道隆寺本堂
四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。
職人絵図 番匠(大工)
御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に 5貫50文かわら大工23人 1貫150文番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。
帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」 大麻からの瓦代金「八百八十文 しはくのかハらの代」 塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。
塩飽本島周辺(下が北)
塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定成就天正十二年(1584)10月 元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
真ん中に
左右に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。「大工 仲原朝臣金家」「小工 藤原朝臣金国」
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工 多度津 小松伝左衛門」「瓦大工 宇多津 三郎左衛門」「杣番匠□□ 圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。
中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
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