瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 金倉寺

金倉寺縁起

前回までは金倉寺縁起上巻を見てきました。そこには、日本武尊・讃留礼王から綾氏・酒部氏・和気氏をへて、智証大師に至るまでの事績と金倉寺の前身寺院の伝が記されていました。今回は、中巻の前半部の円珍誕生から出家までを見ていくことにします。テキストは「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」です。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生

 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO1)
意訳変換しておくと
当寺の初祖智證大師は、原田戸主長の和氣宅成の次男である。母は佐伯氏で、弘田郷領の出身で、弘法大師の姪である。嵯峨天皇の弘仁四年夏、母の夢の中で、日輪赫変が口に飛び入ってくるのを見て、授かった子である。そして翌年3月25日誕生した。生まれるときには、天中から声が聞こえ、南無大通智勝佛が唱えられ、眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆のようで、肉髪に似ていた。
 宅成公は、この姿を見て奇相と思い、廣雄と名付けた。二歳の時に麻田に遊び入ると廻りが光明を発して光り輝いた。隣の里の人々までもが驚嘆した。三歳の春二月には、弘法大師が円珍を見て、その母に「あの子は非凡である」と告げたという。これを軽々しく捨て置く事はできない言葉である。
ある日には童子八人が天から下りてきて、円珍と遊んだ。円珍は幼くして老成の趣があった。見識のある者は異才と思った。五歳の時、訶利帝母が現れ、次のように告げた。汝は三光の中の明星となれ。あなたは天子の精で、虚空菩薩の権化(生まれ代わり)である。私はあなたと多くの契りを交わそう。あなたは将来、佛法を興すことになる人物である。私は、あなたの庇護者となろう。七歳の時には、雲衣童子が現れて次のように云った。私は文殊大士の指示で、あなたが生まれる前から見守り、保護してきたと。八歳の時には、父が云うには。内典の中に、過去や因果を記した経典があると聞く。願わくば吾をして、習わしめんと
ここには智証大師の母が弘法大師の姪とされています。
これが最初に登場するのは、『天台宗延暦寺座主円珍伝』です。円珍伝には、次のように記されています。

「A 母佐伯氏  B 故僧正空海阿閣梨之也」

意訳変換しておくと

「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」

注意して欲しいのは、ここには円珍の母は「空海の」とは記されていないことです。「空海の姪」です。
空海系図 正道雄伝
田公を空海の父とし、円珍のことも記している『佐伯直系図』
しかし、後世になると「円珍の母=空海の」説となり、「円珍=空海の甥」説が生まれることは以前にお話ししました。どちらにしても、佐伯直氏にもいろいろな流れがあったようですが、田公の家系と和気氏(因支首氏)が婚姻関係にあり、ごく近い関係にあったことを金倉寺側は世間に伝えたかったようです。ある意味、弘法大師と善通寺を金倉寺は意識しています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍像(金倉寺蔵)
 また生まれた時の姿を「眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆」と記します。円珍のトレードマークであった「卵頭」は生まれつきだったようです。そして円珍の守護神として訶利帝母が登場します。これも別の機会にお話しすることにして、先を急ぎます。
金倉寺縁起中巻 円珍誕生2

讚岐國鶴足山金倉寺縁起 巻中(NO2)
父親の願いを聞いて、驚くべきことにすぐに付箋をつけた。
九歳の時に、師祖である伝教大師が亡くなられた。十歳の時、毛詩・論語。漢書・文選等を学び、多くの書物も読破し身につけた。十四歳の時、叔父の仁徳法師に従って上洛した。十五歳で叡山に登り、事座主義真和尚を師とした。和尚は円珍を見るなり、その器量を見抜き、心を尽くして善導した。そこで學んだのは、法華・金光明経などや天台宗章琉、などで、ほとんどを網羅したものであった。
淳和天皇の天長九年、円珍十九歳で年分試を奉じ、三月十五日断髪、四月八日受戒し沙爾となった。その名は円珍。文字の意味は遠崖。この月二十一日に都を出て、二十八日に讃岐原田郷の自在王堂に還ってきた。留まること五ケ月で、深山山林原野の山林修行に入り、伽藍を造営し、仏像を彫った。。
こうして道隆寺、宝幢寺、金剛寺、城山寺、白峰寺、根香寺、古水寺、鷲峰寺、千光寺などの伽藍を造営した。(注記)古記に曰わく、讃岐の智証大師開基の寺は17寺に及ぶと) 八月一日に讃岐を離れ、五日に入京。七日に叡山に帰った。
14歳の時に、叔父の仁徳法師に連れられて比叡山に赴いたとされています。仁徳については、円珍系図に以下のように記されています。
円珍系図冒頭部
円珍系図 左の一番下の「広雄=円珍」 その上の「宅成=円珍の父」「宅丸=仁徳=円珍の叔父」
天長十年(833)3月25日付の「円珍度牒」(園城寺文書)に、次のように記されています。

沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄

意訳変換しておくと
 
沙弥円珍は十九歳、讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成の戸籍 広雄

ここからは、次のようなことが分かります。
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと
②戸籍筆頭者が宅成であったこと
③俗名が広雄であったこと
これは、円珍系図とも整合します。ここからは円珍の本貫が、那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町一帯)にあったことが分かります。現在の金倉寺は因支首氏(和気公)の居館跡に立てられたという伝承を裏付け、信憑性を持たせる史料です。

4344103-26円珍
円珍 「讃岐国名勝図会」 国会図書館デジタルアーカイブ

    貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)に「智証大師」の号を得ています。
 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったとされます。しかし、これは円珍の法灯を継ぐ天台寺門派の聖護院が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者たちが、円珍を「始祖」として、信仰対象にしていたことがうかがえます。それが後に天台系密教修験者たちの祖とされ、白峯寺や根来寺の開基にも関わったされるようになったと研究者は考えています。ある意味では、醍醐寺の開祖聖宝が真言系修験者たちから開祖とされ、いろいろな伝説が生まれてくるのと似ています。
 円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったと研究者は考えています。
 にもかかわらず円珍創建・中興とされる寺院が数多くあります。例えば「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場します。この縁起には、次のように記されます。

貞観二年(860)、円珍が五色台の山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられた。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺?)、白峯寺の四ヶ寺に納めた。

この縁起には、根来寺や白峰寺・国分寺の本尊の千手観音は円珍の自作とされています。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたことがうかがえます。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていたり、他にも、天台大師像、智証大師(円珍)像、山王曼荼羅図が伝えられていることが報告されています。また、根香寺には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。
    根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。八十七番札所の長尾寺も、松平頼重によって天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。
智弁大師(円珍) 根来寺
根来寺の智証大師像(松平頼重寄進)

智弁大師 円珍 金倉寺
金倉寺の智弁大師像(松平頼重寄進)

長尾寺 円珍坐像
              長尾寺の智弁大師像 (松平頼重寄進)

円珍信仰・伝説の背後には、聖護院の本山派修験者たちの存在が透けて見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 讚岐國鶴足山金倉寺縁起 香川叢書 巻一 397P」
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前回は18世紀前半に了春によって書かれた金倉寺縁起の上巻を、次のようにまとめておきました。

和気氏と讃留霊王伝説

今回は円珍によって金蔵寺の伽藍が整備されるまでを見ていくことにします。上巻後半部の綾姓第十一世・原田戸主長者の和氣道善(円珍の祖父?)からです。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の那珂郡金倉郷と多度郡葛原郷は隣同士 金倉郷の南が木(喜)徳郷

鶏足山金倉寺縁起6
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五(774)年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善公自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。
平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成に云うには中冬の初めに私は逝く。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じながら端坐して逝った。112歳であった。  
ここには原田戸主長者の道善(円珍の祖父?)が自在王堂を建立したこと、そして円珍の父・宅成が登場してきます。これを円珍の残した「円珍系図」で確認しておきましょう。
円珍系図 那珂郡
円珍系譜 円珍は広雄、その父は宅成、叔父が宅麻呂(仁徳)、祖父が道麻呂と記されている。
この系図には、和気道善という人物はでてきません。でてくるの「因支首道麻呂」です。円珍より前の祖先は因支首氏を名乗っていたことは以前にお話ししました。それを円珍の時代に改姓申請したのです。和気氏を名乗るのは、改姓以後のことです。そのことについて縁起は何も触れません。近世の金倉寺には。因支首氏や和気氏に関する根本史料がなかったことがうかがえます。

金倉寺縁起上巻 和気の道隆
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
意訳変換しておくと
道善公の弟が和氣道隆である。
道隆は天平年中に、堀江に移り周辺に千株の桑を植えた。このため人々は桑園公と呼んだ。勝賃元年六月に、その桑樹の上で発光するものを見つけた。道隆公は妖怪かと驚いて弓矢でこれを射た。手応えを感じて樹下に確かめに行くと、そこには道隆の乳母が倒れていた。道隆公はこれを見て大いに悲しんだ。そして、桑の木を切って、冥福を祈りながら薬師如来の小像を彫った。小像が完成すると、乳母は生き返った。そして矢傷も見えなかった。これを見た者は、手を打って喜んだ。これ以後は、道隆公は世俗を離れ、一心に仏道に励み怠ることがなかった。延暦24年7月15日、道隆公は五輪塔婆を建立し、爾勒定で逝った。時に99歳であった。
天長9年、智證大師が、道隆公の旧跡に伽藍を造営した。
 薬師如来像を自らの手で彫り、その胎内に道隆公の小像を入れ安置した。また道隆公の累代の菩提寺として妙見尊を奉り守護神とした。これを道隆公にちなんで道隆寺と号した。世間ではこれを桑多寺とも呼んだ。
 延應元年8月10日、道隆の子孫で道隆寺住職の朝祐は、金倉寺講衆から法華八講を学び修めた。それ以来金倉寺學頭一の学僧が招かれ、法事を執り行うしきたりとなった。
  ここでは、道隆寺建立の縁起が語られます。
まず、道隆寺を建立したのは、自在王堂(後の金蔵寺)を建立した道善の弟・道隆だとします。つまり、道隆寺も和気氏の一族の氏寺だったというのです。たしかに、和気氏に改姓する前の因支首氏の一族は、那珂郡よりも多度郡に多かったことが「円珍系図」からはうかがえます。古代の因支首氏が那珂・多度郡一帯に分布していたのは頷けます。しかし、系図には道善の弟は「宅麻呂」と記されています。彼は出家し、後に仁徳を名乗る人物です。このあたりも円珍系図と齟齬をきたします。
 その後、道隆の居館跡に円珍が伽藍を整備したとしるします。そのため道隆寺は金倉寺の末寺的存在であり、金倉時から法華八講を学んでいて、金倉寺の方が格上である事を暗に主張しています。どちらにしても近世の金倉寺では、道隆寺も同じ和気氏の氏寺であり、関係が深かったと認識されていたことを押さえておきます。次に出てくるのが善茂の娘と、道善の息子宅成です。

金倉寺縁起上巻 和気宅成
意訳変換しておくと
善茂の娘の珠妙尼は、性格が柔和で、俗事に染まらない気質を持っていた。幼年の時に、髪を落として尼僧となった。一生、勘行精進し、法華経万部を誦読し、一千部を写経した。和銅5年2月15日、父兄が先に逝き、追うように年若若く33歳で逝った。
綾姓第十二世は、原田戸主長者の和氣宅成(円珍の父)である。
寛容で思慮深い性格であった。京師に遊学し、四書五経などを学び、仏教にも接した。長く仏教を信仰してきた家として、なにか世間に役立つことをしたいと考えた宅成は、弘仁年間の初めに、父道善が建立した自在王堂を官寺とし、国衙から租税を支給されることを願うようになった。このことについて、何度か国衙に願いでたが許されなかった。
 そこで仁壽元年に、息子の円珍の護持を受けて願い出た。時の国衙役人は、円珍が天皇や公家たちから頼りとされ、深く帰依されていることを知っていた。そこで解状を書いて朝廷に奏上した。この年11月に下された庁宣には、次のように記されていた。讚岐國原田郷道善寺に下す。

善茂の娘の後に、道善の息子宅成(円珍父)が登場してきます。そして、道善が建立した自在王堂(道善寺)の官寺化を、円珍の力を借りながら進めたことが記されます。そして、その認可状を次のように紹介します。
金倉寺縁起上巻 和気宅成 道善寺
意訳変換しておくと
  寺領三十二町を自在王堂如意輪精舎(道善寺)に下す。この地は、善茂が開墾した地であり、伽藍は道善の建立したものである。大聖金輸如意尊は、出家した善甲が彫刻し、自在王としたものである。その聖胎の中には妙見珠が収められている。尊像も佛閣も、皇法護持の秘佛であり、國家繁栄の霊場である。よって解状の趣旨を受けて燈明料として国家の保護を与える。ついては、士利を募って、僧侶の衣食に充てよ。なお、すべての雑税を皆免する。ついては円珍を護持長吏として、皇祖長久、四海泰平を祈念させよ。これは是宅が望んでいた遺志に報いることでもある。齊衡2年2月14日、沐浴し着替え、弥陀念仏を唱えながら宅成は逝った。壽98歳であった。
 伝えるところでは、智證大師は、唐越州の開元寺に留学中に、不動尊と訂利帝母が現れて、汝の父の死期が近い。我ら二尊が力を貸すので、今生の別れを告げてこいと。こうして二尊によって讚州原田郷宅成のもとに送り届けられ、最後の別れを遂げることができた。齊衡2年2月1日、大唐大中九年の事という。
ここには、道善が建立した自在王堂(道善寺)が円珍の威光で官寺化されたことが記されています。和気氏が、仏教に帰依して以来の到達点が誇らしげに記され、寺領と共に免税特権などが与えられたことが記されています。しかし、金倉寺が官寺化されたことはありません。
 次に登場するのが、道善の次男で、宅成の弟である仁徳です。

金倉寺縁起上巻 仁徳
意訳変換しておくと
金林寺の初祖仁徳は、和氣道善の次男である。
仁徳は、英俊で幼年時から仏教に興味を持っていた。道善公は、これを見て仁徳を叡山の伝教大師に託した。延暦年中に断髪・出家した。弘仁13年に伝教大師が入滅した後は、讃岐の木徳金林寺に帰り伝道活動を行った。これにより天台宗を海南(四国)に伝えた。貞槻元年に入滅。
綾姓第十三世は、原田長者の和氣善甑である。
仁孝で、先志をよく継いだ。天安2年秋に、智證大師が当留学から帰国すると、この道善
寺で一時生活した。甕公はこの地に移り住むことを望み、智証大師のために規模拡張工事を行い、貞観3年に造営完了した。多くの僧達が参加して、智証大師の下で落慶法要が営まれた。
 こうして、「(国分寺の)鷲峯(寺)台の嶺の秋月、鵜足山頭の壇場、蘭陀青龍寺の春華、道善寺賓房の薫堂」と並び称せられ、日夜香燈の光焔が絶えることがなく、菩提の気風が満ち満ち、朝暮の鐘の音が殷賑に響き、煩悩を感じることもなかった。道善寺の盛んなことかくの如し。
金林寺の仁徳を、もういちど円珍系図を見ておきましょう。

円珍系図 那珂郡

確かに仁徳(因支首宅麻呂)は、宅成の弟で、広雄(円珍)の叔父になります。円珍が空海の高野山ではなく、比叡山に行ったのも仁徳の導きによるとされます。しかし、ここで注意しておきたいのは、円珍系図で多度郡と那珂郡の因支首氏を挙げていることです。それを見ると、円珍や仁徳も那珂郡に戸籍があったことが分かります。ところが金林寺は多度郡の木徳に、創建された寺院なのです。この当たりは仁徳が讃岐に天台宗をもたらした人物として評価するために、金林寺という寺が作り出された気配がします。
最後に登場するのが、綾姓第十三世で原田長者の和氣善甑」です。
「円珍系図」からすれば、円珍の弟福雄に当たるようですが、縁起はその事には何も触れません。ただ、智証が唐から帰国した際に、道善寺を整備したのは円珍ではなく、善甑だと記します。
以上から18世紀前半の了春が金倉寺縁起の中で伝えたかったことを挙げておきます。
①和気氏の祖先は、悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏と祖先は同じである。
②綾氏→黒部氏→和気氏と改姓しながら、妙見神の信託で居住地を換えながら鵜足郡から綾郡へ進出してきた
③早くから仏教に帰依し、木徳に金林寺を建立以後も転居先に寺院を建立してきた
④それが円珍の祖父道善が建立した自在王堂(金倉寺)や、弟道隆の建立した道隆寺であった。
⑤円珍の父宅成は、自在王堂を官寺化し、寺領や免税特権を得た。
⑥金林寺の仁徳は、最澄の比叡山で学び、讃岐に初めて天台宗をもたらした。
⑦唐から帰国した円珍によって自在王堂は伽藍が整備され、金倉寺とよばれるようになった

しかし、これらを円珍系譜などで検証すると齟齬が多く、事実と認められることは少ない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻
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金倉寺調査報告書を読んでいると、近世の「金倉寺縁起」に円珍の祖先が悪魚退治伝説の讃留霊王の子孫として記されていることを知りました。讃留霊王伝説が丸亀平野にどのように拡がって行くのかについて興味があります。そこで今回は、「讃岐国鶏足山金倉寺縁起」を見ていくことにします。

金倉寺縁起
 金倉寺の縁起でもっとも知られているのは「讃岐国鶏足山金倉寺縁起(上中下3巻)です。
これは『香川叢書』第一(1939年)に収録されているので、今回はこれをテキストとします。まず「金倉寺縁起」の成立契機について押さえておきます。下巻本文に「享保十九(1734)年の今」とあります。また末尾の奥書に、次のように記されています。
金倉寺縁起下巻奥書 

讃岐国鶏足山金倉寺縁起 下巻奥書

「現住権大僧都了春、博く旧典を取り、且その訣漏を補い、精選するところなり」

ここからは享保19年(1734)に、金倉寺五世の了春によって作られたことが分かります。それを寛保2年(1742)に本山三井寺の長吏祐常が上中下3巻を浄書したものが現在のもので、各巻の内容は次の通りです。
上巻は日本武尊・讃留礼王から智証大師舎兄原田長者和気善瓢までの代々の綾氏(酒部氏、和気氏)の事績と金倉寺前身寺院のこと
中巻は智証大師の前半生のことで、誕生から入唐を経て帰国後の天安2年(858)に道善寺(金倉寺前身)を拡大改営するところまで
下巻は前半が貞観元年(859)からの智証大師の後半生の伝で、後半には智証大師入寂後、康済律師によって大師祖像が祀られ、延長6年(928)に勅に依り金倉寺と名を改めて以後、建武・天文の兵乱による退転・真言宗への改宗を経たこと。寛永19年(1642)に松平頼重により再興され、慶安4年(1651)に天台宗に改宗され聖護院門跡末寺になるまで
今回見ていくのは、上巻の始祖神櫛王から和気氏にいたる部分です。
これに先立つ金倉寺の縁起は、次のようなものしかありません。
元禄2年(1689)寂本 『四国偏礼霊場記』
元禄13年(1700)「覚」「金倉寺由来及び什宝書上げ」
これらは内容は簡略で不充分なものと研究者は評します。つまり、この縁起が18世紀前半に書かれるまでは、金倉寺の寺史、寺伝はほとんど整えられていなかったことになります。「了春が広く旧典を収集し、その訣漏を補って、精選」したのが「金倉寺縁起」になるようです。享保19年以前に、了春は「讃岐国那珂郡鶏足山金倉寺来由」を髙松藩に提出しています。髙松藩に求められて提出したこの「由来レポート」が契機となって「鶏足山金倉寺縁起縁」につながっていったと研究者は推測します。「予習」は、このくらいにして実際に読んでいくことにします。

鶏足山金倉寺縁起1

讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO1
意訳変換しておくと
前略
讚岐國那珂郡の鶏足山金倉寺は、護法善神の出現する名跡であり、智証大師生誕の霊場でもある。その源を察するに、十二代景行天皇の第二皇子である小碓命(ヤマトタケル)は、魁偉で、身長一丈(=10尺=3mあまり)で、有智に長けて、力は鼎を持ち上げるほどであった。若い頃に父の天皇の命で、何度も東西の逆徒を討ち、内海を平定した。そこで日本武尊と呼ばれた。武尊には十四人の男子と一女がいた。長男が稲依別王、次男が足仲彦箪(仲哀天皇)、

上記の記述を紀記で確認しておきます。紀記には、神櫛王は景行天皇の子で、日本武尊(倭建命:ヤマトタケル)の弟と記されます。髙松市牟礼町には宮内庁が管理する神櫛王の陵墓があります。「神櫛王の悪魚退治」として世間では知られています。ところが、金倉寺縁起に出てくるのは神櫛王ではないのです。ヤマトタケルの4男武卵王(たけかいこう)が悪魚を退治したと記します。


神櫛王系図

神櫛王の紀記記述

紀記に登場するのは神櫛王のみです。しかも、神櫛王が悪魚退治を行ったことにはどこにも触れていません。悪魚退治伝説が登場するのは中世になってからであることを、ここでは押さえておきます。


鶏足山金倉寺縁起2
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO2
意訳変換しておくと
    三男が稚武王、四男が武卵王(たけかいこう)で、これが綾氏に始祖になる讚留霊王のことである。讃留霊王は、人に穏やかに接しながらも謀りごとに長けていた上に勇敢でもあった。
 成務天皇の時に西海に大魚が現れ大いに暴れ、民は苦しんだ。そこで天皇は武卵王に、これを討つように命じた。武卵王は熊襲の士を率いて力の限りを尽くして戦い、ついに大魚を讚州の海中で倒した。天皇はこの功績を讃え、武卵王を讚州の地に留めた。そのため自からを讃岐の国名にちなんで讚留霊公と称するようになった。また霊公の胸には「阿野(綾)」という二文字があったので阿野という姓を賜った。そして阿野の地で居住した。霊公には三男一女の子がいた。神功皇后40年9月15日に、125歳で亡くなった。
聖武天皇帝年中に、高僧の行基が、霊公旧跡に法動寺を建立した。さらに延暦13年、法動寺を鵜足郡井上郷に移して、弘法大師が薬師如来と十二神将、四大天王像を自ら造って安置した。又五佛像・三屠賓塔も安置した。
 この伝説が現れるのは中世になってからです。古代の讃岐綾氏の武士団化した讃岐藤原氏(羽床・香西氏)などが自分たちの系図の巻頭に登場させたのが悪魚退治伝説であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説 綾氏系図
                綾氏系図(明治の模造品)

悪魚退治伝説のシナリオを簡略化し、ポイント化すると次のようになります。
悪魚退治伝説の粗筋

面白おかしく語られたのは、②のアクション場面です。しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が「讃岐国造の始祖」で、綾(阿野)氏と称したという所です。羽床氏や香西氏にとって祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったことを押さえておきます。そのために、近世になると「讃留霊王の舘は、ここにあった」と、尾ひれのついた話が付け加えられていくことになります。
 もうひとつ押さえておかなければならないことがあります。悪魚退治伝説の主人公が髙松と丸亀では異なることです。これはどうしてでしょうか?

1櫛梨神社3233
悪魚退治伝説の宥範縁起と綾氏系図の内容比較表 
神櫛王とたけかいこう

髙松方面では神櫛王が主人公で、宮内庁の管轄する陵墓が牟礼にあることは以前にお話ししました。それに対して、丸亀方面では武卵王(諱を讃留霊王)とします。

讃留霊王神社説明版

こちらは飯山町の法勲寺にある岡が陵墓とされ神社が建立されています。宥範縁起を通じて広まった髙松地域は神櫛王を、綾氏系図は「霊公」としていることによるのかもしれません。もうひとつは、髙松藩が牟礼の墓地を神櫛王陵墓に選定し、明治になってこれを宮内庁も追認します。そうすると、それまで神櫛王の陵墓だと主張していた所は名のれなくなり、讃留霊王陵墓を名のる所も出てきたようです。脇道に逸れましたので、元に戻ります。
 その後、讃留霊王の供養のために行基が福江(坂出)に法勲寺を建立します。それを後に、弘法大師が井上郷(飯山町)に移して、法勲寺は大伽藍へと成長していきます。この由来を書いたのが、羽床氏や香西氏の氏寺とされた法勲寺の僧侶でした。

鶏足山金倉寺縁起3
               讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO3
意訳変換しておくと
(法勲寺造営の際には)讃岐國内の僧侶達は鐵筆で五部大乗典を陶瓦に彫り、霊公の墳墓を覆った。九月十五日には法華八講を唱え、霊公に捧げる。この功徳によって長らく凶事は起こらず平穏であった。このような平安を人々は法勲寺のお陰であるとした。桓武帝はこれを聞いて、勅して法勲寺を官寺として、官戸五百戸を寄進した。
綾姓第二世は、綾鵜足と云う。周辺の開拓・開墾に努めたので、天皇は国造の称号を与えた。応神天皇の時には、拠点をここに移して、その地を鵜足郡と人々は呼ぶようになった。
綾姓第三世は綾隈玉で、巨富を有するようになり、仁徳天皇8年に三井上郷に移った。
綾姓第四世は綾真玉で、允恭天王26年に108歳で亡くなった。
綾姓第五世、綾益甲である。允恭天皇27年7月7日の夜夢で、益甲が艮維涌泉で、その水底をのぞき見ると輝く玉が見えた。すると「この玉、取るべし」という声が聞こえてきた。目が覚めた後で、すぐにこの泉を探すと、その珠玉が見つかった。その大きさは五寸ほどで、星影を映し、螢のように瞬いた。そこで宝殿に安置し厚く敬った。それからは、霊験が次々と現れ、凶事は何事も起こらなかった。これを妙見尊と呼ぶようになった。

悪魚退治伝説は法勲寺縁起でもあるので、法勲寺のことにも多くが割かれています。法勲寺は古代末には退転し、その流れを汲む近隣の島田寺に吸収されたようです。以後、古代綾氏の子孫の業績が語られています。なお注目しておきたいのは「妙見尊(神)」が何度も現れていることです。この縁起を書いた了春が修験道の「妙見」信仰を持っていたことがうかがえます。近世半ばの金倉寺では、妙見信仰が強かったようです。

鶏足山金倉寺縁起4
          讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO4
意訳変換しておくと
雄略天皇の時には 甕の麦酒を天皇に献上し、天皇から賞賛され、酒部黒麻呂長者という称号をいただいた。それは献上した酒が黒色だったからである。第5世は仁賢天皇九年八月十日に、105歳で亡くなった。
綾姓第六世は、酒部鵜隈。
綾姓第七世、那珂畝首領酒部成善。
宣化天皇三年正月朔日夜に、妙見尊が成善小女に託して曰く、我宮を那珂郡の吉野郷に移せば吉兆ありと。そこで吉野郷に移住したところ開墾が大いに進み、天皇は那珂畝首領の称号を下賜された。
達天皇九年正月十五日に、103歳で亡くなった。
綾姓第八世は酒部善満長者という。

丸亀平野南部の文書を見ていると「酒部黒麻呂」と、その子孫がよく出てきます。どんな由縁があるのかと思っていると、讃留霊王の子孫として近世になって作り出された家系のようです。ここからは近世になると、讃留霊王の系譜が讃岐藤原氏だけでなくさまざまに付加されて、綾郡から鵜足郡、そして那珂郡へと伸びていくことが記されています。

鶏足山金倉寺縁起5
           讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO5
意訳変換しておくと
 綾姓第九世は郡家戸主の酒部善里である。
舒明天皇9年正月18日、妙見尊が再び信託を下し、原田東郷に移るべしと。これより以後は人々は、この地を郡家郷と呼ぶようになった。ここは郡主の居館のあったところである。ここで善里は沙門に仏教の教えの深きことを聞き、信仰するようになった。そこで小さな仏像を彫って常に髪の中入れるようにした。そして往生の志を持つようになったという。白鳳三年正月十一日に、奄爾は99歳で亡くなった。
 綾姓第十世は木徳戸主 和氣善茂と云う。
慈仁に深く、常に貧困者には施しをした。二男一女があり、白鳳14年正月朔日、妙見尊が、その娘に信託して曰わく、急いで原田西郷に移るべし。そこで原田西郷にすぐに移り住み、この地の経営に励み、日ならずして開墾の成果を収めた。そこで、原田西郷に寺院を建立し、自ら薬師如来立像を彫って安置した。その堂前後左右に杷木十二株を植えて瑠璃世界七賓行樹を表現した。朱雀元年五月には、疫病が流行し、死者が数多く出た。善茂はこれを憐れんで薬師如来仏に祈った。すると、堂前の枇杷の実が熟し、たちまち金鈴となった。善茂がこれを病者に食べさせると、一人として死者は出なかった。そこでこの枇杷の実を天皇に貢納した。
ここで綾氏(酒部氏)が土器川を東に越えて、那珂郡の原田東郷(郡家)に進出したと記します。そして、舒明天皇の時代に仏教を信仰する祖先がいたとします。そして、またも妙見神のお告げで原田西に移り住み、そこに初めての寺院を建立します。これが初めて和気姓を名乗る善茂です。

鶏足山金倉寺縁起6
      讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO6
意訳変換しておくと
郷からその効能が伝えられると、天皇はかつてないほど悦び宣命を下して云うには、木の実は甘美で、人の氣力を高める効能がある。褒美に主領の地位を与えよと。こうして和氣善茂は木に縁があると、人々は木徳公と呼ぶようになった。そして、この地は木徳郷と称された。この年八月、木徳公の創建した寺院は金林寺と称され、荘田十二頃が寄進され官寺となった。 こうして宣命で讚岐國木徳金林寺は、和氣善茂が創建した寺院で、医王善逝應化の梵刹となった。天平十三年十二月十日、善茂は病もなく東方に向かって逝った。異香が室に満ち連日に渡って香った。
綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、仏の三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成が云うには中冬の初めに私は去る。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じて端坐して逝った。112歳であった。
以上をまとめておきます。
①和気氏の系図は「讃留霊王 → 綾氏 → 酒部氏 → 和気氏」と変遷する。
②和気氏のルーツは悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏から別れた系譜とする
③綾氏・黒部氏・和気氏の間に、妙見神の信託で居住地を何カ所も換えた記されること
④その間に、阿野郡から鵜足郡を開発開墾し、那珂郡に進出し金倉寺周辺に定着した。
⑤そして、木徳に初めて氏寺である金林寺を建立した。
⑥続いて、和気道善が原田中郷に、自在王堂を建立した。
ここからは金倉寺縁起の作者が和気氏の系図を、綾氏に接ぎ木したことが分かります。その結果、和気氏は綾氏の分派だが共通の祖先である讃留霊王の子孫であるとの認識が広まるようになったようです。丸亀平野南部では、和気氏の子孫を名乗る有力者が多かったようで、自らを讃留霊王の子孫とする系図が現れるようになります。いうなれば讃留霊王信仰が近世後半から明治にかけて拡がるのです。そして、なんでもかんでも和気氏や酒部氏を通じて、讃留霊王に結びつけられている風潮が強くなるのです。まんのう町の矢原家関係の文書を見ていても、それを感じます。その背景のひとつが、18世紀前半に成立した金倉寺縁起にあるようです。

なお、「和気氏=讃留霊王の子孫」説は、現在では否定されています。
その根拠となるのは近江の圓城寺に残されていた「円珍系譜」です。今はこれは国宝となっていますが、そこには次のようなことが記されています。

和気氏系図 円珍 稲木氏

①和気氏はもともとは因支首氏と名乗っていた。その拠点は現在の善通寺市稲木(因支首)であった。
②しかし、因支首氏は奈良時代に和気氏への改姓申請を朝廷に提出し認められている。
③その理由は、因支首氏はもともとは伊予にいたときには和気氏を名乗っていたからとある。
ここからは和気氏が伊予からやってきた氏族であったことが分かります。綾氏とはつながらないのです。また円珍周辺の系図を見ると次の通りです。円珍系譜で、因支首氏で一番古くまで辿れるのは「身」です。
円珍系図 伊予和気氏の系図整理板
円珍系譜
円珍系図  忍尾と身
これを見ると分かるとおり、円珍が残した「円珍系図」と、了春の「金倉寺縁起」の人名は合致しません。ここからは了春は、「円珍系図」を見ずに、この間の人名を「創作」していることがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「讃岐国鶏足山金倉寺縁起 『香川叢書』第一(1939年)
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金倉寺 明治 善通寺市史
明治の金倉寺

金倉寺に残された古文書で、主に近世の金倉寺について見ていくことにします。テキストは「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
金倉寺は寺伝では、和銅7年(714)和気道善(当時は因支首氏)が如意輪堂を建立し、道善寺と称したことに始まるとされます。
円珍系図1
円珍系図 円珍=広雄 その父が宅成 祖父が道麻呂)

智証大師像 圓城寺
国宝 円珍像(圓城寺)

智弁大師 円珍 金倉寺
円珍像(金倉寺蔵)
智証大師 金倉寺
円珍(金倉寺蔵)
 円珍は、高野山には行かずに、比叡山で出家します。そのうち入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、5年後に帰朝します。父・和気宅成の奏上によって、先祖の和気道善が建てた自在王堂の敷地32町歩を賜って、道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。そうすると「金倉寺=道善寺」で、円珍の生前にはあったことになります。ただ、以前にもお話ししたように奈良時代に遡る古代瓦は少量で、大きな伽藍があったとは研究者は考えていません。お堂的な規模の小さな寺院だったようです。道善の子宅成の代には官寺となったとされますが、金倉寺が官寺になったことはありません。また、道善や善通・善光など人名が寺名となるのは中世的で、勧進の中心人物の名前がつけられるようになって以後のことです。

徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂己下数字梵閣令回録」とされます。
(「年末詳金蔵寺衆徒等目安案」『新編香川叢書』史料篇二、1981年)、多度津の道隆寺が再興されたころに、金倉寺は焼け落ちたようです。それが復興するのは、前回お話ししたように南北朝後の細川頼之の時代です。善通寺中興の祖と言われる宥範と同時期に金倉寺も復興を遂げて、次のような威容を見せるようになります。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あるので、数多くの別所や坊・末寺が周辺にはあって、夥しい勧進僧や念仏聖を擁していたことがうかがえます。彼らの勧進で中世の金倉寺は復興し、維持されていたとも考えられます。
 その後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。その後、「天正三(1575)年亥乙焼失」とあって、「焼失」の原因は記されていません。香西成資『南海通記』には、天正3年(1575)には、西讃守護代の香川信景と那珂郡の金倉城主金倉顕忠が戦い、顕忠が敗死し金倉城は落城したと伝えられます。その際に兵火に巻き込まれたという説もあります。どちらにしても戦国時代末期の天正年間には、善通寺と同じく金倉寺の伽藍は姿を消していたことを押さえておきます。
 戦国時代末期の天正年間の讃岐の支配者は、次のように変遷します。
阿波三好氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤一成 → 生駒親正父子 
この時代の金倉寺についてはよく分かりません。ただ慶長12年(1607)8月8日付の讃岐国金蔵寺本尊開帳供養願文が多度津の道隆寺に残されています(「道隆寺文書」、『新編香川叢書』史料篇)ここからは、この時代の金倉寺が真言宗であったこと、道隆寺と関係があったことが分かります。

松平頼重3

松平頼重
松平頼重の宗教政策

生駒家騒動の後に讃岐は分割され、その後に髙松初代藩主としてやってくるのが松平頼重です。

彼は独自の宗教観を持っていて、一貫した宗教政策を行います。その中の一つが、讃岐の真言宗への対抗勢力として天台宗の寺院を育成することでした。そのために、根来寺・長尾寺と共に金倉寺は、天台宗に改宗され、堂宇の再興、寺領の寄進、什物の寄進が行われます。その時の伽藍規模は、「弐町四方」です。このように現在の伽藍の基礎が整えられていくのは、松平頼重以後であることを押さえておきます。
善通寺の近世の復興が「弘法大師生誕の地」をアピールする江戸での「ご開帳」が大きな原動力となったことは以前にお話ししました。その動きに学んで金倉寺でも「智証大師円珍の生誕地」を前面に出していこうとする動きが始まります。

圓城寺 円珍生誕大法会
圓城寺の智証大師生誕法会

金倉寺の古文書で智証大師の年忌が最初に登場するのは、元文5年(1740)の850年忌の時です。
その前の元禄3年(1690)の800年忌については、「於御下屋敷厳重之御法会御執行被遊候」とあるので、藩主松平家の下屋敷で行われたようで、金倉寺での法会執行はなかったことが分かります。

智証大師八百五十年忌御法会之記事 金蔵寺
智弁大師850年忌御法会之記事(元文5年)
  金蔵寺は850年忌の法会執行に先立って、その8年前に高松藩に対して次のように願いでています。

「唯今之通二伽藍大破致居申候而者御法事難相勤」いとして、「伽藍造立之上、右御法会修行申度」いので、その資財として「人別奉加両年分御免被下候様」

意訳変換しておくと
「現在、伽藍が大破しており(智証大師850年忌の)法会が勤められないような有様です。伽藍を造立した上で、御法会を行いたいと思います。つきましたは、その資財集めに「人別奉加(寄進活動)を2年間行う事を許可してください」

当時は寺社の寄進活動にも藩の許可が必要でした。髙松藩では半年間だけ奉加を認めています。しかし、これでは資財が不足すると判断したようで、「伽藍造立」を止めて「修復」へ変更しています。そして、元文3(1738)年正月に村方に対して合力米を、その翌年3月には檀那中に対して奉加銀の奉納を申し入れています。しかし、これらは思うように集まらなかったようです。実際に諸堂の修繕に着手できたのは、法会の半年前の元文5年3月になってからでした。
この時の法会は、本門寿院(克軍寺)・鶴林寺・根香寺など高松藩領の天台寺院を招請して9月27日に始まり、29日に結願しています。その前後には「操・物真似井小見物」や「定日十日芝居興行」が催され、境内は参詣人で溢れていたようです。これが成功体験となって、50周年毎の年忌法会に計画的に取り組むようになります。そして人別奉加・勧化・開帳などの活動を通じて、資財蓄積にも努めます。集まった資材を檀家へ貸し付け、その利潤をもって明和年間の本堂建立に充てています。
その後、年忌法会は50年毎に次のように執り行われています。

金倉寺 智弁大師900回忌
智弁大師900年忌御法会之記事(天明7年)
天明7年(1787)に900回忌
天保11年(1840)に950回忌
明治23年(1890)に1000年忌
法会の奉加帳には、高松藩士をはじめ、檀家、村人など多くの名が記されています。50年毎の回忌が、多くの人々の助力によって開催され、「智証大師誕生之地」として金倉寺の名が知られるようになっていったことが分かります。
金倉寺 智弁大師1000回忌

智弁大師千年忌御法会之記事(明治23年(1890) 版木広告) 
 近世の金倉寺のことがうかがえる江戸時代の古文書の「覚」を見ておきましょう。
「覚」は元禄8年11月16日の年記銘があり、寺社役所へ宛てに作成された文書控のようです。ここには「金倉寺末寺」として那珂郡木徳村金輪寺・三条村村宝幢寺・金蔵寺村観音寺・同村護摩寺・同村財林坊の5院が出てきます。そして前回見たような中世の子院や塔頭は出てきません。中世の塔頭は、戦国時代の永正年間(1504年~1521年)に退転したと伝えられ、「再興無之」と記します。
 また次のようにも記します。
「金倉寺村・原田村等二寺跡数多御座候得共、百姓屋敷又者田畑二罷成、尤寺号も俄に知不申」

意訳変換しておくと
ここにはかつては、金倉寺村や原田村に、末寺や塔頭などが数多くあった。しかし、それも今では百姓の屋敷や田畑となっている。寺号も知ることができない

ここからは中世の子院や坊については、江戸時代前期になると名も分からなくなっていたことが分かります。

江戸時代に金倉寺は、どんな宗教活動をしていたのでしょうか?
それがうかがえるのが「享保十九刀十月十九日 寺社方へ指出候寺由緒」との端裏書を持つ「讃岐国那珂郡鶏足山金倉寺来由」です。ここには金倉寺では、円珍の会式は命日の10月29日には行わないとしています。その理由については次のように記します。
「往古之時毎歳九月之祖師諱日ニ、従三井寺衆徒十日宛下向二而法事執行有之」
ここには9月の祥月命日に園城寺から僧が金倉寺にやってきてして法要を行った故事によるとされています。また、現在でも9月27日から29日までを会式とし、併せて「鎮守新羅・山王・訂利帝祭礼も同断二執行」するとします。その日には「姓子并二諸人参詣群集」するほど人々がやってきたようです。
金倉寺 讃岐国名勝図会
江戸時代末期の金倉寺 上が金毘羅参詣名所図会 下が讃岐国名勝図会(1853年)

江戸時代末期になると「法栄講」という講が作られています。
講元は金倉寺で、人数は30名、掛票は100日、円珍の命日である10月29日に参会して園取りを行うと定められています。(「曇祖大師祥]法栄講帖」)。具体的な活動内容はよく分からないようですが、明治6年(1873)までは続いていたようです。
この他に、次のような講がありました。
①鎮社六含講(「□鎮社六會講寄進」)
②長栄講」(「明治長栄講元掛金并二朱分請取通」)
③五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講
④「利帝母講」(版木14)
金倉寺 五穀成就牛馬堅固
      金倉寺 「五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講」の表紙と版木
しかし、これらの講の内容については詳しくは分かりません。
記録からは、高松藩主や藩士らのために宗教活動を行っていたことが分かります。
例えば「金倉寺第三世」の最勝院了尊が、松平頼重の「御近習、殊御祈蒔僧」として近侍しています。了尊は尊龍へ金倉寺住持を譲ったのち、「御下屋敷之部屋二相詰罷在」ったとと記します。髙松の下屋敷で、祈祷などを行っていたようです。松平頼重は隠居後も、下屋敷のお堂には、不道明王と京都の仏師に造らせた四天王を安置して、プライベートにも祈念していたことが以前にお話ししました。了尊は、近侍僧として仕えていたようです。
頼重は、延三元年(1673)頃に金倉寺をはじめとする以下の10ケ寺へ愛染明王像と五大虚空蔵図を寄進し、五穀成就を祈蒔させています。
「領内壱郡一箇所、大内郡虚空蔵院、寒川郡志度寺、三木郡八栗寺、山田郡屋島寺、香川東阿弥陀院、香川西地蔵院、阿野南国分寺、阿野北白峯寺、鵜足郡聖通寺、那珂郡金倉寺、右真言。天台十箇寺二、使寄附本尊愛染明王并五大虚空蔵之図像、祈願毎年五穀成就焉」(「続讃岐国大日記」『香川叢書』第二、1941年)

金倉寺 愛染明王 松平頼重寄進
           愛染明王坐像(金倉寺蔵 松平頼重寄進)
愛染明王 白峰寺
白峰寺の愛染明王像(松平頼重寄進)
ここからは、金倉寺は那珂郡の祈願寺として位置付けられていることが分かります。この他、毎年正月・5・9月の祈祷壽と配札、藩主や藩士の夫人が懐胎した際の安産祈願、雨乞い祈祷、長日祈祷などを行っています。
金倉寺と周辺村落をつなぐ行事として農具市の開催があります。
宝暦7年(1757)12月、那珂郡村々の政所は、次のような口上を大政所へ提出しています。

当郡百姓共農具、毎歳三月廿一日善通寺会式二而調来申候所、時節遅ク百姓共木綿作仕付ニ指支迷惑仕候、依之金倉寺境内明年より毎歳三月二日・三日農具市企申度奉存候、右善通寺他領之義二御座候間、何卒御領内二而農具市出来仕候得者、売買之百姓共万々勝手之儀も御座候、其上早ク相調候二付、手廻克罷成候義二御坐候間、右願之通宜被仰上相済候様被仰付可被下候、已上               (1-24-6「目次 宝暦七丁丑年二月」)

意訳変換しておくと
那珂郡の百姓たちは毎年3月21日に、農具を丸亀藩領の善通寺の会式で調達しています。しかし、3月では作付け時期には遅れがちで百姓たちの木綿作り支障をきたしています。そこで金倉寺境内で来年から毎歳3月2日・3日に農具市が開催できるようになれば、百姓たちにとっては大変助かります。善通寺は丸亀藩で他領の地です。何卒、領内で農具市が開催でき、しかも今までよりも早く農具を調達できます。この件についてご検討いただけるようにお願い致します、已上           

この願出は翌8年正月に聞き届けられています。金倉寺では開催にあたって藩の寺社奉行に次のように願いでています。
「初発之儀人出も難計間、境内賑合市成就之ため、前々之通芝居等興行申度」

意訳変換しておくと
「農具市は初めての開催なので、どれだけの人がやってきてくれるか心配です。つきましたは、集客のために境内で市や芝居などの興行を許可していただきたい。

これに対して、寺社奉行の鵜殿長左衛門の回答は次の通りです。
「善通寺市を此方引移シ申事、彼院へ対シ候而も寺より何角取計候而芝居等願申事不宜」

意訳変換しておくと

「善通寺の農具市を金倉寺へ引移して行う事を許可した経緯を考えよ。善通寺への配慮を金倉寺も行うこと。また芝居開催などは認めない」

と、今まで市を催していた善通寺への体裁もあるとして認めていません。しかし、3月3日に市が立つと「小見世物・浄瑠璃稽古なと有之、賑合申事」と記されています。許可されなかったはずの見世物や浄瑠璃などは開催されていたことが分かります。農具市は翌宝暦9年にも行われています。ところが安永8年(1779)に、徳川家基(10代将軍徳川家治長男)売御による服忌のため、当年は市を立てないとの記事の後は、しばらく記録から消えます。
金倉寺では文政元(1818)年に「何卒市立候様取立申度」と再び農具市の再開を願い出て許されています。
檀家からは再興を祝して、幕・手水鉢・鳥居などが寄進されています(「農具市寄進誌」)。また、開催に伴って「市再興初年之義二付、賑合無之候而者人出無之候二付市場芝居申遣シ候事」とあるので、芝居興行も認められたようです。市は3月15日早朝より始まり、芝居の他に「のそき」「ちよんかれ」「手つま取」「江戸ぶんごまふ」「小見世物」「薬売・易者」「楊弓」などの「芸者・見せ物」が出ています。
金倉寺 訶利帝母堂2
金倉寺 訶利帝母堂
金倉寺 かりていぼ1

             金倉寺の訶利帝母
翌16日は晴天に恵まれ、その上に訶利帝母堂で大般若転読が行われたため、「別而大群衆、境内已来未曽有之市立(大群衆がやってきて境内は立場の亡いような市の賑わい)」というの大盛況でした。ここからは、農具市は農村の人々にとっては、農具購入という目的もさることながら、芝居や見世物などが農繁期前の楽しみとなっていたことが分かります。農員市は昭和の終わり頃まで断続的に行われ、春の風物詩となっていたようです。

広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
金倉寺 仁王門
以上をまとめておきます
①金倉寺は寺伝では、和気道善が如意輪堂を建立し、氏寺として道善寺と称したことに始まると伝えられるが古代のことはよく分からない。
②徳治3年(1308)3月に「神火」によって「金堂・新御影堂・講堂」焼け落ちた。
③南北朝後に細川頼之の保護と、廻国の修験者や念仏聖の勧進活動で金倉寺は復興した。
④永世の錯乱後の讃岐動乱の中で、天霧城主の香川氏や西長尾城主の長尾氏の押領・侵犯を受け寺領を失い、僧坊や別所は姿を消した。
⑤天正年間の兵火で金倉寺は退転し、その後の近世にいたる経緯はよく分からない。
⑥初代高松城主の松平頼重が「円珍生誕の寺」を由縁に、天台宗の拠点寺として復興させた。
⑦その後の金蔵寺は、50年毎の円珍法会の執行に伽藍整備や行事を行うようになった。
⑧それが各種の講主催や農具市の開催で、これらの活動を通じて周辺商人や村々の農民までの信仰を集めるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金倉寺調査報告書 第1分冊 2022年 香川県教育委員会」
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多度津の郷 葛原・金蔵寺
葛原庄と金倉庄は隣同士
多度郡の葛原郷が京都の賀茂神社に寄進されるのは11世紀前半でした。それから約200年後の建仁3(1203)年に、金倉郷も近江の園城寺に寄進されます。
その経緯については、善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」から次のようなことが分かります。
①讃岐國の国領地の金倉郷が、智証大師円珍ゆかりの地という由縁で園城寺(三井寺)に寄進されたこと
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること
建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。ここからは後鳥羽上皇の圓城寺保護という意向があったことがうかがえます。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。ところが約130年後の建武3年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉上庄」とだけあります。金倉庄は、上下のふたつに分割され、下荘は他の手に渡ったようです。そして金倉上庄だけが残ったようです。それでは、金倉庄を園城寺は、どのように管理運営していたのでしょうか
圓城寺は、金倉上荘に公文を任命して管理させています。金倉寺文書には次のような文書があります。
「讃岐國金倉上庄公文職事
沙弥成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
  意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙弥成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきた功績を認めて、子々孫々に至りまで公文職を命じる。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
ここからは次のようなことが分かります。
①弘安3(1280)年10月に、先祖の功績によって成真に子孫代々にまで金倉上荘公文の地位を継承することを保証していること
②沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺と関係があったこと
③沙弥成真というのは、出家していても武士で「沙弥=入道」であったこと

それでは圓城寺の荘園である金倉庄と金倉寺は、どんな関係だったのでしょうか?
金蔵寺の衆徒(僧侶)たちが以下のことを訴えます。(意訳)
当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 
当寺は、智證大師誕生の地で(中略) 金倉寺周辺の武士たちは承久の変の際に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されてやって来て、多くの土地を没収しました。この間、衆徒たちは反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、やってきた地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
  この文書は徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころのものです。
こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」には、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活したことが記されています。南北朝時代の動乱も治まった頃に、金倉寺の復興もようやく軌道にのったようです。
 研究者が注目するのは、「目安」の中に金倉庄の取り分について「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注があることです。
それまで地頭の持っていた得分・権利を荘園領主園城寺が2/3、金倉寺が1/3で分けあったことになります。これを裏付けるのが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中にも、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」とあることです。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じです。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の1/3ではなく、荘園全体の1/3だと研究者は判断します。
 そうだとすると金倉寺が金倉上荘の1/3を領していたことになります。これは大きな財政的基盤を得たことになります。これが退転していた金倉寺の復興につながったのかもしれません。時期的には四国の南北朝の混乱を収拾した細川頼之が、寺社の保護を通じて、讃岐の政治的安定化を行っていた時期になります。同時期に善通寺も宥範によって再興が進められた時期と重なります。

 復興を遂げた14世紀後半頃の金倉寺について、次のように記します。
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」
「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
意訳変換しておくと
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する
仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
ここには「弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立」あります。金倉寺の周辺には数多くの別所(廻国勧進僧の拠点)や僧坊・末寺があったことがうかがえます。そこには夥しい聖や修験者がいたはずです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
中世の金倉寺が世のその後は「凡永正五(1508)年戊辰迄僧坊無事」とあるので、細川高国が香西氏に暗殺される永世の錯乱で讃岐が動乱期を迎えるまでは伽藍は無事だったようです。
それでは、この時期の金倉寺の運営は、どのように行われていたのでしょうか?
 金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院(後の大宝院)のようです。
 室町時代ころの法憧院の寺領について史料を見ておきましょう。
法幢院之講田壱段少  大坪
拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺                   法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  意訳変換しておくと
法幢院の講田壱段少について  大坪
(良(吉)田郷石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が)納入する知行年貞米を毎年五石、十ケ年に渡って(渋谷殿)に納めることを契約する。もし、違約するようなことがあれば大坪助左衛門の屋敷と太郎兵衛屋敷の一段小を抵当に入れて、永代知行(譲渡)する。乃為己後支證状如件。
                金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
  これは明応四年(1495)12月に、金倉寺の法瞳院の賃仁が書いた借金(米)証文です。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①金倉寺には、法瞳院という塔頭があったこと。
②法瞳院は、良田郷の石川に講田(領地)を持っていたこと
③石川には「大坪助左衛門屋敷」と「太郎兵衛屋敷」という名田があったこと。
 
この法憧院の証文中にある「石川方」については、稲木地区の東部小学校の東側に石川という地名が残っています。
良田郷石川

良(吉)田郷に残る「石田」の地名(東部小学校の東側)
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は考えています。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとは名田「石川方」の農民の住居があったところかもしれません。文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返っています。ここでは法憧院という塔頭が寺領を持っていたことを押さえておきます。

善通寺寺領 鎌倉時代
鎌倉時代の善通寺領

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。
法憧院々領之事一町九段小 
①供僧二町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也 護摩供慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也 己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日 一乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
意訳変換しておくと
法憧院の院領二町九段小について
供僧管理下の土地は二町三段大で、これは風呂もとにあり、学頭田である。②護摩供養田は慶林房の抵当となっている三段六十歩、支具田は三百歩一段、ヨヒツキニンシ三段六十歩、上岡屋敷の二段、指坪の一段 以上合計で 五町四反余が法憧院の院領である。
永正六年(1509)8月  
一乗坊の先師良允馬の永代菩提寄進分 護摩供養 慶林坊三段半この内初二段半は六斗代支供田、ハ四斗五升也、岡之屋敷の二段中は屋根から南は大、東側の屋根の外に小ある。中屋根より北は一反合二反である

ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院には、学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大あること
②の「護摩供養(田) 慶林坊」は、護摩供養の費用に充てられる供田は慶林房の手に渡っている
③渋谷に質入れされている講田があること、(先ほど見た抵当分)
④これらを併せると法憧院は、5町4段あまりの院領を持っていたこと
⑤現在は人手に渡っている護摩供田をのぞく一町九段あまりが所有地であること
  ここからは金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、「学頭田2町3段」があることで、それが裏付けられます。しかし、その所有権は金倉寺にあるのではなく、塔頭の法憧院領となっていることを押さえておきます。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。
 それでは法憧院領はどこにあったのでしょうか? それは先ほど見たように良田郷石川方周辺にあったと研究者は考えています。ここはもともとは、金倉寺領良田郷の一部でした。つまり金倉寺領を、僧坊の院主たちが分割してばらばらして所有していたことになります。その院主の中には○○入道や○○沙門を名乗る俗人がいたということになります。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保っていたと研究者は考えています。
 比較のために当時の善通寺の様子を見ておきましょう。
四国をまとめ上げた細川頼之は、貞治6(1367)年には将軍足利義満の管領(執事)となり、上洛することになります。讃岐を離れる1ケ月前に、次のような「善通寺興行条々」(9ヶ条)を出しています。(意訳変換)
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。
② 寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。
③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること
④ 善通寺諸方免田について、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。
⑤ 今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。 
⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること
⑦ 境内での乗馬は、今後は禁止する
⑧ 境内での殺生、山林竹木を勝手に伐り取ることは先例通り禁止する
⑨ 徴税などのために守護使はこれまで通り寺領に入らせない。
多くの禁止事項が定められていますが。視座を逆転して見ると、これらの行為が当時は実態として行われていたことになります。実態があるから禁止されたのです。そういう目で各項目を見ておきます。
①の「寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないように」からは、善通寺にはいくつかの坊があり、そこに軍事集団が「寄宿=常住」していたことがうかがえます。これらを入道化した棟梁が率いていたのかもしれません。②からは、当寺の善通寺の寺僧たちが武装化=僧兵化した者がいたこと。⑦からは、寺内では乗馬訓練がおこなわれていたこと。
 以上からは、南北時代の善通寺には○○沙門や○○入道を名乗る俗人武士が軍事集団率いて武装化したまま常駐し、乗馬訓練を日常的に行う姿が見えてきます。西欧の教会史的に言うと「俗人による教会(寺院)支配」が行われていたということになります。これに対して「神のモノ(教会)は神(教皇)の手に、カエサル(皇帝)のモノはカエサルに!」という聖俗分離の主帳が現れるようになります。
 世俗化した善通寺に対して細川頼之が求めたことは、ある意味では「聖俗分離」であったようです。①②⑦は、○○入道の軍事集団の寺内からの排除をめざすものです。③⑥⑧は善通寺寺内を、非武装化し祈りの場所とするなら保護を与えるという立場表明にもとれます。③は、地頭御家人ら在地武上が寺領免田を押領することを停止させ、⑨は守護使が、守護役の徴収などの理由で寺領に入ることはしないと約束しています。それは、寺内の非武装化と俗人の寺領保有を認めないという条件付きです。
 ここで押さえておきたいのは、南北朝の善通寺が武装集団(武士団・入道)たちの拠点であり、彼らの中には寺領などの権利を持つ者もいたことです。これに対して守護の細川氏は、それを改め善通寺を「非武装化」しようとしていたということです。善通寺で進行中のことは、周囲の金倉寺や道隆寺でも起こっていたと考えるのが自然です。
  14世紀の中頃に、金倉寺は小松荘(琴平町)に地頭職を得ています。
寺院が地頭職を得るというのは不思議な気もします。しかし、僧坊の院主の中には、武装化した○○入道もいたとすれば、地頭職も充分に務められたことになります。
金倉寺文書の「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、地方の武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進も、そのような動きに沿うものかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。

金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       (香川?)元景(花押)
三嶋入道殿

これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者の元景です。
  元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の(香川)三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋入道のようです。西讃守護代の元景は、金倉寺の要望を無視して、従来どおりの段銭徴収を命じています。その指示を受けた又代官の三島入道は、金倉寺から段銭を徴収したのでしょう。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、戦国大名化していく天霧城の香川氏や、西長尾城主の長尾氏の押領を受け、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。こうして、善通寺や金倉寺の僧坊の経済基盤となっていた寺領は失われ、退転していくことになります。讃岐の寺社は「長宗我部元親の侵攻で焼き討ちされ退転」と寺伝に記すところが多いのですが、それ以前に戦国大名化していく香川氏によって、寺領を奪われ退転に向かっていたと私は考えています。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P
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  前回は金倉寺の北方にある道隆寺と賀茂神社の中世について次のようにまとめておきました。

中世道隆寺の歴史
 
 さらにこれを要約するなら賀茂神社と道隆寺は神仏混淆下では一体となって、鴨エリアの宗教センターと交易センターの役割を担っていたということです。その結果、「海に開けた寺社」として塩飽や庄内半島に至るエリアまでの数多くの寺社を末寺に組み込んでいたということになります。それでは内陸部の金倉寺はどうだったのでしょうか。今回は中世の金倉寺を見ていくことにします。

多度津の郷 葛原・金蔵寺
古代の多度郡葛原郷と那珂郡金蔵(かなくら)郷は隣同士の関係 

多度津・堀江・道隆寺・金蔵
葛原郷の北鴨と南鴨 その東が金倉郷
  前回に、葛原郷が京都の賀茂神社の荘園となったことをお話しました。葛原の東が金倉郷になります。
それがさらに分かれて、 中世には、上金倉(上流側)と下金倉に分かれます。さらに近代には次のように分かれていきます。
A 下金倉(中津)=上金倉村   + 金蔵寺村
B 上金倉    =丸亀市金倉町 + 善通寺金蔵寺町
 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条です。地図で見ると、この部分が多度郡の一条に突き出た形になっています。現在は金倉川は六条の東を流れていますが、条里制工事当初はその西側を流れていて那珂郡と多度郡の郡界であったことは以前にお話ししました。 ここでは金倉郷は現在の中津あたりまでが、その範囲に含まれていたことを押さえておきます。つまり、海に面したエリアが含まれていたということです。
  金倉寺は、内陸部にあって海からは隔たっているので海上交易とは関係のない寺院だと私は思っていました。ところが戦国前期頃に、金蔵寺が中讃地区の港町に次のような寄進依頼文書を出しています。
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
意訳変換しておくと
諸港へ 金倉寺の修造費用の寄進依頼  金蔵寺より
当寺は(大嵐で)大破したので修理が必要です。ついていは先例の通り寄進に協力していただければ幸いである。恐々謹言、なお先例の寄進額は以下の通りです。
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
ここでは金倉寺が大嵐で大破した際に、宇多津・多度津・堀江にそれぞれに先例に従って修造費負担を求めています。ここからは、金倉寺がこれらの港湾都市の住人の信仰対象となっていたことがうかがえます。ちなみに応永六年(1399)には、宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。こうしてみると金倉寺も中讃の港に信仰圏を持っていたことがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。ヒントになるのは、三豊平野の真ん中の本山寺の性格です。この寺の本尊は、牛頭天王で馬借たちなどの運輸労働者の信仰を集めた仏です。本山寺は仁尾や詫間・観音寺などの港の後背地で、その商業エリアは阿讃山脈を越えて阿波や土佐まで伸びていたことは以前にお話ししました。同じように、多度津・堀江・宇多津などの港への物資の集積地点の役割を、金倉寺は果たしていたのではないかと私は想像しています。金倉寺の背後の綾川沿いには、牛頭天王を祀る滝宮牛頭天王社(滝宮神社と、その別当寺の龍燈院が活発な布教活動を展開していたことは、以前にお話ししました。これらの動きと重なり会います。
 そういう目で金倉寺周辺の交通路を見てみましょう。
①堀江と金倉寺を結ぶのが、河川交通路としての金倉川
②もうひとつが堀江の道隆寺から加茂神社・葛原を経由して、金倉寺に至る遍路道(現町道)
③この遍路道が金倉寺の前を東西に通る中世の南海道に繋がる。
④金倉川沿いに金比羅への参拝道
こうして見ると金倉寺周辺は、丸亀平野の交通の要衝であり、人とモノと情報の集積地点だったことが分かります。本山寺がそうであったように、金倉寺も沿岸部の港へ後背地機能を果たしていたとしておきます。道隆寺、加茂神社、金倉寺は孤立したものではなく、ネットワークでで結びつけられていたと私は考えています。しかし、それを確かめる史料はありません。ちなみにこの史料で金倉寺が求めている寄付請求金額は、この時代の3つの港湾都市の規模や経済力を物語っているのかもしれません。
  もうひとつ金倉寺の信仰圏の広がりがうかがえる史料を見ておきましょう。
塩飽本島の正覚寺の大般若経です。
  写経は山野での修行と同じで、修験者たちは功徳として積極的に取り組みました。中でも大般若経は600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し奉納したのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます。例えば、東讃の大水主社や与田寺は、増吽を中心に多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことをお話ししました。

大般若経 正覚院第1巻奥書
上の巻第一には「文和四(1355)年十月十一日 始之」とあります。この巻から書写が開始されたようです。巻第572・573には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。
本島の正覚寺の大般若経で、金倉寺周辺で写経者と寺院が分かるものは次の通りです。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 (宇多津) 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 (宇多津) 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 (宇多津) 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮    (宇多津)      沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中(羽床) 
同郷大野村住(不明) 金剛佛子宥伎
⑦巻第五百七十二・五百七十三 讃岐國仲郡金倉庄 金蔵寺南大門大賓坊 信勢
当時、細川氏の政所が置かれた宇多津の僧侶が4名、その背後の羽床羽床郷の西迎寺坊中、同郷大野村住の僧侶の名前があります。第493・588を写経した金剛佛子宥海と、第571巻写経の金剛仏子宥蜜には「金剛」がつくので真言系密教僧(修験者)であり、名前に「宥」の一字がありますので同じ法脈関係にあったことがうかがえます。
 注目したいのは⑦の「金蔵寺南大門大賓(宝)坊 信勢」です。
大宝坊は金倉寺の塔頭のひとつで、
応永17年3月の金蔵寺文書に見える「大宝院」のようです。「願主」とあるので、金蔵寺の大賓坊信勢が発願者の第一候補だと研究者は考えています。信勢の呼びかけに応じて、多くの僧侶や修験者・聖たちが参加しています。それは宇多津から羽床にかけて、信勢のシンパがいたことになります。
  金倉寺が写経事業の中心であったことは、次のような変遷からも分かります。
①文和4年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻完成
②那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納
③約130年後の延徳三年(1491)に、道隆寺の僧が願主となって、大般若経全巻を折り畳み、巻物から旋風葉にスタイル変更
④永享7年(1435)に破損巻を、那珂郡杵原宝光寺(退転)の慶宥が写経補充
⑤慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶

大般若経 正覚院 下金倉
本島の正覚寺の大般若経 表紙見返し 
表紙見返しには次のように記されています。
「讃岐国金倉下村 惣蔵社御経 延徳三年(1491)六月二十二日」
ここからは金倉寺の呼びかけで写経された大般若経が保管されたのは、下金倉村の惣蔵社(宮)であったことが分かります。金倉下村は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社も今はありません。この神社は、金倉寺の末社であったようです。
 近年の各地の大般若経調査で明らかになったことは、明治の神仏分離以前は、大般若経は寺院ではなく、村社級の神社に保管されていたことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、金倉寺の発願によって写経された大般若経書写が、その末社の惣蔵社に奉納されたのも頷けます。こうして見ると、金倉寺の直接の信仰圏は下金倉村のあたりまで伸びていたことが分かります。
 それを補強するのが、北鴨・南鴨は葛原郷で多度郡、下金倉や上金倉は那珂郡に属していたことです。この郡境を境に、「道隆寺=賀茂神社」と「金倉寺=惣蔵社」は棲み分けていたことが考えられます。それが道隆寺の勢力が強くなって、金倉川以東にも伸びてきて、惣蔵社も勢力下におくようになります。惣蔵社は賀茂神社に吸収・合祀されます。その結果、惣蔵社の大般若経は不用となり、本島にもたらされたというストーリーが考えられます。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
正覚寺大般若経 第六百巻(延徳三年(1491)の奥書)    
ここには次のように記されています。

「讃州多度郡於道隆寺 宝積院 奉折如件

ここからは全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。これもある意味では、大事業なので「再興」とみなされ発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。
  道隆寺文書には永正8年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳3(1491)年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。

     以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金倉寺が願主となり、大般若経600巻が写経された。
②写経された大般若経は、金倉寺末社の那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納された。
③15世後半には、道隆寺が強勢になり金倉川東岸に進出し、下金倉の惣蔵社を末社化した。
④道隆寺院主は願主となって、惣蔵社の大般若経を「折り本」化した。
⑤その後、道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(宮)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

 金倉寺や道隆寺は中世には「談義所」「学問寺」として機能していたとされます。
多くの経典が写経されて収集され、それを求めて多くの廻国僧侶がやってきていたことが残された聖教類からも分かります。同時に大般若経の写経センターとしても機能していたことがうかがえます。これは、増吽の与田寺や水主神社と同じです。そして、その周辺には廻国の僧侶達が沢山いたようです。中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていました。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
金倉寺文書に応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があります。
そこには、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺にもいくつかの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。その中で善通寺の誕生院のような地位にあったのが法憧院のようです。次回は、この法憧院について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年
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  ユネスコ登録に向けて四国霊場の調査が進んでいます。その19冊目として、金倉寺の調査報告書が図書館に並んでいたので読書メモ代わりにアップしておきます。調査報告書の一番最初の「立地と歴史」の部分を読むのは、私にとっては楽しみです。それは近年の周辺の発掘調査で分かったことが簡略、かつ的確に専門家の目で記されているからです。調査書を読んだときには気づかなかったことが、その後に出された調査報告書の「立地と歴史」で気づいたり、理解できたりすることがあります。金蔵寺周辺は、高速道路や国道11号バイパスなどで線上に大規模な発掘調査が進められ、多くの遺跡が発掘され新しい発見が続いた所です。その知見が、どのように整理されているのか楽しみです。テキストは「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
 研究者は、まず金倉寺周辺の条里型地割に注目します。
周辺の稲木北遺跡や永井北遺跡などでは条里制溝などが確認されています。そこからはこの地域で条里制工事が始まったのは7世紀末~8世紀初頭と研究者は考えています。丸亀平野に南海道が伸びてくるのもこの時期です。この南海道を基準に条里制工事が始められ、南海道沿いに郡衙や古代寺院が姿を見せるようになります。
丸亀平野条里制5
丸亀平野の条里制 金倉川沿いには空白地帯が拡がる
ところが上図のように善通寺から金倉寺、さらに多度津にかけての金倉川の周囲には、条里地割に大きな乱れが見られます。拡大して「土地条件図」で見てみると

金倉寺周辺の土地復元
金倉寺周辺の金倉川の旧河道跡
ここからは次のような情報が読み取れます。
①東側から北側一帯にかけて、旧金倉川の氾濫原であったことを示す地割の乱れが広がっている
②金倉寺西側の土讃線沿いには、旧河道を利用した上池、中池、千代池が連なる。
③これらの池沿いに北流する旧河道の地割の乱れは幅200~300mほどと大きい。
④金倉寺の南約800m付近にある金蔵寺下所遺跡では、弥生時代や奈良時代の旧河道が検出されている。
丸亀平野の条里制3

以上から「地形復元」してみると、金倉寺は東側の金倉川と西側の旧河道に挟まれた細長く紡錘状に伸びる微高地上に立地していたことが分かります。そして中世には西側の旧河道は埋没し、近世には金倉川の固定化が図られ、周辺の氾濫原は耕地化が進んだと研究者は考えています。多度津の葛原に小早川氏に仕えていた小谷氏がやってきて入植し、開拓したのもこの西側の旧金倉川跡だったようです。そして、水田開発が終わると、小谷家は水不足備えて千代池などを築造していきます。そういう意味では、古代の金倉寺は、金倉川の氾濫原の中の遊水地と化した大湿原地の中に位置していたと云えそうです。

善通寺遺跡分布図
善通寺市遺跡分布図(高速道路やバイパス沿いに発掘調査が進んだ)
次に金倉寺の古代の歴史的環境について見ていくことにします。
金倉寺の東方面には、弥生時代には中の池遺跡、龍川五条遺跡、五条遺跡などの環濠集落がありました。
丸亀平野の環濠集落
丸亀平野の環濠集落(想像図)
なかでも龍川五条遺跡は二重に環濠をめぐらした集落で、内側に竪穴建物と掘立柱建物の居住域があり、環濠の外に周溝墓や木棺墓の墓域や水田が拡がります。五条遺跡は龍川五条遺跡の北方300mに隣接し、ここにも二条の大溝跡がありました。この遺跡は龍川五条遺跡からの集落移転で成立したと研究者は考えています。それが中期なると、なぜか環濠集落は姿を消してしまいます。そして丸亀平野の中央部を避けて善通寺周辺の丘陵裾部に小規模な集落が点在するようになります。その核となるのが旧練兵場遺跡群です。ここには前期から始まって、古墳時代初頭まで長期間に渡って安定的な集落が続きます。
旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡は、「オトナと子どもの病院 + 農事試験場」で45万㎡と広大です。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

さらに弥生時代後期前半になると平形銅剣の中心として瀬戸内沿岸地域から多くの土器が搬入されています。終末期には大陸との交易を示す青銅鏡が出てきますし、集落内で鉄製品や朱の生産も行われていたことが分かっています。
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
善通寺の旧練兵場遺跡群と周辺の弥生時代の遺跡分布
まさに讃岐最大の拠点集落であり、中国史書の「分かれて百余国をなす」のひとつである「善通寺王国」とも考えられます。丸亀平野だけでなく、備讃瀬戸における人とモノの集まる拠点として大きな引力を持っていたと云えます。そしてこの王国は、古墳時代から律令時代へと安定的に継続していきます。この子孫が後に氏寺としての善通寺を建立し、空海を輩出する佐伯直氏につながる可能性が高いと研究者は考えています。
次に善通寺周辺の古墳について見ておきましょう。
青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷図
善通寺エリアの古墳が集中するのは、五岳や大麻山周辺で、弘田川流域勢力によって築造されたもののようです。中でも大麻山の山頂直下に前期前半に築かれた野田院古墳(後円部が積石塚)から、後期の王墓山古墳や菊塚古墳、終末期の大塚池古墳など、首長墓クラスの古墳が継続的かつ安定的に築かれます。これは、讃岐の他エリアの不安定さと対照的です。善通寺エリアの首長がヤマト政権との良好な関係を維持しつづけたことがうかがえますが、その要因がどこにあったのかはよく分かりません。一方、金倉寺周辺の勢力が築いた古墳というのは、見当たりません。
古墳時代中期になると旧練兵場遺跡では竪穴建物が少数ですが現れ、後期には飛躍的に増加し、大規模な集落が営まれるようになります。
旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡群 古墳時代末期から古代へ 南海道が伸びてきて郡衙や古代寺院が姿を見せる。
中心は農事試験場跡の東部ですが、サテライトとして南東約l㎞の四国学院大学構内遺跡でも多数の竪穴建物が並ぶ集落が現れます。このような集落の成長の上に、佐伯直氏の氏寺とされる仲村廃寺跡(伝導寺跡)が居住区のすぐ南に白鳳時代には姿を見せます。しかし、この寺は条里制に沿っていません。条里制施行よりも前に建立されたことがうかがえます。
善通寺エリアでは、南海道に沿う位置に「官衛的建物」が見つかっています。
生野本町遺跡 
生野本町遺跡(旧善通寺西高校グランド) 整然と並ぶ郡衙的な建物配置
それが四国学院大学の南側の生野本町遺跡です。稲木北遺跡と同じような建物配置が見つかっています。この遺跡に近接した生野南口遺跡からは8世紀前葉~中葉の床面積が40㎡を超える庇付大型建物跡が確認されています。これも郡衙の付属建物のようです。あと高床式の倉庫が出れば郡衙に間違いないということになります。ちなみに、同時期の飯野山南の岸の上遺跡からは、高床式倉庫が何棟も出てきて、鵜足郡の郡衙と研究者は考えています。東から伸びてくる南海道沿いに郡衙や居館、氏寺を建てることが、ヤマト政権に認められる「政治的行為」であると当時に、住民への威信をしめすステイタスシンボルでもあったようです。そのために、いままでの旧練兵場遺跡から南海道沿いの四国学院方面に、その居館を移動させ、多度津郡衙を建設したとも考えられます。
 一方、金倉寺周辺はどうでしょうか? 
金倉寺の西約1 kmの稲木北遺跡からも郡衙的な建物群が見つかっています。8世紀前葉の大型掘立柱建物跡8棟と、それらを区画、囲続する柵列跡です。

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡 郡衙的な建物配置が見られる
真ん中に広場的空間を中心に品字形の建物配置がとられています。加えて大型建物を中心に対称的に建物が配置され、しかも柱筋や棟通りなどがきちんと一致しています。研究者はこれを「官衛的建物配置」と考えています。
稲木北遺跡 多度郡条里制
多度郡の2つの郡衙的建物 
A 稲木北遺跡(金蔵寺エリア)B 生野本町遺跡(善通寺エリア)

稲木北遺跡2

金蔵寺の南の下所遺跡では7世紀末~8世紀初頭、 8世紀前葉~中葉の掘立柱建物群が出てきています。
その配列は 8棟前後の建物が緩やかに直列、並列、直交する建物配置をとります。その上に、この遺跡の特徴は、金倉川の河道跡から人形、馬形、船形、刀形、斎串などの木製祭祀具が多量に出土したことです。
金倉寺下所遺跡 木製品
金倉寺下所遺跡 木製品2

金倉寺下所遺跡出土の木製祭祀具(金蔵寺下所遺跡調査報告書より)
ここからは、公的な河川祭祀がこの場所で執り行われことが分かります。今見てきた稲木北遺跡、稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡は、約1㎞四方の範囲に収まります。そうすると多度郡衛や公的な河川祭祀を執り行う官衛や地元豪族の地域支配の拠点となる郷家といった公的性格を持つ官衛が集中するエリアだったことになります。これも郡衙など官衛的施設の一部でしょう。こうしてみると、奈良時代には、官衛的な施設が善通寺と金蔵寺の2つのエリアにあったことになります。そして、金蔵寺エリアに金倉寺は現れます。
金倉寺の創建について見ておきましょう。
『日本三大実録』には、多度郡人因支首純雄らが貞観8年(866)に改姓要求を願い出て、和気公が下賜姓されたとあります。「鶏足山金倉寺縁起」には、仁寿元年(851)に円珍の父和気宅成が、その父が建立した自在王堂を官寺とすることを奏上しています。ここからは金倉寺の創建に、和気公が深く関与したことがうかがえます。また現地名の「稲木(いなぎ)」は、「因岐(いなぎ)首」の改称のようで、和気公(因岐首氏)が金倉寺周辺にいたことが裏付けられます。このことを強調して従来は、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因岐首氏(和気公氏)の本拠地という視点で説明されてきました。しかし、多度津郡司(大領)である佐伯直氏と、官位を持たない地元の中小豪族の因岐首氏では階級差も、勢力も大きく違っていたと研究者は指摘します。
1空海系図2
空海の弟や甥たち(佐伯直氏)は、地方豪族としては非常に高い官位を持つ。
円珍系図 那珂郡
円珍の因支首氏の那珂郡の系図 円珍の因支首氏には官位を持つ者はいない。
古墳時代の首長クラスの古墳分布を見ると、善通寺と金倉寺では大差があったことは見てきた通りです。金倉寺周辺では、首長墓らしきものは見つかっていません。
 両者の氏寺とされる善通寺と金倉寺を見ていくことにします。
 佐伯直氏が最初に建立したとされる仲村廃寺からは、原型に近い川原寺系軒丸瓦が出土します。その後に建立した善通寺は、方二町で白鳳期から平安期にかけての時代を超えた多彩な軒瓦が出土しています。ここからは佐伯氏が中央との良好な関係を保ちつつ、白鳳期に氏寺を創建し、それを奈良時代、平安時代にかけて継続的に維持していたことがうかがえます。それに比べて、古代の金倉寺のことはよく分かりません。採集されている瓦片は、次のとおりです。
A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 平安時代前期に属する軒平瓦
C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。
ここからは、金倉寺が奈良時代まで遡り、寺域の大きな移動はなかったことはうかがえます。しかし、問題なのは、奈良時代の瓦の出土量は極めて少なく、平安時代になって出土量が増加することです。ここからは奈良時代には、お堂程度の小規模な施設が設けられ、平安時代になって寺院整備がすすんだことがうかがえます。なお、軒平瓦には仲村廃寺や善通寺との同氾関係のものがあるので、佐伯直氏の援助を受けながら、因支首氏が金倉寺を建立したということは考えられます。ここでは、奈良時代に因支首氏の氏寺として建立された時の金倉寺は、善通寺に比べると遙かに規模が小さかったこと、それは当時の佐伯直氏と因支首氏の力関係によることを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
①金倉寺周辺は、金倉川の旧河道が幾筋にもわかれて北流し、広い氾濫原で遊水地化した湿原地帯が拡がっていた。
②律令時代になると東から南海道が伸びてきて、それに直行する形で条里制工事が始まる。
③金倉寺周辺は、金倉川の氾濫原であったために対象外となり、空白地帯となっている。
④しかし、金倉寺周辺の氾濫原の微高地には、郡衙・官衛・豪族居館らしき建築物が集中する
⑤一方、善通寺エリアにも、郡衙や古代寺院が佐伯直氏によって建設される。
⑥そういう意味では、善通寺と金倉寺エリアは多度郡のふたつの政治的な中心地だったとも云える。
⑦しかし、古代寺院の規模などからすると、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因支首氏の間には、政治的・財政的に大きな開きがあったことが見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会
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智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵)

円珍を輩出した因支首氏は、貞観8年(866)に和気公へ改姓することは以前にお話ししました。これまでの研究では、地方氏族の改姓申請の際には、対象となる氏族の系評(本系帳など)が参照されていることが指摘されています。空海の佐伯直氏も改姓申請の際には、同じ祖先で一族とされた物部氏の長の「同族証明書」を発行してもらっています。同じ事が円珍の因支首氏にも求められています。そして、改姓のために作られたのが「円珍系図」でした。
 「日本書紀」などに始祖伝承が載録されていない地方氏族の場合は、改姓の訴えに虚偽が含まれていないかどうかを本宗氏や郡司が調査します。そのため申請者側が自氏の系譜を提供しています。ここからも因支首氏には改姓のために『円珍俗姓系図』を作成する必要があったと言えます。
 その詳しい経緯が、以前に見た「日本三代実録』貞観八年(866)十月二十七日戊成条と、貞観9年「讃岐国司解」に記されています。
①「日本三代実録』には、次のように記します。
「讃岐国那珂郡の人、因支首秋主・同姓道麿・宅主、多度郡の人、因支首純雄・同姓国益・巨足。男縄・文武・陶通等九人、姓を和気公と賜ふ。其の先、武国凝別皇子の市裔なり」

ここからは、讃岐国那珂郡の因支首秋主・道麿・宅生、多度郡の純雄・国益・巨足・男縄・文武・陶道ら計九人が、和気公姓を与えられたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 那珂郡の因支首氏(和気氏)一族
一方、貞観9年「讃岐国司解」には、讃岐国那珂郡の因支首道麻呂・宅主・金布の三家と、多度郡の因支首国益・男綱・臣足の三家について、それぞれ改姓に預かった計43人(那珂郡15人、多度郡28人)が列記されています。

円珍系図2
多度郡の因支首氏
因支首氏の系図作成の動きを、研究者は次の3つの時期に分けます。
まず第一期は延暦期です。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出を命じる大政官符(大政官の命令)が出された。
②大政官符の内容は次の通りで、『日本後紀』延暦十八年十二月戊戊条に「若し元め貴族の別に出ずる者は、宜しく宗中の長者の署を取りて中すべし。(略)凡庸の徒は、惣集して巻と為せ。冠蓋の族は、別に軸を成すを聴せ」と見えている.
③これを受けた因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を一巻にまとめて、延暦十九年七月十日に提出した。
④その際に、因支首氏は「貴族の別」(武国凝別皇子より出た氏族)であることを示すため、本宗に当たる伊予御村別君氏から「宗中の長者の署」(伊予御村別君氏の氏上の署名)を受け、その支流であることを証明してもらう必要があった。
このように、本宗に当たる氏族が同祖関係を主張する支流の系譜を把握・管理することは、古くから行われていました。また「冠蓋の族」(有力氏族)は、その氏族だけで本系帳を提出することが認めらていました。しかし、因支首氏は「凡庸の徒」に分類されていたので、伊予御村別君氏とともに一巻にまとめて本系帳を提出したようです。

次に、第2期の大同期です。大同2年(807)2月22日、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出されます。これは『新投姓氏録』の編纂作業に先だって、氏族の改姓にともなう混乱を避けるための措置だったようです。そこで、因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出します。しかし、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没してしまいます。
第3期が約60年後の貞観期です。
貞観七年(865)に、改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出します。これが那珂・多度郡司と讃岐国司の審査を経て、改姓が認められます。こうして、因支首氏は60年近くの歳月を経て、悲願を達成したのです。これを受けて、次のような手順が踏まれます。
①貞観八年十月二十七日に改姓を許呵する大政官符が民部省に下されます。
②11月4日には民部省符が讃岐国に下されます。
③讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載し、貞観九年二月十六日付で「讃岐国司解」が作成された。

和気氏系図 円珍 稲木氏

このことについて『日本三代実録』と貞観九年「讃岐国司解」と、『日本後紀』延暦十八年(七九九)十二月戊戊条と、『円珍俗姓系図』の記述との間には、次のような関連する内容があることを研究者は指摘します。
①『日本三代実録』には「共の先、武国凝別皇子の苗裔なり」とあり、因支首氏を武国凝別皇子の子孫であるとする
②「讃岐国司解」にも「忍尾の五世孫、少初位上身の苗裔、此部に在り」とあり、身を忍尾別君の子孫とすること。これらは『円珍俗姓系図』の系譜と合致する。
③『円珍俗姓系図』は因支首氏の系譜に加えて、伊予御村別君氏の系譜も並べて記載していること。
④この系図が因支首氏の系譜を後世に伝えるため、あるいは円珍の出自を明らかにするために作成されたものであれば、因支首氏の系譜だけを単独で記せば事は足りる。
⑤しかし、「日本後紀』や「讃岐国司解」には「貴族の別」は「宗中の長者の署」を受けて提出するようにとの指示があった。そこで「凡庸の徒」である因支首氏は、伊予御村別君氏とともに一巻として、本系帳を提出した。
第3に「讃岐国司解」には、次のように記します。
「別公の本姓、亦、忌請に渉る。(略)望み請ふらくは(略)玩祖の封ぜらる所の郡名に拠りて、和気公の姓粍賜り、将に栄を後代に胎さんことを」

意訳変換しておくと
「別公の本姓、の「別」という文字は怖れ多い。(中略)そのためお願いしたいのは、先祖の封ぜらた郡(伊予御村別君氏の本拠である伊予国和気郡:松山市北部)の名前に因んで、「和気公」の氏姓を賜りたい。

佐伯有清氏はこれを、「別(わけ)」より「和気」の方が「とおりが良かった」ため、後者の表記を授かることを目的とした一種の「こじつけ」であるとします。いずれにしろ改姓の申請では「別」を忌避したことになっています。
それに対して『円珍系図』冒頭では、景行天皇の和風詮号を、大足彦思代別尊と「思代別尊」の間で区切るのが適切なのに、あえて「別」の文字の前で改行しています。これは「別」字に敬意を示すためで、文中に天皇の称号などを書く際、敬意を表すためにその文字から行を改め、前の行と同じ高さから書き出しているようです。これを平手といいます。つまり、大同期の改姓申請における「別公の本姓、亦、忌諄に渉る」という主張が、『円珍系図』では、形を変えて平出として表現されていることになります。
さらに『円珍俗姓系図』には、延暦・大同期に書き加えられたと思われる部分があるようです。
 8世紀前半にはB部分の原資料が伝えられており、そこに後からA部分が付加されたます。そこで研究者が注目するのがA部分の神櫛皇子の尻付に見える讃岐公氏です。この讃岐公氏は、かつて紗抜大押直・凡直を称しましたが、延暦十年(七九一)に讃岐公、承和3年(836に讃岐朝)、貞観6年(864)に和気朝臣へ改姓しています。(『日本三代実録」貞観六年八月―七日辛未条ほか)。ここからは「讃岐公」という氏姓表記が使用されたのは、延暦10年から承和3年の間に限られます。そうすると、A部分の架上もこの間に行われたことになります。その時期は、延暦・大同年間の改姓申請期と重なります。
 また、「円珍系図』の末尾付近には、子がいるにもかかわらず、人名の下に「一之」が付されていない人物が多くいます。例えば宅成の下には「之」はありませんが、子の円珍と福雄が記されいます。秋吉と秋継の下にも「之」はありませんが、子の秋主と継雄が記されています。これは、『円珍俗姓系図』がある時点までは、宅成、秋吉・秋継の所までで終了していたこと、円珍・福雄、秋主・継雄などは、後からが書き加えられたことがうかがえます。

円珍系図3
円珍系図

 四人の中で生年が分かるのは円珍だけです。
円珍は弘仁5年(814)の生まれなので、この書き継ぎはそれ以降のことです。それに対して、宅成は道麻呂の子で、秋古・秋継は宅成と同世代に当たります。道麻呂が那珂部の代表者として改姓申請を行った大同年間の頃には、宅成・秋古・秋継らは生まれていたはずです。 円珍俗姓系図は、大同の頃の人物までを記して、いったんは終了していたことがここからも裏付けられます。とするならば『円珍系図』の原資料の結合は、因支首氏と伊予御村別君氏が同祖関係にあることを示す必要が生じた延暦・大同期に行われた可能性が高いことになります。以上を整理しておくと、次のようになります。
①それまでに成立していたB部分の原資料(Bl系統の水別命~足国乃別君・□尼牟□乃別君
②B2系統の阿加佐乃別命~真浄別君まで)
③C部分の原資料(忍尾別君~身)を基礎として、
④両者の間に二行書き箇所が挿入され、B部分にA部分が架上された。
⑤一方、C部分の身以降については、延暦・大同の申請期に生まれていた人物までを書き継ぎ、そこまでで『円珍俗姓系図』(の原型)が成立した。 
 これらの作業によって、因支首氏は武国凝別皇子に出自を持ち、伊予御村別君氏と同祖関係にあることが、系譜の上で明確に示すことができるようになりました。

円珍系図 忍尾拡大 和気氏系図

次にC部分の冒頭に置かれた忍尾別君の尻付と、その子である□思親幌剛醐[]波・与呂豆の左傍の注記について見ておきましょう。
ここには、忍尾別若が伊予国から讃岐国に到来して因支首氏の女と婚姻し、その間に生まれた□思波・与呂豆は母姓により因支首氏を名乗るようになったと記します。この点については、従来は次の2つの説がありました。
①伊予国で「別(わけ)」を称号として勢力を持っていた氏族が因支首氏の祖先であるとする佐伯有清説
②因支首氏は伊予国和気郡より移住してきたとする松原説
しかし、『円珍系図』の注記を改めてよく読んでみると、忍尾別君が伊予国から讃岐国へ移住して因支首氏の女を妥ったとあります。すると、移住前から因支首氏は讃岐国にいたことがうかがえます。つまり因支首氏という氏族は、伊予国から移動してきたわけではないことになります。
 また、母姓を負った氏族が父姓への改姓を申請する場合は、実際は父姓の氏族と血縁関係を持たずに、系図を「接ぎ木」するための「方便」であることが多いことは以前にお話ししました。このため因支首氏は伊予御村別若氏ともともとは無関係で、後から同祖関係を主張するようになったとする説もあります。
 もちろん、今まで交渉のなかった氏族同士が、にわかに同祖意識を形成することはできません。そこで研究者は、伊予国と讃岐国をそれぞれ舞台とする『日本霊異記』の説話がよく似ていることに注目し、説話のモチーフが伊予国の和気公氏から讃岐国の因支首氏ヘ伝えられた可能性を指摘します。そうだとすれば、両氏族の交流が系譜の結合以前まで遡ることになります。ふたつの氏族は古い時期から、海上交通などを通じて交流関係を持っていたことがうかがえます。
 それでは、どの時期まで遡れるのでしょうか?
 円珍俗姓系図の原形の作成過程からして、延暦・大同年間までで、大化期まで遡れるとは研究者は考えていません。忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承も、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、この時期に因支首氏が創出したものとします。忍尾別君が「讃岐国司解」では「忍尾」と記されています。「別君」が付されていないことも、この人物が本来は伊予御村「別君」と関係なく、むしろ因支首氏の祖先として伝えられていたことを物語っていると結論づけます。
  以上を整理しておきます。
①延暦18年(799)12月29日、『新撲姓氏録』編纂の資料として用いるため、各氏族に本系帳の提出が命じられた。
②因支首氏は、伊予御村別君氏と同祖関係にある旨を詳しく記載し、本系帳を提出した。
③大同2年(807)、改姓を希望する氏族は年内に申請するよう太政官符が出された。
④そこで因支首国益・道麻呂らは一族の記録を調査・整理して、本系帳と改姓申請文書を提出した。が、改姓の許可が得られないうちに、彼らは没した。
⑤そこで貞観7年(865)に改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出した。
⑥これが認められ貞観8年改姓を許呵する大政官符が民部省に下された。
⑦讃岐国では改姓に預かることになった人々を調査してその名前を記載た「讃岐国司解」が作成された
 以上のような経緯で「円珍系図」は作成されます。その際に、伊予御村別君氏の系評に自氏の祖先を結び付けて同属関係にあることを主張するために、忍尾別君が伊予からやってきたとする伝承が採用され、伊予御村別君氏の系図に因支首氏の系図が「接ぎ木」された。また、因支首氏の実質の始祖である身も7世紀初めの圧この時期に因支首氏が創出したものとします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
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   円珍系図 伊予和気氏の系図整理板 
 
以前に円珍系図について、次のようにまとめておきました。
①円珍系図は、讃岐の因支首氏が和気公への改姓申請の証拠書類として作成したものであった。
②そのため因支首氏の祖先を和気氏とすることが制作課題のひとつとなった。
③そこで伊予別公系図(和気公系図)に、因支首氏系図が「接ぎ木」された。
④そのポイントとなったのが因支首氏の伝説の始祖とされていた忍尾であった。
⑤忍尾を和気氏として、讃岐にやって来て因支首氏の娘と結婚し、その子たちが因支首氏を名乗るようになった、そのため因支首氏はもともとは和気氏であると改姓申請では主張した。
⑥しかし、当時の那珂・多度郡の因支首氏にとって、辿れるのは大化の改新時代の「身」までであった。そのため「身」を実質の始祖とする系図がつくられた。
⑦ つまり、天智政権で活躍した「身」までが因支首氏の系図で、それより前は伊予の和気公の系図だということになります。そういう意味では、「和気氏系図」と呼ばれているこの系図は、「因支首氏系図」と呼んだ方が自体を現しているともいえるようです。

伝来系図の2重構造性

  さらに伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えていました。この説は1980年代に出された説です。それでは現在の研究者達はどう考えているのかを見ていくことにします。テキストは、鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」です。

古代氏族の系図を読み解く (541) (歴史文化ライブラリー 541)

 最初に円珍の因支首氏の系譜が、どのように成立したのかを見ておきましょう。
円珍系図  忍尾と身

 その場合のキーパーソンは「身」です。この人物は「子小乙上身。(難破長柄朝廷、主帳に任ず。〉」とあります。ここからは孝徳天皇の時代(645~54)に、主帳(郡司の第四等官)に任命されたとされます。「小乙上」とは、大化五年(649)に制定された冠位十九階の第十七位か、天智3年(664)に制定された冠位26階の第22位に当たるようです。Bの部分には冠位を持つ人物が多いのですが、C部分では身が唯一です。この人物は略系図の冒頭にも置かれている上に、貞観9年(867)「讃岐国司解」でも触れられています。因支首氏の中で重要な意味を持つ人物であったことが分かります。
しかし、身については、次のような不審点が指摘されています。
①身が孝徳朝の人物であれば、その5世代後の円珍(814~91)との間は約200年で、1代約40年前後になる。一般的には1世代約20年とされるので、間隔が開きすぎている。
②他の人物は「評造(ひょうぞう)小山上宮手古別(みやけこわけ)君」や「郡大領追正大下足国乃別君」のように、名前の上に官職がある。身の場合も「主帳明小乙上身」となるべきなのに「主帳」は尻付されている
③身は「讃岐国司解」に「少初位上身」と記されている。孝徳朝に小乙上であった人物が、大宝元年(701)以降に少初位上に任じられことになる。これは長寿過ぎるし、しかも従八位上相当から少初位上へ四階も降格したことになってしまう。
以上から、身は実際には孝徳朝の人物ではなかったとする見方も出されています。
 従来は身の生存年代に焦点が集まって、身の注記をどのように理解するのかには目配りが弱かったようです。そこで研究者は身について、改めて史料を確認します。身に関する情報は、次の2つです。
①「讃岐国司解」の「少身の官職初位上」
②「円珍俗姓系図」の「小乙上」「難破長柄朝廷」「主帳に任ず」
このうち最も信頼性が高いのは、公的な文書として作成された「讃岐国司解」の「少初位上」です。因支首氏は讃岐国多度郡に多く居住していました。また多度郡良田郷内には「因支」の転訛とされる「稲毛」という地名が残っています。ここからは、身が任命されたのは多度郡の主帳であったとされます。「讃岐国司解」には、因支首氏は多度郡と那珂都のどちらにも分布していますが、より多くの居住が確認できるのは多度郡です。ここでは多度郡衙本拠としておきます。
 多度郡には、因支首氏のほかに、佐伯直氏や伴良田連氏が勢力を持っていました。貞観3年(861)には、空海の一族とされる多度郡の佐伯直豊雄ら10人に佐伯宿禰が賜姓されています。豊雄らの系統の別祖(傍流の社)に当たる倭一胡連公(やまとのえびすのむらじきみ)は、允恭朝に讃岐国造に任命されたと伝えられます。また、讃岐国多度郡弘田郷(善通寺市弘田町)の戸主である佐伯直道長(空海の戸主)は、正六位上の位階を有しています。ここからは、佐伯直氏が多度郡の郡領氏族(那司を輩出した氏族)とされています。
 また伴良田連氏の人物も、伴良田連宗定・定信などが多度郡大領に任じられています。(『類衆符宣抄』貞元二年(977)6月25日「讃岐国司解」)。それに対して、因支首氏で位階を持つのは身だけです。ここからは、多度郡内では佐伯直氏や伴良田連氏などが有力で、因文首氏は劣勢で、主帳を輩出するのが精一杯だったと研究者は考えています。
次に、「小乙上」「難破長柄朝廷」についてです。
円珍の五世代前の身が孝徳朝に生存していても不自然ではなく、孝徳朝の人物が大宝以降まで存命した可能性もあります。しかし、孝徳朝に小乙上(従八位上相当)であった人物が、のちに四階も降格されることは考えられません。したがって、「小乙上」には何らかの錯誤があると研究者は推測します。そこで、注目するのがB部分の足国乃別君に付された「追正大下」という冠位です。これを「追正八下」の誤記で、「迫正八位下」の意味であり、「位」が省略されたものとします。そうだとすれば、身ももともとは「少初位上」の「位」を省略して「少初上」とあったものが、書写の際に「小乙上」に誤って書き写された、読み替えられたと考えられます。「小乙上」を「少初(位)上」の誤記と見るのです。身が「少初位上」で、多度郡の「主帳」であったとすると、「難破長柄朝廷」だけがこれらの要素と合わないことになります。この文言には何らかの潤色偽作が加えられていることが考えられます。
大化2年(646)の大化改新詔には、次のように記します。
「其の郡司には、並びに国造の性 識清廉くして、時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして、書算に巧なる者を主政・主帳とせよ」

 ここからは、主帳が孝徳朝から置かれていたことが分かります。。
また、律令制下には「譜第」(孝徳朝以来、郡領に代々任命されてきた実績があること)が重視されています。そのために多度郡の譜第郡司氏族ではない因支首氏が、佐伯直・伴良田連両氏に対抗するために、身が孝徳朝からすでに主帳であったように記し、自らの系図を遡らせようとしたと研究者は推測します。

以上を整理しておくと次のようになります。
①身は7世紀半ばの大化年間の人物ではなく、8世紀前半に少初位上の位階を持った讃岐国多度郡の主帳に任じられた人物であること
②それゆえに因支首氏にとっては顕彰すべき祖先であったこと
また 研究者は身の名前の下に「之」が付されていないことに注目します。
身のように子がいるにもかかわらず、人名の下に「之」が付されていない例はありません。とするならば、『円珍俗姓系図』のもとになった原資料が身の代で終わっていて、それ以降の世代は後から書き加えられたことが考えられます。それは、次の点からも裏付けられます。
①B部分は倭子原資料の成立時期 
②別君・加祢占乃別君のところでさらに二つの系統に分岐するが、前者の末尾に置かれた足国乃別君には「郡大領」の官職が付されていること。
③大領は、大宝元年(701)の大宝律令で定められた郡司の第一等官であること。 
④一方、後者の末尾から二番目の川内乃別君には「大山上」の冠位があること。大山上は、大化五年から天武14年(685)まで使用された冠位です。ここからは、川内乃別君の子の□尼牟□乃別君(後者の系統の末尾)は、およそ8世紀前半の人物ということになります。
つまり、B部分(Bl系統)の末尾に位置する足国乃別君・□尼牟□乃別君は、身とほぼ同時代の人物ということです。よって、B部分(Bl系統)がこれらの人物の世代で終わっているのと同様に、当初はC部分も身の上代までで終わっていたいたとします。

この時期には、諸氏族の氏上(うじのかみ:氏族の統率者)や系譜を記録した書物が作成されます。
そして「墓記」(氏族の祖先が王権に代々奉仕してきたことを記した書物)の提出や、氏上の選定が命じられるなど、氏族に関するさまざまな政策が実施されます。これは中央氏族を対象としていましたが、その影響が地方氏族も及んでいたようです。7世紀後半から8世紀前半にかけて、諸氏族の系譜が整備される中で、『円珍俗姓系図』の原資料も成立していたことが推定されます。すなわち、
①B部分はBl系統の水別命から足国乃別君・□尼牟□乃別君までと
②B2系統の阿加佐乃別命から真浄別飛まで、
③C部分は忍尾別君から身まで
が伝えられており、それらが『円珍俗姓系図』の作成時に基礎として用いられたというのです。
これまで、B部分が足国乃別君・□尼牟□乃別君の世代で終わっている理由はよく分かりませんでした。しかし、C部分も当初は同じ世代で終わっていたとすれば、その理由も自ずから見えて来ます。
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
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讃岐・金倉寺 - SHINDEN

金倉寺の所領についての一番古い記録は、享保19年(1734)に寺僧了春僧都が著した「鶏足山金倉寺縁起」のようです。
そこには弘仁初め(810年頃)と仁寿二年(852)の二度にわたり、和気宅成が父道善の建立した自在王堂(金倉寺前身)を官寺として租税を賜わらんことを奏請し、この希望が許されて、田園32町が寄せられたと記します。さらに延長六年(928)には、それまで道善寺と称していた寺名を金倉寺と改め、金倉・原田・真野・岸上・垂水の租税を納めて寺領としたとも記されています。
 寺に古くから伝えられていることのようですが、この史料は江戸時代に書かれたもので同時代史料ではありません。和気氏の氏寺である金倉寺や、佐伯直氏の善通寺が官寺になったことはありません。寺領についてこれをそのまま信じることはできません。またこれを裏付ける史料もないようです。
その後の寺領について手がかりとなるのは「金蔵寺立始事」で、その後半は主に所領関係のことが次のように箇条書きで記されています。
一 宇多天皇御宇(智證)大師御入寂、寛平三年十玄十月廿九日年齢七十八。
一 村上天皇御宇天暦年中、賀茂御油田御寄進、応徳年中里見に除く。
一 土御門御宇建仁三年十月日官符宣成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。
一 亀山法皇御宇文永年中、良田新開官符宣御下知状下し賜い畢んぬ。
一 徳治二年、金銅薬師如来出現し給う事、天下其の隠れ無き者也。
一 高氏将軍御代貞和三年七月二日、小松地頭職御下知状給い早んぬ。
一 管領細河弘源寺殿御代永享二年九月廿六日、良海法印御申有るに依って、諸公事皆免の御判成  され畢んぬ。寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                                                
一 細川右京大夫勝元御時、享徳二年十二月廿八日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。
  法憧院第五代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
意訳変換しておくと
① 智證大師が寛平3(892)年10月29日に78歳で入寂。
② 天暦(947~57)年中に、賀茂御油田が寄進された。応徳年中里見に除く。
③ 土御門の治政、建仁三年十月日官符が下され、上金倉の寺の敷地が寺領となった。
④ 亀山法皇の治政文永年中に、良(吉)田新開の官符がくだされ寺領となった
⑤ 徳治二年、金銅薬師如来が出現し、天下に知られるようになった。
⑥ 高氏将軍の治政の貞和3年7月2日、小松庄の地頭職下知状が下賜された。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                         
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。
  法憧院第五代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
ここに書かれている金倉寺の寺領を今回は見ていくことにします。テキストは「金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P」です。    
まず最初に②の天暦年中(947~57)に寄進を受けたとあるの「賀茂(鴨)御油田」を見ておきましょう。
讃岐國多度郡鴨庄南方内金蔵寺御油畠
合参段者
右件の御燈油は、往古従り本器五升得りと雖も、自然の慢怠致すに依って、当年自り本器七升七合に改め、御燈油之を定め、毎年榔怠無く弁進す可く候。若し少分未進致し候はば、罪科に処せ被る可く候者也。乃って請文の状件の如し。
延文六年卯月五日                                   時光(花押)
意訳変換しておくと
讃岐國多度郡鴨庄南方の金蔵寺御油畠について
合計3段の御燈油は、古くから本器五升を金倉寺に納めていたが、次第に慢怠になってきた。当年からは本器七升七合に改め、毎年怠りなく納めるように定める。もし、不足や未進があれば、罪科に処せられる。乃って請文の状件の如し。
延文六(1361)年卯月五日            時光(花押)
ここからは次のようなことが分かります。
①賀茂御油国(畠)があったのは、多度郡鴨庄南方であること
②ここに金倉寺に燈油を納入する畠二段が定められていたこと
③納入額は昔から五升と決められていたが、納入を怠ることが多かったので、延文六年に七升七合に値上げされたこと
④時期は南北朝混乱期で細川頼之の讃岐統治以前のこと
金倉 鴨
葛原郷鴨庄の北鴨と南鴨

鴨庄は、多度津の道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
嘉元二(1304)年
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、重修造伽藍」

ここからは鴨庄が、道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたようです。葛原郷には、すでに賀茂社領葛原郷がありましたが、それとの関係は分かりません。
 この御油畠は、金倉寺が直接所有しているのではなく、鴨庄内に指定された三段の田から収穫される燈油五升を、金倉寺分として送付されるにすぎないこと、そして燈油の徴収と送付は鴨荘の役人によって行われたこと、この請文を提出した時光が、その役人であると研究者は考えています。
所有形態は分かりませんが、鴨庄からの御油の収納は、天暦年中という寄進の時期が事実とすれば、平安時代の前期から南北朝・室町時代のころまで、時おり「憚怠」があったとしても、ながく続いたことになります。

善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺の寺領

次に良田郷にあった金倉寺の寺領です
④には亀山法皇の文永年中に、良(吉)田新開が寺領となったとあります。
これは「善通寺文書」の建冶二年の院宣や弘安四年の官宣旨の中にもでてくるので裏付けられます。弘安の官宣旨では、次のように記されています。
凡そ同郷(良田郷)内東寄田畠荒野三十餘町は、国領為りと雖も、去る文永五年始めて智證大師生所金倉寺に付せらるるの刻、宣旨を下され畢んぬ。

ここからは、寄進地が良田郷東側の国衙領で、面積は田畑・荒地を含む30町であったことが分かります。ちなみに良田郷西側は、善通寺の領家職だったことは以前にお話ししました。
「金倉寺立始事」に「良田新開」とあるのは、寄進地に荒地が多く、開発によって開かれたことを示しているようです。寄進は官宣旨によって行われたと記されているので、善通寺良田郷と同じように、智証大師生所という理由で金倉寺から申請があり、亀山天皇の承認によって行われたと研究者は考えています。
 嘉慶の「段錢請取状」や善通寺領良田郷「良田郷田敷支配帳」の記載にも「金倉寺領良田郷」は出てくるので、この寺領が室町時代にも存続していたことは分かります。「支配帳」に「一金蔵寺分定田十二丁大四十歩」となっているのは、さきに寄進された田畠荒野30町余のうち段銭賦課の対象となる田地が12町余りあったということで、「請取状」の田数は、嘉慶二年に実際段銭が納入された分のようです。
次に室町時代ころの金倉寺寺領について分かる史料を見ておきましょう。
(追筆)
「法幢院之講田壱段少  大坪」
拾ケ年之間可有御知行年貞之
合五石者 
右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。
                                           金蔵寺法憧院     賃仁(花押)
明応四乙卯十二月廿九日                   
   澁谷殿参
これは借金(米)の証文のようです。明応四年(1495)12月、金倉寺法瞳院が渋谷殿という人物に負債がありました。その返済方法として、良(吉)田石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が納入する年貢米を毎年五石ずつ10箇年間渋谷へ渡すことを契約しています。また大坪助左衛門屋敷・同太郎兵衛屋敷一段小を抵当に入れ、返済ができなかった時はそれを引渡すことにしています。
 法瞳院は金倉寺の塔頭一つです。
金倉寺文書の一つに応永17年(1410)2月17日の日付のある「評定衆起請文」と裏書された文書があり、蔵妙坊良勝、 宝蔵坊良慶、光寂坊俊覚、法憤院良海、実相坊良尊、律蔵坊、大宝院、成実坊、東琳坊、宝積坊の10名の僧が、寺用を定める時は、一粒一才と雖も私用しないなど三箇条を起請して署名しています。ここからは善通寺と同じように、金倉寺のなかにはこれら多くの僧坊があり、僧坊を代表する僧の評議によって寺の運営が行われていたことがうかがえます。他の史料にも一乗坊、東口坊などの名があります。法憧院はこれらの僧坊の中心で、善通寺における誕生院のような地位にあったようです。

良田郷石川
良田郷石川周辺 現在の善通寺東部小学校周辺

 この法憧院の証文中にある「石川方」については、現在稲木地区に石川という地名が残っています。
「石川名」という名田だったのだが、明応のころにはすでに地名化していて、太郎二郎、彦太郎という二人の農民が耕作し、年貢を法憧院に納めていたと研究者は推測します。大坪の助左衛門屋敷、太郎兵衛屋敷は、もとはこれらの農民の住居があったところかもしれません。
 文書の追筆に「講田」とあるので、この頃には開発され田地となり、法蔵院の講会(こうえ)の費用に充てられる寺田となっていたことが分かります。しかし、この講田は、この時には質流れしていたようです。それが30年後の大永8年(1528)に、渋谷の寄進によって再び法憧院の手に返ります。

16世紀初頭の永正6年(1509)ごろの法憧院領について、次のように記されています。 
法憧院々領之事
一町九段小 供僧 
ニ町三段大   此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田
護摩供 慶林房
三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩
一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也
己上
岡之屋敷二段 指坪一段
已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日
一 乗坊先師良允馬永代菩提寄進分
一、②護摩供養 慶林坊 三段半
  此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也
一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
ここからは、次のようなことが分かります。
①法憧院領のうち二町五段は供僧(本尊に供奉(くぶ)する供奉僧たち)の管轄する領地であること、
②そのうち渋谷に質入れされている講田と、これも人手に渡っている護摩供(護摩供のための費用のための田地)をのぞく一町九段あまりが現有地であること
③寺の学事を統轄する学頭に付せられた学頭田が2町3段大(240歩)あること
金倉寺は道隆寺と並ぶ「学問寺」であったされますが、それが裏付けられる史料です。
 ②の「護摩供養 慶林坊」は、護摩供田で慶林房の手に渡っているようです。
実は供僧田の「他所ニア」る講田、護摩供も、この護摩供三段六〇歩も入れないと院領合計が5町4反余にならないようです。ということは、これは別の寺田ということになります。
④の「岡之屋敷二段」は、同じ金倉寺の塔頭である一乗坊の良允から寄進されたもので、ここには家が建っていたようで、屋根の部分で分割線が記されています。
以上から法憧院は5町4段あまりの院領を持っていたことが分かります。他の僧坊もそれぞれ何程かの所領をもっていたことは、 一乗院が岡屋敷を法憧院に寄進したことからもうかがえます。これらの院や坊の所領は、金倉寺領と別の所にあったとは思えないので、法憧院領良田石川方は金倉寺領良田郷の一部と研究者は推測します。そうすると金倉寺領は、このころには寺内の僧坊の分散所有となっていたことになります。時はすでに戦国時代に入っています。寺領が鎌倉時代の状態そのままで存続していたとは考えられません。寺内の院坊がそれぞれ作人に直結した地主になることで、かつての金倉寺領はその命脈を保らていたと研究者は考えています。これは、善通寺も同じような形態であったことと推測できます。
讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
金倉寺は、小松荘に地頭職を得ていたときがあるようです。
「立始事」には、貞和3年(1347)7月、足利尊氏が将軍であった時に、小松地頭職の寄進をうけたと記します。小松荘は、那珂郡小松郷(琴平・榎井・四条・五条・佐文・苗田)にあった藤原九条家の荘園です。
 貞和3年というのは、南北朝期の動乱の中で北朝方の優勢が決定的になる一方、それにかわって室町幕府内部で高師直らの急進派と尊氏の弟足利直義らの秩序維持派との対立が激化する時期です。幕府は、武士の要求をある程度きき入れながら、一方では有力公家や寺社などの荘園支配も保証していこうとする「中道路線」を歩もうとしていました。金倉寺への小松庄の地頭職寄進もそのあらわれかもしれません。時期がやや下ると管領・讃岐守護の細川頼之も、応安7年(1374)に、金倉寺塔婆に馬一匹を奉加しています。地頭職といっても、南北朝時代のころにはその職務や身分とは関係なく、所領そのものでした。嘉慶二年の段銭請取状にみえる「子松瀬山分七段」は、この時寄進された小松地頭職の一部のようです。
 ところで細川頼之の末弟満之の子頼重が、応永12年(1405)に将軍義満から所領安堵の御教書をもらっています。
讃岐国の所領は、子松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同公文職となっています。満之、頼重は備中守護ですが、讃岐のこれらの所領は、おそらく頼之が讃岐守護であった時に細川氏の領有となったものでしょう。細川氏の小松荘領有がどんな形のものであったかは分かりません。少なくとも頼之末年の嘉慶二年のころは、金倉寺は小松荘内に地頭職を持っていました。

「立始事」の終りの二ケ条は、幕府から寺領ついての諸公事を免除してもらった内容です。
⑦ 管領細河(川)弘源寺殿の治政の永享2年9月26日、諸公事皆免の特権を得た寺社の雑掌花蔵坊僧都尭義                 
⑧ 細川勝元の治政に、享徳2年12月28日、諸公事皆免の御判成され畢んぬ。法憧院第五 代住持権少僧都宥海御申支誇等数通之れ在り。
段銭というのは田畠の段別に課せられた税で、一国平均役につながるものです。だから本来は朝廷―国衙に賦課、徴収権があり、大嘗会や伊勢神宮造営などの費用のための臨時税だったはずです。ところが室町時代には幕府が賦課の権限を握り、徴収は守護が行うようになります。また、その取りたても臨時的なものから次第に恒常的なものとなり、さらに守護自身の守護段銭がこれに加わって課せられるようになります。このため負担者である領主・農民にとっては耐え難い重圧でした。そこで室町時代には荘園領主や農民がさまざまな形で段銭徴収に抵抗するようになります。金倉寺も良海、有海などの運動が成功して、幕府から諸公事段銭免除の御判をもらっています。金倉寺にとっては大変な喜びだったことでしょう。しかし、この免除の約束がはたしてどこまで効力をもったかについては研究者は懐疑的なようです。
それは、在地武士による寺領侵入や押領が日常的に繰り広げられる時代が丸亀平野にも訪れていたからです。
金倉寺の寺領上金倉での段銭徴収の文書を見てみましょう。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日                                       元景(花押)
三嶋入道殿
これは上金倉に段銭が課せられてれて「不便」なので免除して欲しいという申し入れに対して、従来から賦課の対象になっている定田のとおりに今後も取りたてるように、 元景が三嶋入道に指示したものです。ここで研究者が注目するのは、書状の署名者です。
天霧山・弥谷山@香川県の山
香川氏の山城があった天霧山

元景というのは、西讃守護代の第二代香川元景と研究者は推測します。

彼は長禄のころに、細川勝元の四天王の一人といわれた香川景明の子で、15世紀後期から16世紀前半に活躍した人物です。元景は守護代でしたが、「西讃府志」によれば「常二京師ニアリ、管領家(細川氏)ノ事ヲ執行」していたので、讃岐には不在でした。そのため讃岐には守護代の又代官を置いて支配を行っていたとされます。書状の宛名の香川三嶋人道が、その守護又代官になるようで、元景の信頼の置ける一族なのでしょう。上金倉荘の段銭を現地で徴収していたのはこの三嶋人道で、金倉寺の要望を無視して、守護代の元景は従来どおりの段銭徴収を命じたことが分かります。
段銭

 段銭は幕府・守護の重要な財源でした。
守護は段銭徴収を通じて荘園や公領に、領主支配権を浸透させていきます。そのため幕府が寺領段銭を免除しても、守護たちにとっては、そう簡単に従えるものではなかったようです。段銭徴収権は、封建領主化の強力な挺子でした。そこにますます地域で不協和音がおきる温床がありました。
 金倉寺領のその後は分かりませんが、香川氏が戦国大名化していく中で、その支配下に組み込まれていったことが予想できます。つまり、金倉寺や善通寺の寺領は、香川氏に侵略横領されて入ったと研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
金倉寺領および圓城寺領金倉荘  善通寺市史574P

     讃岐の郷名
讃岐の古代郷名 
金倉郷は那珂郡十一郷のひとつです。
東は那珂郡柞原郷、
南は那珂部木徳郷
西は多度郡葛原郷
に接し、北は瀬戸内海になります。古代には金倉郷より北に郷はなかったことを押さえておきます。

讃岐丸亀平野の郷名の
丸亀平野の古代郷名
 江戸期の天保郷帳では、金倉郷域は次の2つに分かれていました。
①丸亀藩領の下金倉村と上金
②高松藩領の金寺村
また、中世には、上金倉村と金蔵寺村を合わせた地を、下金倉と呼んでいました。幕末に編纂された西讃府志には、下金倉は中津とも呼ばれていたとあります。ここからは金倉川河口付近の中津も下金倉の一部であったことが分かります。

丸亀市金倉町
丸亀市金倉町

 上金倉村は、現在の「丸亀市金倉町+善通寺金蔵寺町」になります。 金蔵寺町には六条という地名が残っていますが、これは那珂郡条里6条で、その部が多度郡の1条に突き出た形になっています。ここからもともとは現在の6条の東を流れている金倉川は、条里制工事当初はその西側を流れていて郡界をなしていたと研究者は考えています。
善通寺金蔵寺
善通寺市金蔵寺町

 建仁3(1203)年に、金倉郷は近江の園城寺に寄進されます。
このことは善通寺文書の貞応三年の「東寺三綱解」に次のように引用されています。
右東寺所司(寛喜元年五月)十三日解状を得る云う。(中略)
況んや同国金倉荘は、智証大師の生所也。元是れ国領の地為りと雖も、去る建仁三年始めて園城寺に付せらるの刻、宣旨を下され畢んぬ。然らば則ち、彼は寄進の新荘也。猶速かに綸旨を下さる。此れ又往古の旧領也。争でか勅宣を賜はらざらんや。
東寺の訴えは、園城寺領金倉荘を引合にだして、善通・曼奈羅寺も金倉寺と同じように寺領確認の勅宣を賜わりたいといっています。ここからは次のようなことが分かります。
①国領の地であった金倉郷が、建仁2年に、智証大師円珍が延暦寺別院の園城寺(俗に「三井寺」)に大師生所のゆかりという由縁で寄進されて、金倉荘と呼ばれるようになったこと、
②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。
③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること


4344103-26円珍
円珍

建仁3年から5年後の承元2年にも、園城寺は後鳥羽上皇から那珂郡真野荘を寄進されています。金倉荘の寄進もおそらくそれに似たような事情によったものと研究者は推測します。こうして成立した金倉荘は「園城寺領讃岐国金倉上下庄」と記されています。
 ところが建武三年(1336)の光厳上皇による寺領安堵の院宣には「讃岐国金倉庄」とだけります。ここからは、金倉庄は、上下のふたつに分かれ、下荘は他の手に渡ったことがうかがえます。

園城寺は寄進された金倉上荘に公文を任命して管理させました。
それは、金倉寺に次のような文書から分かります。
讃岐國金倉上庄公文職事
右沙爾成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。
弘安四年二月二十九九日                     寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位       (以下署名略)
意訳変換しておくと
讃岐國金倉上庄公文職について
沙爾成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきたので、依って子々孫々に至りまで公文職を命じすものである。
弘安四年(1280)2月29日                (圓城寺)寺主法橋上人位
学頭権少僻都法眼和尚位
これは弘安3(1280)年10月に、沙弥成真が任命された金倉上荘公文の地位を、成真の子孫代々にまで保証した安堵状です。沙弥成真は、「重代の仁」とあるので、すでに何代かにわたって園城寺に関係があったことがうかがえます。沙弥というのは出家していても俗事に携さわっているものを指し、武士であって沙弥と呼ばれているものは多かったようです。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐像(金倉寺)
それでは現地の金倉寺は、金倉荘にどんな形で関わっていたのでしょうか?金倉寺の僧らの書いた「目安」(訴状)を見ておきましょう。
目安
金蔵寺衆徒等申す、当寺再興の御沙汰を経られ、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□
右当寺は、智證大師誕生の地(中略)
而るに、当所の輩去る承久動乱の時、京方に参らず、天台顕密修学の外其の嗜無きの処、小笠原二郎長を以って地頭に補せらるの間、衆徒等申披(ひら)きに依って、去る正応六年地頭を退けられ早んぬ。然りと雖も、地頭悪行に依って、堂舎佛閣太略破壊せしむるの刻、去る徳治三年二月一日、神火の為め、金堂。新御影堂。講堂已下数字の梵閣回録(火事のこと)せしめ、既に以って三十余年の日月を送ると雖も、 一寺の無力今に造営の沙汰に及ばざるもの也。(下略)
意訳変換しておくと
金蔵寺の衆徒(僧侶)が以下のことを訴えます。当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□ 当寺は、智證大師誕生の地で(中略)
ところが、金倉寺周辺の武士団は承久動乱の時に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されやってきました。この間、衆徒たちは、反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
この文書に日付はありませんが、徳治3年から約30年後のこととあるので南北朝時代の始めのころと推測できます。誰に宛てたものかも分かりません。こうした訴えが効を奏したものか、「金蔵寺評定己下事」という文書によると、法憧院権少僧都良勢が院主職のとき、本堂・誕生院・新御影堂が再建され、二百年にわたって退転していた御遠忌の大法会の童舞も復活しています。南北朝時代の動乱も治まった頃のことでしょうか。この頃に金倉寺の復興もようやく軌道にのったことがうかがえます。とすると保護者は、南北朝混乱期の讃岐を守護として平定した細川頼之が考えられます。頼之は、協力的な有力寺社には積極的に保護の手を差し伸べたことは以前にお話ししました。
 研究者が注目するのは、この「目安」の中の正応六年に地頭を退けたとある文に続く「当職三分二園城寺、三分一金蔵寺」という割注です。当職というのは現在の職ということのようです。幕府の地頭を退けたあとの当職だから、これは地頭職のことで、地頭の持っていた得分・権利を金蔵寺と荘園領主園城寺が分けあったことになります。
 ところが、同じ金倉寺の嘉慶2年(1388)の「金蔵寺領段銭請取状」の中には、金倉寺領として「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」と記されています。この「同上庄参分一」は、先の「当職、三分一金蔵寺」と同じものと研究者は考えています。上荘というのは金倉上荘で、その面積からいって、「三分の一」というのは地頭領の三分の一ではなく、荘園全体の三分の一になります。
 また「三分の一」が独立の段銭徴収単位になっていて、金倉寺が領主となって納入責任を負っているのですから、金倉寺は金倉上荘において、園城寺とならぶ形で、その三分の一を領していたことになります。これは強い権限を金倉寺は持っていたことになります。

金蔵寺
金倉寺
それは、どんな事情で金倉庄は金倉寺領となったのでしょうか?   金倉寺文書の「金蔵寺立始事」を研究者は紹介します。これは室町時代の康正三年(1456)に書かれた寺の縁起を箇条書きにしたものでで、次のように記されています。
 土御円御宇建仁三年十月 日、官符宙成し下され畢んぬ。上金倉の寺の御敷地也。

ここには上御門天皇の代、鎌倉時代初期の建仁3年(1203)に、官符宣(官宣旨?)によって上金倉の寺の敷地が寄進されたとあります。金倉寺の敷地は、現在地からあまり動いてはいません。そうだとすればその敷地のある上金倉とは、丸亀市の上金倉ではなく、金倉上庄(善通寺市)のことになります。寺の敷地とありますが境内だけではなく、かなり広い田畑を指しているようです。とすればこの文書が金倉上ノ庄1/3の寺領化のことを指していると研究者は推測します。
 縁起は寺の由来を語るものです。そこに信仰上の主張が入るし、さらに所領のこととなると経済上の利害もからんできます。そのため記事をそのまま歴史事実とうけとることはできません。しかし、さきに見た「衆徒目安」や「段銭請取状」の記載とも適合します。

4344103-24金蔵寺
金倉寺

研究者は、これを一定の事実と推測して、次のような「仮説」を語ります。
①建仁三年に園城寺領金倉荘の寄進が行われていること。
②この寄進のとき、その一部が金倉寺敷地として定められた。
③「金倉上庄三分一」とあるので、金倉上荘領主園城寺との間に何らかの縦の上下関係はあった。
④後の状況からみてある程度金倉寺の管領が認められ自立性をもった寺領であった
以上から、次のように推察します。
A善通寺市金蔵寺の周囲が、金倉寺領(金倉上荘三分の一)
B園城寺直轄領は、丸亀市の金倉の地(残りの三分の二)
金倉寺は、Aの「三分の一」所領の他にも、上荘内に田畠を所有していました。
その一つは、貞冶二年(1363)卯月15日、平政平によって金倉寺八幡宮に寄進された金倉上荘貞安名内田地参段です。八幡宮は「金倉寺縁起」に次のように記されています。
「在閥伽井之中嶋、未詳其勧請之来由」

これが鎮守八幡大神のようです。平政平は木徳荘地頭平公長の子孫と研究者は考えています。もちろん、神仏混淆の時代ですから鎮守八幡大神の別当寺は金倉寺であり、その管理は金倉寺の社僧が務めていたはずです。
私が注目するのは、金倉寺への「西長尾城主 長尾景高の寄進」です
その文書には次のように記されています。
(端裏書)
「長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
費徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって免除して貰った。この領について金蔵寺は、これ以後永代、この扱いとなる。子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。

「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使長尾景高」が免除したことになります。これで、田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者の「金倉上荘惣追捕使長尾景高」です。        長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)のころ、彼は金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、長尾氏の背後には阿波三好氏がいます。
 そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献           金倉寺領および圓城寺領金倉荘     善通寺市史574P    

「大師は弘法に奪われ」ということわざがあるそうです。
弘法大師のほかにも、大師号を賜った高僧は、最澄をはじめ数多くいます。しかし、空海一人の代名詞のようになってしまったという嘆きの意味が込められているようです。さて、讃岐の地からは、もう一人の大師が生まれています。智証大師円珍です。
円珍、その人の生涯を見ておきましょう。

智証大師像 圓城寺
国宝 智証大師像 圓城寺

円珍は、弘仁五年(814)、今から約1210年前に、讃岐国那珂郡(善通寺市金蔵寺町)に生まれています。生誕地は現在の76番札所の金倉寺。俗名は広雄。父は和気宅成、母は佐伯直氏で空海の姪と伝えられているようです。空海の「ご近所」で、円珍の和気氏と空海の佐伯直氏は親戚同士の間柄とされます。彼の家系図は、以前に紹介したように「日本で一番古い系図」として国宝にもなっています。
広々とした境内 - 金倉寺の口コミ - トリップアドバイザー
四国霊場 金蔵寺 

 天長5年(828)、15歳の時に、叔父の僧仁徳に連れられ比叡山に登り、最澄の門弟で初代天台座主の義真に師事します。
 まず私が疑問に思うのは、どうして空海を頼らなかったのかということです。この時期に、空海に連なる佐伯家出身の僧侶が東寺の責任者などとして、栄達の道を歩んでいます。また、30際近く年の離れた空海の弟真雅も、空海の元で修行中です。和気氏と佐伯氏が婚姻関係にあったというなら、その関係を頼らないというのは不自然な感じがします。活用できない理由があったとも考えたくなります。「母は佐伯直氏で空海の姪」という関係は、どうも疑わしい気がします。空海が入党するのが804年、高野山で没するのが835年です。

天長十年(833)に得度し、十二年間の籠山に入ります。
仁寿三年(853)39歳で入唐し、天台・法華・華厳・密など中国最新の仏教諸宗を学び、天安二年(858)に帰国します。この時、円珍がもたらした千巻にも及ぶ典籍・経典は、空海が伝えた真言密教に匹敵するもので天台密教の基礎となります。これを背景に、天台密教の拠点として近江の圓城寺を再興します。
 さて空海の成功から以後の留学僧が学んだことは、出来るだけ多くの経典等を持ち帰ることです。何を中国から持ち帰ったのか、何を身につけて持ち帰ったのかが問われることにに成ります。それは、中世の禅宗僧侶にも共通することです。もっと枠を拡大すれば、明治の洋行知識人も同じ立場だったのかもしれません。日本人は、大陸からもたらされるの「新物」に弱いのです。変革には「新物」が必要なのです。
 その際に、必要になるのは経済力です。官費だけでは足りるものではありません。空海の場合も、持ち帰った経典類や仏具類などをどのように集めたのか、その資金はどこから出たのかがもっと探求されるべきだと思うのですが、そこに触れる研究者はあまりいないようです。円珍の場合は、どうだったのでしょうか。実家である和気氏に、それだけの経済力があったのでしょうか。

貞観十年(868)に54歳で、第五代天台座主となり、寛平三年(891)に亡くなるまで、24年間の長きにわたって座主をつとめます。その間には、園城寺を再興し、伝法灌頂の道場とします。また清和天皇や藤原良房の護持僧として祈祷をおこない、宮中から天台密教の支持を得ることに成功します。死後36年経た、延長五年(927)、「智証大師」の号を得ています。

 一説によると、12年の籠山後、32歳の時に熊野那智の滝にて千日の修行をおこなったといいますが、これは後に円珍の法灯を継ぐ天台寺門派が、「顕・密・修験」を教義の中心に置き、熊野本山派の検校を寺門派が代々引き継ぐことによって、作り出された伝承とされます。しかし、ここからは京都の聖護院に属する本山派修験者からも円珍が「始祖」として、信仰対象になっていたことがうかがえます。

円珍は、実際には15歳の上京以後は、讃岐の地を踏むことはなかったようです。
 にもかかわらず円珍の影響を受けたとする四国霊場札所があるようです。円珍と、どのような関係があるのというのでしょうか
  県内札所のなかで天台宗、または円珍(天台寺門派)の痕跡が残るお寺を見てみましょう。
まず大興寺(六十七番札所)から始めます
この寺は小松尾寺とも呼ばれ、四国偏礼霊場記に「台密二教講学の練衆」と記されています。古くから真言と天台の兼学の場で、江戸時代にも真言二十四坊、天台十二坊があったと伝えられています。寺に伝わるものとして、建治二年(1276)の墨書銘をもつ天台大師坐像(香川県指定有形文化財)があります。寺伝では、弘法大師と熊野信仰を結び付けていますが、ここには熊野信仰と天台寺門派とのかかわりもあったことがうかがえます。次の札所になる観音寺(六十九番札所)にも天台大師像(画幅)があります。大興寺と観音寺の三豊エリアの札所には、円珍に関わる信仰があったことがうかがえます。
 
次に丸亀平野へ進みます。金倉川下流域は、円珍の出身である和気氏の勢力範囲だったと云われます。
金倉寺は和気氏の居館の後に建立されたとされます。
これも、善通寺誕生院の空海生誕とよく似た伝承です。金倉寺は、和気氏の氏寺として出発しますが中世には、宇多津や堀江などの港町の町衆の信仰を集める寺院に成長します。そして、仏教の教学センターとしての機能を、近隣の道隆寺と共に果たすまでに成長します。その大師堂には、中世まで遡るといわれる智証大師の木像が正面に安置されています。
 また、下の鎌倉時代作の智証大師像(重要文化財)も伝わります。
智証大師 金倉寺

この像を見ると圓城寺の国宝の智証大師像を写したかのように見えます。円珍のトレードマークである「卵頭」が忠実に真似られています。智証大師像は、みなよく似ています。逆に言うと「参考例」を模写したことになります。
金蔵寺には、高松藩の絵師、鶴洲の描いた模写や狩野愛信(狩野永叔の門弟)という絵師の描いた模写も残されています。
智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
江戸寺時代に模写された智証大師画
まさに、中世の肖像を模写した物です。その上に、高松藩主や京都聖護院門跡から贈られた智証大師の画幅なども伝わります。どうして  江戸時代になって、円珍の絵が何度も模写されたり、藩主などから贈られたのでしょうか。その背景には何があったのでしょうか?それは、また後に考えるとして先に進みます。

五色台の山岳寺院である白峯寺(八十一番札所)の「白峯寺縁起」応永十三年(1406)にも、円珍が登場しますこの縁起には、次のように記されます。
貞観二年(八六〇)円珍が山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられます。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺のことか)、白峯寺の四ヶ寺に納めた、
 ここからは縁起が作られた時には、白峰寺や根来寺は円珍が創建したとされていたことが分かります。当時の五色台は、本山派の天台密教に属する修験者たちの拠点であったようです。これに対して、聖通寺から沙弥島・本島には、真言密教の当山派(醍醐寺)の理源大師の伝説が残されています。瀬戸内海でもエリアによって両者が住み分けていたようです。
 白峯寺は今は真言宗寺院ですが、近年の調査で修禅大師義真像(円珍の師、鎌倉時代作)が伝わっていることが分かっています。他にも、天台大師像、智証大師像、山王曼荼羅図が伝えられます。
 白峰寺と同じ五色台にある根香寺(八十二番札所)には、元徳三年(1331)の墨書銘がある木造の円珍坐像があります。

智弁大師(円珍) 根来寺
根香寺は、寛文四年(1664)に高松藩主松平頼重が、真言宗から天台宗に改め、京都聖護院の末寺とした寺院です。それ以前は、大興寺と同じように真言・天台兼学の地でした。ここも、縁起には白峰寺と同じく円珍によって創建されたと伝えます。白峰寺と根来寺は共通点があるようです。
八十七番札所の長尾寺は、天和3年(1683)に天台宗に転じ、京都実相院門跡の末寺となります。その後に作られた江戸時代作の天台大師像、智証大師像がここにもあります。

 このように讃岐の四国霊場を見てくると、五色台や雲辺寺周辺の山岳寺院に古くから智証大師円珍や天台系の影響が見られるようです。山岳寺院=修験道=真言密教と直ぐに考えがちですが、江戸時代には、天台宗の聖護院(本山派)に属する修験者の方が圧倒的に多かったようです。円珍信仰・伝説の背後には、本山派修験者たちの活動が透けて見えてきます。
江戸時代に作られた円珍の像画は、誰が作成したのでしょうか。
それは、高松藩主として水戸からやって来た松平頼重の宗教政策の一環として作られたようです。頼重は、金倉寺、根香寺、長尾寺を真言宗から天台宗へ改宗させます。その際に、あらたな信仰対象として円珍像が作られたり、絵が模写されたようです。松平頼重は国内統治政策の一環として、次のような宗教政策を行っています。
①姻戚関係にある浄土真宗本願寺・興正寺派の保護
②金毘羅大権現の保護と全国への広報戦略
③高松城下町の氏神様としての岩瀬尾八幡の整備・保護
④菩提寺としての仏生山の整備・保護
同時に、屋島合戦の故地や崇徳上皇の旧跡地など、讃岐国の歴史的な場所や歴史上重要な人物について、顕彰し崇敬につとめています。こうした動きのなかで、頼重は、讃岐出身のもう一人の大師、智証大師円珍を「発見」したのではないでしょうか。それは、徳川宗家と天台僧天海との関係、また和歌を通じて頼重と交友関係にあった聖護院門跡の道晃法親王(後水尾天皇の弟)との関わりもあったのかもしれません。彼らとの交流の中で、円珍のことを知り、「讃岐が生んだもう一人の大師」として、再評価していく意味と必要性を感じるようになったのかもしれません。そして、その拠点に選ばれたのが金蔵寺と根来寺と長尾寺なのでしょう。そのために信仰対象として、像や画などが贈られたと研究者は考えているようです。
 頼重は晩年の隠居屋敷の中にお堂を建立し、根来寺から移した不動明王と四天王を安置し、プライベートな祈りの場所にしていたことは、以前にお話ししました。また、彼の宗教ブレーンには密教系修験僧侶の存在があったようです。
 そのような中で、円珍の「出会い・再発見」が、その信仰拠点を整備するという考えになったようです。どちらにしても、思いつきや一族だけの安泰を図るのでなく、広い支配戦略の上で、継続に行っていることに改めて気付かされます。
参考文献 渋谷啓一 もう一人の大師 智証大師円珍 空海の足音所収

      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師(円珍)坐像 根来寺
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。系図を見る前に、次の事を押さえておきます。

 伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつの部分に分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり、これは①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。研究者は、接ぎ木された部分(人物)を「継いだ」と云うようです。この継がれた人物を見分けるのが、系図を見る場合のポイントになります。

さて、この系図からは何が分かるのでしょうか?

円珍系図5

まず①の伝説部分からみていきます。この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことを記します。
それでは一族の始祖になる武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?
 武国凝別命は豊前の宇佐国造の一族の先祖で、応神天皇や息長君の先祖にあたる人物になるようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。 
この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか
 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって因支首氏は和気氏に連なろうと試みたようです。その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 改姓申請で稻木氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

 円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀が経っています。
  智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵 江戸時代の模写)

円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。
   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。
この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


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金倉寺
金蔵寺の本尊は薬師如来です。
古代寺院の本尊は、薬師如来が非常に多いようです。八十八か所のうちで、海岸のお寺約三十か所の本尊が薬師さんです。その理由は、海のかなたの常世から薬師如来、すなわち民衆を肋けてくれる神かやってくるという信仰があったからです。ここには熊野信仰との神仏混淆が背景にあるようです。薬師如来と熊野行者の活動は重なり合う部分が多いようです。熊野行者が背負ってきた薬師如来がそのまま本尊になっていることが多いようです。金倉寺も道隆寺も善通寺も、本尊は薬師如来です。
ご詠歌は
「まことにもしんぶつそう(神仏僧)を開くれば 真言加持の不思議なりけり」
でなんだかよくわからない御詠歌です。「しんぶつそう」は神仏憎という字を当てるほかないようです。

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金倉寺境内
 金倉寺に行って、南の門から入ると広揚があります。
左に八幡さん、右に弁天さんがあって、突き当たりが薬師さんをまつっている本堂です。それに対して、向かって右に常行堂の庫裡(納経所)、左に鬼子母神堂と大師堂があります。善通寺あるいは善光寺に同じく東向きに大師堂があって、十字に交差する伽藍配置です。

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太子堂

大師堂には、弘法大師像と智証大師像を安置しています。

金倉寺は、弘法大師のお姉さんが嫁いだ和気氏(因支首氏)の氏寺だということになっています。
善通寺の空海の佐伯家と、金蔵寺の和気家は近隣の豪族同士、婚姻関係で結ばれていたことになります。また、境内には隣接し新羅神社も鎮座し、渡来系の性格がうかがえます。

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新羅神社
そこに生まれたのが智証大師円珍ですから、智証大師は弘法大師の甥ということになります。しかし、智証大師が開いた天台宗寺門派では、弘法大師の甥とはいっていません。そのあたりに天台宗のこだわりがありそうです。

 金倉寺には「金蔵寺文書」が残っています。
 この文書は中世文書だけでも約百通あります。これも『香川叢書』に入っていますが、「金蔵寺縁起条書案」という金倉寺の縁起を箇条書きにした下書きが残っていました。それによると8世紀に金輪如意を彫刻して道場を建て、自在王堂と称しました。その大願主は景行天皇十三代の子孫の道善という人で、智証大師の祖父になります。そのため、最初は金倉寺とは呼ばずに道善寺と呼んだというのです。しかし、当時の正式文書からは円珍の祖父は、道麻呂であったことが分かります。

円珍系図1

智証大師(円珍)と天台宗の関係は?

 伝教大師のお弟子さんの義真は渡来人で、伝教大師が入唐したときに通訳をした人です。この人が比叡山の第一代目の座主になります。智証大師はそこへ入って出家して円珍と称します。
 そのうち846年に入唐を思い立ち、853年に晩唐時代の唐に入り、858年に帰朝します。そして、和気宅成の奏上によって、仁方元年に和気道善が建てた自在王堂の敷地三十二町歩を賜って、859年に道善寺を金蔵寺と改めたと「金蔵寺立始事」に書かれています。これは中世の文書ですから、確実性が高いと考えられます。
 智証大師は寛平三年(894)に79歳で入寂しました。
 
智証大師像 圓城寺

円珍坐像 卵型の頭がトレードマーク

実は「金蔵寺文書」は金倉寺にはありません。

どういう経過をたどったかわかりませんが、高野山の金剛三昧院に所蔵されています。そのほか、応水入年(1402)に薬師如来の開帳が行われたということも出てきます。この時の開帳のときに、本尊さんから胎内仏が出たようです。
「金蔵寺衆徒某目安案」によると、鎌倉時代末期の徳治三年(1308)3月1日の火災で、金堂、新御影堂、講堂以下が焼けています。したがって、金堂の薬師如来が出現したと書いてあるのは、本尊が焼けてしまって、胎内から腹頷りの金銅の薬師如来が現れたことをいっているのでしょう。

 善通寺の本尊も薬師如来です。

善通寺の現在の本尊は室町時代の作ですが、創建時の薬師如来は白鳳期の塑像です。泥で造った薬師如来ですから、首が落ちてしまって、白鳳期の特徴をもった塑像の上面だけが残りました。かなり大きなものです。白鳳期のものは塑像が多くて、大和の当麻寺の金堂の本尊の弥勒如来もご面相が非常によく似た白鳳期の塑像です。

 薬師といっても、弥勒と同じようなお顔をしています。
塑像の白鳳期仏はほかにもたくさんあります。観音さんだといわれている大和の岡寺の本尊さんも塑像です。その胎内に、今は奈良博物館に陳列されている白鳳期の作品として、いちばん愛らしい仏様が入っていました。焼けたりして塑像が崩れると、その中から金銅製の飛鳥仏や白鳳期仏が出てくることがあります。「金蔵寺文書」の記録も、それを指しているのだと考えられます。

 応永十七年の「金蔵寺評定衆連署起請文」では、師衆、親子、兄弟の偏頗を禁じています。えこひいきをしてぱならないといっているので、弘法大師の肉親が高野山で寺務別当として経済的な事柄を扱ったのと同じように、肉親による寺務が行われたことが想像されます。
 智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写

円珍坐像(江戸時代の模写)
起請文の中で、神様に熊野三所権現と若王子があることも注意すべきものです。

評定衆は十か院坊にわたっているので、三十か寺か五十か寺かわかりませんが、かなり多くの院坊を擁していたことが考えられます。
 先達、御子(巫)、承仕、番匠、加行法師、寺宗門徒など、お寺の使役者が挙がっているので、山伏や童子か隷属していたこともわかります。
 享禄三年(1530)前後の「綸旨案」では、金倉上下庄が国威寺領であったことが分かります。
京都の国威寺の荘園として讃岐に金倉寺があって、円満院門跡の支配を受けていました。さらに、同じ天台宗の三十三所の一つの長命寺と関係があったことも出ています。
円珍系図1

円珍系図 (俗名広雄 父は宅成 祖父は道麻呂)
 
智証大師の祖父は和気道麻呂(通善)について
 宝亀五年(774)に、この寺を開いたのは智証大師の祖父和気通善なので通善寺と呼んだという伝承があります。これは善通寺が善通寺と呼ばれたのと同じことです。しかし、通善は道善の誤りでしよう。
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金倉寺前の道しるべ

 醍醐天皇が金倉寺と改め、南北ハ町・東西目町の境内に百三十二坊あったという伝承もありますか、これではあまりにも大きすぎるような気もします。のちに南北朝、永正、天文の争乱で縮小・衰退していたのを保護したのが高松藩主の松平頼重です。
金蔵寺
金倉寺
 金倉寺の大師堂の前のところに、平安時代末期から鎌倉時代初期ぐらいの多宝塔が残っています。
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