木地師については以前に次のようにお話ししました。
木地師 左上が、親王が考案した(?)綱引きろくろ
ここには次のように記されています。
近江州愛智郡小椋庄筒井轆轤師職頭之事称四品小野宮製作被職相勤之所神妙之由候也専為器質之統領諸国令山入旨西者櫓櫂立程東者駒蹄之通程被免許訖者天気所候也仍執達如件承平五年十一月九日 左大丞器杢助
意訳変換しておくと
近江国愛智郡小椋庄の筒井の轆轤(ろくろ=木地)師の特権について木工製作にあたって神妙に職務に励んでいる。ついてはもっぱら器質の統領として、諸国の山々に山入できる特権について、西は櫓櫂の立つほど、東は駒蹄の通うまでの範囲について免許を与える。天皇のお考えはここに示した通りである」承平五年十一月九日 左大丞器杢助
文末の「天気所候也仍執達如件(天皇のお考えはここに示した通り)」は綸旨の常套句で、承平年間の天皇、すなわち朱雀天皇の綸旨であることを示しています。これによって木地師は全国の山に入る許可を天皇から受けたとされました。こうして、江戸時代に入ると全国の木地師達は、次のどちらかの神社の氏子として登録されることになります。
A 神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その時に作られた「勧進帳」が両社に数多く残されることになります。これを見ると幕末には、木地師は全国に7000戸ほどいたことが分かります。そして木地師の多くが小椋姓を名乗りました。

木地師の家 祖谷山絵巻

木地師の家 祖谷山絵巻
寛政九(1797)年の近江国筒井八幡宮の氏子(氏子狩り)文書の中に、讃岐の氏子達が次のように記されています。
讃州大内郡与田山村一、一匁二分 御初穂 庄蔵一、二分 氏子 同人一、一匁 氏子(狩)かり 同人一、二匁 御初穂 長左衛門一、八分 氏子かり 同人一、三匁二分一、 御初穂 市郎左衛門一 八分 氏子駆 同人
ここからは大内郡与田山村には3軒の木地師たちが住んでいたこと、彼らが近江からやって来た勧進僧に初穂料(入会金:登録料)や氏子狩(駆)の代金を支払っていたことが分かります。与田山村は東かがわ市の水主神社の南で、阿波との県境付近の山村です。そこには小椋という姓の家があります。
与田山の小椋家は木地師文書を持っていませんが、白鳥町五名下の小椋家には朱雀天皇の綸旨があります。五名下の小椋家については木地師文書に次の記述があります。
一、二匁 御初穂 喜八郎一 六分 氏子駆 同人一、二匁 御初穂 彦左衛門一、一匁 氏子狩 同人
ここからは、五名にも2軒の木地師たちがいたことが分かります。彼らは、木地を挽くために樹木を求めて阿波の山村から讃岐の地に入って来たと研究者は考えています。氏子狩り(木地師の冥加金集め)のために阿波にやって来た近江の筒井八幡の神人が、讃岐の地にも木地師が住むのを知って納金を求めてこの地にやって来たことが考えられます。

与田山の木地師は、どの家が本家なのかはよくわからないようです。しかし、小倉家では裏の畑に屋敷神として金神さんを祀っていて、戦前までは祭りの日に社前に幟を立てていたと云います。屋敷神のある、この家が本家のようです。未開のこの地に入って来て、木地を挽くかたわらに焼畑耕作などを行っていたのが、やがて定住して農業を営むようになったことがうかがえます。

与田山の木地師は、どの家が本家なのかはよくわからないようです。しかし、小倉家では裏の畑に屋敷神として金神さんを祀っていて、戦前までは祭りの日に社前に幟を立てていたと云います。屋敷神のある、この家が本家のようです。未開のこの地に入って来て、木地を挽くかたわらに焼畑耕作などを行っていたのが、やがて定住して農業を営むようになったことがうかがえます。
五名の小椋さんの裏山には、高良玉埀明神という謎多き神が屋敷神として祀られています。
高良玉垂明神は、小椋さんの祖先の神と伝えられます。もともと、高良玉垂明神というのは武具の神であるとされています。鎧や兜の製造に木地師の技術を必要とするところがあったのかもしれません。九月十五日が高良玉重明神の祭りで、昔は一族の者が寄り集まっていたとそうです。
高良玉垂明神は、小椋さんの祖先の神と伝えられます。もともと、高良玉垂明神というのは武具の神であるとされています。鎧や兜の製造に木地師の技術を必要とするところがあったのかもしれません。九月十五日が高良玉重明神の祭りで、昔は一族の者が寄り集まっていたとそうです。
木地師たちが大事に持っていた「承平5年(935)の朱雀天皇綸旨」には「西者櫓櫂立程、東者駒蹄之通程」(東は船の行けるところまで、西は馬の行けるところまで)諸国の山に入る権利を持つ」と書かれてありました。それはやってきた社僧(山伏)たちが木地師に文書の写しを販売したものです。これについて研究者は「明白な偽作文書」と断定してきました。しかし、木地師の集団がこうした文書の写しを大切に保管し、代々伝えて来たことは事実です。そこには「貴種の子孫」というプライドもあったかも知れません。さらに「実際的な効能」もあったかもしれません。その効力が薄れていくのが江戸時代末期です。この時期が来ると、ほとんどの林野は村の村林や御林として藩有林に取り込まれていきます。そのため木地師が自由に使用できる所は少なくなっていきます。そして、村々の住民との相論が各地で起きるようになります。
熊野信仰が色濃い与田寺と水主神社
水主神社 讃岐国名勝図会
どちらにしても大内郡の水主神社や与田寺は、神仏習合時代には大きな力を持っていた宗教勢力でした。その経済力を背景とした仏像や神像が水主神社には、今に伝えられています。

狛犬 水主神社
女神像 水主神社
その背景には、与田山などの木地師などの職人たちの存在があったことが見えて来ます。同時に、阿波との深いつながりがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編73P 大川郡白鳥町福栄地区
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