瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: まんのう町誌を歩く

中寺廃寺講演会ポスター

まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。8月は中寺廃寺についてお話しします。
日時 8月24日(日)10:30~12:00
場所 まんのう町図書館会議室
興味と時間のある方の参加を歓迎します。なお会場が狭いので事前予約をお願いします。
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コウノトリが営巣して子育てをするようになったまんのう町造田と内田は、私の原付バイクの散歩コースの一つです。また、阿波へのフィルドワークに向かうときには、内田側の旧道を原付バイクで走ります。ここを走っていて気づくのは、河川跡らしきものが見えてくるのです。これは一体何だろうと思っていると、疑問に答えてくれる文章に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」です。

造田 天川神社周辺2
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)
造田とは、江戸時代から昭和31(1956)年までの村名です。
造田盆地の土器川を挟んで東が造田、西が内田になります。地名の由来は、次の2つの説があるようです
A 土器川の洪水によってできた氾濫原に田んぼを造ったので造田
B「サウダ」は遊水地を開拓して作った沢田(湿田)のことで、沢の田から起こった名だという説
文政9(1826)年の造田村については  西村文書には次のように記します。
石高、897石余り
戸数 219(石居 153、掘立66)
人数 922(男495、女424)
職業別人数は、本百姓198 半百姓64 お林守1、刀指1、僧侶2、社人1、山伏3、鍛冶1、猟師1、馬医1、神社7、寺2、庵2、牛57頭、馬4頭
神社は、天川神社と梶洲神社があり、『三代実録』に記載のある古い社です。
外に天神社・久真奴神社などがあるが、山の神社・水除社などの小祠も多い。
寺院は、浄土真宗長光寺・称名寺・真言宗吉田寺があります。
造田は、阿波街道が村を南北に貫通していて、鵜足郡南部の村村の中心的な位置を占めていたことが分かります。

 
造田盆地を貫流する土器川は、氾濫を繰り返してきました。
そのため造田盆地の中央の低地部は、十世紀ごろまでは川の左右に大きな氾濫原(遊水地)があって、ほとんど開拓されていなかったと研究者は考えています。

造田 天川神社周辺

造田地区の地形をみると、天川神社の南で山が両方から迫ってきます。下流では不動さんのところで山が川に迫り、川幅が一番狭くなっています。また、造田と内田は、土器川を挟んで、低地部(下所)と台地部(上所)に分かれている河岸段丘を形成します。この下所と上所の境に1~6mの高さの段丘崖があります。この段丘下を旧土器川が流れていた根拠を次のように挙げます。

造田の土器川氾濫原
造田と内田の土器川氾濫図(琴南町史1057P)

①新井手堰から上内田の石原を通り、段丘崖に沿って下に流れている用水が昔の大束川の河床に沿って流れていること。
②内田の西側の段丘崖は、中内田から下内田のあたりは一面の竹藪だったようで、それが「高藪」という地名として残っていること
③現在の清神原(せいじんばら)の下から小川堰あたりで氾濫水が流れ込み、川になり小川と名付けていること。
④旧県道沿いに堤防を築いてこの水を防いだことが、川原の石を積み重ねただけの幼稚な堤防からうかがえること。
⑤内田下所の田を調べてみると、かつての川の跡を示すかのように、高岸に沿って、一番低い田が、奥から下へ、段々に続いていること。
⑥この田に沿って用水が通っていること。
⑦清神原あたりから一段低い田がずっと字小川まで続いていること。

これらの河川の氾濫原の開拓は、徐々に進められてきたのでしょうが、度々の洪水でその都度水田は流されています。
 開拓の面影を残すものとして、内田下所の所々に今でも石塚が残っています。これは旧土器川の川原を開拓した時に出てきた川石を積み重ねたもので、新しく開かれた開墾地などにはよく見られます。この塚を線で結ぶラインが旧土器川の流路であった研究者は指摘します。
 いつごろから治水に成功して水田を開いたかはよく分かりません。

四国観光スポットblog - 2009年07月
天川神社
伝説によると酒部黒麿が、八世紀ごろ天川付近を開拓し、天川神社の宮田を開いたといわれています。しかし、これをそのまま信じるわけにはいきません。本格的な下所の開拓が始まったのは、江戸期の生駒藩の時代になってからと考えるのが妥当な所です。しかし、治水技術が未熟で、開墾しても洪水の度ごとに、堤防や井堰が決壊して、田畑が荒らされます。それを何年もかかって、元に戻すということが繰り返されたようです。
それは次のような記録から裏付けられます
寛保四年の巡道帳から、元禄・宝永・正徳ごろになると開発田が多くなること
文化二年の巡道帳には、延享・寛政・享和などの時代に「林ニナル」とか、「砂入ル」などの記入があること。
このような中で、卓越した治水技術を盛っていた吉野の大庄屋岩崎平蔵が高松藩の郷普請方小頭に取り立てられます。岩崎平蔵は、藩命によって寛政10(1798)年から11年と、文化9(1812)年から十年にかけての天川大岩切抜普請に取り組みます。一本杉の天川横井の水乗りを良くし、横井から下流300mまでの河床に突出していた大岩を切り開きます。これによって、うなぎ渕付近の岩床が高いために、洪水のたびに水が大岩に乗り上げ、両岸に川水が氾濫していたのを防ぐことに成功します。しかし、これも恒久的なものではありませんでした。時間を経て、岩石や土砂が堆積して川床が再び高くなり、川水が氾濫するようになります。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

江戸末期から明治初期にかけて、この復興のために内田の百姓たちは女子供まで動員しました。「難所普請」と呼んだそうです。これが旧県道治いに三本松から農協裏あたりにかけて、残っている石垣跡です。
造田側では明治20(1887)年ごろになって、やっと本格的な土木工事が行われて、川に突出したような水はねの石塁(直径10m)三か所と、川岸の堤防300mが完成します。この工事の落成を祝って三番雙が演じられたと伝えられます。この堤防を森本堤防といい、現在もその当時の一部が残っています。
 大正元(1912)年の大洪水を、この堤防は水を防ぎますが、下流300mの堤防のない所が決壊して木の下の高岸までおし流されます。その後、大正5(1917)年、県補助の災害防止事業により、土器川両岸の堤防工事が行われます。さらに昭和になってからも、補強工事が行われ、戦後も砂防堰などが建設され、造田住民の長い水との戦いの歴史は幕を閉じ、現在の姿となります。

以上みてきたように造田地区は、古くから土器川の氾濫により、長い間苦しめられてきました。
洪水で、開田した田畑が一夜にして河原になることが度々ありました。治水技術の進んでいなかった当時は人の力ではどうすることも出来なかったのかもしれません。そんな時には、人々は神仏に加護を求めます。人々は、堤防が切れないように祠を建てて水除の神を祀り、水難から除られるよう祈りmした。これが水除社(みずよけしゃ)です。

造田の水除神
水除社
天川の忍石神社(天川バス停の下)は、社伝によると延宝4(1676)年に、内田集落の水害を防ぐために水除さんとして祀ったとあります。祭神は、天忍雲根命(飲料水の神様)・水波女命(あまき水、清き水の神様)・佐太毘古命(猿田彦神)の三神です。これだけではありません。嘉永6(1853)年の大水の時に勧進した水除社が、門屋の稲毛宅の前(造田字大西561番地)にあります。もとは50mぐらい西の高岸の上にあったのをここに移したそうです。水害のあと、ここに高岸を築いて、ここからは水が入らないように神に祈って建てたものと伝えられます。石の小祠が祀ってあって、「嘉永六丑年三月吉日 世話人 平田了吉」外16人の名前がきざまれています。
 平田水車のすぐ東(造田字山下1224番地)にも水除社があります。大正元(1912)年の大水の時も、このすぐ下まで水がきて、平田水車も半分ぐらい流されます。この小祠の中に、古い棟札があり、「明治十五年四月二十七日 奉再造大神官祠」と書かれています。これも再造ですから、もっと古い時代から祀られていたはずです。
 下内田字為久の水除堤防の上にも石造の祠があり、古くから水除さんと呼ばれています。ここは昔からよく堤防が切れたところのようで、今は頑丈な堤防が築かれています。
 隅田宅の裏(造田字小川1547番地)にも石造の水除社があります。ここも土器川の水が増水するたびに、水びたしになっていたところです。
これらの水除社の祭神は天照大神です。天照大神は水の神として別名は、「あまざかるむかつひめ
の命」とも言われているところから水防の神として祀ったとされます。
 こうしてみると造田地区には、残っているものだけで水除社が五社もあります。この外に流水の分配をつかさどる神として、水分社(祭神天之水分神、国之水分神)が三社があります。ここからは造田地区の人々が洪水に悩まされ、加護を神々に祈る姿が見えてきます。昔の人々は、これらの神々に祈りを込め、土器川の氾濫を防ごうと考えたのでしょう。

以上をまとめておくと
①まんのう町(旧琴南町)造田地区は、盆地の中を土器川が貫通していく。
②そのため洪水時には、土器川は暴れ川となって盆地を何本もの水流となって駆け下った。
③生駒藩になって土器川沿いの氾濫原の開発が進められ、造田も開発田が増えた。
④しかし、襲い来る洪水が開発した水田を押し流し、再び川原や遊水地とすること繰り返された。
⑤人々は土器川沿いに水除社をいくつも建立し、水害からの加護を願った。
⑥土器川の治水コントロールが可能になるのは、近代になってからのことだった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」

香川における松平家への歴史的な仕え方 - Genspark

第8代髙松藩主・頼儀の後継者に指名された水戸藩の頼恕は、文政元年(1818)年には、讃岐に入国し、参勤交代を務めていましす。しかし、正式に9代藩主となったのは文政4年5月からです。彼のことは、ウキには次のように記されています。

在職は22年。家老木村通明(亘、黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。

 治政開始16年後の天保5(1834)年2月9日、鵜足郡の宇足津村で百姓騒動が起こり、続いて2月15日には金昆羅領民が、那珂郡の四条村に乱入する騒動が起こります。この騒動は数日で鎮定しますが、このことを憂えた頼恕は、不穏な情勢があると伝えられていた髙松藩西郡の巡視を行う事にします。当時、高松藩は財政が窮乏し、諸事節約中でした。そこで、巡視経費を減額させようとした頼恕は、「鷹狩り」と同じ規模・スタイルで巡視を行うことにして、「お鷹野」と称したようです。この「お鷹野=阿讃国境巡視」について今回は見ていくことにします。テキストは「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」です。

19世紀なって造田村の庄屋を務めるようになったのが西村家です。
造田村庄屋西村家系図 琴南町誌240P
造田村庄屋西村家の系図


西村家は旧姓は森で、戦国末期に来村して帰農したようです。天正16年に、西村吉右衛門が村切りを願い出た文書(「そうだの米もり帳」)の中に、西村家系図に出てくる安左衛門が出てきます。幕末になって西村忠右衛門の代に、檜山植林経営の功労者として名字帯刀を許され、蔵組頭を務めるようになります。経営的には造田紙の元請として国産品の増産に功績を残し、御貸免経営にも成功します。彼が西村家勃興の基礎を築いた人物になるようです。忠右衛門の跡を継いだのが西村市太夫になります。藩の永引地の興し返し地調査などに従事し、傑出した庄屋として知られた人物だったようです。そのため造田村庄屋だけでなく勝浦村庄屋後見役、炭所東村庄屋後見役、中通村兼帯庄屋を務め大庄屋並の待遇を与えられるようになります。また、市太夫は、青年時代に炭所西村の桃陽宗匠に師事し、「桃郷」と号して俳句を学び、俳句集や神社の俳諾献額などにその名が残っています。市太夫の文才は庄屋文書の上にもあらわれ、目次欄を設けて整理された庄屋日帳や、郡の引纏方として担当した、天保9(1838)年の幕府巡見使の関係記録などの記録にも、その学識の豊かさがうかがえます。

造田村の庄屋西村市太夫が、郷会所の元〆から飛脚と同道して出頭するよう命ぜられるのが天保6(1835)年正月14日のことでした。
「殿様の大川宮(神社)御参詣、御鷹野を遊され、御境見(国境視察)をなさること」についての打合せでした。高松へ出頭して、詳細な命令を受けた市大夫は、翌15日、鵜足郡上法村の大庄屋十河亀太郎宅で開かれた郡寄合に出席し、大庄屋などと協議を行って帰宅します。この「鷹狩り巡視」の期日は2月末と知らされます。これから約二か月間、市太夫は準備のための多忙な日々を送ることになります。準備のスタートは予定順路の決定と距離確認から始められます。国境巡視について、絵図を添えて造田村分のコースは次の通りと報告しています。

「那珂郡境笹ヶ多尾から、犬の塚を通り、炭所西境三つ頭まで、長さ千弐百問」

西村家文書 柞野絵図2
西村市太夫が提出した造田村柞野谷周辺 (中寺が記入されている)

これが造田村の領域エリア分でした。
この年は雪の多い年で、大川寺周辺は三尺(約1m)超す雪に覆われていて、事前調査に手間取ります。阿讃の国境の道を、馬を牽き、数々の道具を持った多人数が通行できるかどうか、現地調査が繰り返されます。各村から集められた人足が、山方役所の手代の指図を受けて、大川神社から笹ケ多尾まで、御林の木を伐り枝を払い、長さ約700間の新道を開きます。笹ヶ多尾から三つ頭までの古道約1100間の修繕も行われています。
 一方で、塩入村からの通路についても調査が進められます。最初は、人足の引継場所になるのは、塩入村(那珂郡)と造田村(阿野郡)の郡境尾根にある「中寺」が予定されていました。しかし、尾根上は土地が狭く、殿様の近くで継ぎ立てを行って混雑することを恐れた市太夫は、笹ケ多尾に適地のあるのを見つけ、大庄屋を通じて塩入村に了解を求め了承を次のように得ています。

西村市太夫の大庄屋への返答(意訳)
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

 大庄屋からは殿様にお話申し上げる資料として、巡回コース上の名所・古跡を調査して、地図を添えて差し出すように命ぜられています。市大夫は、犬の墓と中寺堂所について次のように報告しています。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。詳しいも伝承はないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここに出てくる中寺が中寺廃寺のあった所です。ということは、西村市太夫は中寺がどこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
以下の文書のやりとりについては、前々回に見ましたので今回は省略します。
一方、里の村方でも、道普請が必要になります。
次の四つの端が掛け替えられます。
入尾川橋(長さ七間、道幅二間)、
西川井手橋(長さ二間半、道幅一間)
同所下谷橋(長さ六間、 道幅一間半)
佐次郎前橋(長さ三間半、道幅一間)
同時に、この四つの橋を結ぶ道もまた修繕されます。

御巡視の日が近づくにつれて、郷会所や山方役所の手代はもちろん、郡奉行・代官・郷普請奉行・寺社方の下見が続いて、庄屋や組頭は、その応接にも忙殺されます。
当日、笹ヶ多尾へ荷物などを運び上げる人足が、次のように村々へ割りあてられます。
人足数 263人
造田村 112人 (西村 69人 東村 46人)
長尾村  45人
炭所西村 38人
岡田上村 125人
岡田西村  25人
岡田東村   8人
人足には草軽と草履約300足が配布しています。

  頼恕の一行は、七か村で二班に分かれ、
本隊は木の崎から炭所西村、造田村、中通村を経て勝浦村へ
頼恕の班は、塩入村へ
そのため造田の天川が昼所とされます。一行約180人の昼所となったのは天川の大道筋で、菩左衛門、九郎右衛門、弥九次郎の三軒でした。
 行程の中で西村市太夫が最も気をつかったのは、笹ヶ多尾の御芦立所(休憩所)の設営でした。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
大川山から笹ケ多尾の阿讃主稜線につけられた新道
塩入村の最後の休憩所である御林守の伊平の家から、笹ケ多尾までは中寺経由で雪中一里の行程です。
多葉粉盆、縁取り、筵、火鉢等の御道具立てはもちろん、湯茶わかし、仮雪隠の準備までしています。そして興炭10俵を運び上げて、釜三本を炭火でわかします。
 阿波からも、人足を出して道普請を手伝いたい、当日は村役人が百姓を引き連れて御挨拶申し上げたい旨の申し出がありました。しかし、代官の旨を受けた市太夫は、お鷹野であるからと、丁寧に書状で辞退しています。

頼恕の動きを見ていくことにします。
2月
26日 高松出駕、阿野郡北坂出町の宮崎次兵衛方で宿泊
27日 鵜足郡川原村宮井伝左衛門宅にて小休、岡田村木村甚三郎宅にて御昼所
    那珂郡吉野上付又蔵宅にて小休、七か村鈴木柳悦宅にて宿泊。

中寺廃寺 アクセス

こうして2月28日に、小隊編成で塩入からの「御境目見分」が行われています 
好天気に恵まれた頼恕は、一部の藩士を従えて柳悦宅を出発し塩入村に入ります。元庄屋小亀弥三郎宅にて小休、御林守の伊平宅にて足下を整えた後に、現在の鉄塔尾根沿いに残雪の残る東谷尾根をたどって「中寺」経由で笹ヶ多尾へ九ツ時分(正午)に到着します。笹ヶ多尾には、畳二枚が西村市太夫によって用意され、藩士が持参した毛所を広げられます。殿様は、弁当を食べ、遠鑑(とおかがみ:望遠鏡)で四方を遠望して時を過ごします。西村市太夫は「御機嫌よく御立にて、有り難き仕合にて御座候」と書き残しています。
 笹ヶ多尾から阿讃国境の峯伝いに進み、その途中で阿州の庄屋などの挨拶を受けます。これに対応しているのも西村市大夫です。

大川神社 1
大川宮(神社)に到着すると、神官の宮川美素登の案内で、入谷主水が代拝し、終わって頼恕も拝殿に上がって拝礼します。
大川神社 本殿東側面
大川神社本殿(改築以前)
「増補三代物語」には大川山のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也
意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
参拝を終えた頼恕の一行は、大川宮から峯通りを進み、白ぇ峯(?)で軽い食事をとり、勝浦村本村の庄屋佐野佐平宅に向かいます。

2月28日の勝浦村庄屋佐野宅での宿泊については、記録が残っていないのでよく分かりません。ここでは、村役人などを含めると約200人の宿泊だったので、庄屋宅だけでなく、近くの長善寺や村役人宅なども宿舎とし使われたのでしょう。布団などの夜具は、造田や中通などから運び上げられたようです。「西村文書」に中に、次のような領収書と書付けが残っています。
領収書 「四布(よの)布団一枚五分、三布(みの)布団一枚三分」
2月25日付の書付け
「御人数増につき、 畳拾五枚、風呂一本を送った」
29日は勝浦の庄屋佐野家を出発した頼恕の一行は、川東村渕野の円勝寺を昼所としています。
勝浦村の佐野宅から円勝寺までは、難所であったので、中通村一疋、造田村四疋、炭所東村二疋、炭
所西村三疋、長尾村四疋、計十四疋の馬と馬方が加勢に出ています。

円勝寺 琴南淵野 殿様の昼食場
明治初年の円勝寺
円勝寺は、当時は浄土真宗興正寺派の寺院で、部屋割図を見ると、広い立派な客殿と庫裡があり、本堂も広く、設備がよく整っていたことが分かります。それでも藩主一行を迎えるには不十分だったようです。そのために境内に仮小屋を建て、近くの組頭庄左衛門宅など六軒を利用して、 一行の昼所に充てています。
 この準備を、取り仕切ったのが状継弥右衛門(稲毛家)で、彼もその記録を美濃紙44枚に及ぶ「殿様御鷹野合御小昼所円勝寺記録」として残しています(稲毛家文書)。そこには、一行のメンバーが次のように記されています。
一、御本亭(客殿)
御用達入谷主水。御用人古川市左衛門。同高崎清兵衛。御小姓斎藤尽左衛門外八名。御櫛番弐人。奥医師二人。奥横目二人。御庖丁人六人。賄人三人。末の者二人。小間使十四人。御肴量一人。八百屋一人。計四十五名。
一、円勝寺本堂
贅日山下新兵衛組十七人。御医師と足軽十一人。御茶道北村慶順組十三人。御内所方市原太郎組八人。御駕籠頭一人 .計五十人。
一、円勝寺仮小屋
御駕籠の者十人。小道具の者三人。御野合小使三人。助小使五人。御手回り御中間十一人。御荷物才領中間五人。計三十七名。
一、組頭庄左衛門宅
奥医師杉原養軒。同安達良長。外六名。計八名。
一、百姓伊四郎宅
惣領組中と御中間計十七人。
一、百姓伝次郎宅
御鷹方吉原男也外二十七人。計二十八名。
一、百姓次郎蔵宅
小歩行中間計十四人。
一、百姓佐十郎宅
御家来衆計二十人。
一、百姓伝次郎宅
郡奉行外七名。計八名。
(総計二百二十七名)
これを見ると一行の総数は227名であったことが分かります。当時は、高松藩の財政が最も窮乏していた時で、経費節約のために領内巡視を「御鷹野」と称して行う事になったと最初に記しました。しかし、参加メンバー数を見る限りでは、「少数による巡視」にはほど遠いものであったことがうかがえます。ある意味では「動く御殿」でもあったのです。
 円勝寺で軽い昼食をとった後の行動については、次のように記されています。
焼尾笠松 御芦立所で小休し、永覚寺にて御昼所、羽床上村逢坂庫大方にて御泊り。
翌日、畑田村富野佐右衛門宅にて小休し、香川郡円座村遠藤和左衛門宅にて御小休、御帰城遊され候

西村市太夫は、二月朔日に御鷹野記録の筆をおいています。
同年三月八日、川東村の状継弥右衛門は、兼帯庄屋川西勇蔵の名で、阿野郡南の大庄屋宛に、郷普請人足遣済の届書を次のように提出しています。
川東村
一人足五百二十一人 御小昼所一件遣済辻
一馬 四疋(此人足十二人)右同断
〆 五百三十三人
一人足百六人 指掛三ケ所川東村分遣済辻
一人足七百六十五人五分 御通行筋道作人足遣済辻三口
〆千四百四人五歩
右の通に御座候以上
未三月八日            兼帯庄屋 川西勇蔵
奥村宇右衛門様
水原先三郎様
これを見ると川東村もまた多くの人足を出動させて、大きい負担を蒙ったことが分かります。私は、この「御境目見分」は殿様の鷹狩りで、春になってから少人数で行われたと思っていました。しかし、それは違っていました。
厳寒2月の1mもの大雪の中、どうして「御境目見分」を行わなければならなかったのでしょうか?
考えられる説を挙げておきます
A 阿波藩に対する警戒・示威行動であった
B 遊惰に流れた藩士の士気を鼓舞するためであった
以上をまとめておくと
①第9代髙松藩主は、領内西部の不穏な空気を押さえるために「藩主巡回」を行う事にした。
②しかし、財政難のためにそれまでの正規なものではなく「鷹狩り」と称した簡略版で実施予定した
③巡視コースのハイライトは、大川山周辺の阿讃国境の巡視であった。
④そのための準備のために巡視コースの村々は、さまざまな準備と負担を担わされた。
⑤造田村庄屋であった西村家の文書から「鷹狩巡見」の様子を知ることが出来る。
⑥雪の残る2月末に、国境尾根の巡視活動を行った意図はなんであったのかよく分からない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」
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借耕牛 歴史の見方
借耕牛 まんのう町明神の出合橋
以前に借耕牛のことについてお話ししました。それに対して「牛の貸手と借手側の動きについて、もう少し詳しく知りたい」というリクエストがありましたので、そこに重点をおいて見ていくことにします。テキストは「借耕牛 琴南町誌595P」です。
借耕牛は、どのような仕組みで明神に集められたのでしょうか?
それがうかがえる史料が昭和30(1955)年頃に、旧琴南町中通の博労・岩崎春市が得意先の借手の農家に出した斡旋状です。
借耕牛 貸し出し農家への依頼文

昭和三十年代 仲介業者から借手農家への葉書
拝啓 時下好季節となりました貴家御一同様益々御清祥奉ます
陳れば例年通りに御引立を蒙ります。耕作牛件に付一般に連絡がおくれて居りますが相変ず追出し御用明下さる事と思ひますので追出期日は秋は十一月一日より夏は六月一日より尚仕り牛は早く来ても都合のよいのが居ります。又賃金も安く勉強して使用出来ると思いますれば近所誘合せて御出下され。尚小生一度御相談に参上ます積りですが若し行かず共入用事時に連絡が出来れば好都合と存じます
先は取り急ぎ御依頼中止ます           ´   敬 具
昭和  年   月   日      ..
香川県仲多度郡琴南町中通小学校前
家畜商并耕作牛仲介業             岩崎春市
これが琴南町中通の仲介業者が、讃岐の借り手側に送った葉書になります。「借耕牛」という言葉は出てきません。「耕作牛」が正式の名称だったようです。

今度は阿波側の貸し出し農家から仲介業者への依頼状です。

借耕牛 貸し出し農家からの依頼文
貸出農家から仲介業者への依頼の葉書(岩崎春市提供)
内容を確認しておきます。
若葉香る良き季節となりました。家族の皆様はご健勝にてお過ごしのことと推察申し上げます。本年度も耕牛を追出す予定と致していますが、期日は何時頃が良いか御一報お願い申し上げます。牛は昨年も世話になった牛で、六歳になっています。先方を選んでいただければ幸いかと思います。先ずは取り急ぎ、右御依頼申し上げます。
早々
これが阿波の貸し出し農家からの仲介依頼葉書です。要点を挙げておくと次の通りです。
①今年も牛を「追い出す(レンタル)」する用意があること
②牛は六歳で、昨年もレンタルしたもの
③レンタル先の確保の依頼
④牛を追い出す日時の確認
などが記されています。
以上からは、借耕牛の仲介を世話したのは、博労(ばくろ)と呼ばれる仲介業者だったことが分かります。6月の田植え時期が近づくと、借方の讃岐の農家は地元の仲介業者に借耕牛の斡旋を依頼します。依頼を受けた仲介業者は、阿波の貸方の家畜商や農家に、日時、場所を指定して牛を連れてくるように依頼します。この通知を受けた貸方の家畜商が阿波のソラの農家を巡って、「今年は米に行くんか、行かんのか」と聞いて牛を集めたようです。

借耕牛取引図3

借耕牛が美合の明神やってくるまでの光景を見ておきましょう。
①隣人など三・四人が連れ立って、阿讃の峠道を越えて明神に「牛を追い出す」
②明神に着くのは午後3時~5時ごろ
③その夜は明神の宿で泊まり、翌日に取引をする。
④仲介人が、自分に頼まれた牛を借手に紹介し、値段を交渉して、双方が合意すれば契約成立
⑤レンタル料は米一石(俵2俵:120㎏)前後だが、牛の大小・強弱・鍬の仕込み具合、耕作反別などによって差がついた。
⑥成立すれば契約書を取り交わして、牛は借手人の手に渡される。
⑦追い上げ(牛を返すこと)の場合はこの反対で、牛の背に報酬の米を背負って阿波へ帰っていった。
借耕牛 美合落合橋の欄干
俵2俵を背負って阿波へ帰る借耕牛 阿波では、米を持って帰るので「米牛」と呼ばれた

貸し出す側の阿波の農家は、前日に牛に十分な飼料を与え休養させます。そして、一番鶏が鳴くと同時に追い出します。常着の仕事着に股引をはき、尻をからげて手ぬぐいで頬被りをして出発です。牛の背には弁当と牛の糧(麦を煮たもの)や草履をつけます。

借耕牛 岩部

昭和10(1935)年、セリの前日に明神のある宿の宿泊者名簿に記された出身村名一覧表です。
美合口宿帳1935年 借耕牛
これを見ると、夏は美馬郡の一宇村や八千代村の宿泊者が多かったことが分かります。このふたつの村は、貞光側の最奥部のソラの集落です。山の上には、広い放牧場があって牛を飼うには適していました。供給地と移動ルート、セリなどについては、以前にお話したので、ここでは省略します。
 最後に見ておきたいのが、次の町村別貸出頭数表です。


借耕牛 貸し出側町村名一覧

ここからは、徳島県のソラの集落から借耕牛がやってきていたことが見えて来ます。しかし、最後には香川県内の美合村(旧琴南町)や安原上西村(旧塩江)からも借耕牛はやってきてことが分かります。
美合村の昭和10(1935)年夏の飼育頭数は650頭で、そのうち貸出数が450頭に達しています。これは阿波のどの村よりも多いレンタル数です。最後の雌雄島というのは、髙松沖の女木・男木島のことです。ここでは、讃岐にも牛を提供する村々があったことを押さえておきます。

借耕牛の起源についての従来の説は、次のようなものです。
阿波から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子」と呼んだ。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きにくることを米の借り出し稼ぎと称していた。また、天保(1830~44)のころは、讃岐には砂糖キビを締める多くの人夫(締子)と牛が必要で、主として阿波の三好・美馬両郡から締子と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りする牛のことを「借耕牛」というようになった。(中略)
徳島県は米が少なく、報酬に米が得られることは大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
借耕牛 起源

髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。

阿波の国境に近い旧美合の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを放置することはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業の自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
 
文政九(1826)年の人口調によると、各村の牛の保有数と本百姓の牛保有率は以下の通りです。
      村の牛保有数  本百姓の牛保有率
勝浦村  97頭 54%
中通村      105頭  108%
造田村   57頭   29%
この表を見ると勝浦村や中通村は、阿波のソラの集落と地理的条件が似ていて、山間部に放牧地を確保して多くの牛を飼育していたことがうかがえます。しかし、平野が拡がる造田村では、牛を飼育する条件に恵まれず、牛耕ができたのは、一部の百姓に限られていて、大部分の百姓は備中鍬を使って人力で深く耕し、耕作を続けていたことがうかがえます。
  水田の面積が広がり、それだけ水利の便が悪くなると、水持ちをよくして収量を増すために、牛耕に頼ることが多くなります。造田村や下郷の村々では、牛の飼育の条件が悪く、請作に転落した小百姓は、牛を飼育する余裕がありません。牛を飼育していなかった小百姓が、農繁期だけ、中通や勝浦の山間部から牛を借りて耕作するようになります。こうして借耕牛は、高松領内の山分と里分の百姓間で、まず始められたと研究者は指摘します。
 それが借耕牛の需要が多くなると、国境を越えて阿波からの耕牛の導入が始まります。しかし、これは、江戸時代には経済活動の自由が保障されておらず、米の阿波藩への流出を髙松藩は規制していました。この体制下では、阿波牛を耕牛として導入することは難しかったはずです。高松藩では、耕牛の藩内での自給自足を目標にして、牛の飼育を奨励し、潰牛を取り締まり、盗れ牛や放れ牛については、領民同様に、五代官連署の御触れを出して調査を命じ、領内各地に牛の墓も立てられていました。つまり、牛の管理が厳しく行われていたのです。こうした中で、天保年間(1830~44)になると阿波からの借耕牛が行われた形跡が見えるようになります。
「稲毛文書」の中に 川東村の忠右衛門と阿波の重清村の藤太との間で結ばれた借耕牛の契約書が二枚残されています。 その内の契約書のうち、阿波の藤太の差し出した契約書を見ておきましょう。

借耕牛 江戸時代の契約書
    覚
一 米 二斗二升也
一 丸札 二匁也
右は此元持牛貸し賃米并追越賃共来る十月十日切、請取に罷越可レ申候為レ其手形如レ件
                          阿州重清村 沼田  藤太
天保十一年六月七日
讃州川東村      忠右衛門殿
意訳変換しておくと
米2斗2升と丸札2匁は、牛貸の賃米と追越賃(輸送費)で十月十日までに、支払いを終えること
 
二枚とも墨で斜線が引かれています。これは何を意味するのでしょうか。髙松藩が認めていない借耕牛の契約書を無効と見せるためのものとも思えます。この契約書の下部に、次のような書き入れがあります
此牛借賃
十月十日藤太罷越、夫々相渡候事にし銀弐匁指支に付米二升、銀弐分相添指引相済候事

意訳変換しておくと

十月十日に沼田藤太がやってきて、米と丸札2匁の契約に基づいて、銀弐匁につき米二升、銀弐分を支払った。

ここからは、一頭の借耕牛が、6月7日に藤太に追われて阿讃の峠を越え、夏と秋の農繁期を働き通したこと、10月10日に米二斗二升を背に載せて、藤太に追われて阿波に帰っていったことが分かります。この牛が、川東村の忠右衛門の家だけで働いたのか、里分へ又貸しされて酷使されたかは分かりません。
    藩政期の借耕牛に関する文書は、ほとんどありません。ここからは、借耕牛の制度は高松藩によって公認されたものではなかったこと。そのため、借耕牛が盛んに行われるようになるのは、明治維新以後のことと研究者は考えています。

 阿波からの牛のレンタルは認められませんが、同じ藩内なら話は別です。美合村や安原・男木・女木島は、牛の飼育に適しています。そのため里の農家に牛をレンタルすると云うことが江戸時代の後半には始まったようです。それが明治以後に「経済活動の自由」が認められると同時に、借耕牛需用の増大に伴って、県境を越えて多くの牛がやって来るようになったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛 琴南町誌595P 355P
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から望む中寺廃寺と、その向こうの丸亀平野

江戸時代末に高松藩主が鷹狩のために中寺廃寺跡付近を訪れたことが造田村庄屋の西村文書に記されています。ここからは鷹狩り準備のために、地元の庄屋が藩の役人と、どんなやりとりをしながら進めたのかが分かります。鷹狩りルートは、次の通りです。

①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山

このルートには、大川山や中寺廃寺の周辺も含まれていています。今回は、造田村(旧琴南町)の庄屋文書『西村家文書』の鷹狩り記事に出てくる中寺廃寺を見ていくことにします。テキストは「まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年」です。
 鷹狩り記事が出てくるのは、天保6(1835)2月の冬のことです。春に行われる鷹狩りのために造田村庄屋と鵜足郡の大庄屋・髙松藩の間でやりとりされた文書の控えが西村家に残されています。この中に次のようなルート図が添えられています。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」

造田村庄屋の西村市大夫が大庄屋に提出した鷹狩の際の道筋を示した絵図(控)です。
左(東)に、大川山に鎮座する大川社が描かれ、そこから西(右)に向かって阿讃山脈の主稜線が伸びています。右端が「笹ケ多尾(たお)」です。「タオ」は「垰」で「田尾・多尾」とも表記されます。
 「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
 もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。

中寺廃寺 周辺の地名2
塩入から中寺を経て大川山まで
①右下隅が大川山です。
②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」
③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、
④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境
⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
殿様の鷹狩りコースは、この逆で塩入から出発して大川山まででした。

B『西村家文書』文化2(1805)年丑2月「絵図(まんのう町造田杵野谷付近)」

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」
③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
中寺廃寺 アクセス


次に『西村家文書』天保6年「日帳」を見ていくことにします。
 文章A~Dは、造田村庄屋が大庄屋らに古道の詳細について書き送ったものです。    
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月三日     西村市大夫
宮井清上様
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上
二月三日        西村市大夫
宮井清上様
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。
B 日付は上と同日です。内容が詳細になっていて、宛先が藩の役人になっています。 (意訳のみ)

一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

C 翌日2月4日のものです
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日      西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
  意訳変換しておくと  
C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。
一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。
二月四日     西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。

D 今までに送った情報の修正です
一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り
       宮井清上様
       十河亀五郎様
尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日
意訳変換(簡略版)しておくと

D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。

E 殿様の通行のために、柞野の新御林の中に道を敷設したいとの要望書です。その際、支障となる木の伐採が必要な場所が多くあるとしています。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上
´二月四日    庄屋 西村市大夫
安富弥右衛円様
森 人右術円様
尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
 
F 今回の鷹狩りルート中に名所・旧跡は無いか? 笹が田尾の絵図とともに報告せよ。
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候
一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上
 二月五日     十河亀五郎
       宮井清七
西村市太夫様
意訳変換しておくと
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
 この絵図提出指示で、作成されたのが最初に笹ケ多尾周辺の絵図なのでしょう。また、ルート上の名所のリストアップも指示されています。鷹狩りだけでなく、様々な気配りがされていることがうかがえます。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上
二月五日       森 太右衛円
       安富弥右衛門
西村市大夫 様
意訳変換しておくと
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
御林の伐採については、各部局と事前連絡をとって置かなければなりません。そのために現地の状況を熟知した者を出頭させよとの通知です。これに基づいて、御林が伐採され、新道が設置されたのでしょう。
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、
一 犬の墓
一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候
右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上
二月六日        西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。
I 上の報告に対する大庄屋の返書です
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上
二月六日       十河亀五郎
       宮井清七
西村市大夫様
意訳変換しておくと

殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上

大庄屋は造田村庄屋に、名所・古跡に関しての詳しい説明を求めています。仕事がていねいです。

J 上記に対する西村市大夫の返書です。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと

一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上

ここからは、中寺の所在地までの距離を把握しています。ということは、どこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。

K 再度、中寺に対する大庄屋からの問い合わせです(意訳のみ)
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上
九月六日       十河亀五郎
西村市大夫様
尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
L 上記に対する返答書です。(意訳変換しておくと
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様

  笹ケ多尾は、先ほどの絵図で見たとおり、旧琴南町・旧仲南町・徳島県旧三野町の3町が接する付近になります。また、中寺が那珂郡と阿野郡の境界線上近くにあり、強いて言うなれば阿野郡の造田村に属すと返答しています。これは、発掘後に姿を現した中寺廃寺の伽藍レイアウトに矛盾しません。

以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①中寺は江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②しかし、名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えとられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」尾根ルートは、かつての那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
関連記事

中寺廃寺は次の表のように、8世紀末に起源を持つ古代の山林寺院です。

HPTIMAGE

中寺廃寺の3つのゾーンの建物出現期
最初に開かれたのはBゾーンで、そこには下の復元図のように霊山である大川山に祈りを捧げる信仰施設としての割拝殿と生活拠点としての僧坊があったことを前回お話しました。

「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿と僧坊跡復元図


今回はAゾーンを見ていきたいと思います。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。

中寺廃寺  全景

Bゾーンは大川山を正面に見る尾根上に開かれています。Aゾーンは「中寺谷」の最上部にあります。
Aゾーンの3つの建築物を確認しておきます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)

中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
①仏堂跡   三間×二間 (桁行6,7m×梁間4m)
②塔跡    三間×三間の塔跡
③大炊屋(おおいや)跡 仏堂跡・塔跡の下段
これらは、Bゾーンの割拝殿(仏堂)や僧坊に比べると、半世紀以上遅れて9世紀の半ばの同時期に姿を現しているようです。
まず仏堂跡から見ていきます。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 仏堂跡 礎石が出てきた
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らす。
②広さは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0mの東西棟)
③最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられたこと
③遺構からは10~11世紀の遺物が出土
④仏堂は塔と共に真南を向いて建てられ、仏堂の南には広場が造成
⑤仏堂と塔の位置関係は讃岐国分寺の伽藍配置と相似で大官大寺式
中寺廃寺 A遺構仏塔2
           中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔

 仏堂は3間×2間と小規模ですが真南を向いて、正面に礼拝・法会用の広場が造成されています。ここに本尊が安置されたのでしょう。讃岐の山林寺院は「髙松七観音」のように、千手観音など観音像が多いので、観音さまが本尊だったのかもしれませんが、史料がないので分かりません。

続いて塔跡を見ていくことにします。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺
Aゾーン 塔跡
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した基壇状の平坦地に建てられている。
②広さは3間×3間
③塔中央の心礎石の下から10世紀前半の土師器壺5個杯1個が出土
④壺5個は赤く、陶の十甕山窯で特注品として焼かれたもの
③④については、中央に長胴甕を、その周囲に赤く焼かれた10世紀前半の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
中寺廃寺 Aゾーン 塔跡須恵器G
中寺廃寺Aゾーン 塔跡から出てきた甕と壺(地鎮祭用?)
これは地鎮祭の祭礼用に用いられた特別な甕と坪と研究者は考えています。壺が作られたのは綾川町の十瓶山(陶)の官営工場のようです。当時の陶には、讃岐国衙が管理する官営工場があり、綾川を通じて、讃岐だけでなく、畿内にも提供されていたことは以前にお話ししました。赤みが強いのが印象的ですが、このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後に酸素を大量に供給して赤色に仕上げる行程が必要になると研究者は指摘します。どうやら、この壺は国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。ここでは地鎮祭の壺が国衙によって準備されていること、見方を変えると中寺廃寺は国衙の影響下に置かれていたことを押さえておきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺Aゾーン 塔跡(整備後)
以上で、仏堂跡とその正面の広場、そして塔跡の位置が分かりました。研究者は、これだけの情報で中寺廃寺の伽藍配置が、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であると推察します。仏堂と塔の配置だけで、伽藍形式を、どうして推察出来るのでしょうか? 

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔(復元図)
まず、私が疑問に思ったのは中寺廃寺の仏堂が、3間×2間という小さいものであることです。研究者は、これを次の古代の山林寺院の仏堂と比較します。
中寺廃寺と同じ規模の金堂
               海竜王寺西金堂と海住山寺文殊堂

①奈良市海王寺西金堂(8世紀) 桁行8.87m、 梁間5.96m(下図上)
②京都府加茂町海住山寺文殊堂(鎌倉時代)桁行7.28m、 梁間4.25m(下図下)
③崇福寺跡南尾根の小金堂跡(7世紀後半)桁行8.1m、 梁間5.4m
④高松市屋島北嶺の千間堂(屋島寺前身寺院) (10世紀前半) 桁行6.7m、梁間4.5m
ここからは古代の山林寺院の金堂は、中寺廃寺の仏堂より少し大きい規模であったことが分かります。
屋島の千間堂跡礎石建物と、中寺廃寺の仏堂は桁行長が同じです。
屋島寺は、寺伝では唐僧鑑真が都に向かう途中に立ち寄り、一宇を建立し普賢菩薩を安置したのがはじまりとされます。初期の寺域は、千間堂の地名が残る北嶺芝生広場です。屋島寺の前身である千間堂跡については、長らくその実体がよく分かりませんでした。2009年度の調査で芝生広場北側の森の中で基壇をもつ礎石建物跡が確認されました。基壇は東西に長く高さ40㎝、基壇上には10個の礎石が確認されました。礎石の位置から東西3間、南北2間の建物とされます。基壇内部からは須恵器の多口瓶(たこうへい)が破片で出てきました。
屋島の千間堂跡礎石建物の多口瓶(たこうへい)
多口瓶は仏具なので、寺跡であることが裏付けられ、ここが寺伝にある千間堂跡の一部であることがわかりました。建物の性格としては仏像を安置するための仏堂とされます。これ以外の建物跡は周辺からは見つかっていないので「北嶺千間堂跡の伽藍配置は仏堂を中心に小規模な建物が点在していた」と調査報告書は記します。(高松市教委2003年) 
 中寺廃寺の仏堂も、これが金堂でここに本尊が安置されていたと研究者は判断します。しかし、3間×2間の仏堂では狭すぎて、その中での法会はできません。そこで仏堂の南に広場を設けます。これによって、中心金堂としての機能を果たすことができたと研究者は考えています。
 そうすると、仏堂(金堂)と広場、それに塔跡と併せて、Aゾーンは讃岐国分僧寺と同じ大官大寺式伽藍配置となると研究者は考えます。まず、大官大寺式伽藍を押さえておきます。
①中門・金堂間の回廊内東に寄せて塔を置く大官大寺式は、文武朝(697 - 707年)に藤原京内で造営した大官大寺(藤原京大安寺)に初めて採用
②天平13年(741)の国分寺造営の詔を受けて、南海道や西海道の西日本国分僧寺の多くが採用した伽藍配置であること。
 次のような大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺を比較してみます。を行います。
 
中寺廃寺 大官大寺式伽藍

大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺の比較

金堂・塔規模は、平地伽藍の大官大寺や各地の国分寺は、数倍の大きさを持ちます。それは、国家が威信をかけて造営した官寺だから当然かもしれません。堂塔規模は、平地に立地した大寺伽藍が山林寺院例を圧倒します。しかし、H/L×100値に注目すると、中寺廃寺の134は、大官大寺の106と美濃・紀伊・讃岐国分僧寺の158 ・ 168 ・ 208の中間値で、平地寺院の大官大寺式伽藍配置の範躊の中にあります。
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
讃岐国分寺など大官大寺式伽藍配置の寺 

例えば観音寺の中心堂宇は、南に庇を広くのばし、仏堂前面に外陣的な礼拝空間を確保しています。これがあれば、金堂前に露天広場は必要としません。この構造が平安時代以降は一般的な構造になり、古代的な金堂建築を駆逐します。つまり、「中寺廃寺Aゾーンで、仏堂前面に盛土で広場を確保しているのは、古代平地寺院の伝統を色濃く踏襲しているため」と研究者は指摘します。 その仏堂が3間×2間と小規模で、本尊を安置する必要最小限の空間しか確保していないのも、讃岐国分僧寺に習って堂前の法会を重視した結果とします。そういう意味では、中寺廃寺は讃岐国分寺の影響を強く受けているのかもしれません。ここでは、Aゾーン全体を見ると、大官大寺伽藍を志向して仏堂・塔が計画的に造営された中枢伽藍であったことを押さえておきます。
 発掘で、第三テラス(平坦地)に塔跡、第二テラスに仏堂跡が発見され、大官大寺式伽藍であることが推測できるようになると、その上の第一テラスが注目を集めるようになります。

中寺廃寺 エリア分類
 
 第1テラスは、中心伽藍となる仏堂と塔の背後の空間に当たります。もしかしたら講堂などがあるのではという期待もあったようです。

中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 菜園
中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 建物跡は出てこなかった

しかし、ボーリング調査では礎石は見つかりません。またトレンチを入れても、まとまりのない小規模で密に並ぶ掘立柱列が出てきただけでした。つまり建物はなかったようです。それでは、ここには何があったのでしょうか。僧侶達の菜園だと研究者は考えています。
 例えば四国霊場の山林寺院には、伽藍近くの平場を利用して、疏菜・穀物・堅果などを栽培している光景に出会います。寺の周囲で穀物などを栽培する姿は、古代寺院でも行われていたはずです。
天平宝字5年(761)の班田の結果を受けて製作された「額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館蔵)を研究者は提示します。
額田寺伽藍並条里図 寺院の周りの寺領

この絵図を見ると額田氏の氏寺(額田寺)の周囲には、公田や個人宅地と入り組みながら、「寺畠」「寺田」「寺栗林」「額寺楊原」「寺岡」などの寺領が広がっています。これから類推すると、山林寺院の平場(テラス)には、蕎麦畑や疏菜、畑、栗などの堅果類の栽培林があったことがうかがえます。そうすると、中寺廃寺Aゾーン第1テラスから出てきた柱列は畑の区画施設ということになります。
中学校で習った兼好法師の徒然草には、山里での暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子の木の周囲に設けた柵を見てに興ざめしたことが記されていました。[『徒然草』上巻第11段]。ここからは昔から山間の畑ではイノシシ対策などの柵木などは必要だったことがうかがえます。中寺廃寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っているようです。また、麓の江畑集落には、中寺廃寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。
最後に、大炊屋を見ておきましょう。

仏ゾーン 大炊屋跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 大炊屋
①掘立柱建物で、山側を切り崩して谷側へ盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らされている
②規模は正面3間(約5.6m)×奥行き2間(約3.6m)で約20㎡。
③建物跡からは土師器杯・椀、須恵器杯などの食器類や煮炊き用の土師器長胴甕が出土
④竈跡と思われる遺構も出てきたので調理を行った大炊屋跡
⑤近畿産黒色土器や西播磨産須恵器が出土し、遠方との交流を物語る。
⑥建造時期は10世紀前後で、塔跡・仏堂跡と同時期の造営
 この建物からは、食器や調理具が出土しています。床面から竃の痕跡も確認できたので、大炊屋跡(供物の調理施設)と研究者は判断します。なお、Aゾーンから僧坊は出てきていません。僧坊があるのはBゾーンだけです。Aゾーンは、公的な仏教儀式の場で、僧侶達の日常生活の場はBゾーンであったようです。
以上を整理しておきます。
①中寺廃寺廃寺Aゾーンは、9世紀半ばに整備された山林寺院の伽藍跡である。
②主要施設は、仏堂(本堂)、広場、塔で、大官大寺式伽藍を志向していた。
③仏堂は小さいが、その前の広場を使って公式行事や儀式は行われていた。
④Aゾーンは、仏教的な公的儀式が行われるハレの場でもあった。
⑤塔の心礎下からは、国衙が陶の官営陶器工場で焼かせた特注制の赤い壺が地鎮祭祭具として埋められていた。
⑥ここからは、中寺廃寺が讃岐国分寺や国衙の影響下のあったことがうかがえる。
⑦稜線上のテラス1には講堂はなく、菜園として利用されていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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中寺廃寺 3つのゾーン2


中寺廃寺は、次の3つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
3つのゾーンの前後関係を年表で押さえておきます。

HPTIMAGE

この年表からはABCの3つのゾーンに、いつ頃、どんな建物が現れたかが分かります。
最初に建物が建造されるのはBゾーンで、そこに仏堂(割拝殿)・僧坊が姿を現します。その時期は8世紀末のことです。これは、前回お話ししたように空海が大学をドロップアウトして、虚空蔵求聞持法修得のために山林修行を始める頃と重なります。今回はB(祈り)ゾーンについて見ていくことにします。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーンの割拝殿の発掘現場 大川山が正面に望める

Bゾーンからは、次のような建築物跡が出てきました
割拝殿(仏堂跡?)   尾根上
僧房跡数棟           下の2つのテラス
中寺廃寺B祈りゾーン 平面図 
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿跡と僧坊
尾根先端を造成して造られた割拝殿から見ておきましょう。
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)
②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物
③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降
④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
     
 盛土中から10世紀後半の遺物が出土しているので、それ以降に建てられたことになります。最初はこの建物は「仏像を安置した修弥壇の基礎の石を確認したので仏堂」とされていたようです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺Bゾーン 仏堂説にもとづく復元図(南側に広場)

しかし、堂内の須弥壇礎石は側柱礎石と大きさがあまり変わりません。そのため3間×2間の同じ大きさの東西棟が並んで建つ双堂建物ではないかという意見が出されます。双堂建築は、東大寺法華堂など雑密的な仏像を本尊とする古代建築に多く使われています。山林寺院の施設として、ふさわしい建築構造です。
 しかし、次のような点を考慮して、現在では双堂建築ではなく、5間×3間の南北棟説(割拝殿)とされています。 
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。  
②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。
③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。
⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる
⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通
⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。          
「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡

 以上から、この建物は5間×3間で、その前の広場を通して、真っ正面に大川山を臨んでいたとします。この広場で、朝夕に霊峰大川山への祈りが捧げられていたことが考えられます。このことからB地区は山岳信仰と関係が深いので、「祈り」のエリアと名付けられました。

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 山林寺院を考える際に、避けて通れないのが「山岳信仰」との関係です。
仏教伝来以前から、列島では山を神とあがめていたとされます。山は信仰対象だったのです。 山林修行や山林斗藪の拠点となった山林寺院は、インド起源です。しかし、一方で列島固有の山岳信仰が仏教と融合しながら変形されてきました。以前にお話ししたように、高野山金剛と狩場明神・丹生津姫神社の関係や、比叡山延暦寺と日吉大社の関係など、山林寺院が土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られ、寺と神社が深い関係にありました。ここでは大川山と中寺廃寺がどんな関係だったのかが問われます。
 霊山の山頂には、いろいろな神々が祀られ、祭礼施設があります。しかし、山頂に山林寺院が造られることはありません。霊峰・霊山信仰を持つ寺院も、その中腹や麓近く、あるいは霊峰を望む景勝地に造られるのが普通です。それは、石鎚山と前神寺や横峰寺の関係を見れば分かります。霊山の峰々が修行の舞台となったとしても、山林寺院はその拠点なので、生活困難な山頂に建てる必要はないのです。ここでは、中寺廃寺は霊峰大川山信仰の拠点として造られた、そのためBゾーンの割拝殿は、大川山を向いて建てられ、その前の広場で祈りが捧げられたことを押さえておきます。

 それを裏付けるのが、流土の中から8世紀後半~12世紀までの長期の土師器・黒色土器・須恵器類が出土していることです。割拝殿の造営年代は、基壇築成土中の遺物から10世紀後半のものとされます。しかし、尾根端の地盤は不安定で、いくつかの礎石も滑べり落ちていました。ここからは割拝殿は、それ以前から何度も建て替えて、発掘されたものが10世紀後半のものになると研究者は考えています。
  
 次に、割拝殿下のテラスの掘立柱住居跡5棟を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
中寺廃寺Bゾーンの僧坊跡
①三間(6,2)m×二間(3m)
②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶
③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土
④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)
⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている
⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
以上からこれらの掘立柱建物跡は、僧房跡と研究者は判断します。
僧坊は掘立柱建物で数回建て替えています。また埋土からは須恵器・土師器・黒色土器の日常食器類(8世紀後半~12世紀)が多量に出土しているので、僧侶が生活していた僧坊跡と推測できます。ちなみに、Aゾーンからは僧坊跡は発見されていません。Bゾーンから僧坊が出てくることについて、山岳信仰に基づく場として、B地区がまず開発されたからと研究者は考えています。以上からB地区は、割拝殿と僧房がある生活と修行の場であり、中寺廃寺の出現の先駆けとなったエリアであったことを押さえておきます。

この中で研究者が注目するのは、僧房跡から出土した西播磨産の須恵器多口瓶です。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
須恵器多口瓶の出土状況(Bゾーン 僧坊跡)

発掘当時のことを担当者は次のように記しています。

「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)

その後、復元すると次のような姿になりました。

中寺廃寺跡の多口瓶

中寺廃寺 多口瓶

 多口瓶は奈良・平安時代の寺院遺跡から多く出土しています。中には平城京薬師寺跡例のような奈良三彩の製品もある仏具です。ちなみに、香川県では高松市千間堂跡の礎石建物跡から、須恵器多口瓶が体出土していますが、こちらは地元の綾川町の陶(十瓶山)甕窯跡群で造られた物です。


屋島寺千間堂跡 多口瓶

讃岐周辺で出土している多口瓶 屋島寺前身の千間堂からも出土

これに対して中寺廃寺のものは、研究者の調査活動の結果、西播磨の窯で造られたことが分かりました。中寺廃寺は、わざわざ仏具である多口瓶を、西播磨から取り寄せたことがうかがえます。
 もうひとつ注目される土器破片が越州窯系青磁碗です。
 僧房跡を取り巻く溝から出土した中国浙江省越州窯産の青磁碗は、艮質の土を用いた精製品と研究者は評します。形状から9世紀後半から11世紀中葉までのもののようです。これは非常に高価なもので、国府・郡衙などの国の関係施設や、大規模な港などの遺跡から出てくるもののようです。非常に貴重な中国製青磁を所有していた中寺廃寺の財政基盤がうかがえます。ここでは、②③の遺物は海を越えて持ち込まれたもので、大変貴重な品です。中寺は、このような品を取り寄せることのできる力を持っていたことを押さえておきます。
 最後に、前回お話ししたように雑密の古式三鈷杵・錫杖頭の破片です。 

中寺廃寺 三鈷杵破片2

Bゾーンの僧房跡付近から出土した三鈷杵と錫杖頭は、空海らが伝えた密教より古い特徴を持ちます。古密教(雑密)の修法に使われていたものが、荒行の中で壊れ捨てられたことが考えられます。これも初現期の中寺廃寺が、古密教の拠点であったことを裏付ける材料になります。

以上をまとめておきます。
①霊山大川山への山岳信仰の拠点として、中寺廃寺のBゾーンは現れた。
②そこには、他に先駆けて8世紀末に割拝殿や僧坊が姿を見せる。
③割拝殿は、正面(東)を大川山に向け、その前の広場が祈りの空間となっていた。
④割拝殿の下には、僧坊が並び、長期間にわたって建て替えられ、活動拠点となっていた。
⑤僧坊跡からは、仏具として西播磨産の多口瓶や、中国の越州窯系青磁碗が出土している。
⑥これらは当時としては貴重品で、それを手に入れるだけの財力やネットワークを中寺廃寺がもっていたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
HPTIMAGE
中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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水口祭護符2
全国で行われている水口祭 それぞれの護符(お札)の形がある
私の家もかつては農家で、米を作っていました。そのため家の前の田んぼが苗代で、苗をとっていたことを覚えています。その苗代の一角にお札が竹に挟んで指してあり、その横には花が添えられていました。「何のためのもの?」と訊ねると「苗代の神様で、苗の生長を護ってくれるもの」と教えられた覚えがあります。苗代の水口に護符や花を立てる習俗を「水口祭」と呼んでいます。

水口祭の護符1
水口祭りの護符(熊本の阿蘇神社)

ところで丸亀平野の水口祭については、ある特徴があります。その事に触れた調査報告に出会ったので紹介しておきます。テキストは「織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符   民具集積22 2021年」です。
民具集積1
民具集積(四国民具研究会)
丸亀平野の水口祭の初見は「西讃府志」安政五年、巻第二「焼米」の項で、次のように記します。

「本稲神ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立蒔餘リクル靭ヲ煎リタキテ供フ、是ヲ焼米ト云う、ソノ余りハ親しき家二贈りナドモスルニ又此日正月ニ飾リタル門松ヲ蓄ヘ置テ山テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」

意訳変換しておくと
「この稲神を迎えるときに、水口祭を行う。苗代の水口に保食神の璽(護符)を立てて、余った籾を煎って供える、これを焼米と云う、その余りは、親しい家に贈ったりする。またこの日は、保管してあった正月に飾った松で雑炊を煮る家もある」

ここで研究者が注目するのは、「水口祭」という儀礼の名称と「保食神」という神名が挙げられていることです。ここからは、幕末の安政年間に丸亀平野で水口祭が行われ、保食神の護行を立てたことが分かります。
讃岐の水口祀の護符
水口祭の護符 
  右が丸亀市垂水町(垂水神社配布)で使用された「マツノミサン」と呼ばれる護符です。護符には「保食神」と書かれて、中にはオンマツとメンマツの葉が入れてあります。松の葉を稲にみたてて、よく育つようにとの願いが込められているとされます。左が高松市仏生山町(滕神社配布)の「ゴオウサン」と呼ばれる護符です。護符の中には、白米のほか滕神社の祭神である「稚日女命」の神札も入れられています。このように護符には、いろいろな形や文字が書かれたものがあります。ここで研究者が注目するのは「保食神」と書かれたお札の分布エリアが丸亀平野に限定されることです。
保食神(うけもちのかみ)について、ウキは次のように記します。

日本神話に登場するである。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。次のような記述内容から、女神と考えられる。天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。


先ほど見た西讃府志の編者の一人、秋山椎恭は櫛梨村(琴平町)の在住とされ、この地区の習俗を反映させて「保食神」を登場させたことが考えられます。そこで研究者は、次のような課題を持って周辺調査を行います。
A 櫛梨村周辺に「西讃府志」の「焼米」の習俗が今も行われているかどうか
B 「保食神」の護符が、どの範囲で分布しているのか
そして、まんのう町・琴平町・善通寺市・丸亀市で各農家を訪ねて現在の水口祭の様子を調査報告します。
ここではまんのう町真野の水口祭と「保食神」護符の事例報告を見ていくことにします。
まんのう町真野池下のO家は、満濃池の北約1kmにあり、玄関には神札を貼る厨子があります。家のそばの苗代には、南から満濃池の水を流す水路が通っています。水路が「コンクリ畔」になったのは昭和43(1968年)頃と云います。以下、次のような話を聞き取っています。
苗箱には赤土・肥料・前年の籾摺りで焼いた粗般を入れる。種籾は一週間前に水に浸し、毎日水を換え、1日日前に水から出す。そして5月11日早朝、苗箱定位置に置く。播種の作業が終わると、次のような手順で水口祭の用意を進めます。
①2枚の小皿に洗米、塩を盛ってプラスチック容器に載せる
②ガラス瓶の御神酒も用意する
③メンダケ(女竹)を節三節(30㎝)ほどに切って、上部を割る
④年末に、班ごとに係が回って集金と護符の配布を済ませておく
⑤配布される護符のうち、天照皇太神(神宮大麻)は伊勢伸宮、氏神の神野神社、水口護符の一任は神野神社宮を兼務する諏訪神社宮司が発行する。
⑥神棚から「保食神御守五穀成就」の水口護符「マツノミヤサン」を下ろす(写真37)
水口祭 神棚に供えられていた護符
⑦雨に濡れないようにバランで包んで竹に挟んで輪ゴムで外れないよう止める)
⑦容器に入った洗米、塩と御神酒、竹・葉蘭に秋んだ護符を苗代の水口へ持って行く
⑧容器に御神酒を入れ、護符を土に刺して、その前に洗米、塩、御神酒を供える
⑨花を護符の奥に飾り、30四方くらいの平たい石をお供えの下に敷く
⑨水口の下側を堰き止めて水口へ水を誘導する
⑩水が溝に沿って苗代全体に潅水したことを見届けて、水口に向かって二拝二拍手一拝。
水口祭の護符 まんのう町諏訪神社1
諏訪神社発行の水口祭護符 剣先型

水口祭の護符 まんのう町諏訪神社2

            諏訪神社発行の水口祭護符(実測図)
ここで用いられている諏訪神社発行の剣先形の紙札(護符)を見ておきましょう。
中央に「保食神御守」、右に「五穀」。左に「成就」と黒スタンプが押してあります。研究者は諏訪神社の朝倉修一宮司からの次のような聞き取り報告をしています。
①写真56の護符は高さ19,8㎝
②松業二葉が二本四枚、稲穂二本粗籾十三粒が入る
③護符は無料
④12月初め、神宮大麻(有料千円)とともに総代を通じて配布
⑤氏予約120名で、諏訪神社の氏子真野・吉井・山下・下所の四名の代表に配る
⑥神野神社の氏子の池下は3月に配るという.
『西讃府志』の編者の一人である秋山椎恭が那珂郡櫛梨村の人です。彼は地元で行われている水口祭を「保食神」の護符を祀る習俗として、記録したと研究者は推測します。そして、「上櫛梨の護符には「保食神」の字があり、自分の住む地区の習俗を紹介した」と記します。

水口祭の護符 護符形状分布図

上図は丸亀平野周辺の護符の形の分布図です。▲が「剣先形保食神」護符の分布エリアです。点線が丸亀藩と髙松藩の境になります。ここから次のようなことが分かります。
①「剣先形保食神」の護符は、丸亀藩と高松藩領の境界線を扶む地域に集中分布する。強いて云えば旧髙松藩に多く丸亀藩には少ない。
②これは、満濃池を水源とする金倉川水系と土器川水系に挟まれたエリアと重なる
③土器川より離れた九亀市綾歌町の神名は「保食神」ではなく、「祈年祭」である
④鳥坂峠大日峠麻坂峠など大麻山より西の三豊市のものは「産土大神」「大歳大神」の神名で、保食神」護符は三豊地区では使用されていない。
明治45年刊『勝間村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春、稲種ヲ下ストキ水口祭リトテ、苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ、蒔キ余レル籾ヲ煎リ、臼ニテハカキテ供フ、共余リハ親シキ家二贈リナドスルモアリ」

大正4年刊「比地 二村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春稲種ヲドス時水口祭トテ苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ潰籾ヲ煎リテハタキ籾殻ヲ去り之レヲ供ス其ノ余リハ家人打チ集ヒ祝食ス」

これだけ見ると、勝間や比地二村などでは、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられたように思えます。しかし、その内容は先ほど見た西讃府志の記述内容のコピーです。よって、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられた根拠とはできないと研究者は判断します。
九亀・善通寺・琴平市街地の山北八幡や、善通寺、金刀比羅宮発行の護符も「保食神」とは記していないことを押さえておきます。
次にこの護符を、どう呼んだかの呼称の問題です。

水口祭の護符 呼称分布図
上の呼称分布図を見ると、「マットメサン」「マツノミヤサン」系統の方名も金蔵川、土器川水系に分布します。そして土器川以東や象頭山西側にも分布地があります。「マツ」は「松」であり、「ミ」は「実」と研究者は推測します。マツトメサンが濁って「マツドメサン」になったり、促音になって「マットメサシ」となることはよくあります。ナ行の「ノ」がタ行の「卜」になることもあります。「マツノミヤサン」の呼称があるため、「ミ」が、「宮」と混同されたものか、んは「宮」であったのかは、よく分かりません。
金刀比羅宮の「マツナエ」=「松伎」の事例や三豊市日枝神社の松枝の枝の間に護符を入れる事例(トンマツ)は、田の神の依代しての松枝を水口に建てたものです。これは「保食神」護符の中に松葉を入れる例につながるものです。広く「マツ」を冠す護符呼称が分布していることも押さえておきます。
  さて以上から何が見えてくるのでしょうか
現在は、水口護符は各神社が配布しています。それでは、神仏分離以前には誰が配布していたのでしょうか? 
考えられるのは護符の呼称や形状が共通であることは、一元的な配布元があったということです。その候補として考えられるのが滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺です。龍燈寺と水口護符の関係について、私は次のような仮説を考えています。

龍燈院・滝宮神社
龍燈院は滝宮牛頭天王社の別当であった。

滝宮念仏踊りの変遷

①龍燈院は滝宮氏や羽床氏など讃岐藤原氏の保護を受けて成長した。
②龍燈院は午頭天皇信仰の丸亀平野における中心で、多くの社僧(修験者・山伏)を抱えて、その護符を周辺の村々に配布し、「初穂料」を集めるシステムを作り上げていた。
③龍燈院の者僧たちは、芸能伝達者として一遍の念仏踊りを「風流踊り」として各村々に伝えた。
④生駒藩では西嶋八兵衛の補佐役を務めた尾池玄蕃は、念仏踊りの滝宮牛頭天王社への奉納を進めた。
⑤髙松藩松平頼重は、江戸幕府の規制をくぐって「風流踊り」ではなく「雨乞踊り」として再開させた。
⑥周辺各村々からの滝宮への念仏踊り奉納は、午頭天皇信仰を媒介として、水口祭の護符などで結ばれていた。
 そして水口護符の配布者が龍燈院の社僧(山伏)であった。そのため丸亀平野の髙松藩側には「「剣先形保食神」の分布エリアとなっている。と結びつけたいのですが、この間にはまだまだ実証しなければならないことが多いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

伊勢御師が天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部を見ています。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡の道者(檀那)氏名が一覧表で記されています。前回は、丸亀の中府→金倉→多度津→白方→山階と廻って、つぎのようにまとめました。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。
②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。
③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる
④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。
⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。
今回は、この続きを追いかけて行くことにします。テキストは前回に続いて、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。

伊勢御師 四国日記讃岐分8 金倉寺・小松・岸上・帆山

      「伊勢御師檀那帳 四国之日記」 金倉寺・琴平・まんのう町岸の上・帆山

「こんさうし(金倉寺)の内 おやこ三人家あり)」とあって、次に出てくるのは「小松の分」です。「小松の分」とは、小松郷(荘)のことで、現在の琴平町にあたります。つまり、善通寺エリアがすっぽりと抜け落ちています。これは、どうしてなのでしょうか? 善通寺エリアは熊野系の神社が多く、熊野行者の拠点であった気配があります。そのために伊勢御師が入り込めなかったということは考えられます。三豊でも秋山氏の菩提寺として建立された三野の本門寺周辺、あるいは中世に念仏聖たちの活動が活発だった弥谷寺には、道者たちはいませんでした。また阿波修験者の讃岐への進出拠点であった財田も空白地帯でした。ここには当時の宗教勢力の色分けが背景にあったとしておきます。

「小松の分」の道者は「長右衛門・太郎左衛門・同勘九郎」の3人のみで、彼らに姓はありません。
ここは九条家の荘園として、本庄・新荘が開かれた所です。 榎井の氏神とされる春日神社の社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿造営に関わった人達として次のような人々の名前が出てきます。
寛元2年(1244)新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)石川将監が社殿を造営
ここからは、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者が、国人土豪層として戦国期に活動していたことが、残された感状などからも裏付けられます。しかし、彼らは伊勢御師とは、関わりをもっていなかったようで、リストに彼らの名前はありません。彼らは、三十番社を中心に、独自の祭礼と信仰を持っていたことは以前にお話ししました。
 続いて「きし(岸)の上」には「かな(金)丸殿おや子三人いえ(家)あり」とあります。

満濃池 讃岐国絵図
                金倉川の南(上)側に「岸上」と見える

岸の上は真野郷に属し、小松荘に隣接するエリアです。この地区の中世のことはほとんど分かりません。ただ光明寺というお寺があったことが、金毘羅大権現の多門院の『古老伝旧記』に記されています。また、高野山の明王院の住職を勤めた2人は、「岸上出身」と「歴代先師録」に紹介されています。明王院は高野山の不動明王信仰の中心的な存在です。そこには多くの真言密教の修験者たちが全国から集まってきていました。 岸上の光明寺も修験者の活動拠点のひとつであったと私は考えています。増吽が拠点として東さぬき市の与田寺のように、光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していた可能性があります。だからこそ、高野山で活躍できる優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。                          
岸の上の次には「てかこの分一えん(円)」とでてきます。
 巡回順番から見ると「岸上 → てかこ → ほそ(帆の)山 → 福良見 → 春日 → 長尾」と続くので、「真野」かもしれません。道者人名には「次郎右衛門・次郎五郎殿・助兵衛殿 此外あまたあり」とあり、他の集落が家数が明記されていないのに、ここだけ「いえかず(家数)二十斗(ばかり)」とあります。この周辺の中心地域だったようです。しかし、真野が「てかこ」と呼ばれていたという見分はありません。お分かりになる方がいれば教えていただきたいと思います。

  次に出てくるのが「ほそ山(帆山)」です。
ここからは、中世は帆山は「ほそ山」と呼ばれていたことがうかがえます。六郎左衛門に続いて、同じく六郎を冠する人名が並びます。そして彼らを「大きなる人也」(下の史料)と評します。これを、どう捉えればいいのでしょうか。帆山の「六郎集団」が経済的に大きな力を持っていた集団というのでしょうか。それなら、その経済基盤は何にあったのでしょうか。あるいは伊勢信仰心が強く、奉納額が多く、お札やお土産などを、多く渡した人達なのでしょうか。 以前に紹介した冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」には、伊勢御師が奉納額に従って、渡す札の大きさやお土産を選んでいたことが記されていました。渡すべき「伊勢お札」の大きさを示している可能性もあります。これも今の私にはよく分かりません
伊勢御師 四国日記讃岐分8 福良見・長尾
                   まんのう町福良見・長尾

続いて、帆山の東に隣接する「ふくあミ(福良見)」です。
ここには4人の道者が記されています。筆頭の「大谷川弥助」は、姓を持っています。そして、下段には福良見分の中に「かすか(春日)太郎五郎殿」の名が見えます。ここで気になるのが春日の奥の塩入や、財田川上流域の本目や新目は「かすみ(テリトリー)」には含まれていなかったようです。また、吉野も出てきません。
最後が「なこう(長尾)の内」のさう田(造田)殿おやこ(父子)です。
この表記を、どう理解すればいいのでしょうか
A 長尾エリア内に属する造田殿親子 
B 長尾エリアに転住してきている造田殿親子
16世紀初頭の細川政元暗殺に端を発する混乱は、細川氏内部の抗争を引き起こし、阿波の細川氏が讃岐に侵入して来る発端となります。その後、細川氏の配下の三好氏によって多くの讃岐武将は、その配下となります。丸亀平野南部の長尾氏もそうです。そのような中で天霧城の香川氏だけは、三好氏に帰属することを拒み続けます。そのため16世紀半ばには、丸亀平野では、天霧城の香川氏と西長尾城の長尾氏の間で軍事緊張が高まり、小競り合いが続きます。それは秋山文書などからもよみとれることを高瀬町史は指摘しています。この伊勢御師の檀那リストが作成されたのは、1551年のことです。まさに、このような軍事緊張の走る頃のものです。そこには、香川氏と長尾氏の対立関係が影を落としているように見えます。具体的には、三豊・那珂・多度郡に人名が挙がる檀那たちは、香川氏の勢力圏に多いような気がします。特に那珂・多度郡です。
 どちらにしても、この時期には長尾から吉野にかけては、西長尾城主の長尾氏の勢力範囲にあったとされています。長尾氏自体も阿波の三好氏の配下に入って、天霧城の香川氏と対立抗争を繰り返していました。そのため長尾氏の配下の国人たちも山城を築いて、防備を固めていた時期です。そういうの中で、土器川の東岸にはこの伊勢御師は道者を確保することはできなかったことがうかがえます。
  以上見てきた伊勢御師の檀那リストは、当時の実在した人々の名前と、その居住区が記されている一級資料です。今後の郷土の歴史を考える上で大きな意味があります。発見してくださった研究者に感謝します。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」


追記   
幕末の伊勢御師による檀家巡りについて琴南町誌363Pに、次のように記されています。

阿野郡南と鵜足郡の山分は、御師の来田監物の檀家が多く、一部に東彦右衛門の檀家があった。文政以後は、来田監物の代理として佐伯佐十郎が村々を回檀したようで、宇足津の村松屋(都屋)伊兵衛が連絡所になっていた。集められた高松藩や丸亀藩の藩札は、ここで金に両替されて伊勢に持ち帰ったようだ。。
 文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしている。その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りである。
長谷坂 佐野甚平(一宿)。
半坂 佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎(一宿)。
下福家 古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎(一宿)
谷田 牛田武之丞 本村 稲毛千賀助(一宿)
所村 与平次 新谷村 牛田藤七 猪の鼻 磯平 渕野 次郎蔵 樫原 梅之助、藤八 明神 古川嘉太郎 中熊八百蔵 中熊 源次郎 川奥 西岡忠太郎(一宿)。
美角 七兵衛. 横畑 拾右衛門(一宿)
堀田 林兵衛。前の川 御世話人。
以上の諸家に含まれていない集落は、東彦右衛門の檀家だったのかもしれない。また名字を名乗る者が多く、聞き慣れない集落名があるのは、この檀家名簿が、村切りが行われた以前に作られたものによっている可能性がある。
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空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年もまんのう図書館の郷土史講座でお話しすることになりました。テーマは、こちらで決めることは出来ません。リクエストのあったテーマについてお話しするのですが、満濃池へのリクエストは高いようで毎年選ばれます。昨年は近世の満濃池の変遷を話したので、今回は空海の満濃池築造についてということでした。そこで、研究者たちが「空海が造った」と断定的に云わずに。どうして「空海が造ったと云われる満濃池」と表現するのかをお話しすることにしました。その内容とレジメ資料をアップしておきます。


まず満濃町所蔵のこの版画から見ていきます。これは今から約180年ほど前、19世紀半ばに描かれたもので「象頭山八景 満濃池遊鶴(弘化2年(1845)」です。当時は金毘羅さんの金堂(旭社)が完成し、周辺整備が進み石畳や玉垣なども整備され、境内が石造物で白く輝きだす時代です。それが珍しくて全国から参拝客がどっと押し寄せるようになります。そんな中でお土産用に描かれた版画シリーズの一枚です。ここに「満濃池遊鶴」とあります。鶴が遊ぶ姿が描かれています。江戸時代には満濃池周辺には鶴が飛んでいたようです。
 話を進める前に基礎的な用語確認を、この絵で確認しておきます。東(左)から
①護摩壇岩
②対岸に池の宮と呼ばれる神社のある丘
③このふたつをえん堤で結んで金倉川をせき止めています。
④池の宮西側に余水吐け(うてめ)
この構造は江戸時代の最初に、西嶋八兵衛が築いたものと基本的には変わっていません。それではここでクイズです。この中で、現在も残っているもの、見ることができるのはどれでしょうか。

満濃池  戦後の嵩上げ工事で残ったのは「護摩壇岩」のみ
1959年の第3次嵩上げ後の満濃池 護摩壇岩だけが残った
戦後の満濃池嵩上げ工事後の現在の姿です。貯水量を増やすために、次のような変更が行われました。
①堰堤は護摩壇岩の背後に移され、
②その高さが6㍍嵩上げされ、貯水量を増やした。
③その結果、池の宮の鎮座していた小山は削り取られ水面下に沈んだ。そのため現在地に移動。
④余水吐けは、堤防の下に埋められた
こうして護摩壇岩だけが残されました。

満濃池 護摩壇岩3
満濃池の護摩壇岩

現在の護摩壇岩です。護摩壇岩と向こうに見える取水塔の真ん中当たりに池の宮はありました。その丘は削りとられ池の底に沈みました。それでは、クイズの第2問です。どうして護摩壇岩だけがして残されたのでしょうか。

空海修復の満濃池想像図
空海が修築した満濃池の想定復元図(大林組)

これは大手ゼネコンの大林組の研究者たちが作成したものです。①空海が岩の上で完成成就祈願のために護摩祈祷しています。ここが「護摩壇岩」と呼ばれることになります。ここは空海と満濃池をつなぐ聖地とされてきました。言い換えると「空海=満濃池修復」説のメモリアル=モニュメントでもあるのです。そのために池の宮は削られても、護摩壇岩は残されたと私は考えています。堤防は池の宮との間にアーチ状に伸ばされています。
②その下に②底樋が埋められています。
③池側には竪樋が完成し、5つのユルが見えています
④採土場から掘られた土が堤まで運ばれています。それを運ぶ人がアリのように続いて描かれています。

6 護摩壇岩 空海が護摩祈祷を行った聖地
 
護摩壇岩と碑文です。護摩壇岩は「空海の作った満濃池」を裏付けるモノと私は思っていました。
ところが中央からやってきた研究者の中には「空海が作ったとされる(伝えられる)満濃池」という言い方をするひとがいます。含みを持たせる言い方です。どうして「空海が作ったと言い切らないのですか?」と訪ねると、文献的にそれを証明できる・裏付ける資料がないというのです。これに私は驚きました。空海=満濃池築造説は史料的に裏付けられているものと思っていたからです。今回は、学者たちが空海が満濃池を作ったと言い切らない理由を追いかけて見ようと思います。まず空海が満濃池をつくったという最初の記録を見ていくことにします。

日本紀略の満濃池記述
日本紀略の空海の満濃池修復部分

まず古代の根本史料として六国史があります。これは、日本書紀など国家によって編纂された正史です。この編纂には公文書が用いられていて信頼度が高いとされます。6つあるので六国史と呼ばれます。ちなみに、誰が書いたか分からない古事記は、正史には含まれません。ところで六国史の中に満濃池は出てきません。満濃池が初めて出てくるのは日本略記という史書です。満濃町史や満濃池史など地元の郷土史は、日本紀略の記述を根本史料として「空海=満濃池修築説」を紹介しています。しかし、原典にはあたっていません。日本紀略の原典は上記の通りです。読み下しておきます。

讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。

最後に「許之」とあります。この主語は朝廷です。つまり朝廷が讃岐国司の空海派遣申請を認めたということです。これだけです。分量的には百字あまりにすぎません。内容を確認しておきます。

日本紀略の満濃池記述(要点)
日本紀略に書かれていることは

ここでは国司の空海派遣申請と、それに対する国家の承認だけが簡潔に述べられているだけです。空海が讃岐で何を行ったかについては何も触れていません。堤防の形や、護摩壇岩のことは何も出てこないことを押さえておきます。次に日本紀略の性格に就いてみておくことにします。

日本紀略の性格
日本紀略の史料的性格と評価
紀略はこの書は、①国家が誰かに編纂を命じて作られたものではありません。誰が書いたのかも、正式の書名も分かりません。当然、正史でもありませんし、何の目的で書かれたのかも分かりません。②内容は、それまでに造られている正史からの抜粋と、あらたに追加された項目からなります。空海と満濃池の部分は、新たに追加され項目になります。③成立時期は11世紀末後半から12世紀頃とされます。これは空海が亡くなった後、200年を経た時点で書かれた記録ということにります。同時代史料ではないことを押さえておきます。④評価点としては・・・⑤注意点としては・・・・    
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒書があって箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、古文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると「日本紀略」は満濃池の記述に関しては同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書ということになります。満濃町誌などは、紀略を「準正史的な歴史書」と評価しています。しかし、研究者は「注意して利用すべき歴史書」と考えているようです。両者には、根本史料である日本紀略の評価をめぐって大きなギャップがあることを押さえておきます。

 空海=満濃池修築悦を裏付ける史料として、満濃町史が挙げるのが「讃岐国司解」です。

満濃池別当に空海を申請する讃岐国司解
讃岐国司が空海派遣申請のために作成したとされる解(げ)

冒頭に「讃岐国司申請 官裁事」とあります。「解」とは、地方から中央への「おうかがい(申請)文」のことです。最後に弘仁12年(820)4月と年紀が入っています。ここで注意しておきたいのは、現物では実在しないことです。写しの引用文です。④これが載せられているのは、空海の伝記の一つである「弘法大師行化(ぎょうけ)記」です。つまり、空海伝記の中に引用されたものなのです。それを押させた上で、内容を見ておきましょう。

①内容については「請 伝燈大法師位 空海宛築満濃池別当状」とあり、空海を別当に任じることを申請したタイトルが付けられいます。文頭にでてくるのは既に派遣されていた築造責任者の路真人(みちのまびとはまつぐ)です。③その後の内容は、ほぼ「日本紀略」の丸写しです。誤記が何カ所かあるのが気になります。この申請書を受けて中世政府がだした太上官府も、引用されています。それも見ておきましょう。

満濃池 空海派遣を命じる太政官符
空海を満濃池修復の別当として派遣することを認めた太政官符

太政官符の前半部は紀略の内容とほぼ同じです。つまり、讃岐国司からの解(申請文)がそのまま引用された内容です。後半部には空海を別当として派遣する上での具体的な指示が書かれています。そのため日本紀略よりも分量も多くなっています。また最後の年紀が「弘仁元年」とする誤記があります。それ以上に研究者が問題にするのは太政官符の体裁・スタイルです。この太政官符より15年前に出された空海出家を伝える太政官符と、比較して見ましょう。

空海入唐 太政官符
延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)
この内容は、遣唐使として入唐することになった空海が正式に出家して国家公務員となったので、課税を停止せよと命じたものです。一部虫食いで読み取れませんが補足しながら読んでいくと
①冒頭に「大政官符 治部省」とあって、補足すると「留学僧空海」と読めます。
②その下に空海について記され、「讃岐國多度郡方田郷方田郷」とあります。ここからは空海の本籍が多度郡方田郷だったことが分かります。方田は「弘田郷」の誤りとされていました。しかし、平城京からは「方田郷」と記された木簡が2本出てきました。実際に存在した郷であったかもしれません。どこであったかはよく分かりません。
③空海の属した戸主は「戸主正六位上佐伯直道長」とあります。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、佐伯直道長です。彼の官位は正6位上という地方では相当高い官位です。どのようにして手に入れたのか興味あるところです。多度郡の郡長を務めるには充分な官位です。佐伯家では多度郡では有力な家であったことが裏付けられます。ちなみに、道長は空海の父ではありません。空海の父は田公です。道長が空海の祖父だった可能性はあります。当時の戸籍は大家族制で、祖父から叔父たちの子ども達(従兄弟)まで百人近くの名前が並ぶ戸籍もあります。空海も、道長の戸籍の一人として「真魚」と記帳されています。
④次からが本題の用件です。延暦22年4月7日「出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここからは空海は留学直前まで得度(出家)していなかった。正式の僧侶ではなかったことが分かります。
以上を、先ほど見た満濃池別当状を命じるものと比べるとどうでしょうか。官府は「何々を命じる」とコンパクトな物です。国司の解を引用し、説明を長々とするものではありません。そういう意味からも満濃池別当状は異例なスタイルです。太政官符の写しとしてはふさわしくないと研究者は考えているようです。
      また空海死後直後の9・10世紀に成立した伝記には満濃池は出てきません。
死後2百年後を経た11世紀に書かれた伝記は4つあります。その中で満濃池が出てくるのは「弘法大師行化記(ぎょうけき)」だけです。その他の伝記には出てきません。ここからは紀略の記述を参考にして「行化記」の作者が、讃岐国司解と太政官符の写しを新たに作成して載せた可能性が出てきます。

空海=満濃池修復説の根拠とされる史料に今昔物語があります。

今昔物語 満濃池の龍
今昔物語 満濃池の龍の冒頭文
この中に「満濃池の龍」が載せられています。その冒頭は、この文章から始まります。そこには、空海との関係が次のように記されています。
「その池は弘法大師がその国(讃岐)の衆生を憐れんだために築きたまえる池なり。」

空海について触れられているのは、これだけなのです。空海が別当として派遣されたことなども書かれていませんし、護摩壇岩やアーチ型堤防などについては何も触れていません。
空海が朝廷の命で雨乞祈祷をして雨を降らせた話があります。その時に祈るのが善女龍王です。善女龍王は、雨を降らせる神として後世には信仰されるようになります。綾子踊りでも善女龍王の幟を立てて踊ります。
綾子踊りの善女龍王
綾子踊の善女龍王
ちなみに善女龍王は普段は小さな蛇の姿をしています。満濃池の龍も、堤で子蛇の姿で寝ているところを、天狗の化けたトンビにさらわれて、琵琶湖周辺の天狗の住処の洞穴に連れ去られてしまいます。龍の弱点は、水がないと龍には変身できない所です。かっぱと同じです。そこに京から僧侶もさらわれてきます。この僧侶が竹の水筒をもっていて、水を得た子蛇は龍に変身し、天狗を懲らしめて、僧侶を寺に送り届けて満濃池に帰って来るというお話しです。

今まで見てきた3つの史料の成立した年代を見ておきましょう。

満濃池記載史料の成立年代
 満濃池と空海の関係を述べた史料の成立年代

11世紀になると、空海は死んではいない。入定しただけで身は現世にとどまっているという「入定留身信仰」説が説かれるようになります。これは今も空海は、この世に留まり衆生を見守り、導こうとしているということになります。これが近世になると「同行二人」いつも空海さんと一緒に ということになっていきます。佐文の綾子踊りでも由緒書きには、「ある旅の僧侶が綾に雨乞踊りを伝授した。踊れば雨が振った。村人は歓喜した。いつの間にか僧侶はいなくなっていた。その僧侶が弘法大師であったと村人はささやきあった。と記します。つまり、いろいろな行事や功績などが空海に接ぎ木されていくようになのです。そんな流れの中で登場してくるのが空海ー満濃池修復説といえそうです。
 満濃町史は、国司解や太政官符を見て紀略がかかれたという立場です。しかし、それは成立年代からすると無理があるようです。紀略の記事を見て、太政官符が創作されたということも考えられます。 こうして弘法大師伝記には、いろいろな話が付け加えられていくのです。そして92種類の伝記が確認されています。
次にいろいろな話が付け加えられていく過程を、満濃池史の今昔物語の記述で見ておきましょう。

今昔物語の原文と「満濃池史」の比較

先ほど見たように今昔物語が空海と満濃池の関係に触れているのは、一行でした。それが満濃池史の「今昔物語」には、次のようになっています。

満濃池の龍神 今昔物語に付け加えられた部分


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満濃池史の「今昔物語」
ここには①讃岐国司・清原夏野の嵯峨天皇への直訴的申請 ②路真人浜継(みちのまびと)の来讃。③空海の派遣申請などがいろいろなことが記されています。しかし。これらはもともとの今昔物語には書かれていないことです。日本紀略や「行化記」などに書かれていることが今昔物語に接ぎ木されています。伝説とは、このようにして後世にいろいろな物語が付け加えられて膨れあがっていきます。地域の歴史を書く場合には、地元の歴史について知ってほしい、そして誇りを持って欲しいという思いが強く働きます。私もそうです。そのためサービス精神が旺盛になりすぎて、史料検討が甘くなり、いろいろなことを盛り込んでしまうことが往々にしてあります。そういう意味では、厳密に云うと、これは今昔物語ではありません。いろいろな情報が付加された「今昔物語増補版」ともいえるものです。
 ここまでを整理しておくと、12世紀前後に成立した3つの書物に、空海と満濃池の関係が書かれるようになったこと。しかし、その内容は、空海の派遣経緯が中心でした。空海がこの地にやってき何をしたかについては、何も記されていませんでした。それでは最初に見た護摩壇岩やアーチ型堤防などの話はいつ頃から語られ始めたのでしょうか。これは近世に書かれた矢原家文書の中に出てくるものです。
満濃池池守 矢原家について
これは幕末の讃岐国名勝図会に描かれている矢原家です。おおきな屋敷と二本の松の木が印象的です。カリンの木は見えませんが、大きな財力をもっていたことが屋敷からはうかがえます。この場所は、満濃池の下のほたるみ公園の西側で「矢原邸の森」として保存されています。矢原家について簡単に触れておきます。①真野を拠点とする豪族とされますが ②史料からは中世以前のことについてはよく分かりません。③文書的に確実にたどれるのは生駒藩時代以後です。④西嶋八兵衛が満濃池を再興するときに、用地を寄進したことで、池の守職に任じられたこと ⑤しかし、満濃池修復費用に充てるために池の御領とよばれる天領が設置されます。天領が置かれると代官もがの指揮下におかれて、既得権利を失ったこと⑥そのため池の守職を無念にも辞任したこと。
このように池の守として満濃池に関わった矢原家には、満濃池についての文書が多く残されたようです。その一部を見ておきましょう。


矢原家々記の空海による満濃池築造
矢原家々記の空海来訪場面

 古代のことが昨日のように物語り風に語られています。こんな話を矢原家では代々語り伝えてきていたのかもしれません。この内容をそのまま史実とすることはできませんが書いた人の意図はうかがえます。
①空海が矢原家に宿泊したこと → 矢原家が空海の時代まで遡る名家であること 
②矢原家の伝統と格式の高さ 
③その象徴としてのかりん 
これらは空海の来訪を記すと同時に、作成目的の中に「矢原家顕彰」というねらいがあったことを押さえておきます。矢原邸跡に香川県が設置した説明版には「空海が矢原正久の屋敷に逗留した際、記念にお手植えされたとされるカリンがある。」と記されています。矢原家々記を書いた人物の意図が、現在に生きていることになります。

矢原家文書の空海伝説 アーチ堤防


我々が満濃池の特徴としてよく聞く話は、近世になって書かれた矢原家文書の中にあることを押さえておきます。これらを受けて満濃池町史は、次のように記されています。

満濃町史の伝える空海の満濃池修復

①821年太政官符が紹介されていますが、これが「行化記」の引用であることは触れていません。
②③は近世の矢原家家記に記されていることです。 ④は日本紀略 ⑤の
神野寺建立は、後世の言い伝えで、これは史料的には確認できないことです。なお、池之宮は絵図・史料に出てくるに出てきますがが、神野神社は出てこない。出てくるのは「池の宮」です。これを神野神社と呼ぶようになるのは、幕末頃になってらです。ここには池の宮を神野神社として、延喜式内社の論社にしようという地元の動きが見えます。
以上をまとめておくと次のようになります。

①地元の郷土史は、日本略記や空海派遣を命じた太政官符を根拠に「空海=満濃池修復」説を記す。

②これに対して、日本紀略や太政官符などからだけでは文献考証面から「空海=満濃池築造説」を裏付けるできないと研究者は考えている。


この上に、11世紀前半のものとされる史料の中には、空海が満濃池修復を行ったという記録がありません。それが「満濃池後碑文」です。

空海関与を伝えない満濃池後碑文
満濃池後碑文(まんのういけのちのいしぶみ)
以下も意訳変換しておくと

三年(853)二月一日、役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない


ここには、空海の満濃池修復後の約20年後に決壊した満濃池を国司の弘宗王が修復したことが記されています。その内容を見ると動員数など具体的で、日本紀略の記述に比べると、よりリアルな印象を受けます。弘宗王とは何者なのでしょうか?

 満濃池修復を行った讃岐国司弘宗王
満濃池を修復した弘宗王

弘宗王について当時の史料は次のように評しています。
「大和守
弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方政治について、見識をもった人物である。」
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、満濃町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、「倫理観に書ける悪徳国司」的な評価をし、「萬濃池後碑文」は偽書の可能性を指摘します。しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関してのな内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。どちらにしても最終的には大和国の国司を務めるなど、なかなかのやり手だったことが分かります。その子孫が、業績再考のために造ったのがこの碑文です。そこに書かれていることと、日本紀略の記事で年表を作成すると以下のようになります。


空海と弘宗王の相互関係の年表

「後碑文」には、満濃池は701年に初めて造られたとあります。その後、818年に決壊したのを空海が修復したことは日本略記に書かれていました。それが約30年後の852年に決壊します。それを復旧したのが讃岐国主としてやってきた弘宗王になります。その事情が後碑文(のちのひぶみ)の中に記されます。その後も、決壊修復が繰り返されたようです。そして、1184年 源平合戦が始まる12世紀末に決壊すると、その後は放置されます。つまり満濃池は姿を消したのです。それが修復されるのは役450年後の江戸時代になってからです。つまり、中世には、満濃池は存在していなかったことになります。

それでは「空海=満濃池修築」のことが、満濃池後碑文にはどうして書かれなかったのでしょうか?
その理由を考えて見ると次のようになります。


満濃池後碑文に空海が出てこない理由は

日本紀略よりも先に造られた満濃池後碑文からは「空海=満濃池非関与」説が考えられるということです。以上をまとめておきます。


空海満濃池築造説への疑問

考古学的な疑問点は次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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松尾寺 観音堂と金剛坊
金毘羅大権現松尾寺の観音堂と本尊(讃岐国名勝図会)
日時 6月28日(土) 17:00
場所 まんのう町四条公民会
資料代 200円

内容は、まず金毘羅さんの次の「通説」について検討します。
金毘羅信仰についての今までの常識

これに対して、ことひら町史などはどのように記しているのかを見ていきます。金毘羅神は古代に遡るものではなく、近世初頭に登場した流行神であること、それを創り出したのは近世の高野山系の修験者たちだったことなど、今までの通説を伏するものになります。
今回は私が講師をつとめます。興味と時間のある方の参加を歓迎します。

悪魚+クンピーラ=金毘羅神
「金毘羅神=神櫛王の悪魚(神魚) + 蕃神クンピラーラ」説

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2025講演会 満濃池と空海ポスター

今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
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「史談会」へのお誘い 以下のような内容で5月の史談会を開きます。
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講師は善通寺市文化財保護協会会長の大河内氏です。興味と時間のある方の参加を歓迎します。
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EXPOメッセ WASSE (西口ゲート近く)
大阪・関西万博の「EXPOメッセ WASSE」で香川県のブースが4月30日から5月3日まで置かれました。
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香川県ブース「せとのかけはし号」 ⑤の後部がステージ
「せとのかけはし号」という船の形をした会場内では、香川県の市町村が、伝統工芸や文化などの魅力を発信しています。その最終日に、綾子踊が、まんのう町を代表して出演することになりました。その参加報告をアップしておきます。日程は次の通り二泊三日でした。
 5月2日(金)
  19:00 佐文公民館出発
22:30 ホテル到着予定(淡路SA以後はノンストップ)
 5月3日(土) 
    8:30~ 着付け(ホテル内の会場)
11:00 ホテル出発
13:30 EXPOメッセにて公演(30分)
15:00 万博会場出発
16:00  夕食(ホテル内)
 5月4日(日)
 8:30 ホテル発 会場到着後は自由行動 
11:30   パソナ館 
  15:30    万博会場出発
  20:00  佐文帰着
 参加者39名     
今回の万博参加は、お呼ばれしたのではなく、どちらかというと「押しかけていった」といえる参加形態でした。そのためいろいろな「課題障害」に出会うことになりました。例えば、県外にお呼ばれして踊る場合は、立派なホールや会館が会場で、バスをすぐ近くまで寄せて、荷物の積み下ろしができます。また、着替え場所や控え室も確保されています。つまり、「演技者」としてリスペクトされて、それなりの待遇で遇していただけることが多いのです。しかし、万博はそうはいきません。道ばたや広場で踊るる「大道芸人」と立場は同じです。着替え場所も控え室もありません。

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ホテルで着替え中の小踊り
そこでホテルから着物に着替えて、小道具・大道具を持ってのバス移動となりました。しかも着替え終わって踊り始めるのは、約5時間後です。帯に締め付けられた小踊りの子ども達は、それだけで苦しそうです。
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観光バス駐車場から西ゲート入口までは、徒歩20分
 さらに貸切バス駐車場から西口ゲートまでの移動距離の長さに苦しめられます。観光バスの駐車場は、シャトルバスの駐車場の外側に配置されているので、駐車場をぐるりと廻って行かなければなりません。

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花笠を持って西側ゲートまで駐車場より移動開始
時間にして20分、1㎞は歩かなければなりませんでした。控え室がないのでないので荷物を少なくしたいので、草鞋ばきの人もいて、指の間に縄目が食い込んで痛そうです。

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西側ゲート万国旗の前を草履履きで会場目指してもくもくとあるく会長
踊り終わって還る時には、脚を引きずるような人もでてきました。高齢者の出演者に今回の思い出を聞くと「バスとEXPOメッセとの間の歩いての移動」という声が返ってきました。大きな組織やイベントは現場の判断での「融通」などを働かすことが出来ないので、現場ではいろいろな小さな問題が起こります。「出演者にやさしくない万博」と愚痴り会いながらスタッフ専用ゲートを目指します。
 到着して会場を下見します。この日も試食コーナーでは讃岐うどんの試食コーナーが開かれていて、多くの人で香川県ブースは賑わっていました。その後ろのコーナがステージとなります。教室の半分もない広さであることを確認して、立ち位置などを決めていきます。

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香川県ブース平面図


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渋滞を危惧して早く出発していましたが、それもなかったので1時間以上の待機時間です。着物に草履では、会場散策も出来ないのでリングの下のベンチで待ちます。

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出番前の待ち時間にも笑顔が溢れます

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芸司の大団扇 今回は会場が狭くて思う存分に振れなかったと残念がっていました。
13:30 隊列を組んで、露払いを先頭にしての入庭(いりは)です。ステージで隊列を整えます。

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最初に保存会長が口上(由来)を読み上げます。そして、大きな団扇をもった芸司のかけ声と共に地唄が歌われ、踊りが始まります。バックの壁には佐文の賀茂神社の光景が映し出されます。温かい演出に感謝。狭い会場ですが多くの人が見守っていただきました。まんのう町長や議長も応援に駆けつけてくれました。

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 中世の風流踊りには鳴り物として三味線がありません。笛や太鼓・鉦だけの単調な響きで、踊りのうごきも華やかさや雅さはありません。しかし、これがもともとの風流踊りの原型だと研究者は指摘します。この単調さの中に中世の響きがあると私は考えています。

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後ろのスクリーンには、佐文の賀茂神社が映し出されていました。

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踊りが終わるとインタヴューを受けて、そのでステージで記念写真を撮りました。そのあとは、再び歩いてバス駐車場を目指します。

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バスへの帰路
帰り道に、警備員や誘導員の方々が「お疲れ様でした」と声をかけてくれました。それがなぜか心に沁みました。結局、この日は万博見物はできませんでした。
 それでは可愛そうだというので、翌日に見学日を一日とっていただけました。しかし、連休後半の初日で予約がとれたのはパソナ館のみ。あとは、前日とは大違いで長蛇の行列でした。私はリングの上をゆっくると一周してみました。上から眺める景色は最高です。西には六甲の山脈と、その麓の神戸の街並みが見えます。南には明石海峡から伸びる淡路島。南には大阪湾が大きく開けます。東には金毘羅船なども目印とした天保山が見えます。この海が古代以来果たしてきた役割が、頭の中で走馬灯のように走り抜けて行きます。この日は五月晴れですが、海風が強く波頭が白く見え「兎跳ぶ海」の風情で、リング上を歩いていると肌寒く感じるほどでした。
 リングの内側は、各パビリオンでひしめき合っています。1970年の時のパビリオンと比べると個性がないように思えます。あの時代は「大きいことはいいことだ」という言葉に象徴されるように、「より高く、より早く、より遠く」にがパビリオンにも求められていたようで、資金の惜しまず高く大きな異彩の建物が林立していました。しかし、今回はリングが中世都市の城壁で、その内側の建物はリングよりも高いものはありません。高さ制限があるような感じです。形も資金節減が前面に出て枠組みをハリボテで囲んだようなものが多く、個性的なものも少ないように私には思えます。有名な建設家が競いあうという雰囲気はないように見えます。それでも私にとってはリングからながめるだけでも充分面白い物でした。2㎞というリングの上を90分ほどかけて歩くと、私はエネルギー切れです。並んで見学しようとする意欲は湧いてきません。私と同じ世代の出演者たちもも同じで、2時間前には集合場所に返ってきて、バスの駐車場へ向かいました。冷房の効いたバスで待つ方が楽のようです。集合場所でみんなが帰って来るのを待ちながら「マンウオッチング」をしていました。確かに、高齢者の姿は少ないようです。観光バスで団体で移動することの多い老人会とかは、移動のことを考えると躊躇すると思います。高齢者にはやさしくない会場なのかも知れません。  
 いろいろと書いてきましたが、万博で踊らせていただく機会を頂いたことに感謝します。ありがとうございました。
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次の公演予定は11月の文化の日に、サンポート小ホールです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
なお使用写真は参加者から提供していただいたものです。

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中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」で綾子踊りと尾﨑清甫を紹介したもの
https://www.youtube.com/watch?v=2jnnJV3pfE0

大堀居館と木ノ崎新池の流路
まんのう町吉野上 木ノ崎から大堀居館へのかつての土器川の流路跡(まんのう町HP
 以前にまんのう町の吉野の中世居館跡とされる大堀遺跡を紹介しました。この居館の外堀には出水があり、そこから下流に供給される灌漑用水が、この居館の主人の地域支配の根源だったのではないかという説をお話ししました。その際に、水源は出水だけでなく上流からの流れ込みもあるような感じがしました。そこで確認のためにいつものように原付バイクで、フィールドワークに行ってきました。
 丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地です。阿讃の山々の谷間を縫うように流れ下った土器川が、まんのう町吉野の木崎(きのさき)で丸亀平野に解き放たれます。そのため吉野は、洪水時には土器川と金倉川の遊水池化し葦(吉)野と呼ばれていたことは以前にお話ししました。それは吉野が古代の条里制施行エリア外になっていることからもうかがえます。
 中世になると吉野には大堀居館跡が現れます。

中世居館と井堰型水源

大堀の居館の主人が居館外堀に水を引き込む用水路を整備し、その下流域の灌漑権を握っていたという説を以前にお話ししました。湿地帯だった吉野開発は、この時期に始まったと私は考えています。さらに秀吉の命で近世領主としてやってきた生駒氏は、新田開発を推奨します。その結果、土器川や金倉川の湿地帶や氾濫原で今まで耕地化されていなかった荒地の新田開発が急速に進められます。それは水不足を招きます。そのため溜池の築造や灌漑用水路の整備も進められます。新田開発と溜池築造は、セットになっていることを押さえておきます。西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、灌漑用水網の整備が行われたはずです。

 まんのう町吉野
吉野は土器川扇状地で地下水脈が何本も流れている(国土地理院の土地利用図)
この地図からは次のような事が読み取れます。
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。
②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。
③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
③の流路が最初に示した地図上の青斜線ルートになります。このあたりは大規模な農地改善事業(耕地整理)が行われていないので、ルート沿いは凹地がはっきりと見られかつて流路跡がたどれます。流路跡沿いに原付バイクを走らせていると、吉野のセレモニー会館当たりで一直線に続く石組み跡に出会いました。水田沿いに並ぶので、田んぼの石垣かと思いました。しかし、どうもその機能を果たしていません。これはいったいなんだろうかと、私の抱える謎のひとつになっていました。
  そんな中で図書館で出会ったのが「芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年」です。ここには、木ノ崎新池という溜池があったことが書かれています。江戸時代の溜池跡を絵図で見ていくことにします。
那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図
              「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」(奈良家文書)
この絵図は「那珂郡吉野上邑木之崎新池」と題されていて、吉岸上村(まんのう町岸上)の庄屋役を勤めた奈良家文書の中に含まれているようです。奈良家文書については、以前にお話ししましたが、当時の当主がいろいろな七箇念仏踊りなどの記録を丹念に記録しています。その中の絵図で、あたらしい池の建設予定図のようです。絵図内には新池建設予定の場所や、周辺の寺院・百姓家・山地の様子が特徴的に描かれています。大きさは縦93、5cm、横58、8cmで、細かい字で注釈が何カ所かに書き込まれています。まず絵図上部の木ノ崎から見ていくことにします。

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木ノ崎周辺拡大部分(那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図)
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている
②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる
③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。
④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。
⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
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新池跡付近から見た木ノ崎の須佐神社
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近づいて見た須佐神社(土器川扇状地の扇頂に鎮座する)
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南側から望むと鳥居のかなたに象頭山
木ノ崎は土器川扇状地の扇頂部にあり、谷間をくぐり抜けてきた土器川が平野に解き放たれる所でもありました。また、阿波・金毘羅街道が通過するとともに、土器川の渡川地点でもあり、ここには木戸も設けられ通行料が徴収されたいたようです。大庄屋の岩崎平蔵の屋敷もこの近くにあり、彼の顕彰碑が須佐神社の入口の岡の上にはあります。

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岩崎平蔵顕彰碑(吉野上木ノ崎須佐神社)
次に須佐神社から200mほど西に位置する新池の部分を見ていくことにします。

木ノ崎新池5

絵図からは次のような情報が読み取れます。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池
②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。
③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ため池予定地の水田には「指上地(差しあげ地)」と書き込まれています。

木之崎新池絵図3

予定地の水田には「上田壱反六畝三歩」などと、水田の等級と広さが記されています。その中に「指上地(差しあげ地)」と記されているものがあります。これが私有の田畑を藩に差し出し、その地に池を築こうとしていたものだと研究者は指摘します。  この「築造予定図」からは池は、六枚の水田を立てに並べた細長い形だったことが分かります。それは先ほど見たように、土器川の分流のひとつが開発新田化されていたからでしょう。開発されていた水田がため池に転用されることになります。そのために、旧流路に沿った形で細長くなったとしておきます。
⑤の場所には、「朱引新池西本堤」とあるので、ここにえん堤があったとことが分かります。この北側に見ることができる上留め状の場所が、かつて西の堤の痕跡と伝えられているようです。
 堤の左側には、「揺」の文字が見えます。
「揺(ゆる)」は、ため池の樋管のことで、ここから下流へ水が落とされます。「揺」付近には「朱引新池西本堤」や「朱引新池揺尻井手」と書かれていので、池の水が下流域にある水掛りの田畑へ配水されたことがうかがえます。
 堤の右側(西側)「此所台目(うてめ)」とあります。「うてめ」は増水の際に、池を護るためにオーバーフローさせる「余水吐」のことです。

木ノ崎新池6
木ノ崎新池の堤とユル・うてめ

こうしてみると、私有の田畑を「指上地(差しあげ地)」として藩に上納し、新たに「木ノ崎新池」が築造されたと云えそうです。しかし、今はここには池はありません。

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          木ノ崎新池の位置(まんのう町HP 遺跡マップ)
今は、この池跡を横切る道ができて、そこにはセレモニー会館と広い駐車場があります。現在の姿を見ておきましょう。
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南泉寺から望む木ノ崎新池跡 青い屋根の倉庫が堤があった所

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堤とユルがあった所
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池の尻側からのながめ 左手遙かに象頭山

 いまは、池跡は再び水田に戻っています。田植えの準備をしていた老人は次のように話してくれました。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。

 このあたりが土器川の扇状地であることが改めて裏付けられます。
それでは、この池はいつまであったのでしょうか? こんな時に便利なのが戦前と現在の地形図が比較しながら見える「今昔マップ」です。これで日露戦争後の明治39年(1906)に作られた二万分之一測量図「琴平」を見てみます。

木之崎新池絵図4
吉野木ノ崎(明治39年 国土地理院地図)には、木ノ崎新池はない
この地図には、池はありません。山際まで水田が続いています。こうして見ると、幕末に新造された池は、明治末には姿を消したことになります。             
 研究者は、次のような現地での聞き取り調査の報告を行っています。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。
②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。
③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。
④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた
⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地で、その扇頂にあたるのが吉野木ノ崎です。そのためこのあたりは礫岩層で、水はけがよく地下に浸透してしたことは先ほど見たとおりです。ため池の立地条件としては相応しくなかったようです。水田化された後も、水不足が深刻で、背後の山にはいくつもの谷頭池が作られています。また、戦前には「線香水」がよく行われていたエリアでもあったようです。
最後に「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」が書かれた背景を見ておきましょう。
最初に述べた通り、この絵図は那珂郡岸上村の庄屋役を勤めた奈良家文書の中にあります。奈良家の歴代の当主たちは記録をよく残しています。しかし、残された記録の過半数は、一家の縁者であり江戸時代後半、吉野上村庄屋役や那珂郡大庄れた岩崎平蔵(1768~1840)によるものとされているようです。その中に寛政十年(1798)に、詳細測量を行った上で描いた「満濃池絵図」という絵図資料があります。ここには作成者として岩崎平蔵の名が自署があります。この絵図と「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」を比べて見ると、絵図内に描かれている百姓家や、周辺に描かれている円畑の描き方や、文字の筆跡が、両者はよく似ていると研究者は指摘します。つまり同一人物の手によるもので、それはは、岩崎平蔵により描かれたと研究者は判断します。

以上をまとめておきます。
①まんのう町吉野の木ノ崎は、丸亀扇状地の扇頂部に位置し、礫岩が多く水持ちが悪い
②ここに19世紀前半に木ノ崎新池が岩崎平蔵によって築造された
③しかし、水持ちが悪くてため池としての機能が果たせずに短期間で廃絶され姿を消した。
④その跡は、再び水田に戻され、近年はセレモニーホールが建てられている。
⑤地元の人達もここに池があったことを知る人は少ないが、絵図がそのことを伝えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記
木ノ崎新池については、当時の満濃池の決壊と、その復旧ができない状況への対応策だったようです。
嘉永六(1853)の満濃池修築では底樋を初めて石材化する工事が行われました。ところが翌年6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日に、満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。これに対して、多度津藩や丸亀藩が早期修復に消極的で、満濃池は明治維新になるまで決壊したまま放置されます。つまり、満濃池は幕末14年間は姿を消していました。そのため、髙松藩は周辺の池を修築拡大したり、干ばつに備える方針をとります。例えば、この時に回収されたのが善通寺市買田池です。そのような中で、吉野村の木崎に新池が築かれることになったようです。(『満濃池記』)
 つまり、木ノ崎新池は満濃池がなくなったことへの対応策として作られた新池ということになります。もともと木ノ崎新池は三角州の礫地上に作られた池で水持ちが悪かったことは先ほど見たとおりです。そのため明治維新に長谷川佐太郎によって満濃池が再築されると、その「有効性」が薄れて、もとの田んぼに返されたようです。(2025/05/31記)



参考文献
芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年
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借耕牛44

中讃TV「歴史の見方」で、借耕牛のご紹介をしました。
借耕牛 歴史の見方

まんのう町明神は峠を越えて阿波からやってきた借耕牛たちがせりに掛けられ、丸亀平野の村々に引き取られていく所でした。
借耕牛 明神橋

谷川うどんの西側にある落合橋では借耕牛のレリーフが迎えてくれます。
借耕牛 落合橋の欄干

讃岐の平野で1ヶ月働いた牛たちは、米二俵(120㎏)を背にして阿波に帰って行きました。そのため阿波では「米牛(こめ牛)と呼ばれたようです。興味と時間のある方は、御覧下さい。
動画は
https://www.youtube.com/watch?v=8d2mqvD-MqM
ブログは
https://tono202.livedoor.blog/archives/28412889.html


 前回は文政四(1821)年の大早魃の際に、苗田村の農民達が土器川に作られていた髙松藩の村々の横井を次々と破壊したことを見ました。その動機は「土器川からの取入口の夫婦湧横井の水が涸れたのは、上流にある村々の横井が規定を無視して、横井を厳重に塞き止めたために、水がやってこなくなった」というものでした。そして苗田村の農民数十人が次のような横井を破壊します。
6月10日の夜、
炭所西村の片岡上所横井(常包横井)
大向興免横井
長尾村薬師横井
札の辻横井
6月22日八ツ時(午後2時)に、
炭所西村大向の吉野上村荒川横井
吉野上村大宮横井
 これに対して髙松藩の村では、暴徒の中に天領苗田の農民が数多く混じっているのを見て阻止行動をとらずに見守るだけでした。それは、天領民と争いを起こすと、倉敷代官所での審理・仲裁となり、多くの入費がかかることを恐れたためです。そのため事件後に、苗田村に対して謝罪と、今後の対応について協議するように求め調停作業に入ります。天領苗田村の責任を追及しようとする高松藩領の村々と、夫婦井横井の関立てのルールを自分たちに有利に解決しようとする天領苗田村の主張は、解決点を見出すことができないままで3年目を迎えます。ついには仲介人が投げ出してしまいます。その間も、苗田村と髙松藩の村々の水をめぐる騒動は続きます。髙松藩としても、これをこのまま放置することはできません。ここへきて倉敷代官所への提訴が具体化されます。
 文政六年(1823)4月になって、高松藩で倉敷代官所と内掛合(予備交渉)をしています。その後で、高松藩の村尾浅五郎と、吉野上村の政所岩崎平蔵が、鵜足郡と那珂郡の村役人総代の浄平と、水組総代五人を引き連れて倉敷へ行きます。そして、代官所側と協議して、水組百姓が出訴する人割(訴訟)として取り扱うこととなります。
この時に倉敷代官所に提出された訴状を見ておきましょう。
 恐れながら書付を以て願い上げたてまつり候、松平讃岐守領分、讃州鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村并に那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門申し上げ侯、去る巳年六月二十三日、当御支配所那珂郡苗田村庄屋倅源太 δ郎、同庄屋吉左衛門倅佐太郎、同年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、同村百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名名前相知れず、大勢并に、讃岐守領分同郡東西高篠村、四条村百姓共と一同申し合わせ、徒党を致し罷り越し、村々え引取候井路(井手)及び、炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰利不尽に切り払い候、素より照り続く早魃の時節、右然の浪藉を致され、御田地の耕作相続出来中さず候、勿論右堰(横井)の義は役場え相願い、御普請を受け候ものにて、御村方の進退自由に相成らず、捨て置き難く、其節早速役場へ願い上げ候所、則ち東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に二人召し出され、御純の上入牢仰せつけられ御吟味に付、苗田村の者共狼藉の始末願い上げ奉る可くと存じ奉り罷り在り候所、追々取扱人立ち入り、種々取り計らい候義にて、成尺熟談仕り度く、素より御役所へ御迷惑掛け奉り候段恐れ入り候、是又勘弁仕り居り申し候得共、弥々熟談相調い申さず、苗田村の者共追々我意相募り、連も熟談内済相調い候義、心証更に御座なく候、既に当年の田水にも指し掛り居り、捨て置き候仕り候に付、止むを得ざること願い上げ奉り候間、何卒苗田村の百姓前願人則ち弐拾壱人を召し出して御吟味の上、以来右黙の狼藉仕らざるよう仰せ付けられ下され度存じ奉り候、願い立て恐れながら書付を以て願い上げ奉り候以上
文政六未年五月
松平讃岐守領分
讃州鵜足郡炭所西村水掛百姓総代   小右衛門
長尾村水掛百姓総代 与左衛門
岡田村水掛百姓総代 縄 次   
讃州那珂郡吉野上村水掛百姓総代 十右衛門
右郡村役人総代  伊右衛門
同    浄 平
大草太郎右馬様
  倉敷御役所
    意訳変換しておくと
○ 恐れながら書付で次の事について願い出ます。
松平讃岐守の領分である鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村、ならびに那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門が申し上げます。去る巳年六月二十三日に、那珂郡苗田村の庄屋倅源太 δ郎、庄屋の吉左衛門倅佐太郎、年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名は名前は不明。彼らが、那珂郡東西高篠村、四条村百姓たちと申し合わせ、徒党を組んでやってきました。そして、土器川からの用水取入口の横井や水路(井手)ある炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰を切り払いました。この狼藉の結果、照り続く早魃での時節だったために、田地の耕作ができなくなりました。この件については放置することが出来ず、早速に藩へ届け出ました。その結果、東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に2人が連行され、郷倉に入牢という処罰となりました。
 一方、天領の苗田村の狼藉者の始末(処罰)については、仲介人を立てて、慎重に調査を進めてきました。しかし、苗田村の「我田引水」的対応で協議は不調に終わりました。すでに今年の用水確保にも指し障りが出てきていますので、放置することができません。つきましては、事件に関わった苗田村の百姓21名を召し出して吟味した上で、以後の狼藉を再び起こさないように仰せ付けいただきたい。以上を恐れながら書付で願い上げ奉ります。(以下略)
訴状提出後の5月11日に、長尾村の与左衛門と吉野上村の十左衛門、鵜足・那珂両郡の村役人総代伊右衛門と浄平の四人が、倉敷の戸田屋へやってきます。戸田屋は高松藩領側の定宿で、訴訟などの時には藩側との連絡に当たっていました。そのため訴訟協力人となり、代理人をも勤めていて「郷宿」と呼ばれていたようです。願書は5月12日に差し出されます。その日の午後2時過ぎには、吉野上村の庄屋(政所)岩崎平蔵と、長尾村の庄屋小山喜三右衛門が郷宿に到着します。その夜、旧知の代官所の手代河井冨右衛門を尋ねて協力を依頼します。一方、苗田村は16日に郷宿猶田屋に入っています。
18日から取り調べが行われ浅右衛門と辰蔵が入牢、虎五郎と弥右衛門が手錠宿預かりとなります。
26日には、横井切り崩しの元締役であった又五郎、幾次、佐太郎の二人が入牢を申し付け。
28日には、苗田村の中心人物であった西組庄屋の虎五郎が、猛暑の中での連日の取り調べて体調不良で郷宿で休養中に病死。虎五郎は遺骨となって帰郷。
6月に入って、取扱人(仲裁役)に、備中国都宇郡下庄村の庄屋忠次と、苗田村側が選んだ池御料榎井村の組頭半四郎・治右衛門が選ばれます。これを受けて榎井村の半四郎と治右衛門は、仲裁中は仮年寄の待遇を与えられ、倉敷ヘ渡って、忠次と共に町宿淀屋清助方に逗留します。高松藩側の仲裁人を加えなかったのは、天領に対する遠慮からで、それが当時の慣行になっていたようです。

仲裁についての実質的な話し合いは、提訴から1ヶ月後の6月11日から淀屋で始められます。
仲裁人側からは、次のような要望が出されます。
○ 夫婦井横井の関立場所を決めることから始めたい。

これに対して高松藩側を代表する浄平は、次のように申し立てます。
 この点については、宝暦年中入割の際に御裁許になっていることであるから、これと相違するような内容であれば承知できない、役所との交渉もあるので、まず全般についての仮議定書を見せてほしい。

要は、今までの慣例通りを遵守していただきたい。それを破るような案は認められないということです。こうして、仲裁は出発点から対立します。
翌12日に、仲裁人からの招きで淀屋に出向いた浄平に対して、次の仮議定書提示。
 常包横井以下の横井を苗田村の者が切り崩したことについては、苗田村から高松藩に詫書を入れる。 夫婦井横井掘割関立方については、木水道より烏帽子岩目当に真一文字に掘り割りする。
 岩薬師の川上に流水がある時には、羽間の中井手筋へ分水する、流水がなくなれば烏帽子岩から岩根右へ取り付け、横井を関立てる
夫婦井横井の絵図
夫婦井横井の掘割関立方案

浄平は、即答を避けて仮議定書を郷宿へ持ち帰り、関係者と協議を続けます。
13日に、仮議定書について、浄平は次のように返答。
 夫婦井横井の関立てについては、宝暦五年の仰せ渡され書の通りに決まらなければ、私としては承知できない。井堰(横井)の場所の決定は私の権限外で、郷普請奉行の権限である。
 また仲裁人が現地を知らないでは話しにならない。仲裁人がが現地を見分した上で、仮議定書を再検討してほしい
これに対して仲裁人の返答は次の通りです。
○ 夫婦井横井は論所ではあるが訴状に含まれていない。見分するとすれば常包横井であるが、苗田側から仲裁人が出ているから見分の必要はない。

この反論に関して、両者間で激しい問答が繰り返されます。帰宿した浄平は、郷宿の戸田屋寿助から添書をもらい、代官所手代の橋本新兵衛を尋ねて、現地への実地見分を願い出ます。
翌朝訪れた浄平に対して橋本新兵衛は次のように内意を伝えます。
○ 夫婦岩の所は願書に書かれてないので、見分の場所ではないが、見分しなければ解決しないというのであれば、近く小豆島へ植付見分に渡海するので、そのついでに現地に行って見分しよう。仲裁の決定を日延し、帰村して十分に相談するよう

これを受けて浄平は、仲裁人と苗田村側へ日延べしたい旨を申し入れます。しかし、苗田村には入牢者がいます。解決しなければ出獄することができません。そのため短期での決定を優先して、審議が長引く「現地見分」には同意しません。そこで浄平は、日延べの願いを直接代官所に差し出します。これに対して、橋本新兵衛の配慮で25日までの日延べが認められます。ここで一旦「休廷=水入り」となります。 讃岐へ立ち帰った浄平は、交渉経過を詳細に記述して、覚書として岩崎平蔵と小山喜三右衛門に早々に差し出します。これは2人から藩に届けられます。これらの文書が岩崎家に残っているようです。
6月24日に、四条村庄屋の岩井勝蔵の斡旋で、高松藩領側から吉野上村庄屋岩崎平蔵、長尾村庄屋小山喜三右衛門、那珂郡村役人総代浄平、鵜足郡村役人総代伊右門衛の四人が、仲裁人の榎井村年寄半四郎、同治右衛門と、岩井勝蔵方で話し合いますが、ここでも歩み寄りはありません。長引く入牢に対して、苗田村は 17名の代表者を倉敷代官所に出向かせ、入牢者の釈放を求めます。しかし、事件が解決まで釈放は認められないと、取り上げられません。
6月26日から、倉敷の淀屋方で仲裁の話し合いが再開されます。しかし、いたずらに対立が深まるだけです。しかも橋本新兵衛の小豆島見分も、小豆島の天領が大風や日照りで稲や綿が傷み、植え付け見分ができなくなったので、現地見分も沙汰止みとなります。
こうして交渉は7月2日に決裂します。その後の対応として、代官所では、代官大草太郎右馬が側座した場所へ、伊右衛門と浄平を呼び出します。そして橋本新兵衛から次のようなことが内意として伝えられます。
○ 現地視察をしなければ問題が解決しないという言い分はよくわかる。が、それをあくまで通そうとすると、倉敷代官が直接取り調べるというたいそうなことになる。そうなれば、文政四年六月に問題が起こった時、真光作左衛門が横井を立て直したこと、高松藩が仲裁を依頼した阿野郡南萱原村庄屋の治右衛門が、内済にするために烏帽子岩より五間下手にあった横井を、岩下手弐間半の所に築き直したこと、示談も整い内済になるべき所を、榎井村の半四郎と治右衛門が立ち入って仲裁が不調になったことなども表面に出て、最悪の場合には既得権利を失うことにもなりかねない。
 高松藩の立場を心配しているようであるが、これは倉敷代官所から添翰を送って了解を求めるから、まず仮議定書に調印して仲裁を受け入れるようにしてもらいたい。仮議定書の文面は、正式の議定書に調印するまでに、交渉を続けて改定することもできるから。

このように懇々と説諭されたようです。これを了解した浄平は、7月4日に仮議定書に調印します。
しかし、そのまま引き下がりません。6日に、論所見分方(現地視察)を直接倉敷代官所宛に願い出ると同時に、本議定書に添える絵図面の指し出しを現地視察の後の7月末日まで日延べすることを願い出ます。この2点は、ともに認められます。
 一方、苗田村からは倉敷代官所宛に、横井切り放しの詫書を提出されて、入牢者が釈放されます。苗田村からの詫書と倉敷代官所から高松藩宛の書簡を託された浄平と伊右衛門は、7月7日の午後2時ごろ倉敷を出船し、9日の夕刻7時過ぎに自宅に帰り着いています。

 その後、岩崎平蔵と小山喜三右衛門が、7月13日と16日の二回にわたって倉敷に出向いて議定書の文面を再度確認しています。こうして現地見分が7月18日と19日に行われ、仮議定書に調印しても差し支えがない旨を確認し、羽間の文人菅善次方で昼食を共にします。このような確認作業を経ての「内済議定証文」が交換されたのは、8月に入ってからでした。最後に長文ですが、この時の「内済議定証文」を見ておきましょう。

夫婦井横井の仲裁条件裏書


夫婦井横井の絵図

                鯰岩付近の絵図
こうして次の長文の「内済議定証文」が双方で交換されたのは、8月に入ってからでした。
内済議定証文
讃州髙松御領分包横井切り放し候一件に付、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村、右村々総代浄平・伊右衛門より、苗田村へ相懸り候倉敷御役所へ御訴証申し上げ、御吟味中に御座候所、備中国都宇郡下庄村庄屋忠次、那珂郡三ケ村立会年寄榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助立人、双方ヘ理解申し談じ、右横井切り放し候義は心得違いの段、詫書差し入れるべき所扱人噺請、詫書の義は御役所へ指し上げ候て、訴証方中分これなく納得仕り候、然る上は、右一件出来候訳は、夫婦岩水鯰岩の溜りに落入候用水、木水道へ取り来り候井路筋指し縫れの論中より事起り候義にこれ有り、右に付き今般王書等取り調べの上利解申し談じ双方至至極納得和融内済儀(議)定左の通り
一 夫婦岩用水引方の義は、鯰岩通烏帽子岩より木水道へ一文字に横井掘り割り致す可き事
但し年々掘り割り普請の義は、高松御領より取り計らい申す可く候、若大水にて右掘割埋まり候はば、是亦高松御領より早々修繕申す可く候
一 岩薬師川上より流水これ有る節は、水掛り村役人立ち会い相談の上、中井手筋へ分水致す可く、流水これ無き節は、烏帽子岩より横岩へ取り付け、堰方致す可き事但し川上より流水これ無き節は、鯰岩・横岩、表手通り砂相坪し、洩れ水これ無き様致す可く、砂地故若し洩れ水これ在り候はば真土(粘土)を入れ、洩れ水これ無き様致す可く、尤も尚又烏帽子岩の内手砂地故、洩れ水これ在り候はば、前同様真土を入れ洩れ水これ無き様取り計ろう可く候、尤も両所共御普請の節は水組役人立ち会わせ、高松御領より取り計らい中す可き事
一 烏帽子岩下手凡そ五間掘り割り、横井より中井手の間有形の通にて、手入致し間敷候
一 川内井路筋掘り浚えの事は、指し支えなく高松御領より致すべき事
但し指し掛り掘り浚えこれ在る節は、東高篠村へ掛け合い候て、同村より指し支えこれ無き様、早々取り扱かい申す可き事
一 木水道洩れ水これ在る場所は、用水引元迄指し支えなく、高松御領分より修繕中すべき事
一 用水掛け時の御普請井びに修繕の節は、出来高の上水掛り村々え、東高篠村より通達これ有る可き事、右の条々の通り、今般双方熟談内済和融致し候上は、向後違変致し間敷候、依て儀(議)定証文絵図相添えて、取り替せ中す所件の如し
大草太郎右馬御代官所
那珂郡苗田村東組庄屋 吉左衛門
文政六来年八月
      年寄 弥右衛門
同 十右衛門
百姓代  喜惣太
    苗田村西組庄屋代 佐 市
    年寄  弥源太
                同 熊 蔵
                百姓代  治兵衛

那珂郡東高篠村 庄屋  紋右衛門
組頭  七郎右衛門
百姓代  九右衛門
同西高篠村兼帯四条村庄屋   勝 蔵
西高篠村組頭   利八郎
那珂郡大庄屋代 吉野上村庄屋  平 蔵
同郡組頭四条村    浄 平
鵜足郡大庄屋代
長尾村庄屋  喜三右衛門
同村組頭  伊右衛門
右前書の通り銘々共に立ち入り、双方納得和融熟談の上にて、儀(議)定証文等調い候に付、奥書印形致し置き候以上
備中国都宇郡下庄村庄屋 中心 次
那珂郡三ケ村立会
年寄治右衛門代兼 半四郎
倉敷村戸田屋寿助代兼  猶田屋幸助
右の通り今般高松領分より苗田村に相掛り候一件、和融内済仕り候に付、取り替せ儀(議)定写し井びに絵図面相添え願い上げ候以上
大草太郎右馬様
意訳変換しておくと
  内済議定証文
讃岐髙松領分の包横井の破壊の件について、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村の総代浄平・伊右衛門より、苗田村への提訴があった。この件について倉敷代官所で、備中国都宇郡下庄村庄屋の忠次、那珂郡三ケ村立会年寄の榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助が調停斡旋人となり和解調停作業が進められた。双方ヘの和解工作の結果、横井切り放しについては、苗田村の心得違いであり、詫書を関係村々に差し入れることになった。詫書の内容については双方が納得し、すでに倉敷代官所へ提出している。
 残る課題は、夫婦岩水鯰岩の溜りの用水、木水道へ取入口の位置についてである。これについては双方の言い分を良く聞いた上で以下の通りとりまとめた。
一 夫婦岩用水の取入口については、鯰岩・烏帽子岩から木水道へ一文字に横井掘り割ること。
但し、毎年の掘割普請については、高松領が行うこと。もし台風などの大水で掘割が埋まった場合には、高松領が修繕すること
一 岩薬師の川上からの流水がある場合は、水掛りや村役人が立ち会って相談した上で、中井手筋へ分水すること、もし流水がない時には、烏帽子岩より横岩へ堰方を伸ばすこと。但し。川上より流水がない場合は、鯰岩・横岩附近を、表手で砂をならし、洩れ水がないようにすること。
もし、砂地なので洩れ水がある場合には真土(粘土)を入れて、洩れ水がないようにすること。さらに、烏帽子岩の内手は砂地なので、洩れ水があれば、真土(粘土)を入れて洩れ水がないようにすること。この普請作業の際には、水組役人立ち会わせ、高松御領で行うこと
一 烏帽子岩の下手の約五間を掘り割り、横井より中井手の間は手を入れてはならない。
一 川内と水路筋掘り浚えは、高松御領が行う事
但し、掘り浚えなどを行う場合には、東高篠村へ相談して、同村から差し支えがないことを確認してから作業に取りかかること
一 木水道からの洩れ水がある場所から用水引元までは、高松領分でり修繕すること
一 用水使用中に普請や修繕を行い場合は、下流の水掛かりの村々へ、東高篠村より連絡すること右の条々の通り、双方が内済融致した。その上は、これを破ることなく遵守しなければならない。以上について、定証文絵図相添えて、書面を取り替す。 
こうして夫婦湧横井(井堰)より上流にある横井への破壊活動は、苗田村が関係の髙松藩の村々へ詫び状をいれること。夫婦湧横井(井堰)の運用についてはほぼ「前例通り」となったようです。しかし、この水論を通じて天領苗田村や榎井村と、髙松藩の村々の関係はさらに悪化したようです。水論を「水に流す」ことはできなかったのです。特に、自らの「既得権利」と信じていた特権が代官所で認められなかった天領の村々では、別の「報復」が考えられていきます。そのひとつが那珂郡七箇村組念仏踊からの「脱会」をちらつかせながら運営などに揺さぶりをかけることです。そのことについては以前にお話ししたので、ここでは省略します。
以上をまとめたおくと
①生駒藩時代は讃岐一国で藩を超える水掛かりは讃岐にはなかった。
②生駒藩後に讃岐が東西に分割される際に、西嶋八兵衛が呼び返され、その後に騒動が起こらないように満濃池の水掛かりが再確認された。
③生駒藩以後は那珂郡南部は、髙松藩・丸亀藩・天領池の御領の3つが併存することになった。
④池の御領の天領の各村は満濃池普請の責任者として権威と自負を持つようになった。
⑤その結果、土器川の横井(井堰)についても自分も村に導水される用水路を最優先させる行動を取るようになった。
⑥それが文政4(1821)年の他村の土器川に設置された横井を破壊するという事件につながった。
⑦これに対して髙松藩は、苗田村に詫びを入れさせようと調停工作を進めるがうまくいかない。
⑧そこで、倉敷代官所での仲介・調停工作を進めた。
⑨その結果、苗田村に対して厳しい内容であった。
⑩面子をつぶされた苗田村は、那珂郡七箇村組念仏踊からも脱会の動きをみせるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論」

滝宮へ踊り込んでいた「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表です。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
これを見ると、この踊りは中世の風流踊りで、那珂郡南部のいくつもの集落によって構成されていたことが分かります。そして、讃岐が東西2藩に分割されて以後は、  メンバーの村々の帰属地が次の3つ分かれます。
A 天領の小松荘4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
B 髙松藩の真野・東七ケ村・岸上・吉野・塩入
C 丸亀藩の西七ケ村・佐文

まんのう町エリア 讃岐国絵図2
              讃岐国絵図 寛永十年 
これが踊りの運営を難しくしたようです。Aの天領とBの髙松藩の村々が対立を繰り返し、運営不全に陥り、明治になると自然消滅していくことは以前にお話ししました。私が疑問に思っているのは、天領と髙松藩の村々がどうして、これほどもめるのだろうか? その対立の原因がどこから来ているのかということです。どうもこの時期には、天領の苗田村と髙松藩の村々の間で、激しい水争い(水論)が同時に展開されていたのです。それを今回は見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論」です。

夫婦井横井の文政四年から同六年にかけて起こった水論について
これについては、岩崎平蔵が書き残した「鵜足郡那珂郡大川筋井堰御料苗田村之者共切放し夫婦并横井建方一件文政六未年四月二日より九月二十八日迄備中倉敷御役所江出役内済口掛合御一件控」(以下「文政四年の水論」)という文書があります。これはもともとは、まんのう町岸上の奈良家に伝えられていたものですが、今は飯山町法勲寺の岩崎家に保管されているようです。まず長い表題を意訳しておきます。
 「鵜足郡と那珂郡の間を流れる大川(土器川)筋の井堰を天領苗田村の者たちが切放し、夫婦横井の水を奪おうとした一件について、文政6未年4月2日から9月28日まで備中倉敷代官所で行われた仲裁交渉についての控」

文書は、美濃紙計115枚という分量で、訴状や書簡が多く載せられています。  まず夫婦井(みょうとい)横井から見ていくことにします。 


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「喜多村俊夫 溜池灌漑地域における用水配分と農村社会」より 
 生駒藩時代に西嶋八兵衛によって満濃池と用水路が整備され、那珂郡南部では田植えのための水は確保できるようになります。しかし、周期的にやって来る旱魃などで水不足が解消されたわけではありません。そのため村々では、旱魃に備えての非常用の水源確保が次の課題となります。そのような中で進められたのが出水(湧水)からの用水の導入です。

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 夫婦井横井は、元禄年間(1688~1704)、那珂郡の大政所高畑権兵衛正勝が構築したと伝えられます。
  水源としたのが土器川右岸の長尾村佐岡東の「夫婦湧出水」です。

ふうふふうふ
夫婦出水 → 夫婦井横井(木水道) → 苗田 → 公文 → 買田池

夫婦出水から用水路を北方へ掘り、佐岡山の麓からさらに西方へ引いて、薬師岩の北で土器川に落とします。そして鯰岩の西の土器川の川底に埋樋を設け、堤防の下に暗渠を作って用水路と連結し、高篠・公文ヘ75%、苗田村へ35%の水を配水します。この横井を「木水道(きすいどう)」と呼んでいたようです。また木水道によって取水された水は、冬の間は公文村を経て、買田池(善通寺市)に貯められていました。つまり、買田池の水源の役割も果たしていたことになります。
 時が経つにつれて天領の苗田村の農民達の中には、この木水道の権利を自分たち天領の農民に与えられた既得権利と思うようになっていきます。そして木水道の土器川川上に埋樋を設けさせないことと、土器川の横井普請で、木水道に不利になるような変更を認めないという立場を押し通すようになります。これは天領の百姓であるという優越感に支えられたものでした。

夫婦井横井の絵図
   夫婦井横井(木水道)の絵図
宝暦五年(1755)に鯰岩の分水点で、分水についての水論が起こります。
その顛末を見ていくことにします。この年は高松藩記にも「夏日照り」と記され、早魃のひどかった年のようです。水不足になった羽間免の安造田(あそだ)新開の農民が、鯰岩の東側に新井手を掘りつけ、横井を新しく設けて水を安造田側に引き込もうとします。これに対して、夫婦井横井から引いていた四条村や高篠村・苗田村の農民が、安造田新開の農民が設けた横井を切り崩して井手を埋めます。すると安造田側は、また井手を掘って横井を築くことが繰り返され、遂に仲裁に持ち込まれます。その時の「仰せ渡され書(仲裁書)」には、次のように記されています。(意訳)
○ 中井手用水は、古絵図にも見えている用水で、郷普請奉行が仕渡しているものであるから、岩薬師という所の上に流水がある時は、中井手用水に水を遣すこと、この水分けをする時には双方の村役人が立ち合って、騒動がないようにすること
○ 水流がなくなって、出水からの水だけになると、三つの村の者が川の中の水路を掘り浚えて木水道へ水を引くことになる。中井手筋水掛りの者が、横井を塞き立てたり、川端を切り開いたりしてはいけない

ここでは中井手用水は川の流水をとる施設で、木水道は夫婦湧出水からの水を採る施設であると認めています。この仰せ渡され書によって、文政四年までの約70年間、この場所での水論は起きませんでした。
小松井出水をめぐる四条村と苗田村の水論 
文化四年(1817)8月に、夫婦井横井の約100m川上の西岸の小松井出水で、新しく「う津め(埋樋)」を設けているという話が、苗田村西組庄屋の川田虎五郎のもとへ伝えられます。早速に西組から又兵衛・吉蔵・由勝、東組から味右衛門・重右衛門を指し向けて調べてみると、「う津め」の工事が行われていました。苗田村は、すぐに工事差し止めを申し入れをします。これに対して四条側は「吉野下村忠右衛門持林の中へ、「う津め」工事を行っているが、下の木水道水組に差し障るようなものではない。」と返答して工事を続行します。苗田村側は、川田虎五郎と守屋吉右衛門の両庄屋の連名で、那珂郡大政所の和泉覚左衛門と真光作左衛門に八月十日付けで抗議文を送って、工事の即時中止を求めます。その末尾には次のように記されています。

「勿論当村百姓共より申出候は、弥々右普請相止め申さざる時は、御役所表江御訴証も致し候段申出候云々」

「御役所表江御訴証も致し候」というのは、「倉敷の代官所へ訴え出る」ということです。これは髙松藩の村々にとっては避けたいところでした。なぜなら髙松藩に訴え出るのなら現地で仲裁交渉ができます。ところが天領の村々に訴えられると、倉敷の代官所へ大勢が出向いて、長期滞在が強いられます。それは費用のかかることです。これは避けたいところです。そのため天領の村々とは、もめ事をを起こしたくないというのが正直な所です。こうして天領の村々は、自分たちが優位にあると思い込み、強引なやり方を重ねるようになります。この時も高松藩が事件の重大化することを恐れて、四条村側を説得して四条村側は普請工事を中止し、苗田村との和解が成立しています(金刀比羅宮文書 小松井出水一件)
 文政四(1821)年の水論     天領苗田の農民達が土器川の横井をいくつも壊した
 この年の夏も大早魃で、ついには夫婦湧出水も枯れてしまします。これについて苗田村の農民は「上流にある横井が規定を無視して、横井を厳重に塞き止めたために、水がやってこなくなった」と考え、直接行動に出ます。苗田村の農民数十人が、6月10日の夜、炭所西村の片岡上所横井(常包横井)、大向興免横井、長尾村薬師横井、札の辻横井の4ヶ所の横井を切り崩します。騒ぎに気づいて集まってきた地元の農民は、暴徒の中に天領の農民が混じっていることに気づいて、あえて争うことなく我慢してこれを見守ります。
 さらに12日後の6月22日昼八ツ時(午後2時)過ぎの白昼に、四条・高篠・苗田の農民数十人が押し寄せて、炭所西村大向の吉野上村荒川横井と、吉野上村大宮横井を切り放します。この時にも暴徒の中に天領苗田の農民が数多く混じっているのを確認します。しかし、地元の農民は、天領民と争いを起こすと、倉敷代官所へ訴えられて多くの入費がかかることを恐れて、あえて争いません。
 こうした中で天領苗田村の農民が大勢押しかけて、夫婦井横井の埋樋や井手筋を、自分たちの手で掘り浚えようとしているという風評が拡がります。那珂郡の大政所の真光作左衛門は、もしそのようなことが起こると、水論の解決がさらに難しくなることを恐れて、郷普請人遣いの佐吉郎に命じ、人夫120名余りを使って烏帽子岩の上手に横井を取り付ける普請を行います。これに対し、苗田側から横井の位置が違っていると、厳しい抗議が起こります。改めて作左衛門が鯰岩の現地見分して、苗田村の異議申出を認めて、木水道の取入口の横井を烏帽子岩の下手へ引き下げることを独断で決定し、二日掛かりで烏帽子岩の下手へ横井を引き下げる普請を行います。しかし高松藩では、溜め池や横井の普請は郷普請奉行の担当普請であって、村々から人夫を出して郷普請人遣いの指図によって普請を行うことが慣例でした。水論に絡む火急の普請ですが、大政所一人が各方面と十分に協議しないで、変更工事を行ったことは越権行為です。これが後日に大きい問題を残すことになります。
これに対しての高松藩の立場は複雑です。慎重な対応を求められます。
木水道から取り入れた水は、75%が高松藩領の東高篠村・西高篠村・公文村に掛かり、残りの35%が池御料苗田村の水掛かりです。木水道から取り入れた冬期の水は、買田池が承水する権利を認められていたことは先ほど見ました。
高松藩では、今回の暴動に加わった四条村の農民の、増蔵・駒吉・政蔵と外三名、東高篠村の農民の半十郎・庄助・新蔵、西高篠村の農民の岩蔵・源二郎。大五郎・竹蔵の計13名に郷倉への入牢を申し付けています。こうして切り崩しに参加した自領の四条や高篠の農民の処罰を行います。その上で、苗田との交渉にいどみます。
 藩政時代の水論は、藩の役人は後ろに下がって、当事者間の交渉に任せるのが常道でした。そのため適当な仲裁人を選んで、事件を解決させる道がとられます。高松藩領側からは、那珂郡の大政所の真光作左衛門と和泉覚左衛門が連名で、池御料榎井村の庄屋石川信蔵・苗田村東組庄屋守屋吉左衛門・苗田村西組庄屋川田虎五郎の二人に宛て、七月二日付けで、次のように文書で申し入れます。

「藩が郷普請で維持している横井を、数か所にわたって、しかも白昼に切り崩したのは、理不尽な暴挙である。厳重に取り調べてほしい。」

当寺の天領・池御料側では、榎井村の庄屋石川信蔵が池御料全体の代表者でした。
しかし、今回の事件には榎井村の者は関わっていません。そこで苗田村東組の庄屋守屋吉左衛門と、苗田村西組の庄屋川田虎五郎が連名で、次の三点を強調した返書を、8月4日付けで返答します。

○ 佐岡夫婦井横井の川上にある常包横井は、石だけで関(築)立てる慣行であったのに、近年になって石関の上に筵や菰をかけ土砂を持ちこみ、手丈夫に関立て少しの洩水もなくなった、常包横井にならって川下の横井も同様に関立てるようになったので、佐岡夫婦湧出水の水が出なくなった、横井を切り崩したのはそのためである。

○ 木水道(埋樋)とその井路筋(用水路)の掘り浚えの普請は、高松藩側で行ってきた普請であるが、近年になって修繕してくれないので、苗田村へ水が届かなくなった。

○ 鯰岩の際の岩(烏帽子岩)の下手に横井を関立て、木水道へ水を引く慣行であったのに、近年になってこの横井を烏帽子岩の上手に関立てるようになったので、木水道に水がかからなくなった、6月26日に改めて岩の上手へ関立てたので、7月2日に異議を中し立てると、岩の下手に関立てた。この七、8日の間に大切な水を失った。このようなことがないようにしてほしい。

高松藩は吉野上村の政所で、横井の切り崩しの被害者である岩崎平蔵に下問します。藩の普請方の小頭役を兼務していた普請の専門家でもあった平蔵は、次のように答申します。
○ 常包横井は石関立というが、石だけで水を引くことはできない。常包横井のある場所は川幅が至って狭く、 一面岩滑の上に関立てるので、下敷はしだ(羊歯)であって、その上に川筋にある砂に川筋にある砂を持ちこんで石で関立ててあるが、延や菰は一切使用していない。この横井の普請は炭所西村・長尾村・吉野上村の村役人が立ち合って、究め(規約)の通りに運用している。大向興免、薬師横井、札の辻横井も石を使っているが、延や菰は使用しないので、洩れ水がないように塞きとめることはできない。6月10日の夜、これらの横井に水が充分にあったということは虚偽で、ほとんど水はなかった。
○ 大向荒川横井と大宮荒川横井は、ともに吉野上村が水掛かりの横井で、二つとも川幅の広い所に設けてある。そのため川幅一ぱいに関立てることはできない。水流に応じて流れこみの石や砂の上に横井を関立てて筵や菰をかけ、川筋の土砂を持ち掛けて仕立ててある。横井の下手30間(約55m)ほどの所に漏れ水が湧き出ている。常包横井以下の横井が関立方を改めたので、夫婦湧出水の水が出なくなったというのは、池御料(天領苗田)側の強弁である。

○ 近年になって、木水道や井路筋の普請をなおざりにしたというのは、池御料側の詭弁である。享和年中(1801~4)以来、用水路の掘り浚えは隔年毎に行っている。池御料関係の用水路426間(約775m)についても、人夫313人を使って、さらえと刃金(粘土)入れ普請を行っている。

○ 鯰岩際の横井の立場所については、特定の規約はない。川中の流れの様子により、適当な場所を選んで関立ててきた。池御料側が横井の仕置を下げるように主張するのは、現在の川の流れからみると、下げる方が有利であるからで「木水道の取り入れ日から烏帽子岩にかけて」というのが原則であると思う。

こうして次の仲裁人が選ばれて仲裁が進められることになります
高松藩では、阿野郡南の萱原村の政所治右衛門
池御料側は、榎井村仮年寄の半四郎と治右衛門
なお、那珂郡の大政所真光作左衛門については、先に郷普請奉行の指揮を仰がず、関係者と協議しないで二度の普請を行った責任を問われて、「慎み」を仰せつけられます。そして、この交渉には参加させていません。

ここで最初のテーマ「那珂郡七箇村念仏踊りが内部分裂して行ったのはどうしてか?」に、立ち返ります。
以前に那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。

那珂郡七箇村念仏踊りと水論


①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒騒動の後、讃岐が東西に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと⑤19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
⑥ところが天領苗田村との水論が、念仏踊りの運営にも障害となり、村々の求心力が失われたこと
ちなみに、那珂郡七箇村組念仏踊の1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。
「那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋」
つまり、岩崎平蔵は那珂郡七箇村組念仏踊の総責任者であると同時に、髙松藩側の水論の代表者的人物でもあったのです。そのため天領側はいろいろと難題をもちかけては、念仏踊りからの脱退をほのめかすようになります。求心力を失った踊り組の運営が困難に陥ったことは以前にお話ししました。
その対立の背景には、同時進行で進んでいた水があったことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 近世 239P  夫婦井横井の水論 
参考文献

 大戦末期に国策として実施された松根脂の採取運動について前回は次のようにまとめました。

松根油採集運動1

1944年の秋から冬にかけて進められた松根油の採集運動は、多くの人々を動員して国民運動として展開されます。しかし、松根を掘りだしても乾留用の釜不足などの不手際が重なり、当初の目標生産量には達しなかったようです。

兵士の記憶(昭和18年)▷撃ちてし止まむ | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

しかし、時のスローガンは「撃ちてし止めむ」です。現状報告を受けた上で、「撤退」はできません。それは責任問題になります。現場がどうであれ、中央から出される指示は「前進」です
政府は1945(昭和20)年3月16日、「松根油等拡充増産対策措置要綱」を閣議決定します。
前年の「緊急」措置要綱を「拡充」と変えグレードアップした内容になっています。
第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす
第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂
第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす
一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと
二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること
三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること
五、精製工場の急速整備を図ること
備考
二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
第1条は、まさに「撃ちてし止めむ」で「(松根油生産の)拡充増産体制を早急に強行しろ!」ということです。そして第2条では、生産目標を倍以上に引き上げています。その目標達成の達成のための具体策としてあげられているのが、次の3点です
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、
②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など
③配備が遅れている乾留釜の設置
②には国民学校卒業生とありますが、旧琴南町の国民学校の生徒だった人は後に、次のように語っています。
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。

ここで注目しておきたいのは、備考二にあるように3月からは「松脂」も液体燃料用に活用されるようになったことです。松脂は、松の幹に傷を付けて染み出す樹液のことです。

松根油1

こうして大本営がいきあたらりばったりで立案した「机上の空論」がマスコミを通じて、国民に「大本営発表」として伝えられ、官制運動が組織されていきます。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」
簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」
特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ
村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
松脂採集 4
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』 松脂を採集する母親
昭和20年8月9日付『秋田魁新聞』は、赤ん坊をおんぶした母が松の木から松脂を採る姿を載せて、次のように記します。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
サァ皆んで採らう素敵な航空燃料これで飛ぶゾ 友軍機も一本でも多く採れ今にもの見よ米鬼ども、天与の航空油資源は訪れる勝機にぐんぐん溜る一方、割当採集の指定を受けた各町村では森林組合を中心として各地松林の活用を取り定めて目標突破を期しているが(中略)

松脂採集 毎日新聞


 松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。

松脂採集3
松油(ヤニ)採取 育児と採取が出来ることを強調した写真

もういちど確認しておきます。マツから油をとる2つの方法が政府から示されたことになります。
①マツを伐倒して根を乾留する方法
②樹皮から松ヤニを採取する方法
②の方法を、国民学校の生徒として参加した人は、次のように語っています。
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」

もともとは「松根油」(しょうこんゆ)の採集には、伐採して約10年以上が経過し、琥珀のように変質した松の根が使われていたようです。しかし、松の古株が掘り尽くされると、松のほかに杉、檜など常緑樹の古株、さらには生木を伐採した上での採掘も行われるようになります。そして、生木から松脂の採取がはじまります。そして山の中のマツだけでなく、防風林・公園のまつまでおよぶことになります。
戦争を伝える松

  戦争を伝える松
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」                           上田市教育委員会

松脂採集跡4
松脂採集のための傷を残しながら生き続ける松(上田市下之郷東山)

松脂採集7

金沢の兼六園の古松にも松脂採集跡がのこされているものがあるようです。

□松の傷(かなざわ百万石ねっと>特別名勝 兼六園>平成の庭・梅林・金城霊沢)

金沢兼六園の「松の傷」
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。

兼六園の古松からも脂
松脂採取の傷跡の残る松(兼六園)

松脂 金沢兼六園2
兼六園の松から松脂を採取する女学生たち
兼六園の松からも松脂が採集されています。国家危急の折に「一億総玉砕」に掲げる中で、兼六園の松であろうとも協力するのは当然と考えられ、時の指導者達がOKを出したのでしょう。「総動員体制完遂」という国策遂行のためのイメージ戦略だったのかもしれません。ここでは兼六園の松からも採取されていることを押さえておきます。同時に日光街道などの街道沿いの松なども採取対象になったことが新聞には記されています。
先ほど見た秋田魁新聞には、松に傷をつけても「松は死にはしない」とありました。しかし、樹皮を剥がされ傷つけられた松は、大きなダメージを受けて枯れた木も多かったようです。それが前回見たようにまんのう町(旧琴南)の山の中に、傷跡を残しながら立ち枯れ姿となっているのです。

松脂採集8
松脂採集跡を残す立ち枯れの松幹
松脂採集5

松から脂をとるために大量の木が切られるようになるのは1944年秋以降のことです。
実は、その前年からは「軍需造船供木運動」がはじまり、各地の巨木が伐採供出されていました。
日本の輸送船が南洋で次々沈められたのに対応して、急ぎ木造船を増産するために大量の木が伐られたのです。1943年2月に「軍需造船供木運動」は始まります。これも山の木だけ出なく屋敷林や社寺境内林、並木や防風林まで目をつけられます。そして、半年足らずの間に、全国から百万本以上の巨木が「出征」します。この巨木の「供出」「出征」の際にも、美談や「熱誠」を演出して競争心をあおる官製「国民運動」が興され、新聞がこれをこぞってとりあげます。大政翼賛会による下からの官民運動の進め方は、次のような手順です。
①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、
②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
ある意味では、松根油や松脂の採集運動は、「軍需造船供木運動」の「二番煎じ」だったようです。そのために姿を消した巨樹たちも多かったのです。一方で、国策に抗い巨樹を守り抜こうとした人達もいたのです。

応召される松並木 岡山県
『写真週報』第270号(1943年5月5日)岡山県の津山市二宮松原の並木伐採の様子
タイトル 応召する三百歳の杉並木
右上 松並木遠景
左上 市長による斧入
伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」
金子恭三  「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)   
信州戦争資料センター(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)
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まんのう町の町報「ふるさと探訪 アカマツに残る先人の営みの足跡」という記事が載せられていました。
ふるさと探訪原稿 松油採集

ここには、敗戦直前にガソリンなどの代替燃料として松の幹から燃料油を採取して利用しようとしたこと、それとは別にアカマツの幹に傷を付けて油を集めた跡も残っていることが報告されていす。このことについて、以前から興味を持っていたので、今の段階で集めた情報をメモとしてアップしておきます。まずは根から油を集める「松根油」についてです。テキストは、信州戦争資料センターの記事です。(https://note.com/sensou188/n/n0016eaa81420)。ここには、次のようなポスターが紹介されています。

松根油1

タイトルは「埋もれた戦力・松油掘出せ」「松根油 緊急増産」とあって、切り倒された松の根を母親と子供が掘りだしています。「銃後を支える婦人と少国民」の雰囲気がよく出ています。ここからは太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から翌年にかけて、松の根を掘り出し、その脂分で「油」にする作業が行われていたことが分かります。
「陸軍燃料廠ー太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」(光人社・石井正紀著)には、次のようなことが記されています。(要約)
光人社NF文庫<br /> 陸軍燃料廠―太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い (新装版)

1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報で「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という情報が届いた。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」として、国内年間消費量の1/3ほどの採油が可能と報告した。その計画に陸軍、農商省、内務省が乗っかり、10月20日には最高戦争指導会議で承認された。

この決定に基づいて、担当相となった農商省が10月23日の次官会議で「松根油等緊急増産措置要綱」をまとめて、各府県知事を通じて松根油の生産活動が始められます。その運動を進めるために全国に配布されたのがこのポスターのようです。
松根油等緊急増産措置要綱
「松根油等緊急増産措置要綱」の第一条・方針には次のように記します。

「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」

意訳変換しておくと
皇国決戦の最終段階に対応するために、山野に放置されている松根を動員する。そして乾留方法で松根油の飛躍的増産を図る。現在は非常に重要な局面にあり、ことは緊急を要する。ついては、皇国の農山漁民の底力を最高度に結集発揚し、本事業の完遂を図り、皇国戦力の充実増強に寄与すべし。
第二条・措置
「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」
 
いつものように音頭を取るのは、大本営ですが実施方法は「地方長官=知事」の責任制です。現場には、農会などを通じて実行させることになります。結果に、大本営は責任をとりません。

 松根油の作り方は、次のような工程でした。
①松の立ち枯れた古木(樹齢50年以上)をさがしてし、松株を掘る。
②伐根のノルマは 1 日 150~250kg
③掘り出された松の根は、貯木場に蓄えられた後、小割材にしてカマス袋に入れ、乾溜缶(100 貫釜)に運ぶ。
④釜の内部には中カゴがあり、この中にあらかじめ割砕した松根原料を詰める。
⑤粘土と石灰を練り合わせたものを、釜と蓋の間に塗り込み密閉し、火を焚いた。
⑥出てきた蒸気を冷却し、液体化した油分である「粗油」を改宗する
⑦これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、
⑧軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする
 この工程案に基づいて、1944年冬から、松の根を掘りだす作業に動員が始められます。当寺の新聞には、割当目標を達成の記事が載せられて、互いに村々を競い合わせています。

松根油増産戦
            昭和19年12月28日 松根油増産戦 各地の情報

当事者は当寺のことを、次のように回顧します。

とに角この仕事に動員された人々は、ここでも滅私奉公を強要され、腹をすかしながら馴れぬ手に血豆を作り、死に物狂いで松根の掘り起しに従事した。先ず在来の松脂集めには、国民学校の生徒や、都市から農山村に疎開している婦人達が充当された。松根株集めには、鉄道の枕木、鉱山の杭木用に伐採されて全国の山野に放置されている推定八十億株の松の古株を第一目標にした。これが無くなれば次々に立木を伐採し、枝も葉も根も接触分解法や乾溜法の原料にすることになった。

こうして松根はほりだされます。ところが③の乾留釜がありません。釜が据えられても今度は生産した粗油を入れるドラム缶が届かない、ドラム缶を入手しても、輸送ができないといった八方塞がりに陥ります。春頃には、山積みされた松根があっちこっちでみられるようになります。

 『石見町誌』には、「モデル地区」となった矢上と中野に松根油の製油工場が建ったようです。
そして、海軍予備学生の生徒が動員されて松根掘りが始まります。笠森惣一氏の回顧録には、次のように記されています。

旧石見町では中野茅場にまず松根油抽出工場が建ち、抽出釜6基を配置。田植えが済むと松根堀りに駆り出され、中野の松根油は検査の結果、島根県下最優秀油に選ばれ、軍部も目をつけるようになった。山口の徳山から技術者を呼び寄せ、工場は矢上にも建てられ、抽出釜は中野7基、井原7基、矢上6基を設置してフル回転。海軍省からは矢の催促と慰問、激励を受けた。そこで、村民あげての松根堀りになった為に、20基そこそこの釜では対応し切れず、根っこをそのまま大田や松江の工場へ運ぶほどだった。そのおかげで、島根県の松根油は海軍大臣より感謝状を贈られた。

この時の鉄釜を、邑南町中野(石見地区)にある西隆寺の梵鐘は、その釜を現在でも使用しているようです。ちなみに松根油採集に使用された 乾溜炉跡や釜など遺物は全国に余り残っていないようです。全国各地に点在している可能性のある松根油製造関連の遺物の確認が必要だと研究者は指摘します。
       
松根油の窯
邑南町中野(石見地区)の西隆寺の梵鐘は、松根油の竃の再利用

 戦時中の国民向けの宣伝には、次のような、スローガンが並んでいます。
「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」
「掘って蒸して送れ」
「全村あげて松根赤たすき」
これは別に視点から見れば、数十年かけて育ったマツ 1 本で、18 秒しか飛行機は飛べなかったことを意味します。もともとエネルギー資源としては効率や持続性・再生産性に欠けるものだったのです。そんため敗戦後は、松根油は近海の漁船の燃料に使用されたのみで、その役を終えたと研究者は報告しています。

松根油2

松根油の実用性についても見ておきましょう。

松根油は牛白色の粘着性液体です。そのため時間の経過とともに粘着成分ができて、燃料フィルターを詰まらせ、燃料噴射状態が悪くなりました。その打開策として、エンジン始動時には通常燃料を使って、エンジンが暖まってから松根重油(ガソリン含有量 20~30%)に切り替える方法を用いています。松根油航空揮発油を燃料として使用されたのは、テスト飛行のみで戦闘には使われていなようです。
 1945年になると本土の空襲が本格化、戦力の弱化、資材と技術の不足からほとんど活用されることはありませんでした。松根油製造は、国家総動員体制のひとつの目玉と国家あげて生産体制が組まれました。しかし、それは一貫した見通しがなく、機上の空論を現場に求めたものでした。

齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」には、次のように記されています
大戦末期の松根油の採集・増産活動は、松林の広域伐採を招き、これが敗戦後の山地荒廃を招いたとする説がある。しかし、実際にどれほどの松の木が伐採され、山地荒廃にどれほどの影響を与えたかは資料的に残っていない。文献資料を通じて、松根油生産の実態を可能な限り詳細に明らかにすることを目的とした。

と述べた上で、次のように整理要約しています。
①松根油生産は第二次世界大戦以前から生産が行われていたが、その生産は大戦末期に極限に達した。
②松根油を生産する地域には偏りがあったが、大戦末期になるに従い、全国的に生産されるようになった。
③過剰な松根油生産が山地荒廃につながる危険性が認識されながら、大戦末期には過剰な生産ノルマが設定された可能性が高い。
④松根掘り取り過程に関しては、概ね生産ノルマが達成された。
⑤松根油生産が山地荒廃に与えた影響を検討するためには、対象地区を限った上で調査を行う必要がある。
 ちなみに、松根油政策に遅れて、本土決戦戦略の一環として進められるのが各県での飛行場建設です。香川県でも髙松(旧林田飛行場)・飯野山南・三豊平野に飛行場建設が旧制中学校の学徒動員で進められます。飛行機がないのに、燃料や飛行場を造っても意味が無いように現在の我々は思います。しかし、大本営が考えていたのは、何もしないで国民を放置しておくことに恐怖を感じていたようです。「小人閑居して不善を為す」の言葉通りに、放って置いたら不安に駆られて何をし出すか分からない。米軍機は「反乱の扇動」を行っている。それに対応するためにも、政府の下に国民を動員し続けることが必要と考えていた節があります。これは戦術や戦略ではなく、「愚民政策」だった云えるのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
齋藤 暖生  「文献資料に見る第二次世界大戦期における松根油生産の概観」
金子恭三  「松根油」pp.366-376、 日本海軍燃料史(上)燃料懇話会(1972)
金子貞二  「明宝村史 通史編下巻」pp.492-495
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四条・吉野の開発
まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎) 

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
関連記事



まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
関連記事

丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

  
    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長尾の町代遺跡と古墳群

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

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大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
HPTIMAGE

丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長炭の土器川右岸の古墳群(まんのう町HP まんのうマップ)

それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
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麦稈真田沿革史2

前回は麦稈真田の盛衰史を上のようにまとめました。今回は麦稈真田の生産を農家がどう受けいれたのか、また輸出商品としての麦稈真田がどのように生産・加工されていたのかを見ていくことにします。

麦稈真田の種類2

麦稈真田デザイン

さまざまな麦稈真田デザイン これを材料に帽子などが作られた
麦稈真田の生産を県や郡が農家に勧める上で、根拠となった専門家の説明を見ておきましょう。


麦稈真田工業案内 中山悟路
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

麦稈真田工業案内 中山悟路 家族経営の長所
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
    麦稈真田生産の利益は、独特の製法で作られる物なので家族経営でおこなうのが一番利益を上げられる。中でも農家が自分の家で栽培した麦で作れば 利益は大きいものになる。例えば一反当たり50貫の麦稈材料が確保できる。5反の田んぼで裏作に麦を作れば、
麦稈真田工業案内  家族経営の長所

中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
50貫×5反=250貫で、これを材料吟味して4割の歩留まりとすれば、約100貫の材料をえることができる。この麦藁材料を用いて平均的な麦稈真田を組むと1貫で7反が作れるので、106貫×7反=742反の真田が作れることになる。平均的出荷額は「1反=30銭」なので、その収入は「742反×30銭=約221円」となる。材料である麦を買うことなく、職人を雇わず家内工業で行えば、これがすべて家族の丸儲けとなる。
 しかし、材料を他から買い入れ、職人を雇い入れたりすれば、このような高利益は上がらない。 1/3程度の利益しか上がらないだろう。まさに麦稈真田生産は農家の余暇を使って営める副業であり、しかも高利益が上げられる。何人も速やかに起業すべきである。

ここでは麦稈真田を家族経営で行う事の有利さが述べられています。零細な5反農家が二毛作で麦を作り、それを材料に真田を編めば、200円を超える利益が上がるとされています。今から百年前の大正末期の物価を見ておきましょう。
①大卒サラリーマンの初任給(月給)は、50~60円
②職業婦人の平均月給はタイピストが40円
③電話交換手が35円
④事務員が30円
副業としての麦稈真田は、零細な農家には「美味しい話」だったようです。
大きな機械が必要ないので初期投資がほとんどかかりません。そのために香川県では、日清戦争後に急速に普及したことは前回お話ししたとおりです。私は、香川県で作られた麦稈真田は、国内の麦藁帽子などに供給されていたのかと思っていました。しかし、麦稈真田の生産高が急速に伸びたのは海外に輸出されていたからでした。国内提供分よりも、はるかに欧米への輸出用が多かったのです。そして日本から輸出された麦稈真田は、アメリカや欧米で帽子に加工されていたのです。帽子のスタイルなどは、伝統文化や流行に左右されるものなので、消費国で作成されます。次に、第一次世界大戦中に輸出商品としての麦稈真田の未来図を論じた新聞記事を見ておきましょう。

麦稈真田2
麦稈真田

大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )
意訳変換しておくと
  「輸出復興時代来る 某当業者談(上)
数日前の貴紙社説欄に麦稈真田の輸出振興策として漂白輸出を開始すべきだと述べていたことに大に我意を得た思いがする。輸出用の麦稈真田は、発展への今が大きな分岐路になっている。そのために発奮努力して日本麦稈の真価を世界に周知させる時である。①麦稈真田の世界市場での競争者は瑞西(スペイン)と伊太利(イタリア)である。瑞西の麦稈は、日本のものと似て細小である。それに対して伊太利のものは麦稈に穂先だけで組むトスカンと包被部分をも用いた二種がある。②日本麦稈と競合する中国の麦稈の産地は、山東、河南、安徽から揚子江北岸までの間のエリアである。ここの麦稈は伊太利トスカンとは違って、繊緯が強靭にして量目も重く欠点が多いので主に労働者用帽子の原料として使用されている。そのため価格も伊太利トスカンや日本麦稈に比べると低廉である。日本麦稈と同じように、一度欧洲に輸出せられた後に漂白染色して、中米南米方面に輸出されている。これは日本麦稈のライバルではない。
 ③日本麦稈は瀬戸内海の両岸の岡山・香川を主産地とする。繊緯は緻密で軟かく、そのうえ光沢に富み、軽いことを特色として、紳士用の夏帽子や婦人用の四季帽子に使用せられいる。帽子原料としての麦稈に求められる二大要件は、軽いこと、被って気持ちいいことであるが、色彩光沢に富み染上が美しいのは、日本麦稈だけである。この点では、ライバルである瑞西麦稈も伊太利麦稈も我國の麦稈には及ばない。④この真価が次第に世界の製帽家に認識せられるようになって、麦稈輸出が再び復興してきたとと思う。

要約しておくと
①第一次世界大戦直前の1914年1月の記事である
麦稈真田の世界市場でのライバルは、スペインとイタリアであったこと。
③中国の麦稈は品質面で日本麦稈のライバルとはいえない。
④日本麦稈は岡山・香川を主産地として軟かく、光沢に富み、軽いので、紳士用夏帽子や婦人用帽子に用いられている。
⑤この品質が欧米で認められて日本からの輸出が伸びている
ここからは世界の麦稈真田の主要生産地は、スペイン・イタリア・中国・日本で、その中でも品質が優れていると認められた日本製が急速に占有率を伸ばしていきます。
記事の後半「東洋麦稈合同を作れ 某当業者談(下)」を見ておきましょう。
日本の麦稈真田の次の課題は、新たなる飛躍策である。ところが日本麦稈の主産地である岡山・香川の瀬戸内海両岸の地は、⑥麻真田が市場に参入して人気を集めるようになると、生産意欲が萎縮しているように思える。ここには麦稈栽培を専業にする者はいない。そのため生産高が上がらず、品質も降下気味である。これを放置すれば、今後の輸出振興に大きな障害となりかねない。岡山・香川、山口などの主産地はもちろんのこと、⑦その他の各府県に対しても麦稈栽培を奨励し、同時に検査所の権限を拡張し、品質の均一化を計り、輸出振興策を今のうちから行うべきである。
 一方、対岸の支那麦稈は粗悪で改良の余地がある。そこで日本は、技術者や指導者を派遣して播種耕作や乾燥技術などの技術援助を提案する。それが実現すれば、中国でも今まで以上の優良品を生産できるようになり、生産額も増加する。そうなれば我が國のみならず東洋麦稈の改良と産額の増加の実現につながる。これは世界の新需要につながる道となる。日本が率先して漂白輸出の道を開くためには、⑧今は一度欧洲へ運ばれている支那麦稈を隣国の日本で漂白して、日本経由で南米諸国へ輸出することになる。日本は日本麦稈と支那麦稈を双手に握って東洋のルートン、リヨン、もしくはフローレンスへの道を目指すべきである。
 近頃、支那の孫中山(孫文)氏が、やってきて盛に東亜同盟を説きつつある。私の立場からすれば、そのためには先ず実業界において「麦稈トラスト」を組織し、東洋麦稈の商権を伊仏英の手中より奪い、日華両国の支配下に置くことを主張したい。日本と中国の麦稈合同は、日本による漂白輸出の開始を意味する。そうなれば東洋麦稈は数年ならずしてイタリアの麦稈を凌駕するであろう。
要約しておくと
⑥麻麦稈が出現し流行になると、麦稈真田が市場を奪われ、香川の農家の生産意欲が低下していること
⑦打開策の一つとして中国への技術指導を通じて、支那麦稈を日本経由で欧米に売り込むことを提案
⑧日本と中国が「麦稈同盟」を結ぶことがイタリア麦稈の市場占有率を切り崩すことにつながる

ここに出てくる麻真田について見ておきましょう。
  夏帽子の原料である麻真田がイギリスから日本に輸入されたのは日露戦争の始まる前年のことです。明治36(1903)年に、イタリアで製作された「十三打ち麻真田」が、ロンドンから日本へ輸入されます。それが国内で生産されるようになるのは、明治41(1908)年のことです。横浜の上流合資会社が工業化に成功し、豊橋などを拠点にゆっくりと成長して行きます。麻真田はフィリピン産のアパカ植物の葉幹を繊維化したもので、絹のような光沢と耐水性、耐摩擦性に富んでいることから婦人用帽子などに使われました。当初は麦稈真田の影に隠れた存在でしたが、電力使用が普及すると、編織機が手動式から電動式に改良されます。工場生産で、能率が上がり、品質も改善され急速に成長し、第一次世界大戦後には、麦稈真田を圧倒するようになります。

麻真田織機
麻真田織機(豊橋市 石川繊維資料館) 
       次に今から約百年前の神戸又新日報を見ておきましょう。
見出しには「輸出真田の革命的改善機運」とあるので、生産過程などに大きな改善がありそうなことを記事にしているように思えます。早速読んでみます。

麦稈真田の革命的改善機運」

神戸又新日報(大正15年8月12日)(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )

神戸港の麦稈真田の輸出額は、年々その額を増加し重要物産中でも十指に数えられるまでに至った。近頃は不景気によって打撃は受けているものの、世間ではなお前途は楽観視され、通商発展は有望とされているように見える。しかし、昨今の麦稈真田の安値に市況は一段と沈静し、同業者は悲観の態である。下半期の業績もきびしい状況が予想せられている。これについて当事者の情況分析をを綜合すると、原料安に伴って麦稈帽なども三分の一の市価に落ち込んでいるという。値段が安ければ需要が増える、従って製品の販路は増えるというのが世間の見方だが、近頃の傾向はこれと正反対であるという。安値の藁帽子などは、中流以下の階級者に需要が多く、富裕層は麻真田とか品質のよいものが歓迎されていて、麦稈帽の人気は下落しているという。これは麦稈真田の同業者にとっては聞き捨てならないことである。

 このような状況を打開するために香川県などの生産組合は、製品改良に努め、各地で講習会を開催するとか、技術員を駐在させて麦稈製品の品質改善に努めている。しかし、その効果はあまり現れていない。その要因は、麦稈生産者の多くが農家の副業者であるからだ。技術者が改良を奨励しても、それに応えずに普通の編み上げを続け、何等の改良を加えない農家も多いという。この点を考慮して伊賀上野では、細目の編方を奨励し成果を上げ、非常な好評を博し需用を伸ばしている。改良すれば改良する程、それが副業であろうと本業であろうと、それだけ収入を増加することができる。ところが農家の副業では、技術者の指導を馬耳東風と吹き流し、昔から仕来りの編方を踏襲してなんの改良を加えない。そして、一反25銭の編賃を得て満足しているのである。改良した編方をすれば収入は倍額になるのに、農民たちはそんな手間のかかる仕事は真平御免だと言わぬばかりに一向に改良をしようとしない。こんな様なので、生産組合も今は持て余し気味である。今の状態では麦稈帽の将来は危うい。当業者もこのことに気づいて、大改良を加え品位の向上はもちろん、加工にも十分の注意すべく計画中であという。
麦稈真田に比べて有望視されているのが麻真田である。麻真田は大工業家の手によって生産されているので、品質改良や生産工程の効率化などが着実に進められている。そういう点からすると、現在の麦稈帽は技術も品質も、麻真田に対して優った点を見出す事が出来きない。このままでも労働者の被る麦藁帽子などにも麻真田に奪われて行く可能性がある。今の内に、麦稈真田は改良すべきであるとの意見が昂まって来た」
ポイントを上げておくと
麦稈真田の輸出額は、神戸港のベスト10に入っていた
①麦稈真田業界は、安値低迷に苦しんでいる
②その原因の一つが麻真田の出現である
③麦稈真田が農家の副業で、品質向上などへの取り組みが弱いのに対して、麻真田はて大工業家によって生産されているので、改良・改善に積極的に取り組んいる。
④このような差が麦稈真田の未来を危うくし、麻真田の未来を明るくしている。
記事の題名は「輸出真田の革命的改善機運」でしたが、書かれている内容は麦稈真田の危機的内容で、これらを行わない限り未来は見えてこないというものです。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押され、市場を失っていく様子がうかがえます。香川県の農家が盛んに麦稈真田を作っていたのは、日清戦争後から大恐慌の始まる約20年間だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ
神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 デジタルアーカイブ
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麦稈真田の生産開始と普及

前回は香川県の麦稈真田の生産開始と、その後の発展ぶりと上のようにまとめました。その中で⑥の明治末から麦稈真田は衰退したという坂出市史の記述について疑問があるとしました。それを今回は、当時の新聞記事で見ていくことにします。テキストは、神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 」です。ここでは戦前からの新聞記事がアーカイブスでみられ、私がよく御世話になっている所です。「香川県の麦稈真田」で検索すると、以下のような記事が出てきます。まず、第一次世界大戦中の好景気に沸く麦稈真田の様子を見ておきましょう。
麦稈真田3

各種の麦稈真田
大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る

大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県の農業は米麦作が主体で、剰余労力が多いので農家副業が欠かせない。香川県の麦稈真田の製造は明治15(1882)年に大阪の商人原田某氏が小豆郡草壁村に、麦稈購入にやってきて真田の製法を村民に伝えたことに始まるとされる。その後、麦作に適した気候風土もあって、麦稈の光沢が美しく、品質優良と認められ世界に販路を広げた。こうして農家副業として近年は急成長を遂げてきた。中でも大正元(1912)年度は、生産額が237万円に達した。①これは、生産額1位の岡山県に次いで、全国第2位になる。
ところが流行の変化で麻真田帽や紙製帽が欧米の流行の中心となると、麦稈真田の需用は急減退し、市価も低落した。そのため②昨年度(1915年)の香川県の生産額は36万円まで落ち込んだ。しかし、③今春以来再び英米の需用が増えて、初夏以来は注文が頻々と舞い込んでいる。そのため業者は目下の所は麦稈真田の製造に忙殺され需用に追いつかないほどの未曾有の活況を呈している。香川県麦稈真田同業組合の小林氏の話によると、麦稈真田の価格は高騰しており、昨年1反9銭だったのが本年は15銭となっているという。特に合九平22粍巾のものは昨年は一反19銭だったのが本年は43銭と、倍以上に高騰して、需用に追いつかない状況にあるという。
 このような時期には、粗製濫造に走る業者も出てくるので、当局側はそれへの対応に追われている。また香川県は、岡山や広島県に麦稈真田の原料を供給している。昨年は1貫目22銭だったのが、今は34銭で取引されている。香川県にとって将来有望な種類は合三平種である。(中略)
合三平四五の巾で一反の売価22銭に対して、コストは組賃9銭、原料7銭、仕立・雑費2銭を除くと4銭の利益となる。目下香川県の麦稈真田界は黄金時代を謳歌している。九月中に同業組合は証紙検印を行うようにして粗製濫造を防止しようとしている。今年の海外輸出反数は、110万反にのぼる予想がでている。
以上を要約しておくと
①大正元(1912)年度の生産額は237万円で、岡山県に次いで、全国第二位の生産地であること
②大戦勃発と麻真田帽や紙製帽の流行で、1915年は麦稈真田の生産額は36万円まで落ち込んだ
③1916年には需用が回復し、生産高・販売額共に高騰し、讃岐の麦稈真田産業は潤っている

次に、大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞「香川県の副業」の麦稈真田を見ておきましょう。
大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞  香川県の副業
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県では農家の副業して麦稈真田が根付くことによって貧しかった農村は次第に富裕となってきた。中流以下の農家でも貯金が出来る者が少なからず現れている。もともと香川県は空気が乾燥し、土壌が砂質なので麦稈真田の材料となる麦類栽培に適していた。その上に県民が手工に長ずるという特性も重なって発展してきた。①大正元(1916)年度の産額は1072反・生産額は237万円で、本県の生産品の首位を占めるまでになった。
 ところが1917年度になって関東地方で麻真田が作られ海外に輸出されるようになった。麻真田は軽いので婦人帽子に使われ人気が出た。②そのため麦稈真田は婦人用帽子には使われなくなり、男子帽のみの原料となったために需用は低下し、価格も低落した。その結果、1917年の生産高は641反 売上額は115円と、前年度の半分まで落ち込んだ。本年度も麻真田が人気なので、

麦稈真田の回復の見込みはなく、しばらくはこの苦境がつづくことが予想される。(後略)
 以上を要約しておくと
①1916年には、麦稈真田の生産額は香川県の農業生産品の中で首位となった
②1917年度以後、麻真田に押されて生産額が半減し、麦稈真田は不況期に入った。

次の記事は、ベルサイユ講話条約が結ばれた翌年の1920年の大阪朝日新聞のものです。 
「香川県の麦稈真田 頗る好況」大阪朝日新聞 大正9(1920)年1月16日

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
          「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)意訳変換しておくと
香川県下では米作に次ぐ農家の収入源となっているのが麦稈真田である。①第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、②休戦成立以後は次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。③香川県下の紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。
 麦稈真田同業組合調査によると昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。(中略)
統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると④戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているという。
以上を要約しておくと
①第一次大戦中には麦稈真田の輸出は途絶えた
②ベルサイユ講話条約締結後、輸出は再開し価格も急騰している
③そのため香川県の女工たちにの中には、勤めていた工場をやめて麦稈真田を織る者もあらわれている
④麦稈真田の価格は高止まり傾向にあり、業界の将来は明るい。
ここでは第一次大戦時の麦稈真田の輸出急減の要因を「船賃の高騰」と指摘しているのがいままでにない所です。ところが、その4年後には自体は急転しています。
大正13(1924)年5月30日 神戸新聞「輸出麦稈真田類不振」を見ておきましょう。

大正13(1924)年5月30日 神戸新聞 輸出麦稈真田類不振

意訳変換しておくと
輸出用の麦稈真田市場は新稈の出廻りを眼先に控えているのに、亜米利加からの註文も手控え状態で取引は極めて閑散としている。岡山・香川の生産地情報によると備後地方は刈取期の本月下旬に降雨が多かったために、品質は極めて低下しているという。それに加えて、前年も品底気味であったので、本来ならば優良品は相当高値になるはずであるが、今後の天候次第である。香川県地方では、岡山に比べて収穫期が遅いため降雨の被害は少い見込みで、昨年より良好とされる。以上から麦稈原料の市価も大した変化はないと見られる

1920年の好景気は、ここでは見られず市場は閑散としていると報じられています。4年の間になにがあったのでしょうか。いまの私にはよく分かりません。時代を進めていきます。

麦稈真田に適した麦
麦稈真田用の麦

そして大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報の記事です。
見出しは「海外の注文薄で麦稈真田相場依然として安値へ 粗製濫造防止急務」とあります。


大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報)

 意訳変換しておくと

① 麦稈真田の前途については、以前にも報告したように明るい兆しが見られない。同業組合や産地でもさまざまな改善策を講じ、品位向上に努めているが、生産農家が副業であるのがネックとなっていて改善は進んでいないのが現状のようだ。現在は主産地の岡山、広島、香川が盂蘭盆であり、製産品が市場に出廻らず品薄になる時期なので価格上昇が見られる時期である。ところが②海外からの注文薄のため相場は取引数も少なく、安値定着で、同業者は全く閉口している。
 一方相場の安値定着は、生産者に大きな打撃を与えていると思われるかもしれない。けれども副業としている農民たちは、案外のんきな対応ぶりである。(中略)③香川県などでは、麦稈真田を副業そしていた農家の大半が他の副業に転じているようだ。また同業者も対策に相当努力を払っているが、何分にも相場が安いため手の打ちようが無い状態だという。
(中略)
粗製品を売って利益を得ることは得策のように思えるかもしれないが、それは信用を失いて損失を招くことになる。今は輸出業者が団結一致し粗製品の濫造を防止することが必要であろうと同業者は語っていた」        
以上を要約しておくと
①1926年になっても、麦稈真田業界の不況が続いていること
②海外からの注文がなく安値が続き、農家の生産意欲が停滞していること
③香川県では麦稈真田から、叺(かます)などの副業への転進が進んでいること

ここからは1926年段階で、香川の麦稈真田は衰退していたことがうかがえます。そして3年後には世界恐慌が襲ってきます。麦稈真田は、その荒波に飲み込まれていったことが予想されます。
以上から分かることは、以下の通りです
①麦稈真田は日露戦争後には衰退期を迎えていない。
②好況期と不況期を繰り返しながら第一次世界大戦直後に繁栄のピークを迎えていた
③しかし、1920年代後半になると次第に衰退し、世界恐慌でとどめをさされた
ここまで見てきて改めて知ったことは、麦稈真田が輸出商品であったことです。国内だけで使用されていたのかと思っていました。世界的な景気変動や流行によって需用が大きく動き、そのため価格変動も大きかったことが分かります。そして、戦前の香川では、生糸と並ぶ農村の重要な副業であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 
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民具展示館
まんのう町民具展示室(旧仲南北小学校)
 廃校になった旧仲南北小学校は、いろいろな団体が入って活用しています。瀬戸大橋が望める2Fの教室は「民具展示室」となっています。ここには農業や林業、養蚕などに使われた道具約1300点が展示されています。その当番が1ヶ月に一度、輪番で廻ってきます。
  展示されているのは民具が中心なのですが、その中には私には用途が分からないものがいくつもあります。一つずつ調べて、私にとっての闇の部分を減らしています。そんな中で出会ったのが「麦稈真田」です。まず読み方が分かりません。用途も分かりません。今は便利な時代で、グーグル検索するとある程度は見えて来ます。しかし、より詳しく調べようとすると、なかなか適当な文献や史料にたどり着けません。新しく出た坂出市史に、ある程度のことが書かれていたので読書メモとしてアップしておきます。テキストは、「坂出市史 近代編176P 農家の副業と裏作の発達 麦稈真田」です。

麦稈真田と製品
麦稈真田
「麦稈真田」は「ばっかんさなだ」と読むようです。辞書で調べると次のように記されています。

「麦藁(ばっかん)」とは、麦のクキを日に干したもの、つまり麦わらのこと。それをで真田紐のように編んだもの。夏帽子や袋物の材料に用いる。裸麦・大麦の麦稈を最良として、編み方により菱物・平物・角物・細工物などがある。岡山県・香川県などの産。


麦稈真田に適した麦
麦稈の材料に適した麦
麦藁とは、麦のクキを日に干したもので、
真田とは組み紐状のものをさします。戦国時代の武将、真田昌幸が内職で作って売っていたことで有名です。「麦稈 + 真田(紐)=麦わらをひも状に組んだもの」で、これが麦藁帽子などの素材に使われました。組むわらの本数によって次のように呼び方が異なるようです。

麦稈真田2
  左から「七猫しちねこ」「五菱ごびし」「四菱しびし」「三平さんぴら」の麦稈真田
一番右端だけは「経木(きょうぎ)真田」といって、麦わらではなく薄く削ったツゲの木を組んだものだそうです。工業的に大量に生産できるため、麦稈真田の安価な代替品として利用されました。 麦稈真田を作る道具や制作行程については、坂出市郷土資料館に展示してありますので、そちらを御覧下さい。(https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/bunbun007.html 参照)

麦稈真田3
さまざまな麦稈真田
G-46 麦稈真田 野良笠(調節機能付き)
 麦稈真田で作られた麦わら帽子

麦稈真田がどこで作られ始めたかについては、「麦稈真田工業案内」(1905年)に次のように記します。

麦稈真田工業案内 中山悟路
 中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

香川県麦稈真田の沿革
 中山悟路著 麦稈真田工業案内103P 香川県麦稈真田の沿革 
上記を意訳変換しておくと 
麦稈真田の創業については今から23年前の明治15(1882)年、 大阪の原田某氏が大阪より小豆島の草壁に来て麦わらを買いつけた。何に使うかと問うと、加工して海外への輸出商品にするという。そこで試しに2、3人が作り始めた。これが香川県の麦稈真田業の始まりである。
(明治38(1905)年

  初期の状況
  讃岐の地質は、主に花崗岩で構成され、地勢は南から北に傾斜する乾燥地形で麦作に適している。そのため麦稈にも光沢があり、真田の原料として品質がよく他の生産地に勝る。そのため讃岐産の麦稈を求めて商人たちが押し寄せるようになった。しかし、当時は農家は麦稈のままで出荷し、真田に加工して販売する者はほとんどいなかった。また明治31(1897)年頃までは、麦稈真田に従事する戸数は、全県下で200戸あまりに過ぎなかった。
  近来の状況
  明治32(1898)年頃になると、欧米で麦稈真田に対する需用が次第に高まり、販売数が増大するようになった。麦稈真田が利益率の高い副業であることが分かると、前年までは200戸余りだった生産農家が7倍も増加した。明治35(1902)年には、9350戸に至るまでに急増した。

以上を整理しておくと
①麦稈真田が作り始められたのは、1882年の小豆島
②しかし、長らく生産農家数は増えなかった。
③生産農家が急増するのは日清戦争後のことで、県や村が保護支援することで一気に1万戸近くに急増した。
麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島
       麦稈真田製造創業者 中川二助 翁の碑 (小豆島 土庄町小瀬)
小豆島西部の「重ね岩」で有名な小瀬には、麦稈真田製造創業者の碑があります。小豆島では、この中川二助氏が麦稈真田製造のはじまりとされているようです。
1890年代後半に書かれた県への報告書には、小豆島の現状が次のように記されています。

麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島2
      
意訳変換しておくと
麦稈真田の需用は近年ますます増加の一途にある。特に小豆島では、数年前から苗羽村の田の浦産は最上級品と需用が高い。そのためアメリカやイギリス・フランス・香港などからは需用に追いつかず品不足の様相を呈している。この田の浦は、わずか百戸ばかりの小さな集落に過ぎないが、麦稈真田からの収益金は一戸当たり年間1000円を下らないという。もし、農家の副業として麦稈真田が県下全体に普及すれば、小豆島の1/3としても300円が見込まれる。農家の救済方法を考えることは目下の大きな課題である。麦稈真田が、その救済手段となりえるように、将来に備えて検討していくことが必要である。
ここには「麦稗真円は農家の副業として有益な事業であるので県・郡や町村勧業会などで奨励策を行うべきである」と答申しています。これを受けて、県では指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村への巡回指導を行っています。
また、生産奨励策として、次のような方策がとられています。
①尋常小学校の手工科のカリキュラムに「麦得真田組み」を採用
②1898(明治31)年「香川県麦稈同業組合」設立と「麦稈真田販売組合」設立
③両組合は、製品の品質保証を目的に検査制度を設け、規格の統一普及に努めた
④製品に製作者名を押印した県発行の検奄証紙を貼付することによって、生産者責任を明確化
⑤同時に粗製濫造を防ぐことになり、県産麦得真田の名声を高めた。
こうして世紀末から、生産農家増大や規格統一・販路網確立が行政主導で整えられて行きます。さらに日露戦争が勃発すると食糧増産強化のために、県は戦時記念事業として「時局注意事項」を出します。そこには次のような項目が並んでいます。

米作改良、麦作改良、肥料改善、養蚕普及、溜池利用、記念植樹、勤倹貯蓄の普及、
麦得真田の伝習
 
最後に「麦得真田の伝習」が入っています。これを受けて、1904年7月に公設の「麦得真田伝習所」が設置されます。
伝習館で学んだ受講者を地域の指導者に育て、技術普及を展開します。これは、養蚕部門で行われていた手法と同じです。次は「競技会」の各地での開催です。競わせて技術向上を図ろうというねらいです。なかでも滝宮天満宮で夏に行われる競技会は、若い女性たちが日頃の腕を競いあい盛り上がったようです。坂出では西庄村の高照院で、綾北六カ村による競技会(1912年)、坂出公会堂での競技会(1915)などが行われています。
 こうして県や村からの保護され、奨励されることで指導者が育成されていきます。同時に、同業組合の結成や規格の統一など、品質を維持する取組も行われます。そのおかげで香川の一大産業となり、農家の副業として現金収入の柱に成長し、農家の生活向上につながりました。

麦稈真田の生産戸数・産額変遷

麦稈真田の生産戸数・生産額・価格の推移(中山悟路著 麦稈真田工業案内109p)
上表には明治32(1899)年以後の生産戸数・生産高・生産額が示されています。
      明治32年   明治36年
生産戸数  1393戸   15353戸
生産高 124870反 1452227反
生産額  62550円  943947円
ここからは県や郡・村の奨励策によって日露戦争前の5年間で、10倍以上の成長を果たしていることが見えてきます。 
 その後の麦稈真田をとりまく状況は、どう変化したのでしょうか。
坂出市史には、次のように記されています。
①1905年に塩の専売法が施行され、塩の包装が麦稗叺(かます)から稲藁叺に変わった
②その結果、麦稈の需用が減少し、農家は急速に稲藁叺の生産に転換した
③こうして農家の副業の主役は、麦稈真田から叺織りに変わった。
④さらに外国からの安い製品が入るようになると価格競争に押されて、生産意欲は低下
以上のように明治末から大正にかけて、麦稈真田から稲藁かますに主役が交代していったとします。。
しかし、史料を見てみるとそうは云えないようです。例えばネットで調べていると大阪朝日新聞 1920年1月16日(神戸大学新聞記事文庫 真田製造業)には、「香川県の麦稈真田 頗る好況」と題して、次のような記事が載せられています。

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)
((https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100195597/ 

   「翻刻香川県下に於ける副業中の首位を占め年産額に於て讃岐米に次ぐ数字を示せる麦稈真田は戦乱以来輸出杜絶又は船腹払底の為め久しく悲境に陥り居たりしが休戦以来昨年の春頃より漸次順調に立戻り七月以後益好況に赴き価格の騰貴は未曾有の記録を作り単四菱の如き一斑九十銭内外となり従って之が編賃も騰貴し一日少きも一円五十銭多きは三円内外の収入となるより県下紡績、製糸、燐寸等各工場の女工にして熟練せる工場を捨て自宅に於て賃編に従事するより何れの工場も女工の大払底を告げ三割乃至五割の労銀値上げを為すも応募者なき状況なるが麦稈真田同業組合調査に依る昨八年一月以来十一月末迄の産額は二千六百九十三万七千百三十六反価格八百七十五万九千八百九十五円の多額を示し居れるが大正二年以来七箇年間の産額を示せば左の如し(但し八年は十一月迄)

意訳変換しておくと  
香川県下の副業の中で讃岐米生産に次ぐのが麦稈真田である。第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、休戦成立の昨年より次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。県下紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。麦稈真田同業組合調査によと昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。参考までに大正2年以後の7年間の香川県の出荷額は以下の通りである。

大正2(1913)年 6415538反、1153368円
大正3(1914)年 4335724反五、616263円、
大正4(1915)年 3338219反  362952円
大正5(1916)年 5594076反  859919円
大正6(1917)年 6038636反 1045094円
大正7(1918)年 5754223反、1880879円
大正8(1919)年26937136反 8759895円
この統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているというし居れりと(高松)」


  この記事からは次のようなことが分かります。
①第一次世界大戦前になっても、生産数はあまり落ちていなかったこと
②第一次世界大戦中は輸送コストが高騰して、生産数が落ちたこと
⑤それが大戦終結の年には、大幅に回復していること
ちなみに、この後に戦後不況がやってくるので、生産量がどうなったのかわ分かりません。しかし、坂出市史の云うように、日露戦争前後に麦稈真田の生産が急速に落ちたと云うことはなさそうです。
先ほど見た「麦稈真田工業」には、明治の輸出量と額の推移が次のように載せられています。
麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後

中山悟路著 麦稈真田工業案内100P 香川県麦稈真田の輸出額
主要な年の数字だけを抜き出してみます。
①明治20(1887)年 約110万反
②明治29(1896)年 約550万反
③明治33(1900)年 約882万反
県や郡の麦稈真田への政策的な支援・保護が進む中で、輸出量も急速に伸びています。
香川県麦稈真田同業組合 生産数推移
香川県麦稈真田同業組合の生産量・販売額の推移

そして、先ほどの新聞記事にあった輸出数量を見ても、その数字は減少していないことが分かります。
以上をまとめておきます

麦稈真田の生産開始と普及
香川県の麦稈真田の生産開始と発展
上の「日露戦争前後を機に、明治末から麦稈真田は衰退した」という説は、私は疑問を持ちます。麦稈真田は第一次世界大戦後に好景気にわいて、生産農家が増大していることを当時の新聞記事は伝えているのですから・・・
今回はこのあたりまでで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史 近代編176P 農家の副業と裏作の発達 麦稈真田

麦稈真田(ばっかんさなだ)」について書かれた香川県関係史料 ...

(上をクリックすると香川県立図書館 麦稈真田レファレンスに移動します)



  前回は金毘羅商人の油屋・釘屋太兵衛が経営拡大のために、周辺の村々に進出して水車経営に参入しようとした動きを見ました。今回は、金融的な進出を見ていくことにします。江戸時代後半になると金毘羅商人たちは、周辺の田地を手に入れるようになります。金毘羅は寺領で、髙松藩からすれば他領に当たります。他領の者が土地を所有するというのは、近世の検地の原則に背くものです。どうして、金毘羅商人たちが髙松藩の土地を手に入れることができるようになったのでしょうか? これを髙松藩の土地政策へ変遷の中で見ていくことにします。  テキストは「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」です。
琴南町誌(琴南町誌編集委員会 編) / 讃州堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 金毘羅商人が、金融面で郷村に進出するのは、凶作などで年貢が納められずに困っている農民達に、資金を貸し付けるというパターンです。
実際には、借りる側は蔵組頭や庄屋が借り手となって、質入れの形式をとります。その際に、抵当物件として田畑の畝高や石高、自分林の運上銀高を手形に書き入れ、米盛帳(有畝と徳米を記入したもの)を添付しました。これが返済できないと抵当は貸し手の金毘羅商人渡ることになります。そういう意味では「金融面での進出=入作進出」ということになります。しかし、このような百姓への貸し付けが本格化するのは19世紀になってからでした。
それまでは、幕府は寛永20(1643)年2月に田畑の永代売買を禁止していました。
その背景には次のようなねらいがありました。
①凶作などで自作農が田畑を売却して、貧農に転落するのを防止すること
②抵当地の勝手な売買で、領主の領知権と年貢の収納権が侵されることを防止すること
この時点では、質流れによる田畑所有権の移転は認められませんでした。そのため田畑を担保にして百姓に資金を貸すと云うことは大手を振っては行われなかったようです。
  幕府が田畑の永代売買禁止を転換するのは元禄7(1694)年でした。
幕府は質入れの年季を10年に限り、質入れ証文を取り交わしている土地については質流れを許します。つまり、質流れによる田畑の所持権移転を認めるようになったのです。続いて、寛保2(1742)年に制定された「公事方御定書」には、次のように規定されます。
①百姓所持の田畑を質入れし、質流れによって所持権が移転することが法的にも認める
②不在地主が小作地から小作料をとることも公認され保障される
こうして百姓の所持する田畑は、質入れ、質流れの場合は所有権が移転できることになります。その2年後には「田地永代売買禁止令」の違反罰則が、軽微なものに改正されて、実質的に撤回されます。こうなると生産性の高い耕地は有利な投資先と見られ、都市部の富裕層からの融資対象になります。
これを受けて高松藩も、田畑所有権の移転を認めるようになりますが、それには厳しい制限を設けていました。
具体的には、田畑や百姓自分林の質入れ手形に、村役人全員の連署を求めています。時には大政所の奥書きも要求して、田畑や自分林の質流れによる譲渡を押さえる政策をとってきました。
それが転換されるのが文化2(1805)年です。
  高松藩は、財政改革のために年貢の増収を優先させ、田畑が誰の所有であるかは後回しにするような政策をとります。それに伴って新しい順道帳を村々に交付しています。その中には、百姓の田畑所持権が移転した場合の順道帳の取り扱い方についても指示しています。その様式を見ると、売券のそれまでの常用文言であった「年貢上納不罷成」の言葉が、「我等勝手筋有之」に変わっています。これは「年貢が納められられないので土地を手放す」から「勝手都合」で田畑を売買することを容認していることがうかがえます。
文化9(1812)年の勝浦村庄屋日帳(「牛田文書」)に出てくる「永代田地譲渡手形の事」の様式を見ておきましょう。
「右は我等勝手筋有之候に付、此度右畝高の分銀何貫目請取、永代譲渡候間云々」
「田地売主何右衛門」
などと書くことことを指示しています。 ここから「高松藩の田畑譲渡が公認」されたことが分かります。以後、生産性の高い田畑は商人の有望な投資対象となって、田畑や山林の売買が盛んに行われるようになります。次表は、川東村の文化5年から天保10(1839)年までの30年間の「田畑山林永代譲渡手形留」(「稲毛家文書」)を研究者が整理したものです。

「西村文書」享保3年から文化8年までの、通の田畑山林の売買と質入れの証文

川東村の「田畑山林永代譲渡手形留」
この表からは、琴南町の最奥部の川東村でも、多くの田畑の売買が行われていたことが分かります。川東村は畑地が多く、零細な田畑を持つ小百姓が多い所です。この表からは、厳しい自然条件の下で、零細な田畑を耕作し、重税に堪えながら生き続けてきた百姓が、天災や、飢饉や、悪病の蔓延によって、次第に田畑を手放した苦しみが書き綴られていると研究者は評します。

このように田畑が金毘羅商人などに渡り、急速に入作が増加します。
文政4(1821)年の「鵜足郡山分村村調(西村家文書)よると、その比率は次の通りです。
A 炭所西村村高760石余りのうち、入作は86石2斗  (11%)
B 長尾村村高1029石余りのうち、入作は74石6斗6升(7%)
Bの長尾村の入作の内訳は、次の通りです。
①高松入作  5石4斗6升4合
②金毘羅入作  1石2斗8升2合
③他村入作 13石3斗5升2合
④他郡入作 40石4斗3升5合
⑤池御料榎井村入作 14石1斗3升
これをみると金毘羅・池御料・高松からの入作が見られます。①の高松からの入作については、鵜足郡の大庄屋を務めた長尾の久米家が、高松に移っていたので、その持高のようです。⑤の榎井村からの入作は、榎井東の長谷川佐太郎(二代目)のものです。

西村家の「炭所東村田地山林譲渡並質物証文留」(西村家文書)からは次のような事が分かります。
①金毘羅新町の絹屋善兵衛は二件の質受けと二件の貸銀を行い、その質流れで田畑譲渡を受けた。
②善兵衛は、造田村や川東村でも活発な金融活動を行って、多くの田地を手に入れている。
③池御料榎井村の長谷川佐太郎(二代目)和信も、田畑や山林を抵当物件として、5件の質受けを行っている
これらの質請け(借金)は、年貢を納める12月に借りて、翌年の10月に収穫米によって支払われることになっています。その利率は月一歩三厘~一歩五厘と割高で、数年間不作が続けば、田畑や山林を譲渡しなければならなくなります。
 年貢の納入は個人が行うものでなく村が請け負っていたことは以前にお話ししました。そのため百姓が用意できない未進分は蔵組頭が立て替えたり、藩の御金蔵からの拝借銀によって賄れました。それができない時は、町人から借銀して急場を凌ぐことになります。それが返せないとどうなるのかを見ておきましょう。
鵜足郡造田村造田免(現琴南町造田)の滝五郎は、天保9(1838)年に蔵組頭に選ばれます。
ところが彼は、3年後に病気のため急死してしまいます。この時期は大塩平八郎の乱が起きたように、百姓の生活が最も苦しかった時期で、年貢の未納が多かったようです。そこで滝五郎は、天保11(1840)年7月に、榎井村の長谷川佐太郎から金30両を借り入れます。ところが滝五郎が急死します。そこで長谷川佐太郎は、造田村の庄屋西村市太夫に借金の肩替わりを要求します。市太夫は、天保12年10月に新しく借用手形を入れ、元金30両、利息月1歩3三厘、天保13年5月に元金返済を約束して、今までの14ケ月分の利子を支払っています。そして、市太夫は約束通り、支払期日までに藩からの拝借銀で元金と利子を支払っています。ちなみに、ここに登場する西村市太夫は、金毘羅商人の釘屋太兵衛の義弟で、二人で水車経営などの商業活動を活発に行っていたことは前回にお話ししました。
ここに出てくる榎井村の長谷川佐太郎の持高を見ておきましょう。
天保8年(1837)8月29日付けで、造田村庄屋の西村市太夫から鵜足郡の大庄屋に報告された文書には、造田村への他領民の入作について次のように記します。
一 高拾九石七斗九升七合   造田免にて榎井村長谷川佐太郎持高
一 高壱石四斗弐升九合    内田免にて同人(長谷川佐太郎)持高
 〆弐拾壱石弐斗弐升六合
一 高壱石三斗七升四合    金毘羅領 利左衛門持高
造田村の村高は、891石3斗8升6合です。長谷川佐太郎(二代目)の入作高は、造田と内田で併せて10石あまりだったことが分かります。これは造田村では庄屋の西村市太夫、蔵組頭の久保太郎左衛門に次ぐ3番目の地主になります。このように金毘羅周辺の村々の田地は、担保として有力商人たちの手元に集まっていきます。
高松藩では、弘化2年(1845)7月に、この「緩和政策」を転換します。
次のような通達を出して、他領者の入作と他領者への入質を禁止します(稲毛文書)
郡々大庄屋
只今迄、御領分ぇ他領者入作為仕候義在之、 別て西郡にては数多有之様相間、 古来より何となく右様成行候義、 可有之候得共、元来他領者入作不苦と申義は、御国法に有之間敷道理に候条、弥向後不二相成候間、左様相心得、村役人共ぇ申渡、端々迄不洩様相触せ可レ申候。
(中略)
他領者ぇ、田地質物に指入候義、 向後無用に為仕可申候。尤是迄指入有之候分は、 追て至限月候へば詑度請返せ可申候。自然至限月候ても返済難相成、日地引渡せ可申、至期候はば、村役人共より世話仕り、如何様仕候ても、領分にて売捌無滞指引為致可申候。
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
これまで髙松藩領へ他領(金毘羅領)から入作することが、(金毘羅に近い)藩西郡では数多く見られた。 これは慣行となっているが、もともとは他領者が入作することは、国法に照らしてみればあってはならないことである。そこで今後は、これを認めないので心得置くように。これを村役人たちに申渡し、端々の者まで漏れることなく触れ廻ること。
(中略)
他領者へ、田地を質入れすことについても、 今後は認めない。すでに質入れしている田畑については、返済期限が来たときに担保解消をおこなうこと。期限が来ても返済ができない場合は、引き延ばし、村役人の世話を受けても返済すること。いかなる事があっても、領内における担保物権の所有権の移動は認めない。
各郡の大庄屋に対して、今後は他領民(金毘羅領・天領)の請作を禁止し、現在の他領民の耕作地を至急請け返すよう命じています。さらに8月23日付けで、入質している田地が質流れになる時は、村役人がどのようにしてでも、その土地を領内の者が所持するようにせよと命じています。その文中には「たとえ金光院への質物たりとも例外でない」という一文が見えます。これは金毘羅金光院の力を背景とした金毘羅商人の融資事業と、その結果として土地集積が急速に進んだことを物語っていると研究者は判断します。そのために先ほど見た長谷川佐太郎の造田や内田の入作地は、庄屋の西村市太夫が買い戻しています。その代銀3貫500目は、年利1割3歩、期間5ケ年の借用手形に改められています。
しかし、通達だけで実態を変えることはできません。
嘉永2(1849)年十月には、高松藩は、文化9(1812)年以来、田畑譲渡手形の中で使用していた、「田畑売主何右衛門」という字句を、「田畑譲渡主何右衛門」と改めるよう厳命しています。さらに大庄屋の裏判を押すこと入作請返しの借銀を励行させて、他領入作を抑えようとしますが、これも効果がありません。
 こうして一般の田畑売買もますます盛んになって、悪質な土地売買業者が横行するようになります。そこで元治元(1864)年、高松藩は回文を出して、土地仲人者の横行徘徊を取り締まるよう求めています。つまり、手の打ちようがなくなっていたのです。「高松藩の土地政策は、他領者入作によって、その一角が崩壊した」と研究者は評します。こうして幕末にかけて、金毘羅商人たちは、周辺への金融進出(高利貸し)を通じて、田畑の集積を重ね不在地主化していくことになるようです。
以上を、まとめておきます。
①幕府は寛永20(1643)年2月に、田畑の永代売買を禁止していた。
②しかし、凶作が連続すると土地を担保にして資金を借りることは日常的に行われていた。
③そこで、金は借りても担保の土地が質流れしないように、各藩はいろいろな制約を出していた。
④髙松藩では19世紀になると「規制緩和」して、田畑を担保物件とすることを認めるようになった。
⑤これを受けて、金毘羅商人たちは有利な投資先として、田畑を担保とする高利貸しを積極的におこなうようになった。
⑥その結果、周辺の村々の田畑が質流れして、金毘羅商人の手に渡るようになった。
⑦この現状の危うさを認識した髙松藩は、1845年に金毘羅商人への田畑の所有権移動を禁じる政策転換を行った。
⑧しかし、現実を帰ることは出来ず商人の土地集積は止まらなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」
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19世紀になると金毘羅商人の周辺の村々への進出が活発化していきます。そのようすを油屋の釘屋太兵衛の活動で見ていくことにします。テキストは「ことひら町史 近世332P 金毘羅商人の在郷進出」です。
金毘羅門前町の基礎を築いたのは、生駒藩時代に移住した人々でした。
彼らの中には、金光院に仕えて、その重職となった人々もありました。その多くは旅館や商店や酒造業を経営して「重立(おもだち)」と呼ばれました。重立が互選し、金光院の承認によって町年寄が決定し、町政を行うシステムが出来上がります。
元禄年間(1688~1703)以降になると、宗門改めについても抜け道が設けられて、周辺から金毘羅へ移住・流入する人々も増えて、商売を行う人々も増加します。そうなると金毘羅を拠点にした経済活動が活発化して、商圏エリアも拡大していきます。 こうして商人の中には、多額の金銭を蓄積する者も出てきて、その中には金光院に献納したり、大権現の社寺普請に協力して、実力を認められるようになる者も現れます。
そんな商人の一人が釘屋です。
釘屋は、阿野郡南の東分村(綾川町)から元文年間(1736~40)に金毘羅へ移住した油商人で屋号が「油屋」で、代々太兵衛と称します。二代目太兵衛は金光院に対し、次のように定期的に冥加銀を納めています。

金毘羅御用商人釘屋太兵衛の寄付記録
天明2年(1782)に銀300目
天明3年(1783)に銀200目
天明5年(1785)に鞘橋の修繕に銀600目
文政12年(1829)12月、三代目太兵衛は金光院の御買込御役所に対し、銀10貫日を献上し、先祖から油の御買い上げについて礼を述べて、引き続いての御用をお願いしています。こうした貢納を重ねた結果、金光院院主に年頭御挨拶に出ることを許されるようになります。天保9年(1838)正月の金光院院主に年頭挨拶できる御用聞きのメンバーは次の通りでした。

金毘羅御用聞商人
 御用聞き 多田屋治兵衛・山灰屋保次・伊予屋愛蔵・屋恒蔵・山屋直之進
 新御用聞き 釘屋太兵衛・金尾屋直七・鶴田屋唯助・福田屋津右衛門・玉屋半蔵・行蔵院
釘屋太兵衛(三代目)の名前が、「新御用聞」のメンバーの一人として入っています。こうして見ると釘屋は東分村から金毘羅にやってきて三代百年で、押しも押されぬ金毘羅商人にのし上がっていったことが見えて来ます。釘屋太兵衛の本業は油屋です。
そのため、いつ頃からか金毘羅に近い那珂郡買田村(まんのう町買田)に水車を持っていました。
この水車は、綿実の油絞り用に利用されていたようです。当事の金毘羅領に供給される油は次の3種類でした
①菜種の年間手作手絞高(年間生産量)は、約20石(菜種油は藩の数量制限あり)
②大坂から買い入れる27石の種子油
③それ以外の油は、買田の水車で綿実から絞った白油
これらの3つからの供給先からの油と蟷燭が金毘羅の不夜城を支えていました。その最大の供給元が釘屋太兵衛だったということになります。

綿実2
     綿実(綿花から綿繰りをして取り出した種)
③の綿実について、もう少し詳しく見ておきます。
実綿(みわた)から綿繰りをして取り出した種〔綿実:めんじつ〕は、搾油器を使って油をしぼり出しました。これが灯し油(とぼしあぶら)として利用されたのです。綿実油(白油)は、菜種油(水油)とともに代表的な灯し油でした。絞り油屋には、圧搾前に臼で綿実や菜種を搗く作業を人力や水車でおこないました。
井手の水車 「拾遺都名所図会」
            綿実を搾る水車 「拾遺都名所図会」(国立国会図書館蔵)
京都の綴喜郡井手村(現在の井手町)には、水流を生かして水車を使用している光景が「拾遺都名所図会」に描かれています。当事の綿実の買い取り価格は、銀30匁ほどだったようです。綿花栽培がさかんになった地域では、糸にする繰綿だけではなく、種(綿実)も地域の絞り油屋に売却し、灯し油などに利用されていたのです。この時代の「讃岐の三白」は、綿花でした。讃岐でも綿実や菜種のしぼりカスの油粕(あぶらかす)は、農作物の肥料として使われていました。綿花が、副産物もふくめて無駄なく循環する形で利用されていたのです。ここでは糸繰り行程で出てきた綿実からは、照明用の白油が、水車小屋で搾り取られていたことを押さえておきます。

行灯と灯明皿
   行灯(あんどん)・灯明皿(とうみょうざら)
行灯は、部屋の明かりを灯す道具で、外側に和紙が張られています。内側には燃料の油を入れる灯明皿をおきます。菜種・綿実・魚などからしぼった油をこの皿に注ぎ、藺草(いぐさ)などから作った芯に火をつけて明かりを灯しました。
水車2

19世紀になると地主や町人が資本を出して、村々で水車を経営するようになります。
ここで当事の水車の設置状況を、琴南町誌380Pの「町人資本の浸透」で見ておくことにします
水車で米を揚き、粉を挽いて利益を上げることが、いつごろから始められたかはよく分かりません。。文政6(1823)年6月に、中通村(まんのう町)の水車持の八郎兵衛と、西村八郎右衛門が連記署名して、造田村の兼帯庄屋小山喜三右衛門と村役人に対して、一札を入れています。(「西村文書」) その内容は、4月から7月まで、5月から8月までの間は、決して水車を回さないことを確約したものです。水田の灌漑中は、水車を回すことはできませんでした。そのための確約書です。
文政11(1828)年12月に、高松藩が無届の水車取締りを大庄屋に命じています。その文書の中に次のように記します。

水車多く候節は、男子夜仕事も致さず風俗の害に相成候由相聞候間、 一通りにては取次申間敷候

意訳変換しておくと
「水車が稼働する期間は、男子が夜仕事せず水車小屋に集まり、風俗の害ににもなっていると聞く。そのために設置状況を調査し報告するように」

水車小屋2


天保5(1834)年の高松藩の水車改めに対しては、造田村は、新開免に次右衛門の経営する水車があって、挽臼二丁、唐臼四丁の規模であることを報告しています。川東村では、本村と明神に水車があるが、無届けであって、休止状況であると報告しています。ここでは水車設置とその運用については、藩の認可が必要であったことを押さえておきます。
天保10(1839)年の水車改めの時に、郷会所手代秋元理右衛門は、次の2ヶ所で無届けの水車があったことを報告しています。
①川東村矢渡橋の水車で、枌所東村の直次郎が資本を出し、挽臼一丁と唐臼四丁
②明神の水車は粉所西村の鶴松の出資で、挽日二丁と唐臼六丁
この水車を請け負って経営していた百姓名や、歩銀の額は記されていません。
以上からは19世紀になると、土器川沿いには水車が姿を見せるようになっていたこと、それを髙松藩は規制対象として設置を制限していたことを押さえておきます。

ここで登場してくるのが造田村庄屋の西村市太夫です。
西村市太夫の姉なおは、金毘羅の油屋の釘屋太兵衛の妻でした。西村家文書の中には、釘屋太兵衛から義弟・西村市太夫に宛てた連絡文120通や、なおが実弟の市太夫に宛た友愛の情のこもった手紙40通などが残っていて、互いに連絡を取り合い情報交換しながら商業活動を展開していた様子が見えてきます。両者の水車経営を見ておきましょう。

天保6(1835)年6月、金毘羅新町の油屋釘屋太兵衛(三野屋多兵衛)は、義弟の西村市大夫の尽力で鵜足郡東二村(丸亀市飯野町)で水車一軸を買い受けます。
そして、高松藩の水車棟梁であった袋屋市五郎の周旋で、水車株も手に入れます。この水車は、菜種や綿実から油を絞るもので、運用には藩から御用水車の指定を受ける必要がありました。そこで、釘屋太兵衛から資金提供を受けた市大夫は各方面に次のような働きかけをしています。
大庄屋に銀10匁、郡奉行、代官、郷会所元締めに銀四匁、銀二匁か酒二升。秋の松茸一籠、冬の山いも一貫目、猪肉一梱包(代六匁)、ふし(歯を染めるのに使用)一箱
「東二村水車買付に付諸事覚書(西村文書)]

など、金品を贈って運動したことが詳細に記載されています。運動の結果、 東二村の水車は御用水車として認められます。
 先ほど見たように釘屋太兵衛は「油屋」の屋号を持つ金毘羅の油商人です。
上方や予州から油を仕入れて金毘羅で販売していましたが、買田以外にも水車を手に入れ、綿実から油を絞り、生産活動にも進出し経営拡大を図ろうとしたようです。藩の御用水車認可は下りましたが、油屋の水車経営には問題が多かったようです。まず原材料である綿実がなかなか確保できません。その背景には当事の幕府の菜種油政策がありました。天明年間(1781~89)以来、幕府は江戸で消費する莱種油を確保するために、高松藩に対して領内から毎年5000石の菜種を大坂へ積み出すことを命じ、髙松領内での菜種絞りを抑制させていました。つまり、江戸に送るために菜種油が恒常的に不足しており、そのため代用品として綿実から油を絞っていたのです。その結果、綿実も不足気味でした。
 そんな中で天保13(1843)年正月、東二村の水車の綿実を運んでいた馬子2人が、得意先の百姓から菜種を宇足津の問屋へ届けることを頼まれて、上積みしていたのを発見されます。これを役人は油屋の釘屋太兵衛が、菜種を売買して油絞りをやっているのではないかと疑います。この結果、水車の油絞りは差し止められます。西村市太夫と釘屋太兵衛は、たびたび高松へ呼び出されて取り調べを受けますが、疑いはなかなか晴れませんでした。そんな中で、その年の年末11月2日、水車が火災で消失してしまいます。油絞りの差し止めは、その直後の12月7七日に解除になりましたが、これを契機に、西村市太夫と釘屋太兵衛は、東二村の水車を高松の水車棟梁の袋屋市五郎の子久蔵に譲り渡し、水車経営から撤退しています。

それ以前の天保十(1839)年には、西村市太夫は炭所西村間藤(まとう)の水車を買い取っています。
この水車の規模は、挽臼二丁、唐臼四丁で、小麦粉を挽き、米を揚くものであったことが「西村文書」に記されています。展示入れた後は、月一両の歩銀で、弥右衛門、政吉、弥七に引き続いて運用を請け負わせています。その会計関係の帳簿も残されていますが、経営がうまくいかずに天保14(1843)年8月に亀蔵に売却しています。これも金毘羅新町の義兄である油屋釘屋太兵衛と連動したうごきかもしれません。このように釘屋太兵衛は、造田村の義弟で庄屋西村市太夫と協力して、米と綿実の買い付けを行う以外にも、金融活動も手広く行っています。

東二村の水車を売却した翌年の天保15(1844)年6月15日に、釘屋太兵衛は隠居しています。
68歳でした。その後は、子の精之助が家督を継いで御用聴を命じられます。精之助は金毘羅の高藪に支店を持ち、大麻山の葵ケ谷に別荘を構え、商売も繁昌します。しかし、その後の油類の価格暴騰と品不足に対応を誤り破産します。安政5年(1858)5月に、金光院の特別の配慮で銀10貫目を月利5歩10か年済で拝借して、商売の立て直しを図りますが、失敗が続きます。
 文久2年(1862)6月、精之助は、融通会所へ差し入れてあった拝借銀の抵当物を、無断で持ち出して売却したことが発覚します。その結果、家は欠所、精之助は御領分追放となり悴の忠太郎(13歳)と娘の美春(10歳)、まき(8歳)は、社領内で生活することを許されますが、釘屋一族のその後の消息は分かりません。
 釘屋太兵衛のような金毘羅商人の郷村進出を「藩政の基盤を徐々に蚕食して、その減亡を早めた」と研究者は評します。
しかし、視点を変えてみると彼らの商業活動の大きな制約となっていたのが髙松藩の様々な「規制」でした。この時代に「経済活の自由」は保障されていません。もし、自由な活動が保障されていれば、西村市太夫と釘屋太兵衛の水車小屋経営はもっとスムーズに発展した可能性があります。明治維新による「経済活動の自由」の前に、このような動きがあったからこそ、村の近代化は順調に進んだのではないかと私は考えています。
   金毘羅商人の釘屋太兵衛の商業活動をまとめておきます
①釘屋家はもともとは綾川上流の東分村の油売商人だった。
②それが18世紀前半に金毘羅に移り住み、本業の油生産・販売を手がけるようになった
③18世紀後半には、定期的な献金活動を重ねる中で、金毘羅金光院の御用を務めるようになった④そして三代目釘屋太兵衛の時には、御用商人のメンバー入りを果たし、周辺農村に進出する。
⑤釘屋は買田に水車経営権の特権をもち、そこで生産した綿花油を金毘羅に供給していた。
⑥また、義弟の造田庄屋の情報提供や協力を受けて髙松藩へも政治的な働きかけを積極的に行っていた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「ことひら町史 近世332P 金毘羅商人の在郷進出」
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稲毛家文書は阿野郡南川東村(まんのう町川東)の庄屋役をつとめた稲毛家に伝えられた文書です。
その中に髙松藩が各庄屋に廻した次のような文書に出会いました。
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。
但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 建築料
一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年二月               元〆
大庄屋宛
  意訳変換しておくと
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。
 そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 (住居)建築費
一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年(1839)2月               元締め
大庄屋宛
ここからは次のようなことが分かります。
①天保10(1839)年2月に髙松藩から各大庄屋に出された文書であること
②内容は金毘羅領や天領に隣接する岸上村・七ケ村・吉野村では、耕作放棄地が出て対応に困っていたこと
③そこで奨励金付で、この三村への移住者募集を大庄屋を通じて、庄屋たちに伝えたこと
 平たく言うと、奨励金付で天領に隣接村への移住者の募集を行っていたことになります。
最初にこれを見たときには、私は次のような疑問を持ちました。江戸時代は人口過剰状態で、慢性的な土地不足ではなかったのか、それがどうして藩が入植者を募集するのか? また、その地が「辺境地」でなくて、どうして天領周辺の地なのかということです。

満濃池 讃岐国絵図

移住奨励地となっている「岸上村、七ケ村、吉野上村」の位置を確認しておきます。岸の上村は、金倉川左岸で丘陵地帯です。七ケ村は旧仲南町の一部にあたるエリアです。吉野上村は土器川左岸ですが、ここでは満濃池の奥の五毛のことを云っているのかもしれません。

満濃池水掛かり図
満濃池用水分水表 朱が髙松藩・黄色が天領・赤が金毘羅領・草色が丸亀藩
この3ケ村には「特殊事情」があったと研究者は考えています。
ヒントは3ケ村が上図の黄色の池御料(天領の五条・榎井・苗田)や赤の金毘羅領に隣接していていたことです。そのため19世紀になると、周辺地から天領や金比羅町に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、耕す者がいなくなって末耕作地が多くなる状態が起きたというのです。その窮余の策として、高松藩は百姓移住奨励策を実施したようです。
 建家料銀三百目(21万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。ここで押さえておきたいのは、周辺の村々から金毘羅領や天領への人口流出がおきていたということです。
 金毘羅領や天領は、丸亀藩や髙松藩の行政権や警察権が及ばないところです。
そして、代官所は海を越えた倉敷にあります。その結果、よく言えば幕府の目も届きにくく自由な空気がありました。悪く言えば、無法地帯化の傾向もありました。そんな風土の中から尊皇の志士を匿う日柳燕石なども現れます。尊皇の志士を匿ったのが無法者の博徒の親分というのが、いかにも金毘羅らしいと私には思えます。「中世西洋の都市は、農奴を自由にする」と云われましたが、金毘羅も自由都市として、様々な人々を受入続けていた気配を感じます。これを史料的にもう少し裏付けていこうと思います。
  近世の寺社参りは参拝と精進落としがセットでした。
伊勢も金毘羅もお参りの後には、盛大に精進落としをやっていることは以前にお話ししました。その舞台となったのが、金山寺町です。
金山寺夜景の図 客引き
「金山寺町夜景之図」(讃岐国名勝図会) 遊女による客引きが描かれている

この町の夜の賑わいは「讃岐国名勝図絵」に「金山寺町夜景之図」として描かれています。この絵からは、内町の南一帯につながる歓楽街として金山寺町が栄えたことがよく分かります。一方で、金山寺町には外から流入して借家くらしをしていた人達がいたようです。

幕末の金毘羅門前町略図
           19世紀の金毘羅門前町 金山寺町は芝居小屋周辺
内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
内町の裏通りが金山寺町 そこに芝居小屋が見える (讃岐国名勝図会)

「多聞院日記(正徳5(1715)五来年之部)」には、次のように記されています。
十月三日
金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日
一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
意訳変換しておくと
十月三日
一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた

ここでは、火事跡に小屋掛けして住んでいた借家人さつと家主のトラブルが記されています。さつは、「親子3人暮らし」のようです。若い頃に遊女か奉公人として務め、その後は金山寺町で借家暮らしをしていたと想像しておきます。もう少し詳しく金山寺町の住人達のことを知ることができる情報源があります。それはこの町の宗旨人別帳です。それを一覧表化したものが「町史ことひら 近世156P 金山寺町の人々」に載せられています。
金毘羅金山寺町借家人数と宗派別
金毘羅金山寺町の宗派別借家人数

上の表は明治2年(1869)の「金山寺町借家人別宗門御改下帳」より借家人の竃(かまど=世帯)数と人数を示したものです。ここからは、次のような情報が読み取れます。
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと
②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと
③男性よりも女性が多いこと
④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
上の④の「金山寺町の住人の4割は借家暮らし」+②「借家数59に対し、檀那寺40」という情報からは、借家人の多くが他所から移り住んできた人達であったのではないかという推測ができます。つまり、金毘羅への人口流入性が高かったことがうかがえます。

  下表は、人別帳に記載された金山寺町全体の職業構成を示したものです。

金毘羅金山寺町職業構成

一番上に「商人 78人」と記されていますが、その具体的商売は分かりません。この中に茶屋(37軒)なども含まれていたはずです。上段の商人欄をみると、紺屋・按摩・米屋・麦屋・豆腐屋と食料品を中心に生活用品を扱う商人がいます。その中には、商人日雇い7人がいることを押さえておきます。
 職人欄を見ると、諸職人手伝11名を初め、大工8名の外、樽屋・髪結・佐宮・油氏などのさまざまな職人がいます。そして、ここにも「日雇16人」とあります。商人欄の「日雇7人」と合わせると23人(約17%)が「日雇生活者」であったことになります。ここからは、周囲の村々から流れ込んできた人々が、日雇いなどで日銭を稼ぎながら、借家人として金山寺町で生活している姿が見えてきます。この時期は、金毘羅大権現の金堂(旭社)の工事が進んでいて、好景気に沸く時期だったようです。「大工職人8・左官2人」なども、全国を渡り歩く職人だったかもしれません。
また、天保5(1835)年3月23日の「多聞院日記」には、次のように記します。

「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
 
意訳変換しておくと
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」

  ここからは筑後久留米の医師が金毘羅にやってきて長逗留して治療活動を始めて、遊女と馴染みになり、問題を起こしたので追放したことが記されています。職人や廻国の修験者以外にも、医師などもやってきています。流亡者となったものにとっては、「自由都市 金毘羅」は入り込みやすい所だったとしておきます。

次表は、宗旨人別帳に記載された金山寺町の一家の家族数を示したものです。

金毘羅金山寺町家族人数別軒数

ここからは次のような情報が読み取れます。
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。
②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順
③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
①からは、家族数が少ない核家族的な構成で、町場の特徴が現れています。ここにも外部からの流入者が一人暮らしや、夫婦となって二人暮らしで生活していたことがうかがえます。
19世紀前半の天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。

金山寺町火災図 天保9年3
19世紀初めの金山寺町 芝居小屋や富くじ小屋周辺図 細長い長屋も見える ●は茶屋

この芝居小屋は富くじの開札場も兼ね備えていました。「茶屋 + 富くじ + 芝居」といった三大遊所が揃った金山寺町は、ますます賑わうようになります。かつて市が開かれたときに小屋掛けされていた野原には、家並みが建ち並び歓楽街へと成長して行ったのです。こうした中で、金光院当局は次のように「遊女への寛大化政策」へと舵をとります。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可
天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
これが周辺の村々との葛藤を引き起こすことになります。
天保5(1834)8月14日の「多聞院日記」は次のように記します。
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」

意訳変換しておくと

「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
 
このように近隣の村や延宝からやってきた者が、金毘羅の酌取女とのトラブルに巻き込まれるケースも少なくなかったようでです。

金毘羅遊女の変遷

天保13年(1842)には天領三ヶ村を中心とした騒動が、多聞院日記に次のように記されています。
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、

  その時に長谷川喜平次は金毘羅町方手代にむかって次のように云っています。

「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」

意訳変換しておくと

「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。

「御料所一統之所、精々被押可申心得」というところに長谷川喜平次など近隣村々の上層部の本音が見えてきます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換して、騒動は決着をみています。
注目しておきたいのは、この騒動が周辺農民からの「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多い」という村人の現状認識から起きていることです。「金毘羅の金堂新築 + 周辺の石造物設置 + 讃岐精糖の隆盛」は幕末のバブル経済につながっていく動きを加速させます。そのような中で、金毘羅は歓楽の町としても周辺からの人々を呼び寄せる引力を強めます。その結果、周辺部の村々だけでなく人口流入が加速化したことが考えられます。それが髙松藩の岸の上・七ヶ村への移住者募集につながっているとしておきます。

周辺の丸亀藩や高松藩から金毘羅寺領に、百姓たちが流れ込んでいたことを見てきました。それは「逃散」なのでしょうか、それとも正式な「移住」なのでしょうか。枝茂川家文書「天保三年枝茂川杢之助日記」(町史ことひら 近世237P)を見ておきましょう。

送り手形之事
一 三人             庄五郎  歳四拾
女房    歳三拾
男子卯之助歳七
右の者、今般金毘羅御社領御地方二而借宅住居仕り度き段、願出候二付、聞届け、此方宗門帳差除き候間、自今已後、其御領宗門御帳面へ御書加え、御支配成らるべく候、且又宗旨之儀は代々一向宗二而多度郡弘田村円通寺旦那二而紛れ御座なく候、尤当村に於いて、己来何の故障も御座なく候、送り手形依而如の件し
天保三年壬辰十一月
多度郡善通寺村
組頭 孫太夫
金毘羅御社領百姓組頭
治助殿
治兵衛殿
次郎助殿
意訳変換しておくと
送り手形之事
以下の三人  庄五郎(40歳)・女房(30歳)・男子卯之助(7歳)について、このほど金毘羅寺領地方(町場)に、借宅を借りて生活を始めたことについて願出があった。ついては、こちらの宗門改帳から除き、今後は、そちらの金毘羅寺領の宗門帳面へ書き加えて、支配していただきたい。なお宗旨は、代々一向宗で多度郡弘田村の円通寺の門徒である。また当村では、何の問題もなかったことは送り手形の通りである。
天保三(1832)年壬辰十一月
多度郡善通寺村
組頭 孫太夫
金毘羅御社領百姓組頭
治助殿
治兵衛殿
次郎助殿
ここからは天保三(1832)年に、丸亀藩領善通寺村の百姓庄五郎一家が金毘羅寺領に転入したことが分かります。その事務処理は、通常の宗旨送り手形で手続きが行われています。「其御領宗門御帳面へ御書加え」とあるので、善通寺村の宗門帳から金毘羅寺領の宗門帳へ変更記入を求めています。これは、その他の場合と変わりないようです。このように丸亀藩から金毘羅社領地方への転入は一般的な手続きで手続きが完了したことが分かります。
それでは百姓の町方への転入、百姓身分からの離脱は可能だったのでしょうか。
  送り手形一札之事
一 弐人         口嘉   歳三拾五
    女子そね 歳拾七
右之者今般勝手二付、御町方二而借宅仕り度き段、願出で候二付、聞届け、此の方宗門帳面差除き候間、自今已後、御帳面二御差加え、御支配成らるべく候、尚又宗旨之儀は、代々当所普門院旦那二而紛れ御座なく候、送り手形働て如の件し
             百姓組頭(治) 次助印
天保四(1833)年巳十二月
高藪組頭勘助殿
(枝茂川家文書「天保三~六年枝茂川杢之助日記」)
ここでも通常の移住手続きで処理されています。気になるのは金毘羅寺領(町方)への移住に伴い、百姓身分が変更されたかどうかです。これについて研究者は、文書中の「御支配成らるべく候」が手がかりになると考えています。これが地方(百姓)組頭の支配を離れ、町方支配になることを意味する文言だ云うのです。

金陵金山寺町宗門人別御改下帳

「金陵金山寺町宗門人別御改下帳」には、町場金山寺町内住人の中には、百姓身分であることをうかがわせる肩書きや注記の施されたものはありません。また、この書にの中の「町年寄系譜」には、次のように記します。
浪人与申す義、心得違いニ候、已前ハ少々浪人もこれ有り候而、其の節は宗門帳ニも浪人帳与申し候而これ有り。皆其の義ハ、町人二而、町方町人帳二以前より今に相認め候、勿論皆々屋号を付キ商売方第一仕り候間、外々二而も評判これ有る通、町人ニハ紛れこれ無く候

意訳変換しておくと

浪人とするのは、心得違です。以前は少々の浪人がいて、宗門帳にも浪人帳に浪人と書くこともありました。しかし、今は町人として町人帳に記すようになっています。もちろん皆々が屋号を持ち商売を第一としていて、外部からも評判もありますので、町人に間違うことはありません。

ここには町場の宗門帳には、町人用しかなく、そこに記載されれば町人として認められたことが記されています。金光院が認めた場合には、金毘羅寺領への転入者の場合、身分も百姓から離脱し、町人化した可能性があると研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

史談会2024年12月 白川琢磨No4

白川琢磨先生の4回目のお話しになります。いよいよ讃岐の身近な例を題材に「神仏分離」のお話しが聞けそうです。興味と時間のある方の来訪を歓迎します。なお、当日会場で今回のテキスト的な書物である以下の書籍を販売します。興味と資力のある方はお買い求め下さい。4620円です。おつりの要らないようにお願いします。
顕密のハビトゥス―神仏習合の宗教人類学的研究


まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
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 金剛寺(まんのう町長炭)の説明板には次のように記されています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。私が気になるのは、各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っていることです。ここからは坊を名乗る修験者たちが、数多くいたことがうかがえます。それでは修験者たちは、この地にどのようにして定着して行ったのでしょうか? 中世後半に姿を消した金剛寺には、それを物語る史料はありません。そこで、以前にお話した国東半島の例を参考に推測していきたいと思います。
やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。
            国東半島の天念寺と鬼会の里
国東半島に天念寺という寺院があります。
背後の無明橋と鬼会の里として有名です。この寺は、中世にはひとつの谷全体を境内地としていました。そのため長岩屋(天念寺)と呼ばれたようです。この寺が姿を見せるようになるプロセスを研究者は次のように考えています。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
①行場に適した岩壁や洞穴を持つ谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

「夷耶馬」にも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋があります。
古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源は長い年月、岩屋のまわりの森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山や、この長岩屋の住僧三人、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じようなプロセスで開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋エリアに住むことを許された62戸の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。
他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の様子が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
                鬼会の行われる身禊(みそぎ)神社と講堂

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)があります。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。ここからは、長岩屋は「宗教特区」だったことになります。国東の中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。このようなムラを「坊集落」と研究者は呼んでいます。

このように国東の特徴は、修験者が行場周辺を開発して定着したことです。
そのため修験者は、土地持ちの農民として生活を確保した上で、宗教者としての活動も続けることができました。別の視点で見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的環境を作り出してきた要因のひとつと研究者は考えています。どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
 別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。豊後灘の向こう側の伊予の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるような気配がします。しかし、今の私には、史料的に裏付けることはできません。
天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

以上、国東半島の天念寺の「坊集落」を見てきました。これをヒントに金剛院集落の成り立ち推測してみます。

金剛院集落=坊集落説

①古代に讃岐国府の管理下で、大川山の山腹に山林修行のために中村廃寺が建立された。
②山上の中村廃寺に対して、里に後方支援施設として金剛寺が開かれ、周辺山林が寄進された。
③廻国の山林修行者が金剛寺周辺に、周辺の山林を焼畑で開墾しながら定着し、坊を開いた。
④こうして金剛寺を中心に、いくつもの坊が囲む宗教的空間(寺社荘園)が現れた。
⑤金剛寺は、鎌倉時代には宗教荘園として独立性を保つことができたが、南北朝の動乱期を乗り切ることができずに姿を消した。
⑥具体的には、守護細川氏・長尾城主の長尾氏の保護が得られなかった(敵対勢力側についた?)
⑦古代後半から南北時代に、金光院集落からは多くの修験者たちを生む出す供給地であった。
⑧金剛寺が衰退した後も、大川山周辺は霊山として修験道の活動エリアであった。
こうして見てくると、旧琴南など地元寺院に残る「中村廃寺」の後継寺という由緒も、金剛寺とのつながりの中で生まれたと考えた方が自然なのではないかと思えてきます。また、旧琴南地区に山伏が登場する昔話が多く残っているのも、金剛寺の流れを汲む修験者の活動が背景があるからではないか。

金剛院集落 まんのう町
まんのう町金剛院集落(手前は十三重塔)
どちらにしても古代末から南北朝時代にかけて、まんのう町長炭の山間部には金剛寺というお寺があり、周囲にはいくつも坊を従えていたこと。そこは全国からの山林修行者がやってきて写経し経筒を埋める霊山でもあったこと、その規模は、白峯寺や弥谷寺にも匹敵した可能性があることとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
関連記事


  金剛寺は中世まで遡ることの出来る寺院で、修験者の痕跡を色濃く残します。

金剛院集落と修験道
金剛院部落と修験道

現地の説明版に次のように記します。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
金剛院説明版
金剛寺前の説明版  
  説明板の要旨
金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。
要点を整理しておくと次の通りです。
①金剛寺の裏山の金華山は経塚が数多く埋められていること
②これを行ったのは中世の廻国の山林修行者(修験者・聖・六十六部たち)で、書経や行場であった。
③多くの僧侶(密教修行者)が各坊を構えて生活し、宗教的荘園を経済基盤に山林寺院があった。
④石造十三重塔は鎌倉時代中期のもので、修験者の行場であり、聖地であったことを伝える。

ここにも書かれているように金剛院地区は、仏教に関係した地名が多く残り、かつては大規模な寺院があったと語り継がれてきました。しかし 、金剛寺の由来を記した古文書がありません。目に見える痕跡は、門前の田んぼの中にポツンと立つ十三重の石塔(鎌定時代後期)だけでした。今回は、この石造五重塔に焦点を絞って見ていきたいと思います。テキストは以下の報告書です。
金剛院調査報告書2014
まず金剛寺の 地理的環境を見ておきましょう。
金剛院集落は、土器川右岸の高丸山 ・猫山 ・小 高見峰などに固まれ、西に開けた狭い盆地状の谷部にあります。金剛院地区周辺をめぐると気づくのは「阿弥陀越」や「法師越」といったいった仏教的な地名が数多く残っていることです。これらの峠道を通って、峠の北側の丸亀平野との往来が盛んに行われていたこと、そこに廻国の修験者や聖たちがやってきたこと、それらを受けいれる組織・集団がいたことがうかがえます。
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金華山と金剛寺

盆地の中央に金華山と呼ばれる標高約 207mのこんもりと盛り上がった小山(金華山)があります。この前に立つと何かしら手を合わせたくなるような雰囲気を感じます。そういう意味では金華山は、シンボル的で霊山とも呼べそうです。金華山を背負って南面して金剛寺は建っています。

イメージ 9
金剛寺の石造十三重の塔

 その金剛寺前の参道沿いに十三重塔はあります。参道の両側は、今は水田ですが、これは金華山南方の尾根を削平したものと研究者は考えています。そうだとすると、この塔は、境内の中にあったことになり、相当広い伽藍をもっていたことになります。塔身初重軸部より下は、今は土に埋もれています。しかし、笠を数えてみると十三ありません。今は十重の塔です。それがどうしてかは後ほど話すことにして先を急ぎます。
まんのう町周辺の古代から中世にかけての仏教関係遺跡を、報告書は次のように挙げています。

まんのう町の中世寺院一覧表

①白鳳・奈良期の古代寺院である弘安寺廃寺・佐岡寺跡
②平安時代の山林寺院である国指定史跡中寺廃寺跡
③平安時代後期から中世の 山林寺院である尾背廃寺跡
④平安時代後期の経塚群がある金剛寺
⑤弘法大師との関係が深いとされる満濃池
⑥高鉢山の氷室遺跡(修験者との関連)

これらの遺跡をつなぎ合わせていくと、次のような変遷が見えて来ます。
 白鳳・奈良期の古代寺院→ 平安時代の古代山林寺院→ 中世の山林寺院→ 経塚群

これらの宗教遺跡は約10kmの範囲内にあって、孤立したものではなくネットワークを結んで機能していた可能性があることは以前にお話ししました。しかし、文献史料がないためにその実態はよくわかりません。
十三重塔は、貴重な石造物史料ということになります。詳しく見ていくことにします。

金剛寺十三重塔9 
                  金剛寺十三重の塔 東西南北から

さきほどみたように、この十三重塔の一番上の十三重と十二重はありません。崩れ落ちたのでしょうか、金剛寺境内に別の塔の一部として今は使われています。
金剛寺十三重塔 13・12重 

金剛寺十三重塔 13・12重2 

上図のように上と下面に丸い穴が開けられています。上面の穴に相輪が設置されていたようです。他の塔身に比べ縦長です。ちなみに塔身11重は、今は行方不明のようです。
そうすると上から塔身の3つが欠け落ちているので、残された笠は十重になります。それを報告書は次のように記します。
①塔身初重から塔身 5重までは側面が揃うが 、塔身6重は上から見て反時計回りのねじれ 、塔身7~9重は時計回りのねじれがある
②塔身6~10重は南東方向へ若干傾く
③塔身は上層ほど風雨により侵食され、稜線が磨滅している。
④塔身12重は軸部と笠部がかなり磨耗しているため 、減衰率が低くなっている
次に塔身初重軸部を見ておきましょう。

金剛寺十三重塔 
金剛寺十三重塔4 
塔身初重軸部の東西南北

①上面と下面の中央に円筒状の突出部がある
②北側と東側 の側面に梵字が刻印されている 。

北側面の梵字は「アク」(不空成就如来)、東側面の梵字「ウン(阿閥如来)」です。そして研究者が注目するのは、上図のように梵字の方位が金剛界四仏の方位と合致することです。ここからは、この十三重塔は最初に建てられた本来の方位を向いていること、さらに云えば建立当初の位置に、今も建っていると研究者は推測します。ちなみに梵字が彫られているのは、北と東だけで、西側と南側にはありません。

それでは金剛寺十三重塔は、いつ・どこで作られたものなのでしょうか?
①凝灰岩製でできているので、石材産地は弥谷山 ・天霧山の凝灰岩 (天霧石)
②制作時期は塔身形状から仏母院古石塔(多度津町白方)と同時期
と研究者は考えています。
③の仏母院古石塔には石塔両側面に「施入八幡嘉暦元丙寅萼行」の銘があるので「嘉暦元丙寅 」 (1326年)と分かります。金剛寺十三重塔も同時代の鎌倉時代後半ということになります。

西白方にある仏母院にある石塔
             白方にある仏母院にある石塔「嘉暦元丙寅 」 (1326年)
ちなみに、これと前後するのが以前にお話しした白峰寺のふたつの十三重塔です。

P1150655
白峰寺の2つの十三重塔
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものとされています。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その代表作が金剛寺十三重塔ということになります。しかし、天霧石は凝灰岩のために、長い年月は持ちません。そのために上の笠3つが崩れ落ちたとしておきます。
天霧系石造物の発展2
 天霧山石造物の14世紀前半の発展

白峯寺石造物の製造元変遷
     
ちなみに中世に於いて五輪塔や層塔などの大型化の背景には、律宗西大寺の布教戦略があったと研究者は考えています。そうだとすると、讃岐国分寺復興などを担った西大寺の教線ルートが白峯寺や金剛寺に伸びていたという仮説も考えられます。
      
    周辺で同時代の天霧山石造物を探すと三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ大水上神社の燈籠があります。
大水上神社 灯籠
大水上神社の康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠

下図は白峰寺に近畿の石工が収めた燈籠です。これをモデルにして弥谷寺の石工がコピーしたものであることは以前にお話ししました。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峰寺頓證寺殿前の燈籠(近畿の石工集団制作

近畿産モデルを模造することで弥谷寺の石工達は技量を高め、市場を拡大させていたのが14世紀です。白峯寺に十三重塔が奉納された同時期に、まんのう町の山の中に運ばれ組み立てられたということになります。同時に、弥谷寺と金剛院の修験者集団のネットワークもうかがえます。弥谷寺の石工集団が周囲に石造物を提供するようになった時期を押さえておきます。

i弥谷寺石造物の時代区分表

白峯寺や金剛寺に十三重塔を提供したのは、第Ⅱ期にあたります。この時期に弥谷寺で起きた変化点を以前に次のように整理しました。

弥谷寺石造物 第Ⅱ期に起こったこと

第Ⅰ期は、磨崖に五輪塔が彫られていましたが立体的な五輪塔が登場してくるのが、第Ⅱ期になります。その背景には大きな政治情勢の変化がありました。それは鎌倉幕府の滅亡から足利幕府の成立で、それにともなって讃岐の支配者となった細川氏のもとで、多度津に香川氏がやってきたことです。香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、そこに五輪塔を造立するようになり、それが弥谷寺石工集団の発展の契機となります。そのような中で白峯寺や金剛寺にも弥谷寺産の十三重塔が奉納されます。ここでは金剛寺の十三重塔と、香川氏の登場が重なることを押さえておきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧石産石造物の分布図

天霧石製石造物はⅡ期になると瀬戸内海各地に運ばれて広域に流通するようになります。
かつては、これは豊島石産の石造物とされてきましたが、近年になって天霧石が使われていることが分かりました。弥谷寺境内の五輪塔需要だけでなく、外部からの注文を受けて数多くの石造物が弥谷寺境内で造られ、三野湾まで下ろされ、そこから船で瀬戸内海各地の港町の神社や寺院に運ばれて行ったのです。そのためにも弥谷寺境内で盛んに採石が行われたことが推測できます。ここからは弥谷寺には石工集団がいたことにが分かります。中世の石工集団と修験者たちは一心同体ともされます。中世の採石所があれば、近くには修験者集団の拠点があったと思えと、師匠からは教わりました。
また上の天霧山石造物の分布図は、「製品の販売市場エリア」というよりも、弥谷寺修験者たちの活動範囲と捉えることもできます。そのエリアの中に金剛寺も含まれていたこと。そして、白峰寺西塔に前後するように、弥谷寺の石工集団は金剛寺にも十三重塔を収めたことになります。
別の言い方をすれば、まんのう町周辺は天霧山の弥谷寺石工の市場エリアであったことがうかがえます。

最後に天霧山石造物のまんのう町への流入例を見ておきましょう。
弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
 この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に「四條一結衆(いっけつしゅう)并」
と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。


金剛寺4
金剛寺と十三重塔の位置関係

報告書は、金剛寺の十三重塔造成過程を次のようにまとめています。
①金剛寺が金華山南面に造営された際に、十三重塔付近の尾根も削平された
②続いて、石列と参道への盛士が行われ、金剛寺への参道が整備された。
③石列の一部を除去し盛士造成し、根石を設置した上に十三重塔が建てられた。
④それは天霧山石材を使ったもので弥谷寺の石工集団の手によるもので14世紀のことであった。
⑤天霧山で作られた石材がまんのう町まで運ばれ組み立てられた。
⑥天霧・弥谷寺と金剛院の山林修行者集団(修験者)とつながりがうかがえる。
⑦その後の根石の磨滅で、長期間根石が地上に露出していた
⑧この期間で十三重塔東西の平地は畑地化し、旧耕作土が堆積した。
⑨さらに、2回目の参道盛土が行われ、その際に人頭大・拳大の石が置かれた。
これは畑地化の過程で出てきた石を塔跡付近に集めてた結果である。
⑩さらに3回目の盛土が堆積し、水田化され耕作土が堆積する 。
以上からは、参道部分は何度も盛土が行われきましたが、参道と十三重塔は常に共存してきたようです。それは建立当初の位置に、この塔が今も建っているとから分かります。

香川県内の十三重塔はいくつかあるのですが、きちんと調査されているのは白峯寺の2基だけです。それに続いて調査されたのが金剛寺十三重塔になります。いろいろな塔が調査され、比較対照できるようになれば讃岐中世の石造物研究の発展に繋がります。その一歩がこの調査になるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金剛寺十三重塔調査報告書 まんのう町教育委員会
関連記事 

満濃池パンフレット 図書館郷土史講座JEPG

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、7月は綾子踊りについてお話ししました。10月は近世の絵図に満濃池がどのように描かれているのかを見ていくことにします。興味と時間のある方の来場を歓迎します。なお、会場が狭いので事前予約が必要となります。

満濃池 讃岐国名勝図会
満濃池(讃岐国名勝図会11巻)

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)


ブログ内の満濃池関連文書
https://tono202.livedoor.blog/archives/cat_30002.html
グーグル検索 「満濃池をめぐって」 












 


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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佐文綾子踊のルーツを探るために、佐文周辺の雨乞踊を見ていきたいと思います。

讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞踊の分布図
    上図からは次のような事が読み取れます
①東讃・髙松地域には、ほとんど分布していないこと → 大川郡の水主神社の存在(?)
②中讃には滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいた風流念仏踊が、いくつか残っていること
③三豊南部には、風流雨乞踊りが集中して残っていること。そして、三豊北部にはないこと。
④中讃の念仏踊系と、三豊の風流系の雨乞踊り境界上に、佐文綾子踊があること
以上からは、佐文綾子踊の成立には、上記の二のエリアの風流踊が影響を与えていることがうかがえます。これをある研究者は、「佐文綾子踊りは、三豊と中讃の雨乞い踊りのハイブリッド種」だと評します。
 以前にお話したように、佐文は滝宮に踊り込んでいた「七箇念仏踊」を構成する中心的な村でした。それが様々な理由で18世紀末頃から次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞踊を取り入れながら、新たな「混成種」を「創作」したのではないかと私も考えるようになりました。  それを裏付ける「証拠」を見ていくことにします。

豊浜町和田の「さいさい踊り」を見ておきましょう。

さいさい踊り 豊浜JPG
さいさい踊(豊浜町和田)
この躍りで、まず注目したいのは隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。そして、歌詞の内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。これは先ほど見た綾子踊の地唄と同じです。流行(はやり)歌が盆踊に取り込められていく過程が見えます。さいさい踊り以外の三豊に残る風流雨乞踊りも、もともとは盆踊りとしておどられていたと研究者は考えています。

それでは、この踊りを伝えたのは誰なのでしょうか?

さいさい踊り 薩摩法師の墓碑
豊浜町和田の道溝集落の壬申岡墓地にある薩摩法師の墓碑

墓碑には、上のように記されています。ここからは、つぎのような過程が見えてきます。

さいさい踊り 伝来


 佐文の西隣の麻(高瀬町)にも、綾子踊りが踊られていました。その由来を見ておきましょう。
  ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。           
沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。

 ここには、江戸時代の後半になって京都から下ってきた貴族の娘・綾子姫が下女と一緒に、当時の風流踊りを元にして綾子踊りを完成させて、麻に伝えたという伝説が記されています。雨乞踊の創作過程で、当時京都や麻周辺で踊られていた風流踊りが取り込まれた過程が見えていきます。言い方を変えると、風流踊が雨乞踊りに転用されたことになります。こうして見ると、前回見たように「綾子踊に恋歌が多いのは、どうしてか?」の応えも、以下のように考えることができます。

風流踊りから盆踊りへ

こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。



それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。

風流踊りの伝来者

A
 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。


百石踊の伝来委

兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司
は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?

「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。

百石踊り - marble Roadster2

百石踊りの芸司は、黒い僧服姿

 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?

由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。

以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

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綾子踊は、雨乞い踊りとされてきました。それでは、そこで歌われている地唄は、雨乞いに関係ある歌詞なのでしょうか。実は、歌われている内容は、雨乞いとは関係ない恋の歌が多いようです。
綾子踊りには、どんな地唄が歌われているのかを見ていくことにします。 綾子踊りには、12の地唄があります。その中で「綾子踊」と題された歌を見ておきましょう。

綾子踊り地唄 昭和9年
綾子踊地唄(尾﨑清甫文書 1934年版) 

尾﨑清甫が1934(昭和9)年に、残した「綾子踊」の地唄です。
歌詞の上に踊りの動作が書き込まれています。例えば、最初の「恋をして、恋をして」の所には、「この時に、うちわを高く上げて、真っ直ぐに立て捧げ、左右に振る」。「わんわする」で「ここでうちわを逆手に持ち替えて、腰について左に回る」、その後で「小踊入替」とあります。踊りの所作が細かく書き込まれています。一番を、意訳変換しておくと次のようになります。

綾子踊り地唄
綾子踊の1番
「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。「恋をして 恋をして ヤア わんわする。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。それを親は、夏やせだと思っています。「あじ(ぢ)きなや」です。「アヂキナイ」 とは情けないこと 、あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことです。恋やせなのに、夏やせとはあじけない。人の気持ちが分かっていない、情けないというところでしょうか。2番を見ておきましょう。

綾子踊り地唄2
綾子踊の地唄 2番

2番は①我が恋は夕陽の向こうの海の底の沖の石と歌います。これだけでは意味が取れないので、他の類例を見ておきます。備後地方の田植え歌には「沖の石は、引き潮でも海の底にあって濡れたままで乾く間もない」、千載和歌集には「沖の石は姿を現すことのなく、誰にも見えない秘めた恋」とあります。「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。これを参考に次のように意訳しておきます。

「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

綾子踊りの3番を見ておきましょう。
綾子踊り地唄3番

綾子踊り3番は、我が恋を細谷川の丸木橋に例えます。
これだけでは意味が分からないので、また類例を見ておきましょう。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。

次に花籠を見ておくことにします。
綾子踊り 花籠2
              綾子踊地唄 花籠(尾﨑清甫文書 1934年版)
綾子踊り 鳥籠
花籠の意訳

この歌は、閑吟集(16世紀半ば)の一番最後に出てくる歌のようです。
綾子踊り 花籠 閑吟集

ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した歌詞が、地唄として踊られているというのが「無形文化財」だと研究者は考えています。


私の綾子踊りに対する疑問の一つが「雨乞い踊りなのに、どうして恋歌が歌われるのか」でした。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
雨乞いなのに恋の歌

 つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。

どうして綾子踊りに、風流歌が踊られるのか?


綾子踊り 講演会表紙
郷土史講座でお話ししたことをアップしています。
どうして綾子踊は、国指定になり、ユネスコ登録されたのか。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と尾﨑清甫文書
西讃府誌は幕末に丸亀藩が編集したもので、各村の庄屋たちに命じて地誌的な情報をレポートとして提出させたものを藩が編纂したのものです。つまり、当時の佐文村の庄屋のレポートにもとづいて書かれています。その中に綾子踊りのことが次のように取り上げられています。
西讃府誌の綾子踊り

これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府誌の綾子踊り記述

西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
「雨乞踊緒書」というのは、佐文の尾﨑清甫の残した文書です。
尾﨑清甫
尾﨑清甫とその文書箱の裏書き
尾﨑清甫は、代議士でもあった増田穣から未生流家元の座を譲られた華道家でもありました。
尾﨑清甫華道免許状
秋峰(増田穣三)から尾﨑清甫(伝次)の華道免許状

尾﨑清甫 華道作品
未生流・尾﨑清甫の荘厳
今から110年前の大正3(1914)年の大旱魃が起こり、途絶えていた綾子踊が踊られます。それを機に、尾﨑清甫は記録を残しはじめ、昭和14年(1939)に集大成しています。

尾﨑清甫史料
尾﨑清甫文書
その中に、踊りの隊形がどのように記されているのかを見ておきましょう。以下が現在のフォーメーションです。

綾子踊り隊形

①女装した6人の小踊り(小学校下級年)
②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。
③その後に太鼓と榊持(拍子)
④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。
⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
綾子踊り4
綾子踊 小踊りと芸司
ここで押さえておきたいのは、綾子踊りの隊形は円形ではないことです。2つのBOXからなることです。讃岐で踊られる「風流小唄系雨乞い踊」は、先祖供養のための盆踊りが雨乞用に「借用」されたものなので、円形隊形が普通であることは以前にお話ししました。そのため綾子踊りの隊形は「ハイブリッド」だと評する研究者もいます。近世後半になって新たに作り出された可能性があります。
尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
綾子踊り隊列図 尾﨑清甫
尾﨑清甫の綾子踊隊形図
これが西山(にしやま)の山頂直下にあった「りょうもさん(旧三所神社)」に奉納されていたという隊形図です。読み取れることを列挙しておきます
①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
実は、尾﨑清甫は3つの隊形を記しています。それは「村踊り」「郡踊り」「国踊り」です。そして、これは「国踊り」とされます。つまり、踊る場所によって、その規模や編成が変えられたことが伝えたかったようです。しかし、綾子踊が村外に出て踊られたことはありません。この記述には、滝宮牛頭天王社に奉納されていた七箇念仏踊りのイメージが尾﨑清甫の頭の中にあったことがうかがえます。先ほど見た「西讃府誌」には「下知(芸司)1人、小踊6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各1人とありました。これが実際の編成だったのです。つまり、この絵は、頭の中の「当為的願望」と私は考えています。しかし、ここからは、小踊りと芸司の位置など現在にそのままつながる所も多いように見えます。ここでは昔の隊形を、綾子踊りが継承していることを押さえておきます。

綾子踊り 入庭図4
綾子踊の入庭 棒と薙刀の問答
今回は、綾子踊の隊形についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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今回は、綾子踊りの団扇・花笠・衣装を見て行くことにします。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河の大念仏の大団扇
風流化のひとつに団扇の大型化があることは以前にお話ししました。
綾子踊りも、芸司や拍子の持つ団扇は大型化しています。

P1250507
綾子踊の芸司と拍子の持つ大団扇(中央)と中団扇(左右)
尾﨑清甫は、団扇について次のように記します。

団扇・台笠寸法 大正
綾子踊 芸司と拍子の団扇寸法
意訳変換しておくと
芸司 大団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺7寸5歩(約52㎝)  横 1尺3寸(39㎝) 柄 6寸(18㎝)
 廻りには色紙を貼り、金銀色で日と月を入れて、その下に「水の廻巻」か、上り龍・下り龍を入れるのもよし。
拍子(榊持ち) 中団扇寸法(鯨尺)
 縦 1尺2寸5歩(約38㎝)  横 9寸(27㎝)   柄 6寸(18㎝)
デザインは、大団扇に同じ。
小踊  女扇子
台笠 (省略)
P1250070

団扇には①月と太陽が貼り付けられています。月と太陽は、修験者の信仰のひとつです。この踊りを伝えたのが聖や修験者などであったことがうかがえます。なお、月・日の下に描かれているのが「水の廻巻」のようですが、今の私にはこれが何なのか分かりません。「雲」と伝えられるので、雨をもたらす「巻雲」と考えていますが、よく分かりません。ちなみに、ユネスコ登録を機に新しく大団扇を新調することになりました。大きさは、尾﨑清甫の言い伝えの通りに発注しました。分かることは、出来るだけつないでいこうとしています。

綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊 外踊(がおどり)の団扇と笠

次に、花笠についての記録を見ておきましょう。



綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊の花笠寸法(尾﨑清甫文書)
意訳変換しておくと
芸司・拍子 
  スワタシ(直径) 1尺5寸5歩(鯨尺 約46㎝)
  3色で飾り付けよ、ただし赤色は使用しないこと
小踊花笠
  スワタシ 1尺2寸5歩(約37㎝)
  ただし、ひなりめんにして両側を折る、そして正面は7寸(21㎝)開ける
小踊の花笠は赤い布を垂らして、正面21㎝開けよという指示です。
P1250029
                   綾子踊小踊の花笠
ポジションによって、被る笠がちがうことを押さえておきます。
花笠
綾子踊に使われる花笠や笠
かつては、花笠や笠も手作りでした。しかし、戦後の高度経済成長の中で、これらを作れる人達がいなくなってしまいます。重要無形文化財に指定されて、団扇や花笠も新調されますが、それらは総て京都の職人の手によるものでした。それから約半世紀の年月が経って、痛みが目立つようになっています。修繕を繰り返しながら使用していますが、それも限界に近づいてきています。これらの新調が課題となっています。最後に衣装を見ておきます。

「村雨乞行列略式」の中の衣装と役割を見ておきましょう。

綾子踊り 入庭
佐文賀茂神社への入庭と幟

綾子踊り 村雨乞行列略式
村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
①最初に来るのが「幟一本」で「佐文雨乞踊」と書かれたものです。それを礼服で持ちます。
②「警固十(六)人」とあります。当初は十人と書かれていたものを六人プラスして「増員」しています。これ以外にも「増員」箇所がいくつかあります。その役割は、「五尺棒を一本持って、周囲四隅の場所を確保すること」で、履き物は草鞋ばきです。
③次が「幟四本」で「一文字笠、羽織袴姿で上り雲龍と下り雲龍」を持ちます。
綾子踊り 警固
四隅で結界を作る警固(佐文賀茂神社)

警固以外に杖突も6人記されています。

P1250665
             村雨乞行列略式(尾﨑清甫文書 昭和14年)
④「杖突(つけつき)六人」で「麻の裃で小昭楮、青竹を持て龍王宮を守護するのが任務」
⑤「棒振(ぼうふり)・薙刀振(なぎなたふり)一人」で「赤かえらで刀頭を飾る。衣装は袴襷(たすき)」です。
⑥「台笠一人」で、「神官仕立」で、神職姿で台笠を持つ」
⑦「唐櫃(からひつ)」で、縦横への御供えを二人で担ぎます。これも神職姿です。
⑧「正面幟二本」で「善女龍王」と書かれた二本の幟を拝殿正面に捧げ。一文字笠を被り、裃姿です。
⑥の「台笠一本」については、台笠の下は神聖な霊域で、悪霊や病魔も及ばないところとされました。普通は左右に2本なのですが、ここでは1本になっていることを押さえておきます。ちなみに前回見た「国踊りの絵図(拡大版)」では、台笠は2本描かれています。また、七箇念仏踊りや滝宮念仏踊りの絵図も2本です。しかし、実際には1本であったことが、ここからは分かります。

綾子踊り 台笠・幟
青い台笠が1本 その周囲に幟が林立

⑧の「善女龍王」は、善女龍王と書かれた幟です。人数は4人で「神官仕立」とあります。先ほどの「上り龍・下り龍」の幟の持手は、羽織袴姿でした。同じ幟でも、持ち手の衣装が違うことを押さえておきます。
綾子踊り 善女龍王幟
               綾子踊 善女龍王の幟(佐文賀茂神社)


P1250666 隊列昭和s4芸司
            村雨乞行列略式 NO3(尾﨑清甫文書 昭和14年)

⑨は「螺吹(かいふき)一人」で、法螺貝吹きのことで、「但し、頭巾山伏仕立、袈裟衣で」とあります。かつては頭巾を被った山伏の袈裟姿だったようです。
⑩が「芸司一人」で「花笠・羽織・袴姿で、大団扇を持って踊る」とあります。
風流踊りを伝えたのは、「芸能伝播者」としての山伏や念仏聖達です。綾子踊りの旅の僧が伝えたとされます。その芸能伝播者が「芸司」にあたります。そのため初期の風流踊の芸司の衣装は黒い僧服姿であったと研究者は指摘します。それが江戸時代になると羽織袴姿になり、さらに二本差しで踊るようになります。ここには芸司を務める者の「上昇志向」が見えてきます。風流踊りは、時と共に衣装や持ち物も変化してきたことを押さえておきます。
⑪が「太鼓二人」が続きます。鳴り物の中では太鼓が、一番格が高いとされます。
⑫最後が「拍子二人」で、「但し、羽織袴仕立で、榊に色紙を短冊にして付ける。6尺5寸以上の榊一本を龍王宮へ供えるために持つ。」とあります。そのため「榊持ち」とも呼ばれていたようです。今は、入庭の時には榊を持って入場しますが、踊るときには回収しています。

P1250667 衣装・役割 その他
         村雨乞行列略式 NO4(尾﨑清甫文書 昭和14年)
⑨「鼓(つづみ)二人」の衣装は「裏衣月の裃に、小脇指し姿で、花笠」とあります。「小脇指」を指していることを押さえておきます。
⑩「鉦(かね)二人」は「麻衣に花笠仕立て」で現在も黒い僧服姿です。

綾子踊り 鉦と大踊
綾子踊の鉦(かね)と大踊 鉦は僧侶姿

⑪「笛吹二人」は「花笠・羽織袴で、草履履き」です。太鼓や鼓に比べると「格下」扱いです。
⑫「小踊六人」は「花笠姿で、緋縮綿の水引を八・九寸垂らす。(後筆追加?)。小姫仕立で赤振袖に上着は晒して麻帯、緋縮綿(ひじりめん)に舞子結」
⑬「地唄八人」は「麻の裃に小服で、青竹の杖を持って、一文字笠を被る」とあります。裃姿でも、その材質によって身分差が示されています。
⑭「大踊(おおおどり)」は、「大姫は女仕立で、赤い振袖で上着は晒して、麻の片擂(かすり)で、水のうずらまき模様りの袖留め。帯は女物で花笠を被る。

綾子踊り4
綾子踊の小踊

  以上からは、衣装や笠については、その役割に身分差があって、細かく「差別化」されていたことが分かります。戦後の綾子踊り復活に関わった人たちは、尾﨑清甫の残した記録を参考にしながら、意図をくみ取って、できるだけ見える形で残してきたのだと思います。
今回は、綾子踊の団扇・花笠・衣装についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


まんのう町図書館の郷土史講座で綾子踊りについて、お話ししました。その時のことを史料と共にアップしておきます。
綾子踊り 図書館郷土史講座

佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。

ユネスコ登録書
ユネスコ無形文化遺産登録書

ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●
convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。

風流とは?
「ふうりゅう」と「ふりゅう」の違いは?

「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。

上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀


 たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、
人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。

やすらい踊りの風流笠
やすらい踊りの風流笠


中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河大念仏の大うちわ

奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。

文化庁の風流踊りのとらえ方

文化庁の「風流踊」のとらえ方は?
華やかな色や人目を引くためためにの衣装や色、持ち物の大型化などが、風流(ふりゅう)化で、「かぶく」と重なり会う部分があるようです。一方、わび・さびとは対局にあったようです。歌舞伎や能・狂言などは舞台の上がり、世襲化・専業化されることで洗練化されていきます。一方、風流踊りは民衆の手に留まり続けした。人々の雨乞いや先祖供養などのいろいろな願いを込めて踊られるものを、一括して「風流踊り」としてユネスコ登録したようです。

雨乞い踊りから風流踊りへ
雨乞い踊から風流踊へ

綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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綾子踊公開公演の中止について
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。


IMG_6568佐文公民館

       佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
IMG_6569佐文公民館

日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)
場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)
日 程  9:00  受付開始
   10:00  公民館前出発 加茂神社への入庭
   10:15  保存会長による由来口上
   10:20  棒・薙刀問答
   10:30  芸司口上 踊り開始
  ①水の踊 ②四国船 ③綾子踊  ④小鼓
 小休止
  ⑤花籠  ⑥鳥籠  ⑦たま坂  ⑧六蝶子(ちょうし)
 小休止                   
  ⑨京絹  ⑩塩飽船  ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
暑さ対策のために、今年は2回の休憩をとって、3回に分けて踊ります。11:40頃 終了予定 その後出演者の記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているともされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「神髄」かもしれません。「中世を感じたい人」や時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。

① 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。(農道駐車となります。)
② 先着100名の方に、以下のうちわかクリアケースを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

P1270160
綾子踊のうちわ(4種類)

香川県ではじめて電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)によって設立された高松電灯でした。
髙松電灯社長 牛窪求馬(うしくぼ もとめ) と副社長・松本千太郎

 髙松電灯について、以前にお話したことをまとめておきます。
①明治28(1895)年2月に設立認可、4月に設立、11月3日に試点灯、同月7日開業開始
②当初資本金は5万円で、後に8万円に増額
③社長は髙松藩家老の息子・牛窪求馬、専務は松本千太郎
④高松市内の内町に本社と火力発電所を設置
⑤汽圧80ポンドのランカシャーボイラー2基と、不凝縮式横置単笛往復機関75馬力2基によって、単相交流2線式50サイクル、1100Vスプリング付回転電機子型50 kWの発電機2台で、高圧1000V、低圧50Vの配電で電灯供給
⑥開業当時、供給戸数は294戸、取付灯数は659灯
⑦高松市内の中心部にある官公庁や会社、商店などが対象で、供給エリアは狭かった。 

設立されたばかりの明治期の四国の電灯会社の営業状況を見ておきましょう。
明治期四国の電気事業経営状況
ここからは次のような事が読み取れます。
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。
②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。
③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
こうして見ると、明治末の段階では、電線延長などの運営経費は増えているのに、契約者数はさほど増えていなかったことが見えてきます。出来たばかりの電灯会社は、急速な成長はなく、厳しい船出で「魅力ある投資先」ではなかったことを押さえておきます。

黎明期の電灯会社
黎明期の電灯(気)会社の状況
髙松電灯設立の動きを受けて、旧丸亀藩でも電灯会社の設立の動きが出てきます。 
中讃では電灯(力)会社の設立申請が、次のふたつから出されます。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体 
②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
①の景山甚右衛門は、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家がの連合です。こちらの方が有利だと思うのですが、国の認可が下りたのは、なぜか②の中讃名望家連合でした。この発起人の中心人物のひとりが増田穣三でした。

大久保諶之丞と彦三郎
大久保諶之丞(右)と弟の彦三郎(左)
当時の会社設立への動きがどんなものだったのかを知る史料は、私の手元にはありません。そこで、約10年前の四国新道建設に向けて地元の意見をとりまとめた大久保諶之丞の動きを参考にしたいと思います。彼が残した日記から、明治17(1884)年11月2日~15日を動きを見てみましょう。この時期は、四国新道のルート決定が行われる頃で、四国新道が通過する地元有力者の意見集約が求められた時期になります。
大久保諶之丞の新道誘致運動
大久保諶之丞の新道誘致をめぐる動き(明治17年11月)

大久保諶之丞が連日のように中讃各地を廻り、有志宅を訪問していること分かります。訪問先を見ると
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)
12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人 
14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)
15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
ここからは、地域の有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。その手順は、
①最初に、琴平の津村・榎井の長谷川佐太郎、多度津の景山甚右衛門に会って、了承をとりつける。
②次に各地区の要人宅を訪ねて協力依頼。
③その結果を報告するために再度、14日に景山甚右衛門・15日に長谷川佐太郎に訪ねている。ここからは、景山甚右衛門と長谷川佐太郎を、担ぎ上げようとしていたことがうかがえます。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で、大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。案内はがきが発送され、集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。
 案内状には、豊田元良の名前がありません。しかし、案内状をもらった人たちは、大久保諶之丞の背後には豊田元良がいることは誰もが分かっていたはずです。事前に、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。そして11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されます。このような形で、四国新道建設の請願運動は進められています。
讃岐鉄道や西讃電灯の設立に向けた動きも、地域の要人の自宅を訪ね歩いて、協力と出資をもとめるという形が取られたようです。
 それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
そして、次のように創立総会で決定され操業に向けて歩み始めます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。
資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓 
募集株数  二、四〇〇株
払込期限  明治31年5月5日
取締役社長 樋口 治実
専務取締役 赤尾 勘大
取 締 役 山地 善吉外三名
監 査 役 山地 健雄 富山民二郎
支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)
明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願
明治31年9月  西讃電灯株式会社創立。
明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
 ところがこれからが大変でした。
 高松電灯は、明治28(1895)年2月に設立認可で、4月に設立、11月3日に試点灯、11月7日開業開始で、設立認可から営業開始まで9ヶ月の短期間でこぎつけています。ところが西讃電灯は、認可から4年が経っても営業開始にたどり着けないありさました。認可から営業開始までできるだけ短期間に行うのが経営者の腕の見せ所です。その期待に応えられない経営者に対して、株主達は不満の声を上げ始めます。
西讃電灯の発起人と役員を見ておきましょう。

増田穣三と電灯会社4
西讃電灯の発起人と役員(村井信之氏作成)
上表からは、次のような事が読み取れます。

①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。

②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である

③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している

④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。

⑤そのために社長が短期間で交代している

⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。

⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。

⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。

営業開始の妨げとなっていたのは、何だったのでしょうか?

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ
電灯会社営業開始の遅れの要因
明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  には、問題点として上のようなことが挙げられています。第1には、設立資金が期限までにおもうように集まらなかったことです。そのために発注されていた発電機の納入ができず、再発注に時間が取られます。発注先が確定し、設計図が送られてくるまでは発電所にも本格的な着工はできません。また、電柱を発注しても、それを建てるための土地買収や登記までプロセスが考えられていなかったようです。
 設立当初の社長や経営者達は、他県の人物で香川県にはやって来なかった人もいるようです。技術者たちも頻繁に交代しています。責任ある経営が行えていなかったということでしょう。つまりは、素人集団による設立準備作業だったようです。そのため創業開始は、延べ延べになり、株主達の不満の声は、出資を募った増田穣三に向けられます。増田穣三は、当時は七箇村村長と県会議員を兼ねる立場でした。株主達からは「あんたが責任を持ってやれ」という声が沸き上がります。このような声に押されて、増田穣三が第4代社長に就任し開業を目指すことになります。これが明治35(1902)年8月のことでした。
このような事情を 「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」(明治37年刊行)は、次のように記します。

  入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや

 意訳変換しておくと
  電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。

増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
 増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、
②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電
③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
この時に金倉寺に増田穣三によって建設された本社と発電所を見ておきましょう。
高松発電所に続いて香川で2番目に建設された金倉寺火力発電所は、金蔵寺駅北側の東隣に隣接して建設されたようです。明治40(1907)年頃の様子が、次のように記されています。
金倉寺発電所(讃岐電気)
金倉寺発電所(西讃電灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。

 この記録と絵からは、次のような発電行程が推定できます。

金倉寺発電所2
金倉寺発電所の発電行程

讃岐電気本社・発電所2
讃岐電灯の本社
どうして多度津や丸亀でなく金蔵寺に発電所を建設したのでしょうか?それは石炭と水の確保にあったようです。

金倉寺発電所立地条件
金倉寺火力発電所の立地条件

石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
 火力発電は、石炭で水を熱して蒸気力でタービンを廻します。そのため良質の水(軟水)が大量に必要となります。金倉寺周辺は、旧金倉川の河床跡がいくつもあり、地下水は豊富です。金倉寺駅の西1㎞には、以前にお話しした永井の出水があります。金倉寺駅周辺も、掘れば良質な湧き水が得られるとを、人々は知っていました。

文中の「夕方になると煙突から黒い煙が出る」というのは、当時の電力供給は電灯だけで、動力用はありません。そのため社名も「高松電灯」や「西讃電灯」でした。夕方になって暗くなると石炭を燃やして、送電していたのです。つまり、明るい昼間には操業していなかったのです。一般家庭での電気料金は月1円40銭ですの、現在に換算すると数万円にもなったようです。そのため庶民にはほ程遠く、電気需要が伸びませんでした。そのため架線延長などの設備投資を行っても契約戸数は増えず、経営は苦しく赤字が累積していくことになります。
設立当初の収支決算は次の通りです。

電灯会社の収支決算 開業年

 収入が支出の三倍を超える大赤字です。
これに対して増田穣三の経営方針は「未来のためへの積極的投資」でした。
 日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が発注されます。これに対して、増田穣三は「お国のために」と採算度外視で短期間で完成させ、善通寺方面への送電を開始します。さらに翌年の明治38(1905)年には琴平への送電開始し、電力供給不足になると150㌗発電機を増設し、210㌗体制にするなど設備投資を積極的に行います。
明治の石炭価格水表
明治の石炭価格推移
 しかし、待っていたのは日露戦争後の石炭価格の高騰で、これが火力発電所の操業を圧迫するようになります。さらにこれに追い打ちをかけたのが日露戦争後の恐慌に続く慢性的な不況でした。会社の営業成績は思うように伸びず、設立以来一度も配当金が出せないままで赤字総額は8万円を越えます。
 ここに来て「未来のための積極投資」を掲げて損益額を増大させる増田穣三の経営方針に対する危機感と不安が株主たちから高まり、退陣要求へとつながります。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
電灯会社の経営戦略をめぐる対立

こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
増田穣三の責任の取り方

そして、2ヶ月後には七箇村村長を辞任し、次の県議会選挙には出馬しませんでした。私は、これは増田穣三なりの責任の取り方であったのではないかと思います。
 「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。    
    電灯会社設立に向けて、投資を呼びかけたのは増田穣三です。「資本減少」という荒治療は、出資者である名望家の増田穣三に対する信用を大きく傷つける結果となります。穣三自身も責任を痛感していたはずです。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないかと私は考えています。これが政界からの引退のようにも思えるのですが、5年後には衆議院議員に出馬し当選します。ちなみに、景山甚右衛門はこの時に地盤を三土忠三に譲って代議士を引退します。そして四国水力発電所の三繩発電所の建設に邁進していくことになります。
増田穣三・景山甚右衛門比較年表 後半

増田穣三と景山甚右衛門の年譜(村井信之氏作成)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
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増田穣三と電灯会社設立の関係年表
1894 明治27年 増田穣三が七箇村助役就任(36歳)→M30年まで
1895 明治28年 近藤秀太郎や増田穣三らによって電灯会社設立計画が進む。
1897 明治30年 西讃電灯会社(資本金12万円)設立 → 開業に手間取る
1899 明治32年 3・7 増田穣三が県会議員に初当選(41歳)
 4月26日 増田穣三が七箇村長に就任(41歳)→M39年まで7年
1900 明治33年10月21日 経営刷新のため臨時株主総会において、役員の総改選
1901 明治34年8月 増田穣三が讃岐電気株式会社の第4代社長に就任 
1902 明治35年7月30日 讃岐電気株式会社が電灯営業を開始(設立から6年目)
11師団設立等で電力需要は増加するも設備投資の増大等で経営は火の車。設立以来10年間無配。
   
1903 明治36 増田一良 黒川橋の東に八重山銀行設立。出資金5000円
1904  明治37年7月 増田穣三が株主総会で決算報告。野心的な拡張路線で大幅欠損
   9月 讃岐電気が善通寺市への送電開始。翌38年8月には琴平町にも送電開始。
1905 明治38年  日露戦争後の不況拡大
   8月 讃岐電気が琴平への送電開始
      電力供給不足のため150㌗発電機増設。新設備投資が経営を圧迫
  11月1日 県会議長に増田穣三選任(~M40年9月)(43歳)
1906 明治39年1月 増田穣三が讃岐電気社長を辞任
   3月 増田穣三 七箇村村長退任    
1907  9月25日 第3回県会議員選挙に増田穣三は出馬せず 
   10月7日 臨時県議会開催 蓮井藤吉新議長就任  増田穣三県会議長退任
    9月 讃岐電気軌道株式会社設立。発起人に、増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
1912(明治45・大正1年)5月 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 景山甚右衛門は、選挙地盤を三土忠造に譲って政界引退

借耕牛 美合落合橋の欄干
落合橋の借耕牛(まんのう町美合)
最初に見た美合の落合橋の欄干です。向こうに見えているのが谷川うどんになります。この橋は、勝浦からの道と三頭峠からの道の合流点に架かっていて、借耕牛の往来した道とされます。その橋に、さきほどの阿讃君レリーフやこの切絵風デザインが施されています。これを計画・実行した設計者に私は尊敬と感謝の念を抱きます。それでは、どうして借耕牛が讃岐にやってくるようになったのでしょうか。次に、このことについて見ておきましょう。

西讃府誌 牛馬普及率
仲多度・三豊郡の牛馬普及率(西讃府史による)

まず仲多度郡では、牛はどのくらい普及していたのかを見ておきましょう。幕末に丸亀藩が編集した西讃府史には、各村の農家戸数・水田面積・牛や馬の数が、各村ごとに記されています。これを数字化したのが上表です。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。
②多度郡はもっと低くて、38,8%。
③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。
④三豊全体の平均値は約40%。
讃岐には「五反農家」という言葉がありますが、仲多度郡の一戸辺りの耕地面積を見ると4反未満です。ここからは零細農家が多く、牛や馬を飼うことはできなかったことが考えられます。牛のいない家が、代掻きの時に牛が欲しいと思うのは当然でしょう。牛のレンタル需要があったとしておきます。
 次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
阿波池田の東側に井川町があります。井川スキー場のあるところです。そのスキー場の奥にあるのが腕山放牧場です。

借耕牛 腕山放牧場

阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。

借耕牛 井内谷村の牛馬保有数
井内谷村の牛馬所有数の推移
この表は井内谷村の牛馬・農家数牛馬所有数を年代毎にしめしてたものです。井内谷村(旧井川町・現在の三好市)は、先ほど見た腕山牧場の下にあるソラに近い集落です。左が年代推移です。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。

讃岐への借耕牛が本格化するのは、明治後半になってからのようです。その背景を考えたいと思います。

借耕牛 増加の背景

阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。

借耕牛登場の背景

①阿波のソラの集落には広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。それに対して、讃岐は近世になると刈敷や燃料薪などの入会権の設定されて、それまでの牧場が消えていくことは以前にお話ししました。そのため牛や馬にたべさせる飼料が手に入りません。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。

まんのう町の峠 阿波国図

これは阿波藩が幕府に提出するために作成した阿波国図です。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川  ②大滝山  ③大川山  ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。

真鈴峠

⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
 
5借耕牛 峠別移動数jpg

左側が讃岐の受入集落名(峠名)です。
①昭和5~10年には、夏秋合わせて8250頭の牛がレンタルされています。②多い順は、1美合 2岩部 3猪ノ鼻(戸川・道の駅)  4 清水口 5 塩入 となります。
②ここからは美合と塩入を合わせると3000頭を越える牛がまんのう町にやってきていたことになります。借耕牛の1/3は、まんのう町に入ってきていたことを押さえておきます。
③右段を見てください。それが戦後の昭和33年には、約1/3に激減しています。この理由は時間があれば考えることにします。

次に、牛たちが阿波のどこからやってきたかを見ておきましょう。

借耕牛の阿波供給地

この図は1935(昭和10年)の牛の供給源と、讃岐のレンタル先を示したものです。編目エリアは100頭以上、斜線エリアは50~100頭の牛を送り出したり、受けいれたりしている村々です。ここからは次のような事が分かります。
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
③借耕牛の通過は、岩部(塩江)→髙松平野  美合→坂出・丸亀  塩入・山脇・猪ノ鼻 → 丸亀・三豊 
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
 もうひとつ注目しておきたいのは髙松沖の女木島からも借耕牛は送り出されていたようです。 
借耕牛 男木島.2JPG

石垣でかこまれた坂道を牛が歩いています。ここは女木島のとなりの男木島です。この島は、古くから島全体が牧場とされてきました。島ですから放し飼いができます。また坂が多く、放し飼いの牛は坂を登り降りし、足腰が丈夫で強く、しかも人なつっこくて、よく云うことを聞くので農耕牛としては借り手に人気があったようです。

借耕牛 女木島

こちらは女木島の牛です。髙松から借耕牛が帰ってきた所です。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。

借耕牛 起源

ひとつは江戸後期説です。これはサトウキビを石臼で絞るために、大型の阿波の牛がやってきたというものです。ここで注意しておきたいのは、田畑を耕すためにやってきたのではないことです。その数も僅かなものです。もうひとつは、明治以後説です。
「藍栽培不振 + 葉煙草栽培の拡大」にともない牛の飼育数は減りませんが、役牛としての働き場はなくなります。そこに目を付けたのが讃岐の博労(ばくろ)たちです。

「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」

と委任を取り付け、讃岐の借り主との間を取り持ったのではないかと私は考えています。明治は、移動の自由、営業の自由が認められ、県境を牛がレンタルのために越えることも何ら問題はありません。
髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。

走人協定 髙松藩

例えば「讃岐男に阿波女」という諺が残っています。確かに、旧仲南の財田川沿いの集落には、阿波から牛の背中に乗って、嫁いできたという女性が昭和の時代には、数多くいました。しかし、江戸時代には高松藩は、藩を超えた男女の結婚は、上の「走人協定」で許していません。琴南町誌には、密に阿波の女性と結婚してたカップルが藩の手によって引き離されて、女性が阿波に追放される話がいくつか残されています。
借耕牛の増加には、次のような背景があった私は考えています。
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと
②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
うして借耕牛は讃岐に来なくなったのか?

借耕牛 45


戦後の高度経済成長前の1960年代(昭和30年代後半)になると、田んぼの主役交代します。

借耕牛と耕耘機

耕耘機の登場です。こうして牛は水田からは姿を消していきます。
トラックに乗る借耕牛

1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。

最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
峠でつながっていた阿讃の里

①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
 瀬戸内海の港や島々は、海を通じて人とモノと文化が行き来しました。それに対して、美合や塩入は阿讃交流の拠点でさまざまなものが行き交う拠点であったのです。そのような視点が今は忘れ去られています。阿讃の峠越えの文化交流をもう一度、見直す必要えがあると私は考えています。そのひとつのきっかけを与えてくれたのが借耕牛でした。最後に、参考文献を紹介しておきます。

借耕牛探訪記
借耕牛の研究

借耕牛講演会
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借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

 借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
  もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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借耕牛探訪記

借耕牛の研究

綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
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鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
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絵の提供は石井輝夫氏です。

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下記の通り、借耕牛についてお話しすることになりました。小学生達も参加するようなので、できるだけ分かりやすく、そして楽しく話したいと思います。借耕牛に、興味のある方で、時間の余裕のあるかたの参加を歓迎します。

借耕牛講演会ポスター
借耕牛 落合橋

借耕牛7

借耕牛 美合落合橋の欄干

借耕牛登場の背景

借耕牛 12

借耕牛のせり

借耕牛借用書2

借耕牛8

借耕牛の阿波供給地

借耕牛3
借耕牛 通過峠

借耕牛取引図3

借耕牛見送り 美合

借耕牛5

借耕牛6

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