①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首十七年十一月十四日長谷川佐太郎大久保正史景山甚右衛門大久保諶之丞
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首十七年十一月十四日
それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓
募集株数 二、四〇〇株払込期限 明治31年5月5日取締役社長 樋口 治実専務取締役 赤尾 勘大取 締 役 山地 善吉外三名監 査 役 山地 健雄 富山民二郎支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願明治31年9月 西讃電灯株式会社創立。明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。
②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である
③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している
④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。
⑤そのために社長が短期間で交代している
⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。
⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。
⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。
入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや
意訳変換しておくと
電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。
増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。
石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
収入が支出の三倍を超える大赤字です。
こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
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