瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐古代史

丸亀平野の古代史を考える上で、避けて通ることの出来ない遺跡がいくつかあります。その中のひとつが下川津遺跡(坂出市)です。この遺跡は坂出インターチェンジ建設のために発掘されたので、その調査エリアが広大で、ひとつの集落がまるごと出てきました。それも弥生時代から室町時代までの集落変遷がわかるものです。こんな例は善通寺王国の旧練兵場遺跡群以外には讃岐では例がありません。ここから明らかになったデータを元にして、さまざまな指標が作成され讃岐の古代が語らえています。まずは古代の川津郷をとりまく状況を報告書で見ていくことにします。テキストは 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」です


古代川津郷は、鵜足郡北端の大束川下流地域にありました。

川津・二村郷地図
大束川河口の川津郷
川津は大束川河口部で瀬戸内海に通ずる津でした。古代は「丸亀扇状地」を、土器川がいくつもの首を持つ龍のようにのたうって流れていました。そのため弥生時代の集落は不安定な状態におかれていて、洪水によって流されることもたびたびあったことが発掘調査から分かっています。
 鵜足郡北端部の川津郷は東西約3km,南北約3kmの範囲を自然の境界によって区画され、「地理的な一小単位」を構成します。交通路から見ると、大束川河口部を経て広く内海沿岸諸地方に連なり,東の谷筋を抜けて後の国府ができる阿野郡中枢部府中にも通じます。さらに古代には、大束川には川船が行き来して水運機能もありました。つまり、川津は「瀬戸内海海運+大束川水運+主要陸上路」の交点として、交易上の要地であったことになります。そして、近世後半段階になると旧東西川津村域は200町歩以上の穀倉地帯がひろがる地帯となります。

  弥生時代以降の地域史を考えるためには、現在の現景観に至る耕地拡大の歴史を知ることが大切だと言われます。いわば「復元地形」をイメージすることです。そのために川津エリアの水利条件と潅漑設備の整備の歴史から見ていくことにします。

下川津遺跡周辺では、現在は次の3つの水系から取水しています。
下川津遺跡水路図2
下川津遺跡周辺の用水路網
A 大束川中流
B 綾歌郡飯山町で取水する坂元用水
C 西又用水と丸亀市飯野町で土器川中流から取水する飯野幹線用水
ここでは域外からの広域用水路への依存が高いことを押さえておきます。
どうして域外からの取水に大きく頼るのでしょうか? それは大束川が用水源になり得ていないことにあるようです。
大束川 川津遺跡周辺
大束川と周辺遺跡の高低関係 大束川の水位が低く直接には取水できない

その要因は、大束川の河床が低過ぎて取水・揚水ができなかったためと研究者は考えています。そのため古代の川津は、周辺丘陵部からの落ち水や小河川に用水を頼らざるを得なかったのです。そうなると、大束川東岸南部の城山川流域の谷筋はまだしも、その程度の小川すらない東岸北部の下川津遺跡周辺や、西岸の飯野山山麓地域は水利面で非常に不利なエリアだったことになります。

下川津遺跡 条里制
下川津遺跡周辺の条里制分布図

上の条里制分布図を見てみると、川津は丸亀平野の条里地割分布域の東端に当たります。しかし、東の大束川との間を含めて、周辺の方格線はやや乱れて、空白になっているところが多いようです。これは古代において開発が遅れたエリアであったことになります。都市化した集落が出現しているのに、周辺の土地開発は遅れていたことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
 それは置いておくことにして先に進みます。周辺を見ると、次のような3つのエリアに分類できます。
A 城山川流域は東西坪界線がはっきりとしていること。これは城山川を取水源として大束川に排水する水利系が早くから作られたため
B 下川津遺跡周辺は条里地割がもっとも未発達。城山川流域から引水する南北線が僅かにみえるだけ。
C 大束川西岸の飯野山山麓地域では東西線の方が明確で、大束川は排水路の役割のみ。
こうしてみると大束川に頼らない灌漑網の整備が進められてきたことがうかがえます。。これは金倉川と同じ性格です。
 同時に城山川流域、下川津周辺地域,飯野山山麓地域の3つのエリアでは、それぞれ条里地割の分布パターンにちがいがあります。これは古代の水利条件の違いを反映していると研究者は考えています。さらに推論するとこのエリアがもともとは、三つの勢力によって開発されたことを示すものかもしれません。 ここでは下川津遺跡の位置は灌漑面では不利で、その中では城山川流域がもっとも容易に開発を進められる条件を備えていたことを押さえておきます。
次に各時代の下川津遺跡周辺の遺跡分布を見ていくことにします。
弥生時代中期中葉から後期までの丸亀平野の初期農耕集落は、短期間で移動を繰り返していました。

丸亀平野の環濠集落
中ノ池遺跡(丸亀市)の二重環濠集落 坂出市史より

中ノ池遺跡のように環濠をもつ集落に成長して行く所もありますが、突然のように中期前半になると姿を消します。そして、中期後半~後期初頭には、丘陵上に生活拠点を移します。

度重なる大きな洪水に襲われそこから再生して集落
古代における洪水の脅威
これは気候変動による洪水のためとする研究者もいますがよく分かりません。どちらにしても平地部の遺跡がなくなるのです。そのような中で生き残るのが善通寺王国の旧練兵場遺跡です。ここでは弥生時代前期に下川津に定着した人々は、後期になると姿を消すということを押さえておきます。 

丸亀平野 扇状地から平野へ

次に下川津遺跡周辺の古墳群の展開と消長を見ていくことにします。

古墳時代前期の下川津遺跡周辺には、次の4つの初期前方後円墳が造られます。

坂出の古墳 聖通寺・ハカリゴーロ
①聖通寺山山頂には墳形不詳の積石填,聖通寺山古墳がある。
②その南に続く尾根鞍部には、この地域最大の全長79mの前方後円墳で埴輪を持つ田尾茶臼山古墳
③下川津遺跡の東に川津(連尺)茶臼山古墳
④青の山南麓に、筒形銅器と鋼鉄を出土した吉岡神社古墳。
古墳編年 西讃
大束川河口の前方後円墳の系譜 聖通寺山 → 吉岡神社 → 川津茶臼山 →田尾茶臼山古墳
③の川津茶臼山古墳と④吉岡神社古墳は副葬品から前Ⅰ期以降のもの、②の田尾茶臼山古墳は埴輪から前期Ⅲ期以降のもの研究者は考えています。そして、①~④の4つの前方後円墳を「恐らく単一の首長墓系列」と判断します。津之郷盆地の首長が海に突き出した半島だった角山から聖通寺山の尾根の上に備讃瀬戸南航路を意識して、同一の首長系譜が連続して造ったものと考えられます。これらの①~③の初期前方後円墳の首長を支える母胎集落が、下川津遺跡であったことが想像できます。ちなみに④の吉岡神社古墳が姿を見せるのと、下川津遺跡が2度目の消滅が重なりあうようです。これをどう考えればいいのでしょうか? 課題ばかりが増えていきます。
讃岐の古墳時代前期の情勢

 ここまで4つの前方後円墳を築き、小さいながらもヤマト連合政権の一員であった下川津(津之郷)勢力には続く後継墳が見当たりません。後期段階で首長墓とできるのは6世紀後葉の青の山南麓の大形横穴式石室を持つ竜塚古墳だけです。そして、その期間は下川津遺跡は消えたままです。

坂出古代海岸線
7世紀頃の坂出周辺の海岸線復元図 聖通寺山は半島で、下川津まで海が湾入

古代坂出海岸線復元図
坂出・川津の古代海岸線復元図 津之郷盆地に海が湾入していた

もっと広い視野で丸亀平野一円を見ておくことにしましょう。

丸亀平野古墳分布図
丸亀平野の古墳分布図
丸亀平野では、小さな範囲内で継続的に首長墓系列を造り続けたエリアがいくつかあります。
A 大束川上流地域
 ①綾歌町石塚山古墳群 ②快天山古墳 ③陣の丸古墳群
B 綾川下流域
 ④爺が松・ハカリゴーロ両古墳 ⑤綾北平野の雌山古墳群 ⑥タイバイ山古墳や白砂古墳群
C 弘田川下流域では
 ⑦多度津白方のミタライ山古墳 ⑧黒藤山古墳群
D 弘田川上流、金倉川中流
 ⑧善通寺地域 ⑨吉原地域
E 土器川上流
 ⑩まんのう町長尾地域でも規模は小さいが前方後円墳を含む1単位の系列と考えられる古墳群

こうして見ると丸亀平野では、小地域単位で前方後円墳を主体とする首長墓系列が水系毎にあったことが見えてきます。これを研究者は次のように記します。

小地域集団の首長たちは最小クラス規模の勢力でありながら、前方後円墳を築きうる立場を畿内中枢の諸首長との関係において保持していた

 下川津の属する津之郷盆も、こうした地域のひとつだったとしておきます。。

古墳編年表4

 そのような中で前期後半以降になるとこれらのグループに「地域間格差」が現れ始めます。
川津(津之郷)エリアでは、先ほど見たように4つの前期後半に続く首長墓系列がはっきりしません。かといって中小規模墳の群集墳も現れません。探すとすれば、副葬品の点から川津向山古墳や青の山墓地公園東古墳になります。すでに壊されたものもあるでしょうが、大規模な群集墳があった形跡はありません。
 それに比べて綾川が大きく屈曲する羽床盆地では津頭西・東古墳、岡の御堂1号墳などの武具・馬具を揃えた首長墓クラスの大形円墳が前期後半以降になっても築造され続けます。同時に規模・石室構造・副葬品などの面で、ランク下の滝の宮万塚古墳群、浦山古墳群などの中小規模墳が密集して造られるようになります。この地域の中小規模墳で時期が推測できる約70基のうち50基近くが前期後半段階のものだと研究者は指摘します。これは後期後半以降の横穴式石室墳よりはるかに多いようです。おなじような状況は大束川上流地域でも見られます。岡田万塚古墳群では小型の前方後円墳を中心にかつては数十の中小規模墳が群集していたようです。
 これらの群集化・密集化と対照的なのが弘田川上流の善通寺地域と、綾川下流の綾北平野です。
善通寺地域では青竜古墳生野カンス塚古墳等の首長墓クラスの大形円墳と共に周辺丘陵裾部に箱式石棺群の群集が濃密です。そして中小規模墳の数は余り多くありませんし,群集墳もありません。これは綾川下流域も同じです。善通寺は後の佐伯氏の拠点、綾北平野は、綾氏の拠点となるところです。ここでは川津(津之郷)地域は、善通寺や綾川河口の綾北平野の状況に似ていることを押さえておきます。
群集横穴式石室墳の広がりと群集墳出現の関係
A 横穴式石室の採用を契機に群集墳が形成される地域
B 横穴式石室以前から群集墳が造られているに地域
羽床地域や大束川上流地域はBで、前代ほどの群集はありません。逆に善通寺域はAで「墳丘を有する」古墳はこの時期に爆発的に増大します。Aの川津・津之郷地域は、この段階で群集墳の形成が始まり、青の山の横穴式石室墳の群集や、飯野山山麓、城山川流域の谷部等に群集墳が現れます。古墳時代後期後半、6世紀後半段階に造られる横穴式石室群集墳の量は,前代の群集墳に比べると多くなっています。しかし、周辺地域に比べて特に強い群集状況ではありません。
 例えば城山川流域の谷部は、土地条件から見て最も開発が容易で、交通路から見ても阿野郡中枢部へ抜けるコース沿いに位置していて、「最適な開発候補地」なはずですが、ここにも古墳はあまり造られません。青の山の後期古墳群にしても群集密集度という点では傑出したものではありません。高松市浄願寺山古墳群などと比べると、その違いははっきりと現れます。ここでは大束川下流域のエリアでは、後期段階の首長墳系列の不明確であることを押さえておきます。ここからは突っ込んで考えると6世紀の下川津・津之郷エリアには、古墳を築く首長たちや群集墳を築く中間層もいなくなっていたということも推測できます。
讃岐須恵器窯の分布
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図

讃岐の須恵器窯の分布 7世紀は一郡一窯体制
讃岐では奈良時代までは、各郡単位に次のような須恵器窯があったことは以前にお話ししました。
①阿野郡では綾川上流(現府中ダム)に打越窯
②多度郡では弘田川下流に黒藤窯
③鵜足郡域では岡田廃寺の瓦窯で須恵器を焼成している例
④青の山南麓の青の山1,2号窯が7世紀前半の操業
⑤城山川上流峠奥窯は、7世紀を通じて操業
こうしてみると鵜足郡と阿野郡には、須恵器生産という最先端のハイテク技術を持った渡来系技術者集団が集中していたことにもつながります。
 ハイテク技術と文明化の象徴は、古代寺院建立にも見られます。
讃岐地方は南海道諸国中、古代寺院の数が最も多く32ケ寺を数えます。阿野郡と那珂郡を見ると、
A 阿野郡 国分寺・国分尼寺に綾川流域に開法寺・鴨廃寺・醍醐廃寺
B 鵜足郡 大束川上流の法勲寺廃寺と岡田廃寺
C 那珂郡 丸亀市の田村廃寺・宝憧廃寺,まんのう町の弘安寺廃寺
C 多度郡 善通寺市の仲村廃寺・善通寺
  それぞれ郡域の中枢部分に分布します。ところが津之郷盆地には古代寺院は最後まで姿を見せませんでした。
以上、下川津についてまとめておきます。
①津之郷盆地の川津は、土地条件・交通関係に恵まれ、鵜足郡の中枢として十分機能しうる位置にある
②古墳時代前期にでは、4つの前方後円墳から首長墓系列が復元可能
③しかし前期末以降その系列は途絶え、中小規模墳の展開もあまり見られない。
④古墳時代後期以降は、下川津は相対的な「地盤沈下」傾向が奈良時代まで続く
⑤そのためか津之郷盆地には古代寺院が姿を見せない。建立できる有力氏族の不在が考えられる
⑥にもかかわらず、6世紀末~7世紀代には鵜足郡域の須恵器生産と供給の中心地であった
こうしてみると7世紀には、有力氏族はいないが鵜足郡の経済活動の中心地ではあったということになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 

次に断片的に残された文献資料から古代・中世の川津周辺を見ていくことにします。
  正倉院資料中に「讃岐国鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂調施萱匹長六丈虞一尺九寸 天平十八年十月」の墨書があります。これが文字資料として現れる「川津」の初例のようです。調物として縄を川津から貢納していたことが分かります。川津郷は752年(天平勝宝4年)他の19郷と一緒に東大寺封戸に編入されたのです。この時に一緒に勅施入されたのが讃岐では山田郡宮処郷(現高松市前田町周辺),香川郡中間郷(現高松市中間町,御厩町周辺)です。
 封戸制度はm東大寺の荘園ではありません。そのため東大寺が直接的に経営に関わり、川津郷に対して強い影響を行使することはなかったようです。管理経営は、国司や郡司などの在地支配層が間に入りって行いました。しかし、この関係によって古代末まで「川津郷」が東大寺文書に散見することになります。
 その中の天暦四年(950)「東大寺封戸井寺用雑物目録」では、川津郷から封物として調綿40疋7尺,庸米44石5斗5升,租白米41石2斗6升5合,中男抽1斗5升を毎年貢納することになっています。これら頁納物の品目は、讃岐の宮処郷・中間郷と同じです。その中に調縮40疋があります。これが川津エリアの特産物であったようです。

律令国家の動揺の中で、各地の東大寺初期荘園・封戸も解体していきます。
川津郷も御多分に漏れません。康治元年(1142)「東大寺返抄案」で讃岐園百五十戸料として御封米732石4斗4升6合が頁進されます。ここからは12世紀中葉までは、封戸が川津郷にあったことが分かります。しかし弘安三年(1168)寺家御封便補保として三木郡原保,那珂郡金倉保を代わりに立てています。ここからは川津郷を含めた讃岐園封戸三郷からの対物確保が難しくなったために、新たな対応策がとられたことが分かります。
 13世紀中葉には、九条道家初度惣処分状(建長二年1250)の一条実経譲与分の「新御領」中に「春日社領河津庄」が出てきます。これは九条道家が讃岐の知行国主であった頃に、公領川津郷の一部を割いて立荘したようです。ここからは平安時代末から鎌倉時代になると律令制度に基づく収奪や封戸制度としての収奪ができなくなって、立荘や公領の纂奪=荘園化で対応するようになったことが見えてきます。律令的収奪に抵抗する動きや、荘園化によって負担軽減,権利拡大を求める在地の動きがあったのかもしれませんが史料からは分かりません。ここでは13~14世紀になると、公領川津郷と河津「庄」が併立していたことを押さえておきます。
 このときの郷と庄の位置関係を記した史料はないようです。ただ川津町東山に春日神社が鎮座します。ここからは川津郷東南部の城山川流域を中心とする地域が河津庄の故地と研究者は推測します。先ほど見たように。城山川流域が開発が最も進んだ地域だったのです。
 
 鎌倉時代末から室町時代初頭の南北町の騒乱期には、川津庄でも混乱が起きます。
建武四年(1337)から暦応四年(1341)にかけて「川津郷 + 河津庄 + 興福寺領二村荘」で仁木弥次郎が軍勢を率いて盛んに檻妨を働き,これに対して興福寺衆徒,川津郷領家職修理亮資任から濫妨停止の申状が出されています。修理亮資任申状案(「外記日記」紙背文書)には、仁木弥次郎は「預所」と号したとあります。ここからは二村郷の在地支配権を巡る紛争だったことがうかがえます。彼が在地勢力であるのか,本家や領家により任命され外部から派遣された者なのかはよく分かりません。ただ記録を見る限りは4年間も,鵜足郡北部で荘園秩序を脅かす活動を続けています。その背後には荘園領主の支配に抵抗し、それを支える在地の勢力があったことがうかがえます。そのために興福寺等の荘園領主は、幕府に訴えてその解決を求めなければならなかったのでしょう。この一連の騒動の後,宣政門院領川津郷・春日社領河津庄・興福寺領二村荘に関する史料はないようです。つまり、その後の経過は分かりません。

中世になると堆積や気候変動などで海岸線が前進してきます。その結果、川津や津之郷は陸封され、湊としての機能を失うようになります。それに代わって宇多津が新しい湊として台頭してきます。宇多津には室町時代前半には、細川氏が守護所を置きます。こうして守護細川氏の領国支配の政治的拠点として,また物資集散地として讃岐の中で最も活発な交易活動を展開するようになることは以前にお話ししました。
こうして古代には「都市化」していた川津や津之郷は、中世に成ると周辺湿地帯を開拓して農地に変え、農村地帯へと変貌していくことになります。そして宇多津の後背地としての役割を果たすようになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」
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白村江の敗北と捕虜たち

前回は新羅救出戦争に出兵した倭軍が白村江で敗北し、多くの兵士が捕虜となり、唐で奴隷などとして長年の抑留生活を送ったこと、そのなかに伊予軍の越知直氏がいたことを見ました。今回は、捕虜とならずに帰国した「(備後国)三谷郡大領の先祖」を見ていくことにします。テキストは下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。

白村江の戦い」中川恵司 画
白村江の戦い 大型の唐軍船に立ち向かう小型の倭軍船
663年8月27・28日   白村江で倭軍水軍は大敗北
9月7日 周留城は唐軍に降伏 百済王族・貴族・将軍など多くの百済人は、残存日本軍が集結していた「弖礼城」(所在地未詳)に敗走。
9月25日 撤退する倭軍船に便乗し、倭に亡命。
敗軍を救護し、収容する博多湾はパニック状態へ。
中大兄皇子らは敗北の衝撃に動揺するなかで、大本営の長津宮に敗軍の将や亡命百済高官を集め、軍を解散し、飛鳥へと引き上げていきます。多数の亡命百済人が中大兄ら政府首脳に従ったようです。一方、全国各地から動員された評造軍も解散を告げられて、それぞれ国毎に生存者をまとめて帰郷の途につきます。それは傷ついた心と躰と引きずりながら、傷病者を連れての長く辛い旅路だったでしょう。
 百済救援派遣軍に動員された人名として史料に残る人達を一覧表にしたのが下表です。
白村江の捕虜一覧表
 この中の⑰には、名前は分かりませんが出身地が備後国三谷郡の評造(後の郡司)が記されています。

備後三谷郡周辺
三谷郡は現在の広島県三次市の南東部にあたります。ここに登場する「三谷郡の大領(郡司のトップ)の先祖」について、仏教説話集『日本霊異記』上巻7縁には、次のように記します。
亀の命を贖ひ生を放ちて現報を得亀に助らるる縁 第七
禅師弘済は,百済国の人なり。百済の乱(百済救出戦争)の時に当りて,備後国三谷郡の大領の先祖,百済を救はむが為に軍旅に遣さるる時に,誓願を発して言(申)さく「もし平に還来らば,諸の神祇の為に伽藍を造立て多諸くの寺を起らむ」とまうす。
 遂に災難を免れ,すなはち禅師を請へて相共に還来り三谷寺を造る。其の禅師の伽藍と諸の寺とを造立てたる所以なり。道俗観て,共に為に欽敬ふ。
意訳変換しておくと
亀の命を救って、放生の結果、亀に助けられた話 第七
①禅師弘済は,百済国の人である。②備後国三谷郡の大領の先祖は,百済救援戦争の派遣軍として動員された際に、「もし無事に帰国することができれば,諸々の神祇のために伽藍を造立て寺院を建立する」と誓願した。 その結果、災難を免れ,③禅師を伴って帰国し、三谷寺を建立した。百済から亡命禅師が伽藍と諸寺を周辺にも造立した。人々は,これを見て崇拝した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①僧侶弘済は、百済滅亡の際に倭にやってきた亡命百済人(渡来人)であること
②備後国三谷郡の大領の先祖(三谷氏)は,百済救援戦争に動員され白村江で敗残兵となったこと
③三谷氏は帰国中に、ひとりの亡命百済僧に出会い仏教に帰依したこと
④三谷氏は、禅師に、誓願通り氏寺建立を次のように依頼した
「是非、私の故郷『三谷』に来ていただきたい。私は出陣に当たって無事帰還できたら伽藍を立てると産土神に誓願した。産土神のお陰で生還できた。三谷に寺院を建立し、住持になってくれまいか」
⑤「遂に災難を免る。即ち禅師を請うけて、相共に還り来る」とあるので、 百済僧弘済は、見知らぬ三谷を終の棲家にする決意をしたこと。

「(三谷)大領の先祖」が率いた評造軍の軍士の全員が生きて故郷の土を踏めたわけではないでしょう。多くの兵士たちが異国に眠ったままになりました。戦死・行方不明の兵士の家族は泣き崩れ、長く悲嘆に暮れたことでしょう。遺族に僧弘済は、懇ろに仏の功徳を説いて励まします。『日本霊異記』には、「三谷寺は、其の禅師の造立する所の伽藍なり。道俗観て共に欽敬を為す」とあるので、彼らの信仰を得たようです。実は、この話はここまでは「前振り」なのです。本当のテーマは、救った亀に助けられるという浦島太郎のような「放生」にあります。回り道になりますが、後半も見ておくことにします。

禅師尊き像を造らむが為に,京に上り財を売る。既に金と丹との等き物を買得て,難破の津に還到る。時に海の辺の人大なる亀四口を売る。禅師人に勧へて買ひて放たしむ。すなはち人の舟を借り,童子二人を将て共に乗りて海を度る。日晩れ夜深けて舟人欲を起し,備前の骨嶋の辺に行到りて,童子等を取りて海の中に擲入る。然うして後に禅師に告げて云はく「速に海に入るべし」といふ。師教化ふといへども賊なほ許さず。茲に願を発して海の中に入る。水腰に及ぶ時に石を以ちて脚に当つ。其の暁に見れば,亀負へり。其の備中の浦にして,海の辺に其の亀,三頷きて去る。是れ放てる亀の恩を報ゆるかと疑ふ。時に賊等六人,其の寺に金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師憐愍びて刑罰を加へず。仏を造り塔を厳り,供養し巳りぬ。後に海の辺に住みて往き来る人を化ふ。春秋八十有余のとしに卒ぬ。畜生すらなほ恩を忘れず,返りて恩を報ゆ。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。 

意訳変換しておくと
そこで禅師は、尊き仏像を本尊として安置するために,④京に上って、材料となる金と丹を買い入れて,難破の津までもどってきた。すると海辺で大きな亀四匹を売っていた。禅師は、これを買って放生した。その後、難波の津から船乗りを雇って、童子二人を連れて瀬戸内海に出港した。日が暮れて、夜深けになり備前の骨嶋(?)の辺に至ったところで、船乗りが悪心を起して,童子等を海の中に放り込んだ。そして、禅師に「おまえも海に入れ」と迫った。師は教え諭したが賊は許さない。そこで、願を発して海の中に入った。すると腰が水に浸かるまでに、足を何かが支えた。よく見ると亀の甲羅に立っていた。そのまま亀に背負われ④備中の浦の海の辺に送られた。これは放生した亀の恩のお礼であろう。
 その後、賊等六人は,その寺に盗んだ金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師は憐愍して、この罰を問わなかった。こうして仏像を造り、塔を建て、供養を重ねた。瀬戸内海や出雲の海の辺に住む⑤「海の民」たちと往来を重ね、教化を奨めた。禅師弘済は、八十有余で亡くなった。畜生の亀でさえ恩を忘れず,恩を返そうとする。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。
   この物語の本題は、難波で捕らわれていた亀を買って放生したところ、備前で海賊に変身した船頭に海に突き落とされ時に、亀が甲羅に載せて備中の浜辺まで運んで無事帰郷できた、という因果応報譚を伝えることにあるようです。しかし、ここではそれは置いて三谷氏の氏寺を見ていくことにします。

備後三谷郡 寺町廃寺 復元模型
三谷寺とされる寺町廃寺
三谷寺=寺町廃寺説

弘済が三谷氏のために建立した三谷寺は、どこにあったのでしょうか?

備後三谷郡 寺町廃寺周辺
 ①寺町廃寺 ②寺町廃寺跡に瓦を供給していた大当瓦窯跡 ③上山手廃寺跡(向江田町)
寺町廃寺は三次市の東南部にあります。寺町廃寺については次のような事が分かっています。
①基壇の装飾にせん塼(レンガ)が使われていること
②創建時瓦は、素弁軒丸瓦であること
③これらは同時期の百済寺院に類似していること
④寺町廃寺の同笵瓦が、その北北西1,5㎞の大当瓦窯跡で焼かれたこと
⑤同笵の素弁軒丸瓦は備中国賀陽郡の栢(かや=伽耶)寺廃寺跡からも出土
⑥備中の栢寺の笵が寺町廃寺の笵に転用されていること
備後三谷郡 寺町廃寺金堂基壇 百済風の煉瓦1
寺町廃寺 金堂基壇装飾に百済式の塼(レンガ)が使われている

金堂や塔の基壇には一番下に塼(せん)を立て並べて、その上 に塼や瓦を積み上げる工法が用いられています。こうした構築方法は日本列島の寺院には例がないようです。これも百済工法の「直移植」と研究者は考えています。
備後三谷郡 寺町廃寺 水切り瓦
創建時瓦が、素弁軒丸瓦(百済様式)であること

百済瓦
備後三谷郡 寺町廃寺 金堂の版築技術
寺町廃寺 金堂基壇に高度な版築技術が用いられていること
金堂の建物を支える基壇は,土を交互に積み重ねて突 き固める「版築工法」が用いられています。この工法は当時は中国や百済の工法で、日本では飛鳥周辺地域の寺院のみで使用されてものです。寺町廃寺跡の造営には、百済亡命技術者によって先端技術が導入されたことが分かります。
備後三谷郡 寺町廃寺 唐三彩
寺町廃寺 唐三彩の完成品

地方の古代寺院としては唯一唐三彩の破片が出ていること
備後三谷郡 寺町廃寺1
寺町廃寺 金堂跡と塔跡の石積階段

以上からは、備中栢(伽耶)寺や三谷廃寺は、百済亡命者の技術者集団によって建立されたと研究者は判断します。
 また先ほど見たように、弘済は飛鳥京まで出かけて、金や丹を購入しています。
ここで注意しておくのは「本尊購入」ではないことです。手に入れたのは資材で、本尊本体を製作したのが三谷郡周辺に定着した百済技術者集団であったことと研究者は考えています。また海賊化した船頭に襲われた弘済らを、亀が運んだのは「備中」の海浜でした。ここからは、弘済と備中栢寺との繋がりが見えてきます。それを裏付けるのが寺町廃寺をはじめ備中・備後地域の古代寺院跡には独特の水切瓦が使われていることです。
寺町廃寺の水切り瓦
備中備中栢寺廃寺と寺町廃寺の軒丸瓦の共通性=共通の技術者集団
 この地域に百済系寺院建立技術を移植し、水切瓦を使った亡命百済僧や技術者集団がいたと研究者は推測します。
三谷寺の伝承から見えてくること
ここからは、弘済はひとりでではなく、造寺・造瓦・造仏の技術者集団たちとともに亡命した亡命百済技術者集団が7世紀後半の備中や備後には形成されていたことがうかがえます。このような集団は周辺の讃岐や伊予など、百済救援戦争に従軍したエリアでも見られたことなのかもしれません。例えば、讃岐の朝鮮式山城の城山城や屋嶋城を築城したのも、亡命百済石工集団や築造集団が技術者集団として、それを佐伯直氏や綾氏などの評造が支えたことが考えられます。

備後三谷郡 寺町廃寺 伽藍置配置
寺町廃寺 全国の法起寺式伽藍配置の寺院跡の中で、最も遺存状態が良好な寺院跡

寺町廃寺の伽藍プラン2
 寺町廃寺跡の伽藍プラン
  寺町廃寺跡の伽藍プランは上図のように,伽藍中軸線から左右同じ距離になる位置に,金堂と塔の壁が 位置します。
また、塔よりも規模が大きな金堂側の回廊を,塔側の回廊よりも一間分 (柱と柱の間隔)ほど外に広げた位置に配置しています。これは中門から入った時に中軸線上から講堂を見た時に塔・金堂・回廊の視覚的なバランスを創り出すためだと研究者は考えています。こうした設計手法は法隆寺西院伽藍と同じです。つまり670 年に焼失した法隆寺の再建に採用された設計手法が,同時期に創建された寺町廃寺跡にもそのまま用いられていることになります。もう一歩踏み込んで云うと、法隆寺西院と
につながりのある技術者集団が寺町廃寺創建に関わっていたことになります。

古代伽藍配置の変遷 塔から金堂中心へ
寺町廃寺(法起寺様式)は、塔から金堂中心に変遷する過渡期の伽藍様式
三谷寺=寺町廃寺とすると、従来の地方の仏教寺院の建立手続きも見直す必要が出てきます。
 従来は、地方寺院は地方豪族(評造・郡司)には、建立技術がなく中央の認可や支援を受けて建立された、早くから氏寺を建立できた勢力の背後には、ヤマト政権との強いつながりがあったとされてきました。しかし、寺町廃寺を見ると三谷氏が亡命百済人集団と結びついて、独力で寺院を建立していたことが分かります。これをどう考えればいいのでしょうか。
 「中央とのつながり」以外にも、亡命百済集団には単独で寺院を建立し、運営して行くだけのネットワークがあったことになります。これらの技術者集団が、備中や備後にいくつもの古代人を建立したでのです。同じような動きは四国にもあった可能性はあります。中央とのつながりだけに目を向けていては、見逃すものがあるような気がします。
弘済は三谷寺で、どんな仏の教えを説いたのでしょうか。
 百済という国が滅びる姿を自分の目で見て体験した弘済は、さまざまな悲劇と人間の運命を心に刻んだはずです。そして命を失った人達への供養、殺生忌避を誓ったのではないかと研究者は推測します。同時に弘済らは、仏教技術を生活技術へと転用して(たとえば道橋・灌漑・建築)、地域社会の生活向上に寄与したでしょう。弘済は、いろいろなかたちで備北地域の地域文化の形成に貢献したことが考えられます。これが地域の仏教受容のひとつの形かもしれません。
以上をせいりしておきます。
①備後三谷郡の郡司(大領)の先祖は、百済救援戦争に動員されて評造として、一族や地域の有力者を従えて博多に集結した。
②そして派遣部隊に編成され朝鮮半島南部伽耶に渡った。
③彼らは水軍でなく陸戦部隊だったので白村江の海戦には参加せず、捕虜となることなく帰国することができた。
④帰国の際に、百済人僧侶を三谷郡に連れ帰り、氏寺の建立を依頼した。
⑤百済人僧侶は、周辺の亡命百済人技術者や備中の栢(伽耶)寺廃寺や畿内の亡命集団とのネットワークを使って、三谷寺=寺町廃寺を造営した。
⑥この寺は、亡命してきたばかりの技術者集団によって造営されたために百済色の非常に強いものとなった。
⑦7世紀の地方寺院の中には、ヤマト政権の支援や認可なしで、渡来人によって建立された寺院があったことを寺町廃寺は示している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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白村江の敗北と捕虜たち

前回は百済救援戦争にむけて地方の評造(元国造)たちが大きな役割を果たしたことを見ました。今回は、その後の白村江の敗北で多くの捕虜が発生し、長い抑留生活を余儀なくされていたことを見ていくことにします。テキストは、「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。
まず白村江への航路を、伊予の越知直氏の体験通じて物語り風にして記しておきます。
越知氏の「大領の先祖」は、一族の軍士たちとともに出陣前に、産土神(大三島?)に武運長久と無事生還を祈願した。生きて帰ることが出来たら産土神のために伽藍を建立することを誓った。そして、準備した船で集結地の筑紫に向けて出港した。軍士たちの家族・親族、「評(後の郡)」の住民のすべてが無事生還を祈って船を見送った。それは『万葉集』防人歌のシーンと同じように「別離の悲歎」が詠い踊られた。その中には、大王の前で出陣前に軍事氏族の大伴氏が詠い、佐伯氏が舞ったという次のような久米歌が演じられたかもしれない。
「おおきみ大王のへ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」(大伴家持)
「今日よりは顧みなくて大王のしこ醜 のみたて御楯と出で立つ我は」(防人歌)
船は国宰駐在地(国府)に集合し、他の伊予の評造軍とともに伊予総領に引率されて博多長津宮の大本営に集結した。西日本中心にら同じように国宰に引率された評造軍が続々と集結する博多湾岸には、軍士たちを収容する小屋やテントが建ち並んだ。武器・軍粮の梱包が積み上げられ、湾内には軍船がひしめきあう。陸上では近隣諸国から動員された人夫や炊出しの女性たちがせわしく立ち働き、海浜では激しい戦時訓練が行われていた。
 
白村江への道663年2
白村江に至る道
天智2(663)年 3 月 全軍が渡海完了して5ヶ月後のことです。半島南部に展開していた日本軍は、唐・新羅の周留城包囲網を打破して、一挙に反転攻勢に出ようとします。そのため全軍が集結して、錦江河口白村江に陣取る唐軍軍船集団に決戦を挑みます。籠城する百済復興軍も日本軍の攻撃に呼応して討って出ました。これが史上名高い「白村江の戦い」です。日本書紀は次のように記します。

白村江への道663年4

*(8 月17日) 賊の将軍(新羅の将軍)は州柔城(百済復興軍の本拠)を囲み、大唐の将軍は軍船 170 艘を率いて白村江に陣取った。
*(8 月27日)倭国の軍船うち最初に到着したものと大唐の軍船が出会って戦争に なった。倭国軍は負けて退却して、大唐は守りを固めた。
*(8 月28日) 日本の諸々の将軍と百済王豊璋は状況を観ずに、語り合って言った 。「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」と
*①倭国軍は統率が乱れながら兵卒を率いて進んだ。大唐軍は陣を硬くして 、左右から船を挟んで囲んで攻めた。須臾之際(あっという間に)、倭国軍は破れた。水に落ちて溺れて死ぬ者が多かった。
②(倭軍の軍船)は舳先と船尾を回旋させることができなかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが戦死した。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去った。
*(9 月7日) 百済の州柔城(ツヌサシ)が唐に降伏した。
*佐平余自信、立率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留と一般人民は弖礼城についた。翌日、船を出して倭へむかった。
中国文献の『旧唐書・劉仁軌伝』は次のように記します。

水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆(倭軍)大潰せり。余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。

白村江敗北

8 月27・28 日 日に、倭軍ははじめて唐水軍と対戦し、瞬時のうちに壊滅的敗北をしています。倭軍の兵船 400 艘が焼き払われ、炎と煙が天を焦がし、血と炎で海は朱に染まった。「倭衆は・・一時に並びて降りれりと『旧唐書』は記します。ここからは大量の捕虜が出てきたことが分かります。
白村江への道 戦力比較
両軍の戦力比較 

この時の敗因としては、兵力量の差、軍船の大きさの差、兵器体系の差など、いくつもの敗因をあげることができます。
研究者が注目するのは『日本書紀』からうかがえる両軍の命令系統と戦術の差です。バラバラに突進する小型の倭軍兵船は「争先」「乱伍」と表記します。それに対して整然とした鉄壁の陣形で迎え撃ち、囲い込んで殲滅する唐軍巨大兵船(「堅陣」)。ここからは、組織的な訓練を十分に積み、一糸乱れずに動く東軍と、統一的な訓練を受けなかった雑多な編成の日本軍のバラバラな動きが対照的に描かれています。
白村江の敗北6
「②船の舳先と船尾を回旋させることができなかった」という記述からは、倭軍船には舵もなかったことがうかがえます。この戦いを経験した評造たちは、軍事力の編成・訓練システムなどを含めて、倭軍の後進性を躰で味わったことになります。「大東亜戦争」の無謀性を痛感した世代と同じ体験に似ているようにも思えてきます。海に投げ出された何千もの軍士が溺れ死んでいく中で、味方の残存兵船に救出され者もいたようです。しかし、戦場に取り残された多くの軍兵は唐の捕虜となります。

白村江への道 戦力比較2

その後、長い抑留生活から帰国できたことがわかる兵士の一覧表を見ていくことにします。
日本書紀には唐・新羅の捕虜となって何年か後に帰国した人々の記事が、天武13年(684)から慶雲四年(707)にかけて四例出てきます。それらを一覧表にしたのが次の表です。
白村江の捕虜一覧表
         捕虜解放され帰国したことが史料に残る動員兵士の氏名と出身地

この表から帰国した指揮官や兵士の本貫地を見てみると次のような情報が読み取れます。
①陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予・土佐で、陸奥・筑紫を除けばすべて西日本地域に集中②特に北九州~瀬戸内の出身者が目立ち、異国での労苦に対して課役の免除など恩典を得ている
③捕虜となった兵士の中に、土佐の④布氏首磐 伊予の⑫物部薬・⑱越知直ら8名 讃岐の⑭錦部刀良がいる。
ここからは、広範囲に多くの人達が百済救援戦争に動員されていたことが分かります。同時に、讃岐であれば、綾氏や佐伯直氏などの評造(元国造、後の郡司)クラスのメンバーは、ほとんどが従軍したことがうかがえます。
まず⑭の讃岐出身の「錦部刀良(にしこりのとら)について見ておきましょう。(新編丸亀市史)
彼には姓はなく、讃岐国那賀郡の人とのみ記します。錦部氏は百済からの渡来人系氏族で、綾や錦織りの職人として大王に仕えた錦織部(錦部)と関係する人物のようです。刀良の場合は、無姓なので部民だったようです。彼について『続日本紀』巻第三、文武天皇の慶雲4年5月(707年)は次のように記します。

刀良ほか2名に、各(おのおの)衣と塩・穀とを賜ふ。初め百済(くだら)を救ひしとき、官軍利あらず。刀良ら、唐の兵の虜(とりこ)にせられ、没して官戸(奴隷)と作(な)り、?(四十)餘年を歴(へ)て免されぬ。刀良、是に至りて我が使(遣唐使)粟田(あはた)朝臣真人(まひと)らに遇ひて、随ひて帰朝す。その勤苦を憐みて、此の賜有り

意訳変換しておくと
 刀良ほか2名に衣と塩・籾を賜った。昔、百済を救うために派兵した。(663年)、官軍は不利で、(刀良たちは)唐軍の捕虜となり、賤民の官戸とされ、四十年あまりを経て、ようやく解放された。刀良はここに至って、わが国の遣唐使粟田朝臣真人らに会い、彼らについて帰朝した。その勤めの苦労を憐んで、この賜り物があった

ここからは次のような情報が読み取れます。
①日唐国交回復後に、唐に派遣された遣唐使・粟田真人が慶雲元年7月(704年)に唐から帰国した
②その時に白村江で捕虜となった讃岐出身の錦部刀良を伴って帰国した
③刀良は、軍丁(いくさよろず)として、動員され伊予惣領軍に従軍した可能性がある。
④20歳で従軍したとしたら40年近い月日が流れているので60歳だったことになる。
⑤その抑留生活への褒賞は、わずかの衣と塩・穀のみであった。
これが刀良についての記録のすべてです。
  前回に「備中国風土記』逸文を紹介しました。そこには、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記していました。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
ここからはヤマトの大王が現地行幸で、多くの豪族と人民を戦争に徴発したことが伝えられています。
   讃岐那珂郡の錦部刀良も、このように動員され多度郡の評造佐伯直氏の配下などで軍丁として行動を共にしていて捕虜となったことが考えられます。

⑱の越知直ら8名については、仏教説話集『日本霊異記』は次のように記します。(要約)

伊予国越智郡の大領(郡司のトップ)の先祖である越智直は白村江の戦いに参加し、唐軍に捕われある島に同族八人とともに抑留された。彼らは観音信仰に目覚め菩薩像に、「舟を造り、帰国できるように」と祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府が事情を天皇に報告すると、天皇はこれを憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は新しい郡をつくり、そこを治めたいと申し出た。天皇はこれを許可し、彼を大領に(郡司のトップ)に任じた。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①越智直は大領の先祖とされているので越智郡内の有力豪族で評造であった。
②越智氏は小市国造の系譜をもつので、兵士として参加したのではなく、一族や農民を率いた指揮官として従軍した
③越智氏は「海の民」で紀氏と結びついていたので、水軍兵力として従軍して海戦に参加したこと
④越知氏はもともとは氏神信仰者であったが、捕虜抑留という危機打開のために仏教に加護を求めた。
⑤そのため越智郡の支配維持・再編のためのシンボルとして仏教寺院を建立したこと。
越智直の「直」とは、善通寺の佐伯直と同じで、地方豪族に与えられることの多かった姓です。
越智氏は、伊予五国造の小市氏以来の在地豪族で、その後も「郡司、大領従八位上越智直広国」(天平八年〈738〉伊予国正税帳)など、後に郡司を世襲していることが分かります。ここに出てくる主人公は、その先祖にあたりるようです。越智氏は高縄半島とその周辺一帯の島嶼部を勢力エリアとしていました。天武政権で国県制から律令的国郡制への移行が進む中で、帰国した越知直を新しく設置した越智郡の大領に任じたことになります。

日本霊異記 | 文学,日本文学小説 | 万能書店

越知直が無事に帰国できたのは、観音像を信仰したご利益のためだったと『日本霊異記』は説きます。
観音さまは、災難を除いて幸福を招くという典型的な仏です。このように『日本霊異記』には、郡司たちの仏教信心の話が数多く入っています。その中でも氏寺を建立する例が多いようです。当時は、郡司達は争って氏寺を建立していた時期で、白鳳瓦を屋根に乗せて輝く伽藍が地方にも姿を見せ始めた頃になります。これは古墳時代の前方後円墳と同じく支配者のシンボルモニュメントでもありました。新たなモニュメントは、過去の神話から脱皮して新しい支配権を確立するための装置として機能します。こうして地方でも仏教導入が進んで行きます。その契機が越知氏の場合は、他国での戦争捕虜と抑留生活という苦難の中で手にしたものだされます。どちらにしても、越知直の体験や功績は、白村江の敗北 → 唐での抑留生活 → 帰国と越智郡設立 → 氏寺建立として伝えられ、それが先祖の功績顕彰するために、氏寺の縁起として伝えたものなのでしょう。それが『日本霊異記』に載せられたとしておきます。
 
 白村江の敗北という巨大な危機感は、「倭から日本へ」の政治革新エネルギーへと昇華されていきます。それが古代律令体制を産み出す原動力になったと研究者は考えています。地方では地方行政機構が革新され、国郡里(郷)制へと変化していくことになります。集団で捕虜生活を送った越知氏一族は、唐の巨大さと先進性を自分の目で見て帰ってきたのです。ヤマト政権の進める次のような戦後政策を理解し、支持する心の準備ができていたでしょう
①瀬戸内海防備のための朝鮮式山城の建設など防備体制強化
②軍団移動のための大道建設(南海道整備)
③進んだ文化・技術を導入するための渡来人の積極的な受入
④大量の人民徴兵のための個別人身支配体制(戸籍制度+土地制度整備)
⑤自らが郡司に就任し、郡衙などの施設を建設し政府の新政策を地方で担う心構え
⑥新文化の象徴である仏教信仰と、ステイタスシンボルとしての氏寺建立

身を以て敗戦体験をした評造たちは「新国家の建設」にむけて、これらの新政策の実現に向けて協力したとも考えられます。我が国の戦後民主主義が、悲惨な戦争教訓の上に立って推し進められたことを思い出させます。私は元国造であった綾氏や佐伯直氏も百済救援戦争に従軍し、敗戦を体験していると考えています。
 総勢数万におよぶ軍団は「官費支給兵(GI)ではありませんでした。食糧から武具まで兵士自弁兵でした。そのため兵士を徴発された地域にも大きな負担となったはずです。そのことがそれまでの氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていったと研究者は考えています。ここでは、白村江の敗北は、九州だけでなく、瀬戸内海一円の国々において律令制国家を作り出していくプラス要因として働いたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
愛媛県史 越智直・日下部猴之子
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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7世紀後半、白村江敗北と壬申の乱後の天武朝時代になると、讃岐では大型土木工事が目白押しとなります
A 城山・屋島の朝鮮式山城
B 讃岐平野を東西に伸びる南海道の建設
C 郡衙建設と郡司達の氏寺建立
D 条里制工事
これらの工事を担当したのはかつての国造で、彼らが郡司へと移行していきます。これだけの大土木工事は大きな負担だったはずです。それを国造たちを、どうしてすんなりと受入れたのでしょうか? そんな疑問が私にはありました。それに答えてくれる論文に出会いましたので見ていくことにします。テキストは「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。 

白村江への道663年
白村江に至る道
「備中国風土記』逸文に、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記します。

 この国の風土記には次のようにある。皇極天皇6(660)年、大唐の将軍である蘇定方(ソテイホウ)が新羅軍を率いて百済を攻めた。そこで百済は使者を遣わせて救援を乞うたので、天皇は筑紫に行幸して救援の兵を送った。その時、皇太子だった天智天皇が摂政として随行し、下道郡に身を置いた。そこで、ある郷の村を見ると戸数が大変多かったので、皇極天皇は詔を下して この郷で兵士を集った。その時に得た兵は2万人だったので、天皇は大変喜んで この村を二萬郷(にまんのさと)と名付けた。これが後に爾磨(にま)と改められた。その後、天皇が筑紫の仮宮で崩御したので、この軍勢は遣わせずに終わった。」

ここからは次のような情報が読み取れます。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
この2万という数字はともかく、ヤマトの大王が現地行幸することで、多くの豪族と人民を戦争に徴発できるようになったことがうかがえます。
日本書紀は3回に分けて、次のような軍事力が派遣されたと記します。数
第一派:
1万余人、船舶170余隻。指揮官 安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:
2,7万人 主力指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。
第三派:
1万余人 指揮官は廬原君臣(廬原国造の子孫。静岡県清水市本拠)
推古政権時代にも、新羅将軍・久米王子に神部、国造・伴造らと軍兵2,5万人が授けられたことがあります。約1世紀前に大伴金村が筑紫で行った部民制による兵士動員スタイルが、吉備でも行える体制が整っていたことがうかがえます。
 百済救援軍の派兵決定に踏み切った直後の斉明 6(660)年 12 月、政府は諸国に「諸軍器」の「備え」と軍船建造を命じています。
『日本書紀』には、「駿河国」への造船指令で完成した船が曳航中に伊勢国で転覆したという事件だけが記されています。これは「事故」であったから報告されたので、多くは命令通りに各国で輸送船や軍船が造られていたはずです。駿河国に造船指令が出されていたのなら瀬戸内海の讃岐にも造船指示があったでしょう。それを遂行する国司は、この時点ではまだいませんでした。だとすれば、これらを担当したのは国造たちや有力豪族たちだったのでしょう。

郡郷制変遷表
国郡里制の変遷

 この時点であった地方支配機構は評造(こおりのみやつこ)だけです。任命されたのは旧国造・旧地方伴造で、田地調査、人口調査、50 戸制を創設し、課税・徴兵などを担当させていました。しかし、これは整備されたものではなく、中央の命令が地方にまで法令として下りてくるものではなくAboutで大雑把なものだったようです。  
そのために置かれたのが総領です。
これは百済救援軍の準備・動員のために斉明7(661)年の初めに置かれました。総領―国宰―評造という命令系統を通して次のような事が行われました。
兵器の製造修理
指定数の船舶の造船修理
指定量の軍粮備蓄
指定数派遣軍軍士の選抜・訓練
兵站基地である筑紫博多湾までの輸送
伊予総領は、伊予・讃岐・阿波を支配し、後には朝鮮式山城の築造・運営にもあたっています。 ここでは、古代律令国家の中央集権的な行政機構が、百済救援軍動員を契機に整備され始めたことを押さえておきます。
 ちなみに6世紀に、朝鮮半島政策遂行のために動員された多度郡国造の佐伯直氏の祖先が眠るのが善通寺市有岡町の大墓山や菊塚古墳である可能性を前回お話ししました。この古墳からは百済的な馬具や王冠、鉄剣が出土します。半島での駐屯活動の中で手に入れたことが考えられます。

善通寺大墓山古墳の馬具2
             大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
 6世紀に朝鮮半島に派遣された軍隊は、佐伯直氏軍団のように西国の「評造軍」を中核として編成されていました。それは国造たちの私兵集団で、高価な武具・馬具を自力で整えられる国造領内富裕層に限られていました。装備は自分持ちで、自宅管理、訓練は自己訓練です。それは当時の群集墳の副葬品の武器からうかがえます。
 例えば土器川中流部のまんのう町長尾の町代古墳群(6世紀前半~後半)からは馬具や鉄剣・鉄鏃などの武具が出土しています。

町代3号墳馬具
         まんのう町の町代3号墳の馬具

町代3号墳鉄製遺物2

武具副葬は被葬者の生前のステイタスを誇示する威信財です。ここからは被葬者が国造軍軍士であったことが分かります。6世紀には国造を指揮官とする国造軍が半島に派遣されていたのです。

郡郷制変遷表
国郡(評)里(郷)制変遷図
次に大化の軍制改革で、あらたに創設された「評造軍」を見ておきましょう。
①「兵庫」を設置して、個人装備を一括収蔵・管理
②50 戸制を踏まえた新規選抜軍士の編成(兵力数増員)
③その指揮官が「評造」
個人装備の一括収蔵や新しい軍隊編成法は、装備の点検・修理と廃棄などを効率化し、動員可能数を増やしました。そして評造指揮下の訓練の集団化も行われるようになります。そういう意味では、評造軍は国造軍に比べてはるかに革新され強化された軍隊と云えそうです。
 佐伯直氏が多度郡の「評造(後の郡司)」として果たした役割を挙げてみましょう。
①割り当てられた兵力数を支配下の評造軍軍士から選抜して訓練実施
②一般住民男女は派遣軍軍士たちの装備の製作・修理
③騎馬・駄馬の生産・育成
④軍服などの縫製
⑤軍粮の備蓄
⑥軍船の制作・水夫集団の提供
これらの活動は、綾氏や佐伯直氏にとっては負担の多い役務だったかもしれません。しかし、視点を変えて見ると、中央政府の命令に従ってこれらを行う事で、いろいろな役得がありました。それは新しい武具の供与であり、製法伝授などの先進技術の需要につながったかもしれません。また、軍港提供でそれが交易港として機能し、経済的な利益をもたらすことがあったかもしれません。また「中間搾取」などもあり、後の郡司は美味しい職であったことは以前にお話ししました。
 どちらにしても多度郡の佐伯氏は、大伴軍団の一員として早くから朝鮮半島での駐屯活動に従事し、
その活動の中で先進的な軍事技術や経済的な富を7世紀になっても手に入れていたことがうかがえます。
 例えば、讃岐の古代氏寺は一町(107m)四方の伽藍が一般的です。
ところが佐伯直氏の氏寺である善通寺は、その四倍の2町四方の伽藍を有します。ここにも他の郡司を凌駕する経済力がみえてきます。当時の寺院は、大学でもあり、病院でもあり、僧侶は最高の文化人でした。寺院の中では東アジアの国際用語である中国語が日常用語として使用してされていたと研究者は考えています。それはイスラム教が国や地域は違ってもモスクの中ではアラブ語が用いられるのと似ています。幼い空海は善通寺に出入りし、そこの僧侶達と中国語で話していたかも知れません。これが遣唐使の一員として唐に渡ったときに役立つことになったのではないかと私は考えています。そのような環境の中で空海は育ったことになります。最後は佐伯直氏の国際性と経済基盤の源がどこにあったかという話しにすり替わっていったようです。
以上をまとめておきます。
①百済救援戦争に各国の軍隊を率いたのは、評造(元国造)たちだった。
②評造たちは船や水夫の提供・戦略物資の供出・輸送など後方支援活動を担った。
③同時に評造は、一族や動員された兵士を引率し、筑紫博多湊に集結した。
④そこで伊予大領の軍団として編成され、対馬海峡を渡り半島に上陸した。
⑤しかし、軍団は評造軍の寄せ集めで、統一性がなく集団的な動きができなかった。
⑥また軍船なども遙かに劣っており、唐水軍の敵ではなく、白村江で大敗北を喫した。
⑦この時に多くの兵士が唐軍の捕虜とされ、唐で奴隷として長い歳月を送った。
⑧戦後30年近くを経て、唐との国交回復が進む中で、捕虜たちの帰国が実現した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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前回は空海の生家・佐伯直氏と大伴氏の関係を次のようにお話ししました。

大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

ここからは佐伯直氏が大伴氏の同族として、軍事行動をともにしていたことが見えて来ます。そうだとすれば大伴氏の活動には、佐伯直氏が付き従っていたことになります。もっと云えば、大伴氏の活動を追いかければ、佐伯直氏のうごきもある程度は見えてくるのではないかという推察です。そこで、大伴氏の全盛期を築いたとされる大伴金村の動きを今回は追ってみたいと思います。テキストは「小嶋 篤(九州国立博物館)  筑紫・大伴・大伴部     「大宰府前夜 ─筑紫の大宰と豪族」です。

まず大伴金村に至る大伴氏の系譜を見ておきましょう。
大伴氏系図1
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
①では、天津日命の子孫で、もともとは物部を名のったが、②の功績で「将軍」を名のるようになった
と記します。③で登場するのが武持で、ここで大伴氏を名のります。しかし、ここまでの系図については信憑性が低いと研究者は考えています。
例えば、川口常孝氏は大著「大伴家持」で次のように記します。

「日本書紀」の記述は、いわゆる歴史以前とも称すべき部分で武持・武以の実在性は十全には信じがたい。ゆえに、厳密に実在した人物の場合は、武以の子といわれ、金村の祖父にあたる、允恭十一年(422)紀の、大伴室屋連あたりからとすべきである。この大伴連室屋が、物部連目とともに大連を賜わったことが、雄略即位(457)前記に見える。大連は、大王の称号の確立に伴って生じてきたものと考えてよく、即位前紀の記事は、今や大伴氏が、物部氏とともに、大和朝廷の最高執政官の役割をになうに至ったことを告げており、大伴氏の史上への登場を確認してよいであろう。したがって、大伴氏は、室屋のあたりからは、神話への依拠を要せぬ彼等の系譜を作製することができるようになる。そして、談大連を経て金村の代になると、逆臣平群真鳥の討伐、武烈天皇即位の輔佐、継体天皇の擁立等々その功多く、大伴氏の極盛時代を現出することになる。」

  ここでは、大連の姓を持つ室屋を「大伴氏の史上への登場」とし、金村の時代を「大伴氏の極盛時代」とします。
大伴氏の出自や本貫について、北山茂夫氏は『大伴家持』で次のように記します。
「この豪族の起源については、不明の点が多いが、おそらく本拠は、河内の、後に難波と呼ばれた地域であったろう。早く六世紀以前に、世襲王権を確立した大王家(後の天皇家)に服属して、物部氏とともに、とくにその軍事的伴造を領し、その名称の大伴が示すごとく、巨大な勢力の形成へと向かったようである。五世紀から六世紀の前半にかけて、内戦外征がつづき、したがって大伴、物部には活躍の機会と場が多く、軍事的伴造の首長から、王権下の寡頭執政機関たる大連にのしあがった。しかし、五四〇年の百済への任那四県の譲に関与して大金村が失脚し、大伴氏は大きく傾いた。
 五八七年の物部大連家のごとく、諸氏族の集中攻撃をうけて滅亡に瀕したのではないから、なお伴造の大首長としての潜勢力を保つことができたものの、もはや子孫は大連に復帰しえなかった。大王家の王権と結んで政界を制覇した蘇我大臣家の下風にたって、余勢を保つのに汲々たる状態に甘んじねばならなかった。」
ここでは、5世紀から6世紀前半のヤマト政権の「内戦外征」を通じて、物部氏と共に軍事的指揮官から大連にのし上がり実権を握ったとします。つまり6世紀前半には、物部氏と大伴氏の2トップの軍事集団体制ができあがり、それが軍事面だけでなく内政・外交まで牛耳る体制が形成されていたというのです。
このような時期に登場するのが大伴金村です。彼の年表を見ておきましょう。
大伴家年表 旅人・家持

大伴金村

ここからは大伴金村が大連として、5世紀末から540年に至る約半世紀間、ヤマト政権中枢部でおおきな役割を果たしていたこと、特に朝鮮半島政策は、彼によって立案・実行されていたことがうかがえます。少し寄り道しますが、その外交政策を史料で裏付けながら見ていくことにします。 

 書紀には大伴金村は、継体政権誕生の立役者として描かれています。キングメーカーとなった金村は、大連(王権下の寡頭執政機関)として政権を運営していく立場に就きます。そこで、直面したのは朝鮮半島政策です。
    下表は倭の新羅侵攻の記事を、三国史記に基づいて年次別に集計したものです。
倭の新羅への侵攻一覧 古代日朝交渉史序説(田村)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①五世紀がヤマト王権の新羅侵攻のピークであったこと
②ヤマト王権の新羅侵攻は5世紀で終っていること
③これは、新羅に対するヤマト王権の劣勢の現われであること
④475年の漢山城陥落によって高句麗の優勢が確定したこと
④の敗北は、朝鮮半島に軍事情勢の激変をもたらします。502年以後、高句麗の長寿王は連年のように北魏に入貢しています。これに応えて、梁の武帝は、武寧王に征東大将軍を与えます。このような冊封体制下で百済は、もはや自力で高句麗に対抗できずに苦境に追い込まれます。そのような中で、百済がとった打開策が伽耶方面への南下政策です。

朝鮮半島三国の勢力推移
中国の漢帝国が朝鮮半島に進出し、楽浪郡を設置したことは東アジアの諸民族におおきな影響を与えます。それが朝鮮半島や日本列島において古代国家形成につながると研究者は考えています。その中で、いち早く体制を整えたのが高句麗です。高句麗は北方系遊牧騎馬民族国家として、騎馬軍団で半島南部への南下政策を開始します。この脅威に対応するために、新羅や百済も軍事力強化を余儀なくされます。そのためには兵力動員面からも「国家」の形成が求められるようになります。そのような中で、高句麗の外圧に直接さらされなかった南部エリアでは、中小の小国家が並立する状態が続き、統一国家形成が進まず小国家分立状態が続きます。ところが百済や新羅で国家形成が進むと、高句麗に奪われた領土を、南方の伽耶諸国を併合することで穴埋めしていく戦略がとられるようになります。
こうして朝鮮半島では、各国の思惑が次のように錯綜します。

古代朝鮮半島をめぐる各国の思惑
①高句麗 魏晋南北朝の中国分裂に乗じて、周辺への領土拡大政策。朝鮮半島への南下
②新羅  高句麗の南下を中国王朝の冊封体制に入ることで回避 → 伽耶への侵攻
③百済  失われた北辺領土を伽耶併合で埋め合わせる     → 倭の軍事力利用
④倭   鉄と馬とハイテク技術・知識などの供給地伽耶の確保 → 駐留使節団設置
⑤伽耶諸国 独立維持のための外交展開            → 倭の軍事力利用
任那日本府とは

このような中でヤマト政権の朝鮮半島外交を担当していたのは誰なのでしょうか?
6世紀の大臣・大連一覧表
6世紀前半の大臣・大連一覧表  (古代日朝交渉史序説(田村)より
 上表からは6世紀初頭には、大臣として巨勢男人、大連として大伴金村と物部麁鹿火の3人が中枢ポストにいたことが分かります。512年(武寧王12、継体6)、百済の武寧王の派遣した使者が難波にやってきます。このことについて日本書紀は、次のように記します。(要約)

百済が外交使節を難波に派遣し、(継体天皇に)上表文を差し出して、「任那国の上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しい」と願った。哆唎国守(現地責任者)の穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)が『四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。百済に(四県を)たまわって、合わせて同じ国にすれば、保全のためにこれ以上の策はありません』と言うと、大連の大伴金村もこれに同調。そこで、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)が宣勅使となり、難波館で待機している百済の使者にこれを伝えることになった。ところが麁鹿火が難波館に出向こうとすると、妻から「神功皇后は(朝鮮半島の各国に)官家(王権の直轄地)を設け、わが国の守りとされた由来がある。これを割いて他国に与えると、後世長く非難を受けることになる」と諭された。「病気と言って、勅宣を受けなければよい」という妻に従い、使者を断った。そこで、別人が勅を伝え、任那四県を百済に割譲したという。


伽耶諸国分割変遷表

 上・下喇は全羅南道の栄山江の東岸にあたり、今の光州・霊岸地方、娑陀・牟婁は栄山江の西方の地帯になります。つまり全羅南道の西半部が、任那の四県になるようです。475年に漢山城を放棄して南遷した百済は、失われた領土の代替として、加羅のこの地域を求めてきたこと、それを当時の外交責任者の大伴金村は認可したと日本書紀は記します。この書き方だと、倭国が伽耶諸国を領有しているように思えます。『日本書紀』は「日本の天皇は、古来、朝鮮半島に直轄地をもっていて、利権を掌握していた」と主張するの常です。研究者の多くは、この通りには受け取れない考えているようです。教科書からも「任那日本府」と用語は、20世紀末には消えています。「割譲」というよりも「承認」を求められた方が事実に近いようです。

任那割譲問題


 倭国の「承認」に対して翌年513年に、武寧王は継体の宮廷に五経博士の段楊を送っています。これは「最先端技術をもった知識人の貢進」で、「四県割譲」に対する謝意のあらわれと受け取れます。当時は、「倭国の軍事援助」の見返えりが、「百済からの文化・ハイテク技術提供」だったことを押さえておきます。
 百済の「任那併合」を倭が認めたことは、伽耶諸国からすれば倭の裏切りです。
倭を後ろ盾としてきた伽耶諸国は、その安全保障体制の見直しを迫られます。その結果、伽耶諸国は百済・倭から離脱して、新羅に接近する動きが拡がります。このような動きを受けて、新羅も伽耶地域に勢力を伸ばしてきます。
 533年には、伽耶の中心であった金官国が新羅に併合されています。これについて三国史記は次のように記します。

(法興王)十九年、金官国主金仇亥、與妃及三子長日奴宗、仲日武徳、季日武力、以国宝物米降、王礼待之、 授位上等、以本国為食邑、子武力仕至角千。

意訳変換しておくと

 金官国の国王の金仇亥、妃と三子が、国幣と宝物をもって新羅に降り、法興王は新羅の最高位である上大等を授け、本国を食邑とすることを許した。

伽耶諸国2
金官(海)は、南加羅とも呼ばれ、弁辰十二国のうちのかつての邪韓国でした。その位置は洛東江下流金海地方です。これは新羅が戦略的要衝にあたる洛東江河口を確保したことになります。ヤマト王権と加羅諸国とを結ぶ動脈が、新羅の進出によって遮断されたのです。これはヤマト王権の生命線である鉄の供給や先進文化受容拠点が奪われたことになります。今なら「シーレーン防衛の破綻」というところでしょうか。
これに対して、ヤマト王権は536年に、筑紫の那津に官家を設け、畿内・北部九州から運ばれた兵糧を貯蔵することになったことが日本書紀に次のように記されています。
(宣化元年)夏五月辛丑朔、詔日、食者天下之本也、黄金貫不可療、白玉千箱何能救冷、夫筑紫国者、遐之所届、去來之所三門、是以海表之候、海水以来賓、望天雲而奉、自胎中之帝泊三干朕身、収藏穀稼蓄積儲粮、遙設三四年、厚良客、安之方、無此、故遣阿蘇君三河内國茨田郡屯倉之穀、蘇我大臣稻目宿禰宜遣尾張尾張屯倉之穀上、物部大麁鹿火、宜遣新家連運新家屯倉之穀、阿倍臣、宜遣伊賀臣伊國屯倉之穀、脩造官家那津之口、又其筑紫肥豊三國屯倉、散在懸隔、運輸遙阻、如須要以備卒、宜課諸郡分移、聚三建那津之口、以備非常、永爲民命、早下郡縣知心
ここには阿蘇氏は河内の茨田郡の屯倉の穀を、尾張氏は尾張の屯倉の穀を、新家氏は新家の屯倉の穀を、伊賀氏は伊賀の屯倉の穀を、全国から穀物を海路によって、筑紫那津の官家に運び、また筑紫・肥・豊の三国の屯倉の穀も、那津の官家に集めたことが記されています。那津の官家は、福岡市南区三宅本町あたりにあったとされます。那津の官家設置の目的は、朝鮮半島の軍事情勢の急激な変化に対応するための措置だと研究者は考えています。新羅による金官加羅の併合や、慶尚北道慶山卓淳(慶尚北道大邱)への進出は、ヤマト王権にとっては国家存亡の非常事態です。レアアースの輸出規制よりも深刻だったはずです。同時に、発生した亡命者(旧加羅人)の受けいれや、加羅・百済に対する救援の措置が検討され、その一環として那津の官家設置となったのでしょう。こうして以後、筑紫の那津は、百済加羅援助の基地として機能していくことになります。 .
 那津官家の設置について日本書紀は、「非常に備え、永く民の命となす」と記します。
ここからは兵糧などの戦略物資の朝鮮半島への輸送・集積は一回限りのことではなく、以後も続けられたことがうかがえます。秀吉の朝鮮出兵を見ても分かるとおり、軍団・物資輸送には船舶造船から始まって、水夫の組織化、港・官家の維持や穀稼の保管・配給などの煩雑な業務が大量に発生します。この様な動きの中心にいたのが大伴金村でした。日本書紀には、次のように記します。

(宣化)二年冬十月、壬辰朔、天皇以新羅寇於任那、詔大伴金村大連、遺其子磐与狭手彦以助任那、是時、磐留筑紫執其国政、以備三韓、狭手彦往鎮任那、加救百済。

意訳変換しておくと
(宣化)二年冬十月、壬辰朔、天皇は新羅の任那(金棺伽耶)への侵攻に対処するために、大伴金村大連に命じて、その子である磐と狭手彦に任那救援の職務につかせた。この時に、(長男の)磐は筑紫執として国政を掌り、三韓(朝鮮半島の有事)に供えた。また、(次男の)狭手彦は任那に出陣し、百済救援軍とした。

こからは次のような情報が読み取れます。
①新羅が加羅に侵攻したので、ヤマト政権は大伴金村に対応を任せた
②大伴金村は、長男磐を筑紫に留まらせて後方支援活動を担当させ
③次男狭手彦を伽耶に派遣して、百済支援部隊とした。
こうしてみるとこの時期の朝鮮半島経営は、大伴金村が担当していたことが改めて裏付けられます。

④については、「三韓に備え」とあるので、磐の職務は筑紫の軍政官であり、朝鮮半島への軍事兵站基地の役割を果たしたことが考えられます。これと那津官家の機能とは無関係ではないはずです。またここに登場する「筑紫」は、宣化元年詔の「筑紫・肥・豊三国」の総称と研究者は考えています。
 一方、弟の狭手彦の軍事的作戦範囲は、金官国の復興という積極的なものではなく、加羅諸国の確保という消極的なものに限定されていたようです。具体的には、新羅の侵入阻止、ヤマト王権の戦略拠点としての伽耶諸国の維持です。
 いつの時代でもそうですが、他国への軍事行動には兵站基地が不可欠です。
それが筑紫であったことになります。さらに云えば朝鮮戦争の時に、日本列島が米軍の「不沈空母」として機能したように、狭手彦の半島での軍事行動や長期駐屯には、兵站基地の役割を果たす九州北部(筑紫)の確保が不可欠だったことになります。ヤマト王権にとっては「加羅確保=筑紫支配強化」だったのです。このふたつに対応するために、宣化政権から加羅の救援を命じられた大伴金村は、磐と狭手彦の二子に、職務を分担して目的遂行を図ったと研究者は考えています。
 伽耶防衛と北九州の兵站化は、メダルの裏表の関係であることを指摘しました。
このような国家目的の遂行の中心に大伴金村がいたことも押さえました。それでは「大伴・佐伯直=同祖兄弟氏族」とされていた善通寺の佐伯直氏はどのような動きを求められたのでしょうか。考えられることを挙げて見ると
①半島への戦略物資輸送用の船・水夫の提供
②馬具・武具などの戦略物資の拠出
③瀬戸内海航路の拠点としての白方港の提供と警備
④軍団の一員としての朝鮮半島派遣への従軍
⑤伽耶諸国亡命者(渡来人)の受入
具体的な史料はないのですが、佐伯直氏が大伴氏の支族として朝鮮半島政策に関わっていた可能性は強いと私は考えています。
もうひとつ佐伯直氏の朝鮮半島従軍を裏付けるものがあります。それが国の史跡になっている大墓山古墳(善通寺市)です。この古墳の特徴を以前に次のように要約しました。
①構築時期は古墳時代後期(六世紀後半)
②り県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→ 九州色濃厚
⑤被葬者は、空海の生家・佐伯直氏の祖先
2王墓山古墳2

王墓山古墳は石室内部には数多くの副葬品が残されていました。
 
1王墓山古墳1

その中で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴でした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだした。

DSC03536
善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少ないようです。 大墓山古墳に続く菊塚古墳からは、多くの馬具が見つかっています。

1菊塚古墳

これらの副葬品を、大墓山古墳の被葬者はどのようにして手に入れたのでしょうか?
 以前は、ヤマト政権から功績を認められて下賜されたと説明されてきました。しかし、この被葬者が6世紀中頃に、大伴氏に従軍し朝鮮半島に長期駐屯していたとすれば、直接現地で手に入れたことも考えられます。また、古墳の構造に九州色が強いのも、磐井の反乱鎮圧などの軍事行動に参加して、九州勢力と関係を深め、技術者集団を導入することができた結果だとも考えられます。
 どちらにしても、大墓山と菊塚の2つの古墳に眠る被葬者は、大伴金村などの配下で、九州や朝鮮半島で軍事行動をともにした武人であったのではないかと想像しています。
一方で大墓山古墳と斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性が次のように指摘されています。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
これも大伴氏や蘇我氏とのつながりを物語るものかもしれませんが、裏付け史料はありません。
最後は妄想気味になりましたが、善通寺の佐伯直氏の本家とされる大伴氏には、伝承だけでなく、実際に軍事行動などを一緒に行った痕跡がある事を指摘しておきたいと思います。以上をまとめておきます。
①6世紀初頭の継体政権の朝鮮半島政策の責任者は、大伴金村であった。
②新羅の伽耶諸国への侵攻に対して、北九州を兵站基地として、朝鮮半島に軍団や戦略物資を送り込んだ
③それを担当したのも大伴氏で、各地から大伴一族に動員がかけられた。
④大伴・佐伯=同祖兄弟支族に基づいて、善通寺の佐伯直氏にも物資の供出・輸送・が求められた。
⑤また、佐伯直氏の中には軍団を率いて北九州に集結し、伽耶に渡り長期駐屯するものもいた。
⑥その中には、馬具や王冠などを入手し、大墓山や菊塚古墳に副葬品として埋葬した者もいた。
⑦これらの軍事活動を通じて佐伯直氏は、瀬戸内海や朝鮮半島の交易に参入し経済基盤を高めた。
⑧また直接的に朝鮮半島のハイテク技術や人材・国際性を獲得できる立場にあった。
⑨佐伯直氏が獲得した文化・技術・国際性・経済力の上に、空海は登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小嶋 篤(九州国立博物館)  筑紫・大伴・大伴部     「大宰府前夜 ─筑紫の大宰と豪族」
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大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

 空海は、天長五年(828)2月、陸奥国に赴任する(大)伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。
貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

ここには、「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」とあり、空海が大伴と佐伯を、同祖兄弟氏族と思っていたことが分かります。空海が佐伯氏の同祖を思っていた大伴氏とは、どんな氏族だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「菅野雅雄 大伴氏の系図」です。
   大伴氏について語るときに、引き合いに出されるのが「万葉集巻第十八4094」の 大伴宿祢家持の歌です。
海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ

意訳変換しておくと
海に戦いに行ってわたしの屍が水に漬かろうとも
山に戦いに行ってわたしの屍に草が生えようとも
大君のおそばでこそ死のう迷うことはするまい

この歌は戦前には「忠君愛国」の歌として国定教科書に取り上げられていて知らない人はいませんでした。大伴氏というとこの歌が思い浮かべられたようです。

海ゆかば - Wikipedia


この歌は、大伴家持の長歌の一部ですが、家持のオリジナルではないようです。大伴氏の祖先が戦いに臨んで唱い舞ってきたフレーズの一部とされてきました。
 『続日本紀』には、聖武天皇が大伴氏に向けた詔書に、つぎのようにこの歌が引用されています。

おまえたちの祖先はこのように歌って歴代の天皇に忠誠を尽くしてきてくれた。今後もその心がけを忘れてくれるなと。

これに対しての家持の『万葉集』の長歌は、その返答なのです。家持は、さらにこう詠んでいます。
大伴と佐伯の氏は 人の祖(おや)の立つる言立て
人の子は親の名絶たず 大君にまつろふものと言ひ継げる
意訳変換しておくと
大伴氏と佐伯氏は祖先の立てた誓い「子孫は親の名(=代々の家名)を絶えさせず大君に従うものだ」を言い伝えてきたのです

ここに大伴氏と並んで佐伯氏が登場してきます。出陣の際には、この歌を大伴氏の長が詠い、佐伯の長が舞ったとされます。最初に見たように、このことを空海は知っていたから「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」と記したのでしょう。ここでは空海の頃には、大伴氏と佐伯直氏は同祖で、大王のそばに仕え、行動を共にしてきた軍事(護衛)集団であるという誇りが出来上がっていたことを押さえておきます。
この歌は「久米歌(くめうた)」と呼ばれていて、 ウィキペディアは次のように記します。

 記紀の 神武天皇のヤマト征討したとき久米部がうたった歌で、大和国平定記事に組まれた宮廷歌曲群であり、『日本書紀』に8首、このうち6首が『古事記』にも書かれている。大和王権に服した久米氏が、近衛軍団の伴造、あるいは膳夫(かしわで、調理人)となり、戦闘後の酒宴の合唱と舞いとで、宮廷儀礼の場で大王(天皇)に忠誠を誓って奏したものである。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/久米歌 参照 2026年1月11日))
 
ここで注意しておきたいのは、この歌がもともとは大伴氏のものではなかったということです。久米歌は、久米部(くめべ)という部民が歌った軍歌・戦闘歌であったと記します。それでは久米氏(部)とは、どのような氏族だったのでしょうか? 

 『古事記』では天孫降臨の場面に、久米氏は次のように登場します。

故に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多く雲を押し分けて、伊都能知和岐知りたたして和岐豆、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯豆、竺紫のはゆぎ日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。故天忍日命、天津久米命の二人、天の石を取り負ひ、頭椎の大刀を取りき、天の波士弓を取り持ち、天の眞矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天北中天津久米命等の此は久米直等のなり。

 ここでは久米氏の祖先は、忍日命と記載されて、久米氏天津久米命は大伴氏祖天忍日命と共天孫を先導する役割を務めています。ところが日本書紀では、大伴氏が久米氏を率いる立場として描かれます。
 天孫降臨についての書紀と古事記のちがいを挙げると
A 古事記 大伴・久米の併立状況
B 書紀  久米部を帥いる大伴氏の姿を描いている
 日本武尊の東征については、古事記には大伴氏の出番はありません。ところが「書紀』景行天皇四十年七月条の文末には「天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に従はしむ。七脛を以て夫とす。」
  こうして見ると、久米氏はもともとは天皇の直属軍事氏族として活躍していたのが、どこかで勢力を失い、後発の大伴氏にその地位を取って代わられたことがうかがえます。
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
紀記では①②③の場面は、久米氏のみの登場か並立関係だったのが、次第に久米氏が大伴氏に従属していく関係になっていきます。これについては、④の継体天皇擁立と⑤壬申の乱参戦という大伴氏の戦功を背景に、①②③の神話伝承が紀記に組み込まれたと研究者は考えています。そして、④⑤の中には、久米氏の姿は見えなくなります。別の視点から大伴氏=新興勢力説を見ておきましょう。

大和政権の豪族分布図

上の大和盆地の前方後円墳分布図からは、次のような情報が読み取れます。
①大和盆地東部に位置する大王家・物部氏が前方後円墳の密集地帯であること 物部氏の勢力の大きさ
②大王家を挟むように北に物部、南に大伴氏の勢力があること
③大伴氏の勢力内の初瀬川左岸(西南部)流域には前方後円墳がないこと
③からは大伴氏について、次のようなことが推察できます。
A 大伴氏は首長墓である前方後円墳を築くだけの力を持つ氏族ではなかったこと
B 大伴氏は前方後円墳造営終了後に、台頭した新興勢力であったこと
C 大伴氏が、奈良盆地のヤマト王権メンバーの中では、軽量級であったこと
D 大伴氏は物部氏とともに大王家を挟む位置にあり、強いライバル関係にあったこと

Bの大伴氏=新興勢力説をもう少し見ておきましょう。
新興の軍事氏族である大伴氏は、継体天皇を擁立してヤマト政権の中で確実な地歩を占めるようになります。  大伴氏の台頭背景には、大伴氏が渡来した新しい武器 + 鉄を手に入れるルートを持っていたことが考えられます。
百済の騎馬軍団と戦うために

5世紀は高句麗の騎馬戦術に対応するために、軍事兵器の革新が最重要政策となった世紀です。蘇我氏と同じように、そのルートや方策を大伴氏が握ったことが考えられます。それが久米氏に代わって、大伴氏が新興軍事集団として政権内で台頭した背景にあると研究者は推測します。そして、8世紀初頭の紀記編集時代になると、久米氏と大伴氏は同祖で兄弟氏族だという論法を展開したようです。
同祖氏族化の手法には、「A 地縁に基づく擬制」と「B血縁に依る擬制」がありました。
  Aについて、久米氏と大伴氏の本貫を見ておきましょう。
  久米直氏は大和国久米(橿原市久米町)の地を本貫
  大伴連氏は、別業は「竹田」「跡見庄」(橿原市東竹田=竹田庄、桜井市外山跡見庄)
久米と竹田とは近接していて、地縁関係があったようです。
 Bの血縁的擬制については先ほど見たように、大伴氏が久米氏と姻戚関係にあったことが何カ所かで主張されています。こうして、久米氏と隣接し、地縁をもとに同祖氏族であることを唱え、更に同族関係を固めるため、血縁=婚姻を重ね「大伴氏+久米氏=同祖兄弟氏族」伝承を作り上げたと研究者は考えています。
最後に、大伴氏が渡来人と密接な関係にあったことを見ておきましょう。
『万葉集』に八十四首の歌を残している大伴坂上郎女は、大納言安麻呂の娘で旅人の異母妹、家持の叔母に当たります。その経歴は、穂積皇子に嫁しますが皇子の死後に、藤原麻呂の寵を受けます。やがて麻呂と別れ、異母兄宿奈麻呂の妻となり坂上大嬢・二嬢を生む。さらに安倍虫麻呂とも親密な関係を結ぶなど恋多き女性のようです。神亀年間に大宰府に下り、天平二年十一月に帰京、坂上の里に居住したので坂上郎女と呼ばれたようです。
坂上の地(奈良市法華寺町西北辺り)は、渡来人の居住地でした。
ここを本貫としたのが坂上直氏です。坂上氏は、壬申の乱で次のような活躍をしています。

是の日(天武元年六月二十九日)に、大伴連吹負、密に留守司坂上直熊毛と漢直等に謂りて曰はく、「我詐りて高市皇子と称りて、数十騎を率て、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ」といふ。既にして兵を百済の家にひて、南の門より出づ。

ここからは壬申の乱の際に、大伴氏が坂上氏・漢直と供に挙兵したことが記されています。三者の親密な関係が見えて来ます。それもそのはずで、坂上直氏は、東漢氏のリーダー的な存在で、次のように改姓を重ねた渡来系氏族なのです。
天武十一年五月 
同十四年六月 忌寸
天平宝字八年九月 大忌寸
延暦四年六月 大宿禰
「新撰姓氏録」右京諸蕃上には「坂上大宿禰出自後漢霊帝男延王」
「坂上系図」の「姓氏録」逸文には「阿智王(阿知使主)の孫の志努直は坂上大宿禰らの祖」
と記されています。坂上氏(東漢氏)と大伴氏との強いつながりが見えて来ます

大伴坂上郎女は『万葉集』巻三に、尼理願の死去を悲嘆して歌(460)を残しています。
これに注して、次のように記します。
右、新羅国の名は理願といふ。遠く王徳に感けて、聖朝に帰化ぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄生しすでに数紀を経たり。ここに、天平七年乙亥をもち忽ちに運病に沈み、すでに泉界に趣く。ここに、大家石川命婦、餌薬の事によりて有間の温泉に行きて、この喪に会はず。ただ郎女ひとり留まりて、屍を葬り送るとすでにりぬ。よりてこの歌を作りて、温泉に贈入る。
 新羅の人が大伴の家の「寄生」していたと記します。
これ以外の史料からも大伴氏は渡来人との関わりが非常に強かったことがうかがえます。従来は、八神代以来の名族といわれる大伴氏ですが、その台頭の背後には渡来系氏族の影を見えて来ます。
以上を整理して起きます
①大伴氏は、大王直属の軍事集団とされるが、大伴氏以前には久米氏がいた。
②大伴氏は、百済との強いパイプを持つことで馬飼育方法や馬具制作・鉄製品の供給などの先端ハイテク技術の供給体制を握ることによって、政権内部での地位を急速に高めた。
③そして久米氏にとって代わり、佐伯氏と共に大王直属の軍事氏族という立場を築いた。
④そのため大伴氏の周りには渡来系氏族との関係がうかがえるものが多数ある。
⑤大伴・佐伯=同祖兄弟説も、このような中で6世紀に生まれてきたものである。

こうして見ると空海の実家の佐伯直氏も、大伴氏に従軍し、瀬戸内海航路を行き来し、九州や朝鮮半島で活発に活動していたことが考えられます。そのような環境の家に空海は生まれたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅野雅雄 大伴氏の系図
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菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、2月に赴任しています。彼が国司として直面したものはどんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは「新編丸亀市史Ⅰ 428P 律令体制下の人と村落」です。

国司の編成 丸亀市史
国司編成表
職員令によると、国には大・上・中・下の四等級がありました。等級は、公田や戸の数によって決められたようです。国司は上表のように四等官で構成され、国の等級によって人数が定められていました。讃岐は上国守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人になります。その他の主な職務は、次の通りです。
介は守が不在のとき、守の職務を代行、
掾は国内の治安維持や文書の審査
目は文書の作成・点検および読み上げ
史生は公文書の書写や四等官の署名を取ってまわることなど、書記官として雑務遂行
国司の長官である守の職掌は職員令の規定には、次のような項目が挙げられています。
①国内の民政(戸籍・計帳による人民の把握とその生活の維持
②農業の指導
③田地・宅地の把握
④人民の身分区分の把握)
⑤財政(租税の徴収や徭役(ようえき)〔雑徭(ぞうよう)や歳役など力役〕の徴発、
⑥調庸の運搬
⑦租税を収納する倉庫その他の官庫の管理)
⑧軍事・警察・裁判(国内の治安維持、裁判、兵士の徴発、軍団の人事、兵器や軍事施設の管理)
⑨交通行政(駅や伝馬(てんま)の監督
⑩関所通行証としての過所(かしょ)の発行)
⑪宗教行政(神社や僧尼名簿の管理)
⑫学生(がくしょう)の推挙
⑬道徳的にすぐれたものの表彰
⑭牧・馬牛・遺失物の管理・調査
これを見るとすべての権限が、国司の内の守に任されていたことが分かります。
こうした職務は文書で行われたので、事務処理能力を持った人間の養成が求められました。そのため官人養成機関として、中央に大学、地方諸国には国学が設置されます。国学では、郡司の子弟などから選ばれた学生を国博士などが教えました。国医師も国学に勤務し、医生を教授したり、医療にもあたったりしています。
 国司の収入はというと、国司には季禄が支給されませんでした。その代わりに、史生以上に職分田(職田)と職分田の耕作にあたった事力(じりき)が支給されています。大宝令では公廨田(くがいでん)とよばれていた職分田は、田租を納めることを免除された田で、国の等級や官職によって、支給された面積に差がありました。

 それでは国司としての菅原道真は、このような広範な職務をどんなふうに対応・処理していたのでしょうか?
 彼の在任中に詠んだ詩が『菅家文草』におさめられているのは以前にお話ししました。着任した886年、最初に詠んだ「金光明寺百講会有」には「一か月以上早天が続いていたが、金光明寺で行われた仁王会の霊験によって雨が降った」と記します。金光明寺は、三豊郡仁尾町の金光寺の古名だとされます。そうだとすると、道真は仁尾の寺で行われた仁王会に参会したことになります。小まめに讃岐国内の巡視活動を行っていたことがうかがえます。
 九月九日の重陽節の日には、里長(部長)らが菊の花をプレゼントされています。そのお礼に、国府の役人や郡司らと酒宴を催しています。その時には、彼らと租税とりたての方法を論じています。その合間には訴訟の判決文を書いています。
 この年の冬には、寒さが身にしみる貧しい庶民を思いやって、「寒早十首」という詩を詠んでいます。
「寒さは誰に早く来るのだろうか」の問いかけに、十の連句で具体的な人々を詠った詩文です。そこには次の10人の庶民の姿が詠われています。
菅原道真 寒早十首
寒早十首
これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。
 こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配を考えていたのかもしれません。

菅原道真 菅家文草 寒早十首9 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P
菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P

元日に郡司らを集めて宴をひらくのは、国司の重要な務めだったようです。
そして、別の機会には旅亭に郡司等を招いてい親睦のために宴会を催しています。招かれた郡司や郷長たちは礼儀知らずの田舎者で、酔っぱらって車にさかさまに乗ったりするものも現る始末です。それを道真はとがめだてせず、努めて明るく振る舞います。戦前の内務省から派遣されてくる県知事と同じで、地元の有力者との顔つなぎが円滑な統治運営の鍵と認識していたのでしょう。
国内の巡視に出かけると、行く先々で、人々が面会を求めてきます。
それは断って出席することはありません。しかし、郡司らの送迎を断るわけにはいきません。わずらわしいが、がまんしなければなりません。巡視の道々、府庫を修理し、溝やあぜの崩れているのがあれば修理を指示し、罪人の判決を正し、貧乏人や老人を救済し、農民に作柄を聞いています(行春詞)。
 ここに詠われている内容を見ると、菅原道真が民衆想いの優れた国司であったと思います。 しかし、最初に国司の職務一覧で見たように、これらは戸令に定められた国司の職務で義務だったのです。
①年に一度、国内を巡行し百姓の生活を視察
②生業を奨励
③刑の得失をしらべ
④郡司の務めぶりを監督
⑤好学孝養などの人を顕彰
それを道真は忠実に実行しているのです。
 「寒早十首」や、巡行の上で出会った老人に生活や国政のあり方などを聞いた「路遇白頭翁」の詩には、菅原道真がまじめに民情を問い、国司の務めを果たそうとしていたことがうかがえます。彼は器を売りにきた老人に米を与え、病気の下役人に薬を分けています。
 任期3年目の仁和四年(888)に、讃岐は旱魃に襲われます。

「風は春の山に巻きて、雲は谷に宿る。火は夏の日焼きて、地は種を生ず」

道真が赴任以来、国内の28か寺に配って仏の供養としていた国府の北の池も枯れます。寺や神社の請雨祈願も功なく、見回りの馬も疲れて道に倒れてしまった。」
祀城山神文は次のように記します。

道真は、五月六日(旧暦)、城山の神に捧げる祭文をつくり、八か郷二〇万口の讃岐の人民の一郷も損することなく、一口もえることがないよう、心をつくして降雨を祈った」
その至誠が天に通じ、七日七夜の祈願の満願の日、空がにわかにくもって、三日三晩大雨が降り続いた。歓喜した農民たちは、当時滝宮にあった道真の館の前に集まって、感謝の心をこめて踊りくるった。これが滝宮に伝わる念仏踊りの起こりだということである。

 しかし道真は、この祈雨のことも、降雨のこともなにも詩にのこしていません。
秋には、のんびりと江(綾川?)のほとりにたたずんで、秋のの景色をながめ、あるいは重陽の菊を賞しています。旱魃の危機は去ったようです。
 ここまで見てきたように菅原道真が国守として直接的政務にたずさわる姿はあまり見えてきません。
描かれたシーンは、庶民の生活を見聞したり、郡司や国府の下級役人との人間関係に心をつかったりする場面が多いようです。これは詩であることや、道真の人柄にもよるのかもしれません。もともと4~6年ぐらいの任期で、中央から派遣されてくる10人ほどの都人が、自分たちの力だけで多くの国務を執り行うのは、不可能なことだったのかもしれません。次のような国政の実務は、綾氏などの在地の豪族出身の郡司、里長の手によって行われていたのです。菅原道真を担いだ郡司層を見ておきましょう。

郡司職ランキング表
郡司の編成

各郡では、郡司とよばれる役人たちが郡衙(郡家(ぐうけ))で、職務にあたりました。
郡司も国司と同じで上表のように4クラスで構成されていました。
大領(たいりょう) 長官
少領(しょうりょう)    次官
主政(しゅせい)
主帳(しゅちょう)
(正式採用ではない) 四等官のもとで働く雑任(ぞうにん)とよばれる下級職員
国司が中央から派遣されるのに対して、郡司は現地採用でした。官人に位階や官職を授けるさいの規定を定めた養老選叙令(せんじょりょう)には次のように記します。
「大領・少領には職務を的確に処理できる人を、主政・主帳には身体が強靭で、頭脳は聡敏、書と計算にすぐれた人を任用せよ
「大領・少領」(郡領)に関しては、個人の才能が同じ場合は「国造」を採用せよ。
讃岐でも佐伯直氏のように、大領には国造一族が撰ばれることが多かったようです。
その子弟は兵衛(ひょうえ)として、姉妹または娘は采女(うねめ)として、中央政府に出仕した。また、その任期は終身であった。郡領の任務は郡内の以下のような行政・警察・裁判であり、主政・主帳はそれを補佐しました。
租庸調などの徴収
雑徭の徴発
出挙の出納
戸口調査
治安維持
産業育成など、
律令体制成立以前の国造は、地域の君主としてクニとその成員を支配してきた伝統と力を持っていました。天武政権は、国造や村落共同体の首長たちを郡司や里長に任命して、地方支配の末端権力を形作っていったのです。その際に、国造家の伝統的権威は、地方支配に有効的に機能しました。
 これを地方の郡司たちから見ると、菅原道真など中央から派遣されてやって来る国司たちは、自分たちが担ぎ上げている「神輿」ということになります。道真が讃岐をうまく統治していくためには、郡司や里長たちを確実に掌握し、彼らの協力を得ることが第一でした。道真のころには、奈良時代よりも国守の権限が強くなり、その政治力が国政におよぼす度合も大きくなっていたようですが、基本的には変わりがありません。道真の心づかいは、讃岐の豪族や民衆の信頼を得るに十分であったはずです。そういう意味でも名国司だったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「新編丸亀市史Ⅰ 428P 律令体制下の人と村落」
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前回は筑前志摩郡の郡司・肥君猪手の戸籍を見ました。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

志摩郡の郡司の戸籍には124人もの構成員が記されていました。ここからは、当時の家は大家族制であり、多度郡の郡司とされる佐伯直氏も、このくらいの
規模であったことがうかがえます。さて、それではその居館はどうであったのでしょうか?   今回は古墳時代後期(6世紀半ば)の有力者の居館を見ていくことにします。
古墳時代の家族構造がよく分かるのは、6世紀半ばに榛名(はるな)山の噴火で埋もれてしまった群馬県黒井峯(くろいみね)遺跡 です。
黒井峯・西組遺跡復元模型4

噴出した厚さ2メートル前後の軽石層下に埋没した集落跡が出てきています。黒井峯遺跡では、村を埋めた軽石層下の調査によって、村の構成や建物の構造、さらには屋根の形の他に、次のような事が明らかにされました。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』
        群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』)

黒井峯・西組遺跡復元模型2
上記復元模型
①垣根で囲まれた屋敷地
②数棟の平地住居や納屋・作業小屋・掘立柱の高床(たかゆか)倉庫・家畜小屋
③踏み固められた中庭のような作業空間(広場)
④畦をもつ畠
⑤垣根の外の大型の竪穴住居
⑥垣根の外には水場や村の祭祀場
⑦それぞれ道でつながり、さらに村の周囲には畠、低地には水田
これを見るとひとつの「ムラ」のように見えます。しかし、前回見た戸籍に登場する「戸」の実態がこの「ムラ」だと研究者は指摘します。律令制にもとづく支配の最小単位は「戸」とよばれ、その内部に戸主の下に、親族のほか、非血縁の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)も含んでいました。
そのため全体の構成員数は、平均30人前後で、志摩郡の郡司の戸は124人でした。このような構成員が、この空間の「平地式建物」の中に分散して住んでいたのです。ある意味では、ここに見える「ムラ」が生産単位であり、消費単位で「郷戸」であったのです。
肥君猪手の戸籍

 7世紀の律令政府は、このムラを「戸」と名付けて課税単位としたようです。そのためにムラ単位で戸籍をつくり、この単位で課税を行いました。私はかつては「公地公民」というのは、小家族に均等に口分田を与える平等主義にもとづく「疑似社会主義的政策」と早合点していたことがありました。しかし、実態はちがいます。このような血縁関係で結ばれた生産単位を「戸」として、戸籍を作り、そこに様々な課税と、一戸に一人の「国民皆兵制」を課したと捉えることもできます。

戸籍と郷戸

整理しておきます。
口分田も「家(小家族)」毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されました。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長が税を集めました。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位があったのです。その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねて決められたものを納めてくれればいいわけです。こうして、だんだん人が増えてきて五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。復元模型に登場する柴垣に囲まれた数軒の家屋は、一つの単位集団(複数の家族)が生活するワンセットで、律令時代には「戸」として掌握されたことを押さえておきます。
別の角度から見ておきましょう。

黒井峯・西組遺跡復元模型
群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地

①隣接する地域に畑や小屋があり、他の一角には祭祀場とみられる区域がある。
②住民の家屋は竪穴住居と平地住居とがあり、両者ともカマドが付設されている
③竪穴住居は、地表に屋根が密着し煙突がみえる。家屋本体はすっぽりと地下に納っている。
④外周の畑地に接して、物置、食糧庫などの小屋がある。
⑤馬の足跡や家畜小屋もみつかっている。
こうしてみると、母屋の竪穴住居、〝離れ〟の平地住居、穀物倉庫、天屋の作業場や器材置場、家畜小屋、野菜畑、祀祠など、米づくりためのの屋敷原形が古墳時代にはできあがっていたことが分かります。また、馬+カマド+半地下住居=渡来系住人の家屋であったことがうかがえます。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地5

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地4

このムラ=屋敷=戸をベースに、讃岐の空海の実家佐伯直氏の家を想像しておきます。

①百人を超える大家族構成でも大邸宅であったわけではなく「母家+いくつもの離れ」で構成されていたこと
②高床式の穀物倉庫が何棟もあったこと
③水が湧き出す湧水があり、水の儀式の祭場があったこと
④周囲に畑や水田が拡がっていたこと

それではどこに佐伯直氏の屋敷はあったのでしょうか?

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺周辺遺跡図
①病院地区が平形銅剣をシンボルとする「善通寺王国」の拠点エリア
②古墳時代になると東側の試験場地区に遺跡が多くなる
③この勢力が6世紀末に、横穴石室を持つ前方後円墳・大墓山古墳と菊塚古墳を造営
④続いて7世紀後半に仲村廃寺を造営(この時点では、南海道・条里制未着工)
⑥南海道が伸びてきた以後に、その近くに2町四方の善通寺建立
⑦四国学院の南側に、多度津郡衙建設
これらの事業を進めたのが佐伯直氏と研究者は考えています。そして、佐伯直氏が国造から多度郡郡司へと成長していきます。そうすると、③の時点での佐伯直氏の舘は、仲村廃寺周辺にあった。そして、⑥⑦の白鳳時代には、郡衙周辺に舘は移ったと私は考えています。
以上を整理しておきます。
①群馬の黒井峯遺跡からは、垣根で囲まれたムラが出てくる
②このムラが当時の最小の生産単位であり、消費単位でもあった。
③首長を中心に血縁関係で結ばれたいくつかの家族が、各家屋に分散して生活していた。
④7世紀の律令国家は、このムラを課税・均田制支給、徴兵の最小単位としてとらえようとした。
⑤そのためムラの首長を戸主とし、責任者とした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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             空海の誕生場面(弘法大師行状絵詞)
空海の誕生場面を弘法大師行状絵詞では、次のように記します。(意訳)

「讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直氏の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。広い庭には犬が飼われています。けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母(右上)」

これが後世の画家達がイメージした多度郡司佐伯直氏の家です。しかし、戸籍に残された郡司の家は、これとは、まったくちがう様相をしていたことを教えてくれます。最近まで「日本で一番古い」とされてきた「 筑前国嶋郡川邊里戸籍」から、佐伯直家を今回は見ていくことにします。

筑前国嶋郡川邊里」戸籍 奈良

 「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍の一部です。 縦27cm、横64.5cmの和紙に、縦書きで28家族438人分の情報が一人一行ずつで記されています。

筑前国嶋郡川邊里」戸籍 奈良拡大

最初に登場するのが戸主で、姓名、年齢、税の区分、続柄が記されます。以下は、配列は血縁順です。全面には「筑前国印」の朱印が隙間がないほどびっしりと押されています。

肥君猪手の戸籍 筑前国印

どうして白鳳時代の戸籍原本が、今に伝えられたのでしょうか。
大宝律令(701年)によって、全国に律令の周知徹底が進みます。そんな中で翌年の大宝2年(702年)に、この戸籍は作られています。当時の戸籍は三通作成され、一つは地元(国)に保管、残り二つは中央に送られるように命じられます。そこで郡衙では、50の戸(=家)が集まった郷(ごう)ごとに一巻の戸籍がつくりました。それが国府に集められて、国府印を隙間がないほどベタベタ押して、中央政府に送られたのです。これも農民達が背負って都まで運んだのでしょう。
 全国から集まった戸籍の数は、一万巻にもなりました。戸籍は6年毎に作られたので、政府の倉庫はいっぱいになります。そこで保管期限を30年として、期限を過ぎると反故(ホゴ)として、東大寺などに払い下げました。紙は貴重なものでしたから、寺や写経所では巻物になっていた戸籍を、手頃な大きさに切ってメモ用紙にしました。そのため残っている戸籍の裏には、当時のメモや写経が書かれているものがありますし、大きさもバラバラです。戸籍として、つなぎ合わせてみると途中が無い部分もあるようです。以上をまとめておくと、反故にされた戸籍は、寸断されメモ用紙として使われ、その一部が正倉院に残ったことになります。正式名称は「重要文化財 表 筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背(裏)千部法華経校帳断簡」です。

それでは、この戸籍はいつ作られたものなのでしょうか。
大宝律令(701年)が出されて、国郡里(郷)の行政区分が定められます(国郡里制)。その翌年に、この戸籍は作られています。実際に戸籍が作られ、一人ひとりを古代国家が掌握し、土地支給を行う「個別人身支配体制」が始まっていたことが、この戸籍からは裏付けられます。それでは戸籍を見ていくことにします。まず概要を挙げておきます。
①記載方法1行1名で、戸口(個人)の配列は血縁順
②戸の終わりには与えられた区分田総数が記される
③文字のある部分と紙の継目の裏には「筑前国印」を捺している。
④文字は六朝風で整然と書かれている。
⑤筑前国嶋郡川辺里は、今の福岡県糸島郡志摩町馬場あたりで、嶋郡の郡衙所在地 
⑥裏は天平20年(748)の『千部法華経校帳』の断簡になっている
⑦戸籍の保存期間が過ぎて、写経所に払い下げられ裏面利用されたもの
川邊里(郷)の中で、最も人数の多い戸(大家族)の「肥君猪手(ひのきみのいで)」を戸主とする家族です。
「筑前国嶋郡川邊里」戸籍1

  まず右から1行目 
A「①戸主 追正八位上勲十等②肥君猪手 年伍拾参歳 ③正丁大領 ④課戸」

戸主は「正八位上勲十等」位を持つ肥君猪手で、年齢は53 
大領(郡司)の肥国猪手は、熊本(肥国)の「火の君」の流れを汲む嶋郡で最有力の豪族です。多度郡の空海の実家である佐伯直氏と同格クラスでしょう。大領職にあるので、その職田として6町(6㌶)が別に支給されています。
③の「正丁」は21歳以上60歳以下の男子
大宝律令の年齢区分

④「課戸」は、課税対象者で納税の義務者。
⑤口分田は全体で13町6反120歩(約14ヘクタール)
2行目
B「庶母 宅蘇吉志須弥豆賣(やかそのきし すみずめ) 年陸(六)拾伍(65)歳 老女」
「庶母」とは実の母ではなく義母のこと。とすると妻の母か、父の後添え?
C 3行目は「妻 哿多奈賣(かたなめ) 年伍拾貳(52)歳 丁妻」
 52歳の正妻。姓がないので、2行目の庶母と同姓の宅蘇吉志(やかそのきし)
D 4行目。「妾 宅蘇吉志橘賣(たちばなめ) 年肆拾?(47)歳 丁妾」
 妾47歳も同じ姓の宅蘇吉志
E 5行目「妾 黒賣(くろめ) 年42歳」で二人目の妾。
F 6行目「妾 刀自賣(とじめ) 年35歳」三人目の妾。
 黒賣も刀自賣も姓がないので、これも宅蘇吉志?
以上を整理しておくと、
庶母 宅蘇吉志の須弥豆賣 65歳妻    
〃     哿多奈賣 52歳妾  
橘賣   47歳妾    
〃   黒賣   42歳妾    
〃   刀自賣  35歳妾
姓がみな宅蘇吉志となります。これをどう考えればいいのでしょうか?
吉士氏は渡来人系であることを前回お話ししました。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」
②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動もまとめると、新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将や、屯倉の税の徴税・管理責任者として活躍する海の民だったようで、各地に吉志部が置かれていました。
以上の読み取った情報からは、次のような事が推察できます。
①5人の女性がいずれも宅蘇吉志(やかそのきし)の出身であること
②彼女らの年齢構成から考えると姉妹であったこと
③ケース1 庶母と正妻が姉妹であり、妾3人は別の姉妹。姓が一緒なのは親戚筋か。
④ケース2 年齢的には庶母と正妻が親子とは考えにくいので、正妻と妾3人が4姉妹。
⑤ケース3 戸主の肥君猪手は53歳。庶母が産んだとは考えにくいので、庶母の須弥豆賣は父の妾であった可能性。
⑥少なくとも、肥君家は親子2代に渡って宅蘇吉志家と婚姻関係にあったこと
ここからは、古代の女性たちが嫁いでも旧制を名のり続けていたことが分かります。結婚で姓が変わるというのは、後世になってからのようです。また、姉妹を妾にするというのは、日本書紀の天皇家にはよく見られます。天武天皇は兄天智天皇の娘4人を妻にしています。聖徳太子のあの入り組んだ複雑な姻戚関係も事実であったことに納得がいきます。古代では、このような婚姻関係は中央でも、地方でも一般的であったことがうかがえます。さらに⑥からは、肥君家と宅蘇吉志家が婚姻を通じて、強く結びついていたことがうかがえます。
 肥君猪手の戸籍は、第7行目から彼の「子」「子の妻」「孫」へ、それから戸主の「弟」「妹」へ、男から女へと記述されます。
第7行は長男の「肥君興呂志(よろし) 29歳 嫡子」とあり、正妻との間の長男。
第8行目には「勲十等 肥君泥麻呂(ひじまろ) 27歳 妾橘賣男」とあります。泥麻呂には18歳の妻との間に男女2人の子供があります。
 ここで注目したいのは、妾の子・泥麻呂が勲十等の位階をもち、嫡子である興呂志が無位であることです。どうしてなのでしょうか? 何かの論功行賞・売官・国家への寄付などが考えられますが、このあたりは私には分かりません。ただ思い出すのは、空海の父佐伯直田公も無冠でした。
  こうしてみると肥君猪手は、妻や妾たちとの間に次のように子をもうけています。
正妻と2男1女
第一妾と5男2女
第二妾と1男
第三妾との間には子供がない。
肥君猪手には、子が12人、孫が10人いたことになります。それが一緒に生活していたことになります。現在では考えられないものですが、古代にあってはこれが普通だったようです。当時の家族は、この構成単位くらいまでは、一つの屋敷内に同居していたのだろうと研究者は考えています。
しかし、一緒に生活していたのは、これだけではありません。次のような一族もいました。
■ 寄口(きこう)
古代戸籍の親族呼称は「いとこ」までで、それより遠い親類や縁者を寄口(きこう:よりく)呼びました。彼らも一族として住む労働力の担い手でした。肥君家には3家族14人が記されています。
■ 奴婢(ぬひ)
有力者の家には奴隷がいました。奴(やっこ)は男、婢(めやっこ)は女です。彼らは牛馬同様に主人の持ち物で、売買や贈与される存在でした。魏志倭人伝の中に卑弥呼が、魏へ生口(せいこう)と呼ばれる奴婢を送っています。川邊里の戸籍が造られた8世紀初頭でも、奴隷制度は残っていたようです。肥君猪手の戸籍には「戸主奴婢」10人、「戸主母奴婢」8人、「戸主私奴婢」18人、所属不明1人、計37人と記されています。

その他を加えて合計すると、老若男女あわせて124人の大人数になります。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

こうしてみると郡司の家族構成は、大家族制度だったことが分かります。空海の佐伯直家もこのような大家族制だったはずです。このような大家族になると、普通の広さの家屋では入りきれません。おそらく、古墳時代の豪族の家のような大きな家だったことが推察できます。それでも百人近くの家族が一軒の家に住めたとは思えません。広い敷地の中に、いくつもの家が建ち並び、それぞれの小家族が生活していたことが考えられます。そして、その中には結縁者以外の寄口や奴婢たちもいたことを押さえておきます。
 郡司は役人としてだけでなく、口分田を耕作し、収穫した種籾を周辺の農家に貸し与えて利息をとることなどでも富を蓄積していきました。また開墾が奨励されると、親族や周辺の農民なども動員しながら開墾を行い、私有地(初期荘園)を広げていきました。国司の下であっても、郡司である地方豪族は役得の「中間利益」も多く一定の力を保持していきます

河辺里(郷)のその他の戸と人数を見ておきましょう。各戸の人数(戸口)の多い順に並べたものです。
肥君猪手の戸籍
これを見ると、郡司の戸口124人というのは飛び抜けて多く、20~30人が普通の規模だったことが分かります。その中で、以上をまとめておきます。また、37人もの奴婢を持っているのも郡司の家だけです。空海の佐伯直氏の家にこのくらいの奴婢がいたのかも知れません。

筑前国嶋郡の郡司・肥君猪手の戸籍

以上のような視点で佐伯直氏の系図を見てみます。
1 空海系図

この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直氏の場合は道長と記されています。彼の戸籍にも、妻や妾・そして兄弟や自分の息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並んでいたことが推測できます。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。ここでは、戸籍に戸長とある道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。

また、空海と弟の真雅が年齢が離れているのも、父田公に何人かの妾がいて、異母兄弟だったと考えれば不自然ではなくなります。「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍は、佐伯直氏の家族構成を考える上でもいろいろな情報を与えてくれます。


    古墳時代の三野湾には、首長墓と言われる前方後円墳がひとつも登場しません。その理由の一つが早い段階で、畿内豪族の直接的な支配下に置かれたためでないかと考えられています。そして、中央の勢力によってハイテクの宗吉瓦窯に先行する三野古窯群などの「殖産興業」が行われていきます。このような古代三野湾の開発を担った勢力は、何者なのでしょうか?

『 先代旧事本紀』の「天神本紀」には、三野物部のことが記されています。
それによると、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。ここからは、中央の物部氏が瀬戸内海の港津を拠点として掌握していたことがうかがえます。もっと具体的に言うと、朝鮮半島や九州の海上ルート維持のために三野湾に物部氏の拠点が置かれていたことになります。そして、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。また、首長墓とされる前方後円墳が三野湾に登場しないのも、物部氏の支配下にあったからだと説明が出来ます。
 物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
その後の三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか? 敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)のクーデターによって、蘇我蝦夷・入鹿が倒され滅亡します。後に成立した養老律では、謀反人などの財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。そして没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。ここまでの三野湾一帯の所領変遷を、整理すると次のようになります。

古代三野湾の物部氏から支配権推移は?

7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が残り、その周辺にヤマト政権の所領があったことが想定できます。
 三野湾以外にも、中央の有力豪族は瀬戸内海ルート確保のために、潮待ち風待ちの拠点として、配下の部民を各地に置いていたようです。その部民たちの痕跡が、鵜足郡や那珂郡にも見えますので追いかけて見たいと思います。テキストは「新編丸亀市史 鵜足・那珂郡の古代氏族 311P」です。

丸亀市史は、鵜足・那珂郡の古代豪族たちを次のように一覧化しています。

鵜足・那珂郡の部民一覧

   鵜足郡には大伴部、吉士(きし:吉志:吉師)・宗我部らの名前があります。彼らは大伴氏、蘇我氏、吉士氏らの畿内豪族が支配所有した部民で、部曲とよばれた民の子孫と研究者は考えています。

部民の由来

ヤマト政権の豪族たちは、その地位を示す姓をあたえられて、それぞれの職務に世襲的に従事していました。その職務遂行のために支配下に組み込んだのが部曲です。彼らは必要な労力や物品を負担・提供しました。それが時が経つにつれて「擬似的血縁関係」で結ばれていきます。
部民と伴部
伴部と部民の概念図

 大伴氏は、物部氏とともに大和政権の軍事力をになう大豪族で、5世紀後半にヤマト政権の支配勢力が全国に拡大するようになると、大伴部を各地に設置しています。雄略天皇が亡くなる時に、大伴室屋大連と東漢直菊は、「大連等、民部(部曲)広く大きにして国に充ち満ち」と云っています。その力で、皇太子清寧天皇を補佐してくれるよう頼まれたとされます。こうしてみるt、鵜足郡に大伴部が置かれたのも、5世紀後半ということになります。

大伴部は、鵜足郡のほかに多度郡にもいました。
多度郡の大伴部は、空海の実家である善通寺の佐伯直氏とつながりがあるようです。
佐伯氏の出自については、次のような3つの説があります。

佐伯直氏について

佐伯部は、大王の宮の警護にあたった軍事的部民で、大伴氏の管理下に置かれていました。佐伯連は中央豪族なので、讃岐の佐伯氏とはもともとは血縁関係はありません。上の表の佐伯直(あたい)説を多くの研究者は支持しているようです。佐伯氏自身も「佐伯(さえき=さえぐ=進軍を阻止する)」で、もともとは渡来系の軍事集団として多度郡に定着したことが考えられます。それが中央の佐伯連の編成下に置かれ、同属意識をもち佐伯氏を名のるようになります。また中央の佐伯連は大伴氏配下にあったので、次第に佐伯直氏も大伴氏の一族と「疑似血縁意識」が形成されていきます。9世紀に佐伯直氏が佐伯への改姓を朝廷に申請したときも、その世話をしているのは大伴氏であることは以前にお話ししました。
以上を整理しておくと 
①古墳時代の多度郡の首長は、佐伯直氏の祖先だった。
②空海自身が述べているように、佐伯直氏は中央の大伴氏と同属意識で結ばれていた。
③そこで、佐伯氏の支配していた民を割り取って大伴部とした
④鶏足郡の大伴首は、その地方における管轄者、下級伴造である。
⑤彼らの任務は、中央の大伴主家の命に従って、上京して朝廷の警備にあたり
⑥大伴軍団の一員として朝鮮半島にも従軍した
   先ほど見たように、物部氏が三野湾に三野物部が置いたのは、南瀬戸内海航路の拠点確保のためでした。そうだとすると大伴氏が多度郡や鵜足郡に大伴部を置いたのも同じ目的であったことが考えられます。当時の多度郡の湊は、弘田川河口の白方津であったことは以前にお話ししました。

白方 古墳分布
       多度津町奧白方の古墳分布図と白方湾 弘田河口は大きく湾入していた
多度郡の大友部は、その白方湾を拠点としていたと私は考えています。善通寺の佐伯直氏は、白方湾を外港として、自らも瀬戸内海で活動していました。佐伯直氏の経済基盤は大伴氏から受け継いだ外港白方を通じての交易活動に負うことが強かったと推察できます。
 また、鵜足郡の拠点は、大束川の当時の河口である川津や津之郷(鵜足郡の津)が考えられます。

古代の坂出市福江と宇多津・川津
古代大束川河口復元図
 吉士氏も新羅系渡来人系の豪族のようです。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」
②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動をまとめると
A 新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将としても活動
B 屯倉の税の徴税・管理責任者
ここからは吉士氏も海上交通に携わる典型的な渡来系の「海の民」であったことがうかがえます。
吉士は「吉師、企師、吉」などとも表記されます。新羅では「吉士、吉次、吉之」などと記します。彼らは、ヤマト政権の役人となって、外国使節の接待、通訳など主に外交に携わったり、白村江の戦いには、倭国軍の道案内をつとめています。記紀には「難波吉志」が数多く登場します。ここからは大阪を本拠とし、磐井の乱、朝鮮半島の動乱などの緊張などに関与して、頭角を現したことがうかがえます。

大阪府 (吹田市) 吉志部神社 | みぞかつのぶらり散歩

吹田市には「吉志部神社」があります。ここも朝鮮からの渡来人「吉志」一族の氏神です。
吉士氏は外交使節や軍事部隊を乗せて朝鮮半島に向かい、また当時のヤマト政権の最大の戦略物資である鉄製品や鉄原料などを積み込んで瀬戸内海を上下しています。そうだとすれば鵜足郡の海岸線のどこかにその拠点を持っていたことが考えれます。想像を膨らませると、沙弥島の千人塚が思い浮かびます。その埋葬主が、鵜足吉士部の始祖と私は想像しています。どちらにしても対馬海峡を自由に行き来できる「海の民」たちが島嶼部や河口部に住み着いて、交易活動や製塩を開始します。その一族が鵜足郡を拠点とする吉士氏一族のようです。

さらに紀氏(きし)と吉士(きし)は、同祖同族関係で、両者共に新羅系の氏族と伝えます。
観音寺市大野原には、6世紀後半の巨石墳群がならびますが、その東に「紀伊(きい)」という地名が残ります。ここはもともとは紀氏の拠点地とされ、大野原古墳群も紀氏に関わるものではないかという説もありますます。この紀氏は、紀伊(和歌山)を本拠にして瀬戸内海を舞台に活躍した「海の民」です。
 『伊予国風土記』逸文には、愛媛県野間郡の熊野の地名の由来として、かつてここで「熊野」という船を造ったからだと伝えられています。この熊野は紀氏の本拠地である紀伊熊野に由来するもので、紀氏の活動痕跡と考えられます。そういう視点で、今治から西條・四国中央市、そして讃岐の観音寺市から仁尾までの燧灘沿岸を見てみると、そこには色濃く紀氏=吉士の痕跡があることに気がつきます。それが中世の熊野水軍の活動につながり、熊野行者の活動 → 石鎚山開山・石手寺創建などの動きになっていくと私は考えています。
 渡来系氏族である紀氏と越智氏が密接な関係をもつようになったは、どうしてでしょうか?
  その背景には推古朝の朝鮮半島をめぐる厳しい対外的緊張があったと研究者は考えています。この時期に紀氏と深いかかわりをもつ吉士が朝鮮半島問題で活発な活躍を展開しています。彼らの活動を支えたのが瀬戸内海・対馬海峡の海上航路を握る紀氏であったというのです。海の民である紀氏(吉士)が伊予国で伝統的な水軍兵力を持っていたとされる越智氏と結びつくことは自然だったのかもしれません。ここでは「吉士=紀氏」と在地系の越知氏が結びついていくことを押さえておきます。これが中世の芸予の海賊衆につながっていくのかもしれません。
 蘇我氏は、6世紀になってヤマト政権で台頭してきた新興豪族で、渡来系諸豪族の代表者的な性格がします。
葛城氏や物部氏の没落後は、内政・外交に絶大な権力をふるうようになります。そして、葛城氏や物部氏のように、阿波、讃岐、土佐、播磨、備前、備中・周防・筑前など瀬戸内海沿岸諸国に多く設置していきます。 讃岐の蘇我部は、鵜足郡と山田部に置かれています。

屋嶋城と備讃瀬戸

両郡は、後に屋島城や城山が築かれます。当時の支配者たちが鵜足郡や山田郡を戦略的な要衝と考えていたことがうかがえます。讃岐の蘇我部も、蘇我氏の瀬戸内海海上ルート確保のために置かれたとしておきます。ちなみに蘇我氏に水軍や海上輸送の便を提供して成長するのが先ほど述べた紀伊氏とされます。大野原に突然のように大きな巨石墳が登場するのも、燧灘の東の拠点として紀伊氏が打ち込んだ楔と考える研究者もいます。その背後には蘇我氏がいたことになります。

 建部は、『日本書紀』によると、日本武尊の名代とされています。
しかし日本武尊を実在の人物とはできません。「建部=楯部」とすると、やはり軍事的部民として、各地に置かれた集団と考えるのが妥当な線です。空海の実家で佐伯直氏も「佐伯=さえぐ=防ぐ」で軍事的な部民出身とされることは先ほど見た通りです。
   こうしてみると、6世紀ころの鵜足・多度郡には、軍事的部、あるいは朝鮮半島にかかわりをもっている海の民出身の部が集中していたことになります。これは綾(東)氏などにも共通する点です。最近のDNA分析からは、古墳時代にそれまで日本列島に在住していた人口を超える人達が大陸から渡来してきたことを明らかにしています。稲作・鉄器・陶器などの先端技術を持ち込んだ「海の民」たちは、ヤマト政権の豪族として、讃岐の沿岸部を拠点として定着し、その後、弘田川や大束川を遡って、内陸にさらなる拠点地を築いて、勢力を拡大していきます。

古代の綾氏

多度津の佐伯直氏や阿野・鵜足郡の綾氏以外にも、そのような動きを見せていた海の民たちがいたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

屋嶋城
屋嶋城 讃岐の郡司達の動員によって作られた

日本書紀には、667 年に次のふたつの記事が並びます
A 屋嶋城が築城された
B 王宮を飛鳥から近江大津に遷した。
この両者の背景にあったものは何なのでしょうか?
まず考えられるのは 663 年の朝鮮半島の白村江海戦での大敗北です。これによって、日本列島が唐の軍事攻勢の直接の対象になったという危機意識が、当時の支配者に働いた結果と推測できます。

例えば空海の実家の佐伯直氏は、多度郡の郡司を務めていました。当時の中央政府から佐伯直氏にどのような指示があったかを推測し歴史順に列挙すると次のようになります。
①白村江への兵士の軍事的動員
②坂出城山の朝鮮式山城の築造工事
③軍事的機能を持つ南海道の整備
④南海道に沿って整備される条里制造成工事
⑤新都・藤原京造営への資材提供
⑥中央政府から許可を得て氏寺(古代寺院)建立
⑦国造から郡司に任命され、郡衙などの建設
⑧律令制に基づく貢納品の藤原京への輸送
⑨国分寺建立工事への動員
このような郡司たちに下りてきた動員命令等は、国家のどのような政策判断のもとで出されたものなのでしょうか。その国家意思は、どのようにして形成されたものなのでしょうか。別の言い方をすれば、地方行政に国家意思がどのような形で下ろされてくるのかが知りたいと思います。「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」をテキストにして見ていくことにします。
まず、7世紀の「東アジア世界の中での日本の立ち位置」について押さえておきます。
日本における国家成立は、外圧への対応策として出発したようです。これは戦前の皇国史観に基づく一国史観の見方とは異なります。中国における随唐帝国の出現と、その脅威に対する対応策として、古代律令国家は生まれたとする考え方です。
 6世紀の末に、中国大陸は隋王朝によって統一されます。隋以前は、後漢の滅亡以後の三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代と北方民族の侵入による分裂抗争の時代が長く続き、軍事的ベクトルは中国大陸の内向きに働きました。ところが隋は、華夷イデオロギーを掲げて、皇帝権力拡大のための征服戦争を開始し、外向きにベクトルを転換し世界帝国を目指します。しかし、これはうまくいかずに、煬帝の高句麗遠征の失敗がきっかけとなって、隋帝国はわずか 30 年ほどで滅亡します。隋帝国の出現と高句麗侵攻は、大きな衝撃を東アジア各国に与えます。日本列島で律令国家のスタートは、隋の成立に促されての現象だと研究者は考えています。その時に、ヤマト政権の中心にいたのは蘇我馬子です。その対応策は、日本書紀には厩戸皇子の業績として記されている緒改革です。

唐帝国へのヤマト政権の対応策変遷

隋にかわて政権を握ったのが、唐王朝です。
628 年 唐が隋滅亡後の国内の混乱状況を平定。
629 年、北からの脅威であった東突厥を攻め、国王を殺害して滅亡
631 年 これを見て高句麗は唐との国境に千余里の長城を建設し、防衛線構築。
630 年 大和政権は飛鳥の最奥部への王宮遷都
このヤマト政権の飛鳥への遷都も、高句麗と同じ対唐防衛策であったと研究者は考えています。
そういう意味では唐帝国の誕生と膨張策への警戒が、飛鳥の地に宮殿を置かせることになったと云えます。
こうして飛鳥の狭い谷間に次のように都が継続して置かれることになります。これが事実上の飛鳥時代の開始です。
飛鳥の都と防衛システム
皇極朝の飛鳥板蓋宮
斉明朝の後の飛鳥岡本宮
天武朝の飛鳥浄御原宮
飛鳥正宮
これが上図の明日香村・岡の飛鳥宮跡になります。同じ場所に引き続いて宮殿の造営が繰り返されるのは今までになかったことです。飛鳥岡本宮以前は、歴代遷宮の名が示す通り、天皇(大王)の代替わりごとに王宮が別の新しい、広やかな場所に新造されていました。この大王家の長い伝統は 630 年を境に途絶えたことになります。
同じ年に、舒明政権は第1次遣唐使を派遣します。硬軟両面策を講じることによって、王権維持、ひいては国家の存続をはかったものと研究者は考えています。
この時期、大和政権を実質的に担っていたのは蘇我蝦夷でした。
この時点では、日本列島への唐の軍事的脅威は直接的なものではありませんでした。唐による征服戦争は西域諸国や、東に向かってはもっぱら高句麗に限定されていました。ある意味では、海の向こうの遠い国通しの争いでした。ところが660 年に、唐は新羅と連合し、百済を攻撃して、首都扶余を陥落させます。新羅を挟んで百済と同盟関係にあった大和政権は、百済再興のために援軍を派遣します。そして663 年、白村江の海戦で唐艦隊に完敗します。日本列島が唐の軍事的攻撃の直接の対象となる状況が生まれます。支配者たちの危機感は一気に高まります。これに対して中大兄皇子政権が取った対処法は
A 北部九州から瀬戸内海沿岸地域への朝鮮山城の築城
B 城塞施設を結ぶ烽とぶひ(狼煙台)の設置。
C 軍用道として南海道などの建設
以上のような唐の軍事的侵入に備えての防衛体制づくりを行います。
 大和飛鳥でも上図のように王宮と後飛鳥岡本宮を取り囲む丘陵の尾根に沿って長大な掘立柱塀を設置するなど、防御施設の営造が進められます。飛鳥の周囲にも山城が設けられたとみる研究者もいます。
ここでは、このような防衛施設は、百済亡命者が首都・扶余の防衛システムを踏まえて築造したものであったことを押さえておきます。
 中大兄皇子は、このような防衛体制だけでは不十分だと判断したのでしょう。
667年には近江・大津に新たに王宮を造営し遷都します。そして、」翌年に天智天皇として即位します。ここで研究者が指摘するのは、唐の侵入に対して、百済はこのシステムで対応しきれなかったということです。百済の防衛システムは朝鮮半島の三国間で相互抗争に備えたものでした。対唐戦争を前提としたものではありません。

百済の王宮と防衛システム
百済の王宮防備システム  
 効果が怪しい百済・扶余の防衛システムを北部九州と、瀬戸内海沿岸地域に整備したことになります。
これは一億総玉砕を掲げて、戦闘機もないのに各県にいくつも飛行場を建設させた敗戦直前の大本営のやり方を思いださせます。もっぱら軍事施設、しかも旧式の百済方式の防備システムを作りあげようとしたところに、天智政権の限界があったと研究者は指摘します。これに対して、批判的に見ていた人達もいたはずです。このままでは、国家が危ういと・・・
671 年に天智天皇がなくなると、壬申の乱に勝利し政権の在に着いたのが天武天皇です。
天武政権は大津宮を廃して、飛鳥に帰還します。そして新たな王宮を造営することなく、新しい国家防衛策を打ちだして行きます。それが唐帝国の支配イデオロギーや支配システムの導入です。具体的には
次の通りです
律令の編纂
地方行政制度の整備
地方有力者の郡司登用
耕地管理制度(条里制)の構築
戸籍管理による個別人身支配体制確立
官道網の建設
このような中で、象徴的で最も重要な事業が大陸式の巨大な矩形都城・藤原京の造営だったと研究者は指摘します。
 藤原京は20 年以上の歳月を費やして造営が続けられます。
694年、飛鳥浄御原宮から藤原宮に王宮が遷されます。ただし、完成はさらに遅れ、704 年のことになります。しかも完成しないままに終わったと研究者は考えています。
 藤原京については、1996年以来の発掘調査から次のようなことが分かってきました。

日 本史ナビ

藤原京
藤原京2
藤原京
①10 条 10 坊の正方形の全体プラン
②王宮が中央に設置
この参考史料になったのは、次の古代中国の周の国の制度を記したとされる『周礼』に説かれている理想の王城スタイルです。

周礼の理想王城
これを強く意識したのが藤原京と研究者は考えています。藤原京造営の目的のひとつが、唐長安城をしのぐ皇都実現にありました。つまり、長安を強く意識した、基本的な設計図が作られたのです。こうして「藤原京 + 大宝律令」の完成という実績を積みし、古代国家の確立という自負をもって702 年(大宝2)に、遣唐使が派遣されます。これは669 年に中絶して以来、33 年ぶりの復活です。反新羅・反唐という外交政策の転換点でもあります。執節使(長官)に撰ばれたのは民部卿・粟田朝臣真人(あわたあそんまひと)でした。第7次遣唐使の一行が目にした長安城は、壮大で華麗な外観を呈する世界的基準の構築物でした。それまで自負していた藤原京が、かすんで見えたはずです。
 藤原京のどこが問題だったのでしょうか?
①都城の顔となる羅城、羅城門がない
②広大かつ長大でなければならない中央道路(朱雀大路)は、長安城の1/6の規模
③藤原京の周囲には城壁がめぐらせてない
長安を実際に見て、粟田朝臣真人はすぐに感じ取ったはずです。藤原京では唐や新羅などの周辺諸国の使節団を迎えた時に胸を張って誇示できるものではない、この貧弱さでは、天皇の権威に傷が付くと思ったかもしれません。
 当時の政権の中心人物・藤原不比等は藤原京遷都後に政権内での実権をほぼ掌握していました。しかし、まだ絶対的な権力を得てはない段階です。そのため彼は、造営プラン段階から藤原京では天皇の威信誇示装置としては、貧弱であると思っていたのかもしれませんが口が挟めなかったのかもしれません。そこで不比等は、未完成状態の藤原京建設を中止し、長安城タイプの新都を建設することの必要性を説いて、政権内部での賛同者の獲得を計ります。そのひとつの方策として、側近であり、当代きっての知識人でもある粟田真人を遣唐使を唐に派遣したことが考えられます。
704 年( 慶 雲 1) に 遣唐使が帰国すると、長安城を強く意識した新都の建設計画が動き始めます。そこには不比等の意向があったのでしょう。そして708 年(和銅1)には、平城京遷都の詔が発せられます。 

平城京と長安の比較
完成した平城京を見ておきましょう。
平城京は南北に長い矩形に見えるので、横に長い長安城とはスタイルが違うようにみえます。しかし、上図のように長安城の4分の1の横長の矩形を90度回転させると、平城京と一致すると研究者は指摘します。また平城京の朱雀大路は幅が75mで長安城の朱雀街の1/2までに広くなっています。
 平城京を初めとする日本古代都城は、その特質として羅城がなかったといわれてきました。
しかし、発掘調査から、外周を高さ5mほどの築地塀(城壁)があったことが分かってきました。長安城の城壁は「高さ一丈八尺(約5,3 m)とされるので、遜色のない高さのものがあったことになります。
 平城京には、東南隅に大規模な人工の苑池が今もなお残っています。これも長安の東南隅の皇帝の離宮であった芙蓉苑と曲江池を真似た人工のもので、当初から設計図に書き込まれたものであるようです。このように平城京は、長安を引き写しにしたような要素がいくつも見られます。この背景には、唐の使節団に対しては、唐に対する恭順の姿勢を目に見える形で表現しようとしたと研究者は考えています。
 藤原京・平城京の造営の背景を、次のように整理しておきます。

平城京建設のねらいと意味

①唐の圧倒的な軍事攻勢の中で、国家としての存亡を計ろうとした天武政権によって築造された。
②独自の華夷システム=天皇を頂点として、隼人、蝦夷、新羅、のちには渤海を夷狄や蕃国として位置付ける統治システムを目に見える形で示す政治的な舞台としての役割が込められた。
③唐に極力配慮しつつも、周辺の諸国、諸民族に対して天皇権力を誇示するシンボルモニュメントが平城京だった
言い方を換えると、藤原京、平城京の建設は、国家統合のシンボルとして、大陸式の都城を造営し、顕示する必要性があると不比等たちは考えたのでしょう。そして、ふたつの都城を作り上げて行くことは、それまでのように畿内だけの資材や資源で対応できるものでなかったのです。例えば、藤原京の宮殿は「本邦初の総瓦葺」でした。そのために畿内以外でも最新鋭のハイテク瓦工場を建設する必要がありました。それに応えたのが三野郡の丸部氏だったことは以前にお話ししました。丸部氏は、瓦職人である渡来系技術者たちを迎え入れ、粘土や燃料の木材を用意し、船で畿内に輸送する体制を整えていきます。これをやり遂げることで、郡司としての勤務評定はよくなります。このようにして、地方豪族をヤマト政権の忠実な下僕へと取り込んでいく道が開けます。

 藤原京・平城京造営は、単なる土木事業ではなく、日本列島における国家構築の歴史の一コマでもあったようです。古代律令国家は、6世紀末の隋による中華統一帝国の誕生と、それに始まる対外征服戦争の緊張感の中で、どのようにして日本列島を防衛していくかという危機意識の中から生まれたと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」


「水門・津・泊・船瀬」が

讃岐の郡と津や湊の関係を見ています。前回は那珂郡についてみました。
郷史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれていること出会います。そして、それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡  松山湊
B 鵜足郡  宇多津
C 那珂郡  中(那珂)津・津森(守)
D 多度郡  多度津(白方)
E 三野郡  三野津
まずA・B周辺の海岸線復元図を見ておきましょう。
坂出・宇多津古代海岸線復元2
この復元図からは次のような情報が読み取れます。
① 大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所と集落が連なる旧海岸線
② その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川
③ 綾川河口の阿野北平野の雌山・雄山の西側は海だったこと
④ 坂出は、金山の下まで海が入り込み福江・御供所が湊であったこと。
⑤ 聖通寺山や青野山は、海に突き出した半島であったこと。

以上のようなことを押さえた上で、まずAの阿野郡と松山津の関係について見ていくことにします。
松山津と林田津 古代坂出
綾川河口の阿野北平野の地形復元図 
古代の阿野北平野の北部は、上図のように綾川の扇状地・三角州で、網の目状にいくつもの川筋となって流れだしていました。この中で中世史料に登場するのが「松山津」です。
まず、菅原道真の「菅家文草」には「松山津」とは表記されていません。松山に遊んだとあるのみです。従来の書物の中には、これをもって松山に「松屋津」があったと判断しているものが多いようです。「松山津」と記されていないことをここでは押さえておきます。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子を記した山家集で、次のように記されています。

「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]

これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。しかし、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などには「松山」とのみ記します。「津」がないのです。ここからは中世に「松山津」があったとは断定できないと研究者は考えているようです。そうなると、古代はさらに不明確になります。
 それでは国府や阿野郡の港湾施設はどこにあったのでしょうか? もう一度復元図を見ていくことにします。

古代綾川河口復元図1

研究者が注目するのは、雄山・雌山の西側の総社神社周辺で、次のように述べています。(要約)
①総社神社境内と東側・北側の総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地
総社神社周辺の微高地は、自然堤防や砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所
③8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡
④この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出土する。
以上からは、畿内などとの交易活動を行う港湾機能をもった湊がここにあったことが推測できます。
また、綾川河口には総倉神社があり、旧河道を挟むように「東梶」「西梶」の古地名が残ります。「梶」は梶取りで、船頭のことを指します。この周辺には船乗りや船頭集団がいたことがうかがえます。
 尾道のような中世港町は、海民たちの複数集落の寄り集まりでできていました。
それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かっています。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、ひとつの船に乗りこんでいたのです。船の運航は、陸上で生活をともにする海民集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

 そういう目で林田の復元図を見ると、河口一帯に小さな港湾施設が散在し、それが総合的に「林田湊」や「松山湊(津)とよばれていたことが考えられます。あるいは、次のように2つに機能分離していたことも考えられます。
松山湊 高屋町にあって、国府の外港
林田湊 林田町の総社神社辺りに交易港
どちらにしても、従来の説のように、「国府の湊=阿野郡の湊=松山津」とは言い切れないようです。
 なお、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたものです。

次にBの鵜足郡の郡湊候補の、宇多津を見ていくことにします。
宇多(鵜足)津に関しては、大束川の河口に大集落川津があったので、その外港として宇多津があったと思えます。しかし、古代の宇多津は、史料的にはどこにも登場せず、影が薄いのです。どうも古代においては、現在宇多津は海の底にあったようです。

宇多津・津之郷・川津

 宇多津に代わって有力なのが「川津」と「津之郷」です。このふたつは、古代鵜足郡の郷でもありました。大束川河口の川津、さらに遡ると「津の郷」という関係にあります。両者ともに大束川沿いに発展した郷で、上流からの川船で運んできた物資の集結地として機能したことが考えられます。また、古代・中世の津や湊は、いくつかの海民集団が散在していました。ひとつの場所と固定することは避けた方がいいのかもしれません。ここでは、鵜足郡の津は、川津と津之郷であったとしておきます。

しかし、鵜足郡にはもうひとつ活発な海運活動を行う海民の拠点がありました。

古代の坂出市福江と宇多津・川津
それが坂出市の福江です。考古学的には古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、坂出市福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります。
坂出の復元海岸線2
 ここでは砂堆が北にあり、潟湖が坂出駅から八幡神社方面まで湾入し、福江は海に面していました。その想像図は下図の通りです。

福江 中世
中世の福江・御供所(坂出市) 坂出市史より

福江も古代は漁労活動(飯蛸漁)を行った海民たちが8世紀後半頃になると、交易活動に乗り出していきます。これは先ほど見た阿野北平野の総社神社遺跡の海民の活動と同じ時期になります。
 また、古代の大束川は現在の鎌田池を経て、福江(坂出)に流れ出していました。そうすると、綾川河口の福江が鵜足郡の湊の役割を果たしていたことが考えられます。宇多津は中世には、讃岐NO1の湊に成長して行きますが、それが古代から継続した結果かどうかは分からないことを押さえておきます。「鵜足郡の湊=宇多津」とは、すんなりと行かないようです。
6宇多津1
中世宇多津の復元図

Dの多度郡については、次のように湊が移動したことを以前にお話ししましたので省略します。

古代 弘田川河口の白方
中世前期 堀江
中世後期 多度津
ここでは古代の多度郡の湊が多度津ではなく、白方であったことを押さえておきます。

最後に、Fの三野郡の湊を見ていくことにします。

古代三野郡郷名
古代三野郡の郷名と古墳群 近世以前には三野津湾があった

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。

さぬき(讃岐)の国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつ(三野津)と申す津」に上陸したこと分かります。同時に、三野に津があったことも分かります。それでは、上陸した津はどこにあったのでしょうか?
 
中世三野湾 復元地図
秋山文書に出てくる地名を地図に落としたもの(三野町の中世文書より)
実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 

上の地図の実線が中世の海岸線になります。時計と反対回りに海岸に関係ある地名を拾ってみると
「汐木山 → 吉津 → 宮ノ浦 → 津の前 → 浜の江 → 塩門地(塩田) →東の浜 → 川尻 →淺津」などがあり、このラインが海岸線であったことがうかがえます。 そして、「津」はどこにもあります。これらを総て含めて「三野津=三野郡の湊」と呼んでいたと研究者は考えているようです。
そうすれば、最初に見た綾川河口の松山津や、金倉川下流の那珂津も、こんなイメージで捉えた方がよさそうです。
古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し
吉宗瓦窯と藤原京に瓦を積み出す「三野津」の像像図
ここには初めて宮殿を総て瓦葺きにすることに決まった藤原京に瓦を供給するために、当時ハイテクの大型瓦工場が造られました。そしてそれは、三野湾を利用した水運で藤原京まで運ばれたことを以前にお話ししました。まさに当時の三野津は、三野郡の最重要拠点であったのです。
 すこし見方を変えると阿野郡の綾氏なども、綾川上流の陶に新型須恵器工場を建設して、讃岐の市場独占を果たすと共に、畿内へも搬出ししたことは以前にお話ししました。水運を通じて、畿内と結びついて、最先端製品である瓦や須恵器を供給するというのが当時の経営学だったのです。それは、古代の臨海工業地帯の形成と言えるかもしれません。地方の郡司達は、先を見通してこのような
先手を打たないといつ衰退していくか分からない立場に置かれていたのです。  
 そのような意味でも、現在と同じように社会資本としての湊の整備や管理経営は、重要であったと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

 

  郷土史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれています。それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡  松山湊
B 鵜足郡  宇多津
C 那珂郡  中(那珂)津・津森(守)
D 多度郡  多度津
F 三野郡  三野津
これらの港が本当に郡の港であったのかどうかを見ていくことにします。今回は、Cの那珂郡の湊とされる中津・津之郷についてです。
那珂郡の湊については、柿本人麿の歌が万葉集に次のように載せられています。

「王藻よし 讃岐の国は国柄か 見れども飽かぬ神柄 か ここだ貴き 天地 日月とともに たりゆかむ 神のみ面と つぎ来る 中(那珂)の水門ゆ 船浮けて 吾が 漕ぎくれば 時つ風 雲居に吹くに 沖見ればとい浪立ち辺見れば……(中略)。 
反歌二首 妻もあらば疹みてたげまし佐美(沙弥島)の山 作の 上のうはぎ 過ぎにけらずや (後略)」

ここには人麻呂が「中(那珂)の水門」から船出して、強風で沙弥島へたどり着いた時のことが記されています。この歌に出てくる「中の水門=那珂郡の湊」が、どこにあったについていろいろな説が出されています。例えば「丸亀の歴史散歩」には、次のように記します。(要約)
①途中に亀山があるが、中津、今津、津森、中府、高津などを結ぶが線がほぼ一直線となっているので、この直線のあたりが昔の海岸線。
②現在の中津、今津、津森のあたりから北は海で、柿本人麿が舟出した中の水門も、今津か津森
③現在に残る地名由来からすると、「津の守」は郡港役所のあった所、宮浦は船の着く所、八日市は八のつく日に物々交換の市が立った所。
④津森天神のあたりが港で、津ノ守から津森の地名になった。
 津森天神宮の名前については、次のような2つの話が伝えられます。
A 景行天皇の孫津森別命と津森王が、ともにここにいたという説
B 菅原道真が国司として国内巡視の際に、亀山の麓の松原から那珂の入江の風光を眺め、「あの森は何か」と聞かれたので「加治須(梶州)の森といい、天穂日命を祭る社です」と答えたところ、道真は「わが遠祖の神だ」と言い、わざわざ下馬参拝したので、やがて州の森が津の森となったという説

そして次のように続けます。

古代においては津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていまう。鎌倉時代には、北方約700mの所にある法然上人ゆかりの擢掘の井戸のあたりも砂浜となっていた。鎌倉時代の海岸線はこの井戸の北にある県道多度津線のあたりと思われ、今津や津森は既に陸地になっていたわけである。

 整理すると古代の那珂郡の湊は、「津森=那珂津」であったが、中世には堆積作用で陸封された。そこで、今津に湊が移動した。つまり、那珂郡の湊は、古代の津森から中世には今津に移動したというのが従来の説のようです。
この説を、地形復元しながら見ていくことにします。

丸亀 西出汐川・塩屋. 3
丸亀市の中府・津森・今津・中津周辺の土地条件図
前回にお話ししたように、西汐入川は丸亀競技場の先代池や平池附近を源流として、Aの今津で大きく東に屈曲して丸亀福島町で瀬戸内海に流れこんでいます。A地点で屈曲する理由は、北にB・C・Dの砂丘帯が東西に伸びているからです。そのため北上できずに東流し、砂丘帯の隙間を縫って福島へ流れ出します。問題は、この砂堆がいつからあったのかということです。
 「丸亀の歴史散歩」には「津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていった」とありました。しかし、この状態は中世にはじまるものではなく弥生時代以前まで遡ると研究者は考えています。そうすると、津森や今津は古代にはすでに「陸封」され、湊の機能を果たすことはなかったことになります。確かに、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳に、多度津や宇多津は登場しますが、津森や今津はでてきません。交易活動などが史料では追いかけられません。
 それでは那珂郡の湊は、どこにあったのでしょうか? 私が注目するのは金倉川河口の西側周辺です。
金倉川河口2

金倉川河口 明治39年
  
道隆寺 堀江の旧干潟2
金倉川河口の土地利用図 Bは那珂郡と多度郡の旧郡境

  金倉川河口西側の下金倉や中津万象園は、丸亀市に属します。それは、Bの那珂郡と多度郡の郡境がここにあったためです。古代の郡境は川が「自然国境」とされることが多かったようです。そういう意味では、金倉川の西に那珂郡の一部(下金倉)があります。これは、古代に郡境線が川沿いにひかれた後に、流路変更があったことを伺わせます。もともとは旧金倉川は、下金倉と北鴨の間を流れ、堀江付近で海に流れ出していたことが考えられます。もうひとつは、堀江にも砂丘堆が東西に伸びて、その背後に大きな潟湖があったことが地形復元できることは以前にお話ししました。
道隆寺 堀越津地図
堀江から道隆寺に駆けて拡がっていた「堀江潟」
また、古代には「港」という言葉は使わずに、次のような用語が使い分けられていました。

「水門・津・泊・船瀬」が

柿ノ本人麻呂は「中(那珂)の水戸」と表記しています。水戸=水門=「河口にできた船着き場」になります。そうすると「中の水戸」は、金倉川河口にあったことになります。
 以上から那珂郡の湊は、この潟湖の中の那珂郡に属する部分か、旧金倉川沿いあったのではないかと私は考えています。その根拠を挙げておきます。
①金倉川は那珂郡の重要輸送ラインであった。その河口に湊を設置するのが便利
②道隆寺・下金倉・北鴨 →  金倉寺は活発な人とモノの動きがあった。
③多度郡の古代の郡港は弘田川河口の白方にあり、競合関係にはなかった
④「中(那珂の水戸」は、旧金倉川河口にあった潟湖が考えられる。
以上を整理して起きます
1 柿ノ本人麻呂の歌の中に「中の水門=那珂郡の湊」から出港したことが出てくる
2 那珂郡の湊については、従来の説では津森や今津などが挙げられてきた。
3 しかし、津森や今津は古代の時点で砂堆によって陸封化され、湊としての利用は難しかった
4 そこで、現在の金倉川河口の東側の那珂郡に属する潟湖の内側が那珂郡の湊候補として考えられる
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追補
 「中乃水門」について「新編丸亀市史1 398P」には次のように記します。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
平野部に位置し津としての立地条件はよくないが、南海道那珂郡衙からまっすぐに通じ、距離もわずか三・五㎞と近い。四条川によって長年月にわたり運ばれたおびただしい土砂は、海中に堆積して広大な洲を形成した。現在の福島町・新町・新浜町・塩屋町・前塩屋町・天満町などである。
 このように③四条川の河口に開けた中乃水門は、しだいに内陸部に位置するようになり、津としての機能を失ってゆく。④中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。承元元年(1207)三月、専修念仏停止で讃岐国に配流となった法上人が、5月に小舟で塩飽を出て上陸したのがここ今津である。
丸亀市史は、流路変更される以前の旧金倉川は四条川であったという立場で書かれています。これを「四条川=旧金倉川」に置き換えて要約してみます。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。
②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。
③近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
④四条川の河口に開けた中乃水門は堆積作用で陸封化され、津としての機能を失っていった
⑤中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。

 津森周辺の土地利用図を見ておきましょう。

丸亀市 津森2
丸亀市津森・今津周辺の土地利用図 旧金蔵川の河道跡が何本も見える

先ほど見た西汐入川(旧金倉川)の支流が幾筋も現在の金倉川と併行に南北に流れています。津森町も東西に支流跡が見えます。このように丸亀平野になる前に「丸亀扇状地」では、土器川や金倉川は幾筋もの流れに分かれて網の目状にながれていたことは以前にお話ししました。ここでは、旧金倉川も数多くの支流があったことを押さえておきます。
 次に「北流し海に注いでいた」とありますが、先ほど見たように津森の北には、東西に走る砂堆が東西にB・C・Dとありました。砂堆は、B・C・Dの順番に形成されてきたものですが、その起源は古代に遡ります。そのため旧金倉川は北流できずに、東流して福島町あたりで海に流れ出していました。当時の津森や今津と砂堆の間は、洪水時には湧水池化して広大な芦ノ原となっていたことが考えられます。
以前にもお話ししたように、津森は丸亀扇状地の突端あたりに位置します。その下の砂州の一部を開発することは出来ても、北側にできた遊水池を全面的に開拓できる技術力は古代にはありません。また、湧水地に福島方面から船が入ってこられていたかどうかは分かりません。もし、堀江潟のようになっていたのなら港としての機能はあったかもしれません。今の私に言えるのは、ここまでです。
また、丸亀市史399Pは中津については次のように記します。
 那珂郡の古代の津は、中乃水門であったことはうなずけるが、中世においては堀江津の可能性もある。いずれにしても、中津という津はまったく存在しない。従来、現在の中津町の読み方を誤解して、金倉川の河口を那珂津に比定する説が多いが、これらの説は間違っているのである。起名の由来は中州であり、このナカスが濁音化してナカズとよばれるようになったのである。近世後期に入って、たまたま中津の字が使われたもので、現在もナカツとは決してよぶことはないし、「中州」「中津」は俗称地名であった。

香川県史14巻民俗編の東植田町についての聞取調査報告を読みながら、現地を訪れていろいろ考えたことをまとめています。今回は、東植田町の下司廃寺跡と近くの大泉神社の湧水をみながらボケーと考えたことを書いておきます。「現場でボッケーと考える妄想シリーズ」です。時間と興味のある方はお付き合いください。
まずは髙松南部の丘陵地帯を見ていくことにします。
 東植田町はゆるやかな丘陵地帯が続きます。背後の讃岐山脈の連なりからすれば、ほんのわずかなふくらみにしか見えません。こうした丘陵地帯に降った雨は、多くの枝分かれした谷を通って、高松平野に流れ出して行きます。川と言っても短く、雨を集める流域面積もたいしたことはないので、ふだんはほとんど水が流れなかったでしょう。その一方で、大雨が降ると土砂を含んだ雨水が急激に流れ出し、平地部の川の天井川化や洪水を引き起こすことがしばしばありました。
 地面にしみ込んだ雨水の一部は地中にもぐり、地層の切れ目から湧き水として出てきます。それは多くはありませんが、コンスタントに湧出します。丘陵南端に見られる「垂水(湧水)」は、この地下水の出口です。
そのひとつである東植田町の下司の大泉神社の湧水を見ておきましょう。
 
東植田町 下司廃寺2

地形図で見ると、郷や下司の南側にはいくつの小さな尾根が南北に走り、その両側に小さな谷が開かれています。その谷を流れるいくつもの川は、北で朝倉川に流れ込み、西へと流れて稗田で春日川に合流し、髙松平野に流れ出していきます。朝倉川と高様川の合流点が下司になります。

東植田町 下司廃寺
髙松市東植田町下司周辺の土地利用図
ここでは、下司・郷・杣尾・高柿は、周囲からの小さな川がいくつも流れ込む小盆地地形にあることを押さえておきます。これらの谷川の水に頼れば、春日川などの洪水の被害を受けずに、稲作が出来るので早くから開発が行われたようです。
 下司には、 弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が多く、下司廃寺の塔跡も残っています。

髙松市植田町清光神社2
下司廃寺跡近くの湧水
この塔跡は春日川の支流朝倉川の南岸段丘上にあり、古代の山田郡植田郷条里二条二里八坪に位置します。方約10m、高さ2mの塔基壇が残り、樟の大木の下に塔礎石が5個ほど顔をのぞかせています。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦
その周囲には多量の古瓦片が散らばっていて、白鳳期後半の「川原寺式の退化型式の複弁八葉軒丸瓦」も出土しています。また、塔基壇北部で採集された四国唯一の三尊像嬉仏破片は、白鳳期特有のもので、飛鳥の弘福寺の荘厳にも使用されているものです。ここからは下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な支援や情報を中央の貴族から直接的に得ることのできた氏族がいたことがうかがえます。想像を膨らませるなら、中央貴族との強い結びつきをアピールするために「讃岐の川原寺」としての荘厳が行われたのかもしれません。どちらにしても渡来系の氏族でしょう。そしてちかくには、この氏寺を建立した氏族の居館もあったはずです。古代の下司は、この周辺の支配・文化センターであったことになります。
下司廃寺跡2
下司廃寺塔跡 塔楚石らしき石が5ケある
私は、下司廃寺の西にある「大泉神社の湧水」周辺が豪族の舘があった所ではないかと想像しています。
大泉神社の湧水
大泉神社の湧水(東植田町下司)
今は蓋をされて見ることも出来な小さな湧水(出水)です。しかし、もともとの名前は「大泉神社」です。聖なる泉が湧きだし、そこが聖地とされ神社が建立されて、信仰対象となっていたことがうかがえます。地形から考えても、そんなに多くの水量が湧き出ていたとは思えません。しかし、水に乏しい丘陵部では、わずかでも水が湧き出していれば、人々の関心を引くには十分です。少量でもコンスタントな湧き水があることは、有利な条件です。ここに「水の神」を祀り、この湧水(泉)を源に舘が構えられていたという想像です。
DSC05364
琴平町榎井の春日神社の本殿横の出水 神聖な場所として信仰されてきた
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今も澄んだ水が湧き出してくる榎井の春日神社の湧水
古代の人達にとって、泉(湧水)とは、どんなものであったのかを見ておきましょう。

泉信仰が鏡信仰へスライド移行した    
古代の泉への信仰は、鏡への信仰にスライとしたと民俗学者たちは考えています。
神話に登場する泉の3つのタイプ
神話には以上のような3つのタイプの泉が登場します。泉は信仰対象でした。そこでは、聖なる儀式や神事が行われるのも林の中の泉でした。このような湧水(泉)は、宗教的の信仰対象であったことは以前にお話ししました。
 泉や井戸や川が祭祀遺跡として見られるようになったことを研究史で押さえておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」とします。
 文献史学の立場からは、風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになります。そして水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになり、さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
水の祭礼 滋賀県の服部遺跡の導水施設の構造図

滋賀県の野洲川下流域の弥生中期の下鈎遺跡からは、泉(湧水)からの祭礼場所までの導水施設が出てきました。水の祭礼が行われた聖なる場所です。

下鈎遺跡の導水施設下鈎遺跡の導水施設イラスト
弥生中期の下鈎遺跡
弥生中期の下鈎遺跡では、泉(井戸)から祭礼の行われる覆屋まで聖なる水を導いています。土坑には覆屋が被せられ、近くには祭祀用の掘立柱建物もあります。これが「水の祭礼」現場の祖型と研究者は考えています。ここでどんな「水の祭礼」が行われていたかを復元図で見ておきましょう。

水の祭礼 下鈎遺跡の導水施設での祀り(想像図)
下鈎遺跡の復元図 (https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-d-matsuri.html 
導水施設とそれを覆い隠す覆い屋、(左上)
祭祀を執り行ったと考えられる掘立柱建物(右上)
その間に広がる「広場」
それら全体を区画溝で区切るなどの祭祀遺構が揃っています。また、導水施設周辺には何も遺物はなく、区画溝には多量の土器・炭化物、焼けた土が入れられています。これらの事実より、ある程度の祀りの様相が見えますが、祭祀の主体は分かりません。」

服部遺跡の導水施設服部遺跡の導水施設
古墳時代早期の水の祭礼
                
鈎遺跡の導水施設状遺構イラスト

 古墳中期の下鈎遺跡の「水の祭礼」
水祭礼 奈良県かしはら考古学研究所博物館の想像模型
水の祭礼 

この時期になると、浄水部に当たる土坑に祭祀具を捧げる儀式が行われるようになりました。そばには独立した土坑もあります。祭祀用の建物も建てられていました。木槽はなく土坑ですが、多くの玉製品が入れられており「水辺の祭祀」の場となっています。そして「聖なる水」を得る導水施設から「水辺の祭祀」に変わったようです。独立棟持柱建物の大型祭殿と、その前面にある井戸の組み合わせは、「特別な水」を用いる首長の祭祀遺構に発展したと研究者は考えています。

ここで行われた儀式について、研究者は次のように記します。
この儀礼は渡来人と首長を含めた少人数で、夜間に執行された、水を用いた秘儀であった可能性が高い。閉鎖的な空間はそれを象徴していよう。また、供物として肉、塩、果物、水などが土器や木製容器などに盛られ、机の上にならべられた。量が多いので、適宜入れ替えられた可能性がある。上記アイテムのうち、モモ、ヒョウタン、ウマ、壷などは水を連想させる。建物の外側には盾や蓋を立てかけ、内部は要所を石製品などで飾ったと考えられる。参加者は竪櫛や勾玉などを身につけ、刀剣を帯び、下駄を履き、従者にさしばや蓋を翳させて、椅子もしくは木樋脇の板に着座したと考えられる。
 飾りつけが終わり、一同が揃うと、木製品を使って農耕、機織り、戦い、音楽などの情景を、場面を入れ替えながら演者が水を用いて象徴的に演じたと考えらる。なお、儀礼終了後、それらの木製品は刃物で斬りつけられ、火をつけてから、ダムか木樋周辺に投棄した可能性がある。その他の遺物も、順次水に投棄されたようだ。ところで、この施設は、一見したところ恒久的な性格を帯びているように見えるが、1回しか使われなかった火きり臼の存在などは、短期間しか使われなかった可能性も残す。
青柳泰介 2010「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館」
  そして「水の祭祀」について、研究者は次のように考えています。

常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡(三重県上野市) 湧水近くに建てられた豪族の舘

古墳時代の首長居館跡とされる城之越遺跡の調査報告書には、次のように記します。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。ここからは首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。これが飛鳥の「水の遺跡群」に、成長・発展していくと研究者は考えているようです。

湧水点祭礼 飛鳥
    用明天皇の水の祭礼遺跡(奈良明日香)
下司の大泉神社の泉は、このような祭礼儀式の場として相応しいと私には思えてくるのです。そういう目で周りを見回していると、このあたりの風景も飛鳥の丘陵地帯とよく似ているように思えます。髙松平野の春日川などの龍のように暴れる大河をコントロールできない古代の支配者が撰んだ生活基盤は、下司のような場所だったのではないかと思えてくるのです。 「現場に立って妄想するシリーズ」でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
導水施設と水の祭礼 https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-rekishi.html
青柳泰介「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館」
香川県史14巻民俗編 東植田町

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本日の授業

ハイキングで中寺の遺構をめぐっています。前回は展望台と、B(祈りゾーン)で「授業」を行いました。今日は3限目をA(仏ゾーン)で行います。

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の3つのゾーン
Aゾーンの遺跡は、旧郡境尾根の東側のテラスに点在します。このあたりが前々回に見た江戸時代末の絵図には、「中寺」と表記されていた所になります。ここには、次のように本堂と仏塔があったとされます。
「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔

中寺廃寺 A(祈り)ゾーンの復元図
仏塔跡で3限目の「授業」を始めます。

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3時間目 中寺廃寺A(仏ゾーン)の塔跡にて
塔跡の発掘時野の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
 中寺廃寺A(仏ゾーン) 塔跡の発掘時写真
正方形に礎石が並んでいます。4つの礎石なので三間×三間の正方形です。真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。そして、この心礎から出てきたのが、次の土器です。

中寺廃寺 心礎地鎮用2
中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器

中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
①地鎮祭用に埋められたもので、10世紀前半のもの。
②製作場所は、綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯。
③特徴しては、赤みが強いこと
②からは、地鎮祭用に作られたとすると、この塔が作られたのも10世紀前半のことになります。時期的には、国司としてやって来ていた菅原道真が帰った後のことです。③からは、このような赤みを出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの手の込んだ仕上げが必要になるようです。どうやら、この壺も国衙の発注で焼かせた可能性が高いようです。そうすると、ここにも讃岐国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたと研究者は考えています。

次に仏塔の上の仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。
中寺廃寺 A遺構仏塔2
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡

最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。
礎石の数から大きさは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)です。いまから見ると非常に小さい本堂になります。小さなお堂のようです。ここからは、10~11世紀の遺物が出土しています。さきほど見た塔と同じ時期に建てられたようです。
①平面図を見ると本堂と塔は、両方とも真南を向いています。
②本堂は小さく、その中で儀式を行う事はできません。
③そこで考えられたのが本堂前に広場をつくり、野外で儀式を行うこうことです。
④全国の類例を探すと、古代の山林寺院には、この規模の本堂があるようです。
⑤山林寺院として出発した屋島寺の創建時も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、これが古代の山林寺院の姿だったようです。
⑥そして伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺様式だと研究者は考えています。
中寺廃寺 A 本堂から塔跡
中寺廃寺 A(仏)ゾーン 本堂跡から見る仏塔跡中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図

以上の情報をまとめて、推察します。
中寺廃寺への国衙の関与2
中寺廃寺の出土品が物語る国衙の関与

A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式でした。また、心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。つまり、地鎮用の須恵器は、国衙がこの寺のために作らせた特注品です。
以上から、中寺建立には国衙や国分寺の力が働いていたことがここからも裏付けられます。しかし、このAゾーンの仏教施設が登場するのは、Bゾーン(遙拝所)の割拝殿より半世紀後のことになります。歴史的に云うと、山林修行者が活動していた霊場に、国衙が仏施設を後からプレゼントしたとも考えられる関係になります。言い方を換えるなら、霊場大川山の遙拝所に、仏教施設が国衙によって接ぎ木されたとも云えます。このあたりの関係が面白い所です。

LINE_ALBUM_てくてく散歩_251124_20
礎石に座って一休み 仏塔跡にて 当時は前の木々も切り払われ、大川山が目の前の見えたはず・・

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間です。これが菜園だというのです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図 上のテラスには菜園があった?

発掘以前には、仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくるのでは期待していたそうです。しかし、出てくるのは、直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。しかし、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシや鹿の対策に柵が必要だったことが分かります。中寺でも生活のために野菜などが、日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。

 それでは午前中のまとめに入ります。パンフレットの表紙をもう一度見てください。

中寺廃寺と空海

ここには、いままで見てきた建物などの出現期が表にまとめられています。中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末でした。また、ここから発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年で、空海の20歳台のことです。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身は太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この間に中寺を訪れていたことは十分考えられます。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説
 もうひとつのチャンスは、821年の満濃池改修工事の時です。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海による満濃池修復想像図(大林組) ①が、護摩祈祷を行う空海
この時に空海は讃岐に帰ってきたと伝えられます。後の史料には工事成就と安全祈願のために護摩壇岩で護摩を焚いて祈祷を行ったと記します。その時に、どんな神様に祈願したのでしょうか。先ほど見たように、満濃池の正面に見えるのが大川山です。
満濃池と大川山2
満濃池から見上げる大川山
空海は、大川山に向かって祈ったと私は思います。当然、祈祷の前には中寺に参籠し、大川山に行道していたことが考えられます。満濃池修復の際に、空海は大川山に向かって祈願した可能性はあります。

これで3限目は終わりです。
予定していた4限目のC(願い)ゾーンについては、時間がないので現場には行かずに「リモート」で、次のようなお話しをしました。
パンフレットの地図を見てください。
中寺廃寺 3つのゾーン2

A・Bゾーンから谷を隔てて、向かいに河原場があります。そこにあるのがいくつもの石積み(塔)です。
中寺廃寺Cゾーン 石組み

この石組は、平安時代にさかのぼるものであることが分かりました。平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。河原に石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為(=供養・願掛け)の一つとされました。人々が霊山である大川山への参拝の時に、ここを訪れ、石を積んで石塔を作り、祈った場所と研究者は考えています。
 平安時代に丸亀平野に棲むの人たちは、春にはその年の豊作を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などに、霊山である大川山に参拝にやって来ました。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願にやってきた人達が、参拝道の周辺にある河原を訪れて、願いや供養を込めて石を積んだというのです。それが1200年前のままで残っています。平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所と云えるかもしれません。
 このような平安時代に庶民が積んだ石塔が見つかるのは、ここが初めてでした。ふつうは後世の人達によって石が転用されたり、破壊されることが多いのです。それがここには残っています。忘れ去られた場所だったから、そのままの姿で残ったと云えるのかもしれません。
   Cゾーン「石塔」は、大川山や中寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったとしておきます。これで午前のお話しを終わります。午後は、大川山でお待ちしています。

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中寺廃寺から旧郡境尾根を笹ケ田尾へ向かう
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追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺廃寺と丸亀平野
空海が中寺で修行したといえるのかどうかを「時代考証」するために、中寺の建物跡や特色を見ています。今回はAゾーンを見ていくことにします。最初に復元図を見ておきます。

「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔
中寺廃寺Aゾーン 仏ゾーンの復元図
ここからは、尾根の斜面を造成して仏堂跡と塔跡が出てきました。まず、塔の方から見ていきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺塔跡
復元された礎石跡です。4つの礎石が、正方形に並んでいます。4つの礎石なので三間 × 三間の正方形の建物だったことが分かります。そして、真ん中にも礎石があります。発掘当時の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺塔跡

真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。

中寺廃寺 心礎
中寺廃寺塔跡の心礎
この心礎の下から出てきたものがこれです。

中寺廃寺 心礎地鎮用2

中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
            中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器
中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。これは地鎮祭用に埋められたものと研究者は判断します。須恵器を詳しく調べると、10世紀前半に綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯で焼かれたことが分かりました。そうするとこの塔が作られたのも10世紀前半ということになります。この時期の十瓶山周辺には、阿野郡の郡司綾氏によって最先端技術を持つ須恵器工房が開かれ、讃岐全域のみならず畿内にも瀬戸内海交易を通じて搬出していたことは以前にお話ししました。
 須恵器の特徴しては、赤みが強いことです。このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの特別の仕上げが必要になると研究者は指摘します。普通の須恵器ではなく、国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。そうすると「国司 → 綾氏 → 十瓶山官営窯 → 国分寺 → 中寺廃寺」という発注・納品ラインが考えられます。ここにも国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたことが裏付けられます。

  次に仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺仏堂(本堂)跡
最初は掘立柱建物で建てられ、後に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。礎石を数えると縦が4つ、横が3つなので、3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)の建物が復元できます。。ここからは10~11世紀の遺物が出土しているので、さきほど見た塔と同じ時期に建てられたことが分かります。また、礎石のない掘立柱式のものは、それ以前の9世紀末からあったことになります。
仏堂の平面図を見ておきましょう。

中寺廃寺 A遺構仏塔2

Aゾーン 平面図
中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
仏堂は塔よりも少し上にありますが、両方とも真南を向います。また、両者共に10世紀前半には姿を見せました。つまり、ひとつの伽藍として作られたようです。この伽藍配置は讃岐国分寺と同じ大官大寺式だと研究者は指摘します。

中寺廃寺 大官大寺式伽藍
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
大官大寺式伽藍配置の寺(右下が讃岐国分寺)
規模は小さいながら伽藍配置の数式からも、大官大寺様式であることが分かるようです。ここからも中寺Aゾーンの伽藍創建については、讃岐国分寺の僧侶や国衙のコントロールが働いていたことがうかがえます。
 私が仏堂(本堂)について、最初に疑問に思ったのは小さすぎることです。
この大きさでは本尊を安置するだけのお堂と同じです。これでは、この中で仏教的な儀式・法会を行う事はできません。しかし、同規模の本堂を持つ山林寺院があるようです。

中寺廃寺と同じ規模の金堂

全国の類例を探すと山林寺院には、この規模の本堂があります。また屋島寺の創建時の本堂である千間堂も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、当時はこれが普通だったようです。Aゾーンの全体復元図を見ておきましょう。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの復元図
この復元図に書き込まれている情報を読み取ります。
①仏堂と本堂は、大官大寺式で10世紀後半に同時に建立されたこと
②地鎮用の壺や甕が国衙直営の工房で造られた特注品なので、国衙の保護を受けていたこと
③本堂が小さかったので、仏教的な儀式はその前の広場で行われていたこと
中寺廃寺への国衙の関与

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間で、菜園と表記されている所です。
発掘以前には、一番広いテラスで仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくることをは期待していたそうです。しかし、出てきたのは直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。調べると、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシ対策などの柵が必要だったことが分かります。中寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っているようです。

それではテーマに立ち返って、空海が中寺で山林修行を行ったと云えるのかどうかを「時代考証」しておきましょう。

中寺廃寺と空海

右の表が前回にも見た建物などの出現期を表にまとめたものです。
①中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末です。
②Bゾーンの広場から発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。
これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年です。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身はこの間に太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この前に中寺を訪れていたことは十分考えられます。
 Aゾーンに仏塔と本堂が姿を現すのが9世紀末です。これと菅原道真が国司とやって来た時期も重なります。道真の指示でAゾーンの塔や本堂などの山林寺院が着工したことも考えられます。この時代考証を背景に、小説を書くならこんな風になります。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説

一族の期待を背負って平城京の大学へ進学した空海であった。しかし、官吏養成のための四書五経や儒教などへの興味は薄れていく。そんな中で、空海の心を捉えたのが仏教であった。当時の仏教は、宗教だけでなく医学や哲学・科学も含めた壮大な世界をもっていた。また、暗記力増進のためにと進められてやってみた虚空蔵求聞持法の修行は強烈な体験であった。自分のこれからの生きる道を考えた空海は19歳にして、大学をやめて、山林修行の道を歩むことを決意する。そのためには故郷の父母や一族に、自分の決意を伝え、理解と支援を得る必要があった。そこで、善通寺に帰ってくる。

 父は母は驚きながらも、空海の決意を受入て支援を約束する。空海はその間も、幼年期に修行した我拝師山に籠もる。そんな中で、大川山に山林修行をおこなう修行者がいることを知る。空海は、善通寺の杣山(そまやま)木材供給地の尾背山から塩入を経て中寺に向かった。そこには大川寺に向かって割拝殿が建てられ、そこから大川山を霊山として修行に励む修験者たちがいた。空海も彼らと共に大川山をめぐる行道を行い、僧坊で寝泊まりした。修行生活の中でで、四国辺路の大龍寺や室戸・石鎚などの情報を手に入れた。そして、旅立ちの準備が整うと下僕たちと供に阿讃の峰峰を東にへと向かった。これが空海の四国辺路への旅立ちであった。
私は四国辺路に旅立つ前に、空海は善通寺に帰ってきたと思っています。それは一族への報告のためと、今後の方針決定のためでもあります。もう一つは経済的な理由です。古代の辺路修行は、何人もの下僕を連れての修行でした。食事の準備などは下僕の仕事でした。室戸の海蝕洞窟の御厨人窟(みくろ)の「みくろ」は、調理スタッフのことだと研究者は指摘します。ここからも、修行者が下僕をつれていたことがうかがえます。修行者は修行だけに集中していたのです。そういう意味では、有力な富裕層の子弟でないと古代の山林修行はできるものではなかったようです。辺路修行には多額の資金や、人的なスタッフをそろえる必要があったことになります。その準備は父親の佐伯直田公の手で準備されたと私は考えています。
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その後の中寺は、平安期は国衙の保護を受け、大川山信仰の中宮寺として存続したようです。しかし、源平合戦の混乱や国衙機能の低下によって、保護者を失った中寺は平安末には退転していきます。それでも霊山である大川山への信仰は途絶えることはなかったようです。中寺に替わってあらたな山林修行者(修験者・修験道者)が登場します。彼らは、ここに権現を祀り、権現信仰の山としてリニューアルしていきます。大川山を取り巻く情勢については次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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  中寺廃寺について、次のような三部構成でお話ししています。今回は、②についてです。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
忘れ去られていた中寺廃寺が再発見されるに至った経緯は、次の通りです。

中寺廃寺発見の経緯

大川山にお寺があったという話は、いろいろな形で伝えられていました。中でも髙松の殿様の国境視察調査のルートを決めるために書かれた絵図の写しが造田村の庄屋西村家に残っていました。

西村家文書 柞野絵図2
造田村柞野谷 西側の江畑道(旧郡境)に「中寺」とある
そこには中寺という地名が書き込まれています。これらを手がかりに、旧琴南町の文化財協会の人達が粘り強い調査活動を行い「再発見」につなげます。これを受けて町による本格的な発掘調査が行われ、古代に遡る山林寺院と評価されます。そして国の史跡に指定され、保存整備が進められてきました。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺跡の展望台から望む「阿讃山脈NO1の絶景」
 江畑口駐車場から2時間ほどで、高圧鉄塔を越え最後の階段を登ると展望台が迎えてくれます。パンフレットには中寺展望台と記されています。ここまでが90分ほどでしょうか。この説明板には「阿讃山脈NO1の展望」と書かれていますが、その通りです。素晴らしい眺望が楽しめます。左手(西北)に見えているのが満濃池です。

中寺廃寺からの展望
中寺廃寺展望台からの眺望
どこが見えているか分かります?
眼下に見えるのが満濃池、その向こうが象頭山。その左手(西)に瀬戸内海に伸びているのが庄内半島、そして紫雲出山です。本島や広島やなど塩飽の島々、そして備讃瀬戸を行き交う船も見えます。このロケーションが霊山にとっては大事なのです。逆から見ると、大川山は丸亀平野だけでなく、塩飽や庄内半島から見えていたということになります。これが聖なる山・霊山の条件です。山林修行者は、修行の折り目毎に山頂で大きな火を燃やしました。それが徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山などの山名として伝わっています。焼山寺の火は、紀伊からも見えたようです。この火が見える範囲がその霊山の信仰エリアとなります。

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺と丸亀平野や瀬戸内海

中寺廃寺 各ゾーン名称

 中寺廃寺の各ゾーンを確認しておきます。ここが展望台です。
①展望台の下がAゾーン
②展望台から北に伸びる尾根の先端がBゾーン  
③谷を挟んだ向こう側河原にCゾーンになります。
④Dゾーンは、この下になります。
大川山からみると以下のようなレイアウトになります。

中寺廃寺  全景
大川山から見た中寺廃寺
注意しておいて欲しいのは、中寺は大川山にあったのではないことです。大川山を見上げる山の頂上附近にあったことを押さえておきます。
なぜ大川山の頂上に作らなかったのでしょうか? それを石鎚山を例に考えて見ます。

石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ロープウェイを降りて成就社の拝殿に入ると、見えてくるのはこの景色です。正面に石鎚山がどーんとあります。思わず手を合わせます。ここからは石鎚山自体が祈りを捧げる信仰対象であったことが体感できます。京都に行ったときにタクシーの運転手さんから教えられたのは、こんなことでした。

「神社ができる前は、山を拝んでいたこと。霊山自体が信仰対象だったこと。それが神社ができると、神を祀った建物に拝むようになったこと。拝む対象が山から、神社の建物に替わってしまったです。けったいなことですわ。

学者の難しい説明よりも、分かりやすかったのでよく憶えています。

横峯山 星ヶ峯遙拝所からの石鎚山
横峯寺の星ヶ峯遙拝所から見る石鎚山
山林修験者が、ここで石鎚山への祈りを朝夕捧げていたことが納得できます。これと同じような空間が中寺にもあります。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山.2JPG

Bゾーンの尾根の上から見えるのは大川山です。大川山(標高1043m)は、丸亀平野から見える山の中では一番高い山です。そして里からはどこから見えます。その姿もポツンと先端が飛び出していてよくわかる山です。讃岐の霊山と呼ぶのにふさわしい山です。柳田國男の民俗学では仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきたとします。そうだとすると、中寺ができる前からは、ここは大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所であったことが考えられます。
ここを発掘調査したときの写真を見ておきましょう。


中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーン 割拝殿跡の発掘現場 正面は大川山

礎石が並んで出てきました。これではよく分からないので平面図に落としたものを見てみます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの遙拝所と僧坊

南に伸びた尾根の先端部のテラスに建物跡と広場、尾根の下に斜面を整地して僧坊跡がでてきました。割拝殿の方を見ておきましょう。礎石が横に6ヶ並んでいるので五間、縦に4ケなので三間の建物です。しかし、同規模の建物が2つ並んで建っているようにも見えます。よく分からない建物でした。そのため、最初に書かれた復元図はこれでした。

割拝殿 最初の復元図

五間×三間の仏堂として復元されました。しかし、礎石の配置から見ると真ん中に通路があるようです。その事例をさがしてみると、このような割拝殿とよばれるタイプの拝殿があります。

割拝殿とは・・

これが割拝殿だとすると本殿が北側にあり、その前に割拝殿であること、その真ん中が通路となって、その前に広場が配置されています。こうして見ると、「本殿ー割拝殿ー広場ー大川山」が一直線に結ばれる祈りの空間だったことになります。まさに遙拝所としてふさわしい空間です。山林修行者達は、朝夕に大川山への祈りを捧げ、大川山への行道を毎日、何度も行っていたことが考えられます。その中に空海もいたというストーリーになります。こうして、Bゾーンは、「祈りのエリア」と名付けられました。

もうひとつ、この割拝殿周辺が出てきたものがあります。

三鈷杵と柵状の破片
三鈷杵と錫杖の破片(中寺廃寺Bゾーン)
これは何だと思いますか? 素材は青銅製です。これを研究者は、密教法具の破片と判断します。①左は最初に見た空海が手にしていた三鈷杵です。右は錫杖です。

飛行三鈷杵との比較
飛行三鈷杵と中寺廃寺出土の三鈷杵

空海の絵伝には 唐からの帰国の際に明州(寧波)から三鈷法を投げる話があります(高野空海行状図画)。「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。それがこれです。これと中寺廃寺のものを比べて見ると、空海以前の古い様式のものであることが分かります。
中寺廃寺 三鈷杵破片3

ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、大川山との行場往復をしながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた山林修行者の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。壊れた仏具の破片を埋めるには、ふさわしい場所です。そんなことをイメージできる雰囲気が、ここにはあります。
割拝殿の下の僧坊を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
僧坊跡(中寺廃寺)
この柱が礎石のあった場所で、柱跡になります。ここからは2つの建物が並んであったことが分かります。礎石は縦が4つ、横が4つですから「三間 × 二間」の建物になります。ここから出てきたものを見ておきましょう。

僧坊 Bゾーン


②は、柱穴に埋められた地鎮用の陶器です。③は威信財で、普通の人々が持てるものではありません。有力な僧侶がここで修行していたことがうかがえます。④からは、ここが山林修行者の僧坊であったことが分かります。同時に、8世紀末の調理具が出てくると言うことは、僧坊がその時期には姿を見せていたこと、山林修行者の活動がこの時期まで遡れることを意味します。 研究者が注目するのは②の多口瓶です。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺 多口瓶

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶

多口瓶(屋島寺・法勲寺)
周辺の遺跡で出土した多口瓶
多口瓶は仏具で、一般人が使うものではなく僧侶が用いるものです。多口瓶が出てきたことで、この建物が僧坊であったことが裏付けられます。この瓶がどこで作られたかを探るために発掘担当者が播磨まで行って、播磨の窯で作られたものと確認しています。あまり類例品のない特注品であることも分かりました。これも普通の人間には手に入らない威信財なのです。つまり、この僧坊で修行を行っていたのは、財力や地位をもった山林修験者であったことになります。中世の山伏の姿をイメージしてはいけいなようです。見方を変えると、中寺は国衙や国分寺の保護・管理を受けたお寺と研究者は考えています。  

以上で、Bゾーンを振り返っておきます。

割拝殿 祈りの場
HPTIMAGE

① Bゾーンは、「本殿→割拝殿→広場」が一直線に配された大川山の遙拝所であった。
② 割拝殿や僧坊は8世紀末には姿を見せていて、中寺で最初に現れた宗教施設であった。
③ 空海が大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
④ 空海が中寺で修行を行った状況証拠にはなる。
⑤ Aゾーンに本堂や塔などの仏教施設が現れる百年前に、Bゾーンは姿を見せていた。

参考文献
中寺廃寺発掘調査報告書NO3 琴南町教育委員会
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中寺廃寺は次の表のように、8世紀末に起源を持つ古代の山林寺院です。

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中寺廃寺の3つのゾーンの建物出現期
最初に開かれたのはBゾーンで、そこには下の復元図のように霊山である大川山に祈りを捧げる信仰施設としての割拝殿と生活拠点としての僧坊があったことを前回お話しました。

「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿と僧坊跡復元図


今回はAゾーンを見ていきたいと思います。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。

中寺廃寺  全景

Bゾーンは大川山を正面に見る尾根上に開かれています。Aゾーンは「中寺谷」の最上部にあります。
Aゾーンの3つの建築物を確認しておきます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)

中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
①仏堂跡   三間×二間 (桁行6,7m×梁間4m)
②塔跡    三間×三間の塔跡
③大炊屋(おおいや)跡 仏堂跡・塔跡の下段
これらは、Bゾーンの割拝殿(仏堂)や僧坊に比べると、半世紀以上遅れて9世紀の半ばの同時期に姿を現しているようです。
まず仏堂跡から見ていきます。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 仏堂跡 礎石が出てきた
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らす。
②広さは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0mの東西棟)
③最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられたこと
③遺構からは10~11世紀の遺物が出土
④仏堂は塔と共に真南を向いて建てられ、仏堂の南には広場が造成
⑤仏堂と塔の位置関係は讃岐国分寺の伽藍配置と相似で大官大寺式
中寺廃寺 A遺構仏塔2
           中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔

 仏堂は3間×2間と小規模ですが真南を向いて、正面に礼拝・法会用の広場が造成されています。ここに本尊が安置されたのでしょう。讃岐の山林寺院は「髙松七観音」のように、千手観音など観音像が多いので、観音さまが本尊だったのかもしれませんが、史料がないので分かりません。

続いて塔跡を見ていくことにします。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺
Aゾーン 塔跡
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した基壇状の平坦地に建てられている。
②広さは3間×3間
③塔中央の心礎石の下から10世紀前半の土師器壺5個杯1個が出土
④壺5個は赤く、陶の十甕山窯で特注品として焼かれたもの
③④については、中央に長胴甕を、その周囲に赤く焼かれた10世紀前半の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
中寺廃寺 Aゾーン 塔跡須恵器G
中寺廃寺Aゾーン 塔跡から出てきた甕と壺(地鎮祭用?)
これは地鎮祭の祭礼用に用いられた特別な甕と坪と研究者は考えています。壺が作られたのは綾川町の十瓶山(陶)の官営工場のようです。当時の陶には、讃岐国衙が管理する官営工場があり、綾川を通じて、讃岐だけでなく、畿内にも提供されていたことは以前にお話ししました。赤みが強いのが印象的ですが、このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後に酸素を大量に供給して赤色に仕上げる行程が必要になると研究者は指摘します。どうやら、この壺は国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。ここでは地鎮祭の壺が国衙によって準備されていること、見方を変えると中寺廃寺は国衙の影響下に置かれていたことを押さえておきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺Aゾーン 塔跡(整備後)
以上で、仏堂跡とその正面の広場、そして塔跡の位置が分かりました。研究者は、これだけの情報で中寺廃寺の伽藍配置が、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であると推察します。仏堂と塔の配置だけで、伽藍形式を、どうして推察出来るのでしょうか? 

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔(復元図)
まず、私が疑問に思ったのは中寺廃寺の仏堂が、3間×2間という小さいものであることです。研究者は、これを次の古代の山林寺院の仏堂と比較します。
中寺廃寺と同じ規模の金堂
               海竜王寺西金堂と海住山寺文殊堂

①奈良市海王寺西金堂(8世紀) 桁行8.87m、 梁間5.96m(下図上)
②京都府加茂町海住山寺文殊堂(鎌倉時代)桁行7.28m、 梁間4.25m(下図下)
③崇福寺跡南尾根の小金堂跡(7世紀後半)桁行8.1m、 梁間5.4m
④高松市屋島北嶺の千間堂(屋島寺前身寺院) (10世紀前半) 桁行6.7m、梁間4.5m
ここからは古代の山林寺院の金堂は、中寺廃寺の仏堂より少し大きい規模であったことが分かります。
屋島の千間堂跡礎石建物と、中寺廃寺の仏堂は桁行長が同じです。
屋島寺は、寺伝では唐僧鑑真が都に向かう途中に立ち寄り、一宇を建立し普賢菩薩を安置したのがはじまりとされます。初期の寺域は、千間堂の地名が残る北嶺芝生広場です。屋島寺の前身である千間堂跡については、長らくその実体がよく分かりませんでした。2009年度の調査で芝生広場北側の森の中で基壇をもつ礎石建物跡が確認されました。基壇は東西に長く高さ40㎝、基壇上には10個の礎石が確認されました。礎石の位置から東西3間、南北2間の建物とされます。基壇内部からは須恵器の多口瓶(たこうへい)が破片で出てきました。
屋島の千間堂跡礎石建物の多口瓶(たこうへい)
多口瓶は仏具なので、寺跡であることが裏付けられ、ここが寺伝にある千間堂跡の一部であることがわかりました。建物の性格としては仏像を安置するための仏堂とされます。これ以外の建物跡は周辺からは見つかっていないので「北嶺千間堂跡の伽藍配置は仏堂を中心に小規模な建物が点在していた」と調査報告書は記します。(高松市教委2003年) 
 中寺廃寺の仏堂も、これが金堂でここに本尊が安置されていたと研究者は判断します。しかし、3間×2間の仏堂では狭すぎて、その中での法会はできません。そこで仏堂の南に広場を設けます。これによって、中心金堂としての機能を果たすことができたと研究者は考えています。
 そうすると、仏堂(金堂)と広場、それに塔跡と併せて、Aゾーンは讃岐国分僧寺と同じ大官大寺式伽藍配置となると研究者は考えます。まず、大官大寺式伽藍を押さえておきます。
①中門・金堂間の回廊内東に寄せて塔を置く大官大寺式は、文武朝(697 - 707年)に藤原京内で造営した大官大寺(藤原京大安寺)に初めて採用
②天平13年(741)の国分寺造営の詔を受けて、南海道や西海道の西日本国分僧寺の多くが採用した伽藍配置であること。
 次のような大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺を比較してみます。を行います。
 
中寺廃寺 大官大寺式伽藍

大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺の比較

金堂・塔規模は、平地伽藍の大官大寺や各地の国分寺は、数倍の大きさを持ちます。それは、国家が威信をかけて造営した官寺だから当然かもしれません。堂塔規模は、平地に立地した大寺伽藍が山林寺院例を圧倒します。しかし、H/L×100値に注目すると、中寺廃寺の134は、大官大寺の106と美濃・紀伊・讃岐国分僧寺の158 ・ 168 ・ 208の中間値で、平地寺院の大官大寺式伽藍配置の範躊の中にあります。
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
讃岐国分寺など大官大寺式伽藍配置の寺 

例えば観音寺の中心堂宇は、南に庇を広くのばし、仏堂前面に外陣的な礼拝空間を確保しています。これがあれば、金堂前に露天広場は必要としません。この構造が平安時代以降は一般的な構造になり、古代的な金堂建築を駆逐します。つまり、「中寺廃寺Aゾーンで、仏堂前面に盛土で広場を確保しているのは、古代平地寺院の伝統を色濃く踏襲しているため」と研究者は指摘します。 その仏堂が3間×2間と小規模で、本尊を安置する必要最小限の空間しか確保していないのも、讃岐国分僧寺に習って堂前の法会を重視した結果とします。そういう意味では、中寺廃寺は讃岐国分寺の影響を強く受けているのかもしれません。ここでは、Aゾーン全体を見ると、大官大寺伽藍を志向して仏堂・塔が計画的に造営された中枢伽藍であったことを押さえておきます。
 発掘で、第三テラス(平坦地)に塔跡、第二テラスに仏堂跡が発見され、大官大寺式伽藍であることが推測できるようになると、その上の第一テラスが注目を集めるようになります。

中寺廃寺 エリア分類
 
 第1テラスは、中心伽藍となる仏堂と塔の背後の空間に当たります。もしかしたら講堂などがあるのではという期待もあったようです。

中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 菜園
中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 建物跡は出てこなかった

しかし、ボーリング調査では礎石は見つかりません。またトレンチを入れても、まとまりのない小規模で密に並ぶ掘立柱列が出てきただけでした。つまり建物はなかったようです。それでは、ここには何があったのでしょうか。僧侶達の菜園だと研究者は考えています。
 例えば四国霊場の山林寺院には、伽藍近くの平場を利用して、疏菜・穀物・堅果などを栽培している光景に出会います。寺の周囲で穀物などを栽培する姿は、古代寺院でも行われていたはずです。
天平宝字5年(761)の班田の結果を受けて製作された「額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館蔵)を研究者は提示します。
額田寺伽藍並条里図 寺院の周りの寺領

この絵図を見ると額田氏の氏寺(額田寺)の周囲には、公田や個人宅地と入り組みながら、「寺畠」「寺田」「寺栗林」「額寺楊原」「寺岡」などの寺領が広がっています。これから類推すると、山林寺院の平場(テラス)には、蕎麦畑や疏菜、畑、栗などの堅果類の栽培林があったことがうかがえます。そうすると、中寺廃寺Aゾーン第1テラスから出てきた柱列は畑の区画施設ということになります。
中学校で習った兼好法師の徒然草には、山里での暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子の木の周囲に設けた柵を見てに興ざめしたことが記されていました。[『徒然草』上巻第11段]。ここからは昔から山間の畑ではイノシシ対策などの柵木などは必要だったことがうかがえます。中寺廃寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っているようです。また、麓の江畑集落には、中寺廃寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。
最後に、大炊屋を見ておきましょう。

仏ゾーン 大炊屋跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 大炊屋
①掘立柱建物で、山側を切り崩して谷側へ盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らされている
②規模は正面3間(約5.6m)×奥行き2間(約3.6m)で約20㎡。
③建物跡からは土師器杯・椀、須恵器杯などの食器類や煮炊き用の土師器長胴甕が出土
④竈跡と思われる遺構も出てきたので調理を行った大炊屋跡
⑤近畿産黒色土器や西播磨産須恵器が出土し、遠方との交流を物語る。
⑥建造時期は10世紀前後で、塔跡・仏堂跡と同時期の造営
 この建物からは、食器や調理具が出土しています。床面から竃の痕跡も確認できたので、大炊屋跡(供物の調理施設)と研究者は判断します。なお、Aゾーンから僧坊は出てきていません。僧坊があるのはBゾーンだけです。Aゾーンは、公的な仏教儀式の場で、僧侶達の日常生活の場はBゾーンであったようです。
以上を整理しておきます。
①中寺廃寺廃寺Aゾーンは、9世紀半ばに整備された山林寺院の伽藍跡である。
②主要施設は、仏堂(本堂)、広場、塔で、大官大寺式伽藍を志向していた。
③仏堂は小さいが、その前の広場を使って公式行事や儀式は行われていた。
④Aゾーンは、仏教的な公的儀式が行われるハレの場でもあった。
⑤塔の心礎下からは、国衙が陶の官営陶器工場で焼かせた特注制の赤い壺が地鎮祭祭具として埋められていた。
⑥ここからは、中寺廃寺が讃岐国分寺や国衙の影響下のあったことがうかがえる。
⑦稜線上のテラス1には講堂はなく、菜園として利用されていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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中寺廃寺 3つのゾーン2


中寺廃寺は、次の3つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
3つのゾーンの前後関係を年表で押さえておきます。

HPTIMAGE

この年表からはABCの3つのゾーンに、いつ頃、どんな建物が現れたかが分かります。
最初に建物が建造されるのはBゾーンで、そこに仏堂(割拝殿)・僧坊が姿を現します。その時期は8世紀末のことです。これは、前回お話ししたように空海が大学をドロップアウトして、虚空蔵求聞持法修得のために山林修行を始める頃と重なります。今回はB(祈り)ゾーンについて見ていくことにします。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーンの割拝殿の発掘現場 大川山が正面に望める

Bゾーンからは、次のような建築物跡が出てきました
割拝殿(仏堂跡?)   尾根上
僧房跡数棟           下の2つのテラス
中寺廃寺B祈りゾーン 平面図 
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿跡と僧坊
尾根先端を造成して造られた割拝殿から見ておきましょう。
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)
②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物
③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降
④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
     
 盛土中から10世紀後半の遺物が出土しているので、それ以降に建てられたことになります。最初はこの建物は「仏像を安置した修弥壇の基礎の石を確認したので仏堂」とされていたようです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺Bゾーン 仏堂説にもとづく復元図(南側に広場)

しかし、堂内の須弥壇礎石は側柱礎石と大きさがあまり変わりません。そのため3間×2間の同じ大きさの東西棟が並んで建つ双堂建物ではないかという意見が出されます。双堂建築は、東大寺法華堂など雑密的な仏像を本尊とする古代建築に多く使われています。山林寺院の施設として、ふさわしい建築構造です。
 しかし、次のような点を考慮して、現在では双堂建築ではなく、5間×3間の南北棟説(割拝殿)とされています。 
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。  
②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。
③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。
⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる
⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通
⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。          
「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡

 以上から、この建物は5間×3間で、その前の広場を通して、真っ正面に大川山を臨んでいたとします。この広場で、朝夕に霊峰大川山への祈りが捧げられていたことが考えられます。このことからB地区は山岳信仰と関係が深いので、「祈り」のエリアと名付けられました。

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 山林寺院を考える際に、避けて通れないのが「山岳信仰」との関係です。
仏教伝来以前から、列島では山を神とあがめていたとされます。山は信仰対象だったのです。 山林修行や山林斗藪の拠点となった山林寺院は、インド起源です。しかし、一方で列島固有の山岳信仰が仏教と融合しながら変形されてきました。以前にお話ししたように、高野山金剛と狩場明神・丹生津姫神社の関係や、比叡山延暦寺と日吉大社の関係など、山林寺院が土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られ、寺と神社が深い関係にありました。ここでは大川山と中寺廃寺がどんな関係だったのかが問われます。
 霊山の山頂には、いろいろな神々が祀られ、祭礼施設があります。しかし、山頂に山林寺院が造られることはありません。霊峰・霊山信仰を持つ寺院も、その中腹や麓近く、あるいは霊峰を望む景勝地に造られるのが普通です。それは、石鎚山と前神寺や横峰寺の関係を見れば分かります。霊山の峰々が修行の舞台となったとしても、山林寺院はその拠点なので、生活困難な山頂に建てる必要はないのです。ここでは、中寺廃寺は霊峰大川山信仰の拠点として造られた、そのためBゾーンの割拝殿は、大川山を向いて建てられ、その前の広場で祈りが捧げられたことを押さえておきます。

 それを裏付けるのが、流土の中から8世紀後半~12世紀までの長期の土師器・黒色土器・須恵器類が出土していることです。割拝殿の造営年代は、基壇築成土中の遺物から10世紀後半のものとされます。しかし、尾根端の地盤は不安定で、いくつかの礎石も滑べり落ちていました。ここからは割拝殿は、それ以前から何度も建て替えて、発掘されたものが10世紀後半のものになると研究者は考えています。
  
 次に、割拝殿下のテラスの掘立柱住居跡5棟を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
中寺廃寺Bゾーンの僧坊跡
①三間(6,2)m×二間(3m)
②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶
③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土
④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)
⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている
⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
以上からこれらの掘立柱建物跡は、僧房跡と研究者は判断します。
僧坊は掘立柱建物で数回建て替えています。また埋土からは須恵器・土師器・黒色土器の日常食器類(8世紀後半~12世紀)が多量に出土しているので、僧侶が生活していた僧坊跡と推測できます。ちなみに、Aゾーンからは僧坊跡は発見されていません。Bゾーンから僧坊が出てくることについて、山岳信仰に基づく場として、B地区がまず開発されたからと研究者は考えています。以上からB地区は、割拝殿と僧房がある生活と修行の場であり、中寺廃寺の出現の先駆けとなったエリアであったことを押さえておきます。

この中で研究者が注目するのは、僧房跡から出土した西播磨産の須恵器多口瓶です。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
須恵器多口瓶の出土状況(Bゾーン 僧坊跡)

発掘当時のことを担当者は次のように記しています。

「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)

その後、復元すると次のような姿になりました。

中寺廃寺跡の多口瓶

中寺廃寺 多口瓶

 多口瓶は奈良・平安時代の寺院遺跡から多く出土しています。中には平城京薬師寺跡例のような奈良三彩の製品もある仏具です。ちなみに、香川県では高松市千間堂跡の礎石建物跡から、須恵器多口瓶が体出土していますが、こちらは地元の綾川町の陶(十瓶山)甕窯跡群で造られた物です。


屋島寺千間堂跡 多口瓶

讃岐周辺で出土している多口瓶 屋島寺前身の千間堂からも出土

これに対して中寺廃寺のものは、研究者の調査活動の結果、西播磨の窯で造られたことが分かりました。中寺廃寺は、わざわざ仏具である多口瓶を、西播磨から取り寄せたことがうかがえます。
 もうひとつ注目される土器破片が越州窯系青磁碗です。
 僧房跡を取り巻く溝から出土した中国浙江省越州窯産の青磁碗は、艮質の土を用いた精製品と研究者は評します。形状から9世紀後半から11世紀中葉までのもののようです。これは非常に高価なもので、国府・郡衙などの国の関係施設や、大規模な港などの遺跡から出てくるもののようです。非常に貴重な中国製青磁を所有していた中寺廃寺の財政基盤がうかがえます。ここでは、②③の遺物は海を越えて持ち込まれたもので、大変貴重な品です。中寺は、このような品を取り寄せることのできる力を持っていたことを押さえておきます。
 最後に、前回お話ししたように雑密の古式三鈷杵・錫杖頭の破片です。 

中寺廃寺 三鈷杵破片2

Bゾーンの僧房跡付近から出土した三鈷杵と錫杖頭は、空海らが伝えた密教より古い特徴を持ちます。古密教(雑密)の修法に使われていたものが、荒行の中で壊れ捨てられたことが考えられます。これも初現期の中寺廃寺が、古密教の拠点であったことを裏付ける材料になります。

以上をまとめておきます。
①霊山大川山への山岳信仰の拠点として、中寺廃寺のBゾーンは現れた。
②そこには、他に先駆けて8世紀末に割拝殿や僧坊が姿を見せる。
③割拝殿は、正面(東)を大川山に向け、その前の広場が祈りの空間となっていた。
④割拝殿の下には、僧坊が並び、長期間にわたって建て替えられ、活動拠点となっていた。
⑤僧坊跡からは、仏具として西播磨産の多口瓶や、中国の越州窯系青磁碗が出土している。
⑥これらは当時としては貴重品で、それを手に入れるだけの財力やネットワークを中寺廃寺がもっていたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
関連記事

   

大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
HPTIMAGE
中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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金倉寺縁起

前回までは金倉寺縁起上巻を見てきました。そこには、日本武尊・讃留礼王から綾氏・酒部氏・和気氏をへて、智証大師に至るまでの事績と金倉寺の前身寺院の伝が記されていました。今回は、中巻の前半部の円珍誕生から出家までを見ていくことにします。テキストは「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」です。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生

 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO1)
意訳変換しておくと
当寺の初祖智證大師は、原田戸主長の和氣宅成の次男である。母は佐伯氏で、弘田郷領の出身で、弘法大師の姪である。嵯峨天皇の弘仁四年夏、母の夢の中で、日輪赫変が口に飛び入ってくるのを見て、授かった子である。そして翌年3月25日誕生した。生まれるときには、天中から声が聞こえ、南無大通智勝佛が唱えられ、眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆のようで、肉髪に似ていた。
 宅成公は、この姿を見て奇相と思い、廣雄と名付けた。二歳の時に麻田に遊び入ると廻りが光明を発して光り輝いた。隣の里の人々までもが驚嘆した。三歳の春二月には、弘法大師が円珍を見て、その母に「あの子は非凡である」と告げたという。これを軽々しく捨て置く事はできない言葉である。
ある日には童子八人が天から下りてきて、円珍と遊んだ。円珍は幼くして老成の趣があった。見識のある者は異才と思った。五歳の時、訶利帝母が現れ、次のように告げた。汝は三光の中の明星となれ。あなたは天子の精で、虚空菩薩の権化(生まれ代わり)である。私はあなたと多くの契りを交わそう。あなたは将来、佛法を興すことになる人物である。私は、あなたの庇護者となろう。七歳の時には、雲衣童子が現れて次のように云った。私は文殊大士の指示で、あなたが生まれる前から見守り、保護してきたと。八歳の時には、父が云うには。内典の中に、過去や因果を記した経典があると聞く。願わくば吾をして、習わしめんと
ここには智証大師の母が弘法大師の姪とされています。
これが最初に登場するのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』です。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の」とは記されていないことです。「空海の姪」です。
空海系図 正道雄伝
田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』
しかし、後世になると「円珍の母=空海の」説となり、「円珍=空海の甥」説が生まれることは以前にお話ししました。どちらにしても、佐伯直氏にもいろいろな流れがあったようですが、田公の家系と和気氏(因支首氏)が婚姻関係にあり、ごく近い関係にあったことを金倉寺側は世間に伝えたかったようです。ある意味、弘法大師と善通寺を金倉寺は意識しています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍像(金倉寺蔵)
 また生まれた時の姿を「眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆」と記します。円珍のトレードマークであった「卵頭」は生まれつきだったようです。そして円珍の守護神として訶利帝母が登場します。これも別の機会にお話しすることにして、先を急ぎます。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生2

讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO2)
父親の願いを聞いて、驚くべきことにすぐに付箋をつけた。
九歳の時に、師祖である伝教大師が亡くなられた。十歳の時、毛詩・論語。漢書・文選等を学び、多くの書物も読破し身につけた。十四歳の時、叔父の仁徳法師に従って上洛した。十五歳で叡山に登り、事座主義真和尚を師とした。和尚は円珍を見るなり、その器量を見抜き、心を尽くして善導した。そこで學んだのは、法華・金光明経などや天台宗章琉、などで、ほとんどを網羅したものであった。
淳和天皇の天長九年、円珍十九歳で年分試を奉じ、三月十五日断髪、四月八日受戒し沙爾となった。その名は円珍。文字の意味は遠崖。この月二十一日に都を出て、二十八日に讃岐原田郷の自在王堂に還ってきた。留まること五ケ月で、深山山林原野の山林修行に入り、伽藍を造営し、仏像を彫った。。
こうして道隆寺、宝幢寺、金剛寺、城山寺、白峰寺、根香寺、古水寺、鷲峰寺、千光寺などの伽藍を造営した。(注記)古記に曰わく、讃岐の智証大師開基の寺は17寺に及ぶと) 八月一日に讃岐を離れ、五日に入京。七日に叡山に帰った。
14歳の時に、叔父の仁徳法師に連れられて比叡山に赴いたとされています。仁徳については、円珍系図に以下のように記されています。
円珍系図冒頭部
円珍系図 左の一番下の「広雄=円珍」 その上の「宅成=円珍の父」「宅丸=仁徳=円珍の叔父」
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)に、次のように記されています。

沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄

意訳変換しておくと
 
沙弥円珍は十九歳、讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成の戸籍 広雄

ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

4344103-26円珍
円珍 「讃岐国名勝図会」 国会図書館デジタルアーカイブ

    貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)に「智証大師」の号を得ています。
 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったとされます。しかし、これは円珍の法灯を継ぐ天台寺門派の聖護院が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者たちが、円珍を「始祖」として、信仰対象にしていたことがうかがえます。それが後に天台系密教修験者たちの祖とされ、白峯寺や根来寺の開基にも関わったされるようになったと研究者は考えています。ある意味では、醍醐寺の開祖聖宝が真言系修験者たちから開祖とされ、いろいろな伝説が生まれてくるのと似ています。
 円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったと研究者は考えています。
 にもかかわらず円珍創建・中興とされる寺院が数多くあります。例えば「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場します。この縁起には、次のように記されます。

貞観二年(860)、円珍が五色台の山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられた。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺?)、白峯寺の四ヶ寺に納めた。

この縁起には、根来寺や白峰寺・国分寺の本尊の千手観音は円珍の自作とされています。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたことがうかがえます。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていたり、他にも、天台大師像、智証大師(円珍)像、山王曼荼羅図が伝えられていることが報告されています。また、根香寺には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。
    根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。八十七番札所の長尾寺も、松平頼重によって天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。
智弁大師(円珍) 根来寺
根来寺の智証大師像(松平頼重寄進)

智弁大師 円珍 金倉寺
金倉寺の智弁大師像(松平頼重寄進)

長尾寺 円珍坐像
              長尾寺の智弁大師像 (松平頼重寄進)

円珍信仰・伝説の背後には、聖護院の本山派修験者たちの存在が透けて見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

前回は18世紀前半に了春によって書かれた金倉寺縁起の上巻を、次のようにまとめておきました。

和気氏と讃留霊王伝説

今回は円珍によって金蔵寺の伽藍が整備されるまでを見ていくことにします。上巻後半部の綾姓第十一世・原田戸主長者の和氣道善(円珍の祖父?)からです。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の那珂郡金倉郷と多度郡葛原郷は隣同士 金倉郷の南が木(喜)徳郷

鶏足山金倉寺縁起6
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五(774)年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善公自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。
平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成に云うには中冬の初めに私は逝く。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じながら端坐して逝った。112歳であった。  
ここには原田戸主長者の道善(円珍の祖父?)が自在王堂を建立したこと、そして円珍の父・宅成が登場してきます。これを円珍の残した「円珍系図」で確認しておきましょう。
円珍系図 那珂郡
円珍系譜 円珍は広雄、その父は宅成、叔父が宅麻呂(仁徳)、祖父が道麻呂と記されている。
この系図には、和気道善という人物はでてきません。でてくるの「因支首道麻呂」です。円珍より前の祖先は因支首氏を名乗っていたことは以前にお話ししました。それを円珍の時代に改姓申請したのです。和気氏を名乗るのは、改姓以後のことです。そのことについて縁起は何も触れません。近世の金倉寺には。因支首氏や和気氏に関する根本史料がなかったことがうかがえます。

金倉寺縁起上巻 和気の道隆
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
道善公の弟が和氣道隆である。
道隆は天平年中に、堀江に移り周辺に千株の桑を植えた。このため人々は桑園公と呼んだ。勝賃元年六月に、その桑樹の上で発光するものを見つけた。道隆公は妖怪かと驚いて弓矢でこれを射た。手応えを感じて樹下に確かめに行くと、そこには道隆の乳母が倒れていた。道隆公はこれを見て大いに悲しんだ。そして、桑の木を切って、冥福を祈りながら薬師如来の小像を彫った。小像が完成すると、乳母は生き返った。そして矢傷も見えなかった。これを見た者は、手を打って喜んだ。これ以後は、道隆公は世俗を離れ、一心に仏道に励み怠ることがなかった。延暦24年7月15日、道隆公は五輪塔婆を建立し、爾勒定で逝った。時に99歳であった。
天長9年、智證大師が、道隆公の旧跡に伽藍を造営した。
 薬師如来像を自らの手で彫り、その胎内に道隆公の小像を入れ安置した。また道隆公の累代の菩提寺として妙見尊を奉り守護神とした。これを道隆公にちなんで道隆寺と号した。世間ではこれを桑多寺とも呼んだ。
 延應元年8月10日、道隆の子孫で道隆寺住職の朝祐は、金倉寺講衆から法華八講を学び修めた。それ以来金倉寺學頭一の学僧が招かれ、法事を執り行うしきたりとなった。
  ここでは、道隆寺建立の縁起が語られます。
まず、道隆寺を建立したのは、自在王堂(後の金蔵寺)を建立した道善の弟・道隆だとします。つまり、道隆寺も和気氏の一族の氏寺だったというのです。たしかに、和気氏に改姓する前の因支首氏の一族は、那珂郡よりも多度郡に多かったことが「円珍系図」からはうかがえます。古代の因支首氏が那珂・多度郡一帯に分布していたのは頷けます。しかし、系図には道善の弟は「宅麻呂」と記されています。彼は出家し、後に仁徳を名乗る人物です。このあたりも円珍系図と齟齬をきたします。
 その後、道隆の居館跡に円珍が伽藍を整備したとしるします。そのため道隆寺は金倉寺の末寺的存在であり、金倉時から法華八講を学んでいて、金倉寺の方が格上である事を暗に主張しています。どちらにしても近世の金倉寺では、道隆寺も同じ和気氏の氏寺であり、関係が深かったと認識されていたことを押さえておきます。次に出てくるのが善茂の娘と、道善の息子宅成です。

金倉寺縁起上巻 和気宅成
意訳変換しておくと
善茂の娘の珠妙尼は、性格が柔和で、俗事に染まらない気質を持っていた。幼年の時に、髪を落として尼僧となった。一生、勘行精進し、法華経万部を誦読し、一千部を写経した。和銅5年2月15日、父兄が先に逝き、追うように年若若く33歳で逝った。
綾姓第十二世は、原田戸主長者の和氣宅成(円珍の父)である。
寛容で思慮深い性格であった。京師に遊学し、四書五経などを学び、仏教にも接した。長く仏教を信仰してきた家として、なにか世間に役立つことをしたいと考えた宅成は、弘仁年間の初めに、父道善が建立した自在王堂を官寺とし、国衙から租税を支給されることを願うようになった。このことについて、何度か国衙に願いでたが許されなかった。
 そこで仁壽元年に、息子の円珍の護持を受けて願い出た。時の国衙役人は、円珍が天皇や公家たちから頼りとされ、深く帰依されていることを知っていた。そこで解状を書いて朝廷に奏上した。この年11月に下された庁宣には、次のように記されていた。讚岐國原田郷道善寺に下す。

善茂の娘の後に、道善の息子宅成(円珍父)が登場してきます。そして、道善が建立した自在王堂(道善寺)の官寺化を、円珍の力を借りながら進めたことが記されます。そして、その認可状を次のように紹介します。
金倉寺縁起上巻 和気宅成 道善寺
意訳変換しておくと
  寺領三十二町を自在王堂如意輪精舎(道善寺)に下す。この地は、善茂が開墾した地であり、伽藍は道善の建立したものである。大聖金輸如意尊は、出家した善甲が彫刻し、自在王としたものである。その聖胎の中には妙見珠が収められている。尊像も佛閣も、皇法護持の秘佛であり、國家繁栄の霊場である。よって解状の趣旨を受けて燈明料として国家の保護を与える。ついては、士利を募って、僧侶の衣食に充てよ。なお、すべての雑税を皆免する。ついては円珍を護持長吏として、皇祖長久、四海泰平を祈念させよ。これは是宅が望んでいた遺志に報いることでもある。齊衡2年2月14日、沐浴し着替え、弥陀念仏を唱えながら宅成は逝った。壽98歳であった。
 伝えるところでは、智證大師は、唐越州の開元寺に留学中に、不動尊と訂利帝母が現れて、汝の父の死期が近い。我ら二尊が力を貸すので、今生の別れを告げてこいと。こうして二尊によって讚州原田郷宅成のもとに送り届けられ、最後の別れを遂げることができた。齊衡2年2月1日、大唐大中九年の事という。
ここには、道善が建立した自在王堂(道善寺)が円珍の威光で官寺化されたことが記されています。和気氏が、仏教に帰依して以来の到達点が誇らしげに記され、寺領と共に免税特権などが与えられたことが記されています。しかし、金倉寺が官寺化されたことはありません。
 次に登場するのが、道善の次男で、宅成の弟である仁徳です。

金倉寺縁起上巻 仁徳
意訳変換しておくと
金林寺の初祖仁徳は、和氣道善の次男である。
仁徳は、英俊で幼年時から仏教に興味を持っていた。道善公は、これを見て仁徳を叡山の伝教大師に託した。延暦年中に断髪・出家した。弘仁13年に伝教大師が入滅した後は、讃岐の木徳金林寺に帰り伝道活動を行った。これにより天台宗を海南(四国)に伝えた。貞槻元年に入滅。
綾姓第十三世は、原田長者の和氣善甑である。
仁孝で、先志をよく継いだ。天安2年秋に、智證大師が当留学から帰国すると、この道善
寺で一時生活した。甕公はこの地に移り住むことを望み、智証大師のために規模拡張工事を行い、貞観3年に造営完了した。多くの僧達が参加して、智証大師の下で落慶法要が営まれた。
 こうして、「(国分寺の)鷲峯(寺)台の嶺の秋月、鵜足山頭の壇場、蘭陀青龍寺の春華、道善寺賓房の薫堂」と並び称せられ、日夜香燈の光焔が絶えることがなく、菩提の気風が満ち満ち、朝暮の鐘の音が殷賑に響き、煩悩を感じることもなかった。道善寺の盛んなことかくの如し。
金林寺の仁徳を、もういちど円珍系図を見ておきましょう。

円珍系図 那珂郡

確かに仁徳(因支首宅麻呂)は、宅成の弟で、広雄(円珍)の叔父になります。円珍が空海の高野山ではなく、比叡山に行ったのも仁徳の導きによるとされます。しかし、ここで注意しておきたいのは、円珍系図で多度郡と那珂郡の因支首氏を挙げていることです。それを見ると、円珍や仁徳も那珂郡に戸籍があったことが分かります。ところが金林寺は多度郡の木徳に、創建された寺院なのです。この当たりは仁徳が讃岐に天台宗をもたらした人物として評価するために、金林寺という寺が作り出された気配がします。
最後に登場するのが、綾姓第十三世で原田長者の和氣善甑」です。
「円珍系図」からすれば、円珍の弟福雄に当たるようですが、縁起はその事には何も触れません。ただ、智証が唐から帰国した際に、道善寺を整備したのは円珍ではなく、善甑だと記します。
以上から18世紀前半の了春が金倉寺縁起の中で伝えたかったことを挙げておきます。
①和気氏の祖先は、悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏と祖先は同じである。
②綾氏→黒部氏→和気氏と改姓しながら、妙見神の信託で居住地を換えながら鵜足郡から綾郡へ進出してきた
③早くから仏教に帰依し、木徳に金林寺を建立以後も転居先に寺院を建立してきた
④それが円珍の祖父道善が建立した自在王堂(金倉寺)や、弟道隆の建立した道隆寺であった。
⑤円珍の父宅成は、自在王堂を官寺化し、寺領や免税特権を得た。
⑥金林寺の仁徳は、最澄の比叡山で学び、讃岐に初めて天台宗をもたらした。
⑦唐から帰国した円珍によって自在王堂は伽藍が整備され、金倉寺とよばれるようになった

しかし、これらを円珍系譜などで検証すると齟齬が多く、事実と認められることは少ない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



  
    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長尾の町代遺跡と古墳群

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

善通寺大墓山古墳の馬具2
大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
HPTIMAGE

丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長炭の土器川右岸の古墳群(まんのう町HP まんのうマップ)

それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
関連記事

古代讃岐郷名 寒川郡
讃岐寒川郡の郷名

続日本記29巻に次のように記されています。
  神護景雲二2(768)年二月、筑前国怡土城成。讃岐国寒川郡人外正八位下韓鐵師部毘登毛人、韓鍛師部牛養等壱百弐拾七人 賜姓坂本臣

意訳変換しておくと

  神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。

この文書を一体のものとすると、奈良時代の768年に怡土城の完成の論功行賞として、寒川郡の韓鍛冶部の一族127人に坂本姓が朝廷より下賜されたということになります。
  ここに出てくる「韓鍛冶部(からのかぬちべ)とは何なのでしょうか?
  日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように記されています。 
韓鍛冶部は韓土渡来の鍛冶部、すなわち渡来系の新技術を有する鍛冶職集団の称。倭鍛冶部(やまとのかぬちべ)に対する。『古事記』応神段に、手人韓鍛名は卓素(たくそ)なる者を百済から貢上した、とあるのが早い例で、以後数多く渡来したらしく、その分布は大和、近江、丹波、播磨、紀伊、讃岐の諸国に及ぶ。これらのなかには官位を得たり、日本姓に改姓を認められたり、郡の大領(長官)として巨富を蓄えたりする者も現れたから、韓・倭の別もしだいに不分明となった。[黛 弘道]」
ここからは次のようなことが分かります。
①韓鍛冶部は、刃物、鎌・斧、鍬、刀など、金属製造や軍事に係わる渡来系の技術者・軍事(?)集団であったこと
②各地に分散し、一部が讃岐にいたこと
③それが改姓して、渡来人としての素性が分からなくなったこと
韓鍛冶部は律令時代になると、兵部省の造兵司(ツワモノツクリノツカサ)の「雑工戸」と、宮内省鍛冶司(タンヤシ)の「鍛戸(カジヘ)」として二つの省に配置されています。また令外官として諸国に置かれた鋳銭司(ジュセンシ)で銭の鋳造(無文銭・和銅銭等)、あるいは諸寺院の仏像・仏具の鋳造にも携わるようになります。例えば聖武天皇の盧舎那仏造営の際の鋳造技術者として大鋳物師の柿本小玉、高市連真麻呂も韓鍛冶部の出身だったようです。
 5世紀頃に、朝鮮半島からの渡来人によってさまざまなハイテク技術がもたらされます。
その中の鉄製兵器や農工具部門を担当した集団としておきます。
渡来人の技術者集団
渡来人の技術者集団
彼らの他にも漢氏の指揮下に、錦織部・陶部(スエベ)・鞍作部(クラツクリベ)等の品部(シナベ)がいたようです。それが律令国家の下では、品部の中から必要な部分を「律令制の品部」として残し、特に軍事的に重要なものを「雑戸(ゾウコ)」として制度化します。品部、雑戸は共に良民なのですが、雑戸は品部ほどの自由は無く、世襲の技術をもって朝廷に仕え、職種に応じた特殊な姓を付けられ(例:忍海手人、朝妻金作など)、特別な戸籍(雑戸籍)に編入されていました。奈良時代には何回か雑戸の身分からの解放が行われますが、その技能の世襲は強制されています。。
以上の予備知識を持った上で、改めて讃岐寒川の韓鐵師部の一族を見ていくことにします。

  神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。

これに予備知識を加えて読み解くと、次のようになります。
①改姓前は韓鐵師毘登(からかぬちのひと)毛人なので、韓半島からの渡来人で、鍛冶技術者集団として寒川郡に定着していたこと。
②火山産の石棺製造には鉄工具が必要であったが、これに韓鐵師部一族が関わっていた可能性
③768年の筑紫の怡土城の築城に寒川郡の韓鐵師部たち127人が出向いて働き、その功績として坂本姓を得たこと
④讃岐の韓鐵師部がわざわざ筑前まで動員されているので、彼らには特別のハイテク技術があり、その専門性を買われてのこと。具体的には築城に使用する金属工具
⑤リーダーの毘登毛人や牛養などは、正八位下の官位をもっていること。
⑥一族127人が改姓していること。この数は、空海の出身氏族の佐伯直氏や智証の因支首氏と比べると各段に多いこと。つまり大きな勢力を持つ一族であったこと。

どうして韓鐵師部から坂本臣に改姓したのでしょうか?
当時の改姓は申請を受けて、それを朝廷が系譜を調査した上で、相応しいと認められた場合に改姓が許されていたこと以前にお話ししました。坂本臣は武内(建内)宿禰の子である紀角(木角)宿禰から出た紀(木)臣の同族とされます。坂本臣は、和泉国坂本郷を本拠として、讃岐国ともかかわりが深かったようです。また、「新撰姓氏録」和泉国皇別には「建内宿禰男紀角宿繭之後也」とあり、紀辛梶(きのからかじ)臣がいます。呼称からも坂本臣の本拠と鍛冶集団との関係がたどれます。そして、佐伯氏が佐伯宿禰に改姓したように、今後の一族のために有利になるような氏姓を選んだ結果が坂本臣だったとしておきます。
実は、坂本臣に改賜姓した「韓鐵氏毘登毛人」と同一人物らしき者が12年後に別の史料に出てきます。宝亀11年(780)成立の『西大寺私財帳記帳』の「田薗山野図」讃岐国二巻には、次のように記します。
「寒川郡盬(塩)山,白施紅、坂本毛人所献、在内印」

ここには寒川郡の製塩用の燃料伐採の用地である塩山(汐木山)を西大寺に坂本毛人が献じたことが記されています。ここに登場する坂本毛人は、12年前に改姓した韓鐵師部の毘登毛人と同一人物である可能性が高いようです。そうだとすれば坂本氏は、製鉄・鍛冶のための山も持っていたようです。
同時に、ここからは寒川郡では西大寺の管理下で製塩が行われていたことが分かります。製塩には濃縮した海水を煮詰めるために最終工程で大量の薪が必要だったことは以前にお話ししました。そのために廻りの山々は、伐採されはげ山化していきます。薪の確保が生産継続の重要な経営ポイントでした。そのために坂本氏が汐木山を西大寺に献上したのでしょう。西大寺と坂本臣の密接な関係がうかがえます。この製塩場の管理や、奈良西大寺までの輸送も坂本臣が担当していたのかもしれません。
 先ほど見たように神護景雲2年(768年)に改賜姓した一族は、127人にもなります。ここからは坂本氏が讃岐国寒川郡を拠点として、奈良の西大寺に塩山を寄進するなど相当な勢力をもった集団だったことが分かります。韓鐵師部の毘登毛人は。祖先の渡来から長い月日を経て、本来の鍛治を中心とした生き方から、坂本臣へと改姓し、製塩や瀬戸内海交易へと「事業転換」を測ろうとしていたのかも知れません。
「東讃の代表的な国造系豪族は、凡直(おおしのあたい)氏です。
彼らも791(延暦10)年に凡直千継が改称を申請しています。その時の申請書には次のように記します。
凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたい。

この申請が認められ21戸が讃岐公に改姓認可されています。讃岐公氏は中央貴族に転身し、平安時代に明法博士を輩出します。讃岐永直は明法博士となり、836(承和3)年に永成、当世らとともに朝臣姓を賜与されています。讃岐永直は大宝律令の注釈書である『令義解』の編纂にも携わりました。

  このように奈良時代になると、讃岐の豪族達の改姓や本貫地の変更申請が次のように数多く見られます。
791 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
864 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
867 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
867 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)

この背景には、郡衙機能が弱体化し「中間搾取」が少なくなり、郡司などの地方役人の役得が大幅に減ったことが背景にあることは以前にお話ししました。彼らは、別の「収入源」の確保に血眼を挙げていたのです。それと世渡りに有利な氏姓への改姓はリンクするようです。
最後に寒川の渡来人・韓鍛冶部がもたらした鍛冶技術とはどんなものだったのでしょうか。
残念ながらそれが分かる史料も考古学的な遺跡もありません。ただ、仏生山の髙松市立病院の「萩前・一本木遺跡」からは、多くの鉄製品などが出土しています。

髙松市萩前・一本木遺跡2
              萩前・一本木遺跡
ここは琴電の仏生山駅の前で農業試験場ほ場内だったところで、直ぐ北側を南海道が通り、古墳時代後期の首長居館や大集落が展開していたことが分かりました。

古代製鉄技術の発展

萩前・一本木遺跡 鉄製品
萩前・一本木遺跡(仏生山駅南 髙松市立病院)出土の鍛冶製品

高松市萩前・一本木遺跡

  ここからは次のようなことが分かります。
①古代の鉄器の種類の豊富さからは、加工用具として重要な役割を持っていたこと。
②鉄器なしでは、生産できないものがたくさんあったこと
③厚手の鉄塊は、鉄素材として朝鮮半島から持ち込まれ流通していたこと
④鉄器のメンテナンスのために砥石が使われていたこと
⑤鋳造の際に使用した円礫の鉄床石がでてくる
このような製鉄・鍛冶技術によって生み出された鉄製品が、髙松平野の開拓に使用されたのでしょう。

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より
逆に言うと、このようなハイテク技術者集団を配下に持たない勢力は、取り残されたということになります。  韓鐵師部のような渡来人のハイテク技術者集団を招き入れたり、傘下に置くことが地方の有力豪族にとっては死活問題になってきます。以前に製鉄技術と秦氏・ヤマト政権をめぐる動きを次のようにまとめました。

秦氏の渡来と活動
ヤマト政権は製鉄技術者集団である秦氏を配下に置いて、河内湖周辺の開発を行った。
「秦氏= 韓鐵師部」と考える研究者もいます。そういう視点で、仏生山周辺を見ておきましょう。
2 讃岐秦氏1
史料からは、讃岐の各郡にいたことが分かります。特に濃密なのが髙松平野の香川郡です。
香川郡の遺跡を見ておきましょう。
2 讃岐秦氏2
仏生山の南の万塚古墳群や周辺の後期群集墳は秦氏一族のものと研究者は考えています。また、一宮神社(田村神社)も、もともとは秦氏の氏寺だったとされます。そうすると仏生山駅の前の古墳時代後期の居館跡も秦氏のものと考えるのが自然です。秦氏は、ヤマト政権の傘下で、最新の土木技術や農工具で河内湖の開拓を進めたように、髙松平野の開発を進めたことが見えてきます。それと最初に見た寒川郡の韓鍛冶部の一族127人は、同族意識を持っていたとしておきます。
古墳時代の豪族居館
古墳時代後期の豪族居館
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 村上恭通 古墳時代の鍛冶 最新の研究成果から見た髙松の状況 
関連記事

 を紹介しました。これらの動きは倭と百済の連携強化の中で進められた「新たな政治的変化」の一環と研究者は捉えます。このような動きは、6世紀前葉の日本列島各地の「首長系譜の変動」という政治変動につながります。同時に集落や手工業集団にも、5世紀後半と異なる動きが見られるようになります。その変化を見ておきましょう。テキストは前回と同じく「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。
 かつては、この時期の須恵器の変化要因を、田辺昭三は次のように記しました。
「群集墳の被葬者層という新しい須恵器の需要者が広範に出現したことに支えられて、須恵器生産は最初の画期を迎えた」[田辺1981:p.48]

しかし、現在の研究成果からは、須恵器の仮器化と群集墳の出現は時期的に一致しないことが分かってきました。そこで研究者が注目するのが韓式系軟質土器との次の関連性です。
①提瓶や短頸壺などの増加する器種が、栄山江流域でも同時期に増加
②杯身・杯蓋の大型化、𤭯の長頸化といった型式変化も両地域で連動
③装飾付器台の増加や角杯の部分的受容といった新羅からの影響が見られる
このような須恵器の器種構成の変化は、手工業生産遺跡の分布変化をもたらします。また、陶邑窯跡群の窯数が減少する一方で、窯詰状態での生産が行われるようになるのも、その変化の一環でしょう。窯分布の変化が示すことは、それまでの須恵器窯が衰退する一方で、兵庫県・金ヶ崎窯など新たな生産地が出現することです。これについて花田勝広氏は、次のように記します。

「5世紀後葉に河内において集中するピークがあり、河内平野を中心に広く工房が散見される。一方、6世紀前半に引き続き、操業を行うものが少なくなり、特定工房(大県遺跡、森遺跡)への再編を予想せしめる」という[花田2002:p.29]。

   つまり、5 世紀後葉の窯業などの手工業生産遺跡は、6世紀に続かずに断絶するというのです。これは窯業だけでなく、鍛冶生産遺跡でも云えるようです。いわば「旧工業地帯」から「新興工業地帯」への再編整備が中央権力によっておこなわれたと研究者は考えています。それは、どのようにして行われたのでしょうか?
集落内部における変化を、大阪府交野市上私部遺跡で見ておきましょう。

上私部遺跡変遷図
この変遷図からは、次のようなことが分かります。
①5世紀前半から6世紀初頭に竪穴式住居で構成されていた集落が(上段)
②6世紀初頭から6世紀中葉には、居住域拡大とともに方形区画にかこまれた大型の掘立柱建物群が出現し(中段)、
③短期間のうちにより計画的な建物配置へと変貌する過程が示されている(下段)。
ここで研究者が指摘するのは重要な変化点は、5世紀後半ではなく、6世紀以降にあるということです。その変化をもたらしたのは継体大王を擁立した政治勢力ということになります。
 初期群集墳の展開過程が見られる猪名川流域も、継体期に古墳築造と集落発展がリンクしているエリアです。
継体天皇と猪名川流域古墳
猪名川流域古墳2
猪名川流域の有力古墳
この表からは次のような事が読み取れます。
①猪名川流域は、古代寺院の分布から5つの小地域が分立していたこと。
②前期古墳分布からは、各小地域がほぼ対等な力関係にあった
③中期になるとその中から豊中台地と猪名野の勢力が他を圧倒するほどに強大になった。
④2つの地域の隆盛が百年ほど続いた後、中期末(五世紀末頃)に勢いは急速に衰えた。
⑤後期になりと、有力な前方後円墳を築くことのできなかった長尾山丘陵や池田エリアに前方後円墳が現れる
ここからは前期終盤と後期終盤に、地域内の力関係が大きく変わっていることが見えてきます。
その中で研究者が注目するのが、次の2つの古墳です。
A ③の中期に桜塚古墳群台頭のきっかけとなった大塚古墳
B 後期に長尾山丘陵エリアで150年ぶりに復活した前方後円墳の勝福寺古墳
Aの大塚古墳は墳形こそ円墳ですが、直径56mの大形のもので、第2主体部の東棺からは、最新式の短甲三領をはじめ多くの武器武具が出土しています。とくに三角板革綴襟付短甲という珍しいタイプの短甲は、藤井寺市野中古墳で出土したものと類似しています。大塚古墳に続く御獅子塚、狐塚、北天平塚、南天平塚などでも甲冑類が副葬されています。これら中期古墳の甲冑は、河内平野に古市古墳群を残した政治勢力によって各地の系列首長に与えられたものとされています。
 そうすると桜塚古墳群は、中期の河内平野の勢力との深い結びつきによって地域内で圧倒的な勢力を持ったことになります。その発展の基盤を築いたのが大塚古墳の被葬者と研究者は考えています。ところが桜塚古墳群の中期末の南天平塚古墳は、墳丘長20m台に縮小します。ここからは、あきらかに勢力が縮小していることが見えて来ます。そして次の代には、猪名川流域の最有力古墳は長尾山丘陵の川西市・勝福寺古墳へと移っていきます。
 勝福寺古墳については、調査報告書『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)に、次のように報告されています。
①六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたもの
②勢いを失っていく豊中台地の桜塚古墳群に対して、6世紀前葉に新たに台頭する猪名川本流沿いの勢力であること。
③それはたんなる地域内の勢力争いというより、倭の中央政権内で展開する激しい主導権争いが波及した結果に他ならないこと。
こうして見ると、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めの2回に渡って大きく動いていることが分かります。重要なことは、地域の政治的主導権の変転が、同じ時期に他の地域でも見られることです。
試しに、讃岐の津田古墳群の変遷図を見ておきましょう。
津田湾 古墳変遷図
ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること 
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
津田古墳群でも②の三期と⑤の富田茶臼山古墳の出現期の2回に渡って大きな「地域変動」があったことが分かります。これは都出比呂志氏が指摘したように、「地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。」ということの讃岐版の現象と捉えることがえきそうです。
 もう一度、猪名川エリアに立ち返って見ると、次のように盟主古墳の変動時期が一致します
①中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期
②後期初頭は継体大王陵とされる今城塚古墳が淀川流域に登場する時期
畿内の河内などの巨大前方後円墳の移動現象については、次の2つの見解があります。
①中央政権の中で政治的主導権を握る勢力の交代を反映したものという説
②政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという説
どちらにしても、巨大前方後円墳の移動に伴って、埋葬施設の構造、副葬品の種類、埴輪のスタイルなども大きく変化します。つまり、中央政権の主導権を握った勢力が、新しいスタイルの墳墓モデルを作りだして、それを各地の連携勢力にいち早く与えることで、中央と地域の政治系列を一新するような動きがあったのではないかと研究者は考えています。
そして古墳だけでなく、集落遺跡からみても、6世紀は千里窯跡群の操業が活性化し、その職人たちの住居とされる掘立柱建物が立ち並ぶようになる時期です。そして、新たに大阪府豊中市新免遺跡や須恵器の生産流通に関与していた本町遺跡などが姿を見せます。その一方で、それまでの5世紀代の集落の多くは衰退します。
 猪名川地域で最後に姿を見せる勝福寺古墳が築造された地域を見ておきましょう。
ここでは同時期に栄根遺跡、加茂遺跡、下加茂遺跡の住居数が増加します。園田大塚山古墳が築造された地域では、若王子遺跡、平田遺跡からは鍛冶関連遺物とともに多量の土器が出土するようになります。以上からは、「渡来系集落遺跡 + 猪名川下流域の鍛冶生産工房 + 勝福寺古墳 = 渡来系技術者集団を傘下に収めて急成長する新興集団の存在」という図式が見えて来ます。その躍進の原動力のひとつが半島からの渡来人集団だということになります。そして、この6世紀の変化は、大阪北部に拠点をおいた継体政権によってもたらされたものとします。さらに広く見ていくと、この背景には倭と百済の関係強化を含めた韓半島各地との関係再編が反映していると研究者は考えています。確かに、この時期は阪南部の古市・百舌鳥古墳群が衰退する時期です。列島中枢における政治変動と対外情勢の変化が、地域社会の遺跡動態とリンクしていたようです。
以上をまとめておきます
①栄山江流域と近畿地域との相互交流を示すものとして、集落遺跡と土器資料がある
②日本列島と韓半島南西部で共有された儀礼用土器が、両地域の交流関係を示す
③儀礼用土器以外にも、韓半島出土須恵器によって双方向的な交流実態が見えてくる
④韓式系軟質土器の系譜は百済・馬韓・加耶西部に求めることができ、畿内では河内湖周辺に最も分布が集中する
⑤韓半島系渡来人集落と手工業生産拠点は密接に関係する
⑥さらにそれらに近接して初期群集墳が築造されている。
⑦近畿地域にみる集落構造の変化は、同時期の栄山江流域においても見られる
⑧5世紀代における百済・栄山江流域との相互交流が、倭人社会にとっては社会資本投資といった戦略へとつながっていった
⑥それが、その後の時代を形作る原動力となった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月
『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)
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かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたとされています。
DNA 日本人=古墳人説
「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになります。
この説によると、先住民の弥生人の2倍以上の渡来人がやってと云うのです。だとすると、従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が集団で続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着してひとつの勢力を形成したことも考えられます。その象徴が、豊前の秦王国です。彼らは、優れた手工業的技術力や航海能力、言語力を活かして、朝鮮半島と日本列島を舞台に活動を展開し成長して行きます。そういう視点で善通寺を見ると、弥生時代の平形銅剣の中心地であった善通寺王国を引き継いで、古墳を造営していくのも渡来人であった可能性が出てきます。それが佐伯直氏につながっていくという話になります。最初から話が支離滅裂になりました。焦点を絞ります。
大量の渡来人がやってきたことを示す「根拠」としては、現在の考古学者達はどんなものを考えているのかということが私の知りたいことです。
そんな中で出会ったのが「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。これをテキストに、古墳時代の渡来人の痕跡をどのように明らかにしているのかを見ていくことにします。

 稲作が始まると、炊飯用の土器(甕形土器)が使用されるようになります。

古代の調理器具

さらに、韓半島から新しい調理用土器や厨房施設であるカマドが、列島にもたらされます。カマドは、3世紀には北部九州を中心に伝来したようですが、邪馬台国の時代から古墳時代前期にかけては、点の存在で全国的な広がりとはなりません。住居内にカマドが造りつけられ、一般化していく時期は4世紀末から5世紀のようです。そして、この時期になると近畿では、カマドと一緒に韓式系軟質土器が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」やカマドは、渡来人の住所を探す上で欠かせないもののようです。

八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
韓式系軟質土器
 
かまど利用の蒸し調理
韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで。使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。同時に食器(土器)が多様化します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器に、よそって住居中央で食べるようになります。そのため個人個人の食器が必要になり、いろいろな食器が作られるようになります。カマドの導入によって食事のスタイルが一変します。

韓式系軟質土器 甑
韓式系軟質土器 中央が甑(こしき)
日本列島の古代調理法
布留式式系統の甕

「韓式系軟質土器」は、次のように定義づけられています。
「器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、長胴甕、小型平底鉢、甑、鍋など、日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群」( 田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』大橋信弥・花田勝広編 サンライズ出版) 
韓式系軟質土器の種類には、次のようなものがあります。
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④同じくカマドにかけられた羽釜はがま
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑こしき
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
      全羅道出土須恵器とその影響を受けた須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)

この中で中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

畿内で韓式系軟質土器の分布が濃密なのは,河内湖周辺を中心とする大阪湾岸のようです。
その中の長原遺跡群では、定着型軟質土器(長胴甕,小型平底鉢,甑,鍋)を用いる渡来人集落が現れ、周辺の煮炊器と急速に融合する過程が見えて来ます。また、渡来人がもたらしたものは、土器だけではないことが近年分かってきました。

韓式系軟質土器と河内湖の遺跡
古代河内湖周辺の韓式系軟質土器と定着型平底鉢の出土状況
河内湖周辺の鍛冶集落
古代河内湖周辺の鍛冶遺物と手工業生産工房の分布
上の図は、韓式系軟質土器出土遺跡(左上),定着型平底鉢・長胴甕出土遺跡(右上),鍛冶関連遺物・遺構(左下),主要手工業生産工房(右下)の分布を示したものです。
ここからは、その分布が重なりあうことが見えてきます。
これをどのように考えればいいのでしょうか? 代表的な遺跡を挙げていくと次の通りです。
大阪市から八尾市にまたがる長原遺跡群(長原遺跡,瓜破遺跡,城山遺跡),久宝寺遺跡,大園遺跡,生駒西麓遺跡群(西ノ辻遺跡,鬼虎川遺跡,神並遺跡),蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡群
そして,そこでは鍛冶関係だけではなく,馬飼や玉作,紡織や木工といった各種の手工業生産の痕跡が見えて来ます。これらは韓半島からもたらされた当時のハイテク技術です。その背景には活発な人的交流が幾重にも積み重ねられていたことがうかがえます。ただの交易だけでなく技術や知識の導入も意図していたと研究者は考えています。
5世紀になると、それぞれの業種で次のような「専業的生産拠点」が現れます。
大阪府大県遺跡(鍛冶)
大阪府南部泉北丘陵一帯に広がる陶邑窯跡群(窯業)
奈良県曽我遺跡(玉作)
大阪府奈良井遺跡,蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡(馬飼)
和歌山県西庄遺跡(製塩)
ここからは各種の特定工房が畿内一円に分散し,それぞれの工房が特定の製品を生産する体制が出来上がったことを示します。この背景には、手工業拠点を計画的に配置した政治権力があったことがうかがえます。つまり「領域に対する一定の支配権が確立=国家の出現」を意味すると研究者は考えています。 
 「専業的生産拠点」からさらに進んで,各種製品を生産する「複合工房群(コンビナート)」も現れます。その研究の進展ぶりを振り返って起きます。
①「大和の場合,鍛冶工房集落では他の生産工房と併存する遺跡例が多いが,河内例では単一製品工房であり,大王陵群内に含まれる集落で工房を保有する(和泉を含めて)ことが多い」[堀田1993:pp.155-156]。つまり地域差の確認です。
②その地域差の背景には、渡来人技術者集団の存在があるという仮説発表
③この仮説が奈良県・南郷遺跡群の発掘調査成果から「豪族膝下の複合工房」として認知される
④南郷遺跡群と布留遺跡の比較分析から、鍛冶集団の支配者を前者に葛城氏,後者に物部氏として、各豪族がそれぞれ別個に技術者集団を支配下においたという説。
⑤その上に立って、南郷遺跡群を経営した「カツラギ」氏は渡来人を積極的に活用し、奈良盆地中央部に拠点をおく「ワニ」氏はそうではなかったと,豪族の開発方式に差異があったという推測
⑥これらの成果吸収の上に「大和の工房が王権を支える豪族の家産に組み込まれていたものであったのに対し,河内の工房は王権の工房として再編されたものであった」と,複合工房群と専業的生産拠点の経営主体の違いを対比的にまとめた説
ここでは半島からのハイテク技術を持った渡来者集団を、支配下に組み込んで生産体制を伸ばした勢力が台頭していったと研究者は考えています。

次に渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。  
古墳は立地によって、単独墳と、大小の群をなす古墳群,小規模墳が数十基~数百基群在する群集墳に分類されます。このうちの群集墳は,6世紀以降に爆発的な増加をみることが通説です。この現象については、次の2つの見解がありました。
①古い共同体の分解とともに出現した家父長的首長層の墳墓とみる近藤義郎の議論[近藤1952]
②古墳を身分表示として理解し,家父長的家族層に至るまで身分秩序に組み込まれたと考える西嶋定生説[西嶋1961]
しかし,群在する小規模な古墳は6世紀をさかのぼることが分かり、従来の説では説明できなくなります。そこで白石太一郎は、次のような新説を提起します。

出現契機を共同体を解体することなく,5世紀後半から6紀にかけて生産力の著しい発展を基礎として新しく台頭してきた中小共同体の首長層や有力成員層を,ヤマト政権が直接その支配秩序に組み込もうとしたものである[白石1976]。

一方,和田晴吾は円墳の古式群集墳の出現を古墳時代後期の開始期として、この時期にヤマト政権による有力家長層の直接的な掌握が始まったとします。そして「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握が群集墳形成の1 つの契機となった」と記します。[和田 1992]。
どちらにしても「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。
その中心地とされる河内湖周辺を見ていくことにします。
韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いた勢力が「産業殖産」を次のように展開します。
①5世紀初頭に河内湖南岸の長原遺跡群で開発が始まり
②5世紀中葉に生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)や、上町台地(難波宮下層遺跡)へと広がり、
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)
①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。

                  蔀屋北遺跡

蔀屋北遺跡出土_馬埋納土坑
           蔀屋北遺跡の馬1頭分の全身骨格
③の蔀屋北遺跡からは、馬1頭分の全身骨格、馬具(轡・鞍・鐙)以外にも、飼育に必要であった塩の入った大量の製塩土器も出てきています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが分かります。その他にもこの遺跡からは、
①住居域と倉庫群、水利施設が溝によって区画されて配置されていること
②これは韓国・忠清南道の燕岐・羅城里遺跡と同じ集落構造であること
③鉄滓、鞴羽口、刀装具未成品、鉄鏃、砥石、紡錘車、織機といった各種手工業の痕跡発見
以上から、この遺跡は馬飼を中心としながら、鍛冶、漆工芸、玉生産、木工等といった多種類の手工業生産活動を行っていた渡来集団の拠点であったとされます。また、集落形成期には周溝墓や、大溝から5世紀後半の埴輪が出土しています。ここからは集落の近くには小規模な古墳群あった可能性があります。そして、周溝墓からは韓式系軟質土器が出土しています。

蔀屋北遺跡出土_馬埋納土坑2
               蔀屋北遺跡
周辺遺跡で「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳」が見られる所を研究者は次のように挙げます。
A 生駒西麓遺跡群では、鞴羽口、鉄滓、鍛冶炉壁の検出されているので、鍛冶が行われていたこと
B 神並遺跡に隣接する植附1号墳周溝からは、韓式系軟質土器、鉄滓、馬の上顎骨、製塩土器が出土。この古墳は小規模方墳なので地域統括の首長墓とは云えませんが、この地域の開発に深く携わっていた渡来人リーダと研究者は考えています。
C 難波宮下層からは、法円坂遺跡の5世紀後半代の掘立柱建物群が出てきています。このほかにも鞴羽口やガラス玉鋳型が出土していて、須恵器窯(上町谷1・2号窯)とあわせて考えると、複合的生産が行われていたようです。また初期古墳は。孝徳朝難波遷都にともなって破壊された古墳があったことが分かっています。ここでも複合工房群と初期群集墳がリンクしています。

畿内の初期群集墳分布

奈良県の奈橿原市域について、研究者次のように指摘します。
A 玉製品の生産拠点となった曽我遺跡
B 小型把手付台付鉢や小型器台などの初期須恵器が出土した四条大田中遺跡、
C 阿羅加耶系陶質土器が出土し、多量の製塩土器に加えて木器、鋳造鉄斧、織機具部材、鞴羽口、鉄滓等の手工業生産関連遺物を豊富に出土した新堂遺跡・東坊城遺跡、
D 鍛冶関連遺物を出土した内膳・北八木遺跡
  これらの手工業的な先進技術を持った集落遺跡からは、百済の全羅南道の韓式系軟質土器が出てきます。そして、周辺には小規模な古墳群が築造されているのです。これは河内湖周辺とよく似ていると研究者は指摘します。
須恵器生産の一大拠点である陶邑窯跡群でも、初期群集墳が近くにあります。
陶邑遺跡と周辺古墳

               陶邑窯跡群
研究者は、陶邑の集落展開を次のように捉えます。
①渡来系工人を主体とする大庭寺遺跡の出現段階(TG232期)、
②小阪遺跡への倭系工人の須恵器生産への参画(TK73期)
③伏尾遺跡の出現期に居住・生産・流通をなど計画的集落形成が行われた。
④この計画的集落形成や須恵器生産設備の拡充整備は、ヤマト政権の政策的介入があった
⑤これが5世紀前後にはじまる大規模須恵器生産につながる。
⑥さらに小規模方墳群の築造は中央政権による手工業生産の組織化と結びついていた
これ以外にも「韓半島系土器 + 手工業生産関連遺物 + 小規模古墳群」という関連性が見られる遺跡が畿内には数多く見つかっています。この3点が揃う遺跡は、渡来人の拠点であったとしておきます。

渡来人増加の背景戦乱

今回はここまでとしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」
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津田古墳群周辺図1
津田古墳群
今回見ていくのは岩崎山4号墳です。この古墳は、前方部を東側の平野側に向けます。北に龍王山古墳、南東にうのべ山古墳、けぼ山古墳、一つ山古墳のある鵜部半島、南西には今は消滅した奥3号墳に囲まれた位置にあります。周辺古墳との関係を押さえておきます。
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群変遷表
岩崎4号墳は羽山エリア勢力が最後に造った前方後円墳で、富田茶臼山以前には最も大きいものになるようです。また築造時期は、鶴羽エリアのけぼ古墳と同時代か、少し先行する時期の古墳になるようです。そして、次の時代には富田茶臼山へと一気にジャンプアップしていきます。

津田古墳群変遷3

先行する前方後円墳と、富田茶臼山古墳への橋渡し的な役割が見られるのが岩崎山4号墳や前回見たけぼ山古墳になるようです。今回は岩崎山4号墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

岩崎山古墳群 津田古墳群

岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。

岩崎山4号墳4

まず、岩崎山4号墳の先行研究を見ておきましょう。
岩崎山4号墳は文化6年(1809)に発見され、刳抜型石棺と人骨、鏡、壺、勾玉が確認されています。当時の状況は文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』に記されています。それによると、出土した遺物は村人が恐れて再び埋められたこと、その中で鏡は埋めもどされずに髙松藩の役人が持ち帰ったことを記します。
 明治30年(1897)頃に、松岡調が著した『新撰讃岐国風土記』には、次のように記します。
①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること
②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと
③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること
④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
明治6年の発掘について、大正5年(1916)に長町彰氏は発掘に携わった古老に聞き取りを実施しています。その中に、49個体の方形埴輪列は底のない甕形であったと述べています。
昭和2年(1927)に岩崎山1号墳が発見された時に、4号墳も発掘されます。
出土した人骨、管玉22、小工30、車輪石1、石釧2、貝釧3、埴輪片、朱は昭和5年(1930)『史蹟名勝天然記念物報告書 第5冊』に記載され、現在遺物は東京国立博物館に移管。
昭和26年調査報告書には、この時他に鍬形石1、石釧3、硬玉製丁字頭勾玉1、管玉7~8があったが海中に捨てたと記す。
昭和4年(1929)は、墳丘南側で円筒埴輪列を確認。発掘された埴輪は坂出市鎌田共済会郷土博物館に保管。
昭和26年(1951)、京都大学梅原末治氏による学術調査が実施。
ここで初めて墳丘規模、埋葬施設、刳抜型石棺石棺の様子が明らかになります。遺物は棺内に残っていませんでした。しかし、石室の上からもともとは棺内にあったと思われる勾玉2、管王、小玉、石釧2が見つかります。また、棺外から鏡や鉄製品が出てきます。この時の遺物は、さぬき市歴史民俗資料館に保存されています。
平成12年(2000)2月、後円部南西部に携帯無線基地局の建設が予定され、試掘確認調査実施。しかし、古墳関連の遺構は出てこなかったようです。現在、このときの試掘箇所には畑が造成されています。ここからは墳丘傾斜面と葺石が確認され、墳丘の一部が畑によって破壊されていたことが分かっています。
岩崎山4号墳 円筒埴輪 津田古墳群
         岩崎山4号墳の円筒埴輪

トレンチ調査では崩落した葺石に混じって多量の埴輪片が出てきました。
その多くが円筒埴輪片です。円筒埴輪が墳丘を囲続していたと研究者は考えています。形象埴輪はこれまでの採集遺物や今回の調査において小片が確認されています。墳頂部には形象埴輪が並んでいたことが考えられます。葺石に混ざって、古代末期の土師器皿が数点見つかっています。これは古墳が後世に宗教儀式の場として再利用・改変させられていたことを推測させます。

津田古墳群円筒埴輪の変遷
津田古墳群の円筒埴輪変遷

岩崎山4号分の墳形の特徴は

岩崎山4号墳7
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形
②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ
③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる
④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲
⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。
⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。

埋葬施設
①後円頂部は埋葬施設の凝灰岩製天丼石2枚を縦に重ね、その上に祠を安置
②赤山古墳、けぼ山古墳に見られるような小礫の墳頂部への散布はない。
③4枚の天丼石のほぼ中間に位置し、埋葬施設は墳丘の中心に位置する

津田湾岩崎山4号墳石棺
         岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
副葬品で保管されているものは、次の通りです。
昭和2年 (1927)の出土品は東京国立博物館保管、
管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

津田湾岩崎山4号墳石棺3
     昭和26年(1951)の出土品(さぬき市歴史民俗資料館)
以上を整理要約しておきます。
岩崎山4号墳は全長61、8mで、津田古墳群の中では最も規模の大きい古墳になります。また、以下の点が畿内的な特徴だと研究者は指摘します。
①埋葬施設が南北方向を向いていること
②多量の副葬品が見られること
さらに次のような特徴を指摘します。
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。
④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。
⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。
⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。
⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。
⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと
⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと

以上から築造年代については⑧の大量に出てきた円筒埴輪の情報から次のように推察します。
①口縁部の突帯から外反して55㎝ほどで突端に至る埴輪は、快天山古墳円筒埴輪がある。
②快天山古墳円筒埴輪と比較すると、岩崎山4号墳の方が若干古い。
③津田古墳群内では龍王古墳・けぼ山古墳の円筒埴輪よりは古い。
④赤山古墳埴輪とは類似点が多く、同時代。
以上から次のような築造順を研究者は考えています。
岩崎山4号墳 ⇒龍王山古墳・けぼ山古墳
葺石、埴輪の形態からは讃岐色の強い在地性よりも、畿内色が強くなっていることが分かります。
  岩崎山4号墳は先行研究では、「畿内から派遣された瀬戸内海南航路の拠点防衛の首長墓」とされてきました。その説と矛盾はせず、それを裏付けられ結果となっているようです。

   津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」

    
津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
関連記事


 
津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

以前に「岩崎山第4号古墳発掘調査報告書2002年 津田町教育委員会」にもとづく津田古墳群の性格について読書メモをアップしておきました。それから約10年後に「津田古墳群調査報告書」が出されています。これは周辺の古墳群をほぼ網羅的に調査したもので、その中で見つかった新たな発見がいくつも紹介されています。津田古墳群の見方がどのように変化したのかに焦点を当てながら見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
東讃地区の古墳編年表
讃岐東部の古墳変遷表
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群の変遷表
前回に示されていた古墳編年表です。ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
なお鶴羽エリアの築造順は、次の通りです 

うのべ山(鵜部)古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳(円墳) → けぼ山古墳


一つ山古墳が円墳ですが首長墓として認められるようになっていることを押さえておきます。それでは今回の調査で新たに明らかになったことを見ていくことにします。まず第1は、1期に先立つ初期モデルがうのべ(鵜部)山古墳とされたことです。
津田古墳群首長墓一覧
津田古墳群の首長墓一覧

最初に津田古墳群の総体的な変遷を見ておきましょう。

津田古墳群周辺図1
津田古墳群
①臨海域では、初期モデルとして「うのべ山古墳」が出現
②少し時期をおいて「赤山古墳 → 岩崎山4号墳 → けぼ山古墳」と築造が続く。
③円墳の「一つ山古墳、龍王山古墳」も前方後円墳の後円部直径に匹敵することから首長墓の一つ
④「野牛古墳、泉聖天古墳、岩崎山2・5・6号墳、吉見弁天山古墳、中峠古墳」は小規模古墳で、階層的に首長墓の1ランク下の位置付け。
⑤臨海エリアでは、中期初頭(4期)の岩崎山1号墳を最後に古墳が築造されなくなる。
⑥それ以降は古墳時代後期の宮奥古墳だけで、臨海域の古墳は築造時期が古墳前期に集中する。
内陸エリアの前期古墳を見ておきましょう。、
①川東古墳、古枝古墳、奥3・13・14号墳が前期の前方後円墳。
②その中には、奥2号墳のように円墳が含まれる。
③川東古墳は相地峠と津田川の支流土井川に比較的近い場所に、古枝古墳は津田川沿い、奥3・13・14号墳は津田川から雨滝山を山越えする連絡路沿いに立地し、臨海域と内陸域を結ぶ要衝に立地する。
④内陸エリアでも、前期後半になると前方後円墳が造られなくなる。
⑤そして登場するのが中期初頭の四国最大規模の前方後円墳・富田茶臼山古墳。
⑥富田茶臼山古墳の後には、前方後円墳そのものが姿を消し、大井七つ塚古墳群や石田神社古墳群のような群集円墳が造られるようになる。

この背景を研究者は次のように解釈します。
①弥生時代後期から古墳を造り続けた雨滝山西部から南部にかけての地域は、前期中頃には前方後円墳が築造できなくなったこと。
②中期になると北西の寺尾山(寺尾古墳群)や南束の大井地区(大井七つ塚古墳群、落合古墳群)へと指導権が移行したこと
③後期になると横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳が出現するが、この時期に再び雨滝山に古墳が確認されるようになる(奥15号墳)
④この段階の古墳の分布として、平砕古墳群、一の瀬古墳群、八剣古墳群、柴谷古墳群と各地に群集墳が展開
津田古墳群 うのべ山・けぼ
鵜部半島の古墳群

うなべ山古墳 津田古墳群
うのべ山古墳
それでは、津田古墳群で最初に登場するうのべ山古墳を見ておきましょう。
うのべ山古墳のは、今は鵜部半島の付け根辺りに位置しますが、地形復元すると古代にはこの半島は島であったようです。その島に初期の古墳が3つ連続して造られています。うのべ山古墳からは、広口壺が出てきます。これが弥生時代からのものなので、うのべ山古墳は出現期古墳に位置付けられることになります。また、類似した広口壺はさぬき市丸井古墳、稲荷山古墳等に見られ、香川県の独特の広口壼でもあるようです。
うのべ古墳 津田湾古墳群の初期モデル

報告書は、うのべ古墳の特徴を次のように指摘します。
①広口壺の出土から築造年代は、古墳時前期初頭の出現期古墳であること
②香川県内でも最古級の古墳であり、津田古墳群の中で最初に築造された古墳
③墳丘が積石塚であり、讃岐の在地性が強い
④前方後円墳の墳形が四国北東部の古墳に多い讃岐型前方後円墳であること
⑤後円部から前方部中央を取り巻く外周段丘を有すること、
⑥全長37mは四国北東部の多く前方後円墳と、ほぼ同規模であること、
⑦弥生時代以来の伝統を受け継いだ広口壺を供献していること
これらの特徴から、この古墳が四国北東部の在地型古墳として造られていると研究者は判断します。ここでは、後の津田古墳群が畿内色が強まる中で、最初に造られたうのべ山古墳は讃岐色の強い古墳であったことを押さえておきます。

一方、うのべ山古墳の特殊性を研究者は次のように指摘します。
⑧標高9mという島の海辺に築造されていること
⑨積石塚としてのうのべ山古墳は海辺に立地し、安山岩の入手が困難だったために、海浜部を中心として様々な石材を使用している。
⑩海に隣接する低地への築造に海と密接に関わる津田古墳群の特徴が見て取れる。
赤山古墳1号石棺 津田碗古墳群

次に登場する赤山古墳を見ておきましょう。
赤山古墳は臨海エリアの津田町鶴羽から、富田の内陸エリアに抜ける相地峠の登口の道沿にあります。ここの道は近世には「馬道」と呼ばれており、物資輸送等に使用された古道でもあようです。現在この道は赤山古墳を取り囲むようにして津田湾へと下っていきます。この道が古墳時代にまで遡るかどうかは分かりませんが、赤山古墳は津田湾から富田方面への入口に当たる地点に築造された可能性が高いと研究者は考えています。
 赤山古墳は火山の北東の谷地に突出した標高23mの尾根上です。墳丘からは北に津田湾を一望でき、北東にはけぼ山古墳、うのべ山古墳、一つ山古墳のある鵜部山を望むことができます。墳形は前方部を南側(山側)に向けた前方後円墳です。過去の記録には全長50mとありますが、現在は後円部の一部を残すのみとなっているようです。ここには2基の刳抜式石棺が露出しています。
 赤山古墳が発見されたのは安政2年(1855)頃で開墾中の出来事です。
明治時代中期頃の松岡調氏の「新撰讃岐国風土記」は、次のように記します。

赤山古墳石棺 津田碗古墳群
赤山古墳の2つの石棺

石棺が発見され、そばから勾玉、壺、高杯等の土器が多数出土したとされます。石棺は3基が発見された。1基は凝灰岩の蓋石をもつ石槽の中から、2基は石棺単独で埋められていた、石棺発見後は祟りを恐れて元のように埋め、桜と火山にあった白羽明神を遷し祀った。

 大内空谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』(大正11年(1922)は、次のように記します。
1922年当時すでに畑などの開墾が行われ墳形が変形して、円墳と判断。
古墳の周囲の田畑からは採集された土器片については、「弥生式に祝部を混じ偶に刷毛目のあるものもあり祝部には内部に渦文の付せられたる土器把手も落ちて居る」
大内氏が紹介した3年後の10月10日に盗掘に遭います。
赤山古墳石棺2 津田碗古墳群
赤山古墳の石棺(津田古墳群)
盗掘翌年の大正15年(1926)の『大川郡誌」は次のように記します。
「前方後円墳で、開墾によって形状が大きく変化しているが瓢箪形をしている」
「前年の盗掘については、石棺(1号石棺)は孔を穿って盗掘され、石棺の中に遺物は残されていなかったが付近から管玉、ガラス玉12個を採集した。盗掘孔に緑青の破片が落ちていたことから銅製品があった可能性がある。小型の石棺(2号石棺)は蓋を開けて盗掘され、残された遺物として頭骸骨の破片、歯「(門歯4本、大歯1本、自歯2枚)、管玉11個、ガラス玉93個」があった」
報告書(2013年)の赤山古墳のまとめを要約しておきます。
①赤山古墳は全長45~51mの前方後円墳であること
②円筒埴輪は岩崎山4号墳円筒埴輪に極めて似ていて、同じ埴輪製作集団が作った可能性が高い
③岩崎山4号墳円筒埴輪のやや新しい特徴を備えた橙色弄統の円筒埴輪が赤山古墳円筒埴輪には見られない
④突帯がわずかに高いこと、形象埴輪を伴わないことから、やや赤山古墳円筒埴輪が時期的に先行する
⑤到抜式石棺からは1号石棺⇒2号石棺の時期的遺構が想定できる
⑥2号石棺は、一つ山古墳出土の刳抜式石棺に類似する。
⑦以上から、赤山古墳⇒一つ山古墳の築造順になる
⑧岩崎山4号墳の刳抜式石棺とは、形態差が大きく同じ系譜上にはない
⑨平面形が角の明瞭な長方形を呈する岩崎山4号刳抜型石棺に対して、一の山古墳刳抜式石棺は隅丸方形で、赤山古墳⇒岩崎山4号墳の順になる。
このように考えると津田湾の臨海域でうのべ山古墳の次が赤山古墳となり、その間に若干の時期差があるようです。

津田古墳群の刳抜型石棺の比較について

赤山古墳1号石棺2 津田碗古墳群
 赤山古墳1号石棺
津田湾古墳群の石棺編年表1
          火山石石棺の比較
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳石棺
津田湾の刳抜型石棺については、渡部明夫氏によって編年表が示されています。それを要約整理しておきます。
①火山石石棺群の特徴は棺蓋は横断面が半円形を基本とし、両端部上面を直線的に斜めに切っていること
②棺身は小口面が垂直であること
③形態変化としては、棺蓋両端部上面を斜めに切った部分の傾斜角度が大きくなり、前後幅が狭くなっていくこと
④その点に忠告すると注目すると、赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒鶴山丸山石棺 → けぼ山石棺
⑤棺蓋長側面の下部が平坦而を持たないものから内傾する平坦面、垂直な平坦面へと変化して、平坦面が強調され、幅広の凸帯になっていくこと
⑥その点に注目すると赤山1号石棺 ⇒ 赤山2号石棺 ⇒ 一つ山石棺 ⇒ 鶴山丸山石棺
⑦刳り込みの隅が曲線に仕上げられ稜をもたないものから鈍い稜線が目立つようになり、明確な稜線を持つようになること
⑧その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒一つ山石桔⇒ 岩崎山石棺・けぼ山石棺。大代石棺
⑨刳り込みの中央部を両端よりも深くするものから平坦な底面への展開
⑩その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒ 一つ山石棺⇒ 岩崎山石棺・鶴山丸山石棺・けぼ山石棺
以上、各属性の変遷から刳抜型石棺の出現順を研究者は次のように判断します。

赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒岩崎山石棺

津田碗古墳群 埴輪編年表2

さらに土器・埴輸・割抜式石棺編年を加味した編年的位置づけを次のように述べています。  160P
墳丘形態・墳丘構造、埋葬施設、副葬品の編年的位置づけから、土器・埴輪・刳抜型石棺だけではよく分からなかった奥3号墳、古枝古墳、岩崎山1号墳の位置付けが見えて来ます。
①奥3号墳と古枝古墳は墳丘スタイルから古墳時代前期前半の川東古墳と同時期、
②岩崎山1号墳は副葬品から津田古墳群では最も新しい古墳時代中期初頭に位置付けられる
③奥13号墳は十分な資料がなく、時期的な位置づけが困難であるが、低い前方部、墳丘主軸に斜交する竪穴式石室からは奥14号墳に近い時期の可能性が強い。

津田碗古墳群編年表1
津田古墳群の編年表
 以上より、報告書は 津田古墳群の前期前半の編年を次のように記します。
①前期前半のものとしては、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、奥3号墳、奥14号墳。
②これを二つに分類すると、前半にうのべ山古墳、奥14号墳、後半に川東古墳、古枝古墳、奥3号墳
③奥14号墳は壷形土器からはうのべ山古墳より後に見えるが、墳形からはうのべ山古墳に近い時期を想定
④後半の3古墳の前後関係としては、副葬品から奥3号墳 ⇒ 古枝古墳
⑤この時期は墳形、葺石構造、壷形土器、東西の埋葬方位等に讃岐的特徴が認められる。
⑥墳丘全長はうのべ山古墳(37m)、川東古墳(37m)、古枝古墳(34m)、奥3号墳(37m)、奥14号墳(30m)で格差はない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 21013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集
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『古事記』の大年神神統譜には、兄弟神として白日神・韓神・曽宮理神・聖神が記されています。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘

大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神
  この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。今回は、この五兄弟の中の白日神について見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

西日長男は、白日神と志呂志神の関係について、次のように記します。

式神名帳に所載の近江日高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今、鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が「志呂志」に転訛したものではなかろうか。
 即ち、志呂志神社の祭神は、日吉三宮(今の大宮)の祭神大山昨神や賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神で、そのために日吉三宮と呼ばれたのではあるまいか。そうして、この志呂志神社は滋賀郡小松村大字鵜川に鎮座の白髭神社、即ち、かの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して『比良神」が『夷神』で蕃神の意であろうことは殆ど疑いを納れないであろう。

西田長男のいう「蕃神」は、「新撰姓氏録』が渡来系氏族を「諸蕃」としたことをうけた表現です。
  秦氏らによって信仰された渡来系の神々ということになります。ここでは、「白日が志呂志に転じた」という説を押さえておきます。
志呂志(しろし)神社境内にあった古墳を見ておきましょう。

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志呂志神社の森
高島市南部の鴨川とその北を流れる八田川が合流する南側の小さな森に志呂志神社は鎮座します。
かつての境内の中にあったのが高島市唯一の前方後円墳とされる鴨稲荷山古墳です。明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴式石室から擬灰岩製家形石棺が発見され、石棺から遺物が出土しました。更に大正12年、梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、金鋼製冠、双魚侃、沓などの金、金鋼製の装飾品が出土します。
注目したいのは、副葬品が「朝鮮半島直輸入」的なものが多いことです。

伽耶の新羅風イヤリング. 陝川玉田M4号墳jpg
伽耶の新羅風イヤリング(陝川玉田M4号墳)

鴨稲荷山古墳出土の耳飾り

冠(復元品)

                      沓(復元品)
①冠と耳飾りは、新羅の王都慶州の金冠塚の出土品
②沓も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類
③水品切子玉、玉髄製切子玉、琥珀製切子玉、内行花文鏡、双竜環頭大刀、鹿角製大刀、鹿角製刀子などのうちで、環頭大刀、鹿角製刀子は朝鮮半島に類似品あり。
④棺外からは馬具と須恵器が出土
京国大学による鴨稲荷山古墳の発掘調査書(1922年(大正11年)7月)は、次のように記します。
被葬者の性別は
「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」
「(副葬品については)日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」
出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとします。
「(被葬者の出自については)此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」
と、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っています。
そして「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘します。

被葬者についてはよく分からないようです。『日本書紀』継体天皇即位前条には、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたと記します。継体天皇の在位は6世紀前半とされ、三尾氏からは2人の妃が嫁いでいます。そのため被葬者としては三尾氏の首長とする説があります。しかし、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」と否定的な意見もあるようです。いろいろな候補者はありますが、本命はいないようです。
 この古墳が鴨稲荷山古墳と呼ばれていたことを見ておきましょう。
志呂志神社はの地名は「高島町大字鴨」で、その名の通りかつての鴨村です。
鴨というのは、上賀茂(賀茂別雷)神社の社領だったからで、上賀茂神社の祭祀に秦氏や秦氏奉斎の松尾大社社司が関わっていました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

また、稲荷山古墳というのも古墳上に稲荷神社が勧進され祀られていたからです。古墳の上に稲荷神社が祀られるのは、伏見大社の修験者たちが「お塚信仰」を拡げ、稲荷神社を古墳に勧進したからだったことは以前にお話ししました。以上のような状況証拠を重ねると、稲荷社や志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀だったことがうかがえます。この古墳の被葬者を、秦氏は自分たちの祖先として信仰していた可能性があります。

  最初に見た「白日神=志呂志神」説を、見ていくことにします。

蚕の社ー木嶋坐天照御魂神社

木島坐天照御魂神社(木島神社)の中にある向日神社は白日神を祭り、秦(秦物集氏)が信仰していたことは以前に次のようにお話ししました。

①向日神社は、朝日山から昇る冬至の朝日、日の岡から昇る夏至の朝日の遥拝地
②朝鮮の慶尚北道迎日郡の白日峯が海岸の雹岩から昇る冬至の朝日の遥拝地

これに対して、志呂志神社から見た冬至日の出方位は、竜ヶ岳山頂(1100m)、夏至日の出方位は、見月山山頂(1234m)になります。志呂志神社も向日神と関係があるようです。
向日神について南方熊楠は、次のように記します。
「万葉集に家や地所を詠むとて、日に向ふとか日に背くとか言うたのが屡ば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及せば、尤も注意を要した筈だ。又日景の方向と増減を見て季節時日を知る事、今も田舎にに少なからぬ。随って察すれば頒暦など夢にも行れぬ世には、此点に注意して宮や塚を立て、其影を観て略時節を知た処も本邦に有ただろう。されば向日神は日の方向から家相地相と暦日を察するを司った神と愚考す」
意訳変換しておくと
「万葉集で家や地所について詠んだ歌には、「日に向ふ」とか「日に背く」という表現がある。日当りは、農耕や木地には大きな影響をもたらすばかりか、様々な点で未熟な時代だった古代には、生活や健康にも大きな影響をもたらし、そのことには注意を払ったはずだ。日の出・日の入りの方向と増減を見て季節や時日を知ることは、今でも田舎ではよく用いられている。とすれば暦の配布などがない時代には宮や塚を立て、その影を観て時節を知たこともあったろう。そうだとすれば向日神は、日の方向から家相地相と暦日を察することを司った神と私は考える」

そして次のようにも記します。(意訳要約)
  オリエンテーションとは、日の出の方向を基準として方位や暦目(空間と時間)をきめること。「方位」という言葉はラテン語の「昇る」からきている。ストーンヘンジについては、中軸線が夏至の日の出線になり、その他の石の組合せによって日と月の出入りが観測できるので、古代の天文観測所とする説がある。また、神殿の集会所とする説もある。

冬至や夏至の「観測」を、わが国では「日読み」といったようです。
「日読み」は重要な「マツリゴト」でもありました。「日」という漢字には「コヨミ(暦)」の意味もあります。『左氏伝』に「天子有・日官、諸候有二日御」とあり、その注に、「日官・日御は暦数を典じる者」とあります。向日神社が「日読み」の神社であることは、冬至・夏至日の出方向に朝日山・日の岡があることからも推測できます。もうひとつは白日神の兄弟神に聖神がいることです。柳田国男は、「聖は「日知り」だと云います。そうだとすれば、「日読み」と「日知り」の神が兄弟神なのは当然です。
秦氏が信仰する木島坐天照御魂神社も、白日神社です。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

この神社にある三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」と研究者は考えています。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

志呂志神社、向日神社、木島坐天照御魂神社は、かつては川のそばにあったようです。

ここにも朝鮮神話と結びつく要素があります。新羅の白日峯の夏至日の出遥拝線上の基点に悶川があります。朝鮮語の「アル」は日本語の「アレ(生れ)」です。この川のほとりに新羅の始祖王赫居世が降臨します。「赫」は太陽光輝の「白日」のことで、アグ沼のほとりで日光に感精した女の話が『古事記』の新羅国王子天之日矛説話に載せられています。このアグ沼も悶川と同じです。三品彰英は、経井を「みあれの泉」「日の泉」とします。  川・沼・井(泉)などのそばで日女(ひるめ)が日光(白日)を受けて日の御子(神の子)を生むのは、日の御女が「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の人だからと研究者は推測します。
以上をまとめておきます。

白日神は日読み神

①大年神神統譜に出てくる兄弟神「白日神・韓神・曽宮理神・聖神」は、渡来系の神々である。
②『白日神』=「志呂志」=「白髪神」である。
③白日神を祀る近江高島町鴨の志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀が行われていた
④冬至や夏至の「観測」は「日読み」で、白日神は日読みの神で、聖(日知り)神でもあった。 
⑤「日読み」は重要な「マツリゴト」で、「日」という漢字には「コヨミ」の意味もあった。
⑥ 木島坐天照御魂神社の三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」で、この神社も白日神が祀られていた。
⑦『古事記』の「新羅国王子天之日矛説話」からは、これらの神々が朝鮮半島の神々であったことがうかがえる。
⑧川・沼・井(泉)などのそばで日女が日の御子(神の子)を生むのは、「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の「先端技術知識者」であったから。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~


稲荷大社と秦氏
前々回に、全国の古墳の上に稲荷神社が数多く鎮座することの背景を、次のように見てきました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

つまり、稲荷山の「お塚(古墳)信仰=穀物信仰」が修験者や聖によって、全国の古墳に勧進されたという説になります。
 子どもの頃にはいなり寿司が大好きでした。お稲荷さんと云えば狐です。今回は、稲荷神社と白狐のつながりを追いかけてみようと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
霊狐塚】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
豊川稲荷
「狐塚」の古墳と狐塚の関係について、柳田国男は次のように記します。
「村の大字又は小字の地名となって残って居るもので、今日は其名の塚があるかないか未定なものまで合すれば、北は奥州の端から南は九州の末までに少くも三四百の狐塚といふ地名がある」
「塚の上に稲荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古墳には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現実に狐塚を発掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてある」
 また、稲荷と狐塚の関係については、次のように記します。

「多くの他の塚と同じ様に、狐神といふ一種の神を祭る為に設けたる祭壇である。狐神は恐らくは今日の稲荷の前身である」

歌川広重の狐
                歌川広重 大晦日の狐火

 このように柳田国男は、「狐神=田の神」で、狐塚は「もともとは田の神の祭場だった」とします。その理由として、山の神が早春に里に降りて田の神となり、秋の収穫後に山に入るのと、山の狐が里に現れることとの共通性を挙げます。その際に、狐が山(田)の神の神使となった理由については次のように記します。
「以前は狐が今よりもずっと多か々 つたこと、彼の挙動にはやや他獣と変つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃富せず、却って立上って一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての関係から、季節によって頻りに人里に去来することなどを例挙してもよい」

稲荷の神が山(田)の神だから、狐が稲荷社の神使になったとします。以上のように、柳田は、山の神が田の神となって里に現れるのと、狐が里に現れることの共通性を指摘します。

  柳田國男説
  「狐神=田の神の使者」 → 「狐塚=田の神の祭場」 → 「狐が稲荷神社の神使」説

稲荷大社 狐神

しかし、これに研究者は異論を唱えます。この二つは時期がちがうと云うのです。

古代人の種へのイメージ

山の神が里に現れるのは種まきから収穫まです。その間は里にいて田の神になります。ところが、狐が里に現れるのは、田の神が山に帰った後です。だから、狐が山から里に現れるからと云って、単純に田の神と重ねることはできないと云うのです。里人が狐を見るのは、草木の枯れ伏した後で、白鳥が飛来してくる時期です。とすれば、里人は白鳥と同じイメージで狐を見ていたことになります。

常滑郷土文化会つちのこ, 写真集 つたえたい常滑

狐塚の「狐」に冬、「塚」に死のイメージがあることと、稲荷山の「山の峯」に塚(古墳)と白鳥伝説が重なることは前回お話しました。また、穀霊として登場する鳥が「白」鳥であるように、稲荷神の化身は「白」狐です。「白」には、古代人は死と再生のふたつのイメージを持っていました。そして白狐は「白=再生」「狐=塚・死」のイメージです。そんなことが背景にあって、白狐が稲荷大社の神の化身になったと研究者は考えています。白狐は白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊饒(福)を約束するものであったことを押さえておきます。

Syusei252b
寒施行(狐施行・野施行・穴施行)シーボルト、文政九年に大阪訪問。
狐の餌が無い寒中、狐が棲む神社・森・藪などに赤飯・餅・油揚げ・野菜天婦羅などを置いて歩く。  稲荷の狐への感謝と・豊作祈願を祈った。

京阪地方の行事に、狐の「寒施行(狐施行)」があります。
旧正月前後の夜、小豆飯とか油揚を、狐のいそうな所に置いてくるのです。また、京都・兵庫から福井・鳥取にかけての農村には、旧正月の年越しの晩に「狐狩り」の行事があります。「狩り」という言葉から、狐の害を防ぐために狩り立てるのだという説もありますが、「寒施行」と同じで「もともとはは年のはじめに、狐からめでたい祝言を聴こうとした一つの儀式」で「福をもたらす狐を招き入れようとする行事」と研究者は考えています。この行事は小正月の行事で、時期的には「寒施行」と同じ時期です。白鳥が豊饒(福)をもたらす冬の鳥であったように、狐も福をもたらす冬の動物として登場しているのです。それが稲荷信仰と、どこかで結びついったようです。ちなみに、秦氏を祀るその他の神社には狐神信仰がありません。狐神信仰があるのは、伏見稲荷大社だけです。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏には、狐だけでなく狼伝承もあります。
『日本書紀』の欽明天皇即位前紀は次のように記します。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父(はたのおおつち)といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寝驚(みゆめさ)めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、析喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。乃ら告げて日はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、一無し。
但し臣、伊勢に向りて、商償して来還るとき、山に二つの狼の相同ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰く、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰く、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へじめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
意訳変換しておくと
天皇が幼いときに、夢にある人が出てきて次のように云った。「天皇が、秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば大きな益をもたらし、必ず天下を治めるようになるでしょう」と告げた。夢から覚めて、使者を各地に派遣して、秦大津父を探させたたところ、山背国の紀郡の深草里にいた。姓字も、夢に出てきたとおりであった。天皇はまさに正夢であったと喜んだ。そこで「汝、何事か吉兆があったか」と問うた。それに秦大津父は、次のように答えた。「臣が伊勢で、商償して帰って来るときに、山の中にで二匹の狼が血まみれになって争っている場面に遭遇しました。そこで、馬から下りて口手を洗ひ浄めて、『汝は貴い神にして、荒行を楽しんでるよようだが、もし猟士がやってきたら速やかに捕らえられてられてしまうだろう。」と告げた。2匹の狼は、それを聞いて闘うことを止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗った。そして、去って行く際に、私たち2匹は命をかけてあなたに尽くす」と云った。これを聞いた天皇は、「必ずその報の通りになるであろう」と云って、近習の一人に招き入れた。その結果、大きな饒富を天皇にもたらした。

ここに登場する2匹の狼について西田長男は、次のように解釈します。
「汝は是貴き神」と云っているので、狼は「神そのものとして考へられていた」とし、秦大津父が「馬より下りて」、狼の「口手を洗ひ漱ぎ」、狼に「祈請みて」言っていることは、「神に就いての作法を語るものに外ならない」と指摘します。そして、「オオカミ」は「大神」だとも云います。
千葉徳爾は、次のように記します。

「日本書紀では狼を大口の真神と呼んだ。(中略) わが国の肉食の猛獣としては人里に現れることの多いものだったから、人間の側からは畏怖すべき存在であった。大口は姿を形容したもの、真神とはその威力をたたえた言葉で、これが縮まって大神、オオカミとなったとみられる」

そうだとするとこの話は、秦大津父が狼を助けて「大きに饒富」したのは、神(オオカミ)を助けたため、神から福と富をさずかった話ということになります。柳田国男も、「秦の大津父の出世諄以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」と述べています。「狼=大神」とすれば、秦大津父に福をもたらした狼は、伏見稲荷大社にとっては「貴き神」の代表で、祀るべき神にだったはずです。
それがどこかで狼から狐に変ったようです。どうしてなのでしょうか?
西田長男は、秦大津父が助けた狼について次のように記します。

「稲荷社の替属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。若しくは狐と狼とは同類に考えられていたのではあるまいか」

柳田国男は、狐塚で狼を供養する例をあげていますが、古代には狐と狼は同類とみられていたようです。
塚(墓)で狐や狼を供養するのも、死と再生の儀礼です。これについて柳田國男は、狼や狐に小豆飯などを供える「初衣祝」は、「産育の際に食物を求めて里を荒らしにくることをおそれて、人間の誕生と同じ祝いをし、狼や狐の害を防ごうとしたのだろう」と推測しています。しかし、これには次のような反論があります。
伴信友は『験の杉』で、秦大津父の狼の話について次のように書いています。

名神大社:大川神社(舞鶴市大川)
丹後の大川神社 オオカミを使者としてまつる

今丹後国加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載られたり。狼を使者としたまふと云ひ伝へては縦淵..其わたりの山々に狼多く棲り。さらに人の害をなす事なし。諸国の山かたづきたる処にて、猪鹿の多く出て用穀を害ふ時、かの神に申て日数を限りて、狼を貸したまはらむ事を祈請ば、狼すみやかに其郷の山に来入り居りて、猪鹿を逐ひ治むとぞ。又武蔵国秩父郡三峯神社あり。其山に狼いと多し。これも其神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又其護符を賜はりてある人は、其身狭害に遭ふ事なく、又盗賊の難なしといへり。

  意訳変換しておくと
丹後国の加佐郡に大川大明神の社がある。この神社は延喜式に載せられている古社である。狼を神の使者としていたと云ひ伝へていて、周辺の山々に狼多く棲んでいる。しかも、人の害をなす事はない。諸国の山で、猪鹿が出没して被害をもたらすときには、この神社の神に依頼して日数を限って、狼のレンタルと願えば、狼はすみやかに依頼のあった山に入って、猪鹿を退治するという。
また武蔵国秩父郡に三峯神社がある。この山にも狼が多く棲んでいる。ここでも神に祈請すれば、狼がやってきて猪鹿を対峙する。またその護符を賜わった人は、災害が遭う事がなく、盗賊の難もないとされる。
ここでは、狼が神の使者として害獣退治の役割を担っていたことが書かれています。秩父の三峯神社では、狼に小豆飯(赤飯)をあげるのを、「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と表現するそうです。武蔵の狼信仰は、三峯神社を拠点として各地にひろがっています。

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三峯神社のオオカミ

「初衣祝」も「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と同じ行事と研究者は考えています。
これは「寒(狐)施行」「狐狩り」が、狐の害を防ぐことでなく、狐から福をさずかる行事であるように、狼や狐の出産(多産)にあやかった豊饒予祝の行事と云うのです。狼や狐は、山に住む冬の動物というだけでなく、巣穴で子を沢山生みます。そのことも、死(穴こもり)と再生(多産)のイメージにつながります。塚や墓を狐塚といい、そこで狼を供養するのと、狼や狐に小豆飯を供える「初衣祝」「産見舞」の儀礼は一連の死と再生儀礼と研究者は考えています。
 多産な動物は狼・狐以外にもいますが、特に狼・狐が選ばれているのは、山の神の化身とみられていたからでしょう。山の神は、秋の終わりに山へ戻り、春の始めに再び山から里に降りて田の神になるといわれています。狼や狐の寒施行や産見舞は、山の神が里に降りる前の時期におこなわれることからみて、春の予祝行事としての冬(殖ゆ)祭と研究者は考えています。
 白鳥が冬の鳥であるように、狼も狐も冬の動物です。
その点では、狼を助けて「大きに饒富を致」した秦大津父の話は、秦伊侶具が「梢梁を積みて富み裕ひき」の白鳥伝説と同じ、秦氏にとっては大切な話であったはずです。だから、「オオカミ=狐」と姿を変えて伝わったとしておきます。稲荷の狐は「白狐」です。中国では、白狐は吉、黒狐は凶とされました。
『土佐郷土民俗諄』や『南路志』の土佐民話に「白毛の古狼」があります。
狼が鍛冶屋の姥に化けて出てきますが、この民話は「産の杉」という古木のそばで旅の女が子供を生んだ話から始まっています。「白」には死と再生(誕生)のイメージがあります。稲荷大社の創始伝承に登場する白鳥の「白」も、白狼・白狐の「白」と関係がありそうです。冬の鳥である白鳥や白鶴に穂落し伝承があるのも、「白」に死と再生のイメージがあるからだと研究者は考えています。「稲の産屋」を「シラ」と呼ぶのも、「白」のイメージにつながるようです。

三峰神社オオカミ
三峯神社の山犬(オオカミ)
三峰神社の狛犬でなくオオカミ
             三峰神社のオオカミ型の狛犬
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大嶽神社(西多摩郡檜原村白倉)の社伝には、日本武尊と山犬伝承があります。
『日本書紀』の景行天皇四十年条に載る日本武尊の東征伝承に、次のように記します。

山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異(あやし)びたまひて、 一筒蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。

意訳変換しておくと
(信濃に入った日本武尊が、信濃坂を越して美濃に出るときのこと)山の神が、王を苦しめようとして、白き鹿に化身して王の前に立った。日本武尊は怪しんで、 一筒蒜(ひる)を白き鹿に放った。それは鹿の眼に当たり殺した。ところが王は、道を失って、山からの出口が分からなくなってしまった。そこへ白き狼がやってきて、王を導き助けた。

ここに登場する「白き狗」は山犬(狼)のことです。この話が秩父と奥多摩の神社の社伝になっています。        
1987年9月23日の朝日新聞には、西多摩郡檜原村の旧家に「魔よけ」にしていた狼の頭骨があったと報じています。景行紀の日本武尊伝承の「鹿」や「狗」も「白き」鹿・狗です。『古事記』では、この伝承は相模国の足柄山での話になっていますが、やはり「白き鹿」が登場します。山村・農村の人々にとって狼が、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれることと共通します。白鹿・白狗・白猪が登場する記・紀のヤマトタケル物語では、墓に葬られたヤマトタケルは白鳥になって墓からぬけ出し、墓(白鳥陵)に入り、更に墓から天に飛び去っています。これは白鳥の死と再生の循環を示す物語テーマです。  
 伏見大社と白狐(イナリさま)の関係にも、こんなテーマが背後にあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
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伏見稲荷大社について|歴史や概要を詳しく解説
伏見大社(1897年)

伏見稲荷大社の創建を、『山城国風土記』逸文は、次のように記します。

   風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

意訳変換しておくと

風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を矢の的としたところ、餅は白鳥に姿を変えて飛び立ち、この山に降りた。そして山に稲が成ったのでこれを「稲荷(イナリ)という社名とした。(稲が自分の土地に実らなくなったことを)子孫は悔いて、社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

ここには次のような事が記されています。
①イナリ大社は、秦中家忌寸を祖先神とする秦氏の氏神であったこと
②秦氏がこの地に入って稲作農耕で豊かになったこと
③ところが稲で作った餅を矢の的にしたところ、餅は白鳥に化身して山に帰った。
④子孫は、これを悔いて山の木を抜いて家に持ち帰って植えて毎年祀った

「其の苗裔」とは、伊侶具の子孫の「秦中家忌寸等」のことです。「先の過」(伊侶具が餅を的にした行いのこと)を悔いて、神社の木を家に植えて根づくか枯れるかの祈いをおこなったというのです。ここに登場する「白鳥」については、穀霊の白鳥に穂落し神のモチーフがあると研究者は指摘します。そして、稲荷山の3つの峰の古墳祭祀(お塚信仰)と白鳥伝承は、結びついていると云うのです。

伏見稲荷大社創建伝説
伏見稲荷大社創建説話と白鳥伝説

 また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。

稲の作神、農神としての田の神・山の神

まず民俗学で、稲の作神、農神としての田の神信仰がどのように伝えられているかを押さえておきます。田の神は、苗代作事や田植の直前に、近くの山から降りてきて、田に入り、稲の守り神として収穫時まで滞在し、収穫後、農家で手厚く祀られた後、山に戻るとされます。これを頭に入れて次に進みます。

まず穂落し神説話を見ておきましょう。これは穀物起源伝承でもあるようです。

ウカノミタマ(宇迦之御魂神)の姿と伝承|ご利益・神社紹介
                 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
ウカノミタマ

『古事記』は、スサノヲが出雲で「大気都比売神」に食物を乞うたシーンを次のように記します。
大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、機汚くして奉るとおもほして、その大宣津比売の神を殺しきたまひき。故、殺さえましし神の身に生れる物は、
頭に蚕生り。
二つの目に稲種生り。
二つの耳に粟生り。
鼻に小豆生り。
陰に麦生り。
尻に大豆生りき。
故、ここに神産巣日御祖の命、これを取らしめて、種と成したまひき。
『日本書紀』は、月夜見尊が保食神を殺した死体から、穀物・牛馬・蚕が化生した話を載せています。
  こうして見ると「穀物起源説話=死体化生伝承」でもあることが納得できる気がしてきますす。
なぜ穀物起源説話に、神や人間の祖先の死体から穀物などが発生したとする死体化生の神話が登場するのでしょうか? それについて研究者は次のように説明します。
①「種」には「死」が内包するとされていた。
②「種」は、春、土にまかれて「芽」となり、夏に成育・生長し、秋に「実」となり、刈りとられて再び「種」となる。
③土から離れることは死を意味し、死と再生の循環があった。
④「種」の保管場所が「倉」でなので、「種」は「倉稲魂」という神名を与えられた
⑤「倉」にある期間は、種は土から離れた「死」の状態で、この時期が「冬」になる。
⑥「死ー冬―種」は、古代人にとって一連の同義語で、「倉稲魂」も同じ意味になる。
⑦  折口信夫は「冬」は「殖ゆ」だと云う。
このように古代人の死のイメージは、私たちが考える「終末としての死」ではないようです。再生・循環のための死が冬ですから、冬に飛来する白鳥は穀霊のシンボルとなります。穀物が死体から化生するのも、死・冬のイメージからきます。ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからです。穀物の死体化生と同じように、白鳥は誕生もイメージします。「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」なのです。 「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」のイメージが重なっているからと研究者は考えています。
そこに穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰が結びつきます。『山城国風土記』逸文に、次のように記します。
南鳥部の里、鳥部を称ふは、秦公伊侶具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
意訳変換しておくと
南鳥部(トリベ)の里を、鳥部と呼ぶのは、秦公伊侶具が矢を放った的の餅が、白鳥に化身して飛び去って、やってきたのがこの森だったので鳥部と云う。

稲荷山の白鳥は鳥部の森へ飛んでいます。現在の鳥部は鳥部北麓の清水寺西南、大谷本廟の墓地の周辺だけを指しますが、もともとはもっと広い範囲だったようです。顕昭の『拾遺抄註』に、次のように記します。
「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ、ソノスソフバ鳥辺野トイフ。無常所ナリ」

鳥辺山=阿弥陀峰で、古代は北・西・南麓の扇状地一帯を指していたようです。そしてそこは「無常所ナリ」とあるので葬地だったことが分かります。
 稲荷山・鳥部のどちらの伝承も、登場人物は秦伊侶具です。葬地としての二つのアジールは、秦氏の勢力下にあったことがうかがえます。鳥部に秦氏がいたことは、天平15年(743)正月7日の『正倉院文書』に、愛宕郡鳥部郷人として「秦三田次」の名があることからも裏付けられます。この地には、鳥部古墳群・梅谷古墳・総山古墳がありますが、どれも後期古墳です。こうした古墳があることから、平安遷都以前からの葬地だったことがうかがえます。こうしてみると白鳥伝承は葬地としての稲荷山と鳥部から生まれたことがうかがえます。

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稲荷社創始の白鳥伝説には、次のように記されていました。

「白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊爾奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」

稲荷山の峯に稲が実ったのです。稲荷山の峯には古墳があります。こうして稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になります。稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神と当時の里人達が考えていたからと研究者は推測します。ここからは、稲荷山のお塚信仰が穀神信仰から生まれたことがうかがえます。

記・紀は、ヤマトタケルは死んで白鳥になったと記します。
冬に飛来する白鳥は、死霊の化身です。「餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて」とあったように、弓で射られた餅が白鳥になったというのは、白鳥を死霊と見立てていると研究者は指摘します。
『豊後国風土記』速見郡田野の条には、次のように記します。

百姓が餅を的にして射つたところ、餅が白鳥に化して南へ飛び去った後、「百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたり」

これは稲荷山の白鳥伝承と重なり会います。ところが「豊後国風土記」は「豊国(豊前+豊後)」の起源説話には、白鳥が北から飛米して餅となり、しばらくして、数千株の里芋に化して「花と葉が冬も栄え」たので、朝廷に報告したら天皇が「豊国」と命名したと記します。
『豊後国風土記』の白鳥となって飛び去り、また白鳥が飛び来ることは、滅(死)と豊(生)をあらわ
すと研究者は指摘します。「山城国風土記」の射られた餅が白鳥になったのは、死であり、その白鳥が稲荷山の峯に飛来したのは、生です。それは、死からのよみがえりの再生です。この死と再生を一緒にした話が、『山城国風土記』の伝承と研究者は考えています。鳥部へ白鳥が飛んで行ったというのも、この場所が葬地だったからです。葬地は再生の場所でもありました。
そう考えると、稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰ということになります。『山城国風土記」の白鳥伝説が、秦伊侶具の「稲梁を積みて富み裕ひき」という話になっているのも、そのことを示しています。稲荷のお塚信仰と白鳥伝承は別個のものと、従来はされてきたようです。しかし、以上のような立場に立つと、稲荷大社の二月の初午祭も、冬(死)から春(再生)への、死と再生の祭りと研究者は考えています。
 なんか分かったような、わからないような展開になりました。民俗学的な話は、どうも私には苦手です。しかし、伏見稲荷大社の白狐伝説を理解する上では、避けては通れない道のようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

空海と秦氏の関係を追いかけていると出会ったのがこの本です。

秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究 / 大和岩雄 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

秦氏の渡来と活動


この本の中にある秦氏の神社と神々の中に伏見稲荷大社のことが書かれてありました。興味深かったので、読書メモ代わりに載せておきます。

花洛名勝図会 高瀬川から伏見稲荷への参道
     『花洛名勝図会』高瀬川から伏見稲荷までの参詣道。初午のにぎわい。
伏見稲荷大社の創建は、『山城国風土記』逸文に、次のように記します。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠つ祖、伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき、乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白い鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊繭奈利生(いねなりお)ひき。遂に社の名と為しき。

意訳変換しておくと
伊奈利(いなり)は、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠祖で、伊侶具(いろぐ)秦公が稲梁(いね)を積んで富み栄え、餅を的としたところ、白鳥に化身して、飛び翔って山の峯にとまった。これを伊繭奈利生(いねなりお)と呼び、社の名となった。

ここからは、「稲 → 餅 → 白鳥 → 稲荷山」と穀物信仰と、秦氏の祖先信仰がミックスされていることがうかがえます。

伏見稲荷大社の創建を見ておきましょう。
『二十二社註式』や『神名帳考証』『諸社根元記』は、稲荷社の創祀を和銅四年(711)とします。
『年中行事秘抄』は、神祗官の『天暦勘文』(10世紀中頃)を引用して次のように記します。
  但彼社爾宜祝等申状云、此神、和銅年中、始顕在伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等、(中略) 即彼秦氏人等、為爾宜祝、供仕春秋祭等・。
意訳変換しておくと
  彼社爾宜祝等には、この神は和銅年中に始めて伊奈利山三箇峯に現れ、これを秦氏の祖先が祭ったと記す。(中略) そこで、 秦氏一族は、春秋に祭礼を行う。

 ここにも、稲荷社の創祀は和銅年間とされています。しかし、この「創祀」は秦氏が社殿を建てて「伊奈利(イナリ)社」として祀った時期のことで、それよりも古くから稲荷山の神が信仰されていたことになります。


  研究者が注目するのは、稲荷山には、一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯、荒神峯の山頂に、それぞれ古墳があったことです。『史料・京都の歴史・考古編』は、次のように記します。

伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
稲荷山古墳群 丘陵斜面 稲荷神社境内 円墳 三基 半壊 横穴式石室 後期
稲荷山一ノ峯古墳 山頂 円墳 全壊 前期
稲荷山ニノ峯古墳 山頂 前方後円墳の可能性あり 半壊 前期
稲荷山三ノ峯古墳 山頂 墳形不明 半壊 竪穴式石室 二神三獣鏡 碧玉白玉 変形四獣鏡片出土 前期
稲荷山の峯には、三基の前期古墳がある。それぞれ継続的に築造されたと考えられ、稲荷山古墳を形成する深草一帯の首長墓である。

『日本の古代遺跡・京都1』は、次のように記します。

「一ノ峰、ニノ峰、荒神峰の頂上『お塚』のあるところが古墳である。『お塚」で古墳は変形されているが、ニノ峰古墳は全長約七〇メートルの前方後円墳、他の三基は直径五〇メートルの大型円墳とみられる。古く鏡、玉類が出土しており、継起的にきずかれた前期古墳とおもわれる。西麓にあった番神山古墳はこれらにつづく首長墓とみられているが、全長五〇メートルの前方後円墳という以外いっさい不明のまま消滅した」

こうして見てくると稲荷山の山頂の3つの古墳は、「秦氏の始祖の墳墓」のように思えてきます。確かに秦氏の稲荷信仰を、稲荷山に対する秦氏の祖霊信仰とする説もあります。しかし、そうではないと研究者は指摘します。
 秦氏が大和の葛城から深草に移住し、更に葛野(嵯峨野)へ入植するのは5世紀後半のことのようです。井上満郎氏は次のように記します。
「嵯峨野の古墳が五世紀末・六世紀初ということは、葬られている人間が生きていたのは五世紀後半ということにならぎるをえない。すなわち、嵯峨野一帯の開発、つまりは秦氏の定着はこのときということになる」
 稲荷山山頂に前期古墳が築かれるのは4世紀後半のことですから、秦氏がやってくる前にあったことになります。秦氏以前の氏族の墓ということになります。

伏見稲荷山周辺の古墳群
伏見稲荷山周辺の古墳群(山頂が前期、山麓が後期古墳群)

ただし、
①西麓の番神山古墳は5世紀末で、
②稲荷山山麓には円墳の山伏塚古墳、谷口古墳、
③深草砥粉山町の丘陵尾根上には、砥粉山古墳群と呼ばれる円墳3基
これらは後期古墳なので、秦氏の墓とできそうです。
 つまり、同じ稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別の氏族で、稲荷山山頂の古墳は秦氏
の移住前の首長の墓であることを押さえておきます。
①秦氏以前の氏族は稲荷山山頂の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀
②こうした地元民の祖霊の山の信仰に、秦氏の信仰が接ぎ木され
③現在の稲荷山の信仰へ
という流れを押さえておきます。

『枕草子』の「うらやましげなるもの」の段に、稲荷山参拝が次のように記されています。
稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しさを念じ登るに、いささかの苦しげもなく、遅れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし
意訳変換しておくと
思い立って稲荷山に参拝した。中の御社への苦しい登りを念じながら登ると、いささかの苦しみもなく登れた。私が遅れるだろうと想っていた者どもの先に立って詣でることができた。いとめでたし

ここからは、清少納言がニノ峯の中社に詣でていることが分かります。一ノ峯は上社、三ノ峯は下社で、二ノ峰が中社ですが、その他に詣でたことは記されていません。どうしてでしょうか?
 伴信友は『験の杉』で、中社が本社だと書いています。「中の御社」のニノ峯古墳だけが前方後円墳で、他は円墳であることも、稲荷山信仰の原像が「先祖崇拝」であったことがうかがえます。


 全国遺跡地図には「稲荷」のつく古墳名が総計189基が載せられています。
「稲荷」とつくのは、古墳に稲荷社を祀ったためですが、「稲荷」の名のつかない古墳にも稲荷社が祭られているところがあります。例えば、『岡山県埋蔵文化財台帳』には、岡山市高松に竜王山古墳群(十一基)があり、山麓に最上稲荷神社があります。また、茨城県石岡市の山崎古墳、結城市の繁昌塚古墳、滋賀県栗東町の宇和宮神社境内の古墳、京都市右京区太秦の天塚古墳、西京区大枝東長町の福西古墳群、京都府天田郡夜久野町の枡塚古墳にも、稲荷社が祀られているようです。
これは、伏見稲荷山「お塚信仰」と結びついているようです。
上田正昭は、お塚の「塚」の由来について、次のように記します。

「ニノ峰より傍製の二神三獣鏡や変形四獣鏡が出上しており、四世紀の後半頃にはすでにその地域が聖なる墓域とされていたことをたしかめることができる」

ここからは、お塚信仰は、この山頂の古墳祭祀にさかのぼることがうかがえます。

16世紀前半に作られたとされる「稲荷山山頂図」には、山頂に上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚などの名が見えます。
上ノ塚は一ノ峯古墳、
中ノ塚はニノ峯古墳  倉稲魂神を主神 佐田彦命
下ノ塚はノ峯古墳
荒神塚は荒神塚古墳
「お塚」は現在、稲荷山に約一万基も立てられていますが、不規則にあるのではなく、 一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯の山頂を中心に、それぞれ円陣をえがき、ストーンサークル状に配されています。お塚に詣でることを「お山する」というようです。稲荷山山頂に登ることは、「お塚(古墳)」を拝することでした。この「山の峯」に「社」を作ったと、『山城国風土記』逸文は記します。
当社の社殿は、三つの峰にあったようで『雍州府志』には次のように記します。

山頂有三壇、古稲荷三社在斯所、弘法大師移今地、毎年正月五日、社家登山上拝三壇始依為鎮座之処也。

意訳変換しておくと

山頂には三壇あり、古くは稲荷三社はここにあった。それを弘法大師が今の地に移した。毎年正月五日に社家が山上に登り、三壇に拝する。これが最初の鎮座場所である。

ここからは、山頂の三壇(古墳)が信仰対象であったこと、弘法大師が登場してくるので真言密教の社僧の管理下に置かれたことが分かります。こうして平安時代になると稲荷信仰は真言密教と習合して、修験者や聖などによって各地に広められていくことになります。ここまでをまとめておきます。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?
                全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景


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             吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』


今は山麓の稲荷社拝殿から山頂にかけての参拝路には、約二万といわれる朱塗の鳥居が立ち並びます。現在の「お山巡り」も、中世の一ノ塚、ニノ塚、三ノ塚、荒神塚の「お塚巡り」を継承しているようです
以上をまとめておきます
①稲荷山周辺には、有力氏族がいて古墳時代初期に二ノ峰に首長墓である前方後円墳が築いた。
②その後は盟主分と円墳がそれぞれの山頂に継続的に築かれ、祖先神を祭る霊山となった。
③先住氏族に替わって5世紀後半に入植した秦氏も稲荷山に古墳を築き、引き続いて信仰対象とした。
④奈良時代以後も、稲荷山周辺は死霊をまつる霊山として信仰の対象となった
⑤稲荷山参拝は「お塚(古墳)」を拝する「お塚めぐり=お山巡り」という形で受け継がれた。
⑥古代末から稲荷大社では、弘法大師信仰が高まり真言密教系の社僧が管理運営するようになった。
⑦すると、廻国の修験者や高野の聖達によって、「お塚信仰」が全国に展開し、古墳に稲荷神社が勧進されるようになった。

今回、私が興味深かったのは、山の上に造られた古墳が祖先崇拝のシンボルとして、後の人達に受け継がれて、その山が信仰対象として霊山化していく過程やそれが全国展開していく道筋が辿れることです。これを丸亀平野に落とし込んでみると、大麻山の山頂近くに姿を見せる野田院古墳が思い浮かんできます。この古墳が祖先崇拝の対象となり、麓に大麻神社が鎮座し、霊山化し、そこに山林修験者が入ってくる。そして彼らが「大麻山 → 五岳 → 七宝山 → 観音寺」をつないで修行し「中辺路」を形成していくというストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

 讃岐国府跡を流れる綾川上流の、羽床盆地は古墳の密集地で、大規模な古墳群を形成しています。
しかし、時期・内容がよく分からないものが多く、私には空白地帯となっていました。その中で手がかりとなる資料に出会えましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
まずは編年表にしたがって出現順に古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳分布図JPG

最初に羽床盆地の古墳を5つにグループ化します。
A 北部        快天塚古墳 浦山12号墳
B 北西部 
C 中央北部
D 中央南部
E 東部
その編年表が以下になります。
羽床盆地の古墳編年2
羽床盆地の古墳編年表
羽床盆地の古墳編年

羽床盆地の古墳編年表(拡大版)
古墳編年表2

Ⅰ期 羽床盆地で最も古いのは、盆地北部の快天山古墳です。

快天塚古墳6
快天塚古墳5


                     快天塚古墳
この古墳については何度も取り上げたので副葬品などは省略します。研究者は注目するのは3基の刳抜式石棺です。
快天塚古墳石棺
快天塚古墳の3つの石棺

これらは国分寺町鷲ノ山の石材で造られたもので、1号・2号石棺は割竹形木棺を忠実に模した初期モデルで、全国で最も古い刳抜式石棺とされます。古墳の立地場所は、羽床盆地から丸亀平野へ出口にあたる丘陵上で、鵜足郡との境になります。阿野郡と鵜足郡に跨いで勢力をもっていた首長墓のようです。快天塚の被葬者達は、刳抜式石棺を最も早く使用しているので、その生産地の国分寺町鷲ノ山の石工集団を支配下に置いていたようです。また、刳抜式石棺が製作されるようになると国分寺町では有力古墳が造られなくなります。ここからは、快天山古墳の被葬者は国分寺町域までも勢力に置いていたと研究者は推測します。
 しかし、快天塚古墳の被葬者に続く首長達は、その勢力をその後は維持できません。ヤマト政権は鷲の山の石棺製造集団を引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じています。つまり、ヤマト勢力によって快天塚の後継者達は押し込められたようです。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったと研究者は考えています。
快天塚古墳に続く盟主的な古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳4
羽床盆地の古墳
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北流してきた綾川が大きく東方向に流れを変えるポイントが「白髪(しらが)渕」です。この左岸(北側)の丘陵を浦山(うらやま)、対岸の突き出す地形を津頭(つがしら)と呼びます。
Ⅱ期 浦山12号墳は、快天塚と同時期の古墳で、綾川の北の「A 北部」に位置します。
直径10m前後の円墳で、割竹形木棺を粘土で覆い、墳丘構築のため丘陵部を切断した溝状部には、墳丘側、丘陵側双方に貼石しています。さらに平野側には墳丘を挟むようにハ字形の列石を配し、配石のない中央を通路として使用しています。古墳時代前期を特色づける割竹形木棺をもつ一方で、弥生時代の墳丘墓の特徴を色濃く残した古墳で、Ⅱ期のものと研究者は判断します。その隣の浦山11号古墳は組合式木棺を粘土被覆していることと、刀子・斧・鎌が出土しているのでⅡ期~Ⅲ期に比定されます。

善通寺・丸亀の古墳編年表

Ⅲ期 快天山古墳に続く大型古墳(盟主墳)は「A 北部」に位置する津頭東古墳です。
①径35mの円墳、葺石・埴輪あり。
②多葬墓で、竪穴式石槨4基と粘土槨2基があり、
③1号石槨は、板状安山岩を小口積みした竪穴式石槨
④内行花文鏡、鉄剣2、太刀1、鉄斧2、(ヤリガンナ)1、鉄鏃を出土

 津頭東古墳から400mほど下流にあるのが「A 北部」の津頭西古墳(蛇塚)です。
①径7mの円墳
②竪穴式石槨から、画紋帯環状乳四神四獣鏡(径14.8cm)、三環鈴、銀製垂飾り付き耳飾りの残穴、衝角付き冑、眉庇付き冑、横矧板鋲留式短甲3、頸甲1、小札括り、金銅製鏡残片、鉄矛2、直刀、直弧文付き鹿角製刀装具、槍身2、石突きの残穴、鉄鏃残片、鉄斧、須恵器(高杯3、蓋杯2)などと、副葬品が豊富
③5世紀後半の築造。
羽床津頭西古墳 津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」
             津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」

副葬品の多さと優秀さからみて、Ⅲ期の津頭東古墳に続く首長の古墳と研究者は考えています。

羽床盆地の古墳分布図JPG
羽床盆地の古墳群
綾川をさかのぼって上流へ向かうと「C 中央北部」に、8~10基の円墳で構成される「末則古墳群」あります。その盟主墳が「末則(すえのり)1号墳」です。ここも末則湧水の下に、弥生時代から拓かれた谷田があります。谷田と背後の山林を経済的基盤とした勢力の築いた古墳群のようです。

末則古墳 羽床古墳群
①径約25mの円墳で、葺石と埴輪が2重にめぐり、
②円筒・朝顔形埴輪、石製獣形品(猪か馬)、須恵器片が採集。
③埋葬部は、隅丸長方形の土壙のなかに竪穴式石槨があり、石材は川原石で、最上段には板石
④鉄刀(90.5cm)、鉄剣(62.5cm)、鉄鏃10を出土

末則古墳の出現は、これまで羽床盆地の「A 北部」に築造されていた有力古墳(盟主墳)が、はじめて盆地中央部でも築造されたことに意義があると研究者は考えています。しかし、この古墳は墳丘規模だけ見ると「A 北部」の有力古墳と同規模ですが、副葬品を見ると「鉄刀1・鉄剣1・鉄鏃10」だけで、短甲や馬具などが出てきません。副葬品の「貧弱」さは、「A 北部地区」との経済的・政治的格差を示すものと研究者は評します。5世紀後半の時点では、中央部は「発展途上地域」だったとしておきます。
末則古墳の被葬者が拠点としたしたのが末則遺跡です。
この遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主だったのでしょう。
末則古墳 羽床古墳群.2jpg

現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。そこには水神も祭られていて、聖なる場所でもあったことがうかがえます。神水鼻の対岸(羽床上字田中浦)には「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設でした。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。
Ⅳ期 浦山11号・12号墳の北側の丘陵上に立地する白梅古墳
①直径10m前後の円墳で、2基の箱式石棺の双方から鉄刀を出土
②時期を半田する遺物が出土していないが、須恵器や馬具が出ていないのでⅣ期までに編年
V期(5世紀後半)の羽床盆地の特徴は
①大型古墳が姿を消し、直径20m前後の中規模古墳が小地域ごとに成立
②そこに古式群集墳が多く築造され、古墳築造が急激に拡大する。

その他の有力古墳としては、滝宮小学校に隣接する岡の御堂1号・2号墳があります

岡の御堂古墳 羽床盆地
岡の御堂1号・2号墳の説明版

羽床盆地のⅤ期(中期古墳)の代表的な例として「岡の御堂古墳群」を見ておきましょう。
滝宮小学校の移転新築のために1976年に発掘調査され、2、3号墳はなくなりました。埋葬施設が移築保存された1号墳を見ておきましょう。
①径13mの円墳で、幅2,5mの周濠で葺石、円筒・朝顔形埴輪出土
②埋葬部は川原石と板石による箱式石棺が東頭位にあった
③盗掘を受けていたが、鉄刀(長さ107.5cm)、鉄剣3、鉄矛1、鉄鏃25以上、横矧板鋲留式短甲1、轡1、鮫具1、帯金具9以上、鉄鎌1、鋤先2、鉄斧2、刀子2、須恵器・土師器多数を出土。
④5世紀後半の築造。
中期古墳には、武具と鉄製武具が多いことに気がつきます。「武具・馬具」は、鉄を得るために朝鮮半島南部にヤマト連合政権が足がかりを確保しようとして苦労していた時代の特徴とされます。

横矧板鋲留式短甲2

横矧板鋲留式短甲

この時期の短甲は、ヤマト政権が一括大量生産して地方に分与していたものもあります。ここからは以前は次のような説が一般的でした。

高句麗の南下政策に対応するために、国内の豪族が動員され、その功績として威信財としての短甲や馬具が支給された。

しかし、近年の研究からは短甲は「倭系甲冑」として日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもおよんでいたことが分かっています。

韓半島出土の倭系甲冑
朝鮮半島出土の倭系甲冑分布図
倭と伽耶の鎧比較
伽耶と京都宇治二子山の甲冑比較


倭と伽耶のかぶと
左が倭の甲冑、右が伽耶の甲冑
倭と伽耶の武器比較2
左が倭 右が伽耶
ここからは、半島の渡来有力者を列島に招き入れて、各地に「入植」させたということも考えられます。そうだとすれば、羽床盆地の開発者は渡来人であったということになります。

 私が気になるのは、津頭西(蛇塚)古墳から出てきている「銀製垂飾り付き耳飾りの残穴」です。
この時代に、百済の「特産品」である耳飾りが「海の民(倭人)」によって列島にもたらされています。


女木島丸山古墳5

伽耶のイヤリング
朝鮮半島の百済のネックレス

そのひとつが女木島の丸山古墳から出土していることを以前にお話ししました。
女木島丸山古墳4
5世紀の東アジアの海洋交易

内陸部の羽床盆地から百済やヤマト政権で造られた威信財が出てくること、被葬者がそれをどのようにして手に入れたのか考えると、いろいろな想像が浮かんできます。
倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルもあったようです。そして、女木島の丸山古墳の被葬者と羽床盆地のリーダー達は、ネットワークで結ばれていたことになります。ヤマト政権以外にもいろいろな交流チャンネルがあったことを押さえておきます。

5世紀後半の羽床盆地で古墳築造が爆発的に増加するのは、どうしてなのでしょうか?
その背景は、このエリアが馬の飼育に適していたからだと研究者は考えています。羽床盆地東部の綾川町陶には洪積台地が広がっていて、水の便が悪く、大規模な灌漑施設がなかった時代には水田耕作が難しかったようです。そのため古墳時代には森林や森林破壊後の草地が広がる地域だったと研究者は考えています。そのため、5世紀後半頃の羽床盆地では、馬の飼育が盛んに行われるようになります。このエリアから馬具や甲冑をもった有力古墳や古式群集墳を盛んに築造したのも渡来系集団の存在が考えられます。そうした中で、蛇塚古墳は羽床盆地で最も力をもった首長の墓で、岡の御堂1号・2号墳は地域的首長を支える有力構成員であったと研究者は考えています。

 この時期の羽床盆地で形成された群集墳を挙げて見ます。
A 盆地北部に浦山古墳群(3号・4号墳の2基)・滝宮万4古墳群(4基)
B 盆地北西部の羽床に中尾古墳群(5基)
A 盆地北部の三石古墳群(3基)・白石北古墳群(3基)
B 盆地北西部(羽床)の浄覚寺山古墳群(4基)
C 盆地中央部の北側では末則古墳群(7基)
E 盆地奥部の川北1号墳は竪穴式石室をもつことから、この時期に築造された可能性が高い
Ⅵ期 横穴式石室の導入期
綾川流域では河口の雄山に最初の横穴石室を持った古墳が築かれます。それは韓半島の九州の竪穴系横口式石室の影響を受けて羨道をもたない小規模な横穴式石室です。それに対して、羽床盆地の横穴式石室導入期の本法寺西古墳浦山5号墳は横長の玄室に狭い羨道です。これは両者が異なった地域から影響を受けて横穴式石室を導入したと研究者は考えています。つまり、この時期までは阿野北平野と羽床盆地の勢力は別系統に属していたということになります。

  研究者が注目するのは、羽床盆地のⅥ期の古墳が小規模で、有力古墳が見当たらないことです。
 羽床盆地のⅦ期の特徴を見ておきましょう。
①横穴式石室の築造は羽床盆地全体に広がるが、大型横穴式石室は出現しない
②これまで古墳築造の中心であった盆地北部では古墳築造が減少する。
③それに代わって、古墳築造活発地が盆地北西部の羽床地域に移動する。
 羽床勢力は、平芝2号墳、奥谷1号墳、膳貸1号・2号墳などの横穴式石室をもつ小型古墳を造り続けます。これらの群集墳はいずれも後期群集墳で、羽床地区全体ではこの時期に20基をこす古墳が築造されたと研究者は考えています。
 これに対して、盆地北部では浦山10号墳、小野内聞1号~3号古墳・岡田井古墳群などが築造されていますが十数基程度です。盆地中央部の南側(綾上町牛川・西分)では、梶羽1号・2号墳・小川古墳の3基で横穴式石室が確認されています。また、盆地中央部北側の末則古墳群の近くにある菊楽古墳も横穴式石室をもち、Ⅶ期に属するものとされます。そして、羽床盆地では7世紀前半以後には羽床盆地では古墳は造営されなくなっていきます。そして、終末期の巨石墳や、それに続く古代寺院も建立されません。羽床盆地の勢力は群集墳は造られ続けるが、それをまとめ上げる盟主がいなかったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
善通寺・丸亀の古墳編年表

快天塚古墳をスタートとする羽床盆地の勢力推移を整理しておきます

羽床盆地の古墳と綾氏

①盆地北部に快天山古墳(Ⅱ期)→津頭東古墳(Ⅲ・Ⅳ期)→蛇塚古墳(V期)と続く盟主墳の系譜がある。
②中心は盆地北部で、4世紀から5世紀後半には、このエリアの集団が主導的地位を握っていた
③北部集団は、快天塚の被葬者の頃(4世紀中頃)には羽床盆地ばかりでなく、国分寺町域も支配領域に含めていた。
④Ⅴ期(5世紀後半頃)になると、盆地北西部の羽床に浄覚寺山古墳群・中尾古墳群が、盆地中央部の北側に末則古墳群が築造され、古墳築造が拡大し、盆地奥部にも古墳が築造され周辺開発が進んだ。kこの背景には馬の飼育が関係することが考えられる。
⑤Ⅶ期には盆地の各所で横穴式石室の群集墳が築造されるようになった
⑥北部勢力は、その後に大型横穴式石室を築造できずに、6世紀末頃に弱体化した。
⑦代わってⅦ期に主導権を握るようになるのが、北西部の羽床地区の集団である。
⑧羽床の群集墳は密集したものではなく、比較的広い範囲に5基前後のグループが散在したものである
⑨羽床盆地全体に大型横穴式石室の築造がないことと併せて考えると6世紀末頃の羽床盆地では地域権力の集約が行われなかった
⑩その結果、綾川下流の阿野北平野を拠点とする勢力(綾氏)の勢力下に入れられた。

⑩の「地域首長の墳墓とみられる大型横穴式石室の不在」 + ⑨の「坂出地域と比べると、後期群集墳の分布がやや散漫」=阿野北平野南部(坂出市府中周辺)に比べて権力集中が進まず、劣勢の立場で、阿野北平野の勢力(綾氏?)に飲み込まれて行ったと研究者は考えています。

 6世紀末になると、羽床盆地では地域権力が衰退します。そこに進出してくるのが綾氏です。
綾氏は、農業、漁業、製塩に加え、羽床盆地の馬も掌握し、舟だけでなく、馬を用いた交通、軍事を背景に勢力を築いていきます。さらに、陶に豊かな粘土層があるのに気がつくと、そこに中央政権の支持を取り付けて最先端の窯業技術を持つ渡来集団を入植させて須恵器の工業地帯を作り上げます。こうして奈良時代になると綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。つまり、十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。そのプランナーは綾氏だったことになります。陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群であったことを押さえておきます。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
奈良時代以前の讃岐の須恵器の市場分布図(十瓶山窯独占化以前)
 
陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。
これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不便なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆われた原野で、燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。
 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得します。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。
 こうして綾氏によって整備された「坂出府中=陶・滝宮」という綾川水運ルートに乗って、後には国司となった菅原道真が滝宮に現れると私は考えています。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
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坂出 条里制と古墳
坂出市阿野北平野の古墳群と古代寺院
研究者は古墳群について、つぎのような見方を持っています
①古墳群は、血縁や擬制的血縁関係で結ばれていた集団によってまとまって作られた
②そのため古墳群の規模、内容、変遷等は、その氏族集団の性格や盛衰を映し出している
③そうだとすれば、古墳群のあり方から氏族を復元することができる
この考えに従って、阿野北平野周辺の古墳群と阿野郡の古代氏族を探って行くことにします。テキストは「「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」」です。

讃岐綾氏の活動

阿野北平野南部の大型横穴式石室と綾氏との関係について、最初に指摘したのは羽床正明氏で次のように記します。
山田郡司牒に「大領外正八位上綾公人足」の名があることに注目し、次のように推論します。
①8世紀後半に綾氏が山田郡の郡司になっているのは、大宝3(703)年3月の「有才堪郡司。若雷徊有三等已上親者。聴任比郡」に基づくものである。
②綾氏が比郡(隣郡)の郡司に任じられた背景として、新宮古墳・穴薬師(綾織塚)古墳・醍醐古墳群などの大型横穴式石室の存在から6世紀後半から7世にかけて綾氏が阿野郡で活発に活動していたことが想定できる
③そうしたことを踏まえて、綾氏が孝徳朝立郡(評)以来の譜代を獲得したこと。
続いて松原弘宣氏には、山田郡司牒、『日本霊異記』などの文献や古墳から次のように記します。
①綾公氏は阿野・香河・山田3郡にわたる有力地方豪族である。
②阿野郡で6世紀末に大型横穴式石室が突然築造されるようになるのは、6世紀後半以降にこの地域の有力氏族・綾氏が台頭してきたため
③新宮古墳→開法寺、綾織塚(穴薬師)古墳→鴨部廃寺、醍醐古墳一醍醐廃寺と大型横穴式石室と古代寺院が連続的関係をもって分布していること
④巨石古墳と古代寺院の連続性は、綾氏が阿野北平野を引き続いて勢力圏に置いていたから生まれた
⑤山田郡高松・宮所郷地域にある大型横穴式石室は山田郡大領綾公氏の祖先の墓ではないか
 両氏は、山田郡の綾氏については見解が異なるりますが、次の点では一致します。
A 律令時代の阿野郡が綾氏の根拠地であったこと
B 6世紀末頃~7世紀前半頃の大型横穴式石室が綾氏によって築造された
 
坂出阿野北平野の古墳分布図1

坂出
市阿野北平野の古墳分布図
古代綾氏と阿野北平野の古墳・古代寺院


上表のA・B・Cの三つの集団は、7世紀中頃以降になると古墳築造を停止して、氏寺を建立するようになります。
A 平野南西端部集団 7世紀中頃に開法寺
B 南西部部集団   7世紀末頃に醍醐廃寺
C 南東端部集団   7世紀後半に鴨廃寺

阿野郡では坂出平野南部に立地するこれら三つの寺院以外に、古代寺院は見つかっていません。この3つの勢力以外に、寺院を建立することのできる有力集団はいなかったことを示しています。ところが文献には、7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しか確認できません。これについては、次の2つのことが考えられます。
①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが、その中の一つの氏族の名が偶然に文献に残った
 ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 これについては、以前にお話ししたように、②の説が従来は支持されてきました。その理由は、
A 三つの集団がそれぞれが建立した開法寺、醍開醐廃寺、鴨廃寺の瓦は、綾南町陶窯跡群で一括生産されたものが運び込まれていること
B 三つの集団は、約3km四方の狭い地域に近接して墓域を営んでいること
以上から三集団は、近接して居住し、日常的に交流が密接に行われ、婚姻関係を通じて、綾氏として一つの氏族「擬似的血縁集団」にまとまったとされます。そして6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地、国分寺地域へも勢力を拡大し、その領域が律令時代に阿野郡になったとします。
  これらを、研究者は次のようにまとめます。
   以上のように考えれば、綾氏は坂出平野南西端部に古墳を築造した集団を中心として、平野南端 に三つの古墳群を築造した集団からなり、古墳時代初期まで系譜をたどることができる。さらに、平野東南端部の方形周溝墓は、弥生時代後期まで系譜が遡る可能性も示唆している。従って、綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく、この地域で成長した氏族であることがわかる。
これを「古代綾氏=弥生時代以来の在地的集団」説としておきます。これに対して、異論が近年出されるようになりました。瀬戸内海の対岸の播磨や備後での終末古墳と古代寺院の連続性について、最近の説を見ておきましょう。
  まず備後国府が姿を見せる過程を見ておきましょう。
史跡備後国府跡保存活用計画
備後国府と国分寺の所在地
 福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。このエリアには6世紀までは有力な首長はいませんでした。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、いくつもの終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が密集して建立されます。そして国衙や国分寺が「誘致」されます。それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然のように現れるのが終末古墳の二子塚古墳です。

備後南部の大型古墳
備後国府跡周辺の終末期古墳

   このような変動を桑原隆博氏は、次のような政治的変動が背景にあったとします。

「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。

「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」

 6世紀までは自立していた「吉備」が、畿内勢力に分割・解体されたこと。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として、有力者が何人も備後に派遣され、そこに終末古墳を競うように造営したことになります。「芦田川による南北の水運 + 東西の山陽道 = 戦略的要衝」に何人もの有力者が派遣され、最終的には備後国府が設置されたとしておきます。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

播磨の揖保郡の場合を見ておきましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
播磨揖保郡・揖保川中流 終末古墳と古代寺院の密集地
揖保郡エリアでは、揖保川が南北に流れ下って、古代から船による人とモノの動きが活発に行われていた地域です。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から古代官道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことになります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。吉備王国の解体後、播磨と備後で「包囲」するという戦略もうかがえます。
 律令下の揖保郡には、古代寺院が11カ寺も建立されます。
古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が「集住」していたことを物語ります。その背景としては、揖保川の伝統的な水運と「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力を挟み込んで抑制する体制強化策がとられたとします。

以上、見てきたように吉備王国の解体とヤマト政権の直接支配への対応として、東の播磨と西の備後に、畿内の有力者が何人も送り込まれ、狭い地域に「集住」することになります。彼らは、狭いエリアで生活するので、日常的な交流が密になっていきます。そのため巨石墳造営などについては、同じ技術者集団によっておこなれることにもなるし、古代寺院の瓦も共通の瓦窯を建設して共同提供するようになります。
終末古墳集中の背景

中浜久喜氏は次のように記します。

「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」
 
    この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道に沿って造られています。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、同じような性格を持つ古墳と考えられます。
この説が実際に阿野北平野の巨石墳に適応できるのかを見ておきましょう。

古墳編年 西讃

坂出 条里制と古墳


坂出市の古墳編年表1
坂出市の古墳編年表
古墳編年表2

A 平野南西部では、次のような系譜が見られます  
 小規模な積石塚(城山東麓古墳)→ 夫婦塚(Ⅲ期~Ⅳ期)→ 龍王宮1号・2号石棺(Ⅳ期) → 西福寺石棺群(Ⅳ期?)と箱式石棺の小規模古墳を造り続けます。それがV期になると王塚古墳という大型古墳を突然のように築造します。そして、中断期を挟んで、Ⅶ期の醍醐3号墳から皿期の醍醐7号墳まで大型横穴式石室が集中的に築造されるようになります。

B 平野東南端部では、
弥生時代後期の方形周溝墓 → 蓮光寺山古墳(Ⅱ期~Ⅲ期)→ 杉尾神社南古墳・杉尾神社南尾根石棺・杉尾古墳・サギノクチ石棺・松尾神社東石棺(Ⅲ期~Ⅳ期)、中断を挟んで、Ⅶ期になるとはじめて大型古墳を築造し、大型横穴式石室の穴薬師古墳が姿を現し、以後は多くの横穴式石室墳が築造されます。以上の三つの地域では、中断期を挟んで6世紀末頃に共通して大型横穴式石室を築造するようになります。

 平野南西部端部では、ここは後に讃岐国府が誘致されるエリアです。 このエリアの古墳変遷を見ておきましょう。

坂出市阿野北平野 新宮古墳周辺
Ⅰ期 前方後円墳の白砂古墳 → Ⅲ期 タイバイ山古墳 → Ⅳ期 弘法寺古墳 
→ Ⅴ期 鼓ヶ岡古墳 → Ⅶ期 新宮古墳・新宮東古墳

このエリアには大型古墳が継続して造り続けられています。3世紀末頃から6世紀末頃にかけて、ここに強力な地域権力をもつ集団が存在したことがうかがえます。しかし、V期とⅦ期の間には中断期があるようです。大型巨石墳の造営が再開されるのが6世紀末から7世紀初めです。これは蘇我氏が物部氏とのヤマト政権内部の権力闘争に勝利した時期にあたります。そして、先ほど見た吉備王国の分割・直営化のために、播磨や備後に有力者が派遣され「集住」状況が作られた時期と重なります。対吉備分割策の包囲網の一環として、備讃瀬戸の対岸である阿野北平野に有力者が集められたという説になります。そして、彼らが白村江の敗北後の軍事緊張の中で、城山に朝鮮式山城を築き、戦略交通路として南海道整備を行い、そこに国府を誘致したというストーリーです。
 ちなみに綾氏は、もともとは「東漢(あや)」だと研究者は考えています。
東漢(あや)氏は渡来系で、播磨風土記にはよく登場します。そこには、讃岐との関係のある話よく出てきます。それは、讃岐の綾(阿野)氏と播磨の東漢氏の結びつきを示すものかも知れません。こうしてみると、綾氏が弥生時代以来の在地性集団という説は怪しくなります。
  もうひとつ別の視点からの阿野北平野への有力氏族の集住説を見ておきましょう。
大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
 大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 
  要点をまとめておくと
①伊予東部と結びついた大野原古墳群の勢力拡大
②それに対抗するために、旧来の讃岐各勢力が「豪族連合」を結成して、阿野北平野に集住
③それが阿野北平野への城山城造営や国府誘致の動きにつながる

ここでは、讃岐内の有力氏族の連合と集住という説ですが、阿野北平野の巨石墳が外部から「移住」してきた勢力によって短期間に造営されたとされています。やって来たものが何者かは別にしても「集住」があったという点では共通する認識です。

 かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたことが明らかにされています。
DNA 日本人=古墳人説
     「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになる
この説によると、大量の渡来人がやってきたのは弥生時代よりも、古墳時代の方がはるかに多いようです。その数は、それまで列島に住んでいた弥生人の数を超えるものであったとされます。だとすると、 従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着したことが考えられます。善通寺の場合にも、弥生時代の「善通寺王国」は一旦は中絶しています。その後に、古墳時代になって「復興」します。この復興の担い手は、渡来集団であった可能性があります。それが、優れた技術力や公開能力、言語力を活かして、東アジアを舞台に活動を展開し成長して行く。それが佐伯氏ではないのかというイメージにたどり着きます。そのような環境の中で生まれたから真魚は空海へと成長できたのではないかと思うのです。
最後は別の地点に離着陸していましました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」

  古代讃岐の阿野郡と、その郡衙と綾氏について見ていきたいと思います。
テキストは「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。
  
丸亀平野の郡衙跡候補は次の通りです
阿野郡 岸の上遺跡(丸亀市飯山町法勲寺)      綾氏
那珂郡 丸亀市郡家町宝幢寺跡周辺                              ?氏
多度郡 善通寺南遺跡(旧善通寺西高校グランド)              佐伯氏
これらの郡衙は、南海道の整備後にかつての国造層によて整備・設置されたと研究者は考えています。
それでは阿野郡の郡衙は、どこにあったのでしょうか? 阿野郡の郡衙については、よく分かっていないようです。しかし、阿野郡の阿野北平野には讃岐国衙が置かれました。
国衙が置かれた郡の役割を押さえておきます。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあります。ここからは、出雲の国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。以前にお話しした阿波の場合も、阿波国府と名方評(郡)家は、すぐ近くに置かれていました。どうして、国府と郡家が隣接していたのでしょうか?
 それは中央からやってきた国司が国府がある郡の郡司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰(後の国司)は、地元の出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。それを讃岐にも当てはめると、国府設置に当たって、支援が期待できる綾氏の支配エリアである阿野郡を選んだということになります。これは8世紀以降に、文書逓送や部領に任じられているのは、国府所在郡の郡司の例が多いことからもうかがえます。 生活面の視点から見ておきます。
『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあります。
この「養郡」についてはよく分かりませんが、都からやってきた国司が生活するための食糧などを、地元の郡司が提供していたことがうかがえます。徳島の国府跡である観音寺遺跡木簡からも、板野郡司から国司に対して、食米が支出されていたことが分かります。つまり、中央からやって来た初期の国司は、地方の有力者の支援なしでは生活も出来なかったことになります。初期の国司は、そのような制約を克服し、自前で食糧やその他を確保できる権力システムを築いていく必要があったようです。
 そのような中で阿野郡の綾氏は、白村江の跡の城山城築造や南海道建設などの中央政府の政策に積極的に協力することで信頼を高め、国府を阿野北平野に誘致することに成功したようです。当然、阿野郡衙も国衙の周辺にあったことになります。
古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
次に綾氏の勢力範囲とされる阿野郡について、見ていくことにします。
阿野郡に関する最も古い確実な記録は、藤原宮・平城京跡出土の木簡です。「阿野郡」と記された木簡が次のように何枚も出土しています。

阿野郡表記の木簡一覧

参考 https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/
代表的なものをあげると
①藤原宮跡の溝(SD3200内壕)から「綾(阿野)海高口部片乃古三斗」、己丑(689)年の年号木簡の2つ
②藤原宮跡の溝(S D145)から「綾郡」と記された木簡
③平城京の長屋王の屋敷跡の溝(SD4750)から出土した木簡には、「和銅八年九月阿夜(阿野)郡」と記されています。
これらの木簡は、阿野郡から納められた貢進物に付された荷札の断片とされます。

製塩木簡 愛知
貢納品荷札の例

阿野郡木簡 平城京出土

阿野郡木簡2 長屋王
平城京出土の「阿野郡」木簡

製塩と木簡
平城京から出てきた讃岐阿野郡の木簡(復元)

この木簡には次のように記されています。
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょう。
以上の木簡の荷札からは、6世紀後半の天武朝時代には、阿野郡が存在し、貢進物を藤原京に収めるシステムが機能していたことが分かります。その責任者が綾氏であったことになります。この時期は、先ほど見たように「城山山城 + 南海道 + 条里制工事 + 府中の国衙」などの大規模建設事業に綾氏が協力し、開法寺・鴨廃寺・醍醐寺などの氏寺建立を許されるようになった時期です。
『延喜式』(延長5(927)年には、讃岐の郡名として大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田(豊田)の11郡が記されています。
阿野郡が10世紀にもあったことが分かります。それが、中世になると2つに分割されます。坂出市林田町惣蔵寺の明徳元(1390)年銘鰐口には、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵王御社」とあります。ここからは、中世の阿野郡は、次のように2分割されたことが分かります。
①北条郡 坂出市域
②南条郡 国分寺町・綾南町・綾上町域
この分離がいつ行われたかについてはよく分からないようです。それが再び阿野郡に統合されるのが貞享元(1684)年のことになります。そして阿野郡は明治32年に阿野郡と鵜足郡を合併して綾歌郡となります。
「延喜式」と同じ頃に源順が編纂した百科事典である「倭名類聚抄」には
阿野郡には新居・甲知・羽床・山田・鴨部・氏部・松山・林田・山本の9郷が記されています。

讃岐の郷名
「倭名類聚抄」の阿野郡9郷
阿野郡の郷名

阿野郡の9つの郷がどこにあったのかを見ておきましょう。
新居郷については
①「金比羅参詣名所図会 巻之三」に「遍礼八十一番の札所白峯寺より、八十二番根来寺にいたる順路およそ五十余町すべて山道なり。南に阿野郡新居村あるのみ」とあること。新居の大字が端岡村に残っていること、
②「御領目録』に新居新名とあるのが新居郷の新名田のことと、山内村(昭和30年に端岡村と国分寺町となる)に大字新名があること
③「全讃史」に新名藤太郎資幸が福家城を築き、子孫が福家を名乗ったとあること
以上から、現在の綾歌郡国分寺町から綾南町畑田が比定されています。また、大字福家も新居に含まれる
 甲知郷は
①「白峰寺縁起」に保元元年に讃岐国に流された崇徳上皇を「国府甲知郷。鼓岳の御堂にうつしたてまつり」とあること
②『延喜式』の河内駅、近世の河内郷があること
以上から坂出市府中から綾南町陶を比定。
羽床郷は、中世武士で讃岐綾氏の統領とされる羽床氏が下羽床にいたことなどから、綾川町の上羽床、下羽床、滝宮を比定 山田郷は山田村の地名などから、綾上町山田・西分・粉所、綾南町子疋をあてている。
鴨部郷は、『全讃史』の鴨県主系図の「禰宜祐俊、建長六年十月、当宮御幸之莽。凛膏国鴨部、祐俊子孫可相伝之由、被下宣旨」などを参考に、坂出市加茂
氏部郷は、加茂村氏部の地名から、坂出市加茂町氏部
松山郷は、「菅家集」(「松山館」があり、(保元物語Jo・)などに「松山」の地名があることから
坂出市高屋町・青海町・神谷町(以上は旧松山村)・王越町を比定
林田郷は、「南海流浪記」に讃岐に流された高野山の僧道範が、国府から讃岐の守護所を経て宇多津の橘藤左衛門高能の許に預けられた際に、「この守護所と云ふも林田の地に在りしを知る」とあること
山本郷は坂出市西庄町・坂出町を中心とした地域
以上のように10世紀半の阿野郡は、坂出市、綾歌郡国分寺町・綾南町・綾上を含む範囲と推定しています。これは明治32年の綾歌郡成立以前の阿野郡の領域とほぼ一致します。つまり、10世紀以後はそのエリアに大きな変化はなかったことにあります。

阿野郡地図2
讃岐阿野郡のエリア

ただ「香川県史」は、一部改変があったことを次のように指摘します。
①綾南町畑田は新居郷でなく甲知郷であったこと
②明治23年美合村の成立によって鵜足郡となるまで、仲多度郡琴南町川東が近世以来阿野郡山田郷に属していたので阿野郡に含めていたこと。
以上をまとめておくと
①古墳時代後期に、綾氏が阿野北平原を拠点に、綾川沿いに進出・開拓したこと
②そのモニュメントが綾川平野に残された横穴式の古墳群であり、古代寺院跡であること
③綾氏は、7世紀後半の中央政府の進める政策に協力し、讃岐国衙の誘致に成功したこと
④国衙を勢力圏に取り込んだ綾氏は、その後も在地官人として地方権力を握り成長したこと。
⑤そのため阿野郡は資本投下が進み、人口が増大し、中世には南北に分割されたこと。
⑥そして、古代綾氏は在地官人から讃岐藤原氏として武士団へと脱皮し、羽床氏がその統領を強めるようになること。
⑦羽床氏や滝宮氏など讃岐藤原氏一族の拠点は、綾川の上流の阿野郡に属したこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」
関連記事

讃岐綾氏のことを以前に次のようにお話ししました。

讃岐綾氏の活動
 
今回は奈良時代の同時代史料から讃岐綾氏について、何が見えてくるのかを追ってみようと思います。
  テキストは「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。

讃岐綾氏が文献に登場するのは「続日本紀」の延暦10(791)年9月20日条で、次のように記されています。
「讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後O至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三此之籍。並記朝臣。而養老宍五年。造籍之曰、遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請捺三此籍及菌位記。蒙賜朝臣、之姓。許之。」

意訳変換しておくと
讃岐国阿野郡の豪族であった綾公菅麻呂らが朝臣の姓を賜わりたいと次のように願いでた。自分たちの祖先は、庚午年籍が作られた天智9(670)年の時には朝臣の姓を持っておらず、文武3(703)年になってはじめて朝臣の姓を賜った。ところが養老五(721)年の戸籍改製の際、庚午年籍に拠って、朝臣が削られたため、一族は嘆き悲しんでいる。そこで再び朝臣の姓を願い出た。この申請を受けて許可した。
この申請が認められ他のは、平城京から長岡京に遷都して8年目にあたる791年のことで、空海が大学をドロップアウトして山林修行中だった時期になります。ここに登場するの阿野郡の豪族・綾公菅麻呂については、これ以外のことは分かりません。ただ、彼の位階は「正六位上」であることは分かります。これを研究者は、讃岐にやってきていた国司と比較します。
①延暦9年7月24日に讃岐守に任じられた宗形王は従五位上
②延暦8(789)年2月4日に讃岐守に任ぜられた百済王教徳が従五位下
 ちなみに、「続日本紀」には奈良時代の讃岐について12例の任命記事があります。そこで任命されているのは、従三位から従五位下までの貴族です。ここからは讃岐守は、従五位までの役職だったことがうかがえます。ちなみに、讃岐の任命記事は13例あり、従五位下の役職だったようです。 綾公菅麻呂は「正六位上」でしたから、守や介に続くNO3の位階を持っていたことになります。

官位12階

  次に、地元の有力者と比較してみましょう。奈良時代の讃岐の郡司で、同時代史料にでてくるものは6人です。
「東寺百合文書」の山田郡司牒の天平宝字7(763)年10月29日付の讃岐国山田郡にあった川原寺の寺田検出には、讃岐の当時の郡長の名前と官位が次のように記されています。
①「復擬主政大初位上 秦公大成」
②「大領外正八位上 綾公人足」
③「少領従八位上 凡□」
④「主政従八位下 佐伯」
⑤「□□上 秦公大成」
⑥「□□外少初位□秦」、「□□下秦公□□」
復元しておくと
③の「少領従八位凡□」は「少領従八位上 凡直」
⑤の「□□上秦公大成」は「復擬主政大初位上 秦公大成」
⑥の「二外少初位口秦」は「主帳外少初位下 秦」と復元されています。
ここには秦氏や綾氏(阿野郡)・佐伯(多度郡)・凡直などの馴染みの名前が出てきます。彼らの官位を見ると、「外正八位の上か下」であったことが分かります。こうして見ると、菅麻呂の位階は「正六位上」ですから讃岐では異例の高さです。
  空海を生み出した多度郡司の佐伯直氏と比べて見ましょう。

1 空海系図52jpg

空海の戸長であった道長が「正六位下」です。空海の兄弟や甥たちよりも高い官位を綾公菅麻呂は持っていたことが分かります。つまり、讃岐の豪族の中ではNO1位階保持者だったことになります。全国的に見ても、奈良時代の郡司の官位は、正六位上が最高であったようです。以上から綾公菅麻呂は、讃岐守には及ばないものの、讃岐介と同格か、それに次ぐ位階をもち、他の郡司よりもはるかに高く、讃岐では最有力な人物であったとことを押さえておきます。
 「続日本紀」には菅麻呂の官職名が記されていないので、どこで・どんな役職に就いていたかは分かりません。
上京して京で生活していたことも考えられます。もし讃岐にいたとしても、『続日本紀』の記載からすると、延暦10(791)年9月には、国府の主要官職や郡司の職にはついていなかったと研究者は考えています。
ちなみに、讃岐で最も高い位階を得ているのは、三野郡出身の丸部(わにべ)明麻呂で従四位上です。
平安時代の初め頃の「続日本後紀」嘉祥2(849)年10月丁亥朔条には、彼が18歳の時に都に入り、功績を認められて三野郡の大領に任じられたとあります。丸部氏は、以前にお話したように壬申の乱で功績を挙げ、その後は三野の宗吉に最先端の瓦工場を誘致して、藤原京に瓦を提供したとされる一族とされます。その功績も合って、中央で官人として従四位上を手に入れたのかもしれません。
 綾氏についても、中央で活躍する人物が次のように見えます。
A 宝亀3(772)年10月8日付「造峡所造峡注文」の東大寺写経所造紋所の内竪大初位上綾君船守
B 嘉祥2(849)年2月23日には内膳掌膳外記位下綾公姑継、主計少属従八位上綾公武主等が本居を改めて左京六条三坊に貫附記事。
ここから、綾氏の中には讃岐を離れ、中央で活躍する者もいたことが分かります。空海の弟や甥たちも中央で活躍し、改姓を機会に本貫地も平安京に移したことは以前にお話ししました。

 これ以外に讃岐の豪族が戸籍を中央にもつ例を挙げておきます。
①承和3(836)年に寒川郡の讃岐公永直が右京三条二坊に、
②山田郡の讃岐公全雄らが右京三条二坊に、
③多度郡の佐伯直真継・長人が左京六条二坊に
④嘉祥3(850)年に佐伯直正雄が左京職
⑤貞観3(861)年に佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂らが左京職
⑥貞観4(862)年に刈田郡の刈田首安雄・氏雄・今雄が左京職に
⑦貞観5(863)年に、多度郡の刑部造真鯨らが左京職
⑧貞観15(873)年に三木郡の桜井田部連貞・貞世が右京六条一坊
⑨三野郡の桜井田部連豊貞が右京六条一坊に
⑩元慶元(877)年に香川公直宗・直本が左京六条に
⑪寒川郡の矢田部造利大が山城国愛宕郡
⑫仁和元(885)年には几直春宗等男女9人が左京三条口坊に本貫移動
 このように9世紀になると、綾氏や佐伯直など讃岐の豪族の中には、改姓申請とともに戸籍を中央に移す者が現れるようになります。その背景には、遙任国司制によって郡司の役職に「中間搾取のうまみ」がなくなったことがあります。この時代の地方貴族は生き残りのために、改姓して本願を京に移し、中央の貴族の一端に加わろうとします。この流れの中で多くの古代豪族が衰退し、姿を消して行きます。
  綾氏や佐伯直氏などの讃岐の豪族が本貫を中央へ移すのは、平安時代になってからです。
綾公菅麻呂については「続日本紀」に「讃岐国阿野郡人」と記されているので、このときには本籍はまだ讃岐にあったようです。当時の綾氏は阿野郡を拠点としていたとしておきます。綾公菅麻呂の改姓申請からは、綾氏は遅くとも7世紀後半頃には有力な豪族であったという誇りが読み取れます。   
 このことを裏付けるのが「日本書紀」天武天皇13(乙酉、685)年11月戊申朔条の「(前略)車持君・綾君・下道君(中略)、凡五十二氏、賜姓日朝臣」の記事です。これは天武朝の八色の姓の制定に際し、綾君など52氏に朝臣の姓を与えたものです。「日本書紀」には綾君の住居地等を記していませんが、綾君を名のる古代豪族は讃岐以外にはいないので讃岐国阿野郡の綾氏と研究者は考えています。
 この時に朝臣の姓を賜った52氏の中で、畿内やその周辺(近江・紀伊・伊賀)を除く地方に出自をもつ豪族は、綾君を含めて、上毛野君(上野)・下毛野君(下野)・胸形君(筑前)・下道臣(備中)・笠臣(備中)のわずか6氏です。そして、いずれもが有力な地方豪族なので、綾君が本拠地で大きな勢力を持つと共に、中央でも重視された存在だったことがうかがえます。「日本書紀」と「続日本紀」の内容は、よく似た内容が記されているので、7世紀後半から8世紀にかけて讃岐国阿野郡で、綾氏が大きな力をもっていたことが裏付けられます。
 綾氏は阿野郡だけでなく、山田郡や香川郡にも一族がいたようです。これについては、また別の機会に見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

稲作が行われた弥生中期の讃岐では、サヌカイト制の石包丁や石斧が使われています。
この「製品(商品)」が、どこで採石され、どのように加工され、どんなルートで流通していたのでしょうか。今回は弥生時代中期のサヌカイト制石器の加工・流通を見ていくことにします。テキストは、「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
です。  
 
金山サヌカイト露頭
3万年前から1万年前までの旧石器時代には、サヌカイト製の石器が備讃瀬戸で盛んに使われていました。それは瀬戸大橋建設に伴って、島々の頂上が多数発掘調査され、そこから大量の石器や破片が出てきたことから分かります。与島西方遺跡では約13万点,羽佐島遺跡では約35万点を数える膨大な数に及び、全体の98%近くがサヌカイトを材料にするものでした。サヌカイトの供給地のひとつが坂出市の金山です。

金山遺跡発掘

金山北麓にはいまでも大量の金山型剥片が散らばっているようです。

金山遺跡発掘風景
                 香川大学経済学部 丹羽祐一研究室
金山遺跡北1地点の発掘調査には、金山型剥片の堆積が報告されています。他の遺跡から金山型剥片が出てくるようになるのは弥生時代中期前葉になってからで、それが見られなくなるのが中期後葉です。石器から鉄への転換期になります。

石器制作工程2

石器生産工程

この時期の石器生産の特徴は、石核、そして石核から剥片の製作で石器生産が終わっていることです。

この剥片から打製石包丁が作られたと考えられますが、金山では石器成品までは生産していないことになります。搬出された剥片は、別の「加工地」で成品に仕上げられたようです。ここから研究者は次のように推測します。
①当時の金山での石器生産の中で、石材、石核は流通対象でなかった
②弥生時代中期には、金山の石器石材(サヌカイト)が特定の集団に独占・専業化されるようになったことを示す
これは、サヌカイトを産出する奈良県・二上山でも、同じような状況だったことが報告されています。二上山では石剣の生産が盛んでしたが、その素材となるサヌカイト石材、石核が搬出されることはほとんどありません。石剣は武器であり、石材はもちろん、石剣完成までの生産過程そのものが特定集団によって厳重に管理されていたと研究者は考えています。サヌカイトが当時の戦略素材のひとつだったことを押さえておきます。

金山サヌカイトの分割打撃点
                      金山産サヌカイト

金山産サヌカイトの石斧G
金山産サヌカイトの石核
金山産サヌカイトの石斧転用ハンマーG

しかし、採石場ちかくには建物跡は見つかっていません。それでは彼らの生活拠点はどこにあったのでしょうか?
 
金山サヌカイトの採石場と加工場JPG

 金山南側斜面の長者原遺跡からは、中期後葉の竪穴建物1棟が発掘されていて、これ以外にも数棟あったことが推測できます。ここが生活拠点だったようです。同時に長者原遺跡からは、金山型剥片剥離技術で作られた素材と石庖丁の完成品が出土しています。ここからは、次のような事が見えて来ます。
① 金山遺跡北1地点がサヌカイト素材の採石地
②長者原遺跡が加工生産地であり、生活拠点
 旧石器時代は、石材を手に入れると、自分たちで石器を制作し、それを自分で使う社会でした。石器を使う人達が、自分の石器を作っていたのです。ところが、弥生時代中期の金山では製品を作っていないのです。素材を提供しているのです。ここからは金山の役割は、採石と一次加工と、素材を流通ルートに載せることだったようです。それが弥生時代の中期以後には、「剥片」まで作りだすようになります。
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 それで、この剥片とは何なのでしょうか?
ここに石器の製作過程を示したものがあります。これは原石、石核、剥片、石器で、原石から石核というものを作り、石核から薄い破片を打ち剥きます。これが剥片です。この剥片の形を整えて石器にします。
剥片石器

 ところが、弥生時代の中期になると、金山でも剥片までを作るようになります。しかもその剥片が、金山独自の技術で作られます。弥生時代中頃になると、石器を作る専業集団が生まれたと研究者は考えているようです。
それでは、金山で採集されたサヌカイト素材や一次加工品・完成品は、どこに運ばれたのでしょうか?
周囲で弥生時代中期の金山サヌカイト製石器がでてくる遺跡(集落)を地図上に示したものが次の地図です。
金山製サヌカイト出土の川津遺跡集落
              金山産サヌカイト石器出土の川津・坂本集落

川津遺跡は金山西方にあり、瀬戸大橋架橋の際の坂出IC工事のために、広範囲にわたって発掘が行われ、弥生から中世にかけて連続的に大集落跡があったことが分かりました。この中の弥生中期の居住地とサヌカイトの関係を研究者は次のように記します。
①の一ノ又遺跡からは、低地に囲まれた微高地上に弥生中期中葉の竪穴建物2棟と掘立柱建物1棟とともに、多量のサヌカイト製剥片と石器が出土
②の東坂元北岡遺跡からも、中期中葉の土器と一緒に多量のサヌカイト製剥片を中心とした石器が出土
③の川津東山田遺跡からも、中期中葉とみられる土器と一緒に、サヌカイト製石庖丁などの石器が出土
④の東坂元三ノ池遺跡は、中期様式の土器とともにサヌカイト製石庖丁などが少量出土
ここからは飯野山の東山麓・大束川沿いの川津や坂本には、石工加工集団がいたことがうかがえます。これらのサヌカイトの石器工房は、金山からの素材提供を受けて

「小規模のグループが集落を形成して、板状剥片から石庖丁の完成品までの生産をおこない、他集落に搬出していた」

と研究者は考えています。川津・坂本は、サヌカイトの2次加工工房であり、流通中継地であったとしておきます。 それでは川津・坂本で再加工された石包丁や石器は、どこに運ばれたのでしょうか。
その候補地のひとつである善通寺の旧練兵場遺跡を見ていくことにします。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
                   善通寺の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡は、善通寺の「おとなとこどもの病院 + 農事試験場」の範囲で吉野ヶ里遺跡よりも広い「都市型遺跡」です。丸亀平野西部の弘田川や金倉川の扇状地に位置し湧き水が豊富なエリアです。幾筋にも分かれて流れる川筋の中の微高地に弥生時代の遺構が広がります。旧練兵場遺跡で集住化が始まるのは弥生時代中期中葉で、以後、古墳時代前期前半まで集住は続きます。その中で、もっとも集落が大規模化、密集化するのは弥生時代後期前葉です。

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
漢書地理志野中に

「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」

とありますが、百余国のひとつが旧練兵場遺跡を中心とする「善通寺王国」だと研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像図
調査報告書からは、次のように記されています。
①中期中葉~後葉にはいくつかに居住域が分かれていること、
②特に西部の一画(現病院エリア)では居住域が集中していること
③この時期の旧練兵場遺跡は通常の集落とは異なり、大規模集落であったこと
大規模集落で「都市型遺跡」でもあった旧練兵場遺跡は、吉備や北九州などから持ち込まれた土器が数多くみつかっています。これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
吉備や北九州から旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
旧練兵場遺跡について、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。だとすれば金山産サヌカイトが石器や土器の「大消費地」でもあり、第2的な通センターでもあったことが予想できます。
石器製造法

旧練兵場遺跡から出土する石器の特徴は、素材はサヌカイトで、製法はすべて両極打法剥片で作られていることです。例えば、中期中葉~後葉の自然河川からはサヌカイト製の大型スクレイパーが出土しています。
旧練兵場遺跡の大型剥片
             サヌカイト製の大型スクレイパー(旧練兵場遺跡)
この大型スクレイパーは、剥離面末端に微細な剥離とはっきりと摩耗痕が残っているので、イネ科植物に対して実際に「石包丁」として使用されたことがうかがえます。これは20cmを超えるサヌカイトの大型剥が旧練兵場遺跡に「製品=商品」として持ち込まれていたことを示します。 つまり、旧練兵場遺跡は金山産サヌカイト製石庖丁などの「消費地」だったことになります。
 木材を伐採するための石斧は、旧練兵場遺跡からは3本出てきています。ところが、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことがうかがえます。同時に、旧練兵場遺跡周辺は、石斧の有力な「消費地」であったことを示しています。
 イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。

金山サヌカイトの分割打撃点

 大型スクレイパーなどは欠損後には、分割されて両極打法の石核に再利用された可能性はあります。しかし、「剥片のほとんどが両極打法剥片であること」 + 「5cm未満の石核に両極打法に伴う石核が目立つこと」から「旧練兵場遺跡は石器消費地」と研究者は考えています。旧練兵場遺跡では、サヌカイトの大型剥片を再分割して周辺集落に提供している可能性はあるものの、直接打法などを駆使して石庖丁やその素材となる剥片の生産を行って周囲に提供していた様子は見えてきません。以上からは、「旧練兵場遺跡は、サヌカイトの生産地となり得ていない」と研究者は評します。あくまで消費地だったようです。 
瀬戸内地方の弥生時代中期中葉~後葉の石器の生産、流通と集落について研究者は次のような概念図を提示します。

弥生中期の石器流通概念図

ここには次のようなことが示されています
①金山産サヌカイト製石器には、生産地のほかに加工地や流通中継地があったこと
②いろいろな集団・集落が石器の流通に関与していること
③旧練兵場遺跡など大規模集落は、特殊大型石器などの流通センターの役割を果たしていた

 弥生中期の金山産サヌカイトで作られた石器の生産・加工・流通をまとめておきます。
①金山北斜面では、弥生初期になっても活発なサヌカイトが採取された
②採取されたサヌカイトは金山南斜面の長者原遺跡に集められ、一次加工がおこなわれた。
③採取・一次加工に関わった集団は、独占的に金山での採石権を持っていた。その背後には、有力者の管理・保護がうかがえる。
④その後、金山産サヌカイトは飯野山東麓の川津や坂本の小集落に運ばれ、2次加工が行われた。
⑤川津・坂本で再加工され製品となった石器は、周辺に提供されると同時に瀬戸内海交易ルートに乗って各地に提供された。
⑥同時に、丸亀平野の善通寺王国(旧練兵場遺跡)の交易センターにも提供された。
⑦流通における専業集団の存在が、金山産サヌカイト製石器・石材分布の広域性の要因と研究者は考えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
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碗貸塚古墳石室2 大野原古墳群

碗貸塚古墳 石室実測図

大野原古墳群の石室タイプは、九州中北部から西部瀬戸内に拡がっている複室構造石室に由来するというのが定説です。
それでは「複室構造の横穴式石室」とは、なんなのでしょうか、それを最初に押さえておきます。

副室化石室

                複室構造の横穴式石室
①5世紀代に北・中九州で採用された横穴式石室は、腰石の使用や石室が大型化する。
②6世紀前半になると、肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。
③初期の複室構造ものは、はっきりした区画は見られず、閉塞(へいそく)石や天井石を一段高くするなどして区分化している。
④その後、側壁に柱石を立てるようになると、前室としての区画がはっきりと見えてくる
⑤筑前・豊前・豊後などの北東九州では少し遅れてれ、6世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
 6世紀中頃の横穴式石室の単室から複室化への変化の背景を、研究者は次のように記します。

514年の百済への四県割譲や、562年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、ヤマト政権が半島政策の放棄した結果、動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』1979年)。

このような複式構造の石室を大野原古墳群は採用してます。そして複式石室導入以後、次のような改変を進めます。
①使用石材の大型化志向
②羨道の相対的な長大化
③羨道と玄室一体化
石室形態の変化から大野原古墳群諸古墳と母神山錐子塚古墳の築造順を、研究者は次のように考えています。
  ①母神山錐子塚古墳 → ②椀貸塚古墳 → ③岩倉塚古墳 → ④平塚古墳 →⑤角塚古墳

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
大野原古墳の比較表


最後に登場するのが讃岐最大の方墳で、最後に造られた巨石墳である角塚になります。角塚は、その石室様式が「角塚型石室」と呼ばれ、瀬戸内海や土佐・紀伊などへも広がりを見せていることは前回お話ししました。
角塚式石室をもつ古墳分布図
                  角塚型石棺をもつ古墳分布

今回は「角塚型石室」について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」です。        
大野原古墳群と母神山錐子塚古墳は、断絶したものではなく継続したものと研究者は考えています。
ここでは4つの古墳の連続性と変化点を、挙げておきます。
①母神山錐子塚古墳と椀貸塚は、玄室の前方に羨道とは区別される明確な一区画を設ける。これが複室構造石室における前室に相当する。
②平塚古墳、角塚古墳ではこれがなくなり、前室区画と羨道の一体化する。
③平塚古墳では羨道前面の天井石架構にその痕跡がうかがわれ、前室区画の解消=羨道との一体化の過程を指し示すものがある。
①については、母神山錐子塚古墳の段階で後室相当区画(玄室)や前方区画(玄室)は長大化しています。
1大野原古墳 比較図
母神山錐子塚古墳と大野原古墳群の石室変遷図
その後は前室区画は、羨道と一体化してなくなってしまいます。複室構造石室では前後室の仕切り構造は、前後壁面より突き出すように左右に立柱石を据え、その上部に前後から一段低く石を横架します。これが母神山・鑵子塚古墳、椀貸塚古墳では、はっきりと見えます。そして前方区画(前室)と羨道の間にも同じような構造になっているようです。さらに平塚古墳・角塚古墳では、この部分の上部構造の変容がはっきりと現れています。
 こうして見ると、大野原に3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
角塚型石室のモデルである角塚古墳を見ておきましょう。
角塚古墳 石室実測図
角塚古墳 石室実測図
①玄室(後室)長約4,5m、玄室幅約2、6m、床面積は12㎡弱、三室長幅比は1,8
②玄室(奥室)平面形は、長幅比がやや減じるが4つの古墳の間で、大きな開きはない。
③もともとの複室構造の後室形態と比較すると、玄室長が同幅の約2倍の長大な平面形。
平塚古墳 石室
平塚古墳 石室実測図
平塚古墳と角塚古墳を比較すると、前室区画と羨道が一体化し長大化が進んでいることが分かります。
①平塚は長約5,9mで玄室長と同程度で、角塚は約7mと玄室長よりも長い。
②羨道幅は、平塚が玄室幅の77%、角塚が92%
③玄室に匹敵するほどに前室と一体化した羨道が発達する。
④平塚古墳では羨道最前方の天井石を一段低く架構し、この形は羨道と一体化した前室部区画の痕跡
 平塚古墳は、玄門上の横架石材が両側立柱のサイズにそぐわないまでに巨大化します。

平塚古墳 石室.玄門部の支え石
平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」右側

平塚古墳 石室.玄門部の支え石 左
              平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」左側

その荷重を支えるために、玄室の両側壁第二段を内方に突き出すように組んでいます。これと立柱石で巨大な横架石材を支える構造です。また横架石材は一枚の巨石で玄門上部に架橋し、これに直接玄室天井石が載っています。こうして見ると、椀貸塚古墳までの典型的な楯石構造は、平塚では採用されていません。
 さらに角塚古墳になると、両側立柱上部の石材は、前後の天井石とほとんど同じ大きさで整えられています。平塚古墳石室に見えた羨道天井石との段差はなくなり、玄室天井石との間もわずか10 cm程度の痕跡的な段差がかろうじて見られるだけです。
 次に研究者は、各古墳の玄室(後室)壁面の石積状態と使用石材サイズについて次のように整理します。 角塚は石室規模は小型化しますが、そこに組まれている石は大形化します。その特徴を見ておきましょう。
角塚古墳 立面図
角塚古墳 石室立面図
①玄室奥壁と左側壁は一枚の巨石で構成
②右側壁も大形材一段で構成し、不足分に別材を足す。
③奥壁材は最大幅2,5m以上、高さ2、3m以上の一枚巨石
④右側壁には幅3,4m高さ2,4mの石材。左奥壁に据えた玄室長に達する幅4,5m高さ2m以上の石材が最も大きい。
⑤玄室架構材は2,3m×2,88m以上、1,7m×2,7m以上。
⑥羨道部壁面は左右とも二段構成で右側壁下段に長2,5m、左側壁下段に3,5m以上の大形材を使用
 角塚石室の使用石材サイズと石積みを押さえた上で、それまでの石室変遷を見ておきます。
まず母神山錐子塚古墳と椀貸塚古墳には近似点が多いと研究者は次のように指摘します。

碗貸塚古墳石室 大野原古墳群
碗貸塚古墳の石室立面図

平塚古墳 石室立面図
平塚古墳の石室立面図 

①石室規模の飛躍的に大きくなっているのに、椀貸塚古墳では用材サイズには変化がみられない
②用材大形化は、椀貸塚古墳と平塚古墳の間にで起こっている。
研究者が注目するのは、平塚古墳の巨大な玄室天井石と左側壁第二段の巨大な石材です。大形材の使用という点では、巨石だけで玄室を組んでいる角塚古墳がぬきんでます。しかし、平塚古墳にも角塚に負けないだけの巨石が一部には使用されています。角塚古墳の石室は、母神山錐子塚以来の系統変化の終点に位置づけられます。ここでは、その角塚古墳石室と平塚古墳石室とでは形態・構造面ではよく似ているのですが、大形石材の利用能力には格差があったことを押さえておきます。
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。
これは盟主古墳の移動で、三豊地方の母神山(柞田川北エリア)から大野原(南エリア)へ「政権移動」があったことがうかがえます。

1碗貸塚古墳2
大野原椀貸塚は、柞田川の両側を勢力下に置く三豊平野はじめての「統一政権の誕生」を記念するモニュメントとして築かれたとも言えます。それは百年前の5世紀後半に、各地の豪族統合のシンボルとして各平野最大の前方後円墳が築かれたのと同じ意味を持つものだったのかもしれません。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示するには充分なモニュメントで政治的意味が読み取れます。
以上を整理してまとめておきます
①柞田川の北エリアでは、6世紀前半に母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が築造される。
②6世紀後半になると円墳で横穴式の錐子塚古墳が、それに続く
③7世紀前半に中位・下位クラス墳群である千尋神社支群、黒島林支群、上母神支群が形成される。
④北エリアの豪族連合長の豪族のほとんどが、母神山を墓域としていることから、この山が霊山だったことがうかがえる。
⑤6世紀末に、大野原に椀貸塚、7世紀はじめには平塚、7世紀半ばに角塚が築造される。
⑥大野原3墳を中心にして、7世紀前半には古墳小群が柞田川の流れに沿うように作られるようになる⑦これらの中小勢力によって、柞田川周辺の開発が進められた
⑧大野原では大野原3墳と、対になるように観音堂古墳、町役場古墳、若宮(石砂)古墳がかつてはあったが、江戸初期の新田開発によって失われてた。
⑨大野原3墳は、これらの墳墓群と墓域を共用していた
以上から、6世紀末に観音寺エリアの墓域が、母神山から大野原に移ったことを押さえておきます。つまり、大野原墳墓群の組織化は始祖の統一、同族関係の確立と捉えることができると研究者は指摘します。言い換えれば、6世紀末に三豊平野の豪族の族的統合が行われたこと、その政治的なモニュメントの役割を果たしたの大野原3墳ということになります。これは三豊平野の内部の動きです。それ以外に、外部の力もこの動きを推進したと研究者は考えています。
それは次のようなヤマト政権内部での抗争との関連です。
①朝鮮半島経営に大きな力を持つ葛城氏
②葛城氏の下で、瀬戸内海南ルートの交通路を押さえた紀伊氏
③瀬戸内海南ルートを押さえるために紀伊氏が勢力下に置いた拠点
④そのひとつが母神山古墳群勢力 
⑥葛城氏・物部氏の没落後に台頭する蘇我氏
⑦蘇我氏の支持を取り付けて、台頭する大野原勢力
⑧大野原への盟主古墳の移動と3世代に渡る碗貸塚古墳→平塚→角塚の造営
⑨角塚は、讃岐最大の方墳であり、讃岐最後の巨石墳であること
以上からヤマト政権内部の蘇我氏の政権獲得と、大野原古墳群の出現はリンクしているという説になります。そういえば蘇我氏は、巨石墳の方墳が好きでした。いわばヤマト政権の「勝ち馬」に載った勢力が、地域の盟主にのぼりつめることができたことになります。
 前回お話ししたように角塚の石室モデル(角塚型石室)が瀬戸内海各地や土佐・紀伊にも拡大していること、讃岐の巨石墳のモデルになったのが大野原古墳群であったことなどが、それを裏付けることになります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大野原古墳の比較一覧表
                 大野原古墳群の比較一覧表
参考文献
「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」
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大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。
古墳編年 西讃

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

飯野町東二遺跡 赤山川jpg
飯野山西麓を流れる赤山川(場所はさぬき福祉専門学校の下)

  前回は飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡巡りをしました。今回は、この遺跡の条里制地割に沿って掘られた用水路(赤山川)について見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡4
              飯野・東二瓦礫遺跡周辺の10㎝等高線図

この地形図からは次のような事が読み取れます。
飯野・東二瓦礫遺跡は。飯野山西麓と土器川の間に挟まれたエリアに立地する
②土器川右岸に氾濫原と自然堤防が広がり、飯野山の西麓との間に狭い凹地が南北にある。
③そこを赤山川が南北方向に流れている。
④凹地は、遺跡周辺で最も狭くなっている。
⑤遺跡の東北方向が津之郷盆地で、赤山川から山崎池の下を通って分水用水が伸びている。
次に遺跡周辺の地質分類図(第3図)を見ておきましょう。
飯野・東二瓦礫遺跡地形分類図

ここからは、次のような事が見えて来ます。
①土器川の氾濫原と飯野山西麓の間に、条里制跡が見られる
②条里制以前の埋没河川痕跡が幾筋も網目状に見える。
③崖面以東の平地部と比較すると、この遺跡周辺は地表面高が約0,5mほど低い凹地となっている。
④この低地部分は、土器川が蛇行した痕跡で、古代末頃の「完新世段丘」により形成された「氾濫原面」である。
⑤崖面上位の平地面を「段丘1面」とする。
⑥段丘1面と氾濫原面の旧河道は不連続である

 1次調査区(昭和63年度調査、香川県埋蔵文化財調査センター1996)の調査報告書には、次のように記します。
A 段丘1面の旧河道は弥生時代~古墳時代のもので、古代には埋没過程にあったこと
B 氾濫原面の旧河道(SR01)は、14世紀頃に新しく掘られたものであること。
ここからも、段丘1面が形成されたのは古代末期であること、そして14世紀に新しい用水路が造られたことが裏付けられます。

飯野町東二遺跡赤山川
            現在の赤山川(さぬき医療専門学校の下)
飯野山の尾根が張り出して崖になっているところが、最も狭くなっているくびれ部分。その南側を真っ直ぐに流れる赤山川

この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
①延長約3、5kmの土器川の小さな支流の一つ
②氾濫原面の出水が水源で、緩やかに蛇行しながら北に流れ、遺跡の南方で大きく東に屈曲
③その後は、微高地を横断して段丘1面上を北流し、遺跡北方で再び西へ屈曲して、土器川へ合流。
地図を見れば分かるように、赤山川は自然河川としては怪しい不自然な流れをしています。
南で氾濫原面を流れるときには、何度も屈曲していますが、段丘1面上では、条里型地割の方向に沿って直線的です。これは条里制施工の時に、流路が人工的に変えられたことが考えられます。どちらにしても、赤山川は自然の川ではないようです。
 赤山川に合流する小さな支流の水源は、すべてが出水です。土器川伏流水の出水からの水を、人為的に条里型地割に沿って掘られた用水路で水田に供給されていたことになります。つまり、これらの小さなな支流は、人為的に開削された用水路だったと云うのです。それらが赤山川として、凹地の中央を北にながれていたことを押さえておきます。

IMG_6638
               飯野山西麓から土器川に流れ込む赤山川

 もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
飯野・東二瓦礫遺跡周辺土地条件図
飯野・東二瓦礫遺跡周辺の土地条件図


それでは、赤山川の流路変更は、いつだったのでしょうか?
すぐにイメージするのが、条里制施行に用水路も掘られたという「条里制施工時の用水路説」です。しかし、どうもそうではないようです。発掘調査で明らかとなった古代の溝は、深さが0、5m以下で浅いのです。段丘1面上を流れる旧土器川の支流から直接取水し、用水路として利用していたことが考えられます。一方、中世以降になると、残存深0、7m以上と、一定の深さ深度を有する溝が出てきます。これは、古代末頃の河床面の下刻と重なります。
 また、段丘面上には遺跡南部に条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)があります。これは段丘面が形成されたことで放棄・埋没した古代基幹水路であった可能性があります。つまり、古代の用水路は流路bということになります。
 このような大型幹線水路は、飯野山東麓の大束川両岸の川津川西遺跡や東坂元秋常遺跡にもあったことは、以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                飯野山東麓の古代用水路

 その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
 以上をまとめておくと、
①土器川の氾濫原と飯野山に挟まれた飯山町東二にも、古代の条里制施行が行われた。
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた

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赤山川の津之郷方面と土器川の分地点

ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
その対応のために広域的な地域的統合や開発領主と呼ばれる新規指導者層の登場を招くことになったことを押さえておきます。それが新たな中世の主役として名主や武士団たちの登場背景となります。そこに東国からの進んだ灌漑・土木技術をもった西遷御家人たちの姿が見えてくるようです。これは、飯山町の法勲寺あたりの灌漑用水整備で以前にお話ししました。
最後に1970年代の「古代讃岐のため池灌漑説」で、津之郷盆地がどのように記されていたかを見ておきましょう。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。

津之郷盆地の溜め池展開
 津の郷における稲作発展の第1次は、津の郷池(前池ともいう)の設置から始められた。
大束川の周辺では流水はそのまま横井堰から引かれ、また、ため池程の大きさでなく少し掘れば伏流水が湧出する出水などが作られた。2メートルも掘れば清水の得られる井戸も沢山作られ、かめて水を汲みあげる方式などもとられたであろう。第2次展開は、飯の山山麓にある蓮地と長太夫池であろう。柳池というのも一連のものと考えても不合理ではないが、その大きさと構造から考えて第3次展開とした方がよいかも知れない。
 ため池発展の過程を1次、2次、3次という風に抽象的な言葉で表現したのは、稲作が拡大していく順序をいうもので、現在のそれらのため池が現状の規模や大きさで古代からあったという意味ではない。したがって、そこには当然そのため池の前身らしきものがあったか、あり得なければならないという必然性を指摘するものである。そういう意味である。
 
   この説を現在の考古学者の中で支持する人はいません。しかし、津之郷盆地西部の開発のための灌漑用水路は、赤山川から引かれていたことは今見てきた通りです。それは、上の地図上で示したため池展開のルートと一致します。水源をため池とするか、土器川の氾濫面の出水からの灌漑用水とするかの違いであったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
蔵文化財発掘調査報告

参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
IMG_6608

説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

IMG_6606
IMG_6607
飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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1 空海系図52jpg
ふたつの佐伯直氏の家系 

  以前に空海を生み出した讃岐の佐伯直氏一族には、次のふたつの流れがあることを見ました。
①父田公 真魚(空海)・真雅系            分家?
②父道長(?)実恵・道雄(空海の弟子)系        惣領家?

①の空海と弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏についてはいくつかの史料があります。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、40年前に本籍地を讃岐から京に移していたことは以前にお話ししました。こうして見ると、讃岐国における佐伯直氏の本家筋に当たるのは、実忠・道雄系であったようです。

もうひとつ例を挙げておくと、空海の父・田公が無官位であることです。
官位がなければ官職に就くことは出来ません。つまり、田公が多度郡郡長であったことはあり得なくなります。当時の多度郡の郡長は、実恵・道雄系の佐伯直氏出身者であったことが推測できます。一方、空海の弟たちは地方役人としては高い官位を持っています。父が無官位で、その子達が官位を持っていると云うことは、この世代に田公の家は急速に力をつけてきたことを示します。
今回は、実恵・道雄系のその後を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏」です。
「続日本後紀』『日本三代実録』などの正史に出てくる実恵・道雄系に属する人物は次の4人です。
佐伯宿価真持
    長人
    真継
    正雄
彼らの事績を研究者は、次のように年表化します。
836(承和3)年11月3日 讃岐国の人、散位佐伯直真継、同姓長人等の二姻、本居を改め、左京六條二坊に貫附す。
837年10月23日 左京の人、従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持等、姓佐伯宿禰を賜う。
838年3月28日  正六位上佐伯直長人に従五位下を授く
846年正月七日    正六位上佐伯宿禰真持に従五位下を授く
846年7月10日   従五位下佐伯宿禰真持を遠江介とす.
850年7月10日   讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿禰を賜い、 左京職に隷く.
853(仁寿3)年正月16日  従五位下佐伯宿禰真持を山城介とす。
860(貞観2)年2月14日  防葛野河使・散位従五位下佐伯宿禰真持を玄蕃頭とす。
863年2月10日   従五位下守玄蕃頭佐伯宿禰真持を大和介とす。
866年正月7日    外従五位下大膳大進佐伯宿禰正雄に従五位下を授く。
870年11月13日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰真継、新羅の国牒を本進す。即ち「大字少弐従五位下藤原朝臣元利麻呂は、新羅の国王と謀を通し、国家を害はむとす」と告ぐ。真継の身を禁めて、検非辻使に付せき。
870年11月26日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰貞継に防援を差し加へて、太宰府に下しき。
この年表からは、それぞれの人物について次のようなことが分かります。
①例えば、佐伯宿禰真持は以下のように、官位を上げ、役職を歴任しています
・承和3(836)年11月に、真継・長人らとともに本籍地を左京六條二坊に移したこと
・その翌年には正月に正八位上で、長人らと宿禰の姓を賜ったこと
・その後官位を上げて、遠江介、山城介、防葛野河使、玄蕃頭、大和介を歴任している。
こうしてみてくると、真持、長人、真継の3人は、同じ時期に佐伯直から宿禰に改姓し、本拠地を京都に遷しています。ここからは、この3人が兄弟などきわめて近い親族関係にあったことがうかがえます。これに比べて、正雄は13年後に、改姓・本籍地の移転が実現しています。ここからは、同じ実恵・道雄系でも、正雄は3人とは系統を異にしていたのかもしれません。
最後に、空海・真雅系と実忠・道雄系を比較しておきます。
①改姓・京都への本貫地の移動が実恵、道雄系の方が40年ほど早い
②その後の位階も、中央官人ポストも、実恵、道雄系の方が勝っている。
ここからも、実恵・道雄系が佐伯氏の本流で、空海の父田公は、その傍流に当たっていたことが裏付けられます。この事実を空海の甥たちは、どんな風に思っていたのでしょうか?
    改姓申請書の貞観三年(861)の記事の後半部には、次のように記されています。
①同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
②大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」

④善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。

意訳変換しておくと
①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄(惣領家)は、すでに本貫(本籍地)を京兆(京都)に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の功績による所が大きい。しかし、田公の一門の(我々は)改居・改姓を許されていない。実恵・道雄の二人は、空海の弟子である。 一方、田公は空海の父である。

②田公一門の大僧都真雅(空海の弟)は、今や東寺長者となり、(我々も真雅からの)加護を受けて居るが、実恵・道雄一門の扱いに比べると、及ぼないことは明らかである。

③一門の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、(伯父・空海の)往時をかえりみると、(われわれの現在の境遇に)悲歎することが少なくない。なにとぞ(惣領家の)正雄等の例に習って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

④以上の申請状の内容については、(佐伯直一族の本家に当たる)伴善男らが「家記(系譜)」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。


 空海の甥たちの思いを私流に超意訳すると、次のようになります。
 本家の真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場にすぎない。なのに空海を出した私たちの家には未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅(空海の弟)は、東寺長者となった。しかし、我々は実恵・道雄一門に比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
ここからも佐伯直氏には、ふたつの系譜があったことが裏付けられます。
そうだとすれば、善通寺周辺には、ふたつの拠点、ふたつの舘、ふたつの氏寺があっても不思議ではありません。そういう視点で見ると次のような事が見えてきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺の旧練兵場遺跡群の周辺

①仲村廃寺と善通寺が並立するように建立されたのは、ふたつの佐伯直氏がそれぞれに氏寺を建立したから
②多度郡の郡長は、惣領家の実恵・道雄の一門から出されており、空海の父・田公は郡長ではなかった。
③それぞれの拠点として、惣領家は南海道・郡衙に近い所に建てられた、田公の舘は、「方田郷」にあった。
④国の史跡に登録された有岡古墳群には、横穴式石室を持つ末期の前方後円墳が2つあります。それが大墓山古墳と菊塚古墳で、連続して築かれたことが報告書には記されています。これも、ふたつの勢力下に善通寺王国があったことをしめすものかも知れません。
 
どちらにしても、佐伯一族が早くから中央を志向していたことだけは間違いないようです。
それが、空海を排出し、その後に、実恵・道雄・真雅・智泉・真然、そして外戚の因支首(和気)氏の中から円珍・守籠など、多くの僧を輩出する背景だとしておきます。しかし、これらの高僧がその出身地である讃岐とどんな交渉をもっていたのかは、よく分かりません。例えば、空海が満濃池を修復したという話も、それに佐伯氏がどう関わったかなどはなどは、日本紀略などには何も触れていません。弘法大師伝説が拡がる近世史料には、尾ひれのついた話がいくつも現れますが・・・

DSC01050
佐伯直氏祖廟(善通寺市香色山)背後は我拝師山

ここでは、次の事を押さえておきます。
①地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったこと
②佐伯直一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったこと
③空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   
武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏
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智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵)

円珍を輩出した因支首氏は、貞観8年(866)に和気公へ改姓することは以前にお話ししました。これまでの研究では、地方氏族の改姓申請の際には、対象となる氏族の系評(本系帳など)が参照されていることが指摘されています。空海の佐伯直氏も改姓申請の際には、同じ祖先で一族とされた物部氏の長の「同族証明書」を発行してもらっています。同じ事が円珍の因支首氏にも求められています。そして、改姓のために作られたのが「円珍系図」でした。
 「日本書紀」などに始祖伝承が載録されていない地方氏族の場合は、改姓の訴えに虚偽が含まれていないかどうかを本宗氏や郡司が調査します。そのため申請者側が自氏の系譜を提供しています。ここからも因支首氏には改姓のために『円珍俗姓系図』を作成する必要があったと言えます。
 その詳しい経緯が、以前に見た「日本三代実録』貞観八年(866)十月二十七日戊成条と、貞観9年「讃岐国司解」に記されています。
①「日本三代実録』には、次のように記します。
「讃岐国那珂郡の人、因支首秋主・同姓道麿・宅主、多度郡の人、因支首純雄・同姓国益・巨足。男縄・文武・陶通等九人、姓を和気公と賜ふ。其の先、武国凝別皇子の市裔なり」

ここからは、讃岐国那珂郡の因支首秋主・道麿・宅生、多度郡の純雄・国益・巨足・男縄・文武・陶道ら計九人が、和気公姓を与えられたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 那珂郡の因支首氏(和気氏)一族
一方、貞観9年「讃岐国司解」には、讃岐国那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三家と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三家について、それぞれ改姓に預かった計43人(那珂郡15人、多度郡28人)が列記されています。

円珍系図2
多度郡の因支首氏
因支首氏の系図作成の動きを、研究者は次の3つの時期に分けます。
まず第一期は延暦期です。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出を命じる大政官符(大政官の命令)が出された。
②大政官符の内容は次の通りで、『日本後紀』延暦十八年十二月戊戊条に「若し元め貴族の別に出ずる者は、宜しく宗中の長者の署を取りて中すべし。(略)凡庸の徒は、惣集して巻と為せ。冠蓋の族は、別に軸を成すを聴せ」と見えている.
③これを受けた因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を一巻にまとめて、延暦十九年七月十日に提出した。
④その際に、因支首氏は「貴族の別」(武国凝別皇子より出た氏族)であることを示すため、本宗に当たる伊予御村別君氏から「宗中の長者の署」(伊予御村別君氏の氏上の署名)を受け、その支流であることを証明してもらう必要があった。
このように、本宗に当たる氏族が同祖関係を主張する支流の系譜を把握・管理することは、古くから行われていました。また「冠蓋の族」(有力氏族)は、その氏族だけで本系帳を提出することが認めらていました。しかし、因支首氏は「凡庸の徒」に分類されていたので、伊予御村別君氏とともに一巻にまとめて本系帳を提出したようです。

次に、第2期の大同期です。大同2年(807)2月22日、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出されます。これは『新投姓氏録』の編纂作業に先だって、氏族の改姓にともなう混乱を避けるための措置だったようです。そこで、因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出します。しかし、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没してしまいます。
第3期が約60年後の貞観期です。
貞観七年(865)に、改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出します。これが那珂・多度郡司と讃岐国司の審査を経て、改姓が認められます。こうして、因支首氏は60年近くの歳月を経て、悲願を達成したのです。これを受けて、次のような手順が踏まれます。
①貞観八年十月二十七日に改姓を許呵する大政官符が民部省に下されます。
②11月4日には民部省符が讃岐国に下されます。
③讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載し、貞観九年二月十六日付で「讃岐国司解」が作成された。

和気氏系図 円珍 稲木氏

このことについて『日本三代実録』と貞観九年「讃岐国司解」と、『日本後紀』延暦十八年(七九九)十二月戊戊条と、『円珍俗姓系図』の記述との間には、次のような関連する内容があることを研究者は指摘します。
①『日本三代実録』には「共の先、武国凝別皇子の苗裔なり」とあり、因支首氏を武国凝別皇子の子孫であるとする
②「讃岐国司解」にも「忍尾の五世孫、少初位上身の苗裔、此部に在り」とあり、身を忍尾別君の子孫とすること。これらは『円珍俗姓系図』の系譜と合致する。
③『円珍俗姓系図』は因支首氏の系譜に加えて、伊予御村別君氏の系譜も並べて記載していること。
④この系図が因支首氏の系譜を後世に伝えるため、あるいは円珍の出自を明らかにするために作成されたものであれば、因支首氏の系譜だけを単独で記せば事は足りる。
⑤しかし、「日本後紀』や「讃岐国司解」には「貴族の別」は「宗中の長者の署」を受けて提出するようにとの指示があった。そこで「凡庸の徒」である因支首氏は、伊予御村別君氏とともに一巻として、本系帳を提出した。
第3に「讃岐国司解」には、次のように記します。
「別公の本姓、亦、忌請に渉る。(略)望み請ふらくは(略)玩祖の封ぜらる所の郡名に拠りて、和気公の姓粍賜り、将に栄を後代に胎さんことを」

意訳変換しておくと
「別公の本姓、の「別」という文字は怖れ多い。(中略)そのためお願いしたいのは、先祖の封ぜらた郡(伊予御村別君氏の本拠である伊予国和気郡:松山市北部)の名前に因んで、「和気公」の氏姓を賜りたい。

佐伯有清氏はこれを、「別(わけ)」より「和気」の方が「とおりが良かった」ため、後者の表記を授かることを目的とした一種の「こじつけ」であるとします。いずれにしろ改姓の申請では「別」を忌避したことになっています。
それに対して『円珍系図』冒頭では、景行天皇の和風詮号を、大足彦思代別尊と「思代別尊」の間で区切るのが適切なのに、あえて「別」の文字の前で改行しています。これは「別」字に敬意を示すためで、文中に天皇の称号などを書く際、敬意を表すためにその文字から行を改め、前の行と同じ高さから書き出しているようです。これを平手といいます。つまり、大同期の改姓申請における「別公の本姓、亦、忌諄に渉る」という主張が、『円珍系図』では、形を変えて平出として表現されていることになります。
さらに『円珍俗姓系図』には、延暦・大同期に書き加えられたと思われる部分があるようです。
 8世紀前半にはB部分の原資料が伝えられており、そこに後からA部分が付加されたます。そこで研究者が注目するのがA部分の神櫛皇子の尻付に見える讃岐公氏です。この讃岐公氏は、かつて紗抜大押直・凡直を称しましたが、延暦十年(七九一)に讃岐公、承和3年(836に讃岐朝)、貞観6年(864)に和気朝臣へ改姓しています。(『日本三代実録」貞観六年八月―七日辛未条ほか)。ここからは「讃岐公」という氏姓表記が使用されたのは、延暦10年から承和3年の間に限られます。そうすると、A部分の架上もこの間に行われたことになります。その時期は、延暦・大同年間の改姓申請期と重なります。
 また、「円珍系図』の末尾付近には、子がいるにもかかわらず、人名の下に「一之」が付されていない人物が多くいます。例えば宅成の下には「之」はありませんが、子の円珍と福雄が記されいます。秋吉と秋継の下にも「之」はありませんが、子の秋主と継雄が記されています。これは、『円珍俗姓系図』がある時点までは、宅成、秋吉・秋継の所までで終了していたこと、円珍・福雄、秋主・継雄などは、後からが書き加えられたことがうかがえます。

円珍系図3
円珍系図

 四人の中で生年が分かるのは円珍だけです。
円珍は弘仁5年(814)の生まれなので、この書き継ぎはそれ以降のことです。それに対して、宅成は道麻呂の子で、秋古・秋継は宅成と同世代に当たります。道麻呂が那珂部の代表者として改姓申請を行った大同年間の頃には、宅成・秋古・秋継らは生まれていたはずです。 円珍俗姓系図は、大同の頃の人物までを記して、いったんは終了していたことがここからも裏付けられます。とするならば『円珍系図』の原資料の結合は、因支首氏と伊予御村別君氏が同祖関係にあることを示す必要が生じた延暦・大同期に行われた可能性が高いことになります。以上を整理しておくと、次のようになります。
①それまでに成立していたB部分の原資料(Bl系統の水別命~足国乃別君・□尼牟□乃別君
②B2系統の阿加佐乃別命~真浄別君まで)
③C部分の原資料(忍尾別君~身)を基礎として、
④両者の間に二行書き箇所が挿入され、B部分にA部分が架上された。
⑤一方、C部分の身以降については、延暦・大同の申請期に生まれていた人物までを書き継ぎ、そこまでで『円珍俗姓系図』(の原型)が成立した。 
 これらの作業によって、因支首氏は武国凝別皇子に出自を持ち、伊予御村別君氏と同祖関係にあることが、系譜の上で明確に示すことができるようになりました。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

次にC部分の冒頭に置かれた忍尾別君の尻付と、その子である□思親幌剛醐[]波・与呂豆の左傍の注記について見ておきましょう。
ここには、忍尾別若が伊予国から讃岐国に到来して因支首氏の女と婚姻し、その間に生まれた□思波・与呂豆は母姓により因支首氏を名乗るようになったと記します。この点については、従来は次の2つの説がありました。
①伊予国で「別(わけ)」を称号として勢力を持っていた氏族が因支首氏の祖先であるとする佐伯有清説
②因支首氏は伊予国和気郡より移住してきたとする松原説
しかし、『円珍系図』の注記を改めてよく読んでみると、忍尾別君が伊予国から讃岐国へ移住して因支首氏の女を妥ったとあります。すると、移住前から因支首氏は讃岐国にいたことがうかがえます。つまり因支首氏という氏族は、伊予国から移動してきたわけではないことになります。
 また、母姓を負った氏族が父姓への改姓を申請する場合は、実際は父姓の氏族と血縁関係を持たずに、系図を「接ぎ木」するための「方便」であることが多いことは以前にお話ししました。このため因支首氏は伊予御村別若氏ともともとは無関係で、後から同祖関係を主張するようになったとする説もあります。
 もちろん、今まで交渉のなかった氏族同士が、にわかに同祖意識を形成することはできません。そこで研究者は、伊予国と讃岐国をそれぞれ舞台とする『日本霊異記』の説話がよく似ていることに注目し、説話のモチーフが伊予国の和気公氏から讃岐国の因支首氏ヘ伝えられた可能性を指摘します。そうだとすれば、両氏族の交流が系譜の結合以前まで遡ることになります。ふたつの氏族は古い時期から、海上交通などを通じて交流関係を持っていたことがうかがえます。
 それでは、どの時期まで遡れるのでしょうか?
 円珍俗姓系図の原形の作成過程からして、延暦・大同年間までで、大化期まで遡れるとは研究者は考えていません。忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承も、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、この時期に因支首氏が創出したものとします。忍尾別君が「讃岐国司解」では「忍尾」と記されています。「別君」が付されていないことも、この人物が本来は伊予御村「別君」と関係なく、むしろ因支首氏の祖先として伝えられていたことを物語っていると結論づけます。
  以上を整理しておきます。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出が命じられた。
②因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を提出した。
③大同2年(807)、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出された。
④そこで因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出した。が、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没した。
⑤そこで貞観7年(865)に改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出した。
⑥これが認められ貞観8年改姓を許呵する大政官符が民部省に下された。
⑦讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載た「讃岐国司解」が作成された
 以上のような経緯で「円珍系図」は作成されます。その際に、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承が採用され、伊予御村別君氏の系図に因支首氏の系図が「接ぎ木」された。また、因支首氏の実質の始祖である身も7世紀初めの圧この時期に因支首氏が創出したものとします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
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   円珍系図 伊予和気氏の系図整理板 
 
以前に円珍系図について、次のようにまとめておきました。
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成したものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そのポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。
⑦ つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえるようです。

伝来系図の2重構造性

  さらに伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えていました。この説は1980年代に出された説です。それでは現在の研究者達はどう考えているのかを見ていくことにします。テキストは、鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」です。

古代氏族の系図を読み解く (541) (歴史文化ライブラリー 541)

 最初に円珍の因支首氏の系譜が、どのように成立したのかを見ておきましょう。
円珍系図  忍尾と身

 その場合のキーパーソンは「身」です。この人物は「子小乙上身。(難破長柄朝廷、主帳に任ず。〉」とあります。ここからは孝徳天皇の時代(645~54)に、主帳(郡司の第四等官)に任命されたとされます。「小乙上」とは、大化五年(649)に制定された冠位十九階の第十七位か、天智3年(664)に制定された冠位26階の第22位に当たるようです。Bの部分には冠位を持つ人物が多いのですが、C部分では身が唯一です。この人物は略系図の冒頭にも置かれている上に、貞観9年(867)「讃岐国司解」でも触れられています。因支首氏の中で重要な意味を持つ人物であったことが分かります。
しかし、身については、次のような不審点が指摘されています。
①身が孝徳朝の人物であれば、その5世代後の円珍(814~91)との間は約200年で、1代約40年前後になる。一般的には1世代約20年とされるので、間隔が開きすぎている。
②他の人物は「評造(ひょうぞう)小山上宮手古別(みやけこわけ)君」や「郡大領追正大下足国乃別君」のように、名前の上に官職がある。身の場合も「主帳明小乙上身」となるべきなのに「主帳」は尻付されている
③身は「讃岐国司解」に「少初位上身」と記されている。孝徳朝に小乙上であった人物が、大宝元年(701)以降に少初位上に任じられことになる。これは長寿過ぎるし、しかも従八位上相当から少初位上へ四階も降格したことになってしまう。
以上から、身は実際には孝徳朝の人物ではなかったとする見方も出されています。
 従来は身の生存年代に焦点が集まって、身の注記をどのように理解するのかには目配りが弱かったようです。そこで研究者は身について、改めて史料を確認します。身に関する情報は、次の2つです。
①「讃岐国司解」の「少身の官職初位上」
②「円珍俗姓系図」の「小乙上」「難破長柄朝廷」「主帳に任ず」
このうち最も信頼性が高いのは、公的な文書として作成された「讃岐国司解」の「少初位上」です。因支首氏は讃岐国多度郡に多く居住していました。また多度郡良田郷内には「因支」の転訛とされる「稲毛」という地名が残っています。ここからは、身が任命されたのは多度郡の主帳であったとされます。「讃岐国司解」には、因支首氏は多度郡と那珂都のどちらにも分布していますが、より多くの居住が確認できるのは多度郡です。ここでは多度郡衙本拠としておきます。
 多度郡には、因支首氏のほかに、佐伯直氏や伴良田連氏が勢力を持っていました。貞観3年(861)には、空海の一族とされる多度郡の佐伯直豊雄ら10人に佐伯宿禰が賜姓されています。豊雄らの系統の別祖(傍流の社)に当たる倭一胡連公(やまとのえびすのむらじきみ)は、允恭朝に讃岐国造に任命されたと伝えられます。また、讃岐国多度郡弘田郷(善通寺市弘田町)の戸主である佐伯直道長(空海の戸主)は、正六位上の位階を有しています。ここからは、佐伯直氏が多度郡の郡領氏族(那司を輩出した氏族)とされています。
 また伴良田連氏の人物も、伴良田連宗定・定信などが多度郡大領に任じられています。(『類衆符宣抄』貞元二年(977)6月25日「讃岐国司解」)。それに対して、因支首氏で位階を持つのは身だけです。ここからは、多度郡内では佐伯直氏や伴良田連氏などが有力で、因文首氏は劣勢で、主帳を輩出するのが精一杯だったと研究者は考えています。
次に、「小乙上」「難破長柄朝廷」についてです。
円珍の五世代前の身が孝徳朝に生存していても不自然ではなく、孝徳朝の人物が大宝以降まで存命した可能性もあります。しかし、孝徳朝に小乙上(従八位上相当)であった人物が、のちに四階も降格されることは考えられません。したがって、「小乙上」には何らかの錯誤があると研究者は推測します。そこで、注目するのがB部分の足国乃別君に付された「追正大下」という冠位です。これを「追正八下」の誤記で、「迫正八位下」の意味であり、「位」が省略されたものとします。そうだとすれば、身ももともとは「少初位上」の「位」を省略して「少初上」とあったものが、書写の際に「小乙上」に誤って書き写された、読み替えられたと考えられます。「小乙上」を「少初(位)上」の誤記と見るのです。身が「少初位上」で、多度郡の「主帳」であったとすると、「難破長柄朝廷」だけがこれらの要素と合わないことになります。この文言には何らかの潤色偽作が加えられていることが考えられます。
大化2年(646)の大化改新詔には、次のように記します。
「其の郡司には、並びに国造の性 識清廉くして、時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして、書算に巧なる者を主政・主帳とせよ」

 ここからは、主帳が孝徳朝から置かれていたことが分かります。。
また、律令制下には「譜第」(孝徳朝以来、郡領に代々任命されてきた実績があること)が重視されています。そのために多度郡の譜第郡司氏族ではない因支首氏が、佐伯直・伴良田連両氏に対抗するために、身が孝徳朝からすでに主帳であったように記し、自らの系図を遡らせようとしたと研究者は推測します。

以上を整理しておくと次のようになります。
①身は7世紀半ばの大化年間の人物ではなく、8世紀前半に少初位上の位階を持った讃岐国多度郡の主帳に任じられた人物であること
②それゆえに因支首氏にとっては顕彰すべき祖先であったこと
また 研究者は身の名前の下に「之」が付されていないことに注目します。
身のように子がいるにもかかわらず、人名の下に「之」が付されていない例はありません。とするならば、『円珍俗姓系図』のもとになった原資料が身の代で終わっていて、それ以降の世代は後から書き加えられたことが考えられます。それは、次の点からも裏付けられます。
①B部分は倭子原資料の成立時期 
②別君・加祢占乃別君のところでさらに二つの系統に分岐するが、前者の末尾に置かれた足国乃別君には「郡大領」の官職が付されていること。
③大領は、大宝元年(701)の大宝律令で定められた郡司の第一等官であること。 
④一方、後者の末尾から二番目の川内乃別君には「大山上」の冠位があること。大山上は、大化五年から天武14年(685)まで使用された冠位です。ここからは、川内乃別君の子の□尼牟□乃別君(後者の系統の末尾)は、およそ8世紀前半の人物ということになります。
つまり、B部分(Bl系統)の末尾に位置する足国乃別君・□尼牟□乃別君は、身とほぼ同時代の人物ということです。よって、B部分(Bl系統)がこれらの人物の世代で終わっているのと同様に、当初はC部分も身の上代までで終わっていたいたとします。

この時期には、諸氏族の氏上(うじのかみ:氏族の統率者)や系譜を記録した書物が作成されます。
そして「墓記」(氏族の祖先が王権に代々奉仕してきたことを記した書物)の提出や、氏上の選定が命じられるなど、氏族に関するさまざまな政策が実施されます。これは中央氏族を対象としていましたが、その影響が地方氏族も及んでいたようです。7世紀後半から8世紀前半にかけて、諸氏族の系譜が整備される中で、『円珍俗姓系図』の原資料も成立していたことが推定されます。すなわち、
①B部分はBl系統の水別命から足国乃別君・□尼牟□乃別君までと
②B2系統の阿加佐乃別命から真浄別飛まで、
③C部分は忍尾別君から身まで
が伝えられており、それらが『円珍俗姓系図』の作成時に基礎として用いられたというのです。
これまで、B部分が足国乃別君・□尼牟□乃別君の世代で終わっている理由はよく分かりませんでした。しかし、C部分も当初は同じ世代で終わっていたとすれば、その理由も自ずから見えて来ます。
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
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秦王国1
豊前の秦王国
秦王国には飛鳥よりも早く仏教が伝わっていたと考える研究者がいます。まず、五来重氏は次のように考えています。
①『彦山縁起』には、英彦山の開山を仏教公伝(538)より早い、継体天皇二十五年甲寅(534)に、北魏の僧善正が開山したと記すこと。
②『彦山縁起』が典拠とする『熊野権現御垂逃縁起』(『熊野縁起』)には、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降って、その後に彦山から伊予の石鉄山、 ついで淡路の遊鶴羽岳、さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山ヘ移った
③彦山への飛来は、『彦山縁起』のいう「継体天皇二十五年甲寅」こと。
以上を根拠にして、仏教公伝以前に彦山に仏教が入ったとする伝承について、次のように記します。
「私は修験道史の立場からは、欽明天皇七年戊午(588年)の仏教公伝よりはやく、民間ベースの仏教伝来があったものと推定せざるを得ない」

「民間ベースの仏教伝来」の例として、『日本霊異記』(上巻28話)の、役小角が新羅に渡ったとあること、「彦山縁起』に、役小角が唐とも往来したとある例がある」
「これは無名の修行者の往来があったことを、役小角の名で語ったもの」で、「彦山は半島にちかい立地条件にめぐまれて、朝鮮へはたやすく往来できた」
「無名の修行者」が、仏教公伝より早く、仏教を彦山にもちこんむことも可能であった。

 朝鮮への仏教渡来は、「道人」が伝えている。そのため列島への豊前への仏教伝来も「道人」といわれる日本の優婆塞・禅師・聖などの民間宗教者によって行われ、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して・占星術・易占・託宣をおこなったものとおもわれ、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った」
と推測します。
中野幡能は、仏教伝来を彦山に限定せず、豊国全般に公伝以前に仏教は入っていたとして、次のように記します。
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」として、「少なくとも5~6世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と原始神道と仏教が融合している事実がみられる」

 用明天皇二年(587)に、豊国法師が参内していることから、6世紀末には「九州最古の寺院」が、「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていて、」「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して6世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に入ったものではあるまいか」

このように、五来・中野の両氏は、仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったと見ています。
それではどうして、飛鳥よりも先に豊前に仏教が入ったのでしょうか。
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」があったからと考えています。「秦氏と新羅人の関係」とは、具体的には秦王国の存在です。豊前に秦王国があったこと、つまり、倭国の中にあった朝鮮人の国の存在が、仏教公伝に先がけて仏教がいち早く人った理由というのです。
仏教には、「伽藍仏教」と「私宅仏教」があります。
鎮護国家にかかわる公的な仏教は「伽藍仏教」で、蘇我馬子が受け入れようとしたのは「伽藍仏教」です。馬子は「伽藍仏教」の僧や尼を必要としたので、法師寺を建て、受戒した僧・尼を養成しようとしています。こうした馬子の仏教観に対し、豊国の法師の仏教は、「私宅仏教(草堂仏教)」で、巫女の伝統を受けつぐ「道人」的法師であっようです。だから、病気治療などに活躍する、現世利益的な個人的要素が強かったと研究者は考えています。
田村同澄は、次のように記します。
「宮廷に豊国法師が迎え入れられたのは、九州の豊前地方には、後に医術によって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を張っており、したがって医術の名声が速く大和にまで及んでいた」
 
 法蓮は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当で、英彦山や国東六郷満山で修行したと伝えられる修験者的な人物です。
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
史料A 施僧法蓮豊前國野冊町。褒霊術也
(僧の法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたるなり)
史料B 養老五年(七二一)六月三日条、
詔曰。沙門法蓮、心住禅枝、行居法梁。尤精霊術、済治民苦。善哉若人、何不二褒賞。其僧三等以上親、賜宇佐君姓
意訳変換しておくと
詔して曰く。「沙門法蓮は、心は禅枝に住し、行は法梁に居り。尤も医術に精しく、民の苦しみを済ひ治む。善き哉。若き人、何ぞ褒賞せざらむ。その僧の三等以上の親に、宇佐君の姓を賜ふ」)

史料Aからは医学的な功績として豊前国の野40町を賜ったこと、史料Bからは、その親族に宇佐君姓が与えられことが記されています。このような記述からは仏教公伝・仏教私伝以前に北部九州へ仏教が伝来していた可能性を裏付けます。法蓮は九州の山中に修行し、独自に得度して僧となり、山中に岩屋を構え、独特の巫術で医療をおこなっていました。また『八幡宇佐宮御託宣集』『彦山流記』『豊鐘善鳴録』などでは、法蓮は山岳修験の霊場彦山と宇佐八幡神の仲介をした人物とされています。そして法蓮を彦山を中心に活動した山岳仏教の祖とする多くの伝承が生れます。一方、法蓮は用明天皇の病気治療のため入内した豊国法師、あるいは雄略天皇不予の際に入内したとされる豊国奇巫の系譜を引く人物であったと次のように考える研究者もいます。
 豊国法師の伝統を受けついだ代表的な僧が、法蓮であったから、彼の医術は特に「監」と書かれたのだが、法蓮は、薬をまったく用いなかったのではない。薬だけでなく巫術も用いたから、単なる「医者」でなく「巫医」なのだ。法蓮が用いた薬に、香春岳の竜骨(石灰岩)がある。「竜骨」を薬として用いる術は、豊国奇巫・豊国法師がおこない、その秘術を法蓮が受けついでいた。このような豊国の僧(法師)の実態は、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教が、巫術的なものであったことを示しており、豊国奇巫ー豊国法師―僧法蓮には、一貫した結びつきがある。

 『日本書紀』(敏達天皇12年(584)には、百済から持ってきた仏像二体のための「修行者」を、「鞍部村主司馬達等」らに探させ、播磨国にいた「僧還俗」の「高句麗の恵便」をみつけた、とあります。ここからも仏教公伝以前に、渡来人が「私宅仏教」の本尊を飛鳥で礼拝していた可能性が見えて来ます。司馬達等は、法師を探し出す役を馬子から命じられ、恵便の一番弟子として娘の島(善信尼)を入門させています。ここからは司馬達等は、公伝以前に入った「私宅仏教」の信仰者であったことがうかがえます。
 司馬達等(止)を、『扶桑略記』は「大唐漢人」、『元亨釈書』は「南梁人」と記します。しかし、日本古典文学大系『日本書紀・下』の補注には、「一般に漢人は必ずしも中国からの渡来者ではなく、大部分は百済から来たものであるから」「大唐」、「南梁」の人とするのは「当らない」とあります。「司馬」などの二字姓は、百済・高句麗にもあるので、扶余系の渡来人と研究者は考えています。
 このように大和の飛鳥の地でも、私宅に仏像を安置して礼拝していた人たちはいて、彼らは百済系渡来人でした。それに対して、秦上国の「私宅仏教」は、新羅・加羅系渡来人によるものです。
新羅の「伽藍仏教」は、六世紀前半の法興上のとき以後になるので、それより百年ほど前の訥祗王の時代に、すでに新羅には「私宅仏教」は入っていたことになります。この「私宅仏教」は、私宅に窟室を作り、窟室に仏像・経典などを置いて、礼拝します。窟室、つまり洞窟は、新羅に最初に仏教を伝えた僧墨胡子を「安置」したというので、祖師の洞窟修行の姿が、礼拝の対象だったことがうかがえます。
仏教公伝以前に仏教が入ったという彦山の『彦山流記』(建暦三年〈1212〉成立)は、次のように記します。
震国の「王子晋」は、舟で豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神の香春岳に住もうとしたが、「狭小」だったので、香春より広い彦山の「磐窟」の上に天降り、四十九箇の洞窟に、「御正然」を分けた
『彦山流記』『彦山縁起』も、法蓮も玉屋谷の般若窟に住み、その他の修行者も、彦山四十九窟の洞窟を寺とした。
このは伝承に出てくる王子晋・法蓮は、窟室の墨胡子と重なり、新羅の「私宅仏教」の窟室信仰に結びついていたことが見えて来ます。仏教公伝以前に入った秦王国の仏教は、彦山の仏教や法蓮の信仰につながっていることを、『彦山流記』の伝承は語ってくれます。

玉屋神社 in 英彦山(9) - 耳納の神々
彦山四十九窟 牛窟

彦山四十九窟は、豊前・豊後。筑前にまたがる彦山を中心に分布しています。
これについて、中野幡能は、次のように記します。
「個々の宮寺を窟又は岩屋という」修験の霊山は、「他には豊後国の六郷山しかなく」、筑前宝満山にも「四十八嘔」があるが、この「岨」は、吉野の大峯の「宿」と同じ意で、彦山や六郷山の宮寺を「窟」というのとちがう。
そして、新羅の慶州の「南山の五十五ヶ寺の寺院が、一ヵ寺ずつ、寺号を名乗っている」のは、六郷山の「窟又は岩屋」が「一々山号寺号をもっている」のと「似て」おり、「六郷山の原型」は、「新羅の慶州南山」とみられる。「その意味では彦山四十九窟も、慶州南山のあり方と全く同じ方式とみてよい」
求菩提山 (くぼてさん):782m - 山と溪谷オンライン
求菩提山(くぼてんやま)

宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多いところです。
主要な霊場が窟なのも新羅の南山の岩窟の仏教信仰と共通しています。彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついていますが、六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しています。ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっていることになります。しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついています。新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の暴胡子や阿道が新羅に来て、毛礼の家で拡めたされます。
 『後漢書』東夷列伝の高句麗の条には、次のように記します。
其国東有大穴、号隧神。亦以十月迎而祭之

『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、
其国東有大穴、名隧穴。十月国中大会迎隧神。還於国東上祭之、置木隧於神坐。

『宋史』列伝の高麗の条には、
国東有穴 号歳神。常以十月望甲迎祭。

大穴を、「終神・隧穴・歳神」などと呼んでいたようです。これについて上橋寛は、『魏志』東夷伝高句麗の条の「隧穴」に、「置木隧於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、木隧を豊饒を祈る木枠のようなものと解釈します。

アメノヒボコ
新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)
そして新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津(みけつ)神で神体が日矛であることから、御食津神を歳神、神体の日矛を木隧という説を出しています。
洞窟に「木隧を置いて神坐す」というのは、家の中に「窟室」を作り、仏像を置くのことと重なります。終神・歳神の本隧が、仏像に姿を変えたのです。高句麗の民間信仰に仏教が習合したと研究者は考えています。これが高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったことになります。
ここでは天之日矛(日槍)を、木隧と見立てていますが、天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にありました。
穴師山は弓月嶽とも云います。そうだとすれば、秦氏の始祖の弓月君と穴師兵主神社があった弓月嶽に関連性があったことになります。弓月嶽・弓月君・秦氏の関係は、朝鮮の洞窟での神祭りが、秦氏の穴師兵主神社でもおこなわれ、一方、仏教化して、新羅の窟室信仰が、彦山・六郷山の洞窟信仰になったと研究者は推測します。
 穴師の「穴」も、「大穴」での祭と無関係ではありません。
穴師兵主神社の祭神の天之日矛は、『日本書紀』の垂仁天皇条には、「近江国の吾名邑に入りて暫く住む」とあり、「穴」地名と関わりがあるようです。近江の「吾名邑」は、『和名抄』の「坂田郡阿那郷」に比定する説もあります。阿那郷は宇佐八幡宮が官社化した後には、祭神にした息長帯比売(神功皇后)の息長氏の本拠地になります。息長帯比売は『古事記』には、祖を天之日矛としていて、新羅王子に系譜を結びつけています。この天之日矛や息長帯比売にかかわる地名に、「穴師」「吾名邑」「阿那郷」があることから、穴・窟の信仰は、泰王国の信仰と深くかかわっていると研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
① 公伝以前の仏教と高句麗での穴の中で神を祀る儀礼が、習合する
② 私宅に窟室を作り仏像を安置して、木隧の代りに拝むようになった。
③ 仏教と朝鮮の民間信仰が習合した形で、新羅の仏教は民間に浸透した。
『三国史記』『三国遺事』には、次のような事が記されています。
新羅に人った仏教は、王都の慶州にもひろまり、法興王は仏教を受け入れようとした。ところがこれに貴族の大半が反対した。

ここからは、最初に新羅に入った仏教は、一般庶民サイドの上俗信仰と習合した仏教であったことが分かります。わが国に公伝した仏教も、飛鳥の場合には「私宅仏教」の信者であった百済系渡来人が受容します。公伝以前から仏教信者であった鞍部は、雄略朝に渡来し、高市郡の桃原・真神原に住んでいました。その時、鞍部と共に衣縫部も来ていますが、『日本書紀』は、崇峻天皇元年(588)に、次のように記します。
「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊して、始めて法興寺を造る」

ここでは最初に伽藍仏教の寺院を建てた地を「真神原」といっています。衣縫造は鞍部村主と同じに、「私宅仏教」の信者であり、この私宅を「伽藍仏教」の伽輛(寺)にし、法興寺(飛鳥寺)を創建したと研究者は指摘します。
この飛鳥の寺地について、田村園澄は次のように述べます。

真神原と呼ばれたこの地には、飛鳥寺の創建以前から槻の林があった。飛鳥寺の造営のため一部は伐採され、土地は拓かれて寺地となったが、なお飛鳥寺の西の槻の林は残されていた。槻の林は、元来はこの地に居住していた飛鳥衣縫氏の祭祀の場であり、すなわち宗教的な聖地であったと思われる。朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。樹木の繁茂する林は神聖な場所であり、巫峨信仰の本拠でもあった。新羅仏教史において、早い時期に建立された寺のなかに、林に関連した事例がある。すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が建てられ、そして巫現が僧尼になったことになる。

飛鳥衣縫氏が真神原で祀っていた神については、よく分かりませんが異国の神だった気配がします。その後に、真神原を人手した蘇我馬子は、この地に別の「他国神」のための伽藍を建てます。新羅の寺院建立の例からすると、宗教的聖地が寺地になるのは自然なことです。飛鳥寺の場合、その寺地は「国神」の聖地ではなく、朝鮮半島系の神の聖地であったと研究者は考えています。
  飛鳥に公式に入った伽藍仏教の伽藍(寺院)を建てた地が、もともとは百済からの渡来人が祀っていた神の聖地であったことになります。それは渡来して来た朝鮮人の信仰の上に、「大唐神」「他国神」の信仰が「接ぎ木」されたとも云えます。
このように大和の場合も、仏教公伝以前から仏教は、飛鳥の渡来人の居住地区に、「私宅仏教」として入ってきたようです。しかし、飛鳥の場合は限られた狭い地域でした。それに対して、豊前に入った仏教は、秦王国の全域に拡がります。そのため仏教公伝のころには、道人的法師団(豊国法師)が形成されるまでになっていたのでしょう。この「豊国法師」の仏教は、土俗信仰や民間道教信仰と習合したもので、「豊国奇巫」が「豊国法師」になったと研究者は考えています。
 九州の初期寺院は、大宰府のある筑前に多く創建されていいはずです。しかし、筑前よりも、豊前に初期寺院が多いのをどう考えればいいのでしょうか。これは今見てきたように、仏教公伝以前から、豊前には民間ベースで、新羅の私宅仏教が普及していたからでしょう。白鴎時代に作られた寺院跡からも、新羅系遺物が多く出土してくるのもそれを裏付けます。
以上述べたように、わが国に仏教信仰が一番早く人ったのは、秦王国の地であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 仏教が一番早く入った「秦王国」 秦氏の研究


  前回は備後南部の芦田川流域について、以下のような点を見てきました。
備後南部に終末古墳が集中した理由3

 備後南部の芦田川流域と同じような動きが見られるのが播磨西部の揖保川中流域(兵庫県たつの市)です。この地域にも終末期古墳と古代寺院が密集しています。今回は播磨西部を見ていくことにします。テキストは前回に続いて、「広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月」です。
まず、揖保川流域の遺跡を見ておきます。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

このエリアでは、揖保川が南北に貫通していて、古代から上流域との船による人とモノの動きが活発に行われていた地域のようです。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から広域道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことが分かります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。
 「揖保郡」には古代寺院が11カ寺も建立されています。
地図に番号を入れた古代寺院を見ておきましょう。
①中井廃寺には柄穴式の心礎と石製露盤が残され、素弁蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦が出土。付近には、ロストル式瓦窯あり。
②小神廃寺からは素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式軒丸瓦と、それにともなう重弧文軒平瓦や出柄式の礎石などが出土。
③中垣内廃寺では柄穴式の塔心礎。
④小大丸中谷廃寺では南北75mの寺域が確認され、単弁十弁蓮華文軒丸瓦が出土
奥村廃寺 揖保川流域
奥村廃寺

⑤奥村廃寺は双塔式の伽藍配置をとった約150m四方の寺域をもち、柄穴式の塔心礎のほか有稜線弁文八弁軒丸瓦、川原寺式軒丸瓦、重弧文軒平瓦・偏行唐草文軒平瓦などが出土
⑤越部廃寺では珠文帯をもった複弁蓮華文六弁軒九瓦や重弧文軒平瓦を確認。
⑥栗栖廃寺でも珠文帯複弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土。
⑦香山廃寺では重弧文軒平瓦が出土

Photos at 下太田廃寺跡 - 2 visitors
下太田廃寺
⑧下太田廃寺では南北130mの寺域に、四天王寺式伽藍配置が推定。素弁蓮華文軒丸瓦、複弁八弁蓮華文軒丸瓦、忍冬文軒平瓦、重弧文軒平瓦などが出土
⑨金剛山廃寺では柄穴式の塔心礎がみつかっていて、川原寺式軒丸瓦と重弧文軒平瓦が出土
⑩以上に加えて、布勢駅家が確認。

播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
 11ヶ寺の立地を、見ておきましょう。(地図上の番号と一致)
A「山陽道」に沿って東方から①中井廃寺、②小神廃寺、③垣内廃寺、④小犬丸廃寺
B「美作道」に沿って南方から⑤奥村廃寺、⑥越部廃寺、⑦栗栖廃寺
C 東方に⑧香山廃寺、瀬戸内海に近い地区に⑨下太田廃寺や⑩金剛山廃寺
寺と官道の関係を考えると、寺が造られた後に山陽道や美作道が出来たわけではありません。沿線沿いに古代寺院が造られたと考えるのが自然です。AやBからは、古代寺院建立期の7世紀半ばには「山陽道」や「美作道」が完成していたことがうかがえます。ここでも律令体制以前に官道の原型はできていたことが裏付けられます。
 沿線沿いの寺院や五重塔は、銀黒色に輝く軒瓦や白壁や朱塗りのほどこされた柱などカラフルな七堂伽藍として、行き交う人々の目を引いたはずです。それは、かつての前方後円墳に替わるランドマークタワーの役割も果たしたのでしょう。
律令制下の揖保郡には、12里が設置されますが、そこに古代寺院が11カ寺も建立されていたことになります。
 終末期巨石墳を造営した一族が、7世紀後半には氏寺を建立するようになります。そういう視点で見ると、古代揖保郡では寺院を建立した檀越氏族のほうが、終末期古墳を築造した首長よりも多いと研究者は指摘します。つまり7世紀後半になって、この地域では首長が新たに増えているのです。
 古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が、律令期の播磨国揖保郡に「集住」していたことを物語ります。その背景としては、最初に述べたように揖保郡は、揖保川の伝統的な水運と、「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

前後しますが揖保川流域の終末期古墳についても見ておきましょう。 
岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力の抑制を目的として体制強化策がとられていたようです。

中浜久喜氏は次のように記します。
「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」

そして7世紀になると、終末期古墳と古代寺院が集中します。
揖保川流域の古墳編年

前方後円墳が造られなくなった後に、終末古墳としてこのエリアに最初に登場するのが1期の那波野古墳です。

那波野古墳 揖保川流域
①巨大な畿内型横穴式石室をもつ直径20mの円墳
②玄室側壁の腰石ふうの基底石、奥壁2段、玄室側壁3段、玄門部1段、羨道側壁2段に巨石を積む
那波野古墳 揖保川流域.2JPG
那波野古墳の石室

墳形はわかりませんが、前回見た備後南部地域に最初に登場する二子塚古墳とよく似た形のようです。やはり、畿内勢力から派遣された首長墓と研究者は推測します。

那波野古墳と同時期に築造されているのが方墳のはっちょう塚7号墳です。
工人のこだわりが伝わるようやくたどり着いた石室!一辺25mの方墳。はっちょう塚7号墳■(たつの市)(兵庫県)(後期)Hacchouuzka No.7  Tumulus,Hyogo Pref.

①一辺26mの方墳で、横穴式石室は両袖式で低いが前壁もあって畿内型タイプ
②玄室側壁は巨石を3段積む[松本・加藤・中村・中浜・義則1992]
以上の2つの古墳が1期に属し、突然のように現れる終末古墳群のスタートとなります。
この2つに続く終末期古墳を石室編年で見ておきましょう。

揖保川流域の古墳編年.3JPG
揖保川中流域の横穴石室の編年

備後南部地域とは違って、揖保川中流域では畿内型横穴式石室が続かないようです。
①2期の上伊勢古墳は羨道がないのでよく分かりませんが、玄室側壁、奥壁はおそらく2段積
②浄安寺古墳の横穴式石室は左片袖式で、奥壁と玄室側壁は巨石一石で構成され、玄門立柱石を立てる。前壁はなく、天井は平坦。
③山田3号墳も左片袖式で小型で、浄安寺古墳とほぼおなじ構造
④宇原2号墳長は羽子板状プランの無袖式で、奥壁は1石、側壁は1~2段積み、天井は平坦で前壁をつくらない
⑤長尾薬師塚古墳は東辺約20mの方墳で、前面の東南側はかなり下方まで地形が直線的に整形。部分的に加工された壁材の間には粘土が詰められ、奥壁は2石2段、側壁は3~5段積みで、長さ304mの石室のほぼ中央には仕切り石が据えられる。閉塞のための板石もある
⑥塩野六角古墳は六角墳で、小さな自然石を積む。  型式平行とみられる須恵器が検出。

播磨地域の横穴式石室について、中浜久喜氏は次のように記します。
①6世紀後半ごろには右片袖式、左片袖式、両袖式の畿内型横穴式石室が併存し、巨石を用いた横穴式石室はあまりない。
②そうしたなかで登場する那波野古墳は、畿内型の巨石墳である。
③7世紀中ごろには個性的な左片袖式、無袖式の横穴式石室、さらには変形版の「横口式石榔」など、多彩な横穴式石室がつくられる。
④そこには、横穴式石室の形式を統一しようという意志は見受けられず、横穴式石室をとおしての「われわれ意識」を表現しようとする意図は弱い。
⑤白毛9号墳・白毛13号墳、若狭野古墳などは、畿内方の横口式石槨をモデルにしたような変形的横穴式石室である。
横口式石槨


この中で⑤については、播磨地域の横口式石槨20基を挙げて次のように記します。
「赤穂・揖保の両郡域のみに分布している。」
「最も後出の若狭野古墳は7世紀の第3四半期ごろ」
ここからは、赤穂・揖保の両郡の首長達が畿内中枢部と交渉があり、それが横口式石槨の採用と形で現れていると研究者は考えています。

もう一度揖保川流域の終末期古墳群を見てみましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

揖保川中流域には、群集墳が多いこと分かります。
その中で研究者が注目するのが西脇古墳群です。

姫路市所在 西脇古墳群 -山陽自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告15-(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所編) /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この古墳群は、揖保川の東側で山陽道と美作道の分岐点付近に位置します。その数も百を超えるようです。この古墳が造られ始める頃には、畿内では群集墳は終わっていました。その特長を研究者は次のように記します。
①6世紀後半ごろから7世紀初めごろにかけての群集墳とくらべると、墳丘も横穴式石室も小さいし、副葬品もきわめて少ない。
②京都府の音戸山古墳群、旭山古墳群、醍醐古墳群、あるいは大阪府田辺古墳群など、ほぼ同時期のものと比較しても基数が多い。
③3~4世代におよぶので、単純計算でも30~40ほどの造墓主体が共同墓域を利用していたことになる。
④古墳造営が7世紀なので、この地域の中間層だけが自発的に共同墓域をかまえ、そこで造墓活動をしたとは考えにくい。
終末期古墳や古代寺院の密集度からしても、この地域に「特定の役割」を担わされた集団がいたと研究者は考えています。特定の役割とは何なのでしょうか? 郡家の交通機能に関わる役割を担っていたことが考えられますが、よく分かりません。南北に流れる川の水上輸送と、東西の官道が交わる地点は「戦略要衝」として、有力者が派遣された。同時に、戦略要所地の管理運営のために、渡来系などの中小氏族も移住させられた。彼らは、周辺に群集墳を築いたとしておきます。  
 なお讃岐から播磨に移された氏族の記録がいろいろな史料に出てきます。それも戦略的要衝建設のための讃岐からの移動という点で見ることができるのかもしれません。それはまた別の機会に。

終末古墳集中の背景

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月

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