前回は、坂出の醤油屋の長男として生まれた鎌田勝太郎が福沢諭吉と出会って、企業家・教育者として育って行く道筋を大まかに概観しました。今回は、醤油屋の息子から塩田経営者へ、そして銀行家など、産業人へと成長し、さらに政治家へとスッテプアップして行く姿を見ていくことにします。テキストは「 西尾林太郎 貴族院多額納税者議員鎌田勝太郎 一貴族院改革を中心に一 」です。
それは岡山の塩田王・野崎武吉郎との出会いでした。
7400円は明治15年の野崎家総収入のほぼ1/5にあたる大金です。野崎はその返済を求めて裁判所に提訴しています。これに対して鎌田勝太郎は債権者に代わって再建案を作成し、返済の暫時の猶予を野崎に申し出ます。この時の交渉相手が野崎家当主の武吉郎でした。この交渉を通じて、野崎武吉郎は、勝太郎の熱意と能力を認め、その申し出に応じるのです。こうして鎌田勝太郎は、これを機に自らも資金を拠出して塩生産会社を設立し、坂出の塩業復興に乗り出すことになります。 これが鎌田勝太郎の製塩業への本格的な進出となるようです。同時に、18歳の若い当主が同業者たちからリーダーとして認められることにもつながります。このきっかけをもたらしたのが野崎ということになります。 終生、勝太郎は野崎武吉郎を師と仰いだと伝記類には記されています。
武吉郎は、岡山県児島の野崎家に1848年8月31日に生まれていますので、鎌田勝太郎よりも16歳年上になります。父が早逝したため17歳で家督を相続している境遇が勝太郎によく似ています。家督相続の翌年1866年には、岡山藩の借上金8500を上納したうえに、総額2万両余を藩に提供しています。それだけの財力があった家なのでしょう。そのためか明治維新後に岡山県が成立すると、1877年(明治10年)まで勧業掛、勧農掛を務めています。
野崎家の財政基盤は、塩田経営(161㌶)にありました。塩田主として、野崎武吉郎は塩田減反政策である「休浜法」推進の立場に立ち、各地の塩浜集会に備前浜の代表として出席する一方で、次のような要求を政府に働きかけます。
1875年(明治8年)政府に対して清国塩況視察員派遣1876年(明治9年)以降、塩田保護を請願1884年(明治17年)十州塩田同業会を発足させ、岡山県支会を野崎家に設置1885年 農商務省の通達により十州塩田組合両備支部設置1887年(明治20年)十州塩田組合本部長に就任。
そして1890(明治23年)には、岡山県多額納税者として貴族院議員に互選されます。以後は、大日本塩業協会、大日本塩業同志会の創立・運営に関与し、塩業調査会委員を務め、日露戦争後の1905(明治38年)の「塩専売」の実現に尽力します。このような歩みに連携したのが鎌田勝太郎になるようです。
明治26年(1893)6月、株式会社坂出銀行取取に就任、宇多津塩田株式会社社長明治27年(1894)6月、讃岐鉄道株式会社取締役に就任。9月、衆議院議員に当選)明治29年(1896)5月、讃岐紡績株式会社々長就任 、7月 髙松銀行取締役に就任明治31年(1898)1月 讃岐農工銀行取締役に就任、5月讃岐貯蓄銀行監査役明治33年(1900)7月、塩産合資会社顧問。
これを受けて日清戦争の始まった1894年の衆議院選挙に勝太郎は出馬します。
意訳変換しておくと「我国ノ食塩ヲ清国二輸出セントスルノ拳ハ積年当業者ノ苦心経営スル所ニシテ」(中略)末尾で「我国今日二於テ予メ戦後ノ貿易二留意シ…〔中略〕…彼ノ清国ヲシテ塩禁制ヲ解カシメ以テ我食塩ノ輸入ヲ図ルカ如キハ其ノ急務中ノ最モ急務ナルモノトス」
「我国の食塩を清国に輸出することは、長年の塩業関係者の念願である」
末尾で「日清戦争の終結という時点で、戦後の我が国の貿易については…〔中略〕…清国に塩の輸入規制を解除させて、我が国の食塩の輸入を実現させることは、最も急務なことである。
①清国への塩輸出をめぐる運動の中心に鎌田勝太郎がいたこと②鎌田勝太郎が大日本塩業同盟会の団体利益の代表として、野崎らとともに活動していたこと
このことを知った野崎と鎌田は連名で、その年の9月、「政府ノ遼東塩業調査二依テ更二意見ヲ述ブ」というパンフレットを作成し次のように主張します。
中国への塩の輸出は山東半島産の塩の価格競争力が強くて、輸出には望みがないことが分かった。そこで自分たち塩田主は塩質の改善や生産費の削減を図りつつ、インド、豪州、欧米などの「塩況」を調査して輸出の道を講ずるべきである」
ちなみに日清戦争後の明治29年の東京市場における塩の価格は、1石(101kg)につき以下の通りでした。
赤穂塩 1円59銭輸入塩 85銭
そんな中で、明治29(1896)年に、鎌田勝太郎は衆議院議員を辞任します。
①成年皇族、25歳以上の公爵及び侯爵の家柄で構成された華族の5ランクのうち、上位2ランク)②25歳以上の伯爵、子爵、男爵の中から互選で選ばれた者③30歳以上の国家功労者または学識者の中から特に天皇に選ばれた者④30歳以上の高額直接国税納税者から互選され、天皇により任命された者
①5ヵ年で3500万円の増収、6年目からは地価修正により375万円の減税などということではたして財政基盤を強固にすることができるのか?②この増税案の衆議院通過にあたり政府は「種種なる卑劣な手段を用いた」、③重大なこの案件の衆議院での採決が無記名投票で行われたのはおかしい
鎌田勝太郎が発議者となって提出・成立した「植物病理研究所設置に関する建議案」を見ておきましょう。
①植物病理研究所設置②田畑地価修正案につき反対討論③軍備の充実と財政の確立④鉄道敷設の継続工事は地方開発上不可欠である⑤貴族院制度の改正
15議会の折、地租増徴に反対する鎌田に対し伊藤首相の幕僚・金子堅太郎が接近し、金子は鎌田を伊藤に引き合わせた。そして明治34年3月28日伊藤は鎌田を大磯の別邸に招き夕食を共にした。「伊藤侯ヲ大磯二訪フ。晩餐ヲ饗応サレ数時欺談ス」とその日の日記にある。この時伊藤から「君も政友会に入らぬか」と勧誘され、感激して入党を決意した。
しかし、これは事実ではないと研究者は指摘します。もっと以前から政友会入りを伊東から勧誘され、入党を決意していたことが次の鎌田から近衛への書簡から分かります。
陳ば春畝公の新政党愈発表相成候趣、右に対する御高慮は如何に御座候哉。未だ発表早々に付き当県内有志の意向も充分相分かり兼候へ共陰に同情を表し居候者、元進歩派に属するものにも有之、且他より勧誘を受け居候ものも有之、小生へも勧誘有之候。此際小生等親友両三輩の態度甚だ大切に付き、篤と閣下のご意見拝承致度候条、乍御面倒内々御洩らし被下度願上候。小生も来月二十日頃には出京可仕候に付き、其れ以前続々相談秘密に可有之と被存候に付、秘密に閣下のご意見御伺申上候。決して親友にも漏洩は致さず候条、御申聞被成下度願上候。 勿々頓首。八月二十六日 鎌田勝太郎霞山公侍史(近衛)
私(鎌田勝太郎)は、伊藤博文公の新政党結成について、近衛公がどのようにお考えなのかをお聞かせいただきたい。このことについては発表されておらず当香川県内有志の意向も充分相分かりませんが、陰より支援を表明する者、元進歩派に属する者には勧誘を受けている者もいます。小生へも勧誘がありました。この際、小生や親友両三輩の態度を決めるに当たって、近衛公のご意見をおうかがいしたいとおもいます。つきましては御面倒ですが内々にお洩らし下さいますよう願い上げてます。なお、小生も来月二十日頃には上京しますので、それ以前に相談は秘密裏におこなわれるでしょうから、閣下のご意見を伺っていただけないでしょうか。このことは決して親友にも漏らしません。 条、御申聞被成下度願上候。 勿々頓首。
八月二十六日 鎌田勝太郎
霞山公侍史
この手紙からは、伊藤が結成した政友会に対して、香川県の改進党・進歩党・憲政本党員の一部も関心を示し、鎌田自身も同調の関心があったことが分かります。これに対し近衛は8月29日に「これに加入するの不得策なる事」と、鎌田に返信しています。その後、鎌田は朝日倶楽部「月報」発行の準備を倶楽部の会務を何事もないかのように続けています。ところが12月22日に近衛に面会し同倶楽部脱会の旨を伝えると、その日の内に、書簡で政友会入会を申し入れています。ここからは鎌田の政友会入りは1900(明治33)年12月下旬には、実質的に決定されていたと研究者は判断します。明治1901(明治34)年3月28日の伊藤との会食は、その結果でしかなかったことになります。
「第一の問題たる塩専売法は意外にスルスルと安産、御同喜此事に御座候。全く大兄の御計画に基き候事トテ感謝二不勝候」
以上を整理・要約しておきます。
①明治維新以後、鎌田家は醤油醸造業から製塩業へと経営拡大を行っていた
②そのような中で経営危機に陥った同業者救済の過程で、児島の野崎武吉郎と懇意になった。
③野崎武吉郎は瀬戸内海の塩田主の利益代表として、貴族院議員として活動していた。
④野崎の勧めもあって鎌田勝太郎は衆議院議員、後には貴族院議員に転じて、製塩業主の利益確保ために活動した。
⑤そして、日露戦争を契機に「塩専売制」の実現を果たすなど、次第に政治力を増した。
⑥そのため4期28年の長きに渡って貴族院議員を務めることができた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 西尾林太郎 貴族院多額納税者議員鎌田勝太郎 一貴族院改革を中心に一