瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 金毘羅信仰と琴平

象頭山と愛宕山2

金毘羅大権現(金毘羅神)が登場するのは近世になってからです。天狗信仰の修験者たちによって新しく生み出された流行神(はやりかみ)が金毘羅神です。それがクンピーラの住む山と結びつけられ「象頭山(琴平山)」と呼ばれるようになります。金毘羅大権現が現れる近世以前に、この山を象頭山と呼んだ記録はありません。それ以前は、この山は大麻山と呼ばれ、忌部氏の勢力下にありました。その氏寺が式内社となっている大麻神社です。この神社が鎮座する山なので大麻山です。しかし。近世以後に金毘羅大権現の勢力が大きくなると南側が象頭山と呼称されるようになります。それは、金刀比羅宮のある山の南側が象の頭とされているのもそれを裏付けます。
 金刀比羅宮の鎮座する象頭山から南に伸びる尾根をたどると愛宕山があります。今は忘れられた山となっていますが、神仏分離の金毘羅大権現時代には、この山も金比羅信仰を構成する重要な役割を担っていたようです。今回は、この愛宕山について見ていくことにします。テキストは「羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年」です。
まず、絵図で愛宕山を確認しておきます。
愛宕権現 箸洗池 大祭行列屏風
金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
この図屏風は下図のように「六曲一双」で、10月10日の大祭の様子を描いたものであることは以前にお話ししました。愛宕山が描かれているのは左隻第六扇になります。一番最後で、象頭山の左端に「おまけ」のように描かれています。
554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

霊山として険しい岩稜の山のように描かれていますが、デフォルメされた姿です。拡大して見ておきましょう。
愛宕山と
愛宕権現と箸洗(はしあらい)池
金毘羅全図 一の橋2
金毘羅全図(1840年代後半)

象頭山と愛宕山の鞍部を伊予土佐街道が抜けています。この峠が牛屋口になります。この絵図には、山頂付近に社が見えます。次に金毘羅参詣名所図会の愛宕山を見ておきましょう。

2-17 愛宕山

2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会に描かれた愛宕山(幕末)

天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳変換しておくと
天神社(天満宮:菅原道真)
愛宕町の正面に見える神社である。中央に天満大自在天神(菅原道真)を奉り、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町から見える山である。山上に愛宕山大権現の社がある。この山は、①金毘羅山の守護神が住む山で、魔所とされている。
箸洗池
愛宕山の山中に巨巌があり、そこにある小さな池のことである。この水はどんな早魃でも干上がることはない。10月10日の大祭の御神事の後の食事で使用した箸は、すべて御山に捨てる。それを守護神(天狗)が拾い集めて、この池で洗い、阿波の箸蔵寺に運び去ると言い伝えられている。そのため箸洗池と呼ぶ号す。
ここで注目したいのは、次の2点です
①愛宕山が金毘羅神の守護神の住む山で「魔所」とされていること
②箸が洗われた後に、阿波修験道の拠点である箸蔵寺に持ち去られること
①の「金毘羅神の守護神」とされる愛宕権現とは何者なのでしょうか?
①修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基
②愛宕山は修験道七高山の一つとなり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。
③塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰された。
④それに、阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として、愛宕修験者によって全国に広まった。
⑤愛宕修験でも天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。
こうして修験者の聖地で、天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現も、愛宕信仰を受入たようです。そして、愛宕山大権現として開山したとしておきます。

象頭山天狗 飯綱
象頭山の愛宕明神と飯綱明神 火除けの神として信仰されていたことが分かる

知切光歳著『天狗考』上巻は、愛宕天狗について、次のように記します。

天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)
整理しておくと
①愛宕天狗は両翼をもち白狐に乗り、ダキニ天を祀る。
②全国各地の金毘羅社の中には、烏天狗を祀るところが多い。
ここからは、各地の金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕天狗と結ばれていたことがうかがえます。そして、修行・参拝のために天狗になろうとする修験者たちが金比羅の愛宕山を目指したのでしょう。当然、それを迎え入れる愛宕系の子院があったはずです。それが私は多聞院であったと考えています。
京都愛宕山との交流を示す絵馬や記録も残っていることが、それを裏付けます。

『麒麟がくる』ゆかりの地・愛宕山4 勝軍地蔵と太郎坊天狗に祈りを捧げた明智光秀 - れきたびcafe
愛宕天狗
また、逆に愛宕権現と金毘羅大権現が習合して、各地に奉られていくという現象も起こります。
愛宕神社と金毘羅大権現の関係

愛宕神社と金毘羅大権現2 愛知県
        愛知県 井代星越 愛宕神社の奥社として鎮座する金毘羅大権現
上図の愛知県新庄市の愛宕神社では、奥社(守護神)として金毘羅大権現が奉られています。ここでは愛宕神社が本社で、金毘羅大権現が末社となっていて、主客が逆転していることを押さえておきます。このようなスタイルが各地で見られるようになります。

次に、金比羅の愛宕天狗以外の天狗たちを見ていくことにします。
江戸前期の『天狗経』には、全国で名前が知られた天狗がリストアップされています。これらが天狗信仰の拠点であったことになります。

7 崇徳上皇天狗

讃岐に関係するのは、赤い丸を付けた次の3つの天狗達です。
①黒眷属金毘羅坊(くろけんぞくこんぴらぼう) 
②白峯相模坊  天狗になった崇徳上皇に仕える白峰寺の天狗。
③象頭山金剛坊    
①③が金比羅の天狗ですが、このふたつには次のような役割分担があったと研究者は指摘します。
①黒眷属金毘羅坊 全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗。地方の金比羅社
に奉られる天狗で姿は烏天狗
③象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する山伏姿の天狗で、金毘羅大権現の別当金光院が担当
両者の関係は、③の金剛坊が主人で、①黒眷属金毘羅坊はその家来とされました。

それでは、③の象頭山金剛坊を象頭山に根付かせたのは誰なのでしょうか?
江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻79)には、次のように記します。
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記します。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、薬師十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったとされています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。

天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月

意訳変換しておくと
天狗道沙門の金剛坊像は、当山中興の権大僧都法印宥盛の姿である。慶長11年10拾月如意月

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を極め、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
金毘羅大権現の天狗信仰を視覚化した絵図を見ておきましょう。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現 別当金光院発行の金毘羅大権現と天狗達
一番下に「別当金光院」と書かれています。金光院が配布していた掛軸のようです。
①一番上の不動明王のように見えるのが金毘羅大権現
②その下の両脇で団扇を持っているのが金剛院で大天狗姿
③その下が多くが黒眷属金毘羅坊で、団扇を持たず羽根のある烏天狗姿
ここからは金比羅の修験者たちは、自分たちは金毘羅大権現に仕える天狗達と認識していたことがうかがえます。近世はじめに流行神として登場した金毘羅神を生み出したのは、このような天狗信仰をもった修験者たちであったと研究者は考えています。
そして、この2つの天狗達に後から仲間入りをするのが最初に見た愛宕山太郎坊になります。
この天狗信仰と金比羅信仰のつながりを、模式化したのが次の表です。

金毘羅の天狗信仰

江戸時代前期 もともとは「①黒眷属金毘羅坊と③象頭山金剛坊」に「愛宕山太郎坊」が追加    
江戸時代後期 ④「象頭山趣海坊」+⑤「安井金毘羅宮」の浸透
④「象頭山趣海坊」とは崇徳上皇の家来です。京都では安井金毘羅宮を中心に、崇徳上皇=金毘羅大権現とする説が普及し、滝沢馬琴も『金毘羅大権現利生略記』の中で崇徳上皇=金毘羅大権現とする説を採用しています。
文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集の中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、終に天狗となったものだと語ったと記されています。
こうして見てくると、江戸時代の金光院などの社僧の僧侶は、根強い天狗信仰をもっていたことがうかがえます。そのような中で、愛宕信仰を持つ影響力の強い修験者がやってきて、金比羅に愛宕大権現を開山し、「金毘羅神」の守護者を名乗るようになったとしておきます。

最後に愛宕大名神の現在の姿を見ておくことにします。
琴平愛宕山ルート図

象頭山と愛宕山の鞍部の牛屋口から尾根づたいの整備された道を辿ります。この当たりは、昔は松茸がよく生えていた所で、戦前までは入札していたことが記録に残っています。

愛宕山;石柱:八景山遺蹟。

まず最初のピークに八景山遺構の石碑が立っています。昭和16年(1941)に建てられたものです。次のピークが愛宕山になります。

愛宕山山頂6
愛宕山山頂
山頂には
愛宕山遺蹟の石柱があります。頂上は、整地されていて広く、神社の拝殿などがあったことがうかがえます。

愛宕権現 琴平町
          愛宕山山頂の愛宕社の祠(琴平町)
そこには、いまは石の祠だけが鎮座しています。山頂にあった愛宕大権現の御神体は神仏分離後はふもとの天満宮に下ろされ、天満さま(菅原道真神社)と合祀されているようです。そちらに行って見ます。
愛宕神社・菅原神社の鳥居
金比羅芝居の金丸座の裏からの車道を300mほど行くと、菅原神社の登山口です。鳥居と石碑が迎えてくれまます。

菅原神社・愛宕神社

入口の石碑は菅原神社と愛宕神社がならんで刻まれています。もともとは、愛宕権現のテリトリーに天神信仰の高まりの中で天満宮が勧進されたのでしょう。それが愛宕権現と並んで奉られていたことは、最初に見た金毘羅参詣名所図会に書かれていました。長い階段を登っていくと本殿が見えて来ます。

菅原・愛宕神社
菅原神社・愛宕神社

中央が菅原社、右側が竈神社、左側が愛宕社です。今の主役は菅原道真です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年
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金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

1979(昭和54)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。指定を記念して金刀比羅宮から調査報告書三巻と「年表編」が刊行されました。この年表を手にしたときに驚いたのは、近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。

 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。

「金毘羅庶民信仰資料集」の「年表篇」を作るように言われてお引受けしたのは「第一巻」が出版された昭和57頃であった。それ以後,暇ごとに手近な資料から「年表」の材料になると思われる事柄をカードに書取って,それがかなりの分量になり,時間的にもこれ以上遅らせなくなったところで,年月順に並べて書き写したのがこの年表である。 
それでは松原秀明氏による年表の18世紀半ばまでの部分をアップしておきます。

1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か)、矢一手を額仕立として奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親、松尾寺(のちの金毘羅)仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久、松尾寺に制札を下す。
10.19仙石秀久、金毘羅へ当物成十石を寄進。仙石秀久、源信国作太刀一振を献納。
1586 天正14 2.13仙石秀久、金毘羅へ三十石寄進。
8.24仙石秀久、榎井村六条の内を以て、三十石寄進。
1587 天正15 1.24生駒親正、松尾村にて高二十石を献ず。
1588 天正16 7.18生駒一正、榎井村にて二十五石寄進。
1589 天正17 2.21生駒一正、小松村にて五石寄進。
1594 文禄3   8.10宥盛、松尾寺再興のため勧進帖を撰す。
1596 慶長1   3.5別当大僧都宥厳、観音堂に鰐口奉納。 7.上旬宥盛「破禅抄」書写。         
1597 慶長2   4.14宥盛「色葉経」書写。 5.下旬宥盛「南台門僧正空海記」書写。
1598 慶長3   8.1榎井村久右ヱ門より田地寄進。 
9.8大井八幡宮遷宮、導師善通寺誕生院尊翁、金光院宥厳・宥盛奉仕。
1600 慶長5   12.13生駒一正、院内にて三十一石寄進。
下川家初代帥坊、紀州下川村より移る。宥厳没、宥盛入院。
1601 慶長6   3.5生駒一正、諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめる。
28生駒一正、金毘羅へ四十二石五斗寄進。
4.11生駒一正、三十番神社を改築。摩利支天堂・毘沙門天堂創祀。
1603 慶長8   「金毘羅山神事頭人名簿」書き始められる。
1604 慶長9   1.宥盛、禁戒文を撰す。護摩堂創祀、本尊不動明王造像(雪津入道作)。
1605 慶長10 1.土佐出身の片岡民部、宥盛の弟子となり、多聞天の像をもらって多聞院を名乗る。
宥盛、先師宥厳菩提のため、自ら如意輪観音を彫む。
1606 慶長11   3.宥盛高野山浄菩提院を兼任。 
  10.宥盛、自らの木像を彫み台座に「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛」と彫込む。
1607 慶長12   4.2生駒一正、生駒将監名にて、那珂郡高篠村にて三十石寄進。
生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて十石寄進。 
5.先の松尾寺住職宥雅、宥盛を生駒家へ訴える
6.宥盛、宥雅の訴えに答えて目安を撰す。 
9.6生駒一正、寺高諸役免許のことなど安堵する。 
9.21生駒一正、浅井喜八郎名にて、買田村にて十石寄進。
10.20生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて五石寄進。
1609 慶長14   9.6生駒一正、先規により、城山称名寺山を献じ、寺領諸役免除を安堵。
1610 慶長15   8.7生駒一正、浅井右京名にて、金毘羅へ出入する米の道切手を遣わす。
1611 慶長16   薩摩国島津義弘より紺紙金泥金剛不空三摩耶経二軸を献納。
1613 慶長18   1.6宥盛没。宥睨入院、実家山下家が、この頃豊田郡河内村から金毘羅へ移住。
14生駒正俊、城山称名寺山を従来の如く献じ、寺領諸役を免除する。
16生駒家より作事用木を寄進する。また寺領並びに称名寺分高八十石の諸役を免除
1614 慶長19   8.生駒家家老香川与三兵ヱより五条村にて初穂米寄進。
多聞院宥哩、土佐へ退去。金剛坊創祀。
   ※慶長年間 観音堂改築。
1615 元和1   長修理頭、金光明最勝王経十巻を献ず。
1616 元和2  木村家、寒川郡鶴羽村から移住。荒川家、鵜足郡栗熊村から移住。
1617 元和3   2.21生駒正俊寄付の鐘できる。
1618 元和4   3.10生駒正俊、先規により院内廻り七十三石五斗、苗田村五十石、木徳村二十三石五斗ばかりにて、百四十七石寄進。
閏3.10生駒正俊、金地着色三十六歌仙扁額三十六面寄進。
1620 元和6   9.生駒正俊、鐘楼堂建立寄進。
10.6生駒正俊、会式につき、八日より十一日まで米出入の儀に異議なき旨を申達す。
1621 元和7  5.18宥睨、法印となる。
11.28生駒高俊、五条村にて百石寄進。都合神領二百四十七石となる。
また、寺高諸役免除のことなど保証する。
1622 元和8   8.15生駒家よりの寄進、三百三十石となる。
1623 元和9   金毘羅本社でき、古堂は行者堂に引直す。
東元和年間、宥盛の弟子寛快、普門院を再興。
1624 寛永1   観音堂改築、宥睨、装飾のため擬宝珠を作らせる。
金倉川に鞘橋が架かる(元和七年とも)。
1626 寛永3   宥睨、多聞院宥哩に帰山の書状を遣わす。
1627 寛永4   9.10生駒円智院より頭屋米十石寄進。
1628 寛永5   菅納家、備前金川村より移住。竹川家、三野郡財田中ノ村より移住。
1629 寛永6   6.宥睨の付弟宥儀、高野山にて「金剛界念誦次第」(遍智院本)書写。
1631 寛永8   多聞院片岡家、土佐国より再度移住。A宥睨の付弟宥儀没。
1633 寛永10   12.荒川家より一ノ鳥居建立寄進。
小国小兵ヱ移住。付添って、備前岡山生れの塩屋惣四郎も移住。
1634 寛永11   1.岩手宗也、独吟和漢連句を奉納。
1635 寛永12   6.宥典、高野山にて「智袋」を求む。
1637 寛永14   11.2宥睨、京都嵯峨大覚寺宮御令旨により上人位となる。
1638 寛永15   11.里村玄陳、自筆「詠歌体」一冊奉納。A大覚寺宮尊性法親王参詣。
1639 寛永16   生駒高俊、頭屋米四十石寄進。
1640 寛永17   生駒高俊、讃岐国大絵図一舗を奉納。生駒家改易。
受城使として尼崎城主青山大蔵小輔参詣。
1642 寛永19   1.10別当宥睨、里村玄陳等を招き連歌を興行。
5.松平頼重、高松に入城 天領池領(五条村・榎井村・苗田村)設置。
1643 寛永20   丸井小助(虎屋惣右ヱ門:虎丸旅館)、豊田郡丸井村より移る。
   高松藩船奉行渡辺大和、玄海灘にて霊験を蒙る。
   ※寛永年中、荒川九郎兵ヱ、初めて町年寄役申付けらる。中村家、京都より移住。
1644 正保1   大井八幡宮改築。                                  
1645 正保2   1.6宥睨参府、将軍家光に御目見。
5.幕府寺社奉行宛、社領三百三十石に御朱印頂きたき旨願い出る。 
11.3宥睨没、五十一歳。 12.宥典入院。
] 寺中役人等より先代同様疎意なき旨の連判状をとる。
高松城主松平頼重、三十番神社を改築。大行司堂改築。
1646 正保3   1.21宥典、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 2.宥典、将軍に謁す。 
11.25普門院・菅孫左ヱ門・木村猪右ヱ門等、三十番神社社人松太夫・権太夫の儀につき神文を差出す。
12.伊福院追放。宥典、再度参府。
1647 正保4 10.松平頼重より、寺社奉行安藤右京進・松平出雲守に金毘羅へ朱印状下されたき旨願出
 ※正保年間 尾崎家初代八兵ヱ召出される。
1648 慶安1   1.6宥典、将軍家光に謁す。 
2.24将軍家光、金毘羅権現社領、那珂郡五条村内百三十四石八斗余、榎井村内四十八石一斗余、苗田村内五十石、本徳村内二十三石五斗、社中七十三石五斗、都合三百三十石を先規に任せ寄付し、山林竹木諸役等免除の旨の朱印状を授く。
3.17初めて朱印状を頂戴す。 8.26松平頼重、参詣一宿。
松平頼重、三十六歌仙扁額奉納。従来の参詣道を変更して大略今日の如く改める。
1648 慶安2   1.松平頼重から用材の寄進を得て大門上棟。 
6.21三十番神社社人松太夫・権太夫のことで出入あり、この日、山下・菅納・木村などの諸家の取扱にて落着。
1650 慶安3  12.松平頼重、登山参龍して和歌を詠ず。
松平頼重、阿弥陀仏千体を寄進、これを阿弥陀堂に合祀し、以後この堂を千体仏堂という。
松平頼重神馬並びに飼葉料として毎年米三十石寄進。
1651 慶安4   8.松平頼重寄進の木馬舎上棟。仁王門を廃して中門とする。大門改築竣工。
新たに仁王像を作り、これを大門に安置。のち大門を仁王門と呼ぶ。
松平頼重、神馬舎に木馬を寄進、飼葉料は従来のままとする。
  ※慶安年間 京都仏師田中家二十五代弘教宗範、御内陣の獅子高麗彫刻。
1653 承応2   10.12京都智積院の学僧澄禅、四国順拝の途次参詣し、真光院に宿る。
12.17社領に宿かしのこと、博突停止のことなど触達す。
1654 承応3   10.里村玄陳等、石燈箭一対奉納、榎井長兵ヱ長好取持。
松平頼重より、二品良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の額奉納、「象頭山」を仁王門に掲げる。
1655 明暦1   1.松平頼重、明本一切経奉納。 10.丸亀福島橋西畔に金毘羅屋敷普請成就。
12.20高松の金毘羅屋敷の地所を買取る。
従来の雪津入道作護摩堂本尊を廃し、伝智誼大師作不動尊像にかえる。
1656 明暦2   5.10松平頼重、自筆の「讃州路象頭山縁起」を奉納。
  池領の者、丸亀領佐文村へ入込み、入割になったのを調停に入る。
1657 明暦3   3.町方へ吉利支丹宗門のこと、旅人宿のことを申渡し請書を取る。
1659 万治2   4.10御本社下遷宮。 6.13京都大徳寺の天祐紹呆参詣。 8.28御本社上遷宮。
9.13善通寺内十善坊・常林坊、境内に潜入のところを見咎められ詫状を書く。
観音堂を御本社脇より下向坂方面に移転改築。
金剛坊を御本社前脇より観音堂脇に奉遷し、間もなく観音堂後堂に移転。
小松庄内の寄進にて、鐘楼のもとに鳥居建立。御祈祷参箭所移築。
1660 万治3   10.10松平頼重、一切経蔵を建立寄進。
本地堂創祀。中門に京都仏師田中家二十五代弘教宗範彫刻の持国・多聞の二天を安置、以後中門を二天門と称す。
丸亀城主京極高和、江戸三田の藩邸に金毘羅権現勧請。大阪の金毘羅屋敷造営。
 ※万治年間 日比常真「象頭山十二景図」を描く。
この頃、塗師五兵ヱ(のち役人河野家)備前岡山より移る。
1661 寛文1   3.15松平頼重、千体仏堂を改築。
1662 寛文2   3.高松大本寺日誓、経蔵一覧の碑文を撰す。
1665 寛文5   4.吉利支丹宗門の儀に付、念書を取る。 
7.11将軍家綱、社領の朱印状を授く。 9.28松平頼重参詣、願文を奉る。
1666 寛文6   7.1社領内へ博突停止などの触を出す。宥典隠居。宥栄入院。
1667 寛文7   1.15宥栄、将軍家綱に謁す。 
2.宥栄、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 
9.28宥栄、神野大明神本尊鎮座法楽理趣三昧導師を勤める。
1668 寛文8   1.10松平頼重、石燈箭両基献納。
10.10僧一死、慶安元年四月房州平群天神山で拾得した不動尊を奉納。
多度郡生野村出生の大工棟梁平八(西屋、川添姓)、当所高藪町に移住。
1669 寛文9   1.10松平頼重、石燈龍両基献納。 11.15古田古畑たばこ作りのことで触達す。
1673 延宝元  11.10松平頼重、金毘羅大権現神供領、千体仏堂領並びに神馬領高五十石、
また金光院内王祠供料十石を寄進。
安房勝山城主酒井忠朝より古語二幅が献ぜらる。 
  2.19松平頼重隠居、嗣子頼常が継ぐ。
  5.3松平頼重、石燈販献納。12.松平頼重、多宝塔を建立寄進。
1674 延宝2  18.10池領の者たち、社領内で理不尽に池を掘る、高松藩より竹井西庵、郡代・大庄屋召連れ検使に来て調査の結果、社領に間違いないことを確認、松平頼重の命として、以後このようなことのなきよう申付らる。
1675  延宝3  11.吉野屋長治郎外八名、土佐光信筆「源氏物語図」額奉納。
閏4.瓦師久兵ヱ、備前岡山より移住。6.16社領と池領と地替え済み。
11.19右の件、公辺より裏書下さる。。25宥典没、五十九歳。
1676   延宝4  伊予国宇摩郡川之江より伊予屋市兵ヱ移住。
  多度郡中村出生の張物師大津屋権六郎移住。
1677   延宝5  9.10有馬玄蕃頭頼利室清涼院(松平頼重娘)、六歌仙扁額奉納。
護摩堂改築、旧護摩堂を移転改築して釈迦堂創祀。
1678  延宝6   5.14宥栄、先師宥典菩提のため阿弥陀堂廊下造築、奉行松寿院典醒。
のちの江戸湯島霊雲寺開山の浄厳参詣。
1679  延宝7  孔雀明王像を造る。また護摩堂の諸仏四大明王・十二天・八大童子像を造る。
丸亀藩主京極高豊、江戸三田の金毘羅祠を、虎の門の新邸へ遷座。
1680 延宝8  宥栄、将軍綱吉に謁す。
 ※延宝年間 狩野安信・時信筆「象頭山十二景図」なる。
1682 天和2   9.25俳人岡西惟中参詣、木村寸木邸に宿る。翌日、金光院に遊ぶ。
1683 天和3   宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ(三代)。
 ※天和年間 三井道安金毘羅小坂に住居。
1684 貞亨1   9.26宥栄、満濃池池宮大明神の本尊鎮座法楽導師を勤める、願主矢原政勝。
1685 貞享2   6.11将軍綱吉、社領の朱印状を授く、
俳人大淀三千風、金光院にて「不二の詞」を撰すo
         12.18古酒八分、新酒六分、豆腐十二文と値を決める。座頭への施物は軽く、日用賃一日一人七分と触達す。
この頃、谷川も町並みになる。
1686 貞享3   7.26大雨洪水、鞘橋流失。 10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4   9.9大風にて神林の松損木多し。材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
 ※貞享年間の頃 役人牧野家・高木家・東條家・医師安藤家、召し出さる。
1688 元禄1   3.28社領内、鉄砲所持の分書出す。金毘羅十日講銀にて頭屋米百石買上げる。
宥弁真念の「四国辺路道指南」刊す。
1689 元禄2   4.博突・遊女停止のこと申渡し、請書を取る。
9.11松寿院典醒を以て社領内鉄砲を高松矢倉へ納める。 9.社領内総鉄砲数七十挺。
11.高松より、境内にて殺生禁止、また山林竹本伐るべからざる旨の制札を二枚下さる。
小書院普請。寂本撰の「四国遍礼霊場記」刊。
1690 元禄3   「日本行脚文集」刊、大淀三千風撰。
1691 元禄4   7.11宥栄隠居、宥山入院。 11.宥山参府。 12.宥山、江戸にて霊雲寺浄厳と往来あり。
1692 元禄5   1.15宥山、将軍綱吉に謁す。
1693 元禄6   1.15宥栄没、六十四歳。
1694 元禄7   3.石槌山前神寺金毘羅堂に燈龍建立。 6.上旬御本社葦替。
7.9日向国細島の六兵ヱ・伜三之丞、佐田の沖にて霊験を蒙り難船を免れる。宥山その事を書誌す。
10.宿貨し・遊女・博突停止のことなど触達す。
予州宇摩郡天満村寺尾氏春、苗田村にて石燈龍奉納。
唐国雷音博「讃州象頭山十二境詩」撰す。
1695 元禄8   4.松平頼重没。 8.15六角越前守広治、願文を捧ぐ。
9.宥山の求により、高野山義剛、「覚禅抄」に朱点を付ける(元禄十一年まで)。
九月吉日、本地堂棟札、奉行坂上庄兵ヱ、大工吉田久右ヱ門。
町方升屋三平と三野郡上高野村百姓助九郎との田地に関わる訴訟、升屋三平非分となる。
1696 元禄9  2.5宥山、権律師になる。 3.予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥、銅燈龍献納。
坂上羨鳥撰「簾」刊。
1697 元禄10   1.10浄厳、「金毘羅神勘文」を撰す。熊谷立閑「讃州象頭山十二境詩」撰す。
家内並に家来を召連れた浪人小河弥三郎、江戸へ出向き、以後社領住居の浪人はなく、浪人帳も廃す。
         町方にて喧嘩をし、相手を突殺した鍛冶伝右ヱ門、高松へ頼み斬罪申付らる。
1698 元禄11   大井八幡宮神門再興。宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ。「あしろ笠評リ、僧露泉編。
1699 元禄12   1.14松平頼豊参詣し、剣一振・黄金十両など奉納。4.10宥山、権少僧都となる。
観音堂開帳。観音の御影新刻さる。この頃、雲外車竺外「象頭山十二景詩」を撰す。
1700 元禄13   「金毘羅会計」、木村寸木編。
1701 元禄14   3.高野山通玄の法華経講鐘あり、町方へ聴聞衆への応待心得を触達す。 
5.松平頼豊、神供領・千体仏堂領並に神馬領高五十石安堵。
1702 元禄15   6.10本社屋根葺替。 7.20宥山、権大僧都となる。
8.29高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包本鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
1703 元禄16   3.3子供芝居寺へ上る。座本権左ヱ門・太夫本嵐勘四郎、お目見。 
3.池領榎井村の遊女を残らず追払った旨、札之前町組頭より届出あり。
4.11下屋敷にて宗門改。
  ※元禄年中 余島屋茂右ヱ門(のち吉右ヱ門)当地へ移住。
元禄末年 岩佐清信に「象頭山祭礼図屏風」を描かせる。
1704 宝永1  真光院引直し造作。
6.8姫路城主本多忠国より鶴奉納、豊島松翁立合にて、神前にて放す。
10.5大芝居・竹田代り浄瑠璃芝居の桟敷のこと申付る。
1705 宝永2   春。松平頼重二男靭負、東海道赤坂駅にて怪猫の難を免る。
5.2宥山、京都仁和寺宮御令旨により法印となる。
5.坂上羨鳥、手水鉢献納。 11.8宥山、多聞院に赴く。
1706 宝永3 3.9新町にて、阿州白地の長右ヱ門、白狸を見せ物にする。
3.20宥山、菅納三郎兵ヱ方へ出向く。
12.山奉行はじめてでき、河野助左ヱ門に申付ける。
町人布屋源四郎、金倉寺領三十石のうち十七石七斗買取る。
長崎浦上の無凡山神宮寺に金毘羅権現勧請。
1707 宝永4   2.19広谷庵上棟。 3
.26酒奉行呼あげ、上酒一匁八分・中酒一匁五分・下酒一匁二分を、高松なみに上酒一匁六分・中酒一匁三分・下酒一匁に値下申付る。
4.10役人小川又兵ヱ方にて不動講あり。
1708 宝永5   7.宥山後嗣宥曼、江戸湯島霊雲寺において「真言事」書写。
8.宥山、仁和寺院家自性院兼帯。
9.10高松城主松平頼豊より太刀一振献納。
9.24宥山の実父山下道移寄進の広谷庵地蔵菩薩供養。
10.7寺にて芝居。西山の片岡家、召出される。
1709 宝永6   1.23将軍家宣、庖癒につき、高松より平癒祈祷の依頼あり。
3.26酒運上御免。 4.17宥山出府に付、高松にて五十挺立船拝借のこと整う。 5.10宥山、権僧正となる。 6.1宥山、拝天顔。。14宥山の後嗣宥曼没。
7.1宥山、将軍家宣に謁す。
8.豊後の俳人来拙、木村寸本を訪う。
9.1当役所内、当番の者袴着用申渡す。
10.1芝居の者お目見。別宗祖縁外「和象頭山十二景詩」を撰す。
1710 宝永7   6.1太鼓堂上棟、宥山、普門院にて見物。参詣人多し。
7.11巡見使、宮崎七郎右ヱ門外社領通過。
10.15菅納源左ヱ門・近藤九郎左ヱ門・片岡松蔵三人に日帳を記すよう申付る。
        11.18町方木村平十郎外寒気見舞に登山。
城州伏見鍛冶職忠右ヱ門を当処へ呼下しお目見。
  ※宝永年間 銅華表建立。宝永初年、金川屋小次郎、備中成羽より移住。
宝永末年、三野郡財田中ノ村より渡辺家召出され移住。
1711 正徳1   1.12丸亀妙法寺看坊参詣、札守を受ける。
3.土州山御用木元締大橋屋源助外、太鼓堂造立料として小判百十両寄進。 4.29木村新右ヱ門、上方より帰り挨拶に登山。
6.6木村平十郎外、御留主見廻に登山。 10.3多聞院へ不動尊を下さる。 11.16高松より為替米代金の請求あり、町方へその段申渡す。
25予州松山の浄熊と中す座頭、中之庄坂上半兵ヱより大野原村平田源次へ頼み、源次より山下弥右ヱ門へ頼み、宥山、中之間にて三味線を弾かせる。
1712 正徳2   3.1多度津藩主京極壱岐守高澄より石燈龍寄進。。
2智貞(宥山実母)死去に付、近国の座頭集り取り遣りあり。
4.3多聞院尚範死去、四代目慶範家督。
12金川屋小次郎に菓子の御用申付る。 6.5引田屋(荒川)安太夫に閉門申付 
7.10智貞様追善のため町方べ接待。23豆腐値段申付る。念仏踊、御成門の外にて躍る。
8.14大井宮造営に付、白銀五十枚寄進。17大井宮へ材木二本寄進。
9.28大井宮普請に付、行器五荷、酒二斗遣わす。10.1神輿出来る。
12.7小川又兵ヱ・矢部惣右ヱ門へ社領境目調べるよう申付る。
1713 正徳3   2.3高松城より能の案内あり。5宥山、高松へ出向く。
25池領と社領との境を決めようと那珂郡高篠村庄屋千葉弥三郎より申出あり。 
4.22堺目見分のため高松役人・池領代官所役人到着。 
5.2大坂泉屋(住友)吉右ヱ門より、小守を遣わした御礼物が届く。
13引田屋安太夫の件で、多聞院高松へ出向く。28宥山、将軍家継に謁す。
6.29池領御巡見役人登山。7.2那珂郡大庄屋より雨乞願出る。
10智貞様追善のため、坂下にて接待、広谷坊主に世話申付る。
9.17五三昧庵主死去、それに付、後役真言道心の隨な者をおくよう申付る。
広谷坊主・五三昧庵主とも普門院弟子の振合。
23伊予屋半左ヱ門、片原町の家屋敷売払う。 10.8神馬屋に盗人入る。
12、7日より十二日まで夥しい人出、前代未聞。
12.18五条村五郎左ヱ門登山、大井宮遷宮成し下されたく願出る。
1714 正徳4   1.11堺目見分に付、高松領庄屋たちと当山役人が出会う。
15菅納三郎兵ヱ婿米屋文三郎、御目見、宥山より下され物あり。
20鍛冶忠右ヱ門、大工同様扶持下さる。
2.23高松買津屋作左ヱ門、初めてお目見え差上げ物あり。
3.4内町引田屋安太夫家屋敷、同族大黒屋助次郎に売渡す。
3.18宥山実父山下盛貞没、七十八歳。
4.22松平頼豊より、盛貞死去の悔状まいる。
5.7境目のこと埓明き、塚を築く。 6.20庚申待無用に申付る。
28前屋敷にて宗門判。
7.10満濃村庄屋登山、那珂郡中より五穀成就の祈祷願入る。
8.10高松金毘羅屋敷普請、宥山お忍びにて見分に出向く。
8.26池領代官高谷太兵ヱ、榎井村へ到着、それより登山参詣。
9.10寒川郡長尾村の西善寺初めて参り、宥山に挨拶、以後お出入りを願う。
13予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥より唐金塔寄進。
25池領と社領の境目絵図でき、見分。
         11.1伊勢御師来田監物大夫直参に付、旅宿へ音物を遣わす。
22馬屋より出火、長屋奉行吉田庄右ヱ門に閉門申付る。
12.26草履取平二郎に庭木作りを命ずる。延宝三年度の「社領境目絵図」を改訂。
1715 正徳5   1.21京都政所様より絵馬奉納。 3.25金山寺町火事、類焼家数釜処二十六軒。
4.28木村寸木没、六十九歳。
6.21菅納市右ヱ門柳陰第七男宥英、江戸深川永代寺に入院。
塩飽牛島丸尾家の船頭たち、釣燈龍一対奉納。
7.23七ケ村念仏踊、当山にて例年三庭のところ、今年は五庭踊る。
8.21池領代官高谷太兵ヱ、榎井村到着。24予州代官平岡彦兵ヱ、参詣止宿。
坂上羨鳥、鋳塔献納。 9.20四条村・五条村より大井宮遷宮のこと願出る。 10.27大井遷宮の場所見分。 11.2宥山、大井宮遷宮に出向く。
高野山より職人町人御金蔵にて金請取のことにつき公儀触の廻状来り、差戻す。
1716 享保1   1.10多度津藩主京極高澄、大般若経六百巻を寄付、表題箱書は大通寺南谷。
12高野山より金銀通用のことで廻状あり、差戻す。
2.町の座頭豊都、官位につき白銀五枚遣わす。広谷の禅門、墓守御免。
3.池領巡見衆到着。 9.京極壱岐守より大般若寄進。太田備中守
今回は、このあたりまでとしておきます。
以上から松原秀明氏は次のように指摘します。
①創世記の金毘羅信仰において、大きな役割を果たしているのは金光院の修験者たちであること
②霊山象頭山にあった宗教勢力の権力闘争を勝ち抜いたのが金光院で、宥盛の力が大きい。
③「庶民信仰の金毘羅さん」と言われるが、その初期においては、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの保護寄進で、経済基盤や伽藍整備が行われた。
④特に生駒藩による330石の寺領寄進と、髙松藩の松平頼重による朱印地化や伽藍整備が行われたことが大きい。
⑤これが西国大名からの代参や寄進を呼び、それが庶民参拝につながっていくという過程が見える。
⑥つまり「最初に庶民信仰ありき:でなく、藩主の保護 → 各大名の代参の活発化 → 庶民信仰という道筋であること
次に「海の神様・金毘羅さん」についてです。
18世紀初頭までの年表には、海や船に関することはほとんど出てきませんとよく言われます。このことについて松原秀明氏は、次のように記します。
これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
   金毘羅大権現は海の神であるという信仰は、多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅大権現の年表 松原秀明


松原秀明は年表後記に次のように記します。

「資料集」三巻三冊は,奉納者の心がこもり,物としても立派な献納品を取扱うことで,自然と内容にも重みが伝わってきているが,この「年表篇」はそれに相応しいもとは言えそうにない。大事なことで見落したものも多く,資料の読み違いからくる誤も多いことと思われる。
しかし「年表篇」の仕事をさせて貰ったことで「勉強になって有難かった」という気持も強い。
 ここで,「やや明瞭になった」と思われる事を箇条書にしてみる。それが「資料集」とともに,このF年表篇」を読まれる方々の参考として少しでも役立てば幸いである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原秀明 金毘羅庶民信仰資料集 年表篇 
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 金光院の公式文書で初代院主とされる宥盛は、高野山で学び山岳修験を積んだ真言修験者でもありました。彼は「弘法大師信仰 + 高野念仏聖 + 天狗信仰の修験者」などの各信仰を持っていました。そのためその後の金光院には修験道的な要素が色濃く残ることになります。例えば金毘羅大権現時代には、お札は金光院の護摩堂で修験者が祈祷したものが参拝者に渡されていました。そして、護摩堂には、本尊として不道明王が祀られることになります。不道明王は修験者の守護神ともされ、深い関係にありました。修験の流れを汲む金光院で不動明王が大切にされたのには、こんな背景があるようです。そのため金刀比羅宮には不動明王の絵画がいくつも伝来しています。今回は金刀比羅宮の不動さまの絵画を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)」です。

不動明王にはいくつかのパターン図柄がありますが、まず円心(えんじん)様の不動明王二童子像を見ておきましょう。
円信様式 富豪明王 嵯峨寺

円心は正確には延深(えんじん)という名の絵仏師て、11世紀中頃に活動したとされます。円心様の不動の特徴は、次の二点です。
①海中の岩座に立つ
②剣を持つ右腕は肘を大きく横に張り出し、髪は巻き毛でフサフサと豊かである
それでは次に金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆(室町時代)」を見ておきましょう。
26不動明王
       金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆」

①円心の不動は寸胴で武骨な力強さを見せるのに対して、金刀比羅宮図像は、比較的伸びやかな肢体で華麗な印象を与える。
②金刀比羅宮像の火炎は、緩やかに波打ちながら上方へすらりとした曲線を描き、細く枝分かれした炎の先端は繊細なゆらめきを見せる。
③不動の肉身も青黒い体の要所に照り隈が施され、ぼってりとした筋肉の盛り上がりが感じられる。
④左の衿羯羅(こんがら)童子の顔貌部や肉体は、補筆が多く加えられている
⑤右の制多迦(せいたか)竜子の方は、当初の状態がよく残っていて、肉身を描く線も緩いながらも柔らかな抑揚を示しており、丸みを帯びた童子らしい肉体を巧みに描写している
 それらを勘案してみると、金刀比羅宮像は14世紀の後半の室町時代の者と研究者は判断します。

金刀比羅宮のもうひとつの不動明王(血不動)を見ておきましょう。
「血不動」と呼ばれている不動さまですが、もともとは「黄不動」(黄色は本来金色)を描いたもので、「血不動の通称は、黄不動の転訛」と研究者は指摘します。黄不動は、讃岐出身の智証大師(円珍:814~891)が感得した不動明王像とされ「天台宗延暦寺座主円珍伝」には、次のように記されています。

承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に命じて写させた

智証大師の描かせた原本は園城寺に秘仏として伝えられています。しかし、霊験ある像として広く信仰されたために、下の曼殊院本を筆頭に転写本が案外多く残っているようです。
絹本著色不動明王像(国宝、曼殊院所蔵)。平安時代後期(12世紀)の作で、黄不動の模写像としては最古例[1]。
不動明王像(国宝曼殊院所蔵) 平安時代後期(12世紀) 黄不動の模写像としては最古例

圓城寺像の古い模写である蔓殊院の黄不動さまを研究者は次のように評します。
①肉身は白色に透明な黄色をかけ、腹部は膨らみを表すために暈しをかけている。
②太めの硬質な線で輪郭を適確に描き、その色料は珍しく朱と墨を混ぜている。
③かっと見開いた両眼の瞳には金泥が注され、また渦巻状の髪も金泥を用いている。
④着衣文様は彩色のみで、院政期仏画にしては珍しく截金は使用していない。
⑤園城寺の原本と比べるとプロポーションが洗練されて筋骨隆々の成人体躯となっていたり、岩座が描き加えられている。
それでは金刀比羅宮の「血不動(黄不動)」を見ていくことにします。

21 不動明王(血不動)(伝円珍筆)
    不動明王(血不動)伝円珍筆 室町時代 (金刀比羅宮蔵)

絹の傷みがひどく不動さまの姿はかすかにしか見えません。まるで「闇夜の烏」のようです。まず、上から見てく行くと忿怒の顔が見えて来ます。
「不動の肉身は、肥痩のある墨線で描かれ、筋肉の隆起した遅しい姿は原本の雰囲気をなお伝えている」
「不動の左の足元を見るとわずかに岩座を描く線が残っている」
と研究者は記すのですが、私にはそれもなかなか見えて来ません。
金刀比羅宮の血不動の制作時期については、研究者は次のように判断します。

墨線は平安仏画の鉄線描に見られるような粘った強さはなく、やや走ったような軽さがうかがえる。また装身具の形態描写も崩れがあり、時代的には下っていることを予想させる。諸模本との比較が不可欠だが、室町時代の制作であろうと思われる。

最初にも述べた通り金毘羅大権現の別当寺としての金光院は、真言宗寺院でした。院主は高野山で学んでいます。その中にあって天台宗の円珍が感得した黄不動が伝わるのは一見不思議に思えます。しかし、それは近世の本末制度が固定化して以後のことに縛られた見方で、近世以前には地方の寺院ではいろいろな宗派が入り乱れて宗教活動を行っていたことは以前にお話ししました。諸宗派の垣根は低く、近隣の金倉寺が智証大師誕生所となっているので、その縁によって伝わったのか、あるいは黄不動の信岬は東密にまで広がっていたので、高野山を通じでもたらされたのかも知れません。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

ここからは1655年に金光院内になった護摩堂本尊を、それまでの根津入道作から、伝智証大師作の不動明王に交換したことが記されています。
不動明王3
           不動明王(金刀比羅宮)
それが現在の宝物館の不動像になります。これは木彫作品ですが、護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されるなど、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。この木造不動さまと、「血不動」のどちらが先にやってきたかは分かりませんが、前後した時代であったはずです。
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代

元禄時代の金毘羅大権現境内図 護摩堂は金光院の中にあった
最後に「不動種子 伝覚鍔筆」を見ていくことにします。

24 不動種子 伝覚鍔筆 絹本著色金泥 室町時代
          「不動種子 伝覚鍔筆」(金刀比羅宮)

画面の中央に金泥で不動明王の種子である「カーンマン」が金泥で大きく書かれています。
右側には不動の二側面の化現である衿蜈羅(こんがら)、制多迦(せいたか)二童子が描かれます。
①慈悲を示す小心随順とされる白身の衿務羅は種子に向かって手を合わせ、
②方便としての悪性を示す赤身の制多迦は剣を握り体を背けつつも視線を種子に送る。
向かって左側には、不動明王の象徴とされる倶利伽羅龍(くりからりゅう)のまとわりついた宝剣が描かれます。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on X: "来年2024年の干支は辰。それにちなんで葛飾北斎が描いた龍 の絵をご紹介。不動明王が手にする倶利伽羅剣(くりからけん)にぐるりと巻き付いている龍が、剣先を呑み込もうとしています。倶利伽羅不動と呼ばれます。北斎  ...
           倶利伽羅龍北斎漫画』十三編より

童子の上方には、金泥によって「不動尊」の三字が記されています。このように、画面内には種子、漢字、画像が入り混じり複雑な表現世界を形作っています。
どうして、不動明王を絵画でなくて種子で表現するのでしょうか。
それに対して研究者は次のように答えます。
「漢字によって示される意味の世界が記憶する現実界との連続性や、視覚像の直接的な具体性を超えた種子の観念的絶対性も印象付けられる。変転する色相の世界を超越した尊格生起の根本原因としての種子の意義が巧みに表現されている」

作者については覚鑁(かくばん)の伝承筆者名がありますが、実際の製作年代は室町時代と研究者は判断します。

  金毘羅神は、近世はじめに天狗信仰を持った修験者たちによって生み出された流行神でした。
それが急速に教勢を伸ばします。いくつもできた子院の中で頭角を現すのが金光院です。金光院は神仏混交の金毘羅大権現の別当の坐に就き、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの藩主の特別な保護を受けてお山の大将になっていきます。この間に、他の宗教勢力と権力闘争を繰り返してきたことが史料からもうかがえます。初代金光院主とされる宥盛は、優れた修験者であり、有能な弟子を数多く育てています。同時に彼は、高野山で学んだ高僧でもあり「弘法大師信仰 + 真言密教修験者 + 高野念仏聖」などの性格を併せ持っていたことは以前にお話ししました。ここで押さえたおきたいのは、神仏混淆下の金毘羅大権現の支配権は真言宗を宗旨とする金光院が握っていたことです。そのため数多くの仏像や仏画が金光院に集まってきました。そのうちの仏像については明治の神仏分離の際に、オークションに掛けられ、残ったものは焼却されました。しかし、仏画に関しては、秘匿性が高かったので優良なものは密に残したようです。そのため優れた仏画がいくつも残っているようです。その中で研究者が高く評価するのが「釈迦三尊十六羅漢像」です。優れたものであるにもかかわらず、これまでその存在を世に知られていなかった作品だは評します。
今回はこの伝明兆筆とされる「釈迦三尊十六羅漢像」を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。この仏画は、次のように3幅対の構成です
中幅  釈迦、文殊、普賢を描いた釈迦三尊像
左右幅 羅漢を八尊ずつを描いた羅漢図(右と左が同じ画像になっています)
仏教全体の祖師である釈迦の像や、釈迦の弟子である羅漢の図が描かれ始めるのは平安末期になってからです。その背景には
①仏教の原点回帰運動の風潮に乗って釈迦信仰が高まってきたこと
②日宋貿易による多くの仏画伝来
そんな中で、中世になると釈迦三尊像が盛んに描かれるようになります。金刀比羅宮の釈迦像と羅漢図も中世に流行したスタイルを踏襲しています。三幅対にまとめる手法も中国元代の作や、日本の鎌倉・南北朝時代の作に見られます。しかし、これらの作品は、脇幅が十八羅漢図であるのに対して、金刀比羅宮のものは十六羅漢図です。十八羅漢図の中から、各幅一尊ずつを消去し、各幅八、計十六になっています。 
それでは、金刀比羅宮本のどのような点を研究者は評価するのでしょうか? 
まず、羅漢図の評価を見ておきましょう。
27 釈迦三尊 
   釈迦三尊十六羅漢像 左幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
①十六羅図に変更していることは、先例を逸脱した新しい展開であり、やや時代の進展を予想させると。
②十六羅漢図の人物に見られるやや白みがかった肌色に、朱隈を添える色感は、金処士の「羅漢図」(メトロポリタン美術館)や睦信忠の「涅槃図」(奈良国立博物館)に登場する人物の色感に類似し、南宋本の仏画の感覚を忠実に踏襲しているように思われること。
③衣では、具色を用いた中間色は少なく、和様化の傾向が窺われること。
④火の線描は切れのある筆遣いでよどみなく変転する衣惜を描き出し、この画家が優れた技量の持ち主であったことを窺わせる
⑤肉身は、衣文より細めの線を用いるせいか、時にお手本を引き写したような弱々しさを見せることもあるが、全体的には切れ込むように引き締まった線の中に、緊張感ある肥痩を見せ、宋元人物画の品格を的確に継承している。
⑥水墨による自然景の描写は、たどたどしく、特に松樹の表現は神経質な細線を用いていて、原本となった宋元画の重厚感は描写し得ていない。
⑦このことは、この画家が、水彩画生画よりも著色の仏画を得意とした絵仏師系の人物であることを想像させよう。
⑧全体の構成は、宋元の先例などに比べ緊密感に著しく欠け、画家の主体的な構成意識よりも、各部分をパーツとして写し取ることの方に意識が奪われているを感じさせる。
以上からは、宋や元の仏画をお手本に、緊張しながら写し取っていく絵師の姿がうかがえます。絵画は、模写から始まるとされていたので当然なことかもしれません。
次に中央の釈迦三尊像を研究者は評します。

27 釈迦三尊十六羅漢
 釈迦三尊十六羅漢像 中幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
頭光に火炎の縁取りがないことや、象の足元の蓮盤の数が少ないことを除けば、一蓮寺本の中幅に最も近い。しかし蓮寺本の幽暗な色彩感に比べ、金刀比羅宮本は明快で暖かみのある色彩であり、金彩による装飾も日立っていて、和様化の進展を感じさせる。釈迦の相貌も。一蓮寺本の鈍い目をした厳しいものから、より和らいだものに変化している。この点は、宋元仏画の色感に比較的忠実な十六羅漢図との時代観の相違を感じさせる。これは、この三幅対が異種配合によって出来た可能性をも想像させるが、詳細に観察するとそうした色感の相違は肉身部に限られ、衣の彩色は両者に共通すると言えよう‐
中幅の各尊像の衣文線は、宋元画に比べれば緩さを感じさせる。
軽い打ち込みとともにナイフで布を明りつけたような鋭さを感じさせるものであり、形態の描写にも崩れはなく、ここでも高い技量を認めてよい。釈迦の台座や、菩薩の衣服、獅子や象に施された装飾品などの細々とした細部の描写も破綻しておらず、手本を模写したとはいえそれなりに優れた画家であったと想像できる。獅子や象の文高く伸び上がった姿にもさわやかさがある」
一蓮寺の釈迦三尊十六羅漢像(真ん中)
釈迦三尊十六羅漢像 中幅(一蓮寺)
 確かに、金刀比羅宮本とよく似ています。ここからは両者には、共通する「手本」があったことがうかがえます。
社伝では明兆筆と伝えられるようですが、どうなのでしょう?
 
明兆
 明兆は淡路島に生まれ、淡路の安国寺で臨済宗の高僧だった大道一以 (1292~1370)に禅を学んだと伝えられます。『本朝画史』には、絵ばかり描いて禅の修行を怠ったので師から破門された記します。そのため明兆は自らを「師に捨てられた破れ 草鞋わらじ 」にたとえて「 破草鞋はそうあい 」と号しています。しかし、大道に従って東福寺に入り、寺では高位に就くことも期待されたとされますから、禅の修行を怠って破門されたのではありません。ただ、明兆が出世を拒否し、寺の管理や仏事の道具を整える「 殿司(でんす) 」にとどまり、「 兆殿司 」と呼ばれていたのは事実のようです。殿司職は今の会社でいえば庶務係で、地位や名誉より絵を描き続けることを選択し、「寺院専属の画家」になろうとしたのかもしれません。多くの伽藍を持ち、大きな絵を飾る広々とした空間があった東福寺は、明兆にとって最高の勤務先だったとしておきます。そこで彼は、伝来した宋元の仏画を手本にし、仏事で用いる儀式用の仏画を描き続けます。その代表作が、大徳寺の宋画五百羅洪図を模写した「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)です。

明兆 五百羅漢図2
         明兆「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)
この大作のおかげで後世には「羅漢図といえば明兆」とされるようになります。その意味で、金刀比羅宮本の作者としても相応しい人物です。しかし、研究者は「本図に明兆その人の個性の明確な痕跡を見出すことは難しい。」と指摘します。具体的には、明兆筆「五百羅洪図」のは色面がかなリフラットになっていることと比較して、金刀比羅宮本の羅漢が「より隈取りが強く、羅洪図に関する限り、明兆と共通する感覚は見られない。」と評します。
27  釈迦三尊十六羅漢像 伝明兆筆 右幅
釈迦三尊十六羅漢像 右幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)

 そして、金比羅宮本の製作年代については次のように記します。
①鎌倉時代後半の初期の「釈迦三尊十八羅漢図」に比べると、和様化が進展し、両脇幅では十六羅漢に図像が変化していること
②構図の緊密感にやや欠けること
③中幅における金彩の目立つ明快な色彩感覚などを見られること
以上を勘案すると、明兆と同時代(14世紀後半~15世紀前半)の絵仏師の作と想定します。

 金刀比羅宮には、もうひとつ明兆作と伝わる「楊柳観音像(瀧見観音)室町時代」があります。
28 瀧見観音
「楊柳観音像(瀧見観音) 伝明兆筆 室町時代」
懸崖の下、海中に突き出た岩座に、正面向きに生す白衣観音の姿です。このモチーフは、明兆やその弟子たち、狩野派の画家たちにも受け継がれ、白衣観音として広く流布するようになります。中でも、背景を水墨で描き、観音を著色で描くスタイルは、下図の東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」を代表作として、明兆派による作例が多く残されています。金刀比羅宮本にも、明兆筆の伝承筆者名があります。

明兆 白衣観音
            東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」

東福寺の白衣観音と比べて見ると、大枠としては明兆系の匂いを感じる作品と云えそうです。
しかし、研究者は次のように評します。
①観音像は、明兆画のような抑制を利かせたメリタリーのあるものではなく、のっペーとして流派的特色をあまり見せない保守的なものとなっている
②山水景の表現は、断崖から垂れる草木の筆致は鈍いものの、岩座の鼓法は比較的力強く立体感を描き出し、海波も動感あるものとなっている
③どちらかと言えば水墨技の方に技量があり、著色の仏画はお手本をなぞったような凡庸さを感じさせる。
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」

ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」に比べると、金刀比羅宮本は、明兆につながる室町時代的な雰囲気を感じます。
しかし、明兆やその弟子の赤脚子、霊彩らほどの精彩は放っておらず、製作年代がもう少し降ると研究者は判断します。そして、金刀比羅宮本を描いた絵師については、「狩野派の新様が有力になる直前頃か、もしくはそれ以降であっても狩野派とは接触を持たなかった室町後期の保守的な作家による作品」とします。
 金刀比羅宮に残る「伝明兆筆」とされる作品は、明兆のものではありませんが評価すべきもののようです。また、「伝明兆」とされる作品が多いのも、それだけ明兆の作品が後世からも評価されていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」

33 なよ竹物語 (トップ)絵は3・5
なよ竹物語(詞1 絵3 絵5)
「なよ竹物語」は、物語中で女主人公が読む和歌の文句を取って「くれ竹物語」とも呼ばれます。また後世には「鳴門中将物語」とも呼ばれるようになります。そのあらすじは

鎌倉後期、後嵯峨院の時代、ある年の春二月、花徳門の御壷で行われた蹴鞠を見物に来ていたある少将の妻が、後嵯峨院に見初められる。苦悩の末、妻は院の寵を受け容れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け容れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらす

しかし、「なよ竹物語」では、主人公の少将が、嗚門の中将とあだ名され、妻のおかげで出世できたと椰楡される落ちがついています。「鳴門」は良き若布(わかめ)の産地であり、良き若妻(わかめ)のおかげで好運を得た中将に風刺が加えられています。戦前の軍国主義の時代には、内容的にもあまり良くないと冷遇されていた気配がします。
 この物語は人気を得て広く流布したようです。建長6年(1254)成立の「古今著問集』に挿人されたり、鎌倉時代末から南北朝期の「乳母草子」や二条良基の『おもひのまヽの日記」にその名が見えます。こうして見ると物語としては13世紀に成立していたことになります。絵巻は、現状では九段分の画面に分けています。今回は金刀比羅宮にある「重文・なよ竹物語」を見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。
 金刀比羅宮のなよ竹物語については形式化を指摘する声が強いようです。これに対して研究者は次のように反論します。
33 なよ竹物語  絵1蹴鞠g
        なよ竹物語 第1段(冒頭の蹴鞠場面) 金刀比羅宮蔵

33なよ竹物語 蹴鞠2
 確かに、冒頭、自然景の中での蹴鞠の場面では、堂々たる樹木の表現に比べて、人物たちは小振りでプロポーションも悪く、直線的な衣の線は折り紙を折って貼り付けたような固さと平面性をかもし出している。
 しかしこれが、第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面や、第五段の最勝講の場、第七段の泉殿と思しき殿合で小宰相局が院に手紙の内容を説明する場面など、建築物の内部を舞台とする場面では、定規を用いた屋台引きの直線が作り出す空間の中で、直線を強調した強装束をまとった人物たちは、極めて自然な存在感をかもし出す。全体に本絵巻の作者は、建築物を始め、車輌や率内調度品などの器物の描写に優れ、やや太目の濃墨線で、目に鮮やかにくっきりとそれらの「もの」達の実在感を描き出す。
衣服の紋様表現や襖の装飾なども、神経質な細かさを見せており、直線的な強装束をまとった人物表現や、少々厚手で濃厚な色彩感などと相候って、全体としてグラフィカルな感覚を前面に強く押し出した画風を創出している。


33なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面

      なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間の饗宴場面(金刀比羅宮蔵)

33 なよ竹物語  五段の最勝講の場 
          なよ竹物語 第五段の最勝講の場
33なよ竹物語9
           なよ竹物語 第九段
一方で自然景のみを独立して見た場合、冒頭の蹴鞠の場の樹木表現や、第八段の遣水の表現など、この画家が自然の景物の描写についても決して劣っていなかったことが容易に分かる。院と少将の妻が語らう夜の庭に蛍を飛ばすなど、明けやすい夏の夜の風情を情感景かに盛り上げる叙情的なセンスも宿している。そのことはまた、両家が物語世界を深く理解していたことも示していよう。
33なよ竹物語8
          なよ竹物語 第八段
このように評した上で金刀比羅宮の「なよ竹物語」と「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)を比較して次のように指摘します。
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡  鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵
①人物のプロポーションや、殿上人の衣の縁を太目の色線でくくる表現などが「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)と共通
②第八段の男女の夜の語らいの姿を殿合の中央に開いた戸の奥に見せる手法は「狭衣物語絵」第五段の狭衣中将が女と契りを結ぶ場面と似ている
③「狭衣物語絵」の人物の顔貌が引目鉤鼻の形式性をよく残すのに対して、金刀比羅宮の絵巻の顔はより実人性を強く見せること
④「狭衣物語絵」の霞のくくりがより明確な線を用いていること
⑤ゆったりとした人物配置や空間のバランス感覚は、両者に共通
以上から両者が14世紀前半の近い時代に制作されたものと研究者は判断します。そうすると、なよ竹物語の成立は13世紀前半ですが、金刀比羅宮のものは、それより1世紀後に描かれた者と云うことになります。
さてこの絵巻は、どんな形で金刀比羅宮にやってきたのでしょうか? 
金刀比羅宮の「宝物台帳」は、この絵巻の伝来事情を次のように記します。
「後深草天皇勅納 讃岐阿野郡白峯崇徳天皇旧御廟所准勅封ノ御品ニテ 明治十一年四月十三日愛媛県ヨリ引渡サル」

意訳変換しておくと
「後深草天皇が讃岐阿野郡の白峯崇徳天皇の旧御廟所(頓證寺)に奉納した御品で、明治11年4月13日に愛媛県より(本社に)引渡された。」

ここからはこの絵巻が、白峰寺の崇徳天皇廟頓證寺に准勅封の宝物として大切に伝えられたもが、愛媛県から引き渡されたことが分かります。
それでは、白峰寺から金刀比羅宮に引き渡されたのはどうしてなのでしょうか?
明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。

金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「抜け殻」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮は摂社化して管理下に置こうとします。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。
机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。「金毘羅庶民信仰資料 年表篇」には、これを次のように記します。
阿野郡松山旧頓詮寺堂宇を当宮境外摂社として白峰神社創颯、崇徳天皇を奉祀じ御相殿に待賢門院・大山祇命を本祀する」

この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。

金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として
②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が金刀比羅宮の現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること
こうして、明治になって住職がいなくなった白峰寺は廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。頓證寺にあった宝物は、金刀比羅宮の管理下に移されます。この時に、なよ竹物語などの絵画も、金刀比羅に持ちされられたようです。これに対して白峯寺の復興と財物の返還運動を続けたのが地元の住人達です。

頓證寺返還運動

高屋村・青海村を中心とする地域住民による「頓証寺殿復興運動」が本格化するのは、1896年8月ことです。その後の動きを年表化しておきます
1896年8月 「当白峯寺境内内二有之元頓証寺以テ当寺工御返附下サレ度二付願」を香川県知事に提出。この嘆願書の原案文書が青海村の大庄屋を務めた渡辺家に残っている。
1897年 松山村村長渡辺三吾と代表20名の連署で「頓證寺興復之義二付請願」を香川県知事に提出
1898年9月27日 香川県知事が頓証寺殿復旧について訓令。頓証寺殿は白峯寺に復するとして、地所、建物、什宝等が返還。
1899年2月 宝物返還を記念して一般公開などの行事開催。しかし、この時にすべての什宝が返還されたわけではなかったようです。
1906年6月27日に 白峯寺住職林圭潤や松山村の信徒総代等が「寺属什宝復旧返附願」を香川県知事小野田元煕に提出
これは3年後の1909年の「崇徳天皇七五〇年忌大法会」に向けての「完全返還」を求めての具体的な行動で、未だ返還されていない什宝返還を願い出たものだったようです。
 当初、1878年に白峯寺から金刀比羅官に移された宝物総数は54件、延点数173点でした。
それが1898年に返還されたのは、24件、延点数67点にしか過ぎません。返還されたのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、半分以上のものが返還されないままだったのです。その代表が「なよ竹物語」です。そこで改めて「崇徳天皇七五〇年忌大法会」を期に「完全返還」を求めたのです。しかし、この願いは金刀比羅宮には聞き届けられません。その後も何度か返還の動きがあったようですが返還にはつながりません。
 戦後の返還運動は「崇徳天皇八百年御式年祭(1964年)」後の翌年のことです。
この際は、松山青年団が中心となって1965年9月7日付けで、金刀比羅陵光重宛に「白峯山上崇徳天皇御霊前の宝物返還についてお願い」を提出しています。 これ対し金刀比羅宮は、1898(明治31)年に頓証寺堂宇を白峯寺に引き渡した際に、所属の宝物と仏堂仏式に属する什宅については同時に引き渡したと言う内容の回答を行っています。両者の言い分は次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。こうして、百年以上経ったいまも金刀比羅宮蔵となってます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」
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25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。かつてのこの画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めたことが書かれていたようです。ここからは、もともとは奈良の春日社に伝わっていたものであることが分かります。この弁財天については、以前にその由来を次のようにまとめました。

金毘羅大権現の弁才天信仰

今回はこの絵図についてもう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)」322Pです。
 弁才天の起源はインドの河の神サラスバティーで、土地に豊穣をもたらす女神でした。
後に弁才の神ヴァーチと習合し、弁舌・学問・知識・音楽の女神として信仰されるようになります。日本には奈良時代にやってきて、「金光明最勝王経」を拠り所の経典として像が造られ、礼拝されますが、当時はマイナーな仏だったようです。
それが中世になると変化してきます。「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経(以下:陀羅尼経)」などの弁天五部経が成立すると、弁才天は財福神として広く信仰されるようになり、像も盛んに行われるようになります。そして「弁才天」から「弁財天」へとネーミング変更して、七福神のメンバー入りも果たします。
もともとの弁財天の姿は、次の2つの姿がありました。
A「金光明最勝玉経」 武具を手に取る戦闘神風の姿
B「現図胎蔵受茶霧」 琵琶を抱えた音楽神としての姿
しかし、中世に成立した「陀羅尼経」では、その姿を次のように記します。
①8本の手で、その内2つの手には武具ではなく、財福の象徴である宝珠と鍵を持つこと
②穀物の神である宇賀神を頭上に白蛇の姿で載せること
③宇賀神は老人の顔で、体は蛇体
④眷属として十五童子を伴うこと
この記述通りに、弁財天の周囲には十五童子が集まっていて、頭上には老人顔蛇身の字賀神を載せています。


弁才天2
           頭上に「老顔白蛇」の宇賀神を載せる弁財天

経典の規定と違うのは、手が8本でなく6本なことです。持物は、左手には宝珠、弓、鉾を、右手には鍵、矢、剣を執っています。二本の手が減っているので左手側の輪と、右手側の棒が描かれていません。その代わりに財福を象徴する宝珠と鍵を体の中心に置いて目立たせて、財福神としての存在をアピールしているかのようです。水中の岩に座を設け、そこに豊かな体をゆったりと立たせる姿も如何にも福徳神らしい姿だと研究者は評します。

25弁財天
           弁才天十五童子像(拡大:金刀比羅宮)

 一方、十五童子像の中で、向かって左側に並ぶ童子の中には、笛、笙、竿、琵琶を持っているものがいます。これが弁才天の首楽神としての性格も表わしているようです。

弁才天に宝樹の盛られた鉢を棒げる異国使節団
  宝樹の盛られた鉢を奉納する龍王?(弁才天十五童子像:金刀比羅宮)
 画面下の水中からは異国の姿をした礼拝者が宝樹の盛られた鉢を棒げて弁才天を供養しています。これが龍王とすれば、弁才天の水神、河神としての性格も表現されていることになります。以上からは、弁才天の複合的な性格がよく表されていると研究者は評します。
 研究者が注目するのは、画面上方に円内の五尊が描かれていることです。

弁才天十五童子像の五尊

   向かって右から釈迦、薬師、地蔵、十一面観音、文殊の春日本地仏です。

春日本地仏曼荼羅 
            春日本地仏曼荼羅

これは春日本地仏曼荼羅に描かれる仏達と、顔ぶれが一致します。画面上部の大きな円相には、春日の神々の本来の姿である本地仏が描かれます。その下には、奈良の春日山、御蓋山(みかさやま)、若草山や春日野の風景が描かれます。
 最初に見たように、この絵が入っていた以前の箱書には「春日御祓講本尊」とあったようです。これは本地垂述思想に基づく春日曼荼羅の一種で、春日信仰との関連でとらえられるべきだと研究者は考えています。それはおそらく弁才天が寺院の枠をはみ出し、むしろ宇賀神との習合なども含めて神社での信仰が盛んになり、弁才天社が数多く作られてゆくような状況と関連していたのでしょう。
 
金刀比羅宮の
弁才天十五童子像の制作年代をを押さえておきます。
①絵の中に、河神や音楽神などが描き込まれて古いタイプの「弁才人」の特性も表現されていること
②そこから財福神に特化する前の比較的早い時期のものと推測できること
弁天五部経の成立や弁天信仰の隆盛は室町時代であること。
④以上から、
室町初期頃のもの
「室町時代初期頃に成立し、中世的な弁天信仰に基づく初期形態を示す画像として貴重」と研究者は評します。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現をいつも求めていました。
そのために寺社は繁栄を維持するためには境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅神だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。庶民の信仰欲求に応える対応が常に迫られていたのです。
 金毘羅大権現の別当金光院では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。
毘沙門天は『法華経』
弁才天は「金光明経』
大黒天は『仁王経』
の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったようです。足らないのは、弁財天です。
こうした中で弁才天画像を春日神社から手に入れたのは金光院院主の宥天(在職期間1824~32年)でした。
宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったと研究者は推測します。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて開帳されます。そこに祀られたのが三天講の本尊の一つで春日社から購入した宇賀弁才天画だったというストーリーになります。ここで押さえておきたいのは、仏像や仏画などは、財力のある有力な寺院に集まってくると云うことです。そこに室町時代作の仏像や仏画があっても、その寺の創立がそこまで遡るとは限らないのです。金毘羅大権現には、多くの仏像や仏画が近世に集められたようです。

象頭山と門前町
       金丸座のあたりが金山寺町(讃岐国名勝図会 1854年)

文化十年(1813)には、芝居小屋や茶店が建ち並ぶ金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。

さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天を福徳の仏して、熱心に拝むようになります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」322P
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                金刀比羅宮の名宝(絵画)
金刀比羅宮の名宝(絵画)を見ていて、気になった六字名号があったので紹介しておきます。

阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(金刀比羅宮蔵)  

「南無阿弥陀仏」の六字は、六字名号といわれ、これを唱えると極楽往生ができるとして、浄土教系諸宗派では大切にされてきました。ここでは六字名号が仏のように蓮台に載っています。名号が本尊であることを示しています。六字名号を重視する浄土真宗では、これを「名号本尊」と呼びます。浄土真宗では、宗祖親鸞は六字名号、八字名号、十字名号などを書いていますが、その中でも特に十字名号を重視していたことは以前にお話ししました。その後、室町時代になって真宗教団を大きく発展させた蓮如は、十字名号よりも六字名号を重視するようになります。この名号も、そのような蓮如以後の流れの延長上にあるものと研究者は考えています。
 親鸞はどうして、阿弥陀仏を本尊として祀ることを止めさせたのでしょうか。
それは「従来の浄土教が説く「観仏」「見仏」を仮象として退け、抽象化された文字を使用することで、如来の色相を完全に否定するため」に、目に見える仏でなく名号を用いるようになったとされます。ある意味では「偶像崇拝禁止」的なものだったと私は思っています。ところが、この六字名号は少し変わっています。
阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 (蓮華部と「佛」部の拡大)

よく見ると筆画の中に、仏や礼拝者の姿が描かれています。さらによく見ると、南無阿弥陀仏の小さな文字をつないで蓮台は表現されています。抽象的な「南無阿弥陀仏」の文字には、仏の絵を当てはめ、具象的な蓮台は抽象的文字で表すという手法です。浄土真宗教団には「偶像崇拝禁止」的な「教義の純粋性」を追求するという動きが当時はあったはずです。その方向とはちがうベクトルが働いているように思えます。これをどう考えればいいのでしょうか。もうひとつの疑問は、この制作者が「伝空海筆」と伝わっていることです。空海と南無阿弥陀仏は、ミスマッチのように思えるのですが・・・これをどう考えればいいのでしょうか。
 金刀比羅宮のもうひとつの六字名号を見ておきましょう。
阿弥陀六字名号(蓮華形名号)金刀比羅宮
          23 阿弥陀名号(蓮華形名号)伝高弁筆 江戸時代  321P
こちらも蓮の花の蓮台に南無阿弥陀仏が載っている浄土真宗の名号本尊の形式です。よく見ると南無阿弥陀仏の各文字の筆画は蓮弁によって表現されています。中でも「無」は、蓮の花そのものをイメージさせるものです。
伝承筆者は高弁とされています。
高弁は、明恵上人の名でよく知られている鎌倉時代の僧です。彼は京都栂尾の高山寺を拠点にしながら華厳宗を復興し、貴族層からも広く信仰を集めます。但し、高弁の立場は「旧仏教の改革派」で、戒律の遵守や修行を重視して、他力を説く専修念仏を激しく非難しています。特に法然の死後に出された『選択本願念仏集』に対しては「催邪輸」と「推邪輪荘厳記』を著して激しく批判を加えています。また、高弁は阿弥陀よりも釈迦や弥勒に対する信仰が中心であったようです。そんな彼の名が六字名号の筆者名に付けられているのが不可解と研究者は評します。庶民信仰の雑食性の中で、著名な高僧の一人として明恵房高弁の名が引き出されてきたもので、実制作年代は江戸時代と研究者は考えています。
 
 「空海と南無阿弥陀仏=浄土信仰は、ミスマッチ」と、先ほどは云いましたが、歴史的に見るとそうではない時期があったようです。それを見ておきましょう。
   白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。
白峯寺 六字名号
この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。このように「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっています。
 天福寺(高松市)の版木船板名号を見ておきましょう。

六字名号 天福寺

天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられます。同様のものが高野山不動院にもあるようです。
また天福寺にはこれとは別の六字名号の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。ここでは、空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあることを押さえておきます。浄土真宗のお寺にはないのです。
 空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』は、次のように記します。

日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、

意訳変換しておくと

弘法大師は唐に渡るのを待つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、中国に渡る前の空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。
   どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。そして、近世になって天狗信仰を持つ修験者によって開かれた金毘羅大権現も同じです。

六字名号 空海筆
空海のサインが記された六字名号

金毘羅大権現に空海筆とされる六字名号が残っているのは、当時の象頭山におおくの高野山系の念仏聖がいたことの痕跡としておきます。
同時に、当時の寺院はいろいろな宗派が併存していたようです。それを髙松の仏生山法然寺で見ておきましょう。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』には次のように記されています。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。こういう中で、金毘羅大権現の別当金光院にも空海伝とされる六字名号が伝わるようになった。それを用いて念仏聖達は、布教活動を行っていたとしておきます。
以上をまとめておきます。

空海の六字名号と高野念仏聖

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P
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金刀比羅宮には、象頭山の美しい景観を十二の景勝に分けて描いた「象頭山十二景図」があります。
この制作過程については、以前に次のようにお話ししました。

象頭山十二景の作成手順

④の髙松藩の狩野常真(じょしん)に描かせたのが下の「象頭山十二境図巻」2巻です。
HPTIMAGE

              「象頭山十二境図巻」の雲林洪鐘
これを江戸に送って、江戸の奥絵師が描いたのが次の絵です。
雲林洪鐘 鐘楼・多宝塔
                象頭山十二景図の雲林洪鐘 狩野安信

つまり、江戸の狩野安信と時信の父子は、送られてきた絵図と漢詩を手がかりに、この絵を描いたことになります。金毘羅には出向いていないようです。
まず図巻について、研究者は次のように評します。
全体的に濃彩で、目に鮮やかな松樹・竹林・山肌の緑に、時折描かれる梅花の赤や桜花の白がアクセントを加えている。松樹の葉などは部分に応じて顔料の明度を変じ、筆を綱かく使って細部に至るまで丁寧に描き込まれている。
 掛幅については
  一方の掛幅は色彩が淡く、筆を面的に用いたグラデーションの強弱でもって各モチーフを色付かせている。本々などのモチーフの描写は図巻と比べて簡略化されており、画面の抽象度が高くなっていると言えよう

今回は、狩野安信と時信の 「象頭山十二景」に何が書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334Pです。
金光院院主の有栄が選んだ十二題は次の通りです。
⑦左右桜陣  ⑥後前竹国  ⑪群嶺松雪  ③幽軒梅月
⑫箸洗清漣  ②橋廊複道  ⑧前池躍魚  ⑨雲林洪鐘
⑤五百長市  ⑩裏谷遊鹿  ④石淵新浴  ①万農曲流
その位置を番号で地図上で示すと以下の通りです
象頭山12景 番号入り
象頭山十二景図のデータ

「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通りです。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、賛は林蒼峰の、画は狩野安信
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、賛は林鳳岡の、画は狩野時信
制作者のプロフィールを見ておきます。
漢詩作者の林育峰(1618~68)は林羅山の第二子で春斎と号し、幕府に仕え、寛文3年(1663)に弘文院学七の称号を賜り、父に次いで二代目大学頭に就任しています。林鳳岡(1644~1732)は、その育峰の次男で名を信篤(のぶあつ)といい、整宇とも号します。貞享4年(1687)に弘文院学士となり、のち三代目大学頭となっています。「讃州象頭山十二境」詩巻では、先の十二題のうち前半の六首を林鵞峰(林学士)が、後半の六首を林鳳岡(林整宇)が作っています。
 掛幅を描いた狩野安信(1612~85)は探幽・尚信の弟で、狩野宗家貞信の養子となって狩野家の家督を継いた人物です。中橋狩野家の祖となり、寛文11年(1662)に法眼に叙せられます。掛幅のもう一人の筆者・時信(1642~78)は安信の長男で、父に画を学びます。図巻の筆者である結野常真は安信の門人で、本姓を日比氏、名を宗信といい、法橋に叙せられた三尚松藩初代御用絵師を務め、元禄十年(1697)に没しています。
それでは一枚一枚を見ていきましょう

39 象頭山十二景 左右桜陣(桜の馬場)
             象頭山十二景図「左右桜陣」図

[解説]
大門を入って約二町(約220mの間は、参道の左右に数十株の桜が植わり、桜馬場と称される。そこを指して「左右桜陣」と言う。春には桜が咲き誇ることから、花の名所とされる。画面には大門に続く桜馬場の景観が描かれる。安信筆の掛幅画は、常真筆の図巻からモチーフを中央にとりまとめるようにして画面全体を構成する。掛幅ではまた、画面中央の遠山の背後にさらなる逮山の稜線を薄く引いており、画面の天地が狭いという形態上の制約を持った常真筆の図巻では表現し難かった空間の奥行き=三次元性を追究している。

大門から続く桜の馬場周辺を描いたこの絵から得られる情報を挙げておきます。
①桜の馬場には、石畳も石灯籠などの石造物が何もない。これらが設置されるのは19世紀なってから。
②桜の馬場の右側には、各院の建物が並んでいる。

39 前後竹囲
         象頭山十二景図「後前竹囲」図

象頭山の山裾から郊外にかけて竹林が多く群生する様を指して「後前竹囲」と言う。 本図は象頭山麓の郊外を描いたもの。画面に見える竹林は年々減少していき、現在では本図により往時の景趣が偲ばれるのみである。

39 浦谷遊鹿
         象頭山十二景図「前池躍魚」図
「解説]
魚が遊泳する池を中心に、通用門、中間、玄関、そして表書院と奥書院といった、両書院一帯の景観が描かれている。安信筆の掛幅は、常真の図巻がわずかに示した遠山ブロックを画面上方に拡大して配し、両中空間に奥行きを創出している

39 前池躍魚 十二景
          象頭山十二景図「裏谷遊鹿」図
[解説]
「裏谷」とは現在の裏参道の道中にある千種台(ちぐさのだい)地域を指す。ここはかつて草生地や山畑であり、鹿が多数いた。 しかし、その数は減少の一途を辿り、明治期になると遂に見られなくなったという。画面には紅葉鮮やかな山道に、群れ遊ぶ三頭の鹿と帰路の樵らしき人物が描かれ、牧歌的な画趣を示す。
39 群嶺松雪
         象頭山十二景図「群嶺松雪」図

「群嶺」とは、象頭山の山嘴である八景山、愛宕山、天神山、祖渓、琵琶渓、金山寺山などの諸嶺を指す。画面にはこの諸嶺の裾野に沿って松樹が配され、両者は降り積もる雪により白く色づいている。これが「松雪」。この雪は、図巻では顔料を振りまいて描くことて粒子状の表現となっている。掛幅では顔料を筆で掃いて描くことで面的な表現となっている。掛幅・図巻ともに山と松樹のスケール比がやや現実にそぐわないが、これは詩題のメインモチーフのひとつである松樹を強調する意図によるもの。

39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
      象頭山十二景図 「橋廊複道」図 (鞘橋) 
[解説]

象頭山の麓、市街を南北に貫流する潮川(宮川:金倉川)に架した鞘橋には屋根があり、これを指して「橋廊」と云い、また「複道」と言う。この鞘橋はもともと現在の一之橋の位置(髙松街道)にあったが、明治38年(1905)に御神事場に程遠くない現在地に移築された。また、画面に描かれた橋には橋柱が描かれ、橋梁に湾曲も見られないが、これは明治2年(1869)の改築以前の姿である、この時の改築により橋柱は取り除かれて橋は両岸からの組み出し構造となり、それゆえ湾曲も強くなった。図巻の方が描出の視点を遠くに設定して景観を放射状に広がるように描いているため、掛幅よりも広々とした視覚印象を覚える。図巻では、荷物を手に橋を往来する二人の人物が描かれている。しかし、掛幅の画面に見られる橋上の人物が何をしているのかは、一見した限りでは不明である。わずかに前傾姿勢をとっており、橋を渡って参道へと歩みを進めているようにも、水面を見つめているようにも見える これが賛の「風力推無運、始知不足舟」に対応するならば、彼は物思いに耽るうちに橋を舟になぞらえ、風の吹くままに身を任せている心地なのだろう。しかし、現実には風がいくら吹いても舟は進むことはなく、橋上の自分という現実に立ち戻るのである。
 
この絵図を見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に「大雨洪水、鞘橋流失」し、翌年に「材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る」とあります。ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更されたようです。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
        貞淳3年(1687)に再建された鞘橋 金毘羅大祭行列屏風図
この屏風図には、三連の屋根になっています。このように17世紀の金毘羅大権現の伽藍や境内の姿を描いた絵図はあまりありません。その中で「 象頭山十二景図」は、いろいろな情報を伝えてくれる絵画史料でもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334P
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金毘羅大祭行列図屏風右隻(複製品:香川県立ミュージアム) 

554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

これは元禄時代の金毘羅大権現の大祭の様子を描いた六曲一双の屏風で、宝物館の1Fに展示されています。複製品が髙松の県立ミュージアムにもあって、間近で直接見ることが出来ますし写真撮影もOKです。この屏風については以前に触れましたが、今回は別の視点で見ておこうとおもいます。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313Pです。
「金毘羅祭礼図屏風」について、作成者や作成時期については次のようにように云われています。
①元禄15年(1702)に金毘羅本社の屋根の葺き替えが完成したのを記念して、金光院住職の宥山が高松藩の御抱絵師狩野常慶を通じて表絵師の狩野清信に制作を依頼して出来上がったもの
②制作年代は「元禄屏風」と伝承されていることから、翌元禄2(1703)10月の大祭前までに作られたもの
③描作成者は狩野清信は、図屏風制作に当たって、先行する「象頭山十二景図」を参考モデルにしていること

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
        右隻 新町から金倉川にかかる鞘橋まで(金毘羅大祭行列図屏風) 

 毎年10月10日に行われる金毘羅大権現の例大祭の時、頭人らが社領地の木戸を通り、門前町を行列して山上に参向する様子と、門前町の賑わい振りを描かれています。当時の金毘羅の町並みや風俗などを知る上で貴重な資料です。
右隻には、高松・丸亀方面から来た頭人が鞘橋を渡り、小坂に達するまでの道筋、表町の商店や裏町の芝居興行などの有様
左隻には、大門から桜の馬場を経て、本社に達するまでの子院や諸堂社などの山内の様子
画面には神事の行列だけではなく、行き交う参詣者や軒を並べる商家の様子が細かく描きこまれていて、いろいろな情報が読み取れる「絵画史料」でもあります。
    
木戸前後
          金毘羅寺領 髙松街道入口の木戸(元禄金毘羅祭礼図屏風)
例えばの道筋には、次のようなうどん屋の看板を掲げた店が3軒描かれています。
1うどん

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
新町のうどん屋(元禄金毘羅祭礼図屏風)
これが讃岐でのうどん屋史料第一号です。これよりも早いうどんの史料はありません。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説であることは以前にお話ししました。

 それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
両隻には次のような落款と印があります。
狩野休円清信no

「清信筆」の落款があり、「岩佐」(白文長方印)、「清信」(朱文旧印)捺されています。そのため筆者は、狩野休円清信(1641~1717)とされてきました。清信について辞書で調べると次のように記されています。      
寛永18年に、幕府表絵師・御徒町家の狩野休伯長信の三男として生まれる。名は清信、通称内記。明暦元年に朝鮮通信使来朝の際、朝鮮王国へ贈る屏風を制作し、明暦3年には江戸城本丸御殿の再建に参加。幕府から拝領した木挽町屋敷に住み、南部家から5人扶持を支給された。それにより奥絵師から独立し麻布一本松狩野家を起こし、幕府表絵師のひとつとなった。元禄16年享年77歳で死去。狩野 休円の代表作として、『維摩・龍虎図』『金毘羅祭礼図』『鯉の滝登り(登竜門)図』『蘇東坡・龍図』
狩野博幸氏は、筆者について「狩野休圓清信説」を採って、次のように記します。
「風俗画ということからいえば、浮世絵師の鳥居清信が浮かぶが、画風から彼とは別筆と見るべきである。本図の筆者は狩野休圓清信と考えられる」

狩野 休円、『龍虎図』
                狩野 休円の代表作『龍虎図』
しかし、これに対して、土居次義氏は「狩野休円清信の作品とすると、「岩佐」(白文長方印)の存在は不審」として疑問を投げかけます。加えて研究者は「画風上も必ずしも狩野派風が強くはなく、むしろ素朴さが目立っている」と評し、次のような疑義を述べます。
①広く撒かれた金砂子や画中の人物の衣文に加えられた金泥線などは後補
②金砂子は元々のすやり霞にあわせて自然に見えるように撒かれている部分もあるが、図様との境目において、重なり方に不自然さある。
③人物の衣の金泥線の人り方は不規則かつ粗維で、墨で描いた本来の衣文線とは全く有機的に結びついておらず、明らかに後補
④これら後補の金彩を取り除いた全体の印象としては浮世絵風が混じっている
以上からは、筆者を「狩野休円清信」とすることについては「要検討」とします。ここでは、「狩野休円清信説」が一般的的だが異論として「浮世絵師の鳥居清信説」もあるとしておきます。

次に、この絵が描かれた時期を見ていくことにします。
制作時期は、通説は「元禄末年頃」とされてきました。それは、絵の中に書かれている次の3つの建造物との関係からです。
① 大門前に鼓楼がないこと。鼓楼は宝永7年(1710)の完成ですから、描かれていないと云うことは、鼓楼が姿を見せる前に描かれていたことになります。ここから下限が1710年とされます。

象頭山社頭并大祭行列図屏風  大門内側
右端の大門の下に鼓楼がない。
金毘羅大祭行列図屏風
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代
1704年の金毘羅大権現の伽藍配置 鼓楼が出来るのは1710年

② もうひとつの上限年代を示す建物は、本宮前の四段坂の途中の鳥居です。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
         金毘羅大祭行列図屏風 本社下の四段坂の鳥居
本宮前の急坂は「御前四段坂」と呼ばれています。松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」(1988年)には、元禄12年(1702)の記事として、次のようなことが載せられています。
6.10 本社屋根葺替。
7.20 宥山、権大僧都となる。
8.29 高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.  池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包木鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
この年の一番最後に、寒川郡志度村の金兵南が、四段坂に銅包木鳥居を建立寄付し、別当宥山が金兵衛に感謝の詩を贈ったという記事があります。そして、四段坂を見てみると朱の鳥居がみえます。            
ここからはこの屏風は、元禄15年(1702)以降に描かれたことになります。

③もうひとつの有力情報は、鞘橋です。
鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
               鞘橋(金毘羅大祭行列図屏風)

この屏風では、鞘橋の屋根の形が中央で切り分けられた三棟の形式となっています。
これと延宝頃(1673~81)に描かれた狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋と比べて見ましょう。
39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋
これを見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に次のような記事が見えます。
1686 貞享3 丙寅  7.26大雨洪水、鞘橋流失
10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4 丁卯 9.9大風にて神林の松損木多し。右材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更された可能性があると研究者は考えています。

IMG_0001
          鞘橋周辺の護岸は石垣積
「川筋の石垣も出来る」とあるので、川筋は石垣で固められています。以上から鞘橋の屋根形式の変化からは、屏風が書かれたのは鞘橋再建(1687年)より後のことになります。
 以上から、屏風の制作年代は、次のふたつの時期の間と云うことになります。
①下限は、大門下の鼓楼完成前の宝永7年(1710)
②上限は、鞘橋の屋根が三棟形式で再建された1687年以後
これは、従来云われてきた「元禄末年頃説」を追認することになります。この屏風は通説どおり、元禄末期の制作ということになります。

 最後に、このふすま絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
 それは当時の金光院の宥栄か、髙松藩主の松平頼重のどちらかではなかいと私は思っています。
 まず宥栄について考えると、歴代の金光院の住職は金毘羅プロモーションのために、中央の名のある学者や絵師に詩や絵図の制作を依頼していることは先ほど見たとおりです。
例えば、先ほど見た「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通り江戸の絵師です。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、狩野安信(父)
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、狩野時信(子)
象頭山十二景の作成手順

当時、この下図を書いたのは高松藩お抱え絵師の狩野常真宗信や、その子常慶でした。金光院の宥栄は、宗信を通じて、彼の師である江戸の狩野派宗家中橋家の当主狩野永真安信と子の右京時信に「象頭山十二景図」の「本図」制作を依頼したのは以前にお話ししました。
 宥山が金光院当主となったのはその後の元禄4年(1691)で、その時期には髙松藩初代松平頼重の保護によって、金毘羅境内の諸堂・諸院が新たな装いで生まれ変わった時期です。また『金光院日帳』を宝永五年(1708)から作りはじめるなど、金毘羅の権威高揚に努め、中興の英主と仰がれた人物です。こうして見ると「金毘羅祭礼図屏風」の制作を発注する人物として、宥山は第一候補になります。
 ちなみに狩野家の血筋や姻戚筋の御用絵師家は、相互に交流があり、「寄り合い描き」を行ったり、養子その他の縁組みなどがよく行われていたようです。各家系が互いに提携し合うために、頭取や触頭という肝煎役も設けられています。ここでは、金光院と高松藩との関係や狩野派絵師同士の交流関係があったことを押さえておきます。そうすると、次のような仲介依頼を通じて、制作依頼が行われたことが推測できます。
金光院宥山 → 高松藩の御抱絵師狩野常慶の仲介者 → その師匠筋に当たる狩野派宗家中橋家の当主で狩野永真安信の孫永叔主信 → 表絵師狩野休圓清信

 金光院と狩野家宗家中橋家との関係は、「象頭山十二景図」制作依頼の時にも見られました。また、狩野家宗家中橋家と狩野休圓清信との関係は、狩野永真安信と狩野休圓清信が、明暦元年(1655)と天和2年(1682)の朝鮮国王への贈呈屏風制作時に共同参画した時に始まると研究者は指摘します。『古画備考』には、例年正月五日に御書初めとして狩野探幽とともにお城に召される間柄であったことが記されています。
 しかし、このように見てくると高松藩主が制作依頼し、後に奉納寄進説したということも同時に考えられます。それは松平頼重が描かせたと言われる高松城城下屏風があるからです。

高松城下町1

この屏風図は松平家初代頼重(1622~95)の時代の高松城と城下町を描いた屏風とされます。この屏風を見ていると、松平頼重やその後の藩主が眺めていた屏風ではないかという想像が湧いてきます。
しかし、今のところそれを裏付ける確かな史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313P
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表書院 虎の間
              表書院 「七賢の間」から望む「虎の間」

虎の間は、東西五間・南北三間の30畳で表書院の中では一番大きな部屋でした。東側が鶴の間、西側で七賢の間に接しています。上の写真は、七賢の間から見たもので正面が西側の「水呑の虎」です。ここには、応挙によって描かれた個性のある虎たちがいます。今回は、この虎たちを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」299Pです。まず、虎たちの配置を押さえておきます。
虎の間配置

①東側の大襖(四面、2-A          水呑の虎)
②北側の襖(八面、2-B・2ーC)  八方睨みの虎 寝っ転がりの虎)
③西側の大襖(四面、2‐D)      白虎)
④南側の障子腰貼付(八面、2‐E、2‐F)
西北隅には高く険しい岩、東北隅に岩峰から流れ落ちる白い瀑布と松樹が配置され、西・北・東三面の自然的な繋がりを生み出しています。東側から見ていくことにします。

虎の間 水呑の虎
①東側の大襖(西側四面、2-A      水呑の虎)
虎の間 水呑の虎 円山応挙

後には流れ落ちる瀑布があり、そこから流れてくる水を二頭の虎が飲んでいます。「水呑の虎」とよばれています。しかし、私には左の虎は「猫バス」を思い出してしまいます。次に北側(B)に目を移します。

虎之間 円山応挙「遊虎図」

      ②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」(金刀比羅宮表書院 虎の間)
ここには、「八方睨みの虎」がいます。

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②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」
虎は、鋭い眼光で四方八方から押し寄せる厄災から家を守ってくれるので魔除けとされたり、「1日にして千里を行き千里を返す」という例えから開運上昇の霊獣ともされました。「八方睨みの虎」は、上下左右どこから見ても外敵を睨んでいるように描かれた虎の絵柄で、後世になると魔除けや家内安全の願いを込めて用いられるようになります。この虎がよほど怖ろしかったのか、描かれてから約80年後の1862年に、小僧がこの虎の右目を蝋燭で焼こうとして傷つけられて修復した記録が残っています。しかし、私の目から見ると、なんだか愛くるしい「猫さん」のように見えていまいます。

虎の間北側 寝っ転がりの虎 円山応挙
            ②虎の間・北側の襖(2ーC)
 八方睨みの虎のお隣さんが「丸くなって寝っ転がる虎(私の命名)」です。まだらヒョウのような文様で、目を閉じ眠っています。最後が西側です。

虎之間 円山応挙「遊虎図」2
金刀比羅宮表書院 虎の間の北と西
表書院虎の間西 円山応挙
虎の間 西側

西側には3頭の虎がいますが、その中で目を引くのが白虎(ホワイトタイガー)です。
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表書院虎の間の「白虎」(円山応挙)

しっぽを立てて、威嚇するような姿に見えます。しかし、前足の動きなどがぎこちない感じです。また
実際の虎の瞳は丸いのですが、ここにいる虎たちはネコのように瞳孔が細く描かれています。それも可愛らしい印象になっているようです。
 前回見た鶴の間の鶴たちと比べると「写実性」いう面では各段の開きがあるように思います。18世紀後半になると魚や鳥などをありのままに写実的に精密に描くという機運が画家の中には高まります。その中で鶴を描くのを得意とする画家集団の中で、応挙は成長しました。彼らはバードウオッチングをしっかりとやって、博物的な知識を持った上で鶴を書いています。しかし、その手法は虎には適用できません。なぜなら、虎がいなかったから・・。江戸時代は国内で実物のトラを観察することができず、ネコを参考に描き上げたことをここでは押さえておきます。
虎の画題は、龍とともに霊獣として古くから描かれてきました。
国宝の旅 - 龍虎図(重文) 伝・牧谿筆 @大徳寺 | Facebook
伝牧籍(南宋)の筆「龍虎図」(大徳寺)

しかし、日本に虎はいません。そこで画家達は、上図のような中国から伝わったこの絵をもとに、変形・アレンジを繰り返しながら虎図を描いてきました。その到達点が17世紀半ばに狩野探幽が南禅寺小方丈の虎の間に描いた「水呑の虎」のようです。

ぶらり京都-136 [南禅寺の虎・虎・虎] : 感性の時代屋 Vol.2
       狩野探幽の「水呑の虎」 (南禅寺小方丈虎の間)

応挙も画家として、人気のある虎の画題を避け通ることはできませんから、墨画によるものや彩色を施されたもの、軸、屏風に描かれたものなどいろいろなものを描いています。

円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
                   円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
円山応挙 幻の水呑の虎


「写生画」を目指した応挙にとって、見たこともない「虎」を、実物を見たように描くということは、至難のことだったはずです。
それに応挙は、どのように対応したのでしょうか? それがうかがえる絵図を見ておきましょう。

虎皮写生図(こひしゃせいず)
  応挙筆「虎皮写生図(こひしゃせいず)」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
    150㎝ × 178㎝(貼り切れない後脚と尾は裏側に貼ってある)             
この屏風は、応挙が毛皮を見て描いた写生図です。毛並みや模様を正確に写していることが分かります。虎皮は実物大に描き、貼りきれなかった後足と尾の部分は裏側に貼られているようです。各部の寸法を記した記録や、豹の毛皮の写生、そして復元イメージの小さな虎の絵も添えられています。しかし、先ほど見たように「虎の目は丸い」ということまでは毛皮からは分かりません。猫の観察から「細い眼」で描かれたようです。表書院の虎たちが、どこか猫のように可愛いのはこんな所に要因があったようです。

 しかし、応挙の晩年に描かれた虎たちには別の意図があったと研究者は次のように記します。

それまでの応挙の「水呑の虎」は「渓流に前足を踏み入れ、水を呑む虎の動作を柔軟に動的に表現」している。ところが「虎の間」の「水呑みの虎」は、墨画によるもので「虎の毛並みの表現に集中した静的で平面的な表現である。つまり両者の間には、着色で立体的に描かれた背景と、平面的に描かれた虎という対比的な表現法がとられている。平面的に描かれた虎は、背景の自然物の空間にはなじんでいない。ここでの虎は、自然の中を闊歩する動物としての虎ではなく、霊獣としての意味合いをもって立ち現れているのではないだろうか。 

つまり、表書院の虎たちは平面的で静的にあえて墨で描かれているというのです。その意図は、何なのでしょうか? それは、この部屋の持つ役割や機能と関係があるとします。
以前お話ししたように迎賓館的な表書院の各間の役割は、以下の通りです。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

表書院は、金光院と同格の者を迎える場で、大広間であり、小劇場の舞台としても使用されました。その機能を事前に知っていた応挙が、霊獣としての虎をあえて平面的に用いてたのではないかというのです。

虎の間の東側南端の落款には「天明七年(1787)」とありますので、応挙55歳の夏のものであることが分かります。
この時に、鶴の間の鶴たちも同時に金光院に収められたと研究者は考えています。この年の応挙は、南禅寺塔頭帰雲院、大乗寺山水の間、芭蕉の間も制作しています。生涯の中で、最も多く障壁画を制作した年になるようです。
  応挙は、これらの障壁画を現地の金刀比羅宮で制作したのではなく、大火後に家を失ってアトリエとして利用していた大雲院で制作したようです。完成した絵図は、弟子たちによって運ばれ、障壁画としてはめ込まれます。応挙が金毘羅を訪れた記録はありません。
 
 最後に、完成した虎の間が、実際にはどのように使われていたのかを見ておきましょう。
松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居。
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈。
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える、公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。それらをこの虎たちは見守り続けたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」


前回は18世紀末に、金刀比羅宮表書院のふすま絵リニューアルを円山応挙が担当することになったこと。担当者となった応挙は、それまでの各間の呼称に従って絵を描いたことを見ました。今回は、そのなかで玄関に一番近い鶴の間に、応挙がどんな絵を収めたのかを見ていくことにします。まずもう一度、表書院の間取りを確認しておきます。

表書院平面図2

玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。

表書院間取り3
             表書院の間取りと各部屋の障壁画

最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院鶴の間 1
表書院 鶴の間の配置図
1ーA 稚松双鶴図(ちしょうそうかくず)  東側の壁貼付で床の間三面
1ーB 稚松図(ちしょうず)        障子腰貼付二面  
1ーC  稚松丹頂図 西側の襖四面
1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面
1ーE 芦図(あしず) 南側の障子腰貼付四面
全て円山応挙の障壁画です。ここに描かれている鶴たちを見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)298P」です。

鶴之間 円山応挙「遊鶴図」西側
              鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)

鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。

1-C西側 松に丹頂
             1ーC  稚松丹頂図  西側の襖(金刀比羅宮表書院)

②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。

1-D北側 芦丹頂飛翔
④北側4面(1ーD)の大襖の2枚には、舞い降りてくる丹頂が描かれています。鶴の動きを追ってみると、後ろの鶴は飛翔体制ですが、前の鶴は脚を出していて着地体制に入っています。ここには時間的連続性が感じられます。そのまま私たちの方まで飛んできそうな感じです。大空を飛ぶ躍動感が伝わってきます。
鶴の間北側 芦辺の丹頂
       1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)

⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。

鶴の間東側1-A 稚松双鶴図
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。

1A丸山応挙 表書院鶴の間
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)

見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
①享保18年(1733)丹波国穴太村(京都府亀岡市)の農家出身
②延享 4年(1747)15歳頃、京都の呉服商に奉公し、
   後に玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積む。
③宝暦 9年(1759)27歳頃、「主水(もんど)」の署名で、タンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)制作

円山応挙 双鶴図(仙嶺落款・八雲本陣記念財団蔵)
               円山応挙「双鶴図」(仙嶺(せんれい)」の署名
④明和2年(1765)、30歳頃から「仙嶺」の署名で「双鶴図」(八雲本陣記念財団蔵)制作
⑤応挙が師事した石田幽汀の代表作品は「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)
⑥若き日の応挙は、石田幽汀の下で、鶴の絵の技法などを学ぶ。
応挙の師である石田幽汀の作品を見ておきましょう。

石田幽汀 《群鶴図屏風》

石田幽汀 《群鶴図屏風 応挙の師匠
         石田幽汀 《群鶴図屏風》1757-77 六曲一双屏風 各156.0×362.6cm
ここにはさまざまな姿の鶴が描かれています。種類は、タンチョウ・ナベヅル・マナヅルの他にも、ソデグロツル・アネハヅルまでいます。趣味として野鳥観察を行っていたレベルを越えています。博物学的な興味となんらかの制作事情が重なったことがうかがえます。そして、若き日の応挙は、この石田幽汀一門下にいたのです。鶴への知識が豊富なはずです。それが18世紀の「写生」時代の絵画の世界だったのかもしれません。ここでは、応挙は、鶴の博物学的な師匠から学んだことを押さえておきます。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。

鶴の間には落款がありませんが、その作風から隣の虎の間と同じ天明7年(1787)、応挙55歳の作と研究者は判断します。ところがその翌年に、応挙は京都の大火に被災して焼け出されてしまいます。そのため一時は創作活動が停止します。その困難を克服後の寛政6年(1794)に完成させたのが七間・風水の間の絵になるようです。
ちなみに客殿として使用された表書院には、各間に次のようなランクがあったことは前回お話しました。
表書院の部屋ランク


金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

やってきた人の身分によって通す部屋が違っていたのです。その中で鶴の間は、玄関に一番近く部屋ので、最も格下の部屋とされていました。格下の部屋には、画題として「花鳥図」が描かれるのがお約束だったようです。円山応挙に表書院のふすま絵のオファーが来たときから、それは決まっていたことは前回にお話しした通りです。
幕末から明治にかけては、満濃池にも鶴が越冬のためにやってきたようです。
満濃池遊鶴(1845年)2
      満濃池遊鶴(1845年)に描かれた群舞する鶴
金堂(旭社)の完成を記念して刷られた刷物には、満濃池の上を乱舞して、岸辺に舞い降りた鶴の姿が描かれ「満濃池遊鶴」と題して、鶴が遊ぶ姿を歌った漢詩や和歌が添えられています。ここからは、200年前の丸亀平野には鶴がやって来ていたことが分かります。そして、いま鶴よりも先にコウノトリが帰ってきたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)
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2024年最新】Yahoo!オークション -金刀比羅宮 名宝の中古品・新品・未使用品一覧

「金刀比羅宮の名宝(絵画)」を手にすることができたので、この本をテキストにして、私の興味があるところだけですが読書メモとしてアップしておきます。まず、表書院について見ていくことにします。

39 浦谷遊鹿
        象頭山十二景図(17世紀末)に描かれた表書院と裏書院

金光院 表書院
        金刀比羅宮表書院(讃岐国名勝図会 1854年)

生駒騒動後に、松平頼重が髙松藩初代城主としてやってくると、金毘羅大権現へ組織的・継続的な支援を次のように行っています。

松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

松平頼重が寄進した主な建築物だけを挙げて見ます。
正保二年(1645)三十番神社の修復
慶安三年(1650)神馬屋の新築
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。表書院が登場するのも、この時期です。
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表書院は、客殿として万治年間(1658~61)に建立されたと伝えられています。

先ほど見たとおり、松平頼重の保護を受けると大名達の代参が増えてきます。その対応のためにもきちんとした客殿が必要になったのでしょう。建設時期については、承応2年(1654)に客殿を建て替えたという文書もあるので、万治2年(1659)の本宮造営完了の頃には姿を見せていたと研究者は考えています。そして、その時から各部屋は「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の呼び名で呼ばれていたことが史料で確認できます。それが百年以上経過した18世紀後半になって、表書院をリニューアルすることになり、各部屋のふすま絵も新たなものにすることになります。その制作を依頼したのが円山応挙だったということのようです。この時期は、大阪湊からの定期便が就航して以後、関東からの参拝客が急速に増加して、金光院の財政が潤い始めた時代です。


表書院
表書院平面図2
                    表書院の間取り
 
円山応挙が表書院の絵画を描くようになった経緯については、金毘羅大権現の御用仏師の田中家の古記録「田中大仏師由緒書」に次のように記されています。

田中家第31代の田中弘教利常が金光院別当(宥存)の意を受けて円山応挙に依頼したこと、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだこと。

当時の金光院別当の宥存については、生家山下家の家譜には次のように記します。
俗名を山下排之進といい、二代前の別当宥山の弟山下忠次良貞常の息として元文四年(1739)10月26日に京都に生まれた。
宝暦5 年(1755)9月21日(17歳)で得度
宝暦11年(1761)2月18日(23歳)で金光院別当として入山し27年間別当職
天明 8年(1787)10月8日(49歳)で亡くなる。
宥在は少年時代を京都で過ごし、絵画を好んだので若冲について学んだと伝わります。
金光院別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるとされます。ここからは表書院の障壁画制作の背景について、次のように考えることができます。
①京画の最新状況に詳しい金光院別当の宥存
②経済的に他に並ぶものがない豪商三井家
③平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙
これらを御用仏師の田中家が結びつけたとしておきます。京から離れた讃岐国でも、京都の仏師達や絵師たちが、善通寺の本尊薬師如来を受注していたことや、高松藩主松平頼重が多くの仏像を京都の仏師に発注していたことは以前にお話ししました。京都の仏師や絵師は、全国を市場にして創作活動を行っていました。金刀比羅宮表書院と円山応挙の関係もその一環としておきます。

金刀比羅宮 表書院4
       表書院 七賢の間から左の山水、右の虎の間を望む
応挙が書いた障壁画には、次のふたつの年期が記されています。
①天明7年(1787)の夏    虎の間・(同時期に鶴の間?)
②寛政甲寅初冬(1794)10月 山水の間・(同時期に七賢の間?)
ここからは2回に分けて制作されたことが分かります。まず、①で鶴の間・虎の間が作られ、評判が良かったので、7年後に②が発注されたという手順が考えられます。応挙が金毘羅へやってきたという記録は残っていないので、絵は京都で書かれ弟子たちが運んできたようです。
 なお、最初の天明7年(1787)10月には、施主であった第十代別当宥存(1727~87)が亡くなっています。もう一つの寛政6年(1794)は、応挙が亡くなる前年に当たります。そういう意味で、この障壁画制作は応挙にとっても集大成となる仕事だったことになります。ちなみに、完成時の別当は第11代宥昌になります。
 表書院は客殿とも呼ばれていて、表向きの用に使われた「迎賓館」的な建物です。
実際にどんなふうに運用されていたのかを見ていくことにします。『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が金光院の客段であったことに触れた後、次のように記します。

「表立ちたる諸儀式並に参拝の結紳諸候等の応接には此客殿を用ゐたるが、二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎之間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々並に役人等の座席に、鶴之間は当時使者之間とも唱へ、諸家より来れる使者の控室に充当したりしなり」

意訳変換しておくと
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここでは、各間の機能を次のように押さえておきます。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

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松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には、「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居.
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈.
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物]
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
虎の間3
虎の間(金刀比羅宮表書院 円山応挙)
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。

鶴の間 西と北側
             表書院 鶴の間(金刀比羅宮)
同じように、鶴の間についても松原氏の年表で見ておきましょう。

①天保8年(1837)4月1日  金堂講元伊予屋半左衛門・多田屋次兵衛、以後御見席鶴之間三畳目とし、町奉行支配に申しつける

ここからは当時建立が決定した金堂(旭社)建設の講元の引受人となった町方の有力者に対して、「御目見えの待遇」で町奉行職が与えられています。それが「鶴の間三畳目」という席次になります。席次的には最も低いランクですが、町奉行支配という形で、金刀比羅宮側の役人に取り立てたことを目に見える形で示したものです。
七賢の間
七賢の間(金刀比羅宮表書院) 
七賢の間については、金光院表役の菅二郎兵衛の手記に次のように記されています。

万延元年(1860)2月の金剛坊二百丘十年忌の御開帳に際して、縁故の深い京の九条家からは訪車が奉納されたが、2月5日に奉納の正使が金毘羅にやってきた。神前への献納物の奉納後、寺中に戻り接待ということになったが、その場所は、本来は七賢の間であるべきところが、何らかの事情により小座敷と呼ばれる場所の2階で行われた

ここからは、七賢の間は公家の代参の正使を迎える場として使われていたことが分かります。
 天保15年(1844)に有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝にやって来て、その後に奥書院の襖絵を描いた岸岱に対する金刀比羅宮側の対応を見ておきましょう
天保15年(1844)2月2日、有栖川宮の御代参として参詣した時には、岸岱は七賢の間に通されています。それが、6月26日に奥書院の襖絵を描き終わった後の饗宴では、最初虎の間に通され、担当役人の挨拶を受けた後、院主の待つ御数寄屋へ移動しています。この時、弟子の行芳、岸光は鶴の間に通され、役人の扶拶のないまま、師の岸岱と一緒に数寄屋へ移動しています。
表書院 虎の間

          七賢の間から望む虎の間(金刀比羅宮表書院)

以上から、表書院の部屋と襖絵について研究者は次のように解釈します。
表書院の部屋ランク

つまり、表書院には2つの階層格差の指標があったのです。
A 奥に行くほど格が高く、入口に近いほど低いという一般常識
B 「鶴(花鳥)→虎(走獣)→賢人→山水」に格が高くなると云う画題ランク

以上を踏まえた上で、表書院の各室は次のように使い分けられていたと研究者は指摘します。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割


このことは先ほど見たように、画家の岸岱が有栖川宮の代参者としてやってきた時には「七賢の間」に通され、画家という芸能者の立場では「虎の間」に通されていることとからも裏付けられます。
表書院は金刀比羅宮の迎賓館で、ランク毎に使用する部屋が決まっていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊藤大輔 金刀比羅宮の名宝(絵画) 
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    2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
象頭山御本社(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅大権現の歴史を見ていくための資料として私が参考にしているのが金毘羅参詣名所図会です。すでに丸亀港から金毘羅門前までは見てきましたので、今回は仁王門から本堂までの部分を意訳して載せておくことにします。興味のある方は、御覧下さい。

金毘羅参詣名所図会 仁王門
金毘羅参詣名所図会図 絵図68 二王門 坊中 桜並樹 
上の左図内の挿入文章には、次のように記されています。

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。
   花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長
右Pの仁王門以下を意訳変換しておぃます。


  二王門  一の坂を上った所にあって、金剛神の両尊(仁王)を安置する。この門にかかる象頭山の額は、竹内二品親王の御筆である。
桜馬場  二王門をくぐると、左右に桜の並木が連なる。晩春の頃は花爛慢として、見事な美観である。金毘羅十二景の内の「左右の桜陣」とされている。この桜並木の間には、数多くの石灯籠や石の鳥居がある。

直光院 万福院 尊勝院 神護院
 4つの院房が桜の並木の右にある。並木の左後ろは竹藪である。
別業(べつぎょう)  
 坂を上って左の方にあるのが別業で、本坊金光院の別荘である。これも金毘羅十二景のひとつで「幽軒梅月(ゆうげんの梅月)」と題されている。

2


金毘羅参詣名所図会.jpg 金光院
      象頭山松尾寺金光院(金毘羅参詣名所図会)
これも意訳変換しておくと
象頭山松尾寺金光院  
古儀真言宗、勅願所、社領三百余石。
本坊 御影堂 護摩堂  その他に院内に諸堂があるが、参詣は許されず立入禁止である
御守護贖(まもりふだ)所 方丈の大門を入ると正面に大玄関があり、その右方にある。ここで御守護(お札)を受けることができる。護摩御修法を願う人は、ここに申し込めば修法を受けることができる。
神馬堂 本坊の反対側の左側にあり、高松藩初代藩主の松平頼重公の寄進建立である。神馬の姿は木馬黒毛の色で、高さは通例通りである。

茶堂 神馬堂の側にあり、常接待で参拝客を迎え、憩いの場となっている。
黒門表書院口 石段を上りって右の方にあり、これが本坊表口である。この内の池が十二景の「前池躍魚(ぜんちのよくぎょ)」である
     「前池躍魚」                       林春斉
同隊泳テ其楽  自無香餌投  焼岩縦往所  活溌□洋也

2-17 愛宕山
愛宕山(金毘羅参詣名所図会)

愛宕山遥拝所 道の左に愛宕山遥拝所があり、そこから向こうの山の上に愛宕権現が見える。
多宝塔  石段を少し登ると右の方にあり、五智如来を安置している。
二天門・多宝塔 金毘羅参詣名所図会
金堂竣工直前の金堂前広場(金毘羅参詣名所図会1847年)
この部分を見て気づくことを挙げておきます。
①金堂(現旭社)がほぼ完成していること。
②二天門(現賢木門)の位置が移されたこと。
③多宝塔から広場下の坂は、石段の階段がまだできていないこと。
④金堂前も石畳化されておらず、整備途上であること。

萬燈籠 金毘羅参詣名所図会

萬燈堂 多宝塔のそばにあり、本尊大日如来を安置する。常灯明である。
大鰐口  萬燈堂の縁にあって、径が約四尺余、厚さ二尺余、重すぎて掛けることができない。宝暦(1756)五乙亥年二月吉日、阿州木食義清と記す。阿波の木食(修験者)の寄進である。
古帳庵之碑  万灯堂の前にあり、天保十四年癸卯春正月建立されたもので、次のように記す
のしめ着たみやまの色やはつ霞 折もよしころも更して象頭山  江戸小網町 古帳庵
同裏 
天の川くるりくるりとながれけり あたまからかぶる利益や寒の水      古帳女

このあたりからの展望はよくて、十二景の「群嶺松雪(ぐんれいのしょうせつ)」と題される。
     群嶺松雪                林春斉
尋常青蓋傾ヶ 項刻玉竜横  棲鶴失其色  満山白髪生
同     幽軒梅月  是は前に記せし別業の事なり。
起指一斉光開 座看疎影回 高同低同一色 知否有香来


2-18 二天門

意訳変換しておくと
   二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した。
鐘楼  二天門をくぐった内側の右側にある。先藩主・生駒家の寄進である。十二景の「雲林の洪鐘」と題されている。
十二景之内 雲林洪鐘
 近似万事轟  遠如小設有鳴  風伝朝手晩  雲樹亦含声
四段坂・本地堂 金毘羅大権現
金毘羅大権現 四段坂の本地堂(金毘羅参詣名所図会) 
本地堂 金毘羅参詣名所図会

 意訳変換しておくと
本地堂 鐘楼から少し歩くと石の鳥居があり、その正面が本地堂である。本尊 不動明王。
石階(きざはし) 本社正面の階段の両側には石灯籠が数多く建ち並ぶ。
行者堂  石段中間の右方にあり、役(行者)優婆塞神変大菩薩を安置する。
大行司祠 当山の守護神であと同時に、毘沙門天、摩利支天の相殿の社でもある。
金銅鳥居 石段の中間、右方にあり、役行者堂の正面になる。
御本社  東向き、麓より九丁、山の半腹にあり。
金毘羅参詣名所図会 本堂
象頭山本社(金毘羅参詣名所図会)
 〔図70〕二王門内より御本社の宝前へかけ国守をはじめ、諸侯方よりの御寄付の灯籠彩し。紫銅あり、石あり、いずれも御家紋の金色あたりに輝き、良工しばしば手を尽せり。
切て上る髪の毛も見ゆ象頭山繋かるゝ如くつとふ参詣      絵馬丸
夕くれや烏こほるゝ象頭山

金毘羅大権現 本社 拝殿
金毘羅大権現 拝殿(金毘羅参詣名所図会)
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。

金毘羅本社よりの展望
本社からの展望(金毘羅参詣名所図会)

左の方に番所があり、開帳を願う人は、ここに申し出れば内陣より金幣が出され頂かせらる。本開帳料は、銀十二匁半、半開帳は六匁。
本社 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の本社周辺(讃岐国名勝図会 1854年)

三十番神社  本社の左方の石段の上にある。前に拝殿があり、本社の内陣にも近いので、このあたりでは不遜な行為は慎むこと。
経蔵  拝殿に並んであり、高松藩主松平頼重公の御寄付による大明板の一切経が収められている。釈迦、文珠、普賢、十六羅漢、十大弟子并に博大士(ふだいし)、普成、普建などを安置している。
紫銅碑(からかねのひ) 経蔵の傍にあって、上に「宝蔵一覧之紀」とある。下に細文の銘があるが略する。寛文壬寅二月日記之とあり、後に詳しく述べる。
観音堂  経蔵より石段を少し下りた右方にある。堂内には、絵馬が数多く掛っている。宿願のために参籠する者も、本社に籠ることは許されていないので、この観音堂にて通夜をすることになる。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)

金毘羅参詣名所図会 金毘羅観音堂2
金毘羅観音堂周辺(金毘羅参詣名所図会) 
本尊 正観世音菩薩 弘法人師真作
前立 十一面観世音菩薩 古作也。左右三十三体の尊像あり。
狩野占法眼元信 馬の画本額 堂内北の脇格子の内にあり。
土佐守藤原光信 祇園会の図奉額 同所に並ぶ。
後堂(うしろどう)
金剛坊尊師・宥盛の霊像を安置する。像は長三尺寸計り、兜中篠繋(ときんすずかけ)で、山伏の姿で岩に腰をかけた所を写し取ったものと云ふ。この金剛坊というの約は300年前、当山の院主であった宥盛僧正という僧のことである。権化奇瑞で死後、金毘羅大権現のの守護神となった。その像は初めは、本尊の脇に並べて安置していた。ところが、崇りが多くて衆徒が恐れるようになった。そこで尊霊に伺うと「我は当山を守護するので山の方に向けよ」と云ったので、今のように後堂に移した。
 先年250年遠忌に当たって、法式修行のついでにご開帳で参拝人に尊像を拝せた所、三日の間、開扉するとたちまち晴天かき曇って激しく雷雨となり、閉帳すると直ちに、また白日晴天にもどったという。

絵馬堂  
観音堂南の脇にあり、難風の危船漂流の図、天狗の面などの額、本願成就の本袖が数多く架かっている。その傍に奉納の紫銅の馬もある。

金毘羅金堂 金毘羅参詣名所図会

阿弥陀堂 絵馬堂の傍にあり、千体仏が安置されている。これも高松藩の松平頼重公の寄進である。
孔雀明王堂 阿弥陀堂に並び、仏母人孔雀明王を安置する。
籠所(こもりしょ) 孔雀堂の傍にある。参籠のために訪れた参拝人は、ここで通夜する。
神輿堂  観音堂の前にある。
観音坂  石段である。荒神社 坂の傍にあり。
蓮池  観音堂の南にあり、御神事の箸をこの池に捨るという。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現金堂(讃岐国名勝図会)
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作。

以下には金毘羅大祭が続きますが、これはまたの機会にします。
ここまで見てきて、気づいたり思ったりしたことを挙げておきます。
①近世の象頭山は神仏混淆の霊山で、金毘羅大権現と観音堂が並んで山上にはあった。
②山上の宗教施設に仕えていたのは神官ではなく社僧で、金光院主が封建的小領主でお山の大将であった。
③お札も金光院の護摩堂で社僧が祈祷したものが出されていた。
④金光院初代院主・宥盛は、神として観音堂背後に奉られていた。
⑤本地堂や役行者をまつるお堂などもあり、修験道の痕跡がうかがえる。
⑥金毘羅参詣名所図会(1847年)出版のために、暁鐘成が大坂から取材のためにやって来た頃は、金堂の落成間際で周辺整備が行われ、石垣・石畳・玉垣が寄進され、白く輝く「石の伽藍空間」が生まれつつあった時代でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅参詣名所図会(暁鐘成 著 草薙金四郎 校訂) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献  
金毘羅参詣名所図会 歴史図書社
香川県立図書館デジタルライブラリー 金毘羅参詣名所図会
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/digitallibrary/konpira/komonjo/detail/DK00080.html
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1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

DSC00556
 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

満濃池 讃岐国名勝図会
      満濃池と池の宮(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
 讃岐国名勝図会の満濃池に関する記述と、その意訳変換を資料としてアップしておきます。

真野郷
此地初神野郷と書来りしか、嵯峨天皇御譚神野と申奉りしかハ、字音の同しきか故に、真野郷と改めしならん。其事諸記なしと雖も日本紀略大同四年九月二日乙巳、改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也と見えたり。其後弘仁十二年、富国より奏請して、弘法大師に萬濃池を築しめたまふ時の上書にも、神野郷と記さん事を憚て、真野と改めし物ならんか。後人の考を待。
意訳変換しておくと
真野郷
この地はもともとは、神野郷とされていたが、嵯峨天皇御譚神野と、字音が同じなのでお恐れ多いとして、真野郷と改められたのであろう。その記録はないが、「日本紀略」の大同四年九月二日乙巳に「改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也」とある。
 その後、弘仁十二年に弘法大師に萬濃池を修築させた時の上書にも、神野郷と記すことを憚って、真野と改めたものではないか。後人の考を待。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
    矢原邸と諏訪神社(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここでは、真野郷はもともとは神野郷であったという説が出されています。その理由が「嵯峨天皇御譚神野忌避説」です。しかし、これについては史料的な裏付けがありません。その他の古代・中世の史書に
は、「神野」という地名は出てきません。出てくるのは「真野郷」です。また、神野神社も近世前半までは、「池の宮」と記されています。敢えて「神野神社」と記すのは、一部の文書だけです。
 ここには、真野郷を神野と呼ばせたい意図があったことが見え隠れします。それは、神野神社を式内神社の論社とすることだったと、私は考えています。式内社の神野神社は、郡家の神野神社があります。これに対して、池の宮を神野神社として、論社化しようとする動きが近世後半から出てきます。それが満濃池築造と併せて語られ、「池の宮=神野神社」とされて行きます。
  
  讃岐国名勝図会 満濃池1
     矢原邸と諏訪明神(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
続いて満濃池本文を見ていきます。  
萬濃池 
同所にあり。十市池とも云。池の周廻八千五百間、水たまり二て二里三丁、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、富国第一の池なるに依て、萬濃太郎と云。中比廃して山田と成、堤長四拾五間、土廣さ六間、高サ拾弐間半、堤根六拾五間、三面八山也。漑田三万五千八百十石斗。貧呆長十八間、廣さ四尺弐寸、高さ弐尺八寸、穴壱尺六寸、櫓五ケ所二て、賓水穴十ケ所なり。営時水たまり深さ十一間。
意訳変換しておくと
萬濃池 
満濃池は真野郷ににあって、十市池とも呼ばれる。池の周囲は八千五百間、水が溜まると二里三丁(約9㎞)、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、讃岐国第一の池なので、満濃太郎とも呼ばれる。中世には、堤が崩壊してその姿を消して、池の中は山田となっていた。
 堰堤の四拾五間、堰堤幅六間、高さ拾弐間半、堤の根元幅六拾五間、三面は山に囲まれている。灌漑面積は三万五千八百十石斗。底樋長さは十八間、廣さは四尺弐寸、高さは弐尺八寸、穴は壱尺六寸、櫓(ゆる)は五つあり、満水時の水深は十一間。

讃岐国名勝図会 満濃池1
      満濃池 その2(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここから空海による満濃池築造が次のように記されます
 弘仁十年四月より七月迪、諸国雨ふらさりしかハ、公より諸国に令して池を掘らしむ。富国も溝渠をさらへ、池を築きける。同十一年より此池を築初しかと、目に除る大池なれハ、十二年にいたれともならす。諸人大に倦労れぬ。何ともすへからす。爰に人あり。沙門空海今都にあり、世人ミな其徳を慕ふ事、枯草の雨を待か如し。若爰二来ら八不日にならん、是に於て時の刺史其言を朝廷に奏す。同六月空海詔を奉して爰に至る。民大に歓ひ、堤にもまた日ならすしてなれり。同十三年勅して空海に新銭弐万を給ふ事日本紀略にみえた。

 寛仁四年時の国司碑銘を建さし給ふ。
其文次二出せり。治安年中、堤塘を更改す。爰に雖眼竜あり。此池に住む。傅云、寒川郡志度村の宿願と云者化する所也とそ。後此地を去て海に移る。其時堤防大に壊ると志度寺の縁起にみえたり(注1)。
 又元暦元辰年、大洪水二て 堤基破壊して跡方なくなりて、其後五百石斗の山田となり。人家なとも往々基置して、池の内村といふ。(弘仁十二丑年(む)、開発なして三百六十四年、池中満水なせし也、)
 爾後数多の星霜を経て、寛永三寅年閏四月七日大風雨二て、其後七月に至る法七十五日雨なく、大旱して、秋穀旱罹。一諸民餓死に及ひける。京都も井水涸て、草葉萎て糸になれるか如くなりける。
此年先封生駒の老臣西嶋八兵衛尤之といへる人、此池を再ひ築きにける。 普請奉行八福家七郎右衛門・下津平左衛門也。 今永世の助益となりて、下民其恩沢に 浴せり。生駒家国除の後、同十八年(ゆる)木朽腐しかと、国の大守なきによりて富郡木徳村の農民里正四郎大夫と云者をして、重修の事を幕府へ訴へ出ける。台命によりて富郡五条・榎井・苗田三村を池修補料と定給ふ。
意訳変換しておくと
弘仁十(819)年4月から7月にかけて、諸国では雨が降らず旱魃になったので、朝廷は諸国に命じて池を掘らした。讃岐でも溝渠をさらへ、池を築造した。翌年には、満濃池の築造に取りかかったが、それまでにない大きな池なので、12年になっても完成はしなかった。讃岐の人々は、すっかり疲れ果ててしまったが、どうしようもない。
 ここに人あり。沙門空海が今、都にいる。世人の空海の徳を慕ふことは、枯草が雨を待つかのようである。もし、空海が讃岐に帰国してくれたら・・・。これを讃岐の役人は朝廷に願いでた。こうして821年6月、空海は詔を奉じて讃岐に帰国することになった。民は大に歓び、堰堤は、あっという間に出来上がった。翌年13(822)年には、空海に新銭弐万貫が与えられたと、日本紀略には記されている。

満濃池 古代築造想定復元図2

   寛仁四(993)年 讃岐の国司が碑銘を建立した。
そこには次のように記されていた。治安年中に堰堤を修築したところ、独眼の竜が住んでいた。その竜は、寒川郡志度村の勧進者が龍となったものだと云う。その後、この池を出て海に去った。この時に、堰堤が大破したと志度寺縁起には記されている。
元暦元(1184)年、大洪水で堰堤が破壊して跡方なくなった。池跡は開墾されて、その後五百石ほどの山田となり、人家なども姿を見せて、池の内村と呼ばれるようになった。弘仁十二年に築造されて、364年の間、満濃池は存在していた。
 その後、長い年月を経て、寛永三(1626)年4月7日に大雨があった後、7月まで75日間も雨がなく、大旱魃となった。穀物は育たず、収穫がなく餓死者も出た。京都も井戸が涸れて、草葉は萎えて糸のようになってしまった。

西嶋八兵衛

 このような状況の中で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛と云う人が満濃池を再築することになった。
普請奉行は、福家七郎右衛門・下津平左衛門であった。こうして完成した満濃池は、永世の助益となって、下々の者までその恩沢を与えている。  
 お家騒動で生駒家が転封に騒動後も、寛永十八(1640)年に、池のユルの木材が腐っていまった。そこで、藩主不在の折に、那珂郡木徳村の農民・里正四郎大夫が、ユル替え工事を幕府へ訴へ出た。これを受けて幕府は那珂郡の五条・榎井・苗田の三村を池修補料と定めた。そのためこの三村を池御料と呼ぶようになった。

決壊中の満濃池
池御料の榎井・四条・苗田(白い部分:草色が高松藩)

讃岐国名勝図会 満濃池2
満濃池 その3(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
上のページを意訳変換しておくと
満濃池の底樋とユルの付け替え工事
 その後、高松藩祖松平頼重の時に、池御料所の代官である岡田豊前守殿・執政稲葉美濃侯に、満濃池修理費用は、高松藩と京極藩で負担することを申し出た。しかし、池修補料は巨額ではないが、三村はそのために、幕命によって設置された天領である、それに背くことは本位ではないという意向が伝えられ、沙汰止みとなった。その後、いくたびもの改修普請工事があったが、先例通りに、底樋やユルの材木費などは、池御料三村の租税で賄われてきた。
  
     ところがどういうことか宝永三(1706)年の改修工事の際に、代官遠藤新兵衛殿より、「以後は(幕府は)関与しない」と通達があり、現在のように高松・京極藩で取り扱うことになった。
 寛永8年の再興以来183年の星霜を経た文化十(1813)年に、苗田村の里正・守屋吉左衛門を中心に、池の底の土砂ざらえを行った。その際に、土砂を堤に土を置いて、六尺高くした。そのことを刻んだ碑銘を不動堂に建てた。
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満濃池の底樋とユル 底樋は四角い箱形
底樋の木造から石造への転換

 柚水木(ゆるき)は嘉永年中(1848)年ころまでは、周囲が3mあまりの巨木に穴を開けて、土中に埋めて、三十三年毎に交換を行う普請を行っていた。この時には、讃岐中の村々より人足数万人出て堤を切開き、土砂を荷ひ、底樋を掘出し、新木を埋めた。工期は、前年の8月より始めて、翌年春までには終えた。その費用は、多額に及び、筆紙に尽し難きい一大工事で、大イベントでもあった。

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満濃池堰堤の土固め

そこで村吏数人と協議して、巨木に換えて石材を使えば萬世不朽になり、費用削減につながり国益になると、衆議一決して、代官所に願い出た。それが許可されると嘉永五(1852)年4月より石材化の工事は始まり、巨木を除いて、石を使用した。
 満濃池樋模式図

底樋について「周囲が3mあまりの巨木に穴を開け・・」とありますが、これは事実誤認です
畿内の宮大工が見積書として一緒に提出した底樋の設計図が何種類も残っています。それは選ばれた最高の松材を使って、最先端技術で造られたものだったことが分かります。決して丸太を掘り抜いたものではありません。明治維新前後に、この辺りの記述は書かれたようですが、30年もすると過去のことが伝わって居ないことがうかがえます。

満濃池 底樋石造化と決壊
    満濃池 その4(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

底樋の石造化失敗と満濃池決壊
工事行程では、底樋の土と石がうまく接合せず、所々から水もれが起きた。それに対して、色々と工夫改良をこらして対処して、(1856)年夏には、堤塘はもとのように落成した。この成功で、代官所より関係者に、お褒めの言葉やその功に報いて格式が上げられる者も出た。また、着物や白銀を賜わる者もあり、諸民は安堵の思いをして歓んだ。

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1854年の満濃池の石造樋管(底樋)

 ところが、同年7月4日より樋のそばから水洩が始まった。
次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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金倉川改修工事で出てきた底樋石材


讃岐国名勝図会 満濃池5

 堤防決壊の被害と教訓
 貯水量が満水でなく、4割程度だったことは不幸中の幸いであった。天は、萬民を加護し、救ったとも云える。流れ出た水が金毘羅の鞘橋を越えて流れたことを考れば、もし満水の時に堰堤が切れていたならば、阿波町屋・金山寺町のあたりまで壱丈六尺高の水が流れ込んできたかも知れないと住民達は噂している。
 川下の村々も同じである。満濃池よりも四里(16㎞)下流の丸亀城下にまで流れ込んで海に落ちることもあると。これを教訓にして、川下の村々の人達も、油断することなく心の備えをすべきである。恐ろしいのは水の勢いである。正直第一にして信心して、仏神の擁護を願ふことである。あなかしこ。是を忘れ給ふな。
 
石造化計画の責任者を責めることなかれ
  底樋を木造から石造に転換したことが、堰堤決壊の原因で、責任はその計画者にあると非難する人もいる。そうではない。この計画は国益を慮り、多くの人々の労苦を思いやり、行った善事である。悪意で行ったものではないので、その人を罪してはならない。
 今昔物語に出てくるる魚が欲しくて満濃池の堤を壊した国司とは、雲泥の相違なのだ。天は、その善心を見て判断を下される。昔の如く堰堤が再び姿を見せる日も近いことだろう。

満濃池決壊拡大図
堰堤の切れた満濃池跡を流れる金倉川
讃岐国名勝図会の前編は安政4(1857)年に公刊されましたが、後編は公刊されることなく草稿本として明治まで保管されていました。その間にも、草稿を受け継いだ長男の手でいろいろな書き込み追加が行われていきます。以下の文章は、明治になってからの追加分になるようです。 

明治維新の長谷川佐太郎による満濃池再築
明治元辰年二至りて、王政復古旧政を御一新あり。
幕府権政を返上なせしかハ、天下一統旧政を改革なし、府藩懸の御政務決りしかハ香川料より主として今の池宮拝殿下二巨萬の大盤石のありしを、同二已年九月八日より、竪四尺除、横三尺五寸除、長弐拾八間除の水道を穿堀て、屈強成天然自然の賓水穴を開口始、同三年五月二至り穿拵て水道成就し、堤根八旧の如く六十間診堤を築重、桜・楓・桐嶋・さつき等を植置て池もとの如く造営成就なせし八、萬代不朽、天萬民を救助なし給ふ。時節到来のなせるなるべし。
 始め木を以て賓水道を通し、弐百年除、三十一年毎賓水木更とて、国中より幾萬の人足を出し、造替なせる民の辛苦をいとび、或人、嘉永年中其木を除きて石となしなバ、萬代不朽の栄なりとて人力を費せらしと。其後一とせも持たす流失なせしかハ斯なし。厚志の切なるを天道照給ひて今の如くなし候共、長谷川喜平次が忘眠丹誠成て数十年の辛労を天照覧なし、死後二至て則なれるも石の水道を思ひ付し八、今の如く自然の水道なれる魁なるべし。爰二於て遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎二弁当・割寵を携へ、爰二至る者の絶間
無りしかバ、堤の上二桟敷・机木を設て遊客を憩しめ、酒肴菓を商ふ者もあり。四時村民の潤となせる八、是も萬民を救ひ給ふ一助なるべし。)
意訳変換しておくと
明治元年になって、王政復古が行われ旧政御一新となった。
幕府が政権を返上したので、天下一統し旧政の改革が行われた。府藩懸の政務が固まると、今の池の宮拝殿の下に巨大な大盤石があることを見つた。そこで、同二年九月八日から、竪四尺除、横三尺五寸、長さ弐拾八間足らずの水道を穿堀することになった。こうして天然自然の底樋水穴の開口工事が始まった。同三年五月二に、隧道は開通した。また60間の堰堤も復活した。
 そこに、桜・楓・桐嶋・さつき等を植えて造営は完成した。こうして萬代不朽、天萬民を救助する満濃池が復活した。時節到来のなせるなるべし。

満濃池底樋石穴図(想像)
明治の底樋隧道化計画

③ もともとは木造底樋で水を通していたために、200年あまりに渡って、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。
④ それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。
⑤ 長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天は御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている。
⑥ こうして多くの人々が、弁当・割寵を携えて満濃池遊覧にやって来る。堤の上に桟敷・机木を設置して遊客に休憩所を提供し、酒肴菓を商う者もある。村民の潤の場として、萬民を救う一助ともなっている。
明治になって加筆された部分を要約しておきます。
①明治になって地下岩盤を開削し、底樋を通すことが計画された
②堰堤も再築され、そこに花木類が植えられた。
③底樋が木造の時代には、その改修のために多くの農民が動員され苦労した。
④それを長谷川喜平次は底樋を石造化することで解消しようとした。
⑤それは失敗したが、その上に現在の底樋隧道化の魁(さきが)けになった。
⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。
以上です。
ここで気がつくことは④⑤で、長谷川喜平次の底樋石造化を高く評価していることです。
これについては、長谷川喜平次については、当時の地元では評価が割れていたこと、特に農民層からは彼に対してや石造化計画を進めた庄屋たちに強い批判が挙がっていたことを以前にお話ししました。その中で、讃岐国名勝図会の作者は、長谷川喜平次を強く擁護していることを押さえておきます。
 長谷川喜平次とともに、底樋石造化を進めたのが三原谷蔵でした。
三原家は、真野村で代々政所を勤める家でした。満濃町誌には次のように記します。

三原谷蔵は、榎井村庄屋の長谷川喜平次と共に、満濃池の樋門を永世不朽のものとするため底樋の石造改修する等、水利開発や農民の救済に尽力した。嘉永元年より真野村庄屋を勤め、その間、安政年中には那珂郡大庄屋に登用され、慶応二年まで一九年の長期にわたって地方自治に貢献した。

つまり、長谷川喜平次を批判することは、大庄屋の三原谷蔵を批判することにつながったのです。そのために周りのとりまきの人たちは、類を及ばさないように長谷川喜平次を擁護したことが考えられます。
長谷川佐太郎

もうひとつ気になるのは長谷川佐太郎の名前が、どこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことがいまでは定説となっています。ところが、讃岐国名勝図会の明治後に加筆された部分には、長谷川佐太郎を登場させないのです。この時点で長谷川佐太郎の評価はいまと違っていたのでしょうか。あるいは意図的に無視しているのでしょうか。今の私には分かりません。

満濃池 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会の満濃池 鶴が舞う姿が描かれてる
最後の「⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。」という記述です
ここからは、満濃池が人々の行楽地となっていたことが分かります。堰堤からの四季折々のながめを眺望を、用意された休息所に座って愛でる文化が根付いていたようです。『金毘羅山名勝図会』には、人々が「朱の箭を敷」き「池見」を行ったと記します。

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)
金毘羅参詣名所図会の元絵とされる「象頭山八景 満濃池遊鶴」

以上、讃岐国名勝図会に記された満濃池をみてきまた。私は、以前には、ここには絵図しかないものと思っていました。しかし、実際に全文を見てみると非常に充実した内容です。これ以外にも省略しましたが、今昔物語の記事もあります。昔の人が満濃池の歴史を知ろうとすれば、まず、この図会を見たはずだと思いました。それだけ後の時代に影響を与えた図会であると改め思いました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
歴史資料から見る満濃池の景観変化 満濃池名勝調査報告書111P まんのう町教育委員会 2019年
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        表紙 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会
  以前に『金毘羅参詣名所図会』が、弘化4(1847)年に大坂の戯作者暁鐘成(あかつきかねなる)によって出版されたこと、その際に絵師も連れて、2ヶ月間の讃岐取材旅行の上で書かれていることをお話ししました。すると、「金毘羅参詣名所図会を現代語訳で読んでみたい」というリクエストをいただきました。私も現代語(意訳)と絵図をアップしておくことは意味のあることだと思うので、少しずつ載せていくことにします。しかし、巻頭からではなく、私の興味関心のあるところからアトランダムになります。悪しからず。


金毘羅絵図幕末

 初回は、金比羅の金倉川にかかる鞘橋から金光院までにします。

鞘橋 金毘羅参詣名所図会
鞘橋(金毘羅参詣名所図会)
鞘橋 
此の地の惣名を松尾といふ。故に寺を松尾寺といひ、又此所より出る人多く松尾氏あり。又家号を松尾屋となのる者多し。然れども昔より御神号を所の名にいひつたへ、只一円に金毘羅といひならはせり。 

売物の称にいふ
さやは橋の名につけて
真こゝろ見せの賑ひ
絵馬丸
意訳変換しておくと
この地の地名は松尾という。そのため寺は松尾寺で、この地には松尾氏の姓が多い。また家号を松尾屋と名のる者も多い。しかし、昔よりの御神号である金比羅の名をとって、いまではこの一円を金毘羅と呼んでいる。 

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
元禄時代の金毘羅祭礼屏風図の鞘橋 
橋の下の金倉川で沐浴する参拝者

金毘羅参詣名所図会の数年後に出される讃岐国名勝図会の鞘橋を見ておきましょう。
金毘羅門前町 阿波町 鞘橋 頭人行列
鞘橋(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会では、瀬川神事の際の行列が鞘橋を渡る様子が描かれています。
鞘橋 明治中頃
明治中頃の鞘橋

DSC00639琴平鞘橋とバス
現在地の神事場入口に移築された鞘橋
 唐破風造(からはふづくり)・銅葺の屋根を備えるアーチ型の木造橋。刀の鞘を連想させるその形からそう呼れています。橋の下に柱がないのも特徴で、川の上に浮かんでいるようにみえるので「浮橋」ともよばれました。現在のものは明治2年(1869)の改築に際し阿波鞘橋講中より寄進されました。明治38年に現在地に移築された後は神事専用の橋となっており、祭典奉仕の神職や巫女が渡るだけになりました。
金毘羅門前 鞘橋から内町 1880年

鞘橋を越えると内町です。
2-18 鞘橋 

内町 
鞘ばしの西詰より小坂までの間をいふ。左右旅宿屋軒をならべ何れも家建奇麗なり。坂の傍に庚申堂あり。右の向ふを壇の上といひ、此所に地蔵堂あり。此の辺至って繁昌なり。
十二景之内 五百長市 
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人
一之坂
大坂ともいふ。此の坂の間、左右名物の飴売店多し。詣人は家土産に需むること愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助に異ならず。
愛宕町
大坂の少し前より左へ入るところをいふ。此の町よりあたご山見ゆるゆへ斯くはなづけり。
意訳変換しておくと
内町 
鞘橋の西詰から小坂までの間を内町という。左右に旅宿屋が軒をならべるが、どれも建物が奇麗である。坂の登り口庚申堂がある。右の方に向かう道筋を壇の上と云い、ここには地蔵堂がある。この辺りは、いたって繁昌している。

(金毘羅)十二景の内の「五百長市」にあたる。  
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人 
一之坂
大坂とも云う。この坂の左右両側には、名物の飴売店が多い。参拝者が家土産に買い求める姿は、愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助と同じである。
愛宕町
大坂の少し手前から左へ入った町筋を愛宕町という。この町から愛宕山が見えるので名付けられた。

2-17 愛宕山
金比羅の愛宕山(金毘羅参詣名所図会2巻)
2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会(2巻13)
天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳もあまり必要ないようなので、このあたりは省略します。愛宕山については、現在は忘れ去られた存在になっていますが、もともとは修験者の愛宕山信仰の聖地で、山頂にも「愛宕大権現」が鎮座していたようです。金毘羅市中の警察・行政権を握っていたのは多聞院です。多聞院は全国からやって来る山伏たちを保護していたようで、愛宕山周辺には修験者たちが数多くいた気配がします。幕末には、阿波の箸蔵寺の山伏たちとの交流・連携もあった気配がします。
 愛宕山の向こう側の佐文には「ごま(護摩)谷」という地名も残っていて、護摩木を提供する山もあったようです。愛宕山については、関心があるのですが、切り込んでいく史料がなくて「停滞」しています。今後の課題です。さて、金毘羅参詣名所図会は、鐘楼・仁王門の手前までやってきました。ここで清少納言が登場します。

鼓楼 飴茶屋 清少納言古墳 金毘羅参詣名所図会

清少納言古墳(金毘羅参詣名所図会)
清少納言古墳
一の坂の上、鼓楼の傍にあり、近年墳の辺りに碑を建てり。
〔伝に云ふ〕往昔、宝永の年間、鼓楼造立につき此の墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女(清少納言
)の霊あらわれて告ける歌にうつゝなき跡のしるしを たれにかはとわれじなれど有りてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて本の儘にさし置れけるとぞ。
〔図癸〕清少納言古墳  桧扇とおぼせ手向の渋団   
                         長門国筆舎
象頭山八景 清氏塚秋雨 

まきあけし小簾のみゆきに古つかの
      ふりかはりぬる秋のむらさめ
侍雪中宮彼一時
空智孤塚象山陸
昔日無人買馬骨
千今秋雨為君悲 
        梅隠 
2-14 清少納言現る
清少納言が霊夢にあらわれる(金毘羅参詣名所図会2巻14)
清少納言塚のいわれについては、以前お話ししたので省略して、仁王門をくぐって行きます。

仁王門 金毘羅参詣名所図会
二王門 坊中 桜並樹 竹薗 神馬舎 茶堂(金毘羅参詣名所図会)

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。

花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長


普門院 - コピー
金毘羅参詣名所図会2巻16
普門院 右塚のむかふにあり、則ち坊中なり。
二王門
一の坂の上にあり、金剛神の両尊を安す。象頭山の額は竹内二品親王御筆なり。
桜馬場
二王門を入り左右桜の並木連れり。晩春の頃は花爛慢として美観なり。十二景の内にして左右の桜陣と題す。此の間、石灯籠数多且つ石の鳥居あり。
真光院 万福院 尊勝院 神護院
桜の並木の右にあり、左の後は竹藪なり。
十二景之内 左右桜陣                            林春斉
呉隊二姫笑 椰宮千騎粧 花顔誇国色 列対護春王
同     後前竹囲                            全
移得渭川畝 湘孫胎版多 百千竿翠密 本未葉森羅

別業
坂を上りて左の方にあり、本坊の別荘なり。景の内にして幽軒梅月と題す。
イメージ 6
桜の馬場
仁王門をくぐると坊中で、現在はここで五人百姓が赤い大きな傘を広げて金比羅飴を販売しています。

1 金毘羅 伽藍図2
金刀比羅宮の建物変遷
その右手に、かつては普門院・真光院 万福院・尊勝院・神護院の5つの院房がならんでいました。これらが金光院に奉仕する形で、金毘羅寺領の運営は行われていました。明治以後の神仏分離で、これらの5つの院房は「廃仏」で姿を消します。今は、金比羅教本部や宝物館などが建っています。
イメージ 7
桜の馬場

 仁王門を越えての空間は石畳と玉垣、そして灯籠がならぶ石造物の空間です。
このエリアは両側に桜が植えられて「桜の馬場」ともいわれて、春には桜並木となります。この桜の馬場は、次のように阿波の人達の寄進で整備されたものです。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、阿波の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進僧の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、5年間をかけて桜の馬場に石畳を完成させています。
『金毘羅参詣名所図会』が、公刊されたのが弘化4(1847)年のことですから、その時点では玉垣などはできていましたが、石畳はまだ姿を見せていなかったことになります。以前にお話ししたように、金毘羅さんの石段や石畳、そして石造物がすべてのエリアで調えられるようになるのは、案外新しく幕末になってからのようです。
今回はここまでとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地元で超少人数の「学習会」を開いています。今回は白川琢磨氏のお話が聞けることになりました。私たちだけで聞くにはもったいない機会なので、みなさまにもお誘いします。
 最近の金毘羅神研究者達は、この神様が近世に現れた流行神だと考えているようです。そして金毘羅神を象頭山に根付かせた宗教勢力は、修験者たちだったとします。こんぴら町誌もこの立場です。そのあたりのところを、宗教民俗学の立場からお話ししていただけるようです。私も白川先生の書いたものから、いろいろなことを学ばせていただいています。興味関心のある方は、是非おいでください。歓迎いたします。
 会場は満濃中学・図書館に併設されているスポーツセンターまんのうの会議室です。会費は資料・会場代200円。

白川先生の金毘羅大権現成立過程を紹介したもの。

 
金毘羅参詣名所図会
暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)

以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。  テキストは「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。

 『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。

今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
  意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
 現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」
②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
金毘羅参詣名所図会 「浪華川口出帆之図」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。

金毘羅参詣名所図会 第1巻目次
金毘羅参詣名所図会第1巻目次

目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
金毘羅参詣名所図会 第1巻分布地図
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。

虫開の瀬戸 金毘羅参詣名所図会第1巻
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻以後の巻ごとの名所色分けは、次の通りです。
金毘羅参詣名所図会 名勝分布地図
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺
3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺
4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津
5巻 緑  坂出 → 白峰  → 高松
6巻 青  屋島

2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 
3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。
 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
 最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
岩瀬尾八幡 讃岐国名勝図会
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。

屋島山南麓、古高松、吉岡寺、鞍懸松img35
屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)

『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。

「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」

意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」

 しかし、続編が出版されることはありませんでした。
 各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
金毘羅参詣名所図会 名所属性
金毘羅参詣名所図会の名所属性別分類表
A 最も多いのは③「堂塔伽藍 196ヶ所」、その次が②「神社仏閣 90ヶ所」で、寺社関係の名所が多い
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
 上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
 
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
金毘羅参詣名所図会 名所構図

ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと
②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡
③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている
④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
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下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻

また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
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鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。

このような図絵の上部には和歌が添えられています。

筆の山 第三巻所収画像000010
善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)

名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
 その萌芽が「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」だと谷崎友紀氏は指摘します。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)

 鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。

以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。

この「金毘羅参詣名所図会」の公刊の数年後に出版されるのが「讃岐国名勝図会」になります。

讃岐国名勝図会表紙

讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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多度津藩の湛甫築港と、その後の経済的な効果については以前にお話ししました。しかし、それ以前の多度津の港については、私にはよく分かっていませんでした。多度津町史を見ていると巻頭絵図に、文政元年(1818)石津亮澄「金毘羅山名勝図会」の多度津港の様子が載せられていました。今回は、この絵図で湛甫築港以前の多度津港を見ていくことにします。テキストは「多度津町史510P  桜川の港510P」です。多度津港については、江戸前・中期に関する史料がほとんどなくてよく分からないようです。
確かな史料は、「金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)に描かれた多度津港です。この絵から読み取れることを挙げておきます。
金毘羅名勝図会
金毘羅名勝図会 多度津町史口絵より

此津も又諸国よりの参詣の舟入津して、丸亀におなしく大都会の地にて、舟よりあかる人昼夜のわかちなし。湊は大権現祭場の旧地にして、磯ちかき所に影向の霊石あり。九月八日の潮川の神蔓、いにしへは此津にて務めしか、後神慮によつて、今の石淵にうつれり。されとも例によつて、此地より汐・藻葉を今もかしこにおくれり。又祭礼頭屋の物類いにしへの風を残して、此津よりつくり出す。其家を工やといふ。

  意訳変換しておくと
 多度津も諸国からの金毘羅舟が出入りして、丸亀と同じように、舟から揚がる人が昼夜を分かたず多く、繁盛している。湊は金毘羅大権現の祭場の旧地にあたり、磯に近い所に影向の霊石がある。九月八日の潮川神事は、古にはこの津で行われていたという。それが現在では金毘羅石淵に移された。しかし、今でもここで採った藻葉を金毘羅に送っている。又、祭礼頭屋で使う物類も古の風を残して、多度津で作られた物が使われている。その家を「工や」と呼ぶ。

①「多度津の港参拝舟入津」として、港の賑わいぶりと紹介する絵図であること
②手前には大型船の帆だけが描かれているが、港には着岸できず沖合停泊であること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」文政元年(1818)
       多度津港 金毘羅名勝図会の右側拡大部分

③桜川河口西側の堤防が沖に向かって伸ばされ、北西風を遮断する機能を果たしていること
④河口西側堤防の先端附近に高灯籠と港の管理センター的な役所が描かれていること
⑤河口から極楽橋までの桜川西側に小舟が停泊し、雁木(荷揚用階段)がいくつも整備されていること。

多度津港 金毘羅山名勝図会」(1818)
      多度津港 金毘羅名勝図会の左側拡大部分
⑥桜川東側には接岸・上陸機能はないこと
⑦桜川河口西側の岩壁に沿って、金毘羅街道が南に伸びていること、その街道の背後に町屋が形成
⑧桜川河口東側の突端附近に金毘羅社が鎮座し、その前に白い燈籠が2つ建っている
⑨桜川河口東側は砂州上で、そこに陣屋が造営され、周辺に家臣住居が集まっていること
⑩金毘羅に続く街道の先にポツンと見える鳥居が鶴橋の鳥居?

この絵図からは1818年の多度津港は、桜川河口の金昆羅社から極楽橋にかけての西河岸に雁木が整備され小舟が接岸できる港湾施設であったことが分かります。これは多度津湛甫(新港)以前の絵図ですが、この時点で、すでに金毘羅参詣船や廻船などがかなり寄港していたことがうかがえます。
 私が分からないのは、陣屋ができるのは文政十年(1827)11月のことですが、それ以前に書かれたとするこの絵図に陣屋が書き込まれていることです。今の私には分かりません。
もうひとつ不思議なことは、多度津の街並みと背後の山々が整合しないことです。
例えば、多度津港背後の多度津山(元台)がきちんと描かれていません。そして、金毘羅街道が向かう金毘羅象頭山がどの山か分かりません。鶴橋鳥居のはるか向こうの山とすると、左側の山々が説明できません。多度津から南を望めば、大麻山(象頭山)と五岳が甘南備山として続きます。これがきちんと描かれていなということは、絵師は現地を訪れずことなく他人の描いた下絵に基づいて書いたことが考えられます。地元絵師の下絵に基づいて、有名絵師が「名勝図会」などを出版していたことは以前にお話ししました。

次に工屋長治によって描かれた「多度津湊の図」(天保2年(1831)を見ておきましょう。

「多度津湊の図」(天保2年(1831)
   天保2年工屋長治の多度津絵図

 1818年の金毘羅名勝図会と比較すると、つぎのような変化が見られます。

多度津絵図 桜川河口港
       天保2年 工屋長治の多度津絵図(拡大図)

①桜川河口東側が浚渫され広くなっている
②桜川河口東側の金毘羅社の先に着岸施設が新たに作られ、舟が停泊している。
③極楽橋周辺には、大型船も着岸しているように見える
④桜川河口西側の湾には、一文字堤防など港湾施設はないが、多くの舟が接岸せず停泊している
ここからは、①②のように桜川河口の東側にも接岸施設が新たに設けられ、③極楽橋まで中型船が入港できるように改修工事が行われたことがうかがえます。しかし、④にみられるように、河口外の西側湾内には入港待ちの舟が停泊しています。つまり、オーバーユース状態となって、入港する舟を捌ききれなくなっていたことがうかがえます。
 街並みも桜川河口を中心として、金毘羅街道沿いに北へと延びている様子が描かれています。

丸亀湊 金刀比参拝名所図会
丸亀藩の福島湛甫と新堀湛甫(讃岐国名勝図会)
多度津藩の本家である丸亀藩は、文化3年(1806)に福島湛甫を築き、入港船の増加に対応しました。
しかし、金毘羅舟の大型化が急速に進み、この湛甫では底が浅く、大船の出入りは潮に左右され不便でした。そこで天保3年(1832)に、第3セクター方式で新堀湛甫を開きます。これが金昆羅参詣客の定期月参船のゴールに指定され、参拝客が急増します。多度津藩も、金比羅参拝客の急増を黙って見ているわけにはいきません。そこで動き出したのが多度津の民間業者たちです。

 「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」には、多度津湛甫の着工までの経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、天保五年(1834)
に浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請された。それを家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

この工事については以前にお話したので、建設過程や工事費捻出については触れませんが小藩にしては不相応の大工事で、本家様(丸亀藩)は、事前相談がなかったと終始、非協力的だったようです。
 
 暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記します。
多度津湛甫 33
多度津湛甫 (金毘羅参詣名所図会)
   此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、人船の便利よきが故に湊に泊る船著しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆることなく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。且つ亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。

  意訳変換しておくと

   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。

ここからは九州などの西国からの金比羅詣での上陸港が多度津であったことが分かります。
それを裏付けるのが安政6年(1859)9月、越後長岡の家老河井継之助の旅日記「塵壷」です。
塵壺

ここには金毘羅参詣で立ち寄った多度津のことが次のように記されています。
多度津は城下にて、且つ船附故、賑やかなり、昼時分故、船宿にて飯を食ひ、指図にて直ちに船に入りし処、夜になりて船を出す、それ迄は諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船附の杵へ様、奇麗なり。

意訳変換しておくと

多度津は城下町であると同時に、船附(港町)であるので賑やかである。昼頃に、船宿で飯を食べて、指図に従って船に入りって休息し、潮待ちする。夜になって、船を出す。それまでの間、乗船客が博打をして、うるさくて眠れない。先述したように。玉島、丸亀、多度津の港は、奇麗に整備されている。

慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復しています。その帰途、多度津港に上陸、金毘羅参詣をしたときのことを旅日記「東帰日記」に、次のように記します。

多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして見え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、数十の船此内に泊す、凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。

   意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路様の御城下である。お城は平城で、海に面している。松が深く茂り、その内は見えないが、城の東(西の間違い?)に湊はある。防波堤を周りに巡らして、入口が三つある。全町は、2丁(220m)はあろうか。堤防はすべて石垣切石にて、誠に見事である。数十の船がこの港内に停泊している。大坂から西国への便船で、四国路(備讃瀬戸南)を航行するほとんどの舟が多度津港に入港する。その内のほとんどの船客が、金毘羅参詣者である。この舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するという。外舟にもこの例多し。

これらの記録は、19世紀にあって多度津港が多くの船や金昆羅参詣船の寄港地としての繁盛しているようすを伝えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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天保2年 工屋長治の多度津絵図(多度津町誌表紙裏)

参考文献      
「多度津町史510P  桜川の港510P」


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
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肥後熊本藩の中老松洞が江戸屋敷赴任のために瀬戸内海を藩船で航行した紀行文を見ています。

瀬戸内海航路 伊予沖
周防・安芸・伊予沖の航路図(江戸時代)

旧暦3月8日に大分鶴崎を出港して、次の港を潮待ち寄港を繰り返しながら4日間で航行してきます。
周防の上関 → 大津浦(周防大島) → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗(呉市大崎下島) → 鞆(福山市)

 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
「金毘羅・宮島海陸案内図」
   上の案内図は「金毘羅・宮島海陸案内図」となっています。
しかし、この絵図の主役は手前の宮島にあったことが一目で分かります。宮島は鳥居から本社に至る細部まで描き込まれています。それに対して、金毘羅は象頭山が描かれているだけです。これは、18世紀当時の両者の知名度の差でもありました。近世始めに流行神として登場した金毘羅信仰が、庶民に広がって行くには時間が必要でした。上方から参拝客が本格化するのは18世紀半ばに、金比羅船が就航して以後です。さらに東国からの伊勢参りの客が、金毘羅まで廻ってくるのが本格化するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅は、この絵図に見られるように宮島詣でのついでに参拝する程度の宗教施設でした。
 この絵図は大きくデフォルメされているので、現在の地理感覚からすると、ついて行けない部分が多々あります。特に、四国側と中国側の港町の位置関係が大きくずれています。しかし。鞆の対面に讃岐の多度津や丸亀があるという感覚を、見る人に与える役割は果たしています。宮島から帰りに、金比羅に寄って帰ろうか、そのためには鞆から多度津へ渡る・・・。という地理感覚が形成されます。九州から上方や江戸に登っていく人達の感覚も同じであったようです。そのために鞆から真鍋諸島沿いに三崎(荘内)半島の紫雲出山を目指して、三野・仁尾や多度津に渡ってくる廻船も多かったことは以前にお話ししました。それをもう一度、押さえておきます。

庄内半島と鞆
鞆と荘内半島
  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。(意訳)
箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

微風の中を午前7時に出港した船は、夕方に多度津に着いています。その間のことは何も記しません。地理的な知識がないと浮かぶ島々や、近づいてくる半島なども記しようがないのかもしれません。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

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江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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           充真院
   桜田門で井伊大老が暗殺された後、幕府は治安維持の観点から大名の妻子を本国に移すように政策転換します。井伊直弼大老の実姉で、日向の延岡藩・内藤家に嫁いでいた充真院も64歳で、始めて江戸を離れ、日向への長旅につきます。充真院は当時としては高齢ですが、好奇心や知識欲が強く、「何でも見てやろう」精神が強くて、旅の記録を残しています。彼女は、金毘羅さんに詣でていて、その記述量は帰省中に立ち寄った寺社の中で、他を圧倒しています。それだけ充真院の金毘羅さんへの信仰や関心が高かったようです。前回は、金毘羅門前町の桜屋までの行程を見てきました。今回はいよいよ参拝場面を見ていくことにします。テキストは  神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。
幕末大名夫人の寺社参詣

内町④にある桜屋で休息をとった後に、本社に向かって出発です
   金毘羅に参詣するためには、今も昔も坂町からの長い階段を登らなければなりません。運動不足の64歳の大名夫人に大丈夫なのでしょうか、不安に覚えてきます。充真院は「初の御坂は五間(900m)もあらん」と記しています。まず待ち構えていたのこの五間(900m)の坂道です。

金毘羅全図 1860年
金毘羅全図(1860年)
充真院はこの坂道のことを次のように記します。

「御山口の坂は、足場悪くてするするとすへり(滑り)、そうり(草履)ぬ(脱)けさるやういろいろ、やうよう人々にたすけられ、用意に薬水杯持しをのみ、やすみやすみて・・」

足元がすべりやすいため草履が脱げないように、御付に助けられながら登り始めます。すべりやすい坂道を苦労して登ることは、高齢で歩くことに不慣れ充真院にとって苦難だったようです。準備していた水を飲んだり、立ち止まったりしながら登ります。
ここで押さえておきたいことは、次の2点です。
①1863年段階の坂町の坂は、石段化されておらず、滑りやすい坂道であったこと。
②参拝用の「石段籠」を使っていないこと。石段籠は、まだ現れていなかった?

坂道を登りきると次は石段が続きます。幾折にも続く石段を見上げて「石段之高き坂いくつも有て」と記します。そのうちに、「行程々につけて気分悪く、とうきしけれと」とあるので、気分が悪くなり、動悸までするようになったようです。「高齢 + 運動不足」は、容赦なく襲ってきます。しかも、この日は6月半ばといっても蒸し暑かったようです。気分が悪くなったのは、無理もないことです。

金毘羅伽藍
金毘羅伽藍図 本坊が金光院

しかし、ここからがながら充真院の本領発揮です。

「ここ迄参詣せしに上らんも残念と思ひ」

と、せっかくここ迄やってきて、参詣できないのは残念である、体調不良を我慢して石段を登り続けるのです。タフなおばあちゃんです。
「かの鰐口有し御堂の前には、青色の鳥居有」
「近比納りし由にて、誠にひかひか(ぴかぴか)して有り」
と、あるので御堂の青色の鳥居の所まで、ようやくたどりつきます。
しかし、ここまでで充真院は疲れ切っていました。

「生(息)もた(絶)へなんと思ひ、死ひやうく(苦)るしく成」

と、息が出来なく成りそうな程であり、死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだったと記します。それでも諦めません。
「さあらは急にも及ぬる故、少し休て上る方よし」  
「とうろう(灯籠)の台石にこしか(腰掛)け休居」
方針転換して、急ぐ必要はないので少し休憩してから登ろうということにして灯籠の台座の石に腰掛けて休みます。休んでいる間も「マン・ウオチング」は続けています。盲目の人が杖にすがりながら降りてくるのが見えてきます。それを見て、体が不自由な人も信心を持って参拝しているのに、このまま疲れたからといって引き返すのは「残念、気分悪い」と充真院は思います。そして、次のように決意するのです。
「御宮前にて死度と思、行かねしはよくよくノ、はち(罰)当りし人といわれんも恥しくて、参らぬ印に気分悪と思へは猶々おそろしく」
「夫(それ)より、ひと度は拝し度と気をは(張)り」
「又々幾段ともなく登り」
「死ぬのなら御宮に参拝してから死にたい、参拝しなければ罰当たりであると人に言われるのは恥ずかしい、参拝せずに気分が悪いというのはなおさら畏れ多い。とにかく一度は参拝しようと固く決意したのだ。頑張ろう」と自分にむち打ちます。そして再び登り始めます。

金毘羅本社絵図
金毘羅本社
 こうして、充真院は御堂(本社)にたどりつきます。
「御堂の脇に上る頃は、め(目)もく(眩)らみ少しいき(息)つきて」
「御堂のわき(脇)なる上り段より 上りて拝しけれと」
本堂に到着する頃には目が眩み息が少し荒くなっていました。それでも、本堂の横の階段から本堂に上がり参拝します。その時に、疲れ切っているのに、御内陣を自分の目で確認しようとしています。
「目悪く御内神(陣)はいとくろう(暗く)してよくも拝しかねしおり、やうよう少し心落付しかは薄く見へ、うれしく」
「御守うけ度、又所々様へも上度候へ共」
「右様成事にて、只々心にて思へる計にて御宮をお(下)りぬ」
意訳変換しておくと

日頃から目が悪く、物が見えにくいことに加えて、本堂内が暗いのでよく見えなかった。が、心が落ちついてからは薄っすらと見えてきた。目が暗さに慣れたからであろう。薄くでも見えたのでうれしかった。お守を授与されたり、他の御堂にも上がって拝みたいと思ったけれど、疲れが甚だしく、さらに目の具合も悪いので、希望は心に留め置いて、本堂を退出して下山することにした。

観音堂 讃岐国名勝図会
本社横の観音堂

下山路の石段の手前には観音堂があります。

案内の人から観音堂に上がって拝むかと聞かれますが、「気分悪く上るもめんとう(面倒)」なので外から拝むに留めます。苦しくても、外から拝んでいるところが、信心の深さかもしれません。
充真院が御付に助けられながら下山していることは、金毘羅側にも伝わります。
「本坊へ立寄休よと僧の来たりて、いひしまゝしたかひて行し所」

社僧がやってきて、本坊にあがって休憩するよう勧めたようです。その好意に甘え本坊に上がりで休息することになります。

金光院 表書院
金毘羅本坊(金光院)の表書院
本坊とは金光院のことです。充真院は金光院側が休憩するために奥の座敷に通されます。その際に、途中で通過した部屋や周囲の様子を、詳しい記述と挿絵で残しています。

表書院5

まず、玄関については
「りっは(立派)成門有て、玄関には紫なる幕を張、一間計の石段を上り」

と記し、挿絵として玄関先の造り石段、幕、その横の邸獨の植え込みと塀を描いています。挿絵には「何れもうろ覚ながら書」と添え書きをしていていますが、的確に描写です。

金毘羅表書院玄関
          表書院玄関
 玄関には社僧らが充真院を出迎えに出てきています。
そこから一間(180㎝)程の高さの箱段を上り、次に右に進み、さらに左に進むと一間半(270㎝)程の箱段を上がると書院らしい広い座敷があるところの入側を進む。この右へ廻ると庭があり少し流れもあり、植木もあり、向こう側では普請をしています。

金刀比羅宮 表書院4
 表書院
 ここで体むのかと思うと、さらに奥に案内されます。そこに釣簾の下がる書院がありました。これが現在の奥書院のようです。ここには次の間と広座敷があり、広座敷には床の間と違棚がついています。さらに入端の奥から縁に出て右に曲がると箱段があります。ここを上り折れて進むと、板張りの廊下があり直ぐ横の二間(360㎝)程の細長い庭のところに小さな流れがありがあり、朱塗りの橋が二つ架っています。この流れは、表座敷に面した庭に注ぎます。その向いに立派な経堂、さらに段を上り奥へと導かれ、十二畳程の座敷も通り過ぎ、ようやく休憩の部屋にたどり着いています。

5年ぶりに金刀比羅宮の奥書院公開!! | 観光情報 | ホテルからのお知らせ | 琴平リバーサイドホテル【公式HP】
奥書院
その部屋は大きな衝立や台子の有る上座敷で、
「立三間、横二間も座敷金はり付、其上之間之中しきりにはみすも掛け」、

とあるので、縦は三間(540㎝)、横が二間(360㎝)の広さで、周囲を金箔で装飾した豪華な部屋で、座敷の中仕切りとして御簾がかけてあったようです。その隣の上座敷にも釣簾が掛り、畳が二枚敷いてあった。その部屋の向こうには入側があり、庭が広がります。その向こうに讃岐富士が借景として見えてきます。
「庭打こし、海之方みゆる、さぬき富士と云はあの山かと市右衛門尋しかは、左也と云」

庭に出て海の方向を眺めると山が見えたので、市右衛門があの山は讃岐富士かと寺の者に尋ねたところ、その通りとの答えが返ってきます。
第57話 神の庭(奥書院)と平安・雅の庭(表書院) | 金刀比羅宮 美の世界 | 四国新聞社
奥書院の「神の庭」

庭にはよく手入れを施した植木や石灯籠が配してあります。丸い形に整えた皐月は折しも花盛りであった。上段を通りその向こうは用所、左側に行くと茶座敷と水屋が設けてあります。それをさらに行くと次の間があり、向いに泉水や築山がある庭という配置です。
 このように充真院が書いた記録には、書院の間取りが詳しく書かれています。
さっきまで苦しくて抱えられて下りてきていた人物とは思えません。「間取りマニア」だった充真院が、好奇心旺盛に周囲を珍しそう見回しながら案内される様子が伝わってきそうです。
 充真院は周囲を見た後に「座に付は、茶・たはこ(煙草)盆(出)し候」と、ようやく部屋に座り、出された茶や煙草で一服します。それから「気分悪く少し休居候」と体を横たえて休息をとっています。
「枕とて、もふせん(毛氈)に奉書紙をまきて出し候まゝ、よくも気か付て趣向出来候とわら(笑)ひぬ」
「ねりやうかん(練羊羹)と千くわし(菓子)出し候、至て宜敷風味之由」
金光院側が枕に使うようにと毛離をおそらく巻くか畳んで、奉書紙をかけて整えたものが用意してあるのを見て、充真院は良く気がついてくれたうえ趣向があると、うれしく愉快に感じ笑っています。さらに、と、練り羊羹と千菓子も用意してくれてあり、たいへん美味しかったと記します。疲れ果てた体に甘いお菓子はおいしく感じたようです。
下図2が休憩した部屋の挿絵です。


裏書院4

上が部屋とその周囲の間取り図で、下が休憩した部屋を吹き抜け屋台の視点で立体的に描いたものです。建物の間取観察は、充真院の「マイブ-ム」であったことは以前にお話ししました。「体調不良」だったというのに、よく観察しています。記憶力もよかったのです。上の間取り図には金光院側が用意した茶椀や菓子皿、煙草盆までが描き込まれています。この辺りは、現在の女子高校生のノリです。
 充真院が休憩している間に「八ツ比(午後2時)頃になっていました。御付の者たちは、充真院が体調不良となり、その対応に追われたので、昼食も摂れていません。そこで充真院は
「皆々かわリかわりに下山してたへん」
「そのうちには私もよからん」
と、御付たちに交代しながら下山して食事を摂るように勧めています。その言葉通りに、しばらくして充真院は気分が良くなったので、桜屋に戻ることとになります。
 金光院は、門前に駕籠を待機させます。それに乗って下山します。そのルートについては、次のように記します。
「少し道かわり候哉、石段もなく、初之たらノヽ上りの坂に出、桜やに行く」

ここからは、上りの道とは違った石段のない坂道を下って、桜屋に向ったことが分かります。
以上から私が気になった点を挙げておきます
①充真院参拝についての金毘羅側の対応が鈍いこと。
大名参拝や代参などについては、事前の通知があり、そのための使者の応対マニュアルに基づいて準備します。しかし、この記録を見ると、金毘羅側は本宮に充真院一行が現れるまで、やって来ることを知らなかったような気配がします。大名夫人の参拝と分かってから本坊の表書院に案内したように見えます。前日に、お付きの女中が先行したのは何のためだったのでしょうか。
②どうして金毘羅門前町で一泊しないのか?
早朝夜明け前に、多度津港に係留した関舟からスタートして、夜8時を過ぎて船に帰ってきます。
どうして金比羅の桜屋に泊まらないのでしょうか。宿場の本陣と違って、大名専用貸し切りなどが出来ず、一般客との同宿を避けるためでしょうか。それとも、幕末の藩財政難のための経費の節減のためでしょうか。多度津でも、町の宿には泊まっていません。当時の大名も御座船宿泊で、港には潮待ち・風待ちのために入港するだけだったのでしょうか。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。今後の課題としておきます。

また、善通寺の知名度が低いのも気になることです。充真院の旅行記には善通寺のことが出てきません。門前を通過しているので、触れても良さそうなのですが・・・。東国では、金毘羅と善通寺では知名度に大きな差があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

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充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
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充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

IMG_8072
金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
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箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
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金刀比羅宮には、極彩色の「大国主神像」画があります。

IMG_0022 17大国主神像
         大国主神像 絹本著色 一幅 江戸時代

この絵図は、幕末に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年が奉納したもので、元雪筆とあります。大国主神は小さな金嚢を左手に握っています。大黒天の「大黒」と大国主神「大国」の音が同じなので、混交して同一視されることがよくあります。また、大黒天も大国主神も大きな袋を背負っているので、姿もよく似ています。これが混交して「大黒天像」が「大国主神像」とされるようです。金刀比羅宮の「大国主神像」も大国主神を描いたものでなく、「大黒天像」であると研究者は指摘します。 それがどうしてなのかを今回は見ていくことにします。テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。
大園寺の勝軍大黒天
        勝軍大黒天(目黒区大園寺)
前回見た勝軍大黒天の誕生背景を、もう一度整理して起きます。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であること。
勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝軍大黒天ということになること。
大国天 5
『覚禅抄』の大黒天
そして、勝軍大黒天の特徴としては、次のような4点が挙げられます。
①片手に金嚢を持つ、
②片手に宝棒を持つ
③冑か宝冠をかぶって甲(鎧)をまとう、
④臼の上に片足を垂らして座る、
この視点からもう一度、金刀比羅宮の元雪筆の「大国主神像」を見てみましょう。
IMG_0022 17大国主神像
元雪筆の「大国主神像?」
右手に金嚢を持ち、左手付け、臼の上に右足を垂らして座っています。『覚禅抄』の中に、左手に小さな金嚢を持ち、右手は拳を握り、台の上に右足を垂らして座る大黒天の図が掲載されています。また、観世音寺。松尾寺・興福寺南円堂脇納経所の大黒天は、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。拳を握るのは、大黒天の特徴です。  ①・③・④を満たしていまが、②の宝棒は持っていません。しかし、その他の特徴からして、これは大黒天(勝軍大黒天)であると研究者は考えています。
金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」を、岡田為恭が模写したものもあります。
為恭は、幕末 1860年、宥盛上人の250年祭の時に金毘羅大権現から招かれた金毘羅にやってきて、3月10日から19日まで滞在しています。その間にお守りの木札の文字が古くて型がくずれていたのを直したり、小座敷の袋戸棚に極彩色の絵を描いたり、宝物を調査・分類したりしています。こうした縁で為恭の作品が、金刀比羅宮に百余点残っているようです。しかし、その内の半分は明治になって奈良春日大社の伶人、富田光美がもたらしたものです。白書院の天丼の竜は、寸法を計って帰り、帰京後描いて翌年の文久元年(1861)6月18日に京都から献上使が預かってもち帰ったものです。
 金毘羅滞在中に模写したひとつが、元雪の「大国主神像」のようです。
大黒天模写
       為恭の「大国主神像」模写(着色なし)
研究者が注目するのは、為恭が模写した「大国主神像」の向かって右上の黒く塗りつぶした部分です。ここには、最初は「大国主神像」と書いたのが、為恭途中で「大国主神像」とすることに疑問を感じて、墨で黒く塗りつぶしたと研究者は推測します。つまり、為恭は「大国主神像」ではなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」であると知っていたことになります。同時に江戸時代末期には、この絵は金毘羅では「大国主神像」と名前が付けられていたことも分かります。

『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』
『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』

為恭は金毘羅大権現に滞在中、いくつかの作品を模写しています。
その模写した作品の中に、元雪筆「大国主神像」がありました。元雪は江戸時代の狩野派画家で、ふだんから勝軍大黒天を信仰していたようです。彼は勝軍大黒天に彼独自の工夫を加えています。例えば、それまでの勝軍大黒天.は黒い甲冑を着けていましたが、元雪はきらびやかな甲や宝冠をまとわせています。ある意味、新しい独自の勝軍大黒天像を描きだしたと研究者は評します。

金毘羅大権現の大黒天
金刀比羅宮の大黒天
 元雪の描いた勝軍大黒天像が、どのような経過をたどったかは分かりませんが、宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年の所有となり、金毘羅大権現に奉納されたようです。江戸時代後期には、「金毘羅大権現=大国主神(大物主神)」であるという俗説が広められていました。その影響を受けて勝軍大黒天像が大国主神(大物主神)として金毘羅大権現に奉納されようです。
金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名勝図会
弘化4年(18478)刊行の『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神について次のように記しています。
金毘羅大権現、祭神未詳、あるいは云ふ、三輪大明神、また素蓋烏尊、また金山彦神と云ふ.

『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神を未詳として、三輪大明神(大物主・大国主命)、素垂鳥尊、金山彦神の名をあげます。しかし、これらの三神は金毘羅大権現ではありません。金毘羅大権現は全毘羅坊(黒眷属金毘羅す)という天狗だったことは以前にお話ししました。
 金毘羅大権現=大物主神(大国主神)というのは俗説ですが、その俗説の影響を受け、勝軍大黒天像が金毘羅大権現に奉納されます。それは、大国主神と大黒天は混交して同一視されたからでしょう。
  以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」がある。
②しかし、それは本当は「大国主神像」でなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」である。
③大国主神と大黒天は混交して、同一視された。
④大国主神と混交したのは大きな袋を背負った大黒天であって、小さな袋を持った大黒天ではなかった。
⑤金毘羅大権現では、誤って小さな金嚢を持つ大黒天像を、「大国主神像」とした
⑥これがただされることなく現在に至っている。
 金刀比羅宮所蔵「大黒天像」は、普通の大黒天のように黒い甲冑をまとったものでなく、きらびやかな甲(鎧)を着け、さん然と輝く宝冠を戴いた姿です。これは、他に類のない貴重なものです。正しい名前で呼んで、評価することが価値を高まることにつながると研究者は評します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追記 
 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)318P」に、この「大国主神像」についての解説文が載っていましたので転載しておきます。
IMG_0022 17大国主神像

本図は「大国主神像」とされるが、図像上は見慣れないものである。基本的には、毘沙門天と大黒天が混交した姿であり、大黒天との関係から大国主神に変貌したものであろう。昆沙門天はヒンドゥー教における財宝神クベーラの別名であり、このクベーラは財福の神として大黒天とも混交したらしい。さらにこの毘沙門天と大黒天は、日本において共に七福神として庶民信仰の対象になっており、民間信仰における雑居性が、本国におけるような、毘沙門天の姿でありながら、大黒主風の小道具を持つ大国主神という特異な図像を作り上げたげたのであろう。
 本図は、松原秀明一一金昆羅庶民信仰資料集 年表篇一(金刀比羅宮社務所、一九八八年二月)によると、明治11年(1878)に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大午が奉納したものであることが分かる。神仏分離後の奉納であるため、「大国主神」とされたのかもしれない。神仏分離後、金刀比羅宮の祭神は大物主神であり、この大物主神は大国主神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であるとされ、根本的には同体であると考えられている。そのような縁で「大国主神」として、金刀比羅宮に奉納されたのであろう。 面右辺やや下寄りに「□氏元雪筆」と落款がある。筆者元雪については伝歴不詳である。作品自体は江戸時代ではなかろうか。尚、本図と同じ図様が金刀比羅宮所蔵の冷泉為恭関係模本(『冷泉為恭とその周辺‐模本と復古やまと絵』金刀比羅宮社務所、2004年図版61-1)に見られる。本図が明治になってからの奉納とすると、直接本図を写したものとは考えにくくなるが、この図様は当時比較的流布していたものなのかもしれない。
(伊藤)






参考文献

大黒天 | 天部 | 仏像画像集

前回はインドのシヴァ神の化身だった大黒天が、日本にやって来て「打出の小槌と俵」をアイテムに加えることで富貴のシンボルとして信仰されるようになるとともに、日本神話の大国主神と混淆していく過程をみてきました。今回は、大黒天のその後の発展過程を見ていくことにします。  テキストは「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」です。
もとはインドの大魔神であった・大黒天│沖縄県那覇市の密教護摩祈祷、祈願寺

室町時代になると、打出の小槌を持ち、俵の上に乗る日本独自の大黒天は、盛んに信仰されるようになります。
そして室町時代末期に七福神が考え出されると、大黒天はそのメンバーに仲間入りします。夷・大黒天・毘沙門天・弁才天・福禄寿・寿老人・布袋の七つを、七福神といいます。福禄寿と寿老人は同じものであるので、このどちらかのかわりに吉祥天を加えることもありました。
大黑天 七福人
七福人に仲間入りした大黒天
大黒天の流行の中から新たに登場してくるのが三面大黒天と勝軍大黒天です。
三面大黒天は、大黒天・弁才天・毘沙門天を合体させて三面六胃像になります。三面大黒天の持ち物は、一定してないようですが、延暦寺のものは俵に乗り、その中面は大黒天で剣と宝珠を持ち、左面は弁才天で鍵と鎌を持ち、右面は毘沙門天で鉾と宝棒を持っています。まずは、この登場の背景について見ておきましょう。
大黑天 比叡山

   比叡山では最澄が唐からもたらした大黒天は、各院の食厨に大黒天像が祀られ、修行僧たちの生活を維持してくれる神として崇敬されてきました。そんな中で、比叡山では護国の三部経の尊が次のようにされます。

大黑天 比叡山2
大黒天は『仁王経』
弁才天は『金光明経』
毘沙門天は『法華経』
つまり、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することになるとされたのです。三面大黒天を祀ることは三部卿信仰にもつながることになります。この言い伝えを拠り処にして、三面大黒天は成立したと研究者は考えています。
三面大黒天のご利益と効果

 こうして比叡山で登場した三面大黑天は、今までは黒くて怖い顔から、次第に柔和な親しみやすい面相に変化していきます。蓮の葉の上に立っていた木像も、俵の上に載せられるようになります。
 三面大黒天へと変身することによって、新たな「流行神」として、京都の人々に受け入れられて大流行します。文化の中心である京都での流行は、地方に伝播していきます。こうして、比叡山で信仰されていた大黒天が、三面大黑天に変身することで、全国的デビューを果たしたことになります。それは室町末期の風流や流行神の時代背景の中でのことのようです。
三面大黒天信仰 新装2版の通販/三浦 あかね - 紙の本:honto本の通販ストア

こうして誕生した三面大黒天のその後を見ておきましょう。
室町末期に七福神がグループとしてデビューし、大黒天はそのメンバーに迎え入れられます。そして、七福人の人気が高まるにつれて、大黑神の認知度も上昇し、より多くの人々に信仰されるようになります。この上昇気流が、三面大黒天という新たな大黒天を生み出したことを押さえておきます。大黒天信仰が盛んなのを見た延暦寺の僧は、全く新しい民衆のニーズにあった大黒天をつくって、民衆の信仰を得ようとします。それだけの柔軟性が比叡山にはあったことになります。
大園寺の勝軍大黒天
      勝軍大黒天(目黒区大園寺)

 三面大黒天と同時に考案されたのが勝軍大黒天のようです。
勝軍大黒天は黒い唐風の甲冑をまとい、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負って、臼の上に右足を垂らして座っています。臼に座っているのが勝軍大黒天がポイントのようです。臼は脱穀や精白を行うための道具で、精白をした米を入れる容器です。俵と臼は密接につながっています。俵に乗る大黒天の影響を受けて、勝軍大黒天は臼に座わる姿で登場したようです。
 比叡山延暦寺大黒堂の勝軍大黒天は、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、額上に如意宝珠の付いた宝冠を戴き、身に甲をまとい、自の上に左足を垂らしています。延暦寺本坊の勝軍大黒天は、右手に手三量貢を持ち、左手に宝棒を持ち、宝冠をかぶって、臼の上に右足を垂らして座っています。
 .東京都目黒区大園寺の勝軍大黒天は、左手に金嚢を持ち、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、甲冑をまとい、臼の上に左足を垂らして座っています。
大将軍
京都大将軍八神社の大将軍神
勝軍大黒天の成立の背景を研究者は次のように考えています。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であるというのです。大将軍神像は、衣冠束帯の座像と立像が二十二体、武装の座像と半珈像が四十三体あります。

大将軍2
 武装の半珈像(京都の大将軍八神社)
武装の半珈像の中には、右手に剣を持ち、左手の人差し指と中指を揃え立てて印を結び、唐風の甲冑をまとい、岩座の上に左足を垂らして座ったものもあります。このような大将軍神半珈像と、『南海奇帰内法伝』に出てくる大黒天半珈像を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天と研究者は考えています。勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。

「大黒天+大将軍神」=勝()軍大黒天

ということになるというのです。そうだとすれば勝(将)軍大黒天の甲冑は、大将軍神から貰ったものになります。
江戸時代になると大黒天はさらに人気が高まり、様々な種類の大黒天像が造られます。
江戸期の『仏像図彙』には、次の六種の大黒天が載せられています。
「摩訶迦羅大黒、比丘大黒、王子迦羅大黒、夜叉大黒、摩訶迦羅大黒女、信陀大黒」の六種です。これについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神に取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②日本に伝わってきた大黒天は「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、それを背負うために立姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。
⑦室町時代になって七福人の仲間入りすることで流行神の性格を帯びるようになり、新たな大黑新が生まれてくる
⑧比叡山では三面大黑天や勝(将)軍大黒天が登場し、京都の庶民の流行神となる。
⑨それが各地に伝播し、江戸時代になると大黒天ファミリー版の六種大黒も登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
      「切 旦   日本における大黒天の変容について  東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」
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大黒天 シヴァ神
踊るシヴァ神
インドのヒンズー教では、次の神々を三大神として信仰しています。
ブラフマー 創造
ヴィシュヌ 維持
シヴァ   破壊
仏教は、ヒンズー教で信仰されていた神々を数多く取り込みます。三大神の中でも、ブラフマーとシヴァは、仏教にとり入れられ、ブラフマーは梵天になり、シヴァは大自在天・青頚観音・摩臨首羅・大黒天に「権化」します。
 シヴァ神が恐ろしい戦闘神になる時には、三面六腎で全身に灰を塗り、黒い色になります。大黒天のことをマハーカーラとも云いますが、マハーは「大」、カーラは黒の意味のようです。

大黒煙1

大黒天のル―ツは戦闘神のシヴァ神で、次のふたつの姿を持っていることを押さえておきます。
①戦闘モードの忿怒の三面六腎大黒天
②福神モードで袋を持った一面二臀大黒天

密教の胎蔵界曼荼羅には、三面六臀大黒天が描かれています。
大黒天は、胎蔵界曼茶羅では外金剛部中の左方第三位にいます。

三面大黒天 マハーカーラ 青面金剛 三宝荒神 庚申塔 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市
大黒天(マハーカーラ)
そこでは①「全身黒色で忿怒怒相をしていて、火髪を逆立てた三面六腎像」=忿怒の戦闘モード」のお姿で描かれています。
その姿を見ておきましょう。
①右第一手は、剣を握って膝の上に置き、左第一手は一手は剣の先端を持ちます。
②右第二手は合掌した人間の頭髪を握ってぶらさげ、左第二手は白羊の角を握ってぶらさげます。
③左右の第三手は象の生皮を背後に掲げます。首には髑髏を貫いたネックレスをかけ、腕には毒蛇を巻いて腕輪としています。体には人間の死灰をを塗り、黒色になっています。
大黒天4

これが怒りモードの大黒天のようです。大黒天の怒りの姿は余り見ることがないので、これが大黒天と云われてもすぐには信じられない姿です。これも「権化」としておきましょう。

しかし、インドのマハーカーラ神は、あまり見かけることのない神で、ヒンドゥー教のなかではそれほどポピュラーな存在ではなかったようです。それがどうして、日本にやってくると大黒天として、大人気をよんだのでしょうか。それはマハーカーラ神が日本で、独自の進化発展・変身をしていったからのようです。
 日本の大黒天には、次の四種の姿があるようです。
①忿怒相としての大黒
②天台系寺院に見られる武神の装束を身につけ、左手に宝棒、右手に金袋を持つ像
③袋を背負った立像
④「三面大黒」で、正面が大黒天、脇の二面が毘沙門天と弁財天
①②も大黒天として日本に入ってきましたが庶民に信仰されることはありませんでした。庶民から信仰されるようになったのは③です。そして、その後に④が生まれてくると云う流れになるようです。

マハーカーラ神からの変容については、弥永信美氏が次のように述べています。
誰にも知られ、親しまれている大黒天が、古来、日本の密教では恐ろしい像容をもって描かれていることを知っている人は、それほど多くはないかもしれない。たとえば、もっとも普及した現図胎蔵曼荼羅の図像では、大黒天は摩訶迦羅という名で知られ、三面六臂、前の二手では剣を横たえ、、右に小さな人間を髪つかんで持ち、左に山羊の角をつかみ、後ろの二手は、左右で象の皮を被るように広げている。曼荼羅の数々の忿怒相の諸尊のなかでも、これほど恐ろしい形相の尊像は多くはない。「おめでた尽し」の福の神・大黒天が、一方ではこの恐るべき忿怒の形相の摩訶迦羅天と「同じ神」であるとは、いったいどうしたことなのだろう。(略)
つまり大黒天とは、本来、ヒンドゥー教のシヴァ神の眷属であったのが仏教の守護神とされ、さらに厨房の神から日本では福の神として信仰されるようになった、というふうに要約することができるだろう。弥永信美『大黒天変相』74-76P
真読】 №18「大黒天、寺の食厨(くり)を守る」 巻一〈祈祷部〉(『和漢真俗仏事編』読書会) - BON's diary

          インドの大黒天(マハーカーラ)

求法のためにインドに赴いた義浄の「南海寄帰内法伝」には、大黒天について次のように記します。

西方の諸大寺処にはみな食厨の柱側に於て、或は大庫の門前に在りて木を彫りて形を表す、或は二尺三尺にして神王の状を為す。坐して金嚢を把(と)り、却(かえ)って小状に鋸し、一脚を地に垂る。毎に油を将(も)って拭ひ、黒色を形と為す。(中略)淮北には復た先に無しと雖も、江南には多く置く処あり。求むれば効験あり、神道虚に非ず。

ここからは次のようなことが分かります。
①インドの諸大寺では食厨の柱や大庫の入口に高さ二尺(約60㎝)~三尺(約90㎝)の二臀大黒天の本像を安置していていたこと、
②その木像は片手に金嚢を握り、小さな台の上に片足を垂らして座っていること。
③人々は供養のため、油でそれらの木像を拭うので、黒く光っている。
④中国の江南地方では、よく二腎大黒天を祀っているが、淮北地方では全く祀っていない

  大黒天のルーツは、ヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身・破壊と戦闘を司る神マハーカーラでした。
戦闘色の強い忿怒の神で、その名前の意味は「偉大なる暗黒」です。「黒」の文字が「大黒天」につながっているようです。しかし、私たちの大黒天のイメージは、財福の神として、温和な姿の大黑さまです。ここに出てくる大黒天とマハーカーラはイメージが違います。それがどんな風に繋がっていたのでしょうか?

大黒天 長谷寺
長谷寺の大黒天 片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っている。

平安時代になると、日本でも大黒天信仰が広がります。
最澄・円仁・円珍などの入唐した天台の高僧が、大黒天を請来します。最澄は大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置します。最澄が請来して延暦寺の食厨に安置した大黒天は、インドで義浄が見たものと同じもので、片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っています。

覚禅(平安末期~鎌倉前期の頃の僧侶)の著した『覚禅抄』に、三態の大黒天の次のような図が載せられています。

大黒天三体
           大黒天三態
①左 『伝神憧記』の大きな袋を背負って立つ一面二臀大黒天
②中央『南海奇帰内法伝』の小さな金嚢を持ち、片足を垂らして座る一面二腎大黒天、
③右  胎蔵界曼茶羅の忿怒相をした三面六臀大黒天
③→②→①の順に「進化」していくようです。
真ん中の大黒天の嚢を強調して生まれたのが、左側の大黒天のようです。嚢を強調した結果、小さな金嚢は大袋になります。大きな袋を背負うために大黒天は立ち姿になります。
 最澄が入唐した時、中国ではインド伝来の②の大黒天が盛んに信仰されていました。そのため最澄は②の大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置したと研究者は推測します。①や③の大黒天は、その後に円仁や円珍が請来したのでしょう。③の大黒天が伝えられると、③の大黒天が②の大黒天に取って代わり、②の大黒天は衰退し、現在ではお姿を見ることはなくなりました。②の大黒天は室町末期に勝軍大黒天に生まれ変わり、信仰を集めますが、それまでは鳴かず飛ばずでした。
大黒天三態

福岡の観世音寺にある藤原時代初期作の大黒天像を見ておきましょう。
大黒天 観世音寺
観世音寺の大黒天像
この大黒天像は左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。

奈良の文化と芸術 松尾寺の大黒様
松尾寺の大黒天
奈良県矢田松尾寺や奈良県興福寺南円堂脇納経所にも、観世青寺のものに似た大黒天像があって、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握るスタイルです。
木造大黒天立像(だいこくてんりゅうぞう) - 法相宗大本山 興福寺
興福寺の大黒天

この二つの大黒天像は、観世音寺のものより新しく、鎌倉時代前期のものです。しかし、これを大黒天といわれても「????」です。何かが足りないのです。それは、打ち出の小槌と米俵と、温和な笑顔でしょう。それは、後で見ることにして・・。

大黒天2
打ち出の小槌を持ち、俵の上に立つ大黒天
この大黒天が神話に出てくる大国主命と混交します。
『古事記』上巻の「大国主神と菟と鰐の条」には、次のように記されています。(要約)
大国主神とその兄弟の八十神は、因幡の八上比売に求婚するため、因幡の国に出掛けたが、大国主神には大きな袋を背負わせて、従者として連れていった。途中の海岸で隠岐島から鰐(鮫)を欺いて本土に渡った菟が、本土の寸前で欺いたことがばれて鰐に皮をはがれて泣いているのに出会い、八十神は出鱈目の治療法を教えた。しかし、大国主神は正しい治療法を教えて菟を救った。八上比売は八十神の求婚を断り、大国主神を夫とした。

ここからは、大きな袋を背負った大国主神と大きな袋を背負った大黒天とが混交して、同一視されるようになったことがうかがえます。
仏像の種類:大黒天とは、ご利益や真言】ふくよかな七福神…しかし実は武闘派戦闘神!開運最強の三面大黒天!|仏像リンク

③の大黒天に打出の小槌と俵が与えられるのは鎌倉時代の後期になってからです。

日本独自の、打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、俵の上に乗る大黒天の登場です。佐和隆研『日本密教 その展開と美術』(NHKブックス323P、昭和41年)323Pには、次のように記されています。

「版画で仏像をあらわしたものをもって、それをお守りにするということは天台、真言両系統で行なわれていた。そのお守りは「九重のお守り」と言って、それぞれの系統の修験者、ひじりたちが本山から受け取って地方に持ちまわって、売り歩いたものである。このお守りの起源がいつごろまで遡りうるものか、文献的には明らかでないが、鎌倉時代末期ごろにはあったと推定されている。このお守りは、諸種の種子曼茶羅を中心としたものをはじめとして、日本人の信仰の対象になっている、多くの諸尊の姿をならべたものなど、種々の系統のものがある。この最古の例は金沢文庫所蔵の一本で、鎌倉時代末期ごろと推定されている。」

ここからは鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」が使われたこと分かります。
大黒天 九重守

「九重のお守り」には、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになります。

九重守・九重守経・九重御守
九重守りに印刷された仏たち

林温「荼枳尼天曼荼羅について 仏教芸術』二一七号、毎日新聞社発行、1994年)には、「九重のお守り」について、次のように記されています。(要約)
奈良県西大寺蔵の木造文殊菩薩騎獅像内に納入された九重のお守りには、「弘安八年(1285)二月信聖」という記がある。この九重のお守りは、諸種の曼茶羅・真言・図像などを列挙したもので、図像だけでも六十三種が印刷されている。釈迦や観音といった伝続的な仏尊の他に、日本で変貌した日本独自の仏像も登場する。例えば、十五童子を眷属として従えた弁才天(宇賀弁才天)、白狐の上に乗った天女子・赤女子・黒女子・帝釈使者の四天を従えて剣と宝珠を持った女神が辰狐の上に乗る荼枳尼天(だきにてん)、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天などが印刷されてている。
 神奈川県称名寺蔵木造弥勒菩薩像内に、右に良く似た九重のお守りが納められていた。称名寺の九重のお守りには西大寺の九重のお守りにない地蔵十三や晋賢十羅刹女があり、西大寺の九重のお守にはある天形星が称名寺の九重のお守りにないとか、西大寺の九重のお守りの聖天は人間の男女が抱き合うものであるのに対して称名寺の九重のお守りの聖天は象頭人身の男女が抱き合うものであるといった、若干の違いは存在するけれども、基本的には両者は合致するものである。
 称名寺の方が西大寺よりもいくらか古く、弥勒菩薩像内に、納入されたその他の多くの品とともに弘安八年(一二七八)頃のものと思われる。
ここからは、鎌倉時代後期には九重のお守りの尊像の一つとして、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天が、印刷されていたことが分かります。

鎌倉時代の大黒天は、左で大きな袋を背負い、右手は拳を握っていました。
このような大黒天に打出の小槌と俵を与えることで、日本独自の打出の小槌を持ち、大きな袋を背負い、俵の上に乗る大黒天が生まれたようです。興福寺走湯や河内大黒寺の大黒天彫像は、左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、俵の上に乗っている姿です。その姿から鎌倉時代後期のものとされます。鎌倉中期から後期の初めにかけての頃に誕生した日本独自の大黒天は、最初は九重のお守りにとり入れられ、それがやがて彫像とされるようになったようです。

以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神にに取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②中国では特に「富貴福禄」の部分に焦点が当てられ信者が増えた。
③日本に伝わってきた大黒天も「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、大きな袋を背負うために大黒天は立つ姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」に、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになり、広範に知名度を上げていく。
⑦知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。

大黑神と大国主の混淆
大黒天と大国主の混淆まで

以上、インドのシバ神の化身が、日本神話の大国主神と混淆するまでの物語でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。

 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。



 金毘羅神は近世始めに、西長尾城主の長尾氏出身の宥雅によって、生み出された流行神です。
土佐の長宗我部元親の侵攻の際に宥雅は堺に亡命します。無住となった松尾寺伽藍を元親は、土佐の有力修験者であった南光院(宥厳)に与えて、讃岐支配のための拠点宗教施設にしようとします。元親撤退後も宥厳とその弟子であった宥盛は、金比羅を「修験道=天狗道」の拠点にしていきます。その信仰の中心に据えたのが「金毘羅神」です。中心施設も松尾寺の本堂から「金毘羅堂」へ移っていきます。それまでの本堂観音堂の場所に、金比羅堂が移築拡張されます。それが現在の本殿になります。そして、金比羅神を祀る神社としての金毘羅大権現、その別当寺としての松尾寺という関係が生まれます。この時期には、多くの有力修験者がいて、子院を形成していたようです。その中で最も有力になっていくのが金光院です。宥盛の時代に金光院は、生駒家の力を背景に、その他の子院や三十番社などの宗教勢力と抗争を繰り返しながら、金毘羅における支配権を握っていくことは以前にお話ししました。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗・烏天狗 

このように近世初めの金毘羅は、権力者(長宗我部元親や生駒親正)の保護を受けた有力修験者によって「天狗道の聖地」として形成されたようです。「海の神様」というのは、近世末になって云われ出したことです。金毘羅は、崇徳上皇が天狗となって棲む白峰寺と同じような天狗たちの住処と世間では思われていたことを押さえておきます。
 こうして、「天狗道のメッカ」である金比羅には全国から数多くの天狗(修験者)たちが修行にやってきます。それを育成保護し、組織化したのが金光院宥盛です。彼の下からは有力な修験道の指導者が沢山生まれています。


佐川盆地周辺の城跡
仁淀川と佐川・越知周辺の中世古城跡
 その中に、後に多聞院を開く片岡熊野助がいました。
今回は、この片岡熊野助(初代多聞院)を見ていきたいと思います。
彼の出自については前回見たように、土佐の仁淀川中流域の片岡や黒川を拠点に活動していた国人武将の片岡氏の一族です。

片岡氏 片岡
仁淀川中流の片岡周辺

 『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと
②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと
③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱(親光)が佐川盆地周辺の実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。 片岡氏は長宗我部元親に帰順することで、佐川盆地の支配権を手に入れ勢力を拡大していきます。
この時期が片岡家にとっての「全盛期」になるようで、片岡一族も長宗我部元親に従って四国平定戦に活躍しています。 そんな中で熊野助は、片岡氏の分家一族である片岡直親の子として、天正14(1586)年に父徳光城で生まれています。
  「南路志」南片岡村の片岡氏系図には、当時の片岡家の棟梁は、熊野助の父の伯父である親光と記します。そして親光の父直光は、長宗我部元親の叔母を妻に迎えています。婚姻関係から見ても、片岡家は長曾我部氏と深いつながりがあったようです。
 ところが四国平定戦の最終局面になって、片岡家には不幸が重なります。
片岡家の棟梁・親光が伊予遠征中に秀吉軍と戦い戦死します。さらに翌年には熊野助の父が、秀吉の九州平定に動員された長宗我部軍として豊後に遠征します。この時の島津軍と戸次川の戦いは、「四国武将の墓場」と言われた戦いで、島津軍の巧妙な戦術で多くの讃岐武将たちも命を落としています。熊野助の父も戦死します。熊野助は、生まれてすぐに一族の棟梁と父を亡くしたようです。その後、片岡家がどのように運営されたのかはよく分かりません。
 転機はそれから14年後の1600年の関ヶ原の戦いです。
長宗我部氏が領地没収となった後に入国するのが、山内氏です。これに対して、旧長宗我部の家臣団や国人武将達は、激しい抵抗を見せます。しかし、これも山内氏によって押さえ込まれていきます。このような中で14歳になっていた熊野助は、どんな道を選んだのでしょうか。
『吾川村史』は、次のように記します。
「熊野助は慶長5(1600)年の山内氏入国後 (中略)
松山へ逃れ、更に仏門に入って、讃岐金比羅別当寺(宥盛)に弟子入りする。大坂夏の陣の際に還俗して片岡民部と名乗り豊臣方へ参戦。生き永らえた彼は、上八川(現伊野町)へ逃げ帰った。その後(略)下八川深瀬で、祈祷師として身をかくし、17年の歳月を隠忍した」
ここには記されていることを補足・要約しておきます。
①関ヶ原の戦い後に、14歳の熊野助は仏門に入り、金毘羅の金光院宥盛に弟子入りしたこと
②そこで宥盛のもとで修験者として「天狗道」や武術を身につけたこと
③1615年に大坂夏の陣が起きると、長宗我部一統と連絡を取り合っていた多聞院は、還俗して片岡民部と名乗り大阪城に入り豊臣方として参戦
④戦後は土佐八川深瀬に祈祷師(修験者)として、17年間潜伏。
⑤1632年に、土佐藩主二代・山内忠義の許可を得て、ふたたび金光院に復帰。
⑤の経緯を『讃州多聞院流片岡家由緒』は、次のように記します。
「宥盛の後を嗣いだ宥睨より、金光院の門外である小坂の地に宏大な宅地を賜わり、なお宥盛より竜樹作の多聞天像を与えられていたほどの愛弟子であったため多聞院と号することとなった。万治二年(1659)4月2日、74歳で逝去した。」

しかし、この史料に対して③④⑤については何も触れていない史料もあります。
多聞院の後世の院主が残した「古老伝旧記」には、次のように記されています。
多聞院元祖片岡熊之助、当地罷越金剛坊宥盛法印之御弟子に罷成、神護院一代之住職も相勤候、其後宥盛法印之御袈裟筋修験相続之事、慶長年中訳有伊予罷越、本国に付土佐国へ帰参、寛永八年宥現法印より使僧を以、土州僧録常通寺と申へ国暇之義被申入候て、則首尾能埓明、当地へ引越、元祖多聞院宥醒法印、寛永八年間十月、土州役人中連判之手形迂今所持候也、当地へ着、新ん坊と申に当分住居、追て唯今之屋敷宥睨法印より御普請有之被下、数代住居不相更代々当地之仕置役相勤候事、具成義別紙に記有之也、
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
意訳変換しておくと
 多聞院元祖の片岡熊之助が当地金比羅にやってきて金剛坊宥盛法印の弟子になった。そして、神護院の一代住職として相勤め、その後は宥盛法印の袈裟筋の修験を相続した。そのような中で、慶長年間に訳あって伊予へ行き、その後本国の土佐国へ帰参した。これに対して宥盛の跡を継いだ宥睨は、寛永8(1631)に使僧を派遣して、土州僧録常通寺へ申し出て、讃岐金毘羅への帰山を申し入れた所、首尾よく受けいれられた。そこで、熊野助は金比羅へ再度やって来ることになった。こうして、熊野助は元祖多聞院宥醒法印と称し、寛永八年間10月、土州の役人から連判手形の発行を受けた上で当地へやってきて、しばらくは新ん坊と呼ばれて生活した。その後、今の屋敷を宥睨法印より新たに普請し与えられた。この屋敷は、数代に渡って代わることなく多聞院が代々に渡って当地の仕置役を相勤ていることは、別紙にも記した通りである。
(朱)多聞院居宅柱は古の鳥居の柱つが木梁引物等、今石の鳥居挽しゅら等取合普請給候也」
古老伝旧記には、次のことは何も触れられていません
①大阪夏の陣に参戦したこと
②敗戦後に土佐八川で潜伏生活を17年送ったこと
③土佐藩主と親密な関係があったこと
29歳の熊野助が大坂夏の陣に参戦したのかどうかは、分からなくなります。多聞院の子孫にとって、先祖が徳川方と戦ったということを秘めておいた方が無難だと判断したので「訳あって」とぼかしているのかも知れません。しかし、土佐からの帰讃手順については具体的でリアルです。どうとも云えないようです。これについては、置いておくことにして、その他について見ていくことにします。
まず①の熊野助が金毘羅にやって来たのは、どうしてなのでしょうか?
仁淀川上・中流域は、橫倉山を中心に修験者の活動が活発なエリアであったことは以前にお話ししました。そのため有力武将の一族からは、修験者となって指導的な地位についていた者がいたことが史料からもうかがえます。長宗我部元親は、そのブレーンや右筆に修験者たちを組織して使っていたと云われます。彼らは修験者として、四国の聖地や行場を「行道」し修行を積んでいて、四国各地の交通路やさまざまな情報にも通じていました。これは「隠密」としては最適な条件を備えています。
 片岡家の一族の中にも修験者がいたはずです。そんな中で熊野助の今後を考えると、義経が鞍馬寺に預けられ、鞍馬天狗に鍛えられたように、どこかの修験者に預けて一族の再興を願ったことが考えられます。また、金毘羅の松尾寺は土佐出身の南光院(宥厳)が金光院院主として支配していました。宥厳は、幡多郡の修験者を束ねるほどの存在でもあったことは、以前にお話ししました。また、その弟子である宥盛も修験者としては、名声を得るようになっていました。そこで、片岡家の熊野助は、金毘羅金光院にの宥盛に弟子入りすることになったと私は考えています。

②については、金毘羅にやってきた熊野助が、宥盛から何を学んだのかということです。
 師の宥盛は、指導力や育成力もあったようで、全国から彼の下に修験者が集まってきています。そして有能と認めれば「採用・雇用」し、様々なポストも与えています。そのような中でも、熊野助は有能であったようです。そのために、土佐に身を置いていた熊野助は、後に呼び戻されたとしておきましょう。
  
 片岡氏 八川
仁淀川支流の八川深瀬

④大阪籠城戦後に、土佐の八川深瀬に祈祷師(祈祷師)として潜伏したとあります。
前回に見たように片岡氏の拠点は、仁淀川中流域の片岡や黑嶋でした。八川は、その周辺エリアになります。つまり、熊野助は幼年期を過ごした仁淀川中流流域エリアに帰ってきて、山伏として隠れ住んでいたことになります。もしそうなら、それを周囲の山伏たちや住民も知りながら、山内藩に密告することなく守り続けたことになります。

江戸時代後期にまとめられた『南路志』の吾川郡下八川村の条に、片岡家が篤く信仰していた正八幡社には、次のように記されています。
「金幣一振 讃州金毘羅多聞院寄進」
「十二社東宮大明神 右八幡同座弊一振 多聞院寄進」
ここからは、金毘羅の多聞院が下八川村の正八幡社に奉納品を送り続けたいたことが分かります。その背景には、片岡家の出身地であり、金毘羅から帰国した熊野助の活動拠点でもあったのではないかとも考えられます。
それを裏付けるのが、多聞院由緒書の次の記述です
「(範清は)寛永六年四月一日、土佐吾川郡下八川深瀬に誕生」

範清とは、熊野助の実子です。ここからは、潜伏中の熊野助は、下八川深瀬に潜伏し、妻子がいたことが分かります。多聞院の子孫は、先祖の霊に祈るために金幣を寄付していたようです。ちなみに、下八川の氏子達は、今でも「片岡さま」と呼び、なにかと話題が語り継がれていると報告されています。また、片岡家の墓参りをする人もいるようです。
⑤については、山内藩の2代藩主・山内忠義から厚い信頼を熊野助は受けるようになっていたようです。
 藩主や家臣のために祈祷を行うと共に、藩内での配札も許されていたと云います。17年間の潜伏布教活動で、周辺の有力者の信仰を集めると共に、藩主からも信頼を得る存在になっていたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の史料だとされます。
①山内家二代忠義公から熊野助宛の二通の手紙が、片岡家の宝として保存されていること
②寛文頃の桂井素庵の日記には、土佐で滞在する多聞院が、土地の名士と交わっている様子が記録されていること
③「南路志」には、元禄七年の「口上之覚」には、土佐の修験で山内公にお目通りができるのは、金毘羅の多聞院だけとかかれていること
   ここからは、多聞院が金毘羅で要職を務めながらも、土佐山内藩においても藩主の保護を受けて、修験者として大きな力を持っていたことがうかがえます。しかし、その背景に何があったのかはよく分からないようです。どちらにしても、土佐の金