金倉寺の所領についての一番古い記録は、享保19年(1734)に寺僧了春僧都が著した「鶏足山金倉寺縁起」のようです。
そこには弘仁初め(810年頃)と仁寿二年(852)の二度にわたり、和気宅成が父道善の建立した自在王堂(金倉寺前身)を官寺として租税を賜わらんことを奏請し、この希望が許されて、田園32町が寄せられたと記します。さらに延長六年(928)には、それまで道善寺と称していた寺名を金倉寺と改め、金倉・原田・真野・岸上・垂水の租税を納めて寺領としたとも記されています。
寺に古くから伝えられていることのようですが、この史料は江戸時代に書かれたもので同時代史料ではありません。和気氏の氏寺である金倉寺や、佐伯直氏の善通寺が官寺になったことはありません。寺領についてこれをそのまま信じることはできません。またこれを裏付ける史料もないようです。
その後の寺領について手がかりとなるのは「金蔵寺立始事」で、その後半は主に所領関係のことが次のように箇条書きで記されています。
一 宇多天皇御宇(智證)大師御入寂、寛平三年十玄十月廿九日年齢七十八。一 村上天皇御宇天暦年中、賀茂御油田御寄進、応徳年中里見に除く。一 土御門御宇建仁三年十月日官符宣成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。一 亀山法皇御宇文永年中、良田新開官符宣御下知状下し賜い畢んぬ。一 徳治二年、金銅薬師如来出現し給う事、天下其の隠れ無き者也。一 高氏将軍御代貞和三年七月二日、小松地頭職御下知状給い早んぬ。一 管領細河弘源寺殿御代永享二年九月廿六日、良海法印御申有るに依って、諸公事皆免の御判成 され畢んぬ。寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義一 細川右京大夫勝元御時、享徳二年十二月廿八日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
意訳変換しておくと
① 宇多天皇の治政、(智證)大師が、寛平3(892)年10月29日に78歳で入寂。② 村上天皇の治政の天暦(947~57)年中に、賀茂御油田が寄進された、応徳年中里見に除く。③ 土御門の治政、建仁三年十月日官符が下され、上金倉の寺の敷地が寺領となった。④ 亀山法皇の治政文永年中に、良(吉)田新開の官符がくだされ寺領となった⑤ 徳治二年、金銅薬師如来が出現し、天下に知られるようになった。⑥ 高氏将軍の治政の貞和3年7月2日、小松庄の地頭職下知状が下賜された。⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
ここに書かれている金倉寺の寺領を今回は見ていくことにします。テキストは「金倉寺領および圓城寺領金倉荘 善通寺市史574P」です。
まず最初に②の天暦年中(947~57)に寄進を受けたとあるの「賀茂(鴨)御油田」を見ておきましょう。
讃岐國多度郡鴨庄南方内金蔵寺御油畠事合参段者右件の御燈油は、往古従り本器五升得りと雖も、自然の慢怠致すに依って、当年自り本器七升七合に改め、御燈油之を定め、毎年榔怠無く弁進す可く候。若し少分未進致し候はば、罪科に処せ被る可く候者也。乃って請文の状件の如し。延文六年卯月五日 時光(花押)
意訳変換しておくと
讃岐國多度郡鴨庄南方の金蔵寺御油畠について合計3段の御燈油は、古くから本器五升を金倉寺に納めていたが、次第に慢怠になってきた。当年からは本器七升七合に改め、毎年怠りなく納めるように定める。もし、不足や未進があれば、罪科に処せられる。乃って請文の状件の如し。延文六(1361)年卯月五日 時光(花押)
ここからは次のようなことが分かります。
①賀茂御油国(畠)があったのは、多度郡鴨庄南方であること
②ここに金倉寺に燈油を納入する畠二段が定められていたこと
③納入額は昔から五升と決められていたが、納入を怠ることが多かったので、延文六年に七升七合に値上げされたこと
鴨庄は、多度津の道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
嘉元二(1304)年
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、重修造伽藍」
ここからは鴨庄が、道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたようです。葛原郷には、すでに賀茂社領葛原郷がありましたが、それとの関係は分かりません。
この御油畠は、金倉寺が直接所有しているのではなく、鴨庄内に指定された三段の田から収穫される燈油五升を、金倉寺分として送付されるにすぎないこと、そして燈油の徴収と送付は鴨荘の役人によって行われたこと、この請文を提出した時光が、その役人であると研究者は考えています。
善通寺の寺領
次に良田郷にあった金倉寺の寺領です
④には亀山法皇の文永年中に、良(吉)田新開が寺領となったとあります。
これは「善通寺文書」の建冶二年の院宣や弘安四年の官宣旨の中にもでてくるので裏付けられます。弘安の官宣旨では、次のように記されています。
凡そ同郷(良田郷)内東寄田畠荒野三十餘町は、国領為りと雖も、去る文永五年始めて智證大師生所金倉寺に付せらるるの刻、宣旨を下され畢んぬ。
ここからは、寄進地が良田郷東側の国衙領で、面積は田畑・荒地を含む30町であったことが分かります。ちなみに良田郷西側は、善通寺の領家職だったことは以前にお話ししました。
「金倉寺立始事」に「良田新開」とあるのは、寄進地に荒地が多く、開発によって開かれたことを示しているようです。寄進は官宣旨によって行われたと記されているので、善通寺良田郷と同じように、智証大師生所という理由で金倉寺から申請があり、亀山天皇の承認によって行われたと研究者は考えています。
嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
次に室町時代ころの金倉寺寺領について分かる史料を見ておきましょう。
(追筆)「法幢院之講田壱段少 大坪」拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺法憧院 賃仁(花押)明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
これは借金(米)の証文のようです。明応四年(1495)12月、金倉寺法瞳院が渋谷殿という人物に負債がありました。その返済方法として、良(吉)田石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が納入する年貢米を毎年五石ずつ10箇年間渋谷へ渡すことを契約しています。また大坪助左衛門屋敷・同太郎兵衛屋敷一段小を抵当に入れ、返済ができなかった時はそれを引渡すことにしています。
法瞳院は金倉寺の塔頭一つです。
金倉寺文書の一つに応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があり、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺のなかにはこれら多くの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。他の史料にも一乗坊、東口坊などの名があります。法憧院はこれらの僧坊の中心で、善通寺における誕生院のような地位にあったようです。
良田郷石川周辺 現在の善通寺東部小学校周辺
この法憧院の証文中にある「石川方」については、現在稲木地区に石川という地名が残っています。
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は推測します。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとはこれらの農民の住居があったところかもしれません。
文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしていたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返ります。
16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。
法憧院々領之事一町九段小 ①供僧ニ町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也護摩供 慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ永正六年八月 日一 乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院領のうち二町五段は供僧(本尊に供奉(くぶ)する供奉僧たち)の管轄する領地であること、
②そのうち渋谷に質入れされている講田と、これも人手に渡っている護摩供(護摩供のための費用のための田地)をのぞく一町九段あまりが現有地であること
③寺の学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大(240歩)あること
金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、それが裏付けられる史料です。
②の「護摩供養 慶林坊」は、護摩供田で慶林房の手に渡っているようです。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
④の「岡之屋敷二段」は、同じ金倉寺の塔頭である一乗坊の良允から寄進されたもので、ここには家が建っていたようで、屋根の部分で分割線が記されています。
以上から法憧院は5町4段あまりの院領を持っていたことが分かります。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、 一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。これらの院や坊の所領は、金倉寺領と別の所にあったとは思えないので、法憧院領良田石川方は金倉寺領良田郷の一部と研究者は推測します。そうすると金倉寺領は、このころには寺内の僧坊の分散所有となっていたことになります。時はすでに戦国時代に入っています。寺領が鎌倉時代の状態そのままで存続していたとは考えられません。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。これは、善通寺も同じような形態であったことと推測できます。
丸亀平野の古代郷名
金倉寺は、小松荘に地頭職を得ていたときがあるようです。
「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。
貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
ところで細川頼之の末弟満之の子頼重が、応永12年(1405)に将軍義満から所領安堵の御教書をもらっています。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。
「立始事」の終りの二ケ条は、幕府から寺領ついての諸公事を免除してもらった内容です。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
段銭というのは田畠の段別に課せられた税で、一国平均役につながるものです。だから本来は朝廷―国衙に賦課、徴収権があり、大嘗会や伊勢神宮造営などの費用のための臨時税だったはずです。ところが室町時代には幕府が賦課の権限を握り、徴収は守護が行うようになります。また、その取りたても臨時的なものから次第に恒常的なものとなり、さらに守護自身の守護段銭がこれに加わって課せられるようになります。このため負担者である領主・農民にとっては耐え難い重圧でした。そこで室町時代には荘園領主や農民がさまざまな形で段銭徴収に抵抗するようになります。金倉寺も良海、有海などの運動が成功して、幕府から諸公事段銭免除の御判をもらっています。金倉寺にとっては大変な喜びだったことでしょう。しかし、この免除の約束がはたしてどこまで効力をもったかについては研究者は懐疑的なようです。
それは、在地武士による寺領侵入や押領が日常的に繰り広げられる時代が丸亀平野にも訪れていたからです。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。二月九日 元景(花押)三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、 元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者です。
元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。
彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
香川氏の山城があった天霧山
元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。
彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
段銭は幕府・守護の重要な財源でした。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
金倉寺領のその後は分かりませんが、香川氏が戦国大名化していく中で、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。つまり、金倉寺や善通寺の寺領は、香川氏に侵略横領されて入ったと研究者は推測します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘 善通寺市史574P