瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 金毘羅信仰と琴平

    2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
象頭山御本社(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅大権現の歴史を見ていくための資料として私が参考にしているのが金毘羅参詣名所図会です。すでに丸亀港から金毘羅門前までは見てきましたので、今回は仁王門から本堂までの部分を意訳して載せておくことにします。興味のある方は、御覧下さい。

金毘羅参詣名所図会 仁王門
金毘羅参詣名所図会図 絵図68 二王門 坊中 桜並樹 
上の左図内の挿入文章には、次のように記されています。

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。
   花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長
右Pの仁王門以下を意訳変換しておぃます。


  二王門  一の坂を上った所にあって、金剛神の両尊(仁王)を安置する。この門にかかる象頭山の額は、竹内二品親王の御筆である。
桜馬場  二王門をくぐると、左右に桜の並木が連なる。晩春の頃は花爛慢として、見事な美観である。金毘羅十二景の内の「左右の桜陣」とされている。この桜並木の間には、数多くの石灯籠や石の鳥居がある。

直光院 万福院 尊勝院 神護院
 4つの院房が桜の並木の右にある。並木の左後ろは竹藪である。
別業(べつぎょう)  
 坂を上って左の方にあるのが別業で、本坊金光院の別荘である。これも金毘羅十二景のひとつで「幽軒梅月(ゆうげんの梅月)」と題されている。

2


金毘羅参詣名所図会.jpg 金光院
      象頭山松尾寺金光院(金毘羅参詣名所図会)
これも意訳変換しておくと
象頭山松尾寺金光院  
古儀真言宗、勅願所、社領三百余石。
本坊 御影堂 護摩堂  その他に院内に諸堂があるが、参詣は許されず立入禁止である
御守護贖(まもりふだ)所 方丈の大門を入ると正面に大玄関があり、その右方にある。ここで御守護(お札)を受けることができる。護摩御修法を願う人は、ここに申し込めば修法を受けることができる。
神馬堂 本坊の反対側の左側にあり、高松藩初代藩主の松平頼重公の寄進建立である。神馬の姿は木馬黒毛の色で、高さは通例通りである。

茶堂 神馬堂の側にあり、常接待で参拝客を迎え、憩いの場となっている。
黒門表書院口 石段を上りって右の方にあり、これが本坊表口である。この内の池が十二景の「前池躍魚(ぜんちのよくぎょ)」である
     「前池躍魚」                       林春斉
同隊泳テ其楽  自無香餌投  焼岩縦往所  活溌□洋也

2-17 愛宕山
愛宕山(金毘羅参詣名所図会)

愛宕山遥拝所 道の左に愛宕山遥拝所があり、そこから向こうの山の上に愛宕権現が見える。
多宝塔  石段を少し登ると右の方にあり、五智如来を安置している。
二天門・多宝塔 金毘羅参詣名所図会
金堂竣工直前の金堂前広場(金毘羅参詣名所図会1847年)
この部分を見て気づくことを挙げておきます。
①金堂(現旭社)がほぼ完成していること。
②二天門(現賢木門)の位置が移されたこと。
③多宝塔から広場下の坂は、石段の階段がまだできていないこと。
④金堂前も石畳化されておらず、整備途上であること。

萬燈籠 金毘羅参詣名所図会

萬燈堂 多宝塔のそばにあり、本尊大日如来を安置する。常灯明である。
大鰐口  萬燈堂の縁にあって、径が約四尺余、厚さ二尺余、重すぎて掛けることができない。宝暦(1756)五乙亥年二月吉日、阿州木食義清と記す。阿波の木食(修験者)の寄進である。
古帳庵之碑  万灯堂の前にあり、天保十四年癸卯春正月建立されたもので、次のように記す
のしめ着たみやまの色やはつ霞 折もよしころも更して象頭山  江戸小網町 古帳庵
同裏 
天の川くるりくるりとながれけり あたまからかぶる利益や寒の水      古帳女

このあたりからの展望はよくて、十二景の「群嶺松雪(ぐんれいのしょうせつ)」と題される。
     群嶺松雪                林春斉
尋常青蓋傾ヶ 項刻玉竜横  棲鶴失其色  満山白髪生
同     幽軒梅月  是は前に記せし別業の事なり。
起指一斉光開 座看疎影回 高同低同一色 知否有香来


2-18 二天門

意訳変換しておくと
   二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した。
鐘楼  二天門をくぐった内側の右側にある。先藩主・生駒家の寄進である。十二景の「雲林の洪鐘」と題されている。
十二景之内 雲林洪鐘
 近似万事轟  遠如小設有鳴  風伝朝手晩  雲樹亦含声
四段坂・本地堂 金毘羅大権現
金毘羅大権現 四段坂の本地堂(金毘羅参詣名所図会) 
本地堂 金毘羅参詣名所図会

 意訳変換しておくと
本地堂 鐘楼から少し歩くと石の鳥居があり、その正面が本地堂である。本尊 不動明王。
石階(きざはし) 本社正面の階段の両側には石灯籠が数多く建ち並ぶ。
行者堂  石段中間の右方にあり、役(行者)優婆塞神変大菩薩を安置する。
大行司祠 当山の守護神であと同時に、毘沙門天、摩利支天の相殿の社でもある。
金銅鳥居 石段の中間、右方にあり、役行者堂の正面になる。
御本社  東向き、麓より九丁、山の半腹にあり。
金毘羅参詣名所図会 本堂
象頭山本社(金毘羅参詣名所図会)
 〔図70〕二王門内より御本社の宝前へかけ国守をはじめ、諸侯方よりの御寄付の灯籠彩し。紫銅あり、石あり、いずれも御家紋の金色あたりに輝き、良工しばしば手を尽せり。
切て上る髪の毛も見ゆ象頭山繋かるゝ如くつとふ参詣      絵馬丸
夕くれや烏こほるゝ象頭山

金毘羅大権現 本社 拝殿
金毘羅大権現 拝殿(金毘羅参詣名所図会)
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。

金毘羅本社よりの展望
本社からの展望(金毘羅参詣名所図会)

左の方に番所があり、開帳を願う人は、ここに申し出れば内陣より金幣が出され頂かせらる。本開帳料は、銀十二匁半、半開帳は六匁。
本社 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の本社周辺(讃岐国名勝図会 1854年)

三十番神社  本社の左方の石段の上にある。前に拝殿があり、本社の内陣にも近いので、このあたりでは不遜な行為は慎むこと。
経蔵  拝殿に並んであり、高松藩主松平頼重公の御寄付による大明板の一切経が収められている。釈迦、文珠、普賢、十六羅漢、十大弟子并に博大士(ふだいし)、普成、普建などを安置している。
紫銅碑(からかねのひ) 経蔵の傍にあって、上に「宝蔵一覧之紀」とある。下に細文の銘があるが略する。寛文壬寅二月日記之とあり、後に詳しく述べる。
観音堂  経蔵より石段を少し下りた右方にある。堂内には、絵馬が数多く掛っている。宿願のために参籠する者も、本社に籠ることは許されていないので、この観音堂にて通夜をすることになる。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)

金毘羅参詣名所図会 金毘羅観音堂2
金毘羅観音堂周辺(金毘羅参詣名所図会) 
本尊 正観世音菩薩 弘法人師真作
前立 十一面観世音菩薩 古作也。左右三十三体の尊像あり。
狩野占法眼元信 馬の画本額 堂内北の脇格子の内にあり。
土佐守藤原光信 祇園会の図奉額 同所に並ぶ。
後堂(うしろどう)
金剛坊尊師・宥盛の霊像を安置する。像は長三尺寸計り、兜中篠繋(ときんすずかけ)で、山伏の姿で岩に腰をかけた所を写し取ったものと云ふ。この金剛坊というの約は300年前、当山の院主であった宥盛僧正という僧のことである。権化奇瑞で死後、金毘羅大権現のの守護神となった。その像は初めは、本尊の脇に並べて安置していた。ところが、崇りが多くて衆徒が恐れるようになった。そこで尊霊に伺うと「我は当山を守護するので山の方に向けよ」と云ったので、今のように後堂に移した。
 先年250年遠忌に当たって、法式修行のついでにご開帳で参拝人に尊像を拝せた所、三日の間、開扉するとたちまち晴天かき曇って激しく雷雨となり、閉帳すると直ちに、また白日晴天にもどったという。

絵馬堂  
観音堂南の脇にあり、難風の危船漂流の図、天狗の面などの額、本願成就の本袖が数多く架かっている。その傍に奉納の紫銅の馬もある。

金毘羅金堂 金毘羅参詣名所図会

阿弥陀堂 絵馬堂の傍にあり、千体仏が安置されている。これも高松藩の松平頼重公の寄進である。
孔雀明王堂 阿弥陀堂に並び、仏母人孔雀明王を安置する。
籠所(こもりしょ) 孔雀堂の傍にある。参籠のために訪れた参拝人は、ここで通夜する。
神輿堂  観音堂の前にある。
観音坂  石段である。荒神社 坂の傍にあり。
蓮池  観音堂の南にあり、御神事の箸をこの池に捨るという。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現金堂(讃岐国名勝図会)
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作。

以下には金毘羅大祭が続きますが、これはまたの機会にします。
ここまで見てきて、気づいたり思ったりしたことを挙げておきます。
①近世の象頭山は神仏混淆の霊山で、金毘羅大権現と観音堂が並んで山上にはあった。
②山上の宗教施設に仕えていたのは神官ではなく社僧で、金光院主が封建的小領主でお山の大将であった。
③お札も金光院の護摩堂で社僧が祈祷したものが出されていた。
④金光院初代院主・宥盛は、神として観音堂背後に奉られていた。
⑤本地堂や役行者をまつるお堂などもあり、修験道の痕跡がうかがえる。
⑥金毘羅参詣名所図会(1847年)出版のために、暁鐘成が大坂から取材のためにやって来た頃は、金堂の落成間際で周辺整備が行われ、石垣・石畳・玉垣が寄進され、白く輝く「石の伽藍空間」が生まれつつあった時代でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅参詣名所図会(暁鐘成 著 草薙金四郎 校訂) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献  
金毘羅参詣名所図会 歴史図書社
香川県立図書館デジタルライブラリー 金毘羅参詣名所図会
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/digitallibrary/konpira/komonjo/detail/DK00080.html
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1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

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 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

満濃池 讃岐国名勝図会
      満濃池と池の宮(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
 讃岐国名勝図会の満濃池に関する記述と、その意訳変換を資料としてアップしておきます。

真野郷
此地初神野郷と書来りしか、嵯峨天皇御譚神野と申奉りしかハ、字音の同しきか故に、真野郷と改めしならん。其事諸記なしと雖も日本紀略大同四年九月二日乙巳、改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也と見えたり。其後弘仁十二年、富国より奏請して、弘法大師に萬濃池を築しめたまふ時の上書にも、神野郷と記さん事を憚て、真野と改めし物ならんか。後人の考を待。
意訳変換しておくと
真野郷
この地はもともとは、神野郷とされていたが、嵯峨天皇御譚神野と、字音が同じなのでお恐れ多いとして、真野郷と改められたのであろう。その記録はないが、「日本紀略」の大同四年九月二日乙巳に「改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也」とある。
 その後、弘仁十二年に弘法大師に萬濃池を修築させた時の上書にも、神野郷と記すことを憚って、真野と改めたものではないか。後人の考を待。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
    矢原邸と諏訪神社(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここでは、真野郷はもともとは神野郷であったという説が出されています。その理由が「嵯峨天皇御譚神野忌避説」です。しかし、これについては史料的な裏付けがありません。その他の古代・中世の史書に
は、「神野」という地名は出てきません。出てくるのは「真野郷」です。また、神野神社も近世前半までは、「池の宮」と記されています。敢えて「神野神社」と記すのは、一部の文書だけです。
 ここには、真野郷を神野と呼ばせたい意図があったことが見え隠れします。それは、神野神社を式内神社の論社とすることだったと、私は考えています。式内社の神野神社は、郡家の神野神社があります。これに対して、池の宮を神野神社として、論社化しようとする動きが近世後半から出てきます。それが満濃池築造と併せて語られ、「池の宮=神野神社」とされて行きます。
  
  讃岐国名勝図会 満濃池1
     矢原邸と諏訪明神(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
続いて満濃池本文を見ていきます。  
萬濃池 
同所にあり。十市池とも云。池の周廻八千五百間、水たまり二て二里三丁、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、富国第一の池なるに依て、萬濃太郎と云。中比廃して山田と成、堤長四拾五間、土廣さ六間、高サ拾弐間半、堤根六拾五間、三面八山也。漑田三万五千八百十石斗。貧呆長十八間、廣さ四尺弐寸、高さ弐尺八寸、穴壱尺六寸、櫓五ケ所二て、賓水穴十ケ所なり。営時水たまり深さ十一間。
意訳変換しておくと
萬濃池 
満濃池は真野郷ににあって、十市池とも呼ばれる。池の周囲は八千五百間、水が溜まると二里三丁(約9㎞)、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、讃岐国第一の池なので、満濃太郎とも呼ばれる。中世には、堤が崩壊してその姿を消して、池の中は山田となっていた。
 堰堤の四拾五間、堰堤幅六間、高さ拾弐間半、堤の根元幅六拾五間、三面は山に囲まれている。灌漑面積は三万五千八百十石斗。底樋長さは十八間、廣さは四尺弐寸、高さは弐尺八寸、穴は壱尺六寸、櫓(ゆる)は五つあり、満水時の水深は十一間。

讃岐国名勝図会 満濃池1
      満濃池 その2(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここから空海による満濃池築造が次のように記されます
 弘仁十年四月より七月迪、諸国雨ふらさりしかハ、公より諸国に令して池を掘らしむ。富国も溝渠をさらへ、池を築きける。同十一年より此池を築初しかと、目に除る大池なれハ、十二年にいたれともならす。諸人大に倦労れぬ。何ともすへからす。爰に人あり。沙門空海今都にあり、世人ミな其徳を慕ふ事、枯草の雨を待か如し。若爰二来ら八不日にならん、是に於て時の刺史其言を朝廷に奏す。同六月空海詔を奉して爰に至る。民大に歓ひ、堤にもまた日ならすしてなれり。同十三年勅して空海に新銭弐万を給ふ事日本紀略にみえた。

 寛仁四年時の国司碑銘を建さし給ふ。
其文次二出せり。治安年中、堤塘を更改す。爰に雖眼竜あり。此池に住む。傅云、寒川郡志度村の宿願と云者化する所也とそ。後此地を去て海に移る。其時堤防大に壊ると志度寺の縁起にみえたり(注1)。
 又元暦元辰年、大洪水二て 堤基破壊して跡方なくなりて、其後五百石斗の山田となり。人家なとも往々基置して、池の内村といふ。(弘仁十二丑年(む)、開発なして三百六十四年、池中満水なせし也、)
 爾後数多の星霜を経て、寛永三寅年閏四月七日大風雨二て、其後七月に至る法七十五日雨なく、大旱して、秋穀旱罹。一諸民餓死に及ひける。京都も井水涸て、草葉萎て糸になれるか如くなりける。
此年先封生駒の老臣西嶋八兵衛尤之といへる人、此池を再ひ築きにける。 普請奉行八福家七郎右衛門・下津平左衛門也。 今永世の助益となりて、下民其恩沢に 浴せり。生駒家国除の後、同十八年(ゆる)木朽腐しかと、国の大守なきによりて富郡木徳村の農民里正四郎大夫と云者をして、重修の事を幕府へ訴へ出ける。台命によりて富郡五条・榎井・苗田三村を池修補料と定給ふ。
意訳変換しておくと
弘仁十(819)年4月から7月にかけて、諸国では雨が降らず旱魃になったので、朝廷は諸国に命じて池を掘らした。讃岐でも溝渠をさらへ、池を築造した。翌年には、満濃池の築造に取りかかったが、それまでにない大きな池なので、12年になっても完成はしなかった。讃岐の人々は、すっかり疲れ果ててしまったが、どうしようもない。
 ここに人あり。沙門空海が今、都にいる。世人の空海の徳を慕ふことは、枯草が雨を待つかのようである。もし、空海が讃岐に帰国してくれたら・・・。これを讃岐の役人は朝廷に願いでた。こうして821年6月、空海は詔を奉じて讃岐に帰国することになった。民は大に歓び、堰堤は、あっという間に出来上がった。翌年13(822)年には、空海に新銭弐万貫が与えられたと、日本紀略には記されている。

満濃池 古代築造想定復元図2

   寛仁四(993)年 讃岐の国司が碑銘を建立した。
そこには次のように記されていた。治安年中に堰堤を修築したところ、独眼の竜が住んでいた。その竜は、寒川郡志度村の勧進者が龍となったものだと云う。その後、この池を出て海に去った。この時に、堰堤が大破したと志度寺縁起には記されている。
元暦元(1184)年、大洪水で堰堤が破壊して跡方なくなった。池跡は開墾されて、その後五百石ほどの山田となり、人家なども姿を見せて、池の内村と呼ばれるようになった。弘仁十二年に築造されて、364年の間、満濃池は存在していた。
 その後、長い年月を経て、寛永三(1626)年4月7日に大雨があった後、7月まで75日間も雨がなく、大旱魃となった。穀物は育たず、収穫がなく餓死者も出た。京都も井戸が涸れて、草葉は萎えて糸のようになってしまった。

西嶋八兵衛

 このような状況の中で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛と云う人が満濃池を再築することになった。
普請奉行は、福家七郎右衛門・下津平左衛門であった。こうして完成した満濃池は、永世の助益となって、下々の者までその恩沢を与えている。  
 お家騒動で生駒家が転封に騒動後も、寛永十八(1640)年に、池のユルの木材が腐っていまった。そこで、藩主不在の折に、那珂郡木徳村の農民・里正四郎大夫が、ユル替え工事を幕府へ訴へ出た。これを受けて幕府は那珂郡の五条・榎井・苗田の三村を池修補料と定めた。そのためこの三村を池御料と呼ぶようになった。

決壊中の満濃池
池御料の榎井・四条・苗田(白い部分:草色が高松藩)

讃岐国名勝図会 満濃池2
満濃池 その3(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
上のページを意訳変換しておくと
満濃池の底樋とユルの付け替え工事
 その後、高松藩祖松平頼重の時に、池御料所の代官である岡田豊前守殿・執政稲葉美濃侯に、満濃池修理費用は、高松藩と京極藩で負担することを申し出た。しかし、池修補料は巨額ではないが、三村はそのために、幕命によって設置された天領である、それに背くことは本位ではないという意向が伝えられ、沙汰止みとなった。その後、いくたびもの改修普請工事があったが、先例通りに、底樋やユルの材木費などは、池御料三村の租税で賄われてきた。
  
     ところがどういうことか宝永三(1706)年の改修工事の際に、代官遠藤新兵衛殿より、「以後は(幕府は)関与しない」と通達があり、現在のように高松・京極藩で取り扱うことになった。
 寛永8年の再興以来183年の星霜を経た文化十(1813)年に、苗田村の里正・守屋吉左衛門を中心に、池の底の土砂ざらえを行った。その際に、土砂を堤に土を置いて、六尺高くした。そのことを刻んだ碑銘を不動堂に建てた。
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満濃池の底樋とユル 底樋は四角い箱形
底樋の木造から石造への転換

 柚水木(ゆるき)は嘉永年中(1848)年ころまでは、周囲が3mあまりの巨木に穴を開けて、土中に埋めて、三十三年毎に交換を行う普請を行っていた。この時には、讃岐中の村々より人足数万人出て堤を切開き、土砂を荷ひ、底樋を掘出し、新木を埋めた。工期は、前年の8月より始めて、翌年春までには終えた。その費用は、多額に及び、筆紙に尽し難きい一大工事で、大イベントでもあった。

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満濃池堰堤の土固め

そこで村吏数人と協議して、巨木に換えて石材を使えば萬世不朽になり、費用削減につながり国益になると、衆議一決して、代官所に願い出た。それが許可されると嘉永五(1852)年4月より石材化の工事は始まり、巨木を除いて、石を使用した。
 満濃池樋模式図

底樋について「周囲が3mあまりの巨木に穴を開け・・」とありますが、これは事実誤認です
畿内の宮大工が見積書として一緒に提出した底樋の設計図が何種類も残っています。それは選ばれた最高の松材を使って、最先端技術で造られたものだったことが分かります。決して丸太を掘り抜いたものではありません。明治維新前後に、この辺りの記述は書かれたようですが、30年もすると過去のことが伝わって居ないことがうかがえます。

満濃池 底樋石造化と決壊
    満濃池 その4(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

底樋の石造化失敗と満濃池決壊
工事行程では、底樋の土と石がうまく接合せず、所々から水もれが起きた。それに対して、色々と工夫改良をこらして対処して、(1856)年夏には、堤塘はもとのように落成した。この成功で、代官所より関係者に、お褒めの言葉やその功に報いて格式が上げられる者も出た。また、着物や白銀を賜わる者もあり、諸民は安堵の思いをして歓んだ。

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1854年の満濃池の石造樋管(底樋)

 ところが、同年7月4日より樋のそばから水洩が始まった。
次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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金倉川改修工事で出てきた底樋石材


讃岐国名勝図会 満濃池5

 堤防決壊の被害と教訓
 貯水量が満水でなく、4割程度だったことは不幸中の幸いであった。天は、萬民を加護し、救ったとも云える。流れ出た水が金毘羅の鞘橋を越えて流れたことを考れば、もし満水の時に堰堤が切れていたならば、阿波町屋・金山寺町のあたりまで壱丈六尺高の水が流れ込んできたかも知れないと住民達は噂している。
 川下の村々も同じである。満濃池よりも四里(16㎞)下流の丸亀城下にまで流れ込んで海に落ちることもあると。これを教訓にして、川下の村々の人達も、油断することなく心の備えをすべきである。恐ろしいのは水の勢いである。正直第一にして信心して、仏神の擁護を願ふことである。あなかしこ。是を忘れ給ふな。
 
石造化計画の責任者を責めることなかれ
  底樋を木造から石造に転換したことが、堰堤決壊の原因で、責任はその計画者にあると非難する人もいる。そうではない。この計画は国益を慮り、多くの人々の労苦を思いやり、行った善事である。悪意で行ったものではないので、その人を罪してはならない。
 今昔物語に出てくるる魚が欲しくて満濃池の堤を壊した国司とは、雲泥の相違なのだ。天は、その善心を見て判断を下される。昔の如く堰堤が再び姿を見せる日も近いことだろう。

満濃池決壊拡大図
堰堤の切れた満濃池跡を流れる金倉川
讃岐国名勝図会の前編は安政4(1857)年に公刊されましたが、後編は公刊されることなく草稿本として明治まで保管されていました。その間にも、草稿を受け継いだ長男の手でいろいろな書き込み追加が行われていきます。以下の文章は、明治になってからの追加分になるようです。 

明治維新の長谷川佐太郎による満濃池再築
明治元辰年二至りて、王政復古旧政を御一新あり。
幕府権政を返上なせしかハ、天下一統旧政を改革なし、府藩懸の御政務決りしかハ香川料より主として今の池宮拝殿下二巨萬の大盤石のありしを、同二已年九月八日より、竪四尺除、横三尺五寸除、長弐拾八間除の水道を穿堀て、屈強成天然自然の賓水穴を開口始、同三年五月二至り穿拵て水道成就し、堤根八旧の如く六十間診堤を築重、桜・楓・桐嶋・さつき等を植置て池もとの如く造営成就なせし八、萬代不朽、天萬民を救助なし給ふ。時節到来のなせるなるべし。
 始め木を以て賓水道を通し、弐百年除、三十一年毎賓水木更とて、国中より幾萬の人足を出し、造替なせる民の辛苦をいとび、或人、嘉永年中其木を除きて石となしなバ、萬代不朽の栄なりとて人力を費せらしと。其後一とせも持たす流失なせしかハ斯なし。厚志の切なるを天道照給ひて今の如くなし候共、長谷川喜平次が忘眠丹誠成て数十年の辛労を天照覧なし、死後二至て則なれるも石の水道を思ひ付し八、今の如く自然の水道なれる魁なるべし。爰二於て遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎二弁当・割寵を携へ、爰二至る者の絶間
無りしかバ、堤の上二桟敷・机木を設て遊客を憩しめ、酒肴菓を商ふ者もあり。四時村民の潤となせる八、是も萬民を救ひ給ふ一助なるべし。)
意訳変換しておくと
明治元年になって、王政復古が行われ旧政御一新となった。
幕府が政権を返上したので、天下一統し旧政の改革が行われた。府藩懸の政務が固まると、今の池の宮拝殿の下に巨大な大盤石があることを見つた。そこで、同二年九月八日から、竪四尺除、横三尺五寸、長さ弐拾八間足らずの水道を穿堀することになった。こうして天然自然の底樋水穴の開口工事が始まった。同三年五月二に、隧道は開通した。また60間の堰堤も復活した。
 そこに、桜・楓・桐嶋・さつき等を植えて造営は完成した。こうして萬代不朽、天萬民を救助する満濃池が復活した。時節到来のなせるなるべし。

満濃池底樋石穴図(想像)
明治の底樋隧道化計画

③ もともとは木造底樋で水を通していたために、200年あまりに渡って、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。
④ それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。
⑤ 長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天は御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている。
⑥ こうして多くの人々が、弁当・割寵を携えて満濃池遊覧にやって来る。堤の上に桟敷・机木を設置して遊客に休憩所を提供し、酒肴菓を商う者もある。村民の潤の場として、萬民を救う一助ともなっている。
明治になって加筆された部分を要約しておきます。
①明治になって地下岩盤を開削し、底樋を通すことが計画された
②堰堤も再築され、そこに花木類が植えられた。
③底樋が木造の時代には、その改修のために多くの農民が動員され苦労した。
④それを長谷川喜平次は底樋を石造化することで解消しようとした。
⑤それは失敗したが、その上に現在の底樋隧道化の魁(さきが)けになった。
⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。
以上です。
ここで気がつくことは④⑤で、長谷川喜平次の底樋石造化を高く評価していることです。
これについては、長谷川喜平次については、当時の地元では評価が割れていたこと、特に農民層からは彼に対してや石造化計画を進めた庄屋たちに強い批判が挙がっていたことを以前にお話ししました。その中で、讃岐国名勝図会の作者は、長谷川喜平次を強く擁護していることを押さえておきます。
 長谷川喜平次とともに、底樋石造化を進めたのが三原谷蔵でした。
三原家は、真野村で代々政所を勤める家でした。満濃町誌には次のように記します。

三原谷蔵は、榎井村庄屋の長谷川喜平次と共に、満濃池の樋門を永世不朽のものとするため底樋の石造改修する等、水利開発や農民の救済に尽力した。嘉永元年より真野村庄屋を勤め、その間、安政年中には那珂郡大庄屋に登用され、慶応二年まで一九年の長期にわたって地方自治に貢献した。

つまり、長谷川喜平次を批判することは、大庄屋の三原谷蔵を批判することにつながったのです。そのために周りのとりまきの人たちは、類を及ばさないように長谷川喜平次を擁護したことが考えられます。
長谷川佐太郎

もうひとつ気になるのは長谷川佐太郎の名前が、どこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことがいまでは定説となっています。ところが、讃岐国名勝図会の明治後に加筆された部分には、長谷川佐太郎を登場させないのです。この時点で長谷川佐太郎の評価はいまと違っていたのでしょうか。あるいは意図的に無視しているのでしょうか。今の私には分かりません。

満濃池 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会の満濃池 鶴が舞う姿が描かれてる
最後の「⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。」という記述です
ここからは、満濃池が人々の行楽地となっていたことが分かります。堰堤からの四季折々のながめを眺望を、用意された休息所に座って愛でる文化が根付いていたようです。『金毘羅山名勝図会』には、人々が「朱の箭を敷」き「池見」を行ったと記します。

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)
金毘羅参詣名所図会の元絵とされる「象頭山八景 満濃池遊鶴」

以上、讃岐国名勝図会に記された満濃池をみてきまた。私は、以前には、ここには絵図しかないものと思っていました。しかし、実際に全文を見てみると非常に充実した内容です。これ以外にも省略しましたが、今昔物語の記事もあります。昔の人が満濃池の歴史を知ろうとすれば、まず、この図会を見たはずだと思いました。それだけ後の時代に影響を与えた図会であると改め思いました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
歴史資料から見る満濃池の景観変化 満濃池名勝調査報告書111P まんのう町教育委員会 2019年
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        表紙 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会
  以前に『金毘羅参詣名所図会』が、弘化4(1847)年に大坂の戯作者暁鐘成(あかつきかねなる)によって出版されたこと、その際に絵師も連れて、2ヶ月間の讃岐取材旅行の上で書かれていることをお話ししました。すると、「金毘羅参詣名所図会を現代語訳で読んでみたい」というリクエストをいただきました。私も現代語(意訳)と絵図をアップしておくことは意味のあることだと思うので、少しずつ載せていくことにします。しかし、巻頭からではなく、私の興味関心のあるところからアトランダムになります。悪しからず。


金毘羅絵図幕末

 初回は、金比羅の金倉川にかかる鞘橋から金光院までにします。

鞘橋 金毘羅参詣名所図会
鞘橋(金毘羅参詣名所図会)
鞘橋 
此の地の惣名を松尾といふ。故に寺を松尾寺といひ、又此所より出る人多く松尾氏あり。又家号を松尾屋となのる者多し。然れども昔より御神号を所の名にいひつたへ、只一円に金毘羅といひならはせり。 

売物の称にいふ
さやは橋の名につけて
真こゝろ見せの賑ひ
絵馬丸
意訳変換しておくと
この地の地名は松尾という。そのため寺は松尾寺で、この地には松尾氏の姓が多い。また家号を松尾屋と名のる者も多い。しかし、昔よりの御神号である金比羅の名をとって、いまではこの一円を金毘羅と呼んでいる。 

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
元禄時代の金毘羅祭礼屏風図の鞘橋 
橋の下の金倉川で沐浴する参拝者

金毘羅参詣名所図会の数年後に出される讃岐国名勝図会の鞘橋を見ておきましょう。
金毘羅門前町 阿波町 鞘橋 頭人行列
鞘橋(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会では、瀬川神事の際の行列が鞘橋を渡る様子が描かれています。
鞘橋 明治中頃
明治中頃の鞘橋

DSC00639琴平鞘橋とバス
現在地の神事場入口に移築された鞘橋
 唐破風造(からはふづくり)・銅葺の屋根を備えるアーチ型の木造橋。刀の鞘を連想させるその形からそう呼れています。橋の下に柱がないのも特徴で、川の上に浮かんでいるようにみえるので「浮橋」ともよばれました。現在のものは明治2年(1869)の改築に際し阿波鞘橋講中より寄進されました。明治38年に現在地に移築された後は神事専用の橋となっており、祭典奉仕の神職や巫女が渡るだけになりました。
金毘羅門前 鞘橋から内町 1880年

鞘橋を越えると内町です。
2-18 鞘橋 

内町 
鞘ばしの西詰より小坂までの間をいふ。左右旅宿屋軒をならべ何れも家建奇麗なり。坂の傍に庚申堂あり。右の向ふを壇の上といひ、此所に地蔵堂あり。此の辺至って繁昌なり。
十二景之内 五百長市 
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人
一之坂
大坂ともいふ。此の坂の間、左右名物の飴売店多し。詣人は家土産に需むること愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助に異ならず。
愛宕町
大坂の少し前より左へ入るところをいふ。此の町よりあたご山見ゆるゆへ斯くはなづけり。
意訳変換しておくと
内町 
鞘橋の西詰から小坂までの間を内町という。左右に旅宿屋が軒をならべるが、どれも建物が奇麗である。坂の登り口庚申堂がある。右の方に向かう道筋を壇の上と云い、ここには地蔵堂がある。この辺りは、いたって繁昌している。

(金毘羅)十二景の内の「五百長市」にあたる。  
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人 
一之坂
大坂とも云う。この坂の左右両側には、名物の飴売店が多い。参拝者が家土産に買い求める姿は、愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助と同じである。
愛宕町
大坂の少し手前から左へ入った町筋を愛宕町という。この町から愛宕山が見えるので名付けられた。

2-17 愛宕山
金比羅の愛宕山(金毘羅参詣名所図会2巻)
2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会(2巻13)
天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳もあまり必要ないようなので、このあたりは省略します。愛宕山については、現在は忘れ去られた存在になっていますが、もともとは修験者の愛宕山信仰の聖地で、山頂にも「愛宕大権現」が鎮座していたようです。金毘羅市中の警察・行政権を握っていたのは多聞院です。多聞院は全国からやって来る山伏たちを保護していたようで、愛宕山周辺には修験者たちが数多くいた気配がします。幕末には、阿波の箸蔵寺の山伏たちとの交流・連携もあった気配がします。
 愛宕山の向こう側の佐文には「ごま(護摩)谷」という地名も残っていて、護摩木を提供する山もあったようです。愛宕山については、関心があるのですが、切り込んでいく史料がなくて「停滞」しています。今後の課題です。さて、金毘羅参詣名所図会は、鐘楼・仁王門の手前までやってきました。ここで清少納言が登場します。

鼓楼 飴茶屋 清少納言古墳 金毘羅参詣名所図会

清少納言古墳(金毘羅参詣名所図会)
清少納言古墳
一の坂の上、鼓楼の傍にあり、近年墳の辺りに碑を建てり。
〔伝に云ふ〕往昔、宝永の年間、鼓楼造立につき此の墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女(清少納言
)の霊あらわれて告ける歌にうつゝなき跡のしるしを たれにかはとわれじなれど有りてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて本の儘にさし置れけるとぞ。
〔図癸〕清少納言古墳  桧扇とおぼせ手向の渋団   
                         長門国筆舎
象頭山八景 清氏塚秋雨 

まきあけし小簾のみゆきに古つかの
      ふりかはりぬる秋のむらさめ
侍雪中宮彼一時
空智孤塚象山陸
昔日無人買馬骨
千今秋雨為君悲 
        梅隠 
2-14 清少納言現る
清少納言が霊夢にあらわれる(金毘羅参詣名所図会2巻14)
清少納言塚のいわれについては、以前お話ししたので省略して、仁王門をくぐって行きます。

仁王門 金毘羅参詣名所図会
二王門 坊中 桜並樹 竹薗 神馬舎 茶堂(金毘羅参詣名所図会)

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。

花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長


普門院 - コピー
金毘羅参詣名所図会2巻16
普門院 右塚のむかふにあり、則ち坊中なり。
二王門
一の坂の上にあり、金剛神の両尊を安す。象頭山の額は竹内二品親王御筆なり。
桜馬場
二王門を入り左右桜の並木連れり。晩春の頃は花爛慢として美観なり。十二景の内にして左右の桜陣と題す。此の間、石灯籠数多且つ石の鳥居あり。
真光院 万福院 尊勝院 神護院
桜の並木の右にあり、左の後は竹藪なり。
十二景之内 左右桜陣                            林春斉
呉隊二姫笑 椰宮千騎粧 花顔誇国色 列対護春王
同     後前竹囲                            全
移得渭川畝 湘孫胎版多 百千竿翠密 本未葉森羅

別業
坂を上りて左の方にあり、本坊の別荘なり。景の内にして幽軒梅月と題す。
イメージ 6
桜の馬場
仁王門をくぐると坊中で、現在はここで五人百姓が赤い大きな傘を広げて金比羅飴を販売しています。

1 金毘羅 伽藍図2
金刀比羅宮の建物変遷
その右手に、かつては普門院・真光院 万福院・尊勝院・神護院の5つの院房がならんでいました。これらが金光院に奉仕する形で、金毘羅寺領の運営は行われていました。明治以後の神仏分離で、これらの5つの院房は「廃仏」で姿を消します。今は、金比羅教本部や宝物館などが建っています。
イメージ 7
桜の馬場

 仁王門を越えての空間は石畳と玉垣、そして灯籠がならぶ石造物の空間です。
このエリアは両側に桜が植えられて「桜の馬場」ともいわれて、春には桜並木となります。この桜の馬場は、次のように阿波の人達の寄進で整備されたものです。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、阿波の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進僧の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、5年間をかけて桜の馬場に石畳を完成させています。
『金毘羅参詣名所図会』が、公刊されたのが弘化4(1847)年のことですから、その時点では玉垣などはできていましたが、石畳はまだ姿を見せていなかったことになります。以前にお話ししたように、金毘羅さんの石段や石畳、そして石造物がすべてのエリアで調えられるようになるのは、案外新しく幕末になってからのようです。
今回はここまでとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地元で超少人数の「学習会」を開いています。今回は白川琢磨氏のお話が聞けることになりました。私たちだけで聞くにはもったいない機会なので、みなさまにもお誘いします。
 最近の金毘羅神研究者達は、この神様が近世に現れた流行神だと考えているようです。そして金毘羅神を象頭山に根付かせた宗教勢力は、修験者たちだったとします。こんぴら町誌もこの立場です。そのあたりのところを、宗教民俗学の立場からお話ししていただけるようです。私も白川先生の書いたものから、いろいろなことを学ばせていただいています。興味関心のある方は、是非おいでください。歓迎いたします。
 会場は満濃中学・図書館に併設されているスポーツセンターまんのうの会議室です。会費は資料・会場代200円。

白川先生の金毘羅大権現成立過程を紹介したもの。

 
金毘羅参詣名所図会
暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)

以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。  テキストは「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。

 『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。

今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
  意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
 現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」
②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
金毘羅参詣名所図会 「浪華川口出帆之図」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。

金毘羅参詣名所図会 第1巻目次
金毘羅参詣名所図会第1巻目次

目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
金毘羅参詣名所図会 第1巻分布地図
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。

虫開の瀬戸 金毘羅参詣名所図会第1巻
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻以後の巻ごとの名所色分けは、次の通りです。
金毘羅参詣名所図会 名勝分布地図
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺
3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺
4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津
5巻 緑  坂出 → 白峰  → 高松
6巻 青  屋島

2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 
3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。
 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
 最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
岩瀬尾八幡 讃岐国名勝図会
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。

屋島山南麓、古高松、吉岡寺、鞍懸松img35
屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)

『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。

「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」

意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」

 しかし、続編が出版されることはありませんでした。
 各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
金毘羅参詣名所図会 名所属性
金毘羅参詣名所図会の名所属性別分類表
A 最も多いのは③「堂塔伽藍 196ヶ所」、その次が②「神社仏閣 90ヶ所」で、寺社関係の名所が多い
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
 上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
 
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
金毘羅参詣名所図会 名所構図

ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと
②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡
③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている
④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
img000038小下津井
下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻

また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
鰆網 20111115_054301812
鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。

このような図絵の上部には和歌が添えられています。

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善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)

名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
 その萌芽が「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」だと谷崎友紀氏は指摘します。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)

 鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。

以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。

この「金毘羅参詣名所図会」の公刊の数年後に出版されるのが「讃岐国名勝図会」になります。

讃岐国名勝図会表紙

讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0027
天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
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肥後熊本藩の中老松洞が江戸屋敷赴任のために瀬戸内海を藩船で航行した紀行文を見ています。

瀬戸内海航路 伊予沖
周防・安芸・伊予沖の航路図(江戸時代)

旧暦3月8日に大分鶴崎を出港して、次の港を潮待ち寄港を繰り返しながら4日間で航行してきます。
周防の上関 → 大津浦(周防大島) → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗(呉市大崎下島) → 鞆(福山市)

 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
「金毘羅・宮島海陸案内図」
   上の案内図は「金毘羅・宮島海陸案内図」となっています。
しかし、この絵図の主役は手前の宮島にあったことが一目で分かります。宮島は鳥居から本社に至る細部まで描き込まれています。それに対して、金毘羅は象頭山が描かれているだけです。これは、18世紀当時の両者の知名度の差でもありました。近世始めに流行神として登場した金毘羅信仰が、庶民に広がって行くには時間が必要でした。上方から参拝客が本格化するのは18世紀半ばに、金比羅船が就航して以後です。さらに東国からの伊勢参りの客が、金毘羅まで廻ってくるのが本格化するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅は、この絵図に見られるように宮島詣でのついでに参拝する程度の宗教施設でした。
 この絵図は大きくデフォルメされているので、現在の地理感覚からすると、ついて行けない部分が多々あります。特に、四国側と中国側の港町の位置関係が大きくずれています。しかし。鞆の対面に讃岐の多度津や丸亀があるという感覚を、見る人に与える役割は果たしています。宮島から帰りに、金比羅に寄って帰ろうか、そのためには鞆から多度津へ渡る・・・。という地理感覚が形成されます。九州から上方や江戸に登っていく人達の感覚も同じであったようです。そのために鞆から真鍋諸島沿いに三崎(荘内)半島の紫雲出山を目指して、三野・仁尾や多度津に渡ってくる廻船も多かったことは以前にお話ししました。それをもう一度、押さえておきます。

庄内半島と鞆
鞆と荘内半島
  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。(意訳)
箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

微風の中を午前7時に出港した船は、夕方に多度津に着いています。その間のことは何も記しません。地理的な知識がないと浮かぶ島々や、近づいてくる半島なども記しようがないのかもしれません。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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           充真院
   桜田門で井伊大老が暗殺された後、幕府は治安維持の観点から大名の妻子を本国に移すように政策転換します。井伊直弼大老の実姉で、日向の延岡藩・内藤家に嫁いでいた充真院も64歳で、始めて江戸を離れ、日向への長旅につきます。充真院は当時としては高齢ですが、好奇心や知識欲が強く、「何でも見てやろう」精神が強くて、旅の記録を残しています。彼女は、金毘羅さんに詣でていて、その記述量は帰省中に立ち寄った寺社の中で、他を圧倒しています。それだけ充真院の金毘羅さんへの信仰や関心が高かったようです。前回は、金毘羅門前町の桜屋までの行程を見てきました。今回はいよいよ参拝場面を見ていくことにします。テキストは  神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。
幕末大名夫人の寺社参詣

内町④にある桜屋で休息をとった後に、本社に向かって出発です
   金毘羅に参詣するためには、今も昔も坂町からの長い階段を登らなければなりません。運動不足の64歳の大名夫人に大丈夫なのでしょうか、不安に覚えてきます。充真院は「初の御坂は五間(900m)もあらん」と記しています。まず待ち構えていたのこの五間(900m)の坂道です。

金毘羅全図 1860年
金毘羅全図(1860年)
充真院はこの坂道のことを次のように記します。

「御山口の坂は、足場悪くてするするとすへり(滑り)、そうり(草履)ぬ(脱)けさるやういろいろ、やうよう人々にたすけられ、用意に薬水杯持しをのみ、やすみやすみて・・」

足元がすべりやすいため草履が脱げないように、御付に助けられながら登り始めます。すべりやすい坂道を苦労して登ることは、高齢で歩くことに不慣れ充真院にとって苦難だったようです。準備していた水を飲んだり、立ち止まったりしながら登ります。
ここで押さえておきたいことは、次の2点です。
①1863年段階の坂町の坂は、石段化されておらず、滑りやすい坂道であったこと。
②参拝用の「石段籠」を使っていないこと。石段籠は、まだ現れていなかった?

坂道を登りきると次は石段が続きます。幾折にも続く石段を見上げて「石段之高き坂いくつも有て」と記します。そのうちに、「行程々につけて気分悪く、とうきしけれと」とあるので、気分が悪くなり、動悸までするようになったようです。「高齢 + 運動不足」は、容赦なく襲ってきます。しかも、この日は6月半ばといっても蒸し暑かったようです。気分が悪くなったのは、無理もないことです。

金毘羅伽藍
金毘羅伽藍図 本坊が金光院

しかし、ここからがながら充真院の本領発揮です。

「ここ迄参詣せしに上らんも残念と思ひ」

と、せっかくここ迄やってきて、参詣できないのは残念である、体調不良を我慢して石段を登り続けるのです。タフなおばあちゃんです。
「かの鰐口有し御堂の前には、青色の鳥居有」
「近比納りし由にて、誠にひかひか(ぴかぴか)して有り」
と、あるので御堂の青色の鳥居の所まで、ようやくたどりつきます。
しかし、ここまでで充真院は疲れ切っていました。

「生(息)もた(絶)へなんと思ひ、死ひやうく(苦)るしく成」

と、息が出来なく成りそうな程であり、死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだったと記します。それでも諦めません。
「さあらは急にも及ぬる故、少し休て上る方よし」  
「とうろう(灯籠)の台石にこしか(腰掛)け休居」
方針転換して、急ぐ必要はないので少し休憩してから登ろうということにして灯籠の台座の石に腰掛けて休みます。休んでいる間も「マン・ウオチング」は続けています。盲目の人が杖にすがりながら降りてくるのが見えてきます。それを見て、体が不自由な人も信心を持って参拝しているのに、このまま疲れたからといって引き返すのは「残念、気分悪い」と充真院は思います。そして、次のように決意するのです。
「御宮前にて死度と思、行かねしはよくよくノ、はち(罰)当りし人といわれんも恥しくて、参らぬ印に気分悪と思へは猶々おそろしく」
「夫(それ)より、ひと度は拝し度と気をは(張)り」
「又々幾段ともなく登り」
「死ぬのなら御宮に参拝してから死にたい、参拝しなければ罰当たりであると人に言われるのは恥ずかしい、参拝せずに気分が悪いというのはなおさら畏れ多い。とにかく一度は参拝しようと固く決意したのだ。頑張ろう」と自分にむち打ちます。そして再び登り始めます。

金毘羅本社絵図
金毘羅本社
 こうして、充真院は御堂(本社)にたどりつきます。
「御堂の脇に上る頃は、め(目)もく(眩)らみ少しいき(息)つきて」
「御堂のわき(脇)なる上り段より 上りて拝しけれと」
本堂に到着する頃には目が眩み息が少し荒くなっていました。それでも、本堂の横の階段から本堂に上がり参拝します。その時に、疲れ切っているのに、御内陣を自分の目で確認しようとしています。
「目悪く御内神(陣)はいとくろう(暗く)してよくも拝しかねしおり、やうよう少し心落付しかは薄く見へ、うれしく」
「御守うけ度、又所々様へも上度候へ共」
「右様成事にて、只々心にて思へる計にて御宮をお(下)りぬ」
意訳変換しておくと

日頃から目が悪く、物が見えにくいことに加えて、本堂内が暗いのでよく見えなかった。が、心が落ちついてからは薄っすらと見えてきた。目が暗さに慣れたからであろう。薄くでも見えたのでうれしかった。お守を授与されたり、他の御堂にも上がって拝みたいと思ったけれど、疲れが甚だしく、さらに目の具合も悪いので、希望は心に留め置いて、本堂を退出して下山することにした。

観音堂 讃岐国名勝図会
本社横の観音堂

下山路の石段の手前には観音堂があります。

案内の人から観音堂に上がって拝むかと聞かれますが、「気分悪く上るもめんとう(面倒)」なので外から拝むに留めます。苦しくても、外から拝んでいるところが、信心の深さかもしれません。
充真院が御付に助けられながら下山していることは、金毘羅側にも伝わります。
「本坊へ立寄休よと僧の来たりて、いひしまゝしたかひて行し所」

社僧がやってきて、本坊にあがって休憩するよう勧めたようです。その好意に甘え本坊に上がりで休息することになります。

金光院 表書院
金毘羅本坊(金光院)の表書院
本坊とは金光院のことです。充真院は金光院側が休憩するために奥の座敷に通されます。その際に、途中で通過した部屋や周囲の様子を、詳しい記述と挿絵で残しています。

表書院5

まず、玄関については
「りっは(立派)成門有て、玄関には紫なる幕を張、一間計の石段を上り」

と記し、挿絵として玄関先の造り石段、幕、その横の邸獨の植え込みと塀を描いています。挿絵には「何れもうろ覚ながら書」と添え書きをしていていますが、的確に描写です。

金毘羅表書院玄関
          表書院玄関
 玄関には社僧らが充真院を出迎えに出てきています。
そこから一間(180㎝)程の高さの箱段を上り、次に右に進み、さらに左に進むと一間半(270㎝)程の箱段を上がると書院らしい広い座敷があるところの入側を進む。この右へ廻ると庭があり少し流れもあり、植木もあり、向こう側では普請をしています。

金刀比羅宮 表書院4
 表書院
 ここで体むのかと思うと、さらに奥に案内されます。そこに釣簾の下がる書院がありました。これが現在の奥書院のようです。ここには次の間と広座敷があり、広座敷には床の間と違棚がついています。さらに入端の奥から縁に出て右に曲がると箱段があります。ここを上り折れて進むと、板張りの廊下があり直ぐ横の二間(360㎝)程の細長い庭のところに小さな流れがありがあり、朱塗りの橋が二つ架っています。この流れは、表座敷に面した庭に注ぎます。その向いに立派な経堂、さらに段を上り奥へと導かれ、十二畳程の座敷も通り過ぎ、ようやく休憩の部屋にたどり着いています。

5年ぶりに金刀比羅宮の奥書院公開!! | 観光情報 | ホテルからのお知らせ | 琴平リバーサイドホテル【公式HP】
奥書院
その部屋は大きな衝立や台子の有る上座敷で、
「立三間、横二間も座敷金はり付、其上之間之中しきりにはみすも掛け」、

とあるので、縦は三間(540㎝)、横が二間(360㎝)の広さで、周囲を金箔で装飾した豪華な部屋で、座敷の中仕切りとして御簾がかけてあったようです。その隣の上座敷にも釣簾が掛り、畳が二枚敷いてあった。その部屋の向こうには入側があり、庭が広がります。その向こうに讃岐富士が借景として見えてきます。
「庭打こし、海之方みゆる、さぬき富士と云はあの山かと市右衛門尋しかは、左也と云」

庭に出て海の方向を眺めると山が見えたので、市右衛門があの山は讃岐富士かと寺の者に尋ねたところ、その通りとの答えが返ってきます。
第57話 神の庭(奥書院)と平安・雅の庭(表書院) | 金刀比羅宮 美の世界 | 四国新聞社
奥書院の「神の庭」

庭にはよく手入れを施した植木や石灯籠が配してあります。丸い形に整えた皐月は折しも花盛りであった。上段を通りその向こうは用所、左側に行くと茶座敷と水屋が設けてあります。それをさらに行くと次の間があり、向いに泉水や築山がある庭という配置です。
 このように充真院が書いた記録には、書院の間取りが詳しく書かれています。
さっきまで苦しくて抱えられて下りてきていた人物とは思えません。「間取りマニア」だった充真院が、好奇心旺盛に周囲を珍しそう見回しながら案内される様子が伝わってきそうです。
 充真院は周囲を見た後に「座に付は、茶・たはこ(煙草)盆(出)し候」と、ようやく部屋に座り、出された茶や煙草で一服します。それから「気分悪く少し休居候」と体を横たえて休息をとっています。
「枕とて、もふせん(毛氈)に奉書紙をまきて出し候まゝ、よくも気か付て趣向出来候とわら(笑)ひぬ」
「ねりやうかん(練羊羹)と千くわし(菓子)出し候、至て宜敷風味之由」
金光院側が枕に使うようにと毛離をおそらく巻くか畳んで、奉書紙をかけて整えたものが用意してあるのを見て、充真院は良く気がついてくれたうえ趣向があると、うれしく愉快に感じ笑っています。さらに、と、練り羊羹と千菓子も用意してくれてあり、たいへん美味しかったと記します。疲れ果てた体に甘いお菓子はおいしく感じたようです。
下図2が休憩した部屋の挿絵です。


裏書院4

上が部屋とその周囲の間取り図で、下が休憩した部屋を吹き抜け屋台の視点で立体的に描いたものです。建物の間取観察は、充真院の「マイブ-ム」であったことは以前にお話ししました。「体調不良」だったというのに、よく観察しています。記憶力もよかったのです。上の間取り図には金光院側が用意した茶椀や菓子皿、煙草盆までが描き込まれています。この辺りは、現在の女子高校生のノリです。
 充真院が休憩している間に「八ツ比(午後2時)頃になっていました。御付の者たちは、充真院が体調不良となり、その対応に追われたので、昼食も摂れていません。そこで充真院は
「皆々かわリかわりに下山してたへん」
「そのうちには私もよからん」
と、御付たちに交代しながら下山して食事を摂るように勧めています。その言葉通りに、しばらくして充真院は気分が良くなったので、桜屋に戻ることとになります。
 金光院は、門前に駕籠を待機させます。それに乗って下山します。そのルートについては、次のように記します。
「少し道かわり候哉、石段もなく、初之たらノヽ上りの坂に出、桜やに行く」

ここからは、上りの道とは違った石段のない坂道を下って、桜屋に向ったことが分かります。
以上から私が気になった点を挙げておきます
①充真院参拝についての金毘羅側の対応が鈍いこと。
大名参拝や代参などについては、事前の通知があり、そのための使者の応対マニュアルに基づいて準備します。しかし、この記録を見ると、金毘羅側は本宮に充真院一行が現れるまで、やって来ることを知らなかったような気配がします。大名夫人の参拝と分かってから本坊の表書院に案内したように見えます。前日に、お付きの女中が先行したのは何のためだったのでしょうか。
②どうして金毘羅門前町で一泊しないのか?
早朝夜明け前に、多度津港に係留した関舟からスタートして、夜8時を過ぎて船に帰ってきます。
どうして金比羅の桜屋に泊まらないのでしょうか。宿場の本陣と違って、大名専用貸し切りなどが出来ず、一般客との同宿を避けるためでしょうか。それとも、幕末の藩財政難のための経費の節減のためでしょうか。多度津でも、町の宿には泊まっていません。当時の大名も御座船宿泊で、港には潮待ち・風待ちのために入港するだけだったのでしょうか。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。今後の課題としておきます。

また、善通寺の知名度が低いのも気になることです。充真院の旅行記には善通寺のことが出てきません。門前を通過しているので、触れても良さそうなのですが・・・。東国では、金毘羅と善通寺では知名度に大きな差があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

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充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
幕末大名夫人の寺社参詣―日向国延岡藩 内藤充真院・続 | 神崎 直美 |本 | 通販 | Amazon

充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

IMG_8072
金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
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箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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1 金刀比羅宮 講社看板

神仏分離以前の金毘羅大権現の祭神は「金毘羅神」でした。それが現在の金刀比羅宮の祭神は「大物主神」です。象頭山から金毘羅神は、追放されたようです。
ウキには次のように記されています。
  明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世の本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

    「大国主神=大物主」と説明される人もいますが、どうなのでしょうか?
 古事記では大物主について、詳しい説明はされていません。ただ、大国主命とは別の神であるとしています。一方『日本書紀』の異伝には、大国主神の別名としています。さらに異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されています。事代主神の別名が大物主神であったと張する研究者もいるようです。ここでは、大物主の由緒はよくわからないことを押さえておきます。 

 どちらにしても、それまで信仰していた金毘羅大権現を追放して、いままで聞いたことのない「大物主神」が祭神だと言い出しても、庶民たちは心の中では納得しにくかったようです。今でも金刀比羅宮は「海の神様」を売りにしているようですが、これを「大物主神」に関連づけて説明するのは苦しいようです。

さて本題に入ります。金刀比羅宮には、極彩色の「大国主神像」画があります。
この絵図は、幕末に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年が奉納したもので、元雪筆とあります。大国主神は小さな金嚢を左手に握っています。大黒天の「大黒」と大国主神「大国」の音が同じなので、混交して同一視されることがよくあります。また、大黒天も大国主神も大きな袋を背負っているので、姿もよく似ています。これが混交して「大黒天像」が「大国主神像」とされるようです。金刀比羅宮の「大国主神像」も大国主神を描いたものでなく、大黒天を描いた「大黒天像」であると研究者は指摘します。 それがどうしてなのかを今回は見ていくことにします。テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。
大園寺の勝軍大黒天
        勝軍大黒天(目黒区大園寺)
前回見た勝軍大黒天の誕生背景を、もう一度整理して起きます。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であること。
勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝軍大黒天ということになること。
大国天 5
『覚禅抄』の大黒天
そして、勝軍大黒天の特徴としては、次のような4点が挙げられます。
①片手に金嚢を持つ、
②片手に宝棒を持つ
③冑か宝冠をかぶって甲(鎧)をまとう、
④臼の上に片足を垂らして座る、
この視点から金刀比羅宮の元雪筆の「大国主神像」を見てみましょう。
金刀比羅宮 元雪「大国主神像」画
元雪筆の「大国主神像?」
右手に金嚢を持ち、左手付け、臼の上に右足を垂らして座っています。『覚禅抄』の中に、左手に小さな金嚢を持ち、右手は拳を握り、台の上に右足を垂らして座る大黒天の図が掲載されています。また、観世音寺。松尾寺・興福寺南円堂脇納経所の大黒天は、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。拳を握るのは、大黒天の特徴です。  ①・③・④を満たしていまが、②の宝棒は持っていません。しかし、その他の特徴からして、これは大黒天(勝軍大黒天)であると研究者は考えています。
金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」を、岡田為恭が模写したものもあります。
為恭は、幕末 1860年、宥盛上人の250年祭の時に金毘羅大権現から招かれた金毘羅にやってきて、3月10日から19日まで滞在しています。その間にお守りの木札の文字が古くて型がくずれていたのを直したり、小座敷の袋戸棚に極彩色の絵を描いたり、宝物を調査・分類したりしています。こうした縁で為恭の作品が、金刀比羅宮に百余点残っているようです。しかし、その内の半分は明治になって奈良春日大社の伶人、富田光美がもたらしたものです。白書院の天丼の竜は、寸法を計って帰り、帰京後描いて翌年の文久元年(1861)6月18日に京都から献上使が預かってもち帰ったものです。
 金毘羅滞在中に模写したひとつが、元雪の「大国主神像」のようです。
大黒天模写
       為恭の「大国主神像」模写(着色なし)
研究者が注目するのは、為恭が模写した「大国主神像」の向かって右上の黒く塗りつぶした部分です。ここには、最初は「大国主神像」と書いたのが、為恭途中で「大国主神像」とすることに疑問を感じて、墨で黒く塗りつぶしたと研究者は推測します。つまり、為恭は「大国主神像」ではなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」であると知っていたことになります。同時に江戸時代末期には、この絵は金毘羅では「大国主神像」と名前が付けられていたことも分かります。

『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』
『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』

為恭は金毘羅大権現に滞在中、いくつかの作品を模写しています。
その模写した作品の中に、元雪筆「大国主神像」がありました。元雪は江戸時代の狩野派画家で、ふだんから勝軍大黒天を信仰していたようです。彼は勝軍大黒天に彼独自の工夫を加えています。例えば、それまでの勝軍大黒天.は黒い甲冑を着けていましたが、元雪はきらびやかな甲や宝冠をまとわせています。ある意味、新しい独自の勝軍大黒天像を描きだしたと研究者は評します。

金毘羅大権現の大黒天
金刀比羅宮の大黒天
 元雪の描いた勝軍大黒天像が、どのような経過をたどったかは分かりませんが、宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年の所有となり、金毘羅大権現に奉納されたようです。江戸時代後期には、「金毘羅大権現=大国主神(大物主神)」であるという俗説が広められていました。その影響を受けて勝軍大黒天像が大国主神(大物主神)として金毘羅大権現に奉納されようです。
金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名勝図会
弘化4年(18478)刊行の『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神について次のように記しています。
金毘羅大権現、祭神未詳、あるいは云ふ、三輪大明神、また素蓋烏尊、また金山彦神と云ふ.

『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神を未詳として、三輪大明神(大物主・大国主命)、素垂鳥尊、金山彦神の名をあげます。しかし、これらの三神は金毘羅大権現ではありません。金毘羅大権現は全毘羅坊(黒眷属金毘羅す)という天狗だったことは以前にお話ししました。
 金毘羅大権現=大物主神(大国主神)というのは俗説ですが、その俗説の影響を受け、勝軍大黒天像が金毘羅大権現に奉納されます。それは、大国主神と大黒天は混交して同一視されたからでしょう。
  以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」がある。
②しかし、それは本当は「大国主神像」でなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」である。
③大国主神と大黒天は混交して、同一視された。
④大国主神と混交したのは大きな袋を背負った大黒天であって、小さな袋を持った大黒天ではなかった。
⑤金毘羅大権現では、誤って小さな金嚢を持つ大黒天像を、「大国主神像」とした
⑥これがただされることなく現在に至っている。
 金刀比羅宮所蔵「大黒天像」は、普通の大黒天のように黒い甲冑をまとったものでなく、きらびやかな甲(鎧)を着け、さん然と輝く宝冠を戴いた姿です。これは、他に類のない貴重なものです。正しい名前で呼んで、評価することが価値を高まることにつながると研究者は評します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

大黒天 | 天部 | 仏像画像集

前回はインドのシヴァ神の化身だった大黒天が、日本にやって来て「打出の小槌と俵」をアイテムに加えることで富貴のシンボルとして信仰されるようになるとともに、日本神話の大国主神と混淆していく過程をみてきました。今回は、大黒天のその後の発展過程を見ていくことにします。  テキストは「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」です。
もとはインドの大魔神であった・大黒天│沖縄県那覇市の密教護摩祈祷、祈願寺

室町時代になると、打出の小槌を持ち、俵の上に乗る日本独自の大黒天は、盛んに信仰されるようになります。
そして室町時代末期に七福神が考え出されると、大黒天はそのメンバーに仲間入りします。夷・大黒天・毘沙門天・弁才天・福禄寿・寿老人・布袋の七つを、七福神といいます。福禄寿と寿老人は同じものであるので、このどちらかのかわりに吉祥天を加えることもありました。
大黑天 七福人
七福人に仲間入りした大黒天
大黒天の流行の中から新たに登場してくるのが三面大黒天と勝軍大黒天です。
三面大黒天は、大黒天・弁才天・毘沙門天を合体させて三面六胃像になります。三面大黒天の持ち物は、一定してないようですが、延暦寺のものは俵に乗り、その中面は大黒天で剣と宝珠を持ち、左面は弁才天で鍵と鎌を持ち、右面は毘沙門天で鉾と宝棒を持っています。まずは、この登場の背景について見ておきましょう。
大黑天 比叡山

   比叡山では最澄が唐からもたらした大黒天は、各院の食厨に大黒天像が祀られ、修行僧たちの生活を維持してくれる神として崇敬されてきました。そんな中で、比叡山では護国の三部経の尊が次のようにされます。

大黑天 比叡山2
大黒天は『仁王経』
弁才天は『金光明経』
毘沙門天は『法華経』
つまり、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することになるとされたのです。三面大黒天を祀ることは三部卿信仰にもつながることになります。この言い伝えを拠り処にして、三面大黒天は成立したと研究者は考えています。
三面大黒天のご利益と効果

 こうして比叡山で登場した三面大黑天は、今までは黒くて怖い顔から、次第に柔和な親しみやすい面相に変化していきます。蓮の葉の上に立っていた木像も、俵の上に載せられるようになります。
 三面大黒天へと変身することによって、新たな「流行神」として、京都の人々に受け入れられて大流行します。文化の中心である京都での流行は、地方に伝播していきます。こうして、比叡山で信仰されていた大黒天が、三面大黑天に変身することで、全国的デビューを果たしたことになります。それは室町末期の風流や流行神の時代背景の中でのことのようです。
三面大黒天信仰 新装2版の通販/三浦 あかね - 紙の本:honto本の通販ストア

こうして誕生した三面大黒天のその後を見ておきましょう。
室町末期に七福神がグループとしてデビューし、大黒天はそのメンバーに迎え入れられます。そして、七福人の人気が高まるにつれて、大黑神の認知度も上昇し、より多くの人々に信仰されるようになります。この上昇気流が、三面大黒天という新たな大黒天を生み出したことを押さえておきます。大黒天信仰が盛んなのを見た延暦寺の僧は、全く新しい民衆のニーズにあった大黒天をつくって、民衆の信仰を得ようとします。それだけの柔軟性が比叡山にはあったことになります。
大園寺の勝軍大黒天
      勝軍大黒天(目黒区大園寺)

 三面大黒天と同時に考案されたのが勝軍大黒天のようです。
勝軍大黒天は黒い唐風の甲冑をまとい、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負って、臼の上に右足を垂らして座っています。臼に座っているのが勝軍大黒天がポイントのようです。臼は脱穀や精白を行うための道具で、精白をした米を入れる容器です。俵と臼は密接につながっています。俵に乗る大黒天の影響を受けて、勝軍大黒天は臼に座わる姿で登場したようです。
 比叡山延暦寺大黒堂の勝軍大黒天は、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、額上に如意宝珠の付いた宝冠を戴き、身に甲をまとい、自の上に左足を垂らしています。延暦寺本坊の勝軍大黒天は、右手に手三量貢を持ち、左手に宝棒を持ち、宝冠をかぶって、臼の上に右足を垂らして座っています。
 .東京都目黒区大園寺の勝軍大黒天は、左手に金嚢を持ち、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、甲冑をまとい、臼の上に左足を垂らして座っています。
大将軍
京都大将軍八神社の大将軍神
勝軍大黒天の成立の背景を研究者は次のように考えています。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であるというのです。大将軍神像は、衣冠束帯の座像と立像が二十二体、武装の座像と半珈像が四十三体あります。

大将軍2
 武装の半珈像(京都の大将軍八神社)
武装の半珈像の中には、右手に剣を持ち、左手の人差し指と中指を揃え立てて印を結び、唐風の甲冑をまとい、岩座の上に左足を垂らして座ったものもあります。このような大将軍神半珈像と、『南海奇帰内法伝』に出てくる大黒天半珈像を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天と研究者は考えています。勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。

「大黒天+大将軍神」=勝()軍大黒天

ということになるというのです。そうだとすれば勝(将)軍大黒天の甲冑は、大将軍神から貰ったものになります。
江戸時代になると大黒天はさらに人気が高まり、様々な種類の大黒天像が造られます。
江戸期の『仏像図彙』には、次の六種の大黒天が載せられています。
「摩訶迦羅大黒、比丘大黒、王子迦羅大黒、夜叉大黒、摩訶迦羅大黒女、信陀大黒」の六種です。これについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神に取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②日本に伝わってきた大黒天は「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、それを背負うために立姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。
⑦室町時代になって七福人の仲間入りすることで流行神の性格を帯びるようになり、新たな大黑新が生まれてくる
⑧比叡山では三面大黑天や勝(将)軍大黒天が登場し、京都の庶民の流行神となる。
⑨それが各地に伝播し、江戸時代になると大黒天ファミリー版の六種大黒も登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
      「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」
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大黒天 シヴァ神
踊るシヴァ神
インドのヒンズー教では、次の神々を三大神として信仰しています。
ブラフマー 創造
ヴィシュヌ 維持
シヴァ   破壊
仏教は、ヒンズー教で信仰されていた神々を数多く取り込みます。三大神の中でも、ブラフマーとシヴァは、仏教にとり入れられ、ブラフマーは梵天になり、シヴァは大自在天・青頚観音・摩臨首羅・大黒天に「権化」します。
 シヴァ神が恐ろしい戦闘神になる時には、三面六腎で全身に灰を塗り、黒い色になります。大黒天のことをマハーカーラとも云いますが、マハーは「大」、カーラは黒の意味のようです。

大黒煙1

大黒天のル―ツは戦闘神のシヴァ神で、次のふたつの姿を持っていることを押さえておきます。
①戦闘モードの忿怒の三面六腎大黒天
②福神モードで袋を持った一面二臀大黒天

密教の胎蔵界曼荼羅には、三面六臀大黒天が描かれています。
大黒天は、胎蔵界曼茶羅では外金剛部中の左方第三位にいます。

三面大黒天 マハーカーラ 青面金剛 三宝荒神 庚申塔 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市
大黒天(マハーカーラ)
そこでは①「全身黒色で忿怒怒相をしていて、火髪を逆立てた三面六腎像」=忿怒の戦闘モード」のお姿で描かれています。
その姿を見ておきましょう。
①右第一手は、剣を握って膝の上に置き、左第一手は一手は剣の先端を持ちます。
②右第二手は合掌した人間の頭髪を握ってぶらさげ、左第二手は白羊の角を握ってぶらさげます。
③左右の第三手は象の生皮を背後に掲げます。首には髑髏を貫いたネックレスをかけ、腕には毒蛇を巻いて腕輪としています。体には人間の死灰をを塗り、黒色になっています。
大黒天4

これが怒りモードの大黒天のようです。大黒天の怒りの姿は余り見ることがないので、これが大黒天と云われてもすぐには信じられない姿です。これも「権化」としておきましょう。

しかし、インドのマハーカーラ神は、あまり見かけることのない神で、ヒンドゥー教のなかではそれほどポピュラーな存在ではなかったようです。それがどうして、日本にやってくると大黒天として、大人気をよんだのでしょうか。それはマハーカーラ神が日本で、独自の進化発展・変身をしていったからのようです。
 日本の大黒天には、次の四種の姿があるようです。
①忿怒相としての大黒
②天台系寺院に見られる武神の装束を身につけ、左手に宝棒、右手に金袋を持つ像
③袋を背負った立像
④「三面大黒」で、正面が大黒天、脇の二面が毘沙門天と弁財天
①②も大黒天として日本に入ってきましたが庶民に信仰されることはありませんでした。庶民から信仰されるようになったのは③です。そして、その後に④が生まれてくると云う流れになるようです。

マハーカーラ神からの変容については、弥永信美氏が次のように述べています。
誰にも知られ、親しまれている大黒天が、古来、日本の密教では恐ろしい像容をもって描かれていることを知っている人は、それほど多くはないかもしれない。たとえば、もっとも普及した現図胎蔵曼荼羅の図像では、大黒天は摩訶迦羅という名で知られ、三面六臂、前の二手では剣を横たえ、、右に小さな人間を髪つかんで持ち、左に山羊の角をつかみ、後ろの二手は、左右で象の皮を被るように広げている。曼荼羅の数々の忿怒相の諸尊のなかでも、これほど恐ろしい形相の尊像は多くはない。「おめでた尽し」の福の神・大黒天が、一方ではこの恐るべき忿怒の形相の摩訶迦羅天と「同じ神」であるとは、いったいどうしたことなのだろう。(略)
つまり大黒天とは、本来、ヒンドゥー教のシヴァ神の眷属であったのが仏教の守護神とされ、さらに厨房の神から日本では福の神として信仰されるようになった、というふうに要約することができるだろう。弥永信美『大黒天変相』74-76P
真読】 №18「大黒天、寺の食厨(くり)を守る」 巻一〈祈祷部〉(『和漢真俗仏事編』読書会) - BON's diary

          インドの大黒天(マハーカーラ)

求法のためにインドに赴いた義浄の「南海寄帰内法伝」には、大黒天について次のように記します。

西方の諸大寺処にはみな食厨の柱側に於て、或は大庫の門前に在りて木を彫りて形を表す、或は二尺三尺にして神王の状を為す。坐して金嚢を把(と)り、却(かえ)って小状に鋸し、一脚を地に垂る。毎に油を将(も)って拭ひ、黒色を形と為す。(中略)淮北には復た先に無しと雖も、江南には多く置く処あり。求むれば効験あり、神道虚に非ず。

ここからは次のようなことが分かります。
①インドの諸大寺では食厨の柱や大庫の入口に高さ二尺(約60㎝)~三尺(約90㎝)の二臀大黒天の本像を安置していていたこと、
②その木像は片手に金嚢を握り、小さな台の上に片足を垂らして座っていること。
③人々は供養のため、油でそれらの木像を拭うので、黒く光っている。
④中国の江南地方では、よく二腎大黒天を祀っているが、淮北地方では全く祀っていない

  大黒天のルーツは、ヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身・破壊と戦闘を司る神マハーカーラでした。
戦闘色の強い忿怒の神で、その名前の意味は「偉大なる暗黒」です。「黒」の文字が「大黒天」につながっているようです。しかし、私たちの大黒天のイメージは、財福の神として、温和な姿の大黑さまです。ここに出てくる大黒天とマハーカーラはイメージが違います。それがどんな風に繋がっていたのでしょうか?

大黒天 長谷寺
長谷寺の大黒天 片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っている。

平安時代になると、日本でも大黒天信仰が広がります。
最澄・円仁・円珍などの入唐した天台の高僧が、大黒天を請来します。最澄は大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置します。最澄が請来して延暦寺の食厨に安置した大黒天は、インドで義浄が見たものと同じもので、片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っています。

覚禅(平安末期~鎌倉前期の頃の僧侶)の著した『覚禅抄』に、三態の大黒天の次のような図が載せられています。

大黒天三体
           大黒天三態
①左 『伝神憧記』の大きな袋を背負って立つ一面二臀大黒天
②中央『南海奇帰内法伝』の小さな金嚢を持ち、片足を垂らして座る一面二腎大黒天、
③右  胎蔵界曼茶羅の忿怒相をした三面六臀大黒天
③→②→①の順に「進化」していくようです。
真ん中の大黒天の嚢を強調して生まれたのが、左側の大黒天のようです。嚢を強調した結果、小さな金嚢は大袋になります。大きな袋を背負うために大黒天は立ち姿になります。
 最澄が入唐した時、中国ではインド伝来の②の大黒天が盛んに信仰されていました。そのため最澄は②の大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置したと研究者は推測します。①や③の大黒天は、その後に円仁や円珍が請来したのでしょう。③の大黒天が伝えられると、③の大黒天が②の大黒天に取って代わり、②の大黒天は衰退し、現在ではお姿を見ることはなくなりました。②の大黒天は室町末期に勝軍大黒天に生まれ変わり、信仰を集めますが、それまでは鳴かず飛ばずでした。
大黒天三態

福岡の観世音寺にある藤原時代初期作の大黒天像を見ておきましょう。
大黒天 観世音寺
観世音寺の大黒天像
この大黒天像は左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。

奈良の文化と芸術 松尾寺の大黒様
松尾寺の大黒天
奈良県矢田松尾寺や奈良県興福寺南円堂脇納経所にも、観世青寺のものに似た大黒天像があって、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握るスタイルです。
木造大黒天立像(だいこくてんりゅうぞう) - 法相宗大本山 興福寺
興福寺の大黒天

この二つの大黒天像は、観世音寺のものより新しく、鎌倉時代前期のものです。しかし、これを大黒天といわれても「????」です。何かが足りないのです。それは、打ち出の小槌と米俵と、温和な笑顔でしょう。それは、後で見ることにして・・。

大黒天2
打ち出の小槌を持ち、俵の上に立つ大黒天
この大黒天が神話に出てくる大国主命と混交します。
『古事記』上巻の「大国主神と菟と鰐の条」には、次のように記されています。(要約)
大国主神とその兄弟の八十神は、因幡の八上比売に求婚するため、因幡の国に出掛けたが、大国主神には大きな袋を背負わせて、従者として連れていった。途中の海岸で隠岐島から鰐(鮫)を欺いて本土に渡った菟が、本土の寸前で欺いたことがばれて鰐に皮をはがれて泣いているのに出会い、八十神は出鱈目の治療法を教えた。しかし、大国主神は正しい治療法を教えて菟を救った。八上比売は八十神の求婚を断り、大国主神を夫とした。

ここからは、大きな袋を背負った大国主神と大きな袋を背負った大黒天とが混交して、同一視されるようになったことがうかがえます。
仏像の種類:大黒天とは、ご利益や真言】ふくよかな七福神…しかし実は武闘派戦闘神!開運最強の三面大黒天!|仏像リンク

③の大黒天に打出の小槌と俵が与えられるのは鎌倉時代の後期になってからです。

日本独自の、打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、俵の上に乗る大黒天の登場です。佐和隆研『日本密教 その展開と美術』(NHKブックス323P、昭和41年)323Pには、次のように記されています。

「版画で仏像をあらわしたものをもって、それをお守りにするということは天台、真言両系統で行なわれていた。そのお守りは「九重のお守り」と言って、それぞれの系統の修験者、ひじりたちが本山から受け取って地方に持ちまわって、売り歩いたものである。このお守りの起源がいつごろまで遡りうるものか、文献的には明らかでないが、鎌倉時代末期ごろにはあったと推定されている。このお守りは、諸種の種子曼茶羅を中心としたものをはじめとして、日本人の信仰の対象になっている、多くの諸尊の姿をならべたものなど、種々の系統のものがある。この最古の例は金沢文庫所蔵の一本で、鎌倉時代末期ごろと推定されている。」

ここからは鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」が使われたこと分かります。
大黒天 九重守

「九重のお守り」には、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになります。

九重守・九重守経・九重御守
九重守りに印刷された仏たち

林温「荼枳尼天曼荼羅について 仏教芸術』二一七号、毎日新聞社発行、1994年)には、「九重のお守り」について、次のように記されています。(要約)
奈良県西大寺蔵の木造文殊菩薩騎獅像内に納入された九重のお守りには、「弘安八年(1285)二月信聖」という記がある。この九重のお守りは、諸種の曼茶羅・真言・図像などを列挙したもので、図像だけでも六十三種が印刷されている。釈迦や観音といった伝続的な仏尊の他に、日本で変貌した日本独自の仏像も登場する。例えば、十五童子を眷属として従えた弁才天(宇賀弁才天)、白狐の上に乗った天女子・赤女子・黒女子・帝釈使者の四天を従えて剣と宝珠を持った女神が辰狐の上に乗る荼枳尼天(だきにてん)、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天などが印刷されてている。
 神奈川県称名寺蔵木造弥勒菩薩像内に、右に良く似た九重のお守りが納められていた。称名寺の九重のお守りには西大寺の九重のお守りにない地蔵十三や晋賢十羅刹女があり、西大寺の九重のお守にはある天形星が称名寺の九重のお守りにないとか、西大寺の九重のお守りの聖天は人間の男女が抱き合うものであるのに対して称名寺の九重のお守りの聖天は象頭人身の男女が抱き合うものであるといった、若干の違いは存在するけれども、基本的には両者は合致するものである。
 称名寺の方が西大寺よりもいくらか古く、弥勒菩薩像内に、納入されたその他の多くの品とともに弘安八年(一二七八)頃のものと思われる。
ここからは、鎌倉時代後期には九重のお守りの尊像の一つとして、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天が、印刷されていたことが分かります。

鎌倉時代の大黒天は、左で大きな袋を背負い、右手は拳を握っていました。
このような大黒天に打出の小槌と俵を与えることで、日本独自の打出の小槌を持ち、大きな袋を背負い、俵の上に乗る大黒天が生まれたようです。興福寺走湯や河内大黒寺の大黒天彫像は、左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、俵の上に乗っている姿です。その姿から鎌倉時代後期のものとされます。鎌倉中期から後期の初めにかけての頃に誕生した日本独自の大黒天は、最初は九重のお守りにとり入れられ、それがやがて彫像とされるようになったようです。

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神にに取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②中国では特に「富貴福禄」の部分に焦点が当てられ信者が増えた。
③日本に伝わってきた大黒天も「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、大きな袋を背負うために大黒天は立つ姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」に、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになり、広範に知名度を上げていく。
⑦知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。

大黑神と大国主の混淆
大黒天と大国主の混淆まで

以上、インドのシバ神の化身が、日本神話の大国主神と混淆するまでの物語でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。

 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。



 金毘羅神は近世始めに、西長尾城主の長尾氏出身の宥雅によって、生み出された流行神です。
土佐の長宗我部元親の侵攻の際に宥雅は堺に亡命します。無住となった松尾寺伽藍を元親は、土佐の有力修験者であった南光院(宥厳)に与えて、讃岐支配のための拠点宗教施設にしようとします。元親撤退後も宥厳とその弟子であった宥盛は、金比羅を「修験道=天狗道」の拠点にしていきます。その信仰の中心に据えたのが「金毘羅神」です。中心施設も松尾寺の本堂から「金毘羅堂」へ移っていきます。それまでの本堂観音堂の場所に、金比羅堂が移築拡張されます。それが現在の本殿になります。そして、金比羅神を祀る神社としての金毘羅大権現、その別当寺としての松尾寺という関係が生まれます。この時期には、多くの有力修験者がいて、子院を形成していたようです。その中で最も有力になっていくのが金光院です。宥盛の時代に金光院は、生駒家の力を背景に、その他の子院や三十番社などの宗教勢力と抗争を繰り返しながら、金毘羅における支配権を握っていくことは以前にお話ししました。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗・烏天狗 

このように近世初めの金毘羅は、権力者(長宗我部元親や生駒親正)の保護を受けた有力修験者によって「天狗道の聖地」として形成されたようです。「海の神様」というのは、近世末になって云われ出したことです。金毘羅は、崇徳上皇が天狗となって棲む白峰寺と同じような天狗たちの住処と世間では思われていたことを押さえておきます。
 こうして、「天狗道のメッカ」である金比羅には全国から数多くの天狗(修験者)たちが修行にやってきます。それを育成保護し、組織化したのが金光院宥盛です。彼の下からは有力な修験道の指導者が沢山生まれています。


佐川盆地周辺の城跡
仁淀川と佐川・越知周辺の中世古城跡
 その中に、後に多聞院を開く片岡熊野助がいました。
今回は、この片岡熊野助(初代多聞院)を見ていきたいと思います。
彼の出自については前回見たように、土佐の仁淀川中流域の片岡や黒川を拠点に活動していた国人武将の片岡氏の一族です。

片岡氏 片岡
仁淀川中流の片岡周辺

 『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱(親光)が佐川盆地周辺の実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。 片岡氏は長宗我部元親に帰順することで、佐川盆地の支配権を手に入れ勢力を拡大していきます。
この時期が片岡家にとっての「全盛期」になるようで、片岡一族も長宗我部元親に従って四国平定戦に活躍しています。 そんな中で熊野助は、片岡氏の分家一族である片岡直親の子として、天正14(1586)年に父徳光城で生まれています。
  「南路志」南片岡村の片岡氏系図には、当時の片岡家の棟梁は、熊野助の父の伯父である親光と記します。そして親光の父直光は、長宗我部元親の叔母を妻に迎えています。婚姻関係から見ても、片岡家は長曾我部氏と深いつながりがあったようです。
 ところが四国平定戦の最終局面になって、片岡家には不幸が重なります。
片岡家の棟梁・親光が伊予遠征中に秀吉軍と戦い戦死します。さらに翌年には熊野助の父が、秀吉の九州平定に動員された長宗我部軍として豊後に遠征します。この時の島津軍と戸次川の戦いは、「四国武将の墓場」と言われた戦いで、島津軍の巧妙な戦術で多くの讃岐武将たちも命を落としています。熊野助の父も戦死します。熊野助は、生まれてすぐに一族の棟梁と父を亡くしたようです。その後、片岡家がどのように運営されたのかはよく分かりません。
 転機はそれから14年後の1600年の関ヶ原の戦いです。
長宗我部氏が領地没収となった後に入国するのが、山内氏です。これに対して、旧長宗我部の家臣団や国人武将達は、激しい抵抗を見せます。しかし、これも山内氏によって押さえ込まれていきます。このような中で14歳になっていた熊野助は、どんな道を選んだのでしょうか。
『吾川村史』は、次のように記します。
「熊野助は慶長5(1600)年の山内氏入国後 (中略)
松山へ逃れ、更に仏門に入って、讃岐金比羅別当寺(宥盛)に弟子入りする。大坂夏の陣の際に還俗して片岡民部と名乗り豊臣方へ参戦。生き永らえた彼は、上八川(現伊野町)へ逃げ帰った。その後(略)下八川深瀬で、祈祷師として身をかくし、17年の歳月を隠忍した」
ここには記されていることを補足・要約しておきます。
①関ヶ原の戦い後に、14歳の熊野助は仏門に入り、金毘羅の金光院宥盛に弟子入りしたこと
②そこで宥盛のもとで修験者として「天狗道」や武術を身につけたこと
③1615年に大坂夏の陣が起きると、長宗我部一統と連絡を取り合っていた多聞院は、還俗して片岡民部と名乗り大阪城に入り豊臣方として参戦
④戦後は土佐八川深瀬に祈祷師(修験者)として、17年間潜伏。
⑤1632年に、土佐藩主二代・山内忠義の許可を得て、ふたたび金光院に復帰。
⑤の経緯を『讃州多聞院流片岡家由緒』は、次のように記します。
「宥盛の後を嗣いだ宥睨より、金光院の門外である小坂の地に宏大な宅地を賜わり、なお宥盛より竜樹作の多聞天像を与えられていたほどの愛弟子であったため多聞院と号することとなった。万治二年(1659)4月2日、74歳で逝去した。」

しかし、この史料に対して③④⑤については何も触れていない史料もあります。
多聞院の後世の院主が残した「古老伝旧記」には、次のように記されています。
多聞院元祖片岡熊之助、当地罷越金剛坊宥盛法印之御弟子に罷成、神護院一代之住職も相勤候、其後宥盛法印之御袈裟筋修験相続之事、慶長年中訳有伊予罷越、本国に付土佐国へ帰参、寛永八年宥現法印より使僧を以、土州僧録常通寺と申へ国暇之義被申入候て、則首尾能埓明、当地へ引越、元祖多聞院宥醒法印、寛永八年間十月、土州役人中連判之手形迂今所持候也、当地へ着、新ん坊と申に当分住居、追て唯今之屋敷宥睨法印より御普請有之被下、数代住居不相更代々当地之仕置役相勤候事、具成義別紙に記有之也、
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
意訳変換しておくと
 多聞院元祖の片岡熊之助が当地金比羅にやってきて金剛坊宥盛法印の弟子になった。そして、神護院の一代住職として相勤め、その後は宥盛法印の袈裟筋の修験を相続した。そのような中で、慶長年間に訳あって伊予へ行き、その後本国の土佐国へ帰参した。これに対して宥盛の跡を継いだ宥睨は、寛永8(1631)に使僧を派遣して、土州僧録常通寺へ申し出て、讃岐金毘羅への帰山を申し入れた所、首尾よく受けいれられた。そこで、熊野助は金比羅へ再度やって来ることになった。こうして、熊野助は元祖多聞院宥醒法印と称し、寛永八年間10月、土州の役人から連判手形の発行を受けた上で当地へやってきて、しばらくは新ん坊と呼ばれて生活した。その後、今の屋敷を宥睨法印より新たに普請し与えられた。この屋敷は、数代に渡って代わることなく多聞院が代々に渡って当地の仕置役を相勤ていることは、別紙にも記した通りである。
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
古老伝旧記には、次のことは何も触れられていません
①大阪夏の陣に参戦したこと
②敗戦後に土佐八川で潜伏生活を17年送ったこと
③土佐藩主と親密な関係があったこと
29歳の熊野助が大坂夏の陣に参戦したのかどうかは、分からなくなります。多聞院の子孫にとって、先祖が徳川方と戦ったということを秘めておいた方が無難だと判断したので「訳あって」とぼかしているのかも知れません。しかし、土佐からの帰讃手順については具体的でリアルです。どうとも云えないようです。これについては、置いておくことにして、その他について見ていくことにします。
まず①の熊野助が金毘羅にやって来たのは、どうしてなのでしょうか?
仁淀川上・中流域は、橫倉山を中心に修験者の活動が活発なエリアであったことは以前にお話ししました。そのため有力武将の一族からは、修験者となって指導的な地位についていた者がいたことが史料からもうかがえます。長宗我部元親は、そのブレーンや右筆に修験者たちを組織して使っていたと云われます。彼らは修験者として、四国の聖地や行場を「行道」し修行を積んでいて、四国各地の交通路やさまざまな情報にも通じていました。これは「隠密」としては最適な条件を備えています。
 片岡家の一族の中にも修験者がいたはずです。そんな中で熊野助の今後を考えると、義経が鞍馬寺に預けられ、鞍馬天狗に鍛えられたように、どこかの修験者に預けて一族の再興を願ったことが考えられます。また、金毘羅の松尾寺は土佐出身の南光院(宥厳)が金光院院主として支配していました。宥厳は、幡多郡の修験者を束ねるほどの存在でもあったことは、以前にお話ししました。また、その弟子である宥盛も修験者としては、名声を得るようになっていました。そこで、片岡家の熊野助は、金毘羅金光院にの宥盛に弟子入りすることになったと私は考えています。

②については、金毘羅にやってきた熊野助が、宥盛から何を学んだのかということです。
 師の宥盛は、指導力や育成力もあったようで、全国から彼の下に修験者が集まってきています。そして有能と認めれば「採用・雇用」し、様々なポストも与えています。そのような中でも、熊野助は有能であったようです。そのために、土佐に身を置いていた熊野助は、後に呼び戻されたとしておきましょう。
  
 片岡氏 八川
仁淀川支流の八川深瀬

④大阪籠城戦後に、土佐の八川深瀬に祈祷師(祈祷師)として潜伏したとあります。
前回に見たように片岡氏の拠点は、仁淀川中流域の片岡や黑嶋でした。八川は、その周辺エリアになります。つまり、熊野助は幼年期を過ごした仁淀川中流流域エリアに帰ってきて、山伏として隠れ住んでいたことになります。もしそうなら、それを周囲の山伏たちや住民も知りながら、山内藩に密告することなく守り続けたことになります。

江戸時代後期にまとめられた『南路志』の吾川郡下八川村の条に、片岡家が篤く信仰していた正八幡社には、次のように記されています。
「金幣一振 讃州金毘羅多聞院寄進」
「十二社東宮大明神 右八幡同座弊一振 多聞院寄進」
ここからは、金毘羅の多聞院が下八川村の正八幡社に奉納品を送り続けたいたことが分かります。その背景には、片岡家の出身地であり、金毘羅から帰国した熊野助の活動拠点でもあったのではないかとも考えられます。
それを裏付けるのが、多聞院由緒書の次の記述です
「(範清は)寛永六年四月一日、土佐吾川郡下八川深瀬に誕生」

範清とは、熊野助の実子です。ここからは、潜伏中の熊野助は、下八川深瀬に潜伏し、妻子がいたことが分かります。多聞院の子孫は、先祖の霊に祈るために金幣を寄付していたようです。ちなみに、下八川の氏子達は、今でも「片岡さま」と呼び、なにかと話題が語り継がれていると報告されています。また、片岡家の墓参りをする人もいるようです。
⑤については、山内藩の2代藩主・山内忠義から厚い信頼を熊野助は受けるようになっていたようです。
 藩主や家臣のために祈祷を行うと共に、藩内での配札も許されていたと云います。17年間の潜伏布教活動で、周辺の有力者の信仰を集めると共に、藩主からも信頼を得る存在になっていたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の史料だとされます。
①山内家二代忠義公から熊野助宛の二通の手紙が、片岡家の宝として保存されていること
②寛文頃の桂井素庵の日記には、土佐で滞在する多聞院が、土地の名士と交わっている様子が記録されていること
③「南路志」には、元禄七年の「口上之覚」には、土佐の修験で山内公にお目通りができるのは、金毘羅の多聞院だけとかかれていること
   ここからは、多聞院が金毘羅で要職を務めながらも、土佐山内藩においても藩主の保護を受けて、修験者として大きな力を持っていたことがうかがえます。しかし、その背景に何があったのかはよく分からないようです。どちらにしても、土佐の金毘羅信仰は、多聞院によってこの時期に土佐に持ち込まれたという仮説は立てられそうです。ところが実際にそれを史料裏付けようとすると、なかなかうまくマッチングしません。
片岡家のかつての拠点である仁淀川中流域に、全毘羅信仰が定着したがいつころなのかを追ってみます。
16世紀末の「長宗我部地検帳』には、金毘羅信仰を示す堂社は一つもありません。また江戸時代中期の『土佐州郡志』には、吾川村と高岡郡東分をあわせても、山奥の「用居村」(現・仁淀川町)の条に、「金毘羅堂 在船方村」がひとつあるだけです。さらに、江戸時代後期になっても『南路志』の用居村に、「金毘羅 舟形 木仏 祭礼三月十日」とあって、この時期になっても吾川郡では、ここしか金毘羅はありません。
 ところが昭和6年刊行の竹崎五郎著『高知県神社誌』には、用居集落を含めた池川町には琴平神社が五つあります。周辺で、これほどまとまって琴平神社があるところはありません。池川町は、多聞院ゆかりの下八川方面からは、西へ峠を一つ越えた所になります。
 以上からは、多聞院が江戸時代から自分の出里に金毘羅信仰を広げようとした形跡をみつけることはできません。これは今後の課題としておきましょう。

最後に見ておきたいのが仁淀川流域の修験者を廻る宗教情勢の変化です。
江戸時代に入ると、幕府は修験道法度を定め、修験者を次のどちらかに所属登録させます。
①聖護院の統轄する本山派(熊野)
②醍醐の三宝院が統轄する当山派(吉野)
そして、両者を競合させる政策をとります。この結果、諸藩でこの両派の勢力争いが起きるようになります。土佐では山内藩の保護を受けたのは本山派でした。そして、当山派は衰退の道を歩み幕末には土佐から姿を消す事になります。熊野助が属したのは、師宥盛から伝えられた醍醐寺の当山派でした。
 また幕府は、修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。全国の行場を渡り歩く事が出来なくなった修験者は、各派の寺院に所属登録されます。村や街につながれた修験者は、それぞれの地域の人々によって崇拝されている山岳で修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになっていきます。そして、村々の加持祈祷や符呪など、いろいろな呪術宗教的な活動を行うようになります。そのような中で、八川深瀬に潜伏していたのが熊野助だったといえるのかもしれません。

橫倉山
 仁淀川から見る橫倉山

仁淀川中流の修験者の聖地は横倉山です。
安徳天皇伝説が伝える「阿波祖谷の剣山 →  物部の高板山 → 土佐横倉山  」というのは、いざなぎ流修験道の活動ルートでした。行政的には、「物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町」になるこのルートは、いざなぎ流の太夫たちの活動領域ではないのかと私は考えています。そして彼らは醍醐寺に属する「当山派」で、山内藩においては冷遇・圧迫される立場でした。そのため横倉山は、江戸時代には、山内家・家老深尾家の祈願所として、その命脈は保ちます。しかし、この山から修験者の姿は消え、後にはこの山が修験の山であったことまで忘れられていきます。熊野助も当山派に身を置く修験者でした。そのような中で、宥盛の後を継いだ院主から「金比羅の修験道について、お前にはまかせるのでやって来ないか」という誘いを受けて応じたと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
連記事
 

 「町史こんぴら」の金毘羅宮の歴史を見ていると、多聞院のことがよく出でてきます。近世の金比羅は、金光院が宗教的領主として支配する幕府の朱印地でした。その意味では金光院院主は、僧侶であると同時に、お殿様でもあったことになります。そして、NO2の地位にあったのが多聞院のようです。
多聞院については、次のようなことが云われています。
①初代金光院院主の宥盛の弟子として、信頼を得ていた片岡熊野助が多聞院初代である。
②片岡熊野助は、長宗我部元親に仕えた土佐の国人武将・片岡家出身である。
③片岡熊野助は、大坂夏の陣の際には還俗して大阪城に入り豊臣方について戦った。
④戦後に土佐に隠れ住み、修験者や祈祷などで生活していた。
⑤隠密生活から17年後に、土佐藩主から赦され、金毘羅に復帰し、多聞院初代となった。

このように片岡熊野助(多聞院)は、若くして宥盛に弟子入りして、修行に励み、その信頼を得て多聞院を宥盛から名告ることを許されます。この多聞院は、金光院に仕える子院の中でも特別な存在で、金毘羅の行政にも大きな影響力を行使しています。そして、江戸期を通じて全国からやってくる天狗道信者の統括・保護や、金毘羅信仰の流布などに関わっています。今回は、この多聞院初代の片岡熊野助の出身地と、片岡氏について見ていくことにします。
テキストは、「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

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仁淀川から見た片岡(越知町)

片岡氏の最初の拠点は、仁淀川中流の越知町片岡にあったようです。
仁淀川は、今では「仁淀ブルー」で、有名になりラフテングや川下りのツアーも行われるようになりました。「永遠のカヌー初心者」である私が川下りを楽しんでいた頃は、ほとんど人に会うことがない静かな川でした。1年に一度は、越知中学校前の沈下橋からスタートして、V字に切れ込む谷を浅野沈下橋・片岡沈下橋を経てあいの里まで、のんびりと下っていました。

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上流から見た片岡と沈下橋
その中でも片岡は、沈下橋とともに絵になる光景が拡がり、上陸して集落をよく散策していました。なになく雰囲気のある集落だという印象を持っています。後でもお話ししますが、仁淀川は中世から越知や支流の柳瀬川を通じて川船が遡り、河川交通が盛んに行われた川だったようです。今では、時代の中に置き去りにされたような片岡集落も、かつては川船の寄港する川港として賑わいを見せていたようです。
DSC08090
片岡沈下橋
 この地が片岡氏のスタート地点だったようです。
『片岡物語』には、片岡氏の由来を次のように記します。(現代語要約)

片岡氏 片岡
片岡周辺と法厳城跡

①平家の減亡後に別府氏のもとに身をよせていた坂東大郎経繁が、この地域の土豪矢野和泉守俊武を討って吾川山庄を手中におさめ、出身地上野国の荘片岡の地名をつけた。
②その後、南北朝時代には経繁の子孫である経義・直嗣の兄弟が北朝方として活動した。
③室町前期には片岡直之が黒岩郷代官を務め、その跡を嗣いだ直綱は柴尾城に拠って勢力を拡大した。
④文明16年(1484)に、直光が継ぐと柴尾城を廃して、その上流に黒岩城を築いて拠点とした。
④永正17年(1520)に直光の後をついだ茂光は、翌年の大永元(1531)年に徳光城下にあった台住寺を黒岩城西方の山麓に移して累代の蓄提をとむらう一方、越知に支城清水城を設けて以北の守りとした。
 ここからは、片岡氏が片岡を拠点に勢力を蓄えて、「片岡(宝厳城 → 柴尾城 → 黒岩城」と仁井淀川を遡り、その支流である柳瀬川流域の黒岩方面に勢力をのばそうとしていたことがうかがえます。さらに柳瀬川を遡り南方に進むと豊かな佐川盆地です。ここを片岡氏は目指します。
佐川盆地周辺の城跡
佐川盆地周辺の城跡


しかし、この頃の佐川城(のちに松尾城と改称)には、三野氏(のち中村氏を称す)が拠点を置いていました。さらに
佐川盆地一帯を見渡してみると
①南部の斗賀野城には米森氏
②西部の尾川城には近沢氏
③黒岩城との中間庄田には中山氏
が割拠して、蓮池城主大平氏のもとに属しています。
このような中で天文15年(1546)に、中村の一条氏が大平氏を滅して高岡郡に進出してきます。すると、佐川盆地の国人たちの多くは、一条氏の勢力圏下に組み込まれていきます。これに対して、永隷6年(1562)になると、長宗我部氏が仁淀川東岸の吉良域を奪取して、西進してきます。この結果、仁淀川西岸以西を勢力圏とする一条氏と長宗我部元親は、佐川盆地をめぐって対峙するようになます。

 元亀元年(1570)になると、長宗我部元親は一気に佐川盆地の攻略を進め、片岡氏を初めとする佐川盆地の国人たちはその軍門に下ります。佐川盆地平定後、元親は佐川盆地に重臣の久武内蔵助親直を入れています。久武氏は石ノ尾城(佐川城)を修築して、ここを佐川盆地支配の拠点とします。この際に、黒岩城主の片岡光綱は、それまでの本領を安堵されます。
 元親は、佐川盆地制圧4年後の天正3年(1574)に、公家大名一条氏を征服し、翌年には甲浦城を攻略して土佐一国を統一します。そして四国制覇にのりだしていきます。元親傘下に入った片岡氏以下の佐川盆地の国人たちも、これに従って四国各地に出陣することになります。そして、天正13(1584)年に片岡光綱は、遠征中の伊予国金子陣で戦死します。この年に長宗我部元親は秀吉に降って、土佐一国のみを安堵され、翌年1585年には秀吉の九州征伐に従軍させられます。この時に薩摩島津氏と戦った豊後戸次川の戦いは「四国武将の墓墓」とも云われ、多くの四国の武将が戦死します。片岡光網の子光政(一説甥)も、ここで亡くなっています。片岡氏は連続して、当主を失ったことになります。
 この前後に生まれたのが後の金毘羅の多聞院(幼名片岡熊野助)です。熊野助が生まれたときには、片岡氏は、佐川盆地周辺の有力国人であったことを押さえておきます。

片岡氏がこの地域で大きな勢力を持っていたことを見ておきましょう。
 その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
黒岩古城詰門外タン共二           同(黒岩村)次良大夫居
一 (所)壱反拾七代一分   下屋敷   同じ(片岡分)
ここからは天正18(1590)年に検地が行われた時には、このエリアが古城と呼ばれる廃城になっていたことが分かります。

片岡氏 黒岩城周辺
黒岩城周辺 南を流れるのが仁淀川支流の柳瀬川

この黒岩は現在では黒岩小学校敷地となって、わずかに土塁の一部を残しているだけです。

片岡氏 黒岩居館跡
黒岩城周辺の土地割

 明治前期の地籍図からは、小字「黒岩」の北部にその居館遺構があったことが分かります。その規模は東西南北の最大幅約70mです。これが片岡氏の居館跡と研究者は考えています。
これを裏付けるのが『地検帳』で、黒岩古城(居館跡)について次のように記します。
片岡氏 黒岩地検帳1

ここからは、このエリアが片岡分の「御土居=居館跡」であると記されています。その背後には給主片岡右近が居住する総面積一反四一代一分の屋敷が、またその南には片岡右近に給された総面積四三代一分の屋敷があったことが記されています。この「御土居」が、検地の時点での片岡氏の本拠である居館と研究者は指摘します。
 
『地検帳』は、その他にも片岡氏が多くの土地や要衝の地を手にしていたことを示します。佐川盆地から高知平野に向う出入口にあたる日下川上流河谷の加茂永竹村にの大谷土居ヤシキ(片岡治部給、主居)を片岡分としています。
片岡氏 三野古城跡
三野古城(居館跡)
また、三野古市については次のように記されています。
片岡氏 地検帳2


ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
以上を整理して、研究者は次のように指摘します。
「元亀元年に長宗我部氏の軍門に下った片岡氏が、その居城である黒岩城は廃城化されたものの、その東方に「御土居」を構えて本領を安堵されたうえ、さらに佐川盆地中央部や日下川上流河谷にも所領を拡大して、かつてそれぞれの地区を基盤に成長してきた小領主の上居をも支配するようになった。換言すれば、片岡氏は長宗我部氏に降ることによって、かつては片岡氏と措抗する小領主の支配下にあった佐川盆地中央部などへも進出して、この地域最大の地域的領主にまで成長し、長宗我部氏による領国支配の一環を構成するようになった。
『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱が佐川盆地実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
長宗我部氏の地域的領主としての地位を片岡氏が握るようになって、発展するのが「黒岩新町」だと研究者は推測します。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。

 片岡氏盛期の黒岩城下が賑わっていたことは、『片岡盛衰記』に次のように記されています。
「今の本村は帯屋町とて南北一筋の町あり、中にも和泉屋勘兵衛とて茶屋あり、其時代は他国入込にて、大坂より遊女杯数多下り、新居浜(仁淀川河口)迄舟通いければ、夜毎にうたいさかもり殊の外賑々しく今に茶園堂と申伝候」
 
意訳変換しておくと
「今の本村は帯屋町と呼ばれて南北一筋の町で、その中には和泉屋勘兵衛の茶屋があった。ここに他国から多くの人々がやって来た。大坂から遊女も数多く下ってきて、新居浜(仁淀川河口)まで川舟が通行していたので、夜毎に宴会が開かれ、謡いや酒盛り開かれ賑々しかった。これが今の茶園堂と伝えられている。

ここからは、佐川までは川船が運航していて「本村」は、その川港として大いに賑わっていたことがうかがえます。
それでは、ここに出てくる「本村」とは、どこのことなのでしょうか
『佐川郷史』は、最初に見た仁井淀川北岸の片岡本村の宝厳城下のこととしています。しかし、先ほど見たように仁淀川が深いV字谷を刻んで東流していて、その北岸には河道に沿った狭い場所があるだけです。「南北一筋の町」が立地するスペースはありません。
そこで研究者は、本村とは黒岩城下について記したものと推察します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
 市場集落の近世化と新設域下町の登場は、地域経済に大きな影響を与えます。小商圏の中心である各地域の市が、大高坂城下町の建設で、その一部分を吸収されていきます。それは、現在の市町の商店街がスロート現象で、県庁所在地などの都市圏に吸い上げられ、衰退化していったのと似ているようにも思えます。
 このように黒岩新町も、江戸時代に入ると急速に衰退し、一面の水田と化してしまいます。
その時期や経過については、よく分かりません。しかし、山内氏入国後の佐川と越知の発達が、黒岩新町の衰退要因のと研究者は考えています。長宗我部氏によって佐川城主に任じられた久武氏がその城下に新市を開設したことは、『佐川郷地検帳』に、次のようになることから裏付けられます。
新市                    本田村
一 (所)弐反弐拾代 出弐反拾四代三歩才下   久武内蔵助給
ここには、「新市」が本田村に作られたことが記されています。この佐川の「新市」は、片岡氏が大きな力を持っていた時には、黒岩新町には適いませんでした。ところが、慶長5年(1600)年の関ケ原合戦後に、長宗我部氏が領国を没収されてその後に山内一豊が入国します。その翌年には一豊の国老格をもって呼ばれた深尾重良が佐川郷一万石の領主として佐川城に入ります。このとき、黒岩村は藩主山内氏の直轄地として深尾氏の領地でした。深尾氏がその城下に現在の佐川町中心市街の前身となる町場を建設した際に、黒岩新町はこの町場に吸収されます。それ以後は佐川が佐川盆地唯一の町場として発達するようになります。
 なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
17世紀中葉に推進された土佐藩の殖産興業政策の一環として、仁淀川流域の林産物開発が進められます。その輸送のために仁淀川水運の整備が行なわれた際に、その拠点として町立てが行なわれたのが越知のようです。

以上、戦国時代の片岡氏についてまとめておきます。
①片岡氏は、仁淀川中流の片岡を拠点に、上流に向かって勢力を伸ばし、居城を移して行った。
②戦国時代には、上流の黑嶋に居館を構え、佐川につながる河川交易ルートを押さえて勢力を拡大した。
③片岡氏は長宗我部元親と一条氏の抗争では、長宗我部方の付いて佐川盆地における勢力拡大に成功した。
④その後、片岡氏は長宗我部元親の四国平定戦に従軍し活躍したが、当主を伊予の戦いで亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤片岡熊野助が生まれたのは、このような時期で片岡家が長宗我部支配下の国人武将として活動し、その居館のある黑嶋が大いに賑わっていた時期でもあった。

この後、関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた長宗我部氏は土佐を没収され、家臣団は離散します。代わって山内氏が新たな領主としてやってきて、長宗我部に仕えていた旧勢力と各地で衝突を繰り返します。このような中で、14歳になっていた片岡熊野助は、土佐を離れ出家し金毘羅にやってきます。そして、金光院宥盛に弟子入りして、修験者としての道を歩み始めるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「小林健太郎  戦国末期土佐国における地方的中心集落  高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年

 讃岐の中世遺跡の発掘調査によって分かってきたことのひとつが、平安時代末から鎌倉時代にかけての時期が、新田開発の一つの画期があったことです。新田開発を進めたのは、その多くは武士団の棟梁であったり、有力な農民たちです。中には、西遷御家人としてやってきた東国の武士たちが進んだ治水技術で、水田化した所もあります。その代表が高瀬郷にやってきた秋山氏で、残された秋山文書から水田や塩田開発の様子がうかがえます。
 こうして新たに拓かれた新田には、新たな集落が形成されていきます。そして、村の安全と豊穣を願って氏神、産土神、鎮守や村堂、あるいは、五穀成就を祭る社祠への奉仕を厚くしたり、新たに祭神を勧請するなどの宗教活動が盛んに行われるようになります。
 
今回は中世の小松荘(現琴平町)の神社を見ていくことにします。
テキストは「小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P」です。

琴平 本庄・新庄
琴平の本庄と新庄

小松荘は、藤原氏の本流である九条家の荘園として立荘されます。

琴平町内には現在も「本庄」という地名が残っています。これは、琴平町五条の金倉川右岸で、現在の琴平中学や琴平高校周辺になります。この地域の農業用水は、大井八幡神社の出水を水源地としています。ここからは大井八幡神社は古代以来の湧水信仰に基づき、その聖地に水神が祀られ、中世になって社殿などの建造物が建てられるようになったことがうかがえます。
 大井神社から南を見ると買田峠の丘の上には、かつては古墳時代の群集墳が数多くあったようです。また、現在の西村ジョイの南側の買田岡下遺跡からは郡衙跡的な遺構も出ています。さらに、東南1㎞の四条の立薬師堂には、白鳳時代の古代寺院の礎石が並んでいます。そして、丸亀平野の条里制施行の南限に位置します。古代には大井神社付近に、丸亀平野の有力氏族がいたことがうかがえます。
DSC05364
榎井の春日神社の出水と水神社

 早くから開発されたこの地域は立荘化され、本庄となります。その後、新庄が開発されたようです。そのエリアは金倉川の伏流水が流れる榎井の春日神社の出水を農業用水として利用するエリアです。それは、榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域のようです。
琴平 本庄・新庄2
石川城跡と小松庄新庄

 現在は春日神社と呼ばれています。俗説では「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたようです。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
新庄氏・本庄氏については、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)といわれる『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーの一族の者のようです。もともと、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。
 こうして見てくると、この春日神社は新庄氏や、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことがうかがえます。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
金毘羅街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社も、もともとは旧金倉川の出水を水神として祭る神社です。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社と金刀比羅街道
石井神社周辺拡大(金毘羅参詣名所図会)

 石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。

大般若経転読法要(興福寺) - 奈良寺社ガイド

 神仏混淆の進んだ中世の郷社的神社では、別当寺の供僧よって大般若経の転読が神社で行われるようになります。
大般若経が村々を回って、お経を転読するさいの「般若の風」が疫病神を払い、郷村に繁栄と平和をもたらすとされました。そのため地方の有力寺社は、こぞって大般若経六百巻を書写し、保管するようになります。その書写方法は、僧侶のネットワークを利用したもので、各地の何十人もの僧侶が写経には関わるようになります。それを組織したのが与田寺の増吽のような有力な「勧進僧侶」でもあったようです。
石井神社と春日神社は、中世後半期に両社で大般若経を共有保管していました。それが分かる史料があります。
金井町 - Wikiwand
佐渡郡金井町

新潟県佐渡郡(佐渡島)金井町の大和田薬師教会に、比叡山の僧朗覚が延暦寺大講堂落慶に際して、元徳四年(1332)から延元5年(1340)にかけて写経をした大般若波羅蜜多経六百巻が所蔵されています。その巻四以降の巻数に移管した時の註記が記され、そこに次のような文言が後補されています。
① 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮 両社御経也」
② 「両社 御経」
③ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 為令法久住読之坊中」
④ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮」
⑤ 巻二十四の巻頭には「讃州財田庄八幡宮流通物也」
ここからは次のようなことが分かります。
A 仲郡小松荘の石井八幡宮と榎井大明神(春日神社)に保管されていた大般若経の一部が、佐渡島まで伝来したこと
B 春日神社は「榎井大明神宮」と呼称されていたこと
C ⑤からは、石井・榎井神社に所蔵されていた時に、その欠落巻を「讃州財田庄八幡宮」から補充したこと。
Cの財田庄八幡宮は鉾八幡神社(三豊市財田町)のことで、鎌倉時代の木造狛犬を所蔵する古社です。ここにも大般若経が収蔵され、転読が行われていたことがうかがえます。

第980話】 「般若の風」 2015(平成27)年3月11日-20日 | 曹洞宗 光明山 徳本寺

佐渡の金井町文化財指定の解説は、次のように記されています。

「この写経は、叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していたが、慶長十年(1605)、法印快秀の手によって畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、南北朝以降から慶長十年までの間は、もともとは小松庄の石井・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。地方の有力寺社では、毎年期日を決め、恒例行事として転読が行われていたのは先ほど述べた通りです。
次に疑問になるのは、転読を主催していた「石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社」のことです。これはどこのお寺だったのでしょうか?

比叡山と石井八幡宮と榎井大明神宮の関係についてはよく分かりません。小松庄の近辺の木徳荘は延暦寺領でした。16世紀末の讃岐の戦国時代の中で、焼き討ちや押領で衰退した別当寺が手放したことは考えられます。それを周辺の比叡山に関係する僧侶が手に入れ、持ち帰り、それが法印快秀の手に渡り、佐渡にもたらされたという仮説は考えられそうです。ちなみに、小松荘に隣接する真野荘は、智証大師(円珍)の園城寺領でした。また、叡山僧→延暦寺比叡山座主慈円→九条家→小松荘という関係も考えられます。

まんのう町の郷
真野郷と小松郷の関係

榎井大明神や三井八幡の別当寺として私が考えるのは、隣接する真野郷岸上の光明寺です。
光明寺については以前にもお話ししましたが、金毘羅大権現の出現以前の丸亀平野南部において、大きな勢力を持っていたと考えられる真言系密教山岳寺院です。ここは「学問寺」でもあり、多くの僧侶を輩出してています。高野山の明王院の住持を勤めた岸上出身の2人が「歴代先師録」に、次のように記されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれ、勝義の弟子で、光明院と兼務」

「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らを輩出した岸上の光明寺は「学問寺」としてもが繁栄していたこと
③それが金毘羅大権現が現われると、その末寺に組み込まれ衰退していったこと

まんのう町岸の上 寺山
岸上村に残る寺山・寺下の地名 光明寺跡推定地

   当寺の真言系僧侶は学僧だけでは認められませんでした。
行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされました。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。岸上の光明院の行場ゲレンデは、次のような辺路ルートが考えられます。
①金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルート
②大麻山から尾野瀬寺や仲村廃寺の奧の大川山、あるいは萩原寺を経て雲辺寺など
近世になって、大麻山に金毘羅神が現れ、松尾寺別当金光院が生駒家からの手厚い保護を受けるようになると、丸亀平野南部の宗教地図は大きく塗り替えられていきます。中世に栄えた山岳寺院が衰退していくのです。これは、金光院院主宥盛の修験者としての力にもよるものなのでしょう。多くの天狗(修験者)たちが彼の下に集まり、周辺山岳寺院を圧迫吸収していったようです。それは、尾背寺(まんのう町新目)をめぐる抗争からもうかがえます。そして、自分の腹心の修験者を送り込み、最終的には廃寺化させています。その際には、仏像・仏具・聖典などが、金光院に運び込まれたことが考えられます。
 明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
 さらに想像を加えると、榎井大明神(春日神社)や石井八幡社の別当寺は、光明寺ではなかたのかということです。光明寺の聖典類も売却されます。ちなみに、岸上は真野荘に含まれ、智証大師(円珍)の園城寺領でした。この縁から圓城寺を通じて畿内に運ばれ、それが佐渡にもたらされたという「仮説」を私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P
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南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

歴史秘話ヒストリア 5月16日 | バラエティ動画視聴 Tvkko

 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。
.観応の擾乱

 薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。
アベノ封印解除記4】~龍王の眠るところ~ | 螢源氏の言霊
細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
尊氏と直義の和睦によっていったんおさまったように見えた観応の擾乱は、まもなく尊氏・義詮と直義の対立があらわになって、再び燃え上がります。

島津家系図
島津家系図 貞久は5代目
 康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。
その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所  
嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上
(中 略)
 讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、
康安二年六月 日              
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。

将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言
十一月二日               (花押)
細河稀駐頭殿             
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。
十一月二日              将軍義詮 (花押)
細河稀駐頭(細川頼之)殿 
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?
細川氏系図
細川氏系図
  讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
  それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

細川清氏 - Wikipedia
細川清氏 白峰合戦で敗れる

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
 『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。
細川頼之」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。
 先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。
 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。

島津家五代の墓
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
島津家五代の墓2

櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与  師久分
薩摩国守護職
同国薩摩郡地頭職
(中略)
讃岐国櫛無保上下村
公文名并光成
田所
(中略)
右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し
貞治弐年卯月十日     道竪      
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。

島津貞久の墓
 島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。
島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
細川頼之の宇多津守護所
 以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

讃岐丸亀平野の郷名の
古代の櫛梨郷
   古代の那珂郡櫛無郷は、東が垂水、南が小松、西が生野、北が木徳郷に接して郷の北部に式内神社の櫛梨神社が鎮座し、西側を金倉川が北に流れていきます。
櫛無郷

古代の櫛無郷は現在の次のエリアを併せたものになります。
①上櫛梨(無) 琴平町
②下櫛梨    琴平町
③櫛梨町    善通寺市
櫛梨郷は古代末には櫛梨保となり、中世にはその地頭職を薩摩守護の島津氏が持っていたようです。今回は櫛梨保の成立とその地頭職を島津氏が、どのように相続していたかを見ていくことにします。テキストは「法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P」です。
 櫛梨保が最初に登場する史料は、『経俊卿記(後嵯峨院に仕えた吉田経俊の日記)』の正嘉元年(1257)4月19日の次の記事のようです。
十九日雨降、参院、奏條ヽ事、(中略)
正嘉元年四月十九日源雅言 奉
法勝寺條ヽ
(中 略)
櫛無保年貢事、
仰、於寺用者、地頭抑留不可然之由、先度披仰下了、任彼趣重可被仰遺武家、
(図書寮叢刑)
この日記には、後嵯峨院の評定での記録が記されています。この日の記録には天候は雨で「法勝寺条々」が議せられ、その審議の中に「櫛無保年貢事」が出てきます。ここから櫛無保が京都の法勝寺の寺領だったことが分かります。また、鎌倉時代には、櫛無保の地頭が年貢を送ってこなくなり「抑留」していたことも分かります。この日の院評定で、櫛無保の年貢を抑留している地頭に、幕府に命じて止めさせるよう議定しています。
櫛無保 法勝寺1
法勝寺町バス停 地名として残っている
ここに出てくる法勝寺とは、どんなお寺だったのでしょうか?
法勝寺のあったのは、平安神宮の南側、岡崎一帯で、現在では京都国立近代美術館、京都市美術館、京都会館、京都私立動物園、都メッセなどの文化施設が建ち並ぶエリアです。
法勝寺

この地は、平安時代の後期、白河天皇が建立した寺院が大伽藍を並べる地域でした。その最初は、白河天皇が藤原師実から別荘地を譲り受け、1075年(承保2年)に造営を始めたのが法勝寺です。

法勝寺の説明版
 法勝寺の説明版
 白川天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えの下に、仏教を保護して統治する金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立したと伝えられます。この寺を、慈円は「国王の氏寺」と呼んでいます。それは天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王の寺院」ということのようです。白河には法勝寺に続いて次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれるようになります。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものでした。法勝寺には、金堂、五大堂、講堂、阿弥陀堂などが建ち並び、約四町という広大な寺域を誇っていました。
法勝寺の塔
①が法勝寺の大塔 ②が東寺五重塔 ③醍醐寺五重塔

1083年(永保3年)なると、高さ約80mという当時の高層建築である八角九重塔が建立されます。ちなみに現存する日本最大の塔は、東寺の五重塔で高さ55mです。

法勝寺八角九重塔 CG復元図

 また、白河には他にも次々と天皇の寺院が作られ、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺)と総称されました。しかし、文治元年(1185)の大地震で法勝寺の諸堂の大半は倒壊し、八角九重塔もかろうじて倒壊は免れたものの垂木はすべて落ちるという状態でした。1208年には落雷で八角九重塔も焼失し、一部は再建されましたが、1342年の火災で残る堂舎も焼失しました。鎌倉時代になると寺領からの年貢が途絶え、伽藍維持が困難になり衰退していきます。現在は遺跡をとどめるのみです。
 以上からは法勝寺は、11世紀末に白川天皇によって建立された「国王の氏寺」で、栄華を誇った寺院であったこと。それが鎌倉時代には、維持管理が出来なくなり衰退していったことが分かります。これだけの寺院の維持管理のためには、大きな経済的な基盤が必要です。そのために櫛梨郷もどこかの時点で、「櫛無保」に指定され法勝寺領になったようですが、その過程は史料がないのでよく分からないようです。ただ「保」という用語がついています。
保は、本来は国衛領のなかの特別行政区域になります。
 律令制が傾いてくると、封戸からの租税の徴収が困難になってきます。そこで封戸の代わりに田地を定めて、そこから納められる租税(官物・雑役)を封主に与えることになります。このような代替給付を行うことを便補といい、定められた田地が保と呼ばれるようになります。(便補保)。
 法勝寺も、落慶供養の6日後の12月24日に、1500戸の封戸が寄せられています。寺は出来ても経済的な基盤を保証されないと「持続可能」にはなりません。この封戸が何処にあったのかは分かりませんが、櫛無郷が便補保とされたのが法勝寺領櫛無保ではないかと研究者は考えているようです。

法勝寺跡
白川院・法勝寺跡

  島津忠義は、宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任された
 貞応三年(1324)9月7日付で、鎌倉幕府の北条泰時が藤原(島津)忠義を櫛無保地頭職に任命した開東下知状には次のように記されています。     
可令早左衛門少尉藤原忠義(忠時) 、為讃岐國 (那珂郡)櫛無保地頭職事、
右人為彼職、任先例可致沙汰之状、依仰下知如件、
貞應三年九月七日
                                                       武蔵守不(花押)   (北条泰時)
読み下しておくと
早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職と為すべき事。右の人彼の職と為し、先例に任せ沙汰致すべきの状、仰に依て下知件の如し、
貞応三年(1324)九月七日
武蔵守平(花押)    (北条泰時) 
藤原忠義は忠時ともいい、薩摩国守護島津氏の第二代当主のことです。
忠時の父忠久は、本姓は惟宗氏で、摂関家近衛家の家人です。近衛家の荘園である薩摩国島津荘の荘官となり、文治二年(1186)、源頼朝から島津荘惣地頭職に補せられて島津氏を名乗るようになります。藤原氏を称することもあったようですが、主家藤原氏(近衛氏)との関係を強調して家柄を高める意図があったのではないかとされます。これは古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏も同じようなことをやっています。

島津家系図
島津家系図

 島津氏は建久8年(1197)に、薩摩・大隅の守護職に任ぜられ、さらに日向の守護も兼ね勢力を拡大していきます。ところが建仁3年(1203)、二代将軍源頼家の外戚比企能員とその一族が反逆を起こし、北条時政によって滅ぼされたれます。(比企氏の乱)、この時に島津氏は破れた比企氏側に味方したために三か国守護職及び島津荘惣地頭職を没収されます。しかし、その後に薩摩国守護職だけはほどなく返され、建暦三年(1213)には、島津荘惣地頭職も返されています。ここでは比企氏の乱で、「勝ち馬」に乗れなかった島津氏が領地を大きく削られたことを押さえておきます。

承久の乱 (1221年)【政広】 - 居酒屋与太郎

島津忠義に復活のチャンスはすぐにやってきました。承久の乱です。
先ほど見たようにその3年後に、櫛梨保の地頭職が島津氏に与えられています。ここからは、この補任は承久の乱の功賞によるものと推測できます。島津忠久、忠義も承久の乱の当時は鎌倉に在住し、上京の軍勢に加わって戦功を挙げたようです。『吾妻鏡』の承久3年6月18日の記事には、14日の宇治川の合戦で敵を討ち取った戦功者98人の名が挙げられています。そのなかに「島津二郎兵衛尉(忠義)(辻袖離一ゑ)」の名前もあります。幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流し、上皇方についた貴族や武士の所領を没収して、戦功のあった武士たちに恩賞として与えました。島津忠義も宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任されたとしておきます。

地頭職

鎌倉幕府が武士に所領を与えるのは、当寺は地頭に任命する形をとりました。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の頭領であった羽床重基が、承久の乱の際に讃岐国の軍勢を率いて後鳥羽院の味方に参じ、敗戦で所領を没収されたことが書かれています。また『全讃史』には、綾氏の嫡流綾顕国が羽床重員とともに院方として戦ったと記されています。院方について破れた勢力は、当然領地没収されました。その跡に、東国武士たちが地頭として送り込まれたわけです。承久の乱で、地頭が置かれたことが明らかなのは、櫛無保のほか法勲寺、金倉寺、善通寺などです。讃岐の地頭のほとんどが承久以後になって現れる東国武士であることは、以前にお話ししました。
地頭が新恩の地に補任された時は、前の領主の所領・得分を受け継ぐのが原則です。承久新恩地頭の場合は、前領主の所領・得分が少なく、またはっきりとした基準がなかったので、やってきた地頭地頭に対して幕府は新しく所領・得分の率を次のように定めています。
①荘園全体の田地に対して11町について1町の割合で与えられる給田
②一段ごとに五升の加徴米徴収権
これを新補率法と呼びます。承久の乱後に地頭になったものを一般に新補地頭と呼んでいますが、厳密な意味では新補率法が適用される地頭が新補地頭になるようです。 これに対して、前領主の所領・得分を受け継いだ地頭を本補地頭と呼びます。島津氏が補任された櫛無保地頭職は、承久の乱後の地頭なので、本補地頭になるようです。
櫛無保は、封戸から転じた便補保ですので、地元に保司(ほうし)という保を管理する在庁官人がいて、租税を徴収して保の領主に送ります。したがって、保司は保全体に対して強い支配力を持つようになります。櫛無保にもこうした保司(武士団)がいて、保領主の法勝寺とは無関係に後鳥羽上皇方につき、所領没収の憂目を見たと研究者は推測します。

島津氏が前保司から受け継いだ櫛無の所領は、給田・給名などの限られた田地ではなく、上村・下村といった領域的な所領です。
さらに公文名や田所名を所有しています。これは下級荘官の公文や田所の所領名田です。地頭島津氏は、公文や田所の所職も兼ねていたことがうかがえます。公文は文書の取り扱い、年貢の徴収に当たる役人、田所は検田などに当たる役人で、これらの下級荘官は実際に田地や農民に接して検地や徴税に当たります。彼らの権限を掌握することは、地頭が荘園を支配する上で重要な意味を持ていました。ちなみに、櫛梨町には公文という地名が今も残ります。このあたりに公文名や彼らの舘があったことが推測できます。

島津氏は三代久経までは鎌倉に在住し、その後は薩摩国守護として薩摩に本拠を置いていました。
そのため櫛無保には、一族か腹心の家臣を代官として派遣して支配したようです。そして、今見てきたような背景から考えて、その支配力はたいへん強力なものであったと研究者は考えています。

最初に挙げた『経俊卿記』正嘉元年(1257)4月19日の記事には、この日の院評定で、法勝寺に納入すべき櫛無保の年貢を地元の地頭が送ってこないのを、幕府に命じて止めさせるよう議定されていました。地頭はもともとは土地管理、治安維持、租税の徴収などを職務とする役職で、所領を与えられたものではなく「領主」ではありませんでした。しかし鎌倉時代の中ごろから、地頭たちは次のような「不法行為」を次第に働くようになります。
①徴収した年貢を荘園領主に送らず自分のものとしたり(年貢抑留)
②給田以外の田地を押領したり
③規定外の租税を農民から徴収したりなどの手段で、荘園全体を支配下に置こうとする動き
櫛無保地頭島津氏も、①の年貢抑留という手段によって、櫛無保内の領主権をさらに強化しようとしていたことがうかがえます。
 隣接する善通寺領良田郷では地頭が年貢抑留に加えて農民の田地を奪い、永仁6年(1298)には、領主善通寺と土地を分け合う下地中分になっています。三野郡二宮荘でも、地頭の近藤氏と領家とのあいだで下地中分が行われています。さらに鎌倉幕府が倒れた元弘の乱の時には、荘園領主分の年貢をことごとく押領していたことは以前にお話ししまします。櫛無保以外でも讃岐各地で地頭の荘園侵略が進んでいたのです。
島津家系図

元寇前の文永二年(1265)、島津忠義(時)の嫡子久経が父のあとを継いで薩摩国守護となります。
文永四年(1267)12月に、忠義(忠時)は譲状を作っています。そのなかで、「櫛無保内光成名給米百石」については、次のように記されています。
こけふん (後家分)
さつまのくに みついゑのゐん
しなのゝくに かしろのかう
さぬきのくに(讃岐国)くしなしのほう(櫛無保)の内
みつなり名(光成)給米百石  一 このちはすりのすけ(修理免久経)
ここからは次のようなことが分かります。
①久経の母尼忍西に「後家分」として、「櫛無保内光成名給米百石」が給米として与えること
②百石という年貢はたいへん多いので、光成名は大きな名田で、荘官の給名田だったこと
③この給米は、彼女の死後は嫡子久経に返すように指示されていること
建治元年(1275)、それまで鎌倉にいた三代目の久経は、文永11年(1274)に、蒙古軍の再度の来攻に備えて九州にやってきています。そして弘安4年(1281)の弘安の役では、薩摩の御家人を率いて奮戦しています。久経は元寇後の弘安七年(1284)に没し、嫡子忠宗が4代目を継ぎます。
それから34年後に文保二年(1318)二月十五日に、忠宗は次のような2つの譲状を書いています。
    〔史料A 島津道義(宗忠)譲状〕
 〔島津道義譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
    ちやくし(嫡子)三郎左衛門尉貞久
さつまの國すこしき(薩摩国守譲職)
十二たうのちとうしき(地頭職)
さつまこほり(薩摩郡)のちとうしき(地頭職)
山門のゐん
いちくのゐん
かこしま(鹿児島)のこほり 同なかよし
さぬき(讃岐)の国くしなしのほ(櫛無保)上村・下村
しなのゝ(信濃)國太田の庄内南郷
下つさの國さむまの内ふかわのむら、下黒
ひうか(日向)の國たかちを(高千穂)の庄     
ふせん(豊前)の國そへたの庄
右所ヽ、貞久にゆつりあたうる(譲り与える)所也、女子分子なくば其一この後ハ、そうりやう(総領)貞久可知行之状□□
文保二年二月十五日     沙爾道義(花押)
 (島津家文書)
   〔史料B 島津道義納譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
女子大むすめ御せん分
さぬきの國くしなしのほう(櫛梨保)のうちくもんみやう(公文名) 同たところみやう(田所名)
右、大むすめ御せんにゆつりあたうる所也、但、子なくハ、一この後ハ(死後は)、そうりやう(総領)貞久ちきやうすへし(返還すべし)、乃状如件、
文保二年三月十五日      沙爾道義(忠宗)(花押)
史料Aは、忠宗が、嫡子貞久に譲ったすべての「領地」の中に、讃岐国櫛無保の上村・下村も含まれています。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)の地になります。
 ところが忠宗は同じ日に、史料Bの譲り状を書いています。そこには「女子大むすめ御前」に櫛無保内の公文名・田所名を譲り、ただしこれについては、その死後には惣領貞久に返す定めであると記されています。このように所領を生きているあいだ(一期)に限り認め、死後は一族の惣領(家督を継いだもの)に返  す規定は、領地分散を防ぐための方策で、鎌倉中期以後武家領のあいだでは一般的になります。特に女子は、そのままでは婚嫁先に所領が移ってしまうので、この規定が設けられるようになったようです。櫛梨保地頭職は、島津氏出身の女性たちに一代限りで認められ、死後は総領に返却され、島津家のものとして相続されたことがうかがえます。
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文元年(1356)8月6日に、足利義詮が島津貞久に与えた安堵下文には、櫛無保上村・下村のほか、公文名・光成名が加わっています。ここには公文名とともに貞久に返されるはずの田所名がありませんが、その所有については分かりません。

櫛無郷2
櫛梨(明治39年地形図)

 貞久は、鎌倉幕府が滅亡する2年前の元徳三年(1321)八月九日に嫡子生松丸(宗久)に、薩摩国薩摩郡以下の所領を譲っています。
そのなかに櫛無保については次のように記されています。
さぬきの国くしなし(櫛無)の保上村・下村 此内上殿給ハ、資久一期之後可令知行之
同くもんみよう(公文名)
同みつなりみやう(光成名)
これによると上村・下村のうちに「上殿給」というのがあって、当時は貞久の弟である資久がそれを知行していたことが分かります。そしてこれは「資久一期」のもので、資久の死後は宗久が知行することになっています。しかし、宗久は父貞久に先立って死んでしまいます。 すでに老齢に達していた貞久は、その後二男師久、三男氏久とともに貞治二年(1363)、95歳で亡くなるまで、南北朝動乱を戦い抜くことになります。その混乱の中で、島津家も櫛無保の地頭職を押領され失っていくようです。
以上をまとめておくと
①櫛無郷は延喜式の櫛梨神社一帯に成立した古代の郷である。
②櫛無郷は白川天皇が造営した法勝寺の保に指定され櫛無保となった。
③鎌倉時代の承久の乱後に、櫛無保の地頭職を得たのが島津氏である。
④島津氏は地頭として、領主である法勝寺への「抑留」などを行いないながら、実質的な支配権を獲得していった。
⑤櫛無保は、一時的には女性の一代限りの相続を経ながらも、基本的に島津氏の棟梁が相続して引き継がれて行った。
⑥しかし、南北朝の動乱期に「押領」を受け、島津氏の支配から脱落していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

DSC03290
天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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丸亀街道地図 公文周辺
丸亀街道 神野神社より富隈神社まで

赤ルートが金毘羅丸亀街道です。燈籠⑱⑲⑳と道標⑧⑨⑩が集まっているのが前回に見た与北の茶屋でした。ここには5mを越える大燈籠が大坂の順慶町の商人によって寄進されていました。中間地点の与北の茶屋で一服した後で、旅人たちは街道を南に歩み始めます。今の道は、明治になってから県道4号(丸亀・三好線)として整備されたものです。昔は、これよりも狭く、真っ直ぐでもなかったようです。
金毘羅丸亀街道
旧金毘羅丸公文周辺公文周辺

 街道が三叉路になって左右に分かれる真ん中に道標㉓㉔が立っています。
DSC06205
丸亀街道と大川街道の分岐点にある㉓道標(善通寺与北町)
もう少し近づいてみましょう。
DSC06206
㉓道標
左面  右 金毘羅
  左 大川剣山     道
右面 右 すぐ丸亀 
と読めます。この周辺の燈籠一覧表で、その他に何が書かれているのかを見てみましょう。
丸亀街道 公文 富隈神社の道標
        丸亀街道道標一覧表(与北・公文周辺)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

㉓道標の建立日が、明治11年11月吉日と彫られています。世話人は、地元与北山下の山口藤兵とあります。この時期になると世の中も落ち着いてきて、幹線道路や里道整備が進められるようになります。それまで屈曲していた丸亀街道が真っ直ぐになり、幅も広げられ、新たに高篠から吉野へ抜けて行く道が整備され、この地点でつながったのかもしれません。
 しかし、目的地が「大川剣山 」というのが私には気になります。どうして、「大川剣山」なのでしょうか?
 大川山は、この地点からも遠く望める丸亀平野の里からの霊山で、雨乞い信仰の山でした。周辺には、山伏の存在がうかがえ、里での宗教活動も行っていたようです。それでは剣山が到達地として書き込まれたのはどうしてでしょうか。ここからは私の仮説です。この道標を建てた人たちは、山伏関係者ではなかったと私は考えています。
 阿波の剣山が霊山として開かれたのは、以前にお話ししてように近世も半ばになってからのことです。木屋平の龍光寺や見ノ越の円福寺の山伏たちによって、行場が開かれ開山されていきます。明治になると、神仏分離によって多くの山岳宗教が衰退するのを尻目に、龍光寺や円福寺は修験道組織の再編に乗り出します。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげ教勢拡大を果たしていきます。そのような中で阿波の山伏たちは幕末から明治にかけて、箸蔵寺などと連携しながら讃岐に進出し、剣山への参拝登山を組織するようになります。こうして、彼らは箸蔵道の整備などを行う一方で、剣山への集団参拝を布教活動の一環として行うようになります。そのため伊予街道や金毘羅街道にも「箸蔵寺へ」という道標が出てくるようになります。善通寺の永井にも「はしくらじへ」へと書かれた大きな道標があります。あれは、ある意味では阿波の山伏たちの布教成就を示すものと私は考えています。そういう目で見ると、この「大川剣山」は見逃せない意味があるように私には思えてくるのです。
 さらに公文の地には、木食善住上人の活動の拠点が置かれていました。
DSC06227

周辺には、山伏の共感者たちのネットワークが形成されていました。そのようなことを背景にして、この道標を改めて見てみると、明治の頃の山伏の活動が見えてくるような気がします。

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山裾に残る丸亀街道の道標兼常夜灯

 丸亀から90丁の地点に発つ㉓道標を右手にとると、街道は如意山の裾野をたどるようになります。この辺りが古い街道跡がそのまま残っている場所になるのかも知れませんが、ルートは寸断されてよく分かりません。先ほどの道標一覧表を見ると、この周辺にあった道標は富隈神社の参道に遷されています。
 富隈神社を描いた金毘羅参詣名所図会を見ておきましょう。
丸亀街道 公文から苗田
公文の富隈神社から苗田まで(金毘羅参詣名所図会)

如意山の山裾を削るようにして付けられた街道が高篠・苗田方面に伸びています。如意山の尾根の先に鎮座するのが富隈神社です。金毘羅街道に面するように鳥居が建ち、その奧に本堂への参道階段が伸びているように見えます。山の向こう側には、式内社の櫛梨神社があります。街道沿いには、東櫛梨の産土社である大歳神社や、苗田の産土社である石井八幡が見えます。ここで私が気になるのは、やはり背景の山々です。このアングルだと後には大麻山から続く、象頭山が描かれていて欲しいところです。この山脈は象頭山には見えません。ほんまに取材旅行にきて、実際にみたんな?と突っ込みを入れたくなります。

DSC06212
丸亀街道から見上げる富隈神社
  ここからは更にデイープな話になります。
私がお気に入りの眼鏡燈籠が3基あります。
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          眼鏡燈籠(摩尼輪灯) 善通寺東院
 ふたつは、善通寺東院の五重塔の東側にあります。ここからは、本堂が覗き見えます。

DSC05157

 足下には「岡山家中」と彫られています。最初は、岡山の人が善通寺に寄進した変わった形の眼鏡灯籠やな、くらいにしか考えていませんでした。
DSC05159

そして、眼鏡を通して見る本堂は絵になるなと、やって来る度にこの眼鏡灯籠から見る本堂を楽しんでいました。

DSC04654櫛梨神社
櫛梨神社参道に立つ眼鏡燈籠 
 ところがこれと同じものを、櫛梨神社の参道で見つけました。眼鏡から見える善通寺の五岳山を眺めていて、じわっと疑問が湧いてきました。下にはやはり「岡山家中」と彫られているのです。なんで同じものが善通寺と櫛梨神社にあるの?   この疑問はなかなか解けませんでした。善通寺や櫛梨神社を散策した時には、眼鏡燈籠の眼鏡を通してみることが、楽しみにもなってきました。
DSC04755櫛梨神社の眼鏡燈籠
眼鏡燈籠越しに見る五岳山 我拝師山
あるとき図書館から借りだした 善通寺文化財協会報のバックナンバーに、 川合信雄氏が木食善住上人について次のように述べていました。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったこと。各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたこと。上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人との交流もあり、人望も厚かったこと。そのため岡山藩の藩士達が、眼鏡灯(摩尼輪灯)2基を寄進設置したこと。

 ここからは、眼鏡灯(摩尼輪灯)3基は岡山藩の家中の中で、木食善住上人と生前に関係の深かった人たちによって送られたことが分かります。それでは摩尼輪灯は、どこに設置されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが明治になって発行された原田屋版の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」です。高灯籠の右側が公文山になります。  拡大して見ると
丸亀街道 公文眼鏡灯籠

富隈神社のすぐ下の金毘羅街道沿いに眼鏡燈籠が2基並んで描かれています。燈籠建立は上人死後の翌々年のことなので明治5年(1872)になります。ここからこの案内図は明治5年以後の発行であることも分かります。

 上人をともらう人もいなくなった頃に、県道4号線に昇格し、道整備が行われ、その邪魔になったのかもしれません。そこで、ひとつが善通寺へ、もうひとつが式内社の櫛梨神社に引き取られたと推測できます。もともとあった富隈神社に、どうして残せなかったのかと思ってしまいます。文化財の保護のあり方にも関わってくる問題なのかも知れません。摩尼輪灯の由来は解けましたが、以前のように素直に眼鏡燈籠からの景色を楽しめなくなってしまいました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
 参考文献       川合信雄   木食善住上人    善通寺文化財協会報

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  丸亀街道地図 郡家から与北まで
    丸亀街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
赤で示されたルートが金毘羅丸亀街道です。
⑩が丸亀郡家の一里屋燈籠
⑬が神野神社前の燈籠
で、前回紹介した燈籠です。⑬からすぐに県道に合流すると旧街道らしい雰囲気はなくなっていきます。ふたたび旧街道らしい静けさが味わえるのは⑱燈籠手前で県道から分かれて以後になります。
この郡家の神野神社から、まんのう町公文までの金毘羅街道のルート図を見ていて気がつくのは燈籠⑱~⑳、道標8~10と石造物モニュメントが密集する所があることです。これが与北の茶屋になるようです。今回はこの茶屋を見ていきたいと思います。
テキストは「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」です
DSC06183
  与北茶屋手前の⑱燈籠 奥に見えるのが象頭山

 与北の茶屋は、金毘羅と丸亀のちょうど中間点あたりにあります。そのため多くの参拝者がここで、休息したようです。

「金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(板元栄寿堂。江戸末期)には、「与北茶堂」①と註して入母屋造りの茶堂が描かれています。

丸亀街道案内 三軒家・郡家・与北 拡大図
さらに与北茶屋を拡大すると

 丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋8 郡家・与北・善通寺

拡大図 下真ん中に与北茶屋 
暁鐘成の「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記されています。
丸亀街道 与北・公文・高篠

意訳変換しておくと
「与北村 
村の中間に茶堂あり。当村よりの永代接待所である。金毘羅参詣の旅客はここで憩う。路の右にあり」
 丸亀街道の中間の休憩所として、利用する人が多かったようです。
もう少し、しっかりと与北の茶屋が書かれた絵図があります。

丸亀街道 与北茶屋

  手前が与北の氏神様である皇美屋(宮)神社です。その向こうに金毘羅街道が南北に通っています。街道が少し屈曲しているところに与北の茶屋があったことがこの絵図からは分かります。建物も入母屋で大きな構えで、附属の建物が何棟か見えます。立派な茶堂だったようです。茶堂の南側の街道の向こう側には寺院らしきものがありますが註には何も記されていません。現在は、この位置にはお寺はありません。また、買田池方面から俯瞰的に、東北方向を眺めた構図ですが、不思議なことに背後の山では、飯野山ではありません。この構図ならば、ばっちりと讃岐富士が描き込まれないと決まりません。実際に現場に足を運んだのか疑いたくなります。まあ、雨天で飯野山はみえなかったことにしておきます。
 絵図の左中頃にある金毘羅御供田は、髙松藩初代藩主松平頼重が金毘羅の金光院に寄進した寺領です。髙松藩の領地の一番西にあたるこの地が寺領に寄進されました。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋9与北公文g

 茶堂をとりまく様子をみましたので、それでは近づいていくことにします。

DSC06184
⑱燈籠をさらに南に丸亀街道を進むと・・・

DSC06188
丸亀街道 与北茶屋の大燈籠

   茶堂は、いまは黒住教与北教会所となっているようです。その前に、屋根よりも高い大きな灯寵が立っています。まず大きさを確認しておきます。
円形空輪直径約45㎝、高さ30㎝、
笠石 六角形で厚さ80㎝、
火袋 六角形で直径62,5㎝、高さ58㎝
受台 六角形で直径100㎝
石竿  円錐形で最大直径78㎝
石竿から空輪頂点までだけで、約3mを越える大灯龍になります。この灯龍を支える台石は、方形で五段積みで、石竿をうける上段の台石は一辺78㎝、最大の最下段の台石は一辺278、5㎝で、台石全体の高さは208㎝。台石を合わせた灯龍の高さは、546㎝の巨大な燈籠です。金毘羅街道沿いの灯龍の中で最大のものとされます。
DSC06187

 ところがこれだけ立派な燈籠なのですが、その寄進についての記録は残っていないようです。これだけ大きな燈籠を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか。灯寵に刻まれた文字情報を研究者は、次のように読み解いていきます。
①石竿に常夜灯
②台石には上段から大坂、繁栄講、
③台石側面に講元順慶町大和屋弥三郎以下約六十名の名前
④石竿側面に文政十一(1828)戊子九月吉日
丸亀街道 与北茶屋大燈籠
与北茶屋 大燈籠の寄進者一覧

ここには講元に「順慶町」とあります。
丸亀街道 与北燈籠 順慶町
        「順慶町夜見世之図」歌川広重画

「順慶町」は、現在の大阪市中央区南船場1~3丁目(旧順慶町通)のことで、新町遊郭の東口筋にあたります。この町は豊臣秀吉の城下町建設の際に、筒井順慶が屋敷を構えたところと伝えられ、その名が町名として残ったといわれるようです。江戸時代を通じて、船場の一郭で商業の町として栄えます。秋里蔽島の「摂津名所図会大坂部 四上」(寛政八年刊)には、順慶町について次のようにその繁栄振りを記します。
「順慶町の夕市は四時たへせず夕暮より万灯てらし種々の品を飾て、東は堺筋西は新橋まで尺地もなく連りける。これを見んとて往かへりて群をなし、其好に随ふて店々にこぞる。(以下略)」
意訳変換しておくと
「順慶町の夕市は、四時ころから始まり、夕暮からは万灯を照らして種々の品を飾って、東は堺筋、西は新橋まで店が隙間亡く連なる。これを見物するために、多くの人が繰り出し黒山の人だかりとなる、人々は好みの店々こぞる。(以下略)」

 順慶町にはいつの頃からか夜店が並び、その賑わいぶりには江戸から来た人も驚いたというのです。順慶町通は新町から心斎橋筋にはいる道筋にあるので、この夜店の賑わいが次第に南下し、江戸後期には戎橋まで連なる夜店でも有名で、心斎橋筋とも肩を並べるほどの繁華の町であったようです。
 講元の最初に名前があるのは大和屋弥三郎です。彼が講元となって繁栄講という金毘羅講をつくり、商売繁昌の祈願と道中安全のために、献灯したと推測できます。
 燈籠が寄進された文政11(1828)年頃は、上方一帯に金毘羅信仰の高まった時期にあたるようです。西国街道芥川宿(大阪府高槻市)の金毘羅灯寵も、建立されたのは同じ文政12年です。大阪の船場商人たちが、金毘羅信心の象徴として、その富を誇って寄進を計画したのでしょう。それは、巨大さゆえに金毘羅境内ではなく、金毘羅街道沿いの多くの人々が憩う与北茶屋に建立されたのではないでしょうか。
 大坂繁栄講の石灯寵は、旧丸亀港頭に江戸人千人講の献進した青銅製の「太助灯寵」と方を並べる存在です。一方は江戸の商人たちが、一方は大坂商人の寄進によるものです。江戸商人に負けるかという大坂商人の心意気がうかがわれるようです。

 この大燈籠は、戦争直後の南海大地震で倒壊します。
多度津街道の永井の燈籠も、南海地震によるものでした。そしてその後、長い間放置されてきました。倒壊から20年後の1966年の文化の日、金刀比羅宮図書館で大阪教育大学教授の位野木寿一氏が「金毘羅灯寵と郷土文化」という講演を行います。その中で位野木氏は、次のような事を話します。

 金毘羅灯寵の信仰と交通上の意義、特に灯寵を通じてみた各街道の役割や信仰交通圏、さらに灯龍の時代毎の変化から交通路や丸亀・多度津両港の盛衰を述べ、街道の献灯が明治十年代にいたって終末をみたこと。
 最後に文化財保護についての外国の事例をあげ、ローマやパリーでは古い遺物・遺跡に市民の愛情がそそがれ、保護していること。新しいものをつくる際も古いものとの調和を図ってつくられていることを紹介して、金毘羅灯寵についても保存に積極的な協力を関係者に求めます。

 この話を聞いた善通寺市与北町の有志たちが、この燈籠を再建し元の姿に返したのです。燈籠のそばには復元記念の碑文が建っていますが、これは地元の依頼を受けて猪木氏が書いたものです。そこには次のように記されています。

DSC06195
 金毘羅燈寵復元の碑
 本燈寵は文政十一年大阪繁栄講の寄進したもので、金毘羅街道上最大の石造灯龍として、高く信仰の光明を照らしてきた。しかるに昭和二十一年南海道沖地震のため倒壊したのを地元の有志ならびに市文化財保護委員会いたく惜しんでこれが復元に尽し、ここにその燈影を再現するにいたった。
右由来を碑に刻んでながく記念する。    位野木寿一

  この大燈籠の復元を契機に、金毘羅街道に残る燈籠や丁石などの石造物への興味や関心も少しずつ高まっていきました。そして、保存と活用をどのように勧めていくかについて行政もとりくむようになって行きました。そういう意味では、与北の大燈籠の再建は金毘羅街道ルネッサンスの始まりと云えるのかも知れません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」

    
丸亀街道地図 柞原から郡家2

骨付き鶏一角の丸戸交差点で南に転じて、丸亀市の産土神である山北八幡宮を東に眺めながら南に進むと杵原町西村の理容店の北で、道は二つに別れます。
丸亀街道 20丁 柞原町理容店前1
金毘羅丸亀街道20丁石 右が旧街道 

左側(東側)の広い道は、昭和48年頃に整備された県道で、旧街道は、右側(西側)です。こんぴら街道二十丁とあるので中府から2㎞あまりきたことになります。奧の理容店の横に、台石には「右 こんひら道」と刻まれた常夜燈がポツンと建っています。

丸亀街道 20丁 柞原町理容店前2

かつては現在地より少し北の街道沿いにあったようですが、県道整備に際にここに移されたそうです。この常夜灯に以下のような文字が刻まれています。

丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯
丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯の寄進者

ここからは、この燈籠が文久三年(1863)4月吉日に、丸亀商人の金比羅講によって建立されたことが分かります。丸亀商人たちがいくつもの金比羅講を組織していたようです。石工は、大手の泉屋が担当しています。

   ここから旧街道沿いの道がしばらく続きます。国道11号を横切って田村池の堤防のすぐ東側を抜けて行きます。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
三軒家南の三ツ角 奧に田村池と金毘羅街道が抜ける田村が見える

前回見た三軒家からの絵図に描かれていた田村村と比べて見ましょう。田村がこの金毘羅街道沿いに家並みが続いていたことが分かります。この付近から⑬燈籠のある神野神社あたりまでは、古い街道の様子が少し残っているような感じのするコースです。
 次の⑩燈籠は、高速道路をくぐってすぐの変速四叉路にあります。
伊予街道との交差点 一里屋の常夜灯兼道標
ここが高松城下を起点とする伊予街道との交差点のようです。ここは丸亀城下から一里(約4㎞)で、一里塚があったので一里屋と呼ばれています。かつては駐在所があった所に、道標を兼ねた⑩燈籠があり。竿に「北丸亀 西いよ こんそうじ ぜんつうじ 東高松 南金毘羅」と刻まれています。他にも次のようにあります。
丸亀街道 郡家一里屋の⑩燈籠
         一里屋の常夜灯兼道標の寄進者
刻まれた文字から明治七年(1874)に、丸亀の商人たちの発願で、郡家村の石工札造によって作られたものであることが分かります。明治になっても、金毘羅参拝客は増え続けます。そのため金毘羅街道の重要性は高まったようです。時代が落ち着いてきて、四国新道などの幹線道路や鉄道の登場で、次第にその役割を終えていくことになります。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋8 郡家・与北・善通寺
「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記 原田屋版」 右下に「ぐんげ」

 この旧伊予街道を越えて金毘羅街道を南に進むと、神野神社の鎮守の森が見えてきます。この森が金毘羅参詣名所図会に描かれていますので見てみましょう。

丸亀街道 神野神社、郡家八幡宮2 金毘羅参詣名所図会
丸亀街道の神野神社・郡家八幡(金毘羅参詣名所図会)

右下(西)に神野神社とあり、鳥居や本殿・拝殿が見え、廻りを松の社叢が囲んでいます。参道には松並木が金毘羅街道へと伸びていますが、雲に隠されてよく分かりません。右奥(南)に伸びていくのが金毘羅街道で、分岐点には大きな道標が見えます。街道沿いには人家が建ち並び「郡家村」と記されます。街道の反対側にも鳥居と社が見えます。「八幡宮」と「社家」の註が書かれています。この絵図を見て、私がとまどうのは「郡家八幡」のことを知らないからです。本文を読んでみましょう。
丸亀街道 神野神社、郡家八幡宮 金毘羅参詣名所図会
郡家八幡宮・神野神社(金毘羅参詣名所図会)

郡家八幡宮
郡家村にあり、村中の生土神にて、往還の右の方の社頭あり。祭日は9月13日。
神野神社
国守が象頭山御参詣の時に、当神主の館で休息しが結構で最もよく同村八幡真向にありて、往還の左にあるので地元では、皇子の社と云う。延喜式の那珂郡の二座のひとつである。
  この説明によると次のようになります。
往還の右が郡家八幡で神主の館(社館)がある方
往還の左が神野神社で、俗称が皇子神社
絵図を拡大しもう一度見ても、街道を行く人は左から右に歩いています。絵図と説明文が合いません。
丸亀街道 神野神社 八幡宮34

  グーグル地図を見ると、旧金比羅街道を挟んで宮池手前に、皇子神社はあります。これがかつての郡家八幡なのでしょうか。しかし、皇子神社は近世に宝幢寺池が作られるときに、池に沈むのをここに遷したものとされます。郡家八幡については、今の私にはよく分かりません。宿題にしておきます。

 神野神社の参道付近には「郡家の茶堂」がありました。
このあたりは、丸亀城下を出て一里余りの地点です。ここで郡家の村人から茶の接待を受け、しばし憩いの時を持ったのかもしれません。ここには、台石には「すくこんひら道」と刻まれた道標⑬を兼ねた金比羅燈籠が立っていいます。

丸亀街道 神野神社 燈籠
丸亀街道 神野神社の燈籠寄進者名
ここからは、文政13年(1830)に丸亀の商人仲間により建てられたものであることが分かります。この時の石工は泉屋です。まだ地元の石工の出番はなかったようです。
茶堂跡から200mも進むと、街道は再び県道4号線丸亀・三好線と合流します。この辺りからは象頭山が右手に大きく見え始めますが街道の姿を追うことは難しくなります。

丸亀街道 郡家・与北

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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     金毘羅参詣名所図会  1848年
     金毘羅参詣名所図会

弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。

「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」

 ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
追い風に帆を上げた金毘羅船が丸亀港に向かうシーンから始まります。
金比羅船IMG_8033

  金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。

次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
  丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 金毘羅参詣名所図会

 瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。

金毘羅参詣名所図会の本文を、見ておきましょう。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 圓(丸)亀湊

那河郡円(丸)亀湊 
讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
  意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。
 浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。

意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。
「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。

福島湛甫ができる前の船着きは土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の港で、干潮時には沖で潮待ちをしなければ上陸できませんでした。

丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の川口湊

 そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
丸亀城 福島町3
新堀湛甫が完成する前の丸亀港と福島

福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
 弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋2県デジタルアーカイブ
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋

 旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」
「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」
「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」

  丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
 丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会

  金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。

丸亀街道 中府口・三軒家
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口   
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。
中府村  
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。
三軒家  
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
  三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。

象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。
 その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
 ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。

丸亀街道地図 丸亀城周辺

 そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋6 三軒家標識

   上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

 原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋7 三軒家標識
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には
右 イヨ
左 こんぴら江
右側の標識には、
右 弘法大師 善通寺
と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
丸亀街道 田村 馬子
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
  今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
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神社の鳥居は、神域と俗界の境目に建ち、ここからは神聖で、邪悪のものは入るを禁ずといった一種の関所でもあったようです。金毘羅さんも参拝客が増えるにつれて、金毘羅門前町だけでなく、街道沿いにも建てられるようになります。
金毘羅街道鳥居一覧表2
金毘羅街道鳥居一覧表
それを一覧にしたのが上表になります。この表からは、次のようなことが分かります。
①金毘羅参拝客が増加する18世紀末から各街道沿いのスタート地点と金毘羅のゴール地点に燈籠が建立されたこと
②奉納者は地元よりも、讃岐以外の他国の人たちによって建立されたものが多いこと
③その後の道路交通事情などによって、移転された7基あること
そんな中で多度津街道の②永井鳥居は「崩壊」とあります。どうなったのでしょうか。今回は、永井鳥居の崩壊をめぐる事件を追いかけてみます。テキストは「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。

多度津街道には、3つの金毘羅鳥居が建っていたことが分かります。
多度津街道ルート上 jpg
           金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より

永井の鳥居は、三井八幡から条里制に沿って伸びる多度津街道を五岳山や象頭山を見ながら歩いていくと国道11号を越えて暫く行った所にある十字路にあります。ここは東西に伸びる伊予街道との交差点で、行き交う人が多かった所です。近代になっても、この街道が旧国道11号として整備され、基幹道路として現在の11号線が整備されるまでは使用されていました。そのため街道沿いには、病院があったりしていまでも家並みが続いています。拡大図を見てみましょう。
多度津街道ルート4三井から永井までjpg
多度津街道と永井周辺の丁石と燈籠分布 
多度津街道道標一覧2
多度津丁石一覧
 道標番号11と12が永井の鳥居と同じ所にあることが分かります。またそこに何が彫られているかも分かります。
DSC06060
永井の多度津街道と伊予街道の交差点

  多度津街道を原付バイクでツーリングしていて、永井集落の交差点にやってきました。道の両側に円柱状のものが立っています。変わった石造物だなと思って近づいてみると・・・

DSC06061
永井鳥居の石柱(東側南面)
「天下泰平」とありますが・・・鳥居がポキンと根元から折れているのです。
   DSC06069
多度津街道 永井鳥居の石柱(西側)
西側の柱には、丸い柱に多くの人たちの名前が次のように刻まれています。
発起施工
松嶋屋惣兵衛  米屋喜三右衛門  福山屋平右衛門  湊屋儀助
 一段、
草薙伝蔵(仲之町) 草薙甚蔵 松嶋屋弥兵衛 大和屋亀助 
阿波屋浅次郎 
海老屋輿助(仲之町) 三谷簡能 松本屋辨蔵 
油屋平蔵 岡山僅巾― 油屋調 麦堀爽兵衛 
 二段
嶋屋弥兵衛(浜町) 増金屋友吉 高見屋平次郎(浜町) 綿屋林蔵 木屋清兵衛  竹屋平兵衛槌屋幸吉 
 三段
中村屋源右衛門(浜町)  米屋清蔵 柏屋惣右衛門 備前屋左兵衛  土屋嘉兵衛  米屋七右衛門(若宮町)蔦屋幸吉 油屋佐右衛門
・徳次(角屋町) 吉田屋藤吉
 升屋彦兵衛・仙吉(若宮町)   唐津屋長兵衛 
ここからは、安政四年(1857)に、多度津町有志によって、建立された鳥居の柱基部であったことが分かります。
いつ折れたのでしょう? どうしてこんな形で残されているのでしょうか?
東西の柱の根元を見ると、彫られた字が地面の下に隠れされてた状態になっていることが分かります。柱が途中から折れた状態のままで維持されているのではないようです。倒壊し残された柱の一部だけをもとの位置に建て直したのだろうと最初は推測しました。

この疑問に答えてくれたのが「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。
ここには1988年9月に行った現地聞き取り調査の結果を次のように報告しています。
①戦後直後の1946年の南海大地震で永井鳥居は、東の柱が上から1/3あたりで折れて北側に倒れ、笠石や貫石も額束も倒れてくだけた。西柱は、そのまま立っていた。
②部落の世話人が金刀比羅宮に報告したところ、再建のめどもつかないので、額束石は金刀比羅宮へ納め、その他は処分してもよろしいとの通知があった。
③そこで近くの石屋に、残っていた西の柱も取りくずして処分を依頼した。
④鳥居の台座の石は2メートル平方の見事なもので、東の分は、土地改良工事の際、川底へ埋め、西の分は鳥居の石材を処分した石屋が持ち帰った。
⑤その後、付近の人たちによって、折れた柱を立て鳥居の遺蹟をつくることになった。
⑥その時、交通の便を考えて鳥居の柱の間を、今までよりも広くあけて立てた。
DSC06057
多度津街道 永井の交差点 手前が伊予街道
三井の金崎宅の庭には、このときの鳥居柱の一部が保存されているようです。「右た」とあり、これは「右たどつ」の事で、反対の面には「安政四年丁」の文字がみえます。これは安政四年丁己五月とあった柱の上の部分石になります。この柱の下の部分が、永井の西側にある柱です。この柱石は、一度三井の石屋に払下げられますが、「もったいない」と金崎氏が引き取り、自宅の裏庭に立てて、保存してきたようです。 
 DSC06054

永井鳥居の額束は、南北両面に掲げてあったようです。
南面は行書、北面はてん書の字体であったと云います。南海地震の時、鳥居は北に向って倒れたようです。そのため北の額束は砕け散りました。かろうじて南側のものは、姿をとどめます。それを永井の人たちが鳥居の石材の一部と、額束を金刀比羅宮へ運びます。永井鳥居の額束は今でも、金刀比羅宮に保管されているようです。
 聞取り調査による永井の鳥居の姿は次の通りのようです。
 西の柱 北面 左こんぴらみち
     南面 安政四年五月
     天下泰平国家安全
     当村世話人  乾 善五郎
            乾 呉 市
 乾善五郎、乾輿市氏は鳥居の立っている土地を提供した人。
 東の柱 東面 右たどつみち

 下部に発起人や献納者の名がある。
 毎年、秋祭りには、鳥居の下で金毘羅さんを拝し、獅子舞を奉納されてきたそうです。

以上をまとめておくと
①多度津街道も18世紀後半から金毘羅参拝客が増え始め、19世紀後半には起点の多度津鶴橋と、ゴールの琴平高藪口に鳥居が建立される。これらは松江や粟島の人たちの寄進によるものであった。
②多度津湛甫完成によって、多度津の町は大いに潤うようになる。そのような好況を背景に19世紀半ばに多度津の人たちによって、永井に鳥居が建立された。
③永井は多度津街道と伊予街道が交差する地点で、人通りも多く建立に相応しい場所とされた。
④ところが戦後直後の南海地震で鳥居は倒壊し、残った石柱でモニュメントが道の両側に建てられた。これが現在の永井鳥居跡になっている。
倒壊した鳥居を後世に残そうとする地元の人々の熱意で、ここに鳥居があったことが伝えられていくモニュメントとなっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」

 丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
金毘羅案内図 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 町史ことひら5絵図・写真篇には、金毘羅信仰をめぐるいろいろな絵図や写真が収められています。前回まで見てきた金毘羅案内絵図も、この中に載せられている絵図類です。これらのパターンは丸亀港に上陸して、金比羅から善通寺+四国霊場七ヶ寺巡礼」をおこなって丸亀に帰ってくるというパターンでした。そんな中にあって、毛色のかわったものがひとつ収められています。
それが、下の多度津を起点とする絵図です。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

丸亀城が右下の端で、存在感が小さいようです。そして丸亀福島湛甫や新堀を探すと・・・・ありません。丸亀城の上(西)を流れる金倉川の向こうに道隆寺、その向こうに大きく広がる市街地は多度津のようです。多度津の街並みを桜川が堀のよう囲っています。この絵図の主役は、多度津のようです。多度津から金毘羅への街道が真ん中に描かれます。多度津には、大きな港が見えます。私は、これが多度津湛甫かなと最初は思いました。しかし、右上の枠の中には「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とあります。当時の年表を見ておきましょう。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。
天保5年 1834 多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 金毘羅芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。観音堂開帳。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。
 多度津湛甫が完成するのは、1838年のことですから、この絵図が書かれた時には湛甫はまだなかったことになります。ここに書かれている港は、それ以前の桜川河口の港のようです。丸亀港の繁栄ぶりを横目で見ながら、多度津の人々が次の飛躍をうかがっていた時期です。天保年間の多度津の港と町を描いた貴重な史料になります。
 ちなみに「天保二(1831)年春日 工屋長治写」とある工屋長治は、金毘羅神事の潮川神事の時に使われる祭器を作る家でもある格式のある家柄だったようです。

  全体絵図のモニュメントの完成期を見ておきましょう。
①善通寺の五重塔 天保11(1840)年落雷を受けて焼失するまで存続
②金毘羅の高灯籠 万延元(1860)年に完成なので、まだ見えず
③金比羅金堂   弘化2(1845)年完工。
③の金毘羅金堂は描かれているようです。これは、着工から30年近くかかって完成していて、瓦葺きから銅板葺への設計変更などもあり、それ以前から姿をみせていたということにしておきます。
 
 多度津町内部分を拡大して見てみましょう。
多度津絵図 桜川河口港

陣屋と市街地を結ぶ極楽橋が見えます。陣屋はかつての砂州の上に立地しています。中世は、ここが埋墓で、その管理や供養を行っていた
のが多聞院や摩尼院であることは、以前にお話ししました。ここには、高野の念仏聖などが住み着いて、阿弥陀信仰布教の拠点となっていたようです。墓地と寺院を結ぶ橋なので「極楽橋」と名付けられたのでしょう。そこに近世も終わりになって陣屋が建てられたことになります。
この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①桜川に囲まれたエリアが「市街地」化している。
②桜川の東側は田んぼが広がっている
③桜川には、極楽橋・豊津橋・鶴橋の3本の橋しかなく、桜川が防備ラインとされていたことがうかがえる。
④豊津橋から西へ伸びる道と河口から南に伸びる金毘羅街道が戦略的な要路なっている。


多度津陣屋10
多度津陣屋
多度津港は陣屋が出来る前から、桜川の河口にあって活発な交易活動を展開していたようです。 18世紀後半安永年間の多度津港の様子を、船番所報告史料は次のように記します。
「安永四(1775)年、四月四日の報告には、一月八日より二十五日までの金比羅船の入港数が「多度津川口入津 参詣船数五百十一艘・人数三千二百十四人」

 正月の17日間で「金比羅船511隻、乗船客3214人」が多度津の桜川河口の港を利用していたことが分かります。一日平均にすると30隻、190人の金比羅詣客になります。ちなみに一隻の乗船人数は平均6,3人です。以前にお話したように、18世紀後半当時は金毘羅船は小型船であったようです。
 金毘羅山名勝図会
金毘羅山名勝図会
  文政年間(1818年~31)年に、大原東野が関わって出された「金毘羅山名勝図会」には、次のように記されています。
 (上巻)又年毎の大祭は、十月十日、十一日、又、三月、六月の十日を会式という。丸亀よりも多度津よりも参詣の道中は畳を布ける如く馬、升輿の繁昌はいうもさらなり。
 (下巻)多度津湊上只極壱岐守の御陣屋有此津も亦諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなじく大都会の地にして、舟よりあがる人昼夜のわかちなし。
丸亀と同じく金毘羅詣で客で賑わう港町であることが記されて、次のような絵図も載せられています。

多度津港 桜川河口港
桜川河口の多度津港 金毘羅山名勝図会

この絵図にも桜川沿いに多くの船が係留され河口一帯が港の機能を持っていたことがうかがえます。また川沿いには蔵米館や倉庫が林立している様が見えます。桜川沿いに平行に街並みは形成されていたこともうかがえます。

19世紀に入ると、十返舎一九の弥次喜多コンビも丸亀港経由で金毘羅さんにお参りするように、金毘羅詣客が激増します。

丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀の福島湛甫と新堀湛甫

そのため丸亀藩は新たに福島湛甫を建設し、受入体制を整えます。しかし、それも30年もしないうちにオーバーユースとなり、新堀湛甫を建設します。それほど、この時期の参拝客の増加ぶりは激しかったようです。そのような繁盛ぶりを背景に金毘羅さんは三万両の資金を集めて金堂新築を行うのです。
 一方、多度津に陣屋を構えたばかりの多度津藩も、大きな投資を行います。それが多度津湛甫の建設です。建設資金は、一万両を超えるもので、この額は多度津藩の1年の予算額に相当するものでした。親藩の丸亀藩からは「不相応なことはやめとけ」と、云われますが強行します。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。
弘化2年 1845 金毘羅金堂、全て成就。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。 
  天保九(1838)年に完成した成したのが多度津湛甫です。9年後の弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」には、多度津湛甫がきれいに描かれています。

多度津湛甫 33
多度津湛甫 弘化四(1847)年刊の「金毘羅参詣名所図絵」

ここからは①の桜川河口の西側に堤防を伸ばし、一文字堤防などで港を囲んだ多度津湛甫の姿がよく分かります。桜川と隔てる堤防の上に船番所が設けられています。船番所は現在の多度津商工会議所付近になるようで、ここで入遊行船や上陸者を管理していたようです。新しく作られた港についてはよく分かるのですが、この絵図は多度津の街並みや、桜川河口の旧港は範囲外で知ることが出来ません。多度津の街並みについては、先ほどの絵図に頼るほかないようです。
  話が横道に逸れて今しました。もとに返って多度津港と金毘羅街道をみていくことにします。
多度津金毘羅案内図 多度津拡大

 多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。須賀金毘羅宮には、多度津旧港周辺に寄進されていた常夜燈がすべて集まられているようです。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。