瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:四国遍路の寺 > 伊予の霊場

仙人窟は、『一遍聖絵』にも描かれていて、修験者たちが岩籠もりや祈りの場としていた行場のひとつと考えられてきました。しかし、実際にここが調査対象になったことはありませんでした。ユネスコ登録に向けた霊場調査で、この窟も発掘調査の手が入ったようです。その報告書を見ていくことにします。テキストは、「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺発掘調査の成果(仙人窟:58P)2022年3月 愛媛県教育委員会」です
まず澄禅の四国遍礼霊場記に「仙人窟」がどのように書かれているか見ておきましょう。

岩屋寺 仙人窟と仙人堂
 
①不動堂(現本堂)の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。②鉦鼓を持っている阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。③阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、④飛来の仏と呼ばれている。近くに⑤仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。

ここからは、次のようなことが分かります。
①不動堂(本堂)の岩窟には銅製仏像が安置されていること
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
ここで確認しておきたいのは、現在の仙人堂と仙人窟は別の窟であることです。
岩屋寺 仙人窟と仙人堂2
岩屋寺 仙人堂と仙人窟

仙人窟の位置を最初に確認します。

①金剛界峰から南面して、阿弥陀堂に並んで開口
②本堂からの比高は約4m、奥行は最大で約2,9m、幅約4、3m、高さは約2、1m。
③岩壁沿いに細い行道が10mほど続いていて、通路のようになっている
岩屋寺 仙人窟への行道跡
岩屋寺仙人窟への行道

金剛界峰の裾部からは、かつての山林修行者の行道が一部残っているようです。この山全体が「小辺路」で行場だったことは以前にお話ししました。そのような行道の中のひとつの窟が仙人窟のようです。

発掘調査の結果、仙人窟からは次のような遺物が出てきています。

岩屋寺 仙人窟の遺物2
1 8世紀の須恵器の壺蓋
2・3 中世後期(15~16世紀代)の土師器質の皿
4 鹿角製の竿(完形品) 
5 大量のこけら経・笹塔婆
岩屋寺 仙人窟の遺物
岩屋寺仙人窟からの出土品

これらの遺物から何が分かるのか、順番に見ていくことにします。
遺物1は、須恵器の壺蓋です。
上図の黒い部分で全体の4分の1ほどが出ています。つまみ部分がありません。これについて研究者は次のように記します。

外面の3分の1より上は回転ヘラ削りにより器面が整えられ、天井部付近はケズリ後ナデが施されている。外部外而3分の1よリ下と内面は回転ナデによって調整される。口縁部径は復元で14。3㎝、高さは残存部で4。5㎝を測る。天井部から体部にかけての屈曲は鈍角で緩やかで、口縁端部はやや尖り気味におさまり、接地面はわずかに平坦面を有する。内外面ともに浅黄橙色を呈し、胎土は混和剤が少なく、精良である。時期は8世紀代に属するものと考えられる。 

2・3は土師質土器の皿です。
造りは精良で、全体に歪みがない。復元口縁部径は13。2㎝、底径は5。8㎝、器高は3。2㎝で小型。内外ともに横ナデによって器面が整えられ、底部は回転糸切り痕が明瞭に残る。時期は、松山平野の土器との比較から中世後期(15~16世紀代)のもの

4は鹿角製竿(さお)の完形品です。
全長16。3㎝、最大幅1。95㎝、最大厚0。6㎝で、上端と下端が薄く、中ほどが厚くなっています。全体が良く磨かれて丁寧に仕上げられています。時期の特定は難しく、同時に出土した土器年代から古代~中世と幅を持たせています。

遺物1はⅣ層1面、 2はⅢ層、3は表面採集、4はⅣ層からの出土になるようです。このほか、Ⅲ層からは大量のこけら経と笹塔婆が出土しています。これを次に見ておきましょう。

岩屋寺 こけら経出土状態
岩屋寺のこけら経出土状態
仙人窟からはこけら経・笹塔婆2421点が出ています。その内訳は、次の通りです
①経典を書写したこけら経が505点
②六字名号などを書いた笹塔婆415点
③内容不明等の墨書などの断簡1501点
④残存状況は、完全系60点、頭部407点、下部57点、断片1897点
岩屋寺こけら経1
岩屋寺出土のこけら経

こけら経・笹塔婆については元興寺極楽坊から発見されたものが有名です。
「水野正好先生の古稀をお祝いする会2003年8月2日発行】15頁の「経木・経石発掘」には、次のように記します。
 (-前略-)『大乗院寺社雑事記』には、こうした柿経書写の様子をこと細かく「春菊丸の追善のために柿経5670本つくり供養。うち5550本は文明9年5月14日の誕生日から当年(明応元年)7月25日死去の日まで、春菊丸がこの世にあった日数の柿経、120本は当年3月25日より死去の日まで、病に臥せた120日間分。柿経に書写した経は法華経は8巻・・・地蔵本願経3巻、阿弥陀経・・・。柿経は曽木200枚余、6切に5本ずつとる」と書きのこしてくれている。
死者の追善供養としての柿経の写経であり、在世の日数に病
臥の日数を加えて法華経以下の経を写しているのである。
敦賀市のこけら経: 一乗学アカデミー
こけら板墨書  妙法蓮華經  富森冬永奉納  一束(箍外れの3枚を含む)
・時代 室町時代1498年(明応七年十一月十一日)銘
・直径 約21.5㎝(こけら板1枚の長さ約26.3㎝ 幅 約1.6㎝ 厚さ 約0.03㎝)
・説明 薄く剥(は)いだヒノキの板約2,000枚に墨で1行17字の妙法蓮華經を書写したもの。重ねて、巻末を中心にして円筒形に巻き込み、上・下を竹の箍(たが)で締めつけているが、下の箍は現在は銅線で補修されている。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。

元興寺極楽堂の天井裏に、はかつて柿経を納めたカマスがあったようです。

岩屋寺の仙人窟から出てきた笹塔婆を見ておきましょう
世良田諏訪下遺跡出土の笹塔婆等 附 出土土器一括 - 太田市ホームページ(文化財課)
笹塔婆は仏の名前や短い仏教の文言を書いて供養やまじないに用いた木簡です。岩屋寺出土の笹塔婆には
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
岩屋寺のこけら経・笹塔婆は、
いつころ奉納されたものなのでしょうか?

岩屋寺 こけら経分類
岩屋寺 こけら経編年表

上の分類・編年表に岩屋寺こけら経・笹塔婆の分類を照会すると、「松浦・原旧分類」のIa類とⅦa類に対応するので、15世紀後半~16紀頃のものと研究者は判断します。また、それを補強するものとして、岩屋寺のこけら経や笹塔婆の多くが片面写経であること、字体が近世まで下らないことがあります。
以上からは中世後期のこの岩窟では、士師質土器皿を持ち込んで、宗教的行為や柿経・笹塔婆の奉納などに活発に岩窟を利用していたことがうかがえます。
それでは、8世紀代の須恵器が仙人窟に持ち込まれていることを、どう考えればいいのでしょうか?
岩屋寺は、長く第41番札所大賓寺の奥之院とされてきました。そのため岩屋寺の縁起は、ほとんどが江戸時代以降のものです。最も古いものは鎌倉時代に描かれた『一遍聖絵』の詞書になります。そこには、空海以前には、地主神として仙人が生活していたとと、次のように記します。

「仙人は又土佐国の女人なり、観音の効験をあふきてこの巌窟にこもり…(中略)・…又四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十二所の霊嘱あり。斗藪の行者霊験をいのる砌なり」

 ここからは岩屋寺が創建される以前より、土佐国出身の女性の仙人が修行を行う霊地であったと伝わっていたようです。こういう伝えが残されていることは、岩屋寺周辺の岩窟では、行者らの修行が岩屋寺創建より前から行われていたことがうかがえます。
 また、この岩窟は生活するには不便な場所です。床面は水平ではなく、斜めに傾いています。その上、開口部以外は天井は低く、狭いので日常的な生活の場には適さない空間です。しかも水場からは遠く離れています。以上から、今回出土した須恵器は、日常的生活用ではなく、岩窟内での宗教的行為のために持ち込まれたものと研究者は考えています。
ここから出土した8世紀の須恵器の器種は壺の蓋です。
形から見て頸の短い短頸壺とセットとなる蓋で、その用途は日常生活の貯蔵容器として用いられる他に、この時期には蔵骨器として用いられていたと研究者は指摘します。その用例は愛媛県でも何例かあるようです。
岩屋寺 松山市の骨蔵器

上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
最後に、鹿角製竿について見ておきましょう。
先ほど見たように、中世後期の仙人窟では、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われていたことが想定できます。しかし、その際に鹿角製竿がどのように使われていたのかというのは、よく分かりません。他でもこけら経と竿、土師質土器と竿を用いた祭祀行為の例はないようです。廻らなくなった頭を叩いて無理矢理に出してみると「行者などの人々の出入りが比較的多かったので、修行などの際に鹿角製竿を落とした」くらいしかおもいつきません。しかし、仙人修行の地である神聖な霊窟に落とし物をしてそのままにする修験者がいるでしょうか。しかも、これは完形品で、廃棄されたとも考えられません。
 一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます

以上から、仙人窟で行われてきた宗教儀式を年代順に追ってみるると次のようになります。
①奈良時代8世紀に、死霊の赴く山として骨蔵器に骨が納められ埋葬された
②空海以前には、土佐出身の仙人が住み、観音信仰の霊地や行場とされていた。
③そこに熊野行者が入り込み、大那智社・一の王子・二の王子などを勧進した
④その後、高野聖がやってきて阿弥陀信仰をもたらし、祖先供養の霊地にした。
⑤高野聖は、高野山の守護神である丹生社や高野社を勧進するとともに、弘法大師信仰を拡げた。
⑥同時に祖先供養のために、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われた
⑦戦国時代16世紀の岩屋寺は、山林修行者の行場であると同時に、高野聖(念仏聖)たちによって里人の祖先供養の霊場の性格を強め、人々の信仰を集めた
⑧高野聖の活躍による弘法大師信仰の高まりを背景に、建立されたのが大師堂である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「発掘調査の成果(仙人窟) 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺(58P) 2022年3月 愛媛県教育委員会」
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 前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。

岩屋寺
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。
『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。 
  岩屋寺 四国遍礼名所図会右
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年右上
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)

 さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
 本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
 一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。

岩屋寺 仙人堂と不動堂
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂

中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、
大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。
仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作
大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
 虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。
 仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左
         岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左下
        岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
 2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年左上

左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
岩屋寺 白山権現行場入口
 看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)

本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
岩屋寺 3
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる

 ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
岩屋寺 二の王子跡推定地
 二の王子社と大那智社跡推定地
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
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八坂寺境内図1
八坂寺伽藍

現在の八坂寺の伽藍は、次のように5つのエリアに区分できます。
①遍路道から山内までを含む導入空間(A区)
②本堂や大師堂、熊野十三社権現堂等の建ち並ぶ参拝空間(B区)
③庫裡・納経所が建ち並ぶ経営空間(C区)
④歴代住職墓を含む墓域(D区)
⑤本堂等の背後の広範囲にひろがる霊園区域(E区)
A区の遍路道は、緩やかな登り坂となっていて、山門前で遍路道を横切るように流れる小河川の上にはコンクリート製の橋がかかります。

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八坂寺山門

この橋を基礎として東西に長い単層式の山門が建ちます。山門左右には道標が1基ずつ並び、左は明治23年建立、右は紀年銘はありませんが、碑文から「徳有衛門道標」であり、江戸時代後期の建立とされます。
四国霊場第47番札所・八坂寺 | きっといつかは全国制覇!郵便貯金の旅
八坂寺 石段下からB区を見上げた景観

B区は山門から続く石畳の参道を約20m進み、2つの石段を登った先に広がる本堂などが建ち並ぶ平坦部です。ここは地形状況から、さらに3つに小区分できます
①本堂や大師堂の建つ平坦部B1
②平坦部B1の東側の低い位置にある鐘楼が建つ狭小な平坦部B2
③平坦部B1・2の南側の「いやさか不動尊」の鎮座する平坦部B4
①のBlは南北に長い長方形の敷地で、北から熊野十三社権現本殿・拝殿、本堂、閻魔堂、大師堂が並びます。また、多くの石造物が配されており、中でも大師堂眼前の層塔は鎌倉時代のもので、松山市有形文化財にも指定されてます。

 平坦部内の最も奥まった西端付近に造られた基壇の上にいやさか不動尊が鎮座してます。これは修験の寺として栄えた八坂寺特有のエリアで、毎年4月には全国から修験者が集まり、「柴燈大護摩供火生三昧火渡修行」が行われる場所です。

第47番霊場八坂寺炎の大祭2019 : 門前の小僧の遍路と坂本屋日記
八坂寺 いやさか不動尊
C区は、納経所や便益施設などが建ち並ぶ経営空間です。
ここは2つに区分できます
①参道の北側に広がる納経所等の建つ平坦部C1
②大部分が駐車場となっている平坦部B3
平坦部C1は、南北に長い長方形で、南北約26m、東西約20m、そのほとんど全体を納経所が占めています。
D区は参道を挟んで南側に位置する歴代住職墓等が安置される墓域です。
平坦部全体に歴代住職墓が建ち並んでいますが、中世の宝医印塔も鎮座し、市の指定文化財となっています。
E区は本堂等の背後に広がる広大な霊園区域です。背後の丘陵を大きく切り開き、いくつもの平坦部を造り出して霊園としていています。霊園からは松山平野南部を一望することができ、天気が良ければ浄土寺方面まで見渡すことができるようです。現在の八坂寺の伽藍を見てきました。
次に八坂寺の古景観を復元してみましょう。
八坂寺の古景観を描いた絵図は、次の2つです。
①元禄2年(1689)の『四國偏礼霊場記』    江戸時代前期、
②寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』  江戸時代後期
①の『四國偏礼霊場記』から見ていくことにします。

八坂寺 四国遍路日記1
これを見ると現在の八坂寺のとは、大きく異なっています。ここに描かれているのは、本堂と鎮守、鐘楼堂だけです。それ以外の建物はありません。大師堂もありません。もう少し詳しく見ていきましょう。遍路道から橋を渡って続く参道の正面にあるのは「鎮守」です。本堂はそこから離れた左方に描かれています。鎮守と本堂を比べて見ると、大きさからしても、建っている位置からしても、八坂寺の中心的な施設は、鎮守であったことがうかがえます。この鎮守は八坂寺の性格からしても「熊野十二社権現」でしょう。ここには二十五間の長床があったとされます。しかし、「大師の遺烈きこゆることなし」とあるので、八坂寺の退転時期の姿が描かれているようです。先ほど見たように、境内の入口には橋を土台に山門が建っています。この絵にも、同じく小河川が流れて、板橋がありますが山門はありません。板橋の右下には「□(本?)坊」があります。

次に江戸時代後半の『四国遍礼名所図会』を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍礼名所図会1800年

境内には上下に2つの平坦部があます。上段に②熊野権現と③大師堂と④石造物4基が描かれています。このうちの層塔は、今も大師堂横に鎮座する市指定有形文化財の層塔とされます。『四國偏礼霊場記』で、本堂のあった所に大師堂が建っています。一方で、今は本堂がある平坦部の中心には、鎮守(熊野権現社)が鎮座しています。本堂周辺の建物配置は、現代とは大きく違っていたことを押さえておきます。
 下段の平坦部の中心付近には鐘楼堂があります。その他の建物はなにも見えません。ただ右端に建物屋根の一部が見えます。これが⑥庫裡などの施設かもしれません。平坦部から続くやや長い石段を降ると、参道を横切る小河川に⑤石橋が架かっていますが、山門はありません。どちらにしても、この小川にかかる橋が、遍路道と境内域の境界であったのは間違いないようです。板橋の先には⑦藤棚が描かれ、その先には門を構え、土塀によって区画された敷地の内部に建物が描かれています。江戸次第初期の『四國偏礼霊場記」で「□坊」とされた付近です。本文詞書に「南光院」と記されているので、八坂寺に関係する子院のようです。伽藍背後には2つの山の連なりが描かれ、谷には「鉢クボ」と記されています。これは衛門三郎の御鉢を砕いたとされる「鉢クボ」が記されています。この時期には、八坂寺が「衛門三郎発心の聖地」を主張するようになっていたことがうかがえます。

 現在の境内と異なる点を、研究者は次のように挙げます。
①江戸後期までの絵図では「熊野十二社権現」が境内の中心に描かれること
②現在は本堂が中心へと変わり、熊野十二社権現は向かって右手に移動していること
③大師堂と熊野十二社権現の間にあった石造物群も現在は大師堂前に移設されていること
④古絵図では鐘楼堂と庫裡が同一平坦部の上にあるが、現在は、鐘楼堂は本堂等のすぐ下の狭い平坦部に、庫裡等はさらに一段下の平坦部にある。

 このような変化がいつ頃に現れたのかを、古写真から見ていくことにします。
『四国霊場名勝記』は明治42年(1909)に刊行された遍路記集です。

八坂寺 明治

これには八坂寺の石段下から撮影された写真が掲載されてます。写真中央の石段を登りきった所に左右一対の灯籠が建ち、その奥に熊野十二社権現が写っています。その右には、建物がわずかに写ってます。また、十二社権現の左には大師堂と思われる瓦茸の建物が見えます。

大正十年(1921)刊行の写真集『四国八十八ヶ所写真帖 完』を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年

一番手前が大師堂が位置し、次に熊野十二社権現、一番奥に小規模なお堂と、三棟の建物が並んでいます。大師堂前には一対の円柱状の寄付石が見えます。大師堂は現在よりもかなり東側にあるようです。その向拝の形は、今の大師堂とよく似ていることを押さえておきます。

昭和11年(1936)刊行の『四国霊場大観』には、2枚の写真が掲載されています。
八坂寺一二社権現

1枚目は熊野十二社権現を正面から撮影したものです。この写真からは次のことが分かります。
①熊野十二社権現は茅茸建物
②写真下部に、参道の石段が写っていること
③写真左端に、大師堂前に建つ寄付石が写っていること
②からは1936年時点でも、十二社権現が、石段を登りきった正面に鎮座していたこと
③からは大師堂は写っていないがこれまでと同じ位置にあったこと。

2枚目は「本堂」の写真です。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂 1936年
十二社権現や大師堂に比べると、やや小ぶりな瓦葺のお堂です。向拝部の下に、石製の線香立てがあるのが確認できます。写真左端には茅葺の熊野十二社権現の茅葺きの屋根が写り込んでいます。ここからは、『四国霊場名勝記』や『四国八十八ヶ所写真帖 完』で熊野十三社権現右側に写っていた建物が本堂であったことが分かります。
 この本堂で研究者が注目するのは、現在の熊野十二社権現堂拝殿とよく似ていることです。現在の拝殿は、この本堂を転用したものと研究者は推測します。そうだとすると本堂から拝殿へと、その性格は変わりましたが、近世に建てられた八坂寺の建築物を今に伝える唯一のものになります。
 以上から、明治・大正・昭和の古写真に写された伽藍レイアウトと、近世後期の『『四国遍礼名所図会』を比べると、大師堂の位置や本堂出現などの変化はありますが、建物配置にに大きな変化ないとようです。そういう意味では、昭和初期までは八坂寺は江戸時代後期の景観をよく残していたことが分かります。そうすると、現在の境内地に至る伽藍整備やそれに伴う造成工事はそれ以後に行われたこととなります。
その過程を、国土地理院等撮影の空中写真で見ていくことにします。
八坂寺1947年空中写真

写真1は昭和22年(1947)に米軍によって撮影された空中写真です。これを見ると境内の周囲は樹木によって囲われ、周辺は田んぼや畑が広がっています。境内の中心には3つの建造物が見えます。これが北から本堂、熊野十二社権現、大師堂なのでしょう。建物の規模感や配置は、1936年の『四国八十八ヶ所写真帖 完』のものと、あまり変化していないようです。本堂の北東側には本坊と思われる建物が写ってます。  ここからは戦前から戦後にかけては、八坂寺境内に大きな変化はなかったことがうかがえます。

写真2は1962年に国土地理院によって撮影された空中写真です。
八坂寺1962年

境内が樹木に囲われ、周辺には田畑が広がるという点に変わりはありません。建物ははっきりとは分かりませんが本堂や本坊は見えます。高度経済成長期の前までは、八坂寺境内に変化はあまりみられません。
写真3は1975年2月24日の国土地理院撮影の空中写真です。
八坂寺1975年
ここにきて境内が次のように大きく様変わりしていることが見えてきます。
①本堂と大師堂に大きな違いが見える
②中心にあった熊野十二社権現が姿を消し、新たな大きな建物が出現している。
③これが現在の本堂で、昭和47(1972)年起工、昭和59年竣工である。
ここからは、白く大きな建物は、建設途中の本堂であることが分かります。そして、それまでの本堂が熊野十二社権現拝殿になったようです。
④樹木に包まれていた本堂西側や大師堂の西や南側が大きく切り開かれたこと
⑤これと並行して霊園区域の造成が開始されたこと

写真4は1975年10月6日の国土地理院の空中写真です。
八坂寺1975年12月

ここでは大師堂に変化があります。もともとは大師堂は、本堂と接し、平坦部の東側に建っていました。それが本堂との間に隙間が設けられ、2月の空中写真で確認された西側に拡張された空間に建物が移動後退してます。このほか、霊園区域はさらに広範囲にわたって造成工事が進められています。
そして現在の八坂寺の伽藍です。

八坂寺 現在

境内地の中心に、大きな本堂があり、その北側に熊野十二社権現拝殿、南に大師堂が並びます。もともとは東寄りにあった本堂と大師堂は、西側に後退し、両堂の前面に広い空間が現れています。

以上、現在の八坂寺伽藍変遷についてまとめると、次の通りです。
八坂寺は、もともとは熊野十二社権現に仕える修験者たちの別当寺でした。そのため信仰の中心は熊野信仰にありました。それを物語るのが伽藍の中心に鎮座していた「鎮守(熊野十二社権現)です。これに比べると本堂は、その横に置かれた小規模なものに過ぎませんでした。しかし、近世後半になると熊野信仰が衰退し、代わって寺院経営の上で四国巡礼の占める割合が高くなってきます。そのために、四国札所としてしての伽藍整備へと修正が行われ、大師堂が建立されたりします。しかし、それでも熊野十二社権現の位置は変わりませんでした。
 明治の神仏分離で、寺院経営は大きな打撃を受けますが、熊野十二社権現は名前を変えただけでそのまま存続します。そして、明治・大正・昭和と受け継がれ、敗戦後までは境内景観は江戸時代尾張の姿が維持されてきました。それが大きく変化するのは、高度経済成長後の1972年に本堂整備が始まってからです。これを契機に本堂を中心とした伽藍整備が進められます。同時に背後の岡には、墓地の大規模造成工事が行われ、姿を大きく変えていくことになります。現在の八坂寺の伽藍配置が出来上がったのは、1970年代になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献。
   八坂寺の古景観     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺32P 愛媛県教育委員会2023年
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弘法大師と衛門三郎の像です - 神山町、杖杉庵の写真 - トリップアドバイザー
弘法大師と衛門三郎(徳島県杖杉庵)

弘法大師伝説の中で、有名なものが遍路の元祖とされる衛門三郎伝説です。
これは四国八十八筒所霊場51番石手寺の「石手寺刻板」(予州安養寺霊宝山来)に、天長8年(831)のこととして記載されています。真念の『四国遍礼功徳記』に、次のように記されています。(意訳)

予州浮穴郡の右衛門三郎は貪欲無道で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に旅立つ。21回の遍路で、ついに阿波国の焼山寺(四国霊場第12番)の麓で、臨終に大師と出あい、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせた。その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、神社を多く立て、その石を納めて石手寺と寺名を改めた。

「四国辺路日記」の「石手寺」項には、次のように記されています。

「扱、右ノ八坂寺繁昌ノ御、河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル.毎日本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ怪貪放逸ノ者也」

意訳変換しておくと
「八坂寺の繁昌に対しては、太守河野殿からも保護援助があり、衛門三郎という云者を掃除のために八坂寺に付置き、毎日本社の長床の塵を払わせた。この男は天下無双の悪人で怪貪放逸の者であった」

ここには、衛門三郎のことを大守河野殿の下人で「本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ」=「石手寺の熊野十二社権現の掃除番」=「長床衆(修験者)」と記します。また、石手寺に伝わる衛門三郎伝説は熊野信仰隆盛の中で作られたもので、衛門三郎伝説に八坂寺、焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられる寺院があらわれるのは当然のことです。もともとは衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰の由来でした。それが江戸時代に「大師一尊化」が進むと、四国遍路の由来を説明する説話に作りかえられたと研究者は考えています。
衛門三郎伝説は、現在の八坂寺の縁起には詳しくふれられていません。
しかし、八坂寺には2種類の「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が残されています。これはかつては八坂寺が、弘法人師と衛門三郎の伝説を重要視して積極的に流布していた証拠とも云えます。今回は、八坂寺の2種類の刷り物「弘法大師と衛門三郎」を見ていくことにします。テキストは、今村 賢司   「弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺 衛門三郎A
「弘法大師と衛門三郎」の刷り物A
 八坂寺版「弘法大師と衛門三郎」の刷り物Aを見ておきましょう。
この大きさは縦82,5㎝ 横33㎝ 軸鼻含37㎝で、
右側に「大師修行御影 八坂寺」と記された修行姿の弘法大師像が立姿で左側に衛門三郎像が座って描かれています。朱印が押されているのが、右上側に札所番号印「四十七番」と宝印(菊桐重ね紋)、下部に寺印・山号印「熊野山妙見院」です。銘文は次のように記します。
【銘文l
四国拝祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
大師二十一遍目 御たいめん(対面)
なされ候時姿
弘仁六乙未より
安永五申迄
千八十六星至ル
何が描かれているかを、研究者は次のように説明します。
①右側の弘法大師は「修行大師像」は立像で、大師の視線の先には「衛門三郎」がいて、寄り添うような構図である。
②大師は法衣姿で墨の等身、垂領、有襴、袈裟を巻いてかける。頭巾(立帽子)を被り、右手に杖、
左手に念珠、脚絆を巻き、草韓をはく.穏やかな表情
③衛門三郎像は磐座に腰かけ、巡礼姿で正面を向く。長髪、額に彼、眉毛や目がさがり、虚ろなまなざし、頬がこけ、髭を生やし、口をへの字に曲げる。胸前には首から紐を掛けた「札はさみ」とと、左手で負俵を抱えているて、右手に杖(自然木)、足に脚絆を巻き、草軽(足半)をはく。
④衛門三郎は札挟み、負俵、杖、足半などの巡礼用具を身に着けているが、菅笠は描かれていない。
⑤彩色されていなので、白装束かどうかは分からない。巡礼者が衣服の上に着る袖無しの笈摺も描かれていない。
この刷り物の舞台は、いつ頃のものなのでしょうか
銘文に、次のようにあります。
「四国舞祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎
「大師廿一遍日御たいめん(対面)なされ候時姿
ここからは、伊予国松山の八塚衛門三郎が四国巡拝21遍目に弘法人師に対面した時の姿が描かれていることが分かります。そのためか、弘法大師と再会を果たした衛門三郎は疲弊して後悔に満ちた表情で、懺悔の念を全身で表しています。
 衛門三郎が弘法大師と対面した場所は、徳島の焼山寺の麓にある番外霊場の杉杖庵(徳島県名西郡神山町)とされます。阿波でも「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が発行され、そこには同じように衛門三郎と大師が再会する場面が描かれています。同じ刷り物が八坂寺でも摺られていたことを押さえておきます。
銘文にある「弘仁六乙未る安永五申迄千八十六星至ル」について、見ておきましょう。。
 安永元年(1772)に鋳造された八坂寺の梵鐘銘には「四州四十七番札所予州松府城南 高祖弘法大師霊刹」とあります。しかし、それ以前の八坂寺史料には弘法大師は出てきません。出てくるのは熊野信仰なのです。ここから八坂寺が自らを四国霊場の札所として称するようになったのは近世半ばになってからと研究者は指摘します。
 八坂寺の木札や梵鐘銘などからは、この頃に八坂寺の伽藍整備や寺史整理が行われていたことが分かります。熊野信仰の影響を受けた修験寺院であった八坂寺は、この時期に四国八十八箇所霊場の札所へと、立ち位置を移していったようです。そのような中で、弘法大師と衛門三郎ゆかりの霊場であることを強く主張するようになります。この刷り物Aは、そうした背景のもとで製作されたものと研究者は考えています。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
この点について手がかりを与えてくれるのが、今回の調査で発見された下の版木です。
八坂寺版木 弘法大師
弘法大師修行御影の版木
 先ほど見た「弘法大師と衛門三郎」の刷り物の右側の弘法大師立姿と、瓜二つです。大きさも一致するようです。とすると、この版木から先ほどの刷り物Aは摺られていたことになります。つまり、刷り物Aは、一体型の版木ではなく、2つの版木を組み合わせて刷られたのです。ちなみに、左側の衛門三郎像の版木は見つかっていないようです。
表面は「大師修行御影 八坂寺」と刻まれ、
裏面は「文政七申年九月吉祥日 四国第四拾七番熊野山八坂寺什物判」と墨書
ここからは、文政7年(1824)に彫られた版木であることが分かります。以上から「刷り物A」は、八坂寺所蔵の「大師修行御影」版木で、文政7年(1824)以降に摺られたと云えそうです。
こうして八坂寺で摺られた「弘法大師と衛門三郎」の版画は、参拝土産と売られたり、修験者によって配布されたことが考えられます。どちらにしても、八坂寺にとっては、非常に重要な版木であったはずです。それが、幕末には姿を見せていたことを押さえておきます。

八坂寺 衛門三郎B
「弘法大師と衛門三郎」刷り物B

もう一枚の「弘法大師と衛門三郎」刷り物Bを見ておきましょう。
大きさは縦36㎝横26,3㎝です。構図は先ほど見た「刷り物A」とほぼ同じです。銘文及び絵像の内容を見ておきましょう。
伊豫国下浮穴郡恵原郷ノ産ニテ八ッ束右エ門三郎ハ当山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ為菩提請願ノ四國八十八ヶ所順逆舞礼遍路ヲ始ム姿ナリ 満願シテ同國旧領主河野伊豫ノ守ニ二度生レ替ル人餘此二略ス
弘仁六乙未年
意訳変換しておくと
伊豫国下浮穴郡恵原郷生まれの八ッ束衛門三郎は、当山八坂寺で、弘法大師の御教喩を受けて、善道に立直り改心して四國八十八ヶ所巡礼遍路を始めた。その姿を描いている。満願適い伊予の旧領主河野守に生まれ変わることがでした。その他のことは省略する。
弘仁六乙未年
構図を見ておきます
刷り物Aと構図や装束は、ほとんど同じです。異なるの次の2点です
①衛門三郎の表情が、衛門三郎像が発心して四国遍路を始めようとする姿なので、険しい決意の表情で描かれている
②首から掛ける札挟みは「札バセ」と書かれている。

刷り物Bは刷り物Aに比べると、衛門三郎伝説が次のようにより詳しく記されています。
①「八ツ束右工門三郎」は伊予国下浮穴郡恵原の出身である
②当山(八坂寺)で、弘法大師が衛門三郎に対して教え諭した。
③衛門三郎は善道に立ち直り発心した
④菩提請願のために四国八十八箇所を順打ち・逆打ちして拝礼した
⑤刷り物Aは、衛門三郎が遍路を始める姿である
⑥衛門三郎は願いが満たされ、伊予国領主河野伊予守に生まれ変わった

文末に「その他は略した」と記されています。省略された点を補足すると次の通りです。
①貪欲無道の衛門三郎の性格
②大師の托鉢を拒んだこと
③大師の鉢が割れた後に衛門三郎の人人の子が亡くなること
④弘法大師への悪事の報いであると悟ること
⑤四国遍路を21回行ったこと
⑥焼山寺の麓で大師と再会したこと
⑦臨終の衛門三郎は、大師か為石を手に握らされたこと
⑧安養寺から石手寺と改称したこと。
八坂寺に関係しない細部のストーリーが省略されています。八坂寺が舞台となる部分だけを切り取っているのです。八坂寺にとって、焼山寺の麓(杖杉庵)や石手寺の話は必要ないのです。中でも、研究者は注目するのは「当山山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ」とあることです。衛門三郎は、当山(八坂寺)で弘法大師の教えと導きによって四国遍路を始めたと主張されています。つまり八坂寺自身が「衛門三郎の発心の旧跡」であると云っているのです。この認識の上で八坂寺は、刷り物を発行していたのです。刷り物Bは、衛門三郎が発心して遍路を始める姿であることを押さえておきます。
 刷り物Bの制作時期についての手がかりは、銘文に「下浮穴郡」とあることです。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
 同じような資料として、研究者が挙げるのが調査で確認された版木の「大師堂再造勧進状」(明治期)です。その冒頭に次のように記されています。
「夫当山ハ四国八拾八箇所霊場順拝開祖八束右衛門三郎初発心奮跡ナリ」

大師堂再建にあたって、八坂寺が衛門三郎発心の旧跡であることが主張されています。また、納経印にも次のように刻されています。

「奉納経   弘法大師宝前 四国八十八(ヶ)所順舞遍路開基 八(ッ)津(ヶ)右ヱ門二(ママ)破心旧跡 事務所」

この勧進状にも、八坂寺は衛門三郎発心の旧跡と記されています。その一方で、熊野権現については何も触れていません。明治になって、八坂寺の縁起の中心が熊野権現から衛門三郎に変更されていくプロセスが見えてくるようです。
 以前に八坂寺の縁起はよく分からないことをお話ししました。
江戸時代初期には、八坂寺は、衛門三郎発心の旧跡とは書かれていません。ところが明治12年(1885)の「寺院明細帳」には「四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右工門三郎初発心ノ旧跡所也」と記さています。そして、明治・大正時代の案内記には、これが定番になっていきます。こうした背景には、明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験宗廃止令が出されて修験道が禁止されたことがあるようです。近代の八坂寺は、熊野信仰よりも四国八十八箇所霊場の札所寺院として立ちゆくことを戦略とします。そして、その中心に「衛門三郎発心の旧跡」という縁起を据えたのです。そうすることで、衛門三郎伝説の始まりの聖地として、より多くの遍路や参詣者を誘い、大師堂再建などの勧進などにも役立てようとしたのでしょう。江戸時代末の刷り物Aから明治のBへの変化は、そのような八坂寺の戦略変化を反映したものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①八坂寺はもともとは、熊野信仰の影響が強い修験寺院であった。
②八坂寺は、ふたつの「弘法大師と衛門三郎」の刷り物を発行している
③刷り物Aは、八坂寺に残る文政7年銘「大師修行御影」版本から刷られたもので、江戸時代後期の製作と考えられる。
④刷り物Aは、遍路の参拝土産や、修験者が配布することで広められた
⑤明治になると、八坂寺は神仏分離政策で熊野神社を奪われた。そのため寺の存在意義を四国霊場に移した経営戦略をとるようになった。
⑥その一環が、「衛門三郎発心の旧跡」という主張で
⑦これに合わせて、刷り物Bは戒心した衛門三郎が八坂寺から遍路に出立するものへと解釈変更が行われた。
⑧それが昭和以降は「衛門三郎から役行者」へと移り変わる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
今村 賢司(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
「 弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺     四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年
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八坂寺 大正10年
八坂寺 大正10年
澄禅『四国遍路日記」(1653)では、八坂寺については次のようなことが記されています。
①熊野信仰の篤かった妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てたという由緒
②これが衰微して二十五間長床であった熊野権現の社殿は、今は小社となっていること
③妻帯の山伏が寺に住していること。

 ここで押さえておきたいのは、①の八坂寺境内の熊野十二社権現は「妙見尼という長者が託宣によりこの地に勧請し社殿を建てた」と記されていることです。そして、社伝は「二十五間の長床」であったと記します。ここからは、その社伝の別当として熊野権現を管理し、八坂寺が作られたということがうかがえます。

それでは、現在は八坂寺の創建や縁起については、どのように語られているのでしょうか?

先達教典 四国八十八ヶ所霊場会編集発行□「先達必携」改題(文化、民俗)|売買されたオークション情報、ヤフオク! の商品情報をアーカイブ公開 -  オークファン(aucfan.com)
「先達経典」
「先達経典」(四国八十八ケ所霊場会2006)の記述を要約すると次のようになります。
①真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は修験道の開祖役行者小角。大宝元年(701)
②御詠歌「花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ」
③遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。
④飛鳥時代の大宝元年、勅願で伊予国司、越智玉興公が堂塔を建立
⑤このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とした。
⑥弘法大師がこの寺で修法し、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。
⑦本尊の阿弥陀如来坐像は、恵心僧都源信(942~1017)の作
⑧その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。
⑨このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えた。
⑩天正年間の兵火で焼失し、末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。
⑪現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡
①からは、開基は「修験道の開祖役行者小角」で、
④からは「伊予国司、越智玉興公が堂塔建立」
⑥からは、弘法大師再興
とされていることが分かります。ここには、熊野権現を還元した「長者妙見尼」は登場しません。

現在伝えられ寺史は、どのようにして生まれてきたのでしょうか?
手がかりを与えてくれるのが八坂寺に残る次の縁起木札3枚です。この内の2枚は安永5年(1776)に八坂寺住持宥瑞によって作成されたことが銘文から分かります。1枚目は八坂寺の創建に関わる木札です。

八坂寺 創建木札
八坂寺 創建木札
創建・中興の2枚は、縦約80㎝と縦長で、そこに書かれた文字も大きいものです。また、よく見ると、上部に釘穴があります。ここからは、この木札が堂内などに掛けられて参拝者への説明版となっていたことが推測できます。内容を見ておきましょう。
     【八坂寺 縁起木札(創建)244P
(表)
抑当伽藍者仁皇四十二代文武天皇大宝元辛丑年、
紀州熊野権現依証誠大菩薩教勅、太古当国前大守小千伊予守
三位玉興創建也、今到安永五丙申及千八十六年、
(裏)
法印有瑞記
意訳変換しておくと
八坂寺の伽藍は文武天皇の大宝元(701)年に、紀州熊野権現の証誠大菩薩の教勅を受けて、国司の伊予守越知玉興が創建したものである。これは今から1086年前のことになる。
ここには、熊野権現の勧進が奈良時代まで遡り、しかも勧進したのは国司の越智玉興とされています。

2枚目は、弘法大師中興のことが記されています。

八坂寺 中興木札
八坂寺 弘法大師中興木札
(表)
仁皇五十一代嵯峨天皇弘仁六乙来年、弘法大師以当伽藍
四国八十八所第四十七香之道場中興車創給、到テ当安永五二及九百七十二年
(裏)
宥瑞新革
弘仁6年(815)に弘法大師が、この伽藍を四国八十八所第四十七番道場として中興草創したことが記されます。この時期は、弘法大師大師信仰が民衆にも広がり、四国遍路が増えていく時期です。

3枚目の縁起木札を見ておきましょう。
この木札は長辺38,5㎝の小ぶりな板で、釘穴もありません。しかし、分かりやすい書体で書かれているので、やはり参詣者らに掲示されたものと研究者は考えています。

八坂寺縁起木札
(表)
抑当伽藍者、仁皇四十二代文武天
皇大宝元年辛丑、紀州熊野権
①現証誠大菩薩依教勅、大古
当日前大守小千伊予守正三位
玉興公創建也、
②天正の頃兵火の禍に懸りて伽藍
諸堂末社僧坊拾弐ヶ院塔頭
一時のけむりとなり、其時権現の
神体焼そんじさせたまふ、③分散の
之神体取集此内へ奉納り置
ものなり、深秘して奉拝之事
なかれ、可恐可恐、前書之旨天正之頃
焼失といゑ共碇したる旧記無之、
只伝来而己、しかれ共神体拝
見之処焼失止しき事なり、
3枚目の「縁起木札」は、作成年次、作成者ともに分かりません。
内容的には
①大宝元年(701)熊野権現証誠大菩薩の教勅によって小千伊予守三位工興が創建したこと
②こに加えてに、天正年間に兵火にかかり伽藍諸堂や僧坊十二ケ院塔頭が焼失したこと
③焼損で分散していた神体を取り集め納置したところ、実際に焼失したことが確かめられたこと
3枚の木札と、近世はじめの四国遍路記などを比べて見ると、
近世初頭は、創建者は「熊野信仰の篤かった妙見尼という長者」で、「越智玉興」は創建者として出てきませんでした。それが、近世中頃になると創建者が「越智玉興」とされるようになります。「越智(河野)玉興」は、飛鳥時代の伝説上の人物で、物部姓越智氏一門河野氏の祖とされます。八坂寺は江戸時代半ばに創建者を、地域の長者・妙見尼から、河野氏祖先に変更したようです。以後は、八坂寺の草創は越智氏と伝えられていきます。
明治の神仏分離と、続く修験者禁止令によって八坂寺は、境内の熊野権現の管理権を失うなど大きな打撃を受けたようです。 

八坂寺 明治五年明細帳
八坂寺 明治5年明細帳

明治5年(1872)に住職の宥意(八坂文瀧)によって石鉄県に明細帳が提出されています。
この明細帳には、八坂寺の沿革、宥意や寺族の履歴、境内地などが記されています。また末寺の東林山林光院光明寺、見滝山長泉寺金剛院のことも記されているので、八坂寺や末寺に関する基本史料となります。内容を見ておきましょう。
古儀真言宗修験当山派
石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺邑
御直末別納中本寺
一大本寺西京醍醐三宝院官   熊野山八阪寺
開宗祖師理源大師
当山開基大宝元幸十歳也、当辛申歳迄千百七十四年相成日、為信仰当国旧太守小千伊予守従三位玉興公創建也、後弘仁乙来年弘法大師四国八十八ヶ所第四十七番霊場草創給、後四州乱軍之側懸兵火寺誌世代不詳、乍併五輪石碑等数々雖有之文字一切無之故年暦相分不申候也、良而天正五丁丑歳宥覚法印当寺中古、住職夫十四世相続申候、当住右同寺産而天保五乙未得度、同九戊戊四度加行、併護摩秘法執行、弘化二丙午歳大峯入峯、執行灌頂、次本寺継目、次人先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣昇進仕候、同三丁未載右県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印江随身修験現法降魔壱千座満行、次一宗秘法相伝、其後一派宗学執行寺格者本寺直末別納別触紫衣之寺格也、
第十五世当住 宥意 千申五十載(歳)
第十六世二代 有同寺産而元治元甲子得度、明治三曖午
修験最勝忠印七壇加行丼護摩秘法執行也、
第十六世二代 宥教 壬申二十載
右同県管轄旧松府音羽町天台宗修験旧上蔵院良山妹
養母アイ 壬申六十載
宇和島県管轄浮穴郡大南邑同宗西願寺学応妹
〈別触紫衣之寺格也〉       妻 ハシメ 壬中三十九載
右八坂寺宥意妹    妹 エイ  二十四載
以上五人内(修験二人 女三人)
境内 壱町八反七畝四歩
  意訳変換しておくと
古儀真言宗修験当山派に属し、御直末(醍醐三宝院)の中本寺であり、石鉄県管轄伊予国浮穴郡浄瑠璃寺村にある。大本寺西京醍醐三宝院で   熊野山八阪寺
醍醐寺の開宗祖師理源大師で、当山の開基は大宝元(701)年十歳のことである。これは、1174千前のことになる。創建は伊予国司越知玉興公であり、後の弘仁年間に弘法大師が四国八十八ヶ所第四十七番霊場として中興草創した。その後、四国騒乱時に兵火に係り記録文書が焼失して寺史についてはよく分からない。五輪石など石碑は数々あるが文字が一切なく、これからも年代が分からない。天正年間に宥覚法印が当寺を中興し、十四世住職を相続した。そして天保五年に得度、その後四度の加行、護摩秘法を執行。、弘化二年には吉野大峯にも入峯し灌頂を受けてた。引き続き修行に精進し、大先達阿閣梨法印官九条披磨紫金紫衣に昇進した。また県温泉郡北吉田邑不動院弘伝法印で修験現法降魔壱千座を満行し、一宗秘法を相伝。その後、宗学執行寺格は本寺直末別納となり紫衣之寺格となった。(以後略)
ここからは、八坂寺の歴代住職が吉野大峯入山を重ねて行い、当山派醍醐寺三宝院の中本寺として、伊予でも寺格の高い山伏寺であったことが記されています。
八坂寺 妙見権現
飯綱権現(八坂寺)
ここに記されたことを寺史沿革に絞って要約すると次の通りです。
①大宝元年(701)越知玉興による開基
②弘仁6年(815)弘法大師による四国八十八箇所第四十七番霊場としての草創
③戦国期における兵火による焼失
 研究者が指摘するのは、ここに書かれているの内容や文体は、先ほど見た創建木札によく似ていることです。明治5年明細帳の作成の際には、この木札を参考に、当時の住職宥意(八坂文瀧)が書いた可能性が高いようです。つまり、近世半ばに木札として八坂寺に掲げられていた創建・中興などの記事が、明治になってそのまま県への報告書の中に取り込まれ、その後の寺史となっていたことがうかがえます。
 なお越智氏を開基や再興時の檀那とする例は、浄瑠璃寺でも見られるようです。聞いたこともない「妙見尼という長者」よりも「古代の伊予国司」とされる越知玉興の名前の方が相応しいとされたのでしょう。地域的に受容されていた歴史観が、寺院の縁起に取り込まれたと云えそうです。ちなみに、木札に記された縁起内容は、八坂寺に残された近世古文書からは確認できないようです。

八坂寺 獅子像
獅子像(八坂寺)
   以上をまとめておくと
①八坂寺は中世には、熊野権現信仰が中心で、その別当寺として八坂寺があり、社僧(山伏)が管理していた
②その創建については、「妙見尼という長者」の熊野権現勧進に始まると近世はじめにはされていた。
③しかし、近世半ばになると八坂寺が真言系修験の醍醐三宝院の中本寺となることで、醍醐寺に関係する空海・役行者・理源大師(聖宝)が開基や中興者として登場するようになる。
④そのような中で、河野氏の祖とされる越知玉興の開基ともされるようになる。
⑤明治になって寺史沿革提出を求められた八坂寺住職は、境内に掲げられていたこれらの開基・中興者たちの木札を参考に、沿革を記して提出した。
⑥それが、その後の八坂寺の寺史の原型となった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


八坂寺一二社権現
八坂寺の鎮守だった熊野十二社権現
前回は八坂寺の歴史を大まかに見ました。その中で私が興味を持ったのは、八坂寺が熊野行者や石鎚先達として指導的な役割を務める修験者(山伏)たちの寺であったということです。今回は、「八坂寺=修験者の寺」という視点から見ていくことにします。テキストは「四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。
熊野神社が鎮守として祀られている伊予の霊場を挙げてみましょう。
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
多くの霊場札所に、熊野信仰の痕跡が残ることが分かります。ここから「四国辺路」の成立には、熊野信仰が大きく影響したと研究者は考えています。霊場札所が熊野行者によって、開かれたという説です。
熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を地域で果たしたのではないかとも考えます。こうして熊野信仰の拠点寺院に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成されるという考えです。その典型として注目されるの八坂寺ということになります。
 近世始めに書かれた澄禅の『四国遍路日記』(承応2年(1653)には、八坂寺本堂に安置されていたという阿弥陀如来像に関わる由緒や、寺院自体の創建伝承・沿革などについては何も触れていません。記述の中心は、境内にあったの鎮守の熊野十二所権現で、次のように記されていました。
①八坂村の長者てあった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、熊野三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の中心は鎮守(熊野三山)で、右手に小ぶりな本堂が並んでいたこと
ここからは地元の長者によって熊野神社がこの地に勧進されたこと、そして、神社の別当として熊野先達を行う修験者がいたこと。さらに長床があったとすれば、熊野行者達の信仰センターの役割も果たし、この地域の熊野信仰の中心地であったこと、などがうかがえます。つまり中世の八坂寺の信仰の中心は熊野権現社で、多くの熊野行者が活動し、その周りには廻国の高野聖や念仏聖なども「寄宿」していたことが推測できます。
 これを裏付けるのが熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券です。
ここには近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。さらに、『四国遍路日記』には、八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったとも記されています。

  熊野先達の活動が衰退するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。「戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような中で熊野先達たちは、活路をどこに求めたのでしょうか。
「熊野先達=熊野行者=修験者=山伏」たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を武士層から、村の有力者へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供する道を探ります。その内容は有名な霊山への「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。そして地元に受け入れられて、定着し里寺を起こす者も現れます。
 同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。具体的には四国巡礼や石鎚参拝の先達業務です。つまり、中世に熊野先達を勤めていた八坂寺の修験者たちは、近世には四国辺路修行や石鎚参拝の先達を務めるようになったのです。
 石鎚参拝の先達を勤める八坂寺の住持たちの姿を史料で見ておきましょう。
「石鉄(石鎚)山先達所惣名帳」(延宝4年(1676)前神寺文書)には、浄瑠璃寺村の「大坊」の「快常法印」が石鉄山先達の一人として挙げられます。浄瑠璃寺の中興に、元禄年間に活躍した快賢がいます。「快」の字が共通するので「大坊」も浄瑠璃寺のことを指すと研究者は考えています。江戸後期までに石鉄山の先達としての地位は、浄瑠璃寺から八坂寺へと移行します。それが八坂寺所蔵の古文書・古記録で次のように確かめられます。

「石鉄山先達名寄井檀那村帳」(文化6年(1809)は、を見ておきましょう。
これは道後地域の石鉄山先達や檀那村の記録です。そこに八坂寺が先達として記されています。

八坂寺 「石鉄山先達名寄井檀那村帳」
八坂寺の石鉄(石鎚)山先達の檀那村一覧
そして八坂寺の檀那村として、次の村々が挙げられます。

窪野村、久谷村、浄瑠璃寺村、恵原町村、西野村、上野村、小村、南高井村、北高井村、東方村、河原分、
大洲領麻生分西高尾田

 ここに出てくる檀那村は、文化5年(1808)に八坂寺に奉納された『大般若経』(聖教1~10)の施主の居住地と重なります。

八坂寺 大般若経
八坂寺 大般若経
石鎚参拝を通じて養われた先達としての師檀関係は強く、『大般若経』の勧進などでも大きな働きをしています。また、石鉄山先達の同僚である不動院(伊予郡松前村)、円通寺(久米郡樋口村)、和気寺(温泉郡衣山村)などは、文化5年の鐘楼堂再建供養にも出仕ていることが木札から分かります。八坂寺は、石鉄山先達のネットワークに支えられていた「山伏寺」だったのです。

八坂寺 天明8年(1788)明細帳 山伏
        天明8年(1788)明細帳 山伏八坂寺とある
 近世の八坂寺は醍醐寺三宝院末の当山方真言修験宗に属していたことが史料からも確認できます。

八坂寺 醍醐寺末寺
「醍醐三宝院御門主末院真言修験宗 八坂寺」とある

醍醐寺三宝院は、空海の弟真雅の弟子理源大師(聖宝)の開祖とされ、真言系修験者の拠点寺院でした。そのため近世の八坂寺縁起の中には、理源大師を開祖とするものもあります。八坂寺住持は、修験者として吉野への峰入りも行い、石鎚先達としても活動していたことになります。

以上をまとめておくと
①中世の八坂寺は熊野神社を勧進し、伊予松山地域における熊野信仰センターとして機能した
②八坂寺の住持は修験者で、熊野先達として檀那達を熊野詣でに誘引した。
③戦国時代に戦乱で熊野信仰が衰えると、里寺として地域に根付く運営方法を模索した
④その一環として、四国辺路や石鎚参拝の先達として活動を始め、信者ネットワークを形成した。
⑤そのため信者は、地元に留まらず土佐や大洲まで傘下に入れるようになった。
⑥こうして近世の八坂寺は「熊野信仰 + 石鎚参拝 + 四国霊場」の信仰センターとして機能した。

三角寺も八坂寺とおなじような動きをしていたことは、以前にお話ししました。三角寺ももともとは熊野先達で、それが四国辺路への先達活動を行うようになります。そして、周辺に多くの修験者や廻国行者を抱え込んでいきます。そして彼らがお札を持って、信者ネットワークの村々を巡るようになります。そのためこれらの寺には、いろいろな札の版木が残っています。同時に、讃岐の与田寺で見たように工房的なものもあり、僧侶の職人がいろいろな信仰工芸品を作成していました。それが八坂寺にも残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 図書館を覗いて見ると、今年の5月に出されたばかりの八坂寺の調査報告書が入っていました。八坂寺は熊野信仰との関わりが深い寺で、私にとっては興味のある四国霊場のひとつです。早速に借りだして、読んでみました。まずは八坂寺の歴史の概略を読書メモとして載せておきます。テキストは、四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。

八坂寺/愛媛県松山市【四国八十八ヶ所霊場】第47番札所 – Bilde av Yasaka Temple i Matsuyama -  Tripadvisor

熊野山妙見院八坂寺は、松山市浄瑠璃町にある真言宗醍醐派の四国霊場第47番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
この寺の歴史について、地名辞典(平凡社1980)には、次のように記します。
「寺伝では、河野玉興の創建で、右衛門三郎の発心した所、古くは八王子と称したという。残存の堂字は安政四年(1857)の再建で、本尊は坐像で高さ80㎝、面相の引き締まった張り、納衣の深い衣紋に特色をもち、鎌倉時代の作と推定される。なお、境内には、高さ2mの宝医印塔がある。ともに市の文化財」
 
「熊野山」や「八王子」などからは、古くからの熊野行者の活動がうかがえます。
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
八坂寺本尊 阿弥陀如来坐像
本尊阿弥陀如来坐像について「文化財保護委員会1964」は次のように記します。
「鎌倉末乃至南北朝期も早いころの特色の顕者なもので、このころの等身如来像の作例として県下でも出色の作品とおもわれる。今日髪部に群青を塗り、また肉身の漆箔をあらためて、若千像容を損じているが、その大容は造像時のままで、両手先、裳先までよく当初のものを残している。像容も整つて、この頃の作風を代表する作例といい得る」

これを受けて、木造阿弥陀如来坐像は、翌年に愛媛県指定有形文化財に指定、1968年には鎌倉時代の層塔と宝筐印塔が松山市指定有形文化財に指定されています。

中世の史料に記された八坂寺を見ていくことにします。
寺伝では、創建は河野氏と伝えられますが、中世にこの地域を勢力下に置いていたのは河野氏の家臣平岡氏です。平岡氏は、浮穴郡荏原の郷を拠点として、荏原城を築いたとされます。跡荏原城は。中心部の方形郭(南北70m、東西60m)とそれをとりまく土塁、堀からなる中世居館跡です。また、第46番札所の浄瑠璃寺境内には、最後の城主平岡通侍の墓と伝えられる五輪塔があることも、平岡氏が浄瑠璃寺を菩提寺としていたことを裏付けます。一方、八坂寺について中世の記録類は何もないようです。ただ、八坂寺境内には鎌倉時代の宝医印塔や層塔があるので、この時代から寺院があったことは確かのようです。

八坂寺層塔
八坂寺層塔

江戸時代の四国遍路の出版物や地誌には、八坂寺はどのように書かれているのかを見ておきましょう。
最古の遍路記される登禅「四国辺路日記」(1653)には、次のように記されています。
八坂寺 熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラビ王フ故二廿五間ノ長床ニテ在ケルト也っ是モ今ハ小社也。本寺堂ハ本尊阿弥陀ナリ。昔此国二長者在、熊野権現ノ霊験新ナル事ヲ承及ンデ三年ン続テ参詣シタリ。其上トテモノ事二我本国工勧請シ奉度ヨシ祈申ケレバ、尤御移り可参由御咤宣在ケレバ、悦デ則八坂村二宮殿ヲ立テ勧請シ奉シ也。是故二熊野山八坂寺妙見院卜号。院号ハ長者ノ尼公ノ号トカヤ。今ハ是モ衰微シテ寺ニハ妻帯ノ山伏住持セリ。是ヨリ十町斗往テ円満寺卜云真言宗ニー宿ス。十四日、寺ヲ立テ十五町往テ西林寺二至ル。
 
    意訳変換しておくと
八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

16世紀半ばの八坂寺の注目ポイントを挙げておくと・・。
①熊野権現を勧請され、昔は熊野三山権現が立ち並んで、25間の長床があったこと
②熊野山八坂寺妙見院と号し、住持は妻帯の山伏であったこと

新宮熊野神社【長床】の大イチョウ: billの悠々Life
新宮熊野神社の長床

真念の『四国邊路道指南』(貞享4年1687)には、八坂寺が次のように記されています。
四十七番八坂寺 平地、ひがしむき。うきあな郡やさか村。正面ハ此寺のちんじゆ也、札所は南。本尊阿弥陀 座長三尺、恵心作。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺迄一里。
意訳変換しておくと
四十七番八坂寺は、平地に東向きに建っている。浮孔郡八坂村。正面は、この寺の鎮守社であり、札所は南にある。本尊は阿弥陀で、座長三尺、恵心作である。。
花を見て歌よむ人ハやさか寺讃仏乗のゑんとこそきけ
これより西林寺まで一里。

正面にある鎮守社は、熊野三社を祀ったものでしょう。しかし、熊野信仰については、何も触れられません。代わって、本尊阿弥陀は恵心作の秘仏とされ、御詠歌が初めて紹介されています。
高野山・高僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)には、境内図とともに次のように記します。
熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村
当寺本尊阿弥陀如来恵心の作也といふ。是を以てこれをおもふに、此寺廃毀する事そのかみにあり。今大師の遺烈きこゆることなし。恵心の僧都は大師の後およそ三百年に及べり。むかしの本尊は鳥有となれるにや。今尚法義おとろへたりときこゆ。古堂清風冷しく僻御蔓草緑なり。
 意訳変換しておくと
山号は熊谷山で妙見院八坂寺 浮穴部八坂村にある。当寺の本尊阿弥陀如来は恵心の作と云う。ここから考えるに、この寺は一度退転したようだ。弘法大師のことが何も伝わっていない。恵心は、弘法大師のおよそ三百年後の人物である。昔の本尊は、どうしたのか? この寺が昔に比べて衰えたと云う。古堂に清風冷しく吹き込み、御蔓草緑なり。

気になるのが山号が「熊谷山」となっていることです。熊野山という山号ではありません。また熊野権現の勧進の話も出てきません。絵図を見ておきましょう。

八坂寺 四国遍路日記1
高僧寂本の『四国偏礼霊場記』
浄瑠璃寺からやってくると右手の垣根の向こうに本坊があります。橋を渡って、まっすぐに参道を登っていくと迎えてくれるのが高床社殿の①「鎮守」です。ここには熊野三社が祀られていて、その前に25間の長床が建っていたと「四国辺路日記」にはありました。そして、左手に本堂があります。よく見ると、縁側があって三間×三間の入母屋造です。大師堂は、まだ姿を見せていません。

近世初期の2つ記録には、次のようなことが記されていました。
①八坂村の長者であった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の正面に大きな熊野十二社があって、右手に小ぶりな本堂があったこと、
④つまり信仰の中心は熊野権現社であったこと
⑤八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったこと。
また、熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券に近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。
寛政12年(1800)に阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)が遍路記残しています。翌年にこれを書写したとされる『四国遍礼名所図会』には、写実的に描いた鳥厳図が載せれ次のように記します。
四拾七番熊谷山妙見院八坂寺 浮穴部八坂村 西林寺迄―里
本尊ハ阿弥陀仏、恵心の作と云。恵心ハ大師の後凡三百年程也、此義不詳。
花を見て歌よむ人ハ八さかでらさん仏ぜうのゑんとこそ聞
本社熊野権現、御本地仏阿弥陀仏 恵心僧都作、御長三尺坐像 大師堂本社後の山二有、右衛門三郎大師の御鉢を砕きし所ゆえに鉢久保谷といふ,
八坂寺 四国遍礼名所図会1800年
八坂寺 四国遍礼名所図会
挿絵を見ておきましょう。
石段を上った先に山門はなく、垣根で囲ったた平場があって、その中央奥に、入母屋造の鐘楼堂があります。さらに石段を上った石垣上の平場ある瓦葺で宝形の建物が大師堂、その横のひときわ大きな茅葺入母屋造建物が熊野権現社。その間に層塔などの石造物が並びます。熊野権現社を本社とし、本地仏を恵心作の阿弥陀仏とする神仏習合の様子が見えて来ます。
 ここで注意しておきたいのは、本堂がなくなって大師堂となっていることです。これをどう考えればいいのでしょうか。増加する遍路に対応して大師堂が建立されたが、財政的問題で本堂は作られなかったのでしょうか。そうだとすれば、当寺の住持にとっては本堂よりも大師堂の方が優先したことになります。
 またはじめて、右衛間三郎伝説の鉢久保が紹介され、挿絵にも描き込まれています。この伝説が一般に知られるようになるのは、この時期からのようです。新たな観光名所が「創造」されて、参拝客を呼び込む名所となっていくプロセスが見えてきます。

単行本(実用) <<地理・地誌・紀行>> 四国遍路道中雑誌 carnegiecycling.com.au

松浦武四郎の四国遍路紀行文である『四国遍路道中雑誌』(
天保7年(1836)には、次のように記されています。
田道しばし行而八坂村 門前三茶店有。門内茶堂有。丼二しゆろう堂等有。四十七番熊谷山妙見院八坂寺 従四十六番八丁。同郡八坂村。当山開基は弘法大師なれども、一度廃寺となりしを恵心僧都再建し給ひしとかや。本尊恵心の作の阿弥陀如来座像也。御長三尺、恵心僧都は大師入定後三百年なるよし。其こと寺の縁記〔起〕二委敷出たり。境内二 大師堂 并二 鎮守十二社権現との宮等有。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺 さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
しばらく行而門前二茶店有 止宿する二よろし。
       意訳変換しておくと
田んぼ道をしばらくいくと八坂村で、 門前に三軒茶店がある。門内にも茶堂があり、鐘楼堂がある。四十七番熊谷山妙見院八坂寺は、四十六番からは八丁の距離で、同郡八坂村にある。この寺の開基は弘法大師であるが、廃寺となていたのを恵心僧都が再建したと云う。本尊は恵心作の阿弥陀如来座像で、御長三尺。恵心僧都は、大師入定後三百年後の人である。それについては寺の縁記に詳しく述べられている。境内には、大師堂 并に 鎮守十二社権現などの宮がある。。
詠 花を見て歌よむ人は八坂寺さん佛じゃうの為んとこそ聞(け)
門前茶店があり、止宿もできる。

松浦武四郎は、開基を弘法大師、恵心僧都の再建としています。境内の建物については、大師堂、鎮守十二社権現には触れますが、本堂があったとは書いていません。他の史料からも、八坂寺の大師堂は19世紀初頭にはあったことが確認できます。これに対して熊野十二社権現や鎮守は必ず明記されています。神仏習合下の八坂寺の様子がうかがえます。
2013.7.7 石鎚神社先達会符 拝受 | 旅する石鎚信仰者

江戸時代後半の八坂寺の住持は、熊野先達としてよりも 石鎚山参拝の先達として重要な役割を果たすようになっていたようです。この時期の八坂神社の繁栄は、石鎚参拝ネットワークの先達としての立場からもたらされたことが分かってきました。これについては、また別の機会にお話しします。

明治以後の史料に書かれた八坂寺を見ていくことにします。
修験と関係の深く神仏混淆下にあった八坂寺では、明治の神仏分離や修験禁止令によって、大きな打撃を受けたことが推測できます。
「明治12年 寺院明細帳」(『松山市史料集』1985)には、八坂寺について、次のような建物が記されています。
愛媛県管下伊予国下浮穴郡浄瑠璃寺村寺字北浦
高野山金剛峯寺末 真言宗古義宗  八阪(坂)寺
一、本尊 妙見大菩薩
一、由緒 当山現見ハ樹木生茂り有ル所二、北辰妙見大菩薩降臨シマシゝテ、霊験新ナリ旧大(大)守小千伊予守従三位王興公ノ創建也、子時文武天皇勅願所卜勅アリ、四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右エ門三郎初発心ノ旧跡所也、亦大友旧城南ノ傍二阿弥陀ゲナルト字有之所二安置給フ、弥陀仏大師当山ヲ四国第四十七番霊場ニナシ本地仏二移伝ス、筆記有之也、
一、堂宇 長四間九合、横三間五合
一、前拝 長三間三合、横壱間弐合
一、サヤ橋 長壱間三合、横壱間
一、境内 弐百六拾壱坪        官有地
一、境内仏堂 弐宇
本地堂
本尊 阿弥陀如来
由来 不詳
建物 長四間九合、横四間六合
 大師堂
本尊 弘法大師
由来 不詳
建物 弐間四間
前拝 長壱間三合、横壱間
一、信徒 七百人
一、管轄庁迄 三里拾丁
以上

ここからは明治時代前期の八坂寺には本地堂、前拝のある大師堂の2棟があり、山門はなく、サヤ橋が架かっていたことが分かります。熊野鎮守社は神仏分離策で、本地堂となったようです。本尊は妙見大菩薩、本地堂の本尊は阿弥陀如来、大師堂には弘法大師像を安置されます。八坂寺は小千玉興の創建で、八ッ束右エ門三郎発心の旧跡としています。
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明治27年(1894)に官脇通赫の『伊予温故録』(松山向陽社発行)には、次のように記されています。
浄瑠璃寺村字北浦に在り熊谷山妙見院と云ふ。由緒に云ふ。越智玉興の創建にして八束右衛門三郎発心の旧跡なり。四国巡拝四十七番の札所たり。旧跡俗談に云ふ。古へは八王寺と号せし由。鎮守熊野十二社伽藍にて荏原郷は寺領なりしか、其の後焼失して断絶す。後ち又た再興し、修験相続して一世を経るいつの頃よりか八坂寺と改めたりと云ふ。越智王興創建、八束右衛門三郎発心旧跡地、俗談として修験寺院となり、
意訳変換しておくと
(八坂寺は)浄瑠璃寺村の北浦にあってあって、熊谷山妙見院と云う。由緒では、越智玉興の創建で八束右衛門三郎発心の旧跡と伝える。四国巡拝四十七番の札所である。。旧跡俗談には次のように伝える。古くは八王寺と号し、鎮守熊野十二社の伽藍で荏原郷は寺領であったが、その後に焼失して断絶した。再興された後は、修験者が相続して行く内に、いつの頃からか八坂寺と改められたと云う。

ここでは、もともとは熊野十二社が中心で、その別当寺が八王寺と呼ばれた。それが退転して、修験者による再建された後に、八坂寺と名前が変わったと記されていることを押さえておきます。
明治28年(1895)の得能通義による『古蹟遊覧 四國名所誌』には次のように記されています。
  ◎第四十七礼拝場八坂寺
同(浮穴)郡八坂にあり平地堂東向 ○詠歌
花を見て歌よむ人は八坂寺 さんぶつ浄の縁とこそきけ
熊野谷山妙見院と号す。役小角の創建にして散位乎致宿祢玉興、文武元丁酉年建立の伽藍なり。役行者八坂を切開き、道橋を造る道場なりと本尊阿弥陀仏は熊野権現の本地なるが故、弘法大師の安置し給ふに依て大師を中興とす。長元七年八月暴風起り、為に伽藍炎上灰儘す。今の本尊は恵心僧都の作なり。一遍上人自筆の三部経を収め給。奥の院は▲是より百丁高嶽あり。俗に御嶽と唱へ、霊験多き所なり。
  ◎熊野峯
浮穴郡久谷村にあり険祖なる高山にして其頂に三祠あり熊野権現降臨の垂跡なり。右に金剛蔵王権
現左に神饒速日命大小市命を祭れり麓の谷間に窪野あり。一遍上人修行の霊嶽なり。熊山の名称姦に始りぬと伊予旧跡砂に見る此寺昔時は八王寺とも言、此寺より西林寺迄一里其道筋に荏原町村中程ヘ七丁此村に右衛門三郎古跡八塚鉢窪等の遺跡あり。
ここには本尊の弥陀仏は熊野権現の本地仏としています。そしてあらたに、一遍自筆の三部経、奥の院の記事が書き加えられます。近世や近代に、始めて登場する内容は信用性に欠けることは、以前にお話ししました。
明治42(1909年9の『四国霊場名勝記』は、明治期に四国霊場を撮影した一番古い写真集になるようです。

八坂寺 明治
八坂寺 四国霊場名勝記(1909年)

左手前に手水舎、その向こうの石階段を登った正面に茅葺の建物、その左に瓦茸の建物が写っています。それぞれ熊野十二社権現社、大師堂のようです。明治後期の八坂寺境内の様子がわかる貴重な写真です。
大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』の写真を見ておきましょう。
八坂寺 大正10年
八坂寺の大師堂 大正10年『四国八十八ヶ所写真帖』
ここには切妻造向軒唐破風瓦葺の大師堂、茅葺十二社権現、瓦葺本堂の並びの写真が載せられています。

昭和11年(1936)の『四国霊場大観』には、八坂寺について次の3枚の捨身を掲載しています。
八坂寺本堂 1936年
八坂寺本堂(入母屋造瓦葺)
八坂寺文殊院本堂
衛門三郎旧跡文殊院本堂
八坂寺一二社権現
茅葺の十二社権現
最後に「先達経典』(四国八十八ケ所霊場会2006)の八坂寺についての記述を紹介して終わります。
現在、真言宗醍醐派で本尊は阿弥陀如来。開基は役行者小角。大宝元年(701)御詠歌は、
花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
浄瑠璃寺から北へ約1㎞近い八坂寺との間は田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、千三百年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697~707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、八ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁六年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942~1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野山八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に十二坊、末寺が四十八ヶ所と隆盛を極め、僧兵を抱えるほど栄えたが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが立ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約八千躯祀られている。

私が興味を抱いたポイントは
①熊野先達が早くから活動し、熊野十二社を勧進したこと
②その別当寺が八坂寺で、寺の中心は熊野十二社であったこと。
③そのため熊野十二社にくらべると本堂や大師堂は小さかったこと
④17世紀中頃の住持は、妻子持ちの山伏であったこと
⑤18世紀以降は、浄瑠璃寺に代わってこの地域の石鎚山信仰の中心的な役割を担い、先達として活躍する山伏でもあったこと。
⑥それが明治以後の山伏禁止令で、山伏色を消さざる得なくなったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年
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江戸時代の村々の動きを見ていると、山伏の動きが視野の中に入ってきます。盆踊りや風流踊り、雨乞い、獅子舞などを村に持込プロデユースしたのも、山伏だったようです。時には、神社の神主の役割も果たしています。村役人の庄屋さんの相談相手でもあったような感じもします。村々で山伏は、どんな役割を果たし、待遇を受けていたのかについて興味を持っています。そのような中で、宇和島藩での山伏について記した文章に出会いましたので紹介します。
テキストは「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」です 

宇和地方では山伏のことを「お山さん」と親しみを込めて呼んでいたようです。
それでは、宇和地方には、「お山さん」がどのくらい、どこに住んでいたのでしょうか。明治3年6月宇和島藩戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、宇和地帯における修験・山伏は、宇和島藩だけで880人になります。これは神官・僧侶の人数よりも修験・山伏の方が多かったようです。各村落における分布状況は、宇和島図書館蔵の「天保五年午二月津島組宗門人高」によると、山伏は家数112軒に1人の割でいたことが分かります。比較のために土佐を見ると、江戸時代の初めには250人、幕末には150人位の修験者がいたことが史料から分かります。宇和島藩のお隣の土佐幡多郡を見ると、修験者の数は
本山派の龍光院に属する40人
当山派の南光院に属する20人
です。土佐藩と比べると石高や人口からしても、宇和島藩の880人は非常に多いことになります。どうして、こんなに多くの修験者たちが村々にいたのでしょうか。山高く、海深い宇和地方では、自然崇拝に根ざした山岳信仰の信者が多かったとしても、その比率が高いように感じます。その背景を、研究者は次のように推察します。
①宇和地方は、密教系寺院が領主祈祷寺院として栄えたこと
②対岸の九州国東半島の六郷満山寺院群の影響を受けて、それに匹敵する仏教文化地帯となっていたこと
③中世以来、土佐からの熊野行者の流入が見られ、修験者文化が根付いていたこと
それでは、宇和地方の修験者たちが、どのような形で地域に定着し、根付いたのか、また何を生業にして生活していたのか、山岳信仰の布教方法はどんなものだったのかなどを見ていきます。

愛媛県日吉村(現 鬼北町) 上鍵山 日吉神社の祭り 牛鬼 五ツ鹿踊り 東雲写真館
鬼北町の日吉神社
最初は、鬼北町の日吉神社の別当を勤めていた金蔵院です。
 日吉神社は、道の駅「日吉夢産地」の北1㎞ほどの小高い丘の上に鎮座します。日吉の氏神として古くからの信仰を集めてきた鎮守さんです。もともとの元宮は、下鍵山の大神山山腹にあったと伝えられます。大神山はこのエリアの交通の要衝であったようで、近世初めに日吉神社は、日吉の地に下りてきたようです。日吉神社の神主は、神社の下にある山本家で、屋号は宮本(ミヤモト)というようです。旧九月二十日秋の大祭のヨイ祭の夜には、神主の家で大神楽がう舞われます。そのためこの家は、床も天井も神楽堂式で高く、とりはずし自由という珍しい構造だったようです。
愛媛県 日吉村 牛鬼(うしおに) 2007.11.11 : すう写真館
日吉神社の牛鬼
 一方、別当職にあったのが金蔵院の松岡家でした。

つまり、日吉神社の神官は山本家、山伏は松岡家という関係だったようです。金剛院も神職の家と同じように、日吉神社の下にあったようです。
「天保十五年四月上鍵山村仏閣修験世代改帳」には、次のように記されています。
  一、堂一軒
    但一丈四方            
    天井仏壇前格子戸二枚 杉戸二枚
    後板囲芽葺           
    宝暦元(1751)年建之
中略
  一、本尊
   弘法大師 座像石仏・長一尺
   千手観音 立像木像・長八寸         ・
   不動明王 立像木仏・長五寸
   庚申立像石仏・長七寸
   鰐口 一個

さらに松岡正志氏所蔵の「松岡家系」による松岡家由緒には、次のように記されています。
 藤原秀郷御在関東之時常州松岡留廉洸其子孫相続住手彼地意外松岡為氏後年至元亀天正之間天下大乱於干戈之中松岡氏族悉敗当此時数氏之家譜等悉之失矣。于時長院志学之歳也。漂泊而来遊手当国惣拾弐器学修験号増長院住于下鎗山村里人其才器推之為村長不得止許之爰有芝氏女迎之室生三男子及老年遂於下鏑山村終士人呼其地長院家地云又呼墓基長院之伝墓跡今猶在同村峠云所
意訳変換しておくと
 藤原秀郷が関東を支配していた頃、常州松岡には廉洸やその子孫がいて、その地を支配相続してきた。元亀・天正年間になって天下大乱となり、松岡一族は戦乱の中で敗者となり、家は途絶えた。この時に長院は十歳を超えたばかりであった。漂泊・来遊し修験者となった長院は、修行のために当地の下鎗山村にやってきた。里人は彼の才器を見て村長になることを求め、長院はこれを受けた。こうして長院は芝氏の娘を嫁に迎え、三男子を得た。老年になっては下鏑山村の終士人と呼ばれた。そして、この地は長院の土地と云われるようになった。長院の墓は今も村峠にあるという。

 ここからは、関東からやって来た修験者が村人に迎え入れられ、土地の有力者の娘を娶り、村の宗教的な指導者に成長していく過程が記されています。そして、次のような後継者の名前が記されます。
  元祖    昌院  年月日相知不 中侯                       
 二代実子 光鏡院  年月日相知不申候一
 三代実子 本復院  年月日相知不申候                        
 四代実子 大宝院  年月日同断
 五代実子 金蔵院安重 権大僧都大越家 延宝四(1677)年七月十九日滅
 六代実子 天勝院  官位同断 元禄十四年五月一日滅
 七代実子 金蔵院  官位右同断 享保五年一月十五日滅
 八代実子 天勝院大徳  官位右同断 元文元年七月十六日入峯 明和八年十月二十七日滅
 九代養子 光徳院安勝  官位右同断 寛延四年七月十六日入峯 寛政七年五月十八日滅
 十代実子卜大龍院安定  官位右同断 天明元年七月十六日入峯 寛政八年十一月二十七日滅
 十一代養子 光鏡院安隆  官位右同断 享和三年七月十六日入峯 嘉永六年六月二十四日滅
 なお十二代以降は他の資料によると次の通りである。
 十二代 天正院安経  天保十一年七月十三日入峯
 十三代 金蔵院安伝  万延元年七月十六日入峯 明治三十九年十一月八日滅
 十四代 真龍院安臭  大正三年一月二十日滅
ここからは松岡家が、金蔵院(鬼北町日吉)を守りながら17世紀末から大正期まで山伏を業としていたことが分かります。
 五代金蔵院安重は、権大僧都とあるので大峯に33度の峯入を果たしています。この地区の修験者(真言僧侶)の指導的な地位にあったことがうかがえます。その長男嘉右衛門は。母方の家系をつぎ上鍵山村庄屋職を勤めていますが、母方の姓芝氏を後に松岡姓に改めているようです。三男某は、吉田に移住して同じく松岡を名乗り、俗に吉田松岡を名乗り、吉田の名家となっています。
 日吉村の金蔵院が庄屋芝氏と縁故関係をもち、後には長男が芝氏を継いで、芝氏を松岡姓に改め、兄は庄屋職、弟は山伏職を世襲したことが金蔵院の史料から分かります。庄屋の家から嫁を貰うということからも、当時の山伏の社会的地位の高さがうかがえます。

外部からやってきたよそ者を、こんなふうに村の人たちはリスペクトを以て受けいれたのでしょうか?
  お隣の土佐は、遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。俗聖などの中にも土佐で、生を終える者も多かったようです。やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものがあります。また、熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしています。そのような影響が宇和にも及んでいて、熊野行者や高野聖など定着をリスペクトをもって迎え入れたとしておきましょう。


    次に法性院(旧城辺町字緑中大道 土居氏)を見てみましょう。
 一、大本山聖護院末 寛文三(1663)年正月十五旧 清徳開山             
 ニ、境内一三畝一歩  但年貢此高 一斗四升五合
 三、祈祷檀家 三百十二軒                            
 四、由緒 真宗寺末山称名寺は延宝年中廃寺となっていたが、本尊を智恵光寺に移したものを、後檀家の農夫市之助が一寺創立した。
 五、世代(城辺町真宝寺蔵過去帳による)                      
   龍泉寺殿前吏部良山常清大居士 寛永六年三月二十四日寂
   権大僧都清徳法印 享保六(1721)年七月二十八日
  同権大僧都海見法印 延享二年四月二十三日           
  同権大僧都義寛法印 宝暦十一年七月十五日
  同権大僧都義海法印 文化二年五月十四日
  同権大僧都義顕法印 天保三年九月一日
  同権大僧都義徳法印 安政五年十二月二日         
  同権大僧都法性院義快法印 明治三十一年十月九日
  同権小僧都法蔵院清胤 大正六年九月十五日
17世紀後半に開山された本山派の聖護院に属する山伏寺院のようです。320戸の檀家を持ちます。18世紀前半には権大僧都の位を得ているので、活発な修験活動が行われていたことがうかがえます。

観音岳(愛南町)再訪20191022 / KIRINさんの篠山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
観音岳(斗巍山)

 このお寺のあった御荘平野の北に、どっしりとした山容でそびえるのが観音岳(斗巍山)です。

この山は「北斗信仰」の霊山だったようです。その信仰を担っていたのが法性院を中心とした修験者たちで、御荘平野周辺では相当の信者を持っていたようです。法性院に伝わる「斗巍(観音岳)権現由来記」には、次のように記されています。
 抑此斗巍山ノ由来ヲタズヌレバ何レノ時 何ノ人乃開基卜云フコトヲ知ラ不。世俗二云フ戸木山モコヘ阿ルベケレドモトギノ音ヲ以ツラツラ考フル 爾斗巍ハ字茂ルシ如印トナレ。斗北斗ナリ。論給フ日北辰又大文志二日北極是也。
 巍ハ高キナリ。集韻二高ク大ナル見ヘリ。此峯二観世音ヲ安置シテトギ山一云フヲ以ツテ見口口、往昔開運ヲ祈ルニ此峯二北斗ヲ勧請シ奉ルニ北辰日星ノ擁護ヲ蒙ハ志願ヲ遂ケソナルベシ。北斗垂迫ノ感徳広大ナルヲ以ツテ御本地観世音菩薩ヲ安置シ奉ルナルベシ。
 経二日夕観世音菩薩威神シカ巍々如是卜。是ハ観音ノ威神カハ広大円満ナリテ無膜大悲心ナル義也。然ハ則北斗尊星ノ加護力与観音ノ大悲カト共二巍4トシテ広大ナル事斗巍ノ文字能ク当ルナルベシ。
 北斗星垂述アルヲ以ツテ権現ノ義亦可【口】因茲自今以後斗巍権現卜奉崇然シテ微運ノ人ハ正心滅意ニテ開運ヲ祈ラバ感応アルコト疑ナシ。尤感応ノ成否ハ信心ノ厚薄二依り利益ノ遅速ハ渇仰ノ浅深二従フ事ナレバ疎略ニシテ神仏ヲノ疑フベカラズ
 開運ヲ祈ル法
 何レノ処ノ人モ此ノ山ノ方二向ツテ毎朝早朝二清浄ノ水ニテ中水ヲ遣フ時
 開運印
定メ 大指ヲ伸恵ノ五指ヲ以ツテ左ノ大指ヲ握り指頭ヲ少シ出シ是ヲ北斗尊星ニナソラヘテ額二当テー心二販命北斗尊星予が運ヲ開カセ玉ヘト心ノ内ニテ至心二念ジテ左ノ掌ノ内二在ル滴ヲ戴テ嘗ル也已上
意訳変換しておくと
 斗巍山(観音岳)の由来については、いつ、だれが開山したかについては分からない。しかし、世間に伝わる話をつなぎ合わせて考えると「斗巍」という文字は「茂」という如印となる。これは「北斗」のことである。
 ある書には「北辰は北極也」と記されている。「巍」は高いことである。集韻には高くとは「大」とも見える。この高峯に観世音菩薩を安置して「巍山」と呼ぶ。往昔から開運を祈る時には、この峯に北斗を勧請して奉まつると北辰日星の加護を受けて、志願を遂げることができると云われる。北斗の感徳は広大であるので、本地観世音菩薩を安置するべし。
 2日後の夕に観世音菩薩は威神を巍々如是と発揮する。これは観音の威神で、広大円満で無膜大悲心である。さあ、北斗尊の加護力と観音の大悲カを共に受け、広大な斗巍の文字を受け止めるべし。
 北斗星の垂述が権現の来訪である。そして今ここから斗巍権現となって微運の人にも正心滅意に開運を祈れば効果疑いなしである。もっとも感応のあるなしは、信心の厚薄による。利益の遅速は渇仰の浅深によるものであれば、効果がないと神仏を疑ってはならない。
 開運を祈る法
 この山の方角に向かって、毎朝早朝に清められた水で中水を行うときに、開運印を決めておき大指を五指で左の大指を握り指頭を少し出して、これを北斗尊星になぞらえて額に当てー心に「北斗尊星よ 私が運を開かせたまえ」と心の内にで念じて、左の掌の中にある滴を戴くこと。以上

ここからは、当時の山伏達が北斗信仰を、どのようにひろげていったのかが分かります。夜空にかがやく北斗星と、その真下に高く大きくそびえる霊山・観音岳。霊山と観音信仰とを結びつけて、そこに「行とまじない」のスパイスを隠し味にして、民衆の信仰心を刺激した山伏達のやりかたはあざやかです。とくに「開運印」などという特殊な印を教えたことも民衆にとってはたまらなく魅力的におもえたでしょう。
天文編 | 知恵ブクロウ&amp;生きものハンドブック | シリーズ | ECOZZERIA 大丸有 サステイナブルポータル
最後に、旧一本松村で研究者が見つけた資料から、山伏の活躍を見ておきましょう。
歴メシを愉しむ(63)】&lt;br&gt;今年の「夏越の祓」~アマビエと鱧で疫病封じ | 丸ごと小泉武夫 食マガジン

 夏越祓は6月26日に行なわれていたようで、期日の入った夏越祓護符が残っています。また歯痛には揚枝守を出しています。これは揚枝守と朱印した護符内に、木製の揚枝を入れてあります。歯痛のときは、この揚枝で痛い歯をつつくと歯痛がとまるといって配布していたようです。諸病安産にも、守札を出しており、山伏たちは阿弥陀信仰も盛んに弘めていたことが推測できます。

旧城辺町の加古那山当山寺の記録には、次のように記されています。
    中用 庄や 又惣 あげ日まち事
  一、山日待
  一、家祈祷 二体分  蔵米引おこし 壱典
  一、ふま 六升六合
  一、札米 一斗二升
        (以下略)
    五人組 清八・幸助・五郎・伝六
     役人  団右衛門
     横目  孫左衛門
        永代売渡証文
   申年十一月 日
     僧都村 正応院
     同   五人組岩治郎
     甲子講御世話方

「あげ日待」「山日待」について、歴史事典には次のように記されています。
「御日待」のことで、前夜から身を清めて、寝ないで日の出を待って拝むこと。「まち」は元来神のそばにいることであったが、のち待つに転意した。日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもので、1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的。講を作り部落で共通の飲食をします。

これは庚申信仰とも重なり、庚申講として組織されることもあったようです。村々で行われていた、御日待や甲子講にも山伏たちは関わっていたことがこの史料からは分かります。
市民ハイキング 篠山 ( 1065m 高知県宿毛市・愛媛県愛南町) 2014年4月25日(金) 晴れ しらかわ 記 天気予報では一日中晴れ。  早朝5時30分に丸亀を出発。 松山自動車道、宇和島道路、R4を通り、篠山トンネルを抜けて直ぐ左折し、狭い車道を ...

篠山は、土佐と伊予の両方から信仰を集めていた霊山でした。

 旧一本松村正木では、篠山権現に6月1日から8月1日まで「篠山権現の日参詣り」といって毎日登拝していました。部落の中から交替で、毎日二人が五穀豊熟・家内安全のため登山します。大きな杓子をかついで行き、「ナンマイドーナンマイドー(南無阿弥陀仏)」唱えながらとリレーします。2ヶ月の期間中に、2~3回は廻ってきたようです。そして、最後の日の8月1日に当たった人は火縄をもって登り、篠山神社神官から火をもらい下山して、各部落に火を分けます。部落では、タイマツにその火をともし各家に分け、最後にタイマツを焼いて終りです。これを火送り行事といいます。
 城辺町緑では8月1日に二人組で代参して、篠山の火を貰って、その火で村中を松明を持って廻っていたと云います。篠山権現も山伏が管理運営していたのです。篠山
篠山稜線上の国境碑
  以上をまとめておくと 
①宇和藩には幕末には880人の山伏がいて、さまざまな宗教活動を行っていた。
②中には、吉野や熊野での修行を積んで修験者として高い地位にある者もいた。
③山伏として高位の位を持つ者は、村社などの神社の別当を勤め、村でも有力者になっていた。
④ある山伏寺では、観音岳を「北斗信仰」の聖地として霊山化し、多くの信者を得ていた。
⑤篠山権現は、宇和地方の人々を集めた霊山で、ここを管理していたのも山伏寺であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」
関連記事
参考文献 愛媛県史

 


 
三角寺(65番)さんかくじ | マイカーお遍路

 四国八十八ヶ所霊場第六十五番札所の三角寺(四国中央市)の文殊菩薩騎獅像には、胎内に「四国辺路」の言葉があるようです。この像は文禄二年(1592)造立なので、早い時期の四国辺路の字句になります。この像が造られた時期の三角寺や四国辺路を研究者は、どのように考えているのでしょうか見ていくことにします。テキストは「武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程所収」  です
1三角寺 文殊菩薩 胎内名

文殊菩薩像について、研究者は次のように報告します。
本像は獅子に来る文殊菩薩像、いわゆる騎獅文殊像で、像高八〇・センチメートル、獅子の高さ六八・二センチメートル、体長八八・四センチメートルである。まず像容をみると、頭部に宝冠(欠失)を戴き、右手を前に出し、何か(剣か)を握るようにし、左手も前に出して同じく何か(経巻か)を執るように造られ、右足を上に結珈践坐する。

三角寺 文殊菩薩騎獅子像
文殊菩薩騎像(三角寺)
上半身には条錦を着け、下半身には裳をまとうが、条錦を右肩に懸けており、着衣法は通例とは異なる

三角寺 文殊菩薩坐像の獅子像
騎獅文殊像の獅子像(三角寺)
獅子は四肢を伸ばし立つ。口を開け、大きく両日を見開き、頭部にはたて髪が表されている。文殊苦薩像の構造をみると、体部は前後に矧ぎ合わせ、これに両層から先を矧ぎつけるが、両手とも肘の部分で矧ぐ。頭部は差し首とし、面部の前面部を別材で矧ぎつけ限や日を彫る。膝前は横に一材としている。獅子は胴部、前脚部、後脚部、頭部の四つに大きく分けられる。
研究者は、文殊菩薩像・獅子ともに造形的にはあまりすぐれたものとはいえず、着衣法にも問題点があることなどから地元で造られた像とします。そして、専門の仏師の手によるものではなく、修験者などによって彫られたものと考えているようです。しかし、お宝は胎内から見つかりました。

三角寺 文殊菩薩騎 体内jpg
騎獅文殊像の胎内銘文

次に胎内から見つかった銘文を見てみましょう。
                              
丈殊像の胸部内側と膝部の底部に、次のような墨書を研究者は見つけます。
蓮花木三阿已巳さ□□名主城大夫
かすがい十六妻鳥の下彦―郎子の年
             同二親タメ
四国辺路之供養二如此山里諸旦那那勧進 殊辺路衆勤め候
(梵字)南無大聖文殊師利菩薩施主本願三角寺住仙乗慶(花押)    四十六歳申年
先師勢恵法印 道香妙法二親タメ也 此佐字始正月十六日来九月一日成就也。仏子者生国九州薩摩意乗院 其以後四国与州宇摩之郡東口法花寺
おの本                                佐意(花押)
  意訳変換しておくと
この像が造られたのは四国辺路の供養のためである。造立に当たっては、この里山(三角寺周辺地域?)の諸旦那が勧進した、特に辺路衆が関与した。施主本願は、 三角寺の僧である乗慶(四十六歳)で、先師の勢恵法印、道香妙法二親のためであり、正月に始めて9月1日に成就した。仏師は薩摩の意乗院の出身で、その後に伊予国宇摩郡東口の法花寺に住した佐意である。

ここからは次のようなことが分かります。
①この騎獅文殊像が四国辺路供養のために作れたこと
②寄進者は三角寺周辺の檀那たちで、辺路衆(修験者)が勧進活動を
行った。
③施主は三角寺住持の乗慶で、その師である勢恵と道香に奉納するものであった。
④仏師は最初は薩摩の意乗院で、その後は法花寺の佐意が引き継いだ。
③の「勢恵」は、新宮村の熊野神社の永禄5年(1562)の棟札(『新宮村誌』歴史・行政編1998年)に「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵修之」とみえます。ここからは、三角寺住持が新宮熊野神社の遷宮の導師を勤めていたことが分かります。銅山川流域では熊野信仰と三角寺が深い関わりを持っていたことを研究者は指摘します。

仏師の佐意が住持を勤めた法花寺は、現在はないようです。
しかし、三角寺の東麓ある浄土真宗東本願寺の西向山法花院正善寺の縁起には、次のようなことが記されています。

当寺開来之儀は、日向国延岡領、右近殿御内、山川刑部大輔五郎左工門国秀と申す者、永禄年中当地へ罷越し候節、同人檀檀寺の永蔵坊と中す者、秘仏を負い四州霊場順拝の発心にて、五郎左エ門と同道にて、自然当地に住居と相成り候て、右永蔵坊儀始めて当寺を取立て申候儀に御座候申し伝へ云々。

これを先ほどの胎内墨書と比べて見ると、次の点がよく似ていることに気づきます。
①仏師の佐意の出身地が「薩摩と日向」、建立した寺院が「法花院と法花寺」のちがいはありますが、
②三角寺に近いことや、四国辺路のことが書かれていて内容が似通っている
三角寺 文殊菩薩騎 体内墨書jpg

胎内銘の残り部分を見ておきましょう
阿巳代官六介  同寿延御取持日那     丑年四十一 如房
同奥院慶祐住持                同お宮六歳子年
同弟子中納・同少納吾五郎大夫
本願三角寺住呂    為現善安穏後生善処也
文禄二季 九月一日仏子佐意   六十二歳辰之年
ここには、奥院の住持慶祐や、その下には弟子の中納言・少納言が登場します。ここに出てくる奥院というのは、仙龍寺のことです。
以前にもお話したように、この仙龍寺は本来の行場に近く、古くから弘法人師の信仰がみられる所です。承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記』のなかにも詳しく記されていて、札所寺院ではありませんでしたが、四国辺路にとっては特に重要な寺であったようです。そのためか澄禅もわざわざここを訪れています。そして、ここでは念仏を唱えることはまかりならんと、山伏の住持から威圧されたことを記しています。ここからは澄禅が訪れた頃には、仙龍寺では他の霊場に先駆けて、「脱念仏運動」が展開していた気配が感じられます。

四国別格13番 仙龍寺

 仙龍寺の本尊である弘法人師像は、南北朝時代~室町時代にまで迎るものとされ、弘法大師が自ら彫刻したと伝えるにふさわしい像と研究者は指摘します。また弟子の名前として出てくる中納言・少納言という呼称も、いかにも山伏(修験者)らしい雰囲気です。仙龍寺が里の妻鳥修験集団の拠点であったことがうかがえます。
最後に文禄二年(1593)九月一日、仏子(師)佐意、六十三歳とあります。ここからは、この像が文禄二年の戦国時代末期に作られたことが分かります。秀吉が天下を統一し、朝鮮半島に兵を送り込んでいた時代になります。
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「四国辺路」という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代になってからです。

先例としては弘安年間(1278~)の醍醐寺文書や正応四年(1291)神奈川県八菅神社の碑伝があります。
室町時代後期になると次のような例が出てきます。
永正十年(1513) 讃岐国分寺の本尊落書
大永五年(1525) 伊予浄土寺の本尊厨子落書き
永禄十年(1567) 伊予石手寺の落書き
天正十九年(1591)土佐佐久礼の辺路成就碑
以上のように中世にまで遡れる「四国辺路」の例は、多くはありません。三角寺の文殊菩薩騎獅像は、これらに続くものになるようです。

 澄禅『四国辺路日記』の三角寺の項には、文殊菩薩騎獅像について何も記されていません。
しかし、澄禅より三十数年後の元禄二年(1689)刊の真念『四国遍礼霊場記」には
「もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢、竜王等種々の宮堂相並ぶときこへたり」

とあるので、かつては三角寺に文殊堂があったようです。この像は、その文殊堂に安置されていたことになります。では、どうして文殊菩薩は祀られたのかを研究者は考えます。今のところは、それを解く鍵は見つかっていないようです。ただ、この像が造られた16世紀後半は、秀吉の天下から家康の天下へとおおきく世の中が変わっていく時代です。そのようななかで、四国辺路もプロが行う修行的な辺路から、アマチュアが参加する遍路への転換期でした。「説経苅萱」「高野の巻」のように、四国辺路に関する縁起が作られ、功徳が説かれ始めた頃です。このような中での新たな取り組みの一環だったのではないかと研究者は考えているようです。
Ο χρήστης 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan στο Twitter:  "【忍性展】重要文化財「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」般若寺のご本尊に期間限定でお出ましいただきました!後醍醐天皇の護持僧、文観の発願による文殊像です。展示は8/11まで。  #鎌倉 #奈良 #仏像 ...
「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」重要文化財
いままで信仰してきた神や仏に変わって、新しい時代の神仏の登場が待ち望まれるようになります。それは、讃岐の金比羅(琴平)を、とりまく状況と変わらなかったのかも知れません。新たな「流行(はやり)神」の創出という庶民の期待に応じて、宥雅は金毘羅神を創造しました。それは当時の四国辺路をとりまく僧侶や修験者(山伏)の共通課題だったのかもしれません。
 世の中が安定してくる元禄時代になると、庶民が四国遍路にやって来るようになえいます。三角寺の文殊菩薩騎獅像がつくられるのは、その前史に位置づけられるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程

 岩屋寺 白山権現1
 
   どこの札所か分かるな?
と、若い頃にこの絵を見せられたときには、私には分かりませんでした。当時は四国遍路は一度は済ませていましたが、こんな霊場は見たことありませんでした。最初の霊場巡りは、朱印状を集めることが目的化していたこともあるのでしょうか、思い出せないのです。それもそのはずです。この光景は、普通に札所や遍路道を歩いていては見えてこない風景なのです。それは、行場(奥の院)の光景なのです
岩屋寺 上空写真

  ドローンから撮影した菅生岩屋(岩屋寺)の全貌になります。山中から突き出す三本の岩柱が確かに見えます。ロッククライマーの登攀意欲を刺激しそうな光景です。そう言えばロッククライマーと修験者は、指向が似ているのかもしれません。高く切り立つ峰を見ると登りたくて仕方なくなるようです。
  修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていたようです
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の間にあるのが「霊山」というイメージでしょうか。そして、神や仏は霊山の山上の空中や地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道(水が流れない断崖絶壁も瀧)
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったようです。
 そういう目で、この光景を見るとまさに霊山にふさわしいとこです。①や②がそろっています。そこによじ登り、天界への入口に近づくことが修行になります。ここにやって来た修験者たちは、これらの峰の頂上に置かれた祠を「捨身」し、命がけでめざしたのでしょう。

岩屋寺 白山権現拡大番号入り1

晩秋の空にそびえる三つの岩峰。デフォルメもありますが、こんな風に見えたのでしょう。
一番右が①白山権現を祀る岩峰です。その背後には横跛のように、②白雲がたなびきます。この雲は高野山(第二第四段)や熊野新宮・那智(第三第一段)などでてくるようです。研究者は
「一種の「瑞雲」で、この地が霊地・聖地であること示す指標の一つ」

と指摘します。
そそり立つとなりの岩峰の頂上にも、⑤小さな祠があります。朱塗りの柱と山裾の紅葉とマッチして彩りを添えます。その前に平伏する修験者がいます。
 樹木を見ると、強い風のためでしょうか、一方に変形しているようです。実際に見ないと書けない図柄です。詞書にあるように
「斗薮(煩悩をはらって修行に励むこと)の行者霊験を祈る」

にふさわしい聖地です。
 そこに頂上に向けて③はしごが掛けられています。急な梯子を上る修行は、命がけです。こうした荒行によって、山岳修行者は、飛ぶ鳥を祈り落とすほどの験力を得ると信じられていました。「やいば(すさまじい)の験者」の誕生です。今のアクションゲームで云うと、ダンジョンでボスキャラと戦うことによって、自分のエネルギーを増やして行くようなものかもしれません。
 はしごの下の④白装束の人たちは、伏し拝んでいるようにも見えます。荒行を行う人たちをスーパーマンとして崇めているようにも見えます
聖戒は、 一遍の菅生の岩屋参籠の目的が、「遁世の素意」を祈るところにあったと記します。
「遁世の素意」とは何でしょうか。それは、「衆生を利益せん」という「おもひ」(第一第四段)としておきましょう。そのためには自ら全国各地に足を運ばねばなりません。当然、強靱な体力と胆力が求められます。今で云う足腰と心のトレーニングが必要です。
 こうした修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとしたとしておきましょう。前回にお話しした土佐の女人仙人や空海はその良き先例だったのかもしれません。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得た研究者は考えているようです。
岩屋寺 白山権現はしご1

そうだとすれば、梯子を登っているのは 一遍と聖戒ということになります。
聖戒が登場するのは、修験者の修行には「付き人」が必要であったと前回お話しした通りです。詞書にも
「この時、聖戒ばかり随逐したてまつりて、閑伽(水)をくみて閑谷の月をになひ給へば、つま木をたづねて暮山(ぼざん)の雲をひろひなどして行化(ぎょうげ)をたすけたてまつる」

とあります。
もう一度、梯子を上る一遍と聖戒を見てみましょう。

岩屋寺と上黒岩岩陰遺跡 --- 巨石巡礼 |||

その姿や顔付きからすると、前が聖戒、後が一遍のようです。
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」展に行ってきました。 - 仏像ファン的古寺巡礼

しかし、両者のキャリアの相違からすれば、熟練者の一遍が先になって先導するのが普通なのではと思えてきます。聖戒は一遍の息子とも弟とも甥とも云われています。そして一遍の太宰府再訪につき従い、その後の信州善光寺参籠にも従っています。その時の絵柄は、一遍の後にしたがう姿でした。しかし、ここではなぜか聖戒が先です。穿った見方をするなら、聖戒は師の一遍を語りながら、実はさりげなく自分の立場を視覚的に印象づけようとしていたのかもしれないと思えたりもします。
 研究者の中には、聖戒を「ことさら消極的、控え目」な人柄とする人もいるようですが、そうとばかりには私には思えない所もあります。この絵図の立ち位置は、自身を一遍の念仏思想の伝法、後継者として位置づけているようにも私には見えます。
岩屋寺 白山権現2

   一遍絵図に、異界への入口とされそうな行場が至る所にみえます。行場と行場を結ぶ「行道」があり、修験者たちが「辺路修行」をしていたことがうかがえます。室戸岬のような所では、海岸に烏帽子岩のような岩や洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をします。その痕跡が海辺の霊場の奥の院には見られます。そのような回遊・周回的な行道がここにもあったようです。
 例えば、真ん中の峰の頂上の社の前には白装束の行者が、平伏して一心に祈っているような姿が見えます。その隣の頂きにも社があります。これにはそれぞれの神が祀られ、そこに毎日祈りを捧げる「千日行」的な行が行われていたと研究者は考えているようです。つまり、「一回お参りしたら、それでお終い」ではないのです。何日も参籠を繰り返す「行道」を行っていたのです。

岩屋寺 白山権現への鍵
白山権現行場への鍵

現在でも納経所に申し出てれば、せりわり禅定への扉の鍵を渡され、白山権現を祀る峰にはお参りすることができるようです。
岩屋寺 白山権現行場入口
 
門の右には「白山妙理大菩薩芹せり割行場」という看板がかかっています。この向こうが芹割です。
岩屋寺 白山権現芹割行場

   押しつぶされそうな狭い抜けて割りを抜けて行きます。まさに異界への入口の光景です。
「岩屋寺開山法華仙人が弘法大師に法力を見せんとして大岩石を割って通った跡」
とも伝えられているようです。

岩屋寺 白山権現鎖場1

   その先にはいくつかの鎖場が続き、最後に梯子がかけれています。
岩屋寺 白山権現行場はしご21

最後の階段は天空の異界に通じるはしごに見えました。
岩屋寺 白山権現社1

階段を登り切ると、白山大権現をお祀りする祠が見えてきます。
岩屋寺 白山権現上空から

一遍聖絵の社は、柱は朱塗りでしたが、今の社は白く輝いています。この白山権現の祠の前に 一遍も平伏し、称名念仏を唱え続けたのでしょう。ここが天界に一番近い入口ということになるのでしょうか。

 一遍のように、自己のために行を行う人たち以外に、他人のために行を行う修験者たちもいたようです。
神仏混淆の時代には、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師に権化して現れます。一つの決まつたかたちでは、民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身権化します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるようです。ある意味、仏も神も専業化が求められます。
 そういう中から「辺路修行」が生まれて、海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、神が代償に要求する方法は命がけの行なのです。
漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり21日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけて、豊漁が実現するのです。
しかし、それは誰もができるわけではありません。そこで登場してくるのが「代理祈願」です。本人に代わって、霊山に行って行を行い願掛けを行うのです。つまり、自分のための修行と同時に、プロの宗教者(修験者)が、霊験のある霊場にはやってきて何十日にもわたる「代理祈願」を行うようになります。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が行場に、お堂を開き、それがお寺に発展し、さらに里に下った由来をもつ札所がいくつもあります。岩屋寺と大宝寺の関係も奥の院と里寺(本寺)の関係のようです。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、断崖の峰を歩き、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そういう背景があったようです。
「遍路」のもとの言葉が、「辺路」だと研究者は考えるようになっています。
 四国でも紀伊・熊野同じように辺路修行が行われていました。そこに青年時代の空海がやってきて修行を行いました。そういう意味からすると、四国遍路は、弘法大師が歩いたところを歩くのだ、と単純には言えないのかもしれません。むしろ辺路という四国をめぐる古代宗教があって、その辺路を青年空海も歩いたと考えた方がよさそうな気がしてきます。
  一遍から段々離れて行ってしまいました。それだけ、この岩屋が魅力的な所なのだとしておきましょう。菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そこに、 一遍も身を投じたのです。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
長島尚道 一遍 読み解き事典 柏書房

信州の善光寺から帰った後のことを一遍聖絵は、次のように伝えます。
同年秋のころ、予州窪寺といふところに青苔緑羅の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す。四儀(行住坐臥)の勤行さはりなく、三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。彼の時、己心領解(独自のさとり)の法門とて、七言の頌(漢詩)をつくりて、本尊のかたはらのかきにかけたまへり。

ここからは、次のようなことが分かります。
①信州善光寺から帰った一遍は、文永八年(1271)の秋、窪寺(松山市窪野町北谷)に庵を構えた。
②「閑室」の東壁に、信州善光寺で書き写した「二河白道図」を本尊としてかけた。
③人々と交わることなく、 一人でもつぱら念仏を称える修行を行った。 
④四儀(行住坐臥)の勤行を、3年間行った。
⑤「十一不二頌」を作り、これを本尊である「二河白道図」の横にかけた。
一遍 窪寺1

窪寺は現在の四国霊場浄瑠璃寺の直ぐ近くにあったようです。その寺は今はなく、そこには石碑だけが残っています。ここはいまは彼岸花が有名で秋のシーズンには多くの人が訪れています。岩屋寺からの歩き遍路が、彼岸花に埋まった遍路道の坂を落ちていく姿は絵になります。
 一遍の父通広は、浮穴郡拝志郷別府(現重信町)の別府荘に所領があり「別所殿」とも呼ばれていたと云います。その別府荘の重信川を挟んだ対岸に窪寺はあります。
③には「交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す」とありますが、世俗とのなにかしらのつながりを私は感じてしまいます。
⑤の「十一不二頌」とは何でしょうか?
 一遍独自の安心の境地を表す文字だったようです。同時に「二河白道図」を頌(褒め歌)でもあった次のような語句だったようです。
「十劫正覚衆生界」
十劫という遥か昔に、法蔵菩薩が正しいさとりを得て阿弥陀仏になったのは、すべての人々を救い、極楽浄上に往生させるという本願を成就したからである。
「一念往生弥陀国」
人々は一度「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる。
「十一不二証無生」
十劫の昔に、法蔵菩薩がさとりを得て阿弥陀仏となったことと、今、人々が一度「南無阿弥陀仏」と称えて極楽浄土に往生することとは、時間を超越して同時であり、このことは生死を超えたさとりの世界を表している。
「国界平等坐大会」
一度の念仏によって、阿弥陀仏の極楽浄土とこの世は同じ(平等)になり、この世にあっても、人々は阿弥陀仏が教えを説く大会に坐ることができる。

こうして一遍は文永十年(1273)25歳のとき、「十一不二頌」に示される「己心領解(独自のさとり)の法門」に達します。そして、窪寺の閑室を後に、さらに石槌山系の奥深く分け入り、そこから岩屋寺(菅生の岩屋:愛媛県久万高原町)に向います。

一遍 窪寺2

一遍が称名念仏に専念した窪寺念仏堂跡には、次のような碑が建っています。
 身をすつる すつる心を すてつれば
 おもいなき世に すみそめの袖
                一遍
この句は、1280年(弘安3年)奥州の江刺の郡(岩手県北上市)に、一遍の祖父河野道信のお墓参りをしたときに詠んだといわれるものです。河野通信は、承久の乱(1221年)で破れ、奥州平泉に流されて亡くなっていました。その時の供来讃歌です。

なぜ 一遍は修行の場として「菅生の岩屋」を選んだのでしょうか?
  それは、一遍が空海を崇敬していたからでしょう。そのために「弘法人師練行の古跡」である岩屋寺を選んだと私は考えています。「遁世の素意」を祈り、大師の導きにより法界に入るためだったとしておきましょう。ここに入ったのは七月、聖戒の助けを得て、翌年早々まで約半年間ここで修行し、本尊不動のもとで正覚を得ることができたいいます。
 『一遍聖絵』の「菅生の岩屋」の記述のうち、後半の「仙人練行の古跡」は岩屋寺の縁起になっています。
そこには菅生の岩屋と桜にまつわる縁起も記されています。
  この御堂に廂をさしそへたりけるほどに、炎上の事ありけるに、本堂はやけずして、後の廂ばかり焼けにけり。其の後、又、回禄あり。同舎ことごとく灰燼となるに、本尊ならびに三種宝物はともにとびいで給ひて、まへなる桜の木にのぼり給へり。又、次に炎上ありけるに、本尊は又とびいで給ひて、同木にまします。御堂は焼けにけり。三種宝物は灰燼の中にのこりて、やけたる物とも見えず。鐘・錫杖のひびき、昔にかはる事なかりけり。此の桜木は、本尊出現し給ひし時
の朽木の、ふたたび生え出て枝さし花さける木なり。されば、仏法最初の伽藍、霊験希有の本尊なり。
意訳しておくと 
 この洞窟の御堂に廂(ひさし)を指して木造建物にしたところ何度も火災にあった。しかし、本堂は燃えず、廂は焼失してしまった。その後、修復したが、今度はことごとく灰燼となった。それでも、本尊や三種宝物は洞窟から飛び出して、前の桜の木に登って難を避けた。
 又、次に炎が上があった時も、本尊は桜の木にとびのいて難を避けたが御堂は焼けた。三種宝物は灰燼から出てきたが、焼けたようには見えなかった。鐘・錫杖の響きは、昔に変わることがなかった。この桜木は、本尊が現れたときに古木が枯れたものが、ふたたび生え出て枝を伸ばし花を咲かせるようになったものである。まさに、霊験あらたかな本尊といえよう。
 
ここからは、岩屋寺の神木は桜だということがうかがえます。
前回に時衆と桜の関係について触れ、浄土教の広まりと同じように、桜も広く親しみのあるものになっていくことを次のようにお話ししました。
①桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、西行は、臨終の際、桜の歌を詠んでいること。
②役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになること
③源信の『往生要集』に基づいた浄土教が絵画化され、生死の象徴としての桜が描かれるようになること
④社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、高野聖が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。
 こうして、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴になっていきます。この由来は、桜のシンボライズ化が岩屋寺にも浸透していたことをうかがわせます。
ここにやってきていた修行者達は、どんな人たちだったのでしょうか。
まず挙げられるのは、熊野や吉野のプロの修験者たちです。また、一遍のように空海を慕う高野山の念仏聖たちも多かったはずです。例えば西行も高野の念仏聖でいわゆる「高野聖(こうやのひじり)」です。彼は崇徳上皇の慰霊のために讃岐を訪れたと云われますが、その後は善通寺の五岳の我拝師山に庵を構えて、3年間の修行を行っています。そして、空海が「捨身」した行場に通っています。ここからは、当時の念仏聖たちも修験行を行っていたことが分かります。言い方を変えると念仏聖達は、阿弥陀信仰や浄土信仰を持つと同時に真言密教の実践者であり修験者だったのです。現在の私たちからすると、南無阿弥陀仏と修験者たちは、別物と分けて考えてしまいますが、それは非歴史的な見方のようです。それが当時の高野山の「流行」だったのです。高野山自体が浄土信仰の拠点となっていたようです。
 もう一つ確認しておきたいのは、ここにやって来ているのはプロの修験者たちであるということです。
  いまのお遍路さんのように、勤行して、お札をおさめて、朱印をもらって、去っていくというスタイルではありません。行場で何日間も修行を行うのです。あるときには行場から行場へと渡りながら周囲の行場を「辺路」したりもしています。この修行はひとりではできません。それを支える付き人が必要なのです。空海も付き人を従えての修行だった研究者は考えているようです。一遍も聖戒の支援を受けながら行場に入って行きます。

 菅生の岩屋の右から見ていきましょう
岩屋寺 仙人堂

右側には洞窟の②仙人堂と①不動堂(本堂)が断崖を背景に描かれています。修験者は小さな不動明王を守護神として、肌身離さず持ち歩いていました。行場では不動さまを目に見えるところに安置して、荒行を行ったとも云われます。そのため行場から発展した霊場の本尊は不動明王というのが相場のようです。この行場も修験者たちによって開かれたのでしょう。不動堂の上に、投入堂のように岩にはめ込まれたように建っているのが仙人堂です。ここは仙人窟という大きな洞窟の外側にお堂が作られています。中国敦煌の莫高窟の岩窟寺院のような構造です。不動堂と仙人堂は、はしごで結ばれているようです。

 この仙人堂の由来を 一遍絵図は、次のように記します。
 「仙人は又土佐国の女人なり。観音の効験をあふぎて、この巌窟にこもり、五障の女身を厭離して一乗妙典を読誦しけるが、法華三昧成就して飛行自在の依身をえたり。或時は普賢・文殊来現し、或時は地蔵・弥勒影護し給しによりて、彼影現尊にしたがひて、をのをの其所の名をあらはせり。
又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊崛あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。」
意訳しておくと
 仙人は土佐国の女人である。観音の効験あると聞いてこの巌窟に寵り、五障のある女身を捨てて、経典を読誦し修行に励み、法華三昧を成就して、自由に飛行することができるようになった。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている。又、ここにはその他にも四十九院の岩屋あり、父母が極楽を現した跡が残っている。33ケ霊窟は修験者がの行場である。
ここからは次のようなことが分かります。
①法華経を読誦して、法華経の行が完成させ、飛行術を身につけた女人の仙人がいた。
②仙人をす普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っているのが仙人堂であった
③四十九院は父母が極楽浄土へ渡ることを祈る阿弥陀信仰の霊場であった
④三十三霊場は修験者の行場であった
このように、この岩壁全体が霊地としてひとつの世界を形成していたようです。
岩屋寺 金剛界岩壁
 
「一遍聖絵」の詞書には三十三ケ所の霊岨」について、「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。ここからは、仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。
 これらの窟がある岩峰は金剛界とされていたようです。ここは岩壁で仙人窟以外にも阿弥陀窟や「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟が掘られ、当時は窟だらけの岩壁だったようで、よく見ていくと窟と窟をつなぐ道(はしご)があったと研究者は考えているようです。これを命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐる修行(行道)が行われていたようです。

さて、それではこの絵図の景観は現在のどこに当たるのでしょうか?
 まず全体図を上空から見ておきましょう。

岩屋寺 菅生の岩屋上空図
岩屋寺の金剛界と不動堂
絵図の②不動堂は①金剛界と呼ばれる岩壁の一番下に建っています。現在の岩屋寺の伽藍もその周辺にあります。そして、この岩壁に多くの窟が開かれていたことになります。その左側の岩稜が胎蔵界とされていたようです。
岩屋寺 不動堂
岩屋寺の不動堂
  下から見上げるとこんな景観になります。長年の風雨で窟そのものが崩れたりしていて、明瞭なものは少なくなっていますが、多くの窟がならんでいたことは写真からもうかがえます。
不動堂は、いまでも岩壁の下に建っています。
一遍絵図と同じ場所です。上の方には、目玉のように開けられて窟が2つ見えます。私は、あれが仙人窟かとおもったのですが、そうではないようです。それではどこにあるのでしょう?
 不動堂の奥にはしごが見えます。これを登ってたところが仙人窟のようです。 一遍絵図は、デフォルメがあるようです。

岩屋寺 不動堂3

 現在の不動堂から仙人窟へ続くはしごです。このはしごは自由に登れますので仙人窟へ上がることは出来ます。
一遍絵図を拡大して、もういちど見てみましょう。

岩屋寺 不動堂2

不動堂の中には二人の僧侶がいます。その顔付きから、手前が一遍、その向こうが聖戒のようです。机上に経典らしきものが置かれています。詞書には 一遍が聖戒に「経教を亀鏡(ききょう)として真宗の口決(くけつ)をさづけた」とありますので、その場面のようです。絵師は、聖戒の書いた詞書の内容を踏まえた上で作画していることが分かります。不動堂と、仙人となった土佐の女人像を安置する仙人堂との間には、道はありません。仙人は空を飛べるから必要がないのでしょうか。そんなことはありません。長い梯子がかけられています。そこを上っている人がいます。前の人が振り返って後の人を気遣っているようです。これが聖戒で、後が一遍のようです。一つの画面の中に同じ人物が何度も登場します。「巻物忍法!異時同図の術」です。ちがう時間の出来事が同一場面に収められています。

  菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そして、空海伝説が高野山から広がり出すと、修験者や念仏聖達もこの地を聖なる修行地として目指すようになったようです。そこに、 一遍も身を投じたのです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

2愛媛霊山 皿が嶺jpg

 久万町の皿ヶ嶺山頂には、竜神の池があり雨乞いの聖地となっていました。
松山市窪野町から皿ヶ嶺・井内峠を経て石鎚山に至る行者道には、三六王子の石像が置かれています。ここも熊野行者の行場の一つだったようです。上畑野川の宝作にある大岳・中岳・小岳・権現岳も霊山で、大岳には行者のこもったという洞穴、権現岳には石鎚権現が祀つられています。

 旧広田村の豊峰権現山(440m)は「西の石鎚」とも呼ばれます。
2愛媛霊山 豊峰権現山2

石鎚山をまねて「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」が付けられ、山頂に豊峰神社(蔵王権現)が祀られています。石鎚信仰の行者たちが講員を組織して、地元につくた行場ゲレンデのようです。近くの白糸の滝は、冬の「寒垢離」の行場となっています。ここは石鎚講の先達を務めた山伏たちの修行ゲレンデもあったようです。
 
1 熊野信仰 出石寺3

 長浜町の南にそびえる出石山(金山-820m)について、

『伊予温故録』は
「世人は此出石寺山を矢野々神山なりといふ説多し 元と此山も矢野郷の内にして往古は此山に神を祭りたる故に矢野々神山とは稱せしなるへし 後ちには神祭も衰へ社殿も朽ち果てたる折柄 佛法の盛んなる世となり遂ひに此寺を建立する。」
意訳すると
「この山は、かつては矢野々神山と呼ばれていたという。矢野郷の神を祭っていいたので矢野々神山と云われたが、次第に神祭も衰へ社殿も朽ち果てた。仏教が盛んなる世となり、ここに寺院が建立されるに至ったという。

 この山も、もともとは霊山であったところへ、真言密教の修験者がやってきて出石寺が建立されたようです。そして山名も矢野々神山から出石寺山へと代わったようです。

1 熊野信仰 出石寺1

 この寺のもう一つの由来は、『宇和旧記』所収の「出石寺縁起」で、
養老年間に磯崎浦(現保内町)のひとりの漁師(翁)が、突然大地からわきでた千手観音、地蔵菩薩の像を見つけて、出石寺を創建したとというものです。また弘法大師修行の地ともされ、出石寺は信仰の霊域として山上に大伽藍を擁するようになります。

  なぜ、こんな山の上に寺院が建立されたのでしょうか。
①古代以来の霊山で、庶民の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝であること。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったようです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
1 熊野信仰 出石寺2

 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。

 出石寺の観音様の縁日は、四月と八月の一八日でした。
出石寺の望める地の人たちは、出石講を作って多くの人がお参りしたようです。大洲地方には
「おすなや つくなや おいづし詣りのべんとがしゃげらや 梅ぼしはだかで 飛び出さや」

というの民謡があるそうです。お弁当持参で人々は山を登ってきましたが、大洲市上須戒の打越部落の人は、やってくる参拝客に湯茶・杖・草履の接待をしました。
 
南予の山の名で多いのは、権現山です。
地図を見ると、南予には至る所に「権現山」が見えます。それだけ山伏たちの活動が活発であったことを物語っているようです。霊山とされていた権現山を列挙しておきます。
① 大洲市の神南山は古来、神南備山(かんなび)ともいい、文字どおり神の鎮座する霊山とされてきたようです。霊山は、修験者の行場となり、山岳寺院が現れ山岳信仰の拠点となっていきます。
② 大洲市森山の拝竜権現は、毎年三月三日に人身御供をしなければ、村にタタリをなすと伝えられます。
② 八幡浜市向灘地区の権現山(364m)は、天明六年(1786)に石鎚権現を勧請した西石鎚神社があり、雨乞いに霊験があるとされます。
④ 瀬戸町三机丸山の権現山(360m)にも蔵王権現の分霊を祀る石鎚神社があります。
⑤ 宇和町田之筋の大判山も石鎚権現を祀ります。
7月1日山麓にある窪部落の人々は、酒一升と煮豆を持って山頂に登り、石鎚権現を拝んでおこもりする。この大判山には、天狗が住み、月の1・15・28日に登ると難にあうといわれます。
⑥ 宇和島市の薬師谷奥の権現山に山高神社(大山積命、須之男命など合祀)があり、かつて麓の薬師谷の岩戸滝あたりで禊ぎをして登ってきたようです。宇和島市には大浦の権現山や三浦半島にも権現山があります。
⑦三浦半島の権現山(489m)は、嶽山とか嶽権現ともいい、その山頂に嶽神社が祀られます。
1 熊野信仰 三浦半島嶽神社

もともとは、明星寺と呼ばれていたようです。
貞和二年(1346)、九州の英彦山から一宮が電光のように飛来し、梨浦保福寺に入ったと寛永11年(1634)の棟札の裏に記されています。九州の修験道場英彦山の修験者たちの布教活動の跡がうかがえます。海を通じて、九州からの修験者も入り込んできているようです。
 一方、ここでも平家の落人伝説としてのオタケジョロの伝承があります。嶽山の祭りは今は廃れましたが、「嶽相撲」は近年まで残っていました。ふもとにある三浦大内、下波結出、津島町北灘国永の三地区が毎年、会場を廻り持ちで準備し、旧正月に開かれていたと云います。近世には、周辺の漁師達が漁事祈祷などを嶽山で盛んに行ったようです。漁師達にとって、この山は「山立て」でもあったのす。その祈祷を行っていたのが修験者(山伏)たちだったのでしょう。
 西海半島にも権現山がそびえています。この山には大蛇とか角のない山牛という怪獣が棲むと伝えられます。この山も漁民の霊山です。

 四国西南地域の山岳信仰のメッカは、篠山権現のようです
1 熊野信仰 篠山1

1065mの篠山にある篠山神社・観世音寺(現在廃寺)には、鰐口鐘の銘が伝わっています。そこには正長~応仁の年号があって、篠山信仰が中世からのものであることが分かります。
 伽藍開基記には「山上設(二)熊野三所権現廟(一)」

とあります。麓の正木御在所登山口の石燈籠に「篠山三所大権現」と刻まれているので、熊野系の山岳信仰であったこと分かります。
1 熊野信仰 篠山2

 明治初年の神仏分離で廃止された観世音寺は、態野系山伏の拠点だったようです。一方、山頂の篠山権現は、正木村(現一本松町)庄屋の蕨岡家が神職を勤めていました。篠山権現は、別当寺の観世音寺が明治2年に廃寺となったあと、篠山神社(祭神は伊弉冉命・事解之男命・速玉之男命等)と称して存続します。
 篠山権現の創始伝承は、次のような話が伝わっています。
 あるとき、熊野権現の神火が飛来し、蕨岡家の庭の老樟に輝いたので、その神を篠山にお祀りした。その老樟に篠山に棲む天狗がきて、蕨岡家の当主助之丞をからかった。助之丞がおこり天狗の翼を射落として、隠した。こまった天狗は、翼と引き換えに永代庄屋の家を盗難から守るという約束をして山にかえったという。これから当家には盗賊が入らず。「戸たてず庄屋」と呼ばれるにいたった。

ここからは次のような事がうかがえます。
①「熊野権現の神火」「天狗」などから、熊野行者の活動が篠山方面まで及んでいた
②蕨岡家自体が熊野行者出身か、
③あるいは蕨岡家が熊野行者との密接な関係があり「先達ー檀那」関係にあった可能性
④篠山先住の天狗(地神)を退治して、熊野信仰が取って代わったこと。
ここには、天狗にみたてた篠山の修験者(山伏)と蕨岡家の交流のありさまが描かれています。
1 熊野信仰 篠32

この伝承については、次のような別の話もあるようです。
弘法大師が蕨岡家に滞留し篠山権現で修行を行った。長逗留になったので、大師のたびたびまたいだ敷居には大師の霊が宿った。そのためこの敷居をまたいで盗みに入るものはいない。そこで「戸たてず」となった

 ここには、弘法大師伝説が付け加えられています。弘法大師が四国で流布されるようになるのは近世になってからです。四国遍路は、中世の修験者たちのプロの行場をつなぐ「辺路修行」から、近世の素人による札場巡りの四国巡礼に発展変化していきます。篠山も足摺から南予へ抜けていく四国遍路道のコースに入ったことによって、弘法大師一尊化の波が及んだことがうかがえます。

1 熊野信仰 篠山6

篠山を地元の人たちは、オササゴンゲンと親しみを込めて呼びます。
火災除、盗難除、農作病除、漁業・海上の守護神として庶民の信仰を広く集めました。3・6・10月の各18日には「オササマツリ」が開かれ、多くの登拝者がやってきたようです。
3月は正木村の蕨岡氏と土佐の山北村庄屋が主催して、観世音寺を開帳します。(安政五年の田原明章の篠山紀行)。6月は、火縄で神火を持って帰り虫送りを行います。ふもとの正木地区では6月1日から2か月間は、輪番で二人ずつが篠山日参をし五穀豊穣を祈願していたといいます。10月は、花取り踊りが奉納されました。
 年末には蕨岡家から三升一臼の鏡餅とお神酒が神社に献上されたようです。
 篠山山麓では、石鎚山と同様に産の忌みが厳しく守られ、お産後12日間火を別にし、一般家人の立入りを禁止していたようです。10月に行われる花取り踊りの関係者も9日間、別火、水垢離を行って参加しています。修験の行場で管理体制がしっかりしていた篠山では、こうした忌みやタブー(禁忌)の伝承が濃くまといついているようです。

赤星山のウマシ(美し)美
里から見る赤星山

 伊予の瀬戸内海から見える霊山は、水神・竜神や農業神を祀る山岳信仰の対象となっていることが多いようです。これに対して南予地域の宇和海側は、漁場から目印(アテという)となるべき山々に、山伏たちが熊野系や石鎚系などの権現サマを祀っていることが多いと研究者は指摘します。以前に石鎚信仰についてはお話しましたので、石鎚以外の霊山を東から見ていくことにしましょう。
  霊山巡礼に出かける前に、霊山とはどんなところなのかを確認しておきましょう。
山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
 漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。これは山が航海の目標になったからです。このように里や船から姿を仰ぎ見える山は霊山として、古代から信仰の対象になりました。そして、霊山は聖なるエリアの「不入山」で里人が普段は入れない山であったようです。そこに入ることを許されたのは、行場で修行を行う「聖(ひじり)」だけでした。

中世に成ると真言密教と山岳信仰が結びつき、修験者たちが行場を求めて山に入るようになります。
彼らにとって霊山は、天上や地下にあるとされた「聖地への入口=関門」でした。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、地下にいるとされました。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝
これらは天界への道とされました。一方、地下の聖界への入口は
④奈落の底まで通じるかと思われる火口や断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞、風穴
このような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、人々におそれられてきた所です。ところが修験者たちは、こんな場所を行場としました。なぜならここが聖域への関門であり、異界への入口だったからです。
 聖界の入口には番人として、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などがいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。
 境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。そのような場所に分け入って、修行をおこなう修験者(山伏)は、人々から畏敬の念を持って見られたのです。 それでは東から伊予の霊山を見ていきましょう。

 東予地域の霊山
 瀬戸内海に面して中央構造線沿いに東西に伸びる法皇山脈・赤石山脈の盟主の山々は、古くから甘南備山として宇摩郡内の人たちの信仰対象となってきたようです。
2愛媛霊山 愛媛の霊山信仰No1 豊受山

 法皇山脈の一番東に位置する豊受山(1247m)は、オトイコサンと親しく呼ばれ、もとは豊岡山と呼んでいたようです。

この山は、その名の通り豊受姫(伊勢の外宮に祀る五穀の神)を祀っていて、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されてきました。もともとは、水神を祀り五穀豊穣を祈る山であったのが、伊勢信仰が近世に入ってきて「豊岡山 → 豊受姫」に山名が変えられたようです。祭儀を行う主が神社名や山名を変えるのは良くあることのようです。石鎚山や剣山という名前も近世になっての名前のようです。

2愛媛霊山 豊受神社
豊受山の豊受神社

しかし、祭礼や祈願する内容は代わりません。民衆にとって、神社の名前などはどうでも良いことだったのでしょう。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の二回は、小さな丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、豊作を祈り、感謝します。
2愛媛霊山 豊受山風穴
豊受山の風穴

この山の頂上の奥社の西側には、長さ65mもの風穴があります。ここからは夏でも冷たい風が吹き出しています。やまじ風はここから吹き出すと信じられ、そこに団子を投げ入れて風が吹き出ないように祈願しました。団子の数は、一年の日数と同じ365個が供えられました。これをホカイに納めて一荷とします。
 この風穴も先述したように「洞窟・風穴は地下の聖界への入口」です。修験者たちの行場であったことがうかがえます。以前は九州、中国地方からも、このやまに参拝者があったと云います。この山が見える宇摩郡内では西は土居町中村から、東は伊予三島市東寒川、南は同市富郷の広範囲にわたって、多数の氏子があり、参拝者も多く、七荷半もの供物があがったようです。
2愛媛霊山 赤星からの豊受山
赤石山から豊受山への稜線

 祭礼に、里の信者を山に導いてくるのは先達です。
彼らは里にいた山伏たちです。遠く九州や中国地方からも参拝者があったというのも、そこから信者を誘引してくる先達の存在があったからこそなのです。石鎚講のような組織があったことがうかがえます。

伊予三島市史には、次のような「豊受さんと翠波様の伝説」が紹介されています。
豊受山に坐す豊受姫は、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されていた。東の翠波峰には、水波之女神がお住まいになり、水の神さまとして信仰されていた。豊受山には里の人たちが夏と秋に登り、盛大なお祭をして参拝者が後を絶たなかったが、翠波峰は旱のときに雨乞祭をするほかは参拝者がなかった。翠波峰の神さまは何かと寂しくなり、作物が良く出来ているのは私が水を授けているからなので、私の方が力があるのにと、豊受山の後ろの穴の風の神に話をした。
それを伝え聞いた豊受の神は、寒川から西の方ではたくさんの谷川が流れていて、翠波の神に世話になることなどない、とご立腹になり、それを翠波の神さまに申し入れた。そのため、お二人の仲は悪くなり、いつしか冷たい風が吹き始めた。
しかし、豊受山と翠波峰の中間の鷹取山に鷹取彦命という美男の神がおられ、お二方の対立を心配して仲裁されたので、女神たちは元のように仲良く暮らすようになった。
というハッピーエンドの話です。
しかし、これには別バージョンもあります。
それは豊受神と翠波神が戦い、豊受神は敗れ、焼き殺されたというのです。しかし、その時、豊受神は村中に雨を降らせたので、村人は亡くなった日を命日と定め、豊受山で雨乞いをしたと伝えられ、以来雨乞い踊りをすることになった、と「愛媛県の地名」に書かれているようです。こちらは、雨乞いの山として由来を伝えています。

 豊受山の西の赤星山では、明星の神を祀る祭礼が旧六月一日に行われていました。
カタクリ・ アケボノツツジ | nagiのブログ
赤星山頂手前の石祠
    山頂手前の石祠には、星の紋を付けた赤星大権現が祀られています。山岳信仰の修験者たちは、仏や菩薩が仮(=権)に姿を変えて日本の神として現れた姿を権現と呼び山の頂などに祀りました。権現が祀られてること自体が、山岳修行の行場であったことを示しています。
境内に祀る新仏像 | 九州石鎚大権現社公式サイト
石鎚蔵王権現

 伝説では、次のようにその由来が伝えられています。
宇摩郡の大領越智玉澄が大山祇神を勧請しようとしました。
しかし、やまじ風が吹き、船が遭難しそうになります。
その時に、この山の頂に星が輝き、海にその明かりが映ります。すると荒れた海が鎮まった。以来この山を赤星山、海を火映灘(燧灘)と呼ぶようになった

 法皇山系はやまじ風が吹き下ろし、沖行く船はこれに悩まされたようです。先ほど見た豊受山ににも風穴神社がありましたが、赤星大権現は風を鎮める神だったのでしょう。近世後半以後に金毘羅大権現が海の神様として「海難防止」の霊験を独占化するまでは、各地に航海安全を祈る山があったのです。

高縄半島の霊山には、熊野信仰の影響を受けた黒滝神社があります
2愛媛霊山 黒滝神社遙拝所
里の黒滝神社遙拝所

東三方ケ森(1233m)の峰つづき、東面する丹原町田滝の権現山にある黒滝神社は、戦争の弾丸除けとか徴兵除けの神として道前地方の人たちの密かな信仰を集めてきた山です。雨乞踊りとしての御簾踊りも伝わっています。この社に泊まると夜半に、笛、太鼓の音(カミカグラ)が聞こえてくると云います。

 この黒滝サンと石鎚サンが石の投げ比べをした話は、広く知られています
黒滝サンの投げた石は、石鎚山の頂上にまで届いたが、石鎚サンの投げた石は田滝まで(あるいは田野の綾延神社の馬場まで)しか達しなかった。

というのです。このような二つの山の争いが伝わる背景には、その山を霊山とする修験者たちの勢力争いが背景にあることが多いようです。黒滝神社の氏子である田滝の人は、石鎚山には登らないというしきたりが伝わっていたようです。近世以後の石鎚信仰と熊野信仰の対抗関係が反映した伝承と愛媛県史は記しています。

 熊野信仰は紀伊水軍の活躍と共に、古くから瀬戸内海沿岸に広がっています。大三島の大山祇神社にも中世には、熊野行者の活動が見られる事は以前にお話ししました。芸予諸島を拠点に高縄半島にも多くの熊野行者が入り込んで定着していたようです。

高縄半島の重信町山之内の雨滝龍神社は、雨乞の神として知られています。
雨滝龍神社 (愛媛県東温市山之内 神社 / 神社・寺) - グルコミ
もともとは明神ケ森の山上に鎮座していましたが文明四年(1472)に現在地に下りてきたと云います。ここも近くの俵飛山福見寺とともに熊野修験道の行場でした。

 玉川町の楢原(奈良原)山(1042m)も、修験道場でした。
楢原山・古権現山へ行こう!

  この山は、丹原の西山興隆寺と北条の高縄山を結ぶラインの中間ほどに位置します。丹原の興隆寺から、田滝の黒瀧神社と東三方ヶ森と楢原山を経由し、高縄寺に至る山道は、修験者の修行の道だったようです。山頂の奈良原神社は、もともとは古権現と呼ぶあたりに奈良原権現として鎮座していたと云います。

2愛媛霊山 楢原(奈良原)山jpg

 この山には長慶天星の潜行伝説があります
南朝の長慶天皇(後村上天皇の第一皇子)が、北朝軍に追われたときに、牛(黄牛)や馬に乗りついで千疋峠を越えて楢原山に落ち延びてきたと云うのです。熊野は南朝方について戦い敗れます。平家の武者伝説がるところには、不思議と熊野神社が勧進されています。
『愛媛面影』によると、
「嶺上に蔵王権現を祀り、牛馬を護らす神也とて農民信仰して詣人多し」
とあり、その神像は
「人間が牛に後向きに乗った姿」
「衣冠束帯を着けアベ牛の背に跨らせ給ふ」
という姿と伝えられます。この伝説から近世には「牛馬の守護神」としての農民たちの信仰を集めるようになったようです。
美人の湯と神秘の森をもつ楢原山で古をめぐる旅/愛媛県今治市 ...

この長慶天皇に係わる伝説は、山麓に住む木地師が各地で広めた伝承のようです。松山市の石手川流域の伝説には、落人が追手の目を欺くため牛の背に後向きで乗り、牛を後さがりに歩かせて、水ヶ峠方面から、楢原山へ逃げたという話もあるようです。
この山は蒼社川の水源で、山頂の手前には水分神社があります。
愛媛県今治市玉川-楢原山=奈良原山、鈍川温泉、 : 写真日記

これは奈良県の吉野水分神社を勧請してきたもので、水源の神として祀られたようです。この山は農業、牛馬、水源の神として高縄半島の農民の信仰をあつめ、雨乞い祈祷も山頂で行われてきました。
 別当をつとめた畑寺の光林寺の記録によると、楢原山は鎌倉時代から修験者の行場で、文保年間(1317~19)には、奈良原神社及びその傍らの蓮華寺(光林寺末寺・現在廃寺)には38人の行者が常住していたとされます。厳しい山岳修験道の霊山であったようです。同時に、高縄半島の森林資源を管理・所有する立場にあったことがうかがえます。中世の山岳寺院が広大な伽藍を整備できた経済力の背景は豊かな森林資源を持っていたからだと云われます。上方での戦乱で焼け落ちた寺院や街並みの復興に各地から切り出された木材が瀬戸内海を通じて運ばれていったのです。それを管理所有していたのが山岳寺院だったとしておきましょう。
  ここからは昭和9年(1934年)夏、雨乞いのために社殿周辺の清掃を行っていたところ、盛土が崩れ、開いた穴から二重の瓶に覆われた九輪の塔が出てきました。平安時代末期の全長71、5㎝.の銅宝塔で、他にも青白磁の小壺、銅鏡、中国の古銭などが出土しています。何らかの信仰行事の際に、埋められたものだと考えられています。これだけ貴重なものを大量に埋めて祈願する宗教的な力が、この寺にはあったことが分かります。

参考文献 愛媛県史
2愛媛霊山 奈良原神社経塚碑

     
3松尾峠1から

宇和島藩と小山関所
 土佐の西端の宿毛と伊予の国境に松尾峠があり、そこには土佐藩の松尾坂番所(宿毛口・松尾番所)と宇和島藩の小山番所が設置され、入出国者に目を光らせていました。天保7年(1836)に四国遍路をした武蔵国幡羅郡中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、小山番所の手続きについて次のように記しています。

「伊予国入口御番所、小山村二宇和島御城主御高十万石、伊達遠江守様御番所口上り切手往来御改、其上被仰渡候趣左二 辺路(遍路)道斗通べし、脇道ハ相成不申、当御領分日数七日限り、止宿ハ相対二而宿取、若し差支候節ハ村々庄屋へ相懸り、泊り可申長」

と、切手改めの上、脇道を通らずに遍路道のみを通行して7日以内に藩領内を通過するように申し渡されています。土佐藩と同じような規制があったようです。25日、彦兵衛は、この切手を東多田番所で差出しています。宇和島藩領内の通過に要したのは4日でした。

3松尾番所跡.32jpg


元縁10年(1697)8月の宇和島藩が東多田番所宛てに通達した「定」の第4項には、
「辺路(遍路)之儀ハ其所から之手形証文を改、槌成事二候ハヘ通可申事」
とあって、手形証文(切手)を検査して、確かであれば通行させよ命じています。ここには遍路の通行に関しては制限していないようです。ただ、第1項には、次のようにあります。
「番所之事、御領中江出入之者可為相改事二候、天下往還之旅人相留候事ニ無之候、然れども御領ハ往来之道筋と申二者無之候、若土佐国江相通由断候ハバ、道筋を承、小山樫谷之内へ通り手形遣可相通事」

ここからは、土佐へ行く一般の旅人には、「通り手形」(通行証・切手)を番所で発行していたようです。先ほど見た天保7年(1836)の野中彦兵衛の場合には、遍路にも切手を発行し、通行日数制限を行っていますから土佐に習って、幕末が近づくに従って遍路に対するも取り締まりが厳しくしなっていったことがうかがえます。

3小山番所跡
 同じ年に四国遍路を行ったのが松浦武四郎です。彼も
「東たゞ村、村端、番所、宇和島領是限り也。此處二而出入のものを改(め)り。
(中略)此領分廿一里を七日の内に通らざるものは陸奥ケ敷(ムツカシク)云う也」
と、「領内通過7日」とされていたことが記され、先ほどの史料内容を裏付けるものになっています。
3松尾番所跡2

 大洲藩の規制は? 
大洲藩に入ると、鳥坂番所があります。この番所はもとは鳥坂峠にありましたが天保年間に久保に移ってきます。先ほど見た野中彦兵衛や松浦武四郎も、この番所を通過したはずなのですが、彼らの記録には、一言も触れていません。大洲藩領には霊場札所は一か所もないので、「通過地点」という感じだったのでしょうか。
安永5年(1776)11月に藩が村役人心得として大洲藩が通達した書付写しの一部です。
(前略)
一、虚無僧其外廻国辺路(遍路)浪人体之旅人、従公儀被仰出候趣、猶又急度可相守事  
 附、村々により辺路(遍路)宿相究候事、延享二丑ノ年停止申触候得共、今以村により有之様二相聞候、向後急度差留候、間取り小百姓共不同無之様宿可申付事、
 はり札ニ、辺路定宿之儀、先年伺之上無拠聞届ケ置候村々ハ只今迄之通たるへき事
(後略)            (「上吾川宮内家文書」)
ここには領内の村々においては遍路宿を営むことは禁止していたはずだか、近年その筋の許可もなく勝手に遍路等の旅人に宿を提供する者がでてきているとようだ。延享2年(1745)に禁止されたことであり、重ねて禁止の旨を徹底するようにと命じています。なお許可済みの遍路宿については従前通りであると、小さな紙札に書かれてこの文書に貼り付けられていると記されています。
 封建時代は移動の自由も、営業活動の自由もありませんでしたから勝手に遍路宿を営むことも許されなかったようです。

3四国遍路道
  松山藩の遍路寛大策と道後温泉
鴇田峠(ひわだ)を境に大洲藩領から松山藩領久万山に入ります。
天保14年(1843)阿波名西郡上山村の前庄屋粟飯原権左衛門一行は、次のような通行切手を与えられていました。
   覚
遍路街道之外
久万山日数五日切
阿州名西郡上山村権左衛門十二人
         松山領久万山
   辰三月六日    改所 印

この文章は「不可入遍路街道之外」で「入るべからず」が省略されています。つまり、久万山の通過には、遍路道のほか脇道に入らないことと5日の日数制限があったことが分かります。
同じようなものには「松山領野間郡県村庄屋越智家史料』にもあります。この切手を発行した改所は『海南四州紀行』の一節に、「坂ヲ越テニ名二至り出店、即チ改役所ヲ兼貿」とあり、松山藩領に入る手前の浮穴郡二名村に改役所があったと記します。 なお、久万山とは、今は久万高原一帯を指し、古くは久万郷ともいい、大半は松山藩領でしたが、一部の二名村などは大洲藩領でした。

3松尾峠から2
 三(見)坂峠を越えて松山城下に近づきます。
四国遍路の記録を残した遍路達が必ず触れているのが道後温泉のことです。この温泉には遍路優待の定めが古くからあったようです。名湯と知られた道後に入れることは、長い旅をしてきた遍路達にとっては何よりの楽しみであったようです。
道後温泉郷に止宿する遍路の数は多かったようです。

3松山
 元禄15年(1702)編集の「玉の石」(道後最古の観光案内書、著者は僧曇海)には、
「四国遍路、七ヵ所参、三十三番じゅんれい、同行幾人にても勝手次第一宿するなり」

とあります。ここからは、四国遍路や七ヵ所参り、松山西国巡礼の人々には、道後で自由に一宿できる「特別待遇」があったようです。 遍路が優遇されたことについては、『伊予道後温泉略案内』(宝暦から明和年間〈1751~72〉には、
「遍路は3日間は湯銭いらず」
とあり、元禄5年(1692)の松山城下某の『四国遍路日記』にも
「遍路ハ三日でゆせんをとらず」
とあります。
江戸時代中期までは、四国遍路は3日までは湯銭が免除されていようです。「ただ風呂」だったのです。3日を越えての湯治になると「一まわり」(6日)24文、燈明銭12文を支払わねばならない規定です。
 ところが、幕末になってくると、この遍路に対する優待制度も終わります
明王院公布の定書には、次のように変化します。
「四国遍路や通りかかりの者は3日間に限って止宿湯治を許可、また遍路ののほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許す」
 ここには遍路でも身なりの良くない「遍路乞食」は「養生湯」のみの入浴に制限されるようになります。その背景には、四国遍路自体の「質的変化」があったようです。すなわち、職業的遍路や故郷のムラを追われる形で死出の旅路をたどる病気遍路の大量出現などです。これに対して、一般の湯治客からの苦情もあったようです。このころになると湯治宿と遍路宿の「差別化」も進み、遍路が一般旅館に泊まることは難しくなったことがうかがえます。

3道後温泉

 幕末の世情騒然の時期になると、松山藩でも遍路や旅人に対して警戒心を強めるようになります。 
 文久2年(1862)には、郡方への取り締まり心得の中で、
「遍路体穏成(たしかなる)者ハ宿致させ候共、村役人江申届取計可申」
とあり、遍路で確かな者には一宿を与えてよいが、必ず届け出するよう求めています。また、城下へのよそ者の立ち入りについても規制を強化しています。同年5月の布告では、他国からの長逗留者を取り締まることに加え、遍路については
「古来より御免之遍路道ハ遍路者止宿之儀、前々御法も有之候儀二付、猥ケ間敷(みだりがましき)儀無之様可致事」
と従来からの法を守るように求めます。 同じ年の6月には
「商人並びに遍路物真似師風之者共、猥二御城下徘徊為致間敷候」
と承認や遍路の城下での自由な活動を禁じます。そして
「無宿並に札取二無之遍路乞食之類者、直二追払可申事」
と、順拝納札をしない遍路風の乞食などは追い払うよう厳しく命じています。松山でも土佐と同じく「遍路乞食」が増えていたのを、幕末の混乱期になると危機意識から排外意識が高まり遍路排除の機運の方向へ動いたことが分かります。

4小松藩1

  小松藩の会所日記に記された四国遍路
伊予小松藩領1万石の「会所日記」は、色々な意味で貴重な資料です。小松藩は農村16か村、享保17年の人口が11,200人、推定戸数が2,570戸前後で、丸亀藩の支藩である多度津藩と同規模の藩です。

4小松藩2
小松藩の「会所日記」によっていろいろなことが分かってきました。例えば、ここには領民からの伊勢参りや四国遍路への参拝許可記録が残されています。それを見てみると
19世紀の40年間の小松藩の遠隔参詣者総数は5,593人でその内訳は、
伊勢参宮1,700
四国遍路1,925人、
厳島参詣1,835人
でこの三つで大部分をしめていること事が分かります。年平均140名程度がこれらの遠隔参拝に出ていたことになります。ところが、万延元年(1860)には、一人の参宮・遍路・厳島参りいません。これはどうしてでしょうか。たぶんうち続く不作で農村荒廃し、藩が「参詣禁止令」を出したと考えられます。
4小松藩3
四国遍路に出かける季節は?
 参詣時期については、宝暦の末(1764)までは、参宮・遍路は田植え後が多かったのですが、天保の初め(1830)になると、年初めと田植え後がほぼ並びます。それ以降幕末までは、年初に旅立つようになっています。田植え後から年初めへと旅立ちの時期が移動した理由は今のところ分かりません。
 農民は金毘羅参拝よりも四国遍路に出かける方が圧倒的に多かったようです。その時期は閑期に集中し、農繁期に激減するという季節的特徴があったようです。また、年によって増減があります。凶作等の場合は、藩の参詣統制が強化され、時には全面的禁止になる場合もあったようです。例えば享保17年(1732)、伊予は飢饉による大きな被害を受けますが、小松藩でもわずか1万石の小藩から仙人足らずの餓死者を出しています。人口の1/10にあたります。あった。飢饉のあった年の「会所日記」には、遠隔参詣者として一人の記載もありません。4年後になってやっよ一人の名前が記されるようになります。ここにも凶作・飢饉の影響がうかがえます。天保4年は(1833)は不作で米価が高騰した年ですが、翌年の参詣総数は77名と例年の半分になっています。
 これに対して、豊作後の文化9年(1812)には270余名を数える人たちが参拝願いを出しています。このように農民を中心とする近世の参詣は、作物の豊凶・農村の景況に強く左右されていたことが分かります。
4小松藩5

以上、伊予の各藩の遍路対応策を見てきましたが土佐藩に比べると寛容な感じがします。特に松山藩の道後温泉への「無料入湯」などは、他には見られない優遇策です。このため松山周辺には数多くの「遍路乞食」が「不法滞在」していたことがうかがえます。そして、幕末の対外的な緊張関係が高まると世の中は排外的な動きを強め、遍路に対しても排除・排斥の方向へ動き出していったことが分かります。

参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書

石鎚山お山開き6
   「お山迎え」 石鎚から帰って     
お山開きの山上での興奮を胸にして、講員達は里に帰ってきます。石鎚参りに行った人たちを、村の人たちはどのように迎えたのでしょうか。
石鎚講ではお山から帰ってくる人たちを迎えることを「お山迎え」といったそうです。
 まずは、出発するときに無事をお祈りした氏神やその他末社に、お礼参りをします。また村人の加持祈祷をして廻る事もあったようです。各地の事例を見てみましょう。
 今治市北新町などでは、石鎚登拝からもどるとその足でまず大浜八幡神社か吹揚神社に参拝しました。その後、浅川海岸で家族たちの出迎えを受けました。そこで「お山迎え」の酒盛りをして解散する習いだったようです。

石鎚山お山開き5
越智郡菊間町では、氏神加茂神社の秋祭のお供馬の鞍を付けた飾り馬で、今治まで出迎えたと云います。参拝者達が帰ってくることを知らせる法螺貝が鳴ると、村人も出迎え、一行からお加持(祈祷)をしてもらったり、土産をもらったと云います。
 石鎚登拝に門注連をして出発することは以前に述べましたが、帰ってくるとこれを取り外したようです。門注連を外さないと足の疲れがとれぬと伝えられました。
石鎚大権現2
 石鎚登拝者は村に帰ってくると、神社参拝にお礼参りをして、それから村内の祈祷をして廻っています。その際には、草履を脱がないで、そのまま座敷口から上がり、裏口に通り抜けると、家が清められ悪事災難を退散させると信じられていたようです。神社と、村周りの祈祷が終わった後で、酒宴をして解散するのが一般的でした。
 小部では、氏神に家族がご馳走を運び、ここで登拝者一同が酒盛りをしました。これを「精進落し」と云いました。伊予郡砥部町川井では、先達の家で「お別れ講」をしたといいます。
石鎚山蔵王権現5
以上、出発から帰村までをまとめてみると
 1 出発時に必ず氏神に参拝して行くこと。
 2 帰村時にも氏神に参拝し、村人の加持祈祷をして廻ること。
 3 特定の場所(親戚、神社、先達家、村境)まで食物を用意して出迎え、そこで共同飯食すること。

お山参りの効力は?
  修験者は加持祈祷によって、いろいろな願いを叶えられるパワーを持つ「天狗」というイメージを生み出してきました。しかし、そのパワーは里で暮らしていると次第に低下してきます。パワーを上げてレベルアップしていくためには、神聖な行場での修行が不可欠とされました。そこからは、行場から帰ってきたばかりの修験者が一番パワーポイントが高くて「成就力」もあると考えられるようになります。こうして江戸などでは、修行帰りの修験者が聖者視され「流行神」として崇められる例が数多く現れました。

石鎚山数珠1
このような風潮の中で、霊山石鎚に参拝登山してきた人たちにも霊力があると云われるようになります。
そのため登拝者を聖者として出迎え、里人がこれに跨いでもらったり、加持祈祷や家の清祓をしてもらったりするようになります。例えば登拝者がお山がけした草履にも呪力があるとされるようになります。その草履をはいたままで田の畦を踏んでもらうと作物がよくできるとか、オゴロ(もぐら)除けになる、種蒔きするとよいと伝わります。また草履で身痛いところを撫でたり、出入口に吊して悪病災難除けの呪物とした家もあるようです。面白いのは、お山に登った草履を履けば、水虫が治るという伝えまであるのです。

石鎚山修験者1
石鎚土産と呪物は?
 このように参拝登拝者や身につけていたものが効能があるとすれば、石鎚山の御札だけでなくありがたいお土産も買って帰ろうとするのは、自然の成り行きです。
石鎚土産としては、「お山柴」と「助け猿」が定番だったようです。
お山柴はシャクナゲのことで、登拝者は必ずこれを土産に持ち帰り、神札とともに竹に挾んで田畑に立てました。これが虫除けになります。家の出入口に吊すと魔除けになったようです。
石鎚山お土産お助猿
 助け猿
助け猿は、縫いぐるみの小猿で子どもの背につけたり、家の出入口に吊して災難除けとしたようです。伊予郡中川原では、男の子が生まれると、十五歳になれば登拝すると願掛けして、この猿を石鎚山より請けてもどり、願解きのときに倍にしてもどしていたといいます。ちなみに猿は石鎚山のお使いだと言う人もいます。
 お助猿は戦後になってもお土産として人気があったようで、石鎚山近くの学校に通っていた人の作文には
「その時期が近づくとお猿さんの形をしたお守りの『助け猿』をたくさん作って、小遣い稼ぎをしていた」
と書かれています。『病気が去る』とか『魔除け』として、買って帰る人が多かったようです。参拝した人々が、自分の腰に三つ、四つ、助け猿を付けて歩いているのを覚えていると云います
石鎚山朱印1
 また、当時の石鎚登山の拠点であった伊予小松駅周辺で戦後に売られていたお土産については、次のような記憶が書き留められています
 「お山開きのときには、駅前通りの店舗のほとんどが、土産物売場を設置していましたし、出店もたくさん並んでいたことを、よく憶えています。出店の前を通った男の子が、『おいちゃん、ニッケ(クスノキの樹皮を乾燥させてつくった飴)ちょうだい。』とねだっていた光景が思い出されます。

 漢方薬もお土産として売られていました。
 陀羅尼助とは、俗にオヤマダラスケとかダラスケと呼んで胃腸薬、強壮剤、痛みどめの漢方薬だったようです。黒っぽい塊で、修行僧が長ったらしい陀羅尼経文を読むときに、口に含んで睡魔を追い払ったところから言われだした名前だと云います。ここには、お寺や先達が漢方薬を作り販売していたことがうかがえます。そして、その漢方やニッケの材料を集め、お助猿を作っていたのは、今宮や黒川などの石鎚街道沿いの集落の人たちだったようです。
山伏信仰1
 山伏の中には、元禄期の別子山村に来た南光院快盛法印のように病人に薬草を施して治癒するものもいました。
 また、南予の一本松町では、歯の痛みに「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れたものを山伏が売っていました。歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるというのです。
 山伏がよく口にする呪文に「アビラウンケンソワカ」があります。久万町直瀬では、子どもが虫歯で泣くと、お婆ちゃんがまじないにいに
「秋風は冬の初めに吹くものよ、秋すぎて、冬の初めの下枯れの霜枯れ竹には虫の子もなしアビラウンケンソワカ」
とか呪文を唱えたようです。
 また、まむしが多い山に入るときには
「この山に錦まだらの虫おらば、奥山の乙姫に言い聞かすぞよ アビラウンケンソワカ」
という呪文もあったようです。何か、こんなのを聞いていると楽しくなってきます。物語の世界に入って行けそうです。
登山口となる石鎚神社本宮
  戦後になると、小松駅前で下山してきた修験者の中には札を売る者もいたようです。
「修験者は見物人の最前列にいた私に小さな木のお札を示して、『このお札を身に付けていると何が起こっても守ってくれる。』と言って、その木札をタオルで私の額に巻きつけました。そして突然『ヤーッ』と大きな気合いとともに手刀で私の頭を打つまねをしました。私はびっくりして身を縮めて固く目を閉じてしまいましたが、恐る恐る目を開けてタオルを取ってもらうと、額に挟んでいた小さな木札が真っ二つに割れていました。私が唖然としていると、修験者は、『お札があなたを守ったんですよ。』と言いました。見物していた大人たちは納得したのかどうか分かりませんが、お札はどんどん売れました
      以上のような聞き取りが残されています。「データベース『えひめの記憶』えひめ、昭和の記憶 (平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業) 第1章 昭和の町並みをたどる」より

1 石鎚信仰が石鎚講を通じて、そのネットワークを広げて信者を増大させていくシステムを確立したこと
2 明治の神仏分離の混乱を乗り越えて、大正期には予讃線開通もあり、より広くからの信者をあつめるようになったこと
3 地域に根ざした石鎚講は、宗教的な側面だけでなく社会的なボランテイア活動も行い地域を支えたこと
そんなことが見えてきました。 
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参考文献 森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚山と西国修験道所収
                                       

 


       
現在の黒瀬ダム周辺
           「伊豫之高根 石鎚山圖繪」(昭和9年発行)
 各地から集まった石鎚参拝をめざす講員は、里前神寺(現石鎚神社)や香園寺を基点にして、いろいろなルートで常住(成就)社をめざしました。どのルートをとっても最終的には西条川上流の河口(こうぐち)集落へと集まってきます。ロープウエイができるまでは、ここが登山バスの終点で、ここから成就社に向けて歩き始めました。
石鎚古道 今宮道と黒川宿の入口の河口
水祓所、三碧橋が架かる前の河口橋 ここが今宮道と黒川道のスタート地点
河口からは
  ①西条藩領である尾根を登る今宮道と(前神寺・極楽寺信徒)
  ②小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)
のどちらかをたどって常住(現在の成就社)に向かいました。
さて、お山開きに集まってきた参拝者たちは、どこに泊まったのでしょうか。
最初に見たように、12000人近くの参拝者が三日間で山頂を目指しているのです。宿泊所は成就にいくつかの宿坊があるだけです。 これを引き受けたのが「季節宿」だったようです。いわばお山開中の「民宿」です。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
 季節宿が開いたのは、今宮・黒川登山道筋の黒川と今宮部落です。
 各地からやってくる講中は泊まる宿を決めていて、毎年決まって定期的に訪れるので、宿の入口に講札を打ちつけて目印にしていました。宿になる民家は、有力者の家で石鎚参りの宿にふさわしく、間取りも三間並列型で、襖を取り払えば大広間に一変するような家でした。宿に到着した講中は、旅装を解くとオツトメにかかります。会符・鈴・法螺貝・数珠・もば(海藻)などを床の間(権現様を祀る)に置き、先達の唱導にて勤行をなし、その後に白衣を脱いで休息します。

石鎚山今宮3
今宮の大きな廃屋
 民宿は米持参で昔から「一山八合」といわれます。一泊して登拝をするに必用な分量です。一人四食分で一食1,5合で二合余ります。これが宿へのお礼米になりました。水田のない黒川や今川では、この余米が貴重でした。食事は一汁一菜の簡素なものだったようです。
石鎚山今宮2
 ちなみに、今宮・黒川の季節宿はその後も参拝者達を迎え続け栄えます。もっとも賑わった大正8年には今宮集落では、「全戸数36戸(人口178人)中,11軒の宿屋があった」とあり,小学校の分校もあったようです。そしてお山開き中の10日間に1万人を越える宿泊者があったといいます。
石鎚山黒川集落1
 私が最初に、この登山道を通ったときに、今宮は廃墟になっていました。そして不思議に思ったものです。こんな山の中に、どうしてこんな大きな家があったのだろう?と、
しかし、交通ルートの変更があった場合には沿線の商業施設は大きな影響を受けるのは、歴史が示すとおりです。東の川から成就へのロープウエイ開設が、人の流れを大きく変えました。歩いて成就を目指す参拝客は、ほとんどいなくなったのです。そして、今宮の家屋は自然に帰っています。
石鎚山お山開き2
江戸時代の石鎚山のお山開き お上りとお下りとは?
  お上りとは、冬の間、里前山寺に下りていた本尊の蔵王権現を頂上に上げるて開張することです。旧五月晦日に前神寺から仏像三鉢を唐櫃に納めて、成就社に遷します。そして翌日の朝に弥山に奉安するのです。このとき信者たちは、仏像を奪い合い熱狂的な信仰世界を山上に展開するのです。

蔵王権現
 石鎚の本尊だった蔵王権現

 仏像奉遷は道中奉行が差配しましたが、土佐の信者が供奉して行なうのが古式の慣行でした。また道中奉行は、石鉄山御用会符一号を所持する伊藤家(天徳院)が世襲していました。
 弥山に開帳された蔵王権現(石鎚権現)を前にして、大自然の中(天上に近い霊域)で、心ゆくまで加護を直接的に請けられるのです。信者にとっては、何にも代えがたい空間に身を置く喜びを感じる瞬間です。
石鎚山お山開き8
  お山開きの最終日のお下り行事(下山)は、仏像を弥山から本寺に遷す行事です。
仏像が里前神寺の山門に到着すると、長い参道に信者たちは土下座して「走り込み」を待ちます。仏像を納めた唐櫃が信者の頭上を通り抜けてゆくと、そのとき信者は合掌念仏をして、奉迎します。この前神寺お山開き行事は、形を変えながらも神仏分離後の石鎚神社に継承されているようです。
石鎚山お山開き4

「お上り」を体験した俳人の坂上羨鳥は、『花橘』に、次のように記しています。
一七日の精進清火の前行を修め奥前神寺(成就)に通夜
晦日は塔の禅定方百町斗南ノ嵩二行、高サ十六丈余の岩窟の塔、大師(空海)暫時祈玉ふて湧出となり。頂に苔むす諸木露にしやれ魔風昼夜をはかず。此外密所数多を詣る。
極楽を汲か岩洩る苔清水 羨鳥 
朔日前宵丑ノ刻、別当先達貴賤ともに白衣を着し、かけまくも縄の厚、続松手毎に燈、一同高音に御名を唱。空天に響、気も魂もそぞろくるはしく、木の根菅の根取付くなど所々の王子に読経。弥山間近き小笹原、夜明しとこそ云ル 岩戸原明を待って、ものいはじと臍る数十丈の鉄の鎖掌に冷て南無南無南無を観念せしは何にたとへん。
やんごとなく頂上に禅定宝殿御尊像を拝し、空澄渡る朝気色所々の山海雲下にミゆ。つみもむくいもただ消然たる心の底如意満足しかならむ。
此涼し現未新に無垢世界 羨鳥
 この文章を見ると、上りの前々日に成就の奧前神寺の宿坊に泊まっています。お上りに参加するためには、成就社の近くに前泊しなければならなかったのです。それが今宮や黒川の季節宿が繁盛した理由でした。
翌日は空海が修行した「塔の禅定」の下の「岩窟の塔」を訪れています。これが石鎚三十六王子のひとつでもある天柱金剛石のことでしょう。
石鎚山 天柱金剛石
言葉を添えて意訳してみると
「お上り」当日である。夜明け前、別当先達貴賤を問わず白衣を着た多くの信者が縄でつながれた本尊を高みへと誘っていく。暗闇の中、松明を持ち、高く真言を唱える声が、天空に響く。
気持ちが高揚し、魂が揺り動かされる。行く道の神木の根に鎮座する王子にその都度、読経しながら隊列は進む。
空が白み、弥山(石鎚)が間近に見えてくる笹原に出た。ここが夜明け峠だ。
そして、覆い被さるような岩稜に架けられた数十丈の鉄鎖を登る。手は冷やされるが、心は熱く南無南無南無」を唱えるのみ。この瞬間を何に喩えられようか
無事に安置された蔵王権現に祈念し、そして空澄み渡る朝の冷気の中から雲下に見える山海をながめる。罪も報いもただ消えゆき、心の底には満ち足りた思いで満たされる。
 羨鳥は熱心な仏教信者で深く仏道に帰依していたようです。石鎚登拝を「補陀落」と感じています。「雪解る高根の方か補陀落か」(『高根』元禄十四年刊)の句を残している事からも分かります。
石鎚山開山3

 石鎚山上の自然の「大劇場」で展開されるドラマは、非日常的で宗教的な情熱を沸き立たせるものだったのでしょう。この興奮と感激は忘れがたいものとなったはずです。だから、信者となり、そして先達として、この霊山に通い続ける人々を生み続けたのでしょう。
 こうして、石鎚は劇場化するとともに霊山としての神秘性を高めて云ったのかも知れません。
石鎚山お山開き9

次回は、石鎚参拝登山から帰った人たちを待っていたものは何かを見てみようと思います

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
絵図は「
旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

   
石鎚山お山開き

 霊峰石鎚山の山開きは、現在は七月一日から十日までの十日間です。
でも、もともとは旧暦の旧六月一日からの三日間だけでした。お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのです。それが江戸末期になって旧暦五月二十五日より六月三日まで十日間開くようになりました。

石鎚弥山
どうして「お山開き」の期間が延長されたのでしょうか?
 ペリーがやって来た4年後の安政四年(1857)六月三日の『小松藩会所日記』の記録に、
石鉄(石鎚)祭礼出役(中略)
参詣大夥敷、先は廿ヶ年来参詣と相唱候由。
五月廿五日四千五十人、其前後千人或は千五百人位、朔日二百人計、大凡一万二千五十人もこれあり。廿三日前にも少し登候趣、横峯寺も別条なく珍敷参詣人の趣、委細承之。
とあり、参拝者が大幅に増えていることが分かります。幕末のこの時期は、伊勢参りや金毘羅詣でも参拝者が急増して、それが「おかげまいり」へ暴走していく時流につながります。
 今までにないこの参拝登山客の急増に対応して、西条藩でも藩士を派遣して取締りと保安に当たらせています。しかし、その混雑ぶりは、お山のオーバーユース問題を引き起こします。この対応のために、山開きの期間を三日から十日に大幅に広げたようです。幕末には今までないほどの多くの人が山開きには石鎚を目指すようになっていたのです。
今回は石鎚参拝者の出発から帰宅までの動きを追ってみようと思います。

1石鎚山登山衣装
なぜ人々は、石鎚山を目指したのでしょうか。
 石鎚参拝は個人や家族で、登山するレクレーションではありませんでした。石鎚講という組織に属して、そのメンバーを先達(修験者)が引率・指導して行く集団登山でした。メンバーの中には毎回参加する人もいれば、初めて参加する少年もいました。

山伏装束1
どうして少年が参加したのでしょうか?
 「この山に登ったら一人前」と云われる霊山が各地にあります。村には若者組があって村祭りや芸能、公共事業などに奉仕しました。彼等は力石、俵持ちなどをして日頃から体力を鍛え、技量の練磨に励みました。それは「一人前」と云われるためでした。
 伊予では、石鎚登拝と四国遍路の体験が男一人前のひとつの前提条件になっていたようです。「石鎚は一度は来ても二度は来な」と云われ、村里では一度は体験すべき「山」と目されていたのです。


石鎚登拝は、普通十五歳が初山だったようです。
 親が出生のときに
「無事に育ちますように、元気に育てばお山にお参りさせます」
と願掛けしておいて、十五歳がくると「願ほどき」に登らせるケースが多かったと云われます。頂上の「のぞき」と呼ばれる岩場から断崖絶壁の谷を覗かせたり、宙吊りして誓約を誓わせたりすることが、石鎚でもかつては行なわれていたようです。この冒険的体験が「一人前の男」になれたような誇らしさを、そだてる契機になったのかもしれません。これに対し、四国遍路の体験は「世間を知って、見聞を広める」という「自己拡大」の方に意義があったようです。
 大峯山には、山からもどると洞川あたりで女遊びをし、若い精気を発散させる精進落しがありました。しかし、石鎚の場合はその気配は資料的には見えません。でもなかったともいえません。例えば新居浜市大島では、若衆組に加入すればまず石鎚をやり、ついで讃岐の金毘羅参りをして「女郎買いをしてもどると一人前」と見るふうがあったと云いますから・。
石鎚登坂
さて、今なら石鎚に登るのに、持って行くものを準備し、ザックに入れておけば前日の夜にビールを飲んでいても大丈夫です。しかし、霊山への参拝登山はそうはいきません。
まず、登拝者は7日前から「精進潔斎」をしなければなりません。
これは海、川などで沐浴して垢離(コリ=穢れ)をとり、魚肉を断ち、殺生を慎しみます。蚤や蚊も殺さないように気をつけたようです。海から遠い地域でも、出発前日は潮垢離(コリ)を行う所が多かったようです。この時には参加する人たちが連れ添って行き、帰りには海藻を持ち帰ったり、登拝の宴銭を清めてもどったりします。
石鎚の最古の文献『日本霊異記』は、
  「その山高く峙ちて、凡夫は登り到ることを得ず、ただ浄行の人のみ登りて居住す」
と記されています。「浄行の人」だけが登拝できる険阻高峻の霊峯なのです。不浄者は山の天狗に放られると信じられていました。
石鎚講2
 各地の石鎚登拝者の精進ぶりを見てみましょう。
八幡浜市川上地区では、氏神の社殿に寵って別火生活をしながら七日間の垢離をとりました。出発は夜半で、途中は婦女子に会わぬよう心掛けた。登拝中は家族も精進潔斎して家業の漁業も休業し、虫一匹も殺さず、もし万一組内や親類に不幸があってもお山参りがもどるまでは弔問もしなかったと云います。
 越智郡波方町小部地区の漁村地帯は、昔から石鎚信仰の篤い地域でした。
十五歳で初山を踏む少年は、二十一日間の精進生活を行ったと云います。座敷口の土間に白砂を敷き、門注連を立てて座敷に寵り、ここに竃を構えて別火し、かつ食事毎に一日三回の潮垢離をとります。

山伏信仰2
 温泉郡中島町では、満潮時の潮で清めた藁で注連縄をない、これを先達の家に張ったり、ある家に張ってそこにお龍りします。登拝中は家族の者が潮汲みをし、頂上に到着した頃を見計らって行をします。登拝者の家に門注連を張ることは各地に共通しているようです。今治付近には、登拝中の頃合いを見て、この注連竹を少し抜きかけにしたといいます。これをアシヤスメ(足休め)と云い、参拝中の当人の足が軽くなるというのです。
 頭髪をすくことも遠慮したようです。髪をすくと登拝者の弁当にそれが入っていたり、頭が疼くなったりするというのです。

石鎚大権現2
  また登拝中の豆いりはタブーになっていたようです。足に豆ができるというのが理由です。まるで洒落のようで、ここまでくると微笑ましくなります。
 出発前からの本人の精進も大変ですが、家にいる家族もそれを支えるためのタブーがいくつもあって大変です。別の見方をすると、個人でお山に登っているのではない、家族と一緒に登っているという強い連帯性が要求されていたようです。これらのタブーのひとつひとつを、初めて登る少年達は先達や先輩の講員から学んでいったのでしょう。厳しい緊張感が伴う参拝だったことが、私にも少しずつ分かってきました。これは、レクレーションでありません。
  さて石鎚講の参拝者が先ず目指したのは、先達の属する石鎚信仰の拠点寺院でした。
江戸時代には伊予側からは、前神寺と横峰寺がその拠点となっていました。

前神寺1
少し横道にそれて、前神寺について見ておきます。
  現在、四国霊場六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として独立寺院になっています。この寺は神仏分離前までは、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきました。
石鎚山お山開き7
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。それが石土大神の本地仏だったようです  

1成就社から石鎚山
  中社(奧前神寺)があったのが「常住」です。
今は成就と改名されています。中社は石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので「前神」と称するようになります。同時に、これが石鎚山別当職を確保する要因になります。前神寺は、もともとはここに成立したお寺ですが、後に里に下社を作り庫裡を移し、そちらを里前神寺と呼ぶようになります。

前神寺1
  下社(里前神寺)は、現在の石鎚神社本社の場所にありました。
ところが明治時代の神仏分離で、頂上に祀る蔵王権現が仏体であると否定され、明治8年(1875)に一辺の通達で廃寺とされます。そして、里前神寺の権現神殿が神社となったのが石鎚神社(下社)です。神仏分離・廃仏毀釈の嵐は「前神寺がスクラップ、石鎚神社がビルトアップ」という現象を、石鎚信仰の上にもたらしたことになります。
 前神寺は、その後の檀家による復興運動が功を奏して、末寺の医王院があった現在地に前寺の名称で再建が認められます。そして各地の先達達の支援・協力もあって、長い時間をかけて復興し再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍が建ち並ぶようになりました。伽藍は明治以後の建物と空間配置なので近代的な感じを受けます。それも、このお寺のたどった歴史の所以なのでしょう。

石鎚山お山開き3
   ちなみに里前神寺は、江戸時代も納経所でした。
 前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』には、ここにお参りした場合は、上(成就)まで登らなければいけない
と書いています。蔵王権現が前神寺の本尊なので、成就社まで行かないと参拝したことにはならない。前神寺は「庫裡」であった、本堂ではないという考え方があったようです。
 これが当時の霊場の実際の姿でした。江戸時代に入ってから、山岳信仰のお寺は本堂を建てて寺の体裁を整え、行場や山頂から庫裡は里に下りていきます。しかし、もともとはお山の上の権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていたのです。だから奥の院に参らなければ意味がないと考えられていたようです。そのため四国巡礼のお遍路さんも成就までは登る人が多かったようです。

蔵王権現
石鎚山頂に祀られていた蔵王権現  

さて、ふもとのお寺までやって来たところで今回は終了、お山への道はまた次回に・・
石鎚信仰3

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
                                       
 

 


 
石鎚山と石土山(瓶が森)
前回は笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の3つの霊山が開山され、それぞれのお山に権現が勧進され、それを里の別当寺が管理し、山岳信仰がそれぞれのエリアで展開される鼎立状態にあったことをお話ししました。しかし、中世から近世にいたる中で、他を圧倒するようになったのが石鎚だったのです。今回は、近世の石鎚信仰を見ていきたいと思います。
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 中世の石鎚山 役小角伝説が広がり
中世期になると、吉野や熊野では役小角伝説が広がり、彼を開祖にした修験集団が発展していくようになります。それに少し遅れて、地方の修験霊場も役小角やその門弟を祖とする「修行伝説」を生み出していくようになります。この結果、どこの修験者も開祖は役小角となってしまいます。
 鎌倉時代の「金峰山創草記」には、
役小角が仏法流布の地を求めて三本の蓮花を東に向って投じたところ、一本は伊与国石辻に、一本は大和国弥勒長に、残る一本は伯者国三徳山に落ちたとの「三徳山縁起」の伝承がのせられています。
こうして「伊与国」の石鎚山も、中央の修験集団の間では「役小角有縁の地」として受けとめられるようになります。また、石鎚山側もこれに応えるかのように、室町時代以降になると役小角が弟子の石仙などの案内で石鎚山を開いたとの伝承を広げるようになります。
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 中世の石鎚山に関しては、いくつかの遺物が知られています。
年代順にこれらをあげて見ると、
興国五年(1344)の銘のある前神寺梵鐘
建徳二年(1371)の銘文がある横峯寺鰐口
元中三年(1386)沙門亮賢が勧進して作製した「大般若経経函」
応永十四年(1407)福島真守が奉納した「石鉄山」の神額
今に残るのは「大般若経経函」(讃岐・水主神社所蔵)だけですが、十四世紀末には石鎚周辺では、修験者が活発な山岳信仰活動を行っていたことがうかがえます。
  室町時代末の文明九年(一四七七)の年号が入った石鎚山の弥山山上の御宝殿の扉の銘書には次のように記されています。
扉右側に願文として
啓白帰命頂礼蔵王権現、奉造立赤銅金繰之御宝倉 右依造立功徳 
金輪聖皇御願円満 国郡泰平庄内安穏真俗繁昌 
諸人快楽一切善願悉皆成就殊奉念願処如此、
于時文明九年丁酉三月十二日
大願主として、別当権少僧都良真 俗姓当国朝倉住人長井弾正忠之息男・大工・小工六の名称が記され、左側には「奉 遷宮導師吉祥寺住侶権少僧都円意」の他大檀那の源勝久・越智通直・同通春・同通生・同重秀・同通重・藤原久永・奉職 吉辰若・勧進聖の澄順・秀範・義通・宥円・円良・法印の慶通・広勢・基因の名が記されています。
 ここからは、別当の前神寺・良真の発願で、勧進聖や法印の努力と、領主の源(細川)勝久や越智(河野)通朧ら越智氏の一族などの保護のもとに宝殿を完成させたことが分かります。そして前神寺と近い関係にあった吉祥寺住職の手で遷宮の法要がいとなまれています。
  この頃に前神寺別当良真が、金剛蔵王権現を本尊とし、石仙を開祖にいただく、石鎚山の信仰を地元の有力者の保護を受けながら、協力関係にある寺院の手を借りて展開していたことがうかがえます。
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石鎚山は河野家の外護と別当前神寺の努力で繁栄していたようです。
 その後、前神寺は戦国末期の混乱をうまく乗り切り、寺領を維持していきます。そして、天正15年(1587)に新領主として入国してきた福島正則の信心を得る事に成功します。正則は深く石鎚権現を信仰し、前神寺に宿坊を建てて参拝したと伝えられます。さらに、慶長14年(1609)豊臣秀頼は、正則を普請奉行として常住に神殿を建立するのです。こうして、前神寺はどんでん返しが多発した戦国末期において「危機管理」に成功し、寺勢を伸ばすことになります。
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 近世の石鎚山
 江戸時代に入ると石鎚信仰は、西条藩の保護と別当前神寺の展開する積極的な布教が功を奏して広く庶民に広がって行くようになります。
 例えば西条藩の保護政策を挙げると
①明暦三年(1657) 藩主一柳直興による里前神寺の堂宇建立
②寛文十年(1670) 紀州藩徳川出身の松平頼純による石鎚山社への寄進状
③元禄八年(1695) 石鉄山別当前神寺に殺生禁断の制札
④吉宗以降の将軍家の祈願を石鉄山社と伊曾乃神社が行う決定
こうして権力者からの保護と寄進を受けて、寺社(ハードウエア)の整備が進みます。
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しかし、参拝者を増やすためには、ソフトウエアが必要でした。
当時の石鎚参拝は今と違って、個人でお参りするものではありません。中世の熊野詣でと同じで、先達が地域の信者達を伴って集団でやってくるというスタイルです。そのため先達達を増やす事が、参拝客増加の重要なポイントでした。石鎚信仰PRと石鎚講普及のために前神寺は、独自の「先達制度」を調えていきます。
 
前神寺に『先達所惣名帳 金色院』という記録が残されています。
延宝四年(1676)辰五月廿九日のものです。ここには、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名が記されています。前神寺は、ここに記録された先達所を拠点にして。地域の講組織を作り上げていったようです。これを「先達所分布図」にしてみるといろいろなことが見えてきます。

石鎚山先達分布図
明和六年の「先達惣名帳」に載っている各地の先達分布図からは次のようなことが分かります。
①この時点では、先達はほぼ伊予の国に限られています。
②道後が43、道前が22と道後の方が多くなっています。これは石鎚講が地元の西条よりも道後平野を拠点にして組織されたことを示しているようです。
③高縄半島に分布が少ないようです。これは、熊野行者の存在があって、彼らは石鎚には参拝しません。
④この先達所の分布は、後の安永九年の鎖奉納の先達や講中と一致する所が多いようです。これらの講から先達達が信者を連れて参拝にやって来るとともに、いろいろなものを寄進し、登山道なども整備されていったのでしょう。
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こうして石鎚山が世間に知られるようになると、延宝五年(1677)には、木喰が石鎚山に登って「夢想記」を書いて紹介したり、正徳三年(一七一三)に刊行された寺島良安の『和漢三才図会』にも石鎚山や里前神寺、横峯寺が紹介されるようになり、伊予以外からの参拝者達も増えてくるようになり、石鎚信仰はレベルアップしていきます。
石鎚修行の目玉でもある「大鎖」が講によって設置されるのも、この頃のようです。
安永八年(1779)弥山の大鎖が切れると翌年に、作りかえた時の記録が残っています。これによると、前神寺が勧進帳を出し、尾道で鎖を作り、4月に西条本陣にはこび、5月前神寺で銘をきざみ、5月5日に極楽寺、6月奥前神寺と運ばれ、開山にあわせて7月に山上にかけています。
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その銘文には、次のように刻まれています。
「奉再興石鉄山 大悲蔵王権現 御鎖大小二筋 
施主 予州松山城下弁道後七郡及諸国当山信心講中、
安永九年庚子二月吉日 石鉄山別当前神寺住持仁岳記」とあり、
奉納者の名前が続きます。
勧化頭取の予州松山三津浜俗先達の木地屋市左衛門・同和田屋信八郎、
御鎖用掛の予州松山城下大唐人町、河野平治右衛門、越智義篤、
世話人の唐人町講中、大先達の和気寺・得誉廓山居士の名前があげられ、
予州の松山城下・同三津浜、温泉・伊予・和気・久米・浮穴・風早・越智の各郡、予州久万山・芸州広島領、備後の尾道・福山・松永及び諸国の講中、
御鎖をあげる人夫の費用を寄付した予州新居郡O講中、
治工の尾道鍛冶町の佐渡屋七良兵衛の名が見えます。
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気になる事を挙げると
①山名は石鉄山で、祀られているのは大悲蔵王権現です。石鎚という文字はありません。「石鎚」が使われるのは神仏分離以後です。
②勧進頭取は地元の西条藩ではなく松山の三津浜の先達二人です。
③鎖を作った治工は尾道鍛冶町の職人です。それが舟で西条に運ばれています
④この時期になると伊予以外の芸州広島領、備後の尾道・福山・松永にからの講が拡大しています。
 ちなみに、鎖の掛かえに功労があった木地屋市左衛門は、その年に一番活躍した先達として「先達絵符」が与えられました。これが現在の先達絵符制度のはじまりと云われます。こうして、先達達の活動に報いると共に、先達のランキング制を調え競争心も刺激していくシステムに「改善」していきます。これは先達のやる気を育て、数を増やすことにもつながります。18世紀末には土佐、宇和、備前にも石鎚登拝の講が作られていきます。信者や講のエリアを広げているのは、その成果なのでしょう。
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   石鎚常夜灯について
讃岐の金毘羅大権現につながる旧金毘羅街道(伊予街道)を歩いていると「金・石」の文字が刻まれた常夜燈によく出会います。
「金」は金毘羅大権現、「石」は石鉄山の略記のようです。
石鎚講は、集めた資金で石鎚参拝だけでなく自分の住んでいる所に、石鎚山遥拝所や、常夜灯を建てるようになります。○石=「石鉄(鎚)山」と○金=金毘羅大権現を刻んだ常夜灯が金毘羅街道沿い増えていくのは18世紀末からです。今風に言うと石鎚参拝という「集団登山」の中で養われた信仰心や一体感、帰属意識を「地域貢献」のために活用していると言えるのかも知れません。石鎚講は、地域では積極的に社会ボランテイア活動も行っていたようです。
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 それでは石鎚講の地域での日常活動は?
毎月、集まり「月並祭」を行う講が多かったようです。その日は、宿元に集まり、オツトメ(勤行)して、会食します。
 松山市東野の石鎚講では、
昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していたそうです。その日は必ず入浴して集まることが決まりだったといいます。宿元の床の間に、不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをします。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和します。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰(下山の意)ります。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷します。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンだったようです。
 温泉郡重信町では、講員が常夜燈の場所に集まり、
石鎚山を遙拝の後で、組中を巡回してから当元で勤行していたといいます。そして各戸から米を集めて廻り、それで会食します。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあったようです。
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 伊予郡松前町中川原では12月に代参者と宿元を決めます。
宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつけます。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をします。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合します。宿元の家の入口では、口を漱いでから家に入ります。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて次の勤行を先達に従って行います。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝が吹き鳴らされたようです。
 広島県竹原市福本講中は石鎚講の古いスタイルを伝えるといいます。
 福本講中では、大祭中の石鎚登拝に先立ち、講員は講元宅に参集して「幟起し」の行事を行います。幟は一本で講元宅の庭に立てます。終わって直会があります。講中で石鎚登拝をするのを「マイリ講」といい、毎月の月並祭は「コウマワシ」と呼ぶようです。
 出発にあたっては精進料理で直会をします。この直会の席で、船のコースや潮流について講元・先達・元老格の三者で協議してコースの決定と舵取りを行う者を決めます。また出立に先立ち、講元宅で力餅をまきます。祭壇に蔵王権現、弘法大師、不動明王の三幅の掛軸をかけ、その前に供物や奉納品を供えます。この祭壇前で講員一同でハナガタメ(直会)をします。それは(石)印付きの箱膳にご馳走を並べた大盤振舞の直会だったようです。
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  このように石鎚講は「参拝登山」の一時的なものでなく、地元の講組織に属することで日常的な社会的・宗教活動も伴っていたことがわかります。
現在の四国霊場巡礼団のように知らない人たちが集まって一時的に形成されるものではなかったのです。また先達は「ツアーコンダクター」ではないということです。これは、中世の熊野詣の「檀那と先達」の関係に近い要素を残しています。「お客(参拝者)にサービスを提供する」というものではありません。どちらかというと「先達=導者」的で、師弟関係的な要素が多分にあったようです。
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 以上のように、前神寺は「先達所」を決定し、また村落の指導者層を俗先達に任命してそれに「講頭補任状」や「院号、袈裟補任状」を発行してきました。それは石鎚講の組織化を図るためでした。このソフトウエアがうまく機能したために、前神寺は石鎚講というソフトウエアを組織することによって他藩にまで布教拡大策が行えたようです。
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参考文献  森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚と西国修験道
  

 

                                     

   
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 瓶が森は、今では全面舗装されUFOロードを走れば、お手軽に行ける山になりました。
かつて、重いキスリングザックを背負い面河から石鎚に登り、土小屋から山肌を切り崩した林道に毒づきながら、ここまでたどり着いた時の印象は忘れられません。山頂の西側に広がる氷見(ひみ)二千石原は、天上の楽園のように思えました。緩やかなササ原が広がり、アクセント付けるように、ウラジロモミの林、白骨樹が点在し、かなたには石鎚の姿がドーンと見えます。笹野原の中に幕営し、石鎚に落ちる夕日をながめた記憶は忘れがたいものでした。
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瓶が森からの石鎚

 この時に、子持ち権現の鎖場にも登ったのですが、その時には「石鎚の修験者の行場テリトリーの一部」としか考えていませんでした。しかし、その後に段々分かってきた事は、
石鎚山系には古くは、次の3つの霊場エリアが並立していたということです。
①石鎚山
②瓶が森 + 子持ち権現
③笹ヶ峰
 
今回は霊峰 瓶が森について見ていきたいと思います。
 瓶が森は石鎚山、二ノ森に次ぐ愛媛県内第3位の高峰です。この山は、山頂よりもその下の笹の海の方に目が奪われがちですが、よく見ると山頂は南北の双耳峰です。北側が三角点のある女山、南側が石土蔵王権現を祭る男山です。権現を祀るので霊峰であるが分かります。昭和初期頃までは「石土山」とも呼ばれていたようです。
石鎚山と石土山(瓶が森)

この山は、古くは石鎚山と互いに競いあっていたようです
 山麓の西の川の人々は石鎚山を権現さまとよび、瓶が森と子持権現の山を一緒にして子持ち権現さまとよんでいました。子持権現は瓶が森の西方に岩稜の峰で、切り立った岩壁で、鎖がなくては登れません。ここも大事な行場です。西の川の人の中には、瓶が森と子持権現を一つにして石土山とよんでいる人もいました。
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瓶が森から見た子持ち権現
 麓から見れば石鎚山と瓶・子持は、どちらも力高くて神秘にとざされた山で、両方ともに信仰していたようです。そういう山が並び立つ場合には、山争いの伝承が生まれてくるのが全国的な傾向のようです。ちなみに、早くから開けたのは地元に近い瓶が森のようです。地元では、その頂上には寺の趾があると言ったり、石鎚山は瓶が森が西へ飛んでいって今の山ができたなどという伝承があるようです。

1石鎚古道 瓶が森・子持ち権現
そしてこれには、次のような役行者の伝説がくっついています。
役行者は石鎚山を探しに行ったが、なかなか見つけることができない。途中に一人の老人がハツリをといでいるのに出会った。ハツリとは斧のことである。役行者が老人に一体何をしているのかと聞くと、老人はこのハツリをといで針にするのだという。ずいぶん気の長い話だと思ったが、やはり何事も辛抱が大事なのだと役行者は再び探しに出かけた。
 そこでオトウ(中腹の一地名)の奥の岩穴で修行をしていると、大きい石が割れた。それから二町ほど登ったら穴の薬師があって、その中で石鎚山は大蛇になってこもっていた。そこで、役行者がそこでは参詣者が行きにくいと言えば、石鎚山は飛んでいって今のところに納まったのだという。
 ここからは、
①瓶げが森が地元の人たちにとっては信仰の山であったこと
②しかし、結果として瓶が森が石鎚山に「吸収併合」されたこと
③「吸収併合」や移動させたのは外来の修験者(山伏達)だったこと
が分かります。
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 瓶が森から望む石鎚
別の伝説(西条誌)には、
石鎚権現はもと瓶ヶ森(笹ヶ峰ともいう)に祀られていた。それを西之川の庄屋高須賀氏の先祖が、今の石鎚山に背負って遷した。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は裃をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になった。

というもので、これも「瓶が森 → 石鎚」移動説をとります。どちらにしても、今でも地元の西の川や東の川の人達は、両方とも信仰しているようです。
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瓶が森

 さて、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。その勧進の主役は修験者達でした。その結果、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。

別当寺を設立の古い順に並べて見ると次のようになります
1 正法寺(新居浜市) 常仙(上仙)  笹ヶ峰
2 天海寺                              瓶が森(石土山) 
3  前神寺と横峯寺         石仙               石鎚 
 ちなみに、正法寺は古代の瓦が出土する古代寺院です。この寺は秦氏の氏寺で、その一族の上仙(常仙)によって開かれたとされます。また、上仙は、修験者で寂仙法師とも呼ばれ、石鎚、笹ヶ嶺、瓶ヶ森等の霊山を開山したとも伝えられています。しかし、歴史的にこのお寺が主張してきたのは、笹ヶ峯の「石鎚権現」の別当なのです。
2石鎚山と石土山(瓶が森)
   それでは瓶が森を行場とし、その権現を祀っていたお寺はどこなのでしょうか?
 瓶が森の「石土(蔵王)権現」の別当を主張したのは山麓にあった天海(河)寺でした。天海寺は瓶ヶ森中腹の「常住」には坂中寺があり、山頂のそばには弥山がもうけられていたといいます。
 今の石鎚は、神仏分離後はロープウエイ終点の「常住」は「成就」となりました。しかし、瓶が森では、神仏分離以後も「常住」と書かれていました。ここは瓶・子持権現を遥拝するにふさわしいロケーションです。石鎚山中腹の成就社と同じように、人がここまで参拝に来ると、神が下りてくる信仰があったのでしょう。かつては、ほんの小屋掛け程度のものがありましたが今は廃墟となっています。瓶が森・子持権現の信仰者が、神のまぼろしを見るのにふさわしい場所だったのでしょう。このように、天海寺は西の川から瓶が森・子持ち権現エリアを行場とする霊域をもっていたのです。
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瓶が森 
そこに中世になって新しい勢力が未開発地に入ってきます。それが前神寺です。
 その行場テリトリーは法安寺から横峯寺、常住の奥前神寺、山頂・天柱石(お塔岩)などを霊地を含みます。なお横峯寺は、かつては天海寺の末寺であったともいわれます。東西に向いあうように対をなしていたこの両寺には。いずれも杉の大木があったと伝わります。
前神寺には、永祚二年(990)の紀年銘のある阿弥陀仏、横峯寺には平安時代末といわれる大日如来や金剛蔵王権現がありますから、平安時代末には、2つのお寺は成立していた事が分かります。そして、このふたつを中心とする石鎚と、天海寺を別当とする瓶が森の東西の霊域が競合していく事になるのです。
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 それが「石鎚山は瓶ヶ森より、扇子の要だけ高い」とか、西条市の伊曽乃神社祭神との神婚説話の「石鎚神の投げ石」の伝説として残っているのでしょう。この話は、その後の石鎚山の信仰上の優位性を、しめす意図から作られた伝承といえます。言い換えれば、瓶が森から石鎚山に信仰が集約されて行く過程で作り出されたものなのでしょう。
  「笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の三山は、鼎立して殆ど同時に開け、同様に信仰の標的となったものであるが、中世末期か江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、次に瓶ヶ森が衰微したものと思われる。」
と研究者はいいます。
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  そして近世になると石鎚にひときわ強い光が当てられるようになり、四国の霊山としての輝きをますようになるのです。
絵図は「旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

    前神寺-もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山

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 現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。
 お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。
 神仏分離で、石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるようになりました。仏教から分離しようとしたからです。
 その後に石鎚神社は、前神神社の中社の上に新たな神社を作りました。それが現在の成就社です。ちなみに、前神寺は西条の里に下りて、現在地に新たな境内を整備しました。

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御詠歌は
「前は神後ろはほとけ極楽の よろづのつみを砕くいしづち」です。
「いしづち」の「つ」は「の」、「も」は霊ですから、石の霊です。石鎚山はほとんど木の生えない岩峰です。 歴史をさかのぼって、もとは何であったかということを究めてから論じるとすれば、奈良時代の『日本霊異記』は「槌」という字を使って、「石槌神」がこの山にいると書いています。
 また『日本霊異記』では、寂仙菩薩が石鎚山を開いて修行したとされています。
 寂仙菩薩は聖武天皇のころの人だと書かれているので、弘法大師から見れば五十年ぐらい先輩に当たります。そういうものを追って、弘法大師は辺路の修行をしました。
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 石鎚山は西日本随一の名山ですから、特別の修験道が発達しました。
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。
昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。
それが石土大神の本地仏だったわけです。  

中社のある「常住」は、今は成就へ

 中社は、先ほど述べたようにロープウエイの成就駅の標高1450㍍のところにあります。石鎚頂上から約500㍍ほど下ると、あとはずっと平地が続いて、常住からまた急に下がりますから、いちばん北の端にあるのが常住です。
江戸時代から成就という字が書かれていますが、もともとは常住です。
 石鎚山の山頂は、冬は雪に閉じ込められて住めませんから、常住に留守居の坊さんがいて、お経を読んだり、花を上げたりして、山頂の神様をおまつりしていました。こういう坊さんを常住僧あるいは山龍僧と呼びまして、その場所がすなわち常住です。山岳寺院の成立の事例を見ると、中腹の中社がいちばん先にできています。

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 下社は現在の里前神寺の権現神殿といわれるものです。

神仏分離以後、成就の前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上のところを整地して現在の石鎚神社ができました。
那智神社と青岸渡寺が後ろ表になっているのと同じように、もとは神社と寺院は全く相接していたわけです。  
前神寺は石鎚権現社の別当職を勤めました。
明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』 に六十二の先達を支配した連名があるので、江戸時代の中ごろには前神寺が石鎚修験の先達を支配していたことがわかります。そのころは里前神寺が霊場になっていますが、本来、前神寺は石鎚修験の中心的な神社でした。
 同時に、里前神寺は納経所であって、前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』も、ここにお参りした場合は上まで登らなげればいけないと書いています。

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お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのでした。
 現在は七月一日から十日間のみ山開き、それ以外は山を閉ざしています。石鎚山に登るときぱ、夜中に松明をともして、峰の間を「ナムマイダソボ」という掛け声をかけて登りました。それより上は無言で登ります。

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 三十六の行場は、最近ではほとんどなくなってしまいました。
石鎚神社で調査したものが『石鎚山旧跡三十六王子社』に出ているので、かなり厳しい行をしながら登ったことがわかります。『四国偏礼霊場記』は、これをしないと本当は前神寺の札を打つたということにはならないと書いています。   

奥の院にこそ四国遍路の意味があります。

それを江戸の時代の中ごろから忘れてしまいました。
王子、王子でなんらかの修行をしながら、山頂から海を拝してくるのが本来の修行であり、遍路の原形でした。石鎚山の山麓には、石鎚信仰に関係のある寺がたくさんありました。ことに西条市北川(喜多川)の法安寺と大生院の正法寺は、灼然または上仙(常仙)を開基とする古代寺院です。そのほか、大保木の天河寺、樫原の極楽寺、古坊の横峰寺がありました。天河寺は現在はありません。極楽寺は石鎚山口にあります。

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 石鎚山別当職を確保したのは、常住にあった前神寺でした。

これは石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので、前神と称したからです。したがって、奥前神寺が里に下って里前神寺になると、ほかの寺も別当を名のるようになりました。それで江戸時代には訴訟などもあったようです。
 
  『四国偏礼霊場記』を見ると、権現さんが前神寺の本尊です。
ここでいう寺は庫裡のことで、本堂ではありません。それが霊場の実際の姿だとおもいます。江戸時代に入ってから、それぞれ本堂を建てて寺の体裁を整えますが、もともとは権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていました。したがって、奥の院に参らなければ意味がないわけです。

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   最後に三十六王子の話をいたします。

①福王子は、現在はわかりまぜん。
②檜王子は、現在でも檜という地名が残っているので、そこにあったことがわかります。
③大保木王子は、扇王子だったかもしれません。現在も地名が残っています。
川の上の断崖から下をのぞく「覗き」の行がありました。
魔除げとして扇を上げる行は、どこの山にもあります。
④綾掛王子。⑤細野王子は、逼割禅定かありました。
⑥子安場王子には、覗きの行と元結掛かありました。
大峯の石休場は、石の上に腰をおろして休むことができるところですから、小休場ではないかとおもいます。元結掛というのは、山に登るときに元結の注連を首にかけて参って、下りに木に掛けることです。

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⑦黒川王子⑧今宮王子。黒川という集落も今宮という集落も山先達の村で、黒川と今宮が主導権を争った時代があります。もとぱここに山案内人がいたわけです。
黒川王子も今宮王子も覗きの行と垢離行がありました。このように、王子ごとに行をします。 登山道にかかると、非常に急坂になります。
⑨四手坂王子は女人禁制の権現堂があります。
四千坂というので、幣を立てたのだとかもいます。少豆禅定王子には小豆の数取りによって念仏を唱える行があったのだろうとおもいます。禅定は苦行のことです。
⑩今王子はわかりません。
⑩雨乞王子。⑩花取王子は常磐木を取って神に捧げる行があったところです。花とは常磐木をいうのです。⑩矢倉王子の修行形態はわかりません。

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 成就に近いところに行くと、

⑩山伏王子と女人結界の⑥女人返王子があります。
⑩杖立王子は、もっていった金剛杖を立てて帰るところです。
成就には⑩鳥居坂王子と⑩稚子宮鈴之巫女王子があります。ここは巫女がいたのだとおもいます。西之川集落のもう一つの登り口には、⑥吉几王子、⑩恵比寿王子、⑩刀立王子、⑩御鍋の岩屋王子があります。これは脇道になります。

 登山道を登る途中で、夜明峠から左に折れると、天柱石の下に⑤お塔石王子があります。おそらく昔は、天柱石という高い柱のような石に抱きついてめぐる行道があったと考えられます。
天柱石には窟の中に⑩窟の薬師王子があるので、窟に龍る行もあったようです。
祈滝王子には滝行がありました。登山道に戻ると、八丁坂王子、前社ヶ森王子(現在は禅師ヶ森)、大剣王子、小剣王子、古森王子、早朧王子(天狗)をへて、夜明峠王子となります。
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ここで夜を明かしてご来光を仰いで登ったといわれています。
 ここから一の鎖、二の鎖、三の鎖を修行して、弥山頂上に登り、来迎谷の裏行場王子で「水の禅定」があるといいますが、その方法はわかりません。最後に、天狗岳王子で危険な行があったということが調査によってわかっています。

吉祥寺 石鎚信仰の担い手の一つだったお寺

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 六十三番の古祥寺も町の中にあるのであまり霊場らしくありません。
が、もとは本格的な霊場でした。このお寺には奥の院といわれるものが二つあります。その一つの柴井という泉あとのもので、古い奥の院は坂元山にあります。
国道から坂元に入って、三六ハメートルの山を越えたところが石鎚の登山道です。
現在は前神寺から、福王子、檜王子を通って石鎚山に登りますが坂元山から入ると海岸から一直線に南に登れます。そういう意味では、石鎚山信仰の山伏の本拠になったところが坂元山だとかもいます。

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   『四国偏礼霊場記』は縁起について次のように記しています。
当寺むかしは今の地より東南にあたり、十五町許をさりて山中にあり。
堂塔輪奥として梵風を究む。天正十三年毛利氏当所高尾城を攻るの時、
軍士此寺に濫入し火を放ち、此時本堂一宇相残り、仏具典籍一物を存せず哉撤す。
それより今の地に本尊を移し奉る。本尊毘沙門天坐像、大師の御作なり。
寺を去事一町許上に、柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸溢る。
村民大に利とす。
 お寺の本堂の屋根や塔がそびえているのを「輪奥」といって、滅びたお寺を形容するのに使われる言葉です。
「梵風を究む」は、仏教的な風格があるということです。
 吉祥寺は小早川隆景が高尾城を攻めたときに、放火によって焼けました。
このとき移された場所は、大師堂のあった場所だとおもいます。
坂元山にあったときの本尊毘沙門天坐像がここに移されました。
「清華」は清らかな泉という意味です。柴井という名泉があったと書いていますが、現在でも柴井の信仰が残っています。
水がないときは柴の青葉を取って手をもむと清められるというので、柴手鉢といっていますが、槙尾山にも弘法大師の柴于鉢があります。

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山門の左に大師堂、天神、毘沙門堂、右に庫裡があります。

吉祥寺ですから、もとは毘沙門天ではなくて坂元山にあった山岳寺院の吉祥天を本尊としただろうとおもいます。しかし、現在は毘沙門天を本尊として、脇侍に吉祥天と善賦師童子を配しています。
 弘法清水の場所に建てられた大師堂と吉祥天・毘沙門天をまつった吉祥寺が合体して、現在地にお寺の伽藍を営んだものと考えられます。
 坂元山が奥の院ですから、現在は遺跡等は何もなくて、みかん山になっています。
このあたりは、瀬戸内海の島々が一望のもとに見えて、海を信仰の対象とする辺路信仰のお寺があったことを再認識できる場所です。
 ところで国道に洽って坂元という集落がありますが、そこではなくて、南にニキロほど山に登った長谷という集落のみかん山になっているところが坂元山です。海岸からほとんど一直線に登りまして、標高は三六ハメートルです。
 この山を越えると黒瀬峠に出て、前神寺・石鎚神社から石鎚山に登る登山道と交わります。ですから吉祥寺は、石鎚系の修験の寺であったといって差しつかえないとおもいます。
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 山内には二十一坊もあったようですが、現在の旧址はそれほど広くありません。
寺伝では小早川隆景に焼かれてのちの江戸時代の万治二年に、末寺檜本寺と合併したと伝えています。檜木寺は、石鎚山登山道の檜王子を管理する寺であったとおもわれます。
 
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ここには成就石があります。

成就石は高さ1メートルぐらい、真ん中に10センチほどの穴があいていまして、目をつぶって金剛杖を突いて歩いていって、うまく穴を通れば願いがかなうという庶民信仰です。
 目隠しをした人が歩いている絵が「一遍聖絵」に出てきますから、目をつぶって歩いて、石に抱きつくことができると願いがかなうという信仰があったようです。
 吉祥寺にも成就石があることから、このような信仰が遍路の寺にもあったことがわかります。

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吉祥寺の本尊が毘沙門天ですから、毘沙門さんのお話をいたします
室町時代になると、鞍馬寺の毘沙門天が福の神になり、その信仰を受けていたるところで毘沙門天が福の神になったようです。さらに、毘沙門天と吉祥天、あるいは毘沙門天と弁財天が夫婦だといわれるようになって、七福神の中に毘沙門天と弁財天が加わったという過程が考えられます。
 じつは七福神は日本の神様二体・インドの神様二体・中国の神様二体ですから、六福神です。日本は恵比寿と大黒天、インドは毘沙門天と弁財天、中国は布袋と福禄寿です。福禄寿は寿老人とも呼ばれたので、福禄寿と寿老人ぱ一体の神様です。
 平等に二体ずつ取ったのに、福禄寿と寿老人が別になって七福神になってしまいました。その中に毘沙門天と弁財天が入るのは、鞍馬寺の毘沙門天の福神信仰からきたものと考えられます。

 宝寿寺-札所となる一の宮
 
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六十二番の宝寿寺は町の中にあって、家並に埋没してしまっているといっては、言葉が過ぎるかもしれませんが、そんなふうです。
 宝寿寺の御詠歌は非常に古い御詠歌だとかもいます。
「さみだれのあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かは」
という御詠歌は、かなり古いかたちです。
御詠歌から、このお寺はもとは白坪というところにあり「一の宮」と呼ばれていた。白坪にあったときは、玉の井という霊水が湧いていたということがわかります。

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 縁起には、かなり古い時代に「伊予一之宮」の法楽所として成立したと書かれています。神様にお経を上げることを法楽、お経を上げるところを法楽所と呼びました。宝寿寺は香園寺の旧寺地があった大日と、川を隔てた中山川の河口の白坪に、まず建立されました。ここも海に近かったとかもいます。

 聖武天皇が金光明最勝王経を奉納して、道慈律師という人が講讃させたと縁起に書いてあるので、道慈あるいは大安寺と関係があったのかもしれません。
道慈律師は、中国に渡って十八年留まったのち、
養老元年(七一七)に翻訳された、いわばホットニュースのような求聞持法をもって翌年養老二年に戻ってきた人です。
   中国で善無畏三蔵が、養老元年に当たる年に虚空蔵求聞持経を訳経したことは、はっきりしています。善無畏三蔵は密教八祖の一人で、インドから中国に来てたくさんの密教教典を訳しました。善無畏三蔵が翻訳した密教教典は「雑密」と呼ばれています。虚空蔵さん、薬師さん、あるいは吉祥天のような一つ一つの仏様について、それぞれ功徳や拝み方を説いたものが雑密です。
  
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 次に出てくる不空三蔵という人は、『大日経』や『金剛頂経』を訳します。

このお経は、仏様を曼荼羅の中に配列して、この仏様はこの位置だ、この仏様は阿弥陀様と同じだ、この仏様は大日如来と同じだという理論を付けて整理したものです。このころになると、雑密はすでにほとんど翻訳し尽くされました。仏像を拝観するときの唱え方を書いたものなどは、殼初に翻訳されています。
 だいたい宗教の始まりは、人間の苦痛をいかにして救うかということで、すでに正倉院に残されている写経に出ているほどで、中国でも朝鮮でも日本でも、自分たちを幸福にずるもの、苦痛を除くものが殼初に翻訳されたことがわかります。 
ところが、弘法大師以前に仏様の配列ができました。
弘法大師は善無畏のあとで中国に来た不空三蔵あるいは一行阿闇梨か翻訳したお経をもって帰ります。雑密は、それぞればらばらです。弘法大師がもって帰ったものは統合したものですから、思想になります。これが密教の二つの流れです。いま曼荼羅、曼荼羅と申しますが、これは思想としての密教ですから、わかったようでわかりません。なぜこの仏様はここで、どうしてこの仏様はここでなければならないかということはやはり謎です。 

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  空海以後の密教が正統密教だといわれています。
 
しかし、正統というと、ほかのものはみな異端になってしまいます。
そこで「両部密教」とも呼ばれています。金剛界・胎蔵界に配列するのを両部と呼びます。雑密は材料です。両部密教はそれを整理して、摩利支天のような天部はいちばん外のところに配列される、明王はその次に配列される、その次は菩薩が配列される、真ん中には如来が配列される、如来の間に菩薩や天部が配列されるという構造になったものです。
 善無畏三蔵が翻訳した虚空蔵求聞持経という呪術的なお経を道慈律師が日本にもって帰ると、燎原の火のごとくに広がりました。養老三年(七一九)に白山を開いた泰澄という実在の人物が、求聞持法をやっていることはまず間違いありません。
 日光を開いた勝道上人も求聞持法をやった記録があります。山伏をしていて文章が書げなかった勝道上人は、人を介して日光山を開いた由来を作文してくれと弘法大師に頼んでいます。
伝言を頼まれたのは下野国の国博士として下ってきていた尹博士という人です。尹博士は、おそらく「イソ」という音をもっか名前の人だったとかもいます。下野から帰ってきた尹博士の伝言を受けて、弘法大師が代わりに作文した文章が現在でも碑になって日光に残っています。
 こういうことから、弘法大師の同時代の山岳修行者の間で、求聞持法が非常に流行していた大ことがわかります。おそらく宝寿憚にも求聞持法が伝えられたために、道慈律師がここで講義をしたという話が残ったのだとかもいます。
 天養山という山号は、鳥羽上皇のころ、天養元年(一一四四)に洪水で流された伽藍を再興したということから付けられたといわれています。
 

  このお寺が一の宮と呼ばれたのは非常に大事なことです。

現在も門前の標石に「一国一宮別当宝寿寺」と彫ってあります。
四国では阿波も土佐も伊予も讃岐も一の宮はぜんぶ札所になっています。
 『四国偏礼霊場記』は、次のように書いています。
  
  此寺本尊、十一面観音なり。惣て聞所なし。推て一の宮と号す。
  いづれの神といふ事をしらず。
  一の宮記に当国の一の宮越智郡大山祇の神社とあり。即三島明神なり。
  当所もむかしは十町余も北にありしを、近来此所に移ぜりとなん。
  今は鎮守と号する一祠ときこゆ。是一の宮の余烈にや。 
 何も縁起はわからない、無理に一の宮といっているだけで、別に理由はないと書いていますが、辺路の信仰からみると、十分に納得できます。現在の寺地から北十町ートル)あまりの海岸(白坪)に大山祇神社を勧請し、これを一の宮としてあがめ、ここを霊場としたことは十分に理由があることです。
 今治市内の別宮が大三島大山祇神社を勧請して、その別当寺に南光坊があるように、白坪の一の宮の別当寺が宝寿寺です。
   
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この寺は中山川の河口にあったために、洪水にしばしば流されたようです。
天正年間に豊臣秀吉の四国攻めのときに荒廃し、寛永年間(二(二四i四四)に一柳氏が再興したとき現在地(予讃線の伊予小松駅前)に移されました。大正十年(一九二一)にもう一度移しだのは、おそらく鉄道の線路か駅にかかってしまったために、もう少し南の駅前に移されたのだとかもいます。
 このお寺は江戸時代にも無住時代があったので、四国遍路の行者宥信上人が住み込んで、付近の人に勧進しながら再興しています。明治維新で廃寺になったときも、同じように四国遍路の行者大石置遍上人が再興しています。それが大正十年に移転して現在の寺院になったわけです

香園寺の本堂は二階

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香園寺という寺名は、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀山という山号からきたものと考えられます。香園寺となったのは、教王院の「きやうわう」が「けうわう」から「けんをん」となり、「香苑」と変おったわけです。教という宇は、かかしは「けう」と読みました。教王は大日如来です。大日如来を本尊としていることから、教王院という名前が出たのだとおもいます。

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「後の世をおもへば詣れ香園寺 とめて止まらぬ白滝の水」
という御詠歌の中に「後の世」とありますが、栴檀の林でお釈迦様を火葬にしたら煙が非常にいい香りがした、その栴檀が山号になったというのが「後の世」の意味でし太う。そのあたりを考えないと、四国霊場のお寺の名前の意味はわかりません。
 「とめて止まらぬ白滝の水」と詠んだのは、
  このお寺の奥の院が白滝不動というお不動さんのあったところだからです。
奥の院の白滝不動から登って、横峰寺に上がります。
途中まではハイキングできますが、先はちょっと道が細くなります。逆に横峰から下ってくると白滝不動に出ます。ここは、奥の院に行ってみないと霊場はわからない、ということが実感できる非常に幽逞なところです。
 
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香園寺はモダンな建物でして、三階建ての二階が本堂で、
二、三百の椅子席、三階が五百名収容可能な宿坊となっております。
しかし、奥の院はじつに幽遼な昔ながらの感じがします。
ここには滝の水の信仰があって、広島や岡山からも信者が来るので、昔の遍路さんは奥の院まで行ったのだとおもいます。滝の水で手を清めると、お参りした実感がしみじみと湧いてきます。

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 縁起では、弘法大師がここを通りかかったときに栴檀の香りがしたので、大日如来を安置して教王院と号しかとなっています。ただ、この寺がもとあった場所は奥の院ではなくて、奥の院の反対側の海岸です。いまも予讃線の線路を越した北側に大日という地名が残っていて、お寺はそこから移ったという記録があります。
 そこにあった大日堂が、白滝不動で修行する人たちの納経所になって、やがて大日如来を本尊とするお寺になり、大日如来だから教王院と称し、現在の香園寺になったわけです。

 『四国偏礼霊場記』は、その他の縁起はわからないと書いているので、書いた方はもとはどこに寺があったかということを調べなかったようです。大日という場所は中山川の下流のデルタにあるので、昔は大日あたりまで水が来ていたのかもしれません。
 
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  ところが、だんだん北に向かってデルタが延びたために、現在は大日と民家の間はIキロぐらい離れています。全部草原ですから、あとがら延びてきたデルタであることがわかります。したがって、海岸にまつられていた大日如来が辺路信仰者の信仰を得て、白滝不動に合わさっていったのだろうとかもいます。

 御詠歌にある「白滝の水」は奥の院の「白滝不動」ですが、ここを奥の院とするのは、石鎚山の別当だった横峰寺との関係を示しています。昔は六十一番香園寺で札を打つということは、白滝不動で滝垢離をとることだったようです。いまでは香園寺から約ニキロ山に入った白滝不動に車で入れるようになりました。

 六十四番の石鎚山前神寺の明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』に香園寺の名が見えます。それ以外にお寺の記録を残した文献はありません。古くは苑という字が使われますが、明和六年には園という字が使われています。
 中世の海岸の辺路修行は、のちに山岳宗教の修験道に吸収されたかたちとなりました。山岳修行が山の神様を拝かのに対して、辺路修行は海の神様を拝みます。海洋宗教である辺路修行と山岳宗教の修験道が結合したかたちを最もよく示しているのが香園寺だとかもいます。

 また香園寺には、弘法大師がこの地に巡錫されたときに、難産に苦しか女を見て加持したところ安産できた。それで「子安大師」と呼ばれて、安産祈願の寺になったという寺伝があります。そうして全国に子安講ができて、非常に賑わっていたことが今日のお寺のすがたに関連しているとみるべきでしょう。

四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山 

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 六十番横峰寺の奥の院は西日本随一の高峰の石鎚山(1982㍍)ですから、奥の院に参拝しようとすれば石鎚山に登らなげればなりません。石鎚信仰がよく残っている霊場の一つが横峰です。
 横峰寺の縁起には、役行者が星ヶ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た、
蔵王権現の尊像を、行基菩薩が大日如来の胸中に納めて寺を建てた、
と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるので、山頂本尊は吉野蔵王堂と同じ三体の蔵王権現です。修験道には、本尊を複数でまつる性格があって、いまでも過去・現在・未来の三体をまつっています。

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 神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現です。

 もとは山開きのときは、常住まで三体蔵王権現が上がりました。
神仏分離以後は、神社のほうは別に石土大神をまつるようになりましたが、じつは石土大神のほうが古いわげです。石土といったのは、この山が木の生えない岩峰だったからです。「いしづち」の「つ」は「の」という助詞、「ち」は霊のことですから、石の霊が龍る山だという意味です。 
なぜ現在は石鎚神社と呼ばれているかといいますと、
石土という名前は仏教的なことが伝えられているというので、仏教から分離しようとしたからです。仏教的な石鎚信仰が奈良時代の説話を集めた『日本霊異記』の最後の説話と、「六国史」の中の『文徳天皇実録』に出ています。

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   まず『日本霊異記』のほうから見ていくことにいたします。
 伊予国神野郡部内に山あり。名づけて石鎚山と号す。
是れ即ち彼の山に石槌神あるの名也。
其の山高節にして、凡夫登り到ることを得ず。
但、浄行人のみ登り到りて居住す。
昔諾楽宮廿五年天下治しし、勝宝応真聖武太上天皇の御世、
又同宮九年天下治しし、帝姫阿倍天皇(孝謙女帝)の御世、
彼の山に浄行の禅師ありて修行す。其の名を寂仙菩薩となす。其の時世の人、
道俗、彼の浄行を尊む。故に菩薩と美称す。
 ここにみえる「登り到ることを得ず」とは、登れないという意味ではなくて、登らせないという意味です。ただ、浄行人として承認を得た人だけが登りました。この文章によると、すでに弘法大師より前に寂仙菩薩という方がこの山で修行していたことがわかります。 
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帝姫天皇の御世、九年宝字二年歳の戊戌に次れる乍、
寂仙禅師、命終の日に臨んで、録文を留めて弟子に授げて告げて言はく
「我命終より以後、廿八年の間を歴て、国王の子に生まる。名を神野となす。
是を以て当に知るべし。我寂仙なることを」云々といふ。
然るに廿八年を歴で、平安の宮に天下治しし山部天皇(桓武天皇)の御世、
延暦五年歳の丙寅に次れる年、則ち山部天皇皇子(嵯峨天皇)を生む。
其の名を神野親王と為す。
嵯峨天皇の親王時代の名前と石鎚山のある場所の郡名が偶然にも一致したので、生まれ変わりだということになりました。 
 
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次に『文徳天皇実録』を見ることにいたします。

  
故老相伝ふ。伊予国神野郡に、昔高僧、名は灼然なるものあり。
  称して聖人と為す。弟子、名は上仙なるものおり。
  山頂に住止して精進練行すること、灼然より過ぐ。諸鬼等皆順指に随ふ。
  上仙嘗て従容として、親しか所の檀越に語って云く、我もと人間に在り。
  天子と同じき尊にあつて、多く快楽を受く。その時是の一念を作す。
  我れ当来(将来)に生まれて天子と作ることを得んと。
  我れ今出家し、常に禅病を治するに、余習遺るといへども、気分猶残る。
  我れ如し天子とならば、必ず郡名を以て名字と為さんと。
  其の年上仙命終す。是より先、郡下の橘の里に孤独の姥あり。
  橘の躯と号す。家産を傾け尽して上仙に供養す。
  上仙化し去るの後、競に審に問ふを得れば、泣俤横流して云く。
  吾れ和尚と久しく檀越と為る。
  願くば来生にありて倶会一処にして相親近することを得んと。
  俄に躯亦命終せり。其の後幾ばくならずして天皇誕生す。
  乳母の姓神野と有り。
  先朝の制、皇子生まるるごとに、乳母の姓を以て名と為す。
  故に神野を以て天皇の譚と為す。後に郡名を以て天皇の譚と同じ。
  改めて新居(新居浜)と名づく。このとき夫人、橘夫人(檀林皇后)と号す。
  いはゆる天皇の前身は上仙是なり。橘の躯の後身は夫人是なり。
 この文章から、弘法大師より前にすでに石鎚山が霊場として知られていたことがわかります。弘法大師も『三教指帰』という自叙伝の中で、尼さんの話を出したりしていますから、石鎚山で修行した弘法大師はそのことを知っていたとおもいます。
こういう話が伝説になって伝えられていたわけです。

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横峰のいちばんの霊場は星ヶ森です。

 横峰寺は前神寺と別当を争っていました。
どちらかというと、横峰のほうが登りやすかったようです。役行者の話が出る星ヶ森という奥の院を信仰の対象にする場合は星ヶ森を通り、弘法大師を信仰の対象にする場合は石鎚山を通ることになります。
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『四国偏礼霊場記』は、上仙を石仙菩薩という名前にして、石仙菩薩の開基だと述べています。 
当山縁起弥山前神、三所同本を用ゆ。
 此縁起、石鉄権現の事、役の行者の事、井に石仙の
  事を書たり。其文神奇孟浪なり。
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「弥山」は石鎚山の頂上のことです。
御山と書いて「ミセソ」と読んでいたのを、須弥山に合わせて「弥」という字を使うようになったわけです。「孟浪」は、でたらめという意味です。
『四国偏礼霊場記』では、弥山(石鎚山)の縁起も前神寺の縁起も横峰寺の縁起も同じ本を用いている、いろいろでからめなことを書いたのは縁起の筆者の累(嘘を言った罪)であると書いています。
 『四国偏礼霊場記』の筆者は、『日本霊異記』や『文徳天皇実録』にも上仙のことが書いてあるのを知らなかったようです。縁起のほうが、むしろ正しいといわざるをえないようです。

参考文献 五来重:四国遍路の寺
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国分寺-最勝院の薬師堂が本堂 

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なぜ四国の霊場を、八十八にしたかというのもよく聞かれる問題です。
 華厳宗の場合は十一の倍数を尊んで、六十六、九十九億、七十七天王などといっておりますから、そのあたりからきたものと考えています。
 国分寺と一の宮は四国ではいずれも霊場となっています。これは辺路修行が六十六部回国のように、国めぐりの性格をもっていたからです。しかし、天平年間に建立された国分寺が堂塔を残しているのは非常に稀であって、讃岐の場合はそのひとつです。
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  国分寺の全部が残ったわけではなくて、国分寺の中の一支院や一坊が残って、国分寺という名前を名乗っています。伊予の国分寺の場合も、民家の間に西塔の礎石が残っていることから考えると、国分寺伽藍の周囲にあったいくつかの坊が、国分寺の名を称していたということがわかります。

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現在は、最勝院の薬師堂を本堂として国分寺の名を称しています。
このほか、大事堂、金毘羅堂、庫裏、書院があります。お寺の縁起によると、智法律師が住持をしていたときに弘法大師がやってきたとされていますが、弘法大師が来た可能性はあるとおもいます。そういう縁起があるだけで、戦乱によって何回も焼かれたために、そのほかのことはよくわかりません。

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仙遊寺 もとは泉が涌くという泉涌寺です。 

 
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五十八番の作礼山仙遊寺は、栄福寺からごく近いところにあって、その間の距離は1キロ足らずではないかとおもいます。栄福寺は勝岡という八幡さんの丘の麓にありますが、仙遊寺はその丘と相対する山の上に建てられています。表参道から登ると非常に急な坂を登らなければなりません。そこから二〇〇メートルほど下ると弘法大師の加持水があります。縁起では、仙人が遊んだから仙遊寺だとありますが、そうではありません。もとは泉が涌くという泉涌寺です。
 
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  原始修験道の時代の信仰は?

日本の山岳宗教の歴史では、仏教をはじめとする外来の宗教の影響を受けない時代を原始修験道と呼んでいます。そういう時代は山の神や海の神や川の神々を御参りしていました。お寺もないころですから、洞窟の中に籠もって、神と一つになる修行をしました。そのためにすべての穢れを落とさなければなりません。山なら滝に打たれる、海なら潮浴びをするというような苦行をして人間の穢れをすべて取り去ることにより、人間に神が乗り移ると考えられました。 
これが憑依現象です。
山岳宗教では「ヒヨウエ」といっていますが、密教的にいうと即身成仏です。
神様が乗り移って、人が神の言葉を語るのですが、穢れていては神様が移ってくれません。そこで、無垢な子ども、機れのない少女、あるいは苦行によって穢れをぜんぶ落とし人に神様の霊が入ると考えたのです。伊勢の斎宮の場合も同様で、斎宮の語る言葉、すなわち託宣が神の言葉です。こういう構造をもったものを原始修験道と呼んでいます。
 
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 次の段階になると、託宣の方法に道教的・陰陽道的なものが混じってきます。
たとえば、星をまつったり、中国やインドにはいるけれども、日本にはいない龍をまつるようになるのが、初期修験道の段階です。
 さらに、役行者のころからそこに密教が大ってきます。平安時代に成立した密教を主体とする山岳宗教を中期修験道と呼んでいます。中期修験道の段階で醍醐の三宝院、園城寺、聖護院のような本山ができて教団化されていきました。
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 原始修験道や初期修験道においては厳しい辺路修行をしました。
平安中期、修験道が理論化されるにつれてい原始的な山岳修業者に代わって学問する人、あまり苦行をしない人々によって、たとえば三十三か所が開かれます。
 それ以前は役行者を除くと無名の人が多く、歴史の中に埋没しています。しかしその時代こそ本来の山岳修行・山岳宗教、辺路修行・海洋宗教が盛んだった時代です。
 まだ仏教の色彩がそう濃厚にならない時代の修行者を仙人と呼ぶ場合があります。仏教が入ってくると、行者あるいは修験者という名前で呼ばれるようになりました。
  
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お寺では仙人から仙遊寺という名前ができたといっています。

 しかし、泉から出てきた信仰だとおもいます。
霊水が湧くといわれるところは、だいたい弘法大師が活躍したところです。
弘法井戸とか大師井戸と呼ばれるものは、弘法大師と加持水が結びついた伝承です。弘法大師が現実にそういうことをされた場合もあり、されなかった場合もあるのですが、それは議論する必要のないことだと私はおもっております。

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   海洋信仰の時代は、修行者が海の見える山頂から海を礼拝しました。

志摩に行くと、和具という海女の本拠地に八大龍王に火を上げる燈籠が現在も残っており、辺路修行者が火を焚いて海神に捧げたのだということが分かります。
 志摩今熊野では、江戸時代の中ごろから末にかけて富士浅間信仰が非常に盛んになります。富士浅間は富士山が見える範囲内における海上生活者の信仰対象です。
 富士山は、山だから山の信仰だろうとおもわれるかもしれませんが、そうではなくて海の信仰です。晴れていると大工崎から富士山が見える、あるいは船が沖に出ると見えるといっています。富士の神様が浅間さんで、本地仏は大日如来です。
 弘法大師の場合も、海に向かって火を上げたと自叙伝に書いています。
辺路修行で海を礼拝したということはまず間違いありません。
 
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海を礼拝する方法が足摺という方法です。

 のちになると、人に出し抜かれて残念だといって、駄々つ子のように駄々を踏むことだと解釈されます。すでに『平家物語』のころでさえ、海を拝む宗教があったことが忘れられてしまっています。その点では伝承は、千年前に忘れられたものを明らかにすることができるありかたい資料です。偉い坊さんや偉い学者の書いたものには出てこなくても、庶民の伝承を集めていくとわかってきます。
 そうすると、厳島神社の鳥居が海の中にある理由もわかります。いまは逆になって船で海に出て拝がむのだといっていますが、海を拝んでいたことは確かです。

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海のかなたを礼拝する山ですから、作礼山というのだとおもいます。
 山頂の石塔は経塚でしょうか。
『四国偏礼霊場記』はこのあたりの素晴らしい景色を次のように描写しています。 
遠く洽海を望めば島嶼波に認べり。左は今治の金城峙つ、
  逸景いづれの処より飛来、惟画図に対するごとしとなり。
 現在の本堂は昭和二十八年(一九五三)に再興されたもので、古いものではありません。

延命寺-宝冠の不動明王

 
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五十四番の延命寺は、五十三番の円明寺と同じ名前だったといわれています。
明治以後に同じ名前では困るというので、延命寺と直したとことがはっきりしています。
 今治から北のほうに半島が延びており、その半島と大三島の間が難所の来島海峡です。延命寺の奥の院は、眼下に来島海峡を望む山の上にあります。現在は山全体が公園になっており、車で楽にあがれますが、頂上の旧跡のあるあたりへは入れません。一歩一歩ふみしめて登ると、辺路の代表的な所だと思われてくる場所です。

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  延命寺の山号を近見山といっているのは、奥の院のある山が近見山だからです。
「くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうっすものかな」
という御詠歌の「鏡の縁」は、弧になってずっと見えている海岸線をさしているのかもしれません。ここからすべての景色が見えるということを、詠んだものかとおもいます。
 薬師如来を拝むお寺であれば、鏡に罪・機れ、病気を移して薬師様に受け取ってもらって治してもらうということで、病気平癒のために鏡を納めることがしばしば行われています。鏡と薬師如来が結びついていることはわかりますが、延命寺の本尊は不動明王です。ただ、もう一つ薬師さんがあるので、あるいはそれかもしれません。
 本堂の左手に薬師如来をまつる含霊堂(位牌堂)があるので、ぞれが御詠歌の鏡だとすれば、非常に古い御詠歌になります。
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 薬師如来を考えるならば、山の上から見ると、海岸が鏡の縁のように見える、海も山も海岸も全部、影が映って見えるという意味かとおもいます。難所を通る場合、月明りのない夜は航海が非常に困難ですから、おそらくこのお寺の常夜灯は、来島海峡を通る船の目印になった重要な灯台ではなかったかとおもねれます。

 そのために、このお寺はもとは円明寺と呼ばれました。

 薬師如来の円と燈火の明を結んで円明寺だったとおもいますが、五十三番の円明寺と混同するので、延命寺と改めたのです。本堂の左手にある含霊堂がまつっている薬師如来示おそらく奥の院の本尊です。これが辺路の寺と薬師の関係です。
 そうすると、含霊堂も山上から下ったわけです。
  
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 このお寺の本尊は宝冠の不動明王です。

 大日如来と合体した宝冠の阿弥陀如来はたまにありますが、宝冠の不動はめったにありません。それが延命寺の本尊になっています。山伏などが「大日大聖不動明王」と称えて行をするのは、大日如来と不動明半が一つになっているわけです。
 したがって、大日如来の宝冠を不動さんがかぶっているというかたちをとっているのだとかもいます。
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ここの伝承を総合すると、近見山の周りに非常にたくさんの堂があったようです。
 周りの堂舎は、もっぱら学僧だもの勉強の場でありました。その証拠の一つは、鎌倉時代に東大寺の高僧凝然が留錫して『八宗綱要』を書いたといわれていることです。「八宗綱姿」は、比常山でも高町山でも、昔の坊さんが勉強するときは、かならず素読をさせられた名著です。仏教の知識を得るのはこれを読むことから始めるのがいちばんいいのですが、漢文ですから、仮名で書いてあるものなら『沙石集』のような簡単なものを読むのがいいとかもいます。
 凝然は、たくさんの著書を残しています。
ここで『八宗綱要』を書いたということは、凝然が勉強をしている坊さんたちに講義した講義録とも考えることができるのです。そういう場所の中に、不動さんを本尊とする不動院がありました。阿弥陀様を本尊にする支院とか弥勒さんを本尊にする支院など、支院がたくさんあって、その一つの不動院の建物が比較的しっかりしていたために、長宗我部氏支配のころ焼かれたときに本尊をここに収容することになったのだとおもいます。
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南光坊ー大山祗神社の別宮

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南光坊は大通智勝如来という非常に珍しい仏様を本尊にしています。
法華経にはある上子様が非常に仏教に帰依していて、難行苦行の末に過去七仏というお釈迦様の前の仏様のひとつである大通智勝仏になったと書かれています。これが大三島の大山祗神社の本地仏であったために、大山祗神社の別宮の南光坊にまつられたのだとおもいます。
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明治に神仏分離以前は、納経受付は神社がしていました。
別宮そのものがやっていたので境内に神社と坊が共存していたことになります。
しかし、神仏分離以降、大山祗神社の別別宮と南光院の間には道路が通されて分けられてしまいました。かつて光明寺と太子堂は、それぞれ独立の建物だったようです。大山祗神社にお参りすることが札を打つことだったので、光明寺は札所として関与しなかったのが最初の姿です。今は光明寺と太子堂がいっしょになって南光坊を称しています。
大山祗神社は武蔵坊弁慶の頚鎧や義経の鎧があったりして、武具の美術品の所蔵で有名です。ここも遍上人にとっては先祖の地ですから、晩年になって、ここを訪ねて大念仏をしています。  

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大山祗神について『四国偏礼霊場記』は次のように書いています。 

聖武天皇の御平天平五年に顕はれ玉ふ。
伊豆の国賀茂郡摂津国嶋下郡及び当郡、おのおの社あり。
三所は共に一神なり。当社より愕豆のくにへ移り給はらん。
神道史の研究者は、大山祗神は本花開耶姫のお父さんで、山の神様だ、その親子関係で最初は九州にあったのだろうと説明しておりました。が、最近の民俗学の立場では、山の神はすべて大山祗神だと考えています。どこの山にも山の神がいるので、特定の神様ではなくて、山の神の総称が大山祗神です。「やまつみ」の「つ」は「の」、「み」は神様です。それに美称として大を付けているのです。 

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大山祗神は山の神であるけれども、同時に海洋安全の神様でもあるのです。
島にある山の神は海を守ります。山の神も海洋神です。
したがって、別宮の札所であるということは、もとは大三島まで渡って札を打っていたと考えられます。『四国偏礼霊場記』は別宮は非常に古いように書いていますが、おそらく河野氏が非常に盛んになる鎌倉時代だとかもいます。
 それ以前は辺路修行ですから、島に渡る一つの辺路修行を示していると考えられます。大三島にあった二十四坊のうち八坊だけが別宮に移ります。そのころは宮司も別宮に近いところに屋敷をもっていて、大三島で行事があるときに渡っていったといわれています。
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泰山寺ー海の神は山の神

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 仏教以前にわれわれの遠い祖先は、何を信仰していたのか?

何に祈りを捧げていたのかは、辺路を考察することによって明らかになってくるのです。五十六番の金林山泰山寺は、正しくそういうところです。
泰山寺は松山から車で三十分ぐらいの道路に面した平凡なお寺で、もとはうしろの金輪山(金林山)に奥の院があったようです。 
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 『四国偏礼霊場記』は高野山の学僧が書いたものですから、なかなかの名文です。 
 此寺大師の開基ときこゆ。隆弊しらず。本尊地蔵菩薩大師の御作なり。
 蔀堂蕭条として、樹木おほし。簸落山華を帯、野風をのづから往来、
 数家の田村斜陽に対す。
 「隆弊しらず」は、この寺の盛衰を知らない、つまり歴史がわからないという意味です。「蔀堂」は茅葺きのお堂のことで、木がたくさん生えた寂しいところだったようです。「簸落」は、生け垣、「山華」は山の花という意味ですが、山茶花ではないかとおもいます。生け垣があったり、茅葺きのお堂があって、田んぼの中には二、三軒の家が西日を浴びて建っている寂しい情饌が描写されています。
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 山号の金林山は奥の院があった山の名前で、ほかのお寺にもよく見られるように、奥の院はかつて山の上あるしは険しい崖の上にあって、麓に納経所があったのでした。納経所には留守居の坊さんがいて、集印帳に判を押したり、遍路をしている人を泊めたりもしたわけです。

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  奥の院は海の神様をまつっています。

ただし、日本神話の中では、このあたりで出てくる神は、むしろ山の神としての性格が非常に強く見られます。天孫朧朧杵尊の子どもの彦火火出見尊の奥さんの豊玉姫、その子どもの鵬顛草葺不合尊の奥さんの玉依姫、ふたりとも海の神の娘です。
 そうして玉依姫と鵬鸚草葺不合尊との間にできた子どもが神武天皇ですから、神武天皇は山の神と海の神から生まれたということになります。ちなみに彦火火出見尊は、海彦・山彦神話の山彦です。山の神と海の神、山の信仰と海の信仰が合体していることは明らかです。
  瓊瓊杵尊は、最初は大山祗神の長女の磐長姫を娶ります。
ところが、醜い娘だったので返してしまって、妹の木花開耶姫を娶ります。
そのとき磐長姫は「自分を娶れば人間の寿命は長かったのに、木花開耶姫をもらったために人間の寿命は短くなった」といったそうです。
その磐長姫(阿奈波大明神)を泰山寺の奥の院でまつっていたということは、海の神でありながら山の神としてまつられているということです。
 
阿奈波大明神の本地は十一面観音ですから、奥の院には十一面観音をまつる龍泉寺と仙住院がありました。仙住院の不動明王は霊験あらたかで、狐憑きが落ちるという信仰があったようです。金輪山は大して高い山ではありません。最初は金輪山に登って行場をめぐって、麓の泰山寺に納経の札を納めて帰るという遍路のしかたをしていたとかもいます。
  
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龍泉寺と仙住院が修験道信仰によって成り立っていたことは、

十一面観音のほかに弘法大師、役行者、醍醐派の修験道を始めた聖宝理源大師、醍醐派でまつられている石鎚大神をまつっていることからわかります。そのほか、海の神様である弁財天をまつっています。さらに、山伏善海の遺言と称する縁起があるるといわれています。
 五十二番の太山寺も山の神様をまつっているので、泰山寺ももとは同じように太山寺といったのだとおもいます。ところが、同じ名前のお寺がいくつもあると煩わしいので、「太」という字を「泰」という字に変えました。
 そうすると、お産が安らかだということで、安産の信仰ができました。安産の地尊をまつって、「女人泰産」から泰山となったようです。したがって、現在の泰山寺の本尊は地蔵菩薩です。山麓の地蔵堂が宿坊と納経所を営んだ結果、独立して霊場になったとかもおれます。
 
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 くどく申しますが、奥の院あるいは辺路時代に戻ってはじめて遍路の意味がわかるのです。遍路の真髄を味わうためには、奥の院に登らなげればなりません。全部でなくても、奥の院をいくつか回ってみると、遍路とはこういうものだということがわかります。
     五来重:四国遍路の寺より

栄福寺-石清水八幡宮の別当寺

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五十七番の札所は、江戸時代までは石清水八幡宮でした。

明治時代の神仏分離以後、石清水八幡宮の別当寺が栄福寺という寺名を名乗ったのです。このように札所のお寺が意外に新しいという場合もあります。お寺の名前の由来は不明です。
 栄福寺は泰山寺からニキロぐらい離れたところにあります。泰山寺が山麓の集落にあるのに対して、栄福寺は八幡さんのある小高い丘の登り口に建っています。
 このように別当寺が札所になった例はかなりたくさんあります。しばしば神仏分離と申しますが、神仏分離以前はどちらかといえば神に重点を置いた信仰です。八幡様の中では宇佐八幡が縁起のうえではいちばん中心ですが、系統がいくつかあります。そのひとつに薩摩と大隅の境にあった大隅八幡がありますけれど、現在は鹿児島県の隼人町に入っています。

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 八幡さんは南のほうの海から島づたいに入ってきた神様です。

 宇佐八幡の場合も、御許山という山の笹の葉の上に幼児になって現れた神様を鍛冶翁という鍛冶屋さんが見つけたという縁起があるので、鉄の文明とともに渡ってきた朝鮮半島の神様だと考えています。高良八幡はKorea(朝鮮)から来た可能性があります。福岡県の久留米の場合は高良八幡、炭鉱地帯の田川に近い八幡は香春八幡と称しております。KOREAという言葉は高麗からきていますから、朝鮮半島から渡ってきた神様だというのが一つの説です。

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  もう一つは、南方から渡ってきた神様だという説です。

いずれにしても海の神様でありまして、海辺でまつられる場合が非常に多いわけです。志摩を歩いていると、海岸にある神社がほとんど八幡さんなので驚かされます。ただし、八幡さんが海の向こうから来たとはいわないで、海上安全の神様ということになっております。応神天皇がお腹の中にいる間に神功皇后が新羅遠征をしたというので、神功皇后あるいは応神が海上の神様になって、海上安全の神様として祭られています。が、海の向こうから来た神様、海洋宗教の神様だと考えられるものが大部分です。
 大分県の国東半島にも、王子八幡宮、奈多八幡宮、片竹八幡肖、伊石八幡宮など、海岸の八幡がいくつもあります。奈多八幡宮は大きな八幡様で宇佐八幡の別宮になっています、か、おそらく灘だとおもいますから、やはり海岸の神様です。砂浜に八幡さんがあって、沖に八限を建てています。したがって、奈多八幡はあきらかに海洋信仰であり、辺路信仰です。
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 栄福寺の石清水八幡さんもやはり海洋信仰です。

 縁起では、行教という坊さんが宇佐八幡にお参りしたところ、八幡さんが衣の袖に移って都に上りたいと託宣した、そこで都に上って、いま石清水八幡がある男山まで行ったら、八幡さんがここに鎮まるといったので、現在も男山にまつっているとされています。
 じつは、宇佐八幡はとても託宣の多い神様で、大仏造営のときの託宣は研究者のあいたで大きな課題になっているぐらいです。大神杜女という巫女が「自分は宇佐八幡である。奈良の大仏を造るのを手伝いたい」といったという話があります。杜女は巫女の称号です。大きな行列をつくって奈良に入る前に薬師寺で休んだのが薬師寺の休岡八幡、手向山に鎮座したのが干向山八幡です。
 ところが、それから三年ほどだつと、鹿島の神官が「この託宣は贋である」と発言します。あわれ杜女は島流しになったという記事が『続日本紀』に出ています。

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このように、宇佐八幡は託宣によって移動する神様です。

 行教が宇佐八幡を男山八幡に移したという話を縁起に語らせているのは、海を移動してきた八幡を表現したいのだと考えられます。正史には出てきませんが、行教が貞観元年(八五九)に宇佐八幡の神託によって山城の男山に八幡を移すときに、内海の海上が荒れてこの地に漂着した。そして山容が男山に似ていたので八幡を山頂にまつったということをいっております。
 この縁起に先立って、弘法大師がすでに海中出現の阿弥陀如来を感得したという話があるので、それと行教の話とが重なったわけです。八幡の御本地は阿弥陀如来ですから、阿弥陀如来を本尊として神宮寺ができました。この丘を勝岡といったので、勝岡八幡宮とも石清水八幡宮とも呼ばれています。阿弥陀如来をまつっていた阿弥陀堂が本地堂で、阿弥陀堂が現在の栄福寺になったということがわかります。

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 口碑によると、八幡は今治の巽(東南)の海岸の衣干というところで、海から上がったとされています。一方は行教という坊さんの固有名詞を出し、一方は名石なき海女が海岸で八幡さんを拾い上げたということになっていますが、口碑に物語性を加えて行教がまつったということになっているのでしょう。
 このように、海から上がった神様、海から上がった仏様、海のかなたから来た神様という伝承があるのは、日本の周囲がすべて海だったということで、山の宗教が成立する前に海洋宗教が存在していたということを示しています。
  
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栄福寺の阿弥陀堂のようなところは、もとは本地堂と呼ばれていました。

山岳寺院には本殿の横に必ず本地堂があります。
八幡さんもそうですが、山岳寺院は神社中心です。神仏分離のときに役人はそれを知らなかったのだろうとかもいます。別当寺は神社に付随したもので、本体はあくまでも神様です。神社の横にある本地堂は小さいものです。お坊さんは本地堂にも、神社にもお参りします。それが別当の仕事でした。お宮さんの横に別当寺を建てて、山伏なり坊さんなりがいたのが本地堂です。そういう関係を栄福寺はよく示しているとおもいます。
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『四国偏礼霊場記』は、さらに次のように記しています。  

山麓に弥陀堂を構ふ。彼地の極楽寺に異ならず。 
牛玉堂、大塔のあと及び三所に華表のあと等歴然たり。
凡城南男山の風景をのづからあり。(中略)
祭礼三ヶの神輿をわたし奉る。四十余町の京浜衣干に至る。
 「彼地」は、石清水八幡です。
「彼地の極楽寺に異ならず」とあるので、京都の石清水八幡宮の別当寺の極楽寺と同じような関係だと述べているのです。そのほか、牛玉堂や大塔がありました。
「華表」は鳥居です。三か所に鳥居があったと書いていますから、大きなお宮さんなのです。つまりこのあたりきっての大きな八幡様らしく、おまつりのときは、八幡様がお上がりになつた海岸に出ていっておまつりをしました。お旅所というのは、だいたいもとの奥の院で神が出現した場所です。お寺の縁起は行教の話を述べていますが、東浜の衣干に上がったという地元の伝承のほうがはるかに真実性があります。

 このように分析して考察していきますと、札所のお寺のできる必然性などもご理解いただげたとおもいますが、そういう点で、栄福寺はわりあいわかりやすいお寺です。
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円明寺ー賦算札のこと 

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「仲遍路」の札のあるのが五十三番の円明寺です。

太山寺と同じ西山の北側に位置しているので、奥の院はみな同じ峰だとかもいます。峰が平らなところに下がってきたところにあったようですから、このお寺は海に近かっかようです。
 縁起はほとんど未詳ですが、もと和気西山の海岸にあった寺で、これも辺路の寺であったことを示しています。奥の院は聖武天皇勅願によるとされていますが、海に面しか辺路修行者の聖地であったに相違ありません。
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 奥の院の光景は、いまも大師堂の西壁に打ちつけられている絵馬に見ることができます。ただし、住職に案内してもらわないと、なかなか気がつかないようなところです。大きい絵馬ですが、退色して、墨の描賜が残っているのみですが、昔は堂舎もかなりあり、五重塔もあったことがわかります。 
いずれにしても、以前の境内跡が海に近かったことは、はっきりしています。
いまの場所は、海とは反対側に下りてしまいました。海は西側で、お寺は西山の東側の集落の中にあります。このお寺の本尊は阿弥陀如来ですから、おそらく海上生活者の供養仏としての信仰があったのだろうとおもいます。海で死んだ人を恵比須様と呼び、恵比須様を供養すると豊漁になるということから、現在でも豊漁祈願のために南無阿弥陀仏という札を海に流しています。時宗では、賦算札という「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を流したり、人に与えたりいたします。  
 
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時宗を開いた一遍上人も賦算をして歩きました。

その図が『一遍聖絵』の中にたくさん出ています。
いまの時宗の本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺で、そこにいる遊行上人が管長さんです。もとは遊行上人に任命されますと、お正月に1回しか自坊の遊行寺に帰社できません。あとは、常に遊行しないといけません。それもなかなかたいへんなことでして、三年か五年くらいで譲ってしまうようです。ただし最近では、あまり遊行しないようですが。 
 管長さんが遊行されるのは、たいてい漁村です。不漁に苦しむ村から祈願を頼まれると、大勢のお坊さんと船に乗り込んで札をを流すのです。念仏が大漁の祈願に使われるのは、海で亡くなった人の供養になるからです。
 そういう信仰を、阿弥陀如来を本尊とする海岸のお寺に見ることができます。

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   ここでもよっと脱線して、伯者大山へ行ってきたお話をいたしまし上う。
応永五年の『大山寺縁起』という非常に優れた絵巻がありましたが、残念なことに昭和初年に焼けてしまいました。幸いにして、模写が東京国立博物館に残っています。その中に難破した漁船がほのかな明かりを見て、そちらに進んでいくと大山の火だった、それで助かったという霊験談が語られています。

海で働く人々の信仰を、海岸の寺に結びつけているのです。

最近では、奥の院も火を焚かなくなりました。
志摩の青峰山という朝熊山の前山で少し海岸に近い山ですが、海からかよく見えるし、海もよく見える霊場です。そこも本尊さんが海からあがったという伝承をもっています。
 そこには火焚岩という大きな岩があって、そこで火を焚いたこともはっきりしています。ところが、火を焚くと山火事になるそうで、いまでは焚かないと聞きました。さらに高い観音岩というところにピークがあって、最近ではそこに柱を立てて電灯をつけるようになりました。ところが、うっかりつけ忘れたりすると「和尚さん、火が消えていますよ」とお寺へ漁民から電話がかかってくるそうです。それくらいみんな頼りにして、火を大事にしているのです。
 したがって、辺路修行者が海から見える聖なる火を焚くということは、十分理由のあることです。 金刀比羅さんの奥の院の常火堂の常夜灯も信仰対象です。そういう海洋信仰の構造の中の重要な部分として奥の院を考えなげればなりません。
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円明寺には寺宝とし遍路の納札があります。

弥勒菩薩の種字(シンボル)を書いて、その下に「奉納四国仲遍路同行二人 慶安三年今月今日、京樋口平人家次」と書いてあります。こういう人たちはあらかじめ納札を三十枚なり五十枚なり、あるいは八十八枚作って、それを納めて歩きました。
何月何日にそこに行くかわからないので、今月今日と書いておくと、好都合なのです。
 この家次という者が、奥州平泉の中尊寺にも納札を納めているという事実がわかりました。双方に納めた年月が二十二年隔たっています。ときどき遍路に出たのか、巡礼に出てから、二十二年以上回っていたのかわかりませんが、四国遍路と同時に平泉の中尊寺までお参りしていた人が江戸時代の初期にいたことが分かります。この事実には胸を打たれるものがあります。 
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問題は「仲遍路」です。
弘法大師の場合は太平洋岸を室戸岬から禅師峰寺、竹林寺、青龍寺と回っています。
青龍寺は本当に辺路だという感じのするところです。青龍寺は龍神を拝むことが寺の名前になりました。奥の院の下には龍の窟があり、海岸が龍の浜であり、宇佐の町から青龍寺のある半島まで渡るところが龍ノ渡です。すべて海神を信仰対象にしたお寺であることがわかります。
 ここを通って足摺岬に行きました。
岩屋寺は弘法大師の修行の跡として欠くことができません。
岩屋寺を通って石鎚山に登ります。石鎚山に登ったことも、弘法大師は自分で書いています。そうすると、四国のほぼ半分を回ることになります。太平洋岸から瀬戸内海までショートカットして回ったのが、中辺路でぱないかとかもいます。
 さらにいえば、青龍寺からいちばん近いのは岩屋寺ですから、岩屋寺までショートカットするとちょうど半分ぐらいです。そういうめぐり方が中辺路ではなかったかとおもいますが、いまのところ、もうひとつ傍証が出てきません。

境内には切支丹灯龍があります。

   戦国時代の終わりのころに河野氏が滅亡して、加藤嘉明が入ってきます。
慶長五年白に加藤嘉明が、関ケ原の合戦に出ている間に、河野氏の遺臣が加藤嘉明を追い出そうとして反乱を起こしました。観音堂の十一面観音は、河野氏の遺臣たちのための供養仏だといわれています。
境内には切支丹灯龍があります。これも厳密にいえば切支丹灯龍であるかどうかは不明です。織部灯龍が、しばしば切支丹灯寵だといわれているからです。どうももうひとっマリア観音、切支丹灯龍と断定しにくいのです。純粋のマリア観音なら子どもを抱いた像が彫り込んであります。

太山寺―鎌倉時代の本堂 

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 松山の西に一つの山脈があります。せいぜい標高二、三百メートルと大して高くないのですが、屏風のように松山市街と海とを隔てています。山の麓にある五十二番の太山寺と五十三番の円明寺は、いずれも山の頂上に奥の院をもっています。太山寺は山懐に抱かれているので、奥の院はすぐそばですが、円明寺は和気という集落へ移りましだから、奥の院までかなり離れています。 
太山寺の御詠歌も新しいとおもいます。「太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へばなんの苦もなし」という御詠歌は、いささか低俗にすぎるものがあります。
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 太山寺については、『四国偏礼霊場記』に次のような縁起が出てきます。 
当寺は天平勝宝年中聖武天皇の御建立なり。本尊は行基菩薩唐土より得玉へる十一面観音の小像なるを、長六尺の尊像を作り、其中に納められしとなり。

 いわゆる腹寵の仏像だというのは非常にありうることだとかもいます。
多くの霊場の仏像は、かつて修行者がもっていた笈本尊といわれる小さな本尊を腹脂にして作られています。このお寺は小さな仏像を本尊にして、奥の院で行をしていた修行者が始めたものだということを忘れないように、笈本尊を入れて作っているという縁起は信ずるに足るとおもいます。
  
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ここには非常に古い仏像と古い建物が残っています。

 本堂は鎌倉時代の建物で、霊場の中でも屈指の古建築です。 
縁起としておもしろいのは、豊後の国の真野長者の伝承です。ちょうど松山と相対して佐賀関があって、そのちょっと南に臼杵があります。
この臼杵の石仏は、真野長者が作ったという伝承があります。
満月寺には、延野長者の夫婦の石像と石仏を作ったといわれる法蓮土人の石像と、合わせて三つの石像があります。真野長者はもとは炭焼小五郎という炭焼きであったが、そこへ都から下ったやんごとなき姫君が嫁入りをした。持参金に小判をもってきたけれども、炭焼小五郎はこんなものは山に行ったらいくらでもあるといって、買い物に行く途中で小判を傑にして池の白鳥に当てた。帰ってきて「あんなものはいくらでもあるから捨ててきた」といった。なるほど金の山だったということで長者になったという話があります。
 炭焼きは、燃料のための炭を焼いているわけではありません。
増蝸で鉱石を溶かすための炭を焼くのが、主な仕事でした。そういう精錬法がなくなりますと、炭は塩焼きの薬として使用されます。暖房用としては、ごく少なかったようです。炭焼きですから、鉱山に関係があって金持ちになったのだとおもいます。
縁起では、豊後の国の真野長者が、船で高浜沖を通っているときに難破しそうになったが、十一面観音に助けられた、あとのほうでは御光で助けられたとなっています。そこで、滝雲山の山頂に一寺を建立して、その尊像を安置します。現在はありませんが、『四国偏礼霊場記』には滝があったと書かれておりまして、太山寺があるあたりを滝雲山と呼んだようです。
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滝雲山は三つの峰から成っていて、第一の峰が経ヶ森です。

そこに本尊の十一面観音があったというので、現在は大きな石像の十一面観音を建てています。登るのがたいへんですから、下から見ましたが、下から見て十分、見えるだけの大きな石像です。山頂は二九〇メートルくらいあるそうで、テレビ塔が立っています。   
第二峰は、護摩ヶ森です。
室戸岬にも弘法大師護摩壇岩があります。辺路修行者は聖なる火を焚いて、海のかなたにいる龍神に捧げました。それを龍燈といいます。聖なる火を焚くということがあったことは、ほぼ間違いありません。
 海洋宗教においては、火を焚きます。神の永遠不滅のシンボルともなりますから、その火を消すことはできません。そういうことで、厳島の弥山の頂上に「消えずの火」を焚いた霊火堂があるわけです。頂上に登ると、霊火堂に大きな鉄瓶がかかって、丸本が焚かれています。それを飲むと長命になるというので、広島からも飲みにいくそうです。   
第三の峰が岩ヶ森です。
これは岩石から成り立っているピークだろうとおもいます。
こういう三つの峰に包まれたように現在の太山寺があります。太山寺に本当にお参りしようとすれば、経ヶ森まで、できれば護摩ヶ森から岩ヶ森まで回って、はじめて霊場に参ったということになるわけです。
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山頂寺院が現在のところに下りたのは、

平安時代の中ごろの康平五年(一〇六二)だと書いてあります。
どういう資料があって書いたのかわかりませんが、少なくとも鎌倉時代に現在の本堂ができたのは確実です。その後、荒廃したのを河野氏が嘉元三年(一三〇五)に復興します。重要文化財になっている現在の本堂はそのときのもので、非常に立派な鎌倉時代の建築で作山寺は二つに分かれています。
 一つは、本坊庫裡のあるところです。一つは、いろいろな堂のあるところです。
江戸初期の絵では、堂が三つ描かれています。おそらく交代で住職を勤めただろうとおもいます。本堂のあるところは、本坊庫裡から約二、三百メートル上がったところです。その中間に門前町がありました。これはかなり変則です。門前町の茶店の一軒が遍路宿を経営していまして、古く珍しい建物として残っています。
 このように、ぽつんと離れていて日常の火から遠かったことが、鎌倉時代の建物が残った一つの理由だろうとおもいます。本堂は南向きで、その向かって右側に護摩堂があります。聖徳太子信仰があったようですが、その理由はわかりません。

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それから、稲荷社があります。

 稲荷は稲荷山のような山の上にできることもありますが、海辺にもたくさんあります。稲荷は食べ物の神様だということです。田んぼの食べ物は稲です。山の食べ物を豊かにする山の神が稲荷になる事例もあります。畑の食べ物を守ってくれれば、野神になります。海の食べ物を守ってくれる神様がいれば海の稲荷になります。それは恵比須になったり、稲荷になったりするのです。
   稲荷のいちばん古い名前は何かということまで追究すると、食の根「けつね」です。食のことを「け」といいます。「つ」は「の」です。根は先祖ということです。じっは大阪の言葉が正統の古語なのです。「きっね」のほうがむしろなまっているのですね。食の根を「けつね」といったのがいちばん古い稲荷の言葉で、けっして動物の狐をいうのではありません。動物の狐は別の理由から稲荷に習合してきます。

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 ここは太子信仰の盛んなところで、最近になって八角の夢殿が建てられています。それから、霊場寺院では死者供養も行われますから、位牌堂を兼ねた十王堂があります。大師堂のほかに厄除大師があります。真野長者堂は非常に古い建物です。
 古図によると、もっともっとたくさんの建物があったようです。

 太山寺には、寛永十七年の納札と、承応口年二月吉日の「奉納七ヶ所辺路同行五人」という納札が残っています。いずれも板札です。
   これは七か所だけの辺路修行があったことを示しています。
あとでお話する円明寺の「仲遍路」という納札を見ても、全部回るのではなくて、中辺路という修行のしかたがあったことがわかります。
 私は、七か所でも結構だとかもいます。それよりも、奥の院まで上がってみてはじめて辺路・遍路の実塙かわくのですから。ぜひ奥までお上がりいただきたいものです。
五来重:四国遍路の寺より
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石手寺―衛門三郎の伝説

 
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石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。
本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。
 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています。 

石手寺は、もとは安養院というお寺でした。

そのため「西方をよそとは見まじ安養の十に詣りて受くる十楽」という御詠歌があります。
極楽に行くと十の楽しみがあるそうだが、安養寺に参れば極楽の十楽を受けることができる、という意味です。
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 四十七番の八坂寺にも衛門三郎の伝説があります。

 食べ物を求めた托鉢僧に乱暴をふるまったため、衛門三郎の八人の子どもが頓死したというものです。石手寺の縁起では、衛門二郎が石手寺の開創の伊予の国司の河野氏の子どもとして生まれ変わってきたことになっています。
当国浮穴郡花原の邑に右衛門三郎といふ人あり。四国にをいて富貴の声聞あり。
貪欲無道にして、神仏に背けり。男子八入ありしに、八日に八人ながら頓死す。
異説あり。是より発心し仏神に帰し、家を捨、霊区霊像を遍礼せり。
阿州焼山寺の麓にて恙を抱て死に臨めり。時に我大師ここに至り玉ひて、
発心修行の事を歎じ、汝当来の願ひいかがととはせ玉へば、
この国にて河野氏に勝れる人なし。われ彼が子に生れん事を欲すとぞいひげる。
大師小石に右衛門三郎と名を書付に賢らしめ玉ふ。既に命をはりて其所に葬る。
いまに其塚あり。扨月日をへて国司河野氏の男子に生る。彼石を左の手に握れり。
右衛門三郎の後身なる事、人みなしれり。其名を息方と号す。
羊砧円沢のためしよりも正し。此息方当社権現を崇敬し、神殿拝殿再興し、
手に握る所の石を宝殿に納めて、後世に伝ふ。
 罰が当たって八人の男の子が一日に一人ずつ死んでいったので、衛門三郎は発心して四国八十八か所を回りました。ここから八十八か所の始まりは弘法大師だという説と並んで、衛門三郎だという説が出てきます。「恙」は病気のことです。恙なしというのは病気がないということです。
「歎じ」は嘆くのではなくて賛嘆するという意味です。
弘法大師は、衛門三郎が悪逆無道であったけれども、発心して諸国をめぐって修行したことを賛嘆したわけです。来世はどうしたいかと聞くと、河野氏の子に生まれ変わりたいといいました。

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  伊予の名門となる河野氏が、伊予の北半分の国司の地位を鎌倉幕府から与えられるのは壇ノ浦の戦いのときに、源氏方に付いた恩賞です。ところが、承久の変のときに後鳥羽上皇に付いてしまったので、河野氏は没落します。その結果、名前だけは残りました。
 その時の通信は、奥州江刺に流されますが、長男の通広が伊予に留まって坊さんになりました。その子ども、すなわち通信の孫が一遍上人です。これも出家して太宰府の聖達上人に弟子入りします。
 この経緯から「衛門三郎の伝説」が生まれたのは河野氏が没落する以前の承久の変より前の話として、この縁起を受け取らないと「河野氏に勝れる人なし」というわけにはいきません。
 
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鎌倉時代に安養寺から石手寺に変わります

 当時は熊野十二所権現を勧請し、寺坊六十六を数える大寺でした。
 記録をたどると、村上天皇の天徳二年(九五八)に伝法濯頂が行われ、源頼義、北条親経に命じて伽藍を建立し、永保二年(一〇八二)には天下の雨乞いを行ったということになっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、かなり栄えた寺であったと想像できます。
寛治三年(1089)に弘法大師御影を賜って御影堂を建てました。これが大師堂です。永久二年に頼義の末子親清か諸堂を修復します。源氏の勢力が伊予に及んでいたので、安芸の宮島と同じように源氏の勢力で諸宗が修復されました。
治承元年(1177)には高倉院から大般若経が施入されています。
元久元年(1204)に十二社権現の祭礼を行ったという記録があるので、このころ熊野権現が勧請されたのではないかとかもいます。それ以前の勧請ではありません。
熊野権現を別当として守るお寺が石手寺ですから、熊野権現が主体で、別当寺はそれに付随したものでした。今治の南光坊も同じような成立のしかたをしています。
弘安二年に十六王子ができたというのも、熊野の王子十六社をここに招いたからとおもわれます。
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熊野の王子はたいへん難しい問題です。

 かつては神様の御子だ、熊野の新宮と那智の神様は伊井諾・伊井再命だから、王子は天照大御神をまつったものだという説が通説でした。しかし、そういうものではなくて、海の向こうから来る神様を王子とではないか、天照大御神というのはむしろ不自然で、常世に去った神悌が夷というかたちで残ったのではないか。子孫を保護するという意味で、食べ物を豊かにする神として戻ってくる。例えば、恵比須様は豊漁の神ですから、そのほうが自然です。 
境内の水天堂には干満水があります。
土間だけの粗末なお堂に、甕が一つ置いてあって、半分ぐらい砂利が入ってします。そこに入っている水は干潮のときはひたひたで、満潮のときはいっぱいになる、といわれていますが、お寺が海とつながっている海洋宗教の寺であることを示しています。
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石手寺の境内は雑然としています。

 雑然としたお寺は庶民が近づきやすい。浅草みたいに、石手寺にも仲見世があって、昭和のころにしか見たことがないようなものが売られています。
 正面に本堂があります。本堂の中には最近作った仏像をたくさん並べています。
円空仏とまぎらわしいようなものが、いっぱい並べてあります。
 本堂の右のほうに大師堂があります。大師堂の左手の裏に兜率天洞という地獄めぐりが造られていて、まっ暗闇の中をめぐって歩くのです。阿弥陀堂は、安養寺の残ったものです。三重塔は鎌倉時代の復興です。それに経蔵、護摩堂、弥勒堂、水大京と並んで、建物はいちおう七堂伽藍がそろっております。
 このお寺は松山市内にあるので、ずいぶん人々に親しまれています。
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繁多寺 一遍上人の学問寺 

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 東山の北側に行くと五十番の繁多寺があって、その隣に桑原八幡があります。
四国には八幡さんがらみの寺がたいへん多くて、石竹八幡、先祖八幡、地主八幡など、亡くなった先祖か八幡としてまつります。阿弥陀八幡などもまつられています。東山をめぐって、二つのお寺と二つの八幡があるのは、東山が聖地であったということです。   

繁多寺の奥の院は山の上のお堂でした。

昔は東山の頂上に、修行者のいるお寺かお堂があったわけです。
そこからは松山の西のほうの海が見えます。やがて大勢の信者ができて、修行者に病気を治してもらったり、占いをしてもらうようになりました。
そして、東山の行者たちが里の信者に招かれて、つまり、田んぼや畑のところに下りてきたのでしょう。山の上の寺に対する畑の寺ということから繁多寺という名が付いたとおもいます。ちなみに、そのあたりは畑寺町といわれています。
 
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行者が山の上で拝んでいたのはおそらく薬師如来です。

 南のほうに下りたのは阿弥陀如来、北のほうに下りたのは薬師如来で、薬師如来を本尊にして現在の繁多寺の伽藍ができました。ここにお参りする場合は、ぜひ山の上まで登ってみる必要があります。

   ここの御詠歌は成立年代が不明です。新しいとおもうものが古かったりします。
万こそ繁多なりとも怠らず 諸病ながれと望み祈れよ」
とご詠歌の中に「もっぱら事務繁多です」というかたちで使われる「繁多」という言葉が入っているところをみると、どうも新しいようです。
「諸病ながれと望み祈れよ」というのも、調子が低すぎますね。
 四国遍路のお寺の縁起は、孝謙天皇、称徳天皇、元明天皇と、はるか奈良時代までさかのぼります。縁起つくりの名人がいて、諸国をめぐりながらお寺の需要にこたえて縁起を作ったという話があります。江戸時代に家系図つくりの専門家がいて、「源氏にしましょうか、平家にしましょう」といったそうです。縁起もそういうものかもしれません。
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 繁多寺の縁起は、江戸時代の初期に霊場を記録した『四国偏礼霊場記』に出ているもの以外はほとんどありません。孝謙天皇の勅願によって開かれて、坊舎が三十六坊あったというのも、ちょっと定かではありません。本尊は行基の作だ、とくに護摩堂の不動明王は伝教大師が作ったものだというのは、そう書いてあるだけで、これも信用できないとかもいます。

この寺の由来を考察しますと、

 浄土寺と日尾八幡、繁多寺と桑原八幡があるので、もとは山から海を拝むという山岳信仰から出発したものでしょう。南の谷が空也谷であると同時に、繁多寺は一遍上人の学問寺だといわれています。時宗では一遍上人の学問寺として非常に重んじています。浄土寺に空也上人の木像があるのと同じように、繁多寺には一遍上人の木像があります。一遍上人は、空也の足跡を慕って歩くとたびたびいっておりますから、こんなかたちになったのでしょう。
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 『四国偏礼霊場記』では、鎌倉時代の中ごろの弘安年間に、聞月という住持が復興した。そののち荒廃して、江戸時代に入って龍孤(龍湖)という比丘が本願となって堂舎を修復した。それが現在のお堂だ、本堂、護摩堂、求聞持堂、仁王門、熊野権現、池中弁天堂があったとされています。
いまは本堂の左のほうの護摩堂は毘沙門堂になって、右のほうに弘法大師の大師堂があります。本堂に向かって左手に、本堂と見まがうばかりの唐破風をもった大きな建物があります。これは聖天堂(歓喜天堂)で、徳川四代将軍家綱が拝んでいた歓喜天をいただいて造ったといわれています。どういう縁故で歓喜天をもらったのかわかりませんが、龍孤が歓喜天の行者だったということに関係があるのかもしれません。
   
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歓喜天は非常に怖い仏様です。

ひとたびこれを拝み始めると、一生涯拝みっづけなければなりません。
途中でやめれば、罰が当たるといわれています。龍孤は命がけの聖天講の行者でしたから、あるとき家綱の念持仏を下賜されて、それでこのような大きな歓喜天宰が造られたのだとおもいます。
 本堂の前からは、海がよく見えます。東山の上からはもっとよく見えるので、辺路としての奥の院であったことが十分に推定されます。

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  海岸山岩屋寺 
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海から遠いのに山号は「海岸寺」

 岩屋寺は、石鎚山の南側の山懐に包まれていますから、海が見えません。
しかし、岩屋寺の山号を海岸山と付けたのは、やはりわけがあったのです。
 寺峰と洞窟が辺路修行の行場であったことは、海岸山の山号で知ることができますが、その由来として弘法大師が詠んだ歌があります。
いまの不動さんを歌った御詠歌の前に、「山高き谷の朝霧海に見て 松吹く風を波にたとへむ」という御詠歌がありました。
谷間に朝霧が立ちこめている有様は、まるで海原のようだ、だからここは海岸山だといっています。また、江戸時代の絵によると、岩屋寺にも龍燈杉があったことがわかります。したがって、海のかなだの龍神に火を捧げたといういわれもあり、海岸山と名づけたことは明らかです。

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岩屋寺はもう一つの特徴をもっています。
岩屋寺の右のほうの金剛界の峰の下に、本堂の不動堂と大師堂が並んでいます。
あたりは岩壁で、不動堂のすぐ横に仙人窟という大きな洞窟、
その少し上に阿弥陀窟という洞窟があります。
そのほか、「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があります。窟だらけの山を子細に見ていくと、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。
これは命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐった行道の痕跡だと思われます。
 
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 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。 
不動堂の上の岩窟。をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり。
長四尺あまり。銅像なり。于に征鼓を持。是を阿弥陀といふ。
凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相、
経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり。
むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。
 岩屋寺は不動堂が本堂です。「征」は念仏のときに下げてたたく鉦です。
征を下げた阿弥陀様はありませんので、おそらく空也の像ではないかとかもいます。円応無方は融通無碍と同じ意味で、丸くて何にでも応じて形を変え、定まった姿がないことです。仏様は三角にも丸にも空也にも親鸞聖人にもなるわけです。
仏の現れた姿はお経や儀軌に出ている、自分勝手に伝えるわけにはいかない、空也上人の像を建てて、これは阿弥陀様だというのはいけないと書いています。
 阿弥陀様は、江戸時代か鎌倉時代か定かではありませんが、まだ道があったころ納めた仏様で、行けなくなったので、飛んできた仏様だということになっています。
しかし、もとは人間が行って納めたに違いありません。
そういう行道があったということは、ここで辺路修行をしていたということです。

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 海岸に烏帽子岩のような岩と洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をした痕跡が各寺の奥の院に見られます。
 日本は非常に長い海岸線をもった国です。ひとびとが内陸部で耕作をして住石以前のこと、岸に貝塚をたくさん残しながら生活していました。そういう時代に信仰の対象となったのは、海のかなたです。 海のかなたは常世と呼ばれました。常世は永遠なる世界、年を取らない世界です。二十歳で死んだ人は、いつまでたっても二十歳です。
 海岸で生活していた時代の死者の葬法は水葬だったとおもいます。
水葬された霊は海のかなだの常世に留まります。しかし、だれもそれを見たことがありません。みんな常世がどういうところか興味があるので、だれかいってきた人がいないと困るわけです。
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雄略天皇の二十二年に常世にいってきた人の名前が出てきます。

時代がひとつの物語を生んだということでしょう。その人の名は余社郡の管川の浦嶋子で、綿津見神の化身の亀に連れられて常世にいってきたというのです。また、海の神様のいる常世にいくには、何かいいことをしてお迎えを受けなければいけないということから、亀を助けたという話になっております。
 室町時代にできた御伽草子では、それが浦島太郎の話になりました。
  古く『日本書紀』では、海神そのものが女です。
海神の娘といっていますが、じつは女の神様が亀に化身して陸の男と婚姻したわけです。浦島太郎が亀を助けて船に乗せたらたちまち女に変わって、夫婦になって一緒に海神の都に行ったという話になっています。
 海神の都がのちにいう龍宮です。
『日本書紀』では蓬莱と書いて「とこよ」と読ませています。
『万葉集』の歌も『丹後風土記』も同じですから、そのころは龍宮という言葉はありません。
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龍宮という言葉が出るのは室町時代の御伽草子です。

 なぜ龍宮という発想になったのかをいろいろ考えると、法華経の巻五の提婆達多品に出てくる龍王の成仏の話がもとになっているようです。
 『風土記』などにも、海のかなたからいろいろなものがやってくるという話が出てきます。いちばんよくやってくるのは弥勒と夷です。夷は、のちになると恵比寿というめでたい字を当てたために違った感じになりますが、遠いところから来た者、つまり外国人ですから、やはり海のかなたから来るわけです。そして、陸にいる者が魚がたくさん欲しいとおもえば豊漁をもたらし、豊作にしてほしいとおもえば豊作の神になりました。お金が欲しいという要求に応じてくれるのが十日戎の戎様です。夷は民衆の要求に応じていろいろな働きをすると考えられました。

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 ところが、蓬莱という宇を書いたので、『史記』に出てくる徐福になってしまいます。徐福も海のかなたから子孫を助けにくる神様です。和歌山県新宮の駅前に徐福の墓がありますが、日本の海岸に三十にも及ぶ徐福伝説があるのは、海のかなだの祖先の霊が助けにくるという考え方があったからです。

   海洋宗教では、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師として現れます。
一つの決まつたかたちでは民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるのです。
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そういう来訪神の考え方から辺路修行が生まれます。

海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、要求する方法があります。それが命がけの行なのです。漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり二十一日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけてくださるのです。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が開いたという由来があります。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そのためです。
   遍路のもとの言葉が、辺路だということがだんだんわかってきました。
紀州には大辺路・中辺路として辺路の名が残っています。現在は熊野詣には使われなくても、ずっと辺路や王子が分布しています。王子神社が太地にも串本にも周参見にも残っています。海岸の王子には、かなり大きな神社が建っているところもあります。熊野三山に参るのは、たいへん古いことのようですが、それよりも前に辺路があって、熊野三山詣は辺路の一部を利用したわけです。

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 四国でも同じように辺路修行が行われていて、その一部を青年時代の空海が越えています。『今昔物語集』は、「四国ノ辺路卜云、伊予、讃岐、阿波、土佐ノ海辺ノ廻也」と書いています。 
 「一遍聖絵」に戻りますが、ちょっと面白い話をご紹介しましょう。
  岩屋寺の巌窟に仙人が籠もる話です。
 仙人は土佐の国の女人なり。観音の効験あると聞きで、かの巌窟に寵り、
五障の女身を厭離せむ為に、経典を読誦しけるが、
法華三昧成就して飛行自在の依身を得たり。(中略)
又、四十九院の岩屋あり。父母の為に極楽を現じ給へる跡あり。
ここには非常に珍しいことに女の仙人が出てきます。
女の仙人の話は『今昔物語集』に少し出てくるだけで、極めてまれです。
五障のある女の身を捨てて、女も仙人になれるということ自体が非常におもしろいとおもいます。法華経を読誦して、法華経の行が完成すると、自由に飛行することができる肉身を獲得するのだといっています。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている、このお寺にそういう仏が出現したと書いています。
 
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「一遍聖絵』の詞書に「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。

 仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。さらに五輪塔が一つあって、枯れてしまった木が一本あります。これが生木塔婆と呼ばれる生きている木を塔婆の形に削って、文句を書いたものです。
 生木塔婆は大窪寺など、ほかのお寺にもあります。
江戸時代の記録が生木塔婆と書いているのは「碑伝」というものを忘れてしまったことを示しています。洞窟に寵って苦行するときに、二股になった木を選んで、それを削って、自分がこの洞窟に胆ってどういう修行をしたか、これで何回目だということを書いて納めた一種の記念碑のようなものを碑伝といいます。

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 大峯山随一の秘所といわれる「笙の窟」に籠もった山伏が、笙の窟の能りぱ四度目だということと、自分と同行者の名前を書いた碑伝を、たまたま前鬼森本坊が採集しました。現在は文化財になって奈良国立博物館に寄託されていますが、このことからも碑伝を仙人人定窟に留めていたことがわかります。お寺ではそこには柿経まであったといっています。  

納経所が霊場ではありません。

 ここでみんな集印帳に判を押してもらって帰ってしまいますが、ここを上かって白山の峰から逼割禅定まで修行しなければ、辺路修行としての遍路は完成しないわけです。多くの参拝者も岩屋寺に行かれますが、逼割にまで行く人は極めて少ない。行こうとしても、あまりにも危険ですから、お寺の住職の許可を得ないと行けません。
よほど精神統一して登らないと、こんな危ないところはないとおもうくらい危ないところです。
 このように、従来は説明できなかった問題が海洋宗教という問題からわかってきます。同時に、四国遍路の謎を解く一つの方法にもなるわけです。

参考史料 五来重:四国遍路の寺

大宝寺は、もともとは岩屋寺と一つのものでした。

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町の中にある大宝寺の裏山を五㎞ぐらい行くと岩屋寺に出ます。
 この道は、今はほとんど使われなくなりました。この道を終えると『一遍聖絵』の岩屋寺の景色が見られます。これは四国霊場中の圧巻です。また、『一遍聖絵』の傑作の一つになっています。
 一遍聖絵』の詞書は、一遍の実子の聖戒が書きました。
聖戒は一遍が還俗したときに生まれた子どもで、お父さんの弟子になって十六年間お父さんと一緒に歩いています。しかし、その間に親子の名乗りをしなかった。死ぬ前に呼んで話をした以外は特別扱いしなかったというので、江戸時代から石童丸と刈萱道心の話昿一遍と聖戒の関係を下敷きにしたのだといわれています。
 聖戒は自分のお父さんの十六年の足跡を絵師を連れて歩きました。最近、円伊という絵師がどういう人であるかということもわかってきました。なかなか位の高い坊さんである円伊にその都度スケッチさせています。
 
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 このように、大宝寺と岩屋寺を奥の院と札所という関係に見立てたので、両方を合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋という非常に大きな洞窟があります。一遍が寵ったのはどちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。
  
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 「一遍聖絵』は「菅生の岩屋」として大宝寺と岩屋寺の縁起を書いています。
普通、四国霊場の縁起は元禄元年に書かれた『四国偏礼霊場記』によっていますが、幸いにも大宝寺と岩屋寺については鎌倉時代の『一遍聖絵』の詞書が残っています。
 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。
此寺は文武天皇の御宇、大宝元年四月十八日、
猟師山中に人しに、岩樹撃動して紫雲峯渓に満、一所より光明閃射せり。
其所を訪ふに、忽ち一仏像あり。
即十一面観音也。生ぜる菅を斑まします。其所に就て堂やうの事をいとなみ、
菅を掩、安置し奉り、其猟師といへるもの、白日に天にのぼれり。
是を高殿明神と斎祀す。菅を斑ましますが故に、菅生山と号し、
大宝年中の事なるが故に大宝寺と称す。
 文武天皇の大宝元年は701年で、藤原京の時代です。
猟師が山の中に入ったところ、岩や木の間から光がさしていた。そこを見ると仏像があったといいますから、感得の縁起です。光るものがあったり音がしたり、つまり何らかのお示しがあって、行ってみたらそこに仏像があったというのを仏像を感得するといいます。
 「一遍聖絵」では、猟師は弓と矢をもっていたので、弓を柱にして、自分の着ていた蓑をかけて仏像をまつってお寺を建てた。両三年を隔てて行ってみると菅の根が生えて茂っていたと書いています。菅が生えたお寺だというので、最初は菅生寺と呼ばれたお寺が、のちに岩屋寺と大宝寺に分かれたわけです。大宝寺は、このことが大宝年間のことなので年号をとって、大宝寺としたと書かれています。
 その仏像は十一面観音で、『四国偏礼霊場記』では、菅を敷いて仏像を置いた、簡単なお堂のようなものを造って、さらにその上を菅で覆って安置し奉った。その猟師は天に昇って神様になった、それが高殿明神だと書いています。これは『一遍聖絵』に出てくる野口の明神と同じものを指しているとおもいます。

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 寺伝によると、元禄年間(一六八八-一七〇四)に本堂を中心に、向かって右に赤山権現と天神社、向かって左に三嶋大明神、耳戸明神、阿弥陀堂、文殊堂、百々尾権現社が一直線に並んでいたとされています。
 そのほか弁天社や十王堂、十二坊がありました。現在は十二坊はありません。
『四国偏礼霊場記』の挿絵には、登ってくる入口に一ノ王子、ニノ王子という王子社が出てきます。これも現在はありません。
 
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  じつは、山岳宗教の前に辺路をめぐる行がありました。
これがやがて辺路が遍路に変わります。
『今昔物語集』では辺地と書いていますが、江戸時代半ばに「辺路」が「へんろ」と読まれるようになり、文字も遍路に変わったのだろうとされています
 四国遍路の札所は海岸や島にあったり、海が見えたりして、海岸となんらかの関係をもっていることが条件です。太龍寺や焼山寺はかなり山の中にあるのに、ちゃんと海が見えます。   

参考文献 五来重:四国遍路の寺    

   浄土寺の落書
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浄土寺

 
四十九番の浄土寺は落書で非常に有名です。
厨子に室町時代ごろの遍路の落書があります。本尊は釈迦如来です。
孝謙天皇の勅願で行基菩薩が作ったという縁起は信用がおけませんが、鎌倉時代に再興されたことは事実です。

   このお寺を保護したのは、河野水軍の河野氏です。
 河野通信という武将が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。熊野水軍が五百隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍は二百五十隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。 
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浄土寺
 河野氏は大三島の大山祗神を一族の氏神にして、守護であると同時に神主を兼ねました。神主は普段は大三島にはおりません。承久の変が起こると、通信は二人の子どものうち長男は京方、次男は鎌倉方に味方させて、自分は長男とともに京方に付きました。承久の変が京方の敗北に終わっても、源頼朝による伊予半国の守護に任ずるという約束は守られます。
通信は斬罪から逃れて、奥州の北上のあ屹りに流されて、そこで死にました。いまの江刺市と北上市の境にある聖塚が通信の墓ではないかとされています。
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 『一遍聖絵』には、河野通信の孫の一遍上人がお祖父さんの墓を弔いに行って、行道念仏をしたときの景色が描かれています。一遍上人が坊さんになったのも、承久の変で家が没落したからだ、非常に武士的な気迫をもった坊さんであったのも、武将の家に生まれたからだという説もあるくらいです。
  浄土寺に空也上人がしばらく留まっていたということから、浄土寺と浄土寺の西の日尾八幡という非常に大きな八幡さんとの間の、みかん畑になっている谷が空也谷と呼ばれています。

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本堂の中には室町時代初期ぐらいの空也上人像があります。

 こういう伝承があるところは、空也聖(阿弥陀聖)がいたところです。伝説では空也の墓は八つも九つも数えられていますが、それもおかしなことです。
空也聖は念仏を唱えながら諸国を歩いて、空也上人とほとんど同じことをしています。空也が亡くなったときに作られた『空也誄』という非常に信憑性のある伝記には、空也上人は峠で人馬が苦労していると、鍬をもって平らげて通りよくしたということが書かれています。
  やがて空也聖が遊行をやめて定住するようになると、葬式を執り行う村が生まれました。そこには空也の墓と称するもの、あるいは空也堂と称するものがあります。
 その村の人たちは本当に空也がそこに埋まっていると思って拝んでいたようです。空也聖たちは多少差別されたので、精神的なよりどころとして空也の墓谷や、空也堂を建てていたと解釈して間違いありません。
 空也堂にまつっていた阿弥陀さんを三蔵院、あるいは三蔵寺と呼ばれた日尾八幡の別当寺に移して浄土寺という名前に変えたのではないかと推察できます。
 そう考えないと、お釈迦様をまつったお寺を浄土寺というのはおかしいわけです。
浄土寺という名前に変わったのは、むしろ阿弥陀様の信仰が強かったということを示しています。
 
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 本堂の本尊の厨子に、室町時代の辺路修行折の落書きあり。

これは国宝ですから、めつたに拝観できません。
 大永八年(1528)の年号が書かれた落書には、「金剛峯寺谷上惣識善空、大永八年五月四日」と書いてあります。高野山には、現在でも谷上という場所があります。そこの惣識とあるので、大永八年五月四日に善空という大が代表してお参りしたということだとかもいます。
 その次は「金剛峯寺満口口同行六人、大永八年五月九日」という落書です。
現在のお遍路さんは、菅笠や札ばさみに「同行二人」と書いています。これは、一人でも弘法大師と二人で歩いているという意味ですが、昔は一人だけれども弘法大師と二人だ。したがって、三人で回ったら同行六人だという数え方はしないので、実際、六人で回ったようです。
 その次は「享禄四年七月廿三日 筆 覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」とあるので、四人で参っています。その中でこの落書を書いた人物は覚円だとみずから語っております。
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 江戸時代に入ると、遍路という字と辺路という宇が混じって使われるようになります。そして、元禄年間以降になると遍路に変わります。
その次の落書には、「四国辺路同行四人川内口津住口覚円廿二歳」と書いてあるので、前の筆者と同じ筆者がもういっぺん自分の年を宣伝するために書いたものかもしれません。
 その次に「三川同行口口遍路大永五年二月十九日」という落書の三川は三河です。
 その次は平仮名混じりで「四国中えちぜんのくに一せうのちう八いさの小四郎」と書いてあります。「一せうのちう」というのはよくわかりませんが、越前の国の一つの荘の役をしていた八いさの小四郎という者が四国中を参ったということだとおもいます。
 
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そのあとに「四国中辺路」が出てきます。

「四国中辺路口善冊口辺路同行五人のうち阿烏名東住人口大永七年七月六日」の烏は州と同じですから阿烏は阿波です。
 それから、「書写山泉俊長盛口口大永七年七月吉日、なれ大師辺照金剛」という落書もあります。みんなでいろいろと書いたものです。

西林寺-杖淵の泉

 
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四十八番の西林寺の本尊は十一面観音です。
江戸時代初めの『四国偏礼霊場記』には
「杖淵と塀を隔ててお寺がある。本堂、鎮守がある」と書かれています。弘法大師が杖で湧かしたという杖淵という泉(弘法清水)から約二〇〇メートル離れたところに、現在の寺地があります。杖渕を奥の院としているのは、霊場寺院が変遷しか一つの実例だとおもいます。
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 鎮守は熊野三所権現です。
『四国偏礼霊場記』には「杖の淵と名づく。かかし大師此所を杖を以て加持し給ひければ、水道騰して玉争ひ砕け」とあるので、弘法清水という大師の杖の信仰からできた寺であることがわかります。
 そうすると、泉のほとりに小さな大師堂あるいは観音堂があって、そこにたまたま住んでいた勧進聖がいちばん都合のいい場所を選んで、いまの西林寺をつくりあげたということになります。いわば土地を買ったということかもしれません。
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縁起にも歴史にもそのことは出てきませんが、おそらくそういうことで、現在の寺址が杖淵から二〇〇メートルほど北西になったのだとおもいます。杖淵を奥の院としているのは旧址だからです。おそらくもとは観音堂か大師堂で、大師堂が現在の寺地の観音堂と合併して札所とたったものとおもねれます。

 『四国偏礼霊場記』では、寺と杖淵とは隣り合わせで、塀を隔てた位置にあり、本堂のほかには鎮守があるだけで、大師堂は描かれていません。つまり、もともとぱ別の寺であったものが、のちに杖淵にあった大師堂と観音堂が一緒になって、西林寺を名乗るようにたったわけです。

  四十七番の八坂寺と番外寺院徳盛寺は、衛門三郎の出身地争いをしています。
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衛門三郎は、はじめ悪人でしたが、のちに改心して四国遍路をした、四国遍路の開創だといわれている人です。衛門三郎は弘法大師にめぐり合って、弘法大師に看取られて死にました。焼山寺の麓にある銀杏の生えた庵で死んだということになっています。
 もちろん彼は架空の人物ですが、この伝承は弘法大師の辺路修行にお供をした者があるということを暗示しています。修行者はひとりでは何もできません。食べ物を用意してくれたり、行の準備をしてくれたりする人達が必要です。サポートする者としては、修行者に帰依してお供をする道心、修行者がかわいがっていた童子と呼ばれる(あるいは行場にいちばん近い村の人々などです。衛門三郎は道心に当たります。)
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 『弘法大師伝』の中に、室戸で弘法大師をサポートした者として愛慢愛語菩薩が出てきます。愛慢愛語菩薩は夫婦であるともいかれています。こういう者がもとになって、衛門三郎の伝承ができたのでぱないかとおもいます。 
八坂寺と徳盛寺が、衛門三郎をたがいに争っているのは、ちょっと頬笑ましいものがあります。八坂寺は、地獄極楽堂という信仰と教訓を兼ねたような施設を造っています。
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   八坂寺の本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代のものだということで、重要文化財に指定されていま すので、なかなか拝観できません。ここをまつったのは八坂氏という山伏と伝わります。

熊野十二所権現をまつったということですから、やはり熊野信仰がここに及んでいたことがわかります。松山に南から入ると、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺があり、一つ山を越えると繁多寺、町に入ると石手寺と六か寺が固まっています。西林寺もよくわかりませんが、浄土寺と並べて考えますと、浄土寺は西林山三蔵院浄土寺と西林を名乗っているので、あるいは両方がダブつているのかもしれません。どちらも周囲がすっかり開発されてしまいました。
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勧進聖達の活動と浄瑠璃寺

 
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四国に来た無名の遍路が帰るところもないので、空き寺があるとそこに寄って、空き寺を復興するために勧進をしました。新しく寺を建てるには費用が要ります。
写経をするにしても、紙や筆や硯を買う費用が必要です。
写経僧に法華経八巻なり大般若経六百巻を書いてもらうためには、お金や米を集めなければなりません。それをするのが勧進です。本来は、お前さんは念仏をしなさいと勧めることが勧進だったとかもうのですが、しかし、物を集めることも勧進です。

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 たとえば行基菩薩が山崎の橋を架げたり、木津の橋を架けたりするときも、労力を提供する人を食べさせなければなりません。もちろん材料として材木も買わなければなりません。お金平物を集めるために、これに参加した人にはこういういいことがあり、参加しなかった人にはこういうたたりがあると説いたのが、『日本霊異記』に残っている行基集団の勧進の説話だとおもいます。
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 浄瑠璃寺は元禄年間(一六八八-一七〇四)の山火事で延焼し、本尊や脇仏などをのぞいてほとんどが焼失しました。その後、尭音というお坊さんが願主となって天明年間(一七八一-八九)に再建したという伝えがあります。浄瑠璃寺に行くと、その本堂が現在も残っています。尭音は、土佐街道の八か所に橋を架け たということで、現在、松山にいちばん近いところに供養塔が建っています。
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 『四国偏礼霊場記』も、困ったとみえて「此寺興廃しらず。おしむべし」と書いています。したがって、縁起未詳です。
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愛媛県の四国霊場60番横峰寺の境内。花で埋められています。

何の花なんでしょう(?_?) 

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太子堂の前、お遍路さんが般若心経を唱えています。

その向こうには、シャクナゲの花が満開です。

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標高が700㍍を越えるここでは、花期が遅いようです。

おじぞうさんに降りかかるように、咲いています。

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寺を後に、杉木立の道を石鎚山の遙拝所に向かいます。

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標高750㍍「星が森」です。

江戸時代末期に設置された鳥居の向こうに石鎚が見えます。

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新緑が石鎚の裾野から駆け上がっています。

頂上付近は今,芽吹きの季節を迎えているようです。

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