上に中寺駐車場があります。

中寺廃寺 駐車場
笹ケ多尾の中寺駐車場

ここからの車道は一般車は通行できません。急勾配なコンクリート道を下って行きます。

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。先ほどの絵図と同じように、殿様の国境視察時に時に、藩の求めに応じて造田村の庄屋西村市大夫が作成し提出したものです
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ田(多)尾」
③「笹ケ田尾」から江畑へ伸びる郡境尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
同時に次のような報告書も提出しています。
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。これに対して、藩はさらに詳しく知らせよと求めてきます。それに対しての造田村庄屋・西村市太郎の返答書です。
飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だというが、何免(村)にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」の尾根ルートは、かつては那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④このルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていて西側には鳥居もあったこと

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笹ケ田尾から急な車道を30分ほど下ると見えてくるのが休憩所です。
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中寺休憩所
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この休憩所は避難所の役割もあるようですが、バイオトイレがあるのがありがたいところです。
この休憩所のそばを通って林の中を抜けて行きます。

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中寺展望台と仏ゾーンへの分岐点
北側が明るくなると展望台はすぐそこです。休憩所からは5分弱です。
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中寺展望台
ここからの展望は「丸亀平野を見下ろす随一の展望」とありますが、そのとおりだと思います。
中寺廃寺 髙松方面展望
         髙松方面 屋島・その後ろの小豆島・峰山・その間にサンポート 

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                     髙松方面 
伊方原発など西からと、阿波の水力発電所からの高圧送電線が変電所に集まる。その向こうが屋島と小豆島。
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坂出方面 五色台・城山・飯野山 手前の尾根は長尾の城山から大高見峰

中寺廃寺展望台1
     丸亀・善通寺方面 直下に満濃池・その向こうが象頭山・その左が荘内半島
空海の生まれた善通寺と五岳も見えます。善通寺と満濃池と大川山が一直線に結べます。満濃池は、空海が改修したといわれ、工事中は護摩壇を築いて祈祷を続けたとされます。その間も空海は、この山を見上げ睨み続けていたのかもしれません。
 瀬戸に浮かぶ島々としては、小豆島・瀬戸大橋・本島・広島・高見島・荘内半島・紫雲出山・伊吹島がそれがパノラマのように一望できます。塩飽の島々や備讃瀬戸を行き交う船も見えます。瀬戸内海は古代から富と人の通る大動脈。ここを押さえることは、戦略的意味があります。中寺には髙松藩の殿様も鷹狩りと称して阿波藩との国境視察のために訪れたことはさきほど見た通りです。初めて江戸から帰国した若殿に対して、育成係はここでどんなことをレクチャーしたでしょうか。
こんな山を国見山とよびます。
国見山とは、領地が一望出来て、領内の異変などをいち早くとらえて通報することのできる場所でもあります。その意味では大川山は戦略的な意味を持つ山でした。支配者としては、監視人を置いておきたい場所です。 

中寺展望台から丸亀平野
中寺展望台からの満濃池と、その左手の象頭山
快晴の中、展望台でボケーとしながら考えていると、江畑からの本隊が登ってきました。一休みした後で「授業」開始です。
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中寺展望台での1時間目授業
本日の時間割は次の通りです。
本日の授業


与えられたテーマは 中寺廃寺と大川山についてですが、この2つに空海を搦ませてお話ししたいとおもいます。時間割は上図の通りです。昼食後の5限目に大川山にいって、大川山と中寺が神仏混淆下で、一体であった痕跡を探そうと思います。こんな時間割で進めていきたいと思います。
以下は、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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土器川の流路変遷を研究者は次のように考えています。

金倉川 土器川流路変遷図
土器川は、台風などの洪水時にはまんのう町の長炭付近で平野に出ると、暴れ龍となって次のように幾筋も分かれて瀬戸内海に流れ落ちたようです。
①は、一番西側の紫ルートで金倉川や弘田川の流域を経て白方方面へ
②は、櫛梨山をまわりこんで生野・与北町から現在の河口方面へ
③は、祓川橋付近から垂水から八丈池→金丸池→道池を経て現在の河口へ
④は、小川・法勲寺から大束川に流れ込んで川津・宇多津方面へ
④の破線は、長尾・打越を抜けて岡田台地を下って、大窪池から大束川へ
この中で④破線の流路(長尾→打越→岡田→大窪池)については、分かりやすい史料が手元にありませんでした。そんな中で「今昔マップ」で遊んでいると、「傾斜量図」という機能があるのを見つけました。この機能で描かれた地図で④の旧流路を追いかけて見ることにします。まず現在の打越池周辺の地形を押さえておきます。

土器川旧流路 長尾から打越
         まんのう町長尾・佐岡附近の土器川 左が現在、右が傾斜量図
現在の土器川は、打越の南側を流れています。しかし、土地利用図でみてみると

土器川 旧河道(打越峠周辺)
           土器川の旧河道跡 長尾 → 打越 → 岡田  (土地利用図)
土地利用図を見ると、長尾から打越に向けての旧流路跡が残っています。
ここからは、旧土器川は打越峠の下を岡田方面に流れていたことが分かります。
現在でも長炭の亀越池に蓄えられた用水は土器川に落とされ、長尾で取り込まれて打越池にストックされて、岡田台地の仁池や大窪池に配水されています。ここでは土器川は打越峠を浸食し、ここを流路としていたことを押さえておきます。 打越池周辺を今昔マップで拡大してみます。

打越峠
今昔マップ 左が明治39年測量図 右が傾斜量図
傾斜量図からは、打越峠の西側が一段低くなっていて、用水路が通過しています。先ほど見た土器川の浸食作用で、ここが切り開かれたようです。
次に打越池を超えた土器川は、どうなったのでしょうか。研究者は次のように記します。

岡田・上法勲寺断層

岡田台地は丸亀市飯山町から綾歌町にかけての土器川右岸にある台地で、①約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地です。②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖とされますが、崖そのものは南東から北西に流れた③古綾川によって浸食された段丘崖です。断層はその北側の平野に伏在している可能性があります。

要点をまとめると
①岡田台地は約10万年前の土器川の扇状地が段丘になった台地
②岡田台地の北縁の崖は岡田断層による断層崖
③その崖を古綾川が浸食した段丘崖
以上を言い換えると岡田台地は、土器川の堆積で出来た扇状地に「東西圧縮」の力が加わり、南北にいくつもの尾根が走る台地になったようです。その時に形成された台地を「古綾川」が浸食して、それが現在の段丘崖だというのです。それを地図で見ておきます。

土器川と綾川の旧流路
①が土器川の旧流路
②が綾川の旧流路(古綾川)
③旧土器川も、古綾川も、現在の大束川に流れ込んでいた
④旧土器川の扇状地である岡田台地が上図の茶色部分
⑤その台地の北側を②の綾川が侵食し、段丘崖が南東から北西に形成された

②の羽床の古綾川の屈曲点を見ておきましょう。
綾川シラガ渕
綾川の羽床での流路変更について
①南西から北西に流れてきた綾川は、堤山の北の「しらが渕」で東に大きく流れを変えて滝宮方面に向かう。
②しかし、かつては堤山と快天塚古墳の間を西に流れ、富熊を経て大束川流域に流れ込んでいた。
③近世には、渡池(斜線部)が綾川から取水して、富熊方面に供給していた。
旧土器川の扇状地だった岡田エリアが「東西圧縮」を受けて台地となります。そこを土器川はどんなルートで流れたのでしょうか。
土器川 旧河道(打越峠から大窪池)
打越池から大窪池への土器川の旧河道
土地条件図を見ると、打越池から大窪池には旧土器川の侵食によって出来た旧河道が今も残っています。その河道跡に近世になって、いくつもの溜池が造られています。段丘崖の末端部に作られた大窪池と仁池は、その中で最大のものになります。

大窪池から法勲寺 土地条件図
             旧土器川流路 大窪池から法勲寺周辺
旧土器川の流路は、大きく窪んでいました。そこに近世になって造られた溜池は大窪池と名付けられます。この辺りは流路が変更してからも、出水が湧きだしていて農業用水の水源地でした。ここからの用水を利用しながら法勲寺周辺の古代の開発は進められたと私は考えています。

大束川旧流路(旧土器川の流れ込み)
                    旧土器川の流路跡
大束川・飯山の古代遺跡


 飯野山の南側エリアには、旧土器川と古綾川が流れ込んで、遊水地となっていたことが考えられます。
この状態が、いつまで続いたかは分かりませんが、弥生時代に稲作が始まった頃は、低地部の周辺の微高地に住居を造って生活していたようですが、これも洪水が来れば流されています不安定なものだったのかもしれません。
古墳時代後期になると、集落遺跡の立地に変化が出てきます。
岸の上遺跡や名遺跡など大束川低地の中央の旧河道近くの微高地上で、竪穴建物や総柱建物が姿を見せるようになります。名遺跡からは古代の自然流路と水田跡が出てきて、微高地の上に集落を作って、その周辺の低地を水田として開発したことがうかがえます。低地への進出が始まります。

白村江敗北後から壬申の乱にかけての7世紀後半頃になると、岸の上遺跡には大型掘立柱建物群を持つ郡衙的施設が現れます。
8世紀前半頃には、この施設に沿って南海道が伸びてきます。そして、郡衙周辺には条里型地割が進められていきます。この時期は「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」と、大規模な土木工事が行われた時期になります。鵜足郡の郡司は、このような古代国家の求める土木工事を担当・遂行することで権益を確保していったのでしょう。 沖遺跡周辺では、大型掘立柱建物群が東原遺跡や遠田遺跡などから見つかっています。岡田台地上の開発が活発化していく様子がうかがえます。また、沖遺跡南方に近接する沖南遺跡からは、法勲寺と同文の軒瓦や多くの輸入陶磁器類が出土しています。ここに氏寺としての法勲寺を建立した鵜足郡の住居があったことが考えられます。それを敢えて予想するなら神櫛王伝説の主人公である古代の綾氏が浮かんできます。坂出の福江を拠点に、大束川沿いに内陸部に勢力を伸ばしてきた綾氏の活動とダブらせておきます。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

以上をまとめておきます。
①旧土器川は打越峠を浸食し、その北側に扇状地を形成した。
②扇状地はプレートの東西圧縮により岡田台地となった。
③岡田台地の北側の先端を「古綾川」が浸食し、段丘崖を形成した。
④土器川・綾川は、どちらも大束川に流れ込んで、飯野山の南側の低地を遊水地化した。
⑤流路が変更されると、遊水地は河床平地となり、弥生人が定住するようになった。
⑥しかし、台風などの洪水時には微高地の住居は流され、生活は不安定であった。
⑦白村江敗北後の7世紀後半になると、「城山築造 + 南海道敷設 + 郡衙建設 + 条里制工事」を進める勢力が現れ、開発が進められた。
⑧これを進めたのが古代の綾氏の一族で、古代寺院の法勲寺などを氏寺として造営した。

綾氏と法勲寺開発

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.192724&lng=133.866477&zoom=15&dataset=takamatsu&age=5&screen=2&scr1tile=k_LCM25K&scr2tile=slopemap&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


借耕牛のことについてお話しすることになったので、改めて「借耕牛の研究」を読んでいます。
借耕牛の研究 四国農業試験場報告(第6巻)

1962年に発表された論文なので60年以上経っていますが、借耕牛についてこれに優るものはありません。読む度に新しい発見があります。改めて気づいたり、「発見」したことを補足しておきます。
借耕牛は、阿波の貸方と讃岐の借方の最短距離に近い峠を越えてきました。

借耕牛 搬入ルート

借耕牛の阿波供給地
丸亀平野には美馬・三好郡のソラの村々の借耕牛がやってきた

5借耕牛 峠別移動数jpg


堀川氏は次のように記します。

「猪鼻峠を汽車が通過するまでは西讃地方の借耕牛は全部各峠を通っていた。その数,何千頭にものぼり、その当時は県道も開通せざりし故俗にいえる往還を毎日毎日14日~15日位,道も通れぬほど,耕牛が続き牛の腹に釣りたる鈴が終日,チリン,チリンと鳴り続けたるを覚ゆなり」

関田氏は次のように記します。

「当日は一大市場の如く牛群の往来を遠方より望むときは恰もキャラパンの如き壮観を呈すると云ふ」

小野蒙古風5

借耕牛 美合口
美合口にやってきた親子連れの借耕牛

借耕牛 塩入
まんのう町塩入に集められた借耕牛
借耕牛 財田戸川
財田町戸川での借耕牛の取引風景

借耕牛の貸出は、かつては博労(ばくろ)の家や仲継所へ牛の持ち主が連れて行きました。しかし、昭和30年代になると、遠い村では頭数がまとまれば、地元業者がトラックに載せて運ぶようになります。
 借耕牛の「追い上げ(貸し出し期間)」は、戦前では次の通りでした。
A 夏は毎年6月1日ころより中日(6月22日)の前日までで、7月3日の半夏の翌日4日まで約1ヶ月間貸借し,4日には必ず返す
B 秋は11月1日ころより約2カ月後の俗にいう「おたんや」の翌日返す
 秋の場合は、かつては麦の除草に牛を使ってから返すのが常でした。それが昭和30(1955)頃になると、レンタル期間は以下のようになります。
借耕牛 貸し出し期間
             借耕牛のレンタル期間
上表からは次のような情報が読み取れます。
①借りた日は6月7日を中心としてその前後数日間で、6月10日以後になることはなかった。
②夏の返却日は7月2~3日が多く、半夏に田植えの足洗いがおわると返却する。
丸亀平野では満濃池のゆる抜きが6月15日でした。満濃池の水がやってくる前に荒起こしをして、水が入れば代掻き → 田植え → 7月4日の半夏の足洗いとなります。その期間がだいたい6月一杯となります。田植えが終わると、牛は阿波に帰っていきます。

田起こし 長崎県佐世保市
牛耕荒起こし(佐世保市)
 秋のレンタルの開始日は11月7日を中心に前後数日間で、11月10月以後にはありません。秋は、稲の収穫が終わった後に、麦を蒔くための田起が行われます。

畝立てと麦まき 白木町
秋の田おこしと麦まき(白木町)

麦まきと畝立て 牛耕
麦まきのための田起こし
秋の返却日には広い幅があります。その中心は12月5日前後ですが、それ以降も相当数が返却されていません。これは麦の牛で中耕を行なってから返すもので、従来は2ヵ月程度のレンタル期間だったようです。それが戦後には1ヶ月程度に、ずいぶんと短くなっています。
借耕牛の秋のレンタル期間が短くなった要因は何なのでしょうか?
これは麦まきが終わってからも中耕のために、その後も約1ヵ月借りておくのが経済的かどうかという次のような要因があると研究者は指摘します。
①讃岐の農家は農作業が終了したら飼料費がかかるので、一日でも早く返したい
②農家によっては少し休息させ飼いなおさないと可愛そうだという心理もある
③阿波の貸方農家の心情としては、大切な牛だから仕事がすめば1日でも早く無事な姿をみたい
④反面少しでも飼いなおして、元の状態にもどして返してもらいたい
返却時期の設定については、双方の複雑な思惑や感情があったことを押さえておきます。

阿波では借耕牛は「米牛」と呼ばれました。それはレンタル料として米俵2俵を背中に乗せて帰ってきたからです。これは春秋で、約一石前後になります。

借耕牛 美合落合橋の欄干
まんのう町明神橋の借耕牛 左右に米俵(60㎏×2)を背負っている。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

上表のように牛の力量や能力、需給バランスなどによって、価格格差があったようです。
 また、米で支払われていたのは明治末期までで、大正末期にはほぼ現金に代わったことは以前にお話ししました。そして昭和14(1939)年に米穀配給統制法が制定されると、米が国家統制下に繰り入れられます。これによって支払いは総て現金払いとなります。つまり、戦後には米俵を背中に積んで阿波に帰る牛の姿は消えていたのです。 
借耕牛 現金へ
借耕牛レンタル料の米から現金への変化時期

借耕牛は、何軒で利用されていたのか?

借耕牛 荒起こし

借耕牛を何軒もの家で使い回して、その結果痩せ細って牛は帰ってきたという話が伝わっていますが本当だったのでしょうか? これを資料で確認しておきます。
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上図からは次のような情報が読み取れます。
①昭和28年(第1次調査)では、個人(一戸)利用約36%、共同利用が64%
②昭和32年(第2次調査)では、個人(一戸)利用が24% 共同利用が76%
③2次調査では、3~4戸による共同利用が30%に増えている。
④一戸利用の牛の耕耘面積が6~8反なのに対して、4戸ではその倍近くに増える。
確かに、借耕牛を3~4軒で使い回すことがあったこと、そして耕耘面積も広くなり、牛にとってはハードになることを押さえておきます。

最後に 「借耕牛の研究」の論旨を要約整理しておきます。
①借耕牛は、阿波からの讃岐への「人による出稼 →人畜共稼 →家畜のみの出稼」へと発展ししたもの。
②阿波の 畑作商品作自給農業と、讃岐の水田作副業農業という対照的性格の上に借耕牛は成立した。
③つまり阿波は成牛で生産使役、讃岐は仔牛育成で借耕牛依存という形に発展した
④借耕牛の流通は, 貸方は徳島県三好, 美馬郡で, 借方地帯は香川県の綾歌, 仲多度両郡を中心に東西へ広がった。 
⑤大正初年には3,000頭、昭和5年には5,000頭, 昭和10~15年の最盛時には8,000~8,500 頭が阿讃の峠を越えた
⑥戦後混乱期には急減したが、昭和30年代になると 3000頭近くに復活した。
⑦借耕牛成立の条件として、 阿波と讃岐の農業事情のちがいの上に, 耕耘時期のずれや、借方の讃岐側の仔牛調教のうまさなどがあげられる。
⑧借耕牛の取引慣行については、 阿讃の両方に家畜業者(博労)の存在が大きい。
⑨全体的には借方の讃岐の利益が大きく、そのリードのもとに取引が行なわれていた。
⑩レンタル期間は20~30日で、6月と11月の2回行なわれた。
⑪レンタル料は、昭和32年の平均で夏が5400円, 秋が45000円程度で, 年間米一石と云われた明治以来の価格を堅持していた。
⑫昭和33年頃になると、70%以上の牛が2~4戸の複数農家で共同利用されている。
⑬使用日数は13~15日で,1頭の耕転面積は平均 1~1,2㌶で、共同化が進むにつれて耕作面積も増えている。
⑭1日の仕事量は65~75万kgm で激役の部類に属する。
⑮借耕期間中の体重減少は、調査によると平均7kgで、おおむね良好な飼養がなされている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛の研究 四国農業試験場報告(第6巻)

前回は美馬市郡里の安楽寺訪問記をアップしました。今回は安楽寺周辺のお寺巡りを載せておきます。

美馬市寺町散策.2JPG
美馬市寺町散策パンフレット(表)
美馬市寺町散策
                 美馬市寺町散策パンフレット(裏)
安楽寺を後にして、その北側にある西教寺を訪ねます。


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西教寺は、慶長14年(1609年)に安楽寺から分かれた寺です。本堂・経蔵・山門が有形文化財に登録されています。
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西教寺の登録有形文化財
安政5年(1858) 建立の本堂
天保14年(1843)建立の山門
昭和5年(1930) 建立の経蔵
このなかで案内人の方の説明が一番長かったのは山門でした。

西教寺山門 美馬市寺町

西教寺山門(三間薬医門)
研究者は、この山門に対して次のように評しています。(阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7)
山門は三間一戸の薬医門で,正面向かって中央に桟唐戸,右手に潜戸(くぐりど),左手に板壁を設け,屋根は切妻,本瓦葺とする。棟南鬼瓦の正面に「天保拾四歳卯七月吉日」(1843)とある。

西教寺山門の妻飾り

本柱の上に冠木を置き,控柱は貫で繋ぎ,龍の木鼻が付く。妻飾は上部に男梁,下部に女梁とし,二重となるのが特徴である。その間に蟇股を挟み,先端には異様な形の拳鼻が付く連三斗を設ける。また,男梁の上に太瓶束笈形を置き,棟木を支える。破風の飾りは,くだり・外部側が菊,境内側は雲である(図20)。

美馬市寺町西教寺山門 軒裏

軒は二軒,飛檐垂木は板軒で雲の模様が施されているなど,山門の意匠には目を止めるものがある(図21)
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西教寺山門の説明を聞く参加者

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西教寺経蔵
経蔵は、昭和の初期らしくどっしりとして近代的な感覚がします。

安楽寺の西側が林照寺です。ここも安楽寺から分家されたお寺です。

林照寺 美馬市寺町

唐破風屋根を載せたものを唐門といいます。林照寺の山門は正面前後に唐破風のある一間一戸の向唐門です。


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林照寺の唐門
林照寺の唐門 美馬市寺町


林照寺本堂

寺町に浄土真宗のお寺が集まっていうのは、どうしてでしょうか?
美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
美馬市寺町の寺院分布

「安楽寺文書」には、安楽寺から分離した常光寺について次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家600軒を分与されています。安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。安永6年まで200年余り檀家がなくて、「寺中あつかい」だったことになります。
安楽寺の隠居寺として創建された林照寺も、当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです
それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺(真言宗)に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その門徒は西教・常念・林照の各寺に振り分けられた
こうして、安楽寺を中心とする真宗の寺院が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院を周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
こうして寺町には、浄土真宗興正寺派の拠点として機能していたようです。ただ、明治の宗教改革で、安楽寺は興正寺派から西本願寺に移ります。現在の安楽寺の看板には「西本願寺派」とありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

まんのう町文化財保護協会仲南支部 秋の一日研修会を以下のように実施しました
2025年10月26日(日)  参加者  20人
 9:00 仲南支所出発
10:00 安楽寺(途中・道の駅みまの里でトイレ) 安楽寺・願勝寺など訪問
    地元ボランテアガイド西前さんによる案内
11:30 道の駅(みまの里)で各自昼食
12:45 バス集合・出発
13:00 脇町道の駅 藍ランドうだつ着 自由散策
14:15 脇町発
15:00 仲南支所解散  
その報告をアップしておきます。

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集合は仲南支所です。ありがたいのは町のマイクロバスが借りれることです。県内と隣接の徳島県や愛媛県の市町村が運行可能エリアです。今回の美馬市は、県外ですが「隣接地」ということで運行可能でした。費用は燃料費だけです。バス代が高くなった昨今では、これは大変ありがたいことです。定員いっぱいの参加者を乗せて、仲南支所を出発します。

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安楽寺の赤門(美馬市)
一時間ほどでやってきたのは、美馬市郡里の安楽寺です。紫のジャンパーを来た「寺町案内人」の人達が、立派な赤門で迎えてくれます。案内人の方から、この赤門の由来について次のような説明がありました。

「この赤門は、末寺からの手切金で作られたと言われています。安楽寺は、近世初期には84の末寺を持っていました。しかし、18世紀になると自立を望む末寺が多くなり、上納金を納めることで自立を許すようになりました。その時に集まった手切金で建てたのがこの山門です。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)
意訳変換しておくと

尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があり、最後に「讃岐長炭村尊光寺」の名前があります。
 この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)も安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。尊光寺も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺の末寺で、徳島城下町にあった東光寺が触頭寺として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に転換します。そして18世紀半ば以後になると、讃岐の末寺が次々と「有償離末」していきます。その「手切金」で建てたのが、現在の赤門ということになるようです。そういう目で見ると、この門は、讃岐門徒の寄進で建てられたともいえるのかもしれません。
安楽寺

 安楽寺と讃岐の興正寺派の寺との本末関係を確認しておきます。

安楽寺の拠点寺院

安楽寺が興正寺派の中本寺であったことを押さえておきます。安楽寺文書に、末寺として出てくる丸亀平野の寺院を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

まんのう町周辺の浄土真宗の寺の多くが安楽寺の末寺ででした。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分布図

安楽寺の赤門には「千葉山安楽寺」とあります。

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千葉山と称するのは、この寺の代々の住職さんが千葉氏であるからです。安楽寺の由来は、次のように記します。
安楽寺 開基由緒

鎌倉時代に上総(千葉県)守護であった千葉氏が、北条氏との権力闘争に敗れて、阿波に亡命たこと。その際に、阿波守護の小笠原氏から安楽寺を任され、それを浄土真宗に改めて住職となったとあります。だから「千葉山安楽寺」なのです。

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赤門には千葉氏の家紋が描かれています。

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大きな枝振りの松が本堂に伸びています。
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安楽寺本堂
本堂に上がらせていただきます。

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この日は11時から法事が営まれるとのことで、その準備が整えられていました。
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上には三本爪の龍が描かれています

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本堂から赤門をのぞむ

まんのう町長尾の超勝寺も安楽寺の末寺でした。
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺は末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。阿讃の峠を越えて末寺として安楽寺に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)

意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
   讃岐国鵜足郡長尾村  超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
ここからは安楽寺の末寺には、このような義務が課せられていたことががうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。同時に末寺の跡取り住職たちは、安楽寺で修行し、学問を身につけたのでしょう。安楽寺が学問寺と呼ばれる由縁です。
 安楽寺の格の高さを示すものを2つ紹介しておきます。

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本堂に置かれたピアノ
このピアノがピアノ教室に使われているのではないそうです。ピアノ演奏でお経が歌われるのだそうです。奥さんのソプラノの詠歌が美しく本堂に響くそうです。

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本堂横の能楽堂(安楽寺)
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能舞台

こちらの能舞台では、能や狂言師を京都から呼んで年に何回か公演が行われています。それを支えているのが地域の会員やボランティアの方々とのことです。秋の公演では、午前中は中学生対象、午後は一般対象と2回の公演が行われているとのことです。地域の文化発信の拠点ともなっているようです。
改めて、讃岐への真宗興正寺派の教線拡大の拠点となった安楽寺の底力というものを垣間見たような気になりました。

安楽寺山門正面

最後に安楽寺山門のデータと研究者の評価を載せておきます。 阿波学会紀要 第55号(pp.115-126) 2009.7
安楽寺山門 平面図
安楽寺山門(赤門)
3)安楽寺山門 木造 三間三戸二階二重門 入母屋造 本瓦葺 円柱(粽柱) 
宝暦6年(1756)棟札写
桁行8.09m,梁間5.13m,入母屋本瓦葺の三間三戸二階二重門で中央及び両脇に桟唐戸がつく。近世社寺建築の記述によると,建立は宝暦6年(1756)棟札写とあり,江戸後期の建物である。禅宗様の礎盤のうえに粽柱が立ち,頭貫の上に台輪が載る。特徴としては,下層の組物に斗供(ときょう)を省略して,柱を桁まで伸ばし,柱を取り巻くように井桁に組んだ肘木と,壁付け方向のすけ材を交互に積み上げ軒を受けるといった独自の形式である(図16)。
安楽寺赤門 井形組物
それに対して,上層の組物は正統的な禅宗様(唐様)三手先組物で柱頭部に大斗を載せ肘木で受ける。火灯窓、縁腰組出組の上に四方切目縁が付き,逆蓮高欄が回る。軒についても下層は二軒繁垂木,上層は放射線状に広がる扇垂木と禅宗様の様式を見せる。内部では,下層の格天井を大斗に代わる井桁詰組を外側に鬼,内側に蓮華の彫刻で支える。上層は通し肘木の上に丸桁が乗り,桁や虹梁で小屋組を支え,中桁まで垂木を引き込んで天井板を張るものの中央部は天井を張らず野小屋を見せる。中央の棟束を支える虹梁型の梁には,梵鐘を吊る穴の痕跡がある。しかし、鐘楼門として実際に使われたがどうかは確認できなかった。
 また,上層の外側の大斗は付大斗であった。全体に禅宗様が色濃く,時代相応に華やかであり,細部に奇抜な意匠を取り入れた,本格的な二重門である(図17)。
 

今回はここまでで・・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

美馬市寺町散策
美馬市寺町散策パンフレット

高松電灯と牛窪求馬
            髙松に電灯を初めてともした髙松電灯と牛窪求馬
日本で最初に電灯が灯るのは明治15年のことでした。13年後に髙松に電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)で、彼は髙松藩家老の息子でした。資本金は5万円で、旧藩主の松平氏が大口の出資者です。髙松に電灯が灯ると、中讃でも電灯会社設立の動きが活発化します。ここで注意しておきたいのは「電力会社」ではなく「電灯会社」であることです。この時期の電灯会社は、町の中に小さな発電所を作って電線を引いて灯りを灯すという小規模なものです。電灯だけですから営業は夜だけです。これが近代化の代名詞になっていきます。しかし、電気代は高くて庶民には高値の花でした。誰もが加入するというものではなく、加入者は少数で電灯会社の経営は不安定だったことを押さえておきます。
     髙松に習って中讃でも電灯事業に参入しようとする動きが出ています。

中讃の電灯会社設立の動き

ひとつが多度津・丸亀・坂出の資産家連合です。その中心は、多度津の景山甚右衛門で、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家の連合体です。もうひとつが、農村部の旧地主系で、助役や村会や郡会議員を務める人達のグループです。
景山甚右衛門と鎌田勝太郎の連合ですから、こちらの方が有力と思うのですが、なぜか認可が下りたのは旧庄屋連合でした。その中心メンバーを見ておきましょう。

西讃電灯設立発起人

西讃電灯の発起人と役員達です。ここからは次のような事が読み取れます。
①発起人には、当然ですが景山甚右衛門など多度津の七福神や坂出の鎌田勝太郎などの名前がないこと②大坂企業家と郡部有力者(助役・村会議員クラスの名前があること。
③七箇村からは、増田穣三・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)の3名がいること 
実は、この会社設立には増田穣三が深く関わっており、郡部の有力者を一軒一軒訪ねて投資を呼びかけています。ここからは旧庄屋層が電力会社という近代産業に投資し、投資家へと転進していこうとする動きが見えます。当時の増田穣三は「七箇村助役」で、政治活動等を通じて顔なじみのメンバーでした。こうして資本を集めて会社はスタートします。ここでは、この電灯会社が素人の郡部の元庄屋たちの手で起業されたことを押さえておきます。しかし、この事業は難産でした。なかなか創業開始にこぎつけられないのです。その理由は何だったのでしょうか?3年経っても火力発電所ができない理由を株主総会で次のように説明しています。

西讃電灯開業の遅れ要因

資金不足で、発電機械が引き取れなかった。土地登記に時間がかかり電柱が建てられない。要は素人集団が電力会社経営を始めたのです。ある意味では「近代化受容」のための高い授業料を払っていたことになります。これに対して、いつまでたっても操業開始に至らずに、配当がない出資者たちは不満がたかまります。なんしよんやという感じでしょうか。そこで名ばかりの社長と役員の更迭が次のように行われます。

西讃電灯の役員更迭と増田穣三

赤が社長、青が役員です。③1897(明治31)年に、西讃電灯は発足し、翌年9月に発電所建設に着工します。 ④しかし、3年経っても操業できずに、その責任と取って社長が短期間で3人交代しています。そして⑤1900年10月には、役員が総入れ替えています。彼らは経営の素人集団でした。操業にこぎつけられないための引責辞任です。こうしたなかで「七箇村村長+県会議員」であった増田穣三への圧力がかかります。「なんとかせい、あんたが有利な投資先やいうきに株式を購入したんぞ。あんたが社長になって早急に営業開始せえ。」というところでしょうか。⑥1901年8月、前社長の「病気辞任(実質的更迭)」を受けて、増田穣三が社長に就任します。これは「火中の栗」をひろう立場です。この時に⑦増田家本家で従兄弟の増田一良も役員に迎え入れられています。こうして、増田穣三体制の下で操業開始に向けた動きが本格化します。そして1年後には操業にこぎつけます。西讃地域で最初に稼働した発電所を見ておきましょう。

西讃電灯 金倉寺発電所
西讃電灯の金倉寺発電所(JR金蔵寺駅北側)
創業から5年目にして、金倉寺駅の北側に完成した石炭火力発電所です。土讃線沿いに、空に煙をはく煙突が木のように描かれています。発電行程を見ておきましょう。
①貨車で石炭が運び込まれる
②線路際の井戸から水が汲み上げられて
③手前のボイラー棟で石炭が燃やされ、蒸気が起こされる。
④蒸気が発電棟に送られ弾み車を回して発電機に伝えて電気を起こす。
⑤蒸気は、レンガ積の大煙突から排出される。
⑥ボイラーの水は鉄道路線沿いの井戸より吸い上げ、温水は南の貯水池に流していた。
⑦手前の小さい建物が本社で、社長以下5人位の事務員がいた。
どうして金蔵寺に発電所が作られてたのでしょうか?

金倉寺発電所の立地条件

火力発電所の立地条件としては土地と水と原料輸送です。まず多度津の近くには安い適地が見つからなったようです。さらに港に運ばれてきた石炭輸送を荷馬車などではこぶと輸送コストがかさみます。鉄道輸送が条件になります。そうすると、もよりの駅は金倉寺です。金倉寺周辺が旧金倉川の地下水が豊富にあります。こうして、金蔵寺駅の北側が発電所設置場所として選ばれます。就任して1年で開業にこぎ着けた増田穣三の手腕は評価できるようです。それでは、営業成績はどうだったのでしょうか?

讃岐電気 開業1年目の収支決算

営業開始から1年で、契約者は480戸。収入は支出の1/3程度。累積赤字は80000円を超えています。
これに対して、増田穣三の経営方針はどうだったのでしょうか?

増田穣三の拡大策

増田穣三の経営方針は「現時点の苦境よりも未来を見つめよ」でした。「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」とイケイケ路線です。その見通しは「善通寺11師団や琴平の旅館が契約を結べば、赤字はすぐにも解消する。今は未来を見据えて、投資拡大を行うべきだ」と、「未来のためへの積極的投資」路線です。
これに対して株主たちはどう動いたのでしょうか?

讃岐電気 経営上の対立

会社が設立されてから約10年。出資者は一度も配当金を受け取っていません。その間に、出資総額の12万円の内の8万円を赤字で食い潰しています。このまま増田穣三のいうように拡大路線を進めば、赤字は雪だるま式に膨らみ、その負担を求められる畏れがでてきます。株主たちは、「新体制でやり直すべき」という意見でした。そして譲三は、実質的に更迭されます。

増田穣三更迭後、西讃電灯はどのように経営の建て直しが行われたのでしょうか?

増田穣三解任後の西讃電灯

①経営陣に景山甚右衛門と武田熊造を迎えます。
②そして累積赤字を資本金で精算します。資本金全体は12万円でしたから、残りは3,4万円と言うことになります。出資者達は約2/3を失うことになります。
③これでは会社の経営ができないので、11,4万円の増資を行います。
④注目しておきたいのは、この増資引受人を5人だけに限ったことです。つまり、この電灯会社の資本・経営権をこの5人で握ったことになります。この人達が「多度津七福神」と呼ばれたメンバーです。その顔ぶれを見ておきましょう。

多度津七福神の不在地主化

1916(大正16)仲多度郡の大地主ランキングのトップ10です。一目盛りが50㌶です。
塩田家2軒、武田家が3軒、合田家、その統帥役とされたのが景山甚右衛門の7軒です。彼らは江戸末期から持ち船を持ち多度津港を拠点にさまざまな問屋活動を展開し、資本を蓄積します。そして、明治になって経済活動の自由が保障されると、近代産業に投資して産業資本から金融資本へと成長して行きます。
多度津七福人.1JPG
多度津銀行の設立者

その拠点機関となったのが多度津銀行でした。彼らは銀行経営を通じて情報交換し、より有利な投資先を選んで投資をして金融資本家に成長していきます。同時に互いに姻戚関係を結んで結びつきを強めます。この時期の地方の資本家は、地方銀行・鉄道・電力を核に成長して行く人達が多いようです。多度津銀行にあつまる資本家も、この機会に電力事業への進出を目論んだようです。そのためには営業権をもつ西讃電灯(讃岐電気)を傘下に置く必要がありました。増田穣三更迭後の経営権を握りますが、そのやり方が増資出資者を5人限定するという手法だったのです。こうして電灯会社の経営権は多度津銀行の重役達に握られたのです。その中心人物して担ぎ上げられたのが頭取の景山甚右衛門です。

景山甚右衛門と福沢桃介2
景山甚右衛門と福沢桃介
新しく社長に就任した景山甚右衛門は前経営陣の失敗に学びます。新しい産業を起業するのは素人集団には無理、プロに頼るのが一番ということです。景山甚右衛門が見込んだのが福沢桃介です。桃介は福沢諭吉の娘婿で、甲府に水力発電所を作って、それを東京に送電し「電力王」と称されるようになっていました。大都市から遠く離れた渓谷にダムを造り、水力で電気を起こし、高圧送電線で都市部に送るというビジネスモデルを打ち立てたのです。この成功を見た地方資産家達は、水力発電事業に参入しようと福地桃介のもとに日参するものが数多く現れます。桃介の協力・支援を取り付けて、資本参加や技術者集団の提供を実現しようとします。その中の一人が景山甚右衛門ということになります。こうして讃岐電気は「四国水力発電(四水)」と名称変更します。
ちなみに、この桃介の胸像は、現在の四国電力のロビーにあります。四国電力が自分の会社のルーツをどこに求めているかがうかがえます。一方、景山甚右衛門の銅像は、四国電力本社にはありません。この胸像があるのは、多度津のスポーツセンターの一角で、人々に目には触れにくいところです。

大正15(1926)の四水の送電線網です。

四水の送電線網大正15年

祖谷川出合いの三繩からの電力が池田・猪ノ鼻峠をこえて財田で分かれて、観音寺と善通寺方面に送電されています。髙松方面には、辻から相栗峠をこえた高圧電線が伸びます。こうして水力発電所で作られた安価で大量の電気を、讃岐に供給する体制が第1大戦前に整いました。

花形産業に成長した電力産業

これが第一次世界大戦の戦争特需による電力需要を賄っていくことになります。この結果、巨大な利益が四水にはもたらされることになります。10年前のほそぼそと火力発電所で電灯をともしていた時代とは大きく変わったのです。

四水本社(多度津)

景山甚右衛門の業績

こうして電力会社の経営権を握り、水力発電に大規模投資して電源開発を進め、四国水力を発展させた景山甚右衛門の業績は高く評価されるようになります。

一方、社長を退いた増田穣三はどうなったのでしょうか?
増田穣三は電灯会社設立の時には、投資を呼びかけて廻るなど中心メンバーでした。それが「資本減少」という形で出資者に大きな損益をあたえる結果になりました。このことを責める人達も現れ、増田穣三への信用は大きく傷きます。これに対して増田穣三は、どんな責任の取り方がをしたのでしょうか? 

増田穣三の責任の取り方.2jpg

讃岐電気社長辞任の後、村長も辞任し、その年の県会選挙にも出馬していません。公的なものから身を退いています。これが彼の責任の取り方だったと私は考えています。これは政治家生命の終わりのように思えます。ところが5年後に、景山甚右衛門引退後の衆議院議員に押されて当選しています。これは堀家虎造や景山甚右衛門の地盤を継ぐという形で実現したものです。ここにはなんらかの密約があった気配がします。


増田穣三は、電車会社の設立にも関わっています。その経緯を見ていくことにします。

讃岐電気軌道設立趣意書
讃岐電気軌道株式会社の設立趣意書
①彼が設立したのが讃岐電気軌道株式会社です。耳慣れない会社名ですが、後の琴平参宮電鉄(ことさん)のことです。琴平から坂出、多度津を結ぶチンチン電車でした。営業申請したときの社名はここにあるように「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。これは、増田穣三が電力会社の社長を辞任する2年前のことになります。電力会社として、電力需要先を作り出すこと、沿線沿いの電力供給権を手に入れるという経営戦略があったようです。

讃岐電気軌道 増田穣三

上図で線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。今の多度津駅の位置ではありません。朱色が電車会社の予定コースです。坂出から宇多津・丸亀・善通寺・琴平を結んでいます。気がつくのは、多度津への路線がないことです。この時点では、多度津を飛ばして、丸亀と善通寺を結ぼうとしていたことが分かります。面白いのは、善通寺を一直線に南下するのでなく、わざわざ赤門前にまわりこんでいます。これは11師団や善通寺参拝客の利用をあてこんでいたようです。この電車会社が営業を開始するのは1922年のことになります。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?

讃岐電気軌道特許状 発起人
讃岐電気軌道認可特許状
①電気鉄道敷設の「認可特許状」です。
②年紀は明治43(1910)年5月20日の認可になっています。申請から認可までに6年の月日が流れています。増田穣三は1906年に電力会社の社長は辞めています。
③12名の発起人のトップが丸亀の生田さん。2番目が増田家本家で穣三の従兄弟・一良です。
④四条村の東条正平や高篠村の長谷川氏は、先ほど見た西讃電灯の発起人でもありました
⑤5番目に増田穣三の名前が見えます。その後には坂出の塩田王鎌田勝太郎、多度津の景山甚右衛門がいます。
⑥その後に県会のボスであり、衆議院議員でもあった堀家虎造がいます。その下で裏工作を担当していたのが増田穣三でした。いわば、これは中讃の主要な政治家連合という感じがします。ところがこの会社は、その後に次のような奇々怪々な動きを見せます。
認可翌年の明治44年(1911)5月に認可された営業権の譲渡承認書です。

讃岐電気軌道譲渡契約
               讃岐電気軌道特許状の転売承認書
①明治44年2月7日の年号と、総理大臣桂太郎の名があります
②譲渡先は堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家7名の名前が並びます。この結果、創立総会も大阪で行われた上に、本社も大阪市東区に置かれます。株式の第一回払込時に、讃岐の地元株主の株数は全体の二割程度でしかありません。つまり、先に出された開業申請書は、開業する意志がなく営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないか考える研究者もいます。その後、営業免許は初代社長才賀藤吉が亡くなると、以下のように権利が転売されます。
A 三重県の竹内文平とその一族
B 高知県の江渕喜三郎
C 広島県桑田公太郎
そして大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
讃岐電気軌道経営権をめぐる不可解な動き

実は、同時期にもう一枚の認可状が讃岐電気に内閣総理大臣の桂太郎から出されています。
 
讃岐電気軌道への電力供給権

発起人総代が増田穣三と大塩長平となっています。内容は讃岐電気が電車事業へ電力供給権とその沿線への電力供給を認めるものです。これからは、沿線への電力供給権を得るために電車事業を計画したことがうかがえます。つまり、線路をひく予定はこの時点ではなかったことがうかがえます。そのため電車部門は特許状だけ得て、会社も設立せずに転売した可能性があります。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。しかし、琴電の設立に関して、大西氏の動きを見ると讃岐電気軌道を反面教師にしながら起業計画を考えたことがうかがえます。

最後にJR塩入駅前の増田穣三像をもう一度見ておきます。 

増田穣三の3つの側面

増田穣三には三つの面がありました。仲南町史などでは地元で最初に国会議員となったことに重点が置かれて、他の部分にはあまり触れられていません。起業家として電力や電車産業に関わったことや、前回お話しした未生流華道の家元であったことなどはあまり触れられていません。
この銅像は亡くなる2年前の昭和14年に建てられたことは前回お話しました。ということは、着衣は彼が選んでいたことになります。

増田穣三4
増田穣三(左は原鋳造所で戦後に再建されたもの)
右側は衆議院議員時代のモーニング姿の正装です。政治家なら右の姿を銅像化するのが普通のように思います。しかし、穣三が選んだのは右手に扇子を持った着物姿です。着物を着た銅像というのは、戦前の政治家としては少ないように思います。この銅像を見ていると、増田穣三自身は華道家元としてお墓に入ろうとしていたのではないかと私には思えてきます。政治や経済界で活躍しながらも、晩年は華道や浄瑠璃を窮め、心の平安を得ていたのではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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借耕牛 2025老人大学202511月

借耕牛についてお話しすることになりました。興味と時間のある方の参加を歓迎いたします。

小野蒙古風5

借耕牛 岩部

借耕牛 小野蒙古風2

借耕牛 小野蒙古風4

借耕牛 美合口
借耕牛 美合口
借耕牛 美合口2
借耕牛 美合口
借耕牛 美合口3
美合口の博労(ばくろ)の庭先にあつまってきた借耕牛
借耕牛 塩入
塩入に集まってきた借耕牛

借耕牛 財田戸川
財田戸川口で競りにかけられる借耕牛
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増田穣三レジメ表紙

今日は増田穣三についてお話しします。
「政治家 + 電力・鉄道の起業家 + 華道家元」でもあった増田穣三をいろいろな面から見ていこうと思います。同時にその背後の明治という時代がどんなものであったのか。かみ砕いて云うと「村にやって明治=近代」というものがどんなものだったのかが見えるような視点で進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
   さて、増田穣三についてご存じの方は? 私も10年ほど前までは何も知りませんでした。忘れ去
られようとしている存在かもしれません。私が増田穣三と出会は、この銅像です。この銅像が今は、どこにあるかご存じですか?

増田穣三 塩入駅前
              増田穣三像 JR塩入駅前の像は2代目
やってきたのは塩入駅です。駅を見守るように立っています。正面から見てみましょう。着流し姿で右手に扇子を持っています。政治家という威圧感やいばった感じがしません。どこか茶道や華道の師匠というのが私の第一印象でした。台座の正面は「増田穣三翁之碑」とあります。代議士という言葉はどこにもありません。台座下の銅板プレートを見ておきます。

増田穣三像の供出と再建
増田穣三像の台座プレート「銅像再建 昭和三十八年」とある
台座プレートには「銅像再建昭和38年3月」とあります。昭和38(1963)年に再建された2代目の銅像であることが分かります。先代に銅像からの流れを確認しておくと、次のようになります。
昭和12年 増田穣三の銅像建立(七箇村役場前 生前建立) 
昭和14年 増田穣三 高松で死去(82歳) 
昭和18年 銅像供出 
昭和38年 銅像再建。
再建時には、町村合併で七箇村役場はなくなっていました。そこで、塩入駅前に再建されたようです。 その時に鋳型は原鋳造に残されていたものが使われます。この銅像は2代目で、最初のものは戦前に役場前に建てられたことを押さえておきます。

増田穣三 碑文一面
             増田穣三像の台座碑文(冒頭部意訳) 
台座を見てみます。周囲3面には、増田穣三の経歴・業績がびっしりと刻まれています。最初の部分を上に意訳しておきます。ここからは次のような事が分かります。
①春日の増田伝次郎の長男。 
②明治維新を10歳で迎えた。
人間は「時代の子」なので、どんな時代に自己形成をしてきたかが大きな意味を持ちます。例えば1945年の敗戦を何歳に迎えたかによって「学徒動員世代」「戦後焼け跡世代」「戦争を知らない子どもたち世代」と価値観や考え方に大きな違いがありました。同じように明治維新を何歳で迎えたかがポイントになります。ちなみに大久保諶之丞は20歳前後、増田穣三や景山甚右衛門は10歳前後です。そのため小学校がまだありません。増田穣三が近代的な学校教育ではなく儒学などの江戸時代の教養の中で育ったことを押さえておきます。
増田穣三が教えを受けた人達を見ておきましょう。
A 日柳三州は燕石の息子 のちに大阪府の教育行政の役人として活躍。
B 黒木啓吾は、吉野の大宮神社の宮司さんで、髙松藩の藩校教授
三人ともに、このあたりでは有名な文人たちです。その下で「和漢の学」をおさめたとあります。私が注目するのは。⑤丹波法橋のもとで華道をならい。池元を継承し、多くの門下生を育てたことです。これについては後で触れるとして、これくらいの予備知識をもってフィールドワークにいきましょう。
まず春日の生家を訪れてみます。

春日神社

塩入駅から県道四号塩入線を塩入温泉方面にのぼっていくと春日神社があります。春日神社は、尾野瀬神社や、福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社を摂社としていた時期あります。ここからは春日がこのあたりで最も早く開かれた地帯で、七箇村の中心地だったことがうかがえます。さらにのぼっていくと・・・
春日の増田家の本家と分家
増田穣三と増田一良の生家(まんのう町春日)

造田に抜ける農免道路を越えてさらに南下すると田んぼの中に大きな屋敷が2つ見えて来ます。左側が、戦前に長きに渡って七箇村村長や県会議員を努めた増田一良の家で、こちらが本家です。そして右側が、その分家の増田穣三の屋敷で、こちらが分家です。ふたりは従兄弟同士で、年は一回り違いますが兄弟のように仲が良くて、一良はいろいろな面で穣三を助けています。
 増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられています。増田家が阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の財田の法光寺門徒であることも、「阿波出身」を裏付ける材料の1 つです。増田家のルーツを見ておきましょう。

仲南町史には次のように記します。

増田穣三生家と尾野瀬神社

1856年は、増田穣三の生まれる2年前のことになります。曾祖父の増田伝左衛門は、拝殿を寄進するだけの財力をもっていたこと、それが林業によるものだったことを押さえておきます。
現在、増田穣三の家として残っているのは、穣三が本家と同規模で新築したものです。もともとは、塩入街道沿いにあって、穣三が若い頃には呉服商や酒造業も営んでいて、「春日正宗」という日本酒を販売もしていたこと、呉服の仕入れに京都に出向いていたことなどが仲南町史には記されています。
増田一族の系譜を見ておきます。

増田穣三系図2

先ほど見た尾野瀬神社に拝殿を寄進したのが穣三から見て曾祖父の伝左衛門。伝左エ門の子が伝蔵(祖父)になります。伝蔵は4人の男の子がいました。長男の伝四郎が本家(東増田家)、次男が伝次郎(西増田家)、三男が鳶次郎(下増田家)です。しかし、長男には子どもがなかったので、後に末弟の4男伝吾を養子とします。結果的には、四男傳吾が本家を継ぐことになります。
 次に伝蔵の孫たちを見ておきましょう。伝次郎の子が穣三・蔦次郎の子が米三郎、傳吾の子が一郎です。彼らは従兄弟同士で穣三が一番上になります。そして、増田穣三を筆頭に、米三郎・一良が村長・県会議員として活躍するようになります。これを見ると戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めていたいたことが分かります。どうしてこんなことができたのでしょうか。
それは後で見ることにして、増田一族の財政基盤を見ておきましょう。

大正初めの仲多度郡長者番付

仲多度郡史に載っている大正初めの仲多度郡の大正時代の長者番付です。
NO1は、多度津の塩田家
NO9が、景山甚右衛門まで、「多度津の七福神」と呼ばれた多度津に資産家がトップテンを占めます。商売だけでなく、この時期になると不在地主として広大な農地を所有していたことが分かります。この人達については、後で触れます。
NO10が金刀比羅宮の宮司の琴丘さんです。以下は、まんのう町の地主だけを拾ってあります。
NO18の三原氏は、大庄屋で三原監督の家です。
NO36が帆山の大西家です。
NO38に増田一良の名前が見えます。これが先ほど見た増田家の本家になります。所有する山林のひろさです。ここからも増田家本家が山林に基盤を置く資産家であったことが裏付けられます。
NO48が三男が分家した下増田家です。
この資産に対して、地租3%がかけられます。仲多度で一番多く税金を払っていたのは塩田家ということになります。ここには増田穣三の家は出てきません。しかし、仲南町史によると酒の鋳造所で独自銘柄の酒を販売していたこと、呉服屋を営んでいて若いときの増田穣三が京都に着物の仕入れに行っていたことなどが書かれているので、手広く商いを行っていたことが分かります。
増田穣三はどんな青年時代を送ったのでしょうか。先ほど見た銅像の台座には「華道の家元を若くして継承した」とありました。

それを裏付ける碑文が宮田の法然堂(西光寺)の境内に立っています。
宮田の法然堂
法然堂(西光寺) まんのう町宮田
法然さんが讃岐に流されたときにここまでやって来たと伝わるので、法然堂と地元では呼ばれています。
園田如松斉の碑文 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑 (まんのう町宮田の法然堂)
その境内にある石碑です。「園田翁之碑」とあります。これが園田如松斉のことです。内容を意訳して見ておきましょう。ここには次のように記されています。
①丹波からやってきた廻国の僧侶(放浪僧)で法然寺に住み着いて再興に尽くしたこと
②晩年は生間の庵で未生流生け花を教えたこと 
③その結果、600人近くの門弟を抱えるようになったこと。
④その高弟が増田穣三で、若くして華道の家元の座を譲られたこと。
明治16年に亡くなっていますから、穣三が26歳の時になります。それから7年後の七回忌の明治23年4月に、この碑は建てられています。裏面を見ておきましょう。

園田如松斉の碑文 裏面 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑裏面

碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。その先頭にくるのが増田秋峰(穣三)です。これは穣三が、園田如松斉の後継者であることを裏付けています。穣三の次に田岡泰とあります。この人は穣三の幼なじみで、この年に初代七箇村町長となる人物です。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順です。以下、細川・泉・近石・山内など、十郷や七箇の有力者の名前が並びます。
わたしが不思議なのは、どうして若い増田穣三が選ばれたかです。
門下にはもっと年長者もいたはずです。しかし、園田如松斉は若い増田穣三を選んだのです。死に際の枕元に増田穣三を呼んで、奥義を伝えたと伝えられます。これは増田穣三の人間的な魅力や人間性を見込んでのことだったのでしょう。それが華道家元として多くの人達と接し、鍛錬する中で磨かれていったとしておきます。若い頃からただの呉服屋や蔵元のお坊ちゃんを越えた存在で、一目置かれていたと私は考えています。 
これは未生流家元の秋峰(増田穣三)が出した免許状です。

増田穣三の華道免許状 尾﨑清甫宛

「当流の口授者なり」とあり、明治24年12月の年季が入っています。穣三28歳の時のものになります。家元になって翌年のものです。伝授者として最後に名前が記される尾﨑伝次は、佐文の住人で、穣三の次の家元となる人物です。また、佐文綾子踊りについての貴重な史料を残した人物でもあります。尾﨑家には未生流の作品が写真として残っています。それを見ておきましょう。
 
未生流の作品 尾﨑清甫
                未生流の作品(尾﨑清甫蔵)
作品を見ると大きな松が一本真ん中に生けられいます。このように大きな作品が特徴だったようです。こんな花材が手に入るのは山村だからの強みでしょう。金毘羅の旅館の依頼で伝次は旅館の玄関をこのような作品で荘厳して好評だったようです。当時は生け花や作法は、裕福な家の男たちの社交場でした。女性が多くなるのは女学校で、茶道や華道が必須科目になって以後のことです。
増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ
 いずれに20代の穣三は未生流一門を束ね、指導していく立場にありました。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながります。そして後の政治家としての素養ともなったと私は考えています。
園田如松斉の七回忌に追悼碑が建てられた年は、初めて七箇村会が開かれた年でもあります。
増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出されています。政治家としてスタートの歳になります。次に、その模様を史料で見ていくことにします。

七箇村村会議事録
七箇村村会議事録 明治23年(まんのう町仲南支所蔵)
増田穣三が法然堂に師匠の石碑を建てた明治23年は、新しい村が生まれ、初めての村の選挙が行われた年でもありました。この史料は仲南支所に残されたい七箇村の村会議事録です。ここに明治23年の年号があります。前年に大日本帝国憲法が施行され、各村々に村議会が開設されることになった年です。右側が香川県知から七箇村村会議長の増田傳吾(増田家の本家)への認可状です。「田岡泰を村長として認可ス」とあります。議長の増田傳吾は、増田家の本家当主で穣三の叔父にあたります。それでは議員や村長がどのように選ばれたのかを見ておきましょう。

明治の村会議員選挙のシステム

①選挙権が与えられたのは、2円の税金納付者です。農民なら2㌶程度の田甫をもっていないと納められません。つまり普通の農民には参政権がありません。②さらに選挙人を差別化します。たくさん税金を納めている選挙人たちを1級、残りを2級に差別化します。その分け方は、納税総額の半分を納めている上位選挙人が議員定数の半分を選出できました。多度津だと上位9人で税金の半分を納めていました。そのため9人で議員の半分を選びます。のこりをその他大勢の2級選挙人が選ぶということになります。そのために大口納税者の増田一族は、親族の近石氏などを含めると過半数の6名を送り込めたのです。そして、村長は議員の互選です。こうして増田一族の中から村長や助役が選ばれます。さらに、村長や助役は名誉職(ボランテア)で、給料が一般職員よりも安かったのでだれでも立候補できるものでもありませんでした。議会録を見ておきましょう。

七箇村村長選出結果報告書
七箇村の村長選挙報告書(明治23年)
県への村長選挙の報告書です。田岡泰11点と増田喜代太郎(穣三)1点とあります。ふたりは幼なじみで同級生で、未生流門下の高弟同士です。年齢は二人ともに33歳です。続いて助役選挙の結果です。ここでも増田穣三は4票を得ています。次期の村長候補であったことがうかがえます。明治維新の面白さは、年寄りが自信を失って道を若い人達に譲ったこと。そのために若い人達によって国造りが担われていくことです。地方議会でも、50・40歳台の人達が道を譲って、30代の若者を村長に選んでいます。
 今までの所を年表で整理して起きます。

増田穣三経歴

①維新に増田穣三13歳・景山甚右衛門16歳、同世代にあたること。近代の学校教育を受けていない世代になること。
②20歳台は酒倉と呉服屋の若旦那、華道の家元
③30代前半からに村会議員
④37歳で助役をしながら、電力会社設立へ
⑤42歳で村長と県会議員を兼職
こうしてみるとつまり、42歳の時には村長と県会議員を兼務し、44歳の時には、電力会社の社長も務めていたことになります。当時の増田穣三が担っていた課題を見ておきましょう。

増田穣三・村長・県会議員・社長

七箇村村長としては、丸亀三好線の開通が大きな課題でした。これは現在の県道4号線で、阿波昼間から男山・東山峠・塩入・切通・琴平までの里道開通です。
明治32(1899)年3月15日の日付の増田穣三宛の書簡が残っています。

11師団からの礼状2増田穣三.jpg2

宛先は七箇村長増田穣三殿で、送り主は善通寺歩兵第二十二旅団長小島政利とあります。内容を見ると
「新練兵場の地ならしすは、目下の急務である。貴村人民の内60名の助力を頂いた結果・・・」スムーズに完成したことに感謝する内容です。練兵場は、現在のこどもと大人の病院と農事試験場に作られましたが、その整地作業に七箇村から60人のボランテイアを出した事への礼状です。日露戦争前に急速に進められた整備に周辺の村々からも奉仕作業が提供されていたことが分かります。

次に県会議員としての働きぶりを見ておきましょう。

増田穣三評
讃岐人物評論の増田穣三評(意訳)
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を紹介したものです。(読み上げながら下の解釈を同時に行う。)どんな風に表されているのか見ておきましょう。
①夜の金毘羅界隈で名の知れた存在、浄瑠璃がうまい 
②村長兼務で県会議員の参事会員になっている
③調停斡旋役に徹して、
④時には切り崩し工作のために買収工作なども担当し
⑤堀家虎造の下で存在感を見せていること。
また、「香川新報」も「県会議員評判録」では次のように記します。

「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」

ここでも議場における寡黙さが強調されています。しかし、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の下で実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一だったようです。それが「寡黙ながら西讃の頭目」と評されたのでしょう。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や景山甚右衛門や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないかと私は考えています。
 大久保諶之丞のような名言や大言壮語はない。議場では静かなもので、夜の料亭で根回しを充分に積んで周到に進めておくというやり方がうかがえます。その際にお花の師匠としての客あしらい・接待方法は役だったはずです。粋でいなせな姿が見えてきます。
今回は、生育歴とお花の師匠・政治家の側面を紹介しました。次回に実業家としての増田穣三をみていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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まんのう町立図書館の郷土史講座を年に3回担当しています。今回は増田穣三についてお話しします。

増田穣三公演ポスター2025 10月

興味と時間のある方はご参加下さい。なお会場が狭いので予約をお願いします。
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造田開発史
       
以前に、造田は土器川の氾濫原であったことをお話ししました。今回は、寛成年間の山津波で大きな被害を受けた造田が、どのように復興していったのを見ていくことにします。テキストは「 大林英雄 難渋地の百姓 造田村の記録   琴南町誌322P」です。
 まず、造田の地形復元をイメージしておきます。
 大川山の奥に源流を持つ土器川は、急勾配な渓流を流れ落ち、明神の落合で勝浦川と合わさって勢いを増し、中通を抜けて造田の天川神社にやってきます。ここで杵野川を合わせて水量を増し、造田の中央を流れ、備中地川と合流して更に水量を増します。その上、備中地川の合流点付近からは再び川幅が狭くなる地形でした。そのため出口を塞がれた袋のような形で、近世以前には洪水の時には造田盆地全体が湖水となってと研究者は考えています。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

そのため中世においては、備中地川周辺の山裾や谷間は開墾が行われますが、盆地中央部の土器川氾濫原周辺に開発の手が伸びることはなかったようです。杵野川や大川(土器川)に、本格的な横井が設けられて耕地が増加するのは、江戸時代になってからのことです。その背景には、土木技術の発達や、村切りによって地域の団結が強固になったことが挙げられます。小池が各地に作られて、二毛作田が増えるは江戸時代後半になってからであることを押さえておきます。こうして造田盆地には、徐々に美田が拡がって行きました。

造田ハザードマップ
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)

造田ハザードマップ.2JPG

 しかし、造田盆地を囲む周りの山々は、土質が軟弱で、山崩れや土石流の危険をはらんでいました。軟らかい土は水に流されやすく、大雨が降れば泥土で井手に塞がれて、田畑に流れ込み土砂が深く堆積します。また土器川の両岸が抉り取られて田んぼが流されることもありました。水が引けば川は畿筋にもなって流れ、盆地を流れる光景が拡がりました。

『高松藩記』には寛政三(1791)年8月20日に、大風と洪水に襲われたことが記されています。
この時に造田村の内田免の、黒の谷・森の谷・池の谷・竹の谷一帯で山津波が起こります。流れ出た土石流が、たちまちにして谷地を埋め、土砂を含んだ濁水が井手から田畑に流れ込み、土砂が堆積し、耕作不能地になってしまいます。
 これに対して秋から翌年の春にかけて、復旧作業が進められます。まず、やらなければならないのは、押し流されて泥土と化した被害地の田畑や百姓自分林の境界線をひくことです。これに苦労しています。何度も寄合を開いて、翌年の寛政4(1792)年2月14日の寄合で、くじ引きで決定しています。そのやり方は区画化して、その所有者をくじ引きで決めるという次のような方法です。
「内田村 黒の谷 森の谷 池の谷・竹の谷・奥砂山林に相成人別割付間取帳(西村文書)」には、くじで決まった土地配分が次のように記されています。
黒の谷分(一人前十間四方)で、東西十間に付、三畝一二歩八厘 田方一つ
〇一番 小七郎  東西十間に付同  田方一つ
〇二番 清三郎  東是より喜三八谷前三畝一二歩 田方一つ
〇三番 忠右衛門 (以下略)
〇一番 権助 下林三畝一二歩
〇二番 磯七 同 西尾切
〇三番 彦助 同 同西谷口
(二一番に至る以下略)
つまり、一番の札を小七郎が引き当て、黒の谷の一区画を得たというこになります。ここからは困難な問題に対して、村民が話し合いを重ねて乗り越えていく姿が見えて来ます。村の自治機能が発揮されていることがうかがえます。
 このほかにも、池の内森上谷・竹の谷・中尾・竹の口東分・珠数谷・森江谷などでも、くじで畑や山林の所有地が決められています。くじに参加している百姓の総数は104人にのぼります。ここからは、この時の被害が大きかったことが改めて分かります。

翌年の寛政四(1792)年になると、田んぼから泥上が取り除かれて、田植えが行われます。
しかし、表土が流され地力がなく、稲は育たず、ほとんど収穫できません。百姓を続ける気力をなくした小百姓48名が、持高を差し上げて逃散しています。こうして158石7斗1升8合の土地が、耕し手がいなくなり、藩の「御用地」になってしまいます。このままでは、年貢が徴収できません。そこで藩は、復興対策として新池築造に乗り出します。場所は、上内田の熊野権現の東側の低地を中心にした「順道帳面田代九反八歩、畑地二反歩」です。ここに池の谷の水を導いて、遊水地とする計画でした。この池のねらいは、灌漑用というよりも洪水の時に池の谷から流れ出る濁水を、導水路によって池に貯水し、徐々に放水して下流の井手に落とすというものです。そうすることで、水の流れをよくして、田代が土砂で埋まるのを防ぐというものだったことが政所久太夫から大政所に差し出した手紙によって分かります。池は、寛政五(1793)年に完成して、深田新池と呼ばれ、その後は遊水池的機能を発揮します。

 寛政六(1794)年になると、藩は耕作者のいなくなった「上り地」を、再度百姓に耕作させるための準備を進めます。
そのためには検地を行う必要があります。この時に作られた検地帳「鵜足郡内田村上り地下し米定順道帳」の政所控(「西村文書」)には、次のように記されています。
上り地
○内田免   三八八筆
○畝〆 一〇町九反九畝二七歩
○高合 一二八反四斗二升三合
○取米 六九石五斗八升二合
この検地に基づいて、面積・石高・年貢が決められていきます。
  一方で高松藩では、郷普請方小頭岩崎平蔵に、造田村の水利について調査し、その対策を立てるように命じています。岩崎平蔵は、吉野村の庄屋で長らく大政所(庄屋)を勤め、水利技術に長けていたために髙松藩の郷普請方に登用されていたことは以前にお話ししました。藩の命令に対して平蔵は、天川の大岩を切り抜き、大川(土器川)の流れをよくして洪水を防ぐこと、同時に内田大横井の水のりを良くするように藩に答申しています。そして寛政11(1799)年正月から普請に取りかかります。

造田 天川神社周辺
天川神社の前を流れる土器川、合流する柞野川

しかし、この工事は難工事だったようです。天川神社の前の土器川は、川幅が狭く、大岩盤が露出し、その上に大岩が累々と横たわっています。そのため一度に多くの人足が働くことができず、工事は遅々として進みません。
「造田村天川岩切抜場所野取帳「岩崎文書」には、次のように記します。
①3月末までに、造田村の人足延べ833人を投入し普請場を整理
②4月からは近村の人足を召集して、普請を続行
③6月に柞野川が大川と合流する地点から南にあった大岩の切抜き終了。
この成果を褒賞するために寛政11年6月8日に、高松藩主頼儀が、岩切普請場を視察することになります。造田村では、政所の久太夫が、炭所西村の政所与三兵衛、炭所東村の政所七郎四郎、中通村の政所八郎右衛門と協力して準備を進めます。ところが巡視の前日に藩主頼儀が急病になり中止となってしまいます。「西村文書」の中に、四か村が準備のために支出した「人夫424人の賄料、職人作料、飛脚賃、万買上物などの総計費572匁4分5厘」の明細帳が残っているようです。(殿様造田村岩切抜御覧の儀被二仰出一御昼所扱に付買上物其外入目帳)。
 続いて文化九(1812)年に、岩崎平蔵は天川の杵野谷の入口から下流の巨岩の取り除き普請に着手し、翌年4月に完成させます。これで水路が広くなったので、以後、造田村は水害を受けることがやや少なくなったようです。しかし、根本解決となったわけではありませんでした。
 ここで疑問に思うのは、岩崎平蔵は寛政年間(1791―1801)に、満濃池の貯水量確保のために財田川の水を引くことを思いつき、計画図を残しています。天川で二回にわたって大普請を行ったのなら、ここから満濃池へ水を引くことを思いついたはずです。しかし、彼が土器川からの導水を計画することはありませんでした。
以上、寛政三(1791)年8月20日の山津波に襲われた造田村が、どのように復興していったかについて見てきました。続きは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 難渋地の百姓 造田村の記録   琴南町誌322P
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IMG_6883煙草の天日干し
たばこ葉の天日干し(まんのう町美合)

まず、美合にたばこ栽培が、いつころ、どのような形で根付いたのかを押さえておきます。
江戸時代の農学者、佐藤信淵の著書『草木六部耕種法』には、次のように記します。

我が国へのたばこ伝来について、天文十二(1543)年、ポルトガル人が種子島にやって来て、鉄砲・ソーメン・トウガラシを伝えた。その中に、たばこの種があった。それを種子島で栽培したのが我が国たばこ耕作の初めである。

 これに対して寺島良安著『和漢三才図絵』では、次のように記します。

天正年間(1573~91)年に南蛮人がたばこ種をもたらし、これを長崎東大山に栽培したのがのはじまり

佐藤信淵の説を信じるなら「たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた」ということになります。
それでは、美合地区には、いつごろ、どこからもたらされたのでしょうか?
美合のたばこは阿波葉と呼ばれ、その名の通り阿波から伝えられたものとされます。「阿波葉」は、きせるで吸う刻みたばこが主流の時代、火付きの良さが評判で阿波で作られ全国に出荷されました。それが紙巻きたばこの普及に押されて、2009年には栽培が終わったようです。

たばこ 阿波葉の栽培 口山
2009年 最後の阿波葉 (美馬市口山)

たばこ 調理工程 品質分類
最後の阿波葉の「調理」(2009年)(美馬市口山)
最後の阿波葉 2008年

阿波葉 計量作業
阿波葉の計量と出荷(美馬市口山)
徳島県半田町の町誌は、次のように記します。

端山村政所武田家文書に、武田右衛門が、①天正年間に数種のたばこの種子を②長崎から持ち帰り、③半田奥山で栽培したのがはじめとある。

『香川県煙草三十年史』には、生駒藩時代に美合地区でたばこが栽培されていたこと、その後、瓜峯たばこを藩主の喫煙用として毎年献上していたと記します。以上から美合のたばこは、元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美馬郡、三野の野田院を通じて美合に入ってきて栽培されていたと研究者は判断します。
 天文年間(1532~54)に、鉄砲と共にポルトガルから種子島に渡来したたばこは、最初は薬用として重宝がられたようです。ところがその麻酔性から一度喫煙すればやめられないようになり、全国に急速に拡がっていきます。江戸幕府は、たばこを絶減しようと慶長6(1609)年に最初の喫煙禁止令を出しました。その理由は、次のように挙げられています。
①都市火災の原因となること
②「かぶき者」が長大なキセルを腰に差して風紀を乱すこと=反権力的な動き取締り
③たばこ栽培による米の作付面積の減少
この禁止令に伴い、幕府はキセルを収集する「きせる狩り」を行いました。

花魁:9 件の「キセル花魁」のアイデアを見つけましょう | 芸者アート、花魁 画像 など
花魁とキセル
そして、喫煙者を発見し訴え出た者には、売買した双方から没収した全財産を褒美としてつかわすというお触れを出しています。 さらに元和二(1616)年には、たばこを売った者は、町人は50日、商人は30日、食糧自前で牢に入れらました。また自分の支配下の者で、たばこに関する罪人を出した代官は、罰金五貫文を課せられています。しかし、幕府の度重なる禁令にも関わらず、「たばこ」を楽しむ人々は増え続けます。徳川3代将軍・家光の代となる寛永年間(1624〜1645年)に入ると、「たばこ」に課税して収入を得る藩も現れ、「たばこ」の耕作は日本各地へ広まっていきます。やがて、禁令は形骸化し、元禄年間(1688〜1703年)頃には、新たな禁止令は出されなくなりました。つまり黙認されたということです。
 阿波の蜂須賀藩は、上畑に耕作することを禁じ、焼畑・畔などにつくるのは暗に許したようです。髙松松平藩は、奨励はしませんが積極的禁止もしていません。そのため藩政時代には、旧勝浦村・川東村ではたばこがある程度裁培され、阿波へ送られていたようです。 こうして「たばこ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくことになります。

 江戸時代後半になると、美合ではたばこ栽培がある程度の規模で行われていたことが次のような史料から分かります。
『讃岐国名勝図絵』の鵜足郡の巻頭には、勝浦村土産品としてたばこの名が挙がっています。
また文化三(1806)年の牛田文書の中に、次のようなたばこに関する記述が出てきます。
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆致啓上候。甚寒二御座候所御家内御揃弥御勇健二御勤可被成候旨珍重不斜奉存候。誠二先達てハ参り段々御世話二罷成千万黍仕合二奉存候。然バ御村御初穂煙草丹今参り不申候二付今日態々以人ヲ申上候。此者二御渡シ可被下候。奉願上候。
年末筆政所様始御家中江茂宜様二御取成幾重二も宜奉頼上侯。最早余日茂無御座候て明春早々御礼等万々可得貴意候。恐樫謹言
大西左近
十二月十一日
勝浦村蔵元福右衛門様
意訳変換しておくと
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆啓上します。はなはだ寒い時候ですが、ご家族はお元気にお過ごしのようで安心しております。先日はいろいろとお世話になり、お礼の言葉もありません。ついては御村の上納初穂品として煙草丹今を、そちらに派遣した者に、預けていただくようお願いします。
年末には政所様をはじめ御家中始め茂宜様にも歳暮としてお届け予定です。つきましては、日も余りありませんので、明春早々の御礼としたいと思っています。恐樫謹言
                   大西左近(滝宮牛頭天王社神官)
十二月十一日
  勝浦村蔵元(庄屋) 福右衛門様
   (牛田文書)

滝宮神社(牛頭天王社)の大西左近という神官が、勝浦の庄屋に上納初穂品として、たばこを至急送れという手紙を勝浦村の庄屋に出しています。滝宮(牛頭天王)社は、丸亀平野の牛頭信仰の拠点で、社僧たちが周辺の村々を廻って牛頭札を配布していました。また、七箇村念仏踊りなども奉納されていたように、密接な関係を周辺の村々と結んでいたことは以前にお話ししました。ここからも19世紀には、琴南町美合地区にはたばこ栽培や製品製造が行われ、それに庄屋たちが関わっていたことが裏付けられます。また、その製品が優良で評価が高かったことがうかがえます。
 明治時代に入ると、「営業の自由」が認められたばこ栽培は自由になります。
明治9(1876)年1月に、たばこ税制が実施されます。これは次の二本立て税制でした。
A たばこ製造・販売業者に課す営業税
B 個々のたばこ製品に貼付する印紙による印紙税
つまり、税金さえ払えば、自分で作ったたばこを自分で売りさばくことができるようになったのです。
明治12年12月の勝浦村戸長から鵜足郡長への次のような照会文書があります。
       照 会 
村民自作のものに限り、そのたばこは無鑑札で里方べ売りさばいてもよいということであるが、外部から買い入れ、自作と称して売ることがあっては不都合である。そこで戸長が調べ自作を確認して、それに添書を交付することにしてもよいか。(意訳変換)
回 答(原文のまま)
他作ノ葉畑草フ自作卜偽ソ売捌者アレハ 其時々証左ヲ取最寄警察署へ告訴スヘシ 依テ其役場ニオイテ現品改メ添書ヲ附スル等一般成規無之二付其義ニ不及候 条精々規則上ヲ説明シ犯則者無之様注意スルニ止ル義卜可相心得候事
意訳変換しておくと
他地域で栽培された葉煙草を、自作として偽って販売する者があれば、その時には証拠を押さえて、最寄も警察署へ告訴すること。よって役場で現品を検査して添書を発行することは、法令にもないので行う必要はない。よく規則を説明し、法令を犯す者のないように注意するに留めることと心得るべし。

ここからも明治16年7月以後は、鑑札を受けて税金を払えば、たばこを売ることも、刻みたばこを製造販売することもできるようになります。これがいわゆる「たばこの民営時代」の幕開けとなります。
    沖野の黒川久四郎は、明治20年ごろから、刻みたばこを製造していました。

たばこきざみ機 美合
沖野の黒川久四郎所有

黒川家には明治20年代に使ったというぜんまい式葉たばこ刻み機が残っていました。その外に「荀一暴」という刻みたばこの包み紙も残っていました。これは木版で図柄をおしたもので、そこには次のように刻印されています。
たばこ 一光 美合産
量目五十目 定価六銭
一光  讃岐鵜足郡美合村川東
製造人 黒川久四郎
ここからは美合村川東の黒川家は、「一光」という刻みたばこを製造販売していたことが分かります。
また、中熊の造田未松も、刻みたばこを製造していました。
阿波葉は刻みたばこ用でした。そのため家の中でたばこを刻み、家の納屋に「切り場」という一間をとっていました。切り場には、 飼い葉切りのような道具があって、切り子という、たばこを刻む専属の職人が、阿波から泊まり込みで来ていました。美合で生産されていた刻みたばこには、 一光、金雲などがあり、その木印が今も残っています。販売のために、陶・羽床方面へ行商に行ったと伝えられます。
     たばこ民営時代に、旧琴南町でたばこ製造販売業を行っていたのは次の人々でした。
川東   造田秀太郎 折目文太郎  石井時太郎    黒川久四郎    増田 久吉   
勝浦 笠井熊太郎      小野 武平    
造田   岩崎宥太郎   大野市太郎         「大日本繁昌懐中便覧」
民営たばこ 明治期 民営煙草 包み紙 計1点 阿波国 徳島県 三好郡 池田町 西木弥太郎 商標 朝雲 量目百匁 極撰葉薫製
阿波池田の西木弥太郎の「朝雲」 火力利用 ぜんまい切りとある。

ぜんまい切りとは何なのでしょうか?
当時使われていた乾燥させた葉を切る機械を見ておきましょう。

刻みタバコの製造工程

江戸時代後期に誕生した細刻みたばこが広く市場に出回るためには、こすり技術に対応できる熟練技術を持つ刻み職人の確保が必要でした。18世紀の半ばになると、従来の夫婦単位の刻みたばこ屋から、複数の刻み職人を抱える刻みたばこ屋が江戸市中にも出現します。同時に、細刻みを職として労賃を稼ぐ「賃粉(ちんこ)切り」職人も登場するようになります。そして19世紀初頭になると、刻み工程に「かんな刻み機[剪台](せんだい)」と「手押し刻み機(ゼンマイ)」という機械が考案されます。
  かんな刻み機は、寛政12年(1800)頃、四国の池田地方で北海道の昆布切り機をヒントに考案されたといわれ、その後関西を中心に普及しました。

かんな刻み機2 池田
「かんな刻み機[剪台](せんだい)」(阿波池田たばこ記念館)
原料の葉たばこは、一塊の木材のように硬く固めなくては刻めません。〆台(しめだい)という圧搾機で強く圧搾した葉たばこの塊をかんな刻み機にセットして刻みました。これは一人の労力で1日に約20㎏前後刻める能力がありました。それまでは熟練した職人が手刻みした場合には、3、5㎏程度だったので、5倍強の製造能力です。しかし、圧搾の際、油を塗らなければならなかったので品質が落ち、主として下級品の製造に使われました。でも逆に火付きが良く、瀬戸内や日本海側の漁師に人気があり、讃岐の仁尾や粟島から北前船に乗せられて遠くまで販路を広げました。

ぜんまい刻み機
ぜんまい式葉たばこ刻み機(阿波池田たばこ資料館蔵)
   もうひとつがぜんまい式葉たばこ刻み機で、江戸後期(文化年間)に江戸で発明されたとされます。。手包丁で刻むのと同じように刃が上下しながら、原料が一定の速度で送り出されるという機械で、かんな刻み機に比べると生産性は劣ります。しかし、製品の品質がよかったため高級品に使われ、ラベルには「ぜんまいぎり」などと書かれました。

明治31年1月に、日清戦争後の財政難への対応策として、政府は「葉煙草専売制」が実施します。
これは葉たばこを政府が生産農家からすべて買い上げて、製造を独占的に管理し、財源とすることを目的としたものでした。つまり、葉たばこ栽培の自家用栽培や民間製造を禁止されます。耕作者が生産した葉たばこは、すべて専売局が買収ることになります。たばこ民営化の時代は終わります。たばこ専売制への転換です。しかし、「葉煙草専売法」は、不正取引や安価な輸入葉たばこの流入を招き、十分な税収が得られませんでした。
 そこで日露戦争の戦費調達に迫られた政府は、明治37年に葉たばこの製造・販売までを一手に担う「煙草専売法」を出して、法令を強化します。これによって民間のたばこの製造販売が禁止されました。生産された葉たばこは、総て琴平専売支局まで運び納付することになります。当時は、道が整備さえていなかったので、葉たばこを天稀棒で担ぎ、琴平まで五里余りの道程を、前夜から出発して歩き、帰りは提灯をともして家路についたと云います。その末に買い入れ価格が低かった時には、帰り道の足は重かったと古老は述懐しています。
たばこ 葉のし 琴南町誌

専売化当時の旧美合村では、約百町歩のたばこ耕作地がありました。
見方を変えれば、畑地の多い美合にとって専売化されたたばこは総てを政府が買いとってくれるので安定作物でもありました。そのため生産者や作付面積も急速に伸びたようです。ただ、道路がなく琴平まで担いで出荷するのは、大変な苦労でした。そこで村長堀川嘉太郎は、村内有志の者と相談して、収納所を美合に設置することを陳情します。代議士三土忠造の協力を得て、地元の費用で建てれば、それを政府で借り入れ使用することになります。こうして耕作者に対し、反当たり6円の出資を求め、総額7000円を集めて、明治42年9月に新しい収納所を尾井出に建てます。これが池田専売局貞光出張所美合取扱所です。以後は、ここに出荷するようになり、琴平までの長く苦しい輸送から解放されます。
 たばこ葉の代金は、農家の最大の現金収入で、これで年内の「店借り」等の決済が行われるなど、地域の経済上にも大きな意味をもっていました。
 
黄色葉の共同乾燥 美合
(琴南町誌563P) 
 明治になって栽培・販売が自由になり、耕作者も増えたこと、さらに明治31(1898)年の煙草専売法によって、栽培農家が保護されると、美合のたばこ栽培は全盛時代を迎えます。
最盛期の明治末から大正の初めには、栽培反別は120町歩、耕作者は600人を越えます。
このような盛況をみた理由を研究者は次のように指摘します。
①美合地区は、温暖小雨であり、日照は豊富、そして土壊は砂質性が強く、水はけがよかった。
②水田でなく高地の畑で栽培可能であった。
③専売制になってから、販売の安定性ができた。
④換金性がよく、収納すれば必ず現金が入った。
⑤労働力を必要としたが、当時は余剰労働力があり、農業経営が可能であった。
美合地区の葉煙草作付け面積・農家数推移
美合地区のたばこ耕作面積と生産農家数の推移(琴南町誌560P)

 その後、太平洋戦争には食糧生産が最優先され減反を強いられ、70町歩に低下します。また、戦後物価の変動で、たばこを耕作して家計を保つことが難しくなり、耕作面積は50町歩までに減少します。戦後の昭和24(1949)年に日本専売公社が発足しますが、 一般物価との均衡がなかなかとれなかったようです。世の中が落ち着いて後に、買い上げ価格を上げるなどの増産対策を推進した結果、昭和40年には、90町歩まで回復しました。以下の推移は次の通りです。

葉煙草耕作面積の推移 美合
美合の葉煙草の作付面積と生産量
以上を整理しておきます。
①たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた。
②阿波半田の武田右衛門が天正年間にたばこの種子を長崎から持ち帰り半田奥山で栽培した
③元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美合に入ってきて栽培されていた
④江戸時代後半には、たばこが勝浦の特産品として紹介されている。
⑤明治の民営化時代には、旧琴南町でたばこ製造販売業が10軒近くあり、滝宮・陶方面で行商していた。
⑥専売制になって価格が保証され、全量買い入れられるようになると生産農家は急増した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌558P

IMG_6877炭焼き
美合の炭焼き窯(まんのう町教育委員会提供)
 まんのう町アーカイブス写真の中に、炭焼きを記録したものがあります。今回は、美合でどのようにして炭焼きが行われていたのかを見ていくことにします。テキストは、琴南町誌855Pです。

美合産の木炭の立地条件として、琴南町誌588Pは、次のように記します。
①自然森林が多く、木炭の原木が豊富であること、
②山間僻地で他の産業があまり盛んでなく、労働力が豊かであること
木炭の生産スタイルは、どんなものだったのかを見ておきましょう。
木炭の生産は、山請け親方が山持ちから一山いくらかで請け、人夫を雇って炭窯を造り炭を焼きました。人夫は、一窯当たり2・3人で、山に宿泊して焼きます。白炭で二週間、黒炭で10日ぐらいかかります。出荷は、山から二俵ずつ肩に担いで小出しして林道まで出します。その後、猫車に載せて道路まで運びだします。販売は家庭用は、坂出・琴平・高松方面に仲介人が売りさばきました。工業用とか、大量に出荷する場合は、森林組合を通じて出荷しました。単位価格は、 一俵400~500円程度でした。
次にどのようにして木炭が作られたのかを見ていくことにします。
①まず初めに炭焼き窯を造ります。炭焼き窯の土は赤土が一番とされました。そのため赤土がなければ遠いところまで赤土を掘りに行きます。赤土は粘土質で、粘りがあって火にあってもなかなかひび割れしません。
炭焼き窯 石積み
ドイフミ (写真は【共生の里 さゝ郷】)
②周りに石を置き、窯の形に積み上げていきます。これが「ドイフミ」です

炭焼き窯 壁

炭焼き窯 内壁
炭焼き窯の内側
③その石積みを透き間がないように粘土を、ヒラヅチ(ヨコバイ)でたたいて締めつけていきます。

炭焼き窯 6

炭焼き窯断面

④横壁ができると木材を積み込みます。最初の時は天井がありません。

炭焼き窯の天井
ツベハリ(天井はり)
⑤一番難しいのはツベハリで、ツベというのは炭焼き窯の天井のことです。この時には何人もの人に加勢に来てもらいます。天井が落ちないように、ニガリを混ぜた土を使って何度も何度もヨコバイでたたきます。
⑥出来あがると「ツベハリの祝い」をします。それはツベ(天井)とヒジリに御神酒・イリコを供えての宴会です。
炭焼き窯には、住吉さまや弘法大師が祀られていたようです。弘法大師が祀られる由縁は、次のように伝えられています。
昔は、窯の後ろに煙出しの穴がなく、炭がうまく焼けなかった。それを弘法大師がやって来て穴をつくることを教えてくれた。それからうまく焼けるようになった。

 出来た初めの窯はアラガマ(新窯?)と呼びます。アラガマの炭は悪いが、三度目からはよい炭が焼けるといいます。炭焼き窯の大きさは、高さ十尺、奥行き七、八尺のものが多かったようです。

炭焼き窯2

いよいよ点火です

    燃焼室に燃えやすい小枝などを入れておき、別の場所でおこした火を投入します。燃焼が確認できたら、薪を次々と投入していく。この時点で、投入口を石、レンガなどで狭める。
 炭化の始まり
窯の中が一定温度になれば、炭材が熱分解して炭化が始まる。煙突口から白い煙が勢いよく立ち昇る。
炭化の進行
窯内では、天井の方から窯底へと炭化が進行していく。炭化の速度は、煙突口(煙道口)の開口面積で調整する。最初は開いているが、炭化が進むにつれ徐々に塞いで最後には閉めてしまう。
炭焼きする木は、樫・ほうそ・くぬぎ・くるまみずきなどで、あとは雑木です。

窯が家から離れていると、焼き上がった炭を入れておく納屋のほかに、ネゴヤ(寝小屋)なども造らなければなりません。寝小屋について、琴南町誌は次のように記します。
ネゴヤ(寝小屋)に寝泊まりして炭が焼き上がるのを待つことになる。構造は掘っ立てで、萱葺き、周りは萱で囲った。幅一尺半か二尺ぐらいの入口を入ると、そこは土間になっていて、オイエにはムシロを敷いてある。大きさは、横が一間で縦が一間半ぐらいのものが多い。入った奥には、 一間半四方ぐらいの大きさの炉を切ってあるが、天井の桟から竿をつるしてある。ここで煮炊きをする。布団は大抵の場合、隅に積み重ねてある。板で簡単な棚をつくって、箱膳・茶碗。小さい米缶などを置いてある。炭を焼くのに二、三日もかかるし、煙の色で焼き具合を見なければならないので、寝泊まりしているわけである。
 窯に火を入れてから二日ぐらいは焚き、炭になってからは密閉して三日ぐらいおいて熱をさましてから口をあけてかき出す。

炭焼き窯1
これは黒炭の場合ですが、白炭(シロズミ)の場合はまだ赤く焼けているのをエブリで引き出します。そしてアクの中へ埋めます。白炭の方が値段もいいし、堅くて重宝がられますが、造るのも手間がかかります。火が付いたままで引き出すので高温です。そのため木綿の布を何度も何度も継ぎ足してつくったドンザを着て、顔も頭も布で覆います。その上に、水を用意して体に水を振りかけながらの作業でした。
白炭と黒炭については、次のように記します。
白炭はシロスミウバメガシ・アラカシ・ナラ・ホオなどの樹木を 1,000度以上の高温で焼いた硬質の炭のこと。火付きは良くないが、一酸化酸素の発生の少なく火持ちの良いので料亭などで良く使われています。炭の密度が高いので、叩くと金属のような音がします。白炭という名称は、焼きあがった炭に灰と土を混ぜた消し粉をかけて消化するために表面に灰が付着して白っぽくなることからこの名称になっています。ウバメガシの木を原料とする備長炭は白炭の代表格。
黒炭とは、白炭の技術を基礎に日本独自の工夫で完成した炭焼き技術で、低温(約700度)で焼いた軟質な炭です。消火は、釜を完全に密閉してゆっくり消火させます。白炭より軟らかく火付きが良く、立ち消えしないために昔から重用されてきました。炭材になるのは、ナラ・クヌギ・コナラ・ミズナラ・マツなど。
IMG_6875炭焼き荷造り
黒炭の俵詰め作業(美合)(まんのう町教育委員会提供)
IMG_6874炭焼き荷造り2
炭俵の荷造り(美合)(まんのう町教育委員会提供)

木炭の出荷
山からの出荷(美合)

IMG_6873炭焼きの集荷 日通
集荷場からの出荷 日通のトラックに積み込まれている

 かつては炭問屋は皆野と明神にありました。炭が出来るとそこまで持って行ったようです。炭俵は、女たちが農閑期や夜なべに作っていました。炭焼きは一か月に二ハイのペースで焼いていました。一パイで50俵ぐらい生産できます。

木炭需要が多かった頃は、麦をまいてから後の晩秋から冬にかけて炭を焼く煙が琴南の山々に見られたと云います。
農繁期の副業として、いい稼ぎになったようです。木炭は琴南の代表的な産物で、最盛期は戦後(昭和25(1950)年ごろで、香川県全消費量の1/3にあたる15万俵を美合産が占めていました。

木炭生産推移.5JPG
香川県の木炭生産の推移表

上表を見ると、日中戦争開始後に第一次急増期があり、太平洋戦争に突入すると燃料不足から木炭需要が激増していることが分かります。それが戦後には落ち着き、プロパンガスなどが普及するようになるころから急減していきます。琴南町勢要覧には、1955年の3207俵が、1964年には1809俵へとほぼ半減、そして11年後の1977年の『町勢要覧』には、木炭の記述はなくなっています。この間に、木炭生産は姿を消して行ったことが分かります。急速な需要変動で、生活を根底から揺さぶられた人達の困惑があったはずです。
家庭用燃料推移表
家庭用燃料推移表
この表からは次のような情報が読み取れます。
①1955年以後、10年で木炭生産が1/4に激減したこと
②代わって、灯油・電気・都市ガスの需要が高まったこと
③1960年代の「家庭燃料革命」で、木炭は家庭から姿を消したこと。
④琴南の木炭生産も1970年代には、終焉を迎えたこと
美合の年間木炭生産



  炭焼きは姿を消しましたが、炭焼きにまつわる話は今に伝わっています。次のような話が琴南町誌には載せられています。
①初めての窯のときは、必ず入口にチョウナを立て掛けておく。チョウナには三本の筋を掘ってあるので、 マモノが来ても眼三つの妖怪がいるといって、魔よけになるのだという。
②ネゴヤにねずみがやって来たら、お福さんが来たといって喜ぶという。
③家から出掛けに、箸が折れたとか、茶碗が割れたとか、鎌の柄が折れたとか、女房がぐずぐず言ったりしたら、その日は山へは行かない。
④ネゴヤで寝ていると、何物かがやって来て小屋を揺すったとか、向こうの山が燃えたが朝起きてみると何のなかったといったふうな、怪異の話は多い。
⑤来るはずもないのに、夜更けてから我が家で飼っている猫がやって来たという話もある。猫は魔性のものだから、七谷を越えてやってきたのかもしれない。
炭焼き仕事は、山中での仕事なので縁起をかつぐことが多かったといいます。それらを伝える写真資料がまんのう町教育委員会にあることを報告しておきます。

香川県史14巻民俗583Pに、美合で行われていた炭焼きについての聞取り調査報告が載せられていました。長くなりますが載せておきます。
炭に焼く木を決定するバンドウニンは、何年バエの木が何町歩あるから炭は何貫焼けると計算する。目の確かなバンドウニンは狂いがないが、バンドウする人が未熟だと損をする。25年バエ、30年バエと木の育ちぐあいで決定した。決まると、山がオリタ、スミ山に渡した、山をオロスなどと言う。ノサン(共有林)は炭焼きにオロス。共有林は、一戸前のブ(持ち分)がそれぞれ違い、ブにしたがって利益も割る。ブは家によって、半戸ブンとか三戸ブンとかを持っている。ブを持っていないと、利益の配分にはあずかれない。また、ジバイ(個人所有の山)をオロスこともある。個人の山の収益はもちろん山持ちが握る。
 スミ山は木が多い。木はモトギリにする。モトギリにしておくと、後から芽が出て木が茂る。旧暦の3月3日を過ぎると、モトギリをしてはならない。芽が出なくなるおそれがあるので禁じた。切ってから10年もたつと、また炭が焼けるように木が育つ。
 炭焼きにする木は多種類である。
ホウソ・フクロタ・カシ・ナラ・モミジ・クルマミズキ・カワラサシチシの木・リョウブ・クヌギなどでクヌギは歩どまりがいい木、ホウの木の皮は印刷用アルミ版のみがきとしていた。また、塗りものの研ぎとして使用する上等の炭が焼けた。反対に、クリの木は炭には焼けずになってしまう。ウルシの木は炭にすると軟らかいときらわれた。外に、竹炭を焼いたこともある。竹は3年目には切ることができるので自家用の孟宗竹で焼いていた。
 松の木は鍛冶屋、刀鍛冶の炭としてフイゴ炭と呼ばれた。松は、火力が強くて鉱物の精錬には欠せないものだった。鍛冶屋と呼ばれた松災は、鉄や刀を鍛えるとき炭素と鉄とが結合していい刀物になる。刀の切れ味の秘密は災にあると言い、鍛治屋炭はよく売れた。
 炭木の木その他を切ると、東にして運ぶ。山のナルイところはいいが、イシワラや谷を避けて木を集める。
 炭木はドエにかけたりドウマンにして運び出す。584P
 ドウマンというのは、モトギリした木をカズラで固く束ねることで、それを山の上から転がり落とす。簡単といえば簡単だが、途中で東が崩れたり、見当違いの方へ落ちたのでは困る。目的の場所へきちんと転がり落ちるように工夫する。ドエにかけるというのも共通の方法である。
 いい山、ジフクがいい山とは、日あたりがよくて谷が小さく、スミ木のよさはもちろんのこと、木出しにも適したところで、こういう山が喜ばれる。
  木を切るのは、大体二日で切り終る。一窯に焼けるスミ木を二日で切るということになっていた。

 炭焼きはヤキコがあたる。ヤキコは美合在住の人たちで、炭焼きにやとわれてヤキブ(日当)をもらう。炭焼専門なので、木灰にしないで上手に焼き、能率があがった。
 炭焼きの方法には、テントウ焼炭、ロテン焼がある。材料は松の木、60㎝くらいの長さに松の木を切りそろえ、太さも大体同じようなものを選ぶのは小皿のように中央を少し深くする。太い松の木は割っておくこともある。これらを二段三段と積み重ねる。上へは松葉をかぶせて、土を置く。火気が外へ出るのを防ぎながら、盛りあがった中央に出しの穴をあける。火は下からつける。煙が出はじめると最初は黒い煙、だんだん白くなり、薄青く煙の色が変化する。煙の色の変化にともなって、においも変わってくる。
 煙の色の変化により、煙の出る穴を少しずつ小さくする。これを、シメルと呼ぶ。火がついてから一昼夜置き、空気穴も、煙穴もふさいで火を消す。消したはずの火がおきるときもあるので、水の用意も怠らない。こうして鍛冶屋が焼きあがる。
 炭焼窯をつく土は、赤土がもっともよい。粘土質の赤土があるところはいいのだが、ガラ山などは客土を必要とする。ガラガラ山では炭が灰になってしまうし、オンジ土もあまりよくない。
 床も粘土で固め、周りへ石を置く。石と石とのすき間がないよう粘土でふさぐ。炭木は一メートルくらいに切りそろえたものを窯のかたちにたて並べる。炭木を並べた上へ、小枝をかぶせ、さらに薬を敷く。そして、土をおおうわけだが、上手にしないとツベが抜けてしまう。窯のツベハリには手慣れた人が三、四人も加勢に来て共同でハッてもらう。このツベとは天井のことで、赤土を置いてはヨコバイでたたきつける。また、天井の土にはにがりを混ぜた土を使うとひび割れしない。にがりは塩を籠の中に入れ下へ桶をすえて取ったものを使った。
 窯のツベハリは一日仕事で、しっかりシメておかないとツベが抜けてしまうとしっかり土を固めた。そして夜、カメのツベハリまつりをする。炭窯うったらお客をするとも言い、窯のてっぺんとヒジリに御神酒とにぼしかめざしを供えた。
 むかし、炭窯には煙突がなかったが、弘法大師がこられて、窯の後ろへ穴をあけてくれた。それから炭がうまく焼けるようになったという。だから、炭焼窯の火は大切にし、魚などは焼いてはならない。もし焼くと、小屋が焼けてしまうし山火事にもなるという。
 窯に火を入れてから一昼夜、窯の大きさにもよるが、大体、二日焚きくゆらして三日、火を消してからさら三日ほど置いて熱をさます。煙の色は、はじめはホケが出て白くなり、青白く、青くと変化する。煙が薄紫色になると、炭は焼きあがる。炭木は上からになってゆくが、煙突から出る煙に混じって水分も出るので、煙の色を見ていると炭の焼け具合がわかる。
 黒は、焼きあがると火口をふさいで窯の中で火を消す。だが、白は真っ赤に焼けたものを取り出し、アク(アク灰)のなかへ埋めこんで消火する。白炭はちんちんと鳴るので堅とも呼ばれ、高価だった。だが、生木の割合は白より黒炭のほうが率がよかった。

 炭を出すときは、焚き口の奥にある障子を壊して出す。そして、すぐに生木をつめかえておく。これをヌキカエとも言う。ヌキカエて炭木をたてておかなければ、窯がくずれやすいからである。すぐ火を入れない場合には、窯の天井へ薬束などを置き、おおいをして保護していた。炭焼窯は二、三年くらい使い、後はそのままにし炭木のある山へ移って行く。
 炭焼きは、一か月で二杯焼くという。窯の大きさにもよるが、大体一杯で50俵計100俵を焼いていた。
 炭木にする雑木林が相当広くないと炭焼窯はつけなかった。なお、大正時代になり炭焼窯は大幅に改良された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
琴南町誌 588P
まんのう町教育委員会アーカイブ写真 美合の炭焼き

古い写真を集めて、デジタル化して保存していくという動きが各地で進められています。まんのう町教育委員会でも、今までに保存されていた写真のデジタル化を行っています。その一部を見せてもらいました。今回はその中から、天空のそば畑・島ケ峰の変遷を、残された写真で追いかけて見たいと思います。
そばの花見会inまんのう町島ヶ峰 - Manno まんのう魅力発信ポータルサイト - まんのう町

今年も多くの人が訪れそうな「そばの花見会」。頂上附近にはこんな光景が広がります。

島が峰そば
天空に拡がる島が峰のそば畑(まんのう町)

天空の地 島ヶ峰そば畑 2023/10/1 / ウォーキングの写真39枚目 / 国道に下りてきました | YAMAP / ヤマップ

それでは、そば畑になる以前の島ケ峯はどうだったのでしょうか?

琴南町誌1028Pには、次のように記されています。

この集落の裏山頂上に島ヶ峯と言われる広い平坦地がある。この一帯はもと①川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。明治になりこの地区の農家に分割されたもので、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。昭和十(1935)年ごろ、阿讃自動車株式会社が、ここを②スキー場として売り出そうと宣伝に努めたことがあったが、諸条件が整わず定着するには至らなかった。

ここから読み取れる情報を挙げておくと
①川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり、炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
        
 琴南町では、ここを牧場として畜産振興を図ることを計画し、昭和41年から三か年継続で牧野造成事業を実施し、43㌶を開墾し③牧場を造成した。川奥周辺農家に和牛を導入させ、冬期を除いてここで放牧飼育した。昭和45年ごろは、120頭余の牛が飼育されていた。ところが間もなく牛価の急激な低落により大打撃を受け、ついに昭和47年牧場は閉鎖された。

IMG_6880島が峰放牧場
        放牧場だった島ケ峯(1970年頃) 放された牛が何頭か見える

IMG_6879牛の放牧場
           島ケ峯放牧場の草刈り(写真 まんのう町教育委員会提供)
 
 昭和55年に至り、牧野を再開発してキャベツを作ろうとする周辺地域の人々による共業体がつくられた。それから数年にわたって再開発が行われ、大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、琴南随一の④高冷地集団農場となり、品質のよいキャベツが生産されるようになった。
IMG_6870島が峰キャベツ3
島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

IMG_6871島が峰キャベツ 出荷

IMG_6890島が峰キャベツ3
         島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

④昭和41(1966)年から43㌶を開墾し牧場を造成し、和牛の放牧飼育を開始した
⑤しかし、牛価の急激な低落で昭和47(1972)年に牧場は閉鎖した。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史が見えて来ます。
IMG_6872高山キャベツの出荷
島ケ峯のキャベツ収穫風景
 旧琴南地区に、キャベツがどのようにして根付いていったのかを見ていくことにします。
 琴南にキャベツがもたらされたのは、北海道への開拓農民からでした。葛籠野集落の黒川正行の叔父で、北海道旭川に住んでいた黒川嘉之助から、明治末にキャベツの種子が送られてきたのを栽培したのがはじまりとされます。品種は中生サクセッション系で形体が大きく、美味しそうな大きく伸びた鬼葉を食べてなると、とても苦くて食べられたものではなかったようです。そこで手紙で問い合わせたところ、キャベツは玉を食べるものだと知らされ、大笑いしたしたというエピソードが伝えられます。葛籠野のキャベツになるまでには、苦労の連続だったようです。それが軌道に乗ると、周辺の、名頃・大佐古・勝浦・仲野へと拡大します。

IMG_6885下中熊のキャベツ2 1986年11月以前
中熊
下のキャベツ畑

IMG_6893真鈴のキャベツ 1985年頃
真鈴のキャベツ畑
キャベツ作付面積の急速な博大
琴南キャベツ作付面積の急速な拡大 昭和40年代に急拡大している
キャベツ生産が急速に増えた背景について、琴南町誌570Pは次のように記します。
①唯一の換金作物であったたばこ耕作が衰退化し、代替え農作物が求められていたこと
②キャベツが高冷地栽培のため、夏出しキャベツが生産できて、競争力があったこと。
③キャベツに病虫害も少なく、品質と味がよく、高価に販売できたこと
④たばこに比べると、労働力が少なくてすんだこと。
琴南キャベツの出荷先
琴南キャベツの出荷先(琴南町誌574P)

琴南キャベツの当時の課題を、琴南町誌は次のように指摘します。
高冷地栽培として導入したキャベツのメリットは、平地部の産地が高温のため、病虫害その他により高品質のキャベツが生産できない七月に出荷して、高価に販売できることであった。ところが最近は、全国的に品種改良や病虫害予防の研究が進み、平地部においても、その生産が拡大した。そのため美合地区の栽培は、主として八・九月産のキャベツに切り替えた。しかし、連作の問題と、労働力配分の問題などによって、この時期だけの生産にしぼることができず、中熊などで行っているたばことキヤベツの組合せ栽培という方法がとられている。
ここには信州の嬬恋などの高原キャベツとの産地間競争が激化して、苦戦していることが記されています。こうして1980年代になると、病害発生や生産者の高齢化もあってキャベツ生産は廃れていきす。「農地も荒廃して、8ha程あった畑はすっかり草と木に覆われてしまった」と、関係者は回顧しています。そんな中で2016年、旧琴南町の会社などをリタイアされた数人が、この美しい島ヶ峰を次世代に残そうと一念発起し、手持ちの重機と力作業で少しずつ開墾して、約4ヘクタールの見事なそば畑に生まれ変わらせました。この風景を「次世代に残したい」という想いの中から誕生したのが「島ヶ峰そば」です。
島ヶ峰そば - Manno まんのう魅力発信ポータルサイト - まんのう町

天空のそば畑には、先人たちの歴史が刻まれていました。それを目で見える形で残してくれているのがアーカイブに保存された写真資料だと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町教育委員会 デジタルアーカイブ
琴南町誌1027P 573P
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   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

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大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺廃寺と丸亀平野
空海が中寺で修行したといえるのかどうかを「時代考証」するために、中寺の建物跡や特色を見ています。今回はAゾーンを見ていくことにします。最初に復元図を見ておきます。

「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔
中寺廃寺Aゾーン 仏ゾーンの復元図
ここからは、尾根の斜面を造成して仏堂跡と塔跡が出てきました。まず、塔の方から見ていきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺塔跡
復元された礎石跡です。4つの礎石が、正方形に並んでいます。4つの礎石なので三間 × 三間の正方形の建物だったことが分かります。そして、真ん中にも礎石があります。発掘当時の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺塔跡

真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。

中寺廃寺 心礎
中寺廃寺塔跡の心礎
この心礎の下から出てきたものがこれです。

中寺廃寺 心礎地鎮用2

中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
            中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器
中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。これは地鎮祭用に埋められたものと研究者は判断します。須恵器を詳しく調べると、10世紀前半に綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯で焼かれたことが分かりました。そうするとこの塔が作られたのも10世紀前半ということになります。この時期の十瓶山周辺には、阿野郡の郡司綾氏によって最先端技術を持つ須恵器工房が開かれ、讃岐全域のみならず畿内にも瀬戸内海交易を通じて搬出していたことは以前にお話ししました。
 須恵器の特徴しては、赤みが強いことです。このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの特別の仕上げが必要になると研究者は指摘します。普通の須恵器ではなく、国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。そうすると「国司 → 綾氏 → 十瓶山官営窯 → 国分寺 → 中寺廃寺」という発注・納品ラインが考えられます。ここにも国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたことが裏付けられます。

  次に仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺仏堂(本堂)跡
最初は掘立柱建物で建てられ、後に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。礎石を数えると縦が4つ、横が3つなので、3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)の建物が復元できます。。ここからは10~11世紀の遺物が出土しているので、さきほど見た塔と同じ時期に建てられたことが分かります。また、礎石のない掘立柱式のものは、それ以前の9世紀末からあったことになります。
仏堂の平面図を見ておきましょう。

中寺廃寺 A遺構仏塔2

Aゾーン 平面図
中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
仏堂は塔よりも少し上にありますが、両方とも真南を向います。また、両者共に10世紀前半には姿を見せました。つまり、ひとつの伽藍として作られたようです。この伽藍配置は讃岐国分寺と同じ大官大寺式だと研究者は指摘します。

中寺廃寺 大官大寺式伽藍
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
大官大寺式伽藍配置の寺(右下が讃岐国分寺)
規模は小さいながら伽藍配置の数式からも、大官大寺様式であることが分かるようです。ここからも中寺Aゾーンの伽藍創建については、讃岐国分寺の僧侶や国衙のコントロールが働いていたことがうかがえます。
 私が仏堂(本堂)について、最初に疑問に思ったのは小さすぎることです。
この大きさでは本尊を安置するだけのお堂と同じです。これでは、この中で仏教的な儀式・法会を行う事はできません。しかし、同規模の本堂を持つ山林寺院があるようです。

中寺廃寺と同じ規模の金堂

全国の類例を探すと山林寺院には、この規模の本堂があります。また屋島寺の創建時の本堂である千間堂も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、当時はこれが普通だったようです。Aゾーンの全体復元図を見ておきましょう。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの復元図
この復元図に書き込まれている情報を読み取ります。
①仏堂と本堂は、大官大寺式で10世紀後半に同時に建立されたこと
②地鎮用の壺や甕が国衙直営の工房で造られた特注品なので、国衙の保護を受けていたこと
③本堂が小さかったので、仏教的な儀式はその前の広場で行われていたこと
中寺廃寺への国衙の関与

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間で、菜園と表記されている所です。
発掘以前には、一番広いテラスで仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくることをは期待していたそうです。しかし、出てきたのは直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。調べると、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシ対策などの柵が必要だったことが分かります。中寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っているようです。

それではテーマに立ち返って、空海が中寺で山林修行を行ったと云えるのかどうかを「時代考証」しておきましょう。

中寺廃寺と空海

右の表が前回にも見た建物などの出現期を表にまとめたものです。
①中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末です。
②Bゾーンの広場から発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。
これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年です。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身はこの間に太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この前に中寺を訪れていたことは十分考えられます。
 Aゾーンに仏塔と本堂が姿を現すのが9世紀末です。これと菅原道真が国司とやって来た時期も重なります。道真の指示でAゾーンの塔や本堂などの山林寺院が着工したことも考えられます。この時代考証を背景に、小説を書くならこんな風になります。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説

一族の期待を背負って平城京の大学へ進学した空海であった。しかし、官吏養成のための四書五経や儒教などへの興味は薄れていく。そんな中で、空海の心を捉えたのが仏教であった。当時の仏教は、宗教だけでなく医学や哲学・科学も含めた壮大な世界をもっていた。また、暗記力増進のためにと進められてやってみた虚空蔵求聞持法の修行は強烈な体験であった。自分のこれからの生きる道を考えた空海は19歳にして、大学をやめて、山林修行の道を歩むことを決意する。そのためには故郷の父母や一族に、自分の決意を伝え、理解と支援を得る必要があった。そこで、善通寺に帰ってくる。

 父は母は驚きながらも、空海の決意を受入て支援を約束する。空海はその間も、幼年期に修行した我拝師山に籠もる。そんな中で、大川山に山林修行をおこなう修行者がいることを知る。空海は、善通寺の杣山(そまやま)木材供給地の尾背山から塩入を経て中寺に向かった。そこには大川寺に向かって割拝殿が建てられ、そこから大川山を霊山として修行に励む修験者たちがいた。空海も彼らと共に大川山をめぐる行道を行い、僧坊で寝泊まりした。修行生活の中でで、四国辺路の大龍寺や室戸・石鎚などの情報を手に入れた。そして、旅立ちの準備が整うと下僕たちと供に阿讃の峰峰を東にへと向かった。これが空海の四国辺路への旅立ちであった。
私は四国辺路に旅立つ前に、空海は善通寺に帰ってきたと思っています。それは一族への報告のためと、今後の方針決定のためでもあります。もう一つは経済的な理由です。古代の辺路修行は、何人もの下僕を連れての修行でした。食事の準備などは下僕の仕事でした。室戸の海蝕洞窟の御厨人窟(みくろ)の「みくろ」は、調理スタッフのことだと研究者は指摘します。ここからも、修行者が下僕をつれていたことがうかがえます。修行者は修行だけに集中していたのです。そういう意味では、有力な富裕層の子弟でないと古代の山林修行はできるものではなかったようです。辺路修行には多額の資金や、人的なスタッフをそろえる必要があったことになります。その準備は父親の佐伯直田公の手で準備されたと私は考えています。
HPTIMAGE

その後の中寺は、平安期は国衙の保護を受け、大川山信仰の中宮寺として存続したようです。しかし、源平合戦の混乱や国衙機能の低下によって、保護者を失った中寺は平安末には退転していきます。それでも霊山である大川山への信仰は途絶えることはなかったようです。中寺に替わってあらたな山林修行者(修験者・修験道者)が登場します。彼らは、ここに権現を祀り、権現信仰の山としてリニューアルしていきます。大川山を取り巻く情勢については次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

  中寺廃寺について、次のような三部構成でお話ししています。今回は、②についてです。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
忘れ去られていた中寺廃寺が再発見されるに至った経緯は、次の通りです。

中寺廃寺発見の経緯

大川山にお寺があったという話は、いろいろな形で伝えられていました。中でも髙松の殿様の国境視察調査のルートを決めるために書かれた絵図の写しが造田村の庄屋西村家に残っていました。

西村家文書 柞野絵図2
造田村柞野谷 西側の江畑道(旧郡境)に「中寺」とある
そこには中寺という地名が書き込まれています。これらを手がかりに、旧琴南町の文化財協会の人達が粘り強い調査活動を行い「再発見」につなげます。これを受けて町による本格的な発掘調査が行われ、古代に遡る山林寺院と評価されます。そして国の史跡に指定され、保存整備が進められてきました。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺跡の展望台から望む「阿讃山脈NO1の絶景」
 江畑口駐車場から2時間ほどで、高圧鉄塔を越え最後の階段を登ると展望台が迎えてくれます。パンフレットには中寺展望台と記されています。ここまでが90分ほどでしょうか。この説明板には「阿讃山脈NO1の展望」と書かれていますが、その通りです。素晴らしい眺望が楽しめます。左手(西北)に見えているのが満濃池です。

中寺廃寺からの展望
中寺廃寺展望台からの眺望
どこが見えているか分かります?
眼下に見えるのが満濃池、その向こうが象頭山。その左手(西)に瀬戸内海に伸びているのが庄内半島、そして紫雲出山です。本島や広島やなど塩飽の島々、そして備讃瀬戸を行き交う船も見えます。このロケーションが霊山にとっては大事なのです。逆から見ると、大川山は丸亀平野だけでなく、塩飽や庄内半島から見えていたということになります。これが聖なる山・霊山の条件です。山林修行者は、修行の折り目毎に山頂で大きな火を燃やしました。それが徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山などの山名として伝わっています。焼山寺の火は、紀伊からも見えたようです。この火が見える範囲がその霊山の信仰エリアとなります。

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺と丸亀平野や瀬戸内海

中寺廃寺 各ゾーン名称

 中寺廃寺の各ゾーンを確認しておきます。ここが展望台です。
①展望台の下がAゾーン
②展望台から北に伸びる尾根の先端がBゾーン  
③谷を挟んだ向こう側河原にCゾーンになります。
④Dゾーンは、この下になります。
大川山からみると以下のようなレイアウトになります。

中寺廃寺  全景
大川山から見た中寺廃寺
注意しておいて欲しいのは、中寺は大川山にあったのではないことです。大川山を見上げる山の頂上附近にあったことを押さえておきます。
なぜ大川山の頂上に作らなかったのでしょうか? それを石鎚山を例に考えて見ます。

石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ロープウェイを降りて成就社の拝殿に入ると、見えてくるのはこの景色です。正面に石鎚山がどーんとあります。思わず手を合わせます。ここからは石鎚山自体が祈りを捧げる信仰対象であったことが体感できます。京都に行ったときにタクシーの運転手さんから教えられたのは、こんなことでした。

「神社ができる前は、山を拝んでいたこと。霊山自体が信仰対象だったこと。それが神社ができると、神を祀った建物に拝むようになったこと。拝む対象が山から、神社の建物に替わってしまったです。けったいなことですわ。

学者の難しい説明よりも、分かりやすかったのでよく憶えています。

横峯山 星ヶ峯遙拝所からの石鎚山
横峯寺の星ヶ峯遙拝所から見る石鎚山
山林修験者が、ここで石鎚山への祈りを朝夕捧げていたことが納得できます。これと同じような空間が中寺にもあります。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山.2JPG

Bゾーンの尾根の上から見えるのは大川山です。大川山(標高1043m)は、丸亀平野から見える山の中では一番高い山です。そして里からはどこから見えます。その姿もポツンと先端が飛び出していてよくわかる山です。讃岐の霊山と呼ぶのにふさわしい山です。柳田國男の民俗学では仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきたとします。そうだとすると、中寺ができる前からは、ここは大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所であったことが考えられます。
ここを発掘調査したときの写真を見ておきましょう。


中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーン 割拝殿跡の発掘現場 正面は大川山

礎石が並んで出てきました。これではよく分からないので平面図に落としたものを見てみます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの遙拝所と僧坊

南に伸びた尾根の先端部のテラスに建物跡と広場、尾根の下に斜面を整地して僧坊跡がでてきました。割拝殿の方を見ておきましょう。礎石が横に6ヶ並んでいるので五間、縦に4ケなので三間の建物です。しかし、同規模の建物が2つ並んで建っているようにも見えます。よく分からない建物でした。そのため、最初に書かれた復元図はこれでした。

割拝殿 最初の復元図

五間×三間の仏堂として復元されました。しかし、礎石の配置から見ると真ん中に通路があるようです。その事例をさがしてみると、このような割拝殿とよばれるタイプの拝殿があります。

割拝殿とは・・

これが割拝殿だとすると本殿が北側にあり、その前に割拝殿であること、その真ん中が通路となって、その前に広場が配置されています。こうして見ると、「本殿ー割拝殿ー広場ー大川山」が一直線に結ばれる祈りの空間だったことになります。まさに遙拝所としてふさわしい空間です。山林修行者達は、朝夕に大川山への祈りを捧げ、大川山への行道を毎日、何度も行っていたことが考えられます。その中に空海もいたというストーリーになります。こうして、Bゾーンは、「祈りのエリア」と名付けられました。

もうひとつ、この割拝殿周辺が出てきたものがあります。

三鈷杵と柵状の破片
三鈷杵と錫杖の破片(中寺廃寺Bゾーン)
これは何だと思いますか? 素材は青銅製です。これを研究者は、密教法具の破片と判断します。①左は最初に見た空海が手にしていた三鈷杵です。右は錫杖です。

飛行三鈷杵との比較
飛行三鈷杵と中寺廃寺出土の三鈷杵

空海の絵伝には 唐からの帰国の際に明州(寧波)から三鈷法を投げる話があります(高野空海行状図画)。「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。それがこれです。これと中寺廃寺のものを比べて見ると、空海以前の古い様式のものであることが分かります。
中寺廃寺 三鈷杵破片3

ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、大川山との行場往復をしながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた山林修行者の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。壊れた仏具の破片を埋めるには、ふさわしい場所です。そんなことをイメージできる雰囲気が、ここにはあります。
割拝殿の下の僧坊を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
僧坊跡(中寺廃寺)
この柱が礎石のあった場所で、柱跡になります。ここからは2つの建物が並んであったことが分かります。礎石は縦が4つ、横が4つですから「三間 × 二間」の建物になります。ここから出てきたものを見ておきましょう。

僧坊 Bゾーン


②は、柱穴に埋められた地鎮用の陶器です。③は威信財で、普通の人々が持てるものではありません。有力な僧侶がここで修行していたことがうかがえます。④からは、ここが山林修行者の僧坊であったことが分かります。同時に、8世紀末の調理具が出てくると言うことは、僧坊がその時期には姿を見せていたこと、山林修行者の活動がこの時期まで遡れることを意味します。 研究者が注目するのは②の多口瓶です。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺 多口瓶

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶

多口瓶(屋島寺・法勲寺)
周辺の遺跡で出土した多口瓶
多口瓶は仏具で、一般人が使うものではなく僧侶が用いるものです。多口瓶が出てきたことで、この建物が僧坊であったことが裏付けられます。この瓶がどこで作られたかを探るために発掘担当者が播磨まで行って、播磨の窯で作られたものと確認しています。あまり類例品のない特注品であることも分かりました。これも普通の人間には手に入らない威信財なのです。つまり、この僧坊で修行を行っていたのは、財力や地位をもった山林修験者であったことになります。中世の山伏の姿をイメージしてはいけいなようです。見方を変えると、中寺は国衙や国分寺の保護・管理を受けたお寺と研究者は考えています。  

以上で、Bゾーンを振り返っておきます。

割拝殿 祈りの場
HPTIMAGE

① Bゾーンは、「本殿→割拝殿→広場」が一直線に配された大川山の遙拝所であった。
② 割拝殿や僧坊は8世紀末には姿を見せていて、中寺で最初に現れた宗教施設であった。
③ 空海が大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
④ 空海が中寺で修行を行った状況証拠にはなる。
⑤ Aゾーンに本堂や塔などの仏教施設が現れる百年前に、Bゾーンは姿を見せていた。

参考文献
中寺廃寺発掘調査報告書NO3 琴南町教育委員会
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まんのう町図書館郷土史講座でお話ししたことをアップしておきます。

中寺廃寺講演会ポスター

弘法大師行状絵詞 真魚伝説

本日の与えられたテーマには「若き空海も修行した(?)中寺廃寺のを探る」ですが、真ん中に(?)がついています。これについては、追々お話しすることにして、
今日は次のような三部構成で進めていこうと思います。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
まず、①若き日の空海がどんな山林修行したかを見ていくことにします。上の絵は弘法大師行状絵詞とよばれるもので、空海亡き後に300年ほど経って書かれた絵伝です。赤い服を着ているのが空海で、幼年期は真魚と呼ばれていました。巻物は右から左へ開かれていきます。時間変遷も右から左へと進んでいきます。
①右端が、蓮の花の円座を敷いた雲の上に乗った空海が仏たちと話しています。
②真ん中では「さあ仏ができたぞ」と、土で仏を作りています。
③左端は、出来上がった仏をお堂に安置して祈っています。
こうして空海は小さい頃から、仏と共にあったことが語られます。

弘法大師 行状四天王執蓋事
空海を守護する四天王(弘法大師行状絵詞)
ある日のことです。真魚(空海)がいつものように仙遊寺あたりに遊びに行こうとしています。仏を守護する天部の四天王が、ボデイーガードとして真魚を護っています。四天王の姿は人々には見えません。

四天王に護られた空海
四天王を従えた真魚に跪く役人
しかし、都からやってきた偉い役人には、その姿が見えます。役人は驚いて馬を下り、地面にひれ伏します。その前を真魚は通り過ぎて行きます。絵伝は、空海の幼年期のことをカリスマ化ししていきます。このような話が、後の空海伝説につながって行きます。そんな中で、善通寺でだけで語られるシーンが出てきます。それを見ていくことにします。

空海の捨身行 我拝師山
我拝師山からの真魚の捨身行
 この絵の舞台は、善通寺五岳の我拝師山です。岩場から真っ逆さまに墜ちているのが真魚です。実は落ちているのではありません。説明文には次のように記されています。

弘法大師は、五岳の我拝師山の崖に立ち、次のように誓願した。吾に生きる意味があるならば、仏よ助け賜えと」と念じて、空中に身を踊らせた。すると釈迦(天女)が現れて真魚を救った。

ここでは釈迦の替わりに天女が現れていますが、もともとは釈迦でした。この言い伝えから、ここは釈迦が現れた所ということで出釈迦と呼ばれ、空海が初めて行を行った場所とされました。後には高野聖でもあった西行も、「空海の行場」に憧れ、ここにやってきて修行したことは以前にお話ししました。つまり、中世は我拝師山は空海修行の地として、山岳修験者に人気があった行場であり霊山だったことを押さえておきます。また、命をかけての最終行を「捨身」行とも云います。 この絵以来、空海は五岳で捨身行の修行をしたと語り継がれてきました。それが現在にもつながっています。現在の出釈迦寺の奥の院の鐘楼を見ておきましょう。

出釈迦寺奥の院と釈迦像

 鐘楼の横に近年姿を見せたのが金色に輝く釈迦像です。これは、先ほどの出釈迦のエピソードを受けてのことでしょう。さらに深読みすると、ここは幼年の空海の修行地であるというアピールしているようにも思えます。もうひとつ、出釈迦が今に語り伝えられているものを見ておきましょう。

ふたつの空海像

空海像です。左が高野山、右が善通寺に伝わるものです。どちらも椅子に座り右手に三鈷杵(さんこしょ)を持っています。これは、仏敵を追い払うと共に、自分の弱い心を打ち砕くとされる神聖な仏具です。後でもういちど出てきます。弘法大師の姿は、ほぼ同じです。違うのは、後ろに釈迦が雲に乗って現れています。これは先ほど見た出釈迦のエピソードに由来するものでしょう。善通寺のセールスポイントは「空海誕生の地」でした。同時に、我拝師山で空海がはじめて修行を行ったことをアピールしているものとも思えます。ここでは中世には、幼い空海が我拝師山で修行したと考えられていたことを押さえておきます。
 最初のテーマにもどりますが、中寺と空海をむすぶものは、山林修行です。
それが我拝師山までは辿れるということです。これを中寺でも行ったとすればいいわけです。次に、空海が若き日に行った山林修行とはどんなものだったのかを次に見ていくことにします。その前に、山林修行者と、修験道・修験者の違いを押さえておきます。

山林修行者から修験道へ

空海以前から山野に入って山林修行していた人達はいました。その目的は超能力を身につけるためと、鉄・銅・水銀などの鉱山資源開発のための山師(最先端テクノ技術)や、医学者としての薬草採集などの実利的な面もありました。彼らは渡来系の人達で当時の先端技術や知識を持っていた人達です。空海によって密教がもたらされると、その影響を受けて組織化が進みます。そして、12世紀になると始祖を役行者、守護神を蔵王権現・不動明王として、ひとつの部門を仏教教団の中で構成するようになります。これが修験道です。義経に仕えた弁慶も僧兵であると同時に修験者でした。讃岐に流された崇徳上皇も都に帰れぬ恨みを、「天狗になってこの恨みはらんさん」といい天狗になります。天狗になるために修行する修験者も出てきます。これを天狗道(信仰)と呼びます。そのメッカが白峰寺や象頭山でした。そこには天狗になるために修行するひとたちが沢山いたことは以前にお話ししました。
 整理しておくと、12世紀より以前に修験道もなく修験者もいなかった、いたのは雑多な山林修験者でした。そこで、中世以後を修験者、修験道、それ以前を山林修行者と分けていつこと。空海は古代の山林修行者のひとりになります。
それでは山林修行者は、どんなところで修行したのでしょうか。

山林修行者が選んだ行場とは


彼らが行場として選んだのは「異界への入口」でした。天界への入口として相応しいのは、石鎚などの切り立った山です。そこには多くの行場があり、山林修行者が集まりました。一方、地界(地下)への入口とされたのが、火口や洞窟・滝や断崖でした。洞窟は、地界に続く入口とされましたがそれだけではありません。修行者にとって雨風を凌ぐ、生活の場が必要です。お堂や寺院が出来るまでは、洞窟が生活の場でした。

空海の伝記には、空海の山林修行について次のように記されています。

空海の山林修行

以上を要約すると次のようになります。
A 山林修行の僧中に飛び込んで行動した。(先行する集団がいたこと)
B 具体的な修行内容は、②岩ごもり ③行道 ④座禅だった。
C 短期間でなく⑤何年も行った
 空海が行った修行2

 空海の行った修行を具体的に押さえておきます。
   ①まず岩籠(いわこ)もりごもりです。洞窟は、魑魅魍魎の現れる異界の入口と考えられていました。そこに一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。それだけで一般の人達から「異人」と思われたかもしれません。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。これが「木食」です。洞窟は、生活空間で、修行者が多くなると庵や寺院(奥の院)に成長して行きます。
 ②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。
どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは当時の僧侶が朝廷や貴族から求められたのは高尚な仏の教えだけでなく、旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことでした。そのためには修行を積んだ「験」が高い僧侶が求められます。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントやアイテムが必要で、それが修行だったということでしょうか。そのために東大寺や地方の国分寺の高級国家公務員である僧侶も机に向かうだけでなく、空海のような山林修行を行うことがもとめられるようになります。そうしないと護摩祈祷しても所願成就とはなりません。僧侶としての栄達の道も歩めません。

空海は、どんな修行をおこなったとされているのでしょうか?
絵伝に出てくる修行シーンを見ていくことにします。

阿波太龍寺 宝剣飛来
阿波の大滝山で虚空蔵求聞持法を唱える空海と飛来する宝剣(弘法大師行状絵詞)
阿波大滝山での空海の修行の成就シーンです。空海が座っている所は、よく見ると崖の上の洞窟です。これが大瀧山の不動霊窟のようです。行場として相応しいところです。空海の前には黒い机が置かれています。その上には真ん中の香炉、左右に六器が置かれています。虚空蔵求聞持法というのは、百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。すると、 雲海が切れて天空が明るなります。そして雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。これが修行によるパワーポイントやアイテムの獲得です。しかし、これで修行が終わったわけではありません。成就すると次の行場に向かいます。絵巻は室戸へとつながっていきます。

室戸 明星 空海
室戸で明星が口に飛び込む
太龍寺からの続く雲海が切れると、岬の絶壁を背にして空海が瞑想しています。前は大海原で逆巻く波濤を押し寄せています。すると、輝く明星が室戸の海に降り注ぎます。その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を体験し、身を以て体感し悟りに近づいていきます。これが山林修行です。
  
金剛頂寺 空海
金剛頂寺で禅定する空海と、そこに現れる魔物たち。
この舞台は金剛頂寺です。壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいます。本堂に空海は座って、修行に励んでいます。上の説明文を読んでおきましょう。
「汝ら

金剛頂寺 生木仏像
魔物退散のために生木に仏を彫る空海
木に仏を彫るというのは、魔除けのために空海が行ったことです。このため後の修験者たちも生木に仏を刻むことを行います。生木地蔵などがあれば、そこが修験者や高野聖の拠点であったことが推測できます。また、この魔類や妖怪たちは、柳田國男の民俗学で仏法以前の「地主神」とされます。このように、もともといた神々を追い払ったり、従えながら仏法が定着する姿を語ったというのです。
ここで注目しておきたいのは、室戸岬で生活していたとは書いていないことです。生活していたのは金剛頂寺で、行場が室戸岬で、そこを往復=行道していたと記します。これを整理して起きます。

金剛頂寺と室戸の行道

位置関係を地図で見ておきます。①こちらが金剛頂寺 こちらが室戸岬。20㎞余り離れています。研究者は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマだったようです。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺(ほつみさきじ)となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。ここでは、禅定や巌籠もりだけでなく、行道もおこなっていたことを押さえておきます。
 以上から、どうして山林寺院がこの時代に姿を見せるようになったかをまとめておきます。

山岳寺院誕生の背景

このようなことを背景に、中寺は国衙によって建立されることになります。ここまでが第1部です。

辺路修行から四国遍路へ

  蛇足になりますが、四国遍路の形成について現在の研究者は次のように考えています。
①小辺路は我拝師山や室戸岬のように1ヶ所での修行
②中辺路は、観音寺から七宝山を越えて我拝師山までとか、丸亀平野の七ケ所詣り・髙松平野の七観音巡礼のように、いくつかの小辺路を結んだもの
③さらに中辺路のブロックをいくつか重ねたものが大辺路
こうして、中世のプロの修験者たちは四国の行場で辺路修行を重ねていました。それが近世になるとアマチュアが、これに参入するようになります。彼らは素人の修験者なので、行場での長期の修行はしません。お札だけを奉納する巡礼に替わります。つまり、修行なしの遍路になります。そうすると、行場のある奥の院を訪れる参拝者は少なくなり、お寺は行場のあった奥の院から里に下りてきてきます。そして里の札所をめぐるスタンプラリーとなります。ここでは中世の辺路修行(=行場めぐり)が、四国遍路のベースにあったことされていることを押さえておきます。 今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025年総会 白川琢磨講演会

上記の内容で白川琢磨先生の講演会を開催します。興味と時間のある方の参加を歓迎いたします。
日 時  令和7年8月3日(日)総会 13:30  講演会は総会後の14:00を予定
場 所 まんのう町役場3階 大会議室(まんのう町吉野下430番地)


                 
前回は、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」に出てくる犬塚の地名由来について見ました。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この荒唐無稽な話は、「山伏による創作話」と思っていたのですが、そうとも云えないようです。
実は、高清左衛門の大蛇退治と同じような話が、もうひとつ伝わっています。
それが「畑恒信の大蛇退治」を記した犬塚の碑文です。これを見ておきましょう。(要約)

内田の犬塚
右が犬塚(1786年建立)、左が畑恒信の碑(1918年建立)
犬之塚在松字岡哉属鵜足郡内田村博者曰 永禄中畑氏之先有恒信避土乱入讃州畜犬従焉道過杵尾谷飢而億有大蛇襲後畜犬狂走吼其主弗已叱之益甚恒信怒挺剣斬其首首飛蛇喉蛇即逃去恒信大驚射蛇不及遂跡血抵蛇所殯諸猪之野後世因名其虎曰蛇壇其射蛇不及曰無念谷方言謂憤曰無念於是恒信深痛畜犬之非命埋其屍為建其塚云恒信有裔孫曰畑八造義直居香川太田焉謂余曰昔者吾遠祖時義仕新田将軍建勲延元之間時有若犬獅子出入敵城伺其虚実至恒信亦有若畜犬遂免大蛇之難畑氏世有異犬蕨功可勝道哉今将碑之子請銘之銘曰く
繋犬邪人邪 人而不淑 謂之何哉
繁人邪犬邪 犬而如斯 余莫以為犬也
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書
意訳変換しておくと
犬の塚は、松字岡にあり、鵜足郡内田村に属する。ここには、次のような話が伝わっている。永禄(1558~70)中、畑氏の祖先に恒信という者がいたが、阿波の兵乱を避けて犬を連れて讃州にやってきた。杵尾谷を過ぎ、餓えと疲れで座り込んでいると、大蛇が後から近づいてきた。それに気がつかずにいると、犬が吼えた。制止すると、ますます吠えたてるので、恒信は怒って剣を抜いて犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇の喉元に食らいついた。驚いた蛇は逃げた。恒信は大いに驚いて、蛇を射る間もなかった。そこで蛇が残した血を辿って行くと、猪の野(柞野?)に至った。
 後世になって、この地のことを「蛇壇」と呼ぶようになった。また蛇を射ることができなかったので、「無念谷」とも呼んだ。ここに恒信は、犬の非命を痛んで、その屍とを埋め、塚を建てたと云ふ。恒信には、香川の太田に子孫があって畑八造義直と云う。
 彼が私に次のように語った。「昔、我が遠祖の時義は、新田将軍に仕へて勲をたてた。延元(1336~1340)の間、大獅子の若のように敵城に出入して偵察活動を行っていた。恒信も獅子若のように犬を連れて、大蛇の難を免れた。畑氏には代々、異犬がおり功績を挙げてきた。今まさにこれを碑に刻むことにする。銘して曰く、
アアヽ・犬なるか人なるか、
人にして淑(ヨ)からざる、
之を何とか謂はん。
繋人なるか犬なるか、
犬にして斯(カク)の如し。
余以て犬と為すなきなりと。
天明六(1786)年歳次丙午春三月
菊池武周夫謹撰
杉野次定  書

ここからは次のような情報が読み取れます。
①大蛇退治をし、松字岡の塚に犬塚を建てたのは、阿波出身の畑恒信であったこと。
②つまり大蛇退治の主人公を畑恒信とすること
③天明六(1786)年恒信の子孫畑義直が、内田字天川の地に移し「犬の塚」を建てたこと
④物語は大蛇退治だけで終わっており、主人公が内田で撃ち殺されたこと=「村民による畑恒信虐殺事件」には触れていないこと
⑤碑文を書いた菊地武周夫(武矩)は高松藩の儒臣で、「祖谷紀行」などを残すなど名文家であったこと
つまり、この犬塚は畑池の祖先顕彰碑として1786年に建てられたものであることを押さえておきます。
まんのう町内田集落
内田の④畑恒信の碑と犬の塚
それから約130年後の大正7(1918)年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立しします。それを見ておきましょう。
畑恒信碑(造田字天川)
畑恒信阿波美馬人其先曰時能本出武蔵属南朝廃名顕世有畜犬甚書能偵敵状以是夜襲必勝事見史籍永禄中恒信避乱入讃岐亦有畜犬従焉至杵尾憩而睡篤大蛇所襲犬暴吠其主驚害怒叱益吠不己恒信斬其首首飛触蛇蛇骸走恒信始悟犬吠之為己也乃追射蛇於猪尾斃之時飢渇甚入民家求食衆以其状異謂篤狂也乃乱打之遂致死既而知其賓歎曰彼能殺蛇除此方害豊可不徳之哉彼畜犬又能護主亦云忠臭乃両葬之墓在内田内田人年修法会迄今三百六十年也明治初又祠恒信予天河祠芳其裔徒香川大田自第三世至第十一世世称畑八造第七世八造詳直義者千天明六年為犬建碑菊池高洲銘之第十三世曰吉次今戸主也為戸主則年往掃内田墓蓋家例云吉次以為犬雖有碑而先徳未顕乃来余乞銘余謂恒信事蹟半在犬碑半在日碑其裔又能念蕨祖良可嘉癸乃
為叙其事而銘之銘日
縄其祖武 克紹遺徳 据大入讃
使剣去國 時乎命乎 免大蛇口
命乎時乎 死野人手 野人悔過
弔之慰之 一時相尼 千載追思
大正七年一月 二等學正 赤松景福撰井書
意訳変換しておくと
畑恒信は、阿波美馬の人であり、その祖先を時能と云う。もともとは武蔵出身であったが、阿波にやって来て南朝に属して、その名が知られるようになる。その飼犬は非常に賢く、敵情偵察などにすぐれた情報を提供し、それに基づいて夜襲すると必勝であったことが史書に見える。
 永禄(1558~1570)中、恒信は乱を避けて讃岐に入った。犬もこれに従った。柞尾(柞野)に入って、座り込んで寝ていたところ、大蛇が近づいてきた。犬が吠えて危険を知らせようとするが、危険に気がつかずに犬を制止しようとする。それでも犬は吠え立てるので、怒りにまかせて恒信其は犬の首を刎ねた。首は飛んで蛇に触れた。大蛇は驚いて逃げた。恒信は、犬が危険を知らせるために吠えていたことを知った。大蛇を追って、猪尾(柞野)で射て倒した。その安堵感で空腹を覚えた畑恒信は、民家に入りて食事を求めた。これを見た村人たちは、その異様な姿を見て怪しみ、これを乱打して撃ち殺した。しかし、事実を知って次のように嘆いた。
 畑恒信は蛇を殺して、その害を除いてくれた。まさに我々にとっては徳ある恩人である。彼の犬も、主を護った忠犬である。こうして、村人たちは主人とその犬を葬った。その墓は内田にある。内田の人達は、今に至るまで360年間、毎年法会をして供養している。そして明治の初めに、改めて恒信を天河(川)祠のそばに祀った。
 畑氏の子孫は、香川の大田に移った。第三世より第十一世に至るまで、代々にわたって畑八造と称した。第七世の八造(諱:直義)が、天明6(1786)年に、犬の為に碑を建て、菊池高洲之が文章を書いた。第十三世は吉次で、今の戸主である。戸主とは毎年、内田にやってきてその墓を清掃する。これが家訓だという。吉次は、犬の碑はあるが、私たち先祖の徳はいまだに顕彰されていない。そこで、顕彰碑の建立を思い立ち、私に銘を書くことを依頼した。私が思うに、恒信の事蹟は、半ばは犬の碑に書かれていて、その半ばは人々の伝承として伝えられている。彼の子孫は、祖先のことをよく供養し念じている。これはまことに喜ばしいことである。このことを述べて顕彰碑の銘文としたい。
銘に曰く、
其の祖の武を誉め
よく遺徳を継ぐ
犬を携べて讃(讃岐)に入り
剣によって国を去る。
時なるか命なるか
大蛇の口を免∧マヌカ∨れ
命なるか時なるか
野人の手に死す
野人過を悔い
之を弔ひ之を慰む。
一時の相尼するも
千載追思せん
翡犬之塚碑(造田字天川)
 大蛇退治のストーリーは、ほぼ同じなのですが、主人公がちがいます。こちらの主人公は畑氏の先祖だとします。そして、犬の顕彰碑はあるのに先祖の顕彰碑がないので、1918年になって改めて顕彰碑を建立したと、その建立動機が記されています。また、犬塚にはなかった「村民による畑恒信虐殺事件」が記されています。こうして、天川集落の人々は現在も畑恒信の碑や犬の塚に毎月一日に参って花や線香を供えています。また12月1日には、神官をまねきお祭りが行われていたとします。これで大蛇退治の主人公と、そのふたつの碑文については「捜査終了」のように思えました。
 しかし、問題はここからです。

 前回見たように「堀川碧星 美合村」に載せられている大蛇退治の話の主人公は「甲瀬(高清)左衛門」と書かれていました。
畑氏ではないのです。つまり、同じようなストーリーですが、主人公が異なる話が2つあるということになります。そこで研究者は、高清村(半田町)の左衛門の子孫であるという篠原家を訪ねます。そして、そこに保存されたいた古文書に出会います。それが宝暦12(1762)年に、阿波藩からの御尋ねにより、藩に提出した「高清左衛門家筋先祖書」(控え)です。これは、高清左衛門から六代後の九左衛門の書いたものになります。その大要を見ておきましょう。
  御尋二附乍恐申上覚(大意)               琴南町誌 1070P
一、私の先祖は麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休と申す者で、もともと細川家に仕えていましたが、後に三好長慶様に随うようになりました。畿内においてたびたび軍功をたてたので、摂州豊島部を下され、嫡子右京進をその地に居らせて、道久は上桜に居り、のちに入道して篠原紫雲と名乗るようになりました。私家の家祖高清左衛門は、この紫雲の次男で、篠原左衛門と言い、上桜に父と同居していました。しかし、上桜城が長宗我部元親の侵攻で落城すると、諸国を流浪し、のち川島に帰り居住するようになります。そのような中、天正13(1585)年に脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられ、狩のお供や狩場のご用を勤めるようになりました。
一、宗心様が半田山へ御狩をなされた折、お供をして、鹿・猪等多数射止めてご覧に入れました。その褒美として刀を下された上に、半田山の内高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付を下され、以後名を高清左衛門と改めるようおおせつけられました。

ここまでを要約しておくと
①大川山で大蛇を退治した高清左衛門の先祖は、麻植郡川島の上桜城主篠原弾正道休だった。
②篠原道久の次男が、家祖高清(篠原)左衛門で、長宗我部元親の侵攻後に諸国を流浪した。
③後に川島に帰り、脇町城主宗心様に召し出され、西山猟師頭に取立てられた。
④半田山での御狩の褒美として、半田山の高清一帯を勝手に開き取ってよいという御墨付をもらった。

次の一項は、キーポイントなので原文のまま掲げます。
一、高清左衛門儀 讃州宇多郡山中江殺生罷越天間川(天川)与申所一宿仕居申所 同村内田之郷侍大勢フ相擁シ不時こ口論仕掛候こ附 無拠合人之者共数十人切殺シ候 而則其所二而自殺仕候 其後相祟り 其上讃州之御殿様江 夢中二高清左衛門自殺之次第奉告候二附 御上ョリ一社御建立被為仰八幡之神号フ御贈り被レ為レ遣成居申候御事。天間川氏神二被レ為二仰附一今以御普譜罷
意訳変換しておくと
一、高清左衛門が讃岐国宇多郡の山中に入っていたところ、天間川(あまがわ:天川)で一宿していたところ、内田郷の侍大勢と口論になり、よんどころなく数十人を切殺して、その場で自殺し相果てました。その後、高清左衛門の祟りが内田郷へ下るようになりました。その上に讃州の殿様(生駒正親?)の夢中に高清左衛門の自殺の次第が出てきました。そこでお上から一社を御建立し、八幡の神号をいただき天川の氏神とするべしと仰せ附つかり、御普譜が行われました。

一、高清の居住地にも左衛門の霊を祀り高清明神と称するようになりました。なお讃州天川神社へは年に一度は参詣するよう神誼が私共先祖にあり、今もって毎年お参りしています。

一、高清左衛門は、手飼の犬を連れて阿讃山脈に入っていました。天川で左衛門が死んだとき、その犬が左衛門の足の親指をかみ切り、これを半田山へ持ち帰り、家族共の前にこれを置き涙を流したので、家人は左衛門の身に変事のあったことを知りました。そこで、犬に案内させ讃岐へ参ったところ、既に御役人の検分も終わり、事は一通り済んでいたのでそのまま帰ってきました。この時の犬は天川で自分から食を断って死にました。この犬の情をあわれみ犬の墓が、天川の地に建てられ今も残っています。また犬が持ち帰った左衛間の指は、鈴に入れな居宅の向かいの所に埋め「すずみどの」と呼び習わしています。供養に使ったものと思われる経石のようなものが多数もり掛けていること。(以下中略)
半田山高清名五人組 九左衛門
宝暦十弐(1762)年二月七日
大谷次二郎様
(裏書)
高清左衛門より六代目 九左衛門代書之
高清左衛門家筋先祖書
宝暦十二十年二月七日御尋仕候押書
以上が高清左衛門の伝説にかかわる文書として半田町の篠原家に残されていました。この文書は阿野藩の問い合わせに対して答えた準公文書にあたるものです。その意味では信頼性が高いと考えられます。こうしてみると高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)に実在した人物と推察できます。そして彼が内田で、喧嘩に巻き込まれ自決した事件があったことがうかがえます。それを裏付けるように、上内田字天川の檜が丘には、高清左衛門とその奥さんの墓といわれる五輪塔が二基祀られています。その横に七人侍の墓という自然石の墓もあります。
 こうしてみると「高清左衛門の大蛇退治 犬塚伝説」は、まったくのフィクションではなかった可能性が出てきます。事実である「高清左衛門の喧嘩・自決」に、大蛇退治が「接ぎ木」された話として捉えることができます。そして、この伝説が語られるようになったのは、17世紀になってからのことだったのでしょう。物語が生まれるまでの経緯を年表化してみます。
①阿波高清村(半田村)の高清左衛門は天正年間から慶長年間(1573~1615)の実在の人物であること。
②生駒藩時代に、讃岐領内に入って狩猟中に、地元の人間と騒動を起こし自害したこと。
③高清左衛門の怨霊は、祟り神となって禍をもたらしたので、神として祀られることになった。
④この史実に、山伏たちが尾ひれを付けて「大蛇退治」伝説を創作し、これが広まったこと
⑤1762年になって阿波藩は、その確認のために高清家に経緯の報告書提出を命じたこと。
⑥1786年に犬塚が畑氏によって建立され、主人公が「高清左衛門」から「畑恒信」に書き換えられたこと
⑦1918年に、畑恒信十三世の孫の畑吉次が「畑恒信碑」を建立し、畑氏の顕彰碑としたこと

こうして、大蛇退治伝説は「高清左衛門」から「畑恒信」に株取りされて、後世に語り継がれていくことになったと私は考えています。

なおこの「犬塚」というのは、形を少しづつ変えながら周辺の土地で語り継がれてきたようです。そのため各地に「犬塚」が残っています。例えば「高清左衛門」の半田町では次のように語られています。
   
高清左衛門と犬の墓(郷土研究発表会紀要第38号 半田町の伝説)
戦国の世、上桜城主篠原紫雲の一族に高清左衛門という部将がいた。臂力共に人に優れ、武芸特に砲術をよくした。上桜城落城により、一族は散りぢりに落ちのびた。高清左衛門は愛犬を連れて、半田山の高清谷へ身を潜ませ難をのがれた。その後時勢を待って、狩りをして暮らしていた。ある日、3匹の愛犬を連れて重清から真鈴を越え、阿讃国境に近い雨川(天川)の辺りで深山に入り野宿をした。その夜、1匹の犬がしきりに吠えたて安眠できない、制してもきかない、狂犬になったのかと1刀のもとに首を落とした。ところがその首は大蛇の鎌首に食いついた。左衛門は大蛇めがけて鉄砲を撃ち込むが大蛇は逃げていった。翌日山を下って、雨川に愛犬を埋め石を立て供養した。これが犬の墓として残っている。その晩、左衛門は庄屋で泊めて貰おうと立ち寄ると、お婆さんが1人いろりにあたっている。それはお婆さんを呑んで化けている大蛇だったので射殺した。これを見た村人は、庄屋の隠居を殺したと向かってきた。いくら化けた大蛇であることをいっても信じてくれず、多勢に無勢、左衛門は殺されてしまった。
 主をなくした愛犬は、左衛門の親指をかみ切って帰ってきた。これを見た妻は、主人の異変を直感し犬について雨川へ来た。村人は左衛門が大蛇を退治してくれたことを知ったが遅かった。妻に深く詫び、犬の墓も丁寧に祀った。妻は高清に帰ると、夫の親指を鈴の実として封じ、向かいの丘に祠を建て祀った。それが現存する鈴実さんの祠である。なお、高清左衛門の犬の墓というのが一宇村にもあり、香川県にも同じような伝説があるそうである。   (白川隆市さん・黒川浅市さん談)」((https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/38/3821.html

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
堀川碧星 甲瀬(高清)左衛門の話 美合村収録
大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P


 以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。

西村家文書 柞野絵図2
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)

中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。

甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
 
  若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。

意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。

もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。

ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。
②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある
③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある
④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。
⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。
⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。

 左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。

 石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。

ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた
②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。
③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。
④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。
⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
 二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
 留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。


こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。

以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



中寺廃寺講演会ポスター

まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。8月は中寺廃寺についてお話しします。
日時 8月24日(日)10:30~12:00
場所 まんのう町図書館会議室
興味と時間のある方の参加を歓迎します。なお会場が狭いので事前予約をお願いします。
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コウノトリが営巣して子育てをするようになったまんのう町造田と内田は、私の原付バイクの散歩コースの一つです。また、阿波へのフィルドワークに向かうときには、内田側の旧道を原付バイクで走ります。ここを走っていて気づくのは、河川跡らしきものが見えてくるのです。これは一体何だろうと思っていると、疑問に答えてくれる文章に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」です。

造田 天川神社周辺2
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)
造田とは、江戸時代から昭和31(1956)年までの村名です。
造田盆地の土器川を挟んで東が造田、西が内田になります。地名の由来は、次の2つの説があるようです
A 土器川の洪水によってできた氾濫原に田んぼを造ったので造田
B「サウダ」は遊水地を開拓して作った沢田(湿田)のことで、沢の田から起こった名だという説
文政9(1826)年の造田村については  西村文書には次のように記します。
石高、897石余り
戸数 219(石居 153、掘立66)
人数 922(男495、女424)
職業別人数は、本百姓198 半百姓64 お林守1、刀指1、僧侶2、社人1、山伏3、鍛冶1、猟師1、馬医1、神社7、寺2、庵2、牛57頭、馬4頭
神社は、天川神社と梶洲神社があり、『三代実録』に記載のある古い社です。
外に天神社・久真奴神社などがあるが、山の神社・水除社などの小祠も多い。
寺院は、浄土真宗長光寺・称名寺・真言宗吉田寺があります。
造田は、阿波街道が村を南北に貫通していて、鵜足郡南部の村村の中心的な位置を占めていたことが分かります。

 
造田盆地を貫流する土器川は、氾濫を繰り返してきました。
そのため造田盆地の中央の低地部は、十世紀ごろまでは川の左右に大きな氾濫原(遊水地)があって、ほとんど開拓されていなかったと研究者は考えています。

造田 天川神社周辺

造田地区の地形をみると、天川神社の南で山が両方から迫ってきます。下流では不動さんのところで山が川に迫り、川幅が一番狭くなっています。また、造田と内田は、土器川を挟んで、低地部(下所)と台地部(上所)に分かれている河岸段丘を形成します。この下所と上所の境に1~6mの高さの段丘崖があります。この段丘下を旧土器川が流れていた根拠を次のように挙げます。

造田の土器川氾濫原
造田と内田の土器川氾濫図(琴南町史1057P)

①新井手堰から上内田の石原を通り、段丘崖に沿って下に流れている用水が昔の大束川の河床に沿って流れていること。
②内田の西側の段丘崖は、中内田から下内田のあたりは一面の竹藪だったようで、それが「高藪」という地名として残っていること
③現在の清神原(せいじんばら)の下から小川堰あたりで氾濫水が流れ込み、川になり小川と名付けていること。
④旧県道沿いに堤防を築いてこの水を防いだことが、川原の石を積み重ねただけの幼稚な堤防からうかがえること。
⑤内田下所の田を調べてみると、かつての川の跡を示すかのように、高岸に沿って、一番低い田が、奥から下へ、段々に続いていること。
⑥この田に沿って用水が通っていること。
⑦清神原あたりから一段低い田がずっと字小川まで続いていること。

これらの河川の氾濫原の開拓は、徐々に進められてきたのでしょうが、度々の洪水でその都度水田は流されています。
 開拓の面影を残すものとして、内田下所の所々に今でも石塚が残っています。これは旧土器川の川原を開拓した時に出てきた川石を積み重ねたもので、新しく開かれた開墾地などにはよく見られます。この塚を線で結ぶラインが旧土器川の流路であった研究者は指摘します。
 いつごろから治水に成功して水田を開いたかはよく分かりません。

四国観光スポットblog - 2009年07月
天川神社
伝説によると酒部黒麿が、八世紀ごろ天川付近を開拓し、天川神社の宮田を開いたといわれています。しかし、これをそのまま信じるわけにはいきません。本格的な下所の開拓が始まったのは、江戸期の生駒藩の時代になってからと考えるのが妥当な所です。しかし、治水技術が未熟で、開墾しても洪水の度ごとに、堤防や井堰が決壊して、田畑が荒らされます。それを何年もかかって、元に戻すということが繰り返されたようです。
それは次のような記録から裏付けられます
寛保四年の巡道帳から、元禄・宝永・正徳ごろになると開発田が多くなること
文化二年の巡道帳には、延享・寛政・享和などの時代に「林ニナル」とか、「砂入ル」などの記入があること。
このような中で、卓越した治水技術を盛っていた吉野の大庄屋岩崎平蔵が高松藩の郷普請方小頭に取り立てられます。岩崎平蔵は、藩命によって寛政10(1798)年から11年と、文化9(1812)年から十年にかけての天川大岩切抜普請に取り組みます。一本杉の天川横井の水乗りを良くし、横井から下流300mまでの河床に突出していた大岩を切り開きます。これによって、うなぎ渕付近の岩床が高いために、洪水のたびに水が大岩に乗り上げ、両岸に川水が氾濫していたのを防ぐことに成功します。しかし、これも恒久的なものではありませんでした。時間を経て、岩石や土砂が堆積して川床が再び高くなり、川水が氾濫するようになります。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

江戸末期から明治初期にかけて、この復興のために内田の百姓たちは女子供まで動員しました。「難所普請」と呼んだそうです。これが旧県道治いに三本松から農協裏あたりにかけて、残っている石垣跡です。
造田側では明治20(1887)年ごろになって、やっと本格的な土木工事が行われて、川に突出したような水はねの石塁(直径10m)三か所と、川岸の堤防300mが完成します。この工事の落成を祝って三番雙が演じられたと伝えられます。この堤防を森本堤防といい、現在もその当時の一部が残っています。
 大正元(1912)年の大洪水を、この堤防は水を防ぎますが、下流300mの堤防のない所が決壊して木の下の高岸までおし流されます。その後、大正5(1917)年、県補助の災害防止事業により、土器川両岸の堤防工事が行われます。さらに昭和になってからも、補強工事が行われ、戦後も砂防堰などが建設され、造田住民の長い水との戦いの歴史は幕を閉じ、現在の姿となります。

以上みてきたように造田地区は、古くから土器川の氾濫により、長い間苦しめられてきました。
洪水で、開田した田畑が一夜にして河原になることが度々ありました。治水技術の進んでいなかった当時は人の力ではどうすることも出来なかったのかもしれません。そんな時には、人々は神仏に加護を求めます。人々は、堤防が切れないように祠を建てて水除の神を祀り、水難から除られるよう祈りmした。これが水除社(みずよけしゃ)です。

造田の水除神
水除社
天川の忍石神社(天川バス停の下)は、社伝によると延宝4(1676)年に、内田集落の水害を防ぐために水除さんとして祀ったとあります。祭神は、天忍雲根命(飲料水の神様)・水波女命(あまき水、清き水の神様)・佐太毘古命(猿田彦神)の三神です。これだけではありません。嘉永6(1853)年の大水の時に勧進した水除社が、門屋の稲毛宅の前(造田字大西561番地)にあります。もとは50mぐらい西の高岸の上にあったのをここに移したそうです。水害のあと、ここに高岸を築いて、ここからは水が入らないように神に祈って建てたものと伝えられます。石の小祠が祀ってあって、「嘉永六丑年三月吉日 世話人 平田了吉」外16人の名前がきざまれています。
 平田水車のすぐ東(造田字山下1224番地)にも水除社があります。大正元(1912)年の大水の時も、このすぐ下まで水がきて、平田水車も半分ぐらい流されます。この小祠の中に、古い棟札があり、「明治十五年四月二十七日 奉再造大神官祠」と書かれています。これも再造ですから、もっと古い時代から祀られていたはずです。
 下内田字為久の水除堤防の上にも石造の祠があり、古くから水除さんと呼ばれています。ここは昔からよく堤防が切れたところのようで、今は頑丈な堤防が築かれています。
 隅田宅の裏(造田字小川1547番地)にも石造の水除社があります。ここも土器川の水が増水するたびに、水びたしになっていたところです。
これらの水除社の祭神は天照大神です。天照大神は水の神として別名は、「あまざかるむかつひめ
の命」とも言われているところから水防の神として祀ったとされます。
 こうしてみると造田地区には、残っているものだけで水除社が五社もあります。この外に流水の分配をつかさどる神として、水分社(祭神天之水分神、国之水分神)が三社があります。ここからは造田地区の人々が洪水に悩まされ、加護を神々に祈る姿が見えてきます。昔の人々は、これらの神々に祈りを込め、土器川の氾濫を防ごうと考えたのでしょう。

以上をまとめておくと
①まんのう町(旧琴南町)造田地区は、盆地の中を土器川が貫通していく。
②そのため洪水時には、土器川は暴れ川となって盆地を何本もの水流となって駆け下った。
③生駒藩になって土器川沿いの氾濫原の開発が進められ、造田も開発田が増えた。
④しかし、襲い来る洪水が開発した水田を押し流し、再び川原や遊水地とすること繰り返された。
⑤人々は土器川沿いに水除社をいくつも建立し、水害からの加護を願った。
⑥土器川の治水コントロールが可能になるのは、近代になってからのことだった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」

香川における松平家への歴史的な仕え方 - Genspark

第8代髙松藩主・頼儀の後継者に指名された水戸藩の頼恕は、文政元年(1818)年には、讃岐に入国し、参勤交代を務めていましす。しかし、正式に9代藩主となったのは文政4年5月からです。彼のことは、ウキには次のように記されています。

在職は22年。家老木村通明(亘、黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。

 治政開始16年後の天保5(1834)年2月9日、鵜足郡の宇足津村で百姓騒動が起こり、続いて2月15日には金昆羅領民が、那珂郡の四条村に乱入する騒動が起こります。この騒動は数日で鎮定しますが、このことを憂えた頼恕は、不穏な情勢があると伝えられていた髙松藩西郡の巡視を行う事にします。当時、高松藩は財政が窮乏し、諸事節約中でした。そこで、巡視経費を減額させようとした頼恕は、「鷹狩り」と同じ規模・スタイルで巡視を行うことにして、「お鷹野」と称したようです。この「お鷹野=阿讃国境巡視」について今回は見ていくことにします。テキストは「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」です。

19世紀なって造田村の庄屋を務めるようになったのが西村家です。
造田村庄屋西村家系図 琴南町誌240P
造田村庄屋西村家の系図


西村家は旧姓は森で、戦国末期に来村して帰農したようです。天正16年に、西村吉右衛門が村切りを願い出た文書(「そうだの米もり帳」)の中に、西村家系図に出てくる安左衛門が出てきます。幕末になって西村忠右衛門の代に、檜山植林経営の功労者として名字帯刀を許され、蔵組頭を務めるようになります。経営的には造田紙の元請として国産品の増産に功績を残し、御貸免経営にも成功します。彼が西村家勃興の基礎を築いた人物になるようです。忠右衛門の跡を継いだのが西村市太夫になります。藩の永引地の興し返し地調査などに従事し、傑出した庄屋として知られた人物だったようです。そのため造田村庄屋だけでなく勝浦村庄屋後見役、炭所東村庄屋後見役、中通村兼帯庄屋を務め大庄屋並の待遇を与えられるようになります。また、市太夫は、青年時代に炭所西村の桃陽宗匠に師事し、「桃郷」と号して俳句を学び、俳句集や神社の俳諾献額などにその名が残っています。市太夫の文才は庄屋文書の上にもあらわれ、目次欄を設けて整理された庄屋日帳や、郡の引纏方として担当した、天保9(1838)年の幕府巡見使の関係記録などの記録にも、その学識の豊かさがうかがえます。

造田村の庄屋西村市太夫が、郷会所の元〆から飛脚と同道して出頭するよう命ぜられるのが天保6(1835)年正月14日のことでした。
「殿様の大川宮(神社)御参詣、御鷹野を遊され、御境見(国境視察)をなさること」についての打合せでした。高松へ出頭して、詳細な命令を受けた市大夫は、翌15日、鵜足郡上法村の大庄屋十河亀太郎宅で開かれた郡寄合に出席し、大庄屋などと協議を行って帰宅します。この「鷹狩り巡視」の期日は2月末と知らされます。これから約二か月間、市太夫は準備のための多忙な日々を送ることになります。準備のスタートは予定順路の決定と距離確認から始められます。国境巡視について、絵図を添えて造田村分のコースは次の通りと報告しています。

「那珂郡境笹ヶ多尾から、犬の塚を通り、炭所西境三つ頭まで、長さ千弐百問」

西村家文書 柞野絵図2
西村市太夫が提出した造田村柞野谷周辺 (中寺が記入されている)

これが造田村の領域エリア分でした。
この年は雪の多い年で、大川寺周辺は三尺(約1m)超す雪に覆われていて、事前調査に手間取ります。阿讃の国境の道を、馬を牽き、数々の道具を持った多人数が通行できるかどうか、現地調査が繰り返されます。各村から集められた人足が、山方役所の手代の指図を受けて、大川神社から笹ケ多尾まで、御林の木を伐り枝を払い、長さ約700間の新道を開きます。笹ヶ多尾から三つ頭までの古道約1100間の修繕も行われています。
 一方で、塩入村からの通路についても調査が進められます。最初は、人足の引継場所になるのは、塩入村(那珂郡)と造田村(阿野郡)の郡境尾根にある「中寺」が予定されていました。しかし、尾根上は土地が狭く、殿様の近くで継ぎ立てを行って混雑することを恐れた市太夫は、笹ケ多尾に適地のあるのを見つけ、大庄屋を通じて塩入村に了解を求め了承を次のように得ています。

西村市太夫の大庄屋への返答(意訳)
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

 大庄屋からは殿様にお話申し上げる資料として、巡回コース上の名所・古跡を調査して、地図を添えて差し出すように命ぜられています。市大夫は、犬の墓と中寺堂所について次のように報告しています。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。詳しいも伝承はないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここに出てくる中寺が中寺廃寺のあった所です。ということは、西村市太夫は中寺がどこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
以下の文書のやりとりについては、前々回に見ましたので今回は省略します。
一方、里の村方でも、道普請が必要になります。
次の四つの端が掛け替えられます。
入尾川橋(長さ七間、道幅二間)、
西川井手橋(長さ二間半、道幅一間)
同所下谷橋(長さ六間、 道幅一間半)
佐次郎前橋(長さ三間半、道幅一間)
同時に、この四つの橋を結ぶ道もまた修繕されます。

御巡視の日が近づくにつれて、郷会所や山方役所の手代はもちろん、郡奉行・代官・郷普請奉行・寺社方の下見が続いて、庄屋や組頭は、その応接にも忙殺されます。
当日、笹ヶ多尾へ荷物などを運び上げる人足が、次のように村々へ割りあてられます。
人足数 263人
造田村 112人 (西村 69人 東村 46人)
長尾村  45人
炭所西村 38人
岡田上村 125人
岡田西村  25人
岡田東村   8人
人足には草軽と草履約300足が配布しています。

  頼恕の一行は、七か村で二班に分かれ、
本隊は木の崎から炭所西村、造田村、中通村を経て勝浦村へ
頼恕の班は、塩入村へ
そのため造田の天川が昼所とされます。一行約180人の昼所となったのは天川の大道筋で、菩左衛門、九郎右衛門、弥九次郎の三軒でした。
 行程の中で西村市太夫が最も気をつかったのは、笹ヶ多尾の御芦立所(休憩所)の設営でした。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
大川山から笹ケ多尾の阿讃主稜線につけられた新道
塩入村の最後の休憩所である御林守の伊平の家から、笹ケ多尾までは中寺経由で雪中一里の行程です。
多葉粉盆、縁取り、筵、火鉢等の御道具立てはもちろん、湯茶わかし、仮雪隠の準備までしています。そして興炭10俵を運び上げて、釜三本を炭火でわかします。
 阿波からも、人足を出して道普請を手伝いたい、当日は村役人が百姓を引き連れて御挨拶申し上げたい旨の申し出がありました。しかし、代官の旨を受けた市太夫は、お鷹野であるからと、丁寧に書状で辞退しています。

頼恕の動きを見ていくことにします。
2月
26日 高松出駕、阿野郡北坂出町の宮崎次兵衛方で宿泊
27日 鵜足郡川原村宮井伝左衛門宅にて小休、岡田村木村甚三郎宅にて御昼所
    那珂郡吉野上付又蔵宅にて小休、七か村鈴木柳悦宅にて宿泊。

中寺廃寺 アクセス

こうして2月28日に、小隊編成で塩入からの「御境目見分」が行われています 
好天気に恵まれた頼恕は、一部の藩士を従えて柳悦宅を出発し塩入村に入ります。元庄屋小亀弥三郎宅にて小休、御林守の伊平宅にて足下を整えた後に、現在の鉄塔尾根沿いに残雪の残る東谷尾根をたどって「中寺」経由で笹ヶ多尾へ九ツ時分(正午)に到着します。笹ヶ多尾には、畳二枚が西村市太夫によって用意され、藩士が持参した毛所を広げられます。殿様は、弁当を食べ、遠鑑(とおかがみ:望遠鏡)で四方を遠望して時を過ごします。西村市太夫は「御機嫌よく御立にて、有り難き仕合にて御座候」と書き残しています。
 笹ヶ多尾から阿讃国境の峯伝いに進み、その途中で阿州の庄屋などの挨拶を受けます。これに対応しているのも西村市大夫です。

大川神社 1
大川宮(神社)に到着すると、神官の宮川美素登の案内で、入谷主水が代拝し、終わって頼恕も拝殿に上がって拝礼します。
大川神社 本殿東側面
大川神社本殿(改築以前)
「増補三代物語」には大川山のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也
意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
参拝を終えた頼恕の一行は、大川宮から峯通りを進み、白ぇ峯(?)で軽い食事をとり、勝浦村本村の庄屋佐野佐平宅に向かいます。

2月28日の勝浦村庄屋佐野宅での宿泊については、記録が残っていないのでよく分かりません。ここでは、村役人などを含めると約200人の宿泊だったので、庄屋宅だけでなく、近くの長善寺や村役人宅なども宿舎とし使われたのでしょう。布団などの夜具は、造田や中通などから運び上げられたようです。「西村文書」に中に、次のような領収書と書付けが残っています。
領収書 「四布(よの)布団一枚五分、三布(みの)布団一枚三分」
2月25日付の書付け
「御人数増につき、 畳拾五枚、風呂一本を送った」
29日は勝浦の庄屋佐野家を出発した頼恕の一行は、川東村渕野の円勝寺を昼所としています。
勝浦村の佐野宅から円勝寺までは、難所であったので、中通村一疋、造田村四疋、炭所東村二疋、炭
所西村三疋、長尾村四疋、計十四疋の馬と馬方が加勢に出ています。

円勝寺 琴南淵野 殿様の昼食場
明治初年の円勝寺
円勝寺は、当時は浄土真宗興正寺派の寺院で、部屋割図を見ると、広い立派な客殿と庫裡があり、本堂も広く、設備がよく整っていたことが分かります。それでも藩主一行を迎えるには不十分だったようです。そのために境内に仮小屋を建て、近くの組頭庄左衛門宅など六軒を利用して、 一行の昼所に充てています。
 この準備を、取り仕切ったのが状継弥右衛門(稲毛家)で、彼もその記録を美濃紙44枚に及ぶ「殿様御鷹野合御小昼所円勝寺記録」として残しています(稲毛家文書)。そこには、一行のメンバーが次のように記されています。
一、御本亭(客殿)
御用達入谷主水。御用人古川市左衛門。同高崎清兵衛。御小姓斎藤尽左衛門外八名。御櫛番弐人。奥医師二人。奥横目二人。御庖丁人六人。賄人三人。末の者二人。小間使十四人。御肴量一人。八百屋一人。計四十五名。
一、円勝寺本堂
贅日山下新兵衛組十七人。御医師と足軽十一人。御茶道北村慶順組十三人。御内所方市原太郎組八人。御駕籠頭一人 .計五十人。
一、円勝寺仮小屋
御駕籠の者十人。小道具の者三人。御野合小使三人。助小使五人。御手回り御中間十一人。御荷物才領中間五人。計三十七名。
一、組頭庄左衛門宅
奥医師杉原養軒。同安達良長。外六名。計八名。
一、百姓伊四郎宅
惣領組中と御中間計十七人。
一、百姓伝次郎宅
御鷹方吉原男也外二十七人。計二十八名。
一、百姓次郎蔵宅
小歩行中間計十四人。
一、百姓佐十郎宅
御家来衆計二十人。
一、百姓伝次郎宅
郡奉行外七名。計八名。
(総計二百二十七名)
これを見ると一行の総数は227名であったことが分かります。当時は、高松藩の財政が最も窮乏していた時で、経費節約のために領内巡視を「御鷹野」と称して行う事になったと最初に記しました。しかし、参加メンバー数を見る限りでは、「少数による巡視」にはほど遠いものであったことがうかがえます。ある意味では「動く御殿」でもあったのです。
 円勝寺で軽い昼食をとった後の行動については、次のように記されています。
焼尾笠松 御芦立所で小休し、永覚寺にて御昼所、羽床上村逢坂庫大方にて御泊り。
翌日、畑田村富野佐右衛門宅にて小休し、香川郡円座村遠藤和左衛門宅にて御小休、御帰城遊され候

西村市太夫は、二月朔日に御鷹野記録の筆をおいています。
同年三月八日、川東村の状継弥右衛門は、兼帯庄屋川西勇蔵の名で、阿野郡南の大庄屋宛に、郷普請人足遣済の届書を次のように提出しています。
川東村
一人足五百二十一人 御小昼所一件遣済辻
一馬 四疋(此人足十二人)右同断
〆 五百三十三人
一人足百六人 指掛三ケ所川東村分遣済辻
一人足七百六十五人五分 御通行筋道作人足遣済辻三口
〆千四百四人五歩
右の通に御座候以上
未三月八日            兼帯庄屋 川西勇蔵
奥村宇右衛門様
水原先三郎様
これを見ると川東村もまた多くの人足を出動させて、大きい負担を蒙ったことが分かります。私は、この「御境目見分」は殿様の鷹狩りで、春になってから少人数で行われたと思っていました。しかし、それは違っていました。
厳寒2月の1mもの大雪の中、どうして「御境目見分」を行わなければならなかったのでしょうか?
考えられる説を挙げておきます
A 阿波藩に対する警戒・示威行動であった
B 遊惰に流れた藩士の士気を鼓舞するためであった
以上をまとめておくと
①第9代髙松藩主は、領内西部の不穏な空気を押さえるために「藩主巡回」を行う事にした。
②しかし、財政難のためにそれまでの正規なものではなく「鷹狩り」と称した簡略版で実施予定した
③巡視コースのハイライトは、大川山周辺の阿讃国境の巡視であった。
④そのための準備のために巡視コースの村々は、さまざまな準備と負担を担わされた。
⑤造田村庄屋であった西村家の文書から「鷹狩巡見」の様子を知ることが出来る。
⑥雪の残る2月末に、国境尾根の巡視活動を行った意図はなんであったのかよく分からない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」
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借耕牛 歴史の見方
借耕牛 まんのう町明神の出合橋
以前に借耕牛のことについてお話ししました。それに対して「牛の貸手と借手側の動きについて、もう少し詳しく知りたい」というリクエストがありましたので、そこに重点をおいて見ていくことにします。テキストは「借耕牛 琴南町誌595P」です。

借耕牛 峠道
借耕牛の越えた阿讃の峠と集積地

借耕牛 搬入ルート
借耕牛の越えたルート図

借耕牛は、どのような仕組みで明神に集められたのでしょうか?
それがうかがえる史料が昭和30(1955)年頃に、旧琴南町中通の博労・岩崎春市が得意先の借手の農家に出した次の葉書です。

借耕牛 貸し出し農家への依頼文

昭和三十年代 仲介業者から借手農家への葉書(琴南町誌)
拝啓 時下好季節となりました貴家御一同様益々御清祥奉ます
陳れば例年通りに御引立を蒙ります。耕作牛件に付一般に連絡がおくれて居りますが相変ず追出し御用明下さる事と思ひますので追出期日は秋は十一月一日より夏は六月一日より尚仕り牛は早く来ても都合のよいのが居ります。又賃金(レンタル料)も安く勉強して使用出来ると思いますれば近所誘合せて御出下され。尚小生一度御相談に参上ます積りですが若し行かず共入用事時に連絡が出来れば好都合と存じます
先は取り急ぎ御依頼中止ます           ´   敬 具
昭和  年   月   日      ..
香川県仲多度郡琴南町中通小学校前
家畜商并耕作牛仲介業             岩崎春市
これが琴南町中通の仲介業者が、讃岐の借り手側に送った案内葉書になります。「追出期日」というのが阿波から牛がやってくる日時です。それに合わせて、借手の農民に出された案内状です。気になるのは、「場所」が明記されていないことです。どこで借耕牛の「市(セリ)」は行われていたのでしょうか?。また、「借耕牛」という言葉は出てきません。「耕作牛」が正式の名称だったようです。

今度は阿波側の貸し出し農家から仲介業者(博労:ばくろ)への依頼状です。

借耕牛 貸し出し農家からの依頼文
貸出農家から仲介業者への依頼の葉書(岩崎春市提供)
内容を確認しておきます。
若葉香る良き季節となりました。家族の皆様はご健勝にてお過ごしのことと推察申し上げます。本年度も耕牛を追出す予定と致していますが、期日は何時頃が良いか御一報お願い申し上げます。牛は昨年も世話になった牛で、六歳になっています。先方を選んでいただければ幸いかと思います。先ずは取り急ぎ、右御依頼申し上げます。
早々
これが阿波の貸し出し農家からの仲介依頼葉書です。要点を挙げておくと次の通りです。
①今年も牛を「追い出す(レンタル)」する用意があること
②牛は六歳で、昨年もレンタルしたもの
③レンタル先の確保の依頼
④牛を追い出す日時の確認
などが記されています。
以上からは、借耕牛の仲介を世話したのは、博労(ばくろ)と呼ばれる仲介業者だったことが分かります。6月の田植え時期が近づくと、借方の讃岐の農家は地元の仲介業者に借耕牛の斡旋を依頼します。依頼を受けた仲介業者は、阿波の貸方の家畜商や農家に、日時、場所を指定して牛を連れてくるように依頼します。この通知を受けた貸方の家畜商が阿波のソラの農家を巡って、「今年は米に行くんか、行かんのか」と聞いて牛を集めたようです。

池田町史下巻924Pには、次のような「馬喰(ばくろう)」の回想が載せられています。
借耕牛の世話料は、牛の貸し賃の約一割だった。借耕牛の市は、夏と秋の二回あるが、その一期の値段が戦後では、六千円から一万円くらいだった。問屋と交渉したり、向うの馬喰(ばくろ)と交渉したり、個人同志の貸借りの仲介もあった。
個人の世話をするのに、よう讃岐へ自転車持って行って、丸亀まで送ってもらって、自分は汽車で行って、向うの農家を回る。二晩泊って、西へずうっと回って観音寺まで来て得意先の注文を聞いてくる。そして日を決めて、財田の戸川で両方が会うことになる。戸川の道路のはしに、牛をずらっと並べて交渉するんじゃ。
借りる側は、仕事がようけできんの、足元が悪いの言うて牛の苦情を言う。それに阿波から戸川まで遠い所をやあやあ言うて追うて行くきん、弱っとるわ。讃岐の人は戸川から追うていなないかん。牛がもの喰わな仕事にならんぞ、陽に弱いぞと苦情を言う。そこで、ばくろうが、借り手と貸し手と相談したながら、ばっぱっと決めていくんですわ。多いときには、一期に百二十頭ぐらい世話した。

夏と秋の二回あるんじゃが、秋は日にち(レンタル期間)がちょっと長い。秋に弱る(困る)のは残る(借りてが決まらない)ができるんじゃ。秋は、一日を争うて仕付け(麦)せんでも良いので、安い牛がおれへんかと思うとるかも知れん。戸川で四晩ぐらい泊ったこともある。預った牛じゃきん、貸り手を見つけないかんし、牛には、一日に三べん飼料(はご)やらないかん。向うの百姓は牛のこと知らんきに馬喰つれてくるのもあるが、牛を借りたら使わな損というので、牛はやせるのが普通じゃ。

 馬喰の仕事を長いことしてきたんで、得意先じゃった漆川、昼間、足代などの農家はみな顔なじみになった。ことに、山分の人は、上げ荷というて、全部牛で荷を上げよったし、農耕にも使っていたんで、牛が多かったし、付き合いが深かった。

ここからは次のような事が分かります。
①池田のばくろうが丸亀から観音寺まで、自転車で廻って借り手の注文聞いていること
②期日を決めて、財田戸川に借り手と貸し手が集まってセリを開いていたこと
③その仲介をばくろがおこない、多いときにはシーズンに120頭もあつかっていたこと。
以上を図式化すると次のようになります。

借耕牛取引図4
今見てきた琴南や箸蔵の博労たちの活動は、④や⑤のタイプになるようです。

借耕牛の取引システムについて、整理しておきます。
①農繁期が近づくと讃岐の借方農家は、 地元業者(ばくろ)に借牛の斡旋を依頼しる。
②依頼を受けた地元業者は、懇意な口元業者か貸方の業者、あるいは個々の農家に日時、場所を指定して依頼する
③依頼通知を受けた阿波の地元業者はその頭数を集めるためにソラの農家をたずね 「今年も頼みますよ!」と声をかけて歩く。
④仲介業者達は、双方の話が合致すれば、取引の日時と場所をそれぞれの農家に連絡する。
⑤取引当日は、阿波の貸方農家は牛をひいて指定場所までつれいき、借方農家もその場所まで引取りにくる。
⑥そして双方農家と仲介業者が立ち合って, レンタル料を決める。
⑦その際に業者は借り方農家の希望をあらかじめ聞いておいて、その希望に合いそうな牛を斡旋する。
⑧ある意味では「予約制」で、需給にパランスがとれているので、レンタル料は安定している。
⑨取引が成立すると、返却予定日をきめて引渡す。
⑩その時契約書をとり交わすかどうかは、その仲介業者と借方農家の信用度によって決定する。

このような博労(ばくろ)による信用取引が成立するまでには、次のような推移がありました。
明治時代は、ほとんど契約書を取り交わしていました。それが借耕牛慣習が安定化した大正末から昭和初年になると信用取引に変化します。ところが昭和16年以後の戦時下の統制経済の元では、農協が介入し一括して取扱うようになります。そのため仲介業者は閉め出されてしまいました。しかし、この方法では次のような問題点がありました。
①仲介業務を担当することになった村や農協の職員は、牛の良否、能力の判定技術がないこと
②そのため牛の能力に応じた代償額が出せずに公正を欠くようになったこと
③借手側農家の責任感が薄くなり、牛の酷使や過労などが続出して阿波農家が貸出を嫌がるようになったこと
④終戦直後の混乱の中では、牛を酷使するだけでなく、なかには屠殺して肉として売り払ってしまう者まで出てくるようになった。
⑤その結果、借耕牛の流通頭数は激減し、レンタル料は高騰し借り手側農家は困窮した。
⑥こうして敗戦を境として借耕牛システムは終息するかに見えた時期もあった。

そうしたなかで終戦の混乱から世相が安定すると、借耕牛を復活させたのが仲介業者(ばくろ)たちでした。彼らの努力と信用で借耕牛が復活したのです。昭和33年の調査では100%信用取引となっています。これは地元の業者が、各農家の事情をよく捉えていて、農家の信頼を得ているからだと研究者は指摘します。
取引の成立した牛は、讃岐側の農家にひかれて里に下りていきます。
農作業中の全責任は、仲介業者がもつことになっていました。そこで事故疾病などに際しては借方農家から仲介業者へ、 業者は持主に連絡してその処置を協議のうえ補償方法を決定しています。 また農作業が予定日以前に終るような場合には、連絡して日時を早めたり、遅れる場合の連絡なども、すべて仲介業者(ばくろ)が責任をもって行っています。

借耕牛9

 返却日になると、借方農家は牛の弁当 (飼料として普通麦2~3升を煮物にしたもの)を背負わせて、決められた日時に、その場所まで返しに来ます。これを「追い上げ」と云っています。追上げられた牛は双方の業者が立合って、事故の有無をしらべた後で持主に返還されます。その後、代金決済をして取引は終了します。こうしてみると借耕牛システムは、仲介業者(ばくろ)抜きでは成り立たないものであったことが見えて来ます。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

借耕牛が美合の明神にやってくるまでの光景を見ておきましょう。
①隣人など三・四人が連れ立って、阿讃の峠道を越えて明神に「牛を追い出す」
②明神に着くのは午後3時~5時ごろ
③その夜は明神の宿で泊まり、翌日に取引をする。
④仲介人(ばくろ)が、自分に頼まれた牛を借手に紹介し、値段を交渉して、双方が合意すれば契約成立
⑤レンタル料は米一石(俵2俵:120㎏)前後だが、牛の大小・強弱・鍬の仕込み具合、耕作反別などによって差がついた。
⑥成立すれば契約書を取り交わして、牛は借手人の手に渡される。
⑦追い上げ(牛を返すこと)の場合はこの反対で、牛の背に報酬の米を背負って阿波へ帰っていった。
借耕牛 美合落合橋の欄干
俵2俵を背負って阿波へ帰る借耕牛 阿波では、米を持って帰るので「米牛」と呼ばれた

貸し出す側の阿波の農家は、前日に牛に十分な飼料を与え休養させます。そして、一番鶏が鳴くと同時に追い出します。常着の仕事着に股引をはき、尻をからげて手ぬぐいで頬被りをして出発です。牛の背には弁当と牛の糧(麦を煮たもの)や草履をつけます。

借耕牛 岩部

昭和10(1935)年、セリの前日に明神のある宿の宿泊者名簿に記された出身村名一覧表です。
美合口宿帳1935年 借耕牛
これを見ると、夏は美馬郡の一宇村や八千代村の宿泊者が多かったことが分かります。このふたつの村は、貞光側の最奥部のソラの集落です。山の上には、広い放牧場があって牛を飼うには適していました。供給地と移動ルート、セリなどについては、以前にお話したので、ここでは省略します。
 最後に見ておきたいのが、次の町村別貸出頭数表です。


借耕牛 貸し出側町村名一覧

ここからは、徳島県のソラの集落から借耕牛がやってきていたことが見えて来ます。注意しておきたいのは、香川県内の美合村(旧琴南町)や安原上西村(旧塩江)からも借耕牛はやってきてことが分かります。美合村の昭和10(1935)年夏の飼育頭数は650頭で、そのうち貸出数が450頭に達しています。これは阿波のどの村よりも多いレンタル数です。最後の雌雄島というのは、髙松沖の女木・男木島のことです。ここでは、讃岐にも牛を提供する村々があったことを押さえておきます。

借耕牛の起源についての従来の説は、次のようなものです。
阿波から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子」と呼んだ。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きにくることを米の借り出し稼ぎと称していた。また、天保(1830~44)のころは、讃岐には砂糖キビを締める多くの人夫(締子)と牛が必要で、主として阿波の三好・美馬両郡から締子と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りする牛のことを「借耕牛」というようになった。(中略)
徳島県は米が少なく、報酬に米が得られることは大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
借耕牛 起源

髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。

阿波の国境に近い旧美合の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを放置することはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業の自由」を認められていなかった時代には、藩を超えての借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
 
文政九(1826)年の人口調によると、各村の牛の保有数と本百姓の牛保有率は以下の通りです。
      村の牛保有数  本百姓の牛保有率
勝浦村  97頭 54%
中通村      105頭  108%
造田村   57頭   29%
この表を見ると勝浦村や中通村は、阿波のソラの集落と地理的条件が似ていて、山間部に放牧地を確保して多くの牛を飼育していたことがうかがえます。しかし、平野が拡がる造田村では、牛を飼育する条件に恵まれず、牛耕ができたのは、一部の百姓に限られていて、大部分の百姓は備中鍬を使って人力で深く耕し、耕作を続けていたことがうかがえます。
  水田の面積が広がり、それだけ水利の便が悪くなると、水持ちをよくして収量を増すために、牛耕に頼ることが多くなります。造田村や下郷の村々では、牛の飼育の条件が悪く、請作に転落した小百姓は、牛を飼育する余裕がありません。牛を飼育していなかった小百姓が、農繁期だけ、中通や勝浦の山間部から牛を借りて耕作するようになります。こうして借耕牛は、高松領内の山分と里分の百姓間で、まず始められたと研究者は指摘します。
 それが借耕牛の需要が多くなると、国境を越えて阿波からの耕牛の導入が始まります。しかし、これは、江戸時代には経済活動の自由が保障されておらず、米の阿波藩への流出を髙松藩は規制していました。この体制下では、阿波牛を耕牛として導入することは難しかったはずです。高松藩では、耕牛の藩内での自給自足を目標にして、牛の飼育を奨励し、潰牛を取り締まり、盗れ牛や放れ牛については、領民同様に、五代官連署の御触れを出して調査を命じ、領内各地に牛の墓も立てられていました。つまり、牛の管理が厳しく行われていたことは以前にお話ししました。こうした中で、天保年間(1830~44)になると阿波からの借耕牛が行われた形跡が見えるようになります。
「稲毛文書」の中に 川東村の忠右衛門と阿波の重清村の藤太との間で結ばれた借耕牛の契約書が二枚残されています。 その内の契約書のうち、阿波の藤太の差し出した契約書を見ておきましょう。

借耕牛 江戸時代の契約書
    覚
一 米 二斗二升也
一 丸札 二匁也
右は此元持牛貸し賃米并追越賃共来る十月十日切、請取に罷越可レ申候為レ其手形如レ件
                          阿州重清村 沼田  藤太
天保十一年六月七日
讃州川東村      忠右衛門殿
意訳変換しておくと
米2斗2升と丸札2匁は、牛貸の賃米と追越賃(輸送費)で十月十日までに、支払いを終えること
 
二枚とも墨で斜線が引かれています。これは何を意味するのでしょうか。髙松藩が認めていない借耕牛の契約書を無効と見せるためのものと研究者は推測します。この契約書の下部に、次のような書き入れがあります
此牛借賃
十月十日藤太罷越、夫々相渡候事にし銀弐匁指支に付米二升、銀弐分相添指引相済候事

意訳変換しておくと

十月十日に沼田藤太がやってきて、米と丸札2匁の契約に基づいて、銀弐匁につき米二升、銀弐分を支払った。

ここからは、一頭の借耕牛が、6月7日に藤太に追われて阿讃の峠を越え、夏と秋の農繁期を働き通したこと、10月10日に米二斗二升を背に載せて、藤太に追われて阿波に帰っていったことが分かります。この牛が、川東村の忠右衛門の家だけで働いたのか、丸亀平野の里分へ又貸しされて酷使されたかは分かりません。
    藩政期の借耕牛に関する文書は、ほとんどありません。ここからは、借耕牛の制度は高松藩によって公認されたものではなかったこと。そのため、借耕牛が盛んに行われるようになるのは、明治維新以後のことと私は考えています。
 阿波からの牛のレンタルは認められませんが、同じ藩内なら話は別です。美合村や安原・男木・女木島は、牛の飼育に適しています。そのため里の農家に牛をレンタルすると云うことが江戸時代の後半には始まったようです。それが明治以後に「経済活動の自由」が認められると同時に、借耕牛需用の増大に伴って、県境を越えて多くの牛がやって来るようになったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛 琴南町誌595P 355P
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から望む中寺廃寺と、その向こうの丸亀平野

江戸時代末に高松藩主が鷹狩のために中寺廃寺跡付近を訪れたことが造田村庄屋の西村文書に記されています。ここからは鷹狩り準備のために、地元の庄屋が藩の役人と、どんなやりとりをしながら進めたのかが分かります。鷹狩りルートは、次の通りです。

①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山

このルートには、大川山や中寺廃寺の周辺も含まれていています。今回は、造田村(旧琴南町)の庄屋文書『西村家文書』の鷹狩り記事に出てくる中寺廃寺を見ていくことにします。テキストは「まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年」です。
 鷹狩り記事が出てくるのは、天保6(1835)2月の冬のことです。2月末に行われることになった鷹狩りのために造田村庄屋と鵜足郡の大庄屋・髙松藩の間でやりとりされた文書の控えが西村家に残されています。この中に次のようなルート図が添えられています。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」

造田村庄屋の西村市大夫が大庄屋に提出した鷹狩の際の道筋を示した絵図(控)です。
左(東)に、大川山に鎮座する大川社が描かれ、そこから西(右)に向かって阿讃山脈の主稜線が伸びています。右端が「笹ケ多尾(たお)」です。「タオ」は「垰」で「田尾・多尾」とも表記されます。
 「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
 もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。

中寺廃寺 周辺の地名2
塩入から中寺を経て大川山まで
①右下隅が大川山です。
②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」
③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、
④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境
⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
殿様の鷹狩りコースは、この逆で塩入から出発して大川山まででした。

B『西村家文書』文化2(1805)年丑2月「絵図(まんのう町造田杵野谷付近)」

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」
③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
中寺廃寺 アクセス


次に『西村家文書』天保6年「日帳」を見ていくことにします。
 文章A~Dは、造田村庄屋が大庄屋らに古道の詳細について書き送ったものです。    
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月三日     西村市大夫
宮井清上様
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上
二月三日        西村市大夫
宮井清上様
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。
B 日付は上と同日です。内容が詳細になっていて、宛先が藩の役人になっています。 (意訳のみ)

一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

C 翌日2月4日のものです
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日      西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
  意訳変換しておくと  
C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。
一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。
二月四日     西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。

D 今までに送った情報の修正です
一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り
       宮井清上様
       十河亀五郎様
尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日
意訳変換(簡略版)しておくと

D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。

E 殿様の通行のために、柞野の新御林の中に道を敷設したいとの要望書です。その際、支障となる木の伐採が必要な場所が多くあるとしています。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上
´二月四日    庄屋 西村市大夫
安富弥右衛円様
森 人右術円様
尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
 
F 今回の鷹狩りルート中に名所・旧跡は無いか? 笹が田尾の絵図とともに報告せよ。
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候
一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上
 二月五日     十河亀五郎
       宮井清七
西村市太夫様
意訳変換しておくと
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
 この絵図提出指示で、作成されたのが最初に笹ケ多尾周辺の絵図なのでしょう。また、ルート上の名所のリストアップも指示されています。鷹狩りだけでなく、様々な気配りがされていることがうかがえます。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上
二月五日       森 太右衛円
       安富弥右衛門
西村市大夫 様
意訳変換しておくと
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
御林の伐採については、各部局と事前連絡をとって置かなければなりません。そのために現地の状況を熟知した者を出頭させよとの通知です。これに基づいて、御林が伐採され、新道が設置されたのでしょう。
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、
一 犬の墓
一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候
右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上
二月六日        西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。
I 上の報告に対する大庄屋の返書です
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上
二月六日       十河亀五郎
       宮井清七
西村市大夫様
意訳変換しておくと

殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上

大庄屋は造田村庄屋に、名所・古跡に関しての詳しい説明を求めています。仕事がていねいです。

J 上記に対する西村市大夫の返書です。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと

一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上

ここからは、中寺の所在地までの距離を把握しています。ということは、どこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。

K 再度、中寺に対する大庄屋からの問い合わせです(意訳のみ)
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上
九月六日       十河亀五郎
西村市大夫様
尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
L 上記に対する返答書です。(意訳変換しておくと
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様

  笹ケ多尾は、先ほどの絵図で見たとおり、旧琴南町・旧仲南町・徳島県旧三野町の3町が接する付近になります。また、中寺が那珂郡と阿野郡の境界線上近くにあり、強いて言うなれば阿野郡の造田村に属すと返答しています。これは、発掘後に姿を現した中寺廃寺の伽藍レイアウトに矛盾しません。

以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①中寺は江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②しかし、名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えとられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」尾根ルートは、かつての那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
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中寺廃寺は次の表のように、8世紀末に起源を持つ古代の山林寺院です。

HPTIMAGE

中寺廃寺の3つのゾーンの建物出現期
最初に開かれたのはBゾーンで、そこには下の復元図のように霊山である大川山に祈りを捧げる信仰施設としての割拝殿と生活拠点としての僧坊があったことを前回お話しました。

「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿と僧坊跡復元図


今回はAゾーンを見ていきたいと思います。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。

中寺廃寺  全景

Bゾーンは大川山を正面に見る尾根上に開かれています。Aゾーンは「中寺谷」の最上部にあります。
Aゾーンの3つの建築物を確認しておきます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)

中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
①仏堂跡   三間×二間 (桁行6,7m×梁間4m)
②塔跡    三間×三間の塔跡
③大炊屋(おおいや)跡 仏堂跡・塔跡の下段
これらは、Bゾーンの割拝殿(仏堂)や僧坊に比べると、半世紀以上遅れて9世紀の半ばの同時期に姿を現しているようです。
まず仏堂跡から見ていきます。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 仏堂跡 礎石が出てきた
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らす。
②広さは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0mの東西棟)
③最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられたこと
③遺構からは10~11世紀の遺物が出土
④仏堂は塔と共に真南を向いて建てられ、仏堂の南には広場が造成
⑤仏堂と塔の位置関係は讃岐国分寺の伽藍配置と相似で大官大寺式
中寺廃寺 A遺構仏塔2
           中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔

 仏堂は3間×2間と小規模ですが真南を向いて、正面に礼拝・法会用の広場が造成されています。ここに本尊が安置されたのでしょう。讃岐の山林寺院は「髙松七観音」のように、千手観音など観音像が多いので、観音さまが本尊だったのかもしれませんが、史料がないので分かりません。

続いて塔跡を見ていくことにします。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺
Aゾーン 塔跡
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した基壇状の平坦地に建てられている。
②広さは3間×3間
③塔中央の心礎石の下から10世紀前半の土師器壺5個杯1個が出土
④壺5個は赤く、陶の十甕山窯で特注品として焼かれたもの
③④については、中央に長胴甕を、その周囲に赤く焼かれた10世紀前半の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
中寺廃寺 Aゾーン 塔跡須恵器G
中寺廃寺Aゾーン 塔跡から出てきた甕と壺(地鎮祭用?)
これは地鎮祭の祭礼用に用いられた特別な甕と坪と研究者は考えています。壺が作られたのは綾川町の十瓶山(陶)の官営工場のようです。当時の陶には、讃岐国衙が管理する官営工場があり、綾川を通じて、讃岐だけでなく、畿内にも提供されていたことは以前にお話ししました。赤みが強いのが印象的ですが、このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後に酸素を大量に供給して赤色に仕上げる行程が必要になると研究者は指摘します。どうやら、この壺は国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。ここでは地鎮祭の壺が国衙によって準備されていること、見方を変えると中寺廃寺は国衙の影響下に置かれていたことを押さえておきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺Aゾーン 塔跡(整備後)
以上で、仏堂跡とその正面の広場、そして塔跡の位置が分かりました。研究者は、これだけの情報で中寺廃寺の伽藍配置が、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であると推察します。仏堂と塔の配置だけで、伽藍形式を、どうして推察出来るのでしょうか? 

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔(復元図)
まず、私が疑問に思ったのは中寺廃寺の仏堂が、3間×2間という小さいものであることです。研究者は、これを次の古代の山林寺院の仏堂と比較します。
中寺廃寺と同じ規模の金堂
               海竜王寺西金堂と海住山寺文殊堂

①奈良市海王寺西金堂(8世紀) 桁行8.87m、 梁間5.96m(下図上)
②京都府加茂町海住山寺文殊堂(鎌倉時代)桁行7.28m、 梁間4.25m(下図下)
③崇福寺跡南尾根の小金堂跡(7世紀後半)桁行8.1m、 梁間5.4m
④高松市屋島北嶺の千間堂(屋島寺前身寺院) (10世紀前半) 桁行6.7m、梁間4.5m
ここからは古代の山林寺院の金堂は、中寺廃寺の仏堂より少し大きい規模であったことが分かります。
屋島の千間堂跡礎石建物と、中寺廃寺の仏堂は桁行長が同じです。
屋島寺は、寺伝では唐僧鑑真が都に向かう途中に立ち寄り、一宇を建立し普賢菩薩を安置したのがはじまりとされます。初期の寺域は、千間堂の地名が残る北嶺芝生広場です。屋島寺の前身である千間堂跡については、長らくその実体がよく分かりませんでした。2009年度の調査で芝生広場北側の森の中で基壇をもつ礎石建物跡が確認されました。基壇は東西に長く高さ40㎝、基壇上には10個の礎石が確認されました。礎石の位置から東西3間、南北2間の建物とされます。基壇内部からは須恵器の多口瓶(たこうへい)が破片で出てきました。
屋島の千間堂跡礎石建物の多口瓶(たこうへい)
多口瓶は仏具なので、寺跡であることが裏付けられ、ここが寺伝にある千間堂跡の一部であることがわかりました。建物の性格としては仏像を安置するための仏堂とされます。これ以外の建物跡は周辺からは見つかっていないので「北嶺千間堂跡の伽藍配置は仏堂を中心に小規模な建物が点在していた」と調査報告書は記します。(高松市教委2003年) 
 中寺廃寺の仏堂も、これが金堂でここに本尊が安置されていたと研究者は判断します。しかし、3間×2間の仏堂では狭すぎて、その中での法会はできません。そこで仏堂の南に広場を設けます。これによって、中心金堂としての機能を果たすことができたと研究者は考えています。
 そうすると、仏堂(金堂)と広場、それに塔跡と併せて、Aゾーンは讃岐国分僧寺と同じ大官大寺式伽藍配置となると研究者は考えます。まず、大官大寺式伽藍を押さえておきます。
①中門・金堂間の回廊内東に寄せて塔を置く大官大寺式は、文武朝(697 - 707年)に藤原京内で造営した大官大寺(藤原京大安寺)に初めて採用
②天平13年(741)の国分寺造営の詔を受けて、南海道や西海道の西日本国分僧寺の多くが採用した伽藍配置であること。
 次のような大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺を比較してみます。を行います。
 
中寺廃寺 大官大寺式伽藍

大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺の比較

金堂・塔規模は、平地伽藍の大官大寺や各地の国分寺は、数倍の大きさを持ちます。それは、国家が威信をかけて造営した官寺だから当然かもしれません。堂塔規模は、平地に立地した大寺伽藍が山林寺院例を圧倒します。しかし、H/L×100値に注目すると、中寺廃寺の134は、大官大寺の106と美濃・紀伊・讃岐国分僧寺の158 ・ 168 ・ 208の中間値で、平地寺院の大官大寺式伽藍配置の範躊の中にあります。
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
讃岐国分寺など大官大寺式伽藍配置の寺 

例えば観音寺の中心堂宇は、南に庇を広くのばし、仏堂前面に外陣的な礼拝空間を確保しています。これがあれば、金堂前に露天広場は必要としません。この構造が平安時代以降は一般的な構造になり、古代的な金堂建築を駆逐します。つまり、「中寺廃寺Aゾーンで、仏堂前面に盛土で広場を確保しているのは、古代平地寺院の伝統を色濃く踏襲しているため」と研究者は指摘します。 その仏堂が3間×2間と小規模で、本尊を安置する必要最小限の空間しか確保していないのも、讃岐国分僧寺に習って堂前の法会を重視した結果とします。そういう意味では、中寺廃寺は讃岐国分寺の影響を強く受けているのかもしれません。ここでは、Aゾーン全体を見ると、大官大寺伽藍を志向して仏堂・塔が計画的に造営された中枢伽藍であったことを押さえておきます。
 発掘で、第三テラス(平坦地)に塔跡、第二テラスに仏堂跡が発見され、大官大寺式伽藍であることが推測できるようになると、その上の第一テラスが注目を集めるようになります。

中寺廃寺 エリア分類
 
 第1テラスは、中心伽藍となる仏堂と塔の背後の空間に当たります。もしかしたら講堂などがあるのではという期待もあったようです。

中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 菜園
中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 建物跡は出てこなかった

しかし、ボーリング調査では礎石は見つかりません。またトレンチを入れても、まとまりのない小規模で密に並ぶ掘立柱列が出てきただけでした。つまり建物はなかったようです。それでは、ここには何があったのでしょうか。僧侶達の菜園だと研究者は考えています。
 例えば四国霊場の山林寺院には、伽藍近くの平場を利用して、疏菜・穀物・堅果などを栽培している光景に出会います。寺の周囲で穀物などを栽培する姿は、古代寺院でも行われていたはずです。
天平宝字5年(761)の班田の結果を受けて製作された「額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館蔵)を研究者は提示します。
額田寺伽藍並条里図 寺院の周りの寺領

この絵図を見ると額田氏の氏寺(額田寺)の周囲には、公田や個人宅地と入り組みながら、「寺畠」「寺田」「寺栗林」「額寺楊原」「寺岡」などの寺領が広がっています。これから類推すると、山林寺院の平場(テラス)には、蕎麦畑や疏菜、畑、栗などの堅果類の栽培林があったことがうかがえます。そうすると、中寺廃寺Aゾーン第1テラスから出てきた柱列は畑の区画施設ということになります。
中学校で習った兼好法師の徒然草には、山里での暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子の木の周囲に設けた柵を見てに興ざめしたことが記されていました。[『徒然草』上巻第11段]。ここからは昔から山間の畑ではイノシシ対策などの柵木などは必要だったことがうかがえます。中寺廃寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っているようです。また、麓の江畑集落には、中寺廃寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。
最後に、大炊屋を見ておきましょう。

仏ゾーン 大炊屋跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 大炊屋
①掘立柱建物で、山側を切り崩して谷側へ盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らされている
②規模は正面3間(約5.6m)×奥行き2間(約3.6m)で約20㎡。
③建物跡からは土師器杯・椀、須恵器杯などの食器類や煮炊き用の土師器長胴甕が出土
④竈跡と思われる遺構も出てきたので調理を行った大炊屋跡
⑤近畿産黒色土器や西播磨産須恵器が出土し、遠方との交流を物語る。
⑥建造時期は10世紀前後で、塔跡・仏堂跡と同時期の造営
 この建物からは、食器や調理具が出土しています。床面から竃の痕跡も確認できたので、大炊屋跡(供物の調理施設)と研究者は判断します。なお、Aゾーンから僧坊は出てきていません。僧坊があるのはBゾーンだけです。Aゾーンは、公的な仏教儀式の場で、僧侶達の日常生活の場はBゾーンであったようです。
以上を整理しておきます。
①中寺廃寺廃寺Aゾーンは、9世紀半ばに整備された山林寺院の伽藍跡である。
②主要施設は、仏堂(本堂)、広場、塔で、大官大寺式伽藍を志向していた。
③仏堂は小さいが、その前の広場を使って公式行事や儀式は行われていた。
④Aゾーンは、仏教的な公的儀式が行われるハレの場でもあった。
⑤塔の心礎下からは、国衙が陶の官営陶器工場で焼かせた特注制の赤い壺が地鎮祭祭具として埋められていた。
⑥ここからは、中寺廃寺が讃岐国分寺や国衙の影響下のあったことがうかがえる。
⑦稜線上のテラス1には講堂はなく、菜園として利用されていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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中寺廃寺 3つのゾーン2


中寺廃寺は、次の3つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
3つのゾーンの前後関係を年表で押さえておきます。

HPTIMAGE

この年表からはABCの3つのゾーンに、いつ頃、どんな建物が現れたかが分かります。
最初に建物が建造されるのはBゾーンで、そこに仏堂(割拝殿)・僧坊が姿を現します。その時期は8世紀末のことです。これは、前回お話ししたように空海が大学をドロップアウトして、虚空蔵求聞持法修得のために山林修行を始める頃と重なります。今回はB(祈り)ゾーンについて見ていくことにします。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーンの割拝殿の発掘現場 大川山が正面に望める

Bゾーンからは、次のような建築物跡が出てきました
割拝殿(仏堂跡?)   尾根上
僧房跡数棟           下の2つのテラス
中寺廃寺B祈りゾーン 平面図 
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿跡と僧坊
尾根先端を造成して造られた割拝殿から見ておきましょう。
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)
②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物
③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降
④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
     
 盛土中から10世紀後半の遺物が出土しているので、それ以降に建てられたことになります。最初はこの建物は「仏像を安置した修弥壇の基礎の石を確認したので仏堂」とされていたようです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺Bゾーン 仏堂説にもとづく復元図(南側に広場)

しかし、堂内の須弥壇礎石は側柱礎石と大きさがあまり変わりません。そのため3間×2間の同じ大きさの東西棟が並んで建つ双堂建物ではないかという意見が出されます。双堂建築は、東大寺法華堂など雑密的な仏像を本尊とする古代建築に多く使われています。山林寺院の施設として、ふさわしい建築構造です。
 しかし、次のような点を考慮して、現在では双堂建築ではなく、5間×3間の南北棟説(割拝殿)とされています。 
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。  
②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。
③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。
⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる
⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通
⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。          
「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡

 以上から、この建物は5間×3間で、その前の広場を通して、真っ正面に大川山を臨んでいたとします。この広場で、朝夕に霊峰大川山への祈りが捧げられていたことが考えられます。このことからB地区は山岳信仰と関係が深いので、「祈り」のエリアと名付けられました。

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 山林寺院を考える際に、避けて通れないのが「山岳信仰」との関係です。
仏教伝来以前から、列島では山を神とあがめていたとされます。山は信仰対象だったのです。 山林修行や山林斗藪の拠点となった山林寺院は、インド起源です。しかし、一方で列島固有の山岳信仰が仏教と融合しながら変形されてきました。以前にお話ししたように、高野山金剛と狩場明神・丹生津姫神社の関係や、比叡山延暦寺と日吉大社の関係など、山林寺院が土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られ、寺と神社が深い関係にありました。ここでは大川山と中寺廃寺がどんな関係だったのかが問われます。
 霊山の山頂には、いろいろな神々が祀られ、祭礼施設があります。しかし、山頂に山林寺院が造られることはありません。霊峰・霊山信仰を持つ寺院も、その中腹や麓近く、あるいは霊峰を望む景勝地に造られるのが普通です。それは、石鎚山と前神寺や横峰寺の関係を見れば分かります。霊山の峰々が修行の舞台となったとしても、山林寺院はその拠点なので、生活困難な山頂に建てる必要はないのです。ここでは、中寺廃寺は霊峰大川山信仰の拠点として造られた、そのためBゾーンの割拝殿は、大川山を向いて建てられ、その前の広場で祈りが捧げられたことを押さえておきます。

 それを裏付けるのが、流土の中から8世紀後半~12世紀までの長期の土師器・黒色土器・須恵器類が出土していることです。割拝殿の造営年代は、基壇築成土中の遺物から10世紀後半のものとされます。しかし、尾根端の地盤は不安定で、いくつかの礎石も滑べり落ちていました。ここからは割拝殿は、それ以前から何度も建て替えて、発掘されたものが10世紀後半のものになると研究者は考えています。
  
 次に、割拝殿下のテラスの掘立柱住居跡5棟を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
中寺廃寺Bゾーンの僧坊跡
①三間(6,2)m×二間(3m)
②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶
③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土
④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)
⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている
⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
以上からこれらの掘立柱建物跡は、僧房跡と研究者は判断します。
僧坊は掘立柱建物で数回建て替えています。また埋土からは須恵器・土師器・黒色土器の日常食器類(8世紀後半~12世紀)が多量に出土しているので、僧侶が生活していた僧坊跡と推測できます。ちなみに、Aゾーンからは僧坊跡は発見されていません。Bゾーンから僧坊が出てくることについて、山岳信仰に基づく場として、B地区がまず開発されたからと研究者は考えています。以上からB地区は、割拝殿と僧房がある生活と修行の場であり、中寺廃寺の出現の先駆けとなったエリアであったことを押さえておきます。

この中で研究者が注目するのは、僧房跡から出土した西播磨産の須恵器多口瓶です。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
須恵器多口瓶の出土状況(Bゾーン 僧坊跡)

発掘当時のことを担当者は次のように記しています。

「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)

その後、復元すると次のような姿になりました。

中寺廃寺跡の多口瓶

中寺廃寺 多口瓶

 多口瓶は奈良・平安時代の寺院遺跡から多く出土しています。中には平城京薬師寺跡例のような奈良三彩の製品もある仏具です。ちなみに、香川県では高松市千間堂跡の礎石建物跡から、須恵器多口瓶が体出土していますが、こちらは地元の綾川町の陶(十瓶山)甕窯跡群で造られた物です。


屋島寺千間堂跡 多口瓶

讃岐周辺で出土している多口瓶 屋島寺前身の千間堂からも出土

これに対して中寺廃寺のものは、研究者の調査活動の結果、西播磨の窯で造られたことが分かりました。中寺廃寺は、わざわざ仏具である多口瓶を、西播磨から取り寄せたことがうかがえます。
 もうひとつ注目される土器破片が越州窯系青磁碗です。
 僧房跡を取り巻く溝から出土した中国浙江省越州窯産の青磁碗は、艮質の土を用いた精製品と研究者は評します。形状から9世紀後半から11世紀中葉までのもののようです。これは非常に高価なもので、国府・郡衙などの国の関係施設や、大規模な港などの遺跡から出てくるもののようです。非常に貴重な中国製青磁を所有していた中寺廃寺の財政基盤がうかがえます。ここでは、②③の遺物は海を越えて持ち込まれたもので、大変貴重な品です。中寺は、このような品を取り寄せることのできる力を持っていたことを押さえておきます。
 最後に、前回お話ししたように雑密の古式三鈷杵・錫杖頭の破片です。 

中寺廃寺 三鈷杵破片2

Bゾーンの僧房跡付近から出土した三鈷杵と錫杖頭は、空海らが伝えた密教より古い特徴を持ちます。古密教(雑密)の修法に使われていたものが、荒行の中で壊れ捨てられたことが考えられます。これも初現期の中寺廃寺が、古密教の拠点であったことを裏付ける材料になります。

以上をまとめておきます。
①霊山大川山への山岳信仰の拠点として、中寺廃寺のBゾーンは現れた。
②そこには、他に先駆けて8世紀末に割拝殿や僧坊が姿を見せる。
③割拝殿は、正面(東)を大川山に向け、その前の広場が祈りの空間となっていた。
④割拝殿の下には、僧坊が並び、長期間にわたって建て替えられ、活動拠点となっていた。
⑤僧坊跡からは、仏具として西播磨産の多口瓶や、中国の越州窯系青磁碗が出土している。
⑥これらは当時としては貴重品で、それを手に入れるだけの財力やネットワークを中寺廃寺がもっていたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
HPTIMAGE
中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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水口祭護符2
全国で行われている水口祭 それぞれの護符(お札)の形がある
私の家もかつては農家で、米を作っていました。そのため家の前の田んぼが苗代で、苗をとっていたことを覚えています。その苗代の一角にお札が竹に挟んで指してあり、その横には花が添えられていました。「何のためのもの?」と訊ねると「苗代の神様で、苗の生長を護ってくれるもの」と教えられた覚えがあります。苗代の水口に護符や花を立てる習俗を「水口祭」と呼んでいます。

水口祭の護符1
水口祭りの護符(熊本の阿蘇神社)

ところで丸亀平野の水口祭については、ある特徴があります。その事に触れた調査報告に出会ったので紹介しておきます。テキストは「織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符   民具集積22 2021年」です。
民具集積1
民具集積(四国民具研究会)
丸亀平野の水口祭の初見は「西讃府志」安政五年、巻第二「焼米」の項で、次のように記します。

「本稲神ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立蒔餘リクル靭ヲ煎リタキテ供フ、是ヲ焼米ト云う、ソノ余りハ親しき家二贈りナドモスルニ又此日正月ニ飾リタル門松ヲ蓄ヘ置テ山テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」

意訳変換しておくと
「この稲神を迎えるときに、水口祭を行う。苗代の水口に保食神の璽(護符)を立てて、余った籾を煎って供える、これを焼米と云う、その余りは、親しい家に贈ったりする。またこの日は、保管してあった正月に飾った松で雑炊を煮る家もある」

ここで研究者が注目するのは、「水口祭」という儀礼の名称と「保食神」という神名が挙げられていることです。ここからは、幕末の安政年間に丸亀平野で水口祭が行われ、保食神の護行を立てたことが分かります。
讃岐の水口祀の護符
水口祭の護符 
  右が丸亀市垂水町(垂水神社配布)で使用された「マツノミサン」と呼ばれる護符です。護符には「保食神」と書かれて、中にはオンマツとメンマツの葉が入れてあります。松の葉を稲にみたてて、よく育つようにとの願いが込められているとされます。左が高松市仏生山町(滕神社配布)の「ゴオウサン」と呼ばれる護符です。護符の中には、白米のほか滕神社の祭神である「稚日女命」の神札も入れられています。このように護符には、いろいろな形や文字が書かれたものがあります。ここで研究者が注目するのは「保食神」と書かれたお札の分布エリアが丸亀平野に限定されることです。
保食神(うけもちのかみ)について、ウキは次のように記します。

日本神話に登場するである。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。次のような記述内容から、女神と考えられる。天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。


先ほど見た西讃府志の編者の一人、秋山椎恭は櫛梨村(琴平町)の在住とされ、この地区の習俗を反映させて「保食神」を登場させたことが考えられます。そこで研究者は、次のような課題を持って周辺調査を行います。
A 櫛梨村周辺に「西讃府志」の「焼米」の習俗が今も行われているかどうか
B 「保食神」の護符が、どの範囲で分布しているのか
そして、まんのう町・琴平町・善通寺市・丸亀市で各農家を訪ねて現在の水口祭の様子を調査報告します。
ここではまんのう町真野の水口祭と「保食神」護符の事例報告を見ていくことにします。
まんのう町真野池下のO家は、満濃池の北約1kmにあり、玄関には神札を貼る厨子があります。家のそばの苗代には、南から満濃池の水を流す水路が通っています。水路が「コンクリ畔」になったのは昭和43(1968年)頃と云います。以下、次のような話を聞き取っています。
苗箱には赤土・肥料・前年の籾摺りで焼いた粗般を入れる。種籾は一週間前に水に浸し、毎日水を換え、1日日前に水から出す。そして5月11日早朝、苗箱定位置に置く。播種の作業が終わると、次のような手順で水口祭の用意を進めます。
①2枚の小皿に洗米、塩を盛ってプラスチック容器に載せる
②ガラス瓶の御神酒も用意する
③メンダケ(女竹)を節三節(30㎝)ほどに切って、上部を割る
④年末に、班ごとに係が回って集金と護符の配布を済ませておく
⑤配布される護符のうち、天照皇太神(神宮大麻)は伊勢伸宮、氏神の神野神社、水口護符の一任は神野神社宮を兼務する諏訪神社宮司が発行する。
⑥神棚から「保食神御守五穀成就」の水口護符「マツノミヤサン」を下ろす(写真37)
水口祭 神棚に供えられていた護符
⑦雨に濡れないようにバランで包んで竹に挟んで輪ゴムで外れないよう止める)
⑦容器に入った洗米、塩と御神酒、竹・葉蘭に秋んだ護符を苗代の水口へ持って行く
⑧容器に御神酒を入れ、護符を土に刺して、その前に洗米、塩、御神酒を供える
⑨花を護符の奥に飾り、30四方くらいの平たい石をお供えの下に敷く
⑨水口の下側を堰き止めて水口へ水を誘導する
⑩水が溝に沿って苗代全体に潅水したことを見届けて、水口に向かって二拝二拍手一拝。
水口祭の護符 まんのう町諏訪神社1
諏訪神社発行の水口祭護符 剣先型

水口祭の護符 まんのう町諏訪神社2

            諏訪神社発行の水口祭護符(実測図)
ここで用いられている諏訪神社発行の剣先形の紙札(護符)を見ておきましょう。
中央に「保食神御守」、右に「五穀」。左に「成就」と黒スタンプが押してあります。研究者は諏訪神社の朝倉修一宮司からの次のような聞き取り報告をしています。
①写真56の護符は高さ19,8㎝
②松業二葉が二本四枚、稲穂二本粗籾十三粒が入る
③護符は無料
④12月初め、神宮大麻(有料千円)とともに総代を通じて配布
⑤氏予約120名で、諏訪神社の氏子真野・吉井・山下・下所の四名の代表に配る
⑥神野神社の氏子の池下は3月に配るという.
『西讃府志』の編者の一人である秋山椎恭が那珂郡櫛梨村の人です。彼は地元で行われている水口祭を「保食神」の護符を祀る習俗として、記録したと研究者は推測します。そして、「上櫛梨の護符には「保食神」の字があり、自分の住む地区の習俗を紹介した」と記します。

水口祭の護符 護符形状分布図

上図は丸亀平野周辺の護符の形の分布図です。▲が「剣先形保食神」護符の分布エリアです。点線が丸亀藩と髙松藩の境になります。ここから次のようなことが分かります。
①「剣先形保食神」の護符は、丸亀藩と高松藩領の境界線を扶む地域に集中分布する。強いて云えば旧髙松藩に多く丸亀藩には少ない。
②これは、満濃池を水源とする金倉川水系と土器川水系に挟まれたエリアと重なる
③土器川より離れた九亀市綾歌町の神名は「保食神」ではなく、「祈年祭」である
④鳥坂峠大日峠麻坂峠など大麻山より西の三豊市のものは「産土大神」「大歳大神」の神名で、保食神」護符は三豊地区では使用されていない。
明治45年刊『勝間村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春、稲種ヲ下ストキ水口祭リトテ、苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ、蒔キ余レル籾ヲ煎リ、臼ニテハカキテ供フ、共余リハ親シキ家二贈リナドスルモアリ」

大正4年刊「比地 二村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春稲種ヲドス時水口祭トテ苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ潰籾ヲ煎リテハタキ籾殻ヲ去り之レヲ供ス其ノ余リハ家人打チ集ヒ祝食ス」

これだけ見ると、勝間や比地二村などでは、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられたように思えます。しかし、その内容は先ほど見た西讃府志の記述内容のコピーです。よって、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられた根拠とはできないと研究者は判断します。
九亀・善通寺・琴平市街地の山北八幡や、善通寺、金刀比羅宮発行の護符も「保食神」とは記していないことを押さえておきます。
次にこの護符を、どう呼んだかの呼称の問題です。

水口祭の護符 呼称分布図
上の呼称分布図を見ると、「マットメサン」「マツノミヤサン」系統の方名も金蔵川、土器川水系に分布します。そして土器川以東や象頭山西側にも分布地があります。「マツ」は「松」であり、「ミ」は「実」と研究者は推測します。マツトメサンが濁って「マツドメサン」になったり、促音になって「マットメサシ」となることはよくあります。ナ行の「ノ」がタ行の「卜」になることもあります。「マツノミヤサン」の呼称があるため、「ミ」が、「宮」と混同されたものか、んは「宮」であったのかは、よく分かりません。
金刀比羅宮の「マツナエ」=「松伎」の事例や三豊市日枝神社の松枝の枝の間に護符を入れる事例(トンマツ)は、田の神の依代しての松枝を水口に建てたものです。これは「保食神」護符の中に松葉を入れる例につながるものです。広く「マツ」を冠す護符呼称が分布していることも押さえておきます。
  さて以上から何が見えてくるのでしょうか
現在は、水口護符は各神社が配布しています。それでは、神仏分離以前には誰が配布していたのでしょうか? 
考えられるのは護符の呼称や形状が共通であることは、一元的な配布元があったということです。その候補として考えられるのが滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺です。龍燈寺と水口護符の関係について、私は次のような仮説を考えています。

龍燈院・滝宮神社
龍燈院は滝宮牛頭天王社の別当であった。

滝宮念仏踊りの変遷

①龍燈院は滝宮氏や羽床氏など讃岐藤原氏の保護を受けて成長した。
②龍燈院は午頭天皇信仰の丸亀平野における中心で、多くの社僧(修験者・山伏)を抱えて、その護符を周辺の村々に配布し、「初穂料」を集めるシステムを作り上げていた。
③龍燈院の者僧たちは、芸能伝達者として一遍の念仏踊りを「風流踊り」として各村々に伝えた。
④生駒藩では西嶋八兵衛の補佐役を務めた尾池玄蕃は、念仏踊りの滝宮牛頭天王社への奉納を進めた。
⑤髙松藩松平頼重は、江戸幕府の規制をくぐって「風流踊り」ではなく「雨乞踊り」として再開させた。
⑥周辺各村々からの滝宮への念仏踊り奉納は、午頭天皇信仰を媒介として、水口祭の護符などで結ばれていた。
 そして水口護符の配布者が龍燈院の社僧(山伏)であった。そのため丸亀平野の髙松藩側には「「剣先形保食神」の分布エリアとなっている。と結びつけたいのですが、この間にはまだまだ実証しなければならないことが多いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

伊勢御師が天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部を見ています。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡の道者(檀那)氏名が一覧表で記されています。前回は、丸亀の中府→金倉→多度津→白方→山階と廻って、つぎのようにまとめました。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。
②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。
③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる
④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。
⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。
今回は、この続きを追いかけて行くことにします。テキストは前回に続いて、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。

伊勢御師 四国日記讃岐分8 金倉寺・小松・岸上・帆山

      「伊勢御師檀那帳 四国之日記」 金倉寺・琴平・まんのう町岸の上・帆山

「こんさうし(金倉寺)の内 おやこ三人家あり)」とあって、次に出てくるのは「小松の分」です。「小松の分」とは、小松郷(荘)のことで、現在の琴平町にあたります。つまり、善通寺エリアがすっぽりと抜け落ちています。これは、どうしてなのでしょうか? 善通寺エリアは熊野系の神社が多く、熊野行者の拠点であった気配があります。そのために伊勢御師が入り込めなかったということは考えられます。三豊でも秋山氏の菩提寺として建立された三野の本門寺周辺、あるいは中世に念仏聖たちの活動が活発だった弥谷寺には、道者たちはいませんでした。また阿波修験者の讃岐への進出拠点であった財田も空白地帯でした。ここには当時の宗教勢力の色分けが背景にあったとしておきます。

「小松の分」の道者は「長右衛門・太郎左衛門・同勘九郎」の3人のみで、彼らに姓はありません。
ここは九条家の荘園として、本庄・新荘が開かれた所です。 榎井の氏神とされる春日神社の社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿造営に関わった人達として次のような人々の名前が出てきます。
寛元2年(1244)新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)石川将監が社殿を造営
ここからは、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者が、国人土豪層として戦国期に活動していたことが、残された感状などからも裏付けられます。しかし、彼らは伊勢御師とは、関わりをもっていなかったようで、リストに彼らの名前はありません。彼らは、三十番社を中心に、独自の祭礼と信仰を持っていたことは以前にお話ししました。
 続いて「きし(岸)の上」には「かな(金)丸殿おや子三人いえ(家)あり」とあります。

満濃池 讃岐国絵図
                金倉川の南(上)側に「岸上」と見える

岸の上は真野郷に属し、小松荘に隣接するエリアです。この地区の中世のことはほとんど分かりません。ただ光明寺というお寺があったことが、金毘羅大権現の多門院の『古老伝旧記』に記されています。また、高野山の明王院の住職を勤めた2人は、「岸上出身」と「歴代先師録」に紹介されています。明王院は高野山の不動明王信仰の中心的な存在です。そこには多くの真言密教の修験者たちが全国から集まってきていました。 岸上の光明寺も修験者の活動拠点のひとつであったと私は考えています。増吽が拠点として東さぬき市の与田寺のように、光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していた可能性があります。だからこそ、高野山で活躍できる優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。                          
岸の上の次には「てかこの分一えん(円)」とでてきます。
 巡回順番から見ると「岸上 → てかこ → ほそ(帆の)山 → 福良見 → 春日 → 長尾」と続くので、「真野」かもしれません。道者人名には「次郎右衛門・次郎五郎殿・助兵衛殿 此外あまたあり」とあり、他の集落が家数が明記されていないのに、ここだけ「いえかず(家数)二十斗(ばかり)」とあります。この周辺の中心地域だったようです。しかし、真野が「てかこ」と呼ばれていたという見分はありません。お分かりになる方がいれば教えていただきたいと思います。

  次に出てくるのが「ほそ山(帆山)」です。
ここからは、中世は帆山は「ほそ山」と呼ばれていたことがうかがえます。六郎左衛門に続いて、同じく六郎を冠する人名が並びます。そして彼らを「大きなる人也」(下の史料)と評します。これを、どう捉えればいいのでしょうか。帆山の「六郎集団」が経済的に大きな力を持っていた集団というのでしょうか。それなら、その経済基盤は何にあったのでしょうか。あるいは伊勢信仰心が強く、奉納額が多く、お札やお土産などを、多く渡した人達なのでしょうか。 以前に紹介した冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」には、伊勢御師が奉納額に従って、渡す札の大きさやお土産を選んでいたことが記されていました。渡すべき「伊勢お札」の大きさを示している可能性もあります。これも今の私にはよく分かりません
伊勢御師 四国日記讃岐分8 福良見・長尾
                   まんのう町福良見・長尾

続いて、帆山の東に隣接する「ふくあミ(福良見)」です。
ここには4人の道者が記されています。筆頭の「大谷川弥助」は、姓を持っています。そして、下段には福良見分の中に「かすか(春日)太郎五郎殿」の名が見えます。ここで気になるのが春日の奥の塩入や、財田川上流域の本目や新目は「かすみ(テリトリー)」には含まれていなかったようです。また、吉野も出てきません。
最後が「なこう(長尾)の内」のさう田(造田)殿おやこ(父子)です。
この表記を、どう理解すればいいのでしょうか
A 長尾エリア内に属する造田殿親子 
B 長尾エリアに転住してきている造田殿親子
16世紀初頭の細川政元暗殺に端を発する混乱は、細川氏内部の抗争を引き起こし、阿波の細川氏が讃岐に侵入して来る発端となります。その後、細川氏の配下の三好氏によって多くの讃岐武将は、その配下となります。丸亀平野南部の長尾氏もそうです。そのような中で天霧城の香川氏だけは、三好氏に帰属することを拒み続けます。そのため16世紀半ばには、丸亀平野では、天霧城の香川氏と西長尾城の長尾氏の間で軍事緊張が高まり、小競り合いが続きます。それは秋山文書などからもよみとれることを高瀬町史は指摘しています。この伊勢御師の檀那リストが作成されたのは、1551年のことです。まさに、このような軍事緊張の走る頃のものです。そこには、香川氏と長尾氏の対立関係が影を落としているように見えます。具体的には、三豊・那珂・多度郡に人名が挙がる檀那たちは、香川氏の勢力圏に多いような気がします。特に那珂・多度郡です。
 どちらにしても、この時期には長尾から吉野にかけては、西長尾城主の長尾氏の勢力範囲にあったとされています。長尾氏自体も阿波の三好氏の配下に入って、天霧城の香川氏と対立抗争を繰り返していました。そのため長尾氏の配下の国人たちも山城を築いて、防備を固めていた時期です。そういうの中で、土器川の東岸にはこの伊勢御師は道者を確保することはできなかったことがうかがえます。
  以上見てきた伊勢御師の檀那リストは、当時の実在した人々の名前と、その居住区が記されている一級資料です。今後の郷土の歴史を考える上で大きな意味があります。発見してくださった研究者に感謝します。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」


追記   
横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきていたことが琴南町誌に記されています。
横畑は伊勢信仰が強く、訪れる伊勢太夫のために「伊勢家(おいせやはん)と呼ばれる宿舎がありました。その大きさは、二間+三間の平屋で、お伊勢さんが祀られていました。伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動をしました。そして伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになります。
 伊勢太夫の中でも来田監物は、横畑との関係が深かったようで、農業用水や飲用水に困っている人々のために水源を開いています。「伊勢太夫が呼んだ泉」と言われるものが今も二か所残っているようです。
伊勢御師による檀家巡りについて琴南町誌363Pに、次のように記されています。
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしている。その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
長谷坂 佐野甚平 (一宿)
半坂 佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)
下福家 古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)
谷田 牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)
所村 与平次 新谷村 牛田藤七 
猪の鼻 磯平 
渕野 次郎蔵 
樫原 梅之助、藤八 
明神 古川嘉太郎 中熊八百蔵 
中熊 源次郎 
川奥 西岡忠太郎 (一宿)
美角 七兵衛
 横畑  拾右衛門 (一宿)
堀田 林兵衛
前の川 御世話人
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。

横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えられていました。文政以後は、来田監物の代理として佐伯佐十郎が村々を廻ったようで、宇足津の村松屋(都屋)伊兵衛が連絡所になっていました。集められた高松藩や丸亀藩の藩札は、ここで金に両替されて伊勢に持ち帰ったようです。

松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅大権現松尾寺の観音堂と本尊(讃岐国名勝図会)
日時 6月28日(土) 17:00
場所 まんのう町四条公民会
資料代 200円

内容は、まず金毘羅さんの次の「通説」について検討します。
金毘羅信仰についての今までの常識

これに対して、ことひら町史などはどのように記しているのかを見ていきます。金毘羅神は古代に遡るものではなく、近世初頭に登場した流行神であること、それを創り出したのは近世の高野山系の修験者たちだったことなど、今までの通説を伏するものになります。
今回は私が講師をつとめます。興味と時間のある方の参加を歓迎します。

悪魚+クンピーラ=金毘羅神
「金毘羅神=神櫛王の悪魚(神魚) + 蕃神クンピラーラ」説

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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
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「史談会」へのお誘い 以下のような内容で5月の史談会を開きます。
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講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
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大堀居館と木ノ崎新池の流路
まんのう町吉野上 木ノ崎から大堀居館へのかつての土器川の流路跡(まんのう町HP
 以前にまんのう町の吉野の中世居館跡とされる大堀遺跡を紹介しました。この居館の外堀には出水があり、そこから下流に供給される灌漑用水が、この居館の主人の地域支配の根源だったのではないかという説をお話ししました。その際に、水源は出水だけでなく上流からの流れ込みもあるような感じがしました。そこで確認のためにいつものように原付バイクで、フィールドワークに行ってきました。
 丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地です。阿讃の山々の谷間を縫うように流れ下った土器川が、まんのう町吉野の木崎(きのさき)で丸亀平野に解き放たれます。そのため吉野は、洪水時には土器川と金倉川の遊水池化し葦(吉)野と呼ばれていたことは以前にお話ししました。それは吉野が古代の条里制施行エリア外になっていることからもうかがえます。
 中世になると吉野には大堀居館跡が現れます。

中世居館と井堰型水源

大堀の居館の主人が居館外堀に水を引き込む用水路を整備し、その下流域の灌漑権を握っていたという説を以前にお話ししました。湿地帯だった吉野開発は、この時期に始まったと私は考えています。さらに秀吉の命で近世領主としてやってきた生駒氏は、新田開発を推奨します。その結果、土器川や金倉川の湿地帶や氾濫原で今まで耕地化されていなかった荒地の新田開発が急速に進められます。それは水不足を招きます。そのため溜池の築造や灌漑用水路の整備も進められます。新田開発と溜池築造は、セットになっていることを押さえておきます。西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、灌漑用水網の整備が行われたはずです。

 まんのう町吉野
吉野は土器川扇状地で地下水脈が何本も流れている(国土地理院の土地利用図)
この地図からは次のような事が読み取れます。
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。
②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。
③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
③の流路が最初に示した地図上の青斜線ルートになります。このあたりは大規模な農地改善事業(耕地整理)が行われていないので、ルート沿いは凹地がはっきりと見られかつて流路跡がたどれます。流路跡沿いに原付バイクを走らせていると、吉野のセレモニー会館当たりで一直線に続く石組み跡に出会いました。水田沿いに並ぶので、田んぼの石垣かと思いました。しかし、どうもその機能を果たしていません。これはいったいなんだろうかと、私の抱える謎のひとつになっていました。
  そんな中で図書館で出会ったのが「芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年」です。ここには、木ノ崎新池という溜池があったことが書かれています。江戸時代の溜池跡を絵図で見ていくことにします。
那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図
              「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」(奈良家文書)
この絵図は「那珂郡吉野上邑木之崎新池」と題されていて、吉岸上村(まんのう町岸上)の庄屋役を勤めた奈良家文書の中に含まれているようです。奈良家文書については、以前にお話ししましたが、当時の当主がいろいろな七箇念仏踊りなどの記録を丹念に記録しています。その中の絵図で、あたらしい池の建設予定図のようです。絵図内には新池建設予定の場所や、周辺の寺院・百姓家・山地の様子が特徴的に描かれています。大きさは縦93、5cm、横58、8cmで、細かい字で注釈が何カ所かに書き込まれています。まず絵図上部の木ノ崎から見ていくことにします。

木之崎新池絵図2
木ノ崎周辺拡大部分(那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図)
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている
②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる
③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。
④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。
⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
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新池跡付近から見た木ノ崎の須佐神社
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近づいて見た須佐神社(土器川扇状地の扇頂に鎮座する)
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南側から望むと鳥居のかなたに象頭山
木ノ崎は土器川扇状地の扇頂部にあり、谷間をくぐり抜けてきた土器川が平野に解き放たれる所でもありました。また、阿波・金毘羅街道が通過するとともに、土器川の渡川地点でもあり、ここには木戸も設けられ通行料が徴収されたいたようです。大庄屋の岩崎平蔵の屋敷もこの近くにあり、彼の顕彰碑が須佐神社の入口の岡の上にはあります。

P1280564
岩崎平蔵顕彰碑(吉野上木ノ崎須佐神社)
次に須佐神社から200mほど西に位置する新池の部分を見ていくことにします。

木ノ崎新池5

絵図からは次のような情報が読み取れます。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池
②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。
③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ため池予定地の水田には「指上地(差しあげ地)」と書き込まれています。

木之崎新池絵図3

予定地の水田には「上田壱反六畝三歩」などと、水田の等級と広さが記されています。その中に「指上地(差しあげ地)」と記されているものがあります。これが私有の田畑を藩に差し出し、その地に池を築こうとしていたものだと研究者は指摘します。  この「築造予定図」からは池は、六枚の水田を立てに並べた細長い形だったことが分かります。それは先ほど見たように、土器川の分流のひとつが開発新田化されていたからでしょう。開発されていた水田がため池に転用されることになります。そのために、旧流路に沿った形で細長くなったとしておきます。
⑤の場所には、「朱引新池西本堤」とあるので、ここにえん堤があったとことが分かります。この北側に見ることができる上留め状の場所が、かつて西の堤の痕跡と伝えられているようです。
 堤の左側には、「揺」の文字が見えます。
「揺(ゆる)」は、ため池の樋管のことで、ここから下流へ水が落とされます。「揺」付近には「朱引新池西本堤」や「朱引新池揺尻井手」と書かれていので、池の水が下流域にある水掛りの田畑へ配水されたことがうかがえます。
 堤の右側(西側)「此所台目(うてめ)」とあります。「うてめ」は増水の際に、池を護るためにオーバーフローさせる「余水吐」のことです。

木ノ崎新池6
木ノ崎新池の堤とユル・うてめ

こうしてみると、私有の田畑を「指上地(差しあげ地)」として藩に上納し、新たに「木ノ崎新池」が築造されたと云えそうです。しかし、今はここには池はありません。

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          木ノ崎新池の位置(まんのう町HP 遺跡マップ)
今は、この池跡を横切る道ができて、そこにはセレモニー会館と広い駐車場があります。現在の姿を見ておきましょう。
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南泉寺から望む木ノ崎新池跡 青い屋根の倉庫が堤があった所

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堤とユルがあった所
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池の尻側からのながめ 左手遙かに象頭山

 いまは、池跡は再び水田に戻っています。田植えの準備をしていた老人は次のように話してくれました。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。

 このあたりが土器川の扇状地であることが改めて裏付けられます。
それでは、この池はいつまであったのでしょうか? こんな時に便利なのが戦前と現在の地形図が比較しながら見える「今昔マップ」です。これで日露戦争後の明治39年(1906)に作られた二万分之一測量図「琴平」を見てみます。

木之崎新池絵図4
吉野木ノ崎(明治39年 国土地理院地図)には、木ノ崎新池はない
この地図には、池はありません。山際まで水田が続いています。こうして見ると、幕末に新造された池は、明治末には姿を消したことになります。             
 研究者は、次のような現地での聞き取り調査の報告を行っています。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。
②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。
③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。
④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた
⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地で、その扇頂にあたるのが吉野木ノ崎です。そのためこのあたりは礫岩層で、水はけがよく地下に浸透してしたことは先ほど見たとおりです。ため池の立地条件としては相応しくなかったようです。水田化された後も、水不足が深刻で、背後の山にはいくつもの谷頭池が作られています。また、戦前には「線香水」がよく行われていたエリアでもあったようです。
最後に「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」が書かれた背景を見ておきましょう。
最初に述べた通り、この絵図は那珂郡岸上村の庄屋役を勤めた奈良家文書の中にあります。奈良家の歴代の当主たちは記録をよく残しています。しかし、残された記録の過半数は、一家の縁者であり江戸時代後半、吉野上村庄屋役や那珂郡大庄れた岩崎平蔵(1768~1840)によるものとされているようです。その中に寛政十年(1798)に、詳細測量を行った上で描いた「満濃池絵図」という絵図資料があります。ここには作成者として岩崎平蔵の名が自署があります。この絵図と「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」を比べて見ると、絵図内に描かれている百姓家や、周辺に描かれている円畑の描き方や、文字の筆跡が、両者はよく似ていると研究者は指摘します。つまり同一人物の手によるもので、それはは、岩崎平蔵により描かれたと研究者は判断します。

以上をまとめておきます。
①まんのう町吉野の木ノ崎は、丸亀扇状地の扇頂部に位置し、礫岩が多く水持ちが悪い
②ここに19世紀前半に木ノ崎新池が岩崎平蔵によって築造された
③しかし、水持ちが悪くてため池としての機能が果たせずに短期間で廃絶され姿を消した。
④その跡は、再び水田に戻され、近年はセレモニーホールが建てられている。
⑤地元の人達もここに池があったことを知る人は少ないが、絵図がそのことを伝えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記
木ノ崎新池については、当時の満濃池の決壊と、その復旧ができない状況への対応策だったようです。
嘉永六(1853)の満濃池修築では底樋を初めて石材化する工事が行われました。ところが翌年6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日に、満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。これに対して、多度津藩や丸亀藩が早期修復に消極的で、満濃池は明治維新になるまで決壊したまま放置されます。つまり、満濃池は幕末14年間は姿を消していました。そのため、髙松藩は周辺の池を修築拡大したり、干ばつに備える方針をとります。例えば、この時に回収されたのが善通寺市買田池です。そのような中で、吉野村の木崎に新池が築かれることになったようです。(『満濃池記』)
 つまり、木ノ崎新池は満濃池がなくなったことへの対応策として作られた新池ということになります。もともと木ノ崎新池は三角州の礫地上に作られた池で水持ちが悪かったことは先ほど見たとおりです。そのため明治維新に長谷川佐太郎によって満濃池が再築されると、その「有効性」が薄れて、もとの田んぼに返されたようです。(2025/05/31記)

参考文献
芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年
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借耕牛44

中讃TV「歴史の見方」で、借耕牛のご紹介をしました。
借耕牛 歴史の見方

まんのう町明神は峠を越えて阿波からやってきた借耕牛たちがせりに掛けられ、丸亀平野の村々に引き取られていく所でした。
借耕牛 明神橋

谷川うどんの西側にある落合橋では借耕牛のレリーフが迎えてくれます。
借耕牛 落合橋の欄干

讃岐の平野で1ヶ月働いた牛たちは、米二俵(120㎏)を背にして阿波に帰って行きました。そのため阿波では「米牛(こめ牛)と呼ばれました。

小野蒙古風5

借耕牛 搬入ルート


借耕牛 岩部

借耕牛 小野蒙古風2

借耕牛 小野蒙古風4


興味と時間のある方は、御覧下さい。
動画は
https://www.youtube.com/watch?v=8d2mqvD-MqM
ブログは
https://tono202.livedoor.blog/archives/28412889.html


   中世前期の荘園には、次の2つの階層がいたと研究者は考えています。
A 下司・地頭層  = 在地領主 
B 公文層     = 村落領主
それが中世後期の南北朝以後の在地領主制では、次の2つになります。
C 地頭の系譜を引き、在地領主の発展段階とされる「国人領主」
D 村落 レベルの 「土豪」
 従来の研究では、中世後期になると用水開発・支配の主体は、荘園領主や在地領主の手を放れて、村落に下降してくるとされてきました。Bの公文層以下の有力農民が成長するなかで、村落やそれを主導するDの土豪層が用水路や溜池の修築などを行い、地域開発の担い手として台頭してきます。こうして、Aの在地領主やBの国人領主たちはは農業経営から遊離していくというのが、 従来の考え方のようです。

惣村の構造図
惣村の構造

  Q1 惣村はどのような組織か?
①農耕儀礼や共同作業を通じて結びついた名主層を中心に農民たちの地縁的な自治組織を惣村という。
②惣村は、惣百姓が参加した寄合の決定に基づいて自治が行われ、秩序の維持のため警察権を行使する地下検断や、年貢を領主に一括納入する地下請などを通じて、支配者から自立していった。
③惣村の成立の背景には、農業生産力の向上による農民の成長と、戦乱に対する自衛の必要性があった。名主層の中には、守護と主従関係を結んで侍身分を獲得する者(地侍)もいて、これも惣村が支配者から自立する要因となった。
惣村形成背景

中学校の歴史教科書指導書などにも「有力農民に率いられた村落が用水開発の担い手となった」とったと説かれています。これは「惣村」形成へと導くための伏線となっています。そして13世紀後半以降の畿内の惣村は、在地領主から自立し、自治権を持った村落共同体として記されています。
 惣村は「集村」と関連づけて考えられるようです。
集村化とは、それまで散らばっていた屋敷地を一カ所に集めて、集落エリアとと耕作エリアを分離することです。その目的は、土地利用の「高度集約化による村落再編成」だったとされます。その進行時期は、畿内では南北朝の14世紀前後とされます。それでは、この村落再編成のための集村化の原動力は何だったのでしょうか? それは「自立化した農民層の共同体的結合=惣村の規制力」だとされます。その結果、中学校の歴史教科書にも「集村=惣村化」というイメージで提示されています。
 ところがその後の発掘調査で、集村化で形成された集落に接して新たに領主居館も並んで現れる事例が髙松平野などから報告されました。近江国野洲郡からも集村化と新しい領主居館が同一エリアに出現する例が報告されています。これは「盟主層による惣村化」の動きには反するものです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  これに対して研究者は集村 には、「惣村化」の他に「居館化」の2つの方向があったと指摘します。
 それでは、この2つの違いはどこからくるのでしょうか?
それは村落の形成過程の違いからくるものと研究者は考えています。同じ規模の屋敷が並ぶ集村は、百姓たちの共同的結合で形成された惣村を示していると考えることができます。しかし、百姓の屋敷地とは大きな格差がある規模の居館を内部に持つ集落の場合は、居館を核として、集村化が行われたと研究者は考えています。つまり、畿内で14世紀前後に進行した集村化には、次の2つのタイプがあったということです。
A 惣の主導型
B 居館領主主導型
 Aの惣村は、在地領主の支配を排除したものでしょう。これに対して、Bの居館型集村の場合に領主が村落再編(集村化)を主導したことになります。それでは領主が集村化できた原動力は何だったのでしょうか?結論からいえば、それが在地領主の用水支配権だと云うのです。今回もその例を近江の姉川流域の灌漑水路と居館の関係から見ていくことにします。テキストは「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
在地領主が村落再編成に深く関わっている事例として、近江国姉川の郷里井堰を見ていくことにします。ここは前回に見た大原荘の下流域で、臥竜山によって東西に隔てられます。
滋賀県郷里井堰2
郷里井堰と上坂氏舘

まず、上図で上坂氏居館と姉川の灌漑用水の関係について以下を押さえておきます。 
①姉川が平野に流れ出る喉元に「郷里井」と呼ばれる井堰設置
②この灌漑域は344町で、上流の出雲井と並んで姉川筋の二大水利集団を形成
③郷里井は扇型に灌漑エリアが西に拡がり、その範囲は扇状地と一致
④郷里井灌漑エリアには多くの居館型集村があり、扇央部の西上坂村がその中心集落
⑤この西上坂村に国人領主上坂氏の居館跡があり、水堀や土塁などが残っている。
この郷里用水路には上坂氏が、深く関わっているとされます。上坂氏が、いつここに拠点を置いたかについてはよく分かりません。しかし15世紀には京極氏の筆頭家老となって勢力のピークを迎え、戦国期には浅井氏の家臣となっています。扇央部に位置する上坂氏館の水堀には、扇状地上を灌漑してきた郷里井の水が流れ込んでいます。ここからは郷里井からの灌漑システムと扇状地の開発と上坂氏の居館水堀の出現は同時期の工事で連動していたことがうかがえます。このような灌漑用水路と微地形・居館との関係は、前回に見た中世前期の出雲井と大原氏館と段丘下位面開発の構図と同じ手法です。当時の開発プロジェクトの柱となっていたことがうかがえます。
 上坂氏館の年代については、発掘調査がおこなわれていないためよく分からないようです。

上坂氏舘と
               上坂氏居館跡(長浜市東上坂)
しかし、中世後期には上坂氏が郷里井の支配に携わっていたことは確実です。地元では、郷里井は14世紀に上坂氏が開削したものと伝えられています。ただし、郷里井の工事年代年については、その灌漑エリアに10世紀初見の東大寺領「上坂郷」が含まれています。そのため扇状地を開発する用水の原型は東大寺によって、中世前期に開削されていたことも考えられます。そうだとすると、10世紀の東大寺の基本計画の上に、14世紀になって上坂氏による再開発・拡張工事を実施したことになります。

姉川の郷里井と扇状地
          姉川扇状地と郷里井灌漑エリアの関係 
上の図で以下のことを確認しておきます。
①姉川扇状地の上部と郷里井の灌漑エリアは、ほぼ重なること
②郷里井の灌漑エリアは、さらに西側に伸びて二ヶ所張り出した部分があること。
③この張り出しエリアが、北の榎木村南部 と南方の七条村南部。
④両エリアは、もともと扇端部の小規模湧水を利用していたが、郷里井完成後に供給エリアに含まれた。
 つまり、もともとは榎木村や七条村は、湧水のみで狭いエリアの灌漑が行われていたようです。それが郷里井からの灌漑網が整備されて取水量が増大したことを受けて、水田開発が一気に進んだようです。こうしてふたつの村は、井堰灌漑エリアにに取り込まれていきます。よく見ると、この二つの村には、それぞれ居館主導型集村が形成されています。研究者が注目するのは、どちらも郷里井からの幹線用水路が連結される接続点に立地しています。そして集落域内部の居館立地は、用水路の分岐点に当たっています。ここでは居館領主が郷里井灌漑網の結節点を握っていたことを押さえておきます。つまり、上坂氏の周辺郷村の支配拠点として配置されているように見えます。

中世居館と井堰型水源4
居館の水堀を経て下流に用水が提供されている
これら二つの居館主導型集村の中で、 居館遺構がよく残っているのが七条村です。
『農業水利及土地調査書』には、七条村の灌漑には、郷里井 の水 にプラス して小字「養安」にある小湧水が補給水として使われていたと記されています。この小字「養安」は、居館遺構上にある一町四方にあたります。そしてこの湧水は居館の水堀の一部となっています。

滋賀県郷里井堰2
 もう一度、郷里井堰からの灌漑網の地図を見てみます。 
郷里井からの幹線用水路もこの比地条村の居館の水堀に向けて接続されています。地元に残されている慣習には七条村では、村中総出で居館の水堀さらいが行なわれてきました。これを「花戸の井立て」と呼んでいたと伝えられます。「井立て」とは、用水路の修築のことで讃岐で云う「井手さらえ」のことでしょう。つまり、井手(用水路)は居館の主人たちの力で作られ、それで用水が供給されるようになると、百姓たちはその管理・維持に積極的に関わっていく姿が見えてきます。これは、居館主人からすれば、灌漑用水の管理運営を通じて、惣村への影響力や支配力を強めたことになります。言い換えれば、「水の支配を根拠とした居館領主の村落支配」と云えます。そこには、小さな湧水(出水)や溜池などに頼っていた村落が、新たに建設された大規模な井堰灌漑の水利集団に組み込まれていく姿が見えてきます。
中世郷村と用水路
井堰からの水が遠くの村々にも用水路で導かれていく
 これは丸亀平野でも見えた光景だと私は思っています。丸亀平野にも「地域毎の個別の水源=村落内で完結的灌漑システム」段階から、地域を越えた大規模水利集団への参加という段階への移行期があったはずです。ここで大きな力を持つのは、井堰を支配する在地領主(居館主人)です。彼らに背くことは、水の供給を止められることを意味します。水を支配する者が地域を支配するのです。また、上流と下流の水争(水論)が始まります。そのための水利調停も必要になります。その場合も、居館領主が水利調停者としての役割を担うことで、支配力を強めていきます。
灌漑用水網と居館群

用水流末の七条村、榎木村だけでなく居館型集村が用水沿いにあります。井堰から水を引く場合に、「井頭」である国人領主との間に立って水利調停に当たっていたのは、公文などの村落指導層だったでしょう。この場合には、居館領主は、次のように「水の支配」を通じて支配力を強化したことが考えられます。
①国人領主は、旧来の村落領主(名主層)を次第に被官化していったこと
②新たに組み込まれた用水末端の村落では、惣領家の庶子がやってきて新たな村落領主層となっていったこと
③庶子・被官達は、用水権益の分配にあずかれることを武器にして、村落内での指導権を獲得していったこと
用水を掌握していた居館の主人たちは、14世紀前後の村落再編(集村化)の際にも支配力が強く、居館を核とした集住化を主導できたこと。これが居館型集村の形成につながったことを押さえておきます。このような上に立って、まんのう町吉野の大堀居館について、つぎのような仮説を私は考えています。
大堀居館と潅漑施設

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻
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前回はまんのう町吉野の大堀居館跡について、次のようにまとめました。

大堀居館と潅漑施設

大堀居館5
大堀居館跡の位置
丸亀平野の中世武士の居館跡について、何度か取り上げてきました。しかし、居館跡を広い視野から位置づける視力が私にはありませんので断片的なお話しで終わっていました。そんな中で出会ったのが「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。歴史地理学の立場から中世の居館跡の水堀が灌漑機能をもち、そのことが居館の主人の地域支配力を高めたという話です。何回かに分けて、ここに書かれていることを読書メモ代わりにアップしておきます
①鎌倉期の『沙汰未練書』には次のように記されています。
「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」
「開発領主トハ、根本私領ナリ」 
ここから開発行為こそが、御家人(在地領主)の土地所有権の最大の根拠だとしています。そして、領主による開発と勧農を重視しています。讃岐の場合には、絶えず水の確保が大きな課題となります。水の支配権こそが領主支配の根源になっていました。中世の場合は、武士の居館が灌漑用水支配の拠点になっていたと研究者は考えています。

Aまず「館」と「城」の違いを押さえておきます。
 居住機能と戦闘機能のどちらに比重を置くかがポイントにすると、次の3つに分類できます。
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」
B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」
C その双方の要素を含むものを総称して「城館」
中世は、平常時の居住地としての平野部の居館と、戦闘時の詰城としての山城とがセットになっていたとされています。ここで取り扱うのはAの平時の居住空間としての平野部居館です。

飯山国持居館1
武士の平野部の居館モデル 水堀で囲まれている

中世の平野部居館の特徴の一つは、水堀で囲まれていることです。
空壕や土塁という選択もあったはずですが、水を巡らせたことには、なんらかの意味があったはずです。その理由として考えられるのは
 ①防御機能の強化
 ②低湿地 にお ける排水機能
 ③農業用水への利用
 ④舟運利用 
①の機能は当たり前です。ここでは③の用水支配の関係を見ていくことにします。中世居館は、方形館とも呼ばれるように、水堀で囲まれたその敷地が方形です。 この方形が条里地割に規制されたものが多いことは、丸亀平野の中世居館で以前にお話ししました。方一町の館の場合は、条里地割の坪界線に沿っていて、居館の主人は条里地割型耕地の開発と深く関わっていたと研究者は推測します。

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制 吉野は条里制成功エリア外である。
 条里地割がいつ行われたかについては、丸亀平野の発掘調査からは7世紀末に南海道がひかれ、それに直行する形で条里線ラインが引かれました。しかし、古代に条里制の造成工事が行われたのはごく一部で、大部分が未開発地域として放置されたことも分かっています。開発が進むのは平安時代後期や中世になってからです。土器川や金倉川の氾濫原が開拓されるのは近世になってからだったことは以前にお話ししました。
荘園制内部の在地領主の勢力実態を知るために、居館の規模を見ておきましょう。
家には、そこに住む人の経済力が反映します。居館の規模は、階層差ともとれます。方形区画の規模については、次の2種類があります。
A 方一町のもの
B 半町四方のもの
Aは地頭クラスの居館、Bは村落の公文や土豪層の居館と研究者は考えています。
大山喬平は、荘園的土地所有をめぐる在地での支配階級として、次の二階層があるとします。
C  荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主
D  村落を支配対象とする公文層=村落領主
これは、先に見たA・B]の居館規模の階層差と一致します。一括りに「在地領主」と呼ばれてきた領主にも「荘 園」と「村落」という二重構造 に対応した二種の領主階層があったことがうかがえます。 在地領主と村落領主を、居館規模から分類して、それぞれの役割を考える必要があるようです。

それでは「吉野大堀殿」の居館は、どうなのでしょうか?
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m
②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
ここからは吉野大堀殿の居館は、A・Cの1、5倍で、地頭・下司クラスよりも広いことが分かります。村落規模を超えて大きな力を持っていた「在地領主」であったことがうかがえます。
次に 水利開発の拠点としての中世居館の研究史を整理しておきます。 
A 小山靖憲は、在地領主の勧農機能を説き、「中世前期の居館の堀は農業用水の安定化のためにこそ存在した」と指摘
B 豊田武は「農村の族的支配者としての武士像」を次のように描いた
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。
②そこに「領主型村落」が形成され、
③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
東国をフィール ドとして作り上げられたこの2つの理論は、鎌倉期の西遷御家人の西国での開発に対しても適用され、一時は中世前期の在地領主と開発をめぐる「公式」になります。こうして文献史学の立場から「領主型村落」論が示されます。
 ところがその後に中世居館遺構の発掘調査が進むと、考古学の立場から次のような反論が出てくるようになります。
1987年以降の関東での発掘調査の成果から、橋口定志は次のように述べています。、
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、
②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
この指摘により中世前期居館の水堀の灌漑機能は否定されます。それを根拠とする 「領主型村落」
論は、根底からの再検討を余儀なくされます。これを承けて「領主型村落」と「堀ノ内体制」論を問い直す試みが始まります。
そのような中で海津一朗は、領主的開発の原動力を次のように説明します。 
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する
②そこに市や宿が建てられ町場が形成され
③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる
④それが「領主型村落」の祖型となる。
 ここでは灌漑力ではなく、交通路の関係が重視されるようになります。 特に前期居館の灌漑機能が否定されて以降、 農業経営以外の要因で居館の立地を説明しようとする傾向が強くなります。これは初期武士団を農業経営よりも、むしろ都市的な富の再分配に大きく依存していた存在とみる見方と重なり会います。
 しかし、「水堀をめぐらす居館は14世紀以前には存在しなかった」という結論に対して、近畿を中心とする発掘調査が進むと反論が出るようになります。
近畿でも和気遺跡・長原遺跡などの中世前期にさかのぼる居館水堀の遺構が出てくるようになります。これらの分析から水堀をめぐらせた居館が12世紀後半には、出現していることが分かってきました。
しかし、12世紀の前期の水堀については、次のような意見の対立があります
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」
B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
12世紀の前期居館については、このような対立はありますが、中世後期の居館については、水堀が灌漑機能を持っていたことに異論はないようです。
以上をまとめておくと、領主が開発をリードできたのには、次の2つの根拠があると研究者は考えています。
①居館の用水支配に基づく勧農機能
②都市と直結した経済活力の投入
どちらを重視するかによって、居館領主の性格付けは、大きくちがってくることになります。
  居館と灌漑用水について、研究者は次のようなモデルを提示します。
中世居館と水堀の役割
 
 A. 「水堀=溜池」で、旱魃に備えた堀水が、水田へと給水される場合
 B.「 水堀=用水路」で、居館より下流の水田へ の灌漑用水が流れていた場合
 AもBも、用水を提供していたことには変わりありません。
中世居館と井堰型水源

そこでまず考えるべき点は、その水をどこから引いているのかだと研究者は指摘します。つまり、上流にさかのぼって堀水の水源を押さえるるべきだというのです。居館建設に先だって、堀に水を貯めるためには、水源確保がまず求められたはずです。居館建設に先立ってすでに、湧水や井堰などから導入してくる用水供給のためのシステムがあったはずです。さらに用水を 自らの居館に引き込んでいるので、領主が用水の使用権を握っていたことになります。そうだとすると、 水堀そのものに灌漑機能がなくても、用水路網の末端で水を受 けるだけの場合であっても、 居館の主人は用水の支配権を握っていたことになります。ここでは、水堀は防御機能だけで無く、地域の用水システムと深く関わっていたことを押さえておきます。これと最初に述べた勧農権の問題はリンクします。
これを「吉野大堀居館」の主人にあてはまて考えています。

まんのう町吉野

  まんのう町吉野土地利用図を見ると、大堀居館のまわりは土器川と金倉川の扇状地上部で、いくつもの流れが龍のように暴れ回っていたエリアであることがうかがえます。そのため遊水地化し、低湿地が拡がる開発が遅れた地域であったことは以前にお話ししました。そこに承久の乱以後に西遷御家人がやって来て、大堀居館を構えたという仮説を提示しておきます。

大堀遺跡 まんのう町
大堀居館絵図(江戸時代)
居館の掘には、そこから湧き出す出水が利用されます。それだけでなく土器川に井堰を築造し、導水が始められます。その水は居館の水掘を経由して、下流域に供給されていきます。
そして、灌漑用水の下流域の要所には一族が居館を構え、周辺の開発を行い勢力圏を拡げていくというイメージです。灌漑用水路沿いに一族の居館が設置されていたという事例が近江の姉川水系からは報告されています。そを大堀居館にも当てはめて考えて見ると、大堀居館は土器川からの井堰や吉野の湧き水など取水源を抑える勢力の居館だったことになります。だから先ほど見たように居館規模が大きかったのかもしれません。
灌漑用水網と居館群
灌漑用水路沿いに一族の居館が配置された模式図
大堀居館の下流の居館を見ていくことにします。
琴平 本庄・新庄2

        琴平町の「本庄城(居館)と石川城(居館)の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
小松荘琴平町)には、中世の居館跡とされる本庄居館と新荘(石川居館)があります。
荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、上の地図の右下の部分で琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアと考えられています。

DSC05364
新荘の氏神・春日神社の湧水 ここが石川居館の水源
 一方、新庄は春日神社の湧水を源とする用水の西北で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域とされます。春日神社の北側には、丸尾の醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけると石川居館の水堀跡に至ります。こうして見ると、本庄と新荘は小松荘の出水からの水を用水路で取り入れ、早くから開けた地域だったことがうかがえます。同時に、水源地を氏神として信仰の場としています。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)には「本荘殿」「新荘殿」と記されています。ここからは、中世には本荘と新荘の、それぞれに領主がいたことがうかがえます。

 現在では、旧小松荘(五条・榎井)の水源は出水だけに頼っているわけではありません。
満濃池水掛かり図

吉野の①水戸井堰で取水した②用水路の支線が西に伸びて五条や榎井の水田を潤しています。これは、生駒藩時代に西嶋八兵衛の満濃池築造と灌漑用水路の整備の賜と私は考えてきました。しかし、「居館ネットワークによる灌漑水路整備」の実態を見ていると、満濃池が姿を消していた中世に、吉野の大堀居館から小松荘の本庄や石川の居館に水路網が伸ばされてきていたのでないかという疑問が芽生えてきました。最初は、出水利用の小規模水路であったものを、土器川からの取水によって小松荘まで用水供給エリアを拡げる。そして、南北朝にやってきた長尾氏に、この地位は引き継がれていくことになります。こうして長尾氏は、四条や小松荘など丸亀平野南部の土豪たちを被官化して、勢力を拡大するというシナリオになります。

中世居館跡とされる飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)を見ておきましょう。

飯山国持居館2地図
飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)
北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。法勲寺方面から北流してきた旧河道が飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。その流れを掘にするように居館跡があります。現在の飯山ダイキ店にほぼ合致します。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mで、まんのう町の大堀居館とほぼ同じ規模になります。

大束川旧流路
飯野山北土井遺跡から法勲寺も土器川と大束川に囲まれた低湿地帯

土地利用図を見ると、この当たりもかつては洪水時には土器川が大束川に流れ込み遊水地化し、その中野微高地に早くから人々が定住農耕を始めたエリアです。そのため古代には、南海道が東西に走り、鵜足郡郡衙や古代寺院の法勲寺が建立されるなどの先進地帯だった所です。しかし、洪水によって幾度も押し流されたことが発掘調査からも分かっています。そこに現れたのが坂本郷国持に居館を構えた主人です。この国持の地に居館を選定したのも、西遷御家人であり、彼によって周辺開発が進められたと私は考えています。ここでは国持居館と呼んでおきます。
 国持居館と周辺の灌漑用水の関係を見ておきましょう。
坂本郷国持居館と用水路
ここで研究者が注目したいのが東坂元秋常遺跡の上井用水です。       
     上井用水の源流は、近世に大窪池が姿を見せる前は岡田台地の下の出水にありました。古代においては法勲寺周辺の灌漑用水路として開かれたと考えられます。それが中世になって湿原などの開発が進むにつれて、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、下流の東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。いわゆる郷村連合です。
 各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、郷社連合で祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏踊りに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。しかし、用水路の管理整備を下流の郷村のみで行っていたとするのは、私は疑問を感じます。なぜなら、用水路が国持居館を経由しているからです。この居館の主人は、用水路について大きな影響力を持っていたことは、今までの事例から分かります。部分的な用水路であったものを、水源から川津までひとつに結びつけ、用水路網を整備したのは国持居館の先祖とも考えられます。だとすれば、この用水路周辺には、一族の居館が配されていた可能性があります。」

飯山法勲寺古地名大窪池pg

以前に見た大窪池周辺の古地図に出てくる地名を確認します。
ここには東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、近くには「ぞう堂」という地名も見えます。土豪層の存在が見えて来ます。その背後の丘陵地帯の谷間に大窪池があります。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓したのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。

飯山地頭一覧
上表は、飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。鵜足郡法勲寺を見ると壱岐時重が1250年に、法勲寺庄の地頭となっています。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたことが考えられます。そして、国持居館はその拠点であったと私は考えています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

大堀居館 説明版
大堀居館の説明版(まんのう町吉野)
まんのう町吉野の「長田うどん」の約南200m近くの道路沿いに中世の武士居館跡があります。この居館跡については、江戸時代に書かれた「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」という長い名前がつけられた下の絵図が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されていいます。

大堀 
        大堀居館跡は長田うどんの南側 まんのう町吉野

大堀居館5

大堀居館跡5

大堀居館跡(まんのう町吉野) 廻りが水堀で囲まれている
この絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路・飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木などが見て取れます。さらに註として、次のようなことが書き込まれています。
①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名
②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模
③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。
④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積
⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
大堀居館絵図 拡大図
 大堀居館跡 南側拡大図

調査報告書(2005)には、つぎのようなことが報告されています。(要約)
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。
ここからは次のような中世の武士居館復元図がイメージできます。

飯山国持居館1
中世武士の復元モデル
私が気になるのは、大堀居館跡は吉野にあり、西長尾城主の長尾氏の勢力エリアにあることです。今回は、長尾氏と大堀居館の関係を見ていくことにします。テキストは「大堀城跡調査報告書」です。
まずは、立地する吉野の地理的環境を押さえておきます。 

まんのう町吉野

大堀居館(城)跡は、まんのう町吉野の緩やかな傾斜の扇状地上にあります。土器川は、それまでの山間部を抜けると、まんのう町木ノ崎付近を扇頂として扇状地を形成します。また、大堀居館跡の西300mには、金倉川が蛇行しながら北流します。地図を見ると分かりますが、このふたつの川が最も近接するのが吉野のこの遺跡付近になります。地質的には地下深くまで扇状地堆積による礫層が堆積しています。耕土直下には「瓦礫(がらく)」と呼ばれる砂礫層が見えているところもあります。しかし、遺跡周辺は後背湿地と呼ばれる旧河川の埋没凹地も多くあります。このような窪地は、古代から中世には安定した用水を確保できる田地でした。最先端のカマド住居を持った吉野下秀石遺跡は、吉(葦)野の開発のために入植した渡来系集団と私は考えています。しかし、発掘現場からは礫層が出てくるので、洪水による被害はたびたび被っていたこともうかがえます。
丸亀平野の条里制.2

まんのう町吉野は条里制施行エリアではない

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制跡
古代の開発は部分的に過ぎなかったようで、中世になっても吉野は湿地帶が拡がるところが残っていたようです。そのため上図をみると四条や岸上は条里制施工エリアですが、吉野は施行外になっています。大堀居館の東側に一部痕跡が残るのみです。そこに西遷御家人としてやってきて、治水灌漑を進めて吉野の開発を進めていったのが大堀居館の主人たちではなかったと私は考えています。彼らのことを「吉野大堀殿」と呼ぶことにします。
この吉野大堀殿と長尾氏の関係は、どうだったのでしょうか?
まず長尾氏について根本史料で押さえておきます。「香川県史の年表」に長尾氏が登場するのは以下の4回です。
①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪
④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」 
①については南北朝の動乱期に、白峰合戦で海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として得ます。こうして庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。②からは、丸亀平野南部から金倉寺周辺の中部に向けて勢力を伸ばしていく長尾氏の姿がうかがえます。そして、南北朝期になると緊張関係の高まりの中で、西長尾城を盟主にしてまんのう町の各丘陵に山城が築かれるようになります。南海治乱記によれば、土豪武士層が長尾氏に統括された様子が記されています。西讃守護代の香川氏が天霧城を拠点に、善通寺寺領などを押領し傘下に収めていったように、西長尾城を拠点とする長尾氏も丸亀平野南部を勢力下に置こうとしていたことがうかがえます。
 そのような中で讃岐に戦国時代をもたらすのが香西氏による主君細川高国暗殺に端を発する「永世の錯乱」です。
この結果、讃岐と阿波の細川家は、同門ながら抗争を展開するようになります。そして、三好氏に率いられた阿波勢力が讃岐に侵入し、土豪たちを支配下に置くようになります。その先兵となったのが東讃では、三好長慶の末弟・十河一存で、安富氏や香西氏は三好氏に従うようになります。
 一方丸亀平野で阿波美馬との交易活動が真鈴峠や三頭峠越えに行われていたことは以前にお話ししました。このルート沿いに阿波三好氏が勢力を伸ばしてきます。こうして、長尾氏も三好氏の軍門に降ります。それは長尾氏が三好氏に従軍している次のような記録から分かります。
①備中への三好氏に従っての従軍記録
②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること
③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍
④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
ここでは16世紀初頭の永世の錯乱以後は、長尾氏は阿波三好氏の勢力下に置かれていたこと、そこに土佐の長宗我部元親が侵入してきたことをここでは押さえておきます。

最初に見た発掘調査には、吉野大堀殿の居館については次のように記されていました。
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。
⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
ここからは大堀居館跡の出現期と消滅期が次のように分かります。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後
B消滅期が14世紀後半の南北朝以後
ここから推論すると、Aからは承久の変以後にやってきた西遷御家人の舘と大堀居館が作られたこと。Bからは、南北朝の動乱期の白峯合戦で長尾氏がやって来ることによって、大堀居館の主人は姿を消したことがうかがえます。
以上を整理しておくと
①承久の乱以後に、東国からやってきた西遷御家人が吉野の湿地帶の開発に着手した。
②その拠点として、湿地帶の中に居館を条里制地割に沿う形で建設した。
③当初は掘水は湧水に頼ったが、その後は土器川からの横井(井堰)を建設した。
④この灌漑用水路は、居館を経由して下流の耕地に提供された。
⑤こうして吉野エリア全体の灌漑権を握ることによって吉野大堀殿は支配体制を固め成長した。
⑥しかし、南北朝時代に長尾氏がやってくることになり、吉野大堀氏は次第に勢力を奪われ衰退した。
⑦そして、14世紀後半には居館は姿を消した。
つまり、吉野大堀殿は、長尾氏以前に吉野の灌漑水利を整備し、吉野の開発を担った勢力ということになります。それが南北騒乱の中で姿を消したと私は考えています。その後は、吉野は長尾氏の勢力下に置かれていったとしておきます。

中世居館と井堰型水源

少し結論を急ぎすぎたようです。次回は中世の居館の堀水が、地域の灌漑システム全体の中でどんな役割をになっていたのか。それが居館主人の地域支配にどんな意味を持っていたのかをもう少し詳しく見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大堀城跡調査報告書」2005年
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 大戦末期に国策として実施された松根脂の採取運動について前回は次のようにまとめました。

松根油採集運動1

1944年の秋から冬にかけて進められた松根油の採集運動は、多くの人々を動員して国民運動として展開されます。しかし、松根を掘りだしても乾留用の釜不足などの不手際が重なり、当初の目標生産量には達しなかったようです。

兵士の記憶(昭和18年)▷撃ちてし止まむ | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

しかし、時のスローガンは「撃ちてし止めむ」です。現状報告を受けた上で、「撤退」はできません。それは責任問題になります。現場がどうであれ、中央から出される指示は「前進」です
政府は1945(昭和20)年3月16日、「松根油等拡充増産対策措置要綱」を閣議決定します。
前年の「緊急」措置要綱を「拡充」と変えグレードアップした内容になっています。
第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす
第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂
第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす
一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと
二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること
三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること
五、精製工場の急速整備を図ること
備考
二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
第1条は、まさに「撃ちてし止めむ」で「(松根油生産の)拡充増産体制を早急に強行しろ!」ということです。そして第2条では、生産目標を倍以上に引き上げています。その目標達成の達成のための具体策としてあげられているのが、次の3点です
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、
②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など
③配備が遅れている乾留釜の設置
②には国民学校卒業生とありますが、旧琴南町の国民学校の生徒だった人は後に、次のように語っています。
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。

ここで注目しておきたいのは、備考二にあるように3月からは「松脂」も液体燃料用に活用されるようになったことです。松脂は、松の幹に傷を付けて染み出す樹液のことです。

松根油1

こうして大本営がいきあたらりばったりで立案した「机上の空論」がマスコミを通じて、国民に「大本営発表」として伝えられ、官制運動が組織されていきます。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」
簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」
特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ
村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
松脂採集 4
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』 松脂を採集する母親
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』は、赤ん坊をおんぶした母が松の木から松脂を採る姿を載せて、次のように記します。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
サァ皆んで採らう素敵な航空燃料これで飛ぶゾ 友軍機も一本でも多く採れ今にもの見よ米鬼ども、天与の航空油資源は訪れる勝機にぐんぐん溜る一方、割当採集の指定を受けた各町村では森林組合を中心として各地松林の活用を取り定めて目標突破を期しているが(中略)

松脂採集 毎日新聞


 松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。

松脂採集3
松油(ヤニ)採取 育児と採取が出来ることを強調した写真

もういちど確認しておきます。マツから油をとる2つの方法が政府から示されたことになります。
①マツを伐倒して根を乾留する方法
②樹皮から松ヤニを採取する方法
②の方法を、国民学校の生徒として参加した人は、次のように語っています。
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」

もともとは「松根油」(しょうこんゆ)の採集には、伐採して約10年以上が経過し、琥珀のように変質した松の根が使われていたようです。しかし、松の古株が掘り尽くされると、松のほかに杉、檜など常緑樹の古株、さらには生木を伐採した上での採掘も行われるようになります。そして、生木から松脂の採取がはじまります。そして山の中のマツだけでなく、防風林・公園のまつまでおよぶことになります。
戦争を伝える松

  戦争を伝える松
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」                           上田市教育委員会

松脂採集跡4
松脂採集のための傷を残しながら生き続ける松(上田市下之郷東山)

松脂採集7

金沢の兼六園の古松にも松脂採集跡がのこされているものがあるようです。


金沢兼六園の「松の傷」
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。

兼六園の古松からも脂
松脂採取の傷跡の残る松(兼六園)

松脂 金沢兼六園2
兼六園の松から松脂を採取する女学生たち
兼六園の松からも松脂が採集されています。国家危急の折に「一億総玉砕」に掲げる中で、兼六園の松であろうとも協力するのは当然と考えられ、時の指導者達がOKを出したのでしょう。「総動員体制完遂」という国策遂行のためのイメージ戦略だったのかもしれません。ここでは兼六園の松からも採取されていることを押さえておきます。同時に日光街道などの街道沿いの松なども採取対象になったことが新聞には記されています。
先ほど見た秋田魁新聞には、松に傷をつけても「松は死にはしない」とありました。しかし、樹皮を剥がされ傷つけられた松は、大きなダメージを受けて枯れた木も多かったようです。それが前回見たようにまんのう町(旧琴南)の山の中に、傷跡を残しながら立ち枯れ姿となっているのです。

松脂採集8
松脂採集跡を残す立ち枯れの松幹
松脂採集5

松から脂をとるために大量の木が切られるようになるのは1944年秋以降のことです。
実は、その前年からは「軍需造船供木運動」がはじまり、各地の巨木が伐採供出されていました。
日本の輸送船が南洋で次々沈められたのに対応して、急ぎ木造船を増産するために大量の木が伐られたのです。1943年2月に「軍需造船供木運動」は始まります。これも山の木だけ出なく屋敷林や社寺境内林、並木や防風林まで目をつけられます。そして、半年足らずの間に、全国から百万本以上の巨木が「出征」します。この巨木の「供出」「出征」の際にも、美談や「熱誠」を演出して競争心をあおる官製「国民運動」が興され、新聞がこれをこぞってとりあげます。大政翼賛会による下からの官民運動の進め方は、次のような手順です。
①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、
②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
ある意味では、松根油や松脂の採集運動は、「軍需造船供木運動」の「二番煎じ」だったようです。そのために姿を消した巨樹たちも多かったのです。一方で、国策に抗い巨樹を守り抜こうとした人達もいたのです。

応召される松並木 岡山県
『写真週報』第270号(1943年5月5日)岡山県の津山市二宮松原の並木伐採の様子
タイトル 応召する三百歳の杉並木
右上 松並木遠景
左上 市長による斧入
伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

「池田町史(三好市)下巻 975P」に、「松根油製造主任だった」という手記が載せられているのを見つけましたのでアップしておきます。(2025/09/25追記)
昭和一八年には、松根油をやることになった。          
ガソリンが底をついたんで、 松根油を航空燃料にということで、池田で講習会をやった。秋もおそうになったころじゃった。 実は、昭和八年、世の中がどん底になった時代に、何とかせなと思うて、自分と竹内昌平さんと二人でやっとったことがあった。二年ぐらいやったけど結局いかなんだ。そんな経験があったもんじゃきに町長から、お前手伝ってくれやということになって、国から(県かも知れんが)来た技師と一緒に元のちり焼場の所へ釜をついた。経験があったから、わしの言うように技師も反対せえへなんだ。もっともっということで、とうとう10基こしらえた。農業会の仕事で、わしらはそれを助けとったということです。県の西部モデル工場ということになり、私が工場主任。従業員は二十五人ぐらいで丸五の製材より多かった。軍需工場じゃきに、微用受けても、松根油の従業員だということですぐもんて来よった。
松根油製造窯 池田町史978P

 松根油の絵の構造を絵に書いてみた(上図参照)
 釜は、だいたい風呂の釜を据える要領で据え、煉瓦で二段になっとる。釜は蓋がついていて、万力を六か所(八か所か)つけて、しっかり締めつけるようになっている。釜の下から管が出て、いったん下に向かってタールを落とすようになっている。蒸気が上に上がり、水の入った冷却タンクの中を回って、テレビン油の受け口につながっている。冷却タンクの中を通るバイブは、新山でやっとったときは銅管を使ったが、昭和18年に銅が手に入るわけがない。初めは竹で妙げなことして、昔の水道の管みたいに、大きな木の枕(継手)こっしゃえて、直角の方向から枕に孔あけて、竹が両方から入るようにして冷却タンクの中を回したりしとったが、うまくいかんので、箸蔵寺の絵馬堂の屋根の銅板はいで、それでバイブ作って、冷却タンクの中をまわした。軍の命令じゃきん、何もかもれへんわで。松根(松を伐った後に残った根が一〇年以上も経つと油分を含んだ芯だけが残っている。これを肥松とか松根という。)を小さく割って釜の中に詰め、蓋をして万力で締めつけ、下のたき口から燃やす。燃料は松根を割ったときに出る脂分の少ない屑木を使う。どんどん燃やすと釜の中の松根が熱せられて油分が蒸気になり、下の管から出ていったん下がり、どろどろしたタールは蒸気にならず下の受け口に落ちる。油の蒸気は管の中を上にあがって、冷却タンクの中に入り、冷やされて液状になって受け口に落ち込む。冷却タンクの水は熱くなれば替えるが、一釜ぐらいはいける。
 蒸留した液は、テレビン油といって爆発力はガソリンより大きいと言っていました。私が、昭和八年に松根油やりよるときは、松根油は船のローブを浸すのに使ったんじゃそうで、これに浸したロープにはカキがつかんというて買うてくれていた。テレビン油の受け口のところから出とる蒸気にたき口の火が飛んでよく燃えました。タールも、何か役に立ったんでしょう、持って帰りました。
松根は、池田町の町内会へ割り当てて掘った。
道具も、着るもんも、足元もないのに、あずってこしらえて、鍵掛の方から掘って来たんですわ。みな芋食うて、池田の町の山ほとんど掘ってしもた。国のためじゃ思やこそ、誰があんなことすりゃあ。あほらしい。
 上等の松根一〇〇貫でテレビン油三升ぐらいしか採れなんだ。それに、タールが二斗ぐらい出た。十基あったが、松根がぼろじゃったら三升もとれん、一〇〇貫で二升や一升五合のこともある。去年やぐらい伐った松の根持って来たってどればぁあらえな。一日平均一〇基で一斗五升もできたでしょうか。
 松根油の工場始めてから、テレビン油は全部で、ドラムかん三十本ぐらいだった。持って帰ったのは二十本ぐらい。戦争すんでから、残りがどうなったか知るかえな。戦争負けたとき、野戦へも一緒に行っとった巡査の真野さんが、そばに居ったんじゃが、あれと二人で泣いたでよ。ほんと、あのときは、こんなに苦労したのにってくやしかったが、もう昔になって、松根油のこと知っている人も少なくなってしもた。
池田町が徳島西部の松根油製造のモデル地区だったようです。
参考文献 
齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」
金子恭三  「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)   
信州戦争資料センター(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)
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まんのう町の町報「ふるさと探訪 アカマツに残る先人の営みの足跡」という記事が載せられていました。
ふるさと探訪原稿 松油採集

ここには、敗戦直前にガソリンなどの代替燃料として松の幹から燃料油を採取して利用しようとしたこと、それとは別にアカマツの幹に傷を付けて油を集めた跡も残っていることが報告されていす。このことについて、以前から興味を持っていたので、今の段階で集めた情報をメモとしてアップしておきます。まずは根から油を集める「松根油」についてです。テキストは、信州戦争資料センターの記事です。(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)。ここには、次のようなポスターが紹介されています。

松根油1

タイトルは「埋もれた戦力・松油掘出せ」「松根油 緊急増産」とあって、切り倒された松の根を母親と子供が掘りだしています。「銃後を支える婦人と少国民」の雰囲気がよく出ています。ここからは太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から翌年にかけて、松の根を掘り出し、その脂分で「油」にする作業が行われていたことが分かります。
「陸軍燃料廠ー太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」(光人社・石井正紀著)には、次のようなことが記されています。(要約)
光人社NF文庫<br /> 陸軍燃料廠―太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い (新装版)

1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報で「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という情報が届いた。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」として、国内年間消費量の1/3ほどの採油が可能と報告した。その計画に陸軍、農商省、内務省が乗っかり、10月20日には最高戦争指導会議で承認された。

この決定に基づいて、担当相となった農商省が10月23日の次官会議で「松根油等緊急増産措置要綱」をまとめて、各府県知事を通じて松根油の生産活動が始められます。その運動を進めるために全国に配布されたのがこのポスターのようです。
松根油等緊急増産措置要綱
「松根油等緊急増産措置要綱」の第一条・方針には次のように記します。

「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」

意訳変換しておくと
皇国決戦の最終段階に対応するために、山野に放置されている松根を動員する。そして乾留方法で松根油の飛躍的増産を図る。現在は非常に重要な局面にあり、ことは緊急を要する。ついては、皇国の農山漁民の底力を最高度に結集発揚し、本事業の完遂を図り、皇国戦力の充実増強に寄与すべし。
第二条・措置
「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」
 
いつものように音頭を取るのは、大本営ですが実施方法は「地方長官=知事」の責任制です。現場には、農会などを通じて実行させることになります。結果に、大本営は責任をとりません。

 松根油の作り方は、次のような工程でした。
①松の立ち枯れた古木(樹齢50年以上)をさがしてし、松株を掘る。
②伐根のノルマは 1 日 150~250kg
③掘り出された松の根は、貯木場に蓄えられた後、小割材にしてカマス袋に入れ、乾溜缶(100 貫釜)に運ぶ。
④釜の内部には中カゴがあり、この中にあらかじめ割砕した松根原料を詰める。
⑤粘土と石灰を練り合わせたものを、釜と蓋の間に塗り込み密閉し、火を焚いた。
⑥出てきた蒸気を冷却し、液体化した油分である「粗油」を改宗する
⑦これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、
⑧軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする
 この工程案に基づいて、1944年冬から、松の根を掘りだす作業に動員が始められます。当寺の新聞には、割当目標を達成の記事が載せられて、互いに村々を競い合わせています。

松根油増産戦
            昭和19年12月28日 松根油増産戦 各地の情報

当事者は当寺のことを、次のように回顧します。

とに角この仕事に動員された人々は、ここでも滅私奉公を強要され、腹をすかしながら馴れぬ手に血豆を作り、死に物狂いで松根の掘り起しに従事した。先ず在来の松脂集めには、国民学校の生徒や、都市から農山村に疎開している婦人達が充当された。松根株集めには、鉄道の枕木、鉱山の杭木用に伐採されて全国の山野に放置されている推定八十億株の松の古株を第一目標にした。これが無くなれば次々に立木を伐採し、枝も葉も根も接触分解法や乾溜法の原料にすることになった。

こうして松根はほりだされます。ところが③の乾留釜がありません。釜が据えられても今度は生産した粗油を入れるドラム缶が届かない、ドラム缶を入手しても、輸送ができないといった八方塞がりに陥ります。春頃には、山積みされた松根があっちこっちでみられるようになります。

 『石見町誌』には、「モデル地区」となった矢上と中野に松根油の製油工場が建ったようです。
そして、海軍予備学生の生徒が動員されて松根掘りが始まります。笠森惣一氏の回顧録には、次のように記されています。

旧石見町では中野茅場にまず松根油抽出工場が建ち、抽出釜6基を配置。田植えが済むと松根堀りに駆り出され、中野の松根油は検査の結果、島根県下最優秀油に選ばれ、軍部も目をつけるようになった。山口の徳山から技術者を呼び寄せ、工場は矢上にも建てられ、抽出釜は中野7基、井原7基、矢上6基を設置してフル回転。海軍省からは矢の催促と慰問、激励を受けた。そこで、村民あげての松根堀りになった為に、20基そこそこの釜では対応し切れず、根っこをそのまま大田や松江の工場へ運ぶほどだった。そのおかげで、島根県の松根油は海軍大臣より感謝状を贈られた。

この時の鉄釜を、邑南町中野(石見地区)にある西隆寺の梵鐘は、その釜を現在でも使用しているようです。ちなみに松根油採集に使用された 乾溜炉跡や釜など遺物は全国に余り残っていないようです。全国各地に点在している可能性のある松根油製造関連の遺物の確認が必要だと研究者は指摘します。
       
松根油の窯
邑南町中野(石見地区)の西隆寺の梵鐘は、松根油の竃の再利用

 戦時中の国民向けの宣伝には、次のような、スローガンが並んでいます。
「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」
「掘って蒸して送れ」
「全村あげて松根赤たすき」
これは別に視点から見れば、数十年かけて育ったマツ 1 本で、18 秒しか飛行機は飛べなかったことを意味します。もともとエネルギー資源としては効率や持続性・再生産性に欠けるものだったのです。そんため敗戦後は、松根油は近海の漁船の燃料に使用されたのみで、その役を終えたと研究者は報告しています。

松根油2

松根油の実用性についても見ておきましょう。

松根油は牛白色の粘着性液体です。そのため時間の経過とともに粘着成分ができて、燃料フィルターを詰まらせ、燃料噴射状態が悪くなりました。その打開策として、エンジン始動時には通常燃料を使って、エンジンが暖まってから松根重油(ガソリン含有量 20~30%)に切り替える方法を用いています。松根油航空揮発油を燃料として使用されたのは、テスト飛行のみで戦闘には使われていなようです。
 1945年になると本土の空襲が本格化、戦力の弱化、資材と技術の不足からほとんど活用されることはありませんでした。松根油製造は、国家総動員体制のひとつの目玉と国家あげて生産体制が組まれました。しかし、それは一貫した見通しがなく、機上の空論を現場に求めたものでした。

齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」には、次のように記されています
大戦末期の松根油の採集・増産活動は、松林の広域伐採を招き、これが敗戦後の山地荒廃を招いたとする説がある。しかし、実際にどれほどの松の木が伐採され、山地荒廃にどれほどの影響を与えたかは資料的に残っていない。文献資料を通じて、松根油生産の実態を可能な限り詳細に明らかにすることを目的とした。

と述べた上で、次のように整理要約しています。
①松根油生産は第二次世界大戦以前から生産が行われていたが、その生産は大戦末期に極限に達した。
②松根油を生産する地域には偏りがあったが、大戦末期になるに従い、全国的に生産されるようになった。
③過剰な松根油生産が山地荒廃につながる危険性が認識されながら、大戦末期には過剰な生産ノルマが設定された可能性が高い。
④松根掘り取り過程に関しては、概ね生産ノルマが達成された。
⑤松根油生産が山地荒廃に与えた影響を検討するためには、対象地区を限った上で調査を行う必要がある。
 ちなみに、松根油政策に遅れて、本土決戦戦略の一環として進められるのが各県での飛行場建設です。香川県でも髙松(旧林田飛行場)・飯野山南・三豊平野に飛行場建設が旧制中学校の学徒動員で進められます。飛行機がないのに、燃料や飛行場を造っても意味が無いように現在の我々は思います。しかし、大本営が考えていたのは、何もしないで国民を放置しておくことに恐怖を感じていたようです。「小人閑居して不善を為す」の言葉通りに、放って置いたら不安に駆られて何をし出すか分からない。米軍機は「反乱の扇動」を行っている。それに対応するためにも、政府の下に国民を動員し続けることが必要と考えていた節があります。これは戦術や戦略ではなく、「愚民政策」だった云えるのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」
金子恭三  「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)
金子貞二  「明宝村史 通史編下巻」pp.492-495
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