瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐古代史

金倉寺縁起

前回までは金倉寺縁起上巻を見てきました。そこには、日本武尊・讃留礼王から綾氏・酒部氏・和気氏をへて、智証大師に至るまでの事績と金倉寺の前身寺院の伝が記されていました。今回は、中巻の前半部の円珍誕生から出家までを見ていくことにします。テキストは「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」です。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生

 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO1)
意訳変換しておくと
当寺の初祖智證大師は、原田戸主長の和氣宅成の次男である。母は佐伯氏で、弘田郷領の出身で、弘法大師の姪である。嵯峨天皇の弘仁四年夏、母の夢の中で、日輪赫変が口に飛び入ってくるのを見て、授かった子である。そして翌年3月25日誕生した。生まれるときには、天中から声が聞こえ、南無大通智勝佛が唱えられ、眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆のようで、肉髪に似ていた。
 宅成公は、この姿を見て奇相と思い、廣雄と名付けた。二歳の時に麻田に遊び入ると廻りが光明を発して光り輝いた。隣の里の人々までもが驚嘆した。三歳の春二月には、弘法大師が円珍を見て、その母に「あの子は非凡である」と告げたという。これを軽々しく捨て置く事はできない言葉である。
ある日には童子八人が天から下りてきて、円珍と遊んだ。円珍は幼くして老成の趣があった。見識のある者は異才と思った。五歳の時、訶利帝母が現れ、次のように告げた。汝は三光の中の明星となれ。あなたは天子の精で、虚空菩薩の権化(生まれ代わり)である。私はあなたと多くの契りを交わそう。あなたは将来、佛法を興すことになる人物である。私は、あなたの庇護者となろう。七歳の時には、雲衣童子が現れて次のように云った。私は文殊大士の指示で、あなたが生まれる前から見守り、保護してきたと。八歳の時には、父が云うには。内典の中に、過去や因果を記した経典があると聞く。願わくば吾をして、習わしめんと
ここには智証大師の母が弘法大師の姪とされています。
これが最初に登場するのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』です。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の」とは記されていないことです。「空海の姪」です。
空海系図 正道雄伝
田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』
しかし、後世になると「円珍の母=空海の」説となり、「円珍=空海の甥」説が生まれることは以前にお話ししました。どちらにしても、佐伯直氏にもいろいろな流れがあったようですが、田公の家系と和気氏(因支首氏)が婚姻関係にあり、ごく近い関係にあったことを金倉寺側は世間に伝えたかったようです。ある意味、弘法大師と善通寺を金倉寺は意識しています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍像(金倉寺蔵)
 また生まれた時の姿を「眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆」と記します。円珍のトレードマークであった「卵頭」は生まれつきだったようです。そして円珍の守護神として訶利帝母が登場します。これも別の機会にお話しすることにして、先を急ぎます。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生2

讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO2)
父親の願いを聞いて、驚くべきことにすぐに付箋をつけた。
九歳の時に、師祖である伝教大師が亡くなられた。十歳の時、毛詩・論語。漢書・文選等を学び、多くの書物も読破し身につけた。十四歳の時、叔父の仁徳法師に従って上洛した。十五歳で叡山に登り、事座主義真和尚を師とした。和尚は円珍を見るなり、その器量を見抜き、心を尽くして善導した。そこで學んだのは、法華・金光明経などや天台宗章琉、などで、ほとんどを網羅したものであった。
淳和天皇の天長九年、円珍十九歳で年分試を奉じ、三月十五日断髪、四月八日受戒し沙爾となった。その名は円珍。文字の意味は遠崖。この月二十一日に都を出て、二十八日に讃岐原田郷の自在王堂に還ってきた。留まること五ケ月で、深山山林原野の山林修行に入り、伽藍を造営し、仏像を彫った。。
こうして道隆寺、宝幢寺、金剛寺、城山寺、白峰寺、根香寺、古水寺、鷲峰寺、千光寺などの伽藍を造営した。(注記)古記に曰わく、讃岐の智証大師開基の寺は17寺に及ぶと) 八月一日に讃岐を離れ、五日に入京。七日に叡山に帰った。
14歳の時に、叔父の仁徳法師に連れられて比叡山に赴いたとされています。仁徳については、円珍系図に以下のように記されています。
円珍系図冒頭部
円珍系図 左の一番下の「広雄=円珍」 その上の「宅成=円珍の父」「宅丸=仁徳=円珍の叔父」
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)に、次のように記されています。

沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄

意訳変換しておくと
 
沙弥円珍は十九歳、讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成の戸籍 広雄

ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

4344103-26円珍
円珍 「讃岐国名勝図会」 国会図書館デジタルアーカイブ

    貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)に「智証大師」の号を得ています。
 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったとされます。しかし、これは円珍の法灯を継ぐ天台寺門派の聖護院が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者たちが、円珍を「始祖」として、信仰対象にしていたことがうかがえます。それが後に天台系密教修験者たちの祖とされ、白峯寺や根来寺の開基にも関わったされるようになったと研究者は考えています。ある意味では、醍醐寺の開祖聖宝が真言系修験者たちから開祖とされ、いろいろな伝説が生まれてくるのと似ています。
 円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったと研究者は考えています。
 にもかかわらず円珍創建・中興とされる寺院が数多くあります。例えば「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場します。この縁起には、次のように記されます。

貞観二年(860)、円珍が五色台の山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられた。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺?)、白峯寺の四ヶ寺に納めた。

この縁起には、根来寺や白峰寺・国分寺の本尊の千手観音は円珍の自作とされています。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたことがうかがえます。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていたり、他にも、天台大師像、智証大師(円珍)像、山王曼荼羅図が伝えられていることが報告されています。また、根香寺には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。
    根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。八十七番札所の長尾寺も、松平頼重によって天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。
智弁大師(円珍) 根来寺
根来寺の智証大師像(松平頼重寄進)

智弁大師 円珍 金倉寺
金倉寺の智弁大師像(松平頼重寄進)

長尾寺 円珍坐像
              長尾寺の智弁大師像 (松平頼重寄進)

円珍信仰・伝説の背後には、聖護院の本山派修験者たちの存在が透けて見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」
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前回は18世紀前半に了春によって書かれた金倉寺縁起の上巻を、次のようにまとめておきました。

和気氏と讃留霊王伝説

今回は円珍によって金蔵寺の伽藍が整備されるまでを見ていくことにします。上巻後半部の綾姓第十一世・原田戸主長者の和氣道善(円珍の祖父?)からです。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の那珂郡金倉郷と多度郡葛原郷は隣同士 金倉郷の南が木(喜)徳郷

鶏足山金倉寺縁起6
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五(774)年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善公自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。
平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成に云うには中冬の初めに私は逝く。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じながら端坐して逝った。112歳であった。  
ここには原田戸主長者の道善(円珍の祖父?)が自在王堂を建立したこと、そして円珍の父・宅成が登場してきます。これを円珍の残した「円珍系図」で確認しておきましょう。
円珍系図 那珂郡
円珍系譜 円珍は広雄、その父は宅成、叔父が宅麻呂(仁徳)、祖父が道麻呂と記されている。
この系図には、和気道善という人物はでてきません。でてくるの「因支首道麻呂」です。円珍より前の祖先は因支首氏を名乗っていたことは以前にお話ししました。それを円珍の時代に改姓申請したのです。和気氏を名乗るのは、改姓以後のことです。そのことについて縁起は何も触れません。近世の金倉寺には。因支首氏や和気氏に関する根本史料がなかったことがうかがえます。

金倉寺縁起上巻 和気の道隆
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
道善公の弟が和氣道隆である。
道隆は天平年中に、堀江に移り周辺に千株の桑を植えた。このため人々は桑園公と呼んだ。勝賃元年六月に、その桑樹の上で発光するものを見つけた。道隆公は妖怪かと驚いて弓矢でこれを射た。手応えを感じて樹下に確かめに行くと、そこには道隆の乳母が倒れていた。道隆公はこれを見て大いに悲しんだ。そして、桑の木を切って、冥福を祈りながら薬師如来の小像を彫った。小像が完成すると、乳母は生き返った。そして矢傷も見えなかった。これを見た者は、手を打って喜んだ。これ以後は、道隆公は世俗を離れ、一心に仏道に励み怠ることがなかった。延暦24年7月15日、道隆公は五輪塔婆を建立し、爾勒定で逝った。時に99歳であった。
天長9年、智證大師が、道隆公の旧跡に伽藍を造営した。
 薬師如来像を自らの手で彫り、その胎内に道隆公の小像を入れ安置した。また道隆公の累代の菩提寺として妙見尊を奉り守護神とした。これを道隆公にちなんで道隆寺と号した。世間ではこれを桑多寺とも呼んだ。
 延應元年8月10日、道隆の子孫で道隆寺住職の朝祐は、金倉寺講衆から法華八講を学び修めた。それ以来金倉寺學頭一の学僧が招かれ、法事を執り行うしきたりとなった。
  ここでは、道隆寺建立の縁起が語られます。
まず、道隆寺を建立したのは、自在王堂(後の金蔵寺)を建立した道善の弟・道隆だとします。つまり、道隆寺も和気氏の一族の氏寺だったというのです。たしかに、和気氏に改姓する前の因支首氏の一族は、那珂郡よりも多度郡に多かったことが「円珍系図」からはうかがえます。古代の因支首氏が那珂・多度郡一帯に分布していたのは頷けます。しかし、系図には道善の弟は「宅麻呂」と記されています。彼は出家し、後に仁徳を名乗る人物です。このあたりも円珍系図と齟齬をきたします。
 その後、道隆の居館跡に円珍が伽藍を整備したとしるします。そのため道隆寺は金倉寺の末寺的存在であり、金倉時から法華八講を学んでいて、金倉寺の方が格上である事を暗に主張しています。どちらにしても近世の金倉寺では、道隆寺も同じ和気氏の氏寺であり、関係が深かったと認識されていたことを押さえておきます。次に出てくるのが善茂の娘と、道善の息子宅成です。

金倉寺縁起上巻 和気宅成
意訳変換しておくと
善茂の娘の珠妙尼は、性格が柔和で、俗事に染まらない気質を持っていた。幼年の時に、髪を落として尼僧となった。一生、勘行精進し、法華経万部を誦読し、一千部を写経した。和銅5年2月15日、父兄が先に逝き、追うように年若若く33歳で逝った。
綾姓第十二世は、原田戸主長者の和氣宅成(円珍の父)である。
寛容で思慮深い性格であった。京師に遊学し、四書五経などを学び、仏教にも接した。長く仏教を信仰してきた家として、なにか世間に役立つことをしたいと考えた宅成は、弘仁年間の初めに、父道善が建立した自在王堂を官寺とし、国衙から租税を支給されることを願うようになった。このことについて、何度か国衙に願いでたが許されなかった。
 そこで仁壽元年に、息子の円珍の護持を受けて願い出た。時の国衙役人は、円珍が天皇や公家たちから頼りとされ、深く帰依されていることを知っていた。そこで解状を書いて朝廷に奏上した。この年11月に下された庁宣には、次のように記されていた。讚岐國原田郷道善寺に下す。

善茂の娘の後に、道善の息子宅成(円珍父)が登場してきます。そして、道善が建立した自在王堂(道善寺)の官寺化を、円珍の力を借りながら進めたことが記されます。そして、その認可状を次のように紹介します。
金倉寺縁起上巻 和気宅成 道善寺
意訳変換しておくと
  寺領三十二町を自在王堂如意輪精舎(道善寺)に下す。この地は、善茂が開墾した地であり、伽藍は道善の建立したものである。大聖金輸如意尊は、出家した善甲が彫刻し、自在王としたものである。その聖胎の中には妙見珠が収められている。尊像も佛閣も、皇法護持の秘佛であり、國家繁栄の霊場である。よって解状の趣旨を受けて燈明料として国家の保護を与える。ついては、士利を募って、僧侶の衣食に充てよ。なお、すべての雑税を皆免する。ついては円珍を護持長吏として、皇祖長久、四海泰平を祈念させよ。これは是宅が望んでいた遺志に報いることでもある。齊衡2年2月14日、沐浴し着替え、弥陀念仏を唱えながら宅成は逝った。壽98歳であった。
 伝えるところでは、智證大師は、唐越州の開元寺に留学中に、不動尊と訂利帝母が現れて、汝の父の死期が近い。我ら二尊が力を貸すので、今生の別れを告げてこいと。こうして二尊によって讚州原田郷宅成のもとに送り届けられ、最後の別れを遂げることができた。齊衡2年2月1日、大唐大中九年の事という。
ここには、道善が建立した自在王堂(道善寺)が円珍の威光で官寺化されたことが記されています。和気氏が、仏教に帰依して以来の到達点が誇らしげに記され、寺領と共に免税特権などが与えられたことが記されています。しかし、金倉寺が官寺化されたことはありません。
 次に登場するのが、道善の次男で、宅成の弟である仁徳です。

金倉寺縁起上巻 仁徳
意訳変換しておくと
金林寺の初祖仁徳は、和氣道善の次男である。
仁徳は、英俊で幼年時から仏教に興味を持っていた。道善公は、これを見て仁徳を叡山の伝教大師に託した。延暦年中に断髪・出家した。弘仁13年に伝教大師が入滅した後は、讃岐の木徳金林寺に帰り伝道活動を行った。これにより天台宗を海南(四国)に伝えた。貞槻元年に入滅。
綾姓第十三世は、原田長者の和氣善甑である。
仁孝で、先志をよく継いだ。天安2年秋に、智證大師が当留学から帰国すると、この道善
寺で一時生活した。甕公はこの地に移り住むことを望み、智証大師のために規模拡張工事を行い、貞観3年に造営完了した。多くの僧達が参加して、智証大師の下で落慶法要が営まれた。
 こうして、「(国分寺の)鷲峯(寺)台の嶺の秋月、鵜足山頭の壇場、蘭陀青龍寺の春華、道善寺賓房の薫堂」と並び称せられ、日夜香燈の光焔が絶えることがなく、菩提の気風が満ち満ち、朝暮の鐘の音が殷賑に響き、煩悩を感じることもなかった。道善寺の盛んなことかくの如し。
金林寺の仁徳を、もういちど円珍系図を見ておきましょう。

円珍系図 那珂郡

確かに仁徳(因支首宅麻呂)は、宅成の弟で、広雄(円珍)の叔父になります。円珍が空海の高野山ではなく、比叡山に行ったのも仁徳の導きによるとされます。しかし、ここで注意しておきたいのは、円珍系図で多度郡と那珂郡の因支首氏を挙げていることです。それを見ると、円珍や仁徳も那珂郡に戸籍があったことが分かります。ところが金林寺は多度郡の木徳に、創建された寺院なのです。この当たりは仁徳が讃岐に天台宗をもたらした人物として評価するために、金林寺という寺が作り出された気配がします。
最後に登場するのが、綾姓第十三世で原田長者の和氣善甑」です。
「円珍系図」からすれば、円珍の弟福雄に当たるようですが、縁起はその事には何も触れません。ただ、智証が唐から帰国した際に、道善寺を整備したのは円珍ではなく、善甑だと記します。
以上から18世紀前半の了春が金倉寺縁起の中で伝えたかったことを挙げておきます。
①和気氏の祖先は、悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏と祖先は同じである。
②綾氏→黒部氏→和気氏と改姓しながら、妙見神の信託で居住地を換えながら鵜足郡から綾郡へ進出してきた
③早くから仏教に帰依し、木徳に金林寺を建立以後も転居先に寺院を建立してきた
④それが円珍の祖父道善が建立した自在王堂(金倉寺)や、弟道隆の建立した道隆寺であった。
⑤円珍の父宅成は、自在王堂を官寺化し、寺領や免税特権を得た。
⑥金林寺の仁徳は、最澄の比叡山で学び、讃岐に初めて天台宗をもたらした。
⑦唐から帰国した円珍によって自在王堂は伽藍が整備され、金倉寺とよばれるようになった

しかし、これらを円珍系譜などで検証すると齟齬が多く、事実と認められることは少ない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



四条・吉野の開発
まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎) 

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
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まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

  
    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長尾の町代遺跡と古墳群

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

善通寺大墓山古墳の馬具2
大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
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丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長炭の土器川右岸の古墳群(まんのう町HP まんのうマップ)

それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
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古代讃岐郷名 寒川郡
讃岐寒川郡の郷名

続日本記29巻に次のように記されています。
  神護景雲二2(768)年二月、筑前国怡土城成。讃岐国寒川郡人外正八位下韓鐵師部毘登毛人、韓鍛師部牛養等壱百弐拾七人 賜姓坂本臣

意訳変換しておくと

  神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。

この文書を一体のものとすると、奈良時代の768年に怡土城の完成の論功行賞として、寒川郡の韓鍛冶部の一族127人に坂本姓が朝廷より下賜されたということになります。
  ここに出てくる「韓鍛冶部(からのかぬちべ)とは何なのでしょうか?
  日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように記されています。 
韓鍛冶部は韓土渡来の鍛冶部、すなわち渡来系の新技術を有する鍛冶職集団の称。倭鍛冶部(やまとのかぬちべ)に対する。『古事記』応神段に、手人韓鍛名は卓素(たくそ)なる者を百済から貢上した、とあるのが早い例で、以後数多く渡来したらしく、その分布は大和、近江、丹波、播磨、紀伊、讃岐の諸国に及ぶ。これらのなかには官位を得たり、日本姓に改姓を認められたり、郡の大領(長官)として巨富を蓄えたりする者も現れたから、韓・倭の別もしだいに不分明となった。[黛 弘道]」
ここからは次のようなことが分かります。
①韓鍛冶部は、刃物、鎌・斧、鍬、刀など、金属製造や軍事に係わる渡来系の技術者・軍事(?)集団であったこと
②各地に分散し、一部が讃岐にいたこと
③それが改姓して、渡来人としての素性が分からなくなったこと
韓鍛冶部は律令時代になると、兵部省の造兵司(ツワモノツクリノツカサ)の「雑工戸」と、宮内省鍛冶司(タンヤシ)の「鍛戸(カジヘ)」として二つの省に配置されています。また令外官として諸国に置かれた鋳銭司(ジュセンシ)で銭の鋳造(無文銭・和銅銭等)、あるいは諸寺院の仏像・仏具の鋳造にも携わるようになります。例えば聖武天皇の盧舎那仏造営の際の鋳造技術者として大鋳物師の柿本小玉、高市連真麻呂も韓鍛冶部の出身だったようです。
 5世紀頃に、朝鮮半島からの渡来人によってさまざまなハイテク技術がもたらされます。
その中の鉄製兵器や農工具部門を担当した集団としておきます。
渡来人の技術者集団
渡来人の技術者集団
彼らの他にも漢氏の指揮下に、錦織部・陶部(スエベ)・鞍作部(クラツクリベ)等の品部(シナベ)がいたようです。それが律令国家の下では、品部の中から必要な部分を「律令制の品部」として残し、特に軍事的に重要なものを「雑戸(ゾウコ)」として制度化します。品部、雑戸は共に良民なのですが、雑戸は品部ほどの自由は無く、世襲の技術をもって朝廷に仕え、職種に応じた特殊な姓を付けられ(例:忍海手人、朝妻金作など)、特別な戸籍(雑戸籍)に編入されていました。奈良時代には何回か雑戸の身分からの解放が行われますが、その技能の世襲は強制されています。。
以上の予備知識を持った上で、改めて讃岐寒川の韓鐵師部の一族を見ていくことにします。

  神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。

これに予備知識を加えて読み解くと、次のようになります。
①改姓前は韓鐵師毘登(からかぬちのひと)毛人なので、韓半島からの渡来人で、鍛冶技術者集団として寒川郡に定着していたこと。
②火山産の石棺製造には鉄工具が必要であったが、これに韓鐵師部一族が関わっていた可能性
③768年の筑紫の怡土城の築城に寒川郡の韓鐵師部たち127人が出向いて働き、その功績として坂本姓を得たこと
④讃岐の韓鐵師部がわざわざ筑前まで動員されているので、彼らには特別のハイテク技術があり、その専門性を買われてのこと。具体的には築城に使用する金属工具
⑤リーダーの毘登毛人や牛養などは、正八位下の官位をもっていること。
⑥一族127人が改姓していること。この数は、空海の出身氏族の佐伯直氏や智証の因支首氏と比べると各段に多いこと。つまり大きな勢力を持つ一族であったこと。

どうして韓鐵師部から坂本臣に改姓したのでしょうか?
当時の改姓は申請を受けて、それを朝廷が系譜を調査した上で、相応しいと認められた場合に改姓が許されていたこと以前にお話ししました。坂本臣は武内(建内)宿禰の子である紀角(木角)宿禰から出た紀(木)臣の同族とされます。坂本臣は、和泉国坂本郷を本拠として、讃岐国ともかかわりが深かったようです。また、「新撰姓氏録」和泉国皇別には「建内宿禰男紀角宿繭之後也」とあり、紀辛梶(きのからかじ)臣がいます。呼称からも坂本臣の本拠と鍛冶集団との関係がたどれます。そして、佐伯氏が佐伯宿禰に改姓したように、今後の一族のために有利になるような氏姓を選んだ結果が坂本臣だったとしておきます。
実は、坂本臣に改賜姓した「韓鐵氏毘登毛人」と同一人物らしき者が12年後に別の史料に出てきます。宝亀11年(780)成立の『西大寺私財帳記帳』の「田薗山野図」讃岐国二巻には、次のように記します。
「寒川郡盬(塩)山,白施紅、坂本毛人所献、在内印」

ここには寒川郡の製塩用の燃料伐採の用地である塩山(汐木山)を西大寺に坂本毛人が献じたことが記されています。ここに登場する坂本毛人は、12年前に改姓した韓鐵師部の毘登毛人と同一人物である可能性が高いようです。そうだとすれば坂本氏は、製鉄・鍛冶のための山も持っていたようです。
同時に、ここからは寒川郡では西大寺の管理下で製塩が行われていたことが分かります。製塩には濃縮した海水を煮詰めるために最終工程で大量の薪が必要だったことは以前にお話ししました。そのために廻りの山々は、伐採されはげ山化していきます。薪の確保が生産継続の重要な経営ポイントでした。そのために坂本氏が汐木山を西大寺に献上したのでしょう。西大寺と坂本臣の密接な関係がうかがえます。この製塩場の管理や、奈良西大寺までの輸送も坂本臣が担当していたのかもしれません。
 先ほど見たように神護景雲2年(768年)に改賜姓した一族は、127人にもなります。ここからは坂本氏が讃岐国寒川郡を拠点として、奈良の西大寺に塩山を寄進するなど相当な勢力をもった集団だったことが分かります。韓鐵師部の毘登毛人は。祖先の渡来から長い月日を経て、本来の鍛治を中心とした生き方から、坂本臣へと改姓し、製塩や瀬戸内海交易へと「事業転換」を測ろうとしていたのかも知れません。
「東讃の代表的な国造系豪族は、凡直(おおしのあたい)氏です。
彼らも791(延暦10)年に凡直千継が改称を申請しています。その時の申請書には次のように記します。
凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたい。

この申請が認められ21戸が讃岐公に改姓認可されています。讃岐公氏は中央貴族に転身し、平安時代に明法博士を輩出します。讃岐永直は明法博士となり、836(承和3)年に永成、当世らとともに朝臣姓を賜与されています。讃岐永直は大宝律令の注釈書である『令義解』の編纂にも携わりました。

  このように奈良時代になると、讃岐の豪族達の改姓や本貫地の変更申請が次のように数多く見られます。
791 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
864 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
867 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
867 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)

この背景には、郡衙機能が弱体化し「中間搾取」が少なくなり、郡司などの地方役人の役得が大幅に減ったことが背景にあることは以前にお話ししました。彼らは、別の「収入源」の確保に血眼を挙げていたのです。それと世渡りに有利な氏姓への改姓はリンクするようです。
最後に寒川の渡来人・韓鍛冶部がもたらした鍛冶技術とはどんなものだったのでしょうか。
残念ながらそれが分かる史料も考古学的な遺跡もありません。ただ、仏生山の髙松市立病院の「萩前・一本木遺跡」からは、多くの鉄製品などが出土しています。

髙松市萩前・一本木遺跡2
              萩前・一本木遺跡
ここは琴電の仏生山駅の前で農業試験場ほ場内だったところで、直ぐ北側を南海道が通り、古墳時代後期の首長居館や大集落が展開していたことが分かりました。

古代製鉄技術の発展

萩前・一本木遺跡 鉄製品
萩前・一本木遺跡(仏生山駅南 髙松市立病院)出土の鍛冶製品

高松市萩前・一本木遺跡

  ここからは次のようなことが分かります。
①古代の鉄器の種類の豊富さからは、加工用具として重要な役割を持っていたこと。
②鉄器なしでは、生産できないものがたくさんあったこと
③厚手の鉄塊は、鉄素材として朝鮮半島から持ち込まれ流通していたこと
④鉄器のメンテナンスのために砥石が使われていたこと
⑤鋳造の際に使用した円礫の鉄床石がでてくる
このような製鉄・鍛冶技術によって生み出された鉄製品が、髙松平野の開拓に使用されたのでしょう。

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より
逆に言うと、このようなハイテク技術者集団を配下に持たない勢力は、取り残されたということになります。  韓鐵師部のような渡来人のハイテク技術者集団を招き入れたり、傘下に置くことが地方の有力豪族にとっては死活問題になってきます。以前に製鉄技術と秦氏・ヤマト政権をめぐる動きを次のようにまとめました。

秦氏の渡来と活動
ヤマト政権は製鉄技術者集団である秦氏を配下に置いて、河内湖周辺の開発を行った。
「秦氏= 韓鐵師部」と考える研究者もいます。そういう視点で、仏生山周辺を見ておきましょう。
2 讃岐秦氏1
史料からは、讃岐の各郡にいたことが分かります。特に濃密なのが髙松平野の香川郡です。
香川郡の遺跡を見ておきましょう。
2 讃岐秦氏2
仏生山の南の万塚古墳群や周辺の後期群集墳は秦氏一族のものと研究者は考えています。また、一宮神社(田村神社)も、もともとは秦氏の氏寺だったとされます。そうすると仏生山駅の前の古墳時代後期の居館跡も秦氏のものと考えるのが自然です。秦氏は、ヤマト政権の傘下で、最新の土木技術や農工具で河内湖の開拓を進めたように、髙松平野の開発を進めたことが見えてきます。それと最初に見た寒川郡の韓鍛冶部の一族127人は、同族意識を持っていたとしておきます。
古墳時代の豪族居館
古墳時代後期の豪族居館
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 村上恭通 古墳時代の鍛冶 最新の研究成果から見た髙松の状況 
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 を紹介しました。これらの動きは倭と百済の連携強化の中で進められた「新たな政治的変化」の一環と研究者は捉えます。このような動きは、6世紀前葉の日本列島各地の「首長系譜の変動」という政治変動につながります。同時に集落や手工業集団にも、5世紀後半と異なる動きが見られるようになります。その変化を見ておきましょう。テキストは前回と同じく「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。
 かつては、この時期の須恵器の変化要因を、田辺昭三は次のように記しました。
「群集墳の被葬者層という新しい須恵器の需要者が広範に出現したことに支えられて、須恵器生産は最初の画期を迎えた」[田辺1981:p.48]

しかし、現在の研究成果からは、須恵器の仮器化と群集墳の出現は時期的に一致しないことが分かってきました。そこで研究者が注目するのが韓式系軟質土器との次の関連性です。
①提瓶や短頸壺などの増加する器種が、栄山江流域でも同時期に増加
②杯身・杯蓋の大型化、𤭯の長頸化といった型式変化も両地域で連動
③装飾付器台の増加や角杯の部分的受容といった新羅からの影響が見られる
このような須恵器の器種構成の変化は、手工業生産遺跡の分布変化をもたらします。また、陶邑窯跡群の窯数が減少する一方で、窯詰状態での生産が行われるようになるのも、その変化の一環でしょう。窯分布の変化が示すことは、それまでの須恵器窯が衰退する一方で、兵庫県・金ヶ崎窯など新たな生産地が出現することです。これについて花田勝広氏は、次のように記します。

「5世紀後葉に河内において集中するピークがあり、河内平野を中心に広く工房が散見される。一方、6世紀前半に引き続き、操業を行うものが少なくなり、特定工房(大県遺跡、森遺跡)への再編を予想せしめる」という[花田2002:p.29]。

   つまり、5 世紀後葉の窯業などの手工業生産遺跡は、6世紀に続かずに断絶するというのです。これは窯業だけでなく、鍛冶生産遺跡でも云えるようです。いわば「旧工業地帯」から「新興工業地帯」への再編整備が中央権力によっておこなわれたと研究者は考えています。それは、どのようにして行われたのでしょうか?
集落内部における変化を、大阪府交野市上私部遺跡で見ておきましょう。

上私部遺跡変遷図
この変遷図からは、次のようなことが分かります。
①5世紀前半から6世紀初頭に竪穴式住居で構成されていた集落が(上段)
②6世紀初頭から6世紀中葉には、居住域拡大とともに方形区画にかこまれた大型の掘立柱建物群が出現し(中段)、
③短期間のうちにより計画的な建物配置へと変貌する過程が示されている(下段)。
ここで研究者が指摘するのは重要な変化点は、5世紀後半ではなく、6世紀以降にあるということです。その変化をもたらしたのは継体大王を擁立した政治勢力ということになります。
 初期群集墳の展開過程が見られる猪名川流域も、継体期に古墳築造と集落発展がリンクしているエリアです。
継体天皇と猪名川流域古墳
猪名川流域古墳2
猪名川流域の有力古墳
この表からは次のような事が読み取れます。
①猪名川流域は、古代寺院の分布から5つの小地域が分立していたこと。
②前期古墳分布からは、各小地域がほぼ対等な力関係にあった
③中期になるとその中から豊中台地と猪名野の勢力が他を圧倒するほどに強大になった。
④2つの地域の隆盛が百年ほど続いた後、中期末(五世紀末頃)に勢いは急速に衰えた。
⑤後期になりと、有力な前方後円墳を築くことのできなかった長尾山丘陵や池田エリアに前方後円墳が現れる
ここからは前期終盤と後期終盤に、地域内の力関係が大きく変わっていることが見えてきます。
その中で研究者が注目するのが、次の2つの古墳です。
A ③の中期に桜塚古墳群台頭のきっかけとなった大塚古墳
B 後期に長尾山丘陵エリアで150年ぶりに復活した前方後円墳の勝福寺古墳
Aの大塚古墳は墳形こそ円墳ですが、直径56mの大形のもので、第2主体部の東棺からは、最新式の短甲三領をはじめ多くの武器武具が出土しています。とくに三角板革綴襟付短甲という珍しいタイプの短甲は、藤井寺市野中古墳で出土したものと類似しています。大塚古墳に続く御獅子塚、狐塚、北天平塚、南天平塚などでも甲冑類が副葬されています。これら中期古墳の甲冑は、河内平野に古市古墳群を残した政治勢力によって各地の系列首長に与えられたものとされています。
 そうすると桜塚古墳群は、中期の河内平野の勢力との深い結びつきによって地域内で圧倒的な勢力を持ったことになります。その発展の基盤を築いたのが大塚古墳の被葬者と研究者は考えています。ところが桜塚古墳群の中期末の南天平塚古墳は、墳丘長20m台に縮小します。ここからは、あきらかに勢力が縮小していることが見えて来ます。そして次の代には、猪名川流域の最有力古墳は長尾山丘陵の川西市・勝福寺古墳へと移っていきます。
 勝福寺古墳については、調査報告書『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)に、次のように報告されています。
①六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたもの
②勢いを失っていく豊中台地の桜塚古墳群に対して、6世紀前葉に新たに台頭する猪名川本流沿いの勢力であること。
③それはたんなる地域内の勢力争いというより、倭の中央政権内で展開する激しい主導権争いが波及した結果に他ならないこと。
こうして見ると、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めの2回に渡って大きく動いていることが分かります。重要なことは、地域の政治的主導権の変転が、同じ時期に他の地域でも見られることです。
試しに、讃岐の津田古墳群の変遷図を見ておきましょう。
津田湾 古墳変遷図
ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること 
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
津田古墳群でも②の三期と⑤の富田茶臼山古墳の出現期の2回に渡って大きな「地域変動」があったことが分かります。これは都出比呂志氏が指摘したように、「地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。」ということの讃岐版の現象と捉えることがえきそうです。
 もう一度、猪名川エリアに立ち返って見ると、次のように盟主古墳の変動時期が一致します
①中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期
②後期初頭は継体大王陵とされる今城塚古墳が淀川流域に登場する時期
畿内の河内などの巨大前方後円墳の移動現象については、次の2つの見解があります。
①中央政権の中で政治的主導権を握る勢力の交代を反映したものという説
②政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという説
どちらにしても、巨大前方後円墳の移動に伴って、埋葬施設の構造、副葬品の種類、埴輪のスタイルなども大きく変化します。つまり、中央政権の主導権を握った勢力が、新しいスタイルの墳墓モデルを作りだして、それを各地の連携勢力にいち早く与えることで、中央と地域の政治系列を一新するような動きがあったのではないかと研究者は考えています。
そして古墳だけでなく、集落遺跡からみても、6世紀は千里窯跡群の操業が活性化し、その職人たちの住居とされる掘立柱建物が立ち並ぶようになる時期です。そして、新たに大阪府豊中市新免遺跡や須恵器の生産流通に関与していた本町遺跡などが姿を見せます。その一方で、それまでの5世紀代の集落の多くは衰退します。
 猪名川地域で最後に姿を見せる勝福寺古墳が築造された地域を見ておきましょう。
ここでは同時期に栄根遺跡、加茂遺跡、下加茂遺跡の住居数が増加します。園田大塚山古墳が築造された地域では、若王子遺跡、平田遺跡からは鍛冶関連遺物とともに多量の土器が出土するようになります。以上からは、「渡来系集落遺跡 + 猪名川下流域の鍛冶生産工房 + 勝福寺古墳 = 渡来系技術者集団を傘下に収めて急成長する新興集団の存在」という図式が見えて来ます。その躍進の原動力のひとつが半島からの渡来人集団だということになります。そして、この6世紀の変化は、大阪北部に拠点をおいた継体政権によってもたらされたものとします。さらに広く見ていくと、この背景には倭と百済の関係強化を含めた韓半島各地との関係再編が反映していると研究者は考えています。確かに、この時期は阪南部の古市・百舌鳥古墳群が衰退する時期です。列島中枢における政治変動と対外情勢の変化が、地域社会の遺跡動態とリンクしていたようです。
以上をまとめておきます
①栄山江流域と近畿地域との相互交流を示すものとして、集落遺跡と土器資料がある
②日本列島と韓半島南西部で共有された儀礼用土器が、両地域の交流関係を示す
③儀礼用土器以外にも、韓半島出土須恵器によって双方向的な交流実態が見えてくる
④韓式系軟質土器の系譜は百済・馬韓・加耶西部に求めることができ、畿内では河内湖周辺に最も分布が集中する
⑤韓半島系渡来人集落と手工業生産拠点は密接に関係する
⑥さらにそれらに近接して初期群集墳が築造されている。
⑦近畿地域にみる集落構造の変化は、同時期の栄山江流域においても見られる
⑧5世紀代における百済・栄山江流域との相互交流が、倭人社会にとっては社会資本投資といった戦略へとつながっていった
⑥それが、その後の時代を形作る原動力となった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月
『勝福寺古墳の研究』(2007年、大阪大学文学研究科)
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かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたとされています。
DNA 日本人=古墳人説
「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになります。
この説によると、先住民の弥生人の2倍以上の渡来人がやってと云うのです。だとすると、従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が集団で続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着してひとつの勢力を形成したことも考えられます。その象徴が、豊前の秦王国です。彼らは、優れた手工業的技術力や航海能力、言語力を活かして、朝鮮半島と日本列島を舞台に活動を展開し成長して行きます。そういう視点で善通寺を見ると、弥生時代の平形銅剣の中心地であった善通寺王国を引き継いで、古墳を造営していくのも渡来人であった可能性が出てきます。それが佐伯直氏につながっていくという話になります。最初から話が支離滅裂になりました。焦点を絞ります。
大量の渡来人がやってきたことを示す「根拠」としては、現在の考古学者達はどんなものを考えているのかということが私の知りたいことです。
そんな中で出会ったのが「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」です。これをテキストに、古墳時代の渡来人の痕跡をどのように明らかにしているのかを見ていくことにします。

 稲作が始まると、炊飯用の土器(甕形土器)が使用されるようになります。

古代の調理器具

さらに、韓半島から新しい調理用土器や厨房施設であるカマドが、列島にもたらされます。カマドは、3世紀には北部九州を中心に伝来したようですが、邪馬台国の時代から古墳時代前期にかけては、点の存在で全国的な広がりとはなりません。住居内にカマドが造りつけられ、一般化していく時期は4世紀末から5世紀のようです。そして、この時期になると近畿では、カマドと一緒に韓式系軟質土器が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」やカマドは、渡来人の住所を探す上で欠かせないもののようです。

八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
韓式系軟質土器
 
かまど利用の蒸し調理
韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで。使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。同時に食器(土器)が多様化します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器に、よそって住居中央で食べるようになります。そのため個人個人の食器が必要になり、いろいろな食器が作られるようになります。カマドの導入によって食事のスタイルが一変します。

韓式系軟質土器 甑
韓式系軟質土器 中央が甑(こしき)
日本列島の古代調理法
布留式式系統の甕

「韓式系軟質土器」は、次のように定義づけられています。
「器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、長胴甕、小型平底鉢、甑、鍋など、日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群」( 田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』大橋信弥・花田勝広編 サンライズ出版) 
韓式系軟質土器の種類には、次のようなものがあります。
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④同じくカマドにかけられた羽釜はがま
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑こしき
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
      全羅道出土須恵器とその影響を受けた須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)

この中で中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

畿内で韓式系軟質土器の分布が濃密なのは,河内湖周辺を中心とする大阪湾岸のようです。
その中の長原遺跡群では、定着型軟質土器(長胴甕,小型平底鉢,甑,鍋)を用いる渡来人集落が現れ、周辺の煮炊器と急速に融合する過程が見えて来ます。また、渡来人がもたらしたものは、土器だけではないことが近年分かってきました。

韓式系軟質土器と河内湖の遺跡
古代河内湖周辺の韓式系軟質土器と定着型平底鉢の出土状況
河内湖周辺の鍛冶集落
古代河内湖周辺の鍛冶遺物と手工業生産工房の分布
上の図は、韓式系軟質土器出土遺跡(左上),定着型平底鉢・長胴甕出土遺跡(右上),鍛冶関連遺物・遺構(左下),主要手工業生産工房(右下)の分布を示したものです。
ここからは、その分布が重なりあうことが見えてきます。
これをどのように考えればいいのでしょうか? 代表的な遺跡を挙げていくと次の通りです。
大阪市から八尾市にまたがる長原遺跡群(長原遺跡,瓜破遺跡,城山遺跡),久宝寺遺跡,大園遺跡,生駒西麓遺跡群(西ノ辻遺跡,鬼虎川遺跡,神並遺跡),蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡群
そして,そこでは鍛冶関係だけではなく,馬飼や玉作,紡織や木工といった各種の手工業生産の痕跡が見えて来ます。これらは韓半島からもたらされた当時のハイテク技術です。その背景には活発な人的交流が幾重にも積み重ねられていたことがうかがえます。ただの交易だけでなく技術や知識の導入も意図していたと研究者は考えています。
5世紀になると、それぞれの業種で次のような「専業的生産拠点」が現れます。
大阪府大県遺跡(鍛冶)
大阪府南部泉北丘陵一帯に広がる陶邑窯跡群(窯業)
奈良県曽我遺跡(玉作)
大阪府奈良井遺跡,蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡(馬飼)
和歌山県西庄遺跡(製塩)
ここからは各種の特定工房が畿内一円に分散し,それぞれの工房が特定の製品を生産する体制が出来上がったことを示します。この背景には、手工業拠点を計画的に配置した政治権力があったことがうかがえます。つまり「領域に対する一定の支配権が確立=国家の出現」を意味すると研究者は考えています。 
 「専業的生産拠点」からさらに進んで,各種製品を生産する「複合工房群(コンビナート)」も現れます。その研究の進展ぶりを振り返って起きます。
①「大和の場合,鍛冶工房集落では他の生産工房と併存する遺跡例が多いが,河内例では単一製品工房であり,大王陵群内に含まれる集落で工房を保有する(和泉を含めて)ことが多い」[堀田1993:pp.155-156]。つまり地域差の確認です。
②その地域差の背景には、渡来人技術者集団の存在があるという仮説発表
③この仮説が奈良県・南郷遺跡群の発掘調査成果から「豪族膝下の複合工房」として認知される
④南郷遺跡群と布留遺跡の比較分析から、鍛冶集団の支配者を前者に葛城氏,後者に物部氏として、各豪族がそれぞれ別個に技術者集団を支配下においたという説。
⑤その上に立って、南郷遺跡群を経営した「カツラギ」氏は渡来人を積極的に活用し、奈良盆地中央部に拠点をおく「ワニ」氏はそうではなかったと,豪族の開発方式に差異があったという推測
⑥これらの成果吸収の上に「大和の工房が王権を支える豪族の家産に組み込まれていたものであったのに対し,河内の工房は王権の工房として再編されたものであった」と,複合工房群と専業的生産拠点の経営主体の違いを対比的にまとめた説
ここでは半島からのハイテク技術を持った渡来者集団を、支配下に組み込んで生産体制を伸ばした勢力が台頭していったと研究者は考えています。

次に渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。  
古墳は立地によって、単独墳と、大小の群をなす古墳群,小規模墳が数十基~数百基群在する群集墳に分類されます。このうちの群集墳は,6世紀以降に爆発的な増加をみることが通説です。この現象については、次の2つの見解がありました。
①古い共同体の分解とともに出現した家父長的首長層の墳墓とみる近藤義郎の議論[近藤1952]
②古墳を身分表示として理解し,家父長的家族層に至るまで身分秩序に組み込まれたと考える西嶋定生説[西嶋1961]
しかし,群在する小規模な古墳は6世紀をさかのぼることが分かり、従来の説では説明できなくなります。そこで白石太一郎は、次のような新説を提起します。

出現契機を共同体を解体することなく,5世紀後半から6紀にかけて生産力の著しい発展を基礎として新しく台頭してきた中小共同体の首長層や有力成員層を,ヤマト政権が直接その支配秩序に組み込もうとしたものである[白石1976]。

一方,和田晴吾は円墳の古式群集墳の出現を古墳時代後期の開始期として、この時期にヤマト政権による有力家長層の直接的な掌握が始まったとします。そして「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握が群集墳形成の1 つの契機となった」と記します。[和田 1992]。
どちらにしても「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。
その中心地とされる河内湖周辺を見ていくことにします。
韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いた勢力が「産業殖産」を次のように展開します。
①5世紀初頭に河内湖南岸の長原遺跡群で開発が始まり
②5世紀中葉に生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)や、上町台地(難波宮下層遺跡)へと広がり、
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)
①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。

                  蔀屋北遺跡

蔀屋北遺跡出土_馬埋納土坑
           蔀屋北遺跡の馬1頭分の全身骨格
③の蔀屋北遺跡からは、馬1頭分の全身骨格、馬具(轡・鞍・鐙)以外にも、飼育に必要であった塩の入った大量の製塩土器も出てきています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが分かります。その他にもこの遺跡からは、
①住居域と倉庫群、水利施設が溝によって区画されて配置されていること
②これは韓国・忠清南道の燕岐・羅城里遺跡と同じ集落構造であること
③鉄滓、鞴羽口、刀装具未成品、鉄鏃、砥石、紡錘車、織機といった各種手工業の痕跡発見
以上から、この遺跡は馬飼を中心としながら、鍛冶、漆工芸、玉生産、木工等といった多種類の手工業生産活動を行っていた渡来集団の拠点であったとされます。また、集落形成期には周溝墓や、大溝から5世紀後半の埴輪が出土しています。ここからは集落の近くには小規模な古墳群あった可能性があります。そして、周溝墓からは韓式系軟質土器が出土しています。

蔀屋北遺跡出土_馬埋納土坑2
               蔀屋北遺跡
周辺遺跡で「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳」が見られる所を研究者は次のように挙げます。
A 生駒西麓遺跡群では、鞴羽口、鉄滓、鍛冶炉壁の検出されているので、鍛冶が行われていたこと
B 神並遺跡に隣接する植附1号墳周溝からは、韓式系軟質土器、鉄滓、馬の上顎骨、製塩土器が出土。この古墳は小規模方墳なので地域統括の首長墓とは云えませんが、この地域の開発に深く携わっていた渡来人リーダと研究者は考えています。
C 難波宮下層からは、法円坂遺跡の5世紀後半代の掘立柱建物群が出てきています。このほかにも鞴羽口やガラス玉鋳型が出土していて、須恵器窯(上町谷1・2号窯)とあわせて考えると、複合的生産が行われていたようです。また初期古墳は。孝徳朝難波遷都にともなって破壊された古墳があったことが分かっています。ここでも複合工房群と初期群集墳がリンクしています。

畿内の初期群集墳分布

奈良県の奈橿原市域について、研究者次のように指摘します。
A 玉製品の生産拠点となった曽我遺跡
B 小型把手付台付鉢や小型器台などの初期須恵器が出土した四条大田中遺跡、
C 阿羅加耶系陶質土器が出土し、多量の製塩土器に加えて木器、鋳造鉄斧、織機具部材、鞴羽口、鉄滓等の手工業生産関連遺物を豊富に出土した新堂遺跡・東坊城遺跡、
D 鍛冶関連遺物を出土した内膳・北八木遺跡
  これらの手工業的な先進技術を持った集落遺跡からは、百済の全羅南道の韓式系軟質土器が出てきます。そして、周辺には小規模な古墳群が築造されているのです。これは河内湖周辺とよく似ていると研究者は指摘します。
須恵器生産の一大拠点である陶邑窯跡群でも、初期群集墳が近くにあります。
陶邑遺跡と周辺古墳

               陶邑窯跡群
研究者は、陶邑の集落展開を次のように捉えます。
①渡来系工人を主体とする大庭寺遺跡の出現段階(TG232期)、
②小阪遺跡への倭系工人の須恵器生産への参画(TK73期)
③伏尾遺跡の出現期に居住・生産・流通をなど計画的集落形成が行われた。
④この計画的集落形成や須恵器生産設備の拡充整備は、ヤマト政権の政策的介入があった
⑤これが5世紀前後にはじまる大規模須恵器生産につながる。
⑥さらに小規模方墳群の築造は中央政権による手工業生産の組織化と結びついていた
これ以外にも「韓半島系土器 + 手工業生産関連遺物 + 小規模古墳群」という関連性が見られる遺跡が畿内には数多く見つかっています。この3点が揃う遺跡は、渡来人の拠点であったとしておきます。

渡来人増加の背景戦乱

今回はここまでとしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「中久保辰夫 百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 国立歴史民俗博物館研究報告第217集 2019 年9月」
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津田古墳群周辺図1
津田古墳群
今回見ていくのは岩崎山4号墳です。この古墳は、前方部を東側の平野側に向けます。北に龍王山古墳、南東にうのべ山古墳、けぼ山古墳、一つ山古墳のある鵜部半島、南西には今は消滅した奥3号墳に囲まれた位置にあります。周辺古墳との関係を押さえておきます。
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群変遷表
岩崎4号墳は羽山エリア勢力が最後に造った前方後円墳で、富田茶臼山以前には最も大きいものになるようです。また築造時期は、鶴羽エリアのけぼ古墳と同時代か、少し先行する時期の古墳になるようです。そして、次の時代には富田茶臼山へと一気にジャンプアップしていきます。

津田古墳群変遷3

先行する前方後円墳と、富田茶臼山古墳への橋渡し的な役割が見られるのが岩崎山4号墳や前回見たけぼ山古墳になるようです。今回は岩崎山4号墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

岩崎山古墳群 津田古墳群

岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。

岩崎山4号墳4

まず、岩崎山4号墳の先行研究を見ておきましょう。
岩崎山4号墳は文化6年(1809)に発見され、刳抜型石棺と人骨、鏡、壺、勾玉が確認されています。当時の状況は文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』に記されています。それによると、出土した遺物は村人が恐れて再び埋められたこと、その中で鏡は埋めもどされずに髙松藩の役人が持ち帰ったことを記します。
 明治30年(1897)頃に、松岡調が著した『新撰讃岐国風土記』には、次のように記します。
①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること
②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと
③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること
④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
明治6年の発掘について、大正5年(1916)に長町彰氏は発掘に携わった古老に聞き取りを実施しています。その中に、49個体の方形埴輪列は底のない甕形であったと述べています。
昭和2年(1927)に岩崎山1号墳が発見された時に、4号墳も発掘されます。
出土した人骨、管玉22、小工30、車輪石1、石釧2、貝釧3、埴輪片、朱は昭和5年(1930)『史蹟名勝天然記念物報告書 第5冊』に記載され、現在遺物は東京国立博物館に移管。
昭和26年調査報告書には、この時他に鍬形石1、石釧3、硬玉製丁字頭勾玉1、管玉7~8があったが海中に捨てたと記す。
昭和4年(1929)は、墳丘南側で円筒埴輪列を確認。発掘された埴輪は坂出市鎌田共済会郷土博物館に保管。
昭和26年(1951)、京都大学梅原末治氏による学術調査が実施。
ここで初めて墳丘規模、埋葬施設、刳抜型石棺石棺の様子が明らかになります。遺物は棺内に残っていませんでした。しかし、石室の上からもともとは棺内にあったと思われる勾玉2、管王、小玉、石釧2が見つかります。また、棺外から鏡や鉄製品が出てきます。この時の遺物は、さぬき市歴史民俗資料館に保存されています。
平成12年(2000)2月、後円部南西部に携帯無線基地局の建設が予定され、試掘確認調査実施。しかし、古墳関連の遺構は出てこなかったようです。現在、このときの試掘箇所には畑が造成されています。ここからは墳丘傾斜面と葺石が確認され、墳丘の一部が畑によって破壊されていたことが分かっています。
岩崎山4号墳 円筒埴輪 津田古墳群
         岩崎山4号墳の円筒埴輪

トレンチ調査では崩落した葺石に混じって多量の埴輪片が出てきました。
その多くが円筒埴輪片です。円筒埴輪が墳丘を囲続していたと研究者は考えています。形象埴輪はこれまでの採集遺物や今回の調査において小片が確認されています。墳頂部には形象埴輪が並んでいたことが考えられます。葺石に混ざって、古代末期の土師器皿が数点見つかっています。これは古墳が後世に宗教儀式の場として再利用・改変させられていたことを推測させます。

津田古墳群円筒埴輪の変遷
津田古墳群の円筒埴輪変遷

岩崎山4号分の墳形の特徴は

岩崎山4号墳7
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形
②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ
③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる
④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲
⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。
⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。

埋葬施設
①後円頂部は埋葬施設の凝灰岩製天丼石2枚を縦に重ね、その上に祠を安置
②赤山古墳、けぼ山古墳に見られるような小礫の墳頂部への散布はない。
③4枚の天丼石のほぼ中間に位置し、埋葬施設は墳丘の中心に位置する

津田湾岩崎山4号墳石棺
         岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
副葬品で保管されているものは、次の通りです。
昭和2年 (1927)の出土品は東京国立博物館保管、
管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

津田湾岩崎山4号墳石棺3
     昭和26年(1951)の出土品(さぬき市歴史民俗資料館)
以上を整理要約しておきます。
岩崎山4号墳は全長61、8mで、津田古墳群の中では最も規模の大きい古墳になります。また、以下の点が畿内的な特徴だと研究者は指摘します。
①埋葬施設が南北方向を向いていること
②多量の副葬品が見られること
さらに次のような特徴を指摘します。
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。
④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。
⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。
⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。
⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。
⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと
⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと

以上から築造年代については⑧の大量に出てきた円筒埴輪の情報から次のように推察します。
①口縁部の突帯から外反して55㎝ほどで突端に至る埴輪は、快天山古墳円筒埴輪がある。
②快天山古墳円筒埴輪と比較すると、岩崎山4号墳の方が若干古い。
③津田古墳群内では龍王古墳・けぼ山古墳の円筒埴輪よりは古い。
④赤山古墳埴輪とは類似点が多く、同時代。
以上から次のような築造順を研究者は考えています。
岩崎山4号墳 ⇒龍王山古墳・けぼ山古墳
葺石、埴輪の形態からは讃岐色の強い在地性よりも、畿内色が強くなっていることが分かります。
  岩崎山4号墳は先行研究では、「畿内から派遣された瀬戸内海南航路の拠点防衛の首長墓」とされてきました。その説と矛盾はせず、それを裏付けられ結果となっているようです。

   津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」

    
津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
関連記事


 
津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

以前に「岩崎山第4号古墳発掘調査報告書2002年 津田町教育委員会」にもとづく津田古墳群の性格について読書メモをアップしておきました。それから約10年後に「津田古墳群調査報告書」が出されています。これは周辺の古墳群をほぼ網羅的に調査したもので、その中で見つかった新たな発見がいくつも紹介されています。津田古墳群の見方がどのように変化したのかに焦点を当てながら見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
東讃地区の古墳編年表
讃岐東部の古墳変遷表
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群の変遷表
前回に示されていた古墳編年表です。ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
なお鶴羽エリアの築造順は、次の通りです 

うのべ山(鵜部)古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳(円墳) → けぼ山古墳


一つ山古墳が円墳ですが首長墓として認められるようになっていることを押さえておきます。それでは今回の調査で新たに明らかになったことを見ていくことにします。まず第1は、1期に先立つ初期モデルがうのべ(鵜部)山古墳とされたことです。
津田古墳群首長墓一覧
津田古墳群の首長墓一覧

最初に津田古墳群の総体的な変遷を見ておきましょう。

津田古墳群周辺図1
津田古墳群
①臨海域では、初期モデルとして「うのべ山古墳」が出現
②少し時期をおいて「赤山古墳 → 岩崎山4号墳 → けぼ山古墳」と築造が続く。
③円墳の「一つ山古墳、龍王山古墳」も前方後円墳の後円部直径に匹敵することから首長墓の一つ
④「野牛古墳、泉聖天古墳、岩崎山2・5・6号墳、吉見弁天山古墳、中峠古墳」は小規模古墳で、階層的に首長墓の1ランク下の位置付け。
⑤臨海エリアでは、中期初頭(4期)の岩崎山1号墳を最後に古墳が築造されなくなる。
⑥それ以降は古墳時代後期の宮奥古墳だけで、臨海域の古墳は築造時期が古墳前期に集中する。
内陸エリアの前期古墳を見ておきましょう。、
①川東古墳、古枝古墳、奥3・13・14号墳が前期の前方後円墳。
②その中には、奥2号墳のように円墳が含まれる。
③川東古墳は相地峠と津田川の支流土井川に比較的近い場所に、古枝古墳は津田川沿い、奥3・13・14号墳は津田川から雨滝山を山越えする連絡路沿いに立地し、臨海域と内陸域を結ぶ要衝に立地する。
④内陸エリアでも、前期後半になると前方後円墳が造られなくなる。
⑤そして登場するのが中期初頭の四国最大規模の前方後円墳・富田茶臼山古墳。
⑥富田茶臼山古墳の後には、前方後円墳そのものが姿を消し、大井七つ塚古墳群や石田神社古墳群のような群集円墳が造られるようになる。

この背景を研究者は次のように解釈します。
①弥生時代後期から古墳を造り続けた雨滝山西部から南部にかけての地域は、前期中頃には前方後円墳が築造できなくなったこと。
②中期になると北西の寺尾山(寺尾古墳群)や南束の大井地区(大井七つ塚古墳群、落合古墳群)へと指導権が移行したこと
③後期になると横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳が出現するが、この時期に再び雨滝山に古墳が確認されるようになる(奥15号墳)
④この段階の古墳の分布として、平砕古墳群、一の瀬古墳群、八剣古墳群、柴谷古墳群と各地に群集墳が展開
津田古墳群 うのべ山・けぼ
鵜部半島の古墳群

うなべ山古墳 津田古墳群
うのべ山古墳
それでは、津田古墳群で最初に登場するうのべ山古墳を見ておきましょう。
うのべ山古墳のは、今は鵜部半島の付け根辺りに位置しますが、地形復元すると古代にはこの半島は島であったようです。その島に初期の古墳が3つ連続して造られています。うのべ山古墳からは、広口壺が出てきます。これが弥生時代からのものなので、うのべ山古墳は出現期古墳に位置付けられることになります。また、類似した広口壺はさぬき市丸井古墳、稲荷山古墳等に見られ、香川県の独特の広口壼でもあるようです。
うのべ古墳 津田湾古墳群の初期モデル

報告書は、うのべ古墳の特徴を次のように指摘します。
①広口壺の出土から築造年代は、古墳時前期初頭の出現期古墳であること
②香川県内でも最古級の古墳であり、津田古墳群の中で最初に築造された古墳
③墳丘が積石塚であり、讃岐の在地性が強い
④前方後円墳の墳形が四国北東部の古墳に多い讃岐型前方後円墳であること
⑤後円部から前方部中央を取り巻く外周段丘を有すること、
⑥全長37mは四国北東部の多く前方後円墳と、ほぼ同規模であること、
⑦弥生時代以来の伝統を受け継いだ広口壺を供献していること
これらの特徴から、この古墳が四国北東部の在地型古墳として造られていると研究者は判断します。ここでは、後の津田古墳群が畿内色が強まる中で、最初に造られたうのべ山古墳は讃岐色の強い古墳であったことを押さえておきます。

一方、うのべ山古墳の特殊性を研究者は次のように指摘します。
⑧標高9mという島の海辺に築造されていること
⑨積石塚としてのうのべ山古墳は海辺に立地し、安山岩の入手が困難だったために、海浜部を中心として様々な石材を使用している。
⑩海に隣接する低地への築造に海と密接に関わる津田古墳群の特徴が見て取れる。
赤山古墳1号石棺 津田碗古墳群

次に登場する赤山古墳を見ておきましょう。
赤山古墳は臨海エリアの津田町鶴羽から、富田の内陸エリアに抜ける相地峠の登口の道沿にあります。ここの道は近世には「馬道」と呼ばれており、物資輸送等に使用された古道でもあようです。現在この道は赤山古墳を取り囲むようにして津田湾へと下っていきます。この道が古墳時代にまで遡るかどうかは分かりませんが、赤山古墳は津田湾から富田方面への入口に当たる地点に築造された可能性が高いと研究者は考えています。
 赤山古墳は火山の北東の谷地に突出した標高23mの尾根上です。墳丘からは北に津田湾を一望でき、北東にはけぼ山古墳、うのべ山古墳、一つ山古墳のある鵜部山を望むことができます。墳形は前方部を南側(山側)に向けた前方後円墳です。過去の記録には全長50mとありますが、現在は後円部の一部を残すのみとなっているようです。ここには2基の刳抜式石棺が露出しています。
 赤山古墳が発見されたのは安政2年(1855)頃で開墾中の出来事です。
明治時代中期頃の松岡調氏の「新撰讃岐国風土記」は、次のように記します。

赤山古墳石棺 津田碗古墳群
赤山古墳の2つの石棺

石棺が発見され、そばから勾玉、壺、高杯等の土器が多数出土したとされます。石棺は3基が発見された。1基は凝灰岩の蓋石をもつ石槽の中から、2基は石棺単独で埋められていた、石棺発見後は祟りを恐れて元のように埋め、桜と火山にあった白羽明神を遷し祀った。

 大内空谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』(大正11年(1922)は、次のように記します。
1922年当時すでに畑などの開墾が行われ墳形が変形して、円墳と判断。
古墳の周囲の田畑からは採集された土器片については、「弥生式に祝部を混じ偶に刷毛目のあるものもあり祝部には内部に渦文の付せられたる土器把手も落ちて居る」
大内氏が紹介した3年後の10月10日に盗掘に遭います。
赤山古墳石棺2 津田碗古墳群
赤山古墳の石棺(津田古墳群)
盗掘翌年の大正15年(1926)の『大川郡誌」は次のように記します。
「前方後円墳で、開墾によって形状が大きく変化しているが瓢箪形をしている」
「前年の盗掘については、石棺(1号石棺)は孔を穿って盗掘され、石棺の中に遺物は残されていなかったが付近から管玉、ガラス玉12個を採集した。盗掘孔に緑青の破片が落ちていたことから銅製品があった可能性がある。小型の石棺(2号石棺)は蓋を開けて盗掘され、残された遺物として頭骸骨の破片、歯「(門歯4本、大歯1本、自歯2枚)、管玉11個、ガラス玉93個」があった」
報告書(2013年)の赤山古墳のまとめを要約しておきます。
①赤山古墳は全長45~51mの前方後円墳であること
②円筒埴輪は岩崎山4号墳円筒埴輪に極めて似ていて、同じ埴輪製作集団が作った可能性が高い
③岩崎山4号墳円筒埴輪のやや新しい特徴を備えた橙色弄統の円筒埴輪が赤山古墳円筒埴輪には見られない
④突帯がわずかに高いこと、形象埴輪を伴わないことから、やや赤山古墳円筒埴輪が時期的に先行する
⑤到抜式石棺からは1号石棺⇒2号石棺の時期的遺構が想定できる
⑥2号石棺は、一つ山古墳出土の刳抜式石棺に類似する。
⑦以上から、赤山古墳⇒一つ山古墳の築造順になる
⑧岩崎山4号墳の刳抜式石棺とは、形態差が大きく同じ系譜上にはない
⑨平面形が角の明瞭な長方形を呈する岩崎山4号刳抜型石棺に対して、一の山古墳刳抜式石棺は隅丸方形で、赤山古墳⇒岩崎山4号墳の順になる。
このように考えると津田湾の臨海域でうのべ山古墳の次が赤山古墳となり、その間に若干の時期差があるようです。

津田古墳群の刳抜型石棺の比較について

赤山古墳1号石棺2 津田碗古墳群
 赤山古墳1号石棺
津田湾古墳群の石棺編年表1
          火山石石棺の比較
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳石棺
津田湾の刳抜型石棺については、渡部明夫氏によって編年表が示されています。それを要約整理しておきます。
①火山石石棺群の特徴は棺蓋は横断面が半円形を基本とし、両端部上面を直線的に斜めに切っていること
②棺身は小口面が垂直であること
③形態変化としては、棺蓋両端部上面を斜めに切った部分の傾斜角度が大きくなり、前後幅が狭くなっていくこと
④その点に忠告すると注目すると、赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒鶴山丸山石棺 → けぼ山石棺
⑤棺蓋長側面の下部が平坦而を持たないものから内傾する平坦面、垂直な平坦面へと変化して、平坦面が強調され、幅広の凸帯になっていくこと
⑥その点に注目すると赤山1号石棺 ⇒ 赤山2号石棺 ⇒ 一つ山石棺 ⇒ 鶴山丸山石棺
⑦刳り込みの隅が曲線に仕上げられ稜をもたないものから鈍い稜線が目立つようになり、明確な稜線を持つようになること
⑧その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒一つ山石桔⇒ 岩崎山石棺・けぼ山石棺。大代石棺
⑨刳り込みの中央部を両端よりも深くするものから平坦な底面への展開
⑩その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒ 一つ山石棺⇒ 岩崎山石棺・鶴山丸山石棺・けぼ山石棺
以上、各属性の変遷から刳抜型石棺の出現順を研究者は次のように判断します。

赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒岩崎山石棺

津田碗古墳群 埴輪編年表2

さらに土器・埴輸・割抜式石棺編年を加味した編年的位置づけを次のように述べています。  160P
墳丘形態・墳丘構造、埋葬施設、副葬品の編年的位置づけから、土器・埴輪・刳抜型石棺だけではよく分からなかった奥3号墳、古枝古墳、岩崎山1号墳の位置付けが見えて来ます。
①奥3号墳と古枝古墳は墳丘スタイルから古墳時代前期前半の川東古墳と同時期、
②岩崎山1号墳は副葬品から津田古墳群では最も新しい古墳時代中期初頭に位置付けられる
③奥13号墳は十分な資料がなく、時期的な位置づけが困難であるが、低い前方部、墳丘主軸に斜交する竪穴式石室からは奥14号墳に近い時期の可能性が強い。

津田碗古墳群編年表1
津田古墳群の編年表
 以上より、報告書は 津田古墳群の前期前半の編年を次のように記します。
①前期前半のものとしては、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、奥3号墳、奥14号墳。
②これを二つに分類すると、前半にうのべ山古墳、奥14号墳、後半に川東古墳、古枝古墳、奥3号墳
③奥14号墳は壷形土器からはうのべ山古墳より後に見えるが、墳形からはうのべ山古墳に近い時期を想定
④後半の3古墳の前後関係としては、副葬品から奥3号墳 ⇒ 古枝古墳
⑤この時期は墳形、葺石構造、壷形土器、東西の埋葬方位等に讃岐的特徴が認められる。
⑥墳丘全長はうのべ山古墳(37m)、川東古墳(37m)、古枝古墳(34m)、奥3号墳(37m)、奥14号墳(30m)で格差はない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 21013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集
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『古事記』の大年神神統譜には、兄弟神として白日神・韓神・曽宮理神・聖神が記されています。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘

大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神
  この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。今回は、この五兄弟の中の白日神について見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

西日長男は、白日神と志呂志神の関係について、次のように記します。

式神名帳に所載の近江日高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今、鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が「志呂志」に転訛したものではなかろうか。
 即ち、志呂志神社の祭神は、日吉三宮(今の大宮)の祭神大山昨神や賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神で、そのために日吉三宮と呼ばれたのではあるまいか。そうして、この志呂志神社は滋賀郡小松村大字鵜川に鎮座の白髭神社、即ち、かの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して『比良神」が『夷神』で蕃神の意であろうことは殆ど疑いを納れないであろう。

西田長男のいう「蕃神」は、「新撰姓氏録』が渡来系氏族を「諸蕃」としたことをうけた表現です。
  秦氏らによって信仰された渡来系の神々ということになります。ここでは、「白日が志呂志に転じた」という説を押さえておきます。
志呂志(しろし)神社境内にあった古墳を見ておきましょう。

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志呂志神社の森
高島市南部の鴨川とその北を流れる八田川が合流する南側の小さな森に志呂志神社は鎮座します。
かつての境内の中にあったのが高島市唯一の前方後円墳とされる鴨稲荷山古墳です。明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴式石室から擬灰岩製家形石棺が発見され、石棺から遺物が出土しました。更に大正12年、梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、金鋼製冠、双魚侃、沓などの金、金鋼製の装飾品が出土します。
注目したいのは、副葬品が「朝鮮半島直輸入」的なものが多いことです。

伽耶の新羅風イヤリング. 陝川玉田M4号墳jpg
伽耶の新羅風イヤリング(陝川玉田M4号墳)

鴨稲荷山古墳出土の耳飾り

冠(復元品)

                      沓(復元品)
①冠と耳飾りは、新羅の王都慶州の金冠塚の出土品
②沓も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類
③水品切子玉、玉髄製切子玉、琥珀製切子玉、内行花文鏡、双竜環頭大刀、鹿角製大刀、鹿角製刀子などのうちで、環頭大刀、鹿角製刀子は朝鮮半島に類似品あり。
④棺外からは馬具と須恵器が出土
京国大学による鴨稲荷山古墳の発掘調査書(1922年(大正11年)7月)は、次のように記します。
被葬者の性別は
「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」
「(副葬品については)日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」
出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとします。
「(被葬者の出自については)此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」
と、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っています。
そして「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘します。

被葬者についてはよく分からないようです。『日本書紀』継体天皇即位前条には、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたと記します。継体天皇の在位は6世紀前半とされ、三尾氏からは2人の妃が嫁いでいます。そのため被葬者としては三尾氏の首長とする説があります。しかし、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」と否定的な意見もあるようです。いろいろな候補者はありますが、本命はいないようです。
 この古墳が鴨稲荷山古墳と呼ばれていたことを見ておきましょう。
志呂志神社はの地名は「高島町大字鴨」で、その名の通りかつての鴨村です。
鴨というのは、上賀茂(賀茂別雷)神社の社領だったからで、上賀茂神社の祭祀に秦氏や秦氏奉斎の松尾大社社司が関わっていました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

また、稲荷山古墳というのも古墳上に稲荷神社が勧進され祀られていたからです。古墳の上に稲荷神社が祀られるのは、伏見大社の修験者たちが「お塚信仰」を拡げ、稲荷神社を古墳に勧進したからだったことは以前にお話ししました。以上のような状況証拠を重ねると、稲荷社や志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀だったことがうかがえます。この古墳の被葬者を、秦氏は自分たちの祖先として信仰していた可能性があります。

  最初に見た「白日神=志呂志神」説を、見ていくことにします。

蚕の社ー木嶋坐天照御魂神社

木島坐天照御魂神社(木島神社)の中にある向日神社は白日神を祭り、秦(秦物集氏)が信仰していたことは以前に次のようにお話ししました。

①向日神社は、朝日山から昇る冬至の朝日、日の岡から昇る夏至の朝日の遥拝地
②朝鮮の慶尚北道迎日郡の白日峯が海岸の雹岩から昇る冬至の朝日の遥拝地

これに対して、志呂志神社から見た冬至日の出方位は、竜ヶ岳山頂(1100m)、夏至日の出方位は、見月山山頂(1234m)になります。志呂志神社も向日神と関係があるようです。
向日神について南方熊楠は、次のように記します。
「万葉集に家や地所を詠むとて、日に向ふとか日に背くとか言うたのが屡ば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及せば、尤も注意を要した筈だ。又日景の方向と増減を見て季節時日を知る事、今も田舎にに少なからぬ。随って察すれば頒暦など夢にも行れぬ世には、此点に注意して宮や塚を立て、其影を観て略時節を知た処も本邦に有ただろう。されば向日神は日の方向から家相地相と暦日を察するを司った神と愚考す」
意訳変換しておくと
「万葉集で家や地所について詠んだ歌には、「日に向ふ」とか「日に背く」という表現がある。日当りは、農耕や木地には大きな影響をもたらすばかりか、様々な点で未熟な時代だった古代には、生活や健康にも大きな影響をもたらし、そのことには注意を払ったはずだ。日の出・日の入りの方向と増減を見て季節や時日を知ることは、今でも田舎ではよく用いられている。とすれば暦の配布などがない時代には宮や塚を立て、その影を観て時節を知たこともあったろう。そうだとすれば向日神は、日の方向から家相地相と暦日を察することを司った神と私は考える」

そして次のようにも記します。(意訳要約)
  オリエンテーションとは、日の出の方向を基準として方位や暦目(空間と時間)をきめること。「方位」という言葉はラテン語の「昇る」からきている。ストーンヘンジについては、中軸線が夏至の日の出線になり、その他の石の組合せによって日と月の出入りが観測できるので、古代の天文観測所とする説がある。また、神殿の集会所とする説もある。

冬至や夏至の「観測」を、わが国では「日読み」といったようです。
「日読み」は重要な「マツリゴト」でもありました。「日」という漢字には「コヨミ(暦)」の意味もあります。『左氏伝』に「天子有・日官、諸候有二日御」とあり、その注に、「日官・日御は暦数を典じる者」とあります。向日神社が「日読み」の神社であることは、冬至・夏至日の出方向に朝日山・日の岡があることからも推測できます。もうひとつは白日神の兄弟神に聖神がいることです。柳田国男は、「聖は「日知り」だと云います。そうだとすれば、「日読み」と「日知り」の神が兄弟神なのは当然です。
秦氏が信仰する木島坐天照御魂神社も、白日神社です。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

この神社にある三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」と研究者は考えています。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

志呂志神社、向日神社、木島坐天照御魂神社は、かつては川のそばにあったようです。

ここにも朝鮮神話と結びつく要素があります。新羅の白日峯の夏至日の出遥拝線上の基点に悶川があります。朝鮮語の「アル」は日本語の「アレ(生れ)」です。この川のほとりに新羅の始祖王赫居世が降臨します。「赫」は太陽光輝の「白日」のことで、アグ沼のほとりで日光に感精した女の話が『古事記』の新羅国王子天之日矛説話に載せられています。このアグ沼も悶川と同じです。三品彰英は、経井を「みあれの泉」「日の泉」とします。  川・沼・井(泉)などのそばで日女(ひるめ)が日光(白日)を受けて日の御子(神の子)を生むのは、日の御女が「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の人だからと研究者は推測します。
以上をまとめておきます。

白日神は日読み神

①大年神神統譜に出てくる兄弟神「白日神・韓神・曽宮理神・聖神」は、渡来系の神々である。
②『白日神』=「志呂志」=「白髪神」である。
③白日神を祀る近江高島町鴨の志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀が行われていた
④冬至や夏至の「観測」は「日読み」で、白日神は日読みの神で、聖(日知り)神でもあった。 
⑤「日読み」は重要な「マツリゴト」で、「日」という漢字には「コヨミ」の意味もあった。
⑥ 木島坐天照御魂神社の三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」で、この神社も白日神が祀られていた。
⑦『古事記』の「新羅国王子天之日矛説話」からは、これらの神々が朝鮮半島の神々であったことがうかがえる。
⑧川・沼・井(泉)などのそばで日女が日の御子(神の子)を生むのは、「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の「先端技術知識者」であったから。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~


稲荷大社と秦氏
前々回に、全国の古墳の上に稲荷神社が数多く鎮座することの背景を、次のように見てきました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

つまり、稲荷山の「お塚(古墳)信仰=穀物信仰」が修験者や聖によって、全国の古墳に勧進されたという説になります。
 子どもの頃にはいなり寿司が大好きでした。お稲荷さんと云えば狐です。今回は、稲荷神社と白狐のつながりを追いかけてみようと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
霊狐塚】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
豊川稲荷
「狐塚」の古墳と狐塚の関係について、柳田国男は次のように記します。
「村の大字又は小字の地名となって残って居るもので、今日は其名の塚があるかないか未定なものまで合すれば、北は奥州の端から南は九州の末までに少くも三四百の狐塚といふ地名がある」
「塚の上に稲荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古墳には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現実に狐塚を発掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてある」
 また、稲荷と狐塚の関係については、次のように記します。

「多くの他の塚と同じ様に、狐神といふ一種の神を祭る為に設けたる祭壇である。狐神は恐らくは今日の稲荷の前身である」

歌川広重の狐
                歌川広重 大晦日の狐火

 このように柳田国男は、「狐神=田の神」で、狐塚は「もともとは田の神の祭場だった」とします。その理由として、山の神が早春に里に降りて田の神となり、秋の収穫後に山に入るのと、山の狐が里に現れることとの共通性を挙げます。その際に、狐が山(田)の神の神使となった理由については次のように記します。
「以前は狐が今よりもずっと多か々 つたこと、彼の挙動にはやや他獣と変つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃富せず、却って立上って一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての関係から、季節によって頻りに人里に去来することなどを例挙してもよい」

稲荷の神が山(田)の神だから、狐が稲荷社の神使になったとします。以上のように、柳田は、山の神が田の神となって里に現れるのと、狐が里に現れることの共通性を指摘します。

  柳田國男説
  「狐神=田の神の使者」 → 「狐塚=田の神の祭場」 → 「狐が稲荷神社の神使」説

稲荷大社 狐神

しかし、これに研究者は異論を唱えます。この二つは時期がちがうと云うのです。

古代人の種へのイメージ

山の神が里に現れるのは種まきから収穫まです。その間は里にいて田の神になります。ところが、狐が里に現れるのは、田の神が山に帰った後です。だから、狐が山から里に現れるからと云って、単純に田の神と重ねることはできないと云うのです。里人が狐を見るのは、草木の枯れ伏した後で、白鳥が飛来してくる時期です。とすれば、里人は白鳥と同じイメージで狐を見ていたことになります。

常滑郷土文化会つちのこ, 写真集 つたえたい常滑

狐塚の「狐」に冬、「塚」に死のイメージがあることと、稲荷山の「山の峯」に塚(古墳)と白鳥伝説が重なることは前回お話しました。また、穀霊として登場する鳥が「白」鳥であるように、稲荷神の化身は「白」狐です。「白」には、古代人は死と再生のふたつのイメージを持っていました。そして白狐は「白=再生」「狐=塚・死」のイメージです。そんなことが背景にあって、白狐が稲荷大社の神の化身になったと研究者は考えています。白狐は白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊饒(福)を約束するものであったことを押さえておきます。

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寒施行(狐施行・野施行・穴施行)シーボルト、文政九年に大阪訪問。
狐の餌が無い寒中、狐が棲む神社・森・藪などに赤飯・餅・油揚げ・野菜天婦羅などを置いて歩く。  稲荷の狐への感謝と・豊作祈願を祈った。

京阪地方の行事に、狐の「寒施行(狐施行)」があります。
旧正月前後の夜、小豆飯とか油揚を、狐のいそうな所に置いてくるのです。また、京都・兵庫から福井・鳥取にかけての農村には、旧正月の年越しの晩に「狐狩り」の行事があります。「狩り」という言葉から、狐の害を防ぐために狩り立てるのだという説もありますが、「寒施行」と同じで「もともとはは年のはじめに、狐からめでたい祝言を聴こうとした一つの儀式」で「福をもたらす狐を招き入れようとする行事」と研究者は考えています。この行事は小正月の行事で、時期的には「寒施行」と同じ時期です。白鳥が豊饒(福)をもたらす冬の鳥であったように、狐も福をもたらす冬の動物として登場しているのです。それが稲荷信仰と、どこかで結びついったようです。ちなみに、秦氏を祀るその他の神社には狐神信仰がありません。狐神信仰があるのは、伏見稲荷大社だけです。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏には、狐だけでなく狼伝承もあります。
『日本書紀』の欽明天皇即位前紀は次のように記します。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父(はたのおおつち)といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寝驚(みゆめさ)めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、析喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。乃ら告げて日はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、一無し。
但し臣、伊勢に向りて、商償して来還るとき、山に二つの狼の相同ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰く、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰く、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へじめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
意訳変換しておくと
天皇が幼いときに、夢にある人が出てきて次のように云った。「天皇が、秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば大きな益をもたらし、必ず天下を治めるようになるでしょう」と告げた。夢から覚めて、使者を各地に派遣して、秦大津父を探させたたところ、山背国の紀郡の深草里にいた。姓字も、夢に出てきたとおりであった。天皇はまさに正夢であったと喜んだ。そこで「汝、何事か吉兆があったか」と問うた。それに秦大津父は、次のように答えた。「臣が伊勢で、商償して帰って来るときに、山の中にで二匹の狼が血まみれになって争っている場面に遭遇しました。そこで、馬から下りて口手を洗ひ浄めて、『汝は貴い神にして、荒行を楽しんでるよようだが、もし猟士がやってきたら速やかに捕らえられてられてしまうだろう。」と告げた。2匹の狼は、それを聞いて闘うことを止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗った。そして、去って行く際に、私たち2匹は命をかけてあなたに尽くす」と云った。これを聞いた天皇は、「必ずその報の通りになるであろう」と云って、近習の一人に招き入れた。その結果、大きな饒富を天皇にもたらした。

ここに登場する2匹の狼について西田長男は、次のように解釈します。
「汝は是貴き神」と云っているので、狼は「神そのものとして考へられていた」とし、秦大津父が「馬より下りて」、狼の「口手を洗ひ漱ぎ」、狼に「祈請みて」言っていることは、「神に就いての作法を語るものに外ならない」と指摘します。そして、「オオカミ」は「大神」だとも云います。
千葉徳爾は、次のように記します。

「日本書紀では狼を大口の真神と呼んだ。(中略) わが国の肉食の猛獣としては人里に現れることの多いものだったから、人間の側からは畏怖すべき存在であった。大口は姿を形容したもの、真神とはその威力をたたえた言葉で、これが縮まって大神、オオカミとなったとみられる」

そうだとするとこの話は、秦大津父が狼を助けて「大きに饒富」したのは、神(オオカミ)を助けたため、神から福と富をさずかった話ということになります。柳田国男も、「秦の大津父の出世諄以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」と述べています。「狼=大神」とすれば、秦大津父に福をもたらした狼は、伏見稲荷大社にとっては「貴き神」の代表で、祀るべき神にだったはずです。
それがどこかで狼から狐に変ったようです。どうしてなのでしょうか?
西田長男は、秦大津父が助けた狼について次のように記します。

「稲荷社の替属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。若しくは狐と狼とは同類に考えられていたのではあるまいか」

柳田国男は、狐塚で狼を供養する例をあげていますが、古代には狐と狼は同類とみられていたようです。
塚(墓)で狐や狼を供養するのも、死と再生の儀礼です。これについて柳田國男は、狼や狐に小豆飯などを供える「初衣祝」は、「産育の際に食物を求めて里を荒らしにくることをおそれて、人間の誕生と同じ祝いをし、狼や狐の害を防ごうとしたのだろう」と推測しています。しかし、これには次のような反論があります。
伴信友は『験の杉』で、秦大津父の狼の話について次のように書いています。

名神大社:大川神社(舞鶴市大川)
丹後の大川神社 オオカミを使者としてまつる

今丹後国加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載られたり。狼を使者としたまふと云ひ伝へては縦淵..其わたりの山々に狼多く棲り。さらに人の害をなす事なし。諸国の山かたづきたる処にて、猪鹿の多く出て用穀を害ふ時、かの神に申て日数を限りて、狼を貸したまはらむ事を祈請ば、狼すみやかに其郷の山に来入り居りて、猪鹿を逐ひ治むとぞ。又武蔵国秩父郡三峯神社あり。其山に狼いと多し。これも其神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又其護符を賜はりてある人は、其身狭害に遭ふ事なく、又盗賊の難なしといへり。

  意訳変換しておくと
丹後国の加佐郡に大川大明神の社がある。この神社は延喜式に載せられている古社である。狼を神の使者としていたと云ひ伝へていて、周辺の山々に狼多く棲んでいる。しかも、人の害をなす事はない。諸国の山で、猪鹿が出没して被害をもたらすときには、この神社の神に依頼して日数を限って、狼のレンタルと願えば、狼はすみやかに依頼のあった山に入って、猪鹿を退治するという。
また武蔵国秩父郡に三峯神社がある。この山にも狼が多く棲んでいる。ここでも神に祈請すれば、狼がやってきて猪鹿を対峙する。またその護符を賜わった人は、災害が遭う事がなく、盗賊の難もないとされる。
ここでは、狼が神の使者として害獣退治の役割を担っていたことが書かれています。秩父の三峯神社では、狼に小豆飯(赤飯)をあげるのを、「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と表現するそうです。武蔵の狼信仰は、三峯神社を拠点として各地にひろがっています。

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三峯神社のオオカミ

「初衣祝」も「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と同じ行事と研究者は考えています。
これは「寒(狐)施行」「狐狩り」が、狐の害を防ぐことでなく、狐から福をさずかる行事であるように、狼や狐の出産(多産)にあやかった豊饒予祝の行事と云うのです。狼や狐は、山に住む冬の動物というだけでなく、巣穴で子を沢山生みます。そのことも、死(穴こもり)と再生(多産)のイメージにつながります。塚や墓を狐塚といい、そこで狼を供養するのと、狼や狐に小豆飯を供える「初衣祝」「産見舞」の儀礼は一連の死と再生儀礼と研究者は考えています。
 多産な動物は狼・狐以外にもいますが、特に狼・狐が選ばれているのは、山の神の化身とみられていたからでしょう。山の神は、秋の終わりに山へ戻り、春の始めに再び山から里に降りて田の神になるといわれています。狼や狐の寒施行や産見舞は、山の神が里に降りる前の時期におこなわれることからみて、春の予祝行事としての冬(殖ゆ)祭と研究者は考えています。
 白鳥が冬の鳥であるように、狼も狐も冬の動物です。
その点では、狼を助けて「大きに饒富を致」した秦大津父の話は、秦伊侶具が「梢梁を積みて富み裕ひき」の白鳥伝説と同じ、秦氏にとっては大切な話であったはずです。だから、「オオカミ=狐」と姿を変えて伝わったとしておきます。稲荷の狐は「白狐」です。中国では、白狐は吉、黒狐は凶とされました。
『土佐郷土民俗諄』や『南路志』の土佐民話に「白毛の古狼」があります。
狼が鍛冶屋の姥に化けて出てきますが、この民話は「産の杉」という古木のそばで旅の女が子供を生んだ話から始まっています。「白」には死と再生(誕生)のイメージがあります。稲荷大社の創始伝承に登場する白鳥の「白」も、白狼・白狐の「白」と関係がありそうです。冬の鳥である白鳥や白鶴に穂落し伝承があるのも、「白」に死と再生のイメージがあるからだと研究者は考えています。「稲の産屋」を「シラ」と呼ぶのも、「白」のイメージにつながるようです。

三峰神社オオカミ
三峯神社の山犬(オオカミ)
三峰神社の狛犬でなくオオカミ
             三峰神社のオオカミ型の狛犬
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大嶽神社(西多摩郡檜原村白倉)の社伝には、日本武尊と山犬伝承があります。
『日本書紀』の景行天皇四十年条に載る日本武尊の東征伝承に、次のように記します。

山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異(あやし)びたまひて、 一筒蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。

意訳変換しておくと
(信濃に入った日本武尊が、信濃坂を越して美濃に出るときのこと)山の神が、王を苦しめようとして、白き鹿に化身して王の前に立った。日本武尊は怪しんで、 一筒蒜(ひる)を白き鹿に放った。それは鹿の眼に当たり殺した。ところが王は、道を失って、山からの出口が分からなくなってしまった。そこへ白き狼がやってきて、王を導き助けた。

ここに登場する「白き狗」は山犬(狼)のことです。この話が秩父と奥多摩の神社の社伝になっています。        
1987年9月23日の朝日新聞には、西多摩郡檜原村の旧家に「魔よけ」にしていた狼の頭骨があったと報じています。景行紀の日本武尊伝承の「鹿」や「狗」も「白き」鹿・狗です。『古事記』では、この伝承は相模国の足柄山での話になっていますが、やはり「白き鹿」が登場します。山村・農村の人々にとって狼が、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれることと共通します。白鹿・白狗・白猪が登場する記・紀のヤマトタケル物語では、墓に葬られたヤマトタケルは白鳥になって墓からぬけ出し、墓(白鳥陵)に入り、更に墓から天に飛び去っています。これは白鳥の死と再生の循環を示す物語テーマです。  
 伏見大社と白狐(イナリさま)の関係にも、こんなテーマが背後にあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
関連記事
 

伏見稲荷大社について|歴史や概要を詳しく解説
伏見大社(1897年)

伏見稲荷大社の創建を、『山城国風土記』逸文は、次のように記します。

   風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

意訳変換しておくと

風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を矢の的としたところ、餅は白鳥に姿を変えて飛び立ち、この山に降りた。そして山に稲が成ったのでこれを「稲荷(イナリ)という社名とした。(稲が自分の土地に実らなくなったことを)子孫は悔いて、社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

ここには次のような事が記されています。
①イナリ大社は、秦中家忌寸を祖先神とする秦氏の氏神であったこと
②秦氏がこの地に入って稲作農耕で豊かになったこと
③ところが稲で作った餅を矢の的にしたところ、餅は白鳥に化身して山に帰った。
④子孫は、これを悔いて山の木を抜いて家に持ち帰って植えて毎年祀った

「其の苗裔」とは、伊侶具の子孫の「秦中家忌寸等」のことです。「先の過」(伊侶具が餅を的にした行いのこと)を悔いて、神社の木を家に植えて根づくか枯れるかの祈いをおこなったというのです。ここに登場する「白鳥」については、穀霊の白鳥に穂落し神のモチーフがあると研究者は指摘します。そして、稲荷山の3つの峰の古墳祭祀(お塚信仰)と白鳥伝承は、結びついていると云うのです。

伏見稲荷大社創建伝説
伏見稲荷大社創建説話と白鳥伝説

 また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。

まず穂落し神説話を見ておきましょう。これは穀物起源伝承でもあるようです。

ウカノミタマ(宇迦之御魂神)の姿と伝承|ご利益・神社紹介
                 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
ウカノミタマ

『古事記』は、スサノヲが出雲で「大気都比売神」に食物を乞うたシーンを次のように記します。
大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、機汚くして奉るとおもほして、その大宣津比売の神を殺しきたまひき。故、殺さえましし神の身に生れる物は、
頭に蚕生り。
二つの目に稲種生り。
二つの耳に粟生り。
鼻に小豆生り。
陰に麦生り。
尻に大豆生りき。
故、ここに神産巣日御祖の命、これを取らしめて、種と成したまひき。
『日本書紀』は、月夜見尊が保食神を殺した死体から、穀物・牛馬・蚕が化生した話を載せています。
  こうして見ると「穀物起源説話=死体化生伝承」でもあることが納得できる気がしてきますす。
なぜ穀物起源説話に、神や人間の祖先の死体から穀物などが発生したとする死体化生の神話が登場するのでしょうか? それについて研究者は次のように説明します。
①「種」には「死」が内包するとされていた。
②「種」は、春、土にまかれて「芽」となり、夏に成育・生長し、秋に「実」となり、刈りとられて再び「種」となる。
③土から離れることは死を意味し、死と再生の循環があった。
④「種」の保管場所が「倉」でなので、「種」は「倉稲魂」という神名を与えられた
⑤「倉」にある期間は、種は土から離れた「死」の状態で、この時期が「冬」になる。
⑥「死ー冬―種」は、古代人にとって一連の同義語で、「倉稲魂」も同じ意味になる。
⑦  折口信夫は「冬」は「殖ゆ」だと云う。
このように古代人の死のイメージは、私たちが考える「科学的思考」による終末としての死ではないようです。再生のための死が冬ですから、冬に飛来する白鳥は穀霊のシンボルとなります。穀物が死体から化生するのも、死・冬のイメージからきます。ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからです。穀物の死体化生と同じように、白鳥は誕生もイメージします。「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」なのです。 「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」のイメージが重なっているからです。
そこに穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰が結びつきます。『山城国風土記』逸文に、次のように記します。
南鳥部の里、鳥部を称ふは、秦公伊侶具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
意訳変換しておくと
南鳥部(トリベ)の里を、鳥部と呼ぶのは、秦公伊侶具が矢を放った的の餅が、白鳥に化身して飛び去って、やってきたのがこの森だったので鳥部と云う。

稲荷山の白鳥は鳥部の森へ飛んでいます。現在の鳥部は鳥部北麓の清水寺西南、大谷本廟の墓地の周辺だけを指しますが、もともとはもっと広い範囲だったようです。顕昭の『拾遺抄註』に、次のように記します。
「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ、ソノスソフバ鳥辺野トイフ。無常所ナリ」

鳥辺山=阿弥陀峰で、古代は北・西・南麓の扇状地一帯を指していたようです。そしてそこは「無常所ナリ」とあるので葬地だったことが分かります。
 稲荷山・鳥部のどちらの伝承も、登場人物は秦伊侶具です。葬地としての二つのアジールは、秦氏の勢力下にあったことがうかがえます。鳥部に秦氏がいたことは、天平15年(743)正月7日の『正倉院文書』に、愛宕郡鳥部郷人として「秦三田次」の名があることからも裏付けられます。この地には、鳥部古墳群・梅谷古墳・総山古墳がありますが、どれも後期古墳です。こうした古墳があることから、平安遷都以前からの葬地だったことがうかがえます。こうしてみると白鳥伝承は葬地としての稲荷山と鳥部から生まれたことがうかがえます。

谷川健一 『白鳥伝説』 (集英社文庫) 全二冊 | ひとでなしの猫

稲荷社創始の白鳥伝説には、次のように記されていました。

「白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊爾奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」

稲荷山の峯に稲が実ったのです。稲荷山の峯には古墳があります。こうして稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になります。稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神と当時の里人達が考えていたからと研究者は推測します。ここからは、稲荷山のお塚信仰が穀神信仰から生まれたことがうかがえます。

記・紀は、ヤマトタケルは死んで白鳥になったと記します。
冬に飛来する白鳥は、死霊の化身です。「餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて」とあったように、弓で射られた餅が白鳥になったというのは、白鳥を死霊と見立てていると研究者は指摘します。
豊後国風土記 肥前国風土記 / 沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房
『豊後国風土記』速見郡田野の条には、次のように記します。

百姓が餅を的にして射つたところ、餅が白鳥に化して南へ飛び去った後、「百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたり」

これは稲荷山の白鳥伝承と重なり会います。ところが「豊後国風土記」は「豊国(豊前+豊後)」の起源説話には、白鳥が北から飛米して餅となり、しばらくして、数千株の里芋に化して「花と葉が冬も栄え」たので、朝廷に報告したら天皇が「豊国」と命名したと記します。
『豊後国風土記』の白鳥となって飛び去り、また白鳥が飛び来ることは、滅(死)と豊(生)をあらわ
すと研究者は指摘します。「山城国風土記」の射られた餅が白鳥になったのは、死であり、その白鳥が稲荷山の峯に飛来したのは、生です。それは、死からのよみがえりの再生です。この死と再生を一緒にした話が、『山城国風土記』の伝承と研究者は考えています。鳥部へ白鳥が飛んで行ったというのも、この場所が葬地だったからです。葬地は再生の場所でもありました。
そう考えると、稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰ということになります。『山城国風土記」の白鳥伝説が、秦伊侶具の「稲梁を積みて富み裕ひき」という話になっているのも、そのことを示しています。稲荷のお塚信仰と白鳥伝承は別個のものと、従来はされてきたようです。しかし、以上のような立場に立つと、稲荷大社の二月の初午祭も、冬(死)から春(再生)への、死と再生の祭りと研究者は考えています。
 なんか分かったような、わからないような展開になりました。民俗学的な話は、どうも私には苦手です。しかし、伏見稲荷大社の白狐伝説を理解する上では、避けては通れない道のようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

空海と秦氏の関係を追いかけていると出会ったのがこの本です。

秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究 / 大和岩雄 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

秦氏の渡来と活動


この本の中にある秦氏の神社と神々の中に伏見稲荷大社のことが書かれてありました。興味深かったので、読書メモ代わりに載せておきます。

花洛名勝図会 高瀬川から伏見稲荷への参道
     『花洛名勝図会』高瀬川から伏見稲荷までの参詣道。初午のにぎわい。
伏見稲荷大社の創建は、『山城国風土記』逸文に、次のように記します。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠つ祖、伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき、乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白い鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊繭奈利生(いねなりお)ひき。遂に社の名と為しき。

意訳変換しておくと
伊奈利(いなり)は、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠祖で、伊侶具(いろぐ)秦公が稲梁(いね)を積んで富み栄え、餅を的としたところ、白鳥に化身して、飛び翔って山の峯にとまった。これを伊繭奈利生(いねなりお)と呼び、社の名となった。

ここからは、「稲 → 餅 → 白鳥 → 稲荷山」と穀物信仰と、秦氏の祖先信仰がミックスされていることがうかがえます。

伏見稲荷大社の創建を見ておきましょう。
『二十二社註式』や『神名帳考証』『諸社根元記』は、稲荷社の創祀を和銅四年(711)とします。
『年中行事秘抄』は、神祗官の『天暦勘文』(10世紀中頃)を引用して次のように記します。
  但彼社爾宜祝等申状云、此神、和銅年中、始顕在伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等、(中略) 即彼秦氏人等、為爾宜祝、供仕春秋祭等・。
意訳変換しておくと
  彼社爾宜祝等には、この神は和銅年中に始めて伊奈利山三箇峯に現れ、これを秦氏の祖先が祭ったと記す。(中略) そこで、 秦氏一族は、春秋に祭礼を行う。

 ここにも、稲荷社の創祀は和銅年間とされています。しかし、この「創祀」は秦氏が社殿を建てて「伊奈利(イナリ)社」として祀った時期のことで、それよりも古くから稲荷山の神が信仰されていたことになります。


  研究者が注目するのは、稲荷山には、一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯、荒神峯の山頂に、それぞれ古墳があったことです。『史料・京都の歴史・考古編』は、次のように記します。

伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
稲荷山古墳群 丘陵斜面 稲荷神社境内 円墳 三基 半壊 横穴式石室 後期
稲荷山一ノ峯古墳 山頂 円墳 全壊 前期
稲荷山ニノ峯古墳 山頂 前方後円墳の可能性あり 半壊 前期
稲荷山三ノ峯古墳 山頂 墳形不明 半壊 竪穴式石室 二神三獣鏡 碧玉白玉 変形四獣鏡片出土 前期
稲荷山の峯には、三基の前期古墳がある。それぞれ継続的に築造されたと考えられ、稲荷山古墳を形成する深草一帯の首長墓である。

『日本の古代遺跡・京都1』は、次のように記します。

「一ノ峰、ニノ峰、荒神峰の頂上『お塚』のあるところが古墳である。『お塚」で古墳は変形されているが、ニノ峰古墳は全長約七〇メートルの前方後円墳、他の三基は直径五〇メートルの大型円墳とみられる。古く鏡、玉類が出土しており、継起的にきずかれた前期古墳とおもわれる。西麓にあった番神山古墳はこれらにつづく首長墓とみられているが、全長五〇メートルの前方後円墳という以外いっさい不明のまま消滅した」

こうして見てくると稲荷山の山頂の3つの古墳は、「秦氏の始祖の墳墓」のように思えてきます。確かに秦氏の稲荷信仰を、稲荷山に対する秦氏の祖霊信仰とする説もあります。しかし、そうではないと研究者は指摘します。
 秦氏が大和の葛城から深草に移住し、更に葛野(嵯峨野)へ入植するのは5世紀後半のことのようです。井上満郎氏は次のように記します。
「嵯峨野の古墳が五世紀末・六世紀初ということは、葬られている人間が生きていたのは五世紀後半ということにならぎるをえない。すなわち、嵯峨野一帯の開発、つまりは秦氏の定着はこのときということになる」
 稲荷山山頂に前期古墳が築かれるのは4世紀後半のことですから、秦氏がやってくる前にあったことになります。秦氏以前の氏族の墓ということになります。

伏見稲荷山周辺の古墳群
伏見稲荷山周辺の古墳群(山頂が前期、山麓が後期古墳群)

ただし、
①西麓の番神山古墳は5世紀末で、
②稲荷山山麓には円墳の山伏塚古墳、谷口古墳、
③深草砥粉山町の丘陵尾根上には、砥粉山古墳群と呼ばれる円墳3基
これらは後期古墳なので、秦氏の墓とできそうです。
 つまり、同じ稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別の氏族で、稲荷山山頂の古墳は秦氏
の移住前の首長の墓であることを押さえておきます。
①秦氏以前の氏族は稲荷山山頂の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀
②こうした地元民の祖霊の山の信仰に、秦氏の信仰が接ぎ木され
③現在の稲荷山の信仰へ
という流れを押さえておきます。

『枕草子』の「うらやましげなるもの」の段に、稲荷山参拝が次のように記されています。
稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しさを念じ登るに、いささかの苦しげもなく、遅れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし
意訳変換しておくと
思い立って稲荷山に参拝した。中の御社への苦しい登りを念じながら登ると、いささかの苦しみもなく登れた。私が遅れるだろうと想っていた者どもの先に立って詣でることができた。いとめでたし

ここからは、清少納言がニノ峯の中社に詣でていることが分かります。一ノ峯は上社、三ノ峯は下社で、二ノ峰が中社ですが、その他に詣でたことは記されていません。どうしてでしょうか?
 伴信友は『験の杉』で、中社が本社だと書いています。「中の御社」のニノ峯古墳だけが前方後円墳で、他は円墳であることも、稲荷山信仰の原像が「先祖崇拝」であったことがうかがえます。


 全国遺跡地図には「稲荷」のつく古墳名が総計189基が載せられています。
「稲荷」とつくのは、古墳に稲荷社を祀ったためですが、「稲荷」の名のつかない古墳にも稲荷社が祭られているところがあります。例えば、『岡山県埋蔵文化財台帳』には、岡山市高松に竜王山古墳群(十一基)があり、山麓に最上稲荷神社があります。また、茨城県石岡市の山崎古墳、結城市の繁昌塚古墳、滋賀県栗東町の宇和宮神社境内の古墳、京都市右京区太秦の天塚古墳、西京区大枝東長町の福西古墳群、京都府天田郡夜久野町の枡塚古墳にも、稲荷社が祀られているようです。
これは、伏見稲荷山「お塚信仰」と結びついているようです。
上田正昭は、お塚の「塚」の由来について、次のように記します。

「ニノ峰より傍製の二神三獣鏡や変形四獣鏡が出上しており、四世紀の後半頃にはすでにその地域が聖なる墓域とされていたことをたしかめることができる」

ここからは、お塚信仰は、この山頂の古墳祭祀にさかのぼることがうかがえます。

16世紀前半に作られたとされる「稲荷山山頂図」には、山頂に上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚などの名が見えます。
上ノ塚は一ノ峯古墳、
中ノ塚はニノ峯古墳  倉稲魂神を主神 佐田彦命
下ノ塚はノ峯古墳
荒神塚は荒神塚古墳
「お塚」は現在、稲荷山に約一万基も立てられていますが、不規則にあるのではなく、 一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯の山頂を中心に、それぞれ円陣をえがき、ストーンサークル状に配されています。お塚に詣でることを「お山する」というようです。稲荷山山頂に登ることは、「お塚(古墳)」を拝することでした。この「山の峯」に「社」を作ったと、『山城国風土記』逸文は記します。
当社の社殿は、三つの峰にあったようで『雍州府志』には次のように記します。

山頂有三壇、古稲荷三社在斯所、弘法大師移今地、毎年正月五日、社家登山上拝三壇始依為鎮座之処也。

意訳変換しておくと

山頂には三壇あり、古くは稲荷三社はここにあった。それを弘法大師が今の地に移した。毎年正月五日に社家が山上に登り、三壇に拝する。これが最初の鎮座場所である。

ここからは、山頂の三壇(古墳)が信仰対象であったこと、弘法大師が登場してくるので真言密教の社僧の管理下に置かれたことが分かります。こうして平安時代になると稲荷信仰は真言密教と習合して、修験者や聖などによって各地に広められていくことになります。ここまでをまとめておきます。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?
                全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景


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             吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』


今は山麓の稲荷社拝殿から山頂にかけての参拝路には、約二万といわれる朱塗の鳥居が立ち並びます。現在の「お山巡り」も、中世の一ノ塚、ニノ塚、三ノ塚、荒神塚の「お塚巡り」を継承しているようです
以上をまとめておきます
①稲荷山周辺には、有力氏族がいて古墳時代初期に二ノ峰に首長墓である前方後円墳が築いた。
②その後は盟主分と円墳がそれぞれの山頂に継続的に築かれ、祖先神を祭る霊山となった。
③先住氏族に替わって5世紀後半に入植した秦氏も稲荷山に古墳を築き、引き続いて信仰対象とした。
④奈良時代以後も、稲荷山周辺は死霊をまつる霊山として信仰の対象となった
⑤稲荷山参拝は「お塚(古墳)」を拝する「お塚めぐり=お山巡り」という形で受け継がれた。
⑥古代末から稲荷大社では、弘法大師信仰が高まり真言密教系の社僧が管理運営するようになった。
⑦すると、廻国の修験者や高野の聖達によって、「お塚信仰」が全国に展開し、古墳に稲荷神社が勧進されるようになった。

今回、私が興味深かったのは、山の上に造られた古墳が祖先崇拝のシンボルとして、後の人達に受け継がれて、その山が信仰対象として霊山化していく過程やそれが全国展開していく道筋が辿れることです。これを丸亀平野に落とし込んでみると、大麻山の山頂近くに姿を見せる野田院古墳が思い浮かんできます。この古墳が祖先崇拝の対象となり、麓に大麻神社が鎮座し、霊山化し、そこに山林修験者が入ってくる。そして彼らが「大麻山 → 五岳 → 七宝山 → 観音寺」をつないで修行し「中辺路」を形成していくというストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

 讃岐国府跡を流れる綾川上流の、羽床盆地は古墳の密集地で、大規模な古墳群を形成しています。
しかし、時期・内容がよく分からないものが多く、私には空白地帯となっていました。その中で手がかりとなる資料に出会えましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
まずは編年表にしたがって出現順に古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳分布図JPG

最初に羽床盆地の古墳を5つにグループ化します。
A 北部        快天塚古墳 浦山12号墳
B 北西部 
C 中央北部
D 中央南部
E 東部
その編年表が以下になります。
羽床盆地の古墳編年2
羽床盆地の古墳編年表
羽床盆地の古墳編年

羽床盆地の古墳編年表(拡大版)
古墳編年表2

Ⅰ期 羽床盆地で最も古いのは、盆地北部の快天山古墳です。

快天塚古墳6
快天塚古墳5


                     快天塚古墳
この古墳については何度も取り上げたので副葬品などは省略します。研究者は注目するのは3基の刳抜式石棺です。
快天塚古墳石棺
快天塚古墳の3つの石棺

これらは国分寺町鷲ノ山の石材で造られたもので、1号・2号石棺は割竹形木棺を忠実に模した初期モデルで、全国で最も古い刳抜式石棺とされます。古墳の立地場所は、羽床盆地から丸亀平野へ出口にあたる丘陵上で、鵜足郡との境になります。阿野郡と鵜足郡に跨いで勢力をもっていた首長墓のようです。快天塚の被葬者達は、刳抜式石棺を最も早く使用しているので、その生産地の国分寺町鷲ノ山の石工集団を支配下に置いていたようです。また、刳抜式石棺が製作されるようになると国分寺町では有力古墳が造られなくなります。ここからは、快天山古墳の被葬者は国分寺町域までも勢力に置いていたと研究者は推測します。
 しかし、快天塚古墳の被葬者に続く首長達は、その勢力をその後は維持できません。ヤマト政権は鷲の山の石棺製造集団を引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じています。つまり、ヤマト勢力によって快天塚の後継者達は押し込められたようです。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったと研究者は考えています。
快天塚古墳に続く盟主的な古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳4
羽床盆地の古墳
よっちゃんの文明論 | SSブログ

北流してきた綾川が大きく東方向に流れを変えるポイントが「白髪(しらが)渕」です。この左岸(北側)の丘陵を浦山(うらやま)、対岸の突き出す地形を津頭(つがしら)と呼びます。
Ⅱ期 浦山12号墳は、快天塚と同時期の古墳で、綾川の北の「A 北部」に位置します。
直径10m前後の円墳で、割竹形木棺を粘土で覆い、墳丘構築のため丘陵部を切断した溝状部には、墳丘側、丘陵側双方に貼石しています。さらに平野側には墳丘を挟むようにハ字形の列石を配し、配石のない中央を通路として使用しています。古墳時代前期を特色づける割竹形木棺をもつ一方で、弥生時代の墳丘墓の特徴を色濃く残した古墳で、Ⅱ期のものと研究者は判断します。その隣の浦山11号古墳は組合式木棺を粘土被覆していることと、刀子・斧・鎌が出土しているのでⅡ期~Ⅲ期に比定されます。

善通寺・丸亀の古墳編年表

Ⅲ期 快天山古墳に続く大型古墳(盟主墳)は「A 北部」に位置する津頭東古墳です。
①径35mの円墳、葺石・埴輪あり。
②多葬墓で、竪穴式石槨4基と粘土槨2基があり、
③1号石槨は、板状安山岩を小口積みした竪穴式石槨
④内行花文鏡、鉄剣2、太刀1、鉄斧2、(ヤリガンナ)1、鉄鏃を出土

 津頭東古墳から400mほど下流にあるのが「A 北部」の津頭西古墳(蛇塚)です。
①径7mの円墳
②竪穴式石槨から、画紋帯環状乳四神四獣鏡(径14.8cm)、三環鈴、銀製垂飾り付き耳飾りの残穴、衝角付き冑、眉庇付き冑、横矧板鋲留式短甲3、頸甲1、小札括り、金銅製鏡残片、鉄矛2、直刀、直弧文付き鹿角製刀装具、槍身2、石突きの残穴、鉄鏃残片、鉄斧、須恵器(高杯3、蓋杯2)などと、副葬品が豊富
③5世紀後半の築造。
羽床津頭西古墳 津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」
             津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」

副葬品の多さと優秀さからみて、Ⅲ期の津頭東古墳に続く首長の古墳と研究者は考えています。

羽床盆地の古墳分布図JPG
羽床盆地の古墳群
綾川をさかのぼって上流へ向かうと「C 中央北部」に、8~10基の円墳で構成される「末則古墳群」あります。その盟主墳が「末則(すえのり)1号墳」です。ここも末則湧水の下に、弥生時代から拓かれた谷田があります。谷田と背後の山林を経済的基盤とした勢力の築いた古墳群のようです。

末則古墳 羽床古墳群
①径約25mの円墳で、葺石と埴輪が2重にめぐり、
②円筒・朝顔形埴輪、石製獣形品(猪か馬)、須恵器片が採集。
③埋葬部は、隅丸長方形の土壙のなかに竪穴式石槨があり、石材は川原石で、最上段には板石
④鉄刀(90.5cm)、鉄剣(62.5cm)、鉄鏃10を出土

末則古墳の出現は、これまで羽床盆地の「A 北部」に築造されていた有力古墳(盟主墳)が、はじめて盆地中央部でも築造されたことに意義があると研究者は考えています。しかし、この古墳は墳丘規模だけ見ると「A 北部」の有力古墳と同規模ですが、副葬品を見ると「鉄刀1・鉄剣1・鉄鏃10」だけで、短甲や馬具などが出てきません。副葬品の「貧弱」さは、「A 北部地区」との経済的・政治的格差を示すものと研究者は評します。5世紀後半の時点では、中央部は「発展途上地域」だったとしておきます。
末則古墳の被葬者が拠点としたしたのが末則遺跡です。
この遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主だったのでしょう。
末則古墳 羽床古墳群.2jpg

現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。そこには水神も祭られていて、聖なる場所でもあったことがうかがえます。神水鼻の対岸(羽床上字田中浦)には「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設でした。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。
Ⅳ期 浦山11号・12号墳の北側の丘陵上に立地する白梅古墳
①直径10m前後の円墳で、2基の箱式石棺の双方から鉄刀を出土
②時期を半田する遺物が出土していないが、須恵器や馬具が出ていないのでⅣ期までに編年
V期(5世紀後半)の羽床盆地の特徴は
①大型古墳が姿を消し、直径20m前後の中規模古墳が小地域ごとに成立
②そこに古式群集墳が多く築造され、古墳築造が急激に拡大する。

その他の有力古墳としては、滝宮小学校に隣接する岡の御堂1号・2号墳があります

岡の御堂古墳 羽床盆地
岡の御堂1号・2号墳の説明版

羽床盆地のⅤ期(中期古墳)の代表的な例として「岡の御堂古墳群」を見ておきましょう。
滝宮小学校の移転新築のために1976年に発掘調査され、2、3号墳はなくなりました。埋葬施設が移築保存された1号墳を見ておきましょう。
①径13mの円墳で、幅2,5mの周濠で葺石、円筒・朝顔形埴輪出土
②埋葬部は川原石と板石による箱式石棺が東頭位にあった
③盗掘を受けていたが、鉄刀(長さ107.5cm)、鉄剣3、鉄矛1、鉄鏃25以上、横矧板鋲留式短甲1、轡1、鮫具1、帯金具9以上、鉄鎌1、鋤先2、鉄斧2、刀子2、須恵器・土師器多数を出土。
④5世紀後半の築造。
中期古墳には、武具と鉄製武具が多いことに気がつきます。「武具・馬具」は、鉄を得るために朝鮮半島南部にヤマト連合政権が足がかりを確保しようとして苦労していた時代の特徴とされます。

横矧板鋲留式短甲2

横矧板鋲留式短甲

この時期の短甲は、ヤマト政権が一括大量生産して地方に分与していたものもあります。ここからは以前は次のような説が一般的でした。

高句麗の南下政策に対応するために、国内の豪族が動員され、その功績として威信財としての短甲や馬具が支給された。

しかし、近年の研究からは短甲は「倭系甲冑」として日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもおよんでいたことが分かっています。

韓半島出土の倭系甲冑
朝鮮半島出土の倭系甲冑分布図
倭と伽耶の鎧比較
伽耶と京都宇治二子山の甲冑比較


倭と伽耶のかぶと
左が倭の甲冑、右が伽耶の甲冑
倭と伽耶の武器比較2
左が倭 右が伽耶
ここからは、半島の渡来有力者を列島に招き入れて、各地に「入植」させたということも考えられます。そうだとすれば、羽床盆地の開発者は渡来人であったということになります。

 私が気になるのは、津頭西(蛇塚)古墳から出てきている「銀製垂飾り付き耳飾りの残穴」です。
この時代に、百済の「特産品」である耳飾りが「海の民(倭人)」によって列島にもたらされています。


女木島丸山古墳5

伽耶のイヤリング
朝鮮半島の百済のネックレス

そのひとつが女木島の丸山古墳から出土していることを以前にお話ししました。
女木島丸山古墳4
5世紀の東アジアの海洋交易

内陸部の羽床盆地から百済やヤマト政権で造られた威信財が出てくること、被葬者がそれをどのようにして手に入れたのか考えると、いろいろな想像が浮かんできます。
倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルもあったようです。そして、女木島の丸山古墳の被葬者と羽床盆地のリーダー達は、ネットワークで結ばれていたことになります。ヤマト政権以外にもいろいろな交流チャンネルがあったことを押さえておきます。

5世紀後半の羽床盆地で古墳築造が爆発的に増加するのは、どうしてなのでしょうか?
その背景は、このエリアが馬の飼育に適していたからだと研究者は考えています。羽床盆地東部の綾川町陶には洪積台地が広がっていて、水の便が悪く、大規模な灌漑施設がなかった時代には水田耕作が難しかったようです。そのため古墳時代には森林や森林破壊後の草地が広がる地域だったと研究者は考えています。そのため、5世紀後半頃の羽床盆地では、馬の飼育が盛んに行われるようになります。このエリアから馬具や甲冑をもった有力古墳や古式群集墳を盛んに築造したのも渡来系集団の存在が考えられます。そうした中で、蛇塚古墳は羽床盆地で最も力をもった首長の墓で、岡の御堂1号・2号墳は地域的首長を支える有力構成員であったと研究者は考えています。

 この時期の羽床盆地で形成された群集墳を挙げて見ます。
A 盆地北部に浦山古墳群(3号・4号墳の2基)・滝宮万4古墳群(4基)
B 盆地北西部の羽床に中尾古墳群(5基)
A 盆地北部の三石古墳群(3基)・白石北古墳群(3基)
B 盆地北西部(羽床)の浄覚寺山古墳群(4基)
C 盆地中央部の北側では末則古墳群(7基)
E 盆地奥部の川北1号墳は竪穴式石室をもつことから、この時期に築造された可能性が高い
Ⅵ期 横穴式石室の導入期
綾川流域では河口の雄山に最初の横穴石室を持った古墳が築かれます。それは韓半島の九州の竪穴系横口式石室の影響を受けて羨道をもたない小規模な横穴式石室です。それに対して、羽床盆地の横穴式石室導入期の本法寺西古墳浦山5号墳は横長の玄室に狭い羨道です。これは両者が異なった地域から影響を受けて横穴式石室を導入したと研究者は考えています。つまり、この時期までは阿野北平野と羽床盆地の勢力は別系統に属していたということになります。

  研究者が注目するのは、羽床盆地のⅥ期の古墳が小規模で、有力古墳が見当たらないことです。
 羽床盆地のⅦ期の特徴を見ておきましょう。
①横穴式石室の築造は羽床盆地全体に広がるが、大型横穴式石室は出現しない
②これまで古墳築造の中心であった盆地北部では古墳築造が減少する。
③それに代わって、古墳築造活発地が盆地北西部の羽床地域に移動する。
 羽床勢力は、平芝2号墳、奥谷1号墳、膳貸1号・2号墳などの横穴式石室をもつ小型古墳を造り続けます。これらの群集墳はいずれも後期群集墳で、羽床地区全体ではこの時期に20基をこす古墳が築造されたと研究者は考えています。
 これに対して、盆地北部では浦山10号墳、小野内聞1号~3号古墳・岡田井古墳群などが築造されていますが十数基程度です。盆地中央部の南側(綾上町牛川・西分)では、梶羽1号・2号墳・小川古墳の3基で横穴式石室が確認されています。また、盆地中央部北側の末則古墳群の近くにある菊楽古墳も横穴式石室をもち、Ⅶ期に属するものとされます。そして、羽床盆地では7世紀前半以後には羽床盆地では古墳は造営されなくなっていきます。そして、終末期の巨石墳や、それに続く古代寺院も建立されません。羽床盆地の勢力は群集墳は造られ続けるが、それをまとめ上げる盟主がいなかったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
善通寺・丸亀の古墳編年表

快天塚古墳をスタートとする羽床盆地の勢力推移を整理しておきます

羽床盆地の古墳と綾氏

①盆地北部に快天山古墳(Ⅱ期)→津頭東古墳(Ⅲ・Ⅳ期)→蛇塚古墳(V期)と続く盟主墳の系譜がある。
②中心は盆地北部で、4世紀から5世紀後半には、このエリアの集団が主導的地位を握っていた
③北部集団は、快天塚の被葬者の頃(4世紀中頃)には羽床盆地ばかりでなく、国分寺町域も支配領域に含めていた。
④Ⅴ期(5世紀後半頃)になると、盆地北西部の羽床に浄覚寺山古墳群・中尾古墳群が、盆地中央部の北側に末則古墳群が築造され、古墳築造が拡大し、盆地奥部にも古墳が築造され周辺開発が進んだ。kこの背景には馬の飼育が関係することが考えられる。
⑤Ⅶ期には盆地の各所で横穴式石室の群集墳が築造されるようになった
⑥北部勢力は、その後に大型横穴式石室を築造できずに、6世紀末頃に弱体化した。
⑦代わってⅦ期に主導権を握るようになるのが、北西部の羽床地区の集団である。
⑧羽床の群集墳は密集したものではなく、比較的広い範囲に5基前後のグループが散在したものである
⑨羽床盆地全体に大型横穴式石室の築造がないことと併せて考えると6世紀末頃の羽床盆地では地域権力の集約が行われなかった
⑩その結果、綾川下流の阿野北平野を拠点とする勢力(綾氏)の勢力下に入れられた。

⑩の「地域首長の墳墓とみられる大型横穴式石室の不在」 + ⑨の「坂出地域と比べると、後期群集墳の分布がやや散漫」=阿野北平野南部(坂出市府中周辺)に比べて権力集中が進まず、劣勢の立場で、阿野北平野の勢力(綾氏?)に飲み込まれて行ったと研究者は考えています。

 6世紀末になると、羽床盆地では地域権力が衰退します。そこに進出してくるのが綾氏です。
綾氏は、農業、漁業、製塩に加え、羽床盆地の馬も掌握し、舟だけでなく、馬を用いた交通、軍事を背景に勢力を築いていきます。さらに、陶に豊かな粘土層があるのに気がつくと、そこに中央政権の支持を取り付けて最先端の窯業技術を持つ渡来集団を入植させて須恵器の工業地帯を作り上げます。こうして奈良時代になると綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。つまり、十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。そのプランナーは綾氏だったことになります。陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群であったことを押さえておきます。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
奈良時代以前の讃岐の須恵器の市場分布図(十瓶山窯独占化以前)
 
陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。
これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不便なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆われた原野で、燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。
 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得します。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。
 こうして綾氏によって整備された「坂出府中=陶・滝宮」という綾川水運ルートに乗って、後には国司となった菅原道真が滝宮に現れると私は考えています。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
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坂出 条里制と古墳
坂出市阿野北平野の古墳群と古代寺院
研究者は古墳群について、つぎのような見方を持っています
①古墳群は、血縁や擬制的血縁関係で結ばれていた集団によってまとまって作られた
②そのため古墳群の規模、内容、変遷等は、その氏族集団の性格や盛衰を映し出している
③そうだとすれば、古墳群のあり方から氏族を復元することができる
この考えに従って、阿野北平野周辺の古墳群と阿野郡の古代氏族を探って行くことにします。テキストは「「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」」です。

讃岐綾氏の活動

阿野北平野南部の大型横穴式石室と綾氏との関係について、最初に指摘したのは羽床正明氏で次のように記します。
山田郡司牒に「大領外正八位上綾公人足」の名があることに注目し、次のように推論します。
①8世紀後半に綾氏が山田郡の郡司になっているのは、大宝3(703)年3月の「有才堪郡司。若雷徊有三等已上親者。聴任比郡」に基づくものである。
②綾氏が比郡(隣郡)の郡司に任じられた背景として、新宮古墳・穴薬師(綾織塚)古墳・醍醐古墳群などの大型横穴式石室の存在から6世紀後半から7世にかけて綾氏が阿野郡で活発に活動していたことが想定できる
③そうしたことを踏まえて、綾氏が孝徳朝立郡(評)以来の譜代を獲得したこと。
続いて松原弘宣氏には、山田郡司牒、『日本霊異記』などの文献や古墳から次のように記します。
①綾公氏は阿野・香河・山田3郡にわたる有力地方豪族である。
②阿野郡で6世紀末に大型横穴式石室が突然築造されるようになるのは、6世紀後半以降にこの地域の有力氏族・綾氏が台頭してきたため
③新宮古墳→開法寺、綾織塚(穴薬師)古墳→鴨部廃寺、醍醐古墳一醍醐廃寺と大型横穴式石室と古代寺院が連続的関係をもって分布していること
④巨石古墳と古代寺院の連続性は、綾氏が阿野北平野を引き続いて勢力圏に置いていたから生まれた
⑤山田郡高松・宮所郷地域にある大型横穴式石室は山田郡大領綾公氏の祖先の墓ではないか
 両氏は、山田郡の綾氏については見解が異なるりますが、次の点では一致します。
A 律令時代の阿野郡が綾氏の根拠地であったこと
B 6世紀末頃~7世紀前半頃の大型横穴式石室が綾氏によって築造された
 
坂出阿野北平野の古墳分布図1

坂出
市阿野北平野の古墳分布図
古代綾氏と阿野北平野の古墳・古代寺院


上表のA・B・Cの三つの集団は、7世紀中頃以降になると古墳築造を停止して、氏寺を建立するようになります。
A 平野南西端部集団 7世紀中頃に開法寺
B 南西部部集団   7世紀末頃に醍醐廃寺
C 南東端部集団   7世紀後半に鴨廃寺

阿野郡では坂出平野南部に立地するこれら三つの寺院以外に、古代寺院は見つかっていません。この3つの勢力以外に、寺院を建立することのできる有力集団はいなかったことを示しています。ところが文献には、7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しか確認できません。これについては、次の2つのことが考えられます。
①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが、その中の一つの氏族の名が偶然に文献に残った
 ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 これについては、以前にお話ししたように、②の説が従来は支持されてきました。その理由は、
A 三つの集団がそれぞれが建立した開法寺、醍開醐廃寺、鴨廃寺の瓦は、綾南町陶窯跡群で一括生産されたものが運び込まれていること
B 三つの集団は、約3km四方の狭い地域に近接して墓域を営んでいること
以上から三集団は、近接して居住し、日常的に交流が密接に行われ、婚姻関係を通じて、綾氏として一つの氏族「擬似的血縁集団」にまとまったとされます。そして6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地、国分寺地域へも勢力を拡大し、その領域が律令時代に阿野郡になったとします。
  これらを、研究者は次のようにまとめます。
   以上のように考えれば、綾氏は坂出平野南西端部に古墳を築造した集団を中心として、平野南端 に三つの古墳群を築造した集団からなり、古墳時代初期まで系譜をたどることができる。さらに、平野東南端部の方形周溝墓は、弥生時代後期まで系譜が遡る可能性も示唆している。従って、綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく、この地域で成長した氏族であることがわかる。
これを「古代綾氏=弥生時代以来の在地的集団」説としておきます。これに対して、異論が近年出されるようになりました。瀬戸内海の対岸の播磨や備後での終末古墳と古代寺院の連続性について、最近の説を見ておきましょう。
  まず備後国府が姿を見せる過程を見ておきましょう。
史跡備後国府跡保存活用計画
備後国府と国分寺の所在地
 福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。このエリアには6世紀までは有力な首長はいませんでした。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、いくつもの終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が密集して建立されます。そして国衙や国分寺が「誘致」されます。それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然のように現れるのが終末古墳の二子塚古墳です。

備後南部の大型古墳
備後国府跡周辺の終末期古墳

   このような変動を桑原隆博氏は、次のような政治的変動が背景にあったとします。

「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。

「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」

 6世紀までは自立していた「吉備」が、畿内勢力に分割・解体されたこと。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として、有力者が何人も備後に派遣され、そこに終末古墳を競うように造営したことになります。「芦田川による南北の水運 + 東西の山陽道 = 戦略的要衝」に何人もの有力者が派遣され、最終的には備後国府が設置されたとしておきます。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

播磨の揖保郡の場合を見ておきましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
播磨揖保郡・揖保川中流 終末古墳と古代寺院の密集地
揖保郡エリアでは、揖保川が南北に流れ下って、古代から船による人とモノの動きが活発に行われていた地域です。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から古代官道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことになります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。吉備王国の解体後、播磨と備後で「包囲」するという戦略もうかがえます。
 律令下の揖保郡には、古代寺院が11カ寺も建立されます。
古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が「集住」していたことを物語ります。その背景としては、揖保川の伝統的な水運と「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力を挟み込んで抑制する体制強化策がとられたとします。

以上、見てきたように吉備王国の解体とヤマト政権の直接支配への対応として、東の播磨と西の備後に、畿内の有力者が何人も送り込まれ、狭い地域に「集住」することになります。彼らは、狭いエリアで生活するので、日常的な交流が密になっていきます。そのため巨石墳造営などについては、同じ技術者集団によっておこなれることにもなるし、古代寺院の瓦も共通の瓦窯を建設して共同提供するようになります。
終末古墳集中の背景

中浜久喜氏は次のように記します。

「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」
 
    この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道に沿って造られています。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、同じような性格を持つ古墳と考えられます。
この説が実際に阿野北平野の巨石墳に適応できるのかを見ておきましょう。

古墳編年 西讃

坂出 条里制と古墳


坂出市の古墳編年表1
坂出市の古墳編年表
古墳編年表2

A 平野南西部では、次のような系譜が見られます  
 小規模な積石塚(城山東麓古墳)→ 夫婦塚(Ⅲ期~Ⅳ期)→ 龍王宮1号・2号石棺(Ⅳ期) → 西福寺石棺群(Ⅳ期?)と箱式石棺の小規模古墳を造り続けます。それがV期になると王塚古墳という大型古墳を突然のように築造します。そして、中断期を挟んで、Ⅶ期の醍醐3号墳から皿期の醍醐7号墳まで大型横穴式石室が集中的に築造されるようになります。

B 平野東南端部では、
弥生時代後期の方形周溝墓 → 蓮光寺山古墳(Ⅱ期~Ⅲ期)→ 杉尾神社南古墳・杉尾神社南尾根石棺・杉尾古墳・サギノクチ石棺・松尾神社東石棺(Ⅲ期~Ⅳ期)、中断を挟んで、Ⅶ期になるとはじめて大型古墳を築造し、大型横穴式石室の穴薬師古墳が姿を現し、以後は多くの横穴式石室墳が築造されます。以上の三つの地域では、中断期を挟んで6世紀末頃に共通して大型横穴式石室を築造するようになります。

 平野南西部端部では、ここは後に讃岐国府が誘致されるエリアです。 このエリアの古墳変遷を見ておきましょう。

坂出市阿野北平野 新宮古墳周辺
Ⅰ期 前方後円墳の白砂古墳 → Ⅲ期 タイバイ山古墳 → Ⅳ期 弘法寺古墳 
→ Ⅴ期 鼓ヶ岡古墳 → Ⅶ期 新宮古墳・新宮東古墳

このエリアには大型古墳が継続して造り続けられています。3世紀末頃から6世紀末頃にかけて、ここに強力な地域権力をもつ集団が存在したことがうかがえます。しかし、V期とⅦ期の間には中断期があるようです。大型巨石墳の造営が再開されるのが6世紀末から7世紀初めです。これは蘇我氏が物部氏とのヤマト政権内部の権力闘争に勝利した時期にあたります。そして、先ほど見た吉備王国の分割・直営化のために、播磨や備後に有力者が派遣され「集住」状況が作られた時期と重なります。対吉備分割策の包囲網の一環として、備讃瀬戸の対岸である阿野北平野に有力者が集められたという説になります。そして、彼らが白村江の敗北後の軍事緊張の中で、城山に朝鮮式山城を築き、戦略交通路として南海道整備を行い、そこに国府を誘致したというストーリーです。
 ちなみに綾氏は、もともとは「東漢(あや)」だと研究者は考えています。
東漢(あや)氏は渡来系で、播磨風土記にはよく登場します。そこには、讃岐との関係のある話よく出てきます。それは、讃岐の綾(阿野)氏と播磨の東漢氏の結びつきを示すものかも知れません。こうしてみると、綾氏が弥生時代以来の在地性集団という説は怪しくなります。
  もうひとつ別の視点からの阿野北平野への有力氏族の集住説を見ておきましょう。
大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
 大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 
  要点をまとめておくと
①伊予東部と結びついた大野原古墳群の勢力拡大
②それに対抗するために、旧来の讃岐各勢力が「豪族連合」を結成して、阿野北平野に集住
③それが阿野北平野への城山城造営や国府誘致の動きにつながる

ここでは、讃岐内の有力氏族の連合と集住という説ですが、阿野北平野の巨石墳が外部から「移住」してきた勢力によって短期間に造営されたとされています。やって来たものが何者かは別にしても「集住」があったという点では共通する認識です。

 かつては、現代日本人の起源については「縄文人と弥生人の混血=二重構造説」で語られてきました。
しかし、最近のDNA分析では、現在人の原形は古墳時代に形成されたことが明らかにされています。
DNA 日本人=古墳人説
     「日本人=三重構造説」では、古墳時代に大量の渡来人がやってきたことになる
この説によると、大量の渡来人がやってきたのは弥生時代よりも、古墳時代の方がはるかに多いようです。その数は、それまで列島に住んでいた弥生人の数を超えるものであったとされます。だとすると、 従来は古墳時代の鉄器や須恵器などの技術移転を「ヤマト政権が渡来技術者を管理下において・・・」とされてきました。しかし、「技術者集団を従えた有力層」が続々とやってきて、九州や瀬戸内海沿岸に定着したことが考えられます。善通寺の場合にも、弥生時代の「善通寺王国」は一旦は中絶しています。その後に、古墳時代になって「復興」します。この復興の担い手は、渡来集団であった可能性があります。それが、優れた技術力や公開能力、言語力を活かして、東アジアを舞台に活動を展開し成長して行く。それが佐伯氏ではないのかというイメージにたどり着きます。そのような環境の中で生まれたから真魚は空海へと成長できたのではないかと思うのです。
最後は別の地点に離着陸していましました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」

  古代讃岐の阿野郡と、その郡衙と綾氏について見ていきたいと思います。
テキストは「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。
  
丸亀平野の郡衙跡候補は次の通りです
阿野郡 岸の上遺跡(丸亀市飯山町法勲寺)      綾氏
那珂郡 丸亀市郡家町宝幢寺跡周辺                              ?氏
多度郡 善通寺南遺跡(旧善通寺西高校グランド)              佐伯氏
これらの郡衙は、南海道の整備後にかつての国造層によて整備・設置されたと研究者は考えています。
それでは阿野郡の郡衙は、どこにあったのでしょうか? 阿野郡の郡衙については、よく分かっていないようです。しかし、阿野郡の阿野北平野には讃岐国衙が置かれました。
国衙が置かれた郡の役割を押さえておきます。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあります。ここからは、出雲の国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。以前にお話しした阿波の場合も、阿波国府と名方評(郡)家は、すぐ近くに置かれていました。どうして、国府と郡家が隣接していたのでしょうか?
 それは中央からやってきた国司が国府がある郡の郡司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰(後の国司)は、地元の出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。それを讃岐にも当てはめると、国府設置に当たって、支援が期待できる綾氏の支配エリアである阿野郡を選んだということになります。これは8世紀以降に、文書逓送や部領に任じられているのは、国府所在郡の郡司の例が多いことからもうかがえます。 生活面の視点から見ておきます。
『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあります。
この「養郡」についてはよく分かりませんが、都からやってきた国司が生活するための食糧などを、地元の郡司が提供していたことがうかがえます。徳島の国府跡である観音寺遺跡木簡からも、板野郡司から国司に対して、食米が支出されていたことが分かります。つまり、中央からやって来た初期の国司は、地方の有力者の支援なしでは生活も出来なかったことになります。初期の国司は、そのような制約を克服し、自前で食糧やその他を確保できる権力システムを築いていく必要があったようです。
 そのような中で阿野郡の綾氏は、白村江の跡の城山城築造や南海道建設などの中央政府の政策に積極的に協力することで信頼を高め、国府を阿野北平野に誘致することに成功したようです。当然、阿野郡衙も国衙の周辺にあったことになります。
古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
次に綾氏の勢力範囲とされる阿野郡について、見ていくことにします。
阿野郡に関する最も古い確実な記録は、藤原宮・平城京跡出土の木簡です。「阿野郡」と記された木簡が次のように何枚も出土しています。

阿野郡表記の木簡一覧

参考 https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/
代表的なものをあげると
①藤原宮跡の溝(SD3200内壕)から「綾(阿野)海高口部片乃古三斗」、己丑(689)年の年号木簡の2つ
②藤原宮跡の溝(S D145)から「綾郡」と記された木簡
③平城京の長屋王の屋敷跡の溝(SD4750)から出土した木簡には、「和銅八年九月阿夜(阿野)郡」と記されています。
これらの木簡は、阿野郡から納められた貢進物に付された荷札の断片とされます。

製塩木簡 愛知
貢納品荷札の例

阿野郡木簡 平城京出土

阿野郡木簡2 長屋王
平城京出土の「阿野郡」木簡

製塩と木簡
平城京から出てきた讃岐阿野郡の木簡(復元)

この木簡には次のように記されています。
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょう。
以上の木簡の荷札からは、6世紀後半の天武朝時代には、阿野郡が存在し、貢進物を藤原京に収めるシステムが機能していたことが分かります。その責任者が綾氏であったことになります。この時期は、先ほど見たように「城山山城 + 南海道 + 条里制工事 + 府中の国衙」などの大規模建設事業に綾氏が協力し、開法寺・鴨廃寺・醍醐寺などの氏寺建立を許されるようになった時期です。
『延喜式』(延長5(927)年には、讃岐の郡名として大内・寒川・三木・山田・香川・阿野・鵜足・那珂・多度・三野・刈田(豊田)の11郡が記されています。
阿野郡が10世紀にもあったことが分かります。それが、中世になると2つに分割されます。坂出市林田町惣蔵寺の明徳元(1390)年銘鰐口には、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵王御社」とあります。ここからは、中世の阿野郡は、次のように2分割されたことが分かります。
①北条郡 坂出市域
②南条郡 国分寺町・綾南町・綾上町域
この分離がいつ行われたかについてはよく分からないようです。それが再び阿野郡に統合されるのが貞享元(1684)年のことになります。そして阿野郡は明治32年に阿野郡と鵜足郡を合併して綾歌郡となります。
「延喜式」と同じ頃に源順が編纂した百科事典である「倭名類聚抄」には
阿野郡には新居・甲知・羽床・山田・鴨部・氏部・松山・林田・山本の9郷が記されています。

讃岐の郷名
「倭名類聚抄」の阿野郡9郷
阿野郡の郷名

阿野郡の9つの郷がどこにあったのかを見ておきましょう。
新居郷については
①「金比羅参詣名所図会 巻之三」に「遍礼八十一番の札所白峯寺より、八十二番根来寺にいたる順路およそ五十余町すべて山道なり。南に阿野郡新居村あるのみ」とあること。新居の大字が端岡村に残っていること、
②「御領目録』に新居新名とあるのが新居郷の新名田のことと、山内村(昭和30年に端岡村と国分寺町となる)に大字新名があること
③「全讃史」に新名藤太郎資幸が福家城を築き、子孫が福家を名乗ったとあること
以上から、現在の綾歌郡国分寺町から綾南町畑田が比定されています。また、大字福家も新居に含まれる
 甲知郷は
①「白峰寺縁起」に保元元年に讃岐国に流された崇徳上皇を「国府甲知郷。鼓岳の御堂にうつしたてまつり」とあること
②『延喜式』の河内駅、近世の河内郷があること
以上から坂出市府中から綾南町陶を比定。
羽床郷は、中世武士で讃岐綾氏の統領とされる羽床氏が下羽床にいたことなどから、綾川町の上羽床、下羽床、滝宮を比定 山田郷は山田村の地名などから、綾上町山田・西分・粉所、綾南町子疋をあてている。
鴨部郷は、『全讃史』の鴨県主系図の「禰宜祐俊、建長六年十月、当宮御幸之莽。凛膏国鴨部、祐俊子孫可相伝之由、被下宣旨」などを参考に、坂出市加茂
氏部郷は、加茂村氏部の地名から、坂出市加茂町氏部
松山郷は、「菅家集」(「松山館」があり、(保元物語Jo・)などに「松山」の地名があることから
坂出市高屋町・青海町・神谷町(以上は旧松山村)・王越町を比定
林田郷は、「南海流浪記」に讃岐に流された高野山の僧道範が、国府から讃岐の守護所を経て宇多津の橘藤左衛門高能の許に預けられた際に、「この守護所と云ふも林田の地に在りしを知る」とあること
山本郷は坂出市西庄町・坂出町を中心とした地域
以上のように10世紀半の阿野郡は、坂出市、綾歌郡国分寺町・綾南町・綾上を含む範囲と推定しています。これは明治32年の綾歌郡成立以前の阿野郡の領域とほぼ一致します。つまり、10世紀以後はそのエリアに大きな変化はなかったことにあります。

阿野郡地図2
讃岐阿野郡のエリア

ただ「香川県史」は、一部改変があったことを次のように指摘します。
①綾南町畑田は新居郷でなく甲知郷であったこと
②明治23年美合村の成立によって鵜足郡となるまで、仲多度郡琴南町川東が近世以来阿野郡山田郷に属していたので阿野郡に含めていたこと。
以上をまとめておくと
①古墳時代後期に、綾氏が阿野北平原を拠点に、綾川沿いに進出・開拓したこと
②そのモニュメントが綾川平野に残された横穴式の古墳群であり、古代寺院跡であること
③綾氏は、7世紀後半の中央政府の進める政策に協力し、讃岐国衙の誘致に成功したこと
④国衙を勢力圏に取り込んだ綾氏は、その後も在地官人として地方権力を握り成長したこと。
⑤そのため阿野郡は資本投下が進み、人口が増大し、中世には南北に分割されたこと。
⑥そして、古代綾氏は在地官人から讃岐藤原氏として武士団へと脱皮し、羽床氏がその統領を強めるようになること。
⑦羽床氏や滝宮氏など讃岐藤原氏一族の拠点は、綾川の上流の阿野郡に属したこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「渡部 明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」
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讃岐綾氏のことを以前に次のようにお話ししました。

讃岐綾氏の活動
 
今回は奈良時代の同時代史料から讃岐綾氏について、何が見えてくるのかを追ってみようと思います。
  テキストは「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。

讃岐綾氏が文献に登場するのは「続日本紀」の延暦10(791)年9月20日条で、次のように記されています。
「讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後O至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三此之籍。並記朝臣。而養老宍五年。造籍之曰、遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請捺三此籍及菌位記。蒙賜朝臣、之姓。許之。」

意訳変換しておくと
讃岐国阿野郡の豪族であった綾公菅麻呂らが朝臣の姓を賜わりたいと次のように願いでた。自分たちの祖先は、庚午年籍が作られた天智9(670)年の時には朝臣の姓を持っておらず、文武3(703)年になってはじめて朝臣の姓を賜った。ところが養老五(721)年の戸籍改製の際、庚午年籍に拠って、朝臣が削られたため、一族は嘆き悲しんでいる。そこで再び朝臣の姓を願い出た。この申請を受けて許可した。
この申請が認められ他のは、平城京から長岡京に遷都して8年目にあたる791年のことで、空海が大学をドロップアウトして山林修行中だった時期になります。ここに登場するの阿野郡の豪族・綾公菅麻呂については、これ以外のことは分かりません。ただ、彼の位階は「正六位上」であることは分かります。これを研究者は、讃岐にやってきていた国司と比較します。
①延暦9年7月24日に讃岐守に任じられた宗形王は従五位上
②延暦8(789)年2月4日に讃岐守に任ぜられた百済王教徳が従五位下
 ちなみに、「続日本紀」には奈良時代の讃岐について12例の任命記事があります。そこで任命されているのは、従三位から従五位下までの貴族です。ここからは讃岐守は、従五位までの役職だったことがうかがえます。ちなみに、讃岐の任命記事は13例あり、従五位下の役職だったようです。 綾公菅麻呂は「正六位上」でしたから、守や介に続くNO3の位階を持っていたことになります。

官位12階

  次に、地元の有力者と比較してみましょう。奈良時代の讃岐の郡司で、同時代史料にでてくるものは6人です。
「東寺百合文書」の山田郡司牒の天平宝字7(763)年10月29日付の讃岐国山田郡にあった川原寺の寺田検出には、讃岐の当時の郡長の名前と官位が次のように記されています。
①「復擬主政大初位上 秦公大成」
②「大領外正八位上 綾公人足」
③「少領従八位上 凡□」
④「主政従八位下 佐伯」
⑤「□□上 秦公大成」
⑥「□□外少初位□秦」、「□□下秦公□□」
復元しておくと
③の「少領従八位凡□」は「少領従八位上 凡直」
⑤の「□□上秦公大成」は「復擬主政大初位上 秦公大成」
⑥の「二外少初位口秦」は「主帳外少初位下 秦」と復元されています。
ここには秦氏や綾氏(阿野郡)・佐伯(多度郡)・凡直などの馴染みの名前が出てきます。彼らの官位を見ると、「外正八位の上か下」であったことが分かります。こうして見ると、菅麻呂の位階は「正六位上」ですから讃岐では異例の高さです。
  空海を生み出した多度郡司の佐伯直氏と比べて見ましょう。

1 空海系図52jpg

空海の戸長であった道長が「正六位下」です。空海の兄弟や甥たちよりも高い官位を綾公菅麻呂は持っていたことが分かります。つまり、讃岐の豪族の中ではNO1位階保持者だったことになります。全国的に見ても、奈良時代の郡司の官位は、正六位上が最高であったようです。以上から綾公菅麻呂は、讃岐守には及ばないものの、讃岐介と同格か、それに次ぐ位階をもち、他の郡司よりもはるかに高く、讃岐では最有力な人物であったとことを押さえておきます。
 「続日本紀」には菅麻呂の官職名が記されていないので、どこで・どんな役職に就いていたかは分かりません。
上京して京で生活していたことも考えられます。もし讃岐にいたとしても、『続日本紀』の記載からすると、延暦10(791)年9月には、国府の主要官職や郡司の職にはついていなかったと研究者は考えています。
ちなみに、讃岐で最も高い位階を得ているのは、三野郡出身の丸部(わにべ)明麻呂で従四位上です。
平安時代の初め頃の「続日本後紀」嘉祥2(849)年10月丁亥朔条には、彼が18歳の時に都に入り、功績を認められて三野郡の大領に任じられたとあります。丸部氏は、以前にお話したように壬申の乱で功績を挙げ、その後は三野の宗吉に最先端の瓦工場を誘致して、藤原京に瓦を提供したとされる一族とされます。その功績も合って、中央で官人として従四位上を手に入れたのかもしれません。
 綾氏についても、中央で活躍する人物が次のように見えます。
A 宝亀3(772)年10月8日付「造峡所造峡注文」の東大寺写経所造紋所の内竪大初位上綾君船守
B 嘉祥2(849)年2月23日には内膳掌膳外記位下綾公姑継、主計少属従八位上綾公武主等が本居を改めて左京六条三坊に貫附記事。
ここから、綾氏の中には讃岐を離れ、中央で活躍する者もいたことが分かります。空海の弟や甥たちも中央で活躍し、改姓を機会に本貫地も平安京に移したことは以前にお話ししました。

 これ以外に讃岐の豪族が戸籍を中央にもつ例を挙げておきます。
①承和3(836)年に寒川郡の讃岐公永直が右京三条二坊に、
②山田郡の讃岐公全雄らが右京三条二坊に、
③多度郡の佐伯直真継・長人が左京六条二坊に
④嘉祥3(850)年に佐伯直正雄が左京職
⑤貞観3(861)年に佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂らが左京職
⑥貞観4(862)年に刈田郡の刈田首安雄・氏雄・今雄が左京職に
⑦貞観5(863)年に、多度郡の刑部造真鯨らが左京職
⑧貞観15(873)年に三木郡の桜井田部連貞・貞世が右京六条一坊
⑨三野郡の桜井田部連豊貞が右京六条一坊に
⑩元慶元(877)年に香川公直宗・直本が左京六条に
⑪寒川郡の矢田部造利大が山城国愛宕郡
⑫仁和元(885)年には几直春宗等男女9人が左京三条口坊に本貫移動
 このように9世紀になると、綾氏や佐伯直など讃岐の豪族の中には、改姓申請とともに戸籍を中央に移す者が現れるようになります。その背景には、遙任国司制によって郡司の役職に「中間搾取のうまみ」がなくなったことがあります。この時代の地方貴族は生き残りのために、改姓して本願を京に移し、中央の貴族の一端に加わろうとします。この流れの中で多くの古代豪族が衰退し、姿を消して行きます。
  綾氏や佐伯直氏などの讃岐の豪族が本貫を中央へ移すのは、平安時代になってからです。
綾公菅麻呂については「続日本紀」に「讃岐国阿野郡人」と記されているので、このときには本籍はまだ讃岐にあったようです。当時の綾氏は阿野郡を拠点としていたとしておきます。綾公菅麻呂の改姓申請からは、綾氏は遅くとも7世紀後半頃には有力な豪族であったという誇りが読み取れます。   
 このことを裏付けるのが「日本書紀」天武天皇13(乙酉、685)年11月戊申朔条の「(前略)車持君・綾君・下道君(中略)、凡五十二氏、賜姓日朝臣」の記事です。これは天武朝の八色の姓の制定に際し、綾君など52氏に朝臣の姓を与えたものです。「日本書紀」には綾君の住居地等を記していませんが、綾君を名のる古代豪族は讃岐以外にはいないので讃岐国阿野郡の綾氏と研究者は考えています。
 この時に朝臣の姓を賜った52氏の中で、畿内やその周辺(近江・紀伊・伊賀)を除く地方に出自をもつ豪族は、綾君を含めて、上毛野君(上野)・下毛野君(下野)・胸形君(筑前)・下道臣(備中)・笠臣(備中)のわずか6氏です。そして、いずれもが有力な地方豪族なので、綾君が本拠地で大きな勢力を持つと共に、中央でも重視された存在だったことがうかがえます。「日本書紀」と「続日本紀」の内容は、よく似た内容が記されているので、7世紀後半から8世紀にかけて讃岐国阿野郡で、綾氏が大きな力をもっていたことが裏付けられます。
 綾氏は阿野郡だけでなく、山田郡や香川郡にも一族がいたようです。これについては、また別の機会に見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

稲作が行われた弥生中期の讃岐では、サヌカイト制の石包丁や石斧が使われています。
この「製品(商品)」が、どこで採石され、どのように加工され、どんなルートで流通していたのでしょうか。今回は弥生時代中期のサヌカイト制石器の加工・流通を見ていくことにします。テキストは、「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
です。  
 
金山サヌカイト露頭
3万年前から1万年前までの旧石器時代には、サヌカイト製の石器が備讃瀬戸で盛んに使われていました。それは瀬戸大橋建設に伴って、島々の頂上が多数発掘調査され、そこから大量の石器や破片が出てきたことから分かります。与島西方遺跡では約13万点,羽佐島遺跡では約35万点を数える膨大な数に及び、全体の98%近くがサヌカイトを材料にするものでした。サヌカイトの供給地のひとつが坂出市の金山です。

金山遺跡発掘

金山北麓にはいまでも大量の金山型剥片が散らばっているようです。

金山遺跡発掘風景
                 香川大学経済学部 丹羽祐一研究室
金山遺跡北1地点の発掘調査には、金山型剥片の堆積が報告されています。他の遺跡から金山型剥片が出てくるようになるのは弥生時代中期前葉になってからで、それが見られなくなるのが中期後葉です。石器から鉄への転換期になります。

石器制作工程2

石器生産工程

この時期の石器生産の特徴は、石核、そして石核から剥片の製作で石器生産が終わっていることです。

この剥片から打製石包丁が作られたと考えられますが、金山では石器成品までは生産していないことになります。搬出された剥片は、別の「加工地」で成品に仕上げられたようです。ここから研究者は次のように推測します。
①当時の金山での石器生産の中で、石材、石核は流通対象でなかった
②弥生時代中期には、金山の石器石材(サヌカイト)が特定の集団に独占・専業化されるようになったことを示す
これは、サヌカイトを産出する奈良県・二上山でも、同じような状況だったことが報告されています。二上山では石剣の生産が盛んでしたが、その素材となるサヌカイト石材、石核が搬出されることはほとんどありません。石剣は武器であり、石材はもちろん、石剣完成までの生産過程そのものが特定集団によって厳重に管理されていたと研究者は考えています。サヌカイトが当時の戦略素材のひとつだったことを押さえておきます。

金山サヌカイトの分割打撃点
                      金山産サヌカイト

金山産サヌカイトの石斧G
金山産サヌカイトの石核
金山産サヌカイトの石斧転用ハンマーG

しかし、採石場ちかくには建物跡は見つかっていません。それでは彼らの生活拠点はどこにあったのでしょうか?
 
金山サヌカイトの採石場と加工場JPG

 金山南側斜面の長者原遺跡からは、中期後葉の竪穴建物1棟が発掘されていて、これ以外にも数棟あったことが推測できます。ここが生活拠点だったようです。同時に長者原遺跡からは、金山型剥片剥離技術で作られた素材と石庖丁の完成品が出土しています。ここからは、次のような事が見えて来ます。
① 金山遺跡北1地点がサヌカイト素材の採石地
②長者原遺跡が加工生産地であり、生活拠点
 旧石器時代は、石材を手に入れると、自分たちで石器を制作し、それを自分で使う社会でした。石器を使う人達が、自分の石器を作っていたのです。ところが、弥生時代中期の金山では製品を作っていないのです。素材を提供しているのです。ここからは金山の役割は、採石と一次加工と、素材を流通ルートに載せることだったようです。それが弥生時代の中期以後には、「剥片」まで作りだすようになります。
Pin page

 それで、この剥片とは何なのでしょうか?
ここに石器の製作過程を示したものがあります。これは原石、石核、剥片、石器で、原石から石核というものを作り、石核から薄い破片を打ち剥きます。これが剥片です。この剥片の形を整えて石器にします。
剥片石器

 ところが、弥生時代の中期になると、金山でも剥片までを作るようになります。しかもその剥片が、金山独自の技術で作られます。弥生時代中頃になると、石器を作る専業集団が生まれたと研究者は考えているようです。
それでは、金山で採集されたサヌカイト素材や一次加工品・完成品は、どこに運ばれたのでしょうか?
周囲で弥生時代中期の金山サヌカイト製石器がでてくる遺跡(集落)を地図上に示したものが次の地図です。
金山製サヌカイト出土の川津遺跡集落
              金山産サヌカイト石器出土の川津・坂本集落

川津遺跡は金山西方にあり、瀬戸大橋架橋の際の坂出IC工事のために、広範囲にわたって発掘が行われ、弥生から中世にかけて連続的に大集落跡があったことが分かりました。この中の弥生中期の居住地とサヌカイトの関係を研究者は次のように記します。
①の一ノ又遺跡からは、低地に囲まれた微高地上に弥生中期中葉の竪穴建物2棟と掘立柱建物1棟とともに、多量のサヌカイト製剥片と石器が出土
②の東坂元北岡遺跡からも、中期中葉の土器と一緒に多量のサヌカイト製剥片を中心とした石器が出土
③の川津東山田遺跡からも、中期中葉とみられる土器と一緒に、サヌカイト製石庖丁などの石器が出土
④の東坂元三ノ池遺跡は、中期様式の土器とともにサヌカイト製石庖丁などが少量出土
ここからは飯野山の東山麓・大束川沿いの川津や坂本には、石工加工集団がいたことがうかがえます。これらのサヌカイトの石器工房は、金山からの素材提供を受けて

「小規模のグループが集落を形成して、板状剥片から石庖丁の完成品までの生産をおこない、他集落に搬出していた」

と研究者は考えています。川津・坂本は、サヌカイトの2次加工工房であり、流通中継地であったとしておきます。 それでは川津・坂本で再加工された石包丁や石器は、どこに運ばれたのでしょうか。
その候補地のひとつである善通寺の旧練兵場遺跡を見ていくことにします。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
                   善通寺の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡は、善通寺の「おとなとこどもの病院 + 農事試験場」の範囲で吉野ヶ里遺跡よりも広い「都市型遺跡」です。丸亀平野西部の弘田川や金倉川の扇状地に位置し湧き水が豊富なエリアです。幾筋にも分かれて流れる川筋の中の微高地に弥生時代の遺構が広がります。旧練兵場遺跡で集住化が始まるのは弥生時代中期中葉で、以後、古墳時代前期前半まで集住は続きます。その中で、もっとも集落が大規模化、密集化するのは弥生時代後期前葉です。

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
漢書地理志野中に

「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」

とありますが、百余国のひとつが旧練兵場遺跡を中心とする「善通寺王国」だと研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像図
調査報告書からは、次のように記されています。
①中期中葉~後葉にはいくつかに居住域が分かれていること、
②特に西部の一画(現病院エリア)では居住域が集中していること
③この時期の旧練兵場遺跡は通常の集落とは異なり、大規模集落であったこと
大規模集落で「都市型遺跡」でもあった旧練兵場遺跡は、吉備や北九州などから持ち込まれた土器が数多くみつかっています。これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
吉備や北九州から旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
旧練兵場遺跡について、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。だとすれば金山産サヌカイトが石器や土器の「大消費地」でもあり、第2的な通センターでもあったことが予想できます。
石器製造法

旧練兵場遺跡から出土する石器の特徴は、素材はサヌカイトで、製法はすべて両極打法剥片で作られていることです。例えば、中期中葉~後葉の自然河川からはサヌカイト製の大型スクレイパーが出土しています。
旧練兵場遺跡の大型剥片
             サヌカイト製の大型スクレイパー(旧練兵場遺跡)
この大型スクレイパーは、剥離面末端に微細な剥離とはっきりと摩耗痕が残っているので、イネ科植物に対して実際に「石包丁」として使用されたことがうかがえます。これは20cmを超えるサヌカイトの大型剥が旧練兵場遺跡に「製品=商品」として持ち込まれていたことを示します。 つまり、旧練兵場遺跡は金山産サヌカイト製石庖丁などの「消費地」だったことになります。
 木材を伐採するための石斧は、旧練兵場遺跡からは3本出てきています。ところが、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことがうかがえます。同時に、旧練兵場遺跡周辺は、石斧の有力な「消費地」であったことを示しています。
 イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。

金山サヌカイトの分割打撃点

 大型スクレイパーなどは欠損後には、分割されて両極打法の石核に再利用された可能性はあります。しかし、「剥片のほとんどが両極打法剥片であること」 + 「5cm未満の石核に両極打法に伴う石核が目立つこと」から「旧練兵場遺跡は石器消費地」と研究者は考えています。旧練兵場遺跡では、サヌカイトの大型剥片を再分割して周辺集落に提供している可能性はあるものの、直接打法などを駆使して石庖丁やその素材となる剥片の生産を行って周囲に提供していた様子は見えてきません。以上からは、「旧練兵場遺跡は、サヌカイトの生産地となり得ていない」と研究者は評します。あくまで消費地だったようです。 
瀬戸内地方の弥生時代中期中葉~後葉の石器の生産、流通と集落について研究者は次のような概念図を提示します。

弥生中期の石器流通概念図

ここには次のようなことが示されています
①金山産サヌカイト製石器には、生産地のほかに加工地や流通中継地があったこと
②いろいろな集団・集落が石器の流通に関与していること
③旧練兵場遺跡など大規模集落は、特殊大型石器などの流通センターの役割を果たしていた

 弥生中期の金山産サヌカイトで作られた石器の生産・加工・流通をまとめておきます。
①金山北斜面では、弥生初期になっても活発なサヌカイトが採取された
②採取されたサヌカイトは金山南斜面の長者原遺跡に集められ、一次加工がおこなわれた。
③採取・一次加工に関わった集団は、独占的に金山での採石権を持っていた。その背後には、有力者の管理・保護がうかがえる。
④その後、金山産サヌカイトは飯野山東麓の川津や坂本の小集落に運ばれ、2次加工が行われた。
⑤川津・坂本で再加工され製品となった石器は、周辺に提供されると同時に瀬戸内海交易ルートに乗って各地に提供された。
⑥同時に、丸亀平野の善通寺王国(旧練兵場遺跡)の交易センターにも提供された。
⑦流通における専業集団の存在が、金山産サヌカイト製石器・石材分布の広域性の要因と研究者は考えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
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碗貸塚古墳石室2 大野原古墳群

碗貸塚古墳 石室実測図

大野原古墳群の石室タイプは、九州中北部から西部瀬戸内に拡がっている複室構造石室に由来するというのが定説です。
それでは「複室構造の横穴式石室」とは、なんなのでしょうか、それを最初に押さえておきます。

副室化石室

                複室構造の横穴式石室
①5世紀代に北・中九州で採用された横穴式石室は、腰石の使用や石室が大型化する。
②6世紀前半になると、肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。
③初期の複室構造ものは、はっきりした区画は見られず、閉塞(へいそく)石や天井石を一段高くするなどして区分化している。
④その後、側壁に柱石を立てるようになると、前室としての区画がはっきりと見えてくる
⑤筑前・豊前・豊後などの北東九州では少し遅れてれ、6世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
 6世紀中頃の横穴式石室の単室から複室化への変化の背景を、研究者は次のように記します。

514年の百済への四県割譲や、562年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、ヤマト政権が半島政策の放棄した結果、動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』1979年)。

このような複式構造の石室を大野原古墳群は採用してます。そして複式石室導入以後、次のような改変を進めます。
①使用石材の大型化志向
②羨道の相対的な長大化
③羨道と玄室一体化
石室形態の変化から大野原古墳群諸古墳と母神山錐子塚古墳の築造順を、研究者は次のように考えています。
  ①母神山錐子塚古墳 → ②椀貸塚古墳 → ③岩倉塚古墳 → ④平塚古墳 →⑤角塚古墳

 大野原三墳の築造時期は次の通りです。
①貸椀塚古墳が6世紀後半、
②平塚が7世紀初め、
③角塚が7世紀の前半。
大野原古墳の比較表


最後に登場するのが讃岐最大の方墳で、最後に造られた巨石墳である角塚になります。角塚は、その石室様式が「角塚型石室」と呼ばれ、瀬戸内海や土佐・紀伊などへも広がりを見せていることは前回お話ししました。
角塚式石室をもつ古墳分布図
                  角塚型石棺をもつ古墳分布

今回は「角塚型石室」について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」です。        
大野原古墳群と母神山錐子塚古墳は、断絶したものではなく継続したものと研究者は考えています。
ここでは4つの古墳の連続性と変化点を、挙げておきます。
①母神山錐子塚古墳と椀貸塚は、玄室の前方に羨道とは区別される明確な一区画を設ける。これが複室構造石室における前室に相当する。
②平塚古墳、角塚古墳ではこれがなくなり、前室区画と羨道の一体化する。
③平塚古墳では羨道前面の天井石架構にその痕跡がうかがわれ、前室区画の解消=羨道との一体化の過程を指し示すものがある。
①については、母神山錐子塚古墳の段階で後室相当区画(玄室)や前方区画(玄室)は長大化しています。
1大野原古墳 比較図
母神山錐子塚古墳と大野原古墳群の石室変遷図
その後は前室区画は、羨道と一体化してなくなってしまいます。複室構造石室では前後室の仕切り構造は、前後壁面より突き出すように左右に立柱石を据え、その上部に前後から一段低く石を横架します。これが母神山・鑵子塚古墳、椀貸塚古墳では、はっきりと見えます。そして前方区画(前室)と羨道の間にも同じような構造になっているようです。さらに平塚古墳・角塚古墳では、この部分の上部構造の変容がはっきりと現れています。
 こうして見ると、大野原に3つ並ぶ巨石墳のうちで最初に作られた碗貸塚古墳は九州的な要素が色濃く感じられます。それが平塚・角塚と時代を下るにつれてヤマト色に変わって行くようです。その社会的な背景には何があったのでしょうか?
角塚型石室のモデルである角塚古墳を見ておきましょう。
角塚古墳 石室実測図
角塚古墳 石室実測図
①玄室(後室)長約4,5m、玄室幅約2、6m、床面積は12㎡弱、三室長幅比は1,8
②玄室(奥室)平面形は、長幅比がやや減じるが4つの古墳の間で、大きな開きはない。
③もともとの複室構造の後室形態と比較すると、玄室長が同幅の約2倍の長大な平面形。
平塚古墳 石室
平塚古墳 石室実測図
平塚古墳と角塚古墳を比較すると、前室区画と羨道が一体化し長大化が進んでいることが分かります。
①平塚は長約5,9mで玄室長と同程度で、角塚は約7mと玄室長よりも長い。
②羨道幅は、平塚が玄室幅の77%、角塚が92%
③玄室に匹敵するほどに前室と一体化した羨道が発達する。
④平塚古墳では羨道最前方の天井石を一段低く架構し、この形は羨道と一体化した前室部区画の痕跡
 平塚古墳は、玄門上の横架石材が両側立柱のサイズにそぐわないまでに巨大化します。

平塚古墳 石室.玄門部の支え石
平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」右側

平塚古墳 石室.玄門部の支え石 左
              平塚古墳の玄門立柱石と「支え石」左側

その荷重を支えるために、玄室の両側壁第二段を内方に突き出すように組んでいます。これと立柱石で巨大な横架石材を支える構造です。また横架石材は一枚の巨石で玄門上部に架橋し、これに直接玄室天井石が載っています。こうして見ると、椀貸塚古墳までの典型的な楯石構造は、平塚では採用されていません。
 さらに角塚古墳になると、両側立柱上部の石材は、前後の天井石とほとんど同じ大きさで整えられています。平塚古墳石室に見えた羨道天井石との段差はなくなり、玄室天井石との間もわずか10 cm程度の痕跡的な段差がかろうじて見られるだけです。
 次に研究者は、各古墳の玄室(後室)壁面の石積状態と使用石材サイズについて次のように整理します。 角塚は石室規模は小型化しますが、そこに組まれている石は大形化します。その特徴を見ておきましょう。
角塚古墳 立面図
角塚古墳 石室立面図
①玄室奥壁と左側壁は一枚の巨石で構成
②右側壁も大形材一段で構成し、不足分に別材を足す。
③奥壁材は最大幅2,5m以上、高さ2、3m以上の一枚巨石
④右側壁には幅3,4m高さ2,4mの石材。左奥壁に据えた玄室長に達する幅4,5m高さ2m以上の石材が最も大きい。
⑤玄室架構材は2,3m×2,88m以上、1,7m×2,7m以上。
⑥羨道部壁面は左右とも二段構成で右側壁下段に長2,5m、左側壁下段に3,5m以上の大形材を使用
 角塚石室の使用石材サイズと石積みを押さえた上で、それまでの石室変遷を見ておきます。
まず母神山錐子塚古墳と椀貸塚古墳には近似点が多いと研究者は次のように指摘します。

碗貸塚古墳石室 大野原古墳群
碗貸塚古墳の石室立面図

平塚古墳 石室立面図
平塚古墳の石室立面図 

①石室規模の飛躍的に大きくなっているのに、椀貸塚古墳では用材サイズには変化がみられない
②用材大形化は、椀貸塚古墳と平塚古墳の間にで起こっている。
研究者が注目するのは、平塚古墳の巨大な玄室天井石と左側壁第二段の巨大な石材です。大形材の使用という点では、巨石だけで玄室を組んでいる角塚古墳がぬきんでます。しかし、平塚古墳にも角塚に負けないだけの巨石が一部には使用されています。角塚古墳の石室は、母神山錐子塚以来の系統変化の終点に位置づけられます。ここでは、その角塚古墳石室と平塚古墳石室とでは形態・構造面ではよく似ているのですが、大形石材の利用能力には格差があったことを押さえておきます。
6世紀末には、観音寺の豪族連合の長は柞田川を越え、大野原の地に古墳を築くようになります。
これは盟主古墳の移動で、三豊地方の母神山(柞田川北エリア)から大野原(南エリア)へ「政権移動」があったことがうかがえます。

1碗貸塚古墳2
大野原椀貸塚は、柞田川の両側を勢力下に置く三豊平野はじめての「統一政権の誕生」を記念するモニュメントとして築かれたとも言えます。それは百年前の5世紀後半に、各地の豪族統合のシンボルとして各平野最大の前方後円墳が築かれたのと同じ意味を持つものだったのかもしれません。椀貸塚の70mに及ぶ二股周濠、県下最大の石室は、富田古墳や快天塚古墳と同じ、盟主墳を誇示するには充分なモニュメントで政治的意味が読み取れます。
以上を整理してまとめておきます
①柞田川の北エリアでは、6世紀前半に母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が築造される。
②6世紀後半になると円墳で横穴式の錐子塚古墳が、それに続く
③7世紀前半に中位・下位クラス墳群である千尋神社支群、黒島林支群、上母神支群が形成される。
④北エリアの豪族連合長の豪族のほとんどが、母神山を墓域としていることから、この山が霊山だったことがうかがえる。
⑤6世紀末に、大野原に椀貸塚、7世紀はじめには平塚、7世紀半ばに角塚が築造される。
⑥大野原3墳を中心にして、7世紀前半には古墳小群が柞田川の流れに沿うように作られるようになる⑦これらの中小勢力によって、柞田川周辺の開発が進められた
⑧大野原では大野原3墳と、対になるように観音堂古墳、町役場古墳、若宮(石砂)古墳がかつてはあったが、江戸初期の新田開発によって失われてた。
⑨大野原3墳は、これらの墳墓群と墓域を共用していた
以上から、6世紀末に観音寺エリアの墓域が、母神山から大野原に移ったことを押さえておきます。つまり、大野原墳墓群の組織化は始祖の統一、同族関係の確立と捉えることができると研究者は指摘します。言い換えれば、6世紀末に三豊平野の豪族の族的統合が行われたこと、その政治的なモニュメントの役割を果たしたの大野原3墳ということになります。これは三豊平野の内部の動きです。それ以外に、外部の力もこの動きを推進したと研究者は考えています。
それは次のようなヤマト政権内部での抗争との関連です。
①朝鮮半島経営に大きな力を持つ葛城氏
②葛城氏の下で、瀬戸内海南ルートの交通路を押さえた紀伊氏
③瀬戸内海南ルートを押さえるために紀伊氏が勢力下に置いた拠点
④そのひとつが母神山古墳群勢力 
⑥葛城氏・物部氏の没落後に台頭する蘇我氏
⑦蘇我氏の支持を取り付けて、台頭する大野原勢力
⑧大野原への盟主古墳の移動と3世代に渡る碗貸塚古墳→平塚→角塚の造営
⑨角塚は、讃岐最大の方墳であり、讃岐最後の巨石墳であること
以上からヤマト政権内部の蘇我氏の政権獲得と、大野原古墳群の出現はリンクしているという説になります。そういえば蘇我氏は、巨石墳の方墳が好きでした。いわばヤマト政権の「勝ち馬」に載った勢力が、地域の盟主にのぼりつめることができたことになります。
 前回お話ししたように角塚の石室モデル(角塚型石室)が瀬戸内海各地や土佐・紀伊にも拡大していること、讃岐の巨石墳のモデルになったのが大野原古墳群であったことなどが、それを裏付けることになります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大野原古墳の比較一覧表
                 大野原古墳群の比較一覧表
参考文献
「大久保轍也 大野原古墳群における石室形態・構造の変化と築造動態 調査報告書大野原古墳群(2014年)95P」
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大野原古墳群1 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳
大野原古墳群 (時代順は碗貸塚 → 平塚 → 角塚)

観音寺市の大野原には、大きな石室を持つ3つの古墳が並んでいます。この3つの古墳群は、それまで古墳がない勢力空白地帯の大野原に、突然のように現れます。この背景には、あらたな新興勢力がこの地に定着したと考えられています。その中でも一番最後に築かれた角塚は、その石室が「角塚型石室」と呼ばれて、6世紀後半に台頭する新興勢力の古墳に共通して採用されているようです。今回は、「角塚型石室」を採用する巨石墳を見て、その背景を考えて行きたいと思います。テキストは「清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳」です。

1大野原古墳 比較図
大野原古墳の変遷

まず、大野原の3つの古墳群の特徴を報告書は、次のように記します。
①周堤がめぐる椀貸塚古墳、さらに大型となり径50mをはかる平塚古墳、そして大型方墳の角塚古墳というように時期とともに形態を変えていること
②石室は複室構造から単室構造へ、玄室平面形が胴張り形から矩形へ、石室断面も台形から矩形へと変化し、九州タイプから畿内地域の石室への変化が見えること
③三世代にわたる首長墳のる変化が目に見える古墳群であること
④6世紀後半から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が、椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳と3世代順番に築造されていること。

そして、今回取り上げる角塚の石室を見ておきましょう。 

角塚
                    角塚平面図

①長軸長約42m×短軸長約38mの方墳で、推定墳丘高は9m。
②周囲には幅7mの周濠が巡り、周濠を含む占有面積は約2,150㎡。
③葺石、埴輪は出てこない。
④両袖式の大型横穴式石室で、平面を矩形を呈し、玄門立柱石は内側に突出する。
⑤石室全長は12.5m、玄室長4.7m、玄室趾大幅2.6m、玄室長さ4mの規模で、玄室床面積10.1㎡、玄室空間容積25㎡。
⑥周濠底面(標高26m)と現墳丘頂部との比高差は約9mで、讃岐最大規模の方墳

角塚石室展開図
   大野原古墳の角塚石室展開図
     
  西日本の横穴式石室を集成した山崎信二氏は、大野原古墳群について次のように記します。
大野原古墳群は、石室構造の変遷から椀貸塚→平塚→角塚の順で造られたとされます。そして、各古墳の石室構造の特徴は次の通りです。

大野原古墳の比較表

ここからは、母神山の鑵子塚古墳と大野原で最初に造られた椀貸塚古墳は、九州色が強く連続性があること、それに対して平塚・角塚は、複室構造から単室構造への変化など、畿内色が強くなっていることが分かります。この背景については、次のようなことが考えられます。
①瀬戸内海交易の後ろ盾の変化、つまり九州勢力から畿内勢力への乗り換え
②畿内勢力内部での権力抗争(葛城氏や物部氏 VS 蘇我氏)にともなう三豊郁での勢力関係の変化
これについては、また別の機会にして先を急ぎます。
山崎氏は、角塚古墳を典型例として「角塚型石室」の拡大について次のように記します。
①瀬戸内海沿岸各地で角塚と同じタイプの石室が造られているので、その典型例である角塚をもって角塚型石室とする。
②角塚型石室が造られるようになるプロセスは、地方豪族と中央有力豪族との疑似血縁関係が強化され、同族意識が生まれてくる時期と重なる
③角塚型石室は玄門立柱を保持し、平塚からの形態変化を追うことができる
④吉備以東の石室は、急激な畿内型化するが、讃岐以西についてはヤマト政権との一元的な従属関係におかれず、九州との関連を強く持ち、なお相対的自立性を保持していた

角塚式石室をもつ古墳分布図
           角塚型石室をもつ古墳分布図
A 7世紀初頭 広島県梅木平古墳・愛媛県宝洞山1号墳
B 7世紀前半 山口県防府市岩畠1号墳
C 7世紀中期 角塚(大野原)、愛媛県川之江市向山1号境
D 7世紀後半 広島県大坊古墳
造営時期は、7世紀初頭から後半までで、約40年程度の年代差があるようです。
角塚型石室は「九州からの系譜をひきつつ、複室構造石室が瀬戸内で独自に変化した石室」(中里2009)とされます。
その分布を見ると瀬戸内海を中心に分布していることが分かります。特に観音寺周辺に集中しています。また、これらの古墳は離れていても、平面規格や構築方法に共通点があります。つまり、石室築造についての情報が共有されていたことが分かります。それは同系列の技術者集団によって、同じ設計図から作られたということです。
     
それでは角塚型石室を持つ高知平野西端の朝倉古墳を見ていくことにします。

土佐の首長墓の移動
高知平野の盟主古墳の移動 小連古墳から朝倉古墳に7世紀前半に移動
朝倉古墳は高知平野の西端にあって、仁淀川を遡るとて瀬戸内へ抜けるルートがあったようです。それは現在の国道194号と重なりあうルートで、西条市や四国中央市に繋がるものだったことが考えられます。
 7世紀前半の小連古墳から朝倉古墳への盟主古墳の移動を、研究者は次のように考えています。
① 小蓮古墳は四万十市の古津賀古墳や海陽町大里2号墳と石室が類似している。
② 小蓮古墳の被葬者は、太平洋沿岸のルートを掌握していた。
③ その後、太平洋ルートよりも瀬戸内沿岸交流がより重視されるようになる。
④ そんな情勢下で小蓮勢力から、瀬戸内との繋がりの強い朝倉の勢力が盟主的首長の地位を奪取した。
⑤ そして盟主的首長墳は高知平野西端の朝倉吉墳に移動する。
朝倉古墳石室 角塚型石室
朝倉古墳の角塚タイプの横穴式石室
この図からは朝倉古墳について、読み取れることを挙げておきます。
①整った形状の大形石材を多用されている。
②玄室長に対して短縮化した羨道という先行要素を持っている
③上部架構材を含めて、玄門構造は大野原古墳群と類似する。
④奥壁一段、玄室左右側面二段の石積みは角塚古墳に似ている
⑤横架材は巨大化し、左右の玄門立柱で支持する構造は平塚古墳の玄門構造よりも古い
以上から朝倉古墳は、大野原古墳群の角塚と同じような石室を持っていることが分かります。
造営年代は、大野原の平塚や角塚と同時代のものと研究者は考えています。角塚型は先ほど見たように、角塚古墳をモデルとした瀬戸内を中心に分布する石室型式です。そうすると朝倉吉墳の石室は、瀬戸内の影響を受けて成立した可能性が高いことになります。ここからは朝倉古墳が瀬戸内の勢力と結びついて、畿内や瀬戸内海の政治的変動と連動して土佐の盟主的首長墳の移動が行われたとことがうかがえます。
高知平野の盟主墓の築造変遷をまとめておきます。
①土佐の古墳は、前期後半に幡多地域に出現する。
②中期前葉には幡多地域での首長墳築造は途絶え、新たに高知平野に古墳が築造される。
③後期になると横穴式石室墳が高知平野を中心として展開し、古墳数が増加する。
④後期後半から終末期にかけて伏原大塚古墳→小蓮古墳→朝倉吉墳と高知平野の盟主的首長墳は
築造場所を移動する。
⑤朝倉古墳は角塚型石室を持ち、この石室は瀬戸内の勢力と関係し、近畿の勢力にも通じる。
⑥小蓮古墳から朝倉古墳への盟主権の移動は、畿内勢力の動向が影響を及ぼしている。
 
角塚型石室の標識となる角塚古墳は、観音寺市の大野原古墳群の最後の大型巨石墳で、最大の方墳とされます。

角塚古墳 平面測量図
角塚平面図

三豊地域では椀貸塚・平塚・角塚という巨石墳が続いて3つ築造され、他地域と比較しても突出した勢力がいたことは最初に見た通りです。ところが三豊地域は、前期には前方後円墳もなく、後期前半までは首長墳らしいものはありませんでした。それが後期後半になると、突然のように大型巨石墳が姿を現します。これはそれまでの勢力とは異なる「新興の勢力」の登場と、研究者は考えています。そして、次の段階には、他地域で大型古墳群は作られなくなります。その中で角塚だけが造られます。

三豊に隣接する伊予の宇摩郡(現四国中央市)でも同じような現象が見られます。

宇摩向山1号墳 角塚式石室
宇摩向山1号墳の石室

「角塚型石室」を持つ宇摩向山1号墳は1辺70m×55mの巨大方墳です。宇摩地域は古墳時代後期に東宮山古墳や経ヶ岡古墳という首長墳が築かれ始めます。これは、この地域の新参者で向山1号墳という伊予の盟主的首長墳を登場させます。ここで押さえておきたいのは、讃岐・伊予・土佐では6世紀以降に台頭し、盟主的位置を奪取した首長墳は、角塚型石室を採用しているという共通点があることです。
さらに研究者が注目するのは角塚型石室や角塚型と関係を持つ石室が紀伊にもあることです。
紀伊・有田川町の天満1号墳からは、TK209型式~TK217型式の須恵器が出てきます。
天満1号墳石室
紀伊・有田川町の天満1号墳
奥壁は大きな正方形の鏡石を置き、天丼石までの間に補助的な石材を積んでいたようです。玄門は、立柱石が羨道側にせり出し楯石があります。これまで天満1号墳は、岩橋型石室の変容型とされてきました。これに対して、研究者は「角塚型との類似点」として、角塚型の影響と捉えます。

岩内1号墳 - 古墳マップ

岩内1号墳
                   御坊市・岩内1号墳
御坊市・岩内1号墳も、奥壁や玄室平面形などの類似から天満1号墳の変化形の石室と研究者は考えています。これらの古墳は、紀ノ川流域ではありません。前者は有田川、後者は日高川流域で「紀中」になります。紀中は古墳時代を通して首長墳が築かれなかったエリアで、それまでは「権力の空白地帯」でした。古墳時代後期の紀伊では、岩橋千塚古墳群のように、首長墳は紀ノ川流域に築造されています。その岩橋千塚古墳群が6世紀末には衰退します。それに代わるように紀中に天満1号墳や岩谷1号墳が現れるのです。この2つの古墳は直径約20m。1辺19mと決して大きくはありません。そのため紀伊の盟主的首長墳とするには、無理があるかもしれません。しかし、6世紀代に隆盛を誇った岩橋千塚古墳群の勢力が衰退し、その後に出現した新興勢力であることは言えそうです。こうして見ると角塚型石室の拡散は、四国だけでなく紀伊や近畿の勢力にも及んでいたことが分かります。以上をまとめておくと次の通りです。
①他エリアで首長墳が造られなくなる時期に、新たに台頭してきた新興勢力が盟主的地位を獲得した。
②そうした新興勢力は、角塚型石室の巨石墳を採用した
③ここには首長系譜の変動が瀬戸内から紀伊にかけて連動して見られる
④土佐では、その動きが少し遅れて現れること

7世紀になると紀伊の岩橋千塚古墳群が衰退します。
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                    岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は紀氏の奥津城であったと考えられています。
瀬戸内海の紀伊氏拠点
また、紀氏はヤマト政権下では、瀬戸内航路を掌握した氏族とされます。それに代わるように新興勢力が紀伊から瀬戸内の盟主的位置を占めるようになります。この背景には、交通の大動脈である瀬戸内の交通路の掌握について、紀伊氏に替わる新興勢力が登場してきたことが推測できます。瀬戸内の交通路は、ヤマト政権成立以来の「生命線」でした。そこに新興勢力が台頭してくることは、どんなことを意味しているのでしょうか? これはヤマト政権内部の抗争と無関係ではないはずです。そういう目で見ると、角塚型石室墳を採用した首長系譜の拡大は、ヤマト政権内部の権力抗争とリンクしていたことになります。その背景を推察すれば、朝鮮半島経営に大きな力を持っていた葛城氏の没落と蘇我氏の台頭が考えられます。
 研究者が注目するのは、角壕とほぼ同じ時期に築造された奈良県桜井市市卯基古墳と次のように類似点が多いことですです。
①側壁が一枚石であること
②玄室の長さ・幅・高さが角塚とほぼ同じであること。
③平面形が長方形状で、角壕が長辺:短辺が54m:45 mで、押基が28m:22mで、相似形であること。
④墳丘に段をもたず方錐形であること
ここからは、両古墳が同じ設計図・技術者によって造られた可能性が出てきます。平塚・角塚は、九州色から畿内色へと石室内部が変化していることは、先ほど述べた通りです。その角塚の設計図が大和櫻井の古墳に合って、その設計図と技術者集団によって、角塚は造られたという説も出せそうです。そうだとすれば、大野原勢力の後にいたのは、ヤマト政権中枢部の権力者ということになります。想像は膨らみますが、今回はこのあたりでやめます。

角壕は讃岐における最後の巨石墳です。讃岐でも7世紀中葉ごろに、地方豪族の大墳墓造営は終わります。ところが角壕は、他の地域の盟主の大型古墳が造営を停止した後に方墳として造られたものです。その規模からみても終末段階の古墳の規模としても存在意味は、大きいものがあります。その存在は、さまざまな謎を持っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 古清家章(大阪大学) 首長系譜変動の諸画期と南四国の古墳 「古墳時代政権交替論の考古学的再検討」所収
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大野原の3つの古墳群の特徴を、調査報告書(2014年)は、次のように指摘します。

「6世紀後葉から7世紀前半にかけての大型横穴式石室を持った首長墓が3世代に渡って築造された点に最大の特色がある」

6世紀後半から7世紀前半にかけて「椀貸塚古墳→平塚古墳→角塚古墳」と首長墳が築造し続けた大野原勢力の力の大きさがうかがえます。この時期は、中央では蘇我氏が権力を掌握していく時期に当たります。そして、築造を停止していた前方後円墳(善通寺の王墓山古墳、菊塚古墳、母神山古墳群の瓢箪塚古墳)が再び築かれる時期にも重なります。今回は、大野原に巨大古墳が造られる以前の観音寺エリアの動きを見ていくことにします。テキストは「丹羽佑一 大野原3墳(椀貸塚・平塚・角塚)の被葬者の性格 大野原古墳群1調査報告書2014年87P」です。

 まず、その前史として観音寺エリアの弥生時代の青銅器の出土状況を押さえておきます。
①観音寺市・古川遺跡から外縁付鉦式銅鐸1口、
②三豊市山本町・辻西遺跡から中広形銅矛1口、
③観音寺市・藤の谷遺跡から細形銅剣1口、中細形銅剣2口
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏

ここからは、三豊地区からは銅鐸・銅矛・銅剣の「3種の祭器」が祭礼に用いられていたことが分かります。つまり、それぞれのグループで別々の祭儀方法だったということは、その伝来も別々の地域から手に入れたことになります。さらに云えば、観音寺北エリアには「3種の祭器」で別々の祭礼を行う3つの祭儀集団が混住していたことがうかがえます。ひとつのエリアに「3種の祭器」集団というのは、善通寺と観音寺くらいで全国的にも珍しいようです。ここでは、観音寺エリアでは弥生時代から多角的な交易関係が結ばれていたことを押さえておきます。
それでは、これらの集団の関係は「対抗的」だったのでしょうか、「三位一体的」だったのでしょうか?
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況
善通寺市の青銅器出土地

 善通寺市の瓦谷遺跡では細型銅剣5口・平形銅剣2口・中細形銅矛1口が同時に出土しています。出土地は分かりませんが大麻山からは、大型の袈裟棒文銅鐸が出ています。我拝師山遺跡では平形銅剣4口と1口が外縁付紐式銅鐸1口を中心に振り分けられたように出土しています。新旧祭器が一ヶ所に埋納されていることから、銅矛と銅剣、銅鐸と銅剣の祭儀、あるいは銅鐸・銅矛・銅剣の三位一体の祭儀が行われていたと研究者は考えています。

旧練兵場遺跡 銅鐸・銅剣と道鏡
道鏡に継承される銅剣・銅鐸
 同じように三豊平野中央部北エリア(財田川中流域)にも銅鉾、銅剣、銅鐸の3種の祭儀のスタイルがちがう3集団がいたことが分かっています。これらの集団は、対抗しながらも一つにまとまり、地域社会を形成していたと研究者は考えているようです。
 一方、南エリアでは柞田川左岸沿いに遺跡が分布しますが、青銅祭器は出ていません。彼らはこの時点では、祭器を持つことが出来ずに北エリアに従属する小集団であったようです。ここでは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であったことを押さえておきます。
古墳編年 西讃

次に、観音寺エリアの古噴時代前半の展開を見ておきましょう。
 南エリア東縁の小丘陵にある赤岡山古墳群の第3号墳は、高さ3・5m、直径24mの墳丘規模で、入念な施工です。葺石、大型の天井石の竪穴式石室で、副葬品は彷製鏡1点の出土していますが、須恵器がないので、前期円墳に研究者は分類しています。しかし、この時期には北エリアには古噴は、まだ現れません。

青塚 財田川南の丘陵に位置
財田川の南側の丘陵地帯にある青塚古墳

三豊平野で最初の前方後円墳が現れるのは、中期の青塚古墳です。

青塚古墳2
青塚古墳(観音寺市)古墳中期

一ノ谷池の西側のこんもりとした岡があり、小さな神社が鎮座しています。そこが青塚古墳の後円部になります。墳丘とその周りに、七神社社殿、地神宮石祠、石鳥居、石碑、石塔、石段、ミニ霊場などが設けられ、地域における「祭祀センター」のようです。

青塚古墳旧測量図
青塚古墳測量図(観音寺市誌)

青塚古墳測量図
                     青塚古墳測量図(調査報告書)
①墳長43m・後円部径33mで、前方部が幅13m、長さ10mの帆立貝式前方後円墳でしたが、今は前方部は失われている。
②後円部は2段築成で、径25mの上段に円筒埴輪列が巡っていた。
③幅1、2mと1mの2重の周濠があり、葺石の石材が散在
 青塚古墳は、香川県では数少ない周濠をめぐらせた前方後円墳です。前方部は削られて平らになっていますが、水田となっている周濠の形から短いものであったことがうかがえます。後円部頂上には厳島神社がまつられて、古墳の原形は失われています。縄掛突起をもつ石棺の小口部の破片が出土しており、かつて盗掘にあったようです。この石棺は讃岐産のものではなく、阿蘇溶結凝灰岩が使用されていて、わざわざ船で九州から運ばれてきたものです。ここからも、三豊平野の支配者がヤマト志向でなく、九州勢力との密接な関係がうかがえます。この古墳は、その立地や墳形や石棺から考えて、五世紀の半ばころに築造されたものと研究者は考えています。

 もうひとつ九州産の石棺が使われているのが観音寺・有明浜の円墳・丸山古墳です。

丸山古墳 石棺
                   丸山古墳の石室と石棺

初期の横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されています。丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓と研究者は考えているようです。

丸山古墳測量図

丸山古墳石室実測図2
丸山古墳の石室測量図
 三豊平野では後期になっても、九州型横穴式石室を採用するなど、九州地方との強い関係が石室様式からもうかがえます。このあたりが三豊地区の独自性で、讃岐では「異質な地域」と云われる所以かもしれません。東のヤマトよりも、燧灘の向こうにある九州勢力との関係を重視していた首長の存在がうかがえます。
母神山古墳群 三谷地区 瓢箪塚古墳

後期に入ると三豊総合公園のある母神山丘陵に前方後円墳・瓢箪塚古墳が現れます。
①盾形周濠(幅3~4m)を巡らし、
②墳長44m、後円部径26m・高さ5・7m、前方部幅2 3m・長18m・高さ5・lm
③瓢箪塚古墳は、中期の青塚古墳を継承する首長のもので、青塚 → 瓢箪塚と続く北エリア前方後円墳群の形成です。
④同時期の前方後円墳が善通寺市の王墓山古墳(墳長約46m)や菊塚

 近年の考古学は、ヤマト政権の成立を次のように考えるようになっています
①卑弥呼死後の倭国では、「前方後円墳祭儀」を通じて同盟国家を形成し、拠点をヤマトに置いた
②その同盟に参加した首長が前方後円墳を築くことを認められた。
③そして、国内抗争を修めて、朝鮮半島での鉄器獲得に向けて手が結ばれた。
④そこでは、吉備も讃岐もその同盟下に入った。
そうすると早い時期に造られた前方後円墳群は、「ヤマト連合政権同盟」に参加した首長達のモニュメントとも言えます。
A 古墳時代初期 讃岐では瀬戸内海沿いに東から、津田湾から始まり、高松・坂出・丸亀・善通寺と各平野に初期前方後円墳が姿を見せる
B 古墳墳中期  内陸部に進出し、平野を基盤にした豪族諸連合の統合が進む。そのモニュメントとして各平野最大の前方後円墳が築造される。
C 古墳後期   善通寺市域を除いて前方後円墳の築造が終わる。
つまり、前方後円墳は地域の豪族の連合を代表する首長墓として造られ始め、平野の諸連合を支配する連合首長の墓として発達し、そして終わるというのが現在の定説です。
  ところが鳥坂峠の西側の三豊平野には、前期の前方後円墳はありません。
三豊平野では前方後円墳の築造は、ワンテンポ遅れて始まり、後期になっても善通寺と同じテンポで前方後円墳を築造し続けます。そして6世紀中葉になって、やっと前方後円墳は終了します。それに続いて横穴式石室を持つ円墳の築造が始まります。
それが北エリアの母神山の三豊総合公園の中にある錐子塚古墳です。

母神)鑵子塚古墳 - 古墳マップ
鑵子塚古墳(古墳後期)
この古墳は、後期母神山古墳群の草分けとなります。前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へと古墳のスタイル変わっていますが、北エリアの豪族長の墓域は変わらなかったようです。
 ところが突然のように、墓域が南エリア(大野原)に移ります。錐子塚の次の首長墓は南エリアに現れるのです。それが大野原の椀貸塚です。それまで豪族長の墳墓のなかった南エリアに周濠の径が70mもある県下最大の横穴式石室墳が突如出現します。
それまで、大型古墳を築造できなかった後進エリアの大野原に碗貸塚が現れる背景は何なのでしょうか?
 三豊平野では母神山に錐子塚が築造されたのを先駆けとして、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られ始めます。

1大野原古墳 比較図

 その中心が大野原3墳です。研究者は、横穴式石室の形式の展開と時間的・空間的位置関係(変遷と分布)を見ていくことで、その社会的性格を明らかにしていきます。  それは、次回に紹介します
以上をまとめておきます
①青銅器の出土状況からは、弥生時代の観音寺地区の先進地域は財田川流域で、柞田川より南エリアは、「後進的」であった
②観音寺地区に前期前方後円墳は現れない。ヤマト連合国家の形成に関わっていない?
③最初の中期前方後円墳は青塚で、阿蘇溶結凝灰岩の石棺が使用されており九州色が強い、
④丸山古墳は、初期横穴式石室を持ち、阿蘇溶結凝灰岩製の刳抜式石棺(舟形石棺)が使用されている。
⑤丸山古墳は青塚古墳と、同時期の首長墓で、共に九州色が強い。
⑥古墳後期になると讃岐では善通寺地区の王墓山・菊塚以外には前方後円墳が造られなくなる
⑦ところが北エリアの母神山丘陵に青塚古墳を継承する首長糞として前方後円墳・瓢箪塚古墳が造られる。
⑧瓢箪塚古墳は、後期母神山古墳群の草分けで、以後は母神山が観音寺地区の墓域となり、有力者の墓が、前方後円墳から円墳へ、竪穴式から横穴式石室へとスタイルを変えながら作り続けられる。
⑨それが6世紀後半になると、中央の蘇我氏の台頭と呼応するかのように、大野原エリアにも横穴式石室墳群が造られるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

飯野町東二遺跡 赤山川jpg
飯野山西麓を流れる赤山川(場所はさぬき福祉専門学校の下)

  前回は飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡巡りをしました。今回は、この遺跡の条里制地割に沿って掘られた用水路(赤山川)について見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡4
              飯野・東二瓦礫遺跡周辺の10㎝等高線図

この地形図からは次のような事が読み取れます。
飯野・東二瓦礫遺跡は。飯野山西麓と土器川の間に挟まれたエリアに立地する
②土器川右岸に氾濫原と自然堤防が広がり、飯野山の西麓との間に狭い凹地が南北にある。
③そこを赤山川が南北方向に流れている。
④凹地は、遺跡周辺で最も狭くなっている。
⑤遺跡の東北方向が津之郷盆地で、赤山川から山崎池の下を通って分水用水が伸びている。
次に遺跡周辺の地質分類図(第3図)を見ておきましょう。
飯野・東二瓦礫遺跡地形分類図

ここからは、次のような事が見えて来ます。
①土器川の氾濫原と飯野山西麓の間に、条里制跡が見られる
②条里制以前の埋没河川痕跡が幾筋も網目状に見える。
③崖面以東の平地部と比較すると、この遺跡周辺は地表面高が約0,5mほど低い凹地となっている。
④この低地部分は、土器川が蛇行した痕跡で、古代末頃の「完新世段丘」により形成された「氾濫原面」である。
⑤崖面上位の平地面を「段丘1面」とする。
⑥段丘1面と氾濫原面の旧河道は不連続である

 1次調査区(昭和63年度調査、香川県埋蔵文化財調査センター1996)の調査報告書には、次のように記します。
A 段丘1面の旧河道は弥生時代~古墳時代のもので、古代には埋没過程にあったこと
B 氾濫原面の旧河道(SR01)は、14世紀頃に新しく掘られたものであること。
ここからも、段丘1面が形成されたのは古代末期であること、そして14世紀に新しい用水路が造られたことが裏付けられます。

飯野町東二遺跡赤山川
            現在の赤山川(さぬき医療専門学校の下)
飯野山の尾根が張り出して崖になっているところが、最も狭くなっているくびれ部分。その南側を真っ直ぐに流れる赤山川

この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
①延長約3、5kmの土器川の小さな支流の一つ
②氾濫原面の出水が水源で、緩やかに蛇行しながら北に流れ、遺跡の南方で大きく東に屈曲
③その後は、微高地を横断して段丘1面上を北流し、遺跡北方で再び西へ屈曲して、土器川へ合流。
地図を見れば分かるように、赤山川は自然河川としては怪しい不自然な流れをしています。
南で氾濫原面を流れるときには、何度も屈曲していますが、段丘1面上では、条里型地割の方向に沿って直線的です。これは条里制施工の時に、流路が人工的に変えられたことが考えられます。どちらにしても、赤山川は自然の川ではないようです。
 赤山川に合流する小さな支流の水源は、すべてが出水です。土器川伏流水の出水からの水を、人為的に条里型地割に沿って掘られた用水路で水田に供給されていたことになります。つまり、これらの小さなな支流は、人為的に開削された用水路だったと云うのです。それらが赤山川として、凹地の中央を北にながれていたことを押さえておきます。

IMG_6638
               飯野山西麓から土器川に流れ込む赤山川

 もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
飯野・東二瓦礫遺跡周辺土地条件図
飯野・東二瓦礫遺跡周辺の土地条件図


それでは、赤山川の流路変更は、いつだったのでしょうか?
すぐにイメージするのが、条里制施行に用水路も掘られたという「条里制施工時の用水路説」です。しかし、どうもそうではないようです。発掘調査で明らかとなった古代の溝は、深さが0、5m以下で浅いのです。段丘1面上を流れる旧土器川の支流から直接取水し、用水路として利用していたことが考えられます。一方、中世以降になると、残存深0、7m以上と、一定の深さ深度を有する溝が出てきます。これは、古代末頃の河床面の下刻と重なります。
 また、段丘面上には遺跡南部に条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)があります。これは段丘面が形成されたことで放棄・埋没した古代基幹水路であった可能性があります。つまり、古代の用水路は流路bということになります。
 このような大型幹線水路は、飯野山東麓の大束川両岸の川津川西遺跡や東坂元秋常遺跡にもあったことは、以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                飯野山東麓の古代用水路

 その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
 以上をまとめておくと、
①土器川の氾濫原と飯野山に挟まれた飯山町東二にも、古代の条里制施行が行われた。
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた

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赤山川の津之郷方面と土器川の分地点

ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
その対応のために広域的な地域的統合や開発領主と呼ばれる新規指導者層の登場を招くことになったことを押さえておきます。それが新たな中世の主役として名主や武士団たちの登場背景となります。そこに東国からの進んだ灌漑・土木技術をもった西遷御家人たちの姿が見えてくるようです。これは、飯山町の法勲寺あたりの灌漑用水整備で以前にお話ししました。
最後に1970年代の「古代讃岐のため池灌漑説」で、津之郷盆地がどのように記されていたかを見ておきましょう。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。

津之郷盆地の溜め池展開
 津の郷における稲作発展の第1次は、津の郷池(前池ともいう)の設置から始められた。
大束川の周辺では流水はそのまま横井堰から引かれ、また、ため池程の大きさでなく少し掘れば伏流水が湧出する出水などが作られた。2メートルも掘れば清水の得られる井戸も沢山作られ、かめて水を汲みあげる方式などもとられたであろう。第2次展開は、飯の山山麓にある蓮地と長太夫池であろう。柳池というのも一連のものと考えても不合理ではないが、その大きさと構造から考えて第3次展開とした方がよいかも知れない。
 ため池発展の過程を1次、2次、3次という風に抽象的な言葉で表現したのは、稲作が拡大していく順序をいうもので、現在のそれらのため池が現状の規模や大きさで古代からあったという意味ではない。したがって、そこには当然そのため池の前身らしきものがあったか、あり得なければならないという必然性を指摘するものである。そういう意味である。
 
   この説を現在の考古学者の中で支持する人はいません。しかし、津之郷盆地西部の開発のための灌漑用水路は、赤山川から引かれていたことは今見てきた通りです。それは、上の地図上で示したため池展開のルートと一致します。水源をため池とするか、土器川の氾濫面の出水からの灌漑用水とするかの違いであったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
蔵文化財発掘調査報告

参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
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説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

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飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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1 空海系図52jpg
ふたつの佐伯直氏の家系 

  以前に空海を生み出した讃岐の佐伯直氏一族には、次のふたつの流れがあることを見ました。
①父田公 真魚(空海)・真雅系            分家?
②父道長(?)実恵・道雄(空海の弟子)系        惣領家?

①の空海と弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏についてはいくつかの史料があります。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、40年前に本籍地を讃岐から京に移していたことは以前にお話ししました。こうして見ると、讃岐国における佐伯直氏の本家筋に当たるのは、実忠・道雄系であったようです。

もうひとつ例を挙げておくと、空海の父・田公が無官位であることです。
官位がなければ官職に就くことは出来ません。つまり、田公が多度郡郡長であったことはあり得なくなります。当時の多度郡の郡長は、実恵・道雄系の佐伯直氏出身者であったことが推測できます。一方、空海の弟たちは地方役人としては高い官位を持っています。父が無官位で、その子達が官位を持っていると云うことは、この世代に田公の家は急速に力をつけてきたことを示します。
今回は、実恵・道雄系のその後を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏」です。
「続日本後紀』『日本三代実録』などの正史に出てくる実恵・道雄系に属する人物は次の4人です。
佐伯宿価真持
    長人
    真継
    正雄
彼らの事績を研究者は、次のように年表化します。
836(承和3)年11月3日 讃岐国の人、散位佐伯直真継、同姓長人等の二姻、本居を改め、左京六條二坊に貫附す。
837年10月23日 左京の人、従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持等、姓佐伯宿禰を賜う。
838年3月28日  正六位上佐伯直長人に従五位下を授く
846年正月七日    正六位上佐伯宿禰真持に従五位下を授く
846年7月10日   従五位下佐伯宿禰真持を遠江介とす.
850年7月10日   讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿禰を賜い、 左京職に隷く.
853(仁寿3)年正月16日  従五位下佐伯宿禰真持を山城介とす。
860(貞観2)年2月14日  防葛野河使・散位従五位下佐伯宿禰真持を玄蕃頭とす。
863年2月10日   従五位下守玄蕃頭佐伯宿禰真持を大和介とす。
866年正月7日    外従五位下大膳大進佐伯宿禰正雄に従五位下を授く。
870年11月13日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰真継、新羅の国牒を本進す。即ち「大字少弐従五位下藤原朝臣元利麻呂は、新羅の国王と謀を通し、国家を害はむとす」と告ぐ。真継の身を禁めて、検非辻使に付せき。
870年11月26日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰貞継に防援を差し加へて、太宰府に下しき。
この年表からは、それぞれの人物について次のようなことが分かります。
①例えば、佐伯宿禰真持は以下のように、官位を上げ、役職を歴任しています
・承和3(836)年11月に、真継・長人らとともに本籍地を左京六條二坊に移したこと
・その翌年には正月に正八位上で、長人らと宿禰の姓を賜ったこと
・その後官位を上げて、遠江介、山城介、防葛野河使、玄蕃頭、大和介を歴任している。
こうしてみてくると、真持、長人、真継の3人は、同じ時期に佐伯直から宿禰に改姓し、本拠地を京都に遷しています。ここからは、この3人が兄弟などきわめて近い親族関係にあったことがうかがえます。これに比べて、正雄は13年後に、改姓・本籍地の移転が実現しています。ここからは、同じ実恵・道雄系でも、正雄は3人とは系統を異にしていたのかもしれません。
最後に、空海・真雅系と実忠・道雄系を比較しておきます。
①改姓・京都への本貫地の移動が実恵、道雄系の方が40年ほど早い
②その後の位階も、中央官人ポストも、実恵、道雄系の方が勝っている。
ここからも、実恵・道雄系が佐伯氏の本流で、空海の父田公は、その傍流に当たっていたことが裏付けられます。この事実を空海の甥たちは、どんな風に思っていたのでしょうか?
    改姓申請書の貞観三年(861)の記事の後半部には、次のように記されています。
①同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
②大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」

④善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。

意訳変換しておくと
①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄(惣領家)は、すでに本貫(本籍地)を京兆(京都)に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の功績による所が大きい。しかし、田公の一門の(我々は)改居・改姓を許されていない。実恵・道雄の二人は、空海の弟子である。 一方、田公は空海の父である。

②田公一門の大僧都真雅(空海の弟)は、今や東寺長者となり、(我々も真雅からの)加護を受けて居るが、実恵・道雄一門の扱いに比べると、及ぼないことは明らかである。

③一門の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、(伯父・空海の)往時をかえりみると、(われわれの現在の境遇に)悲歎することが少なくない。なにとぞ(惣領家の)正雄等の例に習って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

④以上の申請状の内容については、(佐伯直一族の本家に当たる)伴善男らが「家記(系譜)」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。


 空海の甥たちの思いを私流に超意訳すると、次のようになります。
 本家の真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場にすぎない。なのに空海を出した私たちの家には未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅(空海の弟)は、東寺長者となった。しかし、我々は実恵・道雄一門に比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
ここからも佐伯直氏には、ふたつの系譜があったことが裏付けられます。
そうだとすれば、善通寺周辺には、ふたつの拠点、ふたつの舘、ふたつの氏寺があっても不思議ではありません。そういう視点で見ると次のような事が見えてきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺の旧練兵場遺跡群の周辺

①仲村廃寺と善通寺が並立するように建立されたのは、ふたつの佐伯直氏がそれぞれに氏寺を建立したから
②多度郡の郡長は、惣領家の実恵・道雄の一門から出されており、空海の父・田公は郡長ではなかった。
③それぞれの拠点として、惣領家は南海道・郡衙に近い所に建てられた、田公の舘は、「方田郷」にあった。
④国の史跡に登録された有岡古墳群には、横穴式石室を持つ末期の前方後円墳が2つあります。それが大墓山古墳と菊塚古墳で、連続して築かれたことが報告書には記されています。これも、ふたつの勢力下に善通寺王国があったことをしめすものかも知れません。
 
どちらにしても、佐伯一族が早くから中央を志向していたことだけは間違いないようです。
それが、空海を排出し、その後に、実恵・道雄・真雅・智泉・真然、そして外戚の因支首(和気)氏の中から円珍・守籠など、多くの僧を輩出する背景だとしておきます。しかし、これらの高僧がその出身地である讃岐とどんな交渉をもっていたのかは、よく分かりません。例えば、空海が満濃池を修復したという話も、それに佐伯氏がどう関わったかなどはなどは、日本紀略などには何も触れていません。弘法大師伝説が拡がる近世史料には、尾ひれのついた話がいくつも現れますが・・・

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佐伯直氏祖廟(善通寺市香色山)背後は我拝師山

ここでは、次の事を押さえておきます。
①地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったこと
②佐伯直一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったこと
③空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   
武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏
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空海の本籍地については、延暦24年(805)年9月11日付けの大政官符が根本史料とされます。

空海 太政官符2
空海の太政官符        
そこには、次のように記されています。

  留学僧空海 俗名讃岐国多度部方田郷、戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚

ここからは次のようなことが分かります。
①空海の本籍地が讃岐国多度郡万田郷(かたたのごう)であること
②正六位上の佐伯直道長が戸籍の筆頭者=戸主で、道長を戸主とする戸籍の一員(戸口)であったこと
③空海の幼名が真魚であること
ここで問題となるのが本籍地の郷名・方田郷です。この郷名は、全国の郷名を集成した「和名類家抄」にないからです。
讃岐の郷名
讃岐の古代郡と郷名(和名類家抄)多度郡に方田郡は見えない

そのため従来は弘田郷については、次のように云われてきました。

「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。
                              平凡社「日本歴史地名大系」

太政官符に「方田郷」とあるのに「弘田郷」と読み替えているのは、次のような理由です。

方田郷は「和名類来抄」の弘田郷の誤りで、「方」は「弘」の異体字を省略した形=省文であり、方田郷=弘田郷である。方田郷=弘田郷なので、空海の生誕地は善通寺付近である。

こうして空海の誕生地は、弘田郷であるとされ疑われることはありませんでした。しかし、方田郷は弘田郷の誤りではなく、方出郷という郷が実在したことを示す木簡が平成になって発見されています。それを見ていくことにします。
讃岐古代郡郷地図 弘田郷
讃岐古代の郷分布図

善通寺寺領 良田・弘田・生野郷
中世の弘田郷

弘田町
現在の善通寺市弘田町

.1つは、平成14年に明日香村の石神遺跡の7世紀後半の木簡群のなかから発見されたもので、次のように墨書されています。

方田郷

「多土評難田」        → 多度郡かたた
裏  「海マ刀良佐匹マ足奈」    → 「海部刀良」と「佐伯部足奈」
「多土評」は多度郡の古い表記で、「難」は『万東集』で「かた」と読んでいるので「難田」は「かたた」と読めます。そうすると表は「讃岐国多度部方田郷」ということになります。裏の「マ」は「部」の略字で、「佐匹」は「佐伯」でしょう。つまり、ここには「海部刀良」と「佐伯部足奈」二人の人名が記されていることになります。そして、表の地名は二人の出身地になります。

もう一つは、平成15年度に発掘された木簡で、これも七世紀後半のものです。

表  □岐国多度評

「評」は「郡」の古い表記なので、これも「讃岐国多度郡方田郷」と記されていたようです。この二つの木簡からは、方田郷が実在したことが裏付けられます。今までの「弘田郷=方田郷」説は、大きく揺らぎます。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺の遺跡

そうすると方田郷は、いったいどこにあったのでしょうか。
ヒントになるのは、普通寺伽藍の西北の地は、現在でも「かたた」と呼ばれていることです。
方田郷2

善通寺市史第1巻には「方田横井」碑が載せられていて、「方田」という地名が存在したことを指名しています。そうだとすると、律令時代の佐伯一族は、善通寺伽藍の周辺に生活していたことになります。
 古墳時代の前方後円墳の大墓山や菊塚古墳の首長達は、旧練兵場遺跡に拠点を持ち、7世紀後半なるとに最初の氏寺として仲村廃寺(伝導寺)を建立したとされます。それが律令時代になって、南海道が善通寺を貫き、条里制が整えられると、それに合わせた方向で新しい氏寺の善通寺を建立します。その時に、住居も旧練兵場遺跡群から善通寺西方の「方田郷」に移したというシナリオになります。

古代善通寺地図
         佐伯氏の氏寺 善通寺と仲村廃寺(黄色が旧練兵場遺跡群)

 しかし、これには反論が出てくるはずです。なぜなら南海道は現在の市役所と四国学院図書館を東西に結ぶ位置に東西に真っ直ぐ伸びて建設されています。そして、多度郡の郡衙跡とされるのは生野町南遺跡(旧善通寺西高校グランド)です。佐伯氏は多度郡郡長であったとされます。南海道や郡衙・条里制工事は佐伯氏の手で進められて行ったはずです。郡長は、官道に面して郡長や自分の舘・氏寺を建てます。そういう眼からするとを郡衙や南海道と少し離れているような気がします。

生野本町遺跡 
生野本町遺跡 多度郡衙跡の候補地


 ちなみに現在の誕生院は、その名の通り空海の誕生地とされ、伝説ではここで空海は生まれたとされます。この問題を解くヒントは、空海が生まれた頃の善通寺付近には、次のふたつの佐伯直氏が住んでいたことです。
1空海系図2

①田公 真魚(空海)・真雅系
②空海の弟子・実恵・道雄系
①の空海とその弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、空海の甥にあたる鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。歴史の中に消えていきます。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏については、その後の正史の中にも登場します。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、本籍地を讃岐から京に移していたことが分かります。ここからは、佐伯直氏の本家筋に当たるのは、記録の残り方からも実忠・道雄系であったと研究者は考えています。どちらにしても空海の時代には、佐伯直氏には、2つの流れがあったことになります。そうすれば、それぞれが善通寺周辺に拠点を持っていたとしても問題はありません。次回は、ふたつの佐伯氏を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏

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智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵)

円珍を輩出した因支首氏は、貞観8年(866)に和気公へ改姓することは以前にお話ししました。これまでの研究では、地方氏族の改姓申請の際には、対象となる氏族の系評(本系帳など)が参照されていることが指摘されています。空海の佐伯直氏も改姓申請の際には、同じ祖先で一族とされた物部氏の長の「同族証明書」を発行してもらっています。同じ事が円珍の因支首氏にも求められています。そして、改姓のために作られたのが「円珍系図」でした。
 「日本書紀」などに始祖伝承が載録されていない地方氏族の場合は、改姓の訴えに虚偽が含まれていないかどうかを本宗氏や郡司が調査します。そのため申請者側が自氏の系譜を提供しています。ここからも因支首氏には改姓のために『円珍俗姓系図』を作成する必要があったと言えます。
 その詳しい経緯が、以前に見た「日本三代実録』貞観八年(866)十月二十七日戊成条と、貞観9年「讃岐国司解」に記されています。
①「日本三代実録』には、次のように記します。
「讃岐国那珂郡の人、因支首秋主・同姓道麿・宅主、多度郡の人、因支首純雄・同姓国益・巨足。男縄・文武・陶通等九人、姓を和気公と賜ふ。其の先、武国凝別皇子の市裔なり」

ここからは、讃岐国那珂郡の因支首秋主・道麿・宅生、多度郡の純雄・国益・巨足・男縄・文武・陶道ら計九人が、和気公姓を与えられたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 那珂郡の因支首氏(和気氏)一族
一方、貞観9年「讃岐国司解」には、讃岐国那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三家と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三家について、それぞれ改姓に預かった計43人(那珂郡15人、多度郡28人)が列記されています。

円珍系図2
多度郡の因支首氏
因支首氏の系図作成の動きを、研究者は次の3つの時期に分けます。
まず第一期は延暦期です。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出を命じる大政官符(大政官の命令)が出された。
②大政官符の内容は次の通りで、『日本後紀』延暦十八年十二月戊戊条に「若し元め貴族の別に出ずる者は、宜しく宗中の長者の署を取りて中すべし。(略)凡庸の徒は、惣集して巻と為せ。冠蓋の族は、別に軸を成すを聴せ」と見えている.
③これを受けた因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を一巻にまとめて、延暦十九年七月十日に提出した。
④その際に、因支首氏は「貴族の別」(武国凝別皇子より出た氏族)であることを示すため、本宗に当たる伊予御村別君氏から「宗中の長者の署」(伊予御村別君氏の氏上の署名)を受け、その支流であることを証明してもらう必要があった。
このように、本宗に当たる氏族が同祖関係を主張する支流の系譜を把握・管理することは、古くから行われていました。また「冠蓋の族」(有力氏族)は、その氏族だけで本系帳を提出することが認めらていました。しかし、因支首氏は「凡庸の徒」に分類されていたので、伊予御村別君氏とともに一巻にまとめて本系帳を提出したようです。

次に、第2期の大同期です。大同2年(807)2月22日、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出されます。これは『新投姓氏録』の編纂作業に先だって、氏族の改姓にともなう混乱を避けるための措置だったようです。そこで、因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出します。しかし、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没してしまいます。
第3期が約60年後の貞観期です。
貞観七年(865)に、改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出します。これが那珂・多度郡司と讃岐国司の審査を経て、改姓が認められます。こうして、因支首氏は60年近くの歳月を経て、悲願を達成したのです。これを受けて、次のような手順が踏まれます。
①貞観八年十月二十七日に改姓を許呵する大政官符が民部省に下されます。
②11月4日には民部省符が讃岐国に下されます。
③讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載し、貞観九年二月十六日付で「讃岐国司解」が作成された。

和気氏系図 円珍 稲木氏

このことについて『日本三代実録』と貞観九年「讃岐国司解」と、『日本後紀』延暦十八年(七九九)十二月戊戊条と、『円珍俗姓系図』の記述との間には、次のような関連する内容があることを研究者は指摘します。
①『日本三代実録』には「共の先、武国凝別皇子の苗裔なり」とあり、因支首氏を武国凝別皇子の子孫であるとする
②「讃岐国司解」にも「忍尾の五世孫、少初位上身の苗裔、此部に在り」とあり、身を忍尾別君の子孫とすること。これらは『円珍俗姓系図』の系譜と合致する。
③『円珍俗姓系図』は因支首氏の系譜に加えて、伊予御村別君氏の系譜も並べて記載していること。
④この系図が因支首氏の系譜を後世に伝えるため、あるいは円珍の出自を明らかにするために作成されたものであれば、因支首氏の系譜だけを単独で記せば事は足りる。
⑤しかし、「日本後紀』や「讃岐国司解」には「貴族の別」は「宗中の長者の署」を受けて提出するようにとの指示があった。そこで「凡庸の徒」である因支首氏は、伊予御村別君氏とともに一巻として、本系帳を提出した。
第3に「讃岐国司解」には、次のように記します。
「別公の本姓、亦、忌請に渉る。(略)望み請ふらくは(略)玩祖の封ぜらる所の郡名に拠りて、和気公の姓粍賜り、将に栄を後代に胎さんことを」

意訳変換しておくと
「別公の本姓、の「別」という文字は怖れ多い。(中略)そのためお願いしたいのは、先祖の封ぜらた郡(伊予御村別君氏の本拠である伊予国和気郡:松山市北部)の名前に因んで、「和気公」の氏姓を賜りたい。

佐伯有清氏はこれを、「別(わけ)」より「和気」の方が「とおりが良かった」ため、後者の表記を授かることを目的とした一種の「こじつけ」であるとします。いずれにしろ改姓の申請では「別」を忌避したことになっています。
それに対して『円珍系図』冒頭では、景行天皇の和風詮号を、大足彦思代別尊と「思代別尊」の間で区切るのが適切なのに、あえて「別」の文字の前で改行しています。これは「別」字に敬意を示すためで、文中に天皇の称号などを書く際、敬意を表すためにその文字から行を改め、前の行と同じ高さから書き出しているようです。これを平手といいます。つまり、大同期の改姓申請における「別公の本姓、亦、忌諄に渉る」という主張が、『円珍系図』では、形を変えて平出として表現されていることになります。
さらに『円珍俗姓系図』には、延暦・大同期に書き加えられたと思われる部分があるようです。
 8世紀前半にはB部分の原資料が伝えられており、そこに後からA部分が付加されたます。そこで研究者が注目するのがA部分の神櫛皇子の尻付に見える讃岐公氏です。この讃岐公氏は、かつて紗抜大押直・凡直を称しましたが、延暦十年(七九一)に讃岐公、承和3年(836に讃岐朝)、貞観6年(864)に和気朝臣へ改姓しています。(『日本三代実録」貞観六年八月―七日辛未条ほか)。ここからは「讃岐公」という氏姓表記が使用されたのは、延暦10年から承和3年の間に限られます。そうすると、A部分の架上もこの間に行われたことになります。その時期は、延暦・大同年間の改姓申請期と重なります。
 また、「円珍系図』の末尾付近には、子がいるにもかかわらず、人名の下に「一之」が付されていない人物が多くいます。例えば宅成の下には「之」はありませんが、子の円珍と福雄が記されいます。秋吉と秋継の下にも「之」はありませんが、子の秋主と継雄が記されています。これは、『円珍俗姓系図』がある時点までは、宅成、秋吉・秋継の所までで終了していたこと、円珍・福雄、秋主・継雄などは、後からが書き加えられたことがうかがえます。

円珍系図3
円珍系図

 四人の中で生年が分かるのは円珍だけです。
円珍は弘仁5年(814)の生まれなので、この書き継ぎはそれ以降のことです。それに対して、宅成は道麻呂の子で、秋古・秋継は宅成と同世代に当たります。道麻呂が那珂部の代表者として改姓申請を行った大同年間の頃には、宅成・秋古・秋継らは生まれていたはずです。 円珍俗姓系図は、大同の頃の人物までを記して、いったんは終了していたことがここからも裏付けられます。とするならば『円珍系図』の原資料の結合は、因支首氏と伊予御村別君氏が同祖関係にあることを示す必要が生じた延暦・大同期に行われた可能性が高いことになります。以上を整理しておくと、次のようになります。
①それまでに成立していたB部分の原資料(Bl系統の水別命~足国乃別君・□尼牟□乃別君
②B2系統の阿加佐乃別命~真浄別君まで)
③C部分の原資料(忍尾別君~身)を基礎として、
④両者の間に二行書き箇所が挿入され、B部分にA部分が架上された。
⑤一方、C部分の身以降については、延暦・大同の申請期に生まれていた人物までを書き継ぎ、そこまでで『円珍俗姓系図』(の原型)が成立した。 
 これらの作業によって、因支首氏は武国凝別皇子に出自を持ち、伊予御村別君氏と同祖関係にあることが、系譜の上で明確に示すことができるようになりました。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

次にC部分の冒頭に置かれた忍尾別君の尻付と、その子である□思親幌剛醐[]波・与呂豆の左傍の注記について見ておきましょう。
ここには、忍尾別若が伊予国から讃岐国に到来して因支首氏の女と婚姻し、その間に生まれた□思波・与呂豆は母姓により因支首氏を名乗るようになったと記します。この点については、従来は次の2つの説がありました。
①伊予国で「別(わけ)」を称号として勢力を持っていた氏族が因支首氏の祖先であるとする佐伯有清説
②因支首氏は伊予国和気郡より移住してきたとする松原説
しかし、『円珍系図』の注記を改めてよく読んでみると、忍尾別君が伊予国から讃岐国へ移住して因支首氏の女を妥ったとあります。すると、移住前から因支首氏は讃岐国にいたことがうかがえます。つまり因支首氏という氏族は、伊予国から移動してきたわけではないことになります。
 また、母姓を負った氏族が父姓への改姓を申請する場合は、実際は父姓の氏族と血縁関係を持たずに、系図を「接ぎ木」するための「方便」であることが多いことは以前にお話ししました。このため因支首氏は伊予御村別若氏ともともとは無関係で、後から同祖関係を主張するようになったとする説もあります。
 もちろん、今まで交渉のなかった氏族同士が、にわかに同祖意識を形成することはできません。そこで研究者は、伊予国と讃岐国をそれぞれ舞台とする『日本霊異記』の説話がよく似ていることに注目し、説話のモチーフが伊予国の和気公氏から讃岐国の因支首氏ヘ伝えられた可能性を指摘します。そうだとすれば、両氏族の交流が系譜の結合以前まで遡ることになります。ふたつの氏族は古い時期から、海上交通などを通じて交流関係を持っていたことがうかがえます。
 それでは、どの時期まで遡れるのでしょうか?
 円珍俗姓系図の原形の作成過程からして、延暦・大同年間までで、大化期まで遡れるとは研究者は考えていません。忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承も、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、この時期に因支首氏が創出したものとします。忍尾別君が「讃岐国司解」では「忍尾」と記されています。「別君」が付されていないことも、この人物が本来は伊予御村「別君」と関係なく、むしろ因支首氏の祖先として伝えられていたことを物語っていると結論づけます。
  以上を整理しておきます。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出が命じられた。
②因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を提出した。
③大同2年(807)、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出された。
④そこで因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出した。が、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没した。
⑤そこで貞観7年(865)に改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出した。
⑥これが認められ貞観8年改姓を許呵する大政官符が民部省に下された。
⑦讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載た「讃岐国司解」が作成された
 以上のような経緯で「円珍系図」は作成されます。その際に、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承が採用され、伊予御村別君氏の系図に因支首氏の系図が「接ぎ木」された。また、因支首氏の実質の始祖である身も7世紀初めの圧この時期に因支首氏が創出したものとします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
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   円珍系図 伊予和気氏の系図整理板 
 
以前に円珍系図について、次のようにまとめておきました。
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成したものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そのポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。
⑦ つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえるようです。

伝来系図の2重構造性

  さらに伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えていました。この説は1980年代に出された説です。それでは現在の研究者達はどう考えているのかを見ていくことにします。テキストは、鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」です。

古代氏族の系図を読み解く (541) (歴史文化ライブラリー 541)

 最初に円珍の因支首氏の系譜が、どのように成立したのかを見ておきましょう。
円珍系図  忍尾と身

 その場合のキーパーソンは「身」です。この人物は「子小乙上身。(難破長柄朝廷、主帳に任ず。〉」とあります。ここからは孝徳天皇の時代(645~54)に、主帳(郡司の第四等官)に任命されたとされます。「小乙上」とは、大化五年(649)に制定された冠位十九階の第十七位か、天智3年(664)に制定された冠位26階の第22位に当たるようです。Bの部分には冠位を持つ人物が多いのですが、C部分では身が唯一です。この人物は略系図の冒頭にも置かれている上に、貞観9年(867)「讃岐国司解」でも触れられています。因支首氏の中で重要な意味を持つ人物であったことが分かります。
しかし、身については、次のような不審点が指摘されています。
①身が孝徳朝の人物であれば、その5世代後の円珍(814~91)との間は約200年で、1代約40年前後になる。一般的には1世代約20年とされるので、間隔が開きすぎている。
②他の人物は「評造(ひょうぞう)小山上宮手古別(みやけこわけ)君」や「郡大領追正大下足国乃別君」のように、名前の上に官職がある。身の場合も「主帳明小乙上身」となるべきなのに「主帳」は尻付されている
③身は「讃岐国司解」に「少初位上身」と記されている。孝徳朝に小乙上であった人物が、大宝元年(701)以降に少初位上に任じられことになる。これは長寿過ぎるし、しかも従八位上相当から少初位上へ四階も降格したことになってしまう。
以上から、身は実際には孝徳朝の人物ではなかったとする見方も出されています。
 従来は身の生存年代に焦点が集まって、身の注記をどのように理解するのかには目配りが弱かったようです。そこで研究者は身について、改めて史料を確認します。身に関する情報は、次の2つです。
①「讃岐国司解」の「少身の官職初位上」
②「円珍俗姓系図」の「小乙上」「難破長柄朝廷」「主帳に任ず」
このうち最も信頼性が高いのは、公的な文書として作成された「讃岐国司解」の「少初位上」です。因支首氏は讃岐国多度郡に多く居住していました。また多度郡良田郷内には「因支」の転訛とされる「稲毛」という地名が残っています。ここからは、身が任命されたのは多度郡の主帳であったとされます。「讃岐国司解」には、因支首氏は多度郡と那珂都のどちらにも分布していますが、より多くの居住が確認できるのは多度郡です。ここでは多度郡衙本拠としておきます。
 多度郡には、因支首氏のほかに、佐伯直氏や伴良田連氏が勢力を持っていました。貞観3年(861)には、空海の一族とされる多度郡の佐伯直豊雄ら10人に佐伯宿禰が賜姓されています。豊雄らの系統の別祖(傍流の社)に当たる倭一胡連公(やまとのえびすのむらじきみ)は、允恭朝に讃岐国造に任命されたと伝えられます。また、讃岐国多度郡弘田郷(善通寺市弘田町)の戸主である佐伯直道長(空海の戸主)は、正六位上の位階を有しています。ここからは、佐伯直氏が多度郡の郡領氏族(那司を輩出した氏族)とされています。
 また伴良田連氏の人物も、伴良田連宗定・定信などが多度郡大領に任じられています。(『類衆符宣抄』貞元二年(977)6月25日「讃岐国司解」)。それに対して、因支首氏で位階を持つのは身だけです。ここからは、多度郡内では佐伯直氏や伴良田連氏などが有力で、因文首氏は劣勢で、主帳を輩出するのが精一杯だったと研究者は考えています。
次に、「小乙上」「難破長柄朝廷」についてです。
円珍の五世代前の身が孝徳朝に生存していても不自然ではなく、孝徳朝の人物が大宝以降まで存命した可能性もあります。しかし、孝徳朝に小乙上(従八位上相当)であった人物が、のちに四階も降格されることは考えられません。したがって、「小乙上」には何らかの錯誤があると研究者は推測します。そこで、注目するのがB部分の足国乃別君に付された「追正大下」という冠位です。これを「追正八下」の誤記で、「迫正八位下」の意味であり、「位」が省略されたものとします。そうだとすれば、身ももともとは「少初位上」の「位」を省略して「少初上」とあったものが、書写の際に「小乙上」に誤って書き写された、読み替えられたと考えられます。「小乙上」を「少初(位)上」の誤記と見るのです。身が「少初位上」で、多度郡の「主帳」であったとすると、「難破長柄朝廷」だけがこれらの要素と合わないことになります。この文言には何らかの潤色偽作が加えられていることが考えられます。
大化2年(646)の大化改新詔には、次のように記します。
「其の郡司には、並びに国造の性 識清廉くして、時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして、書算に巧なる者を主政・主帳とせよ」

 ここからは、主帳が孝徳朝から置かれていたことが分かります。。
また、律令制下には「譜第」(孝徳朝以来、郡領に代々任命されてきた実績があること)が重視されています。そのために多度郡の譜第郡司氏族ではない因支首氏が、佐伯直・伴良田連両氏に対抗するために、身が孝徳朝からすでに主帳であったように記し、自らの系図を遡らせようとしたと研究者は推測します。

以上を整理しておくと次のようになります。
①身は7世紀半ばの大化年間の人物ではなく、8世紀前半に少初位上の位階を持った讃岐国多度郡の主帳に任じられた人物であること
②それゆえに因支首氏にとっては顕彰すべき祖先であったこと
また 研究者は身の名前の下に「之」が付されていないことに注目します。
身のように子がいるにもかかわらず、人名の下に「之」が付されていない例はありません。とするならば、『円珍俗姓系図』のもとになった原資料が身の代で終わっていて、それ以降の世代は後から書き加えられたことが考えられます。それは、次の点からも裏付けられます。
①B部分は倭子原資料の成立時期 
②別君・加祢占乃別君のところでさらに二つの系統に分岐するが、前者の末尾に置かれた足国乃別君には「郡大領」の官職が付されていること。
③大領は、大宝元年(701)の大宝律令で定められた郡司の第一等官であること。 
④一方、後者の末尾から二番目の川内乃別君には「大山上」の冠位があること。大山上は、大化五年から天武14年(685)まで使用された冠位です。ここからは、川内乃別君の子の□尼牟□乃別君(後者の系統の末尾)は、およそ8世紀前半の人物ということになります。
つまり、B部分(Bl系統)の末尾に位置する足国乃別君・□尼牟□乃別君は、身とほぼ同時代の人物ということです。よって、B部分(Bl系統)がこれらの人物の世代で終わっているのと同様に、当初はC部分も身の上代までで終わっていたいたとします。

この時期には、諸氏族の氏上(うじのかみ:氏族の統率者)や系譜を記録した書物が作成されます。
そして「墓記」(氏族の祖先が王権に代々奉仕してきたことを記した書物)の提出や、氏上の選定が命じられるなど、氏族に関するさまざまな政策が実施されます。これは中央氏族を対象としていましたが、その影響が地方氏族も及んでいたようです。7世紀後半から8世紀前半にかけて、諸氏族の系譜が整備される中で、『円珍俗姓系図』の原資料も成立していたことが推定されます。すなわち、
①B部分はBl系統の水別命から足国乃別君・□尼牟□乃別君までと
②B2系統の阿加佐乃別命から真浄別飛まで、
③C部分は忍尾別君から身まで
が伝えられており、それらが『円珍俗姓系図』の作成時に基礎として用いられたというのです。
これまで、B部分が足国乃別君・□尼牟□乃別君の世代で終わっている理由はよく分かりませんでした。しかし、C部分も当初は同じ世代で終わっていたとすれば、その理由も自ずから見えて来ます。
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
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秦王国1
豊前の秦王国
秦王国には飛鳥よりも早く仏教が伝わっていたと考える研究者がいます。まず、五来重氏は次のように考えています。
①『彦山縁起』には、英彦山の開山を仏教公伝(538)より早い、継体天皇二十五年甲寅(534)に、北魏の僧善正が開山したと記すこと。
②『彦山縁起』が典拠とする『熊野権現御垂逃縁起』(『熊野縁起』)には、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降って、その後に彦山から伊予の石鉄山、 ついで淡路の遊鶴羽岳、さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山ヘ移った
③彦山への飛来は、『彦山縁起』のいう「継体天皇二十五年甲寅」こと。
以上を根拠にして、仏教公伝以前に彦山に仏教が入ったとする伝承について、次のように記します。
「私は修験道史の立場からは、欽明天皇七年戊午(588年)の仏教公伝よりはやく、民間ベースの仏教伝来があったものと推定せざるを得ない」

「民間ベースの仏教伝来」の例として、『日本霊異記』(上巻28話)の、役小角が新羅に渡ったとあること、「彦山縁起』に、役小角が唐とも往来したとある例がある」
「これは無名の修行者の往来があったことを、役小角の名で語ったもの」で、「彦山は半島にちかい立地条件にめぐまれて、朝鮮へはたやすく往来できた」
「無名の修行者」が、仏教公伝より早く、仏教を彦山にもちこんむことも可能であった。

 朝鮮への仏教渡来は、「道人」が伝えている。そのため列島への豊前への仏教伝来も「道人」といわれる日本の優婆塞・禅師・聖などの民間宗教者によって行われ、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して・占星術・易占・託宣をおこなったものとおもわれ、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った」
と推測します。
中野幡能は、仏教伝来を彦山に限定せず、豊国全般に公伝以前に仏教は入っていたとして、次のように記します。
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」として、「少なくとも5~6世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と原始神道と仏教が融合している事実がみられる」

 用明天皇二年(587)に、豊国法師が参内していることから、6世紀末には「九州最古の寺院」が、「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていて、」「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して6世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に入ったものではあるまいか」

このように、五来・中野の両氏は、仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったと見ています。
それではどうして、飛鳥よりも先に豊前に仏教が入ったのでしょうか。
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」があったからと考えています。「秦氏と新羅人の関係」とは、具体的には秦王国の存在です。豊前に秦王国があったこと、つまり、倭国の中にあった朝鮮人の国の存在が、仏教公伝に先がけて仏教がいち早く人った理由というのです。
仏教には、「伽藍仏教」と「私宅仏教」があります。
鎮護国家にかかわる公的な仏教は「伽藍仏教」で、蘇我馬子が受け入れようとしたのは「伽藍仏教」です。馬子は「伽藍仏教」の僧や尼を必要としたので、法師寺を建て、受戒した僧・尼を養成しようとしています。こうした馬子の仏教観に対し、豊国の法師の仏教は、「私宅仏教(草堂仏教)」で、巫女の伝統を受けつぐ「道人」的法師であっようです。だから、病気治療などに活躍する、現世利益的な個人的要素が強かったと研究者は考えています。
田村同澄は、次のように記します。
「宮廷に豊国法師が迎え入れられたのは、九州の豊前地方には、後に医術によって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を張っており、したがって医術の名声が速く大和にまで及んでいた」
 
 法蓮は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当で、英彦山や国東六郷満山で修行したと伝えられる修験者的な人物です。
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
史料A 施僧法蓮豊前國野冊町。褒霊術也
(僧の法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたるなり)
史料B 養老五年(七二一)六月三日条、
詔曰。沙門法蓮、心住禅枝、行居法梁。尤精霊術、済治民苦。善哉若人、何不二褒賞。其僧三等以上親、賜宇佐君姓
意訳変換しておくと
詔して曰く。「沙門法蓮は、心は禅枝に住し、行は法梁に居り。尤も医術に精しく、民の苦しみを済ひ治む。善き哉。若き人、何ぞ褒賞せざらむ。その僧の三等以上の親に、宇佐君の姓を賜ふ」)

史料Aからは医学的な功績として豊前国の野40町を賜ったこと、史料Bからは、その親族に宇佐君姓が与えられことが記されています。このような記述からは仏教公伝・仏教私伝以前に北部九州へ仏教が伝来していた可能性を裏付けます。法蓮は九州の山中に修行し、独自に得度して僧となり、山中に岩屋を構え、独特の巫術で医療をおこなっていました。また『八幡宇佐宮御託宣集』『彦山流記』『豊鐘善鳴録』などでは、法蓮は山岳修験の霊場彦山と宇佐八幡神の仲介をした人物とされています。そして法蓮を彦山を中心に活動した山岳仏教の祖とする多くの伝承が生れます。一方、法蓮は用明天皇の病気治療のため入内した豊国法師、あるいは雄略天皇不予の際に入内したとされる豊国奇巫の系譜を引く人物であったと次のように考える研究者もいます。
 豊国法師の伝統を受けついだ代表的な僧が、法蓮であったから、彼の医術は特に「監」と書かれたのだが、法蓮は、薬をまったく用いなかったのではない。薬だけでなく巫術も用いたから、単なる「医者」でなく「巫医」なのだ。法蓮が用いた薬に、香春岳の竜骨(石灰岩)がある。「竜骨」を薬として用いる術は、豊国奇巫・豊国法師がおこない、その秘術を法蓮が受けついでいた。このような豊国の僧(法師)の実態は、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教が、巫術的なものであったことを示しており、豊国奇巫ー豊国法師―僧法蓮には、一貫した結びつきがある。

 『日本書紀』(敏達天皇12年(584)には、百済から持ってきた仏像二体のための「修行者」を、「鞍部村主司馬達等」らに探させ、播磨国にいた「僧還俗」の「高句麗の恵便」をみつけた、とあります。ここからも仏教公伝以前に、渡来人が「私宅仏教」の本尊を飛鳥で礼拝していた可能性が見えて来ます。司馬達等は、法師を探し出す役を馬子から命じられ、恵便の一番弟子として娘の島(善信尼)を入門させています。ここからは司馬達等は、公伝以前に入った「私宅仏教」の信仰者であったことがうかがえます。
 司馬達等(止)を、『扶桑略記』は「大唐漢人」、『元亨釈書』は「南梁人」と記します。しかし、日本古典文学大系『日本書紀・下』の補注には、「一般に漢人は必ずしも中国からの渡来者ではなく、大部分は百済から来たものであるから」「大唐」、「南梁」の人とするのは「当らない」とあります。「司馬」などの二字姓は、百済・高句麗にもあるので、扶余系の渡来人と研究者は考えています。
 このように大和の飛鳥の地でも、私宅に仏像を安置して礼拝していた人たちはいて、彼らは百済系渡来人でした。それに対して、秦上国の「私宅仏教」は、新羅・加羅系渡来人によるものです。
新羅の「伽藍仏教」は、六世紀前半の法興上のとき以後になるので、それより百年ほど前の訥祗王の時代に、すでに新羅には「私宅仏教」は入っていたことになります。この「私宅仏教」は、私宅に窟室を作り、窟室に仏像・経典などを置いて、礼拝します。窟室、つまり洞窟は、新羅に最初に仏教を伝えた僧墨胡子を「安置」したというので、祖師の洞窟修行の姿が、礼拝の対象だったことがうかがえます。
仏教公伝以前に仏教が入ったという彦山の『彦山流記』(建暦三年〈1212〉成立)は、次のように記します。
震国の「王子晋」は、舟で豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神の香春岳に住もうとしたが、「狭小」だったので、香春より広い彦山の「磐窟」の上に天降り、四十九箇の洞窟に、「御正然」を分けた
『彦山流記』『彦山縁起』も、法蓮も玉屋谷の般若窟に住み、その他の修行者も、彦山四十九窟の洞窟を寺とした。
このは伝承に出てくる王子晋・法蓮は、窟室の墨胡子と重なり、新羅の「私宅仏教」の窟室信仰に結びついていたことが見えて来ます。仏教公伝以前に入った秦王国の仏教は、彦山の仏教や法蓮の信仰につながっていることを、『彦山流記』の伝承は語ってくれます。

玉屋神社 in 英彦山(9) - 耳納の神々
彦山四十九窟 牛窟

彦山四十九窟は、豊前・豊後。筑前にまたがる彦山を中心に分布しています。
これについて、中野幡能は、次のように記します。
「個々の宮寺を窟又は岩屋という」修験の霊山は、「他には豊後国の六郷山しかなく」、筑前宝満山にも「四十八嘔」があるが、この「岨」は、吉野の大峯の「宿」と同じ意で、彦山や六郷山の宮寺を「窟」というのとちがう。
そして、新羅の慶州の「南山の五十五ヶ寺の寺院が、一ヵ寺ずつ、寺号を名乗っている」のは、六郷山の「窟又は岩屋」が「一々山号寺号をもっている」のと「似て」おり、「六郷山の原型」は、「新羅の慶州南山」とみられる。「その意味では彦山四十九窟も、慶州南山のあり方と全く同じ方式とみてよい」
求菩提山 (くぼてさん):782m - 山と溪谷オンライン
求菩提山(くぼてんやま)

宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多いところです。
主要な霊場が窟なのも新羅の南山の岩窟の仏教信仰と共通しています。彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついていますが、六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しています。ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっていることになります。しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついています。新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の暴胡子や阿道が新羅に来て、毛礼の家で拡めたされます。
 『後漢書』東夷列伝の高句麗の条には、次のように記します。
其国東有大穴、号隧神。亦以十月迎而祭之

『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、
其国東有大穴、名隧穴。十月国中大会迎隧神。還於国東上祭之、置木隧於神坐。

『宋史』列伝の高麗の条には、
国東有穴 号歳神。常以十月望甲迎祭。

大穴を、「終神・隧穴・歳神」などと呼んでいたようです。これについて上橋寛は、『魏志』東夷伝高句麗の条の「隧穴」に、「置木隧於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、木隧を豊饒を祈る木枠のようなものと解釈します。

アメノヒボコ
新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)
そして新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津(みけつ)神で神体が日矛であることから、御食津神を歳神、神体の日矛を木隧という説を出しています。
洞窟に「木隧を置いて神坐す」というのは、家の中に「窟室」を作り、仏像を置くのことと重なります。終神・歳神の本隧が、仏像に姿を変えたのです。高句麗の民間信仰に仏教が習合したと研究者は考えています。これが高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったことになります。
ここでは天之日矛(日槍)を、木隧と見立てていますが、天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にありました。
穴師山は弓月嶽とも云います。そうだとすれば、秦氏の始祖の弓月君と穴師兵主神社があった弓月嶽に関連性があったことになります。弓月嶽・弓月君・秦氏の関係は、朝鮮の洞窟での神祭りが、秦氏の穴師兵主神社でもおこなわれ、一方、仏教化して、新羅の窟室信仰が、彦山・六郷山の洞窟信仰になったと研究者は推測します。
 穴師の「穴」も、「大穴」での祭と無関係ではありません。
穴師兵主神社の祭神の天之日矛は、『日本書紀』の垂仁天皇条には、「近江国の吾名邑に入りて暫く住む」とあり、「穴」地名と関わりがあるようです。近江の「吾名邑」は、『和名抄』の「坂田郡阿那郷」に比定する説もあります。阿那郷は宇佐八幡宮が官社化した後には、祭神にした息長帯比売(神功皇后)の息長氏の本拠地になります。息長帯比売は『古事記』には、祖を天之日矛としていて、新羅王子に系譜を結びつけています。この天之日矛や息長帯比売にかかわる地名に、「穴師」「吾名邑」「阿那郷」があることから、穴・窟の信仰は、泰王国の信仰と深くかかわっていると研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
① 公伝以前の仏教と高句麗での穴の中で神を祀る儀礼が、習合する
② 私宅に窟室を作り仏像を安置して、木隧の代りに拝むようになった。
③ 仏教と朝鮮の民間信仰が習合した形で、新羅の仏教は民間に浸透した。
『三国史記』『三国遺事』には、次のような事が記されています。
新羅に人った仏教は、王都の慶州にもひろまり、法興王は仏教を受け入れようとした。ところがこれに貴族の大半が反対した。

ここからは、最初に新羅に入った仏教は、一般庶民サイドの上俗信仰と習合した仏教であったことが分かります。わが国に公伝した仏教も、飛鳥の場合には「私宅仏教」の信者であった百済系渡来人が受容します。公伝以前から仏教信者であった鞍部は、雄略朝に渡来し、高市郡の桃原・真神原に住んでいました。その時、鞍部と共に衣縫部も来ていますが、『日本書紀』は、崇峻天皇元年(588)に、次のように記します。
「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊して、始めて法興寺を造る」

ここでは最初に伽藍仏教の寺院を建てた地を「真神原」といっています。衣縫造は鞍部村主と同じに、「私宅仏教」の信者であり、この私宅を「伽藍仏教」の伽輛(寺)にし、法興寺(飛鳥寺)を創建したと研究者は指摘します。
この飛鳥の寺地について、田村園澄は次のように述べます。

真神原と呼ばれたこの地には、飛鳥寺の創建以前から槻の林があった。飛鳥寺の造営のため一部は伐採され、土地は拓かれて寺地となったが、なお飛鳥寺の西の槻の林は残されていた。槻の林は、元来はこの地に居住していた飛鳥衣縫氏の祭祀の場であり、すなわち宗教的な聖地であったと思われる。朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。樹木の繁茂する林は神聖な場所であり、巫峨信仰の本拠でもあった。新羅仏教史において、早い時期に建立された寺のなかに、林に関連した事例がある。すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が建てられ、そして巫現が僧尼になったことになる。

飛鳥衣縫氏が真神原で祀っていた神については、よく分かりませんが異国の神だった気配がします。その後に、真神原を人手した蘇我馬子は、この地に別の「他国神」のための伽藍を建てます。新羅の寺院建立の例からすると、宗教的聖地が寺地になるのは自然なことです。飛鳥寺の場合、その寺地は「国神」の聖地ではなく、朝鮮半島系の神の聖地であったと研究者は考えています。
  飛鳥に公式に入った伽藍仏教の伽藍(寺院)を建てた地が、もともとは百済からの渡来人が祀っていた神の聖地であったことになります。それは渡来して来た朝鮮人の信仰の上に、「大唐神」「他国神」の信仰が「接ぎ木」されたとも云えます。
このように大和の場合も、仏教公伝以前から仏教は、飛鳥の渡来人の居住地区に、「私宅仏教」として入ってきたようです。しかし、飛鳥の場合は限られた狭い地域でした。それに対して、豊前に入った仏教は、秦王国の全域に拡がります。そのため仏教公伝のころには、道人的法師団(豊国法師)が形成されるまでになっていたのでしょう。この「豊国法師」の仏教は、土俗信仰や民間道教信仰と習合したもので、「豊国奇巫」が「豊国法師」になったと研究者は考えています。
 九州の初期寺院は、大宰府のある筑前に多く創建されていいはずです。しかし、筑前よりも、豊前に初期寺院が多いのをどう考えればいいのでしょうか。これは今見てきたように、仏教公伝以前から、豊前には民間ベースで、新羅の私宅仏教が普及していたからでしょう。白鴎時代に作られた寺院跡からも、新羅系遺物が多く出土してくるのもそれを裏付けます。
以上述べたように、わが国に仏教信仰が一番早く人ったのは、秦王国の地であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 仏教が一番早く入った「秦王国」 秦氏の研究


  前回は備後南部の芦田川流域について、以下のような点を見てきました。
備後南部に終末古墳が集中した理由3

 備後南部の芦田川流域と同じような動きが見られるのが播磨西部の揖保川中流域(兵庫県たつの市)です。この地域にも終末期古墳と古代寺院が密集しています。今回は播磨西部を見ていくことにします。テキストは前回に続いて、「広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月」です。
まず、揖保川流域の遺跡を見ておきます。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

このエリアでは、揖保川が南北に貫通していて、古代から上流域との船による人とモノの動きが活発に行われていた地域のようです。川沿いに首長墓が並んでいることからもうかがえます。そこに東から広域道が伸びてきて、ここで美作道と山陽道に分岐します。つまり、揖保川中流域は「揖保川水上交通 + 山陽道 + 美作道」という交通路がクロスする戦略的な要衝だったことが分かります。そのため備後南部と同じように、有力首長達がヤマト政権によって送り込まれ、首長達が「集住」し、彼らが終末期古墳に葬られたという筋書きが描けます。
 「揖保郡」には古代寺院が11カ寺も建立されています。
地図に番号を入れた古代寺院を見ておきましょう。
①中井廃寺には柄穴式の心礎と石製露盤が残され、素弁蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦が出土。付近には、ロストル式瓦窯あり。
②小神廃寺からは素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式軒丸瓦と、それにともなう重弧文軒平瓦や出柄式の礎石などが出土。
③中垣内廃寺では柄穴式の塔心礎。
④小大丸中谷廃寺では南北75mの寺域が確認され、単弁十弁蓮華文軒丸瓦が出土
奥村廃寺 揖保川流域
奥村廃寺

⑤奥村廃寺は双塔式の伽藍配置をとった約150m四方の寺域をもち、柄穴式の塔心礎のほか有稜線弁文八弁軒丸瓦、川原寺式軒丸瓦、重弧文軒平瓦・偏行唐草文軒平瓦などが出土
⑤越部廃寺では珠文帯をもった複弁蓮華文六弁軒九瓦や重弧文軒平瓦を確認。
⑥栗栖廃寺でも珠文帯複弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土。
⑦香山廃寺では重弧文軒平瓦が出土

Photos at 下太田廃寺跡 - 2 visitors
下太田廃寺
⑧下太田廃寺では南北130mの寺域に、四天王寺式伽藍配置が推定。素弁蓮華文軒丸瓦、複弁八弁蓮華文軒丸瓦、忍冬文軒平瓦、重弧文軒平瓦などが出土
⑨金剛山廃寺では柄穴式の塔心礎がみつかっていて、川原寺式軒丸瓦と重弧文軒平瓦が出土
⑩以上に加えて、布勢駅家が確認。

播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院
 11ヶ寺の立地を、見ておきましょう。(地図上の番号と一致)
A「山陽道」に沿って東方から①中井廃寺、②小神廃寺、③垣内廃寺、④小犬丸廃寺
B「美作道」に沿って南方から⑤奥村廃寺、⑥越部廃寺、⑦栗栖廃寺
C 東方に⑧香山廃寺、瀬戸内海に近い地区に⑨下太田廃寺や⑩金剛山廃寺
寺と官道の関係を考えると、寺が造られた後に山陽道や美作道が出来たわけではありません。沿線沿いに古代寺院が造られたと考えるのが自然です。AやBからは、古代寺院建立期の7世紀半ばには「山陽道」や「美作道」が完成していたことがうかがえます。ここでも律令体制以前に官道の原型はできていたことが裏付けられます。
 沿線沿いの寺院や五重塔は、銀黒色に輝く軒瓦や白壁や朱塗りのほどこされた柱などカラフルな七堂伽藍として、行き交う人々の目を引いたはずです。それは、かつての前方後円墳に替わるランドマークタワーの役割も果たしたのでしょう。
律令制下の揖保郡には、12里が設置されますが、そこに古代寺院が11カ寺も建立されていたことになります。
 終末期巨石墳を造営した一族が、7世紀後半には氏寺を建立するようになります。そういう視点で見ると、古代揖保郡では寺院を建立した檀越氏族のほうが、終末期古墳を築造した首長よりも多いと研究者は指摘します。つまり7世紀後半になって、この地域では首長が新たに増えているのです。
 古代寺院の建立は、前方後円墳の造営に匹敵する大事業です。いくつもの古代寺院があったということは、経済力・技術力、政治力をもった首長層が、律令期の播磨国揖保郡に「集住」していたことを物語ります。その背景としては、最初に述べたように揖保郡は、揖保川の伝統的な水運と、「山陽道」・「美作道」とが交差するという地理的要衝であったことが考えられます。揖保川から瀬戸内海へとつうじる水運と、それを横断する二つの道路の結節点、それは「もの」と人の集積ポイントです。そこを戦略的な要衝として押さえるために、7世紀初めごろから後半ごろにかけて何人もの有力者がヤマト政権によって送り込まれます。有力者に従う氏族もやって来て、この地に移り住むようになる。彼らが残したのが、周囲の群集墳だと研究者は考えています。

前後しますが揖保川流域の終末期古墳についても見ておきましょう。 
岸本道昭氏は、播磨地域の前方後円墳について、次のようにあとづけています。
①6世紀前半から中ごろには、小型前方後円墳が小地域ごとに造られていた
②6世紀後末ごろになると前方後円墳はいっさい造られなくなる。
③このような前方後円墳の消長は、播磨地域全域だけでなく列島各地に共通する。
④これは地方の事情よりも中央政権の力が作用したことをうかがわせる。
その背景には「地域代表権の解体と地域掌握方式の再編」があったと指摘します。播磨も備後と同じように、吉備勢力の抑制を目的として体制強化策がとられていたようです。

中浜久喜氏は次のように記します。
「播磨地方の場合、前方後円墳の造営停止が比較的早く行われた。それは、中小首長や有力家父長層の掌握と編成が早くから進行したからであろう」

そして7世紀になると、終末期古墳と古代寺院が集中します。
揖保川流域の古墳編年

前方後円墳が造られなくなった後に、終末古墳としてこのエリアに最初に登場するのが1期の那波野古墳です。

那波野古墳 揖保川流域
①巨大な畿内型横穴式石室をもつ直径20mの円墳
②玄室側壁の腰石ふうの基底石、奥壁2段、玄室側壁3段、玄門部1段、羨道側壁2段に巨石を積む
那波野古墳 揖保川流域.2JPG
那波野古墳の石室

墳形はわかりませんが、前回見た備後南部地域に最初に登場する二子塚古墳とよく似た形のようです。やはり、畿内勢力から派遣された首長墓と研究者は推測します。

那波野古墳と同時期に築造されているのが方墳のはっちょう塚7号墳です。
工人のこだわりが伝わるようやくたどり着いた石室!一辺25mの方墳。はっちょう塚7号墳■(たつの市)(兵庫県)(後期)Hacchouuzka No.7  Tumulus,Hyogo Pref.

①一辺26mの方墳で、横穴式石室は両袖式で低いが前壁もあって畿内型タイプ
②玄室側壁は巨石を3段積む[松本・加藤・中村・中浜・義則1992]
以上の2つの古墳が1期に属し、突然のように現れる終末古墳群のスタートとなります。
この2つに続く終末期古墳を石室編年で見ておきましょう。

揖保川流域の古墳編年.3JPG
揖保川中流域の横穴石室の編年

備後南部地域とは違って、揖保川中流域では畿内型横穴式石室が続かないようです。
①2期の上伊勢古墳は羨道がないのでよく分かりませんが、玄室側壁、奥壁はおそらく2段積
②浄安寺古墳の横穴式石室は左片袖式で、奥壁と玄室側壁は巨石一石で構成され、玄門立柱石を立てる。前壁はなく、天井は平坦。
③山田3号墳も左片袖式で小型で、浄安寺古墳とほぼおなじ構造
④宇原2号墳長は羽子板状プランの無袖式で、奥壁は1石、側壁は1~2段積み、天井は平坦で前壁をつくらない
⑤長尾薬師塚古墳は東辺約20mの方墳で、前面の東南側はかなり下方まで地形が直線的に整形。部分的に加工された壁材の間には粘土が詰められ、奥壁は2石2段、側壁は3~5段積みで、長さ304mの石室のほぼ中央には仕切り石が据えられる。閉塞のための板石もある
⑥塩野六角古墳は六角墳で、小さな自然石を積む。  型式平行とみられる須恵器が検出。

播磨地域の横穴式石室について、中浜久喜氏は次のように記します。
①6世紀後半ごろには右片袖式、左片袖式、両袖式の畿内型横穴式石室が併存し、巨石を用いた横穴式石室はあまりない。
②そうしたなかで登場する那波野古墳は、畿内型の巨石墳である。
③7世紀中ごろには個性的な左片袖式、無袖式の横穴式石室、さらには変形版の「横口式石榔」など、多彩な横穴式石室がつくられる。
④そこには、横穴式石室の形式を統一しようという意志は見受けられず、横穴式石室をとおしての「われわれ意識」を表現しようとする意図は弱い。
⑤白毛9号墳・白毛13号墳、若狭野古墳などは、畿内方の横口式石槨をモデルにしたような変形的横穴式石室である。
横口式石槨


この中で⑤については、播磨地域の横口式石槨20基を挙げて次のように記します。
「赤穂・揖保の両郡域のみに分布している。」
「最も後出の若狭野古墳は7世紀の第3四半期ごろ」
ここからは、赤穂・揖保の両郡の首長達が畿内中枢部と交渉があり、それが横口式石槨の採用と形で現れていると研究者は考えています。

もう一度揖保川流域の終末期古墳群を見てみましょう。
播磨揖保川流域の終末期古墳と古代寺院

揖保川中流域には、群集墳が多いこと分かります。
その中で研究者が注目するのが西脇古墳群です。

姫路市所在 西脇古墳群 -山陽自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告15-(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所編) /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この古墳群は、揖保川の東側で山陽道と美作道の分岐点付近に位置します。その数も百を超えるようです。この古墳が造られ始める頃には、畿内では群集墳は終わっていました。その特長を研究者は次のように記します。
①6世紀後半ごろから7世紀初めごろにかけての群集墳とくらべると、墳丘も横穴式石室も小さいし、副葬品もきわめて少ない。
②京都府の音戸山古墳群、旭山古墳群、醍醐古墳群、あるいは大阪府田辺古墳群など、ほぼ同時期のものと比較しても基数が多い。
③3~4世代におよぶので、単純計算でも30~40ほどの造墓主体が共同墓域を利用していたことになる。
④古墳造営が7世紀なので、この地域の中間層だけが自発的に共同墓域をかまえ、そこで造墓活動をしたとは考えにくい。
終末期古墳や古代寺院の密集度からしても、この地域に「特定の役割」を担わされた集団がいたと研究者は考えています。特定の役割とは何なのでしょうか? 郡家の交通機能に関わる役割を担っていたことが考えられますが、よく分かりません。南北に流れる川の水上輸送と、東西の官道が交わる地点は「戦略要衝」として、有力者が派遣された。同時に、戦略要所地の管理運営のために、渡来系などの中小氏族も移住させられた。彼らは、周辺に群集墳を築いたとしておきます。  
 なお讃岐から播磨に移された氏族の記録がいろいろな史料に出てきます。それも戦略的要衝建設のための讃岐からの移動という点で見ることができるのかもしれません。それはまた別の機会に。

終末古墳集中の背景

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月


6世紀末頃になると前方後円墳や群集墳も造られなくなります。

終末古墳とは

しかし、ごく一部の限られた支配者たちは、方形や円形、まれに八角形の墳丘をもつ古墳を築いています。7世紀になっても造られた古墳を終末期古墳と呼んでいます。 私は終末古墳は、高松塚古墳やキトラ古墳のように飛鳥周辺に造られた皇族や権力中枢部のものと思っていました。しかし、そうではないようです。地方にも終末古墳はあるのです。しかし、分布に偏りがあって、どこにでもあるというものではないようです。讃岐の大野原の3つの巨石墳や坂出市府中の新宮古墳も終末古墳になります。
 その中で旧山陽道沿いには、終末古墳が密集する地域がいくつかあるようです。今回はその中の備後南部の芦田川中流域(福山市)の終末古墳を見ていくことにします。テキストは広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月です。
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

福山市の芦田川河口には草戸千軒遺跡があり、中世の港町として繁栄していました。
芦田川は、中国地方の上流部を結ぶ交通路として古代から人とモノが行き交っていたようです。その芦田川が大きく西に流れを変える辺りに、備後の国府や国分寺が造られます。このあたりが古代の備後の中心地となるようです。

史跡備後国府跡保存活用計画

しかし、このエリアには6世紀までは有力な首長はいなかったようです。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が造られ、そして国衙や国分寺が現れます。そのプロセスを見ておきましょう。

備後南部の大型古墳
備後の終末古墳
広島県福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。
それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然現れる終末古墳が二子塚古墳(上地図4)です。

備後二子塚古墳2
二子塚古墳
①墳丘の長さ68mの前方後円墳で、後円部と前方部に横穴式石室が各1基

備後二子山塚古墳石室

②後円部の石室は両袖式で、玄室と羨道は入り口側に向かって広がり、天井部は高くなる。
③羨門から前方にかけて9、8mほどの長さのハ字形の墓道がつく。
④奥壁は縦長巨石の1段積み、玄室側壁は左4段、右3段、羨道側壁は3段積み、羨門付近は4段積みで、玄門部には立柱石を据え、前壁は2段積み
⑤玄室前半部に竜山石製の組合わせ式石棺、その北側に鉄釘接合木棺が置かれていた。

備後二子塚古墳副葬品
二子塚古墳副葬品
⑥金銅製双龍環頭大刀柄頭、鉄製大刀、金銅製鍔、鉄矛、石突、鉄鏃、刀子、馬具(鐙、杏葉、磯金具)、陶邑TK209型式の須恵器、土師器、鉄釘

この古墳は7世紀初めの前方後円墳で、竜山石製家形石棺を安置した巨大な横穴式石室をもちます。また、金鋼製双龍環頭大刀など豊富な副葬品が埋葬されていました。
二子塚古墳の双龍柄頭の分布図
 二子塚古墳を造営した首長とは何者なのでしょうか。
これについては、次のふたつ説が考えられるようです。
①在地首長が畿内勢力と密接な関係をもつことで強力になった
②畿内から送り込まれた勢力が、この地域に意図的に配置された

大型の家形石棺は、近隣のも浪形石ではなく、わざわざ播磨から竜山石を運んできています。また双龍環頭大刀が副葬されています。ここからは「大和政権の強力なバックアップを受けた国造クラスの首長が最も可能性が高い」との②説が有力のようです。

二塚古墳は南東に開口する花崗岩積みの巨石墳ですが、玄室の一部しか残っていません。

備後 二塚古墳
二塚古墳の石室と出土品
①奥壁は巨大な鏡石の上部に横長の石材を1段積む。
②側壁は2段積みで、天井部は平坦
③銅鏡、耳環、ガラス小玉、鈴釧、鉄矛、鉄製石突、鉄鏃、馬具(杏葉、雲珠、餃具、鞍橋覆輪金具類、、刀子、須恵器、本片、鉄釘などが出土

二塚古墳 出土品2
二塚古墳出土の馬具類
④杏葉は「双龍あるいは双鳳を文様の基調とし、朝鮮文化の影響を受けたもの」

備後南部の終末古墳編年

備後南部の終末古墳の石室編年
3期に分類される大迫古墳は両袖式横穴式石室で
①奥壁は1石1段積み、玄室側壁は基底部に巨石を3石据え、その上部に横長の石材を積む。
②羨道側壁も同様の構造ですが、1石のところもある。
③玄室天井部はやや玄門部に向かって下がり、前壁は低い。
④出土品は分かりません。
4期のヤブロ古墳は袖も前壁もない無袖式横穴式石室です。奥壁、側壁ともに1段積みで、各4石の巨石で築かれています。

大佐山白塚古墳は標高188mの大佐山の頂上に築かれた一辺12mの方墳です。
備後 大麻山白塚古墳 八角形石室
ただ列石をめぐらせる多角形墳の可能性もあるようです。
①花崗岩の切石を積んだ横穴式石室は、奥壁は1石の鏡石、玄室側壁は基底部の巨石に横長の石材を積む。
②玄門部は立柱石が内側に突出し、その上部に相石がのる。
③玄室の天井石は1石で、その南方に伸びた丘陵尾根に、ほぼ同時期とみられる6基の小型横穴式石室が付属
狼塚2号墳は直径約12mの円墳です。
備後 狼塚第2号古墳石室
①横穴式石室の奥壁は1石
②側壁は玄室も羨道も基底部の巨石に横長の石材を1段積み。
③玄門部の立柱石は内側に突出し、その上部に一段下がった相石が載せられる。
④滑石製管玉、須恵器などが出土していて、「古墳時代終末期(7世紀前半)頃」
大坊古墳は一辺13mほどの方墳で
備後 大坊古墳
大坊古墳の石室
①巨石を積んだ横穴式石室は、玄室の奥壁、領1壁、玄門立柱石は1石
②玄室のほぼ中央には仕切り石が置かれ、その位置は側壁の2石に対応
③羨道側壁は玄門部側は1段だが、羨門側は2段積み。
すべてを挙げることはできないので、このあたりにしてもう一度終末古墳群の石室編年表を見ておきましょう。

備後南部の終末古墳編年

上の石室編年表から読み取れることを挙げておきます。
①7世紀初めに前方後円墳で、両袖式の巨石墳の二子塚古墳の出現する。
②その後は7世紀後半まで、有力古墳がいくつも造られている。
③3期には、タイプの違う大型石室を持つ古墳が、同時進行でいくつも造営されている。
備後南部の終末古墳編年2
備後南部の終末古墳の築造時期
 同時進行で築造されているこれを研究者は、次のように分析します。
3~4期に石槨は2基づつ造られていることから、新たなタイプの石室を採用した首長墓がやってきたこと。それが7世紀前半ごろには2系譜、7世紀中ごろには3系譜と、時期がたつにつれ首長系譜が増えていることです。
 また、研究者が注目するのは、A型、B型、横口式石槨の3タイプの横穴式石室は、互いに排他的ではなく、同時代に共存・並立していることです。しかも古墳築造のための構造・技法などが共通し、畿内的色彩がつよいようです。これはひとつの石工集団が、あっちこっちのスタイルの違う首長墓を同時並行で造っていた可能性が高いということです。
備後南部に終末古墳が集中した理由2


備後南部の後期古墳と古代寺院
備後南部の終末古墳と古代寺院 (A~G)が古代寺院
そして7世紀後半になると、古代寺院が6カ寺も創建され、さらに8世紀には国分寺も現れます。古代寺院は氏寺なので、建立した6人の壇越氏族がいたことになります。言い換えると、6人の有力首長がこの狭い地域に共存していたことになります。 このエリアに終末古墳が集中している背景を、研究者達は次のように考えています。
西川宏氏は、次のように記します。
「在地首長の権力を温存しただけでなく、吉備勢力の分断を狙って、これを積極的にバックアップした」
「備後南部の首長層は、備後北部を従属させるにいたった」
「南部の塩と北部の鉄」の「商品交換」が「南部の首長のリーダーシップのもとに行われ」
「両地域はここにいたってはじめて緊密に結びついた。そして「備後」という一つの自己完結的な政治的地域が成立した。この時期に近畿政権が吉備分断のため、あえて「備後」の地域をまず切り離しにかかった背景もここにあった。」[西川1985]。
桑原隆博氏は「北部の小型・分散化と南部の一極集中化の背景」について、次のように記します。
「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。
「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」[脇坂2005]。
これらの説に共通するのは、6世紀までは自立していた「吉備」が、7世紀になって畿内勢力に分割・解体されるという道筋です。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として終末古墳を読みとっています。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

 以上を研究者は考古資料で、次のように裏付けようとします。
まず、横穴式石室B型は、近隣では安芸東部などにもみられるタイプです。ここからは安芸東部から移動してきた首長もいたことが考えられます。同時に、横口式石槨は畿内的な墓制とされるので、畿内からやってきた有力首長もいた可能性があります。

横口式石槨
横口式石槨

内田実氏は、次のように記します。
「畿内政権から直接派遣された高級官人・軍人(渡来系を含む)もしくは地域首長一族から大和朝廷に出仕し、高い評価を得て出自の故地に埋葬された人物の可能性が高い」[内田2009]。

 白石太一郎氏は、次のように記します。
「地方の横口式石槨は畿内でも官僚として活躍した地方首長層の墳墓に採用されていた可能性が大きい」「白石2009」

 7世紀前半にした4人もの首長は、もともといた在地の首長に加えて、畿内や山陽西部からやってきた首長や中間層っがやってきたて「集住」したと研究者は考えているようです。

では、なぜ首長達がこのエリアに「集住」したのでしょうか。

山陽道と終末古墳の重なり
終末古墳群と古代山陽道
その要因として研究者は、次のように山陽道との関連をあげます。
  「山陽道」の整備が7世紀初めごろから開始されたというのです。それに加えて、芦田川の水上交通と山陽道がクロスする場所に戦略的な要衝が置かれ、そこが「もの_|と人の集積・分散のセンターとしての役割を負わされた」とします。いいかえれば、山陽道と芦田川との結節点を、ヤマト政権が政治拠点化するため、在地首長を政治的にテコ入れしたり、中央から有力首長を派遣したりしたというのです。
 おなじような地域が、北部九州に3カ所あると研究者は指摘します。それが壱岐島、宗像地域、豊前地域の京都平野です。この3ヶ所でも、6世紀紀の有数の前方後円墳とともに、巨石墳をはじめとした終末期古墳や、多数の群集墳や横穴墓が造られています。それは次のような役割を担っていたと研究者は考えています。
壱岐島は外交と防衛の前線
宗像は出発港
京都平野はその兵姑基地
中央政権が関与した時期や仕方はちがいますが、複数首長が派遣され集住によって政治センターが形成されたのは共通しています。
以上をまとめておきます。

終末古墳集中の背景

以上からは、律令体制以前の7世紀初めには、山陽道の原型は出来上がっていたことになります。この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道(原型)に沿って造られたということになります。そうだとすれば納得できることがいろいろと出てきます。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、ヤマト政権によって派遣された首長達が築いたものということになります。
これについて大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 これは備後南部で起きていたヤマト王権の動きとリンクすることも考えられます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2
讃岐国府(坂出市府中)と終末期古墳群

長くなりましたので、それはまたの機会にすることにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
広瀬和雄  終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月
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稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡の建物配置図
   稲木北遺跡は、図のように掘立柱建物群が、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたことをお話しました。その特徴は以下の通りです。
①大型の掘立柱建物跡8棟の同時並立。
②そのまわりを大型柵列跡が囲んでいること
③建物跡は多度郡条里ラインに沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向の左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤基準線から対象に建物跡が建っている
⑥中央の建物が中核建物で庁舎
⑦柵外には総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土土器の時期幅が、ごく短期間に限られているので、実質の活動期間が短い
以上からは、稲木北遺跡が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的に設計されていることが分かります。「正倉が出たら郡衙と思え」ということばからすると、ほぼ郡衙跡にまちがいないようです。

稲木北遺跡との比較表

稲木北遺跡をとりまく状況について研究者は報告会で、次のように要約しています。

稲木北遺跡2
稲木北遺跡をめぐる状況
  交通路については、かつては南海道がこのあたりを通って、鳥坂峠を越えて三豊に抜けて行くとされていました。しかし、発掘調査から南海道は「飯山高校 → 郡家宝幢寺池 → 善通寺市役所」のラインで大日峠をこえていくと、研究者達は考えるようになっています。しかし、鳥坂峠は古代においても重要な戦略ポイントであったようです。

稲木北遺跡 多度郡条里制
南海道と条里制
稲木北遺跡は多度郡の中央部にあたります。ここを拠点にした豪族としては、因支首氏がいます。この郡衙を建設した第一候補に挙げられる勢力です。
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓申請の結果、和気公が賜姓された記事があります。また、その時の申請資料として作成された「和気氏系図(円珍系図)」が残されています。この系図は、実際には因支首氏系図と呼んでもいい内容です。この系図に載せられた因支首氏を見ていくことにします。
円珍系図 那珂郡
広雄が円珍の俗名です。その父が宅成で、その妻が空海の妹とされます。父の弟が「二男宅麻呂(無児)」で、出家し最澄の弟子となる仁徳です。円珍の祖父が道麻呂になります。ここからは、那珂郡には道麻呂・宅主・秋主の3グループの因支首氏がいたことが分かります。国司が中央に送った「讃岐国司解」で和気氏への改姓が許されたのは、那珂郡では、次の人達です。
道麻呂の親族 8名
道麻呂の弟である宅主の親族 6名
それに子がいないという金布の親族 1名
次に多度郡の因支首氏を見ておきましょう。

円珍系図2


国益の親族 17名
国益の弟である男綱の親族    5名
国益の従父弟である臣足の親族  6名
多度郡にも3つのグループがあります。那珂郡と多度郡をあわせて6グループ43名に賜姓がおよんでいます。

 因支首氏は、金蔵寺を氏寺として創建したとされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。
それを裏付けるような遺跡が金蔵寺周辺から永井・稲木北にかけていくつか発掘されています。因支首氏が那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったことが裏付けられます。
 地元では、空海と円珍の関係が次のようによく語られています。

「円珍の父・宅成は、善通寺の佐伯直氏から空海の妹を娶った、そして生まれのが円珍である。そのため空海と円珍は伯父と甥の関係にある。」(空海の妹=円珍の母説)

確かに、因支首氏と佐伯直氏の間には何重にも結ばれた姻戚関係があったことは確かです。しかし、金倉寺の因首氏が、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったという記事には首を傾げます。金倉寺は那珂郡で、善通寺や稲木は多度郡なのです。行政エリアがちがいます。ここでは因支首氏の中にも、那珂郡の因支首氏と、多度郡の因支首氏があって、円珍もこのふたつをはっきりと分けて考えていたことを押さえておきます。一族ではあるが、その絆がだんだん薄れかけていたのです。
 円珍系図が作られれてから約500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。「稲毛」は因岐首氏の 「因岐」からの転化のようです。ここからは「稲毛」という地名が残っている良田郷が多度郡の因岐首氏の本拠地であったことになります。そうだとすれば、稲木北遺跡は良田郷に属するので、8世紀初頭に因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は、さらに高くなります。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図
         円珍系図 忍尾別(わけ)君
 円珍系図には因支首氏の始祖とされる忍尾別(わけ)君が伊予国からやってきて、因岐首氏の娘と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったと記します。
しかし、忍尾別(わけ)君は伊予和気氏の系譜に、因支首氏の系譜を「接ぎ木」するための創作人物です。実際の始祖は、7世紀に天武政権で活躍した「身」と研究者は考えています。因支首氏は、7世紀半ばの「身」の世代に那珂郡の金倉寺周辺拠点を置いて、そこから多度郡の永井・稲木方面に勢力を伸ばしていったとしておきます。
そして、伊予からやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は推測します。
こうして、因岐首氏によって開発と郡衙などの施設が作られていきます。
稲木北遺跡の周辺遺跡
稲木遺跡周辺の同時代遺跡

稲木北遺跡について研究者は次のように評します。

「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

 ここで私が気になるのが以前にお話した曼荼羅寺です。
曼荼羅寺は、吉原郷を勢力下に置く豪族Xの氏寺として建立されたという説を出しておきました。今までの話から、その豪族Xが多度郡を基盤とする因支首氏ではなかったのかと思えてくるのです。那珂郡と多度郡の因支首氏がそれぞれ独立性を高める中で、それぞれの氏寺を建立するに至ったという話になります。これについては、また別の機会に改めてお話しします。

新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、稲木北の郡衙的施設は作られたという説を紹介しました。
 しかし、この施設には、次のような謎があります。
①使用された期間が非常に短期間で廃棄されていること
②土器などの出土が少く、施設の使用跡があまりないこと
③郡衙跡にしては、硯や文字が書かれた土器などが出てこないこと
ここから、郡衛として機能したかどうかを疑う研究者もいるようです。
  稲木北遺跡の建築物群は、奈良時代になると放棄されています。
その理由は、よく分かりません。多度郡の支配をめぐって佐伯直氏の郡司としての力が強化され、善通寺の郡衙機能の一元化が進んだのかも知れません。

以上をまとめておきます
①稲木北遺跡は多度郡中央部に位置する郡衙的遺跡である。
②この郡衙の建設者としては、多度郡中央部を拠点とした因支首氏が考えられる
③因支首氏は9世紀の円珍系図からも那珂郡や多度郡に一族がいたことが分かる。
④因支首氏は、7世紀半ばにその始祖がやって来て、天智政権で活躍したことが円珍系図には記されている
⑤新興勢力の因支首氏は、金倉方面から永井・稲木方面に勢力を伸ばし、那珂郡と多度郡のふたつに分かれて活動を展開した。
⑥その活動痕跡が、稲木北の郡衙遺跡であり、鳥坂峠の麓の西碑殿遺跡、矢ノ塚遺跡の物資の流通管理のための遺跡群である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年
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4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺(因支首氏の氏寺)
  子供の頃に金倉寺にお参りに行ったときに、次のような話を祖母から聞いたおぼえがあります。

「このお寺は智証大師が建てたんや。大師というのはお坊さんの中で一番偉い人や。大師を一番多く出しているのは讃岐や。その中でも有名なのが弘法大師さんと智証大師や。ほんで、智証大師のお母さんは、弘法大師さんの妹やったんや。善通寺の佐伯さんとこから、金倉寺の因支首(いなぎ:地元では稲木)さんの所へ嫁いできて、うまれたのが智証大師や。つまり弘法大師さんと智証大師は、伯父と甥の関係ということや。善通寺と金倉寺は親戚同士の関係や」
智証大師 金倉寺
智証大師(金倉寺蔵)
   本当に円珍(智証大師)の母は、空海の妹なのでしょうか? 
今回はそれを史料で見ておくことにします。 テキストは「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」です。
  まず佐伯直氏について、押さえておきます。
805(延暦24年)9月11日付の「太政官符」には、次のように記します。

空海 太政官符2
空海延暦24年の太政官符
ここからは次のような事が分かります。
①空海の俗名は、真魚
②本貫は、多度郡方(弘)田郷の戸主佐伯直道長の戸口
③空海が延暦22年4月9日に出家していること
これに対して『三代実録』貞観三年十一月十一日辛巳条には、次のように記します。
「讃岐国多度郡人故佐伯直田公……而田公是僧正父也」

ここには「田公是僧正父也」とあって、空海の父を佐伯直田公と記します。ふたつの史料の内容は、次の通りです。
①太政官符は空海(真魚)の戸主=佐伯直道長
②『三代実録』では空海の父 =佐伯直田公
つまり、空海の戸主と父が違っていることになります。今では、古代の大家族制では何十人もがひとつの戸籍に登録されていて、戸主がかならずしも、当人の父でなかったことが分かっています。それが古代には当たり前のことでした。しかし、戸主権が強くなった後世の僧侶には「戸主と父とは同一人物でなければならない」とする強迫観念が強かったようです。空海の父は道長でなければならないと考えるようになります。
空海系図 伴氏系図
伴氏系図

その結果、『伴氏系図』のように空海の父を道長とし、田公を祖父とする系図が偽作されるようになります。そして円珍と空海の続柄を、次のように記します。
 
空海系図 伴氏系図2

この系図では、次のように記されています。
田公は空海の祖父
道長が父
空海の妹が円珍の母
空海は円珍の伯父
これは先ほど見た太政官符と三代実録の記述内容の矛盾に、整合性を持たせようとする苦肉の策です。
こうした空海と円珍の続柄が生れたのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』に由来するようです。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の妹」とは記されていないことです。「空海の姪」です。しかし、ここで『伴氏系図』の作者は、2つの意図的誤訳を行います。
①Bの主語は、円珍の母であるのに、Bの主語を円珍とした
②そしてBの「姪」を「甥」に置き換えた
当時は「姪」には「甥」の意味もあったようでが、私には意図的な誤訳と思えます。こうして生まれたのが「円珍の母=空海の姪」=「円珍=空海の甥」です。この説が本当なのかどうかを追いかけて見ることにします。
研究者は空海の門弟で、同族の佐伯直氏であった道雄(どうゆう)に注目します。

空海系図 松原弘宣氏は、佐伯氏の系図

道雄とは何者なのでしょうか? 道雄は上の松原氏の系図では、佐伯直道長直系の本家出身とされています。先ほども見たように、佐伯直道長の戸籍の本流ということになります。ちなみに空海の父・田公は、傍流だったことは以前にお話ししました。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 承和十四年拝律師 嘉祥三年転権少僧都 会病卒。初道雄有意造寺。未得其地 夢見山城国乙訓郡木上山形勝称情。即尋所夢山 奏上営造。公家頗助工匠之費 有一十院 名海印寺 伝華厳教 置二年分度者二人¨至今不絶。

意訳変換しておくと
権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。また閣梨空海から真言教を受けた。承和十四年に律師を拝し 嘉祥三年には権少僧都に転じ、病卒した。初め道雄は意造寺で修行したが、その地では得るものがなく迷っていると、夢の中に山城国乙訓郡木上山がふさわしいとのお告げがあり、夢山に寺院を建立することにした。公家たちの厚い寄進を受けて十院がならぶ名海印寺建立された。伝華厳教 二年分度者二人を置く、至今不絶。(以下略)

ここには道雄の本貫は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海に師事したことが分かります。また、円珍と道雄との関係にも何も触れていません。ちなみに「和尚慈勝に師事して唯識論を受け」とありますが、和尚慈勝は多度郡の因支首氏出身の僧侶であったようです。この人物については、また別の機会に触れたいと思います。
道雄については朝日歴史人物辞典には、次のように記されています。

平安前期の真言宗の僧。空海十大弟子のひとり。空海と同じ讃岐多度郡の佐伯氏出身。法相宗を修めたのち,東大寺華厳を学び日本華厳の第7祖となる。次いで空海に師事して密教灌頂を受け,山城乙訓郡(京都府乙訓郡大山崎町)に海印寺を建立して華厳と真言の宣揚を図った。嘉祥3(850)年,道雄,実慧の業績を讃えて出身氏族の佐伯氏に宿禰の姓が与えられた。最終僧位は権少僧都。道雄の動向は真言密教と華厳,空海と東大寺の密接な関係,および空海の属した佐伯一族の結束を最もよく象徴する。弟子に基海,道義など。<参考文献>守山聖真編『文化史上より見たる弘法大師伝』

以上から道隆についてまとめておくと、次のようになります。
①讃岐佐伯直道長の戸籍の本家に属し
②空海に師事した、空海十大弟子のひとり
③京都山崎に海印寺を建立開祖

これに対して「弘法大師弟子譜」の城州海印寺初祖贈僧正道雄伝には、次のように記されています。

僧正。名道雄。姓佐伯宿禰。讃州多度郡人。或曰 円珍之伯父

意訳変換しておくと
道雄の姓は佐伯宿禰で、本貫は讃州多度郡である。一説に円珍の伯父という説もある。

「或日」として、「道雄=円珍の伯父」説を伝えています。「弘法大師弟子譜」は後世のものですが、「或曰」としてのなんらかの伝えがあったのかもしれません。ここでは「道雄=円珍伯父説」があることを押さえておきます。
次に、田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』を見ておきましょう。
空海系図 正道雄伝

この系図にしたがえば、「円珍の母は空海の姪」になります。そうすると、空海は円珍の従祖父ということになります。空海は、774(宝亀五年)の生まれで、円珍は814(弘仁五年)の誕生です。ふたりの間には40年の年代差があります。これは空海が円珍の従祖父であったことと矛盾しません。
 これに先ほど見た「道雄=円珍伯父説」を加味すると、「円珍の母は道雄の妹」であったことにもなります。
つまり、円珍の母の母親(円珍の外祖母)は、空海と同族の佐伯直氏の一員と結婚し、道雄と円珍の母をもうけたことになります。これを「円珍の母=道雄の妹説」とします。同時に道雄と空海も、強い姻戚関係で結ばれていたことになります。
「円珍の母=道雄の妹説」を、裏付けるような円珍の行動を見ておきましょう。円珍は『行歴抄』に、次のように記します。(意訳)
①851(嘉祥四年)4月15日、唐に渡る前に前に円珍が平安京を発って、道雄の海印寺に立ち寄ったこと
②858(天安二年)12月26日、唐から帰国した際に、平安京に入る前に、海印寺を訪れ、故和尚(道雄)の墓を礼拝し、その夜は海印寺に宿泊したこと
 海印寺 寂照院墓地(京都府長岡京市)の概要・価格・アクセス|京都の霊園.com|【無料】資料請求
海印寺(長岡京市)
海印寺は、道雄が長岡京市に創建した寺です。円珍が入唐前に、この寺に立ち寄ったのは、道雄に出発の挨拶をするためだったのでしょう。その日は、851(嘉祥四年)4月15日と記されているので、それから2カ月も経たない851(仁寿元年)6月8日に、道雄は亡くなっています。以上から、円珍が入唐を前にして海印寺を訪れたのは、道雄の病気見舞も兼ねていたようです。そして円珍が唐から帰国して平安京に入る前に、海印寺に墓参りしています。これは墓前への帰国報告だったのでしょう。この行動は、道雄が円珍の伯父であったことが理由だと研究者は推測します。
1空海系図2

 ここからは、円珍・道雄・空海は、それぞれ讃岐因支首氏や、佐伯直本家、分家に属しながらも、強い血縁関係で結ばれていたことが分かります。空海の初期集団は、このような佐伯直氏や近縁者出身者を中心に組織されていたことが見えてきます。
 最後に「円珍の母=空海の妹」は、本当なのでしょうか?
これについては、残された資料からはいろいろな説が出てくるが、確定的なことは云えないとしておきます。
以上をまとめておきます。
①円珍伝には「円珍の母=空海の姪」と記されている。
②これを伴氏系図は「円珍=空海の姪(甥)」と意図的誤訳した。
③佐伯直氏の本家筋の道雄については「道雄=円珍の伯父」が残されている。
④「佐伯直系図」には「円珍の母=道雄の妹」が記されている。
⑤ ③と④からは、円珍の母は空海の姪であり、「空海=円珍の従祖父説」が生まれる。
空海系図 守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』
守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』の空海系図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

智証大師伝の研究(佐伯有清) / 金沢書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 
「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」

以前に円珍系図のことを紹介したのですが、「むつかしすぎてわからん もうすこしわかりやすく」という「クレーム」をいただきましたので「平易版」を挙げておきます。

伝来系図の2重構造性
 
系図を作ろうとすれば、まず最初に行う事は、自分の先祖を出来るだけ古くまでたどる。こうして出来上がるのが「現実の系図」です。個人的探究心の追求が目的なら、これで満足することができます。しかし、系図作成の目的が「あの家と同族であることを証明したい」「清和源氏の出身であることを誇示したい」などである場合はそうはいきません。そのために用いられるのが、いくつかの系図を「接ぎ木」していくという手法です。これを「伝来系図の多重構造」と研究者は呼んでいるようです。中世になると、高野聖たちの中には、連歌師や芸能者も出てきますが、彼らは寺院や武士から頼まれると、寺の由来や系図を滞在費代わりに書残したとも言われます。系図や文書の「偽造プロ」が、この時代からいたようです。
 系図として国宝になっているのが「讃岐和気氏系図」です。
私は和気氏系図と云ってもピンと来ませんでした。円珍系図と云われて、ああ智証大師の家の系図かと気づく始末です。しかし、円珍の家は因支首(いなぎ:稲木)氏のほうが讃岐では知られています。これは空海の家が佐伯直氏に改姓したように、因支首氏もその後に和気氏に改姓しているのです。その理由は、和気氏の方が中央政界では通りがいいし、一族に将来が有利に働くと見てのことです。9世紀頃の地方貴族は、律令体制が解体期を迎えて、郡司などの実入りも悪くなり、将来に希望が持てなくなっています。そのために改姓して、すこしでも有利に一族を導きたいという切なる願いがあったとしておきます。
 それでは因支首氏の実在した人物をたどれるまでたどると最後にたどりついたのは、どんな人物だったのでしょうか?

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板

それは円珍系図に「子小乙上身」と記された人物「身」のようです。
その註には「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは、身は難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。もうひとつの情報は「小乙上」が手がかりになるようです。これは7世紀後半の一時期だけに使用された位階です。「小乙上」という位階を持っているので、この人物が大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物であることが分かります。身は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられ、因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。この身が実際の因支首氏の始祖のようです。
 しかし、これでは系図作成の目的は果たせません。因支首氏がもともとは伊予の和気氏あったことを、示さなくてはならないのです。
そこで、系図作成者が登場させるのが「忍尾」です。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、系図制作者は忍尾を始祖としていていたことが分かります。忍尾という人物は、円珍系図にも以下のように出てきます。
    
円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」
意訳変換しておくと
この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った
 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったと云うのです。だから、もともとは我々は和気氏であるという主張になります。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。綾氏系図にも用いられたやり方です。
円珍系図  忍尾と身


つまり、讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれているのです。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の系図(所伝)によってこの部分は作られた疑いがあると研究者は指摘します。ちなみに、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちになるようです。

以上を整理しておくと
①因岐首系図で事実上の始祖は、身で天智政権で活躍した人物
②伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作し、登場させたのが忍尾別君
③忍尾別君は「別君」という位階がついている。これが用いられたのは5世紀後半から6世紀。
④忍尾から身との間には約百年の開きがあり、その間が三世代で結ばれている
⑤この系図について和気氏系図は失われているので、事実かどうかは分からない。
⑥それに対して、讃岐の因支首氏系図については、信用がおける。
つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえそうです。
  伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えています。
それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の実際の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


善通寺宝物館蔵の「一円保絵図」(1307年)には、曼荼羅寺が描かれています。
一円保絵図 5
善通寺一円保絵図(1307年)

ここに描かれているのが東寺の善通寺の一円保(寺領)です。善通寺を中心に、北東は四国学院、南は「子供とおとなの病院」あたりまでを含みます。よく見ると、西側の吉原郷には曼荼羅寺周辺や鳥坂あたりにまでに飛び地があること、曼荼羅寺は我拝師山の麓に描かれ、その寺の周辺には集落が形成されていることなどが見て取れます。

善通寺一円保の位置
一円保絵図の曼荼羅寺周辺部分
曼荼羅寺周辺を拡大してみると、次のような事が見えてきます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
一円保絵図の曼荼羅寺周辺(拡大)

①まんたら(曼荼羅)寺周辺にも条里制地割が見え、30軒近くの集落を形成していること
②曼荼羅寺周辺には、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」「小森」「畠五丁」と註があること。
③火山周辺には、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」と註があること
④一番西側(右)の「よしわらかしら(吉原頭)」が、現在の鳥坂峠の手前辺りであること。

①②の曼荼羅寺周辺については、ここが「小森」と呼ばれ、「畠五丁」ほどの耕地が開かれ、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」の領地であったことがうかがえます。
③火山の麓にも集落があって、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」という宗教施設とがあり、「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」であったようです。
④の「よしわらかしら(吉原頭)」にも集落がありますが、このエリアの条里制地割の方向が他と違っていることを押さえておきます。
なお、我拝師山周辺に山林修行者の宗教施設らしきものは見当たりません。それはこの一円保絵図が水争いの控訴史料として描かれたためで、それ以外の要素は排除したためと研究者は考えています。

一円保絵図 曼荼羅寺6

善通寺一円保を地図上に置いた資料
  ここで私が注目したいのは、④の「よしわらかしら(吉原頭)」の条里制ラインがズレていることですです。
曼荼羅寺周辺も多度郡の条里制地割ラインとは、異なっていることが見て取れます。この条里制地割のズレについて見ていくことにします。資料とするのは次のふたつです。
A「讃岐善通曼荼羅寺寺領注進状」(1145(久安元)年(1145)
B「善通寺一円保絵図」(1307(徳治2)年
Aには多度郡条里地割の坪付呼称が記され、さらに曼荼羅寺の坪ごとの土地利用状況が記されています。この2つの資料を元に曼荼羅寺周辺の小区画条里坪付けを研究者が復元したのが下図です。

上側が多度郡条里プランで、下が曼荼羅寺寺領になります。
多度郡条里制と曼荼羅寺

ここからは次のようなことが分かります。

①曼荼羅寺周辺の地割(下側)と、一円保絵図の多度郡条里プラン(上側)がズレていること
②曼荼羅寺周辺の地割が東西の坪幅が狭まく描かれていること。
ここからは、先ほど見たように吉原頭以外の曼荼羅寺周辺でも、多度郡条里プランとのズレがあることが分かります。つまり吉原郷には、独自に引かれた条里プランがあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 具体的には曼荼羅寺周辺の地割が、いつ頃、どんな経緯で引かれたのかということです。それを考えるために、7世紀後半に讃岐で行われた大規模公共事業をみておきます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加していくことがヤマト政権に認められ、郡司などへの登用条件となりました。地方の有力豪族達は、ある意味で中央政府の進める大土木行事の協力度合いで、政権への忠誠心が試されたのです。これは秀吉や家康の天下普請に似ているかもしれません。讃岐では、次のような有力豪族が郡司の座を獲得します。
①阿野郡の綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城や陶に須恵器生産地帯をつくり、都に提供すること実績を強調。
②三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯で生産した瓦を、藤原京に大量に提供し、技術力をアピール
③多度郡の佐伯氏は、従来の国造の地位を土台に、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示す。
 この時代の地方の土木工事は、郡司や地方有力者が担いました。そうすると多度郡条里制の施行工事も、周辺の有力豪族の手によって行われたはずです。多度郡南部の善通寺周辺を担当したのは佐伯氏でしょう。そして、我拝師山北側の吉原郷を担当したのがX氏としておきます。X氏は、前回述べたように古墳時代には、青龍古墳や巨石墳の大塚池古墳を築いた系譜につながる一族が考えられます。

一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図を取り巻く郷
私は曼荼羅寺とその周辺条里制の関係について、次のように推測しています。
①7世紀末の多度郡条里制地割ラインが引かれて、その工事を周辺の有力者が担当する。
②その際に、工事が容易な地帯が優先され、河川敷や台地は除外された。
③除外された台地部分に曼荼羅寺周辺のエリアも含まれていた。
④その後、吉原郷のX氏は氏寺である曼荼羅寺を建立した。
⑤さらに寺域周辺の台地の耕地開発すすめ、そこに独自の条里制地割を行った。

平地で造成がしやすいエリアから条里制地割工事は始められ、中世になっても丸亀平野では達成比率は60%程度だったということは以前にお話ししました。一挙に、条里制地割工事は行われたわけではないのです。台地状で工事が困難な曼荼羅寺周辺は開発が遅れたとことが考えられます。ちなみに曼荼羅寺周辺の南北方向の「小区画異方位地割」の範囲は、現状の水田化に適さない傾斜地の広がりとも一致するようです。
 我拝師山のふもとの吉原郷の台地に現れた曼荼羅寺のその後を姿を見ておきましょう。 
11世紀半ばの曼荼羅寺の退転ぶりを、勧進聖善芳は次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺に滞在しました。ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
ここからはそれ以前に「五間四面の瓦葺の講堂・多宝塔・別堂」などの伽藍が揃った寺院があったことが分かります。その退転ぶりを見て善芳は涙を流し、何とかならぬものかと自問します。そこで善芳は国司に勧進協力を申し入れ、その協力をとりつけ用材寄進を得ます。その資金を持って安芸国に渡って、材木を買付けて、講堂一宇の改修造建立を果たしたと記します。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動です。
以上を仮説も含めてまとめておくと
①善通寺エリアの佐伯氏とは別に、吉原郷には有力豪族X氏がいた。
②X氏の氏寺が古代寺院の曼荼羅寺である。
③律令体制の解体と共に、郡司クラスの地方豪族は衰退し、曼荼羅寺も退転した。
④退転していた曼荼羅寺を、11世紀後半に復興したのが遍歴の勧進聖たちであった。
⑤その後の曼荼羅寺は、悪党からの押領から逃れるために東寺の末寺となった。
⑥東寺は、善通寺と曼荼羅寺を一体化して末寺(荘園)として管理したので、「善通・曼荼羅両寺」よ呼ばれるようになった。

曼荼羅寺の古代変遷

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法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

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ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P





    買田岡下遺跡と弘安寺
買田岡下遺跡(R32号満濃バイパスとR377号の交叉点東側)
国道32号のバイパス工事の際に、買田の西村ジョイの南側から古代から近世まで続く村落遺跡が出てきています。これが買田岡下遺跡です。今回は、この遺跡を見ていくことにします。
テキストは「買田岡下遺跡調査報告書 2004年」です。

買田岡下遺跡 写真
買田岡下遺跡
 まず、その位置を確認しておきます。国道32号線と国道377号線の交差する買田交叉点の東側、西村ジョイの南側のバイパス下なります。現場に立って見ると、南側の恵光寺のある尾根から緩斜面が拡がります。北側は、金倉川が蛇行しながら東西に流れ、金毘羅山の丘陵(石淵)にあたって、北側に流れを変えます。

買田岡下遺跡の周辺遺跡について、調査報告書は次のように記します。
「背後の丘陵上には古墳時代中・後期の小古墳群の存在が知られるがその実態は詳らかではない。また白鳳期創建の弘安寺(廃寺)は 金倉川を挟んで約1,3km北方に位置する。律令制下、那珂郡真野郷は金倉川湾曲部以南の南岸部分一帯に比定され、買田地区はその西部に位置する。以東の地区とは標高120m前後の買田峠の丘陵によって隔てられており、鎌倉期には園城寺領買田庄が成立する。」

まんのう町条里制と遺跡

買田岡下遺跡周辺遺跡(赤は条里制跡)
以上を要約整理すると
①東の買田峠にはかつては、数多くの群集墳があり、岸の上の椿谷には中型の横穴石室を持つ古墳
②南の永生病院の西側には中世山城の丸山城跡
③北側や東側の平野部に白鳳期創建の弘安寺(廃寺)
④丸亀平野の条里区画の南端部の外側に位置する、
以上からは、買田岡下遺跡の周辺には
古墳時代の群集墳
→ 古墳後期の中型横穴式石室 
→ 白鳳期創建の弘安寺 
→ 那珂郡条里制の最南端
などが継続して、作られてきたことが分かります。ここからは、丸亀平野の南端エリアの開発を進めた古代有力者の存在が垣間見えると私は考えてきました。弘安寺の白鳳時代の瓦は、善通寺の影響を受けながら作られ、その同笵鏡が讃岐山脈を越えた阿波郡里(美馬市)の古代寺院から見つかっていることは以前にお話ししました。ここからは、古代から塩などの交易を通じて古代から阿波三好地域との活発な交流が行われていたことがうかがえます。そのような拠点集落が買田岡下遺跡であったのではないかという期待が私にはありました。

さて、発掘の結果何が出てきたのでしょうか。
買田岡下遺跡からは、古代・中世・近世の3つの時代の柱穴がたくさん出てきました。掘立柱建物跡は、下図のよう3つのエリアで見つかっていますが、それぞれ建てられた時代が次のように異なります。

買田岡下遺跡 区域

Ⅰ区中央は中世
Ⅱ区西南は古代
Ⅵ区は近世
 ここからは古代以来、集落が形成され続けてきたことが分かります。そして、古代と中世では、その存立基盤が次のように異なるとします。
古代 金倉川沿いのエリアを生産基盤として、阿波との交易拠点。
中世 恵光寺方面の南に延びる谷を開発し、谷田開発進めた勢力の拠点


買田岡下遺跡の注目点は、古代の大型の掘立柱建物の柱穴が大量に出てきたことです。
買田岡下遺跡 SB20 庇付
Ⅱ区南の大型の掘立柱建物 SB20とSB21

真っ直ぐに並ぶ柱穴を見たときには、「倉庫群」と思いました。「古代倉庫群=郡衙跡」とされています。そうだとすると、ここに那珂郡南部の郡衙跡的な施設があったことになります。さてどうなのでしょうか。

買田岡下遺跡SB20
Ⅱ区南のSB20を見ていくことにします。

買田岡下遺跡 SB20
SB20の平面図(南から)
この平面図からは次のようなことが分かります。
①梁間2間 (6.4m)× 桁行 5間(8,4m)
②柱穴平面は、径約0,4~0,7mの 円形か隅丸方形
③下側3列目の小さな柱穴は庇用。
④建物内部から須恵器杯蓋のつまみ、 土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)が出土
研究者は床面積が40㎡以上の古代の建物を「大型建築物」と呼んで「特殊用途」的建物と考えています。その基準からすれば床面積が約54㎡あるので、特殊用途の建築物です。しかし、よく見ると、3列の柱穴は小さいことです。これが庇用の柱穴だったようです。南側に庇があったことになります。倉庫ではなく有力者の居館だったと研究者は考えています。Ⅱ区を拡大して見ます。

買田岡下遺跡 古代部分拡大図
買田岡下遺跡Ⅱ区南 (左から SB20・SB21・SB25)
 3つの大型建物が並列して並んでいます。この中で廂や床束があるのが一番左のSB20で、これが主屋のようです。これを中心に2棟の副屋が配置されます。つまり、買田岡下遺跡には、9世紀半ばに廂付大型建物が3棟並んで建っていて、これは有力者の居館であったと研究者は判断します。

買田岡下遺跡 大型建物が並列する遺跡の類例
前田東・汲仏遺跡との比較
これと同じように、廂付の大型建物が「L」字に配置されているのが前田東・汲仏遺跡で、時代的には10世紀中頃のものとされます。これらは、丘陵の裾部にあったので地形的な制約があって真っ直ぐには配置されなかったためL字上になっているようです。
 研究者が注目するのは、建物の間に広場的空間があるかどうかです
中国の古代王朝の王宮などには、宮殿に南面して広場があり、ここが儀式やイヴェントの会場となる政治的空間でした。これが日本の藤原京や平城京にも取り入れられ、それが讃岐の国府にも見られます。そして、善通寺の稻木北遺跡には広場的空間を持つので、多度郡の郡衙候補を研究者は考えているようです。つまり、政治的空間である郡衛などには、南面して広場があるのです。
稻木北遺跡(8世紀前葉)

 買田岡下遺跡には、それがありません。あるのは居住に適した庇付大型建物です。そのため古代の郡衛などの政庁的建物ではなかったと研究者は判断します。私の期待は、見事に外れました。しかし、SB20からは、土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)がで出土しています。ここからは、空海が満濃池再築に帰省したときには、ここには集落拠点が姿を現していたことが考えられます。
広場を持たず、大型建物が並列する遺跡の類例を見ておきましょう。
買田岡下遺跡 古代大型建物配置

前田東・中村遺跡と汲仏遺跡(10世紀前葉)
③真っ直ぐではなく方位がやや振れた廂付大型建物が3棟並ぶのが買田岡下遺跡(9 世紀中葉~9世紀後葉)
④廂付を含む大型建物が「L」字にレイアウトされているのが前田東・中村遺跡・汲仏遺跡になる。
そして③④の発展系になるのが、


⑤東山田遺跡(10c 中葉~ 11 世紀前葉)
⑥下川津遺跡(11 世紀前葉)
⑦西村遺跡10c末葉~11c)
この段階になると、主屋と副屋の関係がはっきり見えてくるようです。

 このタイプが発展して、中世方形館へ成長して行くと研究者は考えています。
古代城郭教室(Ⅴ) 中世城館はどのように誕生したのか?] - 城びと
中世方形舘

このタイプの特徴は、「主屋と幅屋の明確化」でした。讃岐の中世前半期の方形館の特徴は、溝により囲まれた空間の中央の主屋、その周囲に複数の副屋が配置されることです。ここからは、両者の間に系統性が見られます。
改めて、買田岡下遺跡の発展系を整理して起きます。
①買田岡下遺跡の建物配置は、廂付き・床束を備えた1棟の大型建物(SB20)に並んで、副屋と見られる小型建物(SB21・SB25)がある。
②その発展系の西村遺跡などは、大型建物の近くに1棟の副屋がある。買田岡下遺跡との共通性は、廂付きの大型建物に床束をもつこと、大型建物が集落経営者の居住であること。
③西村遺跡(11 世紀末~ 12 世紀前半)は、溝で囲まれた空間の中に主屋と複数の副屋が配置されている
④空港跡地遺跡1は、溝区画内部に中央の主屋を中心に副屋が整然と配置されている。
以上からは、11 世紀中頃から集落断絶期を経て、③の西村遺跡には2棟あったの大型建物が 1棟のみに絞りこまれ、溝の内側に数棟の小型建物が集約されるようになったことが分かります。このような流れの中で、中世前半期に方形館が姿を見せると研究者は考えています。そこでは、買田岡下遺跡のSB20のような床束をもつ大型建物が中世方形館の主屋に多く採用されることになります。ここでは、買田岡下遺跡の10世紀の建物群は、古代後半に出現し、中世前半の方形館(武士の舘)に繋がるタイプであることを押さえておきます。

中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~ | 武将の道

つまり、買田岡下遺跡については、
①7世紀の白鳳時代からこの地を拠点にしていた古代の有力者の系譜につながる勢力
②あらたに買田の地域開発を進め中世の開発型名主につながるような新勢力の拠点の両面をもっていて①から②へ脱皮していった勢力であったことが推測できます。また、この遺跡のすぐ上には、江戸時代に庄屋を務めた永原家があります。永原家は、中世には買田丸山城の城主で、近世に帰農したと伝えられます。そうだとすれば、古代から中世、そして近世の永原家につながる系譜とも云えます。
 もっと大きな目で見れば、最初に見たように「古墳時代の群集墳 → 古墳後期の中型横穴式石室 → 白鳳期創建の弘安寺 → 那珂郡条里制の最南端」に追加して「買田地区の中世開発者(永原家の祖先)」という系譜が描けるのかも知れません。しかし、これはあくまで「想像」の世界です。どちらにしても、買田岡下遺跡は、古代の郡衛的施設ではないが、中世につながる有力者の拠点集落であったとは云えるようです。
 私がもうひとつ気になるのは、この遺跡が真野郷西部にあって、条里区画外であることです。
条里制 丸亀平野南部

上の条里制遺構図をみても赤い条里制跡は、買田岡下遺跡には及んでいません。これはここが古代の郷の中心部ではないことを示します。そういう目で、真野・吉野方面を見ると、四条方面から岸の上方面へと条里制は伸びています。丸亀平野の条里制のスタートは、7世紀末頃にスタートしたことが発掘調査から分かっています。そして、それを担ったのが国造クラスの豪族達で、彼らがその論功行賞で郡司へと成長して行くと研究者は考えています。そうだとすれば、このエリアにも条里制工事を進めた豪族がいたはずです。それが古墳時代に、買田峠に群集墳を造り、岸の上の椿谷に横穴式古墳を造営し、白鳳期になると四条地区に氏寺として弘安寺を建立したと私は考えています。しかし、その氏族の拠点としては、買田岡下遺跡は相応しくないように思えます。
以上、買田岡下遺跡について、まとめておきます。
①この遺跡は、古代には真野郷西部の条里区画外にあること。郷の中心部ではない。
②真野・吉野郷の中心は、弘安寺のあった四条地区にあったと考えられる。
③にもかかわらず買田岡下遺跡からは、帯金具や緑釉や、瓦片が多数出土しているので、この遺跡は特別な役割を持った拠点だった。
④その性格として、香川~阿波~高知のルート上にあるという立地を最大限に評価すべきと研究者は考えていること。
⑤建物配置から、郡衛の様な政治拠点ではなく、古代有力者の屋敷群であったと研究者は考えている。
⑥古代の屋敷群を継承するような形で、中世・近世の建物群が続いてあった。
⑦この遺跡のすぐ南には、丸山城城主が帰農した永原氏の家が現存すること。
⑤古代と中世では、この集落は全く別の意図で成立したことが集落であったこと。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
買田岡下遺跡調査報告書 2004年
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  前回は文献的問題から研究者が「空海が満濃池を築造した」と断定しないことをお話ししました。今回は、考古学的な立場から当時の治水・灌漑技術が丸亀平野全域に用水を送ることが出来る状態ではなかったことを見ていくことにします。                           

古代に空海が満濃池を築造したとすれば、越えなければならない土木工学上の問題が次の3つです。
①築堤技術
②治水技術
③灌漑用水網の整備
①については、大林組が近世に西嶋八兵衛が満濃池を再築した規模での試算がネット上に公表されています。これについては技術的には可能とプロジェクトチームは考えているようです。

満濃池 古代築造想定復元図2

②の治水工事のことを考える前に、その前提として当時の丸亀平野の復元地形を見ておきましょう。20世紀末の丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代から古代の遺跡が数多く発掘されました。その結果、丸亀平野の形成史が明らかになり、その復元図が示されるようになります。例えば、善通寺王国の拠点とされる旧練兵場跡(農事試験場 + おとなと子供の病院)周辺の河川図を見てみましょう。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵隊遺跡周辺の河川
 これを見ると次のようなことが分かります。
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。
②その微高地に、集落は形成されていた。
③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。
このような状況が変化するのは中世になってからのことで、堤防を作って治水工事が行われるようになるのは近世になってからです。放置された川は、龍のように丸亀平野を暴れ回っていたのです。  これが古代から中世にかけての丸亀平野の姿だったことは以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡 土地利用図
 土器川の大束川への流れ込みがうかがえる(飯野山南部の丸亀市飯山町の土地利用図)

古代から中世にかけての丸亀平野では、いくつもの川筋が網の目のようにのたうち回りながら流れ下っていたこと、それに対して堤防を築いて、流れをコントロールするなどの積極的な対応は、余り見られなかったようです。そうだとすれば、このような丸亀平野の上に満濃池からの大規模灌漑用水路を通すことは困難です。近世には、満濃池再築と同時に、金倉川を放水路として、四条川(真野川)の流れをコントロールした上で、そのうえに灌漑用水路が通されたことは以前にお話ししました。古代では、そのような対応がとれる段階ではなかったようです。
 丸亀平野の条里制については、次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
丸亀平野の条里制.2
 かつては「古代の条里制工事が一斉にスタートし、耕地が急速に増えた」とされていました。しかし、今ではゆっくりと条里制整備はおこなわれ、極端な例だと中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあることが発掘調査からは分かっています。つまり場所によって時間差があるのです。ここでは、条里制施工が行われた7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないことを押さえておきます。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。

弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡の灌漑水路網
最後に灌漑技術について、丸亀平野の古代遺跡から出てくる溝(灌漑水路)を見ておきましょう。
どの遺跡でも、7世紀末の条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展し、大型の用水路が現れたという事例は見つかっていません。潅漑施設は、小さな川や出水などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。この時期に灌漑技術が飛躍的に向上したということはないようです。
 大規模な溝(用水路)が出てくるのは、平安末頃以降です。
丸亀平野の川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿って、大きな溝(用水路)が出てきました。大規模な溝が掘られるようになったことからは、灌漑技術の革新がうかがえます。しかし、この規模の用水路では、近世の満濃池規模の水量を流すにはとても耐えれるものではありません。丸亀平野からは、満濃池規模の大規模ため池の水を流す古代の用水路跡は出てきていません。
ちなみに、この時期の水路は条里制の坪界に位置しないものも多くあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。
ここでは次の点を押さえておきます。

「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」

 以上から以下のように云えます。
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと
②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと
つまり8世紀の空海の時代には、満濃池本体は作ることができるとしても、それを流すための治水・灌漑能力がなかったということになります。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力がないと、水はやってきません。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
近世の満濃池の灌漑用水網

 しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか。もし、満濃池が存在したとしても、それは私たちが考える規模よりも遙かに小さかったのかもしれません。満濃池については、私は分からないことだらけです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、文献の上で「牟礼の青墓」が「神櫛王墓」になっていく過程を見てきました。それを「復習」しておくと次の通りです。

神櫛王墓の変遷
牟礼の青墓が神櫛王墓に変身していく過程

①17世紀は、神櫛王は阿野郡に在住したという古代伝承が一般的でした。そして、王墓については何も触れていませんでした
②ところが18世紀初めにの南海通記で「神櫛王が山田郡を治めた」「その子孫が神内・三谷・十河の三家」と書かれました。これが次第にいろいろな本に取り上げられ世間に広がって行きます。しかし、この時点では、墳墓については何も書かれていませんでした。後に神櫛王墓となる丘陵は、青墓と呼ばれて共同墓地として利用されていました。
③3期18世紀末には『三代物語」が、「青墓が王墓で、牟礼にある」とします。その後はこれが一般化されます。
④19世紀になると、青墓の上に建つ大きな二つの立石が、その墓石であるとされます。こうして、時代が下るにつれて、神櫛王=牟礼在住説は強化されていきます。以上、神櫛王の王墓が書物で牟礼にあったとされるまでの過程を見てきました。
 それでは、共同墓地だった青墓が現在の姿になったのはいつなのでしょうか。またそれはなんのために、だれが行ったのでしょうか。
神櫛王墓看板
神櫛王墓の説明版(牟礼町)

神櫛王墓の説明版には、墓所は「草に埋もれていたのを新政府の許可を得て、高松藩主だった知事が明治2年に再営」したと書かれています。
神櫛王墓整備後
神櫛王墓の古図(牟礼町史より)

これは牟礼町史に載せられている「再営」後の王墓を描いた絵図です。王墓山と書かれていています。2つの立石以外の石造物は撤去されています。絵図の下の注記には、次のように記されています。

明治2年、御国主より沙汰ありて、牟礼村の松井谷と申す所に墓地を移した。

P1240500
          松井谷墓地の青墓地蔵尊
現在の松井谷墓地には、青墓から明治初年に移されたという青墓地蔵があることは前回に紹介した通りです。その背面には、次のように記されています。
P1240498
青墓の地蔵さま

どうして、明治になってそれまであった共同墓地が移されたのでしょうか?王墓として「再営」されたのは、どうしてなのでしょうか。
それは、幕末に畿内の天皇陵とされる陵墓が、幕府の手によって修復整備されたことと関わってくるようです。その背景を見ておきましょう。
文久山陵図 / 外池昇 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 文久年間に(1861年)描かれた文久山陵図です。この中には当時の天皇陵とされた陵墓修復の「ビフォアー&アフター」が描かれています。一例に崇神天皇陵をみてみます。
文久陵墓 
左:修復前 右:修復後
二つの絵図の変化点を見ると、どのような修復が行われたのかがうかがえます。よく見ると①周濠の拡張②土堤の嵩上げ、③拝所の整備 ④高木の伐採整理が行われています。この修復に幕府が垂仁天皇陵に投じた金額は749両2分。この時に、神武陵も増築されていますがそれは1万両を越える工事費がかけられいます。この時には120の伝天皇陵の修復が行われています。ここから分かることは、現在私たちが見慣れている天皇陵は、幕末の大修復(大改造・拡張工事?)を経た姿であるということです。現在の姿は幕末に調えられたモノなのです。それではどうして幕末に幕府の手で、整備が行われたのでしょうか?
天皇陵改修のねらい

 幕末に朝廷への恭順をしめすために、天領陵とされる陵墓が幕府の手によって行われたことを押さえておきます。実は同じような情勢が明治維新に高松藩を襲います。

高松藩の神櫛王墓整備目的

①それは鳥羽伏見の戦いに高松藩は幕府方として出兵し敗れます。
②薩長土肥は、江戸遠征のためにも西国の徳川幕府の親族の各松平藩の勢力を削いでおく必要がありました。そこで高松藩や松山藩など西国の五つの松平藩を朝敵とします。こうして高松藩や松山藩には朝廷から官軍に任じられた土佐藩が錦の御旗を掲げてやってきます。これに対して高松城は、鳥羽伏見の指揮官を切腹させ、恭順の意を示し降伏します。こうして高松城は土佐藩に占領下の置かれます。高松藩は、新政府に8万両の献金をするとともに、朝敵の汚名をそそぐために涙ぐましい努力を重ねています。そのような一環として行われたのが神櫛王墓修復だったようです。

神櫛王墓の宮内庁管理

①高松藩は、維新の翌年明治2年には、神櫛王墓の修復伺いを出しています。
②明治3年には、それまで青墓とよばれていた共同墓地から墓石や地蔵などの石造物が撤去され、王墓として整備が完了します。
③明治4年になって、皇子陵墓の全国調査が行われますが、その時には神櫛王墓に終了していたことになります。
こうして見ると皇子の墓としては最も早い時期に整備が行われた王墓とも云えそうです。この早さは、異様に見えます。この背景には、高松藩の政府への恭順の姿勢を示すというねらいがあったと研究者は考えています。
 先ほど見たように幕末には、天皇陵とされた陵墓の修復(改造)が幕府の手によって行われていたのは先ほど見たとおりです。それを明治維新で、高松藩は各藩に先駆けて行ったのです。これには姻戚関係にあった京都真宗興正寺派の院主のアドバイスもあったようです。

神櫛王墓のその後
その後の神櫛王墓の果たした役割は

①こうして戦前は、神櫛王は讃岐の国造りの創始者として、郷土の歴史のスタートにはかならず取り上げられる人物となります。神櫛王を知らない香川県民はいなかったはずです。そして、その王墓も牟礼にあると教えられました。②そのため戦前には戦勝祈願の場所として、信仰対象にもなっていたようです。③それが敗戦によって、皇国史観が廃止されると神櫛王が教科書に登場することはなくなり、教室で教えられることはなくなりました。こうして神櫛王と王墓は、讃岐の歴史教育から静かに退場したのです。
 一方、牟礼の王墓が神櫛王の陵墓とされることによって、阿野郡や鵜足郡の陵墓とされていた所はどうなったのでしょうか。
そのひとつである飯山町法勲寺の陵墓跡を最後に見ておきましょう。

神櫛王 法勲寺1
綾氏の氏寺とされる法勲寺跡 後方は讃岐富士
     丸亀市飯山町の讃留霊王神社から眺める讃岐富士と古代法勲寺跡です。この左手の岡の上に鎮座するのが・・
神櫛王 法勲寺の讃留霊王神社

神櫛王墓とその神社です。しかし、神櫛神社とは書かれていないことに注意して下さい。神櫛王の諡とされる讃留霊王神社とされています。どうしてでしょうか。これは明治になって、神櫛王の陵墓は庵治にあると国家が認定したためです。神櫛王のお墓がいくつもあっては困るのです。そのため他の王墓とされてきた所は、神櫛王の名を名のることが出来なくなります。そこで別名で祭られることになります。そのひとつが讃留霊王の墓です。
讃留霊王神社説明版

神社の説明版です。祭神は神櫛王でなく、弟の建貝児王(たけかいこう)になっています。そして父はヤマトタケルになっています。しかし、神櫛王とは名のっていません。
最後に、牟礼の神櫛王伝説の経緯をまとめておきます
神櫛王牟礼

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

  P1240478
                牟礼町の神櫛王墓
前回に続いて牟礼町文化財協会総会で、お話ししたことをアップします。牟礼の神櫛王墓です。私は宮内庁管理の王墓が、白峰寺の崇徳上皇陵以外にあるのを、10年前までは知りませんでした。どうして、牟礼に神櫛王の王墓があるのかが気になって調べてみると出会ったのが「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号」です。今からお話しすることは、この論文を参考にしています。
讃岐府史の神櫛王記述
17世紀後半の讃岐府史 神櫛王についての記述は赤色のみ
江戸時代の初め頃、元禄年間に神櫛王については、どんなことが書かれていたのか見ておきます。讃岐府史は17世紀後半、初代の高松藩主松平頼重の時代に刊行された所で、讃岐の人物や陵墓などが記されています。神櫛王については「讃岐国造の祖、景行天皇の孫」だけです。押さえおきたいのは、この時点では、古代の紀記の内容と変化はないことです。陵墓についても何も書かれていません。それでは神櫛王が、東讃に定住したと最初に書いたのは誰なのでしょうか?

1櫛梨神社3233
神櫛王伝説は綾氏系図から分かれて、15世紀初頭に成立した宥範縁起に取り込まれていることが近年に分かってきました。宥範は琴平の櫛梨出身で、高松の無量寿院で学び、全国各地で修行を重ね、中世善通寺中興の祖とされる高僧です。そこに神櫛王伝説がとりこまれていきます。そこでは、上表のように凱旋地などが坂出福江から高松の無量寿院周辺に書き換えられていきます。つまり、神櫛王が高松周辺に定住したという物語になります。これを受けて「神櫛王=高松周辺定住説」が拡がるようになります。

南海治乱記と南海通記

この普及に大きな役割を果たしたのが香西成資(しげすけ)です。
彼は滅亡した一族の香西氏の顕彰のために南海治乱記を記します。その増補版が南海通記になります。彼は後に軍学者として黒田藩に招かれ大きな邸宅を与えられます。この2冊が発刊され人々の目に留まるようになるのは18世紀になってからです。『南海治乱記』は、神櫛王ついて何も触れられていません。神櫛王は、南海治乱記の増補版である南海通記に次のように登場します。

 南海通記の神櫛王記述
 南海通記の神櫛王記述

何があたらしく加えのか押さえておきます。
南海通記の神櫛王記述追加分

ここには①神櫛王が屋島浦で政務を執った ②神内・三谷・十河の三家は神櫛王の子孫であることがあらたに加えられています。南海通記は、軍記ものとしても面白く、読み継がれていきます。そして讃岐の戦国時代を語る際の定番となります。戦後に作られた市町村史も中世戦国時代については、この南海通記に基づいてかかれているものが多いようです。南海通記に記されることで、神櫛王=東讃定住説の知名度はぐーんと上がります。この時点では、神櫛王=鵜足郡定住説と屋島説の2つの説が競合するようになります。しかし、その墓については何も触れていません。

それでは神櫛王が屋島に定住したという根拠はなんなのでしょうか。
南海通記の神櫛王東讃定住根拠

①最初に見たように、日本書紀に神櫛王が讃岐に定住し、最初の国造となったこと
②続日本記に讃岐氏が国造であったと主張していること、そうならば讃岐の国造の始祖は神櫛王であるので、讃岐公は神櫛王の子孫であること
③その子孫が武士団化しのが神内・三谷・十河の三氏であること。神櫛王は東讃に定住し、その子孫を拡げ、その子孫が実際にいるという運びです。
これは筋書きとしては、無理があるようです。しかし、考証学や史料検討方法が確立するまでは、それが事実かどうかチェックのしようがありませんでした。イッタモン・書いた者の勝ちというのが実態でした。南海通記でプラスされた2つの内容が事実として後世に伝えられることになります。南海通記はベストセラーだけに後世への影響力が大きかったのです。

そして18世紀後半になると神櫛王の王墓が牟礼にあるする本が現れます。
三代物語の神櫛王
三代物語の神櫛王記述
①この本は増田休竟によって、南海通記公刊から約半世紀後に書かれた地誌です。②内容は郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。③彼の家は祖母・祖父・自分・兄と三代が、見聞してきた記録を残していました。そのうち重要なものを数百件集めて三巻となしたと巻頭に書かれています。ただこの本は、それまでの書物に書かれていなかったことが既成事実のように突然に紛れ込んできます。例えば、「実は崇徳上皇は暗殺された」という崇徳上皇暗殺説」などが始めて登場するのもこの本です。そのため取扱に注意が必要な資料と研究者は考えています。その中で神櫛王墓に関する記載を見ておきましょう。三木郡の所で次のように記されています。

三代物語の神櫛墓記述

①王墓牟礼にあり 
②神櫛王が山田郡高松郷(古高松)に住んだ
③そこで亡くなったので王墓に葬ったので王墓がある
と記されています。そして小さな文字で注記があります。拡大して見ると「青墓・大墓」とも呼ばれるが、もともとは王墓で、それが青墓に転じたとわざわざ説明しています。つまり、牟礼の共同墓地である青墓が、王墓であるというのです。視点を変えて逆読みすると、当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。さらに追加して、この書では青墓が神櫛王の王墓とします。
 王墓が青墓だったことは、現在は松井谷墓地に移されたお地蔵さんからも裏付けられます。
 このお地蔵さんに会いに行ってきました。
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牟礼町松井谷墓地の六地蔵
石匠の里公園の近くにある松井谷墓地の上側の駐車場の手間に六地蔵が並んでいます。その奥に佇んでいるのが青墓(現神櫛王墓)にあった地蔵さまのようです。近づいてみます。P1240501
神櫛王墓にあった青墓地蔵
背面を見てみます。
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青墓地蔵背面
願主同村最勝寺堅周」は読み取れますが、後はよく分かりません。史料によると次のように刻まれているようです。
青墓の地蔵さま
青墓地蔵背面の文章
宝永2年とありますので今から約320年あまり前に、牟礼村の人々が「青墓地蔵尊」を奉納した。願主は最勝寺堅周だったと記されています。ここからは現在の王墓が、300年ほど前は村民の墓地だったことが裏付けられます。この青墓地蔵さん以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机も地蔵さんの手前にあります。以上から神櫛王王墓は、江戸時代には共同墓地で、青墓と呼ばれていたことを押さえておきます。

さらに60年ほど時代が進んだ19世紀始めに書かれた全讃史を見ておきましょう。
全讃史の神櫛王


①仲山城山(じょうざん)が書いた全讃史です。15冊にもなる大冊です②この中には神櫛王について、屋島に舘を構えた、これが牟礼だとします。③陵墓については牟礼の王墓とします。ここまでは出版された書物に学び、そこに書かれていることを継承しています。そして、さらに新しい説を加えていきます。彼が注目したのは青墓に並ぶ石造物の中の二つの立石でした。それを見てみましょう。

三代物語の神櫛王墓2
仲山城山の神櫛王墓の立石図

このころになると個人の墓石が死後に立てられるようになります。青墓にも19世紀になると立石の墓石が立てられるようになったようです。その中でも大きくて目立つ立石が2つありました。それに中山城山は注目します。そして二つの立石の図を載せています。よく見るとこの立石には星座が刻み込まれています。修験者の愛宕大明神信仰によくみられるものです。牟礼は五剣山のお膝元です。五剣山は修験者や山伏にとって聖地で、全国から多くの修験者たちがやっきて修行し、中には定住するものも出てきます。その中には、ここにとどまり八栗寺の子院を形成し、周辺の村々への布教活動を行うものもいたはずです。それは、志度寺や白峰寺、三豊の八栗寺と同じです。この立石も修験者の活動の痕跡と研究者は考えています。
 さて図を見ると「王墓 牟礼村にあり」とあります。そして①大王墓 高さ五尺7寸 北面 神櫛王墓」、②北極星が描かれた小さい方が「小王墓、その孫(すめほれのみこと)の墓」と記します。
全讃史の神櫛王記述を整理して起きます。
三代物語の神櫛王墓認識


最後に江戸時代における神櫛王墓記述の到達点を見ておきましょう。幕末になると絵図が入った「名勝図会」というのが、全国各地で作られるようになります。讃岐では嘉永六年(1853)に全一五巻の讃岐国名勝図会が出されます。巻三に三木郡牟礼村の項があります。絵図では五剣山と八栗寺がセットで描かれています。
讃岐国名勝図会の牟礼
五剣山と八栗寺(讃岐国名勝図会)
その中に神櫛王の王墓について次のように記されます。
讃岐国名勝図会の神櫛王墓

讃岐国名勝図会の記述内容は、今までに見てきた神櫛王の記述の総決算・完成形のような内容になっています。①前半部分は『三代物語」を下敷きに、山田郡に大墓があるとされます。②そして後半部は、神櫛王が景行天皇の皇子で、母はいかわひめで、讃岐国造と記されます。これは日本書紀の記述に立ち戻っています。そして、ふたつある墓うちのひとつは、武鼓王(たけかいこう)としている点がこの書の独自性のようです。讃岐国名勝図会の作者が、先行する地誌や歴史書を参考にしながらこれを書いたことがうかがえます。こうして、幕末には「神櫛王墓=牟礼説」が定着し、王墓は牟礼にあるというのが、世間では一般的になっていきます。そして、神櫛王墓=坂出説を凌駕するようになっていたことを押さえておきます。
 それでは、共同墓地だった青墓は、いつどのようにして陵墓へと改修整理されたのでしょうか。それは、明治維新を迎える中で起こった高松藩の危機が背景にあったようです。それはまた次回に・・

神櫛王墓整備後
青墓改修後の神櫛王墓の絵図(牟礼町史より)

 参考文献
  「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

          P1240478
牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説


参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ


旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡とその周辺

弥生時代にの平形銅剣文化圏の中心地のひとつが「善通寺王国」です。その拠点が現在のおとなとこどもの医療センター(善通寺病院)と農事試験場を併せた「旧練兵場遺跡」になります。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2
瀬戸内海にあった平形銅剣文化圏
今回は、ここに成立した大集落がその後にどのようになっていったのか、その推移を追いかけてみようと思います。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
1 弥生時代中期から古墳時代初期までです。
①弥生時代後期前半期から竪穴式住居が現れ、その後は集落が継続的に存続していたこと
②掘立柱建物跡は、その柱穴跡直径が大きいことから、倉庫か、望楼のような高床か高層式建物。「善通寺王国」の形成
③古墳時代になると、住居跡の棟数が減少するので、集落の規模縮小傾向が見られること。


旧練兵場遺跡地図 
弥生末期の旧練兵場遺跡 中心地は病院地区

2 古墳時代中期から古墳時代終末期まで
  古墳時代になると、住居跡や建物跡は姿を消し、前代とは様子が一変します。そのためこの時期は、「活発な活動痕跡は判断できなかった」と報告書は記します。その背景については、分からないようです。この時期は、集落がなくなり微髙地の周辺低地は湿地として堆積が進んだようです。一時的に、廃棄されたようです。それに代わって、農事試験場の東部周辺で多くの住居跡が見つかっています。拠点移動があったようです。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺

3 奈良時代から平安時代前半期まで
 この時期に病院地区周辺を取り巻くように流れていた河川が完全に埋まったようです。報告書は、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

 川の流れが消え、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んでいた6~7世紀は、水田としての利用が困難な低地として放棄されていたことが推察できます。それが8世紀になり平坦地になったことで、農耕地としての再利用が始まります。農耕地の痕跡と考えられる一定の法則性がある溝状遺構群が出てくることが、それを裏付けると研究者は考えています。
 この結果、肥沃な土砂が堆積作用によってもたらされ、土地も平均化します。これを耕作地として利用しない手はありません。佐伯直氏は律令国家の手を借りながら、ここに条里制に基づく規則的な土地開発を行っていきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と南海道・善通寺の関係
 新しい善通寺市役所と四国学院の図書館を結ぶラインは、南海道が走っていたことが発掘調査からは分かってきました。南海道は、多度郡の条里遺構では7里と6里の境界でもありました。南海道を基準にして、丸亀平野の条里制は整えられて行くことになります。そして、南海道に沿うように善通寺も創建されます。善通寺市街地一帯のレイアウトも出来上がっていくことになります。

稲木北遺跡 多度郡条里制
 この時期に掘られた大規模な溝が、善通寺病院の発掘調査でも出てきました。
この溝は、善通寺エリアの条里制地割のスタートになった土木工事だと研究者は考えているようです。善通寺の条里型地割は、善通寺を中軸に設定されたという説があります。そうだとすれば、この溝は善通寺周辺の関連施設設置のための基軸線として掘られた可能性があります。
  また、古墳時代には病院地区には、住居がなくなっていました。それが奈良時代になると、再び多くの柱穴跡が出てきます。これは奈良時代になると、病院地区に集落が再生されたことを示します。

 次に中世の「善通寺一円保差図」には、このエリアはどのように描かれているのかを見ておきましょう。一円保絵図は、15世紀初頭に書かれたものです。
一円保絵図の旧練兵場遺跡
一円保絵図(柿色部分が善通寺病院敷地)
   中央上の黒く塗りつぶされたのが、この時期に築造されたばかりの有岡大池です。そこから弘田川が波状に東に流れ出し、その後は条里制に沿って真北に流れ、善通寺西院の西側を一直線に流れています。それが旧練兵場遺跡(病院地区)の所から甲山寺あたりにかけては、コントロールできずに蛇行を始めているのが見えます。弘田川は現在は小さな川ですが、発掘調査で誕生院の裏側エリアから舟の櫂なども出土しているので、古代は川船がここまで上がってきていたことがうかがえます。河口の海岸寺付近とは、弘田川で結ばれていたことになります。また、地図上の茶色エリアが発掘された善通寺病院になります。旧練兵場遺跡も弘田川に隣接しており、ここには簡単な「川港」があったのかもしれません。
金倉川 10壱岐湧水
一円保絵図(善通寺病院周辺拡大図)

一円保絵図に描かれた建築物は、善通寺や誕生院に見られるように、壁の表現がある寺院関係のものと、壁の表現のない屋根だけの民家があるようです。描かれた民家を全部数えると122棟になります。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺伽藍の真下(北)で弘田川東岸まとまり11棟
第4グルーフ 大きい山塊の右側のまとまり  15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊を挟んだ右側のまとまり 6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり   7棟

第1グループは、現在の善通寺の市街地にあたる所です。創建当時から家屋数が多かった所にお寺が造られたのか、善通寺の門前町として家屋が増えたのがは分かりません。
今回注目したいのは第3グループです。
このグループが、現在の善通寺病院の敷地に当たるエリアです。その中でも右半分の5棟については、病院の敷地内にあった可能性が高いようです。この地区が「郊外としては家屋が多く、人口密度が高い地域」であったことがうかがえます。
一円保絵図 東側

善通寺病院の敷地内に書かれている文字を挙げて見ると「末弘」「利友」「重次四反」「寺家作」の4つです。
この中の「末弘」「利友」「重次」は、人名のようです。古地図上に人名が描かれるのは、土地所有者か土地耕作者の場合が多いので、善通寺病院の遺跡周辺には、農業に携わる者が多く居住していたことになります。
 また「四反」は土地の広さ、「寺家作」は善通寺の所有地であることを表すことから、ここが農耕地であったことが分かります。以上から、この絵が描かれた時期に「病院地区」は、農耕地として開発されていたと研究者は考えているようです。
以上からは、古代から中世には旧練兵場遺跡では、次のような変化があったことが分かります。
①弥生時代には、網の目状に南北にいく筋もに分かれ流れる支流と、その間に形成された微高地ごとに集落が分散していた。
②13世紀初頭の一円保絵図が書かれた頃には、広い範囲にわたって、耕地整理された農耕地が出現し、集落は多くの家屋を含み規模が大型化している。

 室町時代から江戸時代後半期まで
ところが室町時代になると、旧練兵場遺跡からは住宅跡や遺物が、出てこなくなります。集落が姿を消したようなのです。どうしてなのでしょうか? 研究者は次のように説明します。
①旧練兵場遺跡は、条里型地割の中心部にあるために、農業地として「土地区画によって管理」が続けられるようになった。
②そのため「非住居地」とされて、集落はなくなった。
③条里型地割の中で水路網がはりめぐされ、農耕地として利用され続けた
そして「一円保差図」に書かれた集落は、室町時代には姿を消します。それがどんな理由のためかを示す史料はなく、今のところは何も分かならいようです。
 最後に明治中頃に書かれた「善通寺村略図」で、旧練兵場遺跡を見ておきましょう。

善通寺村略図2 明治
拡大して見てみます
善通寺村略図拡大
善通寺村略図 旧練兵場遺跡周辺の拡大図
旧練兵場遺跡(仙遊町)は、この絵図では金毘羅街道と弘田川に挟まれたエリアになります。仙遊寺の西側が現在の病院エリアです。仙遊寺の東側(下)に4つ並ぶのは、現在も残る出水であることは、前回お話ししました。そうして見ると、ここには建造物は仙遊寺以外には何もなかったことがうかがえます。そこに十一師団設置に伴い30㌶にもおよぶ田んぼが買い上げられ、練兵場に地ならしされていくことになります。そして、今は病院と農事試験場になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   旧練兵場遺跡調査報告書 平成21年度分

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
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旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
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 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。
そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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