瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐中世史

まんのう町図書館の郷土史講座で綾子踊りについて、お話ししました。その時のことを史料と共にアップしておきます。
綾子踊り 図書館郷土史講座

佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。

ユネスコ登録書
ユネスコ無形文化遺産登録書

ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●
convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。

風流とは?
「ふうりゅう」と「ふりゅう」の違いは?

「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。

上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀


 たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、
人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。

やすらい踊りの風流笠
やすらい踊りの風流笠


中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。

奥三河大念仏の大うちわ
奥三河大念仏の大うちわ

奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。

文化庁の風流踊りのとらえ方

文化庁の「風流踊」のとらえ方は?
華やかな色や人目を引くためためにの衣装や色、持ち物の大型化などが、風流(ふりゅう)化で、「かぶく」と重なり会う部分があるようです。一方、わび・さびとは対局にあったようです。歌舞伎や能・狂言などは舞台の上がり、世襲化・専業化されることで洗練化されていきます。一方、風流踊りは民衆の手に留まり続けした。人々の雨乞いや先祖供養などのいろいろな願いを込めて踊られるものを、一括して「風流踊り」としてユネスコ登録したようです。

雨乞い踊りから風流踊りへ
雨乞い踊から風流踊へ

綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

関連記事

中世の白峯寺2

前回は、補陀落渡海信仰をもつ山林修験者によって開かれた白峰寺が修験者の拠点として成長していく姿を追いかけました。今回は、そこに崇徳上皇信仰が「接ぎ木」されていくプロセスを見ていくことにします。
崇徳上皇と後鳥羽上皇

崇徳院は「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 
滝川(たきがわ)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

の歌で有名な歌人です。しかし、政治的には不遇な運命を辿ります。弟の後白河上皇の権力争いに敗れて、讃岐に流され、国府のあった府中(坂出市)周辺で流配生活を送ります。寂しさに耐えられず、崇徳院は弟に向けて恩赦の願いを出しますが受けいれられません。そして、亡くなると弟の後白河天皇は、喪にも服せず、葬儀の指示も出していません。兄の崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。過去の人として、意識の外に追いやっていたようにも思えます。
 今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。中央からの指示がないので、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で白峰山に埋葬されたと坂出市史は記します。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なもので「薄葬」であったことを押さえておきます。このような扱いに対して、崇徳上皇はどのように「反撃」したのでしょうか。保元物語には次のように記されています。
天狗になった崇徳上皇

ここには、①崇徳院が「京に返してくれと、長い仏典を自分の血で書写し嘆願したこと ②それが適わないと、大魔王として日本国を滅ぼすと誓い ③生きながら天狗になったことが書かれています。保元物語のこの記述は後世の人達にインパクトを与えて、ここから数多くの物語や作品が生み出されることになります。崇徳院がどんな風に見られていたかを、今に残る史料で見ておきましょう。

崇徳上皇と松山天狗

左が怨霊となって天狗姿で飛び回り、祟りをふります崇徳上皇の姿です。これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。この舞台は白峯寺(松山)です。崇徳上皇と親しかった西行法師が廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。そこでは、崇徳院は多くの天狗達のボスとして描かれています。その下で、天狗達のとりまとめ役が相模坊という天狗頭です。
 謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説、相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がります。そして、天狗になるために修行する修験者も数多く現れます。室町幕府の将軍の中にも天狗道信仰に夢中になって、政務を顧みない人物も現れます。当時の「入道」と称した人々の多くは天狗信仰者でした。
 崇徳上皇に仕えた白峯の相模坊を見ておきましょう。

白峯寺の天狗・相模坊
相模坊

右が頓證寺前の相模坊像です。背中に羽根のある天狗として描かれています。左が現在の頓證寺殿権現堂の白峯大権現のお札です。修験者の守護神不動明王のようです。その前には二人の天狗が描かれています。ここにも天狗道の痕跡が見えます。これを別の表現で云うと、崇徳院が天狗集団のボスとなった、逆に言うと「天狗集団が崇徳上皇をかついだ」ということになります。天狗の中には、白峯寺の子院の主人達もいたはずです。これを別の史料で裏付けておきます。

相模坊・金剛坊 天狗経
            ①天狗経です。
これは今では近世に造られた偽書(偽の経典)とされています。ここには当時の全国の有名な大天狗とその拠点ががリストアップされています。京都の愛宕山の天狗をスタートに鞍馬・熊野・吉野・高野山・石鎚山の名前があります。讃岐では
最初の赤いマークが「黒眷属金毘羅坊 
2番目が「白峯相模坊」
3番目が「象頭山金剛坊」
が挙げられています。ここからは白峯山や象頭山は天狗信仰のメッカで、おおくの行者達が修行のために訪れていたことがうかがえます。金毘羅大権現の天狗の姿を見ておきましょう。

金毘羅大権現天狗説
           金毘羅大権現
大権現とはどんな姿だったのか? 「権現は、変化するもの」です。例えば金毘羅大権現は、高松藩に説明するときなど公的には、「クンピーラ(金毘羅)と称し、天部の仏と称しています。それでは、信者にはどう説明していたのでしょうか?
左図の上に「金毘羅大権現」と書かれています。これが金毘羅大権現の姿なのです。その下には天狗達が描かれています。右側には不道明のような姿で金毘羅大権現は描かれています。そして、その周りを囲むのは天狗達です。下には「別当金光院」とあります。金毘羅大権現社の別当金光院のことです。金光院は、このような掛け軸を、金毘羅行者と呼ばれた修験者たちに配布していたのです。まさに彼らは、天狗になるために修行していたのです。そのボスが白峯寺では崇徳上皇だったことになります。そのためか、幕末になると崇徳上皇の権化が金毘羅大権現だという説が、京都を中心に拡がっていたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際の金刀比羅宮により白峯寺乗っ取りの要因のひとつとされます。ここでは、天狗信仰で、白峰山と象頭山はつながっていたことを押さえておきます。
「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えは、幕末にはかなり広がっていたようです。
ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があります。皇国史観で歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は、近代以後は語られなくなります。

話をもどして、晩年の後白河上皇には不幸が重なります。

崇徳上皇の怨霊を怖れる後鳥羽上皇

これに対して、この禍が崇徳院の怨霊によるものと考えたブレーンたちは、次のような対策(怨霊封じ)を講じます。

崇徳上皇の怨霊慰安

 「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた墓は、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。⑤の結果、建てられるのが頓證寺です。

それでは、崇徳上皇慰霊のために建立された頓證寺というのは、どんな施設だったのでしょうか。
当時の建物は残っていませんが、初代高松藩主松平頼重によって、再建された建築物群が今に残っています。それを見ていくことにします。

P1150681

初の頓證寺の門前に戻ってきました。今度は門をくぐって中に入っていきます。
頓證寺1
頓證寺正面(白峯寺)
門をくぐると正面に頓證寺が見えてきます。背後の森が崇徳陵になります。もう少し近づいてみましょう。
頓證寺2
頓證寺
頓證寺と呼ばれていますがお寺らしく見えません。まるで神社の拝殿のように私には見えます。この建物の面白い所は、拝殿と本殿の関係です。まず、現在の姿を裏側の陵墓の方から見ておきましょう。

頓證寺の背後
頓證寺と本殿
陵墓方面から①が拝殿です。②が崇徳院の御影を祀っていた本殿です。ここに崇徳院の御影が祀られていましたが、今はありません。普通は、拝殿と本殿だけですが、ここには拝殿のうしろに仏式のお堂が2つあります。ここには何が祭られていたのでしょうか。③は本地堂(十一面観音堂) とも呼ばれています。ここに、先ほど見た十一面観音がありました。建築形式も仏堂スタイルです。権現堂は、先ほど見た天狗達の大ボスである相模坊が祀られていました。これを幕末の絵図で確認しておきます。

頓證寺 金毘羅参詣名所図会
崇徳上皇陵と頓證寺
 一番右側が拝殿です。そこから3本の渡り廊下が延びています。その先の右が観音堂 真ん中が 本殿 左が権現堂です。これは白峯寺の歴史が集約されてレイアウトされていると研究者は考えています。
①観音堂は、熊野行者達のもたらした観音信仰と山林修行
②本殿には崇徳院の御影
③権現堂は天狗の親玉相模坊
まさに、これは白峯寺の歴史です。それらが混淆した形を示しているように私には思えます。それでは、このレイアウトを考えたのはだれでしょうか、それはこの建物群の寄進者である松平頼重ということになります。

鎌倉時代の白峯寺がどのように、見られていたのかを資料で押さえておきます。
牟礼の洲崎寺には南海流浪記という鎌倉時代の讃岐のことを記した資料があります。これを書いたのは、道範という高野山の高僧です。当時の高野山での党派争いの責任を取らされて讃岐に流されて、8年ほど善通寺で生活しています。その時の様子を記録に残しています。ここには8年ぶりに帰国を許された際に、白峯寺に立ち寄ったことが記されています。そして次のように記します。

南海流浪記の白峯寺

 ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代には「崇徳上皇廟所としての白峯寺」という認識が人々の間に拡がっていたことが裏付けられます。  
崇徳上皇信仰が混淆してきた中世の白峯寺の性格をまとめておきます。
中世の白峯寺の姿

①もともとは熊野行者たちによって開かれた補陀落=観音信仰の霊地    ②そこに崇徳院の御霊が置かれ、中央の有力者の信仰を得るようになった。
③お堂や寺領が寄進され経済基盤が整えられた
④多くの子院を擁し、そこに念仏聖や熊野行者達が活動拠点とした。

今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史
  「羽床正明  崇徳上皇御廟とことひら53 H10年」
関連記事

金刀比羅宮を訴えた白峯寺

本日いただいたテーマは、大変重いもので私にこれに応える力量はありません。テーマの周辺部を彷徨することになるのを初めにお断りしておきます。さて、このテーマの舞台となるのが、白峯寺の頓證寺(とんしょうじ)殿です。門の奥に見えるのが頓證寺です。その奥に崇徳上皇の陵墓があります。ここでは、白峯寺の中には、頓證寺という別の寺があったことを押さえておきます。

白峯寺 謎解き

本日のテーマに迫るための「戦略チャート 第1」です。このテーマの謎解きのために、つぎのようなステップを踏んでいきたいと思います。 
①どうして、もともと白峯寺にあったお宝が、今は金刀比羅宮にあるのか。→ 明治の神仏分離の混乱期に 
②どうして白峯寺に沢山の宝物があったのか →
 崇徳上皇をともらう寺院として、天皇など有力者の信仰を集め、寄進物があつまってきたということです。
③どうして、崇徳上皇は白峯山に葬られたのか
 白峯山が山林修行者の霊山であり行場であったからでしょう。
④中世の白峯寺とはどんな寺院だったのでしょうか。
そこで、④→③→②→①のプロセスで見ていくことにします。

白峯寺古図3

まず見ていただくのが白峯寺古図です。これは中世の白峯寺の姿を近世になって描かせたものとされます。右下から見ていくと
① 綾川 ② 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと ③ふもとに高屋明神と紺谷明神が描かれています。このエリアまで白峯寺の勢力の及んでいたと主張しているようです。④海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れおち、断崖の上に展開する伽藍 ⑤崇徳上皇陵 本堂 いくつもの子院 三重塔 白峰山には権現とあります。
 書かれている内容については、洞林院が近世になって中世の栄華を誇張したものとされていました。だから事実を描いたものとは思われていませんでした。その評価大きく変わったのは最近のことです。そのきっかけとなったのは、四国遍路のユネスコ登録のために、各霊場での発掘発掘です。白峯寺でも発掘調査が行われた結果、この絵図に書かれている本堂横と別所から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えています。それを裏付ける資料を見ておきましょう。

白峯寺子房跡

白峯寺の測量調査も行われました。白峯寺境内の実測図 
①駐車場の ②本坊 ③崇徳上皇陵 ④頓證寺 ⑤本堂 
注目して欲しいのは、白い更地部分です。本堂の東側と川沿いにいくつものにならんでいます。これが中世の子院跡だというのです。ここからも中世には21の子院があったという文献史料が裏付けられます。もう少し詳しく白峯寺古図を見ておきましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 拡大 本堂周辺
①白峰山には「権現」とあります。「権現=修験者によって開かれた山」です。ここからはこの地が修験者にとって聖地であり、行場であったことが分かります。

白峯寺 別所5
白峰寺古図拡大 別所
②三重塔が見える所には「別所」とあります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」がある所です。現在の白峯寺の奥の院である毘沙門窟への分岐点で、ここに大門があったことになります。別所は、中世に全国を遍歴する修験者や聖などが拠点とした宗教施設です。ここからも数多くの山林修行者が白峯山にはいたことがうかがえます。

次に、中世の白峯寺の性格がうかがえる建物を見ておきましょう。
白峯寺は、中世末期に一時的に荒廃したのを、江戸時代になって初代高松藩主の松平頼重の保護を受けて再建が進められました。藩主の肝いりで建てられた頓證寺などは、当時の藩のお抱え宮大工が腕を振るって建てたものもので、いい仕事をしています。それが認められて、数年前に9棟が一括で重文に指定されました。そのなかで、中世の白峯寺を物語る建物を見ておきます。

白峯寺 阿弥陀堂
白峯寺阿弥陀堂
①本堂北側にある阿弥陀堂です。
宝形造りの小さな建物です。中には阿弥陀三尊、その後ろの壁に高さ16cmの木造阿弥陀如来像が千体並べられているので「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世には真言宗の高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていた時期があります。その時期には白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことが、この建物からはうかがえます。「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと研究者は考えています。

白峯寺行者堂

本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ行者堂です。
これも重文指定です。現在は閻魔などの十王が祀られています。
しかし、この建物は「行者堂」という名前からも分かるとおり、もともとは役行者を奉ったものです。役行者は、修験道の創始者とされ、修験者たちの信仰対象でもありました。修験者が活動した拠点には、その守護神である不動明王とともに、役行者がよく奉られています。これも、白峯寺が修験者の霊山であったことをしめしています。
今まで見てきた白峯寺の性格をまとめておきます。

中世の白峯寺の性格

次に白峯寺縁起で、本尊の由来を見ておきましょう。

白峯寺本尊由来2

 ここには次のようなことが記されています。
①五色台の海浜は、祈念・修行(行道)の修験者の行場であった。
②補陀落山から霊木が流れてきたこと。
③その霊木から千手観音を掘って、4つの寺に安置したこと。
④4つの寺院とは、根来寺・吉永寺(廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峯寺
この4つのお寺の本尊は同じ霊木が掘りだされものだというのです。共通の信仰理念をもつ宗教集団であったことがうかがえます。それでは、その本尊にお参りさせていただきます。

国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
①国分寺の観音さまです。讃岐で一番大きな観音さまで約5mのいわゆる「丈六」の千手観音立像で、平安時代後期の作とされます。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。奈良の長谷寺の観音さまと似ていると私は思っています。
②次が白峯寺の観音さまです。崇徳上皇の本地仏とされ、頓證寺の観音堂(本地堂)に安置されていました。③次は根来寺です。天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火で本尊が焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたと伝えられています。吉水寺も同じ霊木から掘りだされた観音さまが安置されたと縁起には書かれていました。
こうしてみると確かに3つの観音さまは、共通点があります。そして五色台周辺の四国霊場は、みな観音さまが本尊で観音信仰で結ばれていたことになります。ところがこれだけでは終わりません。四国霊場の屋島寺を見ておきましょう。

屋島・志度寺の本尊観音
屋島寺と志度寺の本尊
屋島寺も千手観音です。この観音さまは、平安時代前期のものとされ、県内でもとくに優れた平安彫刻とされています。
次の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。そして、志度寺の本尊も千手観音です。この観音さまの由来を、志度寺縁起7巻には次のように記します。

近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、・・・・24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音や まします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。

霊木が志度の浜にたどり着いた場面です。

志度寺縁起
志度寺縁起 霊木の漂着と本堂建立
流れ着いた霊木が観音さまに生まれ変わっている場面です。観音の登場を機に本堂が建立されています。寺の目の前が海で、背後には入江があります。砂州上に建立されたことが分かります。本尊は補陀落観音だと云っていることを押さえておきます。

最後に志度寺の末寺だったとも伝えられる長尾寺を見ておきましょう。近世の初めの澄禅の四国辺路日記には、次のように記します。

四国辺路日記 髙松観音霊場

こうしてみると、現在の坂出・高松地区の四国霊場は、中世には千手観音信仰で結ばれていたことになります。別の言い方をすると、観音信仰を持つ宗教者たちによって開かれ、その後もネットワークでこれらの7つの霊場は結ばれていたということです。それでは、これらの寺を開いたのは、どんな宗教者達なのでしょうか。それを解く鍵は、今見てきた千手観音さまにあります。
 千手観音信仰のメッカが熊野の那智の浜の補陀落山寺です。

補陀落渡海信仰と千手観音.2JPG

 ①補陀落信仰とは観音信仰のひとつです。②観音菩薩の住む浄土が補陀落山で、それは南の海の彼方にあるとされました。③これが日本に伝わると、熊野が「補陀落ー観音信仰」のメッカとなり、そこで熊野信仰と混淆します。こうして熊野行者達によって、各地に伝えられます。そして、足摺岬などで修行し、補陀落渡海するという行者が数多くあらわれます。それでは、補陀落信仰のメッカだった熊野の補陀落山寺のその本尊を見ておきましょう。

補陀落渡海信仰と千手観音

これが補陀落山寺の本尊です。
以上の補陀落・観音信仰の讃岐での広がりを跡づけておきます。
①熊野水軍の瀬戸内海進出とともに、船の安全を願う祈祷師として、瀬戸内海に進出 各地に霊山を開山・行場を開きます。
②その拠点になったのが、児島の新熊野(五流修験)です。児島を拠点に、小豆島や讃岐方面に布教エリアを拡げていきます。
③熊野行者達は、背中の背負子の中に千手観音さまを入れています。そして新しく行場や権現を開き。お堂を建立するとそこには背負ってきた観音さまを本尊としたと伝えられます。
④それが高松周辺の7つの観音霊場に成長し、七観音巡りがおこなわれていたことが見えて来ます。
こうしてみると、白峯寺や志度寺は孤立していたわけではないようです。「補陀落=観音信仰」のネットワークで結ばれていたことになります。それが後世になって高野聖達が「阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」をもたらします。そして、近世はじめには四国霊場札所へと変身・成長していくと研究者は考えています。
七つの行場で山林修行者は、どんな修業をおこなっていたのでしょうか? 
山林修行者の修行

①修業の「静」が禅定なら、「動」は「廻行・行道」です。神聖なる岩、神聖なる建物、神木の周りを一日中、何十ぺんも回ります。円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いています。「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになったようです。江戸時代には、ここで百日「行道」することが正式の行とされていました。
②行道と木食は併行して行われます。③そのためそのまま死んでいくこともあります。これが入定です。④そして修業が成就したとおもったらいよいよ観音浄土の補陀落めざして漕ぎ出していきます。これが補陀落渡海です。この痕跡が五色台や屋島の先端や志度寺には見られます。五色台の海の行場を見ておきましょう。

五色台 大崎の鼻

ここは五色台の先端の大崎の鼻から見える光景です。目の前に、大槌・小槌の瀬戸が広がります。補陀落渡海をめざす行者達の行場に相応しい所です。ここから見えるのが大槌と小槌島で、この間の瀬戸は古代から知られた場所でした。大槌・小槌は海底世界への入口だというのです。以前にお話しした神櫛王の悪魚退治伝説の舞台もここでした。瀬戸の船乗り達にとっては、ランドマークタワーで名所だったようです。そこに突き出たようにのびるのが大崎の鼻。中世の人々で知らないものはない。ここと白峰山の稚児の瀧を往復するのが小辺路だったのかもしれません。そこに全国から多くの廻国行者や聖達が集まってくる。その一大拠点が白峯山の別院であり、多くの子院であったということになります。これをまとめておくと、古代から中世の白峰寺は、次のような性格を持った霊山だったことになります。

中世の白峯寺2

こういう霊山だったから崇徳院は、白峯山に葬られたとしておきます。ここまでが今日の第一ステップです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音   四国へんろの歴史15P」
「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」
関連記事




 「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」とある人から言われて快晴の秋空の下、原付バイクを江畑の登山口めざして走らせました。グーグルマップで「江畑道駐車場」と検索すると出てくる駐車場が中寺廃寺への登山口になります。

中寺廃寺 江畑登山口HPT
中寺廃寺 江畑登山口

すぐに尾根にとりつきます。しばらくは急勾配が続きますが、この道はもともとは江畑から大川山への参拝道でもあり、徳島側の大平集落を経て阿波との交易路でもあった道です。さらに旧満濃町と仲南町の町境でもあった旧街道で、歴史を経た道は歩きやすい、しっかりとした道でハイキングにはもってこいです。しかも、迷い込み易い分岐には標識がつけられているので安心して歩けます。

中寺廃寺 江畑道
江畑道と柞木道の合流点
 傾きが緩やかになると標高700㍍付近です。気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れ、さらに進むと左手から柞野(くにぎの)道との合流点と出会います。最後の階段を登ると展望台です。ここからの展望は素晴らしい。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 
説明板に「讃岐山脈随一の展望台」と書かれています。確かに180度以上のワイドな展望が広がります。象頭山を枕に満濃池がゆったりと横たわる姿。その彼方には荘内半島や燧灘に浮かぶ伊吹島。そして丸亀平野には神がなびく山である飯野山。1時間弱の山道を頑張って登ってきたことへの天からのご褒美かもしれません。

中寺廃寺からの満濃池
中寺廃寺展望台からの満濃池
 東屋で、この絶景を独り占めしながら昼食。その後は中寺廃寺跡の散策です。この辺りは、「中寺」という地名が残り大川七坊といわれる寺院が山中にあったと伝えられてきました。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、長らく幻の寺院だったのです。それが発掘調査の結果、展望台の周辺から仏堂、僧坊、塔などの遺構が出てきました。現在では「仏・祈り・願」の3つのゾーンを遊歩道で結び、山上の文化公園として整備されています。

中寺廃寺跡地図1
 中寺廃寺は3つのゾーンに分かれている
まずは「祈り」ゾーンへと向かいましょう。
ここには割拝殿と小規模な僧の住居跡があったようです。

中寺廃寺からの大川神社
割拝殿跡から見上げる大川権現(大川山)
僧侶達は、ここに寝起きして聖なる大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたのでしょう。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中では重なってきました。

大川山 中寺廃寺割拝殿
割拝殿と小規模な僧の住居跡

 松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かいます。
ここには、仏堂と塔があったようです。遺構保護のため、埋め戻して元の礎石によく似た石で礎石の位置が示されています。その礎石に腰掛けて、千年前のこの山中に建っていた塔をイメージしようとしました。がなかなか想像できません。どちらにしても、この寺は平安期においては讃岐においては、有力な山岳寺院でした。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔
 最後に訪れたのが避難所兼お手洗い。なんとバイオトイレです。まんのう町では、初お目見えではないでしょうか。紅葉の季節、落葉の絨毯を踏みしめての中寺廃寺参拝は如何ですか?
まんのう町報2018年12月原稿分
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

(詳細版)




尾背寺跡

  昔から気になる廃寺があります。本目の尾背寺です。

尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

この寺の「発掘調査書」を要約すると、次のようになります。

①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で
②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺
③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地
④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
などから寺域はかなり広く、多くの山岳修行者たちが拠点とする寺院だったようです。讃岐で作られたものではない土器や高価な白磁なども出ててくるので、廻国の修験者や聖の流入もあったようです。

尾背寺 白磁四耳壷
白磁四耳壺(尾背寺出土)

 高野山の高僧道範が讃岐流刑中に著した『南海流浪記』(1248)には、次のように記されています。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記の尾背寺の部分

「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」

ここからはこの寺が善通寺の「森林管理センター」であると同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。本尊は善通寺と同じ薬師如来です。薬師如来は熊野行者の信仰する仏でもありました。13世紀半の尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

  近年、尾野寺のことが萩原寺(大野原町)に残る文書に書かれているのが明らかになりました。
尾背寺文書
萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法
例えば萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法は、文保元年(1317)に尾背寺下坊で書写されたと記されています。それが萩原寺の聖教として保管されていました。ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。
②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
こうして見ると尾背寺は山の中に孤立していたわけでなかったようです。大川山の中寺廃寺や炭所の金剛院とも結びついた山岳寺院ネットワークを構成していたことが考えられます。そして、これらの寺は阿波との交易の中継基地的な役割も果たしていたと私は考えています。

関連記事

 

前回は曼荼羅寺が、11世紀後半に廻国の山林修験者たちの勧進活動によって復興・中興されたことを見てきました。その中で勧進聖達が「大師聖霊の御助成人」という自覚と指命をもって勧進活動に取り組んでいる姿が見えてきました。これは別の言い方をすると、「弘法大師信仰をもった勧進僧達による寺院復興」ということになります。それは現在の四国霊場に「弘法大師信仰」が接ぎ木される先例として捉えることができます。そんな思惑で、弘法大師の伝記『行状集記』に載せられている四国の3つの寺、讃岐の善通寺・曼荼羅寺と阿波の太龍寺、土佐室戸の金剛頂寺の11世紀の状況を見ていくことにします。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」です。
この3つの寺に共通することとして、次の2点が指摘できます。
①弘法大師の建立という縁起をもっていること
②東寺の末寺であったこと
まず土佐室戸の金剛頂寺です。
室戸は、空海の口の中に光が飛び込んで来たことで有名な行場です。三教指帰にも空海は記しているので初期修行地としては文句のつけようがない場所です。この室戸岬の西側の行当岬に、空海によって建立されたのが金剛頂寺であることは以前にお話ししました。

DSC04521
      金剛定(頂)寺に現れた魔物を退治する空海

その金剛定寺も11世紀になると、地方豪族の圧迫を受けるようになります。1070(延久二)年に、土佐国奈半庄の庄司が寺領を押領します。それを東寺に訴え出た解案には、次のように記されています。
右、謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、 智弘和尚真言法界練行之砌天人遊之処、 明星来影之嶺也、因茲戴大師手造立薬師仏像安二置件嶺(中略)
是以始自国至迂庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠也、乃任各施本意、備以件地利、備仏聖燈油充堂舎修理 中略……、漸経数百歳也、而世及末代 ……、修理山川田畠等被押妨領  、茲往僧等、以去永承六年十二月十三日相副本公験注子細旨、訴申本寺随本寺奏聞 公家去天喜元年二月十三日停二止他妨
意訳変換しておくと
 謹しんで旧記を見ると、当寺は修行中の弘法大師が明星のもとで初めて悟りを開いた地とされている。智弘和尚も真言法界の修行の祭には天人が遊んだともされる明星来影の聖地であるとされる。それにちなんで、弘法大師の手造りの薬師如来像を安置された。(中略)
当寺は土佐ばかりでなく、広く全国の人々からも、仏法霊験の地として知れ渡っている。各所から山川田畠が寄進され、人々の願いを受けて、伽藍を整備し、聖たちは燈油を備え、堂舎の修理を行ってきた。 中略
それが数百年の長きに渡って守られ、末代まで続けられ……、(ところが)修理のための寺領田畠が押領された。そこで住僧たちは相談して、永承六(1051)年十二月十三日に、子細を東寺へ伝え、公験を差し出した。詳しくはここに述べた通りである。本寺の願いを聞き届けられるよう願い上げる。 公家去天喜元年二月十三日停止他妨
ここからは次のようなことが分かります。
①最初の縁起伝説は、東寺長者の書いた『行状集記』とほぼ同じ内容であること。(これが旧記のこと?)
②智弘和尚の伝説からは、金剛頂寺が修行場(別院)のような寺院であったこと
③そのため廻国の修行者がやってきて、室戸岬との行道修行の拠点施設となっていたこと
④金剛頂寺の寺領は、さまざまな人々から寄進された小規模な田畠の集まりであったこと。
⑥金剛頂寺が、庄司からの圧迫を防ぐために、東寺に寺地の公験を差出したのは、1051(永承六)年のこと

公験とは?

全体としては、「空海の初期修行地」という特性をバックに、東寺に向かって「何とかしてくれ」という感じが伝わっています。
①からは、これを書いた金剛頂寺の僧侶は、東寺長者の書いた『行状集記』を呼んでいることが裏付けられます。①②からは、室戸という有名な修行地をもつ金剛頂寺には、全国から山林修行者がやってきていたこと。しかし、寺領は狭くて経済基盤が弱かったことが④からはうかがえます。『行状集記』の金剛頂寺の伝説には、有力な信者がいないために、沖を往来する船舶にたいして「乞食行」が公認されていたという話が載せられていて、経済基盤の弱さを裏付けます。⑥の公験を差し出すと云うことは「末寺化=荘園化」を意味します。
ところが金剛頂寺では、これ以後は寺領が着実に増えていきます。その背景には、当時四国でもさかんになってきた弘法大師信仰が追い風となったと研究者は考えています。それが寺領・寺勢の発展をもたらしたというのです。それは後で見ることにして・・・。
4大龍寺16
太龍寺
次に、阿波国太龍寺を見ておきましょう。
1103(康和五)年8月16日の太龍寺の所領注進には、次のように記されています。
抑当山起、弘法大師之初行霊山也、……、於東寺別院既以数百歳、敢無他妨哉、 兼又勤仕本寺役耳、

意訳変換しておくと
そもそも当寺は、弘法大師の初修行地の霊山で・・東寺の別院として数百年の年月を経ている

大瀧寺も『行状集記』の「弘法大師之初行霊山也」以下の記述を、縁起に「引用」しています。この寺ももともとは、行場にやってきた山林修験者たちが宿泊する「草庵」から出発して、寺に発展してきたようです。
大瀧寺は、阿波国那賀郡加茂村の山の中にあります。
寺の周辺を寺域として、広い山域を占有していたことようで、注進文書では寺域内の荒野開発の承認を求めています。そして開発地を含む寺領の免租(本寺役のみの勤任)を、本寺の東寺にたいして要請しています。ここでも、それまでの庵や坊から寺に脱皮していくときに、東寺に頼っています。

 前回見た讃岐の曼荼羅寺と、今見てきた阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の3つの寺は、「空海の初期修行地」とされ、そこに庵や坊が誕生していきます。そのためもともとの寺の規模は小さく、寺領も寺の周りを開墾した田畑と、わずかな寄進だけでした。それが寺領拡大していくのは、11世紀後半になってからで、その際に東寺の末寺となることを選んでいます。末寺になるというのは、経済的な視点で見ると本寺の荘園になるとも云えます。そして、本寺の東寺に対して、なにがしらの本務を担うことになります。
           
東寺宝蔵焼亡日記
          東寺宝蔵焼亡日記(右から6行目に「讃岐国善通寺公験」)

東寺百合文書の中に『東寺宝蔵焼亡日記』があります。

この中の北宝蔵納置焼失物等という項に「諸国末寺公験丼荘々公験等」があります。これは長保2(1000)年の火災で焼けた東寺宝蔵の寺宝目録です。これによると11月25日夜、東寺の北郷から火の手が上がり南北両宝蔵が類焼します。南宝蔵に納められていた灌頂会の道具類は取り出されて焼失を免れましたが、北宝蔵の仏具類のほか文書類が焼失しました。焼失した文書の中に讃岐国善通寺などの「諸国末寺公験并庄庄公験等」があったようです。
ここからは次のようなことが分かります。
①平安時代の東寺は、重要な道具類や文書・記録類は宝蔵に保管されていたこと
②讃岐国善通寺が東寺に公験を提出していたこと。
③阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の公験はないこと。
つまり、善通寺はこの時点で東寺の末寺になっていたことが、太龍寺と金剛頂寺は末寺ではなかったことになります。両寺は縁起などには古くから東寺の末寺・別院であることを自称していました。しかし、本山東寺には、その記録がないということです。これは公験を預けるような本末関係にまでには、なってなかったことになります。金剛頂寺や大瀧寺が、東寺への本末関係を自ら積極的にのぞむようになるのは、11世紀後半になってからのようです。その背景として、弘法大師信仰の地方への拡大・浸透があったと研究者は考えています。
「寺領や寺勢の拡大のためには、人々の間に拡がってきた弘法大師信仰を利用するのが得策だ。そのためには、真言宗の総本山の東寺の末寺となった方が何かとやりやすい」と考えるようになってからだとしておきます。その際に、本末関係の縁結び役を果たしたのが弘法大師関連の伝説だったというのです。そのような視点で曼荼羅寺の場合を見ていくことにします。
曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。


これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。
 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、さきほど見たように公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったことが考えられます。
 
 曼茶羅寺はもともとは、吉原郷を拠点とする豪族の氏寺だったと私は考えています。その根拠を以下の図で簡単に述べておきます。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

上の青銅器の出土の集中から旧練兵場遺跡がその中心で、ここに善通寺王国があったと研究者は考えています。しかし、その周辺を見ると善通寺とは別の勢力が我拝師山の麓の吉原エリアにはいたことがうかがえます。
青龍古墳1
青龍古墳(吉原エリアの豪族の古墳)

さらに、古墳時代になっても吉原エリアの豪族は、青龍古墳を築いて、一時的には善通寺エリアの勢力を圧倒する勢いを見せます。古墳時代後期になって、善通寺勢力は横穴式古墳の前方後円墳・王墓山や菊塚を築きますが、吉原エリアでも巨石墳の大塚池古墳を築造する力を保持しています。この勢力が律令国家になっても郡司に準ずる地方豪族として勢力を保持し続けた可能性はあります。そうすれば自分の氏寺を吉原に築いたことは充分に考えられると思います。その豪族が氏寺として建立したのが「曼荼羅寺」の最初の形ではなかったのかという説です。「原曼荼羅寺=吉原氏の氏寺説」としておきます。

青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷
 弥生・古墳時代を通じて、吉原エリアは、善通寺勢力とは別の勢力がいたこと、その勢力が氏寺として建立したのが曼荼羅寺の原型という説になります。律令体制の解体と共に、吉原を基盤とする豪族が没落すると、その氏寺も退転します。地方の豪族の氏寺の歩む道です。しかし、曼荼羅寺が違っていたのは、背後に我拝師山を盟主とする霊山(修行地)を、持っていたことです。これは弘法大師信仰の高まりととともに、空海幼年期の行場とされ、山林修行者にとっては聖地とされていきます。ある意味では、先ほど見た土佐国金剛定(頂)寺、阿波国大瀧(龍)寺と同じように廻国の聖達から見られたのかも知れません。
 曼荼羅寺は、前回見たように11世紀後半には退転していました。それを復興させたのは廻国の山林修行者だったことはお話ししました。そういう意味では11世紀半ばというのは、曼荼羅寺にとっては、地方豪族の氏寺から山林修行者の拠点への転換期だったと云えるのかもしれません。以上をまとめておくと
        
曼荼羅寺の古代変遷

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」
関連記事

   

行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

曼荼羅寺 第三巻所収画像000007
曼荼羅寺(金毘羅参詣名所図会 1847年)

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。曼荼羅寺のことが史料に出てくるのは11世紀以降に書かれた空海の伝記の中です。まず、それから見ていくことにします。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。
同年成立の「弘法人師御伝」
「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

ここでは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたと記されています。また11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。

  1118(元永元)年の「高野大師御広伝」

「讃岐国、建立善通寺曼荼羅寺両寺、止住練行、尤聖亦多、有塩峯」「善通曼荼羅両寺白檀薬師如来像、(中略)。手所操庁斧也」

意訳変換しておくと

「空海は、議岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺を建立した。ここには行場(塩峰)があり、集まってくる聖も多い。空海はそこに留まり修行を行った。善通・曼荼羅両寺の本尊は白檀薬師如来像で、  これは空海が自ら手斧で掘ったものである。」

1234(文暦元)年の『弘伝略頒抄』

讃岐国善通寺・曼荼羅寺、此両寺、先祖氏寺、又曼荼羅寺、善通寺、大師建」

これらを見ると時代を経るに従って、記述量が増えていくことが見て取れます。後世の人の思惑で、いろいろなことが付け加えられていきます。それが後の弘法大師伝説へとつながっていくようです。研究者が注目するのは、これらの記録の中に出てくる「善通・曼荼羅寺両寺」という表記です。ふたつの寺が合わせてひとつのように取り上げられています。「空海ゆかりの寺院」というだけではない理由があるようです。この過程では、同時に曼荼羅寺の再建・中興が進んでいたようです。それを見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号」、H15」です。

一円保絵図の旧練兵場遺跡
善通寺一円保図
先ほど見たように、もともと善通寺と曼荼羅寺はべつべつの寺でした。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
西岡虎之助氏は「土地荘園化の過程における国免地の性能」のむすびで曼荼羅寺について次のように記します。

「東寺派遣の別当の文献上の初見は、延久四年(1072)」
「両寺所司の同じく文献上の所見は天永三年(1112)である」
「少なくも永久年間(1113~18)ごろには、両寺は組織的結合体をなすにいたった」

以上を補足してまとめておくと
① 初期における東寺の支配形態は、個別的で、両寺が単独にそれぞれ東寺に属していた。
② 12世紀前半に「東寺の一所領(荘園化)」になりつつあった。
③「次期」においては、東寺の住僧が別当として派遣され、 東寺が両寺の寺務を握るようになった。
④その結果、両寺は組織的に一体化したものとして捉えられるようになった。
こうして「善通・曼荼羅羅両寺」と東寺文書は表記するようになったとします。ここでは12世紀初めに、善通寺と曼荼羅寺が東寺によって末寺化(荘園化)されたことを押さえておきます。そのため末寺化過程の文書が東寺に数多く残ることになったようです。

東寺百合文書
東寺百合文書

 私にとっと興味があるのは、この時期に行われた曼荼羅寺の再建活動です。それがどのように進められたかに焦点を絞って見ていくことにします。

曼荼羅寺文書
東寺百合文書の中の曼荼羅寺関係文書一覧
曼荼羅寺再建は、だれが、どのような方法で行ったのか?
その鍵を解く人物が「善芳」です。東寺の百合文書の中には、1062(康平5)年4月から1069年まで20点余りの文書の中に善芳が登場します。「善芳」とは何者なのでしょうか?
文書の中の自称は「曼荼羅寺住僧善芳」「曼荼羅寺修理僧善芳」「修行僧善芳」などと名乗っています。一方、国衙(留守所)では、彼のことを「寺修理上人」「修理上人」「企修造聖人」と呼んでいます。
   善芳の「敬白」の文書(番号18)は、次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」、
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺伽藍に滞在しました。
ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部が破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
この退転ぶりに、善芳は「毎奉拝雨露難留落涙、毎思不安心肝」(参拝毎に涙を流し、何とかならぬものか)」と自問します。そこで善芳は国司に「勁進(勧進)」して、その協力をとりつけ「奉加八木(用材寄進)」を得て、「罷渡安芸日、交易材木(安芸国に渡って、材木を買付)」て、「講堂一宇」の改修造建立を果たします。それだけにとどまらず、さらに「大師御初修施坂寺三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」を行っています。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動ということになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①善芳が各地を遍歴する廻国の修験僧であったこと。
②善芳が五岳・我拝師山の行場修行のために、曼荼羅寺周辺に滞在していたこと
③古代に建立された曼荼羅寺が荒廃しているのを見て復興再建を勧進活動で行ったこと
④そのために讃岐国司を説得して建設に必要な用材費の寄進を受けたこと
⑤安芸国に赴いて、用材や大工確保を行ったこと
⑥さらにのために、「大師御初修施坂寺」に「三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」も行ったこと。
 つまり11世紀に退転していた曼荼羅寺の復興活動を行ったのは善芳ということになります。それだけでなく我拝師山の行場近くの施坂寺にお堂と如意堂を建立したとします。施坂寺は、現在の出釈迦寺あたりとされているようですが、私にはよく分かりません
 彼は、廻国の山林修行僧だったことを押さえておきます。正式の僧侶ではないのです。
一円保絵図 中央部
善通寺一円保絵図(拡大) 我拝師山ふもとに曼荼羅寺が見える

この他にも、次のような修験者や聖がいたことが記されています。

件寺家辺尤縁聖人建奇宿住給、‥…、為宿住諸僧等 御依故不候、 住不給事、……、 大師聖霊之御助成人并仏弟子……
 
意訳変換しておくと

曼荼羅寺の近辺には無縁聖人(勧進聖)たちが仮の住まいを建てて生活しています。宿住の諸僧は、着るものも、住む所にもこだわらず、……、 ただただ、弘法大師の聖霊地の建設のために活動した仏弟子であります。

ここからも曼荼羅寺の勧進活動が「大師聖霊の御助成人」といわれるような廻国の山林修行僧たちによって担われていたことが裏付けられます。そして彼らを結びつけ、まとめあげた力(きずな)が、弘法大師信仰だったと研究者は考えているようです。彼らは先ほど見たように、国衙や東寺からは「修理聖人」と呼ばれる下級僧侶や聖・修験者たちでした。
 以上からは全国廻国の修験者たちが、各地の霊山にやってきて修行を行いながら、退転してた寺院を復興していく姿が見えてきます。同時に、彼らの精神的原動力のひとつが「弘法大師聖霊の御助成人」という自覚と誇りだったようです。 
 この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
弘法大師信仰と勧進聖

 彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
修復財源として寺周辺の田畠の開発も始め、寺領の拡大をもたらします。これに対して東寺は、復興活動を支援するのではなく、新たな田地へからの富の確保を優先します。善芳は東寺の「本寺優先策」に抵抗して、文書による請願行動を始めます。善芳のたたかいは、1062(康平二)年にはじまり1069年の修理終了によって終わったかにみえます。ところが、東寺は善通寺別当に延奥を派遣します。新たにやってきた別当は、善通寺だけでなく曼荼羅寺からの収奪をおこなうようになります。こうして今度は善通寺をもまきこんだ紛争状態へと突入していうことになります。東寺に残る善芳の文書は、この闘いの記録だとも云えるようです。この辺りは、また別の機会にお話しします。
善芳の次に登場してくる善範です。
善範も善芳とともに、曼荼羅寺の勧進活動に参加していた僧侶のようです。1071(延久二・四)年の文書の差出人として、善範が初めて登場します。番号31文書には、次のように自分のことを記します。
右、善範為仏法修行、自生所鎮西出家入道シテ年来之間、五畿七道之間、交山林跡 而以先年之比 讃州至来、有事縁 大師之御建立道場参詣、大師入滅之後、雖経多歳 依無修理破壊、動為風雨仏像朽損、乃修行留自始康平元年乍勧進天……

意訳変換しておくと
私(善範)は仏法修行者で、生まれの鎮西で出家し、長く五畿七道の山林を廻国して修行を積んできました。先年に讃岐にやって来て縁あって、弘法大師建立の道場である曼荼羅寺を参詣しました。ところが大師入滅後、多くの年月を経て、修理されることなく放置されていたために、建物は壊れ、風雨で仏像も破損する状態を眼の辺りにした。そこで修行中ではりますがこの地に留まり。康平元年より勧進にとりかかりました

さらに番号31文書には、つぎのような箇所があります。
難修理勤念之不怠、末法当時邪見盛也、乃難動進知識 起道心人希有也、因之自去延久元年於曼荼羅寺井同大師御前跡大窪御寺両所各一千日法花講演勤行、本懐不嫌人之貴賤、又不論道俗、只曼荼羅寺仁致修治之志輸入可令御座給料祈持也、此間今年夏程祥房同法申云、仁和寺松本御童為件御寺修遺、令下向給由云 仰天臥地、歓喜悦身尤限、

  意訳変換しておくと

怠りなく修理復興に努めていますが、末法思想流行の中で邪教が人々の中に広がり、資金は集まらず修理は滞っています。道心を知る人達は稀です。そこで打開策として、延久元年から曼荼羅寺と大師御前跡の大窪御寺の両所で、一千日法花講を開いています。貴賤や道俗を問わず、広く人々に呼びかけ、曼荼羅寺の修復のための資金をもとめるものです。今年も開催準備をしていたところ、仁和寺の松本御童がやって来られることになりました。それを聞いて、仰天し地に伏し、歓喜に溢れています。

ここからは次のようなことが分かります。
①末法思想が広がり阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が讃岐の人々の心をとらえていたこと
②そのために勧進活動が思うように進まず、修復作業も停滞していたこと
③勧進方針として道俗・貴賤の差別なく、いろいろな層の人達に勧進を呼びかけるために一千日法花講を開催するようになったこと
④それを聞きつけて仁和寺の高僧が支援のためにやってきてくれることになったこと
一千日法花講に参加し結縁した人々には、大師信仰によって約束された現世利益とともに、寺で行なう法華講の功徳をもたらすとされました。実はこのような動きは、土佐国の金剛頂寺の、阿波国の大瀧寺など大師行道所を起源とする寺院も同時進行で勧進活動による復興再建が行われていたことが分かってきました。これも弘法大師信仰の広がりという追風を受けての地方寺院の勧進活動だったと研究者は考えているようです。
曼荼羅寺
曼荼羅寺周辺遺跡図
ここで私に分からないのが「大窪御寺」です。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
 ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。

出釈迦寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の我拝師山の霊場


 以上をまとめておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」の一つであった
②10世紀中頃に諸国廻国の聖(修験僧)であった善芳は、退転した曼荼羅寺の復興を始める。
③善芳は弘法大師信仰を中心に勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功した。
④このような勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤その勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと指命であった。
こう考えると弘法大師信仰が高野聖などで地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支えていたことになります。その讃岐における先例が11世紀の曼荼羅寺の復興運動であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号 平成15年

 中世後半になると新しい社会秩序形成の動きが出てきます。そのひとつが農村における「惣型秩序の形成」だと研究者は考えているようです。南北時代以後になると、いままでの支配者であった荘園領領主や国司の権力や権威が地に落ちます。それに代わって土地に居ついた地頭や下司・郷司などが、そのまま国人に成長して、地域の支配者になっていこうとします。しかし、それは一筋縄でいくものではなかったようです。守護も、村の中に自分の勢力を植えつけるため、自分の子飼いの家来を現地に駐留させます。新しく成長した国人も、力を蓄えれば、その隣の荘園に侵入してゆくというような動きを見せます。まさにひとつの荘園をめぐって、いくつも武力集団が抗争一歩手間の緊張関係をつくりだしていたのです。ヤクザ映画の「仁義亡き戦い」の世界のように私には思えます。そういう意味では当時の農村は、非常に不安な状況にあったことを押さえておきます。

宮座構成員の資格
惣村構成員の資格

 そんな社会で生きていくために村人たちは、自分たちで生活を守るしかありません。隣村との農業用水や入会地などをめぐる争いもあります。また、よそからの侵人者や、年貞を何度もとろうとする領主たちに対しても、不当なものは拒否する態勢をつくらなければ生きていけません。        
自検断(じけんだん)と地徳政                          
そこで村の秩序を守るために、自分たち自身で警察行為を行うようになります。犯罪人逮捕や、その裁判まで村で行うようになります。これを検断といいます。農民が自分たちで検断権(裁判権)を行使するのです。検断権は、中世では荘園・公領ごとに地頭が持っていました。鎌倉時代以降では重大犯罪の検断権は守護がもち、それ以外は地頭がもっていました。そのような支配者の権限を、農民たちが自分たちで行使するようになってきたわけです。それを自検断と呼んだようです。
徳政も自分たちでやるようになります。
当時の農民は守護の臨時賦課などいろいろな負担に苦しめられていました。貨幣が使われる世の中になると、借金がたまりがちです。そういうときに徳政一揆を起こして負債の帳消しを要求したわけです。しかし、これを幕府に要求しても解決できるような力は、幕府にはもうありません。室町幕府の権限は、山城と摂津、河内、近江にしか及ばない状況です。そうなると、もともとは公権力のやるべき徳政令を自分たちでやり出します。それを地徳政(じとくせい)と呼びます。この「地」は「地下」という意味です。地徳政とは、自分たちの生活エリアだけで、私的な徳政を自分たちでやることです。ここには村の生活秩序を共同体として自治的にきめてゆくという姿勢が強く見えます。

徳政一揆の背景2
徳政一揆の背景

 また村の共同利用になっている山野の利用秩序、山の木を切るとか、あるいは肥料用の下草刈りに入る、いわゆる入会山を保護するために、いつ山の口開けや口止めをやるかというようなことから始まって、次のようなことも惣村内での取り決められるようになります。
①かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか
②祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
③盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、
④荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか
⑤周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、
惣村の構造図
       惣村の構成・運営・機能について
①惣村は名主層や小農民によって構成され、おとな・沙汰人などが指導者
②祭祀集団の宮座が結合の中心で、その運営は寄合の決定に従って行われた。
③惣掟を定めたり、入会地の管理にあたるなどした。
④地下検断(裁判権)の治安維持や地下請けなど年貢納入をも担う地縁的自治組織
⑤結合は連歌や能、一向宗の浸透を促す
⑥年貢減免を要求する強訴・逃散や土一揆など土民が支配勢力に抵抗する基盤としても機能
惣村の掟を伊勢の国の小倭郷(おやまごう)で見ていくことにします。
1493(明応3)年の9月15日付で、小倭郷の百姓たち321人が署名誓約しています。小倭郷には幾つもの村がありましたが、当時の村は一村が数軒から大きくても20軒ぐらいの小さなものでした。それが集まって小倭郷321人になったようです。一戸前の百姓は、ひとり残らず署名したようです。

伊勢成願寺
小倭郷の成願寺(津市白山町)
その誓約書が小倭郷の成願寺に残っています
 農民などが申し合わせをするときは、神に誓った文書を神社に納めました。ここでは天台真盛宗の成願寺が倭郷の開発に大きな役割を果たしたので、村人の信仰の中心になっていて、そこに納められたようです。「成願寺文書」には、惣掟や小倭一揆関係の史料が県有形文化財に指定されています。ここでは、その一部を見ていくことにします。
第一条 田畑山林などの境界をごまかして、他人の土地を取ったり、自分の土地だと言って、他人の作物を刈り取ってしまうというようなことは絶対に許されない。
第二条 大道を損じ、「むめ上(埋め土)」を自分の私有地で使ってしまうのはいけない。つまり公共の道路の土を取って自分のところので使うのはいけないということです。
第三条と四条では、盗人、悪党の禁止(一種の腕力的行為禁止)
第五条 「当たり質」を取ることの禁正。
  「当たり質」というのは、抵当品(質草)のようです。今では抵当品は債務者のものしか対象にはなりません。ところが当時は、当人の債権物が取れない場合は、その人と同じ村人のものなら誰のものでも取ってもよいとされていたようです。これを郷質(ごうじち)とか所質(ところじち)とか呼んでいました。つまり本人が属している集団の者は、みんな同一責任を負わなければならないという考え方です。ここからは当時の人達は、郷や村などの共同体に所属していれば、その共同体全体が連帯の責任を負わなければならないと考えていたことが分かります。そうだとすると共同体から独立した個人というものはあり得なかったことになります。同じ村の人なら別の人のものでもいいという話が、当然として行なわれていたことを押さえておきます。日本人の連帯責任の取り方をめぐる問題の起源は、この辺りまで遡れそうです。 しかし、それでは困るので、今後は次のようにしようと決めています。
「本主か、然るべき在所の人のものだけ収れ」、
意訳すると「本人かその郷の者ならいいけれど、もっと広く隣村、隣村まで拡げられてはかなわないから、限定しておく」ということになるのでしょうか。そういうことを、すべて自分たちで取り決めて、村人321人全部で盟約しています。
この盟約を守っていく組織として、地侍クラスの人々四十数人が、別に盟約を結んでいます。
これを衆中(しゅうちゅう)と呼んだようです。小倭郷では、そのメンバーは、地侍クラス、村の重立ちの人々だけです。そして、次のような事を申し合わせています。
①公事出来(しゅったい:紛争が起こった場合)に身内の者だからといって決して身びいきなどはしない。
②公平にひいきや偏頗なく衆中としてきちんと裁判する
③衆中の間に不心得の者がでてきた場合には、仲間からから迫放する
ここからは、倭郷の惣村全体の盟約とは別に、それを遵守させていくために地侍グループだけで誓約を行なっています。こうして百姓たち321人全員暑名の誓約文書と、同時に指導グループの申し合わせ文書の両方が小倭郷の成願寺には残されました。
こうして小倭郷で何か紛争が起こったときには、指導グループの衆中の人々が調停者になります。例えば次のような調停案が出されています
①飢饉などで、負債に苦しむ人が出てくると、これこれの条件・範囲で地徳政をやろうということを自分たちで決定している。そのイニシアチブをとっているのは、地侍クラスの指導グループです。
②犯罪などのときに検断(調査・裁判)
③徳政実施に際しての調整

③については、金を貸しているほうは徳政に当然反対します。そこで個別に交渉して、自分は幾ら払うから、自分の債権は認めてくれ、つまり徳政はそれで免除してくれ、といった取引をやっています。
 こうした紛争の調停を「異見(いけん)」と呼んだようです。これが仲裁意見です。
例えば地徳政の場合には、次のように進められています。
①徳政調停者が「異見(原案)」を出す。
②債権者は債権を認めてもらうかわりに、銭を十貫文出す。
③債務者のほうも、十貫文もらったのだから、今後はふたたびこの郷で地徳政が実施されても、もうこの件については債務破棄を要求しませんという誓約書を出させる。
このような手打ちのことを「徳政落居(らつきょ)」と呼んでいます。その証文が落居状で、成願寺に残っています。
こんな形で村人たちが自分たちで経済問題や紛争、土地争い、障害事件など、民事的な紛争から刑事的な紛争まで解決しています。これが行えるためには、村人全員の合意が必要です。その郷村全体で申し合わせた規約が「惣掟(そうおきて)」です。惣というのはすべてという意味ですから、村の全体にかかわるおきてという意味になります。
 惣掟を持ったような村人集団を「惣」の衆中などと呼ぶようになります。惣掟にもとづいて、村人たちは紛争を自分たちで解決するという問題題解決の仕方がひろまります。ここで見た「惣」は、伊勢の小倭郷の一郷321人程度の範囲でした。ところが、もっと広い地域で自検断をやったり、地徳政をやったりする「広域の自治的な結合」も生まれていたようです。それを次回は見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法  

 滝宮念仏踊りが滝宮牛頭天王社(滝宮神社)に、 各郡の惣村で構成された踊り組によって奉納されていたことを以前にお話ししました。しかし、私には惣村の形成や、その指導者となった名主などの出現に至る経過が、いまひとつ曖昧でした。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

そんな中で出会ったのが永原慶三氏の「中世動乱期に生きる」という本です。この本は講演をベースにしている講演集なので、分かりやすい表現や内容になっていて、素人の私にとってはありがたい本です。永原氏が20世紀末の時点で、中世後半から戦国時代にいたる世界を、どのように描いていたのか、その到達点を知るには最適です。今回は、中世の惣と名主・地侍の出現過程部分について、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは   「永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法」です。    

これについて大まかなアウトラインを、永原氏は次のように記します。

「富が次第に地方に残されるようになって」きて、「日本の経済社会の全体的仕組みが、求心的で中央集中的な傾向から地方分権的な方向に、次第に性格を変えていった。……そういう動きと連動して守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしてくる」(158P)。そうしたなかで、惣村・郡中惣・惣国といつた「惣型秩序」が形成される。

惣村の小百姓台頭背景
     小農民の台頭をもたらした農業生産力の革新

惣村形成背景
惣村の出現背景

まず、守護や国人は省略して。地侍がどのように現れてきたのかを
見ていくことにします。
戦国時代の身分構成/ホームメイト
地侍は、もともと荘園の地頭級の役人ではありません。
つまり侍ではなかったということです。有力な農民出身の名主は、もともとの身分からいえば百姓です。律令時に百姓と呼ばれた人達が両極分解して、上層部が名主と呼ばれるようになったとしておきます。
名主層の台頭の背景は、何なのでしょうか? 
荘園の年貢は、領主に対してひとりひとりの百姓が納めるものです。しかし、これは集めるのが面倒なので、荘園領主は百姓の要求を受け入れて有力百姓に請け負わせるようにします。これを百姓請けとか地下請けと呼びます。このように年貢の取りまとめや納人の請負をやる有力百姓が名主クラスでした。
 村の耕地を維持していくためには、湛漑用水を確保しなければならないし、山野の利用を秩序だてて行なわなければならないなど、いろいろなことがあります。そういうことの中心になって村を切り盛りしていく役割を有力な名主たちが果たすようになります。他方で、名主層の中には国人や守護と被官関係を結ぶものも出てきます。被官関係というのは主従関係ですから身分的には、いままで百姓だった者が、侍になるということです。そのため地侍は、ふたつの性格を持つことになります。
地侍に2つの側面
地侍の持つ2つの性格
百姓出身とはいえ、地侍となると、やはり名字を名乗るようになります。
名主クラスはもともと姓をもっていたので、名前も漢字二字が多いようです。そういうような人を「侍名字(さむらいみょじ)」ともいいます。そんな人々が次第に農村の中に現れるようになります。これは鎌倉時代には見られなかったことです。この人たちは、村で生活していました。そのため百姓と似たりよったりの生活をしていす。そして地侍は村の耕地や水利施設の管理、年貢徴収などををやるので実力を持っています。国人や守護はうまくこの人々を把握すれば、自分の支配が安定します。しかし、この人々に背かれるとうまくいかなくなります。そういう意味では、地侍層の動きが大名たちの支配の安定、不安定を左右するカギであったと研究者は指摘します。ここでは室町時代から戦国時代にかけては、地侍が時代を動かす重要な役割、時代を社会のどのほうから動かしていく大きな役割を持っていることを押さえておきます。


惣村の構造図
               惣村の構造

 教科書は、惣村の力量の高まりの象徴として土一揆について次のように記します。
「徳政を求めて京都の町になだれ込んで、室町幕府に徳政令の発令を要求し、京都の町にあった土倉酒屋を攻撃し直接借金棒引き、借金証文の返済を求める」

 これだけ読むと農民の動きは、京都を中心にしてその周辺地域にだけあったように思えます。しかし、戦国時代になると地方でも農民闘争が活発におこっていることが分かってきました。京都の土倉ほど大きな規模ではありませんが、地方にも「倉本」が出現します。港町の問丸が倉本を兼業する場合もあります。倉庫業者や金融業者は、「有徳人(うとくにん:富裕層)」の代表です。そういう層に対し、農民が借金棒引きを要求していますし、荘園領主に対しては年貢や賦役の減免を要求して立ち上がっています
惣村の年貢軽減交渉
惣村の年貢軽減交渉
 守護が大名化すると、それまでなかった新しい課税(守護役)を求めるようになります。
その中には、人夫役もあれば段銭という課税もあります。これに対して百姓たちは、それもまけてくれという形で、守護に対する抵抗運動を見せるようになります。その中には、守護方の武力が領内に入つてくるのをやめて欲しい、出ていつてくれというような、政治的な動きも出てきます。
 応仁の乱のころからは一向一揆も起こってきます。
有名なものは加賀の一向一揆で守護の富樫(とがし)氏を殺したのはよく知られています。それだけではなく、近畿地方から信長の本拠である近江・美濃、尾張・伊勢、あるいは播磨のほうにかけ広く一向一揆が起こります。一向一揆は土地の領主には年貞を出さない、本願寺に出すというような動きをとりますが、実際は農民闘争という性質が強いと研究者は考えています。                   
どうして15世紀に新しい社会層が登場してきたのでしょうか。
その要因の一つとして、研究者がとりあげるのが経済問題です。
中世後期の経済社会を次のように簡略化してとらえます。
①従来は地方で生み出された富は年貢として都に集められ、貴族たちが消費しするという律令時代以来のシステムが機能していた
②そのため地方に残る富は乏しく、地頭の分け前程度が残るだけだった。
④地頭も質素な家に住んで、耕地開発に務めるが、まだまだ生活レベルは低く、自給自足的な生活を送っていた
⑤ところが15世紀初めの義満の時代の頃になると、富が地方に残されるようになってくる
 これは別の表現だと「年貢が地方から中央へ送られなくなる」ということになります。
同時に、地方経済の台頭の背景には、地方市場の発達があると研究者は指摘します。

室町にかけての商業・貨幣流通
室町時代の商業活動の発展

例えば農民の中でいろんな農作物を加工して売るような活動が盛んになります。
農民の副業としての農産物の加工業の誕生です。例えば大和あたりの農村地帯では、素麺がさかんに作られるようになります。麦をひいて加工したもので、今でも三輪素麺として有名です。それから油、特に灯油です。これは当時としては非常に重要な商品だったようです。京都から大阪に行く途中の山崎に離宮八幡という神社があります。石清水八幡の離れ宮です。その離官八幡に身分的に所属してこれに仕える神人が、荏胡麻油を絞って京都に売る特権を独占的に手に入れます。座組織をつくって原料買付・絞油を行ない、京都への油の供給はここが一手に掌握します。
 室町時代になると油の需要が高まり、大阪の周辺から播磨とか美濃・近江など至るところで油を絞って、それを商品として売る動きが盛んになります。
そのために離宮八幡の伝統的な座の権利、例えば原料の買人れ、油しぼり、そして商品の販売権などは新しく起こってきた各地の絞油業者、あるいは油の販売業者たちと各地で対立を起こすようになります。そういうことを見ても、絞油業が近畿周辺の農村に、広く展開するようになったことが裏付けられます。

室町時代の特産品
           室町時代の特産品

 地場産業として伝わっている、瀬戸物・美濃紙・越前紙などは、室町時代になって発展したものです。
こうして農村にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
 さらに市場や貨幣との接触が始まると、人々のものの考え方も合理的になっていきます。それが不作のときには年貢の減免というような領主に対する要求を、大胆におし出す動きにつながります。さらには領主が必要な時々にかけてくる夫役なども、銭で済ませることを認めさせます。このように中世の経済的成長で財力を得た富裕層があらたな指導権を握るようになり、農村全体に経済的・社会的な活気が見られるようになったことを押さえておきます。

鎌倉室町の貨幣流通策
鎌倉・室町時代の貨幣流通

 農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが特定の農村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、列島の経済社会の仕組みが、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていたのです。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。
以上をまとめておきます。
①律令国家以来の地方から京都への一方的収奪のいきずまり
②農村加工品や定期市など地方経済の形成
③地方経済の成長とともに、守護・国人・地侍の新しい社会層の台頭
④農村における惣村の形成。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法

 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
関連記事



讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

 前回は 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」の「念仏踊り」について見ました。今回は「風流小歌踊系」を見ていくことにします。風流小歌踊系の雨乞い踊りは、初期の歌舞伎踊歌を思わせるような小歌が組歌として歌われ、その歌にあわせて踊ります。讃岐に残るものをリストアップすると次のようになります。
綾子踊  まんのう町佐文
弥与苗踊・八千歳踊        財田町入樋   
佐以佐以(さいさい)踊り     財田町石野   
和田雨乞い踊(雨花踊り)     豊浜町和田 
姫浜雨乞い踊 (屋形踊り)    豊浜町姫浜 
田野々雨乞い踊            大野原町田野々
豊後小原木踊              山本町大野 
讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞い踊り分布図
今でも踊られているのは綾子踊、弥与苗踊、さいさい踊、和田雨乞踊、田野々雨乞踊で、その他は踊られなくなっているようです。また小歌踊の分布は、東讃にはほとんどなく讃岐の西部に偏っています。念仏踊が滝宮を中心とする讃岐中央部に集中するのに対して、風流小歌踊は、さらに西の仲多度・三豊地区にかけて分布数が多いことを押さえておきます。この原因として考えられるのは、宗教圏のちがいです。東讃については、与田寺=水主神社の強い信仰圏が中世にはあったことを以前にお話ししました。この影響圏下にあった東讃には、「雨乞い踊り文化」は伝わらなかったのではないかと私は考えていま す。それでは、雨乞い風流踊りを見ていくことにします。綾子踊については、何度も触れていますので省略します。
佐以佐以(さいさい)踊は、財田町石野に伝承する雨乞踊で、次のように伝えられます。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

さいさい踊の起りについてはもう一つの伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

この伝説からは次のようなことがうかがえます。
①財田下に龍光寺という寺があり、龍王を祀っていたこと
②それが川上の戸川の鮎返しの滝付近に移され渓道(谷道)の龍王
と呼ばれるようになったこと
③三豊の詫間から塩商人が入ってきて、猪ノ鼻峠を越えて阿波に塩を運んでいたこと

また、さいさい踊りの歌詞の中には、第六番目に次のような谷道川水踊りというのが出てきます。
谷道の水もひんや 雨降ればにごるひんや 
うき世にすまさに ぬれござさま ござさま
(以下くつべ谷の水もひんや……とつづく)
また、さいさい踊りという歌もあって、次のように歌われます。

あのさいさいは淀川よ よどの水が出て来て 名を流す 水が出て来て名を流す……

雨乞踊の時に簑笠をかぶって踊れと云われていますが、雨を待ちわびて、雨がいつ降っても身も心も準備は出来ていますよと竜神さまに告げているのかも知れません。さいさい踊りが奉納されたのは、渓道(たにみち)神社で、戸川ダムのすぐ上流で、近くには鮎返りの滝があります。
渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道(たにみち)神社
また、佐文や麻は渓道(たにみち)神社の龍王神を勧進して、龍王祠を祀っていたことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りには、さいさい踊りと同じ歌もあるので、両者のつながりが見えて来ます。

財田町にはさいさい踊りの他に、弥与苗(やおなや)踊があります。
弥与苗踊は八千歳踊と共に入樋部落に伝承されています。この縁起には俵藤太秀郷の伝説がついていて、次のように語られています。

昔、俵藤太秀郷は竜神の申しつけで近江の国の比良山にすむ百足を退治しょうとした。その時に秀郷は竜神にむかってわが故郷の讃岐の国の財田は雨が少なくて百姓は早魃に苦しんでいます。もし私がこの百足を退治することが出来たならばどうぞ千魃からわが村を救い給えと祈ってから百足を退治した。竜神はそれ以後、財田には千害が無いようにしてくれた。秀郷は財田の谷道城に長らく居住したが、他村が旱魃続きでも財田だけは降雨に恵まれ、これを財田の私雨(わたくしあめ)とよんでいた。

このような縁起に加えて、今も財田の道の駅がある戸川には俵藤太の墓と伝えるものや、ある家には俵藤太が百足退治に使ったという弓が残っていると云います。弥与苗踊はもともとは、盆踊りとしても踊られていたようです。真中に太鼓をすえて、その周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されていったことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたと研究者は考えています。

豊浜和田雨乞い踊り
和田の雨乞い踊り(観音寺市豊浜町)
豊浜の和田雨乞踊と姫浜雨乞踊を見ておきましょう。
和田と姫浜とは、ともに豊浜町に属していて、田野々は大野原町五郷の山の中にあります。これらの雨乞踊は伝承系統が同じと武田明氏は考えます。和田の雨乞踊の歌詞は、慶長年間に薩摩法師が和田に来てその歌詞を教えたとされます。それを裏付けるように、歌詞は和田も田野々も、「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられます。和田から田野々へ伝わったようです。
和田の道溝集落の壬生が岡の墓地には、薩摩法師の墓があります。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町道溝)
その墓の建立世話人には和田浜、姫浜、和田、田野々の人々の名前が連なっています。法師の信者達だった人達が、供養のために建てたものでしょう。この墓の存在も、雨乞踊の歌が薩摩法師という廻国聖によってもたらされたものであることを裏付けます。しかし、「薩摩法師の伝来説」には、武田明氏は疑問を持っているようです。 
さつま(薩摩)小めろと一夜抱かれて、朝寝して、
おきていのやれ、ぼしゃぼしゃと  
さつま(薩摩)のおどりをひとおどり……
この歌詞には「さつま(薩摩)」が確かに出てきます。これを早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性があるというのです。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。和田、田野々などの歌は、琵琶法師によってもたらされたものとします。芸能運搬者としての琵琶法師ということになります。琵琶法師も広く捉えると遍歴の聖(修験者)になります。
 和田も田野々も、踊るときにはその前の夜が来ると笠揃えをして用意をととのえます。田野々では夜半すぎから部落の中央にそびえる高鈴木の竜王祠まで登ります。夜明けになると踊り始めて、何ケ所かで踊った後に法泉寺で踊り、最後は鎌倉神社で踊ることになっていたようです。

風流小唄系の踊りに詠われている歌詞の内容については、綾子踊りについて詳しく見ました。その中で、次のようにまとめておきました。
①塩飽舟、たまさか、花かご、くずの葉などのように、三豊の小唄系踊りと共通したものがあること
②歌詞は、雨を待ち望むような内容のものはほとんどないこと。
③多いのは恋の歌で、そこに港や船が登場し、まるで瀬戸内海をめぐる「港町ブルース」的な内容であること。
どうして雨乞い踊りの歌なのに、「港町ブルース」的なのでしょうか? それに武田明は次のように答えています。
もともとは雨乞のための歌ではなかったのである。
それが雨乞踊の歌となったのに過ぎないのであった。
私なりに意訳すると「雨乞い風流踊りと分類されてはいるが、もともとは庶民は祖先供養の盆踊唄として歌ってきた。それが雨乞成就のお礼踊りに転用された」ということになります。

最初に見たように雨乞風流小歌踊は、三豊以外にはないようです。
佐文の綾子踊だけが仲多度郡になりますが、佐文は三豊郡との郡境です。これをどう考えればいいのでしょうか。武田明氏は次のように答えます。

このような小歌を伝承し伝播していた者が三豊にいて、それが広く行なわれているうちに雨乞踊として転用されていったのではないかと想像される。そして前述の薩摩法師と伝えているものもそうした伝播者の一人でなかったかと思われる。

  芸能伝達者の琵琶法師によって伝えられた歌と踊りが、先祖供養の盆踊り歌として三豊一円に広がり。それが雨乞踊りに転用されたというのです。卓見だとおもいます。

 P1250412
滝宮念仏踊りの各組の芸司たち
念仏踊りや綾子踊りでは芸司(ゲイジ・ゲンジ)・下司(ゲジ)が大きな役割を担います。
これについて武田明氏は次のように記します。

芸司は踊りの中でもっとも主役で、滝宮念仏踊では梅鉢の定紋入りの陣羽織を着て錦の袴を穿いた盛装で出て来る。芸司にはその踊り組の中でも最も練達した壮年の男子が務める。芸司は日月を画いた大団扇をひらめかしてゆう躍して、踊り場の中を踊る。それは如何にもわれ一人で踊っているかの様子である。他の踊り手が動きが少ないのに反してこれは異彩を放っている。土地によっては芸司は全体の踊りを指導するというが指導というが、自からが主演者であることを示しているようにも思える。或いは芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えているのではないかとも思われる。

 ここで私が注目するのは「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」という部分です。各念仏踊りの由来は、菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになったと伝えます。しかし、年表を見ればすぐ分かるように、念仏踊りが踊られるようになるのは中世になってからです。菅原道真の時代には念仏踊りはありません。菅原道真伝説は、後世に接ぎ木されたものです。また念仏踊りの起源を法然としますが、これも伝説だと研究者は考えています。45年前に「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」と指摘できる眼力の確かさを感じます。

以前に兵庫県三田市の駒宇佐八幡神社の百石踊の芸司(新発意役)について以前に、次のようにまとめておきました。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
百石踊の芸司 服装は黒染めの僧衣
①衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰までからげ上げる。
②月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。
③踊りが始まる直前に口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊る。
百石踊りの新発意役(芸司)は、実在する人物がいたとされます。それは文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都です。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したことは以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。研究者は注目するのは、次の芸司の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、以下のものを好んで使用したとされます。
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
彼らは人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。民俗芸能にみられる芸司は、本願となって祈祷を行った修験者や聖の姿と研究者は考えています。
 しかし、時代の推移とともに芸司の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る所は少なくなったようです。芸司の服装についても変化しているようです。滝宮念仏踊りで出会った地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

以上からは芸司の服装には次のような変化があったことがうかがえます。
①古いタイプの百石踊の「芸司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で、庄屋の格式衣装
③現在の滝宮念仏踊りの芸司は、陣羽織
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、今は金ぴかの陣羽織に変化してきています。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっているようです。

P1250412
滝宮念仏踊りの芸司の陣羽織姿
滝宮念仏踊の中で子供が参加するのを子踊りとよんでいます。
いつ踊りだすのかとみていると、最後まで踊ることなく腰掛けています。どうして踊らないのでしょうか? 武田明氏は次のように記します。
子踊りは菩薩を象徴すると言って、入庭(いりは)の際には芸司の後に立つ。すなわち社前の正面で芸司についで重要な位置である。しかし、いよいよ踊りが始まると、社殿に向って右側の床几に腰を下して踊りのすむまでは動かない。その子供達は紋付き袴の盛装でまだ幼児であるために近親のものがつきそっている。子踊りの名称はありながら踊らない。その上、滝宮念仏踊では子踊りの子供は大人によって肩車をされて入庭するのが古くからの慣習であった。これはおそらくはその子供を神聖なものとして考えて踊りの庭に入るまでは土を踏ませないことにしていたのである。古い信仰の残片がここに伝承されていることを私達は知ることが出来る。滝宮を中心とする地方で肩車のことを方言でナッパイドウと言うが、この行事が早くからこの地方にはあったことを示している。

ただ南鴨念仏踊だけで子踊りが芸司の指図に従って踊っていて、それが特色であるように言われているが、私はかって南鴨念仏踊の保持者であり復興者であった故山地国道氏に聞いたことがある。どうして南鴨だけが子踊りが踊るのですかと言うと、山地氏はいやあれは人数が少ないとさびしいので、ああ言う風にしましたと私に語るのであった。その言葉を信じるとどうも復興した折に、ああ言う風に構成したように思われる。
 善通寺市の吉原念仏踊というのは南鴨の念仏踊の復活以前の型をそのまま移したというが、ここの子踊りは子供は踊らず、ただ団扇で足元だけをナムアミドウの掛声に合せて軽く打つ程度の所作しかしなかった。すなわち踊ることなどはしないという。それを以て見ても南鴨念仏踊の子踊りの所作が古型そのままであると考えることは出来ないのである。

子踊りに所作がなく、踊りの庭に滝宮の例のように肩車をして入って来る。また滝宮ではこれを菩薩の化身と見るということは子踊りの子供自体を考える上において極めて貴重な資料である。おそらく子踊りは神霊の依座と考えていたのである。すなわち子踊りの子供に踊りの最中に神霊の依るのを見て、雨があるかどうかを見ていたのである。子踊りは念仏踊りにおいて古くはそのように重要な意味を持つていたのである。

武田明氏は民俗学者らしく小踊りが踊らない理由を「神霊の依座」として神聖視されていたからとします。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
しかし、七箇村念仏踊りを描いた諏訪大明神念仏踊図(まんのう町諏訪神社)を見ると8人の子踊りは、芸司と共に踊っているように見えます。また、七箇念仏踊りを継承したと思われる佐文の綾子踊りでは、主役は子踊りです。武田氏の説には検討の余地がありそうです。

綾子踊り4
佐文綾子踊りの子踊り

坂出の北条念仏踊には大打物と称する抜刀隊がいます。
その人数は当初は24人で、後には40人に増やされたといいます。どうしてこんな大人数が必要だったのでしょうか。
これについては武田明氏は、次のような「伝説」を紹介しています。

正保年間の念仏踊りの折に七箇村念仏踊は滝官へ奉納のために出掛けて行った。ところが洪水のために滝宮川を渡ることが出来ないでいた。昼時分までも水が引かないので待っていたが、 一方北条念仏踊はその年は七箇組の次番であったのだが待ち切れずに北条組はさきに入庭しようとした。すると、これを見た七箇組の朝倉権之守は急いで河を渡り北条組のさきに入場しようとした事を抗議して子踊り二人を斬るという事件が起った。それから後、警固のために抜刀隊が生れた。

 この話をそのまま信じることはできませんが、武田明氏が注目するのは抜刀隊(大打ち物)の服装と踊りです。頭をしゃぐまにして鉢巻をしめ袴を着て、白足袋で草鞋を履いています。右手には団扇を持ち、左手には太刀を持ちます。そして踊り方は、派手で目立ちます。ここからは抜刀隊(大打ち物)は事件後に新たに警固のために生まれたものではなく、何か「別の芸能」が付加されたものか、もとは滝宮念仏踊とは異なる踊りがあったと武田明は指摘します。
 北条念仏踊には他の念仏踊に見ないもう一つの異なる踊りがあるようです。
それはあとおどり(屁かざみ)と言って、芸司のあとにつづいてゆく者が、おどけた所作をして踊るものです。こうして見ると北条念仏踊は、滝宮念仏踊の一つですが、多少系統を異にすると武田明は指摘します。
 綾子踊り入庭 法螺・小踊り
佐文綾子踊り 山伏姿の法螺貝吹き
法螺貝吹きについては、武田明は次のように記します。
入庭の時には先頭に立って法螺貝を吹きながら行くのである。また、念仏踊りによっては踊りはじめの時に吹くところもある。鉦、筒、鼓ち太鼓などと違って少し場違いな感じがしするものである。法螺貝吹きは念仏踊が修験の影響をうけていることを音持しているのかも知れない。(中略)
 また、念仏踊りでも悪魔降伏のために薙刀を使ってから踊りはじめるのだが、綾子踊では薙刀使いが棒使いが踊りの庭の中央て問答を言い交わす。これはやはり山伏修験がこの踊りに参加していたことを物語るものであろうか。
綾子踊り 棒と薙刀
    薙刀と棒振りの問答と演舞(綾子踊り)
このように滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りと山伏修験との関わりについて、45年前に暗示しています。
これについては、宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」が参考になります。
はなとりおどり・正木の花とり踊り
            はなとり踊り
「はなとり踊り」にも、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に修験者がやっていました。
 はなとり踊りの休憩中には希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。ここからは、はなとり踊が修験者による宗教行事であることが分かります。行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは修験者たちだったことが分かります。里人の不安や願いに応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは修験者たちだったのです。それを民俗学者たちは「芸能伝播者」と呼んでいるようです。

滝宮念仏踊には願成就(ガンジョナリ)という役柄があります。
南鴨念仏踊などでは、この役柄の人が「ガンジョナリヤ」と大声で呼ばわってから踊りが始まります。「雨乞い祈願で、雨が振ってきた。諸願成就したぞ」と大声で叫んでいるようです。そうだとすれば、念仏踊りは雨が降ったための御礼の踊りであったことを示していることになります。
「私雨(わたくしあめ)」ということばが、財田の谷道神社や佐文の綾子踊りの由来には出てきます。 
どんな意味合いで使われているのでしょうか。武田明氏は次のように記します。
旱魃の時に雨が降らなければ村の田畑は枯死する。そこで雨乞い祈願には、その村落共同体のすべての者が力を結集してあたった。雨が降ればその村のみに降ったものとして財田や佐文では「私雨(わたくしあめ)」と呼んだ。この言葉の中には、自分の村だけに降ったという誇りがかくされている。夏の夕立は局地的なもので、これも「私雨(わたくしあめ)」とも呼んでいた。

雨乞い踊りの組織と規模について武田明は、次のように記します。

村に人口がふえてくるにつれて起りはささやかな雨乞踊だったものが次第に大きい規模になっていったことも容易に想像出来る。大きくなっても重要な役割の者はふやすことは難しい。それは芸司(げんじ)のように世襲になっているものもあるし、法螺貝吹きなどのように山伏などの手によらねばならぬものもあった。しかし、外まわりに円陣を作って鉦を鳴らすとか、警固の役の人数はそれ相当に増やすことは出来た。そうすると、分家によって家が増えたり、新しく村入りして来た者があったとしても誰もが参加することが出来た。こうして、もとは少人数であったものが次第に大がかりなものになって来たことが想像される。

 雨乞念仏踊は共同祈願であったためにその村落の結束は非常に強固であった。殊に滝宮へ出向いてゆく踊り組は他の村の踊り組に対して古くは非常な関心を持っていた。そこで争わないように踊りの順番までがはっきりと定められていた。それを破ったというので七箇村組が北条組との間に争いを起したのであった。しかしこのような事件はこれほど大きい事件にならなくても、これに類似した事件は再三起っていたことが記録の上では明らかである。これはどういう事であろうか。やはり踊り組の結束というか、要するに村落共同体の一つの重要な仕事であるだけに他村に対して排他的とは言わないまでも異常な関心を持っていたからであろう。

滝宮への踊り込みを行っていた念仏踊りの各組については、その後の研究で次のようなことが分かっています。
①念仏踊りは、中世に遡るものでもともとは各郷の惣村神社の夏祭りに奉納された先祖供養の盆踊りであった。
②その構成メンバーは宮座制で、惣村を構成する各村毎に役割と人数が配分されていた。
③滝宮への踊り込みの前には、各村々の村社を約1ヶ月かけて巡回して、最後に惣社に奉納された後に滝宮へ踊り込んだ。
④各組は郷を代表するものとしてプライドが高く、争いがつきもので、その度に新たなルールが作られた。
⑤「惣村制+宮座制」で、これをおどることが各村々での存在意味を高まることにつながった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

    宥範は南北朝時代に荒廃した善通寺の伽藍を再建した高僧で「善通寺中興の祖」といわれることは以前にお話ししました。「宥範縁起」は、弟子として宥範に仕えた宥源が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。応安四年(1371)3月15日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。
宥範縁起からは、次のようなことが分かります。
①宥範の生まれた櫛梨の如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②宥範は善光寺聖に学んだ後に香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ。
③その後、信濃の善光寺で浄土教を学び、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだ
④その後は善通寺を拠点にしながら各地を遊学し、大日経の解説書を完成させた
⑤大麻山の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に善通寺復興のために担ぎ出された
⑥善通寺勧進役として、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。

しかし、⑤⑥についてどうして南北朝の動乱期に、善通寺復興を実現することができたかについては、私にはよく分かりませんでした。ただ、宥範が建武三年(1336)に善通寺の誕生院へ入るのにのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは櫛梨にあったとされる宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことが分かります。そこから「宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という実家の経済的保護が背後にあったことも要因のひとつ」としておきました。しかし、これでは弱いような気がしていました。もう少し説得力のある「宥範の善通寺伽藍復興の原動力」説に出会いましたので、それを今回は紹介したいと思います。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院)

宥範による利生塔供養の背景
足利尊氏による全国66ヶ国への利生塔設置は、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。地方が室町政権のコントロール下にあることを示すとともに、南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための軍事的要衝設置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。そういう意味では、利生塔を伽藍内に設置すると云うことは、室町幕府の警察機能を担う寺院という目に見える政治的モニュメントを設置したことになります。それを承知で、宥範は利生塔設置に動いたはずです。
 細川氏は初期の守護所を阿波切幡寺のある秋月荘に置いていました。そこに阿波安国寺の補陀寺も建立しています。そのような中で、宥範は、暦応5(1342) 年に阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤めています。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

この引用は、善通寺利生塔の記事の直前に記されています。
「六十六基随一最初造興塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。」とあるので、切幡寺利生塔の落慶供養に関する記事だと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、切幡寺供養の暦応5年3月26日以前に、山城法観寺・薩摩泰平寺・和泉久米田寺・日向宝満寺・能登永光寺・備後浄土寺・筑後浄土寺・下総大慈恩寺の各寺に、仏舎利が奉納されていること分かっています。これらの寺をさしおいて切幡寺や善通寺が2番目、3番目の供養になると記していることになります。弟子が書いた師匠の評伝記事ですから、少しの「誇大表現」があるのはよくあることです。それでも、切幡寺や善通寺の落慶法要の月日は、全国的に見ても早い時期であったことを押さえておきます。
当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。
細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。そのことを示すのが前回にも見た「細川頼春寄進状(善通寺文書)」です。もう一度見ておきます。
讃州①善通寺塔婆 ②一基御願内候間  
一 名田畠爲彼料所可有御知行候 、先年當國凶徒退治之時、彼職雖爲闕所、行漏之地其子細令注 進候了、適依爲當國管領 御免時分 、闕所如此令申候 、爲天下泰平四海安全御祈祷 、急速可被 申御寄進状候、恐々謹言 、
二月廿七日          頼春 (花押)
③善通寺 僧都御房(宥範)

②の「一基御願内」は、足利尊氏が各国に建立を命じた六十六基の塔のうちの一基の利生塔という意味のようです。そうだとすればその前の①「善通寺塔婆」は、利生塔のことになります。つまり、この文書は、善通寺利生塔の料所を善通寺に寄進する文書ということになります。この文書には、年号がありませんが、時期的には康永3年12月10日の利生塔供養以前のもので、細川頼春から善通寺に寄進されたものです。末尾宛先の③「善通寺僧都」とは、阿波切幡寺の利生塔供養をおこなった功績として、大僧都に昇任した宥範のことでしょう。つまり、管領細川頼春が善通寺の宥範に、善通寺塔婆(利生塔)のために田畑を寄進しているのです。

細川頼春の墓
細川頼春(1299~1352)の墓の説明版には、次のように記します。

南北朝時代の武将で、足利尊氏の命により、延元元年(1336)兄の細川和氏とともに阿波に入国。阿波秋月城(板野郡土成町秋月)の城で、のちに兄の和氏に代わって阿波の守護に就任。正平7年(1352)京都で楠木正儀と戦い、四条大宮で戦死、頼春の息子頼之が遺骸を阿波に持ち帰り葬った。


 
このころの頼春は、阿波・備後、そして四国方面の大将として華々しい活躍をみせていた時期です。しかし、説明板にもあるように、正平7年(1352)に、京都に侵入してきた南朝方軍の楠木正儀と戦いって討死します。同年、従兄・顕氏も急逝し、細川氏一族の命運はつきたかのように思えます。
 しかし、頼春の子・頼之が現れ、細川氏を再興させ、足利義満の養育期ごろまでは、事実上将軍の代行として政界に君臨することになります。この時期に、善通寺は宥範による「利生塔」建設の「恩賞」を守護細川氏から受けるようになります。

宥範と利生塔の関係を示す年表を見ておきます。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352(正平7)年 細川頼春が京都で楠木正儀と戦い戦死
 同年 宥範が半年で五重塔再建
1362年 細川頼之が讃岐守護となる
1367年 細川頼之が管領(執事)として義満の補佐となる
1371(応安4)年2月の「誕生院宥源申状案」に宥範の利生塔供養のことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧山攻防戦で焼失(近年は1563年説が有力)

 年表で見ると宥範は善通寺利生塔供養後の1346年に、前任者の道仁が 改易された後を継いで、大勧進職に就任しています。ここからも細川氏の信任を得た宥範が、善通寺において政治的地位を急速に向上させ、寺内での地位を固めていく姿が見えてきます。そして、1352年に半年で五重塔の再建を行い、伽藍整備を終わらせます。
 最初に述べたように、幕府の進める利生塔の供養導師を勤めるということは、室町幕府を担ぐ立場を明確に示したことになります。ある意味では宥範の政治的立場表明です。宥範は阿波切幡寺の利生塔供養を行った功績によって、大僧都の僧官を獲得しています。その後は、善通寺の利生塔の供養を行った功績で、法印僧位を得ています。これは別の言い方をすると、利生塔供養という幕府の宗教政策の一端を担うことで、細川頼春に接近し、その功で出世を遂げたことを意味します。
 もともと宥範は、元徳3(1331)年に善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘されました。
それが大勧進職に就くまでに約15年かかったことになります。どうして、15年もの歳月が必要だったのでしょうか? その理由は「大勧進職」という立場が伽藍整備にとどまるものでなく、寺領の処分を含めた寺院運営全体を取り仕切る立場だったので、簡単に余所者に任せるわけにいかないという空気が善通寺僧侶集団にあったからだと研究者は推測します。宥範の権力掌握のターニングポイントは、利生塔供養を通じて細川氏を後ろ楯にすることに成功したことにあると研究者は考えています。大勧進職という地位を得て、ようやく本格的に伽藍修造に着手できる権限を手にしたというのです。そうだとすれば、この時の伽藍整備は「幕府=細川氏」の強力な経済的援助を受けながら行われたと研究者は考えています。だからこそ木造五重塔を半年という短期間で完成できかのかも知れません。
 以上から阿波・讃岐両国の利生塔の供養は 、宥範にとっては善通寺の伽藍復興に向けて細川氏 という後盾を得るための機会となったと云えそうです。同時に、善通寺は細川氏を支える寺院であり、讃岐の警察機構の一部として機能していくことにもなります。こうして、善通寺は細川氏の保護を受けながら伽藍整備を行っていくことになります。それは、細川氏にとっては丸亀平野の統治モニュメントの役割も果たすことになります。
 細川頼春は戦死し、細川氏一族は瓦解したかのように見えました。

細川頼之(ほそかわよりゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
           細川頼春の子・頼之
しかし、10年後には頼春の息子・細川頼之によって再建されます。その頼之が讃岐守護・そして管領として幕府の中枢に座ることになります。これは、善通寺にとっては非常にありがたい情勢だったはずです。善通寺は、細川氏の丸亀平野の拠点寺院として存在感を高めます。また細川氏の威光で、善通寺は周辺の「悪党」からの侵犯を最小限に抑えることができたはずです。それが細川氏の威光が衰える16世紀初頭になると、西讃守護代の香川氏が戦国大名への道を歩み始めます。香川氏は、善通寺の寺領への「押領」を強めていったことは以前にお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年
関連記事

善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

P1250692
尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

 西讃府誌と尾﨑清甫
佐文綾子踊の書かれた史料
綾子踊についての史料は、次の2つしかありません
①幕末の西讃府志の那珂郡佐文村の項目にかかれたもの
②佐文の尾﨑清甫の残した書類(尾﨑清甫文書)
前回は、この内の②尾﨑清甫が大正3年から書き付けられ始めて、昭和14年に集大成されたことを見てきました。この過程で、表現の変化や書き足しが行われ、分量も増加しています。ここからうかがえることは、尾﨑清甫文書が従来伝えられてきたように「書写」されたものではなく、時間をかけながら推敲されたものであるということでした。西讃府誌の記述を核に、整えられて行ったことが考えられます。今回は、西讃府誌と尾﨑清甫文書を比較しながら、どの部分が書き足されたものなのかを見ていくことにします。

西讃府志 綾子踊り
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

まず、西讃府誌に綾子踊りについて何が書かれているのかを見ておきましょう。(意訳)
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる踊りがある。これにも滝宮念仏踊りと同様に下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠を被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。踊り始める前には、薙刀と棒が次のような問答を行う。

以前に紹介したので以下は省略します。
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その構成は形態は、下知(芸司)・女装した踊子(小踊)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒の問答・演舞がある
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている。

以上から西讃府誌には、次の3つの史料が掲載されていることを押さえておきます。
A 棒薙刀問答 B 芸司の口上 C 地唄12曲

残されている史料から引き算すると、これ以外のものは尾﨑清甫の残した文書の中に書かれていることになります。縁起や由来、各役割と衣装・持ち物などが書き足されたことになります。

尾﨑清甫史料
綾子踊に関する尾﨑清甫の残した文書

 前回に見た尾﨑清甫が残した史料は、そのような空白を埋めるものだったと私は考えています。しかし、大正3年から書き始められ、昭和14年にまとめられたものとでは、相違点があることを前回に指摘しました。それは由来書についても、推敲が重ねられ少しずつ文章が変化しています。それを次に見ておきましょう。

綾子踊り由来大正3年
綾子踊
由来 大正3年版
迎々 佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名の頃 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ凡愚済度の為め 四国の山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山(以下略)
綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来 昭和9年版

 大正3年と昭和9年の由来に関する部分の異同は、
②「七家七名の頃」→「七家七名之頃 即ち七×七=四十九名」
の1点だけです。
綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊由来 昭和14年版
それが昭和14年版になると①と③が推敲されます。③は、それまでは「聖僧」がへりくだって「凡愚済度」のためと称していたのを、「衆愚済度」に改めています。これも弘法大師信仰を考えてのことかもしれません。小さな所ですが、ここでも推敲が繰り返し行われています。
この他、西讃府誌と「雨乞踊悉皆写」の相違点で気づいた点を挙げておきます。

西讃府誌と尾﨑清甫の相違点

以上をまとめたおきます。
①綾子踊りには、西讃府誌と尾﨑清甫の残した文書しかない。
②西讃府誌以外の記載は、尾﨑清甫が大正3年から書残したものである。
③それを昭和14年に、すべてまとめて「雨乞踊悉皆写」として記録に残している。
④その経過を見ると、加筆・訂正・推敲・図版追加などが行われている。
⑤以上から
「雨乞踊悉皆写」は書写したものではなく、尾﨑清甫が当時踊られていた綾子踊りを後世に残すために新たに「創作」されたものである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

P1250693
尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
P1250691

  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
P1250692

  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

P1250626
「風流踊のつどい In 郡上」
やってきたのは岐阜県の郡上市。郡上市では「郡上踊り」と「寒水の掛踊り」のふたつの風流踊りがユネスコ認証となりました。それを記念して開かれた「風流踊のつどい In 郡上」に、綾子踊りもお呼ばれして参加しました。
P1250602
       郡上城よりの郡上市役所と市民ホール
2台のバスで総勢43名がまんのう町から約8時間掛けて移動しました。
P1250544
          郡上市役所と市民ホール
やって来たのは、市役所の下にある市民文化ホール。前日に、会場下見とリハーサルを行い、入庭(いりは)の順番や舞台での立ち位置、音量あわせなどを行いました。長旅の疲れを郡上温泉ホテルで流し、「郡上踊り」や「寒水の掛踊り」の役員さん達の親睦会で、いろいろな苦労話を聞いたり、情報交換も行えました。

IMG_E5952
綾子踊の花笠(菖蒲の花がさされます)

8日(日)13:00からの開会式後のアトラクションで舞台に立ちます。小踊りの着付けには、1時間近くの時間がかかります。

IMG_E5965
着付けが終わった大踊りの高校生と小踊り

IMG_E5964
僧侶姿の鉦打ち姿の保存会長
今回は会場からの入庭(入場)でした。
IMG_E5971
佐文綾子踊(郡上市)
残念ながら踊っている姿を、私は撮影できませんでした。動画はこちらのYouTubeで御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=-_tNK3DKbqU

前日のリハーサルでは、問題点が山積み状態だったのですが、本番では嘘のようにスムーズに進みました。わずか20分の舞台は、あっというまでした。着替えの後で、郡上市長さんからお礼の言葉をいただき、記念写真を撮りました。
IMG_E5987
佐文綾子踊保存会(郡上市文化ホール)
 「風流踊り In 郡上」に招待していただいたことに感謝しながら
帰路に就きました。

関連記事

                        
佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
関連記事

四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
関連記事


滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。
(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。

姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
Amazon.co.jp: 増補新版 牛頭天王と蘇民将来伝説: 消された異神たち : 川村湊: Japanese Books
 
 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
東京・埼玉へ: Neko_Jarashiのブログ
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

滝宮念仏踊りの変遷

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

補足(2024年4月19日)
 今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。
寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。
空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら  より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

滝宮牛頭天王社の絵札
滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
関連記事


港湾施設が港に現れる時期を、研究者は次のように考えています。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
このように「石積護岸 + 川港」が現れるのは、中世後半になってからとされてきました。
川西遺跡 船着き場
徳島市川西遺跡
前回に見た徳島市川西遺跡は、日本最古の「石積護岸と川港」で、鎌倉時代に石積護岸が現れ、川港施設は室町時代に整備されています。このようにして、中世から戦国時代に川港の施設が各地で整備されていきます。その集大成となるのが、秀吉が伏見城築城とセットで行っわれた宇治川太閤堤の石積護岸と川港でした。これは天下普請だったので、いろいろな大名達が参加し、各地域の治水護岸技術の集大成の場となり、技術交流の機会となります。そこで学んだ技術を各大名達は国元へ持ち帰り、築城や土木・治水工事に活かすというストーリーを研究者は考えているようです。確かに讃岐でも、生駒氏の高松城築城には天下普請で養われた技術や工法が活かされています。また、藤堂高虎の下で天下普請に関わった西嶋八兵衛も、讃岐で治水工事やため池築造を行いますが、これもその流れの中で捕らえることができます。今回は、宇治川太閤堤の影響を受けた「石積護岸 + 川港」の例を高知県の仁淀川河口の遺跡で見ていくことにします。  テキストは「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」です。

上の村遺跡 地図
仁淀川河口の上の村(かみのむら)遺跡
位置は仁淀川河口から2㎞ほど遡った上の村遺跡です。
ここは仁淀川と波介川の合流点でもあり、弥生時代から水運の拠点として繁栄してきたことが発掘調査から明らかにされています。

上の村遺跡 地図2
上の村遺跡の周辺遺跡
上の村遺跡 中世
中世の上の村遺跡復元図
復元イメージを見ると分かるように、新居城の麓には、倉庫的な建物が並んでいたようで、仁淀川と波介川流域の物資の集積センターとしての役割を果たしていたことがうかがえます。ここからは、川港も近くにあると考えられていました。それが平成21年度の発掘調査で出てきました。

上の村遺跡 調査エリア
 
石積護岸が出てきたのは上の村遺跡から南(河口側)で、かつての仁淀川跡(波介川)が流れていたようです。ここには使われなくなった古い堤防があり、地元で「中堤防(1次堤防)」と呼ばれていました。それを、内部調査のため断ち割ると中から石積みの堤防(2次堤防)が出土しました。「ハツリ」加工した石を積み上げ、内部には拳よりやや大きめの川原石を選んで詰めています。上部は断面ドーム状に仕上げられており、このような造りと形のものは全国的にもめずらしいようです。石の積み方等から大正〜昭和期のものと研究者は判断します。今のところ記録等が発見されておらず、工事の経緯は分かりません。
上の村遺跡 護岸比較表
 石積み護岸遺構」と「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」の比較表

この堤防遺構の下部を調査していると、地中からさらに石積みが出土しました。担当者はこれを「石積み護岸遺構」と呼んで、堤防遺構は「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」と区別しています。石積み護岸遺構は地中から出土していること、近代石積み堤防遺構と上下で交差している部分もあることから、石積み護岸遺構の方が古く、江戸時代初期のものとされます。
 石積み護岸の特徴として、自然石をそのまま積み上げた「野面積み」であることを研究者は指摘します。
近代代石積み堤防のつくり方とは大きな違いがあり、江戸時代初期頃の特徴を示しています。その他、石積みの傾斜や、築石の大きさ(表参照)、内側に礫をほとんど詰めていないことも近代石積み堤防と異なる点です。
上の村遺跡 護岸突堤.2JPG

 石積み護岸遺構のもうひとつの特徴は、平場や突出部分などの付属施設があることです。

仁淀川護岸施設
仁井淀川石積護岸と船着場
平場は護岸遺構の中ほどに造られていて、幅は約7,6 m、長さ44m、その端からのびる突堤状遺構は長さ40mほどで、さらに下流側には「捨石」部分があります。これは、私にはどう見ても川港にしか見えません。

上の村遺跡 仁淀川1
船着き場部分と石積護岸

川港説を裏付けるのは、以下の点です
①長宗我部地検帳で川津(川の湊)関連の地名がみえること
②近年まで「渡し」があったことから、舟着きに関わる機能があったこと
③石造りの台状遺構や、「石出し」と呼ばれる突出部などの付属施設が各所にあること。
宇治川太閤堤築堤 石出し

石積みの堤防が始まる上流端部分は、凹地に堤体内部と同じ川原石を厚く敷き詰めた基礎を造り、その上に堤防本体を築いていまる。基礎構造には「木枠」で堅牢にしている。
⑤2次石堤の外側にも、土を盛り付けて堤防を維持・拡大した様子が断面調査で観察でき、洪水とのたゆまぬ戦いが繰り広げられていたことがうかがえます。
上の村遺跡 護岸突堤

仁淀川河口の集積センターに出現した石積護岸を持つ川港の復元イメージを見ておきましょう。
上の村遺跡 石積護岸

白く輝く石積みは、古墳時代の古墳の積石を思い出させます。どちらにしても、山内藩による統治モニュメントの一種と捉えることもできます。今までにないモニュメントを、宇治川太閤堤の天下普請で学んだ技法で作り上げたことがうかがえます。

護岸遺構で、確実に江戸時代以前といえる石積み護岸は、全国でもごく限られています。
それが前回に見てきた徳島市の川西遺跡や京都宇治川の太閤堤です。宇治の太閤堤には、「石出し」と呼ばれる突出部が使われていました。仁淀川河口のこの石積み護岸遺構の延長は250mにも及び、さらに工区外へ延びています。このように大きな石材を使用する工事は、大工事で大きな労働力と高い技術が必要です。しかし、この遺構について記した文献や、土佐藩の開発事業を指揮した野中兼山との関係を示す史料も見つかっていません。
 しかし、高知県下には当時築かれたとみられる石積み遺構が各所に残っています。また、石積み技術の集大成といえる城郭の石垣をみれば、高知城には野面積みも多くみられます。城郭と治水用の護岸工事の石積みは工法的には類似しており、近接した形で同時進行で行われていた例もあることは以前にお話ししました。どちらにしても、「石出し」などは宇治川太閤堤とよく似ています。天下普請として行われた「太閤堤」などの技術が、このような形で地方に移転拡大していったと研究者は考えています。
 この川港と新居城の勢力との関係を見ておきましょう。
この川港から見える小さな山が、中世の山城である新居城跡です
この山城の裾からは縄文時代から江戸時代の遺構・遺物が連続して出土しています。それを発掘順に上から見ていくことにします。
①江戸時代では井戸跡等が出土。井筒は桶の側部分を重ねたもの
②室町時代の遺構では、箱形の堀形を持った大きな溝跡を確認。新居城の山下部分をコの字状に区画していた可能性があり。集落の中心は川寄り・川下方向にあった?
③平安〜鎌倉時代では、断面 V 字状の溝跡2条や多数の柱穴等を検出。遺物出土量はこの時代が最も多く、集落が一定のピークを迎えていた。遺物は、近畿産の「瓦器」や中国産青磁・白磁が多数出土していて、活発な交易活動を展開。
④奈良〜平安時代では、方形堀形の柱穴や完全な形の土器(杯)3個と赤漆皿、銅銭などが入っていた土坑・掘立柱建物跡4棟。掘立柱建物跡の柱穴は一辺1mほどの方形で、丈夫な建物で倉庫群と想定。遺物は多量の素焼き食器や煮炊き用の土器の他、京都近郊でつくられた「緑釉陶器」も出土。河川に近接した立地や大型の柱穴、出土遺物からみて水運に関連する役所的な施設の一部である可能性あり。
⑤古墳時代は、一辺約4mの溝に囲まれた1間×1間の掘立柱建物跡を確認。通常の方形竪穴住居跡と異なり、周りを溝で囲まれることや炉跡を確認できないことから特殊な性格を持つ建物跡。琴や衣笠などの出土例から祭祀関連の遺構の能性も考えられます。
⑥弥生時代では、溝状土坑を伴う掘立柱建物跡1棟、住居跡1棟と溝状土坑などを確認。瀬戸内地域の影響を強く受けた「凹線文」で装飾された弥生時代中期末の土器も出土。特に注目されるのは、多数の鉄製品がこの時期の諸遺構から出土。
 
 以上からは、上ノ村地区には川津の性格を持った集落が早くからあったことが分かります。またこの遺跡を考える際には、河口に近く、仁淀川、波介川の合流地点である立地から水運に関わる重要な拠点という視点が大切なようです。弥生時代以後、県外産の遺物が多く出土しているので一貫して外部からのモノと人の受入拠点であり、物資の集積センターとして機能してきたことがうかがえます。
最後に、この石積護岸の石材はどこから運ばれてきたのでしょうか?
私は、河口に転がる川原石を使ったと単純に考えていました。しかし、仁淀川河口に行けばすぐに分かりますが、河口には大きな石はありません。流れ下ってくる間に、小石になっています。中世の河川工事では、石材は近くにあれば使うけれども、近くになければ使わないというのが自然だったようです。そのため、石材を用いない治水施設の方が多かったことが予想できます。そんな中で、天下普請の宇治川太閤堤では、現場上流の天ヶ瀬付近の粘板岩が用いられています。前回見た徳島市の阿波の園瀬川護岸施設では、鎌倉時代から室町時代にかけて増築が繰り返されていました。その際には、周辺から結晶片岩は運び込まれています。そしてそれは、時代とともに大型化します。この仁淀川護岸施設の石材も川原石ではなく、周辺から運搬されたもののようです。ここからは、中世から近世にかけては、護岸工事に適した石材を多少離れた地点から運び込むことが行われていたことがたことが分かります。
小さな川原石はいっぱいあるのに、わざわざ石材を遠くから運んだ理由は何なのでしょうか。
この石積護岸に用いられた石材は角張ったものや、ある程度大きく偏平な割石などが数多く使われています。このような形や大きさが河川工事に適していると、当時の技術者は考えていたことがうかがえます。例えば、紀ノ川護岸施設では、運び込まれた片岩は法面に、川原石は裏込めにという使い分けがされています。使用用途によって、使う材料(石)を使い分けていたようです。これも土佐の技術者が天下普請から学んだことかもしれません。同時に、先ほども触れたように、これは山内藩という新勢力出現を庶民に知らしめる政治モニュメントの役割を持たせようとする意図があったと私は考えています。そのためには川原石ではなく、白く輝く葺石が求められたと思うのです。
 以上を研究者は次のようにまとめ、課題を挙げています。
①江戸時代以前に遡る河川護岸遺構は、全国でも非常に僅少。
②「平場」や突堤状(石出し)の部分は、同時期の他例がない。
③水制機能(護岸本体を水流から守る)だけでなく、舟運との関係を考えることが必要。
④構築の目的、「何を護ったか」が課題。
④石積護岸の埋没・廃絶時期は江戸時代中期(18世紀)頃。
⑤廃絶要因は、野中兼山による吾南平野の開発後、仁淀川水系から高知城下町方面への舟運が、土佐市対岸の新ルートに変わったこと?

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上の村遺跡 調査報告書

「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」

 川西遺跡3

 川西遺跡から河川の石積み護岸としては、国内最古のものが出土しています。川西遺跡は、国道192号を徳島市内西部の循環道として整備するための事前調査で見つかったようです。

川西遺跡4
              徳島市川西遺跡
位置は徳島市の眉山の南を流れる園瀬川が、その流れを北から東に変える川西地区です。現在の園瀬川は遺跡よりも南側を流れていますが、近世までもう少し北まで入り込んで流れていたようです。

上八万盆地の園瀬川の古流路
旧園瀬川の流路(青色) 川西で大きく東へ蛇行している
川西でU字に流れを変えるので、岸の浸食をおさえるために次のような護岸工事が鎌倉時代以後に行われてきたようです。

川西遺跡 護岸工事変遷


①第1段階 鎌倉時代から室町時代にかけて川岸斜面を東西45m、南北10mにわたり、重さ2kg程度の結結晶片岩(青石)で石積みして護岸。
②第2段階 13世紀に重さ15kg前後の青石をその上に積んで、補強。
③第3段階 13世紀後半に石敷き護岸上に直線状の築地状の石積護岸施行
④第4段階 14世紀中葉から砂礫が堆積した中洲に向けて、東西幅5m、南北の長さ15の突堤を設置し、川港化
⑤第5段階 14世紀後半に、築地状の石積護岸と、突堤の西側接合部分を水流から保護するために、縦杭・添え木・横木を組み合わせた複数の柵設置。
⑥その後も補強・増築が行われて、石積みに加え盛土をしたり、捨石と石留め杭で堅固化
ここで私が注目するのは、④の中洲に向けて作られた石積みの上に盛土で覆った突堤です。河川立地の遺跡で、このような突堤構造を採用する遺構は、中世以前には類例がなく、初めての出土になるようです。
 港湾施設が港に現れる時期を、再度押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
確かに「石積護岸 + 川港」としては、全国で最も古いものになるようです。
川西遺跡 船着き場

川西遺跡 船着き場2

ポイントをまとめると、
①河川の石積み護岸としては、国内最古の鎌倉時代の護岸施設。
②そこに室町時代に川湊が設置されたこと。
鎌倉時代から室町時代前半の約250年間にわたり、この地区を大規模な洪水から守ってきたことになり、現代の河川護岸の原型とも云えます。また、突堤状の遺構は、船着き場である川湊(=川津)であったと研究者は考えています。
 どうして、ここに整備された川湊が開かれていたのでしょうか
川西遺跡の石積み護岸施設の前の川跡からは、大量の木製製品が出土しています。
川西遺跡 木製品

 斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(どっこしょ)」の鋳型祈祷などです。その他にも漆器椀、折敷(トレーのようなもの)など食膳にかかわるものや、櫛、下駄、扇など装いにかかわるものもあります。呪術や祭礼に使われた土器は穢れを嫌い、そのまま川へと捨てたようです。そのため無傷なままの土器が大量に出土しています。木製品の中には製作途中のものや木屑もあります。ここからはこの遺跡周辺で、漆器椀などの木製品の生産工房や建築木材の加工場があったことが推測できます。
 木製品が大量に出土する場所は、鎌倉時代の西日本にあっては、寺院であることが多いようです。 それを裏付ける物として、寺院建築の存在をうかがわせる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦も出てきています。

川西遺跡 瓦
12世紀末~13世紀前半の瓦 左流水巴文(?)

つまり、川西遺跡周辺に木工工房を持つような有力な寺院があったことがうかがえます。木製品の生産工房や建築木材の加工場を管理統括する寺院が、製品の出荷や原材料などの物資を集積するために、この川湊を築造したと研究者は考えています。以前に、讃岐大内郡の与田寺には増吽によって組織された工房があって、仏像や神像・版木を制作する一方、大般若経書写センターなども兼ねていたことをお話ししました。その工房とイメージがダブってきます。
    那賀川などのように、園瀬川流域でも木材が切り出され、河口に運ばれていたこと、その管理機能を持つ寺院が周辺にあったとしておきましょう。
川西遺跡 西光寺

その寺院とは、どんな寺院だったのでしょうか? 地元の村史には次のように記します。
①川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期不明の寺があったと、
②近くに「西光寺」の地名が残り、バス停にもなっている。
③約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。
④その近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。
④の「金剛光寺」について「八万村史」(1935年)は、次のように記します。
八万村史(徳島県名東郡)昭和10年刊復刻(八万村青年団編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」
「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」
寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺があった。寺が栄えた鎌倉時代には境内に閼伽池(あかいけ)と称する庭池があった。この池が昔の園瀬川の流路の一部であったと云うのです。それが天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたとされます。
 寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるようなので、金剛光寺の工房が川西にあった可能性もあります。

川西遺跡 石積み護岸2
川西遺跡 石積護岸
以上から、次のような仮説を出しておきます。
①鎌倉時代から250年間にわたって木材供給などで大きな利権を持っていた寺院があった。
②その寺院は川西に木工工房を持ち、そこで仏像や版木などが制作されていた。
③同時に、園瀬川の浸食を防ぐために石積護岸が作られ、背後にあった木工工房を護った
④室町時代になると、中堤防が作られ川港が姿を現す。
⑤これは、このエリアが河口と上流を結ぶ河川交通の中継地として重要な役割を果たしていたことを物語る。

以上からは阿波の川港には、室町時代には川西遺跡と同じような護岸と川港を持った施設が各地に姿を見せていた可能性があります。そして、その川港も瀬戸の港のように、寺院の管理下にあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P
関連記事







    吉野川 山川バンブーパーク
吉野川市バンブーパーク
 竹は根は浅いけれども、広く密に生えるので、洪水対策として土留め効果があるとされて、水害防備林として川筋に育てられてきました。阿波の吉野川の川筋には長く続く竹林が今でも数多く残ります。そのため河と竹林は古くから見られた光景のように私は思っていました。
 一方、竹材はその柔軟性を活かし、編みあげることが可能で、いろいろな工芸品として活用されてきました。そして、各種水防施設にも用いられてきたようです。今回は、水害対策に竹材がどのように利用されてきたのか、洪水対策として竹林がいつ頃から姿を見せるようになってきたのかを見ておきましょう。

治水技術の歴史 : 中世と近世の遺跡と文書(畑大介著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」です。

蛇籠1
蛇籠の制作
 竹材を編んで細長く筒状にし、その中に川原石を入れた蛇籠が使われてきました。
このルーツは中国にあり、世界遺産に登録されている都江堰(四川省)紀元前3世紀)が築造された時に、はじめて用いられたとされています。
四川省の旅2004/都江堰編
都江堰(四川省)の蛇籠

蛇籠が我国に伝来したのは、いつ頃なのでしょうか? 
 古事記に蛇籠に相当する「荒籠」がみえるので、早くから伝わっていたとされてきました。しかし、古代の遺跡から蛇籠が発見された例はないようです。ここからは、古墳時代頃に伝来して、古代には日本国内で広く用いられるようになったとは云えないと研究者は考えています。
蛇籠3

それでは、蛇籠が確認できる史料はなんなのでしょうか?

富士川 船橋
富士川の舟橋(一遍上人絵伝)
『一遍上人絵伝』の富士川に渡された船橋の綱の右方は、蛇籠に固定されているように見えます。しかし、中世でも発掘調査で蛇籠が確認された事例はないようです。蛇籠が確認されるのは、戦国時代になってからです。永禄5年(1562)の穴山信君判物写に「籠」とあるので、戦国時代に甲斐国では蛇籠が使用されていたことは確かです。近世になると農書、地方書、定法書、川除普請仕様帳などから蛇籠は、広く普及していたことが分かります。蛇籠は寛永4年(1627)の吉田光由『塵劫記』に登場します。ここからは、江戸時代の早い段階ですでに知られていたことが分かります。

蛇籠 霞堤
かすみ堤に使用されていた蛇籠
「かすみ堤」などの山梨県内の堤防発掘調査では、江戸時代の蛇籠が確認されています。以上から蛇籠の一般的な使用は戦国時代になってからであり、中世後半までは一般的ではなかったと研究者は考えています。
蛇籠2
堤に用いられた蛇籠

次に治水対策として竹林が育てられていた事例を見ておきましょう。
長者舘門前 粉河寺縁起
板壁の内側に竹が植えられている(粉河寺縁起 長者屋敷)

  粉河寺縁起の長者(武士統領)の舘の周りには、竹が植えられているのが見えます。堀に面した塀沿いに、敷地を護るためと、弓矢の矢の作成材料として、武士の舘に植えられていたことが、絵巻物は描かれています。
 竹材が実際に護岸施設に用いられていた事例としては、次のような所があります。
①奈良県大和郡山市の本庄・杉町遺跡の河川護岸(図10)
②東京の汐留遺跡の大名屋敷の土留め竹柵
杉町遺跡の河川護岸

しかし、これらの事例は近世になってからです。中世に、河川沿いに竹が植えられた事例はないようです。それは、竹の全国普及への時期と関連します。
沖浦和光氏は、竹の普及について次のように記します。
①古代から中世初頭にかけては、温暖な南九州を除いて竹林は全国的には広がっていなかった
②竹林の造成技術が各地に伝わり、竹がいろいろな分野で用いられるようになったのは南北朝時代以後
③室町時代後半になって、治水灌漑のための竹林の造成が盛んに行われるようになった
つまり竹林の全国的普及は、南北朝以後ということにまるようです。竹は、古代からどこにでもあった身近な植物ではないようです。いまは里山では、竹藪が放置され、周りの山々を浸食して大きな問題となっています。私の家の竹藪も、すべて切り払って櫻を植えて、竹藪から山桜の山へと転換中です。このような讃岐の竹藪も、近世からあったわけではなく、明治以後に作られた景観のようです。我が里の「佐文誌」を読むと、大正時代に他所から持込、移植した竹が竹藪として拡がったことが分かります。現在の竹藪に囲まれた景観も百年前にスタートして、高度経済成長の時代にタケノコ景気の時代に急速に面積を拡げていったようです。竹と讃岐の里が結びついたのは近代になってからでした。それ以前は、以前にお話したように里山は「刈敷山」として、肥料のための草木刈りのための重要資源供給地でした。そのためタケノコなどは植えられなかったようです。竹藪が讃岐の里山に広がり始めたのは百年前からだったことを押さえておきます。
じゃかご・ふとんかご・特殊ふとんかご|金網の株式会社伊勢安金網製作所
現在の蛇籠
以上、竹材活用の歴史をまとめておくと
①古代では『竹取物語』の竹取翁に象徴されるように個人の手工的生産が中心
②鎌倉時代になると生活に身近な井戸の材料として使用されるようになり
③戦国時代頃になると治水工事で蛇籠が用いられ
④近世になると多量の竹材が護岸施設にも使用されるようになる。
蛇籠の普及も、この流れに沿うもので、伝来と普及は時期を分けて考える必要があると研究者は考えています。竹は古代から身近にあったものではないこと、竹は外来植物で九州から次第に生育エリアを拡大したことを押さえておきます。

防災と環境を両立する「蛇籠技術」の普及に向けた機関横断型の取り組み | SCENARIO 社会課題の解決を目指して
蛇籠
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P

前回の最後に、備前福岡の市が、山陽道と吉井川の水上交通の交わる地点に立地していたこと。しかし、そこに架かる橋は現在の視点から見れば「粗末な板橋」だったことを見ました。今回は、福岡の市にならぶ「店」をめぐって見ようと思います。テキストは「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」です。

福岡1
一遍上人聖絵「福岡の市」
 この場面では、追いかけてきた①吉備津彦神社の宮司の子息(武人姿)が黒い僧服を着た一遍に、②切りつけようとするシーンが真ん中に描かれています。その周囲を驚いた人達が取り囲み、成り行きを見守っています。その周囲に、5つの黒屋根が建っています。よく見ると茅葺屋根2棟・板葺屋根3棟です。一遍のことは、以前に見ましたので、今回は、この小屋でどんな商いが行われているのかを、時計回りに順番に見ていくことにします。

福岡 一遍受難と反物屋
      福岡の市 一遍に斬りかかろうとする武士
市の中央では「一遍受難劇」が起きようとしているのですが、その背後では、いつもどおりの商いが行われ、誰も事件には目を向けようともしていないように見えます。
上部の反物屋と履き物の小屋を見てみましょう。
福岡 反物屋
福岡の市 反物屋
①言葉巧みに往来まで出て、色目づかいまでして商品を押し付けている売り子
②売り子から反物を買って、銭を払おうとしている男
③座り込んで、反物を手にとって値踏みしている女
④紐で通したサシと呼ぶ銭を数えている女店主
ここで目に付くのは、女性達の多さと元気さです。この店では、ほぼ全員が女性です。生き生きとした表情で、声が聞こえて来そうな気がします。市全体が賑わいで満ちていたことがうかがえます。
 並べられている反物をよく見ると、丸く巻いたものと、やや平たく巻いた2種類があります。これが丸巻反物と平巻反物で、現在に続くものです。また、着物は売ってはいません。反物を買って、それを自分で縫って着物にしていたようです。時代が下ると、これが呉服屋へと展開していくのでしょう。
 この場面で歴史教科書が必ず触れるのが、銭が使われていることです。
お寿司の一貫は? Part.2 | 雑学のソムリエ
当時の日本では通貨は発行されていませんでした。古代の律令時代に国作りの一環として古代貨幣が造られたことはあります。しかし、それが一般化することはなく姿を消し、そのままになっていました。流通経済が未熟で、貨幣が必要とされなかったのです。銭が流通するようになるのは日宋貿易が始まって以後です。それも宋の銅銭を「輸入」し、そのまま国内で使用します。商品経済が始まったばかりの経済規模は、それで十分だったのでしょう。面白いのは、いろいろな金額を刻印した宋銭が入ってきますが、日本ではどれもが全て一文銭として扱われていたようです。この場面でも、女主人は銭を鹿の革の銭指しに通しているようです。
ここで研究者が注目するのが、②の反物を女性から買っている男です。
足半ばきの男
「足半(あしなが)」履きの船頭?
この男は紐を通した銭と引き換えに、反物を受け取ろうとしています。彼の履物を見てください。よく見ると足全体をカバーせずに、前半分だけしか底がついていない草履です。これを「足半(あしなが)」と呼ぶようです。これは滑りにくく、河船頭達が履いていたようです。つまり、男は、吉井川を上下する高瀬舟の船頭と推測できます。さらに想像を膨らませると、この船頭は、次のような役割を担っていたことが考えられます。
①田舎の者に頼まれ反物を仕入れて持って帰ったり、
②田舎から市場へ反物を持ち込み、委託販売を依頼したり
③田舎の人達から依頼されたものを、市で仕入れて持ち帰る便利屋の役割
彼が買い込んだ上物反物が、女房へのプレゼントである確立は低いと研究者は考えているようです。
建物の左端⑤の人物の前には高下駄が置かれています。反物屋とは、別の履き物屋のように見えます。
福岡 下駄や

 その左側に座り込んだ男は、手に草履を持って、店の女と何やら話しています。この男が履くには似つかわしくないような草履です。この草履は、男が委託販売用に売りに来たと研究者は考えています。当時は、職人が大量に生産するような体制ではなく、家で夜なべに作ったわずかなものを店に並べる程度だったようです。ちなみに、この絵には60人余りの人物が登場しますが、ワラジ、高下駄、つっかけ、草履、そして裸足と履き物はさまざまです。
次の草葺小屋には、俵を積んだ米屋と、魚屋が見えます。
福岡 米屋・魚屋

①青い着物を着た女が魚屋の店先に座り込んでいます。前には空の擂鉢風のものを持参しているので、魚を注文しているようです。よく見ると手元には風呂敷包みのようなものを持っているので、すでに1つの買い物を済ませて、次に魚を買いに来たのかもしれません。その女性客が魚を料理している男を見ています。③男は右手に細い包丁を持って切り込んでいますが、女が何やら話しかけているようにも見えます。「そこのところをもう少し大きく切って頂戴な」とか「もうちょっとまけとき」とでも言っているのでしょうか。
 ②使われているまな板は脚付きの立派なものです。大きさは1m以上はありそうです。まな板の魚は、尻尾がベロッとせず、ピッと細く上下に伸びているので、川魚ではなく海魚だそうです。
⑤女の向こうには上半身裸の男が、吊した魚の重さでしなった棹を担いで出かけています。魚の行商でしょうか。④魚屋の奥の天井には、山鳥と同時に干しダコが吊り下げられています。これは倉敷市下津井の名産・大干しダコとそっくりです。この時代に、その原型はできていて、売られていたことが分かります。
⑥手前の米屋では、米俵が積まれて上半身裸の男が枡を持って米を量り売りしているようです。

福岡 米屋
 福岡の市 米屋
当時の一升枡なのでしょうか。現代の一升枡と比べると、高さ寸法が低いように思えます。これが豊臣秀吉によって、枡制が変更される以前の一升枡の大きさだと研究者は指摘します。秀吉は天下統一後に「升制度量衡改定」で、1升枡の容積を大きくします。これは、入ってくる米の取り分を増やす「増税」になります。
 また、⑧米俵が積まれているので、当時は戦前までと同じで俵詰で流通していたことが分かります。客が持ってきた米袋に枡で量り売りしています。その左側では、口をゆがめた男が順番を待っているようです。
 福岡の市のシーンには、馬の背に俵を載せて運ぶ姿が、2ヶ所で描かれています。これも戦前までは、各地で見られた光景だったようです。今では、紙袋に変わってしまいました。
中段右の板葺小屋を見ておきましょう。

福岡 居酒屋
福岡の市 居酒屋?

 ①足が不自由で歩けないために地車に乗った男が物乞いをしています。②それに応対する店屋の主人らしき男がいます。物乞いする人間がやってきているので、食べ物屋でしょうか。店屋の主人は血色も良く満ち足りてふくよかに、しかも綿入れのような温かそうな着物を着けて手は袖の中に入れて描かれています。物乞いをする男は、素足で上半身裸のように見えます。この対比は、冷酷なほどリアルです。救われなければならない人たちを生んだ社会に、敢えて目を向けさせようとしているようにも思えてきます。
 ここには、③流しの琵琶奏者もいて、昭和の居酒屋と流しのギターの関係と同じです。小屋の中には、④女性が何人かたむろしています。客なのでしょうか、店の人なのでしょうか・・よくわかりません。小屋の右端には、⑤大甕が3個並べられています。ここにはお酒が入っているようです。客に提供する居酒屋としたら、つまみ的なものもあったはずです。そういう目で見ると、四角っぽいやや厚みのある短冊状のものがかすかに見えます。冬の食べ物で想像すると、吉備では切り餅や凍り餅が候補に挙がるようです。
 小屋の左手隅には、⑥面のようなものをぶら下げて売っている男が描かれています。街道をいく旅人のお土産なのでしょうか? よく分かりません。

  最後に広場の下側にある2つの小屋を見ておきましょう。
福岡 大壺・高瀬舟
大壺と高瀬舟

右側の板葺小屋には壁がありません。その下には、大きな壺がいくつも転がっています。先ほどの「居酒屋」も壺のように立てて並べてなくて、まさに転がっているという感じです。これを大壺が商品として売られていると、研究者は考えています。この辺りで、大壺と言えば備前焼です。この壺が登場することで、醤油や漬け物などの食文化が拡大していきます。生活にはなくてはならない必需品です。

小屋の下の「川港」には、高瀬舟が到着して、船頭が何かを抱えて下船しています。
そういえば、魚屋の魚は海の魚でした。河口から高瀬舟で運ばれてきたのかもしれません。また、反物屋で女から反物を買っていた船頭の船が、ここに舫われているのかも知れません。どちらにして、福岡の市が山陽道と吉井川水運の交叉点に開けた定期市であったことが、ここからは見えてきます。

その左手の茅葺小屋は壁があって、何を商っているのかよく分かりません。
しかし、左端に一部、商品らしきものが見えます。 福岡の市では、刀剣類は売られていないとされてきました。刀剣は店先に並べて売るようなものではなく、注文生産だと思われていたからです。しかし、研究者が注目するのは、下段左端の小屋左端の店先に置かれている棒状のものです。これだけでは刀剣だとは云えません。

P1250367
福岡の市 武士が一遍に帰依して剃髪する場面

 裏付け史料になるのが剃髪場面です。ここに描かれている短刀には折り紙のようなものが一緒に添えています。これと同じものが、先ほど見た店の台にも描かれていることを研究者は指摘します。確かに、鞘の色や描き方もまったく同じです。ここからは、刀も商品として市で売られていた可能性が出てきます。
 
 一遍が福岡の市を訪れた季節は、いつなのでしょうか。
落葉した梢、ススキと紅葉した秋草が残って、遠景に雪山を描いているので初冬のようです。しかし、登場人物を見ると上半身が裸の男達が何人もいました。当時の人達は薄着だったのでしょうか? よく分かりません。
 一遍受難事件の発生した時刻は、何時頃なのでしょうか?
 研究者が注目するのは、絵巻の左上の松などの樹木です。その上部の方がぼかされて表現されて、上部が薄く霞むように途切れていると指摘します。これは夕方黄昏時の「昏くらいとばり」が降るように迫ってきていることの表現のようです。一遍上人が危機迫るこの大事件に遭遇しながらも、逆に相手を折伏してし、剃髪が行われたのは夕方近い頃であるとしておきます。

最後に中世の市は、毎日開かれていたわけではありません。期日を決めての定期市だったと教科書には書かれています。それでは、市が立っていない時の様子はどんな様子だったのでしょうか?
それを最後に見ておきます。

備前福岡の市の後に、京を経てやってきた信濃国佐久郡の伴野の市の光景です
P1240533信濃佐久郡伴野の市
信濃国佐久郡の伴野の市
道をはさんだ両側に六棟の茅葺小屋が建っています。附近には家のありません。向こう側の小屋にはカラスが下りてきて餌をあさっています。犬たちの喧嘩に、乞食も目覚めたようです。
こちら側の小屋には一遍一行が座っています。ここで一夜を過ごしたようです。そして、背後には、癩病患者や乞食達の姿も見えます。
 「あら、西の空に五色の雲が・・・」という声で、時衆たちは両手を合わせて礼拝します。そして、瑞雲に歓喜したと詞書は記します。

P1240534

 この絵からは、市が建たない時は閑散としていたこと。そこは乞食たちの野宿するところでもあったこと。そんな場所を使いながら、一遍たちの廻国の旅は続けられていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」
関連記事

富士川の船橋2
富士川の船橋(一遍上人絵伝)
前回は富士川の船橋と渡船を見ました。それを次のように、まとめました
①東海道は鎌倉幕府の管理下で、川を渡るための設備が整えられていたこと
②川はこの世とあの世の境に横たわる境界(マージナル)とも意識されていたこと。
DSC03302三島社神池と朱橋
     三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
②については、当時の寺社の伽藍配置を見ると、本堂や拝殿の前に神池を配して、それを橋で渡るという趣向がとられていたところがあったことが分かります。それでは、中世の橋とは、どんなものだったのでしょうか。今回は、それを一遍上人絵伝で見ていくことにします。テキストは 藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)です。

犀川渡河風景
 信濃・犀川の渡河風景
ここには、信濃・善光寺参りの際の犀川の川越え場面が描かれています。
荷駄を担いで岸沿いにやって来た男が渡岸場所をもとめて立ち迷っているようです。その前には、乱杭が何本も打たれて、氾濫に備えているようです。こちら側に洪水から護るべき土地があるようです。手前側では、米俵を馬の背ではこぶ男がいます。迷った末に、ここから川の中に馬を飛び込ませています。米俵は濡れても大丈夫なのでしょうか?
 この絵からは、川には橋もないところがあったことが分かります。ある意味では、渡河は命懸けの行為だったともいえます。里人にとっては、このような危険を冒してまでして犀川を渡ることは少なかったはずです。命懸けで、渡河しなければならなかったのは旅人・商人・廻国修験者たちだったが多かったようです。しかし、一遍上人絵伝には、ほとんどの河には橋が描かれています。

  奥州の祖父墓参からの帰路に渡った常陸国の橋です。
DSC03286
常陸の橋
 雪景色が一遍の前途に拡がります。うねりながら流れる川の手前に、雪化粧された橋が架かっています。  この橋について『絵巻物による日本常民生活絵事』は、次のように記します。
 この絵図に見るような田舎道にもりっぱな欄干のついた橋が架かっているのは、街道筋のためであろうか。この橋は常陸(茨城県)にあった。(中略)
京都付近の橋のように堂々とした欄干も橋脚も持っていない。しかし、一応欄干はついており、橋板もしかれている。橋はわずかだが上部に反っている。これは他の大きな木橋にも共通している。橋そのものは、擬宝珠ももっておらず、また橋脚なども細く小さく街道沿いの橋としては貧弱といえるが、絵巻の中に出てくる地方の橋の中では、技術的に高いものといえる。
   ここでは京都付近の橋と比較して「街道沿いの橋としては貧弱」とします。それでは、京都付近の橋を見ておきましょう。一遍上人絵伝には、賀茂川にかかる四条大橋が描かれています。それを比較のために見ておきましょう。
 
四条大橋
四条大橋(一遍上人絵伝)
 橋の下には賀茂川が勢いよく流れています。橋の上は、霧が深く立ちこめ牛車を隠すほどです。車輪のとどろかせる音だけが聞こえてくるようです。その背後には、板屋や菜田が見えます。このあたりが上賀茂になるのでしょうか。
 橋の左(西)側に目を移すと霧が晴れて、京の街並みが見えています。見えて来たのが四条大通で、朱塗りの鳥居が祇園社の西大門になるようです。橋の下では、服を脱いで馬を洗っている男達がいます。賀茂川は、馬を洗うところでもあったようです。このような立派な橋は、京都にしかなかったようです。
 橋の構造を見ると確かに「堂々とした欄干と橋脚」「擬宝珠」を持ち「技術的に高く」、しかも美しい橋です。それでは、京都の橋のすべてが四条大橋のように立派だったのでしょうか。

堀川に架かっていた七条橋を見てみましょう。
P1250357
 京の堀川と橋
京の市屋道場(踊屋)の賑やかな踊り念仏の次に描かれるシーンです。 踊屋の周囲の賑わいの離れた所には、ここでも乞食達の小屋が建ち並んでいます。その向こうに流れるのが堀川です。上流から流されてきた木材筏が木場に着けられようとしています。

P1250358
 堀川に架かる七条橋
 ここで研究者が注目するのが堀川に架かる木橋です。この橋が七条橋になるようです。先ほど見た賀茂川の四条大橋に比べるとはるかに粗末です。京の橋すべてが四条大橋のようにきらびやかなものではなかったことを、ここでは押さえておきます。  
 同時に「粗末な橋」と低評価することも出来ないのではないかと研究者は、次のような点を指摘します。それは、大きな筏がこの下を通過していることです。そうすると、この筏が通過できる規模と大きさと橋脚の高さを持っていたことになります。ここには絵巻のマイナス・デフォルメがあると研究者は考えているようです。実際には堀川の川幅はもう少し広いので、橋も長かったはずだと言うのです。つまり、この橋は実際には、もう少し長く高い橋であったが絵図上では、短く低く書かれているということになります。一遍上人絵伝の橋を、そのままの姿として信じることはできないようです。書かれているよりも大型で長かった可能性があることを押さえておきます。
  四条大橋や宇治橋や瀬戸橋は、今で言えば瀬戸大橋やレインボーブリッジのようなものです。政治的な建築モニュメントの役割も果たしていました。これらの橋と常陸の橋を、同列に並べて比べるのは、視点が間違っていると研究者は指摘します。比較すべきは、当時の地方の主要街道や一般街道に、どんな橋が架かっていたかだとします。
  それでは、地方にかけられていた橋を見ていくことにします。
一遍が石清水八幡参拝後に逗留した淀の上野の里です。

P1240609上野の踊屋と卒塔婆238P
上野の街道と踊屋(一遍上人絵伝)

上野の里をうねうねと通る街道が描かれています。街道沿いの大きな柳の木の下に茶屋があり、その傍らには何本もの祖先供養のための高卒塔婆が立てられています。その向こうでは、踊屋が建てられ、時衆によって念仏踊りが踊られています。それを多くの人々が見守っています。上野の里での踊りも、祖先供養の一環として、里人に依頼されて踊られたという説は以前にお話ししました。
手前の街道を見ると、道行く人も多く、茶店や井戸などの施設も見えます。ここが主要な街道のであることがうかがえます。
 左手中央に、小さな川が流れています。そこに設けられているのが木橋です。
上野の板橋
上野の板橋
縦3枚×横2枚の板橋が、2つの橋脚の上に渡された「粗末」な橋に見えます。しかし、これを先ほど見た堀川の七条橋と比べて見るとどうでしょうか。構造的には同じです。そして、一遍上人絵伝の橋の絵には「マイナス・デフォルメ」がある、という指摘を加味してみると、この上野の橋は案外大きかったのではないかとも思えてきます。橋の上を、赤子を背負った菅笠の女房が橋を渡っています。人や馬は通過できたでしょうが、荷馬車は無理です。ここからは、地方の街道には、「投下資本」が少なくてすむので、こんな板橋が一般的だったことが推測できます。今度は奥州の主要道に架かる橋を見ていくことにします。
 
弘安3(1280)年、 一遍の祖父・河野通信(奥州江刺)の墓参りのシーンです。  
DSC03277江刺郡の祖父道信の墓参

墳墓の手前に白川関からの道が続いています。商人の往来が描かれ、詞書には次のように記されています。

魚人商客の路をともなふ、知音にあらざれども かたらひをまじえ・・」

ここからは、人々が数多く行き交う街道であったことがうかがえます。この街道は「奥大道」かその「脇往還」のようです。この街道の先に架かっている橋がこれです。

奥州江刺墓参の橋
奥州江刺の街道に架かる橋(一遍上人絵伝)
 これだけ見ると、寒村の小道の板橋のようにしか見えません。しかし、これが主要街道に架かる橋だったのです。市女笠の女が胸に赤ん坊抱いて渡ろうとしています。前を行く従者が檜唐櫃(ひかんびつ)を前後に振り分けて担いでいます。そして稲穂が見える田んぼの中に小川が流れ、そこに板橋が架かっています。ここでも川には何本もの杭が打ち込まれています。

「一遍上人絵伝』の中で有名な場面といえば、備前国福岡の市です。教科書の挿絵にも登場する場面です。最初にストーリーを確認しておきます。

備前国藤井の政所で、吉備津宮神主の子息の妻が一遍に帰依して出家します。それを知った子息は怒りに震えながら一遍を追いかけ、福岡の市で遭遇します。そして斬りかかろうとしますが、一遍の気迫に押され、彼自身も帰依して剃髪した

福岡の市の場面に出てくる橋を見ておきましょう。
福岡1
①騎馬で追いかけてくるのが吉備津宮神主の子息で、従者が歩行で従います。この道が山陽道。
②市の手前に一筋の川が流れています。これが吉井川で、木橋が架かっています。
ここからは福岡の市が東西に走る山陽道と、南北に流れる吉井川交わる地点に設けられた交通の要衝に立地していたことが分かります。絵には、吉井川に係留された2艘の川船が見えます。水上交通と市が深くつながっていたことを示す貴重な史料ともなっています。それでは山陽道にかけられた橋を改めて見ておきましょう。

P1250364

丸木の上に板橋が乗せられた構造で、橋脚もありません。山陽道の最重要商業拠点に架けられた橋にしてこれなのです。京都の四条大橋には比べようもありません。 こうしてみると、中世の地方の街道には「粗末」な橋しか架かっていなかったことが見えてきます。

P1250355
書写山(姫路)の参拝道の橋

その「粗末」な板橋こそが各地を結ぶ重要な役割を果たしていたことになります。
中世の人達にとって、四条大橋や瀬田橋は瀬戸大橋かベイブリッジのようなもので、滅多に見ることのない橋のモニュメントであり「観光名所」だったのかもしれません。そして、普通に橋と言えば板橋で、それが各地の主要街道に架かっていたことがうかがえます。そういう意味では、最初に見た常陸の橋は、地方では、堂々とした橋で特別な橋であったことになります。この事実を受け止めた上で、認識を次のように改める必要があるようです。
①絵巻の中の街道には、「粗末」で大した技術もなく、見栄えのしない橋しか出てこない。
②しかし、ほとんどの街道の川には橋が架けられていて、川をジャブジャブと渡る姿は少ない。
③技術や見栄え以上に、必要な所には粗末ながらも橋が架けられていたという事実に注目すべきである。
④「粗末な橋」が、一遍一行を始め人々の旅を支える重要な役割を果たしていた。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)
関連記事


            日本の絵巻 (5) 粉河寺縁起 | 茂美, 小松 |本 | 通販 | Amazon

 私が好きな絵巻縁起の中に、粉河(こかわ)寺縁起があります。アマゾンで450円で売り出されていたので、買い求めて眺めています。素人が見ていても楽しくて、しかも中世史料としても役立ちます。今回は、この巻頭の猟師の家を見ていこうと思います。テキストは「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。

 この絵巻の前半は、紀伊国那賀郡の猟師大伴孔子古(くすこ)が観音の奇瑞により発心し、粉河寺の本尊千手観音が出現する由来です。『粉河寺縁起』の詞書には、次のように記されています。
〔第一段〕(詞書欠失)  兵火で巻頭焼失
〔第二段〕
さて、七日といふに、件の所に行きて見れば、少し分も違はず、開けたる所もなし。さて、開けて見れば、等人(↓身)におはします千手観音一体、きらきらとして立たせたまへり。仕置きたる童は見え給はず、身を寄せ、すきな口‐‐□物したためたる跡も、屑もなし。猟師あやしみ、深く悲しむ。
 この由を妻に語りて、うち具しつつ参り、近辺の者共にも、この由を言ひちらして、各々参り、帰依し奉りけり。
  第一段を補足して、意訳変換しておくと
  紀伊国那賀部の猟師(大伴孔子古)が、山の木の間に据木を設けて、その上に登り、夜ごとに猪や鹿をねらっていた。ある夜、光り輝く地を発見、そこに柴の庵を建て、仏像を安置したいと願っていた。すると、一人の童(わらわ)行者が家にやって来て、猟師の願いをかなえる、と約束して七日の間、庵にこもった。
…約束の七日日(正しくは八日目)の朝、猟師が庵に行くと、童行者の姿は見えない。扉を開けると、中に等身の千手観音像が立っていた。猟師は喜び、これを妻や近隣の人々に語ったところ、人々が、つぎつぎに参詣した。
山中での狩猟中に光を放つ地を発見した孔子古は、そこに庵を構え、仏像安置を発願します。すると一人の童子の行者が、家にやって来て宿を乞い、その礼に仏像の建立を申し出ます。行者は庵に入り、七日の内に仏像を作るのでその間は見てはならない、完成したら戸を叩いて報せると告げ、庵に籠ります。しかし、ここまでの内容は、巻頭部が兵火で焼けて焼失してありません。

P1250254千手観音出現
          現れた千手観音を拝む猟師

 8日目に庵に行って扉を開けてみると、庵内には等身の千手観音立像が安置され、行者の姿は見えなかった。

P1250259

猟師は近隣にこのことを語り、人々はみな参拝して観音に帰依した。
ここには、猟師の大伴孔子古が童行者の援助によって粉河寺を創建した話が記されています。
焼け残った断片を、つなぎ合わせた猟師の家を見ていくことにします。
冒頭 猟師の家2
猟師の家(粉河寺縁起冒頭) 
最初は、猟師の家にやってきた童行者との対面場面です。拡大して見ましょう。
P1250248

童行者は垂髪を元結で束ね、袈裟を掛け、数珠を持って片膝を上がり框に載せています。当時の上層階級を描く際のお約束である「引目鉤鼻」で上品に描かれています。それに対して猟師は、口髭を生やして萎烏帽子をかぶり、腰刀を差して武骨な感じです。片膝を立てて坐り、両手を擦り合わせてお礼をしているようです。
  この部分の会話は、詞書が焼失していますが、他の史料から研究者は次のように復元します。
猟師は、柴の庵を建てていましたが、まだ本尊がありませんでした。そこへ童行者がやってきて、自分が仏像を七日で造りましょうと提案しているシーンです。猟師は童行者の申し出をありがたがっているのでしょう。
巻物を開いていくと次のシーンは、猟師一家の食事場面です。

猟師の食事と肉2
猟師の食事風景(粉河寺縁起)
玄関の背後は台所で、猟師が家族と食事中です。緑の筵を敷いた上に坐るのが 猟師の妻です。折敷板に載せた椀を前にして、赤子に乳を含ませています。その向かい側に片肌を脱いで、あぐらをかいて坐っているのが猟師です。大きなまな板上に、あるのは鹿肉です。

  猟師の食事と肉
 台所で大伴孔子古の家族が鹿肉をたべています。まな板の上に肉をおき、それを箸でおさえ、小刀で切ります。まるで刺身か寿司のように見えます。孔子古や妻の碗の中には、切った肉が入っています。夫婦の椀に盛られているのは、御飯ではなさそうです。鹿肉どんぶりでもないようです。よく見ると、食卓には肉以外の野菜などの副食物はありません。当時の猟師達にとっては、肉そのものが主食だったと研究者は考えています。
 また、肉を焼いたり煮たりしてたべることも少なかったようです。生でたべるか、あまったものは②串ざしや③薦の上に乾かして乾肉にしています。それが庭先に描かれています。乾したものを鳥獣に食いちらされないように、おどしのための矢がたてられています。

当時の鹿肉の保存方法について、絵巻には次のような情景が見えます。
①庭のカマドで肉を煮る
②肉を串に刺して竈(カマド)の前で炙る
③筵(ムシロ)の上で乾燥する
④串に刺して軒下に吊るして乾燥する
⑤生肉を椀に入れ食べる(膾なます、現代風に言えば鹿刺し)
 「野菜類も含めて栄養のとれたバランスある食事」というのは、高度経済成長後の日本が豊かになった後の食事法です。かつては、能登地方では米がとれると米の飯ばかりたべ、鱈(たら)がとれると鱈ばかりたべたと云います。対馬などでも古風な村では烏賊のとれるときは烏賊だけ、麦のとれたときは麦だけ、芋のとれたときは芋だけ、そのほかに若干の塩分があれば庶民は事足りたのです。主食と副食物を別にし、さらに副食物の数をふやすようになったのは酒を飲むための献立が求められるようになってからのことです。また、塩蔵や発酵による貯蔵が発達しなけらばなりません。中世の猟師は、肉が主食であったことをここでは押さえておきます。
次の場面は、猟師の家の裏です。

P1250251
芝垣に干された鹿皮
 柴垣には、鹿皮を干すために、紐を編んで付けた木枠に張られて立て掛けられています。なめし革にしているようです。鹿革は、衣類にされるほか、靴や馬の鞍にされたりする重要素材で、猟師の収入源でした。そのそばでは、犬が何かを食べています。鹿皮から削ぎ落した肉片でも貰ったのでしょうか。

 獣皮をやわらかにする技術は朝鮮から伝えられたことが、「日本書紀」仁賢天皇の六年の条に次のように記されています。

日鷹吉士が高麗から工匠須流枳・奴流枳等をともない帰って献じた。朝廷はこれを大和国山辺郡額田邑においた。熟皮高麗(かわおしのこま)がこれである

「令義解」には大蔵省の条に、次のように記します。

典履典革という役目があり、靴履・鞍具をつくる者をつかさどっていた。靴履・鞍具をつくる者は高麗人・百済人・新羅人などであり、雑戸として調役を免ぜられていた。

これらの人びとの技術が、時代を下ると供に、民衆の間へも伝播浸透していったのでしょう。なめし方については、「延喜式」には、「雑染革・洗革」について、次のように記します。

洗革というのは鹿皮を洗って毛を除き、よくかわかして肉をとり去り、水につけてふやかし、皮をあら削りして草木の汁(成分不明)に和して後に乾す。牛皮の場合は、樫の木の皮が用いられている。樫皮を煮つめてそのタンニンをとり、タンニン液にひたして膠をとり去る

「粉河寺縁起」の場合も、このタンニンなめしであったと研究者は推測します。この絵巻からは、鹿皮の加工過程が見えて来ます。

猟師の家に続いて出てくるのが、この場面です。

P1250252
 
私には、森の木立とした見えませんでした。ここには、猟師の狩の工夫が描かれていると研究者は指摘します。股になった木の間に材木を渡したものがそれです。これが獣道(けものみち)の上に設けられた、据木(スワリギ)と呼ばれる足場で、ここから下を通る獣を弓で射りました。
据木
据木
 猟師が木上上から下を通る鹿をねらいうちしています。少人数で狩をしようとする場合には、動物が通る通路で待ち伏せるのが、最も効率がいいようです。特に、鹿は決まったルートを通ります。「高忠聞書」には「か(狩)りといふは鹿狩の事なり」とあります。こうした野獣の通る道をウジ、ウチ、ウトなどと呼んでいました。山城宇治なども野獣の通道の意であり、それが広域の地名となったと研究者は考えているようです。
 そういうところに待ち受けて狩ることを、ウチマチ、ウジマチなどと云いました。日本の狩猟はこうしたねらい射ちを主として発達します。そこで使われるのが長弓です。長弓は獲物に気付かれないように近くからねらい射ちすることが得手な武器です。
 猟師は、木の上で獲物をまつために、木の股を利用して丸太をわたしてその上に潜みます。詞書には据木(スワリギ)と記します。これをマタギと呼ぶ地域もあるようです。東北地方では、狩のことをマタギとよび、狩人もまたマタギと呼びます。これはウチマチをするための装置からきている言葉と研究者は推測します。

  以上から、平安時代にも肉食で生活していた人がいたことが分かります。ただ、肉は供給量が少なくて大衆に日常食品として出回ることはなかったようです。仏教により肉食が避けられたと従来は言われてきましたが、ほとんど根拠のない俗説と研究者は考えています。
確かに肉食禁止について「日本書紀 29巻 天武天皇四年夏四月」に、次のような詔が記されています。

庚寅の日(17日)、諸国に詔(みことのり)したまひしく、「今ゆ後、諸の漁(すなどり)り猟(かり)する者を制(いさ)めて、檻(おり)穽(おとしあな)を造り、また機槍等の類を施(お)くことなかれ。また四月の朝以後九月の三十日以前には比彌沙伎理(ひみさきり)の梁を置くことなかれ。また牛馬犬猿鶏の宍(にく)を食ふことなかれ。以外は禁例にあらず。もし犯す者あらば罪せむ」と宣りたまひき。

意訳変換しておくと
庚寅の日(17日)、諸国に次のように詔した。「今後、漁業や狩猟する者に対して、檻や穽(おとしあな)を造り、また狩猟のための槍などを置くことを禁止する。また四月の朝以後は、九月三十日以前には川に梁を設置することを禁止する。また牛馬犬猿鶏の肉を食ねることのないように。これ以外の動物については禁例としない。もし犯す者れば罪する。

 研究者が注目するのは、最後の部分の「これ以外の動物については禁例としない」です。つまり、肉食禁止令には、猪、鹿は含まれていません。そして、その後も延喜式には諸国から貢進される産物として、信濃、甲斐などからの調物には肉製品が入っています。肉食によって生きていた人達がいて、その文化があったことは押さえておきます。
 確かに、平安貴族は四つ足の獣は汚れとして忌まわれ、仏教の殺生を禁じる教えもあって鳥肉以外の肉食をほとんどしませんでした。しかし、庶民は別です。肉食をしていたのです。生き物を狩り、それを食するのが猟師です。これは、仏教の教えに背く生業です。粉河寺縁起には、猟師である者でも信心を持てば、救われる存在であることを語っています。本尊の千手観音は、千の手それぞれに眼があり、すべての人を救うとされます。このあたりに、粉河寺の人気の源がありそうです。
P1250260
粉河寺の千手観音(粉河寺縁起)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし
西岡常一『粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵』 日本絵巻物全集6、p.23~(角川書店)1977

全国の民俗芸能には、鳴り物に太鼓や鉦が使われます。
例えば「一遍上人絵詞伝」には、「ひさげ」を叩きながら、踊り念仏を行ったことが次のように記されています。

すずろに心すみて念仏の信心もおこり、踊躍歓喜の涙いともろおちければ、同行共に声をととのへて念仏し、ひさげをたたきてをどりたまひけるを、(略)

  意訳変換しておくと
次第に心も澄んで念仏への信心も高まり、踊躍歓喜して踊っていると涙がつたい落ちて、同行する者たちは声を調えて念仏して、ひさげを叩いて踊った、(略)

  ここには「ひさげを叩いて踊った」とあります。

提・提子(ひさげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ひさげ
ひさげとは、鉉(つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 です。湯や酒を入れて、持ち歩いたり温めたりする銅や真鍮製の容器でした。最初は、太鼓や鉦でなく「ひさげ」が打ち鳴らされていたようです。


信濃小田切 踊り念仏 
信濃小田切の踊り念仏
踊り念仏が踊られたころの絵図を見てみましょう。一遍が打ち鳴らしているのは、大きな鉢のように見えます。踊りの輪の中にいる時衆たちが持っているのも鉦ではありません。「ひさげ」を叩いていたことを押さえておきます。また、雰囲気も厳かな宗教的踊りとという感じはしません。踊り念仏が庶民の娯楽性を帯びたものだったことがうかがえます。

『一遍聖絵』には、次のように記します。
聖の体みむとて参たりけるが、おどりて念仏申さるゝ事けしからずと申ければ聖はねばはねよをどらばをどれはるこまののりのみちをばしる人ぞしる

  意訳変換しておくと
聖(一遍)がやってきたことを聞いて、多くの人々がやってきた。その中に踊りながら念仏を唱えることを、けしからないと非難する人もいた。それに対して聖は、跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれと、駒の道理を知る人は知る

「跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれ」とあるので、飛び跳ねる馬のように軽快に乱舞していたことが分かります。この時に、「ひさげ」は叩いて音を出す楽器として使われたようです。同時に、「ひさげ」は、壷のように霊魂の容器であるホトキ(缶)としても用いられています。つまり、宗教的な器具であり、楽器でもあったようです。
「ひさげ」のように空也手段が叩いていたのが瓢箪(ひょうたん)のようです。
『融通念仏縁起絵巻』の清涼寺融通大念仏の項には、瓢箪を叩きながら念仏を唱えて踊る姿が描かれています。ここからは、瓢箪も「宗教的意味合いをもつ楽器」と考えられていたことがうかがえます。
空也堂踊り念仏

京都の空也堂で11月に行われる歓喜躍踊念は、「鉢叩き念仏」とも呼ばれます。ここでは空也僧たちが導師の回りを太鼓と鉦鼓に合わせて、瓢箪を叩きながら歓喜躍踊念仏を踊ります。鉦鼓や焼香太鼓・金瓢などを叩いて、これに合わせて「ナームーアーミーダーブーツ(南無阿弥陀仏)」と念仏を詠唱しながら、前後後退を繰り返しながら左回りに行道します。次第に鉦や太鼓のリズムが激しくなり、空也僧も速いテンポの念仏に合わせながら体を大きく左右上下に振ります。この体形は、天明七年(1787)成立の『拾遺都名所図会』に描かれた挿絵とほぼ同じです。この絵には、
①空也堂の内陣須弥壇前方部で鉦を打ちながら読経を続ける一人の僧侶
②僧衣を着けた半僧半俗の九名の空也僧たち
が描かれ、僧侶を中心に取り巻くようにU字型の体形をなし、手に狐と撞本を持って、詠唱念仏に合わせて瓢箪を打ちつつ行道している様子が描かれています。

空也堂系の六斎念仏請中では、金狐銀釧を採物とするものが多く、瓢箪を叩くものは少数のようです。
採物(とりもの)とは、神事や神楽で巫女や神楽などが手に持つ道具で、「榊・葛・弓・杓(ひさご)・幣(みてぐら)・杖・弓・剣・鉾」の計9種類とされています。折口信夫は手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の意味があったという説を出しています。
 例えば以前に見た播磨の百国踊りの新発意役の採物(とりもの)は
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。
七夕|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典|ジャパナレッジ
ひょうたんが吊された七夕竹
ちなみに、踊り念仏の本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、その後の流れの中で新発意役の衣装も、派手な色合いに風流化し、僧形の姿で踊る所はあまりないようです。そういう意味では、被り物や採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えていると云えそうです。

2月14日|でれろん暮らし|その89「比左を打つとは?」 by 奥田亮 | 花形文化通信
 「七十一番職人歌合」の鉢叩の項には、次のように記します。
「むじょう声 人にきけとて瓢箪のしばしばめぐる 月の夜ねぶつ」
「うらめしや誰が鹿角杖ぞ昨日まで こうやこうや といひてとはぬは(略)はちたたきの祖師は空也といへり」

以上をまとめておくと
①踊り念仏では、手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の道具として採物(とりもの)が用いられた。
②空也系の流れを汲む時衆の踊り念仏で、用いられた採物が「瓢箪」であった。
③瓢箪は、「鉢叩き」として楽器であると同時に、霊魂の容器として宗教的な意味合いを持っていた。
④禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇を採物とした。
⑤踊り念仏から風流踊りへと変化する中で、鳴り物より採物の方が重視されるようになった。
⑦採物は風流化の中で、大型化したり、華やかになったりして独特の「進化」をとげた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

 DSC03394
                         
時宗の開祖・一遍は民衆の間に念仏を勧めて、北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続けました。そのため「遊行上人」とも呼ばれます。しかし、あるときまでは一遍は自分の行動に確信が持てなかったようです。それが大きく変化するのが熊野本宮で、熊野権現から夢告をうけたことでした。

DSC03181
熊野川を下る一遍

一遍死後、約50年後の正安元年(1299)に、弟子の聖戒が作成したと伝えられる「一遍聖絵」巻二には、次のように記されています。

DSC03190熊野本宮
熊野本宮(一遍上人絵伝)
  文永十一年のなつ、高野山過て熊野へ参詣し給ふ。(略)
本宮證誠殿の御前にして願意を祈請し目をとぢていまだまどろまざるに、御殿の御所をおしひらきて、白髪なる山臥の長頭巾かけて出給ふ。長床には山臥三百人ばかり首を地につけて礼敬したてまつる。この時権現にておはしましけるよと思給て、信仰しいりておはしけるに、かの山臥聖のまへにあゆみより給ての給はく、融通念仏すゝめらるゝぞ、御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏と心定するところ也。(略)大権(現)の神託をさづかりし後、いょ/ヽ他力本願の深意を領解せりとかたり給き。
  意訳変換しておくと
文永11年(1174)の夏、高野山から熊野へと参詣した。(略)
熊野本宮證誠殿の御前で、願意を祈願した後、目を閉じて眠ろうとした。すると御殿の御所を押し開いて、長頭巾かけた白髪の山伏(熊野権現の権化)が現れた。長床には、山伏が三百人ばかり首を地につけて礼敬している。これが権現だと気づいて、お参りしていると、その山伏が一遍の雨に歩み寄ってきて、次のように云った。「融通念仏を勧めることに、なんの迷いがあろうか。すべての衆生の往生は、阿弥陀仏のみを信じることにある。信じる信じない、穢れている清いに関わらずお札を配るべし。(略)目を開いた一遍の周りには、百人をこえる子ども達が、その念仏を受けたい、札をいただきたいと口々に云いながら集まってきた。一遍が名号を唱えながら札を渡すと子ども達は消えていった。(中略)熊野大権現の神託を授かった後、いよいろ他力本願の深意を理解したと一遍はおっしゃった。

  ここからは 一遍は文永11年(1174)に高野山と熊野に参詣したこと、熊野では熊野権現の夢告を受け、立教開宗をしたことが分かります。
熊野本宮 熊野権現との出会い

 證誠殿の前に白装束の山伏(熊野権現)の姿が現れています。その前にひざまずくのが一遍です。その右手には、熊野権現の教えに従って、子ども達にお札を配る一遍の姿が描かれています。左から右への時間経過があります。巻物には、時間経過が無視して一場面に描かれています。今の漫画の既成概念を外して見ていく必要があります。

高野山も熊野も、この時代には山岳霊場のメッカでした。
当時の本宮には「長床」という25間もの拝殿があり、そこに集まる「長床衆」と呼ばれる熊野行者たちによって管理運営されていたことは以前にお話ししました。
また、熊野三山の本地仏は次の通りでした。

−第41回−文化財 仏像のよこがお「藤白神社の熊野三所権現本地仏坐像 」 - LIVING和歌山
熊野三所権現本地仏坐像 藤白神社(海南市)権現堂
阿弥陀如来坐像(本宮・中央)・薬師如来坐像(那智・右)・千手観音坐像(新宮・左)
熊野本宮の本地仏は阿弥陀如来とされていました。熊野は山中他界と海上他界の二つの信仰が融合した霊地です。そのため死者の霊魂の行く国(場所)、「死者の国・熊野」とされてきました。そして、熊野本宮の本地仏は、阿弥陀如来とされます。 一遍が熊野に詣でたのは、宇佐八幡宮や石清水八幡宮の八幡神の夢告という神秘説もあります。しかし、熊野に群集する道者に賦算する目的、高野聖を媒介とする法灯国師覚心の引導があったことが要因と研究者は推測します。

DSC03194熊野本社 音無川合流地点
本宮の音無川合流点から新宮へ下る川船

そして翌年には、信濃の小田切で一遍が踊り念仏を始めて踊ったことが、次のように記されています。

DSC03257信濃小田切での踊り念仏
信濃小田切で、はじめての踊り念仏
其年信濃国佐久郡伴野の市庭の在家にして歳末の別時のとき、紫雲はじめてたち侍りけり。仰をどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給けり。(略)
同国小田切の里或は武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまたかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
  意訳変換しておくと
その年に、信濃国佐久郡伴野の市庭の在家で、歳末の別時のときに、紫雲が立ち上った。踊り念仏は空也上人が市屋や京の四条の辻で始めた。(略)
信濃国小田切の武士の屋形で、一遍が踊り始めると、道俗が数多くが集まってきて結縁が結ばれたので、以後は恒例の行事となった。
ここからは、小田切の武士の舘で別れの際に庭先で踊った所、人々の信心を集めるにの有効だとされるようになったこと、以後は、踊り念仏を民衆教化の手段として、機会あるごとに各地で踊るようになったことが記されています。
 五来重氏は、踊り念仏からいろいろな民俗去能が発生した過程を、詳しく述べています。
Amazon.co.jp: OD>念仏芸能と御霊信仰 : 大森恵子: 本
大森恵子氏も『念仏芸能と御霊信仰』で、御霊を鎮魂する目的で踊られた民俗芸能の原形は、空也に始まり、一遍に受け継がれた踊り念仏にあると指摘します。空也は「阿弥陀聖」とも呼ばれ、念仏を唱えながら三昧で死者供養を行ったと伝えられます。空也聖たちも、死者供養のために踊り念仏を行い、一遍も空也と同じように念仏(融運念仏)を詠唱し、踊り念仏を踊ったのです。そのことで崇りやすい御霊を供養し、災害や戦いの恐怖から民衆を救おうとします。当時の御霊は、あらゆる災いを引き起こして、その崇りを引き起こすとされていたのです。その「悪霊退散」「御霊供養」のために踊り念仏は踊れられた研究者は考えています。

当時の最大の社会的事件は元寇でした。
これにどう向き合うのかと云うことが、宗教者にも求められたはずです。多数の戦死者を出し、元軍の襲来に人々が恐怖を感じた年に、一遍は熊野で神託を受けて悟りを開いています。それは、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生ができるという教えです。その先に国家安康もあるとします。阿弥陀信仰は、仏や菩薩を信じれば死後(来世)に仏たちのいる浄土に生まれ代わることができると信じるものです。これは死者供養と、深く結びついています。
 熊野本宮の本地仏と同じように、八幡神の本地仏も阿弥陀如来でした。そのためか一遍は、頻繁に地方の有力八幡宮を訪れています。
弘安元年(1278) 大隅正八幡宮へ
弘安9年(1286) 山城国の石清水八幡宮
弘安10年(1287) 播磨国の松原八幡宮
DSC03222大隅八幡
大隅正八幡宮に参拝する一遍
  大隅八幡宮(現鹿児島神宮)で受けた神の啓示による歌とされるのが次の歌で、のちの宗門で尊ばれるようになります。

「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」(聖絵)


DSC03463
『一遍聖絵』巻九
『一遍聖絵』巻九には、弘安9(1286)年に、一遍は石清水八幡宮に参詣して、八幡神の託宣を受けたこと次のように記します。
弘安九年冬の頃、八幡宮に参じ給う。大菩薩御託宣文に曰く「往昔出家して法蔵と名づく。名を報身に得て浄土に往す。今娑婆世界中に来たり、則ち念仏の人を護念するを為す」文。同御詠に云く、
極楽に参らむと思う心にて、南無阿弥陀仏といふぞ身心
因位の悲願、果後の方便、 悉く念仏の衆生の為ならずといふ事なし。然あれば、金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れを汲まむ類は、心を西上の教(へ)に懸けざらむや。

意訳変換しておくと
弘安九年(1286)冬の頃、山城の石清水八幡宮に参拝した。その時の大菩薩御託宣文には、次のように記されていた。「往昔に出家して法蔵と名なのる。報身を得て浄土に往していた。それが今、娑婆世界にやってきて、念仏を唱える人々を護念する」文。そこで一遍は、次のような歌を詠んだ。
極楽に行こうとする心で、南無阿弥陀仏を唱える
因位の悲願や果後の方便は、すべて念仏衆生のためである。金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れに身を任せる人は、心を浄土・阿弥陀如来の教へに傾けるであろう。
ここからは、一遍が阿弥陀如来を本地仏とする八幡神に対して、「一体感」とも云うべき心情をもっていたことが分かります。
DSC03464山城の石清水八幡
石清水八幡宮(一遍上人絵伝)
この後、一遍は播磨の松原八幡宮(姫路市白浜町)に詣でています。そこで「別願和讃」を作って、時宗の衆徒にあたえます。このことについて「一遍聖絵」には、次のように記されています。
播磨松原での和讃
一遍の和讃

「この山(書写山)をいでヽなを国中を巡礼し給。松原とて八幡大菩薩の御垂迹の地のありけるにて、念仏の和讃を作て時衆にあたえたまひけり。
身を観ずば水の泡 消えぬる後は人ぞなき
命を思へば月の影 出て入る息にぞ止まらぬ
人天善処の形は 惜しめども皆とどまらず
地獄鬼畜の苦しみは 厭へども又受けやすし
目の辺り言の葉は 聞く声ぞなき
香を嗅ぎ味舐めむる事 ただ暫くの程かし
息のの操り絶えぬれば この身に残る効能なし
過去遠々の昔より 今日今時に至る迄
思(ふ)と思ふ事は皆 叶はねはこそ悲しけれ
聖道・浄上の法門を 悟りと悟る人は皆
生死の妄念尽きずして 輪廻の業とぞ成(り)にける
善悪不二の道理には 叛き果てたる心にて
邪正一如と思ひなす 冥の知見ぞ恥づかしき
煩悩即ち菩提ぞと 言ひて罪をば作れども
生死即ち湿槃とは 聞けども命を惜しむかな
自性清浄法身は 如々常住の仏なり
迷ひて悟りも無き故に 知(る)も知らぬも益ぞなき
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり
境智二つもなき故に 心念口称に益そなき
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり
十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき
名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり
十方衆生の願なれば  人も漏るヽ科ぞなき
別願超世の名号は 他力不思議の力にて
口に任せて唱ふれは 声に生死の罪消えぬ
初めの一念より他に 最後の十念なけれども
思(ひ)を重ねて始(め)とし 田賞ひ)の尽くるを終はりとす
思(ひ)尺きなむその後に 始め・終はりはなけれども
仏も衆生も一つにて 南無阿弥陀仏とを申すべき
早く万事を投げ捨てヽ 一心に弥陀を頼みつつ
南無阿弥陀仏と息絶ゆる これぞ思ひの限りなる
此時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し
一時に御手を授けつヽ 来迎引接垂れ給ふ

(略)仏も衆生もひとつにて、南無阿弥陀仏とぞ申べき、はやく万事をなげすてヽ、一心に弥陀をたのみつヽ、南無阿弥陀仏といきたゆる、これぞ思のかざりなる」

ここからは、 一遍が時宗の教義として念仏を唱え、阿弥陀如来を信仰することを説いていたことが分かります。その和讃を考え出したのも八幡宮だったのです。
⛩松原八幡神社|兵庫県姫路市 - 八百万の神
松原八幡神社(姫路市)
どうして、一遍は八幡神との「混淆」を考えるようになったのでしょうか?
当時の人達の最大の関心事は、元寇でした。元寇が三度あるのではないかという危機感が世の中にはありました。その危機感の中でクローズアップされたのが、八幡信仰です。そのような時代背景の中で、一遍は、八幡信仰も混淆しようとしたと研究者は考えています。
  一遍は元軍襲来の恐怖から逃れる手段として、あるいは元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的から、各地の八幡神に参詣したことが推測できます。その際には一遍や時宗聖たちは、詠唱念仏や踊り念仏を八幡神に対して奉納したはずです。そのため一遍の弟子に当たる一向上人も大隅八幡宮から神託を受けたり、宇佐八幡宮で初めて踊り念仏を催したことが『一向上人絵伝』には記されています。
 八幡宮に奉納されていた民俗芸能を考察するうえで、 一遍と時宗聖がおよぼした影響を無視して論じることはできないと研究者は指摘します。同時にこの時期には、高野聖も本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏を勧めていったことを押さえておきます。
   以上をまとめておきます
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③また、一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。

 P1250078
   佐文綾子踊り
「綾子踊り」の里の住人として、次のような疑問を持っています。
①雨乞い踊りとされているのに、詠われる歌は恋歌ばかりで雨に関する内容が少ないのはどうしてか。
②綾子踊りが風流踊りに分類されるのはどうしてか。
③滝宮神社に奉納されていた那珂郡南の七箇村念仏踊りの構成員だった佐文が、どうして綾子踊りを踊り始めたのか。
④七箇村念仏踊りと綾子踊りは、衣装などはよく似ているがどんな関係にあるのか。
⑤綾子踊りと、高瀬二宮神社のエシマ踊りとは、どんな関係にあるのか
⑥佐文で綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったのはいつからなのか。

 いまは各地で雨乞い踊りとされる風流踊りは、もともとは雨乞成就のお礼として奉納された風流踊りでした。
滝宮念仏踊りも坂本組の由緒には「菅原道真の雨乞い成就のお礼として踊った」と書かれています。近世後半になるまでは、雨乞いが行えるのは修行を経た験の高い僧侶や山伏にかぎるとされ、百姓が雨乞いをしても効き目があるとは思われていませんでした。そのため各藩は、白峰寺や善通寺に雨乞いを公的に命じています。村々の庄屋は、山伏たちに雨乞いを依頼しています。村人自身が雨乞い踊りを踊ることは中世や近世前半にははかったようです。
 そんな中で、綾子踊りの縁起は、雨乞い手法を空海から伝えられたとして、雨乞いのために踊ることを口上で明確に述べます。これをどう考えればいいのかが、私の悩みのひとつです。
 もうひとつは、綾子踊りの歌詞や踊り、鳴り物、衣装、幟などが、どのようにして佐文に伝えられたのか、別の言い方をすると、誰がこれを伝えたのかという問題です。風流踊りの研究者達は、諸国廻遊の山伏(勧進聖・高野聖)たちが介在したとします。それが具体的に見えてくる例を、今回は追って見ようと思います。テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。
百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

研究者が取り上げるのは、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊です。
駒宇佐八幡神社では、毎年11月23日の新穀感謝祭の日に、上谷と下谷の氏子が一年交代で百石踊りを奉納します。これはもともとは雨乞祈願の願成就のお礼踊りで、「願解き踊り」とも呼ばれていました。それが時代が下るにつれて、雨乞祈願の踊りとされます。

駒宇佐八幡神社|兵庫県神社庁 神社検索
百石踊り
百石踊りの踊り役構成は、次の通りです
①新発意役二名
②太鼓踊り子役一三~二〇名
③幡踊り子約二〇名
④鉄砲方二名、
⑤青鬼役一名
⑥赤鬼役一名
⑦山伏役二名
⑧笠幕持ち一名
⑨幟持ち役一名
駒宇佐八幡神社 百石踊り : ゲ ジ デ ジ 通 信

①の新発意(しんほつい)というのは「新たに仏門に入った者」のこことで、場所によっては「いつか寺を継いでいくこども」を「新発意」(しんぽち)ともよぶそうです。

研究者が注目するのは、この新発意役です。
その衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰でからげます。法衣のうえから白欅をして、背中で蝶結びにします。笠の縁を赤いシデで飾り、月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。踊りが始まる直前に新発意役は口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊ります。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
僧姿の新発意役

この役は口上を述べ、諸々の踊り役を先導します。このように百石踊りでは、僧侶の扮装をした新発意役が踊りの口上を述べたり踊りを先導したりするので、「新発意型」の民俗芸能のグループにも入れることができます。
 百石踊りは、さまざまな衣装の踊り役や、あるいはきらびやかに飾った「幡」や「笠幕」を所持する役などで構成されているので、「風流踊り」の一種とされます。特に笠幕持ち役は、下谷・上谷とも駒宇佐八幡神社境内にある岩倉(巨石)の前で、「笠幕」と呼ぶ神の依り代を踊りの間ずっと捧げ持ちます。笠幕とは、釣鐘状の造り物の上に金襴の打ち掛けを重ねて、きらびやかに飾った形です。側踊りの締太鼓を手に持つ「太鼓踊り子役」が、新発意役を取り囲むようにして踊るスタイルなので、百石踊りは「太鼓踊り」にも分類できます。
 戦前までは家格によって踊り役が決まっていて、新発意役を演じることができれば、たいへん名誉なこととされたようです。以上から百石踊りは、古態を伝える典型的な新発意踊りで「新発意型風流太鼓踊り」の特徴を伝える民俗芸能と研究者は考えています。

百石踊り - marble Roadster2
百石踊りの新発意役

百石踊りの新発意役をもう少し詳しく見ていくことにします。
新発意役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したこと以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
研究者は注目するのは、次の新発意役の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
を好んで使用したとされます。彼らは大念仏を催して人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。
民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。
 新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べることを押さえておきます。しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなったようです。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で、僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

百石踊りは「百穀踊り」とも記されています。
それは、大掛かりな踊りのため一回の踊りを奉納すると、百石の米が必要っだことに由来するようです。百石踊りの発生由来は「神社調書」のなかに、次のように記されています。
後柏原天皇文亀三年 天台僧元信国中遍歴の途、当社社坊天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在せしところ、其夏大いに旱し民百姓雨を神仏に祈りて験なし時に、元信僧都之を慨き沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して祈る事、七日七夜に及ぶ。 二日目の子の刻頃元信眠を催し、士の刻頃其場に倒れたり、其時夢現の問多くの小男小女元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女は之に合わせて五色の幣を附けたる長き杖を突き、片手に日の丸の扇子を携え歌を奏しつゝ雨を乞ひしに、八幡大神は社殿の扉を開き出御の上、此有様を見そなはせしに、東南の風吹き起こて黒雲を生じ、中より大幣小幣列をなして下り来たると、夢みて醒むれば夜将に明けんとし、其身辺に大小の蛇葡萄せり、而も其蛇は大中小と順を正し、傍の老杉の本に登ると見るや、微雨点々顔面に懸るを覚へたり。(中略)
 巳の刻より降雨益々多く未申の刻より暴雨盆を覆すが如きこと三ヶ日に及び、諸民蘇生の思を起し喜び一方ならず、村民元信を徳とし、八幡宮へ願解祭を奉仕するに当り、 元信夢むところの小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃い七日七夜境内に踊りて、雨喜の報塞祭を奉仕せり、之より年旱して祈雨の験有れば此踊を奉仕し、其種類も次の通なり。
  意訳変換しておくと
後柏原天皇文亀三(1503)年に、天台僧元信は諸国遍歴の際に、当社社坊(別当寺)天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在していた。その夏は、大変な旱魃で、民百姓は雨を神仏に祈願したが効果はなかった。そこで、元信僧都は、これを憐れんで沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して、七日七夜祈った。 二日目の子の刻頃、元信は睡魔に襲われ、その場に倒れ眠り込んでしまった。その時に夢の中に、多くの小男小女が元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女はこれ合わせて五色の幣をつけた長い杖を突いて、片手に日の丸の扇子を携えて、歌を詠いつつ、雨乞い踊りを踊った。 この時に八幡大神は、社殿の扉を開きこのようすを見守った。すると、東南の風が吹き起こて黒雲が現れ、その中から大幣小幣が列をなして降ってきた。夢から覚めると、まさに夜が明けようとしている。その身辺に大小の蛇が多数現れ、大中小と順番に並んで、傍の老杉の木に登っていく。すると雨点が顔面に点々と降ってきた。(中略)
 巳の刻からは、雨は益々多くなり、未申の刻からは暴雨で盆を覆す雨が三ヶ日間降り続いた。これを見て諸民の喜びは一方ならず、元信の雨乞い成就を感謝して、八幡宮へ願解祭を奉仕するようになった。その際に、元信の夢中に表れた小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃って七日七夜境内に踊りて、雨乞い成就の感謝と喜びを報塞祭として奉仕した。こうして旱魃の際には、雨乞成就の験があればこの踊りを奉仕するようになった。その種類は次の通りである。

要約すると次のようになります。
①元信と名乗った天台系の遊行聖が駒宇佐八幡宮の社坊(神宮寺・別当寺)に立ち寄り滞在中に、雨乞祈祷を行ったこと
②その踊り構成は、男女の子供たちが元信を取り巻き、男子は鼓を持って打ち鳴らし、女子は五色の御幣が付いた長い杖を突き、片手に日の丸の扇を持って歌を歌いながら踊るというものだったこと
③おびただしい蛇が現れ、列を成して老杉に登って行ったこと。
④蛇が老杉の先端に到着すると微雨が降り始め、そのうち豪雨になったこと。「蛇=善女龍王伝」説を汲んでいること
⑤氏子は、元信の夢告を信じ、夢のなかの雨乞踊りを再現し願解き(雨乞成就感謝)踊りとして踊った。
 以上のように、この踊りは雨乞祈願成就の感謝として踊られてきました。それがいつの頃からか、駒宇佐八幡神社の祭礼にも踊られるようになります。百石踊りは雨乞呪術のおどりであったことをここでは押さえておきます。百石踊りが雨乞祈願の目的で踊られるようになるのは、宝永七年(1710)のことで、以後旱魃の時に15回ほど踊られたことが宇佐八幡神社の記録に残されています。
ここからは駒宇佐八幡神社は、雨乞に霊験あらたかな神社として、地域の信仰を集めてきたことが分かります。そして18世紀前期からは、頻繁に雨乞代参をうけたり、雨乞祈祷を行っています。それを裏付けるのが次のような資料です。
①天和2年(1682)の「駒宇佐八幡宮縁起」の奥書に「「一時早魃之年勅祈雨千当宮須雙甘雨済泣於天下」とあること
②「駒宇佐八幡神社調書」にも城主九鬼氏による雨乞祈願が享保九年、明和二年、明和七年、明和八年などに、頻繁に行われたこと
雨乞いの百石踊り/三田市ホームページ
百石踊り
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。
 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されていました。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役の僧姿として残存し、現在に至っているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、近世中期以降において遊行聖たちの播磨地方の拠点となり、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺として、近畿地方一円に名を馳せていたことがうかがえます。このような理由で駒宇佐八幡神社のほかにも古来、武運長久の神とされ武士に信仰された八幡神が、雨乞に霊験ある神とも信じられるようになり、その結果、八幡神社に雨乞踊りが奉納されるようになったと研究者は考えています。
  以上播州の駒八幡神社と別当寺の関係、それをとりまく勧進僧(修験者・山伏)の動きを見てきました。
これを讃岐の滝宮念仏踊りに当てはめて、私は次のように考えています。
①滝宮念仏踊りが奉納されていたのは、牛頭大権現(現滝宮神社)であった。
②その別当寺は、龍燈寺で播磨の書写山などとのつながりが深い山伏寺であった。
③龍燈寺の勧進聖達は、牛頭大権現のお札を周辺の村々に配布して牛頭信仰を広めるとともに、同時に一遍時衆の踊り念仏を伝えた。
④こうして、周辺の村々から牛頭大権現(現滝宮神社)への踊り込みが行われるようになった。
⑤戦国時代から近世初頭には、牛頭大権現や別当寺(龍燈寺)も一時的に衰退し、踊り念仏も取りやめになっていた。
⑥それを「雨乞いのため」という大義名分をつけて復興したのが、高松藩藩祖の松平頼重である。
⑦こうして、もともとの龍燈寺の勧進僧(山伏)がテリトリーとしていた村々からの念仏踊りが復活した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」
関連記事

 前回は、次のような事を押さえました。
①飛騨の真宗教団の布教は庄屋や長百姓を中心に行われたこと
②そのため寺院があったわけではなく、惣道場といって有力者の家に、名号を床の間に掲げた部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
③そして惣村の自治活動と結びつき、信仰的なつながりや拠点として真宗の教えが広まったこと
ところが、江戸時代になると本末制度が調えられ、本山から木仏・寺号が下付され、伝絵や三具足なども整備され寺院化していきます。これらには本山に対して高額の納付金を納める必要があったことは以前にお話ししました。今回は、飛騨高山市の旧清見村の真宗寺院の道場から寺院化への成長を、史料で追いかけてみます。

飛騨清見村の真宗寺院

テキストは、「千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P」です
了因寺のカヤ

最初に見ていくのは飛騨藤瀬の了因寺です。
この寺には蓮如筆の六字名号一幅と、蓮如筆とみられる十字名号一幅、文明18年(1486)蓮如が河上庄福寄の法明に授与した絵像本尊(方便法身尊形)が残されています。親鸞は名号を本尊としていましたが、その後、阿弥陀如来の御絵像が本尊に代わります。方便法身尊形は御絵像のことで「だいほんさま」とよばれます。
蓮如の絵伝
   
方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)
            大谷本願寺釈蓮如(花押)
文明十八年柄二月廿八日
     飛騨国白河善俊門徒
同国大野郡河上庄福
願主釈法明

この寺の寺伝を年表化すると、次のように寺院化が進みます。
文明8年(1476)河内国出口にいた蓮如から六字名号を賜り、
同10(1478)年 福寄に道場を開き
同18(1488)年 山科本願寺において蓮如から絵像と十字名号の授与をうけた。当初は孫兵衛道場と称していた
元和9年(1623) 福寄から藤瀬の助次郎宅に移り
寛永元年(1614) 独立の道場を営んだ
万治2年(1659) 了因寺の寺号免許、翌年蓮如影像、
延宝5年(1677) 木仏と太子・七高祖影像
 同9年(1681)親鸞影像下付
貞享2年(1685) 親鸞絵伝下付
580
 了徳寺
白川街道沿の牧ケ洞に了徳寺の基を開いたのは河上庄牧村の栗原衛門という豪族と伝えられます。
栗原衛門は長滝寺の荘官で牧村栗原神社の社人をつとめていました。文安5年(1448)に照蓮寺明誓のすすめによって本願寺存如に拝謁して、六字名号と了専の法名をもらって帰郷して、栗原道場を創始したと伝えられます。この頃、この地に栗原衛門という人物がいたことは、文安六年の土地売券二通に、その名前が売主として次のように出てきます。
売渡永代之田の事
合弐反者 つほハムカイ垣内
とんしはさと一反
佃をさ一反 是ハならひ也
右件之田地ハ依有要用永代に代陸貫文二うり渡中処実正也。但、 一そくしんるいにても急いらんわつらい申ましく候。
乃為後日状如件
文安六年五月二十五日
うリ(売)主河上荘まきの栗原衛門(略押)
  最後の売主名に「河上荘まきの(牧村の)栗原衛門」とあります。ここからは牧の洞に粟原道場を開いたのが、河上庄牧村の栗原衛門であることが裏付けられます。
さらに、永正11年(1514)12月には本願寺実如から絵像本尊を下付されています。その時の、願主は浄専とありますが当寺の二代目になるようです。
栗原道場から了徳寺への寺院化を年表化すると、次のようになります
天和3年(1682)に木仏・寺号下付
貞享四年(1687)親鸞影像
元禄14年(1701)太子・七高祖影像下付
享保15年(1720) 梵鐘設置を備え、寺院化への道をたどった。

夏厩の蓮徳寺を見ておきましょう。           81P
この寺は、名主次郎兵衛が長享年間に蓮如に帰依して、道場を開いたのが始まりと伝えられます。ここにも長享3年(1489)に蓮如から善性宛に授与された絵像本尊があります。
方便法身尊像
大谷本願寺釈蓮如(花押)
長享三二月十五日
飛騨国白川善俊門徒
同国大野郡徳長夏舞
願主釈善性

また蓮徳寺には15世紀の土地関係文書が数多く残されています。その中一番古い応永22年の土地譲状には、次のように記されています。
(前欠)
合一所者
右件田地ハ、宗性重代処也。子々孫々にいたるまて、たのいろいあるましく候。おい(甥)のさこん(左近)の太郎に永代ゆつり(譲)わたす処実正也。但シいつちよりさまたけを申事候とも、すゑまつ代まても、さまたけあるましく候。
乃為後日状如件。
応永廿二年十月廿二日
おとりの住人夏前名主宗性(略押)
この譲状を書いて最後に署名している「おとりの住人夏前 名主宗性」が、蓮如に帰依した名主次郎兵衛(法名善性)の父か祖父にあたる人と研究者は考えています。道場主次郎兵衛は、代々夏厩の名主としてこの地方の有力者であったこと分かります。
614
上小鳥の弘誓寺にも、蓮如筆の六寺名号と、明応4(1495)年の実如の絵像があります。
もともとは、七郎左衛門道場と呼ばれ、道場坊は上小鳥と夏厩の名主を兼ねていました。そのため道場に関わる事柄には法名を、名主としての署名は俗名を書いて使い分けています。例えば元禄7年(1694)五月に、道場敷地を検地役人に提出した書類には「上小鳥村道場玄西」と記し、同年6月の『検地帳』には「上小鳥村組頭七郎左衛門」と署名しています。
 弘誓寺には江戸時代の医書が多く残っていることに研究者は注目します。その中には牛馬に関するものもあり、人だけでなく獣医の役目も果たしていたことがうかがえます。まさに毛坊主として、門徒をまとめるだけでなく、医師や獣医として地域に関わる存在であったようです。また上小鳥は白川街道ぞいにあり、旅人の往来もあり、そのためこの寺は宿泊所としても機能していたと云います。しかし、それは商業的なものではなく、あくまで寺院としての人助けという意味です。これが、いろいろな情報収集等には役だったことがうかがえます。以上のように、坊主兼名主であり、医者・宿屋としての役割も果たしているが、本業は農業で家計をささえていたようです。


西方寺の五葉マツ
西方寺
白川街道の夏厩から小鳥川にそって北へ分かれると、左岸にあるのが二本木の西方寺です。
この寺にも蓮如筆六字名号と実如授与の絵像本尊があります。絵像の裏書は今では判読できませんが、『飛州志』には、文明18年(1486)正月25日に本願寺実如が善俊門徒の了西に下付したものとされます。そして、開基については次のように記されています。
大野郡小鳥郷二本木村西方寺者、東本願寺之派脈高山照蓮寺末寺、開基者百八拾四年已前文明十八年、元祖者了西与申者二而御座候。当西方寺迄六代、従往古御年貢出不申候。尤、由緒証文者無御座候得共、道場之境内被下置相続仕候様二奉願上候。則境内絵図二仕奉差上候。以上。
元禄七申成年六月八日                       二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
  意訳変換しておくと
大野郡小鳥郷二本木村の西方寺は、東本願寺派高山照蓮寺の末寺で、開基は184前の文明18(1486)年になる。元祖は了西と申す者である。西方寺は六代に遡るまで年貢を免除されておいた。もっともその由緒書や証文はない。道場の境内の相続について以下の通り、境内絵図を添えて提出する。以上。
元禄七(1694)申成年六月八日                   
            二本木村 西方寺(印)
戸田桑女正様御内  芝田左市兵衛様
小林文左衛門様
ここからは二本松の道場も、蓮如の時代に開かれたことが分かります。
しかし、名号だけを手がかりに道場の開創期を推測するのは危険だと研究者は指摘します。なぜなら名号は、売買の対象物であったからです。それを示す史料を見ておきましょう。86P
質入仕申証文之事
一金弐両弐分   元金也
右者私儀当年石代金二行当り申候二付、伝来り候蓮如様八百代壱服(幅)、質入二仕り、書面之金子惟二預り申処実正二御座候。万返済之義ハ、来ル辰年限二而、金子壱両二付壱ヶ月二銀壱匁宛加利足、元利共二急度相済可申候。若相滞有之候ハヽ、右之質入貴殿二相渡シ可申候。其時一宮(言)申間鋪候。為後日受入証文、乃而如件。
天明三年八月                金子預主稗田村
清左衛門(印)
弥右衛門(印)
牧村 孫左衛門
森茂村 長助殿
         意訳変換しておくと
質入れについての証文
一 元金 金二両二分   元金
右の金額について私共は当年の年貢石代金の支払いのために、伝来の蓮如様の六字名号一幅を質入し、書面の金子を預りました。返済については、辰年限に金子壱両について、1月に銀壱匁の利足を加えて、元利とともに返済します。もし滞納することがあれば、質入れ物件を貴殿に渡します。これについては、一言も口をはさみません。以上を証文とします。
天明三年八月           
      金子預主稗田村  清左衛門(印)
       弥右衛門(印)
       牧村  孫左衛門
森茂村 長助殿
ここからは稗田村の清左衛門が森茂道場主の長助から金一両三分を借り、その質物に蓮如筆の六寺名号を充てたことが分かります。こういう形で、名号は価値がある物として移動していたことが分かります。絵像の裏書など確かなものによって道場の開創を確認する必要があると研究者は指摘します。
 以上、高山市の旧清見村の真宗寺院の道場成立時期をみてきました
それをまとめておきます。
①飛騨における真宗布教は、蓮如時代に、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がったこと
②山村での布教は庄屋や長百姓を中心に行われ、最初は道場は有力者の家に、名号を床の間に掲げただけのものだったこと
③そこで、長百姓を導師として正信偈や法話をしたこと
④これが惣村の自治活動と結びつき、宗教的な結びつきの拠り所となったこと
⑤ところが、近世になると本末制度が調えられて、木仏や寺号が下付され寺院化する所も現れた。
⑥さらに、本山に奉納金を納めることで伝絵や三具足などを整備する寺院も増えた。
 飛騨の真宗寺院は15世紀後半に蓮如から六字名号をもらって、道場を設立していること江戸時代になって木仏・寺号下付を本山から得ていることが改めわかります。こういう視点で讃岐の真宗寺院の創建年代一覧表を見てみましょう。

讃岐の真宗寺院開基一覧
讃岐の真宗寺院開基時期一覧

これはいろいろな史料に出てくる開基年代を研究者が一覧化したものです。これを飛騨の道場成立期比べて見ると違和感を覚えずにはいられません。寺院化の年代が讃岐は早すぎるのです。飛騨では蓮如の時代に道場が姿を現しますが、讃岐では寺院化がすでに始まっていることになります。その一方で、飛騨にはそれを証明する蓮如の六寺名号を持つ寺が多いのに対して、讃岐は遙かに少ないのです。真宗の教線拡大も飛騨に比べ、四国は遅いとされます。そのような状況証拠から、讃岐に真宗寺院が現れ始めるのは、16世紀後半以後と私は考えています。そして、寺院化は飛騨と同じ、江戸時代になってからのことです。讃岐の真宗拡大の年代については、従来の見方を大きく変更する必要があると研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P

 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
関連記事

一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。
テキストは、「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。

大津関寺1
琵琶湖から大津の浜へ(一遍上人絵伝)

DSC03339琵琶湖大津の浜

①最初に出てくるのが①琵琶湖で、小舟が大津の浜に着岸しようとしています。船には市女笠の二人連れに女が乗ってきました。

DSC03341

②その手前には、長い嘴の鵜が描かれているので②鵜飼船のようです。
③その横には製材された材木が積んであります。これも船で運ばれてきて、京都に送られていくのかも知れません。

DSC03340大津

浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。

DSC03345琵琶湖大津 関寺門前179P

④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
大津関寺の卒塔婆
関寺の卒塔婆
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。

DSC03352関寺の卒塔婆
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。
 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
大津関寺の踊り屋
関寺境内の池の中島建てられた踊り屋(一遍上人絵伝)

門を入ると、四角い池(神池)があります。その真ん中に中島が設けられて、踊り屋が作られています。ここで一遍たちが踊り念仏を踊っています。それを周囲の岸から多くの人々が見ています。大津関寺の踊り屋2
関寺の踊り屋

    池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。

大津関寺の踊り屋3
大津の関寺全景

詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。

つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと
②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。
②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。
③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
大坂上野の踊り屋
淀・上野の踊り屋

今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
DSC03479
上野の踊り屋(一遍上人絵伝)
   踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。

淀・上野の卒塔婆
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。

廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」

ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?

戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 法然上人逆修塔 - 善通寺市ホームページ
法然上人逆修塔(善通寺東院)
 千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。
 ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し
②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
DSC03480

「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、
②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
DSC03394

  以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

関連記事

  戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは  「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。
②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと
③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。

それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか?               その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗
②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること
②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、
③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。

 大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。

第1515回 長年寺(ちょうねんじ)曹洞宗/ 群馬県高崎市下室田町 | お宮、お寺を散歩しよう
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。
ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。

また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
 遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
 松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
 拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)

  また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。

一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
  ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。

イエズス会・カトリック教会・男子修道会<耶蘇会士日本通信 上・下巻 2冊揃い・非売品>書翰集・フロイス・フランシスコ・カブラルの落札情報詳細 -  ヤフオク落札価格検索 オークフリー

16世紀に日本で宣教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人フランシスコ・カブラルは、ローマ教国宛ての報告書翰で次のように述べています。(
1571年9月5日付書簡)

「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」

ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。

先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
 また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。

こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
 
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。

中古】「改正 瑩山和尚清規」瑩山紹瑾 延宝八年刊 揃3冊|曹洞宗 和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索 オークフリー
榮山和尚清規

 鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など
②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々
③天照大神
④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格
⑤「王城鎮守諸大明神」
⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
 こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

示現寺(喜多方市)
示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。

白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。

これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと
②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け
③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
 この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との
福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との
山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
 こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
越前龍澤寺
如仲天
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
 彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
 彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
 禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。
葬儀・葬式シリーズ 【5】 授戒会 - 新米和尚の仏教とお寺紹介

 禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。

最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。
乾坤院墓苑(愛知県東浦町)の概要・価格・アクセス|愛知の霊園.com|【無料】資料請求
乾坤院
 愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
 また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。

イエズス会がみた「日本国王」: 天皇・将軍・信長・秀吉 (508) (歴史文化ライブラリー) | 和也, 松本 |本 | 通販 | Amazon

戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
 イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」
、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」

ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。
②そのためには金に糸目をつけないこと
③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
            「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」

      法然上人絵伝表紙
 
 以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成   躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。

鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。 
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
 そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。
②仏の教えを理解する度量・器のこと
③衆生の各人の性格。
④根性は、この機根に由来する言葉
  ④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」

というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。

次に 法然の略伝を見ておきましょう。  
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。

選択本願念仏集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
         選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。
②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと
③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」

法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
聖典セミナー 選択本願念仏集|本願寺出版社

『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。

それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。

     意訳変換しておくと

速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。

ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
 法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
二河白道(にがびゃくどう)の図
二河白道図

『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
 口称念仏の先駆けとされる | thisismedia
それまでは口称念仏は、「劣機のための低劣な行」とみなされてきました。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
 法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅ