瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 善通寺と空海

虚空書字 「高野大師行状図画」 巻第二 
虚空書字(高野空海行状図画)
前回お話しした「五筆和尚」の次に出てくるのが「虚空書字」です。「五筆和尚」として名声を高めた空海に対して、文殊菩薩が腕試しを挑んでくるという設定です。今回は、このお話ししについて見ていくことにします。

虚空書字 「高野大師行状図画」3
「虚空書字」 赤い服を着た文殊菩薩の化身と空海が虚空に文字を書いている(高野空海行状図画)
書の腕前を丈殊善薩の化身である五弊童子と競い合う場面です。赤い服を着た童子が文樹菩薩の化身です。場所は長安城中の川のほとり。そこで出会った一人の童子から、「あなたが五筆和尚ですか。虚空に字を書いでいただけませんか」と声をかけられます。空海が気安く書くと、童子も書きます。すると二人の書いた文字が、いつまでも虚空に浮んでいたという話です。

虚空書字 「高野大師行状図画」4
「虚空書字」 流れる水に「龍」と書く
次に 童子は「流れる水の上にも書いてください」とも云います。空海が書い文字は、形が乱れることなく流れていきます。続いて童子は「龍」の字を書きます。その時に、わざと最後の点を打ちません。「なぜ」と問うと「あなたがどうぞ」と応じます。そこで、空海が点を打つと、「龍」の姿になって、たちまち昇天します。童子は、五台山の文殊杵薩の化身であった、というオチがつきます。
 文殊菩薩の化身である童子が龍を描き、最後に眼に点を入れると本物の龍なる、「画龍点晴」のお話です。これが描かれているのが「虚空書字」です。

虚空書字2
流水書字と龍
「虚空書字」に出てくる文殊菩薩は、学問の仏さまとして受験期には随分ともてはやされる仏さまです。これが書にも通じるとされたいたようです。しかし、どうして、文殊菩薩を登場させるのでしょうか。その疑問は一端おいておくことにして、空海は、長安の高級官僚などの文人や僧侶と、交流を持つようになります。それが垣間見える史料を見ておきます。
M1817●江戸和本●性霊集 遍照発揮性霊集 明治初年 3冊本★ゆうパック着払い
空海の漢詩文集『性霊集』の序文には、泉州(福建省)の別駕(次官)でもあった馬惚(ばそう)から空海に贈られた次のような漢詩が載せられています。
何乃出里来  何ぞ乃高里より来たれる、
可非衡其才  其のオを行うに非るべし
増学助玄機  増すます学んで玄機を助けよ、
土人如子稀  上人すら子が如きは稀なり`
  意訳変換しておくと
あなたは、いかなる理由があつて万里の波涛を越えて唐まで来られたのですか。
その文才を唐の人たちにひけらかすために来られたのではないでしょう
(おそらく、あなたは真の仏法を求めて来られたのでしょうから)
ますます学ばれて、真実の御忠を磨かれんこヒを折ります
唐においてすら、あなたのような天才は稀れであり、ほとんど見当らないのですから

真済の序文には、空海が恵果和尚の高弟の惟上(いじょう)に送った「離合詩」を馬惚(ばそう)が見て、空海のオ能に驚き怪しんで贈ってきた詩とあります。漢詩としては、相手を褒めそやす内容だけで広がりがなく凡庸なもののように私には思えます。しかし、ここには「秘密=遊び心」が隠されていると研究者は指摘します。それが「離合詩」という詩作方法です。
「離合詩」を辞書で調べると以下のようにあります。

詩の奇数句において、最初の字の「篇」と「旁」を切り離す。切り離したいずれかを複数句の一字目に用い、それぞれで残った「篇」と「旁」を組み合わせて文字(伏字)を作る、高度な言葉遊びの一種。

これだけでは、分からないので具体的に、空海に贈られた「離合詩」を例にして見ておきましょう。
①一行目の第一文字「何」を、「イ」と「可」にわけ、このうちの「可」を二行目の第一文字に使う。そこで「イ」が残る‐
②三行目の第一文字「増」を「土」と「曽」にわけ、このうちの「土」を四行目の第一文字に使う。
ここでは「曽」が残る‐
③残つた「イ」と「曽」をあわせると、「僧」の字ができる。これで「僧=空海」
これは高度な文人達の言葉遊びです。内容的なことよりも、この形式が重視されます。そのため臆面もなく相手を褒めそやすこともできたのです。空海は、ことばには鋭い感党を持っていたので、遊び心も手伝つて、長安で出会った離合詩を作って、こころやすかった性上に送ったようです。出来映えが良かったので、それが文人達の間を回り回って、泉州(福建省)次官の馬惚にまで伝わり、この「離合詩」が空海の元に贈られてきたようです。

ちなみに、空海が惟上に送った「離合詩」は、次のようなものでした。    
登危人難行  石坂危くして人行き難し、  (「登」の原文は「石+登」表記
石瞼獣無昇  石瞼にして獣昇ること無し¨
燭晴迷前後  燭暗うして前後するに迷う、
蜀人不得燈  蜀人燈を得ず
意訳変換しておくと
あなた(惟上)の故郷である剣南に行くには、危険な石段があって行くことは困難を極め、
険峻な岩山があって獣すら登れない
燈火も暗くて、進むことも退くこともできず迷ってしまう。
蜀の人すら登破するための燈を手に入れていない。

ここにも先ほど見たの「離合詩」の「お約束」は、守られています。この詩の内容を超意訳しておくと

あなたの故郷である剣南への道は、仏道修行のようなものです。私(空海)万里の波涛を越えてやってきて、余す所なく密教を学ぶことができ、これから生きていく上での燈火なるものも、すでに手に人れました。ところで、あなたは長く学んでおられますが、何か燎火となるものは得られましたか。仏法を故郷に伝えるにはきわめて困難がともないますが、法燈を伝えるために、ともに努力しましよう。

「日本から来た若造が、生意気なことを。本物の「離合詩」を見せてやる。」と、空海の「離合詩」への挑戦を、唐の文化人に対する挑発と捉える人達もいたはずです。そんな人の中には、「一度、試してみてやれ」「鼻をへし折ってくれるわ」と空海に近づいてきた人物も少なくなかったと研究者は推測します。そうだとすると、馬惚(ばそう)が空海に贈った「離合詩」には、相手を褒めそやしながら、「本物の出来映えを見せてやる」という意図もあったのかもしれません。このように、空海に対して、書や漢詩などで「お手並み拝見」という徴発は、いたることろで起きた可能性があります。

虚空書字32
虚空書字と画竜点睛
「空海は、どうして文殊菩薩と「虚空書字」を行ったのか争ったのか」という最初の疑問の答えもこの当たりにありそうだと、研究者は次のように推測します。
①長安で異芸・異才の人と評されるように空海に対して、文人達の中には挑発し、腕試しを迫るものも現れた。
②そのエピソードのひとつが「虚空書字」であった。
③しかし、ただの人と競い合うのでは話題性に乏しいために、伝記作者は「文殊菩薩との筆比べ」に変換・創作した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く85P 虚空書字の伝承をめぐって

空海の「五筆和尚」のエピソードを、ご存じでしょうか? 私は、高野空海行状図画を見るまでは知りませんでした。まずは、その詞から見ておきましょう。高野空海行状図画は、何種類もの版があります。ここでは読みやすいものを示します。

五筆和尚 文字

意訳変換しておくと
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。
 空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
要約しておくと
①長安宮中に、晋王朝の書聖王羲之が書を書いた壁があった。
②しかし、時代を経て壁が破損した際に、崩れ落ちてしまった。
③修理後の白壁には、お恐れ多いと、命じられても誰も筆をとろうとしなかった。
④そこで、空海に白羽の矢がたち、揮毫が命じられた
⑤空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた
⑥残りの余白に、盥に入れた墨をそそぎかけたところ、自然に「樹」の字となった

このエピソードが高野空海行状図画には、次のように描かれています。


五筆和尚 右
高野空海行状図画 第二巻‐第7場面 五筆勅号
A 空海が口と両手両足に5本の筆を持って、同時に五行の書を書こうとしているところ。
B その右側の白壁に盥で注いだ墨が「樹」になる
口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。

五筆和尚 左
皇帝から「菩提子の念珠」を送られる空海
上画面は、帰国の挨拶に空海が皇帝を訪れた時に、別れを惜しんで「菩提子の念珠」を送ったとされる場面です。その念珠が東寺には今も伝わっているようです。ここにも、後世の弘法大師伝説の語り部によって、いろいろな話が盛り込まれていく過程が垣間見えます。

唐皇帝から送られた菩提実念珠
            唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)

五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。

空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
 実は、「五筆和尚」という言葉が、50年後の福州の記録に現れます。

智弁大師(円珍) 根来寺
それは天台宗の円珍が残したものです。円珍は853(仁寿3)年8月21日に、福州の開元寺にやってきて「両宗を弘伝せんことを請う官案」(草庵本第一)に、次のようなエピソードを残しています。

(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。

意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。

空海ゆかりの開元寺を訪ねる』福州(中国)の旅行記・ブログ by Weiwojingさん【フォートラベル】
                      福州の開明寺
 どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?

それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆
8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着
10月3日  福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。
10月      福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。
11月3日  大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』(10世紀半ば成立)には、この間のできごととして、次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

この経過については、遣唐大使・藤原葛野麻呂は朝廷への帰国報告書には、何も記していないことは以前にお話ししました。しかし、空海が大使に替わって手紙を書いたという次の草案2通は、『性霊集』巻第5に、載せられています。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書
B 福州の観察使に請うて人京する幣
特にAは、空海の文章のなか、名文中の名文といわれるものです。文章だけでなく、書も見事なものだったのでしょう。それが当時、福州では文人達の間では評判になったと研究者は推測します。それが、さきの忠湛の話から、福州の開元寺の寺主憎恵潅(えかん)の「五筆和尚、在りや無しや」という円珍への問いにつながると云うのです。
 確かに先に漂着した赤岸鎮では、船に閉じ込められ外部との接触を禁じられていたようですが、福州では、遣唐使であることを認められてからは、外部との交流は自由であったようです。空海は、中国語を自由に話せたようなので、「何でも見てやろう」の精神で、暇を惜しんで、現地の僧たちとの交流の場を持たれていたという話に、発展させる研究者もいます。しかし、通訳や交渉人としての役割が高まればたかまるほど、空海の役割は高くなり、大使の側を離れることは許されなかったと私は考えています。ひとりで、使節団の一員が自由に、福州の街を歩き回るなどは、当地の役人の立場からすればあってはならない行為だった筈です。

福州市内観光 1 空海縁の地 開元寺』福州(中国)の旅行記・ブログ by 福の海さん【フォートラベル】
福州の開明寺の空海像 後ろに「空海入唐之地」

 円珍の因支首氏(後の和気氏)で、本籍地は讃岐で、その母は空海の姉ともされます。
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。

DSC04562
福州の人々(弘法大師行状絵詞)

五筆和尚の話は、平安時代に成立した空海伝には、どのように記されているのでしょうか?

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
      ①968(康保5)年 雅真の『金剛峯寺建立修行縁起』(金剛峯寺縁起)
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。  (『伝全集』第一 51~52P)
② 1002(長保4)年 清寿の『弘法空海伝』63P
 大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)
又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
③1111(天永2年)に没した大江拒房の『本朝神仙伝』
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。                      
空海御行状集記
          ④ 1089(覚治2)年成立の経範投『空海御行状集記』
神筆の条第七十三
或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。   (『同73P頁)
⑤1113(永久年間(1113~18)成立の兼意撰『弘法空海御伝』
御筆精一正
唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
⑥1118(元永元)年の聖賢の『高野空海御広伝』
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。

これらの記録を比較すると、次のようなことが分かります。
A 最初に書かれた①の『金剛峯寺建立修行縁起』を参考にして、以下は書かれていること
B ②③は簡略で、文章自体が短い。
C 内容的には、ほぼ同じで付け加えられたものはない。
D ①⑤は、皇帝から「菩提実の念珠」を賜ったとある。
以上から「五筆和尚」の話は、10世紀半ばすぎに、東寺に伝来していた唐の皇帝から賜わつたという「菩提実の念珠」の伝来を伝説化するために、それ以後に創作されたモノと研究者は推測します。つまり、五筆和尚の荒唐無稽のお話しは、最後の「菩提実の念珠」の伝来を語ることにあったと云うのです。そう考えると、「念珠」に触れているのは、①と⑤のみです。東寺に関係のない人達にとっては、重要度は低いので省略されて、お話しとして面白い「五筆和尚」の方が話の主役になったようです。  
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
関連記事



赤岸鎮から福州・杭州へ
延暦の遣唐使団の経路 福建省赤岸鎮に漂着後の

 福州から長安までの延暦の遣唐使団がたどったルートが、絵図にどのように描かれているのかを見ていくことにします。根本史料となる『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を、まずは押さえておきます。

十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと

新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

空海の入唐求法の足取り

ここから分かる延暦の遣唐使船(第1船)の長安への行程を時系列に並べておきます。
804(延暦23)年
7月 6日  肥前国(長崎県)田浦を出港
8月 1日  福建省赤岸鎮に漂着
10月3日  省都福州に回送、福建監察使による長安への報告
11月3日  福州を遣唐使団(23人)出発 福州→杭州→開封→洛陽→長安
12月21日 長安郊外の万年県長楽駅への到着
福州に上陸したのが10月3日、福州出発までがちょうど1ヶ月です。福州と長安の公的連絡は往復1ヶ月足らずだったことがうかがえます。しかし、遣唐使一行は、長安まで49日かかっています。年末年始の宮中での皇帝と外国使節団との謁見には間に合わせたいと、急ぐ旅立ったようです。
まず、弘法大師行状絵詞には、福州出発の様子が描かれているので、それを見ていくことにします。

  長安からの使者がやってきて出迎えの挨拶を行っている場面です。

DSC04565
長安からの出迎えの使者を待つ遣唐使団(弘法大師行状絵詞)
服装を整えて、大使と副詞以下の従者が座して待ちます。空海だけが、一番前に立っています。巻物を左に開いていくと見えてくるのが・・・

DSC04566
長安からきた使節団

「われこそは皇帝の命を受けて、長安からまいった使者です。お急ぎ、御案内申す」
とでも云っているのでしょう。ここでも気になるのは空海の立ち位置です。空海だけが立ち姿で、その他は、日本側も唐側も坐位です。自然と、この場で一番偉いのは空海のように見えます。外交現場で通訳がこんな立ち位置にいることは、現在でもありません。出しゃばりすぎといわれます。この絵巻が「弘法大師=カリスマ化」、あるいは「弘法大師伝説の拡大」を、目的書かれていることがうかがえます。
                   
DSC04569
                       長安からの迎えの従者達(弘法大師行状絵詞)
従者達は、異国の遣唐使たちを興味深そうに見守ります。その左側では、隊列が準備されています。
まず左側に見えてるのが牛車の引棒のようです。

DSC04571
長安からの迎えの牛車(弘法大師行状絵詞)
  赤い唐庇の屋根の牛車は、迎えの勅使用です。牛使いが牛を牛車につなごうとしていますが、嫌がっているようです。これは、古代日本では見慣れた風景ですが、中国の唐代の時代考証では「アウト」で論外です。なぜなら、中国では貴人が牛車に乗るということはありません。乗るのは馬車です。これも「日本の常識」に基づいて描かれた誤りと研究者は指摘します。

 絵巻をさらに開いていくと・・・大使達が騎乗する馬が準備されています。
 
DSC04574
大使・副使・空海などに準備された飾り付けられた駿馬たち(弘法大師行状絵詞) 

詞には次のように記されています。

七珍の鞍を帯て、大使並びに大師を迎える。次々の使者、共に皆、飾れる鞍を賜う

飾り立てられた馬が使者達にも用意されたようです。こうして隊列は整えられて行きます。いよいよ出発です。今度は、高野空海行状図画の福州出立図を見ておきましょう。

福州出発 高野空海行状図画
               高野空海行状図画 福州出立図

一番前を行くのが、長安からやって来た迎えの使者 真ん中の黒い武人姿が大使、その後に台笠を差し掛けられているのが空海のようです。川(海?)沿いの街道を進む姿を、多くの人々が見守っています。ここからは福州を騎馬で出発したことになります。しかし、これについては、研究者の中には次のような異論が出されています。

中国の交通路は「南船北馬」と言われるように、黄河から南の主要輸送路は運河である。そのため唐の時代に、福州から杭州へも陸路をとることはまずありえない。途中、山がけわしく、 大きく迂回しなければならず、遠廻りになる。杭州からは大運河を利用したはず。

「福州 → 南平 → 杭州 → 大運河 → 洛陽 → 長安」という運河ルートが選ばれたと研究者は考えています。しかし鎌倉時代の日本の絵師にとって、運河を船で行く遣唐使団の姿は、思いも浮かばず、絵にも描けなかったかもしれません。イメージできるのは、騎馬軍団の隊列行進姿だったのでしょう。

map
                   延暦の遣唐使団の長安への道(福州から長安まで 空海ロード)
次に描かれるのは長安を間近にした遣唐使団の騎馬隊列です。
洛陽から再び陸路を取り、函谷関を越えると陝西盆地に入って行きます。その隊列姿を見ておきましょう。最初に高野空海行状図画を見ておきます。

空海の長安入場
長安入洛(高野空海行状図画)
①上右図が迎客使の到着を待つ空海と大使です。威儀を整えて、少し緊張しているようにも思えます。
②続く下図は左側の先導する迎客使の趙忠の後に、飾り付けた鞍の馬に乗って大使と空海が続きます。
③入京パレードの威儀を、絵伝は「その厳儀、ことばによしがたし,観るもの、路頭になちみちて市をなす」と記します。
④背筋をビンと仲ばした馬上の大使が印象的です。

次に、弘法大師行状絵詞の方の長安入洛を見ておきましょう。

DSC04576
長安を目指す遣唐使一行 白馬の空海(弘法大師行状絵詞)
  長安を目指す遣唐使の一行が描かれています。最初に登場するのは美しく飾り立てられた白馬に跨がる空海です。その姿が珍しいのか、多くの住人達が見物に集まっています。しかし、この絵図にも「時代考証的」には、次のような問題点があるようです。
①空海に従う歩行の3人の僧侶の存在。長安への入京を許されたのは、限られた人間だけでした。空海さえも当初は、メンバーに入っていませんでした。それが、ここには3人の僧侶が従者のように描かれています。空海の存在を、高めようとする意図が見られます。

DSC04579
          長安を目指す遣唐使一行 大使と副使(弘法大師行状絵詞)
空海の前を行くのが大使と副使です。ここが長い行列の真ん中当たりになります。その姿を見ると黒い武士の装束です。この絵図が描かれたのが鎌倉時代のことなので、当時の武士の騎馬隊列に似せられて描かれているようです。時代考証的には、平安貴族達が武士姿になることはありません。

DSC04581
                     先頭の勅使(弘法大師行状絵詞)
  騎乗隊の先頭は勅使です。後から台笠が差し掛けられています。長安が近づいてきたようです。

DSC04582
長安の宮廷門(弘法大師行状絵詞)
  勅使の帰還を知って、宮門が開かれます。ここは長安の宮廷門で、甲冑を身につけた武官達が鉾を押し立てて、勅使の到着を待ちます。
 以上、弘法大師行状絵詞に描かれた福州から長安までの行程を見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献






大師入唐渡海 遣唐使船

東シナ海を行く遣唐使船(高野空海行状図画)

大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
建建省赤岸鎮)に漂着します。

空海・最澄の入唐渡海ルート
空海と最澄の漂着先
空海入唐地 赤岸鎮
空海入唐之地 赤岸(1998年建立)

正史である『日本後紀』に載せられた大使藤原葛野麻呂の報告書を、まず見ておきましょう。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。


  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。
「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。

唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
 
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」

 
遣唐使 赤岸鎮から福州


一行は、長渓県赤岸鎮での上陸を許されず、観察使のいる福州に向かうことになります。
2ヶ月後の10月3日に、福建省の省都の福州にたどり着きます。福州は、河口から30㎞ほど遡った所にある大都市です。遣唐使船は、その沖にイカリを下ろしたはずです。当時の規則では、外国船は岸壁に着船し、直接に入国することは禁じられています。

DSC04552
           小舟に乗り換えての福州上陸(弘法大師行状絵詞)

大使藤原葛野麻呂の報告書には、福州でのことが次のように記されています。

十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

ここからは次のようなことが分かります。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと

ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』には、この間のできごととして次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

  「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」

とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。

「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」

文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
この場面を描いた高野空海行状図画の福州上陸図を見ておきましょう。

福州漂着代筆 高野空海行状図画
福州での役人とのやりとりと、空海代筆(高野空海行状図画)
①は遣唐使船が岸壁に着岸しています。「沖合停泊」という「時代考証」が無視されています。その姿は大風や波浪で、船上施設が吹き飛ばされて、何ひとつ残っていないあばら舟姿です。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
③は、大使みずからが書簡をかいて提出しますが、役人は読み終えると放り出して取り合ってくれないところ。
④万策つきた大使からの依頼で、空海が長官に宛てて書をしたためているところ。
⑤空海がしたためる手もとを見ているのが、福州監察使の閻済美。
⑥中央は、空海の文章と書の力によって、やっと日本からの正式の遣唐使であることが認められ、仮岸の中に通されて、安堵している大使と空海

同じ場面を、弘法大師行状絵詞で見ておきましょう。

福州着岸 代筆. 弘法大師行状絵詞JPG
             福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)

港に船着き場はなく、沖合に投錨し小舟で浜にこぎ寄せるスタイルで描かれています。
大使が長官への書簡をしたためているところ
役人が福州長官に見せると、一瞥して「見難い」と書簡が捨てられたところ。これが3度繰り返されます。

福州上陸2
            福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
大使の依頼を受けて空海が「代筆」します。
⑤ その書簡を読んだ福州長官は、書の主を「文人」認め、態度を一変させます。

この時に空海が代筆したのが「大使のために福州の観察使に与うる書」です。
   「賀能(藤原葛野麻呂の別名)啓す」からはじまるこの文章を要約しておきます。

①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか

 論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
   空海は讃岐から平城京にのぼった時に、母の弟・阿刀大足に儒学知識や漢文については、教え込まれたとされます。親王の家庭教師を務めた阿刀大足によって磨かれた素養があったと研究者は考えています。この書を見た長官の閻済美は篤きます。科挙試験を経て、文章でもって出世するのが中国の高級官僚たちですが、これだけの文章をかけるだけの者はいないと思ったと従来の書は評します。この書によって、中国側の対応は一変します。「海賊船」との疑いを捨て、日本からの遣唐使船と再認識し、相応しい仮宿舎を提供します。同時に空海の評価が高まったとされるエピソードです。

DSC04558
福州に建てられた仮宿舎(高野空海行状図画)

赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。

DSC04561
大使達を迎える福州長官(弘法大師行状絵詞)
その向かいに福州長官(監察使)が座し、その前を着替えの衣装や食事が運ばれて行きます。正面に座るのが空海です。まるで、空海に謁見する臣下のような構図です。空海がカリスマ化される要素がふんだんに盛り込まれています。
       
DSC04562
遣唐使仮屋周辺の福州の人々

日本からの遣唐使がやって来たというので、物見高い人々が集まってきます。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
ところが発表された長安入京組名簿の中に、空海の名前がありません。長安に行けないと、入唐求法の意味がなくなります。そこで空海は、長安行きの一行に、自分も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出します。

入京嘆願書1

「福州の観察使に請うて入京する啓」
福州の観察使に請うて入京する啓

 「日本留学の沙門空海、敬す」という文で始まるこの文章を、要約すると次のようになります。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯
②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い
③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
空海は、福州で次の2つの文章を作っています。
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」
B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
この2通は『性霊集』巻5に収録されています。前者を以下に全文載せておきます。

「大使のために福州の観察使に与うる書」
                        
「大使のために福州の観察使に与うる書」NO1

「大使のために福州の観察使に与うる書」2
「大使のために福州の観察使に与うる書」3

「大使のために福州の観察使に与うる書」5

「大使のために福州の観察使に与うる書」6

ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」

関連記事 

              


親王院本『高野空海行状図画』と「弘法大師行状絵詞」を見ながら、空海の人唐求法の足跡を追って行きます。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」です。
入唐の旅は、「久米東塔」から始まります。
絵伝は、右から左へと巻物を開いてきますので、時間の経過も右から左と描かれています。また、同じ画面の中に、違う時間帯のことが並んで描かれたりもします。同じ人物が何人も、同じ場面に登場してきたら、そこには時が流れ、場面が転換しています。

久米東塔
          高野空海行状図画 第2巻第2場面  久米東塔 
この場面は、空海の入唐求法の動機・目的を語る重要場面だと研究者は指摘します。
①空海が建物のなかで、十方三世の諸仏に「我に不二の教えを示したまえ」と祈請しています。
②場所については、ある史料は20歳のとき得度をうけた和泉国の槇尾山寺(施福寺)とし、別の史料では、東大寺人仏殿と記します。
③夢で「あなたが求める大法は『大日経』なり。久米の東搭にあり」と告げられたところです。三筋の光が左上方の仏さまから空海に向かって一直線に差し込みます。

DSC04541
弘法大師行状絵詞 久米寺

④空海は、久米寺を訪ね、東塔の場所を尋ねているところです。

DSC04542

⑤東塔の心柱から「大日経」上巻を探し出し、無心に読んでいるところです。しかし、熟読したけれども、十分に理解できずに、多くの疑問が残ります。疑問に答えてくれる人もいません。そこで海を渡り、入唐することを決意したと記されています。

ここからは、空海は人唐前に、『大日経』を目にしていたことが分かります。
ところで『大日経』は久米寺にしかなかったのかというと、そうではなかったと研究者は指摘します。
なぜなら、奈良時代に平城京の書写所で、以下のように大日経が書写されているからです。

1大日経写経一覧 正倉院
大日経写本一覧表(正倉院文書)
正倉院文書によると、一切経の一部として14回書写された記録が残っています。つまり、当時の奈良の主要な寺院には大日経は所蔵されたというのです。特に東大寺には4部の一切経が書写叢書され、その内の一部七巻が今も所蔵されているようです。

 それでは空海の入唐動機はなんだったのでしょうか?
最初に見た『三教指帰』序文三教の中には、次のように記されていました

谷響きを情しまず、明星水影す。

これは若き日の空海が四国での求聞持法修行の時に体感した神秘体験です。それがどんな世界であるかを探求することが求法の道へとつながっていたと研究者は考えています。それが長安への道につながり、青竜寺で「密教なる世界」であることを知ります。その結果が、恵果和尚と出逢いであり、和尚の持っていた密教世界を余すところなく受法し、わが国に持ち帰えります。そういう意味では、空海と密教との出逢いは、四国での虚空蔵求聞持法の修練だったことになります。

求法入唐 宇佐八幡宮での渡海祈願
            高野空海行状図画 第2章 第3場面 渡海祈願 宇佐八幡にて
この場面は、豊後国(大分県)の宇佐八幡宮で、空海が『般若心経』百巻を書写し、渡海の無事を祈っている所です。左手の建物の簾から顔をのぞかせているのが八幡神とされます。
八幡神と空海の間には、次のような関係が指摘されます。
①八幡神は、高雄・神護寺に鎮守として勧請されている
②八幡神は、東寺にも勧請され、平安初期の神像が伝来している。
③空海と八幡神が互いに姿を写しあったとの話が、『行状図画』に収録されている(外五巻第1段‐八幡約諾)
④長岡京の乙訓寺の本尊「合体大師像」は、椅子にすわる姿形は空海で、顔は八幡神である。
お大師様ゆかりの乙訓寺 - 大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

乙訓寺の本尊「合体大師像」(日本無双八幡大菩薩弘法合体大師)
空海が入唐渡海に際して、渡海の無事を祈ったのは高野空海行状図画では、宇佐八幡だけです。宇佐八幡は、もともとは朝鮮の秦氏の氏神様です。空海と秦氏の関係が、ここからはうかがえます。ちなみに、絵伝で空海の宇佐八幡参拝のことが書かれると、後世には「うちも渡海前に空海が訪れた」という由緒をもつお寺さんが数多く出てくるようになります。高野空海行状図画などの絵図が、弘法大師伝説の形成に大きな影響力を持っていたことがうかがえます。

空海の入唐渡海の根本史料は、大使の藤原葛野麻呂の報告書です。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。生きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 高野空海行状図画の詞には、次のように記されています。


DSC04544入唐勅命

意訳変換しておくと
桓武天皇御代の延暦23(804)年5月12日(新暦7月6日)、大師御年31歳にて留学の勅命を受けて入唐することになった。このときの遣唐大使は藤原葛野麻呂で、肥前国松浦から出港した。


遣唐使船出港
  高野空海行状図画  第二巻‐第4場面 遣唐使船の出港(肥前国田浦)

遣唐使船が肥前国(長崎県)田浦を出港する所です。
中央の僧が空海、その右上が大使の藤原葛野麻呂です。当時の遣唐使船は帆柱2本で、約150屯ほどの平底の船として復元されています。1隻に150人ほど乗船しました、その内の約半数は水夫でした。帆は、竹で伽んだ網代帆が使用されていたとされてきましたが、近年になって最澄の記録から布製の帆が使われたことが分かっています。(東野治之説)
 無名の留学僧が大使の次席に描かれているのは、私には違和感があります。

 派遣された遣唐使の総数は600人前後で、4隻に分かれて乗船しました。
そのため別名「四(よつ)の船」とも呼ばれたようです。第1船には、大使と空海、第2船には副使と最澄が乗っていました。この時の遣唐使メンバーで、史料的に参加していたことが確認できるメンバーは、次の通りです。
延暦の遣唐使確定メンバー
              延暦の遣唐使確定メンバー
出港以後の経過を時系列化すると次のようになります。
 804年7/6 遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7   第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬   第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10   第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
  鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1   第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15   最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
出港して翌日の夜には、「火信を絶つ」とあるので、遣唐使船は離ればなれになったようです。そして、福建省の赤岸鎮に約1ヶ月後に「漂着」しています。その間のことを、空海は「大使 のための箔州の観察使に与うるの書」の中で、大使賀能(藤原葛野麻呂)に代わっての次のように記します。

入唐渡海 海難部分

「大使のために福州の観察使に与うる書」3
         遣唐使船の漂流について(大使のために福州の観察使に与うる書)

DSC04549
龍の巻き起こす波浪に洗われる遣唐使船 舳先で悪霊退散を祈祷する空海(弘法大師行状絵詞)

かつてのシルクロードを行き交う隊商隊が、旅の安全のために祈祷僧侶を連れ立ったと云います。無事に、目的のオアシスに到着すれば多額の寄進が行われたととも伝えられます。シルクロード沿いの石窟には、交易で利益を上げた人々が寄進した仏像や請願図で埋め尽くされています。こうして、シルクロード沿いの西域諸国に仏教が伝わってきます。その先達となったのは、キャラバン隊の祈祷師でした。この絵を見ていると、空海に求められた役割の一端が見えてきます。


こうしてたどりついた福建省で遣唐使たちを待ち受けていたのは、過酷な仕打ちでした。それをどう乗り越えていったのでしょうか。それはまた次回に・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」
関連記事

   空海が法を求めて唐に渡り、長安青龍寺の恵果和尚からインド直伝の新しい仏教・密教を受法されてから1300以上の年月が経ちました。当時の東シナ海を越えて唐に渡と云うことは、生死をかけた旅で、生きて帰れる保証は何もありません。空海が唐に渡った前年の803(延暦22)年4月16日に難波津を出帆した四隻の遣唐使船は、出港して5日目の21日に、瀬戸内海で暴雨疾風のために破船しています。このときには、明経請添生の大学助教(すけのはかせ)・豊村家長は、波間に消えたと伝えられています。
 空海はそのような危険性を承知の上で、どうして生命を賭してまで遣唐使船に乗ろうとしたのでしょうか?  今回は空海の入唐求法について、従来から疑問とされている点を見ていくことにします。テキストは、「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」です。

DSC04470
舳先で悪霊退散を祈祷する空海
空海の入唐求法についての問題点を、研究者は次のように挙げます。
①入唐の動機・目的はなにか。
②誰の推挙によって入唐できたのかt
③いかなる資格で入唐したのか、
④入唐中に最澄との面識はあったか。
⑤長安における止住先(受入先)はどこであったか。
⑥わが国に持ち帰えった経典・マンダラ・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国時に乗船した高階達成(たかしなとおなり)の船は、どんな役目で唐にやってきた船なのか。
⑧入唐の成果はなにか。空海は入唐してなにをわが国にもたらしたか。

  これらの綱目について、先行研究を簡単に見ておきましょう。
①入唐の動機・目的はなにかについては、次の4点が挙げられます。
A『大日経』の疑義をただすため
B 密教受法のため
C 灌腸授法のため
D 密教の師をもとめて
若き頃に、大滝山や室戸岬で行った求聞持法の修行で体感した神秘体験の世界が、いかなる世界なのかを自分なりに納得したいという探求の延長線上にあったと研究者は指摘します。

DSC04630
室戸岬での修行(弘法大師行状絵詞)

②誰の推挙によって入唐できたのか
 空海は入唐直前までは、私度僧であったことが近年の研究からは明らかにされています。有力な寺院に属していない空海が留学僧に選ばれるためには、強力な推薦者がいたはずであるという推測に基づく問いです。その候補者としては、従来から次の2人が挙げられています。
A 母方の叔父である阿刀大足が侍講(家庭教師)をしていた伊予親王
B 入唐前の師とみなされてきた勤操(ごんぞう)大徳
しかし、史料的にも状況証拠的にも納得できる説明はされていないようです。

DSC04494
叔父の阿刀大足から儒学を教わる真魚(空海)(弘法大師行状絵詞)

③どんな資格で、空海は入唐したのか
これについては、空海は「私費の留学僧」の立場だったという説があります。しかし、遣唐使の派遣は国の成信をかけた国家の一大事業です。それに一個人として参加することができるとは考えられないというのが研究者の立場のようです。
 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。ここからも空海が長期留学生であったことが裏付けられます。

④入唐中に最澄との面識はあったのか
天台宗を開いた最澄と空海が、同じ遣唐使団にいたことはよく知られています。しかし、乗船した船は違います。
空海 遣唐大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)とともに第1船
最澄 副使の石川道添(みちます)とともに第2船
乗船した船は違いますし、その後の経路も空海は福州から上陸して、長安で密教を学修します。一方の最澄は明州から上陸して、天台山に向かい、円・密・禅・戒の四つの教えを学んでいます。したがって、二人が唐で出逢うことはありませんでした。その後の二人の史料からも、入唐時に出逢った記録は見当たりません。当時の最澄は、天皇の保護を受けて、唐の仏教の教えの総てを買付に行く超有名なバイヤーのような存在です。一方の空海は、得度したばかりの無銘の僧です。最澄は、空海のことを鼻にもかけなかったでしょうし、その存在にすら知らなかったと私は考えています。
⑤長安での空海の受け入れ先は、どこでだったのか。
これについては、空海は入唐前から、止住先をきめ約諾をえていたという説があります。それは、現在のインターネットやSNSなどの発達している時代の人達の見方です。日宋貿易が盛んに行われ、禅宗僧侶が多数、入唐していた時代でも、なかなか中国の情勢を知ることはできませんでした。長安の情勢を知り、連絡し合うことができる状態ではありません。

⑥わが国に持ち帰られた経典・マングラ・密教法具などの経費の出所はどこか。

DSC04610
空海の持ち帰る絵図や曼荼羅を書写する絵師(弘法大師行状絵詞)

空海は多量の経典を書写させ、密教法具を新しく職人に作らせています。これには多額の資金が必要だったはずです。最澄と違って、長期留学生の空海には、そのような資金はなかったはずです。それをどう調達したかは、私にも興味のあるところです。

DSC04615
持ち帰る法具を作る技術者(左)や経典を書写する僧侶

 従来は、讃岐の佐伯直氏は、斜陽の一族で経済的には豊かでない一族とされてきました。そうだとすれば『御請来目録』に記された膨大な請来品の経費をどうしたのか。誰かの援助なしには考えがたいとする説が出されます。そして、推薦者のとしても名前があがった伊予親王や勤操が、出資者として取り沙汰されてきました。これに対して、研究者は次のような点を指摘します。
A 請来品の多くは、師の恵果和尚からの贈与とみなされること
B 空海の生家・佐伯直氏も瀬戸内海貿易などで経済力を持っていた一族であったこと。
C 母方の阿刀大足も、淀川水系交易などで同等の経済力を持っていたこと
Bについては、空海の父親・田公は無官位ですが、空海の弟や甥たちは、地方役人にしては高い官位を得ています。これは官位を金で買うことで得たものと考えれます。それだけの経済力が、空海の生家・佐伯直氏にはあったと研究者は考えています。
⑦空海を乗せて還った高階達成の船は、どんな役割を持った船だったのか
高木紳元説 新たに即位した順宗へ祝意を表するために派遣された船
武内孝善説 一時的に行方不明になった延暦の遣唐使船の第四船
DSC04548
空海の乗った遣唐使船(弘法大師行状絵詞)
⑧空海の成果はなにか。入唐してなにをわが国にもたらしたか。
仏教に関しては、最新の仏教、すなわら密教を体系的に持ち帰ったこと、なかでも不空訳の密教経典を最初に持ち帰ったこと
以上8点です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

関連記事

1 空海系図52jpg
ふたつの佐伯直氏の家系 

  以前に空海を生み出した讃岐の佐伯直氏一族には、次のふたつの流れがあることを見ました。
①父田公 真魚(空海)・真雅系            分家?
②父道長(?)実恵・道雄(空海の弟子)系        惣領家?

①の空海と弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏についてはいくつかの史料があります。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、40年前に本籍地を讃岐から京に移していたことは以前にお話ししました。こうして見ると、讃岐国における佐伯直氏の本家筋に当たるのは、実忠・道雄系であったようです。

もうひとつ例を挙げておくと、空海の父・田公が無官位であることです。
官位がなければ官職に就くことは出来ません。つまり、田公が多度郡郡長であったことはあり得なくなります。当時の多度郡の郡長は、実恵・道雄系の佐伯直氏出身者であったことが推測できます。一方、空海の弟たちは地方役人としては高い官位を持っています。父が無官位で、その子達が官位を持っていると云うことは、この世代に田公の家は急速に力をつけてきたことを示します。
今回は、実恵・道雄系のその後を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏」です。
「続日本後紀』『日本三代実録』などの正史に出てくる実恵・道雄系に属する人物は次の4人です。
佐伯宿価真持
    長人
    真継
    正雄
彼らの事績を研究者は、次のように年表化します。
836(承和3)年11月3日 讃岐国の人、散位佐伯直真継、同姓長人等の二姻、本居を改め、左京六條二坊に貫附す。
837年10月23日 左京の人、従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持等、姓佐伯宿禰を賜う。
838年3月28日  正六位上佐伯直長人に従五位下を授く
846年正月七日    正六位上佐伯宿禰真持に従五位下を授く
846年7月10日   従五位下佐伯宿禰真持を遠江介とす.
850年7月10日   讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿禰を賜い、 左京職に隷く.
853(仁寿3)年正月16日  従五位下佐伯宿禰真持を山城介とす。
860(貞観2)年2月14日  防葛野河使・散位従五位下佐伯宿禰真持を玄蕃頭とす。
863年2月10日   従五位下守玄蕃頭佐伯宿禰真持を大和介とす。
866年正月7日    外従五位下大膳大進佐伯宿禰正雄に従五位下を授く。
870年11月13日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰真継、新羅の国牒を本進す。即ち「大字少弐従五位下藤原朝臣元利麻呂は、新羅の国王と謀を通し、国家を害はむとす」と告ぐ。真継の身を禁めて、検非辻使に付せき。
870年11月26日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰貞継に防援を差し加へて、太宰府に下しき。
この年表からは、それぞれの人物について次のようなことが分かります。
①例えば、佐伯宿禰真持は以下のように、官位を上げ、役職を歴任しています
・承和3(836)年11月に、真継・長人らとともに本籍地を左京六條二坊に移したこと
・その翌年には正月に正八位上で、長人らと宿禰の姓を賜ったこと
・その後官位を上げて、遠江介、山城介、防葛野河使、玄蕃頭、大和介を歴任している。
こうしてみてくると、真持、長人、真継の3人は、同じ時期に佐伯直から宿禰に改姓し、本拠地を京都に遷しています。ここからは、この3人が兄弟などきわめて近い親族関係にあったことがうかがえます。これに比べて、正雄は13年後に、改姓・本籍地の移転が実現しています。ここからは、同じ実恵・道雄系でも、正雄は3人とは系統を異にしていたのかもしれません。
最後に、空海・真雅系と実忠・道雄系を比較しておきます。
①改姓・京都への本貫地の移動が実恵、道雄系の方が40年ほど早い
②その後の位階も、中央官人ポストも、実恵、道雄系の方が勝っている。
ここからも、実恵・道雄系が佐伯氏の本流で、空海の父田公は、その傍流に当たっていたことが裏付けられます。この事実を空海の甥たちは、どんな風に思っていたのでしょうか?
    改姓申請書の貞観三年(861)の記事の後半部には、次のように記されています。
①同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
②大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」

④善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。

意訳変換しておくと
①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄(惣領家)は、すでに本貫(本籍地)を京兆(京都)に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の功績による所が大きい。しかし、田公の一門の(我々は)改居・改姓を許されていない。実恵・道雄の二人は、空海の弟子である。 一方、田公は空海の父である。

②田公一門の大僧都真雅(空海の弟)は、今や東寺長者となり、(我々も真雅からの)加護を受けて居るが、実恵・道雄一門の扱いに比べると、及ぼないことは明らかである。

③一門の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、(伯父・空海の)往時をかえりみると、(われわれの現在の境遇に)悲歎することが少なくない。なにとぞ(惣領家の)正雄等の例に習って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

④以上の申請状の内容については、(佐伯直一族の本家に当たる)伴善男らが「家記(系譜)」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。


 空海の甥たちの思いを私流に超意訳すると、次のようになります。
 本家の真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場にすぎない。なのに空海を出した私たちの家には未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅(空海の弟)は、東寺長者となった。しかし、我々は実恵・道雄一門に比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
ここからも佐伯直氏には、ふたつの系譜があったことが裏付けられます。
そうだとすれば、善通寺周辺には、ふたつの拠点、ふたつの舘、ふたつの氏寺があっても不思議ではありません。そういう視点で見ると次のような事が見えてきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺の旧練兵場遺跡群の周辺

①仲村廃寺と善通寺が並立するように建立されたのは、ふたつの佐伯直氏がそれぞれに氏寺を建立したから
②多度郡の郡長は、惣領家の実恵・道雄の一門から出されており、空海の父・田公は郡長ではなかった。
③それぞれの拠点として、惣領家は南海道・郡衙に近い所に建てられた、田公の舘は、「方田郷」にあった。
④国の史跡に登録された有岡古墳群には、横穴式石室を持つ末期の前方後円墳が2つあります。それが大墓山古墳と菊塚古墳で、連続して築かれたことが報告書には記されています。これも、ふたつの勢力下に善通寺王国があったことをしめすものかも知れません。
 
どちらにしても、佐伯一族が早くから中央を志向していたことだけは間違いないようです。
それが、空海を排出し、その後に、実恵・道雄・真雅・智泉・真然、そして外戚の因支首(和気)氏の中から円珍・守籠など、多くの僧を輩出する背景だとしておきます。しかし、これらの高僧がその出身地である讃岐とどんな交渉をもっていたのかは、よく分かりません。例えば、空海が満濃池を修復したという話も、それに佐伯氏がどう関わったかなどはなどは、日本紀略などには何も触れていません。弘法大師伝説が拡がる近世史料には、尾ひれのついた話がいくつも現れますが・・・

DSC01050
佐伯直氏祖廟(善通寺市香色山)背後は我拝師山

ここでは、次の事を押さえておきます。
①地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったこと
②佐伯直一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったこと
③空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   
武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏
関連記事

空海の本籍地については、延暦24年(805)年9月11日付けの大政官符が根本史料とされます。

空海 太政官符2
空海の太政官符        
そこには、次のように記されています。

  留学僧空海 俗名讃岐国多度部方田郷、戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚

ここからは次のようなことが分かります。
①空海の本籍地が讃岐国多度郡万田郷(かたたのごう)であること
②正六位上の佐伯直道長が戸籍の筆頭者=戸主で、道長を戸主とする戸籍の一員(戸口)であったこと
③空海の幼名が真魚であること
ここで問題となるのが本籍地の郷名・方田郷です。この郷名は、全国の郷名を集成した「和名類家抄」にないからです。
讃岐の郷名
讃岐の古代郡と郷名(和名類家抄)多度郡に方田郡は見えない

そのため従来は弘田郷については、次のように云われてきました。

「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。
                              平凡社「日本歴史地名大系」

太政官符に「方田郷」とあるのに「弘田郷」と読み替えているのは、次のような理由です。

方田郷は「和名類来抄」の弘田郷の誤りで、「方」は「弘」の異体字を省略した形=省文であり、方田郷=弘田郷である。方田郷=弘田郷なので、空海の生誕地は善通寺付近である。

こうして空海の誕生地は、弘田郷であるとされ疑われることはありませんでした。しかし、方田郷は弘田郷の誤りではなく、方出郷という郷が実在したことを示す木簡が平成になって発見されています。それを見ていくことにします。
讃岐古代郡郷地図 弘田郷
讃岐古代の郷分布図

善通寺寺領 良田・弘田・生野郷
中世の弘田郷

弘田町
現在の善通寺市弘田町

.1つは、平成14年に明日香村の石神遺跡の7世紀後半の木簡群のなかから発見されたもので、次のように墨書されています。

方田郷

「多土評難田」        → 多度郡かたた
裏  「海マ刀良佐匹マ足奈」    → 「海部刀良」と「佐伯部足奈」
「多土評」は多度郡の古い表記で、「難」は『万東集』で「かた」と読んでいるので「難田」は「かたた」と読めます。そうすると表は「讃岐国多度部方田郷」ということになります。裏の「マ」は「部」の略字で、「佐匹」は「佐伯」でしょう。つまり、ここには「海部刀良」と「佐伯部足奈」二人の人名が記されていることになります。そして、表の地名は二人の出身地になります。

もう一つは、平成15年度に発掘された木簡で、これも七世紀後半のものです。

表  □岐国多度評

「評」は「郡」の古い表記なので、これも「讃岐国多度郡方田郷」と記されていたようです。この二つの木簡からは、方田郷が実在したことが裏付けられます。今までの「弘田郷=方田郷」説は、大きく揺らぎます。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺の遺跡

そうすると方田郷は、いったいどこにあったのでしょうか。
ヒントになるのは、普通寺伽藍の西北の地は、現在でも「かたた」と呼ばれていることです。
方田郷2

善通寺市史第1巻には「方田横井」碑が載せられていて、「方田」という地名が存在したことを指名しています。そうだとすると、律令時代の佐伯一族は、善通寺伽藍の周辺に生活していたことになります。
 古墳時代の前方後円墳の大墓山や菊塚古墳の首長達は、旧練兵場遺跡に拠点を持ち、7世紀後半なるとに最初の氏寺として仲村廃寺(伝導寺)を建立したとされます。それが律令時代になって、南海道が善通寺を貫き、条里制が整えられると、それに合わせた方向で新しい氏寺の善通寺を建立します。その時に、住居も旧練兵場遺跡群から善通寺西方の「方田郷」に移したというシナリオになります。

古代善通寺地図
         佐伯氏の氏寺 善通寺と仲村廃寺(黄色が旧練兵場遺跡群)

 しかし、これには反論が出てくるはずです。なぜなら南海道は現在の市役所と四国学院図書館を東西に結ぶ位置に東西に真っ直ぐ伸びて建設されています。そして、多度郡の郡衙跡とされるのは生野町南遺跡(旧善通寺西高校グランド)です。佐伯氏は多度郡郡長であったとされます。南海道や郡衙・条里制工事は佐伯氏の手で進められて行ったはずです。郡長は、官道に面して郡長や自分の舘・氏寺を建てます。そういう眼からするとを郡衙や南海道と少し離れているような気がします。

生野本町遺跡 
生野本町遺跡 多度郡衙跡の候補地


 ちなみに現在の誕生院は、その名の通り空海の誕生地とされ、伝説ではここで空海は生まれたとされます。この問題を解くヒントは、空海が生まれた頃の善通寺付近には、次のふたつの佐伯直氏が住んでいたことです。
1空海系図2

①田公 真魚(空海)・真雅系
②空海の弟子・実恵・道雄系
①の空海とその弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、空海の甥にあたる鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。歴史の中に消えていきます。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏については、その後の正史の中にも登場します。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、本籍地を讃岐から京に移していたことが分かります。ここからは、佐伯直氏の本家筋に当たるのは、記録の残り方からも実忠・道雄系であったと研究者は考えています。どちらにしても空海の時代には、佐伯直氏には、2つの流れがあったことになります。そうすれば、それぞれが善通寺周辺に拠点を持っていたとしても問題はありません。次回は、ふたつの佐伯氏を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏

関連記事

  
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵)

円珍を輩出した因支首氏は、貞観8年(866)に和気公へ改姓することは以前にお話ししました。これまでの研究では、地方氏族の改姓申請の際には、対象となる氏族の系評(本系帳など)が参照されていることが指摘されています。空海の佐伯直氏も改姓申請の際には、同じ祖先で一族とされた物部氏の長の「同族証明書」を発行してもらっています。同じ事が円珍の因支首氏にも求められています。そして、改姓のために作られたのが「円珍系図」でした。
 「日本書紀」などに始祖伝承が載録されていない地方氏族の場合は、改姓の訴えに虚偽が含まれていないかどうかを本宗氏や郡司が調査します。そのため申請者側が自氏の系譜を提供しています。ここからも因支首氏には改姓のために『円珍俗姓系図』を作成する必要があったと言えます。
 その詳しい経緯が、以前に見た「日本三代実録』貞観八年(866)十月二十七日戊成条と、貞観9年「讃岐国司解」に記されています。
①「日本三代実録』には、次のように記します。
「讃岐国那珂郡の人、因支首秋主・同姓道麿・宅主、多度郡の人、因支首純雄・同姓国益・巨足。男縄・文武・陶通等九人、姓を和気公と賜ふ。其の先、武国凝別皇子の市裔なり」

ここからは、讃岐国那珂郡の因支首秋主・道麿・宅生、多度郡の純雄・国益・巨足・男縄・文武・陶道ら計九人が、和気公姓を与えられたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 那珂郡の因支首氏(和気氏)一族
一方、貞観9年「讃岐国司解」には、讃岐国那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三家と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三家について、それぞれ改姓に預かった計43人(那珂郡15人、多度郡28人)が列記されています。

円珍系図2
多度郡の因支首氏
因支首氏の系図作成の動きを、研究者は次の3つの時期に分けます。
まず第一期は延暦期です。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出を命じる大政官符(大政官の命令)が出された。
②大政官符の内容は次の通りで、『日本後紀』延暦十八年十二月戊戊条に「若し元め貴族の別に出ずる者は、宜しく宗中の長者の署を取りて中すべし。(略)凡庸の徒は、惣集して巻と為せ。冠蓋の族は、別に軸を成すを聴せ」と見えている.
③これを受けた因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を一巻にまとめて、延暦十九年七月十日に提出した。
④その際に、因支首氏は「貴族の別」(武国凝別皇子より出た氏族)であることを示すため、本宗に当たる伊予御村別君氏から「宗中の長者の署」(伊予御村別君氏の氏上の署名)を受け、その支流であることを証明してもらう必要があった。
このように、本宗に当たる氏族が同祖関係を主張する支流の系譜を把握・管理することは、古くから行われていました。また「冠蓋の族」(有力氏族)は、その氏族だけで本系帳を提出することが認めらていました。しかし、因支首氏は「凡庸の徒」に分類されていたので、伊予御村別君氏とともに一巻にまとめて本系帳を提出したようです。

次に、第2期の大同期です。大同2年(807)2月22日、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出されます。これは『新投姓氏録』の編纂作業に先だって、氏族の改姓にともなう混乱を避けるための措置だったようです。そこで、因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出します。しかし、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没してしまいます。
第3期が約60年後の貞観期です。
貞観七年(865)に、改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出します。これが那珂・多度郡司と讃岐国司の審査を経て、改姓が認められます。こうして、因支首氏は60年近くの歳月を経て、悲願を達成したのです。これを受けて、次のような手順が踏まれます。
①貞観八年十月二十七日に改姓を許呵する大政官符が民部省に下されます。
②11月4日には民部省符が讃岐国に下されます。
③讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載し、貞観九年二月十六日付で「讃岐国司解」が作成された。

和気氏系図 円珍 稲木氏

このことについて『日本三代実録』と貞観九年「讃岐国司解」と、『日本後紀』延暦十八年(七九九)十二月戊戊条と、『円珍俗姓系図』の記述との間には、次のような関連する内容があることを研究者は指摘します。
①『日本三代実録』には「共の先、武国凝別皇子の苗裔なり」とあり、因支首氏を武国凝別皇子の子孫であるとする
②「讃岐国司解」にも「忍尾の五世孫、少初位上身の苗裔、此部に在り」とあり、身を忍尾別君の子孫とすること。これらは『円珍俗姓系図』の系譜と合致する。
③『円珍俗姓系図』は因支首氏の系譜に加えて、伊予御村別君氏の系譜も並べて記載していること。
④この系図が因支首氏の系譜を後世に伝えるため、あるいは円珍の出自を明らかにするために作成されたものであれば、因支首氏の系譜だけを単独で記せば事は足りる。
⑤しかし、「日本後紀』や「讃岐国司解」には「貴族の別」は「宗中の長者の署」を受けて提出するようにとの指示があった。そこで「凡庸の徒」である因支首氏は、伊予御村別君氏とともに一巻として、本系帳を提出した。
第3に「讃岐国司解」には、次のように記します。
「別公の本姓、亦、忌請に渉る。(略)望み請ふらくは(略)玩祖の封ぜらる所の郡名に拠りて、和気公の姓粍賜り、将に栄を後代に胎さんことを」

意訳変換しておくと
「別公の本姓、の「別」という文字は怖れ多い。(中略)そのためお願いしたいのは、先祖の封ぜらた郡(伊予御村別君氏の本拠である伊予国和気郡:松山市北部)の名前に因んで、「和気公」の氏姓を賜りたい。

佐伯有清氏はこれを、「別(わけ)」より「和気」の方が「とおりが良かった」ため、後者の表記を授かることを目的とした一種の「こじつけ」であるとします。いずれにしろ改姓の申請では「別」を忌避したことになっています。
それに対して『円珍系図』冒頭では、景行天皇の和風詮号を、大足彦思代別尊と「思代別尊」の間で区切るのが適切なのに、あえて「別」の文字の前で改行しています。これは「別」字に敬意を示すためで、文中に天皇の称号などを書く際、敬意を表すためにその文字から行を改め、前の行と同じ高さから書き出しているようです。これを平手といいます。つまり、大同期の改姓申請における「別公の本姓、亦、忌諄に渉る」という主張が、『円珍系図』では、形を変えて平出として表現されていることになります。
さらに『円珍俗姓系図』には、延暦・大同期に書き加えられたと思われる部分があるようです。
 8世紀前半にはB部分の原資料が伝えられており、そこに後からA部分が付加されたます。そこで研究者が注目するのがA部分の神櫛皇子の尻付に見える讃岐公氏です。この讃岐公氏は、かつて紗抜大押直・凡直を称しましたが、延暦十年(七九一)に讃岐公、承和3年(836に讃岐朝)、貞観6年(864)に和気朝臣へ改姓しています。(『日本三代実録」貞観六年八月―七日辛未条ほか)。ここからは「讃岐公」という氏姓表記が使用されたのは、延暦10年から承和3年の間に限られます。そうすると、A部分の架上もこの間に行われたことになります。その時期は、延暦・大同年間の改姓申請期と重なります。
 また、「円珍系図』の末尾付近には、子がいるにもかかわらず、人名の下に「一之」が付されていない人物が多くいます。例えば宅成の下には「之」はありませんが、子の円珍と福雄が記されいます。秋吉と秋継の下にも「之」はありませんが、子の秋主と継雄が記されています。これは、『円珍俗姓系図』がある時点までは、宅成、秋吉・秋継の所までで終了していたこと、円珍・福雄、秋主・継雄などは、後からが書き加えられたことがうかがえます。

円珍系図3
円珍系図

 四人の中で生年が分かるのは円珍だけです。
円珍は弘仁5年(814)の生まれなので、この書き継ぎはそれ以降のことです。それに対して、宅成は道麻呂の子で、秋古・秋継は宅成と同世代に当たります。道麻呂が那珂部の代表者として改姓申請を行った大同年間の頃には、宅成・秋古・秋継らは生まれていたはずです。 円珍俗姓系図は、大同の頃の人物までを記して、いったんは終了していたことがここからも裏付けられます。とするならば『円珍系図』の原資料の結合は、因支首氏と伊予御村別君氏が同祖関係にあることを示す必要が生じた延暦・大同期に行われた可能性が高いことになります。以上を整理しておくと、次のようになります。
①それまでに成立していたB部分の原資料(Bl系統の水別命~足国乃別君・□尼牟□乃別君
②B2系統の阿加佐乃別命~真浄別君まで)
③C部分の原資料(忍尾別君~身)を基礎として、
④両者の間に二行書き箇所が挿入され、B部分にA部分が架上された。
⑤一方、C部分の身以降については、延暦・大同の申請期に生まれていた人物までを書き継ぎ、そこまでで『円珍俗姓系図』(の原型)が成立した。 
 これらの作業によって、因支首氏は武国凝別皇子に出自を持ち、伊予御村別君氏と同祖関係にあることが、系譜の上で明確に示すことができるようになりました。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

次にC部分の冒頭に置かれた忍尾別君の尻付と、その子である□思親幌剛醐[]波・与呂豆の左傍の注記について見ておきましょう。
ここには、忍尾別若が伊予国から讃岐国に到来して因支首氏の女と婚姻し、その間に生まれた□思波・与呂豆は母姓により因支首氏を名乗るようになったと記します。この点については、従来は次の2つの説がありました。
①伊予国で「別(わけ)」を称号として勢力を持っていた氏族が因支首氏の祖先であるとする佐伯有清説
②因支首氏は伊予国和気郡より移住してきたとする松原説
しかし、『円珍系図』の注記を改めてよく読んでみると、忍尾別君が伊予国から讃岐国へ移住して因支首氏の女を妥ったとあります。すると、移住前から因支首氏は讃岐国にいたことがうかがえます。つまり因支首氏という氏族は、伊予国から移動してきたわけではないことになります。
 また、母姓を負った氏族が父姓への改姓を申請する場合は、実際は父姓の氏族と血縁関係を持たずに、系図を「接ぎ木」するための「方便」であることが多いことは以前にお話ししました。このため因支首氏は伊予御村別若氏ともともとは無関係で、後から同祖関係を主張するようになったとする説もあります。
 もちろん、今まで交渉のなかった氏族同士が、にわかに同祖意識を形成することはできません。そこで研究者は、伊予国と讃岐国をそれぞれ舞台とする『日本霊異記』の説話がよく似ていることに注目し、説話のモチーフが伊予国の和気公氏から讃岐国の因支首氏ヘ伝えられた可能性を指摘します。そうだとすれば、両氏族の交流が系譜の結合以前まで遡ることになります。ふたつの氏族は古い時期から、海上交通などを通じて交流関係を持っていたことがうかがえます。
 それでは、どの時期まで遡れるのでしょうか?
 円珍俗姓系図の原形の作成過程からして、延暦・大同年間までで、大化期まで遡れるとは研究者は考えていません。忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承も、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、この時期に因支首氏が創出したものとします。忍尾別君が「讃岐国司解」では「忍尾」と記されています。「別君」が付されていないことも、この人物が本来は伊予御村「別君」と関係なく、むしろ因支首氏の祖先として伝えられていたことを物語っていると結論づけます。
  以上を整理しておきます。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出が命じられた。
②因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を提出した。
③大同2年(807)、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出された。
④そこで因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出した。が、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没した。
⑤そこで貞観7年(865)に改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出した。
⑥これが認められ貞観8年改姓を許呵する大政官符が民部省に下された。
⑦讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載た「讃岐国司解」が作成された
 以上のような経緯で「円珍系図」は作成されます。その際に、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承が採用され、伊予御村別君氏の系図に因支首氏の系図が「接ぎ木」された。また、因支首氏の実質の始祖である身も7世紀初めの圧この時期に因支首氏が創出したものとします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
関連記事

   円珍系図 伊予和気氏の系図整理板 
 
以前に円珍系図について、次のようにまとめておきました。
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成したものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そのポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。
⑦ つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえるようです。

伝来系図の2重構造性

  さらに伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えていました。この説は1980年代に出された説です。それでは現在の研究者達はどう考えているのかを見ていくことにします。テキストは、鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」です。

古代氏族の系図を読み解く (541) (歴史文化ライブラリー 541)

 最初に円珍の因支首氏の系譜が、どのように成立したのかを見ておきましょう。
円珍系図  忍尾と身

 その場合のキーパーソンは「身」です。この人物は「子小乙上身。(難破長柄朝廷、主帳に任ず。〉」とあります。ここからは孝徳天皇の時代(645~54)に、主帳(郡司の第四等官)に任命されたとされます。「小乙上」とは、大化五年(649)に制定された冠位十九階の第十七位か、天智3年(664)に制定された冠位26階の第22位に当たるようです。Bの部分には冠位を持つ人物が多いのですが、C部分では身が唯一です。この人物は略系図の冒頭にも置かれている上に、貞観9年(867)「讃岐国司解」でも触れられています。因支首氏の中で重要な意味を持つ人物であったことが分かります。
しかし、身については、次のような不審点が指摘されています。
①身が孝徳朝の人物であれば、その5世代後の円珍(814~91)との間は約200年で、1代約40年前後になる。一般的には1世代約20年とされるので、間隔が開きすぎている。
②他の人物は「評造(ひょうぞう)小山上宮手古別(みやけこわけ)君」や「郡大領追正大下足国乃別君」のように、名前の上に官職がある。身の場合も「主帳明小乙上身」となるべきなのに「主帳」は尻付されている
③身は「讃岐国司解」に「少初位上身」と記されている。孝徳朝に小乙上であった人物が、大宝元年(701)以降に少初位上に任じられことになる。これは長寿過ぎるし、しかも従八位上相当から少初位上へ四階も降格したことになってしまう。
以上から、身は実際には孝徳朝の人物ではなかったとする見方も出されています。
 従来は身の生存年代に焦点が集まって、身の注記をどのように理解するのかには目配りが弱かったようです。そこで研究者は身について、改めて史料を確認します。身に関する情報は、次の2つです。
①「讃岐国司解」の「少身の官職初位上」
②「円珍俗姓系図」の「小乙上」「難破長柄朝廷」「主帳に任ず」
このうち最も信頼性が高いのは、公的な文書として作成された「讃岐国司解」の「少初位上」です。因支首氏は讃岐国多度郡に多く居住していました。また多度郡良田郷内には「因支」の転訛とされる「稲毛」という地名が残っています。ここからは、身が任命されたのは多度郡の主帳であったとされます。「讃岐国司解」には、因支首氏は多度郡と那珂都のどちらにも分布していますが、より多くの居住が確認できるのは多度郡です。ここでは多度郡衙本拠としておきます。
 多度郡には、因支首氏のほかに、佐伯直氏や伴良田連氏が勢力を持っていました。貞観3年(861)には、空海の一族とされる多度郡の佐伯直豊雄ら10人に佐伯宿禰が賜姓されています。豊雄らの系統の別祖(傍流の社)に当たる倭一胡連公(やまとのえびすのむらじきみ)は、允恭朝に讃岐国造に任命されたと伝えられます。また、讃岐国多度郡弘田郷(善通寺市弘田町)の戸主である佐伯直道長(空海の戸主)は、正六位上の位階を有しています。ここからは、佐伯直氏が多度郡の郡領氏族(那司を輩出した氏族)とされています。
 また伴良田連氏の人物も、伴良田連宗定・定信などが多度郡大領に任じられています。(『類衆符宣抄』貞元二年(977)6月25日「讃岐国司解」)。それに対して、因支首氏で位階を持つのは身だけです。ここからは、多度郡内では佐伯直氏や伴良田連氏などが有力で、因文首氏は劣勢で、主帳を輩出するのが精一杯だったと研究者は考えています。
次に、「小乙上」「難破長柄朝廷」についてです。
円珍の五世代前の身が孝徳朝に生存していても不自然ではなく、孝徳朝の人物が大宝以降まで存命した可能性もあります。しかし、孝徳朝に小乙上(従八位上相当)であった人物が、のちに四階も降格されることは考えられません。したがって、「小乙上」には何らかの錯誤があると研究者は推測します。そこで、注目するのがB部分の足国乃別君に付された「追正大下」という冠位です。これを「追正八下」の誤記で、「迫正八位下」の意味であり、「位」が省略されたものとします。そうだとすれば、身ももともとは「少初位上」の「位」を省略して「少初上」とあったものが、書写の際に「小乙上」に誤って書き写された、読み替えられたと考えられます。「小乙上」を「少初(位)上」の誤記と見るのです。身が「少初位上」で、多度郡の「主帳」であったとすると、「難破長柄朝廷」だけがこれらの要素と合わないことになります。この文言には何らかの潤色偽作が加えられていることが考えられます。
大化2年(646)の大化改新詔には、次のように記します。
「其の郡司には、並びに国造の性 識清廉くして、時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして、書算に巧なる者を主政・主帳とせよ」

 ここからは、主帳が孝徳朝から置かれていたことが分かります。。
また、律令制下には「譜第」(孝徳朝以来、郡領に代々任命されてきた実績があること)が重視されています。そのために多度郡の譜第郡司氏族ではない因支首氏が、佐伯直・伴良田連両氏に対抗するために、身が孝徳朝からすでに主帳であったように記し、自らの系図を遡らせようとしたと研究者は推測します。

以上を整理しておくと次のようになります。
①身は7世紀半ばの大化年間の人物ではなく、8世紀前半に少初位上の位階を持った讃岐国多度郡の主帳に任じられた人物であること
②それゆえに因支首氏にとっては顕彰すべき祖先であったこと
また 研究者は身の名前の下に「之」が付されていないことに注目します。
身のように子がいるにもかかわらず、人名の下に「之」が付されていない例はありません。とするならば、『円珍俗姓系図』のもとになった原資料が身の代で終わっていて、それ以降の世代は後から書き加えられたことが考えられます。それは、次の点からも裏付けられます。
①B部分は倭子原資料の成立時期 
②別君・加祢占乃別君のところでさらに二つの系統に分岐するが、前者の末尾に置かれた足国乃別君には「郡大領」の官職が付されていること。
③大領は、大宝元年(701)の大宝律令で定められた郡司の第一等官であること。 
④一方、後者の末尾から二番目の川内乃別君には「大山上」の冠位があること。大山上は、大化五年から天武14年(685)まで使用された冠位です。ここからは、川内乃別君の子の□尼牟□乃別君(後者の系統の末尾)は、およそ8世紀前半の人物ということになります。
つまり、B部分(Bl系統)の末尾に位置する足国乃別君・□尼牟□乃別君は、身とほぼ同時代の人物ということです。よって、B部分(Bl系統)がこれらの人物の世代で終わっているのと同様に、当初はC部分も身の上代までで終わっていたいたとします。

この時期には、諸氏族の氏上(うじのかみ:氏族の統率者)や系譜を記録した書物が作成されます。
そして「墓記」(氏族の祖先が王権に代々奉仕してきたことを記した書物)の提出や、氏上の選定が命じられるなど、氏族に関するさまざまな政策が実施されます。これは中央氏族を対象としていましたが、その影響が地方氏族も及んでいたようです。7世紀後半から8世紀前半にかけて、諸氏族の系譜が整備される中で、『円珍俗姓系図』の原資料も成立していたことが推定されます。すなわち、
①B部分はBl系統の水別命から足国乃別君・□尼牟□乃別君までと
②B2系統の阿加佐乃別命から真浄別飛まで、
③C部分は忍尾別君から身まで
が伝えられており、それらが『円珍俗姓系図』の作成時に基礎として用いられたというのです。
これまで、B部分が足国乃別君・□尼牟□乃別君の世代で終わっている理由はよく分かりませんでした。しかし、C部分も当初は同じ世代で終わっていたとすれば、その理由も自ずから見えて来ます。
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
関連記事

  天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことが史料に最初に登場するのは、寛平七年(895)の『贈大僧正空海和上伝記』です。それでは、それ以前の「仏教的祈雨」とは、どんなものがあったのでしょうか。研究者は次の4つを挙げます。
①諸大寺での読経
②大極殿での読経
③東大寺での読経
④神泉苑での密教的な修法
この中で先行していたのは、①諸大寺での読経と②大極殿での読経のふたつでした。ふたつの中でも②の大極殿での祈雨の方が有力だったようで、頻繁に行われています。例えば『続日本後紀』を年代順に挙げておくと、承和十二年(845)5月1日、5月3日には2日間延長し、5月5日にはさらに2日間延長して祈雨読経が行われていますいます。この頃は、大極殿で行う事が定着し、他の祈雨修法は見られません。それが約30年ほど続きます。
 大極殿での祈雨に参加するのは天台・真言のほか七大寺を含めた諸宗派の僧でした。
この時期は祈雨について宗派間の抗争が生じることはなく、平穏な状態で行われていました。それが破られるのは、貞観十七年(875)のことです。『三代実録』には同年6月15日の条に、次のようにあります。
(前略)屈六十僧於大極殿 限三箇日 転読大般若経 十五僧於神泉苑 修大雲輪請雨経法 並祈雨也。  (後略)
意訳変換しておくと
(前略)六十人の僧侶が大極殿で三日間、大般若経の転読を行った。一方、十五人の僧侶が神泉苑 で大雲輪請雨経法を修法して祈雨した。(後略)

 ここで初めて大極殿以外の神泉苑で大雲輪請雨経法が15人の僧侶によって修法されています。祈雨に請雨経法が出てくるのは、正史ではこの記事が初見のようです。ここからは、一五人の僧侶は新しい祈雨の修法を持って登場し、その独自性を主張したことが考えられます。これを鎌倉中期成立の『覚禅抄』では、空海の弟である真雅が行ったことにしています。しかし、それよりも速い永久五年(1117)頃の『祈雨日記』には、次のように記します。

 貞観年中種々祈雨事。但以神事無其験云々。僧正真雅大極殿竜尾壇上自不絶香煙祈請。小雨降。

意訳変換しておくと
 貞観年中には、さまざまな祈雨が行われた。但、神事を行ってもその効果はなかったと云う。(空海の弟である)僧正真雅は大極殿の竜尾壇上で香煙を絶やさず修法を行った。その結果、小雨があった。

ここには真雅は大極殿での祈雨に参加していて、神泉苑での祈雨のことは何も触れられません。神泉苑での修法は、この時が初めてで、祈雨の中心はあくまでも大極殿での読経であったようです。そうだとすると当時の東密の第一人者であった真雅は、大極殿への出席を立場上からも優先させるはずです。それがいつの間にか、神泉苑での東密による祈雨の方が次第に盛になります。そのために、この時の修法が真雅の手によるものであったと伝承が変わってきたと研究者は考えています。
貞観17(875)年の15人の僧による神泉苑での修法が、宗派間に波紋を投げかけたようです。
これを契機に、さまざまな祈雨法が各宗派から提案されるようになります。『三代実録』同年6月16日の条には、次のような記事があります。
 申時黒雲四合。俄而微雨。雷数声。小選開響。入夜小雨。即晴。先是有山僧名聖慧。自言。有致雨之法 或人言於右大臣即給二所漬用度紙一千五百張。米五斗。名香等聖慧受取将去。命大臣家人津守宗麻呂監視聖慧之所修。是日宗麻呂還言曰。聖慧於西山最頂排批紙米供天祭地。投体於地 態慰祈請。如此三日。油雲触石。山中遍雨。

意訳変換しておくと
 祈雨修法が行われると黒雲が四方から湧きだし、俄雨が少し降り、雷鳴が何度かとどろいた。次第に雷鳴は小さくなり、夜になって小雨があったが、すぐに晴れた。ここに聖慧という山僧が云うには、雨を降らせる修法があると云う。そこで右大臣は、すぐさま祈祷用の用度紙一千五百張。米五斗、名香などを聖慧に与えた、家人の津守宗麻呂に命じて、聖慧の所業を監視するように命じた。 宗麻呂が還って報告するには、聖慧は西山の頂上に紙米を天地に供え、五体投地して懇ろに祈願した。その結果、この三日間。雨雲がわき上がり、山中は雨模様であった。

 ここからは6月15日の15人の僧侶が神泉苑で祈雨修法に、それに対抗する形で山僧の聖慧が祈雨修法を行っていたことが記されています。
 これに続いて、6月23日の条には次のように記されています。
 古老の言うには、神泉苑には神竜がいて、昔旱勉の時には水をぬいて池を乾かし、鐘太鼓を叩くと雨が降ったという。その言葉に従って、神泉苑の水をぬいて竜舟を浮かべ、鐘・太鼓を叩いて歌舞を行った。

このように、古老の言い伝えによる土俗的方法までも、朝廷は採用しています。効き目のありそうなものは、なんでも採用するという感じです。そこまで旱魃の被害が逼迫していたとも言えそうです。
 以上のように、この年はこれまでになく新たな祈雨修法が行われた年でした。それは、長い厳しい旱魃であったこともありますが、その動きを開いたのは、一五僧による神泉苑での祈雨がきっかけを作ったものと研究者は指摘します。
 2年後の元慶元年(877)も、旱魃の厳しい年でした。
そのためこの年も種々の修法が提案され、様々な方法が取り上げられています。それを『三代実録』で見ておきましょう。
まず初めは、6月14日のことです。

(前略)是日。左弁官権使部桑名吉備麿言。降雨之術。請被給香油紙米等試行之。三日之内。必令有験。於是給二香一斤。油一斗。紙三百張。五色細各五尺。絹一疋。土器等
意訳変換しておくと
(前略)この日、左弁官権使部の桑名吉備麿が自ら、私は降雨之術を会得しているので、香油紙米らを授けて試行させたまえ、されば三日の内に、必ずや験がありと云う。そこで、香一斤・油一斗・紙三百張・五色細各五尺・絹一疋・土器を授けた。

 桑名吉備麿は、自分が降雨の術を持つことを売り込んでいるようで、それに必要な物を要求しています。
さらに6月26日には、次のように記します。

屈伝燈大法師位教日於神泉苑 率廿一僧。修金麹鳥王教法。祈雨也。
意訳変換しておくと
伝燈大法師が神泉苑で、21人の僧侶を率いて。金翅鳥王教法を修法し、祈雨を祈願した。

「金翅鳥王教法」という祈雨修法は、初見です。神泉苑で、それまでにない修法が行われています。しかし、雨が降ったとはありません。これが駄目なら新しい祈雨の登場です。翌日の6月27日には、次のように記します。

遣権律師法橋上人位延寿。正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相於東大寺大仏前 限以三日‐修法祈雨。遂不得嘉満
意訳変換しておくと
 権律師法橋上人位の延寿をして、正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相が東大寺大仏前で 三日間に限って 祈雨修法を行うが、効果はなかった。

 この後には、7月7日から5日間、紫宸殿で百人の僧による大般若経の転読が行われますが、これも、効果はありません。そこで7月13日から、また異なった方法で祈雨が次のように行われます。

 先是。内供奉十禅師伝燈大法師位徳寵言。弟子僧乗縁。有呪験致雨之術 請試令修之。但徴乗縁於武徳殿 限以五日 誦呪祈請。是日。未時暴雨。乍陰乍響。雨沢不洽。
意訳変換しておくと
 内供奉十禅師の伝燈大法師位・徳寵が云うには、弟子僧の乗縁は祈雨の術に優れた術を持っていることを紹介して、試しにやらせてくれれと申し入れてきた。そこで、武徳殿で五日に限って修法を行わせたところ 暴雨になり雨は潤沢に得た。

 ここでも、新たな祈雨法が武徳殿で行われています。これまでは、祈雨と言えば大極殿で大般若経を転読するものと決まっていました。それが一五僧の請雨経法が神泉苑で行われた後は、自薦他薦による新しい修法の売込み合戦とも言うべき様相となっていたことが分かります。これは当然の結果として、祈雨修法をめぐって宗派間の対立・抗争を生み出します。その際に研究者が注目するのは、この時点では神泉苑での祈雨修法が、真言東密だけの独占とはなっていなかったことです。そのために様々な祈雨修法が採用され、実施されたのです。
 『三代実録』元慶四年五月二十日の条には、次のように記します。

(前略)有勅議定。始自廿二日、三ケ日間。於賀茂松尾等社 将修二濯頂経法 為祈雨也。(後略)
意訳変換しておくと
(前略)勅議で22日から三ケ日間、賀茂松尾等社で「濯頂経法」が修法され、祈雨が行われた。(後略)

ここにも「濯頂経法」というこれまでにあまり聞かない祈雨修法が行われています。この後、大雨となりすぎて、逆に神泉苑で濯頂経法を止雨のために修法しています。これらを見ると、この時も祈雨修法のやり方が固定化していなかったことがうかがえます。
 貞観17年から元慶4年にかけての混沌とした様相の後、約十年にわたって仏教的祈雨の記事が出てこなくなります。この間は比較的天候が順調だったのでしょう。次に仏教的祈雨が見られるのは、寛平3年(891)になります。『日本紀略』同年六月十八日の条に、次のように記します。

極大極殿 延屈名僧 令転読大般若経 又於神泉苑 以二律師益信 修請雨経 同日。奉幣三社 
意訳変換しておくと
大極殿で延屈名僧によって大般若経が転読されるとともに、神泉苑で東寺の律師益信によって請雨経法が修せられ、三社に奉納された。

 ここでは、それまでのようないろいろな修法を試すという状況は、見られません。そして、この後は、神泉苑での祈雨は、東密によって独占されていきます。891年に、益信が祈雨を行った時には、すでに神泉苑での祈雨が東密の行うものであるという了解のようなものが、ほぼできあがっていたと研究者は考えています。
これと関連する史料である寛平7(883)年成立の『贈大僧正空海和上伝記』には、次のように記します。

 天長年中有早災 皇帝勅和上 於神泉苑令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任少僧都
意訳変換しておくと
 天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功によって少僧都に任じられた

ここからは、この記事が書かれた寛平7年には、もうすでに空海請雨伝承が成立していたことが分かります。寛平7年は、益信の祈雨より4年後のことになります。伝承成立が、益信の祈雨以前であったと研究者は考えています。真言側は、この空海請雨伝承でもって、自らの神泉苑での祈雨の正当性を朝廷に訴えていったのでしょう。
 しかし、ここではこの時点での伝承の内容は、空海が神泉苑で祈雨を行いそれによって少僧都に任じられたということだけで、それ以上のものではなかったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...
神泉苑
 天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことは、空海の伝記類のほとんどが取り上げています。その伝記類の多くが、祈雨に際して、空海が請雨経法を修したと記します。これが「空海請雨伝承」と一般に呼ばれているものです。
2善女龍王 神泉苑2g

 鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』で、「神泉祈雨事」の部分を見ておきましょう。

 淳和天皇の御宇天長元年に天下大に日でりす。公家勅を下して。大師を以て雨を祈らしめんとす。南都の守敏申て云守敏真言を学して同じう御願を祈らんに、我既に上臆なり。先承りて行ずべしと奏す。是によりて守敏に仰せて是を祈らしむ。七日の中に雨大に降。然どもわづかに京中をうるほし。いまだ洛外に及ぶ事なし。

 重て大師をして神泉苑にして請雨経の法を修せしむ。七日の間 雨更にふらず。あやしみをなし。定に大観じ給ふに守敏呪力を以て、諸竜を水瓶の中に加持し龍たり。但北天竺のさかひ大雪山の北に。無熱池と云池あり。其中に竜王あり。善女と名付。独守敏が鈎召にもれたりと御覧じて公家に申請て。修法二七日のべられ。
  彼竜を神泉苑に勧請し給ふ。真言の奥旨を貴び 祈精の志を感じ 池中に形を現ず。金色の八寸の蛇。長九尺計なる蛇の頂にのれり。実恵。真済。真雅。真紹。堅恵。真暁。真然。此御弟子まのあたりみ給ふ。自余の人みる事あたはず。則此由を奏し給ふ。公家殊に驚嘆せさせ給ひて、和気の真綱を勅使にて、御幣種々の物を以て竜王に供祭せらる。密雲忽にあひたいして、甘雨まさに傍陀たり。三日の間やむ事なし。炎旱の憂へ永く消ぬ。上一大より下四元に至るまで。皆掌を合せ。頭をたれずと云事なし。公家勧賞ををこなはれ。少僧都にならせ給ひき。真言の道、崇めらるゝ事。是よりいよくさかんなり。大師茅草を結びて、竜の形を作り、壇上に立てをこなはせ給ひけるが。法成就の後、聖衆を奉送し給ひけるに、善女竜王をばやがて神泉苑の池に勧請し留奉らせ給ふて、竜花の下生、三会の暁まで、此国を守り、我法を守らせ給へと、御契約有ければ、今に至るまで跡
を留て彼池にすみ給ふ。彼茅草の竜は、聖衆と共に虚にのぼりて、東をさして飛去。尾張国熱田の宮に留まり給ひぬ。彼社の珍事として、今に崇め給へりといへり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞軋にや。大師の言く、此竜王は。本是無熱池の竜王の類なり。慈悲有て人のために害心なし。此池深して竜王住給は七国土を守り給ふべし。若此竜王他界に移り給は七池浅く水すくなくして。国土あれ大さはがん。若然らん時は。我門徒たらん後生の弟子、公家に申さず共、祈精を加へて、竜王を請しとゞめ奉りて、国土をたすくべしといへり。今此所をみるに。水浅く池あせたり。をそらくは竜王他界に移り給へるかと疑がふべし。然ども請雨経の法ををこなはるゝ毎に。掲焉の霊験たえず。いまだ国を捨給はざるに似たり。(後略)
意訳変換しておくと
 淳和天皇治政の天長元(824)年に天下は大旱魃に襲われた。公家は、弘法大師に命じて祈雨祈祷を行わせようとした。すると南都奈良の守敏も真言を学んでいるので、同じく雨乞祈祷を行わせてはどうかと勧めるものがいた。そして準備が既に出来ているということなので、先に守敏に祈祷を行わせた。すると七日後に、雨が大いに降った。しかし。わずかに京中を潤しただけで、洛外に及ぶことはなかった。

 そこで弘法大師に、神泉苑での請雨経の法を行わせた。七日の間、修法を行ったが雨は降らない。どうして降らないのかと怪しんだところ、守敏が呪力で、雨を降らせる諸竜を水瓶の中に閉じ込めていたのだ。しかし、天竺(インド)の境堺の大雪山の北に、無熱池という池あった。その中に竜王がいた。その善女と名付けられた龍は、守敏も捕らえることができないでいた。
2善女龍王 神泉苑g

そこで、その善女龍王を神泉苑に勧請した。すると、真言の奥旨にを貴び、祈祷の志を感じ、池中にその姿を現した。それは、金色の八寸の蛇で、長九尺ほどの蛇の頂に乗っていた。実恵・真済・真雅・真紹・堅恵・真暁・真然などの御弟子たちは、その姿を目の当たりにした。しかし、その他の人々には見ることが出来なかった。すぐにそのさまを、奏上したところ、公家は驚嘆して、和気の真綱を勅使として、御幣など種々の物を竜王に供祭した。すると雲がたちまち広がり、待ち焦がれた慈雨が、三日の間やむ事なく降り続いた。こうして炎旱の憂いは、消え去った。上から下々の者に至るまで、皆な掌を合せ、頭をたれないものはいなかったという。これに対して、朝廷は空海に少僧都を贈られた。
 以後、真言の道が崇められる事は。ますます盛んとなった。大師は茅草を結んで、竜の形を作り、壇上に立て祈雨を行った。祈雨成就後は、善女竜王を神泉苑の池に勧請し、留まらせた。こうして未来永劫の三会の暁まで、この国を守り、我法を守らせ給へと、契約されたので、今に至るまで神泉苑の池に住んでいます。
 また茅草の竜は、聖衆と共に虚空に登って、東をさして飛去り、尾張国熱田の宮に留まるようになったと云う。熱田神宮の珍事として、今も崇拝を集めています。これこそが仏法東漸の先兆で、東海鎮護の奇瑞である。大師の云うには、この竜王は、もともとは無熱池の竜王の類である。しかし、慈悲があり、人のために害心がない。この池は深く、竜王が住めば国土を守ってくれる。もしこの竜王が他界に移ってしまえば池は浅くなり、水は少なくなって、国土は荒れ果て大きな害をもたらすであろう。もし、そうなった時には、我門徒たちは、後生の弟子、公家に申し出ることなく、祈祷を行い、竜王を留め、国土を守るべしと云った。今、この池を見ると、水深は浅くなり、池が荒れています。このままでは、竜王が他界に移ってしまう恐れがある。しかし、請雨経の修法を行う度に。霊験は絶えない。いまだこの国をうち捨てずに、守っていると言える。(後略)
2善女龍王2

 この後は、神泉苑が大変荒れた状態になっているので、早く復旧すべきであると結んでいます。以上をまとめておくと
①天長元(824)年の旱魃の時に、空海と守敏が祈雨において験比べを行うことになった。
②その時に、空海が善如竜王を勧請して雨を降らせた
③神泉苑には今もその竜王が棲むことを説く話
空海請雨伝承は、この話が書かれた鎌倉時代の中頃には内容的にかなりボリュームのあるものになっていたことが分かります。これを、後世の伝記類はそのまま継承します。

 空海請雨伝承が初めて登場した寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』と、比較しておきます。
天長年中有旱 皇帝勅和上 於神泉苑 令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任二少僧都

意訳変換しておくと 
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功により少僧都に任じられた
ここには、これ以上のことは何も書かれていません。空海と験比べをした守敏の名前も、神泉苑に棲む善如竜王も出てきません。伝説や民話は時代が下れば下るほど、いろいろな物がいろいろな人の思惑で付け加えられていくとされます。空海請雨伝承は、時間の経過とともに内容の上でかなり脚色が加えられ、話が大きく発展していったことを押さえておきます。空海請雨伝承の話の根幹は、天長元年に空海が神泉苑で雨乞を行い、それによって少僧都に任じられたということです。
 この話は、長く史実と考えられてきましたが戦後になって、次のような異論が出されます。
佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します。

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
佐々木氏が言うように、説話の成立にはそれが必要とされた歴史的な背景があったようです。次にその説話成立の背景を探ってみましょう。

 空海による史実としての祈雨は、どのように記されているのか。
 天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話については、研究者から疑問が出されています。しかし、全くの創作とは言えないようです。というのは、空海の祈雨が「日本紀略」にあるからです。『日本紀略』 天長四年五月二十六日の条に次のようにあります。

 命二少僧都空海 請仏舎利裏 礼拝濯浴。亥後天陰雨降。数剋而止。湿地三寸。是則舎利霊験之所感応也。

 意訳変換しておくと
 空海を少僧都を命じる。空海は内裏に仏舎利を請じて、礼拝濯浴した。その結果、天が陰り雨が降った。数刻後に雨は止んだが、地面を三寸ほど湿地とするほどの雨であった。これは舎利の霊験とする所である。

 この内裏で祈雨成就は、空海の偉業の一つとして数えられてもよい史実です。しかし、後世の伝記類はこれを取り上げようとはしません。こちらよりも神泉苑を重視します。それは神泉苑の方がストーリー性があり、ドラマチックな展開で、人々を惹きつける形になっているからかもしれません。神泉苑の請雨伝承は、時間とともに大きく成長していきます。南北朝期に成立した『太平記』では「神泉苑の事」として、さらに多くのモチーフが組み合わされていきます。このように、史実のほうが話としては発展を見ずに、伝承のほうが発展しているところが面白い所です。見方を変えると、後世の伝記類の書き手にとっては、空海が内裏で仏舎利を請じて祈雨を行ったという史実よりも、神泉苑で請雨経法を修したという伝承のほうがより重要だったようです。そこに、この伝承の持つ意味や成立の背景を解く鍵が隠されていると研究者は考えています。
今回はここまでです。以上をまとめておきます。
①天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話が空海請雨伝承として伝わっている。
②これは鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』の「神泉祈雨事」の内容が物語化されたものである。
③しかし、空海請雨伝承が初めて登場する寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』には、僅かな分量で記されているに過ぎない。
④『日本紀略』天長四年五月二十六日の条には、空海の雨乞修法を成功させ、その成功報酬として少僧都に命じられたと短く記す。しかも場所は、内裏である。
⑤後世の弘法大師伝説は、②を取り上げ、④は無視する。
この背景には、真言密教の戦略があったようです。それはまた次回に。

参考文献
藪元昌 善女龍王と清滝権現 雨乞儀礼の成立と展開所収

 

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡の建物配置図
   稲木北遺跡は、図のように掘立柱建物群が、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたことをお話しました。その特徴は以下の通りです。
①大型の掘立柱建物跡8棟の同時並立。
②そのまわりを大型柵列跡が囲んでいること
③建物跡は多度郡条里ラインに沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向の左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤基準線から対象に建物跡が建っている
⑥中央の建物が中核建物で庁舎
⑦柵外には総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土土器の時期幅が、ごく短期間に限られているので、実質の活動期間が短い
以上からは、稲木北遺跡が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的に設計されていることが分かります。「正倉が出たら郡衙と思え」ということばからすると、ほぼ郡衙跡にまちがいないようです。

稲木北遺跡との比較表

稲木北遺跡をとりまく状況について研究者は報告会で、次のように要約しています。

稲木北遺跡2
稲木北遺跡をめぐる状況
  交通路については、かつては南海道がこのあたりを通って、鳥坂峠を越えて三豊に抜けて行くとされていました。しかし、発掘調査から南海道は「飯山高校 → 郡家宝幢寺池 → 善通寺市役所」のラインで大日峠をこえていくと、研究者達は考えるようになっています。しかし、鳥坂峠は古代においても重要な戦略ポイントであったようです。

稲木北遺跡 多度郡条里制
南海道と条里制
稲木北遺跡は多度郡の中央部にあたります。ここを拠点にした豪族としては、因支首氏がいます。この郡衙を建設した第一候補に挙げられる勢力です。
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓申請の結果、和気公が賜姓された記事があります。また、その時の申請資料として作成された「和気氏系図(円珍系図)」が残されています。この系図は、実際には因支首氏系図と呼んでもいい内容です。この系図に載せられた因支首氏を見ていくことにします。
円珍系図 那珂郡
広雄が円珍の俗名です。その父が宅成で、その妻が空海の妹とされます。父の弟が「二男宅麻呂(無児)」で、出家し最澄の弟子となる仁徳です。円珍の祖父が道麻呂になります。ここからは、那珂郡には道麻呂・宅主・秋主の3グループの因支首氏がいたことが分かります。国司が中央に送った「讃岐国司解」で和気氏への改姓が許されたのは、那珂郡では、次の人達です。
道麻呂の親族 8名
道麻呂の弟である宅主の親族 6名
それに子がいないという金布の親族 1名
次に多度郡の因支首氏を見ておきましょう。

円珍系図2


国益の親族 17名
国益の弟である男綱の親族    5名
国益の従父弟である臣足の親族  6名
多度郡にも3つのグループがあります。那珂郡と多度郡をあわせて6グループ43名に賜姓がおよんでいます。

 因支首氏は、金蔵寺を氏寺として創建したとされ、現在の金蔵寺付近に拠点があったとされます。
それを裏付けるような遺跡が金蔵寺周辺から永井・稲木北にかけていくつか発掘されています。因支首氏が那珂郡や多度郡北部に勢力を持つ有力者であったことが裏付けられます。
 地元では、空海と円珍の関係が次のようによく語られています。

「円珍の父・宅成は、善通寺の佐伯直氏から空海の妹を娶った、そして生まれのが円珍である。そのため空海と円珍は伯父と甥の関係にある。」(空海の妹=円珍の母説)

確かに、因支首氏と佐伯直氏の間には何重にも結ばれた姻戚関係があったことは確かです。しかし、金倉寺の因首氏が、郡司としての佐伯氏を助けながら勢力の拡大を図ったという記事には首を傾げます。金倉寺は那珂郡で、善通寺や稲木は多度郡なのです。行政エリアがちがいます。ここでは因支首氏の中にも、那珂郡の因支首氏と、多度郡の因支首氏があって、円珍もこのふたつをはっきりと分けて考えていたことを押さえておきます。一族ではあるが、その絆がだんだん薄れかけていたのです。
 円珍系図が作られれてから約500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。「稲毛」は因岐首氏の 「因岐」からの転化のようです。ここからは「稲毛」という地名が残っている良田郷が多度郡の因岐首氏の本拠地であったことになります。そうだとすれば、稲木北遺跡は良田郷に属するので、8世紀初頭に因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は、さらに高くなります。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図
         円珍系図 忍尾別(わけ)君
 円珍系図には因支首氏の始祖とされる忍尾別(わけ)君が伊予国からやってきて、因岐首氏の娘と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったと記します。
しかし、忍尾別(わけ)君は伊予和気氏の系譜に、因支首氏の系譜を「接ぎ木」するための創作人物です。実際の始祖は、7世紀に天武政権で活躍した「身」と研究者は考えています。因支首氏は、7世紀半ばの「身」の世代に那珂郡の金倉寺周辺拠点を置いて、そこから多度郡の永井・稲木方面に勢力を伸ばしていったとしておきます。
そして、伊予からやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は推測します。
こうして、因岐首氏によって開発と郡衙などの施設が作られていきます。
稲木北遺跡の周辺遺跡
稲木遺跡周辺の同時代遺跡

稲木北遺跡について研究者は次のように評します。

「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

 ここで私が気になるのが以前にお話した曼荼羅寺です。
曼荼羅寺は、吉原郷を勢力下に置く豪族Xの氏寺として建立されたという説を出しておきました。今までの話から、その豪族Xが多度郡を基盤とする因支首氏ではなかったのかと思えてくるのです。那珂郡と多度郡の因支首氏がそれぞれ独立性を高める中で、それぞれの氏寺を建立するに至ったという話になります。これについては、また別の機会に改めてお話しします。

新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、稲木北の郡衙的施設は作られたという説を紹介しました。
 しかし、この施設には、次のような謎があります。
①使用された期間が非常に短期間で廃棄されていること
②土器などの出土が少く、施設の使用跡があまりないこと
③郡衙跡にしては、硯や文字が書かれた土器などが出てこないこと
ここから、郡衛として機能したかどうかを疑う研究者もいるようです。
  稲木北遺跡の建築物群は、奈良時代になると放棄されています。
その理由は、よく分かりません。多度郡の支配をめぐって佐伯直氏の郡司としての力が強化され、善通寺の郡衙機能の一元化が進んだのかも知れません。

以上をまとめておきます
①稲木北遺跡は多度郡中央部に位置する郡衙的遺跡である。
②この郡衙の建設者としては、多度郡中央部を拠点とした因支首氏が考えられる
③因支首氏は9世紀の円珍系図からも那珂郡や多度郡に一族がいたことが分かる。
④因支首氏は、7世紀半ばにその始祖がやって来て、天智政権で活躍したことが円珍系図には記されている
⑤新興勢力の因支首氏は、金倉方面から永井・稲木方面に勢力を伸ばし、那珂郡と多度郡のふたつに分かれて活動を展開した。
⑥その活動痕跡が、稲木北の郡衙遺跡であり、鳥坂峠の麓の西碑殿遺跡、矢ノ塚遺跡の物資の流通管理のための遺跡群である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年
関連記事

        
4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺(因支首氏の氏寺)
  子供の頃に金倉寺にお参りに行ったときに、次のような話を祖母から聞いたおぼえがあります。

「このお寺は智証大師が建てたんや。大師というのはお坊さんの中で一番偉い人や。大師を一番多く出しているのは讃岐や。その中でも有名なのが弘法大師さんと智証大師や。ほんで、智証大師のお母さんは、弘法大師さんの妹やったんや。善通寺の佐伯さんとこから、金倉寺の因支首(いなぎ:地元では稲木)さんの所へ嫁いできて、うまれたのが智証大師や。つまり弘法大師さんと智証大師は、伯父と甥の関係ということや。善通寺と金倉寺は親戚同士の関係や」
智証大師 金倉寺
智証大師(金倉寺蔵)
   本当に円珍(智証大師)の母は、空海の妹なのでしょうか? 
今回はそれを史料で見ておくことにします。 テキストは「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」です。
  まず佐伯直氏について、押さえておきます。
805(延暦24年)9月11日付の「太政官符」には、次のように記します。

空海 太政官符2
空海延暦24年の太政官符
ここからは次のような事が分かります。
①空海の俗名は、真魚
②本貫は、多度郡方(弘)田郷の戸主佐伯直道長の戸口
③空海が延暦22年4月9日に出家していること
これに対して『三代実録』貞観三年十一月十一日辛巳条には、次のように記します。
「讃岐国多度郡人故佐伯直田公……而田公是僧正父也」

ここには「田公是僧正父也」とあって、空海の父を佐伯直田公と記します。ふたつの史料の内容は、次の通りです。
①太政官符は空海(真魚)の戸主=佐伯直道長
②『三代実録』では空海の父 =佐伯直田公
つまり、空海の戸主と父が違っていることになります。今では、古代の大家族制では何十人もがひとつの戸籍に登録されていて、戸主がかならずしも、当人の父でなかったことが分かっています。それが古代には当たり前のことでした。しかし、戸主権が強くなった後世の僧侶には「戸主と父とは同一人物でなければならない」とする強迫観念が強かったようです。空海の父は道長でなければならないと考えるようになります。
空海系図 伴氏系図
伴氏系図

その結果、『伴氏系図』のように空海の父を道長とし、田公を祖父とする系図が偽作されるようになります。そして円珍と空海の続柄を、次のように記します。
 
空海系図 伴氏系図2

この系図では、次のように記されています。
田公は空海の祖父
道長が父
空海の妹が円珍の母
空海は円珍の伯父
これは先ほど見た太政官符と三代実録の記述内容の矛盾に、整合性を持たせようとする苦肉の策です。
こうした空海と円珍の続柄が生れたのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』に由来するようです。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の妹」とは記されていないことです。「空海の姪」です。しかし、ここで『伴氏系図』の作者は、2つの意図的誤訳を行います。
①Bの主語は、円珍の母であるのに、Bの主語を円珍とした
②そしてBの「姪」を「甥」に置き換えた
当時は「姪」には「甥」の意味もあったようでが、私には意図的な誤訳と思えます。こうして生まれたのが「円珍の母=空海の姪」=「円珍=空海の甥」です。この説が本当なのかどうかを追いかけて見ることにします。
研究者は空海の門弟で、同族の佐伯直氏であった道雄(どうゆう)に注目します。

空海系図 松原弘宣氏は、佐伯氏の系図

道雄とは何者なのでしょうか? 道雄は上の松原氏の系図では、佐伯直道長直系の本家出身とされています。先ほども見たように、佐伯直道長の戸籍の本流ということになります。ちなみに空海の父・田公は、傍流だったことは以前にお話ししました。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 承和十四年拝律師 嘉祥三年転権少僧都 会病卒。初道雄有意造寺。未得其地 夢見山城国乙訓郡木上山形勝称情。即尋所夢山 奏上営造。公家頗助工匠之費 有一十院 名海印寺 伝華厳教 置二年分度者二人¨至今不絶。

意訳変換しておくと
権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。また閣梨空海から真言教を受けた。承和十四年に律師を拝し 嘉祥三年には権少僧都に転じ、病卒した。初め道雄は意造寺で修行したが、その地では得るものがなく迷っていると、夢の中に山城国乙訓郡木上山がふさわしいとのお告げがあり、夢山に寺院を建立することにした。公家たちの厚い寄進を受けて十院がならぶ名海印寺建立された。伝華厳教 二年分度者二人を置く、至今不絶。(以下略)

ここには道雄の本貫は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海に師事したことが分かります。また、円珍と道雄との関係にも何も触れていません。ちなみに「和尚慈勝に師事して唯識論を受け」とありますが、和尚慈勝は多度郡の因支首氏出身の僧侶であったようです。この人物については、また別の機会に触れたいと思います。
道雄については朝日歴史人物辞典には、次のように記されています。

平安前期の真言宗の僧。空海十大弟子のひとり。空海と同じ讃岐多度郡の佐伯氏出身。法相宗を修めたのち,東大寺華厳を学び日本華厳の第7祖となる。次いで空海に師事して密教灌頂を受け,山城乙訓郡(京都府乙訓郡大山崎町)に海印寺を建立して華厳と真言の宣揚を図った。嘉祥3(850)年,道雄,実慧の業績を讃えて出身氏族の佐伯氏に宿禰の姓が与えられた。最終僧位は権少僧都。道雄の動向は真言密教と華厳,空海と東大寺の密接な関係,および空海の属した佐伯一族の結束を最もよく象徴する。弟子に基海,道義など。<参考文献>守山聖真編『文化史上より見たる弘法大師伝』

以上から道隆についてまとめておくと、次のようになります。
①讃岐佐伯直道長の戸籍の本家に属し
②空海に師事した、空海十大弟子のひとり
③京都山崎に海印寺を建立開祖

これに対して「弘法大師弟子譜」の城州海印寺初祖贈僧正道雄伝には、次のように記されています。

僧正。名道雄。姓佐伯宿禰。讃州多度郡人。或曰 円珍之伯父

意訳変換しておくと
道雄の姓は佐伯宿禰で、本貫は讃州多度郡である。一説に円珍の伯父という説もある。

「或日」として、「道雄=円珍の伯父」説を伝えています。「弘法大師弟子譜」は後世のものですが、「或曰」としてのなんらかの伝えがあったのかもしれません。ここでは「道雄=円珍伯父説」があることを押さえておきます。
次に、田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』を見ておきましょう。
空海系図 正道雄伝

この系図にしたがえば、「円珍の母は空海の姪」になります。そうすると、空海は円珍の従祖父ということになります。空海は、774(宝亀五年)の生まれで、円珍は814(弘仁五年)の誕生です。ふたりの間には40年の年代差があります。これは空海が円珍の従祖父であったことと矛盾しません。
 これに先ほど見た「道雄=円珍伯父説」を加味すると、「円珍の母は道雄の妹」であったことにもなります。
つまり、円珍の母の母親(円珍の外祖母)は、空海と同族の佐伯直氏の一員と結婚し、道雄と円珍の母をもうけたことになります。これを「円珍の母=道雄の妹説」とします。同時に道雄と空海も、強い姻戚関係で結ばれていたことになります。
「円珍の母=道雄の妹説」を、裏付けるような円珍の行動を見ておきましょう。円珍は『行歴抄』に、次のように記します。(意訳)
①851(嘉祥四年)4月15日、唐に渡る前に前に円珍が平安京を発って、道雄の海印寺に立ち寄ったこと
②858(天安二年)12月26日、唐から帰国した際に、平安京に入る前に、海印寺を訪れ、故和尚(道雄)の墓を礼拝し、その夜は海印寺に宿泊したこと
 海印寺 寂照院墓地(京都府長岡京市)の概要・価格・アクセス|京都の霊園.com|【無料】資料請求
海印寺(長岡京市)
海印寺は、道雄が長岡京市に創建した寺です。円珍が入唐前に、この寺に立ち寄ったのは、道雄に出発の挨拶をするためだったのでしょう。その日は、851(嘉祥四年)4月15日と記されているので、それから2カ月も経たない851(仁寿元年)6月8日に、道雄は亡くなっています。以上から、円珍が入唐を前にして海印寺を訪れたのは、道雄の病気見舞も兼ねていたようです。そして円珍が唐から帰国して平安京に入る前に、海印寺に墓参りしています。これは墓前への帰国報告だったのでしょう。この行動は、道雄が円珍の伯父であったことが理由だと研究者は推測します。
1空海系図2

 ここからは、円珍・道雄・空海は、それぞれ讃岐因支首氏や、佐伯直本家、分家に属しながらも、強い血縁関係で結ばれていたことが分かります。空海の初期集団は、このような佐伯直氏や近縁者出身者を中心に組織されていたことが見えてきます。
 最後に「円珍の母=空海の妹」は、本当なのでしょうか?
これについては、残された資料からはいろいろな説が出てくるが、確定的なことは云えないとしておきます。
以上をまとめておきます。
①円珍伝には「円珍の母=空海の姪」と記されている。
②これを伴氏系図は「円珍=空海の姪(甥)」と意図的誤訳した。
③佐伯直氏の本家筋の道雄については「道雄=円珍の伯父」が残されている。
④「佐伯直系図」には「円珍の母=道雄の妹」が記されている。
⑤ ③と④からは、円珍の母は空海の姪であり、「空海=円珍の従祖父説」が生まれる。
空海系図 守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』
守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』の空海系図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

智証大師伝の研究(佐伯有清) / 金沢書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 
「 佐伯有清「円珍の同族意識 智証大師伝の研究50P 吉川弘文館 1989年」

以前に円珍系図のことを紹介したのですが、「むつかしすぎてわからん もうすこしわかりやすく」という「クレーム」をいただきましたので「平易版」を挙げておきます。

伝来系図の2重構造性
 
系図を作ろうとすれば、まず最初に行う事は、自分の先祖を出来るだけ古くまでたどる。こうして出来上がるのが「現実の系図」です。個人的探究心の追求が目的なら、これで満足することができます。しかし、系図作成の目的が「あの家と同族であることを証明したい」「清和源氏の出身であることを誇示したい」などである場合はそうはいきません。そのために用いられるのが、いくつかの系図を「接ぎ木」していくという手法です。これを「伝来系図の多重構造」と研究者は呼んでいるようです。中世になると、高野聖たちの中には、連歌師や芸能者も出てきますが、彼らは寺院や武士から頼まれると、寺の由来や系図を滞在費代わりに書残したとも言われます。系図や文書の「偽造プロ」が、この時代からいたようです。
 系図として国宝になっているのが「讃岐和気氏系図」です。
私は和気氏系図と云ってもピンと来ませんでした。円珍系図と云われて、ああ智証大師の家の系図かと気づく始末です。しかし、円珍の家は因支首(いなぎ:稲木)氏のほうが讃岐では知られています。これは空海の家が佐伯直氏に改姓したように、因支首氏もその後に和気氏に改姓しているのです。その理由は、和気氏の方が中央政界では通りがいいし、一族に将来が有利に働くと見てのことです。9世紀頃の地方貴族は、律令体制が解体期を迎えて、郡司などの実入りも悪くなり、将来に希望が持てなくなっています。そのために改姓して、すこしでも有利に一族を導きたいという切なる願いがあったとしておきます。
 それでは因支首氏の実在した人物をたどれるまでたどると最後にたどりついたのは、どんな人物だったのでしょうか?

円珍系図 伊予和気氏の系図整理板

それは円珍系図に「子小乙上身」と記された人物「身」のようです。
その註には「難破長柄朝逹任主帳」とあります。ここからは、身は難波宮の天智朝政権で主帳を務めていたことが分かります。もうひとつの情報は「小乙上」が手がかりになるようです。これは7世紀後半の一時期だけに使用された位階です。「小乙上」という位階を持っているので、この人物が大化の改新から壬申の乱ころまでに活動した人物であることが分かります。身は白村江以後の激動期に、難波長柄朝廷に出仕し、主帳に任じられ、因支首氏の一族の中では最も活躍した人物のようです。この身が実際の因支首氏の始祖のようです。
 しかし、これでは系図作成の目的は果たせません。因支首氏がもともとは伊予の和気氏あったことを、示さなくてはならないのです。
そこで、系図作成者が登場させるのが「忍尾」です。
貞観九年二月十六日付「讃岐国司解」には、「忍尾 五世孫少初位上身之苗裔」と出てきますので、系図制作者は忍尾を始祖としていていたことが分かります。忍尾という人物は、円珍系図にも以下のように出てきます。
    
円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

その注記には、次のように記されています。
「此人従伊予国到来此土
「娶因支首長女生」
「此二人随母負因支首姓」
意訳変換しておくと
この人(忍尾)が伊予国からこの地(讃岐)にやってきて、
因支首氏の長女を娶った
生まれた二人の子供は母に随って因支首の姓を名乗った
 補足しておくと、忍尾がはじめて讃岐にやって来て、因支首氏の女性と結婚したというのです。忍尾の子である□思波と次子の与呂豆の人名の左に、「此二人随母負因支首姓」と記されています。忍尾と因支首氏の女性の間に生まれた二人の子供は、母の氏姓である因支首を名乗ったと云うのです。だから、もともとは我々は和気氏であるという主張になります。
 当時は「通い婚」でしたから母親の実家で育った子どもは、母親の姓を名乗ることはよくあったようです。讃岐や伊予の古代豪族の中にも母の氏姓を称したという例は多く出てきます。これは、系図を「接ぎ木」する場合にもよく用いられる手法です。綾氏系図にも用いられたやり方です。
円珍系図  忍尾と身


つまり、讃岐の因支首氏と伊予の和気公は、忍尾で接がれているのです。
 試しに、忍尾以前の人々を辿って行くと、その系図はあいまいなものとなります。それ以前の人々の名前は、二行にわたって記されており、どうも別の系図(所伝)によってこの部分は作られた疑いがあると研究者は指摘します。ちなみに、忍尾以前の伊予の和気公系図に登場する人物は、応神天皇以後の4世紀後半から5世紀末の人たちになるようです。

以上を整理しておくと
①因岐首系図で事実上の始祖は、身で天智政権で活躍した人物
②伊予の和気氏系図と自己の系図(因岐首系図)をつなぐために創作し、登場させたのが忍尾別君
③忍尾別君は「別君」という位階がついている。これが用いられたのは5世紀後半から6世紀。
④忍尾から身との間には約百年の開きがあり、その間が三世代で結ばれている
⑤この系図について和気氏系図は失われているので、事実かどうかは分からない。
⑥それに対して、讃岐の因支首氏系図については、信用がおける。
つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえそうです。
  伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えています。
それ以前ではありません。円珍系図がつくられた承和年間(834~48)から見ると約2百年前のことになります。大化以後の両氏の実際の婚姻関係をもとにして、因支首氏は伊予の和気氏との同族化を主張するようになったと研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成されたものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そこでポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」


    宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。
③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ
④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた
⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された
⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。

しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院)

宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。
 細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間  
一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、
二月廿七日          頼春 (花押)
③善通寺 僧都御房(宥範)

②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。

細川頼春の墓
細川頼春(1299~1352)の墓の説明版には、次のように記します。

南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。


 
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
 しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。

宥範と利生塔の関係を示す年表を見ておきます。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
 同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)

 年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
 最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
 もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
 以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
 細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。

細川頼之(ほそかわよりゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
           細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
関連記事

善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
YP2○『三教指帰』一冊 上中下巻 空海 森江佐七○宗教/仏教/仏書/真言宗/弘法大師/江戸/明治/和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索  オークフリー

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

DSC02575
出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

弘法大師 善通寺形御影_e0412269_14070061.jpg
善通寺御影 地蔵院

前回は善通寺の弘法大師御影(善通寺御影)について、以下の点を見てきました。
①善通寺には、入唐に際して空海自身が自分を描いた自画像を母親のために残したとされる絵図が鎌倉以前から伝わっていたこと。
②弘法大師信仰が広まるにつれて、弘法大師御影が信仰対象となったこと。
③そのため空海自らが描いたとされる善通寺御影は、霊力が最もあるものとされ上皇等の関心を惹いたこと。
④土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として有名になったこと
⑤善通寺御影の構図は、右奥に釈迦如来が描かれていることが他の弘法大師御影との相違点であること
⑤釈迦如来が描き込まれた理由は、空海の捨身行 の際に、釈迦如来が現れたことに由来すること

つまり、善通寺御影に釈迦如来が描かれるのは、我拝師山での捨身行の際の釈迦如来出現にあるとされてきたのです。今回は、国宝の中に描かれている「善通寺御影」を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。
「一字一仏法法華経序品」

研究者が注目するのは、善通寺所蔵の国宝「一字一仏法法華経序品」(いちじいちぶつほけきょう じょぼん)の見返し絵です。
  このお経は、経文の一字ずつに対応する形で仏像が描かれています。こんな経典スタイルを「経仏交書経」というそうですが、他に類例がない形式の経巻のようです。

DSC04133
「一字一仏法法華経序品」

文字は上品な和様の楷書体で書かれています。仏坐像の絵は、朱色で下描きし、彩色した後にその輪郭を墨で描いています。

DSC04135
         「一字一仏法華経序品」

仏は、みな朱色の衣をまとい、白緑の蓮の花上にすわり、背後には白色のまるい光をあらわしています。書風・作風から平安時代中期頃の製作と研究者は考えています。

善通寺市デジタルミュージアム 一字一仏法華経序品 - 善通寺市ホームページ
一字一仏法華経序品と冒頭の見返し絵

その巻頭に描かれているのが「序品見返し絵」です。

紺紙に金銀泥で、影現する釈迦如来と弘法大師を描いたいわゆる「善通寺御影」の一種です。その構図を見ておきましょう。

「一字一仏法法華経序品」レプリカ
「序品見返し絵」(香川県立ミュージアム レプリカ)

①大きな松の木の上に坐っているのが空海で、机上に袈裟、錫杖、法華経などが置かれている。
②その下に池があり、そこに写る自分の姿を空海が描いている。
③背後に五重塔や金堂など善通寺の伽藍がある。
④右上には五岳山中に現れた釈迦如来から光明が放たれている。
  つまり、入唐の際に池に映る自分の姿を自画像に描いて母親に送ったというエピソードを絵画化したもののようです。

善通寺が弘法大師生誕の地を掲げて、大勧進を行った元禄9年(1696)頃に書かれたの『霊仏宝物目録』です。ここには、この経文を弘法大師空海が書写し、仏を母の玉寄姫(たまよりひめ)が描いたと記します。当時は、空海をめぐる家族愛が、大勧進の目玉の出し物であったことは以前にお話ししました。しかし、先ほど見たようにこの経典は、平安時代中期の写経と研究者は考えています。本文に対して冒頭見返の絵は、平安期のものでなく後世に加えられたものです。
この見返り絵について『多度郡屏風浦善通寺之記』は、次のように記します。
 奥之院には瞬目大師并従五位下道長卿御作童形大師の本像を安置す。就中瞬目大師の濫腸を尋に・・(中略)・・・
爰に大師、ある夜庭辺を経行し玉ふ折から、月彩池水に澄て、御姿あざやかにうつりぬれは、かくこそ我姿を絵て、母公にあたへ、告面の孝に替はやと思ひよらせ給う。則遺教経の釈迦如来の遺訓に、我減度之後は、孝を以て成行とすへしと設置し偶頌杯、讃誦して観念ありしに、実に至孝の感応空しからす、五岳の中峰より、本師釈尊影現し玉う。しかりしよりこのかた、いよいよ画像の事を決定し玉ひ、即彼峰に顕れし釈尊の像を、御みつからの姿の上に絵き玉ひて、是をけ母公にあたへ給うへは、まのあたり御対面あるに少しもことならすと、・・・・
  意訳変換しておくと
(善通寺)奥之院には瞬目大師と従五位下(佐伯直)道長卿が作成した童形大師の本像が安置されている。瞬目大師の由来を尋ねると・・・
大師が、ある夜に庭辺を歩いていると、月が池水を照らし、大師の御姿をあざやかに写した。これを見て、自分の姿を絵に描いて、母公に渡して、親孝行に換えようと思った。釈迦如来の遺訓の中に、得度後は、親への孝を務めるために自分の自画像を送り、讃誦したことが伝えられている。これを真似たものであり、実に至孝の為せることである。こうして自画像を描いていると、五岳の中峰から釈迦如来が現れた。そこで、現れた釈尊の姿を、大師は自分の上に描いた。そして、この絵を母公に預けた。

 前回見た道範の「南海流浪記」も、大師が入唐に際に、自らを描いた図を母に預けたと記してありました。両者は、ほぼ同じ内容で、互いに補い合います。ここからは「弘法大師釈迦影現御影」を江戸時代には「弘法人師出釈迦御影」あるいは「出釈迦(しゅっしゃか)大師」と呼んでいたようです。出釈迦寺という寺が近世になって、曼荼羅寺から独立していくのも、このような「出釈迦(しゅっしゃか)大師」の人気の高まりが背景にあったのかもしれません。
 このスタイルの釈迦如来が描き込まれた弘法大師御影は、善通寺を中心に描かれ続けます。
そのため「善通寺御影」とも称されます。ちなみに全国で、善通寺御影スタイルの弘法大師御影が残っているのは27ヶ寺のようです。それは和歌山、京都、大阪、愛媛などに拡がりますが、大部分は香川・岡山です。つまり「備讃瀬戸の北と南側」に局地的に残されていることになります。どうして、このエリアに善通寺御影が分布しているのでしょうか。それは次回に見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」

 高野山霊宝館【展覧会について:大宝蔵展「高野山の名宝」】
          弘法大師坐像(萬日大師像) 金剛峯寺

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。
 高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 文化遺産オンライン
弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている
史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?
高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

DSC02611
空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

DSC02588
出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
関連記事

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

新訂増補 国史大系10・11 日本紀略 前編/日本紀略 後編・百錬抄(黒板勝美編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  関連記事


   弘法大師御遺告 文化遺産オンライン
御遺告
かつて空海の得度・受戒は「20歳得度、23歳受戒」説が信じられてきました。
それは真言宗教団が空海自筆として絶対の信頼をおく『御遺告』に次のように記されているからです。

二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一
意訳変換しておくと
空海二十歳の時に、岩渕の僧正を招いて、和泉国槙尾山寺に出でた。ここで髪を下ろし、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらた。その名を教海と称し、後に改めて如空とした。

『御遺告』はかつては自筆であるされていましたが、今ではあまりにもその内容に矛盾があって疑わしいとされるようになっています。早くは契沖阿閣梨なども『応需雑記』で偽作であるとのべ、新義真言宗豊山派の学者のあいだでも、否定説が強くなります。権田雷斧師は次のように述べます。

「断じて云く、御遺告の文章頗るほ指俗習にして、空海の詩文集等の文章と対照せば、甚拙劣粗荒なること火を見るが如し、具眼の人、誰か高祖の真作と信ぜん。否信ぜんと欲するも能はざるなり」(豊山派弘法大師一千年御遠忌事務局『文化史上より見たる弘法大師伝』(昭和八年)所載)

御遺告1P
御遺告
 『御遺告』という宗教的権威から解き放たれて空海の出家を考える研究者が現れるようになります。その場合に、史料学的となるのは公式記録である①『続日本後紀』(巻四)の空海卒伝と、空海自著である②『三教指帰』と③『性霊集』の3つになるようです。
①の『続日本後紀』の空海卒伝は、825年3月21日の入滅をうけて、25五日に大政官から弔問使発向とともにしるされたものです。
これ以上に確かなものはない根本史料です。空海卒伝は嵯峨太上皇の弔書にそえられたもので、空海葬送の棺前でよみあげられた追悼文の一部と研究者は考えているようです。内容も、簡明明瞭で要をえた名文で、『御遺告』の文章の比ではないと研究者は評します。このなかに、次のように記します。
「年三十一得度 延暦二十三年入唐留学

ここには31歳で得度したことが明記されています。教団の出す大師伝出版物は、かつてはこの「三十一」の横に小さく「二十一カ」を入れていたようです。しかし、「続日本後紀』の本文にはこれがありません。真言教団からすれば空海が、大学退学後に得度も受戒もせずに、優婆塞として放浪していたことは認めたくなかったようです。また、空海が31歳ではじめて公式得度して沙弥となった中年坊さんであるとは、教団の常識からすると考えらないことだったのかもしれません。のちには公式文書も、この31歳を得度ではなく、受戒(具足戒をうけて比丘僧となる)の年としてきました。かつての真言教団は『御遺告』と矛盾するというので、31歳受戒説さえも無視してきたことを押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
空海得度を記した度牒官符(太政官符)

 『続日本後紀』の31歳得度説については、以前にお話ししましたので簡単に要約しておきます。
江戸時代の『梅園奇賞』という書が、石山寺の秘庫で見たという空海得度の度牒官符(得度をみとめた公式記録)を影写して載せています。これは805(延暦24年)9月11日付で、空海の名前が見えますす。この日付は、空海は入唐中で、長安で恵果阿閣梨から金胎両部の灌頂をうけたころになります。つまり、日本にはいない頃です。度牒の内容は
①留学僧空海が、延暦22年(あとで、23年と書き人れ)4月7日に出家得度して沙弥となったこと
②それを延暦24年の日付で、2年後に証明したものであること
この内容については、優婆塞だった空海が入唐直前の31歳で得度して、その手続きが2年後に行われたことが定説化しているようです。
この度牒の奉行をした正五位下守左少弁藤原朝臣貞嗣、左大史正六位武生宿而真象も実在が証明されています。貞嗣の官位も「公卿補任」でしらべるとぴつたり合うようです。この度牒の史料的確実性が裏付けられています。

三教指帰 冒頭
三教指帰冒頭部
 空海(真魚)は『三教指帰』序に、次のように記します。
志学(十五歳)にして上京し二九(十八歳)にして櫂市(大学)に遊聴(遊学)した、

しかし、それ以後の31歳まで13年間の生活を、空海はまったく語りません。
大師伝にのせられた諸種の「伝説」も見ておきましょう。
①弘仁上年(816)「高肝山奏請表」(『性霊集」巻九)
「空海少年の日、好て山水を渉覧す」

②『三教指帰』序
「優に一沙門あり。余に虚空蔵求聞持法を呈す。(中略)阿国(阿波)大滝嶽に踏り攀じ、土州(土佐)室戸崎に勤念す」「或るときは金巌(加面能太気(かねのたき)=吉野金峯山)に登り、而して雪に遇ふて炊填たり。或るときは石峯(伊志都知能太気(いしつちのたけ)=石鎚山)に跨つて、以て根を絶つて戟何たり

これらをみると廻国聖の修行姿を伝えるものばかりです。これらの記述に従って多くの書物が「大学退学後の空海の青年期=山岳修行期」として描いてきました。
三教指帰(さんごうしいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

『三教指帰』一巻下に登場する仮名乞児(かめいこつじ)は、若き日の空海の自画像ともされます。

その仮名乞児が次のように云っています。
阿畦私度は常に膠漆(こうしつ)の執友たり。光明婆塞は時に篤信の檀主たり

ここからは仮名乞児が私度僧や優婆塞と深くまじわっていたことが分かります。そして彼は割目だらけの本鉢をもち、縄床(御座、あるいは山伏の引敷)をさげ、数珠・水瓶・錫杖を手に、草履をはいた行装だったと記します。
「三教指帰」(巻下)には、罪あるものの堕ちる地獄のありさまをくわしく語っています。
これも景成の「日本霊異記』にみられるような堕地獄の苦を説く唱導に似ています。ここから研究者は、空海は勧進もしていたのではないかと推察します。
性霊集鈔(04の001) / 臥遊堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
性霊集 益田池の部分
『性霊集』には、空海のつくった「知識勧進」の文がたくさんおさめられています。
その中には万濃池(讃岐)、益田池(大和)などの社会的作善があります。ここからは空海が律師・僧都の栄位を得ても、勧進聖的活動をわすれていない姿が見えます。他にも勧進関係の場面を挙げて見ると
①『性霊集』1巻8には、油や米の寄進をえて一喜一憂したこと
②「知識華厳会の為の願文」には、勧進願文の常套文句がもちいられていること。
③「高野山万燈会の順文」も、万燈会で一燈一灯を万人の作善であつめること
④「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」では、「一塵は大嶽を崇うし、 滴は広海を深うする所以は、同心豹力の致す所なリ。伏して乞ふ、諸檀越等、各々銭一粒の物を添へて、斯の功徳を相済ヘ」
と記されていること、
⑤同書(巻九)には「東寺の塔を造り本る材木を曳き運ぶ勧進」があること
⑥「鐘の知識を唱うる文」「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」などもあること、
以上からは空海には、優婆塞聖として知識勧進に関わった経験があることが裏付けられます。こうした空海の勧進の手腕を見込んで、嵯峨天皇は当時資金難でゆきずまっていた東寺の造営を委ねたとも考えられます。すぐれた勧進者は東大寺を再建した重源のように、土木建築や彫刻に秀でた配下の聖集団をもっていました。空海もやはり勧進聖集団を統率していたと考えることができそうです。だからこそ土木事業から仏像制作にいたるまで、いろいろな場面に対応できたのかもしれません。空海の消息をあつめた『高野雑筆』には、康守・安行のような勧進聖とみられる弟子も出てきます。
このように空海の18歳から31歳で入唐するまでの伝記のブランクは、優婆塞聖の生活を送っていたと研究者は推測します。
空海の庶民仏教家としての基礎は、このときに形成されたのではないでしょうか。数多くの社会事業もそのあらわれです。もちろんこの期に、顕密の学業や修行をつんだでしょうが、それはあくまでも私度優婆塞中のことです。そのため大師伝作者は、幼少年時代と入唐後の行跡をくわしく語りながら、青年時代は空白のまま残したのかも知れません。
 この空海の青年時代は、のちに現れる高野聖の姿にダブります。空海の衣鉢をついだのは、高野山の学僧たちだけでなく、高野聖たちも空海たらんとしたのかもしれません。

以上を整理しておくと
①真言教団は、空海の得度・受戒について『御遺告』に基づいて「20歳得度、23歳受戒」説をとる。
②しかし、学界の定説は『続日本後紀』の空海卒伝に基づいて「31歳得度」説が有力になっている。
③大学退学後、入唐までの空海青年期は謎の空白期で、史料は「山岳修行」以外には何も記さない。
④青年期の空海は優婆塞として、山岳修行以外にもさまざまな勧進活動を行っていた気配がある。
⑤そして、帰朝後は土木工事や寺院建設、仏像制作など多岐にわたる勧進集団を、配下において勧進活動も勧めた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       テキストは「五来重 優婆塞空海   高野聖59P」
関連記事

1207年に、法然は讃岐に流刑になり、子松庄(琴平)の生福寺に入ったと「法然上人絵伝」は記します。そして、訪れているのが善通寺です。今回は法然の善通寺参拝の様子を見ていくことにします。

善通寺仁王門 法然上人絵伝
善通寺仁王門 法然上人絵伝 第35巻第6段
〔第六段〕上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、上人在国の間、国中霊験の地、巡礼し給ふ中に、善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。
 この寺の記文に、「一度も詣でなん人は、必ず一仏浄土の朋(とも)たるべし」とあり、「この度の思ひ出で、この事なり」とぞ喜び仰せられける。
意訳変換しておくと
法然上人の讃岐在国の間に、国中の霊験の地を巡礼した。その中で善通寺といふ寺は、弘法大師が、父のために建立した寺である。この寺の記文に、「一度参拝した人は、必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)の朋(とも)となり」とあった。これを見た法然は、「そのとおりである、このことは、深く私の思い出に記憶として残ろう」と喜ばれた。

  善通寺に関する文章は、わずかこれだけです。要約すると「善通寺に参拝した、一仏浄土(阿弥陀浄土)が記されてあった」になります。「善通寺参拝証明」とも云えそうです。法然上人絵伝の描かれた頃になると、都人の間に弘法大師伝説が広がり、信仰熱が高まったようです。
善通寺仁王 法然上人絵伝
善通寺仁王門

瓦屋根を載せた白壁の塀の向こうにある朱塗りの建物は仁王門のようです。よく見ると緑の柵の上から仁王さまの手の一部がのぞいています。これが善通寺の仁王門のようです。しかし、善通寺に仁王門があるのは、東院ではなく西院(誕生院)です。

善通寺 法然上人絵伝

門を入ると中庭を隔てて正面に金堂、左に常光堂があります。屋根は檜皮葺のように見えます。瓦ではないようです。また、五重塔は描かれていません。
 法然の突然の参拝に、僧侶たちはおどろきながらも金堂に集まってきます。一座の中央前方に法然を案内すると、自分たちは縁の上に列座しました。堂内に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を見つけて、歓ぶ場面です。

しかし、ここに描かれているのは善通寺(東院)の金堂ではないようです。
中世の東院は退転していた時代があるとされますが、残された絵図からは瓦葺きであったことが分かります。イメージとしては西院(誕生院)の御影堂のような印象を受けます。

 ここまで法然上人絵伝を見てきて分かることは、一遍絵図のように絵伝を描くために現地を再訪して、描かれたものではないということです。京の絵師たちが場面設定に応じた絵を京都で、現地取材なしで書いています。そのため「讃岐流刑」のどの場面を見ても、讃岐を思わせる風景や建物は出てきません。この「善通寺シーン」も、当時の善通寺の東院金堂の実態を映すものではないようです。

法然上人絵伝(1307年)には「善通寺といふ寺は、弘法大師、父の為に建てられたる寺なりけり。」とあります。
善通寺の建立を史料で見ておきましょう。
①1018(寛仁2)年 善通寺司が三ヶ条にわたる裁許を東寺に請うたときの書状に、「件の寺は弘法大師の御建立たり。霊威尤も掲焉なり」ここには「弘法大師の建立」と記すだけで、それがいつのことであったかは記されていません。
②1072(延久4)年(1072) 善通寺所司らの解状「件の寺は弘法大師の御先祖建立の道場なり」
③1113年 高野山遍照光院の兼意の撰述『弘法大師御伝』
「讃岐国善通寺曼荼羅寺。此の両寺、善通寺は先祖の建立、又曼荼羅寺は大師の建立なり。皆御住房有り」
ここまでは、「弘法大師の建立」と「弘法大師の先祖の建立」です。
そして、鎌倉時代になると、先祖を佐伯善通と記す史料があらわれます。
④1209(承元3)の讃岐国司庁から善通寺留守所に出された命令書(宣)に、「佐伯善通建立の道場なり」
 以上からわかることは
平安時代の①の文書には大師建立説
その後は②③のように大師の先祖建立説
がとられています。そして、鎌倉時代になると④のように、先祖の名として「善通」が登場します。しかし、研究者が注目するのは、善通を大師の父とはみなしていないことです。
以上の二つの説を足して割ったのが、「先祖建立自院の頽廃、大師再建説」です。
⑤1243(仁治4)年、讃岐に配流された高野山の学僧道範の『南海流浪記』は、次のように記します。

「そもそも善道(通)之寺ハ、大師御先祖ノ俗名ヲ即チ寺の号(な)トす、と云々。破壊するの間、大師修造し建立するの時、本の号ヲ改められざルか」

意訳変換しておくと
「そもそも善通寺は、大師の御先祖の俗名を寺号としたものとされる。古代に建立後に退転していたのを、大師が修造・建立したが、もとの寺号である善通寺を改めなかったのであろう」

ここでは空海の再建後も、先祖の俗名がつけられた善通寺の寺号が改められなかったとしています。つまり、善通の名は先祖の俗名とするのです。
 善通寺のHPは「善通寺の寺名は、空海の父の名前」としています。
これは、近世になって善通寺が広報活動上、拡げ始めた説であることは以前にお話ししました。
これに対しする五来重氏の反論を要約すると次のようになります
①善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者の名が付けられる。
②東院のある場所は、「方田」とも「弘田」とも呼ばれていたので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通である。
③ところが「善通」という個人の俗名が付けられている。
④これは、「善通が中世復興の勧進者」だったためである。
五来重氏の立論は、論を積み上げていく丁寧なものでなく、飛躍があって、私にはついて行きにくところが多々あります。しかし、云おうとしている内容はなんとなく分かります。補足してつないでいくとつぎのようになります。
①白鳳時代に多度郡郡司の佐伯氏が菩提寺「佐伯寺」を建立した。これは、白鳳時代の瓦から実証できる。
②つまり、空海が生まれた時には、佐伯家は菩提寺を持っていて一族のものが僧侶として仕えていた。空海創建という説は成立しない。また空海の父は、田公であり、善通ではない。
③佐伯直氏は空海の孫の時代に、中央貴族となり讃岐を離れた。また、残りの一族も高野山に移った。
④保護者を失った「佐伯寺」は、末法の時代の到来とともに退転した。
⑤それを中興したのが「中世復興の勧進者善通」であり、以後は彼の名前から「善通寺」で呼ばれることになる。
 ここでは11世紀後半からの末法の時代に入り、善通寺は本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた時代があること。それを中興した勧進僧侶が善通であるという説であることを押さえておきます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺西院(誕生院)19世紀

 法然上人絵伝の善通寺の場面で、私が気になるもうひとつは、寺僧の差し出す文書に「必ず一仏浄土(阿弥陀浄土)となることができる」という言葉を法然が見つけて歓んだという記述です。現在の感覚からすると、真言宗の聖地である善通寺で、どうして阿弥陀浄土が説かれていたのか、最初は不思議に思いました。

4空海真影2

善通寺の西院(誕生院)の御影堂(大師堂)は、中世は阿弥陀堂で念仏信仰の拠点だったと研究者は考えています。
御影堂のある誕生院(西院)は、佐伯氏の旧宅であるといわれます。ここを拠点に、中世の善通寺は再興されます。西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂だったというのです。それを示すのが法然が参拝した時に掲げられていた「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」の言葉です。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。

DSC01186
善通寺 東院・西院・霊山我拝師山は東西に一直線に並ぶ

善通寺によく像た善光寺の本堂曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。本願寺も平等院鳳鳳堂も、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。善通寺西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったとすると東向きで、お参りする人は西向きになります。ここからは阿弥陀堂であると同時に、大師御影には浄土信仰がみられると研究者は指摘します。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図に描かれた東院と誕生院(西院)
もうひとつ善通寺西院の阿弥陀信仰痕跡を見ておきます。
 善通寺にお参りして特別の寄通などをすると、錫杖をいただく像式があります。その時に用いられる什宝の錫杖は、弘法大師が唐からもって帰ってきた錫杖だとされます。その表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんなのです。ここにも、中世善通寺の阿弥陀信仰の痕跡がみられると研究者は指摘します。

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。

法然上人逆修塔(善通寺伽藍) - 讃州菴
法然上人逆修塔
逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

南海流浪記2
南海流浪記
  善通寺誕生院が阿弥陀信仰の中心センターだったことを示す史料が、道範の「南海流浪記」です。
 道範は何度も取り上げましたが、彼は高野山金剛峰寺執行の座にいるときに、高野山における内紛の責任を問われて讃岐にながされ、善通寺に逗留するようになります。彼は真言僧侶としても多くの書物を残している研究者で、特に真言密教における阿弥陀信仰の研究者でもあり、念仏の実践者でもありました。彼が退転した善通寺にやってきて、西院に阿弥陀堂(後の誕生院)を開き真言阿弥陀信仰センターを樹立していったと研究者は考えているようです。その「証拠」を見ていくことにします。
『流浪記』では道範は、1243(寛元元)年9月15日に、宇足津から善通寺に移ってきます。
法然から約40年後の讃岐流刑となります。善通寺に落ち着いた6日後には「大師の御行道所」を訪ねています。これは現在の出釈迦寺の奥の院の行場で、大師が捨身行を行ったと伝えられる聖地です。西行もここで修行を行っています。我拝師の捨身ケ岳は、弘法大師伝説の中でも一級の聖地でした。そのため善通寺の「行者・禅衆・行人」方の憧れの地でもあったようです。そこに道範も立っています。ここからは、道範は「真言密教 + 弘法大師信仰 + 阿弥陀念仏信仰 + 高野聖」的な要素の持ち主であったことがうかがえます。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物です。その彼に教えを、請う僧侶は多かったようです。道範はひっぱりだこで、流刑の身ながら案外自由に各地を巡っています。その中で「弥谷ノ上人」が、行法の注釈書を依頼してきます。。
道範が著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、その経過が次のように記されています。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
     阿闍梨道範記之
意訳変換しておくと
1248(宝治2)年2月21日、善通寺の大師御誕生所の庵にて、これを記す。この書は弥谷の上人の勧進で完成することができた。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。流配先で参照すべき書籍類がないので、子細までは記せない。もっぱら記憶に頼って書き上げた。誤りがあるかも知れないので、機会があれば補足・訂正を行いたい。70歳を越えた老眼で、なんとかこの書を書き上げた。阿闍梨道範記之

ここには「弥谷の上人の勧進によって、この書が著された」と記されています。善通寺にやってきて5年目のことです。「弥谷の上人」が、道範に対して、彼らが勧進で得た資材で行法の注釈書を依頼します。それを受けた道範は老いた身で、しかも配流先の身の上で参照すべき書籍等のない中で専ら記憶によって要点を記した『行法肝葉抄』を完成させます。弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄」の裏書き以外にはないようです。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
        弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏と六字名号

弥谷寺本堂下の磨崖阿弥陀三尊像や六字名号が掘られるようになるのは鎌倉時代のことです。弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。そして、「法然上人絵伝」が制作されるのは1207年なのです。ここからは次のような事が推測できます。
①真言宗阿弥陀信仰の持ち主である道範の善通寺逗留と、「弥谷の上人」との交流
②弥谷寺への阿弥陀信仰受入と、磨崖阿弥陀三尊や六字名号登場
③弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地へ

 道範と阿弥陀信仰の僧侶との交流がうかがえる記述が『南海流浪記』の中にはもうひとつあります
1248(宝治2)年11月17日に、道範は善通寺末寺の山林寺院「尾背寺」(まんのう町春日)を訪ねています。そして翌日18日、善通寺への帰途に、大麻山の麓にあった「称名院」に立ち寄っています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
意訳すると
翌日18日、尾背寺からの帰路に称名院を訪ねる。こじんまりと松林の中に九品の庵寺があった。池とまばらな松林の景観といい、なかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
  「九の草の庵りと 見しほどに やがて蓮の台となりけり」
後日、念々房からの返歌が5首贈られてきます。その最後の歌が
「君がたのむ 寺の音の 聖りこそ 此山里に 住家じめけれ」
このやりとりの中に出てくる「九品(くほん)の庵室・持仏堂・九の草の庵り・蓮の台」から、称名院の性格がうかがえると研究者は指摘します。称名院の院主念々房は、浄土系の念仏聖だったと云うのです。
   江戸時代の『古老伝旧記』には、称名院のことが次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

ここからは、称名院には阿弥陀如来が祀られていたことが分かります。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。そこの住む念々房は、念仏僧として善通寺周辺の行場で修行しながら、象頭山の滝寺の下の氏神様の庵に住み着いていたことが考えられます。善通寺周辺には、このような「別所」がいくつもあったことが想像できます。そこに住み着いた僧侶と道範は、歌を交換し交流しています。こんな阿弥陀念仏僧が善通寺の周辺の行場には、何人もいたことがうかがえます。
  こうしてみると善通寺西院(誕生院)は、阿弥陀信仰の布教センターとして機能していたことが考えられます。
中世に阿弥陀信仰=浄土観を広めたのは、念仏行者と云われる下級の僧侶たちでした。彼らは善通寺だけでなく弥谷寺や称名院などの行場に拠点(別所)を置き、民衆に浄土信仰を広めると同時に、聖地弥谷寺への巡礼を誘引したのかもしれません。それが、中讃の「七ヶ所詣り」として残っているのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
関連記事

弘安寺跡 薬師堂
立薬師(弘安寺跡 まんのう町四条)
 まんのう町四条には立薬師と呼ばれるお堂があります。
このお堂の下には、古代の弘安寺跡の礎石が今でも規則正しく並んでいます。
DSC00923
        弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

また出土した白鳳時代の瓦は、善通寺のものと関連があり、阿波郡里廃寺の瓦と同笵である事を以前に紹介しました。ここには、もうひとつ見るべきものがあります。それが十三仏笠塔婆です。

DSC00918
弘安寺跡の十三仏笠塔婆

柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面 上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面 上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
十三の仏が笠塔婆に彫られているので十三仏笠塔婆というようです。この石造物には、年号があるので16世紀初頭のもとのと分かります。この時期は、細川家の内紛に発した永正の錯乱に巻き込まれ、在京中だった香川・安富・香西などの棟梁が討ち死にし、その後も讃岐の国人武士達が動員されていた時代です。その時代まで、弘安寺は存続していたことがうかがえます。そうだとすれば、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことになります。 

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑 - 石造美術紀行
 奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

話を十三仏笠塔婆にもどします。私は、この塔については何も知らないので、周辺知識をまずは集めていこうと思います。
同じような塔が、天霧山の麓の萬福寺(善通寺市吉原町)にあるようです。その報告記を、まずは見ていきたいと思います。テキスト「海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年」です。
萬福寺
萬福寺(善通寺吉原町)
 萬福寺は、さぬき三十三観音の霊場で、中世の讃岐西守護代香川氏の詰城があった天霧山の東山麓にあります。丸亀平野の西の端に位置して、目の前に水田地帯が拡がります。

萬福寺2
萬福寺境内から望む五岳
南側には吉原大池に源をもつ二反地川が、多度津白方方面に流れ、東側には東西神社が鎮座し、西側には十五丁の集落が旧道沿いに並んでいます。位置的には、萬福寺は十五丁集落の東端になります。また、天霧石の採石・加工場であった牛額寺が西奥にあります。
 開基は行基とされますが、不明です。もともとは吉原町本村寺屋敷にあったようですが水害を避けるため現在地に移転したと伝わります。移転時期は『讃州府誌』には正徳元(1711)年、別の記録では天正年間(1573~91)とされます。

東西神社
萬福寺に隣接してある東西神社  
『全讃史』には、「東西大明神の祠令なり」と記されています。東西神社は中世後半の中讃一帯を支配下においていた香川氏の氏神でした。萬福寺は、東西神社の別当寺として栄えていたことが推測できます。
本尊は行基菩薩の作と伝えられる聖観世音菩薩像と馬頭観世音菩薩像であります。馬頭観音が本尊である事は、押さえておきます。現在は讃岐三十三観音霊場第二十四番札所になっています。

さて笠塔婆・十三仏とは何なのでしょうか? 
①基礎の上に板状、あるいは角柱の塔身を置き、
②塔身に仏像などの種子や名号・題目などを刻んで、
③その上に笠をのせ、頂上に宝珠、もしくは相輪を立てた塔
笠塔婆

 板碑の先駆となる石塔で、平安後期に姿を見せ始め、鎌倉後期以降には多くの笠塔婆が造られたようです。最初は、追善供養や逆修供養のために造られますが、時代と共に、五穀豊穣、国家安泰、国土安全などの民衆の信仰心が深く刻まれるようになります。笠塔婆は、その後に登場する板碑の原型でもあり、同時に現在の角柱墓標などの原型ともされる石造物のようです。一番古い笠塔婆は、熊本市本光寺の安元元(1175)年のものとされます。

楽天市場】真言十三佛 掛軸 大師入り 上等緞子表装本仕立 5尺 長さ150cm×巾55cm 【送料無料】【仏事 仏画 真言宗 弘法大師 十三仏 十三沸  十三仏掛軸 十三沸掛軸 仏壇用 飾る 飾り 装飾 掛け軸 お盆用品 仏具 お盆 お彼岸 四十九日 法要 法事】 : 仏壇 盆提灯 数珠の仏壇 ...
真言宗の十三仏
十三仏とは、死者の初七日から三十三回忌までの法事の時に本尊とする十三体の仏・菩薩のことです。
初七日は不動明王、
二七日は釈迦如来、
三七日は文珠菩薩、
四七日は普賢菩薩、
五七日は地蔵菩薩、
六七日は弥勒菩薩、
七七日は薬師如来、
百か日は観世音菩薩、
一周忌には勢至菩薩、
三回忌には阿弥陀如来、
七回忌には阿問如来、
十三回忌には大日如来、
三十三回忌には虚空蔵菩薩
 十三仏笠塔婆は、このような十三仏信仰が基にあります。
寺の門前や村の入口、辻などに立て、先祖の冥福と仏の加護による招福除厄を祈ったのがもともとの起源のようです。成立根拠は経典にはなく、日本で独自に生まれた民間信仰なのです。そのため宗派と直接的な関係はありませんが、真言宗では檀信徒の日用経典にも十三仏の真言が取り入れられるなど、最も密接な宗派となっているようです。
 その出現当初には、九仏や十仏などいろいろな数の仏が描かれたようですが、室町期になると十三仏に定型化します。その中で在銘最古のものは、河内と大和の国境の信貴山にあります。ここと生駒山周辺に十三仏石造物は密集していので、このエリアを中心に全国に普及していったと研究者は考えています。こうして先祖供養と現世利益の両面から十三仏信仰は、庶民の間に広がって行きます。近世になると、十三仏を祀る寺院の巡拝が盛んに行われるようになります。これだけの予備知識を持った上で、萬福寺の十三仏笠塔婆を見ていくことにします。

萬福寺
萬福寺本堂への階段

十三仏笠塔婆は、階段を登った本堂横の墓地内に安置されています。
笠塔婆は南側を正面にして立てられています。基礎・塔身・笠はもともとのものですが、笠は別部材の可能性があると研究者は指摘します。部材ごとの研究者が観察所見を見ておきましょう。

万福寺笠塔婆正面
萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

 基礎は、
①高さ31cm、幅51cm、奥行き52cm。平面はほぼ正方形。
②どの面もやや粗く整形され、上面は斜めに緩く傾斜。
③石材は火山、天霧山麓に分布するの弥谷Aと分類されている
 塔身は、
④高さ71cm、幅35、奥行き35cmの直方体。
⑤側面に大きな月輪があり、加工当初から正面を意識していた可能性が高い。
⑥塔身には、方向にいろいろな印刻あり。
⑦正面(南面)には、十体以上の仏の略像が印刻
⑧略像は五段形式で、上段中央に1体、その下段に3体ずつ横並びで、3段まで確認できる。
⑨下部は剥落して確認は出来ないが、さらにもう1段があった。
⑩つまり、上段から順に1・3・3・3の計13体の略像が陰刻されていた
以上から、この塔が十三仏信仰に基づいて作られた笠塔婆であると研究者は判断します。
萬福寺十三仏笠塔婆実測図
           萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

ここに刻まれている略像を、研究者は次のように推察します。
①最上段が虚空蔵菩薩、
②2段目が左側から順に大日如来・阿悶如来・阿弥陀如来、
③3段目が勢至菩薩・観音菩薩・薬師如来、4段目が弥勒菩薩・地蔵菩薩・普賢菩薩、
④欠損している最下段には、文殊菩薩・釈迦如来・不動明王
これらは右下から左へ右上への順に並んでおり、千鳥式に配列されていると研究者は考えています。
 右側面(東面)には、上端から21cmの所に、直径約15cm、幅1,5cmの月輪が箱彫りされています。 左側面(西面)にも、上端から21cmの所に、右側面とほぼ同じ大きさの月輪が刻まれています。その下側には3行にわたり縦書きで次のようにあります。
 「永正五口(年?)」
 「戊口(辰?)」
 「八月升二日」
 この年号から室町時代中期末の永正5(1508)年に造立されたことが分かります。まんのう町の弘安寺のものが永正16年(1519年)9月21日でしたから、それよりも10年近く前に作られています。
背面(北面)には、なにも彫られていません。石材は、基礎と同じもので、同一の石塔部材と研究者は考えています。
 笠は、
①幅65cm、高さ31cm、軒厚は中央で9cm、隅で11cm
②笠幅と高さのバランスは比較的取れており、全体的に均整な形状
③軒四隅の稜線の反りは殆どなく、軒口は若干斜めに切られている。
④石材は灰褐色の火山傑凝灰岩で、安山岩と玄武岩の爽雑物を含む。
作者が指摘するのは笠の石材が基礎・塔身とは、同じ天霧石ですが異なる性質の石材が使われいることです。見た目には基礎・塔身とほぼ一致するように見えますが、石材が異なることから本来は別の部材であった可能性を指摘します。寺院が移転した時に、この笠塔婆も移動したはずです。その際に別の石造物の笠と入れ替わった可能性があるようです。しかし、笠のスタイルや塔身の年代に大きな時期差はありません。同時期の複数基の石造物があって、その間で入れ替わったとしておきましょう。以上から、この十三仏笠塔婆は、讃岐では銘のあるもっとも古い三仏笠塔婆だと研究者は判断します。
十三仏笠塔婆
まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆 

讃岐で他に紀年銘があるのは、まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆で、永正16(1519)年9月21日銘でした。
この石造物も萬福寺と同様に1・3・3・3・3の5段形式の十三仏略像で、その上部には天蓋が線刻されています。左右側面には月輪が、その内部には大日如来の種子が刻まれているなど、萬福寺例と比べて丁寧に作られています。そして、紀年銘に加えて四條村一結衆との文言もあり、造立者が推定できます。

萬福寺笠塔婆2
          萬福寺十三仏笠塔婆
この他に讃岐で笠塔婆スタイルの十三仏石造物は、次の3つがあります。
善通寺市吉原町牛額寺奥の院、
丸亀市本島町東光寺、
三豊郡詫間町粟島梵音寺
これらには紀年銘がありませんが、笠部スタイルから室町中期以降のものとされます。これらの分布位置を見ると讃岐の十三仏笠塔婆は、全てが中讃地域に分布していることになります。また、その内の2つが本島と粟島という塩飽の島です。
  このことからは塩飽諸島を拠点として海上輸送業務などで活躍した勢力が十三仏信仰と密接に関わっていたことがうかがえます。そこに、十三仏信仰を伝えた宗教集団として思い浮かぶのは次の通りです。
①庄内半島までの沿岸や塩飽に教線を伸ばしていく多度津の道隆寺
②児島を拠点に瀬戸内海に教線を伸ばす五流修験
③多度津を拠点に、瀬戸内海交易で利益を上げようとする香川氏
④高野聖や念仏聖などの活動拠点であった天霧山背後の弥谷寺
⑤弥谷寺信仰の瀬戸内側の受口であった多度津白方の仏母寺や海岸寺の前身勢力。
 対岸の吉備地域と比較検討が進めば、中世の十三仏信仰の受容集団や信仰のあり方などが見えるようになってくるかもしれません。

誰が造ったのか?

 讃岐の5つの十三仏石造物は、どれも天霧山周辺の凝灰岩で作られています。ここからは、弥谷寺や牛額寺の石工集団がこれらを制作したことが推測できます。彼らは、多量に五輪塔を作って、三野湾を経て瀬戸内海全域に供給していたことが分かっています。しかし、十三仏石造物は、讃岐で5つだけで、数が少ないので、造立者の注文でその都度、オーダーメードで製作したのかもしれません。
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院墓地で弥谷寺産天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部からの流入品である五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
萬福寺の十三仏笠塔婆が制作されたのは、Ⅱ期にあたります。
中世讃岐石造物分布表
讃岐中世の主要な石造物分布図
最後に萬福寺の十三仏笠塔婆をめぐる「物語」をまとめておきます。
①管領細川氏の讃岐西守護代とやってきた香川氏は、多度津に拠点を構え、天霧城を山城とした。
②細川氏は氏神を東西神社、氏寺を弥谷寺として保護した
③氏寺となった弥谷寺には、数多くの五輪塔が造られ安置された
④弥谷寺周辺には、凝灰岩の採石場が開かれ専門の石工集団が活動するようになった。
⑤弥谷寺の石工は、坂出の白峰寺の石造物造営などに参加する事で技術を磨き成長した。
⑥弥谷寺石工集団は、三野湾から瀬戸内海エリア全体に石造物を提供するようになる。
弥谷寺 石造物の流通エリア
           天霧石製石造物の流通エリア

このように、香川氏の保護の下で成長した石工集団がいたことが、弥谷寺や牛額寺の採石場の存在からうかがえます。そこに、十三仏信仰という新たなモニュメントが宗教集団によって持ち込まれてきます。それを最初に受けいれたのは、塩飽の海上運輸に関わる人たちだったのでしょう。彼らが天霧山周辺の石工に制作を注文します。そこで、作られたものが自分たちの島に安置されます。同時に、香川氏の縁のある寺院にも寄進されたと私は推察します。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年
関連記事

永井出水
善通寺市の永井出水(清水)と伊予街道

  旧伊予街道と丸亀城下町から多度津葛原を抜けて新池から南下してくる道が交わるところに出水が湧き出しています。これが永井出水(榎之木湧)です。伊予街道沿いにあるために多くの人達に新鮮な水と、休息の場を提供してきました。今回は、この湧水の周辺にあった馬継所と茶屋を見ていくことにします。

多度津街道ルート4三井から永井までjpg
永井周辺の金毘羅街道と道しるべ

この湧水のある永井は、金毘羅街道と伊予街道が交わる所でもあります。そのため周辺には道標が多いようです。「こんぴら街道の石碑」の所には、折れた鳥居の石柱が残っていることは以前にお話ししました。また、金毘羅街道が南に折れる所にも、いくつもの道しるべが民家の庭先に建っています。
DSC06061
永井の金毘羅・伊予街道合流点の折れた鳥居の石柱 上図番号12

 今日、お話しするのはさらに東に行った所にある永井の出水(榎之木湧)です。

DSC06477
永井の出水(榎之木湧)

丸亀平野は、もともとは土器川や金倉川の扇状地です。そのため水はけがよくて、凹地には出水が至るところから湧きだしています。それが弥生時代から人々の生活用水や水田の灌漑につかわれてきました。

長井の出水
        永井の清水(榎之木湧:金毘羅参詣名所図会)

 この出水めがけて、条里制に沿って伊予街道が伸びてきます。
旧街道で四国一周!(1)伊予街道 その①高松城~鳥坂峠_d0108509_11501950.jpg
                伊予街道
この街道は、丸亀城下はずれの中府口(丸亀市中府町)から田村を通り、善通寺地域の原田・金蔵寺・永井・吉原・鳥坂を経て道免(高瀬町)に入り、新名(高瀬)→ 寺家(豊中町)→ 作田(観音寺市作田町)→ 和田浜(豊浜町)→ 箕浦を経て、伊予川之江へとつながります。
 江戸時代には、その途中に次のような5ヶ所に馬継所が置かれていました。
  中府村・下吉田村永井・新名村・寺家村・和田浜村

馬継所とは問屋場とも呼ばれました。
第37回日本史講座のまとめ④ (交通の発達) : 山武の世界史
「人馬宿継之図」と題された上絵には、馬継所の前で荷物を馬から降ろし、新しい馬に積み替えています。

藤枝 人馬継立|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画
拡大して見ると武士の供が宿役人に書類を提出したのを、宿役人が証文と思われる文書を確認しているようです。
藤枝 東海道五十三次 歌川広重 復刻版浮世絵
    荷物を積み替える雲助と、役目を果たし煙草一服の雲助

このように、
馬継所(問屋場)では、荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていました。東海道の各宿では、100頭の伝馬と100人の伝馬人足を置くことが義務づけられていました。伝馬朱印状を持つ者がやってきたら伝馬を無料で提供しなければなりません。その代わりに、宿場は土地の税金が免除されるなどの特典や、公用の荷物以外は有料とし、その際の駄賃稼ぎが宿場の特権として認められていたようです。この小型版が伊予街道にも次のように配置されていました。
①丸亀船場から永井までが二里
②永井から新名までが二里半
③新名から寺家までが二里
④寺家から和田浜までが二里半
だいたい2里(約8㎞)毎に、設置されていたようです。永井の馬継所についた雲助達は、そこにある出水で喉を潤し、汗を流し落としたことでしょう。

DSC06481
永井の出水
各馬継所間で荷物を運送する人足や馬へ支払う「人馬継立賃」は、次のように定められていました。
(明治維新の翌年の1869年の「人馬継立賃」)
二里半区間 人足一人につき五匁、馬一頭につき一〇匁で
二里区間  人足一人につき四匁、馬一頭につき 八匁
1870年には、永井馬継所運営のために、給米内訳が下表の通り支給されています。この表からは次のような事が分かります。

永井馬屋の経費表
①永井馬継所の給米は28石5斗で、「日用御定米」日用銀(米)のうちから出費される
②内訳は夜間の「状持」(公的書状送届)のため大庄屋へ1石2斗
③新菜・中府馬継所の大庄屋への状持をそれぞれ2石5斗と2石
④残りの22石8斗が、帳附者と御状持運者へ配分。
 ①の「日用銀(米)」は、年貢以外に村落維持のための費用を農民から徴収したもので、丸亀藩がこれを管理して必要に応じ村落へ支給するようになっていました。
④の「帳附者」は、公的荷物の運搬に従事する「運輸従事者(雲助)」のことです。「御状持運者」とは、各大庄屋への書状配達人足のようです。
   永井の馬継所は、どこにあったのでしょうか
永井御茶屋から少し西に行った元郵便局の辺とされ、伊予街道と旧多度津道の交ったところになります。そこには今は「お不動さん」があり、「屏風浦弘法人師御誕生所善通寺道」と刻まれた道標が建っています。
DSC06483
永井出水に立つ道標(東高松 西観音寺)
馬継所は明治3(1870)年8月に廃止されます。換わって、新たに丸亀浜町と新名村と和田浜村に駅逓所が設置されたようです。(以上、亀野家文書「駅場御改正記」)

 永井出水周辺には、もうひとつ公的な建物がありました。

DSC06476

出水には「榎之木湧(えのきゆう」と書かれた説明板が建てられています。 この説明版からは次のような事が分かります。
①出水は地域住民の飲料水だけでなく、下流17㌶の水田の灌漑用水でもあること
②お殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名付けられた茶屋があったこと
③その名物が、ところてんであったこと
永榎亭という茶屋がいつごろからあったのかは分かりませんが、1852(嘉永5)年に、下吉田村の永井茶屋番だった又太郎が居宅建替のための援助金を藩に、要望した時の口上書が残っています。

永井茶屋口上書嘉永5年
永井茶屋番・又太郎の茶屋建替のための口上書
  恐れ乍ら願い上げ奉る口上の覚
一    私万
往昔宝永年中、永井御茶屋御番仰せ付かせられ、有難く恐請し奉り、只今の処え転宅仕り、今年迄几百五拾ヶ年計、数代御蔭を以って無事二御番相勤め居り申し候、且天明八の頃居宅建替の節、御上様ぇ御拝借御願申し上げ候処、願の通仰せ付かせられ候、其後右御下ヶ銀下され二相成り候様申し伝え承り居り申し候、又候文政四の頃台所向建替仕り、其後天保九成年御巡見様御通行の節、座敷向御上様より御造作成し遣せるれ、誠二以て冥加至極有り難き仕合二存じ奉り候、取繕も度々の儀一付、手狭一仕り度くと存じ候得共、御上様初土州様御通駕の節、手狭二ては御差支え二相成り候間、下地の通り建替仕り度く、御存じ在らせられ候通、蟻地二て又々居宅残らす蟻人波り極人破に及び、瓜山の節ハ最早崩込の伴も計り難く、忽捨置き難く実二方便余力御座無く、心底に任せず御時節柄恐れ入り奉り候得共、前文の次第二付此度建替仕度候得共、親共代より色々不仕合相続き、■は近年世上一統世柄も悪敷、売外も不景気二て別て困窮仕り、何共恐れ多く申し上げ奉り兼候得共、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応の御ドヶ銀仰せ付かせられ下され候様願い上げ奉り候
  意訳変換しておくと
私どもは、宝永年間(1704~11)に永井茶屋の御番を仰せ付かって、現在地に転居しててきました。御蔭を持ちまして150年余り数代に渡って、無事に御番を勤めて参りました。
 天明の頃に、居宅建替の時には、御上に御拝借をお願申し上げたところ、銀を下されたと伝え聞いています。また文政4年の台所建替、天保9成年御巡見様の通行の時には、座敷を殿様より造作していただき、誠に以て冥加の極りで、有り難き仕合と存じます。
 修繕も度々におよび、手狭になって参りました。殿様をはじめ土佐の参勤交替の際にも、差支えがでるようになりました。そこで図面の通り、建替を考えています。今の居宅は、全体に白蟻が入り込み、大風の時には倒壊の恐れもあり、このまま放置することは出来ない状態です。ここに至っても、時節柄を考えると大変恐縮ではありますが、別途計画書の通り建替を計画しました。親の代より色々と御世話になり、近年は世情も悪く、売り上げも不景気で困窮しております。恐れ多いことではありますが、格別の御憐慈の御沙汰を以て、相応のご援助をいただけるように願い上げ奉ります。
ここからは次のようなことが分かります。
①「往昔宝永年中永井御茶屋御番仰せ付かせらる」とあるので、18世紀初頭の宝永年間には、ここに茶屋が開かれていたこと
②丸亀の殿様以外にも、土佐の殿様の参勤交替の際にも利用されていたこと
③過去には茶屋兼居宅の建て替え、台所建替、座敷の造作などに藩からの援助があったこと。

この1852(嘉永5)年の居宅建替援助願は、丸亀藩の認めることにはならなかったようです。それは2年後の1854(安政元)に、藁葺の茶屋番居宅が地震で破壊したために「元来蟻付柱根等朽損、風雨の節危く相成居候」と居宅を取り壊して小屋掛にすることを願い出ていることから分かります。白蟻の入った茶屋は、地震で倒れたようです。
金比羅からの道標

 茶屋の修理についてはその都度に、下吉田村の庄屋から藩に報告書が提出されています。その史料から研究者は、茶屋を次のように「復元」しています。
表門・駒寄せを設け、黒文字垣・萩垣・裏門塀をめぐらし、屋根は藁葺。庭には泉水があった。建物の内容は上ノ間(四畳半)・御次ノ間(六畳)があり、台所が附属し、雪隠・手水鉢が備えられていた。

それから約20年後、1871(明治4)年5月に茶屋番の仲七は茶屋敷地と立木の払下を要望書を次のように提出しています。
  一此の度長(永)井茶屋并に敷地立木等、残らず御払下ヶ遊ばせらる可き旨拝承し奉り候、然る二私義以来御茶屋御番相勤め、片側二て小居相営み渡世仕り居り候所、自然他者へ御払下け二相成り候様の義御座候ては、忽渡世二差し支え、迷惑難渋仕り候間、甚だ以て自由ヶ間敷恐れ入り奉り候得共、御茶屋敷地立木共二私え御払下け仰せ付かせられ下され候ハヽ、渡世も出来望通二有り難き仕合存じ奉り候、何卒格別の御慈悲フ以て、御許容成し下させ候様、宜敷御執成仰せ上げられ下さる可く候、以上
明治四年未五月          御茶屋番     仲 七
庄屋森塚彦四郎殿
意訳変換しておくと
  長(永)井の茶屋と敷地の立木を、残らず払下ていただけるように申請いたします。私どもは茶屋番を長らく務めて、茶屋の傍らに小さな住居を建てて生活を立てて参りました。これを他者へ払下げられては、生活に差し支えが出て難渋し、困窮いたします。ついては恐れ入りますが、茶屋敷地と立木を私どもへ払下げていただければ、これまで通りの生活も送れます。何卒格別の慈悲をもって、聞き届けていただけるようお願いいたします。
明治四年未五月      御茶屋番     仲 七 印
庄屋森塚彦四郎殿
ここからは20年前に倒壊した茶屋に代わって、仲七が小屋掛けにして営業していたことが分かります。そのため敷地や立木を自分たちに払い下げて欲しい、そうすれば今まで通りの「渡世(生活)」が送れると陳情しています。先ほど見たように1870(明治3)年8月に、永井馬継所は廃止されています。そのため永井茶屋も払い下げられることになったようです。この払下願は下吉田村庄屋森塚彦四郎から弘田組大庄屋長谷川邦治へ出され、さらに長谷川邦治から藩へ提出されたはずですが、その結果を伝える史料は残されていないようです。(以上、長谷川家文書「諸願書帳」)
DSC06484
永井出水
以上をまとめておくと
①伊予街道の善通寺市永井には榎之木湧があり、そのそばに殿様の休息のための茶屋があった。
②茶屋は、ところてんが名物で、殿様だけでなく街道を行き交う人々の休息場所でもあった。
③しかし、幕末に立て替えられることなく地震で倒壊した。その後は、小屋掛けで営業をしていた。
④明治になって跡地売買の話が持ち上がり、営業主から跡地の優先的払い下げを求める申請書が残っている。
⑥永井は、伊予・金毘羅街道が交差する所で、馬継所や茶屋があり、街道を行き交う人に様々なサービスと提供していた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   永井の馬継所と茶屋  善通寺市史NO2 266P
関連記事

  「郡庁」というのは、今の私たちにとっては馴染みのない言葉です。今の郡は、単なる地理的な区割りとしてしか機能していません。しかし、明治の郡には、郡長がいて郡庁もありました。例えば仲多度郡にも郡庁があり、それは善通寺に置かれていたというのですが、それがどこにあったのかについては、私はよく分かっていませんでした。善通寺市史第三巻を見ていると、仲多度郡郡庁の変遷や当時の写真なども掲載されています。そこで今回は、仲多度郡の郡庁を追いかけてみようと思います。テキストは、「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」です。

 香川県は、愛媛県から独立し「全国で最後に生まれた県」です。その香川県に、現在の郡が登場してくるのは、1899(明治32)年4月1日の次の法律によってです。
 朕帝國議會ノ協賛ヲ経タル香川縣ド郡廃置法律ヲ裁可し茲二之ヲ公布セシム
御名御璽
明治三十二年三月七日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋
内務 大臣 侯爵 西郷従道
法律第四―一琥(官報三月八日)
香川縣讃岐國大内郡及寒川郡ヲ廃シ其ノに域ヲ以テ人川郡ヲ置ク
香川縣讃岐國大内郡及山田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ木田郡ヲ置ク
香川縣讃岐國阿野郡及鵜足郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ綾歌郡ヲ置ク
香川縣讃岐國那珂郡及多度郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ仲多度郡フ置ク
香川縣讃岐國三野郡及豊田郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三豊郡ヲ置ク
附 則
此ノ法律ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス 
 これに小豆郡と香川郡の二つの郡と、高松市と丸亀市を加えて、香川県は二市七郡で構成されることになります。こうして現在の私たちに馴染みのある郡名が出そろうことになりました。そして丸亀平野では、那珂・多度郡の統廃合と同時にその一部を割いて丸亀市が置かれることになります。
それでは、仲多度郡の郡庁は、どこに置かれたのでしょうか?
それまでは、那珂郡・多度郡の2郡にひとつの「那珂多度郡役所」は、城下町のあった丸亀に置かれていました。従来の政治機能が丸亀に集中していたので、その方が色々な面でやりやすかったのでしょう。
 この法律によって生まれた仲多度郡役所は、善通寺村に置かれると決まっていました。しかし、当時の善通寺は十一師団設置にともなう建設ラッシュ中で、地価急騰と建設費も急上昇中でした。郡庁舎を建設する財源もなかったようです。そこで、城下町だった丸亀市に今まで通り「仮住まい」ということになります。
 郡庁舎は、いつから善通寺に置かれたのでしょうか?
『仲多度郡史』には、1903(明治36)年2月6日の記録に、次のように記されています。

「大字上吉田(停車場の西方)の民家を借用して其の事務を執れり」

「停留場」というのは、善通寺駅のことです。ここからは日露戦争が始まる前年には、善通寺駅の西方の民家に郡庁舎が丸亀から移ってきていたことが分かります。

11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
        駅前通り南側の航空写真(1920年代)
そして、日露戦争後の1906(明治39)年12月28日には、次のように記されています。
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。前に丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在りしも、執務の不便言ふへからさるものありしか爰に梢々官署的借家成るに及び此の日を以て移転せり」
 
  意訳変換しておくと
本郡役所を、善通寺町大字生野(輜重隊兵営の南側)に移す。以前に丸亀より移転し約5年間仮舎住まいであったが、執務上の不便さも増してきたので、今回「官署的借家」に、移転することになった。

ここから次のようなことが分かります。
①「丸亀より移転し約五筒年間仮舎に在り」とあるので、丸亀からの移転が1901年であったこと
②善通寺駅西側から輜重隊の南側に、「官署的借家」を確保して移転してきたこと

「輜重隊」は、現在の「郵便局+自衛隊の自動車教習所+あけぼの団地」のエリアになります。その南側となりますから現在の東中学校あたりになります。
さらに1908年1月の香川新報は、郡役所庁舎の落成を次のように報じています。
「同郡役所は既記の通リ善通寺町の字條字治郎氏が同町輔重兵南側に建築中の処落成、旧所移転せしか、昨四日移転式と新年祝賀会を行ふ、出席者は土屋師団長、小野田知事以下百餘名なりし

意訳変換しておくと
「仲多度郡役所は既報の通り、善通寺町の字條字治郎氏が輔重隊南側に建築中の建物が落成したので、旧所から移転した。昨日四日に移転式と新年祝賀会を行われた。出席者は土屋師団長、小野田知事始め、百名あまりであった。

 十一師団長の方が、知事よりも前に来ています。当時は師団長の方が格上であったようです。
十一師団配置図3
十一師団配置図(1922年)
「1912(明治45)年7月2日の『香川新報』には、「善通寺町の火事」の見出しで次のような記事があります。

「普通寺町生野糧秣吉本商會事吉本乙吉の倉庫より三〇日午后六時四〇分頃発火せしが秣(まぐさ)は乾燥し居れば見る見る大火となり其ノ前は道路を隔てて輜重隊あり而も手近く火薬庫あるより……又仲多度郡役所は直の隣なるを以て類焼ありてはと御真影を始め諸書類器具を出す事に大に雑踏せしが……」

意訳変換しておくと
「普通寺町生野糧秣(りょうまつ)吉本商會の吉本乙吉氏の倉庫より30日午後6時40分頃に出荷。馬用の秣(まぐさ)は、乾燥していて見る見るうちに大火となった。倉庫の前は道路を隔てて輜重隊で、近くには火薬庫ある。(中略) また仲多度郡役所は、すぐ隣ななので類焼の恐れがあるために御真影を始めとする諸書類や器具を運びだしたりして、周辺は火事場の騒ぎとなった。」

 とあり続いて、鎮火は八時半、損害倉庫3棟全焼一棟半焼、株2万6000貫で被害額は5000円、火災の原因は不明と結んでいます。仲多度郡役所への類焼は免れたようです。
広島の建築 arch-hiroshima|広島市郷土資料館/旧陸軍糧秣支廠缶詰工場
陸軍の糧秣缶詰工場(広島郷土資料館)
 糧秣とは、兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を指す軍事用語のようです。輜重隊は師団に必要な食料から一切のものを調達するのが任務でした。そのため缶詰や乾パンなどの食糧も民間から購入していました。出火した「糧秣吉本商會事」も、輜重隊に「糧秣」を納めていた会社だったのでしょう。そのため輜重隊南側(現在の東中学校)に、全部で4棟の倉庫を持っていたことが分かります。輜重隊の周辺には、師団御用達の酒屋や八百屋、衣料品店などが軒を並べるようになったことは以前にお話ししました。吉本商會も糧秣を納める会社であったようです。
偕行社航空写真1922年
輜重隊周辺(南側が現東中学)

この記事から次の2点に注目して郡庁舎の位置を類推してみます。
①道を隔て、軸重隊があり、近くに火薬庫がある
②吉本商會の倉庫に隣接して仲多度郡庁舎がある
①の火薬庫跡は、現在のシルバー人材センターになるようです。以上から、仲多度郡郡庁や吉本商会は、現在の東中学校附近にあったことが分かります。
1916(大正5)年4月1日 郡役所は、生野から上吉田の皇子の森に新築移転します。『仲多度郡史』は、その経緯を次のように記します。
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎及議事堂建築工事に着手す。郡庁舎の建築は多年の.懸案なりしも其ノ機容易に熱せさりしか、昨年通常縣會に於て之か議決を見るに至り、漸く宿望を遂くるの機運に到達するや本郡に於ても、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築の議を可決し爾来位置の選定土地の買収設計の作製、工事請負人札等に数月を費し、此に交通最も便利なる面かも老松森々として高燥なる皇子の森の地を得て、此の同地鎮祭を挙げ以て其の工事を起すに至れり」。

意訳変換しておくと
「1915(大正4)11月7日、本郡庁舎と議事堂の建築工事に着手した。郡庁舎の建築は多年の懸案であったが、その機はなかなか熟さなかった。そのような中で昨年、通常県会で建設に向けての議決が行われた。これを受けて、今上陛下御大礼の記念事業として議事堂新築議案を郡会議でも可決し、位置の選定・土地の買収・設計の作製、工事請負人札等などに数ヶ月を費してきた。善通寺駅に近く、交通も便利で、老松森々生い茂る皇子の森の地を得て、ここに地鎮祭を挙げ起工式に至ることができた。

 新たに郡庁と議事堂が建設されることになった「皇子の森」とは、どこにあるのでしょうか?

皇子の森2
  仲多度郡庁が新設された皇子の森
今は児童公園になっていますが、どうしてここにこれだけの広さの土地が公園として確保されているの以前から疑問に思っていたところです。旧郡庁跡だったと言われると納得です。
 1916(大正5)年3月には、郡役所庁舎の落成と庁舎の規模等について次のように記します。  
「三月三十一日新築郡聴舎落成に至りたれは、本部役所を皇子の森に移転し、四月一日より新庁舎に於て事務を執れり。四月二六日御大礼記念事業として新築したる、本郡議事堂既に竣工し、郡役所も亦新廃合に執務する等総て完成を告けしかは、此の日議事堂に於て、其ノ落成式を行ひたり。来賓として若林知事、蠣崎師団長を始め、各郡市長縣郡会議員町村長及び地方各種団体名望家等三百余名の参列ありて、壮大なる式を挙げ、記念絵はがき郡案内記を配布し盛宴を開きたるに、各自歓を盤して本郡の発展を祝せり。

仲多度郡議事堂
仲多度郡議事堂
今建物の概要を挙くれは、議事堂は其の敷地二百六十五坪、本館木造平家建てにて、建坪百八坪、附属渡廊下一棟、厠一棟、正門及び周囲の石垣、土畳等、総工費6978円を要せり
仲多度郡役所
仲多度郡庁舎
 郡庁舎は其ノ敷地六百六十七、本館木造平屋建にして百二十七坪、附属小使室、物置二棟、渡り廊下、厠各二棟。倉庫一棟、掲示場一。門一。土畳及盛土等総て費金一万一千二百十四円餘を要せり。
(郡庁舎敷地は、元官有地なりしを善通寺町に払受けて寄附したるものなり)而して建物の地形は土を以て築き、屋上には塔及窓を設けて室内の換気を能くし蟻害豫防の為め背面の床下を開放し、避雷針を設くる等、構造堅牢にして、採光通風共に十分なり。敢て輸奥の美なしと雖も結構全く備はれり。又多数庭樹の寄贈ありて、春光秋色執務の疲労を資くるに足るへく実に縣内有数のものと云ふへし」。
こうして完成した仲多度郡の庁舎と議事堂ですが、その役割は短いものでした。郡制が廃止され、郡長や郡役所が不用になってしますのです。香川県に郡制の施行されたのは1899(明治32)年7月1日のことでした。以来、郡は地方自治団体として郡会を開いてきましたが、徴税権がありませんでした。そのため町村が郡費を分担して負担してきました。
 一方で、町村側から見れば郡はほとんど仕事らしい仕事をしておらず「無用の長物」と見えました。そのため廃止すべきという意見が年々高まります。香川県市町村長会でも1920(大正19)年11月、衆議院・貴族院両院議長、内閣総理大臣、内務大臣に宛てて「郡制廃廃止二関スル請願」を行っています。これを受けて1921(大正10)年に、郡制廃止法案が衆議院で可決されます。その提案理由は、次の通りです。
①郡制施行以来、郡自治にはみるべきものがない。
②模範にしたプロイセンとは異なり、我が国では住民の自治意識が弱く、必要性が少ない。
③各郡事業を府県や町村に移せば、事務を簡略化できる
④郡費負担金がなくなり、町村財政にプラスになる。
「郡制廃止二関スル法律」が公布されたのち、その施行期日は1921年4月1日と定められます。しばらく郡長や郡役所は存続しますがが、1926年7月には、それも廃止されて、郡は単に地理的名称となります。つまり、仲多度郡庁の建物は作られて実質5年で、その存在意味を無くしたことになります。
しかし、新築の建物にその後の使用用途はありました。
1928年6月1日からは、庁舎は善通寺警察署として使用
1932年9月1日からは、議事堂は香川県善通寺土木出張所が1960年まで使用。

最後に郡庁舎の移動変遷をまとめておくと
①仲多度郡成立後も、しばらくの間は丸亀に置かれていた
②1901年に丸亀から移動し、善通寺駅の西方の民家を5年間庁舎としていた
③1906年に輜重隊の南(現在の東中あたり)の貸屋に移った
④1916年に庁舎と議事堂が完成。場所は皇子の森
⑤1926年7月に郡制が廃止され閉庁
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「近現代における行政と産業 仲多度郡役所 善通寺市史第三巻58P」

11師団の成立過程を追いかけています。今回は、次の2点に絞って「善通寺陸軍病院」を見ていこうと思います
①「おとなとこどもの医療センター」の原型が、どのようにしてつくられたのか
②設立されたばかりの病院が日露戦争に、どのように対応したのか
テキストは「陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わリー  善通寺市史NO3 602P」です。

まず11師団の各隊の供用年代を下表で確認しておきます。
十一師団建築物供用年一覧


表の一番最初に「丸亀衛戌(えいじゅ)病院」明治30(1897)年7月5日と供用開始年とあり、明治37(1904)4月1日に善通寺衛戌病院と改称されたことが記されています。衛戍とは、軍隊が駐屯することを表す法律用語で、英語のGarrison(駐屯地)の訳語になるようです。
11師団配置図
⑨が善通寺病院 ⑩が練兵場

善通寺師団の創設決定が1896(明治29)年に決定されると、その7月に病院用地として伏見に27000㎡(8100坪)の土地⑨が買収されます。病院建物については、政府は各営舎が出来た後に着手する予定でした。しかし、「兵士入隊後では不都合」と軍の方から突き上げられて、着工が決まります。そのためか用地もすこし奥まった伏見の地が選ばれます。そして翌年の1897(明治30)年4月着工し、7月には、善通寺丸亀衛戍病院の名称で開院することになります。これは建物の一部だけだったようで、11月に第一病棟、翌年に、さらに土地を買収して35000㎡(10700坪)となり、二病棟、炊事棟が完工。1899年に2階建の本館、被服庫、平屋の三病棟、五病棟、病理試験室等が姿を見せ、病院としての体裁をととのえていきます。
「善通寺陸軍病院(伏見分院)」と名称変更。(昭和初期の絵葉書)
善通寺衛戍病院
当時の陸軍病院の建物設計については、陸軍軍医部によって定められていた「鎮台病院一般の解」という設計基準書があったようです。これに基づいて、日本陸軍工兵第三方面(隊)が、軍医部やフランス軍事顧問団などから助言を受けながら設計していたようです。
現在明治村に一部が移築されている「旧名古屋衛戍病院」(1877年竣工)について、研究者は次のように述べています。

名古屋衛戍病院(明治村)
名古屋衛戍病院(明治村)
  管理棟と病棟に共通する仕様は、切石積の基礎、木造大壁造漆喰塗、寄棟桟瓦葺、上げ下げ窓、病室の四周を囲む回廊付き、である。漆喰壁の下地は名古屋鎮台歩兵第六聯隊兵舎と同様に木摺り斜め打ちで、一部に平瓦が張られて下地となっている。
管理棟正面には、桟瓦葺で緩い起(むくり)破風の玄関が突き出され、玄関の柱はエンタシスのある円柱である。広い玄関ホール中程から板床に上がり、その高さのまま各室、中庭の回廊へ連絡している。管理棟内には、医局、薬剤室、理化学研究室などがあった。背面回廊に面する窓は引き違いである。
名古屋衛戍病院病棟(明治村)
名古屋衛戍病院の病棟
病棟は寄棟屋根に換気用の越屋根を載せる。病棟外部回廊の大半は創建当初吹き放ちの手摺付であったが、後に改造され、ガラス入り引違い戸が建てこまれている。換気装置は病棟内の天井に畳2枚ほどの広さの回転板戸があり、開けると、越屋根までの煙道が通る仕掛けである。病室の外壁下部に床上換気口があって、病室内と外部回廊の通気を行うことが出来る。
中庭を囲む渡廊下、各病棟四周の回廊は、全て独立基礎に木柱を立て、木造高床桟瓦葺で、低い手摺が付いている。調査によれば、創建工事の際、竣工直前まで手摺を付ける計画はなかったが、或る軍医の提案により、全ての回廊と渡廊下に手摺が設置された。渡廊下の屋根は病棟や管理棟に比べ一段と低い。(西尾雅敏)
善通寺衛戍病院についての史料は、あまりないようです。名古屋衛戍病院を見てイメージを膨らませることにします。

十一師団 陸軍病院
衛戍病院の建物群
日露戦争による負傷兵に、どのように対処したのか
出来上がったばかりの衛戍病院は、平時は患者も僅かで静かな所だったようです。ところが設立7年目にして、その様子は一変します。日露戦争が勃発したのです。善通寺からも多くの兵士達が戦場へと出兵していきます。そして、負傷者が数多く出ます。病院では、開戦後4ヶ月後の6月10日に初めて戦地からの戦傷患者を受けいれています。その後も旅順の203高地をめぐる戦闘で、患者はうなぎ登りに激増し、五棟あった病棟はすぐに収容人数をオーバーします。記録によると1904(明治37)年12月13日の収容忠者数は6498名となっています。これだけの負傷者を、どのようにして受けいれたのでしょうか?
善通寺陸軍病院分室一覧
分院や転地療養地の一覧(善通寺市史NO3)

 これは増設(=分院建設)以外にありません。師団の各連隊で利用できる空地が選ばれて、そこに仮病棟が次々と建てられていきます。これを分院と呼びました。増設された各分院を見ておきましょう。
①第1分院    被服庫(四国管轄警察学校)に8病棟
②第2・3分院  練兵場西側(おとなとこどもの医療センター)
③第4・5分院  丸亀市城東町の練兵場(丸亀労災病院)
④伝染病隔離病棟 四国少年院西北の田んぼの中
以上で急造の病棟は114棟になりますが、それでも負傷者は収容しきれません。そこで、「転地療養所」が琴平・津田・塩江などの神社、寺院、民家等を借りて開かれます。琴平を見ると、現在の大門から桜の馬場にかけての金毘羅さんの広大な寺院群が崇敬講社になっていましたが、利用されていいない部分がほとんどでした。そこが宮司の琴綾宥常の申し出でで、「転地療養所」として活用されたようです。
善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
練兵場(=おとなとこどもの医療センター + 農事試験場)

練兵場に建てられた「第2、第3分院」は、どんなものだったのでしょうか。
「分院」建設地として目が付けられたのが練兵場でした。こうして練兵場に「善通寺予備病院第二・三分院」が建てられ、使用が開始されるようになるのが日露戦争中の1904(明治37)年9月2日のことでした。第二分院の概念図を見てみましょう。

善通寺陸軍病院 第2分室
         善通寺予備病院第二分院の概念図(1905年)
敷地の西側(左側)を流れているのが弘田川になります。位置は練兵場の南西隅にあたり、現在のおとなとこどもの病院の南側にあたります。回廊で結ばれた病棟が「10×2=20」建ち並んでいたことが分かります。これが第二分院ですから、もうひとつ同じような規模の第3分院がありました。

善通寺陸軍病院 第2・3分院
 第2分院の西側に第3分院が建てられます。

おとなとこどもの医療センターの新築工事の際に、発掘調査が行われました。その時に、第3分室の18病棟と、炊事場跡がでてきています。炊事場跡のゴミ穴が見つかり、そこからは軍用食器・牛乳瓶などが数多く出ています。
善通寺陸軍病院 第2分室出土品


牛乳瓶(2~4)2は胴部外面に「香川懸牛乳協合」「第六彊」「森岡虎夫」「電話善通寺一二四番」と陽刻され、背面には「高温」「殺菌仝乳」「一、人扮入」、頚部には「1.8D.L.」と陽刻されています。王冠で栓がされたままのものも出てきています。佃煮瓶(1)には、胴部外面下部に「磯志まん」の陽刻があります。負傷兵には牛乳が毎日出されていたこと、それを飲まずに廃棄していたものもいたようです。
分院の建物はどんな構造だったのでしょうか?
善通寺陸軍病院 第3分室 病棟柱穴跡

 発掘調査からは、礎石立ちの掘立柱建物が出てきています。永続的なものではなく、臨時の仮屋としての病棟だったことがここからもうかがえます。これが分院の病棟跡だったようです。
 ここで注意しておきたいのは、この2つの分室は、永続的なものではなかったことです。「臨時の分院」ということで、戦後の1906(明治39)年には閉鎖・撤去されます。下の写真は、昭和初期の練兵場を上空から撮ったものです。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場航空写真(善通寺市史NO3)
練兵場は「現在のおとなとこどもの医療センター + 農事試験場 + その他」です。その範囲は東が中谷川、西が弘田川、北西部は甲山寺あたりまでの30㌶を越える広さでした。ここで押さえておきたいことは、昭和初期には練兵場には病院はなかったということです。
それでは練兵場に再び病院が姿を現すのは、いつなのでしょうか?
それは1936(昭和11)に日中戦争勃発以後のことです。上海事変などで激戦が続き、負傷者が増大します。それを伏見の病室だけでは収容しきれなくなります。
十一師団西側
歩兵隊跡=「護国神社+乃木神社+中央小学校+西中・旧西高」

そこで最初は、中央小学校講堂に収容します。しかし、学校施設をいつまでも占有するわけにもいかず、歩兵連隊が徳島に移った後の兵舎を代用病室とします。それでも間に合いません。日露戦争の時と同じような状況がやってきたのです。このような中で事変がはじまって3か月後の9月には、再び練兵場に分院を建築することになります。各地から大勢の大工が集められ昼夜をとおしての突貫工事で分院建築がはじまります。こうして年末には、練兵場に17棟の病棟が再び姿をあらわします。残り半分の17棟や衛生部員の兵舎、倉庫などの付属建物が完成するのは1928(昭和13)年5月1日でした。こうして日露戦争後に撤去された分院が、24年ぶりに練兵場に姿を見せます。今度は「善通寺陸軍病院臨時第一分院」と呼ばれることになります。

善通寺陸軍病院 分院宛手紙
善通寺陸軍病院第1分院宛に宛てられた父親からの手紙
消印は昭和13年で12月18日、第23病棟の第1号室宛てになっている。
善通寺陸軍病院への手紙
第1分院の規模は次の通りでした。
病院敷地    129495㎡(39241坪)
病棟数       34棟
一箇病棟面積  683㎡(207坪)
伏見の本院と併せて、3500名の入院患者を受けいれることになります。これが戦後の善通寺国立病院となり、現在のおとなとこどもの医療センターへと発展していくことになるようです。
以上をまとめておくと
①十一師団設置の際に、師団の付属病院である「衛戍病院」が伏見に建設された。
②日露戦争の際には、約1万人の負傷兵を受けいれるために、各地に分院を建てて対応した。
③練兵場西南部にも、第2・3分室(計38病棟)が建てられたが、日露戦争後には撤去され更地なり、再度練兵場の一部として使用されていた。
④日中戦争勃発後の負傷者激増に対応するために、再び練兵場には大規模な分室が建てられた。
⑤この分室は、戦争の長期化とともに撤去されることなく戦後を迎え、善通寺国立病院へと姿を変えていく。
⑥「こども病院」へと特化した伏見の本院と、統合され現在はおとなとこどもの医療センターへと成長した。
⑦その際の発掘調査から弥生時代から古墳時代にかけての遺物が大量に出てきて、この地が善通寺王国の中心地であったことが分かった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
善通寺陸軍病院 伏見

参考文献
    陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わり
                                                              善通寺市史NO3 602P

  庵治町の文化財協会の人達をご案内して、以下のコースを巡ってきました。
大墓山古墳→宮が尾古墳→偕行社→、騎兵連隊跡の四国学院→乃木館→赤煉瓦倉庫→善通寺→農事試験場に残る出水群→宮川製麺

空海につながる佐伯直一族、旧練兵場遺跡群、近代になって片田舎だった善通寺村が大規模な軍都に瞬時に生まれ変わる様を、今に語る建物群など見てまわったことになります。
 お話をした後で、気になったことがあったのでバスを見送った後に、図書館で善通寺市史NO3を借りだして家で開いて見てみると、十一師団設置に関する3枚の地図や航空写真が挟まれていました。今まで見ていた善通寺市史にはなかったので、私にとっては始めて見るものばかりです。今回は、それを紹介しようと思います。
善通寺航空写真 1922年11月
陸軍統監部飛行隊撮影の善通寺市街地と十一師団
まず、「大正十一(1922)年十一月 統監部飛行隊調整」と書かれた航空写真です。これはこの年に善通寺周辺で行われた陸軍大演習用に、陸軍が作成したもののようです。練兵場が臨時の飛行場となり、演習のために飛行機が善通寺にもやってきていたようです。その時に撮られた写真を貼り合わせたもののようで、一部整合性に欠けます。分かりやすいように朱色で各隊の位置を書き込んでみました。
 師団設置が決まって、すぐに行われたのは用地買収だったことは以前にお話ししました。それは、次のようなプランで進められます。
①駅前から善通寺東院の南大門の前まで一直線に線を引いて、駅前通りを造り、
②その南側を約200m幅で買収。
③善通寺南大門から南へ道を作り、その両側約300mを買収
④そこに各連隊や部隊を配置していく
この配置については、早い段階から決まっていたと思っていました。ところが今回見つけた善通寺市史NO3の地図には、明治29年に書かれた次のような配置図案があります。
十一師団 遊郭用地

これを見ると各連隊の設置場所と、完成時のものを比べると次のうな点がちがいます。
11師団配置図

 現在地                  M29年度案     実際配置
①四国学院                 砲兵隊          騎兵隊
②護国神社・消防署・施設隊    練兵場          歩兵・兵器敞
③自衛隊                          歩兵 隊        山砲隊
この案では、練兵場が②の砲兵隊と歩兵隊の間に予定されています。練兵場を別の所に、取得するつもりはなかったようです。その後、この案では練兵場は狭すぎる、もっと広い場所が必要だという陸軍からの要望・圧力を受けて、現在の農事試験場や善通寺病院に別個に練兵場を設置することになったことがうかがえます。その結果、駅から一番遠くに設置予定であった騎兵隊が①の四国学院の地に変更され、後は玉突き的に動いたことが考えられます。

11師団配置図 遊郭
遊郭用地予定地が書き込まれた地図(明治29年)
 もうひとつ気がついたのは、この地図には香色山北側の麓に赤く塗られたエリアです。
よく見ると「遊郭用地壱万五千坪」と読めます。師団設置が決まるとと同時に、遊郭設置もその計画書には書き込まれているのです。旧日本軍が「娼婦を連れた軍隊」と云われることに納得します。善通寺はここに遊郭が設置されることには反対はしなかったのでしょうか? 反対しても、それが聞き入れられることはなかったかもしれません。

航空写真を拡大して各連隊を見ていきます。
11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
11師団各連隊の拡大写真
駅前から西に真っ直ぐ伸びる駅前通りの北側は、旅館やお店の小さな屋根が密集しているのが見えます。師団設置決定から2,3年で田んぼだった所が市街地になりました。
駅から順番に西に向かって各隊を見ていきましょう。
①駅前には旧河道跡が見えます。
かつて金倉川支流は、尽誠高校あたりからこの流路を通って北流していたことがうかがえます。
偕行社と北側の出水
偕行社南側 出水があったことがわかる (1922年陸軍大演習)

偕行社の裏側(南側)にみえるのは出水だったことが写真からも確かめられます。また、偕行社前には、師団全体の水源となる出水があったようです。この伏流水の豊かさが善通寺へ師団設置の要因の一つであったことは以前にお話ししました。偕行社の東側の女学校は、現在の善通寺一高になります。

偕行社航空写真1922年
②輜重隊は正面付近は、現在の郵便局で記念碑が建てられています。その背後は、自衛隊の自動車教習コースと市営団地になっています。現在は道を挟んで東中学があるあたりになります。ここもかつては河原跡で、掘ったら川原石が一杯出てくるそうです。生野町一帯は、氾濫原で水持ちが悪く水田化は遅れたようです。この時代も尽誠高校当たりまでは、森が続いていたという記録もあることは以前に紹介しました。
11師団 騎兵隊

③現四国学院は、かつての騎兵隊があった所です。
東側に並んでいるのが馬舎群で、ここに軍馬が多数飼われていたようです。馬舎といっても丈夫で立派な建物なので、「庶民よりいい建物に、陸軍さんの馬は飼われている」と云われた代物です。四国学院も設立当初は、教室に改造して使用していたと聞いています。広い乗馬場で、ロシアのコサックと戦うための訓練がされていたのでしょう。①・②と番号を打った建物のうちで②の建物が現在でも残されています。四国学院の短大の施設として利用されていた2号館です。
DSC05070
四国学院2号館(旧騎兵隊兵舎)
この2号館は、国の登録文化財の指定を受けたルネッサンス様式の数少ない軍の建物です。
十一師団西側

善通寺の南側にあった歩兵隊については、1920年代の国際協調・軍備縮小の機運の中で廃止されます。その跡地には、現在は次のようなものが建っています。
東側に護国神社と乃木神社
西側に中央小学校
南側に旧善通寺西高校・善通寺西中学校
11師団配置図 兵器敞

歩兵隊の南側は兵器敞(部)で、航空写真からも大きな倉庫が建ち並んでいるのが見えます。
この内で残っている赤煉瓦倉庫が①②③の3棟です。明治末から大正時代にかけて建てられたもので、幅14m×60mの2階建ての大型倉庫です。

DSC05162
兵器敞跡の赤煉瓦倉庫

分からないのは、工兵隊の隣の工兵作業場です。
ここでどんな訓練が行われていたのか、またその道を挟んで北側の「陸軍監獄」というのが今の私にはよく分からないところです。今後の調査対象としたいと思います。
HPTIMAGE
1920年代の十一師団配置と善通寺市街
航空写真は、そこに建っていた建物までみえてくるので、各隊の雰囲気まで伝わってきます。練兵場については、また別の機会にお話ししたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

善通寺市 仙遊寺 - WALKER'S

私がいつも御世話になっているうどん屋さんのひとつに、善通寺病院近くの宮川製麺があります。その駐車場のそばに「この先 弘法大師幼児霊場仙遊寺」という看板が出ています。歩いて1分足らずで境内につきます。境内の東側にはひろい農事試験場の畑が拡がります。   
  仙遊寺周辺は、空海(真魚)が幼い頃に泥で仏像を造り、それを小さな仏堂に納めて遊んでいた場所とされます。そのため旧蹟とされ、近世になると延命地蔵が建てられ、四国霊場の番外霊場となりました。
仙遊寺 再建前
更地化した仙遊寺の基壇 仮堂の中に本尊
しかし、近年はお堂がなくなり、基壇だけが残され、そこに建てられた仮屋に稚児大師と延命寺蔵だけが祀らていました。

仙遊寺の本尊
 仙遊寺本尊の弘法大師稚児像と延命地蔵
それが2年ほど前に、白壁の立派なお堂が再建されました。来年2023年は大師誕生1250年に当たるようです。その整備事業の一環として再建されたようです。仙遊寺 内部
新しいお堂の中に安置された仙遊寺の本尊
お堂の前の説明書きには、仙遊寺の由緒が次のように記されています。
仙遊寺縁起
仙遊寺縁起

文体がすこし古いようなのでので、読みやすいように現代語訳して、それに「高野大師行状図画」の絵を合わせて紙芝居風に見ていきます。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
  幼少期に泥仏を作り拝む場面   高野大師行状図画「幼稚遊戯事」

そもそも当院は弘法大師幼時の霊場で、大師は幼くして崇仏の念が深く、5、6歳の頃から外で遊ぶ時は泥土で仏像を造り、小さい御堂も造って仏像を安置し、礼拝していたと伝わっています。

  できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。真魚(空海幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、祀ります。その後は、地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

弘法大師 大師行状図画 蓮華に乗り仏と語る
仏達と雲上の蓮にのって語らう真魚
真魚が5、6歳頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。
父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(貴とうと)物と呼びました。
弘法大師 「四天王執蓋事」〉
「四天王執蓋事」 真魚の姿を見て驚き下馬し、平伏する役人

ある日、中央から監察官が屏風ヶ浦(善通寺)に巡視にやってきます。その時に遊んでいる大師の姿を見て、馬から飛び降り、うやうやしく跪(ひざまず)いて大師に敬礼しました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
真魚の頭上に天蓋を差しかける四天王「四天王執蓋事」
それを見た随員(部下)の人々は大変怪しみ、その訳を尋ねると「この子は凡人ではない、四天王が天蓋を捧げて、護っているのが見える」と言ったそうです。
以来、遠近の里人は大師を神童と称えて、後世にその礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としました。この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れます。
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードが加えられていきます。例えば、我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
弘法大師  高野大師行状図画 捨身

 六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。

これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」といわれるもので、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来します。
 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっています。
   幼年期の真魚を描いた絵図は、時代が下ると独立してあらたな信仰対象になっていきます。

弘法大師 稚児大師像 与田寺
稚児大師像(与田寺)

それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿(真魚)がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになるのは、以前にお話ししました。
 つまり、近世の稚児大師信仰の高まりとともに、真魚の活動舞台とされたのが仙遊寺周辺なのです。江戸時代には、真魚は粘土で仏を作り、それを小さな手作りのお堂に安置して遊んでいた、そこが仙遊ケ原だったと言い伝えられるようになっていたことを押さえておきます。
 4善通寺御影堂3
 「弘法大師誕生之地」と書かれた誕生院御影堂の扁額

 現在は誕生院の御影堂の扁額には「弘法大師之生誕地」と書かれています。しかし、13世紀頃に成立したいろいろな空海絵伝には、その生誕地が誕生院と書かれたものはありません。誕生院が姿を見せるのは13世紀になってからのことです。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と善通寺・仲村廃寺・南海道・郡衙の関係図

佐伯氏の氏寺である善通寺には、先行する寺院があったことは以前にお話ししました。
それが仲村廃寺で、現在のホームセンターの当たりになります。飛鳥の蘇我氏と氏寺である飛鳥寺の関係を見ても、建立者の舘周辺に氏寺は建てられることが多いようです。そうだとすると、佐伯直氏の舘も、仲村廃寺周辺にあったことが考えられます。それを裏付けるように、旧練兵場遺跡では古墳時代後期には、その中心域が病院地区から農事試験場の東部の仲村廃寺周辺に移動していることが発掘調査からは分かります。
 それが7世紀末になると、南海道が東から真っ直ぐに伸びてきて現在の四国学院を通過するようになります。その周辺に郡衙や新たな氏寺である善通寺が建立されることは以前にお話ししました。この時期には、郡司である佐伯直氏の舘もこの周辺に移動していたことが考えられます。古代には現在の誕生院には、佐伯直氏の舘はなかったと私は考えています。
DSC04034
再建された仙遊寺
  話が遠いところまで行ってしまいました。仙遊寺にもどります。
仙遊寺の本尊は、延命地蔵と稚児大師です。
   そしてセールスポイントは、稚児大師でしょう。旧蹟という大きな石碑も建っています。そうだとすれば、それをもう少しアピールした方がいいように思います。それは、江戸時代の善通寺が江戸や京都などで出開帳する際に、出品した品々が参考になると思います。元禄時代の善通寺は金堂再建の費用を集めるために大規模な開帳をおこなっています。
弘法大師稚児像
稚児大師像(善通寺)

その際の目玉の一つが「弘法大師生誕地」としての「稚児大師」でした。そして、ファミリーを目に見える形にするために、父親や母親の像を造り展示しています。
空海父 佐伯善通
真魚の父 佐伯善通像(戸籍的には 父は佐伯田公)
また、ここで紹介した真魚伝説にかかわる絵図も魅力あるものです。これらを展示することで「真魚の寺」という面を前面に出していくという広報戦略を私は「妄想」しています。要らぬお節介でした。
旧練兵場遺跡地図 
仙遊寺周辺の古代遺跡

  最後にもう一度、説明版を見ておきます。私が気に掛かる部分は、次の部分です。
  また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに当たり、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転しましたが、時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至っています。

世界広しといえど、恐らく誰も練兵場内に仏堂があったとは知らないことでしょう。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を、旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになりました。

この記述について検討しておきます。

善通寺航空写真 1922年11月
善通寺航空写真(1921年)と練兵場
練兵場は現在の仙遊町で「善通寺病院 + 農事試験場」の範囲
現在の仙遊町は、約14万坪(×3,3㎡)=46万㎡が11師団の陸軍用地として買い上げられ練兵場となります。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)
練兵場中央の北辺にあったのが仙遊ケ原でした。ここにあったお堂も軍に接収されます。伝承では師団長乃木将軍は夢の御告げによって古跡のことを知り、軍用地接収を中止させたと伝えます。この説明版も、それに従っているようです。しかし、これは後に神格化された乃木将軍への追慕から生まれた「伝説」のようです。

善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
善通寺練兵場周辺地図(1920年代)
1909(明治42)1月に、善通寺住職は陸軍大臣宛に次のような要望書を提出していることを善通寺市史は載せています。
「善通寺練兵場中古霊跡仙遊ヶ原地所借用願」
右霊跡仙遊ヶ原ハ弘法大師御誕生所屏風浦別格本山善通寺古霊跡随一二シテ大師御幼少ノ時御遊戯ノ場所トシテ大師行状記二下ノ如キ文アリ
昔ハ公ヨリ御使ヲ国々へ下サレテ民度ノ苦ヲ問ハセケリ 其故ハ君ハ臣フ持テ外トス民ハ食フ以テ命トス穀尽クヌレハ国衰民窮シヌレハ礼備り難シ疫馬鞭ヲ恐レサルガ如シエ化モ随ハス利潤二先ンシテ非法フ行ス民ノ過ツ所ハ吏ノ咎トナリ吏ノ不喜ハ国主ノ帰ス君良吏ヲ澤ハスシテ貪焚ノ輩ヲ持スレバ暴虐ヲ恣ニシテ百姓フ煩ハシム民ノ憂天二昇り災変ヲナス災変起レバ国上乱ル此ノ上ノ講ナルヨリ起り下奢ンルヨリナル国土若シ乱ナバ君何ヲ以テカ安カラン此故二民ノ愁ヲモ間ヒ吏ノ過リヲモ正サンガ為ノ御使ヲ遣ハサレケリサレバ勅使ノ讃岐国へ下サレタリクルニ大師幼クンテ諸々ノ童子二交ハリテ遊ビ給ヒケルプ身奉ッテ馬ヨリヨり礼拝シテロク公ハ几人二非ス共故ハ四人王白傘ヲ取リテ前後二相従ヘリ定メテ知ンヌ此レ前世ノ聖人ナリト云ワ事フト其後隣里人驚キ御名フ貴物トゾ中ケル如斯昔ロヨリ四方ノ善男善女十方信徒熱心二尊敬供養スルノ古霊跡二御座候間南北二拾間、東西に拾間ヲ二拾年間御貸与ノ程別紙図面相添へ懇願仕候間直々御許可願上候也
理  由
右霊跡元当本山所属地二有之候処第十一師団練兵場卜相成候付テハ仮令練兵場ノ片隅二有之候卜雖モ御省御管轄ノ地所卜相成り候故多大ノ信者参拝アルフ以テ明二拝借シ置キ度候也
目的
偉大ナル古聖人ノ霊跡故千古ノ霊跡ヲ保持シ万たみ二占聖偉人ノ模範ヲ示ン無声ノ教訓ヲ与へ度候
設備
一、弘法大師児尊像之右像、地蔵尊石像及人塚碑名等古来ヨリ存在セン通リニ樹木等生殖致居候
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一年壼月拾三日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
意訳変換しておくと
善通寺練兵場の古霊跡である仙遊ヶ原地所についての借用願
仙遊ヶ原は弘法大師の誕生地である善通寺の旧蹟地で、大師が幼少の時に遊んだ所です。「大師行状記」には、次のように記されています。
昔は、民の愁いを問い、官吏の誤りを糺すために、巡察使を中央から地方に派遣していました。(中略)
讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師が幼い時のことで、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこう云いました。
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見えます。あの方の前生は聖人だったことが私には分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童ど呼ぶようになりました。
このように昔から四方の善男善女の多くの信徒が熱心に尊敬・供養してきた旧蹟です。ついては、南北二十間、東西十間を別紙図面の通り、貸与許可していただけるよう申請します。
理  由
この霊跡はもともとは、善通寺に所属する土地であったものが、練兵場となったものです。練兵場として陸軍省管轄地となりましたが多くの信者がいますので、借用を申し出る次第です。
目的
偉大な古聖人の霊跡ですので、その旧蹟を保持して信仰することは偉人に接する模範を示すことになり、多くの教訓となると考えます。
設備
弘法大師稚児像、地蔵尊石像と人塚碑名などの昔からあるものの他に、樹木などを植栽する。
讃岐国善通寺町別格本山善通寺住職
中僧正  佐伯 宥楽
右本山信徒総代
田辺 嘉占
                宮沢政太郎
明治四拾一(1908)年1月13日 
陸軍人佐 寺内正毅殿
   ここからは日露戦争後に、善通寺住職が旧蹟周辺の土地借用を、陸軍大臣に願いでていることが分かります。つまり、説明版にある「時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存」とあるのは事実ではないことになります。
善通寺誕生院院主の申請に対して、善通寺町役場を通じてもたらされた陸軍の回答は、次のようなものでした。
「善通寺住職宛」
善通寺町役場
本年一月十三日付ヲ以テ出願サラレタル練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件別紙写ノ如キ趣ヲ以テ本願書却下二相成候條此段及返却候也
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
其部内善通寺住職ヨリ第十一師団練兵場内占跡仙遊ケ原敷地借用ノ件出願ノ所今般其筋ヨリ砲兵隊ノ編成改正ノ為メ野砲ヲ常二練兵場二於テ使用スルコトト相成現在ノ練兵場既二狭除フ告ケ其筋へ接張方申請二付キ仮令少許ノモツト雖モ練兵場内二介在スルハ秒カラサル障害アルヲ以テ右使用ノ義協議二應シ難キ趣被越候旨ニテ書面却下相成候二付返戻相成度候                         
以上
     明治四拾一年壼月拾三日 
意訳変換しておくと
本年1月13日付で出願された練兵場内の旧跡仙遊ケ原敷地借用の件について、別紙写通り本願書は却下となったこと伝える。
社第六五八号一 明治四十一年八月十八日
仲多度郡役所 公印
善通寺町助役殿                                             ・
善通寺住職からの第十一師団練兵場内の旧蹟跡仙遊ケ原敷地借用の件出願について、11師団の意向は次の通りである。砲兵隊編成改正のために野砲を日常的に練兵場で使用することになっている。そのため現在でも練兵場は手狭になっており、拡張計画を進めているところである。ついては、すこしばかりの面積と雖も練兵場に障害ができるものの設置は協議に応じがたいとのことであった。ついては、書面却下となったので返却する。
以上
  ここからは練兵場での訓練に障害の出るようなものの設置は認められないとの十一師団の意向を受けて、陸軍省は願書を善通寺に送り返していることが分かります。
このような「事実」があるにも関わらず「伝説」は生まれてきます。神話化した乃木大将について、そのような物語を民衆が欲していたからかもしれません。

DSC04039
仙遊原古跡の碑(仙遊寺)
以上をまとめておくと
①14世紀以後に書かれる弘法大師の絵伝類には幼年時の空海(真魚)が仏像遊びなどをしていた場面が描かれ、稚児大師信仰が生まれる。
②この場所が現在の宮川製麺の南側で、地元では「仙遊が原」と呼ばれるようになる
③そこに弘法大師信仰の高まりとともに、近世になると稚児像と延命地蔵が祀られ旧蹟となった。
④明治になって、この地は11師団の練兵場として整地され、旧蹟もその中に取り込まれた。
⑤これに対して、善通寺住職は旧蹟の借用願いを陸軍省に申し出たが、現場の反対で実現することはなかった。
⑥しかし、今も伝承としては「乃木大将の夢に出てきて、返還されたと」とされている。
⑦仙遊寺が建立されるのは、戦後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史第2巻 第十一師団の成立 練兵場
関連記事


旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡とその周辺

弥生時代にの平形銅剣文化圏の中心地のひとつが「善通寺王国」です。その拠点が現在のおとなとこどもの医療センター(善通寺病院)と農事試験場を併せた「旧練兵場遺跡」になります。
旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2
瀬戸内海にあった平形銅剣文化圏
今回は、ここに成立した大集落がその後にどのようになっていったのか、その推移を追いかけてみようと思います。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
1 弥生時代中期から古墳時代初期までです。
①弥生時代後期前半期から竪穴式住居が現れ、その後は集落が継続的に存続していたこと
②掘立柱建物跡は、その柱穴跡直径が大きいことから、倉庫か、望楼のような高床か高層式建物。「善通寺王国」の形成
③古墳時代になると、住居跡の棟数が減少するので、集落の規模縮小傾向が見られること。


旧練兵場遺跡地図 
弥生末期の旧練兵場遺跡 中心地は病院地区

2 古墳時代中期から古墳時代終末期まで
  古墳時代になると、住居跡や建物跡は姿を消し、前代とは様子が一変します。そのためこの時期は、「活発な活動痕跡は判断できなかった」と報告書は記します。その背景については、分からないようです。この時期は、集落がなくなり微髙地の周辺低地は湿地として堆積が進んだようです。一時的に、廃棄されたようです。それに代わって、農事試験場の東部周辺で多くの住居跡が見つかっています。拠点移動があったようです。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺

3 奈良時代から平安時代前半期まで
 この時期に病院地区周辺を取り巻くように流れていた河川が完全に埋まったようです。報告書は、次のように記されています。

「これらの跡地は、地表面の標高が微高地と同じ高さまでには至らず、依然として凹地形を示していたために、前代からの埋積作用が継続した結果、上位が厚い土砂によって被覆され、当該時期までにほぼ平坦地化したことが判明した。」

 川の流れが消え、全体が平坦になったとします。逆に考えると、埋積作用が進んでいた6~7世紀は、水田としての利用が困難な低地として放棄されていたことが推察できます。それが8世紀になり平坦地になったことで、農耕地としての再利用が始まります。農耕地の痕跡と考えられる一定の法則性がある溝状遺構群が出てくることが、それを裏付けると研究者は考えています。
 この結果、肥沃な土砂が堆積作用によってもたらされ、土地も平均化します。これを耕作地として利用しない手はありません。佐伯直氏は律令国家の手を借りながら、ここに条里制に基づく規則的な土地開発を行っていきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡と南海道・善通寺の関係
 新しい善通寺市役所と四国学院の図書館を結ぶラインは、南海道が走っていたことが発掘調査からは分かってきました。南海道は、多度郡の条里遺構では7里と6里の境界でもありました。南海道を基準にして、丸亀平野の条里制は整えられて行くことになります。そして、南海道に沿うように善通寺も創建されます。善通寺市街地一帯のレイアウトも出来上がっていくことになります。

稲木北遺跡 多度郡条里制
 この時期に掘られた大規模な溝が、善通寺病院の発掘調査でも出てきました。
この溝は、善通寺エリアの条里制地割のスタートになった土木工事だと研究者は考えているようです。善通寺の条里型地割は、善通寺を中軸に設定されたという説があります。そうだとすれば、この溝は善通寺周辺の関連施設設置のための基軸線として掘られた可能性があります。
  また、古墳時代には病院地区には、住居がなくなっていました。それが奈良時代になると、再び多くの柱穴跡が出てきます。これは奈良時代になると、病院地区に集落が再生されたことを示します。

 次に中世の「善通寺一円保差図」には、このエリアはどのように描かれているのかを見ておきましょう。一円保絵図は、15世紀初頭に書かれたものです。
一円保絵図の旧練兵場遺跡
一円保絵図(柿色部分が善通寺病院敷地)
   中央上の黒く塗りつぶされたのが、この時期に築造されたばかりの有岡大池です。そこから弘田川が波状に東に流れ出し、その後は条里制に沿って真北に流れ、善通寺西院の西側を一直線に流れています。それが旧練兵場遺跡(病院地区)の所から甲山寺あたりにかけては、コントロールできずに蛇行を始めているのが見えます。弘田川は現在は小さな川ですが、発掘調査で誕生院の裏側エリアから舟の櫂なども出土しているので、古代は川船がここまで上がってきていたことがうかがえます。河口の海岸寺付近とは、弘田川で結ばれていたことになります。また、地図上の茶色エリアが発掘された善通寺病院になります。旧練兵場遺跡も弘田川に隣接しており、ここには簡単な「川港」があったのかもしれません。
金倉川 10壱岐湧水
一円保絵図(善通寺病院周辺拡大図)

一円保絵図に描かれた建築物は、善通寺や誕生院に見られるように、壁の表現がある寺院関係のものと、壁の表現のない屋根だけの民家があるようです。描かれた民家を全部数えると122棟になります。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺伽藍の真下(北)で弘田川東岸まとまり11棟
第4グルーフ 大きい山塊の右側のまとまり  15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊を挟んだ右側のまとまり 6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり   7棟

第1グループは、現在の善通寺の市街地にあたる所です。創建当時から家屋数が多かった所にお寺が造られたのか、善通寺の門前町として家屋が増えたのがは分かりません。
今回注目したいのは第3グループです。
このグループが、現在の善通寺病院の敷地に当たるエリアです。その中でも右半分の5棟については、病院の敷地内にあった可能性が高いようです。この地区が「郊外としては家屋が多く、人口密度が高い地域」であったことがうかがえます。
一円保絵図 東側

善通寺病院の敷地内に書かれている文字を挙げて見ると「末弘」「利友」「重次四反」「寺家作」の4つです。
この中の「末弘」「利友」「重次」は、人名のようです。古地図上に人名が描かれるのは、土地所有者か土地耕作者の場合が多いので、善通寺病院の遺跡周辺には、農業に携わる者が多く居住していたことになります。
 また「四反」は土地の広さ、「寺家作」は善通寺の所有地であることを表すことから、ここが農耕地であったことが分かります。以上から、この絵が描かれた時期に「病院地区」は、農耕地として開発されていたと研究者は考えているようです。
以上からは、古代から中世には旧練兵場遺跡では、次のような変化があったことが分かります。
①弥生時代には、網の目状に南北にいく筋もに分かれ流れる支流と、その間に形成された微高地ごとに集落が分散していた。
②13世紀初頭の一円保絵図が書かれた頃には、広い範囲にわたって、耕地整理された農耕地が出現し、集落は多くの家屋を含み規模が大型化している。

 室町時代から江戸時代後半期まで
ところが室町時代になると、旧練兵場遺跡からは住宅跡や遺物が、出てこなくなります。集落が姿を消したようなのです。どうしてなのでしょうか? 研究者は次のように説明します。
①旧練兵場遺跡は、条里型地割の中心部にあるために、農業地として「土地区画によって管理」が続けられるようになった。
②そのため「非住居地」とされて、集落はなくなった。
③条里型地割の中で水路網がはりめぐされ、農耕地として利用され続けた
そして「一円保差図」に書かれた集落は、室町時代には姿を消します。それがどんな理由のためかを示す史料はなく、今のところは何も分かならいようです。
 最後に明治中頃に書かれた「善通寺村略図」で、旧練兵場遺跡を見ておきましょう。

善通寺村略図2 明治
拡大して見てみます
善通寺村略図拡大
善通寺村略図 旧練兵場遺跡周辺の拡大図
旧練兵場遺跡(仙遊町)は、この絵図では金毘羅街道と弘田川に挟まれたエリアになります。仙遊寺の西側が現在の病院エリアです。仙遊寺の東側(下)に4つ並ぶのは、現在も残る出水であることは、前回お話ししました。そうして見ると、ここには建造物は仙遊寺以外には何もなかったことがうかがえます。そこに十一師団設置に伴い30㌶にもおよぶ田んぼが買い上げられ、練兵場に地ならしされていくことになります。そして、今は病院と農事試験場になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   旧練兵場遺跡調査報告書 平成21年度分

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡と吉野ヶ里遺跡の面積比較 ほぼ同じ
旧練兵場遺跡は、吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ50㌶の大きさがあります。町名で云うと善通寺市仙遊町で、明治に11師団の練兵場として買収されたエリアです。そこに戦後は、善通寺国立病院(旧陸軍病院)と農事試験場が陣取りました。国立病院が伏見病院と一体化して「おとなとこどもの医療センター」として生まれ変わるために建物がリニューアルされることになり、敷地では何年もの間、大規模な発掘調査が続けられてきました。その結果、このエリアには、弥生時代から古墳時代までの約500 年間に、住居や倉庫が同じ場所に何度も建て替えられて存続してきたこと、青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではなかなか出土しない貴重品が、次々と出てくること、たとえば青銅製の鏃(やじり)は、県内出土品の 9割以上に当たる約50本がこの遺跡からの出土ことなどが分かってきました。

十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場と善通寺(善通寺市史NO3)

 つまり、旧練兵場遺跡は「大集落跡が継続して営まれることと、貴重品が多数出土すること」など特別な遺跡であるようです。今回は、発掘したものから研究者たちが旧練兵場遺跡群をどのようにとらえ、推察しているのかを見ていくことにします。
旧練兵場遺跡の周りの環境を下の地図で押さえておきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡周辺図

  遺跡は、善通寺の霊山とされる五岳の一番東の香色山の北側に位置します。五岳は現在でも余り変わりませんが、川は大きく変化しました。古代の丸亀平野の川は、扇状地の上を流れているので網の目のように何本にも分かれて流れていました。それが発掘調査や地質調査から分かるようになりました。

扇状地と網状河川
古代の土器川や金倉川などは、網目のような流れだった
 旧練兵場遺跡には、東から金倉川・中谷川・弘田川の3本の川の幾筋もの支流が流れ込んでいたようです。その流れが洪水後に作り出した微高地などに、弥生人達は住居を構え周辺の低地を水田化していきます。そして、微高地ごとにグループを形成します。それを現在の地名で東から順番に呼ぶと次のようになります。
①試験場地区
②仙遊地区
③善通寺病院地区
④彼ノ宗地区
⑤弘田川西岸地区
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
旧練兵場遺跡周辺遺跡分布図
 上図で鏡の出土した所をよく見ると、集落内の3つのエリアから出土しています。特に、③病院地区から出てきた数が多いようです。そして、仙遊・農事試験場地区からは出てきません。ここからは、旧練兵場遺跡では複数の有力者が併存して、集団指導体制で集落が運営されていたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図
旧練兵場遺跡群 拡大図

その中心が病院地区だったことが裏付けられます。これが古墳時代の首長に成長して行くのかもしれません。このように研究者は、青銅器を通して旧練兵場遺跡の弥生時代の社会変化を捉えようとしています。

旧練兵場遺跡の福岡産の弥生土器
 旧練兵場遺跡出土 福岡から運ばれてきたと思われる弥生土器
最初に前方後円墳が登場する箸塚の近くの纏向遺跡からは、吉備や讃岐などの遠方勢力からもたらされた土器などが出てきます。同じように、旧練兵場遺跡からも、他の地域から持ち込まれた土器が数多くみつかっています。そのタイプは次の2つです。
①形も、使われた粘土も讃岐産とは異なるもの
⑥形は他国タイプだが粘土は讃岐の粘土で作ったもの
これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。
旧練兵場遺跡 搬入土器・朱出土地
搬入土器や朱容器の出土地点
土器が歩いてやって来ることはありませんので、土器の中に何かを入れて、運ばれてきたことが考えられます。「移住」「交易」などで滞在が長期に渡ったために、その後に善通寺の土を使って、故郷の土器の形を再現したものと研究者は考えているようです。どちらにしても、人の動きによって旧練兵場遺跡にもたらされたのです。ここからも、当時の人々が瀬戸内海という広いエリアの中で活発に交流していたことがうかがえます。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
他地域から善通寺の旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
 このような動きは、同時代の讃岐の遺跡全てに云えることではないようです。旧練兵場遺跡が特別な存在なのです。つまりこの遺跡は、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 鍛冶炉

旧練兵場遺跡では、鍛冶炉(かじろ)が見つかっています。
そこで生産された鏃(やじり)・斧・万能ナイフである刀子(とうす)が多量に出土しています。
旧練兵場遺跡 銅鏃

鉄器生産には、鍛冶炉での1000℃を超える温度管理などの専門的な技術と、朝鮮半島からの鉄素材の入手ルートを確保することが求められました。そのため鉄器生産は「遠距離交易・交流が可能な拠点的な集落」だけが手にすることがができた最先端製品でした。鉄生産を行っていた旧練兵場遺跡は、「拠点的な集落」だったことになります。旧練兵場遺跡の有力者は、併せて次のようなものを手に入れることができました。
①鉄に関係した交易・交流
②鏡などの権威を示す器物
③最先端の渡来技術や思想
 これらを独占的に手にすることで、さらに政治権力を高めていったと研究者は考えています。以上のように鏡や玉などの貴重品や交易品、住居跡からは、人口・物資・情報が集中し、長期にわたる集落の営みが続く「王国」的な集落の姿が浮かび上がってきます。
 BC1世紀に中国で書かれた漢書地理志には、倭人たちが百余りの王国を作っていたと書かれています。この中に、旧練兵場遺跡は当然含まれたと私は考えています。ここには「善通寺王国」とよべるクニがあったことを押さえておきます。

旧練兵場遺跡 朱のついた片口皿
旧練兵場遺跡の弥生終末期(3世紀)の土器には、赤い顔料が付いたものが出てきます。

「赤」は太陽や炎などを連想させ、強い生命力を象徴する色、あるいは特別なパワーが宿る色と信じられ魔除けとしても使われました。そのため弥生時代の甕棺や古墳時代の木簡や石棺などからも大量の朱が出てくることがあります。
ヤフオク! -松田壽男の中古品・新品・未使用品一覧

旧練兵場遺跡から出てきた朱には、次の2種類があるようです。
水銀朱(朱砂)とベンガラ

①ベンガラ(酸化鉄が主原料)
②朱(硫化水銀が主原料)
 ①は吉備地方から持ち込まれた高杯などに装飾として塗られています。今でも、岡山のベンガラは有名です。②は把手付広片口皿の内面に付いた状態を確認しているようです。把手付広片口皿とは、石杵や石臼ですりつぶして辰砂を液状に溶いたものを受ける器です。この皿が出てくると言うことは、旧練兵場遺跡で朱が加工されていたことを裏付けます。
旧練兵場遺跡 阿波の辰砂(若杉山遺跡)
阿波の若杉山遺跡(徳島県阿南市)の辰砂
 辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として知られるようになりました。
瀬戸内海から阿波西部には、古くから「塩の道」が通じていたことは、以前にお話ししました。その見返り品の一つとして朱が吉野川上流の「美馬王国」から入ってきていたことがうかがえます。

弘安寺同笵瓦関係図

 郡里廃寺(美馬市)から善通寺の同笵瓦が出土することなども、美馬王国と善通寺王国も「塩と朱」を通じて活発な交流があったことを裏付けます。このような流れの中で、阿波忌部氏の讃岐移住(進出)なども考えて見る必要がありそうです。そう考えると朱を通じて 阿波―讃岐ー吉備という瀬戸内海の南北ラインのつながりが見えて来ます。
このように善通寺王国は、次のようなモノを提供できる「市場」があったことになります。
①鍛冶炉で生産された銅・鉄製品などの貴重品
②阿波から手に入れた朱
それらを求めて周辺のムラやクニから人々が集まってきたようです。

以上、善通寺王国(旧練兵場遺跡)の特徴をまとめておくと次のようになります。
① 東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。 
② 弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
③ 銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土する。 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土。
④ 弥生時代後期の鍛冶炉で、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土。
⑤朝鮮半島から鉄素材の入手のための遠距離交易・交流を善通寺王国は行い、そこで作られた鉄器を周辺に配布・流通。
⑥九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸エリアで見られるスタイル土器が出てくることから善通寺王国が備讃瀬戸エリアの物・人の広域な交流の拠点であったこと。
⑦辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける把手付広片口皿から朱が検出された。これは、善通寺王国で朱が加工・流通していたことを裏付ける。 
⑧朱の原料入手先としては、阿波の若杉山遺跡(阿南市)で産出されたものが善通寺王国に運び込まれ、それが吉備王国の楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測できる。ここからは、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートがあったことが浮かび上がって来る。 
⑨ 硬玉、碧玉、水晶、ガラス製などの勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土する。これらは讃岐にはない材料で、製作道具も出てこないので、外から持ち込まれた可能性が高い。これも、他地域との交流を裏付けるものだ。
⑩旧練兵場遺跡は約500年の間継続するが、その間も竪穴住居跡の数は増加し、人口が増えていたことが分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県埋蔵文化財センター 香川の弥生時代研究最前線  旧練兵場遺跡の調査から 
 関連記事
 

 

   


 善通寺村略図2 明治
名東県時代の善通寺村略図
善通寺市史NO2を眺めていて、巻頭の上の絵図に目が留まりました。この絵図は、十一師団設置前の善通寺村の様子を伝えるものとして貴重な絵図です。この絵図からは次のような事が読み取れます
①五岳を霊山として、その東に善通寺と誕生院(西院)が一直線にあること
②善通寺の赤門(東門)から一直線に伸びが参道が赤門筋で、金毘羅街道と交差すること
③その門前には、門前町といえるものはなかったこと
以上から、十一師団がやって来る前の善通寺村は「片田舎」であったことを、以前にお話ししました。今回は、この絵図で始めて気づいたことをお話しします。
それは、絵図の右下部分に描かれた「4つの柄杓」のようなものです。
善通寺村略図拡大

善通寺村略図の拡大:右下に並ぶ「4つの柄杓?」
これは一体何なのでしょうか?
位置的には、善通寺東院の真北になります。近くの建造物を拡大鏡で見ると「仙遊寺」とよめそうです。そうだとすれば「4つの柄杓」は、仙遊寺の東側に並んで位置していることになります。ということは、西日本農業研究センター 四国研究拠点仙遊地区(旧農事試験場)の中にあったことになります。
旧練兵場遺跡 仙遊町
     旧練兵場=おとなとこどもの病院 + 農事試験場

そこで、グーグルでこのあたりを見てみました。赤枠で囲まれたエリアが現在の仙遊町で、これだけの田んぼが11師団の練兵場として買収されました。そして、周辺の多くの村々から人夫を動員して地ならししたことが当時の史料からは分かります。さらに拡大して見ます。

旧練兵場遺跡 出水群
農事試験場の周りを迂回する中谷川
青いラインが中谷川の流れです。赤が旧練兵場の敷地境界線(現在の仙遊町)になります。これを見ると四国学院西側を条里制に沿って真っ直ぐに北に流れてきた中谷川は、農事試験場の北側で、直角に流れを変えて西に向かっていることが分かります。
最大限に拡大して見ます。
旧練兵場遺跡 出水1
善通寺農事試験場内の出水

 農事試験場の畑の中に「前方後円墳」のようなものが見えます。現地へ行ってみます。宮川うどんの北側の橋のたもとから農事試験場の北側沿いに流れる中谷川沿いの小道に入っていきます。すると、農事試験場から流れ出してくる流路があります。ここには柵はないのでコンクリートで固められた流路縁を歩いて行くと、そこには出水がありました。「後円部」に見えたのは「出水1」だったのです。出水からは、今も水が湧き出して、用水路を通じて中谷川に流れ込んでいます。善通寺村略図を、もう一度見てみます。「4つの柄杓」に見えたのは、農事試験場に残る出水だったのです。
旧練兵場遺跡 出水3
善通寺農事試験場内の3つの出水
グーグルマップからは3つの出水が並んであるのが見えます。

それでは、この出水はいつ頃からあるのでしょうか?
旧練兵場遺跡の最新の報告書(第26次調査:2022年)の中には、周辺の微地形図が載せられています。カラー版になっていて、旧練兵場遺跡の4つの地区がよく分かります。

旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡微地形図(黄色が集落・黒が河川跡)
この地図で、先ほどの出水群を探してみると、仙遊地区と試験場地区の間には、かつては中谷川の支流が流れていたことが分かります。その支流の上に出水はあります。つまり、その後の条里制に伴う工事で、旧中谷川は条里にそって真っ直ぐに北に流れる現在の姿に流路変更された。しかし、伏流水は今も昔のままの流れであり、それが出水として残っている、ということでしょうか。

宮川製麺所 香川県善通寺市 : ツイてる♪ツイてる♪ありがとう♪
豊富な地下水を持つ宮川製麺

 そういえば、この近くには私がいつも御世話になっている「宮川うどん」があります。ここの大将は、次のように云います。

「うちは讃岐が日照りになっても、水には不自由せん。なんぼでも湧いてくる井戸がある。」

 また、この出水の北側の田んぼの中には、中谷川沿いにいくつも農業用井戸があります。農作業をしていた伯父さんに聞くと

「うちの田んぼの水が掛かりは、この井戸や。かつては手で組み上げて田んぼに入れよった。今は共同でポンプを設置しとるが、枯れたことはない」

と話してくれました。旧流路には、いまでも豊富な伏流水がながれているようです。川の流れは変わったが、伏流水は出水として湧き出してくるので、その下流の田んぼの水源となった。そのため練兵場整備の時にも埋め立てられることはなかったと推測できます。そうだとすれば、この出水は弥生時代以来、田んぼの水源として使われて続けてきた可能性があります。「農事試験場に残る弥生の米作りの痕跡」といえるかもしれません。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像復元図 真ん中が旧中谷川
最後に地図を見ながら、以前にお話ししたことを再確認しておきます。
①旧練兵場遺跡には、弘田川・中谷川・旧金倉川の支流が網の目状にながれていた。
②その支流の間の微高地に、弥生時代になると集落が建ち並び「善通寺王国」が形成された。
③古墳時代にも集落は継続し、首長たちは野田院古墳以後の首長墓を継続して造営する
④7世紀末には、試験場南に佐伯直氏の最初の氏寺・仲村廃寺が建立される。
⑤続いて条里制に沿って、その4倍の広さの善通寺が建立される。
⑥善通寺の建立と、南海道・多度津郡衙の建設は、佐伯直氏が同時代に併行して行った。

ここでは①の3つの河川の流れについて、見ていくことにします。古代の川の流れは、現在のように一本の筋ではなかったようです。
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡の流路(黒が現在の流れ、薄黒が流路跡)
古代の丸亀平野を流れる土器川や金倉川などは、網目状に分かれて、ながれていたようです。それが弥生時代になって、稲作のために井堰や用水路が作られ水田への導水が行われるようになります。これが「流れの固定化=治水・灌漑」の始まりです。その結果、扇状地の堆積作用で微高地が生まれ、居住域として利用できるようになります。 例えば、旧練兵場遺跡の彼ノ宗地区と病院地区の間を蛇行して流れる旧弘田川は、次のように変遷します。
①南側の上流域で、治水が行われ水流が閉ざされたこと
②その結果として微高地が高燥環境に移行し、流路埋没が始まる
つまり、上流側での治水・灌漑が微高地の乾燥化を促進させ、現在の病院周辺を、生活に適した住宅地環境にしたと研究者は指摘します。
 流路の南側(上流側)では、北側(下流域)に先行して埋没が進みます。そのためそれまでの流路も埋め立てられ、建物が建てられるようになります。しかし、完全には埋め立てません。逆に人工的に掘削して、排水や土器などの廃棄場として「低地帯の活用」を行っています。これは古代の「都市開発」事業かも知れません。

以上をまとめておくと
①明治前期の善通寺村略図には、善通寺村と仲村の境(現農事試験場北側)に4つの柄杓のようなものが書き込まれている。
②これは、現在も農事試験場内に残る出水を描いたものと考えられる。
③この出水は旧練兵場遺跡では、旧中谷川の流路跡に位置するもので、かつては水が地表を流れていた。
④それが古代の治水灌漑事業で上流で流れが変更されることで乾燥化が進んだ。しかし、伏流水はそのままだったので、ここに出水として残った。
⑤そして、下流部の水源として使用されてきた。
⑥そのため明治になって練兵場が建設されることになっても水源である出水は埋め立てられることなく、そのままの姿で残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 旧練兵場遺跡調査報告書(第26次調査 2022年発行)

    善通寺11師団 地図明治39年説明
 第十一師団配置図
十一師団の建築物めぐりの続きです。前回は①偕行社 → 四国学院内の騎兵連隊の②兵舎・③本部を見てきました。今回は、④乃木館と⑤兵器敞倉庫を見学します。
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。早速に用地買収が進められ、建造物工事が行われ、下表のように供用が開始されます。

ここでは同時に数多くの建物が着工して、善通寺は建築ラッシュであったことを押さえておきます。乃木館は、十一師団の司令部だった建物で、12月1日に師団司令部が開庁しています。
11師団司令部開庁通知
乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
門手続きを済ませて、門から貝塚の植えられた長いアプローチを進んで行くと司令部の建物が迎えてくれます。竣工直前の写真と比較しながら見てみましょう。
11師団司令部.(善通寺市史)
 旧十一師団司令部庁舎(現乃木館)

 写真は、完成間際のもののようで、よく見ると車寄ポーチがまだありません。屋根を見ると四つの越屋根がついています。これは雨漏りの原因として、後に撤去されたようです。外観で変わっているのは、ここだけです。石柱はありませんが三角ペディメントは、ここにも登場します。当時の師団建築物はルネッサンス様式で貫かれています。

11師団司令部
戦前の十一師団司令部
 先ほど見てきた四国学院の騎兵連隊本部と比べて見ると、規模が大きく重厚な感じがします。偕行社の軽やかな感じとも違います。司令部として雰囲気を感じます。
  10月号特集企画】乃木館の魅力 - 善通寺市ホームページ
乃木館のケヤキの正面階段
 屋根と内部に少しの模様替はありますが、玄関正面の欅の大階段をはじめ、廊下、天丼、壁、建具はすべて建築当初のものです。屋根裏の合掌材や垂本は腐食しておらず、桧の棟木札もはっきりと読み取れると報告されています。棟札には次のように記されています。

十一師団司令部棟札
乃木館の棟札
中央上部 第十一師団司令部
右側   明治三一年四月一日着手
左側   同年十一月三〇日竣工
下部には、
右から建築請負人・九亀町(市)材木商水長事、
         小野長吉  
   担当人   木下幾治郎 
と記されています。地元の丸亀市の請負人の手で建設されたことが分かります。明治31年4月1日に着工して、その年の11月30日に竣工しています。 当時は、十一師団の建物の建築ラッシュでした。
そのため司令部等の建物は人札しても予算が超過し、再入札随意契約となりました。そのような経過を経て、丸亀の業者が落札したようです。
 建築資材は多度津港に陸揚げされて鉄道で善通寺駅まで運ばれます。そこからは荷馬車などに頼ったようですが、これが馬車や人夫不足でボトルネックになって資材が現場に届かず、工事は遅れます。そこで対応策として、9月になると善通寺駅から各隊建築の現場に軽便鉄道を走らせることになります。司令部の工事が本格化したのは、軽便鉄道によって資材運搬等が容易となってから以後でした。工期に間に合わせるための突貫工事が続いたようです。

陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館 - Wikiwand
現在の乃木館 
この建物は、敗戦後は郵政省簡易保険局が使用していましたが、1961(昭和36)に陸上自衛隊に移管されました。旧陸軍の師団司令部の建物が、そのまま自衛隊が使用しているのは、善通寺駐屯地一カ所だけのようです。
乃木館 ~ 陸上自衛隊善通寺駐屯地にて: 答えはひとつじゃない! by あおき工場長
乃木館の師団長室
  記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。ここが1番人気のようですが、それ以外にも旧第十一師団関係の資料が陳列されています。

十一師団配置図3
師団司令部の前が兵器敞

 乃木館を出て西側にあるローソン前の信号機の前まで行きます。
ここは善通寺のビューポイントのひとつです。赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。
DSC05065
赤れんが倉庫の向こうに五重塔
ここから善通寺の南大門に向けては、「ゆうゆうロード」と名付けられた整備された歩道が続きます。そぞろ歩きには最適です。

IMG_8746

 この左手に広がるのが善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
この区画は、第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転してきた処です。それが1922(大11)年に、山砲兵第十一聯隊と改称されます。砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、警察予備隊が創設されると、善通寺町はすぐに誘致運動を始めます。ここには旧十一師団の広い敷地がそのまま残っていたので、四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。

ローソンの前が自衛隊の施設隊です。
ここは兵器敞のあったところで、赤煉瓦の倉庫が三棟残っています。
完成した年代を見ておくと、次のようになります。
①一番手前が1909年(明治42年)
②その北側が1911年(明治44年)
③その横の東西方向のものが1921年(大正10年)
これらはどれも2階建ての赤レンガ造りで、明治期の①②は幅14m×奥63m、大正期の③は幅14m×奥90mの細長い倉庫です。設計者の名前は分かりませんがドイツ人技師とされ、屋上の○型と△型のモニュメントは、銃の「照門」と「照星」を表しているようです。
赤れんがの屋根
       銃の照準モニュメントが載っている屋根
ここで押さえておきたいのは、兵器敞の赤煉瓦倉庫は、11師団設立時にはなかったということです。完成年を再度確認すると、日露戦争が終わって数年経ってからのことです。確かに乃木将軍の陸軍大臣の現状報告書には、次のように記されています。
七、新設兵営官衛及病院等ノ構築未夕概ネ半途ニシテ就中兵器支廠及火葉庫ノ如キハ未夕着手ニモ至ラス。練兵場及小銃射撃場ノ開設ハ各兵ノ教育ヲ快キ土エニ従事セシメ、高知二於テハ僅二之ヲ使用シアルモ丸亀衛成即チ善通寺屯在部隊二於テハ射撃教育ノ為メニハロ々殆ド一里ヲ隔ツルノ地二往復スルノ止ムヲ得サル現況ナリ。同所練兵場ハ附近人民ノ篤志二依り四千九百七十人ノ補助工カヲ以テ今日使用シ得ルニ至レリ
意訳変換しておくと
七、新設の兵営や病院の建物については建設途上である。その中でも兵器支廠や火薬庫に至っては着工にも至っていない。練兵場や小銃射撃場の開設については、各兵の教育訓練のために不可欠であるが、高知では一部が使用出来るようになった。しかし、善通寺屯在部隊では射撃教育のために一里(4㎞)離れた射撃場に往復しなければならないのが現況である。練兵場については周辺住民約5000人を動員して整備し、使用できるようになった。

 ここからは乃木希典の時代には、兵器敞や火薬庫はなかったことが分かります。この3つのレンガ倉庫が善通寺に姿を見せたのは明治末から大正にかけてのことで、約110年前のことになるようです
十一師団 レンガ倉庫
           建設中の兵器庫
建設途中の兵器庫の写真を見ておきましょう。
①手前に、運ばれてきたレンガが積み上げられている
②足場が組まれて壁のレンガが組み上げられ、屋根の瓦葺き作業にかかっている
③後に筆の山(?)が見えているので、建物の向きが東西方向である。
ここからは、この写真は1921(大正10)年に建てられた最後の倉庫であることが分かります。
大正10年に建てられた一番大きな倉庫
この倉庫は、外からは見えにくいので見逃してしまいがちですが、長さが90mもある一番大きな建物です。そのため建物の強度を図る工夫がいろいろなところに施されていて、他の2棟とは細部が異なっているようです。
  道路際の2棟を近くから見て驚くのは、その大きさと堅牢な造りです。
IMG_8741

屋根は切妻造の瓦ぶきで、天井は高く屋根裏もある2階建てす。屋根裏は当時の最新設計の合掌造りで、構造は煉瓦造りです。
DSC05166

長さ60mを超える壁には全部で100ヶ所前後の縦長の窓があり、花崗岩のひさし台と鉄製の両開きの扉がついています。それぞれ微妙に異なるデザインも見所のようです。道路に面した2棟は同規模・同規格で造られています。これは各地に建てられた旧軍の煉瓦倉庫と共通点が多く、当時の標準規格に基づいて設計されたものと研究者は考えています。
DSC05162

私が気になるのは、この倉庫に使われた赤煉瓦がどこで作られたのかです。
 「観音寺の財田川河口に創立されたレンガ工場で作られたものが、船で多度津に運ばれてきた」と以前に聞いたことがあります。そのレンガ工場とは、1897(明治30)年に創業した讃岐煉瓦です。確かに、丸亀の連隊の他に瀬戸内海沿岸や大坂などに煉瓦を供給しているようです。

丸亀連隊兵器庫基礎
 丸亀連隊兵器庫の基礎

丸亀市役所南館の建設の際に出土した遺構からは、丸亀連隊の兵器庫の基礎が出てきています。ここには観音寺の讃岐煉瓦刻印の煉瓦が使われています。丸亀に引き続いて、善通寺の兵器倉庫にも使用されたことが考えられます。しかし、善通寺の煉瓦倉庫からこの印のある煉瓦が使われているとの報告書は私は読んだことがありません。未だに状況証拠のみです。
IMG_8749
ゆうゆうロード
 赤煉瓦倉庫の周辺には桜、「ゆうゆうロード」には銀杏などの街路樹が植えられ、反対側には中谷川の流れを利用した水辺の歩道が続き、気持ちのよい散歩道です。この道を五重塔めざして歩いていくことにします。次の目標は善通寺東院です。
十一師団工兵隊工事完成M31年

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

DSC01192
善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

taisin04
善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。