瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 善通寺市の歴史

私がいつも御世話になっている宮川うどんは、幼い頃の空海が遊んだという仙遊寺が近くにあります。

旧練兵場遺跡群 拡大図
旧練兵場遺跡群 農事試験場と国立病院に挟まれたエリアが仙遊地区
古代善通寺地図
善通寺北側の黄色いエリアが仙遊エリア
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡群
練兵場遺跡群は、漢書地理志の奴国の「分かれて百余国」の王国のひとつだったと研究者は考えています。地図からは旧金倉川や中谷川が網の目状に流れる微高地に、集落群は建ち並んでいたことが分かります。しかし、弥生時代の仙遊エリアは川の中にあったとされていたために、ノーマークだったようです。1985年7月に住宅建設中の工事現場から箱式石棺が発見されます。調査の結果、石材には線刻画が書かれていることが分かりました。今回は、この線刻画について見ていくことにします。テキストは「仙遊遺跡発掘調査報告書1986 年」です。
   
仙遊寺遺跡
仙遊遺跡 病院と農事試験場に挟まれた住宅地帯

東側が農事試験場地区、西側が病院地区で、その間の住宅地地帯が仙遊エリアになります。古代の復元図からは、仙遊遺跡のすぐ東側には旧河道があったとされます。仙遊遺跡は、「集落からややはずれの旧河道添いに造られた墓域」と研究者は考えています。

仙遊寺遺跡 箱式石棺1号
仙遊遺跡 1号箱式石棺

仙遊遺跡 組みあわせ石棺 発輝調査報告書
 箱式石棺は、頭部側に立派な石材(額石)を置き、これを挟むように左右に板石を立て、次にその石材の下端を挟むように、逆八字形に外側から板石を立てていました。この石材から線刻画が見つかります。
  線刻画が、どの段階で刻まれたかについては研究者は次のように考えています。
①石材表面は軟質なのに、移動時の傷や磨耗が認められないこと。
②葬送儀礼の一環として、被葬者を取り囲む石材に呪術的な意味を持って刻み込まれること
③以上から石材採集後、棺材として手を加える直前に墓坑付近で行われた。
それぞれの石材に線刻画は刻まれていますが、その中で目をひく人面画を見てみましょう。

仙遊寺遺跡 箱式石棺の線刻図

仙遊遺跡 組式石棺1の石材9の人面文

ひときわ目を引くように石材の真ん中に人面文が描かれています。これについて報告書は次のように記します。
1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059

鼻や口の表現はやや暖味であるが、両耳は比較的はっきりしている。顔の入れ墨についても目を基調に施されており、この人面文の周囲にも目だけの表現らしいものが多く認められる。また、石材2の内面にも人面文が認められるが、これは顔の輪郭と目だけの表現であり、やはり人面文は目が呪的な力を発揮するようである。

これとよく似たものが愛知県安城市の亀塚遺跡の人面文を施した壷形土器です。

人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土
人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土
人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土4

人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土

これを見ると仙遊遺跡のものと、表現がよく似ています。これ以外にも入れ墨を施した人面文は各地で見つかっています。この顔は、壺の年代が弥生時代終末期(約1,800年前)なので「弥生人の顔」とされます。目の周囲に描かれた多くの線は入墨とされます。『魏志倭人伝』には「男子無大小皆黥面文身」(男は年齢に関係なく顔と体に入墨をしている)の記述を裏付ける資料になります。そして、この壺や仙遊遺跡は、ちょうど邪馬台国の時代のものになります。
 愛知県亀塚遺跡の人面文壺形土器についてHPに次のように記します。

 「人面文土器」は、弥生時代の祭祀さいしにおいて、瞳のない眼によって悪霊をにらみつけて退散させる辟(へきじゃ=魔除け)の思想などを表した特別な土器と考えられているが、その全形をうかがい知ることができる例はまれである。また、表現の精緻せいちさにおいて群を抜く優品であり、人面文部分の遺存状態も良く、弥生時代の風俗を物語る貴重な資料である。

 どうして、全身に入墨をしたのでしょうか?
一見不気味に見える瞳のないレンズ形の目
目の周囲の入墨
ヒゲまたはアゴの入墨
耳と耳飾りを持つ顔は、「辟邪(=魔除け)=禍」から身を守るためだった
と研究者は考えています。つまり、にらみつけることで悪霊を退散させようというのです。こうした人面文の出土は、全国に30点近くあるようです。しかも表現に一定の規則があるのです。文様のひとつとして「人面文」と呼ばれていますが、一種の情報が、どのように伝播、拡散したのかはよく分からないようです。
 どちらにしても入墨が災いが及ぶことを祓うとするものなら、箱式石棺を線刻画で覆うとは、被葬者を禍から守ろうとしたこととつながります。各地の人面文にみられる入墨の線条は、よく似ています。ここでは、仙遊遺跡の箱式石棺の線刻画も、被葬者に対する守護や鎮魂的願い、あるいは封鎖のために刻まれたとしておきます。
この起源になるようなものが中国の饕餮紋です。

          饕餮紋(とうてつもん) 戦国 紀元前4世紀

饕餮文は殷周代から青銅器等に用いられた怪獣の紋様です。饕は財貨をむさぼること、餮は飲食をむさぼることを意味します。大きな眼と口、角、爪などが特徴で、人を食らう凶悪な野獣とされていますが、転じてその力は邪悪なものを除くとも考えられていたようです。

次に仙遊遺跡の石材7の線刻画を見ていくことにします。
仙遊遺跡石材7 石材7外面の鳥の線刻
これは鳥の線刻というのです、私にはもうひとつよく見えてきません。羽を拡げている姿なのでしょうか。鳥の線刻については、古墳時代には死者の魂の運搬者としてよく登場するモチーフのようです。西日本の弥生遺跡では木で作った鳥の発掘例が多く、鳥を用いる習俗が稲作とともに普及していたようです。
纏向遺跡の石塚古墳周濠出土の鳥形木製品
纏向遺跡の石塚古墳周濠出土の鳥形木製品

鳥と人面文の組み合わせ例が、島根県出土とされる邪視文銅鐸です。

島根県出土とされる邪視文銅鐸
島根県出土とされる邪視文銅鐸2
邪視文銅鐸 弥生時代中期 22.3cm  島根・八雲本陣記念財団蔵
 
大きな目と鼻(邪視)で、先ほど見た睨み付ける目つきです。先ほど見た饕餮文と似ています。 眉とともに目尻が極端に長く表現された特徴的な眼。そして大きな鼻。そこには口の表現はありません。静かに何ものかをにらみつけているかのようなその独特な眼は、悪霊や邪悪なものすべてをにらみ威嚇する「邪視(じゃし)」を表現したものとも言われています。その下に水鳥が鋳出しています。水鳥は稲魂を祭る祭器と使用されました。
仙遊寺 箱形石棺 石材1
仙遊遺跡石材1
  こうなるとモダンアート的で、私には何が描かれているか見当も付きません。研究者は大きく描かれている扇形図形に注目します。細部まで念入りに描写されていて、下方に描かれた槍先状の図形と併せて、何か呪的な性格を持った構造物を写し取った具象図形の可能性を指摘します。また、上方には扇形の図形と一部重ねて直弧文系の図文が措かれています。どれも抽象図形で多数の直線を平行に並べたものが多く、中に片側が閉じて扇形に見えるものがあります。ここには様々な文様の原単位となっているモデルがあって、その組み合わせによって複雑な文様が構成されていると研究者は考えています。
仙遊寺遺跡 箱式石棺石材4の線刻図 2
仙遊遺跡 石材4

最後に県内の線刻画の類例を見ておきましょう。
①旧練兵場遺跡から出土した器台形土器の破片に、類似した図文
②岡古墳群中の箱式石棺の蓋石に、無数の線条からなる線刻画
③髙松市の鶴尾神社4号墳(積石の前方後円墳)では、石室内や石室周辺の墳丘上からへラ措文様を施した壷の破片。
③の中には仙遊遺跡の箱式石棺の線刻画と共通したものが多くあります。仙遊遺跡出土の土器は鶴尾神社4号墳出土の土器よりもやや古い時期のものになります。両者の関係は、どんなものだったのでしょうか?  今の私にはよく分かりません。

宮が尾古墳の線刻画5
miyagao11
宮が尾古墳の線刻画
また善通寺市内には、線刻画で有名な宮が尾古墳があります。それ以外にも10基あまりの後期古墳に線刻画が描かれています。仙遊遺跡の箱式石棺は、最も古い直弧文系図文によって装飾された墓になります。墓に呪的な線刻による装飾を施すことが弥生時代後期には成立していたこと、その線刻画古墳の原型が仙遊遺跡の箱式石棺であることを押さえておきます。

宮が尾古墳の線刻画の共通モチーフ
      善通寺周辺の線刻画の共通モチーフ 殯屋(もがりや)?
以上をまとめておきます。
①弥生時代後期の仙遊遺跡の箱式石棺には、線刻画が刻まれている。
②その中の人面文様は、入墨があり、瞳のない眼によって悪霊をにらみつけて退散させる辟(へきじゃ=魔除け)の思想がうかがえる。
③それ以外の文様も
被葬者に対する守護や鎮魂的願い、あるいは封鎖のために刻まれた
④これらの線刻画は、宮が尾古墳にも受け継がれていく要素で、善通寺王国の伝統かもしれない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  ユネスコ登録に向けて四国霊場の調査が進んでいます。その19冊目として、金倉寺の調査報告書が図書館に並んでいたので読書メモ代わりにアップしておきます。調査報告書の一番最初の「立地と歴史」の部分を読むのは、私にとっては楽しみです。それは近年の周辺の発掘調査で分かったことが簡略、かつ的確に専門家の目で記されているからです。調査書を読んだときには気づかなかったことが、その後に出された調査報告書の「立地と歴史」で気づいたり、理解できたりすることがあります。金蔵寺周辺は、高速道路や国道11号バイパスなどで線上に大規模な発掘調査が進められ、多くの遺跡が発掘され新しい発見が続いた所です。その知見が、どのように整理されているのか楽しみです。テキストは「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
 研究者は、まず金倉寺周辺の条里型地割に注目します。
周辺の稲木北遺跡や永井北遺跡などでは条里制溝などが確認されています。そこからはこの地域で条里制工事が始まったのは7世紀末~8世紀初頭と研究者は考えています。丸亀平野に南海道が伸びてくるのもこの時期です。この南海道を基準に条里制工事が始められ、南海道沿いに郡衙や古代寺院が姿を見せるようになります。
丸亀平野条里制5
丸亀平野の条里制 金倉川沿いには空白地帯が拡がる
ところが上図のように善通寺から金倉寺、さらに多度津にかけての金倉川の周囲には、条里地割に大きな乱れが見られます。拡大して「土地条件図」で見てみると

金倉寺周辺の土地復元
金倉寺周辺の金倉川の旧河道跡
ここからは次のような情報が読み取れます。
①東側から北側一帯にかけて、旧金倉川の氾濫原であったことを示す地割の乱れが広がっている
②金倉寺西側の土讃線沿いには、旧河道を利用した上池、中池、千代池が連なる。
③これらの池沿いに北流する旧河道の地割の乱れは幅200~300mほどと大きい。
④金倉寺の南約800m付近にある金蔵寺下所遺跡では、弥生時代や奈良時代の旧河道が検出されている。
丸亀平野の条里制3

以上から「地形復元」してみると、金倉寺は東側の金倉川と西側の旧河道に挟まれた細長く紡錘状に伸びる微高地上に立地していたことが分かります。そして中世には西側の旧河道は埋没し、近世には金倉川の固定化が図られ、周辺の氾濫原は耕地化が進んだと研究者は考えています。多度津の葛原に小早川氏に仕えていた小谷氏がやってきて入植し、開拓したのもこの西側の旧金倉川跡だったようです。そして、水田開発が終わると、小谷家は水不足備えて千代池などを築造していきます。そういう意味では、古代の金倉寺は、金倉川の氾濫原の中の遊水地と化した大湿原地の中に位置していたと云えそうです。

善通寺遺跡分布図
善通寺市遺跡分布図(高速道路やバイパス沿いに発掘調査が進んだ)
次に金倉寺の古代の歴史的環境について見ていくことにします。
金倉寺の東方面には、弥生時代には中の池遺跡、龍川五条遺跡、五条遺跡などの環濠集落がありました。
丸亀平野の環濠集落
丸亀平野の環濠集落(想像図)
なかでも龍川五条遺跡は二重に環濠をめぐらした集落で、内側に竪穴建物と掘立柱建物の居住域があり、環濠の外に周溝墓や木棺墓の墓域や水田が拡がります。五条遺跡は龍川五条遺跡の北方300mに隣接し、ここにも二条の大溝跡がありました。この遺跡は龍川五条遺跡からの集落移転で成立したと研究者は考えています。それが中期なると、なぜか環濠集落は姿を消してしまいます。そして丸亀平野の中央部を避けて善通寺周辺の丘陵裾部に小規模な集落が点在するようになります。その核となるのが旧練兵場遺跡群です。ここには前期から始まって、古墳時代初頭まで長期間に渡って安定的な集落が続きます。
旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡は、「オトナと子どもの病院 + 農事試験場」で45万㎡と広大です。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

さらに弥生時代後期前半になると平形銅剣の中心として瀬戸内沿岸地域から多くの土器が搬入されています。終末期には大陸との交易を示す青銅鏡が出てきますし、集落内で鉄製品や朱の生産も行われていたことが分かっています。
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
善通寺の旧練兵場遺跡群と周辺の弥生時代の遺跡分布
まさに讃岐最大の拠点集落であり、中国史書の「分かれて百余国をなす」のひとつである「善通寺王国」とも考えられます。丸亀平野だけでなく、備讃瀬戸における人とモノの集まる拠点として大きな引力を持っていたと云えます。そしてこの王国は、古墳時代から律令時代へと安定的に継続していきます。この子孫が後に氏寺としての善通寺を建立し、空海を輩出する佐伯直氏につながる可能性が高いと研究者は考えています。
次に善通寺周辺の古墳について見ておきましょう。
青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷図
善通寺エリアの古墳が集中するのは、五岳や大麻山周辺で、弘田川流域勢力によって築造されたもののようです。中でも大麻山の山頂直下に前期前半に築かれた野田院古墳(後円部が積石塚)から、後期の王墓山古墳や菊塚古墳、終末期の大塚池古墳など、首長墓クラスの古墳が継続的かつ安定的に築かれます。これは、讃岐の他エリアの不安定さと対照的です。善通寺エリアの首長がヤマト政権との良好な関係を維持しつづけたことがうかがえますが、その要因がどこにあったのかはよく分かりません。一方、金倉寺周辺の勢力が築いた古墳というのは、見当たりません。
古墳時代中期になると旧練兵場遺跡では竪穴建物が少数ですが現れ、後期には飛躍的に増加し、大規模な集落が営まれるようになります。
旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡群 古墳時代末期から古代へ 南海道が伸びてきて郡衙や古代寺院が姿を見せる。
中心は農事試験場跡の東部ですが、サテライトとして南東約l㎞の四国学院大学構内遺跡でも多数の竪穴建物が並ぶ集落が現れます。このような集落の成長の上に、佐伯直氏の氏寺とされる仲村廃寺跡(伝導寺跡)が居住区のすぐ南に白鳳時代には姿を見せます。しかし、この寺は条里制に沿っていません。条里制施行よりも前に建立されたことがうかがえます。
善通寺エリアでは、南海道に沿う位置に「官衛的建物」が見つかっています。
生野本町遺跡 
生野本町遺跡(旧善通寺西高校グランド) 整然と並ぶ郡衙的な建物配置
それが四国学院大学の南側の生野本町遺跡です。稲木北遺跡と同じような建物配置が見つかっています。この遺跡に近接した生野南口遺跡からは8世紀前葉~中葉の床面積が40㎡を超える庇付大型建物跡が確認されています。これも郡衙の付属建物のようです。あと高床式の倉庫が出れば郡衙に間違いないということになります。ちなみに、同時期の飯野山南の岸の上遺跡からは、高床式倉庫が何棟も出てきて、鵜足郡の郡衙と研究者は考えています。東から伸びてくる南海道沿いに郡衙や居館、氏寺を建てることが、ヤマト政権に認められる「政治的行為」であると当時に、住民への威信をしめすステイタスシンボルでもあったようです。そのために、いままでの旧練兵場遺跡から南海道沿いの四国学院方面に、その居館を移動させ、多度津郡衙を建設したとも考えられます。
 一方、金倉寺周辺はどうでしょうか? 
金倉寺の西約1 kmの稲木北遺跡からも郡衙的な建物群が見つかっています。8世紀前葉の大型掘立柱建物跡8棟と、それらを区画、囲続する柵列跡です。

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡 郡衙的な建物配置が見られる
真ん中に広場的空間を中心に品字形の建物配置がとられています。加えて大型建物を中心に対称的に建物が配置され、しかも柱筋や棟通りなどがきちんと一致しています。研究者はこれを「官衛的建物配置」と考えています。
稲木北遺跡 多度郡条里制
多度郡の2つの郡衙的建物 
A 稲木北遺跡(金蔵寺エリア)B 生野本町遺跡(善通寺エリア)

稲木北遺跡2

金蔵寺の南の下所遺跡では7世紀末~8世紀初頭、 8世紀前葉~中葉の掘立柱建物群が出てきています。
その配列は 8棟前後の建物が緩やかに直列、並列、直交する建物配置をとります。その上に、この遺跡の特徴は、金倉川の河道跡から人形、馬形、船形、刀形、斎串などの木製祭祀具が多量に出土したことです。
金倉寺下所遺跡 木製品
金倉寺下所遺跡 木製品2

金倉寺下所遺跡出土の木製祭祀具(金蔵寺下所遺跡調査報告書より)
ここからは、公的な河川祭祀がこの場所で執り行われことが分かります。今見てきた稲木北遺跡、稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡は、約1㎞四方の範囲に収まります。そうすると多度郡衛や公的な河川祭祀を執り行う官衛や地元豪族の地域支配の拠点となる郷家といった公的性格を持つ官衛が集中するエリアだったことになります。これも郡衙など官衛的施設の一部でしょう。こうしてみると、奈良時代には、官衛的な施設が善通寺と金蔵寺の2つのエリアにあったことになります。そして、金蔵寺エリアに金倉寺は現れます。
金倉寺の創建について見ておきましょう。
『日本三大実録』には、多度郡人因支首純雄らが貞観8年(866)に改姓要求を願い出て、和気公が下賜姓されたとあります。「鶏足山金倉寺縁起」には、仁寿元年(851)に円珍の父和気宅成が、その父が建立した自在王堂を官寺とすることを奏上しています。ここからは金倉寺の創建に、和気公が深く関与したことがうかがえます。また現地名の「稲木(いなぎ)」は、「因岐(いなぎ)首」の改称のようで、和気公(因岐首氏)が金倉寺周辺にいたことが裏付けられます。このことを強調して従来は、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因岐首氏(和気公氏)の本拠地という視点で説明されてきました。しかし、多度津郡司(大領)である佐伯直氏と、官位を持たない地元の中小豪族の因岐首氏では階級差も、勢力も大きく違っていたと研究者は指摘します。
1空海系図2
空海の弟や甥たち(佐伯直氏)は、地方豪族としては非常に高い官位を持つ。
円珍系図 那珂郡
円珍の因支首氏の那珂郡の系図 円珍の因支首氏には官位を持つ者はいない。
古墳時代の首長クラスの古墳分布を見ると、善通寺と金倉寺では大差があったことは見てきた通りです。金倉寺周辺では、首長墓らしきものは見つかっていません。
 両者の氏寺とされる善通寺と金倉寺を見ていくことにします。
 佐伯直氏が最初に建立したとされる仲村廃寺からは、原型に近い川原寺系軒丸瓦が出土します。その後に建立した善通寺は、方二町で白鳳期から平安期にかけての時代を超えた多彩な軒瓦が出土しています。ここからは佐伯氏が中央との良好な関係を保ちつつ、白鳳期に氏寺を創建し、それを奈良時代、平安時代にかけて継続的に維持していたことがうかがえます。それに比べて、古代の金倉寺のことはよく分かりません。採集されている瓦片は、次のとおりです。
A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 平安時代前期に属する軒平瓦
C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。
ここからは、金倉寺が奈良時代まで遡り、寺域の大きな移動はなかったことはうかがえます。しかし、問題なのは、奈良時代の瓦の出土量は極めて少なく、平安時代になって出土量が増加することです。ここからは奈良時代には、お堂程度の小規模な施設が設けられ、平安時代になって寺院整備がすすんだことがうかがえます。なお、軒平瓦には仲村廃寺や善通寺との同氾関係のものがあるので、佐伯直氏の援助を受けながら、因支首氏が金倉寺を建立したということは考えられます。ここでは、奈良時代に因支首氏の氏寺として建立された時の金倉寺は、善通寺に比べると遙かに規模が小さかったこと、それは当時の佐伯直氏と因支首氏の力関係によることを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
①金倉寺周辺は、金倉川の旧河道が幾筋にもわかれて北流し、広い氾濫原で遊水地化した湿原地帯が拡がっていた。
②律令時代になると東から南海道が伸びてきて、それに直行する形で条里制工事が始まる。
③金倉寺周辺は、金倉川の氾濫原であったために対象外となり、空白地帯となっている。
④しかし、金倉寺周辺の氾濫原の微高地には、郡衙・官衛・豪族居館らしき建築物が集中する
⑤一方、善通寺エリアにも、郡衙や古代寺院が佐伯直氏によって建設される。
⑥そういう意味では、善通寺と金倉寺エリアは多度郡のふたつの政治的な中心地だったとも云える。
⑦しかし、古代寺院の規模などからすると、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因支首氏の間には、政治的・財政的に大きな開きがあったことが見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会
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戦国時代に戦禍に遭って衰退していた善通寺は、近世になって復興への歩みをはじめます。その際に、おおきな事件として、それまでの法脈を換えたことです。その立役者が浄厳であることは、以前にお話ししました。今回は、彼が善女龍王の勧進と雨乞信仰ももたらしたことを見ていくことにします。
浄厳がもたらしたもののもうひとつが、雨乞祈祷と善如(女)龍王の勧進です。

2善女龍王4
高野山の善如(女)龍王  高野山は男神

「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、浄厳が善通寺に招かれて経典広義を行った時に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を、浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王のようです。

5善通寺
善通寺の善女龍王社(善通寺東院) 

それを裏付けるのが、本堂の西側にある善女龍王の小さな社です。この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡で、調査報告書には、

「貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札」

が出てきたことが報告されています。最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。これは浄厳によって善女龍王信仰による雨乞祈祷の方法がもたらされたという記録を裏付けるものです。逆に言うと、それまで讃岐には真言密教系の公的な雨乞修法は行われていなかったことになります。

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められた約80件の雨乞文書が残されています。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。

5善女龍王4jpg
京都神仙苑の雨乞お札
浄厳評伝の中には、高松藩主松平頼重関係が次のように記されていました。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述する。

松平頼重と浄厳の関係について見ておきましょう。
 浄厳が善通寺を訪れたことを聞いた頼重(隠居名:源英公)は、彼を高松城下へ招請します。そして、翌年1679年正月に謁見、以後、頼重は源英公は息女であった清凍院讃誉智相大姉とともに連日聴聞したようです。頼重は、2月には浄厳のために石清尾八幡宮内に現証庵を建立し住まわせます。また、4月には、浄厳が老母見舞のために河内に帰省するに際には、高松藩の御用船を誂えて送迎しています。その信奉のようすは『行状記」に詳しく記されています。ここからは、  頼重が浄厳に深く帰依していたことがうかがえます。ちなみに頼重は、年少期には京都の門跡寺院に預けられて「小僧」生活を長く送っています。そのため宗教的な素養も深く、興味関心も強かったようです。
頼重の再招聘に応じて浄厳は、延宝八年(1680)3月に再び高松にやってきます。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
 凶事とされていた彗星の出現を予測していた浄厳は、浄厳は、白河上皇の永保元年(1081)に大江匡房が金門鳥敏法厳修を奏上した際に、ただひとり安祥寺の厳覚律師だけが知っていて五大虚空蔵法を修された故事を頼重に語ります。これを聞いて頼重は、髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に従って同法を伝授させます。そして、五大虚空蔵尊像十幡を十ヶ寺に寄付し、正月・五月・九月に五大虚空蔵求富貴法を修行させるように命じます。これは以後、毎年の恒例となっていきます。そして、浄厳は河内の延命寺で金門鳥年法を七日間修し、それが彗星到来にともなう凶事を事なきことに済ませたとされます。こうして浄厳の讃岐での名声は、彗星到来を機にますます高まります。翌天和二年(1682)には、頼重62歳の厄除祈祷を行っています。
彗星到来の凶事を防ぐために「髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に命じて五大虚空蔵法を伝授し、尊像十幡を十ヶ寺に寄進した」とあります。
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵菩薩

それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
秀吉の命で生駒氏が領主として入部した際に、讃岐領内十五の祈祷寺が決められていました。生駒騒動後には、讃岐は髙松藩と丸亀藩に分けられますが、「東讃十ヶ寺・西讃五ヶ寺」と呼ばれているので、高松藩領内では通称「十ケ寺」として東讃十ケ寺がこれを引き継いだようです。その「十ヶ寺」を挙げておきます。

阿弥陀院・地蔵院・白峯寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院

この筆頭は髙松城下町の石清尾八幡官別当寺であった阿弥陀院で、寺領高200石余、白峯寺がこれに次いで120石です。このほか、大般若会や雨乞い祈祷も、これら十ヶ寺の所役であったことは、以前にお話ししました。特に大般若経は阿弥陀院と白峯寺が月替りに参城して転読したようです。

白峯寺 五大虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩像(白峯寺)

 白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。

白峰寺の善女(如)龍王
白峯寺の善女龍王
 白峰寺の善如(女)龍王像(第105図・第106図)も雨乞祈祷の本尊として、浄厳の先例に拠って調えられたと研究者は考えています。確かに絵は男神の善如龍王で、女神の善女龍王ではありません。真言系雨乞修法の本尊は、男神像像の善如龍王から、女神の善女龍王に「進化」しますが、それが醍醐寺の宗教的戦略にあることは、以前にお話ししました。ここでは、善通寺や白峯寺などの雨乞本尊が男神の善如龍王で、高野山からの「直輸入」版であることを押さえておきます。これも、讃岐に善如龍王をもたらしたのが浄厳であることを裏付ける材料のひとつになります。

P1150751
白峯寺の善女龍王社

その後の浄厳の活躍ぶりを『行状記』は次のように記します。
浄厳の効験により、「天下の護持僧」として元禄四年(1691)に五代将軍綱吉から江戸湯島に霊雲寺を賜り天下の析願所となった
このように、讃岐に新安祥寺流の法脈が広がるのは、浄厳が頼重からその護持僧としての信任を得ていたことが大きく影響していることが分かります。髙松藩の浄厳保護と、善通寺の浄厳の安祥寺流への切り替えは同時進行で進んでいたことを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」
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稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡の建物配置図
   稲木北遺跡は、図のように掘立柱建物群が、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたことをお話しました。その特徴は以下の通りです。
①大型の掘立柱建物跡8棟の同時並立。
②そのまわりを大型柵列跡が囲んでいること
③建物跡は多度郡条里ラインに沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向の左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤基準線から対象に建物跡が建っている
⑥中央の建物が中核建物で庁舎
⑦柵外には総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土土器の時期幅が、ごく短期間に限られているので、実質の活動期間が短い
以上からは、稲木北遺跡が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的に設計されていることが分かります。「正倉が出たら郡衙と思え」ということばからすると、ほぼ郡衙跡にまちがいないようです。

稲木北遺跡との比較表

稲木北遺跡をとりまく状況について研究者は報告会で、次のように要約しています。

稲木北遺跡2
稲木北遺跡をめぐる状況
  交通路については、かつては南海道がこのあたりを通って、鳥坂峠を越えて三豊に抜けて行くとされていました。しかし、発掘調査から南海道は「飯山高校 → 郡家宝幢寺池 → 善通寺市役所」のラインで大日峠をこえていくと、研究者達は考えるようになっています。しかし、鳥坂峠は古代においても重要な戦略ポイントであったようです。

稲木北遺跡 多度郡条里制
南海道と条里制
稲木北遺跡は多度郡の中央部にあたります。ここを拠点にした豪族としては、因支首氏がいます。この郡衙を建設した第一候補に挙げられる勢力です。
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓申請の結果、和気公が賜姓された記事があります。また、その時の申請資料として作成された「和気氏系図(円珍系図)」が残されています。この系図は、実際には因支首氏系図と呼んでもいい内容です。この系図に載せられた因支首氏を見ていくことにします。
円珍系図 那珂郡
広雄が円珍の俗名です。その父が宅成で、その妻が空海の妹とされます。父の弟が「二男宅麻呂(無児)」で、出家し最澄の弟子となる仁徳です。円珍の祖父が道麻呂になります。ここからは、那珂郡には道麻呂・宅主・秋主の3グループの因支首氏がいたことが分かります。国司が中央に送った「讃岐国司解」で和気氏への改姓が許されたのは、那珂郡では、次の人達です。
道麻呂の親族 8名
道麻呂の弟である宅主の親族 6名
それに子がいないという金布の親族 1名
次に多度郡の因支首氏を見ておきましょう。

円珍系図2


国益の親族 17名
国益の弟である男綱の親族    5名
国益の従父弟である臣足の親族  6名
多度郡にも3つのグループがあります。那珂郡と多度郡をあわせて6グループ43名に賜姓がおよんでいます。

 因支首氏は、金蔵寺を氏寺として創建したとされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。
それを裏付けるような遺跡が金蔵寺周辺から永井・稲木北にかけていくつか発掘されています。因支首氏が那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったことが裏付けられます。
 地元では、空海と円珍の関係が次のようによく語られています。

「円珍の父・宅成は、善通寺の佐伯直氏から空海の妹を娶った、そして生まれのが円珍である。そのため空海と円珍は伯父と甥の関係にある。」(空海の妹=円珍の母説)

確かに、因支首氏と佐伯直氏の間には何重にも結ばれた姻戚関係があったことは確かです。しかし、金倉寺の因首氏が、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったという記事には首を傾げます。金倉寺は那珂郡で、善通寺や稲木は多度郡なのです。行政エリアがちがいます。ここでは因支首氏の中にも、那珂郡の因支首氏と、多度郡の因支首氏があって、円珍もこのふたつをはっきりと分けて考えていたことを押さえておきます。一族ではあるが、その絆がだんだん薄れかけていたのです。
 円珍系図が作られれてから約500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。「稲毛」は因岐首氏の 「因岐」からの転化のようです。ここからは「稲毛」という地名が残っている良田郷が多度郡の因岐首氏の本拠地であったことになります。そうだとすれば、稲木北遺跡は良田郷に属するので、8世紀初頭に因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は、さらに高くなります。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図
         円珍系図 忍尾別(わけ)君
 円珍系図には因支首氏の始祖とされる忍尾別(わけ)君が伊予国からやってきて、因岐首氏の娘と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったと記します。
しかし、忍尾別(わけ)君は伊予和気氏の系譜に、因支首氏の系譜を「接ぎ木」するための創作人物です。実際の始祖は、7世紀に天武政権で活躍した「身」と研究者は考えています。因支首氏は、7世紀半ばの「身」の世代に那珂郡の金倉寺周辺拠点を置いて、そこから多度郡の永井・稲木方面に勢力を伸ばしていったとしておきます。
そして、伊予からやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は推測します。
こうして、因岐首氏によって開発と郡衙などの施設が作られていきます。
稲木北遺跡の周辺遺跡
稲木遺跡周辺の同時代遺跡

稲木北遺跡について研究者は次のように評します。

「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

 ここで私が気になるのが以前にお話した曼荼羅寺です。
曼荼羅寺は、吉原郷を勢力下に置く豪族Xの氏寺として建立されたという説を出しておきました。今までの話から、その豪族Xが多度郡を基盤とする因支首氏ではなかったのかと思えてくるのです。那珂郡と多度郡の因支首氏がそれぞれ独立性を高める中で、それぞれの氏寺を建立するに至ったという話になります。これについては、また別の機会に改めてお話しします。

新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、稲木北の郡衙的施設は作られたという説を紹介しました。
 しかし、この施設には、次のような謎があります。
①使用された期間が非常に短期間で廃棄されていること
②土器などの出土が少く、施設の使用跡があまりないこと
③郡衙跡にしては、硯や文字が書かれた土器などが出てこないこと
ここから、郡衛として機能したかどうかを疑う研究者もいるようです。
  稲木北遺跡の建築物群は、奈良時代になると放棄されています。
その理由は、よく分かりません。多度郡の支配をめぐって佐伯直氏の郡司としての力が強化され、善通寺の郡衙機能の一元化が進んだのかも知れません。

以上をまとめておきます
①稲木北遺跡は多度郡中央部に位置する郡衙的遺跡である。
②この郡衙の建設者としては、多度郡中央部を拠点とした因支首氏が考えられる
③因支首氏は9世紀の円珍系図からも那珂郡や多度郡に一族がいたことが分かる。
④因支首氏は、7世紀半ばにその始祖がやって来て、天智政権で活躍したことが円珍系図には記されている
⑤新興勢力の因支首氏は、金倉方面から永井・稲木方面に勢力を伸ばし、那珂郡と多度郡のふたつに分かれて活動を展開した。
⑥その活動痕跡が、稲木北の郡衙遺跡であり、鳥坂峠の麓の西碑殿遺跡、矢ノ塚遺跡の物資の流通管理のための遺跡群である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年
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4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

以前に円珍系図のことを紹介したのですが、「むつかしすぎてわからん もうすこしわかりやすく」という「クレーム」をいただきましたので「平易版」を挙げておきます。

伝来系図の2重構造性
 
系図を作ろうとすれば、まず最初に行う事は、自分の先祖を出来るだけ古くまでたどる。こうして出来上がるのが「現実の系図」です。個人的探究心の追求が目的なら、これで満足することができます。しかし、系図作成の目的が「あの家と同族であることを証明したい」「清和源氏の出身であることを誇示したい」などである場合はそうはいきません。そのために用いられるのが、いくつかの系図を「接ぎ木」していくという手法です。これを「伝来系図の多重構造」と研究者は呼んでいるようです。中世になると、高野聖たちの中には、連歌師や芸能者も出てきますが、彼らは寺院や武士から頼まれると、寺の由来や系図を滞在費代わりに書残したとも言われます。系図や文書の「偽造プロ」が、この時代からいたようです。
 系図として国宝になっているのが「讃岐和気氏系図」です。
私は和気氏系図と云ってもピンと来ませんでした。円珍系図と云われて、ああ智証大師の家の系図かと気づく始末です。しかし、円珍の家は因支首(いなぎ:稲木)氏のほうが讃岐では知られています。これは空海の家が佐伯直氏に改姓したように、因支首氏もその後に和気氏に改姓しているのです。その理由は、和気氏の方が中央政界では通りがいいし、一族に将来が有利に働くと見てのことです。9世紀頃の地方貴族は、律令体制が解体期を迎えて、郡司などの実入りも悪くなり、将来に希望が持てなくなっています。そのために改姓して、すこしでも有利に一族を導きたいという切なる願いがあったとしておきます。
 それでは因支首氏の実在した人物をたどれるまでたどると最後にたどりついたのは、どんな人物だったのでしょうか?

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板

それは円珍系図に「子小乙上身」と記された人物「身」のようです。
その註には「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは、身は難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。もうひとつの情報は「小乙上」が手がかりになるようです。これは7世紀後半の一時期だけに使用された位階です。「小乙上」という位階を持っているので、この人物が大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物であることが分かります。身は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられ、因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。この身が実際の因支首氏の始祖のようです。
 しかし、これでは系図作成の目的は果たせません。因支首氏がもともとは伊予の和気氏あったことを、示さなくてはならないのです。
そこで、系図作成者が登場させるのが「忍尾」です。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、系図制作者は忍尾を始祖としていていたことが分かります。忍尾という人物は、円珍系図にも以下のように出てきます。
    
円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」
意訳変換しておくと
この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った
 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったと云うのです。だから、もともとは我々は和気氏であるという主張になります。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。綾氏系図にも用いられたやり方です。
円珍系図  忍尾と身


つまり、讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれているのです。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の系図(所伝)によってこの部分は作られた疑いがあると研究者は指摘します。ちなみに、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちになるようです。

以上を整理しておくと
①因岐首系図で事実上の始祖は、身で天智政権で活躍した人物
②伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作し、登場させたのが忍尾別君
③忍尾別君は「別君」という位階がついている。これが用いられたのは5世紀後半から6世紀。
④忍尾から身との間には約百年の開きがあり、その間が三世代で結ばれている
⑤この系図について和気氏系図は失われているので、事実かどうかは分からない。
⑥それに対して、讃岐の因支首氏系図については、信用がおける。
つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえそうです。
  伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えています。
それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の実際の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


    宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。
③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ
④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた
⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された
⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。

しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院)

宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。


阿波細川氏年表1
細川氏と阿波秋月
 細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間  
一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、
二月廿七日          頼春 (花押)
③善通寺 僧都御房(宥範)

②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。

細川頼春の墓
細川頼春(1299~1352)の墓の説明版には、次のように記します。

南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。


 
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
 しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。

宥範と利生塔の関係を示す年表を見ておきます。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
 同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)

 年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
 最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
 もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
 以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
 細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。

細川頼之(ほそかわよりゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
           細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
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善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

弘法大師 善通寺形御影_e0412269_14070061.jpg
善通寺御影 地蔵院

前回は善通寺の弘法大師御影(善通寺御影)について、以下の点を見てきました。
①善通寺には、入唐に際して空海自身が自分を描いた自画像を母親のために残したとされる絵図が鎌倉以前から伝わっていたこと。
②弘法大師信仰が広まるにつれて、弘法大師御影が信仰対象となったこと。
③そのため空海自らが描いたとされる善通寺御影は、霊力が最もあるものとされ上皇等の関心を惹いたこと。
④土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として有名になったこと
⑤善通寺御影の構図は、右奥に釈迦如来が描かれていることが他の弘法大師御影との相違点であること
⑤釈迦如来が描き込まれた理由は、空海の捨身行 の際に、釈迦如来が現れたことに由来すること

つまり、善通寺御影に釈迦如来が描かれるのは、我拝師山での捨身行の際の釈迦如来出現にあるとされてきたのです。今回は、国宝の中に描かれている「善通寺御影」を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。
「一字一仏法法華経序品」

研究者が注目するのは、善通寺所蔵の国宝「一字一仏法法華経序品」(いちじいちぶつほけきょう じょぼん)の見返し絵です。
  このお経は、経文の一字ずつに対応する形で仏像が描かれています。こんな経典スタイルを「経仏交書経」というそうですが、他に類例がない形式の経巻のようです。

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「一字一仏法法華経序品」

文字は上品な和様の楷書体で書かれています。仏坐像の絵は、朱色で下描きし、彩色した後にその輪郭を墨で描いています。

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         「一字一仏法華経序品」

仏は、みな朱色の衣をまとい、白緑の蓮の花上にすわり、背後には白色のまるい光をあらわしています。書風・作風から平安時代中期頃の製作と研究者は考えています。

善通寺市デジタルミュージアム 一字一仏法華経序品 - 善通寺市ホームページ
一字一仏法華経序品と冒頭の見返し絵

その巻頭に描かれているのが「序品見返し絵」です。

紺紙に金銀泥で、影現する釈迦如来と弘法大師を描いたいわゆる「善通寺御影」の一種です。その構図を見ておきましょう。

「一字一仏法法華経序品」レプリカ
「序品見返し絵」(香川県立ミュージアム レプリカ)

①大きな松の木の上に坐っているのが空海で、机上に袈裟、錫杖、法華経などが置かれている。
②その下に池があり、そこに写る自分の姿を空海が描いている。
③背後に五重塔や金堂など善通寺の伽藍がある。
④右上には五岳山中に現れた釈迦如来から光明が放たれている。
  つまり、入唐の際に池に映る自分の姿を自画像に描いて母親に送ったというエピソードを絵画化したもののようです。

善通寺が弘法大師生誕の地を掲げて、大勧進を行った元禄9年(1696)頃に書かれたの『霊仏宝物目録』です。ここには、この経文を弘法大師空海が書写し、仏を母の玉寄姫(たまよりひめ)が描いたと記します。当時は、空海をめぐる家族愛が、大勧進の目玉の出し物であったことは以前にお話ししました。しかし、先ほど見たようにこの経典は、平安時代中期の写経と研究者は考えています。本文に対して冒頭見返の絵は、平安期のものでなく後世に加えられたものです。
この見返り絵について『多度郡屏風浦善通寺之記』は、次のように記します。
 奥之院には瞬目大師并従五位下道長卿御作童形大師の本像を安置す。就中瞬目大師の濫腸を尋に・・(中略)・・・
爰に大師、ある夜庭辺を経行し玉ふ折から、月彩池水に澄て、御姿あざやかにうつりぬれは、かくこそ我姿を絵て、母公にあたへ、告面の孝に替はやと思ひよらせ給う。則遺教経の釈迦如来の遺訓に、我減度之後は、孝を以て成行とすへしと設置し偶頌杯、讃誦して観念ありしに、実に至孝の感応空しからす、五岳の中峰より、本師釈尊影現し玉う。しかりしよりこのかた、いよいよ画像の事を決定し玉ひ、即彼峰に顕れし釈尊の像を、御みつからの姿の上に絵き玉ひて、是をけ母公にあたへ給うへは、まのあたり御対面あるに少しもことならすと、・・・・
  意訳変換しておくと
(善通寺)奥之院には瞬目大師と従五位下(佐伯直)道長卿が作成した童形大師の本像が安置されている。瞬目大師の由来を尋ねると・・・
大師が、ある夜に庭辺を歩いていると、月が池水を照らし、大師の御姿をあざやかに写した。これを見て、自分の姿を絵に描いて、母公に渡して、親孝行に換えようと思った。釈迦如来の遺訓の中に、得度後は、親への孝を務めるために自分の自画像を送り、讃誦したことが伝えられている。これを真似たものであり、実に至孝の為せることである。こうして自画像を描いていると、五岳の中峰から釈迦如来が現れた。そこで、現れた釈尊の姿を、大師は自分の上に描いた。そして、この絵を母公に預けた。

 前回見た道範の「南海流浪記」も、大師が入唐に際に、自らを描いた図を母に預けたと記してありました。両者は、ほぼ同じ内容で、互いに補い合います。ここからは「弘法大師釈迦影現御影」を江戸時代には「弘法人師出釈迦御影」あるいは「出釈迦(しゅっしゃか)大師」と呼んでいたようです。出釈迦寺という寺が近世になって、曼荼羅寺から独立していくのも、このような「出釈迦(しゅっしゃか)大師」の人気の高まりが背景にあったのかもしれません。
 このスタイルの釈迦如来が描き込まれた弘法大師御影は、善通寺を中心に描かれ続けます。
そのため「善通寺御影」とも称されます。ちなみに全国で、善通寺御影スタイルの弘法大師御影が残っているのは27ヶ寺のようです。それは和歌山、京都、大阪、愛媛などに拡がりますが、大部分は香川・岡山です。つまり「備讃瀬戸の北と南側」に局地的に残されていることになります。どうして、このエリアに善通寺御影が分布しているのでしょうか。それは次回に見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」

 
空海像 高野山と善通寺の2つの様式

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。 
高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 善通寺様式 東博
           弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている

DSC04108


善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

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空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

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出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
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1207年に、法然は讃岐に流刑になり、子松庄(琴平)の生福寺に入ったと「法然上人絵伝」は記します。そして、訪れているのが善通寺です。今回は法然の善通寺参拝の様子を見ていくことにします。

善通寺仁王門 法然上人絵伝
善通寺仁王門 法然上人絵伝 第35巻第6段
〔第六段〕上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。
 この寺の記文に、「一度も詣でなん人は、必ず一仏浄土の朋(とも)たるべし」とあり、「この度の思ひ出で、この事なり」とぞ喜び仰せられける。
意訳変換しておくと
法然上人の讃岐在国の間に、国中の霊験の地を巡礼した。その中で善通寺といふ寺は、弘法大師が、父のために建立した寺である。この寺の記文に、「一度参拝した人は、必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)の朋(とも)となり」とあった。これを見た法然は、「そのとおりである、このことは、深く私の思い出に記憶として残ろう」と喜ばれた。

  善通寺に関する文章は、わずかこれだけです。要約すると「善通寺に参拝した、一仏浄土(阿弥陀浄土)が記されてあった」になります。「善通寺参拝証明」とも云えそうです。法然上人絵伝の描かれた頃になると、都人の間に弘法大師伝説が広がり、信仰熱が高まったようです。
善通寺仁王 法然上人絵伝
善通寺仁王門

瓦屋根を載せた白壁の塀の向こうにある朱塗りの建物は仁王門のようです。よく見ると緑の柵の上から仁王さまの手の一部がのぞいています。これが善通寺の仁王門のようです。しかし、善通寺に仁王門があるのは、東院ではなく西院(誕生院)です。

善通寺 法然上人絵伝

門を入ると中庭を隔てて正面に金堂、左に常光堂があります。屋根は檜皮葺のように見えます。瓦ではないようです。また、五重塔は描かれていません。
 法然の突然の参拝に、僧侶たちはおどろきながらも金堂に集まってきます。一座の中央前方に法然を案内すると、自分たちは縁の上に列座しました。堂内に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を見つけて、歓ぶ場面です。

しかし、ここに描かれているのは善通寺(東院)の金堂ではないようです。
中世の東院は退転していた時代があるとされますが、残された絵図からは瓦葺きであったことが分かります。イメージとしては西院(誕生院)の御影堂のような印象を受けます。

 ここまで法然上人絵伝を見てきて分かることは、一遍絵図のように絵伝を描くために現地を再訪して、描かれたものではないということです。京の絵師たちが場面設定に応じた絵を京都で、現地取材なしで書いています。そのため「讃岐流刑」のどの場面を見ても、讃岐を思わせる風景や建物は出てきません。この「善通寺シーン」も、当時の善通寺の東院金堂の実態を映すものではないようです。

法然上人絵伝(1307年)には「善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。」とあります。
善通寺の建立を史料で見ておきましょう。
①1018(寛仁2)年 善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」ここには「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
②1072(延久4)年(1072) 善通寺所司らの解状「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」
③1113年 高野山遍照光院の兼意の撰述『弘法大師御伝』
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
ここまでは、「弘法大師の建立」と「弘法大師の先祖の建立」です。
そして、鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
④1209(承元3)の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)に、「佐伯善通建立の道場なり」
 以上からわかることは
平安時代の①の文書には大師建立説
その後は②③のように大師の先祖建立説
がとられています。そして、鎌倉時代になると④のように、先祖の名として「善通」が登場します。しかし、研究者が注目するのは、善通を大師の父とはみなしていないことです。
以上の二つの説を足して割ったのが、「先祖建立自院の頽廃、大師再建説」です。
⑤1243(仁治4)年、讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』は、次のように記します。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと
「そもそも善通寺は、大師の御先祖の俗名を寺号としたものとされる。古代に建立後に退転していたのを、大師が修造・建立したが、もとの寺号である善通寺を改めなかったのであろう」

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名とするのです。
 善通寺のHPは「善通寺の寺名は、空海の父の名前」としています。
これは、近世になって善通寺が広報活動上、拡げ始めた説であることは以前にお話ししました。
これに対しする五来重氏の反論を要約すると次のようになります
①善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者の名が付けられる。
②東院のある場所は、「方田」とも「弘田」とも呼ばれていたので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通である。
③ところが「善通」という個人の俗名が付けられている。
④これは、「善通が中世復興の勧進者」だったためである。
五来重氏の立論は、論を積み上げていく丁寧なものでなく、飛躍があって、私にはついて行きにくところが多々あります。しかし、云おうとしている内容はなんとなく分かります。補足してつないでいくとつぎのようになります。
①白鳳時代に多度郡郡司の佐伯氏が菩提寺「佐伯寺」を建立した。これは、白鳳時代の瓦から実証できる。
②つまり、空海が生まれた時には、佐伯家は菩提寺を持っていて一族のものが僧侶として仕えていた。空海創建という説は成立しない。また空海の父は、田公であり、善通ではない。
③佐伯直氏は空海の孫の時代に、中央貴族となり讃岐を離れた。また、残りの一族も高野山に移った。
④保護者を失った「佐伯寺」は、末法の時代の到来とともに退転した。
⑤それを中興したのが「中世復興の勧進者善通」であり、以後は彼の名前から「善通寺」で呼ばれることになる。
 ここでは11世紀後半からの末法の時代に入り、善通寺は本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた時代があること。それを中興した勧進僧侶が善通であるという説であることを押さえておきます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺西院(誕生院)19世紀

 法然上人絵伝の善通寺の場面で、私が気になるもうひとつは、寺僧の差し出す文書に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を法然が見つけて歓んだという記述です。現在の感覚からすると、真言宗の聖地である善通寺で、どうして阿弥陀浄土が説かれていたのか、最初は不思議に思いました。

4空海真影2

善通寺の西院(誕生院)の御影堂(大師堂)は、中世は阿弥陀堂で念仏信仰の拠点だったと研究者は考えています。
御影堂のある誕生院(西院)は、佐伯氏の旧宅であるといわれます。ここを拠点に、中世の善通寺は再興されます。西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂だったというのです。それを示すのが法然が参拝した時に掲げられていた「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」の言葉です。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。

DSC01186
善通寺 東院・西院・霊山我拝師山は東西に一直線に並ぶ

善通寺によく像た善光寺の本堂曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。本願寺も平等院鳳鳳堂も、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。善通寺西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったとすると東向きで、お参りする人は西向きになります。ここからは阿弥陀堂であると同時に、大師御影には浄土信仰がみられると研究者は指摘します。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図に描かれた東院と誕生院(西院)
もうひとつ善通寺西院の阿弥陀信仰痕跡を見ておきます。
 善通寺にお参りして特別の寄通などをすると、錫杖をいただく像式があります。その時に用いられる什宝の錫杖は、弘法大師が唐からもって帰ってきた錫杖だとされます。その表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんなのです。ここにも、中世善通寺の阿弥陀信仰の痕跡がみられると研究者は指摘します。

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。

法然上人逆修塔(善通寺伽藍) - 讃州菴
法然上人逆修塔
逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

南海流浪記2
南海流浪記
  善通寺誕生院が阿弥陀信仰の中心センターだったことを示す史料が、道範の「南海流浪記」です。
 道範は何度も取り上げましたが、彼は高野山金剛峰寺執行の座にいるときに、高野山における内紛の責任を問われて讃岐にながされ、善通寺に逗留するようになります。彼は真言僧侶としても多くの書物を残している研究者で、特に真言密教における阿弥陀信仰の研究者でもあり、念仏の実践者でもありました。彼が退転した善通寺にやってきて、西院に阿弥陀堂(後の誕生院)を開き真言阿弥陀信仰センターを樹立していったと研究者は考えているようです。その「証拠」を見ていくことにします。
『流浪記』では道範は、1243(寛元元)年9月15日に、宇足津から善通寺に移ってきます。
法然から約40年後の讃岐流刑となります。善通寺に落ち着いた6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。これは現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。西行もここで修行を行っています。我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の憧れの地でもあったようです。そこに道範も立っています。ここからは、道範は「真言密教 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀念仏信仰 + 高野聖」的な要素の持ち主であったことがうかがえます。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物です。その彼に教えを、請う僧侶は多かったようです。道範はひっぱりだこで、流刑の身ながら案外自由に各地を巡っています。その中で「弥谷ノ上人」が、行法の注釈書を依頼してきます。。
道範が著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、その経過が次のように記されています。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
     阿闍梨道範記之
意訳変換しておくと
1248(宝治2)年2月21日、善通寺の大師御誕生所の庵にて、これを記す。この書は弥谷の上人の勧進で完成することができた。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。流配先で参照すべき書籍類がないので、子細までは記せない。もっぱら記憶に頼って書き上げた。誤りがあるかも知れないので、機会があれば補足・訂正を行いたい。70歳を越えた老眼で、なんとかこの書を書き上げた。阿闍梨道範記之

ここには「弥谷の上人の勧進によって、この書が著された」と記されています。善通寺にやってきて5年目のことです。「弥谷の上人」が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。それを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄」の裏書き以外にはないようです。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
        弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏と六字名号

弥谷寺本堂下の磨崖阿弥陀三尊像や六字名号が掘られるようになるのは鎌倉時代のことです。弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。そして、「法然上人絵伝」が制作されるのは1207年なのです。ここからは次のような事が推測できます。
①真言宗阿弥陀信仰の持ち主である道範の善通寺逗留と、「弥谷の上人」との交流
②弥谷寺への阿弥陀信仰受入と、磨崖阿弥陀三尊や六字名号登場
③弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地へ

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
1248(宝治2)年11月17日に、道範は善通寺末寺の山林寺院「尾背寺」(まんのう町春日)を訪ねています。そして翌日18日、善通寺への帰途に、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
意訳すると
翌日18日、尾背寺からの帰路に称名院を訪ねる。こじんまりと松林の中に九品の庵寺があった。池とまばらな松林の景観といい、なかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」
このやりとりの中に出てくる「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」から、称名院の性格がうかがえると研究者は指摘します。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったと云うのです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

ここからは、称名院には阿弥陀如来が祀られていたことが分かります。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。そこの住む念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたことが考えられます。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな阿弥陀念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。
  こうしてみると善通寺西院(誕生院)は、阿弥陀信仰の布教センターとして機能していたことが考えられます。
中世に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちでした。彼らは善通寺だけでなく弥谷寺や称名院などの行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「七ヶ所詣り」として残っているのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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弘安寺跡 薬師堂
立薬師(弘安寺跡 まんのう町四条)
 まんのう町四条には立薬師と呼ばれるお堂があります。
このお堂の下には、古代の弘安寺跡の礎石が今でも規則正しく並んでいます。
DSC00923
        弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

また出土した白鳳時代の瓦は、善通寺のものと関連があり、阿波郡里廃寺の瓦と同笵である事を以前に紹介しました。ここには、もうひとつ見るべきものがあります。それが十三仏笠塔婆です。

DSC00918
弘安寺跡の十三仏笠塔婆

柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面 上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面 上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
十三の仏が笠塔婆に彫られているので十三仏笠塔婆というようです。この石造物には、年号があるので16世紀初頭のもとのと分かります。この時期は、細川家の内紛に発した永正の錯乱に巻き込まれ、在京中だった香川・安富・香西などの棟梁が討ち死にし、その後も讃岐の国人武士達が動員されていた時代です。その時代まで、弘安寺は存続していたことがうかがえます。そうだとすれば、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことになります。 

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑 - 石造美術紀行
 奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

話を十三仏笠塔婆にもどします。私は、この塔については何も知らないので、周辺知識をまずは集めていこうと思います。
同じような塔が、天霧山の麓の萬福寺(善通寺市吉原町)にあるようです。その報告記を、まずは見ていきたいと思います。テキスト「海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年」です。
萬福寺
萬福寺(善通寺吉原町)
 萬福寺は、さぬき三十三観音の霊場で、中世の讃岐西守護代香川氏の詰城があった天霧山の東山麓にあります。丸亀平野の西の端に位置して、目の前に水田地帯が拡がります。

萬福寺2
萬福寺境内から望む五岳
南側には吉原大池に源をもつ二反地川が、多度津白方方面に流れ、東側には東西神社が鎮座し、西側には十五丁の集落が旧道沿いに並んでいます。位置的には、萬福寺は十五丁集落の東端になります。また、天霧石の採石・加工場であった牛額寺が西奥にあります。
 開基は行基とされますが、不明です。もともとは吉原町本村寺屋敷にあったようですが水害を避けるため現在地に移転したと伝わります。移転時期は『讃州府誌』には正徳元(1711)年、別の記録では天正年間(1573~91)とされます。

東西神社
萬福寺に隣接してある東西神社  
『全讃史』には、「東西大明神の祠令なり」と記されています。東西神社は中世後半の中讃一帯を支配下においていた香川氏の氏神でした。萬福寺は、東西神社の別当寺として栄えていたことが推測できます。
本尊は行基菩薩の作と伝えられる聖観世音菩薩像と馬頭観世音菩薩像であります。馬頭観音が本尊である事は、押さえておきます。現在は讃岐三十三観音霊場第二十四番札所になっています。

さて笠塔婆・十三仏とは何なのでしょうか? 
①基礎の上に板状、あるいは角柱の塔身を置き、
②塔身に仏像などの種子や名号・題目などを刻んで、
③その上に笠をのせ、頂上に宝珠、もしくは相輪を立てた塔
笠塔婆

 板碑の先駆となる石塔で、平安後期に姿を見せ始め、鎌倉後期以降には多くの笠塔婆が造られたようです。最初は、追善供養や逆修供養のために造られますが、時代と共に、五穀豊穣、国家安泰、国土安全などの民衆の信仰心が深く刻まれるようになります。笠塔婆は、その後に登場する板碑の原型でもあり、同時に現在の角柱墓標などの原型ともされる石造物のようです。一番古い笠塔婆は、熊本市本光寺の安元元(1175)年のものとされます。

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真言宗の十三仏
十三仏とは、死者の初七日から三十三回忌までの法事の時に本尊とする十三体の仏・菩薩のことです。
初七日は不動明王、
二七日は釈迦如来、
三七日は文珠菩薩、
四七日は普賢菩薩、
五七日は地蔵菩薩、
六七日は弥勒菩薩、
七七日は薬師如来、
百か日は観世音菩薩、
一周忌には勢至菩薩、
三回忌には阿弥陀如来、
七回忌には阿問如来、
十三回忌には大日如来、
三十三回忌には虚空蔵菩薩
 十三仏笠塔婆は、このような十三仏信仰が基にあります。
寺の門前や村の入口、辻などに立て、先祖の冥福と仏の加護による招福除厄を祈ったのがもともとの起源のようです。成立根拠は経典にはなく、日本で独自に生まれた民間信仰なのです。そのため宗派と直接的な関係はありませんが、真言宗では檀信徒の日用経典にも十三仏の真言が取り入れられるなど、最も密接な宗派となっているようです。
 その出現当初には、九仏や十仏などいろいろな数の仏が描かれたようですが、室町期になると十三仏に定型化します。その中で在銘最古のものは、河内と大和の国境の信貴山にあります。ここと生駒山周辺に十三仏石造物は密集していので、このエリアを中心に全国に普及していったと研究者は考えています。こうして先祖供養と現世利益の両面から十三仏信仰は、庶民の間に広がって行きます。近世になると、十三仏を祀る寺院の巡拝が盛んに行われるようになります。これだけの予備知識を持った上で、萬福寺の十三仏笠塔婆を見ていくことにします。

萬福寺
萬福寺本堂への階段

十三仏笠塔婆は、階段を登った本堂横の墓地内に安置されています。
笠塔婆は南側を正面にして立てられています。基礎・塔身・笠はもともとのものですが、笠は別部材の可能性があると研究者は指摘します。部材ごとの研究者が観察所見を見ておきましょう。

万福寺笠塔婆正面
萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

 基礎は、
①高さ31cm、幅51cm、奥行き52cm。平面はほぼ正方形。
②どの面もやや粗く整形され、上面は斜めに緩く傾斜。
③石材は火山、天霧山麓に分布するの弥谷Aと分類されている
 塔身は、
④高さ71cm、幅35、奥行き35cmの直方体。
⑤側面に大きな月輪があり、加工当初から正面を意識していた可能性が高い。
⑥塔身には、方向にいろいろな印刻あり。
⑦正面(南面)には、十体以上の仏の略像が印刻
⑧略像は五段形式で、上段中央に1体、その下段に3体ずつ横並びで、3段まで確認できる。
⑨下部は剥落して確認は出来ないが、さらにもう1段があった。
⑩つまり、上段から順に1・3・3・3の計13体の略像が陰刻されていた
以上から、この塔が十三仏信仰に基づいて作られた笠塔婆であると研究者は判断します。
萬福寺十三仏笠塔婆実測図
           萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

ここに刻まれている略像を、研究者は次のように推察します。
①最上段が虚空蔵菩薩、
②2段目が左側から順に大日如来・阿悶如来・阿弥陀如来、
③3段目が勢至菩薩・観音菩薩・薬師如来、4段目が弥勒菩薩・地蔵菩薩・普賢菩薩、
④欠損している最下段には、文殊菩薩・釈迦如来・不動明王
これらは右下から左へ右上への順に並んでおり、千鳥式に配列されていると研究者は考えています。
 右側面(東面)には、上端から21cmの所に、直径約15cm、幅1,5cmの月輪が箱彫りされています。 左側面(西面)にも、上端から21cmの所に、右側面とほぼ同じ大きさの月輪が刻まれています。その下側には3行にわたり縦書きで次のようにあります。
 「永正五口(年?)」
 「戊口(辰?)」
 「八月升二日」
 この年号から室町時代中期末の永正5(1508)年に造立されたことが分かります。まんのう町の弘安寺のものが永正16年(1519年)9月21日でしたから、それよりも10年近く前に作られています。
背面(北面)には、なにも彫られていません。石材は、基礎と同じもので、同一の石塔部材と研究者は考えています。
 笠は、
①幅65cm、高さ31cm、軒厚は中央で9cm、隅で11cm
②笠幅と高さのバランスは比較的取れており、全体的に均整な形状
③軒四隅の稜線の反りは殆どなく、軒口は若干斜めに切られている。
④石材は灰褐色の火山傑凝灰岩で、安山岩と玄武岩の爽雑物を含む。
作者が指摘するのは笠の石材が基礎・塔身とは、同じ天霧石ですが異なる性質の石材が使われいることです。見た目には基礎・塔身とほぼ一致するように見えますが、石材が異なることから本来は別の部材であった可能性を指摘します。寺院が移転した時に、この笠塔婆も移動したはずです。その際に別の石造物の笠と入れ替わった可能性があるようです。しかし、笠のスタイルや塔身の年代に大きな時期差はありません。同時期の複数基の石造物があって、その間で入れ替わったとしておきましょう。以上から、この十三仏笠塔婆は、讃岐では銘のあるもっとも古い三仏笠塔婆だと研究者は判断します。
十三仏笠塔婆
まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆 

讃岐で他に紀年銘があるのは、まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆で、永正16(1519)年9月21日銘でした。
この石造物も萬福寺と同様に1・3・3・3・3の5段形式の十三仏略像で、その上部には天蓋が線刻されています。左右側面には月輪が、その内部には大日如来の種子が刻まれているなど、萬福寺例と比べて丁寧に作られています。そして、紀年銘に加えて四條村一結衆との文言もあり、造立者が推定できます。

萬福寺笠塔婆2
          萬福寺十三仏笠塔婆
この他に讃岐で笠塔婆スタイルの十三仏石造物は、次の3つがあります。
善通寺市吉原町牛額寺奥の院、
丸亀市本島町東光寺、
三豊郡詫間町粟島梵音寺
これらには紀年銘がありませんが、笠部スタイルから室町中期以降のものとされます。これらの分布位置を見ると讃岐の十三仏笠塔婆は、全てが中讃地域に分布していることになります。また、その内の2つが本島と粟島という塩飽の島です。
  このことからは塩飽諸島を拠点として海上輸送業務などで活躍した勢力が十三仏信仰と密接に関わっていたことがうかがえます。そこに、十三仏信仰を伝えた宗教集団として思い浮かぶのは次の通りです。
①庄内半島までの沿岸や塩飽に教線を伸ばしていく多度津の道隆寺
②児島を拠点に瀬戸内海に教線を伸ばす五流修験
③多度津を拠点に、瀬戸内海交易で利益を上げようとする香川氏
④高野聖や念仏聖などの活動拠点であった天霧山背後の弥谷寺
⑤弥谷寺信仰の瀬戸内側の受口であった多度津白方の仏母寺や海岸寺の前身勢力。
 対岸の吉備地域と比較検討が進めば、中世の十三仏信仰の受容集団や信仰のあり方などが見えるようになってくるかもしれません。

誰が造ったのか?

 讃岐の5つの十三仏石造物は、どれも天霧山周辺の凝灰岩で作られています。ここからは、弥谷寺や牛額寺の石工集団がこれらを制作したことが推測できます。彼らは、多量に五輪塔を作って、三野湾を経て瀬戸内海全域に供給していたことが分かっています。しかし、十三仏石造物は、讃岐で5つだけで、数が少ないので、造立者の注文でその都度、オーダーメードで製作したのかもしれません。
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院墓地で弥谷寺産天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部からの流入品である五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
萬福寺の十三仏笠塔婆が制作されたのは、Ⅱ期にあたります。
中世讃岐石造物分布表
讃岐中世の主要な石造物分布図
最後に萬福寺の十三仏笠塔婆をめぐる「物語」をまとめておきます。
①管領細川氏の讃岐西守護代とやってきた香川氏は、多度津に拠点を構え、天霧城を山城とした。
②細川氏は氏神を東西神社、氏寺を弥谷寺として保護した
③氏寺となった弥谷寺には、数多くの五輪塔が造られ安置された
④弥谷寺周辺には、凝灰岩の採石場が開かれ専門の石工集団が活動するようになった。
⑤弥谷寺の石工は、坂出の白峰寺の石造物造営などに参加する事で技術を磨き成長した。
⑥弥谷寺石工集団は、三野湾から瀬戸内海エリア全体に石造物を提供するようになる。
弥谷寺 石造物の流通エリア
           天霧石製石造物の流通エリア

このように、香川氏の保護の下で成長した石工集団がいたことが、弥谷寺や牛額寺の採石場の存在からうかがえます。そこに、十三仏信仰という新たなモニュメントが宗教集団によって持ち込まれてきます。それを最初に受けいれたのは、塩飽の海上運輸に関わる人たちだったのでしょう。彼らが天霧山周辺の石工に制作を注文します。そこで、作られたものが自分たちの島に安置されます。同時に、香川氏の縁のある寺院にも寄進されたと私は推察します。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年
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永井出水
善通寺市の永井出水(清水)と伊予街道

  旧伊予街道と丸亀城下町から多度津葛原を抜けて新池から南下してくる道が交わるところに出水が湧き出しています。これが永井出水(榎之木湧)です。伊予街道沿いにあるために多くの人達に新鮮な水と、休息の場を提供してきました。今回は、この湧水の周辺にあった馬継所と茶屋を見ていくことにします。

多度津街道ルート4三井から永井までjpg
永井周辺の金毘羅街道と道しるべ

この湧水のある永井は、金毘羅街道と伊予街道が交わる所でもあります。そのため周辺には道標が多いようです。「こんぴら街道の石碑」の所には、折れた鳥居の石柱が残っていることは以前にお話ししました。また、金毘羅街道が南に折れる所にも、いくつもの道しるべが民家の庭先に建っています。
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永井の金毘羅・伊予街道合流点の折れた鳥居の石柱 上図番号12

 今日、お話しするのはさらに東に行った所にある永井の出水(榎之木湧)です。

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永井の出水(榎之木湧)

丸亀平野は、もともとは土器川や金倉川の扇状地です。そのため水はけがよくて、凹地には出水が至るところから湧きだしています。それが弥生時代から人々の生活用水や水田の灌漑につかわれてきました。

長井の出水
        永井の清水(榎之木湧:金毘羅参詣名所図会)

 この出水めがけて、条里制に沿って伊予街道が伸びてきます。
旧街道で四国一周!(1)伊予街道 その①高松城~鳥坂峠_d0108509_11501950.jpg
                伊予街道
この街道は、丸亀城下はずれの中府口(丸亀市中府町)から田村を通り、善通寺地域の原田・金蔵寺・永井・吉原・鳥坂を経て道免(高瀬町)に入り、新名(高瀬)→ 寺家(豊中町)→ 作田(観音寺市作田町)→ 和田浜(豊浜町)→ 箕浦を経て、伊予川之江へとつながります。
 江戸時代には、その途中に次のような5ヶ所に馬継所が置かれていました。
  中府村・下吉田村永井・新名村・寺家村・和田浜村

馬継所とは問屋場とも呼ばれました。
第37回日本史講座のまとめ④ (交通の発達) : 山武の世界史
「人馬宿継之図」と題された上絵には、馬継所の前で荷物を馬から降ろし、新しい馬に積み替えています。

藤枝 人馬継立|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画
拡大して見ると武士の供が宿役人に書類を提出したのを、宿役人が証文と思われる文書を確認しているようです。
藤枝 東海道五十三次 歌川広重 復刻版浮世絵
    荷物を積み替える雲助と、役目を果たし煙草一服の雲助

このように、
馬継所(問屋場)では、荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていました。東海道の各宿では、100頭の伝馬と100人の伝馬人足を置くことが義務づけられていました。伝馬朱印状を持つ者がやってきたら伝馬を無料で提供しなければなりません。その代わりに、宿場は土地の税金が免除されるなどの特典や、公用の荷物以外は有料とし、その際の駄賃稼ぎが宿場の特権として認められていたようです。この小型版が伊予街道にも次のように配置されていました。
①丸亀船場から永井までが二里
②永井から新名までが二里半
③新名から寺家までが二里
④寺家から和田浜までが二里半
だいたい2里(約8㎞)毎に、設置されていたようです。永井の馬継所についた雲助達は、そこにある出水で喉を潤し、汗を流し落としたことでしょう。

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永井の出水
各馬継所間で荷物を運送する人足や馬へ支払う「人馬継立賃」は、次のように定められていました。
(明治維新の翌年の1869年の「人馬継立賃」)
二里半区間 人足一人につき五匁、馬一頭につき一〇匁で
二里区間  人足一人につき四匁、馬一頭につき 八匁
1870年には、永井馬継所運営のために、給米内訳が下表の通り支給されています。この表からは次のような事が分かります。

永井馬屋の経費表
①永井馬継所の給米は28石5斗で、「日用御定米」日用銀(米)のうちから出費される
②内訳は夜間の「状持」(公的書状送届)のため大庄屋へ1石2斗
③新菜・中府馬継所の大庄屋への状持をそれぞれ2石5斗と2石
④残りの22石8斗が、帳附者と御状持運者へ配分。
 ①の「日用銀(米)」は、年貢以外に村落維持のための費用を農民から徴収したもので、丸亀藩がこれを管理して必要に応じ村落へ支給するようになっていました。
④の「帳附者」は、公的荷物の運搬に従事する「運輸従事者(雲助)」のことです。「御状持運者」とは、各大庄屋への書状配達人足のようです。
   永井の馬継所は、どこにあったのでしょうか
永井御茶屋から少し西に行った元郵便局の辺とされ、伊予街道と旧多度津道の交ったところになります。そこには今は「お不動さん」があり、「屏風浦弘法人師御誕生所善通寺道」と刻まれた道標が建っています。
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永井出水に立つ道標(東高松 西観音寺)
馬継所は明治3(1870)年8月に廃止されます。換わって、新たに丸亀浜町と新名村と和田浜村に駅逓所が設置されたようです。(以上、亀野家文書「駅場御改正記」)

 永井出水周辺には、もうひとつ公的な建物がありました。

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出水には「榎之木湧(えのきゆう」と書かれた説明板が建てられています。 この説明版からは次のような事が分かります。
①出水は地域住民の飲料水だけでなく、下流17㌶の水田の灌漑用水でもあること
②お殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名付けられた茶屋があったこと
③その名物が、ところてんであったこと
永榎亭という茶屋がいつごろからあったのかは分かりませんが、1852(嘉永5)年に、下吉田村の永井茶屋番だった又太郎が居宅建替のための援助金を藩に、要望した時の口上書が残っています。

永井茶屋口上書嘉永5年
永井茶屋番・又太郎の茶屋建替のための口上書
  恐れ乍ら願い上げ奉る口上の覚
一    私万
往昔宝永年中、永井御茶屋御番仰せ付かせられ、有難く恐請し奉り、只今の処え転宅仕り、今年迄几百五拾ヶ年計、数代御蔭を以って無事二御番相勤め居り申し候、且天明八の頃居宅建替の節、御上様ぇ御拝借御願申し上げ候処、願の通仰せ付かせられ候、其後右御下ヶ銀下され二相成り候様申し伝え承り居り申し候、又候文政四の頃台所向建替仕り、其後天保九成年御巡見様御通行の節、座敷向御上様より御造作成し遣せるれ、誠二以て冥加至極有り難き仕合二存じ奉り候、取繕も度々の儀一付、手狭一仕り度くと存じ候得共、御上様初土州様御通駕の節、手狭二ては御差支え二相成り候間、下地の通り建替仕り度く、御存じ在らせられ候通、蟻地二て又々居宅残らす蟻人波り極人破に及び、瓜山の節ハ最早崩込の伴も計り難く、忽捨置き難く実二方便余力御座無く、心底に任せず御時節柄恐れ入り奉り候得共、前文の次第二付此度建替仕度候得共、親共代より色々不仕合相続き、■は近年世上一統世柄も悪敷、売外も不景気二て別て困窮仕り、何共恐れ多く申し上げ奉り兼候得共、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応の御ドヶ銀仰せ付かせられ下され候様願い上げ奉り候
  意訳変換しておくと
私どもは、宝永年間(1704~11)に永井茶屋の御番を仰せ付かって、現在地に転居しててきました。御蔭を持ちまして150年余り数代に渡って、無事に御番を勤めて参りました。
 天明の頃に、居宅建替の時には、御上に御拝借をお願申し上げたところ、銀を下されたと伝え聞いています。また文政4年の台所建替、天保9成年御巡見様の通行の時には、座敷を殿様より造作していただき、誠に以て冥加の極りで、有り難き仕合と存じます。
 修繕も度々におよび、手狭になって参りました。殿様をはじめ土佐の参勤交替の際にも、差支えがでるようになりました。そこで図面の通り、建替を考えています。今の居宅は、全体に白蟻が入り込み、大風の時には倒壊の恐れもあり、このまま放置することは出来ない状態です。ここに至っても、時節柄を考えると大変恐縮ではありますが、別途計画書の通り建替を計画しました。親の代より色々と御世話になり、近年は世情も悪く、売り上げも不景気で困窮しております。恐れ多いことではありますが、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応のご援助をいただけるように願い上げ奉ります。
ここからは次のようなことが分かります。
①「往昔宝永年中永井御茶屋御番仰せ付かせらる」とあるので、18世紀初頭の宝永年間には、ここに茶屋が開かれていたこと
②丸亀の殿様以外にも、土佐の殿様の参勤交替の際にも利用されていたこと
③過去には茶屋兼居宅の建て替え、台所建替、座敷の造作などに藩からの援助があったこと。

この1852(嘉永5)年の居宅建替援助願は、丸亀藩の認めることにはならなかったようです。それは2年後の1854(安政元)に、藁葺の茶屋番居宅が地震で破壊したために「元来蟻付柱根等朽損、風雨の節危く相成居候」と居宅を取り壊して小屋掛にすることを願い出ていることから分かります。白蟻の入った茶屋は、地震で倒れたようです。
金比羅からの道標

 茶屋の修理についてはその都度に、下吉田村の庄屋から藩に報告書が提出されています。その史料から研究者は、茶屋を次のように「復元」しています。
表門・駒寄せを設け、黒文字垣・萩垣・裏門塀をめぐらし、屋根は藁葺。庭には泉水があった。建物の内容は上ノ間(四畳半)・御次ノ間(六畳)があり、台所が附属し、雪隠・手水鉢が備えられていた。

それから約20年後、1871(明治4)年5月に茶屋番の仲七は茶屋敷地と立木の払下を要望書を次のように提出しています。
  一此の度長(永)井茶屋并に敷地立木等、残らず御払下ヶ遊ばせらる可き旨拝承し奉り候、然る二私義以来御茶屋御番相勤め、片側二て小居相営み渡世仕り居り候所、自然他者へ御払下け二相成り候様の義御座候ては、忽渡世二差し支え、迷惑難渋仕り候間、甚だ以て自由ヶ間敷恐れ入り奉り候得共、御茶屋敷地立木共二私え御払下け仰せ付かせられ下され候ハヽ、渡世も出来望通二有り難き仕合存じ奉り候、何卒格別の御慈悲フ以て、御許容成し下させ候様、宜敷御執成仰せ上げられ下さる可く候、以上
明治四年未五月          御茶屋番     仲 七
庄屋森塚彦四郎殿
意訳変換しておくと
  長(永)井の茶屋と敷地の立木を、残らず払下ていただけるように申請いたします。私どもは茶屋番を長らく務めて、茶屋の傍らに小さな住居を建てて生活を立てて参りました。これを他者へ払下げられては、生活に差し支えが出て難渋し、困窮いたします。ついては恐れ入りますが、茶屋敷地と立木を私どもへ払下げていただければ、これまで通りの生活も送れます。何卒格別の慈悲をもって、聞き届けていただけるようお願いいたします。
明治四年未五月      御茶屋番     仲 七 印
庄屋森塚彦四郎殿
ここからは20年前に倒壊した茶屋に代わって、仲七が小屋掛けにして営業していたことが分かります。そのため敷地や立木を自分たちに払い下げて欲しい、そうすれば今まで通りの「渡世(生活)」が送れると陳情しています。先ほど見たように1870(明治3)年8月に、永井馬継所は廃止されています。そのため永井茶屋も払い下げられることになったようです。この払下願は下吉田村庄屋森塚彦四郎から弘田組大庄屋長谷川邦治へ出され、さらに長谷川邦治から藩へ提出されたはずですが、その結果を伝える史料は残されていないようです。(以上、長谷川家文書「諸願書帳」)
DSC06484
永井出水
以上をまとめておくと
①伊予街道の善通寺市永井には榎之木湧があり、そのそばに殿様の休息のための茶屋があった。
②茶屋は、ところてんが名物で、殿様だけでなく街道を行き交う人々の休息場所でもあった。
③しかし、幕末に立て替えられることなく地震で倒壊した。その後は、小屋掛けで営業をしていた。
④明治になって跡地売買の話が持ち上がり、営業主から跡地の優先的払い下げを求める申請書が残っている。
⑥永井は、伊予・金毘羅街道が交差する所で、馬継所や茶屋があり、街道を行き交う人に様々なサービスと提供していた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   永井の馬継所と茶屋  善通寺市史NO2 266P
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  「郡庁」というのは、今の私たちにとっては馴染みのない言葉です。今の郡は、単なる地理的な区割りとしてしか機能していません。しかし、明治の郡には、郡長がいて郡庁もありました。例えば仲多度郡にも郡庁があり、それは善通寺に置かれていたというのですが、それがどこにあったのかについては、私はよく分かっていませんでした。善通寺市史第三巻を見ていると、仲多度郡郡庁の変遷や当時の写真なども掲載されています。そこで今回は、仲多度郡の郡庁を追いかけてみようと思います。テキストは、「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」です。

 香川県は、愛媛県から独立し「全国で最後に生まれた県」です。その香川県に、現在の郡が登場してくるのは、1899(明治32)年4月1日の次の法律によってです。
 朕帝國議會ノ協賛ヲ経タル香川縣ド郡廃置法律ヲ裁可し茲二之ヲ公布セシム
御名御璽
明治三十二年三月七日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋
内務 大臣 侯爵 西郷従道
法律第四―一琥(官報三月八日)
香川縣讃岐國大内郡及寒川郡ヲ廃シ其ノに域ヲ以テ人川郡ヲ置ク
香川縣讃岐國大内郡及山田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ木田郡ヲ置ク
香川縣讃岐國阿野郡及鵜足郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ綾歌郡ヲ置ク
香川縣讃岐國那珂郡及多度郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ仲多度郡フ置ク
香川縣讃岐國三野郡及豊田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三豊郡ヲ置ク
附 則
此ノ法律ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス 
 これに小豆郡と香川郡の二つの郡と、高松市と丸亀市を加えて、香川県は二市七郡で構成されることになります。こうして現在の私たちに馴染みのある郡名が出そろうことになりました。そして丸亀平野では、那珂・多度郡の統廃合と同時にその一部を割いて丸亀市が置かれることになります。
それでは、仲多度郡の郡庁は、どこに置かれたのでしょうか?
それまでは、那珂郡・多度郡の2郡にひとつの「那珂多度郡役所」は、城下町のあった丸亀に置かれていました。従来の政治機能が丸亀に集中していたので、その方が色々な面でやりやすかったのでしょう。
 この法律によって生まれた仲多度郡役所は、善通寺村に置かれると決まっていました。しかし、当時の善通寺は十一師団設置にともなう建設ラッシュ中で、地価急騰と建設費も急上昇中でした。郡庁舎を建設する財源もなかったようです。そこで、城下町だった丸亀市に今まで通り「仮住まい」ということになります。
 郡庁舎は、いつから善通寺に置かれたのでしょうか?
『仲多度郡史』には、1903(明治36)年2月6日の記録に、次のように記されています。

「大字上吉田(停車場の西方)の民家を借用して其の事務を執れり」

「停留場」というのは、善通寺駅のことです。ここからは日露戦争が始まる前年には、善通寺駅の西方の民家に郡庁舎が丸亀から移ってきていたことが分かります。

11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
        駅前通り南側の航空写真(1920年代)
そして、日露戦争後の1906(明治39)年12月28日には、次のように記されています。
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。前に丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在りしも、執務の不便言ふへからさるものありしか爰に梢々官署的借家成るに及び此の日を以て移転せり」
 
  意訳変換しておくと
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。以前に丸亀より移転し約5年間仮舎住まいであったが、執務上の不便さも増してきたので、今回「官署的借家」に、移転することになった。

ここから次のようなことが分かります。
①「丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在り」とあるので、丸亀からの移転が1901年であったこと
②善通寺駅西側から輜重隊の南側に、「官署的借家」を確保して移転してきたこと

「輜重隊」は、現在の「郵便局+自衛隊の自動車教習所+あけぼの団地」のエリアになります。その南側となりますから現在の東中学校あたりになります。
さらに1908年1月の香川新報は、郡役所庁舎の落成を次のように報じています。
「同郡役所は既記の通リ善通寺町の字條字治郎氏が同町輔重兵南側に建築中の処落成、旧所移転せしか、昨四日移転式と新年祝賀会を行ふ、出席者は土屋師団長、小野田知事以下百餘名なりし

意訳変換しておくと
「仲多度郡役所は既報の通り、善通寺町の字條字治郎氏が輔重隊南側に建築中の建物が落成したので、旧所から移転した。昨日四日に移転式と新年祝賀会を行われた。出席者は土屋師団長、小野田知事始め、百名あまりであった。

 十一師団長の方が、知事よりも前に来ています。当時は師団長の方が格上であったようです。
十一師団配置図3
十一師団配置図(1922年)
「1912(明治45)年7月2日の『香川新報』には、「善通寺町の火事」の見出しで次のような記事があります。

「普通寺町生野糧秣吉本商會事吉本乙吉の倉庫より三〇日午后六時四〇分頃発火せしが秣(まぐさ)は乾燥し居れば見る見る大火となり其ノ前は道路を隔てて輜重隊あり而も手近く火薬庫あるより……又仲多度郡役所は直の隣なるを以て類焼ありてはと御真影を始め諸書類器具を出す事に大に雑踏せしが……」

意訳変換しておくと
「普通寺町生野糧秣(りょうまつ)吉本商會の吉本乙吉氏の倉庫より30日午後6時40分頃に出荷。馬用の秣(まぐさ)は、乾燥していて見る見るうちに大火となった。倉庫の前は道路を隔てて輜重隊で、近くには火薬庫ある。(中略) また仲多度郡役所は、すぐ隣ななので類焼の恐れがあるために御真影を始めとする諸書類や器具を運びだしたりして、周辺は火事場の騒ぎとなった。」

 とあり続いて、鎮火は八時半、損害倉庫3棟全焼一棟半焼、株2万6000貫で被害額は5000円、火災の原因は不明と結んでいます。仲多度郡役所への類焼は免れたようです。
広島の建築 arch-hiroshima|広島市郷土資料館/旧陸軍糧秣支廠缶詰工場
陸軍の糧秣缶詰工場(広島郷土資料館)
 糧秣とは、兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を指す軍事用語のようです。輜重隊は師団に必要な食料から一切のものを調達するのが任務でした。そのため缶詰や乾パンなどの食糧も民間から購入していました。出火した「糧秣吉本商會事」も、輜重隊に「糧秣」を納めていた会社だったのでしょう。そのため輜重隊南側(現在の東中学校)に、全部で4棟の倉庫を持っていたことが分かります。輜重隊の周辺には、師団御用達の酒屋や八百屋、衣料品店などが軒を並べるようになったことは以前にお話ししました。吉本商會も糧秣を納める会社であったようです。
偕行社航空写真1922年
輜重隊周辺(南側が現東中学)

この記事から次の2点に注目して郡庁舎の位置を類推してみます。
①道を隔て、軸重隊があり、近くに火薬庫がある
②吉本商會の倉庫に隣接して仲多度郡庁舎がある
①の火薬庫跡は、現在のシルバー人材センターになるようです。以上から、仲多度郡郡庁や吉本商会は、現在の東中学校附近にあったことが分かります。
1916(大正5)年4月1日 郡役所は、生野から上吉田の皇子の森に新築移転します。『仲多度郡史』は、その経緯を次のように記します。
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎及議事堂建築工事に着手す。郡庁舎の建築は多年の.懸案なりしも其ノ機容易に熱せさりしか、昨年通常縣會に於て之か議決を見るに至り、漸く宿望を遂くるの機運に到達するや本郡に於ても、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築の議を可決し爾来位置の選定土地の買収設計の作製、工事請負人札等に数月を費し、此に交通最も便利なる面かも老松森々として高燥なる皇子の森の地を得て、此の同地鎮祭を挙げ以て其の工事を起すに至れり」。

意訳変換しておくと
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎と議事堂の建築工事に着手した。郡庁舎の建築は多年の懸案であったが、その機はなかなか熟さなかった。そのような中で昨年、通常県会で建設に向けての議決が行われた。これを受けて、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築議案を郡会議でも可決し、位置の選定・土地の買収・設計の作製、工事請負人札等などに数ヶ月を費してきた。善通寺駅に近く、交通も便利で、老松森々生い茂る皇子の森の地を得て、ここに地鎮祭を挙げ起工式に至ることができた。

 新たに郡庁と議事堂が建設されることになった「皇子の森」とは、どこにあるのでしょうか?

皇子の森2
  仲多度郡庁が新設された皇子の森
今は児童公園になっていますが、どうしてここにこれだけの広さの土地が公園として確保されているの以前から疑問に思っていたところです。旧郡庁跡だったと言われると納得です。
 1916(大正5)年3月には、郡役所庁舎の落成と庁舎の規模等について次のように記します。  
「三月三十一日新築郡聴舎落成に至りたれは、本部役所を皇子の森に移転し、四月一日より新庁舎に於て事務を執れり。四月二六日御大礼記念事業として新築したる、本郡議事堂既に竣工し、郡役所も亦新廃合に執務する等総て完成を告けしかは、此の日議事堂に於て、其ノ落成式を行ひたり。来賓として若林知事、蠣崎師団長を始め、各郡市長縣郡会議員町村長及び地方各種団体名望家等三百余名の参列ありて、壮大なる式を挙げ、記念絵はがき郡案内記を配布し盛宴を開きたるに、各自歓を盤して本郡の発展を祝せり。

仲多度郡議事堂
仲多度郡議事堂
今建物の概要を挙くれは、議事堂は其の敷地二百六十五坪、本館木造平家建てにて、建坪百八坪、附属渡廊下一棟、厠一棟、正門及び周囲の石垣、土畳等、総工費6978円を要せり
仲多度郡役所
仲多度郡庁舎
 郡庁舎は其ノ敷地六百六十七、本館木造平屋建にして百二十七坪、附属小使室、物置二棟、渡り廊下、厠各二棟。倉庫一棟、掲示場一。門一。土畳及盛土等総て費金一万一千二百十四円餘を要せり。
(郡庁舎敷地は、元官有地なりしを善通寺町に払受けて寄附したるものなり)而して建物の地形は土を以て築き、屋上には塔及窓を設けて室内の換気を能くし蟻害豫防の為め背面の床下を開放し、避雷針を設くる等、構造堅牢にして、採光通風共に十分なり。敢て輸奥の美なしと雖も結構全く備はれり。又多数庭樹の寄贈ありて、春光秋色執務の疲労を資くるに足るへく実に縣内有数のものと云ふへし」。
こうして完成した仲多度郡の庁舎と議事堂ですが、その役割は短いものでした。郡制が廃止され、郡長や郡役所が不用になってしますのです。香川県に郡制の施行されたのは1899(明治32)年7月1日のことでした。以来、郡は地方自治団体として郡会を開いてきましたが、徴税権がありませんでした。そのため町村が郡費を分担して負担してきました。
 一方で、町村側から見れば郡はほとんど仕事らしい仕事をしておらず「無用の長物」と見えました。そのため廃止すべきという意見が年々高まります。香川県市町村長会でも1920(大正19)年11月、衆議院・貴族院両院議長、内閣総理大臣、内務大臣に宛てて「郡制廃廃止二関スル請願」を行っています。これを受けて1921(大正10)年に、郡制廃止法案が衆議院で可決されます。その提案理由は、次の通りです。
①郡制施行以来、郡自治にはみるべきものがない。
②模範にしたプロイセンとは異なり、我が国では住民の自治意識が弱く、必要性が少ない。
③各郡事業を府県や町村に移せば、事務を簡略化できる
④郡費負担金がなくなり、町村財政にプラスになる。
「郡制廃止二関スル法律」が公布されたのち、その施行期日は1921年4月1日と定められます。しばらく郡長や郡役所は存続しますがが、1926年7月には、それも廃止されて、郡は単に地理的名称となります。つまり、仲多度郡庁の建物は作られて実質5年で、その存在意味を無くしたことになります。
しかし、新築の建物にその後の使用用途はありました。
1928年6月1日からは、庁舎は善通寺警察署として使用
1932年9月1日からは、議事堂は香川県善通寺土木出張所が1960年まで使用。

最後に郡庁舎の移動変遷をまとめておくと
①仲多度郡成立後も、しばらくの間は丸亀に置かれていた
②1901年に丸亀から移動し、善通寺駅の西方の民家を5年間庁舎としていた
③1906年に輜重隊の南(現在の東中あたり)の貸屋に移った
④1916年に庁舎と議事堂が完成。場所は皇子の森
⑤1926年7月に郡制が廃止され閉庁
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」

11師団の成立過程を追いかけています。今回は、次の2点に絞って「善通寺陸軍病院」を見ていこうと思います
①「おとなとこどもの医療センター」の原型が、どのようにしてつくられたのか
②設立されたばかりの病院が日露戦争に、どのように対応したのか
テキストは「陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わリー  善通寺市史NO3 602P」です。

まず11師団の各隊の供用年代を下表で確認しておきます。
十一師団建築物供用年一覧


表の一番最初に「丸亀衛戌(えいじゅ)病院」明治30(1897)年7月5日と供用開始年とあり、明治37(1904)4月1日に善通寺衛戌病院と改称されたことが記されています。衛戍とは、軍隊が駐屯することを表す法律用語で、英語のGarrison(駐屯地)の訳語になるようです。
11師団配置図
⑨が善通寺病院 ⑩が練兵場

善通寺師団の創設決定が1896(明治29)年に決定されると、その7月に病院用地として伏見に27000㎡(8100坪)の土地⑨が買収されます。病院建物については、政府は各営舎が出来た後に着手する予定でした。しかし、「兵士入隊後では不都合」と軍の方から突き上げられて、着工が決まります。そのためか用地もすこし奥まった伏見の地が選ばれます。そして翌年の1897(明治30)年4月着工し、7月には、善通寺丸亀衛戍病院の名称で開院することになります。これは建物の一部だけだったようで、11月に第一病棟、翌年に、さらに土地を買収して35000㎡(10700坪)となり、二病棟、炊事棟が完工。1899年に2階建の本館、被服庫、平屋の三病棟、五病棟、病理試験室等が姿を見せ、病院としての体裁をととのえていきます。
「善通寺陸軍病院(伏見分院)」と名称変更。(昭和初期の絵葉書)
善通寺衛戍病院
当時の陸軍病院の建物設計については、陸軍軍医部によって定められていた「鎮台病院一般の解」という設計基準書があったようです。これに基づいて、日本陸軍工兵第三方面(隊)が、軍医部やフランス軍事顧問団などから助言を受けながら設計していたようです。
現在明治村に一部が移築されている「旧名古屋衛戍病院」(1877年竣工)について、研究者は次のように述べています。

名古屋衛戍病院(明治村)
名古屋衛戍病院(明治村)
  管理棟と病棟に共通する仕様は、切石積の基礎、木造大壁造漆喰塗、寄棟桟瓦葺、上げ下げ窓、病室の四周を囲む回廊付き、である。漆喰壁の下地は名古屋鎮台歩兵第六聯隊兵舎と同様に木摺り斜め打ちで、一部に平瓦が張られて下地となっている。
管理棟正面には、桟瓦葺で緩い起(むくり)破風の玄関が突き出され、玄関の柱はエンタシスのある円柱である。広い玄関ホール中程から板床に上がり、その高さのまま各室、中庭の回廊へ連絡している。管理棟内には、医局、薬剤室、理化学研究室などがあった。背面回廊に面する窓は引き違いである。
名古屋衛戍病院病棟(明治村)
名古屋衛戍病院の病棟
病棟は寄棟屋根に換気用の越屋根を載せる。病棟外部回廊の大半は創建当初吹き放ちの手摺付であったが、後に改造され、ガラス入り引違い戸が建てこまれている。換気装置は病棟内の天井に畳2枚ほどの広さの回転板戸があり、開けると、越屋根までの煙道が通る仕掛けである。病室の外壁下部に床上換気口があって、病室内と外部回廊の通気を行うことが出来る。
中庭を囲む渡廊下、各病棟四周の回廊は、全て独立基礎に木柱を立て、木造高床桟瓦葺で、低い手摺が付いている。調査によれば、創建工事の際、竣工直前まで手摺を付ける計画はなかったが、或る軍医の提案により、全ての回廊と渡廊下に手摺が設置された。渡廊下の屋根は病棟や管理棟に比べ一段と低い。(西尾雅敏)
善通寺衛戍病院についての史料は、あまりないようです。名古屋衛戍病院を見てイメージを膨らませることにします。

十一師団 陸軍病院
衛戍病院の建物群
日露戦争による負傷兵に、どのように対処したのか
出来上がったばかりの衛戍病院は、平時は患者も僅かで静かな所だったようです。ところが設立7年目にして、その様子は一変します。日露戦争が勃発したのです。善通寺からも多くの兵士達が戦場へと出兵していきます。そして、負傷者が数多く出ます。病院では、開戦後4ヶ月後の6月10日に初めて戦地からの戦傷患者を受けいれています。その後も旅順の203高地をめぐる戦闘で、患者はうなぎ登りに激増し、五棟あった病棟はすぐに収容人数をオーバーします。記録によると1904(明治37)年12月13日の収容忠者数は6498名となっています。これだけの負傷者を、どのようにして受けいれたのでしょうか?
善通寺陸軍病院分室一覧
分院や転地療養地の一覧(善通寺市史NO3)

 これは増設(=分院建設)以外にありません。師団の各連隊で利用できる空地が選ばれて、そこに仮病棟が次々と建てられていきます。これを分院と呼びました。増設された各分院を見ておきましょう。
①第1分院    被服庫(四国管轄警察学校)に8病棟
②第2・3分院  練兵場西側(おとなとこどもの医療センター)
③第4・5分院  丸亀市城東町の練兵場(丸亀労災病院)
④琴平転地療養所 琴平宮崇敬講社 脚気
④伝染病隔離病棟 四国少年院西北の田んぼの中
以上で急造の病棟は114棟になりますが、それでも負傷者は収容しきれません。そこで、「転地療養所」が琴平・津田・塩江などの神社、寺院、民家等を借りて開かれます。

善通寺陸軍病院の分室て琴平転地療養所(琴平病院)
善通寺陸軍病院 琴平転地療養所(崇敬講社:旧普門院) 

琴平の場合は、明治以後は大門から桜の馬場にかけての金毘羅さんの広大な寺院群が崇敬講社になっていました。それが利用されていかったので、宮司の琴綾宥常の申し出でで、「転地療養所」として活用されることになったようです。ここには主に脚気患者が集められて療養していたようです。

善通寺陸軍病院の分室として琴平転地療養所(琴平病院)
       琴平転地療養所(崇敬講社:旧普門院) 町史ことひらNO5 354P

練兵場の西側に建てられた「第2、第3分院」は、どんなものだったのでしょうか。
「分院」建設地として目が付けられたのが練兵場でした。こうして練兵場に「善通寺予備病院第二・三分院」が建てられ、使用が開始されるようになるのが日露戦争中の1904(明治37)年9月2日のことでした。第二分院の概念図を見てみましょう。

善通寺陸軍病院 第2分室
         善通寺予備病院第二分院の概念図(1905年)
敷地の西側(左側)を流れているのが弘田川になります。位置は練兵場の南西隅にあたり、現在のおとなとこどもの病院の南側にあたります。回廊で結ばれた病棟が「10×2=20」建ち並んでいたことが分かります。これが第二分院ですから、もうひとつ同じような規模の第3分院がありました。

善通寺陸軍病院 第2・3分院
 第2分院の西側に第3分院が建てられます。

おとなとこどもの医療センターの新築工事の際に、発掘調査が行われました。その時に、第3分室の18病棟と、炊事場跡がでてきています。炊事場跡のゴミ穴が見つかり、そこからは軍用食器・牛乳瓶などが数多く出ています。
善通寺陸軍病院 第2分室出土品


牛乳瓶(2~4)2は胴部外面に「香川懸牛乳協合」「第六彊」「森岡虎夫」「電話善通寺一二四番」と陽刻され、背面には「高温」「殺菌仝乳」「一、人扮入」、頚部には「1.8D.L.」と陽刻されています。王冠で栓がされたままのものも出てきています。佃煮瓶(1)には、胴部外面下部に「磯志まん」の陽刻があります。負傷兵には牛乳が毎日出されていたこと、それを飲まずに廃棄していたものもいたようです。
分院の建物はどんな構造だったのでしょうか?
善通寺陸軍病院 第3分室 病棟柱穴跡

 発掘調査からは、礎石立ちの掘立柱建物が出てきています。永続的なものではなく、臨時の仮屋としての病棟だったことがここからもうかがえます。これが分院の病棟跡だったようです。
 ここで注意しておきたいのは、この2つの分室は、永続的なものではなかったことです。「臨時の分院」ということで、戦後の1906(明治39)年には閉鎖・撤去されます。下の写真は、昭和初期の練兵場を上空から撮ったものです。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場航空写真(善通寺市史NO3)
練兵場は「現在のおとなとこどもの医療センター + 農事試験場 + その他」です。その範囲は東が中谷川、西が弘田川、北西部は甲山寺あたりまでの30㌶を越える広さでした。ここで押さえておきたいことは、昭和初期には練兵場には病院はなかったということです。
それでは練兵場に再び病院が姿を現すのは、いつなのでしょうか?
それは1936(昭和11)に日中戦争勃発以後のことです。上海事変などで激戦が続き、負傷者が増大します。それを伏見の病室だけでは収容しきれなくなります。
十一師団西側
歩兵隊跡=「護国神社+乃木神社+中央小学校+西中・旧西高」

そこで最初は、中央小学校講堂に収容します。しかし、学校施設をいつまでも占有するわけにもいかず、歩兵連隊が徳島に移った後の兵舎を代用病室とします。それでも間に合いません。日露戦争の時と同じような状況がやってきたのです。このような中で事変がはじまって3か月後の9月には、再び練兵場に分院を建築することになります。各地から大勢の大工が集められ昼夜をとおしての突貫工事で分院建築がはじまります。こうして年末には、練兵場に17棟の病棟が再び姿をあらわします。残り半分の17棟や衛生部員の兵舎、倉庫などの付属建物が完成するのは1928(昭和13)年5月1日でした。こうして日露戦争後に撤去された分院が、24年ぶりに練兵場に姿を見せます。今度は「善通寺陸軍病院臨時第一分院」と呼ばれることになります。

善通寺陸軍病院 分院宛手紙
善通寺陸軍病院第1分院宛に宛てられた父親からの手紙
消印は昭和13年で12月18日、第23病棟の第1号室宛てになっている。
善通寺陸軍病院への手紙
第1分院の規模は次の通りでした。
病院敷地    129495㎡(39241坪)
病棟数       34棟
一箇病棟面積  683㎡(207坪)
伏見の本院と併せて、3500名の入院患者を受けいれることになります。これが戦後の善通寺国立病院となり、現在のおとなとこどもの医療センターへと発展していくことになるようです。
以上をまとめておくと
①十一師団設置の際に、師団の付属病院である「衛戍病院」が伏見に建設された。
②日露戦争の際には、約1万人の負傷兵を受けいれるために、各地に分院を建てて対応した。
③練兵場西南部にも、第2・3分室(計38病棟)が建てられたが、日露戦争後には撤去され更地なり、再度練兵場の一部として使用されていた。
④日中戦争勃発後の負傷者激増に対応するために、再び練兵場には大規模な分室が建てられた。
⑤この分室は、戦争の長期化とともに撤去されることなく戦後を迎え、善通寺国立病院へと姿を変えていく。
⑥「こども病院」へと特化した伏見の本院と、統合され現在はおとなとこどもの医療センターへと成長した。
⑦その際の発掘調査から弥生時代から古墳時代にかけての遺物が大量に出てきて、この地が善通寺王国の中心地であったことが分かった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
善通寺陸軍病院 伏見

参考文献
    陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わり
                                                              善通寺市史NO3 602P

  庵治町の文化財協会の人達をご案内して、以下のコースを巡ってきました。
大墓山古墳→宮が尾古墳→偕行社→、騎兵連隊跡の四国学院→乃木館→赤煉瓦倉庫→善通寺→農事試験場に残る出水群→宮川製麺

空海につながる佐伯直一族、旧練兵場遺跡群、近代になって片田舎だった善通寺村が大規模な軍都に瞬時に生まれ変わる様を、今に語る建物群など見てまわったことになります。
 お話をした後で、気になったことがあったのでバスを見送った後に、図書館で善通寺市史NO3を借りだして家で開いて見てみると、十一師団設置に関する3枚の地図や航空写真が挟まれていました。今まで見ていた善通寺市史にはなかったので、私にとっては始めて見るものばかりです。今回は、それを紹介しようと思います。
善通寺航空写真 1922年11月
陸軍統監部飛行隊撮影の善通寺市街地と十一師団
まず、「大正十一(1922)年十一月 統監部飛行隊調整」と書かれた航空写真です。これはこの年に善通寺周辺で行われた陸軍大演習用に、陸軍が作成したもののようです。練兵場が臨時の飛行場となり、演習のために飛行機が善通寺にもやってきていたようです。その時に撮られた写真を貼り合わせたもののようで、一部整合性に欠けます。分かりやすいように朱色で各隊の位置を書き込んでみました。
 師団設置が決まって、すぐに行われたのは用地買収だったことは以前にお話ししました。それは、次のようなプランで進められます。
①駅前から善通寺東院の南大門の前まで一直線に線を引いて、駅前通りを造り、
②その南側を約200m幅で買収。
③善通寺南大門から南へ道を作り、その両側約300mを買収
④そこに各連隊や部隊を配置していく
この配置については、早い段階から決まっていたと思っていました。ところが今回見つけた善通寺市史NO3の地図には、明治29年に書かれた次のような配置図案があります。
十一師団 遊郭用地

これを見ると各連隊の設置場所と、完成時のものを比べると次のうな点がちがいます。
11師団配置図

 現在地                  M29年度案     実際配置
①四国学院                 砲兵隊          騎兵隊
②護国神社・消防署・施設隊    練兵場          歩兵・兵器敞
③自衛隊                          歩兵 隊        山砲隊
この案では、練兵場が②の砲兵隊と歩兵隊の間に予定されています。練兵場を別の所に、取得するつもりはなかったようです。その後、この案では練兵場は狭すぎる、もっと広い場所が必要だという陸軍からの要望・圧力を受けて、現在の農事試験場や善通寺病院に別個に練兵場を設置することになったことがうかがえます。その結果、駅から一番遠くに設置予定であった騎兵隊が①の四国学院の地に変更され、後は玉突き的に動いたことが考えられます。

11師団配置図 遊郭
遊郭用地予定地が書き込まれた地図(明治29年)
 もうひとつ気がついたのは、この地図には香色山北側の麓に赤く塗られたエリアです。
よく見ると「遊郭用地壱万五千坪」と読めます。師団設置が決まるとと同時に、遊郭設置もその計画書には書き込まれているのです。旧日本軍が「娼婦を連れた軍隊」と云われることに納得します。善通寺はここに遊郭が設置されることには反対はしなかったのでしょうか? 反対しても、それが聞き入れられることはなかったかもしれません。

航空写真を拡大して各連隊を見ていきます。
11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
11師団各連隊の拡大写真
駅前から西に真っ直ぐ伸びる駅前通りの北側は、旅館やお店の小さな屋根が密集しているのが見えます。師団設置決定から2,3年で田んぼだった所が市街地になりました。
駅から順番に西に向かって各隊を見ていきましょう。
①駅前には旧河道跡が見えます。
かつて金倉川支流は、尽誠高校あたりからこの流路を通って北流していたことがうかがえます。
偕行社と北側の出水
偕行社南側 出水があったことがわかる (1922年陸軍大演習)

偕行社の裏側(南側)にみえるのは出水だったことが写真からも確かめられます。また、偕行社前には、師団全体の水源となる出水があったようです。この伏流水の豊かさが善通寺へ師団設置の要因の一つであったことは以前にお話ししました。偕行社の東側の女学校は、現在の善通寺一高になります。

偕行社航空写真1922年
②輜重隊は正面付近は、現在の郵便局で記念碑が建てられています。その背後は、自衛隊の自動車教習コースと市営団地になっています。現在は道を挟んで東中学があるあたりになります。ここもかつては河原跡で、掘ったら川原石が一杯出てくるそうです。生野町一帯は、氾濫原で水持ちが悪く水田化は遅れたようです。この時代も尽誠高校当たりまでは、森が続いていたという記録もあることは以前に紹介しました。
11師団 騎兵隊

③現四国学院は、かつての騎兵隊があった所です。
東側に並んでいるのが馬舎群で、ここに軍馬が多数飼われていたようです。馬舎といっても丈夫で立派な建物なので、「庶民よりいい建物に、陸軍さんの馬は飼われている」と云われた代物です。四国学院も設立当初は、教室に改造して使用していたと聞いています。広い乗馬場で、ロシアのコサックと戦うための訓練がされていたのでしょう。①・②と番号を打った建物のうちで②の建物が現在でも残されています。四国学院の短大の施設として利用されていた2号館です。
DSC05070
四国学院2号館(旧騎兵隊兵舎)
この2号館は、国の登録文化財の指定を受けたルネッサンス様式の数少ない軍の建物です。
十一師団西側

善通寺の南側にあった歩兵隊については、1920年代の国際協調・軍備縮小の機運の中で廃止されます。その跡地には、現在は次のようなものが建っています。
東側に護国神社と乃木神社
西側に中央小学校
南側に旧善通寺西高校・善通寺西中学校
11師団配置図 兵器敞

歩兵隊の南側は兵器敞(部)で、航空写真からも大きな倉庫が建ち並んでいるのが見えます。
この内で残っている赤煉瓦倉庫が①②③の3棟です。明治末から大正時代にかけて建てられたもので、幅14m×60mの2階建ての大型倉庫です。

DSC05162
兵器敞跡の赤煉瓦倉庫

分からないのは、工兵隊の隣の工兵作業場です。
ここでどんな訓練が行われていたのか、またその道を挟んで北側の「陸軍監獄」というのが今の私にはよく分からないところです。今後の調査対象としたいと思います。
HPTIMAGE
1920年代の十一師団配置と善通寺市街
航空写真は、そこに建っていた建物までみえてくるので、各隊の雰囲気まで伝わってきます。練兵場については、また別の機会にお話ししたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

善通寺市 仙遊寺 - WALKER'S

私がいつも御世話になっているうどん屋さんのひとつに、善通寺病院近くの宮川製麺があります。その駐車場のそばに「この先 弘法大師幼児霊場仙遊寺」という看板が出ています。歩いて1分足らずで境内につきます。境内の東側にはひろい農事試験場の畑が拡がります。   
  仙遊寺周辺は、空海(真魚)が幼い頃に泥で仏像を造り、それを小さな仏堂に納めて遊んでいた場所とされます。そのため旧蹟とされ、近世になると延命地蔵が建てられ、四国霊場の番外霊場となりました。
仙遊寺 再建前
更地化した仙遊寺の基壇 仮堂の中に本尊
しかし、近年はお堂がなくなり、基壇だけが残され、そこに建てられた仮屋に稚児大師と延命寺蔵だけが祀らていました。

仙遊寺の本尊
 仙遊寺本尊の弘法大師稚児像と延命地蔵
それが2年ほど前に、白壁の立派なお堂が再建されました。来年2023年は大師誕生1250年に当たるようです。その整備事業の一環として再建されたようです。仙遊寺 内部
新しいお堂の中に安置された仙遊寺の本尊
お堂の前の説明書きには、仙遊寺の由緒が次のように記されています。
仙遊寺縁起
仙遊寺縁起

文体がすこし古いようなのでので、読みやすいように現代語訳して、それに「高野大師行状図画」の絵を合わせて紙芝居風に見ていきます。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
  幼少期に泥仏を作り拝む場面   高野大師行状図画「幼稚遊戯事」

そもそも当院は弘法大師幼時の霊場で、大師は幼くして崇仏の念が深く、5、6歳の頃から外で遊ぶ時は泥土で仏像を造り、小さい御堂も造って仏像を安置し、礼拝していたと伝わっています。

  できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。真魚(空海幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、祀ります。その後は、地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

弘法大師 大師行状図画 蓮華に乗り仏と語る
仏達と雲上の蓮にのって語らう真魚
真魚が5、6歳頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。
父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(貴とうと)物と呼びました。
弘法大師 「四天王執蓋事」〉
「四天王執蓋事」 真魚の姿を見て驚き下馬し、平伏する役人

ある日、中央から監察官が屏風ヶ浦(善通寺)に巡視にやってきます。その時に遊んでいる大師の姿を見て、馬から飛び降り、うやうやしく跪(ひざまず)いて大師に敬礼しました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
真魚の頭上に天蓋を差しかける四天王「四天王執蓋事」
それを見た随員(部下)の人々は大変怪しみ、その訳を尋ねると「この子は凡人ではない、四天王が天蓋を捧げて、護っているのが見える」と言ったそうです。
以来、遠近の里人は大師を神童と称えて、後世にその礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としました。この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れます。
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードが加えられていきます。例えば、我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
弘法大師  高野大師行状図画 捨身

 六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。

これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」といわれるもので、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来します。
 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっています。
   幼年期の真魚を描いた絵図は、時代が下ると独立してあらたな信仰対象になっていきます。

弘法大師 稚児大師像 与田寺
稚児大師像(与田寺)

それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿(真魚)がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになるのは、以前にお話ししました。
 つまり、近世の稚児大師信仰の高まりとともに、真魚の活動舞台とされたのが仙遊寺周辺なのです。江戸時代には、真魚は粘土で仏を作り、それを小さな手作りのお堂に安置して遊んでいた、そこが仙遊ケ原だったと言い伝えられるようになっていたことを押さえておきます。
 4善通寺御影堂3
 「弘法大師誕生之地」と書かれた誕生院御影堂の扁額

 現在は誕生院の御影堂の扁額には「弘法大師之生誕地」と書かれています。しかし、13世紀頃に成立したいろいろな空海絵伝には、その生誕地が誕生院と書かれたものはありません。誕生院が姿を見せるのは13世紀になってからのことです。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と善通寺・仲村廃寺・南海道・郡衙の関係図

佐伯氏の氏寺である善通寺には、先行する寺院があったことは以前にお話ししました。
それが仲村廃寺で、現在のホームセンターの当たりになります。飛鳥の蘇我氏と氏寺である飛鳥寺の関係を見ても、建立者の舘周辺に氏寺は建てられることが多いようです。そうだとすると、佐伯直氏の舘も、仲村廃寺周辺にあったことが考えられます。それを裏付けるように、旧練兵場遺跡では古墳時代後期には、その中心域が病院地区から農事試験場の東部の仲村廃寺周辺に移動していることが発掘調査からは分かります。
 それが7世紀末になると、南海道が東から真っ直ぐに伸びてきて現在の四国学院を通過するようになります。その周辺に郡衙や新たな氏寺である善通寺が建立されることは以前にお話ししました。この時期には、郡司である佐伯直氏の舘もこの周辺に移動していたことが考えられます。古代には現在の誕生院には、佐伯直氏の舘はなかったと私は考えています。
DSC04034
再建された仙遊寺
  話が遠いところまで行ってしまいました。仙遊寺にもどります。
仙遊寺の本尊は、延命地蔵と稚児大師です。
   そしてセールスポイントは、稚児大師でしょう。旧蹟という大きな石碑も建っています。そうだとすれば、それをもう少しアピールした方がいいように思います。それは、江戸時代の善通寺が江戸や京都などで出開帳する際に、出品した品々が参考になると思います。元禄時代の善通寺は金堂再建の費用を集めるために大規模な開帳をおこなっています。
弘法大師稚児像
稚児大師像(善通寺)

その際の目玉の一つが「弘法大師生誕地」としての「稚児大師」でした。そして、ファミリーを目に見える形にするために、父親や母親の像を造り展示しています。
空海父 佐伯善通
真魚の父 佐伯善通像(戸籍的には 父は佐伯田公)
また、ここで紹介した真魚伝説にかかわる絵図も魅力あるものです。これらを展示することで「真魚の寺」という面を前面に出していくという広報戦略を私は「妄想」しています。要らぬお節介でした。
旧練兵場遺跡地図 
仙遊寺周辺の古代遺跡

  最後にもう一度、説明版を見ておきます。私が気に掛かる部分は、次の部分です。
  また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに当たり、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転しましたが、時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至っています。

世界広しといえど、恐らく誰も練兵場内に仏堂があったとは知らないことでしょう。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を、旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになりました。

この記述について検討しておきます。

善通寺航空写真 1922年11月
善通寺航空写真(1921年)と練兵場
練兵場は現在の仙遊町で「善通寺病院 + 農事試験場」の範囲
現在の仙遊町は、約14万坪(×3,3㎡)=46万㎡が11師団の陸軍用地として買い上げられ練兵場となります。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)
練兵場中央の北辺にあったのが仙遊ケ原でした。ここにあったお堂も軍に接収されます。伝承では師団長乃木将軍は夢の御告げによって古跡のことを知り、軍用地接収を中止させたと伝えます。この説明版も、それに従っているようです。しかし、これは後に神格化された乃木将軍への追慕から生まれた「伝説」のようです。

善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
善通寺練兵場周辺地図(1920年代)
1909(明治42)1月に、善通寺住職は陸軍大臣宛に次のような要望書を提出していることを善通寺市史は載せています。
「善通寺練兵場中古霊跡仙遊ヶ原地所借用願」
右霊跡仙遊ヶ原ハ弘法大師御誕生所屏風浦別格本山善通寺古霊跡随一二シテ大師御幼少ノ時御遊戯ノ場所トシテ大師行状記二下ノ如キ文アリ
昔ハ公ヨリ御使ヲ国々へ下サレテ民度ノ苦ヲ問ハセケリ 其故ハ君ハ臣フ持テ外トス民ハ食フ以テ命トス穀尽クヌレハ国衰民窮シヌレハ礼備り難シ疫馬鞭ヲ恐レサルガ如シエ化モ随ハス利潤二先ンシテ非法フ行ス民ノ過ツ所ハ吏ノ咎トナリ吏ノ不喜ハ国主ノ帰ス君良吏ヲ澤ハスシテ貪焚ノ輩ヲ持スレバ暴虐ヲ恣ニシテ百姓フ煩ハシム民ノ憂天二昇り災変ヲナス災変起レバ国上乱ル此ノ上ノ講ナルヨリ起り下奢ンルヨリナル国土若シ乱ナバ君何ヲ以テカ安カラン此故二民ノ愁ヲモ間ヒ吏ノ過リヲモ正サンガ為ノ御使ヲ遣ハサレケリサレバ勅使ノ讃岐国へ下サレタリクルニ大師幼クンテ諸々ノ童子二交ハリテ遊ビ給ヒケルプ身奉ッテ馬ヨリヨり礼拝シテロク公ハ几人二非ス共故ハ四人王白傘ヲ取リテ前後二相従ヘリ定メテ知ンヌ此レ前世ノ聖人ナリト云ワ事フト其後隣里人驚キ御名フ貴物トゾ中ケル如斯昔ロヨリ四方ノ善男善女十方信徒熱心二尊敬供養スルノ古霊跡二御座候間南北二拾間、東西に拾間ヲ二拾年間御貸与ノ程別紙図面相添へ懇願仕候間直々御許可願上候也
理  由
右霊跡元当本山所属地二有之候処第十一師団練兵場卜相成候付テハ仮令練兵場ノ片隅二有之候卜雖モ御省御管轄ノ地所卜相成り候故多大ノ信者参拝アルフ以テ明二拝借シ置キ度候也
目的
偉大ナル古聖人ノ霊跡故千古ノ霊跡ヲ保持シ万たみ二占聖偉人ノ模範ヲ示ン無声ノ教訓ヲ与へ度候
設備
一、弘法大師児尊像之右像、地蔵尊石像及人塚碑名等古来ヨリ存在セン通リニ樹木等生殖致居候
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一年壼月拾三日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
意訳変換しておくと
善通寺練兵場の古霊跡である仙遊ヶ原地所についての借用願
仙遊ヶ原は弘法大師の誕生地である善通寺の旧蹟地で、大師が幼少の時に遊んだ所です。「大師行状記」には、次のように記されています。
昔は、民の愁いを問い、官吏の誤りを糺すために、巡察使を中央から地方に派遣していました。(中略)
讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師が幼い時のことで、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこう云いました。
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見えます。あの方の前生は聖人だったことが私には分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童ど呼ぶようになりました。
このように昔から四方の善男善女の多くの信徒が熱心に尊敬・供養してきた旧蹟です。ついては、南北二十間、東西十間を別紙図面の通り、貸与許可していただけるよう申請します。
理  由
この霊跡はもともとは、善通寺に所属する土地であったものが、練兵場となったものです。練兵場として陸軍省管轄地となりましたが多くの信者がいますので、借用を申し出る次第です。
目的
偉大な古聖人の霊跡ですので、その旧蹟を保持して信仰することは偉人に接する模範を示すことになり、多くの教訓となると考えます。
設備
弘法大師稚児像、地蔵尊石像と人塚碑名などの昔からあるものの他に、樹木などを植栽する。
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一(1908)年1月13日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
   ここからは日露戦争後に、善通寺住職が旧蹟周辺の土地借用を、陸軍大臣に願いでていることが分かります。つまり、説明版にある「時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存」とあるのは事実ではないことになります。
善通寺誕生院院主の申請に対して、善通寺町役場を通じてもたらされた陸軍の回答は、次のようなものでした。
「善通寺住職宛」
善通寺町役場
本年一月十三日付ヲ以テ出願サラレタル練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件別紙写ノ如キ趣ヲ以テ本願書却下二相成候條此段及返却候也
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
其部内善通寺住職ヨリ第十一師団練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件出願ノ所今般其筋ヨリ砲兵隊ノ編成改正ノ為メ野砲ヲ常二練兵場二於テ使用スルコトト相成現在ノ練兵場既二狭除フ告ケ其筋へ接張方申請二付キ仮令少許ノモツト雖モ練兵場内二介在スルハ秒カラサル障害アルヲ以テ右使用ノ義協議二應シ難キ趣被越候旨ニテ書面却下相成候二付返戻相成度候                         
以上
     明治四拾一年壼月拾三日 
意訳変換しておくと
本年1月13日付で出願された練兵場内の旧跡仙遊ケ原敷地借用の件について、別紙写通り本願書は却下となったこと伝える。
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
善通寺住職からの第十一師団練兵場内の旧蹟跡仙遊ケ原敷地借用の件出願について、11師団の意向は次の通りである。砲兵隊編成改正のために野砲を日常的に練兵場で使用することになっている。そのため現在でも練兵場は手狭になっており、拡張計画を進めているところである。ついては、すこしばかりの面積と雖も練兵場に障害ができるものの設置は協議に応じがたいとのことであった。ついては、書面却下となったので返却する。
以上
  ここからは練兵場での訓練に障害の出るようなものの設置は認められないとの十一師団の意向を受けて、陸軍省は願書を善通寺に送り返していることが分かります。
このような「事実」があるにも関わらず「伝説」は生まれてきます。神話化した乃木大将について、そのような物語を民衆が欲していたからかもしれません。

DSC04039
仙遊原古跡の碑(仙遊寺)
以上をまとめておくと
①14世紀以後に書かれる弘法大師の絵伝類には幼年時の空海(真魚)が仏像遊びなどをしていた場面が描かれ、稚児大師信仰が生まれる。
②この場所が現在の宮川製麺の南側で、地元では「仙遊が原」と呼ばれるようになる
③そこに弘法大師信仰の高まりとともに、近世になると稚児像と延命地蔵が祀られ旧蹟となった。
④明治になって、この地は11師団の練兵場として整地され、旧蹟もその中に取り込まれた。
⑤これに対して、善通寺住職は旧蹟の借用願いを陸軍省に申し出たが、現場の反対で実現することはなかった。
⑥しかし、今も伝承としては「乃木大将の夢に出てきて、返還されたと」とされている。
⑦仙遊寺が建立されるのは、戦後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史第2巻 第十一師団の成立 練兵場
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旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡とその周辺

弥生時代にの平形銅剣文化圏の中心地のひとつが「善通寺王国」です。その拠点が現在のおとなとこどもの医療センター(善通寺病院)と農事試験場を併せた「旧練兵場遺跡」になります。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2
瀬戸内海にあった平形銅剣文化圏
今回は、ここに成立した大集落がその後にどのようになっていったのか、その推移を追いかけてみようと思います。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
1 弥生時代中期から古墳時代初期までです。
①弥生時代後期前半期から竪穴式住居が現れ、その後は集落が継続的に存続していたこと
②掘立柱建物跡は、その柱穴跡直径が大きいことから、倉庫か、望楼のような高床か高層式建物。「善通寺王国」の形成
③古墳時代になると、住居跡の棟数が減少するので、集落の規模縮小傾向が見られること。


旧練兵場遺跡地図 
弥生末期の旧練兵場遺跡 中心地は病院地区

2 古墳時代中期から古墳時代終末期まで
  古墳時代になると、住居跡や建物跡は姿を消し、前代とは様子が一変します。そのためこの時期は、「活発な活動痕跡は判断できなかった」と報告書は記します。その背景については、分からないようです。この時期は、集落がなくなり微髙地の周辺低地は湿地として堆積が進んだようです。一時的に、廃棄されたようです。それに代わって、農事試験場の東部周辺で多くの住居跡が見つかっています。拠点移動があったようです。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺

3 奈良時代から平安時代前半期まで
 この時期に病院地区周辺を取り巻くように流れていた河川が完全に埋まったようです。報告書は、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

 川の流れが消え、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んでいた6~7世紀は、水田としての利用が困難な低地として放棄されていたことが推察できます。それが8世紀になり平坦地になったことで、農耕地としての再利用が始まります。農耕地の痕跡と考えられる一定の法則性がある溝状遺構群が出てくることが、それを裏付けると研究者は考えています。
 この結果、肥沃な土砂が堆積作用によってもたらされ、土地も平均化します。これを耕作地として利用しない手はありません。佐伯直氏は律令国家の手を借りながら、ここに条里制に基づく規則的な土地開発を行っていきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と南海道・善通寺の関係
 新しい善通寺市役所と四国学院の図書館を結ぶラインは、南海道が走っていたことが発掘調査からは分かってきました。南海道は、多度郡の条里遺構では7里と6里の境界でもありました。南海道を基準にして、丸亀平野の条里制は整えられて行くことになります。そして、南海道に沿うように善通寺も創建されます。善通寺市街地一帯のレイアウトも出来上がっていくことになります。

稲木北遺跡 多度郡条里制
 この時期に掘られた大規模な溝が、善通寺病院の発掘調査でも出てきました。
この溝は、善通寺エリアの条里制地割のスタートになった土木工事だと研究者は考えているようです。善通寺の条里型地割は、善通寺を中軸に設定されたという説があります。そうだとすれば、この溝は善通寺周辺の関連施設設置のための基軸線として掘られた可能性があります。
  また、古墳時代には病院地区には、住居がなくなっていました。それが奈良時代になると、再び多くの柱穴跡が出てきます。これは奈良時代になると、病院地区に集落が再生されたことを示します。

 次に中世の「善通寺一円保差図」には、このエリアはどのように描かれているのかを見ておきましょう。一円保絵図は、15世紀初頭に書かれたものです。
一円保絵図の旧練兵場遺跡
一円保絵図(柿色部分が善通寺病院敷地)
   中央上の黒く塗りつぶされたのが、この時期に築造されたばかりの有岡大池です。そこから弘田川が波状に東に流れ出し、その後は条里制に沿って真北に流れ、善通寺西院の西側を一直線に流れています。それが旧練兵場遺跡(病院地区)の所から甲山寺あたりにかけては、コントロールできずに蛇行を始めているのが見えます。弘田川は現在は小さな川ですが、発掘調査で誕生院の裏側エリアから舟の櫂なども出土しているので、古代は川船がここまで上がってきていたことがうかがえます。河口の海岸寺付近とは、弘田川で結ばれていたことになります。また、地図上の茶色エリアが発掘された善通寺病院になります。旧練兵場遺跡も弘田川に隣接しており、ここには簡単な「川港」があったのかもしれません。
金倉川 10壱岐湧水
一円保絵図(善通寺病院周辺拡大図)

一円保絵図に描かれた建築物は、善通寺や誕生院に見られるように、壁の表現がある寺院関係のものと、壁の表現のない屋根だけの民家があるようです。描かれた民家を全部数えると122棟になります。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺伽藍の真下(北)で弘田川東岸まとまり11棟
第4グルーフ 大きい山塊の右側のまとまり  15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊を挟んだ右側のまとまり 6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり   7棟

第1グループは、現在の善通寺の市街地にあたる所です。創建当時から家屋数が多かった所にお寺が造られたのか、善通寺の門前町として家屋が増えたのがは分かりません。
今回注目したいのは第3グループです。
このグループが、現在の善通寺病院の敷地に当たるエリアです。その中でも右半分の5棟については、病院の敷地内にあった可能性が高いようです。この地区が「郊外としては家屋が多く、人口密度が高い地域」であったことがうかがえます。
一円保絵図 東側

善通寺病院の敷地内に書かれている文字を挙げて見ると「末弘」「利友」「重次四反」「寺家作」の4つです。
この中の「末弘」「利友」「重次」は、人名のようです。古地図上に人名が描かれるのは、土地所有者か土地耕作者の場合が多いので、善通寺病院の遺跡周辺には、農業に携わる者が多く居住していたことになります。
 また「四反」は土地の広さ、「寺家作」は善通寺の所有地であることを表すことから、ここが農耕地であったことが分かります。以上から、この絵が描かれた時期に「病院地区」は、農耕地として開発されていたと研究者は考えているようです。
以上からは、古代から中世には旧練兵場遺跡では、次のような変化があったことが分かります。
①弥生時代には、網の目状に南北にいく筋もに分かれ流れる支流と、その間に形成された微高地ごとに集落が分散していた。
②13世紀初頭の一円保絵図が書かれた頃には、広い範囲にわたって、耕地整理された農耕地が出現し、集落は多くの家屋を含み規模が大型化している。

 室町時代から江戸時代後半期まで
ところが室町時代になると、旧練兵場遺跡からは住宅跡や遺物が、出てこなくなります。集落が姿を消したようなのです。どうしてなのでしょうか? 研究者は次のように説明します。
①旧練兵場遺跡は、条里型地割の中心部にあるために、農業地として「土地区画によって管理」が続けられるようになった。
②そのため「非住居地」とされて、集落はなくなった。
③条里型地割の中で水路網がはりめぐされ、農耕地として利用され続けた
そして「一円保差図」に書かれた集落は、室町時代には姿を消します。それがどんな理由のためかを示す史料はなく、今のところは何も分かならいようです。
 最後に明治中頃に書かれた「善通寺村略図」で、旧練兵場遺跡を見ておきましょう。

善通寺村略図2 明治
拡大して見てみます
善通寺村略図拡大
善通寺村略図 旧練兵場遺跡周辺の拡大図
旧練兵場遺跡(仙遊町)は、この絵図では金毘羅街道と弘田川に挟まれたエリアになります。仙遊寺の西側が現在の病院エリアです。仙遊寺の東側(下)に4つ並ぶのは、現在も残る出水であることは、前回お話ししました。そうして見ると、ここには建造物は仙遊寺以外には何もなかったことがうかがえます。そこに十一師団設置に伴い30㌶にもおよぶ田んぼが買い上げられ、練兵場に地ならしされていくことになります。そして、今は病院と農事試験場になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   旧練兵場遺跡調査報告書 平成21年度分

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
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旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
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 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

    善通寺11師団 地図明治39年説明
 第十一師団配置図
十一師団の建築物めぐりの続きです。前回は①偕行社 → 四国学院内の騎兵連隊の②兵舎・③本部を見てきました。今回は、④乃木館と⑤兵器敞倉庫を見学します。
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。早速に用地買収が進められ、建造物工事が行われ、下表のように供用が開始されます。

ここでは同時に数多くの建物が着工して、善通寺は建築ラッシュであったことを押さえておきます。乃木館は、十一師団の司令部だった建物で、12月1日に師団司令部が開庁しています。
11師団司令部開庁通知
乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
門手続きを済ませて、門から貝塚の植えられた長いアプローチを進んで行くと司令部の建物が迎えてくれます。竣工直前の写真と比較しながら見てみましょう。
11師団司令部.(善通寺市史)
 旧十一師団司令部庁舎(現乃木館)

 写真は、完成間際のもののようで、よく見ると車寄ポーチがまだありません。屋根を見ると四つの越屋根がついています。これは雨漏りの原因として、後に撤去されたようです。外観で変わっているのは、ここだけです。石柱はありませんが三角ペディメントは、ここにも登場します。当時の師団建築物はルネッサンス様式で貫かれています。

11師団司令部
戦前の十一師団司令部
 先ほど見てきた四国学院の騎兵連隊本部と比べて見ると、規模が大きく重厚な感じがします。偕行社の軽やかな感じとも違います。司令部として雰囲気を感じます。
  10月号特集企画】乃木館の魅力 - 善通寺市ホームページ
乃木館のケヤキの正面階段
 屋根と内部に少しの模様替はありますが、玄関正面の欅の大階段をはじめ、廊下、天丼、壁、建具はすべて建築当初のものです。屋根裏の合掌材や垂本は腐食しておらず、桧の棟木札もはっきりと読み取れると報告されています。棟札には次のように記されています。

十一師団司令部棟札
乃木館の棟札
中央上部 第十一師団司令部
右側   明治三一年四月一日着手
左側   同年十一月三〇日竣工
下部には、
右から建築請負人・九亀町(市)材木商水長事、
         小野長吉  
   担当人   木下幾治郎 
と記されています。地元の丸亀市の請負人の手で建設されたことが分かります。明治31年4月1日に着工して、その年の11月30日に竣工しています。 当時は、十一師団の建物の建築ラッシュでした。
そのため司令部等の建物は人札しても予算が超過し、再入札随意契約となりました。そのような経過を経て、丸亀の業者が落札したようです。
 建築資材は多度津港に陸揚げされて鉄道で善通寺駅まで運ばれます。そこからは荷馬車などに頼ったようですが、これが馬車や人夫不足でボトルネックになって資材が現場に届かず、工事は遅れます。そこで対応策として、9月になると善通寺駅から各隊建築の現場に軽便鉄道を走らせることになります。司令部の工事が本格化したのは、軽便鉄道によって資材運搬等が容易となってから以後でした。工期に間に合わせるための突貫工事が続いたようです。

陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館 - Wikiwand
現在の乃木館 
この建物は、敗戦後は郵政省簡易保険局が使用していましたが、1961(昭和36)に陸上自衛隊に移管されました。旧陸軍の師団司令部の建物が、そのまま自衛隊が使用しているのは、善通寺駐屯地一カ所だけのようです。
乃木館 ~ 陸上自衛隊善通寺駐屯地にて: 答えはひとつじゃない! by あおき工場長
乃木館の師団長室
  記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。ここが1番人気のようですが、それ以外にも旧第十一師団関係の資料が陳列されています。

十一師団配置図3
師団司令部の前が兵器敞

 乃木館を出て西側にあるローソン前の信号機の前まで行きます。
ここは善通寺のビューポイントのひとつです。赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。
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赤れんが倉庫の向こうに五重塔
ここから善通寺の南大門に向けては、「ゆうゆうロード」と名付けられた整備された歩道が続きます。そぞろ歩きには最適です。

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 この左手に広がるのが善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
この区画は、第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転してきた処です。それが1922(大11)年に、山砲兵第十一聯隊と改称されます。砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、警察予備隊が創設されると、善通寺町はすぐに誘致運動を始めます。ここには旧十一師団の広い敷地がそのまま残っていたので、四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。

ローソンの前が自衛隊の施設隊です。
ここは兵器敞のあったところで、赤煉瓦の倉庫が三棟残っています。
完成した年代を見ておくと、次のようになります。
①一番手前が1909年(明治42年)
②その北側が1911年(明治44年)
③その横の東西方向のものが1921年(大正10年)
これらはどれも2階建ての赤レンガ造りで、明治期の①②は幅14m×奥63m、大正期の③は幅14m×奥90mの細長い倉庫です。設計者の名前は分かりませんがドイツ人技師とされ、屋上の○型と△型のモニュメントは、銃の「照門」と「照星」を表しているようです。
赤れんがの屋根
       銃の照準モニュメントが載っている屋根
ここで押さえておきたいのは、兵器敞の赤煉瓦倉庫は、11師団設立時にはなかったということです。完成年を再度確認すると、日露戦争が終わって数年経ってからのことです。確かに乃木将軍の陸軍大臣の現状報告書には、次のように記されています。
七、新設兵営官衛及病院等ノ構築未夕概ネ半途ニシテ就中兵器支廠及火葉庫ノ如キハ未夕着手ニモ至ラス。練兵場及小銃射撃場ノ開設ハ各兵ノ教育ヲ快キ土エニ従事セシメ、高知二於テハ僅二之ヲ使用シアルモ丸亀衛成即チ善通寺屯在部隊二於テハ射撃教育ノ為メニハロ々殆ド一里ヲ隔ツルノ地二往復スルノ止ムヲ得サル現況ナリ。同所練兵場ハ附近人民ノ篤志二依り四千九百七十人ノ補助工カヲ以テ今日使用シ得ルニ至レリ
意訳変換しておくと
七、新設の兵営や病院の建物については建設途上である。その中でも兵器支廠や火薬庫に至っては着工にも至っていない。練兵場や小銃射撃場の開設については、各兵の教育訓練のために不可欠であるが、高知では一部が使用出来るようになった。しかし、善通寺屯在部隊では射撃教育のために一里(4㎞)離れた射撃場に往復しなければならないのが現況である。練兵場については周辺住民約5000人を動員して整備し、使用できるようになった。

 ここからは乃木希典の時代には、兵器敞や火薬庫はなかったことが分かります。この3つのレンガ倉庫が善通寺に姿を見せたのは明治末から大正にかけてのことで、約110年前のことになるようです
十一師団 レンガ倉庫
           建設中の兵器庫
建設途中の兵器庫の写真を見ておきましょう。
①手前に、運ばれてきたレンガが積み上げられている
②足場が組まれて壁のレンガが組み上げられ、屋根の瓦葺き作業にかかっている
③後に筆の山(?)が見えているので、建物の向きが東西方向である。
ここからは、この写真は1921(大正10)年に建てられた最後の倉庫であることが分かります。
大正10年に建てられた一番大きな倉庫
この倉庫は、外からは見えにくいので見逃してしまいがちですが、長さが90mもある一番大きな建物です。そのため建物の強度を図る工夫がいろいろなところに施されていて、他の2棟とは細部が異なっているようです。
  道路際の2棟を近くから見て驚くのは、その大きさと堅牢な造りです。
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屋根は切妻造の瓦ぶきで、天井は高く屋根裏もある2階建てす。屋根裏は当時の最新設計の合掌造りで、構造は煉瓦造りです。
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長さ60mを超える壁には全部で100ヶ所前後の縦長の窓があり、花崗岩のひさし台と鉄製の両開きの扉がついています。それぞれ微妙に異なるデザインも見所のようです。道路に面した2棟は同規模・同規格で造られています。これは各地に建てられた旧軍の煉瓦倉庫と共通点が多く、当時の標準規格に基づいて設計されたものと研究者は考えています。
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私が気になるのは、この倉庫に使われた赤煉瓦がどこで作られたのかです。
 「観音寺の財田川河口に創立されたレンガ工場で作られたものが、船で多度津に運ばれてきた」と以前に聞いたことがあります。そのレンガ工場とは、1897(明治30)年に創業した讃岐煉瓦です。確かに、丸亀の連隊の他に瀬戸内海沿岸や大坂などに煉瓦を供給しているようです。

丸亀連隊兵器庫基礎
 丸亀連隊兵器庫の基礎

丸亀市役所南館の建設の際に出土した遺構からは、丸亀連隊の兵器庫の基礎が出てきています。ここには観音寺の讃岐煉瓦刻印の煉瓦が使われています。丸亀に引き続いて、善通寺の兵器倉庫にも使用されたことが考えられます。しかし、善通寺の煉瓦倉庫からこの印のある煉瓦が使われているとの報告書は私は読んだことがありません。未だに状況証拠のみです。
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ゆうゆうロード
 赤煉瓦倉庫の周辺には桜、「ゆうゆうロード」には銀杏などの街路樹が植えられ、反対側には中谷川の流れを利用した水辺の歩道が続き、気持ちのよい散歩道です。この道を五重塔めざして歩いていくことにします。次の目標は善通寺東院です。
十一師団工兵隊工事完成M31年

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

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善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。

善通寺誕生院(拡大9
誕生院(西院)拡大図

 この絵図で見るように御影堂は、当初は小さな建物でした。それが近世を通じて何回も建て直されて次のように大型化していきます。
1回目は、方三間から方五間(17世紀中頃)
2回目は、方五間から方六間(17世紀後半)
3回目は、方八間規模(19世紀前期)
2回目の時には、御影の安置場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。17世紀の西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げる動きが見えます。18世紀前期になると、広がった御影堂前に拝所と回廊が設けらます。18世紀後期には、西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置され、十王堂(18世紀後期)、親鸞堂(19世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実整備が行われます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺誕生院(19世紀中頃)

 さらに近代になると、護摩堂・客殿が加わり、数多くのお堂が建ち並ぶ伽藍構成になります。つまり、善通寺の宗教活動は誕生院中心に展開され、東院は儀式の場としてのみ活用されることになったようです。現在でも西院は参拝する度に、新たな建物が加わったりして「成長」している感じを受けます。それに比べると東院は時間が止まった感じがするのも、そんな所からきているのかもしれません。このような西院の原型ができたのが17世紀末だったことを押さえておきます。
1 善通寺 仁王門
西院に入る前に、山門を守る仁王さまを見ておきましょう。
1 善通寺 金剛力士阿形
善通寺西院 金剛杵をとる阿形
  向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。

1 善通寺 金剛力士吽形
善通寺西院 金剛力士吽形 

  左の吽形は、口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開きます。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
修理解体時の時に像内から次のような墨書銘が見つかっています。
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日
ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  ここからは、この仁王さんは南北朝時代のものであることが分かります。
それでは、御影堂にお参りして、戒壇廻りを楽しみ、宝物館を参観してきて下さい。後ほどまたお会いしましょう。
4善通寺御影堂3
御影堂の扁額「弘法大師誕生之地」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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善通寺東院の金堂
前回は、金堂や五重塔などの東院伽藍のスター的な存在を見てきました。しかし、これらは近世以後のモノばかりです。善通寺は「空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建した」といわれます。空海の時代のものを見たり、触れたりすることはできないのでしょうか。今回は、古代善通寺の痕跡を探して行きたいと思います。

 まず「調査」していただきたいのは、金堂基壇の石垣です。
現在の金堂は元禄時代に再建されたものであることは前回お話ししました。その時に作られた基壇の石組みの中に、変わった石が紛れ込んでいます。
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善通寺金堂基壇(東側)
基壇の周りを巡って見ると東西南北の面に、それぞれ他とは違う形をした大きな石がいくつか紛れ込んでいます。

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           善通寺金堂基壇(北側)
この石について「新編香川叢書 考古篇」は、次のように記します。

正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。西側礎石の大きさは実測すると160×95cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。

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      善通寺金堂基壇(西側:1/3は埋まっている)

  もう一度見てみると、確かに、造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。また、大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。これらの石は古代寺院に使われていた礎石のようです。よく見ると、特に西側のものは大型です。これを五重塔の心礎と考える研究者もいるようです。そうだとすると、善通寺には古代から五重塔があったことになります。以上からは次のようなことが推測できます。
①白鳳期に建立された古代の善通寺は中世に焼け落ち、再建された。
②中世に再建された伽藍は、戦国時代に焼け落ちて百年以上放置された。
③元禄年間に再建するときに、伽藍に散在した礎石を基壇に使った
 このように考えると、この礎石は空海時代の金堂に使われていた可能性が高くなります。古代善通寺の痕跡と云えそうです。触って「古代の接触」を確かめてみます。

1善通寺宝物館10
「土製仏頭」(善通寺宝物館)

もうひとつ、元禄の再建の時に出てきたものがあります。
宝物館に展示されている「土製仏頭」です。
これは粘土で作られた大きな頭で、見ただけでは仏像の頭部とは見えません。
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        「土製仏頭」(善通寺宝物館)
研究者は「目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭」と推定します。私には、なかなか「白鳳の仏像」とは見えてこないのですが・・。
印相などは分かりませんが、古代の善通寺本尊なので薬師如来なのでしょう。また小さな土製の仏のかけらもいくつかでてきたようです。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれています。
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         「土製仏頭」(善通寺宝物館)
 この「土製仏頭」が古代善通寺の本尊薬師如来であるということを裏付ける資料があります。
 鎌倉時代初期に高野山での党派闘争の責任を問われて讃岐に流刑となった道範は、善通寺に滞在し『南海流浪記』を書き記します。その中で、善通寺金堂のことを次のように記しています。
◎(平安時代に)お寺が焼けたときに本尊なども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある
◎金堂は二層になっているが裳階があるために四層に見える
◎本尊は火災で埋もれていた仏を堀り出した埋仏
ここからは、平安時代に焼けた本堂が鎌倉時代初期までには再建されたこと、そして本尊は「火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏」が安置されていたと記しています。
 その後、戦国時代の兵火で焼け落ち、地中に埋もれていたこと、それが元禄の再建で、掘りだされ保存され、現在に至るという話です。そうだとすれば空海が幼い時に拝んでいた本尊は、この「土製仏頭」のお薬師さまということになります。
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善通寺の白鳳期の瓦(宝物館)

 古代善通寺のものとして宝物館に展示されているのが瓦です。
 藤原京に瓦を供給した三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されていたことは以前にお話ししました。この時代には、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われてました。

善通寺古代瓦の伝播
善通寺瓦の伝播
 仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏は、丸亀平野の寺院造営技術の提供者だったことは以前にお話ししました。その中には7世紀末から8世紀初頭の白鳳期のものもあります。善通寺の建立は、この時期まで遡ることが出来ます。
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善通寺の白鳳瓦

「7世紀末の白鳳瓦」と「善通寺=空海創建説」とは、相容れません。空海が生まれたのは774年のこととされるので、生まれた時には善通寺はあったことになります。考古学的には「善通寺は空海が創建」とは云えないようです。

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善通寺金堂
このことについて五来重は「四国遍路の寺」で、次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。善通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。
 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が31歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。

善通寺の古代寺院としての痕跡の4つ目は、条里制との関係です。
  中世に書かれた善通寺一円保絵図を見てみます。

一円保絵図 テキスト
善通寺一円保絵図(全体)
 右(西)に、五岳の山脈と曼荼羅寺や吉原方面、左に善通寺周辺が描かれます。黒く塗られているのが一円保の水源となる有岡大池でそこから弘田川が条里制に沿って伸びています。左上には2つの出水があり、そこからも用水路が伸びています。ここで、見ておきたいのは多度郡の条里制のラインが描かれていることです。善通寺の境内部分を拡大して見ます。
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善通寺一円保絵図(拡大)
①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。これが五重塔の基壇跡のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されませんでした。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。その後には(E)講堂もあります。
 この絵図には、東院には様々な建築物が描かれています。そして敷地を見ると、4つの条里で囲まれているのが分かります。1辺は約106mですから、4つ分の面積となると212×212mとなります。ここからは善通寺が多度郡の条里の上にきれいに載っていることが分かります。ここからは、条里制整備後に善通寺は建立されたことになります。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里と善通寺・南海道の関係
丸亀平野の条里制は、南海道が先ず測量・造営され、これが基本ラインとなって条里制が整備されていきます。南海道は、多度郡では6里と7里の境界線になり、四国学院の図書館の下を通過していたことは以前にお話ししました。そして、善通寺も三条七里の中に位置します。
古代善通寺地図
   古代善通寺概念図(旧練兵場遺跡調査報告書2022年)
ここに至る経過を整理しておきます。
①7世紀末の南海道の測量・建設 
②南海道に沿う形で条里制測量
③多度郡衙の造営
④佐伯氏の氏寺・善通寺建立
①②③の多度郡における工事は、郡司の佐伯直氏が行ったのでしょう。これ以外にも、白村江の敗北後の城山城造営などにも、佐伯氏は綾氏などと供に動員されていたかもしれません。これらは、中央政府への忠誠を示すためにも必要なことでした。

 最後に、空海が生まれた8世紀後半の善通寺周辺を想像して描いて見ましょう。
岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の郡衙(黒丸枠)と南海道・法勲寺の関係
額坂を下りてきた南海道は、飯野山の南に下りてきます。南海道に接して北側には、正倉がいくつも並んで建っています。これが鵜足郡の郡衙(岸の上遺跡)です。その南には法勲寺が見えます。これが綾氏の氏寺です。南海道は、西の真っ直ぐ伸びていきます。そのかなたには我拝師山が見えます。南海道の両側に、整備中の条里制の公田が広がります。しかし、土器川や金倉川などの周辺は、治水工事が行わず堤防などもないので、幾筋もの川筋がうねるように流れ下り、広大な河川敷となっています。土器川を渡ると那珂郡郡司の氏寺である宝幢寺(宝幢寺池遺跡)が右手に見えてきました。金倉川を渡ると右手に善通寺の五重塔、左手に多度郡の郡衙(善通寺南口遺跡)が見えて来ます。ここが佐伯直氏の拠点です。
 ここからは南海道は、丸亀平野の鵜足・那珂・多度の3つの郡衙を一直線に結んでいたことが分かります。そして、その地の郡司達は郡衙の周辺に氏寺を建立しています。当然、彼らの舘も郡衙や氏寺の周辺にあったことが考えられます。

 今回は、普段は目に見えない以下の古代善通寺の痕跡を見てまわりました。
①金堂礎石
②「土製仏頭」(古代本尊の仏頭?)
③白鳳時代の善通寺瓦
④条里制の中の善通寺境内と南海道や郡衙との関係
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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善通寺五重塔と自衛隊前の道
今回は善通寺街歩き研修会資料の善通寺東院編です。自衛隊の赤煉瓦倉庫から五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が迎えてくれます。
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善通寺南門

この門については、日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていました。近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。高麗門で、開口が高く開いて5,7mもあります。
どうして、こんなに高い門が作られたのでしょうか?
それは11師団の凱旋を迎えるためだったようです。戦場から帰ってきた部隊は、駅前からここまで部隊旗や戦勝旗を掲げてパレードしてやってきます。金堂に向かって帰還報告をして、境内で記念式典が開かれたようです。その際に、この門をくぐる時に、軍旗にお辞儀をさせたり、下ろしたりするのは見苦しいという「美意識」があったようです。
 それも15年戦争とともに戦争が日常化すると、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。
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善通寺東院の金堂
善通寺東院の歴史的な見所ポイントとして、やはり五重塔と金堂は外せません。まず、金堂から見ていきましょう。
  戦国時代に東院は焼け落ちます。そして百年以上も金堂も五重塔もない状態が続きました。世の中が落ち着いきた元禄年間になって、やっと再建の動きが本格化します。金堂は勧進僧の活動などで元禄22年(1699)に棟上されます。そこに安置される本尊が次の課題になります。
DSC04200 善通寺本尊薬師如来
善通寺金堂本尊 薬師如来

ここの本尊は丈六の大きな薬師さんです。誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、京都の仏師との発注についての手紙が残っています。相手の仏師は、全国的にも名前が知られていた運長です。彼は1699年12月「像本体、光背、台座」などについて、デザインや素材から組立費、金箔押しの仕様までの「見積書」を善通寺に提出しています。こんなシステムがあったので、全国の顧客(寺院)を相手に取引が行えたのです。
 善通寺側のOKが出ると、制作にかかります。寄来造りですから分解が可能です。出来上がると、頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されます。その他に台座、光背などの小さな部材もあわせると全部で33ケ仮箱が必要だったようです。京都で梱包作業された箱は、船で大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 この輸送には、運長の弟子が二人ついてきています。彼らが組立設置などの作業もおこなったようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。こうして、金堂に京都で作られた薬師さんが1700年の秋までには、善通寺の金堂に安置されます。以後約320年間、この薬師さんは善通寺を見守り続けています。

1 善通寺本尊3

 お参りのあとに、薬師さんの周りを一周してみて下さい。そして、寄せ木造りの継ぎ目がどこにあるかを探してみてください。300年前の仏師の息づかいが聞こえてくるかも知れません。

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善通寺五重塔(4代目)
一方、五重塔は受難の連続でした。
   善通寺の五重塔も本堂と同じように、戦国時代に焼失します。その後、元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間(19世紀初頭)です。ところが3代目の五重塔は、完成後直後の天保11年(1840)に、落雷を受けて焼失してしまいます。
 その5年後の弘化2年(1845)に着手したのが現在の五重塔です。そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工します。五重塔としては案外若い建物です。
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善通寺東院の金堂と五重塔
どうして完成に60年もかかったのでしょうか?
これは、同時期に建立されていた本山寺の五重塔と同じで、資金が集まらないのです。当時は、勧進をしながら工事を進めます。資金が底を突くと工事はストップします。この繰り返しが続きます。
 この時の五重塔建設の初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。彼は善通寺の前に、39歳で備中国分寺五重塔を完成させたばかりでした。彼にとっては、2つめの五重塔になります。この頃の貫五郎は、中四国で最高の評価を得た宮大工だったようです。彼は同時期に建設中だった金毘羅山の旭社や、岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。

善通寺五重塔2
善通寺五重塔
 貫五郎は、この塔に懸垂工法を採用しました。
この塔の心柱は、五重目から鎖で吊り下げられています。そのため心柱は礎石から60mmの所で浮いています。
善通寺五重塔心柱は浮いている
善通寺五重塔の心柱は6㎝浮いている
この工法は、従来は「昔の大工が地震に強い柔工法を編み出した」とされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して、心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間できるのを防ぐ雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 彼の死にあわせるように、資金不足と幕末の動乱で10年間工事は中断します。世の中が少し落ち着いて、資金が集まった明治10年に工事は再開します。結局、1902(明治35年)になってやっと五重塔の上に宝塔が載せられます。塩飽大工三代によって、この五重塔は建てられたことになります。発願から完成まで62年がかかっています。
 
四国・香川県の塔 善通寺五重塔
外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力があります。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。
芯柱は6本の材を継いで使われています。一番上ががヒノキ材、その下2つがマツ材、そして一番下の3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。

善通寺五重塔3
善通寺五重塔
 各階には床板が張られていますので、階段で上っていくこともできます。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたので、各層で時代の違い違いを見ることができます。
以前に、文化財協会の視察研修でこの五重塔に登る機会がありました。
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善通寺五重塔の柱の奉納者名
 善通寺の五重塔の内部の柱には、寄進者の名前が大きく墨書されていました。その中には、まんのう町の庄屋であった次のような名前も見えました。
真野村の三原谷蔵
吉野上村の新名覚□
近隣の有力者たちも組織的に、この五重塔建立に寄進していたことがうかがえます。その人々の「作善」の積み重ねて完成した塔であることを改めて感じました。

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善通寺の東院と西院
東院境内には、今はほとんど忘れ去られていますが江戸時代には、大きな役割を担っていた神域があります。

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雨乞いの神様である善女龍王を祀る社です。

真言の雨乞祈祷法が讃岐に最初にもたらされたのは善通寺だったようです。17世紀後半に、院内改革のために善通寺院主が高野山から高僧を招いて、研修会を夏に開いていました。その年は大干ばつで雨が降らず人々が困っているのを見て、高僧は「それでは私が善女龍王に祈って進ぜよう」ということになったようです。そして、空海が京都で空海が行った雨乞の修法を行い雨を降らせます。

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善女龍王東院の龍王社
そこで善通寺ではここに龍王社を建立し、善女龍王を祀るようになります。丸亀藩主は旱魃になると善通寺の僧侶に雨乞祈祷を命じます。

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それを見て髙松藩は白峰寺に、多度津藩は弥谷寺を雨乞いのための祈祷寺に指定します。このような各藩の善女龍王信仰の動きを見て、各地の真言宗の主要なお寺が、龍王社を勧進し雨乞い修法行うようになります。こうして讃岐では、善女龍王は雨を降らせる神として知られるようになります。
綾子踊り 善女龍王
雨乞い踊り「綾子踊り」の善女龍王の旗
 善通寺東院の龍王社は、一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。讃岐の善女龍王信仰の原点は、この小社にあります。
善通寺東院伽藍図
善通寺東院の伽藍図(金毘羅参詣名所図会) 金堂の後に龍王社

 空海が雨乞いを祈祷した善女龍王とは、どんな姿をしていたのでしょうか。これには次の3つの姿があるようです。
2善女龍王 神泉苑g
空海の前に現れた子蛇と龍
①子蛇 → 龍  古代
善女龍王 本山寺
本山寺(三豊市)の男神像の善如(女)龍王
②善如龍王 男神像(高野山に伝わる唐の官服姿で服の間から尻尾がのぞく姿)
善女龍王

③善女龍王 女性像(醍醐寺主導で広められたもの)
善通寺東院と西院2

   今回は、金堂や五重塔など目に見える善通寺東院の「見所」を紹介しました。次回は、もう少しデイープに目に見えない東院の見所を紹介しようと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


   ある町の文化財保護協会を案内して、善通寺の遺跡や建物を巡ることになりました。そのために今までの史料や写真を再構成して説明パンフレットらしきものを作っておくことにします。それを資料としてアップしておきます。事前に読んでおいてもらえれば、当日の説明がよりスムーズになるという思惑もあるのですが・・・。それは参加者に重荷にならない程度にと思っています。
 さて今回は、十一師団が善通寺に設置されるまでの経緯と、今に残る師団関係の建築物についてです。
 日清戦争後に、次の日露戦争に備えて軍備増強が求められます。その一環として四国にも師団が設置されることになります。それまでの師団は、広島や姫路、熊本など大きな城跡が選ばれています。ところが讃岐では、丸亀城も高松城も飽和状態で大規模な師団設置はできませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが善通寺です。当時の善通寺は小さな門前町で、市街地もなかったことが次の地図からはうかがえます。
善通寺村略図2 明治
十一師団設置前の善通寺村略図
なぜ善通寺に師団が置かれることになったのでしょうか。
 担当者の頭の中にあったことを想像すると次のようになります。
①次の戦争は大陸でおきる。迅速な軍隊の移動のために、近代的な港と鉄道が整備されていることが必須条件だ。香川県NO1の港湾施設は多度津港だ。多度津港と鉄道で結ばれているのは善通寺だ 
②善通寺には多くの出水があり、豊富で清潔な飲料水が確保できる
③周囲には演習地として利用できる五岳・大麻山が隣接してある
これは善通寺市かない。
というところでしょうか。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。

善通寺11師団 地図明治39年説明
1907年の善通寺
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
担当者がまず行ったのは、用地買収です。第1次計画として善通寺駅前から善通寺南門までまっすぐに線を引いて、この線から南の幅約200mのゾーンを買収していきます。今回見学する偕行社から四国学院、そして乃木神社・護国神社のゾーンです。この結果、地元で起こったのは地価の高騰でした。香川新報(四国新聞の前身)には、次のように報じています。(現代文意訳)

1次買収の総買収面積は「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991㌶)である。(中略)もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様である

 地主によって売り惜しみが横行し、地価が10倍近くまで高騰したようです。さらに2次計画が進んだ1898(明治31)年には、1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らの中には、駅前通の北側に店を出して新たな商売をはじめ者が出てきます。また、あらたな「市場」に、琴平などから移ってきたり、支店を構える者も現れます。特に駅前通には、ずらりと旅館がならんだようです。
 各連隊の工事が一斉に始まると、3000人近くの工事関係者が全国からやってきました。師団が出来ると四国中から新兵が入隊してきます。それを見送るための家族や妻も善通寺にやってきて宿泊します。旅館はいくらあっても足りません。

善通寺駅前の旅館

         駅前通りの北側にあった旅館

わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。

善通寺駅前通りの店
駅前通りの店
 さらに11師団の兵士総勢は1万人とされました。彼らの食べる食材などを準備する店も必要です。こうして、それまで田んぼが広がっていた駅前通の南側には11師団の軍事施設が並び、その反対側の北側には、師団へのサービスを提供する様々な店が並び、たちまちの内に市街地が形成されていったのです。それまで3000人少々の門前町が、軍人と住民を併せると2万人を越える「大都会」に成長するのは、あっという間でした。善通寺は師団設置の大建築ラッシュで、短期間で大変貌したことを押さえておきます。
こうして1897(明治30)年には、第一期工事として、次の各営舎が完成します。これらの配置関係を地図で確認しておきましょう。

11師団配置図
①偕行社(1903年)     北側は出水で水源 
②輜重兵第十一大隊(1898年)  現郵便局・免許コース
③騎兵第十一連隊(1897年)   四国学院・裁判所
④歩兵第四十三連隊(1897年)  護国・乃木神社・中央小
⑤兵器敞                               現自衛隊
⑥山砲兵・歩兵第二十二旅団司令部  現自衛隊
⑦工兵第十一大隊(1898年)    アパート
⑧第十一師団司令部(1898年)一部警察学校
⑨伏見病院
⑩練兵場           農事試験場+善通寺病院
十一師団建築物供用年一覧
 これらの建物の完成を待って、十一師団は開庁されます。多度郡善通寺村に送られた通牒には、次のように記されています。

11師団司令部開庁通知

乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
①初代師団長は乃木希典で、28日早朝に着任すること
②明治31年(1898)12月1日師団司令部が開庁すること
そして12月8日に、丸亀の東練兵場で閲兵分列式が行われたようです。
そして、1920年代になると各隊の配置は、つぎのようになります。

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1921年最新善通寺市街図(善通寺市史NO3)

善通寺十一師団の現在に残っている建築物を巡っていきます。
旧善通寺偕行社|スポット・体験|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット

まず訪ねるのが①の偕行社です。
偕行社とは、陸軍の将校の親睦共済団体です。「偕行」とは「一緒に進む」という意味で「詩経」に出てくる言葉のようです。将校の社交場として建てた建物も偕行社と呼ばれました。師団の置かれたところには、どこにもあったのですが、残っているのは現在では6ヶ所だけです。朝ドラのカムカムエブリボデイの中で、岡山の偕行社が出てきて、話題になっていました。岡山の偕行社は、十七師団の偕行社として1910年に建てられたものです。善通寺の方が7年早いことになります。改修されて重文に指定されていますが、その方向は「地域の社交場」として活用しながら残していこうというコンセプトのようです。ここでも喫茶レストランが新たに増築されています。また、会合などにも貸し出されています。今回は、ここで昼食です。

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偕行社正面 ルネッサンス様式のポーチ
 19世紀のヨーロッパはナポレオン3世に代表されるように、ルネサンス様式が大流行した時代です。それが明治期のこの国にも、このような形でもたらされます。正面中央に車寄せのポーチがあります。これがこの時期の西洋建築物のお約束です。見て欲しいのは、このポーチの柱です。当時、コンクリートはまだなかったので、石柱です。ドーリア(ドリス)式角柱で三角ペディメントを受けています。古代ローマは、ギリシア建築をコピーして、ペディメントのある建築を作りましたが、それが19世紀のルネッサンス様式に当然のように取り入れられます。現在のアメリカのホワイトハウスも、この様式です。しかし、西洋風はこの部分だけ、窓などは洋風ですが、屋根には瓦が載っています。これを「和洋折衷」と云うとしておきましょう。

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偕行社裏側(南側)
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。

偕行社平面図
偕行社平面図(建設当初)

    中に入ってみると、明治時代にタイムスリップしたような気分になれます。廊下や窓、照明など、随所に明治時代の趣ある装飾がみられます。最大の見どころは大広間。高い天井に大窓が並ぶ開放的な空間で、舞踏会や社交クラブなどかつてここで開かれたという説明に納得します。
偕行社と市役所
新善通寺市役所と偕行社

善通寺市は、新しい市役所を偕行社の西側に建設しました。
偕行社を目玉にして、善通寺をアピールしていこうとするねらいがあるようにも思えます。新市役所の2Fは図書館で、広いテラスがありくつろぎスペースにもなっています。外部の人も自由に利用できます。
偕行社2
市役所2Fの図書館テラスからの偕行社
ここに置かれた椅子に座って、偕行社の建物を上から眺めて楽しむことも出来るようになりました。
図書館より輜重
善通寺図書館西側の窓際からの眺め
 図書館西側は「五岳の見える窓際」です。ここからは11師団の輜重隊や騎兵隊・歩兵隊跡を眺めることができます。私は郷土史コーナーの「持出禁」の本や史料を、ここで読んだりしています。いろいろなイメージが広がって、私にとっては楽しいお勧めの空間です。

善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺航空写真

     次に訪ねるのが四国学院大学のキャンパスです。
 それを戦後直後の航空写真で見ておきましょう。
善通寺の背後にあるのが霊山の五岳で、その盟主が我拝師山です。その霊山に東面して建てられているのが善通寺であることがよく分かります。この位置は、古代以来変わっていません。善通寺の南門の南側から真っ直ぐに東に伸びているのが駅前通です。この南側に十一師団の各連隊が設置されていたことがよく分かります。今から目指すのは四国学院です。ここには騎兵11連隊が置かれていて、軍馬がたくさん飼われ訓練されていた所です。この写真の護国神社の東側が騎兵連隊です。拡大して見ましょう。

善通寺騎兵隊 拡大
騎兵隊周辺(現 四国学院)
  現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。
騎兵連隊跡 四国学院

この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。
それでは2号棟を見に行きましょう。
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2号館の正面です。私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。

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「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。ところが・・・

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この三角屋根とドーリア式の円柱は、もともとあったものではないようです。校舎として転用する際に、大学側が「追加・増築」したもののようです。そうだとすれば、飾りのない校舎のような姿もすんなりと納得できます。

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 香川県で84番目の登録文化財になっています。

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正面の入口ポーチを取り去ってしまえば、どこか戦前の木造校舎にも見えて来ます。このような公的な大型建物がモデルとなって、後に中学校や小学校の木造校舎に「転用」されていくのかもしれません。

もうひとつここには、騎兵連隊本部として使われていた建物があります。
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                         騎兵連隊本部だったホワイトハウス
我拝師山をバックに背負って、白く輝いています。今はホワイトハウスと呼ばれています。小さくても「三角ペディメントと車寄席」という様式は踏襲されています。
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2F建てで、少し華奢な感じもします。ここは本部でも事務方の建物だったようです。

ホワイトハウス
旧騎兵連隊本部と図書館の間の道付近が旧南海道(推定)
ちなみに隣にならぶのが図書館です。この間を抜ける道附近に、古代南海道跡が通っていたことが発掘から分かっています。讃岐富士の南側、現在の飯山高校北側から真っ直ぐに我拝師山にむけて伸びているようです。この南海道が最初に測量・建設され、それを基軸に丸亀平野の条里制は整備されていきます。空海(真魚)も、きっとこの道を歩いたはずです。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里制と四国学院の中を通る南海道
 多度郡の条里遺構の中に善通寺と四国学院を置いてみると上図のようになります。四国学院は三条七里にあり、南海道は七里と六里の境界であったと研究者は考えているようです。

四国学院側 条里6条と7条ライン
四国学院を通る南海道と多度郡衙跡(推定)の関係
 四国学院の南の旧善通寺西高校グランドからは、多度郡の郡衙跡と推定される遺跡が見つかっています。さらに、この北西には善通寺が7世紀末には姿を見せます。この辺りが、佐伯氏の拠点で古代多度郡の中心であったことが推測できます。

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讃岐護国神社
四国学院の西門の向こう側には、今は護国神社と乃木神社が並んで鎮座しています。深い神域の中にあるので、古いようにも思えます。ところがここは、もともとは歩兵第四十三連隊(1897年)があったところです。それがなくなったのは、1920年代の協調外交による軍縮でした。ひとつの連隊が軍縮で姿を消したのです。その後に、地元の誘致で護国神社と乃木神社が建立され、現在に至っています。この間の道を琴参の路面電車は走っていました。この停留所の名前は、護国神社前で、ここを電車が通過するときには、常客は帽子を取り最敬礼をしなければならなかったと、私は聞いています。
DSC03916善通寺師団 配置図
十一師団配置図
十一師団の建築物めぐり、今回はここまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 558P 第十一師団の創設
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買田池1
   買田池が姿を現す前の如意山と諏訪谷   
丸亀平野の土器川と金倉川に挟まれた小高い丘陵地帯があります。これが如意山と呼ばれ古くから霊山として信仰の対象になっていたようです。それは、この山の谷間から銅鐸や銅剣が出ていることや、南側斜面の櫛梨側には式内社の櫛梨神社が鎮座していることからうかがえます。また、中世にはここに山城が築かれて、ここを占領した安芸毛利軍と讃岐国衆との間で、元吉合戦が戦われています。今回は、この如意山の東側に開いた諏訪谷に築かれた買田池について見ていくことにします。テキストは「田村吉了   買田池と周辺水利史 善通寺文化財報6号 昭和62年(1987)」です。研究者は、買田池を次の4段階に分類しています。
1、諏訪谷池時代と周辺。
2、慶長17(1612)年 買田池誕生と二回の底掘。
3、安政6年(1859)年 底掘と嵩上と万延元(1860)年修復と新揺。
4、明治以後より満濃池土地改良区管理まで。
買田池8
現在の買田池

1617(慶長17)年 買田池の誕生と二回の底掘。
  江戸時代になり世の中が落ち着くと、生駒藩は新田開発を奨励し、開発者に対して有利な条件を提示します。そのため周辺から有力者が入国して、今まで未開発で手の付けられていなかった土器川や金倉川の氾濫原を開発し、大きな田畑を所有するものが現れます。その例が以前にお話した多度津葛原の木谷家です。木谷家は、もともとは安芸の海賊衆村上氏に仕えていた一族です。それが秀吉の海賊禁止令を受けて、讃岐にやって来て金倉川沿いを開発する一方、豊かな財力で周辺の土地を集積していきます。そして、17世紀中頃には、庄屋になっています。このような有力者たちが「開発した土地は自分のもの」という生駒藩の政策に惹かれて、讃岐にやってきて帰農し、土地を集積し地主に成長して行ったようです。
  また三野平野では、生駒藩に家老クラスで仕官した三野氏が大規模な新田開発を行い、それに刺激された高瀬の威徳院などの寺院も新田開発を積極的に進めたことは、以前にお話ししました。しかし、新田ができただけでは稲は育ちません。そこに農業用水がやって来なければ水田にはできないのです。そのためには潅漑施設として「ため池 + 灌漑用水路 + 河川コントロールのための治水事業」が必要になってきます。農業用水確保と水田開発はセットなのです。
ちなみにこの時期に満濃池は姿を消していました。12世紀末に決壊して後は、放置されて旧池跡は開発され池之内村ができていました。灌漑用水の確保は急務になります。新田開発が進んだエリアでは、その上流地域にため池の築造場所を物色するようになります。
木徳町の津島家文書には、次のように記されています。
「慶長十七(1612)生駒正俊の時 この池を拡げ築立て申候、八月二日鍬初めいたし十二月十五日出来中候、御普請奉行北川平衛門、御普請手代森山伊右衛門この両人始末相請け築立申候、この池はもと小さき池にて、諏訪谷池と申し居り候処仲郡東西木徳村、郡家村、梓原村、金蔵寺村、原田村、与北村々相謀り、田地ばかりを右七か村にて買取り、東北へ二町ばかり拡げ申候に付、買田池と名づけ申候」

意訳変換しておくと
「1612年藩主・生駒正俊の時代に、この池の拡張工事が行われた。8月2日に鍬入れが行われ、その年の12月15日に完成した。御普請奉行北川平衛門、御普請手代森山伊右衛門の両人が責任者であった。この池はもともとは、諏訪谷池と呼ばれる小さな池であった。それを仲郡の東西木徳村、郡家村、柞原村、金蔵寺村、原田村、与北村の村々が協議して、用地買収を行って東北へ二町ばかり拡張した。そこで買田池と名づけられた。」

買田池誕生 生駒時代
生駒時代の買田池


ここからは次のようなことが分かります。
①下流の東西木徳村、郡家村、柞原村、金蔵寺村、原田村、与北村の7ヶ村を灌漑エリアとすること。
②もともと諏訪谷池とよばれる小さな池があったのを、大規模拡張工事を行って大型化したこと
③拡張部の敷地が買収で確保されたので「買田池」と呼ばれるようになったこと
こうして真夏から4ヶ月で240間(432m)の築提が行われ、約二町歩の水面が広がる大池が姿を見せたのです。これは西嶋八兵衛の満濃池築造に先駆けること約20年前のことです。
しかし、この池を満水にするには如意山の降雨量では足りません。
 約30年後に西嶋八兵衛によって築造された新満濃池の池掛かりに、買田池は組み込まれ「子池」に編入されていることが1641(寛永18)年の「満濃池之次第」からは分かります。
買田池7
現在の買田池 中央奥が五岳、右奥が天霧山
1703(元禄16)の記録には、「池床底掘り上げる」と記されています。
更に28年後の1731享保16)年には、第二回の掘り上げを行ったとあります。注意したいのは「掘り上げ」としか書かれていませんが、「嵩上げ」を伴うものであったと研究者は推測します。 以前に多度津葛原の木谷家のところでお話したように、江戸時代前期のため池維持の工事は「底ざらえ」が中心で、費用のかかる嵩上げ工事はやっていません。嵩上げ工事が行われるようになるのは、18世紀になってからのようです。天保年間の調査記録では、次のように記されています。
堤高 三間半 (6,3m)
堤長 二白四十間 (432m)
堤巾 二間半 (4,5m)
ここからは、天保年間には嵩上げが同時に行われ、皿池であつた買田池が底の深い溜池に姿を変えていったことがうかがえます。

買田池5 時代比較
  買田池にとって、もうひとつのレベルアップは、元禄年間に高畑正勝が金倉川流水、次に享保年間に土器川の引水に成功したことです。  これについては、また別の機会にします。
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櫛梨城跡からのぞむ買田池

ペリーがやって来る前年の 安政5(1853)年に、修築工事を終えたばかりの満濃池が決壊します。

新たな工法としてそれまでの木樋から石樋に換えたための工法ミスとされます。これに対して、多度津藩や丸亀藩からは早期の再建に対しては強い反発が出されて、再築工事着工の目処がつきません。そこで、髙松藩では満濃池に頼らない灌漑システムの構築に動き出します。それが買田池の大規模改修であったようです。
 翌年の1854(安政6)年の秋に、農民から出された底堀上置普請に対する銀60貫目の貸付と、大工、人夫延53000人が計上プランを髙松藩は認めています。これまでにない大規模な改修工事であったことが分かります。この工事に当っても、新たに必要な30石あまりの田地を、七ケ村で買取っています。その結果、西側に内池(上池)と呼ばれる池が姿を見せ、二重池となります。満水の際は、中堤が水面下に沈んで、一面の大池になりますが、減水すると二つ並んだ池となります。
買田池3 安政の嵩上げ
安政の底上げ・嵩上げ工事

 しかし、安政の底掘、嵩上工事は大型化に対して技術が伴わなかったようです。

6年後の1860(万延元)年5月15日の大雨で決漬し、下流田地が押し流されました。その後、復旧では三段櫓が導入され西部の京田、西村方面への配水の速さが向上します。こうして、現在の買田池の原型が成立します。
買田池6 安政とまんえい比較

以上をまとめておきます。
①17世紀初頭の生駒藩による新田開発で生まれた水田の灌漑用水として買田池は作られた。
②その後、新たに築造された満濃池の水掛かりに入ることで用水を確保しようとした。
③それでも農業用水は不足し、水源確保のためにかずかすの施策が採られた。
④そのひとつが底浚いと堰堤の嵩上げであった。
⑤幕末に満濃池が決壊して、再築が進まない状況の中で、髙松藩は買田池の大規模増築を実施する
⑥しかし、これは工事に問題があり短期間で決壊した。現在の買田池の原型はこのときの復旧野中から生まれた。

買田池4 昭和の大改修

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献     田村吉了   買田池と周辺水利史 善通寺文化財報6号 昭和62年(1987)

南北朝初期の康永元年(1342)ごろの善通寺の寺領目録には、次のような寺領が記されています。
善通寺々領目録
①壱円(善通寺一円保)
②弘田郷領家職善通寺修理料所
③羽床郷萱原村誕生院領
④生野郷内修理免
⑤良田郷領家職
⑥櫛無郷内保地頭職 当将軍家御寄進
己上
この目録によると善通寺領の一つとして⑥に「櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」と記されています。ここからは善通寺が「櫛無郷内保地頭職」を所有し、それが「当将軍=足利尊氏」の寄進によるものだとされていたことが分かります。この寺領の由来や性格について、今回は見ていくことにします。テキストは「 善通寺誕生院の櫛無社地頭職  町史ことひらⅠ 135P」です。

⑥が誕生院に寄進されたときの院主は、宥範になります。
宥範については以前にお話ししましが、櫛無郷で生まれた名僧で、「贈僧正宥範発心求法縁起」によると、彼は善通寺の衆徒たちに寺の再興を懇願されて、次のような業績を残しています。
元徳三年(1321)7月28日に、善通寺東北院に居住
建武年間(1334~38)に誕生院に移り
暦応年中(1338~42)より、五重塔並びに諸堂、四面の大門、四方垣地などをことごとく造営
こうして宥範は善通寺中興の祖といわれます。
その宥範が観応元年(1352)7月1日に亡くなる5日前の6月25日に、法弟宥源にあてて譲状持を作成しています。そのなかに次の一項があります。
一、櫛無社地頭職の事、去る建武3年(1336)2月15日将軍家ならびに岩野御下知にて宥範に成し下されおわんぬ。乃て当院の供僧ならびに修理等支配する者也

  意訳変換しておくと

一、櫛無神社の地頭職については、去る建武3年2月15日将軍家と岩野氏の御下知で宥範に下されたものである。よって誕生院の供僧や修理などに供されるものである。

ここからは誕生院の持つ櫛無保の地頭職は櫛無社地頭職ともいわれ、建武3年(1336)2月15日に、足利尊氏と「岩野」家より宥範に与えられたものであることが分かります。ここで「岩野」家が登場してきます。これが宥範の実家のようです。これについては、後で触れることにして先に進みます。
建武の新政 | 世界の歴史まっぷ

建武三(1336)年2月の讃岐を取り巻く情勢を見ておきましょう。
この年は鎌倉から攻め上った足利尊氏が京都での戦に破れて九州に落ちていく時です。尊氏は後備えのために中国・四国に武将を配置します。この中で四国に配されたのが細川和氏、顕氏で、彼らには味方に加わる武士に恩賞を与える権限が与えられます。和氏、顕氏はこの権限を用いて各地の武士に尊氏の名で恩賞を約し、尊氏方に従うよう誘ったのです。讃岐においても、細川顕氏が高瀬郷の秋山孫次郎泰忠に対して次のように所領を宛行っていたことが秋山文書から分かります。
讃岐国高瀬郷領家職の事、勲功の賞として宛行わる所也、先例を守り沙汰致すべし者、将軍家の仰によって下知件の如し
建武三年二月十五日        兵部少輔在御判
           阿波守在御判(細川顕氏)
秋山孫次郎殿            
日付を見ると、誕生院宥範が櫛無社地頭職を与えられたのも同じ日付です。ここからは、この宛行いも目的は同じで、顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院に所領を寄進して、その支持を取り付けようとしたものであることが分かります。
櫛無郷

ここで疑問に思えてくるのが島津家が持っていた櫛無保の地頭職との関係です。
貞応三年(1324)以来、櫛無保守護職は薩摩守護の島津氏が地頭職を得ていたはずです。これと誕生院が尊氏から得た櫛無保内地頭職(櫛無社地頭職)は、どのような関係にあるのでしょうか
このことについて、別の視点から見ておきましょう。
「善通寺文書」のなかに、建武五年(1328)7月22日に、宥範が櫛無保内の染谷寺の寺務職を遠照上人に譲った譲状があります。
染谷寺とは持宝院のことで、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。この寺伝には、文明年中(1469~86)に奈良備前守元吉が如意山に城を築く時に寺地を移したと伝えられます。もともとは、この寺は、島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中ににあったようです。譲状の内容を要約して見ておきましょう。
染谷寺(持宝院)は宝亀年中(770~80)の創立で、弘法人師御在生の伽藍であるが、年を経て荒廃していたのを、建久年間(1190~98)に、重祐大徳が残っていた礎石の上に仏閣を再建した。さらに嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立した。これより以来「偏に地頭家御寄附の大願所として」、珍慶・快一・尊源・公源・宥範と歴代の住持が御祈躊を重ねてきた。
 宥範も寺務職についてから多年御祈躊の忠勤を励んできたが、老齢になったので、先年門弟民部卿律師に寺務職を申し付け、努めて柴谷寺に住して「地頭家御所願の成就を祈り奉る」よう命じていた。ところが、民部卿律師はこの十数年京都に居住して讃岐の寺を不在にして、宥範の教えに違背した。そこで改めて奈良唐招提寺の門葉で禅行持律の和尚であり密宗練行の明徳である遠照上人を染谷寺寺務職とし、南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与することにした。しからば、長く律院として、また真言密教弘通の寺院として興隆に努め、「天長地久の御願円満、殊に地頭家御息災延命御所願の成就を祈り奉るべき也」

「嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立」とありますが、この年は島津忠義が櫛無保の地頭に任じられてから12年後のことになります。「地頭御寄附の大願所」とあるので、珍慶の伽藍建立には、地頭島津氏の大きな援助があったことがうかがえます。荘園領主や地頭が、荘民の信仰を集めている荘園内の神社や寺院を援助、保護する、あるいはそれがない時には新たに建立することは、領主支配を強化する重要な統治政策です。島津氏も染谷寺に財物や寺領を寄進して再建を援助することで、信仰のあつい農民の支持を取り付け、また自身の家の繁栄を祈らせたのでしょう。  また「南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与」とあるので、持宝院は周囲の谷に広がる田畑や山林を寺領として持っていたようです。
櫛梨
持宝院(現在は廃寺)
こうして見ると「⑥櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」というのは、櫛梨保全体のことではないようです。
善通寺寺領の「⑥櫛無郷内保地頭職」は、櫛梨保の一部であったものが、染谷寺(持宝院)が島津氏によって建立された際に、寺領としてして寄進されたエリアであると云えそうです。そのため櫛無保における誕生院の地頭職と島津氏の地頭職は、互いに排斥し合うものではなく両立していたと研究者は考えています。
 そうだとすると誕生院の「櫛梨社地頭職」というのは、櫛無保の一部を地頭職の名目で所領として与えられたことになります。また「櫛無地頭職」ともあるので、櫛無神社の社領であったところでもあるようです。荘園の一部が荘内の寺院、神社に寄進されて自立した寺社領となることは、よくあることでした。櫛無神社は、神櫛皇子を祭神とし、「延喜式」の神名帳に載る式内神社です。
 この推測が当たっているとすれば、神仏混淆が進んだ南北朝・室町時代には、櫛無神社も誕生院の管領下にあったことになります。つまり櫛無神社の別当寺が善通寺で、その管理は善通寺の社僧が行っていたことになります。櫛無神社の祭礼などのために寄進された田地は、善通寺が管理していたようです。
 讃岐忌部氏の氏寺で式内社の大麻神社が鎮座する大麻神社の南には、称名寺というお寺がありました。
宥範も晩年は、この寺で隠居しようと考えた寺です。この寺も善通寺の末寺であったようです。善通寺で修行し、後に象頭山に金比羅堂を建立した宥雅も、称名寺に最初に入ったとされます。彼は西長尾城主の弟とも伝えられ、長尾一族の支援を受けながら称名寺を拠点に、象頭山の中腹に新たな宗教施設を造営していきます。それが金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の始まりになります。
 私は、称名寺・瀧寺・松尾寺などは、善通寺の「小辺路」ルートをめぐる修験者たちの行場に開かれた宗教施設が始まりと考えています。櫛梨の公文山にある持宝院も、広く見ればその一部であったと思うのです。それらの管理権は、善通寺が握っていたはずです。例えば、江戸時代になって善通寺誕生院が金毘羅大権現の金光院を自分の末寺として藩に訴え出ていることは以前にお話ししました。これも、当寺の善通寺が管理下に置いていた行場と辺路ルートにある宗教施設を考慮に入れないと見えてこないことです。

  最後に宥範と実家の岩野家について見ておきましょう。
  14世紀初期の善通寺の伽藍は荒廃の極みにありました。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように、隠居地の称名寺に嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
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櫛梨城跡から南面してのぞむ櫛無保跡 社叢が大歳神社 

そして、建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
 これは先ほど見たように「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。宥範には有力パトロンとして、実家の岩野一族がいたことを押さえておきます。

 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧が管理運営していたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。

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       琴平町上櫛梨小路の「宥範僧正誕生之地」碑
 別の研究者は、次のような見方を示しています。

  「大歳神社の北に「小路(荘司)」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

櫛梨保の現地管理人として島津氏が派遣した「保司」が居館を構えていた跡に大歳神社が建立されたと云うのです。そして、宥範の生地とされる場所も、この周辺にあります。つまり、岩野氏は島津氏の下で、櫛梨保の保司を務めていた現地の有力武将であったことになります。当寺の有力武将は、一族の中から男子を出家させ、菩提を供来うとともに、氏神・氏寺の寺領(財産)管理にも当たらせるようになります。宥範もそのような意図を持って、岩野家が出家させたことが考えられます。
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    「宥範墓所の由来」碑(琴平町上櫛梨)背後の山は大麻山
 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。
 それを見て、長尾城主もその子を善通寺に出家させます。それが、先ほど見た宥雅で、彼は一族の支援を受けて新たな宗教施設を象頭山中腹に造営していきます。それが現在の金刀比羅宮につながります。

   以上をまとめておくと
①鎌倉時代の承久の変後に櫛無保地頭職を薩摩守護の島津氏が得て「保司」による支配が始まった
②島津氏は櫛梨保の支配円滑化のために式内社の櫛無神社を保護すると共に、新たな信仰拠点として、持宝院を建立し寺領を寄進した。これが「櫛無郷内保地頭職(櫛梨社地頭職)」である。
③その後「櫛無郷内保地頭職」は、南北朝動乱の中で細川顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院宥範のの支持を取り付けようとして、誕生院に寄進された。
④その寄進に対して、宥範の一族である岩野氏も同意している。
以上からは、岩野氏が櫛梨保の「保司」あるいは「荘司」であり、宗教政策として櫛梨保内の寺社などの管理権を一族で掌握し、ひいては善通寺に対する影響力も行使していたことがうかがえます。宥範の善通寺伽藍再興も、このような実家である岩野氏の支援があったからこそできたことかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  善通寺の僧侶たちにとっての課題は、自前の寺領を確保し、本寺である随心院から自立していくことでした。
それが実現するのは、南北朝末期の明徳4年(1392)のことでした。善通寺誕生院が、本寺随心院によって善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職に補任されたのです。その補任を守護細川頼元が安堵した文書には、次のように記されています。
讃岐國善通寺奉行并びに弘田郷所務職、同院主職以下の事、本所随心院の捕任等に任せ領状相違有る可からずの状件の如し。
明徳四年二月廿一日              右京大夫在判(守護細川頼元)
誕生院法印御房                     
文中にある「善通寺奉行」の具体的内容については分かりませんが、誕生院の有快譲状に「当寺一円奉行別当代事」とあります。ここからは、善通寺一円保と境内を含む別当代官のことのようです。この補任によって善通寺が得たものは次のようなものでした。
①本寺から派遣された別当の下にあった管理運営権が、代官としての地元誕生院の手に委任されたこと、
②年貢徴収などの権利が委ねられたことで、実質的支配権を誕生院が行使できるようになったこと
これは誕生院にとってだけでなく、善通寺の歴史の上でも、画期的な出来事と研究者は評価します。

それから約20年後の応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定されます。
請所というのは荘園領主(随心院)に対して毎年一定の額の年貢の納入を請負うかわりに、荘園管理を全面的に委任される制度です。鎌倉幕府は、平家方についた没収官領に御家人を恩賞として地頭に補任して請所を行わせる地頭請所(地頭請)を進めます。請所の請料は、作柄の豊凶に関わらず毎年一定とされたので、請負者が納入の約束を果たす限りは、領主側も確実な収入確保が見込めるので都合が良い仕組でした。しかし、時が経つに随って、請負者の未進や不正が発生し、領主との間に訴訟などのトラブルが多発するようになります。

誕生院が随心院の善通寺領請所に指定された時の請文(うけぶみ=誓約書)を見ておきましょう。
請け申す。善通寺御年貢の事
右、明年十卯自り、毎年三十五貰文分、早水損に依らず、堅く備進せしむ可し。此内五貫文に於ては、二月中其沙汰致す可し。残り三十貫文、十二月中所の如く運送仕り候。若し此の請文の旨に背き、或は損凶と云い、或は未進(と云い)、絆を左右に寄せ(いろいろ理由をつけて)不法の義を致さば、不日(やがて)所務職を召放たるるの日、此の未済分、欺き申すに依って閣かると雖も、不義に至りては、悉く員数(そのたか)に任せて御譴責に頂る可く、其時一言の子細中す可からず。乃って請文の状件の如し。
応永十七(1410)年十二月十七日                        
                  椎律師宥快
意訳変換しておくと

来年の応永18年から年貢として、毎年銭35貫文を、たとえ日照り、水損で収穫がないことがあっても確実に納入する。35貫目の内で5貫文は、2月中に運上し、残り30貫文は12月中に送付する。もしこの請文の内容に背いたり、自然災害を理由に年貢を納めないときには、所務職を解任された時に未納額に応じて責任を追及されても不服は云わない。

 こうして随心院は、年貢35貫文の確保とひきかえに現地から手を引き、かわって誕生院が寺領支配権を手に入れました。
この請文に署名している権律師有快と何者なのでしょうか?
彼は宥範より二代後、つまり三代目の誕生院住持職の地位にあった人物のようです。応永21年(1414)4月21日付の有快の譲状に、次のように記されています。
新宮小法師丸(五代宥栄僧正)に譲与する誕生院住持職

そして善通寺所領として、従来からの櫛無地頭職、萱原村領家職の次に次の2つが追加されています。
一所 当寺院主職事                                                  
一所 弘田郷領家職事         
これは請所となった寺領が誕生院住持の相伝所領なっていたことを示すと研究者は指摘します。また善通寺奉行についても、次のように記されています。
一 当寺一円奉行別当代の事、本所の計として契約する所也。

ここからは、善通寺の別当代官に誕生院が任ぜられていることが裏付けられます。相伝所領のなかには、櫛無地頭職のように有名無実のものもありましたが、宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、この宥快の時に確立したと研究者は評価します。

ところが、誕生院の在地領主と地位は長くは続かなかったようです。
応永29年(1422)本寺随心院は、弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、それまでの誕生院から一方的に天霧城の香川美作入道に換えています。これを見ておきましょう。
讃岐國善通寺弘田郷領家職并びに一円保所務職、寺家別当奉行等の事 仰せ付けられるの上は、寺役以下先例に任せて遅滞なく其沙汰致す可し。殊に内外の秘計を廻らし、興隆を専らに可く、緩怠私曲有る可からず。将に亦、御年貢早水損を謂はず、毎年四十貫文憚怠無く沙汰致す可し。其中伍貫文に於ては二月中に運上せしむ可し。残り5貫文は、十二月中運上す可し。万一不法仰怠の儀出来せば不日召放さる可し。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                                沙弥道貞判
随心院政所殿
意訳変換しておくと
讃岐國善通寺弘田郷領家職・一円保所務職、寺家別当奉行等の事に任じられた上は、寺役以下先例のように遅滞なく役目を果たします。寺領運営については、内外の運営方法を参考にして、スムーズな運営ができるように務め、遅漏や私利私欲のないようにします。また旱魃や日照りになろうとも、約束した毎年40貫文は憚怠無く納めます。その内、5貫文については二月中に運上し、せしむ可し。残り35貫文は、12月中に納入します。万一これを破るようなことがあれば、契約解消されても文句は言いません。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。
應永廿九年正月十六日                       沙弥道貞判(香川入道)
随心院政所殿
この請書と応永17(1410)年に、誕生院の宥快が随心院と結んだものを比べて見ると次のようなことが分かります。
①年貢の請負額が、誕生院が毎年35貫文であったのに対し、香川美作入道は40貫文
②請所が弘田郷領家職だけでなく一円保所務職が加わっていること
一円保は、善通寺の寺領としては最重要の寺領です。一円保が加わって五貫文の増加では、あまりにも少なすぎる感じがします。わずか五貫文の請負額の差で、誕生院はながい苦労のすえにやっと獲得した寺領管理の地位を、在地武士(香川入道道貞)に奪われてしまったことになります。武士たちが請所になると、時を経るに従って約束された請負額も納めなくなり、横領されるのが時の流れでした。それが分かっていながら本所の随心院は、香川入道に切り替えたようです。地侍たちの「押領」が、どうにもならない所まできていたことがうかがえます。
この出来事から4か月後の応永29年5月14日の日付の善通寺に伝わる文書を見ておきましょう。
細川右京大夫(讃岐守護細川満元)
讃岐國善通寺領弘田郷領家職并一円保所務、西山安養院井びに寺家別富奉行の事、今年二月十二日随心院補任の旨に任せて領掌相違有る可からずの状、件の如し。
應永廿九年五月十四日         沙弥判(讃岐守護細川満元)
随(誕?)生院御房
冒頭に記された細川右京大夫とは、讃岐守護細川満元です。差出人の沙弥も満元のことでで、受取ったものが心覚えに袖に名前を記しておいたと研究者は推測します。文書の内容を意訳変換しておくと
善通寺領弘田郷領家職と一円保以下の所職を、2月12日の随心院の補任に任せて、随生院御房に安堵する

さて、この文書をどう解したらよいのでしょうか。弘田郷領家職は、先ほど見たようにすでに正月16日に、香川美作入道が補任されたばかりです。また受取り側の随生院御房とは、一体誰のことなのでしょうか。「随生院御房」は、善通寺や弘田郷の管領を委ねられたのだから、在地の僧のようです。そうとすれば、これは「誕生院御房」の誤字では?と研究者は疑います。その仮定の上に研究者は物語を次のように展開します。
①突然に思いがけず相伝の所職を随心院に召し上げられ、香川美作入道に奪われた誕生院は、驚いて本寺随心院に再任を訴えでた。
②その際に、請負額を美作入道同じ額の40貫文にあげてよいと契約条件の見直しを提示する一方、在地武士の請所によって、所領が押領される危険性を随心院に強調した
③善通寺の指摘に随心院は、あわてて所領を香川入道から取り返し、善通寺に返そうとした。
④ しかし、香川美作入道はいったん手に入れた有利な権利を手放すはずがない。
⑤そこで誕生院は、美作入道の主君である細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けたようです。
5月14日の文書の請所のなかに「西山安養院」の事が付け加えられています。
これは道貞の補任状にも付記として「西山安養院事、同じく御奉行有る可し」とでていたものです。そしてまた応永21年の宥快の譲状をみると、その中に次のように記されています。
一当寺安養院坊数名田畠等事

ここからはこの時期には、安養院は誕生院の管理下にあったことが分かります。安養院は、徳治の絵図の香色山の麓に描かれている小院です。誕生院は弘田郷その他の請負が香川氏の手に渡ったとき、この寺の管理権も失ったことになります。ここからは香川入道が善通寺の小院の支配権を握っていたことがうかがえます。以前に見たように、中世の善通寺の院の中には武装化する者や、武士たちの拠点となっているところがあり、境内では乗馬訓練も行われていたことを見ました。この史料からも、中世善通寺が武士たちの軍事拠点としても帰農していたことが裏付けられます。

こうして香川美作入道は、善通寺の別当奉行および弘田郷・一円保などの請所を握るようになります。
彼は最初のうちはともかく、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなったようです。これは美作人道に限ったことではなく、武士の請所になった荘園はどこも似たり寄ったりの状態でした。あまりの年貢末進にたまりかねた随心院は、幕府などにも助けを求めています。そして、文明5年(1472)のころには、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げています。東西両軍の総大将であった細川勝元、山名持豊が相次いで没し、応仁の乱もようやく終りの兆がみえてきた時期です。しかし数十年の長期間にわたって請負代官の地位を利用して寺領内に根をはってきた香川氏の勢力が簡単に排除できるはずがありません。
 文明6年(1473)年2月の室町幕府奉行人の奉書に「同じく帯刀左衛門尉競望未だ休まず」と、随心院の訴えが載せられています。
香川美作を解任したものの、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めてやまないというのです。これは、「希望している」ということではなく、実際には帯刀左衛門尉が実力で現地を抑えていたと研究者は推測します。そして彼は故美作入道とつながりのある人物だったのでしょう。文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について語っている史料はないようです。ないと云うことは、随心院の力が及ばなくなったということです。

香川美作入道の請所となった一円保は、どうなったのでしょうか。
彼の請所が成立した年から8年後の永享2年(1430)頃ろ、善通寺雑掌から「同所田所職并得一名」を寺家に返付してほしいという訴えが出されます。同年12月25日にその返付を実施して雑掌に沙汰するように善昌という人物が香河(川)下野入道に命じています。善昌は讃岐守護の家臣であり、守護の命令を奉じて香川下野に伝えたようです。田所職とは、荘官の一人である田所に属した所領です。これと得一名田とがどこにあったのかは分かりません。
 「善通寺雑掌中同所……」という表現から一円保ではないかと研究者は推測します。一円保は善通寺を含んだ寺領だからです。一円保には、田所も置かれていました。しかし、これらの所領がどういう形で寺の手を離れていたか分かりません。香川美作入道が持っていた一円保所務職との関係も分かりません。香川下野入道が香川美作と同族であることは分かります。が、それ以上の具体的な両者のつながりは分かりません。この田所職と得一名が果して命令どおり善通寺雑掌の手に返ったかどうか、これも分かりません。
応仁の乱の間、善通寺一円保は兵糧料所として守護に召し上げられていました。
それが応仁の乱から7年後の文明16年(1484)に随心院門跡の強い要求で、ようやく守護の奉行人と思われる高松四郎左衛門から随心院の雑掌宮野にあてて次のような寺領返却の書状がだされています。
随心院御門跡領讃岐國善通寺寺務領一円保領家職の事、一乱中兵粮料所と為て預下され候と雖も、御門跡と為て子細候之間御返渡し申し候。然らば当年貢自り御知行有る可きの状件の如し。
文明十六年正月二十三日            高松四郎左衛門   文知判
雑掌宮野殿
兵糧料所であった間、 一円保から上る年貢は、兵糧米として武士に給与されていたようです。おそらく守護は有力家臣に預けて保の支配をさせたはずです。その有力家臣として考えられるのは、西讃守護の香川氏です。寺領の返却が書状の命令通りに実行されたかどうかも分かりません。それは、この書状が随心院領一円保の名がみえる最後の文書だからです。 一円保も、香川氏など周辺の武士の争奪のうちに、善通寺の手を離れていったようです。

時代の形勢は、地方の一寺院が独力で所領を確保できるような状態ではなくなっていました。
誕生院自身、長禄二年(1558)には、その領有する萱原村領家職を、在地の武士滝宮実長に委ねざるをえなかったことが次の史料からは分かります。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。働て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
預り状として一応契約のかたちをとっているものの 年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用するとあります。所領を預かる期間も、五年間と定めてはありますが、不法のことがなければ、「年月を申し定め候とも、尚々も御あつけあるへく候」とあって、実質的には無期限と同じ契約内容です。これでは契約の意味はありません。誕生院領萱原村は、滝宮氏の手に渡ってしまったことを暗示する内容です。
善通寺の所領、良田郷領家職、生野郷内修理免などは、弘田郷や一円保以上に不安定な要素をかかえていました。これらの所領もまた、一円保や萱原村などと同じ道を、それらよりももっと早くたどつていったと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①南北朝末期の明徳4年(1392)に、善通寺誕生院は本寺随心院から善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職を得て、経済的自立への路のゴールに近づいた。
②応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定された。
③こうして宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、宥快の時に確立した。
④しかし、応永29年(1422)本寺随心院は、誕生院の領主的地位の基盤であった弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、一方的に香川美作入道に換えてしまった。
⑤そこで誕生院は、讃岐守護の細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
⑥この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けた。
⑦美作入道は、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなった。
⑧そこで文明5年(1472)には、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げた。⑨文明6年(1473)年2月には、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めた。
文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について記された史料はなく、随心院の力が及ばなくなったことがうかがえる。善通寺領は西讃守護代の香川氏やその一族によって横領されたようだ。このような押領を繰り返しながら、香川氏は戦国大名の道を歩み始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川氏の善通寺領侵略 善通寺市史566P

善通寺 生野郷 
善通寺周辺の古代郷    
仲村郷は、平安時代には善通寺の免田か散在していました。それが鎌倉時代になると 一円保に含まれた部分をのぞいて、高野山金剛峰寺の塔頭寺院の一つである一心院の寺領である仲村荘となります。

善通寺寺領 鎌倉時代
良田郷と弘田郷の間が仲村郷

 一心寺について最初に見ておきましょう。
 高野山の登山ケーブルの高野山駅から発車するバスの最初の停留所が「女人堂」です。高野山が女人禁制であった頃は、女性はここより先の立ち入りは許されず、この女人堂からはるかにみえる堂塔を拝んだようです。そこから坂を少し下ったところが一心院谷とよばれているエリアになります。一心院は、鎌倉時代の初期に、行勝上人(1130~1217)によってこの地に建立されました。
高野山一心院
高野山一心院跡
茲に故行勝上人、方丈草庵を当山に結び、(中略)、遂に多年の宿願に依って、忽ち一伽藍を建立す。堂塔、僧坊、鐘楼、経蔵成風の構権を接し、土木の功甍を並ぶ。即ち之を一心院と号す。

また、江戸時代の後期文化年間に和歌山藩が編さんした「紀伊続土記」の記事には次のように記されています。

行勝上人は、妙法蓮華経の五字を形取って五カ坊を建立し、五智を取り合わせて妙智坊、法料坊、進智坊等々と称した。 一心院は五坊の総称であり、その名は坊の近くの一心の字によく似た池にちなんだものだった。


 さらに「続風上記」には、その後の一心院の変遷が次のように記されています。
 五坊のうち妙法違花の四坊は次第にすたれ、経智坊のみ残った。建保五年(1217)に行勝が没すると、貞暁がそのあとを継いで経智坊に住した。貞暁は鎌倉法印ともいわれ、源頼朝の三男で、仁和寺で出家し、勝宝院、華蔵院を領していたが、行勝の徳を慕って高野山に登り彼に師事した。兄の三代将軍実朝が暗殺された後、母の政子が自ら高野山の貞暁を訪れ将軍職につくことをすすめたが、辞して動かなかった。貞暁は貞応二年(1232)寂静院を建立し、それ以後寂静院が一心院を代表することになった。
 
一心院という寺院は、朝廷や幕府などとも親交のあった行勝上人によって創建されたと伝えられているようです。
しかし、実質的な創建者は、源頼朝の三男で鎌倉法印と呼ばれた貞暁のようです。源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、貞暁は
高野山という世間と隔絶した中で修行に励み、人々の尊崇を集めるようになります。
その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なうようになります。これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟である3代将軍実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっています。
【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その3
高野山西室院に残る「源氏三代供養塔」

このように一心院は政子の庇護を受けて源氏の菩提寺として大きな伽藍を誇っていたようです。しかし、
寺院自体は、江戸時代頃にはすでに衰退してしまい、現在は寺院としては存在しません。「一心院口・一心院谷」という地名として残っているのみです。
 大きな威勢をもった一心院(寂静院)は、多くの荘園が寄進されていました。讃岐国多度荘もその一つのようです。しかし、これは荘務権をもった荘園ではなく、安楽寿院領であった多度庄の領家分のうち百石をとり分けて寂静院の寺用に配分するというものでした。そのため地頭の妨げによって運上が思うように行えず、天福2年(1224)になって摂津国武庫下荘がかわりにあたえられることになります。
道勝の奏状は、仲村郷が一心院領となった由来を次のように記します。
茲に仲村郷は、去る建永年中、國司当院に寄付し佛聖以下の寺用に配す。(中略)
件の郷弘法大師経行の地為るに依って、当山領為るの條、由緒有るに依って、代代の宰吏、己に富郷を以って当院領為る可きの由國宣を成すの後、三十餘年を経畢んぬ。
意訳変換しておくと
ここに仲村郷は、建永年中(1206~07)、讃岐国司が一心院に寄付し寺領となった。(中略)
仲村郷は弘法大師生誕の地で、当院の寺領となるのは、その由緒からもふさわしく、代々の国司が仲村郷を当院寺領とする旨の國宣を下した。それから三十餘年を経た。
ここでは、仲村郷は建永年中(1206~07年)に国司によって一心院に寄附されたとあります。「代々の国司が仲村郷が一心院領であることを認めた国宣を発している」とあります。
承久三年(1321)8月の讃岐国司庁宣(寂静院蔵)に、次のように記します。
庁宣一 留守所
早く中村郷を以って、永代を限り、高野一心院御領と為す可き事
右、彼村を以って、永代を限り、 一心院御領と為す可きの状、宣する所件の如し。在庁官人宣しく承知して違失す可からず。以って宣す。
承久三年八月 日
               大介藤原朝臣(花押)
意訳変換しておくと
庁宣  讃岐国司の留守所
中村郷を永代、高野一心院御領となすべきこと。
このことについて、仲村郷を永代に渡って、 一心院御領とすべきことについて、国司の庁宣を下した。讃岐在庁官人は、宣しく承知して違失なきように、よろしく取り扱うこと。以って宣す。
  承久三(1321)年八月 日            大介藤原朝臣(花押)
  讃岐国司庁宣からも一心院領であったことが認められていたことが裏付けられます。
承久三年は、「紀伊続風土記」によれば、貞暁が経智坊に住していたときになります。
しかし、庁宣の文は、すでに与えられている領地を安堵・承認するというより、この時にはじめて中村郷が一心院に寄進されたことを示しています。「続風土記」にも次のように記されています。
「山史、承久三年八月、源義国、讃州中村郷を以って永く、 一心院経智坊に寄附せらると云々」

ここからは中村郷全体が一心院領となったのは、貞暁が一心院を継いだ後のことだったようです。ここに出てくる「源義国」は、当時の讃岐国主と研究者は考えているようです。

朝廷による一心院の仲村郷領有の承認は、どのように行われたのか     延応元(1239)年太政官牒所引道勝の奏状は、次のように続きます。
而して今庄琥の綸旨を下され、向後の牢籠窮迫を断たんと欲す。望み請うらくは天恩、 先例に因り准して、当院を以って御祈願所となし、兼て讃岐国仲村郷を以って永代を限り当院領と為し、四至を堺し一膀示を打ら、 一円不輸の地と為し、伊勢役夫工大嘗会召物以下大小勅院事等、永く皆免ぜられ、而して領家職は、道勝の門跡として相樽せしむべきの由、勅裁を蒙らんことを。

意訳変換しておくと
今、庄琥の綸旨が下され、今後の混乱が起きないように願う。そのため望み請うことは、先例に随って、一心院を御祈願所として、讃岐国仲村郷を永代に渡って当院領とすることを。
 そのために四至を境に膀示を打ち、 不輸不入の地として、伊勢役夫工大嘗会召物など大小勅院事等をすべて免除してされんことを。そして領家職は、道勝の門跡として世襲的に引き継ぐことができるように、勅裁を蒙らんことを。

仲村郷は国司の寄進によって一心院領になりました。しかし、国司が交替すれば、その特権をとり消されるかもしれません。そこで獲得した領有権を永続的なものとするために、次のようなことが誓願されています。
①朝廷に願いでて、 一心院をおおやけの御祈願所にしてもらうこと、
②そして祈願新地の寺領として、仲村郷の荘園化を朝廷に認めさせること
③従来国衛が仲村郷から徴収していた官物雑事、あるいは伊勢遷官や人嘗会の費用などのために課していた国役を一切免除してもらうこと
 こうして獲得した仲村郷の領有権(仲村郷領家職)を、一心院の相伝とするというのがこの奏状の目的のようです。
 この奏請は朝廷によってうけいれられます。延応元年二月の大政官牒は、 一心院を公家御祈願所とするように治部省に指示しています。また同じ日附で、仲村郷の四至を定め膀小(境界のしるし)を打ち、これを高野一心院領とするようにとの官宣旨が讃岐国に下されています。 
 一心院領仲村荘の四至―東西南北の境界線は、次の通りです。
東は吉田、葛原両郷を限り、
西は弘田郷を限り、
南は善通寺一円を限り、
北は三井郷を限る
善通寺寺領 鎌倉時代

一心院の仲村荘領有が朝廷によって承認されてから60年近くを経た永仁4年(1296)11月のことです。
仲村荘の百姓達の申状が、一心院を代表する寂静院にとどけられました。それには次のように記されています。

讃岐國仲村御庄価家御米の内高野運上百姓等謹しみて言上
早く申状の旨に任せて、御成敗を蒙らんと欲す大風損亡の子細の事
件の損亡の子細、先度、御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間、 一紙を言上せしめ候の処、寺用御方目りは、御使両人を差し下され、損亡の実に任せ御計を蒙る雖も、半分の御免除を蒙らずば争(いかで)か安堵せしむ可けん哉の由、重ねて言上せじむる者也。所詮損亡顕然の上は、寺用御方の如く御免除を蒙らんが為め、乃って粗言上件の如し。
永仁四年十一月二日                                  寂静院御方百姓等上
全宗(花押)
有正(略押)
有元(花押)
武安(花押)
真久流丸(略押)
清 量(略押)
意訳変換しておくと

(この永仁四年という年は大風が吹いたため作物に相当の被害があった。)
そこで仲村荘の百姓達は年貢の減免を領主の高野山一心院に願いでた。それに対して、寺用御方からは二名の使者が讃岐に下向してきて、被害実態を調べた上で減免の計らいをした。しかし百姓達は半分(残り半分の寂静院御方)免除も得なければ安堵できないと決議した。そこで、この度は寂静院御方に属する百姓の連名で、寺用御方のごとく免除の処置をしてくれるようお願いしたいと言上した。讃岐國仲村郷の御庄価家御米の内 高野山に運上する百姓等が謹んで言上します。
一度読んだのでは内容がなかなか理解できませんが、この文書からは、仲村荘から納入される領家米は、「寺用御方と寂静院方」のふたつに配分されて納入されていたことが分かります。そのため「寺用御方」分は半額免除になったが、寂静院方については、何ら対応してくれないのでわざわざ高野山まで百姓たち代表7名が出向いて誓願したようです。
研究者が注目するのは「寺用御方」で、これがどこの寺用なのかという点です。
「御山と云い当御庄と云い一体の御事為るの間」とある文を、寺用方と寂静院方とは、御山においても仲村荘の領有においても一体の関係にあることだから、双方への訴えを一紙にまとめて言上したという意味に解するとすれば、両者は密接一体の関係で、寂静院方は寂静院自身の用途、寺用方は一心院全体の寺用にあてて配分支配していたのかもしれません。
また署名している七名の百姓は、寂静院に対して年貢納人の責任者である名主たちでしょう。
名前の下に花押が書かれているのでただの農民ではありません。下人や小百姓を従えた土豪的有力農民なのでしょう。「西讃府志」にのっている中村の小地名のうちに、連署中の名主の名と同じ武安という小字が残っています。仲村の薬師堂周辺で、このあたりに武安が所有していた名田の武安名があったと研究者は推測します。武安から県道をへだてた西南の地域は「土居」と呼ばれ、地頭の屋敷があったとされる所です。このあたりは旧弘田川の伏流水が地下を流れ、出水が多い所です。木熊野神社の周囲にも出水がいくつもあり、これらを水源として稲作が古くから行われていたエリアのようです。

善通寺仲村城2
仲村城跡周辺(善通寺の山城より)

「全讃史」(1828年)には、このあたりに仲行司貞房の居城である仲村城があったと記します。
「外堀」となづけられた出水や土塁、土井の地名も残ります。仲行司貞房といえば、元暦元年(1184)の「讃岐国御家人交名」にでてくる名です。この仲行司貞房、またその子孫が仲村の地頭と推測も出来ますが、異論もあるようです。とにかく地名から推測すると仲村にも地頭がいたようです。善通寺領良田郷などの地頭と同じように、仲村の地頭も自己の領主権の拡大のために荘園領主である心院と対立し、一心院を悩ませたのかもしれません。鎌倉後期の頃には、一心院はまだ被害調査のため使者を派遣しています。ここからは実質的な領主権を、この時期までは確保してことがうかがえます。
善通寺仲村城1
仲村城跡(善通寺市)
 この段階では、仲村荘の百姓の年貢減免要求は、名主による領主への懇願という比較的隠やかな形をとっています。しかし、鎌倉末から南北朝期と時代が下るにつれて、次第に農民の抵抗が拡大強化されていきます。一心院の支配も、対農民体側の免でも経営が困難になっていったと研究者は考えています。
南北朝動乱期の源氏の菩提寺としての一心院・寂静院の立場は複雑です。
 一方で南朝の後醍醐天皇、後村上天皇から戦勝祈願の御祈騰を頼まれているかと思うと、 一方では足利幕府から所領の安堵状や裁許状をもらったりしています。両勢力の間にあって、その地位を保つために苦心したことが想像できます。一心寺に残るこの時期の文書には次のように記されています。
一心院造営新所讃岐國仲村庄以下の事、興行の沙汰を致し、専ら修造せらる可きの由、申す可き旨に候也。偽って執達件の如し。                                           
四月五日                                       権大僧都秀海奉     
謹上 寂静院衆僧御中                                               
意訳変換しておくと
高野山一心院の建物に荒れがめだつようになった。それは造営料があてられていた仲村荘からの年貢納入が思うようでないからである。そこで仲村荘の支配をたてなおし、収入を確保して、院の修造に専念するように寂静院に命ぜられた。

この文書の差出者は権大僧都秀海です。しかし、彼が命令をだしたのではなく、彼の仕えている上級者の命令を受けて、それを寂静院に伝えたもののようです。そうすると仲村荘を管領している寂静院の上に、命令することが出来る上級支配者がいたことになります。またこの文書は、書状形式をとっているため、月日のみで年がないので、いつごろのことか分かりません。
この書状の文面からは、 一心院の仲村荘支配が次第におとろえていることはうかがえます。おそらく南北朝の動乱のうちに、仲村荘は一心院の手を離れていったと研究者は考えています。明徳二年の足利義満の寂静院所領安堵の御教書の中にも仲村庄の名はありません。この地も天霧城の守護代香川氏が戦国大名化を進める中で、侵略押領を受けて消えていったと研究者は考えているようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    高野山一心院領仲村庄 善通寺市史592P
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前回は鎌倉時代初期の承元三年(1209)8月に、左大臣で讃岐国守でもある藤原公継(徳大寺公継)が善通寺に、生野郷内の「重光名見作田六町」を善通寺御影堂に納めよという指示を讃岐留守所に出していることをみました。この名田からの収入は、御影堂のためだけに使用せよとの命で、善通寺にとって数少ない自前の収入源になります。これが生野修理免のはじまりです。 それから40年後の宝治3年(1249)2月のことです。
九条道家
九条道家
善通寺にとって大きな意味を持つ寄進が、九条道家によっておこなわれます。
九条道家は4代鎌倉将軍藤原頼経の父親にあたり、当時の朝廷の最大実力者でもあったようです。まずは道家が何者であったのかを彼の事績を年表化して見ておきましょう。

九条道家系図

   九条道家は、第4代将軍藤原頼経の実父です。
1219年 3代将軍・源実朝が暗殺。次期将軍に道家の三男・三寅(当時2歳・後の藤原頼経)
1221年 承久の乱で朝廷方敗北。道家も摂政罷免される。
1225年 北条政子死去。道家の子・頼経が正式に征夷大将軍に任命。
承久の乱後の朝廷では、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨。
1228年 岳父西園寺公経の信任を受けて関白就任。
1229年 道長の長女(藻璧門院)を後堀河天皇の入内させ、秀仁親王(後の四条天皇)出産。
1232年 後堀河天皇が即位し、道家は外祖父として実権を完全掌握。長男の教実は摂政となっり、九条家は朝廷の最大有力家として君臨
1238年 鎌倉の頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会。慈源がわずか20歳で天台座主就任。道家は叔父の大僧正良快を戒師として出家。法名は行恵。「禅閤」として権勢を誇る。
  こうしてみると、九条道家は岳父の西園寺公経のポストを引き継いだ最重要人物であることが分かります。同時に、讃岐国守も引き就いています。そして、岳父の西園寺公経は、弘法大師御影信仰を持ち、善通寺に生野修理免を寄進した人物だったのです。これも引き継いだようです。
 九条道家は、権勢が絶頂にあった宝治3年(1249)2月、讃岐留守所に次のような庁宣は発しています。
庁宣は、次の2つの内容からなります。その第一の部分を意訳で見ておきましょう。
寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、しばしば猪や鹿が追われて寺の霊場内に逃げこみ、そこで命を落すことがある。浄界に血を流すことは罪業の至りであり、まして寺の近くでの殺生は法によってもとどめられていることである。よって生野郷西畔を、普通寺領に準じ、四至を定めてその内での殺生を禁止する。

 四至とは東西南北四方の境界のことで、殺生禁断が定められた境界は、次の通りです。
東は善通寺南大門の作道を限り、
西は多度三野両郡の境の頸峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南舵の大道(南海道?)を限る
これを地図で示してみる以下のようになります。
善通寺生野修理免2
善通寺生野郷修理免

もちろんこの地域が普通寺の所領になったわけではありませんが、「殺生禁断」エリアという形で寺の支配力を拡げていくための重要アイテムになります。
国司庁宣の2番目の内容は次のようなものです。

善通寺は大師降誕の霊場であるにもかかわらず、年を経て荒れている。そのため殺生禁断を定めた境界内の公田(国所有田)のうち12町を寺の修造料にあてることにする。
 ただし、この地域には、他人に与えられた給田、除田(租税免除の田)などがあるから、それを寺領に混入してはならない。また施人された一二町以外の郷田に対して寺が手を出してはいけない。 一方修理料にあてられた田地に対しては、国衙も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為て、其沙汰致さしむべし」。
 
 ここからは善通寺伽藍修繕のために、生野郷の国衙領12町を善通寺の管理・支配にまかせるとあります。庁宣によると、この寄進は「禅定太閤=出家後の九条道家」の意向であることが分かります。
こうして善通寺は、九条道長によって、生野郷に次の二つの権益を確保することができました。
①国衛領である生野郷内で新しく12町の田地を寺領とすることができたこと。
②生野郷西部に殺生禁断エリアを認められ、寺の支配を拡げていく基盤を獲得したこと。
善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領

しかし、生野修理免は大きな問題を抱えていました。下文には次のように記されています。
但し、①地頭土居給并に②御厩名等は、寺家之を相綺うべからず。

①「地頭土居」というのは、堀内とも呼ばれる地頭の屋敷地です。「土居給」は、その屋敷地に附属して課役が免除された田地で、一般には地頭の支配がもっとも強く及んでいるとされます。ここからは、生野修理免には地頭の屋敷や直営地があったことが分かります。これが善通寺の紛争の相手となります。
 また②「御厩名」は、国衛留守所の役所の一つである御厩の役人の給名田です。これも地頭が兼帯していたようです。このような武士の所領が寺領エリアの中にあったことになります。それに対して「寺家相綺うべからず」と、寺が干渉してはならない治外法権の地とされたのです。
 彼らは国衙領の有力武士であって、寺の支配下にはありません。さらに、地域の豪族として寺領化以前から土地や農民に根強い勢力をもっていたはずです。それまで生野郷を事実上の領地としてきた郷司・地頭にとっては、今回の寄進は、結果的には自分の支配エリアを善通寺に削られたことになります。そのため善通寺に対して、いろいろな示威行為を繰り返したようです。
 これに対して善通寺が頼みにできるのは、寺の領知権を認めた国衛のいわば「お墨付」だけなのです。
しかし、国衛の実質的な支配者は、郷司らの仲間の留守所役人=在庁官人です。具体的には綾氏につながる讃岐藤原氏が大きな力を持ち、生野郷の地頭もその一員だったかもしれません。これでは国衙の保証もあてにはできません。
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
 例えば善通寺側では、正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇に願って「生野郷免田相違あるべからず」という次のような国司あての院宣をだしてもらっています。
当國善通寺申す生野郷免田事、代々の國司庁宣に任せ、向後相違有るべからずの由、早く下知せらるべし者、院御気色此の如し、乃執達件の如し
十二月廿四日                                     宮内卿
讃岐守殿
しかし、この院宣もあまり効果はなかったようで、その後も郷司の侵害は続きます。
弘長三年(1263)年12月になって、国司の調停で、寺と郷司との間で「和与(わよ)」で相方の譲り合いによる和解が成立します。
和与条件をとりきめた留守所下文には次のように記されています。
「且は郷司和与状に任せ、 向後の違乱を停止すべき、 生野郷内善通寺免田山林荒野開資寺領の事」
「宝治二年施人の際の四至を示し、四至の内側になる南大門作道通の西側では、寺領免田はもとより、さきに寺領の内に混じてはならないとされていた他人の給田である社免人土居田等まで「寺家一向進退すべし」として寺の支配下に入れること、
意訳変換しておくと
四至の外側にあたる作道以東に存在する寺の免田(承元二年に施入された田地?)は、四至内の公田ととりかえ(相博)て寺領にまとめること。

このとりきめは結果として、善通寺側に、多くのものをもたらします。その上に以下のようにもあります。
「自今以後、此旨を存し、國使人部丼びに本寺の妨を停止」

ここからは、租税の徴収などのため国の役人が寺領内に入ることや、本寺随心院の干渉をやめさせることが定められたことが分かります。いわゆる不輸不入権を手に入れています。これは寺領発展の大きな武器になります。
生野修理免についての今までの流れを年表化しておきましょう。
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④有岡大池の完成 一円保絵図の作成
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出
上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
DSC01108
有岡大池と大麻山

 有岡大池の築造時期を、もう少し詳しく紋りこんでおきましょう。
②で免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。
それが14世紀初頭に描かれた⑤の一円保絵図には、誇らしげに描き込まれています。
一円保絵図 有岡大池
一円保絵図に描かれた有岡大池

しかし、不輸不入権を得た生野修理免は、それ以後の文書の中には登場しません。史料がないことは、寺領が寺の手をはなれていったことだと研究者は推測します。善通寺の生野郷修理免の支配は、南北朝動乱のうちに周辺武士たちの押領や侵入で有名無実となっていったようです。
一円保絵図 東部
善通寺一円保絵図
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   善通寺 生野郷 
 古代の生野(いかの)郷
古代の生野郷は、現在の善通寺市生野町よりも遙かに広いエリアだったようです。そのエリアは「生野町+大麻町+伏見・有岡」になります。つまり、現在の善通寺市の南部全てが生野郷だったようです。

善通寺 生野町地図
現在の善通寺市生野町(生野郷はこれに「有岡・大麻」を含む)

地名の由来について西讃府志は次のように記します。
「生野ハ茂メシキ野卜云義ニテ 草木ナドノ弥生茂レルヨリ負ル名ナルベシ」

ここからは金倉川の氾濫原で樹木が茂り、周辺部に比べると開発が遅れた地域だったことがうかがえます。「和名抄」では、多度郡七郷の一つとして記されています。訓は伊加乃(いかの).
善通寺寺領 鎌倉時代

中世の生野郷は、伏見・有岡の地域が善通寺領の生野郷修理免となります。
これは善通寺にとっては、初めての自前の寺領を持つことで、経済基盤確立に向けた大きな意味を持つものでした。生野郷が、どのようにして善通寺の寺領となったのかを見ていくことにします。
鎌倉時代の初期、承元三年(1209)8月、讃岐国守は、生野郷内の重光名見作田六町を毎年善通寺御影堂に納めよという次のような指示を留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地、佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 
 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その真影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御真影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

この経過については、仁治4年(1243)に讃岐に配流された高野山の高僧道範が書いた「南海流浪記」にも、次のように記されています。
此御影上洛の事
承元三年隠岐院(後鳥羽上皇)の御時、左大臣殿富國司に立つる間、院宣に依って迎え奉らる。寺僧再三曰く、上古御影堂を出で奉らざるの由、子細を言上せしむと雖も、数度仰せ下さるに依って、寺僧等之を頂戴(うやうやしくささげて)して上洛す。御拝見の後、之を模し奉られ、絵師下向の時、生野に六町免田を寄進すと云々
承元3(1209)年、隠岐院(後鳥羽上皇)の時に、左大臣殿が当(讃岐)国司になった際に、院宣によって(弘法大師御影)が京都に迎えたいとの意向が伝えられた。善通寺の寺僧は再三にわたって、前例がないと丁寧にお断りしたが、絶っての願いと云うことで、うやうやしくささげて上洛した。御拝見の後、御影を模写し、その返礼として生野に六町免田を寄進されたと伝えらる。

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったとしておきましょう。
 この時の国守は誰なのでしょうか?
南海流浪記には「左大臣殿富(当)國司」とあります。「善通寺旧記」では、これを安貞元年(1227)に左大臣で崩じた藤原公継(徳大寺公継) と推定しています。彼が讃岐の知行国主の時のことだったでした。
藤原公継(徳大寺公継
藤原公継(徳大寺公継) 
公継は歌人としても有名で、『古今著聞集』の情報源として、彼のサロンが大きく関わっていたようです。
藤原公継(徳大寺公継)の、寄進についてもう少し見ておきましょう。
  
 
「重光名の見作田陸町を毎年善通寺御影堂に免じ奉る」
「件の陸町の所当を以って寺家に納める」
この文言からすると、この寄進の実際は、重光名の見作田ののうち六町分を毎年善通寺に納めるということのようです。そうすると官物徴収にあたるのは国衛で、善通寺はそれを国衛を通じて受取るだけになります。これでは寺の支配は、直接田地や農民には及ぶことはありません。寺領といっても寺の支配権は弱いままです。

しかし、ここで研究者が注目するのは、納入された官物について、その使用法が善通寺での理趣三味の勤行と御影堂修理料と定められていること、そしてその管理は「三昧僧の沙汰」が行うとされていることです。
 それと対照的に、次のような文言も別の所にはあります。

「凡そ当寺徒らに数十町の免田を募ると雖も、別当以下恣に私用に企て、佛聖燈油年を追って開乏し、門垣棟瓦月を追って頽壊すと云々。事実たらば、尤も以って不営なり」

これは、本寺随心院からやってくる別当が寺領収入の大半を奪い、そのため寺の仏事にも事欠くこありさまであったことを、厳しくいましめています。その対抗策として、国衙によって徴収が保証され、その管理が善通寺僧にまかされたことになります。これは善通寺領の歴史の上で大きな進歩と研究者は評価します。つまり、本寺や讃岐国衙の在庁官人たちによって、搾取されていた財源が上皇や藤原氏によって、保護されたことを意味するからです。
地方寺院である善通寺に対して、どうして格別の配慮が行われたのでしょうか?

弘法大師御影(東寺)
弘法大師御影(東寺)

御影というのは、弘法大師が入唐の時、母公のために自らを画いたと伝えられる自画像のことです。この大師像は、弘法大師が唐に渡る前、母のために御影堂前の御影の池で、自分の姿を写して描いたとされています。鎌倉時代に、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師の御影」として知られるようになり、信仰の対象にもなります。このような弘法大師御影に対しての天皇や貴族たちの信仰が、本寺からの自立の武器となったようです。そういう意味では、弘法大師御影は、「中世における善通寺の救世主」かもしれないと私は考えています。

弘法大師 誕生 書写3
御影法要

 別の見方をすると弘法大師伝説の中から御影がひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったことを意味します。こうして善通寺の御影は各地で模写され、信仰対象となります。

木造 弘法大師坐像 | 鹿沼市公式ホームページ

さらに、これが立体化されて弘法大師像が作成されるようになります。こうして弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとしてどこにも弘法大師の御影や像があることになります。
弘法大師像

さらに時代が下ると、御影や像を安置するための大師堂が姿をみせるようになります。そして、いまでは弘法大師の石像やブロンズ像が境内のどこかに建っている姿があります。弘法大師御影は、そういう意味では現在にまでつながる信仰の形のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
       参考文献 善通寺市史 鎌倉時代の善通寺領 生野郷修理免
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善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領
国衙によって集められた随心院の善通寺領一円保は、善通寺と曼荼羅寺の2ヶ所に分かれていました。これは郷でいうと、多度郡の弘田、仲村・良(吉)原の三郷にまたがっていたことになります。そのうち弘田郷から一円保を除いた残りの部分は、藤原定家の所領だったようです。
藤原定家の名言書道色紙「見わたせば花も紅葉もなかりけり、浦のとまやのあきのゆふ暮」額付き/受注後直筆(Y3365) 書道 名言専門の書道家  通販|Creema(クリーマ) ハンドメイド・手作り・クラフト作品の販売サイト

藤原定家といえば、「新古今和歌集」の撰者で、当代随一の歌人として知られている人物です。

東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 館蔵品一覧 明月記(めいげつき)
明月記
定家の日記「明月記」には、寛喜二年(1230)閣正月12日に次のように記されています。
讃州弘田郷の事、彼郷公文男左衛門尉信綱請く可き由申す。何事在る哉の由相門の命有り。左右只厳旨に随うの由答え申しおはん了ぬ。

意訳変換しておくと
讃岐弘田郷の公文の息子左衛門尉信綱が弘田郷の請所を希望しています。どう思うかと相門からきかれたので、相円の意向に随う由を答えた

ここでの登場人物は、「讃岐の信綱・藤原定家・相門」の3人です。「信綱」は弘田郷の請所を希望しています。請所というのは荘園の役人などが領主に対して一定の年貢納入を請負う代りに、領地の管理を任される制度です。信綱は弘田郷の在地武士であることが分かります。
  それでは、定家に相談してきた「相門」とは誰なのでしょうか」

相門とは、貞応2年(1323)まで太政大臣だった西園寺公経のことのようです。公経は、源頼朝の姪を妻にもち、鎌倉幕府と緊密な関係にありました。承久の乱後に幕府の勢力が朝廷でも強まるようになると、太政大臣に任ぜられ権勢をふるうようになります。定家は、公経と姻戚関係にあった上に、短歌を通じたサロン仲間でもあり、その庇護をうけていたことがこの史料からは分かります。

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり - たけじいの気まぐれブログ
           西園寺公経=相門

 定家は信綱の請負を任命する立場で、弘田郷の年貢を受け取る立場で、弘田郷の領主であるようです。が、ここでは相談を受ける立場で、最終決定権は相門(西園寺公経)にあったようです。定家の上には、さらに上級領主として西園寺公経がいたのです。請所選定で、西園寺公経に「信綱でよいか」と相談され「御随意に」と応えたということなのでしょう。
地頭請所

 当時は、請所になると次第に請負った年貢を納めなくなり、実質的に領地を奪ってしまう「悪党」が増えてきた時代です。
ところが信綱は、約束に忠実だったようです。翌年の寛喜三(1231)年正月19日の「明月記」に次のように記されています。

此男相門自り命ぜらるる後、弘田事虚言末済無し。田舎に於ては存外の事歎。                  

意訳変換しておくと
(弘田郷公文の息子信綱)は、相門から請所を命ぜられた後、弘田郷の事に関して虚言なく行っている。田舎においては近頃珍しい人物だ。                  

定家は他の所領で在地武士の押領に手をやいていたようです。讃岐の信綱が約束を守ることに驚いているようにも思えます。弘田郷公文の信綱は、もう一度明月記に登場してきます。

明月記」の寛喜二(1230)年10月14日に、次のように記されています。
  讃岐佛田一村國検を免ぜらる可きの由信綱懇望すと云々。昨今相門に申す。行兼を仰せ遣わし許し了ぬ由御返事有り。

意訳変換しておくと

  讃岐の弘田郷の佛田一村での国衙による検注を免除していただきたいとの願いが請所の信綱からあったので、相門(西園寺公経)に伝えた。行兼を派遣して免除することになったという返事を後ほど頂いた。

 この年の10月に請所となった信綱からの「検注免除」依頼を、西園寺公経に取り次いだところ、早速に免除完了の報告を得ています。「鶴の一声」というやつでしょうか、こういう口利きが支持者を増やすのは、この国の国会議員がよくご存じのことです。
 ここからは弘田郷は、この時点では国衛領であったことが分かります。その国検を免じることができる立場にあった公経は、当時讃岐国の知行国主だったと研究者は推測します。そうすると定家は、知行国主の公経(あるいは道家)から弘田郷を俸禄的に給与されていたことになります。つまり彼の弘田郷領主としての支配権は強いものではなく、現地の信綱から送ってくる郷年貢の一部を受取るだけの立場だったことになります。そのため讃岐の信綱の公文職や請所の任命も、実際は公経が行っていたのです。藤原定家が世襲できるものではなかったのです。定家の弘田郷領主の地位も一時的なもので、長続きするものではなかったと研究者は考えています。

弘田町
善通寺弘田町
以上をまとめておくと
①定家の日記「明月記」の1230年正月の記録には、弘田郷領下職領の請所の任命の記事がある。
②そこからは定家が弘田郷の領下職を持っていたことが分かる。
③しかし、その権利は永続的なものではなく当寺の讃岐国主の西園寺公経から定家が俸給的に一時的に与えられたもので、永続的なものではなかった。
④請所に任じられた弘田郷信綱は信綱は、年貢をきちんと納める一方、国衙の検注免除も願いでて実現させている
承久の乱後に地頭による押領が進む中で、都の貴族たちが年貢徴収に苦労していたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

細川頼之 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

細川頼之年表1

貞治元年(1362)細川頼之は南朝の細川清氏を白峰合戦で破り、讃岐の領国支配を着々と進めていきます。
それまでの頼之は、中国管領として中国地方を幕府の支配下に治めることが第1の課題でした。ところが白峰合戦の翌年の貞治二年に、頼之は中国管領の職を解かれ、以後四国管領を命じられます。そして貞治4(1365)年ごろには、従来の分国である阿波・伊予に讃岐・土佐を加えた四国全域の守護となり、分国経営を強化していきます。その際の有力なアイテムとなったのが、足利尊氏から認められた次のような権限でした。
①武士同士の所領争いの裁決を現地で執行する権限(使節運行)
②敵方所領の没収地を国内の武士に預け置く権限
③半済といって寺社本所領の年貢の半分を兵粮料として取り上げ、それを配下の武士に宛がう権限
これの権限を行使することで讃岐武士団の家臣化は進められます。
それを年表化して見ておきましょう。
1365年4月 香川郡由佐村の国人山佐弥次郎に、安原城における合戦の軍忠を賞す。
1366年12月 山佐氏の一族の由佐又六に井原庄内の御寺方半分を預け置く
由佐氏は、以前に顕氏から感状を与えられているので、顕氏の被官でした。それが改めて頼之の被官となっています。『全讃史』によると清氏討代後、頼之は安富盛長・香川景房・奈良元安などの有力被官を外から呼び寄せ、讃岐に配置したとされます。
また頼之は、讃岐の寺社保護と引き替えに、これらを統制下に置いていきます。
1363年4月 宇多津の西光寺への禁制発令
     9月 宇多津の歓喜寺に土器保田所職を安堵
1364年3月 寒川郡長尾の八幡池築造し、寺社領用水確保
 このように協力的な有力寺社については、保護と安堵をあたえ、国内の安定化を図ります。こうして貞治年間には讃岐の国人・寺社は、細川頼之に属するようになります。その結果、白峰合戦以後は、讃岐の南朝方が全く姿を消し、讃岐は細川氏の勢力の基盤となります。
 頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となります。
そのため、義満の政治を補佐するために上京し、讃岐を不在にすることになります。讃岐を離れる一ケ月前に頼之の弟頼基(のちの頼元)は、善通寺に対して規式を定め、諸堂の勤行、鎮守の祭礼、寺僧の行儀などを励行させ、軍勢の寄宿、寺領の押領、境内の殺生などを禁じたりして、細川氏の讃岐の寺院支配の方針を示しています。それが貞治6年(1367)7月に出された「善通寺興行条々」(9ヶ条)で、次のように記されています。
一 寺内坊中軍勢甲乙人(誰彼の人)寄宿有るべからざる事。
一 寺僧弓箭兵杖を帯ぶるの條、向後一切停止せしむる事。
一 寺領并に免田等、地頭御家人甲乙人等押領を停止し、寺用を全うすべし。
一 同寺領以下諸方免田等の事、縦え相博為りと雖も、 寺中に居住せしめず俗鉢と為て管領せしなる事、固く停止する所也。向後に於いては、寺領免田等の内知行の輩の事、俗を止めて綺いせしめ、寺家に居住すべき也。  
一 罪科人跡と号し、恩賞に宛て贈ると稀し、寺領井びに寺僧供僧免田等相混えて知行せらるるの段、向後に於ては、縦え共身に至りては罪科有りと雖も、所帯に於ては、寺領為るの上は、寺中の計所として沙汰致すべし。
一 寺務の仁、寺川を抑留せず、勧行并びに修造を守るべし。
一 寺内栞馬の事、今自り以後停止せしむべし。
一 寺領の境内、殺生先例に任せて停止せしむべし、次いで山林竹木雅意に任せ(勝手に)伐り取る亨、子細同前。
一 守護使先例に任せ、寺領に人部せしむべからざる事。
  意訳変換しておくと
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
②寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、例え相伝されたものでも、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。
⑤ 罪科人の跡とか恩賞地とか称して、武士が寺領や寺僧の免田を知行するようになれば、前条の趣旨に反することになるので、寺領や寺僧免田の場合は、たとえ所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと、寺中の計らいとする
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生は先例通り禁止とする。また、山林竹木を勝手に伐り取ることも禁止する
⑨徴税などのために守護使はこれまで通り、寺領に入らせない。
「法令で禁止令が出されるのは、現実にはそのような行為が行われていたから」と考えるのが、歴史学の基本的セオリーです。禁止されている行為を見ていくことにします。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿」していたことがうかがえます。これらが入道化した棟梁が率いる武士集団だったのかもしれません。
②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化していたことがうかがえます。また⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたようです。以上からは、南北時代の善通寺には軍事集団が駐屯し、武装化していたことがうかがえます。比叡山のように、僧兵を擁し、武士たちが入り込み、軍事的な拠点となっていたと私は考えています。
①②⑦は、それらの軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。
③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという守護の立場表明にもとれます。
③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
④は、寺の名で年貢免除の特権を認められている土地は、先祖伝来と称していても、寺に居住していない俗人や武士が持つことを認めない。それを所有するのは、寺家に居住する僧に限るとしています。ここからも善通寺が武士(俗人)の拠点となっていたことがうかがえます。
⑤は、武士が寺領や寺僧の免田を知行しないようにすること。そのために、寺領や寺僧免田の場合は、所有者に罪科があってその所領が没収されても、それを武士に給することはしないこと。
これらは、実行されたかどうかは別にして、寺側の打ちだした「寺領から武士の勢力を排除して寺僧の一円支配を強化する」という方針を、守護としても認めて協力することを示したものと研究者は考えています。ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護としてやってきた細川氏は、それを改め「非武装化」しようとしていたということです。
また「条々」からは、善通寺には寺領とならんで「寺僧供僧免田」があったことが分かります。
例えば宥範譲状の中の、次のものがそれにあたるようです。
一 良田郷内学頭田二町内壱町円明院(第三条)
一 良田郷郷大勧進国二町(第四条)
第四条の良田郷大勧進田二町は、真恵によって大勧進給免として設定されたものです。善通寺内の院や坊が自分の所領免田を持っていたのは誕生院だけではないようです。宥範譲状でも良田郷内学頭田のうち一町は円明院(赤門筋の北側にあった)の所領だといっています。
次の文書は、勧学院領に対する院主・別当の干捗を止めて勧学院の領掌を保証した守護細川満元の書状です。
讃岐国善通寺誕生院内勧学院領の事、早く寄進状の旨に任せ、所職名田出等院主別営の綺いを停止せしめ、先規に任せ領掌相違有る可からずの状件の如し。
應永七(1400)年七月十二日      右京大夫(花押)
誕生院兵部卿法印御房
院主というのは誕生院主、別当は善通寺別当のことのようです。勧学院は誕生院内にありながら(観智院の横にその跡がある)、誕生院からも、また善通寺別当の支配からもある程度自立した所領を寄進されていたことが分かります。こうしてみると南北朝以後室町のころになると、誕生院にせよ、他の寺内の小院や僧坊にせよ、それぞれ所領を持ち、在地領主的性格を強くしていたことがうかがえます。そして、それらの主の中には、周辺の武士団の一族出身者もいて、強いつながりがあったことがうかがえます。宥範と岩崎氏にも、強いつながりがあったとしても不思議ではありません。
以上をまとめておくと
①南北朝時代の動乱期に、讃岐武士たちは細川頼之によって束ねられ家臣団化された
②讃岐の組織化された家臣団は、細川氏の中央における暴力装置としてよく機能した。
③細川頼之は讃岐の有力寺社にも安堵・保護を与えている
④その中の「善通寺興行条々」(9ヶ条)からは、保護のための条件としていろいろなことが記されている
⑤そのひとつが寺内の「非武装化」であり、俗人の寺内からの排除である。
⑥これを逆に見ると当寺の善通寺では、入道化した武士が寺内を拠点として、乗馬訓練などを行っていたことが分かる
⑦深読みすると、善通寺防衛のために武装集団を寺内に招き入れたり、僧兵集団の存在もうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

阿波細川氏年表1

参考文献 善通寺市史 南北朝・室町時代の善通寺領559P

鎌倉時代の荘園は、つぎのふたつの耕地から成り立っていました。
①荘園領主の直営地
②名主の所有地である名田
このふたつの耕作地は、どのように耕作されていたのでしょうか?
これを善通寺一円保を見ながら考えていきたいと思います。
テキストは「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領409P」です。
一円保絵図 寺作と名田

善通寺一円保絵図

一円保絵図については、以前にお話ししましたので説明は省略します。
善通寺一円保 寺作地

一円保絵図 寺家作地

絵図には「寺家作」と記されている所が何カ所もあります。これが①の「領主の直属地」のようです。寺家作地は一箇所に集中しているのではなくいくつかの坪に分散しています。しかし、よく見ると「寺作」があるのは、絵図の左下に集まっています。
一円保絵図 現地比定拡大
一円保絵図を現在の地図に落としてみると、東南隅が①四国学院

このエリアは現在の②農事試験場から③こどもとおとなの病院のあたりで、弥生時代には善通寺王国の中心地であったことが発掘調査から明らかにされています。また、このエリアの首長墓として最初に造営される野田院古墳の埋葬者の拠点も、このあたりにあったと研究者は考えています。それを裏付けるように、7世紀後半に最初の古代寺院である仲村廃寺が建立されるのも⑥の当たりになります。ある意味では、この当たりは善通寺王国の穀倉地帯でもあった所です。
 ところが絵図をよく見ると、出水から導水された用水路は、このエリアまでは伸びてきていません
  水がなければ水田化はできません。研究者が一円保の水田分布状態を坪毎に示したのが次の表です。

一円保絵図 田畑分布図
一円保の水田化率
これを見ると、左下あたりは、用水路は未整備なのに水田化率が高いことがうかがえます。これはどうしてでしょうか?
農事試験場の出水
農事試験場周辺の古代流路と出水 黒い帯が旧流路
現在は農事試験場をぐるりと回り込むように中谷川は流れています。しかし、古代においては、中谷川には、金倉川も流れ込んだこともあり、川筋は幾筋にも分かれて善通寺王国の中央部を流れていたようです。その流れの間の微高地に善通寺王国は成立していました。そのため現在も農事試験場内の北側には、大きな出水が3つほど残されています。

農事試験場 出水
農事試験場内に残る出水

 また、地元の農事試験場北側の農家の人に聞くと、中谷川周辺は湧水が豊富で、田んぼの水は湧水に頼っていたといいます。それを裏付けるように今でもポンプアップした水が灌漑に使われています。以上から、寺作地の集中する農事試験場周辺は、湧水地があり水には困らないエリアであったと私は考えています。つまり、一円保の中で「一等地」だったのではないでしょうか。そのために、寺家作を農事試験場周辺に集中させていたことを、押さえておきます。

開発領主、名主、田堵の違いを分かりやすく教えてください(;´Д`A10世紀... - Yahoo!知恵袋
名主と荘官・下人との関係
寺家作といっても寺僧たちが自分で鍬をふるい種子をまいて耕作していたのではなく、農民たちが請作していました。この寺家作にまじって「利友」、「末弘」、「国包」などと名が記されているのが名田です。絵図にはこのほか「光貞」、「宗光」、「是宗」、「朝順」、「重次」、「国定」、「吉末」のあわせて10の名田がみえます。しかし、西側の曼茶羅寺側の記載が略されているので、これが全部ではないようです。それぞれの名田も一つにまとまってあるのではなく、寺家作田と同じように分散しています。たとえば、「光貞」の名田は五つの坪に分散しています。
敦賀の中世
名主の位置
名主たちは一円保内で、どんな役割りをもっていたのでしょうか?。
前回見た弘安三年の随心院政所下知状には、その始めの方に次のように記されていました。
所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。

名田は名主の所有地であると云いましたが、これによれば名田は名主が自由に売ったり買ったりできるような私領ではないようです。その支配権はあくまで「本所御進止」、即ち荘園領主随心院の手にあったのです。
それでは名主と名田とは、どんな関係にあるのでしょうか?
下知状のなかほどに、次のように記されています。
本所役と言い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。
意訳変換しておくと
公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。

真恵は本所役ならびに寺家役という負担責任を果すことで、公文職に任ぜられたようです。これは荘官である公文職のことですが、名主についても同じことが云えるようです。つまり名主とは、基本的には一定地域の年貢および公事の納入責任者として荘園領主から任命されるものなのです。名主が納税の責任を負っている田畠が名田ということになります。名主は、彼の名田を、所有している下人などを使って直営耕作するのがふつうです。しかし、名田全体の耕作を行うのではなく、直営地以外は他の農民に請作させています。

第21回日本史講座まとめ①(鎌倉時代の農村) : 山武の世界史

 名主自身が別の名主の名田を請作している場合もあるようです。
そして、名主は名田内の年貢を取り集めて納入し、また名田単位に課せられる夫役を負担します。その責任を果すために、名田を直営したり、他の農民に割り宛てて請作させたり、名田の用水の使用などを管理したりしていたようです。名主の名田所有とは、こうした名田の経営、管理や、名田内の年貢・公事の徴収といった権限が彼の手にあるということで、土地所有権限までは及んでいなかったことを押さえておきます。
ブログ猫間障子

一円保の耕作者には次の3階層の農民たちがいました。
①名主
②名主に所属する下人
③寺家作地や名田を請作する農民=小百姓
③の小百姓は、下人のように直接名主に隷属していませんが、名田請作や年貢徴収などを通じて名主の支配下にありました。名主は、有力農民が領主によって指名される上層身分です。
名田と名主
国司の徴税請負人化と名田・名主の出現

名主は、 どのようにして生まれたのでしょうか
直接それを明らかにする史料はありませんが、研究者は次のように推測します。
①名主は、もともとは国衛領を請作していた請作農民の流れをくむ
②しかし、請作農民たち全てが名主になった訳ではない。
③名主の先祖は、寺領指定地内に住居を持ち、寺に対して在家役を負担していた農民たちの中で、地位を上昇させた者達である。
国司徴税請負人化

一円保の寺領化について、そこに住んでいた農民たちは、どんな態度をとったのでしょうか?  
①平安時代後期になると、在庁官人などの主導する国衙支配が次第に厳しくなった。
②郡や郷は、郡司・郷司の徴税請負で彼らの所領化となり、そこでの課役、夫役の徴収はますます強化され、農民たちにとっては耐え難いものとなった。
③そこで農民たちは圧政から逃れるために、国衙直営地から支配や負担のゆるやかな荘園に逃げ込んで荘民となった。
このような状況が進む中では、一円保となった所に住んでいた農民たちは、これを国衙支配から脱する好機としてとらえたと研究者は推測します。多度津郡司の綾貞方は、在地領主権を進める上で有利と見て、一円寺領化に協力したことを前回は見ました。同じように農民たちも負担の軽減と地位安定を求めて、東寺―荘園領主側に協力的だったと研究者は推測します。
荘園公領制
荘園公領制
 一方荘園領主である随心院も、有力で協力的な農民を名主に任じ、他の農民たちより優越した身分を与え、荘園支配体制を築こうとしたことが考えられます。このようにみてくると、名主は一円保成立の当初からその内に生活してきた農民たちということになります。
 用水配分に関して本寺の随心院に列参して絵図を提出し、自分たちの要求を訴えた百姓たちの中心も彼らであったのかもしれません。一円保には、名主たちを基本的構成員としてまとまり、共同体があったと研究者は考えています。
一円保絵図 中央部

絵図のなかには、次のような荘官の名も見えます。
①東南部三条七里一〇坪のところにある「田ところ(田所)」
②曼荼羅寺の近くの「そうついふくし(惣追捕使)のりやう所」
 荘官には名主のなかでも特に有力なものが任ぜられます。そして名田には年貢や公事の免除や軽減の特権が与えられていました。彼らの中から在地領主に成長して行く者も現れます。

寄進系荘園

 しかし、善通寺の弘安の政所下知状にみる公文の場合には、その名田畠には本所役、寺家役が課せられていて特権をもっていたようにはみえません。また在地領主として発展している様子もありません。それどころか名田畠を売払い、質に入れて没落していく姿が写ります。公文綾貞方とその子孫たちは、 一円保寺領化のなかで在地領主として成長を目指したのかも知れませんが、それはうまくは行かなかったようです。その前に障害となったのが、在地領主権力(公文綾貞方)が強くなることをきらう本所(荘園領主随心院)と一般名主たちの勢力たちだったのかもしれません。田所や惣追捕使などの実態はよく分かりませんが、彼らも同じような状態に低迷していたと研究者は考えています。名田は、名主の所有地ではなく管理地にすぎないことを押さえてきました。

 年貢滞納などの余程のことがなければ、名主の地位を追われることはないし、子孫相伝も認められます。そうすると次第に私領的性格が強くなって、公文覚願のように名田を売ったり質入れしたりするものもでてきます。このような状態が進めば、 一方で名田を失って没落する名主もふえ、他方では名田を買い集め強大になる名主もでてきてきます。名主層の「不均衡発展と階層分化」の進展です。
 鎌倉時代後期以後、この名主層の両極分解と小百姓の自立化によって、荘園支配体制が解体していきます。随心院領一円保では、政所下知状の終りのところでは、次のように記されています。
今自り以後沙汰人百姓等の名田出等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科為る可き也。

ここには、名田の買い集めを禁止してあくまでも従来の支配体制を維持しようとしています。これに対して、在地領主への道をめざす有力名主のなかには、それに反対するものも現われてきます。

文書の端裏に永仁二年(1294)に注記がある伏見天皇のだした綸旨には、次のように記されています。
讃岐國善通寺々僧等申す。当寺住人基綱 院宣に違背し佛聖以下を抑留せるの由、聞し食され候間、厳密仰せ下さるの処、猶綸旨に拘わらず弥以って張行すと云々、自由の企太だ然る可からず候。寺内経廻を停止せらる可き欺、計御下知有る可きの由、天氣候所也。此旨を以って洩申さしめ給う可し。乃って執達件の如し。
六月十二日
少納言法印御房
左大排(花押)
意訳変換しておくと
 善通寺の寺僧たちが、善通寺一円保の住人基綱が、仏に捧げるべき年貢を抑留し、ご祈祷を打ち止めていると訴えてきた。基綱の「自由の企て(勝手な振舞)」は許されないので「寺内の経廻(立ち廻り)」禁止し、寺領から追放せよという綸旨を発した。国衙役人は、ただちにこの綸旨を実行するように

綸旨に「当寺住人基綱」とあるので 、基綱は御家人武士ではありません。おそらく新しく台頭してきた一円保内の有力者でしょう。
 買い集めてきた田畠が随心院の命令で半値で取り返され、発展の道を失った不満が年貢の掠奪や勝手な振舞となって現れたのかもしれません。支配者側から見れば、基綱はまさに悪党とよばれるべき存在です。善通寺から綸旨を示された讃岐守護は、兵を差し向けて基綱を領外に追い払ったことでしょう。
   領主と幕府から追い立てられて行き場を失った悪党たちのなかには、山に入って山賊となり、海に入って海賊となるものが多くいました。正和年中(1313~17)に、讃岐の悪党海賊井上五郎左衛門らが数百騎で東寺領伊予国弓削島荘に討ち入り、合戦をしています。基綱もあるいはその仲間のうちにいたかもしれません。
 鎌倉時代の末期には、中小御家人の窮乏、悪党の活動などで社会は不安と不満にあふれ、一方幕府内では、貞時・高時など得宗とよばれる北条氏の家督相続者に権力が集中し、得宗直臣の御内人と有力御家人との対立が深まって権力闘争が渦巻いていました。そして京都では後醍醐天皇が倒幕の計画を着々と進めていたのです。こうして鎌倉時代の荘園秩序は、次の勢力から大きく揺さぶられるようになります。
①地頭など武士領主の押領
②悪党の活動
③年貢減免などの要求をかかげて闘争する農民
終りに一円保における善通・曼奈羅寺の地位を見ておきましょう。
 一円保は本所随心院の支配が荘官・名主にまでおよんでいたのは、見てきた通りです。そのため善通・曼茶羅寺の一円保支配権(荘務権)は限られたものだったと研究者は考えています。領内の用水管理や国衙や他領との折衝などは善通寺が行っていますが、それも本所である随心院の指導下においてのことのようです。
 弘安の政所下知状によると、保の名田には本所役と寺家役の二種の課役が課せられていますが、本所役は随心院、寺家役は善通・曼荼羅寺に納められたようです。この比率は2:1程度だったと研究者は推測します。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世の多度郡の郡司を綾氏の一族が務めていた史料があります。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

弘安三年(1280)、善通寺の本寺随心院の政所が善通寺一円保の寺僧や農民たちに発した下知状です。

随心院下知状(1280)
書き下し文は
随心院政所下す、讃岐國善通寺一円寺僧沙汰人百姓等
右営一円公文職は、大師御氏人郡司貞方の末葉重代相博し来る者也。而るに先公文覺願後難を顧りみず名田畠等或は質券に入れ流し或は永く清却せしむと云々。此条甚だ其調無し。所の沙汰人百姓等の所職名田畠等は、本所御進止重役の跡也。而るに私領と稀し自由に任せて売却せしなるの条、買人売る人共以て罪科為る可き也。然りと雖も覺願死去の上は今罪科に処せらる可きに非ず。彼所職重代相倅の本券等、寺僧真恵親類為るの間、先租の跡を失うを歎き、事の由を申し入れ買留め畢んぬ。之に依って本所役と云い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば、彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。活却質券の名田畠等に於ては皆悉く本職に返付す可し。但し買主一向空手の事不便烏る可し、営名主の沙汰と為して本錢の半分買主に沙汰し渡す可き也。今自り以後沙汰人百姓等の名田畠等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科篤る可き也。寺家
沙汰人百姓等宜しく承知して違失す可からずの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安三年十月廿一日       上座大法師(花押)
別営耀律師(花押)        上座大法師
法 眼
意訳変換しておくと
一円保の公文職は、弘法大師の氏人である郡司綾貞方の子孫が代々相伝してきたものである。ところが先代の公文覚願は勝手に名田畠を質に入れたり売却したりした。これは不届きなことである。所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。
 しかし、覚願はすでに死亡しているので、今となっては彼を処罰することはできない。それに公文職相伝の本券=基本証書は、寺僧の真恵が公文の親類として先祖伝来の所職が人手に渡るのを歎いて買いもどした。そして公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。覚願が売却したり質入れしたりした名田畠は、公文職に付随するものとして返却しなければならない。しかし、買手が丸損というのも気の毒だから、当名主(現在の名主)として代銭の半分を買主に渡すようにせよ。今後沙汰人、百姓等の名田畠を勝手に売買することは固く禁止する

ここからは次のようなことが分かります。
①善通寺一円保の公文職は、代々に渡って多度郡司の綾貞方の子孫が務めてきたこと
②綾氏一族の公文職覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので彼を罷免したこと
③そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻したので、代わって公文に任じた
冒頭に出てくる「大師の氏人郡司貞方の末裔」とは 、平安末期に多度郡司であった綾貞方という人物です。
綾氏は讃岐の古代以来の豪族で、綾郡を中心にしてその周辺の鵜足・多度・三野郡などへの勢力を伸ばし、中世には「讃岐藤原氏」を名乗り武士団化していた一族です。彼らが13世紀には、佐伯氏に代わって多度郡の郡司を務めていたことが分かります。彼らは多度郡に進出し、開発領主として成長し、郷司や郡司職をえることで勢力を伸ばしていきます。
 さらに、この史料には「公文職の一族である寺僧眞恵」とあります。
ここからは寺僧真恵も綾氏の一族で、公文職を相伝する有力な立場の人物だったことが分かります。真恵は、ただの寺僧ではなく、先の公文が失った田畠をすべて買い戻すほどの財力の持主であり、一円保の役人の首である公文に任命されています。つまり真恵は、寺僧であるとともに、綾氏という有力武士団の一族に属し、地頭仲泰と対峙できる力を持っていた人物だったことを押さえておきます。

 綾氏は、讃岐の古代からの有力豪族です。
綾氏は平安末期に阿野郡郡司綾貞宜(さだのり)の娘が国主藤原家成(いえなり)の子章隆(あきたか)を生みます。その子孫は讃岐藤原氏と称して、香西・羽床・福家・新居氏などに分かれて中讃に勢力を広げ、讃岐最大の武士団に発展していました。また、源平合戦では、平家を寝返っていち早く源頼朝について御家人となり、讃岐国衙の在庁役人の中心として活躍するようになることは以前にお話ししました。一族は、綾郡や鵜足郡だけでなく、那珂・多度・三野郡へも勢力を伸ばしてきます。その中で史料に出てきた綾貞方は、多度郡司でもあり、善通寺一円保の公文職も得ていたことになります。この綾貞方について、今回は見ていくことにします。テキストは 「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領 411P」です。

先ほどの史料冒頭「一円公文職者大師御氏人郡司貞方之末葉重代相博来者也」とある部分を、もう少し詳しく見ていくことにします。
「公文」とは文書の取扱いや年貢の徴収などにあたる荘園の役人です。善通寺の公文には、郡司綾貞方の子孫が代々この一円保の公文職に任ぜられていることが分かります。そして、その貞方が初代公文のようです。しかし、この時期には、一円領はまだ寺領として確定せず、基本的には国衙支配下にあったはずです。だとすると貞方を一円領の公文に任じたのは国衙ということになります。貞方は、荘園の公文と同じように、国衙の特別行政地域となった一円寺領の官物・在家役の徴収をまかされ、さらに地域内の農民の農業経営の管理なども行った人物と研究者は考えています。
「郡司貞方」とあるので、多度郡司でもあり「一円保公文」職は、「兼業」であったことが推測できます。
もし、貞方が一円地の徴税権やは管理権を国衙から与えられていたとすれば、彼の次のねらいはどんな所にあったのでしょうか。つまり、一円保を国衙や本寺随心院から奪い、自分のものにするための戦略ということになります。直接それを示している史料はないので、彼のおかれていた状況から想像してみましょう。
綾貞方は古代讃岐豪族綾氏の一族で、多度郡の郡司でもありました。
この時代の他の多くの新興豪族と同じ様に、彼も律令制の解体変化の中で、有力領主への「成長・変身」をめざしていたはずです。
 まず一円領内の彼の置かれていた立場を見ておきましょう。
①在家役を負担しているので、彼の田畠は他の農民と同じく国衙から官物・雑役を徴収されていた
②公田請作のほかに、先祖伝来の財力と周辺農民への支配力を利用して未開地を開発して所領に加えていた
②多度郡郡司として、行政上の権力や特権的所領も持っていた
しかし、これらの権限や特権を持っていたとしても国衙からの支配からは自立できません。新興有力者と国衙の関係は、次のような矛盾した関係にあったのです。
①一方では国衛から与えられた権限に依拠しながら領主として発展
②一方では国衙の支配下にある限り、その安定強化は困難であること

①については貞方が、徴税権と管理権を通じて領域農民を掌握できる権限を与えらたことは、彼の領主権の確立のためにの絶好の手がかりになったはずです。しかし、この権限は永続的なものではなく不安定なものでした。例えば、国司交代で新たな国司の機嫌を損なうようなことをすれば、すぐに解任される恐れもあります。
では権力の不安定さを克服するには、どうすればいいのでしょうか。
それは善通寺と協力して一円寺領地を国衙支配から切り離し、その協力の代償として寺から改めて一円公文に任命してもらうことです。その時に、それまでの権限よりも、もっと有利な権限を認めさせたいところでしょう。
 このように綾貞方とその子孫たちは、徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいたようです。 別の視点から見ると、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったとも云えそうです。だから公文職について覚願は、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。


善通寺の寺領
善通寺一円保と周辺郷名

公文職の綾氏の領主化にピリオドを打つ人物が真恵です。
真恵が公文職に就いてから12年後の正応五年(1292)3月に、善通寺から六波羅探題へ地頭の押領に関する訴状が出されています。
訴訟相手は、良田荘の地頭「太郎左衛門尉仲泰良田郷司」です。彼は良田郷の郷司でもあったようです。仲泰が後嵯峨法皇御菩提料や仏への供物などに当てるための多額の年貢を納めずに、「土居田(どいでん)と号して公田を押領す」とあります。仲泰は「土居田=直属の所領」と称して一般の農民の田地を奪っていたようです。善通寺は、その不法を訴えますが、六波羅の奉行の阿曽播磨房幸憲と地頭仲泰と結託していて、寺領侵害を長年にわたって止めることはできませんでした。
このような寺領紛争に、のり出しだのが綾氏出身の真恵でした。
 先ほど見たように真恵は、弘安三年(1280)十月に善通寺一円保の公文職についた人物です。当時の彼は善通寺大勧進になっていました。大勧進というのは堂塔の造営や修理、寺領の管理など寺院の重事にその処理の任に当たる臨時職です。大勧進の職についた真恵は、その職権を持って地頭の仲泰と交渉を進め、永仁六年(1298)に、良田郷を下地中分することにします。
  下地中分(しもちちゅうぶん)というのは、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半し、それぞれの領有権を認めて互いに干渉しないことにする方法です。荘園領主としては領地の半分を失うことになりますが、そのまま地頭の侵害が進めば荘園は実質的に地頭の支配下に入ってしまうかもしれません。それを防いで半分だけでも確保したいという荘園領主側の意向から行われた処置でした。
 善通寺が地頭仲泰の荘園侵害を防ぎきれず、下地中分をせざるを得なかったのは、結局善通寺が荘園に対して地頭に対抗できるだけの支配力を持たなかったからだといえます。したがって寺の支配力の強化が計られなければ、下地中分後の寺領もまた在地武士の侵害を受ける可能性があります。一円保公文として荘園管理の経験があり、また彼自身在地領主でもあった真恵は、そのことを痛感したのでしょう。
そこで真恵が計画した中分後の寺領支配の方法は次のようなものでした。大勧進真恵寄進状(A・B通)に、次のように記されています。

大勧進真恵寄進状A.
大勧進真恵寄進状A

意訳変換しておくと
(地頭との相論で要した訴訟費用)一千貫文は、すべて真恵の私費でまかなったこととにする。その費用の代として、一町別五〇貫文、一千貫文分二〇町の田を真恵の所有とする。そのうえで改めてその田地を金堂・法華堂などに寄進する。その寄進の仕方は、金堂・法華堂の供僧18人に一町ずつの田を配分寄進し、町別に一人の百姓(名主)を付ける。残りの2町については、両堂と御影堂の預僧ら3人に5段ずつ、合わせて1町5段、残る5段は雑役を勤める下級僧侶の承仕に配分する。別に2町を大勧進給免として寄進する

大勧進真恵寄進状B
大勧進真恵寄進状B

真恵寄進状とありますが、その実態は「大勧進ならびに三堂供僧18人口、水魚の如く一味同心せしめ、仏法繁栄を専らにすべし」とあるように、田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする「善通寺挙国(寺)一致体制」作りにほかなりません。真恵が訴訟費用の立替分として自分のものとし、次いで善通寺に寄進した土地は、中分で得たほとんどすべてです。このようなもってまわった手続きを行ったのは、新しい支配体制が、それまでの寺僧の既得権や名主百姓の所有権を解消して再編成するものであったことを著しています。普通の移行措置では、今まで通りで善通寺は良くならないという危機意識が背景にあったかもしれません。真恵の考えた「寺僧による集団経営体制」ともいえるこの体制は、当時としてはなかなかユニークなものです。

「B」の冒頭の「眞惠用途」とは 、大勧進としての真恵の用途(=修理料)を指すと研究者は考えています。内容を整理すると、
① 大勧進の真恵が良田郷の寺領について、地頭との間で下地中分を行ったこと
②その際に領家分となった田畠2町を供僧等に割り当てたこと
③それに加えて、寺僧中二人の學頭とも断絶したときには 、大勧進沙汰として修理料とすること
④Aとは別に良田郷内の2 町の田畠を大勧進給免として配分すること
⑤大勧進職には自他の門弟の差別をせずに器量のあるものを選ぶこと
⑥適任者がいないときには 「二十四口衆」の沙汰として修理料とすること

   以上のように、真恵は綾氏出身の僧侶で、寺院経営に深く関わり、地頭と渡り合って下地中分なども行える人物だったことが分かります。現在の我々の「僧侶」というイメージを遙かに超えた存在です。地元に有力基盤をもつ真恵のような僧が、当時の善通寺には必要だったようです。そういう目で見ると、この後に善通寺大勧進として活躍し、善通寺中興の祖と云われる道範も、櫛梨の有力者岩崎氏出身です。また、松尾寺を建立し、金比羅堂を建てた宥雅も西長尾城主の弟と云われます。地方有力寺院経営のためには、大きな力を持つ一族の支えが必要とされたことがうかがえます。
大勧進職の役割についても、見ておきましょう。
 Bの冒頭には「大勸進所者、堂舎建立修理造營云行學二道興行云偏大勸進所可爲祕計」とあります。ここからは伽藍修造だけでなく、寺院経営までが大勧進職の職掌だったことがうかがえます。Aでみたように、下地中分や、供僧への田畠を割り当てることも行っていることが、それを裏付けます。

 B によって設定された大勧進給免田畠2町は、観応3年(1352)6月25日の誕生院宥範譲状で 「同郷(良田郷)大勸進田貳町」と出てきて、宥源に譲られています。善通寺の知行権を伴う大勧進職の成立は、真恵譲状の永仁6年から始まると研究者は考えています。

 しかし、真恵がめざした「大勧進+寺僧集団」による良田荘支配は、本寺随心院の干渉によって挫折します。
真恵のプランは、随心院からみれば本寺の権威を無視した末寺の勝手な行動です。そのまま見逃すわけにはいきません。末寺善通寺と本寺随心院との良田荘をめぐる争いは徳治2年(1306)まで約10年間続きます。
TOP - 真言宗 大本山・隨心院

随心院は、摂関家の子弟が門跡として入る有力寺院です。
善通寺の内にも真恵の専権的なやり方に不満を持った僧がいたのでしょう。争いは次第に善通寺側に不利になっていきます。結局、真恵の行った下地中分は取り消され、良田荘は一円保と同じように随心院を上級領主とする荘園になったようです。真恵による寺領経営プランは、本所随心院の圧力により挫かれたことになります。そして、真恵は失脚したようです。

以上をまとめておくと
①古代讃岐の有力豪族であった綾氏は、鵜足郡や阿野(綾)郡を拠点にして、その勢力を拡大した。
②西讃地方でも、中世になると那珂郡・多度郡・三野郡などで綾氏一族の末裔たちの動きが見えるようになる。
③13世紀末の史料からは、綾定方が多度郡の郡司で、善通寺一円保の公文職を務めていたことが分かる、
③綾貞方の子孫は、その後も善通寺一円保公文職を務めていたが、覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので罷免された。
④そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻し、公文に就任した
⑤それから18年後に真恵は、善通寺大勧進となって良田荘の地頭と渡り合って下地中分を成立させている。
⑥そして田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする体制造りをめざした
⑦しかし、これは本寺随心院の支持を得られることなく、真恵は挫折失脚した。

ここからは、中世には綾氏の武士団化した一族が多度郡に進出し、多度郡司となり、善通寺一円保の公文職を得て勢力を拡大していたことがうかがえます。そして、その中には僧侶として善通寺大勧進職につきて、寺院経営の指導者になるものもいたようです。善通寺など地方有力寺院は、中世には、このような世俗的な勢力の一族を取り込み、寺院の経済基盤や存続を図ろうとしていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内 誠  讃岐国善通寺における大勧進の性格について 日本建築学会計画系論文集 第524号.,305−310,1999年
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江戸時代の讃岐各藩における雨乞修法を担当したのは、次の真言寺院でした。
①髙松藩  白峯寺
②丸亀藩  善通寺
③多度津藩 弥谷寺
旱魃になるとこれらの寺院では、藩に命じられて雨乞修法が行われるようになります。そのために、善如(女)龍王が勧進され、小さな社が建立されていました。この善如(女)龍王に降雨を祈るという修法は、中世以来のものかと私は思っていました。しかし、そうではないようです。17世紀後半になって、ある人物によって讃岐にもたらされたようです。それが浄厳(じょうがん)という真言僧侶のようです。
浄厳
浄厳
彼は、善通寺の僧侶や髙松藩初代藩主松平頼重にも大きな影響を与えた僧侶のようです。今回は、浄厳が讃岐に何をもたらしたかに焦点を合わせて、見ていくことにします。テキストは、「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」です。

浄厳和尚伝記史料集 | 霊城, 上田 |本 | 通販 | Amazon

まず、彼が何者であるのを浄厳伝(現代訳)で見ておきましょう。
浄厳律師は、寛永16年(1639)11月23日に生まれた。字(通称)は覚彦(かくげん)と言い、俗姓は上田氏であり、河州錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)の出身である。父母は信仰に篤く、深く三宝を信じており、律師は生まれながら非凡であった。幼少の御、授乳の時には、いつも右の人差し指で梵字や漢字を、母の胸に書いたと言われ、また一切の文字も習ってもいなかったのによく知っていたと言う。四歳の頃には、法華経の普門品や尊勝陀羅尼を読誦し、またよく阿弥陀や観音、地蔵などの仏の名号を書いたと言う。ある時には、父親に出家したいと願い、密かに般若経を唱えていたとも言われ、女性に会うことを嫌い、生臭いものは食べなかつた。六歳の時には、桂厳禅師の碧巌録の講義を聴き、家に帰りまた自ら講じ、それを聴いた者を驚歎させたと言う。
慶安元年1648)十歳の時に高野山に登り、悉地院の雲雪和尚に付き得度。雲雪和尚遷化後は、釈迦文院の朝遍和尚に師事。
明暦二年(1656) 実相院の長快阿閣梨から中院流の伝法灌頂を受ける。
寛文四年(1664) 南院の良意阿闇梨から安祥寺流の伝法灌頂を受け秘印を授かる。
以後は、倶舎、唯識、華厳や法華の諸経論を兼学して勉学研鑽する。
寛文十年(1670) 大師の『即身成仏義』を講義して、高野山の全山学徒が心服。高野山で修行すること20余年で、学侶の席を捨て山を下る。
寛文十二年(1672)春、故郷河内に帰り、父の俗宅に如晦庵を建て、観心寺で『菩提心論』『理趣経』などを講義
延宝元年(1673) 神鳳寺派の快円律師より梵網菩薩戒を受け、浄厳と名を改め、これ以降は戒律を護持。
翌年には、仁和寺の顕證阿闇梨、孝源阿閣梨の二師に拝謁して、西院の法流や真言の諸儀軌を受得する。また、黄檗の鉄眼禅師に超逓して意気投合し、その後も親交は深められる。
延宝四年(1676)春二月、河内の常楽寺にて曼茶羅を建てて、初めて受明灌頂を行った。この受明灌頂は、真言密教の重要な灌頂であったが伝授が途絶えていた。その灌頂を復興。
この年の5月に、泉州堺の高山寺で、神鳳寺一派の玄忍律師を証明師として招請。通受自誓の受戒を行い、比丘となる。

別行次第秘記は浄厳の真言密教の修行に関する口訣書
 
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に招かれ講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
貞享元年(1684)11月、教化のために江戸に出る
が、旅住まいをして間もないのに、学人が雲のように多く集まり、講経や説法をしても、人が来ない日は無いほどであった。三帰依の戒を授かった者は、六十万九千人。光明真言呪を授かった者 一万千百余人。書薩戒を授かった者は千百三十人であった。
元禄四年(1691)8月、幕府の命で、湯島に霊雲寺を開創
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
水戸藩の儒者であった森尚謙は、律師の法座があまりに盛んであったのを祝って、次のように詩作している。
「南天の鉄塔覚皇の城、芥子扉を開いて此道明らかなり。憫恨す会昌の沙汰の濁れることを、讃歎す日域の法流の清きことを、戸羅具足して無漏を証し、結縁灌頂して有情を救う。遍照金剛今いづくにか在る。那伽の定裏に形声を見はす」

元禄十五年(1702)6月、体調を崩し病に罹り、27日に、頭北面西し、右脇して臥して、印を結んで、静かに遷化。享年六十四。
浄厳は、戒律を護持して、決して怠らず、三衣一鉢などの持ち物を飾ることもなく、美味しい食物を口にすることはなく、人に接する時は謙譲であり、また人を送迎する際には、非常に丁寧であった。信者から受けた布施は、すべて経典や仏像を購入したり、堂塔を修復することに用い、慈悲の実行を常に旨とし、護法を自らの勤めとなしたのである。まさに、仏教界の逸材と言うべき高僧であった。
浄厳の墓(河内延命寺)
浄厳の墓(河内延命寺)
以上のポイントを要約しておくと
①寛永16(1639)年 河内に生まれ10歳で高野山に入山得度
②寛文10(1670)年  高野山修行20余年で、高野山を下り故郷河内に真言新安祥寺流を開く
③元禄4(1691)年  5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立
庶民の教化に努め、近世期の真言宗の傑僧と評され人物のようです。
この中で注目したいのが讃岐との関連で、次の記述です。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、浄厳の戒徳を仰ぎ慕い、直接浄厳から教えを受けた。
1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
これを裏付けるのが「浄厳大和尚行状記」です。
浄厳行状記
浄厳大和尚行状記
この書は、浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子や、松平頼重との関係が詳しく記されています。浄厳来讃のきっかけについては。次のように記します。

延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、4月21日より法華経を講じ、9月9日に満講した。

ここからは、延宝6(1678)年に、善通寺誕生院主宥謙の請いを受けて因果経ならびに法華経の法筵を開いたことに始まると記されています。
どうして宥謙は、浄厳を善通寺に「講師」として招聘したのでしょうか?
誕生院主宥謙の課題は、7年後の貞享2年(1685)に控えた弘法大師八百五十年遠忌でした。それを前に善通寺を浄厳の説く新安祥寺流に改める「宗教改革」の道を選んだと研究者は考えています。それは、宥謙以後の善通寺歴代住持の動きからもうかがえるようです。
宥謙以後の善通寺誕生院住職は、光胤―円龍―光歓―光天―光國と続きますが、新安祥寺流との関わりが深くなっていきます。
宥謙が元禄四年(1691)に入寂すると、住持職を譲られていた光胤は、元禄9(1696)年に、京都や江戸での寺宝の開帳を行ったことは以前にお話ししました。元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年 江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
           善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで   
            播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
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善通寺江戸開帳の「元禄目録」
 江戸での開帳の際に首題に「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」と題された「元禄目録」が残されています。

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元禄開帳末尾

その末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の「御覧(見学)」のために作成された目録であることが分かります。桂昌院は、家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の当寺の実権者でした。その桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれについての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 「大奥の実力者が見学に行った善通寺のご開帳」というのは、ニュースバリューがあり、庶民を惹きつけます。現在でも、皇室記事に人気があり、皇族たちの着ているものや見学先に庶民が強い関心を持っているのと同じです。しかし、どうして四国の善通寺のご開帳に、わざわざ桂昌院が見学にきたのでしょうか。法隆寺や善光寺に比べると、全国的な知名度はかないません。

善通寺薬師如来像内納入文書 (2)
善通寺本尊薬師如来開眼供養願文(善通寺)
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている

 この時に大きな力になったのが桂昌院の帰依を得ていた浄厳の存在だと研究者は推測します。
当寺の浄厳は江戸にいて、五代将軍綱吉から湯島の地を賜って霊雲寺を開いて真言律を唱え、多くの信者たちを得ていました。浄厳による大奥への裏工作があったことが考えられます。

1 善通寺本尊2
善通寺本尊薬師如来像
 それを裏付けるのが、現在の善通寺本尊薬師如来像です。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
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大仏師運長が誕生院にあてた「見積書」
その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示され見積書となっています。このような「見積書」によって、運長は全国の顧客(寺院)と取引を行っていたようです。
 ここで研究者が指摘するのは、運長は浄厳の肖像を制作していることです。浄厳は、以前から運長にさまざまな仏像の制作を依頼してようです。ここからは私の推論です。「弟子」にあたる誕生院院主光胤は浄厳に次のような依頼を行います。

「おかげさまで江戸での開帳が成功裏に終わり、善通寺金堂並びに本尊造立のための資金が集まりました。つきましては、善通寺金堂の本像作成にふさわしい仏師を紹介していただけないでしょうか」

 江戸の浄厳に相談し、仏師紹介を依頼したことが考えられます。そして浄厳が紹介したのが腕利き仏師運長だったと私は考えています。このように考えると、江戸での開帳計画も一か八かのものではなく、浄厳の指導助言に従って光胤が進めたもののように思えてきます。善通寺の運営について浄厳は、さまざまな助言や協力もしていたようです。
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円龍が運長に依頼した愛染明王像(善通寺)
次の善通寺住持の円龍は、宥謙・光胤から受法した正嫡の弟子です。
そして、京都愛宕宝蔵院主から善通寺に転住してきた人物です。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
次の光歓は円龍の念持仏を開眼した浄厳弟子の蓮体について新安祥寺流を受け、白峯寺等空法印からも同法を授かった人物です。

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善通寺大塔再興雑記には、光圀の名前が見える

光國僧正は阿波出身であり、東大寺戒壇院長老となった慧光(1666~1734)に師事していました。また、五重塔再興に東奔西走した人物です。

慧光は浄厳の高弟のひとりで、湯島・霊雲寺の二世でもあります。善通寺に伝えられる新安祥寺流聖教には光國が所持していたものがあり、さらに白峯寺等空と離言書写のものも伝えられています。これらをあわせると善通寺の大部分の聖教が整うようです。
以上をまとめておくと、浄厳を善通寺に招請した誕生院主宥謙のねらいは、弘法大師650年遠忌を契機として善通寺を新安祥寺流の拠点のひとつとすることにあったと研究者は考えています。
それを裏付けるように、これ以後善通寺周辺の真言有力寺院がである金昆羅金光院・弥谷寺・白峯寺・志度寺などが新安祥寺流を受入れます。 (松原秀明「讚岐における浄厳大和尚の遺蹟と、その法流について」『郷土歴史文化サロン紀要』第1集1974年

密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視しますから、師から弟子に教えが受けつがれると血脈という系図のようなものが与えられます。真言宗におけるある流派の教えが受け継がれていった法脈がこうして形成されていきます。そして、その証として肖像画が作られていくことになります。

こうして、讃岐の真言寺院は新安祥寺流に席巻されていくようになります。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。


以上から浄厳の讃岐にもたらしたものを挙げておきます。
①善通寺誕生院院主の帰依を受けて、善通寺を新安祥寺流の拠点寺院としたこと
②善通寺を拠点に西讃の有力真言寺院が新安祥寺流を受けいれたこと
③善通寺の歴代院主は、浄厳やその弟子たちと法脈をひとつにして、寺院経営などに指導助言を得たこと
④そのひとつが江戸での開帳行事の開催や、本尊作成の仏師選定などが史料から分かる。
⑤浄厳は髙松藩松平頼重の護持僧侶として、宗教政策に強い影響力をもつようになったこと
⑥松平頼重の引退後の宗教政策には、浄厳がさまざまな点に影響を与えていたことが考えられる事

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」

古代や中世の職人は一か所に定住せず、流浪の民でした。
鎌倉時代から手工業技術の進歩にともない、さまざまな職人が登場するようになります。室町時代になると、技術が一層発達し、社会的分業が進むにつれて、技術の担い手としてさまざまな職人が現れます。その職人の姿を紹介したのが「職人歌合」で、絵画史料として職人たちのいきいきとした姿を私たちに伝えてくれます。

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15世紀に作成された「三十二番職人歌合』では、登場する職人は32種でしたが、室町時代末期の『七十一番職人歌合』では142種にまで増えています。ここからも技術の発展ととともに、社会分業がすすんでいることがうかがえます。

建保職人歌合 鋳物師
 建保職人歌合 鋳物師
 例えば工匠の場合には15世紀後半から、鋳物師は16世紀になると特定地域に定住して営業を行うようになります。それまで遍歴をしていた職人たちが定着化して、職人集団を形成し「産地」となっていきます。そのような中で、讃岐にも職人たちが登場してくるようになります。
そこで史料に出てくる「中世讃岐の職人」たちを追いかけて見ようと思います。今回は絵師を見ていくことにします。
 保元の乱に破れた崇徳上皇が讃岐に流されてくる8年前の宝治2年(1148)2月のことです。弘法大師信仰の高まりを受けて、高野二品親上が善通寺の大師御影の模写を依頼してきます。しかし、讃岐には受戒した浄行の仏師がいないため、京都から仏師鏡明房成祐を招き模写させています。つまり平安末期の讃岐では、絵師がいなかったのです。

建保職人歌合 中世の職業・職人・商人 仏師
建保職人歌合 仏師
 ところが鎌倉時代末期になると、讃岐にも絵師がいたことが史料から分かります。
四国霊場の本山寺の本堂は、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に次のような墨書銘が書かれていることが発見されました。
「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」(1300年)

ここから、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かり、国宝に指定されています。本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立され、そこに二天像が収められます。

イメージ 5
本山寺二天門の二天王像
その像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は大見の住人と記されています。
大見は三野郡下高瀬郷に属し、西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。三野湾は、中世には本門寺辺りまで入り込んできていて、その浜では秋山氏によって塩浜が開発され、西浜・東浜では製塩が行われていました。作られた塩は、宇多津や平山(宇多津)・多度津などの輸送船がやってきて畿内に運んでいたことが兵庫北関入船納帳から分かります。三野湾沿岸は、それらの輸送船が行き交う瀬戸内海に開かれたエリアで、外部からも多くの中世仏像がもたらされていることは以前にお話ししました。そのような大見に、仏師・下総法橋がいたことになります。

c_iyataniji弥谷寺全図
弥谷寺
大見の東に位置する天霧山の山中には、山岳寺院として多くの修験者や高野聖等が活動していた弥谷寺があります。弥谷寺は廻国行者や高野聖など活動拠点で、山門周辺には彼ら庵がいくつも点在していたことが絵図から分かります。また、周辺には阿弥陀信仰の拡がりをしめす石造物がいくつかあります。ここを拠点に高野聖たちは、大見への「布教活動」を行っていたようです。そのような高野の聖たちの中に仏師・下総法橋の姿もあったのかもしれないと私は考えています。そして、本山寺などの求めがあれば、仏像を制作していたのでしょう。彼の作った仏像が、まだまだ讃岐のどこかには残されているのかも知れません。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年
弥谷寺(四国遍礼名所図会)

②には「絵師、善通寺正覚法橋」とあります。正覚法橋は善通寺のどこに住んでいたのでしょうか。
そのヒントを与えてくれる史料が善通寺には残されています。
善通寺一円保絵図 1

善通寺一円保絵図 原図
「讃岐国善通寺近傍絵図」で「一円保絵図」と呼ばれています。幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図で、墨で書かれたものです。この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れると研究者は指摘します。素人の農民が書いたものではないようです。これだけの絵図を書ける絵師が善通寺にはいたのです。それでは誰が描いたのでしょうか。
一円保絵図 全体
善通寺一円保絵図(トレス図)

表紙をあけたところに、次のように記されています。
「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

差図(指図)とは絵図面のことです。ここからは、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に、善通寺寺領の農民たちが京都の随心院に「烈参(列参)」した時に提出したものであることがわかります。これは、本山寺の二天王像の彩色を絵師・正覚法橋が行った6年前のことになります。以上を考え合わせると、善通寺が一円保絵図を書かせて、それを百姓たちが京都の本山・随心院への陳情時に持参させた、その一円保絵図を書いた絵師も、正覚法橋であったとことが考えられます。
 一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。そのために善通寺は、配下の絵師に「一円保絵図」の作成を命じたとしていおきましょう。

史料からは、中世の善通寺には次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。  (数字は、絵図上の場所)
 善通寺については平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあります。現在の赤門前周辺が寺院関係者の住居が集まっていたようです。これに対して、下側(北側)が、百姓の家々ということになります。それを絵図上で拾っていくと、次のような表記があります。

一円保絵図 中央部
善通寺一円保の僧侶の居住地点

寺僧以上が           (地図上の番号と一致)
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」 (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」          (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
 残念ながら「あわのほけう(阿波法橋)」はありますが「絵師・正覚法橋」の表記はないようです。正覚法師は出てきませんが、彼も善通寺の東院周辺に庵を構えて生活していたことが見えてきます。
 僧侶の房の位置から分かることは、位の高い寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいることです。東院からの距離が、僧侶間の身分・階層関係を空間的にも示していると研究者は指摘します。その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性はあります。例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師などの職人が善通寺周辺にいたのです。

善通寺一円保絵図
西院と東院

 現在の善通寺の院房は、東院と西院の間に密集して並んでいます。
これが見慣れた景観なので、昔からそうだったのだろうと私は思っていました。しかし、西院が姿を現し、善通寺の中核を占めるようになるのは中世の後半になってからのことです。中世以前までは東院が中心で、その東側の赤門前に、僧侶たちは生活していたことを一円保絵図は教えてくれます。

   以上をまとめておくと
①平安末期の宝治2年(1148)2月には、善通寺の大師御影の模写のために京都から仏師鏡明房成祐が招かれているので、讃岐には絵師がいなかったこと
②徳治二(1307)年の「善通寺一円保絵図差図」は、大和絵の技法が見られプロの絵師によってかかれていること。
③その6年後1313年に、本山寺の二天王像の彩色を「絵師、善通寺正覚法橋」がおこなっていること
④ここからは鎌倉末期の14世紀初頭の善通寺には絵師がいたこと
⑤絵師は、他の僧侶たちと同じように善通寺東院の東側の赤門周辺で、他の僧侶集団の中で生活していたこと。
⑥同時期に三野の近江には仏師がいたこと。その背景には三野湾の交易と弥谷寺の僧侶集団の形成があったこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  地元に愛される「灸まんうどん」/琴平パークホテル (2020年リニューアル)のブログ - 宿泊予約は<じゃらん>
灸まんうどん(琴平)
私が愛用するうどん屋さんのひとつに琴平の灸まんうどんがあります。半世紀近く味の替わらないうどん屋さんで、ここではもっぱら「ゆだめ」を注文します。昔から変わらない店内の奥の壁に大きな額が掛けられています。
算額 金刀比羅宮(久万うどん)
灸まんうどんの算額   
文政10年(1827)10月 金比羅宮奉納の復元版

 何が書かれているのかは、素人にはさっぱり分かりません。算学の額であることは、額の下の説明版を読めば分かるのですが、それがどんな意味を持つのかまでは、考えたことがありませんでした。

算額 本山寺 万延元年(1860)仲秋
   豊中町本山寺の算額(復刻版)万延元年(1860)仲秋 

 江戸時代後期の満濃池の改修工事や水門のトンネル工事などを見てみると、それを行っているのは庄屋たちです。彼らが土木技術を身について難事業を起こっています。そして、そのためには測量から計算・数式関係に通じていることが求められるようになっていました。志のある庄屋の若きリーダーたちは、算学を学んでいるのです。
彼らがのこした「記念モニュメント」が「算額」だと云えそうです。

算額 名部戸天満宮 天保15年(1844)9月 託間町立民族資料館蔵
 賀茂神社(仁尾町)天保15年(1844)9月  62×150cm

 ということで、算額には何が書かれているのか、何を目的に作られたのか、誰が残したかについて見ていくことにします。テキストは「直井武久  丸亀藩の算学士と算額  香川県文化財協会会報  平成7年度」です。

算額 文政10年(1827)10月金比羅宮
金比羅宮    文政10年(1827)10月奉納(復刻版) 

灸まんうどんに掲げられている算額は、もともとは金刀比羅宮に奉納されたもののリメイク版のようです。算額は、神社に絵馬を掲げるように、数学の難問とその解法を図を添えて掲げてあります。江戸中期以降になって、和算を学ぶ者が増えるにつれて、自分の能力や研究成果の発表などのひとつの方法として、絵馬としての算学が登場してくるようです。絵馬の一種が算額と押さえておきます。

算額 岩清尾神社文化3年(1806)正月
      高松市岩清尾八幡宮の算額 文化3年(1806)3月奉納
香川県に残された算額の制作目的を、研究者は次のように分類しています。
① 問題と解答を広く周知する。
②難問を解き得た自己及び自己の流派、師匠らの能力の誇示
③ 難問の解き得たのは神仏の加護によるものとの感謝の念の表現
④ 神仏の加護によって、今後さらに学力の向上と難問解決の成功を祈念
⑤ 門弟の修学奨励のため
⑥ 問題の解法について、他流派より優位であることの顕示
算額は全国に400枚以上残されているようですが、香川県内にあるのものは、復元も含めて次の通りです。
     奉掲年月       奉掲場所      奉掲者
1、天保十五年(1844)9月 詫間町名部戸    佐保山本立外五人
2、天保十五年(1844)九月 仁尾 加茂神社    佐保山本立外五人
3、安政五年(1858)9月 善通寺木熊野神社  乾景一外十一人
4、万延元年(1860)仲秋   豊中町本山寺    詫間流本田民部信行
5、万延元年(1860)仲秋 豊中町本山寺    詫間流仮名丸上紹介義延
6、明治11年(1878)3月 善通寺皇美屋神社  保信外九人
7、明治33年(1900)2月 丸亀今津天満宮    芥規(芥田正規)
8、文化3年(1806)3月 高松市岩清尾八幡宮 山本利助一武
9、文政10年(1827)10月 金比羅宮      松山寿平輸美

そのなかで 3の木熊野神社の一番大きな算額を見ておきましょう。
善通寺市の中村町にある木熊野神社は、熊野信仰を伝える熊野行者たちの拠点であった神社で、熊野からもたらされたというナギの木が社叢となっていて、県の天然記念物に指定されています。この神社には、善通寺市指定の有形文化財の算額が拝殿に掲げられています。この算額は、横4,2m縦1mの桧材で作られた飛び抜けて大型の算額です。何が書かれているのかを見ておきましょう。
算額 木熊野神社 善通寺市
木熊野神社算額 善通寺中村町 4,2m×1m

まず最初に、関孝和算聖を称え、我々の研究も関先生のお蔭であり、その御礼としてこの額を捧げると感謝の言葉が記されます。続いて、12問の問題が図とともに出題されてます。
算額 木熊野神社2 善通寺市
木熊野神社算額の各問題 上に図が示され下に問題と解法が書かれている

第2問を見てみましょう。
算額 木熊野神社3 問題2 善通寺市

問題を出題している12名は、丸亀藩の和算塾の門人たちです。
その師匠であった岩谷光煕の家は、丸亀城の南の十番丁にあり、代々京極家に仕え、数理方面を得意とした家柄だったようです。江戸時代末期には、寺社方公事方物書として微禄を食んでいました。江戸留学で、和算を学んだ光煕の下には、和算を学びに来る若い門人がふえていったようです。この算額には、第一問を師匠である岩谷光煕が出題し、以下を門人たちが撰者となっています
出題者たちを挙げると次のようになります。
第二問 米谷基至 
丸亀藩士で180俵持 原惣左衛門の四男で、原隼人と称して、早くから光熙の塾に通う。天保11年に印可の免許を得て算学士と称します。まもなく米谷三男治(十四俵三人)の養子となり、名が米谷基至となります。
第二問 松原正遊
第四間 三崎信潤 善通寺下吉田村・石神神社の東の住人。地主
第五問 金関正包
第六間 高嶋義侃
第七間 高木建義
第八問 松本宣知  善通寺中村西下所の住人。地主
第九間 嶋田武員  岩谷光熙の妻知余の弟で光熙の高弟
第十問 乾 景一  善通寺中村の地主
第十一問 小山一慶  善通寺中村の人で木熊野神社の西に居住
第十二問 巌渓光胆 
この算額の願主は、第十問の撰者でもある乾景一です。
彼は、木熊野神社が鎮座する善通寺中村の住人で大地主でもあり、俳句・画・書にも造詣が深い文化人だったようです。和算塾の塾主である岩谷光熙が必要とする図絵は、乾景一が描いています。号は画声。この巨大な算額奉納のために、経費の負担や、神社総代・神主などとの折衝など、もろもろの世話に当ったのが乾景一なのでしょう。彼も、若い頃から丸亀城下町の岩谷光煕の和算塾に通っていたようです。

算額 丸亀市天満神社2
天満天神社の算額 
次に丸亀市の塩屋別院の前にある天満天神社拝殿の算額を見ておきましょう。上の写真を書き起こしたものが下図です。
 算額 丸亀市天満神社1

最初に「算法雑題五問」とあり、「東洋天元演段式算筆解」と「西洋代数幾何筆算解」の両方の解法が書かれています。これに続いて五問があります。上段に図、中段に和算による間・答・解があり、下段に現代数学による解があります。末尾に「 明治33(1900)年10月吉辰日 芥規謹解」とあります。19世紀の最後の年に奉納された算額と云うことになります。この頃には、和算は西洋数学にとって替わられていたはずです。それが、どうしてこの時期になって算額が奉納されたのでしょうか。
この算額には奉納の由来が次のように記されているようです。(本田益夫氏の写しと訳)
この問題を解いた芥規なる者は、嘉永元年(1848)2月塩屋村(現丸亀市)生れの芥田正規である。幼より算数の学に長じ、独学で教員となり郷校に務めた。のち亀池・柳泉・六郷尋常小学校に転じ、約40余年の教職の後、大正3年(1914)8月1日、67歳で病没。
正規は毎朝柱時計を携え登校し、生徒に時を厳守させ、下校の際は携帯して帰った。当時柱時計は村内に2個しか無かったという。また当時の学校日誌によれば、正規は記事の後に歌を記していることが多い。その一例
明治32年2月10日(金) 晴
(当直記事の後)陰暦元旦ニ
あふき見れは 今とし越ゆる 山の端に 朝日かけさす 御代のあけぼの
没後 正規を慕う村民は多く、昭和十年の夏、城坤小学校校庭の一隅に「芥田先生頌徳碑」が建立された。
  ここには和算を極めた几帳面で、生徒に慕われた教師像が見えてきます。彼を慕う教え子は多く、その中の一人の「納主 瑞煙堂」が世話人となって、芥田正規の生家の近くの天満宮に奉納したようです。
この算額は、和算の技量を誇ると云うよりも、和算を身につけていた恩師を慕う気持ちが込められているようにも思います。

  以上をまとめておくと
①幕末の丸亀藩には、丸亀藩の岩谷光煕が開いていた和算塾には多くの門人たちが学んでいた。
②彼らは和算能力を、会計処理や測量、土木などの各方面で活かしていたが身分的には、地主や下級武士が多かった。
③和算グループのリーダーたちは、世間へのアピールや能力向上を祈願して、算額を神社に奉納した。
④算額が奉納された神社周辺には、和算グループの有力メンバーの存在が見られる。
彼らのような実務的な技術者の存在が、土木測量技術の進歩を生み、幕末の満濃池の改築や樋のトンネル化など、いままではできなかった難工事を可能にしたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「直井武久  丸亀藩の算学士と算額  香川県文化財協会会報  平成7年度」
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  丸亀街道地図 郡家から与北まで
    丸亀街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
赤で示されたルートが金毘羅丸亀街道です。
⑩が丸亀郡家の一里屋燈籠
⑬が神野神社前の燈籠
で、前回紹介した燈籠です。⑬からすぐに県道に合流すると旧街道らしい雰囲気はなくなっていきます。ふたたび旧街道らしい静けさが味わえるのは⑱燈籠手前で県道から分かれて以後になります。
この郡家の神野神社から、まんのう町公文までの金毘羅街道のルート図を見ていて気がつくのは燈籠⑱~⑳、道標8~10と石造物モニュメントが密集する所があることです。これが与北の茶屋になるようです。今回はこの茶屋を見ていきたいと思います。
テキストは「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」です
DSC06183
  与北茶屋手前の⑱燈籠 奥に見えるのが象頭山

 与北の茶屋は、金毘羅と丸亀のちょうど中間点あたりにあります。そのため多くの参拝者がここで、休息したようです。

「金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(板元栄寿堂。江戸末期)には、「与北茶堂」①と註して入母屋造りの茶堂が描かれています。

丸亀街道案内 三軒家・郡家・与北 拡大図
さらに与北茶屋を拡大すると

 丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋8 郡家・与北・善通寺

拡大図 下真ん中に与北茶屋 
暁鐘成の「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記されています。
丸亀街道 与北・公文・高篠

意訳変換しておくと
「与北村 
村の中間に茶堂あり。当村よりの永代接待所である。金毘羅参詣の旅客はここで憩う。路の右にあり」
 丸亀街道の中間の休憩所として、利用する人が多かったようです。
もう少し、しっかりと与北の茶屋が書かれた絵図があります。

丸亀街道 与北茶屋

  手前が与北の氏神様である皇美屋(宮)神社です。その向こうに金毘羅街道が南北に通っています。街道が少し屈曲しているところに与北の茶屋があったことがこの絵図からは分かります。建物も入母屋で大きな構えで、附属の建物が何棟か見えます。立派な茶堂だったようです。茶堂の南側の街道の向こう側には寺院らしきものがありますが註には何も記されていません。現在は、この位置にはお寺はありません。また、買田池方面から俯瞰的に、東北方向を眺めた構図ですが、不思議なことに背後の山では、飯野山ではありません。この構図ならば、ばっちりと讃岐富士が描き込まれないと決まりません。実際に現場に足を運んだのか疑いたくなります。まあ、雨天で飯野山はみえなかったことにしておきます。
 絵図の左中頃にある金毘羅御供田は、髙松藩初代藩主松平頼重が金毘羅の金光院に寄進した寺領です。髙松藩の領地の一番西にあたるこの地が寺領に寄進されました。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋9与北公文g

 茶堂をとりまく様子をみましたので、それでは近づいていくことにします。

DSC06184
⑱燈籠をさらに南に丸亀街道を進むと・・・

DSC06188
丸亀街道 与北茶屋の大燈籠

   茶堂は、いまは黒住教与北教会所となっているようです。その前に、屋根よりも高い大きな灯寵が立っています。まず大きさを確認しておきます。
円形空輪直径約45㎝、高さ30㎝、
笠石 六角形で厚さ80㎝、
火袋 六角形で直径62,5㎝、高さ58㎝
受台 六角形で直径100㎝
石竿  円錐形で最大直径78㎝
石竿から空輪頂点までだけで、約3mを越える大灯龍になります。この灯龍を支える台石は、方形で五段積みで、石竿をうける上段の台石は一辺78㎝、最大の最下段の台石は一辺278、5㎝で、台石全体の高さは208㎝。台石を合わせた灯龍の高さは、546㎝の巨大な燈籠です。金毘羅街道沿いの灯龍の中で最大のものとされます。
DSC06187

 ところがこれだけ立派な燈籠なのですが、その寄進についての記録は残っていないようです。これだけ大きな燈籠を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか。灯寵に刻まれた文字情報を研究者は、次のように読み解いていきます。
①石竿に常夜灯
②台石には上段から大坂、繁栄講、
③台石側面に講元順慶町大和屋弥三郎以下約六十名の名前
④石竿側面に文政十一(1828)戊子九月吉日
丸亀街道 与北茶屋大燈籠
与北茶屋 大燈籠の寄進者一覧

ここには講元に「順慶町」とあります。
丸亀街道 与北燈籠 順慶町
        「順慶町夜見世之図」歌川広重画

「順慶町」は、現在の大阪市中央区南船場1~3丁目(旧順慶町通)のことで、新町遊郭の東口筋にあたります。この町は豊臣秀吉の城下町建設の際に、筒井順慶が屋敷を構えたところと伝えられ、その名が町名として残ったといわれるようです。江戸時代を通じて、船場の一郭で商業の町として栄えます。秋里蔽島の「摂津名所図会大坂部 四上」(寛政八年刊)には、順慶町について次のようにその繁栄振りを記します。
「順慶町の夕市は四時たへせず夕暮より万灯てらし種々の品を飾て、東は堺筋西は新橋まで尺地もなく連りける。これを見んとて往かへりて群をなし、其好に随ふて店々にこぞる。(以下略)」
意訳変換しておくと
「順慶町の夕市は、四時ころから始まり、夕暮からは万灯を照らして種々の品を飾って、東は堺筋、西は新橋まで店が隙間亡く連なる。これを見物するために、多くの人が繰り出し黒山の人だかりとなる、人々は好みの店々こぞる。(以下略)」

 順慶町にはいつの頃からか夜店が並び、その賑わいぶりには江戸から来た人も驚いたというのです。順慶町通は新町から心斎橋筋にはいる道筋にあるので、この夜店の賑わいが次第に南下し、江戸後期には戎橋まで連なる夜店でも有名で、心斎橋筋とも肩を並べるほどの繁華の町であったようです。
 講元の最初に名前があるのは大和屋弥三郎です。彼が講元となって繁栄講という金毘羅講をつくり、商売繁昌の祈願と道中安全のために、献灯したと推測できます。
 燈籠が寄進された文政11(1828)年頃は、上方一帯に金毘羅信仰の高まった時期にあたるようです。西国街道芥川宿(大阪府高槻市)の金毘羅灯寵も、建立されたのは同じ文政12年です。大阪の船場商人たちが、金毘羅信心の象徴として、その富を誇って寄進を計画したのでしょう。それは、巨大さゆえに金毘羅境内ではなく、金毘羅街道沿いの多くの人々が憩う与北茶屋に建立されたのではないでしょうか。
 大坂繁栄講の石灯寵は、旧丸亀港頭に江戸人千人講の献進した青銅製の「太助灯寵」と方を並べる存在です。一方は江戸の商人たちが、一方は大坂商人の寄進によるものです。江戸商人に負けるかという大坂商人の心意気がうかがわれるようです。

 この大燈籠は、戦争直後の南海大地震で倒壊します。
多度津街道の永井の燈籠も、南海地震によるものでした。そしてその後、長い間放置されてきました。倒壊から20年後の1966年の文化の日、金刀比羅宮図書館で大阪教育大学教授の位野木寿一氏が「金毘羅灯寵と郷土文化」という講演を行います。その中で位野木氏は、次のような事を話します。

 金毘羅灯寵の信仰と交通上の意義、特に灯寵を通じてみた各街道の役割や信仰交通圏、さらに灯龍の時代毎の変化から交通路や丸亀・多度津両港の盛衰を述べ、街道の献灯が明治十年代にいたって終末をみたこと。
 最後に文化財保護についての外国の事例をあげ、ローマやパリーでは古い遺物・遺跡に市民の愛情がそそがれ、保護していること。新しいものをつくる際も古いものとの調和を図ってつくられていることを紹介して、金毘羅灯寵についても保存に積極的な協力を関係者に求めます。

 この話を聞いた善通寺市与北町の有志たちが、この燈籠を再建し元の姿に返したのです。燈籠のそばには復元記念の碑文が建っていますが、これは地元の依頼を受けて猪木氏が書いたものです。そこには次のように記されています。

DSC06195
 金毘羅燈寵復元の碑
 本燈寵は文政十一年大阪繁栄講の寄進したもので、金毘羅街道上最大の石造灯龍として、高く信仰の光明を照らしてきた。しかるに昭和二十一年南海道沖地震のため倒壊したのを地元の有志ならびに市文化財保護委員会いたく惜しんでこれが復元に尽し、ここにその燈影を再現するにいたった。
右由来を碑に刻んでながく記念する。    位野木寿一

  この大燈籠の復元を契機に、金毘羅街道に残る燈籠や丁石などの石造物への興味や関心も少しずつ高まっていきました。そして、保存と活用をどのように勧めていくかについて行政もとりくむようになって行きました。そういう意味では、与北の大燈籠の再建は金毘羅街道ルネッサンスの始まりと云えるのかも知れません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」

神社の鳥居は、神域と俗界の境目に建ち、ここからは神聖で、邪悪のものは入るを禁ずといった一種の関所でもあったようです。金毘羅さんも参拝客が増えるにつれて、金毘羅門前町だけでなく、街道沿いにも建てられるようになります。
金毘羅街道鳥居一覧表2
金毘羅街道鳥居一覧表
それを一覧にしたのが上表になります。この表からは、次のようなことが分かります。
①金毘羅参拝客が増加する18世紀末から各街道沿いのスタート地点と金毘羅のゴール地点に燈籠が建立されたこと
②奉納者は地元よりも、讃岐以外の他国の人たちによって建立されたものが多いこと
③その後の道路交通事情などによって、移転された7基あること
そんな中で多度津街道の②永井鳥居は「崩壊」とあります。どうなったのでしょうか。今回は、永井鳥居の崩壊をめぐる事件を追いかけてみます。テキストは「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。

多度津街道には、3つの金毘羅鳥居が建っていたことが分かります。
多度津街道ルート上 jpg
           金毘羅参拝道Ⅰ 多度津街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より

永井の鳥居は、三井八幡から条里制に沿って伸びる多度津街道を五岳山や象頭山を見ながら歩いていくと国道11号を越えて暫く行った所にある十字路にあります。ここは東西に伸びる伊予街道との交差点で、行き交う人が多かった所です。近代になっても、この街道が旧国道11号として整備され、基幹道路として現在の11号線が整備されるまでは使用されていました。そのため街道沿いには、病院があったりしていまでも家並みが続いています。拡大図を見てみましょう。
多度津街道ルート4三井から永井までjpg
多度津街道と永井周辺の丁石と燈籠分布 
多度津街道道標一覧2
多度津丁石一覧
 道標番号11と12が永井の鳥居と同じ所にあることが分かります。またそこに何が彫られているかも分かります。
DSC06060
永井の多度津街道と伊予街道の交差点

  多度津街道を原付バイクでツーリングしていて、永井集落の交差点にやってきました。道の両側に円柱状のものが立っています。変わった石造物だなと思って近づいてみると・・・

DSC06061
永井鳥居の石柱(東側南面)
「天下泰平」とありますが・・・鳥居がポキンと根元から折れているのです。
   DSC06069
多度津街道 永井鳥居の石柱(西側)
西側の柱には、丸い柱に多くの人たちの名前が次のように刻まれています。
発起施工
松嶋屋惣兵衛  米屋喜三右衛門  福山屋平右衛門  湊屋儀助
 一段、
草薙伝蔵(仲之町) 草薙甚蔵 松嶋屋弥兵衛 大和屋亀助 
阿波屋浅次郎 
海老屋輿助(仲之町) 三谷簡能 松本屋辨蔵 
油屋平蔵 岡山僅巾― 油屋調 麦堀爽兵衛 
 二段
嶋屋弥兵衛(浜町) 増金屋友吉 高見屋平次郎(浜町) 綿屋林蔵 木屋清兵衛  竹屋平兵衛槌屋幸吉 
 三段
中村屋源右衛門(浜町)  米屋清蔵 柏屋惣右衛門 備前屋左兵衛  土屋嘉兵衛  米屋七右衛門(若宮町)蔦屋幸吉 油屋佐右衛門
・徳次(角屋町) 吉田屋藤吉
 升屋彦兵衛・仙吉(若宮町)   唐津屋長兵衛 
ここからは、安政四年(1857)に、多度津町有志によって、建立された鳥居の柱基部であったことが分かります。
いつ折れたのでしょう? どうしてこんな形で残されているのでしょうか?
東西の柱の根元を見ると、彫られた字が地面の下に隠れされてた状態になっていることが分かります。柱が途中から折れた状態のままで維持されているのではないようです。倒壊し残された柱の一部だけをもとの位置に建て直したのだろうと最初は推測しました。

この疑問に答えてくれたのが「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」です。
ここには1988年9月に行った現地聞き取り調査の結果を次のように報告しています。
①戦後直後の1946年の南海大地震で永井鳥居は、東の柱が上から1/3あたりで折れて北側に倒れ、笠石や貫石も額束も倒れてくだけた。西柱は、そのまま立っていた。
②部落の世話人が金刀比羅宮に報告したところ、再建のめどもつかないので、額束石は金刀比羅宮へ納め、その他は処分してもよろしいとの通知があった。
③そこで近くの石屋に、残っていた西の柱も取りくずして処分を依頼した。
④鳥居の台座の石は2メートル平方の見事なもので、東の分は、土地改良工事の際、川底へ埋め、西の分は鳥居の石材を処分した石屋が持ち帰った。
⑤その後、付近の人たちによって、折れた柱を立て鳥居の遺蹟をつくることになった。
⑥その時、交通の便を考えて鳥居の柱の間を、今までよりも広くあけて立てた。
DSC06057
多度津街道 永井の交差点 手前が伊予街道
三井の金崎宅の庭には、このときの鳥居柱の一部が保存されているようです。「右た」とあり、これは「右たどつ」の事で、反対の面には「安政四年丁」の文字がみえます。これは安政四年丁己五月とあった柱の上の部分石になります。この柱の下の部分が、永井の西側にある柱です。この柱石は、一度三井の石屋に払下げられますが、「もったいない」と金崎氏が引き取り、自宅の裏庭に立てて、保存してきたようです。 
 DSC06054

永井鳥居の額束は、南北両面に掲げてあったようです。
南面は行書、北面はてん書の字体であったと云います。南海地震の時、鳥居は北に向って倒れたようです。そのため北の額束は砕け散りました。かろうじて南側のものは、姿をとどめます。それを永井の人たちが鳥居の石材の一部と、額束を金刀比羅宮へ運びます。永井鳥居の額束は今でも、金刀比羅宮に保管されているようです。
 聞取り調査による永井の鳥居の姿は次の通りのようです。
 西の柱 北面 左こんぴらみち
     南面 安政四年五月
     天下泰平国家安全
     当村世話人  乾 善五郎
            乾 呉 市
 乾善五郎、乾輿市氏は鳥居の立っている土地を提供した人。
 東の柱 東面 右たどつみち

 下部に発起人や献納者の名がある。
 毎年、秋祭りには、鳥居の下で金毘羅さんを拝し、獅子舞を奉納されてきたそうです。

以上をまとめておくと
①多度津街道も18世紀後半から金毘羅参拝客が増え始め、19世紀後半には起点の多度津鶴橋と、ゴールの琴平高藪口に鳥居が建立される。これらは松江や粟島の人たちの寄進によるものであった。
②多度津湛甫完成によって、多度津の町は大いに潤うようになる。そのような好況を背景に19世紀半ばに多度津の人たちによって、永井に鳥居が建立された。
③永井は多度津街道と伊予街道が交差する地点で、人通りも多く建立に相応しい場所とされた。
④ところが戦後直後の南海地震で鳥居は倒壊し、残った石柱でモニュメントが道の両側に建てられた。これが現在の永井鳥居跡になっている。
倒壊した鳥居を後世に残そうとする地元の人々の熱意で、ここに鳥居があったことが伝えられていくモニュメントとなっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋新七  多度津・金毘羅街道の3つの鳥居  ことひら1988年」

 八~九世紀になると讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなうようになります。前回は、その中に、空海の佐伯直氏や円珍の因支首氏もいたことを見たうえで、関係文書から佐伯直氏と因支首氏の比較を行いました。今回は「円珍系図」が、誰によって作成されたのかを見ていこうと思います。 
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図(和気家系図)

 滋賀県の圓城寺には、「円珍系図(和気家系図)」が残っています。承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。

最初に因支首氏の改姓申請と円珍の動きを年表で見ておきましょう。
799年 氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出を命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡の因支首道麻呂・多度郡人同姓国益らが、前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること明記した系図を作成・提出。しかし、この時には改姓許可されず。
814年 円珍(広雄)讃岐那珂郡金倉郷に誕生。
828年 円珍が叔父の仁徳にともなわれて、最澄の直弟子である義真に入門
834年頃「円珍系図」の原型が作成される?
853年 新羅商人の船で入唐、
859年 円珍が園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。
860年 空海の弟真雅が東寺一長者となる(清和天皇の誕生以来の護持僧)
861年 多度郡の空海の一族佐伯直氏11人が佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首秋主や多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる
868年 円珍が延暦寺第5代座主となる。
891年 円珍が入寂、享年78歳。
  年表を見れば分かるように、この時期は、佐伯直氏出身の空海と弟の真雅が朝廷からの信頼を得て、大きな影響力を得ていた時代です。そこに、少し遅れて因支首氏出身の円珍が延暦寺座主となって、影響力を持ち始めます。地元では、それにあやかって再度、改姓申請を行おうという機運が高まります。佐伯直氏が佐伯宿禰への改姓に成功すると、それに習って、親族関係にあった因支首氏も佐伯氏の助言などを受けながら、2年後に改姓申請を行ったようです。
 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みます。この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠書類として作成・提出されたものの控えになるようです。ところが800年の申請の折には、改姓許可は下りませんでした。
寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。

まず円珍系図の「下」から見ていきましょう。
円珍系図3


系図の下というのは、一番新しい世代になります。
一番下の右に記される「子得度也僧円珍」とあります。これが円珍です。この系図からは「祖父道万(麻)呂 ー 父宅成 ー 円珍(広雄)」という直系関係が分かります。
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)にも、次のように記されています。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
  ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

さて今日の本題に入って行きましょう。系図の制作者についてです。
円珍系図冒頭部

系図冒頭には、次のような円珍自筆の書き込みが本体の冒頭にあります。上図の一番下の横になっている一文です。実はこれをどう読むかが、制作者決定のポイントになります。

  □系図〔抹消〕天長乗承和初従  家□□於円珍所。

戦前に大倉粂馬氏は、「家」の次の不明の文字を、「丸」と判読し、この部分を人名の「家丸」とみなしました。そして、家丸は、円珍の叔父にあたる宅丸(宅麻呂、法名仁徳)のことします。宅丸(仁徳)が承和の初めに円珍を訪ねて、記憶をたどってこの系図を書き足したものであると推察しました。つまり、大倉氏は、この系図は承和年間に円珍が叔父の宅丸(宅麻呂)とともに編述したものと考えたのです。

「家」の下の不明の字を「丸」と判読し、欠損している部分を以上のように解釈することの判断は留保するにしても、この系図が、円珍の世代で終っていること、その次の世代がないことから、この系図は、承和の初め(834年ごろ)に書かれたものと研究者は考えています。

戦後になって研究者があらためて、系図の「得度僧仁徳」「得度也僧円珍」のところを、調べて次のように報告しています。
①「得度」の二字の下に薄く「宅麻呂」と書かれているように見える
②「得度也僧円珍」のところの「得度」の二字の下にも、薄く字がみえ、「広雄」と読める
   「仁徳=宅麻呂」で、仁徳は円珍の叔父に当たります。そして「円珍=広雄」です。
 以上から大倉粂馬氏は、この系図の筆者は仁徳(宅麻呂)だったと推測します。その理由は、自分が系図の作者なので「得度僧仁徳」と記して、本名を省略したのではないかというのです。そして、これが通説となっていたようです。

しかし、これには疑問が残ります。「得度僧仁徳」の下に、もと宅麻呂(宅丸)の名前が書いてあったことが分かってきたからです。それなら地元の那珂郡で作成された系図が、宅麻呂や円珍の手元に届いた時に、仁徳が俗名を消して、得度名を書き入れたと考える方が合理的です。

もう一度「円珍系図」の冒頭文「……承和初従  家□□於円珍所」にもどります。
佐伯有清氏は、「家」の字の上に「開字」があることに注意して読みます。この「家」の箇所は、円珍が敬意を表するために一字分あけたのであると推測します。そうだとすると「家」の字から判断すると、「家君」、あるいは「家公」など、それに類する文字が書かれてあった可能性が強いことになります。そうすると、この意味は次のようにとれます。
「この系図は、承和の初めに家君(父)より、円珍の所に送ってきたものである」

  つまり、円珍系図は、地元の那珂郡で作られたものを円珍の父宅成が送ってきたことになります。これは仁徳(宅麻呂)や円珍は、この系図の作成には、関与していないという説になります。

そういう視点で見ると、改姓を認められた者は、那珂郡と多度郡の因支首氏のうちの45名に及びますが、円珍系図には那珂郡の一族しか記されていません。多度郡の因支首氏については、一人も記されていません。これをどう考えればいいのでしょうか。
円珍系図2
多度郡の改姓者は、円珍系図にはひとりも書かれていない

 ここからは、この系図を書いた人にとって、多度郡の因支首一族は縁遠くなって、一族意識がもてなくなっていたことがうかがえます。同時に、円珍系図を書いた人は那珂郡の因支首氏であった可能性が強まります。

それでは那珂郡の因支首一族で、改名申請に最も熱心に取り組んでいたのは誰なのでしょうか。
円珍系図 那珂郡

それが因支首秋主になるようです。
 貞観9(879)年2月16日付の「讃岐国司解」の申請者筆頭に名前があることからもうかがえます。那珂郡の秋主からすれば、多度郡の国益や男綱(男縄)、そして臣足らは、血縁的にかなり掛け離れた人物になります。その子孫とも疎遠になっていたのかもしれません。そのために多度郡の一族については、系図に入れなかったと研究者は推測します。そういう目で多度郡と那珂郡の系図を比べて見ると、名前の書き落としがあったり、間柄がちがっている点が多いのは多度郡方だと研究者は指摘します。現在では、この円珍系図は地元の那珂郡の因支首一族のもとで作られたと考える研究者が多いようです。

  以上をまとめておくと
①因支首氏の改姓申請の際の証拠資料として、因支首氏は伊予の和気公と同族であることを証明する系図が制作された。
②この系図は申請時に政府に提出されたが、写しが因支首氏一族の円珍の手元に届き、圓城寺に残った。
③この系図の制作者としては、円珍の叔父で得度していた仁徳とされてきた。
④しかし、地元の那珂郡の因支首氏によって制作されたものが、円珍の父から送られてきたという説が出されている。
⑤どちらにしても、空海の佐伯直氏と、円珍の因支首氏が同じ時期に改姓申請を行っていた。
⑥古代豪族にとって改姓は重要な意味があり、自分の先祖をどの英雄や守護神に結びつけるかという考証的な作業をも伴うものであった。
⑦その作業を経て作られた因支首氏の系図の写しは、圓城寺で国宝として保管されている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   古代律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の職務の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは9世紀から10世紀にかけては、古代集落史において、かなり大きな変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか
これは逆の視点から見れば中世に続く集落の多くは、平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、そそ律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙の姿があったのは7世紀初頭から10世紀の間ということになります。
律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。この背景には、郡司をとりまく情勢に大きな変化があったようです。その変化のために郡衛(郡家)は衰退・消滅したようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたことになります。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって、その理念は次のようなものでした。

「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったと云えます。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうようになります。そうなると倉庫群の必要はなくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司制度の改変・哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下します。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったことをここでは押さえておきます。

その変化を生み出したのが受領国司の登場です。
 それまでの律令国家の地方行政は、都から派遣された国司によって運営されていました。国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官で、この連帯責任制によって運営されました。
 
 ところが、9世紀後半になると、国司のなかの最上席の者に権限と責任が集中するようになります。この最上席の国司が受領(ずりょう)と呼ばれ、受領が中央政府に対して各国の租税納入の全責任を負う体制が確立します。
 そして徴収は、これまでの郡司にかわって、受領国司が請け負うことになります。その見返りとして政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った受領国司は、有力農民である田堵を利用します。
 10世紀になると、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名」にして、租税の納入を請け負わせます。このような徴税の仕組みを「負名体制」と呼びますす。
受領国司

田堵が請け負った田地は、田堵の名前をとって名(みょう)とか名田と呼ばれました。太郎丸が請け負えば太郎丸名、次郎兵が請け負えば次郎兵名になります。このように田堵は名の耕作・経営を請け負っていますから、負名とも呼ばれるわけです。
 田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。

田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 それが負名体制の成立によって、郡司に頼らずに、受領が有力農民(名主)を直接把握する徴税体制ができあがったことになります。

つまり郡司の存在意義がなくなったのす。その結果、郡司の執務場所である郡家(ぐうけ)が衰退し、受領の執務場所である国衛の重要性が増していきます。受領は、田所・税所・調所など、国衛行政を部門ごとに担当する「所」という機関を設け、それを統轄する目代(もくだい)に郎等をあて、行政の実務を担わせるようになります。このような体制が出来上がると、官物・臨時雑役という新たな租税が徴収できるようになります。
 一方受領国司は、臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。
これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。
こうなるとますます郡司の出る幕がなくなります。受領にとって、郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 こうして地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力は、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海の生家の佐伯直氏との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。

1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。
 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
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 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて挙げられ、その重要性や招来意図の説明まで記されています。
  同時に、空海と恵果との出会いや密教伝授などについても記されています。実際に朝廷に提出した「帰国報告書」にもあたる根本史料でもあります。今回は、この招来目録の冒頭部分の原文と、読み下し文、現代語訳を並べて読んでいきたいと思います。テキストは「弘法大師 空海全集第2巻  新請来の経等の目録を上る表 真保龍餃訳」です。

招来目録冒頭1
空海の招来目録(京都大学)
読み下し文
新請来の経等の目録を上る表
入唐学法の沙門空海言す。空海去んじ延暦十二年をもつて、命を留学の末に街んで、津を万里の外に問ふ。その年の臓月長安に到ることを得たり。十四年二月十日、勅に准じて西明寺に配住す。ここにすなはち諸寺に周遊して師依を訪ひ択ぶに、幸に青龍寺の灌頂阿閣梨、法の号恵果和尚に遇ふてもつて師主となす。その大徳はすなはち大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子なり。経律を式釣し、密蔵に該通す。法の綱紀、国の師とするところなり。大師仏法の流布を尚び、生民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。 民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。
現代語訳
新請来の経などの目録をたてまつる表
入唐学法の沙門空海が申し上げます。
空海は去る延暦二十三年に留学の命を受けて、海路万里を渡り唐土を訪れました。その年の十二月に長安に到ることができました。翌二十四年二月十日、勅に従い西明寺を定められ住むことになりました。ここで早速諸寺を巡り、依り所となる師を尋ね選んでいくうちに、幸いに青龍寺の灌頂阿閣梨法号恵果和尚にめぐりあうことができましたので、この方を師と定めました。和尚は大興善寺大広智不空三蔵のの弟子であります。和尚は経典戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理であり、国の師とする方であります。
この大いなる師は、仏法のひろまることをねがい、人びとを救うべきことに心をくだいていました。私に発菩提心戒(はつぼさつしんかい)を授け、私に潅頂道場に入ることを許し、寿命潅頂を受け位を受けたのは一度でした。
招来目録冒頭2

読み下し文
  受明灌頂に沐すること再三なり。阿閣梨位を受くること一度なり。肘行膝歩して未だ学ばざるを学び、稽首接足して聞かざるを聞く。幸に国家の大造、大師の慈悲に頼つて、両部の大法を学び、諸尊の喩伽を習ふ。この法はすなはち諸仏の肝心、成仏の径路なり。国に於ては城郭たり。人に於ては膏映たり。この故に薄命は名をも聞かず、重垢は入ること能はず。印度にはすなはち輸婆(ゆば)三蔵負展(ふい)を脱冊し、振旦にはすなはち玄宗皇帝景仰(けいごう)して味を忘る。爾しより己還、 一人三公武を接へて耽翫し、四衆万民首を稽して鼓筐す。密蔵の宗これより帝と称せられ、半珠の顕教は旗を靡かして面縛す。
それおもんみれば鳳凰干飛するときは必ず尭・舜を窺る。仏法の行蔵は時を逐ふて巻舒す。今すなはち一百余部の金剛乗教、
現代語訳
ひじでにじり進み、ひざで歩くようにして、謹み深く近づき従って、まだ学んでいなかったことを学び、頭を地につけ礼拝し、両手で師の足に触れて礼拝しながら、まだ聞かなかった教えを聞きました。幸いに国家の大恩と大いなる師の慈悲によって、両部の大法を学び諸尊の喩伽を習いました。この法はすなわちもろもろの仏の肝心にして成仏の筋みちです。国においては城の如く迷いの賊におかされることなく、人にとっては安楽に豊かな暮らしができるものです。
だから不幸で寿命の短い人は、密蔵(教)の名前を聞くこともなく、迷いの深い人はこの教えに入ることもできません。インドでは善無畏三蔵が王位を捨て、中国では玄宗皇帝がその善無長三蔵を信仰して寝食を忘れたのです。これより以後、皇帝と最高位の高官たちがあとに続いて密蔵(教)を深く信仰し、出家の比丘、比丘尼はもとより、在家の善き男子、善き女子も万民ことごとく密蔵(教)に帰依し、密蔵(教)を説き論じています。このことより真言の教えは、諸宗の帝と呼ばれ、半分欠けた珠のような顕教は旗をなびかせてうしろ手にしばられ、顔を前につき出すようなかたちになってしまいました。

さて考えますと、鳳凰が飛ぶときはかならず古の聖皇帝尭・舜の仁徳をかえりみるといいます。御仏の教えの行われたり隠れたりするのは、時代をおって経典を巻いたりひろげたりするのと同じです。今ここに百余部の金剛乗教と
招来目録冒頭3
読み下し文
両部の大曼茶羅海会、請来して見到せり。波濤漢に波ぎ、風雨舶を漂はすといふといへども、彼の鯨海を越えて平かに聖境に達す。これすなはち聖力のよくするところなり。伏して惟れば、皇帝陛下、至徳天の如く、仏日高く転ず。人の父、仏の化なり。蒼生を悲しみて足を濡はし、仏嘱に鍾つて衣を垂る。陛下新たに旋磯を御するをもつて、新訳の経遠くより新たに戻れり。陛下海内を慈育するをもつて、海会の像、海を過ぎて来れり。恰も符契に似たり。聖にあらずんば誰か測らん。空海、闊期の罪死して余ありといへども、病に喜ぶ、難得の法生きて請来せることを。 一燿一喜の至りに任(た)ヘず。
  謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に附して奉表もつて聞しめす。ならびに請来新訳の経等の日録一巻を且もつて奉進す。軽しく威厳を顆して、伏して戦越を増す。沙門空海誠恐誠性謹言。
大同元年十月十二月
入唐学法沙門空海上表
現代語訳
両部の大曼茶雑海会を請来して、まのあたりに見ることができました。海の荒波は唐土にしぶきをそそぎ、暴風雨は私の乗った船を漂流させましたけれど、さしもの大海を渡りきることができ、無事陛下のもと、この国に帰ってきました。これはひとえに陛下のお徳の力のしからしむるところです。
 伏して思いますに、皇帝陛下のお徳は天のようにきわまりないので、み仏の日光も高く法を転じ照らすことができます。人の父でありみ仏の化身です。国民を哀れんで生死の海に足をぬらし、み仏の嘱望にこたえて国土を護り天下をよく治められています。陛下が新しく善政をしかれたので、新訳の経典が遠くから新しく来ました。陛下が海内の人びとを慈育されるので、両部曼茶経の仏像が海を渡ってきました。あたかもこれは符節を合わせ契りを結んだのに似ています。聖人でなければ誰がどうして予測することができたでしょうか。
空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

以下には〔請来経等の目録〕が次のように記されます
(1)新訳旧訳の経典を計142部247巻、
(2)梵字真言讃など計42部44巻、
(3)論疏章など計32部170巻、
(4)仏菩薩金剛天等の像、曼荼羅、伝法阿闍梨等の影など計10舗、
(5)恵果から付嘱された道具9種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種
これらが1点1点具体的に列挙され、説明まで付けられています。

「かつて日本に渡っていないものが、ほぼこの中にある」
と空海は云います。密教経典でもすでに日本に渡っているものは、省かれています。「日本に渡っていないものを持ち帰った」という言葉からは、目録中の経典類は唐に行くまでは空海も見たことがなかったものということになります。そうすると金剛頂瑜伽真実摂大経王経、金剛頂瑜伽略出念誦経、般若理趣経、菩提心論、般若理趣釈、などのほとんどの密教の経典類は、唐で初めて空海が触れたものだったことになります。目録にないのは大日経と虚空蔵求聞持法ぐらいです。
 以前にお話したように、空海の入唐については、次のような見解があります。

「一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたもので、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか。日本にいたときにすでに、密教体系の大筋を理解し、残すところは対面伝授の秘儀と潅頂だけになっていた」

 しかし、招来目録を見る限り空海は、ほとんどの密教経典に初めて長安で接したことが分かります。ここからは、入唐以前の空海が密教体系の大筋を理解していたとは云えないことが裏付けられます。

 空海の生きた奈良時代末に、密教についての情報がどのくらいわが国に入っていたのでしょうか。
 最澄の請来目録では、密教を念誦法門と呼んでいます。ここからは最澄も密教について「呪法に特色のある宗派」くらいに思っていたことがうかがえます。彼も密教の具体的な行法に目を奪われて、その本質にまでは分かっていなかったようです。最澄にしてこれでは、あとは押して図るべしです。当時のわが国では、密教は新式の呪法程度にしか認識されていなかったことになります。空海が持ち帰ってきた経典類の価値が分かる人はいなかったでしょう。空海自身も「密臓」という言葉を使っています。「密教」という言葉を使い始めるのは、もっと後であることは以前にお話ししました。当時は、大日経も金剛頂瑜伽略出念誦経も伝来し、写経されていたことは正倉院の写経所文書から分かっています。しかし、その意味を理解する者は、入唐以前の空海を含めていなかったと云えそうです。
 最澄にしても、自分の伝えた念誦法門の一々の行法に理由付けのあることぐらいは察していたかもしれません。それが空海に「今までの教学では解けない秘密の教法である」と言われて、あわてて勉強しますが、手持ちの貧弱な文献では見当もつかない。頬被りして済ます訳にもいかないので、弱った最澄が、空海に頭を下げて教えを乞うたというのが実態のようです。

 空海が密教を求めて入唐したという見方は、誤ってはいないとしても、正確ではないようです。
以前にもお話ししたように、渡唐前の空海に「密教」という概念があったかどうかも分かりません。金剛頂経の存在も知らなかった可能性の方が高いようです。「空海にあったのは、大日経を体得するという志なのだ。」と云う研究者もいます。

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          長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
空海が持ち帰った品々は、どのようにして整えられたのでしょうか。
仏典などは新たに写経しなければなりません。
空海が持ち帰った経論は142部247巻にもなります。しかも、すべて日本にはまだ招来されていない新訳のものばかりです。この中の118部150巻は不空が翻訳したばかりの最新のものです。これらは恵果が青竜寺東塔で管理しているものですが、これを空海に渡すわけにはいきません。写経しなければなりません。そのために、恵果は二十余人の写経生に筆写を依頼したと招来目録には記されています。

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招来品を写経する写経生(弘法大師行状絵詞)

「三十帖菓子(冊子)」
空海が唐より持ち帰った「三十帖菓子(冊子)」
限られた期間中に、空海が恵果の手配のもとで現地書写生の手も借りて書写した小形の冊子でする。合わせて三十帖になることから「三十帖菓子(冊子)」と呼ばれます。

「三十帖菓子(冊子)」第十四帖 空海自筆の目録
「三十帖菓子(冊子)」第十四帖 空海自筆の目録
  第十四帖に記載された空海自筆の目録から当初は少なくとも三十八帖はあったことが分かります。 
料紙は上質とされる雁皮(がんぴ)を用い、本文・行・草の書体の字で細密に書写されています。界線の有無、書体の不同は書き手によって違いますが、第十四帖の総目録を含む十八分に空海自筆の檻・行書があります。
金剛般若経開題残巻2
                     空海自筆の目録
装訂は、二つ折にした各紙のヤマの部分の外側を付けした「粘葉装」で表紙に濃紫地絹の表紙をつけ、巻子装で綴じる珍しいスタイルです。粘葉装は長安で処置されたものと考えられ、原形態を留めた最古の冊子としても極めて貴重とされます。
 写生などの助力も得て完成したこれら聖教類は、空海の生前には手元にあったようです。没後に東寺経蔵に納められ、その後は金剛峯寺ほか弟子たちの間に分散してしまいます。それを919年に醍醐天皇の勅で、「門外不出」として東寺長者のもとに集められ保管されることになります。

恵果がさずけたもののうち、曼陀羅は5種類23幅あります。
それに密教各祖の絵像が5種類15幅を加え、これらをあらたに絵師に描かせます。恵果は、それを長安の一流どころの絵師を用いたようです。帝室供奉の画工である李真など、十余人が青竜寺に招かれて筆をふるったと招来目録は記します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
         持ち帰る曼荼羅などを描く絵師と見守る空海(弘法大師行状絵詞)

龍智 真言七祖 空海伝来
                   真言七祖の龍智
空海が持ち帰った絵画の中に真言七祖像があります。これは空海に至る密教の基礎を築いた七人の高僧の肖像です。この肖像はその内の龍智で、長安で空海の指導下で龍猛像とともに制作され、恵果より授かった五祖五像(元年(805)李真等筆)に増補されたものとされます。画面上方には幅広の筆を用いた飛白体(白書)で梵号(インド名)と中国名が、下方には行状文がが記されています。従来は空海筆とされてきましたが、近年になって名については嵯峨天皇説が出されているようです。飛白体は中国皇帝が好んで使った書体で、皇帝の理想の統治護国思想と密接な関係があったようです。それを知った上で空海は空海は嵯峨天皇に真言密教の護国思想を説き、嵯峨天皇に請うて真筆を賜ったとされます。空海と嵯峨天皇の関係を考える上でも興味深い資料です。
密具には、金属製品が多いようです。
五鈷、三鈷、独鈷、鈴、輪宝、渇磨、金剛板、金剛盤、溺水器といったものです。

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法具類を作成する官営工場から招かれたの職人たち(弘法大師行状絵詞)

 恵果はこれら法具類についても、宮廷の技芸員である鋳博士の楊忠信などに、たのんでつくらせています。ほかに、あらたに密教正嫡の阿閣梨の位についた空海が、正嫡の阿閣梨として持たねばならぬ付属物があります。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものでしょうか。これが「恵果からの阿闍梨伝法の印信」八種で、以下のものです。
(5)恵果から付嘱された道具8種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種

招来目録 阿闍梨付属品
仏舎利八十粒
刻白檀仏菩薩金剛像等一寵
曲線大受茶羅尊四百四十七尊
白諜金剛界三摩耶曼茶羅百二十尊
五宝三摩耶金剛
金剛鉢子一具
牙床子
白螺只。
この八種はインド僧金剛智が南インドから唐へ渡ってくるとき招来品で、相続の証として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられたものです。コピーして複製品を作るわけにいきません。空海が持ち帰れば、唐には密教正嫡を証明する八種のシンボルがなくなることになります。これを立場を変えるとどうでしょうか。日本のある宗派の宗主が外国人によって継承され、帰国時に持ち帰られる・・・。これを本当に恵果は行ったのかと、改めて疑問がわいてきます。玉堂寺の珍賀らの僧侶たちが空海の潅頂に対して不穏な空気をみせたというのも当然のような気がしてきます。さらに恵果は、かれ自身が持っていた五点の品々を、自分の形代(かたしろ)として、空海にあたえています。

諸尊仏龕 金剛峯寺 空海の唐よりの伝来品


諸尊仏龕 金剛峯寺国宝
諸尊仏龕(金剛峯寺)
「請来目録」の中に阿闍梨付属物として記載された「白檀仏菩薩金剛等像一龕」がこの作品だとされます。小型で閉じると持ち運びできるので、空海が携帯していたと伝えられ「枕本尊」とも呼ばれています。
 中央には如来坐像を中心に十一尊、左右には外側の足を踏み下げる菩薩坐像を中心に各七尊がいます。如来坐像は三つの箱に計十体の形像(十大弟子)が見られるので釈迦如来とされます。左方(向かて右)の菩薩像は冠中に化仏が見えるので観音菩薩と分かります。
 一方で、右方(向かって左)の龕の菩薩像は標識もなく両手補なので、尊名が分かりません。左手で衣をとり右手を施無畏(せむい)印とす釈迦如来の姿はインドやガンダーラによく見られます。また、閉じた状態の形状は上方がストゥーパ型で、密教が生まれたインドを強く意識させるものです。
 ビャクダンを三材に割り離し、ほぼすべての像容を彫出して彩色はされていません。左右の龕は蝶番でで接合されています。総高約23㎝、直径約11㎝の材から奥行きのある空間を創り出す造形意識は見事で、各尊像も立体的で細部に至る錫杖等まで緻密に出されている。唐時代彫刻の最高傑作とされます。
 最後に、空海と最澄の立場を比べてみましょう。
最澄は請益僧で還学生の資格でやって来ています。目的は唐から日本に必要な文物をもらってくることで、乗っていた船で還ってくる短期間留学です。このため請益の還学生には、身分の高い僧がえらばれることが多かったようです。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧でした。最澄は入唐の際にも、自分専用の通訳僧を供にし、十分な経費も支給されていました。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買い受けに行く役目です。ある意味、国の文化・宗教バイヤーで、国家を後ろ盾にして経費に糸目をつけずに買い入れることができる立場でした。ある意味、「天台宗を体系」を丸ごと仕入れに行ったとも云えます。そのため最澄は、資金も潤沢で、要人への贈り物もふんだんに用意していたようです。
 例えば天台山へ行ったときには州の長官・陸淳は、最澄を丁寧にもてなしています。そこには贈答作戦があったようです。また天台山では写経生を動員し、紙数にして8532枚という経典や注釈書を書写させて持ち返っています。これらについても、膨大な経費が必要とされたはずですが、その経費を心配する必要はなかったはずです。
最澄の立場と空海を比べて見ると、置かれた位置が初めから違うことが分かります。
 空海に課せられた義務は、20年間かかって密教を学ぶことです。最澄のように密教をシステムごと「移植」する義務はありません。そのための経費も持たされていません。司馬遼太郎はこれを「空海は、恵果から、 一個人としてゆずりうけた」と記します。その経費は、20年間の留学費をそれにあてたとします。しかし、見てきたようにそれだけでも賄いきれない経典や法具類の種類と量です。この「資金源」については、別に触れましたのでここでは省略します。
空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を個人で「移植導入」してしまったことになります。国の仕事として天台宗導入を行った最澄に対し、空海の天台体系への視線は、つまらぬ存在をみるようなものであったとも司馬遼太郎は記します。それは、空海の帰国後の態度の痛烈さは、このあたりに根があると司馬遼太郎は指摘します。
空海は「私費で、そして自力で、真言密をこの国に導入したのです。
支離滅裂になってまとめきれません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 司馬遼太郎 空海の風景(下)
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宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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天日槍(あめのひぼこ)を祭る出石神社の流域を流れるのが円山川です。その支流・穴見川沿いの三宅集落に慈等寺があります。この寺の下の斜面が三宅廃寺跡になります。すぐ近くには、式内社の大壬生部兵主(おおみぶべひょうず)神社や中嶋神社が鎮座しています。渡来系秦氏の痕跡が色濃く残る地域です。
 三宅廃寺は田嶋守の末裔として但馬国造家を名乗る三宅氏によって建立された寺院で、この地域では最も古い白鳳寺院と位置づけられています。発掘調査によって、隣接する西側の山斜面から瓦窯が発見され、他地域の寺院との瓦の比較ができる貴重な資料を提供してくれます。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦
但馬国府・国分寺館ニュースより

但馬地方の古代瓦と同笵関係にあるものや、コピーされたと考えられるものがいくつも見つかっています。例えば、海を越えた新羅のデザインがストレートに持ち込まれているものがあります。また前回に見たまんのう町の弘安寺跡から出てきた瓦と、よく似たものが三宅廃寺からも出てきています。
善通寺との関連 三宅廃止の瓦2

但馬の古代寺院は中央や畿内からも影響を受けていますが、新羅や讃岐からの影響も受けているようです。つまり、「中央から地方へ」だけでなく「地方同士の交流」が頻繁に行われていたことがうかがえます。これは中央中心に語られていた古代史に、別の視点を与えてくれます。瓦を通じた交流については、その背後には、秦部氏の存在が見え隠れします。今回は弘安寺の瓦と但馬三宅廃寺の瓦を比較していくことにします。
テキストは   蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

三宅廃寺の軒丸瓦の中に無文の外区の中に、弁端の丸い9枚の単弁を飾るものがあります。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦3

この瓦は畿内の大寺院の系譜ではなく、地方起源とされてきましたが、その起源がどこかは分かりませんでした。それが讃岐からの影響を受けた瓦であることが分かってきました。
善通寺との関連 三宅廃寺の瓦4
左2つが三宅廃寺、右が徳島県の郡里廃寺(立光寺)のもの
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

まんのう町弘安寺の瓦で郡里廃寺と同笵瓦
三宅廃寺とまんのう町弘安寺の瓦の比較を行うと、弁の数が違いますので一目見て同笵ではないのは分かります。しかし、両者の間には断面形状や細部に共通点があると研究者は考えます。それを踏まえた上で、三宅廃寺の瓦が讃岐起源であることを指摘したのが上原真人氏です。
上原氏は讃岐極楽寺や弘安寺の細単弁軒丸瓦と三宅廃寺の関係を次のように指摘します。
①蓮子の配列
蓮子は2列もしくは3列に同心円状に配されることが多いが、 2つの型式は、方形あるいは格子状に配されるという特徴を持つ。
②花弁形状
 単弁に分類されるが、弁端の丸い花弁は中心が窪み、そこに端の九い子葉を一本配するもので、この時期に最も一般的な単弁形式である山田寺式とは異なり、弁の形状は川原寺式軒丸瓦の複弁を2つに分割したものに近い。
③間弁の形状
 間弁の両端は互いに連結して弁区を取り巻く形になっており、外側に傾斜して外区を形成する。鋸歯文を巡らせる場合は、この外区に大柄な文様を巡らせる。
④周緑の形状・・・・間弁の外周に低い平縁を巡らす。
⑤氾の立体感。・・・抱全体が凹凸の激しい作りとなっている。
⑥圏線の省略・・・・蓮子周環、中房圏線等の細部の作りを省略している。
以上から三宅廃寺と弘安寺の瓦は、どちらも川原寺式軒瓦の系譜から派生した単弁形式がベースにあると指摘します。さらに次のように述べています。

「祖型以来の花弁の印象をよく残している反面、細部の造りには省略が見られる」

 実際の木型製作過程では、造瓦工人の手間を減らすために省略が行われたというのです。周縁部や蓮子の配列は特徴的で、木型制作者とその工人集団の個性がうかがえるようです。それでは、この「省略」がおこなわれたのは、どこの工房なのでしょうか?

軒丸瓦の系譜関係を整理したのが下の第17図です。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺起源の軒丸瓦の系譜図

横軸X形式の変遷について、次のように研究者は次のように述べています。
①善通寺(KA101A)は川原寺式以降の複弁8弁蓮華文に花弁を分割して単弁16弁としたもので、3重の蓮子配列、三角縁の鋸歯文などは、その名残りである
②Xl(KA101A他)の蓮子を省略してX2(KA101B他)が作られた。
③X2の花弁内の子葉省略してX3(ZN101他)が連続的に作り出された
④X ll(TM105)については、X1~3の変化と比べると、蓮子数の減少、弁数の減少(15弁)など原型式との落差が大きく、田村廃寺の中でX3をもとにして作られた
縦軸Yについては
①Y1(KA102、GK101他)についてはXlの要素を改変して作り出したとする方向
②Y2(GK102他)がまず存在し、Xlの要素を取り入れて作り出した
どちらにしてもYlが作られた後、これを省略してY3(三宅廃寺出土瓦)につながっていくという流れになります。讃岐の軒丸瓦が但馬の三宅廃寺に影響を与えていることになります。

XY両形式ともに、Xl~X3、Y1.Y3には、形式の変化に次のような一定の規則性があります
①氾(木型)が連続的に変化する型式群
②文様の変化が固有の寺院内でのみ起きる形式群
これらの変化には、背後に改作した工人グルーの存在がうかがえます。
①は広い範囲での生産活動を念頭に置いて、組織的かつ継続に仕える木型が作られた
②は、①がもたらされた寺院で、そのコピー版瓦が作られた
次に研究者は、①のベースとなった木型を製作した拠点瓦窯がどこにあったを推測します。
①の工人をかかえる地域(寺院)を、X1とY1の両方の形式を持つまんのう町の弘安寺がまず候補に挙げます。さらに後継の型式を引き継ぎ、周辺寺院や瓦窯に瓦製品供給や、氾の提供を行なったことが確認できる善通寺と仲村廃寺を加えて、この3ヶ寺がグループのが丸亀平野の瓦工房の核であると研究者は指摘します。
善通寺の軒平瓦系譜
善通寺起源の平瓦の系譜
 同じように軒平瓦の展開系譜について見てみても善通寺、仲村廃寺の軒丸瓦だけが、扁行唐草文軒平瓦との共伴します。この2カ寺で、他寺に先がけて扁行唐草文形式が登場しています。ここからは平瓦の製造でも、善通寺を中心とする佐伯氏周辺の工人たちの活動が先行していたことがうかがえます。

善通寺の木型は他の寺院建立に貸し出された
善通寺・仲村廃寺グループが最初に使用した軒平瓦ZN203の木型は、 各地の寺や工房に貸し出されています。この木型は、奈良時代以降のものとされる善通寺出土の瓦と同笵の均正唐草文様平瓦で、土佐山田町の加茂ハイタノクボ遺跡からも出土しているので、その後もかなり長い期間にわたっていろいろな所を移動していることがうかがえます。
さらに、木型だけでなく工人も移動していたと研究者は考えているようです。
善通寺、仲村廃寺での瓦製造が最も早く、善通寺周辺を中心に工人集団の活動は継続します。その一方で、木枠を持って、各地へ出造りに赴いたと研究者は考えています。その裏付けは次回にするとして・・

 このように佐伯氏の元に工人集団が組織され、いくつもの木型が作られ、それがスットクされ、求めに応じて木型だけでなく工人の派遣にまで応じる体制ができていたことが浮かび上がってきます。中央からの技術提供や工人派遣という道だけでなく、当時の地方有力者は一族意識や地縁関係などで遠くの集団とも結びつき、人とモノとのやりとりを行っていたことが分かります。
 そのための交易路や航路を通じて、交易なども活発におこなわれていたことが推測できます。
 佐伯氏は、外港として多度津白方を交易港として瀬戸内海交易を活発に行っていた気配があることは以前にお話ししました。佐伯氏の財力の多くが、その瀬戸内海交易に支えられていたと考える研究者もいます。寺院建立に関する関係技術やノウハウも、佐伯氏の「交易品」の一部であったのかもしれないと私は考えています。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。
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   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
DSC03632
青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

DSC03652
吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      青龍古墳 地図
                                                                                        
善通寺の吉原地区は、南側に五岳の急峻な山脈がそびえ立ちます。その中の盟主である我拝師山は弥生時代の人々からも信仰の山と崇められていたようで、銅剣や銅鐸が何カ所からも出土しています。古墳時代になると、独自の系譜を持つ首長墓も作り続けていますし、平安時代には曼荼羅寺が姿を現します。ここからは善通寺の練兵場遺跡を中心とする勢力とは、別の勢力がいたことがうかがえます。その吉原地区にあるのが青龍古墳です。この古墳はかつては、前方後円墳だとされていましたが、発掘調査によって円墳であることが分かりました。今回は、この古墳の発掘調査報告書を見ていくことにします。

青龍古墳俯瞰図
 善通寺市の吉原小学校の南東に鷺井神社の社叢がこんもりとした緑を見せています。この神社の本殿の後に、青龍古墳はあります。青龍古墳の東側に、本殿や拝殿が建っています。方墳部丘を削ったところに神社が建っています。
 青龍古墳地図拡大図

善通寺の古墳群で有名なのは有岡古墳群です。
「善通寺の王家の谷」ともされる有岡地区には、国の史跡に指定され整備の進んだ王墓山古墳を筆頭に、菊塚古墳や線刻画の岡古墳群がならびます。これらの首長が空海の祖先で、後の国造佐伯直氏に成長して行くと考えられているので注目度も高いようです。しかし、今回目を向けたいのは、五岳を挟んで有岡の反対側の吉原地区です。
 吉原地区は香色山・筆ノ山・我拝山及び中山・火上山(五岳山)北麓と五岳と呼ばれる連山が並びます。この山裾からは、銅剣や銅鐸が出ているので、麓には弥生時代からの集落があったことがうかがえます。古墳時代になると、大窪前方後円墳(積石塚)→ 中期の青龍古墳 → 後期吉原椀貸塚(巨石墳)など各時代の首長墓が継続して造られていくので、独自のエリアを形成していたことが分かります。吉原区域の古墳は、その多くが山裾部から高所に散在しています。平地にあった古墳は耕地開墾によって、ほとんどが消滅したようです。
その中で平野部の中央部には、鷺井神社の境内地には青龍古墳が残されています。墳墓が信仰対象となったおかげでしょう。

DSC03616
目に効能のある鷺の井 その向こうの社叢が鷺井神社

鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
「仁寿元年(851)年、現在の境内から東100m程のところに一羽の青鷺が飛来し、ここに清水が吹き出していた。この清水は眼病に効果があるとの神託があり、住民は神水と崇めた。」

眼薬になる泉を鷺の井と呼んだようです。そのため戦国末期には、次のような話が生まれます。
「霧城主香川信景の子(または一族の子)桧之助頼景が眼を患った際、この神水により治癒したため、香川氏及び住民の厚仰するところとなった」

とも伝わります。この頃に青龍古墳を境内として、神社の原型が誕生したと調査書は記します。
DSC03619
鷺井神社
 当初は青龍明神(青龍大権現)と呼ばれて、少彦名命を祀っていましたが、明治時代以降はこの地の小字「鷺ノ井(目に効能のある井戸)」から鷺井神社とされ、境内地全域に広がる古墳も信仰対象とされてきたようです。
青龍古墳1

発掘前の青龍古墳の地形を、調査書は次のように要約しています。
①墳丘の一部は削平され、神社の境内地となっている。周辺は水田地帯であり、南側の我拝師山から派生した尾根の先端部に構築されている。付近の標高は約20mである。
②墳丘の直径は約25mで、東側半分に社殿等が建設されている。
③そのため円墳か前方後円墳か分からない。恐らく円墳か帆立貝式古墳であろう。
④南北側と西側は旧状が保たれていて、特に南側から西側にかけては周庭帯や二重に巡らされた濠の形状が明確である。
⑤墳頂部は古い本殿があったため削平され、墳丘断面に石室と思われる石材の一部が露出している。
⑥鉄刀片の出土も伝わる。墳丘外面は表土の流出が著しく、埴輪片は確認されていない
⑦裾部において礫が多数みられるので、茸石の存在が予想される。
⑦墳丘周囲には幅18mの内濠・周庭が見られる。後世の開発・改変によるものか、構築時の地形に影響されたものであるのかは不明である。
 平面図だけ見ると、確かに周壕がめぐらされた前方後円墳のような気もしてきます。このような古墳の姿が農地開墾だけが原因で変形したとも、築造期の姿がそのまま残るとも考えにくく、「まことに奇異な形態」だと発掘前に担当者は記しています。
DSC03622

青龍古墳が円墳か前方後円墳かは、どんな意味を持つのでしょうか
青龍古墳 編年表

 前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化は、なにを背景にしているのでしょうか。研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
つまり、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減った」ということでしょうか。それにヤマト政権が関わっていると云うことです。

 青龍古墳 東讃編年表

①左側の高松平野では、前方後円墳祀りに参加しなかった岩清尾山勢力が次第に姿を消し、周辺部に前方後円墳が築かれ、最終的には今岡古墳に統合されていきます。
②津田湾周辺では、最初は津田湾周辺に造られた前方後円墳が、後背地に築かれるようになり
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
丸亀平野の代表的な古墳を河川流域毎に歴史順に並べた編年図です。
青龍古墳 編年表
ここからは次のような点が読み取れます。
①ヤマトに卑弥呼の墓とも云われる前方後円墳の箸墓が造られた時期(第1期)に、丸亀平野でも首長墓とされる前方後円墳が各河川毎に登場している。
②第2期には、それが大型化し、領域が拡大する。しかし、三豊に前方後円墳は現れない。
③第3期には、地域統合が進み丸亀平野東部の前方後円墳は快天塚古墳だけになった。
ここでも初期には、河川流域毎にあった小さな前方後円墳が、だんだん減って最後に快天塚古墳が登場しています。
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化について、研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている
②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
 前方後円墳はただの墓ではなかったと研究者はかんがえています。前方後円墳に祀られる被葬者と、その後継者はヤマト連合のメンバーで、地域の首長であったというのです。その手始めに造営されたのが卑弥呼の墓ともされる箸墓で、このタイプの墓の造営は首長だけに許されます。前方後円墳は、ステイタスシンボルであり、自分が地域の支配者であることを主張するモニュメントでもあったことになります。そのためにヤマト連合政権に参加した首長たちは、自分の力に見合った大きさの前方後円墳の造営を一斉に始めたようです。讃岐は初期の前方後円墳が多いエリアになるようです。早くからヤマト連合政権の樹立に関わった結果かもしれません。
 その後、各流域では政治的統合が進みます。その結果、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減少」していきます。同時に周囲の首長を従属下においた快天塚の主の権勢は大きくなり、巨大な古墳が登場することになります。
三豊の特殊性   
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
 観音寺の一の谷池の西側に全長44mの青塚古墳(観音寺市)が築かれるのは五世紀後半になってからです。しかも、これも墳形は前方部が短い帆立貝式古墳です。帆立貝式古墳については、大和政権が各地の首長墓の縮小を図るため、規制をしたために出現した墳形と研究者は考えているようです。古代三豊の政治状況は、讃岐全体からみると異質です。ここは別の時間が流れているような気配がします。古代の三豊は「三豊王国」を形成していたとしておきましょう。

そのような中で弘田川流域の善通寺エリアでは、前方後円墳が「野田院 → 摺臼山 → 北向八幡」と継続されます。
ここからは快天塚の首長のテリトリーが土器川を越えては及ばなかったこと、善通寺王国は独立を守り抜いていることがうかがえます。
白方 古墳分布
白方の古墳群

さらに弘田川下流の目を転じてみると、白方湾の西の丘陵地帯には、いくつもの初期前方後円墳が並びます。しかし、善通寺勢力が「摺臼山古墳 → 北向八幡古墳」を築く頃になると白方湾から前方後円墳は姿を消します。ここでも大束川流域で信仰したことと同じ事が起こっていたようです。つまり、弘田川中流の善通寺勢力がその河口まで勢力を伸ばし、白方の首長たちを配下に組み入れたということでしょう。その結果、白方の首長たちは前方後円墳が築けなくなったと研究者は考えているようです。

青龍古墳拡大図3

そういう中で、登場するのが青龍古墳です。
   もし、青龍古墳が前方後円墳だとすると、首長が吉原地区にいたことになります。善通寺エリアには、北向八幡古墳が造られて以後の5・6期には前方後円墳が築かれていません。空白期です。つまり、善通寺地区から吉原地区に首長の交代があったことが考えられることになります。そういう意味でも青龍古墳が前方後円墳なのか円墳なのかは、私にとっては興味深いことでした。

青龍古墳と中世城郭
  発掘結果は「大型の円墳」でした。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
 前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
 さらに時代が下り、善通寺勢力が有岡の谷に「王墓山 → 菊塚」と連続して横穴式の前方後円墳を築いた頃になると、白方や吉原地区ではさらに小型の横穴式円墳しか築けなくなっています。ここにはヤマト政権の全国支配と同じように、善通寺王権が周辺地域への直接支配の手を伸ばしていく姿がうかがえます。

 そういう意味で、吉原の青龍古墳や白方の盛土山古墳は、善通寺王国の従属下に組み込まれながらも、まだ旧首長としての力があったころの被葬者が眠っているのかもしれません。

十返舎一九 四国遍路表紙 200004214_0022_00001

十返舎一九の『金草蛙』第14篇には、四国辺路のことが記されています。
『金草蛙』は文政四年(1831)に初めて刊行されましたが、主人公は千久良坊と延高という2人連が白山などの各地の名所霊場を廻るさまを、その土地の方言を交えながら面白おかしく紹介する旅行記です。その中に四国辺路もあります。
十返舎一九 四国遍路 丸亀入港路
金比羅船で大坂から船で九亀に上陸 十返舎一九「金草」の挿絵

 七十八番道場寺(郷照寺)から四国辺路を始め、時計回りに巡礼し、最後は多度津の道隆寺で終えます。この本には多くの挿図があり、江戸時代の四国辺路のことが描かれています。これが絵図史料として価値を持ちます。

十返舎一九_00006 六十六部
上の絵図は、遠くの民家の屋根の間にひときわ大きな屋根を見せているのが80番の讃岐国分寺のようです。遍路道を向こうからやって来る人物が描かれていますが、特徴的な風体です。大きな笈を背負い、右手に錫杖を持ち、腹前に鉦を付け、頭には大きな天蓋のようなものを被っています。これが六十六部のようです。これだけ大きな笈を背負っているとよく目立ったでしょう。

十返舎一九_00009 六十六部
讃岐の88番大窪寺から阿波の1番霊山寺へ越えたあたりでは、甘酒屋に集まる四国遍路たちが描かれています。ここにも大きな笈を背負い、天蓋のよう帽子を被った六十六部が描かれています。

四国遍路を廻っていた六十六部とは何者なのでしょうか
 御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室

「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。
 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らは、次のような姿で史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、西国巡礼や四国遍路のようには、六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地が固定していませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。

 六十六部とは - コトバンク

分からないのは体系的な紙史料がないためです。
残されているのは、彼らの遺した納経帳や札、そして全国津々浦々に点在する供養塔です。特に供養塔(廻国供養塔・廻国塔)は、全国で万を超える数が残っています。その中には、願主の子孫や地域によっていまも祭祀が続けられているものもあります。しかし、大半は、路傍や堂庵の傍ら、墓地の一角で風化に耐えています。六十六部の理解するためには、これらの碑文を一つ一つ訪ねあて、語らせ、その声を書き留める作業が必要でした。
六十六部廻国供養塔 「石に聴く」宮崎県の石塔採訪記/長曽我部光義/著 押川周弘/著 本 : オンライン書店e-hon

それが、近年各地で少しずつ進められてきたようです。今回は、六十六部と四国遍路の関係を見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です
1六十六部の笈
六十六部の笈

徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止されました。しかし、行者は特定の会所に所属し、その支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ることができていたようです。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行っていたようです。具体的には、六十六カ国をまわるというよりも、西国巡礼や各国の国分寺などをまわっています。中には四国遍路を廻っていた六十六部行者もいたようです。
18世紀後半以後になると、六十六カ国をすべて回り終えると結縁記念に石造供養塔を建立するようになります。この供養塔が四国遍路の霊場の境内や遍路道にもあることが、近年の調査で分かってきました。
1 札所の六十六供養塔

讃岐の霊場に残された廻国供養塔の一覧表です。
観音寺、弥谷寺、道隆寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、大窪寺などに残されているようです。境内に記念碑を建立することが認められるには、それだけの貢献があったはずです。例えば堂舎の勧進活動です。また辺路道沿いの廻国供養塔は、廻国行者と地元の人々との間に、深い関係がなければ建てられるものではありません。四国廻国の途中で地域の人々に祈蒔や病気治癒の施しを行い、小庵などに住み着き宗教活動を行ったことも考えられます。日本の各地を廻国し、多くの情報を持つ、廻国行者の存在は四国の寺院や地域住民にとって、大きな利益を得たのかも知れません
1善通寺中世伽藍図
中世の善通寺伽藍図(一円保絵図)
 善通寺五重塔と六十六部の勧進活動
75番善通寺は、古代以来の敷地に七堂伽藍が甍を並べます。しかし、五重塔は焼け落ち、姿が消えていた期間の方が長かったようです。現在の塔は、明治35年に建立されたものですが、その前の塔は、文化元年(1804)の建立になることは以前にお話ししました。
その経緯については「善通寺大搭再興雑記」に、次のように記されています。
先是有唯円者承光歓僧正、志願而留錫伽藍西門内小庵募縁十方其疏幾度千冊以託来請人、或使令(中略)
合力州里既而所集銭穀以擬営建出貸隣人、借者未及返之債之而不獲馬、其余雖非無虚費之謗於幹事共勉也。(中略)
 唯縁所出募縁之疏至今時々自遠方還来、非無小補因記之
「唯縁(円)勧進用此序」
唯縁武州豊嶋郡浅部本村新町遍行寺弟子、号順誉、回国行者、享保十二来年二月九日始勧進事、至享保二十一甲寅年凡経十年孜々勧誘、先是勧進建豊田郡小松尾寺二王門、共事就後始当寺造塔勧進募勧有信檀越造立一箇宝塔之序
(本文は略す)
維時享保第八龍集炎卯初冬穀旦
讃陽多度郡善通寺現住沙門光歓謹誌
  意訳変換しておくと
(五重塔の再建については亨保八年(1723)、これより先に唯円が光歓僧正に勧進を願い出た。唯円は伽藍の西門の内に小庵を建てて、勧進活動を進めその募縁状を十方の参詣の人々に託し、千冊を超える勧進を得た。(中略)
   勧進で集めた銭を穀物を隣人に貸出し、借りたものが返済しても、債権回収に応じないことあった。そのため非難を受けたり虚費の謗うけ、幹事が共に弁済したこともあった。(中略)
 唯円の勧進については、遙か昔のことではあるが、五重塔の再建事業においては小さな事ではないので、あえてこれを記し残すことにする。
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
以上からは、次のようなことが分かります。
①光歓が亨保八年(1723)に「募勧有信檀越造立一箇宝塔序」を作成し、印刷したこと
②その後、唯円が伽藍の西門の内に小庵を建てて、その募縁状を十方の参詣の人々に託した
③約10年で、若干の金額も集まったが、隣人に貸出して返済に応じず、虚費の謗も受けた
④唯円は、善通寺大塔の勧進前には、67番小松尾寺の仁王門の勧進を行っていた

関東からやってきた廻国行者が小松尾寺の仁王門建立の勧進を行い、それを終えて善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして大塔の勧進に10年も携わったというのです。この時の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月になります。計画から約80年余の月日を要したことになります。
十返舎一九 四国遍路 郷照寺
十返舎一九「金草」の挿絵 丸亀上陸

  勧進聖と土木・建設などの勧進活動の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は
「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

であったとされます。しかし、「勧進」は見方を変えると、勧進聖の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業を請負けおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると
「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」
とも云えるようです。
 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。勧進聖人は、次第に建築請負業の側面を持つことになります。勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業だけでなく、寺院の堂宇の建設にも威力を発揮しました。善通寺の五重塔再興を請け負った唯縁は、建設請負集団の棟梁であり、資金集めの金融ブローカー的な側面も見えてきます。少し横道にされたようです。六十六部の勧進スタイルを追いかけます。

小松尾寺(大興寺)の仁王門横に大きな石碑が建立されていますが、そこには次のように刻まれています。
本再興仁王尊像並門修覆為廻国中供養
寛政九年己酉十月 十方施主 本願主長崎廻国大助
ここからは唯円が勧進して建立した仁王門を、約70年後の寛政元年(1789)に、長崎の廻国行者の大助が勧進修復したようです。小松尾寺の仁王門は、建立も修復も廻国行者の手によることになります。このように地方有力寺院は、堂宇の改修には勧進というスタイルを採用せざるえない状態にありました。それを取り仕切れる勧進聖は、寺院から見て有用で、使い道があったようです。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

続いて65番 三角寺の観音堂の建立についてみてみましょう。
寛文十三年(1672)八月吉日の本堂(観音堂)建立棟札からは、次のようなことが分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院(仙龍寺)の道正」
②本願は同じく「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清
④導師は地蔵院(観音寺市大野原町の萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことがうかがえます。江戸時代初期の三角寺や奥の院(仙龍寺)には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。
十返舎一九_00010 吉野川沿い
十返舎一九「金草」の挿絵 吉野川を見下ろす

次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間で、「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことがうかがえます。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。
四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国万人講を主催する宗清なる人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、三角寺の活動を下支えしていたしていたのではないでしょうか。勧進と称しているので、諸国を廻国して勧進を行う念仏行者のような人物と研究者は考えているようです。「四国万人講」という組織は、四国辺路の参詣者を対象にした勧進講としておきましょう。
 その後、この宗清が六十八番観音寺にも姿を見せます。
『弘化録』の延宝四年(1676)の項に、次のように記されています。
「八月に宝蔵一宇を建立した。本願は米谷四郎兵街、大工は荻田甚右衛門である。十月に再興の本願は宗清である。」

ここに出てくる宗清は年代的にみて、三角寺棟札の宗清と同一人物と研究者は考えます。三角寺の観音堂の完成後、今度は讃岐の観音寺で勧進活動をしているのです。つまり、三角寺の観音堂の完成から三年後には、観音寺に移り宝蔵を再興しています。宗清の出身は信濃国ですから、彼もやはり廻国行者の一人だと云えます。
観音寺境内図1

観音寺には、勧進僧を受けいれやすい何かがあったのでしょうか。
「弘化録』には、次のような勧進常夜灯の記録が記されています
観音尊常夜の覚
一、銀札八百五拾目なり
古は長崎より生国筑前の者、小林万治と中す者、廻国に参り、観音寺に逗留仕り候にして暫くの間、隔夜を打ち、ならびに本加なども相加え左の銀子調達仕り、観音尊へ常夜灯寄進致したき宿願に付き、有の銀子預け申したしの段申し出候に付き、観音寺八ケ村のその節の役人相談の上にて、観音寺中国川入目銀の内へ借り請けにして、毎年観音寺御用の入目所より立割五歩の利銀百弐拾七匁五歩宛油代へ払い仕り中し来し候。(以下略)
意訳変換すると
一、銀札850目なり
古くは長崎から筑前生まれの者で、小林万治と申す者が、廻国参りにやってきて、観音寺に逗留するようになった。そして、隔夜修行を行うようになり、その成就の際に奉加で得た銀子を、観音堂の常夜灯費用として寄進したい旨を申し出た。この銀子の寄進を受けて、観音寺八ケ村の代表と役人で相談した上で、観音寺中国川入目銀の内へ借り請け金として入れて、毎年観音寺御用の入目所から五歩の利子銀百弐拾七匁五歩を油代として支出することとした。(以下略)
ここからは小林万治という九州の廻国行者が六十八番観音寺に、しばらく逗留して隔夜修行など修行しながら、奉加なども加えて銀札850目を調達して、観音菩薩の常夜灯を寄進したいと申し出たことが分かります。隔夜修行とは、以前にお話ししましたが、ここでは六十六番雲辺寺と六十八番観音寺を夜間に一日ごとに念仏を唱えながら往復して修行する念仏行です。彼以外にも、観音寺に逗留しながら、この行に挑んでいた信者がいたことが他の史料からも分かります。
 小林万治という廻国行者は、 観音寺にしばらくの間、逗留して修行することが許されていたようです。そのお礼の意味もあっての銀子の寄進であったようです。
 以上のように、札所寺院には、六十六部廻国行者や念仏行者などが入り込み修行を行っていたことがわかります。観音寺と雲辺寺は、隔夜行者の修行ゲレンデであり、七宝山は修験者たちの行場でもあったのです。その行場センターを観音寺は果たしていたことになります。そのために、堂宇再興などの際には、御世話になった行者や聖達が勧進ネットワークとなって、多くの財を集めるマシーンとして機能したのでしょう。
志度寺縁起 阿一蘇生部分
志度寺縁起に描かれた志度寺

廻国行者が係わって堂字を建立した例は、86番志度寺にもみられます。
志度寺所蔵の棟札には、次のように記されています。
一、米三十穀、大旦那国主雅楽頭御内方さま教芳院殿也、本願円朝上人総州住人也、今者志度寺部屋二住也、大工ハ備前国山田村住人、藤原大工七右衛文勤之
一、讃州志度寺観音堂、本願円朝法印(花押) 迂慶長九年甲辰十月十三日、寺家衆花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊為弐親成仏
一、慶長九年甲辰十月十三日志度寺観音堂本願者不思議成以縁、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印(花押)
意訳変換しておくと
一、米三十石、大旦那は藩主の生駒親正の奥方さま教芳院殿、本願は円朝で上総州住人である。
円朝は志度寺部屋棲、大工は備前山田村住人の藤原大工七右衛文が勤めた
一、讃州志度寺の観音堂、本願は円朝法印(花押) 慶長九年十月十三日、寺家衆は花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊が参加した
一、慶長九年十月十三日志度寺観音堂 本願は不思議な縁を以て、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印が行う(花押)

中世には志度寺縁起の寺として隆盛を極めた志度寺も、戦国時代には疲弊していたようです。慶長期になって、ようやく、生駒氏の援助でようやく再興が始まります。その手始めとして行われたのが観音堂の再興だったようです。
①大旦那は、生駒親正の夫人
②本願は円朝法印
③寺家衆も花厳坊・常楽坊・西林坊などで、まだ塔頭寺院というには、ほど遠い小さな坊庵の段階のようです
そして本願の円朝は、関東上総国の出身で「不思議の縁をもって、志度寺の部屋に住むようになった」というのです。ここからは、志度寺には定まった住職もいないほど退転していたところに、円朝という関東の廻国僧が訪れ、何らかのの縁を得て、定着したことがうかがえます。
四国霊場の寺院ではありませんが『宇和旧記』の白花山中山寺の項には、次のように記されています。
一、慶長十一年再興、是は奥州二本松産意伯上人、六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿、奉再興、本願奥州二本松産意伯上人、同行重円坊、意教坊、大工者多田村七右衛門也、殊御給人衆、並大小檀那、致進一紙半銭以諸人所集功力如是成就者也、
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
(後略)
意訳変換しておくと
当寺は慶長十一年に再興された。その経緯は奥州二本松の意伯上人が、六十六部廻国で諸国回遊の際に、発起人となったことが棟札に記されている。予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿なども、意伯上人の本願で行われ、同行重円坊、意教坊がこれを助け、大工は、多田村の七右衛門が勤めた。御給人衆は大小檀那衆で、一紙半銭の寄進で多くの信者の功力で成就した。
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
ここからは、奥州の六十六部の意伯上人が、廻国の途中で中山禅寺の再興を発起したことが分かります。同行者が二人いたようで、彼らも六十六部廻国行者で、勧進に協力したのでしょう。この例のように、志度寺の円朝法印や寺家衆の七坊も、伊予中山寺と同じように六十六部廻国行者であったと考えることもできそうです。戦国時代から50年余り経ってを経て、慶長年間頃にはこんなプロセスを経て、各地の寺院は復興されていったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

弘法大師については、実像と死後に作られた伝説とがあり、これが渾然一体となって大きな渦(宇宙)を作り出しているようです。ここでは、それをとりあえず次のふたつに分けておきます。
太子伝  史料等で明確に出来る年表化が可能な事項
大師伝説  大師死後に生み出された民間伝承・信仰
大師伝説が大師伝の中にあらわれたのが、いつ頃のことなのでしょうか
大師没後255年の寛治三年(1089)、東寺の経範法務の『弘法大師御行状集記』が一番古いようです。この本は『今昔物語集』と同じじ時代のもので、霊異説話集の影響を受けたせいか、大師行状の中の伝説的部分に強い関心を示す大師伝と言われます。
その序には、次のように記されています。(意訳)
大師が人定したのが承和二年乙卯で。現在は寛治三年己巳で、その間に255年の歳月が過ぎた。入城直後の行状には、昼夜朝暮(一日中)いろいろな不思議なことを聞かされたが、時代が離れるに従って、伝え聞くことはだんだん少なくなり、1/100にも及ばなくなった。これはどうしたことだろうか。これより以後、末代のために、伝え聞いたことは、すべて記録に残すことにする。後々に新たな事が分かれば追加註していく。

このような趣意で、できるだけ多くの大師に関する伝聞を記録しようとしています。そのために、大師の奇蹟霊異も多く集められ収録されているようです。注目したいのはこの時点で、すでに多数の伝説が語り伝えられていて、記録されていることです。『弘法大師御行状集記』に収録されている弘法大師伝説を挙げて見ます。
1、板尾山の柴手水の山来。
2、土佐の室戸に毒龍異類を伏去すること。
3、行基菩薩出家前の妻と称する播磨の老姫、大師に鉄鉢を授くること。
4、唐土にて三鈷を上すること。
5、豊前香春(かすい)山に木を生ぜじめること。
6、東大寺の大蜂を封ずること。
7、わが国各所の名山勝地に唐より伝来の如意宝珠をうづむること。
8、神泉苑祈雨の龍のこと。
9、祈雨に仏合利を灌浴すること。
10観行にしたがって其の相を現ずること。
11五筆和尚のこと。                                         5
12伊豆柱谷山寺にて虚空に大般若経魔事品を吉すること。
13応天門の額のこと
14河内龍泉寺の泉を出すこと。
15大師あまねく東国を修行すること。
16陸奥の霊山寺を結界して魔魅を狩り籠めること。
17生栗を加持し蒸茄栗となし供御して献ずること。
18日本国中の名所をみな順礼し、その御房あげて計うべからざること。
19高野山に御入定のこと。
20延喜年中(901~)、観賢僧正、御人定の巌室に大師を拝することの
以上の項目を見てみると、のちの大師伝が伝説としてかならずあげるものばかりです。
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『弘法大師御伝』(11世紀末)と『高野大師御広伝』(12世紀)になると、弘法大師伝説はさらに増えます。ふたつの弘法大師伝に追加された項目を挙げると次のようになります。
1、唐にて大師の流水に書する文字、龍となること
2 大師筆善通寺の額の精霊と陰陽師晴明の識神のこと。
3、大師筆皇城皇嘉門の額の精霊のこと。
4、土佐国の朽本の梯(かけはし)に三帰をさずくること
5、石巌を加持して油を出すこと。
6、石女児を求むれば唾を加持して与えるに児を生むこと。
7、水神福を乞えば履を脱いでこれを済うこと。
8、和泉の国人鳥郡の寡女の死児を蘇生せしむること。
9、摂津住古浦の憤のこと。
10行基菩薩の弟子の家女に「天地合」の三字を柱に書き与うるに、その柱薬となること。
11河内高貴寺の柴手水に椿の本寄生すること。
12天王寺西門に日想観のこと。
13高雄寺法華会の曲来と猿の因縁。
14讃岐普通寺・曼荼羅寺の塩峰と念願石のこと。
15阿波高越山寺の率都婆のこと。
上の大師伝説は、伝記の本文から離して「験徳掲馬」の一条を立てて別立てにしています。そしては次のようなことが序文に書かれています。
今、大師御行状を現したが 神異を施し、効験を明らかにすために、付箋を多く記した。世俗では多くの弘法大師伝が語られるようになり、それが多すぎて、詳しく年紀をしるすことができない。書くことができないものは、左側に追加して記すことにした。

年紀(年表)に、民間に伝わる大師伝説を入れていこうとすると、無理が起きてきたようです。弘法大師伝説が多すぎて、年紀の中に入りきれなくて、はみ出さざるを得なかったのです。世に伝わる大師伝説を全て収録しようとすると、大師伝の中に伝説がどんどん流入してきます。その結果、「或人伝云」「或日」「世俗説也」「世俗粗伝」などの註記を増やす以外に道がなくなったようです。

 私は最初は、弘法大師伝説は歴代編者の「捏造」と単純に考えていました。
しかし、どうもそうではないようです。世の中に伝わる弘法大師伝説が時代とともに増え続けていたのです。つまり、生み出され続けたのです。編者は世俗の説(弘法大師伝説)にひきずられる形で書き足していたようです。
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深賢の『弘法大師行化記』二巻は、奥書に編集方針が次のように記されています。
この書の上巻裏書には、やや詳しく大師の伝説をのせています。しかし、ここでは「世俗説也」「彼土俗所語伝也」の註があります。伝記と伝説を区別すべきものであるという編集姿勢が見えます。そして、この伝が書かれた鎌倉初期までに、大師伝中の大師伝説は固定したようです。これから新たに伝に加えられるものは出てきません。

 しかし、鎌倉時代末以後に書かれた大師伝のスタイルは大きな変化を見せるようになります。
このころの大師伝は伝記と伝説のあいだの区別がまったくうしなわれてしまうのです。そして、伝記と云うよりも奇瑞霊験に重点を置き説話化していきます。
 これは鎌倉中末期という時代に『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧絵伝が多数つくられたことと関係するようです。これとおなじ時期に、弘法大師初めての絵図である『高野大師行状画図』十巻が作られます。これは他の高僧絵伝の説話化とおなじで絵入物語です。
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 正中一年(1325)の慈尊院栄海の『真言伝』に見える弘法大師伝などは、まさにこの行状画図路線をいくものです。
こうして伝説は伝記の中に織り込まれて説話化、物語化するようになります。この傾向が進むと次第に大師伝説は、「歴史」として扱われるようになります。そうなると編者の次の課題は、大師の奇瑞霊異の伝説がいつのことであったのかに移っていきます。伝説に年紀日付を付けて、年表化する作業が始まります。こうなると伝説と歴史事実との境がなくなります。「伝説の歴史化」が始まります。
その研究成果が結実したものが報恩院智燈の『弘法大師遊方記』四巻(天和四年(1684)になるようです。
その成果を見てみましょう
①大滝獄捨身が延暦十一年(791)、大師19歳とされ、
②播州に行基の妻より鉢を受くる奇伝と伊豆桂谷山寺の降魔は延暦12年、大師20歳
③横尾山に智慧水を湧かし、高貴寺の泉の檜木に椿を寄生せしめる伝説が大同二年(807)
こうして「遊方記」では、編者の智燎の手に負えない伝説は、みな捨てられてしまいます。その上、伝悦をそのまま歴史事実とする無理は寂本の『弘法大師伝止沸編』一巻(貞享三年(1685)によつて指摘せられます。そして、高野開創の逢狩場神や逢丹生神の物語なども、紀年を附すべき事実でないことがあきらかにされていくのです。
 これ以後、大師伝説は大師伝の編者にとっては、あつかいに苦慮する部門になっていきます。
これはそれまでの編者が、伝記と伝説のちがいや立場を認識することなしに、「伝記の伝説化」や「伝説の伝記化」を行ってきた結果とも云えます。これに対して、この区別を認識して不審は不審、不明は不明のままに、伝えられてきた記録をもらさず集録したものが得仁上綱の『続弘法大師年譜』巻六です。できるだけ多く採録して、後の世代に託すとする態度には好感が持てます。多くの集録された史料の中から伝説の変化がうかがえます。
 以上をまとめておくと
①初期の弘法大師伝では、伝記と伝説は分けて考えられていた
②その間にも民間における弘法大師伝説は、再生産され続けた
③増え続ける弘法大師伝説をどのように伝記に記すのかが編者の課題となった。
④宗法祖信仰が高まるにつれて伝記は説話化し、伝記と伝説の境目はなくなっていった
⑤弘法大師伝説も年紀が付けられ年表化されるようになった。
しかし、これは編者の捏造とおいよりも、弘法大師伝説の拡大と深まりの結果である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重 弘法大師伝説の精神史的意義 寺社縁起と伝承文化所収

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